ロシア法文化と二つのソビエト憲法

   ―唯物史観の経済主義的歪曲を克服するために

                          堀込 純一


     目次

はじめに

T ロシアの法文化とツァーリズム

  (A)モスクワ公国による統一とツァーリズム

    (1)「タタールの軛」からの解放とモスクワ公国の統一事業

    (2)ロシア教会とモスクワ国家

          ≪補論≫宗教と政治の関係

    (3)イヴァン雷帝の恐怖政治

    (4)「動乱」の時代と1649年の会議法典

    (5)ロシアの農奴制

  (B)西欧化とその限界

    (1)西欧的改革と大国化

    (2)西欧化の限界と人治主義

  (C)「大改革」期とロシア的近代化

    (1)クリミア戦争での敗北と上からの「農奴解放」

    (2)多民族と身分制の社会

    (3)1864年の司法改革とその後の反動

  (D)1905年革命と1906年4月23日体制

U 1918年憲法の問題点

  (A)ブルジョア法改革の方法と論理

    (1)ブルジョア人権の現実的・物質的保障論

    (2)新たな原理の対置

  (B)主権者のあいまいなプロレタリア権力論・プロレタリア独裁論

    (1)真の主権者たる“ソビエト主権”論

    (2)権力の源泉論

    (3)主権者なき国家主権論

V 1936年憲法と「人民主権」の実質的採用

    (1)党の指導性の明記

    (2)欺瞞的な「人民主権」と超中央集権化

    (3)党独裁に制約された権利

おわりに代えて―プロレタリア的な人権・主権論の意義


        (申し訳ありませんが、以下の本文中の『図』は省略しています。)

 はじめに

 

 エンゲルスは晩年、ブロッホへの手紙(1890年9月21日)で、「後輩達が、時として過度に経済的側面に力点をおいている責任の一半は、マルクスと私自身にあります。私たちは、主要原理を否認する論敵にたいし、それを強調しなければなりませんでしたし、また、相互作用に含まれているその他の要素をそれなりに評価するための時間と場所と機会を必ずしも十分には持っていませんでした。」1)と、書き送っている。

 マルクス主義の創始者の一人であるエンゲルスが訴えたこの課題は、マルクス、エンゲルスなき後のマルクス主義者達によって、必ずしも自覚的に追求されてきたとは、言えないであろう。

 これをふまえ、本稿は、ロシアの法分化史をふまえ、ロシア革命・ソ連の経験(1918年憲法と1936年憲法を中心に)の総括を素材としながら、唯物史観の経済主義的歪曲を克服するための作業の一環としていきたい。

注1)『マルクス・エンゲルス全集』第37巻 大月書店

  T ロシアの法文化とツァリーズム

 

(A)モスクワ公国による統一とツァリーズムの形成過程

(1)「タタールの軛」からの解放とモスクワ公国の統一事業


 ロシア諸公がキプチャク・ハン国(1243〜1502年)の約240年の長きにわたる支配(「タタールの軛〔くびき〕」)を脱するのは、15世紀の後半から16世紀の初頭にかけてである。その中心的役割を果たしたのがモスクワ公国である。
モスクワはウラジーミル大公国の一辺境の町にすぎなかったが、13世紀の末、ここを中心にモスクワ公国が成立する。領土拡大をすすめるモスクワ公国は、宗主国キプチャク・ハン国の力もえて、1317年にウラジーミル大公位を獲得し、1330年代にはライバルであるトヴェーリ公国などをおさえ、北東ルーシの盟主となる。そして、モスクワ公国を中心とするルーシ軍(ノヴゴロド、トヴェーリ、ニジノ・ノヴゴロド、スモレンスクを除くほとんどの公国からの軍)は、1380年のクリコヴォの戦いでキプチャク・ハン国軍に大勝する。これにより「タタールの軛」もたががゆるみ、100年後には貢租の支払いを拒否することもあり、最終的には16世紀初頭に独立に至る。これはイヴァン3世(1462〜1505年在位)の時代である。
 モスクワ公国が、ロシア統一国家を成立させるのは、このイヴァン3世とヴァシーリー3世(1505〜33年在位)の時代であった。1478年のノヴゴロド併合、1470年代のヤロスラヴリ、ロストフの吸収、1485年のトヴェーリの併合、1489年のフルィノフの併合、1510年のブスコフ(ノヴゴロドの付属都市。この両者は共和国)の併合、1520年のリャザンの併合などである。
 キプチャク・ハン国は、既に1420年代から諸ハン国に分裂・分立し、かつてのような力はなく、1502年に滅亡する。モスクワ公国にとってむしろ脅威は、旧キエフ大公国領を支配し、ポーランドと同君連合しているリトアニアであった。だが、1492年頃からモスクワの攻勢が強まり、1494年の休戦条約では、イヴァン3世がもちいた「全ルーシの君主」という称号をリトアニアに認めさせ、その後の戦いでは西部の広大な領土を獲得し、1514年にはスモレンスクも占領する。こうして、ヴアシーリー3世が没したとき(1533年)には、彼の祖父ヴァシーリー2世が残した領土の6倍以上(280万平方キロメートル)の国土となっていた。
ロシアで最初にツァーリの称号を用いたのは、イヴァン3世といわれる。外交文書などで「ルーシの大公にしてツァーリ」という具合にである。だが、「そもそも、ラテン語のカエサルに由来するツァーリという語は、ロシアでは最初ビザンツ皇帝をさしてもちいられたが、モンゴル侵入後はキブチャク・ハンをもさすようになった。しかしその後適用範囲はさらにひろがり、やがてロシア語に当該国の支配者をさす特別の語の存在しない、ほとんどすべての東方諸国の支配者も、ツァーリとよばれるようになった。ツァーリという語が、独立国の君主という意味以上のものをもたなくなっていたのである。イヴァン3世もこのような意味でツァーリをもちいたと考えられる。」1)のである。
 だが、すでに14世紀の末から大公位の継承は年長制から長子制に代わり、大公領の相続も均分原則から長子(大公)優先に修正されている。イヴァン3世は大公領の半ば以上、その子・ヴァシーリー3世は三分の二以上を相続し、弟たち(分領公)に対しても、兄ではなく君主として臨んでいる。そして、モスクワでは大公の統治権や系譜をビザンツやローマの皇帝にむすびつける伝説もうまれ、聖職者にはモスクワ国家を“第三のローマ”とする主張もなされている。専制君主への道は、しだいに掃き清められていくのであった。

注1)世界歴史大系『ロシア史』1 山川出版社

 

 (2)ロシア教会とモスクワ国家


 すでにキエフ国家(9世紀半ば頃〜12世紀初め頃)のウラジーミル1世(980頃〜1015年在位)の時代、キリスト教のギリシャ正教が国教となっていた。
 ビザンツ皇帝バシレイオス2世(976〜1025年在位)は、バルダス・フォカスの叛乱の際に、キエフ・ルーシとの条約に基づき、ウラジーミルに援軍を求めた。ウラジーミルは、皇女を妻に求め、これを条件に6000人の精鋭を派遣した。そのご幾つかのやり取りもあったが、結局、皇帝の姉妹のアンナが降嫁することとなった。しかし、キリスト教徒の結婚の条件として、相手に改宗が求められた。「年代記によるとウラジーミルは改宗の真実を妻アンナに示すため、それまでの5人の妻と800人の妾(数字は誇張である)と別れ、従前の異教の神ペルーンの神像を倒し、町の中を引き回し、鞭打って、ドニエプル川に投げ捨てた。さらにキエフの全住民をドニエプルのほとりに集め、集団受洗を行なわせた。」1)のであった。
 「タタールの軛」の下でも、ロシア教会は特権的地位を保証されていた。すなわち、キプチャク・ハンは教会に対しては種々の税の支払いを免除し、教会財産や教会隷属民を奪い取ることのないように命じており、ロシア人の信仰をはずかしめることは死罪をもって禁じられていた。この時代、隷属的な農民の労働に依拠する新しい型の修道院が作られ、「新しい共住制の修道院は、十四世紀に四十二、十五世紀に五十七、十六世紀に五十一の計一五〇が創設され」2)ているのである。「ハンは教会に特権を付与することによって、中世ロシア人の精神的拠り所であった教会の支持をとりつけ、ロシア支配を効果的におこなうことを意図していたと考えられるのである。‥‥ハンはロシアの年代記(その著者は大部分聖職者であった)において、『ツァーリ』とよばれてその権威が正当化された」3)のである。
 「タタールの軛」の下で、モスクワはロシアの政治的中心となっていったが、同時にモスクワは国家に先んじて一大統一組織となっていたロシア教会の支持をとりつけ、宗教的な中心ともなっていった。キエフ国家の時代、すなわちヤロスラフ(1019〜54年在位)公の時にキエフの主教が府主教4)に格上げされていたが、モンゴル侵入後の府主教キリル(1249〜81年在任)はキエフに住まず、しばしば北方を旅し、つづく府主教マクシム(1283〜1305年在任)もモンゴルの再度の侵入後、キエフを去り、北方のウラジーミルに居を定めた。次の府主教ピョートルはモスクワ公国を支持し、晩年はモスクワに居をかまえ、以降ロシア教会の首長の座する都はモスクワから動いていない。「教会と国家とが一体をなすロシア的伝統(それはそもそもビザンツに発し5)、キエフ期に成立した)は、ここにあらたな装いをほどこして復活したのである。換言するならば、キエフ国家解体後の諸公国分立時代に、ビザンツ帝国とハン国からの二重の影響(すなわち、帝国の総主教・皇帝による府主教の任命、ハンによる特許状の交付)をうけつつ、俗権から比較的自立していたロシア教会は、このとき以来、強化しつつあるモスクワ大公権の前にしだいに屈服をよぎなくされていった」6)のである。ただここでいう「教会と国家の一体」というのは、西欧中世のように教会と国家が融合していたという意味での「一体」ではない。国家と教会は初めから分離しており、総体的には教会が国家に従属した形での「一体」ということである。
 モスクワ公国では、教会と国家の関係、教権と俗権の関係は、このように西欧中世とは大きく異なり、ツァーリの「教皇皇帝主義」は以降も続けられていく。この意味で西欧のような「国王は神と法に服さねばならない」とか「法の優位」とかの、思想的土壌は育ちにくかったのである。(《補論》宗教と政治の関係 を参照)

注1)森安達也著 世界宗教史叢書『キリスト教史3』 山川出版社
2)世界歴史大系『ロシア史』1 山川出版社
3)同上
4)キリスト教は、313年のミラノ勅令によってローマ帝国の公認宗教となり、さらに4世紀末までには帝国の唯一の国家宗教となった。教会制度は、2世紀中葉までに組織の中心をなす主教、司祭、補祭の3つの職能が明確に定められている。主教は使徒の後継者としての権威をもっており、教会の最高責任者である。司祭は、実際に、信者の司牧(キリスト教で、司祭が信者を指導・統率すること)にあたり、日常の教会儀式を執行する。補祭は司祭の補助者である。
 キリスト教は都市型の宗教であり、主な教会は都市に建てられた(教会はローマ帝国の公認以前から、教会の管轄区域を帝国の行政区分に準じて定めていた)。またローマ帝国の属州の首都(メトロポリス)という有力都市の主教は、同じ行政区分内の他の都市の主教にも管轄権を及ぼし、府主教と呼ばれた。
5)ビザンツ帝国における皇帝と教会は、一般的に皇帝教皇主義といわれる。それは森安前掲書によると、「国王が自分の支配地域の教会を完全に統轄し、教会内の問題(たとえば教議の確定)にまで支配を及ぼした場合、国王と教会の関係を皇帝教皇主義と名づけ」られる。しかし、この概念は森安氏がいうように、西ヨーロッパにおける教皇権および皇帝権の概念をビザンツ帝国に投影させて説明したものであり、「皇帝教皇主義は学説としては多少の無理があり、異論も出ている。」と言われる。すなわち「ビザンティン帝国においては教会が教皇権(西ヨーロッパの─引用者)に匹敵するほどの独立性と政治力を有したわけではない。他方、教会制度の根幹となる主教の選出および罷免は主教会議によらなければならないことになっており、それはたとえ形式的であろうと実行されて来た。皇帝が主教の人事を動かすことは建て前の上からは不可能であった。また教会側が何らかの施策を行なう場合、宮廷工作を通じて皇帝の了解を得ておかなければならなかったと同様、皇帝も教会を円滑に支配するためには高位聖職者の多数を味方につけておかなければならなかった。従って言葉の厳密な意味での皇帝教皇主義は存在しなかったことになる。」という。しかし、東方の教会をみるならば、皇帝が教会を統轄することは大体いつも可能だったのであり、実際に教議論争でも皇帝の意向が大勢を決していた歴史がある。したがって、森安氏も「他にわかりやすい用語がない以上、ビザンティン帝国における国家と教会の実際の関係を表現する用語として前述の留保をつけて皇帝教皇主義を用いても誤りとは言えない。」としている。
6)世界歴史体系『ロシア史』1

 

《補論》宗教と政治の関係


 西欧中世の国家の特質の一つは、国家に対する「法の優位」という関係である。このことは、ブラクトン(1210〜1268年)の、「国王は人間にではなく神と法に服さねばならない。何となれば、法が国王を作る(lex facit regem)のであるから」という格言に明らかである。
 西欧中世の国家のこのような特質は、出発点としての、フランク王国の構造自身に由来する。山田欣吾著『教会から国家へ』(創文社)によると、「歴史学者が『フランク帝国』とよぶこの国は、同時代の人々によっては『エクレシア(教会)』という言葉で理解されていた。ビザンツやイスラムの国家と対比すれば、およそ『国家』の名に値するかどうかすら怪しいこの国は、『全キリスト教徒の首長にして嚮導者』たる王のもとで、何よりも聖職者たちによって支えられる『教会』として、はじめて成立したと言わなければならないと思われる。」のである。まさにそこでは政治と宗教が文字通りに融合し、宗教国家(神の御国)そのものなのである。
 このことは単なる理念ではなく、フランク王国の次のような組織構造に端的に示されている。すなわち、「カール大王が789年の『一般訓諭勅令』で両者(聖と俗のこと─引用者)の協調を特別に強調していらい、ほとんど勅令ごとに繰り返される協力命令は、一方において、両権力間に潜む不断の緊張関係を物語るとともに、他方、この国の統治・行政活動が、両者の協力なしには全くワークしなかったことを示している。だから、勅令は、例えば、教会十分の一税の徴収に際して伯が司教に力を貸すよう命ずる反面、司教や修道院長に対しては、伯の裁判活動を支援するよう繰り返し命じている。いや、そればかりか、フランク王権は、例えば遠征軍の編成命令を末端に伝達する場合、国王から大司教→司教→司教内聖俗有力者へという命令システムを用いたことが認められる。このような場合、地方の伯は司教から国王命令を示達され、その監督下に入ることになるわけである。」(西欧で「教会的なもの」と「世俗的なもの」が分離し、世俗的な政治的国家が形成されていく過程は、第一に、11世紀後半から12世紀にかけての、いわゆる叙任権闘争期、第二に、16〜17世紀の宗教改革と宗教戦争の時代が、大きな画期をなしている。)
教会と政治の関係をローマ帝国や後のビザンツ帝国と比較してみると、フランク帝国のそれは対照的である。確かに両者ともに同じキリスト教を国教として帝国の支配のために利用しているが、ローマ帝国やビザンツ帝国の場合には、国家はエクレシア(教会)の外部に存在し、国家と教会は融合していない。だが、フランク帝国の場合には、先述のように国家と教会は融合している。そして、その実態は、「『神の聖なる普遍教会』を比喩的あるいは神学的に、キリストを頭とする一つの体 unum Corpus Christiと把え、このキリストの体の中に司祭職と王職とが併存する」(渕倫彦著「カノン法」─『中世史講座』4 中世の法と権力 に所収)ものとしてあったのである。
 こうした国家構造の違い、とくに国家と教会との関係での違いは、ローマ人と、西欧中世のヨーロッパ人との法律観の違いをも導き出す。「ローマ人が慣習法に対する成文法規の優位を公言していたのに対して、中世においては逆に、実定立法はもはや既存の慣例の承認や確認でしかなく、この非個人的な最高の慣例が、一切の政治権力の源であると同時に制限ともなる」(下野良朗著「ヨーロッパ中世国家の構造」─『中世史講座』4 中世の法と権力 に所収)のである。西欧中世のヨーロッパ人にとって、為政者による新たな立法も、「非個人的な最高の慣例」の新たな発見でしかないのである。であるが故に、「国王は人間にではなく、神と法に服さねばならない」のであり、その意味で国王の権力は、法の執行者として責任あるものとして行使されなければならず、権力行使は無制限なものではなかったのである。
 法と権力の関係における古代ローマと西欧中世での違いは、現代人の眼で見れば、あたかも逆転、後退したかのように見える。これは後退したというのではなく、むしろ宗教の、しかも一神教としての普遍宗教たるキリスト教の普及の結果と見るべきであろう。実際中世におけるキリスト教の普及は、諸個人の生活のすみずみまで統制し、現実生活は宗教生活の下に規定され、しかも生活の一部でしかなかったのである。
 このように徹底された世界観、生活態度は司法の分野でも貫かれる。「中世ヨーロッパの教会裁判所は第9世紀末ころから世俗裁判所を圧倒し始め、教皇アレクサンデル3世(1159〜81年在位)ないし教皇イノケンティウス3世(1198〜1216年在位)の治世に黄金時代を迎えた。」といわれ、「実際、中世カノン法(ローマ・カトリックの教会法─引用者)が普通法として広くおこなわれたのも、また、ヨーロッパ諸国の法発展の歴史にカノン法の『消去しえない刻印』をのこしたのも、さらに、ヨーロッパ諸国にローマ法が継受されたのも、その原因をたどれば、中世ヨーロッパ世界を網目のように覆っていた教会裁判所とそこで行われた裁判に拠るところが大きかった。」(渕倫彦前掲論文)のである。 だが、ロシアの歴史と伝統においては、このようなことはなく、ギリシャ正教会から独立したロシア正教会は国家権力の下に従属していた。

 

(3)イヴァン雷帝の恐怖体制


国内的にも、ツァーリの称号を正式に名乗るようになったのは、貴族諸党派間の争いが沈静化し、イヴァン4世(1533〜84年在位)が母の実家であるグリンスキー家の実権を背景に親政を開始した時(1547年)である。イヴァン4世時代の改革は、1549年に貴族会議と教会会議の合同会議の召集をもってはじめられた。「この会議は、その後17世紀までつづく全国会議(ゼムスキー・ソボール)の走りをなすものである。ソヴイエトの学者は、全国会議の召集とともに、ロシアにおいても、中世西欧諸国におけると同様に、身分代表王政が成立したと考えた。しかし君主権に対峙する諸身分の成長が充分でなかったロシアにおいては、全国会議が身分代表機関として機能することは少なかったので、ヨーロッパとの類似性を過度に強調することは問題である。」1)といわれる。改革は、士族層の利益を図りながら、中央集権制を目的としておこなわれ、中央行政機関の整備や本格的な常備軍、さらに地方行政改革として推進された。
 だが、イヴァン4世は、1565年に、ツァーリの絶対的支配のおよぶ地域(オプリーチニナ)を設定し、そこに独自の貴族会議、行政機構、軍隊を設置した。このオプリーチニナ領に編入されたのは、皇室御領地、ロシア北部、国家中央部の広大な地域、さらに西部・南西部の国境諸地方などである。オプリーチニナ導入の目的については、「明らかに国家と君主に対する裏切り者と敵の根絶を目標」2)としていたと言われる。このために、最終的には5000〜6000人規模のツァーリ親衛隊(オプリーチニキ)が組織され、政敵に対するテロルが推し進められた。テロルは対立する多くの貴族、聖職者たちに向けられた。
 テロルの波は、1570年に頂点に達した。イヴァン4世(雷帝)みずからが率いる1万5000人の軍は、途中の町々を略奪しながら新年早々にノヴゴロドに至り、6週間にわたり略奪と破壊、殺戮のかぎりを尽くした。この結果、人口3万人の市民のうち、「2000〜3000から1万5000人」3)の規模の人々が虐殺されたと言われる。同年7月には、モスクワで政府高官、聖職者など120名ほどが、市民の目の前で残酷な方法で処刑された。
 オプリーチニキの無法行為で、国政は混乱し、それに飢餓、疫病、戦争が拍車をかけ、農民たちの逃亡は続出した。「ある研究によれば、ノヴゴロドとプスコフ地方においては1560年ころから、モスクワ地方においてはやや遅れて、荒廃化現象がいちじるしく進行し、1570年代末には頂点に達する。1580年代の諸土地台帳の示すところでは、これらの地方では全農村集落の四分の三以上が廃村となっている。モスクワ以西の地方でも、村落数はおよそ三分の二から三分の一へと減少していた。」4)と言われる。すさまじいばかりの国土の荒廃である。
国家の中の「国家」ともいうべきオプリーチニナ体制は、まさに恣意的で無法な体制であり、破壊と虐殺、国土の荒廃を残し、1572年ころにイヴァン雷帝自身の手によって廃止された。このオプリーチニナ体制は、いろいろな面で後のスターリン体制を先駆的に示し、その類似性は全く偶然とは思えない。

注1)世界歴史大系『ロシア史』1 山川出版社
 2)同上
3)同上
4)同上

 

(4)「動乱」の時代と1649年の会議法典

  
 イヴァン雷帝の息子、フョードル1世(1584〜98年在位)が死ぬと、リューリク朝は断絶した(フョードル1世のただ一人の弟・ドミートリーは1591年に変死している)。
 後は、反対派などから纂奪者と批判されていた、時の権力者ボリス・ゴドゥノフ(フョードル1世の后の兄)が、ツァーリ位についた。
 1601〜02年にヨーロッパ全土を襲った記録的な低温は、とりわけロシアに大きな被害をもたらした。1603年までつづいた飢饉・凶作は、飢餓暴動となり、農民やホロープ(奴隷)などが地主、商人を襲うだけでなく、小領主の中にも所領を放棄し野盗化するものまであらわれている。飢餓と「ツァーリ幻想」(時の為政者に対する不満・批判が「民衆の正しいツァーリ」を求め、そして積極的にかつぎ出す)の結合は、「偽ドミートリー」現象を広範に生み出した。この時期、「僭称者たち」で有名なのは、偽ドミートリー1世、「ツァーリ・ドミートリーの総司令官」を称したボロトニコフ、偽ドミートリー2世などがある(変死したドミートリーあるいはその子孫なる者に、「民衆の正しいツァーリ」を仮託している)。
 1603年になると、ドミートリーを僭称する青年がポーランドに現れ、ポーランド王の暗黙の支持をえて、1604年秋ポーランド人やカザーク1)の部隊を率いて国境をこえると、ロシア内の反政府分子と合流した。翌年4月ツァーリのボリスが急死すると、前線の政府軍主力も寝返り、首都では暴動が起こり、ボリスの子・フョードル2世も殺害され、偽ドミートリーは7月モスクワに「凱旋」する。だが、この偽ドミートリー1世はひそかにカトリックに改宗し、ポーランド貴族の娘と結婚したため、1606年5月、首都に再び暴動が起こり、偽ドミートリー1世は2000人のポーランド人とともに殺された。そして、この暴動を組織したヴァシーリー・シュイスキーが、民衆の前でツァーリに即位する。
 だがシュイスキーは、「貴族のツァーリ」とみなされて大衆に人気がないだけでなく、貴族の間でも必ずしも評判がよくなかった。首都から遠ざけられた政敵の一人シャホフスコイ公(かつて偽ドミートリー1世の統治に協力したことがある)は、シュイスキー打倒の軍を起こし、その指揮を自らのホロープであるボロトニコフに委ねた。ボロトニコフは「ツァーリ・ドミートリーの総司令官」を称し、逃亡ホロープ、農民、カザーク、下級勤務者などを率いてモスクワを目指した。これには他のカザーク集団や士族軍などが加わり、1606年10月には10万の大軍でモスクワを包囲した。だが首都の守りは堅く、ボロトニコフはこのため市内のホロープや貧民に蜂起を呼びかけた。これには士族軍が動揺しその一部が敵に寝返り、ボロトニコフ軍はモスクワ南東部の都市カルーガに撤退する。その後も抵抗するが、翌年10月に降伏する。これがボロトニコフの乱である。
 だが各地の騒乱はまだ続き1607年の秋、ポーランド国境に偽ドミートリー2世の軍があらわれた。それはドンやザポロージエのカザークや有力なポーランド人部隊(前年のポーランド王への反乱に敗れた者たち)などで構成されていた。ロシア政府軍の一部もくわえて1608年6月、偽ドミートリー軍はクレムリの西北わずか数キロのトゥシノ村に本営をおき、首都包囲作戦をとった。このモスクワ攻防は2年つづき、両陣営は官職や土地を餌に貴族や高官などの取り込み合戦を展開する。しかしトゥシノ派の北方戦略の失敗(ロシア北部の各地で略奪・暴行や教会の破壊などで住民の反発をかった)、そしてツァーリのシュスキーによるスウェーデンとの同盟、ポーランドの軍事干渉などで国際的な問題に発展する。
 1610年7月、ポーランド軍と偽ドミートリー軍に包囲されたモスクワでは、暴動が起こり、シュイスキーは退位を強制された。モスクワの貴族達はムスチスラフスキー公を中心とする「7卿政府」を作り、ポーランドと妥協しポーランド王ジグムントの王子ヴワディスワフをツァーリに迎えようと交渉しはじめる。モスクワはポーランド軍の軍政下にあり、ロシア第二の都市ノヴゴロドはスウェーデン軍の包囲下にあり、ポーランド軍の包囲下のスモレンスクも落城寸前という事態にロシアは陥る。
 国家危機の頂点にあった1610年12月、総主教ゲルモゲンは各都市に回状を送り、ギリシャ正教防衛のために決起することを訴えた。総主教の訴えは身分や立場の違いを超え広範な反響をよび、「国民軍(オボルチェニエ)」が組織された。だがこの「国民軍」は雑多な集まりを統合できずに、基本的に消滅した。
 だが第二次「国民軍」が1611年ニジノ・ノヴゴロドの町年寄り、クジマ・ミーニン指導下に組織され、軍の指揮権はボジャルスキー公(「7卿政府」の妥協に反対していた)に委ねられた。この「国民軍」にはヴォルガ沿いと北ロシアの諸都市の部隊、一部のカザークなどが参加し10万もの規模となり、1612年9月の戦いでポーランド軍は敗退し、10月末にはクレムリ守備隊も降伏し、首都は解放された。
 モスクワ解放後、ミーニン、ボジャルスキー公、トルベツキコイ公(「国民軍」とポーランド軍の戦闘の最終段階でカザーク部隊を投入し、勝利を決定づけた)の3人は、全国会議の開催を各地に通知し、ツァーリ選出のための代議員の派遣を要請した。ツァーリなき国家秩序の回復は、当時のロシア人には考えられなかったのである。
 1613年の初めに集まった代議員は、約50の都市と「国民軍」の代表、それにカザークと北ロシアの国有地農民などの代表もふくまれ、総数は5000人にのぼったと言われる。全国会議は、さまざまな思惑が交差しながらも、2月21日にフィラレートの息子で15歳のミハイル・ロマノフ(1613〜45年在位)をツァーリに選出した。ロマノフ朝のはじまりである。 新政府は1614年に偽ドミートリー2世の子を奉ずるザルツキーを処刑し、ツァーリ位を要求するスウェーデン、ポーランドに対しては、前者と1617年の講和を結び、後者と翌年末、14年半の休戦を成立させ、安定的関係を形成した。
 こうして、リューリク朝の断絶前後から飢饉・内乱・軍事干渉に至る動乱の一時代は収束した。ロシア史ではこの時代を「動乱(スムータ)」の時代といわれている。
 イヴァン雷帝のオプリーチニナ期につづく「動乱」の時代は、政治的社会的な混乱と対立、深刻な国土の荒廃をもたらした。だが他面では、農民、カザークなど諸身分の政治化と積極的な活動を促した。なかでも士族層と商人のそれは目覚ましく、彼らの勢いはその後も引き続いた。
 1648年のモスクワの「塩一揆」2)に際し、士族と商人は新法典編纂のための全国会議の開催を要求した。これにおされ政府は7月オドエフスキーを委員長とする編纂委員会を発足させ、翌年の全国会議で「会議法典」が成立した。法典への署名者は315人にのぼり、そのうち地方士族が148人、都市民が104人で、両者で多数を占めた。「会議法典」は、1550年(イヴァン雷帝の時代)の法令集からほぼ100年をへて編まれたもので、ロシアでは初めて印刷された法典であった。
 「25章967条からなる会議法典は、ほぼ当時の現行法をまとめたもので、そのおもな素材は、1550年以後、とくに1613年以降の勅令や貴族会議の決定などを諸官庁(プリカース)が実務上の必要からまとめていた『法令書』であった。しかし法典の土地や農民関係、また都市関係の諸条項には、‥‥士族や商人の嘆願書にもとづいたものもふくまれていた。会議法典の研究史では法源、とくにビザンツ法とリトアニア法からの継受に大きな関心がはらわれてきた。ビザンツ法はキエフ時代にロシアにとりいられており、リトアニア法は1588年の第三リトアニア基本法が、四〇年代に露訳されていて、会議法典の編纂にも利用された。」3)といわれる。
 法典は必ずしも体系的なものではないが、1〜9章が国家法、10〜15章が訴訟法、16〜20章が封地・世襲地と農民・都市民・ホロープ関係の法、21〜22章が刑事法規で、のこり3章が付則のかたちで、銃兵やカザークなどをあつかっている。会議法典の全体的な性格は、鳥山成人氏によると、「法典では第一章で教会と聖職者の地位が権威づけられ、第二章でロシア法史上初めて君主個人とその名誉を守るためのきびしい刑事罰がもうけられたほか、貴族会議・全国会議と中央・地方の政府機関についても十分な特徴づけがなされ、また全体として行政と財政への優先的配慮がうかがわれる。さらに財産(とくに土地)・契約・相続など民事関係も広くあつかわれているが、おもな関心は刑法にむけられており、名誉棄損にたいする身分別の罰金などの規定もあるが、人権や財産権にたいする配慮は概して希薄である。最後に、会議法典は農民を土地に、ポサード民(都市の商人や手工業者の担税民のこと─引用者)を納税区に緊縛したほか、債務ホロープや下級勤務者についても細かい規定をおこない、これは身分制の強化と固定を志向するものであった。」4)と評価されている。

