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思想・宇宙観を考える

折笠 覚

 前編
 花火大会などで、夜空に咲く大きな花火を見るとき、あたかもひまわりの花のように、自分が眺めている方にだけそれが開いているように見えてしまいます。一つの中心から球状に全方向に火花が散っていることが理解はされても、反対側に円弧を描いて落下する火花も暗い夜空を背景にすると、すべて自分側に向かってきているかのように錯覚してしまうのです。これはどのような位置に立って花火を観察しても同じでしょう。
 このことは、ものの見方や、より広くは世界観といったものにも、当てはまると感じる時があります。実際の花火鑑賞では、例えば、「私の今いる場所は、花火が全開でとても素晴らしい眺めだから、あなたもそんな裏側にいないでこちらの表の方にいらっしゃい」などと言う人はいませんが、人の信条や思想を問題とするときにはそういったことが起こり得ます。ものごとを自分に都合よく解釈してしまい、自分のものの見方が正当である、と思ってしまうのです。もし花火の球の中心に相当する視点(あらゆる見解の中庸をとるということではなく、本当の真相といったほどの意味です)に立つことができれば、すべてを公平に眺められるかもしれません。
 いま例えばベルリンの壁の崩壊という歴史的事件について取りあげてみるなら、政治的なレベルでは、共産主義体制のはらむ矛盾といった要因があったのかもしれません。ですが、以前、いくつかの精神世界グループ等に属する人々と接触することがあり、それぞれ別の機会にベルリンの壁が雑談の話題になったことがありました。その時、壁の崩壊は私たちグループを導く光の存在が蔭で力を結集してくれたおかげであると言う方もいれば、国際的な某政治団体の活動が崩壊をもたらしたのだ、と言う方もいました。そうかと思えば、ある新興宗教的なグループでは、我等の統率者の蔭の力によるものだ、といった具合なのです。またドイツでは、キリスト教会の集いでの平和の祈りがきっかけとなったという認識もあるようです。ここで、本当の真相はわかるはずもありませんが、見かけの解釈と真実の間には隔たりがあるに違いないと感じさせられます。
 また以前、ものの見方がすべてといっていいほど、かみ合わない経験をしたことがありました。話をさしつかえない程度に絞るならば、かつて私は、ある方のもとで、与えられたあるテーマで発表をしなければならない状況に立たされました。
 それまでの長期間にわたって、取り上げる視点や具体的話題のひとつひとつがどうも判然とせず、話がかみ合いません。「生命」という言葉一つとってさえ解釈が違います。生命といって私が親しみを感じるのは、自然界生命との調和という視点や「山川草木皆仏性」の思想です。結局根本思想が私とは異なっていることがわかりました。
 相手が提案してくるいわば思想的布石について、まるで見破り合戦(これは敵対思想にくみする話題だと気づいたからパス、といったような)のようなことをしているだけで月日が無駄に流れた末、テーマとは一見かけ離れていましたが、音楽というものの有意義さを(以前からその価値に着目していたことも手伝って)最前面に出して発表したことがありました。 音楽による癒しや感動は、今この瞬間における心の調和や平安をもたらしてくれるところがあります。政治的信念や信仰対象が正反対であるような人々の間にあっても、まったく同じ作曲家や同じ曲を愛好する事実があることを知っていました。あたかも数学で習うベン図において、意見が合う共通領域は空集合に近いと思えるなかで、かろうじて音楽という領域で唯一の接点が存在した、といったほどの感覚をもちました。
 よく精神世界の話題の中で、「今のこの瞬間を真実に生きる」といった言葉を聞くことがあります。音楽が即時に与えてくれる心の調和の状態、時間を忘れるような感覚というのはそれに近いものだと感じます。
 「音楽のみが解決法なのですか」と問われれば、「思想対立が続いて、どうしようもなかったからです」ということになるでしょうか。
