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母との対決

河合 駿

 高校一年生の夏休み。
 家の窓越しに、田んぼの青い稲の穂波が清涼感をただよわせている畦道を、日傘をさし、一足しかない黒いハイヒールを履き、うつむきかげんに歩いてくる母の姿が見えました。この日は、期末テストの成績不良な生徒の父兄と担任の先生が懇談する日で、母は仕事の休みをとって学校に行って来ました。いつもなら、一日中外で遊んでいた私も、おとなしく家に居て、「ただいま!」と帰ってきた母を迎えたのです。
 9科目のうち、国語と物理だけが合格で、あとは全て赤点。一年生221名のうち、成績順位は219番。ビリから3番目です。とにかく小学校、中学校と、予習・復習はおろか宿題もやった記憶が無いほどの勉強嫌い。いくつになっても時計の針が読めない、割算の筆算もできない、ぼんやりした子でした。体が小さかったこともあって、教室では机が一番前で、先生の話は良く聞いていました。ノートは1冊しか持っていませんでしたから、黒板から写すメ モの多くは直接教科書のアキ欄に書いていました。勉強は学校でするもので、これで十分だと私は思っていたのです。入った高校が商業高校。授業内容はそれまで聞いたこともない言葉のオンパレードです。現金は自分の持ち金なのに、ナゼ“借方”に書くのか、一方で借入金という他から借りた金を、ナゼ“貸方”に置かねばならないのかなど、気が狂いそうになるほどの疑問を覚え、たちまち商業簿記というものがきらいになりました。
 母が部屋に入ってきました。いつになく、にこりともしない母を見て緊張感が走ります。「たかしちゃん、そこにお座りなさい」。いよいよ来たな、と身構えます。私の頭の中では、これまでずいぶんと考えてきた言い訳のシナリオが、グルグルと回転していました。さぁ対決だ。「はい!」と素直に座った私の前に、母も静かに腰を下ろしました。母が話し出しました。
 「たかしちゃん、ごめんなさいね。母ちゃんが悪かった...。お兄ちゃんたちのときには母ちゃんも勉強の面倒をよく見てあげていたのに...。たかしちゃんにはそれがしてあげられなくて、かわいそうなことをしてしまった。本当にごめんなさい。これからは母ちゃんも早く帰ってきて、たかしちゃんの勉強を見てあげますからね...。担任の先生も、『入学試験が良く出来ていたのに、ナゼだろう』と不思議がっていたよ。これからは母ちゃんと一緒にがんばろうね...」
 母は目に光をためていました。そして、いつものやさしい母に戻っていました。
 母がその日働いたお金で買った食材を、両手いっぱいに抱えて帰って来るのは毎晩8時頃。疲れているのにいつもニコニコと、腹を空かして待っていた4人の子供達のために夕飯を作るのです。遅い食事が済むと10時頃帰ってくる父のご飯を温めなおすのが母の日課でした。週7日勤務の時代。休みは月のうち1日と15日だけです。
 私は毎日学校が終わると、復習のために近くの県立図書館に通うようになりました。その日習ったことを母に話す約束をしたからです。ここはエアコンが効いていて実に快適な所です。必要な書籍や辞書は全てそろっています。午後7時閉館。自転車を懸命に漕いで家に着くと、早めに帰るようになった母との勉強での対決が待っていました。母は何を聞いても明解に答えを出してくれます。国語、英語、数学など鉛筆の頭のところで自分の額をつつきながら、数学などはなぜそうなったかというプロセスを含めて教えてくれるのです。そして、私が本当に理解したかどうかを確認するために、即席の応用問題を作ってくれたりしました。学校のテストが終わると、採点の済んだ答案を母に見てもらいました。母は、まるで自分の答案を見るかのように、指でひとつ一つ押さえながら一喜一憂してくれました。母の知らない商業系の科目は、学校で習ってきたことを母に教えるようになりました。母の質問に答えられないときは、翌日先生に聞いてくるのが母からの宿題になりました。こうして母に見てもらい、分かってもらうために、私はあれほど嫌いだった勉強に、身を入れて取り組むことになったのです。家のことは姉たちが交代でするようになりましたが、母は相変わらず働きずくめの中、睡眠時間を削って私に付き合ってくれました。
 幼い頃、私の家は商売をしていましたので、あまり母と一緒に遊んだことがありませんでした。外でケンカをして泣かされて帰ってくると、母は慰めてくれるどころか、泣き止むまで家に入れてくれません。そして家に入ると母はこう言うのです。「泣いて家に入ると不幸を連れてくる。笑って入ると幸福を呼ぶのですよ。体が小さいのだからケンカには負けてもいい。その代わり必ず勉強で勝ちなさい」と。
 母を独占することができる勉強の時間は、私にとって至福の時間でした。母の問いに答える。母に教える。そのたびに笑顔を絶やさない母の顔を見るのが、本当に嬉しかったのです。母との勉強が済んだ後も一人で続けます。母は「体をこわしたら元も子もなくなるから早く休みなさいよ」と言っては夜食を作ってくれました。だんだん勉強のコツが分かってきた私は「母さんこそ、オレ、もう少しやるから先に休んでよ!」と言うゆとりも出てきました。漢字の書き取りをしたり、英語のスペルなどを覚えるのは孤独で退屈な作業です。しかし、この孤独感を克服し退屈さを制して、はじめて勝ち組みになれるのです。
 そして高校三年生の夏がやってきました。就職試験の時期です。学校の授業料は、兄や姉たちの少ない給料の中から出してもらっていましたから、卒業したら就職することに決めていました。当時は、日銀や住友、日興、野村などの銀行や証券会社が世間に通りのいい就職先でした。成績の方は、どこを受けてもこの生徒は大丈夫と校長先生からも太鼓判をいただくほどになっていましたから、担任の先生は多くの先輩達が入っている銀行への就職を薦めました。きっと父も母も喜んでくれるだろうと、その夜早速対決の場を持ちました。母の返事はこうでした。「母ちゃんは反対です。ひと様のお金を扱う仕事だけはやめなさい。間違いがあったらどうするのです。母ちゃんは夜も寝られなくなるほど心配になります」。父の方は、にこにこと、ただ頷くだけでした。私は母に心配をかけたくない一心で、素直に銀行を諦め、大阪の会社を受けることにしたのです。
 採用が決まったある日、卒業と就職祝いを兼ねて母が西洋料理をご馳走してくれました。町では有名なレストランのフルコースです。いま一つの目的は「たかしちゃんが社会に出て、洋食の食べ方を知らなくて恥をかくといけないから」でした。私にはAコースを選んでくれ、母は値段の安いBコースを注文しました。「スープはこうやっていただくのですよ」と言って少しお皿を傾け、スプーンの使い方を教えてくれたあのときの母の笑顔は、今も私のまぶたの裏に鮮明に焼きついています。
 母との最初の対決があってから、もう幾年もの夏を迎えて来ました。会社員となり、人に教え、人を叱る立場となって思い迷うこともたくさんありました。こんなとき、いつも忘れなかったのは、あの夏、母が私のために悲しんで、自分がどのように手をさしのべたらいいのかと、涙を流して語ってくれた母の心です。
 今年は母の十七回忌。母との対決は今も私の心の中で続いています。


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