尊王攘夷の旗頭・斉昭と日本近代の序章     (2018年10月)
      ―近代日本のアジア侵略はどのように準備されたのか
                       堀込 純一

            目 次
 はじめ  P.5
第一章 後期水戸学の尊王攘夷論  P.6
Ⅰ 『大日本史』の編纂作業と「史館の動揺」  P.6
(1)全国から儒者を集め天皇中心の史書を編纂  P.7
(2)藩財政の危機で編纂事業は半世紀も中断  P.9
(3)修史事業の再開を推進する立原翠軒  P.10
Ⅱ 後期水戸学の核心思想  P.11
(1) 藤田幽谷の『正名論』  P.12
(ⅰ)孔子とは正反対の思想  P.14
(ⅱ)天皇を頂点とする重層的階層秩序  P.15
(2)会沢正志斎の『新論』  P.16
(ⅰ)天皇戴く日本は世界の頭首で「武威の国」という幻想  P.16
(ⅱ)ロシアの過大評価とキリスト教浸透の誤認  P.19
(ⅲ)戦術主義の誤りと「長計」の矮小性  P.20
(3) 斉昭の裁定で決まった『弘道館記』  P.22
(4) 同僚からは厳しい批判を受ける東湖の『弘道館記述義』  P.24
(5) 「尊王攘夷」は易姓革命の否定から  P.26

第二章  斉昭の藩政改革  P.26
Ⅰ 失敗つづきの藩政改革  P.26
(1) 水戸藩の特殊性と藩政改革の困難性  P.26
(2)定府制にともなう利点と弊害  P.27
(3)簡単には進まなかった藩政改革  P.28
Ⅱ 天保の危機下での改革  P.32
(1)斉昭藩主時代の藩政改革  P.32
(ⅰ)なおも続く派閥対立  P.33
(ⅱ)派閥抗争の後は天保の大飢饉  P.34
(ⅲ)藩政改革の四大目標と総検地  P.36
(2)藩営商業と藩領拡大の野望  P.38
(ⅰ)会所政策の進展  P.38
(ⅱ)蝦夷地支配の野望  P.39
(3) 海岸防備と軍制改革  P.42
(4)教育機関の創設と思想統制  P.43
(ⅰ)各郷に郷校開設  P.43
(ⅱ)仏教に対する弾圧と神道の奨励  P.44
(5)阿保陀羅経による批判と上士らの強訴  P.44
(6)斉昭の謹慎と藩政改革の挫折  P.46
 《補論 天保の大飢饉と水野忠邦政権の天保改革》  P.48

第三章 斉昭の幕政参加と攘夷の高唱  P.55
Ⅰ 斉昭は攘夷の急先鋒  P.55
(1)アヘン戦争に震撼する日本の支配階級  P.56
(2)夷狄を防ぐ三つの方策  P.58
(3)オランダの「開国」勧告を幕府は退ける  P.59
(4)日本への「開国」圧力の先頭を走るアメリカ  P.61
(5)阿部政権の衆議制ならびに雄藩との連携  P.61
(6)琉球に対する利用主義  P.66
(7)日本「開国」のためのペリーの戦術  P.69
Ⅱ ペリー来航で「開国」をめぐる幕府内の対立  P.71
(1) アメリカ国書の受取りをめぐる論争  P.71
(2)阿部が派遣した筒井・川路の海防参与・斉昭との折衝  P.73
(3)幕府有司から登場した限定的通商論  P.74
(4)「開国」要求に対する諸大名の態度  P.75
(5)避戦論に危機感をいだく攘夷派  P.77
Ⅲ 大号令公布をめぐる激しい対立  P.78
(1)和戦いずれかの決着を求める斉昭建議書  P.78
(2)プチャーチン来航で事態はさらに複雑化  P.82
(3)斉昭建議書をめぐり論議は紛糾  P.83
(4)意見対立はむしろ深まる  P.85
(5)「大号令」の原案つくり  P.86
(6)評議の再開とロシア対応策の検討  P.87
Ⅳ ロシアとの本格的交渉に入る  P.90
(1)姑息な時間延ばしを図る日本側  P.90
(2)世界の大勢を説き攻勢をかけるプチャーチン  P.92
(3)条約項目の検討に入るがアメリカに先を越される  P.94
Ⅴ 日米和親条約の締結とそれに続く西洋諸国  P.96
Ⅵ 安政改革と斉昭の軍制参与就任  P.99
(1) 阿部は辞任願を出して将軍の信任を得る  P.99
(2) 幕府財政の危機に呻吟する阿部ら幕閣  P.101
《補論 幕府財政構造の変遷》  P.102
(3)阿部正弘らの安政改革  P.109
  (ⅰ)開明的な少壮官僚の登用  P.114
  《補論 箱館奉行堀利煕の郡縣制への傾斜》  P.116
  (ⅱ)海防・軍備強化を進める  P.125
  (ⅲ)何回も繰り返された物価調節の失敗と産物会所構想への転換  P.129
  《補論 塩鉄専売制と塩鉄会議》  P.141
(4)今度は軍制参与に就任する斉昭  P.143
Ⅶ 斉昭の幕政からの離脱―阿部と斉昭の路線的乖離の明確化  P.144
(1) 「下田三箇条」をめぐる幕府内の議論  P.144
(2)斉昭と2老中の激論  P.146
(3)実際は影響力が落ちる斉昭  P.148
(4)貿易での利益を富国強兵の基本とする阿部  P.154

第四章  条約調印と将軍継嗣をめぐる対立  P.157
Ⅰ 結城派の弾圧と藩政改革  P.157
Ⅱ ハリス上府をめぐる論争  P.159
(1)上府問題での応酬  P.159
(2)オランダ人がもたらしたアロー号事件の詳報  P.166
 《補論 アロー戦争と天津条約・北京条約》  P.169
(3) 下田協約の締結  P.171
(4) ハリスの上府要求をめぐる日本側の論争  P.174
(5)ハリス念願の江戸上りで堀田に長広舌  P.176
(6)「日本の重大事件」に関する幕府諸有司の意見  P.179
(7)ハリスと幕府有司の会談  P.185
 《補論 中華文明圏から近代西洋文明圏への転入》  P.189
(8)「日本の重大事件」に関する諸大名の意見  P.194
Ⅲ 通商条約締結問題で朝幕関係は大きく変化  P.201
 (1)条約交渉の経過とその内容  P.201
 (2)幕府の朝廷工作と天皇側の対応  P.211
  《補論 江戸時代の朝幕関係と幕末における変化》  P.212
  (ⅰ)林・津田の説得  P.219
  (ⅱ)孝明天皇らの対応  P.221
  (ⅲ)堀田正睦らも上洛して説得  P.225
(3)朝廷内部の議論と対立  P.227
  (ⅰ)朝議により一旦は勅答案を裁可  P.228
  (ⅱ)孝明天皇の抵抗と廷臣たちの集団決起  P.231
  (ⅲ)勅答内容の変更で堀田の勅許奏請は失敗  P.236
Ⅳ 将軍継嗣問題での全面対立  P.236
(1) 将軍継嗣問題の発生  P.236
  (ⅰ)南紀派と一橋派の対立  P.237
  (ⅱ)両派対立の本格化  P.241
  (ⅲ)両派の政治理念の相異  P.246
(2) 一橋慶喜擁立運動の失敗  P.248

第五章 大弾圧の下から尊王攘夷派の台頭  P.249
Ⅰ 安政の大獄  P.249
(1)密やかに素早く井伊直弼を大老職に任命 P.250
(2)直弼の迅速な処置  P.252
(3)ついに日米修好通商条約の調印  P.253
(4)押しかけ登城で斉昭ら処分さる  P.255
(5)一橋派の最後の闘いと孝明天皇の反撃  P.258
(6)「戊午の密勅」が下る  P.262
(7)直弼の命令で大弾圧  P.264
 (ⅰ)密勅にかかわる者を次ぎ次ぎと逮捕  P.264
 (ⅱ)水戸藩内の対立と南上運動  P.270
 (ⅲ)直弼の命で大処断  P.272
Ⅱ 密勅返納をめぐる水戸藩内の対立激化 P.275
(1)密勅返納を画策する幕府  P.276
(2)返納問題で藩議はさらに沸騰  P.277
(3)幕府への返納を阻止する長岡勢  P.279
Ⅲ 桜田門外の変と尊王攘夷派の拡大  P.285
(1)井伊大老の暗殺  P.285
(2)喧嘩両成敗で穏便な処置  P.288
(3)攘夷運動の激発  P.290
(4)水戸激派のテロリズムへの傾斜  P.293
Ⅳ 坂下門外の変と尊攘派雄藩の政界工作  P.294
(1)将軍家茂と和宮の婚儀  P.294
(2)坂下門外の変と安藤老中の失脚  P.297
(3)長州・薩摩・土佐など諸藩の攘夷工作  P.300
 《補論 寺田屋事件にみられる急進的尊攘派と島津久光との方針対立》  P.310

第六章 藩政の大混乱と終焉  P.315
Ⅰ 天狗党の筑波挙兵と藩内戦争  P.315
(1)挙兵への準備工作  P.3157
(2)ついに挙兵  P.318
(3)幕府追討軍・保守門閥派と大発勢・筑波勢との間の激戦  P.323
 (ⅰ)天狗党鎮圧の幕府命令  P.323
 (ⅱ)幕府第一次追討軍の敗北と市川派の水戸城占拠  P.324
 (ⅲ)藩主名代の頼徳と大発勢の水戸藩領入り  P.325
 (ⅳ) 大発勢・天狗党連合軍と市川派・幕府連合軍との戦闘開始  P.327
 (ⅴ)幕府追討軍の大発勢・天狗党への本格攻撃  P.329
 (ⅵ)頼徳降伏と武田らの離脱  P.332
(4) 天狗党、西上へ  P.333
 《補論 水戸藩の農兵制と藩内抗争での農民の対応》  P.338
 《補論 慶喜の天狗党討伐と幕末の政治情勢》  P.348
Ⅱ 水戸藩私闘の末路  P.358
おわりに  P.362




はじめに

 幕末の水戸藩には、名だたる尊王攘夷派の志士が次々と近づき、教えを請い、さながら同藩はメッカの如き様相を呈した。
 藤田東湖は、徳川斉昭のそば近くで戸田蓬軒(銀次郎)とともに斉昭の政治を補佐しただけでなく、各藩の勤皇の志士の来訪に応えて懇談して尊王攘夷派の拡大をはかった。藤田幽谷(東湖の父)の高弟・会沢正志斎は、「著書頗(すこぶ)る多く、新論、廸彜篇(てきいへん)、退食閑話、下学邇言、及門遺範等は有名である、就中(なかんづく *とりわけ)新論は実に嵐の如く、霰(あられ)の如き勢を以て天下の読書界を風靡(ふうび)した。」1)といわれる。
 東湖や正志斎などに面会したりして、水戸学に感化を受けた志士は、膨大な数にのぼる。今、有名な人物だけでもあげると、西郷隆盛、吉田松陰、桂小五郎、久坂玄瑞、平野國臣、真木和泉、中岡慎太郎、橋本左内、横井小楠、梅田雲浜、佐久間象山などである。
 水戸藩と徳川斉昭が、尊王攘夷運動の先頭に立つのみならず、蝦夷地の植民地経営の野望をもったところのイデオロギー的裏づけが水戸学である。この水戸学は、「天保学」とも「後期水戸学」ともいわれるが、その前提には、徳川光圀いらいの『大日本史』編纂作業の蓄積がある。
 水戸学の尊王攘夷思想は、日本的な華夷思想(中華思想)と西洋近代思想が融合する中で、根深く日本近代の特異な形成に大きく影響した。戦前の日本の植民地主義は、日本帝国主義の1945年の全面的な敗北で頓挫する。しかし、その思想的影響は今日でも無くなっておらず、典型的には「靖国思想」に代表される。
 以下では、尊王攘夷の旗頭であった徳川斉昭が水戸藩や幕府中枢でいかなる活動を行なったのかその軌跡をたどり、斉昭が直接間接にその形成に関係した日本近代の性格はどのようなものであったかを検討する。
 
注1)北條猛次郎著『維新水戸学派の活躍』図書刊行会 1942年 P.109

第一章 後期水戸学の尊王攘夷論

Ⅰ『大日本史』の編纂事業と「史館の動揺」

 水戸藩は徳川家康によって設置された御三家の一つである。家康は、1602(慶長7)年、常陸国一帯を領有していた54万石の大名・佐竹氏を秋田へ移封し、その領地を数名の大名や旗本らに分与したが、その中で水戸には家康の5男武田信吉を封じて15万石の城主とした。
 だが、信吉は翌年病死する。そこで家康は、10男の頼将(頼宣)を封じて20万石とし、1604(慶長9)年には、久慈郡保内・下野国那須郡武茂の5万石を加増して25万石とした。しかし、1609(慶長14)年、家康は、頼宣を駿遠両国と東三河合わせた50万石に移し、11男頼房を水戸藩主とした。
 以後、藩主は光圀・綱条・宗堯(成公)・宗翰・治保・治紀・斉脩・斉昭・慶篤とつづき、第11代目の昭武の代で廃藩置県となる。
 水戸藩は、新規に作られた藩であるため、家臣団の編制や支配体制の確立などで困難をきわめたが、初代頼房が基礎を固めたうえに、藩の安定と強化に努めたのが二代光圀である。光圀の藩主としての期間は約30年にも及んだ。
 その中でも、後期水戸学に連なる事業は、1657(明暦3)年に、江戸神田の別邸(後には駒込)に史局を設けて修史(歴史を編修すること)事業を開始したことである。
 光圀が修史に志を起こしたのは、18歳、『史記』の列伝第一〈伯夷伝〉を読んだ時といわれる。藤田幽谷によると、「その高義を敬慕し、巻をなでながら嘆息して仰せられた。『書物がなければ舜・禹の文明を知ることはできない。歴史書がなければ後世の人をして見て感動せしめることもできない』と。ここにおいてはじめて修史の志をおこしたもうた。」(藤田幽谷著『修史始末』)といわれる。
 伯夷の高義とは、『史記』によると、次のようなことである。伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)は、ともに孤竹君(こちくくん)の子であるが、父亡きあとの後継を共に譲り合い、結局は共に周の文王の所に逃げて身を寄せる。周の文王が亡くなるや、その子の武王は父の木主(いはい)を車に安置し、殷の紂(ちゅう)を征伐することに向かう。伯夷と叔斉は、馬の手綱をとって、「亡くなられた父を葬りもしないで、しかも干戈をおこす(*戦を起こす)とは、孝といえましょうか。臣として君を弑(しい)せんとすること、仁といえましょうか」と、いさめた。だが、武王らによる放伐は行なわれ、殷が滅び、周の天下となった。しかし、伯夷と叔斉はそれを恥とし、義をまもって周の穀物を食べることを潔しとはしないで、首陽山に隠れ住み、ぜんまいを取って食べていたが、やがて飢え死にする。
 『史記』伯夷伝は、光圀の生き様や修史上での観点に、大きな影響を与える。第一は、国譲りのあり方(君主継承のあり方)である。光圀は、実際、自己の継承者には兄の子を指定し、自分を跡継ぎとした父の遺言に異を唱えなかった兄の恩情に応えている(これは『春秋公羊伝』の思想には沿っているが、『春秋穀梁伝』の思想とは真っ向から対立する。この点については、拙稿『漢代専制国家の支配秩序と官僚制の構造』P.259~268 を参照)。 
 第二は、孔子的君臣関係論を否定して、後に支配的となる日本的君臣関係論である。孔子は、君は君としての、臣は臣としての責務と役割があるという「正名論」を唱えるが、光圀はこの思想的原点をあいまいにして、君が君としての役割を果たさないでも、その君に仕える忠臣を一方的に宣揚する。これはまた、明からの亡命儒者・朱舜水(1600~1682年)の影響が強かったことにもよる(湊川神社の楠氏の碑文は舜水の撰)。
 
 (1)全国から儒者を集め天皇中心の史書を編纂
 史局は、1672(寛文12)年に小石川の本邸(現在の後楽園附近)に移され、彰考館と名づけられる。彰考館には、全国各地から名だたる学者が集められ、その中には安積(あさか)澹泊(たんぱく)、佐々宗淳(十竹)、栗山潜鋒、三宅観瀾などがいる。
 彰考館は、元禄期(1688~1704年)後半には、館員が50人を越え、編纂作業は本格化する。作業は、1683(天和3)年までには、神武天皇から後醍醐天皇(~1339年)までの時代を対象とした『新撰紀伝』104巻を完成させた。
 しかし、光圀はこの内容に不満であり、改訂を命ずるとともに、紀伝(本紀と列伝の総称)の対象範囲を拡大し後小松天皇(~1411年)までとした。そして、全国的な史料調査も1676年から1693年まで主なものだけでも13回も進められ、京都、奈良を中心に高野山・吉野・熊野、さらには九州・北陸・東北にまで及び、種々の古文書・記録が採取された。
 本紀は、1697(元禄10)年に、神武から後小松までの「百王本紀」が完成したが、列伝はなかなか進まず、ようやく1699(元禄12)年までに、皇妃・皇子・皇女の各伝、また他の草稿もほぼ整った。しかし、とうとう光圀の生前には間に合わなかった(光圀は1700年に死去)。なお、この間の1698(元禄11)年、光圀は彰考館の館員の多くを江戸から水戸城内に移し、彰考館は以後江戸と水戸に置かれることとなった。
 1715(正徳5)年4月、従来、『本朝(之)史記』あるいは『倭史』などと呼ばれていた書名が、『大日本史』に決定された。同年11月、第三代藩主・徳川綱条(つなえだ)の名による「叙文」が作られ(実際は、大井松隣の代行)、光圀の忌日である12月6日には、本紀73巻・列伝170巻、計243巻の清書本が光圀の廟に供えられた。
 古代の官撰史書である六国史や徳川幕府の命によって林家が作った『本朝通鑑』の構成が編年体であるのに対して、『大日本史』は初めて紀伝体になっている。紀伝体とは、『史記』や『漢書』などと同じで、本紀(皇帝の事を記す)、列伝(人びとの伝記を記す)を基本として編まれている。これは、『本朝通鑑』に対抗した表れといわれている。
 列伝は、后妃列伝12巻、皇子列伝14巻、皇女列伝6巻、列伝73巻、将軍列伝8巻、将軍家族列伝4巻、将軍家臣列伝22巻、文学列伝5巻、歌人列伝4巻、孝子列伝1巻、義烈列伝1巻、列女列伝1巻、隠逸列伝1巻、方伎列伝1巻、叛臣列伝4巻、逆臣列伝1巻、諸蕃列伝12巻から成り立っている。
 
 〈儒家の立場から皇統主義を推進〉
 内容的には、一般的には、第一に、神功皇后を本紀に立てず、后妃伝に入れたこと、第二に、天智(てんじ)天皇の後継者・大友皇子の即位を認めて、「天皇大友紀」を本紀に列したこと、第三に、皇統の正閏(せいじゅん *正しいものと余計なものと)を明確にして、南朝を正当としたこと、この三点が特色とされる。これは、儒家の立場からの部分的な修正である。
 しかし、『大日本史』の致命的な欠陥は『日本書紀』や『古事記』をベースとした皇統主義を宣揚したことである。『日本書紀』や『古事記』は、日本建国を古く見せかけるために、神武天皇を始めとして初期に架空の天皇を並べ立てた政治色の濃いものであり、史実に基づくべき史書としては根本が誤っている。それとともに、神功皇后(これも架空の人物)の「三韓征伐」なる虚構を作り上げ、歴史を偽造しただけでなく、日本人の対外認識を後々まで誤らせ続けているのである。
 このような偽造がなされた理由には、『日本書紀』が作られた国際情勢がある。「7世紀末期から8世紀初期にかけて企画され編纂された『日本書紀』は、史実を曲げてまで、(*朝鮮半島での)最後の勝者である新羅への敵対意識の感情を3世紀にまで遡(さかのぼ)らせ、神功皇后紀を創作したのである。それが日本最初の正史であったが故に、その後の日本の歴史に大きな影響を与え、かつその進路を誤らせた」(拙稿『朝鮮侵略の歴史に学ぶ』2016年 P.17)のであった。
 『大日本史』もまた、8世紀日本の支配階級の狙いと罠に見事にはまり、歴史偽造をえいえいと推進したのである。
 1716~1720(享保元~5)年には、初期からの館員で総裁を務めたこともある安積澹泊によって論賛も整った。論とはそれぞれの列伝の趣旨を記し、賛とは各紀伝の本文を簡潔に記し、そのうえで当該人物を道徳的に評価するものである。
 1720(享保5)年5月、第四代藩主・成公の代行で安積が「大日本史後序」を作り、同年10月29日、『大日本史』250巻がついに幕府に献上された。
 当時の彰考館の儒者たち(彼らだけではないが)は、儒学(とくに朱子学)によって歴史を理解することを基本としていた。このため、「(一)人間の運命や歴史の展開は究極的には道徳の理法に支配されるものであるから、歴史事実をありのままに記述すれば、そこにおのずから政治上または道徳上の教訓が示されるはずであり、したがって確実な史料に基づいた史書の編纂が必要であること、(二)そのことを通じて、本紀・列伝に記載する君臣双方の人物に対し、道徳上の評価を確定することを課題にしなければならないこと、という二つの意識を強く抱いていた。」(『国史大辞典』13 吉川弘文館 鈴木暎一氏執筆)といわれる。
 しかし、この歴史観は、歴史を判断する基準である道徳の内容が、全くもって反人民的である。というのは、儒教など古代の中国思想は、そもそも自然法則と社会法則を全く同じものとしてみる素朴な見地であり、今日から見れば明らかに誤りである。たとえば、自然法則の内、弱肉強食のような差別思想は今日では論外であるが、逆に、古代中国では、また儒教などでは、差別思想こそが正しく、その差別構造を破壊するものこそ秩序違反者として糾弾されるのである。というのは、自然の秩序が差別の相によって維持されているのと同じで、社会もまた差別の相によってこそ維持されるという考えだからである。したがって、社会の大多数を占める人民は、重層的な階層秩序をもつ日本の封建的なヒエラルキーの下層身分として差別され、抑圧・支配されたのである。
 その後も安積らは、紀伝の校閲などの作業をこつこつと進めるが(この間の1727年4月、江戸の彰考館は廃され、水戸に移された)、1737(元文2)年12月10日、安積は水戸の自宅で死去する。安積は、初期からの彰考館員で、総裁をつとめ、その職を辞したあとも82歳で没するまで「大日本史」編集にかかわりつづけた。
 
 (2)藩財政の危機で編纂事業は半世紀も中断
 だがその後、修史事業はおよそ半世紀にわたって、中断する。その最大の原因は、藩財政の困窮である。そのため、優秀な人材を結集できなかったのである。
 水戸藩の財政は、光圀の時代から慢性的な危機状況にあった。そして、ついに1749(寛延2)年、水戸藩は幕府から改革の命令を受けることとなった。
 改革命令を受けた水戸藩は強力な年貢増徴政策を実施して、財政の改革を図った。だが、そのために、領内の農村は荒廃し、人口は減少し荒地は増大して、年貢収入も減少した。このため、再び財政危機となり、1778(安永7)年に、またまた幕府から改革の命令を受けたのである。
 第6代藩主・治保は、この年3月改革指令を出し、従来とは違って、財政の安定のためにも農村の復興を命じた。しかし、治保の改革は、結局は実現しなかった。近世の三大飢饉の一つといわれる天明の大飢饉により、農村の荒廃はさらに激しくなったからである。(1782~87年の6年にわたった天明の大飢饉と、百姓一揆については、拙稿『幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源』④〔『プロレタリア』紙2015年4月1日号を参照〕)
 これに伴い、水戸藩でも農民一揆が頻発する。だが、危機は内政のみには止まらなかった。1787(天明7)年6月に、ロシアが蝦夷地のアツケシ(厚岸)に来て通商を求めた。ロシアの南下政策が次第に強まってくるのである。内憂外患は、一歩一歩と迫っていた。

 (3)修史事業の再開を推進する立原翠軒
 『大日本史』編纂事業再開の先頭に立ったのは、1786(天明6)年に、新たに彰考館の総裁となった立原翠軒(たちはらすいけん *1743~1823年〔延享元~文政6年〕)である。
 立原翠軒の家は、茨木郡栗崎村の農家出身であった祖父達明の代の1726(享保)年に士分に取り立てられた下士(かし)であった。父蘭渓は、彰考館の文庫役を勤めた学者であった。翠軒はつねづね父から『大日本史』の完成に努力するように諭されてきた。
 翠軒は、1763(宝暦13)年6月、20歳で江戸彰考館書写場傭(やとい)に採用され、1766(明和3)年7月に、水戸彰考館編集に登用された。そこで翠軒は、仏事志(ぶつじし)を担当し、草稿を完成させた。だが、翠軒はそれ以後、昇進もすることもなく20年近く、この職に留まり続けることとなる。
 吉田俊純氏によると、「翠軒が登用されなかった理由は二つあった。一つは学派の問題である。翠軒は田中江南と大内熊耳(ゆうじ)から徂徠学を学んだ。それゆえに、朱子学で固められた当時の彰考館のなかでは、疎外されたのである。......もう一つは、固定化した身分制のためであった。......農民出身の三代目の下士であった翠軒が出世する道は、険しかった」(『水戸学と明治維新』吉川弘文館 2003年 P.16~17)のである。
 翠軒は、水戸で家塾を開き、優秀な人材を育てる。翠軒の学問は多方面に広がり、また、柴野立山・尾藤二洲(じしゅう)・屋代弘賢など、中央の学者・文人とも学派の別なく広く交際をもった。
 翠軒の評価は藩内においても次第に高まり、1783(天明3)年、馬廻組(うままわりぐみ)になり、江戸に召されて第6代藩主治保の侍読(じどく *藩主に学問を教える学者)となる。侍読となった翠軒は、治保に『大日本史』編纂事業の再開を建言した。この建言が採用されて、翠軒は1786(天明6)年6月に、彰考館の総裁に就任した。総裁には、他に富田長洲と鈴木白泉がいたが、翠軒は特命により編纂を専管することとなった。
 翠軒は、修史事業の再興に熱意を傾け、懸案の志(部門別の制度史)や表(各種の官職表など)の編纂を推進しようとした。だが、藩財政の窮乏、人材の乏しさなどの現状を考え、これを中止し、1799(寛政11)年の光圀の百年忌までには紀伝の校閲と公刊を果たしたいと路線変更を行なった。しかも、安積の検閲本でさえ校訂する箇所があるとして、立原は藩外の塙保己一、柴野栗山などにも助力をあおいだ。
 
