排他主義の教義による好戦性

森は「神の国」発言のなかで、あるいはその後の弁明のなかで、教育論が発言の本意であるとしている。たとえば「人の命は神様からいただいたものだ」と。だから命は大事にしなければならない、と言いたいのだろう。だがしかし、戦争中は全く逆である。命は神様(天皇)からいただいたのだから、出征して天皇に恩返ししなければならないと、侵略戦争にいって命をおとしてこい、というのが、実際だったのである。

森はまた、無前提に宗教は平和的で、命を大事にしているかのような幻想をまきちらしている。だが、果たしてそうであろうか。キリスト教でいえば、かつての十字軍があり、イスラム教でいえばジハード(聖戦)がある。日本の仏教とて、中世から近世初期には、本覚思想が極端化して、悟りをえた後には、任運無作(自然にまかせて、自己の力を加えないこと)ならば、悪行(殺人、盗みなど)も肯定されるという独善主義の一派を生み出している。日本の仏教諸派のなかでは、いろいろな意味で、最も戦闘的なのが日蓮宗系諸宗派であるが、その流れをくむ井上日召(血盟団事件の首謀者)などは、戦前“一人一殺”の思想をかかげ、実践している。時代背景も、教義体系もことなるが、オウムなども殺人を認めるこの系列に入る。こうしてみると、森のいう、宗教一般が命を大切にするというのは、間違いであることがわかる。 宗教すべてがとは言わないが、その一部が殺人をもいとわないという考えに陥るのは、自己絶対化の結果として、極端な排他主義に至るためである。こうした傾向はなにも殺人肯定だけではない。開祖の絶対化、指導者絶対化の思想も、おなじ思考方法に基づくものである。

 たとえば、創価会1)である。それは一九六九年の総選挙の際に創価学会を批判した出版物の発行を妨害した言論出版妨害事件などに典型的にあらわれている。またその事件の直後までは、王仏冥合(おうぶつめいごう)2)という政教一致の路線のもと、国立戒壇(僧尼になるための戒を授ける施設を国立にする)の構想を最大の政治目標としていた。さすがに世間の批判をあび、おもてむき国立戒壇はひっこめざるを得なくなった。だが、指導者絶対化と排他主義という組織体質はなくなったであろうか。否である。それは次のことで明らかである。選挙戦で、創価学会員に投票すべき候補者が割り当てられ、時には投票日前日に、投票すべき候補者が変わっても、何の疑問ももつことなく多くの学会員が従うという組織体質が発揮されるのである。教義的には、政教一致主義が放棄されたとはいえないのである。

こうした組織体質は、現世利益という教えと強烈な排他主義、それに宗教活動と政治活動が癒着した思想性に基づくものである。いかに創価学会と公明党に組織をわけたとしても、肝心の創価学会の思想と体質は、政教分離でなく、指導者のいうがままに動くというものからは、解放されていない。

 

注1)創価学会は、一九三〇年に牧口常三郎と戸田城聖らによって設立された初等教育の 研究団体(創価教育学会)として出発する。一五年戦争の時代に新宗教化し、日蓮正教 (日蓮死後、日蓮宗は四分五烈したが、六人の高弟の一人・日興が開いたのが、日蓮正 教)の信者団体として宗教活動を展開した。池田大作は、最近まで日蓮正教の在家信者 を代表し、統率する法華講総講頭であったが、日蓮正教(総本山・大石寺)と対立し破 門されている。

2)日蓮正教の伝統的な教えによると、日蓮正教こそが唯一の正しい宗教(正法)であ り、この教えを広め(広宣流布)、天皇や将軍などの最高権力者がこの教えに帰依する ことによって、正しい宗教と正しい政治が実現する(王仏冥合)という独善的な考え方 がある(冥合とは、しらないうちに合一すること)。