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無粋

荻野誠人

 「僕の嫁さんは世界一だ」
  時々見かける「宣言」である。私の親友もかつてそう書いていた。では、そういうものを読んだり聞いたりした人はどんな顔をするのだろうか。だいたい「幸せそうでいいですね」と微笑むのではないだろうか。
  その宣言にけちをつけようと思えば一応つけられる。例えば、彼の奥さんが世界一の女性だなんてことはまずあり得ない、と。じゃあ、世界一彼にぴったりした女性だという意味かというと、だとしても、奥さん以上に彼に合う女性だって世の中にはいるだろう、などなど。
  だが、よほどのへそ曲がりでもない限り、そんな無粋なことは言わないものだ。いや、思いさえしないのではないだろうか。別に本人が人様の奥さんを見下しているわけじゃないし、そう思っていれば幸せなんだからいいじゃないか、というわけだ。自分の連れ合いをそんな風に思っている人が多ければ多いほど、天下太平であるとも言える。
  このように世の中には、周囲はただ本人を見守りさえすればいいということがらがいくつもあると思う。
  スターに夢中になることもその一つだろう。そのスターが、はた目にはたいした技術や才能がないように見えても、そんなことをわざわざ熱心なファンに向かって言う必要はない。人が楽しんでいるのを邪魔するのは野暮なだけだ。夢中になる余り仕事や家事や勉強をほったらかしにしていれば、小言くらい言わなければならないだろうが。
  信仰もそうだと思う。信仰も個人的で主観的なものだ。他人の目にはくだらなく映っても、本人にとってはかけがえのないものなのだろう。「鰯の頭も信心から」というが、信じている本人にとっては鰯の頭でも尊いのである。それを放り投げたりするのはずいぶんとむごい行ないになろう。その人の信仰が周囲に迷惑をかけるとか、本人が食い物にされそうだというなら、話は別だ。だが、そういうことがなくて、本人が信仰していて幸せだと言っているなら、わざわざ馬鹿にしたり、冷水を浴びせたりする必要はないだろう。そんなことをしても相手をいやな気分にするだけで、何の実りもない。それどころか、馬鹿にした人の株が下がりかねない。
  冷厳な事実というのも大切だろうが、事実だけで人生を固めてしまったら、人は十分幸福になれるのかどうか。
  最近、私の周囲でそういうことを考えさせる出来事が起こったので、書いてみたしだいである。

2010・7・5

 


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