注1)カザークは語源的にはロシア平原南部の辺境防衛に雇われたトルコ系の戦士であるが、のち南部防塞都市で勤務についたロシア人も「町のカザーク」といわれた。これとは  区別された、この時期に活躍する「自由カザーク」はやはり初めはトルコ系であったが、16世紀にはロシアやウクライナからの逃亡農民やホロープ、そしてクリミヤ・ハン国からのスラブ系の逃亡奴隷が多数加わり、これが主となる。カザークは外敵から身を守るため、自治的な軍事・政治組織=軍団を作った。また全員集会で首長の選出や重要な政治決定・裁判をおこなった。カザーク諸集団は、1667〜72年のラージンの乱、1773〜75年のプガチョフの乱など農民戦争の核ともなった。カザークとは、いわゆる「コサック」のこと。
 2)アレクセイ・ミハイロヴィチ(1645〜76年在位)の即位後、実権を握ったモローゾフ  は「動乱」いらいの慢性的財政難を打開しようと、冗官の削減、国境地方の下級勤務者への給与停止と土地支給、銃兵の給与引き下げなどとともに、1646年2月、高額塩税を実施した。その代わり、直接税である銃兵税と駅逓税を廃止した。しかし、高額塩税の実施は庶民の生活を痛撃し、塩の消費と生産自身が減少するほどにまでなる。このためモローゾフは翌年末、塩税を廃止し、代わりに銃兵税と駅逓税の復活と3年分の徴収を決定した。これに対し、民衆の怒りが爆発し、関係高官は民衆に引き渡され、モスクワの豪商、有力者の邸宅は打ち壊され、首都は数日間、民衆の制圧下におかれた。政府は民衆に譲歩する以外になかった。1648〜50年には、都市騒擾が多発した。1662年には、銅一揆が起こっている。対ポーランド戦の戦費捻出のため、政府は銅貨を乱発し支払いに使いながら、国庫への納入には銀貨を要求した。これに民衆の不満は爆発し、7月、数千人が減税と投機者・偽金作りの処罰をもとめた。これは弾圧され、多くの者が死刑、流刑にされた。翌年、政府は銅貨の回収を決定した。
3)世界歴史大系『ロシア史』1
4)同上

 

 (5)ロシアの農奴制


 16世紀の土地所有制度は、身分制的な性格をもち、種類としては皇室御領地、国有地、世襲領地、封地、修道院・教会領などがあった。
 国有地は、国税を払う農民の住む土地で、北部地方と新たに併合された東部・南部地方に広がった。中央部は各種の封建所領に侵食されていった。世襲領地は、世襲的に相続でき、売却あるいは抵当に入れることができる土地である。これを所有するのは、諸公、ボヤーレ(門閥貴族層)である。封地は、士族にたいし軍事勤務を条件に貸与された土地である。修道院領は、ツァーリ、諸公、貴族らの寄進やあるいは国有地の占有などにより拡大し、中には2〜3万デシャチナ(1デシャチナは約1ヘクタール)規模の広大な領地をもつものもあった。
 これらの土地で働く農民は、大別して、国有地に住む農民と、聖俗の私有地と御領地に住む農民に分けられる。前者は国税を払う担税民で、他にも築城、道路・橋梁建設、駅逓活動などの諸義務が課せられていた。後者は、私領主のために賦役をふくむ地代の支払いなどさまざまな負担を負っていたが、他に国税も負担させられていた(税率は低くされていたが)。したがって、国有地農民よりも苛酷な条件下にあった。
 農民は家族単位で村落に住んでいたが、「農民が保有する土地の広さは、16世紀中ごろで4〜9チェトヴェルチ(1チェトヴェルチは1.5デシャチナ、1.6ヘクタール)であった。」1)といわれる。この時期、「使用される農具は木製の鉤型犂が一般的で、一部先進地域では鉄製の水平刃型の犂もみられた。家畜飼育が充分に普及しておらず、組織的な施肥もおこなわれなかった。それゆえ三圃制も、この時期には国の中央部(ウラジーミル平原やモスクワ地方)で漸次一般化しつつあるだけで、その他の地方では、地味のやせた畑を何年間か休耕地にして、その回復を待ったり、森林を焼きはらって耕地化する原始的な方法がおこなわれていた。」2)といわれる。
 農民は共同体を組織していたが、それは国有地のみに固有のものか否かは明確ではなく、専門家の間でも議論が別れている。だが、「明らかなのは共同体が大公(ツァーリ)権力の強化につれて、おそらくは氏族制期にさかのぼるその原始的特徴をうしない、漸次国家行政の末端にくみこまれていった」3)ということである。
農民を土地に緊縛する農奴制は、ロシアにおいては、本格的には16世紀の末から17世紀の半ばにかけて成立する。
 イヴァン3世の時代の1497年、法令集の57条で、いわゆる「ユーリーの日」の規定が制定される。それによると、農民は「ユーリーの日(11月26日)」の前後2週間にかぎって、しかるべき支払いの後、領主の下を立ち去ることが認められたのである。領地経営が未だ一般化していなかった14〜15世紀とは違い、それが進みはじめる中で、農民の移動を制限するようになってきたのである。この移動の制限は、イヴァン雷帝(1533〜84年在位)時代の1550年法令集でも確認されている。
 雷帝末期からは、農民の移動を禁止する動きが徐々にすすむ。そして、国税の増収と士族層の保護つまり労働力確保のために、新たな土地台帳が作成される。「土地台帳の整備が進むと、それへの登録が逃亡農民連れ戻し要求の根拠として利用されるようになった。」4)のである。1597年の法令は、逃亡農民の捜索期間(法定年限)を5年としている。1597年の別の法令は、債務隷属者(カバーリヌイ・ホロープ)5)から、債務返済による自由回復の道を奪っている。逃亡農民連れ戻しの五年の法定年限は、「動乱」期の偽ドミートリー1世によっても確認され、ツァーリのシュイスキーによつては、15年に延長されている。だが混乱期のこの時期には、法定年限は有名事実にすぎなかった。
 「動乱」後の新政府も、逃亡農民の問題に力をいれ、1619年の秋、五年の法定年限が地方長官に通達されている。だがしかし、五年を過ぎると逃亡農民に対する権利がなくなるので、士族の多くは不満であった6)。中小領主たちは、1630年代のすえから何回かにわたり集団嘆願をおこない、政府に圧力をかけた。これに対し政府は、初めのうちは法定年限の延長で答えた。法定年限は、1637年に9年へ、41年には10年へ延長された(ただし誘拐された者は15年)。
 また政府は、「動乱」期の戦乱や1626年のモスクワ大火などで土地台帳が失われ、土地所有関係の混乱もあり、1620〜40年代に新たに土地台帳を作成している。そして、1646年には農民とボブイリ(貧農を指す。一般の農民より税負担が軽かった)の登録簿を作成し、緊縛している。
 そして、1649年の「会議法典」では、ついに法定年限の廃止にふみきった。「法典の第11章『農民についての裁判』は、御領地、国有地とすべての聖俗所領からの逃亡農民とボブイリを、1626年のモスクワ大火後にまとめられた土地台帳と1646年の登録簿をもとに、無制限に捜査・引き渡しの対象とし、これには家族と家畜・農具などもふくめること、逃亡民の受け入れを禁じてその隠匿にはそれぞれ10ルーブリの罰金を課することなどを定めた。」7)のである。だが苛酷な支配と収奪の下で、逃亡農民は法定年限の廃止後も減るどころか、かえって増加する。これに対し領主たちは、今度は政府の責任による捜査・引き渡しを求め、政府は1650年代の末に捜査官制度を発足させる。
 逃亡者の連れ戻しの対象は、農民やホロープだけではなかった。都市の担税民(ポサード民)も対象であった。都市からの税収も重要な財源であったのである。だが酷税にたえかねたポサード民は逃亡し、その中には逃亡農民同様に、聖俗の大領主の下に逃げ込み、託身(主従関係をむすび保護下に入ること)して税を免れる者も少なくなかった。
 「会議法典は、モスクワはじめ諸都市とその近郊の聖俗領主のスロボダその他の私有地のポサードへの編入と託身制の排除を定めた。」8)のである。
 「会議法典」は、人民を身分制の下に強く緊縛する方向をもっていたのである。
 
注1)世界歴史体系『ロシア史』1
 2)同上
 3)同上
 4)同上
5)この頃は、世襲的なホロープは減る傾向にあり、代わりに債務ホロープが顕著になってきた。16〜17世紀には、全人口の10〜15%がホロープであると推定されている。
6)17世紀の第二四半期の世俗所領の72%が封地であったが、1678年のモスクワ周辺地方では、士族の59%が土地を世襲地として持つように変わっている。
7)世界歴史体系『ロシア史』1
 8)同上。都市の住民にはさまざまな身分層が住んでいる。諸公、貴族、士族、聖職者は支配層であり、都市内の屋敷や経済施設をもっていた。官庁役人、銃兵隊員などの兵士層、外国人─これらの層は、国税を払わなくてよい。国税を払うのをポサード民という。これは商・手工業者地区(ポサード)に住む、いわば本来の都市民であるといえる。彼らは独自の組織であるポサード共同体を有している。このポサード共同体は、百人組(ソトニャ)や村(スロボダ)に別れており、国家への納税を基本業務とする組織である。このように都市には、国税を免れている人々と区域があり、経営改善を図る免税領主と、酷税を免れようとする担税民の利害が一致すると、免税世帯が拡大することとなる。

 

 (B)西欧化とその限界

 (1)西欧的改革と大国化


 17世紀後半、モスクワ国家は諸官庁の整備、常備軍の強化などとともに、絶対主義への傾斜を示す。それを象徴するものとして、「アレクセイ(1645〜76年在位─引用者)は、革命までつづく『専制君主(サモヂェルジェツ)』の称号をはじめて公式に使用し(“神の恵みによる大君、ツァーリにして大公、全ロシア〈50年代には「全大・小・白ロシア」1)〉の専制君主”)、彼が1654年末ないし翌年初めにもうけた『枢密庁』2)の活動も、ツァーリへの権力集中の試み」3)としてある。他にも、この時期には、ツァーリの身内でも門閥貴族でもない、専門知識をもつ高級官僚がしだいに進出しはじめる。そして、門地制4)の廃止をはじめとして、軍制・行政・税制などの改革が開明派官僚によって推進される。 だが、初期ロマノフ期は、ツァーリの外戚が権勢をふるったり、国政の中心である「貴族会議」では伝統的な貴族がいまだ支配的力を保持していた。ツァーリが本格的な専制君主となるのは、18世紀の西欧的な改革があらゆる分野で推進された時代である。
 ピョートル(1682〜1725年在位)からエカチェリーナ2世(1796〜1801年在位)におわる18世紀のロシアでは、「ツァーリ及びツァーリツァ(女帝)たちは後進的なロシアの社会と経済の『近代化』のために、ヨーロッパ文明をモデルと仰ぎ、その導入の先頭に立つことになったのである。行政(と裁判)の整備、法典編纂、工業化、教育、等やるべきことは山ほどあった。‥‥18世紀のツァーリ権力は、したがって成立期の近代国家に共通する啓蒙主義的な性格と専制的な性格を不可分な形で備えていた。それは、とくにピョートル期に顕著であったが、18世紀を通して一貫していた」5)のである。
 1711年、ピョートルはトルコへの遠征中、彼の不在中に国政をあずかる最高機関として「統治をつかさどる元老院(セナート)」を設置した(9名の議員を任命)。元老院はツァーリの命令を遂行するだけでなく、重要案件にたいして仮の決定を下し後にツァーリの承認をうけた。元老院は一時的な機関として考えられていたが、それは多数決原理にもとづきよく機能し、永続的な機関として定着した。中央・地方の行政は、元老院によって統括された。また、ピョートルは錯綜し重複するこれまでの官署にかえて、1717〜19年にかけ、スウェーデンやプロイセンでおこなわれていた参議会(コレギア)を12設置した(図参照)。
 ピョートル改革の多くは、スウェーデンという優れた軍事力をもつ敵国との対決の中から立案されたと言われるが、このことは特に軍制改革にいえる。ロシアの軍事力はすでに17世紀末の段階で、海軍をのぞき規模、装備ともヨーロッパ諸国にひけをとらなかった。だが、中小貴族層を主とする旧来の騎兵部隊、銃兵部隊を、歩兵部隊、騎兵部隊、竜騎兵部隊からなる新軍にかえ、北方戦争(対スウェーデンとの1700〜21年にかけての戦い。バルト海沿岸を獲得)前夜には約16万の陸軍を擁していた。だが緒戦のナルヴァの戦いで敗北したピョートルは、早急な軍隊立て直しを迫られ、徴兵制を導入した。これにより、毎年2万人以上の農民兵士が、全国の村々から補充された。海軍はゼロからの出発であったが、バルト海艦隊を創設し、1724年の段階で、48隻の大型艦船、約18隻のガレー船をもつまでに至っている。 スウェーデンとの戦いは長期化したが、軍制改革もあってようやく1721年にロシアの勝利となる。 勝利の祝典でピョートルは、元老院から「皇帝」、「祖国の父」、「大帝」という称号を送られた。
ピョートルの絶対主義的な統治機構の確立にむけた改革は、基本的に西欧諸国と同じ性格をもつものであるが、大きな相違は、その担い手である。ロシアの貴族、士族は古くからもともと、ツァーリへの「勤務者」であったが、ピョートルはこの伝統を利用し、国家勤務をさらに強化した。多くの貴族の子弟は、さまざまな専門的知識・技術を学ぶため、強制的に西欧諸国に送り出された。1722年には、貴族の国家勤務を定着させるために、『官等表』も作っている。これは当時の国家機構の全ポスト262(武官126、文官94、宮内官42)を各々14のランクに分け昇進コースを明らかにするものである。昇進の基準は、年功と功労である。この制度は、ランクに応じた俸給の多寡を定め、国家勤務を刺激した。そして、これは伝統的な支配層を解体するものではなかったが、平民にも一代貴族への道をひらいた。ピョートルは、また1714年には「一子相続制」を発布している。その理由は、従来の分割相続制度が、由緒ある家門を没落させ、ひいては国家利益を損なうからとしている。だが、同時に他方では、自分の所領をもつ貴族は、強制なくしては勤務につかないとして、国家勤務の徹底を狙ったものである。「一子相続制」は、ピョートル死後まもなく廃止されたが、従来、所有権の性格において違いをもっていた世襲地と封地を、等しいものとした。
 改革は、経済面でも推し進められた。とくに工業の発展は戦争遂行にとって不可欠であった。17世紀まで多くの金属をスウェーデンからの輸入に頼っていたロシア政府は、国内の鉱床の踏査・開発から始め、官営工場の建設をおこない、いくつかは民間に払い下げられた。問題は、労働力であった。このため、国有地農民が登録され、官営工場での労働を義務づけられた。1725年には、官民の製鉄工場には5万人をこえる農民が働いていた。「登録農民」といわれた彼らは、工場での仕事いがいにも木材の伐採、鉱石・製品の運搬に従事させられた。だが、官民を問わず各種の工場の労働力として大きな比重を占めたのは、出稼ぎ農民や逃亡農民であった。とりわけ逃亡農民は多く、1723年5月、政府は工場労働者は出稼ぎか逃亡かにかかわらず、その意志に反して強制送還してはならない、と指示している。
 重工業のみならず、軽工業も軍需と結び付いていた。その中心は繊維工業であるが、当時モスクワ地方などに約30の繊維工場が操業していた。
 当時のロシアには、全体で約230の工場が各地で操業していたが、そのうちの200以上がピョートル期に入ってから建設されたものである。ロシアのマニファクチュアは、この時期に飛躍的に発展したのであった。その後ロシアの製鉄業は輸出産業に転じ、18世紀の後半にはヨーロッパ市場で著しいシェアを占めるまでになる。
 他に特筆すべき改革は、人口調査・税制改革と教会改革がある。
 1718年11月、ピョートルはすべての農村住民(男)の申告を指示する勅令を発し、翌年全国で実施された。この人口調査の目的は、課税単位をこれまでの世帯から人間(人頭税)変えることであった。1709〜10の世帯調査が約30年前のそれと比べ、約20%も減少する(だが人口は増えている)という人民の抵抗があったため、課税単位を人間に変えたのである。だが、やはり「人間隠し」の抵抗にあい、21年からは軍隊が投入されて人口調査が行われた。この結果、全体で約三分の一の「人間隠し」が明らかとなった。人頭税の導入、スウェーデンに習った軍隊の農村配備は、農民たちの大きな負担となった。うちつづく戦争と改革で重荷をかせられた農民たちは、家族で、ときには村ごと逃亡に走った。1719〜27には、逃亡農民は約20万人に近づいたと言われる。また、中央部の村々では(村々では連帯責任をおわされていた)、多発する農民の逃亡という事態に直面し、これまでも時折おこなわれていた土地割替(各世帯の労働力・担税力に応じた分与地の割当て)に頻繁に頼るようになっていった6)。
 ピョートルの教会改革は、1700年、モスクワ総主教アドリアが没すると後任の選出を禁じ、総主教の代理としてリャザンの府主教ヤヴォルスキーを任命することより始まった。ヤヴォルスキーの権限は聖務に限定され、聖界の所領と行政については翌年に設立された修道院官署があつかうことになり、その長官には俗人が任命された。ピョートルの狙いは、戦争財源の確保にあった。旧来の収入源をたたれた修道士には、政府から俸給が支払われた。1720年、総主教制は廃止され、翌年、聖職参事会が修道院官署にかわって聖職者にかかわるすべての事柄を統括することとなった。これは21年2月に宗務院(シノード)に改称され(ツァーリの任命する高位聖職者11名の合議)、中央行政機関の一つとなった。ツァーリと宗務院の連絡係は宗務総監と呼ばれる官僚がなり、それは宗務院の事実上の議長となり、次第に宗務院全体の決定を左右するようになる。森安氏によると、「西欧の絶対主義体制は教会との闘争を通じて確立され、それが政教分離につながった。しかしロシアの事情は少々異なる。ピョートル大帝は闘争によって教会を屈服させたわけではなく、モスクワ公国時代に始まったいわゆる皇帝教皇主義に近代的な装いをまとわせたに過ぎない。」7)のである。 
ロシアは、西欧的な諸改革を背景にしながら、不断に侵略と国土の拡大をおこない、18世紀には、ヨーロッパの一辺境国からヨーロッパ国際政治のヘゲモニーを争う大国に変貌した。
すでに16世紀の後半、ロシアは東方方面のウラル、シベリア、南東方面のヴォルガ川流域方面に進出し、本格的に多民族国家の道を歩み始めている。すなわち、1552年にカザン・ハン国を、1556年にアストラハン・ハン国を、16世紀末にシベリア・ハン国を併合し、広大な領土を獲得するとともにイスラム教徒を臣民としている。しかし、西方ではポーランド、これと結ぶリトアニア、さらにスェーデンなどによって拡大を阻まれていた。だが、1654〜67年の13年戦争で、ポーランドから東欧の覇権をうばい、北方戦争(1700〜21年)で、バルト海を内海としていた北欧の霸者・スウェーデンを破り凋落させた。エカチェリーナ2世(1762〜96年在位)の時代には、トルコを圧迫し黒海に進出し、3次にわたりポーランドを分割(1795年にポーランド王国消滅)するなどして、領土を拡大した。さらに19世紀のはじめには、1801年にグルジア王国、1809年にフィンランド、1812年にベッサラビア、1813年に北部アゼルバイジャンをそれぞれ併合する。以降中央アジアと極東・アラスカを除くと、ロシア帝国の支配領域に大きな変動はない。

注1)大ロシアとは、いわゆるロシアを、小ロシアとはウクライナ(本来は「辺境の地」を  意味する)、白ロシアとはベラルーシを指す。
2)枢密庁は、書記官1名と書記約10名で構成され、ツァーリの公開、非公開の、一切の  活動に関する事務を所管し、処理する。ここでは、門閥貴族も「貴族会議」も排除され、ツァーリのみが問題をあつかう。もと使節庁の書記で1664年スウェーデンに亡命し、17世紀中葉のロシアについて貴重な記録『アレクセイ・ミハイロヴィチ治世のロシアについて』を残したグリゴリー・コトシヒンニによると、「このプリカース(枢密庁のこと─引用者)の書記たちは使節とともに外国や外交会議に、また将軍とともに戦争に派遣され、‥‥使節と将軍たちを監視し、帰ってからツァーリに報告する。自分の任務をきちっとはたさなかった使節、また将軍はツァーリの怒りをおそれ、これらの書記たちがツァーリの身近にあって彼ら使節たちをほめてくれ、悪いことをつげることのないよう、彼らに贈り物をし、彼らを過度にたてまつっている。このプリカースは、ツァーリの考えと仕事がつねに彼の希望どおりに運び、ポヤーレ(門閥貴族のこと─引用者)やドゥーマ(「貴族会議」のこと─引用者)の人びとがそのことについてなんらつかさどることのないよう、現在のツァーリのもとでもうけられたものである。」(世界歴史大系『ロシア史』1 から重引)と評価されている。この枢密庁はアレクセイの死とともに廃止される。
3)世界歴史大系『ロシア史』1
4)門地制は、モスクワ大公に仕える貴族が一挙に増えた15世紀、その序列を決める必要  から生まれた。宮廷での席次や、宮内職・文武官への任命には、本人の家柄と一族および本人の官歴によっておこなわれた。だが、家柄をめぐる紛争で行政が渋滞したり、戦場での指揮権が争われたりしたので、これらの紛争を裁定する基準として、イヴァン雷帝のときに、貴族の「系譜録」や「補任記録」が作られた。だがそれでも問題はなかなか解決せず、門地制の慣行は16世紀なかばから「モスクワ士族」に、17世紀には地方士族に、そしてさらに官庁の書記などにまで拡大し、訴訟が続出した。政府は1682年、軍隊の下級指揮官の自由な任用のため、門地制の廃止に踏み切り、「系譜録」「補任記録」を焼却した。
 5)土肥恒之著『「死せる魂」の社会史』 日本エディタースクール出版部
6)鳥山成人著『ロシア東欧の国家と社会』(恒文社)によると、「土地割替を示す史料  は、16世紀にさかのぼるが、その事例がふえてくるのは17世紀後半とりわけ世紀末か  らである。そしてその後、まず貴族所領と教会領(修道院領と主教領)でほぼ18世紀半ばまでに土地割替が一般的になり、これより遅れて18世紀末以降に北ロシアなどの国有地でこれが普及し、シベリアの国有地ではさらに遅れてこれが19世紀後半になる。」といわれる。
7)森安達也著 世界宗教史叢書『キリスト教史3』  山川出版社

 

