戦後日本資本主義と労働者階級の状態
                   安田 兼定
【以下は、『プロレタリア』紙178~183号(1984年7月25日~1985年1月1日号)の一部を転載したものである】

   目 次  
(一)戦前にもまして強大な帝国主義                       
   生産力の巨大な発展/第Ⅰ部門の自立と国内消費の拡大/高度成長の破綻と構造的 
   矛盾の蓄積(178号)
(二) 階級構成の変化
   資本蓄積にみあう資本家階級の増大/農民層の激減/労働力人口の2/3を占める
   労働者階級/ピラミッド型の支配構造(179号)
(三) 労働者階級の状態
   賃金格差の拡大/実態表わす長時間労働/国独資型の労資関係の手直し/より下層
   の貧窮化/全民協以後大企業のスト激減/「豊かな社会」の宣伝、反論する貧困層
   の存在/帝国主義諸国に特有な新しい形での貧困問題/「高くつく家計」で家族就
   労の拡大(180,181,182号)――〔以上、略〕
(四)若干の思想的理論的諸問題―現代修正主義批判 (183号)                
   帝国主義日本における階級闘争の諸条件に対する無自覚性/思想変革なき「諸要求 
   運動」/現代修正主義との分水嶺/マルクス的革命観の再生を

         

   (四) 若干の思想的理論的諸問題―現代修正主義批判

 これまでは、戦後の日本資本主義の特徴に規定された労働者階級の状態をみてきた。しかもそれは、極めて限定された重要なポイントに限られたものでしかなかった。われわれのこの面における活動は、未だほんの入口にさしかかったばかりであり、今後多くの同志とともに、相互討論・相互批判を通じ、内容をふかめ、労働者階級の解放へいささかなりとも貢献しようという段階にあるからにほかならない。
 そこで、今回は、本シリーズのとりあえずのまとめとして、また今後の前進へと一歩をふみだすために、労働者階級の状態、日本帝国主義批判、日本革命勝利への方向―などの諸領域にかかわって、若干の理論的思想的諸問題を整理してみることにした。
 その際、現代資本主義との一線を画し、それへの批判を中心に展開した。それは、今日において、現代修正主義との闘いが、日本革命運動の発展にとって、とりわけ重要な情況になっており、また「帝国主義の闘争は、それが日和見主義にたいする闘争と不可分に結合されないなら、ひとつの空虚な虚偽の空文句にすぎない」(レーニン)からである。

帝国主義日本における階級闘争の諸条件に対する無自覚性

 帝国主義の第三世界人民に対する搾取・収奪の大まかな規模は、サミール・アミンの方式(『帝国主義と不均等発展』第三書館)によると、次のようななる。
 世界の「中心」である帝国主義諸国の国民の人口(資本家階級もふくめ)は、全世界の人口のわずか二六%にもかかわらず、所得は、世界の総所得の七二%を占めている。これに対し、「周辺部」の国民の人口(資本家階級をふくめ)は、全世界の七四%という多さにもかかわらず、所得はわzか二八%である(1980年現在)。
 これをさらに、労働者、失業者、農民、プロレタリア化した小ブルなど人民の合計が、「中心部」と「周辺部」ではどのような割合になっているかをみると、「中心部」では世界人口の二〇%にもかかわらず、世界の総所得の三八%、「周辺部」では、世界人口の六九%という多数を占めるのに、所得はたった一七%という割合になっている。
 まさに気の遠くなるような帝国主義の搾取・収奪ぶりである。だが、これは単なる驚きではすまされない。日本の労働者階級は、まぎれもなく帝国主義である「中心部」の人民に位置するからにほかならない。「中心部」の人民に対する帝国主義のオコボレもはっきりと数字にでているのだ!
