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我慢の功罪

荻野誠人

 子供のしつけ方で、確かイギリス人とイタリア人の流儀の違いについて述べた文章をずいぶん前に読んだ覚えがあります。記憶が曖昧で誤りがあったら申し訳ないのですが、それによると、イギリス人は感情を抑えてしつけに当たり、イタリア人は感情を表してしつけに当たるのだそうです。例えば、イギリス人は怒りをこらえて穏やかに接し、イタリア人は怒りの形相で叱りつける、ということになるのでしょうか。ここでは仮に前者のような態度を「イギリス流」、後者を「イタリア流」と呼ぶことにします。なお、元の文章では話題として親だけが取り上げられていたかもしれませんが、この文章では教師、スポーツクラブの指導者、地域の子供会の世話役といった子供に接する機会のある大人も含めたいと思います。

 さて、イギリス流とイタリア流、日本ではどちらが評価されるでしょうか。単に私の印象に過ぎませんが、イギリス流の方が高く評価されるような気がします。イギリス流は「大人の態度」「理性的」と言われるでしょう。一方、イタリア流は「大人げない」「子供と同じ土俵に上がっている」といったところでしょうか。

 もっとも、これでは何だかイタリア人はイギリス人より幼稚だということになりかねませんが、そんな話は聞いたこともありません。おそらく、それぞれの方針はそれぞれの民族に合っていて、優劣などはなく、ただ、別の個性の大人になっていくのでしょう。もし日本人がイギリス流をより高く評価するというのなら、私たちがイタリア人よりもイギリス人により近い気質をもっているからかもしれません。

 といっても、イギリス流は理想で、実際にはイタリア流になっている人も多いような気がします。特に親の場合は、子供に対する遠慮がありません。子供を怒鳴りつけた後で自己嫌悪に陥るという話はよく聞きます。自己嫌悪に陥るのは、いつも理性的であるべきだとの理想からはずれているという意識があるからなのでしょう。

 さて、私もイギリス流の方に好印象をもつのですが、時と場合によってはイタリア流の要素を取り入れた方がいいのではないかと思うようになってきました。例えば、小学生ぐらいの子供でも、いや小学生だからでしょうか、ずいぶんとひどいことを大人に向かって言ったりするものです。「死ね」のたぐいです。無邪気に言っている場合もあるでしょうが、悪意が感じられる場合もあります。それを平気で聞き流せる大人もいますが、傷つく大人もいます。傷ついても、それを見せずににこやかに接して、おもむろにお説教でもするのがイギリス流ですが、そういう姿勢が常に最善なのか、疑問に感じるときがあるのです。つまり、何を言っても、大人が紳士的に振る舞ってくれるのなら、いつまでたっても自分の言葉の恐ろしさに気づかない子供がいるのではないかと思うのです。

 それに、常にイギリス流では傷つきやすい大人が精神的にまいってしまうことだって考えられます。我慢はその人を鍛えますが、度を越えてしまえば、逆効果です。

 イタリア流を取り入れるといっても、感情を爆発させて怒鳴ることを勧めているわけではありません。我を忘れた暴走まがいの言動は、信頼関係を傷つけかねません。あくまで心のどこか一点で冷静に手綱を握りながら、自分の気持ちを言葉や表情で率直に伝えたらどうかと思うのです。例えば、「そこまで言わなくてもいいでしょ」「いくらなんでも失礼じゃないか」「僕だって生身の人間なんだぞ」「気分悪いな」「ぐさっと来たね」「悲しいよ」といった言い回しです。大人の少々まいった様子を目の当たりにすることで、自分が何をしてしまったのか、かなり多くの子供は気がつくのではないか、そして自分の言動を見直すのではないでしょうか。

 そんなことはとっくにやっているという人もいるでしょうが、いつも我慢してしまうという人もいるでしょう。自分の感情を抑えるのが大人だという思いが、二の足を踏ませるのかもしれません。ですが、表現の仕方さえ工夫すれば、感情を表すことは相手の心の成長のきっかけになることもあると思うのです。たとえ全然傷つかない大人でも、許容限度を越えていると判断したら、多少の演技もまじえたりして子供のために注意した方がいいのではないでしょうか。

 実は上記の具体例の「そこまで言わなくてもいいでしょ」は、大昔、私が、親でも教師でもないある大人の女性に言われた言葉です。もう一人の人と一緒にその女性の失敗を馬鹿にしていたのですが、つらそうにそう言われて「ああ、言いすぎたか」と二人でしゅんとなったのをよく覚えています。私はそれほど頻繁にその手の言葉を大人から投げかけられたわけではありませんが、自分の言動を今振り返りますと、大人をずいぶんと傷つけた子供だったのだろうと申し訳ない気がします。

2010・9・17


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