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星空に思いをよせて

向井俊博

星はまたたいたり流れたりするからこそ、見上げる人の心をかきたてるようだ。プラネタリウムのまたたかない星は、満天に輝いても幾何学的配置を主張するのみで、深い感動を呼ぶべくもない。


これまでの人生で、折りにふれまたたく星に心を動かされてきたが、もっとも深い感動を受けたのは、中学時代のある夏の夜のことであった。

あまりの暑さに、いつも泳いでいる近くの海へ一人で泳ぎに出た。夜の海は、陽射しがないのでひんやりと誠に快適で、体力を顧みず沖へ出てしまった。途中で振り返りはしたのだが、昼間と違って距離感が違い、引き返そうと向きを変えたときには、浜辺の明かりはとてつもなく遠のいていた。愕然として、無我夢中で戻りにかかった。頃合を見て立ってみるが足がつかず、またあわてて泳ぐ。これをくり返しているうちに、体力を使い果たしてしまい、動けなくなってしまった。絶望感にうちひしがれ、なす術もなく、仰向けになって波に身を任せているうちに、乱れていた心も次第に落ち着いてきた。

ふと気がつくと、空には星がまたたいている。かなりの時間、あきらめまじりのぼんやりした状態でまたたきに見入っていたようだが、そのうちに自分が遠のき、星に吸い取られていくような不思議な気持ちになってきた。まわりの波音がとだえたなと思った時には、自分が満天の星になって波に浮いている自分の姿を見下ろしているのだ。

こうした状態でどれくらい時間が経ったか分からないが、四肢に力がみなぎってきたような気がして、もうろうとした中でばた足をはじめ、それをずっと続けた。そうこうするうちに、意識が戻り、あわてて足を下ろしてみると、つま先が砂地をとらえることができた。こうして九死に一生を得たが、仰ぎ見た星のまたたきと自失の不思議な感じは一生忘れられぬものとなった。


満天にまたたく星を見るには、都会を離れるしかない。星を見たさに、夏には必ず信州の高原を数泊で訪れることにしている。懐中電灯を頼りに、山小屋を出て空を仰ぐと、都会に比べて見える星の数が違うのに驚く。またたき方にいたっては更にクリアで、見る者を圧倒する。しかし、夏は雲が多く、文字どおり満天の星にお目にかかったのは、数えるほどしかないのが残念である。


流れ星も、星空に感動を呼ぶものである。「あっ、流れ星だ」という発見の驚きと、一瞬にして消えるせつなさと残像の余韻が心を打つのだ。私の場合は、小さい時に読んだ童話の影響で、人が死ぬ時の魂の旅立ちのイメージが時折重なってしまい、ともすれば悲しい色合いが加わってしまう。

先日、友人に星空の魅力を話したところ、夜釣りを勧められた。星を眺めつつ釣り糸を垂れるのは、最高の贅沢なのだそうだ。運がよければ、一晩で五回くらいは流れ星が見えますよという。魚なんてどうでもいという友人の顔を、つい見直してしまった。


星空は、宇宙のカーテンのように思うことがある。きらきら輝くカーテンの向こうに深遠なる宇宙があるといった想像は、ぞくぞくする感動を呼ぶ。

宇宙は、150億年前、手のひらにのる大きさの、信じられないような高温高密度のエネルギーの塊が、突如爆発して(ビッグバン)生まれたというのが宇宙創成の有力な説となっている。ビッグバンの直後(1000分の1秒後)には「時間」と「空間」が動き始め、陽子や電子、中性子、ニュートリノなどが誕生し、やがて温度が1億度Kに下がり、ヘリウムなどの簡単な原子ができていく。10万年後に、光はやっと直進し始め、宇宙は一定の速度で膨らみだし、宇宙空間の温度がどんどん下がるにつれ、恒星や銀河ができるもとになる物質が生成され、創成時とは桁違いの大きさの壮大な宇宙が、これまた桁違いの年月を経て拡がっていく。星空のカーテンの向こうには、驚異であるうえに、ファンタジックと片付けるにはあまりに巨大で神秘的な世界がのぞかれ、いやがうえにも心ときめくのだ。


星に思いを巡らせて、もう一つ感動を呼ぶものがある。私たちの身体は、宇宙ができて数十万年後にでき始めた素材でできている。しかもこの素材は、今輝いている星ともとは同じなのだ。この事実を思うと、仏教で言う「万物同根」という概念が、別の迫力をもって胸を打つ。


星空は見上げる都度、さまざまな思いを呼び起こしてくれる。

同じ音楽も、聞く度に違った感興を誘ってくれるように。

(平成3年1月15日)


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