 〈立原派と藤田派の激しい対立〉
 ところが彰考館内部では、1797(寛政9)年から、館員同士の激しい意見対立が表面化する。いわゆる「史館の動揺」である。
 論争の発端は、翠軒に見いだされ登用された弟子の藤田幽谷(幽谷も父が水戸城下の古着屋)が、『大日本史』なる書名は適切ではないから『史稿』とすべきと提議したことにある(理由は、朝廷から命ぜられたものでもないのに『大日本史』では"畏れ多い"ということである)。幽谷はまた、立原が志・表廃止もやむなしという意見にも反対した。  
 1803(淳和3)年には、藤田派の高橋坦室が、「天朝百王一姓」の我が国において、臣下が天皇の行為を論評することは許されないとして、本紀の論賛を削除することを要求した。これにも、幽谷は賛同した。
 同年、立原が辞任し、立原派の数名の館員もまた他の部署に移った。この結果、彰考館は、藤田派が主導することになった。まず、志・表の編纂続行が決まり、1809(文化6)年には、論賛全文の削除が決定された(論賛削除で天皇批判をタブーとしたことは、後期水戸学の著しい特徴である)。書名も一時、『史稿』と変わったが、この問題は、朝廷から題名について許しが出たので『大日本史』に復した。
 新たな体制の下で、紀伝の校訂は次々とすすみ、この結果、1806(文化3)年からは出版活動に着手した。そして、1809(文化6)年、神武紀から天武紀までの本紀26巻の版本を幕府に献上し、翌年には、藩主に代わって幽谷が執筆した上表文を添えて、これを朝廷にも送付した。
 その後、出版活動を継続し、紀伝243巻のすべてが完了するのは、1849(嘉永2)年であり、これをさらに訂正し、幕府と朝廷に改めて献上したのは1852(嘉永5)年であった。
 志・表の編修については、前出のように困難を極めたが、藤田門下の豊田天功によって軌道についた。豊田は、仏事志・氏族志・食貨志・兵志・刑法志をつぎつぎと脱稿し、精力的に編纂に当たったが、完了させることなく1864(元治元)年に没した。だが、その作業は豊田の門人たちによって継続され、明治時代になってついに完了し、1906(明治39)年2月、本紀・列伝・志・表の四部と目録、合計402巻が完成した。
 徳川光圀が編纂作業を命じて以来、実に250年もの歳月を要したものである。
 
Ⅱ 後期水戸学の核心思想

歴史学者の小西四郎氏によると、幕末の一般的な武士層の唱える攘夷論は、「外国人は夷狄であり、鳥や獣にひとしく、礼儀も知らないいやしい人間である。このような外国人を、わが神州日本に近づけてはならないという、きわめて素朴な封建的排外論であり、日本的中華思想であった。こんなことを本気で信じていたのかと思うほどであるが、じっさい大多数の武士たちは、そう信じこんでいた。国際間の友好とか、人間同士の平等という思想のまったくないかれらは、ただ強がりで攘夷攘夷といっていた。」(同著『日本の歴史』19 開国と攘夷 中公文庫 1974年 P.24)という。
 下線部に述べられたことは、大きな間違いはないと思われる。だが、当時の理論的指導者は、多かれ少なかれ、西洋の諸列強が恐るべき勢力であることは、知っていたのである。 
 では、彼らはこのような状況下で、どのように攘夷を理論化したのであろうか。その代表的なものが、後期水戸学(天保学ともいわれた)である。この後期水戸学は、立原派と対立した藤田派のイデオローグの著作から生み出されたものである。
 彼らの主な著作は、藤田幽谷(1774~1826年)の『正名論』(1791年)、会沢正志斎(1781~1863年)の『新論』(1825年)、藤田東湖(1806~55年)の『常陸帯』、『回天詩史』(ともに1844年)、『弘道館述義』(1846年1月、初稿成り、1847年9月、再稿成る)などである。なお、東湖が起草し、斉昭の名で明らかにされた『弘道館記』は、1838(天保9)年3月に成っている。
 
 (1) 藤田幽谷の『正名論』
 前期水戸学の尊王賎覇・華夷内外の名分論を受け継ぎ、さらに国体論を軸に尊王攘夷思想に「発展」させたのが、後期水戸学である。その過渡期に位置するのが、藤田幽谷である、と言われる。
 『正名論(せいめいろん)』は、1791(寛政3)年、松平定信の求めに応じて、幽谷18歳の時に書かれたものである。それは、『資治通鑑』を典拠としつつ著されたものであ
るが、その冒頭で、「名分」(君臣の名称と上下の身分)の重要性を次のように述べている。

甚しいかな、名分の天下国家において、正しく且(か)つ厳ならざるべからざるや。それなほ天地の易ふ(かフ *かわる)べからざるがごときか。天地ありて、然る後に君臣あり。君臣ありて、然る後に上下あり。上下ありて、然る後に礼儀措く(おク *とりはからう)ところあり。苟(いや)しくも君臣の名、正しからずして、上下の分、厳ならざれば、すなはち尊卑(*尊いと卑しい)は位を易(か)へ、貴賤は所を失ひ、強は弱を凌ぎ(しのギ *犯す)、衆は寡を暴して(*乱暴し)、亡ぶること日なけん。......

 儒教などは、自然法則と社会法則を同一性において捉えているので、人間社会も動物世界と同じように弱肉強食の差別の相においてこそ、秩序が整っていると考えた。だから、上下・尊卑・貴賎などの差別が維持・再生産されることが、社会秩序の維持にとって極めて重要なことなのである。
 ところで大川真氏によると、「......日本では、朱子学派を中心として十八世紀末に『正名』を議論する思想空間が誕生する。......内憂外患の国家的危機において、統一的な国家イデオロギーが必要となり、二人の『治者』の曖昧な関係、すなわち天皇と将軍の関係に対して整合的な説明が求められるようになる。」(「後期水戸学における思想的転回」―『日本思想史学』39号)という。幽谷の『正名論』も、この「思想空間」において生まれた著作の一つである。
 幽谷は、名分の重要性を強調し、さらに春秋(歴史)の大義もまた名分にあるという。そして、日本歴史の世界に冠たる特徴を次にように述べる。
 
赫々(かくかく)たる日本、皇祖開闢(かいびゃく *天地のはじめ)より、天を父とし地を母として、聖子・神孫(*神の子孫としての代々の天皇)、世(よよ)明徳(*天から受けたくもりなき本性)を継ぎて、以て四海(*天下)に照臨(しょうりん *君主が万民にのぞむこと)したまふ。四海の内、これを尊びて天皇と曰ふ。八洲(やしま *日本全土)の広き、兆民(ちょうみん *多くの民)の衆(おお)き、絶倫の力、高世の智ありといへども、古(いにしえ)より今に至るまで、未だ嘗(かつ)て一日として庶姓の天位を奸(おか)す者あらざるなり。君臣の名、上下の分、正しく且つ厳なるは、なほ天地の易ふべからざるがごときなり。ここを以て皇統の悠遠、国祚(こくそ *天子の位)の長久は、舟車の至る所、人力の通ずる所、殊庭絶域(しゅていぜついき *前人未到の地)も、未だ我が邦のごときものあらざるなり。豈(あ)に偉ならずや。
 
 幽谷が云う世界に冠たる優位性とは、未だ嘗て易姓革命がない国、つまり一度も天朝が変わらない万世一系の国であるということである。このことは、それだけ名分が厳正な国であるということを意味する。
 天明の大飢饉・百姓一揆・打ちこわしやロシアの南下政策などの内憂外患で、幕藩体制が大きく動揺する情勢の下において、なおも幽谷に高き誇りを抱かせたのは、易姓革命のない、万世一系の天皇が治める国という点にあったのである。この点は、本居宣長など国学と共通するものである。
 そして、中国よりもはるかに名分のはっきりとしているのが日本であり、であるが故に、徳川幕府は部門の棟梁であるとしても、覇道ではなく王道をとるべきと次のように述べる。
 
......この故に幕府、皇室を尊(たっと)べば、すなはち諸侯、幕府を崇(たっと)び、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す。夫(そ)れ然る後に上下相保(あいたも)ち、万邦(*天下諸侯の国)協和す。甚しいかな、名分の正しく且つ厳ならざるべからざるや。今夫(そ)れ幕府は天下国家を治むるものなり。上、天子を戴(いただ)き、下、諸侯を憮する(ぶスル *なでしたがえる)は、覇主の業なり。その天下国家を治むるものは、天子の政(まつりごと)を摂する(せつスル *補佐する)なり。天子垂拱(すいきょう *何事もしない意)して、政を聴かざること久し。久しければすなはち変じ難きなり。幕府、天子の政を摂するも、またその勢いのみ。異邦の人、言あり、「天皇は国事に与(あずか)らず、ただ国王(*将軍を指す)の供奉(きょうほう)を受くるのみ」と。蓋(けだ)しその実(*実態としては将軍が政治を運営していること)を指せるなり。然りといへども、天に二日なく、土に二王なし。皇朝自(おのず)から真天子あれば、すなはち幕府はよろしく王を称すべからず。すなはち王を称せずといへども、その天下国家を治むるは、王道にあらざるなきなり。

 名分を重視する幽谷は、幕府が皇室を尊べば諸侯も幕府を崇び、諸侯が幕府を崇べば卿・大夫も諸侯を敬し、支配秩序が保たれるというのである。また、覇者としての幕府は実態としては天子の代わりに政治を主催しているが、王道を踏んで「王を称すべからず」と協調している。まさに「尊王」である。

 (ⅰ)孔子とは正反対の思想
 だが幽谷の正名論は、重大な問題をはらんでいる。
 幽谷は、万世一系の皇統主義が世界を見渡しても日本だけだと誇っているが、これは儒教の見地とは根本的に異なるものである。
 「易姓革命」が肯定される中国では、徳のない皇帝は「放伐」あるいは「禅譲」で交替されるべきであり、それによって王朝も交代されてしかるべきだというのである。
 しかし、「万世一系」の皇統主義が継承されている(とされる)日本では、そのこと自身(皇統の継続)が最大の優位点(外国に対して)とされるので、個々の天皇の事跡の評価・価値判断はできないのである。それを行なうと、「万世一系の皇統」そのものを傷つけるからである。ここでは、端(はな)から、歴史的評価、歴史的教訓などは埒外(らちがい)なのであり、そのような史観は全く論外とされているのである。まさに、歴史から教訓を汲み取らないことが皇国史観の本質なのである。この点は、歴史を、歴代皇帝を道徳的価値基準において評価し、教訓をくみ取る儒学とは、本質的に異なるものである。 
 幽谷の名分論もまた、同様の価値観を保有している。幽谷は自説を孔子の引用で裏付けているが、実は、価値観としては正反対なのである。
 孔子は、『論語』顔淵篇で、「君、君たり。臣、臣たり。父、父たり。子、子たり。」というように、君主は君主らしく、臣下は臣下らしくあれと言って、それぞれの職分は異なっていようとも、君も臣も、それぞれの職分と規範に遵(したが)うべき、といっているのである。『論語』先進篇でも、「大臣とは、道を以て君に事(つか)え、不可なればすなわち止(や)む」と述べ、君が道をはずれ、これに対して臣が諌言しても、なお誤った道を代えない以上、臣下であることを止めるべきだ、ともいっているのである。孔子の正名論とは、このようにそれぞれの名にふさわしい言動が、名に見合った正しいが言動が求められる、というのである。
 だが、幽谷の正名論は、君臣それぞれにふさわしい規範と職分を一切、問わずに、すでに前提となっている君臣関係、上下関係を維持することが無条件に大事であると形式主義に陥っているのである。この場合の君臣関係とは、いかなる人が君にふさわしいか、いかなる人が臣にふさわしいか―という内容を捨象された、形式上の制度にすぎないのである。
 確かに、中国でも時代が降るにつれて、孔子のいう正名論的思潮は衰退し、また、並列関係にあった「忠」と「孝」も上下関係に変質していく。日本では、幽谷のような正名論が普及することにより、孔子のような正名論は有名無実となっていくのである。
 
 (ⅱ)天皇を頂点とする重層的階層秩序
 日本のような内実を欠いた形式主義に陥った君臣関係はまた、西洋封建制の双務性とは異なる日本封建制の片務性(主従契約の非対等性)を背景にしている。つまり、君臣関係は君主の恩恵によるものであって、一方的な従属性が当たり前になるのである。
 すなわち、"君、君たらずとも、臣、臣たるべし"といって、君主が道に外れた言動を持っても、耐え忍ぶのが家臣の道だ、というのである。それは、(家臣の先祖が)君主に召抱えられたという恩義があってはじめて現在の生活も保障されているという一方的な間違った考え方によるものである。
 戦国の余風のある徳川初期においては、未だパーソナル(個人的人格的な)な君臣関係が強く、このような考え方は、まだ一般的ではなかった。それが18世紀ごろから君臣関係はパーソナルな関係から家と家との関係としての君臣関係として定着し一般化する。そこにはまた、祖先崇拝の強い日本的土壌も背景にある。
 だが、他方で、大名の家中意識(たとえば忠臣蔵は、赤穂浅野家)から藩意識(法人意識)が支配的となると、君臣関係よりも藩存続意識のほうが強くなる。そして、末期(まつご)養子制度をも利用した「主君押し込め」の構造が一般的となる。
 江戸時代初期には、大名家の存続をも揺るがすようなお家騒動が頻発した(実際に取り潰された例も少なくない)が、それ以降は大名家内の矛盾解決法が確立し、慣習化された(大名取りつぶしが増えると牢人が増え、治安が悪化するから)。それは、幕府の了解の下で、重臣層の多数が一致し、主君の言動をとがめた場合は、その子どもへ代替わりを行なうか、他家から養子をとって主君を替えるなどの「主君押し込め」である。重臣層の権限強化である。
 もう一つは、家と家との君臣関係が一般的となると、重層的な階層秩序の維持と再生産が、支配メカニズムの重要な柱となる。これも日本独特のもので、鎌倉時代には否定されていた陪臣制が、近世になると積極的になったことが大きな要因である。(陪臣とは、臣下の臣、又家来のこと。直参の対語)
 幽谷は、尊王賎覇の立場から尊王敬幕を強調し、「幕府、皇室を尊べば、すなはち諸侯、幕府を崇(たっと)び、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す」と、重層的な階層秩序が主張されるようになる。これは未だ、支配階級内部の秩序であるが、これに士農工商という儒教的身分秩序と連携されると、天皇から被差別部落民に至るまでの重層的階層秩序が形成されるのである。このような支配システムは、日本独特のものである。 

(2)会沢正志斎の『新論』
 水戸学のナショナリズム、排外主義は、会沢正志斎や藤田東湖になると、さらに強まる。幕末の尊王攘夷派の志士たちの間に広まった『新論』は、藤田幽谷の高弟・会沢正志斎(1782~1863年)が、1825(文政8)年に記した著作である。
 『新論』は、短い序文と巻末の識語(その本の来歴や写した年月などを書き加えたもの)を除くと、「国体」(上・中・下)、「形勢」、「虜情」、「守禦」、「長計」の五論七編から構成されている。
 正志斎は、短い序文の最後の所で、五論の位置づけとして、「臣ここを以て慷慨(こうがい *正義に外れた事などを悲しみ憤慨すること)悲憤し、自ら已(や)む能(あた)はず敢(あ)へて国家(*ここでは幕府を指す)のよろしく恃(たの)む〔*あてにする〕ところのものを陳(の)ぶ。一に曰(いは)く国体、以て神聖(*記紀神話で日本国を創始したと伝えられる神々)、忠孝を以て国を建てたまへるを論じて、遂にその武を尚(たっと)び民命(*人民の生活)を重んずるの説に及ぶ。二に曰く形勢、以て四海万国の大勢を論ず。三に曰く虜情、以て戎狄(じゅうてき *西洋諸国などを差別した表現)覬覦(きゆ *下の者が上の位を望むこと)するの情実を論ず。四に曰く守禦(しゅぎょ)、以て国を富まし兵を強くするの要務を論ず。五に曰く長計、以て民を化し俗を成すの遠図(えんと *遠大なはかりごと)を論ず。この五論は、皆(みな)天の定まってまた人に勝つを祈る所以(ゆえん *根拠)なり。......」(日本思想大系53『水戸学』岩波書店 P.51)と述べている。
 
 (ⅰ)天皇戴く日本は世界の頭首で「武威の国」という幻想
 正志斎は、国体を簡潔に定義し、記紀神話の神々と忠孝が日本国を建国し(上)、その日本では武が尚(たっと)ばれ(中)、民生が重視されている(下)―とした。
 「国体」論の(上)は、国体概念の核心点を述べたものであるが、それは、短い序文の冒頭で、次のように述べていることで明らかである。
 
謹(つつし)んで按(あん)ずるに、神州(*神国日本)は太陽の出づる所、元気(*万物の根元をなす気)の始まる所にして、天日之嗣(てんじつのし *日神の血統を受け継ぐ天皇を指す)、世(よよ)宸極(しんきょく *皇位)を御し、終古(*永久)易(かわ)らず。固(もと)より〔神州は〕大地の元首(*世界の頭首)にして、萬国の綱紀(ばんこくノこうき *すべての国々を統括するもの)なり。誠によろしく宇内(うだい *あめのした、天下)に照臨(しょうりん *帝王が万民に君臨すること)し、皇化(*天皇の仁徳の感化)の曁(およ)ぶところ遠邇(えんじ *遠近)あることなかるべし〔*遠近に関係なく皇化がおよぶべきだ〕。......(P.50)

 正志斎もまた、日本が神州として世界で最も優れ、世界各国の上に立つ頭首であるという論拠を、日神(太陽神)の血統を引いた天皇が代々継承して君臨し、「易姓革命」がない(万世一系主義)ところに求めている。正志斎が、日本を世界で最も優れた国とする論拠には、万世一系主義のほかにもう一つ、「神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、......固より大地の元首にして、万国の綱紀たり」というものがある。これは、素朴な太陽神信仰を指摘したものであるが、ただ儒教的な言い回しで根拠づけているだけである。これは、水戸学の神儒一致説を例証するものの一つである。1)
 ただ論拠づけとして、①万世一系主義、②太陽信仰の2点をあげているのは、国学者の本居宣長と同じである。
 だが、正志斎の国体論は明確な特徴があって、分かり易さを重視したのか、極めて実体的に捉え、表現しているのである。
 それは、先の引用でも、「神州は......固より大地の元首......」と、日本を世界の頭首と表現している所に明らかである。
 この頭首に対して、西洋人は「蛮夷」と称され、華夷思想(中華思想)によって蔑(さげす)まされ、しかも脛足(けいそく *膝の下で、くるぶしよりも上)と決めつけられ、頭首よりも劣るものとして比喩されている。さらに、「......亜墨利加(アメリカ)と曰ふものに至っては、すなはちその背後なり。故にその民は愚?(ぐとう *おろか)にして、なすところある能(あた)はず。これ皆自然の形体なり」(P.50)と言って、アメリカは西夷の中でもなおまた劣るものとして、「背後」(背中)と名づけられている。
 ところで正志斎は、『新論』全体で、「億兆(おくちょう *人民)心を一つにして......」というフレーズを繰り返し、繰り返し、述べる。それは、日本人に忠孝すなわち、忠誠心を強く促すためである。先に、日本が万国に勝れる根拠として、①万世一系主義と②太陽神信仰をあげた点は、本居宣長と同じだと言ったが、天皇に対する忠誠心の強さを臣の先祖にまでさかのぼって強調する点も宣長と同様である。
 これは、743(天平15)年5月5日、元正上皇が聖武天皇に「君臣祖子の理(きみおみおやこノことはり)を忘ることなく......」と戒めたことに基づく(詳しくは『続日本紀』を参照)。正志斎は、この「君臣祖子の理」を儒教的観点からとらえ直し、忠孝を強調している。
 たとえば、国体(上)の冒頭では、「帝王の恃(たの)んで以て四海を保ちて、久しく安(やすらけ)く長く治まり、天下動揺せざるところのものは、万民を畏服(*恐れて従う)し、一世を把持する〔*力によって一代の間の支配を維持する〕の謂(いい)にあらずして、億兆心を一つにして、皆その上に親しみて離るるに忍びざるの実(じつ)こそ、誠に恃むべきなり。」(P.52)といって、畏服を否定し、君臣が親しんで離れがたくなるような、「億兆心を一つに」する状態こそが頼み甲斐とするべきだ、というのである。
 そして、万世一系主義を述べた後に、「夫(そ)れ君臣の義は、天地の大義なり。父子の親(しん)は、天下の至恩なり。義の大なるものと、恩の至れるものとは、天地の間に並び立ち、漸漬積累(ぜんしせきるい *だんだんに浸透し、積み重なること)して、人心に洽浹(こうしょう *広くゆきわたること)し、久遠にして変ぜず。これ帝王の天地を経緯し〔*天下を整然と統治し、万民を秩序正しく治める〕億兆を綱紀(*治めること)する所以(ゆえん)なり。」(P.52)と忠孝の意義を述べる。
 ここで、祖先崇拝の風習をも踏まえて、支配の要諦としての「君臣祖子の理」が展開される。すなわち、
 
惻然悚然(そくぜんしょうぜん *うやうやしく慎しみおそれるさま)として、乃祖(だいそ *先祖)・乃父(だいふ *父が子に対する自称)の、皇祖・天神(*天皇の祖先の神々)に敬事(*敬いつかえること)せし所以(ゆえん)のものを念(おも)はば、豈(あに)その祖を忘れ、その君に背(そむ)くに忍びんや。ここにおいてか孝敬の心、父は以て子に伝へ、子は以て孫に伝へて、志を継ぎ事を述べ、千百世といへども一日のごとし。孝は以て忠を君に移し、忠は以てその先志を奉じ、忠孝は一に出で、教訓正俗(*風俗は人民を教化しなければ正しくはならない意)、言はずして化す。......(P.56)

 先祖代々、天皇に仕え敬ってきたことからして、臣が自らの祖先を祀って孝行をつくすことが、同時に、天皇に忠儀を尽くすことになる、というのである。だからこそ、「忠孝は一に出で」となるのである。
 「国体」論の(中)は、冒頭で「天朝、武を以て国を建て、詰戎方行(きつじゅうほうこう *軍備を充実して四方に武威を振るうこと)せしこと、由来旧(ふる)し」(P.70
 )と述べて、日本国を武威の国と称するのを天照大御神や神武天皇にまでさかのぼらせている。
 だが歴史的にみると、「武威の国」を盛んに振り回したのは、朝鮮侵略を目前とした豊臣秀吉である。それは、中国や朝鮮が「長袖国」に対して、日本は「武威の国」なので、朝鮮・明の征服は容易なことである、と武将たちを叱咤激励したことに由来している。「長袖国」とは、長袖を着た貴族の国という意味で、軽蔑したものである。
 それを、正志斎は天照大御神・神武天皇の時代にまでさかのぼらせ、「夫(そ)れ寇賊(*侵略者)を攘除(*うちはらいのぞくこと)し、土宇(*人の住む土地)を開拓するは、天祖(*天照大御神)の、孫謀(そんぼう *子孫のための百年のはかりごと)を胎(のこ)し〔*子などをはらむ〕たまひし所以(ゆえん)にして、天孫の天祖を継述したまふ所以なり。」(P.71~72)と、自らの侵略主義を顧みず、世界に皇化の地を拡大することこそが天照大御神が子孫に残したはかりごとである、としている。
 「国体」論の(下)は、その冒頭で、「天祖、丕(おお)いに民命を重んじ、肇(はじ)めて蒼生(そうせい *人民)の衣食の原(もと)を開きたまひ、御田の稲〔*神田で作った稲〕、機殿(はたどの *神衣を織る殿)の繭(まゆ)、遂に天下に遍満して、民(たみ)今に至るまでその賜(たまもの)を受く。」(P.81)と、架空の話を語り、現実(正志斎の生きた時代)の階級対立を隠ぺいし階級融和をしきりに唱える。
 だが、貨幣経済の浸透は、日本においても封建制社会を大いに揺さぶる。正志斎はこれが上下秩序を崩壊させる元凶として、産業の本である農業を勧め、末である商業を抑制する復古主義を提唱する。
 
注1)「神州は太陽の出づる所」という太陽信仰を前提とした論拠(日本を世界で最も優れている論拠)は、藤田東湖著『弘道館述義』も、次のように述べている。

「日本」の大郷号は、中世(*今日の中世概念とは異なる)より起る。しかもその由来するところ、蓋(けだ)しまた尚(ひさ *久)し。何を以てかこれを知る。維(これ)昔、天孫の下土(かど)に降臨したまふや、朝暾夕暉(ちょうとんせきき *朝日と夕日)の照曜(しょうよう *照りかがやくこと)する所を相(そう)し、以為(おもへらく)「この地甚だ佳(よ)し」と。すなはち始めて皇居を営みたまふ。景行帝(*架空の天皇)、子湯県(こゆあがた)に幸(みゆき *天皇などが外出すること)したまふや、以為(おもへ)らく「この国直ちに日の出づる所に向ふ」と。因(よ)りてこれを命(なづ)けて日向(ひゅうが)と曰(い)ふ。成務帝(*架空の天皇)、国郡を定めたまふや、東西を「日縦(ひのたたし)」となし、南北を「日横(ひのよこし)」となしたまふ。神皇(しんこう)の純陽光明(じゅんようこうめい)の域を愛したまふこと、すでにかくのごとし。且(か)つ夫(そ)れ、天日を以て国郡を経緯(けいい *縦横に区画する意)して、我はその根本に処(お)り、およそ四夷百蛮は、皆(みな)我が末光(まっこう *光の余り)を仰げば、すなはち「日本」の大号は、実にここに胚胎(はいたい *きざすこと)せり......。

 天皇が国郡の中心に拠し、「四夷百蛮」(*周りの諸々の野蛮人)が我が太陽(天照大御神)の子孫である天皇の余徳を恵んでもらっている。だから、日本は世界に冠たる国だ―ということである。
 皇統主義の根拠を太陽神信仰(天照大御神信仰)に求めるのは、『日本書紀』をはじめとして、江戸時代の国学者たちに受け継がれていく。したがって、「後期水戸学」がいかに神儒一致説に傾いているかがよく分かるのである。(本居宣長の関連主張は、拙稿『幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源』―『プロレタリア紙』2015年10月1日号を参照)

 (ⅱ)ロシアの過大評価とキリスト教浸透の誤認
 「形勢」論は、当時の世界の力関係を、中国の戦国時代の七雄の関係にたとえている。すなわち、ロシアを秦、トルコを楚、清を斉、ムガールを韓、ペルシアを魏、ドイツ(神聖ローマ帝国)を趙、日本を燕に比定している。
 正志斎の「形勢」論の最大の誤りは、ロシアを過大に評価し、イギリス・フランスを過小評価していることである。これは、当時の情報統制に最大の原因があり、正志斎だけを責めるのは酷なことかもしれない。それでも、日本的華夷思想に基づいて、日本を過大に評価するのは、事実に即していない。(ちなみに、西洋でも日本を過大評価していたが、ペリーやプチャーチンなどが、実際に日本と交渉する中で、「張子の虎」であることを理解する)
 「虜情」論は、その冒頭で「西夷の海上に跋扈(ばっこ *のさばること)すること、ほとんど三百年にして、土疆(どきょう *土地の境)日に広く」(P.94)と、西洋諸国の侵略拡大を批判する。そして、その方法を次のように述べている。
 
故に人の国家を傾けんと欲せば、すなはち必ずまづ通市(*通商)に因(よ)りてその虚実を窺(うかが)ひ、乗ずべきを見ればすなはち兵を挙げてこれを襲ひ、不可なればすなはち夷教(*キリスト教)を唱へて、以て民心を煽惑(せんわく *おだてまどわすこと)す。民心一たび移れば、箪壺(たんこ)相迎へ〔*大歓迎のさま〕、これを得て禁ずるなし。......その国を併(あわ)せ地を略するは、皆この術に由(よ)らざるはなきなり。(P.95)
 
