「基底体制還元主義」を克服できない俗流唯物論

                  堀込 純一(2017年11月6日)

         目  次
 はじめに   P.1
Ⅰ 問題の所在   P.1
Ⅱ ギリシア・ローマの共同体と土地所有   P.4
(1)共同体こそが生産の基礎であり、共同体の再生産が生産の最終目的   P.4
(2)ポリスでは何故に政治が主役を演じたのか   P.6
 《補論 都市共同体について》   P.12
(3)土地所有の歴史がローマ共和国の裏面史   P.15
Ⅲ 西欧封建制社会における経済的土台と宗教の関係   P.21
(1) 封建制的生産様式における経済外的強制   P.21
 《補論 経済的強制について》   P.26
 《補論 エンゲルス著『家族・私有財産・国家の起源』の初版序文について》   P.28
(2)西欧封建制社会では何故に旧教が主役を演じたのか   P.31
 (イ)社会全体を覆うヒエラルヒーの観念   P.31
 《補論 ローマ帝国とキリスト教》   P.35
 (ロ)弱体な官僚制を担う聖職者たち   P.36
 《補論 フランク王国とキリスト教》   P.41
 《補論 フランクの軍隊王権》   P.41
おわりに   P.42

   はじめに

 歴史学にかかわって、マルクス主義的唯物論がかかえる課題は、いくつか存在する。その中で最も重要な課題は、私見によると、第一に、歴史の発展段階を単系的かつ一元的(普遍的)なものとして捉えるべきか、それとも複系的かつ多元的なものとして捉えるべきか―の問題である。第二は、歴史把握の方法、たとえば「歴史における究極の規定要因は、直接的な生命の生産と再生産である」というエンゲルスの命題を誤りとするか否かの問題である。
 第一の課題については、拙稿『唯物史観の復興と発展――アジア的生産様式論争をふまえて』(2006年)で触れたので、本稿では、第二の課題を中心に、歴史把握の方法について再検討してみる。

  Ⅰ 問題の所在

 晩年のエンゲルスが懸念した通りに、マルクス、エンゲルスが亡くなるや、唯物史観の経済主義的歪曲が公然と興る。
 その顕れは、第二インターの指導的人物であるベルンシュタイン、カウツキーなどによって、唯物史観が俗流化されることに見られる。では、その第二インターの歴史的破産を踏まえて結成された第三インターはどうであろうか。
 この点について、ソ連の歴史学者・ダニーロヴァは、次のように総括している。「そのことは(経済の規定的意義の度外れた強調―引用者)、ソヴィエトの科学が若く研究者カードルたちの理論的準備が不十分だったために、ただちに経済的要因の絶対化へと導いてしまった。この絶対化は時とともに最も重要な理論的諸問題の研究にとっての障害に、とりわけ社会主義社会と先資本制社会の諸問題の研究の障害に転化していった。」(同著「先資本制社会理論の論争諸問題」―『歴史評論』1972年1,3月号)と。
 ダニーロヴァは、「経済的要因の絶対化」の原因を「ソヴィエト科学が若く研究者カードルたちの理論的準備が不十分だった」ことに求めている。ダニーロヴァは、未だソ連が崩壊しておらず、その可能性が明白になっていなかった当時において、「政治的配慮」のためか、「研究者カードルたちの理論的準備が不十分」だったことに責任を負わせている。だが、それは史実に合わないものであり、むしろソ連共産党の指導者たちにこそ責任を求めるべきであろう。 
 だが、それにもかかわらず、当時においてさえ、ソ連の学者が唯物史観の把握における「偏向」(「経済的要因の絶対化」のこと)を自覚していたのは、おそらく少数派ではなかったかと思われる。
 かつてソ連の学者たちは、マルクス主義に対する「基底体制還元主義」という批判に答えて、「上部構造の反作用」を主張していた。だが、ダニーロヴァの場合には、やや時代も経過していたせいか、「上部構造の反作用」という紋切り型の応答を越えて、もう少し踏み込んだものになっている。というのは、「この絶対化は時とともに最も重要な理論的諸問題の研究にとっての障害に、とりわけ社会主義社会と先資本制社会の諸問題の研究の障害に転化していった」と言っているからである。つまり、ダニーロヴァは、ここでは資本制社会についてだけは除外しているのである。
 では、何故、資本制社会だけは除外されたのであろうか。それは言うまでもなく、資本制社会は歴史上、唯一、経済的土台と上部構造が相対的に分離しているからである。資本の自己増殖を目的として、かつまた推進力とする資本制社会では、「物質的利害が支配的な世界」であることを、ほとんどの人間が経験的に理解しており、したがって、法律的・政治的上部構造が経済的土台に規定されていることもまた、経験的に理解できるのである。
 だが、この資本制社会に比較して、先資本制社会では、現象的には「物資的利害が支配的世界」とは、とうてい見ることができない。つまり、経済的土台が上部構造と分離していないからである。したがって、現象的には、経済的土台よりも、むしろ、上部構造の方があたかも規定力をもつかのように見えるのである。この点はまた、「社会主義社会」にもまた当てはまる。
 つまり、歴史的社会を観察する眼が、現象レベルにとらわれている限り、唯物史観は資本制社会を見る時にしか有効性を持たないのではないか(それ以外の歴史的社会を分析する場合には有効性を持たないのではないか)、という素朴な疑問が残るのである。
 このような疑問あるいは批判は、すでにマルクス在世の折りから公になっていた。それは、マルクスが『資本論』第1編「商品と貨幣」第1章「商品」第4節「商品の物神的性格とその秘密」―で、次のように反論していることで明らかである。少々長い引用となるが、行論上、必要なのであえて引用する。
 「私はこの機会をとらえて、私の著述『経済学批判』(1859年)が現れたときにドイツ語の一アメリカ新聞が私に加えた異議を簡単に撃退しよう。その新聞は云った――一定の生産様式、および、つねにこれに照応する生産諸関係、簡単にいえば『社会の経済的構造は、そのうえに一つの法制的および政治的な上層建築がそびえ立ち、そしてこれに一定の社会的な意識諸形態が照応するところの、現実的土台である』という、『物質的生活の生産様式は、社会的・政治的・および精神的な生活過程一般を制約する』という、私の見解は――およそこうした見解は、物質的利害が支配的である今日の世界にとっては確かに正しいが、しかし、旧教が支配的であった中世にとっても、政治が支配的であったアテネおよびローマにとっても、正しくない。/まず第一に、中世および古代世界にかんするこの世間周知のきまり文句をまだ誰か知らぬものがあるかのように前提してよい気の人があるとは、奇妙なことである。中世は旧教により古代世界は政治によって生活することはできなかったということ、これだけのことは明白である【A】。それどころか、それらがその生活を獲得した仕方様式こそ、なぜ前者では旧教が、後者では政治が、主役を演じたかということを説明するのである【B】。なおまた、たとえばローマ共和国の歴史を殆(ほとん)ど知らない人でも、土地所有の歴史がローマ共和国の裏面史をなしていることくらいは分かる。他方において、ドン・キホーテは、武者修行の騎士道が社会のどんな経済的形態とでも同じように調和するものと妄信したという彼の謬論のために、すでにひどい目にあったのである。」(長谷部文雄訳『資本論』第1巻 P.186~187)と。(【A】【B】は、便宜のために引用者が挿入した)
 「ドイツ語の一アメリカ新聞」の唯物史観に対する、上記のような批判に対して、マルクスは唯物史観の妥当性・正当性を説明するために、二重に説明している。すなわち、【A】と【B】である。
 だが、たいていの俗流唯物論者は、【A】は言えても、【B】については無関心か、説明し得ない。何故ならば、資本制社会を対象とする場合と同じレベルの方法で、先資本制社会を分析できると思い込んでいるからである。つまり、資本制社会とは異なり、先資本制社会においては、経済的土台と上部構造が(相対的にも分離しておらず)結合・融合しているため、「社会的・政治的・および精神的な生活過程」の分析もまた経済過程を分析する際にも不可欠であるという認識が欠如しているからである。
 以下では、奴隷制社会、封建制社会での経済的土台と上部構造が、どのように結合し、また奴隷制的生産様式、封建制的生産様式を再生産しているかを検討してみる。

   Ⅱ ギリシア・ローマの共同体と土地所有

(1) 共同体こそが生産の基礎であり、共同体の再生産が生産の最終目的

 マルクスは、古典古代の都市共同体について、『資本論』で次のように言っている。「自然発生的な共産主義が支配的に行われる原始共同体においては、また、古代の都市共同体においてさえも、この共同体そのもの――その諸条件をともなう――こそが、生産の基礎としてあらわれ、また共同体の再生産が生産の最終目的としてあらわれる。」(長谷部文雄訳 青木書店 『資本論』第5巻第3部第7篇「収入とその源泉」第48章「三位一体的範式」 P.1171~1172)といっている。
 マルクスは同様な論述を、『資本主義的生産に先行する諸形態』でも、次のように行なっている。同書では、ギリシア・ローマに代表される古典古代の都市共同体を、後に出現させた本源的所有の「第二の形態」としているが、この「第二の形態は、土地をその基礎とするのではなくて、農耕者(土地所有者)の既成の定住地(中心地)としての都市を想定している。農耕地は都市の領域として現れるのであって、村落がたんなる土地の付属地として現れるのではない。......。共同団体(Gemeindewesen)が出合う困難は、他の共同団体からのみおこりうる。すなわち、他の共同団体が土地をすでに占拠しているか、でなければ占拠している共同団体をおびやかすかするのである。だから、戦争は、それが生存の客観的諸条件を占取するためであろうと、その占取を維持し、永久化するためであろうと、必要にして重大な全体的任務であり、重大な共同的作業である。だから家族からなっている共同体は、さしあたり軍事的に編成されている――軍制および兵制として。そしてこれが共同体が所有者として生存する条件の一つなのである。住所が都市に集合するのが、この軍事組織の基礎である。」(国民文庫版 P.13)としている。
 つまり、本源的所有の第二の形態は、都市共同体であり、共同体間の絶えざる軍事的緊張が続く中では、その存続は軍事的作業以外になく、したがって、都市共同体は軍事的に編成されざるを得ない。
 そして、「共同体所有は――国有財産、公有地として――ここでは私的所有から分離されている。個々人の所有はここでは、第一の場合(「アジア的形態」をさす―引用者)のように、それ自身直接に共同体所有であるというわけではない。......共同体は――国家として――、一方ではこの自由平等な私的所有者相互の関係、外部に対する彼らの結合であり、また同時に彼らの保障でもある。そのかぎりで共同体制度(Gemeindewesen)は、このばあい次のことに立脚している。すなわち、その構成員が労働する土地所有者、分割地農民からなると同様に、またその分割地農民の自立性が共同体成員相互の交渉によって、共同社会の必要と共同社会の名誉等のために公有地を確保することによって、なりたっているということである。このばあい、土地領有のための前提はやはり共同体の成員であることだが、しかも個々人は共同体成員として、私的所有者なのである。彼が彼の私有財産たる土地と交渉をもつことは、同時にまた共同体成員としての彼の存在に交渉することでもある。そしてそのようなものとして彼を維持することが、すなわち共同体を維持することでもあり、またその逆でもある等々。......。農村を領域としてもつ都市における集合、直接的消費のために働く小規模農業、婦女子の家内副業(紡糸と機織)としての工業(?anufaktur)、ないしは個々の部門(手工業者〔fabri〕等)に自立化しているだけの工業。共同団体を存続させる前提は、その自給自足的農民(self-sustaining peasants)のあいだの平等の維持と、彼らの所有を存続させる条件である自家労働とである。......。個人は、生計を立てるという条件、致富が彼の目的ではなく、自己保存、共同社会(community)の一員として自分自身を再生産すること、一筆の土地の占有者として、またその資格で共同体(commune)の一員として自分自身を再生産することが目的であるような条件、のなかにおかれている。共同体(コミューン)の存続は、自給自足的な農民としてのその全成員を再生産することであるが、彼らの剰余時間は戦争等々の労働として、まさに共同体(コミューン)に帰属する。自己の労働にたいする所有は労働の条件――1フーフェ(約6反)の土地――にたいする所有によって媒介されており、この土地は、共同体(ゲマインデ)の存在によって保障されており、そして共同体はまた共同体成員の軍務等々のかたちの剰余労働によって保障されている。」(同前 P.13~16)のである。
 地中海世界は、古くから交易が発達し、このこと自身一つの要因になって、この地方の私的所有を早くから発展させた。だが、古典古代の地中海世界での生産は、あくまでも農業が基本であり、また支配的であった。この農業の経営では、土地所有が不可欠であるが、この土地所有の資格は、共同体成員に制限されていた。市民共同体の土地所有者は、「共同体の成員」である、という制約の下でしか所有者になれず、「共同体成員として、私的所有者」なのである(この点は、私的所有といっても、近代的ブルジョア的な私的所有とは本質的に異なる)。つまり、奴隷はもとより、居留外人もまた土地所有者にはなり得ないのである。この意味では、共同体成員によって構成されている「共同体そのもの......こそが生産の基礎としてあらわれ」ているのである。
 また、この土地所有者は、「致富が......目的ではなく、自己保存、共同社会の一員として自分自身を再生産することが目的であるような条件、のなかにおかれている」のであり、しかも「彼(土地所有者―引用者)を維持することが、すなわち共同体を維持することでもあり、またその逆でもある」という、関係になっている。したがって、「共同体の再生産が生産の最終目的」であると言えるのである。
 このような社会の再生産はまた、新たな生産であるとともに、その破壊あるいは衰亡への道をも示している。「たとえば、各個人がなにがしエーカーの土地を占有しなければならぬところでは、はやくも人口の増進がさまたげとなる。このさまたげを予防しようとすれば、植民となり、またこの植民は征服戦争を必要とする。それとともに、奴隷等々が《生ずる》。たとえばまた公有地の拡大がおこり、そしてそれとともに、共同団体を代表する貴族が《生ずる》等。このようにして古い共同体の維持は、それの基礎である諸条件の破壊をふくみ、その反対物に転回する。」(同前 P.41~42)のである。
 そして、ローマ社会の発展の表象として見られた「奴隷制の発展、土地占有の集中・交換、貨幣制度、征服等々」(同前 P.29)が、ローマ社会の「衰亡と消滅」をあらわすのであった。
 以上のように、古典古代の奴隷制社会の経済的土台を、単に"市民(農民)の農業経営が奴隷を使役して行なわれた"こととして指摘すれば事足りる―というわけではない。その経済的枠組をなす都市共同体・その成員たる資格(土地所有者・戦士)、そして生産の基礎そのものが共同体であること、生産の最終目的は共同体そのものの再生産であること―など、政治と経済の融合によって構成されていることが肝要なのである。

