〈明治維新の再検討〉強者の驕慢―「白河以北一山百文」
奥羽越戊辰戦争は「無駄な抵抗」だったのか
                     堀込 純一

    目 次
 はじめに  P.1
Ⅰ 慶喜追討と会津征討  P.2
 (1)慶喜の逃亡と旧幕府側の動向  P.2
 (2)慶喜追討令・会津征討令に対する奥羽諸藩の対応  P.3
  〈仙台藩の疑問と追究〉  P.6
 (3)奥羽鎮撫総督の任命と一行の仙台入り  P.8
Ⅱ 仙台・米沢藩の会津救済  P.10
 (1)仙台・米沢藩の調停工作  P.10
   〈奥羽鎮撫総督府が庄内藩征討を決す〉  P.11
 (2)繰り返される仙台・米沢藩と会津藩との交渉  P.12
Ⅲ 「東国政権」樹立へ  P.13
 (1)奥羽列藩同盟の結成  P.13
   〈参謀・世良修蔵の処刑〉  P.17 
 (2)「白石盟約書」から「奥羽盟約書」へ  P.19
 (3)同盟の統一行動に関する計画案と玉虫左太夫  P.22
 (4)同盟の盟主となる輪王寺宮  P.27
Ⅳ 東国の征討をめぐる新政府内の方針対立  P.28
Ⅴ 奥羽越における戊辰戦争の本格的開始  P.32
 (1)白河方面  P.32
 (2)太平洋沿岸線方面  P.33
 (3)秋田方面  P.35
 (4)盛岡藩と津軽藩  P.37
 (5)越後方面  P.38
 (6)会津決戦  P.43
Ⅵ 民衆の犠牲と戦争処分  P.47
おわりに  P.50



  はじめに

 2017年4月25日、当時の今村復興相(佐賀出身)は、東日本大震災の起こった地が、「東北でよかった」と言って、翌日、事実上の罷免となった。それこそ東北差別・東北侮蔑が、未だ以て無くなっていないことを示して余りある事件である。
 近代以降の東北差別を象徴する言葉に、「白河以北一山百文」というものがある。この言葉は、戊辰戦争の白河口での戦いに勝利を確信した西軍(新政府軍)の高官がもらしたものと言われる。現・福島県の南部・白河(しらかわ)より北は、切り取り勝手次第であり、一山(いちざん)百文ぐらいしか値打がないとうそぶいたものである。
 1918(大正7)年9月、初の「平民宰相」となった原敬は、これに対して、「一山」と号した。盛岡藩の家老の家系に生まれた原敬は、薩長藩閥政府の差別に抵抗したのである。
 原敬より前に東北差別に敢然と立ち向かった人物に『河北新報』を創設した一力健治郎がいる。『河北(かほく)新報』は1897(明治30)年に創刊されたが、その社是は、「正しい新聞道を確立し、自由構成の言論を貫徹する。人物・文化・産業を開発し、閥族官僚の犠牲になった東北の振興に終始する。無言の民衆に味方し、秕政(ひせい *悪政)を糾弾し、党弊(とうへい)を根絶し、人権を尊重する。」とうたっている。〔*下線は筆者によるもの。以下、同じ。〕
 いまなお、潜在的であれ、東北差別が残るのは、明治時代以来、学校教育もふくめて育成されてきた皇国史観、薩長史観が、今日においても是正されきれていないからである。 
 しかし、今日においてはようやく明治維新に関するドグマは、専門研究者のみならず、在野の研究者においても、しだいに壊されてきており、批判的な再検討が広範にすすめられている。
 以下では、奥羽越列藩同盟の戦いの評価を中心に、明治維新の再検討を具体的に試みる。

Ⅰ 慶喜追討と会津征討

   (1)慶喜の逃亡と旧幕府側の動向

 鳥羽・伏見の戦争に敗れた徳川慶喜は、幕府軍を置き去りにして、わずかな供だけで1868(慶応4)年1月8日、大坂天保山冲から出航し、11日夜半、品川沖に着き、翌12日に江戸城に入った。しかし、慶喜が態度を鮮明にしなかったため、城中では主戦派と恭順派との間で激しく論争が行なわれた。
 ここでの主戦派は、勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗上野介、歩兵奉行・大鳥圭介や会津・桑名藩士らである。だが、小栗は1月15日に職を罷免されている。他方、慶喜は14~20日に、駿府警備・神奈川警備や、箱根・碓氷両関所の警備など、関東の警備体制を強化した。
 さらに慶喜は1月23日に、幕府の職制を改めて「家職」の制に切り替え、それまで譜代大名が任に就いていたのを免じ、代わって直参の旗本を登用した。たとえば、勝海舟が陸軍総裁、大久保一翁が会計総裁、山口直毅が外国事務総裁、榎本武揚が海軍副総裁などである。そして、慶喜は2月12日には、江戸城を出て、上野東叡山寛永寺大慈院に移り、絶対恭順の姿勢を明確にしたのであった。この頃から、旧幕府兵の江戸脱走が相次ぐようになる。
 これより前の2月初め、慶喜は新政府から朝譴を受けた24名に登城を禁じ、府外への立ち退きを命じている。その中には、天保山からの「東帰」を共にした会津藩主松平容保
(かたもり)や桑名藩主松平定敬(さだあき)の兄弟も含まれていた。
 松平容保と会津藩士は、2月16日に江戸を出立し、22日には会津にもどっている。彼らは、江戸を出る時に、城内の武器を一部ひそかに持ち出している。
 松平定敬一行の約100名は、3月16日に横浜港を出航し、4月8日に越後の柏崎に着いている。桑名本藩はすでに維新政府に帰順するという藩論が決まっており、定敬らは戻れなかったのである。従って、外国汽船を雇い入れ、箱館を経て、桑名藩飛び地(約10万石)のある柏崎に向かったのである。この定敬らの乗った外国船には、故意か否かははっきりしないが、長岡藩家老河合継之助一行も乗船し、ともに越後に戻っている。

   (2)慶喜追討令・会津征討令に対する奥羽諸藩の対応

 旧幕府側のこのような動きに対して、新政府はすでに1868(慶応4)年1月7日に、以下のような慶喜追討令を下す。

徳川慶喜天下の形勢(けいせい)已(や)むを得ざるを察し、大政返上、将軍職御辞退(じたい)相願(あいねが)ひ候に付き、朝儀の上、断然聞し召され候処(そうろうところ)、ただ大政返上と申すのみにて、朝廷に於て土地・人民御保ち遊ばされず候ては、御聖業立たせられず候に付き、尾・越二藩を以て、その実効御訊問(ごじんもん)遊ばせられ候節、慶喜に於ては畏(かしこ)み入り奉り候えども、麾下(きか)ならびに会・桑の者ども承服(しょうふく)仕らず、万一暴挙仕るべきやも計り難く候に付き、ひたすら鎮撫に尽力仕(つかまつ)り居り候旨、尾・越より言上(ごんじょう)に及び候間(あいだ)、朝廷には慶喜真に恭順を尽くし候様(そうろうよう)思し召され、既往の罪問わせられず、寛大の御処置仰せ付けらるべく候処、豈(あに)図らん、大坂城へ引き取り候は素(もと)よりの詐謀(さぼう)にて、去る三日麾下の者を引率し、あまつさえ前に御暇(おいとま)遣(つかわ)され候(そうろう)会・桑を先鋒とし、闕下(けっか *御所)を犯し奉り候(そうろう)勢(いきお)ひ、現在彼より兵端を開き候上は、慶喜反状(犯状)明白、終始朝廷を欺(あざむ)き候段、大逆無道、最早(もはや)朝廷に於て御宥恕(ごゆうじょ *寛大な心でお許しなさること)の道も絶え果て、已むを得させられず、追討仰せ付けられ候......               (保谷徹著『戊辰戦争』P.82~83より重引)
                

 追討令は、鳥羽伏見の戦争を慶喜の方から仕掛けたというが、それは一方的な見方である。薩摩藩の戦争に持ち込む意図はありありしたものであるが、客観的にみれば偶発的な面が強いものであった。にもかかわらず、追討令は一方的に慶喜側から戦争を仕掛けたと断定し、慶喜追討を命じたのである。
 1月15日には、在京奥羽諸藩に対して次のような命令が出される。「徳川慶喜叛逆(反逆)ニ付キ追討のため、近日、官軍を東海・東山・北陸三道より進発せしむるべき旨(むね)仰せ出だされ候。附(つい)テハ奥羽ノ諸藩宜(よろ)しく尊王の大義を知り、相ともに六師(りくし *天子の軍)征討の勢(軍勢)を謀る旨(むね)御沙汰の事」(『仙台戊辰史』二 P.256)と。奥羽諸藩は南下して、征討軍を援助し共に江戸を挟撃せよ!―ということである。この達しは、奥羽の各藩重役のもとに渡された。
 つづいて、新政府は1月17日、仙台藩主伊達慶邦(よしくに)へ家老但木(ただき)土佐を通じて、次のような会津征討の朝命を下した。

会津容保(かたもり)、このたび徳川慶喜ノ反謀ニ與(くみ)シ、錦旗ニ発砲シ大逆無道。〔すでに〕征伐軍を発せられ候間、其ノ藩(*仙台藩のこと)一手ヲ以テ〔*他藩をまじえず仙台藩のみで〕本城ヲ襲撃スベキノ趣(おもむき)願いを出し、武の道を失わず奮発ノ條(じょう)神妙の至り、満足ニ思し召され候。これに依(よ)り願いの通り〔征討を〕仰せ付けられ候間、速(すみやか)ニ追討の功を奏すべき旨(むね)御沙汰候事
                     (『仙台戊辰史』二 P.257)

 これには、家老但木は驚く。会津征討を仙台藩が自ら勝手出るとは、全くの虚偽であるからである。但木の強烈な抗議で勅命は撤回され、「(仙台藩)願い出」の部分が削除され、改めて1月20日、会津征討の命令が伝えられた。しかし、仙台藩は会津征討に疑問を持ちつづける。仙台藩は、平和的な交渉により解決できる筈(はず)だというのである。
 にもかかわらず、新政府は1月24日、重ねて仙台藩に会津征討の命令を出す。とともに、1月26日、「今後、会津本城襲撃仰せ付けれら候ニ付き、上杉弾正大弼(斉憲 *米沢藩主)佐竹京太夫(義堯〔よしたか〕 *秋田藩主)南部美濃守(利剛〔としひさ〕 *盛岡藩)等(とう)応援仰せ付けられ候間、此段(このだん)相達(あいたっ)し候事」(同前 P.260)と、奥羽の雄藩などに共同作戦をとるように命令が下された。
 しかし、本音のところ、奥羽諸藩にとって新政府や薩長とともに会津を討つ気持ちがおこらない。必然性がないのである。その背景には、奥羽諸藩の置かれた歴史的位置があった。
 まず第一は、身近な例でいうと、天明の大飢饉(1781~88年)につづく、天保年間の「七年飢渇(けかち)」といわれる連年(1830~36年)の凶作・飢饉である。全国的な飢饉であったが、とくに奥羽地方がもっとも甚だしく、死者は10万人に及んだといわれる。飢えた民は、冬を迎えて他領に逃げ出すが、途中で力つきて餓死するものが続出(津軽・秋田藩境)したり、逃げられたとしてもその地(秋田)も食糧難で、わずかなカユと路銀で送り返されたりしている。
 第二は、半世紀にも及ぶ蝦夷地警備に動員され、それは経費や農民などの徴用で、藩の財政ひっ迫にはねかえった。異国船の来航は、北の海でも1830~63年と激しくなる。「嘉永三年(一八五〇)、異国船が来ても『通過するだけなら、いちいち飛脚を発(た)てなくてもよい。月の一と一六の両日、半月報にして一括報告せよ』と幕府の指示が改められている。この年三月四日から七月四日までの四カ月間に三七~三八隻通過したという。/異国船の接近によって、弘前、盛岡藩は毎年二百人ないし三百人の将兵を渡海させて警備につかせている(*対ロシアで)。それがほぼ五〇年もの長い間である。その後、仙台・庄内・会津の各藩まで動員された。/その費用はすべて各藩の負担である。費用のはね返りは御用金、年貢として町人と農民にかぶせられた。『松前御用これあり』といって二万両、三万両という大金が領内財閥に割り当てられた。金持ちたちは、その割り合い決定で凄まじい争論をかわした。....../寛政九年(一七九七)年一〇月、弘前藩から一個大隊五百人が大砲一三門、鉄砲四〇丁をもって出かけた。五百人というのうは将兵だけで、このほかに、武士たちは従卒、あるいは傭夫として農民を連れてゆくことが許された。二百石取りの者は四人、百石取りは二人、五〇石から二〇石までは一人である。......当然、農耕は労働不足となる。/もう一つは、こうした各藩の派遣部隊が通過する沿道村民の負担である。労務や牛馬の提供、食糧の調達、宿舎の手配などに悩まされた。派遣部隊だけではない。幕府の役人が往来すれば、その同行者部隊の世話もみなければならない。」(尾崎竹四郎著『東北の明治維新』サイマル出版会 一九九五年 P.51~52)のである。(蝦夷地警備について詳しくは、拙稿『幕府の北方政策』〈労働者共産党ホームページに掲載〉を参照)
 新政府は、会津追討の軍令を下した後の2月8日、仙台の伊達慶邦を奥州の触頭(ふれがしら)に、秋田の佐竹義堯を羽州の触頭にそれぞれ任命した。こうして、この2藩に新政府と奥羽諸藩との間の連絡と、命令下達の責任をもたせたのである。
 秋田藩は早速、2月16~17日にかけて、奥羽諸藩に使節を派遣し、勤王を勧め、新政府に加担するように説得した。秋田藩は、奥羽諸藩の中でも最も朝廷・公卿筋に近かった藩の一つと言える。それは、秋田出身の平田篤胤(あつたね)とその後継者・銕胤(かねたね)―延胤(のぶたね)などの国学、それに基づく尊王攘夷思想が京都の公卿に浸透していたためである。実際活動に入っていた延胤などは、藩主・佐竹義堯に勤王加担を具申している。また平田国学は、藩内にも影響を与え、藩士の中にも門人は少なくなかった。
 しかし、状況が流動的な当時、諸藩の態度は思わしいものではなかった。唯一、秋田藩の使者を鄭重なもてなしをしたのは、弘前藩だけであった。それは300年来の旧敵1)である盛岡藩が左手方向にいる関係で、右手方向の隣藩・秋田藩との伝統的な協調外交を保持するという目的であり、決して勤皇を主目的としたものではなかった。

注1)1590(天正18)年夏、豊臣秀吉は北条氏を滅ぼす小田原攻めを行なう。この時、南部信直はこれに参戦し、秀吉から「南部内七郡」の本領安堵を受けた。だが、小田原攻めに参戦しなかった葛西・大崎・和賀・稗貫(ひえぬき)など諸氏の所領は、没収された。これには、不満の諸氏が各地で反乱した。この時の反乱に乗じて、九戸政実も兵を起こした。政実は、南部家二六代の継承問題で、信直と対立していた人物である。1591(天正19)年8月、秀吉は蒲生氏郷、浅野長政など6万余の大軍を差し向け、九戸政実の乱を鎮圧した。だが、信直は政実だけでなく、津軽を根拠とした津軽為信とも対立していた。津軽は南北朝の時代から南部氏から、繰り返し独立しようとしていた。為信は信直が領内の反乱を鎮圧しているすきに、南部氏から離反し、津軽一円を手中に収めた。そして、いち早く秀吉に取り入り津軽郡の安堵をかち取った。これ以来、南部氏は津軽氏を仇敵視する関係が続いた。

    〈仙台藩の疑問と追究〉
 他方、仙台藩は、秋田藩とは異なった対応をとる。会津藩の謝罪を受け入れ、薩長の行き過ぎをとがめる建白書を新政府に提出しようと、2月11日に、使者・大条(おおえだ)孫三郎を京都に送り出している。大条が京都に着いたのは、2月26日である。
 仙台藩主・伊達慶邦の太政官あての建白書(「奥羽同盟始末」―『米沢市史資料』第五号 P.16~18)は、まず、会津征討の勅名を拝受すると建前を述べ、その上で次のような5点にわたる論点を問いただす。その要旨は以下のようなものである。

一、 鳥羽、伏見の戦端は、「先手ノ者関門え差し掛かり候節、俄ニ薩藩勢ヨリ砲発ニ及び止(や)むを得ず争闘ニ至り候由(そうろうよし)ニこれ有り、如何(いか)ニモ倉卒(そうそつ *あわただしい)紛擾(ふんじょう *争いでもめること)の間(ま)発砲、孰(いずれ)カ先・孰カ後(あと)分明相弁(わきま)えず風唱モこれ有り、臣慶邦〔*太政官の〕御沙汰の趣(おもむき)ヲ疑い奉り、慶喜〔処分の〕布告の旨(むね)ヲ信じ候ニハ曽(かつ)テ御座(ござ)無く候得共(そうらへども)、発砲前後判然(はんぜん)相弁えざるヨリ人心一定仕らざる一条ニ御座候」。
二、 徳川祖先は戦国の禍乱(からん *わざわい)を平定し、さらに歴代偃武(えんぶ *太平の世)修文(*学芸を修めること)、もって国内を治め、その間二百数十年、これらの功業は没しさるわけには参らぬと思います。ところが「武威漸く不振、遂に嘉永癸丑(六年・一八五三)以来、外夷陸続(りくぞく)紛(まぎ)れ・人心騒然に至る。其間(そのかん)ニハ慶喜の所置(しょち)失態不当、宜しきを得ず、少なからずニモこれ有り候得共、今日ニ至り、既ニ政令帰一(せいれいきいつ)公明正大ノ旨ヲ以て皇国ヲ安んじ奉り深衷(*心の奥底)ヨリ政権ヲ朝廷ニ帰し奉り候上ハ、又(また)何事ヲ企望仕り〔*また何ごとかをたくらみ〕朝廷に背(そむ)き奉るべき哉(や)ト人心の疑惑十ニ八、九これ有り、是(これ)人心一定仕らざる二条ニ御座候」。
三、 「方今(ほうこん)王政復古・紀綱(きこう *国家の決まり)一新・万民括目(かつもく *よく注意して見ること)の聖運(*天子の運がむく)に当せられ、継天立極(*高天が原の命を継ぎ最上の地位につく)万世無窮の御大業を建てせられ、民を視(み)ること赤子のごとく、民の朝廷を仰ぎ奉るみること亦(また)父母のごとく、一人としてその所を得ざる者ナキヲ欽慕(きんぼ *敬って慕うこと)奉り候(そうろう)折柄(おりがら)、一朝海内の兵ヲ動かさせられ、無辜(むこ *何の罪も無い)の万民水火塗炭(とたん)の苦しみニ陥り候段、憐(あわれ)むべき、悲しむべきの至り、必ず〔*まさか〕幼帝の聖慮(*お考え)ニ出でせらるニハこれ有るまじきト人心ノ疑惑十ニ八、九ハこれ有るべし、是(これ)人心一定仕らざる三条ニ御座候」。
四、慶喜はすでに隠退し、ひたすら恭順のことと聞き及んでいます。ところで、先年、毛利大膳大夫の家来ども(長州兵)闕下(けっか *御所)において発砲したこと(蛤御門の変)があります。あのときは一時、卒爾(そつじ *突然のさま)の誤り。ただし誤りとは申せ、やはり宮闕(きゅうけつ)に向かっての発砲ゆえ、朝敵の汚名をきせられました。けれども天子に刃向うものでないという「真情実意〔が〕明白相顕(あいあらわ)レ候上ハ寛大の御仁恕(じんじょ *あわれみ深く思いやりがる)ヲ以て、〔いまは〕官位復古・入京御免と成り下され候(そうろう)御儀(おんぎ)、慶喜迚(とて)モ一旦(いったん)祖先の大功ヲ棄(す)てせられ、徒ニ発砲ノ先後ヲ以て叛名ヲ(*朝敵か否かを)定められ候テハ、諸藩の心服ハ勿論(もちろん)下々(しもじも)賤民ニ至るまで感服ハ仕りまじくト人心ノ疑惑十ニ八、九はこれ有り、是(これ)人心一定仕らざる四条ニ御座候」。
五、「外夷(*外国を指しての差別語)御交通の儀(ぎ)追々(おいおい)御多端ニ成らせられ、当今既ニ十余国ニモ相及び、当(まさに)此時(このとき)一旦天下の兵ヲ動(うごか)シ、四海鼎沸(ていふつ *天下の乱れ)ノ勢いニ至り候得ハ、彼等ト雖(いえど)も必ず坐して傍観ハ仕りまじく、各国帝王ノ指揮ヲ受け如何(いか)ナル挙動ニ及ぶカモ計り難(がた)く、然ル時ハ御国辱ヲ宇内(うだい)万民ニ流せられ候姿ニモ相成り、人心ノ疑惑のみナラス寒心(かんしん *恐れてぞっとすること)杞憂(きゆう)痛哭(つうこく)仕り候者(もの)亦(また)十ニ八、九ハこれ有るべし、是(これ)人心一定仕らざる五条ニ御座候」。

