日本的公私観と自治思想
                    堀込 純一 
      

       目  次

はじめに  P.2
Ⅰ 重層的支配構造と結びついた〈公私〉観  P.2
(1)中国的公私観の日本的受容  P.2
(2)中国と日本の違い  P.3
(3)垂直的〈公私〉観と水平的公私観  P.4
Ⅱ 西欧近代の水平的公私観の歴史的形成  P.7
(1)西欧と東アジアのちがい  P.7
(2)西欧近代国家の形成と水平的公私観  P.7
 (ⅰ)近代的な国家概念と主権概念の形成  P.8
 (ⅱ)近代的私的所有権と近代市民革命  P.10
 (ⅲ)人民主権の確立と個人主義の歴史的形成  P.11
Ⅲ 近代国家の形成と近代天皇制の創出  P.12
(1) 明治維新による近代化  P.12
 (ⅰ)地租改正と近代的所有権の確立  P.13
 (ⅱ)自由民権運動の制圧下に近代天皇制創出  P.14
(2)共同体を利用し地主中心の地方体制  P.15
Ⅳ イエ制度と天皇制支配の内面化  P.18
(1)イエ制度の歴史とその日本的特殊性  P.18
(2)イエ制度の延命とその社会的根拠  P.21
(3)天皇制支配を支えるイエ原理  P.22
Ⅴ 奉公扱いから家族的融和の経営家族主義へ  P.23
(1) 近世身分制の撤廃と再編  P.25
(2)根強い奉公関係と労働運動の進出  P.25
(3)大企業の特権的労資融和の確立  P.27
Ⅵ 自治・公益を押え込む官治システム  P.29
(1)戦前からの官治システムの延命  P.29
(2)地方支配の諸形態  P.31
(3)重層的〈公〉の下での自治の抑圧  P.32
(4)官治システムに不可欠な共同体規制  P.32
Ⅶ 大企業の重層的支配構造と私的世界の重層性  P.34
(1)独占資本による公私関係の歪曲  P.34
(2)大企業内外の重層的系列・序列  P.36
(3)「企業社会」の基本骨格と差別・序列の構造  P.37
Ⅷ 不平等でルーズな契約思想  P.39
Ⅸ 根底から揺らぐ社会諸制度  P.41
Ⅹ 公私の重層的支配構造に対決を  P.46

[本稿は旧機関紙『プロレタリア』の1998年5月25日号~1999年1月1日号に 
 掲載されたもの]


はじめに

公(オオヤケ)と、「お上」・官・政府を同一視する日本の伝統的な公(以後、オオヤケを〈公〉、ワタクシを〈私〉と表記する)観が、あちこちで揺るぎ出している。
 たとえば、官々接待、大蔵省・日銀のスキャンダルと失政の続出は、転換期の危機を増幅させるのみならず、「お上」の権威を失墜させている。とりわけ、官の官たる大蔵省の権威失墜は、「お上」依存の根拠すら脅かしている。
 だが、それ以上に注目すべきは、この間の人民の闘いである。米軍基地をめぐる沖縄の闘い、原発をめぐる新潟県巻町の闘い、産廃問題をめぐる岐阜県御嵩(みたけ)町の闘い―これらは、いずれも住民投票で勝利し、国あるいは県の政策と真向(まっこう)から対決している。「これらのたたかいに共通する教訓は、癒着した政官財の支配層の権力と金力による抑圧と買収をはねのけ、より下層の人民が広範に団結し、自治の思想をたかだかとかかげ、個別のたたかいを組織すると同時に、差別と抑圧の重層的な支配構造にゆさぶりをかけていることである」(『第六回党大会政治報告』)。
 中華文明以来の公私観を日本社会の状況に応じて変容させ、日本の支配思想の重要な柱として機能してきた〈公〉観は、徹底的に批判され、天皇制と「お上」依存の呪縛から自らを解き放つことが、日本の労働者階級人民には要求されている。そして、共産主義社会の実現を目標とする闘いにとっても、それは労働者階級人民の権力を実現する過程のみならず、その後の社会主義建設の過程においても、重視すべき重要な課題となるであろう。

   Ⅰ 重層的支配構造と結びついた〈公私〉観

(1)中国的な公私観の日本的受容

 中国語の公・私を語源でみると、溝口雄三著『中国の公と私』(研文出版)は、戦国から後漢(紀元前3世紀中頃~紀元後3世紀初め)の史料で検討し、以下のように述べている。
 「ム(=私)について『韓非子』は自環すなわち自ら囲むの意、『説文解字』では姦邪の意としている。これに対する公は、(1)群として、『韓非子』のいわゆる『ムに背く』すなわち囲い込みを開くの意であって、ここから衆人と共同するの共、衆人ともに通ずるの通、さらに私=自環の反義として『説文解字』では『公は平分なり』としている。一方、(2)群として、それは『詩経』の用例からの類推だが、共から衆人の共同作業場・祭事場などを示す公営・公堂、およびそれを支配する族長を公と称し、さらに統一国家成立後は君主や官符など支配機構にまつわる概念になった。」と。
 こうした原義をもつ、公と私に対して、古代国家成立期の日本支配層は、公に対してオオヤケ、私に対してワタクシの訓をあてた。
 オオヤケは、ヤケ(宅)の大きいもので、ヲヤケ(小さな宅)と対比されるものである。 
 吉田孝著『律令国家と古代の社会』(岩波書店)は、イエとヤケを比較しながら「イエがヤを含む『すまい』全体をさすという点では、イエはヤケに近似しているが、ヤケが敷地と建物という一区画の施設そのものをさすのに対して、イエという語には、つねにその背後には家族が結びついている」としている。そして、「ミヤケが朝廷と結びついていたのに対して、オオヤケはどつらかといえば、一般的・在地豪族的な性格をもつ語であった」とし、さらに「ヤケは単なる施設ではなく、様々な機能を含めた観念であった」としている。たとえば、軍事や交通などとの深いかかわりであるが、ヤケのもっとも重要な機能は、農業経営の拠点としての機能(祭祀機能もふくめ)である。
 当時の支配層が、公をミヤケではなく、わざわざオオヤケとしたのは、律令体制以前からの大和朝廷の統一国家形成のあり方が、在地首長に代表される地域共同体(共同体の共同性がゲルマン民族などの民会によってではなく、首長によって代表された)を包摂する形ですすめられたからである(このため、律令国家移行後も、律令体制と在地首長の在地支配構造の二重性がつづく)。ミヤケよりもオオヤケの方が、全人民の支配を、人民自身にとって受容されやすいと考えたからであろう。
 さらに吉田氏は、「オオヤケは本来ヲヤケに対する相対的な語であるから、様々なレヴェルに存在しえた」として、「『公』の重層的な存在は、基本的には古代社会の構造に淵源する」もので、決して超歴史的に形成されたものでなく、あくまでも歴史的に形成されたものとする。事実、こうした〈公〉観とは対立する公観が室町・戦国期に萌芽的に形成される。だが、やはり、主流としては、伝統的な〈公〉観が、中世―近世にも再生産されている。

(2) 中国と日本のちがい

 こうした経過で導入・受容された日本の〈公私〉観は、中国のそれと比較すると、以下のようなちがい、特徴として整理される。
 第一は、オオヤケが「大宅」、「公」のみならず、「官」や「国家」の訓としても用いられたように、溝口氏の言う、中国的公観の第二群の意味あいがもっぱらとされたということである。それは歴史が積み重なると、ますます強く、地域共同体のイメージはうすれ、平安時代には、天皇そのものをもオオヤケといった。
 このことは、中国的公観のもつ、価値的な意味あい(共、通、平、開など)が消失し、支配層にとって都合のよい、支配概念としてのみの〈公〉観が定着することを意味する。
 しかも、その〈公〉観が、前述したように、社会構造の二重性と結びついて、重層構造をもっていること、これだが第二の特徴である。
 中国では、戦国末~後漢期のみならず、その後も第二群だけでなく、第一群の意味も持続され、抽象的概念としての公は、場・地域、あるいは階層に応じて、分節化、重層化されるのではなく、普遍性をもったものである。
 だが、日本の〈公〉観は、重層性をもつが故に、同一の実体が、自己より下位の実体にたいしては〈公〉といわれ、上位の実体との関係では〈私〉といわれたりして使用されている。このことは、鎌倉時代後期(北條氏の得宗専制期)から鮮明となり、近世徳川時代には、完備されたものとなる。
 第三の特徴は、〈公私〉概念が、抽象的な関係概念としてよりも、実体概念(たとえば、朝廷とか幕府など)、とりわけ人格としての実体概念(天皇とか将軍など)として、定着してゆく傾向をもつということである。
 先に平安時代には、天皇をもオオヤケというようになったと言ったが、ワタクシも同じように実体化され、一人称代名詞として定着する(〈私〉は、室町時代には、庶民の間でも使われるようになった)。だが、ワタクシが一人称代名詞として使われるというのは、世界的にみても、極めて稀なことといわれる。
 抽象概念が実体化されるのは、日本社会の一つの特徴として推測しうるものである。このことは、絶えず同質化・均質化作用が強くすすめられ(たとえば、他民族の皇民化―アイヌ、渡来人など)、異質なもの、異質な文化・民族を否定・解体する均質化社会では、異質なもの同士に架橋する抽象概念の必要性は、当然にして弱いからである。抽象概念の使用が不得手な民族においては、わかりやすさ、利便性の一方的肥大化(抽象概念の実体化)の代償として、概念本来の意味を矮小化する傾向をもつといえるであろう。

(3) 垂直的公私観と水平的公私観

 律令体制下の国家(機構)の弱さ(中国と比べ)は、723年三世一身法、743年墾田永年私財法を生み出し、これらをキッカケに私的所有がじょじょに(極めて緩慢にだが)進む。国家的所有を私的所有によって補完し(三世一身法は、原野を開墾した者には三世代の間、荒田を再墾した者には一身の間、収公をしない。というのは、その後は逆に国家所有になるということ。墾田永年私財法は、その収公を放棄したが、その代わり重い税金が課せられた)、律令体制を維持しようという支配層の意図は、自らの思惑をもこえて進む荘園制の拡大で、大きくくずれる。
 荘園制の進展は、私的所有を複雑なものし、本所(本家)―領家―各種荘官―名主という"職(しき)の体系"をつくりだしたが、この上級所有権(本所職)をもつものが、ほなならぬ国家機構の上部の担い手である天皇や大貴族(他に大寺社)であり、国家の経済基盤は、私益優先でほりくずされていくのである。
 この荘園制を基盤に武士階級が伸張し、鎌倉幕府が開かれる。この武家政権は、個別人身的な主従制(主従制的支配権)と、守護職・地頭職にみられるような国家官職的な権限(領域性をもつ統治権的支配権)を合せもって成立したもので、既存の統一国家の枠内ではあれ、その一部を割りさいた権力である。しかも、それは在地領主を基盤に、絶えず自己膨張する性向をもっていた。
 鎌倉時代後期、得宗専制の時代に入ると、幕府の御家人は、幕府に対しては〈私〉であるが、自己の領地では、〈公〉としてふるまい始めている。この結果、公方(オオヤケカタ、後にクボウ。対語は、「御内」「私様〈ワタクシザマ〉」という観念が広範にひろがり、幕府の公権性が下から認められていく。公方は、室町時代、江戸時代には、将軍そのものをさす人格化した概念となった。
 統一政権としての室町幕府は、三代将軍足利義満の時代(1368~1408年)をピークに、その後じょじょに弱体化し、支配階級内部の政変がたえなかった。
 この中で、応仁の乱(1467~1477年)の直接的原因は、管領家―畠山家、斯波家の家督をめぐる争いであった。だが、それは単なる私的な争いではなかった。というのは、この15世紀は、下剋上の風潮の下で、新たな政治思想が広がったからである。 
 すなわち、「将軍職も守護職も、さらには地頭御家人の所領であっても、職(しき)所有者の私物ではなく、職所有者にはそれぞれ日本国内・領国内・所領内の平和と秩序を維持する責任があること、したがって職所有者はその責任をまっとうする『器量』をもたねばならず、これを現実に保証するものは、それぞれの家臣の支持以外にないという儒教的革命思想に裏づけられた政治領域観の定着であった」(勝俣鎮夫著『戦国時代論』)のである。
 これは、継嗣決定権における、親の建言(幕府もこれに干渉しえない)が認められていた鎌倉時代とちがって、この時代には、家臣団の協議決定権が優越するという新しい価値観が広がったということである。こうして、家督の問題は、即、(各級の)職の問題であり、単なる〈私〉の問題だけでなく、即、〈公〉の問題なのであった。(イエの〈公〉性は、戦国時代、江戸時代、ひいては近代、とりわけ戦前までも引きつがれた)
 下剋上の気運は、武士階級のみならず、人民一般に広範にひろがっていった。農民、馬借、国人、地侍など「徳政」をかかげた土一揆は、大きなものでも、1428年の正長一揆から、実に100数十年にわたって、数年おき、あるいは連年で展開された。まさに乱世である。
 だが、この時代、注目すべきは新たな公私観が拡大していることである。
 第一は、国人(在地領主)らの対等な団結をもった一揆契諾である。在地領主の一揆(団結)は、南北朝から戦国期にかけて、中央、地方の動乱にたいする彼らの対応形態の一つである。そこでは幕府ないしは守護など主君と在地領主の関係を、依然として〈公私〉関係とする前提はあるが、他方で、「一揆一同」と個々の構成員の関係が、新たな公私関係として措定されているのである。
 この一揆は、乱世の中で発展し、山城の国一揆、伊賀惣国一揆(16世紀中頃)などのように守護勢力に対抗する力を発揮した。とくに前者は、1485年よりほぼ8年間にわたって、地方権力を維持した。
 第二は、中世後期に、畿内とその近国に普及した惣村である。(『プロレタリア』紙291号の「中世後期の村落共同体と農民闘争」を参照)
 そこでは惣村と各構成員の関係が、新たな公私関係として定着していく。たとえば1489(延徳元)年の「近江今堀地下掟」では、「惣の地と私の地と、サイメ(境)相論は、金にてすます(済ます)べし」(『中世政治社会思想』下 岩波書店)というように、私の対語として、惣をあげている。
 他に無視すべきでない動きとして、北陸などでの一向一揆による「本願寺領国」の形成と、そこでの関係があるが、この場合は、基本的要因として宗教が介在するため、前2者とは同一には論ずることができない。別の機会とする。
 新たな公私観は、歴史的限界性(身分制と、役職にともなう社会的役割という、大枠の枠組み自身は未だ否定されなかった)をもつとはいえ、構成員と認められた者の対等性を前提に、それら私人の討議、合意によって形成された「一揆契諾状」、あるいは各惣村の「地下掟」が、新たな公の中核的内容をなすものであった。(この新たな公私観を水平的公私観と、そして、従来の伝統的なもの、およびこれをふまえた近世において完備する〈公私〉観を垂直的〈公私〉観と、名付ける)
 この水平的公私観を生み出す諸勢力を押しつぶし、それぞれ家臣として、あるいは百姓として組織していったのが、各戦国大名であり、それをさらに家臣化して行ったのが職豊政権、徳川政権であった。それは基本的には、下剋上の基盤でもある在地領主の存在根拠を解体することによって実現された。すなわち、「刀狩令」であり、各種の検地による兵農分離、町農分離であった。そして、徳川初期政権の体制を、17世紀中期に幕藩体制として再編し、各大名の家臣をも小領主から、禄米(蔵米)を支給される給人に転化する(一部を除き)ことによって完成された。
 幕藩体制下では、幕藩関係をみると、幕府は〈公〉で、藩は〈私〉である。幕府・藩・農民の関係でみると、幕府は大公儀、藩は公儀と称され、農民は〈私〉となる。つまり藩は上位の幕府に対しては〈私〉であるが、下位の農民に対しては〈公〉である。ここでも相対的で、重層的な〈公私〉観が形成されている。(公儀という言葉は、「おもて」「おおやけ」を示すもので、すでに中世の寺院で、塔頭〔たっちゅう〕・僧坊に対して、一山・惣寺をさすものとしてつかわれている。中世後期には、将軍・大名をさす言葉として用いられ、近世の徳川時代には、将軍・幕府・大名を意味するものとして主要に使われた。と同時に、村や町、仲間をも公儀とよぶ例もある。公儀の対語は、内儀)
 近世の統一政権の形成過程で、一見おしつぶされたかにみえた惣村の公は、確かに幕藩権力の下に統括されたが、しぶとく生き残り、一面では、領主集団を領民集団が相対する形となった。このことは、両集団の接点となる村役人が、当初は、領主集団の指名であったのが、在地農民の反発と抵抗を引きおこし、のちに村の推挙をそのまま承認する形におさまった(徳川時代初期の村方騒動)ことでも明らかである。
 こうして、「それぞれの集団は内部に幕府と藩、郡奉行―代官―給人、あるいは郡―組合村―村などの階層組織をもち、公権は各階層に法的、事実的に分有されていたのである」(朝尾直弘著「『公儀』と幕藩領主制」―『講座 日本歴史)』近世Ⅰに所収)。
 この〈公私〉は、多段階であり、重層的なものであり、しかもおかれた立場によって、同一実体が〈公〉にも〈私〉にも転化する相対的なものである。そして、各々の小世界が各々の世間といわれ(世間のイメージは、これふぁけにとどまらないが)、全体的に幕藩権力によって、身分制に統合され、序列化していったのである。
 これが、近代を迎える前の日本の、〈公私〉観の実状であった。