(2)西欧化の限界と人治主義


 18世紀のツァーリ権力が目指した西欧的改革での重要な柱の一つには、「ヨーロッパの君主たちが推しすすめていた法の支配による絶対主義的『行政国家』の確立」1)があった。「このことは、何よりも法令(勅令)の数に示されている。すなわち17世紀後半には年間平均僅か36本の勅令が発布されたにすぎなかったが、18世紀に入ると様相は一変した。世紀前半には年間に160本、その後半には198本、の法令がだされており、17世紀の四、五倍に達した」2)のである。
 近代的な法治国家として法治主義を徹底させるうえには、法の整備が必要不可欠である。だが、「18世紀には全部で九回にわたって委員会(法典編纂のための委員会─引用者)が設けられた。だが、この事業はすべて失敗した。その根本理由は、単に技術的な問題ではなかった」3)と、言われる。土肥恒之氏によると、一つの理由は、「ヨーロッパ生まれの自然法に由来する道徳律をロシアの現行法と結びつけようとする試みに難しい問題があった」4)ためである。だが、「より重要な点は、法治国家、すなわち『法の支配』を看板に掲げながらも、ツァーリ権力は、それによって完全に『人の支配』に代えることを望まなかったことにある。ツァーリたちは、ヨーロッパの君主たちが至上の価値とした『法治国家』の確立を形のうえでは借りながらも必要な場合にはいつでも法や訴訟手続きを廃棄し、無視した。ツァーリたちは法律や事柄を遂行する秩序に従わず、また元老院などの最高の統治機関での審議を経ずに、『慈悲』や『正義』、あるいは『国益』に従って、事柄についての決定を下した。こうしてツァーリによる自己のパーソナルな権威への愛着のために法は犠牲にされた。歴代のツァーリは法典編纂の事業には同意したものの、その実現にはあまり熱心ではなく、結局はいずれも失敗に終った根本理由はこの点にあった。表面的には『法の支配』の看板のかげで、実質的には『人の支配』が生きつづけた」5)のである。
このような状況は19世紀に入っても変わらなかった。だが、ようやくニコライ1世(1825〜55年在位)の時代の1832年になって、1649年の「会議法典」いらい180数年ぶりに『ロシア帝国法律集成(スヴォート・ザコーナフ・ラシーイスカイ・インピェーリイ』(15巻)がつくられた。
 ニコライ1世(1825〜55年在位)は、その即位時にデカブリストの乱(西欧の影響を受けて、専制政治と農奴制の廃止を目標とした青年将校などの反乱)に直面した。そのため、教養ある貴族層を嫌い、自ら信頼する官僚によって改革をすすめようと、従来の皇帝直属官房を拡張し、管轄事項を分担させた。第一部は、皇帝への報告書を作成し、命令の実施状況を監視する、第二部は、法律の編纂にあたる、第三部は、秘密警察の活動、第四部は、慈善・教育の管轄、第五部は、行政制度の改革と国家財産のための活動である。
 ニコライ1世は、デカブリストの処罰にあたって、国事犯への法規定がないことが痛感され、また官吏の職権濫用をふせぐための法整備の必要に対処するために、第二部を設置したのであった。第二部の責任者には、スペランスキーが登用された。彼はかつてアレクサンドル1世(1801〜25年在位)の時代に「三権分立」の「国家改造案」を提出したが、保守派の陰謀の犠牲者となり、改革は流産している。スペランスキーは、ニコライ1世が西欧的原理にたつ法典編纂に反対の態度6)をとっているので、まず既存の法令の集成物を作ることにした。そこで1649年の『会議法典』からニコライ1世即位にいたるまでのすべての勅令・法規・規定を蒐集して、年代順に整理し、『ロシア帝国法令全書』(四十五巻)として1830年に刊行した。また現行法を蒐集・整理して体系的に配列した『ロシア帝国法律集成』(十五巻)も、1832年に完成した。『ロシア帝国法令全書』、『ロシア帝国法律集成』は、元来、将来の法典を起草するための準備資料にすぎなかったのであるが、しかし法典編纂作業はこれ以上は進みえなかった。したがって、この『法律集成』に法源性を認めるべきだという議論がおこり、1833年1月31日法は、1835年1月1日をもって、『ロシア帝国法律集成』は法的効力を有する、と定めた7)。この『法律集成』の概要は、以下のものである。
「1 国家基本法律(第一巻第一部)。
 2 諸官庁、即ち、(a)中央諸官庁(第一巻第二部)、(b)地方諸官庁(第二巻)、    (c)官吏法(第三巻)
3 統治権力の安定に関する諸法律、即ち(a)防衛義務法および県負担条令(第四巻)、   (b)租税および料金の条令(第五巻)、(c)関税法(第六巻)、(d)貨幣、鉱業および塩に関する高権(第七巻)、(e)森林、料地および会計の制度(第八巻)。
 4 租税法(第九巻)。
 5 民事および土地測量の法律(第十巻)。
 6 国家福祉、即ち、(a)外国諸宗教の聖務に関する諸法律、信用、手形、商事、領事   および手工業に関する法律(第十一巻)、(b)交通路に関する諸法律、郵便および電信法、建築条令、火災保険法、農業および漁業法、農業労働者条令、飲食旅館業条令、国有村落、コサック村落および外人居留地に関する法律(第十二巻)。
7 警察法、即ち、(a)国民扶養および貧民救済に関する諸法律、医療法(第十三巻)、   (b)犯罪の予防および防止のための法律、囚人および流刑者に関する法律(第十四   巻)。
8 刑法(第十五巻)。」8)
なお、1864年の司法改革後に、第十六巻が付加された。これには訴訟法、裁判所構成法が含まれている。
 だが、『ロシア帝国法律集成』だけがロシア帝国の法令全体を尽くすものではない。たとえば、陸軍、海軍や聖務に関する諸法律は、別の集成物に収められている。また、バルト海諸地方、ポーランド、フィンランドの局地的諸法律もある。『ロシア帝国法律集成』は、既存の法律をただ整理しただけなので、従来からの専制政治の内容、あり方が変わるわけでないのは言うまでもない。
 だが、これに表現される体制が、1905革命につき動かされた1906年の「外見的立憲主義」(専制体制の本質は変化しないが)の成立まで続行されるのである。
『ロシア帝国法律集成』の第一巻第一部の「国家基本法律」の第1条によると、「全ロシアの皇帝は専制にして無制限なる君主である。その最高権力にたいして畏怖の念によるのみならず衷心より服従することは、神の命じ給うところである」9)と規定されている。このことでも明らかであるように、まさにロシアはツァーリの無制限の専制権力によって支配されている。この無制限の専制権力の内容は、同第47条「ロシア帝国は専制権力より発する積極的法律、設置法、法令という堅固な基礎に立って統治される」、同第80条「行政権はその全領域において陛下に所属する」10)などの条項でも明確となっている。つまり、立法権も行政権も、ともに「専制にして無制限なる君主」である皇帝(ツァーリ)によって掌握されているのであった。
 そして、ツァーリ専制下の法の特徴は、シュルツの以下の言に明らかである。すなわち、「第五四条(「国家基本法律」の─引用者)は明瞭に次のように規定する。即ち、『いかなる新しき法律も、皇帝の自署によるにあらざれば成立せず』、と。それ故に、法源は唯一であり、そして、それは皇帝である。」11)というものである(シュルツの言う「唯一」というのは、いいすぎであろう。他に共同体の慣習法が存在するからである)。このような状況下では、当然にも法律と命令の区別も実質的にはなくなってしまう。「第五五条によれば、法律の解釈ないし説明には、皇帝の口頭での意思表明で足る。ロシアの法律家衆は、これら諸種の法規範(法典、規程、条令、訓令、通達、通告などさまざまな形態の法のこと─引用者)を分類すること、そして、法律、命令および処分を明瞭に区別することに努めた。しかし、この努力は、不明確で朦朧たる法律的概念構成と専主的国家形態とのため、失敗に終った。‥‥一九〇六年以前には法律と命令との区分をつけることは不可能であるとの、グリーバーフスキーおよび多数のロシア憲法学者の見解に多分賛同せねばならないであろう。支配者の一切の意思表明は、法律と見られて差支えなかった」12)のである。
 18〜19世紀のロシア帝国には、このツァーリの支配の下に、中央最高諸機関として、元老院(セナート)、国家評議会(ガスタールストベンヌイ・ソヴィエト)、大臣委員会(コミチェート・ミニーストロフ)などがあった。
[元老院]は前述したようにピョートル時代に創設され、立法、行政、司法を統括する最高機関である。元老院の主要任務の一つには、帝国内の諸機関の監視があった。このために管財官と、補佐官をしたがえた一名の管理総監がいる。管財官は、諸々の機関・個々の官僚の活動について秘密に情報収集する。管財官は、各州や都市にも配置されていた。また、「管理総監は、ロシア地域の行政全体に対する統御をしていたのであって、彼は、『皇帝の眼』と称されて」13)いた。元老院議員は皇帝により任命され、貴族、高級官僚によって構成されていた。元老院を主宰するのが管理総監であって、元老院の活動の全体を統括し、元老院の一切の決議に対し、拒否権をもっていた。管理総監は、ただ皇帝のみに従属していた。(元老院が握っていた包括的な監視機能は、19世紀中葉に検察官制度に移った。1864年の司法改革により、司法大臣が検事総長を兼ね、検察官は治安判事の裁判所をのぞきすべての裁判所に配置された。検察官は全員、検事総長によって任命され、厳しい位階的秩序の下に組織された。検察官の職務範囲は、ロシアの伝統に従い著しく広大である。検察官は、「法の番人」として、すべての国家機関、すべての官吏を監督した。)
 だが、元老院の諸々の権限はピョートル時代以降は、減少した。エカチェリーナ1世(1725〜27年在位)およびアンナ(1730〜40年在位)の時代には、元老院の権限は著しく制約され、新設の枢密顧問会議や大臣官房の活動によって排除された。元老院が皇帝権力を脅かすという恐れからである。アレクサンドル1世(1801〜25年在位)は、元老院の改革に踏み切る。元老院の諸々の権限は、法的には拡大したが、実際には死文化され、元老院がもつ行政分野の権限は、大臣委員会や個々の省に移ってしまった。元老院に残されたのは、行政的には地方諸機関に対する監視と統御のみとなる。立法分野の権限は、国家評議会に移ってしまった。1864年の司法改革の後には、元老院には最高の破毀院の権能が残されただけである(刑事・民事に関する最高司法機関)。  [国家評議会]は、アレクサンドル1世の即位直後に創設された。だが似たような機関は歴代の皇帝にもあった。エカチェーナ1世は最高枢密顧問会議を、エリザヴェータ(1741〜61年在位)は常置の諮問機関として評議会を、エカチェリーナ2世は皇帝顧問会議をそれぞれ設立した。パーヴェル1世(1796〜1801年在位)は先帝の皇帝顧問会議を至高顧問会議に改称した。これらは皇帝と国家諸機関との間の仲介をするものにすぎず、諮問機関であった。アレクサンドル1世の国家評議会も、そうであった。しかし、1810年1月1日の詔勅で改組され、実質的には皇帝に次ぐ国家の最高機関になった。
 改組後の国家評議会は、法律、軍事、民事と教会、国家財政の四部に分かれ、必要におうじて召集された構成メンバーは、皇帝により任免される者(退官した高級官僚がほとんど)と、各省大臣、国家評議会の各部長である。
 国家評議会の権限の主たるものは、立法問題であり、種々の法律草案を審査し、これに関する所見を皇帝にのべることである。国家評議会規則の第23条は、「至高の皇帝権による裁可および批准を要する諸々の国事の処理に際しては、次の諸事項は、先ずもって国家評議会による審査を受くべくここに提出せらるべし」14)と、規定している。しかし、国家評議会はあくまでも決定権はなく、また法律の発議権もない。(皇帝は国家評議会の報告を裁可するか<多数意見をとるか、少数意見をとるかは、皇帝の判断>、または拒絶する。)だが、複数の省に関係する法律草案は、皇帝の許可があれば、直接皇帝に提出できる。あくまでも主権は、皇帝のみにあるのである。
 行政の分野では、宣戦布告、講和、国家予算など重要問題を審議した。
 [大臣委員会]は、アレクサンドル1世の1802年に、ピョートル時代の参議会に代わり作られた、陸軍、海軍、内務、外務、司法、大蔵、通商、文部の8つの省からなる中央政府組織である。だが、各省の大臣は、皇帝によって任免され、それぞれ管轄事項について皇帝に対して責任を負う。大臣委員会は、いまだ内閣(1906年に設置)ではなく、各省大臣の連絡協議機関にしかすぎない。
 これら3つの中央国家機関は、その管轄範囲が重複しており、競合状態にあった。活動における重複と非効率性は、根本的には専制権力者=皇帝の恣意的な政治に規定されているのであり、その弊害と財政的しわ寄せは、結局、人民におしつけられるのであった。

注1)土肥恒之著『「死せる魂」の社会史』 日本エディタースクール出版部
 2)同上
3)同上
4)同上。ロシアでは、すでにキエフ国家時代からビザンツ帝国の流れを受け、「皇帝教皇主義」であり、また商工業の成長を基盤に民会を発展させたノヴゴロドやプスコフの都市共和国は、解体された(前者は1478年、後者は1510年)。こうして、ロシアでは自然法思想はそだたなかった。
5)同上
 6)今まで何回も法典編纂が挫折したが、ニコライ1世の時にようやく実現したのは、彼なりの法の重視があったからである。だが、その法の重視はあくまでも彼の君主観、統治観に基づくものである。すなわち、「彼は統治機構を集権化するとともに、法を君主の意思の現われとみて重視し、その正確な執行・遵守を統治の基礎に据えようとした。」(高橋和彦著「帝政ロシアの弁護士法制」─『社会科学研究』41─5・6)からにほかならない。また、スペランスキーも「君主の主権に属する国家作用を、法を定立する立法作用とこれを実施する執行作用に分け、両者の峻別こそが国制の根本規範である」(高橋前掲論文)とみている。この点で両者の考えは一致している。従ってスペランスキーの『三権分立」なるものも、実際にはツァーリ専制下での『二権分立」なのである。このことは、高橋前掲論文によると、「スペランスキーは司法権の性格を、『その根本において司法権は執行権以外の何ものでもない。裁判の対象とな  るあらゆる事案・あらゆる紛争は、本質的には法律違反に対する不服申立てに他ならない。司法権はこの違反を確認し、法律の効力を回復する、すなわち法律を執行するのである』と述べている。」ことで明らかである。ツァーリ専制の下での「法治」主義であってみれば、至極当然のことではあるが‥‥。
7)高橋前掲論文
8)シュルツ著「ロシア法制史概説」(三)─『神戸法学雑誌』第37巻1号に所収
9)和田春樹著「第一七章 近代ロシア社会の法的構造」─『基本的人権 第3巻』(東大出版会)に所収。なお、「国家基本法律」第42条は「皇帝はキリスト教君主として、支配的宗教の教義の最高の擁護者にして護持者であり、聖教会における正教信仰といっさいの監督者である。」と規定している。
10)同上
11)シュルツ著「ロシア法制史概説」(二)─『神戸法学雑誌』第36巻4号に所収
12)同上
13)同上
14)同上


 
(C)「大改革」期とロシア的近代化 

 (1)クリミヤ戦争での敗北と上からの「農奴解放」

 ツァーリ専制下の前近代的な統治体制、そしてなによりも農奴制に代表される遅れた経済制度などがもつ諸矛盾は、諸外国との対立、戦争によって、白日の下にさらされる。クリミヤ戦争(1853〜56年)での敗北である。旧式の火砲・帆船のロシア軍では、新型の旋条銃・蒸気船を主力とする西欧諸国の軍事力には、抗することもできなかった。この格差は、単に軍事力にとどまらず、経済、技術、教育などあらゆる面での格差を示していた。 重工業は、西欧諸国の目覚ましい発展と比較し、相対的に停滞していた。「19世紀初頭イギリスに匹敵したロシアの銑鉄生産が1860年には世界第7位に転落した。この間における生産の増加は僅か二倍(イギリスは24倍)であった。」1)という。これにたいして軽工業は、綿・絹工業や、製糖工業、製紙工業などが発展した。とりわけ発展の著しい綿工業では19世紀中頃、一方でマニファクチャアから機械制工場への移行とともに、他方では農村家内工業が発展した。「農村家内工業地帯では19世紀前半に急速に農民層の階層分化が進んだ。この時代農村での階層分化を促したのは、狭義の農業経営よりは、この種の農村工業や商人的農民による穀物取引・高利貸などであった。そして19世紀のロシアの代表的資本家にはこのような農民=工場主、農民=商人出身のものが多かった。」2)といわれる。だが目覚ましい発展を示した家内工業といっても、その半面には自由な労働力の獲得の困難性と技術の後進性があり、「労働力構成と機械化の点で最も進んでいた綿工業においてすら、機械織りは1860年になお全生産の五分の一を占めるにすぎなかった。」3)のである。しかも綿工業は19世紀中葉には早くも生産過剰に陥っている。明らかに農奴制下の国内市場の狭さによるものである。 農奴制の存在は、資本主義工業の発達にとって大きな桎梏となっていたのである。
 クリミヤ戦争は、容赦なく人民に犠牲を押し付けた。徴兵の大幅な増員、死傷する兵士の増大、軍事財政によるインフレ、徴用される牛馬・労働力や食糧供出などでの農村の荒廃などである。1854年4月2日、イギリス艦隊と戦うために北部4県から義勇軍を募る勅令が発せられた。だが、これをきっかけに農民の間には義勇兵として勤務した後に、家族ともども永久に農奴身分から解放されるという噂が対象地域以外にも広がった。農民は、神とツァーリに忠誠をちかい、苛酷な領主の支配を脱し、自由を求めて志願しようと、大挙、登録のために都市に向い、軍隊と衝突した。この農民運動は、中央部・ヴォルガ川沿岸・南西部の諸県に広がるがる。また、南部では自由を求めて、領主の財産を奪い、戦場のクリミヤに向かった。これらの運動は、結局は軍隊によって鎮圧された。4)
 クリミヤ戦争の敗北の後、アレクサンドル2世(1855〜81年在位)は、「農奴解放」に踏み切る。彼は、「これが(農奴解放のこと)下からより上から始められるほうがはるかによい」として、多くの貴族(領主)の反対をおしきった5)。1861年3月5日、農奴解放令(正式には「農奴的従属を脱却せる農民にかんする一八六一年二月十九日の法令」)が公布された。2年後には、男女2000万以上の農奴が、人格的自由を無償で獲得されることとなった。
 だが、ツァーリによる「上からの農奴解放」は、領主の利益を優先していた。土地の所有権は、領主にあることが確認され、「僕婢」は土地なしのままで、ほかの農奴は一定の土地が分与されるだけであった。この分与地(恒久的に利用はできる)は、規定により以前の保有面積の五分の四(全国平均)であり、今までより二割減少した。国土地帯では約25%も失っている。いわゆる「切取り」である。割当てられた分与地に対して旧農奴は、その買戻し契約が結ばれるまで、「一時的義務負担者」として貢租または賦役を負担しなければならなかった(分与地が減少した分、負担は増大した)。買戻し契約が成立すると、買戻し金の80%は金のない旧農奴に代わって政府が支払い、これを旧農奴は49年かけて政府に年賦償還することとなった。利子もふくめたその金額は、当時のモスクワ県の土地1デシャチナの平均価格約38ルーブリに対して、106ルーブリという金額(約2.8倍)にもなるのであった。この償却支払いは、法令により農村共同体の連帯責任とされた。しかも農民は、政府への償却支払いが完済されるまでは、自分の土地を抵当に入れたり、売却する権利ももてず、とても所有者とはいえない。完済されるまでは、政府と共同体に縛られつづけるのであった。その後、御料地農民や国有地農民にも、「農奴解放令」に準じた改革がなされた。
 「農奴解放令」の公布は、1861年の3月上旬、各地域の教会や貴族の邸宅前などで農民たちに宣言書を読み上げる形で行われたが、農民たちにとっては概して評判は良くなかったといわれる。「農民のなかには、宣言書と法令が本物であるとは信じず、ツァーリは『真の自由』を与えてくださったが、貴族と役人がそれを故意にすりかえたのだといい張るものもあらわれた。」6)のである。農民たちの不信や不満は騒擾となって噴出した。
 農民たちの騒擾は、軍隊によって弾圧され、指導者は銃殺刑とされ、多くの農民が笞刑、流刑とされた。これらの弾圧は、学生や知識人など社会の各層の批判をうけることとなった。
 アレクサンドル2世は、この他にも司法改革、ゼムストヴォ(地方自治機関)の設置、鉄道建設、信用制度の改革(国立銀行・株式銀行・信用組合の設立)、通貨改革、財政・税制改革(町人身分の人頭税廃止、酒専売の廃止と酒・煙草・砂糖の間接税導入、商業・営業税の改正など)などをおこなう。この時期が「大改革」期と言われるゆえんである。改革志向は、1866年のカラコーゾフ事件(未遂に終わった皇帝襲撃事件)まで続けられた。

注1)鳥山成人著「一九世紀ロシア」─『社会経済史大系 』に所収
2)同上
3)同上
4)ニコライ1世(1825〜55年在位)の時代、いわゆる農民騒擾は約600件を数え、その  半数は軍隊によって鎮圧されている。
5)19世紀の中葉にもなると、農奴をもたない高級官僚が増え、貴族の力もかなり衰えてきている。右図に明らかな用に1〜14等官のうち、農奴を所有しない官僚が73.9%をも占めているのである。いまや貴族身分のみならず、官等をもたなければ力をもてないのあった。ツァーリの第一の基盤はすでに官僚に移っているのである。
6)世界歴史大系『ロシア史』2 山川出版社

