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牛肉を食べるということ

はりがね


牛肉は命

 筆者が子供の頃に食べ残しをしていたときの話。母親が食べ残しはいけないと諭したことがあった。ここまではよくある話なのだが、その時一緒にいた親父の対応が変っていたのを思い出す。親父は特に怒るわけでもなくただ黙っていた。それからしばらくしてのこと、休日の午後、親父が筆者を散歩へと誘った。当時筆者はよく親父に連れられて近所を散歩しに行っていたので、その時もさほどの違和感もなく誘われるままにてくてくと歩いていった。当時筆者は郊外のどちらかというと品の良いとはいえないような地域に住んでいて、近所にはあまり裕福でない人達も多く住んでいた。しばらくするとコンクリートの高い塀のある工場のようなところに着き、親父は正門の人になにやら声をかけ筆者を中へと連れて入った。そこは屠殺場であった。屠殺場とは要は牛などを殺し食肉として解体するところだ。農家から出荷された食肉用の牛は一旦ここへ集められ、ここで殺されて大きな食肉の塊となる。その後、さらに小さく裁かれて食肉卸商や一般の肉屋さんへと出荷されていく。日頃その近辺で遊んでいた筆者も中に入るのは初めてだった。当時の筆者にとってその一角は山際の薄暗い場所にあって、無機的なコンクリートの壁といい、あたりに漂うどこか得体の知れない匂いといい、なんとなく包み隠された場所という印象があった。そこで筆者はとんでもないものを目にしてしまう。モーモーと鳴く牛が事務的に連れてこられ、ステンレスの冷たい大きな機械に入ったかと思うとアッという間に首を刎ねられどんどん肉の塊にされていくのだ。大きな反りのある刃物をもって赤褐色に汚れた前掛けを着た人がすごい勢いで手際よく裁いていく。その手際の良さや当時としては相当に進んだオートメーション設備に冷たさを感じたのを覚えている。そこには生き物を殺めたという感情のすき間がないのだ。
 それ以来筆者は食べ残しをやめたと言いたいのだが、実はそうではなく牛を食べるのをやめたのであった。本気で菜食主義になろうかとも考えた。もちろん子供というのはよくできたものでしばらくすると自然に元の食生活に戻ってしまうのだが、その後しばらくは本当に牛肉をみるたびに屠殺場で見た光景がよみがえり、とても美味しく食べる気にはなれなかったのを覚えている。
 いま、狂牛病の影響で牛肉が売れないらしい。ニュースなどで見るかぎり、疑わしいと思われる牛肉がどんどん焼却処分されている。確かに、人が食べると病気になるような食肉は捨てるしかない。しかしながら、ここまでの状況になる前になぜもっと命を無駄にしないですむ諸策が取られなかったのだろう。筆者はそれが残念でならない。また、牛肉を食べるということがどういうことなのかをもっと人々は知る必要があるのではないだろうか。遠足で大坂城に行くよりも屠殺場の一日見学をするほうがよっぽど人間教育になると筆者は思っているが如何なものだろうか? 

(2002.03.08)


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