大競争時代に入った帝国主義経済


                                                                  三橋一郎


1 戦後成長条件の終焉示した70年代不況


1970年代から80年代の初めにかけて、帝国主義諸国経済は戦後最大の不況に陥った。73年と79年の2度にわたるオイルショックはこの不況を一層深刻なものにした。
帝国主義の経済実勢を示すOECD加盟国全体の実質経済成長率によれば、第一次オイルショック後の75年にはマイナス0.2%と戦後はじめてマイナス成長を記録した。73年から83年までの長期不況の期間では、年平均2.1%の成長率を示したにすぎず、60年代の成長率5.0%の半分以下にまで低下した。
経済成長率の低下にともなって、失業率が大幅に増加した。OECD加盟国全体で、オイルショック以前の73年には3.5%とほぼ完全雇用に近かったものが、75年には5.2%、82年には8.4%の高さにまでふくれあがった。
経済成長率の低下、失業率の増大に加えて、70年代不況を特徴づけたものは、不況期でありながらインフレが進行し続けたことであった。古典的には、不況期には物価の下落が起こり、インフレは収束すると理解されているが、70年代不況ではこの回復力は働かなかった。OECD加盟国全体の消費者物価の上昇率をみると、高度成長期前半の59〜64年には年平均で2.2%、65〜69年3.7%、70〜73年6.0%と次第に上昇している。これが第一次オイルショック以後の74〜75年になると、一挙に13%とふたけたの上昇率に達した。OECD諸国のインフレは75年以降、一時鎮静化していたが、79年の第二次オイルショックを経て、再びふたけたの上昇率にはね上った。70年代、帝国主義諸国経済は長期不況に陥るなかで、物価はふたけたの上昇率を示す、いわゆるスタグフレーションの状態に陥った。
帝国主義諸国は、景気回復策をとろうとすれば、より深刻なインフレーションを招き、インフレ対策をとろうとすれば、より厳しい経済不況を覚悟しなければならないというジレンマにおちこんだ。
帝国主義諸国は現実には、インフレ対策として一方では高めの金利を維持しながらも、深刻な不況に対応するために、75年以降、財政支出を増加し、景気刺激策を採用した。しかし、財政支出の増大は不況を克服するに至らず、結局インフレを一層加速させるとともに、国の財政赤字を膨大なものにさせることになった。82年段階で、帝国主義諸国の政府長期債務残高は対GNP比で、日本42.1%、アメリカ28.8%、西ドイツ18.4%と巨額なものにふくれ上った。
帝国主義者達が、戦後の復興と高度経済成長の過程で政策の基本にすえてきたケインズ主義が、実際の経済運営において通用しなくなってきた。

   (A) 戦後成長条件の終焉


70年代不況は、帝国主義諸国経済が戦後復興とそれに続く高度成長を果たしてきた結果、皮肉にもその帰結ゆえに成長条件が失われたことによってひき起こされた。高度経済成長が実現されてきた条件を確認しつつ、それらの条件の喪失によって70年代不況がひき起こされてきた過程をふり返ってみたい。

            (1)アメリカのドルたれ流しの限界とIMF体制の崩壊
IMF体制は戦後アメリカ経済の圧倒的優位(世界の公的金準備の70%を保有)を背景に、金1オンス=35ドルでの金兌換を保証することを基本にして、各国通貨を対ドル交換比率で評価する、いわばドル本位制の国際通貨制度であった。
アメリカにとっては自国の管理通貨(印刷すればドンドンできる)であるドルで対外決済をおこなうことができる。ドルを受け取った国が、アメリカに対して兌換を求めないかぎり、アメリカの対外流動負債としてとどまり、アメリカは自国の国際収支の赤字をこれらの負債で決済することができた。アメリカは国際収支均衡を経済政策の目標から度外視して、対外援助や海外軍事支出、民間資本輸出などをおこなうことができた。アメリカは自らの世界政策として長期にわたって、大量のドル散布をつづけた。
50年代、アメリカ以外の諸国では、多額の援助(マーシャル援助、ガリオア援助)などを契機にして豊かになった外貨準備を背景に、国内での通貨供給を膨張させ、アメリカの成長促進政策に呼応した高度成長を目標とする需要創出策がすすめられた。
60年代の高度成長期には、アメリカのドル散布が続くなかで、国際収支黒字国には対外支払い準備としてのドルが過剰に堆積されていった。だが国際的にドル不足の間は、これらの過剰ドルはユーロダラー市場を通して、その他の諸国の経済拡大の原資となったり、米国系多国籍企業の活動資金となったりして機能した。つまり黒字国にとっては過剰国際流動性となっても、国際金融市場を通して国際的規模での経済の拡大に吸収されてきた。 60年代後半になると、アメリカのベトナム侵略戦争が続くなかでの大量のドル撤布を経て、ユーロダラー市場に堆積された過剰ドル残高は、アメリカの公的金準備の数倍にふくれあがった。アメリカは金ドル交換に応じられず、71年8月、名実ともにドルの金兌換は停止され、71年12月と73年2月にはドルの大幅切り下げが断行された。73年2月のスミソニアン合意では、従来の固定相場制が廃止され、ドルを含めて国際通貨は変動相場制に移行することになった。
アメリカは過剰なドル撤布をすれば、ドル切り下げをもたらすことになった。70年代に入って、無制限のドルたれ流しを背景としたアメリカの世界政策は、大きな制約を受けることになった。
IMF体制のもとで、戦後世界経済の拡大を資金的に支えてきた主要な条件の1つが消滅した。