(2) ポリスでは何故に政治が主役を演じたのか

 古典古代(ギリシア・ローマ的)の世界では、都市共同体(ポリスあるいはキウィタス)が生産の最終目的として現われた。そして、この都市共同体の担い手は市民(共同体成員)であり、市民に制限されている。この市民のあらゆる活動(政治的、経済的、社会的、文化的、宗教的など)の基礎は、土地所有にこそある。(都市共同体に関しては、《補論 都市共同体について》を参照)
 古典古代の世界では、何故に政治が主役を演じたのか? 端的に結論を言えば、それは土地所有者としての市民(農民)を維持・再生産するために、政治改革が頻繁(ひんぱん)に行なわれたからである。経済的な理由により市民が没落して、都市共同体の担い手である市民が零落(れいらく)することは、共同体の再生産にとっては致命的な問題である。だからこそ、繰り返し政治改革が推進され、自立した市民が絶えず再生されたのである。
 この点について、マルクスは『資本論』の第3部第5篇「利子生み資本」第36章「先資本制的なるもの」で、「高利」との関係で次のように述べている。
 すなわち、「高利は貨幣財産を集中するが、生産手段は分散したままである。高利は生産様式を変化させないで、寄生虫としてこれに吸いつき、これを悲惨なものたらしめる。高利は生産手段を吸いとり、これを衰弱させ、ますます哀れな条件のもとで再生産の進行を余儀なくさせる。だからこそ、高利にたいする民衆の憎悪は古代世界で最も甚だしいのであって、古代世界では、自分の生産諸条件に対する生産者の所有権が、同時に政治的諸関係――国民Staatsburge)の自立――の基礎だったのである。」(長谷部文雄訳『資本論』第5巻 P.841)と。
 生産者の所有権の維持が、同時に市民(土地所有者)の政治的自立の基礎なのである。このことは、逆に言えば、市民の積極的能動的な政治活動により、生産者(市民)の所有権を維持するということである。
 では、この政治改革の有名な事例をあげると、次のようになる。まず第一は、スパルタのリュクルゴス改革である。
 この改革の核心的内容は、「(1)二人の王1)を含む30人からなる長老会の設置、(2)長老会による議事の先議と民会への提案、(3)民会による最終決定、を定める三項である。しかし同じくプルタルコスによれば、やがて民会の決定に対し、長老会の拒否権を認める追加条項が設けられたという。」(伊藤貞夫著『古代ギリシアの歴史』講談社学術文庫  
 2004年 P.150)のである。
 プルタルコスの『英雄列伝』によると、リュクルゴス改革は、第一に、長老制度の設置、第二に、土地の再分配、第三に、共同食事の制度化、となっている。この第二の改革こそが、民会制度の経済的裏づけと思われる。すなわち、「リュクルゴスの政策の第二の、かつ最も烈(はげ)しいものは土地の再分配である。不均等が恐るべきものとなり、無産・貧困な多数の人が重荷として国家に負わされ、富が完全に少数者の手中に流れ込んだので、彼は傲慢(ごうまん)と羨望(せんぼう)と悪意と贅沢(ぜいたく)と、それらよりもいっそう古くいっそう重大な国制の病気である富と貧困を追い出そうとし、土地全体を公共のものとして提出して新たに分配しなおし、すべての人が生計において一様に、また等しい財産にあずかってともに生活し、不名誉なことに対する非難と立派なことに対する称賛によって決まるもの以外は、お互いに何の差異も不平等もないものとして、徳性をもって第一位を追い求めるように説いて納得させた」(プルタルコス著『プルタコス英雄列伝』上 ちくま学芸文庫 1996年 P.62~63)のである。
 ポリスの歴史においては、「アテネ帝国」2)の例に見られるように、他のポリスを従属化させることはあっても、他のポリスの領土を併合することは、極めてまれなことである。スパルタは、このまれな例をメッセニア併合において敢行している。これは、ひとつにはスパルタ国家の形成の特殊性に由来している。
 スパルタは、ペロポネソス半島の東南部のラコニア地方に成立したポリスである。それは前1000年頃からのドーリア人の侵入と先住ギリシア人の追放あるいは支配の上での定住によって、前8世紀の半ば頃にポリスの基礎が固められた。
 侵入し定着したドーリア人は、先住ギリシア人に比べ少数派と推定されているが、スパルタにある4つの集落(ピタネ、メソア、リムナイ、キュノスラ)を拠点にしたスパルタ人は、前750年頃、先住民の最大の拠点ミュクライを攻略し、この町を併合する。スパルタ人は、自分たち以外の「ドーリア人と一部先住民をぺリオイコイ(「周辺の民」)として、ゆるい従属のもとにおいた」(伊藤前掲書 P.145)のである。
 だが、「彼ら(ぺリオイコイのこと―引用者)は土地所有者であり、自分たちの集落について自治を認められていた。のちの史料では、ぺリオイコイはスパルタ人とともにラケダイモン人と呼ばれ、対外的には国家の正式の構成員としての地位を与えられているかのようである。しかしその実、彼らは軍事的義務を課せられながらも、国政に参与する権利をまったく認められていない。/この種の劣等市民が大量に、しかも独自の集落を営みつつ領域内に散在するのは、スパルタだけに見られる現象である。」(同前 P.145~146)と言われる。
 また、スパルタ人はラコニアを平定する過程で、先住民をぺリオイコイとして支配するだけでなく、エウロタス河流域の肥沃な土地を直轄地とし、そこに住む先住民をヘイロータイ(ヘロット)とした。ヘイロータイは、当時は奴隷と呼ばれていたが、実際は、自立経営を営む隷属農である。
 スパルタは、ラコニア地方の制覇を完成しないまま、今度は(前8世紀の後半頃)西隣のメッセニアとそれこそ国運をかけての戦争に突入する。「スパルタの西進の意図は、メッセニアの沃野を略取することによって、市民の間に高まりつつあった土地獲得への要求を満たすことにあったと考えられる。」(同前 P.148)のである。
ポリスの前提は、市民の土地所有である。だが、人口の増大は土地不足という事態を招く。そのため、多くのポリスは植民市の建設により、この人口問題を「解決」している。だが、スパルタは、この植民市建設について、積極的な関心を示していない。その代わり、スパルタは西隣のメッセニアの併合が、海外植民市に代替するものとなったのである。
 だが、それにもかかわらず、「劣等市民」など一部市民の不満、市民団内部の対立が、解消したわけではなかった。それは、メッセニア征服後の土地配分の不平等に対する不満が、多くの市民をして、政策決定にあたっての市民の実質的参加の要求に発展した、と推測されているからである。ここに、先述したリュクルゴスの改革の理由と根拠が、存在するのである。
 プルタルコスは、土地の再配分について、先に引用した部分にすぐ続けて、次のように述べている。「彼(リュクルゴスのこと―引用者)はその言葉に沿って行動し、ラコニアの他の土地はぺリオイコイのために三万の持分地に分ったが、スパルタの町に属する土地は九千の持分地に分った。スパルタ人の持分地はそれだけの数になったのである。しかし、リュクルゴスが六千を分ち、その後ポリュドロスが三千を加えたと言う人々もあり、また九千の半分をこの人が、半分をリュクルゴスが分ったと言う人々もある。各人の持分地は、男に大麦七十メディムノス(*1メディムノス=約72・74リットル)、女に十二メディムノス、および液状の収穫のそれに応ずる量を貢納としてもたらすだけの大きさであった。というのは、十分の活力と健康のための食糧の他には何も必要としない人々にとっては、これだけでたっぷりであると彼は思ったからである。」(『プルタルコス英雄列伝』P.63)と。だが、土地の再配分は、おそらく一度だけで済ますことはできなかった、と思われる。
 スパルタの圧制に対して、メッセニアの反抗が再び起きたが、スパルタはこれを総力戦でしのいでいる。時は、前7世紀の末頃で、この際もまた20年近く戦われた。第二次メッセニア戦争である。これにより、メッセニア全体にスパルタの支配が確立し、スパルタのヘイロタイ体制は完成される。こうして、スパルタ社会を構成する身分は、基本的にはスパルタ人、ぺリオイコイ、ヘイロタイの三層となっている。
 アテネでも、もちろん土地の再配分は行なわれている。いわゆる、ソロンの改革である。これが、第二の事例である。
 アテネにおいて、貴族政ポリスが成立したのは、およそ前8世紀の半ば頃といわれる。アテネでの「王政3)から貴族制への推移が、制度的には王の権能のアルコン職による分担、アルコン就任者の枠の拡大というかたちをとったであろうことは、まずまちがいない。そして、このような過程のさなか、地方に住む貴族たちが、それぞれの支配下にある平民たちをよりつよく把握するために、中心のアテネに一斉に移住し、彼ら相互の連帯を確立することも行われたであろう。」(伊藤貞夫著『古代ギリシアの歴史』 P.162)といわれる。
アテネでは、前7世紀の半ば頃から、一部平民の実力向上により、貴族支配に亀裂が生じるようになる。平民たちの実力向上は、経済的な力の上昇とともに、軍事面での力の向上、すなわち重装歩兵戦術4)の確立とがある。平民たちの実力の向上は、当然にも、政治面に波及する。国制参加の要求の増大である。
 前621年、アテネの最初の成文法といわれるドラコンの法5)が成立する。ドラコンの法の具体的内容はほとんど不明であるが、伊藤貞夫氏は、ドラコンの法をよって、「それまで貴族たちの恣意(しい)的解釈に委ねられていた法が、平民を含む市民全体のものとして明文化され、貴族による政治・司法の専断を規制する第一歩となった。社会の動揺とそれにともなう訴訟の続発、その処理にさいし、裁判権を握る貴族に対して向けられた平民側の不満、この種の批判をいまや無視しえなくなった貴族たちの譲歩。ドラコンによる成文法制定の裏に、われわれはこのような事態を想定できる」(伊藤前掲書 P.165~166)とする。
 ドラコンの法は、画期的なことであった。だが、現実には、ドラコンの法だけでは、アテネの社会問題は解決しない。前594年、貴族や富裕者に対する下層市民の不満が一触即発に達するような危機が高まる。その時、貴族と平民の双方から期待された「調停者」として活躍したのが、ソロンである。
 では、ソロンの改革を促した当時のアテネの社会危機とは、一体、なんであろうか。
 プルタルコスは、この危機について次のように述べている。「当時貧民と富者の間の不均衡はいわば絶頂に達し、市は全く危険状態に陥っていた。正に僭主政治6)が出なければ市が安定を取り戻し騒動が静まることは不可能と思われたほどだった。というのは民衆がことごとく富者から借財をしていたから。彼らはあるいは収穫物の六分の一を収める条件で耕作して六分の一(ヘクテモリオイ)とか労働者(テーテス)と呼ばれ、あるいは身体を抵当に借財をしたため債権者に引き立てられることがあり得て、ある者はその場所で奴隷となり、あるものは外国に売られていた。やむなく自分の子を売ったり――これを禁ずる法はなかったから――債権者の苛酷に耐えかねて市から逃亡する者も多かった。そこではなはだ多数の屈強な人たちが一所に集まって互いに励まし合い、これ以上傍観することなく、誰か信頼すべき人物を首領に戴いて期限が過ぎても返済のできない人々を解放し、土地の再配分を行ない、国制を完全に変革しようと企てた。」(『プルタルコス英雄列伝』上 P.118~119)と。
 アリストテレスもまた、ソロンが後に次のように振り返っているという。「その土地から私(ソロンのこと―引用者)はあちこちに立てられた抵当標を引き抜き、かくて土地は以前の隷属の状態からいまや自由となった。多くの人々を私は神の造れる祖国アテナイに連れ戻した。彼らは或いは不当に、或いは正当に奴隷に売られ、或いはやむを得ぬ事情で故国を棄(す)て、諸処に流浪せるためにもはやアッティケの言葉を語り得なかった。私はまたこの土地で恥ずべき奴隷の地位に下り、主人の恣意の前に身震いする人々をも自由の身となした」(アリストテレス著『アテナイ人の国制』岩波文庫 1980年 P.30)と。
 アリストテレス著『アテナイ人の国制』の第2章第2節によると、借財のために富裕者に隷属して耕作している人々を「六分の一(ヘクテーモロイ)」と呼び、そのような人々が当時は増大し、アッティカの土地は、事実上、少数の富裕者に集中したこと、ヘクテーモロイが規定の利息である収穫物の六分の一を払わない場合、当人はもちろん家族ともども奴隷の身分に落とされたこと、そして、ソロンの改革以前には、借財にあたっては市民は自らの身体を抵当とする慣わしであった―と言われる。
 貧富の拡大による中小農民の没落、すなわちヘクテーモロイへの転落、それにも耐えられない場合にはさらに奴隷への転落という事態は、都市国家の存立そのものの危機である。何故ならば、重装歩兵として国家防衛の重責を担う自由農民の没落は、そのまま国家の防衛力の崩壊を意味するからである。
 ソロンの改革7)は、なによりもまず中小農民の債務を帳消しにし、再び自由な農民に回復させることであり、これを人々は「積荷おろし」と称した。また、ソロンは奴隷に転落した市民の救済をしたり、外国を放浪する人々を故国に連れ戻したりした。アテネ・ポリスの担い手である市民団を復活させるためである。
 そして更に、ソロンはこのような事態を再び招かないようにと、市民が自らの身体を抵当にして借財をするという慣行を禁止した。「この措置は、結果的に市民と奴隷との身分差をはっきりとさせ、市民の共同体としてのポリスの枠組みをしっかりと固めた」(伊藤前掲書 P.170)のである。
ポリスの典型は、市民共同体であるが、その市民共同体を再生産するためには、構成員としての市民の再生産が不可欠である。その市民はほとんどが土地所有者(農民)であり、その市民は共同体を守る戦士である。したがって、ポリス存立の経済的基盤として、市民を再生産するための土地所有を継続的に保持できるように、土地には共同体規制が行われている。
 すなわち、古典期のアテネにおいては、土地と家屋の所有は、市民だけに許された特権なのであった。このため、奴隷や居留外人は不動産所有から排除されていた。それだけでなく、ポリスの利益が第一という観点から、市民の所有にも共同体規制がなされている。 
 つまり、不動産の処分については、次のような慣行によって制約があったということである。具体的にいえば、(1)不動産の売却や、不動産を抵当とする借財は、できるだけ避けるべきであるということ、(2)不動産を家父の一存で相続人以外に遺贈することの規制―である。
 それにもかかわらず、貧富の差が拡大することに伴い、市民の没落が繰り返し現われ、ポリス存続のために、市民団の回復がそのたびごとに行なわれた。そのために債務帳消し、土地の再配分などの政治改革が繰り返し行なわれた―と思われる。中小農民(市民)の土地所有のはく奪は、放置されされる限り、絶えず行なわれるのであり、農民の土地所有は政治的にしか維持できないからである。
 ポリスにおいて、何故、政治が主役を演ずるか。その理由は、以上に述べたところにこそある。同様なことは、ローマのキウィタスにも言えることである。

