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あれから五年

礒ひろし

 5年前、突然発生した問題のために、僕たち夫婦は別居しました。最初の2週間は、妻との話し合いができるように働きかけましたが徒労に終わり、先方が依頼した弁護士の話から、離婚を前提にした別居であることを認識しました。
 離婚を陰であやつった人を、どうしても許せませんでした。その人に対して、どんな復讐をすれば心が晴れるだろうかと考えました。同時に、深く失望した僕は、必死に「死に方」を考えていました。どうしたら誰にも迷惑をかけずに死ねるだろうかと・・・。
 誰にも知られることのない完全犯罪や、だれにも迷惑をかけない死に方を考えましたが、なにひとつ、いい方法が浮かびません。なす術もなく本屋に立ち寄って、自殺のマニュアル本を探しましたが見つかりません。廃人のように店内をぶらつくうちに、五木寛之さんの『大河の一滴(幻冬舎)』を手に取りました。
 五木さんの「自殺を考えたことがある」という冒頭文を読んで、とても親近感を持ちました。有名な作家という認識しかありませんでしたが、その有名な人が、自殺の苦しみを乗り越えて本を書いたことに興味を持ちました。「これを読んでも死にたいなら、方法など気にせずに死んでやろう」と、心の中でつぶやきながら、その本を買いました。
 『大河の一滴』は、とても新鮮な内容でした。人生は常に挑み続けるものと信 じていた自分にとって、それまでなら興味を示すことのない本でした。マイナス思考の中にも光があることを知り、世の中には自分の知らないことがたくさんあるものだと痛感しました。
 この本を読み終えて、僕はいろいろ考えてみました。絶望の中で、何か一つでも興味のあることを見つければ、人は生きたいと思うのではないでしょうか。それまでの価値観とは違う世界に関心を持った僕は、生きたいと思いました。別居による孤独な時間は、不幸ではなく試練ではなかろうかと考えました。離婚問題がどういう結末になろうと、この時間を有意義に過ごすことが大切だと思いました。
 ここで僕が出した結論は「学ぶ」ということでした。これという趣味のない自分にとって、本を読むことが一番身近な学び方でした。休日ごとに図書館へ通いました。ぽっかり空いた時間を埋めるには、図書館はとても快適な場所でした。別居前に読んでいたのは成功哲学や経済など、どちらかといえば、お金に関わる本でした。どうせなら、今まで読まなかった分野に挑戦したほうが面白いと考えて、心理学や心身医学の本を読みました。いろいろ読んでいくうちにお金より大切なものがあることに気づきました。
 特定の部門に偏らないほうがよかろうと、哲学・宗教学・社会学・教育学の本も、かたっぱしから読みました。もちろん以前から好きだった人生訓的な本も読みましたが、視点を変えると、それまで見落としていたことが見えてきました。
 乱読の中で気づいたことは、ものごとには多様性があり、偏った見方や考え方に執着するから苦しみが生まれる、ということでした。幸せの定義も一様ではなく、さまざまな角度から光を見つけることができて、世間の常識に惑わされない、自分自身の満足感が大事であることに気づきました。そして、心の大切さを、いろいろな学問が共通して訴えているように感じました。心を磨くことが人間を磨き、人生を光り輝かせるのだと思いました。
 読書だけに頼らず、心理学のワークを中心に自分を見つめ直す時間も作りました。さまざまな形で自分を掘り下げるうちに、改善を要するところがわかってきました。丹田呼吸法は、イライラすることが多く、短気な自分にとって、とても役に立ちました。気長な性格に変わったわけではありませんが、以前に比べて怒りに達する導火線が長くなったと思います。カウンセリングの通信教育を受けたり、気功教室にも通いました。さまざまな講演会や勉強会にも参加しました。幅広く「人間について」学んだり考えたりしたことで、心の世界が広くなりました。
 疲れたときは、ビデオ(映画)のヒューマン・ドラマを中心に見ながら、人間の生き方を学びました。ハリソン・フォードの『心の旅』やトム・クルーズの『ザ・エージェント』などは、人生をやり直そうとする自分にとって、希望を与えてくれる映画でした。
 さまざまな人との対話からも、いろいろ学ばせていただきました。落ち込んでいたとき、親身に話し相手になってくれた友人たちには感謝しています。「雨の日の友」のありがたみを実感してから、感謝の気持ちを大切にするようになりました。いろんな人に支えられたり、助けられていることに気づいたおかげで、人に対する感謝の表現も変わったと思います。
 学びの実践として「ありがとう」を、たくさん使うようになりました。感謝をしっかり表現すると、まわりも感謝の表現が豊かになって気持ちのいい時間を過ごせます。感謝をあらわすところからお互いの信頼関係も深まります。感謝のあるところには、明るい光があります。
 感謝が深まると、それまで許せなかった人に対して、ちがう見方ができるようになりました。離婚の黒幕になった人への怒りや憎しみが、試練を与えていただいたことに対する感謝に変わりました。試練のおかげで、人間的に成長できたように思います。
 人を許すことによって、自分自身も癒されました。人を許すことは、自分を許すことでもあります。自分を許せたおかげで自己肯定感が強くなって、なんでもない日常を楽しめるようになりました。
 元妻とは半年間別居の後、調停離婚しました。二人で話し合う時間をまったく持てなかったことは残念でしたが、調停のやり取りで調停員が泣いてくださったことは、せめてもの救いでした。自分なりに彼女を愛しきれた満足感が残りましたので、出会ったことも含め夫婦生活や離婚に対して悔いはありません。
 あれから5年の間に、2000冊以上の本を読み、400本のビデオを観ることができました。人間の生き方について、さまざまな角度からの学習を継続できたことは、大きな自信につながりました。
 たまたま僕の場合、学ぶことが楽しみとなり、趣味になって、生き甲斐へと変わりましたが、自分が納得できるまで一つのことを続けると、自分への大きな信頼感が育まれると思います。「継続は力なり」と昔から言われますが、どんなことであれ、本気で続けることによって自分というものがわかってきます。「続けることも才能だよね」と、友人に言われたことがあります。才能とは、自分を知り、自分を生かしていく能力のようにも思います。継続して自分を生かすから、人生というものを生き生きと、楽しみながら生きられるのではないでしょうか。
 それぞれの道には真理と呼ばれるものがあると思います。僕はまだ、その真理を心得ていませんが、知らないからこそ前に向かって歩き続けられるように思います。5年間の進歩を計るモノサシはありませんが、すくなくとも以前の自分に比べれば、人生そのものを楽しめるようになったと思います。


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礒ひろしさんのメールアドレス:jinkan@zb.wakwak.com
礒ひろしさんのHP「よりよい生き方」URL: http://park10.wakwak.com/~ikigai/

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