 (2)多民族と身分制の社会

 周知のように、ロシア帝国は「諸民族の牢獄」といわれるほどの多民族国家である。最初の全国的な人口調査(1719〜24年)によると、多民族国家としてのロシア帝国の人口は約1573万8000人で、その内ロシア人は1112万8000人、約70%を占め、残りの約30%が「異民族」である。このロシア人の比重は、18世紀末( ロシア史P.94.第5回人口調査)の段階には諸民族構成を示す右の表で明らかなように大きく低下する。すなわちロシア人は50%をも割り込むのである。ロシア人に次ぐのは、ウクライナ人(19.8%)、白ロシア人(8.3%)のスラヴ民族である。これらに次いで多いのが、ポーランド人253.4万人(8.3%)であるが、これは言うまでもなく、「ポーランド分割」により生じたものである。それとともにユダヤ人(1.4%)もこの第5回調査ではじめて現れる。フィンランド人もポーランド人同様に、ロシア帝国の植民地下にあるために多い。
 ロシア帝国には、兵役義務をもつ臣民が確かに存在していたが、専制国家の統治対象は、幾つかの社会集団を基本としていた。
 その第一は、いろいろな宗教教団に属するものである。
 『ロシア帝国法律集成』によると、ギリシャ正教は「ロシア帝国において首位に立つ、支配的な信仰」と規定され(第40条)、国教の地位にあった。同時に、正教会に所属しないすべての臣民と外国人に、「みずからの信仰と礼拝をその儀式に則りいたるところで自由に行なうことができる」(第44条)として、「信仰の自由」は異宗派キリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教などにも認められた形となっている。
 だが、現実には「存在しているのは、信教の自由ではなく、国教ギリシャ正教のもとでの宗教上の寛容にすぎなかった。」1)のである。そして、「重要なのは、『父祖の戒律と信仰』がみとめられたのであって、新宗派、セクトを開くことは厳しく禁止せられていたこと」2)なのである。
 「信教の自由」がまやかしであるのは、具体的な宗教活動での差別でも明らかである。布教(信者個人の布教活動は許されず、できるのは正教会である)・伝道・改宗・説得の活動は、ギリシャ正教会のみに認められ、他の宗派は禁止されている。改宗が自由であるのは、ギリシャ正教会への改宗のみであり、ギリシャ正教以外の宗派間の移動には内務大臣の許可が必要であった。ギリシャ正教からの改宗、他のキリスト教から非キリスト教への改宗は、禁止されていた。
国教である「ギリシャ正教会は、『教義の最高の擁護者にして維持者』たる皇帝を頭にいただき、大臣の地位をもつ俗人の総監を長とし、府主教全員と管区主教中の若干名よりなる宗務院によって管理されていた。全国は管区に分かれ、皇帝任命の管区主教が管区内の教会を管理した。」3)のである。このように国家法によって管理組織を規定されているのは、単にギリシャ正教会のみならず、ローマ・カトリックなど異教派キリスト教のいくつか、さらにユダヤ教、イスラム教、ラマ教なども行われている。
 正教会とこれらの公認教会は、人籍簿を備えて、信者の出生・死亡・結婚の登録と証明を行い、信者を掌握した。異宗教の教徒との結婚は、さまざまな法律上の制約があった。離婚に際しては、教会裁判での審判が必要であった。
1897年の人口センサスでは、帝国臣民の民族別構成のデータはすでにえられない。統治の観点としては、民族ではなく宗教が重要だからである。右表によると、最も多いのはギリシャ正教徒であり約7割である。非ロシア人でも正教徒になれば、最大集団の成員となる。したがって、正教徒となったユダヤ人はもはやユダヤ人としては扱われない。それでもユダヤ教徒は、ローマ・カトリック教徒の半分近く存在する。イスラム教徒は、比較的少ない数字といわれる。「正教徒が古儀式派4)もふくめて7割を占めているというところにロシア語と正教による文化的同化が帝国内でかなり進められていることがあらわれている。」5)ことを示す。右表の古儀式派とセクトの数字は、実際より少ないという批判が当時からあり、批判者は古儀式派2000万人、セクト600〜700万人と見ているといわれる6)。
専制国家による統治単位としての社会集団の第二は、身分である。
ロシア帝国臣民は、種々の身分からなりたっており、各身分は身分団体を構成していた。身分は@世襲貴族、A一代貴族、B聖職者、C名誉市民、D商人、E町人、F職人、G農民、Hカザーク、I異族人、Jフィンランド人、K外国人などである。
1897年の人口センサスによると、貴族は@Aあわせて1.47%(非貴族官吏も含む)、農民77.12%、町人10.66%、商人0.22%、異族人6.61%、カザーク2.33%、フィンランド人0.03%などである。
 この中で主な身分を見てみると、貴族は最高の身分であり、一門の父祖のかつての勲功により世襲制であるが、他に賜与・叙勲・官位在職で新たに貴族身分の獲得の可能性がもたらされた。後者は一代貴族だが、一定以上の官位在職と叙勲で世襲貴族にもなれる。世襲貴族の特権は、世襲領地の獲得である。
 貴族の身分団体(一代貴族は身分団体をもたない)は、貴族団で各県ごとに設けられた。県貴族会は3年に1回、県知事によって召集され、一定の年齢・官位・勲章・学歴・役員経験を満たす者は、人事を除く決定での投票権をもった。県貴族会はまた自らの要求を、県知事を通し内相に提出できた。皇帝への直接請願も許された。
 商人身分は、第一ギルド、第二ギルドに所属し、ギルド税を納入した。町人身分は、一代名誉市民(名誉市民にも世襲と一代の別がある。後者は貴族と世襲名誉市民の養子および正教の下級寺僧の子には自動的に、さらに官位や学歴などの一定の資格者には申請によって与えられた)の子、商人身分を喪失した者、農民、異族人、棄児、非嫡出子、帰化した外国人などが取得できる終身身分である。都市の町人団の同意・登録で身分取得される。職人身分は、都市の手工業の業種別団体に無期限に登録している者である。商人・町人・職人のそれぞれの身分団体は、メンバーの登録、身分証明書の発行などを行った。
 農民身分は、身分団体である村団と郷に登録している者である。村団・郷(1861年の農奴解放令により、旧共同体は村団として公的なものに再編された。村団のいくつかにより郷が形成された。郷は旧領主の公権を継承し、郷全体の行政・司法をあつかった)への加入は当該の村団・郷の許可によってなされるが、村団への登録は村団所有の分与地配分が伴うので、一般的に村団は外来者には閉鎖的であった。外来者は、1893年3月29日法で村団への登録なしで郷のみの登録ですますことができ、郷への登録が進んだ。
 農民身分からの離脱には、 分与地を放棄すること、 一家はあらゆる面で滞納をもたぬこと、 個人的な罰金か義務を負っていないこと、 裁判や予審をうけていないこと、 両親が同意していること、 村団に残る家族員中の幼児、労働能力のない者の生活が保証されていること、 転入先の身分団体の加入許可があることなど、さまざまな制約があった。
 村団は村会と村長によって管理され、村会は全戸の戸主により構成され、半数の出席で成立した。農奴解放法によると、そこでは以下の事柄を扱った。「 村長、郷会代表等の選出、 郡警察の百人番、十人番の選出、 『地域の安寧と安全』を脅かす成員の追放、3年限度での村会参加の禁止、 成員の脱退・加入、 身分証明書の発行と没収、 後見人の指定など、 家族分割の許可、 共同体的土地利用にかんする決定(割替など)、戸別利用への切り替え、村団分割の決定、 市制移行の決定、 荒蕪地の管理、 共同の必要、教育、救恤などにかんする決定、 総代をもっての陳情の決定、 村費徴収の決定、 諸税負担の配分、 役員の手当、褒賞の決定、 兵役にかんする件、 税の滞納防止と取立、 村の備荒穀物にかんする件、 村団にかんする件での通行証の発行、 その他(第62条)。決定は出席者の過半数によるのが普通であったが、 、 、 、 は全戸主の過半数の賛成によることとなっていた(第65、66条)」7)。また村長は、警察的機能ももっていた。
 農奴解放令は、国税、ゼムストヴォ(地方自治機関)税、ミール(農村共同体)税の徴収について、連帯責任制原理を規定しており、村団に責任を負わせた。そして滞納に対する強制取り立ての法的根拠を共同体に付与している。
 異族人としてのユダヤ人は、民族的特性ではなくユダヤ教の信奉をメルクマールとし、商人、町人、職人のいずれかの身分に属した。1897年の人口調査によると、ユダヤ教徒は521万5805人(宗派別では全体の4.15%)である。キリスト教徒であるユダヤ人は異族人には属さない。ユダヤ人は定住地を指定され、農村移住や不動産取得を禁止されるなど多くの抑圧を受けた。そして、厳しい差別の下で、しばしばポグロム(襲撃、虐殺)され、農民などのカタルシスの犠牲となった。 
封建的身分制は、各身分に応じた特権、すなわち「権利」を付与した。その特権の維持と再生産は、身分制による支配と隷属関係のなかで、同時に経済的・政治的に封建制社会を再生産するためには不可欠であった。ロシア農民は、共同体の分与地を占有するためには、農民身分を維持・確保するものとして共同体に属し、共同体秩序に服従しなければならなかった。1861年の農奴解放令により、農奴身分からは形式的には脱却できたが、土地の私的確保に必要な資金を国家が立て替えたため、今度はその支払いで国家に直接隷属し(前から国有地農奴であった農民はもともと国家に直接隷属していたが)、その支払いは具体的には共同体が請け負わされ、実質上農民は、依然として土地と共同体に縛り付けられていた。
では、人口の約8割を占め、厳しい隷属下にあり、自己の属する共同体という世界に依存していた農民の法意識は、どうであったのだろうか。
 保田孝一氏によると、「ロシア農民は、慣習を権利として尊重し、法律(ザコーン)を権力の命令とみなし、恐れていた。体制側にとって慣習の支配は法の否定であった。ロシアでは慣習と法律とは敵対していた。ナロードニキも伝統的に法律を軽視していた。」8)といわれる。
 農民にとって、慣習法が近代にはいっても重きをなしたことについては、シュルツも次のように言っている。「慣習法は、ロシアでは、19および20世紀にも重要な役割を演じていた。この点では、西ヨーロッパにおけるとは必ずしも同じではない。1910年の法律によれば、農民間の相続事件では、先ずもって慣習法が適応されることを要した。即ち、法律は、第二的な重要性しか持たなかったのである。」9)と。
 農民世界における慣習法の延命は、「農奴解放」後も、専制国家によって農民たちが共同体に縛りつけられたこと、国家の法自身が慣習法の延命を認めていることなどに原因があったのである。
ところで西山克典氏は、農民と権力の関係を農民─地主・官吏─ツァーリの三極構造でとらえ、ロシア農民が歴史的伝統的にもつ解放思想(多分に政治的幻想が強い)について、「農民と、農民を抑圧する地主・官吏、彼らを制裁し農民を解放するツァーリという農民の解放思想に伝統的な三極構造の枠組みは、ツァリーズム倒壊後も変容しつつも存続していたといえる。」10)としている。
 この三極構造の観点からすると、ロシア農民は、自らを直接抑圧する地主と官吏を憎み恐れ、直接の敵である官吏の執行する法律を恐れ、共同体が作り出す慣習法の方を優先させていたともいえる。しかも、神につらなるツァーリに対する幻想は強く、農民を抑圧する官吏や地主をツァーリが制裁し、ツァーリがいつかは農民を解放してくれるという幻想的な待望論を、農民たちは抱きつづけてきたのである。
実際、農民世界ではツァーリへの信仰は、絶大なものであった。「農民の意識においては、『神』は『天上のツァーリ』であり、『地上のツァーリ』と権力・権威序列で一系列に統合されていた」11)といわれる(ただここでは、宗教世界においても権威と力をもつツァーリの性格によって、神=「天上のツァーリ」という形で、神とツァーリの関係が転倒している)。18世紀の農民の闘いも激烈だったが、農民の闘いはツァーリ信仰と深く結び付き、「貴族(地主のこと─引用者)のくびきからの離脱をもとめる農民の闘いは、その多くが御料地(ツァーリの土地)移管要求に裏打ちされていた」12)のである。また、ツァーリへの強い期待は、正義を体現するツァーリの良き意図が貴族達によって阻止されていると、農民が思い込み、それが高じると「偽のツァーリ」が各地に出現し、農民一揆を指導するのであった。18世紀の偽ツァーリはあきらかな者だけでも38人、17世紀をふくめると50人を越えるという。こうしたツァーリへの幻想が明確に崩れ出すのが、1905年1月9日の血の日曜日事件(ガボンらが組織したツァーリへの請願運動が流血の弾圧にさらされた)である。
こうして、国家の法は忌避され、共同体の慣習が農民生活のルールであった。しかし、共同体のルールは、神の世界の真理や正義に裏打ちされることによって、安定するのであって、共同体の「自治」13)も最終的には外部、すなわち神=ツァーリに依存せざるをえない。というのは、「農民は、『土地は人の手により造られたものではなく、売り買いされてはならない』、『神の賜物』などと述べ、森や水域なども含めた土地の私的所有を否定し、土地の帰属をそこへ投下された労働によって主張した。」14)といわれるように、農民生活を根源的に支える共同体所有は、神=ツァーリの保証が不可欠となるからであった。(ロシア農民の私的所有否定は、このように前近代的な共同体意識から発するのであり、決して近代的私的所有の矛盾の結果としてのそれではない)
 この意味で、共同体の慣習法優先の思想は、たええず他方にツァーリ、すなわち体制、国家権力への無批判的従属という一面をもつものであった。こうして、共同体に農民諸個人が埋没する15)ロシアでは、「農民は、個人を、共同体、国家と対立する独自の利益をもつ自立的存在とは考えず、個人、共同体、国家は一体であるべきで、個人が困れば共同体が、共同体が困れば国家が援助するのが当然であり、その代わりに個人は、共同体と国家に無条件に服従すべきだと考えていた。」16)のである。
 このような農民の思考、態度は、未だ資本主義の未発達であった近代ロシアのプロレタリアートの多くにも決して無縁ではなかった。労働者には、農民出身者や出稼ぎ農民が大きな比重を占めていたからである。17)

注1)和田春樹著「近代ロシア社会の法的構造」─『基本的人権』(東大出版会)に所収。  寛容の対象外となったのは、スコプツィ(去勢をおこなうセクト)やその他の“兇暴なファナティック的行為と自己および他人の生命に対するファナティックな危害”を加え、“人倫に反する忌むべき行為”を伴う異端、さらにジェスイット派である。
2)同上
 3)同上
4)1652年に総主教となったニコンは、典礼書の改訂や、十字を三本の指で切るとかアレ  ルヤを三回繰り返すとかの典礼上の改革をおこなった。これらに対し、反対するのを古儀式派という。古儀式派は破門さらには権力の迫害などを何回も受けた。これらの内の穏健派はようやく19世紀の末に公認となる。
5)世界歴史大系『ロシア史』2 山川出版社
 6)和田前掲論文
7)同上
8)保田孝一著「共同体・社会主義・人権」─『思想』(岩波書店)1974年12月号に所収 9)シュルツ著「ロシア法制史概説」(一)─『神戸法学雑誌』第36巻3号に所収
10)西山克典著「ロシア農民革命の世界」─『北海道大学文学部紀要』48号に所収
11)西山克典著「ロシア革命と農民─共同体における“スチヒーヤ”の問題によせて─」  ─『スラブ研究』No.29に所収。なお、“スチヒーヤ”とは、いわゆる「自然発生性」のこと。伝統的に、ロシアの「農民にとっての心の拠りどころは村の教会であった。彼らはキリスト者としてたえず十字をきり、教会の長いお勤めに定期的に参加し、そして断食を守った。文字の読めない彼らは聖書をみたこともなく、『主の祈り』さえ知らなかったが、教会儀式をきびしく守ることによって魂は救われる、と信じていたのである。またイコンへの愛着にも独特のものがあった。『ウラジーミルの聖母』に代表されるイコンは、キリストや聖母、諸聖人を描いたたんなる絵ではなく、『生ける神』として日常的な祈りの対象であった。」(世界歴史大系『ロシア史』2 山川出版社)といわれる。ロシア正教の偶像崇拝にもそれなりの根拠があったのである。
12)世界歴史大系『ロシア史』2 山川出版社
13)農村共同体の「自治」は、成員から徴収した税で共同の土地や製粉所を賃借あるいは  購入して利用すること、貧農・未亡人・被災者などへ相互扶助することなどに見られる。また、農民一揆の際には、共同体は農民の団結の拠点でもあった。だが、農村共同体の基本的性格は、国家権力へのライトゥルギー(奉仕義務)団体である。それは共同体の最も重要な役割が、国家および領主から連帯責任で課せられる税や義務を成員間に配分し、同時にその配分に応じて共同体の土地を配分することにあった、ということで明瞭である。その際、配分の単位になったのは、一組の夫婦あるいは人口調査登録の成人男性である。だが、この配分単位となる労働力は、時間の経過とともに変化するので、それに応じて部分的調整が毎年おこなわれ、何年かおきには全面的な再配分(割替)がおこなわれた。なお、この定期的な土地割替を慣行とするロシアの共同体の起源については、「19世紀中葉以来激しい議論がなされてきている。ひとつは、その起源を古代ロシアにもとめ、歴史的連続性を主張するものであり、他は、17、18世紀の国家財政にその成立の主要な契機をもとめようとするものである。最近では、19世紀にもみられた土地割替慣行の起源を、後者のように考えるのが有力である。」(前掲『ロシア史』2)といわれる。
14)保田前掲論文
15)前近代の共同体でその結束の強い所では大概、共同体の決議は全員一致が原則である。  ロシアでは、どのような討論と決議の方法がとられたのだろうか。西山前掲論文[注  10)]によると以下のようである。「スホート(共同体集会のこと─引用者)での議決方法に関しては、プリズナチェンスコエ村団では秘密投票は決して採用されなかった。農民は『良心』を皆に顕示し、裁定を求め、『秘密』を忌避している。挙手による議決も農民は好まなかった。孤立し『特殊な意見』に留まるのを危惧したからである。左右分離による議決も行われたが、最も一般的なスホートでの議決方法は『叫び倒し』であった。これは、村スホートで問題が提起されると、支持者は賛同の叫びを行い、『叫び人』が反対グループを圧倒し、反対グループの叫びが静まり始めると、議長は目と耳で叫び声の優劣を判定し、優勢なグループの主張が書記によって直ちに共同体の取り決めとしてプリガヴォール(村や郷のスホートで決められた農民の取り決め─引用者)に書き留められ、劣勢グループへ署名が強制されていく方法であった。ここは、『喉』と『支持の叫び』が支配し、満場一致が求められ、多数決原理は採用されない政治の場であった。プリガヴォールをはじめとする村・郷スホートで採択される決議は『一致して』と書き込まれるのが通例であった。
 共同体集会としてのスホートは満場一致で共同体の統一意志を形成する様態をとっ  たが故に、自らの決定に『矜持』を持ち、従って共同体構成員に『恭順』を求める権威的強制の体系を内在化させていた。」のである。ここから窺えるのは、徹底した討論によって、より良い結論を創造する精神が弱いということである。
 さらにロシアの共同体の場合も、村の掟を破る者は、ひどいケースのとき、村から追放された。なおロシアは革命前、教育制度は貧弱で、近代化された諸国の中でも読み書きのできない率は、最も多かった。従って、聖職者もふくめ読み書きのできる者が書記の仕事についた。
16)保田前掲論文
17)冬の長いロシアでは以前から農民は、出稼ぎにでていた。1861年の農奴解放いこうの農民層分解の進展は、農村プロレタリアートを増大させるとともに、農民の出稼ぎをも増加させた。19世紀すえの出稼ぎは、季節的な農業出稼ぎ(旧農業地方の北部・中部・西部諸県から近代的資本主義的経営による新農業地方の南部・西南部・東南部諸県へ)、鉄道建設とともに都市部の工場へのそれが増大する。「労働者の数は1870─90年の間に倍増し(70万から143万へ)、90年代にまた倍増した(20世紀初頭に280万)。この間に労働者のなかで出稼農(旅券を所持して工場で働いている農民)でない純粋の産業プロレタリアートの占める比率が高まり(1884─5年に8.5%、1902年に12.7%)、又出稼農のなかでも父の代からの工場労働者が半ば前後を占めるようになったが、工場労働者の半農民的性格は依然としてロシア工業の大きな特色であった。世紀末(1895─1900)になおモスクワの労働者はその半ばが夏季に帰村したといわれ、労働者の出身地の遠いドネツでも農繁期には一時的な賃金引上げなどの方法で労働者の帰村を防止しなければならなかった。」(鳥山成人著「一九世紀ロシア」─吉村昭彦・成瀬治編『社会経済史体系』7〔弘文堂〕)に所収)といわれる。
 また、世界歴史大系『ロシア史』2(山川出版社)によると、「ロシアの労働者は1887年に131万8100人だという統計がある。このうち農村からの出稼ぎ農民で、低賃金と劣悪な労働条件をしいられている繊維労働者、いわゆる『ファブリーチヌイエ』は49万7900人、これにたいして相対的に高い技術と教養をもち、高い賃金をえている金属労働者、いわゆる『ザヴォーツキエ』は13万2600人である。第三の類型としては同じく出稼ぎ農民であるが、もっと劣悪な条件におかれている炭坑労働者がいる。‥‥中央工業地帯の繊維労働者も、南部の石炭労働者も、その大部分は中央黒土地帯の農村からの出稼ぎ者であった。彼らは五年ないし一年のパスポートを郷役場で発行してもらってでかけた。パスポートには納税額が記載されていた。労働者は勤め先にパスポートを預け、警察がチェックして、納税がはたされていないことがわかると、帰郷させられた。」という。なお『ザヴォーツキエ』は、都市の町人身分の出身で、職業教育をうけた都会人である。
 出稼ぎ農民である労働者の多くは、アルテリ(組)を組織し、共同の部屋に住み、  共同の食事をした。炭鉱労働者の場合は、元炭坑夫のアルテリ頭が村から労働者を集め、会社側と出来高払いで契約した。
 なお、1897年1月に行われたロシア帝国第一回国勢調査によると全帝国の労働者お  よび「僕婢」は、915万3600である。このうち、工業、鉱山、運輸、建設、商業に従事するもの322万1600人(35.2%)、日雇および雑役労働者109万4800人(12.0%)、農業労働者272万2600人(29.7%)、家事使用人155万7600人(17.0%)、前掲以外の「僕婢」55万5000人(6.1%)である。また、これを地域別にみると、ヨーロッパ・ロシアの50県に680万9900人(74.4%)、ポーランド117万9000人(12.9%)、カフカス49万7800人(5.4%)、シベリア40万2900人(4.4%)、中央アジア26万4000人(2.  9%)となる。ヨーロッパ・ロシア50県のうち、上位の主なものをあげると、モスクワ─66万0600人(帝国全体の9.7%)、ペテルブルグ─51万6700人(同7.6%)、リフリャンド29万7400人(同4.4%)で、他はすべて4.0%以下である。(荒又重雄著『ロシア労働政策史』〔恒星社厚生閣〕による)

 

(3)1864年の司法改革とその後の反動


1861年の「農奴解放」いこう、司法改革は、地方行政改革と平行して行われた。
地方行政制度の脆弱性は、かつて1773〜75年、ロシア全土を揺るがしたプガチョフの乱ですでに露呈していた。新しい「県制」公布の際、出された1775年11月7日の詔書(エカチェリーナ2世)は、それまでの地方行政制度の欠陥を、「第一に県は余りにも広すぎる行政区をなしている(全ロシアを20の県に分割していた─引用者)、第二にその行政区は余りにも不十分な機関数とその貧弱な定員構成をかかえている、第三にこの行政にはさまざまな官庁が入り交じっている─同じ役所が本来の行政も財政も刑事、民事の裁判も管轄している。」1)と指摘した。
 新たな「『県制』は、ピョートル以来の県─州─郡制にメスを入れ、45あった州を廃止するとともに、全国20県に分割された区域を50の県に再分割(1県平均30〜40万の人口)、更に、各県を人口2、3万の郡に分割区分し、政府任命の県知事(または総督)のもと、貴族階級に行政・裁判への参加を認めることによって、地方行政の効率化・活性化を図ろうとしたのである。ペトログラード、モスクワなど大都市、又、県都市には、これまでどおり、身分的自治と身分的裁判を認める特権認可状が与えられ、これらの諸都市には裁判を司どる参事会のほかに都市の警察と経済を司どる機関が作られた(1785年の「都市制」)。」2)のである。見られるようにここでは、未だ行政権と司法権は未分化である。
 クリミヤ戦争の敗北をうけて国力の増強を図る支配層は、「農奴解放」に引き続いて1864年1月1日、ゼムストヴォ(地方自治機関)設置法を発布した。それは「農奴解放」によってそれまでの農村共同体を基盤とした村団・郷が組織され、その上に上級地方行政組織としてそれぞれの県と郡にゼムストヴォを設置するものである。最初はヨーロッパ・ロシアの34県で実施された。「ゼムストヴォは、住民から土地税・森林税を徴収し、それを財源として、その地域の道路・橋の整備、学校教育、衛生・医療、家畜疾病予防、飢饉時の食糧保証・貧困救済、農業技術・商工業促進などを任務」3)とした。
 郡ゼムストヴォには、住民からの選出議員(任期は3年)によって構成される郡会(議長は郡貴族団長)が年1回定期的にひらかれ活動し、常設の機関としては、議長と6人以内の郡会議選出議員からなる郡参事会がある。県ゼムストヴォには、郡会から選ばれた議員(任期は3年)からなる県会(議長は県貴族団長)と、県参事会(議長と6人以内の県会選出議員で構成)がある。参事会の構成については、郡は県知事の、県は内務省の承認が必要とされた。
 クリュチェフスキーによると、ゼムストヴォ設置法の特徴は、「地方社会の全階層が、地方経済問題の処理において政府に全体的に協力することを呼びかけられた。」4)ところにあるといわれる。しかし、ゼムストヴォの議員は形式的には“全身分を代表とするもの”とされたが、全住民の直接選挙ではなかった。郡会議員の選出は、3つのクーリア(選挙人等級区分)が設けられ、第一のクーリアは、共同体外の土地(200〜800デシャチナ以上)を所有する者で、貴族、商人が中心、第二のクーリアは、都市居住の商人、企業家で一定規模以上の財産所有者、第三のクーリアは、郷から選出される共同体農民である。ゼムストヴォの設置されたすべての県の郡会議員総数は、約1万3000であったが、その内、第一クーリアの議員が47.7%、第二クーリアが12.3%、第三クーリアが40%という比率であった5)。地方住民の圧倒的多数を占める農民が少数ということは、この選出方法が徹底した身分的財産的差別に基づいて行われたことを示す。農民はまた、多段階間接選挙のため、参事会に加わることはまれであった。これは明確に、ゼムストヴォにおける貴族層の支配的地位を確保するためにとられた方法である。しかもゼムストヴォの活動は、種々の面で、県知事、内務省、元老院などの国家行政の監督も強かったのである。
 しかし、このような大きな問題をもった地方行政の改革ではあれ、ゼムストヴォ設置法や新都市法などにより、ツァーリ支配の下での行政権と司法権の分離の前提条件が進められたのである。
 1864年11月20日、アレクサンドル2世により、司法における改革諸法が裁可された。いわゆる「1864年11月20日の裁判諸法」とは、「司法機関設置法」「刑事訴訟法」「民事訴訟法」の3つをさす。皇帝はそれに先立ち、改革の由来を語る「司法機関設置法と裁判諸法に関する件」を裁可しているが、そこでは改革の基本的意図が次のように述べられている。「余が父祖の伝うる玉座に登るにあたり、1856年3月19日の詔書で明らかにせし願いの一つは、『裁判所に正義と慈悲とを支配せしめよ』というものであった。‥‥余の切望せる迅速で公平、寛大にしてわが臣民全てに平等な裁判をロシアに樹立せしむること、司法権の地位を高め、これに然るべき自立を与えること、さらには人民の間に法律に対する尊敬の念を確立すること─法律への尊敬なくしては社会の繁栄は不可能であり、法律に対する尊敬の念は貴賎を問わず万人の行動の指針でなくてはならない─、これら諸案を検討するに、これがよく余の願うところに叶うことを、余は茲(ここ)に認めるものである。」6)
 皇帝のいう「正義」「迅速で‥‥公平な裁判」「司法権の‥‥自立」「人民の間に法律に対する尊敬の念を確立すること」などは、それまでのツァーリ権力の司法活動における諸矛盾の克服が、当の皇帝自身、切実なものとしたという諸事情をそれなりに反映しているのであった。実際それまでの司法活動の実態は、ひどいものであった。
 まず第一に、身分をこえて批判されていたのは、裁判の遅延、渋滞である。「普通の民事事件が10年から15年、最終判決まで20年から30年というものも少なくなかった。刑事事件も同様であり、横領事件の判決確定まで20年余というものであった。」7)と言われるほどである。その原因は種々あるが、主なものは、人口に比べ裁判所が少ないこと、裁判の審級が複雑すぎること8)、裁判自身が糾問主義、書面主義9)のため裁判所の機能を麻痺させたこと、などである。
 第二は、裁判そのものの腐敗とそれへの信頼が社会的に欠如していることである。それは裁判官とくに貴族選出の裁判官が無能、無教養に原因がある。つまり、裁判官への社会的評価が低く、また彼らの給与が中央の官吏や軍人に遠く及ばなかった(高裁長官の年収は副知事の半分以下)ので、能力あるものは裁判官に選出されることを拒むのであった。選出裁判官の大半は、貴族出身でも、読み書きができない、あるいは極めて不十分なものであった。こうして、裁判をめぐる贈収賄は日常的なものとなったのである。
 第三は、糾問主義に基づく警察の捜査の職権濫用とそれを監督すべき検察官制度の不備である。「この時代、捜査は、 予備的捜査(事件の解明、犯人の追及を目的)、 本捜査(裁判のための必要な証拠の収集、確保)の二段階にわかれ、いずれも警察の役割とされた。しかし、対人的強制処分を規制する法もなく、本捜査の開始・終結はすべて警察の裁量とされたので職権濫用は跡をたたなかった。」10)のである。証拠として、自白が重視されたので、拷問は日常茶飯事であった。捜査手続きの公正・正確を獲得すべき県検察官は遠距離や負担過重で機能しない、郡検察官は自ら捜査もしなければならず、検察官の警察監督はなおざりとなっていたのである。
 被害者自身の告訴による捜査開始の方法もあったが、その場合、捜査費用、証人の費用から、拘留中の被疑者の費用まで負担しなければならないのであり、よほどの金持ちでない限り、むしろ「泣き寝入り」するのが普通であった。
 第四は、刑事手続きで最大の問題である被告人の自己弁護権が全く認められていないということである。被告人の保護は、糾問主義により、捜査機関、裁判所の義務とされた。つまり、「捜査機関には被疑者に有利な証拠収集の義務、一審裁判所には被告人に拷問にあわなかったかどうか質問する義務が、そして高裁刑事部、元老院には意識的訴訟遅延や法違反が刑事手続関係者にあったとき、これを懲戒する任務が、課されていた」11)。しかし、これは被告人の人権、利害のためではなく、国家の後見の下におくという、糾問主義の観点からなのであった。したがって、被告人の保護がなおざりにされるのは当然であった。
1864年の司法改革直前の裁判所の基本的構成は、右図のようになる。ここでは依然として、身分別の裁判となっているのが特徴である。貴族身分は郡裁判所が、都市身分は市参事会が、モスクワ、ペテルブルグの両首都の住民は、宮廷裁判所が、それぞれ第一審裁判所となっている。これら第一審裁判所の控訴審をなすのが、各県に設置された刑事院と民事院である。この第二審は、第一審と異なり、すべての身分の者を管轄している。県の裁判所に対する上告審がセナート(元老院)である。
 図には見られないが、農奴は1861年の「農奴解放」に至るまで、依然として領主裁判権の下にあった。「民事上、農奴は領主に完全に隷属しただけでなく、刑事上、領主は、農奴の生命を奪い、又、その身体を傷つけない限り、裁量で一切の刑罰を課すことができ、農奴の犯罪(それにより領主、その家族、その農奴の利益が侵害された場合)に対し裁判管轄権を有する、とされた。40回を超えない笞打ち、15回までの棒叩き、2ケ月以内の拘留、3ケ月までの強制労働所送り、6ケ月以内の衙倉送り、そして新兵としての兵籍編入、領地からの追放─これが懲罰として課すことのできた不利益処分である。これらの処分に対する反抗、異議申立ては、主人の権威に対する反抗として処罰された(1845年刑法)。」12)のであった。
 これらに対して、1864年の司法改革でできた裁判所構成は、右の図である。
 法によって定められた通常裁判所(特別裁判所としては、教会裁判所、軍法会議、商事裁判所、農民裁判所、異族人裁判所がある)は、治安判事、治安判事会議、地方裁判所、控訴院、セナート破毀部の5つに簡素化された。セナートを除く各裁判所が事実審(訴訟事件の法律問題だけでなく、事実問題をも審理認定する)で、セナートは「最高の破毀裁判所」といわれるように、法律審(訴訟の法律問題だけを審査する)のみを行う。  1864年の司法改革は、「迅速な裁判」を実現するために、裁判審級の簡素化とともに、少額の紛争を審理し、軽微な犯罪を処罰するものとして、治安判事─治安判事会議の系列を新たに設置した。そしてその他の事件をあつかう地方裁判所─控訴院の系列とともに、2つの系列の上訴裁判所としてセナート(元老院)破毀部(法律審)を位置づけた。
 こうして新たな裁判制度は、旧来のような裁判籍の身分的編成を廃止した(例外としては、農民自治の一構成要素として郷裁判所がもうけられた。そこでの審判人は郷会で選出された)。
 新たな司法改革の重要な特徴の一つには、「司法権は執行権、行政権、立法権から分離される」(「裁判所構成に関する大綱」第一条)という、いわゆる「権力分離」の原則と当時いわれた問題がある。だが、その実態は、通常裁判所の裁判権が「全ての身分の人に及び、また民事・刑事全ての事件に及ぶ」(司法機関設置法第2条)とされるように、司法権は行政事件に立ち入らないという意味合いであり、立法機関や行政機関の裁判関与を排したのと対の関係となっている。あくまでも「専制にして無制限なる君主」であるツァーリの下での「権力分離」なのである。主権在民原則の下での、「三権分立」なのではない。
 それでも1864年の司法改革は、まがりなりにも司法権を立法・行政権から独立させ、裁判官の身分保障(法律にもとづく以外は、不罷免制)と、かつてのような不当な給与制の是正がなされた。また、弁護士制度や陪審制度なども取り入れられた13)。
 近代ツァリーズムについて、和田春樹氏は、「近代ロシアの国家権力、近代ツァリーズムは、不十分ながら独立した司法制度ときわめて制限された地方自治制、貴族中心の官僚団と国民皆兵制軍隊をもつ無制限専制権力であった。この権力はフィンランド太公国をのぞくロシア帝国の全領土に及び、多民族構成をもつ臣民を、一部の例外をのぞいてはさながら単一民族よりなるかのように、一元的に支配していた。」14)と規定している。
 近代ツァーリズムは、「専制にして無制限なる君主である」ことでも明らかであるように、まさに無制限の専制権力である。この専制無制限権力の内容は、第47条「ロシア帝国は専制権力より発する積極的法律、設置法、法令という堅固な基礎に立って統治される」、第80条「行政権はその全領域において陛下に所属する」などで明確となっている。
 和田氏はこのツァリーズムについて、「そもそも立法と行政の本質的区別のないところでは、『法の支配』が本来的な意味で存在しないことはいうまでもない。だが、皇帝による立法行政権の排他的掌握と法にもとづく行政という矛盾した二重規定の中にツァリーズムの特質があった」15)としている。ロシア近代における「法の支配」なるものは、全くの欺瞞なのである。
 そしてそこでは、西欧のブルジョア法のような基本的人権も、権利主体としての私人一般も存在していない。あるのは「臣民の義務」であり、(それぞれの身分に応じた)「身分の権利」と権利主体としての身分である。身分法典は、各身分の個別の権利を規定しているが、貴族、聖職者、都市住民(名誉市民、商人、町人、職人)、農村住民(農民、カザーク)に共通しているのは、所有権である。そして、聖職者を除いては、契約権、営業の自由も認められている。
 身分的に差別されているのは、移動の自由である。1894年6月3日のパスポート令によると、「農作業に雇傭されるばあいを除いて六ケ月以上恒住地より五〇ヴェルスタ以上離れるばあいには身分証をもつことが必要とされた(第4条)。‥‥貴族、予備役将校、名誉市民、商人、雑身分は無期限パスポート手帳をおおむね警察より交付され、また官吏、聖職者も無期限パスポートをその所属機関より交付されて、その交付にあたってはなんらの条件も課されなかった(第38、39、40条)。したがって、かれらにとってはこのことはまったくの形式的手続にすぎず、完全な自由を有していたといえる。
 これに反して、町人、職人、農民については、期限づきの身分証明書が条件づきで交付されることになっており、移動の自由は制限されていたといえる。身分証明書は五年期限のパスポート手帳、一年期限のパスポートの二種類があった。交付の主体は警察ではなく、町人参事会、職人参事会、郷長である(第45条)。町人、職人については、五年期限のパスポート手帳交付の条件は身分団体費の滞納がないということであり、これがあるときは、交付をうけるためには身分団体の同意が必要とされた(第48条)。農民のばあいはおなじパスポート手帳の交付をうる条件は、国税、地方税、村費に滞納がないということで、これがあるものは、村団の同意をえてこれの交付をえた(第49条)。」16)のであった。
 1864年の司法改革で身分別裁判を廃止して、近代的な司法の装いをこらしたが、現実には身分制は厳然と残り、身分制は完全に無くなってはいないのであった。したがって、「刑法典第17条は刑事罰の最高級として、いっさいの身分の権利の剥奪と死刑、懲役、流刑の組合せを規定している。『いっさいの身分の権利の剥奪』の内容としてはまず第22条で身分の特典の剥奪が規定され、23条で官等、称号、免許、勲章の剥奪が規定され、第25、26条で懲役、流刑の結果として『従来の家庭内の権利と所有権の喪失』が規定されている。この家庭内の権利の内容は、配偶者の権利、親権、相続権である(第27条)。このことは所有権と相続権という権利もまた身分の権利とむすびついてのみ存在していることを意味している。」17)のであった。
基本的人権の中でも重要なものの一つである人身の自由については、「刑事訴訟法令は、その第8条において『何人も法によって定められた場合以外には拘留されず、法によってそのために設置されたのでない建物に拘留されえない』と宣言し。第1条で『何人も本法令の規則によって定められた手続きによって責任を問われる以外には、犯罪もしくは過失にたいする司法的抑圧を蒙りえない』としていた。」18)といわれる。
 だが、「元来、刑訴法令第1条の註には、『司法的抑圧』には『法に定める手続による犯罪・過失の予防阻止のために警察その他の行政当局のとる措置』はふくまれないとあり、警備警察的逮捕は別扱いにされていた。」19)のであった。完全な尻抜けである。
 さらに人身の自由は、警察監視と行政流刑という措置によって侵害されていた。警察監視処分は、1882年3月12日制定の「行政当局の命令により設定される警察監視処分にかんする法」によって定められている。「これは『現存国家秩序にたいする犯罪の防止策として公安に有害なる人物にたいして設定されるものであった(同法第1条)。‥‥この警察監視処分下におかれた人物は、称号の証書とパスポートをとりあげられ、代わりに特別の一定地域居住証明書を交付される。‥‥この公然たる警察監視の他に、憲兵隊や保安部による非公然の監視があり、それはいかなる法にも拘束されずに、個人の生活を監視した。」20)のである。
 行政流刑は、1881年8月14日制定の「国家秩序と公安の保全策にかんする法」に基づくものである。「行政流刑とは、『治安と公安にとって有害である人物をヨーロッパ・ロシア、アジア・ロシアのある特定地域の地に、一定期間その地を離れることなく居住する義務とともに、行政手続で流刑すること』(第33条)である。このための手続は、内相への上申、司法省代表を加えた内務次官主宰の特別審議会での審議、内相の承認であった。」21)にしかすぎない。刑事訴訟法第一条の精神は完全に否定されているのである。これでは法治主義とは、とても言えない。
 「大改革」期の司法改革に対して、70〜80年代には、右翼勢力などの反動攻勢と、新制度施行後の現実に直面することにより露呈した矛盾の指摘などがなされ、司法改革の後退や司法の再編が行われた。
 1889年7月12日制定のゼムスキー・ナチャーリニク法では、治安判事制をモスクワ、ペテルブルグ、オデッサに限定し、その他の地域にはこれに代えて市判事、ゼムスキー・ナチャーリニク、区裁判所郡判事による裁判を導入した。しかし、軽罪・重罪裁判という二本立て制は、以前と変わりはない。
 治安判事は、首都では3万ルーブリ以上の不動産(他の都市では3000ルーブリ以上)を所有する者の中から市会によって選出され、任期3年で、自治体から俸給・経費を支給された。治安判事は、500ルーブリ以下の契約不履行、損害賠償、名誉棄損などの民事事件、300ルーブリ以下の罰金、3月以下の拘留、1年半以下の禁錮に相当する刑事事件を審判した。なお、治安判事は、1890〜94年の改正でニジェゴーロト、ハリコフ、カザン、サラトフ、キシニョーフの五都市と、ペテルブルグ郡に拡大された。
 市判事は、治安判事の置かれた八都市とゼムスキー・ナチャーリニクの管轄下に置かれた一部の郡市を除く他の県市、郡市に置かれた。市判事は治安判事と異なり、司法官有資格者の中から司法大臣によって任命された。だが、普通裁判所(区裁判所─控訴院─最高法院破棄部)の判事とは違って身分保障はなかった。
ゼムスキー・ナチャーリニクは、郡を数区に分けて、各区に一人ずつ置かれた。この職の有資格者は、「県内で三年以上貴族団長をつとめた者、もしくは三年以上、農地調停官、治安判事、農民問題審議室非常勤委員をつとめ、郡会選挙権資格の二分の一以上の土地を所有するか、七五〇ルーブリ以上の土地以外の不動産をもつ二五歳以上の世襲貴族」22)である。この職の選定は、県知事が県郡の貴族団長と協議して行い、内相の承認を仰いだ内相はこれに対し拒否権をもち、その場合は再上申を求めた。
 ゼムスキー・ナチャーリニクは、軽罪の審判も行ったが、主な機能は農民自治機関の監督であった(農民自治機関は、ゼムスキー・ナチャーリニクと警察の合法的要求を忠実に実行しなければならなかった)。具体的には、思想穏健でない郷村書記の罷免、郷村会の決定の執行を場合によっては停止すること、特別裁判所としての郷裁判所23)の審判人の選定などである。農村では、このように司法権と行政権は未だ未分離である。
市判事とゼムスキー・ナチャーリニクは、治安判事が管轄した事項の中で、借地、農作業雇傭、農用地破壊に関する民事事件、300ルーブリ以下の契約不履行、損害賠償、名誉棄損などの事件、刑事事件の一部をあつかった。両者ともに、郡会議を組織し、これが第二審となり、この郡会議の判決破棄の控訴上告は、区裁判所郡判事になされた。
区裁判所郡判事は、任免について特別の規定がみつからず、後述の区裁判所の一般判事に準じたものと推測される。
 以上の複雑な軽罪裁判所体系が扱わないより重大な民事・刑事事件は、普通裁判所体系(区裁判所─控訴院─最高法院破棄部)が審判した。
 区裁判所は、数郡に一つ設置され、所長一名、所長代理若干名、判事若干名より構成された。控訴院は、数県からなる一管区(全国で12管区)に一つ設置され、上席部長一名、部長若干名、判事若干名より構成された。判事は、最も低い区裁判所の場合、「大学、高等教育機関の法学部卒業生もしくは検定試験合格者もしくは勤務において司法問題での学識を立証した者のいずれかで、区裁判所書記在職三年以上、弁護士生活一〇年以上の者のなかから、司法大臣の上申により皇帝が任命した」24)者である。判事は、起訴された場合に停職、刑事裁判で有罪にされた場合免職と定められているが、「願いによらなければ免職されず、その同意なくして転勤されない」(司法機関設置法第243条)というように、その身分は保証されていた。