注1)スパルタでは、世界史上でも稀有なことであるが、二王政をとっている。その起源は不明であるが、スパルタでは、ポリス成立期からアギス家とエウリュポン家という二つの王家が並び立ち、それぞれ世襲の王を出していたと言われる。
2)対ペルシア戦争の後の前477年に、対ペルシア防衛のための諸ポリス連合、すなわちデロス同盟が成立する。だが、前454年に同盟の金庫がアテネに移され、デロス同盟は、アテネによる諸ポリス支配の機構に変質した。アテネ民主政は、前479年のペルシア軍のギリシア本土撤退の頃から、ペロポネソス戦争(スパルタとアテネがそれぞれのリーダーとして戦ったギリシアを二分する戦争。アテネ側の敗北に終わる。)が始まる前431年頃までの約半世紀の間が、最盛期である。このアテネ民主政の経済的基礎は、奴隷制はもちろんのことであるが、同時に「アテネ帝国」による他のポリスの収奪にもよる。ペリクレスの壮大な神殿建設計画も同盟基金の流用を前提にしたものであり、多数の市民の家計補助の財源もデロス同盟の基金である。
3)アテネは、コドロス王の奮闘によって、ドーリア人の侵入を防ぎ、コドロス王の子・メドン、さらにアカストスへと王権が存続した。
4)ポリスの存続にとって、軍事的な防衛がきわめて重要な任務であることは、先述した。ポリスの成員はすべてが戦士である事が建前であり、武装はまた自弁が原則である。初期のポリスでは、リーダーである貴族が軍事面でも主導権をにぎり、戦闘体制でも主要な担い手であった。だがそれは、前7世紀になると、ギリシア各地で変化してくる。まずブロンズ製の重い兜(かぶと)・胸甲・すね当て、鉄製の長くて太い突き槍など武具の改良、それに重装歩兵戦術の確立である。「新たに考案・工夫された大型の楯(たて)をびっしり並べ、鎧(よろい)・兜に身を固めた重装兵たちが、横長の堅固な隊列を組んで敵軍に肉薄する。攻撃の主たる武器は長大な突槍である。この戦法は永い年月をかけてさらに磨きをかけられる。......その成果が史上に名高いマラトンの戦いやプラタイアイの戦いでのギリシア軍の勝利である。/重装歩兵による密集体系戦術は、アーケイック期から古典期にかけて、ギリシアの主要な戦法となったばかりではない。エトルリアを介してローマに伝わり、古典古代を代表する戦闘方法としての位置を占めるにいたる」(伊藤貞夫著『古代ギリシアの歴史』 P.135)のである。旧来のように、貴族たちの一騎打ちで勝敗を決めるような戦争ではなく、密集した集団の力で相手を打ち破る戦闘方法では、当然にも重装した歩兵の隊列が長く分厚い方が有利である。そのためには、貴族だけでなく平民たちの力に依存せざるを得ない。したがって、結果として、平民たちの発言力は強くならざるを得ない。
5)ドラコンの法は、広範囲にわたったと推測されるが、今日その内容を確かめうるのは、無意志殺人が生じた場合の処置を定めた法だけであると言われる。ドラコンの法の意義は、従来、殺人の加害者に対する処罰は、被害者側親族の血讐(けっしゅう *流血をともなう仇討)であったが、被害者側の意志を充分配慮しつつも、法を背景としてポリス公権力の規制をもって行なったことにある。
 6)僭主政治とは、特定の有力な貴族が平民層の不満を背景に武力を用いて、統治権を掌中にする一種の独裁政治のことである。前7~6世紀の貴族政から民主政へ移行する時期、ギリシア各地の多くのポリスに見られたものである。中小農民を保護育成し、アテネの整備も努め、有能な政治家と評されたペイシストラトスもまた僭主といわれる。彼は、結局、市民から武器を取り上げ、農民に収穫の十分の一の税を課している。そして、国制を形式的には守りながらも、ポリスの要職に一族や自らの支持者を配属し、国政を独り占めにしたのであった。
7)ソロンの改革は、広範囲にわたっている。有名なのは、財産による市民の等級づけを行ない、その等級におうじて国政への参加範囲の資格条件とした国制改革である。具体的には、市民を五百石級(ペンタコシオメディムノイ)、騎士級(ヒッペイス)、農民級(ゼウギタイ)、無産者級(テーテス)の4つの階層にランク付けし、おのおの国政参加の程度を定めた。アルコンをはじめとする高位の役職には、五百石級、騎士級がつき、逆に、無産者級は民会への出席権だけである。市民の等級付けは、ソロンの独創ではなく、軍事的なランク付けとして以前からあったものである。ソロンは、それを国制改革に結びつけたのである。ソロンの改革で他にも有名なものとしては、ドラコン法の廃止である。『プルタルコス英雄列伝』上によると、「彼(ソロンのこと―引用者)は先ず殺人罪に関するものを除いてドラコンの法をすべて廃止したが、それは処罰が苛酷で大き過ぎたためであった。ほとんどすべての罪人に対して死刑というただ一つの処罰きりなかったからである。怠慢の罪ありとされたものも死刑にされ、野菜とか果実を盗んだものも聖財を盗んだ者や人殺しと同様に処罰される始末であった。」(P.125)からだといわれる。「法による恐怖政治」は、戦国時代の秦や秦帝国でも行なわれ、やはりその後の漢朝の初期には、反動として黄老思想に基づく「無為自然」の政治、法の簡素化、厳罰主義の廃止が行なわれた。
 
《補論 都市共同体について》
 都市共同体について、ギリシアの場合はポリス、ローマの場合はキウィタス(あるいはウルブス)と呼ばれた。ポリスの語源は、「外敵による攻撃にさいして避難の場所を提供する要害の丘を意味する語であるが、この種の丘はのちにアクロポリスと呼ばれるようになる」(伊藤貞夫著『古典期アテネの政治と社会』東大出版会 1982年 P.49)のである。だが、ポリスのみがギリシア世界全体を覆っていたわけではない。
 伊藤貞夫氏によると、「古典期(前5~4世紀―引用者)およびそれ以前のギリシア世界は、本土北辺に残った原始王政につらなる若干の王国と、エトノス型の領域国家とを除けば、きわめて多数のポリスから成る。エーゲ海周辺におけるポリスの成立の後まもなく始まった大規模な植民活動の結果、地中海ならびに黒海の沿岸一帯に拡がったポリスの数は、在来の母市を併せ、約1500とも推定されている。」(伊藤貞夫著「ポリスの成立と構造」―弓削達・伊藤貞夫編『ギリシアとローマ』河出書房新社)のである。【古山正人・本村凌二共著「地中海世界と古典文明」(岩波講座『世界歴史』4 1998年)によると、「古代ギリシアに存在したポリスの数は、正確には確定できないものの、ごく最近の推計によれば、前古典期(前8~6世紀―引用者)と古典期の史料でポリスと証明されるものが800を上回る。これに加えて、同時代史料は明確な証拠を与えないが、ポリスと推定しうるものがおおよそ500存在した。」(P.14)と言われる】
 ここで、「原始王政につらなる若干の王国」というのは、ギリシア本土北辺のマケドニア、エピルスなどであり、比較的統合の度合いが弱い王国である。エトノスとは、「領域国家」と訳され、「アイトリアを典型とするような諸集落の連合からなる」もので、「集団で遂行すべき機能にたいする必要性がかなり限定されていた地域で意識的に選択された国家形態であった。」(伊藤前掲論文)と言われる。
 エトノスという国家形態を採用したものは、ペロポネソス北部やギリシア中部・北西部に多く、具体的には、アカイア、アルカディア、テッサリア、アイトリア、アカルナニア、ボイオティア、フォキスなどである。「エトノスには共通の領土という意識が乏しく、共同の軍事行動への優先度は低く、軍事へ向けた組織編成はなされていなかった。」(古山・本村共著「地中海と古典文明」P.15)と言われる。
 「領域国家」と訳されたエトノスに対して、ポリスは一般的には「都市国家」と訳されている。ポリスは都市域と田園部から成り立ち、たいていは小さな共同体である(この中で例外的にアテネとスパルタは、他のポリスに比較してやや大きめの領域をもった)。
 ポリスの景観は、古山・本村論文によると、次のようなものである。「この都市域astyの中心には、防衛拠点で、時に守護神を祀るアクロポリスと、市民の談論と商取引の広場であるアゴラがあった。これらの中心ないしはその周辺に、神殿・劇場・役所・会議場などの公共施設がおかれた。その外郭に、整備された街路に沿って民家が集中していた。都市域は、スパルタを例外として、古典期には城壁によって守られており、都市プランに沿って整備された都市域がおおかった。他方、田園部の重要性を見逃してはポリスの本質を見逃すことになる。田園部では、耕地・放牧地・森林を擁する多数の集落が点在し、そこには家族とともに父祖伝来の生活をおくる市民がいた。また、近年は散居性(*住居が散在していること)の孤立農場の重要性も注目され始めている。農業を営む市民たちは、少数の富裕な不在地主的なものを除けば、世襲の土地を基盤に、自らと家族の労働を中心に少数の奴隷を使役して生活していた。そして彼らこそがポリス市民団の中核であった。この点にこそ他の時代・地域の都市国家と比較したときのポリスの独自性がある。」(P.14~15)と。
 典型的な例としては、奴隷制を基礎に、市民による直接民主制と市民の土地所有を特徴とするポリスが、何故に、前8~4世紀のギリシアに、多数分立したのであろうか?
 この原因については、未だ不明確な点も多いが、確実に言えることは、①早くからの地中海交易の発達と私的所有の発達、②慢性的とも言える戦争状態での下での戦争捕虜―奴隷の供給(後には戦争捕虜でなくとも、周辺国、例えば東欧やイギリスなどからの奴隷供給)、そして③王権制の弱体化と、貴族・平民の台頭などでがある。
 ここではすべての内容を展開できないので、③のみを述べれば、次のように言えるであろう。ギリシア人の先祖は、前2200~2100年頃の時期、前1900年頃など何回かにわたってギリシア本土に侵入し定着した。彼らは北方あるいは西北方から陸路をくだって、ギリシア本土に流入し、先住民族と融合して、ギリシア民族が形成されたと考えられる。
 確認できる史料(線文字Bのピュロス文書やクノッソス文書など)によると、前1600年から前1100年頃は、諸王国の分立する時代であり、今日、中心地であるミケーネの名をとって、ミケーネ時代と呼ばれている。
 考古学の研究によると、前1200年頃から、ギリシア各地の王宮や集落は何者かによって次々と破壊され、その100年後にはミケーネ時代の諸王国は、歴史の舞台から姿を消してしまったと言われる。ちなみに、ホメロスが伝える、かのトロヤ遠征はこのミケーネ時代の最後の時代と言われる。ミケーネ時代の諸王国の滅亡が、何故、どのようになされたのか―これについては、さまざまな説が唱えられている。たとえばドーリア人の侵入、民衆の反乱、天災説、あるいは東地中海一帯などを襲撃し回った「海の民」の襲撃説などである。
 未だ定説がないのが現状であるが、しかし、前2000年紀の末には、ドーリア人やその他の第二波のギリシア人が北方から侵入し、ギリシア本土、エーゲ海南部の島々、小アジア西岸南部などに定住したのは、動かすことができない事実とされている。ギリシア史では、前1200年頃から前800年頃の時代を「暗黒時代」としている。「ことにその初期には、本土における人々の移動ははげしく、また本土からエーゲ海や小アジア沿岸への流出もあわただしかった。新来のドーリア人たちも交えて、ギリシア人の世界は混沌の坩堝(るつぼ)と化し、軋轢(あつれき)と試行錯誤のなかで人々は新しい社会秩序の創出を懸命に模索していた。/ミケーネ時代からの集落の多くが放棄され、人口は極端に減少した。生活水準も落ち、はなやかな工芸の世界が姿を消す。東方との交流もとだえ、ギリシア本土の青銅器文化は、ここに明らかな終末を迎える。線文字Bも王国の滅亡とともに失われ、ギリシア人は再び文字をもたない民となった。」(伊藤貞夫著『古代ギリシアの歴史』P.81)のである。
 この長い「暗黒時代」を経て、前8世紀の半ば頃に、ギリシア本土、エーゲ海の島々、小アジア西岸の各地にポリスと呼ばれる都市国家がつぎつぎに成立している。
 このポリス成立の過程もまた、全くと言ってよい程、謎につつまれている。「ただ、この
時代をミケーネ時代とくらべてみた場合、小王国という比較的大きなまとまりが瓦解して、そのもとにあった、おそらくは集落単位の小さな共同体が基本的な社会集団として浮上したであろうことは、まず確実に推測できるのではないか。/むろん、アテネのような外部からの侵入を受けなかったところでは、ミケーネ時代の王とその一族の地位は、なおしばらく安泰であった。ピュロスのように、住民が大挙して移動したような場合も、彼らはなお、民衆の指導者としての地位を保ったであろう。メラントスのアテネ王位簒奪(さんだつ)の背景には、このような事情が伏在していたものと思われる。/しかし、これらは例外であって、ほとんどすべての王とその一族は、王宮炎上のさいに死亡するか逃亡するかして、その地位を永久に失った。と同時に、王権のもとにあった共同体が一斉に独立し、在地の有力者であるバシレウスたちが、変動期の指導者として歴史の表面に躍り出る」(伊藤前掲書 P.87)のであった。
 前10世紀に入ると、流動的で不安定なギリシア各地も落ち着きを取り戻してくると推測される。先住ギリシア人の場合も、新たに侵入してきたドーリア人の場合も、バシレウス(首長)あるいは族長を中心に集団を作り、定住する。そして、ごく一部の例を除き、王政は廃止され、バシレウスなどの有力者たちの共同支配、すなわち貴族制支配が一般的となる。
 王政から貴族制への転換過程では、アテネの場合、王権の分割がなされた。いままで王の一身に集中されていた権能を、王をはじめとする三人の高官で分掌するのであった。軍事はポレマルコス(polemarchos 軍司令官の意)、行政はアルコン(archon 統治者の意)が掌握し、これまでの王は祭祀にかんする権能が与えられたといわれる。ただし、はじめのうちは、新設の役職もふくめ王家メドンティダイが握っていたが、「暗黒時代」を経る中で、貴族の力が伸張し、メドンティダイ家以外の貴族が役職に就任するようになる。「前8世紀なかばのこととして伝えられる三役への10年任期制の導入がその意味で注目さるべく、ここにメドンティダイによる王政は名実ともに終り、アテネは貴族の集団指導の時代に入ったと解される。そしておそらくほぼ時を同じくして、アッティカ各地に本拠を有する貴族たちは、それぞれの支配下にある平民たちをより強力に把握すべく、中心のアテネに一斉に移住し、彼ら相互の連帯を確立したであろう。この貴族たちの集住(synoikismos)によって、ポリスとしてのアテネ国家は誕生したと見てよい。」(伊藤貞夫著『古典期アテネの政治と社会』P.64)とされる。都市共同体としてのポリスの成立にとっては、まさに「集住」こそが大きなメルクマールとなるのである。