 日本帝国主義は、高度経済成長の時期に重化学工業を中心に生産力を飛躍的に発展させ、「中心部」の中でも最も悪らつな帝国主義の一つとして、全世界人民を搾取・収奪してきたし、今もなおしている。
 それは、この間の商品輸出、資本輸出の驚異的拡大にもっともよくあらわれている。
 日本帝国主義の輸出額は、1957~59年平均で30億6400万ドルだったのが、1980~82年平均では1402億2300万ドル(世界第三位)と、約四六倍となり、世界貿易における輸出シェアは、1960年の3・6%から82年には、7・6%と倍以上に拡大している(同じに時期に輸入シェアは、3・8%から6・9%と拡大)。しかも輸出の品目構成は、第1表(略)にあるように、圧倒的多数が重化学工業品である(輸出先は、「先進工業国」が49%、第三世界が45%)。このことは、第三世界との関係では、工業製品と農産物・資源との不等価交換、工業品製造における一部第三世界の下請化(環太平洋経済圏)などによる収奪が構造的におしすすめられていることを意味する。戦後の日本資本主義は、「貿易立国」と称して、重化学工業製品を中心に輸出を伸ばし、その反面第一次産品(1982年の品目別輸入では、燃料が49・7%、原料が14・3%、食料が11・0%を占める)を安く買いたたいて輸入している。
 こうした「貿易立国」の構造は、直接間接に第三世界からの厖大な収奪を最大の基盤としているのであり、今日の「豊かさ」を何か「日本人の勤勉さ」一般や、「技術の高さ」一般によるものと考えるのは、全くのブルジョア的観点である。
 第三世界からの価値移転は、貿易を通した収奪のみならず、資本輸出の拡大による直接的搾取によってもおこなわれている。この傾向は、近年とみに増大している。
 日本帝国主義の資本輸出は、1968~71の各年度では5~9億ドル台だったのが、1972年度に一挙に23億4000万ドルにはねあがり、以降1977年度まで20~30億ドル台をつづけた。そして、1978~80年度はさらに拡大して40億ドル台となる。第一次オイル・ショック以降の世界的な長期不況は、過剰資本の増大をより顕在化させ、資本輸出に拍車をかけたのである。そして、第二次オイル・ショック時の不況圧力は、またもや資本輸出の規模を拡大させ、1981年度89億ドル、1982年度77億ドルと跳ね上がった。この結果、1983年3月末現在、日本の海外直接投資の累計額は、531億3000万ドルの巨額にのぼり、アメリカ、イギリスに次ぐ資本輸出国として、日本帝国主義は、全世界人民とりわけ第三世界人民の生き血をすする巨大な帝国主義として君臨していのである。
 世界の搾取・収奪構造における、このような日本帝国主義の位置、地位をみれば日「共」現代修正主義の「日本帝国主義否定」論がいかに反人民的反動的であるかよくわかる。日「共」は、アメリカ帝国主義に対する日本帝国主義の従属面のみを強調し、世界的な搾取・収奪構造における日本帝国主義の位置と役割をあいまいにし、日本帝国主義の反人民的反革命的役割をまさに免罪し、第三世界人民に敵対しているのである。
 世界における帝国主義日本の位置と役割を正当に分析、評価しない現代修正主義の反動性は、南朝鮮、東南アジア人民との階級的連帯を軽視するだけでなく、帝国主義日本における階級闘争の特殊性に無自覚となり、日本における運動を不断に小ブルジョア的な方向に推進させていくことにもなっている。
 まず理論的には、今日の「先進国」では、マルクスのいう、資本の蓄積法則に応じた貧困化法則はあてはまらないという一部の主張、又(また)マルクスの貧困化法則の正しさに対する動揺性・確信のなさとなっている。
