新春座談会

    新しい委共産主義運動を目指して

<結成までの道のり>

司会(編集部) 旧年の六月に労働者共産党は結成されたわけですが、古くからの経過もあるようで、最初に結成までの道のりといったものからお願いします。本紙での発表によると九三年六月から統合協議が始められたとありますが、かなり時間を要したとも思えますが‥。

M同志 ずい分昔からの経過もあって(笑い)。まあ、「共同声明」と「規約」の原案作りに入ってからは急速に早かったけど。旧赫旗としては、従来からの懸案だった「北方領土」とか「中国評価」とかの意見の相違がクリアできるということだったので、統合はやれると考えていたが、ただもう現在問われているのはそのレベルではなく、ソ連崩壊など世界と日本の画時代的変化をどう把えて、どういう新しい共産主義運動を作り出していくのか、それを出していかねばダメだという意識だった。しかし我われ自身がその明確な回答をもって活動していたわけではなく、模索中だったわけで、その点が難しいなというのがあった。これで行こうと積極的に出せないので、それで時間がかかったとも言える。
W同志 千島政策や中共・中国の現在的評価は意見の相違がなくなったわけではないが、大きな情勢変化を背景に実践的処理が可能になった。それで詰めに入れたが、詰めに入る以前では旧赫旗での組織問題の処理もあり、どうなるかわからんという不安もあった。古くからの懸案はクリアできるが、新しい情勢をどうふまえるか。共同声明などでも新しい内容が全面的に出ているわけではない。新しい共産主義運動への課題意識を共有し、一応今のところでは、という線だろう。

H同志 見のがせない点として、旧MLとは、八一年赫旗結成以前の紅旗派の時代から交渉があった。以前からの交渉の中で、お互いの政治主張と人間とに対する一定の信頼があった。それが基礎にあったので、若干の意見の違いなどがあっても、それで話が決裂するという心配は全くなかった。わたしが安斎庫治さん(元日共ML代表委員)に初めお会いしたのは七六年だが、ぼくらも当時は若く世間知らずのこともあって、積極的に広く他党派に統合協議を働きかけた。しかしその反応は非常に小さかった。ブント系も、またML以外の中国派の人たちも、どちらかというと冷淡、冷笑的だったといえる。
赫旗結成時に、「ブントを止揚し潮流をこえた統合・団結」という姿勢があるが、この姿勢はそのころからのものなのか。
そう。そういう姿勢が形成されたのは、MLとの交流が一番大きかったと思う。当面、路線の違いで統合はできなくても、党派として信頼できるし、労働運動をはじめ諸戦線で手を携えてやっていける感触をはっきり持ったわけだ。
司会 七〇年代にまでさかのぼった話が出たので関連して聞きますが、七九年のML派と労共委の統合も毛派とブント系の統合だったわけですが、元怒涛派のTさん、これはどういう意味があるのですか。
T同志 日共MLの二回大会のパンフ、実はあれを書店で見てびっくりしたわけ。ここは中共派でも社会主義革命をいってるな―とね。それが第一。それで、その後付き合いが始まった。もう一つは、労共委自身の問題としては、労働組合運動など地に足のついた活動を本格的にしなければダメだというのがあった。MLから、この辺のいい所を学べるのではないかというのがあった。労共委の総括のわたしの一番の問題意識としては、大衆に深く入った党を実際に作り出したい、主要には労働運動で、というのがあった。さらに言うと、労共委の第二次ブント批判として、「戦闘的経済主義」批判や組織日和見主義批判という立場があった。前者の批判は諸闘争展開に党活動を低めることへの批判だが、後者は、マル戦自身が第二次ブントから抜けたことの総括として、コミンテルン―日共の継承関係をあいまいにしないという立場。

