主権在民と天皇性の矛盾

                                   堀込 純一

神道政治連盟の議員懇談会での森首相の発言(日本は天皇を中心とする神の国)は、きたる6月の総選挙の争点となるであろう。また、是非とも争点とすべきであろう。森首相は、元来、失言癖の多い政治家である。大阪は痰壷(たんつぼ)とか、エイズ差別発言とか、耳新しいところでは現天皇即位10周年で沖縄出身歌手が、君が代を歌わなかったとして、その責を沖縄教祖と沖縄マスコミとする差別・偏見発言もある。

今回の発言には、韓国、中国などのアジア諸国のみならず、イギリス、アメリカからさへも批判と警告が聞こえて来ている。

では、彼の今回の発言は、一体何ゆえに問題なのだろうか。

まず第一は、「天皇中心」ということである。彼らは、批判に対する反論として、天皇は現憲法で象徴と定められており、そのことを指して「中心」といったのだから、発言を撤回する必要はないというのである。この論理はごまかしである。たとえばある国でワシが象徴であるとした場合、はたして“我が国はワシを中心とした神の国である”などと大見得(おおみえ)を切るであろうか。象徴が天皇という特定の人物であるからこそ、森をはじめとする改憲論者にとって、森発言は意味があるのである。

 このように、一国の象徴を具体的に特定の人物にすること自身が、そもそも問題なのである。天皇を主権者とする体制を直近の歴史にもつ(これは、日本の庶民のみならず、アジアの人民に悲惨な結果をもたらした)日本で、天皇を象徴とする憲法規定をさらに拡大解釈し「天皇を中心」とすることは、不断に主権在民が侵食されることを意味する。主権はあくまでも民にあるのであり、「民が中心」の国でなければならない。そもそも現憲法が、天皇を象徴と規定したことじしん主権在民の原則に矛盾するものである。これは、敗戦後、米軍占領下で、日本人民の抵抗を事前にふせぎ逆に占領政策に旧支配層の一部を協力させるために、天皇・裕仁の戦争責任を不問にしたことと不可分の関係にあり、そのうえで象徴規定をつくったという経過からみれば、明らかに諸勢力間の力関係からくる「妥協の産物」なのである。(マッカーサーは、天皇の存在は、10個師団にあたいするとし、占領政策に天皇制を利用した)

森首相の座右の銘は、「滅私奉公」であるという。これもかつての侵略戦争に民を動員するのに大きな役割をはたした。これは主権在民の思想とは、真っ向から対立する思想である。まちがった公私観である。つまり、公と私が切断され、上下関係となっており、たえず為政者に都合のよい思想だからである。近代国家の常識は、私の自己実現(これを人権が保証する)のための共通ルールこそが公なのであり、政府は人権をまもるためにこそ存在するというものである。だが、民の政府監視が存在しなかったり、あるいは緩んでくると、たちまち“公僕”としての政府は、転倒し主人として振る舞ってくる。だが、こんな常識すら、戦前教育の影響をうけてきた森らには、わかっていない。

第二は、森は「天皇中心」とは、「日本の悠久の歴史と伝統文化という意味で申し上げており、戦後の主権在民と何ら矛盾しない」と弁明していることである。「悠久の歴史」とか「伝統文化」とかは、右翼・保守主義者が常用する用語だが、それは天皇制賛美をオブラートにつつんで表現したものである。すなわち、戦後人気のない「皇国史観」では具合が悪いので、表現上言い換えているにすぎないのである。

だいたい、日本歴史をいつも、どこでも、「天皇中心」にまわっていたなどとは、誰もおもっていない。もしそう主張する人間がいたとすれば、それはまったく間違った歴史観であり、歴史事実とも合致しない。「伝統文化」にしても、すべて天皇制とリンクさせるのは、間違いであり、それはきわめて恣意的(しいてき)である。そもそも「伝統」などというのは、三十〜四十年も定着すれば「伝統」と主張できるのであり、古代歴史の一部と近代の一部を恣意的にとりあげれば、「万世一系」なる概念で装飾した「悠久の歴史と伝統文化」なるものがデッチアゲられるのである。

 第三に、「神の国」批判にたいして、「日本の伝統文化では、海や川にも神様がいるという意味で申し上げている」と、反論したことである。森が個人としてアニミズム(精霊崇拝)信仰をもつことは勝手だろうが、公人としての首相が発言すべきことではない(森は「日本は天皇を中心とする神の国」であることを、「国民にしっかり承知していただく」と、明言している)。政教分離の憲法規定に明らかに抵触するものである。(戦後の政教分離が、靖国神社の国営化、自治体の神道活動への関わりなどで絶えずおびやかされているのも、天皇制と不可分に関係する国家神道問題が、キチンと解決していないからである) だが、真意はそんな所にはない。それは、加藤紘一元自民党幹事長が代弁している。すなわち、日本人にとって、「神は土着の山岳信仰みたいなもの」で、「天皇家はその自然と人間との間を結ぶ、神主さんの頭領であって、日本社会の中で権威として存在してきた」(五月二十三日、朝日新聞)というものである。これをさして「日本の伝統文化」といっているのである。

 しかし、これは徹頭徹尾、歴史の歪曲である。天皇が巨大な権力を背景として「神主の頭領」(全国神社の主なものを伊勢神宮を頂点に階層化し、それぞれのランクに位置付けた)となったのは、奈良時代の一部と、明治憲法下の時代でしかなく、とても日本の伝統とか、文化とかいえた代物ではない。長い日本歴史でわずかな期間、権力者によって強引に天皇を全国神社の「頭領」とした体制を、あえて日本の伝統文化と広言するところに天皇主義者の憲法改悪への底意が見えるのである。

今回の森の「不始末」は、けっして彼の失言癖のみに原因があるわけではない。労働者人民と反対派の力が弱くなり、憲法改悪すら政治日程に上ってきた今日の政治情勢が、森発言を誘発させたといえる。新ガイドライン関連法を通し、米帝と結託した「戦争体制作り」を着々とすすめる支配層は、つづいて有事立法と憲法改悪をねらっている。

しかし、日本社会は歴史的ともいえる転換期にあり、教育、家庭、地域、恒常的な大量失業など、社会の基底部のところで、混迷と動揺におちいっている。これらに対し、支配層は明確な解決策とその実践がなされているわけではない。むしろ森ら支配層の一部では、教育勅語をとりあげて、古臭い反動的な精神訓話で、問題が解決するかのような錯覚に陥っている。事態はますます混迷を深めている。

いまこそ自民党を中心とする保守党とその追随勢力への幻想をすて、地域の仲間とともに自らの力で住民自治を作り上げ、それを全国的に結合する闘いが重要となっている。                                     (了)