 そして、建白書は結論的に、「彼是(かれこれ)ヲ以て深思熟考仕り候ニ、朝廷ヨリ出師(すいし *軍隊を出すこと)追討の儀(ぎ)暫く御容舎(御容赦)在(あ)らせられ、慶喜等御譴責の儀(ぎ)広ク諸藩の論定ヲ尽せられ、天下ト共ニ正大明白・無偏無党ノ公論ニ帰し候御所置在らせられ候者ハ(そうらへば)、必シモ六師(*天子の軍隊)労(つから)せず、彼より服従仕るト、此段(このだん)密(ひそか)ニ懇願企望候。」と、天下公論で決すれば戦とはならないとする。もしそうでなければ、諸藩の向背もどうなるかわからず、天下大乱となるであろう―と警告するのであった。
 仙台藩の主張は、鳥羽・伏見での行動を以て、慶喜を「朝敵」とすることは公明正大ではないこと、そんなことで天下の兵を動かすことは万民を苦しめ外国の介入を招く恐れがある―として、再考を促すものである。
 しかし、東征大総督有栖川宮をいただく総督府の軍は、すでに東海道を江戸にむけて出発した後だった。仙台藩の在京家老三好監物は、藩主の建白書を握りつぶす。三好なりの判断で、建白書がのちのち仙台藩にとって不利になる、と考えたからである。(後に三好の専断を聞いた伊達慶邦はひどく立腹し、4月6日、静岡に滞陣していた有栖川宮に再びこの建白書を提出した。しかし、これは直ちに却下された。)
 仙台藩の奥羽諸藩を説得する内容は、この建白書の考え方に基づく。しかし、実際にはもっとより露骨であったと思われる。仙台藩の使者が弘前藩を説得した時の内容が、『津軽承昭公伝』では、次のように記されている。

朝廷はご承知の通りわが藩(*仙台藩のこと)に討会命令を下達した。朝命はもとより重大である。速やかに命を奉ずるのは当然である。だが、つらつら考えるに、この朝命ははたして新帝の方寸(ほうすん *心の中)から出たものかどうか、新帝の意図するものと食い違いがあって、朝命を奉ずること即ち勤王と思うわれわれが、思わず、知らず、勤王にあらざる道を進んでいることがありそうに思われる。この辺は気をつけなければならない。
いま強暴をたくましくする賊徒の一群がある。これが錦旗を奪って罪なき藩を討ち、私怨を晴らそうとしている。名は王師でも、その実は朝意を曲げ、威力をほしいままにしようという私闘といってよい。朝廷はわずか一六歳という幼帝を擁し、諸藩は、単に強藩のいうがままである。わが藩が使臣を派遣して各藩と謀議しようというのも、罪なき藩を救って、その無実の罪を明らかにしなければならぬと思うからである。してまた、無辜(むこ)の人民の平和を保たなければならない。もって王道の臣ならざる強藩をして謝罪させなければならぬ。ことは強弱大小ではない。正邪曲直の問題である。したがって、いま一時朝命なるものに違(たが)うことありとしても、内に省みていささかもやましいことはない。後日、必ず天下の公論はわれわれを支持するであろう。真の勤王とはこのことではなかろうか。そのゆえに、列藩心を同じくして連署し、事情をくわしく述べ、奥羽鎮撫総督ではなく、有栖川大総督宮に請願しようと思うのである。朝廷はもともと寛大なるものと知る。たとえ、会庄(*会津・庄内)の二藩名義を誤るところがあったとしても、いったん悔悟(かいご)して謝罪するというのであれば、征討軍を撤退解散してもよいという特旨が必ずあるであろう。

 奥羽諸藩が、飢饉や蝦夷地警備で財政が窮迫し、避戦に傾くのはよく理解できるものである。しかし、ここで言うように、会津・庄内両藩が謝罪するのであれば「征討軍を撤退解散してもよい」とし、ことは「正邪曲直の問題」とする捉え方は、財政窮迫の問題と比べ、質的にはより積極的な態度である。ことなかれ主義で対処すべき問題で済ますことができなかったのである。

   (3)奥羽鎮撫総督の任命と一行の仙台入り

 2月6日、新政府は東海・東山・北陸三道の鎮撫総督を先鋒総督兼鎮撫使と名称を改め、それらを新設される東征大総督の指揮下に置いた。同月9日、東征大総督は有栖川宮熾仁(たるひと)親王が就き、参謀には参与の正親町公董・西小辻公業と広沢真臣(長州)を任命した(広沢は後に辞任し、それに代わり西郷隆盛〔薩摩〕と林玖十郎〔宇和島〕が参謀となった)。
 奥羽鎮撫総督とその配下のスタッフが最終的に決定したのは、3月1日であった。はじめは、2月9日、奥羽鎮撫総督に沢為量(のぶよし 公卿)、副総督に醍醐忠敬(公卿)が任命され、11日には品川弥二郎(長州藩)が参謀となった。ところが、2月26日には、総督を五摂家の一つで左大臣の九条道孝(29歳)にかえた。沢(50歳)と醍醐(19歳)は、それぞれ副総督と参謀に格下げとなった。同じ頃に、黒田清隆(薩摩)も参謀に任じられた。だが、部隊編成に異論が生じ、2月30日になって、黒田に代わって大山格之助(綱良)が、品川に変わって世良修蔵が参謀となっている。この理由については、詳細は明らかではない。しかし、当時、新政府内部でも会津征伐方針に異論があり、穏健派(寛典処分派)と強硬派(武力討伐処分派)が存在していたことは事実である。ましてや会津藩の近くにある東北諸藩が、穏便な処置を願ったのは当然のことである。
 だが、東征大総督府は、強硬な方針であった。「沢総督府発足当時、会津・庄内両藩の措置に着いて大総督府に照会したところ『会津は実々死謝を以ての外に之(こ)れなく......酒井(注・庄内)に於(おい)ては松山(注・備中)高松同様の御取計(とりはからい)(注・いずれも抵抗せず寛典をうけた)に然(しか)るべし』との回答をうけた。この方針は九条総督に代わっても検討し直されることなく、現地軍はそのまま厳守していた。」(金子常規著『兵乱の維新史(1)』原書房 10980年 P.91)といわれる。
 1868(慶応4)年3月2日、奥羽鎮撫使一行は京都を出立し、同月11日には、仙台松島へ向けて、大坂天保山冲を出航する。4隻の船に分乗した鎮撫軍の兵力は、天童藩(山形)100人、薩摩藩103人、筑前藩158人、長州藩106人、仙台藩100人であり、これら藩兵が計567人である。このほかには、九条総督の家臣塩小路光浮以下の従者と沢副総督の手兵が合わせて100数十人である。
 一行は、3月18日、風雨が強く、寒い日に、松島湾入り口の寒風沢(さむさわ)に着き、翌日、松島湾の東名浜(とうなはま *桃生郡野蒜〔のびる〕)に上陸した。この日、鎮撫軍は、東名浜に停泊していた江戸の商船を幕府の御用船であろうと決めつけた上で襲い、積み荷の砂糖や瀬戸物(陶磁器)を没収して各隊に分配し、余った分は仙台市中で押し売りした。
 3月23日、鎮撫軍一行はようやく仙台に入り、藩校養賢堂を本陣とした。
 この日、たまたま仙台に来ていた米沢藩の使者が、養賢堂に世良参謀を訪ね、会津藩の「降伏謝罪」を許すように懇願した。すると世良は、「貴藩は会津征討に異議ありと申されるか。異議あらば、会津と同罪である。われらはただちに本営を米沢に移して、貴藩攻撃の指揮をとるとしよう。まずは、至急米沢へ帰り、兵器弾薬を準備するがよい。貴藩の運命は勅命一本で、どうにでもしてみせよう。」(尾崎竹四郎著『東北の明治維新』P.85)と言い放ったという。まさに傲慢無礼の態度そのものであった。会津問題については、「けんもほろろ」で、全くとりつくひまもなかった。
 世良たちのこのような傲慢な態度は、鎮撫軍の「小者従卒」にまで染みわたり、仙台藩士をからかったり、住民をいじめたりしたと言われる。
 世良ら鎮撫使は、仙台藩に対し、会津藩攻撃を何回も催促する。しかし、仙台藩はなかなか腰をあげなかった。それには、訳がある。裏では、会津藩と庄内藩、仙台藩と米沢藩、会津藩と仙台・米沢藩などとの交渉が断続的に続けられていたからである。

Ⅱ 仙台・米沢藩の会津救済

   (1)仙台・米沢藩の調停工作

 1868(慶応4)年2月いらい、「武備恭順」を唱える会津藩は、仙台藩や米沢藩との会談を重ねる。
 「奥羽同盟始末」(『米沢市史資料』第五号)によると、会津藩の要請は、以下のようになされている。すなわち、「二月二日容保(かたもり *会津藩主・松平容保)ノ男(むすこ)松平喜徳(よしのり)使いヲ米沢ニ遣(つか)ハシ雪冤(せつせん *無実を明らかにし身の潔白を示すこと)ニ尽力セラレンコトヲ哀請(あいせい *憐れんで請うこと)ス。初(はじ)メ容保・忠篤(*庄内藩主・酒井忠篤)等ノ国ニ就カントスルヤ相約(あいやく)して曰(いは)く『生死存亡ヲ共ニセン』ト。容保因(よ)って援ヲ米沢ニ請(こ)ハントシ、忠篤ヲシテ援ヲ仙台ニ請ハシム。忠篤乃(すなは)チ道ヲ迂(まがり)シ親シク仙台ニ到リ慶邦ニ面請ス。慶邦許諾ス。上杉斉憲、喜徳ノ請(こひ)ヲ容(い)ルルヤ、参政木滑政愿(伊?)ニ手書ヲ授ケ慶邦ノ意ヲ諮詢(しじゅん *他の機関の意思を参考として問い求めること)セシム。会(たまた)マ慶邦亦(また)側目付安田竹之介・儒者玉虫左太夫ヲ遣ハシ、時事ヲ建白セルコトヲ報シ、且(か)ツ同心協力以テ会津ノ罪ヲ寛(ゆるやか)ニシ、以テ奥羽二州ノ兵乱ヲ停(と)メンコトヲ謀(はか)ル。是(ここ)ニ於テ仙米二藩ノ議、期セスシテ吻合(ふんごう *ピッタリ合うこと)ス。二藩大ニ喜フ。」(P.15~16)事態となる。

 奥羽鎮撫使が仙台に到着する直前の3月16日には、仙台藩は鎮撫使が来たら会津藩の「恭順の嘆願」を周旋しようと米沢藩に申し入れ、同藩もこれを承諾している。3月26日の会談では、仙台・米沢両藩は会津藩に対し、大意次のように述べている。
 すなわち、「京師で周旋を尽くそうと思っていたが、鎮撫使が仙台に到着してしまい、しかも討伐の命が厳しい。しかし近頃諸藩の公論は、恭順謝罪している者を討つのは、公平な処置でないといっている。だから恭順の実を示し、たとえ『厳責(げんせき *厳しく責めること)堪(た)ユベカラザルコト』があっても忍び耐(た)えて、決して『忽憤(こっぷん *にわかに怒ること)ノ挙』があってはならない。もし『妄動』があったなら周旋の労をとらない。/これに対し、翌日仙米(*仙台・米沢藩)二使は、会津若松城中によばれ、藩主容保父子同座のうえで、『周旋御救助』を懇願された。」(佐々木克著『戊辰戦争』P.77)といわれる。
 会津藩の要請に対し、仙台・米沢両藩は協調して会津救助の活動を推進するのであったが、他方、鎮撫使からの会津出兵の催促は強硬であった。そこで、時間稼ぎを含め、仙台藩は3月27日、ようやく重い腰をあげ、会津藩境に1000余人の将兵を送る。4月11日には、藩主伊達慶邦が自ら兵5000余人を率いて出陣した。しかし、それは擬装出兵であり、鎮撫使の目をくらますものであった。
 奥羽鎮撫総督府の会津出兵の催促の繰り返しと仙台・米沢藩などの調停工作が交差する中で、3月29日、庄内藩が行動を起こした。出羽村山郡の寒河江(さがえ)・柴橋両陣屋を接収し、保管されていた米2万3千俵余りを自領に移送したのである。
 寒河江・柴橋(7万5千石)は、もともと幕府領であったが、2月に慶喜より庄内藩へ預け地として渡されたものである。それは、庄内藩の江戸市中取り締りの慰労と、配下の新徴組の扶持分として預けられたのである。米2万3千俵は前年の年貢分であり、庄内藩の行動にやましいものはない。
 しかし、庄内藩征討の口実を探していた奥羽鎮撫総督府にとっては、好機となった。「羽州荘内(庄内)賊徒、柴橋郡庁を掠(かす)め」と決めつけ、3月30日、総督府は、仙台藩と天童藩に出兵を命じ、さらに応援として薩摩・長州・筑前の各藩兵を進撃させることとした。4月2日には、鎮撫総督・九条道孝は、出羽矢島藩に庄内藩征討の嚮導を申し付け、6日には、秋田藩に庄内藩征討を命じ、津軽藩には秋田藩への応援を命じた。そして、4月10日には、庄内藩征討のため、副総督・沢為量の庄内表への出馬を公表した。

    〈奥羽鎮撫総督府が庄内藩征討を決す〉
 しかし、庄内藩征討の主力を命じられた秋田藩は、3カ条の質問を総督府に提出した。それは、①庄内藩討伐の理由は何か、②庄内藩降伏の際にはどのような処置をとるか、③会津藩征討と庄内藩征討との関係はどのようになるのか―の3点である。
 これに対する総督府の回答は、次のようなものである。②には、「開城して降伏した時のみ赦免する」、③には、「会津征討の応援は要らない」―である。①に対しては、「徳川慶喜が天朝に対して暴発叛虐を働き、関東へ遁れ落ちたあと、庄内藩はなお回復を主張した。あまつさえ、旧冬関東見廻役の節、故(ゆえ)なく嫌疑を以て、諸藩邸内へ砲撃し、焼払ったこと」である。眼目は、1867(慶応3)年末の薩摩藩邸砲撃の件である。薩摩の江戸かく乱活動に対する報復である。まさに「私闘」そのものを、庄内藩征討の理由としたのである。
 庄内藩征討を決した奥羽鎮撫総督府は、沢副総督を庄内征討の主将とし、4月14日、仙台領岩沼から羽州に向かって出発させた。沢副総督、大山格之助参謀に従がうのは、薩摩兵1小隊、桂太郎を隊長とする長州兵1中隊など200弱で、先導役は天童藩の重臣吉田大八であった。
 4月18日には、山形・上山(かみのやま)両藩に、庄内藩征討の応援の出兵を命じ、同月23日、天童から新庄に移り、ここを鎮撫総督軍の本拠とした。
 一方、庄内藩は鎮撫総督軍の迫ってきているのを察知し、4月19日には全藩に動員令を下し、万全の態勢で待ち構えていた。
 4月24日、庄内藩領の清川(最上川沿いで、酒田港から直線で20数キロ遡上した地点)で、戦闘が勃発する。戦いは、当初、総督軍が有利だったが、後には庄内藩が巻き返し、ほぼ五分五分で終わる。
 4月25日、総督軍は本拠の新庄へ引き上げる。だが、庄内軍は出羽村山郡に進出し、寒河江・柴橋を奪還するとともに、村山地方(旧幕府直轄領・旗本領・小藩領が入り組んでいる)に点在する小藩群を牽制し、総督軍に圧力をかけた。
 4月26~28日に、寒河江に合流した庄内藩諸部隊は、閏4月4日明け方、濃霧の中を最上川を舟でさかのぼり、最上川東岸の総督府側連合軍に攻撃をかけ、打ち負かした。勢いに乗った庄内軍は天童を目指して進撃する。天童藩主織田信学(のぶみち)とその家族は陣屋を出て、仙台領に逃(のが)れた。天童を破壊した庄内軍は、今度は北上して副総督がいる新庄を攻めようとした。そこへ鶴岡より庄内藩主の使者が到着し、天童攻略は行き過ぎであるとして、直ちに領内に帰還することを厳命した。
 
   (2)繰り返される仙台・米沢藩と会津藩との交渉

 庄内藩と鎮撫総督軍・諸藩との戦争が開始される以前の4月、仙台・米沢両藩は、会津藩との間で「謝罪条件」につての厳しい交渉を行なっている。その前提には、新政府側は容保の「死謝」を譲らず、会津藩側も「武備恭順」の立場から理不尽な処罰に抵抗する―という状況があった。
 会津藩は仙台・米沢藩と交渉する他方で、みずからと似たような立場におかれた庄内藩との軍事同盟の交渉も進めていた。慶喜が江戸を留守にし京都に上っている間、庄内藩は江戸の治安を任され、1867(慶応3)年末の薩摩藩邸・砂土原藩邸攻撃は幕命により、庄内藩が先頭にたって砲撃し焼き落としている。
 4月10日には、庄内藩と会津藩との間で、密約同盟が交わされている。『復古記』によると、同盟による展望は次のようなものである。
 すなわち、"会津・庄内が一致して米沢藩を説得する。米沢藩(*上杉氏)が同盟に加われば、仙台もただちに同盟するだろう。仙・米・会・庄の四藩の同盟が成ったら、奥羽諸藩は一言にして同盟するにちがいない。そこで速やかに兵を出し、江戸城を軍議本営として、諸藩の兵を合せて凶徒を掃(はら)い、君側を清める。"というものである。
 これは反薩長列藩同盟であり、後に実現するものであるが、庄内藩中枢が前から温めていた構想だと言われる。
 仙台・米沢藩は、会津藩との間で、4月7日から下旬にかけて、「謝罪条件」について必死にまとめようと交渉した。両藩が考えた「謝罪条件」は、①若松城開城で罪を謝し、②削封で罰を奉じ、③事を誤る重臣の首級三つを以て赦(ゆる)しを請う―ものであった。
 4月19日の会談(16日から二本松藩も交渉参加)には、会津の梶原平馬・山川大蔵など重臣5名が来て、「削封なら藩論をまとめられるだろうが、開城にはどのような混乱が起こるかわからない」と、述べている。20日には、米沢藩が削封のみでは、鎮撫使がとても納得しないだろう、開城は必須の条件であると表明する。21日も、米沢藩と会津藩との交渉が詰められ、ついに会津側は、夜になってようやく「藩主容保が城外に引き取って謹慎、それに削封、の二事で謝罪とし、その二条件で鎮撫使に周旋してもらいたいと願った。開城とまではいかないが、藩主が城外に出るのだから、準開城と解釈して、米沢藩も妥協した。」(佐々木克著『戊辰戦争』P.80)という。この条件は、閏4月1日、米沢・仙台・会津の三藩代表の会議で確認された。(しかし、この条件に関しては、奥羽鎮撫総督府の下参謀〔世良修蔵・大山格之助〕は「喜ハス」と、「奥羽同盟始末」は記している)

Ⅲ 「東国政権」樹立へ

   (1)奥羽列藩同盟の結成

 閏4月4日、米沢藩家老竹股美作・同千坂太郎左衛門、仙台藩家老但木土佐・同坂(さか)英力の4家老の連名で、東北諸藩に廻状がとばされた。それには、「会津藩降伏謝罪の嘆願申出(もうしで)あるに付(つき)、評議致したく、ついては重臣を白石陣所まで出張されたし」とある。列藩会議の招請状である。
 閏4月11日、仙台藩と米沢藩が中心となった白石列藩会議が開かれた。会議には、仙台・米沢・二本松・湯長谷(ゆながや)・棚倉・亀田・中村・山形・福島・上ノ山(かみのやま)・一ノ関・矢島・盛岡・三春―の14藩代表33名が出席した。
 会議は、仙台藩家老但木(ただき)からの、次のような発言で始まった。会津藩から嘆願の周旋依頼が仙台・米沢両藩にあったこと、それに基づいて鎮撫総督へ嘆願書を差出したいこと、よって、各藩の意見を伺(うかが)いたいこと、もし異論がないならば早速嘆願書を差出し、謝罪嘆願の周旋に移りたい―などである。
 嘆願書はすでに仙台・米沢両藩によって作成されており、説明役から細かな解説があり、質疑応答のうえ、各藩からは異論はなかった。
 これにより、会津藩家老名による「嘆願書」、仙台・米沢両藩主連名での「会津藩寛典処分嘆願書」、それに重臣会議の結果、連名加判がなった会津藩寛典処分を求める「諸藩重臣副嘆願書」の3通が鎮撫総督に提出された。
 まず会津藩家老名による「歎願書」は、以下の通りである。