MLは「日共の革命的継承」の立場だったのでその一致点もあった。その労共委との統合の成功で、MLとしても、毛派の再結集的な形での統合とは違う時代に入った。
もう一つ大きいのはその頃には、それぞれ交流のある旧三党派の間では政治路線的に似かよっているという事情がある。日帝単純自立論ではない社会主義革命の骨格で違わなくなった。また、労共委も六八年結成時には「中ソスターリニスト官僚打倒」を言っていたが、ブント系内外で毛沢東思想評価、継続革命論支持の流れが出てきて、大きくかわってきた。
まあ、七〇年代の頃は、ブントが破産し、共労党も毛派も分裂して、その反省の時期で、その反省の仕方で共通するものを探した時期だと思う。まわりを見たら同じような方向に転換したのがいる、そういう雰囲気があったと思う。
司会 七〇年代のマル戦系とMLの統合というのは奇異な感じもするのですが、何か継承される要素があるのですか。
党名をわざわざ「労働者」共産主義委員会と付けたことにも表現されているけれど、労働運動を中心にという体質が底流的には継承されているのでは。
ぼくら赤軍派出身の場合は、もともと学生運動で、その学生運動からも召還してしまう。反省の柱としては、労働者に根ざして、労働者階級解放の組織を作らねば、ということ。もう一つは、打倒対象などの把握の問題で、日本は独占資本主義だから日帝自立として米帝問題を欠落させる、などの根深い経済主義からの転換。当時は、これら依拠階級と権力問題規定、この二つが転換の最大の課題だった。その点で、諸派が近づいた。司会 赫旗派は「テロリズムと経済主義の両極」への批判を掲げてきましたが、具体的には何を指していたのですか。
赤軍系には、赤軍の路線はまちがっていなかったというのが、かなり残存していた。一方、「経済主義」という言葉でうまく表現できるわけではないが、ブント系には、ブントの分派として表現しなくても、地域主義、学園主義、労働組合に入っても民同になってしまうという傾向がかなりあった。
当時の客観的背景として、七〇年代前半に新左翼の革命運動というのは大きな壁にぶちあたって混迷していた。国際的にみても七〇年代後半から共産主義運動といわれるものが大きな曲がり角にあった。それを当時は十分自覚していたわけではないが、革命の要素は後退しているという認識があった。その中で、ぼくら両者とも、ソ連については社会帝国主義として明確に批判し、中国についてもML派のみなさんは無条件の支持ではなく、主体的立場を模索していたように思う。ここにも共通基盤があった。
司会 両者の七〇年代の協議は、八〇年代に入ると建党協議会の準備会への両者の参加という枠組になって、一旦中断するわけですね。H 建党協という場になって、両者の関係は若干拡散することになった。そして私たちが建党協から排除されて、両者の協議はしばらく中断する。
建党協準備会については、MLが組織整頓の必要から先に抜けて、その後赫旗も抜けた。抜けた同士になったが、なぜ八五年以降一旦中断したのかというと、わたしの見方では、赫旗が建党協問題でIさんらと分裂したときの八五年大会で、「三大闘争」という基調の出し方をしたので、これは新左翼の諸闘争主義的な傾向に戻ったのかな―と思った。そこで、第二次分裂後の赫旗がどうなるか、様子を見ようということになった。それで、しばらくはお互いで各おの組織を固めようという時期になった。
八五年大会で「反天皇・山谷金町戦・三里塚」の三つに力を入れようとなったのは、建党協政治によって現実のたたかいの取り組みがおざなりになっていたという背景があった。建党協で党ができるとは全く考えなかったが、その参加党派と統合するという可能性もなくなってしまい、当面独自の力を付けようという意味合いで、三大闘争のスローガンが出された。
もう一つは、敵階級の政治支配と対峙するという構えが解体してきているという党内情況があった。建党協の中でも、「敵の出方」論的なテーゼ案が出てきたりしていた。それに対して、赫旗の綱領も一つの案として検討してほしいと要求したが、テーゼ案がすでに作られているのに何故そんなものを出すか、最大公約数としてはテーゼ案だ、として拒否された。
建党協が一定の政治的基準で集まるというのではなく、逆に、集まってきた人たちの共通項で政治内容を作ろうとしたこと、そこに矛盾が発生したわけだ。M そう。だから集まるときに、今までの総括をして大きくは同じ方向を向いているというのが必要だ。政治的に無基準に集めておいて、それを議論でまとめることを前提にしていたら、内容的に一致できないことが後からあきらかになる。