(3) 土地所有の歴史がローマ共和国の裏面史

 弓削達氏によると、「『古典古代的形態』の共同体の構造的特質は、その物資的基礎をなす土地所有、すなわち共同体的土地所有に現われる。すなわち、一方では、共同体内の平等の関係を具現し、その物質的基礎をなす土地の共同体所有と、他方では、平等の関係と矛盾し、これを掘り崩す作用を働く土地の私的所有、この二つの所有形態の経済的均衡、しかもこの両者が相互に経済的に補い合う関係にあるという相補的統一、こういう形態における共同体的土地所有に現われるのである。」(同著『地中海世界とローマ帝国』岩波書店 1977年 P.48~ 49)といわれる。
マルクスはいう。ローマの土地の「一部分は、共同体成員とは別のものとしての共同体そのものにのこされる、すなわちさまざまな形態の公有地。他の部分は分割され、そしてそれぞれの分割地(Parzelle des Bodens)は、それが私的所有であり、ローマ人の領有地(Domane)であり、仕事場にたいする彼の持ち分であるために、ローマ的である。しかし彼はまた、ローマ的土地の一部分にたいしてこのような至上の権利をもつかぎりでだけ、ローマ人であるにすぎない。」(マルクス著『資本主義的生産に先行する諸形態』国民文庫 P.18)、「古代人(事態がもっとも純粋な・もっとも明瞭な形態にあるところの、もっとも古典的な実例としてのローマ人)にあっては、国家的土地所有と私的土地所有の対立形態《があり》、その結果、後者が前者によって媒介されたり、前者そのものがこの二重の形態で存在したりする。それだから私的土地所有者が同時に都市の市民《でもある》。経済的には、国家市民としての存在(Staatsburgertum)は、農民がある都市の住民であるという単純な形態に集約される。」(同前 P.24)と。
 共同体の土地が市民に割り当てられ、これが私的所有となる。残りの土地が、ローマの公有地であり、これは主に公共の建築や工作に定められた土地とこれを維持するために登録された土地、ならびに市民に分配したのちの「余り地」である。「余り地」は、賃貸されるか、貴族などに実質上占有された。国家的土地所有が「二重の形態で存在したりする」というのは、「公共の建築や工作に定められた土地」などと、「賃貸されるか、貴族などに実質上占有された」形で利用されるからである。なお、公共の建築物は、道路、広場、神殿、浴場などである。公有地には、2種あって、1つはローマの公有地であり、もう1つは植民市・自治市などの公有地である。
 「相補的統一」をなす所有形態のなかで、私的所有の主体は、市民である。市民権をもつ主体以外は、所有権を持ち得ないのである。したがって、ギリシアのポリスと同様に、奴隷は当然なことに所有権を持ち得ない。このように市民権保持者=所有権者ということは、はっきりと政治と経済が結合していることを現わす。
 共和政期ローマの市民共同体の分解と復旧をめぐる攻防の歴史を大まかに見ると、以下のようになる。
 パトリキ(貴族)とプレブス(平民)の間の闘争は、前494年に平民会と護民官を産出した。この闘争の原因は、公職、神官職への就任が血統貴族であるパトリキに独占されてたこと、市民が負債の返済不可能のとき身体拘束されたことなどにプレブスが怒りと不満をもったことにある。すでに下層市民の没落が政治問題となっているのである。そして、プレブスが集団によって市外退去の実力行使をもって、パトリキからの譲歩を勝ち取ったのである。護民官はこの市外退去のときの指導者の地位が制度化されたもので、前367年以降には国家の公職となった。その任務は、平民会を主宰するほか、公職者に弾圧されている平民を援助することであり、そのためコンスル(執政官)以下の公職者の職務遂行への拒否権と護民官の身体への不可侵が認められていた。平民会は護民官が主宰する集会で、護民官の選出、種々の政治問題に関する決議などをおこなった。【この決議は、前287年成立のホルテンシウス法以前には、プレブスのみを拘束した。】
 前451~450年には、ローマ最初の成文法―「十二表法」が制定された。これは在来の慣習を成文化したもので、家族関係、相続などとともに、債務に関する規定もあった。プレブスは、法文で規定された債務不履行者への苛酷な取り扱いや、パトリキ・プレブス間の通婚禁止などに不満をもち、闘争となった。この結果、前445年のカヌレイウス法によって、通婚禁止が解除され、さらに毎年選出される最高公職者であるコンスル(執政官)に、プレブスも就任できるコンスル権限をもつ武官(3~6名)を選出することが可能となった。
 前376年、2名の護民官が貧困層を救済し、プレブスの不満を解消しようと法案を上程した。この内容は、①債務について、支払い済みの利息を元金から差し引き、残額を3年の年賦で返済する、②個人による公有地の占有を500ユゲラ(約125ヘクタール)に制限する、③コンスル権限の武官を廃止し、つねにコンスル2名を選出し、その中の1名をプレブスから選ぶ―というものである。
 この法案をめぐって、10年間にわたり激しい闘争が展開されたが、前375年から前371年年にかけて無政府状態が続いた。しかもこの間、ガリア人の来襲・戦争もあり、パトリキとプレブスは妥協し、前367年に、リキニウス・セクスティウス法が成立した。
 同法によって、パトリキの独占する公職と元老院、全市民の参加する民会、それにプレブスの護民官と平民会という独自の政治機構の併存状態は解消され、一つに統合された。同法によってまた、いかなる人間も公有地500ユゲラ以上を占有することが禁止された。 
 ローマはローマ周辺、ついでイタリア半島征服の際、被征服民の領土の一部をローマの公有地とした。この公有地はローマ市民への割当て地(私的所有になる)、植民市建設などに利用し、ローマ中小農民の拡大をはかった。こうして、ローマの支配が地中海に拡がるとともに、ローマの公有地も増大した。
 余った公有地は、一般市民に開放され、とりわけ貴族、有力市民などに占有された。この占有された公有地は無期限で貸与され、その代わりに占有者は租税をはらうこととされた(穀物の場合は収穫の10分の1、果樹の場合は収穫の5分の1、家畜の場合は頭数に応じて)。この占有された公有地は、もちろん国家の所有に属し、政府は随意回収する権限をもっていたが、その権限は民会ではなく元老院にあって、実際には時の経過とともに私有地のごとく扱われ、さらに代々相続され、租税も厳格に徴収されたかどうかも疑わしいと言われる(占有された公有地は、戸口監察官の財産調査の対象とならなかった)。占有された公有地は、のちの大土地所有制形成の大きな要因となった。
 現実に、当時、占有地の制限が500ユゲラ(約125ヘクタール)ということは、すでに大土地所有がかなり進んでいたことを意味する。
 前367年のリキニウス・セクスティウス法の成立から前133年のティベリウス・グラックスの改革運動までは、「平民と貴族との間に土地分配に関するそれほど大きな対立はみられず、むしろ元老院が積極的に農民育成の政策をとり、......約51のローマおよびラテン植民地が建設されている。またローマ領も拡大され、その内に住む農民はローマ市民権を獲得し、中小農民層は漸次拡大されていった」(浅香正著「大土地所有の発展とコロナート制の成立」―岩波講座『世界歴史』2 古代2 1969年 P.455)と言われる(ローマは前3世紀の半ばまでにイタリア半島の全域を支配下に入れている)。つまり、一方で、大土地所有の動きがありながらも、他方で、中小農民の育成・維持政策が積極的に行なわれ、ローマ社会は着実に「発展」していったと言えよう。
 だが、第2次ポエニ戦争(前218年~前201年のカルタゴとの戦争)の頃から、矛盾が露呈してくる。この戦いでローマは最終的に勝利するが、ハンニバルのイタリア侵入を許し、カンナエの戦い(前216年)で大敗する。この戦いで、イタリア農業は荒廃が激しくなり、とくにエトルリア地方や南イタリアが激しく、イタリア人口は3分の1減少したと言われる。
 政府は、この荒廃地を放置しておくよりも、公有地として市民に開放し地代を取得するほうが得策とした。だが、大規模経営に必要な資本力の関係から、占有したのは貴族、有力市民などの上層市民がほとんどであり、大土地所有が進展した。
 またローマは、第2次ポエニ戦争後、カルタゴ側に参戦したマケドニア王国と戦い(第2次マケドニア戦争、前200年~前197年)、さらにギリシア本土に進出したセレウコス朝シリアと戦い(シリア戦争、前192年~前188年)、いずれも撃破した。この東方戦争は、多数の奴隷をローマならびにイタリアにもたらし、大土地所有制と結びつき、さらに奴隷制を発展させた。
 だが、このことの反面は、中小農民の没落を促進させる。戦争がイタリア半島内の段階では目立たなかったが、海外遠征が続き、戦争期間が長引き、しかも大規模になるにつれ、中小農民への打撃は隠しようもなく露呈する。農民戦士の負傷、戦死の場合はもとより、そうでなくても戦いの長期化で、残された家族の手による農業経営の維持はきわめて困難であった。市民共同体を支えてきた中小農民とその家族の没落―無産化である。没落した中小農民の土地は、大土地所有者に兼併された。
 商品経済の発展のもとでの大土地所有制の進展、中小農民の没落、奴隷制の発展などは、共同体を構成する市民の分解を推し進めた。
 市民の最上層は、封鎖的なノビレス(貴族)であって、彼らは公職と元老院を独占した。コンスル(執政官)や法務官などの公職は、無報酬である。その上、この公職を得るためには莫大な金がかかった。
 前146年以降、これらの公職を1年間務めた者が、属州の総督となる制度が確立した。属州総督は、任期延長も認められ、しかも元老院や同僚の掣肘(せいちゅう *自由に行動させない)もなく、住民に対する収奪を強め、私腹を肥やそうと思えばいくらもできた。このため、前149年に、属州民の訴えに基づいて審査をする常置の法廷も設置された。しかし、審判員は元老院議員に限られたから、ほとんど効果はなかった。
 ローマは、征服地の拡大にもかかわらず、都市国家の体制を維持したため、膨大な財政と国家行政を担当する官僚機構が発達しなかった(この点は中国とは対照的である)。
 また、ローマ国家は、公共事業を私人に請け負わせる慣習であり、徴税も一部は入札制の請負であった。元老院は、この請け負いに参加してはならぬ決まりである。前218年、護民官クラウディウスの提案で、元老院議員は海上貿易に使えるような大型船舶を持つことを禁じられた(もちろん抜け道はある)。こうして、元老院議員は、土地所有・農業経営以外には基本的に手を出せないような形となっている。
 ここでノビレスとは異なる上層市民として、「騎士」が登場する。この名はクラッシス・ケントゥリア制度の富裕市民「騎士」に由来する。彼らは土地経営のみならず、国家のさまざまな請負事業、御用商人としての仕事、一般の貿易活動、高利貸し活動などを行なった。
 下層市民は、離農してローマ市に流入した無産者もいるが、ほかにも有力者の私兵あるいは大土地所有者の小作人に転落する者もあった。
 ローマの共和政末期は、「内乱の100年」と言われる。それは前135~132年に吹き荒れた、シシリー島の大規模な奴隷反乱で始まる。反乱奴隷の規模は約6万人ともいわれ、中心人物・アンティオコスは王を名乗った。この奴隷反乱に乗じて、都市では無産者が掠奪を始めた。
 これに対して、ローマ当局は初めたかをくくっていたが、その後ようやくコンスル自ら陣頭指揮に立ち鎮圧した。シシリー島では、前104年から4年間にわたって、ふたたび奴隷反乱がおこっている。また、前73年には、南イタリアのカンパニュー地方から有名なスパルタクスの反乱が起こっている。反乱は、イタリア半島を往復縦断するなど2年あまり続き、最盛期には貧しい農民まで合流して、総勢12万人に達したといわれる。だが、クラッスス・ポンペイウスらにより、鎮圧された。
 この奴隷反乱のみならず、かねてから農業荒廃・中小農民の没落をみていたティベリウスは、前133年、護民官に立候補し当選するや、土地改革にうち込む。ティベリウスの土地法案は、「ローマの公有地における市民の占有地を一人125ヘクタールに制限し、ただし子供二人までには一人につきその半分の面積を認めるものであった。三人の土地分配委員を任じ、制限以上の占有地を取り上げて土地のない市民に分ち、新分配地は譲渡を禁止と定めた。」(村川堅太郎責任編集『世界の歴史』2 ギリシアとローマ 中公文庫 1969年 P.284)のである。
 これに反対する元老院は、もう一人の護民官を抱き込み、妨害行為に出た。しかし、ティベリウスは、この護民官をトリブス民会で罷免させ、土地法も成立させた。ティベリウス、彼の岳父、弟ガイウスの3人による3人委員会は、ただちにこの土地法を実行にうつした。それは元老院の権限をも侵害しつつ行なわれたため、元老院派は憤激し、ティベリウスとその仲間約300名を撲殺し、死体をティベル川に投げ込んだ。
 前123年、護民官に当選した弟のガイウス・クラッススは、兄の遺志を継いで土地改革をおこなった。兄の教訓をみた弟は、元老院に対抗する「騎士」身分を味方にひきこむ策に出た。ガイウスは、市民大衆を味方に引き込むためローマ市の民衆に穀物を安く売る策も講じている。ガイウスは、大規模な植民計画を提起して、護民官に再選された。それは、「イタリアの2つの地のほか、『呪われた所』として廃墟と化したカルタゴの跡に、ローマ市民のみならずイタリアの同盟市の人たちをも含めて植民市を建設しよう」(同前 P.287)というものであった。
 しかし、またしても元老院は反対策動を展開し、国家非常事態宣言により任命された、生殺与奪の権をもつ独裁官(ディクタトル)によって、改革派は全員虐殺され、ガイウスは自殺した。
 グラックス兄弟の土地改革の挫折は、ローマの市民共同体の運命を決定的にした。土地分配は中止され、前121年には、新分配地の譲渡制限も廃止された。これ以後、再び農民は階層分解の波に飲み込まれ、前111年に土地制度を包括的に整理する新たな土地法が成立した。
 それは、「ティベリウス改革案で定められていた法定面積以下の先占(せんせん)1)公有地、それに加えて今後一人30ユゲラ(*約6・4ヘクタール)以内の先占公有地を、最良の権利にもとづく私有地とすること、軽微の賃借料(vectigal)などを課されて完全私有地とは言い切れなかった土地、すなわち植民地建設時の割当て地、建設時に原占有者へ返還された土地、原占有者への替地等も、同様に最良の権利における私有地とされたこと。そして今後は、公有地の分配はいっさい行なわないこと」(弓削達著『地中海世界とローマ帝国』P.93)などである。こうして、共同体の分解に対する一切の歯止めははずされ、市民共同体の変質は確定的となった。これが、ローマの市民共同体の変質への第一の標柱である。2)
ローマ共和政期の土地所有の歴史は、元老院の活動、あるいは有名な政治家たちの活躍などとは異なり、歴史の表舞台のように華々しいものではないであろう。しかし、ローマ共同体の歴史を支える、根本的に重要な基礎であり、いわば「裏面史」をなすものである。

注1)吉野悟著「共和制ローマの公有地と私有地」(『法制史研究』14 1964年)によると、先占とは、無主物の所有者となる意思でその占有を取得することによって所有権を取得する権利であり、無主物でなく、所有者が放棄した物であっても、何年かの占有期間の経過によって、その所有権は取得されたと考えられた。市民に割り当てられた公有地(私有地になる)や、国家財政の収入源として積極的に利用された公有地以外の公有地に対しては、この先占権が適用された。それが、先占地である。
2)第二の標柱は、マリウスの軍制改革にかかわる軍事の問題(市民戦士団に代わって、職業的軍隊が登場)であり、第三の標柱は、ローマ帝国の発展にともない、市民が構成する都市国家の変質と、市民の性格変化の問題である。