幣藩の儀ハ山谷の間ニ僻居(へききょ *田舎住まい)罷り在り、風気(*風俗、気風)陋劣(ろうれつ *卑しくきたないこと)・人心頑頑(がんがん *非常に頑な)にして旧習に泥(なず)ミ〔*旧い習慣にこだわる〕世変(*世間の変化)ニ暗き土俗(*土地の風俗)ニ御座候処(そうろうところ)、老寡君(ろうかくん)京都守護の職(しょく)申し付けられ候。以来(いらい)及ばず乍(なが)ら、天朝尊崇(そんすう)宸襟(しんきん *天子の心)を安んじ奉りたく一途の存念より他事これ無く、紛骨(粉骨)砕身罷り在り、万端不行届(ふゆきとど)きの儀ニハ候得共(そうらへども)、朝廷の御垂憐(すいれん *憐れみを受けること)を蒙(こうむ)り何(いず)れか奉職仕り居り、臣子の冥加(みょうが *幸運)此上(このうえ)無く有り難く存じ奉り、鴻恩(こうおん *大いなる恵み)万分の一も報(むく)い奉りたく、闔国(こうこく *全藩)奮励(ふんれい)罷(まか)り在り、朝廷に対し奉り御後闇(安)躰〔*後々の安泰〕の心事(しんじ *心に思う事柄)神人(しんじん *神の様に気高い人)ニ誓ひ〔*叛逆など〕毛頭(もうとう)御座無く、伏見の一挙の儀は事(こと)率然(そつぜん *突然)ニ発し、已(や)むを得ざるの次第柄(がら)ニて是亦(これまた)異心等これ有る儀ニハ毛頭これ無く候得共(そうらへども)、一旦天朝驚き奉り候段(そうろうだん)恐れ入り候次第ニ付き、帰邑(*領国に帰ること)の上(うえ)退隠(*隠居)謹慎罷り在り候処、此度(このたび)鎮撫使御東下(*東国に下ること)、両藩(*仙台と米沢)へ征討の命(めい)相下(あいくだ)り候由(そうろうよし)承知(しょうち)仕り愕然(がくぜん)の至り、斯迄(かくまで)宸襟を悩まし奉る儀何とも申し上げるべき様(よう)御座(ござ)無く、此上(このうえ)城中ニ安居(あんきょ)仕り候てハ恐れ入り奉り候ニ付き城外ニ屏居(へいきょ *隠退すること)罷り在り、御沙汰待ち奉り成し下されたく、家臣挙げて歎願奉り候。
右の段々幾重(いくえ)にも厚く御汲み量(はか)り下され、宜しく御執成の程(ほど)深く懇願奉り候。以上。
   慶応四年(*1868年)閏四月       会津藩家老
                             西郷頼母近真(花押)
                             梶原平馬景賢(花押)
                             一瀬要人重義(花押)

 ここでは、天朝への反逆の意志は毛頭もなく、伏見の一件は突然の(偶発の)ことで「已むを得ざるの次第」と弁解し、藩主は天朝を驚かせた責任を感じて帰国し「退隠謹慎」しており、さらに城外に屏居し、御沙汰を待っているところである。どうか寛大の処置を下さるよう、「家臣挙げて歎願奉る」と申し上げた。
 仙台藩主と米沢藩主の連名での歎願書は、以下の通りである。

討会(*会津討伐)先鋒を仰せ付けらるに付き両国とも出兵罷り在り、既ニ仙台先手勢一応(いちおう)接戦に及び候処、今般(こんぱん)降伏謝罪の儀(ぎ)容保(かたもり *松平容保)家来ども申し出で候ニ付き、仙台国境陣門ニ於て問罪督責〔*罪を問い正し、促し責める〕致させ候処、伏見暴動の一挙ハ畢竟(ひっきょう)指揮不行届きより全て卒然ニ発(おこ)り天聴(*天子がお聴きになること)驚き奉り候段、恐縮の余り容保儀ハ帰邑退隠の上(うえ)当時城外ニ於て恭順謹慎相尽(あいつく)シ頗(すこぶ)る先非(せんぴ)悔悟(かいご)罷り在り、寛大の御処置成し下され候様(そうろうよう)別紙歎願書の通り家来ども申し出で候間、天朝の御仁徳感戴(かんたい *有り難くおしいただくこと)奉り候様御処置仰望(ぎょうぼう *あおぎ望むこと)奉り候。
会津国情等の儀ハ委細演説を以て申し上げ候通りニ御座候間、深く御汲み量り寛典の御沙汰成し下され候様一同願ひ奉り候。以上。
  閏四月十一日                仙台中将
                        米沢中将
  
 両藩主の歎願書も、伏見の件、容保の城外謹慎とも会津藩家老の歎願書と同様にし、朝廷の「寛典の御沙汰」を懇願している。
 奥羽の「諸藩重臣副嘆願書」は、次のように述べている。

此度(このたび)会津征討仰せ付けられ各藩出兵、既ニ仙台先手勢接戦に及び候処、容保家来ども降伏謝罪の儀申し出で、仙台国境陣門に於て糾明(きゅうめい)相遂(あいと)げ候処、伏見暴動の儀ハ全く異心等これ有る筋ニハ御座無く候得共、事(こと)皆(みな)卒然ニ相発し天聴驚き奉り候段深く恐れ入り其節(そのせつ)の先手隊長等ハ別し謹慎中付け置き、御沙汰待ち奉り如何(いか)様とも処置仕り由(よし)ニ御座候処、畢竟容保兼(かね)て指揮不行届きの所致(処置)ニこれ有り候段至極(しごく)恐縮とも歎願書を以て申し出で、降伏謝罪仕り候上ハ幾重にも寛大の御処置成し下され至仁の聖恩感戴奉り候様仰望奉り候。尤も当時王政御一新の御場合ニも在(あ)らせられ候得ハ(そうらへば)、何分(なにぶん)干戈(かんか *武器)を動かせざる人心の向背(こうはい *従がうこととそむくこと)をも深く御汲み量り有(あ)らせられ御時節と存じ奉り候。勿論春夏の間は農事の甚だ急務とする所ニこれ有り、自然民命の大ニ関係する所ニ御座候間、是等(これら)の儀(ぎ)篤(とく)と御諒察(りょうさつ *相手の立場・状態を察すること)成し下され、今日ノ事ハ只(ただ)ニ会津孤国のみの御処置と思召しなされず寛大の御沙汰成し下され候ハハ(そうらはば)、実に以て奥羽鎮撫の道(みち)赫然(かくぜん *盛んなさま)と立たせられ候様偏(ひとへ)ニ存じ込み、列藩衆議相尽し懇願奉り、猶又(なおまた)連名外の輩ハ駆け付け次第申し上げ奉るべく候。恐惶謹言。
  慶応四年閏四月十一日
             伊達陸奥守家来(*仙台藩)
               坂  英力 時秀
               但木 土佐 成行  
             上杉弾正大弼家来(*米沢藩)
                  千坂 太郎左衛門 高雅
               竹股 美作 久綱
             南部美濃守家来(*盛岡藩)
               野々村 真澄 雅言
             丹羽左京大夫家来(*二本松藩)
               丹羽 一学 冨穀
             松平大学頭家来(*守山藩)
               三浦 平八郎 義質
             阿部美作守家来(*棚倉藩)
               平田 弾右衛門 重世
             相馬因幡守家来(*中村藩)
               相馬 靱負 胤成
               佐藤 勘兵衛 俊信
             秋田万之助家来(*三春藩)
               大平 帯刀 忠孝
             水野真次郎家来(*山形藩)
               水野 三郎左衛門 元宣
             板倉甲斐守家来(*福島藩)
               池田 権左衛門 邦知
             藤井伊豆守家来(*上ノ山藩)
               渡辺 五郎右衛門 束             
             岩城左京大夫家来(*亀田藩)
               大平 伊織 観成
             田村右京大夫家来(*一ノ関藩)
               佐藤 長太夫 時教
             生駒大内蔵家来(*矢島藩)
               椎川 嘉藤太 末彬
             佐竹右京大夫家来(*秋田藩)
               戸村 十夫夫(※以下は後着)
             戸沢中務大輔家来(*新庄藩)
               舟生 源右衛門
             安藤理三郎家来(*平藩)
               三田 八弥
             六郷兵庫頭家来(*本庄藩)
               六郷 大学
             本多能登守家来(*泉藩)
               石井 武右衛門            
             内藤長寿麻呂家来(*湯長谷藩)
               茂原 肇
             立花出雲守家来(*下手渡藩)
               屋山 外記
             上杉駿河守家来(*米沢新田藩、米沢藩支藩)
               江口 復蔵
             津軽越中守家来(*弘前藩)
               山中 兵部
             南部遠江守家来(*八戸藩)
               吉岡 左膳
            (3つの歎願書とも、「奥羽同盟始末」P.28~30から引用)
 
 会津問題は、今や会津一国の問題ではなく、確実に奥羽全体の問題となっているのである。そして、奥羽諸藩が会津救済を願うのは、「列藩衆議相尽し」た上での懇願であると言明している。「天下公論」とか「諸藩衆議」というのは、幕末、越前の春嶽・そのブレーン横井小楠や、薩摩の西郷・大久保などがしきりに幕政や慶喜批判の際に使用したキーワードである。同盟側も、薩長など新政府の行動を逆手にとって(衆議を尽していないと)、このような批判手法をとったのであった。
 三通の嘆願書は、翌閏4月12日、仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲が、岩沼(仙台と白石の中間)にまで出陣していた九条総督を訪ねて、直接に手渡しされた。だが、17日に返された回答は、無情なものであった。会津藩に対する「寛典」は拒否され、それどころか「直ちに会津に攻め入るべし」というものであった。
 しかし、奥羽諸藩の腹はすでに固まっていた。「......仙台・米沢両藩の重臣が会合し、一四日には、嘆願書が返却になった場合、会津・庄内それぞれの攻口(せめぐち)で解兵し、その上で朝廷へ直接嘆願、交渉に移ること、そして一七日には、九条総督を仙台に移すこと、九条総督から世良参謀に『御暇(おひま)被下(くだされる)』よう依頼することなどを確認しあっていた。一九日には、沢副総督と参謀大山格之助(綱良)を引き離させる工作のため、米沢藩士が新庄表に走った。世良・大山の薩長参謀を九条・沢・醍醐らの公卿と分断し、孤立させようという」(佐々木克著『戊辰戦争』P.105)作戦なのである。
 そして、19日、実際に、仙台・米沢両藩主から九条総督に、諸攻め口の解兵が宣言されたのであった。仙台・米沢両藩は、藩境から兵を引揚げた。だが、秋田藩は伝達が届かなかったのか、逆に庄内藩領に侵入し、反撃され敗走した。しかし、同じ庄内戦線であっても、盛岡・弘前・新庄、上ノ山・本庄・亀田・矢島の各藩は、その後、つぎつぎと撤兵する。秋田藩が撤兵するのは、ようやく23日になってからである。

     〈参謀・世良修蔵の処刑〉
 会津攻めからの撤兵が各藩で次ぎ次ぎと行なわれている最中の閏4月20日、参謀・世良修蔵暗殺という事件が突発する。
 先月来、会津攻めを督促し、戦況を見廻っていた世良(長州藩、奇兵隊出身)は、閏4月19日、福島に戻り、旅宿金沢屋(妓楼)に宿をとる。そして、新庄にいるはずの大山格之助(綱良)に長い手紙を書く。この手紙を、世良は、大山に渡すために密使をたてることを、おろそかにも福島藩用人・鈴木六太郎に依頼する。
 この密書が、かねて世良を監視していた仙台藩士のグループに入手され、明けて閏4月20日午前2時ごろ、仙台・福島の藩士らによって世良は襲撃される。逃げようとした世良は逮捕され、午前6時ころに、阿武隈川に注ぐ寿川で処刑された。日頃の世良の傲慢な態度に対する積もり積もった恨みが、ついに爆発したのである。
 憤怒の襲撃を引き起こした世良の密書は、次のように「奥羽皆敵」という敵意に満ちたものであった。

......総督府兵力トテハ〔総督側近に〕一人モこれ無く、押(おし)テ返セバ〔*強引に会津藩らの嘆願書を返せば〕、今日ヨリ〔仙米〕両藩会(*会津藩)ニ合し候様ニ相成(あいな)り申すべし〔*会津と手を結びそうである〕。少々ニテモ兵隊これ有り候ハバ押付け出來(でき)申し候ヘ共(そうらへども)、迚(とて)モ六ヶ敷(むずかしく)、宇津宮(宇都宮)モ追々(おいおい)賊(ぞく)所々(しょしょ)蜂起シテ、今に〔官軍の兵〕来らず大ニ込リ(困り)申し候。併(しか)しながら一旦(いったん)総督取上(とりあげ)ニ相成り候ヲ亦(また)返ス訳ニモ参り申さず候〔*一旦嘆願書を取上げたのを、また返すわけにもいかない〕間、この上は一応京師へ相伺(あいうかが)い、奥羽の情実(じょうじつ)篤(とく)ト申し入れ、奥羽皆(みな)敵(てき)ト見テ逆撃の大策ニ致したく候ニ付き、小子(*世良)急ニ江戸へ罷(まか)り越し、大総督府〔の〕西郷様ヘモ御示談致し候上(そうろううえ)、登京(ときょう)仕(つかまつ)り、尚(なお)大坂までモ罷り越し、大挙奥羽へ皇威(こうい *天皇の威厳)の赫然(かくぜん *盛んなさま)と致すよう仕りたく存じ奉り候。この〔会津藩らの〕嘆願通りニテ〔罪が〕相免(あいめん)ぜら候(そうろう)時ハ、奥羽ハ一、二年ノ内ニハ朝廷の為(ため)ニナラヌ様(よう)相成るべし。何共(なんとも)米仙ノ俗(*俗論)朝廷ヲ軽ンズルノ心底、片時モ図り難(がた)き奴(やつ)ニ御座候。......  (『仙台戊辰史』二 P.451)

 世良は会津藩や仙台・米沢藩などの嘆願を受け入れていては、1~2年の内には奥羽が朝廷の為にならなくなると断じ、「奥羽皆敵」として逆撃の方策を建てるべきとしたのである。これを見て、福島・仙台の藩士らは怒り頂点に達し、ついに世良を処刑してしまったのである。
 奥羽鎮撫府の下参謀らに対する評判は、当初からひどいものであった。「奥羽同盟始末」もまた、「同日(*閏4月19日)下参謀世良修蔵ヲ殺ス。初メ修蔵・大山格之助等ノ仙台ニ抵ル(イタる *到着する)ヤ、天威ヲ仮寿〔*虎の威ならぬ天朝の威を借りて〕上下ヲ凌轢(りょうれき *侵し仲違いする)ス。列藩これヲ疾視(しっし *睨〔にら〕み見ること)ス、蛇蝎(だかつ *蛇とさそり)啻(ただ)ナラス〔*列藩が疾視スルノは、非常に嫌っただけではない〕。人々以為(おもえら)ク奥羽ヲ擾乱(じょうらん *乱れ騒がすこと)スルモノハ下参謀ナリト」(P.39)と、思い定めていたのである。
 世良の斬首に続いて、彼らの「姦悪を助長せるもの」として、長州藩の野村十郎、薩摩藩の鮫島金兵衛ら数人も斬殺された。
 閏4月21日、伊達慶邦が仙台に帰城し、九条総督も逃げるようにして、仙台にもどった。

   (2)「白石盟約書」から「奥羽盟約書」へ

 奥羽諸藩は、世良修蔵の処刑によって、今や奥羽鎮撫総督府を交渉相手にすることができなくなった。会津嘆願を朝廷―太政官へ直接に訴えざるを得なくなったのである。そのためには、奥羽諸藩の総意をもって建白する必要がある。こうして総意を固めるためにも、奥羽諸藩の強固な結束が重要となる。かくして、閏4月22日、いわゆる「白石盟約書」への調印となる。その内容は、以下となる。

一(第1条)、強を恃(たのみ)、弱を凌(しのぎ *押し伏せる)、或(あるい)は他の危
急を傍観する者には、列藩を挙(あげ)て譴責(けんせき *悪い行ないや過失などを戒め責めること)を加える。
一(第2条)、私に営利を構(かまえ)、機密を漏(もら)し、同盟を離間する者には、譴
責を加える。
一(第3条)、妄(みだり)に人馬を労し、細民の艱苦(かんく *辛苦)を顧(かえり)
みざる者には、譴責を加える。
一(第4条)、大事件は列藩衆議を尽し、公平の旨(むね)に帰すべし。軍事の機会、細微
の節目(ふしめ)等は、集議に及ばず、大国の号令に随(したが)うべき事。
一(第5条)、無辜(むこ *何の罪もない人)を殺戮(さつりく)し、金穀を掠奪(りゃ
くだつ)するなど、名分を侵(おか)す者は、速(すみやか)に厳刑に処すべし。
               (佐々木克著『戊辰戦争』からの重引 P.115~116)

 諸藩の代表は、閏4月22日の午後から23日にかけて、場所を仙台に移動した。25日には、太政官への建白書を、九条家諸太夫の塩小路光浮に持たせて渡すことが内約された。建白書の草案作成は、仙台藩が担当し、27日にできあがった。
 閏4月29日、この草案が列藩会議で討議された。「建白草案は世良・大山両参謀を手厳しく弾劾した。彼ら『一身ノ挙動ニ至(いたり)候テハ、貪婪(どんらん *ひどく欲張り)無?(むあく *食いあきない)、酒色ニ荒淫(こういん *おぼれすさむこと)、醜声(しゅうせい *みにくい言葉)聞クニ堪(たえ)ザル事件、枚挙(まいきょ *一々数えあげること)仕(つかまつ)り兼(かね)』ると、いささかヒステリックに参謀や薩長兵を非難するとともに、討会、討庄は薩長の私怨(しえん)以外のなにものでもなく、征討政策そのものが、総裁や宮はじめ叡慮(えいりょ *天子の考え)によるものではなく、朝廷姦曲(かんきょく *悪くよこしま)の手より出たものであると断定し批判した。そして廟堂のあいだにあって『虚名ヲ張リ、詐欺ヲ飾リ、蔭ニ大権ヲ竊(ぬす)ミ、暴動ヲ恣(ほしいまま)ニシ候(そうろう)国賊』があると薩長を厳しく追求し、最後に東北諸藩に『国賊追討』の綸旨(りんじ *天皇の命令を受けて蔵人所から出す文書)を戴(いただ)きたいとする内容」(佐々木克著『戊辰戦争』P.117)である。
 さすがに、これには「厳しすぎる」、「こちらから戦争を仕掛けるようなもの」などと、米沢藩や秋田藩などから異論が出される。結局、会議では、「国賊」の字句が削除され、世良・大山への攻撃もやや穏やかなものに修正された。また、徳川家の家名を立てられたいとし、会津・庄内藩の処分とともに、公論による「寛典」を強く要望するものとなった。より穏和な形となった建白書は、5月2日ころに成稿となった。
 「白石盟約書」も、この日に討議され修正される。採択された「御取り上げこれなきにつき奥羽盟約書」という表題をかかげた盟約書の内容は、次のようなものである。

