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不運な人々

荻野誠人

 世の中にはごくまれに人を殺したくてしかたのない人がいる。何の罪の意識もなくそういう衝動に駆られる人もいるようだが、たとえ悪いことと分かっていても、自分を抑えることが出来ないのだそうだ。何とも因果な「趣味」を持ってしまったものである。普通の人が自分の趣味を自由に楽しめるのに、そういう人が自分の「趣味」を楽しむことは出来ない。当然である。殺人マニアの犠牲になってもかまわないという人などいるはずがない。

 しかし、その人は不運で、不幸な人だとも言える。そういうとんでもない「趣味」を持ってしまったのは実は本人の責任ではないのだ。どこに自ら望んで殺人マニアになろうとする人がいるだろうか。遺伝か環境が原因かは分からないが、幼いころ本人の意志の届かぬところで、本人の性癖が決められてしまったのである。そのせいで普通の人のように人生を楽しむことが出来なくなってしまったのだ。ここで「物心ついてから自分で努力すればいいではないか」という意見が出るかもしれない。確かに自助努力は大切なことだが、実は努力できるかどうかさえ、幼児期に決められてしまっていると考えられるのだ。悪いと分かっていてもやめられないような人は元々努力する能力が乏しいのかもしれないというわけだ。こういうことを考えていくと、もう常識になっていることだが、幼児期の環境の重要性を改めて痛感する。

 だが、不運で不幸だからといって、その人が「趣味」を実際に楽しもうとしたとき、あるいは楽しんでしまったとき、放置できるだろうか。出来るはずがない。そんなことをしたら、人々は安心して暮らせないし、被害者や遺族の気持ちも晴れない。おまけに真似をする者さえ出てくる可能性がある。当然そういうことにならないように予防したり、処罰したりする必要がある。中には犯罪は遺伝や環境のせいであることを強調して、寛大な態度をとるよう主張する人達もいるが、私はそういうことは十分承知の上で、厳格な態度を要求するのである。寛大さが不必要などというつもりはない。犯罪者を更生させる努力も大切だ。しかし、やはり一般の人々が暮らす社会の秩序の維持が最優先されるべきだと思うのである。

 とんでもない「趣味」を持ってしまった人は、全く不運で不幸な人である。好きで身につけたわけではない自分の悪癖で、人生を楽しめないばかりか、下手なことをやったら、場合によっては死刑にされてしまうのだから。一方で、立派に社会に適応して、幸福な毎日を送っている人も大勢いることを考えると、つくづく人間は不平等なものだとも思う。幸福に過ごしている人達にしても、たまたま遺伝や環境がまともだったに過ぎないとも言えるのである。

 だが、加害者よりもはるかに不運で不幸なのは、何の罪もない被害者である。また、もし被害者が見離されるようなことがあれば、今度は被害者が一番不平等な扱いを受ける人になってしまう。被害者の恨みや怒りを晴らし、新たな被害者を出来るだけ少なくするためには、加害者の処罰はどうしても必要である。加害者の事情に同情し、人間の不平等さに暗い気持ちになるのは人情かもしれないが、やはり被害者のことを第一に考えるべきではないだろうか。

(1997・9・22)


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