目次ホームページヘ  作者別作者別


ふられた時の思いやり

荻野誠人

 失恋したとき、人は心に傷を負う。相手への気持ちが真剣であればあるほどその傷は深い。気力を失い、毎日が空しくなり、何をやっても楽しめず、やけになったりもする。生きていること自体、自分が存在していること自体が苦痛となる。それが何年も続く場合もある。中には精神に異常をきたす人もいるし、自殺する人さえ出る。
 それほどつらいときの、自分をふった相手に対する思いやりなど、「冗談じゃない」と言われるかもしれない。心が乱れ、感情的になり、判断力を失っているときに、そんなことができるものかと思われるかもしれない。
 しかし、その思いやりがないためにどれだけ多くの争いや悲劇が生まれていることか。
 愛情を拒絶されたとき、相手に対する怒りや憎しみがこみ上げてくる。そのとき、相手への思いやりが十分強くなければ、理性のたがが吹っ飛んでしまう。そして人は信じられない行為に走る。
 めったにないが、最悪の場合、自分を拒絶した人を殺してしまう。上司、教師のように強い立場にあると、相手を解雇・左遷・降格したり、単位をやらなかったり、成績を下げたりする。それをちらつかせて脅迫することもある。根も葉もない噂をばらまいたり、交際を迫ってつけ回したり、無言電話をかけたりするのは常套手段といったところか。あてつけで別の恋人を作ったり、結婚したりすることもある。つい先程まで自分にとって最も大切な人だったとは思えない仕打ちの数々だ。ふられてどんなにつらくても、それは言い訳にはならない。そんなことをするぐらいなら、家具でもぶち壊した方がずっとましである。
 露骨に攻撃的なことばかりではない。失恋で病気にかかったふりをしたり、自殺のまねをしたりもする。何とか相手とのつながりを保とう、注意を引きつけようとする悲しい行為なのだが、たいして功を奏さないし、相手にとっては重荷になるだけだろう。ますます嫌われ、軽蔑されてしまうのが関の山である。誰もが強い心をもっているわけではなく、思わず同情してしまうような場合もあるのだが、やはり認めることは出来ない。それに、そういうことをしていると、本人もいつまで経っても痛手から立ち直れない。
 あなたを拒絶した人は、それが礼儀正しいやり方である限り、何も悪いことはしていない。その人にも断る権利があるのは言うまでもない。だから、あなたには、ふられたからといって、相手を非難したり攻撃したりする大義名分はないのだ。そしてあなたがどんなに苦しんでも、相手には責任はない。少し温かい心の持ち主なら、あなたを気の毒には思ってくれるだろう。しかし、そう思わなければならない義務はなく、相手にあなたの苦しみを背負わせることは出来ない。
 思いやりが人間関係の基本であることは誰もが知っている。もしあなたの愛情が本物なら、愛する人を傷つけないはずだ。拒絶されて、怒りや憎しみがわいても、それと戦おうとするだろう。少なくとも怒りや憎しみのままに行動したりはしないだろう。そうなるのなら、自分のことしか考えていなかった、相手は単なる欲望のはけ口だったと言われてもしかたがない。
 もしあなたの愛情が本物なら、愛する人の重荷にはならないようにするはずだ。静かに身を引いて、悲しみに堪えていくだろう。智恵を働かせたり、友人の助けを借りたりして、何とか気持ちを整理しようとしていくだろう。仕事やスポーツに打ち込むのも、旅行に出るのも、親友に愚痴をこぼすのも効き目がある。精神状態が余りにも悪いようなら、精神科医などの専門家に相談するのも一つの選択肢だ。相手と毎日顔を合わせなければならない場合でも、恋愛感情の生まれる前のように振る舞おうと努力するだろう。それは普通の人にとってはひどくつらい。しかし、これまでに数えきれない人がその試練に堪えてきたはずだ。そして、どんなに悲しみが深くても、時が助けてくれるものだ。
 愛情を拒否されたときどう振る舞うかについては、めいめいが普段から考えて、自分なりの信条をもっていた方がいいのではないか。拒絶の言葉を聞けば、誰でも取り乱すものだ。後日思い出して思わず叫びたくなるような恥ずかしいことを言ったり、やったりしてしまう。いつもは思いやりのある人でさえ醜態を演じることがある。しかし、心が大きく揺れ動いていても、文の形になった座右の銘は動かない。それがあれば、苦しい精神状態にあっても、何とか相手を思いやる判断を下し、行動に移ることが出来るかもしれない。その信条はたとえ最初は机上の空論に見えても、体験を通して次第に自分の血肉になっていくだろう。(2001・5・4)


目次ホームページヘ  作者別作者別

ご感想をどうぞ:gb3820@i.bekkoame.ne.jp