今度、奥羽列藩仙台ニ会議シ鎮撫総督府ニ告ゲ、以テ盟約公平正大ノ道ヲ執リ、心ヲ同ジウシ力ヲ協(かなは)セ、上(うえ)王室ヲ尊ビ、下(した)人民ヲ撫恤(ぶじゅつ *なで慈しむこと)シ、皇国ヲ維持シ、宸襟(しんきん *天子の心)ヲ安ンゼント欲ス。仍(よっ)テ条約左ノ如シ
一(第一条)、大義ヲ天下ニ舒(のぶ)ルヲ以テ目的トナシ、小節細行ニ拘泥(こうでい)スベカラザル事
一(第二条)、舟ヲ同ジウシテ海ヲ渡ルガ如ク信ヲ以テ居リ、義ヲ以テ動クベキ事
一(第三条)、若(も)シ不慮急用ノ事アラバ、比隣(ひりん *近隣)各藩速カニ援救、総督府ニ報告スベキ事
一(第四条)、強ヲ負フテ弱ヲ凌(しの)グ勿(なか)レ、私ヲ計リテ利ヲ営ム勿レ、機事(きじ *秘密の政務)ヲ泄シ(モラし *漏洩し)同盟ヲ離間スル勿レ
一(第五条)城堡(じょうほう *城や塞)ヲ築造シ、糧食ヲ運搬スルハ已(や)ムヲ得ズト雖(いえど)モ、漫(みだ)リニ百姓ヲシテ労役、愁苦(しゅうく *うれい苦しむ)ニ勝(た)へザラシムル勿(なか)レ
一(第六条)、大事件列藩集議、公平ノ旨ニ帰スベシ、細微ハ則チ其(その)宜(よろ)シキニ随フベキ事
一(第七条)、他国ニ通謀(つうぼう *共謀)シ、或ヒハ隣境ニ出兵セバ、同盟ニ報ズベキ事
一(第八条)無罪ヲ殺戮スル勿(なか)レ、金穀ヲ掠奪(りゃくだつ)スル勿レ、凡(およ)ソ不義ニ渉(わた)ル者ハ厳刑ヲ加フベキ
右の条々違背(いはい *命令、約束などにそむくこと)スルモノアルニ於テハ、則チ列藩集議厳刑スベキ者也
    慶応四年五月            (『仙台戊辰史』二 P.483~484)

 建白書と新たな盟約書の修正がなったところで、5月3日、改めて諸藩の代表が実名と花押を認めて、「奥羽列藩同盟」が正式に成立した。
 この同盟に参加したのは、次の25藩である。仙台藩(伊達氏62・5万石、宮城県)、米沢藩(上杉氏18万石、山形県)、盛岡藩(南部氏20万石、岩手県)、秋田藩(佐竹氏20・5万石、秋田県)、弘前藩(津軽氏10万石、青森県)、二本松藩(丹羽氏10・07万石、福島県)、守山藩(松平氏2万石、福島県)、新庄藩(戸沢氏6・82万石、山形県)、八戸藩(南部氏2万石、盛岡藩支藩、青森県)、棚倉藩(阿部氏6・04万石、福島県)、中村藩(相馬氏6万石、福島県)、三春藩(秋田氏5万石、福島県)、山形藩(水野氏5万石、山形県)、平藩(安藤氏3万石、福島県)、松前藩(松前氏3万石、山形県分・北海道)、福島藩(板倉氏3万石、福島県)、本荘藩(六郷氏2・21万石、秋田県)、泉藩(本多氏2万石、福島県)、亀田藩(岩城氏2万石、秋田県)、湯長谷藩(内藤氏1・5万石、福島県)、下手渡藩(立花氏1万石、福島県)、矢島藩(生駒氏・8万石、秋田藩)、一ノ関藩(田村氏3万石、岩手県)、上ノ山藩(藤井氏3万石、山形県)、天童藩(織田氏1万石、山形県)。
 ここで「白石盟約書」(A)と、修正された「奥羽盟約書」(B)とを比較すると、次のような特徴を見て取れる。
 まず、外形的には、(A)にはなく、新たに(B)に設けられた条項は、第一・二・三・七条である。そして、(A)の第1・2条がまとめて(B)の第四条となっている。(A)の第3条が(B)の第五条に対応し、同じく(A)の第5条が(B)の第八条に対応している。(A)の第4条は(B)の第六条にほぼ対応しているが、大きな変更がある。
 内容的には、第一に、(B)の第一・二・三・七条に見られるように、より明確に具体的となったことである。第一・二条は、「大義を天下にのぶる」ことを目的とし、行動においては「義をもって動く」と強調されている。そして、第三・七条には見られない具体性をもって、「総督府」あるいは「同盟」に報告すべきとしている。
 第二は、(A)の第4条で「軍事の機会、細微の節目等は......大国の号令に随うべき」としていたのが、(B)の第六条では「大国の号令」が削除されている。この大国とは、具体的には仙台藩を指しているのだが、従来の序列主義を排して、「列藩集議」や「公平の旨」がより重視されているのである。
 しかし、第三は、従来からの主従観念あるいは君臣観念が変革されえず、「皇国を維持」し、鎮撫総督府の下で、「奥羽列藩」の主張する「大義」、「正義」を貫こうとしたのである(薩長などに対抗して)。徳川慶喜の「大政奉還」で、皇国確立による日本再興はすべての藩にとって共通理解になっていたのである。
 5月4日、これまで「中立」の態度を示してきた長岡藩が奥羽列藩に、ついに加盟することとなった。長岡藩家老の河合継之助は、会津藩と新政府との間に入って、両者の和睦をはかろうと、新政府軍の責任者に会談を申し入れた。会見は、5月2日、小千谷の慈眼寺で、河合継之助と軍監・岩村精一郎(土佐藩)との間で行なわれた。河合の必死の訴えにもかかわらず、会談は決裂した。岩村は、すでに長岡攻めに着手しており、長岡藩の態度は時間稼ぎにしかないと見切ったのである。
 たしかに、長岡藩のこれまでの態度は、新政府軍の出兵要求や献金要請を断り続けてきたのである。しかも河合の「中立」は、単に武装中立だけではなく、実質的に、新政府に抵抗する様子がにじみでていた。出兵・献金要求にたいする拒否は、その一つの表れである。
 長岡藩の加盟につづき、5月6日には、村上・黒川・三日市・村松の4藩が加盟した。奥羽列藩同盟は、奥羽越列藩同盟に発展したのである。この動きに、これまでしぶってきた新発田藩もついに折れ、5月15日に加盟した。

   (3)同盟の統一行動に関する計画案と玉虫左太夫

 閏4月20日前後、仙台藩は、奥羽諸藩の統一的な行動計画書を作っている。その要点は、以下のものである。

〔白川の処置〕
第一 白川(白河)ヘ西軍(*新政府軍)ノ打入ルヲ差止ムベキ?(事)
第二 無法ニ打入ラバ曲(きょく *誤ったこと)彼ニアリ、会藩(会津藩)タルモノ決死防戦スベシ
第三 総督府下(しも)参謀(さんぼう)大逆無道ノ罪ヲ聲(なら)シテ之(これ)ヲ放逐セシムベキ事
第四 以上ノ始末トナラバ二本松闔国(こうこく *全藩)ノ兵勢ヲ尽シ本道ヨリ先鋒トシテ進ムベシ
第五 仙藩(仙台藩)大挙、白川ヲ根拠トシテ四方ノ諸藩ヲ発縦指示(*犬の縄を解き放って獲物にけしかけること)スベシ
第六 連合諸藩出兵応援尽力(じんりょく)勿論(もちろん)ノ?(事)。猶(なお)豫(あらかじめ)狐疑(こぎ *疑ってためらうこと)或ハ両端ヲ懐キ傍観スルモノハ〔*日和見〔ひよりみ〕の藩は〕厳重ニ処置スベシ
第七 会兵大挙、高原ヨリ日光ヘ打出デ、近傍〔の〕故幕ノ遺兵ヲ語ラヒ〔*旧幕兵と協同して〕進撃スベシ
第八 宇都宮ノ西軍ヲ追払ヒ、常野(*常州と下野)ノ諸藩ヲ引(ひき)ツケ、利根川ヲ境ニシテ深根固帯(しんこんこたい *深く根を張ってしっかり固めること)、傍(かたはら)房総迄(まで)モ手ヲ延バス事、但シ江戸ハ取リ易(やす)ク守リ難シ、宜しき次第暫(しば)ラク後図(こうと *後のはかりごと)ニ附(ふ)シ、北越ノ聲聞(せいぶん *評判)策応(さくおう *はかりごとを通じ合うこと)ヲ待チ万全ノ見込(みこみ)ヲ据ヘ大挙致スベキ事 
第九 米藩ヨリ応援人数差出(さしだ)スベキ事
〔庄内の処置〕
第十 奥羽列藩衆議ノ上、庄内ノ件〔を〕総督府ヘ訴訟ニ及ビ、冤罪(えんざい *無実の罪)ノ条理ヲ明白ニス
第十一 米沢ヨリ沢殿(*副総督)護衛ノ兵二大隊ヲ繰出シ米沢ヘ迎ヘ入ルベシ
第十二 薩長ノ兵ハ総督府ヨリ御暇(おひま)ヲ下シ速ニ帰国セシムベシ、但シ進退(しんたい)度ヲ失スルニ於テハ米兵(*米沢兵)モテ越地へ送リ出シ船ニテ帰国セシムベキ事
第十三 若シ不服ニテ暴動ノ時ハ米兵進撃スルベク近傍諸藩モ二念(にねん *ほかの考え)ナク打取ルベシ
〔北越の処置〕
第十四 薩長兵千人、加州富山応援トシテ越地へ進発、会境(*会津との境)ヘ打入(うちいり)ノ報アリ、依テ総督ヨリ進撃ヲ控(ひか)フベキ旨ヲ厳達(げんたつ)シ、若シ無法ニ押来(おしきた)ラバ米兵大挙越地ノ諸藩ヲ語ラヒ迎戦スベク、庄内モ応援スベキ事
第十五 羽州(*出羽)連合ノ諸藩各(おのおの)も出兵応援ノ事
第十六 信州・上州・甲州迄(まで)モ手ヲ延バシ、関東ト互角応援ノ勢ヲ張リ、機ヲ見(み)間ヲ窺(うかが)ヒ進取スベキ事
第十七 加州・紀州ヘ使ヒヲ馳(は)セ連合致シ、官軍ノ勢力ヲ殺(そ)グ手配スベキ事
〔総括〕
第十八 参謀ノ惨酷残暴〔により〕奥羽二州愁苦ニ堪(た)ヘ兼(か)ね前条ノ運ビニ至レル趣(おもむき)ヲ太政官及ビ征討府ヘ哀訴(あいそ)スルト共ニ天下列藩ヘ布告、公論ヲ聴クベキ事、但シ参謀ノ罪状明白ニ縷述(るじゅつ *細かに述べること)シテ諸方へ回達(*達しを回し)伝檄(*檄を伝える)衆目(しゅうもく)輿論(よろん)余義(余儀)ナキ情実憐察(りんさつ *あわれんで思いやること)アルヨウニスベシ
第十九 仏国・米国・露国等ヲ引キツケ海軍或ヒハ兵器等ノ手配油断ナカルベキ事、但シ仏米両国ヘ饗応(きょうおう)ノ儀(ぎ)会(会津藩)ヨリ通ズベキ事
第二十 東北諸藩ハ勿論(もちろん)、西南ノ諸藩迄(まで)モ同心有志ノ族ヘ密使ヲ馳セ(*派遣し)、東西饗応ノ策略打合セ、彼奸賊ヲシテ内顧(ないこ *振り返って内を見ること)ノ憂ヒアラシメ深入(ふかいり)致サセザルノ策ヲ取ルベシ
第二一 故幕ノ遺臣〔*旧幕臣〕或ハ海軍等ヲ語ラヒ密ニ策応ヲ約シ同時ニ蜂起セシムベシ、但シ此條(このじょう)モ会ノ手ニアリ〔*これも会津藩の担当とする〕
第二二 急速脚力ヲ馳セ京・江戸両地ヘ詰(つ)ムル藩士ヲ引戻ス手配ノ事
第二三 奥羽ニテハ秋田異論ノ報ニ相聞ヱ候間、米藩ニテ引立テ尽力説得致スベク、八戸・南部モ同断ニ付き、盛岡藩江幡五郎ヘ相諭(あいさと)シ説得セシムベキ事
                    (『仙台戊辰史』二 P.486~488)

 この計画書の起草は、『仙台戊辰史』によると、仙台藩の玉虫左太夫、若生文十郎の両名である、と言われる。〔白河の処置〕・〔庄内の処置〕・〔北越の処置〕は、主要には軍事的対処策であるが、〔総括〕は、政治的・外交的方針を主眼としている。薩長政権に対する「東国政権」樹立の意気込みは、十分に感じ取ることができる。
 ただ、ここでは「東国政権」の国家ヴィジョンは、展開されていない。しかし、星亮一著『奥羽越列藩同盟』(中公新書 1995年)によると、「仙台の玉虫家に『人心ヲ和シ上下一致ニセン事ヲ論ス』と題する左太夫直筆のメモが残されている。これはアメリカから帰国後、日本はどうあらねばならぬかについて書いたもので、左太夫は『和ハ天下ヲ治(おさめ)ルノ要法ナリ、此要法ヲ失ヒ、何ヲ以テ人心帰服セン』と最初に和を唱え、さらに言論の自由、賄賂の禁止、賞罰の明確化をあげた。その上に立って軍艦を建造し軍備を整え、他国の侵略を防ぐ。蒸気機関によって産業を興し、外国人を雇い技術の導入をはかる。万国と交易し、国を富ませることを強調した。/左太夫が危惧したのは、日本をインドや香港などのように外国の植民地にしてはならないということで、上は朝廷から下は人民に至るまで人心一和をはかり『国富兵強』を進め、諸外国と対等の条約を結び、先進国の仲間入りをすることにあった。」(同前 P.36~37)といわれる。
 ここには、当時の開明的な知識人と同じような考えが展開されている。とても、頑迷固陋な保守主義者の考えではない。
 玉虫左太夫の思想形成には、1860(万延元)年正月から、日米修好通商条約の批准書の交換のために、新見豊前守正興の従者の一人として渡米した際の見聞が大きな影響をもたらしている。その一、二の体験を見ると、次のようなものがある。
 同年正月27日、玉虫らが乗る米船ポーハタン号は、嵐にあい、いまにもバラバラに砕けるかのようにきしむ。この時、タットル提督、ピアソン艦長をはじめ士官全員が甲板に出て水夫とともに嵐と闘い、一睡もしないで働いた。嵐が過ぎると、提督はすかさず水夫一人一人に恩賞の銀貨を与え、その労をねぎらった。これを監察していた玉虫は、『航米日録』に、次のように記している。

若(も)シ長官独(ひと)リ傍観シテ、徒(いたずら)ニ属官ヲ呵責(かせき *しかり責めること)シテ労苦セシメ、又(また)功労アリトモ、我意(わがい)ニ合(あわ)ザルモノハ賞セズ、又賞スルモ、数次ノ吟味ヲ経(へ)、日月ノ久キヲ待ツコトナドアラバ、必ズ人ノ死力ヲ得ル能(あた)ハズ。カカル緩急ニアイシモノハ其(その)慮(おもんばかり)無(なか)ルベカラズ。彼ハ固(もと)ヨリ礼譲ニ薄ケレド、辛苦(しんく)艱難(かんなん)・吉凶禍福衆(しゅう)ト同クシ、更ニ彼此(かれこれ)上下ノ別ナク、況(いわん)ヤ褒賞(ほうしょう *ほめて、その印を与えること)ノ速(すみやか)ナル此(かく)ノ如(ごと)シ。是(これを)以テ緩急ノ節ハ各(おのおの)力ヲ尽シテ身ヲ忘ル。其国(そのくに)盛(さかん)ナルモ亦(また)故(ゆえ)アル哉(かな)。
 (『航米日録』巻八―日本思想大系66『西洋見聞集』 岩波書店 P.228)
 
 玉虫は、アメリカ国が盛んである根拠の一つに、「上下ノ別ナク」、ものに取りく様を挙げている。似たようなものとして、玉虫は、上下の親切・情愛をあげている。「昨夜水夫両人死ス。今日水葬セント其(その)規式(きしょく *決まり)ヲ行フ。船将等之(これ)ニ臨ミ、悲嘆ノ色ヲ顕(あら)ハサザルモノナシ、其(その)親切我子(わがこ)ノ如(ごと)シ。是(これ)ニ於(おい)テ彼国(かのくに)ノ益(ますます)盛ンナルヲ知ル。」(同前、P.240)と。
 また、大統領の家に招かれた際のことについては、次のように述べている。「大統領ビュカナン居宅ハ、旅館ヨリ西北ニ当リ、相距(あいへだた)ルコト七、八町(*一町は約109メーター)、北ニ向ヒ前一町余半円形ニ庭園ヲ作リ、周囲皆(みな)鉄柵ヲ建ツ」、「貌列志天徳(プレジデント *大統領)ノ居宅ナレドモ、城郭ヲ経営セズ、他ノ家ニ異(こと)ナラズ」(同前、P.94~95)と驚きを隠さない。
 日本の大名は城郭を構え、そこに住しているのに、アメリカでは大統領でさえ、普通の住居と異ならず、城郭など構えてさえもいない。大統領と庶民の間が近いことを感じているのである。
 そして、「蓋(けだ)シ花旗国(アメリカ)ハ共和政事(*政治)ニシテ一私ヲ行フヲ得ズ、善悪吉凶皆(みな)衆(しゅう)ト之(これ)ヲ同(おなじく)シ、内乱ハ決シテ、ナキコトトスルナリ」と、アメリカの民主政治の形態に強く関心を持ったのである(但し、翌1861年には南北戦争が勃発している)。
 列藩同盟は、実際に、列国に布告し承認を受ける必要から、5月30日の会議において、玉虫左太夫らの草した文書(プロシャ国宛て)を検討している。その草案は、以下の通りである。

奥羽列藩執政太夫等、謹ミテ普魯社国(プロシャ国)領事官某君以下執事ニ告グ。【方今新潟開港ノ議決セリ、貴国衆(しゅう)ニ先ンジ早ク来ル風涛万里賢労(けんろう *賢いものが労苦すること)想フベシ。抑(そもそも)我(わが)北境開港ハ今日ヲ始メトス】(A)則チ貿易ノ一事ニ止マラズ百般技芸器械諸術ノ開クル亦(また)日ヲ期シテ以テ待ツベシ、実ニ東北列藩ノ大幸なり。東北列藩是(ここ)ニ於テカ先ヅ告ゲザルベカラザル者アリ、謹(つつしみ)テ按(あん)ズルニ我大日本国徳川氏累世継承ノ政権ヲ天朝ニ復シテヨリ天子幼冲(ようちゅう *幼少)、万機草創、而(しか)シテ奸臣(かんしん)隙(すき)ニ乗ジ私意ヲ挟ミ以テ朝憲(ちょうけん *朝廷でたてた法規)ヲ擅(ほしい)ママニス。是故(これゆえ)ニ其(その)令スル所(ところ)一(いつ)ニ至誠惻怛(そくだつ *痛み悲しむこと)ノ意ニ出ヅルアルナク、専ラ残酷殺伐ノ威ヲ逞(たく)マシウシ以テ天下諸侯ヲ圧服ス。天下諸侯其(その)凶?(きょうえん *わざわいの炎)ヲ畏(おそ)レ争フテ之(これ)ガ駆役(くえき *人を追い回し使うこと)ヲ為(な)ス。而シテ中心(*心より)敢(あへ)テ服セザル者(もの)蓋(けだ)シ十ノ八、九、則チ祖宗神霊ノ照鑑(しょうかん *てらし見ること)スル所、天下億兆(おくちょう *万民)ノ切歯(せっし *歯をくいしばること)スル所、久シカラズシテ元悪(げんあく *悪人の頭)誅セラレ、而シテ大義(たいぎ)顕(あら)ハレ兄弟和シテ君臣睦(むつ)ム、亦(また)勢ヒノ必ズ至ル所、否バ則チ皇国独(ひと)リ天ナキ也(なり)、人倫ナキ也、寧(なん)ソ此(この)理アランヤ。我奥羽越列藩君臣上下、其(その)此(かく)ノ如キヲ察シ公議一定同盟相結ビ以テ大義ヲ天下ニ伸バシ、而シテ強暴ノ来る者(もの)撃テ以テ之(これ)ヲ斥(しりぞ)ケ其(その)去ル者必ズシモ追ハズ、以テ皇国ヲ維持シ而シテ天子聖明(せいめい *天子を称する敬語)ノ治ヲ待タンノミ。顧(おも)フニ海外各国諸公使領事官等、旁観(ぼうかん *傍観)熟視早ク已(すで)ニ之(これ)ヲ洞察スルアラン。然(しか)リト雖(いえど)モ我列藩同盟ノ心(こころ)苟(いやし)クモ之(これ)ヲ文字ニ著(あら)ハシ以テソノ情実ヲ明白スルニアラズンバ則チ邪正曲直ノ弁(べん)或(ある)ヒハ了々(りょうりょう *明らかなこと)タラズ、而シテ奸賊ノ徒(と)王命ヲ偽造シ以テソノ順逆ヲ乱ルモ亦(また)慮(おもんばか)ルベカラズ也。是(これ)ヲ以テ敢(あへ)テ告グ、望ムラクハ領事官執事、僕輩(われら)ノ至衷(しちゅう *まごころ)ヲ諒(りょう *良し)トシ【之ヲ各国諸公使ニ伝ヘ】(B)以テ其ノ他(ほか)ナキヲ明カニセラレヨ。則チ異日(いじつ)結信締交〔*信を結び交りをとりきめる〕ノ事ニ於テ【公然為シ易キ所アランナリ】(C)。伏シテ惟(おも)フ、執事虚懐(きょかい 
 *虚心)商量〔*取計る〕其ノ唐突ヲ咎(とが)ムルナクンバ則チ幸甚(こうじん *非常に幸いなこと)幸甚(慶応四年五月)
                   仙台国老 但木 成行
                   外奥羽越列藩執政連署
                     (『仙台戊辰史』二 P.562~563)

