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クーラー

森村秀明

僕はある学習塾で中学生を教えています。

近頃は塾もたいへんぜいたくでして、部屋にクーラーを備えつけるのはもう常識です。このクーラーが夏場にフル回転するのはもちろんですが、夏以外にもけっこう使います。

なにしろ塾はもうけなければいけませんから、学校のように教室にゆったりとスペースをとるわけにはいきません。いきおい狭い部屋にできるだけたくさん生徒を詰め込むことになってしまいます。これをブロイラー方式と呼んでいます。友人によりますと、人間一人が電熱器一個分とのことですから、狭い部屋に三十個以上の電熱器がついているかんじょうになります。ですから春や秋でも教室の中はけっこう暑くなるのです。まして休み時間にあばれたりするとなおさらです。

そんなとき、「クーラーつけてください」と生徒が言ってきます。これまであちらこちらの教室で十回以上そう言われていますが、当の生徒を見ますと、驚いたことに必ず二枚の上着を着ているのです。そこで僕は「ばかやろう、まず服を脱げ」と叫びます。最初に自分でできることをやってから機械に頼れ、と言いたいのです。上着を一枚脱ぐことなど何でもないのに、皆が皆そうしないというのは一体どういうことなのでしょうか。正直言って、僕には生徒たちの発想が分からないのです。

たぶん家でも同じようにふるまっているのでしょう。本当は「お前の親はロクな教育してないな」といやみを言いたいのですが、危ういところでいつも思いとどまっています。

僕はついでに「服を脱いでも、お前が涼しくなるだけだけど、クーラーをつければ、夏じゃないんだから、寒い人もいるかもしれないじゃないか」と説教しますが、そんな心使いまで期待するのはちょっと早いかなあと感じます。もちろん省エネの意識などもないわけです。説教の種はつきません。

僕は何も科学の進歩を否定しようというのではありません。文明の利器は大いに活用するべきでしょう。ですが、科学の進歩はなまけ者をつくるのが目的ではないと思うのです。科学の進歩は僕たちがそれを土台にしてさらに向上するためのものではないでしょうか。健全な人は、どんなに生活が便利になっても決して積極性や自主性などを失わないと思うのです。

ところが、塾の生徒たちは、服を脱いでも、機械を使っても、涼しくなるという結果はたいして変わらないのに、全員が何のためらいもなく機械に頼る方を選ぶのです。これは機械のおかげで彼らが自主性を失って、なまけ者になっていることの証拠ではないでしょうか。僕は何も勤勉が第一だと言うつもりはありません。機械に任せてつらい労働から解放されてのんびりするのも悪くはないでしょう。ですが、自分で簡単にできる工夫さえしようとしないのは明らかにおかしいと思うのです。エレベーターに乗らずに階段を登ることに比べれば、服を脱ぐことなど何でもありません。

ちょっと大げさな言い方ですが、もし機械に頼りっぱなしで、自分で何の努力もしようとしなければ、人間はどんどん退化してしまうでしょう。そうなれば、やがては科学も含めた人間の文化は停滞して、なまけ者の人間たちは、勤勉さを取り戻すまで、苦しい毎日を送らなければならないかもしれません。

また、暖かくなってきました。またまた僕は「ばかやろう、まず服を脱げ」と叫ぶことになるでしょう。

(1990・5・4)


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