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直接体験の勧め

荻野誠人

 ある児童相談所が虐待の情報を提供されながら、親に電話で話を聞くだけで、家庭訪問など一切しなかった。その結果、3歳の児童が餓死してしまう。親は論外だが、傍観していたに等しい相談所が厳しく批判されたのは当然だった。
 その背景には、相談員の数が足りない、相談員には専門家ではない自治体の職員が交代でなっている、などの事情もあるそうだ。それはそれで解決していかなければならない問題である。
 しかし、そのような原因以外に、相談員が児童の苦しみを痛切に感じることがなかったのではないか、人の痛みなど他人事だったのではないか、という気がしてならない。と言っても、それが専ら相談員個人の資質の問題だとは思わない。
 似たような事件は数多く報道されている。いじめの訴えを聞いておきながら何の手も打たなかった教師。欠陥商品で死者まで出ているのに、その商品を売り続けたメーカー。大勢の人命を預かっているのに、整備不良等の不祥事続出の航空会社。人命を奪いかねない欠陥マンションを平然と設計・販売した建設業者。鈍感というか、何かが麻痺しているというか、この手の事件は昔から同じくらいあったのだろうか。
 一連の事件の報道に接していると、現代は人の苦しみ悲しみ、人の命の重みを肌で感じることが出来なくなった時代、自分ならどう感じるだろうかと想像することが出来なくなった時代ではないかと考えてしまう。その原因の一つは、現代の物質文明・科学文明にあるのではないか。
 現代文明の特徴の一つは、人を対象に直接触れさせないところにある。人を外界から遮断するのである。例えば、電話やメールは他人と直接会う必要性を失わせる。テレビは、部屋にこもっている人にも世界中の出来事を伝える。自動販売機や通信販売も人間関係の煩わしさからから解放してくれる。冷暖房は外気との接触を遮断する。インスタント食品やレトルト食品は魚や野菜の命を感じさせてはくれない。都市化はもちろん人が自然に触れる機会を奪う。
 ちなみに、軍事用のコンピューターやロボットの発達は、戦場から遠く離れた所からの攻撃を可能にし、殺人すらも実感のないものにしてしまった。すでに19世紀後半の兵器の改良について次のような見解がある。「大砲の射程距離は飛躍的にのび、相手の存在が見えないことから人を殺すことに対する人間の嫌悪感が消滅し、大量殺戮につながった。(*)」
 私たちはこのような文明にどっぷり浸かって快適に暮らしているのである。外界から遮断するのは、人を守る意味があり、悪いこととばかりは言えない。だが、対象に直接触れる機会の少ない生活から、他人の痛みを鋭く感じる感性が育つだろうか。むしろ自分の周囲に対して無関心で鈍感な人間を生み出すのではないだろうか。これが冒頭の様々な事件の温床となっているのではないか、というのが私の仮説である。
 では、どうすればいいのだろうか。現代文明を否定することは、実際には不可能である。自給自足のような生活を実践している人が全くいないわけではないが、ほとんどの人が快適な文化生活を捨てようとはしないだろうし、万一政府などがそんなことをやろうものなら、経済が一挙にどん底に落ち込み、いくら大人しい日本人でも暴動でも起こしかねないというものだ。
 となると、根本的な解決策はない。ならば冒頭の痛ましい出来事は私たちの快適な生活の代償として甘受するしかないのだろうか。まるで自動車を利用する限り、交通事故の被害者がなくならないように。いや、せめて各自が現代文明の欠点を自覚して、それにむやみに頼るのではなく、出来るだけ直接体験を積むように努めるべきだろう。直接人に会う。自然に身をさらし、動植物と同じ空間に身を置く。大人は子供にそういう機会を出来るだけ設けてやる。快適な環境に安住している人間にとってはいかにも面倒なことだろうが、不十分なものであっても成果は必ず上がる。ちょうど交通事故死が、自動車の改良や法律の整備や啓蒙活動など手を尽くすことで大幅に減ってきたように。
  *『詳説世界史研究』P356・木下康彦他編・山川出版社・2000

2006・11・19、2007・3・3


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