  Ⅱ 西欧近代の水平的公私観の歴史的形成

(1) 西欧と東アジアとのちがい

 中国の公私に相応するのは、英語でいうと、パブリックとプライベートである。(もちろん、正確に対応するものではない)
 プライベートは、"ある人自身に特有の、ある個人にのみ属する、秘密の"という意であり、パブリックは、"すべての人に属する、国家や共同体に属する、公開の"という意である(ともに形容詞)。(三戸公著『公と私』未来社 による)
 これを前近代の東アジアの公私と比較すると、大きな違いは、まず第一に、プライベートの意味が肯定的である、ことにみられる。それに対し、東アジアの私は、全般的に否定的であり、マイナス評価となっている。このことは、前近代のみならず、日本の滅私奉公や、文化大革命時の中国の「破私立公」など、近代以降でも東アジアでは根強く生き続けている。
 大きな違いの第二は、原理的にいって、水平的公私観と垂直的公私観という対照性である。これは、東アジアの上意下達的政治に即応した公私観に対し、西欧近代の公私観は、私人間の対等性を基礎に、公民が擬制的に形成されたという構造にもとづく。
 第一、第二において、ともに、西欧近代の場合は、長年にわたる歴史的形成物としての"個人主義に基づく市民社会"に深く基礎づけられているのが特徴的である。

(2) 西欧近代国家の形成と水平的公私観


 では、西欧近代のこのような公私観は、いかなる歴史的経路をたどって形成されたのであろうか。そのためには、まず前提として、西欧中世の社会と国家の特質を把握しておく必要がある。
 西欧中世においては、まず社会秩序が封建制(レーン制)を基軸としたこと、教皇権と皇帝権の二つの中心をもった社会秩序の下で国家形成が歴史的になされたこと、さらには安定した古代国家の段階(ローマ帝国を除く)などによって、公私関係が未分離であった。公私の未分離は、具体的には、フェーデ(復讐)が最も象徴的に示している。
 フェーデは、ゲルマン古法に発する。「ゲルマン古代において、生命・身体・財産・名誉など個人の法益が侵害された場合、被害者の氏族(ジッペ)は加害者の氏族に対して復讐をおこなう権利・義務を有し、他方加害者の氏族も加害者を援助して復讐に応ずる義務があった。この両氏族の敵対関係およびこれからおよびこれから生ずる復讐をフェーデという(『世界大百科事典』平凡社)。
 フランク王国は、復讐という手段の他に、両当事者の和解、判決によって賠償金の授受で終結させるなど、フェーデを制限しようとした。この結果、農民については効果をあげ、「その後、農民は殺人の場合の〈血の復讐〉以外にはフェーデをおこなわないのが原則になったが、騎士層に対してはほとんど実効性をもた(なかった)」(同前)といわれる。
 11世紀、東フランクから各地に「神の平和」、「神の休戦」運動が教会を中心に民衆をも巻きこんで発展した。この運動は、結局は失敗するが、しかし、有力諸侯や国王はこれを利用し、領内の治安維持や、警察権を自己の手に集中しようと努める。また、都市では市民がフェーデの中止を誓いあって団結し、市民一人ひとりの自力救済権を放棄する代わりに、市民団体自身が自力救済権所有者となった。この問題は、都市の領主との対立に発展し、市民自治の運動がおこってくる。
 しかし、西欧で統一国家の形勢がもっとも遅れたドイツでは、たびたびラント(領邦)平和令が発布されたが実効性をもたず、1495年の「永久平和令」で、一応フェーデの全面的非合法化がなされたとする。だが、実際は異なり、中世末から近世初期にかけて、貴族、騎士や都市間のフェーデは激しかった。
 フェーデは、「公的」活動(たとえば殺人事件の解決)が、「私的」活動(被害者による復讐。たとえ裁判になった場合でも判決の執行は被害者がなす)によって遂行されるものであり、中世における公私未分離の状態を如実に表現するものであった。

   (ⅰ)近代的な国家概念と主権概念の形成
 16~18世紀のヨーロッパ諸国の絶対主義(各国ごとにその形成、発展の過程にちがいはあるが)の時代は、絶対君主の下に、常備軍と官僚制を整備しつつ、中央集権的な国家を形成する過程であった。これとともに、垂直的な公私観がじょじょに形成されていく。
 だが、近代国家の理論的前提はすでにルネサンス期に提出され始めている。ルネサンス期の代表的政論家・マキアヴェリ(1469~1527年)は、後世、「マキアヴェリズム」として悪名をはせたが、道徳的批判はともあれ、彼が伝統的政治学からの脱却を促したことは、冷静にみておかなければならないであろう。
 伝統的政治学は、良き統治と悪しき統治、王と暴君という区別が第一義的であり、統治(政治)と倫理が一体的に考えられていた。だが、マキアヴェリは、この一体性を分離させ、良き統治よりも強力な支配へ、正義の実現よりも支配者・被支配者双方の安全の追求へと移行させたのであった。そして、このことは、必然的に政治・国家の自立化を促し、マキアヴェリ理論の中心にすえられた国家概念(「それは事実上の力、〈事実上の〉支配権、支配者および支配者集団を指し、ついでこのような支配権に服する人間と地域を意味するに至った」という。佐々木毅著『マキアヴェリ』講談社)は、ヨーロッパに広がった。
 マキアヴェリの国家概念は、フランスの政治哲学者ジャン・ボダン(1529~1596年)の主権概念の確立によって、さらに発展させられた。(主権概念は、領土、国民とともに、近代国家の三要素の一つに数えられる)
 この背景には、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリスなど、15~16世紀の西欧で、絶対君主が支配する領域国家の形成が進みはじめていたことがある。絶対君主は、この主権概念をもって、対外的には、神聖ローマ皇帝やローマ教皇の普遍的権威に対抗し、或いは、ジュネーヴからのカルヴィン主義など宗教的干渉を排除した。同時に、対内的には、領域内の貴族層、身分制議会、教会、ギルドなどのもつ封建的諸権力の上位に君権を置くことによって、政治的・経済的統合をおしすすめ、階級支配をさらに強化した。(主権の内容は、立法権、課税権、官吏任免権、宣戦講和の権、貨幣鋳造権、恩赦権など)
 成瀬治著『近代市民社会の成立』(東大出版会)によると、「『市民社会』は、『最高権力』を具え、且つその支配に服属することによって、はじめて政治的な結合体としての『国家』の性格をうけとる」というのが、ボダンの基本構想であるといわれる。つまり、ボダンは、ギリシャ、ローマのように、市民社会ががそのままイコール国家ではなく、主権=最高権力が存在し、市民が服従することによって、はじめて国家が存在しうると主張しているわけである。
 こうして、ボダンは、その主著『国家論』(1567年)で、「国家とは、あまたの家に対する、またそれらに共通するものに対する、主権による正しい統治のことである」(成瀬前掲書からの重引。以下同じ)と定義するのであった。
 確かにボダンは、時代的制約によって、近代への過渡的性格をもつ理論家であった。たとえば、それは国家と家をアナロジーし、国家の主権者と家長をアナロジーしている。しかし、ボダンの市民概念は、家長が家から出て、市民として、すなわち「仲間、対等者、共同体成員」として商議するという、ギリシャ・ローマ的概念の影響を受けながらも、他方で、「この市民とは、語の本来の意味においては、他者の主権に従属する自由な臣民以外のなにものでもない」と、新たな考えを展開している。
 また、ボダンにおいては、すでに国家の公共性が明確に意識されている。「ボダンは、国家が国家として成り立つためには、『主権のほかに、なんらか共通のもの、公共のものがなければならない』と述べ、その内容として、たとえば公有地、公共金庫、(公の)道路や囲壁といった具象的なものをいくつかあげたほか、さらに裁判や刑罰のごとき無形のものをもこれに含めている」からである。

   (ⅱ)近代的所有権と近代市民革命
 近代的な主権概念、国家概念の確立過程は、同時に、封建的所有権の近代的ブルジョア的所有権への転換と、後者の確立の過程でもあった。
 周知のように、中世封建制下では、ローマ法のような排他的所有権ではなく、同一物に対する所有権が重畳しているのが普通である。
 物事を単純化するために、A(国王、領邦君主)―B(領主)―C(農民)の三重関係でみると、B―C間では、Bが上級所有権を、Cが下級所有権をもつとされた。さらに、A―B間に封建関係がある場合(大概はあるのだが)、その封土について、Aが上級所有権を、Bが下級所有権をもつという関係が成立した。
 ところで、西欧中世では、支配・保護と誠実な奉仕(軍役や主君への助言など)が双務的な契約関係として厳格に守られていた。したがって、一方が契約内容を破れば、必然的に相手方も契約内容から解放される。自力救済(フェーデ)の世界である中世では、力の弱い領主は、自己の領地を自分の力だけで守れなければ、力の強い者の保護下に入り、その代償として奉仕義務を果たした。これに対して、支配者の側は、その領地に対する経済的・「私法」的所有権だけでなく、その被支配者を保護する義務に伴なった政治的・「公法」的な支配権をも権利として所有していた。
 ところが、国家の集権化が進むにつれ、BのCに対する保護機能がうすれ、Bの所有権は、Cに対して保護を与えず、貢租だけを徴収する権利に化し、政治的・「公法」的支配権は、Aに集中する傾向をますます強めていった。こうした事態の下で、Bの立場は、伝統的観念からしても不合理なものとなっていく。
 BとCのどちらが私的所有権者になるかは、ケース・バイ・ケースだが、多くは(Bに対する、有償による上級所有権の廃棄も含め)、Cに所有権は移っていった。(しかし、この過程は、歴史的にみると非常に緩慢なものであり、上級所有権の廃止は、簡単にはすすむものではなかった)
 絶対主義時代、このように公私の分離傾向が強まっていたのは、事実である。しかし、この時代の最後にいたるまで、公私の分離が完全に進められたとは、とうてい言えるものではなかった。このことは、国家官職の売買が横行していたという一例だけでも明らかなことである。(二宮宏之著「フランス絶対王政の統治構造」―『近代国家形成の諸問題』木鐸社に所収)
 上級―下級所有権の秩序は、つまるところ封建的な身分秩序そのものであり、中世社会の身分構造そのものの解体なくしては、公私の分離は、最終的には実現しえなかったのである。
 封建的な身分構造は、ある意味でそれぞれの諸身分の特権の体系であり、その諸身分が序列化され、全体として、絶対王制の統制下におかれ、掌握されていた。したがって、その諸身分の特権=身分的自由を解体する1789年(およびそれ以降)のフランス市民革命の過程をくぐり抜けることによって(典型的には)、はじめて公私の分離が実現されていったのである。
 ところが、この市民革命によって実現した公私は、絶対王制がすすめていた垂直的公私観ではなく、水平的公私観であった。」それは単に絶対王制が倒れたからだけでなく、市民革命の内容が、諸身分の特権の廃止=諸身分の平等、すなわち市民的平等を重要な柱としていたからに他ならない。

   (ⅲ)人民主権の確立と個人主義の歴史的形成
 水平的公私観の確立には、自然法(普遍的で、永遠の正義の原理として、自然に基づき人間理性から導き出された法のこと。これに対するのは、国家や教会が制定した実定法)を基礎とした社会契約論の思想が大きな役割を果たした。
 近代的な社会契約論の嚆矢(こうし)は、やはりイギリスのピューリタン革命紀に『リヴァイアサン』(1651年)を書いたホッブズであろう。
 彼は、人間にとって最も重要なことは、生命の保存(自己保存)であり、そのためにいかなることをしてもよいという、生まれながらの権利(自然権)をもつという。だが、法律も政府も知らない「自然状態」では、この自然権を各人が行使すれば「万人の万人に対する闘争」状態に陥り、自己保存がかえって危険にさらされる。諸個人は契約を結び、自然権を放棄し、諸個人のもつ力を結集してより大きな集団的力をもった政治社会をつくるべきである。そして、この集団的力(即ち、主権=最高権力)を行使する権限を一人あるいは少数の人間(これが主権者)に与え、諸個人の自由や生命の安全を保障する法律の制定を委託し、諸個人はこの法律に従い、平和に安全に生きるべきだと、説いた。
 ロックの社会契約論の基本的骨組みも、ホッブズと」変わりはない。ただ「自然状態」は、ホッブズほどペシミスティックではなく、平和な「自然状態」が乱れたのは、貨幣の発明と財産の蓄積(貧富の差)によるとした。そこで「ぜいたくの禁止」と平等(土地支配の制限)を維持した所有権(ロックは、生命、自由、財産の三つを所有物と呼んだ)を守るために、諸個人は契約を結んで政治社会をつくったとする。この政治社会を安全に維持する最重要な機関は、立法部であり、イギリス議会に主権=最高権力があるとした。したがって、立法部と行政部(国王)が対立した場合には、前者が後者に優越する。
 この二人により、1世紀ほど遅く生まれたルソーは、政治社会の形成による矛盾の克服について、二人ほど楽観的ではなかった。
 そこでルソーは、個人の自由・利益とを同時に考えることができる市民が、契約を結んで、「一般意志」をもつ政治社会を形成し、その「一般意志」の定める法律による政治を求めている。即ち、ルソーは、"主権は、譲渡も、分割も、代表さえもできず、あくまでも主権者である人民に属する"とした。
 ルソーによって、人民主権論は、はじめて完成したといってよく、水平的公私観が原理的裏付けをえあたのである。ホッブズ、ロックも確かに主権の源泉を人民に求めてはいるが、現実の主権者を絶対君主や、貴族・新興ブルジョアジーの占める議会としていることによって、絶えず垂直的公私観に変質する可能性があるからである。
 しかし、いずれの三人とも、神の被造物(と観念された)としての人間は、生まれながらにして自由、平等であり、この私益をを追求するがために、政治社会=国家が必要であるといっている。このような、私の肯定的評価は、冒頭に示した東アジアの私観とは全く対照的である。(平等思想は、宗教改革により社会的に広がり、社会契約論でさらに発展した)
 その背景には、個人主義に基づく社会という社会観がある。この社会観は、ルネサンス期の人間復興、資本主義社会の確立発展によって形成されたというのが、従来からの通説である。しかし、この面を否定するものではないが、さらにそれ以前からの、キリスト教の長きにわたる社会的役割を軽視・無視するわけにはいかない。
 キリスト教に限らないが宗教の世俗外性は、世俗社会を相対化する力をもつ。この宗教の根源的な力に加え、キリスト教の世俗社会への働きかけは、希有(けう)なものであった。ヨーロッパの土着宗教を一掃する厳格さ、苛酷さは、他の宗教にはみられないものであり、かつ、諸個人一人ひとりに対し、要求された告解(こくげ)と処罰対象は、諸個人の日々の生活と動作にまで至った。(人格・個人の成立過程におけるキリスト教の役割については、阿部勤也著『西欧中世の愛と人格』朝日新聞社 を参照)
 そして、キリスト教が中世封建社会でもった力は、精神的権威のみならず、領主権力としての力でもあり、これらの力を背景に世俗社会に働きかけ、霊肉両界をも支配するかのような勢いであった(中世の魔女狩りやゲットーにおしこめられたユダヤ人への差別などは、キリスト教の負の側面の象徴である)。西ヨーロッパの個人主義形成におけるキリスト教の役割は、実に重いものがあった。
 ともあれ、日本が近代に入り、取り入れた西洋の思想、技術、諸制度の中には、これらと密接な関係で結び付いた水平的公私観があった。そして、この公私観は、今までみてきた歴史的経過をもって、基本的に形成されたのであった。

  Ⅲ 近代国家の形成と近代天皇制の創出

(1) 明治維新による近代化

 1868(慶応4)年1月15日、維新政府は王政復古の国書を各国公使に手交し、幕府が締結した条約中の「大君」(将軍)を「天皇」に変えることとして、天皇を主権者とする国家の成立を通告した。そして、同年3月14日に「五箇条の誓文」に示される基本方向を出したあと、閏4月21日には、「政体書」を発した。
 そこでは「天下ノ権力総(すべ)テコレヲ太政官ニ帰ス、即チ政令二途(にと)ニ出ルノ患(かん)無カラシム、太政官ノ権力ヲ分ッテ立法行政司法ノ三権トス、則(すなわち)偏重ノ患無カラシムルナリ」と、天皇の有司(官僚)に権力を集中した(太政官は統治機構の総体を指す)。
 封建的諸権力を廃止し、権力を集中する過程は、比較的迅速に進み、基本的に1869(明治2)年6月の版籍奉還(版は領地を、籍は人民をさす)、翌年9月の藩政改革の命令(各藩を地方官制に変える)、1871(明治4)年7月の廃藩置県などで実現する。
 だが、天皇制権力において、官僚機構とともに、二大支柱をなす常備軍の場合、その創設過程には紆余曲折があった。
 版籍奉還発令の直後、政府部内では、国民徴兵制の可否をめぐり、大論争がおこなわれている。この背景には、新政府の当面の最大の敵を、不平士族とみるか、それとも農民など一般人民とみるか、の認識の違いがあった。だがこの論争は、決着がつかず、廃藩置県は薩長土三藩の中央献兵約1万の武力を背景に強行されている。
 1870(明治5)年8月、山縣有朋と西郷従道が帰国し、彼らを中心に、兵式の統一、将校の養成、諸藩勢力の削減など兵制の整備がちゃくちゃくと整えられ、1872(明治5)年2月には、兵部省が陸軍省と海軍省に分けられた。そして、同年12月28日(同年11月9日に太陽暦採用)、「全国募兵の詔」が発せられた。山縣は天皇への上奏文(翌年1月)で、「是(ここ)ニ於テカ兵制始メテ備ワリ、内ハ以テ草賊ヲ鎮圧シ、外ハ以テ対峙ノ勢ヲ張ルニ足ル」と、徴兵制の目的を主張している。