 まず通商によって、侵略対象の国の実情を偵察し、隙(すき)があれば武力で侵略し、隙がなければキリスト教を浸透させて人民の心をとらえて、その国を侵略する準備をする―これが西洋諸国の常套手段であるとする。
 だが、この認識は一理あるが、基本的には時代遅れなものであった。カトリックのスペインやポルトガルが中心になってアジアに侵出していた時代ならば未だしも、新教国のイギリスなどは、政教分離であって、キリスト教の利用は主要手段ではなくなっている。
 
 (ⅲ)戦術主義の誤りと「長計」の矮小性
 「守禦」論は、その冒頭で、「およそ国家を守り、兵備を修むるには、和戦の策、まづ定めざるべからず。」(P.107)と、戦略なき戦術主義の発想から計をたてる。
 そして、「今や攘夷の令(*1825年2月の異国船打払令)、天下に布(し)かれ、和戦すでに決し、天下向ふところ(所)を知れり。」(P.108)と言って、以下に「守禦の策」として改革すべき四点を述べる。
 その第一は、国内政治の整備である。具体的には、①士風を興す、②奢侈(しゃし)を禁止する、③民生(人民の生活)を保障する、④人材を登用し、賢才を幕府の役職に任ずる―ことである。
 その第二は、軍令を整え、驕兵の整理、兵員の増大、精兵の訓練などを行なう。
 その第三は、邦国(諸藩)を富まし、その第四は、守備すべき要所を定め、守備を分担することである。
 この四点は、別に目新しいものではないが、ただ特徴として、正志斎の危機感は、とりわけ「内憂外患」の結合を恐れていることにあることが明瞭に見て取れる。
 正志斎はまた、「昔時(せきじ)、未だ設けざりしところ(所)にして、今日よろしく創設すべきところのもの」(P.115)として、新政策の5項目をあげる。すなわち、①屯田兵をおくこと、②斥候(敵情偵察)の組織を整えること、③海軍を整備すること、④火器をきたえること、⑤食糧を備蓄すること―を挙げている。
 しかし、新政策といっても、大宝律令や中国など昔の例を再び採用したものにすぎず、現状に適合しない復古主義的なものでしかない。また、斥候といっても、西洋諸国に偵察員を派遣した恒常的なものでない。海軍の整備といっても、確かに幕府に大船の建造解禁を求めているが、西洋式の蒸気船の建造ではない。火器の製造といっても、資源の欠乏を補うために、銃身に木をも、弾丸にも石・餅(石や金属のくずを膠〔にかわ〕で練り合わせたもの)をも用いるなど、非科学的なものでしかない。
 「国体」論、「大勢」論、「虜情」論での誤謬がすでに示すように、正志斎は、冷静で正確な調査と分析に踏まえた正しい戦略を持っているわけではない。したがって、「長計」論も、「国の大事は、祀と戎にあり」(『春秋左伝』成公13年)と古人の言に従い、軍備の強化(戎)を簡単に述べ、日本古代の律令制での祭祀大系の復活(祀)を強調するだけである。
 しかし、正志斎の戦略なき戦術主義は、情勢の変化だけで単純に攘夷から開国に転向し得る不確かなものでしかない。
 1858(安政5)年8月、水戸藩尊攘派は「戊午(ぼご)の密勅」(攘夷実現のため幕府を助け、諸藩と協力すべき)をめぐり、会沢ら尊攘鎮派はそれを朝廷に返納すべきとし、勅諚実行を叫ぶ尊攘激派と分裂する。激派を厳しく批判する正志斎は、『時務策』を死の前年の1862(文久2)年に書いて、攘夷鎖国論を唱える者を痛烈に批判する。
 すなわち、「当今ノ勢ハ、海外ノ万国皆(みな)和親通好スル中ニ、神州ノミ孤立シテ好(よしみ)ヲ通ゼザル時ハ、諸国ノ兵ヲ一国ニテ敵ニ受ケ、国力モ堪(た)ヘ難(がた)キニ至ルベシ。時勢ヲ料(はか)ラズシテ、寛永以前〔*家光の海禁政策以前〕ノ政令ヲモ考ヘズ、其(その)以後ノ時変ヲモ察セズシテハ、明識トハ云難(いいがた)カルベシ。」(日本思想大系53『水戸学』P.365)と、時勢を知らないで、日本を孤立させ、世界を敵にするものであると批判するのであった。だがそれは、旧来の自己主張を総括したうえでの、新たな路線の提起ではない。
 「和戦」という戦術レベルの問題をあたかも戦略問題以上に重視する正志斎の主張は、天狗党などの尊攘激派からすれば転向者として軽蔑されるだけであり、戦略なき戦術主義の誤りを明らかにするものである。 
 『新論』は、幕末の志士の間で転写され、すこぶる人気があった。尾藤英正氏によると、
「本書(『新論』のこと―引用者)の原文は漢文であるが、これを読み下し文にして幕末期に刊行された本が、『雄飛論』と題されたことが示すように、国力を充実させた上で、海外に進出し、『海外の諸蕃をして来りて徳輝を観せしめ』、『四海万民を塗炭に拯(すく)』う(長計篇)という。海外雄飛の壮大な構想こそが、本書の究極の目標とされており、本書が幕末の志士の間に多数の読者を得たのは、そのためでもあった。」(同著「尊王攘夷思想」―『岩波講座 日本歴史』13 近世5 1977年 P.81)といわれる。その「海外雄飛」が海外侵略を指すもので、1945年の日本帝国主義の全面的な降伏まで続いたのである。
 
(3)斉昭の裁定で決まった『弘道館記』
 徳川斉昭は、藩政改革のためのイデオロギー的統一と人材育成のために、藩校・弘道館を開設した。
 弘道館の開設は、斉昭が藩主となった時から構想されていたが、1833(天保4)年、斉昭が初めて帰国(就藩)した時に建設計画を発議した。だが、藩政改革派と反対派の対立や、年来の財政難に天保の大飢饉も加わり、なかなか進捗しなかった。だが、1835(天保6年)、幕府から向こう5年間、年間5000両ずつ下賜されることが決まり、ようやく進展することとなった。その後も、1836(天保7)年の凶作で遅延することもあったが、ようやく1841(天保12)年に開設された。
 この弘道館開設の趣旨を、斉昭は1838(天保9)年3月、『弘道館記』として著した。『弘道館記』は、斉昭が作成したことになっているが、藤田東湖が原案を書き、佐藤一斎、会沢正志斎、青山拙斎(延于)の修正意見を経て、斉昭が最終的に裁定を下したものである。しかし、斉昭は、東湖に白紙委任したわけでなく、最初の就藩の時に、自ら建学の趣旨をしたためた草稿(残っていない)をもとに、正志斎に原案起草を命じたが固辞したため、東湖に命じたものである。
 『弘道館記』は、その冒頭で次のように言っている。

弘道(こうどう)とは何ぞ。よく道を弘(ひろ)むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(たいけい)〔*天地の間に横たわっている大道。経は常〕にして、生民(せいみん *天下の人民)の須臾も(しゅゆモ *少しの間も)離るべからざるものなり。弘道の館は、何のためにして設けたるや。恭(うやうや)しく惟(おもん)みるに、上古(じょうこ *大昔)、神聖(*記紀神話の神々)、極(*究極の標準になるもの)を立て統を垂れ〔*子孫に継承させる〕たまひて、天地位し〔*天地の位置が定まる〕万物育(いく)す。その六合(りくごう *天地四方)に照臨(しょうりん)し、寓内(うだい *天下。寓は宇の古字)を統御したまひし所以(ゆえん)のもの、未だ嘗(かつ)て斯道(このみち *先述の天地の大道)に由(よ)らずんばあらざるなり。宝祚(ほうそ *天皇の位)、これを以て無窮、国体(*国の姿、国風)、これを以て尊厳、蒼生(そうせい *人民)、これを以って安寧、蛮夷戎狄(ばんいじゅうてき *異民族を野蛮とみなした蔑称)、これを以て率服(そっぷく *従ひつくこと)す。......ここに於て、斯(こ)の道の益(ますま)す大いに且(か)つ明らかにして、また尚(くわ)ふるなし。......

 最初に、「弘道」、「道」の簡潔な定義をしたあと、弘道館を設ける意義として、次のように述べる。すなわち、記紀神話の神々が、「極を立て統を垂れたまひて」、天地の位置が定まり、万物が育ったのであり、天照大御神の子孫が天下を統御するのも、この「道」に由る。天皇が位を継ぎ、国体が尊厳をもち、人民が安寧にあり、蛮夷戎狄が服従するのも、この「道」に由る。だから、この「道」をますます大いに明らかにするために弘道館を設けるというのである。
 『弘道館記』のいう道は、尊皇を掲げるだけでなく、まさに異民族を蔑視し差別し、その服従を絶えず求める日本的な華夷思想を表わすもので、尊王攘夷の精神を表現したものである。
 そして、最後の部分で、「忠孝二无(な *無)く、文武岐(わか)れず、学問・事業〔*学問と実社会と〕、その効を殊(こと)にせず、神を敬ひ儒を崇(とうと)び、偏党あるなく〔*一方にかたよらず〕、衆思を集め群力を宣(の)べ〔*多くの人々の考えを集め、その力を発揮させる〕、以て国家無窮の恩に報いなば......」と力説する。
 ここに、『弘道館記』の特徴とも言うべき、忠孝一致、文武一致(不岐)、学問事業一致、神儒一致が簡潔に示されている。
 先に述べたように、東湖の書いた原案に対して、佐藤・会沢・青山(拙斎)の三人が合計20カ所ほどで修正意見を提出した。その多くは、修辞上の問題であったが、中には見逃せない重要な問題もあった。それは、吉田俊純氏によると、次の2点である。
 第一は、『弘道館記』の冒頭部分で、「道とは何ぞ。天地の大経にして......」とあるが、「これは東湖の原案では、「道とは何ぞ、神州の固有するところにして......」とあった。これが修正されたのである。
 すなわち、「この『固有』に三儒の批判は集中した。固有では、道は日本にだけあるのか、それとも普遍的なものなので日本にも本来あったのか、不明確だからである。まして前者では、儒教的な道の普遍性は失われてしまうからである。それゆえに斉昭は裁定文に、『此三説ヲ合セ考ルニイカニモ固有ハ宜(よろし)カラス。頻(しき)リニ神州ノモノトスルユエ六ケ(むずか)シキナリ』と述べて、『固有』を『天地の大経』と改めた」(『水戸学と明治維新』P.103)のである。
 第二は、「斯の道の益す大いに且つ明らかにして......」の部分で、東湖の原案では「斯の道をして益す大いに益す明らかにせしめん」とあったのが修正されたのである。
 すなわち、「これに対して一斎は、『人をして斯の道の大且つ明なるを知らしめん』と修正するように求めた。儒教的普遍的な道は、もともと大きく明らかなのであると、その絶対性を強調する立場からの修正要求である。これに関して斉昭は裁定文に、『原稿ノ意ハ、是(これ)マテ国学者ハ神州ヒイキニテ孔子ヲトラス、漢学者ハ漢土ヒイキニテ神皇ノ道ヲ奉セス。ソレ道ト云モノ、イヤ□(*「マ」脱カ)ス分レ分レニ小クナリタルユヘ、神皇ヲ奉シ、孔子ヲ敬シタラハ、斯道益(ますます)大ナルヘキノ意ナリ』と述べて、和漢の折衷を計る難しさを吐露(とろ)している。」(同前 P.103~104)のである。
 斉昭は、和漢の折衷の難しさを吐露したが、東湖が処分中の1846~47年に、『弘道館記』の解説として書いた『弘道館記述義』は、論争をさらに深め、同僚の国学者と儒学者の双方から批判を受けた。
 
 (4)同僚からは厳しい批判を受ける東湖の『弘道館記述義』
 『日本の名著29 藤田東湖・会沢正志斎』(中央公論社 1974年)に所載された『弘道館記述義』の「凡例」には、「本書は『新論』とともに水戸学の代表的著作として、ひろく伝写され、各藩藩校などで教科書として使用された例も少なくなかった。『回天詩史』とともに東湖三名著の一つである。」(P.216)と紹介されている。
 しかし、それとはうらはらに、同僚たちからは、とりわけ冒頭の「天神」論をめぐって、厳しい批判がなされ、論争はさらに広がっている。具体的には、冒頭の次の部分である。
 
弘道者何。人能弘道也。道者何。天地の大経。而生民不可須臾離者也。
 臣彪(たけき *東湖の名)謹んで案ずるに、上古(*儒教や仏教が伝来する以前の時代)は、世(よ)質(しつ)に人(ひと)朴(ぼく)にして、未だ書契(しょけい *文字)あらず。所謂(いわゆる)道なるものも、また寞然(ばくぜん)として聞くことなし。然らばすなはち道は、固(もと)より、上古に原(もと *根本)づかざるか。曰く、なんぞそれ然(しか)らん。当時はただその名(*名称)なかりしのみ。すなはちその実(じつ *実体、事実)のごときは、すなはち未だ始めより天神(てんしん *記紀神話の神々)原(もと)づかずんばあらず。何を以てかこれを言ふ。夫(そ)れ父子・君臣・夫婦は、人道の最も大なるものにして、上古、父子・君臣・夫婦の分、厳乎(げんこ)として一定せしこと、なほ天尊(たか)くして地卑(ひく)きがごとし。上(かみ)令し、下(しも)従(したが)ひ、男唱(とな)へ、女和(わ)せしこと、またなほ天施(ほどこ)して地生(しょう)じ、万物おのおのその性を遂(と)ぐる〔*天が万物を生成する元気を地に与え、地はこれを受けて万物を成育させ、万物は生育して各々その本性を発揮する〕がごとし。神代は?(ばく *遠くへだたっている様)たりといへども、古典の載(の)するところ、彰明較著(しょうめいこうちょ *明らかに著しいこと)、また疑ふべからず。所謂「その実はすなはち天神に原(もと)づく」とは、それ然らずや。
..................
......蓋(けだ)し天地あれば、すなはち天地の道あり、人あれば、すなはち人の道あり。天神は生民(せいみん *人民)の本(もと)にして、天地は万物の始(はじ)めなり。然らばすなはち生民の道は、天地に原(もと)づき、天神に本づくや、また明らかなり。......

 東湖は、道は「天神に原(もと)づく」と捉えた。しかし、東湖は比喩として、儒教の宇宙生成論(「またなほ天施して地生じ、万物おのおのその性を遂ぐるがごとし」)をもって、補足説明をした。
 これに対して、国学者謀氏は、次のように批判した。
 
天地万物ノ原始ハ、ミナ神魯岐(かんろぎ *伊邪那岐〔いざなぎ〕)・神魯美(かんろみ  
 *伊邪那美〔いざなみ〕)〔の〕命(みこと)ノ命モテ、生(うま)リ出(いで)タルモノニシアレバ、「未だ始めより天神に原づかんばあらず」ノ言、的確ニシテ易(か)フヘカラストコソ言ハメ。サテ下ノ条ニ亦(また)、「猶天施して地生じ、万物おのおのその性を遂ぐるがごとし」ト云テハ、天地ト云ヘルモノカ万物ノ原本始祖タルカ如クキコエテ、前ノ「天神に原づく」ノ意ト相違セルヤウニナンアル、且(かつ)天地ニ万物ノ原始タリト云コトハ、専(もっぱ)ラ彼(かの)漢籍ニ説(とき)タル言ニシテ、我(わが)皇国ノ古典ニハ見モ聞(きき)モセサルコトニナン。下ノ条ニ天地ヲ云ヘル所、ミナココニ言ヘル天地ト同シ意ナルモノ多クコソ聞ユレ。別ニ深慮ノアリタマフコトニヤ。不審。(吉田前掲書 P.126)

 国学者の某氏は、『古事記』が言うように、別天神(ことあまつかみ)の命により伊邪那岐命・伊邪那美命が国土や山川草木を生み出したのであり、漢籍が言うように、天地が万物を生じたのではない―と、あくまでも主張する。
 だが、「これに対して、佩弦斎(*青山延光)・善庵(*国友與五郎)・天功(*豊田天功)の諸儒は厳しく批判した。」(同前 P.129)
 たとえば、佩弦斎(はいげんさい)は本居宣長の説を採用すべきではないと言い、東湖の天神論を次のように批判した(文中の「故先生」とは藤田幽谷のこと)。
 
「六合(*天下、宇宙)の外、聖人存じて論ぜず」ノ語ハ、故先生?(しばしば)御誦(となえ *節をつけて読むこと)なされ候(そうろう)。聖人荒唐(こうとう *莫としてとりとめのないこと)ノ説ナキハ、欠疑慎言(*疑いもなく慎み深い言)ノ至也。易(*易経)に「天地有り」云々(うんぬん)モ、其(その)理ヲ推(おし)テ被仰(おおせられ)タルニテ、実事ヲ見タルヤウニハ不被仰(おおせられざる)也。神代紀等ハ古俗ノ伝説カ、又(また)記者淮南子(えなんじ)等ニ本(もと)ツキタルカ、何(いず)レ是(これ)ハ伝説ノママニテ存シ置キタル方、穏(おだやか)ナルベシ。本居輩ノ是(これ)ヲ主張ノ強弁スルハ、耶蘇(やそ *キリスト教)ノ説ニ近キ弊(へい *害悪)モ生センカ。「天地万物の始め」ノ句、本居トハ異ナレトモ、後生ノ疑(うたがい)トナランモ難計(はかりがたし)。且(かつ)此(この)一句ナキ方、文理モ明潔ニシテ可然(しかるべき)カ。猶又(なおまた)御細思ノ事。(同前 P.127)

 佩弦斎は、幽谷が現実世界以外のことは論じないとよく言っていたとして、儒学者の同様な学問的態度を明言する。そして、記紀の神代紀などは「古俗ノ伝説」か『淮南子』(中国の大昔の伝説を記した)などに基づいたものであるから、伝説として取り扱うべきとした。こうして、本居説は当時として最も厳しい表現である「耶蘇」説に近いものと断定され、佩弦斎は東湖の天神論の訂正を迫ったのである。
 東湖は、『弘道館記述義』の序文か跋(あとがき)を豊田天功・青山佩弦斎・会沢正志斎に依頼した。だが、序文を書いた天功は東湖の説を水戸学では新説として、称賛はしなかった。青山と会沢にいたっては、序跋を書いてもいなかった。
 
 (5)「尊王攘夷」は易姓革命の否定から
 石碑に記された『弘道館記』には、「尊王攘夷」の語があり、これは幕末の志士たちに常用された。しかし、歴史学者・尾藤正英氏によると、そもそも儒学の本家である中国では、「尊王攘夷」とか、「大義名分」とかの熟語はないとのことである。それは、明確に和製熟語とのことである。(日本思想大系53『水戸学』の解説中、尾藤正英著「水戸学の特質」を参照)
 たとえば、「尊王攘夷」の熟語は、「尊王」と「攘夷(外夷を追い払う)」がセットになったものであり、両者を不可分のものとしている。だが、中国では、「易姓革命」が当たり前であり、徳のない天子は「禅譲」か「放伐」で交替される。したがって、王朝もまた交替されて当然なのである。
 この点は、万世一系の皇統主義を万国に優越する根拠とする日本の儒者にとって、易姓革命は肯定できるものでなく、ここから日本的な独自な儒学に至るのである。その象徴の一つが、「尊王攘夷」という和製熟語なのである。

第二章  斉昭の藩政改革

Ⅰ 失敗つづきの藩政改革

(1)水戸藩の特殊性と藩政改革の困難性
 徳川斉昭は、尊王攘夷派の巨魁(きょかい)といわれる。斉昭からとかく目をかけられ期待された越前藩主・松平慶永(春嶽)は、斉昭を次のように評している。すなわち、「老公即(すなわち)斉昭公ハ、尊王攘夷の論を盛んにして、攘夷家の巨魁たりといふ。天下これをし(知)らざるものなし。」(『松平春嶽全集』第一巻「逸事史補」 原書房 P.277)と。
 この斉昭が,阿部正弘政権の時代、幕政に参加し盛んに攘夷を唱えるが、それより以前、水戸藩主(在任1829~44年)として治世にあたったのは、ほぼ天保期(1830~44年)と一致する。
 徳川斉昭は、1800(寛政12)年3月に江戸に生まれ、1860(万延元)年8月に水戸に死ぬ。斉昭の藩主時代は、1829(文政12)年10月から、1844(天保15)年5月の、15年6カ月余である。
 斉昭は、第7代藩主治紀(はるとし)の三男であるが、兄である第8代藩主斉脩(なりのぶ)が生来病弱で子がなかったので、第9代藩主となった。しかし、その代替わりは単純なものでなかった。跡継ぎ問題が1828年暮れごろから表面化すると、水戸藩の派閥対立が露呈したからである。
 江戸勤務の家老榊原淡路守・水戸勤務の家老赤林重興など門閥の重臣たちは、老中水野忠成(ただあきら *田沼意次と並び称せられる程の賄賂政治で有名)と相談し、将軍家斉の23男で御三卿の一つ清水家を継いでいた清水恒之丞を第9代藩主に迎えることを画策していた。
 将軍家斉の子は男女55人(内、成人したのは25人)であり、この人々の将来を保障するのも幕閣の重要な仕事の一つであった。たいがいは、男子であれば跡継ぎのいない大名家の養子とし、女子であれば相当の持参金を付けて大名家に嫁がせるのであった。
 斉脩の奥方・峰姫も家斉の女(むすめ)であった。他方、水戸藩の方は、峰姫のお化粧料として持参金がもたらされ、その上、幕府への借金9万2000両が帳消しとなった。それだけではない。御三家にはもともと毎年、「永続金」と称せられる助成金があるが、峰姫が水戸家へ輿入れした後、倍増して1万両の助成金を永続給付されるという特典がついた(通常は、将軍の女を迎えるには御殿を造るなどして、出費の方がかさむものである)。
 この時と同様な方法をとろうとしたのが、老中水野忠成や家老の榊原たちであった。
 だがこれに対し、水戸藩内では初代藩主頼房の血統を守り、これまでの門閥派の藩政を改革すべきと、斉昭擁立を策する一派が登場する。これは、山野辺義観(やまのべよしみ 
 *城代家老・山野辺義質の嗣子)を中心に、藤田東湖・会沢正史斎・戸田忠敝(ただひさ)・武田耕雲斎など40余人である。斉昭擁立派は、山野辺を除くと中下級の藩士であり、藤田幽谷の思想的影響が強い藤田派が多かった。一部には、立原翠軒派もいた。
 彼らは、徒党を組み、しかも藩の許可もなく江戸に上り(これを水戸では「南上」という)、江戸の彰考館総裁・青山延于(のぶゆき)の協力を得て、さまざまな工作をする。
 両派の対立は一時深刻なものとなったが、結局、斉脩が33歳で病没した時、斉昭を後継にするという斉脩の遺書が明らかとなり、幕府から斉昭に対して遺領相続の命が下って、騒動は解決した。

 (2)定府制にともなう利点と弊害 
 水戸藩は周知のように御三家の一つであるが、尾張藩・紀伊藩が家康の時代にすでに「御三家」として遇されていたのに対し、水戸藩が御三家といわれるようになったのは、五代将軍綱吉の時代と言われる。しかも、尾張藩が約62万石・紀伊藩が約56万石に対し水戸藩は35万石で、はるかに格差が生じているのである。しかも、水戸家の官位は「正三位中納言」までなのに、尾張・紀伊の徳川家は「従二位大納言」よりも低かった。
 このため、石高は低いのに家格は高いため、諸行事を始めとして何かと物入りが多く、藩財政を圧迫したのである。しかし、水戸藩には他にない「特典」もあった。それは、1635(寛永12)年に定められた江戸への参勤交代が免除されたことである。いわゆる定府制である。このため、参勤交代による多額の出費は必要なかった。
 だが、定府制には大きな「弊害」もあった。それは、藩主が江戸常駐のため、国許との意思疎通の困難さにより二元支配となりやすく、藩の統制が乱れ安いこと、また、江戸在住の藩士が多く江戸の消費生活を強いられ、財政負担が大きいこと―などである。これらのことは、幕末の水戸藩の藩内抗争が激烈となった遠因ともなる。
 斉昭が藩主就任そうそうに藩士の江戸・水戸在住の交代制を方針としたのは、定府制の「弊害」を認識していたからにほかならない。
 斉昭と斉昭擁立派は、以降、水戸藩の天保の改革を行なうのであるが、その前に、簡単ではあるが、水戸藩のこれまでの藩政改革を振り返ってみることとする。

 (3)簡単には進まなかった藩政改革
 水戸藩領の農村の荒廃は、農民など働く人々の人口動態で一目瞭然である。
 水戸藩領の農漁村人口は、『水戸市史』中巻〈一〉によると、1703(元禄)年から1738(元文3)年までは、ほぼ30万人前後のレベルを維持するが、以降、減少の一途をたどり、1804(文化元)年の22万3600余人が底となる。その後、1810年から1828年22万7000人レベルで横ばいとなっている。
 人口が減少するほどまでの農村荒廃は、一体、水戸藩領の農村構造がどのように進展したことによるものであろうか。「荒廃期の農民層分化の特徴は、人口の絶対的減少と上層・下層農民の減少であり、相対的な中層肥大化現象であった。ここでは、地主小作関係の展開は未熟であり、上層農民の土地集積は、地味が良くなおかつ薄免(*租が相対的に軽い)の土地に集中し、対極には、下層農民のもとに地味が悪くそのうえ年貢過重な土地ばかりが残る結果となった。下層農民は出奔せざるをえない状況に追い込まれていたのである。彼らの土地は、買い手もないままに荒地と化す場合も少なくなかった。」(長野ひろ子著「諸藩の藩政改革」―『天保期の政治と社会』有斐閣 1981年 P.266)といわれる。 
 農村の荒廃が深刻化している状況を前にして、藩当局はただ傍観していた訳ではなかった。しかし、藩の施策は貢租・夫役(ぶえき)の確保が第一であり、借金によって当座の危機を切り抜けるだけのものであった。
 しかし、1749(寛延2)年、水戸藩は幕府から藩政改革の命を受けることとなった。この改革は、1756(宝暦6)年まで続けられた。この「寛延改革」が、水戸藩にとって農村荒廃に本格的に立ち向かった、初めての改革であった。
 水戸藩は長い間、中絶されていた郡代を再設置し、民政のベテラン大場弥衛門をこれに任じ、郡代―郡奉行・代官―勧農役(*有力な農民による)―庄屋―農民という支配体制をもって、新たな農政の浸透を図った。「大場は郡代に就任するに当たって、(1)年貢収納・農業・司法その他重要事項について、老中・若年寄と相談のうえ処理すべきこと、(2)郡代官手代・村役人・小検見係等に公正に執務させること、(3)郷村の風俗を正し、荒地散田の減少を図ること等が指示されていた。郡代に就任した大場は郷村回復として産業の発展に力を入れ、領内に漆苗を植えて漆・蝋(ろう)の増産を図るとともに、八溝山麓では農家副業として挽物細工(ひきものさいく *木をロクロでひいて作った細工物)の事業をおこして、農村の復興を図った。」(木戸田四郎著『維新期豪農層と民衆』ぺりかん社 1989年 P.100)と言われる。
 だが、この時の改革は成功したとは言えないようである。郡代の制度は、大場が若年寄に昇進した(1753年11月)後の、1755年10月には、廃止されている。
 しかし、水戸藩では、宝暦期(1751~63年)から、旱損・水害、手余り地、潰(つぶ)れ百姓をはじめ、毎年の作付や妊婦調査など幅広く調査が行なわれるようになった。調査項目も年々詳細となった。
 水戸藩は、1778(安永7)年1月、ふたたび幕府から改革の命令を受けている。時の藩主である「治保(はるもり *第6代藩主。1766年に16歳で着任し、1805年に没)は率先して改革にあたった。同年(*1778年)三月、直書(じきしょ)を下して改革を指令した。そこでは、それまでと違って財政の安定のためにも、農村の復興が命じられた。しかし、治保の指令は実現できなかった。かえって天明の大飢饉(*1782~87年)に襲われて、荒廃はよりいっそう進行した。」(吉田俊純著『水戸学と明治維新』吉川弘文館 2003年 P.19)のである。
 農村の荒廃はいよいよ深刻化し、藩当局は真剣に取り組まざるをえず、1789(寛政元)年2月、藩は各郡宰(ぐんさい)に対して荒廃対策の意見を求めた。
 この時、武茂郡の郡奉行・皆川弥六は4月に、長文の意見書を提出し、以下のような対策を述べている。
(1)農村が人口減少するまで荒廃するに至ったのは、重税による年貢未進が重なったためである。荒廃防止のためには、早期の減租が必要である。
(2)荒廃は農民の生活が華美になり、風俗の不正にもよるので、「百姓之内、忠孝貞烈家業出精之者」を、支配地ごとに選出して褒美(ほうび)を与えるようにしたい。
(3)さらに郡制改革を実施し、郡奉行・代官の支配を統一し、さらに支配地の近くに郡庁をおいて、行届いた民政を行なうと共に、藩庁へ出頭する遠郷農民の負担軽減を図るべきである。郡奉行が春秋に巡回する程度では、下吏任せになり、適切な施策は困難である。
(4)荒廃回復の資金を藩庁から出すのは困難なので、支配下の富豪に百両二百両と出金させ、これを基金として回復を図る。ただし、富豪にはその代わりに郷士取り立てあるいは何年間の年貢御免とする。
(5)郡方役人の任務を重視し、処遇改善を図って業務に専念させる。