 これは、六月、新潟でプロシャ領事に呈出された。また、各国領事にも呈出する必要から、諸藩代表はこの草案を次のように修正した。すなわち、【】でくくった(A)の部分を削り、「我日本国和親通商ノ事ヲ定メテヨリ而来(じらい)海外各国相共(あいとも)ニ来往ス、万里風涛見ルコト坦途(たんと *平らかな道)ノ如シ、貴国是(ここ)ニ於テ亦(また)抑心(よくしん *)ヲ尽ス焉(*「ここに」の意味をなす助字)」に改めた。
(B)の部分は、省いた。(C)の部分は、「亦(また)大ニ関渉(かんしょう *関わり携わること)スル所アランナリ」に改めた。
 修正された文書は、「仙台藩葦名靱負、米沢藩色部長門、会津藩梶原平馬、庄内藩石原倉右衛門、長岡藩川合(河合)継之助ノ署名ヲ以テ十一通ヲ作リ、仙台藩横尾東作、会津藩雜賀孫六郎、米沢藩佐藤市之進ノ三名これヲ携ヘ米人ライストト共ニ七月七英国軍艦アルビン号ニ塔シテ新潟ヲ発シ横浜ニ至リ各国公使及ビ領事ニ布配セリ」(『仙台戊辰史』二 P.565)と言われる。

   (4)同盟の盟主となる輪王寺宮

 奥羽越列藩同盟は、6月16日、同盟の盟主として、上野輪王寺宮公現(くげん)法親王(ほっしんのう)を戴いた。西軍が明治天皇を戴いたのと同じように、東軍は輪王寺宮を戴いたのである。輪王寺宮は、伏見宮邦家親王の第9子で、後の北白川宮能久親王である。つまり、明治天皇の叔父にあたる。
 輪王寺宮は、早くから慶喜への寛大な処分を求めて奔走してきた。しかし、5月15日の上野戦争で東叡山も砲撃され、輪王寺宮も西軍の捜索対象となる。よって、輪王寺宮は難を逃れて、奥州に走った。羽田沖の長鯨丸で羽田沖を出た宮一行は、常陸平潟港に上陸した後、平・三春を経て6月6日には会津若松城に入っている。その後も、米沢―白石―仙台―白石と転々として、9月1日より仙台の仙岳院に住した。
 輪王寺宮を盟主に担ぎ出すことは、いつごろ立案されたのかは明らかでないが、仙台と会津が主な推進者と思われる。はじめ宮を会津から仙台に移そうとする動きに対しては、同盟諸藩からの不平が出ている。仙台藩が輪王寺宮を独占するのを恐れたからである。
 同盟諸藩は、宮に盟主となってくれるように懇願するが、はじめは同盟の軍事的管轄をも含めた盟主となることを構想していたようである。しかし、これはさすがに宮が法中の身であることを理由に断わった。
 輪王寺宮が盟主に就任した6月16日、列藩による同盟会議が開かれ、以下のことが決議された。
一、 宮様の仮住居は白石城(*仙台領内)とする。
一、 賄(まかな)いは、奥羽にある旧幕領の収納をあてる。
一、 彰義隊は是迄(これまで)通り警衛にあたる。
一、 列藩君侯は早速(さっそく)御機嫌伺(うかが)いに出馬のこと。
一、 各藩の重役一人ずつ詰めること。
一、 徳山(*板倉勝静の変名)、三好(*小笠原長行の変名)両候が凡而(すべて)管括(か
 んかつ)、従って各藩よりも人撰の上(うえ)御附(おつき)の者を差し出し、参謀のよ
 うな役を勤めること。
一、 御深意を奥羽諸民へ布告し、かつ西国までも達す。
(佐々木克著『戊辰戦争』P.131)

 しかし、板倉・小笠原が「すべて管括」する事には異論が出た。結局、同盟は、盟主=輪王寺宮、総督=仙台藩主伊達慶邦・米沢藩主上杉斉憲、参謀=板倉勝静・小笠原長行を指導部とし、これを各藩重役代表がサポートする形となった。
 同盟中枢部の確立とともに、白石城中には軍議所が設けられ、これを「公議府」と名づけ、各藩代表が詰めて種々の問題を評議したのである。まさに、京都政権に対抗する「東国政権」の確立である。
 7月、輪王寺宮(日光宮とも称される)から同盟に「日光宮御令旨」が下された。その大意は、次のようなものである。すなわち、「薩摩は、先帝の遺訓に背(そむ)き、幼帝廷臣を欺瞞し、摂関幕府を廃し、表に王政復古を唱えながら陰に私欲逆威を逞(たくま)しうしている。しかも百方工作して幕府及び十余藩に冤罪を負わせ、諸侯に曲令を下して軍を起した。ために世情騒然、道義は墜(お)ち、大逆無道、千古にこれを比するものはない。よって匡正(きょうせい)の任を同盟諸藩に托す。宜しく大義を遠近に諭し、反逆の首魁(しゅかい)を殄(たお)し、幼帝の憂慮を解き、下は百姓の苦しみを救うべし。」(『岩手県史』第6巻 P.52?53)というものである。
 その思想は、「王政復古」をもちあげ「摂関幕府の廃止」を否定的にみるなど保守的ではあるが、薩摩の行動に対しては、道義的な観点から厳しく批判している。したがって、薩摩藩を「薩賊」と規定し、「嗟呼(ああ)薩賊、久シク兇悪ヲ懐(いだ)キ漸ク残暴ヲ恣(ほしいまま)ニシ、以テ客冬(*昨冬)ニ至リ幼主(*明治天皇)ヲ欺罔(ぎもう)シ・・・」、「陽ニ王政復古ヲ徇(とな)ヘ、陰ニ私欲逆威ヲ逞ウス」など、激烈な薩摩藩批判が述べられている。
 これもあってか、「同盟軍の行動は同年7月中旬以降において、はるかに活気を呈した観がる」(同前 P.51)といわれる。


Ⅳ 東国の征討めぐる新政府内の方針対立

 奥羽越での戊辰戦争の本格的開始を検討する前に、時間的にはやや遡(さかのぼ)るが、新政府の江戸や関東の鎮撫をたどりながら、その中で生じた寛典鎮撫方針と武力による強硬鎮撫方針の対立を見てみる。それは、奥羽鎮撫方針にも深く関係するからである。
 東征軍が江戸に迫る中で、勝海舟は山岡鉄太郎を使者に立て、大総督府と交渉させた。山岡は3月9日、西郷隆盛と面会できたが、その際、以下の7カ条を提示された。
①慶喜は謹慎恭順の廉(かど)をもって、備前(*岡山)藩へ御預けとすること。
②江戸城は明け渡すこと。
③軍艦は残らず引き渡すこと。
④軍器(*武器)は一切引き渡すこと。
⑤城内住居の家臣は向島へ移すこと。
⑥慶喜妄挙(もうきょ)を助けた者を取り調べて処罰すること。
⑦玉石ともに砕く気はないが、もし暴挙に出る者があって手に余れば、官軍をもって鎮圧すること。
 この条件は、慶喜の備前藩での謹慎、江戸城開城などの当然の降伏条件ではあるが、全体的にみれば、徳川家の存続を許すなど「寛典」の処置ともいえる。
 東海道軍の先頭は、3月12日に品川に進み、東山道軍も14日に板橋に到着している(北陸道軍は遅れている)。
 3月14日、西郷隆盛と勝海舟との会見が薩摩三田屋敷で行われた。勝は先の7カ条を踏まえて、以下の条件を受け入れ可能なものとして提示した。
①〔慶喜は〕隠居し、水戸へ謹慎したいこと。
②城を明け渡し、田安家へ御預けとしたいこと。
③④軍艦・軍器は残らず取り収(おさ)めて、寛典の処置ののち、ふさわしい〔相当の〕数を残して、その余は引き渡すこと。
⑤城内住居の家臣は城外へ引き移ること。
⑥慶喜妄挙を助けた者も寛典とし、死罪などにしないこと。
⑦士民鎮定が行き届くようにすること、万一暴挙があれば改めて願い出るので官軍をもっ て鎮圧していただきたいこと。
 西郷は3月15日の江戸城総攻撃を延期し、この条件をもって駿府にもどり、大総督の承認を得て、取り急ぎ上京して、三条実美・岩倉具視など新政府有力者の了解を取り付けた。ここでは木戸孝允もまた、「寛典」を主張したといわれる。
 4月4日、東海道先鋒総督・橋本実梁と副総督・柳原前光が江戸城に入り、城を預かる田安慶頼へ次の5ヶ条の勅旨を伝達した。
①徳川の家名存続は赦(ゆる)し、慶喜は死罪一等を減じて水戸へ退隠謹慎すること。
②城は明け渡し、尾張藩へ引き渡すこと。
③軍艦・銃砲を引き渡し、追ってふさわしく〔相当〕指し返すこと。
④城内住居の家臣は城外へ引き退き、謹慎すること。
⑤慶喜謀反を助けた者は死一等を減じるが、ふさわしい処罰をおこなって報告すること。
 新政府の最終的な結論は、①で勝の要求を受け入れている。②は尾張藩への引き渡しで、④は「謹慎」を付加して、それぞれ妥協している。③は、一旦、すべて新政府軍に引き渡し、その後、一部を返還することになっている。これは以前より、厳しくなっている。⑤は、逆に以前より「寛典」となっている。それは、「処罰」の主体が新政府側でないことで明らかである。なお、勝の要求では⑦については、なんら触れられていない。曖昧(あいまい)になっているのである。
 4月11日、江戸城は無血開城となり、徳川慶喜は水戸へ退去した。
 京都軍防局は、江戸開城の次は会津征討を大目標として、4月14日に、薩摩・長州・加賀・富山・長府などの諸藩に対し、北陸方面への出兵を命じた。さらに、同月19日には、北陸道先鋒総督兼鎮撫使・高倉永?の職名を北陸道鎮撫総督兼会津征討総督と改め、黒田清隆と山県有朋を参謀とした。
 新政府は、この19日に、新潟裁判所(当時は司法機関の機能とともに行政機関の機能も持つ)を、つづいて24日には、佐渡裁判所を設置し、北陸道先鋒総督兼鎮撫使・四条隆平(たかとし)と滋野井公寿を、それぞれ裁判所総督に任じた。新政府は、越後の地を鎮撫し、この地を基地として会津に向かって兵を進めようとしたが、早くも新潟裁判所を設置したのは、越後鎮撫が容易に進むと誤算していたからであった。
 当時、軍防局の実力者は、2月22日に、木戸孝允の推挙により軍防事務局判事加勢(次官)を命ぜられた大村益次郎であった。木戸は、中央政府の政治面だけでなく、軍事面も、長州勢で把握しようとして、第二次幕長戦争で活躍した大村を引っ張りだしたのである。会津攻めの主力を越後口に定めた軍防局の方針は、大村らの主張によるものと思われる。
 なお、江戸の大総督府参謀は、4月17日付けの軍防局への一般状況報告で、要旨、次のように書き送っている。"江戸城の接収は終ったが、以降、江戸府下の行政処置と周辺の鎮撫で手いっぱいである。府内はやや安定したが、最も問題なのは、関宿(せきやど *千葉県)や古河(こが *茨城県。栃木や埼玉との境)あたりに旧幕兵や会津兵が出没し、これとの戦闘である。とにかく人手不足なので援助人員を送ってもらいたいこと、今後、江戸鎮台(軍政機関)を設ける必要があること、徳川軍艦接収に難儀していること、関東一円は裁判所(司法・行政機関)を置いて統括しても鎮定には4~5年を要すること、そして、何よりも慶喜の処置を早く決めること"などである。(金子常規著『兵乱の維新史(1)』 P.106)
 しかし、当時、京都では大総督府の寛典―「恭順和平」での鎮撫方針というのは、生ぬるく、武力による撃破で収めるべきという空気が強かった。すなわち、西郷の方針が失敗だったというのである。
 4月27日、大村益次郎は軍防事務局権判事から同判事に昇格し、東下して大総督(有栖川宮)を補佐するように命ぜられた。大村は、閏4月1日に、汽船で大坂を出帆し、4日に江戸へ到着した。当時、これに関して、木戸は大久保利通あての書簡で、次のように主張している。「今日天下の有様(ありさま)を想察(そうさつ *おしはかる)仕(つかまつ)り候に、一乱暴仕り候ものなくては却(かえっ)て朝廷今日の御為(おんため)に相成(あいな)り申さず候。この始末(しまつ)肝心と存(ぞん)じ奉(たてまつ)り候」(4月29日付き)と。
 当時、江戸の市中取り締りは、彰義隊に任されていた。彰義隊とは、一橋家時代から慶喜(水戸藩の徳川斉昭の子)に仕えていた家臣らが、なんとか慶喜の屈辱を晴らしたいと2月中旬から会合を重ね、2月23日になって、同志を集めて結成されたものである。頭取に渋沢成一郎、副頭取に天野八郎を選び、浅草本願寺に屯所を置いた。彰義隊には江戸開城(4月11日)の直前から、開城に憤激する旗本や佐幕派諸藩の脱走者などが続々と集まり、4月ごろには総勢2000~3000人になったと言われる。
 この事態を見て、徳川家の家政を管理する松平斉民(前津山藩主、第11代将軍家斉の子)は、彰義隊を懐柔しながら利用しようとして、彰義隊に江戸市中の警察行政を委任したのである。これにより、彰義隊は上野東叡山大慈院に謹慎する慶喜を守衛するという名目で、屯所を上野寛永寺に移し、江戸府内で一大勢力にのしあがった。しかし、彰義隊の一部は、昼夜の巡邏活動の中で、新政府の兵を見るとケンカをふっかけたり、田舎侍と侮蔑したりした。
 このような事態となったのは、西郷などの寛典鎮撫派の責任だとして、武力による強硬鎮撫派の批判が投げつけられたのである。
 また、大村益次郎(長州)は海江田信義・伊地知正治(薩摩)などとの間で、江戸・関東における軍事方針をめぐっても対立する。
 閏4月はじめ、奥羽の九条総督や世良参謀などからは、しきりに増援要請が大総督府に寄せられていた。しかし、大村は世良らの要請とは異なり、新庄へ直接増援部隊を送り込み、庄内征討を確実にし、会津の戦闘的同盟者をせん滅する方針をとった。
 これに対し、大総督府の海江田信義は、世良同様に、白河口からの会津攻略の方針をとった。だが、大村は、「白河の如き決して意とするに足らざるなり。仙台の弱兵何(なん)ぞ畏(おそ)るるに足らんや」と、白河の戦略的位置を無視して越後口からの会津攻撃に固執した。
 大村益次郎が、会津征討において越後口からの攻撃を主力とした理由は、決してあきらかではない。その理由としては、①越後にも会津領があり、会津の継戦能力が最上川の輸送路や新潟港での外国貿易にあること、あるいは、②北関東の旧幕兵や会津のゲリラ活動の鎮定がなかなかすすまなかったこと―などが想定される。だが、大村方針は、白河の戦略的位置を無視している事、越後の反新政府勢力の軍事抵抗を甘くみている点で大きな誤算があった。
 大村は、自己の方針を貫き、閏4月はじめ、宇都宮に増援された薩摩二番隊が江戸に引き返すように命じた。さらに、大村は房総征討が終わった後、閏4月19日発令で、肥前藩兵を中心とした900名を、前山精一郎(肥前)参謀の指揮の下で、海路、松島湾東名浜に上陸させ、新庄増援にむかうことを命じた。翌20日には、江戸に帰還した薩摩二番隊に対し、ふたたび北上し、陸路、新庄増援にむかうことを命じた(しかし、この部隊は皮肉なことに、5月1日の白河城奪回の応援部隊となった)。
 大村は、京都の軍防局より与えられた権限があったし、また、三条・岩倉・木戸の支持があり、武力による強硬鎮撫路線をちゃくちゃくと推し進めていった。これに対し、気性の激しい海江田は辞職を申し出たが承認されず、名目上の実行者として大村の方針を実行し、責任だけはとらされる形となった。
 東山道軍の参謀である伊地知正治(薩摩)もまた、大村と激しく対立した。「伊知地はこの頃(*閏4月下旬から5月はじめ)、大田原付近を経て北上する脱走兵(*旧幕兵)や、これを迎えて収容しようと田島方面より那須高原に出没する会津兵の征討撃退にいそがしく、また板垣の土佐藩兵も今市を防御して、大鳥勢の南下を阻止するのに懸命であった。/伊地知は海江田と同様、奥州の人気・地理から見て当然、白河口よりの会津征討を支持していた。鳥羽伏見・東山道進攻・宇都宮攻略と第一線の作戦指導を計画・実施して来た彼には、地形的にも最も進入の容易な白河口をことさらに避け、困難な北越より会津に入り、さらに庄内に力を分散しようとする大村の戦法は、文字通り『迂論(うろん)』に思われて理解出来なかった」(金子常規著『兵乱の維新史』(1) P.120)のである。
 大村は、越後に大規模な新政府軍を結集し、越後口からの会津征討を狙う。しかし、そこには長岡藩などとの激しい戦いが待ち受けていたのである(後述)。
 ところで、田安亀之助(徳川家達)に徳川家相続の朝旨を伝えるために、三条実美が閏4月に江戸にやって来た。この頃から、大総督府の彰義隊に対する弾圧策をちゃくちゃくと推し進める。5月1日には、大総督府は大村の献策を入れて、江戸取締りの権限を徳川慶頼から取り上げ、大総督府自らが行なうこととした。大村は、5月7日には、江戸府判事を兼任するようになり、江戸の民政も司(つかさど)ることとなる。そして、5月15日には上野戦争で彰義隊を撃破し、潰走させる。
 