   (ⅰ)地租改正と近代的所有権の確立

 官僚機構・常備軍の拡大、華族・士族に対する家禄支給、そして殖産興業などのため、新政府の財政は火の車であった。新政府による土地制度の改革は、この財政、すなわち租税の問題に付随しておこなわれたことが特徴的であった。
 政府は廃藩置県の直後から、地租改正の案をねりはじめた。そして、具体案として、171(明治4)年9月、米麦輸出の解禁、10月の田畑勝手作りで、有利な作物の自由な植栽を可能とした。翌72年2月には、田畑永代売買の自由を認め、売買譲渡のさい、その所有権を国家が確認する地券を交付することを布告し、さらに7月には、市街地をふくめ、すべての私有地に地券を交付するとした(壬申地券)。(1889〔明治22〕年、地券制度が廃止され、登録制に移行)
 このうえに、同年8月、地租改正事務局を大蔵省租税寮に設置し、翌1873(明治6)年3月、ついに地租改正が布告された。新法の骨子は、①土地価格を政府が決定し、これを基準に田畑租とも金納とする、②地租の税率は地価の3%とし、その地租の3分の1以内を村入費として付加する、③地租は土地所有者個人が納め、かつてのように五人組または村全体の連帯責任としない―などである。
 地租改正事業に対しては、役人による恣意(しい)的な地価決定、農民だけへの重課税などで怒りが爆発し、各地で激しい反対運動が展開される。おりからの士族反乱の続出で、農民一揆と士族反乱の結合をおそれた政府は、ついに譲歩した。農民たちは、1877(明治9)年、地租率を地価の3%から2・5%への減額、付加税の本税の3分の1から5分の1への軽減をたたかいとった。
 だが、政府は土地の私的所有を法認する中で、既存の公有地も私有と官有に区分することを強制的におしすすめた。かつての幕藩林野は官有とされ、農民の利用慣行は禁止された。また入会(いりあい)林野も村の共有が証明できないものは取り上げられ官有となった。1880(明治13)年の官有林野は全国林野総面積の31%であったのが、1890(明治23)年には53%に増大したといわれる。(だが入会慣行の続いた林野の所有問題は後々まで紛糾している)
 また、後の民法制定など西欧近代法の継受は、近代的所有権を形式的には確立したが、地主に有利で、小作人に不利な点をはじめ実質的には旧来の内容をひきずっていた。

   (ⅱ)自由民権運動の制圧下に近代天皇制創出
 士族反乱と袂(たもと)を分かった士族民権は、各地の豪農を中心とする農民活動と合流して発展した。天賦人権論を基調とする自由民権運動の主要な方針は、国会開設、憲法制定、地租軽減、地方自治実現、不平等条約撤廃などである。
 板垣退助らの「民撰議院設立建白書」の提出(1874〔明治7〕年)から、1881(明治14)年国会開設の詔がでるまでの請願書提出件数は137件にのぼった。「署名者は全国にわたり、その総人数は31万9300人をこえる......。現在の約3分の1の人口、1戸1人の署名、女性参加の社会的制約、交通・通信の不便などを考慮すれば、32万人弱という署名数は、現在の約3000万人くらいに相当するもの」(日本近代思想大系9『憲法構想』の江村栄一解説 岩波書店)といわれる。
 新政府にとって、自由民権運動は、西南戦争を頂点とする士族反乱に続いて、天皇制絶対主義の安定的確立を左右する最大の障害であった。視角を変えれば、それは伝統的な垂直的公私観が近代的粧いをもって確立するか、新たな水平的公私観が形成されるかの分れ目でもあった。
 自由民権運動は、全国各地をおおい、突出した部分では、「政府ホシイママニ国憲ニ背キ、ホシイママニ人民ノ自由権利ヲ残害シ建国ノ旨趣ヲ妨グルトキハ日本国民ハ之(これ)ヲ覆滅シ新政府ヲ建設スルコトヲ得(う)」(植木枝盛の『日本国国憲按』72条)とか、「何ヲカ革命ト云フ。社会現存スル所ノ基礎ヲ変革スルモノ即チ是(こ)レナリ。タダ行政部ノミヲ変革スルガ如キハ未ダコレヲ革命トハ云フベカラズ」(明治14年9月24日付け『静岡新聞』)とか、人民の抵抗権、革命権をも主張するに至っているのであった。
 伊藤、岩倉らは、1881(明治14)年10月12日、クーデター的に「国会開設の詔書」(10年後に開設)を発表し、大隈派を追放した(「明治14年の政変」)。そして、その後、憲法制定作業は、伊藤を中心に本格的になされた。
 1889(明治22)年2月、欽定憲法としての大日本帝国憲法が発布された。
 それは、「第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之(これ)を統治ス、第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス、第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」というように、天皇を主権者とするものであった。ただ、「第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此(こ)ノ憲法ノ条規ニ依リ之(これ)ヲ行フ」で、「此ノ憲法ノ条規......」というように、外見的な立憲制の形をとっている。不平等条約の改正を悲願とし、「万国対峙」を基本外交とする政府にとっては、立憲制の体裁なくしては、西欧列強の支配する当時の国際舞台への登場は不可能だからである。
 外見的立憲制の本質は、天皇主権にあるのはいうまでもないが、このことは他方での「臣民権利義務」の条項にもあらわれている。」たとえば、「第二八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス、第二九条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」などある。これらの制限を確定し判断するのはあくまでも国家権力である。それはただ絵にかいたモチならぬ「基本的人権」でしかない。
 さらに注目すべきは、憲法制定以前に、すでにこの憲法の枠内に入らない聖域が、軍事と教育の二大分野において設定されていることである。
 軍事においては、1882(明治15)年の「軍人勅諭」で、「我国の軍隊は世々天皇統(すぶ)し給(たま)ふ所にこそある」と規定され、内閣の審議をへることなく、参謀本部長・陸海軍大臣などによる「帷幄(いあく)上奏」によって、軍事勅令が制定される習慣が定着している。教育においては、1890(明治23)年、帝国議会開設直前に『教育勅語』が発布されている。そして、明治中期以降、議会でつくられる法律によるのでなく、事実上、政府の一存ですべてを決定しうる勅令にたよる「勅令主義」がまかり通っている。
 帝国憲法第1~3条と、第4条の間の矛盾の表れは、左は「大正デモクラシー」期の天皇機関説から右は国体明徴運動、軍部独裁に至るまでの幅をもち、それらは外見的立憲制の諸現象であった。

 (2)共同体を利用した地主中心の地方体制


 新国家の地方支配体制は、当初、旧制を踏襲したが、廃藩置県いご、旧制を全面的に否定し、中央政府―府県―大区小区という体制をとった。府の長は知事、県の長は県令と称し、政府が任命した。知事・県令は、中央の監督下、下級の大区小区を指導、監督した。
 廃藩置県直前の1871(明治4)年4月、戸籍法が布告された。これは中央集権的統治の基礎として、人口調査と、旧来の身分編成を排した住所地主義による戸籍編成が目的であった。この戸籍事務遂行のため、府県の下に区が設定され(7~8か村の統合が一応の原則)、戸長、副戸長がおかれた。しかし、その実施過程では、戸長は戸籍事務だけでなく、地域全般の事務も取り扱うようになった。
 このため、旧村役人と戸長の間で権限争いがおこり、政府は1872(明治5)年、旧村役人を廃止し、大区に区長を1人、小区に副区長(あるいは戸長)を1人おくことをあきらかにした(大区は小区の数倍規模)。区戸長の職務は、布達の徹底、戸籍整備、租税徴収、小学校設置、・就学奨励、徴兵調査など、国家の行政事務が主なものである。区戸長は官選であり、官吏なみの待遇だが、給与は地元支給である。
 だが、旧来の行政区画、共同体を無視した強権的な地方支配体制は、農民一揆と自由民権運動によって猛然と反撃された。歴史的に惣村自治を経験している人民にとって、それはあまりにも反動的なものであった。
 人民の反撃に直面した政府は、1878(明治11)年7月、最初の統一的地方制度である三新法(府県会規則、郡区町村編成法、地方税規則)を制定し、方針転換した。政府は地方長官会議(同年4月)での説明にあたって、「一町一村ノ人民ハ利害相依(あいよ)ルコト一家一室ノ如キアルノミナラズ、亦(また)財産ヲ共有シ一個人ノ権利ヲ具フルモノノ如シ」と述べ、共同体の利用に転じた。
 この結果、町村長(戸長)は、民選(土地を所有する住民が選出し、府県知事が任命)となり、住民(あくいまでも制限選挙だが)の代表としての側面も与えられた。次に、戸長や村を直接監督するものとして、郡長(府県知事の任命)を新設した。限られた自治であれ、それを許容する代わりに、その自治活動が反体制にならぬよう、厳しく監督する郡長をおいた訳である。それは郡長が町村会に対し、中止権・議決施行の拒否権をもっているだけでも明らかである。
 地方民会は、すでに一部では、開明的地方長官の裁量で設置された所もあった。」また、大区小区制の末期、」1876(明治9)年の太政官布告130号で、町村の金穀公借、共有物取扱、土木起工には、住民(土地所有者)の6割以上の賛成が必要であるとされ、住民代表の総代という代理機関が導入された。
 そして、1880(明治13)年の区町村会法で、町村会が設置された。町村の決議事項は、協議費(町村費)の賦課徴収方法、町村費で行う町村公共事業の一切である。議員の選出方法は、各地方長官の自由裁量であったが、大方は土地所有者による制限選挙であった。
 府県会も、この時期開設された。議員は、各郡単位(郡の大小により各郡5名以下)で、記名投票の公選である。選挙権(満20歳以上の男子で、地租5円以上の納入者)、被選挙権(満25歳以上の男子で、地租10円以上の納入者)ともに制限制度である。府県会の議事権限は、地方税予算の使途である。
 三新法実施後、深刻な不景気が農村を襲った。いわゆる松方デフレ財政の展開である。松方財政は、紙幣整理(西南戦争の後始末)、軍備拡大、増税を柱とし、犠牲を地方農村に集中させた。デフレの進行とともに、米価、糸価などは半値以下に下落した。この窮状下で、秩父困民党の蜂起に代表される「農民騒擾」が各地で激発した。だが、政府に依って、』強権的に弾圧され、農民たちには没落者が相次ぎ、地主・高利貸への土地集中が進んだ。
 村の統治機構の動揺を防ぎ、資本主義的な原始蓄積を強行するため、政府は「明治17年の改正」(1884年)で、三新法を再検討した。
 その中心は、戸長を官選に切りかえ、「平均5町村、戸数にして平均500戸」を標準とする新たな戸長役場の設置である。そして、従来放任されていた町村費に対する費目および科目の指示限定、および費用徴収での強制力付与がなされた。
 憲法発布の前年、1888(明治21)年、殖産興業、軍備増強などのための国税が地方税と競合しないように、まら税負担を地方に転化させるように、町村合併が強行された。町村数は7万435から、一挙に1万3347へと、2割弱への大激減である。
 そのうえに、政府は、体系的で永続的な地方支配体制として、1888年、市制町村制を、1890年、府県制、郡制を公布した。(戦前日本の「地方自治」制の原型確立)
 この「地方自治」制は、立憲制発足直前の、前提的作業として重視された体制作りである。山縣有朋は、中央の政党勢力に左右されない、地主ら地方名望家中心の「地方自治」体制を早急に上からつくりあげ、国会開設を迎えることにしたわけである。
 まず町村会をみると、その議員は、町村公民中から選ばれる。町村公民とは、「凡(およそ)帝国臣民ニシテ公権ヲ有スル独立ノ男子二年以来町村ノ住民トナリ其(その)町村ノ負担ヲ分任シ及(および)其町村内ニ於テ地租ヲ納メ若(もし)クハ直接国税二円以上ヲ納ムル者」(大島美津子著『明治国家と地域社会』岩波書店から重引)であった。したがって、貧乏小作人や女性などは排除された。逆に村内に居住しない者でも、税金を納める不在地主には選挙権があたえられた。
 選挙方法は、等級選挙である。選挙人全員の納税額の半分を納める者を一級、残りの選挙人を二級とする(市会は三級制)。そしてそれぞれの級で、半分ずつ議員を選ぶというもので、極めて差別的階級的であり、地主などに有利であった。町村長・助役(原則的に名誉職)などは、この町村会議員によって選ばれる。
 町村会は、町村という公法人の最高の意思決定機関として、議決権は市町村の権能としてさだめられた一切んことを議決できる。従来と比べ、かなり権限を拡げた。町村長は、町村会の執行者にすぎなくなった。しかし、他面で、町村長は委任された国政事務の執行者であり、これには町村会は関与できない。また、町村会決議とて、町村長が、公益を害すと認めたものには執行を停止させる権限をもった。(区という名称で旧村の共同体利用も保持された。だがそれはあくまでも町村長の補助組織でしかない)
 町村自治には、さらに上級官僚(郡長、知事、内務大臣)の拘束もある。具体的には、町村長・助役などの選出認可、懲戒処分権、町村会議決の許可権、・停止権、強制予算の権(必要事務の支出を強制しても予算に乗せる)、町村事務の監査、町村会解散の権などである。
 郡会、府県会の選挙は、ともに複選制である。両者ともに、直接の下級議会の選出議員と、高額所得者・納税者から選ばれた議員で構成される。複選制とは、各級ごとにふるいをかけ、より上級に、より有力者を選出させるシステムである。
 支配層は、基礎単位としての市町村に一定の自治を与えながら、総体としては、二重三重の拘束を設け、府県―郡―市町村の地方支配体制を確立した。そして、町村の行政事務の7~8割は、国政委任事務であり、町村自治は、単に地方を体制内に囲いこむための方策でしかない。国政委任事務遂行のための、町村役場の合理化、能率化は、近代的粧いをもちつつも、下層大衆から遊離した「お上の役所」をつくっただけである。
 近代国家の形成とムラ共同体を利用した三段階の地方支配体制の確立は、近代的粧いをもった垂直的公私観を主に形成した客観的土台である。
 そして、この地方体制の基礎は、旧来のムラと町村にあり、支配層はそれを地主中心の体制に改編し、しかも政党間の党争を排除した非政治的な秩序(和の精神)の形成に努めた。ムラは、イエとともに近代天皇制の社会的基礎である。

  Ⅳ イエ制度と天皇制支配の内面化

 明治維新によって、封建的分権制が廃止され、近代的な中央集権的統一国家が形成された。この結果、それまでの〈公私〉観、すなわち、重層的で、かつ同一実体が立場に応じて、〈公〉にも〈私〉にも転化する相対的な〈公私〉観も変化した。つまり、相対的な側面は、中央集権制によって消失した。しかし、他面では、中央政府―府県―郡―市町村という、重層的で、強固な上下秩序はいっそう強化された。
 だが、官の整備に対して、人民の側は、(A)惣村自治いらいの伝統をもつ旧村=ムラの自治性、自立性は、再編されつつも、根強く残り、明確に意識されていないとはいえ、水平的公私観を保ち、また(B)地主―小作関係、本家―分家関係、親会社―子会社関係などの親分・子分関係は形をかえつつも再生産され、前近代の〈公私〉観も生きつづけ、(A)と(B)は渾然一体となっていった。
 明治政府は、重層的な〈公〉観を育成したが、その対比としての〈私〉については、形式的には公民の規定、法律上の権利義務関係の措定などで消極的に明らかにした。しかし、それは戸籍法、民法の戸主権にみられるように、各臣民の従うべきイエの長=戸主を通しての私人であるため、実際上は、戸主、あるいは戸主が代表するイエが、社会的には〈私〉を表現した。
 確かに、西欧においても市民革命後、直ちに下層大衆や女性が公民になれた訳ではない。この点は、日本も同様である。しかし、日本の特殊性は、戸主がイエを代表し、しかも戸主をふくむ諸個人がそのイエに隷属し、諸個人の人格・自立性が抑圧されていた点にある。社会の基本単位は、諸個人ではなく、実質的にはイエにあったという点にある。