             (2)ケインズ主義経済政策の破綻
現代帝国主義では、資本の高度の集積・集中の結果、主要産業部門において少数の大企業による寡占的市場支配が確立されている。市場価格はこれらの大企業の手で管理され、独占価格が形成されている。
独占企業は不況期において価格崩落を阻止するため、寡占的結託にもとづいて生産制限をおこない、市場への供給量の調整をおこなう。そのため価格の下方硬直性がつよまって、現代帝国主義の下では恐慌期の物価暴落現象はほとんどみられなくなった。しかし、不況期に独占資本が生産制限を強める結果、価格の崩落が阻止されるかわりに、生産量の収縮が大幅となり、不況が長期化し、大量の失業者を排出する結果をもたらす。資本主義の体制的危機をもたらす。1930年代の長期不況は、歴史上明確な形で登場した、この種の不況であった。
体制的危機を回避するために、国家の経済への介入が必然化された。管理通貨制度の採用は、国家財政の赤字スペンディングによって、恐慌期の需要減退を緩和し、生産と雇用の大幅な低下を回避する政策をとりやすくした。アメリカによるドル撤布政策は、戦後各国政府の財政の赤字スペンディングの条件になっていた。
また独占資本は、人口の圧倒的多数を占め、発言力を増してきた労働者階級の体制への反逆を抑え、体制内に順応させることを求めてきた。労働者階級の上層を継続的に買収し、労働組合官僚に一定の譲歩を与え、名目賃金の上昇をはかることによって、労働者支配を謀ってきた。このカラクリは、実際には、賃金の上昇分を製品価格に転嫁し、実質賃金の上昇を阻止して、資本蓄積を進行するものであった。独占資本のこれらの政策によって、現代帝国主義の下ではゆるやかなインフレが、経済活動の中に組み込まれてきた。
しかし、70年代に入ると、独占資本の市場価格への支配力が巨大になることによって、不況期の国家財政の赤字スペンディングによる需要の下支え政策が、資本の独占価格の維持によって吸収され、生産、雇用の拡大が円滑に進まなくなった。景気後退が続くなかで、物価が高騰するという新しい現象(スタグフレーション)があらわれた。この下で、国家財政の赤字スペンディングによる需要創出という戦後復興とそれに続く高度経済成長をもたらしてきた政策は、国家財政の大幅赤字を慢性化させ、危機的状態を生み出すものとなってきた。ケインズ主義の限界が声高に主張されるようになった。

            (3)第三世界諸国の反撃
戦後、植民地の独立がアジア、アフリカで急速に進み、50年代後半には植民地制度の崩壊は、最終局面に入った。旧植民地諸国は、政治的独立を獲得し、自立した国民経済の形成に向けて動き出した。
帝国主義諸国はしかし、これら第三世界諸国の運命を資本主義体制の枠内に、販売市場、原料供給基地さらには体制維持のための軍事的政治的戦略配置の一環として留めおくために、新植民地主義政策をおしすすめた。
戦後、帝国主義主導の経済体制のなかで、第三世界諸国の植民地型経済構造からの脱皮、経済自立の課題は厳しい条件の下におかれた。アメリカの余剰農産物処理のための輸出奨励金の支出、帝国主義諸国での農業保護策の実施や石油化学産業の発展で、合成繊維、化学繊維や合成ゴムの開発にみられるような原料資源の変化などで、石油などの戦略物資以外では、従来第三世界諸国の輸出品の中心になっていたものの需要が大幅に減少し、価格が低位におさえられてきた。第三世界諸国人民の生活条件は、戦後一貫して飢餓状態に近い、低位に押さえ込まれてきた。
加えて、帝国主義主導の世界貿易体制であるGATTは、自由、多角、無差別を原則としており、その相互主義は第三世界諸国が帝国主義から関税上の利益を受けるためには、帝国主義の輸出品目に対して第三世界諸国もまた関税上の利益を与えなければならなかった。経済力の弱い第三世界諸国にとって、圧倒的不利をおしつけられてきた。
第三世界諸国は60年代に入ると、国連貿易開発会議(UNCTAD)や石油輸出国機構(OPEC)を通して、自らの要求を主張しはじめた。73年秋の中東戦争を契機としたOPECの石油輸出制限と石油価格の引き上げは、その直前のドルの大幅切り下げによるドル資産の減価、帝国主義諸国におけるインフレの高進での工業製品価格の高騰など、帝国主義諸国の都合で、第三世界諸国の富が勝手に切り下げられるという現実に対する反撃でもあった。OPECを武器とした産油国の結束によって、オイルショック以前は1バレル=3ドル以下という超安値で取引きされてきた石油は、2度のオイルショックを経て、1バレル=30ドル強と、約10倍にはねあがった。
OPECの成功に刺激されて、第三世界諸国の「資源ナショナリズム」は急速に高まり、各種の生産国同盟の結成と、一次産品価格の引き上げの試みがなされた。資源供給と資源価格の決定権をみずからの手に取り戻そうという第三世界諸国の動きは、アメリカをはじめとする帝国主義諸国が戦後長らく享受してきた「自由で安価な」原料市場の確保を困難にし、帝国主義の資本蓄積の条件を大幅に悪化させることになった。

70年代不況は、戦後帝国主義経済の成長条件をもたらした構造が、いきづまったことによって引き起こされた。帝国主義者たちは、このままではやっていけない状態においこまれた。