確かに、最大公約数でとにかくまとめようとするやり方も、ありうる。ところが、もう時代は、新しい共産主義運動をどう出すかということが問われる時代に入っていた。我われも含め誰もそれを積極的に打ち出せず、出されたものにいわばアンチテーゼ的に赫旗綱領の検討を要求するという形になった。しかし、検討要求自体をはねつけるというのでは問題外だと思う。時代からいって、最大公約数的なもので党はできない。お互いに党建設に失敗した部分が集まっているのだから、それを真剣に総括する議論を抜きにしてまとめようとしても、それでは時代の要請に応えられない。現に建党協はその後バラバラになった。
その後の経過としては、九三年の安庫の葬儀がひとつのキッカケになって、もう一辺真剣に考えようという気運になり、九三年六月にMLの方から統合協議申し入れとなるわけだ。個人的には、新しい展開を促すうえで、古い毛派の時代は完全に終わったというか、安庫死去の心理的影響もあった。
安斎さんの死去の前にソ連・東欧崩壊があった。我われとしてはソ連崩壊というのは、民主主義革命として一歩前進、しかし世界的にみれば左翼を退潮に追いこんだ一つの原因であることも事実、そういう新しい条件の中で、次にどう行くのか模索している段階、そこにMLからの呼びかけがあった。協議の中で新しいものを生み出して行ける可能性を見たわけだ。