 このように、異なる思想どうしというのは、どうしても妥協できないものがあります。
 対立しあう二つの根本思想の違いというのは、喩えてみれば心理学で用いられる白黒二色で表された隠し絵(ルビンの壷)のようなものだとも思います。例えば、黒い色に着目すれば、二人の人が顔を向き合わせているシルエットとして見え、白色に着目すれば、壷に見えるというのがあります。異なる世界観をこの二つに見立てるなら、一方は、白い部分によって、はっきりした像が現れるためそれを宇宙像と信じ、他方は、黒の部分で見る像を真実と疑わない、といったありさまに似ています。ここで、一方の色の像を見ている人が、他方の色の像しか見ていない人に対して、自分の色の下で意見発表するように、と指示したところで、その色の像自体を認識していないため、まるで捕えどころのない命題を与えられているようで、内部矛盾をきたし、不面目な発表しかできないでしょう。私が経験したのはまるでそのような感覚に近いものでした。
 具体的に何を指しているのかといえば、マルクス主義と自由主義との関係に当たります。例えば、社会改革か意識改革か、歴史決定論か自由意志か、歴史法則か自然法思想か・・(注)といったようなものの見方の対立があります。勿論ものごとというのは、単純に二分化して考えられるものではありませんが、さながら無限に続く自然数列において、一方は偶数のみを追い求め、他方は奇数のみを追い求める、といった感覚を覚えました。こうした場合通常、一方は他方の主義がもたらす最も嫌悪する部分をまず連想し、その思いで他方の主義を忌避し、同時に自らの思想の正しさを感じているらしいこと、そしてお互いに全く同じように感じているらしいことに気づかされました。例えば私の場合、マルクス主義という言葉から連想されるのは、全体主義下の恐怖政治、大量粛清、相互監視と密告の社会といったものです。一方マルクス主義者のほうは、自由主義というものから、強者の横暴により、弱者が踏みにじられる資本社会といったイメージを持っているのだと思います。しかし私は自由主義社会という言葉をそのようなものとしてとらえることは決してありません。
 どちらにも光と影の部分はあるのかもしれませんが、しかし総じて、どちらの体制に平等や福祉、言論や職業選択の自由その他諸々が当たり前のようにゆき届いているのかは、現実を見れば言うまでもないことであろうと思います。にもかかわらず依然、対立が存在するのは、政治的レベルよりも深い信仰の問題があるからだと思います。そして、これらの違いがどこに由来するのかを考えるなら、次のような古代思想に行き着くのではないかと思います。
 例えば古代ギリシャ思想においては「宇宙の秩序(コスモス)」が万物を貫いているとします。ここからは普遍的な法の前での平等という思想から、「法治国家」という形態が真理にかなっているという考えになると思います。一方キリスト教では、旧約聖書の記述にあるような恣意的で感情的な神(私には、誇大表現か、宇宙人が神に祭り上げられてしまっただけなのではと感じる部分ですが)が自然を超越したレベルに君臨し、この世界創造を行った、そして自然界の法則もつくった、とする考えがあると思います。そして神の前の平等という思想から、その相似形として「人治国家」をよしとする解釈もでてくる場合があると思います。ここで、旧約聖書の記述が後者の考えに直結するというのではなく、読む人の解釈によってはそうした思想に傾く場合もあるだろうという意味です。さらに、前者の視点からの、宇宙の調和と秩序のもとでの自然界生命への畏敬の念といったものは、後者の視点からは、人間が服従させるべき手段、道具であるという見方により軽視される傾向があると思います。
 こうしたことを考えるなら、もし政治的話題が、根の深い思想と関係するものであったとき、その究極の信念信仰の真相に直接焦点をあてるならば、何かわかることがあるのではないか、とも思います。政治的レベルでは激論になっても、根本思想のレベルでは、信じられるか否かという、純粋に認識の問題(先の「ルビンの壷」の喩えのように)になるため、多少は冷静な眼で考えられる余地があるかもしれません。