    (B) 80年代帝国主義の反動的延命策


かつて帝国主義の歴史では、70年代不況のような構造的不況の下では、各国独占資本が保護主義に走り、その結果2度にわたる世界戦争を引き起こした。しかし独占資本の規模が一層巨大になり、多国籍企業として帝国主義諸国のそれぞれに拠点を設定した現状では、安易に帝国主義戦争に訴えることはできない。帝国主義者たちの基本動向は、帝国主義同士が相互に強豪しつつも、協調して、犠牲をより弱者におしつけることによって、眼前の局面を打開していく以外になくなっている。80年代に入って、これらの矛盾は帝国主義諸国労働者人民と第三世界諸国人民の上におしつけられつつ、帝国主義の反動的延命策がとられることになった。

            (1)新自由主義の台頭
70年代、ケインズ主義による経済政策が破綻するなかで、巨大独占資本の利益をより大ぴらに擁護する、いわゆるサプライサイドに立つ経済政策を標榜する勢力が台頭した。レーガクミックス、サッチャーリズムと呼ばれる勢力で、日本の名過疎値もこの勢力の一部を形成した。その特徴の第一は、独占資本の租税負担をはじめとする社会的負担を極力軽減し、独占資本の利益を最大限に引き出すことによって、経済の活性化をはかろうとすること、第二に、そのために国家の活動を改革(行政改革)し、国営企業の民営化、社会保障費の大幅削減など、行政がおこなってきた社会的サービス事業を削減すること、第三に、しかしながら、独占資本の海外での権益を防衛するために軍事力にはより以上の支出をすることである。巨大独占資本が弱者に犠牲をおしつけ、その分、自らの蓄積を増加しようという、新しい自由主義の主張であった。
レーガンは81年諸島に大統領に就任するや、「経済建設計画」を発表した。それは、新自由主義勢力の経済政策の共通する基本的内容となった。
レーガンの「経済建設計画」は、 政府支出の伸びを大幅に抑制すること、 個人、法人の大幅減税、 政府による企業への各種規制の緩和、 インフレ対策として通貨供給量の抑制をはかり、安定的な金融政策をとること、などであった。
政府支出の抑制としては、人件費や補助金の見直しや圧縮、社会保障費の切り詰めであり、この結果、82〜84年の3年間で1300億ドルの政府支出の削減が目論まれた。ただし、一方ではソ連の軍事力を前世界的に封じ込める「強いアメリカ」政策が展開されたため、総体での政府支出は拡大することとなった。減税では、個人所得税を81年から1年毎に計3回、計25%引き下げ、企業には減価償却期間を短縮し、年間の租税負担を軽減させた。
 これらの減税措置によって、81年からの6年間に減税総額は7400億ドルと見積もった。企業の規制緩和では、自動車の安全基準の緩和、鉄鋼業の大気汚染基準の緩和などが強行された。

             (2)日本、西ドイツによるアメリカへの資金供給
アメリカ帝国主義は、戦後世界の反革命の盟主として、世界に軍隊を展開している。もちろんそれ自身米帝の独占資本に対するテコ入れであるわけだが、その結果、米帝の財政赤字は一貫して続き、80年代に入っても毎年2000億ドル前後の財政赤字を出し続けてきた。 一方、企業の海外投資、多国籍企業化などで、貿易収支の黒字を維持し、70年代まで黒字計上してきた経常収支は、80年代に入って産業空洞化現象が進むとともに、貿易収支を極端に悪化させ、大幅赤字をもたらすようになった。はじめて赤字を計上した83年には500億ドル弱であった経常収支赤字は、87年には1500億ドルを超えるまでに拡大した。
米帝の財政赤字と経常収支赤字という「双子の赤字」はもはや米帝自身の力量では解決できなくなった。アメリカの国債発行は残高で80年末の9300億ドルから88年3月末には2兆4900億ドルの規模にまでふくれあがった。そのうち海外所有額は3200億ドルで、海外所有額のうち西ドイツ、日本が約半数を占めていた。また、87年末の社債、株式などへの民間の対米投資残高は3400億ドルを超えており、海外資金がアメリカに流入し、それによって米帝の財政とアメリカ経済の運営が実現されるようになった。
アメリカはこの結果、80年代半ば純債務国に転落し、以後、対外純債務残高を拡大し続けている。1999年には、1兆4000億ドルという途方もない額に拡大した。
60年代、IMF体制の下で、米帝はドルをたれ流しすることで、国際流動性を拡大し、帝国主義世界経済の高成長を実現してきたが、80年代は、アメリカ経済を中心としながらも、西ドイツや日本などの帝国主義が、米帝に協調しつつ、資金を米帝に供給し、支える構造がつくられてきた。以後現在もこの基調は続いている。