 皆川の意見書にも見えるが、藩農政では郡制改革が繰り返された。従来、水戸藩農政は郡奉行と代官が担当し、農政一般は郡奉行が、蔵入地(藩主家族の生活費などを賄う)の年貢収納などは代官が当たっていた。だが、1799(寛政11)年に、これまでの4郡奉行・5代官制を替え、代官制廃止・郡奉行制一本の支配体制となった。翌年には、一部の奉行が任地在勤制となり、しかも6郡制となった。この時に、立原派の小宮山風軒・高野昌碩が、郡奉行に抜擢されている。
 1801(享和元)年には、郡制は7郡制となり、翌年には11郡制となる。そして、大部分の郡奉行が担当地域に郡庁を移して、民政を担当するようになっている。郡奉行が現地に赴き、農村の実情をよく把握したうえで荒廃対策を進めるためである。
 また、水戸藩では従来、十人組による農民支配を行なってきたが、1802年の改革で五人組を新たに作って十人組に併設し、農作業の実行・生活統制・治安強化・年貢収納などが行なわれた。
 寛政年間(1789~1801年)には、民政担当者の多くが農村荒廃問題に強い関心をもつようになり、多くの農制改革論が出るようになる。その中で、二つの対照的な農政論が出現する。
 一つは、藤田幽谷の『勧農惑問(かんのうわくもん)』(1799年)であり、もう一つは、坂場流謙の『国用秘録』である。
 幽谷の『勧農惑問』は、農村荒廃をもたらした主な原因として、侈惰(しだ)・兼併・力役・横斂(おうれん)・煩擾(はんじょう)の五弊をあげる。
 「侈惰の弊」とは、貨幣経済の発展により「民のおごりて且(かつ)わうちやく(横着)をすること」が、農民に広がり、勤勉でなくなったことである。
 「兼併の弊」とは、兼併地主が「負高(うぶいだか)」といって、貧農から公定よりも広い面積(一基準あたりの面積)で田畑を買い集めることである。しかし他方、日用取(日雇い)の賃金が高騰したため、兼併地主も経営危機に陥り、経営基盤を商業に移すようになっていると批判する。幽谷は、重農抑商の儒教的観点から批判するのであった。また負高は、年貢負担を不公平にしたので、残った貧農(公定より狭い面積の田畑を持つ)が破産する原因となった。さらに生き残った中農も、年貢の安い田畑しか耕さない弊害も生じさせた。
 「力役の弊」とは、賦役(労働力を供出させる課税)の負担が重すぎるということである。
 「横斂の弊」とは、石高制の下では畑方の場合も生産高を米で表示し、金納となるが、その換算率が1630年代頃から二石五斗=一両という安さから生じた問題である(当時は一石=一両が相場)。水戸藩では、この差を埋めるために、三雑穀切り返し法1)を設けた。幽谷は、これを藩が利ザヤを稼ぐ不正であるとして、相場通りの値段に改めるべきと強調した。
 「煩擾の弊」とは、農村支配が瑣末なことばかりに流れていることである。
 以上のように、幽谷は農村荒廃の原因を藩政にもあると指摘するが、第一の原因は農民側にある、としているのである。
 この上に立った幽谷の改革案は、要約すると、藩が改革の姿勢を明らかにして、人材を登用すること、三雑穀切り返し法を廃止し、畑方の換算率を相場にあったものに改正すること、賦役を軽減し、検地を実施して年貢負担の不公平を解消すること、時期をみて限田制(土地の保有を制限)を実施することなどである。そして、農民の侈惰を禁じ、商業の発展を抑制し農民の身分を高めることを主張した。
 幽谷の方策が現実を直視しない儒教観念に基づいたものであるのに対し、流謙の農政論は、郡役人としての豊富な経験と全国の実態調査に裏付けられたもので、実に対照的である。
 流謙の父治時は、茨城郡若宮村出身の農民であり、治時・流謙の二代にわたって郡方(こおりかた)役人を勤めた。流謙は、実績を評価されて1797(寛政9)年に、士分に取り立てられた。
 流謙は、1799(寛政11)年に、先進地域である畿内近国などの諸国産物調査に赴き、水戸藩と全国各地とを比較し、水戸藩領農村の建て直しを考える。流謙は、先進地域の単なる「猿まね」では建て直しは叶わないと考える。また、水戸藩の代表的な特産物である煙草(タバコ)についても、批判的であった。何故ならば、タバコの場合、労働力をとられて自給食料の不足をきたし、貧窮の原因となっていたからである。
 流謙は、江戸という大消費都市に近い水戸藩の農村を豊かにすることが十分可能と考えた。具体的な成案としては、養蚕と植林をあげた。「養蚕に関しては、領内六万軒のうち一万軒は漁村なのでできないが、残り五万軒で一軒五両なら全体で二五万両、一〇両なら五〇万両になり、豊かになると計算している。また、植林といっても杉や檜(ひのき)のような良材を説いたばかりではなかった。薪炭材の櫟(くぬぎ)に着目した。薪炭は当時、最大のエネルギー源であり、一〇〇万都市江戸を擁した関東では、厖大(ぼうだい)な需要があった。流謙は江戸に近い水戸藩領における、薪炭材の利を説いた」(吉田前掲書 P.40)のである。
 この坂場流謙をブレーンとして農村改革を行なったのが、立原派の小宮山楓軒である。楓軒は、1799年に郡奉行に任命されると、任地の紅葉(もみじ)村(現鹿島郡鉾田町紅葉)に赴任(ふにん)し、以後、1820年6月の離任するまで、この地で復興に努めた。この間、担当する農村は13から56に増えている。
 楓軒は、定免制(年貢の課税率を数年間、一定とする制度)を採用し、過重な年貢高を是正し、また、櫟・桑・桐・漆・ハゼなどを植えさせ農家の副業を奨励した。また、役所金を他領の商人に貸し付け、そこで得た益金を農村復興に使った。
 他方、藤田幽谷は1808(文化5)年に、彰考館総裁のままで、水戸に隣接する浜田郡の郡奉行になった。この間、大坂商人からの資金調達の中止・献金郷士停止・奢侈禁止令など抑商政策に立った支配体制の強化をはかったが、郡奉行としての実績はみるものがなかった。1812年、「壬申封事」(意見書)で、領内総検地の断行を建議し、門閥保守層との対立を深め、郡奉行を解任された。
 門閥保守層は、農村復興などの改革にはまともに向かわず、商人・藩士・富商・富豪などからの借金、あるいは藩営の会所政策(詳しくは後述)に熱心であった。第8代藩主斉脩は病弱なため、藩政を重臣層に委ねた。1820(文政3)年6月、当時、7人の郡奉行は全員が左遷させられ、水戸藩の「化政(文化・文政)改革」は、挫折するのであった。

注1)「三雑穀切り返しの法」とは、水戸藩独特の悪税で、農民から大豆・稗(ひえ)・荏(えごま)を秋の収穫期に安値で買い上げ、春の端境期(はざかいき)に高値で強制的に買い取らせるというものである。1829(文政12)年10月、第9代藩主についた斉昭は、施政方針の第一声で「愛民専一」をかかげた。だが、この「三雑穀切り返しの法」が実際に廃止されるのは、それから13年後の1842(天保13)年である。いかに藩政改革が生易しいものでなかったかが、これ一つでも窺える。

Ⅱ 天保の危機下での改革

 (1)斉昭藩主時代の藩政改革
 1829(文政12)年10月、斉昭は水戸藩第9代藩主となる。そして、斉昭は「就任早々、家老に訓示を与え、それまで農民を苦しめていた三雑穀切り返しの法の廃止と、藩士の定府(じょうふ)制(江戸常住)をやめて交代制にする、という二点を柱とする藩政改革の方針を打ち出すとともに、清水派の榊原・赤林らを処罰した。」(茨木地方史研究会編『茨城の歴史』県北編 茨城新聞社 2002年 P.161)のである。
 斉昭擁立に反対した重臣は、1831(天保2)年12月までに、ほとんどが隠居あるいは実務にかかわらない職務に左遷させられた。結局、家老・執政1)で残ったのは、付家老(つけかろう *御三家・御三卿の家老の内、幕府が直接任命した者)の中山信守と、国家老の山野辺義質(よしもと)だけであった。
 もちろん、国法を犯して南上した斉昭擁立派も処分を受け、山野辺義観は左遷され、東湖や正史斎など30数人が閉門とされた。しかし、これは軽いもので、2~3カ月して全員が許された。
 藩政府の首脳ばかりだけでなく、側用人や実務官僚も代わり、実務官僚には改革派が大幅に進出した。立原派の酒井喜昌は勘定奉行に、同じく小宮山昌秀(楓軒)は町奉行になった。農政に係る郡奉行は全員が改革派となった。藤田派では吉成信貞・田丸直諒・藤田彪(東湖)・会沢安(正史斎)・川瀬教徳が、立原派では山口正・友部好正が就任した。
 斉昭の藩政改革への意欲は、新任の郡奉行の全員が改革派で占められたことに表れている。
 さらに、粛清人事を郡方手代にも及ぼし、翌1831年には村役人層にまで広げた。とくに大山守(おおやまもり)を入れ替えるとともに、内密御用として警察権も与え、勧農、風儀粛清、治安維持の任にあたらせた。大山守は、本来は藩有山林の管理が任務であり、庄屋の中から選任され10数ケ村を担当した。寛政改革の際、民政にも権限が拡大されていたが、今回、事実上の大庄屋として重視された。こうして、郡奉行―郡手代―大山守―庄屋の改革ラインが形成されたのである。
 斉昭は、なんとしても農業人口の減少を抑え、農業を振興しなければならないと考え、初期において、間引き(堕胎)の禁止、妊婦届出制の励行、分家の取り立て、救荒のための稗蔵(ひえくら)の設置、米価の安定化のための常平倉の設置、新田の開発など、さまざまな施策を推し進めた。しかし、これらは儒教的観点からの「仁政愛民」のありきたりのもので、旧来からの諸施策の寄せ集めでしかない。

注1)水戸藩の家老は藩政の指導・監督はするが、直接的には関わらず、日常的には幕府関係の仕事をする。藩政は執政(老中)があたり、これを参政(若年寄)が補佐する。榊原・赤林らは家老であるが執政を兼任していた。執政・参政・側用人が文官の三役である。

 (ⅰ)なおも続く派閥対立
 1831(天保2)年1月、7郡制が4郡制に戻され、郡奉行は現地在任から水戸勤務に変わった。理由は、集中的統一的農政を迅速に推進するためとされた。4郡制への変更で、会沢正志斎は水戸御用調役(しらべやく)へ、山口は江戸御用調役へ、田丸は勘定奉行へ、山口は目付へ転出した。
 同年7月9日、欠員が生じた奥右筆の頭取に、水戸藩政府の推す河津景孝が任命された。会沢正志斎は、自らが推挙する原田成祐が敗れたのは江戸執政・岡部以徳の政治があるとにらみ、南上し、斉昭を説得する。8月、岡部は国勤に代わる。
 それから間もなくして、同年10月29日、水戸執政・岡部以徳は専断をもって、会沢を彰考館総裁に、藤田派の奥右筆3人(鈴木宜尊・原田成祐・荻君徳)を左遷した。いわゆる「東藩文献志事件」である。
 「東藩文献志」とは、御用調役になった正志斎が、中興の業をなすためには祖宗の制を知らねばならない、と建議して再開された水戸藩史の書である。
 正志斎を中心に、この書の編集のために集まるメンバーに対して、岡部らは「朋党を結んで政府の秘密を漏洩(ろうえい)した」と疑い、左遷人事を行なったのである。藤田派は、「朋党を結んだ」ということに対して、否定した。
 これについて、斉昭はますます激怒する。江戸の斉昭の側近くには、立原派の酒井や友部がいた。半年にわたる抗争で、郡宰を握る藤田派は門閥派の無能、改革への非協力を厳しく批判し、藩政府と全面対決した。しかし、結局、東湖ら藤田派は斉昭の側にいる酒井や友部の誤解を解き、それを通して斉昭をようやく説得するのであった。
 1832(天保3)年5月、正志斎の格式は元に戻され(彰考館総裁はそのまま)、左遷された奥右筆たちもふたたび起用された。そして、東湖はこの時、通事(取次)に抜擢された。
 他方、岡部は7~8月ころ、またまた専断をもって目付人事を行ない、11月に罷免され、隠居に追い込まれた。

 (ⅱ)派閥抗争の後は天保の大飢饉
 斉昭は、1832(天保4)年9月ころから、しきりにお国入り(これを帰国あるいは就藩という)を幕府に願い出て、ようやく藩主就任から4年目の1833(天保4)年3月に水戸に入った。この時、斉昭は翌年4月まで水戸に滞在するが、祖廟・祖先の墳墓、水戸の東照宮、名のある大社を参拝し、執政・諸有司との謁見やその邸宅巡りなどと共に、領内農村を精力的に見まわっている。
 しかし、この年は、水戸も天保の大飢饉で、大きな被害をこうむっている。『水戸藩史料』別記上によると、「八月朔(ついたち)烈風猛雨関東の野を掠(かす)め、常陸(ひたち)の如きは最も惨状を極め、家屋の傾倒・田圃橋梁の損害頗(すこぶ)る多く、死傷亦(また)少なからざりき。/(参)政府記録に藩内被害の統計あり左に其(その)概略を示す。」として、「潰(つぶれ)屋」8634棟、「半潰屋」3740棟、「即死怪我人」81人、「田畑大傷」13万9830石余、「官林社寺風折(かぜおれ)木」15万9766本―となっている。
 この数字がどの程度正確かは確かめようがないが、大被害にみまわれたのは確実である。被害をうけた田畑は、少なくとも領内の約半分を示しているからである。
 郡宰の吉成信貞の8月19日付けの上申書では、「......棚倉領平潟湊抔(など)にハ米穀払底(ふってい)に付(つき)、小人共難儀(なんぎ *困ったこと)に及び、去ル十四日七百人程(ほど)徒党仕(つかまつ)り、井上殿より阿部殿へ相払(あいはら)い候(そうろう)玄米六百五十俵、九面(ここつら)村と申す所へ積置(つみおき)候を理不尽に押込(おしこみ)奪取(うばいとり)候由(よし)相違無き趣(おもむき)に相聞(あいきこえ)申し候。諸国米穀甚(はなはだ)払底に御座(ござ)候由、扠々(さてさて)憂うべき事と存じ奉り候。」(『水戸藩史料』別記上 P.434)と、百姓一揆の発生を述べている。
 実際、この年、水戸藩でも餓死者が発生しており、多賀郡平潟地方などでは百姓一揆も起こっているのである。
 斉昭の第一回目の就藩は、改革どころか、飢饉の後始末に忙殺されるだけであった。同年8月、藩が、内帑金(ないどきん *お上の金蔵)から士民救済のためと言って出した救援金は、「町奉行へ100両、郡奉行へ7000両」であった。これらは、5か年の年賦(での返済)であった。
 10月には、諸方面へ質素倹約を令し、11月には、酒造りを禁じ、米穀蓄蔵を命じている。
 藩政改革が、天災や門閥層重臣の非協力のなかで挫折し、斉昭は1834(天保5)年4月、江戸に戻る。そして、斉昭は矢継ぎ早に、諸要求を幕閣に願い出る。天保5年9月には神武陵の修復の建議、同年10月には蝦夷地開拓の建議、同年11月には鹿島・行方(なめかた)両郡内の12万石相当の土地を水戸藩に下賜するようにとの請願である。
 これらの願いは、いずれも大きな問題であり、尋常では考えられない問題である。それにもかかわらず請願されているのは、斉昭の焦りもあったかもしれないが、当時、老中水野忠成が天保5年2月に死去し、斉昭とは心安い関係の大久保忠真が老中首座となっていた状況もあったためと思われる。
 御三家とは言え、水戸藩は35万石であり、尾張藩の61・9万石はもちろん、紀伊藩の55・5万石よりも遥かに少ない。これが日頃から斉昭にとっては不満であり、改革がなかなか進まない一因に財政不足があるとも思っていたからである。
 斉昭は、単なる利己的な考えから、蝦夷地開拓と鹿島・行方などの領地拡大の請願があると世間が憶測することを恐れたのか、いずれも、水戸藩が海防を担うことと絡めて請願している。だが、「斉昭はこの大願望の実現を期して、〔*天保五年〕十二月家老山野辺義観をして、幕府の役人に贈る金品のことを調査させ、勘定奉行土方出雲守に白銀十枚を贈ったほか数名に金品をやった。ただ老中の大久保(*忠真のこと)だけは堅い人物で、そのようなものは一切受けないこともわかった。斉昭の賄賂排撃は有名である。」(瀬谷義彦著『新装 水戸の斉昭』茨城新聞社 1985年 P.98)と言われる。
 賄賂批判の斉昭が賄賂工作を命じたということは、余程、蝦夷地開拓や領地拡大を欲しがっていたか―このことがよく理解できるのである(また、いかに当時、賄賂工作が日常的であったかも示す)。しかし結局、斉昭の請願はいずれも却下された。
 斉昭の藩政改革は、なかなか思うようには進捗しなかった。1836(天保7)年元旦、斉昭は病気と称して自室にこもって江戸城にも登らず、誰とも会おうとしなかった(これを「岩戸隠れ」と称する)。改革が思うように進まず、その怒りを隠退のかたちで意思表示し、改革の即時断行を門閥保守の重臣層に迫ったのである。
 執政で側近であった渡辺半介が見舞った際に、斉昭は次のように言ったと言われる。「自分は襲封以来足かけ八年にもなり、日夜藩政の改革に心を労しているのに、一つとして見るべき成果がない、なんの面目があって此の世にいられようか、自分は退隠するつもりである。しかし汝等(なんじら)が、今まで改革非協力であった態度を改め、今後改革の方針に従うのであれば。また考えなおしてもよい。......」(瀬谷前掲書 P.104)と。
 斉昭の捨て身の行動は、一時的には効果があったようである。
 この年(天保7年)5月、斉昭は家老で一万石の山野辺義観(やまのべよしみ *斉昭を藩主に擁立した唯一の重臣)を新設の海防総司に任命し、多賀郡助川村(現・日立市)に城郭を築いて、家来200余人とともに常住させることにした。水戸藩の海防政策執行の一環である。
 しかし、近世の三大飢饉の一つと言われる天保の飢饉は、1836(天保7)年、1838(天保9)年と、水戸藩をも襲い、1833(天保4)年を上回る大凶作となった。「......天保四年のときでさえ、籾(もみ *まだ脱穀しない米)一一万四三〇〇俵の収納を得たのに、七年にはわずか四万七七三〇俵にすぎず、懸命の救荒対策にもかかわらず、みるべき成果をおさめたとは言い難い。......平年作ならば二〇万俵ほどの収納は得られるはずのところ、この収納額では士民の救済はおろか、藩の経営費にも足りなかった」(鈴木暎一著『藤田東湖』吉川弘文館 1999年 P.118~119)のである。
 たしかに水戸藩は、常平倉貯穀の放出、上方(かみがた)米の大量買付(かいつけ)、種籾(たねもみ)貸与、日雇者救済の御普請方御救(おすくい)人足の実施、人足寄場方の設置などの処置を実施した。そして、餓死者を出さなかったことが喧伝(けんでん)され、「仁政」により領民信頼をかち得たと称している。しかし、瀬谷前掲書によると、実際は、「......天保八年二月までの藩への届けを総合すると、乞食や奥州その他水戸領内外からの行き倒れも含めて、餓死者は千三百五十一人」(P.117)と言われる。
 藩政改革は、またもや飢饉という天災によって、停滞せざるを得なかったのである。しかも、飢饉の影響は藩士にも大きく降りかかる。すなわち、飢饉対策によって財政はなお一層困難となる。このため、天保8(1837)年、藩士の俸禄は半減(「半知借上げ」)されたのである。
 藩士の俸禄がカットされるのは、これまでもなかったことではない。1774(安永3)年、第6代藩主・治保の時に、約一割程度のカットであった。これがやはり治保の治世の1792(寛政4)年には、第一回目の5割カット(「半知借上げ」)となった。第二回目の「半知借上げ」は、1807(文化4)年、第7代藩主・治紀(斉昭の父)のときであった。したがって、天保8年の「半知借上げ」は、三回目の出来事である。
 この時、本禄200石の藤田東湖は100石に、本禄150石の青山延于は75石に半減されている。当時、執政であった藤田貞正は、本禄475石であったので237石に減らされている。東湖や延于など軽輩の身から出世した者にとっては、耐乏生活もどうにかやっていけるが、もともと大身の家で育った門閥層の者にとっては、「半知借上げ」はとても厳しいもので、すこぶる評判が悪かった。
 
 (ⅲ)藩政改革の四大目標と総検地
 1837(天保8)年7月、危機感にかられる斉昭は、藩士に対して、藩政改革の四大目標をまとめて提示している(その多くは以前から唱えられていた)。「その第一は『経界の義』で、全領の耕地を検地することである。第二は『土着の義』で、家臣を領内に土着させることである。第三は『学校の義』で、水戸に藩校を開設し、各郡に郷校を開設することである。第四は『惣交代の義』で、江戸と水戸の家臣の交替と江戸の家臣の一部を水戸に移すことである。これらの目標は天保十四年(*1843年)までにかなり実現している。」(『茨城県の歴史』1997年 P.228)と言われる。
 この中で、「土着の義」は、野辺山義観を助川村に家来とともに、すでに定住させている。「惣交代の義」は、領地拡大の請願がかなえられなかったので、その代わりに定府制を改革するものとして提起された。
 この四大目標の内でも、最も困難な事業は、検地であった。藩にとって最も大事な改革は、土地の保有と租税負担の関係を明確にし、藩財政を安定化させることである。そのためには、藩内の総検地が不可欠であった。水戸藩は、1641(寛永18)年の総検地いらい200年近くも、本格的な検地が行なわれていなかったのである。
 しかし、200年前と比べ、現実の耕地面積や生産力に大きな格差が出ているのは確実である。しかも、その格差は上層農民において、とりわけ顕著である。したがって、新たな検地によって、上層農民の年貢負担が重くなるのは確実である。
 検地反対の一揆が確実視される下で、藩は次のような諸手段をとって、ようやく1839(天保10)年から着手することとなる。
 その方策とは、第一に、検地竿を寛永検地では6尺であったのを6尺5分に延ばし(これを「縄伸び」という)し、今までの1反とみなされていた土地は、0・88反となった。これは、隠田(かくしだ)を持たない小農民にとっては、"有り難い"と思われるのである。年貢は土地の広さによって決まるので、税率が変わらない限り、土地評価が狭くなると年貢が軽くなるからである。
 第二は、起返(おきかえ)し(*再開墾)が不可能な荒地(あれち)は、村高(むらだか)から除いた。村高とは、年貢として収取可能な最大値を示しており、村人全員が連帯して負担する年貢賦課の基準高となる。この村高から荒地が除かれることは、年貢負担がその分軽くなるのである。
 第三は、農民の屋敷地は、二畝(1畝は1反の10分の1)以下の場合、年貢免除となった。これも年貢の軽減となった。
 第四は、実態を正確にとらえるために、上中下の田畑の位(くらい)付けを四段階から五段階に増やした。これにより低位の生産力の田畑も正確にとらえることができた。
 第五は、取門制度を設けた。取門制とは、従来、一村の年貢は田畑それぞれ同一の年貢率で賦課するのが原則であったが、田畑それぞれに最大五段階の年貢率に分けて賦課するように改めた。これにより、結果として出てくる生産量だけを見て年貢をとるのではなく、生産条件まで配慮すようになった。
 第六は、検地の過程を三段階に分け、丁寧に行なったことである。先ず一段階目の「村下組(むらしたぐみ)」は、庄屋・組頭・老農(小前〔小農民〕の代表)による農民側だけの予備調査であり、「字付帳」を作成する。次の「内調(うちしらべ)」は、縄奉行・郡手代・郷役人(庄屋など村役人代表)による藩側の調査であり、「字付帳」を現地の田畑一筆ごとに点検する。三段階目は、「縄打(なわうち)」であり、正式な縄入れが行なわれる。
 検地は、始めてから2年4か月後の1842(天保13)11月に完了した。この結果、水戸藩の総石高は29万9600石余に減じた。内訳は、田方15万7200石弱、畑方13万1800石余などである。
 総石高は、寛永検地と比較すると、6万9800石余減、1834(天保5)年に幕府に届出た石高と比較すると、11万8700石余減であった。しかし、藩財政の見地からみると、生産力が上昇していた畑方の年貢率を倍増したため、年貢総額は検地以前より約1000両減じた程度でしかなかった。
 斉昭や藤田派は、献金郷士(財政改革の一環として、献金を豪農・豪商に呼びかけ、その代わりに士分に取り立てた)を批判し、否定した。しかし、天保改革では、従来とは異なり、新たな形での郷士採用があった。それは、「......例外的なものはあるが、原則的には改革の推進に協力した者に対する褒賞的意味で与えられた郷士である。その一つは宗教改革の協力者、他の一つは農村改革、特に検地に貢献した者たちであった。」(瀬谷義彦著『水戸藩の郷士』筑波書林 1993年 P.44)と言われる。
 この後者について、瀬谷氏は次のように述べている。「二年四カ月に及ぶ検地実施期間中は、各地の有力農民である山横目、大山守、庄屋らのうち、才気ある人物が郷役人に選ばれ、自村はもちろん、他村へまで検地役人を助けて活動した。大規模であり、かなり困難も予想されたにもかかわらず、それが案外大きな抵抗もなくすんだのは、日頃改革の進行に関心をもち、改革派に協力しようとする農村有志がいたからである。その中核となったのが、一郡八人ずつ、全領で三二人の郷役人であった。その郷役人も検地開始の前年である天保十年六月四日付をもって任命し、それぞれ前歴に従って、種々の特権を与えて、着々検地受入れの準備を整えていたのである。......」(同前 P.48)と。
 有力な農民を郷役人に任命し、検地施行の側にとりこんでいたことが、前述した譲歩条件とともに、百姓一揆を未然に抑え込み、検地を成功させた大きな原因となったのである。