注1)B・O・クリュチェフスキー著『ロシア史講話』 恒文社
2)横山晃一郎著「維新における刑事司法の近代化とロシア・序説」─『団藤重光博士古稀祝賀論文集』第4巻(有斐閣)に所収
3)世界歴史大系『ロシア史』2 山川出版社
 4)クリュチェフスキヘ前掲書
5)前掲『ロシア史』2
 6)高橋一彦著「一八六四年の司法改革」─『神戸市外国語大学外国学研究所年報』33号に所収
7)横山前掲論文
 8)横山前掲論文によると、「郡・県レベルの裁判所プラス元老院という三審制は、皇帝への訴願が恒常化したことによって果てしないものとなった。@郡裁判所、A高等裁判所(民事部、刑事部)、B元老院の部、C請願書審査委員会、D元老院連合部、E司法大臣諮問委員会、F司法大臣、G元老院連合部再審、H帝国評議会(国家評議会のこと─引用者)の部会、I帝国評議会総会、J皇帝─カイザーが数え上げた審級は、そのすべてが日常的に用いられたものではないとしても、裁判遅延の有力な原因を構成した。」のであった。
9)糾問主義とは、一般的に刑事訴訟法上、当該が出訴するのを待たないで、裁判所が職権で直接に犯罪を捜査し、犯人を逮捕・審理・裁判することである。これと対極的なのが弾劾主義で、国家が進んで刑事手続きを開始しないで、原告である被害者あるいは一般私人の出訴によって手続きが開始される方式。
 ロシアで訴訟代理制度が広く認められるようになったのは、16〜17世紀だと言われる。だが、この時代の職業的訴訟代理人の出自は、「非自由人から転じた家人(ミニステリアール)や下級貴族であつた。彼らの質は低く、その活動には一定の規律・職業上の倫理基準は存在しなかった。」(高橋一彦著「帝政ロシアの弁護士法制(一)」─『社会科学研究』41−5に所収)といわれる。職業的な訴訟代理人は、支配者によって、訴訟に寄生する者、あるいは「三百代言」などとののしられており、活動は規制され取り締まりの対象であった。それだけでなく、高橋氏によると、「訴訟代理業が身分低き者の賎業と一般に広くみなされていた」(同前)とまで言われる。職業的訴訟代理人に対する規制は、18世紀になって新たな段階を画すようになる。それは一方で、引き続き彼らの不当な活動への処罰がなされるとともに、他方で、「訴訟手続そのものを改め、この面から訴訟代理人を規制しようとする試みも生まれた。訴訟委任契約は書面によることと定めた、1719年の勅令もそのひとつであるが、これらのうち最も重要なものは、訴訟手続を糾問化し裁判官の手続に対する関与を強化して、当事者・訴訟代理人の影響をなるべく裁判の過程から排除しようとしたピョートル1世の立法である。16世紀に生じ、17世紀末までに重大な刑事事件や土地紛争に適用されていった糾問主義的手続は、ピョートルの即位後まもない1697年2月21日の勅令によって、その適用範囲を名誉棄損や傷害事件、一般の財産事件にまで拡げられた。」(同前)のである。このことはツァーリあるいは国家の強化が一段と進んだことを法的側  面でも示している。
 1864年の司法改革直前の、刑事事件における捜査開始から判決言渡しの流れは、右図の通りである。この中で裁判官は、被告人と相対するのは二回のみである。一回は、「捜査の審査」(捜査が適正になされたか、事案の解明に必要な事項が欠落していないかを調べる)の際に、必要ならば捜査の補充として自ら被告人を取り調べる場合である。もう一回は、判決の言渡しの時である。したがって、「事件抄録(警察の捜査調書をもとに事件の事実関係を書面とし、これにどの法条が適用されるかをしめして裁判官に提出されたもの─引用者)は事実上裁判官の唯一の判断材料であり、これを作成する裁判所事務局は裁判の行方を左右できた。事件抄録に要式性が乏しく‥‥、ここに何を記載すべきかは事務局の裁量に委ねられていたことも、これを助長するものであったが、特に第一審の郡裁判所と市参事会(市政庁)では、裁判官が選挙制のため‥‥法律に疎い者も多く、また職務に習熟せぬまま交替することもあったので、裁判において事務局がはたす役割は自ずと強くなる傾向にあった。」(同前)のである。このように裁判官の判断材料である事件抄録は、裁判全体のきわめて大きな位置を占めるのであり、これをもって書面主義あるいは書面審理主義といわれた。それは当事者の口頭弁論を許さず書面の提出を命じ、その書面に基づき裁判所書記官が事件の調査をする民事訴訟でも、同じ基調であった。書面主義と対極的なものが、口頭主義である。それは、訴訟審理で当事者および裁判官の行う訴訟行為(ことに弁論や証拠調べ)が口頭でなされることを要する方式である。
10)横山前掲論文
11)同上
12)同上
13)詳しくは高橋一彦著「帝政ロシアの弁護士法制(一)(二) 」(『社会科学研究』41─5, 6に所収)を参照
14)和田春樹著「近代ロシア社会の法的構造」─『基本的人権』第3巻(東大出版会)に所収
15)同上
16)同上
17)同上
18)同上
19)同上
20)同上
21)同上
22)同上。1889年のゼムスキー・ナチャーリニク法いこうの裁判所体系は、和田氏のこの論文による。
23)郷裁判所の審判人は、各村団から1名ずつ推薦される候補の中からゼムスキー・ナチャーリニクが4名選び決められた。郷裁判所は、農民間の土地紛争、相続紛争、農民および村落に永住する旧人頭税負担身分の300ルーブリ以上の民事事件、一定範囲の刑事事件をあつかった。土地紛争、相続紛争の審判では、地方の慣習が重視された。郷裁判所への控訴は、ゼムスキー・ナチャーリニクに出され、かれらの郡会議で検討された。
24)和田前掲論文

 

 (D)1905年革命と1906年4月23日体制


 1904年の末、ロシア帝国は、国外にあっては日露戦争での旅順陥落、国内にあってはバクー石油労働者のゼネストなど、内外から追い詰められていた。
 バクーの闘いには、全国の労働者が連帯し、支援に立ちあがった。この時ペテルブルグでは、金属機械工場でガボンらが組織した労組の組合員4名が解雇され、翌1905年1月3日、同工場はストライキに突入する。要求は解雇撤回をこえ、八時間労働日、労働者代表委員会の常設、超過勤務の原則廃止、雑役工の最低賃金制などにまで拡大している。
 だが、資本家との交渉は不調に終わり、ガボンはついにツァーリへの請願に踏み切る。請願書には、最重要要求として、「普通・秘密・平等選挙による憲法制定会議の召集」をあげ、さらに全三部十七項目にわたる要求が掲げられた。それは「まず『ロシア人民の無教育と無権利にたいする方策』として、政治・宗教犯および労働者・農民活動家の釈放、個人の自由と人身不可侵、言論・出版・集会・良心の自由、無償普通義務教育、国民にたいする大臣の責任制と遵法行政、法のもとの万人の平等、教会と国家の分離、ついで『人民の貧困にたいする方策』として、間接税の廃止と直接累進所得税の導入、土地償却支払金の廃止と土地の人民への漸次的引きわたし、人民の意志による戦争の停止、海軍省発注分の国内受注、最後に『資本の労働への圧迫にたいする方策』として、工場監督官制度の廃止、労働者代表の常置工場委員会の設置、消費=生産組合・労働組合の自由、八時間労働日と超過勤務の制限、労働者代表の国家保険法案作成への参加」1)という広範なものである。
民衆のツァーリ信仰にもとづいたこの請願に、ツァーリ権力は無差別発砲の弾圧で応えた。約1000人が死傷する「血の日曜日」事件(1月9日)である。この弾圧で、民衆のツァーリ信仰は、大きく動揺する。
 事件への抗議のストライキは全国主要都市で波状的におこなわれ、闘いは専制打倒の要求までかかげるようになった。闘いは労働者や農民だけでなく、カフカース、バルト海沿岸地方、ポーランドなどの被抑圧民族にも広がった。
 ツァーリは2月18日、事態の沈静化を狙い、3つの声明をだした。第一の勅書は、反乱運動を批判して、「忠良なる臣民」の専制権力への協力を呼びかけている。第二の勅令では、各種団体から出ている「国家制度改善と人民福祉の改良」の提言を検討、審議するように元老院に命じている。第三の内相ブルイギンにあてた勅書では、「人民の信任を与えられた、住民により選出された人びとを立法案の予備的作成と討議に参加させる」こと、その具体化のための特別審議会を設けること、を表明している。2)
 1905年革命での農民運動は、5〜7月と11〜12月の2つのピークをもったというが、すでに一部では2月から自然発生的な農民蜂起があらわれ、地主地の没収や地主の穀物倉庫の襲撃もなされている。そして、「2月18日勅書」の内容が、春から初夏にかけて農村部に知れ渡ると、村々は民主的に選出された憲法制定会議、市民的自由、国有地・地主地の農民への譲渡、政治犯の釈放などを内容とした請願をおこなったり、地主に対して賃上げをもとめる農業労働者のストライキを展開するなどした。 
 ロシア民族以外の抑圧されてきた諸民族も、カフカース、バルト海沿岸地方、ポーランドなどの都市や農村で、ツァーリ政府に反抗する闘いとして展開された。
1905年5月、日本海海戦でのロシア艦隊の壊滅的敗北の報が伝わると、反政府の雰囲気はさらに強まり、動揺は兵士にまで広がった。カザークの将校協議会は、ツァーリに対して憲法制定をもとめ、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンでは、6月14日から水兵の反乱が開始された。
 無制限専制君主としての皇帝の立法活動を制約する国民代議体(国会)設置構想などは、支配層内の保守派と改革派の対立の中で、前述したブルイギンの特別審議会の議論をへて、1905年7月19日から26日にかけてのペチェルゴフ協議会(大臣評議会メンバーに、ニコライ2世の選定した何人かの国家評議会議員で構成)の討議によって確定された。それは国会(ドゥーマ)設置法として、1905年8月6日の詔書で公にされた。「詔書は、『皇帝と国民の分かち難い統一』こそがロシアをつくり、現在と未来における『統一、独立、物質的安寧と精神的発展』の保障であると強調した上で、『法案と国家の歳出入案』の検討を権限とする『特別諮問機関』を最高国家機関に設置すること」3)を明らかにした。これは国家評議会と国会の二院制議会の枠組みを作ったのではあるが、あくまでも「特別諮問機関」なのであり、専制権力の性格を変えるものではなかった。
だが政府のそのような対応は、人民からみればあまりにも生ぬるいものであった。それは、1905年革命の最高潮を示す「10月ゼネスト」で明らかにされた。
 モスクワでは、9月19日から労働条件の改善を求めて印刷工のストライキが始められ、その中で労働者・学生の街頭集会を警官が襲撃し、ストは印刷工場だけでなく他の産業部門にも拡大した。それを巨大なゼネストに発展させるうえで大きな役割を果たしたのが、鉄道員の闘いであった。モスクワ−カザン線の鉄道労働者たちは、10月7日にストに入った。ロシアの鉄道網はモスクワを最大の拠点としていたから、列車のモスクワへの出入りが停止されると、半ば自動的に全国的な鉄道ストとなる。10日までには、モスクワ鉄道管理局内の全路線が停止した。そして16日までにストライキは、全国に波及した。
ペテルブルクでは、10月3日から印刷工のストが開始され、ペテルブルク大学では労働者7000人を含む1万2000人の集会が開かれた。全市的なストで、市内交通、電信・電話、郵便も止まり、物資の搬出入の停滞で都市経済は麻痺してきた。全国各地で諸党派の共闘組織がつくられ政治改革が要求されたが、ペテルブルクでも10月13日に、労働者委員会が結成され、「憲法制定会議の召集、八時間労働日、人民の完全な権利の実現に諸要求をまとめて、全市の運動に一定の方向性を与えようとした。」4)と言われる。労働者委員会は、全工場に労働者500人につき一人の代表選出を呼びかけ、562人が選ばれている。そして翌日には、「労働者委員会は市会にたいして労働者への食糧供給、警官への給料支払い停止、市内からの軍隊の引揚げなどを要求し、街の食糧店にはストライキ中、毎日一定の時間、店をあけるように命じ」5)ている。この労働者委員会は、16日には「ペテルブルク労働者代表ソヴィエト」と呼ばれ、ゼネストの司令塔となっている。
 この「10月ゼネスト」には、「全国的には工業労働者と鉄道員が150万人、商業従事者・官吏などが20万人、そのほか学生・生徒、インテリゲンツィアなどを合計すると全部で200万人はストライキに参加しただろうと推定」6)されている。
 秋には全国各地で、「労働者代表ソヴィエトが40〜50つくられ、兵士と農民のそれはあわせて約80に達した」7)といわれている。
ツァーリ政府は、労農人民の澎湃とした決起に武力弾圧をもって応えたが、いまやそれも限界であった。そしてついに、「国家秩序の改善にかんする1905年10月17日付の詔書」(「10月17日詔書」)が公布された。そこでは政府に以下の事項を実現するように義務づけている。
1.人身の真の不可侵、良心・言論・集会・結社の自由といった原理に立脚した市民的自  由を不動の原理として住民に与えること。
2.予定されているドゥーマ選挙を中止することなく、現在選挙権をまったくうばわれて  いる住民諸階級を可能なかぎりドゥーマに参加させ、そのあとであらたに制定される  立法制度に普通選挙権原理のさらなる発展をまかせること。
3.いかなる法もドゥーマの承認なしには効力をもたず、大権行為が合法的か否かのチェックに人民の代表者が参加できるようにすること。8)
 いかなる形ではあれ人民代表の国会が創設されるならば、政府としては統一した対応が迫られる。また高揚する人民の闘いと闘うためにも、統一した政府と断固とした態度が必要となる。こうして、「10月17日詔書」の後の19日、旧大臣評議会設置法が修正され、内閣制度が成立することとなった。その基本的内容は、「@大臣評議会は、立法と最高統治について大臣の行動の方向付けと統一を行う。全体的性格を持つ統治措置は、大臣評議会を経ないでは採用され得ない。事案の提案権は、評議会議長にある。A議長は事案を提案し、皇帝に上奏を行う。共通性を持つ、他の省庁に関わる上奏は、大臣評議会の検討に付され、かつ議長の臨席の下で皇帝に上奏される。議長は大臣長官に報告を求める権限を有する。また大臣評議会に専門家のオブザーバー参加を求めることができる。B大臣評議会議長は、皇帝によって選任される。大臣長官人事については、大臣評議会に提出する。ただし、宮内、陸海軍、外務大臣には適用されない。C大臣評議会の一致した結論が得られない場合、その後の方向付けについて大臣評議会議長は皇帝の指示を請う。」9)である。 「10月17日詔書」にもとづき、新しい選挙法は、12月、モスクワ武装蜂起のさなかに審議され、「12月11日選挙法」として成立した。新たな選挙法は、有権者を4分割し、土地所有者、都市民、農民、労働者の4つのクーリア(選挙人等級区分)に分けて、多段階の間接選挙の方式である。この方式がいかに不平等であったかは、「土地所有者の一票は都市民の二票、農民の十五票、そして労働者の四十五票と同じ重みであった。」10)という一事だけでも明らかである。なお、これはポーランドもふくめたヨーロッパ・ロシアの選挙制度であり、他のシベリア、中央アジア、カフカース地方はそれぞれ地方の状況に応じて若干ことなる形となっている11)。
 この選挙法による第一国会(ドゥーマ)選挙は、1906年2〜3月におこなわれ、政府の危惧した通り、野党の圧勝であった。最大の勝利者はカデット12)で448議席中153議席を占めた。次いで多いのは、トルドヴィキ13)の107議席、無所属の105である(社会民主労働党とエスエルは、ボイコットした)。
ツァーリ政府は、すでに選挙前からドゥーマを極力、無力なものにしようと画策しており、ウィッテはツァーリとドゥーマ(国会)の間の緩衝物として国家評議会を第二の議会にする構想をもっていた。1906年2月20日および4月23日の法令により、国家評議会は改造された。この結果、「国家評議会は『最高専制権力に提出される法案を審議する国家機関』として位置づけられることになった。法案はドゥーマ(下院)からこの国家評議会(上院)へ提出され、両院は同等の権限を有する」14)ものとされた。そして、国家評議会の構成も修正され、勅任と並んで選挙で選出される議員が半数を構成した(勅任議員の数は、公選議員のそれをこえてはならない)。
 しかし、国家評議会の上院化は明らかに「10月17日詔書」の構想とは異なるものである。現実に上院となった国家評議会は、第一・第二ドゥーマ会期に、ドゥーマ多数派が採択した政府に不利な法案をつぶす役割を果たした。
 また、1906年3月8日法令により、ドゥーマは予算審議を制限された。この法令によると、皇室関係と国債関係の予算はほとんどドゥーマの審議範囲外とされた。既存の法律あるいは勅令による歳出・歳入もドゥーマで修正することができない。さらに新年度予算が期日までに成立しない場合には、前年度予算が流用され、勅令により戦時関係支出はドゥーマの権限外におかれた。
 ツァーリとその政府による、ドゥーマ無力化の策動は、1906年4月23日の「国家基本法律の改訂」によって仕上げられた。これはかつてスペランスキーが整理した1832年版の『ロシア帝国法律集成』の「国家基本法律」を改訂したものである。
 これによると、皇帝権力は、「全ロシアの皇帝に最高専制権力が属する。その権力に服することは、恐怖のみならず、良心の故に神自身の命じたもうところである。」(4条)と規定された。これは旧来の文言を踏襲し、ただかつての「無制限」という規定が削除されただけである。
 立法権に関しては、「皇帝は、『国家評議会と国会の統一の下』に立法権を実現することになった(7条)。それは具体的には法律の裁可である(9条)。ただし、皇帝は、法律の発議権をもっており、ことに国家基本法(「国家基本法律」のこと─引用者)についてはその発議権は、唯一皇帝に属した。」15)のである。皇帝と国家評議会・ドゥーマの関係は、「『いかなる法律も、国家評議会と国会の承認なくしては成立せず、皇帝の裁可なくしては効力を持ち得ない』(86条)。両院の関係は同等で、国家基本法を除いて法律の制定、修正、廃止の権限を有すると共に、いずれかによって否決された法案は否決とみなされる(106、107、111条)。両院で採択された法案は、裁可のために国家評議会議長によって皇帝に提出される。皇帝の裁可を得られない場合は、同一会期中に法案の再提出はできない(112、113条)。」16)こととなっている。両院による予算審議権の制限は、前述のとおりである。
 統治権に関しては、「立法権力と区別された権力として『統治権力』が概念され、それはそのすべての範囲においてロシア国家内では皇帝に属し、下位統治は皇帝の名をもって活動する人物、地方に委任されるが、最高統治は直接皇帝権力が働くとされた。(10条)」17)のである。この結果、「国家基本法の見直しの発議権、法律の裁可権、最高統治権、外交指導権、宣戦布告と講和締結権、陸海軍の統帥権、戒厳令ないし非常事態令の宣言権、貨幣鋳造権、官僚の任免権など」18)は、皇帝の特権とされた。ただし、「『皇帝は、閣僚会議議長、大臣長官、また法律によって任免が定められていないそのほかの公務員を任命し罷免する』(17条)のであり、判事はこれに含まれない」19)と言われるように、司法権の「独立」は一応保たれた。
 統治分野での閣僚会議の役割、性格として、「最高統治の事項に関する大臣長官の行為の方向性と統一は閣僚会議におかれ(120条)、‥‥。また統治責任に関して『全般的進行』という表現で政治責任が明示されたが、定められていなかった対責任は議会ではなくあくまでも皇帝に対するものとされた(123条)。」20)のであった。
 なお、第87条の規定では、国会閉会中に非常事態が発生し、立法的になんらかの措置をとる必要が生じた場合、皇帝は閣僚会議の上奏のうえ、緊急勅令を発することができた(ただし、国家基本法や選挙法については、この第87条の対象とはならなかった)。
この改訂された国家基本法は、以降、1917年の革命まで、事実上、憲法的位置を占めた。この国家基本法は、基本的には、いわゆる「外見的立憲君主制」といえるものであり、戦前の大日本帝国憲法と同類のタイプに属したものといえる。
 だが、ロシアのその後の政治過程をみれば明らかなように、ツァーリの専制権力は「外見的立憲君主制」という幻想を自らはがすような露骨な専制政治を展開している。たとえば、野党が多数を占める第一ドゥーマでは農業改革をめぐり、ドゥーマ多数派と政府が対立し、政府は勅令によりドゥーマを6月に解散させた(第一ドゥーマはわずか72日間という短命)が、その後、クーデタ的な事態が展開される。
 ストルイピン内閣は、土地改革などの改革構想を国家基本法第87条を援用して緊急勅令で押し通した。だが、これは次のドゥーマで追認される必要がある。第二ドゥーマの選挙は、1907年の1〜2月におこなわれ、こんどは社会民主労働党やエスエルも参加し、結果は、社会民主労働党、エスエル、人民社会党、トルドヴィキなどの左翼勢力が進出し(全議席524中、合計180議席)、左右対立の激化が十分予想された。そこでストルイピンは、1907年6月1日、ドゥーマ内の秘密会で“社会民主労働党ドゥーマ議員団が軍事的陰謀による国家転覆を企てている”とでっちあげ、55人の同議員団を逮捕すべきと、特別報告をした。そして、6月3日未明、ドゥーマの問題調査委員会の結論も待たずに、議員団を逮捕するとともに、ドゥーマの解散および選挙法の改定に関する宣言をだしたのである。社会民主労働党議員団をでっちあげで逮捕することもさることながら、国家基本法の規定によれば、選挙法の改定には、ドゥーマと国家評議会の同意が必要なのであるが、政府自身、自ら法を破っている。これは「6・3クーデタ」といわれるが、近代憲法の装いをしながらも「法の支配」とは遠くへだたっているのが、実情であった。次の選挙法が今まで以上に不平等で、地主階級などにさらに有利にされ、労働者や農民に不利にされたことは言うまでもない。
     * * *
 歴史的に見ると、ロシアではビザンツ帝国の流れをうけ、皇帝教皇主義が伝統的なものであり、西欧と異なり自然法思想は育たなかった。ツァーリ専制権力の下では、法は君主の意志の現れであり、法律と命令の区別もなく、唯一の法源はツァーリであった。こうした法の性格は、中国専制国家のそれと同じタイプに属するものといえる。専制権力のあるかぎり、法治主義は根付かず、また市民的自由・基本的人権もありえない。
 農村共同体を主に、慣習法は20世紀はじめ頃まで長く存続したが、それはツァーリ権力の政策に基づくものであった。しかも、その慣習法は究極的には農民のツァーリ信仰によって支えられていた。こうして、農民など人民は、ツァーリ信仰と裏腹の地主・官吏への敵対から、「法律を権力の命令とみなし、恐れていた。‥‥ロシアでは慣習と法律は敵対していた。」のであった。支配層のみならず、人民もまた違った観点からではあるが、「法の支配」─法治主義よりも、人治主義がはるかに強かったのである。

