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悪を教える

荻野誠人

 私はよく自己流の人形劇を見せながら外国人の子供に日本語を教えている。わりと好評で、教師の研修会で実演することもある。ある時、女の人形が男の人形を口論の末ポンと蹴飛ばす場面を見せると、「そういう乱暴なシーンを子供に見せていいのですか」と質問された。私は面食らってしまった。子供を笑わせようとしているだけじゃないか。可愛らしい人形同士のふざけっこで、別に残酷でもなんでもないのに。何でそんな風に受け取るんだろう。私は少し不満だった。
 研修会後、しばらく経ってからこう思った。あの人はどんな悪も子供に見せてはいけないという考えの持ち主なのだろうか・・・。  

  おおざっぱに言って、世の中の半分は悪、人類の半分は悪である。と言っても、完全な善人と完全な悪人が半分ずついるということではない。大多数の人は善悪の間を揺れ動きながら一生を過ごす。全く悪のない人はめったにいないだろう。
 だとしたら、自分の悪について知っておくことは極めて大切なのではないか。まず自分の中に悪があるということをはっきりと自覚する必要があるのではないか。
 自分の悪を自覚していないのは危険である。極端な場合だが、自分は完全な善人だと思っている人、自分の悪に全く気がついていない人は、恐ろしい悪を行なってしまう可能性がある。一方、自分の悪に気づいている人は、行動は慎重だし、反省もするだろうし、他人には寛大だろう。
 それなのに、もし大人が子供に対して、どんな悪も見せない、子供の前からはいかなる小さな悪も排除する、という態度をとったらどうなるだろうか。世の中の半分、真実の半分を覆い隠すことになるだろう。そして、結局自分の悪についても十分に知ることが出来なくなってしまう恐れがある。
 悪を勧めることは出来ない。しかし、悪を教える必要はある。それも、例えばヒトラーなど過去の人物を取り上げて批判したり、抽象的に人類全般について語ったりするだけでは不十分で、あくまで悪は自分の中にも存在すると自覚させる必要がある。そして、悪を行なわないように教えるのは言うまでもないが、悪を完全に滅ぼすことなど普通の人には出来ないのだから、自分の悪とどう付き合うかという智恵を身につけさせることも教育の一つの大きな目標になるのではないか。
 その智恵とは、例えば、自分はある状況に陥ると悪に走ってしまうので、そういう状況をあらかじめ避けるという智恵や、悪を行なってしまったら、何とか別の点で埋め合わせをするという智恵などがあげられるだろう。
 もちろん子供にだけ悪を自覚させればいいというものではない。大人も自分の悪を見すえ、場合によってはそれをさらけ出す勇気をもつ必要がある。
 私は何も悪ばかり強調せよと主張しているのではない。人は善悪の入り交じった存在だから、悪も善と同じように扱うべきだと言っているのである。善を教えることに熱心な人は多いが、悪を教えることに熱心な人はどれだけいるのだろうか。悪も善と同じくらい教える価値があるのである。(2001・9・22)


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