(2)藩営商業と藩領拡大の野望
 (ⅰ)会所政策の進展
 18世紀後期以降、各藩では諸特産物の開発がすすみ、その商品化の形態は「藩専売制」であった。もちろん藩専売制は多様な形態をもっており、①藩が藩営農場・工場を経営する型、②藩が特定の領民にのみ、特定商品の生産を強制し収取する型、③特定生産物を藩が買い占める型、④有力商人を通して藩が間接的に生産物を買い占める型などである。だが、いずれの場合も、民間における商品の自由流通が原則として禁じられている。
 水戸藩でも、「藩専売制」のための各種会所の設立が試みられているが、ほとんど見るべき成果をあげていないようである。その中で、比較的順調に展開したのが、1796(寛政8)年、那珂湊に設立された穀会所である。
 この穀会所の「特色は、蝦夷・東北方面からの入津米、入津海産物の取扱いを藩と那珂湊商人とが移入・保管し、またそのための金融業もおこなったものである。同藩は寛政期ころより蝦夷地に大きな関心をみせ、このころ藩役人を松前へ派遣したり、領内農民を蝦夷地探訪に赴(おもむ)かせている。天保期には、藩の蝦夷地志向はますます強まり、一八三八(天保九)年、那珂湊豪商大内清衛門は、藩主斉昭の命により蝦夷視察に出向いている。天保改革の立役者斉昭は、蝦夷地加封を求めるありさまであった。」(長野ひろ子著「諸藩の藩政改革」P.277~278)のである。
 門閥派が主に熱心であった会所政策には、蝦夷地への侵出を狙う斉昭にとっても大いに関心があったのである。
 水戸藩は、1832(天保3)年、藩の物産会所を江戸に設け、楮(こうぞ)・タバコ・漆(うるし)・茶・コンニャクなどの商品作物の販売に当たっている。
 1836(天保7)年の凶作が決定的になると、11月、「改革派の長老指導者であった川瀬教徳を江戸勘定奉行に抜擢する人事を強行し、大坂さらに長崎まで買穀のため出張させて大量の買米(米五八七一石で金一万八〇〇〇両)をおこない、同時に大船二艘も購入して船ぐるみ水戸へ廻米した。翌年も上方及び肥前から買米(七〇〇〇石)している。全国的な凶作のため幕府諸藩の多くは主穀移出を禁止しており、大坂でも厳重な買米禁止令が出されている中で、幕府規制を無視しまた無断で斉昭手元金による買米を強行した。」(「長州藩と水戸藩」―岩波講座『日本歴史』12 近世4 1976年 乾宏巳・井上勝生氏執筆 P.315~316)のである。
 1838(天保9)年には、前述の引用に見られるように、那珂湊豪商(郷士)大内を松前に派遣し、交易調査をおこなわせ、松前昆布を運んで帰国させている。斉昭は、交易のための大船の建造や雇い入れを計画し、幕府にもしきりに大船製造の解禁を進言している。 
 1838年には、会所政策にも新たな展開がみられる。水戸藩内・大坂・浦賀・銚子・松前・越後の7カ所に、水戸藩交易会所を設立する計画である。「銚子の場合では赤穂塩を銚子醤油仲間へ江戸値段よりも下値で売渡し、江戸に塩が品切れの時は浦賀会所から注文次第供給するという内容であった。当然銚子で生産された醤油も水戸領内はもとより江戸・上方筋まで出荷を引受ける計画であったとみられる。水戸国産物に限らず、まさに諸国交易を目ざして広域流通経済から商業的利潤を獲得しようとしたものであった。」(同前  P.316)といわれる。

 (ⅱ)蝦夷地支配の野望
 水戸藩では既に第二代藩主・徳川光圀の時代に、大船快風丸によって蝦夷地の探検を行なっている。だが蝦夷地に本格的に関心を持つようになるのは、寛政期のころからであるが、幕府が1798年に蝦夷地に大調査隊を派遣した際、その一部がエトロフ島に渡った。これを率いたのが近藤重蔵であり、彼等はロシア人の建てた標柱を抜き倒して、代わりに「大日本恵土呂府(だいにほんえとろふ)」の標柱を建て、日本領としての証(あかし)とした。そこには、近藤重蔵・最上徳内などとともに従者下野源助の名が記されているが、その下野こそ 水戸藩が送り込んだ木村謙次(彰考館総裁・立原翠軒の門弟)のことである。
 斉昭は、1838(天保9)年には、藩の会所政策の発展のために、那珂湊の豪商(郷士)大内を蝦夷地に派遣している。斉昭のなみなみならぬ心入れである。というのは、前述したように斉昭は、天保飢饉で水戸藩でも餓死者の出た翌年の1834(天保5)年から、老中大久保忠真などに水戸藩に蝦夷地を加増するようにしきりに働きかけているからである。斉昭は、幕府にたいして、「蝦夷地......の開拓を、自ら彼地に赴く覚悟すら示して請願するとともに、下総の銚子と常陸の鹿島・行方(なめかた)地方に十数万石ほどの領地を増やしてほしいということも併(あわ)せ願い出た。蝦夷地開拓は北方警備の目的があったことはいうまでもないが、それによって増収も図ろうとする策である。」(『茨城の歴史』県北編 P.165)といわれる。
 いわば、斉昭は一石二鳥をねらったのである。藩財政の立て直しはおろか天保の大飢饉で、さらに藩財政は窮地に陥っているのである。しかし、尊王攘夷を高唱する斉昭にとって、ロシアの南下を抑え、むしろこの機会に日本の領土を拡大しようと狙ったのも確かなことである。
 それは、老中大久保忠真への盛んな工作、忠真亡きあとは水野忠邦への工作と粘り強い働きかけを続けたことで明らかである。そこには、実利を狙うとともに、斉昭の尊皇精神に基づく侵略思想が息づいているのである。
 1834年11月3日付けの大久保忠真への書翰に添付された「別紙口上書」では、「是
(これ)迄(まで)土地(*蝦夷地のこと)の開れざるハ人少き故と存(ぞんじ)候へバ
人を殖(ふや)し候事(そうろうこと)専要なるべし」(『水戸藩史料』別記上 P.278)と、植民政策の重要性を強調している。そのためには、水戸藩士はもとより犯罪者であれ、どしどし送り込めというものである。
 斉昭は、幕府第一次直轄の後、ふたたび松前藩が蝦夷地経営に戻ったことに大いに不満で、1834(天保5)年に、老中に蝦夷地を水戸藩に下付するように陳情している。さらに1838(天保9)年に、重ねて陳情を行っているが、そこでは次のように主張している。

蝦夷地の儀は松前の地続きにて、西は満州に隣り、北は『オロシヤ』の南境に海路を相構(あいかま)へ、......神国の裏門同様の場所に御座候。昔は蝦夷の北は人もすみ(住み)申さず、不毛の地と相見(あいまみ)え候処、近来は『オロシヤ』国強大に相成り、蝦夷の北『カムスカ』(*カムチャッカ)の間の島々より日本の地に違いもこれなく候処、千島の内『ラッコ』島(*ウルップ島のこと)と申す処まで夷人(*ロシア人のこと)蚕食いたし、彼の国より来り候て住居いたし候。神国の恥辱(ちじょく)此(こ)の上なく口惜しき事に御座候。

 斉昭は、カムチャッカより南の島々がすべて日本の領土と主張し、今やロシア人が南下しウルップ島にまで住み着いて蚕食されている現状を、「神国の恥辱」と口惜しがっている。前千島を日本の領土とする斉昭は強調し、しばしば幕府の対ロシア交渉員を困らせたのであった。
 そして、斉昭の記した『北方未来考』(1839年)では、アイヌ民族にたいする露骨な隷属化と和風化(同化)が、次のようにうたわれている。

一 蝦夷人ハ漁事猟事申付(もうしつけ)候ハ勿論(もちろん)なれ共、家中の家来又(また)ハ百姓にも申付るべく、又中々きよふ(*?)の者にて好(このみ)候者ハ何業にても致させ申すべき候
一 蝦夷人を馴(なら)す事(こと)肝要也(なり)。必ず是(これ)迄ハ馬鹿に見下し恵(めぐみ)をかけ申すまじくと存じ候へバ、恵さへ致し候ハバ必ズ骨を折(おり)て働き申し候半(そうろはん)と存じられ候。是迄の蝦夷通事(*通詞)蝦夷教授に申付、此(この)者へ下知して教へさせ申すべく候。
一 蝦夷地の義ハ水戸と違ひ厳寒なれハ著服抔(など)何を用(もちい)候とも勝手次第寒(かん)を凌(しの)ぎ様(よう)にすべし。蝦夷人とても暖(あたたか)きハ好むべけれハ綿入(わたいれ)等の柔(やわらか)なる所をも免すべし。......冠(かぶ)り物、はき物、入湯(にゅうとう)、又(また)膝(ひざ)を折て座す事抔(など)是迄制禁なれど、以後ハ勝手にすべし。扠又(さてまた)ひげをすり髪をたバねサセ申すべし。是も初(はじめ)ハ好(このま)ず候半か、二三年も右の通り致し候ハバ、長くひげこれ有り又らん髪(乱髪)ハうるさき故、必ス此方の風(*和風のこと)には直(じか)に化スベシ。又(また)日本言葉をつかハせ夷言(*アイヌ語を指す)禁じ、夫(おっと)これ有る女夷(おんなえびす)ハ眉をすらせ、未(いまだ)縁付(えんづけ)ざるハすらず、統(すべ)て日本の百姓目当(めあて *目標)にすべし。
......
一 追々(おいおい)開(ひらき)申し候ハバ......国名を撰び相願い候て、蝦夷といふ名を改め申すべし。日出国と願い申すべく候。......其他(そのた)郡を分け村名をつけ統て夷言(*アイヌ語)ハ相止(あいやめ)申すべく候。

 斉昭の考え・思想の基底には、独自の文化・風俗・生活をもつアイヌを野蛮な民と一方的に決めつけ、これを文明化させるとして、「蝦夷人を馴す事肝要也」と見下すのである。そして、同化させるために、生活・風俗を一方的に全面的に和風化させるのである。これは言うまでもなく、ロシア勢力の南下を押しとどめ、蝦夷地を内国化させ、日本に併合させるためである。(幕府の蝦夷地政策については、拙稿『徳川幕府の北方政策――蝦夷地の内国化とアイヌへの同化政策』〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照)
 しかし、斉昭らの蝦夷地支配の野望は、実現しなかった。水戸藩の加増はならなかったからである。しかし、幕府は特別な計らいで、以後の5年間、毎年5000両ずつ供与することを1835(天保6)年6月に決定する(その5年後には、さらに4年間継続となる)。斉昭らの狙いの一半は、実現したのである。1)

注1)水戸藩の財政改革がなかなか進まなかったことは、先述した。その一因には、水戸藩全体の「たかり体質」もある。青山靖生著『天下の副将軍』(新潮社 2008年)によると、水戸藩に対する幕府の助成は、①下賜金(かしきん)、②拝借金、③積金―の三種類があるといわれる。①は、返済する必要がない金である。文政年間(1818~1830年)の下賜金は9・75万両であったのが、天保年間(1830~1844年)には25・5万両にも増大している。②は、借りた金なので、本来は利子つきで期限内に返済しなければならない。しかし、水戸藩の場合は「被下流(くだされなが)し」といって、利子も期限もなく、実質的には下賜金と変わらなかった。1804(文化元)年間での拝借金は20万両に達したが、1806年に治紀が藩主となった際に、幕府に4万両を預けることで「被下流し」となった。だが1809~1818年(文化6年~文政元年)までの拝借金は再び9・22万両となったが、これも1819年に返済免除となった。しかし、水戸藩の体質は変わらず、天保末年(1843年)までに、拝借金は11万両もたまっている。③積金は、幕府の奥勘定所へ預金(あずけきん)を差出し、それから出る利息を受取る制度である。これにより、水戸藩は1830(天保元)年には8100両の利息金を受取っていたという。

(3)海岸防備と軍制改革
 19世紀に入ると、日本近海に欧米の船がますます出没するようになる。常陸は太平洋に面して長い海岸線をもっており、異国船が出没する機会も多くなる。
 1807(文化4)年6月、初めて異国船が鹿島灘に姿を見せる。水戸藩は、翌年1月、多賀郡水木村と川尻村に海防詰所を建てて、在番士を配置し、また、火砲を備えた。
 1815(文化12)年2月には、守山藩松川領(現・大洗町)の近海に異国船が現れたので、水戸藩は海岸全域にわたり、軍の配置を定めた。
 1823(文政6)年6月にも、那珂湊の沖合に異国船が現れる。漁船の報告では、異国船は5艘であったとされている。報告を受けた水戸藩は、那珂湊に部隊を派遣して警備させるとともに、那珂郡村松村(現東海村)と水木・川尻両村の海岸に郷士と猟師を動員して警備させた。
 翌1824(文政7)年5月、再び異国船が現れ、5月28日にはついに大津浜(現北茨木市)に12人(イギリスの捕鯨船員)が上陸した。大津浜は、付家老・中山氏の知行地だったので中山氏の手綱陣屋(現高萩市)から役人が出動し、この12人を拘束し、このことを水戸藩と幕府に急いで報告した。翌日には、水戸藩兵が大砲をもって出動し、中山氏配下の兵や近在の郷士・猟師も集まり、さながら戦場のような騒ぎになった、といわれる。
 イギリスの捕鯨船員たちを尋問する中で、彼等は薪水を求めて上陸したことがわかり、幕府役人の指示で6月11に釈放となった。この時の筆談役の一人が会沢正志斎であり、彼はイギリス人の上陸の目的に侵略的意図があると疑い、攘夷論を主張した。会沢の師である藤田幽谷も、藩主への上申書でイギリス人の釈放を非難し、海防の重要性を説き、内政改革と攘夷政策を強調した。なお、会沢正志斎が『新論』を著わしたのは、翌1817(文政8)年である。
 尊王攘夷を高唱する斉昭は、1832(天保3)年、海防掛(かかり)を新設し、それに改革派の山野辺義観を任命し、また、大砲や火薬の製造にも努力させた。同年には、蘭学者を招いて、大砲術・砲艦書の翻訳を命じている。
 1836(天保7)年には、水戸藩の外港である那珂湊(現ひたちなか市)に砲台を築いて、藩内で鋳造した大砲を備え付けた。そして、多賀郡の友部村(現多賀郡十王町)と大沼村(現日立市)には、海防陣屋を設け、城下の同心らを土着させた。
 この年にはまた、山野辺義観を海防総司に任じ、多賀郡助川村(現日立市)の高台に砦(とりで)を築かせた(砦は1841年に完成)。山野辺は配下の二百数十人と共にここに土着した。その知行地1万石は砦近くに割当てられ、先に土着した友部・大沼の両陣屋も、海防総司の管轄下に置かれた。
 1838(天保9)年には、「壮几(しょうぎ)廻り」と称する斉昭直属の親衛隊を創設し、御目見(おめみえ)以上の嫡子から100人を選抜し、これに騎乗・鉄砲・大砲術・航海術など徹底した洋式訓練を施している。
 斉昭は、藩士の士気高揚と武術鍛錬のために、1840(天保11)年の就藩(第2回目)の時から「追鳥狩(おいとりがり)」を始めた。「追鳥狩」とは、山野の鳥獣を追い立てながら狩猟するものであるが、源頼朝や徳川家康などが好んだ「巻狩り」と同じく、実質は軍事訓練である。1840年の「追鳥狩」では、甲冑で武装した騎馬武者3000人、雑兵2万人という大規模なものであった。以後、毎年行なうとしたが、諸事情でそうもいかなかった。しかし、天保期に5回、安政期に4回の都合9回行なわれた。
 斉昭は、これまでの銃砲隊が実用に適さないことを理解すると、1841年に、高島秋帆のもとに藩士を派遣し砲術を学ばせる。そして、やがて高島流の銃の扱いや射撃法を参考にした「大極陣」と名づけられた軍事編成を行なった。これは、1843(天保14)年7月、弘道館の調練場で披露された。「大極陣とは、弓矢隊を廃止して大砲と小銃を主体とした火砲部隊の編制」(岡村青著『水戸藩』現代書館 2012年 P.106~107)のことであり、高島流と「神発流」とを融合したものである。神発流とは、「馬上から三眼銃(三連発銃)を連発する、あるいは六連発、八連発する」(同前 P.107)というものである。

(4)教育機関の創設と思想統制
 (ⅰ)各郷に郷校開設
 斉昭は、1837年の藩政改革の四大目標の一つとして、「学校の義」をあげているが、斉昭は藩主になった直後から藩士の子弟を教育する藩校の建設に意欲があった。しかし、財政難や門閥派の抵抗などでなかなか進展しなかった。
 文武両学と医学所を含む弘道館は、その趣旨である『弘道館記』が1838(天保9)年3月に完成し、ようやく1841(天保12)年8月に、仮開館式を挙げることが出来た。仮であったのは、未だ学制が不備だったことと、敷地内の鹿島神社に鹿島神宮からの分神遷座や孔子の廟に神位の安置も行なわれていなかったからである(正式な開館は1857〔安政4〕年5月)。なお、1843(天保14)年には、江戸の小石川藩邸内にも、江戸の弘道館が建てられた。
 水戸藩で最初に郷校開設を建設したのは、小宮山楓軒である。1804(文化元)年に、小川村(現・小川町)に稽医館(けいいかん)を、1807(文化4)年に、延方(現・潮来市)に延方学校を開設している。これらは、民間の医者の養成と庶民教育のために作られたものである。
 斉昭藩主時代から、四つの郷にそれぞれ郷校が開設されはじめる。1835(天保6)年、湊村(現・ひたちなか市)に敬業館(けいぎょうかん)、1837(天保8)年、太田村(現・常陸太田市)に益習館(えきしゅうかん)、1839(天保10)年、大久保村(現・日立市)に興芸館(後に暇修館〔かしゅうかん〕に改称)、やや遅れて1850(嘉永3)年、野口村(現・御前山村)に時擁館(じようかん)―が開設された。
 これらは医学校であったが、儒学の講釈もあり、好学の農民の参加も許された。郷校は安政年間(1854~1860年)になると、文武館として拡充され、農民層を巻き込んだ尊王攘夷運動の拠点となった。
  
 (ⅱ)仏教に対する弾圧と神道の奨励
 水戸藩は二代目藩主の光圀の時代から、神仏分離の政策を推進した。その後、それは鎮静化したが、斉昭の尊皇精神の高揚のもとに復活し、強力に進められた。
 斉昭は、先ず藩内寺院のうち無住荒廃の寺や、破壊不如法の僧の寺など二百数十寺を整理した。また、大砲鋳造の材料確保のために、1842(天保13)年には、寺院の梵鐘・仏具の供出を強制した。
 次いで、水戸の東照宮の祭祀を吉田神道(唯一神道)に改め、これを手始めに藩内の神社で神仏習合が残っている所はすべて廃止した。そして、一村一社の鎮守制と神葬祭を奨励した。さらに、寺請制度に代わるものとして、氏子制度の確立を目指し、村ごとに氏子帳の作成を命じている。
 
(5)阿保陀羅経による批判と上士らの強訴
 斉昭らの藩政改革が手間取り長期間を要したのは、飢饉に対する緊急対策に忙殺されたことや、門閥層の非協力あるいは反対によるものだけではなかった。
 改革を批判した阿保陀羅経(あほだらきょう *時事を皮肉った滑稽な俗謡)の一節に、次のようなものがある。

時に皆さん聞いてもくんね、御国(*水戸藩のこと)がこんなに、こんきう(困窮)になったる、其(そ)のもとはじ(始)めは、無(な)くともす(済)んだる、弘道館だの追鳥狩(おいとりかり)だの......、有(あ)ってもよいなら昔の殿様なされたでござろう、昔は馬鹿で、今に努める役人ばかりが、利口じゃあるまい、ふところ学問おはなの先知恵......。(瀬谷義彦著『新装 水戸の斉昭』P.141)

 「追鳥狩」はまだしも、弘道館までもが批判の対象となっていることは、百姓にとっては、現実の目に見えた利益につながっていないことを批判したものであろう。その当否は、議論が岐(わか)れるところで、簡単に結論めいたことはむずかしい。ただ、「今に努める役人ばかりが、利口じゃあるまい」という批判は、改革派の独りよがりの独善的な面を衝いたものと推定される。
 1839(天保10)年10月、斉昭らの藩政改革に真っ向から刃向う行動が、起っている。
 それは、天保10年9月、斉昭が来春水戸に帰国すると、公表した後に、すぐさま開始された「上司らの強訴」である。10月、番頭(ばんがしら)ら70余人が連署して、「半知(はんち)借上げ」を中止するか、さもなくば来春の斉昭の帰国を延期するか―いずれかにしてほしいと請願した事件である。
 「番頭といえば、水戸藩では家老につぐもので、大番頭、書院番頭、奥番頭、新番頭などがあって、ふだんは城の警備、藩主の身辺の警備から、重要な用事を勤めるなど、代々水戸藩に仕えた、譜代の重臣でなくては勤まらないものであった。だから番頭といえば、武家社会では最も本来的な誇り高い役柄であって、大番頭などは当時七人あり、一人の大番頭には、組のれっきとした番士がそれぞれ十数名付属して、さらにその下の部下を指揮する仕組みであった。例えば当時大番頭組一の組の番頭は市川三左衛門弘教であった。市川家は駿府時代から初代頼房に仕えた名門で、天保六年大番頭で五百石、同十三年には七百石大寄合頭(おおよりあいがしら)となっているから、水戸藩の典型的な門閥派の一人といえる。」(瀬谷義彦著『新装 水戸の斉昭』P.128)といわれる。番頭の系統は、執政・参政らの文官に対して、武官といえる。
 斉昭は、天保8(1837)年の「半知借上げ」につづく2回目の俸禄カットを敢行したのである。その階級的立場から、門閥層は一般的に、藩政改革全般に否定的であった。それが、斉昭によって2回目の俸禄カットである。しかも、なにかと物入りが多い藩主の御国入りも行なわれるというのである。上士の間で、激しい怒りが湧いてくるのは、その立場としては「当然」のことである。せめて、"どちらかにしてくれ"というのであるが、やはり俸禄カットの中止が本音であったろう。
 しかし、斉昭は、2回目の帰国を、翌天保11(1840)年1月に果たしている。「上士らの強訴」に対して、斉昭は激怒し、あくまでも学校建設や全領検地の改革を推進したのである。
 「上士らの強訴」は、藩としてのメンツ、世間体の悪さ(藩主の支配能力のなさが露呈する)なのか、あまり史料が残っていないといわれる。しかし、この強訴には斉昭はもとより、改革派からも厳しい批判が投げつけられている。中には、首謀者は責任をとって切腹するべきだ、という意見もあった。しかし、処分は、首謀者の罷免、その嗣子への減禄のうえでの役職移譲―これが最も重いものであった。

 (6)斉昭の謹慎と藩政改革の挫折
 1843(天保14)年5月、斉昭は就藩(第三回目)を前にして、江戸城で将軍家慶(いえよし)から表彰をうけ、宝刀を授けられた。藩政改革の四大目標は、大筋において終わっていたから、これまでの藩政改革が、高く評価されたのである。
 ところが、1844(天保15)年4月、家老中山信守は突然幕府に召し出され、斉昭の藩政改革に対して、7カ条の詰問を受けた。わずか1年もたたないのに、斉昭に対する評価が正反対に逆転したのである。
 幕府の詰問の内容は、以下の7カ条である。「(1)同心・足軽の調練のさいに鉄砲の揃い打ちをしたこと。(2)幕府に財政不足を申し立てたが、それほどの窮迫状態ではないと判断されたこと。(3)蝦夷地(北海道)の支配を水戸藩にまかせてほしいとたびたび願いでたこと。(4)浪人をめしかかえたこと。これは弘道館の教師などに剣術の達人をめしかかえたことをさす。(5)神社祭礼の改革のこと。水戸の東照宮の祭祀から僧を排除し、神仏混淆を改めたことをさす。(6)寺院破却のこと。元禄の寺社改革にならって多数の寺院を廃止させ、僧侶の風俗を匡正(きょうせい)したことをさす。(7)学校の土手の高さのこと。弘道館の土手を構築したときに許可なく高いものにしたという。」(『茨城県の歴史』P.240~241)
 1844年5月2日、帰国中の斉昭は、江戸参府(江戸へ上ること)を命令される。5月5日朝、斉昭ら一行は小石川藩邸に着いたが、将軍家からは参府の無事を祝う使いはこなかった。翌6日、水戸藩の連枝である藩主3人(水戸藩の分家―高松藩・磐城守山藩・常陸府中藩)が使いとしてやってきて、斉昭に致仕・謹慎の命を伝えた。その要旨は次のようなものである。

水戸中納言殿〔の〕御家政向き〔*水戸藩内の政治〕、近年追々(おいおい)御気隨(おんきずい *気まま)の趣(おもむき)相聞え且(かつ)驕慢(きょうまん *おごり高ぶり)募(つの)られ、すべて御自分の了簡(りょうけん *考え)を以て、〔幕府の〕御制度に触れられ候事共(そうろうことども)之(これ)有られ候。御三家方ハ国持始め諸大名の模範に為(な)るべく候処(そうろうところ)、御遠慮も有られずの御始末(おしまつ *結末)、〔将軍家では〕御不興(ごふきょう)の御事に思召(おぼしめ)され候、之(これ)に依り御隠居仰せ出だされ候。駒込屋敷へ居住〔し〕穏便に急度(きっと)御慎み之(これ)有られ候。御家督の儀ハ鶴千代麻呂(*慶篤)殿へ仰せ出だされ候。......(『水戸藩史料』上編坤 P.534)