注1)世界歴史大系『ロシア史』2 山川出版社
 2)同上
3)加納格著『ロシア帝国の民主化と国家統合』 御茶の水書房
4)前掲の『ロシア史』2
5)同上
6)同上
7)同上
8)同上
9)加納前掲書同上
10)前掲の『ロシア史』2
11)詳しくは、加納格前掲書を参照
12)リベラルなブルジョア政党。正式名は立憲民主党。幹部には専門的なインテリゲンツイアが多い。
13)正式名は、「国会勤労者グループ」である。それは、カデットを離れた一部の者と、ナロードニキ主義的な勤労インテリゲンツィアが院内に形成したもの。
14)前掲の『ロシア史』2
15)加納前掲書
16)同上
17)同上
18)前掲の『ロシア史』2
19)加納前掲書
20)同上

 

U 1918年憲法の問題点


(A)ブルジョア法変革の方法と論理


「勤労し搾取されている人民の権利の宣言」は、「10月革命」もまもない1918年1月12日(新暦25日)の第3回全ロシア労働者・兵士代議員ソビエト大会で採択された。そして、この労・兵代議員ソビエト大会が全ロシア農民代議員ソビエト大会と合同した後、同年1月18日(新暦31日)の第3回全ロシア労働者・兵士・農民代議員ソビエト大会でも改めて採択されている。
 この宣言は「社会主義革命の人権宣言」ともいわれるように、「人間による人間のあらゆる搾取の廃止、階級への社会の分裂の完全な廃絶、搾取者に対する容赦ない抑圧、社会主義的な社会組織の確立、およびあらゆる国における社会主義の勝利を、自分の基本的任務」として、高らかにうたっている。
 短くまとめられた宣言の基本的特徴は、第一に、勤労者を武装し、搾取者の抑圧・有産階級の武装解除をおこない、「ロシアは労働者・兵士および農民代議員ソビエトの共和国である」と宣言し、「中央と地方のすべての権力は、これらのソビエトに属する」としたこと、第二に、搾取の廃止と階級分裂の廃絶のために、農地の社会化、他の生産手段の国有化、銀行の国有化、全般的な労働義務制を定めたこと、第三に、帝国主義戦争から人類を救い出すために、交戦国人民の友好、無併合・無賠償による平和の確立をめざしたこと、第四に、民族自決権の原則の下で、自由な民族の自由な同盟を基礎としたソビエト・ロシア共和国の樹立、植民地解放の主張、フィンランドの完全独立など帝国主義からの解放を重視したことなどにある。
 この「勤労し搾取されている人民の権利の宣言」は、1918年7月10日、第5回全ロシア・ソビエト大会で採択された「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国憲法」の第1篇(1〜8条)に条文化され、おさめられている(ただ言葉と叙述は若干かえている)。そして、憲法の第2篇(9〜23条)は、共和国の基本原則が述べられ、この中に勤労者(市民)の権利と義務が含まれている。第3篇(24〜63条)は、ソビエト権力の構成、第4篇(64〜78条)は、選挙権と被選挙権、第5篇(79〜88条)は、予算法、第6篇(89〜90条)は、共和国の国章と国旗という構成である。

 

 (1)ブルジョア人権の現実的・物質的保障論


 ソビエト憲法に明示されるように、ロシアの共産主義者たちはブルジョア憲法への批判とその革命について、「一方では近代憲法理念の根源的な批判と新原理の対置をもってし、他方では近代憲法の理念を継承しつつ、その理念がソビエト国家においてこそ真の実現可能性を得るという論法を用いた。」1)といえるであろう。これ自身は正しいものである。問題はその内実である。
 まずはじめに後者についてみると、たとえば1918年のロシア社会主義連邦ソビエト共和国憲法の第13条(良心の自由)、第14条(表現の自由)、第15条(集会、会合、行進等の自由)、第16条(団結の自由)には自由権が規定されているが、「〇〇の現実の自由を勤労者に保障するために」と称して、「技術的・物質的手段」の提供や「物質的その他のあらゆる協力」をおこなうなどとしている。
 具体的に例示するならば、第14条は「自分の意見を表現する現実の自由を、勤労者に保障するために、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国は、印刷が資本に依存する状態をなくし、新聞、パンフレット、書物その他のあらゆる出版物を出すに必要なすべての技術的・物質的手段を、労働者階級と貧農の手にゆだね、また、これらを全国に自由にくばることを保障する。」としている。
 マルクス主義者が、“ブルジョア的な人権(諸権利)は形式的なもので有産者しかそれを行使できない”と批判し、革命により私的所有をなくし、「現実的・物質的な保障」を実現するということは、正しいことである。ただ問題は果たしてそれだけでよいのかという点である。「物質的保障」論には、経済主義的な限界が存在しないのか、そこには、革命後の社会での国家権力と勤労者諸個人との間の矛盾が抜け落ちてはいないのか、という点である。
 問題点の第一としてまず言えることは、ここには歴史的に人民が血みどろの闘いによって獲得してきた、人身・住居の不可侵の権利が欠落していることである。勤労者諸個人の身体的保全がない限り、諸々の自由権じしん全く意味をなさないものである。このことは後のスターリンらの農業集団化過程での弾圧や大量粛清などと関連づけるときわめて示唆的である。
 たしかに、第13条(良心の自由)は「良心の現実の自由を勤労者に保障するために、教会は国家から、学校は教会から分離され、宗教的宣伝と反宗教的宣伝の自由が全市民にみとめられる。」2)というように、「物質的な保障」ではなく、制度の問題としてあつかっている。同様に権利を制度の問題としてあつかっているのは、第20条の「勤労外国人の権利」、第21条の「避難権」(亡命権)、第22条の「民族にかかわりのない同権」にもみられる。
 しかし、極めて重要な勤労者の人身の不可侵にかんする人権規定は欠落し、それに関連する司法規定もほとんど規定されていない(他の分野の権利条項でも欠落しているものは少なからずある)。さらに奇異なことは、この1918年憲法には全くと言ってよいほどに司法領域の規定がスッポリと抜け落ちていることである(同年の臨時第6回全ロシア・ソビエト大会の改正で、第50条のロの5項で「あきらかに不当に、すなわちあきらかに権利を濫用して記録書[非常事態における権力の法律外処置に不満をもつ市民の訴願があった時は、ソビエト・公務員は記録書をつくる義務がある─引用者]の作成を要求するもの、および記録書の作成を拒否するものは、人民裁判所に起訴される。」という形で触れられているのみである)。3)
この点、森下氏は、「ボリシェヴィキの場合、人の権利・市民の権利といった概念は用いられなかったとしても、それはいわば自然消滅したものであって、充分に理論的な検討を加えたうえで意識的に否定されたわけではない。その点は後に論じる主権概念が自然消滅した事情と同じである。」4)と、分析している。傾聴すべき見解である(ただし、「自然消滅」というのは、西欧近代の立場からいえるのであり、もともとロシアの体制としては存在していなかったのである)。
 これらのことは、当時、ブルジョア法否定に名をかりて、いかに法を軽視する勢力、あるいは法一般を否定する勢力が強かったかを示すものである。
 問題点の第二は、とくに集会・結社・デモなどの自由にとっては、物質的な保障もさることながら、それ以上に政治的法的保障が重要である。それらはほとんどが政治的な理由で抑圧されてきたのが歴史である。つまり、「物質的保障」論は、万能なのではないのである。
 マルクスもフランスのブルジョア革命の経験として、あれだけ自由が宣言されながら革命過程での政治的理由で制限された矛盾を指摘している。「たとえば安全が人権の一つとてし宣言されていながら、信書の秘密の侵害が公然と日程にのせられた。『出版の無制限な自由』(1793年の憲法、第122条)が個人の自由という人権の帰結として保障されながら、出版の自由は踏みにじられた。なぜなら、『出版の自由は、それが公共の自由を危うくする場合に許されるべきではない』(弟ロベスピエールの言葉、ビュシュとルーの共著『フランス革命議会史』第28巻、159ページ)とされたからである。したがって、自由という人権は、政治的生活と衝突するやいなや、権利であることをやめるわけである」5)とその矛盾を指摘している。ここには、「物質的保障」論だけでは解決しない、革命後の国家権力と人民との間の矛盾の領域、すなわち公共性の問題がくしくも指摘されていると理解しうるのである(マルクス自身は、異なる文脈での矛盾指摘だが)。
 ブルジョア的人権は、市民社会領域での矛盾と政治的国家の領域での矛盾(国家権力と市民との間の矛盾)に基礎づけられているが、ロシア共産党の多くの指導者は、後者の点を軽視ないしは無視した。
 たとえば、出版の自由に関する問題である。1903年に採択されたロシア社会民主労働党の第一次綱領では、出版の自由は「無制限の自由」として要求されていた。この「無制限の自由」は、「四月テーゼ」(1917年4月にレーニン執筆)で社会主義革命への転化のコースが明確にされた後も、なんら変更されなかった。レーニンが「反革命新聞」に対し、「革命的措置」をとるように主張するのは、6月から9月にかけてである。10月25日の蜂起の翌日夜、ペトグラード・ソビエトの軍事革命委員会は「出版問題に関する決議」を採択し、ブルジョア新聞を閉鎖した(蜂起前には、臨時政府が革命派の印刷所を襲撃し弾圧していた)。だがそこでは「ブルジョア新聞」「反革命新聞」の規定があいまいだったので、閉鎖すべき新聞の対象を具体化した人民委員会議の「出版に関する布告」がだされた。基準は、 労農政府に対する公然たる反抗または不服従をよびかけるもの、 明白な中傷的な事実の歪曲によって騒乱をあおるもの、 明白に犯罪的な、つまり刑事上可罰的な性格の行為をよびかけているもの─の3点である。そして、布告は「新しい秩序が強固になりしだいただちに─出版に対するあらゆる行政的干渉は廃止され、出版に対しては、この点でもっとも開かれた進歩的な法律にしたがって法廷の前で責任を問う、という範囲内での完全な自由が確立されるであろう。」6)と宣言している。この布告には、ブルジョア政党だけでなく、エス・エルやメンシェヴィキも反対した。エスエル左派は当初反対ではなかったが、その後「政治的テロル」に反対するという観点から布告を批判するようになる。
 こうした情勢下で、11月4日、全ロシア・ソビエト中央執行委員会の会議で出版問題の討議がなされ、人民委員会議の「布告」を破棄すべきなどのラーリン(旧メンシェヴィキで10月革命直前にボリシェヴィキに入党)提案の決議案は否決され(ラーリン提案には、ボリシェヴィキ以外の政党とボリシェヴィキの一部が賛成した)、ボリシェヴィキ・フラクションが提案した「出版問題についての決議」が採択された。この決議は、「ブルジョア新聞の閉鎖は、蜂起と反革命的企図の弾圧の時期における純粋に戦闘上の要求によってのみ必要とされたのではなく、出版の分野における新しいレジーム、すなわち、資本家──印刷所と用紙の所有者──が世論の専制的製造者となりえないようなレジームを確立するための必要な過渡的措置でもあった。その次の措置は、私営印刷所と用紙を接収し、諸党派・諸グループがそれぞれの現実的な思想の力量に応じて、つまり、それぞれの支持者の数に比例して、出版の技術的手段を利用しうるように、それらを中央・地方ソビエト権力の所有に引き渡すことでなければならない。‥‥」7)と述べている。
 ここでは出版規制の理由が、反革命に対する一時的措置であるという「布告」段階のものに、さらに、新たな出版レジームを確立する過渡的措置でもあるという新しい論点が加わっている。この決議の討論過程では、激しいやり取り8)があったが、その中でトロツキーは、ボリシェヴィキ・フラクショクの決議案を支持して、次のようにいっている。「出版の自由にたいする社会主義者の態度は、商売の自由にたいするかれらの態度と同じでなければならぬ。‥‥ロシアにおいて確立されつつある民主主義の支配は、私有財産による工業の支配と同様に、私有財産による出版の支配をも廃止すべきことを要求する。‥‥ソヴェート政権は、いっさいの印刷所を没収すべきである。」9)と。
 つまり、かつての最小限綱領でいう出版の「無制限の自由」は、最大限綱領の段階では、階級的観点からの「出版規制」へ転換するという論理である。ここには問題点が2つある。1つは、「出版の自由」の発展を所有の観点(これ自身は正しい)からのみに一面化していることである。したがって、2つめには、ブルジョア的人権は私的所有の廃止という所有の問題の解決によって済むので、「出版の自由」はプロレタリア人権として継承・発展させる必要はないということである。ともに、ここには、革命後の国家権力と勤労者諸個人との間の矛盾を無視ないしは軽視した思考方法が如実にあらわれている。ソ連での人権の無視ないしは軽視の背景には、唯物史観の把握における経済主義的偏向あるいは歪曲が存在するのである。思想的政治的分野での権利問題を「物質的保障」論だけであたかも解決しうるかのような思想は、プロレタリア革命を物質的な貧困からの解放に矮小化するものである。
思想的政治的分野での権利問題は、とりわけプロレタリア独裁下では困難な問題であるが、ボリシェヴィキと左翼エスエルが対立し、革命政府が分裂した諸問題のなかでも大きな要因をしめる問題であった。いかにプロレタリア独裁という非常事態の下であろうと、思想的政治的対立は公共性のレベルで解決するためのルールと権利条項は不可欠である。レーニンは、プロレタリア独裁は搾取者階級には抑圧的だが、人民にはきわめて民主的であるといっているが、問題はその人民の範囲を誰がどのような手続きで判定するかである。人民の自由な意見表明による世論を背景とした公共性に合致した、法と司法による判決という手続きは、不可欠である。政権担当者の恣意的な、あるいは一方的な政治的意図で「人民の敵」は作り上げられてはならないのである。時の政権と政策・方針が異なろうとも、反革命を扇動しないかぎり自由な活動は承認すべきである。また、反革命活動であろうとも法的処置をとるべきである。党独裁を体制化したソ連の誤りとスターリン主義の歴史的教訓は、このことを切実に物語っている。
 問題点の第三は、これら自由権にかんする条項はすべて、国家が主語であり、国家が自由権を「保障」するという形をとっている。つまり死滅過程に入ったはずの「国家」が、依然として勤労者諸個人よりも優位にたっているのである。この点は、前述したような革命前ロシアの法文化が色ごく反映されている。10)
 ブルジョア的な人権思想は、たしかに擬制である。マルクスは、「労働力の買いと売りとが、その柵の内で行なわれている流通または商品交換の部面は、実際において天賦人権の真の花園であった。ここにもっぱら行なわれていることは、自由、平等、所有(財産)、およびベンサム(功利主義)である。自由! なんとなれば、一商品、例えば労働力の買い手と売り手は、その自由なる意志によってのみ規定されるから。彼らは自由なる、法的には対等の人として契約する。契約は、彼らの意志が共通の法表現となることを示す、終局の結果である。平等! なんとなれば、彼らは、ただ商品所有者としてのみ相互に相関係し合い、等価と等価とを交換するからである。所有(財産)! なんとなれば、各人が自分たちのものを処理するだけであるからである。ベンサム(功利主義)! なんとなれば、両当事者のいずれも、ただ自分のことにかかわるのみであるからである。」11)と、辛辣に批判している。
 マルクスもいうように、ブルジョア的な人権は私的所有を中心としたものであり、階級矛盾、階級対立があるかぎり支配され、搾取される人々にとっては根本的に限界がある。 だが他方では、フランス革命期のサンキュロットの活動家・ヴァルレ(人民主権や代議員への命令的委任などを強調)や、バブーフ(私的所有の廃止、人民主権などを強調)などのように、権力との関係における人権を重視し、人民の側にたち人民=主権者の人権を第一とする思想の流れがあったことも事実である。かれらにとって、国家からの制約もなくまず諸個人は人権を有し、国家はこの人民の人権を実現するためにこそ存在するという考え方が当たり前であった。
 マルクスの先述の人権批判も、『資本論』で展開されていることでもわかるように、市民社会での人権を取り扱っているのであり、これらはブルジョア的人権のすべてではない。公民としての権利など政治的国家の領域(マルクスも『ユダヤ人問題によせて』で、この点にふれている)でのブルジョア人権の存在を無視することはできない。プロレタリア革命には、二つの領域にわたるブルジョア人権の総括から質的に発展させたプロレタリア的な人権こそが求められるのである。
 1918年憲法のように、プロレタリア国家が勤労者諸個人の自由権など諸々の権利を保障するということは、「国家優位の思想」12)がある限り、逆に言えば、容易に人々を支配・統制することに逆転しやすいということでもある。「国家優位の思想」にとらわれていたということは、ロシア・マルクス主義者たちにとって、主要には経済レベルの階級矛盾は重視されたが、主要には上部構造レベルの国家権力と人民との間の矛盾をいかにとらえ、それをいかに民主的に解決するかという観点が弱かったことの証左である。過渡期社会、無階級社会における政治形態の問題は、あまりにも軽視され、楽観視されていたと言わざるをえないのである。13)
 「物質的保障」論をあたかも万能視するような思考方法、つまり基底体制還元主義と、国家権力と人民の間の矛盾を解決する問題の無視、ないしは軽視の態度は、晩年のエンゲルスが心配したような唯物史観の把握における経済主義的偏向からロシア・マルクス主義者たちもまぬがれていなかったことを示すものであろう。
問題点の第四は、権利は労働する諸個人にあるのでなく、階級総体にあるとする「階級的権利」論の考え方である。「国家優位の思想」は、実は後述するようにプロレタリア革命の過程において、国家権力と勤労者諸個人の間の矛盾は存在しないという観念的な断定によって支えられている(この断定自身、前述したように革命前からの農村共同体の慣習、態度に影響されている)。この断定はどうじに、あらゆる集団内の諸矛盾をも観念的に否定し、そのうえで「階級的権利」論が展開されているのである。
 森下氏によると、「階級的権利という思想に基づいて、ソビエトにおける『勤労者階級の権利』について語られるとき、それは二段階の意味を有していた。まず第一にそれは『勤労者階級』の権利を、つまりブルジョアジーの権利剥奪を意味し、第二に『勤労者階級』の権利を、つまり個々の勤労者ではなく階級全体としての勤労者が権利の主体であることを意味した。言い換えれば勤労者は諸個人そのものとしてではなく、階級を媒介として、つまり階級関係への諸個人の参加を通してこの権利を実現すべきであった。」14)のである。
 プロレタリア革命により、支配階級が打倒され、私的所有が廃止され、搾取階級がなくなるにつれ、ほとんどが勤労者となるのであり、階級差別を前提としたブルジョア的権利は消滅する。それを指して階級的権利というならば問題はないであろう。
 問題は かつてのツァーリ専制下の「身分としての権利」でも存在したような集団主義の枠をはめ、諸個人の権利として認めないことである。
 この集団主義は、たとえば「〇〇の主張は、階級的利益にかなってない」と、優位の立場にある国家指導者や共産党指導者に一喝、断定されれば、世間に表明される以前にすでに押し潰されてしまう(階級的利益にかなうか否かの判定権は、最終的には共産党指導者にある。公共的に解決するというものではなかった)。そこでは勤労者諸個人の自立と連帯が阻害され、公正な討論の上での公共性は獲得できない。このような問題は、日本の集団主義でもおなじみのものである15)。あらゆる集団、階級さらには国家のそれぞれのレベルで、全体と個の間の矛盾を無視、ないしは軽視する思想は、各々の集団、階級さらには国家の内部の少数派を、恒常的に抑圧し、諸個人の自己実現を妨げ、諸矛盾を隠蔽する体制であり、支配層にとっては極めて都合のよいものである。
「階級的権利」論は、また、「国家優位の思想」とともに、“権利は、共産主義実現という社会機能のため、国家によって勤労者に与えられた”という考え方と結合すると、権利というよりも義務に容易に転化することとなる。それは全体と個の矛盾、国家権力と勤労者諸個人の矛盾に目をつぶり、観念的に否定する所では容易なことである。そこにはもう権利は、存在しない。そこでは権利というよりも義務の観念が強制される。こうして、勤労者諸個人の権利は、党独裁と集団主義に抑圧され、有名無実となるのである。
第五は、ロシア・マルクス主義者たちの自由観にかかわるものである。
 マルクス主義の創始者たちには自由の概念は、二重の意味であった。一つは、ヘーゲルの命題「自由とは洞察された必然である」の継承である。もう一つは、共産主義とは「必然の王国」から「自由の王国」への発展であるという場合の、自由である。16)
前者の自由が、いわば自然科学的世界と人間との関係における自由というならば、後者は社会科学的世界での自由である。というのは、後者においては、すべての場合「必然の法則」の認識と利用によって自由が獲得される訳ではないのであり、その点、前者とは自由の意味合いが異なる。後者においては、社会存立の基礎は自然法則から逃れないとしても、この基礎に立脚し「各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件となるようなひとつの協働体」」(『共産党宣言』)が再生産されるような意味での諸個人の自由である。
 だが、両者のこのような違いはあっても、自然界を前提とする人間存在の自由は、二つのうちの一つに限定できる訳ではない。つまり、「自由の王国」の基礎には、自然の法則に則った労働と社会組織があるのであり、「自由の王国」自身、自然法則を破壊したうえには成立し得ないからである。また、自由な社会は必要労働の再生産という必然の法則に規定されながらも、そのうえには『共産党宣言』の先の命題の意味での、諸個人の自由があるのであり、それなくしては『自由の王国』ではありえない。
 だが、戦争などによる荒廃のうえに樹立されたばかりの新生ロシア社会という背景もあり(もちろん主体的理由もある)、ロシア・マルクス主義者たちの自由論はいきおい「必然の洞察」という意味合いが強かった。この点が、ブルジョア社会から“ソ連には自由がない”と、激しく批判されたのであった。それに対する反論は、伝統的に“社会主義社会には、近代的自由観とは根本的に異なる自由が存在する”というものであった。その具体的なものを一例としてあげると、「人民が共同に全社会の向上と発展のために協力寄与する自由」17)というものである。だがそれは一面的なものである。というのは、社会をどの方向に発展させるかについて、自由な討論と決定がなされたか否かで諸個人の社会への参加意識・参加態度はだいぶ違うからである。社会発展の方向はアプリオリに存在している訳ではない。また、一人の指導者や一つの党によって決定されるべきものでもない。
 この点は、法的カテゴリーとしての自由を考察すればさらに明瞭となる。歴史的に形成されてきた法学での自由概念には、積極的自由と消極的自由がある。これを国家権力との関係でいうと、消極的自由とは「権力からの自由」であり、積極的自由とは「権力の保障ないしは権力の利用によって実現する自由」である。革命ロシアでの法的自由は、国家優位の思想、集団主義的な「階級的権利」論、(革命後は)国家権力と勤労者諸個人との間に矛盾はないという観念的断定などにより、後者の積極的自由に一面化され、「権力からの自由」はほとんど無視されるか軽視された。このこともブルジョア的人権を継承しながらも質的に発展させたプロレタリア的人権を豊富化させるということにならなかった原因の大きな理由の一つである。
 このことは一体なにを意味するか。結論的にいえば党独裁であり、一枚岩主義であり、独善主義であり、公共性の無視などである。「権力からの自由」を禁止し、馬車馬のように「権力の保障ないしは権力の利用によって実現する自由」を追求することは、もともと不寛容であり、他者の批判や反対派そのものを嫌がり、自己絶対化に陥りやすいからである。だが、「権力からの自由」を制度化し、勤労者諸個人の人権を本源的な権利として制度化しないならば、人々が権力の活動を自由に分析し、自由に討論し、公的権力の公性をともにつくりあげることは、ありえない。自由な批判のない所では重大な誤りを修正しうる手立てがないのであり、そのような体制は取り返しのつかない誤りにまで突進してしまうのである。だが、自然科学のような実験ができない革命は、取り返しのつかない誤りに陥るならば、もはや人々は信用せず、社会全体が復元しうることはほとんどありえない。このことはソ連の歴史がしめしてあまりある。