(1)イエ制度の歴史とその日本的特殊性

 イエの源流は、12世紀の院政期、天皇・大貴族などの荘園にみられる家産の形成を背景としたイエ、世襲化された家業をもつ貴族のイエにある。イエは、中世の領主層の経営体としてのイエによって、さらに発展した。このイエは、室町・戦国期には、上層農民などにも形成され、江戸時代の中期には、農家・商家・職人の家などにも広く定着した。
 イエは、消費をふくむ生活共同体としての機能だけでなく、協働体、経営体の機能が重要な柱となっている。したがって、家屋敷や生産手段などの家産を、代々、基本的に父子(養子をふくむ)で相伝し、イエ構成員(非血縁者もふくむ)の生活のため、家長の指揮下に家業を営み、家名、家風を継承して、イエの永続的な維持、繁栄に努力する。
 武士のイエは、南北朝期までは、分割相続であり、均分ではなくとも、女性も相続財産を所有できたが、その後、相続人(長男子)の単独相続が一般的となり、相続人以外の男子、女子は、一部の動産を除き、相続人の対象から除外される傾向をもつ。
 農民のイエは、江戸時代、幕府による分地制限令にもかかわらず、裕福な家では、分家がおこなわれたが、それでも家業に支障をきたさない範囲内であり、その他はやはり単独相続であった。農民のイエの相続形態は、長男子相続のみならず、地方によっては末子相続、姉家督相続など種々あった。
 単独相続が広まるにつれ、家父長制は、さらに強化される。家父長制は、家長の権威によって、イエ構成員を支配するところにある。その場合の権威は、大きくいって、伝統的権威と家長自身の権威である。
 前者は、祖先崇拝、イエ永続化のイデオロギーを基礎に、家訓、家風などの形で歴史的に形成されたもので、この権威にイエ構成員は服従し、さらに家長自身もこれに拘束される。したがって、家長の権力は、無制限なものではない。家長な恣意的な権力発動とイエ存続の危機の場合は、隠居した前家長、あるいは親類によって家長は廃嫡される。
 後者は、前者を背景としたものだが、それだけでなく、家業の経営指揮者としての権威によるものである。
 家長には、夫権・父権・主人権・家産管理権・祭祀権などによって、妻・子ども・非血縁家族(使用人)に対する支配権が確立されている。イエ制度は、家柄、家格意識も強く、これが本家―分家の親分・子分関係とも結びついて、家格階層制をなしている。
 親分・子分関係もその一つであるオヤ・コ成りは、大きく分けて二つある。一つは、幼少期のもので、出産時の取上げ親、厄年に産れた子の拾い親、名前をつけてもらう名付け親などである。もう一つは、成人期のもので、成人式のときの烏帽子(えぼし)親・鉄奬(かね)親、結婚時の仲人親などである。その他にも、ヨソモノが村に定着する際に結ぶ、
寄親―寄子関係もある。
 オヤ・コは、別名として、親分・子分とも、親方・子方ともいう。「オヤ・コは、漢字では親・子という文字をあてることが多いので、実の親・子をさすように考えられているが、かならずしもそうではなかった。実の親・子を指すのには、別にウミノオヤ・ウミノコということばが使われていたのである。オヤ・コというのは、古代に於いて、氏族制度下の労働組織の長と、その労働単位としての働き手をさすことばであった。そして、それには主従の意味が含まれていた。」(『日本百科全書』小学館)といわれる。したがって、後世の実の親・子と、非血縁の主従関係にある親方・子方(親分・子分)という二つの言葉は、同一の起源をもっていたといわれる。
 親分・子分関係は、中世からといわれるが、家格階層制は、本家・分家の同族団構造が、同時に親分・子分の保護と奉仕の関係として形成され、階層秩序をもっているということである。
 イエの発達していた時代には、親分・子分関係は、イエを単位として結ばれたが、近世からは諸個人の間にも結ばれるようになった。それは、今日、ヤクザや職人の間だけでなく、企業、官庁、政党、大学などの派閥、あるいは学閥などの中にも形をかえて、根強く存在している。社会一般に存在する親分・子分関係は、日本特有のものといってよく、外国にはほとんどみられない。
 日本のイエの特殊性をつきつめてみると、主に次の点にある。
 第一は、イエが単なる生活共同体ではなく、経営体として、過去・現在・未来にわたる所与の団体として存在していることである。したがって、血縁家族と非血縁の者が集合してイエがつくられるのでなく、与件としてのイエに諸個人が所属する訳である。渡辺浩氏の言によると、「イエとは、個々人の集合であるよりは、個々人を超越し、個々人をいわば折々の資料とする形式的な機構である。」(『近世日本社会と宋学』東大出版会)とされる。  
 だから、血縁者が絶えた場合、あるいは、ふさわしい後継者が不在の場合は、家業経営にふさわしい者を養子としてむかえ、イエの存続をはかる。
 革命前の中国では、「厳格に父系でたどって同一の祖先を有すると観念される宗族としての家(広義)、及びその一部分をなす、家計を共にする生活共同体としての家(狭義)は、いずれも具体的な個人の集団である。個々人を超越して『存在』する機構という性格を有していない。」(同前)のである。したがって、そこでは、日本のイエのように、家産、家業、家名、家長、「家を嗣ぐ」などの観念はない。
 血縁を重んじる中国では、同姓婚と異姓養子は禁止されている。同姓とは、同一の祖先から流れる「気」を共有する者であって、同姓婚など考えられない。また、姓とは、イエの名(家名)ではなく、一つの「気」の流れを受けた個人の個性の一部であって、結婚によって、姓を変えることはありえない。
 第二は、イエの公的地位である。
 貴族のイエも、武士のイエも、農民のイエも、社会的分業の一環として家業を営む。だが、その家業は本家職、地頭職、名主(みょうしゅ)職など国家権力に支えられた"職の大系"と結びついて、はじめて保証されるものである。
 中世後期、近世の農民の場合、誰でもイエを構えることができる訳ではない。領主への租税納入が、村請けとなっているため、イエ経営は、ムラ全体の責任ともなる。そして、限られた土地という制約条件の下で、ムラが承認する百姓株は数的にも限界があり、百姓株をもつイエの絶家の場合、ムラの承認をえて、イエなしの者が初めて「一軒前」に上昇しうるのである。(もちろん、近世初頭のように土地開発が盛んだった頃は、百姓株数自身の拡大もなされた)
 イエは、私的存在にとどまりえず、国家との関係で、あるいは共同体との関係で、公的側面をもちつづけたのである。

(2)イエ制度の延命とその社会的根拠

 近世のイエは、明治維新によって再編された。それは、富国強兵、殖産興業という国家目標の遂行上、イエの維持と、その近代化という、あい矛盾した内容であった。
 1871(明治4)年、戸籍法制定に伴って、はじめて戸主が設けられた。戸主は一家の長(家長)である、と同時に、行政機構の最下位の長である戸長と結びついて、国家行政組織の最末端の権力を担い、家族を支配するように、その役割を担わされた。具体的には、徴兵事務、徴税、衛生などの行政活動への協力である。
 民法の起草は、早くも1870(明治3)年から始まっているが、さまざまな事情で延びのびとなり、ようやく1890(明治23)年に、フランス民法を基礎とした旧民法が制定、公布された。
 これは、学界、政界など関係者を二分する大論争となった。延期派の論客・穂積八束は、「民法出テ忠孝亡フ」と、センセーショナルな論陣をはった。
 しかし、もともと旧民法自身、すでにポアソナード草案(1888年)の個人主義的なものより、家族主義的色彩の濃いものであった。したがって、延期派の抵抗でできた明治民法(1898〔明治31〕年)も、旧民法と骨子の点で大きく変わるものではない。すなわち、近代法をつくるということは、個人を前提とした権利義務関係を否定することはできないのであり、保守派のイデオロギーをそのまま貫徹すると、民法そのものの制定を否定する結果となるからである。しかし、延期派の主張は無駄でなく、イエとイエ・イデオロギーを明確にさせる役割を果たした。
 明治民法は、第747条で「戸主ハ其家族ニ対シテ扶養ノ義務ヲ負フ」と、戸主の義務を明記したうえで、戸主の権限を列挙する。それらのうち、主なものは、「戸主又ハ家族ノイスレニ属スルカ分明ナラサル財産ハ戸主ノ財産ト推定ス」(第748条①)、「家族ハ戸主ノ意ニ反シテ其居所ヲ定ムルコトヲ得ス」(第749条①)、「家族カ婚姻又ハ養子縁組ヲ為スニハ戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス」(第750条①)などである。
 西欧近代では消失した家督・戸主権が法定されることにより、戸主権は庶民にまで広がり強化され、戸主の家族員支配を合法化し、イエ制度をその後も長く存続させることになった。
 その中で、女性、とくに妻の地位を低くおさえたことは特徴的であった。明治政府は、文明国らしくみせるために、1873(明治6)年に妻の離婚請求権を定めたり、1882(明治15)年に一夫一婦制を定めたりしている。しかし、妾をもつことは実質的に認められた。
 また、妻は法律上、無能力者とされ、一切の法律行為は夫の許可なしには行えなかった。親権は、父に支障がない限り、父に属した。妻が実家から持参した財産は、妻の所有ではあったが、実際上の管理は夫にあった。戸主名義の「家産」の相続は、嫡長男にあったため、妻の権利は全くない。さらに、妻や妾には姦通罪があったが、夫にはない。このような夫婦の不平等、女性差別は非常にはっきりとしていた。
 戸籍法、民法などの規定で、イエが近代的粧いをもちながら、存続・延命したのには、それなりの理由がある。
 第一は、資本主義の源蓄、殖産興業の財源は、主要に農業に依存し(1880年代まで、歳入に占める地租の割合は、7~8割台)、その農業を維持するには、家族経営の基礎となるイエの存続が不可欠だったからである。そして、イエの存続は、家計補助的な賃金労働者(とくに、繊維関係の女工、鉱山・土木などの出稼ぎ)を広汎に生み出し、驚くべき低賃金と長時間労働という原生的な苛酷な資本―賃労働関係の基盤となった。このことは、国内市場の発展をもたらさず、後の海外侵略につき進む背景の一つともなった。
 第二は、天皇制国家権力による人民支配の基礎として、イエが措定されたためである。これは家族国家論の土壌となるだけでなく、国家とイエのあいだの、多くの集団、組織がイエの原理、オヤ・コ関係によって組織化され、社会秩序の基本となった。

(3)天皇制支配を支えるイエ原理

 1937(昭和12)年、文部省から発行された『国体の本義』は、「我が国は一大家族国家であって、皇室は臣民の宗家にましまし、国家生活の中心であらせられる。臣民は祖先に対する敬慕の情を以て、宗家たる皇室を崇敬し奉り、天皇は臣民を赤子として愛しみ給ふのである」と、家族国家論の要点を述べている。
 これは君民関係、あるいは皇室対臣民の関係を、親子関係あるいは祖先崇拝にアナロジーし、ここに家族国家論の根拠を求め、イエを天皇制国家の基礎とするものである。
 家族国家論の最大の狙いは、天皇制国家権力の臣民支配を、単なる権力支配にとどめず、人民の心に内面化するために、親子関係、祖先崇拝を持ち出し、天皇と臣民の情緒的融合・一体化と親和をはかる所にある。それは同時に、イエの親子関係、戸主の家族員支配の強化をはかり、天皇制支配を育成するものであった。
 家族国家論は、警察制度の創設者・川路利良の『警察手眼』(1876〔明治9〕年)の「一国ハ一家也。政府ハ父母也。」などのように、明治の初期から唱えられている。
 家族国家論が、組織的に人民教化として、徹底・鼓吹されたのは、日露戦後であるといわれる。当時、一般的に国家目標の喪失状況がただよっていた。そして、資本主義の確立、発展に伴い、都市でも農村でも階級闘争が、社会主義運動が高まってきた時期である。
 家族国家論の徹底化を組織的に遂行したのは、何よりも学校教育である。1910(明治10)年、修正された修身教科書は、「皇室は我等の宗家なり。我等国民は子の父母に対する敬愛の情を以て万世一系の皇位を崇敬す。是を以て忠孝は一にして相分かれず。」と、天皇崇拝、忠孝一致を強調している。この年、大逆事件なるフレームアップと朝鮮併合がなされた。
 家族国家論でいう、「君は民の父母」という考え方は、確かに、中国の儒教にあり、日本でも古くから受容されていた。しかし、それはあくまでも治者の心構えとしてであり、「仁政」という統治理念と結びついたものであった。それが治者の心構えというよりも、むしろ臣民の君主への服従や忠誠に意味転換し、"臣民たるもん、父母や先祖の如く、天皇をしたい、天皇に従え"という点にこそ、家族国家論の強調点がある。こうした意味転換は、すでに幕末の国学者の思想にある。
 また、忠孝一致論も、日本独特のものである。中国では、一般医に"忠と孝は矛盾せず、常に両立しうる"というものだが、日本では、「忠と孝が、家業としての一つの行為の両面なのである」(渡辺前掲書)。家業に専念することが、忠であり、孝であるという考えは、江戸時代にある。
 近代に入ると、イエとイエ、イエとムラの関係も、商品経済の発展で再編される。近世の本家―分家の関係の代わりに、新たな地主(家)―小作(家)関係が主流となる。
 地主は、その経済力と親分・子分関係を利用し、ムラ共同体を支配し、地方政治を牛耳る。だが、大きなものでも、①明治末期の「地方改良運動」の時期、②1920年代前半、③世界大恐慌の1930年代、「農村漁村経済更生運動」とそれ以降など、地方支配体制は動揺と再編にみまわれる。イエ原理、オヤ・コ関係と隣保共助の旧慣で危機を乗り切ろうとするが、小作争議は止まず、地主とくに大地主は、すでに1900年代から投資を株、銀行などへ分散し、寄生性を深める。支配層は、③の時期には、自作農の育成と、協同組合主義への転換を画策するが、これも成功せず、侵略戦争へとますますのめりこんでいった。
 都市では、手工業者のイエは、支配層の政治基盤としては弱く、結局、企業に依存することとなる。ここでも、同族団所有の財閥、持株会社による子会社―孫会社の階層支配、労資間の対等性を認めぬ家族経営主義、大企業―中小企業の二重構造など、イエ原理、オヤ・コ関係が、資本の論理と結合していく。

  Ⅴ 奉公扱いから家族的融和の経営家族主義へ
 
 「奉公」とは、「一身を奉公に捧げ奉る義」(『大言海』冨山房)である。また、「奉る」とは、「動詞の連用形について、その動作を行う主体が、動作の及ぶ主体より下位であることを表す謙譲語」(『広辞苑』)であるとされる。したがって、「奉公」という概念自身、上下秩序を軸とする身分制社会を表現する代表的な言葉の一つである。
 「奉公」は、古代では、』天皇や朝廷に仕える意味で使われ、中世以降、武家社会では、御恩に対する奉公として、家臣が主君のために働く意味で使われた。
 近世的身分制が形成されはじめた豊臣時代には、武士(給人)と区別され、武家に仕える「奉公人、侍・中間・小者・あらし子に至るまで......」(1591〔天正19〕年の秀吉朱印状―『古文書の語る日本史』5 筑摩書房)といわれ、ここでいう侍は軽輩の従者である若党(若い郎党)をさし、中間・小者・あらし子は、雑役に従がった召使いで、順に階層序列を示す。江戸時代になると、武家奉公人の若党、中間・小者(ときには足軽でさえも)などは、流動性の高い一季、半季の奉公人によって補充され、それらは単純な労働力販売層=日用取りと質的には変わらない。この奉公人の日常の仕事は、乗り物かき、水汲み、薪はこび、米つき、茶作り、縄ない、草履(ぞうり)取りなどである。
 近世では、武家だけでなく、農家、商家、職人の家に仕え働く者も、奉公人といわれ、この言葉は世間一般で広く使われた。
 農家では、地域や時期によって違いはあるが、大雑把には、譜代奉公人、仕付(しつけ *躾)奉公人、小作奉公人、年季売(質物)奉公人、年季奉公人、日雇い(日用取り)奉公人などの種々の形態があった。この中で年季売奉公人の一種である居消質奉公人形態を過渡期(17世紀後半から18世紀初め)として、それ以前は、奴隷、半奴隷として主人に所有された。それ以降は、所有関係から身分差別の強い雇傭関係に変化した。(居消〔いけし〕とは、借銭と労賃を相殺すること)
 商人のイエも、農民のイエと同様に、家長とその親族、」および非親族的成員によって構成されている。親族的成員は、そのイエを継承する嫡系と、分家(別家)を設立あるいは継承する可能性のある傍系に分けられる。非親族的成員は、住み込み奉公人で、その中には、将来、別家の可能性のある子飼い奉公人と、元服以後、途中から奉公に入った中年者、そして、雑役、家事、子守りなどをする下男、下女がいる。奉公人には、支配人(番頭)―手代―丁稚(でっち)―下男―下女という身分階層がある。
 奉公人は、決して賃金労働者ではなく、奉公する中で、厳しい修行、徒弟生活を送り、』商売のみならず、行儀作法、生活態度もしつけられ、規制され、20年近く、りっぱに務めあげると、一人前の支配人となり、その内には、別宅居住を許され、通い奉公人となる者もある。だが、この過程の厳しく、途中でふるい落とされる者の方が、圧倒的に多い。一人前になった奉公人は、家長の見込みで許された場合、財産の一部と暖簾(ノオレン)などを分与され、別家した。本家―別家―孫別家は、同族団をつくり、ノオレンウチと称した。また、同業者は「仲間」を、異業者は「組合」をつくったが、株仲間は権力に公認され、独占化していった。
 手工業者(職人)のイエも、商人のイエと基本的には同じ構造である。住み込み奉公人は、職人―徒弟(弟子)―下男―下女などの身分的階層序列があった。
 職人の年季は、職種により差があるとはいえ、一般に10年ぐらいで、年季奉公終了後、数年、お礼奉公をし、その後さらに修行のための旅に出ることが多かった。一連の旅修業を終えると、"一流の兄い株"になれたという。(お礼奉公は、今日でも準看護婦の世界では完全にはなくなっていない)
 地方によっては、年季明けに親方との間にオヤ・コの盃(さかずき)をかわす所もあった。また、商人でも、徒弟として弟子入りするには、「賤民でないこと、犯過者でないこと」(中村吉治著『社会史』Ⅱ山川出版社)が条件となっていた。
 奉公は、天皇、朝廷、幕府、大名に仕えることから、近世では各イエあるいはイエの主人に仕える意味に拡大している。しかし、近世の身分制支配は、ムラや商人・職人の仲間などの共同体を媒介に、イエを掌握することに眼目があり、ムラの運営なども高割(負担を各イエの土地所持に応じて割りつける)とともに、家割も一つの基準となった。したがって、公性をもつイエ、あるいはイエの長である主人に仕えることは、奉公以外の何ものでもなかった。

(1)近世身分制の撤廃と再編

 近代的な賃労働の形成には、労働者の生産手段からの自由(無所有)と、労働力の売買の自由(身分制からの解放)という、二重の自由が不可欠である。
 明治新政府は、近世の身分制度の撤廃と再編をおこなった。1869(明治2)年6月に、公卿・諸侯の称をあらためて、華族とし、同年12月には、武士を士族、足軽など下級の者を卒、従来の農工商は平民となった。さらに1871(明治4)年8月に、華族と平民の通婚が自由となり、また差別された「穢多非人など」の称が廃止され、平民となった。翌72年10月には、「娼妓・芸妓等年季奉公人」の解放がなされている。こうして、近世の身分制は撤廃され、72年1月、卒の身分を廃止し、全体的には、皇族―華族―士族―平民という形になった。しかし、「穢多非人など」の人びとへの差別は依然として」なくならず、新平民といわれた。
 近世身分制の撤廃とともに、職業・移転の自由に対する諸制限も撤廃された。
 1868(明治元)年5月、政府はいち早く「商法大意」を布達して、在来の問屋・株仲間を廃止し、売買の自由をみとめた。71年8月には、前述した「穢多非人など」の称の廃止とともに、職業の自由がみとめられた。71年5月には、農民の米販売が認められ、同年8月二は、農業のかたわら商業を営むことが許された。翌72年2月には、土地永代売買禁止が解除され、73年7月には、米麦の無税輸出が許された。そして、75(明治5)年5月には、土地細分の制限も撤去され、寄生地主制発展への道を開いた。
 この他にも、1869年正月には、諸道の関所を廃止し、72(明治5)年には、助郷をふくむ伝馬制度も廃止され、交通の諸制限を撤廃した。