 マルクスは、貧困化について、『資本論』第一巻第七篇「資本の蓄積過程」で次のようにいっている。「資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の給与がどうあろうとも―高かろうと低かろうと―悪化せざるをえない」、「相対的過剰人口または産業予備軍をたえず蓄積の範囲および精力と均衡させる法則は、ヘファイストスの楔(くさび)がプロメテウスを岩に釘づけしたよりも一そう固く、労働者を資本に釘づけする。それは資本の蓄積に照応する貧困の蓄積を条件づける。だから、一方の極での富の蓄積は、その対極では、すなわち、自分自身の生産物を資本として生産する階級の側では、同時に、貧困・労働苦・奴隷状態・無知・野生化および道徳的堕落・の蓄積である」。
 マルクスがいっている貧困は、いわゆる物質的貧困だけでなく、労働苦・労働疎外・精神的な疎外などをふくめて言っているのである。
 だが、現代修正主義者は、実質賃金低下説、生活水準低下説、価値以下説など小ブル的な一面的解釈をあれこれおこなったり、あるいは、現代の貧困と称して、公害、都市問題など地域の諸矛盾に逃げこんだりしている。つまり、資本と賃労働の関係を基礎に、そこにおける賃金、労働条件、労働そのもの、精神的疎外などの悪化と、社会生活全般における貧困の拡大を統一的に、かつまた貧困化法則の第二次世界大戦後の今日的具体的形態をもって、把握しえないのである。
 その最大の理由の一つは、日本資本主義の分析、日本の階級構成分析などを一国的視野のみで行い、日本帝国主義の資本蓄積(搾取・収奪)が、国内のみならず、南朝鮮、東南アジアをはじめとして全世界に広く深く根をはっていることを事実上無視しているからである。
 日本における労働者階級の上層と下層への分裂の否定ないしは軽視ということも、貧困化法則の正しさに対する動揺性と軌を一にしている。
 日本帝国主義が一部上層労働者をことさらに買収し、下層労働者と対立させ、労働者階級の分断・支配をおこなう物質的基盤は、とりわけ日本の下層労働者への過酷な搾取・収奪とともに、第三世界人民への直接間接の、なりふりかまわぬ大規模な搾取と収奪にある。
 実践的には、日本帝国主義の搾取・収奪のオコボレから発生する労働者の遅れた意識―エゴイズム、大国意識、排外主義などに迎合した運動である。
 たとえば、今日たかまる(核)戦争の危機に対し、日「共」は、戦争に巻きこまれるから安保反対とか、「唯一の被爆国日本」の人民は被害者だ! とかの主張である。つまり、帝国主義国プロレタリアートとして、日本帝国主義自身が安保を必要とし、帝国主義的権益維持、拡張のために侵略戦争を準備し、第三世界人民に敵対している(核)戦争反対! 
 安保反対! なのではない。広島、長崎の教訓にしても、被害者意識のみで、日本帝国主義のアジア侵略を阻止しえなかったこと(加害者意識)の反省はない。
 そこには、第三世界人民の犠牲のうえになりたつ、「豊かな生活」を維持しようという、日本労働者の意識・姿勢に迎合し、便乗した運動しかなく、そうした保守的意識・姿勢を変革しようという前衛性は全くないのである。
 統一労組懇にしろ、南朝鮮人民、フィリピン人民などとの具体的な連帯活動はほとんどない。経済闘争においても、かちとったわずかばかりの賃金でも、それをたんに個人生活の向上だけに使うとしたら、帝国主義国の労働者という地位からして、第三世界人民との連帯は永久に不可能であろう。

思想変革なき「諸要求運動」

 戦後日本資本主義の産業構造の高度化、国家機構の肥大化などによって、労働者階級の内部構成も重層化、複雑化している。そして、労働者階級の運動主体のイデオロギー的分岐も、階級的団結の困難性も、その物質的根拠は、帝国主義の買収能力の強化とからみあって、この内部構成の重層化、複雑化にあるといえる。
 労働者階級の内部構成上の問題で基本的なものである上層と下層への分裂は、学歴、年齢、勤続年数、技能技術、企業規模などが背景にあるが、主要には、労働過程において「資本の機能である指揮・監督を代行」する管理労働に起因することはすでに前々回述べた。
 だが、労働者階級の内部構成は、たんに上層と下層に分裂しているだけでなく、それぞれにおいて、重層化し、自然発生的な階層序列が形成されている。その原因の大きなものとして、精神労働と肉体労働の分離が存在していることを見逃すわけにはいかない。
