第17回国際反戦沖縄集会


梅雨空の本土を飛び立ち、那覇空港に着いたら青空の下、真夏の太陽が照りつける別世界であった。
六月二十三日─五十五年前、沖縄戦が“終わった”日である。今日、新ガイドラインのもとで「戦争のできる国家」体制をすすめ、沖縄の在日米軍基地の固定化を国際的に認知させようという目論見をもって、七月に沖縄を中心にサミットが開催されようとしている。 沖縄県の主催する慰霊の集会には、今年はその推進者である森首相や現役の米軍の幹部が参加している。
他方、沖縄戦の教訓を受け継ぎ、反戦の沖縄民衆の良心を訴える集会が、十七年前から市民の手によって独自に開かれている。沖縄戦の犠牲者の遺骨を埋葬した一つ「魂魄(こんぱく)の塔」の近くで、その集会は開催されてきた。今年十七回目を迎える国際反戦沖縄集会である。
午前十一時、「ひめゆりの塔」前に集まった集会参加者は、およそ二キロメートルほど離れた「魂魄の塔」まで平和行進をし、昼食をとってから午後の集会をはじめた。
わたしたちが到着したのは、昼食後、集会を前にして海勢頭豊さんが壇上で歌をうたっている時だった。三〇〇〜四〇〇人ほどの参加者たちはテントの中や木の陰で、照りつける太陽を避け、にぎやかに集まっていた。麦ワラ帽子をかぶって太陽の下で平然と座っている人も沢山いた。
 午後一時すぎ、主催者を代表して、1フィート運動でもよく名前が知られている中村文子さんが、沖縄戦での経験を語りながら反戦の強い決意を表明し、集会が開始された。ザワザワしていた参加者たちは自然に演壇に注目し、集中した雰囲気がつくり出された。
カンパ袋やいろいろな署名用紙がまわされてきた。わたしも小銭をカンパしたり、説明文を読みながらつぎつぎに署名した。
壇上では、沖縄戦で妹をなくし、自分も従軍看護婦として働いた女性の体験や、現在各地で反戦・反基地運動をしている報告がつぎつぎと発言された。韓国で米軍基地の反対運動をつづけている人はハングル語で、プエルトリコ・ビエケス島の米軍射爆場反対運動の人は英語で、フィリピンの人達はカタログ語と英語で、通訳の日本語もふくめて四か国語が飛び交う、にぎやかで楽しい集会が進められた。
あいだに歌あり、紙芝居が披露されたりして子どもたちから大人まで、集会を楽しめるような構成がされていて興味深いものとなっていた。
当然厳しい現実も報告された。那覇軍港が浦添基地に移転されて強化されようとしてる問題。そして普天間基地の返還をちらつかせて、名護地区に本格的なヘリ基地を建設する策動がつづけられている問題。沖縄が新ガイドラインの重要拠点として、沖縄の米軍基地が固定化され、いっそう強化されようとしている現実に集会参加者は否応なく直面させられていることを実感させられた。
なかでも目をひいたのは、七月二十日に予定されている嘉手納基地包囲「人間の鎖」のたたかいに関連して、レッドカード・ムーブメントを、本集会を基点に展開しようという提案であった。サッカーの試合でのレッドカードと同様に米軍基地に対して皆でレッドカードを提示して、沖縄、日本から米軍基地を「退場」させようというユニークな人民の運動である。七月二十日までを目途として、赤いリボンでもステッカーでも何でもよい、赤いものを身につけてレッドカードを提示する、人びとの意志表示の運動である。
これは沖縄の人達だけがやればよいというものではないだろう。本土のわたしたちも、例えば七月二十日当日、嘉手納基地包囲「人間の鎖」に直接参加できなくても、少なくともその日まで、または当日だけでも自分で赤い布などのレッドカードを提示し、あるいは他の人達に呼びかける連帯した運動の一端を担いうる大きな手段となるだろう。七月二十日の「人間の鎖」のたたかいに連帯するわたしたちの運動を、レッドカード・ムーブメントを通してなにか企画してみようと思う。
集会は最後に、新崎盛暉さんが、この集会が長くつづいてきたことを振り返り、これからのたたかいを誓って閉会のあいさつをされた。
熱暑の中、午後三時すぎ、まだガンガン照りつける太陽の下で、実行委の人達の手慣れた作業で集会場の設備が片付けられていった。顔見知りになった沖縄の友人たちとあいさつをして、これからの活動を誓いながら沖縄を後にした。本土は梅雨空の下にあった。
(S)