Ⅴ 奥羽越における戊辰戦争の本格的開始

  (1)白河方面

 白河は、古くから「白河の関」がおかれ、東北の関門である(栃木県から福島県に入ってすぐの地点)。世良修蔵は、閏4月9日、白河城に入り、会津攻めの拠点とした。当時、白河城には同城を管理していた二本松兵のほかに、仙台・棚倉・三春・泉・湯長谷の藩兵が駐屯していた。
 だが、閏4月19日、仙台・米沢両藩主は、九条総督に会津征討攻め口の解兵を通告する(既述)。そして、仙台藩の家老・坂英力は、宇都宮方面から新政府軍が白河に入城する前に、白河を奪取すべきと会津藩家老・梶原平馬に通知した。
 閏4月20日夜明け、会津藩は白河を攻撃し、簡単に落城させた。これは実質的に、城を守っていた二本松藩兵など奥羽諸藩との「なれ合い」の戦闘であったからである。仙台藩に至っては、前日にすでに白河城を出て、北26キロの須賀川にまで後退していた。
 宇都宮・太田原と北上した伊地知正治らの新政府軍は、閏4月25日に、白河城奪還を試みるが失敗する。この戦いの時は、同盟軍は会津軍2隊と旧幕軍の純義隊・義集隊・新選組などだけだったが、26日には、会津藩白河口総督・西郷頼母(たのも)と副総督・横山主税(ちから)が率いる3中隊と1小隊が入城する。さらに28~29日には、仙台藩主将参謀・坂本大炊(おおい)率いる2大隊や棚倉藩重臣・一大隊なども入城し、同盟軍はおよそ3000名に近い規模となる。
 これに対して、閏4月25日の白河城奪回に失敗した新政府軍(西軍)は、再攻撃に向けて芦野(白河から南西16キロほど)に兵を集結する。宇都宮にあった薩摩・長州・大垣藩に加えて、因幡・備前・大村・砂土原の各藩がつぎつぎと集まり、その数は700名余りとなる。
 西軍は、前回の失敗を踏まえて、地形や敵情をよく偵察し、白河城の南正面の本道方面に大砲を集め、正面攻撃を基本とするかのように装って同盟軍(東軍)を正面に引き付け、実際は左右両翼から攻めたてる作戦を立てた。
 この結果、5月1日の戦いは、西軍の大勝利となる。この戦いでの同盟軍側の死者は、約400という説から「伊地知正治日記」のように約700という説もある。佐々木克氏によると、「一日の戦闘でこれだけの犠牲者が出たのは、戊辰戦争の全過程でこの戦闘が唯一である。一方政府軍側の死者は一〇、負傷三八名である。政府軍の大勝である。」(佐々木克著『戊辰戦争』P.138)といわれる。
 だが、西軍は白河城を占拠できたが、それ以上の追撃戦はできなかった。というのは、江戸上野の彰義隊が未だ一掃されておらず(上野戦争は5月15日)、北関東の旧幕兵のゲリラ活動もおさまっていなかったからである。
 奥羽越列藩同盟成立後の5月の後半は、断続的に小競り合いが続き、5月26日には、仙台、会津、棚倉、二本松、相馬の各藩兵を動員し、同盟軍の総攻撃が行なわれる。しかし、これは足並みがそろわず、白河城の奪回はできなかった。同盟軍は統一的な戦闘司令部がないため、これが弱点となり、5月27~28日の攻撃も成果を得ることがなかった。
 他方、西軍は板垣退助が率いる土佐藩兵が29日にようやく到着し、白河城の兵力は700弱だったのが、1500~1600名に増強された。
 6月12日、同盟軍は4度目の攻撃をかけるが、多くの死傷者を出して、今回も白河城の奪回はかなわなっかた。逆に、6月24日に、棚倉城が板垣率いる西軍によって落城する。6月中旬、新政府軍が太平洋岸の平潟港(北茨木市、福島県との県境)から続々と上陸してきたために、その方面に兵力をさいて棚倉城は手薄なのであった。(棚倉城は、白河から平潟に向かう途上、約3分の1程の地点)
 その後、同盟軍は6月25日、7月1日・15日と、白河城を攻めるが成果はあがらなかった。逆に、西軍は、会津攻めの重要な拠点である白河城を確保しつづけたのであった。

  (2)太平洋沿岸線方面

 6月6日から20日にかけて、新政府軍約1500名が、平潟(川越藩領の飛び地)に上陸した。仙台藩などは、6月初めから福島県の浜通り(福島県は「浜通り」「中通り」「会津地方」に三分される)からの新政府軍の来攻を警戒していたが、実際の平潟上陸の際には戦闘は行なわれなかった。ただ、その理由は不明である。
 新政府軍は、6月28日に泉の館(*小規模な城)、29日に湯長谷(ゆながや)の館を次ぎ次ぎと落とした。同盟軍は、6月29日の夕方、平(たいら)藩を中心に、必死に防戦した。しかし、新政府軍は、その後も兵力を増強し、7月13日早朝から平城を激しく攻撃し、ついに落城させた。その後、同盟軍は相馬(中村藩)方面に後退したが、新政府軍は一部が山間の道を通って三春方面へ、他の部隊が相馬方面に進軍した。
 守山藩(現・福島県郡山市。水戸藩の支藩)は、西軍が北上すると、7月27日、戦わずに降伏した。7月26日、三春藩も新政府側に寝返り、降伏開城した。この日、板垣退助が率いる新政府軍(西軍)が、三春城に入る。一日遅れの27日には、平(たいら)方面から進攻してきた参謀・渡辺清左衛門(大村藩)に率いられた一軍も入城した。
 27日の正午頃、渡辺軍は三春藩を先頭に小浜(三春の北12キロ)へ、板垣軍は本宮(もとみや)へ向けて進軍した。ともに二本松城を攻略するためである。ところが、板垣軍が三春入りした26日夜のうちに、すでに板垣軍の一部である薩摩の2・4・6番隊と土佐の2個小隊は、参謀である板垣の了解もとらずに、27日の夜明けには糠沢村上之内(本宮より東8キロ)で二本松兵を奇襲攻撃している。
 二本松軍の側では、本宮を占拠されれば手薄な二本松城(主力は白河方面に派遣されていた)は危機に陥るため、郡山に布陣していた大谷隊2個小隊は、夜を徹しての行軍で27日午前2時頃には本宮へ移動した。しかし、戦力の差もあって、板垣軍に押され、二本松勢は城に退却した。
 渡辺軍と板垣軍に攻め込まれ、東・西・南の三方を包囲された二本松城は、29日の正午ころに陥落した。藩側の記録では、「是(こ)の日、諸方の出兵未だ全く帰らず。城中守兵最も少(すくな)し。穏逸(おんいつ *隠居)の老人を募るに至る。然るに城中悉(ことごと)く敗れ......」(「丹羽長裕家記」)と記している。土佐の「山内豊範記」もまた、「......賊倉皇(そうこう *にわかに)措(お)く処(ところ)を知らず。或(あるい)は城中に屠腹(とふく *切腹)し或は自家に自殺し、或は突然奮戦(ふんせん)相続(あいつい)で死する者甚(はなは)だ多し。遂に自ら火を城中に放(はな)ちて遁(のがれ)る」と記している。識者によると、戊辰戦争中、最も悲惨な落城であった、と言われる。
 二本松の戦いで、省けないのは「少年隊」の戦いである。会津の白虎隊ほどには知られていないが、二本松の少年隊も壮烈な最後であった。二本松藩では、西軍を迎え撃つために、出陣年齢が下げられ、実質、13歳までが可能となった。1990年代末までの調査では、12歳1人を例外として、13歳が14人、14歳が19人、15歳が10人、16歳が12人、17歳が6人の計62名が確認されている。
 少年たちは、各方面の守備隊に編入されたが、13~14歳の少年たちの多くは、大壇(おおだん)口守備の丹羽右近隊に配属された。それは、この少年たちのほとんど(25名)が、丹羽隊の大砲方を務めている西洋流砲術指南である木村銃太郎の門下生であったためと考えられる。
 木村の指揮下の少年たちの砲撃は、正確だったようである。確実に薩摩兵を捕えていた。しかし、西軍の兵3000人に対して、右近隊はせいぜい100名程であり、新手の敵を前にして、少年たちは次々と倒れる。この中で、隊長の木村も重傷を負い、もはや帰城できないことを覚った木村は、首を斬ることを命ずる。おろおろする少年たちはそれができず、副隊長の二階堂衛守(えもり *33歳)が行なう。しかし、一太刀目は仕損じ、二太刀目でようやく斬り落とした。少年たちは泣きながら棒や素手で穴を掘り、木村の屍(しかばね)を埋め、首を持ち帰ろうとした。しかし、首は重く一人では持てず、二人で左右から髪を持って退却した。しかし、退却中も、何人かは敵の一斉射撃に倒れている。二本松城の悲惨な戦いは、後の会津に匹敵するものである。
 戦況がおもわしくない同盟軍の仙台や米沢の藩兵は、しだいに自国領に後退した。すると、相馬の中村藩一人が、前面の強大な敵と対峙する恰好(かっこう)となった。8月4日、中村藩は敵に内通し、6日には正式に降伏した。このようにして、浜通りは新政府軍が制圧した。なお、8月7日に、仙台追討総督の四条隆謌(たかうた)が中村城に入り、以降、10月まで同所を新政府軍の本部とした。8月9日から仙台藩は国境の駒ヶ嶺などで戦ったが、9月10日が最後の激突であった。同日、仙台藩は藩議で降伏を決し、同月15日に正式に降伏を請うた。

  (3)秋田方面

 世良が処刑(閏4月20日)され、奥羽列藩同盟が成立(5月3日)した以降、奥羽鎮撫総督府の3卿(九条・沢・醍醐)は、まさに漂流状態となった。
 新庄(山形県)にいた沢らは、5月9日、秋田に移る。しかし、同盟路線をとった秋田藩は沢一行の滞在を歓迎しない。沢らは津軽から箱館を目指し、5月16日、大館(秋田県)まで進む。しかし、津軽藩は沢らの入国をこばんだため、しばらく大館に滞在することとなる。
 九条・醍醐らは世良亡きあとは、実質的に、仙台藩に約1カ月間、軟禁状態という憂き目にあう。総督府としての機能は、完全に麻痺した。
 佐賀藩の前山精一郎は、新政府軍の参謀として、増援の佐賀・小倉2藩の兵900を率いて、5月1日、松島湾(宮城県)の東名浜(とうなはま)に上陸する。5月10日、仙台に入った前山は、近代兵器で武装した兵の力を背景に、家老の但木と談判し、九条らの各藩巡行という名目で仙台を脱出する。 
 九条・醍醐・前山らは、6月3日に、盛岡に到着するが、ここも安心できないとさらに秋田を目指し7月1日に着いた。ここで九条らは沢らと合流する。「九条に随行してきた兵は、佐賀七五三、小倉一四二、沢随行のものは、薩摩一〇三、長州一〇六、筑前一四一、計一二四五である。総督、副総督、政府軍兵士の総結集は、秋田藩に強大な威圧を与えた。」(佐々木克著『戊辰戦争』P.144)のであった。
 奥羽鎮撫府は、ここでようやく新政府軍の一定の結集を獲得し、またそれにより秋田藩を統制下に組み込み、やっと自立的な行動を得ることができるようになった。
 だが、列藩同盟の側も、仙台藩士・志茂又左衛門を正使とする使節団を送り、三卿の引渡しと薩長兵などの排撃を要求した。志茂のバックには、仙台藩、米沢藩などの兵が新庄(山形県)にまで進出してきていたことがある。
 秋田藩の重臣会議は、3日間も議論を続けた。新政府につく派と同盟路線の派とが拮抗していたのである。勤王派の若手藩士らは、重臣を突き上げ、藩主に決断させ、「奥羽越列藩同盟からの離反・庄内討ち入り」を決定させた。そして、7月4日、秋田藩は九条総督に出陣、先鋒を申し出る。
 同日、秋田藩へ送りこまれた列藩同盟の使節団(仙台藩士)11名のうち、6名が秋田藩勤王派によって殺され、5人が捕らえられた。勤王派は同盟擁護派の重臣を襲撃し、一気に藩論を決定しようと考えていたが、それを聞いた総督府は内密に、使節団を襲うように計画の変更を指示したのであった。惨劇はさらに続き、志茂の弟丁吉と従者が兄に会いに来たところを捕縛され、さきの5人とともに処刑されたのであった。また、白石会議に出席し、同盟参加を推進した家老・十村十太夫は隠居させられた。
 7月10日、列藩同盟を脱盟した秋田藩は、総督府軍と合して、兵を海道口と山道口に分け進撃し、12日には新庄藩に入った(新庄藩はすでに総督府に内応していた)。しかし、13~14日に庄内藩に逆襲され、新庄が落城する。それからは、総督府軍と秋田軍は連戦連敗となる。「庄内・仙台両藩を主体に編成された同盟軍は、七月末には秋田藩内に進攻し、八月一一日には支城横手城を攻略して秋田領南部の雄勝・平鹿の両郡をほぼ制圧、八月下旬には仙北平野中部で、玉川と雄物川をはさんで戦闘を展開した。」(同前、P.145)のであった。
 他方、日本海沿岸の海道口でも、両軍ははげしく戦った。7月14~16日、三崎峠(秋田県と山形県の県境。日本海に近い)をめぐる攻防は、結局、庄内軍がよく守り抜き、総督府軍は三崎峠を抜くことはできなかった。
 7月20日、庄内藩主の酒井忠篤(ただすみ)が、海道口の戦況視察と督励にやってきた。ここで、庄内藩は鶴岡―久保田間の最短ルートの海道口を反攻する計画を決定した。 
 海道口からの総督府軍の侵攻に危険性を改めて感じた庄内藩は、三番大隊と四番大隊の編成を行ない、酒井兵部の率いる三番大隊は街道を北上して攻勢に出ることとした。水野藤弥が率いる四番大隊は、総督府軍の防備が比較的薄いと見られる鳥海山東側から矢島藩領を攻撃し、街道をすすむ三番大隊を掩護(えんご)する計画である。この四番大隊には、新徴組と新整組が配属された。両組はともに江戸市中取り締りに当たった精強な浪士集団である。
 7月28日明け方、新徴組は矢島(鳥海山と本荘市との中間ほど)を襲う。総督府軍は、大部分が百宅方面や、あるいは三崎峠に応援に出払っており、陣屋は手薄であり、矢島は陥落した。他方、庄内藩三番大隊は、8月1日、かねての計画にしたがい街道を北上する。戦闘に入ると佐賀藩の新式後装銃が、威力を発揮する。しかし、理由はわからないが総督府軍は金浦まで後退する。翌2日には、本荘に後退した。
 だが、総督府軍には、強力な増援豚が派遣されてきた。久保田にいた佐賀藩隊のうち約200名が、8月4日夕方、本荘(ほんじょう)に到着したのである。翌5日、総督府軍はさっそく反攻を開始し、激戦となる。庄内軍は厳しい戦いを強いられるが、支藩出羽松山藩や他の応援で勢いを盛り返す。
 8月5日の夜、総督府軍は突然全軍の本荘撤退を決定し、翌6日、本荘を放棄することとなる。理由は、本荘の北に位置する亀田藩が総督府軍から離反したためである。亀田藩は、総督府軍上層部に冷遇され、亀田藩の神谷男也隊長が総督府監軍・山本登雲介に打擲(ちょうちゃく)されるという屈辱的な事件も起きていた。総督府軍は、本荘を捨て長浜にまで退いた。長浜は、秋田藩領久保田まで10キロもない地点である。
 この後も、庄内軍はじりじりと総督府軍・秋田軍を圧迫し追い詰めていき、一時は秋田藩領にまで討ち入るが、9月19日に突然、秋田藩内から全軍が退却する。新政府軍に降伏した仙台藩や米沢藩が、今度は庄内藩に攻め込む動きが始まったからである。この頃、同盟軍のうちで全藩をもって戦っているのは、庄内藩と会津藩の2藩だけであった。

   (4)盛岡藩と津軽藩

 盛岡藩には、仙台藩を通じて会津を討つべきとの朝命が伝達された。だが、仙台藩は朝命に対して積極的ではなかった。盛岡藩内も、勤皇方と佐幕派の間で激論がかわされ、中々藩論が統一されなかった。
 盛岡藩家老・楢山佐渡(隆吉 *藩主南部利剛〔としみち〕の従兄弟)は、新政府の上洛の命に応えて、1868(慶応4)年2月には兵200名と共に上京し、京都情勢の実際を調査した。その結果、楢山は"薩長の専横は著しい、新政府は支持できない"という判断を下した。
 楢山と同行した目付目時(めとき)隆之進は、新政府を支持し、数人の仲間と共に脱走し、目付の中嶋源蔵は自害して、楢山を諫めた。しかし、楢山の判断は変わらなかった。同年7月16日、帰国して登城した楢山は重臣たちに奥羽列藩同盟の支持を説いた。これにより、新政府側につくかどうか結論を延ばしてきた盛岡藩は、ようやく藩論を統一できた。それは、奥羽越列藩同盟の盟約を守り、秋田の佐竹藩討伐を宣言することであった。
 盛岡藩は、①鹿角(かづの)口を主力方面とし、②雫石(しずくいし)口を第二正面とし、③津軽藩に対する押えとして野辺地(のへじ)に軍事局を設ける―など、三方面軍を編成した。
 7月27日、楢山と向井蔵人(くらんど)を総大将とした総勢2000余名は秋田に出陣した。8月8日、国境鹿角口に兵を進めた楢山は、秋田藩十二所(じゅうにしょ)館(だて)の守将茂木筑後に、"奥羽同盟の御趣意に立ち戻る"ことを促す書状を送る。しかし、茂木はこれを拒否した。
 楢山隊は、8月10日に十二所館を攻撃した。わずか3時間の戦闘ののち、12時ごろに茂木は館に火を放ち退却した(当時、秋田藩は総督府の命令で多くの兵を庄内攻撃に向けていた)。盛岡藩は8月22日には、要衝である大舘(おおだて)城を落城させた。さらに盛岡藩兵は米代川沿いの羽州街道を西に進み、二ツ井(大舘から能代を結ぶ線の3分の2ほど進んだ地点)まで進撃した。
 秋田の総督府は、背後から迫りくる盛岡軍の脅威に対し、直ちに対策を立てた。そして、秋田軍とこれを支援する肥前・島原・大村などの諸藩兵をつぎつぎと二ツ井に集結させ、反撃に向かわせた。その総兵力は1400名に上ったと言われる。
 盛岡軍の西進は二ツ井までであった。近代的な武器に装備された肥前・鍋島軍に攻撃され、盛岡軍は次第に後退する。8月29日には川口(大舘西方4キロ)へ後退する。9月2日には、岩瀬(大舘西方6キロ)で両軍は遭遇し激しい戦闘となったが、一進一退の攻防を繰りひろげつつも、盛岡軍は大舘へ後退する。9月4日の大館城西方での戦いでは、西軍には津軽藩二小隊も加わっていた。だが、盛岡軍の方は、兵器・弾薬の補給も続かず、兵の疲労の色がますます濃くなっていった。その夜の軍議で、盛岡軍は大館城を放棄し、さらに国境まで退いてそこで防戦することに決定した。
 というのは、9月3日に大舘後方の要衝・扇田が西軍に奪回されたとの報告があり、退路をたたれる恐れが出てきたからである。9月5日の夜更けから翌6日にかけて、盛岡軍は西軍に察知されることなく、総退却を行なった。その後も、盛岡軍は十二所の奪回を試みて度々攻撃にでたが、成功していない。
 9月10日には、陸奥湾の最深部に位置する野辺地(のへじ)港で、突然砲声が鳴り響いた。佐賀藩士中牟田倉之助が指揮する秋田軍艦春陽丸が、港内に侵入し砲撃したのである。盛岡軍も反撃し、そのうち三発が敵艦に命中し、春陽丸は撤退した。
 その後、鹿角口では休戦状態に入っていたが、9月23日、津軽軍は野辺地に近い藩境馬門(まかど)村を急襲した。休戦に入っているにもかかわらず津軽軍が侵入してきた理由は正確には分からないが、藩境拡大の狙いがあったと思われる。だが、この戦いは盛岡軍の救援隊が津軽軍の横合いから攻撃し、津軽軍は大敗した。
 9月20日朝、藩主南部利剛(としひさ)からの奉書があり、そこには"米沢・仙台すでに降伏し、奥羽列藩すべて降伏謝罪に決した。従がって此方も右に準じ申し出で含みの事"とあった。
 盛岡藩は、すべての武装を解除し、10月10日、正式に盛岡城を開城し降伏した。 