 幕府から処分を受けたのは、斉昭だけではなかった。斉昭の改革を助け、中心になって改革を推進した年寄・戸田忠敞(銀次郎)、側用人・藤田東湖が、斉昭の我儘(わがまま)を止めることができなかったとして、罷免のうえに、蟄居(ちっきょ)を命じられた。家臣では、この2人を含む3人の処分が最も重かった。その3人目が戸田・藤田と同じ処分を受けた寺社奉行の今井金右衛門(惟典)である。これは神仏分離など寺社にかかわる施策がもっとも強い処分の理由であることを意味する。他に処分を受けた者には、後の「桜田門外の変」の中心人物である金子孫二郎、高橋多一郎ら改革派がいた。
 だが、水戸藩の士民の間には、斉昭の無実を訴え、謹慎の解除を嘆願する声が広がり、激しい雪冤(せつえん *無実を明らかにすること)運動が展開された。それは水戸城下ばかりでなく、農村部にも広がった。豪農が指導する農民の運動は、当初は、近くの郡役所や水戸城下の役所への陳情であったが、次第にエスカレートして南上し(江戸へ上り)、尾張藩や紀州藩の江戸屋敷に嘆願するまでになった。かつて、斉昭を藩主に擁立するための南上運動は、藩士だけであったが、今回は農民が中心であった。雪冤運動のピークは、同年(1844年)10月であった―と言われる。
 この大衆的な雪冤運動のためかどうかは不明であるが、同年11月、斉昭の謹慎は解かれた。しかし、雪冤運動は、それで終わりとなることはなかった。その後も、5年間は士民の運動は継続した。1849(嘉永2)年3月、斉昭はようやく藩政に関与できるようになる。斉昭、50歳の時である。(斉昭は、その後、ペリー来航の直後の1853〔嘉永6〕年7月、「海防参与」に招かれ、幕府政治にも関与するようになる)
 斉昭の藩政関与復帰は、主に、高橋らの大奥をはじめ各方面への工作、それに斉昭自身の幕閣への働きかけなどで実現した。斉昭と時の老中首座・阿部正弘との間(弘化2年7月~嘉永6年6月〔1845~1853年〕)の往復書簡である『新伊勢物語』(阿部が伊勢守であることを踏まえて平安時代の『伊勢物語』にあやかった)は、斉昭がいかに復帰工作に熱心だったかを示す。
 問題の中心は、何故に、1年もしないのに斉昭らの藩政改革評価が180度逆転したかである。結論的にいえば、門閥層の幕閣への工作であり、藩内闘争の一結果である。その内容は、将軍家慶から賞賜を受けた1843(天保14)年5月18日から致仕・謹慎の命を受けた翌年5月6日の間に行なわれた藩政改革である。その最大問題が、1843年8月の水戸東照宮を唯一神道に改め、領内の神仏分離(寺院整理も含め)が遂行されたことである(幕府が詰問した7カ条のうち、神仏分離と寺院破却以外の項目は、ほとんど言いがかり同然のものである)。門閥層は、水戸東照宮をはじめとする神仏分離政策をあげつらい、しかも質素倹約を嫌う大奥を通じて幕閣に工作したのである。これが幕閣によって取り上げられ、斉昭の失脚となったのである。(その後の一橋慶喜を次期将軍に擁立する運動において、斉昭らが失敗する最大の要因は、やはり大奥の反発である)
 このことは、最も重い処分を受けた者に、藩政改革の最高責任者の藤田東湖・戸田忠敞のほかに、寺社奉行の今井がさらに含まれていたことで明らかである。
 だが、斉昭は反対派である門閥層が自分を失脚させたとして、その怒りを阿部にぶちまけているのである。その決めつけは、『新伊勢物語』の1845(弘化2)年7月10日付けの書簡で明らかである。

〔*結城寅寿は〕自分出(い)で候(そうろう)上は自分手(じぶんのて)にかない申さず人は、又(また)打退(うちしりぞ)け候に相違なく候(そうろう)察(さっ)せられ候。主君始め自分の下知(げち *命令)に叶(かな)い申さず候ては面白く存(ぞん)ぜず候故、第一に拙老(*斉昭のこと)次に戸田(忠敞)藤田(東湖)を嫌い申し候。扨(さ)て又(また)拙老退隠後は役を抜き候ても今以(いまもっ)て指図致(いたし)候かに聞え申し候と申すはいかがわしく候えども、鳥居甲斐守(燿蔵〔ようどう〕)は自分の悪をおおい申し候(そうろう)為(ため)、拙老をば兼々(かねがね)気遣い(きづかイ *気がかかり)に存じ居り、結城は拙老を退け権を振(ふ)り申すべしと存じ居り候わん故、若(も)しや鳥居と申し合せ候こと御聴を驚かし奉り候やと疑察致し候。
(*鳥居燿蔵は、「蛮社の獄」を指揮した酷吏)

 結城家は、南朝の忠臣・結城宗広の後裔(こうえい)であり、水戸光圀に見出されて仕え、代々家老の格式の家柄である。斉昭は、1839(天保10)年11月に、戸田忠敞(ただあきら *37歳)と武田正生(まさなり *37歳、のち隠居して耕雲斎)を参政に、1840(天保11)年1月に、藤田東湖(35歳)を参政の補佐役である側用人に昇進させている。これは、第二回目(天保11年)の帰国によって、さらに藩政改革を推し進めるに際しての人事である。この時期、改革派を余りに派手に抜擢して門閥派の反感がたかまるのを恐れたのか、斉昭は結城寅寿を天保11年9月に、わずか23歳で参政に抜擢している(天保13年には25歳で執政)。
 斉昭は、早くから目をかけてきた結城寅寿が、権勢欲で鳥居燿蔵と結託して、斉昭を追い落とした―とにらんでいるのであった。しかし、明確な証拠もないので、文面の最後に「ただちに御火中、密啓御独覧」と記している。
 ここに明治維新までえんえんと続く、天狗党(改革派)―諸生党(門閥派)の流血の派閥闘争が確定するのであった。

《補論 天保の大飢饉と水野忠邦政権の天保改革》
〈天保の大飢饉・百姓一揆・打ちこわしと蛮社の獄〉
 天保の大飢饉(1833~39〔天保4~10〕年)は、近世の三大飢饉の一つとされる(享保飢饉・天明飢饉とともに)。
 飢饉の前兆である気候不順は、すでに1830(天保元)年から始まっていた。1833年になると、陸奥の現青森県・岩手県の一部にひどい寒冷が襲い、出羽(現山形県・秋田県)に大洪水をもたらした。関東も、大風雨から凶作に陥り、翌年にかけて米の値上がりがひどくなった。
 中島陽一郎著『飢饉日本史』(雄山閣 1996年)によると、「おおよそ天保の飢饉の主要な"諸原因"は、イナゴの害と、長雨、日照り、地震および幕末危機を背景とする食糧政策の貧困が拍車をかけた典型的な複合飢饉であり、これら諸原因の相乗作用は、ついに全国的な大飢饉となって、天保六年(一八三五年)と翌天保七年(一八三六年)に庶民を飢餓に陥れた。」(P.99)といわれる。
 中島氏によると、天保の大飢饉による死者は、餓死者を含めて全国で約29・4万人と言われる(前掲書 P.119)。飢饉は、餓死者や疫病死を多数もたらしただけでなく、米をはじめとする諸物価の高騰を招いた。
 各地の農民は、命に代えられず、一揆・打ちこわしに立ち上がった。その中で、特に有名なのが甲斐の郡内騒動と三河の加茂郡一揆である。両者とも、飢饉の最悪の年・1836年に勃発するが、万を超す一揆参加者は米・雑穀の買占め・売惜しみをする地主・富商の居宅をつぎつぎと襲い、商品奪取や値下げ要求を実力で繰り返した。その闘いは激烈で地域を席捲し、当該の代官所・諸藩はもとより近隣の諸藩からも鉄砲隊が出動し、ようやく鎮圧した。
 天保年間の百姓一揆は、江戸期において最大規模となり、ピークに達した。農村の惨状と農民の闘いは、とうぜんにも都市にも大きな影響を与えた。食料品価格の異常高騰で、全国の都市で打ちこわしが頻発した。都市の打ちこわし・騒擾は天明期に次ぐ多さであった。
 天明期の都市打ちこわしは、江戸において頂点に達したが、今度は大坂が中心となった。江戸では多少なりとも公私の施行(せぎょう *功徳を積むため、困窮者に施しを与えること)が、打ちこわしの大規模化をおさえたようである。
 だが、大坂では十分な対策が取られず、1833年には大坂市場の米価は従来の倍近くまで高騰している。天保飢饉で最悪な年・1836年には米価は再び高騰し、市中には餓死者や食べ物を乞う人々があふれかえり、打ちこわしは一段と激しくなった。その要因には、大坂町奉行が跡部良弼(よしすけ)に代わったこともある。良弼は水野忠邦の実弟であり、幕府の方針である江戸廻米に力を入れ、大坂現地の対策がおろそかになったのである。
 このような状況の下で、1837(天保8)年2月、大塩平八郎の乱が勃発する。1830年まで大坂町奉行所の与力を務めていた大塩は、幾度か大坂町奉行に救急施策を上申し、豪商豪農には義援金をすすめたが、いずれも受け入られず、やむにやまれず挙兵した。反乱は、幕府軍によってすぐに鎮圧されてしまった。
 しかし、大塩の乱のことは、瞬く間に全国各地に広がり、芝居・講釈・あほだら経などに取り上げられた。これに刺激され、似たような事件や一揆があちこちに勃発した。たとえば、桑名藩の飛び領地である越後柏崎では、同年6月、平田篤胤の門人・生田万(よろず)が門弟・村役人を率いて陣屋に斬り込み、備後尾道・三原(4月)、摂津能勢(7月)などに「大塩残党」「大塩門弟」などと称して一揆や打ちこわしが続発している。
 加速化する内憂に対して、外患も国際情勢の緊迫化とともに重くなる。
 1837(天保8)年6月、アメリカのモリソン号事件が起きる。モリソン号事件とは、日本人漂流民7人を送り返しながら通商を求めて、浦賀沖や鹿児島湾口に来航したモリソン号に対して、幕府などが異国船打払令を適用して砲撃し、これを退去させた事件である。 
 事件の翌年、モリソン号の再来航の風説が流れ、これを重視した幕府は江戸湾防備を強化するために、鳥居耀蔵と江川英龍に調査を命じた。調査後、江川は報告書の作成にとりかかり、その際、蘭学者の渡辺崋山(渥美半島の田原藩の家老を務めた)に助言を求め、報告書に添える「西洋事情御答書」については執筆を依頼した。
 これを聞き付けた鳥居は、同書の上申を阻止しようと、あらぬ事件をデッチあげて、老中水野忠邦に告発した。この事件では、幕臣(代官)である江川英龍・羽倉外記は水野の腹心であったため逮捕を免れた。しかし、1839(天保10)年5月、崋山は逮捕され、小関三英は自決し、高野長英は一度は逃亡したがすぐに自首した。
 デッチあげ事件については、取り調べの結果、無罪であることが判明した。だが、捜査の過程で、幕府の外交政策を批判する草稿が発見され、「政治私議の罪」(林子平が弾圧されたのと同じ)で崋山は永蟄居、長英は永牢となった。だが、崋山はまもなく蟄居先で自決し、長英は牢の火災の際に一時獄を逃れたが、幕吏に追われて自決した。いわゆる「蛮社の獄」である。
 崋山が自決したのは、アヘン戦争が最盛期のときであったが、水野忠邦はそのアヘン戦争の情報を収集する中で、異国船打払令が非現実的であることを覚り、1842年7月、同令を廃止し、旧来の撫恤令(ぶじゅつれい)に復した。来航船をむやみに打払うのではなく、薪水・食糧を与えたうえで退去を求める「天保の薪水令」である。弾圧された崋山の異国船打払い政策批判は、現実には採用されざるを得なかったのである。

〈水野忠邦政権の天保の改革〉
 天保の大飢饉で、多くの庶民が命を落とし、諸物価の異様な高騰などで塗炭の苦しみに突き落とされたのとは対照的に、時の将軍家斉(第11代 在任1787年4月~1837年4月)は、贅沢三昧の生活を送っていた。確かに、少年期であった寛政の改革のころ(1788~1793年)は、倹約生活を送ってきたが、家斉(いえなり)も成人に達するころには、大奥を中心とする華やかな奢侈生活に陥る。その放蕩ぶりは、生涯を通じて妾が数十人、その間に28男27女をもうけたことに象徴的に示されている。
 歴代の徳川将軍15人の内、家斉は在任期間が最も長く51年間と半世紀にわたったが、さすがに天保の大飢饉に気が引けたのか、そのさ中の1837(天保8)年4月に、将軍職を世子家慶(いえよし)に譲り、西丸に退隠する。しかし、その後も大御所(おおごしょ)として実際の権勢を持ち続けた。
 天保の改革を中心となって推進する水野忠邦が、老中となるのは1834年であるが、しかし家斉の取り巻きにはばまれて思うようには改革政治を行なえなかった。ようやく思うような政治を進められるようになるのは、家斉が1841年閏1月に没して、その直後家斉側近とその配下の者、寵妾を粛清した後からである。
 同年5月、幕府は政治改革を布令し、天保の改革が始まる。「将軍家慶は諸老中を居間に召集して、享保・寛政の改革の精神にのっとって幕政の改革を断行するように訓示したが、これは改革をあくまでも将軍の発意にもとづく形にして成果をあげようとする忠邦の演出であり、寛政改革における定信のまねである。」(北島正元著『日本の歴史』18 幕藩制の苦悶 中公文庫P.440)といわれる。
 天保の改革は、1841(天保12)年5月から1843(天保14)年末にわたる、わずか2年数か月の期間に過ぎないが、その内容は多岐に及ぶ。大まかにわけると、(a)武士・庶民を対象とする綱紀粛正・倹約励行・風俗統制、(b)株仲間解散1)と物価値下げ、(c)農業・農民・農村対策、(d)軍事制度改革、(e)上知令(あげちれい)である。

(a)綱紀粛正・倹約励行・風俗統制
 忠邦は改革の冒頭にあたって、定信と同様に、実施する側の政治姿勢を正しくすることが、改革をみのり多いものにするために肝要と心得た。民政担当機関の勘定所(訴訟や代官所からの上申事項などを扱う公事方と年貢・普請・金銀米銭出納などを扱う勝手方の二部門)では、音物(いんもつ *贈り物)の禁止、衣服飲食の制限など、詳細な勤務規定が定められた。
 町方に対する布令は、1841(天保12)年5月22日の祭礼緊縮令から始まり、1843年12月までに、約178点の町触(まちぶれ)が雨霰(あめあられ)のように下された。「幕府は十二年十月、享保・寛政改革でだされた生活統制にかんする改革令を集めて公布し、贅沢な菓子・料理や雛(ひな)人形・能装束などに金銀を使用することを禁止し、婦女子の衣服や櫛・笄(こうがい *髪をかき上げる道具だが、後に女性の髷にさして飾り物とした)・簪(かんざし)類の材料・代銀にも制限をつけた。しかも統制は消費者だけでなく、奢侈品を生産・販売する職人や商人にもおよぼされていった。これらの統制令は、翌十一月から大坂・京都さらに全国幕領に触れ流され、奉行・代官の手で励行された。」(同前 P.448)のであった。
 しかし、これらの統制はほんの手始めであり、取締は日常生活の全般にわたり、さらに風俗営業・娯楽・芸能・出版などの各方面に禁止やあるいは制限が広がった。北島氏によると、その主なものでも、金銀具の所有・売買、違法建築、華美な庭園、賭場・富くじ・混浴・女髪結い・娘義太夫・隠売(いんばい *売春)・矢場女・堕胎・歌舞伎・能・舞・寄席・大道花火・出版などである。

(b)株仲間解散と物価値下げ
 天保の大飢饉で諸物価が高騰したが、米価は平年作あるいは豊作になれば落ち着いた。しかし、その他の諸商品は、寛政の物価抑制策の成功のあと、文政期の頃から再び高値になり、天保期にはその傾向は一層強まり、大飢饉の後にもいっこうに安くならなかった。
 幕閣は、株仲間が過分の利益を求めて買占めや価格操作を行なっていると判断し、1841(天保12)年12月、江戸の菱垣廻船積十組問屋を解散し、各種株仲間などを禁止した。しかし、株仲間解散令は幕閣の思惑通りに諸物価引き下げとならず、逆に市場を混乱させた。
 幕閣は、株仲間解散でも物価が値下がりしないので、今度は直接的な強制手段を採用した。それは、買占め・値待ちの禁止、物価公定、一品ごとの自粛値段の書き上げ、価格の店頭表示などである。寛政の改革では実現しなかった地代・店賃の引き下げ(3~4%から20数%の引き下げ率)も、このとき初めて実現している。また、これらとともに職人や日雇いの賃金も公定となり、抑制された。さらに、貸付金や質物の利子も引き下げられた。
 1842(天保13)年8月には、銭相場の公定にともなう物価引下げ令も公布した。銭相場が下落して庶民の生活が難儀するのを防ぐため、金一両に対し銭六貫五百文を公定相場とする。したがって、銭相場が引き上げられたのだから、商人は小売価格を安くして、誠実に商売するようにという趣旨である。
 これらの諸政策の結果、諸物価はようやく鎮静化に向かったようである。しかし、これらの政策には、需給関係を好転させる視点が弱く、忠邦の失脚とともに再び状況は悪化してしまう。物価高騰の原因には、生産者や無株商人の直売り、諸藩の専売制の拡大、大飢饉による減産などの要因もあったのである。

(c)農業・農民・農村対策
 封建的収奪の基本である年貢増徴のために、幕府は地方(じかた)支配体制の強化を図った。具体的には、代官人事の刷新と代官の在陣政策である。
 1842(天保13)年、代官の配置替えは大幅に行なわれ、関東の代官は全員配置替えとなり、その他の東日本の代官は半数が配置替えとなった。そして、東北・関東・信越地方の12カ所の代官に陣屋在住が命ぜられた。代官を任地の民情に通じさせるために、就任後10年未満の任地移動は原則的に認めないとした。
 年貢増徴の具体策としては、荒地起返し地の本免入り(年貢対象地にする)、条件が悪く租税を割引されていた土地の高請地化、定免地(豊凶にかかわらず3年・5年・10年といった一定期間、年貢量が固定されている)の検見取(けみどり *その年の作柄に応じて年貢量を決める)への変更などである。
 また、田沼時代に挫折した印旛沼干拓も、1843年に再び着手された。これによって数千町歩の新田が開かれるばかりでなく、水害の除去、水運の便利さ、江戸湾防衛など、様々な利点があるというのである。
 財源は、はじめ富商から調達しようとしたがこれが出来ず、結局、譜代・外様の5大名の手伝い普請役によって着手された。このように諸大名を動員するために、前段として忠邦は1843(天保14)年4月に、60数十年ぶりに日光社参を挙行している。これには、供奉(ぐぶ *身分の高い人の供をすること)の者は譜代と御三家の総勢13万人余と、関八州の拠点地域を警衛する多くの外様大名が動員された。
 幕府はまた、農業生産を不安定にし、農業経営を減少させ、その結果として年貢を減少させるものとして農間副業の形で商業が流入している―と判断した。これに基づいて、質屋・湯屋・髪結床などの副業が禁止された。そのために、1841(天保12)年に、臨時の関東取締出役(でやく)26人を新任し、警察機能をさらに強化した。
 1842(天保13)年9月の令では、農家奉公人(農業労働力)の不足の原因として、各地の機業地(桐生や足利など)に有利な賃銀で農民が吸収されていることがあると言って、機織(はたおり)下女が特別に高い賃銀をとることはよろしくない―と警戒している。 
 また、幕府は寛政期の旧里帰農令を強化した「人返し」政策も実行し始めた。しかし、「人返し」については、なかなか困難な問題で忠邦も数年間も思案し、ともあれ帰農のことはひとまずおいて、「人別改」(にんべつあらため *戸籍調査)を行なう方針をとった。その内容は、「すでに江戸に入っているものはやむをえないが、今後、在方(ざいかた *田舎)のものが新しく江戸の人別に加わるのを禁止すること、近ごろ入府し、妻子もなく、裏店(うらだな)住いをしているものは早々帰郷させること、木挽(こびき *材木をひき割る職人)・大工など職分による一時的な出稼ぎは、そのつど村役人を通じて代官・領主の免許状を受けること、廻国修行・六部(ろくぶ *厨子に入れた仏像を背にして、鉦〔かね〕をたたきながら米銭をもらい歩く巡礼)・巡礼にでるものも同様のこと、江戸居住者の店替えも居町名主から移転先の支配名主へ通達書を送ること、僧侶は不耕の遊民だから、今後出家は在方では代官、町方では奉行に願い出て許可をえること、武家奉公人はなるべく江戸出生のものを召し使うこと、人別改は毎年二回実施し、町奉行両組に人別掛(にんべつかかり)与力・同心を新設すること、無宿非人寄場を設置することなど」(同前 P.445)である。

(d)江戸湾の海防強化と軍制改革
 水野忠邦は、実権を握る前の1840(天保11)年の暮れ、長崎の町年寄・高島四郎大夫(高島秋帆)の上申書(大小砲で装備した兵士による近代的軍事訓練の必要を説いた)に注目し、翌1841(天保12)年5月、江戸北郊の徳丸ヶ原で行なわれた、高島の指揮する2大隊85名の洋式銃隊の演習訓練に臨んだ。そして水野は、高島を諸組与力格という幕臣身分に引き上げ、また、高島が自費でオランダから輸入した砲2門を500両で買い上げ、その火術を旗本下曽根金三郎と代官江川太郎左衛門(英龍)の2人に伝授することを命じた。
 水野忠邦政権は、アヘン戦争で清朝が全面的に敗北したのを受けて、1842(天保13)年7月、異国船打払令をやめ、薪水・食料の給与を許可する「天保の薪水令」に切りかえたことは前述した。 
 翌8月には、忠邦は懸案の江戸湾防備体制の強化を図り、武州川越藩に相模側の、武州忍(おし)藩に房総側の海岸を防備させ、それぞれの持ち場に砲台や遠見(とおみ)番所を増設させた。9月には、海防の範囲を全国に広げ、海岸に知行地をもつ大名・旗本に、現有の兵力・火器の数を報告させ、さらに大砲などの兵器を整備し、西洋砲術をできるだけ採用するように促している。江川英龍には、鉄砲の鋳造を許し、閣老はこぞって大砲の鋳造を江川に依頼している。12月には、江戸近海の防備のために、下田奉行を復活させ、新たに羽田奉行を設置し、幕府に直轄させた。
 1842年12月に、南京条約調印の情報が中国船によってもたらされると、幕府はイギリス軍の兵力・装備・戦術などを調査させ、江戸湾防備からさらに軍制改革へと進んだ。 1843(天保14)年5月、新しく江川英龍(韮山代官)に鉄砲方を兼帯させ、与力15騎・同心50人を配属して高島(秋帆)流の洋式砲術を教授するように命じた。従来、若年寄の支配に属して、砲術ならびに鉄砲のことを掌ってきた井上・田付両家には、与力・同心を増員し、先手組(さきてぐみ)与力・同心の定員を定め、剰員はすべて鉄砲方に配置転換させた。これに応じて、江川はオランダ人専門家を招き、砲術だけでなく洋式軍事組織および戦術を摂取の希望を上申している。
 忠邦の目指した軍事改革は、忠邦の失脚で中絶されるが、浜松藩(忠邦が藩主)の軍事改革は続行される。そこでは、洋式軍備の強化とともに、海防組織に農民までも動員し、農兵隊を編成している。これは、1839(天保10)年5月、江川の海防上書を採用したものとみられている。

(e)忠邦失脚を促した上知令
1843(天保14)年6月1日に、上知令(あげちれい)が公布された。それは、次いで出された9月14日令によると、幕領より私領(大名領や旗本領など)の方が免(租率)が高いのは不都合であるから、今回、江戸・大坂周辺(十里四方)の私領を上知(上地)して幕領に編入し、該当する私領主には物成(ものなり *田畑から収められる年貢)三ツ五分(35%)以下の替え地を与える―というものである。そして、第二段の措置として、江戸・大坂だけでなく全国的に、諸大名の飛び地を残らず城付領地並の免で、一まとめに整理する方向を示している。
 上知令の狙いは、第一に、見られるように幕府の財政収入を増やすことにある。第二は、農村・農民支配の強化にある。忠邦の腹心で上知令の建議者である羽倉外記(納戸頭兼勘定吟味役)は、かねてから関東の村々は幕領・私領の入り組みがひどく、治安維持に欠けるところがあると憂慮している。上知令の発布にあたっても江戸・大坂周辺の村々は小知行取りの旗本領が多いため、農民支配の基礎ともいうべき人別改めも毎年実施されず、取締が十分でないとしている。
 第三の狙いは、第二の狙いとも関連するが、国防上の重要性である。上知令の発布は、アヘン戦争の結果として南京条約が締結され、また「天保の薪水令」が発布された年の翌年にあたり、江戸周辺の直轄化は海防態勢の強化をも狙ったといえる。
 しかし、上知令は大名・旗本の反対はもとより、関係地の広範な農民の反対に直面する。高免地の喪失は、財政難に苦しむ大名や旗本にとって、さらなる窮地に突き落とされることであり、まさに死活問題であった。また、農民にとっても、旧来からの旗本などの財政破たんで年貢の先納や貸付金が累積しており、もし上地となれば、それらの回収が事実上不可能となってしまうからである。
 領主と農民の双方からの反対に遭遇し、さらには幕閣からも反対者が出現し、9月に発布された上知令は、早くも閏9月に撤回される。と同時に、責任者の水野忠邦と羽倉外記は罷免されることとなる。忠邦は、一年足らずにして老中に復活するが、二度目も一年足らずで免職となっている(1844年6月~45年2月)。
 享保と寛政の改革が比較的長期にわたり、それなりの効果をあげたのに対し、天保の改革は期間も短く、全くと言ってよいほどの失敗であった。それは、個々の政策上の問題もあるが、上知令の失敗に見られるように、封建制の本質である主従制そのものが動揺し、幕藩制そのものの変質の時代に入っていることを示している。

注1)商品経済の発展の下で、17世紀後半以降、各種業界で同業組合組織として株仲間が結成される。株仲間は仲間内では平等であるが、仲間の数を株数の限定によって一定数に固定し、仲間外の者の同一営業を阻止した。廃業や新規開業は、株の売買・賃貸によって行なわれた。幕府は、株仲間に仕入れや販売の独占権を与える代わりに、運上金(一定の税率を定めた租税)や冥加金(幕府の加護に対する献金)などの名目で一種の営業税を上納させた。株仲間は、将軍吉宗の享保改革の頃には、約100の業種で組織されていた。

