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柄のない茶碗

向井俊博

 何かと気ぜわしい世の中、煙草をたしなまぬ私にお茶のひとときはまたとないくつろぎを与えてくれる。湯呑みを手にした瞬間、周りが少々騒がしかろうと静寂の魔法の杖を手にした気分になる。こんないつもの調子で湯呑みを手にしていた時のこと、何とも不思議な思いがふと湧いた。何故茶碗にはコーヒーカップのように柄が付いていないのだろうかと。

 茶碗にいろいろとイメージをわかせてみるに、食事に欠かせぬ湯呑み茶碗、寿司屋のどでかい茶碗、果ては茶道のどんぶりのような茶碗、とどうたぐっても柄のついた茶碗の姿が浮かんでこない。茶碗には取っ手が似合わないのかなとも思ってみるが、姿としてはまったく違和感がない。とすると姿かたちとかの美的感覚を越えたところから発して、日本人は昔から柄をつけなかったのではなかろうか。

 お茶にしろコーヒーにしろ、入れたては熱い。熱いから手にしやすいように取っ手をつけようというのはごく自然かつ合理的な発想のはずだ。そんなところから西洋人はコーヒーや紅茶を入れる器に柄を付けたのだろう。だが日本人はそれをしてこなかったし、今でも柄のついたコーヒーカップで茶を飲もうとはしない。

 喫茶の風俗は奈良時代に中国から伝わったと言われるが、本格的に陶器の茶碗で茶を喫するようになったのは江戸時代からではなかろうか。テレビの歴史物や時代劇を観ていてそう思う。古い時代では木製の椀に汁や飯が盛られるが、茶の湯はともかく、ちょいと一服と庶民がお茶を飲むというシーンは後世にならぬと出てこない。昔から日本人は食中や食間の潤いにお茶を飲んでいたと思いこんでいたので、テレビのシーンを思い起こしただけで新しい発見でもした気分になってしまう。

 一方、器ではなくお茶そのものにも興味がはしる。お茶の製法とか飲用法は中国が起源だと歴史で教えているが、伝来後はヨーロッパでは紅茶、日本では緑茶が主流となったところもおもしろい。製法からすると紅茶は発酵させるが、緑茶は茶の茎や葉を乾燥させるだけである。要するに、日本人は自然のままを好んだのである。食文化をみても、やたらと加工する西欧人と、自然の姿や味を好む日本人との違いがここにも脈打っているようだ。

 茶道には全く縁遠いのだが、紅葉の色づく頃だったか、横浜の由緒ある庭園(三渓園)で着物姿のご婦人方が野点を楽しんでおられるのを見たことがある。いかにもこの一瞬を愛しむかのように包み込んでいる両手と器が強く印象に残っている。考えてみるに物思いにふけるとき、われわれもつい茶碗を両手で包み込むことがよくある。自然の姿や味、そして直に触れることを貫き通す日本人の心の風土、こんなところに思いがいきついてしまった。ここには便利さを追求する心は根づいていないが、だからこそ大切にしていくべきものであろう。日本人は、間違っても茶碗に柄を付けてはならないのだ。

(平成10年3月15日)


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