   (5)越後方面

 大総督府は、4月19日、北陸道鎮撫総督・高倉永?(ながさち)に会津征討総督を兼ねさせ、新たに黒田了介(清隆 *薩摩藩)・山県狂介(有朋 *長州藩)を参謀に任命した。
 大村益次郎らの、会津攻めを目指して越後口主攻とする方針によって、新政府軍がぞくぞくと高田(上越市)へ終結する。さる4月25日、飯山(信州)戦争で、古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊を敗走させた岩村高俊(精一郎 土佐藩 *岩村通俊・林有造の弟)率いる東山道軍は、閏4月7日、新井に集結し、黒田・山県などの諸勢力が高田付近に集結することを掩護(えんご)した。
 黒田・山県に率いられた薩摩・長州などの諸藩兵は、閏4月17日に高田に到着する(高倉総督、四条副総督は5月8日に高田入り)。閏4月19日現在、新政府軍の高田到着の兵力は、岩村勢をふくめ約1万名である。外に高田藩兵が加わっている。この中でもっとも多いのは加賀藩(支藩を含め)で4400弱、次いで薩摩藩1600、松代藩1500弱、尾張藩1150、長州藩(支藩も含め)約1000などである。大村益次郎らの方針で、北越攻撃のために1万もの大兵力が投入されたのであった。
 越後にはもともと、新潟奉行所および水原・出雲崎・川浦の代官所の支配地約17万石があり、さらに桑名・会津・米沢・新発田・高田5藩の預地(あずかりち *幕府に代わって経営する)を合せると約30万石ほどの幕領がある。会津藩は蒲原(かんばら)・魚沼地方に5万石、桑名藩は蒲原・刈羽(かりわ)地方に6万石の預地をもち、両藩は預地をふくめて約20万石ほどの地域を支配し、幕府支持勢力の中心として越後諸藩への影響力は極めて強かった。
 また、新潟港は、軍事的に重要な位置をしめた。当時、新潟港は正式には開港場となっていなかったが、5月中旬ころから外国人の渡来がひんぱんとなり、実質的に開港したのも同然であった。諸外国は戊辰戦争に対して、局外中立を布告しており、彼らが奥羽越列藩同盟を新政府の交戦団体として認めれば、同盟によって新潟港が開港されることも理論的にありうるわけである。
 新潟管理を新政府に委任されていた旧幕臣田中廉太郎は、新潟を預かり所の名目で、5月30日、米沢藩に引き渡した。列藩同盟では、越後方面の軍事担当は米沢藩であり、6月1日に、米沢支藩の藩主上杉勝憲が接収し、約200名の守兵で、新潟の管理をおこなった。その後、米沢藩は仙台・会津・庄内の各藩と共同で新潟港を管理し、会議所も置かれ、新潟港は列藩同盟の重要な補給港となった。実際、オランダ商人スネルは、戊辰戦争期に米沢藩に売り払った武器・火薬などは計11万6660ドルであったと言われる。列藩同盟にとって、新潟港は継戦能力を維持するうえで、極めて重要な港であった。
 閏4月下旬に高田に集結した新政府軍は、軍議の結果、諸隊を海道軍(本隊)と山道軍(支隊)の二手に分け、山道軍は岩村が指揮し、山道から会津軍の根拠地である小千谷(おぢや)へ、海道軍は山県・黒田が指揮し、海道から桑名藩主・松平定敬(さだあき)の本営がある柏崎へむかい、さらに両隊は長岡を挟撃し、ついで新潟を占領して、会津の左翼を包囲する作戦であった。軍は、閏4月21日をもって、進撃することとなった。
 山道軍(西軍)は、閏4月26日の雪峠の戦いを経て、27日に小千谷を占領した。山道軍(西軍)は千手(せんじゅ)村(中魚沼郡川西町)で分かれ、本隊は岩村が率いて小千谷にむかったが、もう一隊は十日町から六日町にむかい、三国街道の三国峠と会津藩の陣屋のある小出島(こいでじま)の会津軍(東軍)にあたることとした。三国峠では東軍は一挙に打ち破られる(閏4月24日)が、小出島では激戦となる(同月27日)。だが、会津側は正規兵が少なく農兵などで補った部隊であったため敗れ、六十里越方面へ敗走した。小出島の戦いは市街戦となり、168軒以上が焼失した。
 海道軍(西軍)は、閏4月23日に柿崎を通り、27日には鯨波(くじらなみ *柏崎の南2キロ)で戦いが起こり、桑名兵(東軍)などは奮戦し、敵を撃退した。しかし、雪峠、小出島の敗報が伝わると、柏崎で戦うのは背後をつかれ不利となると見て、衝鋒隊(古屋佐久左衛門)は妙法寺付近に、桑名藩兵と水戸諸生党(水戸天狗党と対立した水戸藩門閥層が率いた)は宮川へと、ともに柏崎よりは北方に後退した。西軍は、閏4月29日に、柏崎を占拠した。   
 越後諸藩も、奥羽諸藩同様に、大政奉還による新政府成立いらい、激動する政局に動揺し、どのように対処すべきか迷う藩が多かった。中でも、村上藩・村松藩では、勤王派と佐幕派の対立が激しかった。村松藩では勤王派が藩主に迫りヘゲモニーをとったが、1867(慶応3)年5月に中心メンバーが処刑され、佐幕派に取り返された。新発田藩も早くから藩論は勤王にまとまっていたが、奥羽列藩同盟の圧力を前にして日和見(ひよりみ)に陥(おちい)って行った。これら越後諸藩の中にあって、長岡藩は異なっていた。家老・河合継之助の指導の下に、確固とした武装「中立」主義の立場をとり、藩内を統制するとともに、北陸道鎮撫総督の同藩に対する出兵や献金の要求にも応じてこなかった。
 だが、新政府軍がついに小千谷にまで到達するや、河合は自藩を護(まも)るために、会津藩と新政府との和睦をはかろうと、西軍の責任者との会見を申し入れた。会見は、5月2日、小千谷の慈眼寺で、河合と岩村の間で行なわれた。河合は会津を説得するので西軍の進軍をしばらく待ってほしいと要請した。しかし、岩村はこれが時間稼ぎの行為でしかないとして拒否した。河合は必死にねばったが、ついに会談は決裂した。長岡藩が奥羽列藩同盟に加盟したのは、この後である。
 長岡城攻略をめぐる戦闘の前哨戦は、5月3日の片貝(小千谷の西北)の戦いで始まる。会津藩は長岡藩を味方に引き入れるために、小千谷を攻撃するのに絶好の位置にある片貝の確保を謀ったのである。しかし、片貝をめぐる戦闘では、結局、会津藩の敗北となる。しかし結果的に、これにより長岡藩は奥羽同盟軍の味方になるのであった。
 5月9日、長岡城で、長岡藩の河合、会津藩の一ノ瀬要人・佐川官兵衛、桑名藩の山脇十左衛門、衝鋒隊の古屋佐久左衛門らが集まって、軍議を行なった。これにより、5月10日に、藩境付近の要衝・榎(えのき)峠を奪回する作戦が決まった。榎峠は長岡から12キロあまり南にあり、三国街道の難所で信濃川の切り立った断崖上の峠であり、長岡第一の要地である。榎峠は、5月3日、河合・岩村会談が決裂した翌日、西軍によって奪取されていた。榎峠奪回は、長岡藩・会津藩・桑名藩・衝鋒隊の協同作戦で成功する。
 その後、榎峠の戦いは激しく行なわれた(5月10~18日)が、損害ばかり多く膠着(こうちゃく)状態に陥り、西軍の山県参謀は、榎峠からの長岡進攻をあきらめた。代わりに三仏生(さんぶしょう *信濃川をはさんで榎峠の反対側)の大軍を信濃川に沿って、長岡城の対岸である本大島や槇下に移動させ、そこから渡河し、直接長岡城を攻めることとした。これが行なわれたのは、5月19日であった。長岡軍は主力が榎峠方面に出払っており、城中には兵が少なく、西軍の大軍の前にあえなく敗れてしまった。長岡城の落城で、藩主の牧野忠訓(ただくに)一行は、栃尾(とちお)へ避難し、後さらに会津へ落ちた。
 この日、摂田屋(せったや)の本陣で指揮をとっていた河合継之助は、敵の攻撃を知ると城に戻り、当時日本に三門だけ輸入されていた自動速射のガットリング砲をもって自ら敵を迎え撃ったが、左肩を負傷し、ついに兵をまとめて栃尾の葎谷(むぐらだに)に退却した。
 長岡城の陥落により、戦線は一挙に森立峠・見附・今町あたりまで拡大した。こんな中、長岡落城を聞いて同盟軍の応援兵が相次いで、越後に入ってきた。庄内・米沢・上ノ山の諸藩兵である。
 庄内藩兵は5月22日、主将石原多門を先頭に近代的装備で水原(すいばら)軍議所に到着すると、米沢藩や会津藩の諸将と軍議をもった。その結果、米沢藩は長岡藩を応援し、会津藩は諸々一般の活動、庄内藩は弥彦(やひこ)方面、日本海側の防備を担当することとなった。
 同じ5月22日、葎谷に集結した長岡兵は、本営を加茂(現・新潟県加茂市。三条市の東隣)に移した。この加茂には長岡落城後、会津・桑名・長岡・村松藩兵が逃れて来ており、それらの兵を再編成した。そこに米沢藩の中条豊前・甘糟備後らが応援に入ってきた。
 東軍の諸将は、5月22~23日と長岡城奪還のための同盟軍会議を開く。この結果、
反攻作戦は米沢藩の甘糟備後の提案で次のように決まった。「第一軍は、米沢および会津・衝鋒隊を合して、長岡口へ進撃し、見附を占領すべし、中条豊前が総指揮をする。長岡・村松の兵も、この軍に属する。/第二軍は、会津、桑名、上ノ山の兵で組織し与板口に赴き、まず三条より地蔵堂に進軍して与板城を攻略する。この指揮は一ノ瀬要人(*会津藩)がとる。/第三軍は、出雲崎口へ。会津、庄内、山形、三根山の各藩兵とそれに水戸藩諸生党が担当。」(菊地明・伊東成郎編『戊辰戦争全史』上 新人物往来社 1998年 P.204)と。
 戦闘は、5月24日以降、主に見附北方や与板付近で小戦闘があったが、西軍は東軍の攻撃をはねかえした。与板藩は越後に於ける唯一の勤王藩と言ってもよい藩(彦根藩支藩)であるが、5月28日に旧幕府軍によって炎上させられる。だが、西軍はつぎつぎと増援部隊を投入し、両軍は激戦となる。西軍は6月末、与板城五里四方を防備し、与板城を守り抜いた。与板城をめぐる攻防は5月末から60日余にまで及んだ。
 東軍が大きな戦果を挙げたのは、今町の奪回である。今町は南蒲原郡の交通の要衝である。河合ら同盟軍は6月1日に加茂を立ち、翌2日、激戦を展開し、ようやく今町を攻略することができた。長岡城下の西軍会議所は、今町の敗戦を聞き、武器・弾薬を信濃川の西側に避難させるとともに、栃尾・見附の兵も引き上げさせた。今町の確保は、東軍にとって一気に長岡城下近くに迫ったことを意味する。
 奥羽越列藩同盟の盟約により、長岡方面の担当は米沢藩である。6月7日に、米沢藩を主力に大口村の戦いが行なわれたが、西軍の反撃に抗することができなかった。米沢藩の戦いは余りにも古典的であり、近代装備もなかった。6月8日には、森立峠で戦闘が行われた。森立峠は、長岡から栃尾へ行く最短の道程にある峠である。東軍の主力は長岡藩兵であったが、戦いに勝敗はつかなかった。
 6月13日の軍議で、同盟軍(東軍)は米沢藩の最高指揮官・千坂太郎左衛門を総督とし、翌14日に、同盟軍の第二次反撃として、見附口近辺で総攻撃を行なうことを申し合わせた。戦闘は、川辺・十二潟・筒場・大黒などで17日頃まで行なわれたが、成功しなかった。
 その後も、小競り合いが続いたが、越後戦線は膠着(こうちゃく)化の様相を呈しはじめた。そんな折りの6月21日、同盟軍は夜陰に乗じて、ふたたび総攻撃を企図した。
「その構想は、東の高地脚の亀崎や西の川辺・十二潟等を一部で攻撃して当面の官軍を釘着けにし、その中間地帯を長岡兵四個小隊・米藩(*米沢藩)二個小隊・会(*会津藩)の先行隊六名(突入に成功すれば会兵二個小隊も続行する予定で六名はその誘導要員)が夜暗に乗じて四つ谷(*四ツ屋)を出発し、西部八丁沖(*八町沖)の深田地帯を抜けて福島に突入、これを占領して突破口を形勢しよう」(金子常規著『兵乱の維新史(1)』 P.157)というのである。
 この第一次八丁沖作戦は、結果的には失敗する。その後、越後戦線は6月下旬から1カ月以上も膠着状態となる。両軍とも兵力が足りずその補充に手間どったことと、方針が指導部間でなかなか一致しなかったためである。
 この間、西軍は、兵力・武器の増強を続け、6月から7月中旬までに新たに投入した兵数は3000人余と言われ、鉄砲・弾薬も急ピッチで輸送された。西軍は、こうして7月25日をもって、総攻撃にかかる計画を立てた。
 ところが、河合も同じ頃、現状打開の策を練っていた。「河合の計画では、長岡に決死の突入をはかり、長岡占領に成功したら、全軍をあげて小千谷を占拠し柏崎の敵本営を衝(つ)き、最終的には政府軍を越後国外に駆逐しようという壮大なプランであった。」(佐々木克著『戊辰戦争』 P.179)と言われる。
 河合の長岡城奪回作戦の構想は、天然の難所である八町(八丁)沖(沼沢地)を突破し、敵の裏側に出てせん滅する6月21日の作戦に着想を得たものである。
 河合の作戦を決行する予定日は、7月20日であった。だが、この頃、数日まえからの雨で、城の北東にある沼沢地・八丁沖が増水し渡ることが出来ず、24日に延期となった。
 長岡奪還作戦での、八丁沖突破作戦を敢行した兵は約700人、ほとんどが長岡藩兵である。作戦は日没を待って開始され、長岡城の東北約4キロにあった沼地・八丁沖を全軍が渡りきるのに数時間を要したといわれる。西軍は主力を今町方面などに移動させていたこともあり、河合継之助の作戦は、見事に成功した。長岡に居た西園寺公望・山県有朋・前原一誠など幹部たちは、ほうほうの体でやっと脱出できた。同盟軍は、5月19日いらい、2か月余ぶりに長岡城を奪回したのである。しかし、河合はこの戦いで、左足に骨折銃創の重傷を負い、小千谷・柏崎方面への追撃はできなかった。
 他方、西軍は先述したように総攻撃を計画していた。黒田了介参謀は、新発田藩が内応するという情報を入手し、同盟軍の背後から兵力を上陸させ、同時に長岡方面からも攻撃し、腹背から一挙に同盟軍を撃破する計画をたてた。だが長岡方面は、河合らに先手を打たれて大敗北した。しかし、西軍の作戦は予定どうりに行なわれ、7月25日、軍艦2隻に守られて西軍は、阿賀野川の河口に近い松ヶ崎・太夫浜に上陸し、新発田藩兵を嚮導(きょうどう)として、新発田方面と新潟方面に進撃した。新潟では、米沢藩家老・色部(いろべ)長門(ながと)が指揮をとって守っていたが、29日に陥落した。この戦いで、色部は戦死した。この29日には、同盟軍が奪回した長岡城が、ふたたび西軍によって奪われてもいる。
 こうして、2か月以上も西軍の越後進攻を防いでいた同盟軍は、新潟・長岡の戦略的要地を占領される事態に陥り、8月4日に村松城が、同月11日には村上城が降伏し、新潟平野は完全に西軍の支配するところとなった。これより戦線は、会津・米沢・庄内地方へ移っていく。

   (6)会津決戦

 「太平洋海岸線方面」で述べたように、浜通りの列藩同盟の諸藩が降伏する中で、7月29日に二本松城が占領される。しかし、その後の展望に関しては、西軍内部では種々議論が分かれていた。
 参謀・渡辺清左衛門(大村藩)によると、「八月、此(この)時ニ当タリ大総督宮(*有栖川宮)、東京ニ在(あり)、令ヲ伝(つたえ)テ曰(いわく)『海路ヨリ進ム所ノ兵ハ仙台ヲ抜クノ後、之(これ)ヲ三分シ、一分ハ羽州(*出羽)ニ向イ、秋田ノ官軍ヲ援(たす)ケヨ。二分ハ白河道ノ軍ト合議シ、米沢ヲ抜キ、進テ会津ニ入ルベシ』」(『渡辺清事蹟』)と命じている。未だに、現地の戦況が理解できていないのである。
 しかし、現地の参謀たちは、「仙台―米沢―会津の順に進撃していたのでは降雪期になってしまう。暖国の兵ではとても戦えない」(『戊辰戦争全史』下 P.65)と評議しているのである。すると、そこへまた大総督府の命令があって、「旧幕軍艦脱走、奥州ニ向ウ。其(その)意、蓋(けだし)小浜ノ石炭ヲ奪イ、磐城平ノ虚ニ乗ジ、我軍ノ後ヲ襲ワント欲ス。宜(よろ)シク兵ヲ分(わかち)テ、之(これ)ガ備(そな)エヲ為(な)スベシ」という。
 しかし、これに対しても現地は、次のような態度をとる。「我軍寡少(かしょう)二千ニ満(み)タズト雖(いえども)、未ダ嘗(かつ)テ一敗セザルモノハ、進退、能(よ)ク合(がっ)スルヲ以テナリ。今、之ヲ分(わ)ケ備(そなえ)ヲ為ス、策ノ善ナル者ニ非(あら)ズ。仮令(たとえ)、他日(たじつ)違令ノ刑ヲ受(う)クルモ、豈(あに)、此(この)令ニ従イ、全軍ノ敗ヲ取ルニ忍(しの)ビンヤ。宜(よろし)ク衆力ヲ合シ、直(ただち)ニ賊魁(ぞくかい *賊の頭)在(あ)ル所ノ会津ヲ突キ、殊死(しゅし *死の覚悟でかかる)決戦、以テ万賊ノ肝ヲ奪ウベシ。顧(かえりみる)ニ越後ノ兵、既(すで)ニ新潟ヲ取リ、将(ま)サニ津川ニ至ラントス。宜シク之ト合シ、会津ヲ抜キ、米沢ヲ討タン。米沢、既ニ抜バ、秋田ノ難、随(したがっ)テ解(と)ケン。脱艦、何ゾ恐ルルニ足ラン。且(かつ)、諸賊、今、兵ヲ各所ニ出シ我ニ備ウ。我、其(その)一方ヲ破リ、彼レ、未ダ集(あつま)ラザルニ乗ジ、速(すみやか)ニ彼ガ本城ヲ抜クベシ。之ヲ巧(こう)ノ遅キニ失(うしな)ワンヨリ、寧(むし)ロ拙(せつ)ノ速ニ得ルニ如(し)カズ」(『渡辺清事蹟』)と。
 大総督府は、大村益次郎提唱の迂回策を未だ以て抜け出していないのである。
 当時(8月)、会津藩は藩境の警備に力をいれていた。この頃の会津領周辺の状況を見てみると、以下のようなものである。まず、北方の大峠や檜原峠は、米沢藩領に接しており、それほどの警戒はしていない(米沢藩が降伏するのは9月4日)。東方の土湯峠は福島藩や二本松藩と境を接しているが、母成(ぼなり)・中山・勢至堂(せいしどう)の各峠は、5月に白河が陥落し、7月29日には二本松城が落城しており、危機は目前に迫っている。南方の山王峠は、日光・今市の戦闘によってすでに4月ころから重視されてきた。西方の越後口は、7月末に長岡・新潟が西軍に支配され、8月10日には、阿賀野川沿いの国境・小松(津川の北西17キロ)の陣地が陥落している。しかし、津川(新潟県東蒲原郡の中央部に位置する。東は福島県耶麻〔やま〕郡西会津町と境を接する)近辺での戦いで、会津兵は奮闘し、西軍の東進をよく防いでいた。8月23日からの若松城をめぐる戦いに加わるために会津兵は26日には、会津平野の入口・塔寺村周辺まで撤退した。この後、山県有朋が率いる西軍は、阿賀野川に沿って、一気に会津平野を目指すことができた。
 西軍で、会津兵の警備を突破し城下に最初に迫ったのは、伊地知正治・板垣退助・渡辺清左衛門らが率いる西軍(南方と東方から進撃して来た)である。
 彼らは、大総督府の迂回方針を否定し、攻撃目標を明確に会津に定めた。しかし、会津への進入経路は、石筵(いしむしろ)口・中山口・御霊櫃(ごれいびつ)口の三つのルートがあり、どれを採るかで彼らの間でも意見が違っていた。
 伊地知参謀は、"中山口は道路が険しくないが、両側に山が迫っており戦うのに不利である。石筵道は険しいが、左右は広い原で戦いやすい"と、石筵口、すなわち母成峠からの進入を主張した。板垣退助は、かねてより御霊櫃口のルートを主張していた。それは、母成で勝っても、敵が十六橋を断てば容易に進めず、その内に米沢藩が背後から迫れば敗北となる―からである。したがって、「陽ニ中山口進撃ト唱エ、横川ニ声援ヲ張リ、道ヲ御霊櫃ニ転ジ、進ンデ三代ニ出テ、是時(このとき)、白河ノ官兵ヲ長沼ニ進メ、勢至堂ヲ狭マバ、賊、前後ニ敵ヲ受ケ、戦ワズシテ走ラン。而(しこう)シテ長沼ノ官兵、勢至堂ヲ取ラバ我(わが)根本、自ラ堅ク、且(かつ)、運輸ニ便ナラン」(「山内豊範家記」)と主張した。
 両者、主張を変えず、一旦はそれぞれのコースを採ることになったが、長州の桃村初蔵が土佐を説得し、石筵口に兵力を集中して進軍することとなった。母成峠の会津側守備隊は、大鳥圭介が率いる伝習第一大隊と新撰組、それに若干の藩兵に過ぎなかった。主力は、二本松城攻撃のため、出払っていた。8月21日早朝、西軍は3隊に分かれて進撃し、会津側守備隊を敗走させた。22日には、西軍は猪苗代町を攻撃する予定であったが、しかし猪苗代城はすでに放棄されていた。そこで西軍は先に進み、薩摩の川村与十郎(純義)隊や板垣隊などにより懸案の十六橋を確保した。
 十六橋は、猪苗代湖から流れ出る唯一の川・日橋川にかかる橋で、最も湖に近い橋であった。十六橋は急流にかかる堅牢な石橋である。通説にも言われるように、この橋を落とすことによって、西軍の進撃に大きなブレーキをかけることが出来たであろう。しかし、橋は会津藩側が破壊工作中に、西軍に急襲され、占領されてしまった。これには、破壊工事の人数が不足していたこと(準備不足も含め)、橋自身が堅牢だったこと、味方の撤退ルートでもあり、破壊のタイミングをはかることが困難だったこと―などが理由として挙げられる。
 母成(もなり)峠陥落・猪苗代放棄の報告を受けた藩主・容保(家督を譲った養嗣子喜徳〔のぶもり〕が若年のため、引き続き政務をとっていた)は、軍を督励するために、老人・年少者・他藩の浪士などを急きょ集め、正午ごろ城を立ち、滝沢村(若松市から東北方へ約4キロ。江戸街道が会津平野に入る第一番目の宿駅)に陣をとる。この藩主を護衛したのが、後に有名になる白虎隊士中二番隊である。なお、桑名藩主で容保の実弟の松平定敬(さだあき)も滝沢に出陣している。
 会津藩は、1868(慶応4)年3月、天明期以来の長沼流を捨てて、洋式の軍制への切り替えを行なった。それによると、部隊を年齢別に改編し、機動力を確保した。18~35歳までの朱雀隊、36~49歳の青竜隊、50歳以上の玄武隊、そして16~17歳の白虎隊である。朱雀隊は実戦機動部隊であり、青竜隊は封境守備隊であり、玄武隊・白虎隊は予備隊である。この四隊をさらに封建的秩序らしく、それぞれ階層ごとに分けている。部隊編成は、次のごとくである。
朱雀隊―士中一番~四番隊約400人、寄合一番~四番隊約400人、足軽一番~四番隊
   約400人。
青竜隊―士中一番~三番隊約300人、寄合一番~二番隊約200人、足軽一番~四番隊 
   約400人。 
玄武隊―士中一番隊約100人、寄合一番隊約100人、足軽一番~二番隊約200人。
白虎隊―士中一番~二番隊約200人、寄合一番~二番隊約100人、足軽一番~二番隊
   約100人。
 このほかに、砲兵隊、游撃隊などを加えて、約3000余人で正規軍が編成された。また、農兵・町兵の募集も行なわれ、約3000人が組織され、さらに猟師隊・修験隊・力士隊も組織された。これらを合わせると、会津藩の全兵力は7000人余に達すると言われる。
 戦闘は、8月23日早朝から開始された。戸の口原まで進出して戦った白虎隊士中番隊などは、圧倒的な兵力と武器の差、さらには部隊運用の差で敗北する。白虎隊も3つぐらいのグループに離散し、そのうちの10数人が撤退する渦中に、飯盛山で自決する(その数、自決の様はよくわからない点がある)。
 撤退する会津兵などと進撃する西軍は、あたかも競争するかの呈(てい)で、若松城に殺到する。外郭の諸門はたちまち敗れ、外郭内の武家屋敷は騒然となり、三の丸も西軍に侵入される。会津側は、外郭・三の丸をうち捨て、かろうじて二の丸に逃げ込み、固く門を閉めて防御につとめた。
 以降、母成方面や白河口大平方面、勢至堂以北など各地の兵が続々と帰城する。さらに8月23日の若松城の変を聞いた藩境方面の兵も次ぎ次ぎと帰城する。堅固な城を固く守備し、兵糧米を藩内から城に搬入し、時には城から打って出る(8月29日の長命寺の戦い)など、会津兵の果敢な行動で、戦いは持久的様相を示してくる。
 9月5日、藤原口の中村半次郎(桐野利秋)率いる西軍が、ようやく城の南に到着し、若松城に対する包囲網が一段と強化された。遅れていた越後口の西軍が山県有朋に率いられて城の西側に到着したのは、9月6日であった。
 9月14日、西軍はついに若松城への総攻撃をかける。それは、西南の外郭地域を占領している会津軍を駆逐し、また強力な砲撃を本城にかけるものであった。この日、城内に撃ち込まれた砲弾は、昼夜を通して2500余発を数えたと伝えられている。若松城に対する西軍の包囲で残されていたのは、北西から南にかけたもので、それらの外郭門を占領すればほぼ完ぺきに近いものである。14日、8時ころより、城の北西約1キロにある諏方(すわ)神社(敷地の北側は外堀)周辺で戦闘が行なわれた。会津側は西軍に押し込まれ、若松城外郭門のうち、残されたのは東南の天神口方面のみとなった。
 9月11日、会津平野北部の熊倉周辺の戦闘で勝利した会津軍は、その後、熊倉(喜多方市)南西6キロの塩川村に集結し、さらに城の南方をめざして進軍した。9月12日の夜半、同軍は西軍の制圧地域をさけるために、城下の西方を大きく迂回し、若松城南方3キロの一ノ堰周辺に兵を展開した。会津側は、15日の一ノ堰周辺での戦闘に敗れ、さらに南方の面川・雨屋での17日の戦いも敗れ、総督一瀬要人の率いる兵団は若松平野の南端に追い詰められた。このように、西軍は9月15日から、若松城を最終的に包囲する行動に入って行った。
 8月末ころから、板垣退助は米沢藩の切り崩し工作を行なってきたが、9月4日、米沢藩は正式に降伏を願い出た。降伏した米沢藩は、仙台藩に働きかけをして、9月15日、仙台藩もまた降伏した(輪王寺宮もまた、仙台藩の説得を受け、9月24日、新政府に謝罪・降伏した)。米沢藩は仙台藩だけでなく、会津藩にも降伏工作を行なっている。
 9月13日、米沢藩から差し向けられた特使が降伏勧告の書状を城内にもたらし、以降、城中は和戦の議論が沸騰する。賛成・反対の議論が闘わされる中で、最終的には、9月21日、容保の決断で謝罪・降伏・開城が決定される。
 藩領南方では、未だ、田島・大内方面で、会津兵は上田学太夫・諏訪伊助・一瀬要人(21日に戦傷死)・佐川官兵衛が西軍と戦っていた。そこへ、9月21日、容保から次の書状が届いた。