(2)根強い奉公関係と労働運動の進出

 だが、日本資本主義の原始蓄積は、遅れた資本主義化―先進的機械生産方法の導入で、賃金労働者は、必要に応じて創出されるという形をとった。また、イエ意識の広範な存在と、後の明治民法によるイエ制度の再編と画一化の下で、地主―小作関係が発展した。そして、これらの諸条件の下で、出稼ぎ型賃金労働者を再生産した。
 各イエの口べらし、家計補助のための出稼ぎ型労働者は、主に繊維産業、土木建築、鉱山などで多くみられた。
 紡績業、製糸業、織物業などの繊維産業は、1880年代末から1930年代前半にかけて、製造業全体の3~4割り台を占める基幹産業、リーディング産業であった。そして、そこで働く労働者の圧倒的多数は、女性であった。しかも、彼女らは、明治前期には、10~20歳、義務教育普及の後期になると、15~25歳ほどの若年労働者が多く、ほとんどが未婚であった。彼女たちは、イエを守るために、口べらし、あるいは家計補助のために労働力を販売した。
 賃金形態は、3~7年契約の年季給金制(たとえば、雇用時、年季半ば、年季明けに各々3分の1ずつ支給)が多く、債務労働的性格が強い。契約は、親あるいは兄などの家長と企業の間になされた。契約内容は、契約期間中の退職の厳禁、女工の都合による契約違反や規則違反に対する積み立て金・未払い金の没収や賃金減額、損害賠償があり、他方では工場主の都合でいつでも解雇できるという一方的なものである。それはとても双務的契約とはいえず、まさしく片務的契約であった。年季奉公的性格がきわめて強かったのである。
 繊維産業が発展し、各企業の競争と、女工争奪が激しくなる明治後期になると、女工への締め付けはさらに厳しくなる。女工の移動防止を目的とした業界団体の結成(協定は、資本家自身によって、しばしば破られた)、強制貯金による足止め策、遠隔地募集と寄宿舎制度の導入などの一般化である。
 寄宿舎制度は、第一に、資本の絶対的剰余価値の増大追求のための、昼夜交替制―深夜業で、肉体的限界のぎりぎりまで働かされ(1日労働時間は、12~16時間)、食事時間も切り詰められ、ただ睡眠のためにのみ、寄宿舎に詰め込まれるためである。宿舎は一畳当たり1~2人。
 だが、より逼迫(ひっぱく)した理由は、第二に、他企業からの引き抜きや、苛酷な労働、約束とは違う労働条件のために多発する逃亡を防止するためであり、資本の強制的な労働者確保―拘置制にほかならない。
 女工支配は、この他にも、みせしめ的な残虐な体罰、きびしい監督・罰金制、女工間の競争をあおる等級別賃金制(腕のいい女工の賃金が上がるのに対し、その原資は他の女工のミスなどによる賃金削減が元である)などがある。
 寄宿舎制のような苛酷な制度に類似したものに、炭鉱の納屋(なや)制度、飯場(はんば)制度がある。納屋制度は、炭鉱資本と契約した納屋頭が、労働者を募集し、労働者を管理するものである。「この制度の最も顕著な特徴とする所は、納屋頭と坑夫との間に存する極端なる封建的身分関係である。......納屋頭は坑夫に対して雇傭解雇は勿論(もちろん)労働の監督、衣食住、賃金、賞罰、裁判、外出、逃亡防止等について、ほとんど半奴隷主的な絶対権利を行使したものである」(遠藤正男著「明治初期における労働者の状態」―『経済学研究』7巻4号)といわれる。
 納屋制度、飯場制度は、第一次世界大戦からその後の合理化の時期にかけて、姿を消し、会社の労働者直轄支配に転換した。しかし、納屋頭の、日常生活をふくめた労働者支配は、会社労務係によって、ひきつづき続けられた。(飯場制度も納屋制度と基本的に同じだが、北海道に多い飯場制度は、単身者が多かった)
 日露戦争(1904~05年)前の産業資本段階での労働市場は、企業によっって分断されておらず、労働者の企業間移動は、かなり激しかった。
 1900年代初頭の労働者の状態を報告した『職工事情』(農商務省編)によると、「鉄工ノ移動ハ彼ノ紡績、織物又ハ生糸職工ニ比シヤヤ少キモ之(これ)ヲ欧米ノ鉄工ニ比シ甚ダ多キガ如シ。殊(こと)ニ事業繁忙職工ノ欠乏ヲ告グル場合ニハ単ニ僅少ノ給料ノ差違ニヨリ軽シク他工場ニ行キ事業ノ閑(ひま)ナルニ及デ又大工場ニ移ル等工場ノ間ヲ転々スルモノ多ク」という状態であった。
 労働者のひんぱんな移動は、不熟練労働者や徒弟中の者だけでなく、徒弟期間を終えた熟練工でも多かった。
 日清戦争(1894~95年)後の物価高騰などで、労働者の同盟罷業が頻発した。この闘いを背景に労働組合が結成されたが、これは、同一職種の全国的な労働市場の形成に応じ、先駆的に結成された鉄工組合(1897〔明治30〕年12月)、日本鉄道矯正会(翌98年4月)、活版組合(99年11月)など、みな職種別労働組合であった。
 労働組合運動の進出に対し、1900年、権力は直ちに治安警察法を制定し、弾圧した。権力の弾圧と、組合自身の共済制度の運営困難などで、運動は衰退した。
 しかし、日露戦争後の物価騰貴、賃金切り下げ、人員削減などで、ふたたび争議は、自然発生的に広がった。それは、金属鉱山、軍工廠、大企業の造船所などが主力であった。争議の激化・拡大は、1907(明治40)年の足尾銅山、幌内炭鉱、別子銅山のように、軍隊の投入によっての鎮圧をもみるに至った。
 日本資本主義は、日露戦争前後から、早熟的に独占資本段階に至り、機械制工場の生産技術の高度化、作業の専門化が進展し(重化学工業の発展)、子方の労働者をひきつれて就業した親方的職工が没落した。この結果、労資関係は、従来の資本家対親方職工対職工から、資本家対職工の直接的関係に移行した。職場の労務管理は、かつては生産関係の事務をとっていた下級技術者に移ったが、実務上の意思疎通をしばしば欠き、労働者の不満が募り、戦後の大争議頻発の一因ともなっていた。

(3) 大企業の特権的労資融和の確立


 日露戦争後の労働争議の激化、労資関係の不安定さに対し、資本家側は、従来の家族主義を再編せざるをえなくなる。「一つは同じく家族主義といわれながらニュアンスが異なり、親子の情誼(じょうぎ)の側面が強調されたことである。もう一つは、家族主義が単なる説教でなく、具体的な施設、制度と結びついて説かれたことである」(隅谷三喜男著『日本賃労働の史的研究』御茶の水書房)という。
 前者についてみると、労働運動の発展により、主従制を軸とした家族主義、奉公扱いでは、労働者支配が困難になってきたことを意味する。
 学校教育でも、親子の情愛が強調され、天皇と臣民の関係も、父子の感情・慈愛の側面が強く出されてくる。
 1906(明治39)年、主要鉄道=鉄道院の総裁・後藤新平は、「鉄道従業員ノ家族生活ノ主義ヲ全フシ、信義ヲ重ンジ愛情ヲ主トスルトコロノ信愛主義ノ徹底スル」(隅谷前掲書より重引)ことを労務管理の基本とした。そして、「事務をビジネスライクに、鉄道をファミリーに」を、スローガンとした。
 後者についてみると、代表的なものは、共済制度である。
 その画期は、1907年の鉄道院のもである。これは従業員が賃金の100分の3、政府が100分の2を出資し、死亡、負傷および養老に関し救済金を給付するものである。従来、経営側の設置したものは、事故に対する救済が主で、労働者の全体的な生活救済面では未だ弱かった。
 だが、労働移動を低下させ、家族主義的な恩情の下に、労働者を定着させていくことを図る大企業にとって、福利厚生の諸制度とともに重要な柱となったのは、自前の職工養成制度であった。
 その頃、公共機関で2~3年の職業教育を受けた者は、未だ長く同一企業にとどまることをしなかった。一つは、職工にとどまらず技術者になるか、町工場の工場主をめざすか、もう一つは、万能熟練工を理想とし、職場間を遍歴するかであった。
 そこで大企業は、自前の養成施設をつくった。1909(明治42)年の、国鉄の中央および地方の教習所、1910年の、官営八幡製鉄の幼年職工養成所、日立鉱山の徒弟養成所などであり、以降、大企業には企業全額負担の養成施設が普及していく。こうした「子飼い」の従業員を幼少時から養成する施設では、技術教育はもちろんのことであるが、企業への忠誠、家族主義的関係を育成する思想教育を行うのも当然のことであった。
 だが、それでも労働移動は未だとまらず、労働運動も激しく、ロシア革命の影響もあり、第一次世界大戦後、製鉄所、造船所、鉱山などで大規模で、激烈な争議が続出した。
 大企業は、そこで診療所・病院の設置、社宅の充実など、福利厚生施設をさらに充実するとともに、定期採用制と定期昇給制をとった。これは、中途退職を徹底的に不利にさせるものであった。こうして、1920年代の半ば頃には、大企業では、終身雇用制の確立、労働市場の分断が形成された。
 そして、大企業を中心に、勤続年数の長期化、労働移動の低下とともに、企業内組合が急速に増大してくる。近代産業の中心地・大阪ではすでに1919(大正8)年時点で、労働団体数130のうち大部分が企業内組合で、横断的組合は、わずか12、3にしかすぎないといわれる。
 もちろん、大企業では、経営家族主義の観点からほとんどが労働組合の存在すら認めず、その代わりに、工場委員会や、経営者と従業員一体の親睦団体が組織された。(鉱山では共済組合と工場委員会をかねた「会社組合」が組織された)
 1919~20年にかけて、原敬内閣は、労働組合法案を検討しながら、結局は法認せず、政府関連の陸海軍工廠、国鉄、八幡製鉄所などに労資の意思疎通機関(会社優位の)として工場委員会を設置し、民間企業にも同様の機関設置を勧奨し、企業内組合の傾向はさらに強まった。
 日本の労働組合運動は、発足いらい、1920年代初頭までは大経営を基盤としていた。しかし、20年代後半になると、自主的な労働運動は、大企業からしめ出され、このことは産業報国会運動による労組解体に至るまで変わらなかった。この点、大企業労資の協調と特権化で類似したドイツでは、中小労働運動の展開と議会利用などで、この体制を第一次世界大戦前後に解体したのと対照的である。(詳しくは、田中洋子著『ドイツ大企業』社会政策学会年報38集を参照)
 独占資本は、権力の弾圧を背景に、一方でテイラー・システムなど科学的管理方法を、他方で、福利厚生、相対的高賃金と年功制などで大企業正規労働者を特権化し、企業の枠内に隔離した。そこには、イエ原理に基づく経営家族主義が強烈に貫かれていたのであった。

  Ⅵ 自治・公益を押さえ込む官治システム

(1) 戦前からの官治システムの延命

 日本帝国主義の歯止めなきアジア侵略は、アジア諸民族の解放闘争と、反ファシズム連合国の前についに敗北し、1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾した。
 GHQ(連合国軍総司令部)の対日占領の初期の方針は、「非軍事化」と「民主化」であった。この下で帝国陸海軍の武装解除・解体、軍国主義勢力の一掃、軍需産業の解体などがすすめられた。そして、治安維持法体制の解体・戦争遂行勢力の公職追放、労働組合法の公布、農地改革、財閥解体による独占資本の再建、戦前家族制度の廃止、宗教の自由化とマスコミ改革など、あらゆる分野で民主化がすすめられた。
 この過程で、46年11月3日、主権在民、基本的人権、戦争放棄などを基本的特徴とする戦後憲法=「日本国憲法」が公布された。
 GHQは、初期においては、「非軍事化」を熱心におしすすめた。だが、官僚機構については、基本的に温存する方針であり、結果的に解体されたのは、唯一、内務省のみであった。それも当初は、改革のレベルであったのが、内務省のGHQに対する対応の失敗と、GHQ内部の対立がからまり、それらの結果として解体されたのであった。
 内務省は、戦前の官僚機構の中では、最大の権限をもった省で、その力は大蔵省をもしのいだ。
 同省は、1873(明治6)年11月(初代内務卿は大久保利通)に設置され、警察、勧業、戸籍、駅逓、土木、地理、測量、出版、音楽歌舞伎など、広範な分野を任務とした。
1881(明治14)年に農商務省が設置されると、勧業を中心とする産業行政がこれに移管され、内務省は、警察行政と地方行政を主要な所掌とするものに再編された。すなわち、地方行政の支配と、民衆運動の弾圧・取り締まり、選挙干渉から家庭の大掃除・祝祭日の国旗掲揚の説得に至るまでの人民支配を主要な任務とした。
 1920(大正9)年には、社会局が設置され、救貧行政・労働行政も所管となった。1925年、普通選挙法と同時に治安維持法が施行されると、28年、治安維持法の改悪に伴い、内務省警保局に高等課、府県庁に特別高等警察(特高)が設置され、労働運動、共産主義者、自由主義者などへの弾圧を強めた。
 ところで、戦前憲法下では、法律は基本的に議会でなく、天皇の官吏=官僚が作り、議会はただこれに対し、賛否の議決をするだけでもよかった。
 第38条「両議院ハ政府ノ提出スル法律案ヲ議決シ及各々法律案ヲ提出スルコトヲ得」が、このことを物語っている。つまり、法律案は、通常、政府(官僚がつくったものを)が提出し、議会が採決する。ただ、議会(議員)も、法律案を提出することが可能だと、付随的に規定されているにしかすぎない。
 しかも、議会は、「唯一の立法機関」ではなく、天皇=官僚が独自に「命令」を出すことができた。第9条「天皇ハ法律ヲ執行スル行為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為(ため)ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス」が、これである。
 「公共ノ安寧秩序」や「臣民ノ幸福」を判断するのは、あくまでも天皇=官僚なのであり、この判断に基づき「命令」を発するのは、天皇である。これは明白な「官僚立法」である。
 さらに、議会閉会中には、法律に代わる緊急勅令を出すこともできた。第8条①「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為(ため)緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス」が、それである。(但し、同条②で規定されるように、次の議会で否認された場合は、効力を失する)
 治安維持法を改悪し、罰則を重くするために、死刑または無期懲役を導入した時、この緊急勅令を使っている。同法改悪案を審議した第55議会は、大もめにもめて、審議未了・廃案となった。ところが政府は、その後、緊急勅令をもって、改悪案を成立させた。
 こうして、戦前憲法では、議会の権能は、きわめて制約されており、天皇=官僚の立法・行政にわたる絶大な権限がまかり通っていた。天皇主権の下に、民意とは関係ない官僚の立法・行政が「超然主義」の名によってまかり通り、支配が行われていた訳である。(「超然主義」とは、民意がいかなる政党を選ぼうとも、それに左右されることなく、国家意志=天皇の意志を貫くこと)
 では、この体質は、戦後変わったのであろうか。確かに戦後憲法は、主権在民の原則の下に、第41条で、「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」と定めた。
 だが、戦後50余年の実態をみる限り、戦前からの官治の体質は、基本的に継承されている。このことは、国会での法律提案が、圧倒的に政府提出案(すなわち官僚作成の法案)であり、議員提案は例外にしかすぎない―ということでわかる。(最近、大蔵官僚などのスキャンダルまみれでの権威失墜で、議員立法が目立ち始めた。しかしその過程でも、官僚の非公然の働きかけは続いている)
 このことは、政治家の無能力さだけでなく、国会自身(あるいは議員自身)の、立法作業を担うスタッフの脆弱性、情報収集の官僚依存などという制度的問題もある。

(2) 地方支配の諸形態

 官治システムは、実質上の、官僚による立法権の確保(これには、自民党など保守党との癒着が不可欠)だけでなく、行政面での地方支配によっても、維持・機能させられている。
 「地方を支配する者は、国を制する」というのは、戦前からいわれているが、かつて、これを担ったのが、官僚のなかでも、とりわけ内務省であった。だが、戦後占領の過程で、内務省は解体された。(旧内務省の人脈は、仕事の流れからいうと、今日の自治省、厚生省、建設省、運輸省、労働省、警察庁などが、その系列に属している)
 この内務省にとって代ったのが、戦後は大蔵省である。中央集権的な財政構造の直接的担い手である大蔵省こそ、まさしく戦後の"官僚の中の官僚"なのである。
 ところで、戦後憲法は、その第92条で、「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める」とうたい、憲法に地方自治を明記した。そして、地方公共団体の長、その議会の議員などを住民が直接選挙することとした。これによって、戦前は、官選で内務省の管轄下にあった都道府県の長などが、直接選挙の対象となった。これには、官僚たちは大きな危機感を抱いた。地方支配の要である都道府県を意のままにコントロールし、支配できないからである。
 そこで、地方自治の形式をくずさずに、実質的に中央官庁の支配の下で、コントロールする主要な手段として、財政がつかわれた。
 まず大枠として、「三割自治」といわれるように、地方公共団体の自主財源を3割り前後に制約する。ついで機関委任事務(国政委任事務など)を大幅に、地方公共団体に押し付け(戦前市町村の事務も7~8割が、委任事務)、金は使途を限定した形で、中央から支給する。つまり、物理的に自治活動ができないように、大幅に制約する、という方法である。これらは、戦前から実施して来た方法である。
 さらに戦後は、国庫補助金を増大させ、中央の政策に従うように誘導する面を強化した。(『財政危機の新たな段階と日本階級闘争の課題』―旧『プロレタリア』紙327~331号参照)
 こうして、地方自前の金は、予算のごく一部でも、中央からの補助金で大事業を実現できるようにして、地方の中央へのタカリ体質をつくりあげた。逆にまた、中央の景気刺激策や恣意的な政策を実現させるためには、地方にとって優先的でない、あるいはムダな事業も実施せざるを得ない面もあり、地方の負債を増大させた。
 さらに、財政面からの地方支配・コントロールを背景に、中央官僚の天下りを広範に行い、行政実施面でも、監視する方法を行使している。それはすべての都道府県で何らかの部署に天下りを招かざるを得なくさせている。
 最終的に、機関委任事務を地方公共団体の長が拒否した場合には、職務執行命令訴訟手続きに従い、裁判所の判決に基づき、国ないし県が代執行できる形として、中央あるいは都道府県による地方支配が貫徹されている。

