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花はさかりに

荻野誠人

 『徒然草』・・・誰もが一度は読む古典である。必ずといっていいほど教科書に採用され、試験問題に使われることも多い。
  ある日問題を解いていると、その一つにぶつかった。次に紹介する一節は、『徒然草』の文章を引用しつつ、作者のMさんが自説を述べているところである。

  「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」(百三十七段)という有名なくだりに始まって、彼はことごとに「なまめかしい」、すなわち「奥ゆかしい」ふるまいを説いている。花はなにも盛りにだけ鑑賞するものではなく、月も皓々と照り輝いている夜だけながめるものではない。むしろ、雨の降る夜にかくれている月を想い、満開の花より、これから咲こうとしている梢を見あげたり、あるいは、すっかり花が散ってしまった庭をしみじみとながめるほうが、ずっと味わい深いではないか、というのである。そして、そのような味わい方のできる人こそが真の教養人であり、よき人であり、奥ゆかしい品性の持ち主だ、と。
  どうしてか。完成された美は、まちがいなく美しい。しかし、完成された美の対象をただ美しいとして受けとることはだれにでもできることだが、不完全な美を、こちらの想像力によっておぎない、心のなかで完全な姿へと仕立てるのには、それなりの教養が必要だからである。美とは永遠不変の実体としてそこに存在するのではなく、絶えずうつろうものである。その生生流転のさまを全体としてとらえることが真の美意識なのであり、美を観ずる人間の精神でなければならない。(ゴシック体への変更は荻野による)

  この作者のゴシック体の部分の見解に首を傾げた方もかなりいるのではないか。
  兼好さんは、花や月を見ながら頭の中でこんな理屈っぽい操作をやったのだろうか。いや、兼好さんは、蕾も雲に隠れた月もそのまま愛でたのではないか。Mさんの主張に従えば、兼好さんは結局満開の桜や満月をよしとしていることになってしまい、なんの新味もない主張になる。
  Mさんは「完全」「不完全」という言葉を使っているが、自然にそんなものはない。人間が勝手に自然にレッテルを張っただけなのだ。どうして満月や満開の桜が完全で、雲に隠れた月や蕾が不完全なのだろうか。前者は後者よりも「優れた」存在なのだろうか。いや、そんなことはない。どちらも同じ価値であり、どちらも移り変わる事象の一こまなのだ。
  念のため、百三十七段の冒頭を読んでみた。

  花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨に向ひて月をこひ、たれこめて[部屋に閉じこもって]春の行方も知らぬも、なほあはれに情深し。咲きぬべきほどの[咲きそうな]こずゑ、散りしをれたる庭などこそ、みどころおほけれ。

  やはりMさんの主張するような解釈の余地はないようだ。兼好さんはありのままの自然の姿を味わい、楽しんだのである。

(1999・7・22 )

 


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