 戦前の日本においては、職員と工員との間には、賃金格差の面だけでなく、身分的区分の面からいっても、歴然とした格差・差別があった。しかし、戦後においては、主体的には、戦争直後からの労働運動の飛躍的発展があったが、資本の面からいうと、一つには、卸・小売業、金融・保険業あるいは製造業・建設業内部での事務部門、公告販売部門の拡大により、二つには、経営管理機構の強化拡大による管理労働者の増大により、職員層は増大し、多くが戦前のような特権的地位どころでなく、賃金面においても大幅に低下した。そして、コンピューター導入などにみられるように事務合理化は、ますます事務労働を単純化、不熟練化し、職員層内部の階層分化をおし広げ、下層を拡大している。
 教師をふくむ公務員も、戦後の労働組合運動への参加と闘いの発展、他方、国家独占資本主義における国家機構の肥大化にともなって、量的に拡大し、労働者階級の一翼を形成している。
 さらに特徴的なことは、戦後日本資本主義が重化学工業部門を拡大し、あいつぐ技術革新を重ねるうえで、厖大な技術労働者を必要とし、この面からも労働者階級の数は増大した(大学の大衆化)。
 こうして、戦後の日本においては、労働者階級の数の増大だけでなく、その中でも精神労働を担う労働者の数も増大した。この傾向は、産業構造の知識集約化、サービス産業の拡大によって今後さらに強まる。
 肉体労働から遊離した労働者の増大は、放置する限り、比較的小ブルジョア的傾向を助長するものであり、労働者階級の数の増大が、そのまま階級的団結の強化拡大にならないことはいうまでもない。また、重層的な階層分化を、支配階級は、分断と階級支配、職場秩序の育成に利用し、さらにいっそう労働者階級の階級的団結の障害となっている。
 このことは、運動主体の思想、政治方向にも反映され、自然発生性に拝跪した現代修正主義の思想、理論、運動方向を生みだしている。
 それは、」たとえば「教師=一面聖職」論、「自治体労働者=全体の奉仕者」論、「大学の自治」全面擁護論、自然科学そのものの非階級性論などに特徴的である。
 高度経済成長とともに「躍進」した日「共」は、七〇年代の初めの高度経済成長の破綻とともに停滞・低落しはじめ、この事態をはねかえそうと、七四年に「教師=一面聖職」論、七五年に「自治体労働者=全体の奉仕者」論を打ちだした。(注1)
 「聖職」自身を認めるその差別体質の問題や、「全体の奉仕者」なる没階級的ブルジョア的規定は、ここではおくとしても、日「共」の主張は、ともに、「専門職」とか、「特殊性をもつ職務」とかいって、職種のちがいに応じた自然発生的利害を労働組合運動の内部にもちこみ、労働者階級の階級的団結をかく乱させている。しかも、それらはすべて精神労働の分野においてである。このことは一体何を意味するか。
 職種のちがいをけて、労働者階級を団結させるべき労働組合をむしろ、職能団体に変質させ、ネオ・コーポラティズムを助長させるものである。結果として、階層分断による支配を強化しようという支配階級に奉仕するものである。
 労働者階級のいくつかの階層における、より下層に比べての「優遇性」を固定化する日「共」の主張・運動は、六〇年代末の学園闘争で問題になった、「大学の自治」全面擁護(注2)、自然科学・技術の階級性問題ですでに天下に暴露されていた。大学教授など特権層の利害を擁護する「大学の自治」は、確かに時には、独占資本の利害と矛盾することもある。しかし、それは、既に当時において(今日においては尚さら)、産学共同路線に象徴されるように、支配階級に奉仕する今日の大学の階級的本質にヴェールをかぶせるものでしかない。その証拠には、(個人としては別にしても)大学として、労働者階級の運動の前進のために研究活動、教育活動がおこなわれているのは皆無である。