(3) 重層的〈公〉の下での自治の抑圧


 こうした官治システムは、人民が選出したものでもない中央官吏と、人民が曲がりなりにも選出した公吏(地方公共団体の長や各級議員など)との間の矛盾を、中央官吏の利益(独占資本の利益)にのっとって解決するシステムである。
 中央での国会に対する官僚の優位性を基礎に、中央官僚が地方公共団体を支配する構造は、まさに今日の〈公〉の重層性を体現している。そして、そこには、人民の選出した公吏が、人民が選出したわけではない中央官僚に従属するという矛盾が構造的に存在している。それは、公ならざるものが(支配者にとっては、官=公であるから、公と言い張るが)、公を支配するという官治システムが恒常的に生み出すものである。
 問題は、第一に、中央官僚が国会に対して優位性をもつこと、さらに、必ずしも法律に基づかない、官僚の裁量行政が大手をふっていること、第二に、地方自治が物理的に保証されていないことにある。
 重層的な〈公〉の下では、最上位の〈公〉が歪むだけで、〈公〉全体が疑われる訳である(国益なるものも、世界的視野からみれば、しばしば私益となっている場合が多いが)。
 もちろん、重層的な〈公〉でなくても、普通一般には、国会で決議する公と、地方公共団体の公の間には、たえず矛盾が存在する。であるがゆえに、その矛盾を公的な場で解決する機構的保証が重要なのである。
 ところが、日本の現状は、上位の〈公〉に従順に従う、あるいは逆らえないという雰囲気がまだまだ根強い。こうした傾向を打ち破るものとしての市民運動が、70年代頃から増えはじめ、今日、その代表的なものとして、巻町、御嵩町、そして沖縄などの住民運動があるといえよう。

(4) 官治システムに不可欠な共同体規制

 戦後の官治システムは、戦後憲法の下で、日本が「民主国家」となった以上、同システムを維持する政党(自民党など)の国会での多数支配が不可欠である。そうでなければ、官=公という「大義名分」がなりたたないからである。
 自民党などが、選挙での勝利をはかるさいに、最も重要なのが、ムラ、マチ、企業などの共同体規制の利用である。
 共同体規制などというと、時代錯誤もはなはだしいと思う方もいるかと思う。しかし、』実際、近年でもこれにまつわる事件は続いている。坪井洋文論文(日本民族文化体系8『村と村人』小学館に所収)によると、事件は、1982年茨城県の県会議員選挙で、下妻市のY地区でおこった。
 一般的に、田舎の選挙活動は、今でも旧村(地区)対抗の様相が色濃い。Y地区でも選挙終盤、地区外の特定候補を当選させるため、対立候補を中傷するパンフレットの中に3000~6000円を折り込んだものがY地区住民に渡された。この時、案内をかった4人の内の1人・Aさんが、知り合いの建築会社社長にこの買収の件を話した。対立候補派だった社長は、この件を下妻署に届け、案内者の3人(Aさんを除く。しかし、Aさんも後に逮捕)が逮捕され、Y地区の全戸が取り調べをうけた。結果として、19人が略式起訴された。案内者の3人は、開票後に釈放された。
 釈放後、地区の集会があり、Aさんは皆かr、「警察で全部しゃべっただろう」と非難された。Aさんは泣きながら謝った。そして、自らの逮捕直前に、3人に対し、「警察に呼ばれて、部落を案内した3人と、金をもらった家を教え、押印してきました。この事が部落全体を騒がせる原因になり、私は申し訳なく思っております」という内容の念書をかいた。 
 買収行為が正しいのか否かよりも、仲間を裏切り、地区の掟(秘密主義)を破ったことが、非難されるか否かの判断基準として優先されたのである(他の部落の事件ならば客観的に判断できるのだが)。前近代からの伝統をもつ村落共同体の規制は、これほどまで強く、今も存在しているのである。
 これ程でなくとも、こうしたことは、田舎だけでなく、大都市の下町などには存在している。
 これ以上に強いのは、より近代的と思われている大企業などでは、その企業ぐるみ選挙にみられるように、不正な選挙活動はもっと露骨である。会社命令で、仕事として選挙活動を従業員はやらされる。それだけでなく、夫妻あるいは家族の幻想的「一体化」論で、妻にも夫の会社がおす候補への投票を半強制される。社宅などに住んでいれば、社宅全体からの圧力もある。
 この共同体規制の利用に最もたけているのが、自民党などの保守党であり、選挙に際して、フルに利用されてきた。
 共同体規制は、自治活動と密接なものである。確かに江戸時代と比べると、自治活動としては、今日のムラの方が衰弱している。それは、中央からの支配が、「地方自治」を媒介として、ムラにまで深く浸透しているからである。この事は、ムラの個性を尺度としてみれば、今日の方がいかになくなっているか、画一化されているかで、判断できる。
 だが、ここで気をつけなければならないのは、「自治一般」で物事をみることができないということである。(近代的自治は、諸個人の人権と人格の尊重、個人間の対等性を基礎にいとなまれる連帯と協働である。無前提な「一体化」「共同化」は、諸個人の個性と自己実現を妨げるもの以外の何物でもない)
 江戸時代のムラの自治は、村請け(税金をムラ全体の連帯責任で、領主に対して請け負った)により、基本的に保証された。このムラの自治運営は、戸主、しかも村役人を中心とする本百姓が行い(後期になると水?〔みずのみ〕の小前百姓の発言権も増大)、それ以外の人びとは、ムラとイエの下に二重に埋没していた。戸主も当然、ムラに規制された。そこには諸個人の人権はなく、ムラに住みつづける限り、共同体規制に異議なく従わざるをえない。
 共同体規制は、ムラの制裁によって、規律され、貫徹される。その制裁の代表的なものがムラハチブである。
 ムラハチブは、近代以降もなくならず、自殺者までも出ている。大審院判例では、ムラハチブは、名誉棄損罪、脅迫罪にあたるとされている。
 ムラハチブなどの制裁に裏付けられた共同体規制―これを利用した自民党などの選挙勝利が、いかに人民の意志と利益にかけはなれたものかは、この間の住民投票によってみても明らかである。巻町でも、御嵩町でも、沖縄でも、権力や電力会社の組織工作、「買収」チラツカセをはねのけ、勝利している。
 最後に、自治についてつけ加えると、日本では明治憲法作成時の支配者の意図もあって、曲がりなりにも「地方自治」は認められたが、「中央自治」だけは認められなかった。天皇主権の原則下では、必然的であった。だが、この考え方が、主権在民の戦後にも継続された。それは官治システムの延命と裏腹の関係に立つものである。

  Ⅶ 大企業の重層的支配構造と私的世界の重層性


(1) 独占資本による公私関係の歪曲

 人民主権論の確立に、思想上、理論上、大きな役割を果たしたのが、ホッブズ、ロック、ルソーなどに至る社会契約論の流れであることは前述した。
 しかし、この社会契約論は、その経済的前提、経済的保証については、極めてアイマイであるか、不十分なものであった。
 ロックによると、平和な「自然状態」は、人間がいったん貨幣を発明し、財産を蓄積しはじめる(私有財産)と、闘争、強盗、詐欺などの諸問題を生じるとされる。そこでロックは、諸個人の所有権(生命のほかに、自由、生産手段としての財産をふくむ)を守るために、契約を結んで政治社会をつくったとしている。
 だが、ロックのいう"自己労働に基づく私的所有"は、たとえ、自由な交換をもって(略奪でなく)しても、資本主義の発展とともに、"他人労働の搾取に基づく私的所有"を支配的なものにしていく。この意味では、ロックの所有論と結びついた社会契約論は、新興市民階級(ブルジョア階級)の利益を主張するものであった。
 ルソーも基本的に同じであった。ルソーは、土地所有権に関して、「あらゆる人間は、生来、彼に必要ないっさいのものに関して権利をもっている。しかし、人間をあらゆる財の所有者にさせる積極的行為は、他のすべての財から彼を除外させることになる。自分の分け前を与えられたならば、人間はそれだけに甘んずべきで、もはや共同体に対して何の権利ももたない。」(『社会契約論』)といっている。
 しかし、後に発展した資本(の活動)は、ルソーが想定したほど、ナイーブでなく、むしろ、禁欲と勤勉のすべてが、利潤追求という大目的に奉仕するという貪欲ぶりを発揮する。ここでも、自己労働あるいは家族労働に基づく私的所有は、片隅に追いやられ、"他人労働の搾取に基づく私的所有"が、支配的にならざるをえない。
 この意味で、1789年のフランス大革命の目的を明記した「人および市民の権利宣言」は、その志向性にもかかわらず、当初から矛盾を内包するものであった。
 言うまでもないことだが、フランス大革命は、第1条「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。......」、第3条「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。......」、第4条「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する。......」など、人類史上、画期的ともいえる人民の前進を示す権利宣言を発した。
 だが、他方で、第2条「あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである。これらの権利は、自由・所有権・安全及び圧制への抵抗である。」、第17条「所有権は、一つの神聖で不可侵の権利であるから、何人も適法に確認された公の必要性が明白にそれを要求する場合で、かつ事前の正当な補償の条件の下でなければ、これを奪われる事がない。」と、諸々の人権の一つとして、私的所有権を含ませた。しかし、ブルジョア社会における所有権=私的所有権の絶対化、神聖化は、何度もいうように、"他人労働の搾取"によって、厖大な無産者を生産・再生産し、階級矛盾・階級差別を社会問題に押し出し、激しい階級闘争が展開されるに至った。
 そして、さらに、資本主義の帝国主義段階(独占資本の社会的支配)、とりわけケインズ政策(需要創出政策)の国際的普及によって、西ヨーロッパ的意味における公と私の関係もアイマイになっていく。財政の肥大化、官僚機構の肥大化を背景に、公をつくりだすはずの個々の公民への圧迫―行政の優位化、独占資本の巨大な支配力を背景にした〈公〉の形成(一部利害者の私の公への転化)という具合である。
 このことは、戦後日本のトヨタ、日立などの巨大独占資本による「城下町」の形成にもっともわかりやすく表現されている。一巨大独占資本の納税が、自治体収入の過半数あるいは大きな比率を占め、また、下請け支配をも背景に、議会でも絶対多数を占める。ここでは、一巨大独占資本の私的利害に沿う形での〈公〉が、白昼堂々とまかり通ることは、必至である。
 これに類似したことは、「企業城下町」のみならず、より大きな自治体や国家的規模でも同様におこなわれる。その最大のものは、いわゆる公共事業である。たとえば、①コンビナートや工業団地の土地造成が行政投資でおこなわれ、安く企業に売却される、②自動車所有(営業用トラックもふくむ)の増大に伴う道路建設が、経済成長を大義名分に、交通事故や大気汚染による人命の喪失増大を尻目に、沿線住民の意思ともかかわりなく、行政的に推進される、③関係住民の合意もなく、ダムや原発などの事業が、上から高圧的に行われる―などである。
 今、注目されている金融機関への公的資金の導入も同じである。もともと私的企業である金融機関を「銀行の社会的役割」とか、「銀行の公共性」などといって、公然と公的資金の大規模投入が強行され、私的企業のツケを税金で尻拭いするという矛盾である。この論理でいくと、社会的分業にかかわるものすべてが公共性をもつ訳であって、私的所有は一切必要ない、という論理的結論になるであろう。だが、それは「社会主義」を承認することになってしまうので、政事技術的な公私の線引きをするという、いい加減なものである。
 独占的大企業の私益による公益の歪曲は、公共投資の国民総生産に占める割合が、欧米の2~3倍にも達する日本では、とりわけ顕著である。"土建国家ニッポン"といわれるのは、」まさしくここに根拠をもつ。(詳しくは、旧『プロレタリア』紙330号「財政危機の新たな段階と日本階級闘争の課題」を参照)

(2) 大企業内外の重層的系列・序列

 だが、このような理不尽がまかりとおる背景には、もう一つ、私的世界の重層性という日本独特の問題がある。すなわち、前述したイエ原理やオヤ・コ関係という組織原理が、大企業を中心に、その内外に重層的階層性を形成し、私的世界の重層的系列・序列をつくっていることである。このため、私益が公益を粧い、横暴を通すことに反発・不満がありながらも、私的世界の重層的系列・序列の壁の前に屈服している、あるいはそれを打破できえていないというのが、下層人民の現状である。
 戦前日本の企業を中心をなした財閥は、その中枢としての持株会社が、子会社・孫会社・関連会社に対する直接的間接的な株式所有、役員任命・派遣、自前の金融機関による信用統制、自前の商社を中心とする集中的な購買と販売などの手段によって、支配をおこなってきた。そして、この厖大な組織網から吸い上げた利益を財閥家族に集中させたのであった。そこには赤裸々なイエ原理による支配と被支配、保護と従属の関係が、上から下までピラミッド状に形成され、貫徹されていた。
 この財閥組織は、戦後占領期に基本的に分割・解体された。GHQは、株式制度・株式市場の発展によって、株式所有を大衆的に開放し、財閥の復活を阻止しようとしたのであった。しかし、旧財閥系大企業は、グループを形成し、独占資本は復活した。その際、重要な役割を果たしたのが、グループ内大企業が相互に株式を持合い、結束を強め、社長会を軸に、グループの戦略方向の策定とその実行における指導性を保持したことである。
 株式の相互持合いは、①60年代後半、資本の自由化に伴う外資の参入を阻止すること、②70年代以降、企業の銀行借入金依存(間接金融)から直接金融への移行の時期、直接金融も銀行などを媒介するように働きかけた時などに、とりわけ顕著に強まった。
 株式の相互持合いは、高度成長期からの土地投機、株式投機というバブル体質を形成するうえでの基盤的土壌をなした。このツケは、今日、歴然としており、経団連は、持合い解消を狙って、「証券等健全化機構」構想を今年(1998年)10月に打ち出したが、証券業界、大蔵省との折り合いがつかず、うまくいっていない。
 だが、支配層は、株式持合いの矛盾露呈の下で、他方では、純粋持株会社の半世紀ぶりの解禁で、大企業支配の維持を依然として、はかっている。
 