             (3)第三世界諸国の「資源ナショナリズム」の圧殺
アメリカをはじめとする帝国主義は、70年代の第三世界諸国の「資源ナショナリズム」を背景とした一次産品の輸出制限と値上げ攻勢に対抗して、相互の協調体制をとった。
帝国主義は第一に、70年代長期不況期に産業構造の基本的転換を画策した。60年代に至るまでの高度成長を支えてきた重厚長大型産業の拡大によるエネルギー高使用の産業構造を変革して、コンピューターなど電子機器を活用した製品の小型化、高性能化すなわち軽薄短小型の製品の生産によって、省エネルギー型の産業構造への転換をはかった。この結果、80年代エネルギー消費の伸びは、経済成長率の低下を割り引いたとしても大幅に低下した。
また、オイルショック後、帝国主義はOPECの力量を弱めることをねらって、エネルギー資源の多様化、分散化を画策した。73〜86年についてみると、石油消費の伸びは平均年0.3%の微増に陥ったのに対して、石炭は2.0%と増加をみせた。そればかりではない。帝国主義の徹底したOPEC抑圧政策は、一方でこの間、北海、アラスカ、メキシコ、ブラジルなどOPEC以外の原油生産をおしすすめた。73年〜88年にOPECの生産量は32%減少したのに対し、非OPEC原油は諸国の生産は54%も増加した。これらの結果、OPEC原油は81年の1バレル=34ドルから88年には14.8ドルへと60%もの価格の切り下げを余儀なくされた。
この減少は石油だけではなかった。鉄鉱石においても、81年トン当たり26ドル伸びは輸出価格が88年には23ドルに低下しており、また主要食料品の小麦も、81年には1ブッシェルにつき4.8ドルだったものが88年には4.0ドルに抑えられてきた。第三世界諸国の主要輸出品である一次産品が帝国主義の圧力で、80年代を通して再び低価格におし下げられてきた。

82年末以降、アメリカ経済は徹底した巨大独占資本優遇策などによって、不況の底から回復に転じた。
82〜84年には総額1000億ドルが年間減税され、それが刺激になって国内需要が次第に拡大した。所得税の減税によって個人消費が大幅に増加し、また加速償却制の導入によって民間設備投資も急速に増大した。
一方、インフレ抑制のため、アメリカの金利は諸外国に比較して高い水準にあったためもあって、多額の外国資金がアメリカに流入した。ドルの為替レートは85年「プラザ合意」に至るまで上昇を続けた。ドル高は外国製品のアメリカへの輸入を刺激した。アメリカの輸入数量は83年から85年の間に46%も増大した。アメリカ経済は実質で84年6.8%、85年3.4%と比較的高い成長を示した。
80年代前半(83〜85年)の世界経済は、83年以後ゆるやかな拡大傾向に転じたが、それはアメリカの国内需要の拡大と輸入の激増によるところが大きかった。
85年「プラザ合意」によるドル高修正は、円ドルレートでみると、85年3月の1ドル252.5円から87年末には123.5円と51%もドル安となった。西ドイツマルクも51%、イギリスポンドは40%のドル安となった。86年以降、こうしたドルの大幅下落で日本や西ヨーロッパの対米輸出が一定制約された。しかし、アメリカ経済の産業空洞化による輸入体質の定着、アメリカ国内の消費ブームの継続で、アメリカの輸入は85年1500億ドル、87年1700億ドルの入超と、貿易収支の大幅な赤字体質は改善されなかった。
70年代から80年代、アメリカ製品は海外ばかりでなく、国内でも次から次へと「メイドインジャパン」に市場を奪われていった。安い外国製品の洪水は消費者やそれを用いる生産者には良いが、競合する企業や労働組合はそうはいかない。議会や政府も座視できなかった。日本をターゲットにした貿易摩擦が多くの分野で頻発した。また、外国製品に負けたり、それへの巻き返しをはかる企業は工場を国内から外国の低賃金国へ移した。事業の主力をもっと利益のあがるサービス業へ衣替えする会社も増えた。80年代、アメリカの会社は、大きな転換の中に突入した。アメリカ経済のこれらの変化が、長期にわたる好況をもたらしている一方で、貿易収支の赤字化をまねき、経常収支の赤字や対外純債務残高の急速な増加をもたらし続けてきた。
これらの現象的な変化を示しつつ、アメリカ経済は80年代半ば以降、本格的な質的変化を遂げていった。

