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朝のウォーキング

下町カラス

 20年近く通っていたスイミングスクールを、ある事情で辞めて以来、日に日に贅肉と健康診断データが気になり、ウォーキングを始めました。学生時代ワンゲルを少しかじったことがあり、ハイキングや散歩は好きなほうですから、歩く ことには親しみを持っていました。水泳をやっていた数年前から、ときどきウォーキングの真似事をしていましたが、毎日決まった時間に決まった距離をきちんと歩き始めたのは、今年(平成14年)の春頃からです。
 日没の遅い春夏は、仕事を終えた夕食前に、小一時間ほどのウォーキングをしていましたが、10月に入ると日暮の時間が早くなり、時間帯を早朝に切り替えました。
 午前5時過ぎに起床し、洗面を済ませると軽く柔軟体操をして、5時半前にはウォーキングを始めます。屋外に出て大きく深呼吸をすると、冷たい空気が肺に広がり、いっきに眠気が飛んでゆきます。空はまだ目覚める前、真っ暗で、月や星がキラキラと目に痛いほどの鋭さで輝いています。大阪の町でもけっこうたく さん星が見えることに、単純に感動し、自分の知っている星座を見つけると嬉しくなります。11月中頃で、もうオリオンの三ツ星が、天高く輝いています。
 路地には防犯灯が点々と連なり灯っています。その間隔は、住宅街と工場地帯の路地によって異なりますが、私の暮らす町は、けっして明るいとは言いがたい設置数のように感じます。それと比べて、飲料水や煙草などの自動販売機は少なくなく、目を見張るほどの明るさで、防犯灯以上に重宝しています。門灯を燈す家が増えたならば、光度だけでなく、人のぬくもりも明るさに加わるように感じます。

 早朝にもかかわらず、町の生活道路沿いのお地蔵さんには線香があげられ、路地に良い香りが広がっています。暗闇の静けさの中では、墓地やお寺よりも神社の前を歩く方が、私にはちょっと不気味に感じます。仏様はどこか人間くさい一面を感じますが、神様は近寄りがたく見えない存在と思っていますので、恐怖心がめばえるのかもしれません。
 10分も歩くと、黒かった空が濃い青色になり、星は輝きを失い、雲のシルエットが空に浮かび上がってきます。そして東の空から明るさが増し、みるみるうちに夜から朝の表情に変わり、生駒山から太陽が顔を出すと、墨絵の世界から水彩画へと生まれ変わり、すべてがいっきに息づき朝になります。朝陽が昇る美しさ、自然の素晴らしさは、荘厳な雰囲気で、何ものにも勝る感動を覚えます。 今日も一日が始まったと、感じさせられるひとときです。

  道幅の狭い市道に車は少なく、牛乳配達や新聞配達の軽トラックやバイク程度です。私が子供の頃、新聞少年という言葉がありました。少年が新聞の束を肩から抱えて、小走りかせいぜい自転車で配達をしていましたが、最近私が見かけるのは、中年男性や老人がバイクで配達されている姿です。これも時代の変化でしょうか。
 一方、道幅の広い国道や府道には、ひっきりなしに車が流れ、特に大型トラックは昼間以上の猛スピードを出しているように感じます。振動が大きく排気ガスが気になります。日中にはほとんど気付かないことですが、排気ガスの悪臭の酷さには驚かされます。国道の車の多さは昼夜に関係なく、24時間休み無く日本社会は活動していることを、感じないではいられません。

 ウォーキングの時間帯を夕方から朝に変えてから、気が付くことが幾つかあります。犬を散歩させている人の数の変化は、あまり感じませんが、夫婦でウォー キングをされている方が、それも老夫婦がけっこう多いことです。そして、見知 らぬ人から『おはようございます』と軽く会釈を受けることも少なくありません。ちょっとしたことですが、何か嬉しくなります。私も『おはようございます』と返事をします。山登りのとき『こんにちは』と、挨拶を交し合うワンゲル時代を、ふと思い出します。決まった時間に決まったコースを歩いていると、すれ違う人の顔ぶれも同じで、その短いふれあいに、なんとなく親近感が生まれ、何日も逢わなくなるとちょっと気になります。