第三章 斉昭の幕政参加と攘夷の高唱

Ⅰ 斉昭は攘夷の急先鋒

 産業革命(1760~1830年)を成し遂げたイギリスは、資源確保・商品販路の拡大などを目的に、ますます植民地と市場を求めて、海外に進出した。イギリスは、インドに綿製品を輸出し、インドからはケシから獲れるアヘンを中国に輸出し、中国からは茶や銀を輸入するという三角貿易を発展させ、莫大な利益を得るようになる。
 ところが、人民をむしばむアヘンに対し、中国清朝は、1796年に禁止し、1839年には欽差大臣・林則徐がアヘン2万箱を没収して、アヘン貿易を徹底的に取り締まると、これに難癖をつけ、アヘン戦争を引き起こす。
 イギリスのグラッドストン(後に首相)も、"不正貿易を援助し、恥さらしな戦争"と非難したアヘン戦争は、1840~42年と展開され、1842(天保13)年8月の南京条約によって、イギリスの勝利に帰した。まさに、"無理が通れば道理が引っ込む"という事態である。
 南京条約によって、香港を奪ったイギリスは、これまでの東アジアの前進拠点をシンガポールから、航路にして約2600キロも一挙に北上させ、広東など大陸沿岸部への、東アジア経営の基地を持つこととなった。同時に、上海・寧波・福州・厦門(あもい)・広東の5港が貿易港として開かれた。南京条約の翌年8月に結ばれた追加条約・虎門塞(こもんさい)条約では、輸出入品の関税を5%と定め、最恵国約款や領事裁判権なども規定された。これらは、全くの不平等条約であり、清国にとっては余りにも不利なものであった。

 (1)アヘン戦争に震撼する日本の支配階級
 香港から上海までは、当時の軍艦で約1週間の航程であるが、上海から長崎までは約3日の航程でしかない。アヘン戦争の戦況は、いち早く長崎奉行から江戸の幕閣に伝えられていた。清国の敗北については、日本の支配層も大変なショックを受けた。しかし、幕閣はこの事態にただ手をこまねいているだけで、清国支援の行動はなんら起していない。
 危機感は、むしろ知識人に強かった。長崎の町年寄である高島秋帆は、西洋砲術の採用を長崎奉行に上書している。松代藩士・佐久間象山も、アヘン戦争にみられる西洋勢力の恐るべきことを自覚し、海防を強く主張した。儒者の斎藤竹堂は、『鴉片(アヘン)始末』を著わし、清国の敗戦について、戦争の是非は言うまでもなくイギリスに非があると言いつつ、「しかるに何故に堂々仁義の大国である清国が無礼不義の醜虜(しゅうりょ *けがらわしいエビス。外国人を卑しめる語)英国に敗れたのか。それは清国みずから中華を誇り、海外諸国を侮り、外国の機械の進歩などに目もくれなかったからである」とした。
 佐藤信淵もまた、インドのムガール国の滅亡に続き、清国がアヘン戦争に敗れたことに驚き、「天地開闢(かいびゃく)以来、未曾有(みぞう)の珍事で、予(よ)甚だこれを驚異(きょうい)」すとした。これは、結局、武備を怠ったことによるとした。そして、日本の大名や武士層がこれを他人事としていることを批判し、"庶政一新・富国強兵"を計らなければならない―とした。そのためにも、経済を統制し、富を国家に集中し、また積極的に南方に進出し、フィリピンなどを獲得し、強兵の費用をつくるべしとしている。佐藤信淵は、西洋勢力の侵略に対し、他国を侵略して富国強兵を計って対抗するというのである1)。(中公文庫 小西四郎著『日本の歴史』19 開国と攘夷 1974年 P.7 )
 水野忠邦政権は1842(天保13)年7月、「薪水給与令」を発し、外国船に対する穏便な措置をとって、対外戦争に発展するような行為を回避した2)。また、一時中止していた譜代藩による江戸湾の警備態勢も復活強化させ、同年8月に、川越・忍両藩への動員を正式に発令する。さらに全国の海岸領主に防備体制を強化するように命令している。これら軍事的備えについては、《補論 天保の大飢饉と水野忠邦政権の天保改革》で既に述べた。
しかし、アヘン戦争の情報については、幕府は社会の動揺を恐れて秘密にする方針を採った。

注1)佐藤信淵は、農政学者であり、かつ経世家である。だが、急進的な侵略主義者で、在世時よりも明治維新後に高く評価されるようになる。「信淵の生存中は、彼の願望にもかかわらず、その主張・経綸策に耳を傾ける人は少なく、実際政治にたずさわることのない生涯を送っている。......しかしながら、徳川幕藩体制が崩壊し、一変して明治維新が到来すると、早い時期に政府・官僚によって信淵の著書が掘り出され、彼の経世論が注目されはじめた」(島崎隆夫著「佐藤信淵―人物・思想ならびに研究史―」―日本思想大系45『安藤昌益・佐藤信淵』岩波書店 1977年 に所収 P.611~612)と言われる。その後、信淵の著作は、つぎつぎと出版される。その中の一つに、『混同秘策』(文政期〔1818~30年〕の著書)がある。それは、冒頭で「皇大御国ハ大地ノ最初ニ成レル国ニシテ世界万国ノ根本ナリ。故ニ能(よ)ク其(その)根本ヲ経緯スルトキハ、則チ全世界悉ク郡県ト為(な)スベク、万国ノ君長皆(みな)臣僕ト為スベシ。」(日本思想大系 P.426)と露骨な侵略主義を宣揚している。そして、「他邦ヲ経略スルノ法ハ弱クシテ取易(とりやす)キ処(ところ)ヨリ始ルヲ道トス。今ニ当テ、世界万国ノ中ニ於テ皇国ヨリシテ攻取易(せめとりやす)キ土地ハ、支那国ノ満州ヨリ取易キハ無シ。......」(同前 P.430)といって、さらに具体的に、沿海州、朝鮮、台湾、中国全土などを征服する担当者(地域)を定めている。この侵略思想は、平田神道に基づいたもので、戦前の日本帝国主義の侵略主義の思想的支柱となった。
2)1825(文政8)年2月、水野忠成政権は「......異国船乘寄(のりよせ)候を見受(みうけ)候ハバ、其所(そのところ)有合(ありあわせ)候人夫を以(もって)、有無に及ばず、一図ニ打払(うちはらい)」(『御觸書天保集成』下 岩波書店 P.856~857)と、「異国船無二念(むにねん)打払令」を発する。
 これは、当時、イギリスなどの捕鯨船が日本近海にしきりに出没するようになり、1824(文政7)年5月に水戸藩領大津浜へ、同年7月には薩摩藩領宝島にイギリス船員が上陸したことがきっかけであった。三谷博氏によると、「この異国船排除の措置は、オランダ船でも長崎以外の場所へ現れた場合は対象とされたように、徹底的なもので、定信以来の鎖国政策はここに最も極端な形をとることとなった。」のである。だが、「しかし、これを徳川公儀が頑なな排外主義に支配されて好戦的となったと理解するならば、それは誤りである。海防を緩めた(*ゴロヴーニン事件の解決後、水野忠成政権は海防政策を緩めた)後にこの政策を打ち出したことは、異国船を手荒に扱っても決して国家間の戦争に発展することはないと徳川公儀が確信していたことを示唆している。」(三谷博著『ペリー来航』吉川弘文館 2003年 P.17)というのである。
 だが、そのような幻想は1840(天保11)年に、英中間のアヘン戦争が勃発することにより無惨にも打ち砕かれる。その戦況は直ちに日本にも伝えられ、日本の武士階級を震撼させた。

(2)夷狄を防ぐ三つの方策
 西欧列強の「開国」圧力が次第に強まる中で、これに対する武士階級の態度は大きくいって三分する。それを水戸藩の前藩主徳川斉昭の側用人であった藤田東湖は、蟄居中(斉昭が天保15年5月に幕府より致仕〔*免職〕謹慎を命ぜられた際、同じく免職蟄居)の1844(天保15)年8月に書いた『常陸帯』の下巻「夷狄の禍いを考慮したまうこと」の項で、次のように表現している。
 「夷狄を防ぐ術」として、①攘夷論、②積極的開国論、③消極的開国論の3つをあげる。 
 ①の攘夷論は、斉昭や東湖などの持論であり、「天主教〔俗にいう切支丹の本当の名称〕の害悪はまことに憎むべきであるから、家康・家光二公の旧法を守ってゆめゆめ邪悪な夷狄を近づけてはならぬ。もし近づいて来るなら無二無三に粉砕して手ひどい打撃を与え、皇国の武勇を海外に輝かすべきである。上下とも心をあわせて大和魂を磨き、天下の人民が一人残らず死につくすまではけっして夷狄に日本の土地を踏ませぬという決意をかため、そのうえで国防の手段にはどこまでも慎重な配慮をめぐらし、鉄銃・艦船の配備を怠ってはならず、鎗・刀の訓練を怠ってもならぬ。なにはともあれ万人が心を一にし、力を合わせて神国を守るべきである。」(日本の名著29『藤田東湖』中央公論社 に所収 P.191)というものである。
 ②の積極的開国論は、「......祖先の方針を改め、交易ということを許し、わが国でも大船を製造し、大砲などを備えて外国に渡航し、貿易を行なって諸国をなびき従わせ、神国に従属する国々が数多くなるならば、神国の威光はいよいよ広がるであろう。ただいたずらに神国の中にとじこもって海上に進出することができないのではちょうど籠城するのと同じで、最終的には危険である」(同上、P.192)というものである。
 これは、本多利明、佐藤信淵や、幕府学問所の儒者・古賀?庵(とうあん)などによって主張されたものである。
 ③の消極的開国論は、「(夷狄は)交易さえ許すならば直接の侵略行為をするはずはない。しかも真向から彼らの希望を拒絶しようとすれば、どんな不逞(ふてい)行為を行なうかも予測できない。わが国の軍備が完備したなら恐るるに足りないが、いまは太平がながくつづいたなごりで防衛力が急速に整うはずもない。だからまず貿易を許して彼らの希望をかなえてやり、その間にわが国の軍備を整え、彼が侵攻して来ても恐るるに足らぬという段階になってから貿易を禁止するのは容易なことであろう」(同上、P.192)というものである。
 避戦のための限定的通商論(時間稼ぎ論)は、松平定信いらい、幕閣内外でしばしば検討されてきたものである。
 ②による①への批判は、二つある。一つは、世界を思いのままに横行する西洋夷狄を坐して待つのは、「籠城」に等しい愚策である。もう一つは、日本人漂流民を送還してくる船を打払うのは、仁義にもとることである。
 これらの批判にたいして、東湖は斉昭の言葉をもって次のように答えている。後者については、「漁民の外国に漂着したものを救助しないというのは不人情のようであるが、国家の安全にはかえがたいから、前もって漁民にも告諭し、外国に漂着したものは死んだものと同然に思わせるべきである。」(同上、P.193)と、反論する。いかにも封建君主たる態度である。国家利益のためには、民の犠牲は当たり前と言う考えである。
 前者については、外国と交際することは、「かならず外夷の風俗に影響され、日本のために大害となる」とまず述べ、そして「......向うは大船にのってやってくるのに、こちらは陸上にばかりとどまってただ待機するだけ、向こうが逃げてもこちらは堅艦がないので追撃することもできないというのでは残念だから、大艦を造ることは許可し、捕鯨とか米穀輸送にことよせて常時海戦の訓練をさせるのは当を得たことであろう」として、②に反論している。斉昭ら攘夷派は、外国との交際そのものを毛嫌いしているが故に、「籠城」になってしまうのである。毛嫌いの根拠は、貴族などの触穢思想と同様の考えがある。
 しかし、斉昭は「......日本の人間が貴賎を問わず大和魂にみちあふれ、天照大神の御加護をひたすらに信じ奉り、古語にいう『遠き国は八十綱かけて引き寄せる』というほどの気魄にみたされたときは、海外の国々を征服するというものも考えられることであるが、いまなまじに遠大な経略を実行に移すなら、かえって足もとの禍いだけをひきおこすことになろう」(同上、P.193~194)という。つまり、「貴賎を問わず大和魂がみちあふれ」ない限り、海外征服はできないというのであって、逆に、これは、民族全体が大和魂に満ち満ちたらば(軍備増強も)、海外侵略に踏みきるというもので、まさに攘夷の底には侵略(海外雄飛)の二文字が秘められているのである。
 実際、ロシア使節プチャーチンと幕府の国境交渉の過程で、斉昭はカラフト全島領有論などを唱え、これを幕閣に働きかけ、一貫して強硬論を主張している。斉昭らの攘夷論は、明らかに海外侵略・領土拡張の思想を胸に秘めており、その片鱗がカラフト全島領有論に如実に示されているのである。
 しかし、②の開国論者もまた、「貿易を行なって諸国をなびき従わせ、神国に従属する国々が数多くなるならば......」というように、侵略主義とは決して無縁ではない。このことは、佐藤信淵や本多利明などの著作をみれば一目瞭然である。そこには、露骨な侵略主義が主張されているのである。
 ③の論者もまた、いつ侵略主義を公然化するかわからない。軍備が整うと、とたんに侵略主義者の地金を顕す事例は、古今東西に珍しくないからである。

(3)オランダの「開国」勧告を幕府は退ける
 第一次アヘン戦争が終って、その翌年の1843(天保14)年12月、オランダ国王は、徳川将軍に「開国」を勧める書翰を送ることにし、翌44年7月には、オランダ軍艦が長崎に来航し、艦長コープスが国書を幕府に呈出した。
 この国書で、オランダは、日本が大清の轍(てつ)を踏まないように注意を促す。そして、この観点から1842年の「薪水給与令」の再開を称賛し、日本がこれをさらに一歩進めてオランダ以外の西洋諸国とも通商を始めるように忠告した。また、蒸気船に代表されるように交通機関の飛躍的発展によって、世界が一体化している情勢を述べ、日本のみが孤立を続けるのは不可能である、と指摘した。
 だが、幕府は、1845(弘化2)年6月、およそ1年近くも経ってオランダ国王に返書を送り、かたくなに「開国」勧告を拒んでいる。その内容は、日本の「祖法」として「通信」の国を朝鮮と琉球、「通商」の国をオランダと「支那」(中国に対する蔑称)に限り、それ故に貴国(オランダ)と「通信」するのは「祖法」に反する、従って、今回正式な返書は送れないし、また今後このような国書を寄こさないで欲しい、というものであった。
 だが、ここでいう「祖法」なるものは、このとき初めて創られたもので、40年前、ロシア使節レザノフに与えた回答では、「通信」と「通商」の国の区別は存在していないのである。
 また、返事が大幅に遅れた理由は、一つには、「祖法」を大きく変えることの困難さと、もう一つは国内の政争によるものである。1843年閏9月、水野忠邦が老中を解任されて以降、わずか1年半の間に、老中首座が3回も交代している。水野忠邦から土井利位(としつら)へ交代したのに続き、1844年6月に再び水野忠邦が復活し、さらに1845年2月に阿部正弘が若干26歳で登用されている1)。激烈な権力抗争がめまぐるしく展開されている時期に、国政の大方向を決する政治判断に手がつけられなかったのである。

注1)阿部正弘は、1819(文政2)年10月16日に、備後福山10万石の藩主阿部対馬守正精(まさきよ)の6男として、江戸城西ノ丸下の官邸で生まれた。父正精が当時、老中であったからである。第6子でありながら阿部家を継ぐことになったのは、正精のあと藩主となった兄・対馬守正寧(まさやす)が、正弘18歳のとき、藩主の座を譲ったからである。正弘は1838(天保9)年9月1日、奏者番(そうじゃばん *将軍に大名・旗本が伺候する際の案内役・指南役)を命じられる(20歳)。2年後の1840(天保11)年5月19日には、寺社奉行見習いを、同年11月8日には、念願の寺社奉行に命じられる(22歳)。寺社奉行の任務は、各地の寺社の所領、僧尼神職の任免、祭祀にかんする事務を所管とし、寺社の訴訟を審理する。
 1842(天保13)年7月、前述のように「無二念打払令」が緩和されるが、その翌1843(天保14)年閏9月11日、正弘は一躍して老中に抜擢される。通常、寺社奉行から老中に列せられる間には、京都所司代や大坂城代を経ることが通例である。しかし正弘は、これを省いて老中になっている。正弘25歳の時である。それは、水野忠邦政権が行き詰まり、その後の政権の担い手を将軍家慶が考慮していたからである。家慶は、水野罷免の2日前に、正弘を老中に任命している。その後、老中首座は目まぐるしく代わり、水野忠邦―土井利位―再び水野忠邦をへて、正弘は1845(弘化2)年2月、老中首座となる。27歳の宰相である。

(4)日本への「開国」圧力の先頭を走るアメリカ
 南京条約が1842年8月に締結されると、アメリカとフランスもそのおこぼれにあずかり、アメリカは1844年7月に清との間に望厦条約を、フランスは清との間に黄埔条約を締結した。ゴロヴーニン事件(詳しくは拙稿『徳川幕府の北方政策』〔労働者共産党ホームページに所収〕を参照)以来、関心を弱めていたロシアも、1843年に海軍少将プチャーチンが、中国・日本への通商使節派遣を計画し、一旦は皇帝ニコライ1世の裁可を得る。だがこれは、外務省や大蔵省の反対で、結局延期とされる。
 アメリカでは清に続き日本にも「開国」の交渉を行なうべきだ、との声が高まる。
 そこでアメリカ政府は、1845(弘化2)年、望厦条約の批准書交換のために公使エヴェレットを派遣するに当り、日本との通商条約を締結する全権を与え、アメリカの東インド艦隊司令官ビッドルに公使の護送を命じた。だが、エヴェレットは病気にかかり、代わりにビッドルが日本との交渉にあたることとなった。
 1846(弘化3)年閏5月、ビッドル提督は2隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、通商を求める。しかし、老中の指令は、"新たに外国との通信(*信義を通じるという意)通商を行なうことは国禁であること、外交のことは長崎で取り扱うことを返事する"というものであった。   
 ビッドル提督は軍艦による示威行動もせずに、まもなく退去したようである。だが、ビッドルの行動に対しては、アメリカ国内では"態度が軟弱で、行動が緩慢であり、用意周到でなかった"との批判があがった。そして、一大艦隊を派遣して、日本を「開国」させるべきとの意見が起こり、そのための計画がすすめられた。
 この年・1846年6月には、フランスのインドシナ艦隊司令官セシュも長崎に来航し、薪水を求めることなどがあり、結局、この年に対馬海峡を通過した外国船は26隻にのぼった。1849年3月には、アメリカ軍艦「プレブル」号が長崎に来航し、抑留されている捕鯨船の乗組員(日本への漂着民)の引渡しを要求し、幕府に認めさせている。この年、対馬海峡を通過した外国船はさらに増え、148隻にのぼった。
 アメリカは、1846~48年にかけて、メキシコとの戦争に忙殺されていたが、1850(嘉永3)年6月、オランダ船が長崎に来航し、〝アメリカが日本と通商を開く意志のある〟ことを告げる。1852(嘉永5)年8月には、オランダ商館長クルチウスが〝明年アメリカ使節が来航し「開国」を要求する〟ことを、幕府に伝えた。

(5)阿部政権の衆議制ならびに雄藩との連携
 1845(弘化2)年2月、阿部正弘を老中首座とする阿部政権が発足する。しかし、阿部は水野忠邦政権が世間からも反発をかい批判にさらされたことを踏まえて、当初は人心が落ち着くのを待った。また、阿部政権は、当初、水野政権の基調を継承し、対外防備策には消極的であった。それは、阿部自身が水野に比べ、海外知識が浅かったことにも起因すると言われる。
 しかし、オランダ国王の「開国」勧告に返事をせざるを得ず、1年近く後の1845年6月、阿部政権によって勧告拒否の返書がなされた(前述)。だが、その後も外国艦船の渡来は避けがたく、この問題をネグレクトすることはできなかった。
 こうして1845(弘化2)年7月、幕府は海岸防禦事務取扱(海防掛)を設置する。海防掛(かいぼうがかり)そのものには、すでに1792(寛政4)年に老中松平定信が就任し、1842(天保13)年には、老中土井利位・真田幸貫が就任している。しかし、今回の海防掛は、常置の掛(かかり)である。この背景には、アヘン戦争後の東アジア情勢の下で、1844(弘化元)年3月に、琉球に「開国」・通商・布教を求めてフランス船が来航し、同年7月には、「開国」を勧告するオランダ国王の親書が長崎にもたらされ、対外関係があわただしくなってきたことなどがある。
 1845年7月1日、老中の阿部正弘・牧野忠雅が海防掛に任命される。新たに常置となった海防掛には、以前とは異なって、若年寄からも選任された。老中を補佐するためである。また同年8月には、勘定奉行・勘定吟味役の勘定方、大小目付などからも海防掛が選任された。幕府のなかに、初めて海防問題の処理を専門的に扱う掛(かかり)が常置されたのであり、以降、対外政策は海防掛を中心に遂行されることになる。
 しかし、それだけでは、幕府の専制政治の矛盾と揺らぎは解決しなかった。1846年2月、オランダ国王に返事をする前に、その内容を御三家だけであはるが、公開した。また、同年3月には、斉昭は阿部に対して、次のようなことを促した。

此上(このうえ)共(とも)夷狄の使(つかい)等来(きた)り申し候は計(はか)り難く候所(そうろうところ)兎角(とかく)衆評(しゅうひょう *多くの人の噂)御尋ね御三家は勿論(もちろん)の儀たとひ外様大名なり共(とも)有志の者へ御内々(*非公式に)了簡振(りょうけんぶり *考えの様)御かけにて有志の者皆(みな)相考(あいかんがえ)共に力を尽くし......(「新伊勢物語」)

 内外危機の時代に、とりわけ対外問題は一藩で解決しようもないのであって、外様大名の有志も含めて「皆相考共に力を尽く」すべきだと、促迫したのである。
 また、1846(弘化3)年8月には、「朝廷からから幕府に対し、『最近外国船がしきりに近海に出没する由(よし)であるが、よくはかりごとをめぐらし、神州の瑕瑾(かきん *きず)とならぬよう、部下を指揮し、天皇(*当時は孝明天皇)の心を安んじるように』との諭書が出された。朝廷が発言をおこなったのであり、これはきわめて異例のことである。このことがどのような経路を経て生まれたかははっきりしないが、斉昭の上層公卿への手入れ(*工作)によるものと考えて誤りなかろう。その後も朝廷から、さらに海防を厳重にせよとの意志も伝えられた。」(小西四郎著『日本の歴史』19開国と攘夷 中公文庫 1974年 P.28)と言われる。攘夷思想に駆られる徳川斉昭は、天皇をも使って幕閣政治に介入するのであった。
 1846(弘化3)年6月、阿部は事前に斉彬と相談した上で、琉球への外国艦船渡来事件を処理させるために、急きょ、斉彬を国元へ帰国させている(詳しくは後述)。雄藩との連携をとって、幕閣政治を運営しようとの阿部の考え方に基づくものである。
 また同年6月9日、阿部は三奉行、海防掛、西ノ丸留守居・筒井政憲の三者に対して、異国船の打払い令復古に関する諮問を行なう。その諮問内容は、①財政難の中で出費を抑えながら海防を強化する方法、②1825(文政8)年に出した異国船打払令の復活の可否、③異国船を接近させない方法など―である。(後藤敦史著『開国期徳川幕府の政治と外交』有志舎 2015年 P.65~66)
 この諮問に対して、筒井は、復古によって困難な事態の発生が予想されるとして、消極的な答申を行なっている。海防掛もまた、防備が不十分であるとして、反対した。
 以前から実は、異国船打払令の復活については、水戸の斉昭や宇和島藩主伊達宗城などから求められており、有志大名と密接な連携をもっていた阿部は、一つには、幕府内部の海防掛たちの反対意見を抑え、かつ打払令の復活を内外に宣伝し海防強化の実現と異国船の接近を阻止すること、もう一つは、有志大名の支持を得ることによって、自らの政権基盤をかためようという目論見があったのである。しかし、この問題は8月8日に「見合(みあわせ)」となった。
 1847(弘化4)年、幕府は相模・房総の湾岸の防備をなお一層強化する。江戸湾の防備は1842(天保13)年8月3日以来、相模湾岸を川越藩が、房総湾岸を忍藩が担っていた。1847年2月15日、幕府はさらに相模湾岸を彦根藩も、房総湾岸を会津藩も防備するようにした。
 しかし、この時、彦根藩は、"財政難に加え、自藩の専務が西国30余国の藩屏(はんぺい *守りとなるもの)と京都守衛にある"という理由で難色を示している。しかし、「外様大名抑制のための大名配置は、幕藩体制という内国統治を目的とした権力編制原理と相関関係をなすが、それを楯に彦根藩は幕府の処置を批判したのである。だが、いまや海防を重視する正弘は、内国統治のための伝統的な大名配置の原則に修正を加えた」(守屋嘉美著「阿部政権論」P.70)のである。
 この状況は、一つは彦根藩の悪しき保守主義を露呈させているだけでなく、もう一つは、阿部が「伝統的な大名配置の原則に修正」を加えざるを得ない程、幕藩体制の矛盾と歪みが生じてきていることを意味する。
 だが阿部は、1848(嘉永元)年5月にも、再び打払い令復古の問題を筒井政憲、海防掛などに諮問している。この時の答申では、「筒井が、打払令復古を原則的に支持しつつも、そのための手続きに関し十分な討議が必要であるとし、さしあたり、諸大名には復古の可能性を示唆して、沿岸防備の強化に専念させるべきであると主張した。海防掛の面々は前回同様復古に反対した。そして、同年十二月、幕府は復古の意志のあることを諸大名に告げ、防備の強化を訴えるにとどめた(『開国起源』下)。したがって、天保の薪水令は依然として継承されることになる。」(守屋嘉美著「阿部政権論」P.66)のであった。
 1849(嘉永2)年5月、阿部は三たび、打払令復活の諮問を行なう。今度は、三奉行、大目付・目付、海防掛、長崎奉行、浦賀奉行と、範囲を拡大して行なっている。しかし、今回も阿部の願い通りの答申ではなかった。ほとんどが、打払令の復活に否定的ないしは消極的なものであった。もはや、阿部は、異国船打払令の復活を断念せざるを得なくなったのである。
 沿海防備策を議論する中で、浦賀奉行・戸田氏栄(うじよし)と浅野長祚は、「惣(すべ)て台場の銃器は死物にて運転仕(つかまつ)らず、軍艦の砲器は活物にて運動仕り候故、戦艦に一倍相備(あいそなえ)申さず候ては対戦仕り難く候......」(嘉永2年12月「浦賀奉行見込申上候書付」―勝安房〔海舟〕著『陸軍歴史』上 原書房 1967年復刻 P.407)、「台場陸地の人数は其持場(そのもちば)を越え候て他え働き候事は相成らず、右故(みぎゆえ)船の御備(おんそなえ)海防第一の要具」(嘉永3〔1850〕年の「六月十日浦賀奉行見込書」―同前 P.423)と述べて、従来の海防政策の砲台中心主義から軍艦中心主義へ転換するように老中に具申している。
 阿部自身、すでに1846(弘化3)年7月、斉昭へ「......軍艦製造之(これ)無き候てハ実に永久守衛(えいきゅうしゅえい)〔*のために〕存分に戦争ハ相成るまじきと存じ候。之(これ)に依り海岸の内、浦賀・長崎・松前・薩州等へハ堅牢の船製造御免(ごめん)に相成り、公義(公儀)御船も製造仰せ付けられ、夫(それ)より様子に寄り外々(ほかほか)へも製造仰せ出でされ然るべきと評議致し、当時取調中に御座候」(『水戸藩史料』別記下 P.601~602)と伝えている。
 だが、軍艦製造の問題は、徳川幕府が1630年代に打ち出した海禁政策と対をなす問題であり、実際、大船の製造は従来禁止されてきた。この問題もまた、体制問題に直結する問題であった。さらにまた、勘定所の吏僚たちは薩摩藩が大船・軍艦をもって密貿易を増大させる恐れもあって、消極的態度をとった。(薩摩藩の密貿易については、拙稿『薩摩藩の借金累積と琉球・道之島収奪』〔労働者共産党ホームページに所収〕を参照)
 しかし、海防の観点から有志の諸藩(斉昭・斉彬・宗城など)は、大船製造の海禁を求めた。結局、阿部は1852(嘉永5)年12月になって、琉球との往来に限って大船の建造を許可した。全面的な海禁は、ペリー来航直後の1853(嘉永6)年9月15日である。
 海防構想をめぐる議論の中では、筒井政憲の次のような意見(嘉永元〔1848〕年8月)もある。