 このように、日「共」の主張・運動は、敵・支配階級に対決する広範な統一戦線(注3)を大義名分に、労働者階級内部の上下への分裂、重層的な階層分化に拝跪し、比較的「優遇」された層の思想・政治意識の固定化をおこない、階級的団結の強化に敵対しているのである。つまり、それぞれの階層の要求を思想的政治的闘いと結びつけ、各階層にみられる、労働・生活に規定された誤った思想、未熟な思想を克服し、文字通りの階級的団結を強化・拡大することを放棄している。
 思想変革なき「諸要求運動」が、日本のような帝国主義国では、その買収能力に応じて、体制側に吸収され、結果的に体制の補完勢力となることは、これまでの歴史が明らかにしている。

(注1)これは議会主義路線が必然的にもたらす問題でもある。当時、不況が深まる中で、高度経済成長を背景としていた革新自治体は次々と敗北していた。これをもり返そうと、日「共」は、革新自治体の存続を第一義にして、自治体労働運動の発展を、革新自治体の存続に従属させた。このため、革新自治体支援の職能団体化が生じたのである。
(注2)日「共」は、大学の場合でも、自治体の場合でも、それ自身を孤立的にとりあつかい、しかも「良い面」「悪い面」と称した卑俗で機械的な二面性論を打ちだしている。すなわち、階級的本質をアイマイにして、改良主義を合理化しているのである。それは、「人民的議会主義」にみられる、国家論上の小ブル的歪曲と軌を一にしている。
(注3)日「共」の統一戦線論が、ズブズブの幅広論として批判されるのは、一つには、ブルジョア議会主義路線に従属されていること、もう一つは、敵、友、味方の中で、味方の階級的結束の重要性が全く等閑視され、友と味方の区別がなくなり、結果的に味方の階級性を自ら解体するところにある。

現代修正主義との分水嶺――生産力問題

 一口にいって、革命とか、社会主義とかは、「生産力を解放する」ことだと、よくいわれる。しかし、それは主張する人間の階級的立場、思想的立場によって、内容的に一八〇度異なる場合がしばしばである。
 たとえば、日「共」系の学者・山口某は、「資本主義的生産による労働の社会化は、個別的労働過程の編成を合理的で組織的なものに変えるだけでなく、また、社会的生産過程全体の相互依存関係を緊密でますます意識的な関係に変革するだけでなく、『住民の精神的風俗』、『生産者の性格そのもの』の変革を必然にし、人間それ自身をつくりかえ、理性的に思考し、科学的認識に導かれて行動するような、新しい人間像を創造する」(『社会革新と管理労働』)といいきっている。
 確かに資本主義の下で、労働の社会化はすすむ。しかし、その結果はどうか。「労働過程の編成を合理的で組織的なものに変える」のは、資本であって、それは剰余価値生産を効率的にあげるための「合理性」であり、「組織性」である。「社会的生産過程全体の相互依存関係を緊密」にするのは、資本の運動結果であり、「意識的な関係に変革する」などというのは全くデタラメである。「意識的な関係」どころか、価値法則によって規定されることには変わりはない。ましてや、「理性的に思考し、新しい人間像を」、資本主義が「創造する」などというのは、ペテン師のたわ言である。それでは、資本主義が発展し、生産力が発展すれば、労働が社会化し、放っておいても革命的人間が創造されるということになる。まさに生産力主義のカリカチュアである。マルクスがいっているのは、「ブルジョア社会の胎内で発展しつたる生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をつくりだす」(『経済学批判』)といっているのであって、階級闘争、革命を媒介しないかぎり、新しい人間は決して創造されないのである。
 このように生産力主義者は、資本主義の矛盾から発生する階級闘争、その推進による革命の代りに、「生産力の発展」とか、あるいはせいぜい「改良闘争」の積み重ねで、社会主義が実現できるという幻想に陥るのである。
 では、このような生産力思想は、一体どのようにして、何故生まれるのであろうか。それは日「共」の生産力についての見方、考え方を検討すれば明らかになる。