 注)マルクス主義では、未来(歴史)の行く末は大方もう決まっているという見方をすると思います。これは、定まっている未来が現実の前に押し出されてくるだけ、と考えるキリスト教的な考え方とも似ています。また、はじめに国家体制やシステム(無機的な形式・外枠的なもの)を設定し、そのもとで人間や状況を統制・調整する、という視点があると思います。これに対し、まずかけがえのない個々人の尊厳や自由意志があり、そこから自生的な秩序が生まれる、というのが自由主義の視点になると思います。もし意識が物質を決定するという考えをもつ人が、特定の「もの」に定義を与えよ、といわれても悩んでしまうと思います。物質も究極的には意識、エネルギーに還元されるという唯心論の究極の考えがあるからです。ニワトリが先か、タマゴが先かの関係に似ていると思います。

 後編
 ここでは、前編に続く話題として、キリスト教の聖書と一般の精神世界の書籍等(霊的知識・教義を扱った書籍、その他高次の霊的存在または異星人からのメッセージといわれるものの全般を指します)から得られる考え方の違いについて見てみます。ここで精神世界といっても情報があまりにも多種多様であり、興味本位に流される可能性も強く、すべてを鵜呑みにすることはできませんが、真摯に考えさせられる情報もあることは事実です。ただここでは私を含め精神世界に親しむ多くの人たちが、ごく自然に抱いているであろう考え方の基本的な点のみを取りあげてみます。ここでは、聖書の批判が目的ではなく、その意義を十分に尊重した上で、見解の相違が生じざるを得ない面があることにふれてみたいと思います。
 例えば聖書の記述の中には、世の終わりには偽キリストや偽預言者が現れて人々を惑わすだろう(新約マタイ24:24)、といったことや、わたし(イエス)を通してでなければ、誰ひとり父の御許にはこられない(新約ヨハネ14:6)、といったことが書かれています。前者については、例えば世を騒がした反社会的新興宗教等をみるとうなずける面があります。聖書に忠実な立場からは、聖書以外のどのような情報がもたらされようと、それはいわば異端であり、人々をそそのかす大いなる惑わしなのだ、といったことになるのではないでしょうか。
 しかし、精神世界の情報の中には聖書が改ざんされていることを指摘する情報もあります。後者の「わたし」という語についても、文字通りにとるのではなく、霊的マスター達(イエス、ブッダ他)が到達しているのと同じ普遍的な究極の宇宙意識に(小さな波頭が大洋の海に溶け入るように)同調し得るのであれば誰でも、という見方をとることができ、この場合、イエスおひとかたのみが神の一人子である、という考えとは相容れなくなります。また聖書の予言をすべて確定的なものとして考えることもなく、状況の変化により、予言は必ずしもその通りには実現しない、とするのが一般の精神世界の見方です。
 また例えば、何かの折に内なるはっきりした声を聞いた、という体験をした人々は、いずれの立場にもいることを私は知っています。それを、一方は神または主(イエス)の御声ととり信仰心を深め、他方はガイド(あるいは守護霊)の声ととり、やはりその信念を深めるでしょう。さらに、いずれ時が来れば、あるいは死後の世界にでも行けば、きっとわれらの信念の正しさに直面させられるはめになるだろう、と双方が全く同じ感じ方をしていると思ってさしつかえないでしょう。ただここで、自分の根本的信念、信仰がいかに本人には正しいと感じられるとしても、それを他者に説得しようとやっきになるとき、そうした姿勢自体のなかに調和を乱す想念が入り込んでしまっているかもしれません。このことはこういったことを書いている私自身も注意しなければと思います。
 それは、神、宇宙法則や宇宙意識、仏法など、どのような観念であっても、観念に呪縛されてしまうことと、それが指し示す真理・真相とは別ものだと言えるだろうからです。また「信じれば救われる」式の宗教(注1)は、原初の教えが歪められてしまっている部分があるだろうと思います。というのは、相手を信仰に引き込もうと、人の仕事選択に関してまで心理誘導により干渉し、本人のまったくあずかり知らぬ間に状況を操作して、その人の人生を大きく振り回してしまうというケースすら実際にあります。そういう事態に遭遇すると「幼子のようにならなければ天国に入れない」という聖書の一節は、無神論であっても、純真無垢でとらわれのない人たちの方がよっぽどその資格があるだろう、と感じるからです。
 逆に、特定の信仰を人に強いることのない精神的伝統を探すなら、日本古来の神道(またはインドヨガや気功)くらいでしょうか。神社の境内や巨木の傍に行くと何となく心が安らぐ、ほっとする、といった感覚を私は覚えます。神道の場合、一般宗教と違い、参拝者に対して信者という表現は普通使いません。
 また思想はもとより多様で、互いに相反するものであるというのが現実です。そして、現在の日本のように、言論の自由とともに、その多様性をあるがままに認められ、反対思想さえ許容される今のままの自由な社会が結局自然なのだということになるのかもしれません。
 しかしあえて相互理解を深める道を模索するならば、精神世界の話題等から聖書解釈やその改ざん内容について議論を深めていく方向性しかないのではと思います。というのは、精神世界は玉石混交であっても情報の宝庫であり、聖書の記述に新しい視点や、本当の真相への手がかりを提供してくれるだろうと思うからです。但し感情的対立ではなく、真理が誰にも覆せない普遍的な性質のものである以上、その普遍的真理を求める姿勢(注2)として、互いに「心の調和を保ちつつ」、という心構えが必要かもしれません。
 そして、こういった話題について、例えば超能力バトルならぬ、宗教バトルのような討論の場(イベントやTV番組)がもしあれば興味深いと感じます。結論は決して出ないでしょうが、人間間の不和のみならず戦争の原因にすらなっている信念、信仰の根本部分について、それの真相を模索することは、とても有意義であると思うからです。

