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本の出版と教え子との交流

植栗 彌

私は昨年、ちょっとした本を出版しました。『有島武郎研究』という本で、専門的な論文集です。本の内容は拙いのですが、文学好きな方には、広くお求めいただければ幸いと思いました。この本の出版社Y社さんの方針のうち、自由の利く部分については、こちらの希望を出し、装丁も親しみやすいものにしてもらいました。そして、書き直しや校正や索引作りなど、半年ほどの苦労を経て、ようやく本が完成しました。

さてその後、頭の痛い問題は、価格のたいへん高いことでした。ページ数のやや多目だったせいもあって、予価6,800円という、目の玉の飛び出そうな額が提示されました。親切な出版社なのですが、印刷部数をあまり増やせない拙著のような専門書の宿命を、説明されました。

こんな高額のものでは、少々興味をもって下さる方でも、とても買ってはいただけない・・・たいへん辛い感じでした。何とかならないだろうか? 悩んだ末に考えついたのは、教え子の人達の支援を得ることでした。申し訳ない思いがありながらも、困ったときにはお互い様のことでもあるからと思いました。また、困っているのに、それを相談しもしないで、一人憂鬱でいるようなことは、縁ある人々からはかえって水くさいと思われるのではないかとも思いました。

教え子の支援を得ることができるかもしれない、と考えたもう一つの理由には、次のこともありました。というのは、私が今住んでいる広島に赴任してきた一人の教え子が、「先生の本が出るなら、その時は、教わった我々の仲間総動員で買いますよ」と言ってくれていたのでした。

私は、ある中高一貫教育をしている私立学校で、延べ五年間教鞭を執ったことがあります。その時の教え子で現在連絡可能な人が約五百名あります。学年の数にすると三つです。そこで、各学年の面倒見のいい人をそれぞれ数人選んで、頭を下げるつもりで「購入のお願い」を広く呼びかけてもらうこととしました。

その結果、著者紹介価格4,800円もの高額の本を、百冊近くも予約注文してもらえたのです。出版社は、この注文数を計算して、予価よりも一割以上低い価格を定価にしてくれました。

買ってくれた教え子の人達は、種々様々な進路に進んでいます。医学系統、理工学系統、官庁方面、銀行マン、そして私塾経営者もあります。『有島武郎研究』なる文学研究の本ですから、本当に興味をもって読む気になる人は1〜2割という数に違いありません。中には、ご両親の配慮で、お子様名義で買って下さる方もありました。(こうなると、「寄付」していただいたのと同じです。)

価格がかなり引き下げてもらえるまでになったことだけでも、喜ぶべきことでした。このこと一つで、教え子の人々のありがたさが身にしみました。でも、今回のこの経験は、それ以上のことをもたらしてくれました。

やはり、本一冊出版するということは、「仕事を一つやり遂げた」ことであるようです----それは自他ともに認められることのようです。普段疎遠になっていた教え子の人々の多くが、我がことのように喜んでくれました。そして、旧交を復活させられるケースがずいぶん出てきました。

こういう次第で、私は、「本」というものが、その人を紹介するのに、最もすぐれた媒体の一つになると経験できました。そして、教え子の人々が、別れた後の私の生き方・働き方をそれを通して確認し、慶賀の心まで持ってくれたこと----それが、特記できるものに思えるのです。

本の出版や、購入のお願いなどというものは、自己宣伝の具にも、押しつけの機会にもなる剣呑なものでしょう。そういうことに関係する人は、例外なしにそのきわどい線を行かねばならないでしょう。けれども、それが、物の見方・考え方の点で、また心からの自己紹介の点で、大きな前向きの機能を持つことを、否定すべきではないと思います。

よく調べ、よく考えてから文字にして発言することは、自分の欲求を満たすばかりでなく、文化を形成する基礎にもなります。また、あまり悪びれずに、それを広く紹介することで、互いの考え方や生き方を確認したり批評したりできるのもたいへん文化的なことだと思います。

今回私は、一風変わった形で、教え子の人々に広くお願いをしました。自分の品格が問われるのかもしれないという危惧の念がたえず湧きました。でも、もしこのお願いをしなかったとすると、おそらく教え子の多くには、私にとって重大だった仕事の産物について何も知らせずじまいになったでしょう。それはまた何と淋しいことでしょう。(ですから、教え子の人やかつての知己にも、仕事の成果は積極的に教えていただきたいといつも思います。)今回の私の行為は、結果的に良かったというだけなのかもしれません。そして、一部には不快を感じられた方があるとも思いますが、ともかく今回私は、一度縁を結んだ人間同士は、人生の途次において、特筆すべきことがあった場合、積極的に知らせあうべきだと感じた次第です。


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