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額に汗して

荻野誠人

 この夏自分の部屋のクーラーを一度もつけなかった。夏を忌み嫌う文章さえ書いている私がなんでそんな物好きなことをしたのか。ますますひどくなる地球の温暖化の阻止にささやかでも貢献したかったから、というのは半分本気である。あとの半分は気まぐれとでも言うしかない。
 部屋は忌ま忌ましいことに西向きなので、昼間はそちら側の雨戸を閉め、北向きの窓を開けておく。4時ごろには部屋の温度は33度くらいまで上がる。去年までなら、全く仕事にならなかった。ところが実に意外なことに今年は平気であった。梅雨明け前はだるくて仕方なかったのに、猛暑の間はしゃんとしてしまった。「よし、やるぞ」と多少なりとも気合が入っていたからだろうか。もちろん暑くないわけではなく、半ズボン姿で、タオルをいつも脇においておく。ただ、冷たいジュースなどは腹痛のもとなので敬遠し、熱いお茶をさましたものや、健康飲料の粉末を水道水で溶かしたものを飲んでいた。
 そして夜は、昼間暑さで体力を使い果たすからだろうか、9時ごろに「ちょっと休憩」と思って横になると、電気もつけっぱなしでそのまま寝てしまうという日が続き、30度前後でも暑くて寝られないということはほとんどなかったのである。
 余談だが、禅の語録に「暑い時は暑さになりきれ」という意味の教えがあったかと思う。それと同じというつもりはないが、この夏はなぜか自分の体の中から暑さが放散されて回りの暑さと一体となってしまったような感じだった。そうなると暑さを特に苦にすることがなくなったのである。今年はいつもよりも暑かったらしいが、全然そんな風には感じなかった。
 さて、当方の「温暖化阻止活動」はどのくらいの成果を上げたのだろうか。言うまでもなく、微々たるものである。そんなことをやるよりは、クーラー全開の部屋にこもってネット銀行からどこかの環境保護団体に一万円寄付した方がよほど貢献したことになるのではないか。
 しかし、冗談半分の活動を終えた私はいい気分である。夏嫌いの人間がとにかくやり遂げたのだ。色々な発見もあった。一方、一万円寄付しただけなら、こんな気持ちの変化は起こらなかっただろう。
 やはり人間、自分の体を使わなければ、満足感・充実感・達成感といったものは味わえないのではないか。成長するためには、幸福になるためには、言い古された表現だが、額に汗して何かをしなければならないのではないか。
 例えば、恩人への贈り物は、他人に選んでもらうよりも、恩人の顔を思い浮かべながらあちらこちらを探し回った末に決める方が楽しいし、ささやかでも心を育てることにつながるだろう。年賀状は、住所までコンピューターに書かせるよりも、一部でも自筆で書いた方が心がこもるし、相手も喜んでくれる。農業の本を何十冊と読むよりも、実際に農家で農作業を手伝った方が気分は爽快だろうし、農業に対する理解も深まる。
 もっとも、どんな場合も自分の体を使う方がいいと主張するつもりはない。それは時には自己満足に終わってしまうこともあるからだ。例えば何か災害が起こった時、体力も根性もない私が勇んで労働奉仕に出向いても、足手まといが関の山である。それよりも、一万円こっそり寄付した方が被災者はよほど喜んでくれる。だから、実際には、相手のあることなら、相手の都合も十分考慮して行動を決めるのが常識的なやり方だろう。
 さて、夏はお盆の季節でもある。ちょっと考え込んでしまう話を聞いた。最近は冷房の効いた部屋から一歩も出ずにお墓参りが出来るようになったそうだ。インターネットでお墓のホームページにアクセスして頭を下げるのだ。そこにはお墓の写真が厳かに立ち現れるらしい。さすがハイテクの国である。墓参とは亡くなった人よりもお参りする人のためのものだと常々思っているのだが、こういうやり方は参拝者に何かをもたらすのだろうか。・・・いや、体の不自由な人もいる。それに、何もしないよりはましか。・・・ああだこうだと考えたが、インターネット参拝を頭から否定しようとは思わない。ただ、かなり安易な方法のようなので、よほど真剣にやらない限り、心のこもらない行為になってしまいそうである。  

                           2002・8・31


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