 注1)17世紀の自由思想家ピエール・ベイルという人は、「悪徳のキリスト教徒と有徳の無神論者」(キリスト教徒のなかに不道徳が横行する一方で、無神論者のなかにも極めて高い徳を示す人々がいる、といったこと)という対比を提示したといわれます(「文明のなかの科学」「奇跡を考える」村上陽一郎著)。しかし広い視野でみるならば、実際はつまるところ、キリスト教信者にも悪徳も高徳もあり、無神論者にも悪徳も高徳もあり、他宗教や精神世界、その他諸々すべて同様に悪徳も高徳もある、というのが実態であると思います。もしそうだとしたら、真理に関する普遍的尺度を特定の宗教等に求めることは難しくなります。また「信じれば救われる」式の宗教の場合、極端な場合、悪徳でも信じれば救われるのなら、高徳(あるいは高徳でなくても)の無神論者の立場からは、かつて人生上の大きな損害をこうむった悪徳信者(反省していたとしても)が入るような天国なるものについて、いったいどのような肯定的な印象が期待できるでしょうか。真理が、誰にとっても普遍性をもつものであるかぎり、多くの人が矛盾を感じるでしょう。

 注2)科学的(数学的)真理に対するのと同じ姿勢でもって、信仰や宗教的な話題に臨む、という視点がたてられると思います。例えば、三角形の内角の和は180度である、という数学的真理について、「いやそれは違うと思う」といってむきになる人は勿論いません。真理を、土をはらって掘り起こすべきもの、といったような考え方をとれば、最初はベールがかけられ、おぼろげに見え隠れする姿が様々に解釈できて、その形状について意見が衝突しても、解釈や視点の違いという割り切った考え方をすることができます。ただ、思想的な話題というものは、心の次元(ほかならぬ自分の意識と等次元)のものであるため、土(ベール)が払われることは決して無いという点が大きく異なります。しかし、真理なるものの性質が誰も覆すことのできない「普遍性」である以上、少なくともその同じ性質をもつものに対する姿勢のみに関しては同じであってよいと思います。


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