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本物の友情は分からない

荻野誠人


 この友情は本物かどうか。

 こういう問いかけをしたことのある人はいないでしょうか。多くはないかもしれませんが、いるのではないかと思います。私もその一人ですが・・・。「友情」の代わりに色々な言葉もはいりそうです。

 結論を言えば、そういう問いかけには余り意味がないと思っています。

 本物の友情とは何かと尋ねますと、たぶん、試練にあってもこわれない、決して裏切らない、などといった答えが返ってくるでしょう。

 何かささいなきっかけで友情がこわれてしまったら、その友情は本物ではなかったと人は言うでしょう。では、同じようなきっかけでこわれなかったら本物なのか、というと、肯定するのをためらいませんか。その友情も、もっと厳しい試練に直面してこわれてしまったら、結局本物ではなかったということになりますから。どこまでの試練を乗り越えたら、本物と言えるのでしょうか。

 では、一生こわれなかった友情なら、本物なのかと言いますと、そうかもしれませんが、運よく一生厳しい試練に出会わなかっただけなのかもしれませんし、断定することはできないでしょう。

 本物の友情を、仮にいかなる試練にも耐えられる友情と定義してみますと、「いかなる試練」などには短い一生ではあえないわけですから、本物の友情が存在するかどうかは、人間の分際では分からないことになるでしょう。分からないのなら、これは本物か、と問いかけても無駄なのでは、と思います。

 ところで、そう問いかけているときは、おそらく相手に点数をつけていて、自分を批判的に見ている人は少ないのではないでしょうか。言うまでもなく、友情は一人だけで成立するものではありません。もし、友情が本物でないのなら、自分にも何らかの原因があるということも・・・。この友情は本物か、と問うなら、そのときは自分が本物の友情をもてる人間なのか、試練に耐えられる人間なのか、と問いかける必要もあるのではないでしょうか。

 「走れメロス」に出てくるような強固な友情なら、「本物」と認める人も少なくないでしょう。しかし、あれほどの友情はおそらく私も含めて持てない人の方が多いでしょうし、無理してまで求める必要もないのでは、という気がします。そうだとしますと、問いかけなどするまでもないことになります。自分自身がそんな友情をもてないのですから。

 まとめてみますと、今の友情を大切にしていればそれで十分なのだというのが私の意見です。その友情が一生続けば喜べばいいですし、試練に出会って、努力 してもこわれてしまったのなら、結果をありのままに受け止めればいいのではないでしょうか。普段から友情を値踏みしたりするようなことは必要ないのです。

2013・5・15


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