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近ごろの若い者は・・・

荻野誠人

「近ごろの若い者はだらしがない。」

これは、平成時代を迎えた中高年のいやみではなく、古代エジプトの洞窟に書かれている言葉だそうである。よくもまあ何千年もの間、私たちは飽きもせず、人生の下り坂にさしかかると、同じことを言い続けてきたものである。もっとも、人生の先輩方の苦言がだいたいまとはずれであったことは、歴史が証明している。もし、その苦言がつねに正しかったならば、人類はエジプト時代からとめどもなく堕落し続けたことになり、とうの昔に滅亡しているか、今ごろは人間とはとても呼べないようなしろものに変わりはててしまっているだろう。

だが、ということは、私が今言いたくてむずむずしている「近ごろの・・・」という文句もまた、まとはずれということになるのだろうか。いや、そうと決まったわけではない。いくらなんでも古今東西の苦言がすべて間違いだったということはないだろう。中には鋭く真実をついたものもあったに違いない。だから私の文句も、まとはずれになる落とし穴をうまくよけて、的確な苦言の仲間入りをさせればいいわけだ。そこで今回は「近ごろの・・・」というせりふを単なるいやみに変えてしまう落とし穴をいくつかあげて、それについて考えてみたい。(なお、私はまだ、「近ごろの・・・」というお叱りをちょうだいする側の年齢かもしれないが、この小論では、説教する側の立場で書かせてもらうことにする。)

落とし穴の一つは若者に対する嫉妬である。よほどの自信家でない限り、それまでの自分の人生を完全だとは思わない。かなりの人が多かれ少なかれ、「あの時ああすればよかった」という後悔を胸に抱いているものである。だが、もう自分はやり直しがきかない。そこで、まだいくらでも可能性のある若者を見ると嫉妬がムラムラとわいてくるのである。もちろん、もっと単純に青年の若々しく美しい肉体に嫉妬する場合もあるだろう。いずれにせよ、中高年にとって若者はねたましい存在なのである。嫉妬の相手に対しては私たちはとかく意地の悪い態度をとるものだ。「近ごろの・・・」という文句も、ときには屈折した嫉妬の表れとして出てくるのである。だが、嫉妬から生まれた忠告がまとはずれにならないわけがない。そのうえ嫉妬はすぐに伝わって相手をかたくなにしてしまう。後輩に受け入れられる苦言を呈しようと思うなら、まず私たちが嫉妬を捨てる必要があろう。

次の落とし穴は私たちのプライドや執着である。私たちが青年をこきおろすのと同様、青年の方も先輩の生き方に敬意など払いはしない。時代遅れだと無視するだけである。滅私奉公などという言葉はもはや青年にとっては完全な死語になってしまった。私たちの中には、若者が、自分たちの生き方を受け継ぐどころか、見向きもしないことに寂しさや怒りを感じたり、自分の人生の意義を見失いそうになったりする人もいるだろう。「近ごろの・・・」という苦言は、そういうプライドを傷つけられ、失望させられた人たちの反発なのではないだろうか。もしそうなら、やはりその苦言は受け入れられないだろう。それは相手のための批判ではなく、自分を守るためのものだからである。

次に、青年の異質さに対する私たちの不寛容もあげられる。とにかく若者は中高年とは違う。服装から価値観まで違う。変化の激しい現代では特にそうだ。もちろん、それは彼らが私たちに比べて劣っていることを意味しはしない。だが、人間とは悲しいもので、とかく自分の身につけたものや慣れ親しんだものが最高で、異質なものは下等だと見なしてしまう。そこで私たちは自分たちの流儀からはずれる若者のあり方を苦々しく思う。だが、その見方には何の根拠もないのである。こういう発想が、外国の文化に対する偏見にもなるのだが、「近ごろの・・・」というせりふは、異質なものに対する単なる無理解の表れともいえるのである。そのような文句なら、言えば言うほど嫌われるのは間違いない。

次に、私たちの視野の狭さとでもいうべきものがあげられるだろう。若者たちが私たちと違うのは、世の中の変化の結果であって、彼らのせいではない。だが、私たちはどうもそのことを見落としてしまうようだ。たとえば「忍耐力がない」というのは私たちの代表的な苦言である。しかし、世の中が豊かになり、我慢したり、諦めたりする機会が減ったのだから、その分忍耐力がなくなるのは自然の成り行きである。しかも、若者たちが自分で望んで、忍耐力を身につけようとしなかったのではない。彼らはそのように育てられたのである。彼らは自分が忍耐力がないとは思っていない。親や教師から一昔前のことを聞かされて、初めて、そんなものか、と思う程度であろう。それを頭から忍耐力がないと批判されても、若者はとまどい、反発するばかりである。

もっとも、世の中が間違った方向に進んでいく場合は、その悪影響が青年にも及ぶ。そして度は逆にその青年が世の中に悪影響を与えることとなる。だから、たとえ青年に責任はなくても、彼らに自覚をうながすために批判する必要はあると思う。たとえば、いくら忍耐力を必要としない世の中になったとはいっても、暴力に訴える、子育てを放棄するなどというのは認めるわけにはいかない。

だが、そういう場合も世の中を間違った方向に進ませている張本人はだいたい中高年の私たちなのである。だから、それに対する反省も解決策もなく、いちずに若者を批判するだけだとしたら、反発をくらうのも当然といえるだろう。「近ごろの・・・」と言う前に、私たちは、若者を変えてしまった原因を考える必要があるのではないか。

さて、ここまで私たちの批判を単なるいやみや愚痴に変えてしまう落とし穴を思いつくままにあげてきた。こういったものを避けられるなら、「近ごろの・・・」という、若者をうんざりさせる決まり文句も金言に昇格する可能性が出てくるのではないだろうか。

(1989・8・25、1990・12・25 改稿)


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