2 米帝の覇権維持と金融資本のグローバル化


1971年、米帝はニクソンの新経済政策によって、ドルと金の交換停止を一方的に宣言した。この時点でドルは基軸通貨(国際決済通貨)である正当性を失った。ドルは71年12月と73年2月の大幅な切り下げを経て、73年2月には、スミソニアン合意の下に、従来の固定相場制から変動相場制に移行した。
ドルはかたちの上では、円やマルクなどの通貨と同じものとなったが、米帝の覇権国家としての地位、アメリカ経済が質量ともに世界経済の中心として機能しているという現実から、依然として基軸通貨としての役割を果たし続けた。アメリカは基軸通貨国としての義務から開放されつつも、基軸通貨国としての特権だけを享受するようになった。アメリカは貿易赤字を出しても、ドルをたれ流して支払えばよくなったのである。
アメリカ製造業の生産性の悪化が表面化し、市場占有率の低下がはっきりと表わされてきた80年代以降、アメリカは貿易収支の状況を悪化させ、80年代半ば以降は貿易赤字を次第に膨張させてきた。これに伴ってアメリカは対外債務(対外的な借金)を累積させてきた。
アメリカの対外債務残高は、1999年には1兆4000億ドル(GDPの約2割り)にまでふくれあがり、いまやアメリカは世界にずば抜けた債務国になっている。世界一の借金国の通貨が国際決済通貨であるという矛盾が、現実となっている。ドルが国際決済通貨であるために、短期的には、否応なしに諸外国はドル資産を対外準備として保有せざるをえない。しかし中長期的には、基軸通貨国アメリカの対外債務の膨大な累積は、ドルの信認を危うくさせている。ドル価値の崩落が、いつ起こってもおかしくない状況に直面している。
貿易赤字が体質化しているアメリカ経済の現実のもとで、ドルの信認が動揺する危険性を少しでも低下させるためには、アメリカはドルを国際決済通貨として使用するように各国を縛りつけておかねばならない。これなしにはドルの崩落が起こりかねない。
さらにアメリカは、膨張する貿易赤字をファイナンスするために、巨額の資金流入に依存しなければならない。80年代以降、日本や西独を中心に政府及び民間向けの対米投資が増大した。その既決が1兆4000億ドルに及ぶ対外債務残高の積み上げとなった。しかし、このままではアメリカの対外債務は、膨らむばかりだ。
そこで、流入する海外資金の再投資先を確保して、投資収益を上げる必要が生ずる。帝国主義諸国のみならず、新興工業国や発展途上国を含めたグローバルな規模で金融自由化政策を強制することが、アメリカ帝国主義の覇権維持のために不可欠となる。金融自由化政策によって、絶えずドルを世界中で流通させ、かつアメリカに還流する仕組みを作り上げねばならなくなる。
ところが、自らのドルたれ流しによって作り出された過剰流動性が、国際金融市場を著しく不安定化させる。ドル資金が激しく動き回るようになるため、ドルは乱高下しやすくなる。そこでリスクを回避するために、アメリカ金融業は流動性選考を強めて証券化が進展する。銀行融資の場合、たとえ短期融資であっても、一定期間、資金が固定化されてしまうのに対して、証券投資は不利になれば売り払えばよいので、逃げ足が一層速くなる。 証券化は資金移動を一層加速化させ、金融市場の不安定性を高める。そこで、リスクを回避するために、金融デリバティブ(金融派生商品)が発達する。アメリカの大手銀行は、預貸業務かに簿外取引である金融デリバティブ取引へ、それも店頭デリバティブへと、大幅に業務シフトしていった。情報技術の革新が、それを支えた。
本来、リスクを回避するために取引された金融デリバティブ自体が、投機的取引の対象になるにつれて、むしろ国際通貨制度における間欠的なショックをもたらすことになった。金融デリバティブは取引時間と空間を超えた取引であるがゆえに、値動きが予想の幅を超えて一方に振れると、オーバーシューティングを生みやすくする。しかも、いったん損失が出ると、同じく危険な国の資産市場から資金を急速に引き揚げるだけでなく、損失をカバーするために、比較的パフォーマンスが良好な国の資産市場でも売りが殺到する。抗して、いわゆる伝染が生じやすくなる。90年代に入ってから92年の欧州通貨危機、ついで94年末のメキシコと95年のアルゼンチンの通貨危機、さらに97年夏以降の東・東南アジア諸国の通貨・経済危機、そして98年のロシアから中南米諸国、さらにアメリカの株価暴落にまで波及した伝染性の国際通貨危機を経験した。
いくつかの因果関連が重なって、悪循環の構造ができている。第一に、相対的な高金利でドル高を維持しつつ、他国から資金流入を確保しなければ、アメリカの株高や景気の拡大が維持できない状況がつくられている。株価の値上がりに伴う資産効果によって消費が増大し、アメリカ経済の長期にわたる景気の拡大がもたらされている。一方で、多くの国が通貨下落とデフレに直面している下では、アメリカは相対的な高金利やドル高で輸入物価も抑えられる。アメリカの輸入は拡大し、アメリカの貿易収支赤字がどんどん膨張する。 アメリカに輸出する諸国(とりわけ日本、中国などのアジア諸国)が獲得した外貨は、相対的に高金利でドル高が維持されているかぎり、アメリカの証券(主に国債)に投じられて還流してゆく。その資金還流によってアメリカの株高、ドル高が昂進されれば、より一層の資金がアメリカに集まる。だがこうした循環は、永続するとは原理的にも困難だ。アメリカの貿易赤字の膨張や対外債務の拡大は、いつかはドルに対する信認をゆるがす。その結果、間断的にドル暴落による調整局面を迎えざるをえない。対米投資されたドル資産価値はいつ暴落し、半値やそれ以下になるかもしれないという危険性を常にもっているのである。
第二に、アメリカは流入してきた資金を再び海外投資(資本輸出)に回して投資収益を上げなければ、膨大な対外債務を支え切れなくなる。アメリカは貿易黒字国に対して「市場開放」を求めるとともに、金融自由化を強制して、グローバルスタンダードという名のアメリカンスタンダードを強要していく。それは、IMFや世界銀行などの国際機関を通じて、新興工業国や発展途上国にも突きつけられていく。今後各国の企業会計制度を変革し、産業資本を投資対象としつつ、急速な経済構造の変革をもたらす。
グローバルな証券化は、ますます逃げ足の速い国際短期資本移動をもたらす。それは新興工業国や発展途上国を頻繁に伝染性の通貨危機に巻き込んでいく。ある国が良好な経済パフォーマンスを示すと、その国の貿易決済必要額や設備投資必要額を超えて、短期資金が流入する。流入した短期資金は土地や株式に回り、それが土地や株式の資産価格を上昇させて、その国をバブル経済に巻き込んでいく。つぎに何らかの経済指標(たとえば貿易収支や物価上昇率など)が悪化したり、政情不安定が生じたりすると、今度は逃げ足の速い証券化された国際短期資金は、瞬く間に流出してしまう。その結果、吊り上げられた株価や地価が急落して、あとは大量の不良債権が累積し、その国の金融システムを破壊していく。こうしてアメリカをはじめとする帝国主義諸国の金融資本は、製造業を中心として成長してきた後発国の成果を、証券投資でもぎとっていく。
伝染性の通貨危機、経済危機が作り出されるたびに、IMF・世銀などの国際機関を中心にして、「公的資金」投入と一層の金融自由化が繰り返され、それがまた危機を醸成していくという悪循環が発生する。
1999年に入って、アジア諸国に景気回復の兆しがみえるといわれている。しかし、それは過度に輸出に依存した「回復」であり、依然として失業率は高く、不良債権額の増加は止っていない。アジア諸国は日本と同様に深刻なストックデフレを抜け出せないでいる。外貨準備の強化を優先するIMFの処方箋に従ったために、輸出依存以外に成長回復の選択肢がなくなってしまったのである。ところが、アジアからの輸入を受け入れられるのは、いまのところバブル経済の最中にあるアメリカだけである。かくして経済回復のために不可欠な輸出を伸ばすために、世界中がアメリカのバブル経済を支えなければならないという構造が現在できあがっているのである。
今日の国際取引の比重は、モノからカネに移り、95年現在、世界貿易額約5兆ドルに対し、外国為替取引高は約500兆ドルであり、世界貿易額の100倍となっている。膨大化した国際的な過剰流動性を扱う金融資本の活動が、産業資本の活動を大きな波のうねりの中で浮沈させるといった現象が頻繁にみられる状況になってきている。
 