(3) 「企業社会」の基本骨格と差別・序列の構造

 日本の企業の相互関係は、このグループごとの大企業の結束を一つの柱とすると、もう一つの柱は、それぞれの大企業の、下請け中小企業に対する支配である。
 中小企業は外国にもあるが、日本の場合は、ほとんどの分野において、大企業をトップに、二次、三次、四次、五次、はては内職にいたるまでの重層的連鎖的な支配―被支配、保護―従属の関係が貫かれている所に、その特殊性がある。
 欧米でも、中小企業は存在するが、そもそも日本語の「下請け」に相当する単語は、英語にはない。アメリカでは、53年に制定された「小企業法」で、「本法でいう小企業(スモール・ビジネス。日本のように中小企業とはいわない―引用者)とは、独立して所有、経営され、かつ当該の事業分野を支配しない企業」と定義され、」その「独立性」が前提とされている。
 欧米では、企業間の発注―受注関係は、基本的に市場での入札によって、決定される。契約はいままで1~2年ごとに更新され、途中での受注単価の切り下げはありえない。最近では、80年代後半の「日本的経営」の国際競争力におされ、これを学び、長期契約するところもでてきたが、その場合でも、個々の企業は独立しており、市場での契約によることは基本的に変わりない。
 だが、日本の場合は、市場での不安定多数との契約ではなく、互いの「信頼関係」を基礎とした相対(あいたい)取引がほとんどであり、そして、長期固定的な取引で、契約内容も大雑把な取引である。しかも、受注単価も景気変動によって、一方的に切り下げられることがしばしばである。それは、まさに「所有なきコントロール」であり、支配―従属関係を明らかに示している。
 この関係を維持するために、大企業(あるいは上位企業)の下請け企業への融資、技術指導、役員派遣、」あるいは、下請け同士での「○○協力会」の組織化などが駆使され、下請け企業はがんじがらめとなっている。これは外見上では、独立した企業同士の社会的分業であるかのようにみえるが、内実は、より上位の企業の企業内分業を、より下位の企業が担っていることを示す。(こうした下請け構造は、基本的に第二次世界大戦中の統制経済の時に確定され、それは主に燃料、原材料、生産資材の配給統制を通じておこなわれたといわれる)
 さらに注目すべきことは、日本的下請け構造の縦深性と広大さである。イギリスなどでは、部品供給関係は、一次、二次ぐらいが、せいぜいのところで、三次までになると、底辺部に達してしまうといわれる(『国民金融公庫調査月報』1982年1月号の池田正孝論文を参照)。ところが、日本では四次、五次、さらにはそれ以上もあり、ついには内職にまで到達する縦深構造(重層性)をもっている。
 こうした縦深性をもった重層構造であるからこそ、ピラミッド型組織網のトップを占める大企業の収奪・取り込みは厖大なものとなる。一時期の「日本的経営」なるものの国際競争力の強さの第一も、この点にこそ由来する。矛盾のしわ寄せも、この縦深性の中に拡散しうる。
 重層的な下請け構造が、景気変動のバッファー(緩衝器)として、全社会的に利用され、矛盾のしわ寄せが、より下層に順次おしつけられるのは、世間衆知のことである。
 もちろん、不況期でなくても、大企業などの上位企業の幹部が、定年後の「天下り」先として、下請け企業に再就職する。そして、この「天下り」した人間の忠誠心は、」かつての大企業などにあるのであり、大企業などと下請け企業の間での、支配と被支配の人的カナメとなっている。不況期の場合は、「天下り」がさらに拡大し、出向社員が増大するといおうかっこうである。
 この大企業・下請け中小零細企業の関係こそが、日本の私的世界の重層的系列・序列の中心軸をなすものであり、「企業社会」の基本骨格をなすものである。
 この構造は、当然にも、労働者の状態、生活を規定し、労働者階級総体の階級的団結を阻害する最大のものの一つである。
 まず大企業の従業員でみると、男子正規労働者の特権性は、下請け中小企業の労働者たちの犠牲の上にあるとともに、大企業内の臨時労働者、女性労働者の犠牲の上になりたっている。臨時労働者は、不安定な有期雇用と安い賃金であり、不況期には、まっさきに首を切られる。女性労働者は、かつては花嫁修業の一環としてしかみられず、若い時期に低賃金で雇用されたにすぎなかった。この意味で女性労働者のこの間の社会進出と権利拡大、性差別反対の闘いは、労働運動の発展に大きな役割を果しており、今後ますます重要となっている。
 独占資本は、自己の雇用する労働を分断しながら、他方では、企業共同体への同化を強力におしすすめる。この同化作用は、終身雇用制を前提に、完備した社宅と福利厚生施設などで、労働時間以外も会社環境の内にしばりつけるだけでなく、企業年金による老後の保障強化、葬式の世話、墓地の提供に至るまで、生涯にわたって会社にしばりつける。(日系多国籍企業の経営方法で、外国の労働者がもっとも嫌うのは、個々の私生活にまで会社が干渉してくることである)
 そして、相対的に高い賃金と年功賃金制、さらに出世の階段を提供しながら、従業員どうしの出世競争を過労死に至るまでけしかけ、総体としての会社への忠誠心をあおりたてているのである。
 他面では、企業間の階層制に基づく格差や年功賃金制・終身雇用制、労働市場の分断、各企業の社風・教育などは、中途退職を決定的に不利にさせている。
 大企業の企業内組合のほとんどは、敗戦直後の、職員と現場労働者の身分差別を打破した変革への熱気はすぐに消え、むしろ会社の労働者支配の一機構に転落し、会社労務部の役割を果たし、労組幹部は、その経験自身が、会社内出世の一つの大きな武器になるという堕落した状況なのである。
 中小企業においても、大企業ほどの生活保証がないのは決定的違いだが、その階層に応じ、賃金条件、労働条件の格差が見事なほどまでに体系化されており、また、各階層内部にも、それぞれ臨時・パート労働者と正規労働者、女性労働者と男性正規労働者などの「身分差別」が、歴然として形成されている。
 こうした私的世界における重層的な序列構造は、社会的にも公認となっており、大企業への就職を目指した受験競争が、それこそ人間性をも破壊するほどに熾烈(しれつ)となっている。まさにどこの大学を出て、どこの会社に就職したかは、その人格評価の尺度にすらなっているのである。
 今日の教育制度は、「企業社会」の重層的序列制への配属―ふるい分け機構となっており(その手段は一見、公正らしくみえる試験という形をとっているが)、諸個人の平等性、対等性を否定する重層的序列制を変革する点からは、遠くへだたっている。
 日本の社会構造は、各分野のシステムが密接な連携をもっており、相互に深く関与している。この意味で変革は総体性を要求される。
 だが、現実の内外の矛盾は、既存の「日本型システム」の存立条件を不可能なものにしてきている。家族制度、教育制度、金融・経営などの経済システム、中央集権的な政治制度などの総体的変革は、ブルジョアジーもふくめ、すべての諸階級層に着き付けられており、水平的公私観を生み出し、搾取なき、差別なき新しい社会への大きなステップは、』現実の労働者人民の今後の実践力にかかっている。

  Ⅷ 不平等でルーズな契約思想

 社会諸分野における支配的な組織原理であるイエ原理、オヤ・コ関係は、イエ制度自身が戦後、法的形態的に崩壊したのに、何故、今も維持・再生産されているのであろうか。
 それは結論的に言えば、主要には、①今日のブルジョア家族制度の下でも、性差別のみならず、親子関係を軸として、保護と従属、主体性なき相互依存の関係(親離れ、子離れができないこと)が再生産されていること、②イエ原理を軸とする大企業の下請け中小企業に対する重層的支配構造が維持されていろことなどにある。
 もちろん、イエ原理、オヤ・コ関係の再生産は、これらの諸制度のみでなく、日々の活動で繰り返される慣習によっても再生産されている。その代表的なものが、日本独特のルーズな契約思想であろう。
 日本の契約は、ルーズさというよりも、きちんとした契約書をかわすこと自身が"水臭い"とか、"信頼関係をうたぐっているのか"とかで、敬遠される風潮が強いというのが現状である。だが、この点こそがくせものである。このルーズな契約思想こそが、上位者、あるいは力のある者にとって有利であり、下位者、力の弱い者にとっては、徹底的に不利な関係をつくっているのである。
 これは企業間の契約で如実にあらわれる。企業間の「長期信頼」を基礎とする日本の相対(あいたい)取引では、景気変動で突如として、一方的に、下請け単価が切り下げられる。ここでは、大企業など上位の企業は、全くか、あるいはほとんどリスクを負う必要がないのである。
 そこでは、独立した者どうしの対等な交渉によって契約書をかわすというのではなく、契約内容なるものは、アイマイな「信頼関係」が第一であり、契約書は二義的なものである。
 欧米(その中でもアメリカが最も厳格)では、売る立場と買う立場、貸す立場と借りる立場というように、互いに対立する立場を前提とし、両者の交渉、妥結、合意として、契約書があるのであって、契約書をかわすことがゴールとなる。
 日本では、互いの「信頼関係」をゴールとするのであり、契約書は、二義的なものである。契約書をかわすことは、"水臭い"とか、あるいは"念のため"といって、「信頼関係」よりも、低い評価しか与えられていない。
 この違いは、人間関係、組織関係を矛盾としてみるのか、どうかにかかっている。
 日本の場合の問題点は、「信頼関係」なるものが抽象的なため、文書化がむずかしいこと、一見では確かめようがないことなどである。しかも互いの「信頼関係」が食い違った場合、それこそ感情的な対立に一挙に転化し、修復不可能か、極めて困難な状態に陥ることである。最も問題なのは、食い違いが生じた際に、両者が「信頼関係」の維持を最優先する(しばしばそうだが)と、具体的契約条件は、両者のうち、力のある上位者に有利になるということである。ことわざにいう"長いものには巻かれろ"とは、まさにこの点をこそさす。力の弱い下位者は、将来の「見返り」を期待して、その不利な契約条件をのむ(従属)が、上位者の下位者に対する保護、恩情は、あくまでも、自己の利害が損なわれない範囲内でしかない。裁量権はあくまでも上位者に握られているのである。こうして、保護と従属の関係が、上位者と下位者の間に再生産される。
 「信頼関係」を軸とする契約関係は、互いに見ず知らずの間どうしでは、困難が生ずる。それは、たとえば、雇用契約の場合である。労働力の売買をめぐる雇用契約は、両者の立場、要求、条件をめぐる交渉の妥結点で、契約が成立するのが通常である。しかし、日本の場合、その多くが大企業の場合といってよいが、労働力の売買をめぐる交渉とはなっていない。つまり、就職ではなく、就社となっているのである。
 「信頼関係」のない、不確かな雇用関係のため、雇用した後に、企業にとって都合のいい「信頼関係」に、研修、実際の業務を通して、強制的に従業員をつくりあげるのである。それに従わない者は、あらゆる手段をもって排除される。
 だからこそ、それは就職ではなく、就社であり、労働力の売買というよりも、一つの全人格が、一つの集団に属するか否かをめぐる交渉―契約となるのである。そこには、初手から契約当事者間の対等性はない。(偏見と予断によって被差別部落民の場合は、この集団―大企業に属するか否かの初手から排除されている)
 日本の契約思想は、まず第一に、当事者間の非対等性を前提にした「信頼関係」が基軸としてあり、そのためにも、集団内(雇用関係)、あるいは契約関係者間(大企業と下請け企業の間)に、同化と融和の作用が、絶えず強力に働きかけられるという属性をもつ。
 欧米の契約思想の根底には、人間が神と契約するという基本的考えがある。人間相互の契約は、それぞれが神との間になした契約の結果であって、人間と人間との間を拘束することは自明である。この契約思想は、資本主義の発達とともに、その「合理性」によって再生産された。しかし、その結果は、厳しい弱肉強食の世界であり、いわゆる社会保障によって補完されざるをえなくしている。
 日本では、神と人との間の契約という考えはなく、神はむしろ人間が一方的に諸々の願い事を祈願する対象である。
 売買契約における、土地など不動産の売券には、鎌倉中期頃から、その契約を保証するための文言がふえてくる。それは、売り主の親戚、子孫、あるいは第三者が、買い主の所有に異議をとなえてきた時に、売り主や保証人が、この契約が正当だと保証する「明沙汰文言」、売り主が違約した時の「弁償文言」、さらに異議者が表れたときに、権力などに訴え、異議者が罪人となるも当然だという「罪科文言」などである。南北朝中期・室町初期からは、担保文言のない売券の方が例外となる。
 売買契約が紛争沙汰となり、裁判になるケースは、日本だけではない。だが、日本の特異性は、契約保証が権力の裁判のみならず、地下(じげ)、すなわち被支配者側にもあることである。笠松宏至氏の「中世在地裁判権の一考察」(『日本中世法史論』所収)によると、応仁の乱後の文明期になると、罪科文言には「違乱煩申者出來候ハハ、為地下公方ト、堅可被行罪科者也」などのように、公方と地下が連記となり、公方単独が消滅するといわれる。これは権力機構の混乱と、惣村の普及・強化に関連するものであろう。
 検断権をもつ惣村の契約保証こそ、後の「世間の眼」(契約の誠実な実行を監視する)であり、集団主義の秩序意識を生み出す根源であった。
 「世間の眼」は、上位者にも、下位者にも向く。下位者が上位者に全人格的に従がうのは、当然視されたが、それだけでなく、上位者なくどい下位者いじめにも、「世間の眼」が向けられ、制約する。しかし、その「世間の眼」は、とりわけ、近世以降、下剋上を許さない、保護―従属関係を前提とした"和"を第一義とする、集団主義的な秩序意識(和と排除が結びついた)となる。(非常時としての百姓一揆は、百姓の成立〔なりたち〕を、お上が保証しなかったがためにおこった正当な行為と考えられた。しかし、それでも基本的な生活と安全を保証されたうえでの年貢納入という関係そのもは疑問視されなかった。日本の前近代では、平等思想はついに大衆的には定着しなかった)
 近代に入り、資本主義が発達するとともに、欧米流の契約思想も流入してくるが、今もって、資本家と労働者の間の雇用契約(特に大企業)、企業と企業の間の契約関係という基本骨格では、伝統的な契約思想が根強くはびこっているのである。