一書申遣(もうしつかわし)候。永々(えいえい)滞陣、度々(たびたび)苦戦尽力(じんりょく)の程(ほど)察入(さっしいり)候。然処(しかるところ)、此度(このたび)大総督宮(*有栖川宮)、近々(ちかぢか)御領分迄(まで)御入込(はいりこみ)ニ相成(あいなり)、王師(*天子の軍)官軍ニモ相違(そうい)之(こ)レ無(な)ク、誠ニ以(もって)恐縮(きょうしゅく)の至(いたり)ニ候。就(つい)テハ、永世(えいせい)朝敵の汚名ニ沈(しずみ)候テハ御先祖ニ対シ奉(たてまつ)リ候テモ相済(あいす)マザル候儀ト一決(いっけつ)シ、爰元(ここもと)居合(いあい)の家老共(ども)懇談の上、降伏謝罪開城ニ及(および)候。其方(そのほう)共(ども)苦戦ノ此(この)節、残情の儀モ之(こ)レ有ル可(べ)ク、一同熟談ヲ遂(と)ゲ、開城ニ及ビ度(た)キ存意(ぞんい)ニ候(そうろう)処(ところ)、何分(なにぶん)切迫の場合(ばあい)故(ゆえ)、当所限リニテ治定(ちてい *決まりをつけること)致(いた)シ候(『戊辰戦争全史』下 P.192)

 会津藩だけに限らないが、当時、旧幕府をはじめとしてほとんどの藩が勤王思想(天皇を頂点に戴いた国家再興)に染まっていた。したがって、会津藩もまた、最後は天皇制に頼る形で降伏に踏み切ったのである。

Ⅵ 民衆の被害と戦争処分

 奥羽越での戊辰戦争は、民衆にも大きな被害をもたらした。民衆のごく一部は、農兵・町兵として戦争に動員された。それ以上に多かったのは、宿継ぎ人足や軍夫として、東西両軍の武器・食糧などの運搬要員として強制動員された民衆である。
 その全貌は明らかではないが、安積郡大槻村の名主の日記の7月29日条(「会津東辺史料」)には、徴用の有様がリアルに描かれている。

人馬不足の趣にて会津より出張の人数大勢にて、抜き身(*刀)を引き下げ或(あるい)は素鎗(すやり *むき出しの鎗)にて乱妨(らんぼう)の体(てい)につき親儀(*親のこと)其場(そのば)を引き取り候ところ、後より素鎗にて追い来り候につき、殿町矢田部宅納戸(なんど *衣服や日常使う道具類をしまっておく部屋)の畳の蔭(かげ)にかくれ相(あい)のがれ候、又(また)拙者義(儀)は在宅罷(まか)り在(あ)り候ところ、右人数の内(うち)八人押し込め来り、人馬差し出すべく旨(むね)高声に申すに付き、直様(すぐさま)指し出し申すべき旨答え候うち、壱人(一人)は刀を抜き切り掛(かか)り候ため、〔私は〕飛び去り、裏口へ抜け出し候えば、八人何(いず)れも刀抜き、連れ追い来り候。       (保谷徹著『戊辰戦争』から重引 P.256~257)

 刀や鎗を抜き身にして大勢で脅しながら、人馬を徴発・徴用したのである。当然、戦士ではなくても(軍夫でも)、戦場で殺される場合もある。このような強制動員は、会津藩のみならず、新政府軍の側も行なっている。
 戦後、1873(明治7)年、修史局は「国事殉難者」を府県ごとにまとめて提出させた。このうち、福島県が提出したリストには88名が載せられていた。その88人のうち、二本松藩領の者が最も多く56名、次いで幕府領12名、白河藩領9名などである。この内、当時負傷して帰村した者が10名で、残り78名が死んでいる。だが、このリストには含まれず、諸藩戦死者の名簿に載せられた者も少数だが含まれているようだ。
 犠牲は、軍夫動員だけではない。極めて痛ましいことではあるが、官軍の勝利にともなう在地女性への集団レイプである。長州の奇兵隊などは、参謀・山県狂介の留守をいいことに、「山狩り」と称して、村々を荒らし廻り、見境なく金品を奪い、女性たちをレイプしたと言われる。妊娠した女性は堕胎を行なわざるを得ない場合が多く、その子は寺の脇に埋葬されたと言われる。この塚は「小梅塚」などと称されているそうである。これらは、地元の会津歴史研究会の井上昌威氏が、苦労した調査のうえに、『会津人群像』26号に、「会津にある小梅塚」と題して寄せている。
 『仙台戊辰史』三によると、仙台藩でも敗戦後、占領者である西軍の乱暴が目立った。

仙台降伏謝罪シテ兵ヲ撤スト聞エシカバ西兵(*西軍)ノ各所ニ屯(たむろ)スルモノ出デ、土民ニ乱暴ヲ加フルコト少ナカラズ、九月二三日藤堂藩ノ森川某等三十余名ニテ伊具郡丸森町ニ入リ酒食ノ上(うえ)丸森館主佐々久馬ノ臣浅野治左衛門ヘ暴行ヲ加ヘシモ官軍ノ?(事)トテ其儘(そのまま)ニナシタルニ、更ニ足軽組頭岡本武治ノ門前ニテ武治ノ忰(せがれ)ヘ難題ヲ申シカケ暴行ヲ働ク為メ、父武治モ見兼(みかね)テ立出(たちい)テシニ彼等ハ抜刀シテ武治ノ頭及ビ手ニ斬リ付ケテ逃去(にげさ)ル。又(また)丸森ヨリ十丁程(ほど)隔(へだて)リタル四反田トイフ所ノ百姓喜平治方ニ乱入シ強迫シテ衣類其他(そのた)十余品ヲ奪ヒ去リキ。其ノ他荒濱ヘモ相馬人ノ案内ニテ西兵乱入シテ暴行ヲ働キ、伊具郡筆甫辺ヘハ西兵四、五百名乱入シテ土民ヲ脅迫スルナド所々ニテ何ノ憚(はばか)ル所モナク乱暴スレドモ官軍ノ威光モテ横行スルコト故(ゆえ)、降伏セシ藩士土民ハ之(これ)ヲ如何(いかん)トモスル能(あた)ハズ、......(中略)......当時ノ状況斯(かく)ノ如クニシテ西兵ハ何ノ節度モナク、殆(ほとん)ト敵国ニ対スル如ク乱暴ヲ働キタレド、百姓町人ハ之(これ)ヲ仙台ノ藩吏ニ訴フルモ取上ゲラルベキ見込(みこみ)ナキノミナラズ、却(かえっ)テ罪ニ陥レラルルノ恐レアルカ為メニ泣テ黙スルノ外(ほか)ナク、士卒ニ至リテハ之(これ)ガ為ニ事件ヲ惹起シ君公ノ恭謹(きょうきん 
 *うやうやしく慎むこと)ニ障害アランコトヲ恐レ無念ノ涙ヲ咽(むせ)ヒツツ黙セシトイフ
                (『仙台戊辰史』三 P.799~801)

 新政府軍の無法な乱暴、侵害は、数限りなく行なわれたのである。『仙台戊辰史』の著者は、「......西兵ハ何ノ節度モナク、殆ト敵国ニ対スル如ク乱暴ヲ働キタレド......」と叙述しているが、同じ日本人としての「同胞意識」なるものは未だ形成されてはいなかったのである。それから日清・日露戦争という海外侵略が本格的に始まるのだが、それはわずか20~30年後のことである。そのとき、日本の兵士の意識はどれほど変わっていたのであろうか。国民意識は確かに進んだろうが、戦場での略奪・侵害はなくなってはいない。
 東北の戊辰戦争が終ると、1868(明治元)年12月7日、新政府は抵抗した東北諸藩を、次の三段階で処分した。それは、保谷徹氏によると、「①死一等を減じ永預けとされた松平容保父子(会津)、林忠崇(請西)1)を筆頭に、②封土没収・謹慎処分の伊達慶邦(仙台)・南部利剛(盛岡)・丹羽長国(二本松)・酒井忠篤(庄内)・牧野忠訓(長岡)・阿部正静(棚倉)、そして③封土削減・隠居謹慎処分となったその他の諸藩)」(同前 P260)という具合である。
 この内、②の諸藩は、藩主の引退を前提に、新たに封土(しかし旧の高は削減された。表を参照)を与えられた。この時、盛岡藩は白石へ、庄内は若松(後に磐城平)への転封を命じられた。しかし、いずれも各々70万両の献金によって、転封を免れ元の地に止まることができた(しかし、高は削減)。最も厳しい処分となった①も、1869(明治2)年11月、やはり藩主の隠居を前提に家の存続は許された。しかし、会津松平家は気候のきわめて厳しい下北半島の斗南3万石、請西藩林家は弟の忠弘に300石が給付され、家名が再興された。
 全体的に見ると、請西藩を除くと、会津・仙台・長岡の削減率が高い。最も新政府に抵抗したからである。仙台は奥羽越列藩同盟の首謀者であり、会津・長岡は軍事的にも激しく抵抗したからである。とくに会津は、幕末京都の「一会桑体制」の軍事的弾圧の中心であり、その恨みをかったためである。
 他方、意外の感のあるのは、米沢藩と庄内藩である。米沢藩は奥羽越列藩同盟の首謀者ながら処分が軽かったのは、同盟が最終的に総崩れの際に、降伏の重要な働きを率先したからである。庄内藩は、負け戦での降伏ではなくむしろ勝勢であったのであり、処分量によっては大いに反発がでることを考慮したためと思われる。
 多くの小藩は、ほとんどが削減率10%以下であり、総体として処分は軽いと見てよいだろう。であるが故に、会津と長岡への重い処分は、逆に「私怨」が濃厚とみることができる。そのため、抗戦にいたったのは各藩の重臣の罪とされ、萱野権兵衛(会津)、但木土佐・坂英力(仙台)、楢山佐渡(盛岡)など11名に死罪が命じられた。また、既に戦死していた石原倉右衛門(庄内)、色部長門(米沢)、丹羽一学(二本松)、河合継之助(長岡)には、改めて死罪の取扱いがなされている。

注1)請西(じょうざい)藩(千葉県木更津市)の藩主・林忠崇は、1867(慶応3)年8月に家督を継いだばかりの20歳の若者であった。1868年4月末、遊撃隊(前身は将軍家茂の親衛隊で、そこから選抜された旧幕府軍の諸隊の一つ)を率いる伊庭八郎と人見勝太郎の説得で、忠崇は彼らとの同盟を決意し脱藩する。藩主が脱藩するなどということは前代未聞のことだが、忠崇は慶喜に迷惑がかかるとして脱藩行為をおこなった。請西藩士(70余名)と遊撃隊は、館山、伊豆、箱根、甲斐と転戦し、ついには東北に向かう。1868(明治元)年10月3日、林忠崇は仙台で降伏する。だが、忠崇は戊辰戦争後も、決して新政府に出仕することはなかった。

東北諸藩の没収地一覧(総計88万0800石) 
 藩主(藩名)   旧高(石)  削減高(石)  新高(石) 削減率(%)   
伊達慶邦(仙台)   625600    345600 280000    55.2  
松平容保(会津)   230000    200000 30000 87.0
南部利剛(盛岡)  200000 70000 130000 35.0
丹羽長国(二本松)  100000 50700 50000 50.7
酒井忠篤(庄内)   170000 50000 120000 29.4
牧野忠訓(長岡)   74000 50000 24000 67.6
阿部正静(白河)   100000 40000 60000 40.0
上杉斉憲(米沢)   180000 40000 140000 22.2
久世広文(関宿)   58000 5000 53000 8.6
松平信庸(上ノ山)   30000 3000 27000 10.0
田村邦栄(一ノ関)   30000 3000 27000 10.0
酒井忠良(松山)   25000 2500 22500 10.0
板倉勝尚(福島)   30000 2000 28000 6.7
本多忠紀(泉)   20000 2000 18000 10.0
織田信敏(天童)   20000 2000 18000 10.0
岩城隆邦(亀田)   20000 2000 18000 10.0
内藤政養(湯長谷)   15000 1000 14000 6.7
南部信民(八戸)   20000 1000 19000 5.0

水野勝知(結城)   18000 1000 17000 5.6
林 忠崇(請西)  10000 9700 300    97.0   
出所:佐々木克著『戊辰戦争』P.210。ただし、一部を修正。

  終わりに

 仙台藩や米沢藩などが行なった「会津征討」「庄内征討」への異議申し立ては、基本的には第二次幕長戦争に至る過程での、薩摩藩の幕政批判と同じことをしたまでである。同じ性質をもった行動が、一方は評価され、他方は天皇の御心に背くものとして断罪される―こんな不合理で理不尽なことはない。
 東北諸藩などが奥羽越列藩同盟をも組織して、薩長勢力に抵抗した意味合いは、中心となった仙台藩や米沢藩の行動もさることながら、盛岡藩の家老・楢山佐渡の「実事求是」の態度に端的に示されている。
藩内実力者の楢山佐渡は2月に上洛をし、京都情勢を探っただけでなく、実際に、西郷隆盛、岩倉具視、木戸孝允などと面談した上で、"薩長の専横は酷い、新政府は支持できない"と結論付けた。帰国した楢山は、藩内をまとめ奥羽越列藩同盟と行動を共にすることとした。その結論は遅かったが、その真意は、自藩第一主義の保身ではなく、正義と大義を第一に置いたものである。 
 戊辰戦争後の薩長史観は、奥羽越列藩同盟の提起した大義の問題、すなわち、薩長らの会津征討は私怨からでたものであり、それを正当化するものとして天皇制を利用したという批判に答えていない。そして、薩長史観は、王政復古クーデターから戊辰戦争の過程での「私闘」、自らの利己主義の問題を徹底的に隠し、"東北は保守的だから戊辰戦争に負けたのだ"と史実を歪曲し、東北が提起した「邪正曲直」の問題を"進歩か保守か"の問題にすり替えた。正義・大義よりも功利を優先する政治は、今日でも克服できていない。
 奥羽越の戊辰戦争の意義をあたかも「無駄な抵抗であった」かのように、無視する傾向もまた、薩長史観に加担する低劣なものである。
 東北諸藩の薩長土肥などとの戦いは、支配階級内部の戦争という限界はあったが、日本近代の藩閥政府の専横に対する最初の異議申し立てであった。 (了)