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クラスで実った恋の花

藤本 明

平成三年度の最後のレッスンも終えて一息ついている師走の慌ただしいある日の夕方、自宅に電話がかかってきました。

朝日カルチャーセンターの『新聞を読む』コースに参加していた中国系の鄭(チョン)さんからです。

「先生、わたし、報告したいことがあるんですが」とのこと。「わたし、結婚することになったんです」

「そう、それは良かった。おめでとう。ところで相手はだれ?」

「驚かないで下さい。先生、ノーマンさんです」

同じく『新聞を読む』コースに熱心に参加していた背の高いアメリカ人の生徒さんです。

教室では全くそんな素振りも感ぜられなかっただけに驚いたのは事実です。

「先生、お正月に二人でお宅にお邪魔してもいいですか」

「大歓迎ですよ。ぜひ来て下さい」

*                   *

今年の正月は穏やかな天候に恵まれた静かな日々でした。二人は一日の午後、仲良く訪ねてきました。

子供たちは、すでにそれぞれ九州や遠く外国に行ってしまって、早朝の墓参を終えて、二人だけで静かに正月を迎えていた私たち夫婦にとっては嬉しく楽しい珍客です。

正月料理を食べ、ご持参のワインを飲みながら、二人にことの成り行きを聞きました。

クラスではいつも向かい合わせに座っていましたが、その間、お互いに観察し、ノーマンさんの熱心な学習態度、真摯な姿勢に、そして、鄭さんの可愛らしさ、頭の回転の良さなどにまず双方の心が引きつけられたとのこと。

「まぁ、お互いに一目ぼれですね」と、ノーマンさん。

「そうですか。ところでプロポーズは何語でしたんですか」

「日本語です」

なるほど、二人の共通語は日本語です。

「そぅ、それじゃどう言ったかここでもう一度言ってみて下さい」

日本語教師としての関心と興味が一瞬心をよぎりました。二人はちょっと照れていましたが、まずノーマンさんから

「これから一緒にずっと住んで下さい」

「なかなか立派。満点です」と私。「そして鄭さんは何と答えたんですか」

「『喜んでついていきます』と答えました」

「なかなかよろしい。いいですね。これも満点です」

「ところが先生、この後なんですが・・・」と鄭さん。「エンゲイジ・リングを私に渡す時『これつまらないものですけど』って言うんですよ」

鄭さんの可愛い指にダイヤモンドの指輪が輝いていました。

私たちは大笑いしました。

もし、ノーマンさんがこの場合、英語で言ったとすれば、こうした表現はとらなかったでしょう。言葉は単に情報伝達の道具というだけではなく、その言葉が育まれた文化も共に心に染み入るものだということを改めて感じたことでした。

「そぅ、そうですね。日本人は人にものを贈る時はよくそう言いますが、こんな場合は言わなくてもいいんですよ」

ほのぼのとした雰囲気の漂う中で私はそのようにつけ加えました。

何でも、指輪は、わざわざ日曜日にカルチャーセンターの教室に来て、そこで渡したそうです。

まさにクラスで実った恋です。

挙式は一月二十五日に小田原の教会でとのこと。その迅速なのにもまた驚かされました。

アメリカからノーマンさんのご両親も来られるとか。中国からもお母さんが来られるように目下手続き中とのこと。

私たち夫婦も喜んで参加します。

*                   *

一月二十五日、私たち二人は結婚式の行われる小田原の教会に行きました。

静かな、そして暖かな日でした。小田原城の梅は例年より早く咲き始めていました。

教会で行われた式は厳粛なうちにも、やはり、華やかさが漂っていました。鄭さんのウエディングドレス姿の美しさ、ノーマンさんのきりりとした姿が印象的です。

教会の仲間の人たちが心を込めてアレンジしたティーパーティー方式による披露宴も、また、鄭さんの会社から二十四人もの同僚がわざわざ千葉から駆けつけたのも、お二人の人柄を反映していました。ただ、とても残念だったのは鄭さんのお母さんがこの宴に間に合わなかったことです。

なごやかなこのパーティーには、近頃の派手なホテルのそれとは違う爽やかさが満ちていました。

私は乞われるままに主賓の一人として祝辞を述べました。お二人の出会いと、正月のわが家での話を披露したのですが、明るい笑いが会場に溢れました。

式を終えて、新夫妻はお客さんに挨拶をするため出口のところに媒酌人と立ち、来場の一人一人にノーマンさんはこう言いながら小さなケーキの包みを渡していました。

「これ、つまらないものですが・・・」

お二人の幸せにあやかって、私たちもほのぼのとした気持ちで久しぶりの小田原を後にしたのは、もう夕暮れに近いころでした。

*                   *

今年は第一日目から思いがけない楽しい話で始まりました。今年は良いことが多いかもしれません。

難しい国際問題がいろいろ報ぜられていますが、一方ではこうして国境を越え、人間対人間の素朴な、そして着実な心の輪が拡がっていくのを感じたことです。

お二人の幸せを心から祈らずにはおられません。

(1992・2・1)


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