<結成の意義と限界は>


司会 という経過で今日へ至るわけですが、労働者共産党結成の意義と限界ということで率直なところを。M 統合というのは統合してみないと分からない面があるわけだが、改めて統合して本当に良かったと思う。世界史的大転換に間に合う足がかりができた。
Mさんには、統合協議の過程でも感じたが、新しい状況に対して新しい内容を出さないとたちまちジリ貧になるという危機意識が強い、と思う。わたし自身はそういう意識は相対的に弱くて、基本的な路線・戦術を確保すれば、新しい内容はゆっくりやっていけばよいという感じだ。
ぼく個人というのではなく、旧赫旗全体としてそういう意識。昔の問題意識の中心は、日本革命の権力問題だったわけだが。
赫旗の結成大会文書を改めて読み直してみたが、その権力問題、日本革命の性格、労働運動中心に統一戦線で、と基本線はすでに出されている。にもかかわらず、なぜ旧革命の旗派の多くがほどなく分裂するということになったのか。その契機、明大での党派闘争問題などは知っているにせよ。
その第一次分裂は最終的には組織日和見主義の問題として処理されたが、当時は三里塚の3・8分裂とか政治的態度を鋭く問われる情勢が背景にあった。たんに組織日和見主義だ、という総括では総括にならんと今日的には思う。分裂した人たちとの話し合いが今後必要であれば、そういう立場になるだろう。ただ今日の再編は、これまでの離合集散とは中心課題のレベルが違うものになっている。わたしの問題意識としては、社会の土台からの変化であり、綱領・戦術・組織の全体において転換が問われていると思う。ソ連崩壊もその一つの結果であり、どういう社会を目指すのかという我われの目標のところで疑問が生じる状況の中、我われの見解を社会的に納得される形で打ち出せるのか、問われている。
司会 共同声明などで、そういう新しい方向をある程度打ち出せたと考えていますか。
その一歩は踏み出せたと最低いえるのではないか。具体的には、旧来の綱領では、権力を奪取してそれから社会主義革命が始まるとされ、また過渡期の低い段階・高い段階、この解釈はいろいろあるが、高い段階での課題は将来の課題として実践上は棚上げにされるということだったが、社会革命の内容を、実践的に現在的課題として提起している。もちろん全面的に実現していけるのは、権力奪取の後だが。
共同声明で、最小限綱領・最大限綱領に分けて書く伝統的書き方を、わざとしない合意があった。それだけに文章的には未整理な印象となるが。わたしとしてはそのことよりもむしろ、社会主義の下での自由権など権利規定を明確にした点、近年の議論をふまえた評価できる点だと思う。
旧赫旗の綱領でも各分野別に社会革命の内容はいろいろ書かれているが、中心は、権力奪取と主要な生産手段の国有化となっていて、このことと分野綱領とくに差別問題とがカイ離している。差別支配は階級支配のテコだから、階級支配を倒す一環として差別問題にも取り組む、という把握になっていて、分業への隷属、男女の役割分業など経済的基礎のところでの把握になっていない。社会的分業への隷属からの解放というのが、共産主義者の独自の課題としてあるわけで、人間の自由な発展を中心課題とする必要がある。
「賃労働の廃止・自己実現への転化」という共産主義者の目標を、共同声明で書き忘れた。
それは、管理・被管理、使役・被使役の分業の克服ということと同義語だ。分業への隷属と差別問題は深く結びついている。政治的な分断支配だけの問題ではない。
司会 共同声明の内容で一番欠けているものは?
やはり具体性か。現実のたたかいを踏まえた裏付けが弱い。ある意味では仮説という段階か。
「党の綱領的目標」の部分では、マルクス主義を堅持する人の範囲ではそんなに異論はないと思う。日本革命の路線のところでは、米帝の把握で異論があるぐらいか。
実践的裏付け、検証が今後の課題ということになるが、個人的な問題意識としては二つの課題を感じている。一つは、石油ショック以降の世界資本主義の変化、とくに日本では本格的な多国籍企業化に入る九〇年代以降の変化、規制緩和・撤廃や企業系列の動揺で、日本の支配秩序の転換がすすみつつある。その辺の突っ込んだ現状分析が重要だ。もう一つは、ソ連崩壊の総括を、どういう将来社会を作るのかと関連して具体的にやる必要がある。ぼくの問題意識としては政治システム、党・国家一体化の反面教師の分析だ。
共同声明の世界資本主義の把え方としては、グローバリズムの進展が新しい階級闘争の発展の条件を作っていることを強調している点が、印象的だ。主体的努力を欠けば楽観的すぎるとも言えるが、左翼全体が悲観的になっているなかでは、それを強調して新しい発展の要素を見逃さないようにするべきだ。弁証法的に考えれば当然のことだが。
 思想・政治面では、新しい内容をバンと出したとはまだいえない、今までの問題意識を前面に出したというところ。組織上の面についてだが、私は統合の度に考えるんだけど、やはり違う組織が一緒になるというのは実際なかなか難しい。それでも統合をやれているということは、サークル主義的なものを乗り越えてやれるわけですから、これは大事なことで、ちがう組織が統合するということ自体に意義がある。
統合以前に、左翼は現在の諸運動で協力し合うということも弱いわけだが、これを考えると、日本の新左翼は強弱はあるが「反スタ」というのがある。しかし、その反スタは組織面ではスターリン主義そのものである。一国社会主義批判という面では反スタだが、大衆団体の自党派系列化、大衆団体を大衆団体として発展させる思想・姿勢が弱い。統一戦線、統合を前進させるうえで障害になっている。自戒の意味もこめてだが。
共同声明では、スターリン主義を正しく批判する方向、とくに革命勝利後の党の位置付けなどで、新しい観点が出されていると思う。スターリン主義批判を活動作風の問題として立てることは、旧来から構改系やノンセクトもやってきたと思うが、その人たちのスタ批判は今日的には共産主義の放棄になってしまっている場合が多い。
司会 毛派的立場から全体的に言うとどうですか。
毛派としては、旧毛派と言うべきかもしれないが、綱領的な所では、国際的にいぜん存在する現代修正主義潮流、これはソ連党二〇回大会やモスクワ声明を経て形成されたものだが、これへの批判がおもな党派闘争としてふまえられていること、戦術面では、労働運動を軸に統一戦線を作り、それを革命政権に転化していく戦術、これら従来からの、毛派が継承・発展させねばならないと考えているものは、共同声明に入っている。しかし、これはこれまでの防衛的なもので、結成時の地平としてはそれでも良いと思う。組織面では、統合大会でも論議になった「少数派の権利」が規約に入ってるけど、こうした新しい要素を綱領・戦術面でも、実践を経ながら拡げていくべきだと考える。