   Ⅲ 封建制社会における経済的土台と宗教の関係

 (1)封建制的生産様式における経済外的強制

 マルクスは、『資本論』の第3巻「資本主義的生産の総過程」第6編「超過利潤の地代への転化」第47章「資本制的地代の発生史」第2節「労働地代」で、経済的土台と上部構造の一般的関係を次のように定式化している。
 「不払の剰余労働が直接的生産者から汲みだされる独自的な経済的形態は、支配=および隷属関係を規定するのであるが、この関係は直接に生産そのものから発生し、しかも生産にたいして規定的に反作用する。ところが、これを基礎として、生産諸関係そのものから発生する経済的共同体の全姿容が定まり、それと同時に、かかる共同体の独自的な政治的姿態も定まる。生産諸条件の所有者と直接的生産者との直接的関係こそは、――この関係のそのときどきの形態は、つねに自然的に、労働の仕方様式の・したがって労働の社会的生産力の・一定の発展段階に照応するのだが、――つねに、そこに吾々が全社会的構造の、したがってまた主権=および隷属関係の政治的関係の、要するにそのときどきの独自的国家形態の、いちばん奥の秘密、かくされた基礎、を見出すところのものである。このことは、同じ――主要条件からみれば同じ――経済的基礎でも、無数の相異なる経験的事情、すなわち自然条件・人種関係・外部から作用する歴史的影響・などによって、現象上では無限の変化およびニュアンス――これらは、この経験的に与えられた事情の分析によってのみ把握されうる――を示しうる、ということを妨げない。」と。
 この定式化は一般的な規定のため、資本制社会にも封建制社会にも共通した超歴史的な規定である。したがって、「生産諸条件の所有者と直接的生産者との直接的関係こそは、......つねに、そこに吾々が全社会的構造の、したがってまた主権=および従属関係の政治的形態の、要するにそのときどきの独自的国家形態の、いちばん奥の秘密、かくされた基礎、を見出すところのものである。」という場合の、「生産諸条件の所有者と直接的生産者との直接的関係」の時代ごとの違いを、正確に把握しなければならない。
 では、この両者の関係は、封建制社会においては、どうなのであろうか。
 まず、「生産諸条件の所有者」は、一般的には封建領主といわれるが、それは西欧の歴史過程でみると、次のようにして形成されたと言われる。「フランク王国をとりあげてみよう。ここでは、広大なローマの国有地だけでなく、さらに大小のガウ1)共同体やマルク共同体に分配されていなかったきわめて広大な地域の全部、とくに大森林地帯の全部が、勝利をえたサリ族の部族団の完全所有に帰した。たんなる最高指揮者から真の領国主(ランデスフュルスト)に転じたフランク王がおこなった第一の仕事は、この部族団の財産を王領地に変え、それを部族団から盗んで、彼の従者に贈与また貸与することであった。この従者は、元来は彼の個人的な戦争従士やその他の下級軍指揮者であったが、それがやがて、その書記としての技能、その教養、ロマンス系の地方語やラテン文章語ならびに領国法(ランデスレヒト)にかんするその知識のために王にとってたちまち不可欠なものとなったローマ人、すなわちローマ化したガリア人によって増強されたばかりでなく、さらに王の廷臣をなし、そのなかから王の寵臣が選びだされた奴隷・農奴・解放奴隷によって増強された。これらすべてのものに、部族団の土地の一部が、最初はたいてい贈与され、のちには恩貸地2)の形態で最初はたいてい王の財政期間にかぎって貸与され、こうして部族団の負担で新しい貴族の基礎がつくりだされた」(エンゲルス著『家族・私有財産・国家の起源』岩波書店 P.202~203)のである。
 封建的な主従契約の物的基礎は、恩貸地制であるが、その主従契約の際には、托身という儀式が行なわれる。托身とは、自分の合わせた手を主君の手の中に置くことをいい、この行為は古くは奴隷の儀式であったことでわかるように、主君に身をまかせ服従することを意味する3)。だが、封建制での托身は、自由身分のままで、主君に奉仕することである。この主従制、すなわち支配・服従関係は、軍事的な制度から形成されたものであり、それはまた、封建的土地所有そのものの性格・特徴をも規定づけている。
 この点について、『ドイツ・イデオロギー』は、次のように述べている。「......それゆえ封建的な発展は、ギリシアやローマとは反対に、はるかに広大な地域で始まる。この地域は、ローマの征服、そして最初は征服と結び付いていた農業の普及によって、準備されたものである。衰亡していくローマ帝国の最後の数世紀、および蛮族自身による征服は、大量の生産諸力を破壊した。農耕は沈黙し、工業は販路不足で衰退し、商業は廃(すた)れ、あるいは暴力的に断ち切られていた。農村も都市も人口が減少してしまっていた。当時現前したこのような諸関係、またこれに条件づけられた征服組織の在り方が、ゲルマン的兵制の影響の下に、封建的所有を発展させたのである。......土地占有のヒエラルヒー的編成、ならびにこれと連関する武家家臣団が〈小[農民]〉農奴を支配する威力を貴族に与えた。この封建的編成は、支配されている生産する階級に対抗する連合である。/土地占有のこの封建的な編成に都市において対応したのが同職組合的所有、つまり〈工業の〉手工業の封建的組織である。」(新編輯『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫 P.133~134)と。
 「ゲルマン的兵制の影響の下に」、「土地占有のヒエラルヒー的編成」という封建的土地所有が形成・発展させられるが、封建的主従制は、支配階級のみに止まらなかった。自由な直接的生産者そのものも、相次ぐ戦争や国家制度の弱体化などにより、没落の憂き目に会い、新興の豪族や教会などの権力者たちに保護を求めたからである。
 すなわち、「カールの後継者たちの治下で、フランクの農民層の零落は、内戦や、王権の弱さや、それに照応する豪族の侵害や、さらにこれに加えていまやカールによって任命され、その官職の世襲化を目ざしていた地方伯の侵害によって、最後にノルマン族の侵入によって、完成された。カール大帝の死後五十年で、フランク王国はノルマン族の足下にひれ伏したのと同様であった。/そして、単に外部的な無力だけでなく、内部的な社会秩序、というよりはむしろ社会無秩序もまた、ほとんど同様であった。フランクの自由な農民は、その先行者であるローマのコロヌス(*隷属的小作人)と似た状態におかれていた。戦争や略奪によって零落した彼らは、新興の豪族や教会の保護に身をゆだねなければならなかった。王権があまりにも弱く、彼らを保護することができなかったからである。しかし、この保護にたいして彼らは高い代償を払わなければならなかった。以前にガリアの農民がしたように、彼らはその土地の所有権を保護主に譲渡しなければならず、この土地を彼から種々不定の貢租負担地として、しかしつねに賦役と貢納の給付と引換えにのみ受け戻したのである。いったんこの従属の形態におちいると、彼らはしだいに人身的自由をも失っていった。数世代のちには、彼らは大部分がすでに農奴であった。」(『家族・私有財産・国家の起源』P.203~204)のである。
 主君から恩貸地が従士に与えられる事例は、中世初期から見られた。だが、その発展は8世紀の後半からになってからといわれる。主君に仕える従士に、その資格において恩貸地を与えられること、すなわち、従士制と恩貸地制との結合は、レーン制とといって、封建制原理の一つ(封建的主従原理)である。「これまで国王がその従士に贈与する土地は従士の完全所有となっていたが、時がたつにつれ、国王は恩貸地の形のみで土地を授ける例が多くなった。すなわち土地の所有権は国王自身が留保し、ただ土地の利用と経営についての広範な権利のみを与えるようになったのである。この過程はフランクの宮宰カルル・マルテルの治世に開始された。彼はイスラム教徒が侵入するという緊急事態に際して、教会領を接収し、家臣たちが武装をととのえ後顧の憂いなく戦争に従事できるよう、これを彼らに貸与したのである。教会は抗議したが、八世紀の中葉には一つの取決めができあがり、それによってこれらの土地に対する教会の所有権は認められたものの、その大部分は、所有者である教会に一定の認可料を支払う条件で、事実上の所有者である王の家臣たちの手にゆだねられることとなった。/それ以来、フランク諸王は家臣に自己の所領の一部を、期限(通常は終生)を決めて契約を結び、方式を定めて恩貸地として与えるようになった。......さまざまな下級領主たちも、すぐにこうした王の模範にならった。」(『ブリタニカ国際大百科事典』―「封建制」の項 paoulc vao caenegem著・成瀬治訳)のである。
 こうして、封建的な土地所有と封建制的生産様式の下では、「ヨーロッパのどの国でも、封建的生産は、できるだけ多数の臣下の間への土地の分割によって特徴付けられている。封建領主の権力は、どの主権者とも同様に、彼の地代帳の長さにではなく臣民の数に基づくのであって、この数は自営農民の数によって定まった。」(長谷部文雄訳『資本論』第二巻 P.1097)のである。封建領主の支配する農民の数(労働力)こそ、「所有」する土地の生産力を発展させる最大の要因だからである。
 封建制的生産様式も、言うまでもなく、さまざまな階級社会うちの一つであり、それが再生産されるためには当該の搾取様式が伴なっている。封建制的生産様式の場合は、それは封建的地代である。 
 地代は、封建制的生産様式だけでなく、資本制的生産様式などの生産様式でも存在するが、「地代の独自的形態のいかんを問わず、すべての地代類型に共通するのは、地代の取得は土地所有者が自らを実現する経済的形態だということ、および、地代の方は土地所有・地球の一定部分にたいする一定個人の所有・を前提するということ」(同前 第五巻 P.892)である。したがって、封建制社会の土地所有者である封建領主が地代を収取すること4)は、「土地所有が自らを実現する経済的形態」であり、それによってこそ、はじめて封建制的生産様式が一巡し、ふたたび封建制的生産様式の新たな展開が始まり、封建制的生産様式は再生産されるのである。
 だが、資本制的生産様式の搾取様式が基本的には「経済的強制」(《補論 経済的強制について》を参照)であるのとは異なり、封建制的生産様式の搾取様式は「経済外的強制」である。
 マルクスによると、経済外的強制は、次のような条件の下で必須である。すなわち、「......直接的労働者が自分自身の生活維持手段の生産のために必要な生産手段および労働条件の『占有者(ベジツェル)』たるにとどまるような凡(あら)ゆる形態においては、所有関係は同時に直接的な支配=および隷属関係としてあらわれざるをえず、したがって、直接的生産者は非自由者――非自由といっても、賦役労働をともなう農奴制から、単なる貢納義務までの相異がありうる――としてあらわれざるをえない。直接的生産者はこのばあい、前提によれば、自分自身の生産手段――自分の労働を実現のため及び自分の生活維持手段の生産のために必要な労働条件――を占有している。彼は自分の農耕、ならびに、これと結びついた農村=家庭的工業を自立して営む。この自立性は、たとえば、インドでのようにこれらの小農たちは相互に多かれ少なかれ自然発生的な生産共同体を形成する、ということによっては止揚されない。というのは、ここではただ、名目的地主にたいする自立性だけが問題だからである。こうした条件のもとでは、名目的土地所有者のための剰余労働は、経済外的強制――それがどんな形態をとるかをとわず――によってのみ彼等から強奪されうる。これを奴隷経営または植栽地経営から区別づけるものは、奴隷はこのばあい他人の生産条件をもって労働し、自立しては労働しないということである。つまり必要なのは、人格的な従属諸関係、程度はともあれ人格的な非自由、および、土地の附属物として土地に緊縛されていること、本来的な意味での隷属(ヘーリヒカイト)である。」(同前 第5巻 P.1113~1114)というものである。
 ポイントは、①直接的生産者が自分自身の生活維持手段の生産のために必要な生産手段および労働条件の「占有者」であること、②直接的生産者は土地所有者に対して、自立した経営を行なっていること(したがって、奴隷は他人の生産条件をもって労働し、自立して労働していないので除外される)―という条件下で、経済外的強制が行なわれることである。
 マルクスはまた、次のように経済外的強制の具体的形態についても考察している。「労働地代の生産物地代への転形は、経済学的にいえば、地代の本質をなんら変化させない。地代の本質は、ここで考察する諸形態では、地代は剰余価値または剰余生産物の唯一の支配的で正常的な形態である」と前置きしつつ、「生産物地代は、直接的生産者のより高い文化状態を、つまり、彼の労働・および社会一般・のより高い発展段階を内蔵する。そして生産物地代が先行形態(すなわち労働地代―引用者)から区別されるのは次の点、すなわち、剰余労働はもはやその現物姿態では行われず、したがってまた、もはや地主またはその代表者の監視や強制のもとで行われないのであって、むしろ直接的生産者は、直接的強制の代わりに諸関係の力により、鞭の代わりに法律的規定によって駆りたてられ、自分自身の責任のもとで剰余労働をしなければならぬという点によってである。」(同前 P.1119~1120)と、地代の形態変化に伴う経済外的強制の変化を述べている。
 ここから明らかのように、経済外的強制は、地代形態に応じて、具体的にはさまざまな形態があり、「鞭」だけに矮小化してはならないのである。
 以上から示されることは、「土地所有が自らを実現する経済的形態」としての地代の中でも、封建制的な地代は経済外的強制がないかぎりは実現しえない―ということである。このことは、一体、何を意味するのか。
 それは、封建制的生産様式などのように経済外的強制を伴う地代を不可欠とする生産様式は、不可避的に非経済的要素(直接的暴力や政治的法律的規制など)が重要な一環を占めるということである。つまり、経済外的強制が不可欠な構成要素となる封建制的生産様式などでは、その経済外的強制がどのような構造をもつかを分析するためにも、上部構造全般の分析が不可欠かつ重要な意味をもって来るということである。その意味で、経済的土台が「農奴制」(これを規定する中身がすでに問題となる)であれば、その上部構造はいかなる形態でも、「封建制社会」と規定しても可能である―などというのは、経済主義的かつ俗流唯物論の誤りである。このことは、レーエン制(封建制)がそもそも全く存在しない中国専制国家・社会を一種の封建制社会などと主張する誤りで明白である。
 俗流唯物論にしばしば見られる事例で、"封建的土地所有は下部構造で、経済外的強制は上部構造である"という見地がある。これは俗流唯物論の見地から、経済外的強制は経済的要素の一環を占めないと頭から決めつけて、機械的に上部構造に振り分けているに過ぎないものである。
 では、家族制度はどうであろうか。家族制度は、一方では「種の繁殖」を担うとともに、他方では社会秩序を再生産する機能をもっているのである。したがって、家族制度は、一方で経済構造の構成要素であるとともに、他方では上部構造の構成要素でもある(《補論  
 エンゲルス著『家族・私有財産・国家の起源』の初版序文について》を参照)。同じように、経済外的強制もまた、経済的土台の構成要素である(封建的地代は「土地所有者が自らを実現する経済的形態」であり、それは「経済外的強制」で現実化する)とともに、上部構造の構成要素でもある。
 このような俗流的かつ経済主義的な唯物論にとらわれた、従来の「マルクス主義」なるものが、中世の西欧や日本などのように「権力の分有」という国家権力の形態をもつ封建制社会と、中国のような整備された巨大な官僚制をもち、「権力の分有」のない中央集権的な専制国家・社会5)とを同一視し、封建制社会が世界各国で普遍性をもつ発展段階などと観念的に決めつけてきたのである。しかし、それは奴隷制社会が古代において、世界各国に普遍的に存在した段階であると観念的に決めつけたのと同じように誤ったものであり、単系的一元的史観が導いたものである。奴隷制や封建制が、世界史において普遍的な発展段階という観念的な決めつけは、マルクスも言っておらず、今日の歴史学の実証によっても打ち破られている。

注1)ガウはラテン語のパグス(pagus)にあたり、ゲルマン人の定住単位の一つ。ガウ共同体は、その傘下の諸村落のマルク共同体を構成部分とするより包括的な共同体のことである。
 2)恩貸地(Beneficium)とは、封主と封臣との間で交わされた主従契約の物的基礎としての土地制度である。だがこの名称は、中世後期にはfeodumとなる。そして、近代になり、西欧では封建制は、Feudalismusuといわれるようになる。
3)托身、恩貸地制、それに従士制から発展した誠実宣誓(これは臣下の側だけでなく、主君の側をも拘束する。すなわち、主君が契約に違反した場合には、臣下の側から契約を破棄できる)に見られる西欧の主従契約は、双務契約の性格をもつ。これに対して、日本の封建制は、片務契約の性格をもつ主従関係であり、西欧の封建制との違いを示している。
4)封建的地代は、労働地代、生産物地代、貨幣地代に大別できるが、マルクスは、この労働地代について、次のように述べている。「労働地代のばあいには、直接的生産者が週の一部分では、事実的または法律的に彼に属する労働用具(犂〔すき〕、家畜など)をもって、事実的に彼に属する土地を耕し、週の残りの日を地主の領地で地主のために無償で労働するのであるが、こうした最も簡単な形態での地代を考察するならば、このばあいには事態は全く明瞭であって、地代と剰余価値とはこのばあい同一物である。利潤ではなく地代こそは、このばあいに不払の剰余労働が自らを表現する形態である。」(長谷部文雄訳『資本論』第5巻 P.1112)と、規定している。労働地代は、まさに「不払の剰余労働が自らを表現する形態」なのである。
5)拙稿「中国史に封建制概念を適用できるか」(『QUEST』No.31に所収)を参照

《補論 経済的強制について》
 人類史において、経済的土台と法律的・政治的上部構造が相対的に分離した社会は、資本制的社会が唯一の例である。では、資本制的社会では、何故に経済的土台と上部構造は(相対的にではあれ)分離するのか、その根拠は何であろうか。
 それは一口に言うと、ブルジョア的私的所有に基礎をもった資本の自立的な運動にある(資本家ですら、自己運動する資本の人格的表現でしかない)。利潤追求を自己目的とし、かつ推進力とする資本の自立的な運動を基軸とする資本制的社会の経済過程は、論理的にいえばなんら政治的要素を不可欠の構成要素とする必要は無い。政治はただ、ブルジョア的私的所有を絶対不可侵のものとして維持し、ブルジョア的秩序を維持すれば事足りるのである。このような資本制的社会の成り立ちについて、マルクスは次のように述べている。 
 「かくして、暴力的に土地を収奪され、追放され、浮浪民とされた農村民は、グロテスクでテロル的な法律によって鞭(むち)打たれ、烙印(らくいん)され、拷問されて賃労働制度に必要な訓練を仕込まれた。一方の極には労働諸条件が資本として現われ、他方の極には自分の労働力以外に売るべき何物もない人々が現われる、というだけでは充分ではない。資本制生産の進行につれて、教育や伝統や慣習によりこの生産様式の要求を自明な自然法則として承認するような労働者階級が発展する。発達した資本制的生産過程の組織はあらゆる抵抗を打破し、相対的過剰人口の絶えざる生産は労働需給の法則したがって労賃を資本の増殖欲に照応する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言(むごん)の強制は労働者に対する資本家の支配を確立する。経済外的・直接的暴力も相変わらず用いられるはするが、それはただ例外的である。物事が普通に進行する場合には、労働者はやはり『生産の自然法則』に――すなわち、生産諸条件そのもから発生しそれらによって保證(ほしょう)されえ永遠化されるところの、資本への彼の従属に――委(まか)されうる。」(長谷部文雄訳『資本論』第1巻 P.1125 第1部第7篇第24章「いわゆる本源的蓄積」)と。
 「経済的諸関係の無言の強制」、すなわち経済的強制は、囲い込み運動などのような土地収奪によって、一方の極に資本が現われ、他方の極に自己の労働力を売るほかない労働者階級が出現するだけでは充分ではないのである。資本制生産の発展とともに、「教育や伝統や慣習によりこの生産様式の要求を自明の自然法則として承認するような労働者階級の発展」が不可欠なのである。すなわち、ブルジョア的な生活習慣をもつ「労働者階級としての成熟」が欠かせないのである。そうしてこそ、初めて「労賃を資本の増殖欲に照応する軌道内に保つ」ことができるのであり、経済的強制によってのみ労働者階級を支配できるのである。
 資本制生産の発展、長年をかけて作り上げられた経済的強制による労働者支配が確立するようになって、初めて資本家階級は独裁的な統治形態ではなく、議会制民主主義のような統治形態を可能とし、極端な場合、社会民主主義者の閣僚をも容認することができるのである。すなわち、議会制民主主義による統治形態は、憲法を基本枠とする政治運営(立憲主義にもとづく政治)であり、そのブルジョア憲法には、一般的に、私的所有は不可侵の条項として存在する。近代の歴史が示すように、自己労働に基づく私的所有は、その発展により、他人労働を搾取する私的所有に発展・転化する。したがって、ブルジョア憲法は私的所有一般を遵守するだけで充分なのであり、資本制生産の発展とともに強化される経済的強制によって、ブルジョアジーの階級支配は万全なのである。なお、普通選挙権が施行されたのは、資本主義が普及してから大分経った頃である(図表〔杉原泰雄著『人権の歴史』岩波書店 1992年 P.139〕を参照)。女性も参加した普通選挙権が実現したのは、それよりも更に後のことである。
  〈図表〉各国で普通選挙が認められた年
              (男子)       (女子)
    イギリス    1918        1928 
    アメリカ    1870        1920
    フランス    1848        1944
    ドイツ      1871       1918
    日本      1925        1945