 小一時間ほどの間に、太陽は高くなり、その光によって、木々の葉の色づきなどが、昨日と微妙に異なっていることに気付かされます。小鳥のさえずりが始まり、少しづつ目覚めてゆくさまを目の当たりにします。昼間と違った表情が、朝の町に感じられます。ひんやりした空気は、頭をすっきりさせ、時間とともに身体が暖まってゆき、今日一日の計画や仕事の段取りなどを、順追って冷静に考えることが出来ます。今ではこのひとときは、私にとって大切な時間になりつつあ ります。

 ウォーキングのコースは、自宅より東地区と西地区に大きく二つ分けています。そのときの体調や天候や時間的余裕など、気分によって変えています。それぞれのコースも、その日の気分で微妙に変化を持たせています。同じ道ばかりでなく、ちょっと路地に入ったりすることもあります。30年以上暮らしている町なのに、知らない路地がけっこう多いことに気付かせられます。
 ショベルカー等で平地に均(なら)している場面に出くわすと、以前ここに何が建っていたのか思い出せないことが、しばしばあります。それがほとんど通らない道路に面している土地ではなく、頻繁ではないが、そこそこ利用する道路の場合、自分は何を見ていたのかと、町に対する関心の低さを自戒させられます。
 自分の暮らしている町を、車や自転車ではなく、自分の足で歩いてみると、日頃見落としているものに気付かされ、町の姿が確実に変わっていることを実感させられます。数年前は、青空駐車場が増え、それがマンションに変わり、今は一戸建てが多くなりました。その一戸建ても、以前は細く高いペンシルタイプの3階建築で、隣屋との幅は子供でさえ通れないような過密建築が主流でしたが、今は地価の下落も手伝って敷地が少し広くなり、ゆったり感を持たせ、洒落たデザインの2階建てが目に付くようになりました。住居面積はそんなに変わらないのでしょうが、家屋としては、こちらの方が人間らしさを求めているように感じます。
 私の暮らしている町の商店街や市場から小さなスーパーまで、何となく活気を失っているのが、カンバンや外壁の汚れなどからだけでなく、朝の仕込みで忙しい豆腐屋さんやパン屋さんなどの店が閉じられたことからも感じられます。子供の頃、早朝の商店街からは、いろんな音や匂いや掛け声が道路にまで広がっていました。店々から活気の良い売り声や、やかましいほどの音楽が、いつのまにか少しずつ減ってきたのは本当に寂しいことです。八百屋さんや魚屋さんなどで大きな声を張り上げていた頑固で笑顔の良いおっちゃんが消え、スーパーの奥でパック詰めするおばちゃんに変わってゆく傾向は、残念ながら止められない現実のようです。職人のようなおっちゃんの目利きのノウハウが、継承されず途切れるのは残念でなりません。
 ちょっと大きなスーパーや思い切った安売り店、新しく出来た店に人の足が向 くようですが、それも時間と共に落ち着き、一過性のブームが去り飽きられる店もあれば、地道に商売を伸ばす店もあります。
 そんな世の潮流の中でも、頑張っている商店街はたくさんあります。商店街が廃れてゆくのは、その店にすべての責任を押し付けるのは酷なようにも感じますが、元気がある商店街と、活気が無くなってしまう商店街の違いはどこにあるのか、反省するところは反省し、見習わなければならない点は見習い、未来への投資を怠ってはいけないように思います。頑張っている姿勢は、きっと人を呼び戻すことが出来ると信じたいです。

 ウォーキングを朝に切り替えて2ヶ月余り過ぎました。最初は睡眠不足に少し悩まされましたが、一時間余り早く起床することにも慣れ、以前より増して一日24時間を有効に過ごす意識を持つようになり、生活のリズムも出来てきました。雨などでウォーキングを休むと、ちょっと身体に違和感を覚えるようになりました。贅肉の方は、ほとんど変化ありませんが、中性脂肪の数値は、少しづつですが改善に向かっています。そして、快便の効用は、思わぬ収穫だと実感しています。早寝早起きを実践し、明日もまたウォーキングを楽しみたいと思います。

2002.11.10脱稿  2003.2.23 再稿


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