3 大競争時代の幕開け告げた90年代アメリカ経済の質的変化


   (A) 企業経営の転換と産業の再編成


戦後、アメリカ帝国主義は、不況期に対する経済政策としてばかりでなく、経済成長を促進する政策の基本としてもケインズ主義的金融財政政策を積極的にすすめた。連邦政府の経済的権限は強化され、労働組合の発言力も飛躍的に高まった。経営者は規制などに服すると同時に、賃金や労働条件の引き上げを要求する組合とわたりあってきた。1960年代末までは、大企業はこれらの環境の中で、内外のビジネスチャンスを生かして繁栄と拡大を続けた。
アメリカ大企業は、1960年代には経済の拡大や産業構造の転換によって生じたビジネスチャンスを生かすべく、経営の多角化を積極的に推進した。鉄鋼最大手のUSスチールが化学産業へ多角化し、その後さらに石油会社を買収してエネルギー産業へと進出したように、大企業が多様な事業を展開する「コングロマリット」への転身をはかった。68年には鉱工業企業200社のうち、181社が10種類以上の異なる製品を作るに至った。この傾向は、その後80年代まで続いた。
1970年代に入ると、一転して大企業の活力の低下、経営の硬直化があらわれた。例えば、鉄鋼や家庭電器、自動車など基幹的な製造業では、画期的な新製品や生産工程の開発は停滞し、むしろ海外企業に対する立ち遅れが明らかになった。また低価格と高品質を武器に海外の競争者は、アメリカ市場への浸透を始めたが、これに対する国内企業の反撃もほとんど成功しなかった。多くの企業は有力な海外勢との正面対決を最初から避け、高収益の高価格製品へと特化したり、海外の低賃金国へ工場を移転することを選んだ。
企業業績の悪化に対して、株主構成の比率の中で次第に勢力を拡大してきた機関投資家たちは、1980年代から90年代前半になると、株主として、直接経営に影響力を行使するようになった。もともとアメリカでは個人株主が多く、運用益をめぐる株主の利害が経営に大きな影響を与えてきたが、機関投資家は個人株主に比べてより敏感に反応した。とくに大企業になるほど、機関投資家の株式保有におけるウェイトは高く、この傾向が強まった。機関投資家は本来、運用益が低下すれば株券を直ちに売却して、もっと利益のあがる投資物件へと乗り換える不安定株主であるが、株価の下がっている株式を売却しようとしても、大量の買い手が容易にみつけられない、という事態に直面し、そこで株式を長期保有する一方、積極的に企業経営に介入し、その業績を改善する方途を選んだ。しかし元来の目的は、運用益の高率な確保にあった。
彼らは、経営陣との直接的な協議を通じて、経営方針の説明や改善を求める圧力をかけた。最も衝撃的だったのは、経営不振にもかかわらず、リストラが速やかに進んでいないと断罪されたアメリカン・エクスプレス、ボーデン、DEC、コダック、GMやIBMなど大企業のトップが、経営責任を追及する機関投資家によって相次いで更迭されたことだった。株主の圧力が強ければ、経営者も業績不振に速やかに対処せざるを得ず、それだけ徹底してリストラが促進された。
1980年代は、アメリカ企業を取り囲む経営環境はいっそう厳しくなった。石油危機やその後のドル高を契機に、日本を筆頭とする低コスト、高品質の海外製品がアメリカ市場に続々と流入した。一方、国内でも技術革新や規制緩和などを通じて、産業の垣根を越えた低コストの新規参入者が相次ぎ、多くの産業では競争が激化した。
業績改善を求める機関投資家の強い圧力にも押され、ほぼすべての企業で、コスト削減と生産効率の上昇、品質やサービスの改善を目的に、経営戦略と組織の抜本的な再構築、いわゆるリストラクチャリングに着手した。