注1)森下敏夫著『ソビエト憲法理論の研究』 第2章ソビエト憲法と基本権概念(創文社)
2)マルクスは、『フランスの内乱』で、パリ・コミューン下での教育政策について、次のように言っている。「教育施設の全部は、人民に無料で公開され、それと同時に、教会および国家の一切の干渉をとり除かれた。かようにして、ただに教育が萬人に近づきやすくされたのみならず、さらに科学[学問]そのものが、階級的偏見と政府権力とによってそのうえに押しつけられていた桎梏から解放されたのである。」と。教育は国家が干渉すべき問題ではなく、地方自治と住民自治によって行うべきなのである。
3)これとは対照的なのは、1789年のフランス革命における人権宣言(人および市民の権利宣言)である。その第7条は「何人も、法律により規定された場合でかつその命ずる形式によるのでなければ、訴追され、逮捕され、または拘禁され得ない。‥‥」とし、第8条は「法律は、厳格かつ明白に必要な刑罰のみを定めなければならず、何人も犯罪に先立って制定公布され、かつ適法に適用された法律によらなければ、処罰され得ない。」とし、第9条は「すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものであるから、その逮捕が不可欠と判定されても、その身柄を確実にするため必要でないすべての強制処置は、法律により峻厳に抑圧されなければならない。」としている。これら刑事手続き法定主義、遡及処罰の禁止、無罪推定原則、罪刑法定主義などは、今日にいたるまで評価され、実施されている。
4)森下前掲書
 5)マルクス著『ユダヤ人問題によせて』 岩波文庫
6)阿曽正浩著「ロシア革命における出版規制政策の展開」─『北大法学論集』41−2,4 1−4に所収 を参照
7)同上
8)詳しくは同上
9)ジョン・リード著『世界をゆるがした十日間』下 岩波文庫
10)詳しくは大江泰一郎著『ロシア・社会主義・法文化』(日本評論社)を参照。
11)マルクス著『資本論』第1巻 資本の生産過程 第2篇 貨幣の資本への転化
12)森下前掲書によると、法の専門家も国家優位を全面的にうたっている。「マリツキーによれば、『国家は個々の市民の権利の源泉であり、国家が個々の市民に権利を与え、国家が個々の市民とその団体のために一定の活動を定める」のであった。なぜなら『国家のみが客観的法秩序を定めるのだから』である。‥‥ソビエトでは、『権利の担い手は、個人ではなく、法制度、法秩序または一般に法と名づけられる社会関係の一定のシステムを定め、実現する組織としての国家である』とされるのである。」。これでは国家は永遠になくならないであろう。
 また、稲子恒夫氏によると、「1927年に出たカラージ=イスクローフ『行政法の最新の進化』は、[わが国の国家には、個人を全面に出す傾向がない。逆に国家は個々人を国家目的の手段としてのみ見ている。わが国では個人は独立した価値をもたない。個人は巨大な機械のネジである。したがって個人の権利の保障は、背後におかれる]と記していた。」(稲子恒夫著「第14章 権力、個人、法」─藤田勇・杉浦一孝編『体制転換期ロシアの司法改革』に所収)といわれる。
13)マルクス主義では、階級廃絶後の政治形態についての研究は立ち遅れていた。それは創始者たちがユートピア思想に転落するのを避けるため、未来社会の構想について禁欲的であった(その経済形態についてさえわずかである)ことによる。そればかりでなく、未来社会での政治形態の構想は部分的にはパリ・コミューンの教訓化としてはあるが、他面では、革命後、階級の廃絶とともに政治形態そのものが死滅するかのような考えが継承されているようである。それは例えばエンゲルスの以下のような命題が論拠となる。エンゲルスも『空想より科学へ』で、「抑圧すべきいかなる社会階級も存在しなくなり、階級支配と従来の生産の無政府状態に立脚する個人の生存競争がなくなってまえば、そしてこれから生ずる衝突と逸脱とがなくなってしまえば、抑圧しなくてはならぬものはないのである、特殊な抑圧権力たる国家は必要でない。国家が実際に社会全体の代表者として登場する最初の行為─社会の名において生産手段を没収すること─これこそは、同時に国家が国家として行なう最後の独立行為である。国家権力が社会関係にたいして行なってきた干渉は、一領域から他領域へと無用の長物となり、ついには順々に眠りにつく。人間に対する統治に代わって物の管理と生産過程の支配が現れる。国家は『廃止』されるのではない、死滅するのである。」といっている。
 しかし、マルクス主義の創始者たちの国家論は、晩年、モルガンの『古代社会』に教えられ、国家の存在を階級社会に限定する考えが固まる。それ以前は、「古代諸国家の種族は、二様の仕方で、つまり氏族または地域を基礎としていた。」(「資本主義的生産に先行する諸形態」1858年)と、氏族制社会=非階級社会での国家の形成を認める傾向があったが、これを改めたのである。階級なき社会での政治形態の存在は、モルガン自身、『古代社会』の中で述べているが、他にも例えば中国・上代の王朝の存在で証明される。中国での階級発生は春秋時代中・末期から戦国時代にかけてであるから、マルクス主義の階級国家論の立場からすると、それ以前の東周前期、西周、殷の王朝は国家ではないこととなる。だが殷を例にとるならば、その王朝は自己の下位ランクの共同体だけでなく、異族の共同体をも支配していたのであり、それは階級なき段階の共同体に対する政治支配であったのは、明確である。西周段階では、官僚制度の萌芽形態も形成されている。また、ソ連などの経験でも、階級廃絶後ただちに分業への固定的隷属がなくなるわけではなく(とりわけ官僚)、人民じしんも経済・政治での管理や統治は不慣れである。このことは階級なき段階での政治形態の存続を示している。階級廃絶後のしばらくは分業への固定的隷属が存在する限り、自己統治としての政治形態は残らざるをえないのである。
 階級国家論の確定は、したがって先に引用したエンゲルスの命題自身をも再検討せざるをえない。とくに、国家の死滅過程では「人間に対する統治に代わって物の管理と生産過程の支配が現れる」というサン・シモンいらいの命題は、自己統治としての政治形態を生産過程に還元し、一面化する誤解を生じやすいのである。自己統治の政治形態の慣習化とともに、「物の管理と生産過程」のコントロールが行われると言うべきであろう。階級国家が消滅された後にも人々の社会生活でのルールを維持する公共性はなくならないのである。
14)森下前掲書
15)マルクスは『ユダヤ人問題によせて』の中で、ブルジョア社会から解放される人間的  解放について、「現実の個体的な人間が、抽象的な公民を自分のなかに取り戻し、個体的な人間でありながら、その経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係のなかで、類的存在となったとき、つまり人間が彼の『固有の力』を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な力をもはや政治的な力というかたちで自分から分離しないとき、そのときはじめて、人間的解放は完遂されたことになるのである。」と述べている。共産主義革命により、政治的国家が『半国家』(レーニン著『国家と革命』)となり、さらにこの「半国家」が社会に再吸収されるにつれ、人間的解放は完遂されていくのである。その際、「個体的な人間でありながら」、国民(公民)でなく、「その経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係のなかで類的存在」となるのであり、それは、「現実の個体的人間が、抽象的な公民を自分のなかに取り戻」すことである。それは当然にも共同体への諸個人の埋没ではない。きわめて未発達なロシア近代という歴史的刻印をもったロシア革命においては、自立した個人の形成とその諸個人の社会的協同が同時に目指されなければならなかったのである。
16)資本主義を廃止する共産主義革命によって、「従来、歴史を支配してきた客観的な外来の諸力は人間自身の統制に服する。こうなって、初めて人間は完全に意識して自己の歴史を作りうる、これより後、はしめて人間が動かす社会的諸原因が、主として、またますます多く、人間の希望するような結果をもたらすようになる。それは必然の王国から自由の王国への人類の飛躍である。」(『空想より科学へ』)と、エンゲルスはいう。しかし、それは自然法則に規定された必然の王国は基礎過程として存在し、そのうえに自由の王国が飛躍的に拡大するという意味である。自然法則から全く自由な、解放された「自由の王国」はありえない。
17)福島正夫著「社会主義社会における自由」─『思想』1952年3月号に所収

 

 (2)新たな原理の対置


前者(ブルジョア法の根源的批判と新原理の対置)についてみると、それは例えば、国家権力と人民の間の矛盾にかかわる主権原理である。革命権力は、歴史的に形成された主権概念を採用せず、プロレタリア権力論、プロレタリア独裁論を対置した。そこには一体いかなる問題があるのだろうか。それは本稿のもう一つの重要なテーマなので節をあらためて述べることとする。

 

 (B)主権者のあいまいなプロレタリア権力論・プロレタリア独裁論


 一般的に、主権は領土、国民とともに近代国家の三要素といわれ、それは外国勢力や国内の一部利益集団に分割したり、譲渡できないもので、最高の権力を意味している。主権概念は、15〜16世紀の西ヨーロッパで絶対君主が領域国家を形成する際に、神聖ローマ皇帝・ローマ教皇の普遍的権威やジュネーヴのカルヴィン主義、そして国内の封建的諸権力と闘う中で形成された。これが君主主権である。
 この時代の動きを背景に、はじめて主権概念を定式化したのは、『国家論』(1576年)を著したボダンである。かれは「国家とは、あまたの家に対する、またそれらに共通のものに対する、主権による正しい統治のことである」と、国家を定義し、主権とは「一国における絶対的、恒久的権力である」と規定している。そして、主権の具体的内容としては、立法権、課税権、官吏任免権、宣戦講和の権、貨幣鋳造権、恩赦権などをあげている。
 たしかにボダンは、国家と家をアナロジーし、国家の主権者と家長をアナロジーするなど、近代への過渡的性格をもつ理論家である。しかし、かれは既に公共性に裏付けられた国家を意識しており、国家が国家として成り立つためには、「主権のほかに、なんらか共通なもの、公共のものがなければならない」としている。この点は、重視されるべきであろう。1)
 それが17〜18世紀のブルジョアジーが台頭する時期になると、絶対君主の権力を制限するか、あるいはそれを奪い取るものとして国民主権が対置された。だが、「もともと国民主権という主張が、絶対君主政の君主主権論に対して、相手の武器である主権の概念を奪って、市民階級が自己の武器としたものであるから、多少の無理があり、国民という存在は、君主が絶対主義国家において主権的権力を有するような構造において主権的権力を掌握することは不可能であった。そして、この主張が市民階級の政治的ヘゲモニーによって唱えられただけで、国民大衆が主権を握るということでなかっただけに、国民主権論は君主主権論に比べて、いちじるしく抽象的となり、一つの要請か、フィクションとならざるをえなかった」2)のである。
 国民主権は君主主権と異なり、実際には国民が権力を直接的には担当・行使できないという矛盾を「解決」するものとして、一般的には代議制度がとられている(これを補足するものとして人民投票制もある)。この〔観念と実際の違い〕を批判するものとして、ルソーのイギリス議会制度批判やマルクスのブルジョア議会制度批判がある。また、実践的に裏付けられたものとしては、フランス革命で、サンキュロット大衆の運動を背景としたヴァルレの人民主権や命令的委任の制度の提唱があった。さらにそれは、明確に私的所有の廃止・共産主義の思想と結び付いたバブーフの人民主権論に発展した。3)
 マルクスによって「経済的解放のために、ついに発見された政治形態」(『フランスの内乱』)と絶賛された1871年のパリ・コミューンもまた、この人民主権論を実践した。3月27日の「20区共和主義・中央委員会の宣言」は、次のように強調している。
コミューンの理念は、政治形態としては、自由および人民主権と両立しうる唯一のも のである共和制を意味する。
話し、書き、集会し、結社を形成するもっとも完全な自由。
  個人の尊重とその思想の不可侵。
  つねに自主的な存在として、たえまなく自己招集しかつ自己の意志を表明しうる、普 通選挙[権者の総体]の主権。
  すべての公務員または司法官に適用される選挙の原則。
  受任者の有責任、したがって恒常的な罷免可能性。
  命令的委任、つまり受任者の権限と任務を明確にしかつ限定する委任。4)

 マルクスがパリ・コミューンの重要な教訓の一つとしてあげたリコール権も、命令的委任とともに、まさにこの人民主権を基礎としたものである。
 君主主権に国民主権を対置したブルジョア革命は、確かに歴史的には進歩ではあるが、新たな階級支配と階級対立自身は解消しなかった。それはマルクスもいうように「政治的解放」ではあったが、「人間的解放」ではなく、階級差別はなくならなかった。この矛盾を隠蔽するものとして、法の下ですべての諸個人が平等であるとして、国民あるいは公民が定立された。したがって、この国民が権力を握るという国民主権論は、はじめからこの階級矛盾を隠蔽する性格をもっている。
 この意味でロシア革命が、経済的解放を重視し、国民主権論を否定したのは正しかった。だが、ロシア革命は国民主権論を否定するだけでなく、主権一般を否定したのである。
 この理由について、森下敏夫氏は2つの点をあげている。すなわち、「人民主権概念(ロシア語では、「国民」も「人民」も同じ単語なので、多くの場合、人民主権は国民主権と同じ意味とされており、森下氏は人民主権で統一している。以下、この場合はカッコ付きで表記する─引用者)に対する初期ソビエト憲法学の批判は、性格を異にする二つの角度からなされている。‥‥第一の視角からは、近代社会の階級関係の分析に基づく「人民主権」概念の階級性が指摘され、ソビエト国家におけるプロレタリア独裁が対置される。第二の視角は、主権概念を国家権力・市民間の矛盾関係において基礎づけ、そこから、かかる矛盾の存在しないはずのソビエト国家における主権概念死滅の根拠を提示する。」5)と。
 これに対し、森下氏は第一の視角のいう批判は、「批判の矛先は主として人民概念の抽象性・虚構性に向けられており、主権概念そのものが批判されているわけではない。」6)とし、したがって、ブルジョア主権に対してプロレタリア主権が対置されてもよい筈だと反論している。そして、現にグルジャ共和国憲法(1922年)の第1条では「労働者と勤労農民が、全土に主権とプロレタリア独裁を宣言する」と規定していたことを例示する。(1922年のソ連邦の結成と、24年のソ連邦憲法の制定にともない、25年以降各ソビエト共和国は新たに憲法を制定し直す。そしてグルジャの独自の主権規定も定着せずに終わる。)第二の視角は、概念成立の背景説明の正しさにもかかわらず、「かかる矛盾の存在しない」という断定は、言うまでもなくあまりにも観念的なものであり、ソ連の現実の歴史によっても批判されることとなった。というのは、後にソ連では「人民主権」論が1936年憲法(いわゆるスターリン憲法)の頃から復活しはじめ、スターリン批判以降には全面化するからである。
 だが、理由はこのような観念性のレベルにとどまらず、より積極的なものがある。それは階級的権利論の所でも触れたが、ブルジョア的個人主義に対置した集団主義や、勤労者諸個人よりも国家を優先する思想などである。この点について、具体的に1918年憲法の権力規定を分析するなかで、以下検討してみることとする。

注1)ボダンの思想については、成瀬治著『市民社会の成立』(東大出版会)に拠った。
2)中村哲著「主権概念の問題性について」─『公法研究』第9号(日本公法学会)に所収
3)詳しくは、拙稿「フランス革命に於る統治体制の教訓」─『プロレタリア』(労働者共産党機関紙)1999年9月1日号を参照
4)杉原泰雄著「民衆の国家構想」─『法律時報』1999年10月〜91年3月号に所収されたものからの重引
5)森下敏夫著『ソビエト憲法理論の研究』第三章ソビエト国家機構の構成原理(創文社)
6)同上

 

 (1)真の主権者たる“ソビエト主権”論


主権概念を採用しなかった1918年憲法は、その第1条で「ロシアは労働者・兵士および農民代議員ソビエトの共和国であることを宣言する。中央と地方のすべての権力は、これらのソビエトに属する。」と、第7条で「‥‥権力は、全体として、勤労大衆とその全権代表、すなわち労働者・兵士および農民代議員ソビエトだけに、属さなければならない。」と、第12条で「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国における最高の権力は、全ロシア・ソビエト大会に属し、大会と大会のあいだは、全ロシア・ソビエト中央執行委員会に属する。」と、第24条で「全ロシア・ソビエト大会は、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の最高権力である。」と規定している。
これらは、権力の所在を具体的な組織として、ブルジョア議会などでなくソビエトと明示したものである。そして、「基層ソビエトこそが『真の主権者』に他ならないことは憲法起草委員会内の当該問題に関する小委員会の一致して認めたところであった(憲法規定上『主権』の概念が採用されたわけではないが)。」1)とも言われている。
 だが、権力の所在を組織あるいは機関とするだけでは、限界がある。それは、ブルジョア的主権論の一種でもあるイギリスの国会主権で明らかである。
 イギリスではフランスなどのような自然法や社会契約の思想は弱く、諸権利は国王との闘いの中で積み重ねられた諸法によって裏付けられた。したがって、イギリスでは伝統的に法優位の思想が強い。このため、イギリスのブルジョア主権は、法を制定する国会に置くのが通説である。「国会主権(Sovereignty of Parliament)とは、国会、詳しくは『国会における国王』(King in Parliament)、具体的には、国王、貴族院、庶民院の三者の共同意志が、法的な主権をもつことを意味する」2)のである。それは君民主権的性格をもっているのである。もちろん、三者が対等に権限をもっていたのは、きわめて短期間であり、名誉革命以降は国王、貴族院の力は低下していった。
 だがこの国会主権では、「国民は単に庶民院議員を選挙するのみであって、国会意志の決定に全く法的に干与しえない。その決定権はことごとく国会にある。レフェレンダム(人民投票のこと─引用者)を採用する法案は容易に通過せず、イニシャティヴに至ってはイギリス憲法の基本原理に反するといわれている点からもみられるように、イギリスは完全な間接民主政国家である。」3)といえるのである。だからこそルソーやマルクスの前述した批判が正当性をもつのである。
 このように国会であれ、ソビエトであれ、権力主体を無前提に組織あるいは機関にあるとして強調することは、主権者から遊離した間接民主政の賛美となる。それはマルクス主義における国家死滅の思想とは背反するものであろう。

注1)大江泰一郎著『ロシア・社会主義・法文化』第二部第二章社会主義憲法史の試み(日本評論社)
 2)伊藤正巳著「イギリス憲法における主権概念」─『公法研究』第9号に所収
3)同上 

 

 (2)権力の源泉論


1918年憲法は、権力規定として前述したものとは別に、その第10条で「ロシア共和国は、ロシアのすべての勤労者の自由な社会主義社会である。ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の領域内のすべての権力は、市ソビエトと村ソビエトに統合された全労働住民に属する。」と、権力の源泉がソビエトに「統合された全労働住民」にあると規定している(社会主義社会と断定していることは問題であろう)。
 この第10条の規定は、その前の第9条の「憲法の基本的任務」、すなわち社会主義をもたらすために、「強力な全ロシア・ソビエト権力のかたちで、都市と農村のプロレタリアートおよび貧農の独裁を確立すること」を受けたものである。
 第10条の「権力の源泉」論には、問題が2つある。まず第一は、権力の源泉としての「全労働住民」は、あくまでも「市ソビエトと村ソビエトに統合された」それであり、労働する諸個人ではないということである。このため、権力奪取前後の直接民主主義が活発な短い期間が終わり、ソビエトのボリシェヴィキ一党支配が確立すると1)、ソビエトは形骸化し、党独裁を翼賛する傾向を強めていく。労働する諸個人の権利を実質的に認めず、翼賛選挙で党独裁を隠蔽する体制は、国家の死滅はおろか、勤労者を主人公とする社会の統治においてすら反人民性を強め、スターリン体制のように恐怖政治、権力政治でしか統治できなくなっていくのである。
 第二は、権力の源泉として「全労働住民」を措定するレベルだけならば、それは国民主権のブルジョア憲法でも明記されているものである。国民主権は、階級差別を前提とし、それを隠蔽するものとしての国民の定立と、国民に主権があるという欺瞞性に問題があるだけではない。それに加え、国政規模の代議員に不逮捕特権の保持と、いったん選出されたならばリコールされないという制度に大きな問題が存在するのである(高級官僚さえ、国民は選出できないという問題もある)。
 ここでは国家活動の実際の担い手と国民の間の矛盾は、選挙という民主的装いをもちながらも、それさえクリアーすれば、逆に代議員は選挙区国民の民意を反映させるためではなく、国民全体の代表であると居直り、民意にさからった政治行動も保護される制度の下で「解決」されるものとなっている。それは選挙がいつもアリバイ的機能をもち、民意が恒常的に反映するというのは、全くの幻想である。国民主権の核心部分のひとつである、リコール権のない代表制原理は、主権者を実際には単なる飾り物にするにしか過ぎないものであり、“権力の源泉”論は、それだけをとってみれば代表制原理の欺瞞性を隠蔽する、なぐさめの論理でしかない。国民主権論は、現実の矛盾を解決しなくとも、支配階級の利害さえ貫徹できればよいのであり、その点、代表制原理は好都合なのである。主権者が“権力の源泉”にとどまる限り、国家の死滅は未来永劫にありえない。

注1)西山克典著「ロシア革命とソヴェト権力─ 一党制政治システムの形成によせて─」(『スラヴ研究』No.32)によると、「1918年秋から1919年にかけて、タムボフ県やサラトフ県では共産党組織が『党独裁』を表明し、一連の地域でソヴェトにかわって貧農委員会や地方党組織が権力を掌握する事態が生まれた。このような地方からの強力な推力は、ソヴェト権力の樹立期に形成された『共闘』を機軸とする地方ソヴェトの相互自立的政治構造を破るものであり、中央の政策的意図をもしばしば越えるものであった。中央では内戦・干渉戦への突入による政治情勢の変化を考慮して、1918年末から1919年初めにかけて、メンシェヴィキとエス・エルのソヴェトでの活動を許容する方針が出されたが、地方ソヴェトはこの措置を無効にし、共産党以外の諸党派を排除する強い志向を示したのである。
 ロシア革命における一党制政治システムはこのような地方からの強力な推力を受けつつ、1919年3月の第八回共産党大会での『組織問題に関する決議』で一応の成立をみる。」と言われている。

 

 (3)主権者なき国家主権論


 いかなる形の国家であれ諸国家が無くならない限り、国家の対外関係は存在せざるを得ない。したがって、1918年憲法も第49条で、全ロシア・ソビエト大会と全ロシア・ソビエト中央執行委員会の管轄の一部として、国境の制定と変更、外国との交渉と宣戦・講和、新たなソビエト共和国の加入などの対外関係の事項をあげている。
主権概念を採用しなかった1918年憲法では、もちろん、この点を主権の対外的側面として位置付けている訳ではない。だが、24年1月採択のソビエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)基本法になると突如として、「国家主権」という形で明示されるようになる。すなわち、その第3条は、「連邦構成共和国の主権は、この憲法のしめす範囲にかぎり、連邦の権限に属する事項にかぎって制限される。この範囲の外では、各連邦構成共和国は自分の国家権力を自主的に行使する。ソビエト社会主義共和国連邦は、連邦構成共和国の主権的な権利を保護する。」という。
 具体的に主権者そのものが明示されない中で、国家主権をうたうということは、国家の社会からの自立が大きく進むことを意味する。今や当初のソビエトの理想は色あせ、国家死滅の思想も大きく後退している。
 じつは国家主権は、19世紀のドイツや日本ですでに実施されている。遅れて近代化したドイツや日本のような国々では、明確な大衆的なブルジョア革命も成功せず、あるいはそもそも存在もせず、国家主導の上からの近代化=富国強兵策がとられ、社会契約説的な国民主権論はとられなかった。だが、もはや露骨な君主主権論もとるわけがいかず、ドイツでは国家に主権があるとする国家主権論や、国家は一種の法人であり君主はその機関だとする国家法人説が唱えられた。しかし、当時のドイツでは実際に国家権力を握っていたのは、君主とそれを取り巻く官僚集団であり、それは近代的な装いをもった君主主権ないしはそれに近いものであった。
戦前の大日本帝国憲法は、ドイツ憲法をモデルとしているが、ドイツとは異なり君主主権=天皇主権を明確にしている。その後いわゆる「大正デモクラシー」と政党政治の発達を背景に美濃部達吉らにより天皇機関説が唱えられるが、これはドイツの国家法人説の日本版である。周知のように天皇機関説は、右翼の国体明徴運動の圧力の下で国家によって圧殺される。戦後の日本においても、口に出すか出さないかは別にして、“日本は天皇を中心とする国”という考え方が保守的政治家に多く、人権のイロハも理解していない状況が根強いのも、戦前の憲法思想の影響の強さと戦前の天皇制国家が清算されないできた戦後体制の現実による。
 このように人権思想そのものと対立する国家主権がソ連邦憲法に明記されているということは、中途半端な主権概念の採用にとどまらず、国家権力と勤労者諸個人との間の矛盾を否定し更に国家の自立化への道を公然と歩み出したことを示すものである。

