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批判について

荻野誠人

 批判とは人やものごとの欠点を指摘することである。その目的は人やものごとの成長や改善のはずである。
 しかし、その目的をもたない批判も多い。それは心の醜さから生まれた批判である。
 たとえば、相手を傷つけるための批判がある。気に入らない奴だから、やっつけて楽しもうというのだろう。うさばらしのための批判もある。何かイヤなことがあってイライラしていたというわけだ。自分の権力や優秀さを見せつけるための批判もある。優越感に浸ったり、自分を売り込んだりしようというのだろう。自分を守るための批判もある。自分に損をさせそうな動きをとにかくたたきつぶしてやろうというわけだ。こういったものは、批判というよりも人の獣性が批判という衣をまとっただけといった方がいい。
 この種の批判の特徴はまず、言葉づかいの乱暴さ、冷たさである。「前々からくだらないやつだとは思っていたけど、ここまで恥知らずだとは知りませんでしたよ。」これはインターネット上で見たある作家に対する批判である。読むと気分が悪くなるので、一例だけで失礼したい。
 また、攻撃だけして終わっていることも多い。助言や提案が含まれていることはめったにない。
 批判しなくてもいい点まで批判していることも多い。たとえば、批判の内容自体は正しくても、成長や改善とは無関係な枝葉末節をやり玉にあげている。あるいは、必要もないのに「だからあんたは○○なんだ」と相手の全存在を否定する。
 こういった批判は当然相手の心を荒んだものにする。憎しみや悲しみを生む。相手の器がよほど大きければ、批判の中から役立つところを吸収することもあるだろうが、多くの場合は実を結ばない。しばしば敵意むき出しの反論が来て、泥仕合になり、見るに堪えない。仕事上の上司や先輩からの批判なら、いやいやながら受け入れることだろうが、やる気は低下するし、意志の疎通はうまくいかなくなるし、経済的にも損でしかない。
 多くの人は心の醜さから完全には逃れられない。だから、批判をしようとするのなら、その前に自分の心を点検して、醜い目的を取り除く必要がある。批判している最中も、いつの間にか目的が入れ代わってしまうことのないように自分を見つめる必要がある。

 ではそういう醜い目的を捨て去った正しい批判なら大丈夫かというと、そうはいかない。相手があらゆる批判を率直に受け入れるような大人物なら何の問題もないが、そういう人は少ない。やはり相手に受け入れられるような工夫も必要である。
 そもそも批判は欠点を指摘することだから、相手にとって受け入れやすいものではない。相手にもメンツや自尊心があって、それを不必要に傷つけるのは避けた方がいい。また、強い人ばかりではないのだから、余りに厳しい批判をして、相手を打ちのめしてしまうのも考えものである。理想を言えば、相手に最も合った批判をするべきなのだ。
 言葉づかいを慎重にするべきなのは言うまでもない。正しい目的をもった人の批判とそうでない人の批判とでは、自ずと言葉づかいは違ってくるが、それでも自分の言葉についての吟味は常に必要だ。うかつな一言で相手がかたくなになってしまうようなことも珍しくないのだから。
 「恥を知れ!」のような豪快な批判も世にはある。この手の毒舌は雑誌やテレビなどではけっこう人気があるが、たとえ批判する側が相手のためを思っているとしても、批判される本人はたまらないのではないか。少なくとも毒舌を気にしない神経の太い人は余り多くはないだろうし、よほどの悪党を相手にするのでない限りやめておいた方がいいと思う。
 また、誰もが知っていることだが、他人の面前では批判しないという方法もある。批判と共によい点を褒めるという方法もある。「これではだめだ」と言うのではなく、「こうすればよくなる」と言う方法もある。「体調が悪かったのだろう」などと逃げ道を用意しておく方法もある。
 こういう工夫を卑屈な行為と感じる向きもあるだろうが、要するに批判本来の目的が達成されればいいのだから、こだわるほどのことではないだろう。もっとも、こんな配慮などに値しないひどいこともあるのだが。
 とにかく批判の目的は人やものごとの成長や改善であるのだから、そこに到達するのに障害となるものは取り除き、到達のために必要な工夫をこらすという姿勢が必要である。

2004・6・18


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