                (1)ダウンサイジング
多くの企業はまず、ダウンサイジングと呼ばれる人員削減策に着手し、一部の組織と事業の統廃合や売却、大規模なレイオフに新規採用の凍結、早期退職奨励制度の実施、パートタイム労働者の採用増加など、さまざまな手段をとった。
不況期の雇用調整はアメリカ企業では常套手段だったが、今回の特徴は、IBMやAT&T、ボーイング、DEC、コダックなど大企業を中心に、好況期に入っても、また黒字決算でも、ダウンサイジングが大規模に続けられたことである。レイオフも従来とは異なって、M&A、事業の統廃合や売却に伴うポスト消滅など、景気が回復してもリコールされる可能性のない永久的な性格のものが増えた。
また、非正社員の雇用が増大し、正社員を代替する傾向が強まった。これらの結果、雇用調整の対象となる人々は、従来の製造業の若手ブルーカラーから、ほぼすべての業種のすべての職種へと広がり、とくに90年代に入ると、優良企業に勤める高学歴で高給の上級管理者にまで雇用不安が拡大した。
                 (2)コア・コンピタンスの確立
ダウンサイジングと並行して、やや長期的視野から競争戦略と組織を見直す方向として、多くの大企業では、自らの本業ないし強い競争力をもつ分野に経営資源を集中するコア・コンピタンスの確立という動きが広がった。60〜70年代にわたって多角化した事業部門は整理され、現在、収益を上げている事業や子会社も本業に集中するため売却された。これが、80〜90年代のM&Aブームの背景となった。
同様の目的から、今まで会社内で行われていたさまざまな業務を外部の企業に委ねる、アウトソーシングが流行した。その範囲は、秘書事務、給与・税金の計算など総務的な仕事はもとより、採用・人事から販売・研究開発・製造までにも及んだ。なかには研究開発のみに特化して、工場をもたない製造業の会社が現れるまでになった。

                 (3)リエンジニアリング
従来、仕事は分業と専門化をベースに組み立てられ、開発や生産・販売などの業務は、それぞれの職能部門が他とは独立して担当していた。その結果、分業が行き過ぎ、それを管理、調整する巨大で複雑な管理機構が必要となり、意志決定も遅れるという弊害が目立つようになった。
また、大量生産システムに代わって、市場の変化により柔軟に対応できる新たな開発・生産方法へと転換する必要も高まった。このためまず、職能志向の組織は、特定の製品およびサービスに即したチームへと変更され、各従業員の仕事の範囲も広げられた。さらに、従業員の相互の密接な協力と迅速な意志決定のために、巨大な事業部に代わって戦略的事業単位(SBU)などの小さな組織体が現場に近いところに多数作られた。彼らは計画の策定や具体的な業務運営に関する決定権限を与えられる一方で、その結果に対する責任も負わされるようになった。
意志決定権限が分散化されるにつれて、本社の役割も変わった。今までのような巨大な管理・命令機能は縮小され、管理層の削減など経営組織のフラット化も進んだ。
製造現場では、会社的品質管理(TQM)など、従業員の参加を重視する新しい経営手法を導入する企業が増えた。複数の職務をこなす多能工を育成し、チーム作業を導入したり、生産工程における労働者の自主的活動(QCサークルなど)を活発にし、従業員の積極的参加を奨励するものであった。これと並行して、個人の業績や能力、企業の業績にリンクさせた給与体系や教育・訓練を重視する会社も増加した。
一部では、部品供給業者との短期的な契約関係を改め、契約する会社の数を削減して開発段階から緊密な情報交換を行うデザイン・インやジャスト・イン・タイムに基づく搬入方法も広がりをみせてきている。

このような経営革新を促進し、可能にした要因の一つには、経営の情報化があった。1980年代半ばからアメリカ企業の情報関連投資は急増し、90年代半ばには、生産者耐久設備投資の20%をも占めるようになった。その後も、パソコンの普及率は上昇し、ネットワークとして利用されるようになると、会社内外の工場やオフィスの間の情報の流れは緊密になり、製品開発のスピードアップや生産工程、在庫管理、部品調達方法の改善が飛躍的にすすんだ。
経営革新の第二は、国際的だった。80年代にはいって、多くの会社は日本など外国企業との間に資本・技術提携を結び、合弁事業を始め、その経営ノウハウを貪欲に吸収した。同時に、アジアなど海外企業からの製品・部品調達のネットワークがさらに広げられ、海外の生産拠点も強化された。
1970年代から80年代半ばには、アメリカ製造業の国際競争力の大幅な低下が表面化した。かつて世界の工業生産の半分以上を占めていたアメリカのシェアは、80年には約30%まで低下し、主要な製造業製品の世界シェアも大きく後退した。また同じく、かつて20%以上にも達していた世界の工業製品およびハイテク製品輸出に占める比重は大きく減少する一方、輸入は急激に増大した。
1990年代初頭の不況から脱出した後、アメリカ産業はめざましい活力を取り戻し、製造業の復活や産業の再活性化と呼ばれる現象をもたらした。経済の順調な拡大により失業率は低下したが、その一方、賃金上昇率は帝国主義諸国の中では最も低く、製品単位当たり労働コストの上昇率は、日本やドイツを大幅に下回った。アメリカ製品の価格競争力は回復し、ハイテク機器を中心に輸出も増加した。世界の工業製品輸出に占めるアメリカのシェアは、86年の15%から95年には18%へと上昇し、世界第一位の座を取り戻した。
90年代、アメリカ帝国主義は企業経営の転換をなしとげ、産業の再編成を強引におしすすめてきた。その結果、アメリカ経済は、バブル状態と呼ばれるような長期の好況局面を続けている。そのメダルの裏側には、アメリカ社会の貧富差の拡大、多くの労働者の切り捨てが進行した。アメリカ帝国主義は、自らがアメリカで行ってきたことをいま全世界的規模で強行しようとしている。90年代アメリカ社会で何が起こったのか。きちんと見据えておかなければならない。

