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赤い羽根

向井俊博

今年も共同募金の時節がめぐってきた。近くの駅の入口近辺の通路の両側には、今朝も募金を呼びかける人垣ができている。

献金の気持ちはあっても、まずこの人垣のかもす雰囲気に圧迫を受ける。通りすぎるのにこちらが何か悪いことをしているような引け目を感ずるのだ。勇を鼓して募金箱にいくばくかの志を入れると、今度は胸に赤い羽根をつけてくれる。たいていの場合女性がして下さるので、これがまた照れ臭いのだ。それが嫌さに、ボーイスカウトの坊やでもいないかとキョロキョロするはめになる。「いいことするのにテレないで」という募金運動のキャッチフレーズがあったが、その意図がよくわかる。

さて、こんな風な気持ちを乗り越えて献金をしたが、なぜか爽快感が湧かない。「寄付をさせられた」「強いられた」という気持ちがかすめてしまうのだ。心の奥底に生ずるこの思いは、ひょっとして日本人に共通なのではないのかと考えこんでしまった。

数年前の新聞に、国民一人当たりの募金額は、日本が180円に対して、米国は1,800円だとあった。日米の差は一桁ということである。この大きな差は、いったいどこからくるのだろうか。米国人は税金はケチるが、寄付や募金には気前がよいと聞く。日本人はどちらもケチる。こういったところはすべて、気持ちの違いから発するのではないかと思う。米国人は「寄付をした」と思い、日本人は「寄付をさせられた」と思うのだ。日本には、キリスト教に息づく「献身」といった精神が根づいていないからだろう。


そろそろ胸の赤い羽根を外そうかなと思う頃、妻が町会から頼まれて駅前の募金に立った。そこで得がたい経験をしたから聞いてくれという。

まずどんな人が募金に応じてくれたかというと、身障者と身なりの貧しい人が圧倒的に多く、身なりのバリッとした男女ほど知らん顔をするそうだ。身障者が震える手で千円札を懸命に入れてくれたり、お菓子を手にした子どもが何かのお釣りらしい十円玉を入れてくれるのには思わずありがとうを連発したという。

妻の第一の感想は、貧しい人ほど人情があるとしか思えぬということである。貧しい人ほど他人の苦しみがわかるのかと考えると、人の世の底を見たようでぞっとしたという。それともうひとつ、買い物で会う程度のほんの顔見知りの人が、遠くから見つけては近づいてきてくれるのが嬉しかったそうで、周りと比べると顔の広い人ほど集金能力が高かった様子とのこと。自分が街頭募金には知らん顔していたのが恥ずかしくなり、二時間分の報酬500円を募金箱に入れて帰ってきたという。

このような話に妻の顔を改めて見直したが、自分の心もいささか晴れてくるのを覚えた。 明日は、新たな気持ちでもって胸の羽根のつけなおしをしようと思う。

(平成3・10・10)


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