《補論 エンゲルス著『家族・私有財産・国家の起源』の初版序文について》
 マルクスの遺言をいわば執行する形で、エンゲルスが書き上げた『家族・私有財産・国家の起源』の初版(1884年)序文には、唯物史観にかかわる有名なくだりが、次のように展開されている。
 「唯物史観の見解によれば、歴史における究極の規定要因は、直接的な生命の生産と再生産である。しかし、これ自体また二種類のものからなる。一方では、生活手段すなわち衣食住の対象の生産と、それに必要な道具の生産であり、他方では、人間自身の生産すなわち種の繁殖である。特定の歴史時代の特定の国の人間がそのもとで生活する社会的諸制度は、二種類の生産によって、すなわち、一方では労働の、他方では家族の発展段階によって、制約される。労働がなお未発達であればあるほど、その生産物の量が、したがってまた社会の富が制限されていればいるほど、社会的秩序はそれだけ強く血縁的紐帯に支配されて現われる。だが、この血縁的紐帯にもとづく社会の編成にのもとで、労働の生産性はだんだんに発達し、それにつれて私有財産と交換が、富の差別が、他人の労働力の利用可能性が、したがってまた階級対立の基礎が発展してくる。すなわち、新しい社会的な諸要素が発展してくるが、これはいく世代ものあいだ、古い社会制度を新しい状態に適応させようと努力しながらも、結局はこの両者の非両立性が完全な変革を惹起するのである。血縁団体に立脚する古い社会は、新しく発展してくる社会的な諸階級と衝突して破砕される。それにかわって、国家に総括される新しい社会が現われるが、この国家の下部単位は、もはや血縁団体ではなくて地縁団体である。この社会では、家族の秩序は完全に所有の秩序によって支配され、いまや階級対立と階級闘争が自由に展開をとげるが、これが、従来のすべての書かれた歴史の内容をなすのである。」(岩波書店 P.9~10)と。
 エンゲルスの唯物史観に関するこのような定式化は、エンゲルス死後、批判にさらされている。まず社会民主主義者のハインリッヒ・クノーは、"エンゲルスは、「生活資料の生産」と「人間そのものの生産」を同格視することによって、唯物史観の一元制を完全に破壊した"と批判した(クノー著『マルクスの歴史社会並に国家理論』下巻〔改造文庫版〕)。 
 その後、批判はソ連でも行なわれた。1941年に刊行された『マルクス・エンゲルス・アルヒーフ』第9巻(マルクス著『古代社会ノート』)の「編集者序文」は、エンゲルスの「二種類の生産」の命題を次のように批判した。
 「マルクスはその抄録(『古代社会ノート』―福富)のなかで、人類史での家族形態は、物資〔財貨―福富〕の生産方法にしたがって変わる、との命題をだしている。彼は、一夫一婦婚家族は『まさに過去においてもそうであったように、社会が発達するにつれて発達し、社会が変化するにつれて変化しなければならない』というモルガンの結論を強調している。抄録のなかで、マルクスによって一度ならずも強調されているこの命題は、社会生活における家族の役割という問題にかんするエンゲルスのまちがった発言と関連していて、特別の意義をもっている。『家族、私有財産および国家の起源(ママ)』の第一版序文のなかでエンゲルスは、一定の歴史時代の人間がそのもとで生活している社会諸制度は、一方では労働の発展段階によって、他方では家族の発展段階によって制約されている、とのべている。物資〔財貨〕の生産とならんで、家族を社会発展の決定的要因とすることはできないので、この命題はあきらかにまちがっている。社会、社会生活のあらゆる側面――家族関係の形態をふくむ――の発展の決定的要因は、物資〔財貨〕の生産法である。エンゲルスじしんは、その『家族、私有財産および国家の起源』のなかで、その考えを確認するために、多くの事実資料をあげている。」(福富正美著『アジア的生産様式と国家的封建制』P.258からの重引)と。
 福富氏の前掲書によると、ソ連ではその後も、エンゲルスの同書が刊行されるたびに、「編集者の注」などで、同様のエンゲルス批判が繰り返されたといわれる。
 ソ連の『マルクス・エンゲルス・アルヒーフ』第9巻の「編集者序文」は、マルクスの言なるものをもって、エンゲルスを批判している。だが、"人類史での家族形態は、物資の生産方法にしたがって変わる"というマルクスの言なるものは、それ自身、「種の繁殖」(人間そのものの生産)を「歴史における窮極の規定要因である直接的な生命の生産と再生産」から排除する―という論理にはならない。
 そもそも、エンゲルスもマルクスも、かつての『ドイツ・イデオロギー』では、「歴史の開初以来、最初の人間たち以来、同時に存在し続けており、今日でも依然歴史の内に貫徹されている三つの側面として、ドイツ人に分かりやすい書き方をすれば三つの『契機』としてこそ、もっぱら捉えられるべき」(新編輯版『ドイツ・イデオロギー』〔岩波文庫〕P.54~55)ものの三つを次のようにあげている。
 「およそ人間の生存にとっての、〈つまり〉したがってまたおよそ歴史にとっての、第一前提を確定すること、それはつまり『歴史を創る』人間たちが生活できていなければならないという前提である。生活しているからには、何をおいても最低、飲食、〈食糧〉住居、被服、その他若干のものがそこに含まれている。それゆえ、第一の歴史的行為は、これらの欲求を充足する手段を創出すること、つまり、物質的生活そのものの生産である。....../第二の案件は、〈最初の欲求の充足が容易に行なわれるようになると、そのことがただちに新しい欲求を創出するということ、〉〈諸々の欲求そのものの充足が〉〈すでに〉充足された最初の欲求そのものが、すなわち充足の営為とひとたび獲得された充足の用具とが、新しい欲求へ導くということ、――そしてこの新しい欲求とは第一の歴史的行為なのだということである。....../第三の関係は、ここでただちに、そもそもの初めから歴史的発展へと進み入るものであるが、それは、自らの生を日々更新する人間たちが他の人間たちを作り始める、つまり繁殖をはじめるということである。――夫と妻の関係、親と子の関係、家族。当初は唯一の社会的関係であったこの家族は、後に、増大した欲求が新しい社会的諸関係を、増大した人口が新しい欲求を創出するようになると、一つの従位的な社会的関係になる(ドイツの場合を除いて)。だから家族は、ドイツで慣わしになっているように『家族の概念』に則ってではなく、現存する経験的資料に則って取り扱われ、展開されなければならない道理である。――/生の生産は、労働における本人自身のそれにせよ生殖における他人のそれにせよ、そのつどすでに、ただちに二重の関係として――一面では自然的な関係として、他面では社会的な関係として――現われる。」(同前 P.51~55)と。(当時、マルクスもエンゲルスも、家族を始原として、家族の拡張が部族という把握の仕方をしていたが、後には正反対に捉えるようになっている)
 マルクスは、晩年の『古代社会ノート』の時代において、かつての『ドイツ・イデオロギー』的な歴史把握を修正していないのであって、ソ連の「編集者序文」のエンゲルス批判は間違いである。
 何故、彼らがこのような誤りに陥ったかというと、それはスターリンの影響が大きく働いていたからである。スターリンは、1938年に発表された論文「弁証法的唯物論と史的唯物論」で、「社会的実在と社会意識、社会の物質的生活の発展の諸条件とその精神的生活の関係」について述べたあと、「かくて社会の様相、その思想、見解、政治機関等を最後に規定するところの『社会の物質的生活の諸条件』とは、史的唯物論の見解からはいかに解すべきか」と、問題提起する。そして、「社会の物質的生活の諸条件」として、社会を取り囲む自然・地理的環境、「国民人口の増加」をあげ、両者とも、「社会発展の恒久的かつ必要な条件」ではあるが、「社会発展の主なる力ではなく、主なる力とはなり得ない」ものであるとする。そして、「社会の発展を決定する社会の物質的生活の諸条件の体系における主なる力」を「人間の生存に必要な生活手段を獲得する仕方、食物、衣類、履物、住居、燃料、生産用具、等々のような、社会が発展できるための必要な物質的財貨の生産様式」とするのである。
 ここで、スターリンは、2回、問題設定をずらし、最終的には、「社会の発展を決定する」ものを「物質的財貨の生産様式」に還元している。
 まず第一は、スターリンは、「社会の様相、その思想、見解、政治機関等を最後に規定すところの『社会の物質的生活の諸条件』」といって、"存在が意識を規定するのであって、意識が存在を規定するのではない"という唯物論の一般規定をもって、次元の違う「歴史発展の主なる力」の問題にズラしている。
 第二は、マルクスやエンゲルスが「歴史を創る」上での不可欠な3つの契機(①物質的生活そのものの生産、②新たな欲求の創出、③種の繁殖)をあげているのに対して、スターリンは、「社会発展」の条件として、「自然・地理的環境」と「国民人口の増加」を「社会発展の恒久的かつ必要な条件」としてはいるが、「主なる力とはなり得ない」として、社会発展の主なる力を「物質的財貨の生産様式」に矮小化し、還元している。
 問題はあくまでも、「歴史を創る」ことである。歴史問題を、歴史認識の問題を、単に「主なる力」としての「物質的財貨の生産様式」の問題に還元してしまうとすれば、歴史はいかにみすぼらしく、干からびたものに陥ってしまうであろう。そこでは、人間の主体的行動の意義は、ほとんど無くなってしまうであろう。スターリンは、「歴史を創る」という限界条件を踏み越えて、「物質的財貨の生産様式」にまで還元してしまったの、歴史を一種の宿命論に転落させてしまったのである。
 それだけでなく、「社会発展」を生産力の発展に還元してしまうとすれば(いわゆる生産力主義)、そのような発想は歴史を見間違ってしまうであろう。最も分かりやすい例で言えば、目先の利益にとらわれて、大量生産―大量消費―大量廃棄をくりかえせば、広範な自然破壊をもたらし社会発展に逆行するのである。そのような例は、世界史において随所にみられる。たとえば、戦国時代中国のし烈なサバイバルをかけた戦争状態の中で、山林は伐り尽くされ、今でも自然は回復していない。江戸時代から明治時代の蝦夷地の開拓で、とりわけ鰊(にしん)の乱獲は、今になっても影響を与え続けているのである。あの悲惨な原爆投下や福島原発事故は、人類の愚かさを象徴するものである。

(2) 西欧封建制社会では何故に旧教が主役を演じたのか

 西欧中世において、旧教(カトリック)1)が、上は王から下は農民に至るまで、いかに日常的に多大な影響を与えたかは、現代人の想像以上のものであろう。この旧教が、西欧中世の社会において主役を演じたのは、一体、いかなる理由によるものであろうか。

注1)カトリック(Catholic)の語源であるカトリコス(Katholikos)は、アリストテレス、ゼノンなどによって、「普遍的、全体的、一般的」という意味で使用されている。しかし、2世紀頃からは、ほとんどキリスト教の著作家たちだけが、イエス・キリストの教会をさす語として、カトリックが使われるようになった。