    (B) 永続する企業リストラの下で、切り捨てられる労働者の生活と権利


90年代アメリカでは、永久的なレイオフの頻発などにともなって、失業期間は95年まで上昇し、再就職の条件も80年代の失職者に比べ悪化した。90年代初頭に職を失った人は、最就職時に前職に比べ中位所得が10%低下し、15%の人が健康保険を失った。
雇用が増加したのは、産業別では、従来と同様に第三次部門とくに賃金が平均より低いサービス業と小売業であり、規模別では、中小企業であった。
雇用調整の中心は1980年代前半には、製造業に従事するブルーカラー労働者にあったが、それが一段落した90年代前半には、サービスや小売など非製造業のホワイトカラーへ広がり、すべての業種、すべての職種の人々がその危険にさらされるに至った。
企業は雇用を削減すると同時に、フルタイムで働く正規の常用労働者をさまざまな形態の非正規社員に置き換える方策をとった。これらの非正規社員は、企業にとっては、ほぼ同じ仕事を行う正社員に比べ、概して賃金が低く、年金や医療費などの負担がないうえ、各種の労働保護立法の適用も免れられるというコスト面でのメリットがあった。加えて、雇用期限が限られ、容易に雇用関係を解消できる彼らの存在は、急速に変化する経営環境に柔軟に対応するため、長期の固定的な投資をできるだけ避けようとする企業に対して、必要な時に必要な技能をもった人々を必要な量だけ確保する、人材のジャスト・イン・タイム調達を可能とするものとなった。
80年代から90年代にかけて、アメリカ労働者の実質賃金の長期にわたる低下とその格差の拡大が明らかになった。アメリカの実質賃金は、ほぼ1970年代半ばを屈折点に、90年代半ばまで長期にわたって低下した。
80年代に最も大きな落ち込みを見せたのは、民間非農業部門の雇用者の約80%にあたる生産および非監督労働者であり、週あたりの実質賃金は70年代初頭の360ドルから、80年代半ばには280ドルに、90年代半ばになると260ドルへと低下した。その低下幅は、過去15年間に年率ほぼ0.5%にも達した。
実質賃金低下と並んで、労働者が受け取る賃金の格差が増大した。1970年代以来、アメリカでは高い賃金を受け取る人々の給与は、他の層に比べてより大きく上昇するようになった。大卒者の稼得額は80年代には高卒者よりも30%多かったが、93年には70%にも達した。また経営者と一般従業員との賃金格差も大きく広がり、CEO(最高経営責任者)の総報酬は 、89年から95年に年率5.4%の割合で上昇し、65年には一般従業員の約40倍であったものが、95年には172倍にも増加した。
家計所得格差も広がった。所得金額に応じて全世帯を5つに分け、各5分位ごとの平均所得の変化をみると、1966〜79年の間には全ての5分位層で所得が増加したのに対し、79〜93年の間には、最低5分位層の所得が15%低下したのを筆頭に、第3・5分位以下の層の所得は減少した一方、最高5分位層の所得は18%も増加した。
資本主義は、戦後の一時代を通して、第三世界諸国人民の犠牲の上に、少なくとも帝国主義諸国内の労働者人民に対してはケインズ主義的政策を展開し、一定の生活向上と社会福祉の拡大、物質的豊かさを生み出してきた。しかし、その時代は終わりつつある。資本主義は、帝国主義諸国内の労働者人民の生活をも一律には保証しえなくなり、優勝劣敗、弱肉強食の激烈な競争の中にたたき込む。アメリカ帝国主義は80〜90年代にかけて、基本的にこの転換をなし終えた。
従来のように、大企業を中心にそれぞれのメーカーが全商品をそろえて、それを生産・販売する系列会社をかかえ、ピラミッド型の大企業社会をつくり、それぞれに売上高を競い合う、という時代は終わった。これからは、いらない部門はどんどん切り捨てて、主力商品を絞り、生き残りをかける時代に入っていく。弱肉強食の法則が企業をふるいにかけ、大企業も、その系列中小企業も全部、永続的にふるいにかけられていくことになろうとしている。巨大企業の椅子とりゲームが始まった。
大企業の親会社本体に働いている労働者も、今までのように、企業の安定を前提にして、その企業の栄枯盛衰に依存しつつ、右肩上がりの賃金や労働条件を考えていればよかった時代は終わった。ダウンサイジングやコア・コンピタンスの確立などのリストラが不断にすすむ中で、個人の地位だけでなく職場そのものが不安定にさらされる。非正規社員や中小企業労働者は、大企業の戦略の変化の中で、常に雇用不安におびやかされる。企業の事業所の存在する地域社会においても、工場や事業所が一方的に地域社会から逃げ出すケースがふえて、過疎化や不平等が広がったり、地域の小売業者の連鎖倒産が起こったりすることになる。国境を超えた企業淘汰の嵐が、吹き荒れはじめている。
今は、大企業の中で働く人も、中小企業も個人事業主も、それらで働く人たちも、全部ふくめて寄らば大樹の陰を決めこんでいられなくなっている。たたかわなければ、生きていけない社会にだんだんなってきている。資本主義が帝国主義世界戦争もひき起こせない状況に陥って、世界の労働者人民の生命と権利を犠牲にして、それを食い物にして延命していく時代に入ってきている。帝国主義の新たな、そして歴史的には最終的な発展段階に突入したと言うべきだろう。  (以上)