  V 1936年憲法と「人民主権」の実質的採用


 1936年12月採択の新憲法は、20年代末から30年代前半にかけて形成されたソ連の党・国家官僚制を憲法として表現したものである。この党・国家官僚制は、「『上からの革命』期に完成した党・国家システム(このシステムを構成する諸要素はすでに20年代から徐々に形成されてきた)が、全社会をおおい、党の絶対的『指導』権=支配権が全社会的に確立している体制のことである。そして、その組織構造は、党のノメンクラトゥーラ制に支えられた、官僚制的なヒエラルキーをもつ。」1)ものである。
 憲法改正の大まかな経過は、まず1935年1月に、共産党政治局で各権力諸機関の選出方法を、今までの間接(多段階)・不平等選挙から直接・平等選挙に移すという「選挙手続きの改正」問題として提起された(エヌキーゼ覚書)。ついでこれが、同年2月の党中央委員会総会では、「直接・平等選挙に公開投票の秘密投票への移行という要素も加えた『選挙制度のより一層の民主化』と、新たに『憲法の社会的・経済的基本規定』の改訂をも予定するところの『ソ連邦憲法の若干の改正』問題へと発展し、さらにこの党機関決定が第7回ソ連邦ソビエト大会(2月6日)で最高国家権力機関の裁可を得ることによって、選挙制度改革問題は憲法改正問題として公式にスタートする。」2)のであった。
だが当初の政治局の討議段階から、「選挙手続きの改正」の前提には、大江氏がいうように「地区からソ連邦全体に至るまでの各域ソビエト大会の廃止と執行委員会の存続(権力諸機関の後者への一元化?)」3)という、1918年憲法に規定されていたそれまでのソビエト権力の性格と構造の根本的転換の狙いが秘められていた。それはソビエト思想の完全な変質であり、レーニン思想からの最終的決別である。
第7回ソ連邦ソビエト大会は、モロトフ報告に基づいて「ソ連憲法に若干の改正を加えることについて」の決定を採択し、改正テキストを作成するための憲法委員会の選出をソ連中央執行委員会に委任した。これを受け、中執委はスターリンを委員長とする31名からなる憲法委員会を選出した。「憲法委員会は、7月にその最初の会議をひらき、そこで大会の決定の線をのりこえて1924年のソ連憲法を全面的に改正することを決め、そのため憲法の各編を準備する次の12の小委員会を設置した。一般的問題、経済、財政、権利、選挙制度、司法機関、中央および地方の権力諸機関、国民教育、国防、外交ならびに編集(編集小委員会は他の小委員会の委員長から構成された)」4)という。ソビエト大会の決定に反して憲法委員会が活動することなどは、農業集団化などでの苛酷な人民弾圧と比べれば、彼らにとっては些細なことなのであろう。
 その後、「具体的な草案起草作業は、これらの小委員会による編別原案の作成(1935年7月─36年3月)、ステーツキーらの三人委員会によるこれら編別原案の取りまとめ(「草案下書き」─36年4月)、憲法委員会委員長スターリン、副委員長モロトフおよび三人委員会のメンバーからなる会議と編集小委員会とによるこの『草案下書き』の補正(「第一草案─同月)と段階的に進み、1936年5月の憲法委員会によって最終案文が確定され、翌6月の党中央委員会総会とソ連邦中央執行委員会の議を経て公開討論(「全人民討議」)に付された。こうして、36年12月の臨時第8回ソ連ソビエト大会で正式に憲法は採択された。 新憲法は、第1章(第1〜12条)社会機構、第2章(第13〜29条)国家構造、第3章(第30〜56条)ソビエト社会主義共和国連邦の国家権力の最高諸機関、第4章(57〜63条)連邦構成共和国の国家権力の最高諸機関、第5章(第64〜78条)ソビエト社会主義共和国連邦の国家管理の諸機関、第6章(第79〜88条)連邦構成共和国の国家管理の諸機関、第7章(第89〜93条)自治ソビエト社会主義共和国の国家権力の最高諸機関、第8章(第94〜101条)国家権力の地方機関、第9章(第102〜117条)裁判所と検察庁、第10章(第118〜133条)市民の基本的権利と義務、第11章(第134〜142条)選挙制度、第12章(第143〜145条)国章、国旗、首都、第13章(第146条)憲法改正の手続きという構成になっている。
 この憲法こそ、後の1977年憲法の原型となるばかりでなく、いわゆる「社会主義」諸国の憲法の原型ともなったものである。
編別構成と条文の分量から概観的に見ただけでも、「市民の基本的権利と義務」は全体の条文数の8.2%でしかも憲法の後部に規定されている。もっとも多い条文は、第2〜9章の国家と国家権力に関する規定で、全体の71.9%を占めている。
 ではこの憲法には一体いかなる問題がはらまれているのであろうか。内容を検討してみる。

注1)拙稿「党独裁論から党・国家官僚制へ」─『プロレタリア』(労働者共産党理論誌)創刊号に所収
 2)大江前掲書
3)同上
4)杉浦一孝著「ソ連における社会主義の勝利と一九三六年憲法の成立」─社会主義法研究年報No.3『社会主義国における自然保護と資源利用』に所収

 

 (1)党の指導性の明記


 1936年憲法は、第10章市民の基本的な権利と義務の第126条結社の自由の項で、社会諸団体を結成する権利につづけて、「労働者階級、勤労農民および勤労的インテリゲンチャの陣列のなかで、もっとも積極的で、もっとも自覚した市民は、共産主義社会建設の闘いにおける勤労者の前衛であり、勤労者のすべての社会的および国家的な組織の指導的中核であるソビエト連邦共産党に、自発的に団結する。」と明記した。
 共産党の性格(前衛)と役割(指導的中核)を示すこの規定は、憲法改正作業の最終段階で(1936年4月22日)、スターリン自身によって挿入されたものである1)。それは「上からの革命」の時期に固定化した、党の支配・統制(全権代表システム、政治部から、実質的にそれを内包した党・国家官僚制へと変遷したが2))をただ条文化したものであるが、このことによって党独裁は公的なものとして確認されたわけである。というのは、当時のスターリンの用語法でいえば、彼は剥き出しの党独裁を批判し(ジノヴィエフへの批判)、伝導ベルト論にみられるように党の一元的固定的指導をソビエトや大衆団体に貫徹したものとしての党の「独裁」を対置し、「独裁」を指導と言い換えていたからである(だからスターリンはカッコ付きの独裁とした)。
 ソビエトにおける一党支配を確立した後、共産党がソビエトや大衆組織を代行する体制は、戦時共産主義の時につづいて、「上からの革命」(強制的な農業集団化と超工業化)の時期にも行われた。しかし、今度はこの体制が一時的部分的なものではなく、固定化され恒常的なものとして固まり、しかも憲法にまで明記されたのである。
 しかし、党独裁がいかに憲法に明記され、公的なものとして確認されたとしても、それはそもそも背理である。この条文規定は、いかに人民が反対でも、法的には共産党を前衛として認めその指導に服従しなければならないということである。しかしその指導内容を決定する権限も、決定過程に参加する権利も、非党員には全くないのである。つまり、私的なもの(共産党)なものが、「指導的中核」という憲法規定によって、公的な活動全体を支配・統制するという矛盾である。
 このような体制は、人民自身の自己統治の理念に反するのはもちろん、それでは国家死滅への道に踏み込むことすらできないのである。ただ一方的に決められた方針や決議に対して、討議すらできずただただ服従するのでは、政治活動はもちろん精神活動一般が不活発になることは、必然的である。

注1)大江前掲書
 2)詳しくは、拙稿前掲論文を参照

 

 (2)欺瞞的な「人民主権」と超中央集権化


 1936年憲法の権力規定は、第2条「ソ連の政治的基礎は、地主と資本家の権力の打倒、プロレタリアート独裁の結果、成長し強固となった勤労者代議員ソビエトである。」、第3条「ソ連におけるすべての権力は、勤労者代議員ソビエトによって代表される都市と農村の勤労者に属する。」としている。この第3条は、表現を見るかぎり1918年憲法の第10条同様に権力の源泉を規定しているものである。勤労者が主権者であるという、規定ではない。
 しかし、現実には「36年憲法は、その草案起草の過程ではやくも、ソビエト憲法(学)史上積極的文脈で用いられることのなかった『人民主権』の意味転換を惹起した。やがて成立した新憲法は明文上この概念を採用したわけではないが、その第3条の『‥‥』という規定は、『真の人民主権』──ブルジョア国家における、人民大衆の統治への参加を排除し、理念上人民に属するはずの権力を事実上特殊な国家機関へと委任するところの、『神話的』な、『国民主権』、ないし階級社会においてはそれと同義でしかありえない『人民主権』とは原理的に異なるとされる──を表現するものと解釈されることになった。」1)のである。キチンとした総括も世界に明らかにしないままでの大転換であるが、主権概念の実質的な採用に踏み切ったのである。しかし、1918年憲法との連続性、継続性をはかるためか、新憲法にはやはり、主権概念も主権者の規定もない(ただし、連邦構成共和国の国家主権は、第15条に以前同様に明記されている)。
 新憲法は、国家権力の諸機関については、第30条「ソ連の国家権力の最高機関は、ソ連最高ソビエトである。」、第32条「ソ連の立法権は、ソ連最高ソビエトだけが行使する。」と、第64条「ソビエト社会主義共和国連邦の国家権力の最高の執行および処分機関は、ソ連大臣会議である。」、第66条「ソ連大臣会議は、施行されている法律にもとづき、またはこれを執行するため決定および処分を公布し、その執行を点検する。」と(ソ連政府すなわちソ連大臣会議は、ソ連最高ソビエトの両院─連邦ソビエトと民族ソビエト─合同会議で任命される)、また、第112条「裁判官は独立であり、法律だけにしたがう。」、第113条「ソ連検事総長は、すべての省、その管轄に属する施設、個々の公務員およびソ連市民が、法律を正確に執行することにたいする最高の監督を、任務とする。」(ソ連最高裁判所の構成員は、ソ連最高ソビエトにより選出される。ただし、連邦構成の共和国最高裁判所の所長も、ソ連最高裁判所の構成員となる。検事総長は、ソ連最高ソビエトにより任命される)などと規定している。
36年憲法における権力機関の規定で最大の特徴の一つは、ソビエトそのものの位置付けが変化したことである。
 1918年憲法でいうソビエトとは、端的にいって基層ソビエトとしての市ソビエトと村ソビエト(それぞれ当該の管轄する領域内では最高の権力である)を指している。そしてこのソビエトを基礎として各級レベルのソビエト大会があり、最高権力機関は全ロシア・ソビエト大会である(大会と大会のあいだは全ロシア・ソビエト中央執行委員会)。
 だが、1936年憲法は、従来のソビエト大会制度が廃止され、連邦・連邦構成共和国・自治共和国のそれぞれの「最高ソビエト」も、それ以下の辺区・州・自治州・管区・市および村の各級ソビエトも、同じくソビエトと称された。そして、この新たなソビエト・システムは、単一の国家権力の最高諸機関(この内には連邦─連邦構成共和国─自治共和国という序列がある)と、この単一の国家権力の地方機関としての地方の各級レベルのソビエトからなり、強い中央集権的性格をもっている。
 たとえばそれは、前者のレベルでの執行機関(自治共和国大臣会議を除き)では、その序列に従い、下級の機関の決定・処分を停止する権利などをもつことに見られる。具体的には、第69条は「ソ連大臣会議は、ソ連の管轄に属する管理と経済の部門について、連邦構成共和国大臣会議の決定および処分を停止する権利、ならびにソ連大臣の命令と訓令および自分の管轄に属する他の施設の行為(アクト)を取消す権利をもつ。」、第82条は「連邦構成共和国大臣会議は、自治共和国大臣会議の決定および処分を停止する権利をもち、辺区、州、自治州勤労者代議員ソビエト執行委員会の決議および処分、ならびに共和国国民経済会議および共和国の経済地区国民経済会議の決定および処分を取消す権利をもつ。」という規定である。
検察庁では、第115条「共和国、辺区、州、自治共和国および自治州の検事は、5年の任期で、検事総長により任命される。」、第116条「管区、地区および市の検事は、5年の任期で、連邦構成共和国検事により任命され、ソ連検事総長の承認をうける。」と規定されているように、とりわけ厳しい中央集権制となっている。
内戦や帝国主義干渉戦争の時期のような非常時であるならば、中央集権制が強まらざるをえない客観条件はあるが、それらが終わり私的所有もほとんど一掃された段階で、このような規定がなされるのは、コミューン型国家としてのソビエトの思想に背反するものである。それは自己統治の思想とは、正反対のものである。国家諸機関は、ますます人民から遠ざかり社会の支配者になっていったのである。
 ところでパリ・コミューンは、コミューン連合の思想とは異なり、中央政府の必要性を肯定しているが、根本的に自治の思想で貫かれている。
 1871年4月19日の「フランス人民に対する宣言」は、次のようにいっている。
コミューンに固有の権利は、以下のようである。
コミューンの収支予算の議決。租税の確定と割り当て、地方的事務の管理。その司法 部、内部警察および教育の組織。コミューンに属する財産の管理。
 あらゆる段階のコミューンの司法官または公務員の選挙または競争試験による責任あ る選任および恒常的な統制権と罷免権。
個人の自由、信仰の自由および労働の自由の絶対的保障。
  自己の意志を自由に表現し、その利益を自由に擁護することによってコミューンの公 務への市民の恒常的な参加。これらの表現はコミューンによって保障されるが、コミュ ーンのみが集会および宣伝の権利の自由かつ正当な行使を見守り、保障する。
 市の防衛と国民衛兵とを組織すること。国民衛兵は、その指揮官を選出し、かつそれ のみが市の秩序維持の任にあたる。
 パリは、地方的保障として、これ以上のものはなにも望んでいない。もちろん、加盟 コミューンの代表部である中央政府においても、同じ原理の実現と実行が条件となって いる。2)

同年3月25日の内務担当委員の宣言でも、「われわれの不幸に乗じてわれわれの運命の支配者となり、パリ(独自)の政治的社会的生活の否認を自己の任務としていた者たちに対して、パリは(3月18日)、国の場合と同じく、いかなる都市も自治を行い、そのコミューンの内部生活にかんする問題を管理し、国の全般的管理、国の政治的方向づけのみを中央政府にゆだねるという時効によって消滅することのない権利を確認することによって答えた。」3)と、中央でも、地方でも自治をうたっている。
選挙制度の「より一層の民主化」4)、市民の権利の整備と充実(後述)などの装いも、結局は、コミューン型国家(一党支配により大分形骸化していたが)を完全に清算し、党独裁に奉仕する中央集権的な国家諸機関の確立をカモフラージュするもの以外の何物でもない(党組織同様に、国家諸機関を中央集権化することは、ごく一握りの党中央が、あるいはスターリンとその取り巻きが国家諸機関と人民を支配するには極めて都合がいい)。その意味では、突然主張しだした「人民主権」も、党独裁を隠蔽する道具立ての一つでしかない。

注1)大江前掲書
 2)杉原泰雄著「民衆の国家構想」─『法律時報』1990年10月〜91年3月号に所収
3)同上
4)たしかに選挙制度は、直接・平等・秘密の普通選挙となり、形式的には「民主化」された。しかし、実際の選挙はそうではない。自由な選挙活動ができない中で、核心的には候補者推薦制が最大の問題である。36年憲法下の最初の選挙である、1937年の連邦最高ソビエト選挙の時から、各推薦団体(共産党組織、共産青年同盟組織、協同組合などの社会団体、生産単位の労働団体、部隊ごとの軍人集団)が統一候補を立てるという運動が組織され、以降これが慣行となる。つまり、実際は候補者を一人に絞る過程で、体制に都合のよい候補者しか残れない仕組みなのである。

 

(3)党独裁に制約された権利(人権)

 
 1936年憲法は、第10章市民の基本的な権利と義務で、労働の権利(第118条)、休息の権利(第119条)、社会保障にたいする権利(第120条)、教育をうける権利(第121条)、男女同権・母性保護(第122条)、民族、人種の同権(第123条)、良心の自由(第124条)、言論、出版、集会、行進等の自由(第125条)、結社の自由(第126条)、人身の不可侵(第127条)、住居の不可侵・通信の秘密(第128条)、外国市民の避難権(第129条)の諸権利をうたっている。
 これらの諸権利は、一見しただけでも1918年憲法と比べれば、はるかに充実・整備されている。18年憲法にはなかった人身の不可侵、住居の不可侵・通信の秘密の自由権が加えられただけでなく、労働の権利(かつては義務だった)、休息の権利、社会保障にたいする権利のような社会権的な権利も新たに加えられている。
 だが、問題は第一に、本音が隠され多くは建前が書かれているということである。たとえば、第127条は「ソ連市民は、人身の不可侵を保障される。何人も裁判所の決定または検事の許可がなければ拘留されない。」、第128条は「市民の住居の不可侵と通信の秘密は、法律によって保護される。」となっている。ところが、第一次原案の段階(1935年秋〜翌年初めに成立)では、まだ「市民の人身、住居ならびに信書は不可侵である。この不可侵性は、公安の事項を所掌する国家諸機関の特別の決定によってのみ、かつ社会主義社会の敵たる者またはこの敵を幇助する者に対してのみ侵されうる。」というものであった。行政機関によって「侵されうる」などというのは、法治主義とは正反対であり、彼らがいう「社会主義適法性」にも矛盾するものである。「社会の敵」と決めつけるが、一体誰がこれを判定するのか。行政機関か、裁判所か、または人民自身か。また一体どのような手続きで行うのか。
 さすがに、このような原案の文案ではまずいと思ったのか、正文のように書き改められた。しかし、衣の下の鎧は隠せなかった。すなわち、第125条では、「勤労者の利益にしたがい、社会主義体制を強化する目的で、ソ連市民は、法律により次のことが保障される。」として、以下、言論の自由、出版の自由、集会の自由、行進の自由が並べられている。第126条でも、「勤労者の利益にしたがい、人民大衆の組織的自主性と政治的積極さを発展させる目的で、ソ連市民は、社会団体、すなわち労働組合、協同組合、青年団体、スポーツ団体、国防団体、文化団体、技術団体および学術団体を結成する権利を保障される。‥‥」とされている。
 「勤労者の利益にしたがい」とか「社会主義体制を強化する目的で」とかの制限条件がつけられているが、これが以降、今日にいたるまで世界的に論争の焦点になってきたし、いまでもそうである。つまりこの制限条件によって、いわゆる「社会主義国」はブルジョア社会よりも不自由だという批判である。
 確かに所有制の違いにより、ブルジョア社会の自由には階級的限界がある。だからといって、ソ連などの自由論に賛成することはできない。前述したように、ソ連の自由論は「積極的自由」に一面化され、「消極的自由」を認めない、狭さと限界があるからである。また、制限条件である「勤労者の利益」とか「社会主義体制を強化する」とかの内容という肝心の点で、自由な討論のうえで公的な同意を大多数の人民から獲得するという条件のない体制では、人民は支配層の一方的な内容をおしつけられるだけである。そこには常識的な意味での、常識的レベルでの自由さえも存在するとは、言えないのである。そのような不自由な体制となった根本的理由は、党独裁の体制化がある。そして、これと密接に関連して、過渡期における国家権力と人民との間の矛盾を認めず、その矛盾解決のための民主的な政治制度と人民の人権の欠落にある。
 第二の問題は、憲法を定めても、現実に指導層からしてその法をないがしろにするという法意識である。
 36年憲法の第130条は、「ソ連の各市民は、ソビエト社会主義連邦憲法を順守し、法律を履行し、労働規律をまもり、社会的義務にたいしまじめな態度をとり、社会主義的共同生活の規則を尊重する義務をおう。」と明文化している。ところがこのような規定は、指導層からして破っているのである。「1936年のソ連憲法は、ソ連最高ソビエトの会期は1年に2回召集されるものとした(46条)。この規定は、1938年から45年までの第1期最高ソビエトについては、戦時(41〜44年)をのぞきまもられていた。しかし戦後の第2期(1946〜49年)および第3期(50〜53年)のソ連最高ソビエトの会期は、4年間に5回しかひらかれず、その大半はその年度の予算と幹部会令の事後承認という仕事しかしなかった。そのうえ第二次世界大戦後は、ソ連政府はソ連最高ソビエトに活動報告さえしなくなった。」1)といわれる。
ソ連最高ソビエトは、「ソ連の国家権力の最高機関」(第30条)であり、ソ連の唯一の立法機関(第32条)である。しかし、稲子氏がいうように、現実にはソ連最高幹部会が立法化し、ソ連最高ソビエトはただそれを批准する機関になり下がっているにしか過ぎないのであった。
 社会主義合法性が強調され、全人民討議まで行って1936年憲法が採択されたにもかかわらず、その直後にもあの悲惨な大量粛清がおこなわれたということは、憲法と現実の体制が全くことなるものであることを、如実にあらわしている。
共産党第17回大会の行われた年、1934年の12月、キーロフ暗殺事件が起こり、これを契機に大規模な粛清が展開された。翌35年キーロフ暗殺事件にかかわる粛清、36年8月のジノヴィエフ、カーメネフなど16名の「合同本部陰謀事件」に関する公判、37年1月のピャタコフら16名の「並行本部事件」の公判、同年6月のトハチェフスキーら8名の「国家反逆陰謀の摘発と秘密裁判」と即時銃殺刑の執行、38年1月の「右翼トロツキスト陰謀事件」の摘発と、被告ブハーリン、ルイコフなどの銃殺刑の執行などが続いた。
 そして、1939年3月に開かれた第18回党大会の構成員は、5年前の第17回大会のそれとガラリと変わる。17回党大会選出の中央委員71名中、18回党大会で残留できた者16名、同じく中央委員候補68名中、残留できた者2名、17回大会の候補で18回大会で中央委員に昇格した者6名(18回大会の中央委員と同候補の数は、17回大会のそれと同じ)という少なさである。結局、17回大会の中央委員、同候補の合計139名中、18回大会で残留した者は僅か24名にしか過ぎない。この消えた115名中、実に98名が銃殺されているのである。2)
 これらの国家犯罪は、ソ連のいう「人民主権」が、党独裁を隠蔽するための全くのフィクションであるばかりでなく、党の強調する社会主義的合法性が支配層をのぞく人民にだけ要求されたもので、支配層は完全に遵法からは解放されていたことを示すものである。
注1)稲子恒夫著『ソビエト国家組織の歴史』 日本評論社
2)菊地晶典著『増補・歴史としてのスターリン時代』 筑摩書房を参照


 
 おわりに代えて─プロレタリア的な人権・主権論の意義


 主権概念は、国家論一般においては、本質的メルクマールではない。たとえば、西欧中世の封建国家では、主権自身存在せず、もちろん主権概念もない。各国の国王の上には、神聖ローマ皇帝やローマ教皇の普遍的権威が存在していたからである。また、実力主義の当時では、国王をしのぐ封建諸侯もいた時代があったからである。前述したように、絶対主義時代に国王権力は、領域国家を形成しながら、これらの諸権力や諸権威と闘い、君主主権をかちとったのである。
 これを理論化したともいえるジャン・ボダンは、「主権を『絶対的かつ永続的な国家権力』と定義したうえで、この意味での主権が君主、人民の一部、人民のすべてないしその大多数のいずれに帰属するかによって、国家は君主制、貴族制、民主制の三つの国体に分類されるとしている」。このように「『主権』の伝統的用法においては、国家は主権者のうちに解消されもしくは主権者の所有対象として把握され、独立の法人格をもつ国家が主権・国権の固有の主体だとは考えられていないのである。」1)と、杉原氏はいう。
 主権概念のこの伝統的用法からすると、国民主権論はややズレている。それは君主主権と対比するならばよくわかる。君主主権では、主権者も国政担当者も君主であるが、国民主権では、主権者は擬制的に国民とされるが、国政の担当者は国民全体でなく、一部の者である。国政担当者は、法的には国民の代表を名乗る人々を中心に、その指導下の官僚たち(常備軍もふくめ)に担われているからである。したがって、国民主権論の核心は、主権者を国民(それは自然人ではなく、法の下に何人も平等であるという形でフィクションとして定立された)とし、その代表者が国政を担うとする代表制原理にある。この代表制原理によって、国民主権はいかなる政治形態とも結び付くのであり、現実に立憲君主制も、ヒトラーのような独裁政権をも生み出している。その原因は、代表制原理にある。
 したがって、国民主権の場合、「国家は主権者のうちに解消されもしくは主権者の所有対象として把握され」ないといえる。それはそもそも「国民」概念自身が擬制的に定立されていたという理由だけでなく、代表制原理が障害となっているからである。
 この点で人民主権はことなる。人民主権は、主権者である人民が、「現実の個体的な人間が、抽象的な公民を自分のなかに取り戻し、個体的な人間でありながら、その経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係のなかで、類的存在とな」(マルクス著『ユダヤ人問題によせて』)るからである。そこではもはや国民という擬制をとる必要はなく、諸個人は、ありのままの人間として、経済的にも、社会的にも、政治的にも平等であり、「各人の自由な発展が万人の自由な発展となるようなひとつの協働体」(『共産党宣言)での成員となるからである。
 この意味で政治的な平等を原則とする人民主権は、その基礎には経済的な平等が不可欠であり、それのみと合致するものである。ブルジョア社会のような私的所有による他人の搾取と階級差別の経済条件とは、合致しえないのである。
 さらに重要なことは、人民主権は、「国家を所有」し、「国家を主権者のうちに解消」しうるということである。もちろんその実現のためには、具体的な政治制度と結合しなければならない。人民の階級闘争の歴史は、これまでその具体的制度として、リコール制度の下での国政規模をはじめとする代議員の人民による選出、代議員に対する命令的委任の制度、人民に対する代議員の恒常的な報告制度、人民投票制度などである。これらは経済制度における必要労働時間の短縮、分業への固定的隷属からの解放、社会的政治的活動時間の拡大などによりさらに発展・整備されるであろう。
 そして、この国政規模での制度は、地方自治、住民自治の発展強化の基礎のうえにのみ初めて現実的でかつ意味のあることである(国家死滅の見地からするならば)。「いかなる都市も自治を行い、そのコミューンの内部生活にかんする問題を管理し、国の全般的管理、国の政治的方向づけのみを中央政府にゆだねる」(1871年3月25日の内務担当委員の宣言)という教訓は、100数十年以上たった今日でも、なお厳然として正当でありかつ有効なのである。中央政府の活動は諸条件が許すかぎり、できるだけ少なくし、地方自治、住民自治のなかでこそ、国家的行政的な諸機能は社会のうちに再吸収され、国家死滅は確実に進行するであろう。
 だが、人民主権も人権の存在なくしては、機能しない。搾取のない経済的な平等と結び付いた人権の発展こそが人民主権に内実を与えるものである。人権のない、かつてのソ連の「人民主権」なるものが、実際は党独裁を隠蔽するものとして、虚偽のイデオロギーであったことは一つの歴史的教訓である。この意味では、プロレタリア的な人権と人民主権は、相互に密接な関係にあり、相互依存の関係にあるともいえるであろう。
 
注1)杉原泰雄著「フランス革命と国民主権」─『公法研究』33号(有斐閣)に所収