<より大きな統合へ>

司会 労働者共産党の今後は、ということに移りますが、働きかける相手の左翼の現状をどう見てますか。

日本の新左翼は、いぜんとしてサークル主義が支配的で、そのサークルの現状から脱却しようとする意識も弱い。量的に小さいというだけでなく、政治活動の構えも小さい。
しかも、ソ連崩壊以降は、ぼくらが予想していた以上に新左翼の右への変化が大きい。
 一方では、党絶対主義もいぜん根強い。実践でぶつかった問題を総括しながら方針を作っていく姿勢が弱い。
スターリン主義の克服がなぜ進まないのか。反スタ派のようにスターリン主義イコール反革命と単純に規定すると、自分たち自身に内在する問題としてスタ批判が出てこない。毛派は、スターリン主義は重大な誤りだが、基本的には左翼内部の問題という認識だ。この認識は労働者共産党として一致しているわけではない。主要には、第二次世界大戦後の現代修正主義批判で一致しているので、この問題も実践的にクリアされた。
 トロツキーとスターリンの問題をひっくるめて、時代はその是非を超えて展開した。今の若い人にトロツキーとスターリンがどうこう、と言っても通用しない。
三〇年位前だと層的に、ブントだと、トロツキーではなくレーニン。レーニン主義を実践していたかどうかは別にして、主要にレーニンに依拠するだった。他には、トロツキー、毛沢東、あるいはマルクスのみ、誰を中心にするかという拠り所が各党派にあったが、今はそれがなくなった。かろうじてマルクスで踏みとどまる。マルクスを考え直してみる、分析するという風潮。マルクスに帰って建て直すということならば、そういう領域で、広く他潮流とも話はできる時代にはなった。そういう前提になれば、トロツキー、毛沢東だというのは副次的になるのであまり関係ない。今回の統合協議でも、スターリン問題は文書で討論はしたが、その議論にケリを付けることなしに、それに拘わることなく、我われの統合は達成できた。
毛派としても、旧MLの場合だと、トロツキズムであればとにかくダメだという姿勢ではなかった。結局、日本革命にとって有益かどうか具体的関係で考えるわけであり、何々主義を言っているから、ということではない。今は、掲げる思想がそれぞれ相対化されてしまったので、対話の幅が広がったといえる。相対化できない人は、化石として取り残されてしまう。
司会 共同声明では「ブント、毛派の歴史的役割が終了していることを確認し、抜本的再編に着手する」とのことが書かれていますが、ブント系、毛派系に当面働きかけるということですか。他の潮流については‥‥。現実的な可能性として、どうなんですか。
第四インターや革共同を、当面の統合対象とするには無理があると思うが、何々系ということはほとんど意味がなくなってきているので、視野は広く立てておくべきだろう。
トロツキー派や反帝反スタ派も転換をせまられており、個々のメンバーとしてはそういう人も多いはずだ。日共もふくめて、組織の土台の所で客観的な転換が始まっている。主要には、新しい層を考えねばならない。既存の党レベルだけではなく。
諸運動での共同行動は現在的に広くやるべきだが、党の団結については、前に言ったような理論的課題を深める作業をまず先行させなきゃならないと思う。もちろん、交流や討議は並行してやればよい。
司会 団結へ向けたやり方という点で、統合協議を非公開でやるのはけしからんという意見もあるのですが、これについては。
公開・非公開は原則かどうか、というような問題ではない。いろいろやり方はあっていい。公開していけないという「原則」はないが、党は権力奪取の前でも、後でも私的結社であり、そうあるべきだと自分は考えている。もちろん、閉鎖的集団にならないようにすべきだが。
非公開は非民主的、公開は民主的、というのはおかしい。統合の結果を党外に広く示し、批判してもらう、それを吸収し、次の統合に活かしていく、そういうサイクルが民主的ということだ。経験的に言っても、二党間協議の方が成果はあがっている。二党間の具体的な詰めの段階で、第三者の意見を聞いていてもね‥‥。三つ以上が集まって統合以前の交流段階から始めるというなら、公開ということにもなると思うが。
個人の経験だが、これまでの四度の統合は、基本的に二者でやって来て成功した。それへの過程は極めて民主的だった。唯一、公開でされた建党協が最も封鎖的・非民主的だった。
司会 労働者共産党の結成をはじめ、再編・統合の気運は出てきている訳ですが、支配的には、Hさんが述べたようにサークル、セクトにとどまろうとする傾向が強いようですが、その原因はどこにあるのですか。
小さくても組織がそれなりに維持されていると、そこの指導者としては、どうせ自分が生きているうちは革命は無理なんだから、自党派がそれなりに社会的地位を獲得してやっていければそれでよい、という程度の意識になるのではないか。本気で革命を勝ち取ろうとしているのかどうかが問われるのではないか。
もう一つの原因は、今のポスト・モダン的な考え方で、それぞれが見解をもっていればよい、共通の目標、戦術、組織は必要ない、小さいのがネットワークすればよい、とするもの。ネットワーク的な組織論は必要だが、小さい組織に安住する傾向を促進する形になっている。意識的に、統合を実際の課題としては立てない。こういうように、小さい組織は小さい現状で分散を固定化する傾向をもっている。大きい組織は大きいなりに、職革集団があって、それを物質的基盤にして官僚的な自党派維持に腐心している。まあ、どちらの傾向も長くは成り立たないから、悲観すべきことではないが。
司会 なかなか困難な現状もあるようですが、今後の党活動へ向けて一言ずつお願いします。
強いて付言すると、世界でも日本でも、政治・経済的な時代の流れというものがあると思う。それは今、我われにとって追い風ではないが、そういう時代に我われが何を準備していくのか、ということでいいのではないか。その内容を広く大きく提案していければ。

