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花と子供

荻野誠人

植木鉢とシャベルをビニール袋から取り出すと、五人のベトナム難民の子供たちがわっと寄って来た。私は心中にやりとして、植木鉢を一つずつ手渡すと、子供たちを連れて廊下に出た。五人はすぐに私を追い越して外へと走って行った。

私は日本の小学校に入学する予定のベトナムの子供たちに週一回日本語を教えている。教え出して二か月ほどがたち、この日は一つ情操教育のまねごとでもと思って、花の種を持って来たのである。

私たちは難民収容施設の敷地内の、黒土がむき出しになった所へ行き、一つしかないシャベルを交代で使って植木鉢に土を入れた。その上に、私ができるだけ正確に五等分した種をまいた。何だか消しゴムのかすみたいな細長い形の、まさに吹けば飛んでしまう小さな種だった。名前はもう忘れてしまったが、地味な白い花が咲くはずだった。子供たちは植木鉢を教室の窓辺に置き、自分の名前をカタカナで書いた小さな白い札を土にさした。

     キュー
     トゥエット
     ロン
     チャウ
     タム

子供たちは毎日熱心に水をやっていたようだ。やり過ぎて、ほかの先生があわてて止める場面もあったらしい。そのおかげか間もなく薄緑の双葉が土の上に顔を出し、背丈もずんずん伸びていった。

子供たちは喜んでいたようだが、困ったことになった。園芸に詳しい先生によると、そろそろ間引きが必要だというのだ。確かに小さな鉢に押し合いへし合いしているのを見ると、いかにも 窮屈そうだ。だが、私は迷った。命を大事にすることも知ってほしいと思って始めたことなのに、間引きでは正反対ではないか。だが、やらなければ全部が枯れてしまうかもしれない。それも困る。かといって、多少の犠牲はやむをえない、というような考え方にも抵抗があった。そうだ、苗の一部を施設のどこかに植え変えればいいんだ。これは名案に思えた。

それでも私はさらに考え込んでしまった----。

そもそも人間の栽培する植物は間引きなどをしなければ育たないものなのだ。害虫だって殺さなければならない。雑草だって抜かなければならない。そうしなければ、米も野菜も果物も食べられなくなってしまう。生命を尊重してすべての苗を育てる、などという考え方は現実には通用しない。今はたまたま広い施設に住んでいて場所があるので、そういうことが言えるのだ。だが、施設を出たあとでまた花を育てるときはそんな場所もないだろう。そのとき理想論を吹き込まれた子供はかえって苦しむはずだ。そんなことのないように、今現実をありのままに受け入れて、堂々と間引きをして苗を捨ててもいいではないか。別に悪いことではないのだから----。

確かにすべての命を尊重していたら、自分が真先に餓死してしまう。他のあらゆる生き物同様、人間にも他の生き物の命を奪うことが許されている、自分の命を保つためなら。だが同時に、できるだけ命を大切にするという心、不必要に命を奪わないという心も必要なのだ。それは、あらゆる生き物が生きたいと願っているからだ。そして人間の力は今では余りにも強いので、そういう心がなければ、しらずしらずのうちに、一つの種さえも無意味に滅ぼしてしまいかねないからだ。・・・確かに苗を植え変えるなどということは今回に限って可能なのだろう。だが、それでいいではないか。将来通用しない考えだからといって、今助けることのできる命を助けないことの方がよっぽどおかしい。それに、私は何もどんなときでも間引きは駄目だなどと教えるつもりもない。・・・あの子たちもこれから何も考えずに面白半分に生き物を殺すようなこともするに違いない。私もそうだった。それはある程度はやむをえないのだろう。しかし、だからこそ今ここで命を大事にしたという体験が必要なのではないか。間引きされる運命の苗を助けた記憶は子供の心に残って、将来その子が極端な命の軽視に走ることを押しとどめてくれるかもしれない。そのささやかな体験が、できるだけ命を大切にしようとする性格をつくるかもしれない。なるほど、理想は時として本人に苦痛を与える。しかし、その苦痛を感じる心は、命を奪って何とも感じない心よりも豊かなものではないだろうか。

私なりの結論は出た。ちょうどいいことに、施設には花壇のようなものがあった。一週間後の夕方、黒板に絵をかいてやり方を説明したあと、皆で植木鉢を持ってそこに行った。花壇のふちの煉瓦に、止まり木にとまった鳥のように肩を並べてしゃがみこみ、わいわい言いながら半分以上の苗を移した。一番のちびが乱暴に引き抜こうとしたので、あわてて大声で叫んで止めた。

一月余りたって、植木鉢にも花壇にも小さな白い花がたくさん咲いた。子供たちの日本語もずいぶんうまくなっていた。

(1994・6・5)


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