  Ⅸ 根底から揺らぐ社会諸制度

 今日の日本の垂直的公私観を生み出す基体が、主要に①議会制民主主義の衣をまといながらも、牢固として貫徹している官治システムにあること(公的世界)、②大企業の下請け中小零細企業に対する重層的支配構造にあること(私的世界)―にあり、その組織原理が、歴史的に形成されたイエ制度に基づくイエ原理やオヤ・コ関係にあることを、これまでみてきた。(確かに、官僚制の組織原理は、イエ原理とは異なる。だが、分業制と専門性に基づき、厳格な上下秩序と上意厳守の組織原理は、イエ原理と親和性をもち、またこれと融合している)
 だが、堅固にみえた、これらの制度・思想も、諸矛盾の蓄積と内外からの揺さぶりの中で大きく動揺し、部分的修正にとどまりえない歴史的転換をつきつけられている。
 それは第一に、日本の支配的組織原理―保護(恩情)と従属の人間関係・組織関係を生産し、再生産するイエ制度がすでに崩壊期に突入し、新たな人間関係・組織関係を定着させることができないままに、諸矛盾を露呈させ、広範な社会問題になっていることにみられる。
 日本固有のイエ制度は、歴史的にみると、17世紀半ば頃には、庶民の間にも広く普及し、定着した。基本的に、家産(屋敷地と生産手段)・家業・家名(屋号)を代々世襲とし、家長の指揮権の下に、非血縁家族(奉公人)も含んだ生産・生活協働体としてイエは経営され、祖先崇拝イデオロギーの支配下に永続化・継続化された。
 このイエ制度下では、イエに所属すること(大人になっては、結婚しイエを継ぐこと)が、一人前のあかしであった。イエを継ぐことができない者は養子となるか、それができない者は部屋住みの労働力として一生をおくるか、あるいは他の農家や都市に出て、奉公人になるか日雇いになるかであった。イエを継ぐか・ないしは新たにイエをおこすことができない者は、離婚して生家にもどった女性とともに、一人前と見られず、差別あるいは軽視された。
 このイエ制度の下では、家長に権限が集中し、非血縁家族はもちろんのこと、部屋住みの兄弟、同居する叔父・叔母、妻子をも従属させた(家父長制)。その代わり、家族構成員に対する保護・恩情は拒否できず、一生の面倒をみる(今日の社会保障機能にあたる)のが、家長代々のつとめであった。
 このイエ制度は、近代に入って法律的に強化されたのは、前に述べた。
 イエ制度が、法律的に廃止されたのは、戦後憲法の下であり、形態的にも崩壊しのは、』高度成長期であった。
 近世いらい、イエ制度の基盤をなすのは、武士の家を筆頭に、農家、商家、職人の家などであったが、近代に入ると農家が中心となった。明治中期以降、第二次世界大戦の敗北まで、農家戸数は約550万戸、農業就業人口は約1400万人でほぼ一定していた。したがって、農家人口の自然増化分は、農業外に流出していた。
 ところが、第二次大戦での敗北により、農村は都市からの疎開者、海外からの引き揚げ者・復員兵などによって超過剰人口に陥った。『農業センサス』によると、1946年時点で、農家戸数は569万8000戸、農家人口は3424万5000人とふくれあがり、全人口の46・8%を占めた。『国勢調査』によると、1947年時点で、農業就業人口は1662万2000人で、全産業就業者の49・9%とほぼ半分の割合までもどった(1920年頃)。
 だが、経済復興とともに、じょじょに農村人口も減ってくるが、55年頃から高度成長がはじまると、激しい人口移動がおこり、それは短期間のうちに、西欧の産業革命期に匹敵する大変動をおこした。それは図(*割愛)の世帯構成比の推移にも、鮮明にあらわれてている。
 高度成長期の53年には、農耕世帯は3割近くあったのが、70年に半減、90年には全体の8・1%にまで減少した。それとは対照的に雇用者世帯は、50年代後半に5割になり、60年代半ば頃から60%台を占めるようになった。
 これを従業上の地位別就業者数の構成比(『国勢調査』)でみるとさらにはっきりする。47年には、雇用者(役員をふくむ)36・7%、自営業主24・7%、家族従業者38・9%であったのが、70年では、それぞれ64・2%、19・4%、16・3%へと大きく変動した。ちなみに、95年現在は、雇用者74・9%、役員6・6%、自営業主12・1%、家族従業者6・4%である。
 イエ制度で重要な構成員をなす家族従業者の割合を男女それぞれでみると、男の場合は、雇用者、自営業主の割合が元々高く、家族従業者は戦後から60年まで1~2割り台で、70年代以降、5%以下に減少し、95年現在はわずかに2・0%でしかない。これに対し、女の家族従業者の割合は高い。50年代の後半までは、5~6割り台を占めていた(雇用者は2~3割り台)。だが、女性の場合も、家族従業者の割合は、70年代前半から3割りを切り、95年現在、13・0%にまで減少している。
 今や、三代、四代にわたる直系家族は、ごく少数となり、圧倒的多数が核家族(95年で、寮、病院などに住む世帯を除く一般世帯全体4390万世帯の68・7%が、親と子どものみの家族)である(三世代世帯は10・5%)。そして、超高齢化社会の進行と結婚難の時代で、単独世帯も増え(95年現在、一般世帯の25・6%)、65歳以上の単身者は、220万人、65歳以上の高齢者夫婦世帯は、202万世帯である。
 今日、農業、自営商工業の衰退により、後継者不足がさけばれ、また「嫁不足」も深刻であり、いくらイエの存続を強調しようとも、イエ制度の復活は、不可能な状況となっている。
 だが、今日直面している問題は、イエ制度の存続・復活か否かにあるのではない。問題は、法律的形態的に崩壊しているイエ制度であるが、イエ制度下に形成される人間関係、性差別のみならず、親子間の保護―従属関係、あるいは主体性なき相互依存関係(親離れ、子離れが困難なこと)が克服しきれていないことである。
 ブルジョア家族制度下での性別役割分業は、企業戦士としての夫を会社にとられ、幼児期の子育てや老人介護の責任を一方的に女性におしつけ、性差別の矛盾を激化させた。また、出世競争を目的とした教育(受験競争)とからんで、子どもを大人に成長させること、あるいは子どもの生き方の問題などについても、その責任をこれまた女性におしつけた。
 80年代頃から目立ちはじめた、家庭―教育領域の矛盾の露呈(家庭内暴力、校内暴力、』不登校、いじめ、中高年離婚の増大など)は、社会問題となり、今日に至るも解決しえていない。
 確かに、古今東西をふくめ、一つの家族制度の存続はきわめて長期であり、そのため、家族制度の変革は、10年、20年単位ではなしえない。日本の家族制度も、戦後から今日に至る過程は、長い長い変革過程の渦中そのものにあるといえるであろう。
 だが、確実に言えることは、日本の支配的な組織思想であるイエ原理が、その発生基盤のところで、復活しようにもありえないほどの歴史的崩壊期にあるということである。
 第二は、戦後定着した大企業の重層的支配構造が、従来通りには維持しえず、大再編・大転換をつきつけられていることである。
 日本資本主義は、70年代の二次にわたる石油ショックを、主要に、労働者や下請け企業などへの矛盾のしわ寄せで(減量経営、下請け単価の切り下げなど)、いち早く乗り切り、態勢を立て直しに成功した。
 この結果は、欧米諸国とくにアメリカとの経済摩擦の激化であった。しかし、これに伴なって国際的な通貨不均衡が激しくなり、これを是正するために、85年にプラダ合意がなされた。
 だが、それはそれで、猛烈な円高が日本資本主義を襲った。プラダ合意直前の1ドル=242円から、88年11月の1ドル=122円弱まで、円高は直進した。約2倍の円高である。以降も、94年6月から95年までの100円割れなど、バブル崩壊後の日本経済を襲いつづけた。(ピークは、95年4月19日の1ドル=79円75銭)
 急速な円高は、日本の輸出産業にとりわけ打撃を与え、倒産する中小企業が続出した。
 悲鳴をあげる独占資本は、ついに93年頃から、本格的な多国籍企業の活動に踏み切った。それは、60年代の資源開発型の対外直接投資、70年代・80年代前半の外国市場拡大型投資や貿易摩擦に対応したもの、80年代後半の円高対応型・貿易摩擦回避型の投資とは、正確が異なった。世界的視野で、世界各地の最も良質で安い資材・部品などの調達と、最も良質で低廉な労働力による組み立てを結合する最適地生産という、本格的な多国籍企業の活動である。
 円高攻勢と多国籍企業活動の本格化は、下請け中小企業に対し、歴史的な打撃を与えた。戍来のように、対外経済摩擦のたびごとに、犠牲を下請け中小に押し付けることで切り抜ける範囲・限度は、猛烈な円高で、突き抜けられてしまったからである。その結果対応が、多国籍企業活動の本格化である。
 アジア金融危機に対する再度の宮沢構想(300億ドルの基金)などは、日系多国籍企業の活動基盤を安定化させるためのものであり、日本帝国主義の方向性を明確に示すものである。
 製造業における事業所の廃業率は、80年代後半から開業率を上回り、バブル崩壊後、その傾向は一段と拡大している(詳しくは、『プロレタリア』紙320号―「急成長する東アジアと構造的転換期の日本帝国主義」を参照)。廃業は、より小さい規模の企業になれば、なるほど増大している。
 今やすべての下請け中小零細企業が、その岐路を問われており、今後の方向としては、①後継者もなく、経営が厳しく廃業する、②親企業と一緒に海外進出する、③自己の技術力をいかし自立する、あるいは同地域の仲間とグループを作る、④従来通り、親企業の線別に耐えて、ついていく―などに分れている。
 だが、①を除き、いずれにしても、大企業の下請けにたいする整理・選別は、従来の比ではなく、ある中小企業主の言うように、"われわれも親離れしなくてはならない"(98年11月16日放映のNHKスペシャル『世界経済危機と日本』)という状況は、ますます強まっている。
 国際資本間の激烈な競争戦は、日本のような一国経済の高い境壁を前提とした、大企業の下請け中小企業に対する重層的支配構造の維持を、きわめて困難にしている。
 第三は、地方・中央にわたる膨大な財政赤字の累積、大蔵省・厚生省・防衛庁など絶えることのない高級官僚のスキャンダル・収賄、バブル期とその後の経済政策における失政など、官治安システムのかつてない矛盾の露呈と激しい動揺である。
 戦後の官治システムで、旧内務省に代わって首座を占めた大蔵省の最大の武器は、その財政運営にあった。しかし、その財政運営の結果は、97年度末現在で、総額520兆円台の赤字にまでふくれあがっている。国と地方をあわせたこの赤字(隠れ借金などもふくむ)は、同じ97年度の名目GDP504・6兆円をついに上回るという大規模なものであり、帝国主義国中第一位のひどさである。
 不況期に財政支出を拡大して、需用創出―景気刺激をおこない、好景気時に増税で借金を減らすという、ケインズ主義的財政論は、日本の官僚によっては実行されていない(族議員の圧力もあって)。国の国債・借入金残高は、64年いらい増大するばかりで、一向に減らない。バブル期でさえそうであった。地方の地方債、借入金に至っては、戦後一貫して増えつづけている。
 ここへ来て、橋本に代った小渕自民党政権は、危機的状況の金融不安、長期化する大不況が、デフレを進行させるなど、世界恐慌の危険性が度を増すにつれ、財政赤字など構っておれず、問題は資本主義の存続か否かであると、なりふりかまわず大規模な国債発行、景気刺激策に走っている。98年度の国債発行は、なんと34兆円規模(97年度は約10兆円)で、国債残高はついに300兆円に近づいた。
 財政赤字の深刻さは、地方でも同じである。比較的富裕といわれた大都市部の自治体―東京都、神奈川県、愛知県、大阪府が次々と"倒産"の危機に陥り、続々と「非常事態宣言」を発しはじめている。
 財政赤字の主因は、中央と一体となっておこなってきた全国的なハコモノ行政にある。それに加え、大都市部の次のような事情もある。大都市部は、地方税収入のうち、企業の税(法人住民税と法人事業税)が占める割合が、愛知県47%、大阪府46%と、全国平均の37%を大幅に上回り、東京都も40%と、比較的富裕な自治体といわれた。しかし、長引く不況とデフレの進行で、大きな割合を占める企業の税が、大幅に落ち込み、「非常事態宣言」となっている。東京都はこのままだと、98年度の赤字額は4400億円にまでふくれあがり(都の財政規模は、約6兆6000億円)、財政再建団体に陥ってしまうという(現在、再建団体になっている自治体は、全国で1町のみ)。財政再建団体になると、その自治体は自由に地方債を発行できなくなり、自治省という"管財人"の指導をうけながら再建を目指すことになる。
 自民党のその場しのぎの利益誘導型政治と癒着(ゆちゃく)した官治システムは、その権威の源泉ともいうべき財政運営で、まさに破綻をきたしているのである。とりわけ、大蔵省は、その財政運営とともに、バブル期とその後の不況期での金融政策の失敗、スキャンダルの続出で面目まるつぶれである。
 また、財政の肥大化―厖大な特殊法人、公益法人と結びついた高級官僚の天下りの制度化、贈収賄罪の土壌をなす大企業との癒着による天下り(大企業社員の天上がりもある)、地方自治体支配の一環としての天下りなど、官治システムの腐敗と不正は、労働者人民の激しい怒りをかい、高級官僚をつぎつぎと辞職に追い込んでいる。地方においても、市民オンブズマンの活動や住民運動などを通し、地方自治体の行政監視と、住民自治への前進が一歩一歩積み重ねられている。

  Ⅹ 公私の重層的支配構造に対決を

 日本社会主義革命の途上において、公私両界にわたる重層的支配構造を打ち破ることは、きわめて重要な課題である。前述したような大転換期の今日にあっては、まさに好機である。
 この中で、まず第一の重要課題は、官治システムの解体・再編と、自治の思想・制度の建設である。
 今日、市場経済の世界的拡大・発展、市場原理の再活性化の傾向と結び付いて、「小さな政府論」、地方分権論が、支配階級から主張されている。」しかし、日本では橋本内閣退陣以降、小渕政権による大規模な景気回復策―利益誘導型政治の公然たる横行で、地方分権推進委員会の活動は、ますます尻すぼみとなっている。官僚・族議員の巻き返し策動は、』猛烈なものであった。
 結局、地方分権・地方自治の実現・強化は、大衆的な闘い抜きにしては、決して前進しないことをふたたび、三たび、明らかにした。
 官治システムの解体と抜本的再編には、いうまでもなく中央官僚(特殊法人の整理もふくむ)の大幅縮小・再編と、地方分権―地方自治の拡大・充実が不可欠である。
 だが、地方分権―地方自治に向けてのいかなる制度改革も、最終的なネックとなるのは、財政問題である。「95年度決算によると、国・地方別の財政収支は、税収では、国62・4%、地方37・6%であり、純支出では、国34・5%、地方65・5%となっている。この逆転構造を調整するものとして、地方交付税、国庫支出金(いわゆる補助金)などが、国から地方へ再配分される」(『プロレタリア』紙332号―「財政危機の新たな段階と日本階級闘争」)のが、現状である。
 財政自主権なくしては、地方自治はありえない。国・地方の財政収支の逆転構造を是正した時こそ、名実ともの、地方自治のスタートとなるであろう。地方自治の実現は、また、中央政府と地方政府を上下の関係でなく、それぞれの役割が異なるもの同士の対等な関係としなければならないであろう。
 地方自治―住民自治の実現、前進にとっては、官僚や政治家にまかせている限り、全くの夢であることは、これまでの状況が示して余りある。失業、福祉、原発、産廃、ゴミ、公害、教育などの諸問題にかかわる住民の要求を地方政府などに突き付けるとともに、行政の予算とその執行を監視する運動が需要である。
 また、市民運動、住民運動と連携した公務員労働運動は、地方財政の危機、超高齢化社会の進展とともに、ますます重要となっている。
 厳格な上下秩序と、上位の命令絶対服従という組織規律の壁を打ち破り、"人民に奉仕"する立場から、住民運動、市民運動との連携を制度化することも、一つの重要な制度改革である。官僚制の組織規律の厳しさ、壁の厚さだけを嘆いてばかりいても、問題は前進しない。正しい住民要求の実現という一点をもって、労働組合運動としても、公務員の立場からしても、官僚制の壁の厚さをぶち破る創意工夫が要求されている。これがあってこそ、公務員の賃金、労働条件などの改善を要求する労組運動への市民、住民の熱い支援が強まるであろう。
 官治システムの解体・再編、自治制度の改革のために必要なのは、もう一つ別の角度からみると、それは代議制度の変革である。議会の立法機能が事実上、官僚によっておさえられていることは、戦後議会制民主主義の欺まん性を象徴する問題である。議会自身が、自前で立法しうる体制を確立するための制度改革は、重要な問題である。夫れとともにさらに重要なことは、間接民主主義の限界をどう打破するかである。
 昨今の住民運動の勝利的前進に対し、右派からは"議会制民主主義に敵対する"などという、的外れの意見が出ている。だが、こうした発言こそ主権在民の原則に、真向から敵対するものである。
 代議制民主主義の最大の問題点は、選出された議員と選出した選挙民の政治意志・態度があまりにもかけ離れていることにある。これまで住民投票運動で、必要要件をみたしたものでも、議会の反対で実現しないものが、少なからず存在する。耳新しい所では、神戸市の空港問題もそうである。だが、住民投票もその一つである直接民主主義は、間接民主主義の限界点を解消する上での一助となる。しかし、直接民主主義も、現状ではすべての立法活動をカバーできない限界がある。したがって、地域住民が直接かかわる重要問題については、必ず住民投票にかけなければならず、また、議会は、その投票結果を必ず立法化しなければならない―という住民投票を制度化することである。このことは、同時に、国レベルでも同じことがいえる。すなわち、国民投票を制度化することである。
 これまでの住民投票の経験からすると、議員選出時の投票行動と住民投票時のそれとの間には、かなりのひらき、違いがでていることがわかる。概して、住民投票時の方が、地域の地縁、血縁のしがらみから解放されている度合が高いといえるであろう。
 共同体規制、集団の拘束性の強い日本では、住民投票制度、国民投票制度は、欧米以上に、人民にとっては、効能の高い制度になる可能性は十分にある。
 住民自治―地方自治の確立・充実は、同時に中央自治の基盤をなす。ブルジョア的な議会制民主主義の欺まん性は、選挙民のリコール権を地方レベルでは認めるが、国レベルでは認めていない。国・地方のいかんを問わず代議員に対するリコール権を実現する闘いは、人民主権論への発展をもたらす大きな条件となるであろう。
 第二の重要課題は、大企業の下請け中小零細企業にたいする重層的支配構造に対決し、あたりまえで、まともな労働組合運動を再建することである。
 大企業の重層的支配構造は、被支配階級を分断し、互いに反目させ。その一部を徹底的に差別し、いじめ、他方で、他の一部の利己主義を引き出し、大企業の周りに結集させ、結局、総体的な支配を維持・再生産するもので、日本の長い歴史的蓄積をもったものである。
 大企業の重層的支配構造は、おそらく外資導入が名実ともに自由化され、中小企業の自立化が支配的となるか(「下請け」という言葉が死語となる)、それとも労働者階級人民による革命でもない限り、簡単には解体しえないであろう。
 だが、労働者階級にとっては、いずれにしても、労働者の階級的団結を妨げる大企業の重層的支配構造と対決し、あたりまえで、まともな労働組合運動の再建と拡大は、まぎれもない喫緊の課題である。
 では、そのためには、一体何が必要で、また重要なことであろうか。それは、戦後の労働組合運動の歴史的教訓をみることによって、割合と明確となる。
 一つ目は、企業内組合でなく、産業別あるいは職業別組合という組織路線をとるということである。
 総評運動は、旧同盟の資本と一体となった分裂攻撃、一組切り崩しで基本的に敗北した。それは資本の合理化攻撃と一体となった反動的な分裂攻撃であった。この点を踏まえたうえで、しかし、それでも最終的には、労戦統一=連合に至ったということは、総評の側にしても、その思想的組織的弱点があったことは、否めない。
 それは端的に言えば、指導者―組合員の関係にみられる親分―子分関係の濃厚さである。それに伴う幹部請け負い主義―代行主義である。
 資本―賃労働関係の対等性をかたくなに否定し、資本の下に、全人格的従属を要求する経営者に対し、「パイの理論」などをもって、労働者側から積極的に呼応したのが旧同盟系であった。それに対決すべき総評の思想・組織実態が親分―子分関係では、決して、思想的に実際的に勝利することはできない。
 労働組合の資本からの思想的組織的な自立は、それにふさわしい、自己の組織内関係が要求される。組合員同士の対等で平等な関係は、当然にも指導者の民主的選出であり、民主的組合運営、大衆路線の貫徹である。そして、資本からの自立のためには、当然にも企業内組合ではなく、産業別組合の組織路線が不可欠である。
 イエ原理による大企業の重層的支配構造にとって、企業内組合は、いかに戦闘的であろうとも、それは適合的な組合である。それは時間をかければ、いかようにも従順にしうる。階級的団結の前進にとっては、個々の企業利害にとらわれることなく、労働者階級総体の地位の向上が不可欠なのであり、産業別組合の組織路線はあたりまえのことである。
 それにはまず、労働者の中にも根強くある「ウチの会社」意識そのもの(イエ原理)を変革し、労働者は資本に時間決めで労働力を販売する対等な関係であるという基本的な点を決しておろそかにしないということである。闘いを通し、資本との対等意識、労働者の自立意識を獲得しない限り、賃金奴隷からの解放が仮に実現できたとしても、新たな権力の下での、親分―子分関係の再生産は、必至であろう。
 二つ目は、パート労働者の地位の向上と、女性差別の撤廃である。
 パート労働者の大多数は女性であり、パート問題は女性差別問題といっても過言ではない(最近は、中高年男性のパートもふえてきているが)。パート労働者の時間給が、正規労働者の約半分であるというのは、」まさに構造的な社会問題である。女性差別が、重層的支配構造を維持・再生産するうえで、重要かつ密接な関係を示してあまりある。
 そして、それは既成の制度、資本の攻撃のみならず、一面では労働組合内部の思想、活動のあり方自身にも問題のあることを意味する。親分―子分関係は、イエ制度の性差別、権威主義と同質の思想であり、両者ともに変革しない限り、労働組合運動そのものの前進はありえない。
 三つ目は、最低賃金制度の改革と、未組織の組織化である。
 日本で独立の最低賃金法が制定されたのは、1959年である。同法による最賃決定方式は、①業者間協定に基づく最賃、②業者間協定に基づく地域的最賃、③労働協約に基づく地域的最賃、④最低賃金審議会の調停審議に基づく最賃、の4つであった。
 だが、同法は主たる決定方式が業者間協定にあり、それは労資対等の原則を定めたILO第26号条約にも抵触し、世界にも類例がないものであった。労働組合の反対もあり、68年の改定で、①と②が廃止された。
 しかし、日本の労働組合は、ほとんどが企業別組合のため、今日においても、労働協約に基づく最賃決定は極めて稀(まれ)である。しかも、地域的最賃による地域間格差の構造化、そして、最賃すらも破る違反率の構造化(監督行政の怠慢)がある。
 最低賃金制の改革・強化を軽視してきたのは、企業内組合の活動のあり方、未組織の組織化の放置などと密接不可分である。これ自身が、圧倒的多数の未組織労働者や勤労人民から労働組合が遊離し、自らが孤立化し、組織率の低下を招いていった最大の原因の一つである。
 大企業の重層的支配構造に対決し、あたりまえの労働組合を再建し、拡大するには、組合運動の原点にたって、極めて基本的な活動が要求されている。そのポイントは、男もなく、女もなく、下層労働者とともに起つということである。
     *  *  *  * *  *  *  *  *
 社会主義革命は、搾取からの解放と不自由からの解放を求める。官=公という神話は、今もなお日本人民を抑圧しつづけている。他人の自由を妨げないことを前提とした、私の解放は、日本でも、アジアでも、もっともっと強調されなければならないであろう。
 共産主義者こそが、マルクスの次の言葉をもっとも希求する。
 「階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代りに、一つの協働体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である。」
(『共産党宣言』)                     (終り)