  (イ)社会全体を覆うヒエラルヒーの観念
 カトリックの聖職者は、厳格なヒエラルヒー(聖職位階制)のもとに組織されている。キリストは、神と人間との仲介者であるから司祭といわれ、洗礼を受けた人は、このキリストの司祭職に参与し、神を父として礼拝する。したがって、洗礼を受けた人はすべて、普遍的司祭職をもつ司祭であるといわれる。しかし、すべての信仰者が同じように祭りを行なうのではなく、選ばれた少数の者が教会の祭りに奉仕する任務を遂行する。このような人々は、普遍的司祭職とは区別して、役務的あるいは教制としての司祭職といわれる。
 教区で信者たちと直に接し、さまざまな聖務を果たすのが司祭である。その上には、司教がいる。司教は、キリストが福音の宣教のために諸国に使わした十二人の使徒たちの後継者として、その使命を受け継ぐものである。そのためカトリックの司教たちは、十二使徒の頭・ペテロの後継者としてのローマ司教、すなわちローマ教皇の権威の下に結束し、教会活動の責任を負っている。
 司教は司教区の長であり、「その権威によって、司教は、教会を聖別1)したり秘跡を授けたりすることができるし、ある状況のもとでは、裁判を行なったり破門制裁を下したりすることもできる。彼は牧者(*牧場で馬・牛などの番をする人)であらねばならず、聖職者たちや俗人たちを教育せねばならない。また彼は、教会がその司教区に所有する財産を、まるで自分のもののように管理する。」2)のである。
 司教の上には、首都大司教がいて、司教の選挙を確認した後、その叙階を行なう(司教は建前としては、司教座3)聖堂参事会員によって構成される司教座聖堂参事会で選挙される)。そして、このピラミッドの頂点に、教皇(すなわちローマ司教)がいる。
 このようなカトリックのヒエラルヒー形成は、キリスト教が体制の宗教となり、権力と一体となって普及していったことに一つの大きな原因がある。(《補論 ローマ帝国とキリスト教》を参照)
 西欧中世では、「村落共同体は、多くの場合、同時に教区共同体であった」4)が、「大方が農業的であった中世社会では、村の司祭こそが、中世庶民の生活をいちばんよく知っていた人でもあった。なにぶん、中世では僧侶の社会生活における役割は絶大で、告解やその他信仰に関するさまざまな訴えをきいたり、洗礼から婚姻、終油5)、埋葬のみならず死後の生活までも、いっさいがっさい僧侶にまかされていた時代のことだから、司祭の役割は、揺籠(ゆりかご)から墓場という福祉国家の社会保障どころの話ではない」6)のである。
 当時の聖職者で最大の問題は、シモニア(聖職売買)とニコライ主義である。これらは、下級聖職者であろうと、上級聖職者であろうと関係なく、聖職者を腐敗させる最大の問題である。
 ニコライ主義とは、起源不明の言葉であるが、要は、聖職者の結婚や蓄妾など、性的な放縦のことである。シモニアとは、秘跡や聖職禄が金銭や保護と引き換えに売り渡されることであり、神聖な事柄にもかかわらず、売買された。「下級聖職者は貧しく、その財源は弱い。彼らが自由に使えるのは、寄進地からの収入と、十分の一税の四半分である。彼らは、結婚式や葬式に際しては謝礼を支払わせ、寄進を《期待》したりもする。修道院に所属していたり、俗人の《保護者》に服属していれば、境遇はよりみじめである。実際、農村の聖職者は、その出身身分である農民の階層にとどまる場合が多かった。自分の手で犂(すき)を操ることもめずらしくない。その貧しさゆえに彼らは聖職売買(シモニア)......の誘惑に弱かったであろう。」(A・ジェラール前掲書 P.203~204)と言われる。
 だが、村の司祭にもいろいろある。教区教会は教会側による建設とともに、世俗領主が建設する場合も多かった。世俗領主が建設した場合には、領主側がその一族や配下を司祭に任命した。したがって、司祭は村に土地をもつ小領主か、あるいはその縁者であった。強力な司祭たちは、往々にして相互に同盟をつくり外敵にあたるだけでなく、司教に対抗して独立を図る者さえあった(司祭は司教の統括下にあるにもかかわらず)。地域の封建領主などが自ら教会を建設し、一族の者などを司祭にした場合、このような教会は私有教会7)といわれた。私有教会は、地方の封建領主が建立しただけではない。王自らも建立している。私有教会の存在は、教会あるいは聖職者の支配をめぐり、皇帝権と教皇権の激しい対立を招く要因ともなった。
 がんらい、「司教には司教区会議の開催が義務付けられ、司教区内の聖職者は司教の統治権に服するものとされた。修道院には『ベネディクト会則』の導入・遵守が要求され、司教への服属が求められた。しかしカール(カロリング朝フランク王国のカール大帝のこと―引用者)をはじめ世俗の有力者たちの多くが私有教会、私有修道院をもち、これら俗人によって自由に任免された司祭や修道院長は、実際には司教の統治権の枠外にあった。カールは国王(私有)修道院にもさまざまな特権を与えて保護し、しばしばその修道院長を司教に登用したり、国政に重用した。」(成瀬治・山田欣吾・木村靖二編 世界歴史大系『ドイツ史』1 山川出版社 1997年 P.76)のである。
 シモニアやニコライ主義は、下級聖職者だけがかかわったのではない。そもそも「教会の聖職位階の上層部は、世俗の権力と非常に深くからみ合っている。そのため、司教と騎士、司教と貴族を見わけることができない場合も多い。司教はたいてい領主でもあり、その収入もかなりのものである。領主権にもとづく収入に加え、バン権力8)による収入、十分の一税の四半分、聖職者生計資産(その一部は司教座聖堂参事会に渡る形をとる教会収入)の一部、聖職の継承時に徴収される手数料なども入ってくる。」(A・ジェラール前掲書 P.204)のである。このように上級聖職への就任は、多大な利益をもたらすのであった。聖職者と言われる者の内実は、まさにこのようなものであった。
 時代は14世紀であるが、カトリックの腐敗はとどまるところを知らなかった。「アヴィニョン捕囚のあいだに歴代教皇は奢侈な宮廷と行政を展開し、従来の収入では宮廷の華美をまかないきれず、高位の聖職者の個人遺産、聖職禄初年度献上金、聖職禄授与承認料、肩衣受領謝礼金や、特権特恵文書の授与、聖職禄叙任、空位聖職禄留保の手数料をもとめた。贖宥(『免罪』ではなく、『贖罪〔*罪を金銭や物品を指し出し、のがれること〕の免除』で、当初は十字軍参加・巡礼などだったが、のちにもっぱら金銭であがなわれた)の豊かな収益をうんだ。ドイツでは1305年から68年のあいだに就任した287名の司教・大司教のうち、ウォルムス協約で定めた司教座聖堂参事会の選挙で選ばれたものは50名だけだった。司教・修道院長は認可の謝礼金として収入の三分の一を教皇に納付した。聖堂参事会員・教区司祭の『任命税』はその職の一年間の収入であり、これらは結局信者の負担だった。礼金はきびしく取り立てられ、不同意者は免職・破門された。1328年には5名の大司教、30名の司教、26名の修道院長がこの処分をうけた。/入金を管理する使徒座の会計院は近代諸国の財政制度の模範となるほど発展し、教皇庁はヨーロッパ第一級の金融勢力となった。教皇の宮殿に足をふみいれるものは、『自分の前に貨幣を積みあげて支払いをする聖職者をかならずみた』という。ここは『聖職禄亡者』の集合場所であり、腐敗と強請が横行した。聖職の継承権が売買され、同一の職を複数の候補者に約束することも頻繁で、教皇職すら競売された。とくにドイツでは、聖職禄こそ収入を見込めるので、高級聖職を買うことが通例となり、貴族は教会を次子以下の扶養施設とみなし、結婚しない娘を身分に応じた修道院や女子修道院へいれ、息子を子供のときに聖職禄に叙任させた。」(世界史大系『ドイツ史』1P.373~374)のである。
 聖職者たち、とくに上級聖職者たちの腐敗は目に余るものでものであったが、それにもかかわらず教会秩序が曲がりなりにも保たれたのは、前述したように聖職者たちが、厳格な聖職位階制(ヒエラルヒー、教階制)に組織されていたからである。9~13世紀にかけて、教皇を頂点とする堅固な組織を形成していたカトリックの教会組織は、それ自体がヒエラルキアと呼ばれた。「そこでは、聖職者たちの単なる職能的な序列づけられた組織が形成されたばかりでなく、この地上の経済・政治・文化・社会・自然のいっさいが一元的な信仰世界としてヒエラルヒー的に秩序づけられ、この世界を維持・発展するための支配の仕組みが成り立っていた」(『世界大百科事典』―「ヒエラルヒー」の項 新睦人氏執筆 平凡社)のである。
 ややもすると、アナーキー状態に陥る危険性をもつ封建制社会において、このことは極めて重要なことである。
 マルクスは、西欧中世のこのヒエラルヒー的世界観について、次のように言っている。「さて、中世の現実的な教権制(Hierarchie ヒエラルヒー)については、ここではただ、それが人民すなわち広範な人間大衆にとっては存在しなかったということだけを注意しておこう。広範な大衆にとってただは封建制(Feudalitat)だけが存在したのであって、教権制(*ヒエラルヒー)は、たんにそれ自身が封建制であるか反封建的(封建制の内部において)であるかのかぎりでのみ、存在したのであった。封建制そのものはまったく経験的な諸関係をその基礎としている。教権制(*ヒエラルヒー)と、そして封建制にたいするそれの闘争(一階級のイデオロークたちがおこなうこの階級そのものにたいする闘争)とは、ただ封建制の、そしてまた封建制そのものの内部で発展する闘争のイデオロギー的表現にすぎず、このなかには封建主義的に組織された諸国民のあいだの闘争もふくまれる。教権制(*ヒエラルヒー)は封建制の観念的な形態であり、封建制は――中世的な生産関係ならびに交通諸関係の政治的形態である。したがってこの実践的な物質的な諸関係の叙述からのみ、教権制(*ヒエラルヒー)にたいする封建制の痘瘡は説明されべきである。このような叙述がされれば、中世の諸幻想――ことに皇帝や教皇がかれら相互の闘争にいおいておしすすめている諸幻想をそのままうけいれるようないままでの歴史観は、ほとりでにやんでしまう。」(『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫 P.158~159)と。
 一切のものを「ヒエラルヒー的に秩序づけられた」世界として観る考え方に対して、マルクスは、これは一部の人間、すなわち聖職者たちにとっては存在したが、大多数の大衆にとっては存在していなかった。大衆にとって存在していたのは、封建制だけである―と述べた。その理由は、「中世的な生産諸関係ならびに交通諸関係の政治的形態」こそが封建制であり、「教権制(*ヒエラルヒー)とは、封建制の観念的な形態」だからである―としている。一切のものをヒエラルヒーとして観るのは、まさに観念的に転倒した見地であり、現実の西欧中世の世界を規定しているのは、まさに現実の封建制であり、封建制的な「生産諸関係・交通諸関係」ならびに封建的土地所有(「土地占有のヒエラルヒー的編成」)なのである。
 マルクスが「一ドイツ語新聞の記者」に反論して、中世では旧教が主役を演じるように見える原因の第一は、この転倒した観念論的世界観なのである。

注1)聖別とは、キリスト教において、あるものを神聖な用にあてるために、世俗的な使用から区別することを指す。
 2)A・ジェラール著『ヨーロッパ中世社会史辞典』(藤原書店)P.203 秘跡とは、神の霊信、聖体、悔悛、婚姻、叙階、終油である。
3)司教座とは、厳密に言えば、司教のすわる椅子(いす)のことである。この椅子は通常、教会堂の東端に位置する後陣の中央、主祭壇の後ろにおかれるが、中世では主祭壇の前の内陣に設けられることが少なくなかったといわれる。これは司教高座と呼ばれ、説教や祭式などで使用された。この司教高座から行なわれる説教や宣言はエクス・カテドラ(司教座宣言。教皇の場合は聖座宣言)といわれ、公式で正統な教えとされた。それがローマ教皇によってなされた場合は、忌避し得ない、不可謬なものとみなされた。このような座のある教会が司教座聖堂、いわゆるカテドラルである。
4)ハンス・K・シュルユツ著『西欧中世史事典』ミネルヴァ書房 1997年 P.188 
 5)カトリックの秘跡の一つで、信者の臨終に際し、身体の苦痛を滅し、心の慰安を与えるために、病人の身体に香油を塗る儀式に使う。
6)中公文庫版『世界の歴史』3 中世ヨーロッパ 1974年 P.276
7)私有教会について、教会法史学の創設者の一人であるウールヒ・シュトゥッツは、「私人の所有権、さらに適切な表現を使えば、私的な支配権の下にある教会堂で、その支配権から財産法上の処分権のみならず、聖職にかんする完全な指導権がうまれる」と定義している。この私有教会は、汎ゲルマン的現象だとシュトゥッツは言うが、古代末期のローマでも、すでに公的教会と私的教会の区別があり、後者の教会建立者には特別な権利が保証されていた―と言われる(世界歴史大系『ドイツ史』1 山川出版社 P.109 渡部治雄氏執筆)。
 8)バン権力はもともと君主がもっていた権力であり、「命令し、追求し、強制する」ことから成り立っていた。だが、この公権力は、しだいに伯や辺境伯など皇帝の代理人たちに移るようになり、さらにはもっと下層の副伯や城主(シャトウラン)などに移行するようになる。権力の細分化である。バン権力は、住民の安全と保護を名分にさまざまな負担を住民に課した。それは、たとえば兵役・軍需物資の輸送・警備と監視などの軍事的任務、住民の保護と引き換えのさまざまな課税、裁判権行使に伴う罰金など、取引(市場税)や商品流通(通行税)に対する課税、領内に設置されたパン焼き釜・ブドウ圧搾機・水車の使用料などである。

《補論 ローマ帝国とキリスト教》
 キリスト教は、ローマ帝国によって過酷な弾圧を受け、数知れない殉教者を出している。それが、312年10月28日、コンスタンティヌス帝がキリスト教を数ある宗教の内の一つとして認める勅令を発することによって、事態は大きく変わる。313年には、キリスト教聖職者に対し、すべての対国家奉仕義務が免除されるようになる。318年には、司教への仲裁裁判権が付与される。そして、321年には、教会への遺贈が承認されるようになる。
 このように、「あいついで出された聖職者・教会優遇策は教会を帝国の統治組織の一環として機能させ、聖職者の精神的・知的能力と、教会の潜在的な経済力を奉仕させようとするコンスタンティヌス帝の年来の構想の具体化であった。その結果、それまでローマ帝国が担っていた公共的機能たる社会救済的活動は、以後全面的に教会に委ねられることになった。/病人、孤児、身体障害者、寡婦などの弱者、社会の下層を構成する人々が救済の対象とされ、教会や私人の喜捨によって建設された救貧院xenodociumや施療院hospitaliumにおいて給養された。こうした救済制度が都市において形成され、諸施設がまずもって都市およびその近辺に建設されたのは、キリスト教が当初都市を中心に布教されたという事情と関係している。加えて、相当数の人口を扶養しうる物資調達システム、商品流通がこの種の施設の都市への立地を有利にしていた面もあろう。」(佐藤彰一著『ポスト・ローマ期フランク史の研究』岩波書店 2000年 P.53~54)と、言われている。
 キリスト教がこのようにローマ帝国の国教となるに従い、教会制度は、行政区に対応して形成されていく。そして、「司教は、4世紀以後はローマ帝国の行政単位であるキウィタス(都市区)ごとに置かれ」、「早くも第1ニカエア公会議(325年)は、新司教の選任の権限を当該地方の司教会議にゆだねた。この会議の議長は州の〈首都の司教(メトロポリタヌス)〉が努めた。州の上に設けられた、より大きな地方区画はディオクレティアヌス帝の創設した管区(ディオケシス)とほぼ同じであった。この点で教会は、ローマ帝政末期の行政機構にその制度を適応させたと言えよう」(『世界大百科事典』―「司教」の項 今野國雄氏執筆 平凡社)とされるのである。
 