 日「共」はいう。「......このように歴史的に変化するところの生産において、社会がもっている自然を改造する力を、社会的生産力といいます。『生産力』とは、生産における人間と自然との一定の関係をあらわす概念であります。
 社会的生産力を構成する要素はなんでしょうか。そのもっとも主要なものは、労働者と労働手段です。......こうして、社会的生産力にその構成要素としてふくまれるのは、『労働にたずさわる労働者』、『労働手段』、『社会によってつくりだされた労働対象』です。」(『共産主義読本』)
 ここのみられる現代修正主義の問題点は、まず第一に、生産力を「生産における人間と自然との一定の関係」といっているが、その人間は、単一・一様なものでなく、現実にはそれぞれの社会段階における社会諸関係をもっていることを無視していることである。だから、各社会段階における生産力の性格、特徴、階級性を無視して、超歴史的な「生産力」なるものを祭りあげ、物神崇拝におちいるのである。
 第二は、第一とも関連するが、生産力の構成要素を三つあげ、しかもそれらを羅列していることである。
 だが、マルクスは、別にこの三つに限定しているわけではない。たとえば、「どんな事情のもとでも、結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力なのである。この生産力は協業そのものから生ずる。他人との計画的な協働のなかでは、労働者は彼の個体的な限界を抜け出て彼の種属能力を発揮するのである」(『資本論』第一部 下線は引用者)といっている。つまり、労働の編成のあり方、協働様式によっても生産力は発展するといっているのである。
 だから、生産力は、各社会段階での労働様式、生産諸関係とも深くむすびついているのであり、現代修正主義者が考えるように、労働様式、生産諸関係、社会諸関係ときりはなし、超歴史的に論ずることはできないのである。
 このような日「共」の生産力観であるが故に、山口某のように、マルクスのいう指揮・監督労働の二重性(指揮される生産過程が一面では生産物の生産のための社会的労働過程であり、他面では資本の価値増殖過程であるというその二重性)を、国家・自治体論における二面性論と同じように、機械的に分離し、実態化し、労働の社会化―管理労働の発展―管理労働のプロレタリア化と民主化―社会革新という図式で、構造改革論・改良主義に陥っていくのである。
 超歴史的、超階級的な生産力観は、日「共」委員長・不破哲三の言説にもみえる。
 不破はいう。「社会主義とはもともと、資本主義の時代に大きな生産力が発展するが、資本主義の枠内におさまりきらなくなり、利潤本位のしくみでは、恐慌や不況をおこすことをはじめ、公害や物価高を生んだり、労働者を抑えつけたり、この生産力が社会のために役立たなくなる。それを社会のしくみを改革することで、そういう生産力、産業や企業が国民のために大いに働けるようにし、そのいっそうの大きな発展を担う、これが社会主義、共産主義の理論です。......そして、社会主義は、歴史のうえでも産業と経済の発展のもっとも先進的な担い手です。」(『労働戦線に革新の旗を』)
 不破の場合、「資本主義の時代に大きな生産力が発展するが」といって、今度は突如、「資本主義の枠内におさまりきらなくな(る)」と飛躍する。きわめて機械的な飛躍である。しかも「資本主義の枠内におさまりきらなくな(る)」という表現にみられる思想は、生産力に対する超歴史的、超階級的な物神崇拝観がにじみでている。
 だが、マルクスは、『資本論』の第三部第三篇「利潤率の傾向的低落の法則」の第十五章「法則の内的矛盾の開展」において、生産力の発展について次のように述べている。
 「労働の社会的生産力の発展は二重にあらわれる。第一には、すでに生産された生産諸力の大いさにおいて生産諸条件―そのもとでの新生産がおこなわれる―の価値的大きさ及び分量的大きさにおいて、および、すでに蓄積された生産的資本の絶対量において。第二には、総資本に比し労賃に投下される資本部分の相対的僅少において、すなわち、与えられた「資本の再生産および増殖に―大量生産に―必要な生きた労働の相対的僅少において、これは同時に資本の集積を前提する。