ここ二〇年位を見ると、いくつか階級闘争の発展の諸要素はある。次の世代にバトンタッチしていける運動、理論の財産をどれだけのこせるか。女性と青年を重点に。それをやるには我われ自身が変わっていく必要がある。
毛派としては、他の毛派系の人も含めて、一番大事に考えていることは大衆観点・大衆路線の作風だと思う。そこが共有化されていけば、あとの違いは何とかなってくる。
旧ML派としてはこのかん、毛沢東思想を教条化せず、また清算もせずに、六〇年代に形成された毛派のレベルからいかに離陸していくかということに、かなり長い年月を要したわけだ。ある党派の指導者の人が、共同声明について「毛沢東思想をうまく処理しましたね」と言ったそうだが、日本の毛派はこれまでを総括して次へ進む、ということをほとんどやれていない。共同声明で一定のしめくくりはできたと思う。次の時代に継承・発展させるべき毛派の内容としては、統一戦線の戦術、プロ独裁下の継続革命論の今日的再構成などがあると思うが、それらの基礎になるのは、そういう言葉を使うかどうかは別として、やはり、大衆観点・大衆路線。
ぼくは楽観的だ。たとえば最近出版された『新左翼運動四〇年の光と影』、そこでの多くの指摘は全く正しいことなのだが、暗い印象をぬぐえない。これまでを反省して転換した部分が展望を出していければ良いわけであって、内ゲバに誰も彼もがひたっているわけではない。新しい可能性を拓く傾向も生まれてますよ、ということを言うべきで、その傾向がまだ実際の力になっていないから悲観的になるのだろうが‥‥。しかし、労働者共産党の結成で、その可能性の切り口はつかんだのではないか。その可能性をますます確信して、未来は明るい、ということだ。
司会 それじゃ未来は明るい(笑い)、ということですから、お互いの健闘を期してここらで終わります。 (了)