  (ロ)弱体な官僚制を担う聖職者たち
 原因の第二は、カロリング朝フランク帝国が神権的王権制に基づいた「国家」であり、現実に聖職者抜きの帝国運営がありえなかった程、旧教(カトリック)と帝国の関係が密接不可分であったことにある。
 フランク王国(メロヴィング朝)は、クローヴィス(在位481~511年)によって建国されたが、そこにはローマ・カトリック教の協力が大きな位置を占めていた(《補論 フランク王国とキリスト教》を参照)。
 たとえば、クローヴィスは496年に3000人の部下とともにカトリックに改宗し、以降、有力都市の司教の協力を獲得しただけでなく、498年には、クローヴィスは塗油礼1)を受け、教会による王権の聖化がなされている。そして、「国王の改宗が、フランク王国の安定に大きな影響を及ぼしたことは確かである。すでにカトリックへの帰依が進んでいたローマ系貴族とフランク系貴族の関係は一層良好になり、両者の通婚が進んだ。また、511年に開催されたオルレアン教会会議が示すように、クローヴィスは教会組織を王国の統治体制の中に組み込むことに成功し、教会組織は国家統合の重要な組織と見做(みな)されるようになった。」(初期王権研究委員会編『古代王権の誕生』Ⅳヨーロッパ編 五十嵐修氏執筆)のである。
 もともと軍隊王権(《補論 フランクの軍隊王権》を参照)としての性格が強いフランク王国は、国家統治能力の弱さをキリスト教の力・勢力によってカバーすることで、国家としての体裁もようやく保てたのであった。
 カロリング朝フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ 在位768~814年)は、796年に、「新教皇レオ3世にあてた有名な親書で、『神寵によりて王たる』カールは、自らの任務を『すべてにおいて聖なるキリストの教会を、外的には異教徒の侵入と不信者の破壊から武力で防衛し、内的には公教的(カトリクス)信仰の確認によって安泰ならしめること』だと宣言した。」(山田欣吾著『教会から国家へ』創文社 1992年 P.35)といわれる。
「神寵によりて王たる」ということは、言うまでもなく神の恩寵によって王となった―という神権的王権を如実に示している。王の恵みや慈しみのお蔭で王でいられることから、カール大帝は従って、「聖なるキリストの教会」を、異教徒から防衛し、カトリックの信仰で人民を安泰にする任務があると宣言しているのである。それは、単なる口先のことではない。
 山田欣吾氏によると、実際、そのことは、当時のビザンツ帝国とフランク帝国の国家のあり方を比較すれば、たちどころに鮮明になるのである。すなわち、「ビザンツ帝国は、一方で、オルトドクシーの体制化によりキリスト教的臣民の統合を強めるとともに、帝国の一部では、非キリスト教徒、非正統キリスト教徒の存在を容認して、それらを徴税対象ないし兵士供給源として活用したといわれる。これに反して、西ヨーロッパ社会は、原則として、カトリック的キリスト教徒いがいの存在を許さない世界であった。ここでは、異教徒と異端者は殲滅(せんめつ)されなければならない敵であり、この原則的立場は、例えば、カールのザクセン征服=キリスト教徒化の経過に、極めて苛烈な形で貫かれた。」(同前 P.34)のである。
カールの「神の恩寵」への感謝は強烈なものであり、したがって、フランク帝国では「異教徒と異端者は殲滅」の対象であり、極めて非寛容で排外主義的な国家であったのである。
 また、このことは同時に国内統治にあたっては、(俗人官僚を育成できる状況でなかったこともあり)聖職者の取りこみとなる。「王は『教会』の嚮導者(rector)であり防衛者(defensor)であったが、そうした王の『教会統治』(administratio)に当って、その組織的骨組をなす教会機関とそのスタッフ、すなわち聖職者が特別に重要な任務を負わされたのは当然のことであった。王はあらゆる手段で教会を強め、豊かにし、改革すると同時に、王の統治活動の全領域にわたって教会と聖職者の助力(adiutorium)ないし奉仕(servitium)を要求した。もちろん、カールの時代にも聖職者の本来的職務領域という観念がなかったわけではないが......、神の秩序を地上に実現することが王の大目的だとされただけに、聖職者にとって、王に対する奉仕活動は、行政的・軍事的なそれを含めて、すべて抗いがたきものとなった。」(同前 P.35)のである。
国王の統治の中心になる宮廷(各地にある王宮の間を移動する)には、多くの有能な宮廷司祭がいて、王家と宮廷にかかわる宗教的執務を行なうとともに、国王の統治活動全般に関連する行政活動にたずさわった。宮廷司祭は、司教や修道院長の中から選抜された者で、個々に国王との間で主従関係を結んでいた。(以下、山田前掲書により、主な宮廷司祭の任務を見てみる)
 宮廷司祭の頂点に立つのが大宮廷司祭(archicapellanus)であり、彼は国王の最高政治顧問として、その政策決定全般に影響力を行使できる立場にある。その位置の高さは、俗人最高位者である宮廷伯(comes palatii)よりも上位にある宮廷筆頭の地位にあることで明らかである。また、大宮廷司祭は、王国の全域から上がってくる教会問題に関するすべての訴えを処理する最終窓口でもある。
 宮廷司祭が国王統治を支える緒任務のうち、とりわけ需要なのが国王官房の業務である。この時代の俗人は、貴族も含めてラテン語の読み書きができないので、書記局を構成することが不可能なので、それを宮廷祭司たちが担った。その業務は、王の法律・命令をはじめとして、各種の公文書や証書の作成、会議や裁判の記録など、さまざまな文書活動である。彼らを指導し、国王の文書行政を取り仕切るのが大官房長(archicancellarius)である。彼は、大宮廷司祭に次ぐ国王の最高顧問であり、王の政治的立場の理論的・法的基礎づけを行なった。
 次に、中央の宮廷から各巡察管区へ定期・不定期に巡察使が派遣され、国王から全権をゆだねられて、その命令を伝達・執行し、聖俗の地方役人を監督する「国王巡察使」制度を担った。巡察使は、通常、2名あるいはそれ以上でチームを作って派遣されたが、それは大司教・司教・修道院長と有力な伯から選ばれ、聖俗の有力者がペアを組んで巡察した。このような聖俗がパートナーとなって任務を遂行するのは、カロリング朝の「指導理念」である―といわれる。
まさに、「『フランク帝国』なるものは、中央の大宮廷司祭、大官房長から、司教、修道院長を経て、地方の聖職者書記にいたるまで、各レベルで政務にたずさわる聖職者の大群に担われてはじめて存立しえたのであり、もし仮に、かれらがビザンツ帝国での原則に従って、『国家の事柄』から身をひいたとしたら、瞬時にこの『帝国』は崩壊せざるをえなかったであろう。」(山田欣吾著『教会から国家へ』創文社 P.57)と言われる程なのである。
 通常の意味での租税というものをもたないフラン王国において、教会の財政的なささえもきわめて重要な意味をもった。「カール・マルテル以来カロリング家の歴代宮宰と国王は、家臣を給養するため教会の土地を収公し(sakularisation)、それを恩給地(beneficium)として分配した。国王はこの土地について、教会側の所有権を保障し、国王家臣との間に土地の貸借関係(precaria verbo regis)を構成させるとともに、借地人に対しては、生産物の五分の一に当たる地代(nona et decima)の支払いを命じた。しかし、九世紀を通じて頻繁に繰り返されるその遵守命令が逆に物語るように、国王の措置は効果をあげず、この土地の多くは事実上、教会の手から失われたようだが、それはともかく、教会は少なからざる所領を国王に提供することによって、国王家臣団の編制を可能にしたわけである。また、移動する宮廷の宿営と給養のために、教会、修道院は、しばしば不定期の物質的奉仕を要求された。」(山田前掲書 P.26~27)のであった。
 教会側はまた、軍役奉仕も行なった。「もちろん、この時代でも、理論的、規範的たてまえの上では、聖職者の戦争行為が肯定されたわけではないが......、それは少なくとも高位聖職者の軍事活動を抑制する力にはならなかった。それどころか、司教や修道院長の封臣によって編成された教会軍は、国王封臣軍や一般召集軍と並んで、カロリンガ―の軍隊を構成する不可欠の支柱となり、国王に対する教会の軍役奉仕義務は、明確に『制度化』(institutionalisieren)されることとなった。」(同前 P.27)のである。
 以上のように、フランク帝国を財政的面から、軍事的面から支えたのがカトリック教会である。また、フランク王国の日常的な運営を担う官僚たちを、中央から地方まで広範に供給したのが、カトリック教会なのである。したがって、表面的に見るなならば、西欧中世の主役を演じたのがあたかも旧教(カトリック)であったかのように見えるのであった。
 843年のヴェルダン条約により、フランク王国は東西フランクおよび中央部のロタール領(中部フランク王国ともいう)に分裂し、東フランクでは911年に、西フランクでは987年に、カロリンガ朝が断絶する。フランク王の諸権標はザクセンの頭領的指導者ハインリヒに引き渡された。ザクセン朝の始りである。このハインリヒ1世(在位919~936年)により、東フランク王国は再統合された2)。
 このザクセン朝においても、カロリンガ朝と同じように、王国はカトリック教によって統合された、いわば宗教的な政治共同体であったため、王国の行政組織と教会の組織は重なり合い、教会組織の要といわれる司教座教会と大修道院は「王国教会」として国王に手厚い保護をうけ、逆に王国教会は王国の統治を精神的にも物質的にも大いに支えてきた。両者のこのような関係は、オットー1世(オットー大帝、在位936~973年)の時期に、いっそう緊密さを増したのであった。そして、962年に神聖ローマ帝国(962~1806年)が建設される。(西では、フランスでカベー朝が始まる)
 オットー大帝の孫・オットー3世(在位983~1002年)のあとを襲ったハインリヒ2世(在位1002~1024年)は、「その全統治期間をつうじて、みずからを神に代わって神の意志を執行する支配者と信じ、そうした君主の意志と行為のみが、唯一の神のそれに照応するがゆえに、正当性と妥当性をもつものだという確信をいだいていた。」(世界史大系『ドイツ史』1 P.143)といわれ、オットー1~3世らの神権的支配観念を単に継承しただけでなく、さらに首尾一貫したものとして強化したのであった。
 そして、ハインリヒ2世は、国王を絶えず脅かすシュヴァーベンやバイエルンの大公など有力な封建諸侯の勢力を削ぎ、国王の権力支配を強力なものにしようと、王国教会などカトリック勢力を利用したのである。すなわち、国王は、世俗貴族に対する対抗勢力として、所領寄進や特権授与などで王国教会とりわけ司教座教会の基盤を体系的に拡大し、そこに系統的に宮廷司祭の中から国王の信任の厚い聖職者を司教として送り込んでいるのである。
 さらにハインリヒ2世は、国王が司教座聖堂の参事会員資格の認定をもつという、「国王参事会制」を組織的に展開し、教会支配を行なっている。この制度は、山田欣吾氏によると、「それが教会支配のうえで実際にはたした役割というより、この時代独特の国王観念を示すものとして重要である。ハインリヒ自身も教会も、国王をたんなる世俗権力者ではなく同時に聖職者であるとみなしているのである。そして、まさにそうした聖俗両側面をあわせた最高の支配者という神権的国王観念こそが、国王の王国教会にたいする体制的支配を可能にし、存続せしめた基礎にほかならなかった。」(同前 P.147)のである。
 以上のように、フランク王国ならびに神聖ローマ帝国の初め頃(11世紀中頃)までは、明確に、西欧においては、旧教(カトリック)が主役を演じていたのである。それは、キリスト教的な神権的国王観念と、王国の「官僚機構」を聖職者たちが担ったことによっているのである。3)

注1)油は、灯火として使用され、それが暗闇を追い払う機能から、すなわち「悪霊を払う」ものとして観念され、聖なるものとなることにより、宗教と結び付く。また、油脂は皮膚を守るものとして、古くから塗られてきた。これらが結合することにより、宗教的な塗油がなされる。すなわち、「悪霊や穢れを払うために塗油されるのである。これはユダヤ教やキリスト教で、花嫁や花婿、妊婦や新生児が塗油されることなどに見られる。また、古代イスラエルで王の即位式に塗油(灌頂〔かんじょう〕)することも、もとは同じである。」(『朝日百科 世界の歴史2』E―152)といわれる。11世紀以降、フランス国王はその即位時の戴冠は、フランスの大寺院で挙行される慣行が始まった。そして、「国王即位の際の塗油の儀式に用いられる香油が、クローヴィス即位のために神が鳩を使ってランス司教レミギウスの元に届けた聖なる油であるという伝承が生まれた。この伝承は、塗油を受けた王に対して、特別の崇敬を起こさせることになった。」(『朝日百科 世界の歴史4』A―261)のである。
 2)ザクセン朝の初代の王ハインリヒ1世は、後継者を長子オットーに定めた際に、王位単独継承の原則を導入した。これは、従来のフランク王国の分割相続の原則からの転換であり、王国の分割と継承者争いをめぐる絶えざる紛争をなくし、王国の安定をもたらした。
3)政治と宗教との関係は、世界各地で異なるのが当然なことであるが、大まかに言って、イスラム世界では、政治は宗教に包摂され、従属的な位置にあった。そして、ビザンツ世界では、逆に、宗教は政治に従属し、皇帝教皇主義が支配的であった。(守安達也著 世界宗教史叢書『キリスト教史』3(山川出版社)は、皇帝教皇主義に関して、「国王が自分の支配地域の教会を完全に統轄し、教会内の問題(たとえば教義の確定)にまで支配を及ぼした場合、国王と教会の関係を皇帝教皇主義と名づけ」(P.2)るとしている。ただ、この規定は、西欧の教皇権・皇帝権の概念を前提にしている点に、限界があるといわれる。)
 ところが、西欧では、この両者のどちらのタイプにも容易には落着しなかった。帝権(王権)と教皇権、俗権と聖権の激しい対立が続き、時期によっては教皇権の優位性が保たれたからである。だが、グレゴリウス改革(1049~1123)が行なわれ中で、王権の優位・神権的国王観念への挑戦がなされ、皇帝権(王権)と教皇権の間で激烈な闘いが展開される。西ヨーロッパ社会では、帝権(王権)と教皇権との間には、なかなか安定的関係は樹立されず、聖職叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命(1789年)を画期とする長い長い抗争を通して、ようやくに今日見られるような政教分離が実現されるのである。

《補論 フランク王国とキリスト教》
 5世紀の末頃、フランク族は10いくつかの支族に分れていたが、サリー・フランク人の指導者クローヴィスは、468年に「ローマ人王」シャグリウスと戦いこれに勝利し、ガリア北部での支配権を獲得し、またフランク族全体を統一した。その後、クローヴィスはフン族の大王アッティラを撃退したローマの将軍アエティウスの子・シアグリウスを破ったのをはじめ、アラマン族、ブルグント族、西ゴート族、チューリンゲン族をつぎつぎと撃破し、507年頃には、ガリア全体をほぼ制圧する。
 このガリア全域の支配権掌握には、クローヴィスのカトリックへの改宗が大きな役割を果たした。クローヴィスは王妃クロデヒルデ(隣国ブルグントから輿入れした)の度重なる改宗への薦(すす)めにもかかわらずなかなか決意しなかったが、対アレマン戦の苦境の中で、"もし神が加護し、この戦争を勝利に導いてくれるならば改宗する"と、約束した。そして、この戦争に勝利し、496年、クローヴィスは3000人ほどの部下とともに改宗した。
 当時、ゲルマン諸族には、アリウス派が多く、このアリウス派はローマ教会からすれば異端であった。クローヴィスからすれば、自らがカトリックに改宗することにより司教などローマ教会の勢力を味方にすることは、自己の勢力拡大になる。両者の利害は、一致するのであった。
 当時、ガリアの地での、司教たちの公的権威は高かった。「5世紀の後半から西方でローマ帝国の行政組織が解体し(476年に西ローマ帝国が滅亡―引用者)、キウィタスの公的権威が機能しなくなったとき、司教は精神的領域だけではなく世俗的事柄でも指導者となった。5世紀から6世紀にかけての西方では司教にローマ元老院議員出身者が多かったが、それは帰属すべき国家を失った彼らが、一方でゲルマン諸民族の軍事指揮官や行政官として新しい職をえたのと同様に、聖職に再生の道を求めるものが多かったからである。」(『世界大百科事典』今野國雄氏執筆)といわれる。

《補論 フランクの軍隊王権》
 軍隊王権とは、王権の主要な存立基盤が軍事力の保持に置かれた王権である。すなわち、戦争で勝利するなど王の軍隊統率がすぐれている場合には王権は安泰であるが、逆に、戦時において王の統率が無能で、部族に大きな損失をもたらした場合には、王の適格性が疑われ、場合によっては廃位されるのである。
 佐藤彰一著『ポスト・ローマ期フランク史の研究』(岩波書店)によると、クローヴィスが北ガリアに覇権を確立したときから590年頃までの約1世紀間に、フランク諸王による軍事行動は延べにして55回あったといわれる。まさに恒常的な戦争状態であったと、言われる所以(ゆえん)である。特に570年頃を境にして、以降は毎年のように軍事行動が展開されている。当時の戦争目的の多くは、生活資料の獲得であり、戦争自身が部族、とりわけ戦士集団(従士団)の統合を再生産する機能をもった。
 フランクの王権は、6世紀の末頃を境にして、その性格に大きな変化が生ずる。すなわち、軍隊王権から神聖王権への転換である。従来は、王ないしは王息が自ら軍隊を統率するのが一般的だったが、この頃からは、王ではなく大公の指揮が目立つようになる。
 このことは、一体、何を意味するか。それは、王権の安定性が強化されることを意味する。王や王位継承の候補者が戦場で指揮をとるということは、その戦闘での戦死の確立が高く、王統断絶の可能性もまた高いのである。それが、王ないしその継承者が実際の戦場で指揮をとる必要がなくなると、その危険性は大きく減少するからである。だが、それはそれで逆に新たな問題が生ずる。というのは、生活資料の獲得を目的とした当時の軍隊(従士団が中核)にとって、戦争自身が戦士集団を統合する機能をもったが、この軍隊指揮から離れた王権にとっては、新たな統合機能が必要となるからである。こうして、「7世紀に入ってようやく王・王族に聖人化、あるいはフランク人のトロイ起源説といった国王神話の形成が見えはじめる。」(佐藤前掲書 P.148)のであった。

   おわりに

 晩年のエンゲルスは、マルクス主義的唯物論・唯物史観が俗流化する事態に、非常に心配し懸念していた。
 1890年18月5日付けのコンラート・シュミット宛ての手紙において、エンゲルスはマルクス主義陣営の外部からの批判に対しては、「物質的存在様式が第一の動因ではあるが、そのことは、これにたいして再び観念的な領域が反作用的ではあるが第二次的な作用を及ぼすことを排除しない......」(『資本論書簡』③大月書店 1971年 P.208)と、反論している。エンゲルスにとっては、「政治的、法律的、哲学的、宗教的、文学的、芸術的等々の発展は経済的発展ににもとづいています。しかしまた、これらの発展はすべて互いに反作用し合うし、経済的な基礎にも反作用します。経済状態が原因であり、ただひとり能動的であって、そのほかはすべてただ受動的な結果だ、というわけではありません。そうではなくて、究極的にはつねに自分を貫徹する経済的必然性の基礎の上で相互作用が行なわれる......」(エンゲルスのW・ボルギウス宛ての1894年1月25日付け手紙―『資本論書簡』③ P.325)のは当たり前のことなのであった。そこには、歴史上のもののすべてについて、「物質的存在様式」に還元するなどという発想は、微塵にも存在しない。
 しかし、エンゲルスは外部からだけでなく、陣営内部の動きにも懸念し、唯物史観の俗流化を心配している。同じシュミット宛ての手紙の中で、先の文面に引き続いて、「唯物史観も今日では多くの人々にとって歴史を研究しないための口実として役だっています。ちょうどマルクスが七〇年代最後のフランスの『マルクス主義者たち』について、『私が知っているのは、ただ、私が決してマルクス主義者ではない、ということだけだ』と言ったのと同じことです。」(P.208)と述べている。これは、極めて痛烈な批判である。
 筆者の見るところでは、このような唯物史観の俗流化という事態は、エンゲルスの晩年期をはるかに凌(しの)いでいる。今日の歴史学にとっても欠かすことの出来ない重要なことは、史観と史実の実証的裏付けである。(終り)