 充用労働力に関しても、生産力の発展は二重にあらわれる。第一には、剰余労働の増加、すなわち、労働力の再生産に要する必要労働時間の短縮において。第二には、与えられた一資本を運動させるために一般的に充用される労働力の分量(労働者数)の減少において。
 この両運動は手をたずさえてすすむばかりでなく、互いに条件づけあうのであって、同一法則が自らを表現する両現象である。」
 剰余価値の生産を推進的動機とし、また目的とする資本制的生産の社会では、生産力はすべて資本の生産力であるのは、言うまでもないが、資本の歴史的運動によって、生産力の発展が矛盾を顕在化させるのである。だから、そこには不破のいうような機械的飛躍ではなく、もともとから存在する矛盾、その矛盾の発展としての諸結果(生産力と生産関係の対立)が顕在化するだけである。
 マルクスがいっているのは、資本の生産力の発展には、もともと労働者の搾取による資本蓄積・生きた労働の僅少化が基軸となっているといっているのである。この生産力の構造自身を革命するのが「生産力の解放」であるのであって、なんでもいいから(肉体労働者の搾取があろうが)、「生産力」なるものを発展させれば、いいというものではない。労働者の解放、労働の解放に合致した生産力の発展方向、性格は、はっきりさせなければならない。そうでなく、いわゆる[生産力]なるものの発展を第一義とするかぎり、それは資本主義と何ら変わりはない。
 資本主義社会においては、搾取ぬきの生産力の発展はないのであり、マルクスはただブルジョア社会を転覆する「物質的諸条件をもつくりだす」という意味で、歴史的に評価している。不破のように、旧社会に比べて、資本主義は生産力を発展させたといって全面讃美している訳ではない。だから、次に、不破のいうように、「資本主義の枠内」におさまらないから、今日ある巨大な生産力がそのままおさまるような社会体制として社会主義がある訳では決してない(いくら「国民のため」という条件がつこうと)
 というのは、資本主義社会の生産諸力は、結局はすべて資本の生産力であり、その階級性を帯びているが故に、そのまま、すべて社会主義社会で利用できる訳ではないからである。多くは利用できるにしても、社会主義的な生産体制に応じて変形する必要があるし、また一部は全く廃棄したり、開発の速度をゆるめたりしなければならないものであろう。とりわけ、自然法則に敵対し、地球をも破滅するほどの生産力の発展をみた今日においては。

 マルクス的革命観の再生を

 生産力主義、ブルジョア議会主義、改良主義に転落した日「共」現代修正主義によって、共産主義思想がゆがめられてきて、すでに久しい。
 われわれは、共産主義運動の原点にたちかえり、腰をすえ、労働者階級解放のみずみずしい、躍動する姿をよみがえらせなければならない。
 そのために、ここでは、二つの問題について、述べてみる。 
 第一は、解放とは一体どういうことか。マルクスは、この問題をどう考えていたかということである。
 「生産力」が解放され(この点ですでに現代修正主義者は歪曲している)、物があり余るほど、物質的に豊かになれば社会主義、共産主義だ! などというのは、俗流唯物論であり、典型的な生産力主義である。
 不破は、「社会のしくみを改革することで、そういう生産力、産業や企業が国民のために大いに働けるようにし、そのいっそうの大きな発展をになう」といっている。
 不破は、ここで「国民のために」、生産力を発展させるといっている。しかし、この「国民」はたんに消費者としての「国民」でしかない。人民は、消費者であるとともに、生産者である。不破は、生産過程における「労働の解放」と、消費における豊かな享受を切りはなし、議会主義者特有の"おいしいエサ"で釣る手法で、後者のみを一面的に強調している。しかし、現場労働者は、よく知っている。遊びまわった後の一杯の酒の味と、労働し、汗を流したあとのそれとでは、どちらがおいしいか、を。
 社会主義、共産主義において、生産力を向上させるのはあくまでも「人間解放」という大目的に従属させたものである。不破は、これを転倒させ、豊かな消費のためには、生産過程の諸矛盾には、目をつぶっても、「生産力」向上を第一義とする典型的な生産力主義者である。
 このような生産力主義者の考えと、マルクスの考えは一八〇度異なっている。
 マルクスはいう。「かれらが(プロレタリアのこと―引用者)まだ生産力および自分自身の生存とつながっている唯一の連関すなわち労働はかれらのもとでは自己活動のあらゆるみかけをうしなってしまい、ただかれらの生活をみじめにすることによってのみこれを維持するにすぎない。......一般的に物質的生活が目的としてあらわれ、この物質的産出すなわち労働(これがいまでは自己活動の唯一の可能な、しかしわれわれのみるように、否定的な形態である)は手段としてあらわれるようになっている。」(『ドイツ・イデオロギー』)
 この事態は、革命によってのみ変革をなしうる。「この革命では、一方これまでの生産様式ならびに交通様式と社会的編成との力がうちたおされ、また他方プロレタリアートの普遍的性格と領有の遂行に必要なエネルギーとが発展し、さらにプロレタリアートは、いままでのその社会的地位のためにまだかれらにつきまとっている一切のものをぬぎすてるのである。
 この段階になってはじめて自己活動は物質的生活と合致するが、このことは全体的個人への発展およびあらゆる自然成長性の脱却に対応する。そしてそのとき労働が自己活動へ転化することと、これまでの制約された交通が個人としての個人の交通へ転化することとが、たがいに対応する。団結した個人たちによる総体的な生産力の領有とともに私有制はなくなる」(同前)。
 物質的生活が目的となり、労働が手段となっている資本主義社会の現状を革命するというのは、まさに解放された労働を中心とした「自己活動と物質的生活が合致する」ことに他ならない。
 革命を「物質的な貧困からの解放」に限定する考えは、おそかれはやかれ生産力主義に転落するであろう。「物質的な貧困からの解放」は、必要な条件であるが、共産主義思想はそれのみに限定するほど貧困ではないのである。
 第二の問題は、体制変革と人間革命についてである。
 これまでの俗流唯物者は、「社会のしくみ」を変えることだけを強調し、労働者一人ひとりの思想変革の問題を軽視してきた。
 マルクスは、革命について「この共産主義的意識の大量的な産出のためにも、人間の大量的な変化が必要であり、そしてこれはただ実践的な運動すなわち革命においてのみおこりうるのである。だから革命が必要であるのは、たんに支配階級が他のどんな方法によってもうちたおされえないからだけではない。さらにうちたおす階級が、ただ革命においてのみ、いっさいの汚物をはらいのけて社会の新しい樹立の力をあたえられるようになりうるからである」(同前)といっている。
 共産主義運動は、「自然成長性の脱却」(マルクス)が要求される運動であり、すぐれて、主体的かつ「自覚的能動性」(毛沢東)の要求される運動である。それなくして、前史を終え、真の歴史を切り開くことはできない。「いっさいの汚物をはらいのけて社会のあたらしい樹立の力をあたえられる」というのは、そういうことである。
 このことは、当然にも、権力を奪取する以前の今日のわれわれにも要求されることである。思想変革なき「諸要求運動」が、ブルジョア議会主義路線によって裏付けされた日「共」の運動は、党官僚と議員が、大衆の不満をただ代行するだけである。大衆一人ひとりの主人公としての思想変革を援助するものではない。こうした運動は、仮りに、彼らのいう社会主義社会に到達したとしても、ソ連型の新しい階級社会をつくりだすだけである。すなわち、党官僚の政治支配の下で、テクノラートが現場労働者をこき使うという社会である。
 だからこそ、労働の解放を軸に、「自己活動と物質的生活を合致」させるためには、社会主義建設の過程においても、社会の発展段階に応じた継続革命が必要となるのである。(了)