万一只今(ただいま)ニも軍艦の一艘も仕出し蝦夷地ニ限らず御国地沿海〔の〕国々乗り廻り折々(おりおり)大砲など打懸け劫(おびやか)し候ハハ(はば)、実に沿海の諸侯の難儀(なんぎ)物入(ものいり)いか計(ばかり)之(これ)有るべし、左候得ハ(さそうらえば)身上(しんじょう)忽(たちま)ち不如意(ふにょい *家計が苦しいこと)ニ相成り、武備の用意も差支(さしつか)え候て是非無(な)く百姓町人の金銀を惜(「借」カ?)入れ候歟(か)或(あるい)ハ無体(むたい *無法)の年貢取立て課役運上等申し付け候様(そうろうよう)相成り候ハハ(そうろはば)、下々難儀に及び在町共(ども)領主を恨(うら)み候様相成り候ハハ、実ニ内乱も生ずべし......(勝海舟著『陸軍歴史』上 P.394~395)

 異国船が移動し、日本沿海を乗り回して大砲を打ちかけ脅かしたならば、沿海の諸大名の財政を疲弊させ、それが原因で、農民町人に借金するか、あるいは過重な農民への年貢・夫役、町人への運上となり、民衆は領主を恨み、ついには内乱も生じるだろう―と筒井は危惧した。つまり、体制維持のための海防が逆にめぐりめぐって幕藩制社会を覆す内乱に至ってしまうというのである。
 大村藩とともに長崎警備を命じられてきた福岡藩主・黒田斉溥もまた、1850(嘉永3)年秋に類似の意見を述べている。
 黒田は、宇和島藩主伊達宗城への書簡で、「......先月十一日、大風雨洪水破損も之(これ)有り候処(そうろうところ)、去(さる)七日大風大雨破損多(おおし)、其上(そのうえ)出水ハ十一日より強所(つよきところ)多く、風は城下(*筑前福岡)近辺は、十一日より此度(このたび)別(べっし)て手強(てごわ)之(これ)有り候、右両度の風雨にて、田方損毛(そんもう)多分ニ相成(あいなり)、其上(そのうえ)只今(ただいま)花盛りの時節大風、且又(かつまた)出水等にて、如何の作並(さくなみ)に相成るべく哉(や)、当惑(とうわく)至極(しごく)御座候(ござそうろう)、万一に皆(みな)無体ニも至るべき哉、心配仕(つかまつ)り居り候、昨年も不作、当春(*2月5日)上屋敷(*江戸霞関藩邸)類焼、又々(またまた)此度(このたび)の損毛必至と当惑仕り候、右ニ付(つき)侍屋敷も大方破損(はそん)之(これ)有り、士民共(とも)難渋仕り居り申し候、......天災とハ申しながら、如何の儀と存ぜらるべく候ニ付(つき)、右の節ハかくのごとき内味の都合、一国中人気ニも相拘(かかわ)り、参府御断(おことわり)申上げ候て、国中世話いたし候旨(そうろうむね)申し聞かずしてハ、人気治り申さず、人気治り申さずしてハ、重き長崎御用も勤め難く候間、致し方なく御断申上げ候......」(『島津斉彬文書』中巻 8月10日書翰 P.29)といって、幕閣の了解をえるべく、伊達宗城に懇請依頼している。
 そして、8月24日付けの同様の伊達宛ての書翰でも繰り返されて依頼している。その書翰の追伸では、「城下より程遠(ほどとおく)の場所ニ候、先日より米(こめ)払底(ふってい)ニ而(にて)、既ニ米屋を打砕(うちくだ)き勢(いきほひ)ニ御座(ござ)候」(同前 P.33)と民衆の打ちこわしの危機を述べて、重ねて参府御断りの件を幕閣に了解をとってほしいと懇請している。
 兵農分離制(日本独特の制度で、ヨーロッパ封建制には存在しない)の下で、二年に一度江戸に参勤することは、徳川幕藩制の一つの体制的支柱である。しかし、黒田斉溥は天災を理由に「参府御断」の仲介を伊達宗城に依頼しているのである。その「参府御断」の理由が天災の処置をしなければ藩を治めることが出来ず、藩を治めることが出来なければ
長崎警備も勤め難い―ということである。しかも、藩内では米が払底しており、民衆が米屋の打ちこわしにまで行く勢いだと斉溥(なりひろ)は主張する。ここでもまた、徳川幕藩体制の存立にかかわるほどの矛盾に逢着しているのである。
 
(6)琉球に対する利用主義
 19世紀に入ると、西洋諸国の「開国」・通商要求は、琉球王朝に対してもしばしば行なわれるようになる。「琉球に外国船が姿を現わしたのは享和三年(一八〇三)で、その後天保三年(一八三二)、同八年(一八三七)、アメリカ、イギリスの船が来て通商を求め、文政七年(一八二四)にはイギリス船(*捕鯨船)が近くの宝島に来て、上陸して食を求め、島人を脅かして牛馬を奪った。藩吏(*薩摩藩士)が怒って銃撃してひとりを斃(たお)し、他は逃げるという事件が起きていた。」(土居良三著『開国への布石 評伝・老中首座阿部正弘』未来社 2000年 P.79)のである。
 1824年の「宝島事件」は、翌年2月、水野忠成(ただあきら)政権よって、「異国船無二念打払令」が発布される大きな要因となった。この「無二念打払令」は、これまでの「撫恤(ぶじゅつ)令」1)を止(や)めて、日本に近づく外国船を見つけ次第ただちに打払うべきことを命ずるものであった。
 水野忠邦が老中を追われ2)、土井利位が老中首座にあった1844(天保15 *「弘化」への改元は12月2日から)年3月、突如、フランスの軍艦1隻(アルクメール号)が琉球の運天港(今帰仁〔なきじん〕)に来航し、通信(国交)、交易、キリスト教の布教を要求する事件がもちあがった。
 琉球王朝は、もともと明の時代から中国の冊封を受けていた。しかし、1609(慶長14)年2月、島津家久らが琉球に出兵し、4月には首里を攻略し、5月には琉球王を捕える。同年7月、幕府も島津氏の琉球支配を認め、島津氏の所管とした。これにより、琉球は表向き中国の従属下にあるが、実質上は薩摩藩の支配下に組み込まれることになった(琉球の両属)。幕府もまた、中国との交易(情報の確保も含め)を(長崎だけでなく)、薩摩―琉球のルートを通しても強化しようと、島津氏の琉球支配を容認した。
 フランスの要求に対して、琉球政府は、(島津氏に相談し、その指揮の下で)"国土が狭く対外貿易を行なう余地はない"と言って、通商条約の締結を拒否した。このときはフランス軍艦は、フランス人宣教師フォルカートと清国人伝道師(通訳)を残留させただけで退去した。しかし、琉球政府もまた、彼らを強制的に追い返すだけの力もなかった。
 翌年の1845(弘化2)年5月、今度はイギリスの測量船サマラング号が那覇港に出現した。サマラング号は、広東―呂宋(ルソン)―八重山列島を経て来航したもので、前年のフランス軍艦の様子を探りながら、3日間滞留し、その後、7月には長崎伊王島で薪水・食料を得て立ち去った。そして、再び琉球に来航し、在留の神父フォルカートと通訳の清国人と面会し、話し合っている。
 その翌年1846(弘化3)年4月5日にも、イギリス船が来航し、医師で伝道師のベッテルハイムが布教の目的で、家族・通訳ら4人とともに上陸した。4月6日には、フランス軍艦サビーヌ号も来航している。
 そして、同年5月13日、今度はフランス・インドシナ艦隊司令長官セシーュ少将が率いる軍艦クレオパトル、ヴィクトリューズの2隻が運天に現われ、琉球政府に通信と貿易を求めた。
 琉球政府は、今回もその要求を拒否するとともに、前回と同様に外国船の再来を薩摩藩に急報している。
 薩摩藩から情報を受けた阿部正弘ら幕閣は、近年、外国船がしばしば近海に出没する事態に当り、弘化3年閏5月22日に、寺社奉行・町奉行・勘定奉行・大目付・目付および林大学頭に外船防御の方法を議論させた。当時、外国船が頻繁に来航する情勢がようやく世間に知られるようになってきて、「鎖国・攘夷」が至難なことであることを自覚する者も出始めているが、やはりまだ「外船撃攘」の説を唱える者が多かった。
 「鎖国・攘夷」が至難であることを知る者の一人である御用掛・筒井正憲は、老中首座・阿部正弘の意を受けて、薩摩藩と折衝に活躍する。この折衝の中で、閏5月25日、薩摩藩の家老・調所(ずしょ)広郷(ひろさと)は、琉球にフランスとの通商を許すべきだとして阿部に進言している。

頃年(けいねん)外船琉球に至り、開交(*通信すなわち国交のこと)通商(*貿易)布教を求めて止(や)まず、若し其(その)強要する所を拒(こば)むに於ては不測の禍(わざわい)を生ぜんとす。先年派遣の警備兵七百余人(実は百五十余人なり)、目下六百余人(実は百余人なり)に過ぎず、固(もと)より我より事端(じたん *争いの始め)を開かず。仏人等(ら)我に加うるに非理(ひり *道にはずれたこと)を以てするも、決して抗戦せざるの決心なり。海外貿易は国禁なりと雖(いえど)も、今や之(これ)を拒絶し難(がた)きの勢に迫(せま)れり、宜(よろ)しく琉球かぎり交易を許し、以て内地に侵入するを止(とど)むべきなり。
(土居良三著『開国への布石』P.80~81からの重引)

 調所の主張は、"あくまでも問題を平和的に解決し、琉球・フランス間の貿易を国禁をおかしてでも許してほしい、その後のことは薩摩藩が引き受け、幕府には迷惑をかけない"というものである。派遣兵士の実数は、報告の数字よりもはるかに少なく、括弧内の数字が正しい。これは、多くの兵力を表に出すことで、フランス側を刺激することを恐れたのである。
 薩摩藩の天保改革の立役者であり、老練な政治家である調所笑左衛門広郷(拙稿『薩摩藩の借金累積と琉球・道之島収奪』を参照。労働者共産党のホームページに掲載)が主張するこの方針は、独断であるはずがなく、藩主斉興や世子(せいし *世継ぎ)斉彬と打ち合わせた上でのものであることは間違いあるまい。
 斉彬もまた、筒井との会談で、"琉球は日清両属の国であるから、日本だけの利害で和戦(対フランス)を決することは出来ない。フランスがあらかじめ清国の許可を得て通商を求めてくれば、琉球は拒むことができない"と主張する。そして、「因って琉球を日本域外に置き、通交貿易の二事は琉球王限りに処せんことを黙許するを以て日本の良策とす。但し布教は暫(しばら)く之(これ)を拒絶するを可とすべし。」(土居良三著『開国の布石』P.82)と述べる。
 これらを踏まえ、阿部正弘は閏5月27日、薩摩藩主・島津斉興に対し、"世子斉彬を薩摩に遣わし、臨機に外船に関する指揮をとらせよ"と命じた。そして、「翌六月一日、斉興父子登城、阿部ひとり待座の場で、将軍家慶は『琉球の事は総(すべ)て卿(*斉興を指す)に委任す、宜しく卿の意の如く寛猛(かんもう)変に応じて処置すべし、患(うれひ)を後日に貽(のこ)し、国威を墜(くず)うことあるべからず』と、因って名馬一頭を賜った。」(同前 P.82)のである。
 将軍の命を受けて、島津斉彬は6月に帰藩する。10月には、薩摩藩の琉球在番奉行が、琉球の摂政・三司官を招き、フランスの通商要求に対しやむを得なければ容(い)れてもよい旨を内示するのであった。
 結局、阿部ら幕閣は、薩摩藩の進言をいれながら、日本の海禁政策(いわゆる「鎖国」)を堅持するために、琉球を防波堤にするという明白な琉球利用主義をもって、その場しのぎの対応をするのであった。だが、斉彬ら薩摩藩は、この事態を逆に利用して、琉球あるいは広東などをフランスなど西洋諸国との交易場とし、薩摩藩の海外交易を発展させようとの計画を図ったのである。いずれにしても、幕府も、薩摩藩も、琉球をこのように利用する姿勢(捨て石であれ、踏み台であれ)が、後世の太平洋戦争でも、また今日の米軍基地設置においても継続されているのである。
 琉球問題に対する幕閣―薩摩藩の連携した、秘密裏の処置について、その直後に知った斉昭は、皇国主義・日本主義の立場から次のように批判している。

大隅(*島津斉興)よりの御届けの書にて察し申し候(そうら)えば、最早(もはや)琉球は仏人(*フランス人)へ下され同様に御座(ござ)候(そうろう)。強き国へは交易通信を以て取入(とりい)り候(そうろう)上(うえ)、戦争を始め奪い取りて直ちに人をかえ天主(*キリスト教)を弘(ひろ)め、弱き国をば直ちに兵威を以て一時に奪い候上にて天主教を弘め候義は、去る戍年の上書(*1838年の「戊戌封事」)中へも認め上げ申し候(そうら)いき。右の如くに候ゆえ来年は琉球は残らず奪われ候義、只今より下官(*斉昭を指す)見抜き申し候て、印を押し申すべく程(ほど)に存じられ候。扨(さ)て又(また)琉球未だ奪われざる先より浦賀等へも来り、日本を奪い申すべく下組(したぐみ *用意、計画)致し候上は、琉球手に入り候えば蝦夷地を手に入れ、南北より攻入り候上に、浦賀より脇腹をつかれ申し候義(そうろうぎ)是(これ)亦(また)相違あるまじく、其の他(そノた)島々は手ぐり(*順々に手渡しで)次第奪われ申すべく候。(阿部正弘宛て弘化3年7月28日付け書簡 土居良三著『開国への布石』からの重引 P.104)

 斉昭の危機感は一方ならないものがある。しかし、斉彬は斉昭と異なり、「開国」し時間稼ぎをしながら「富国強兵」・「殖産興業」などの改革をすすめ、ジャカルタ方面への侵略を狙っているのである。
 この2人に加え、松平慶永・伊達宗城などは、密接に情報交換をしながら、やがて一橋慶喜を次期将軍に擁立する運動をすすめる。だが、そこには擁立派内部に攘夷派と開国派の大きな路線上の対立を抱えたままの将軍擁立運動なのであった。

注1)「寛政三年令」(1791年9月1日)よりも以前の異国船取締法令は、密売の唐船を念頭にして、沖合での売買ができないように取締り、異国船の上陸は認めず飢えない程度の食料・水・薪を与えて退去させるというものであった。だが18世紀末頃、外国船が頻繁に日本近海に出没するようになったので、「寛政三年令」では、外国船が見分を「若し拒み候(そうろう)趣(おもむき)ニ候間、船をも人をも打ち砕き、貪着(とんちゃく)無き筋〔*配慮すべきほどの相手ではない〕ニ候間、彼船え乗り移り、迅速ニ相働き、切捨て等にもいたし候は、召捕り候儀も尤(もっと)も相成るべく候、勿論(もちろん)大筒・火矢など用い候も勝手次第の事ニ候......」(『御触書天保集成』下 岩波書店 1940年)と、強硬策に転換している。そして、寛政9(1797)年の「閏7月令」では、この「寛政三年令」をさらに徹底するように命じられた。これはイギリスのブロートンが指揮する測量艦が蝦夷地・日本・琉球の周辺を測量したことへの対処であった。
 だが、同年の「12月令」では、今度は一転して、「閏7月令」よりも慎重な対応をするように変化する。それは情勢が一段と厳しくなり、軽率な対応が偶発的な軍事衝突に至るのを事前に防止しようというものである。文化3(1806)年になると、「撫恤(ぶじゅつ)令」が出され、外国の難破船には薪水を与え、穏やかに退去させるようにした。しかし、ロシアとの関係が緊張すると1807(文化4)年、ロシア船は発見次第ただちに撃攘(げきじょう)するように命じられた。それが、1825年2月に、本文にあるように「異国船無二念打払令」が出される事態となる。この「無二念打払令」が廃止され、旧来の撫恤令が復活するのは1842(天保13)年の「天保の薪水給与令」である。
 2)1839(天保10)年12月、老中首座になった水野忠邦は、天保の改革の失敗、特に上知令で四面楚歌となり、1843(天保14)年閏9月、失脚する。しかし、1844(天保天保15)年6月、再び老中首座に返り咲く。しかし、それは短期に終わり、1845(弘化2)年9月、致仕・蟄居を命ぜられ、2万石の減封となる。

(7)日本「開国」のためのペリーの戦術
 1840年代、アメリカの捕鯨船員の日本への漂着がつづき、この送還をめぐって、アメリカ国内では日本の取扱いに対する苦情(誤解もふくめ)が出始める。1850年、アメリカの議会両院はこの問題を契機に、行政府に日本に関する報告を求め、行政府は日本への使節派遣を検討し始める。
 当時、大統領はフィルモアで、国務長官はウェヴスター、海軍長官はグレイアムであった。蒸気郵船総監督には、前政権に続いてペリーが就任していた。日本への使節派遣に関するリーダーシップは、海軍長官グレイアムがとり、ペリーに計画の立案を依頼した。
 1851年1月、ペリーが作った素案の骨子は、「計画は秘密裏に行われるべきこと、目的は捕鯨船のための開港であること、訪問地点は日本側の術策を無効にするため長崎を避けて蝦夷地の松前か函(箱)館とすること、突然出現して力を誇示し、本土との交通を遮断して現地人を味方につけ、日本政府を交渉の場に引きずり出すこと、要求の根拠としては世界において少数派は多数に譲るべきであるという原則を掲げ、外国人船員への不当な扱い、さらにモリソン号への不当な砲撃(*1837年6月、同号が浦賀に入港し砲撃を受けた事件)も問題とすること、派遣隊は外交官を排除し、海軍を主体とすること、一旦開港させれば後から貿易と外交が始まるはずで、外交官に仕事を任せるのはその段階からにすること」(三谷博著『ペリー来航』吉川弘文館 2003年 P.88~89)というものである。
 いかにも軍人らしく、極めて戦術に軸を置いた方針である。また、軍事力行使に重点を置いた外交交渉となっている。ただ、その「外交」の限界も心得ており、外交官にバトンタッチすることも自覚している。 
 国務長官ウェヴスターは、グレイアムやペリーの働きかけもあって、日本への使節派遣を決意し、1851年5月末、東インド艦隊司令官オーリックに白羽の矢をたてた。しかし、オーリックは悪質なゴシップの標的とされ、中国に着いて間もなくの11月8日に解任された。オーリックに代わって指名されたのが、ペリーであった。
 ペリーは1852(嘉永5)年3月に日本・中国などに向かう予定であったが、出航は大幅に遅れ11月となった。
 この秋にペリーが国務長官代理から受け取った訓令は、次のようなものである。
一、 この島々で難破したり、天候のため入港を余儀なくされたアメリカの船員と財産を保
 護するため、何らかの恒久的取り決めを結ぶこと。
二、 アメリカの船が、食糧・水・薪(たきぎ)その他の供給を受け、また災害にあった際
 に航行を全うできるよう修理するため、一つないしそれ以上の港に入港する許可を得る
 こと。
三、 我々の船が、積み荷を売買または物々交換によって処分するために、一つないしそれ
 以上の港に入港する許可を得ること。(三谷前掲書 P.92)
 アメリカは、日本との通商を勝ち取るために、まず、漂流民保護、食糧・薪水などのための開港を突破口とする方針をとったのである。 
                    
Ⅱ ペリー来航で「開国」をめぐる幕府内の対立

 1853(嘉永6)年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航した。当初目指した松前か箱館ではなく、直接、将軍の目の前の江戸湾を目指したのである。これには、幕閣も不意を突かれた形となった。
 翌4日には、浦賀沖で水深測量をはじめる。1日置いた6日には、軍艦4隻のうちの1隻・ミシシッピー号が、江戸湾の品川沖にまで侵入し、そこで水深を測ったりした。これらはもちろん、当時の西洋流の国際法に照らしても違反行為である。品川沖では、空砲ではあるが砲撃を行ない、国書を受けとろうとしない幕府を威嚇した。文字通りの砲艦外交である。
 ペリー来航時の幕府政権は、阿部正弘を老中首座とする政権である。阿部政権は、浦賀奉行からの第一報を受けて、6月4日、「御国体失わざる様(ように)相心得(あいこころえ)、なるべく丈ヶ(だけ)穏便に出帆候様致すべく候事」を浦賀奉行に委任した。穏便第一である。

 (1)アメリカ国書の受取りをめぐる論争
 1853(嘉永6)年6月5日、阿部政権はアメリカ国書を受理すべきか否か―について、本格的な評議を開始した。原案は、浦賀奉行戸田氏栄(うじよし)が老中にたてた伺い(6月4日付け)であり、それはペリーがもたらした「右書翰(*米大統領の国書)受取り候て然るべき哉(や)、此段(このだん)伺い候」と述べ、ペリー艦隊の様子が、国書を受理しないと「即刻異変に罷り(まかり)なり申すべき哉(や)と心配仕(つかまつ)り候......」(『幕末外国関係文書』の一 21号 P.141)と伝えている。
 この日の評議に参加したのは、①海防掛の大小目付・勘定奉行・勘定吟味役、②三奉行(寺社奉行・町奉行・海防掛以外の勘定奉行),③海防掛以外の大小目付である。(なお、将軍家臣の旗本・御家人を監督するのが若年寄であるが、目付はその配下にあって、江戸城内外の査察、非常時の差配、殿中礼法の指揮、評定所立会などの職務を努めた。)
 各グループの意見は、以下の通りである。
 ①海防掛―世界の形勢は大きく変わっており、また海防不十分でもあるから、国書交付の要求を断り、戦端を開くのは、軽挙である。臨時の計らいとして浦賀で受領すべきである。
 ②三奉行―原則としては長崎への回航を何度でも指示し、それに従がわない場合は打払うほかはないが、防備が不十分で、米側の気勢が厳しい様子なので、今回に限り浦賀で国書を受取り、回答は長崎で与える。
 ③大小目付―国法に従い、あくまでも長崎への回航を命じ、聴かなければ打払うべきである。
 ③の意見は攘夷論に相当するが、他は、「穏便第一」で、浦賀での受領を述べている。
 幕府内の評議は、上記のように「衆議区々ニて相決まり難く」であったが、「阿片煙騒乱の先蹤(せんしょう *先例)」なども踏まえ、「若し外寇を引受け候に至り候而(て)ハ、海岸の武備不完実、不容意御国難ニ付(つき)、先(まず)一時の権策に、書翰ハ浦賀表(おもて)於て」(同前 P.142)受け取るという方針がまとまったのである。
 ペリーがミシシッピ号を江戸湾内に入れ、将軍のおひざ元で大々的なデモンストレーションを行なう勢いを示すことにより、老中たちは「一時の権策」(方便)として受取を決定するのであった。
 こうして、6月6日、次のような老中の「覚」が、浦賀奉行・井戸石見守弘道らへ渡された。

         覚
書翰請取(うけと)り候様致さるべき候、尤(もっとも)取計(とりはからい)方等の儀は、委細口達(こうたつ *口で伝えること)の通り相心得(あいこころえ)、両人申し合せ、得と(とくと)熟慮いたし、/御国体をも失わず、後患これ無き様(よう)、取計らるべき事、(「幕末外国関係文書」の一 21号 P.143)

 この後の6月9日に、アメリカ大統領フィルモアの国書は久里浜で受領された1)。ペリーがもたらした米大統領フィルモアの徳川将軍宛て書簡には、「余が強力なる艦隊をもってペリー提督を派遣し、陛下の有名なる江戸市を訪問せしめたる唯一の目的は次の如し。即ち友好・通商、石炭と食糧との供給および吾が難破民の保護これなり」と記されていた。
 ペリーは、国書に対する幕府の返事には時間がかかることが分かっていたので、国書の回答を得るために来春4~5月に再び来航することを告げて、6月12日、琉球へ退去した。ペリーは、日本が開港を拒否した場合は、琉球を領有する方針をもっていたのである。その際の大義は、琉球を「日本の圧制から解放する」というものである。この時は、琉球王府を威嚇して、貯炭所を設置する権利を獲得している。

注1)幕府は、京都所司代から朝廷の武家伝奏(幕府との連絡窓口)を通じて6月15日に米船の浦賀渡来を通達し、7月13日には米国国書を受取ったことを通達した。そこでは、「此度(このたび)亜墨利加(あめりか)船持参の書簡、浦賀表において請け取り候儀は、全ク一時の権道(ごんどう *方便)ニ之(これ)有り候間、此段(このだん)心得(こころえ)迄(まで)ニ年寄共(ども)ヨリ申し越し候事、」(「幕末外国関係文書」の一 P.529)と言い訳している。
 
 (2)阿部が派遣した筒井・川路の海防参与・斉昭との折衝
 ペリーが去った後の1853年6月14日、先に最強硬論を唱えた三名の目付(戸川安鎮・鵜殿長鋭・大久保信弘)が、水戸の前藩主徳川斉昭を「海防参与」に起用すべきとの提案を行なった。(斉昭の登用は一部の反対があったが、将軍家慶の病死を経て、7月3日に正式に決定した。)1)
 同じ日の夕刻、阿部正弘は西丸留守居(るすい)筒井正憲と海防掛の勘定奉行川路聖謨(としあきら)を徳川斉昭の下に遣わし、ペリー再来時の対策案について、打診している。当時、すでに攘夷論者の旗頭となっている斉昭の諒解を取り付けようとしているのである。(『新伊勢物語』P.256~257)
 この会談では、まず筒井と川路が、アメリカに対する「限定交易論」を提起する。有司の間ではいろいろな意見があるが、つまるところ、「公辺(こうへん *公儀のこと)初(はじめ)諸大名備向(そなえむき *軍備)手薄く、且(かつ)二〇〇余年の太平にて武(ぶ)衰(おとろ)へ、亜墨利加(アメリカ)は万国に勝れたる強国にて蘭人(オランダ人)抔(など)も恐れ居(おり)候程(そうろうほど)の義」であるから、「なまじゐ打払(うちはらい)候て負(まけ)候へば御国体を汚(けが)し、容易ならず候へば」、戦争は避けなければならない。したがって、「蘭人へ遣わされ候品を半分わけて交易御済(すま)せ然(しか)るべし」、つまりオランダへの(許可している)輸出量の半分を墨米利加に許可する、というのである。
 これに対して、斉昭は、①一旦、交易を許せば先方はもっと要求を強めて来るであろう。②オランダへの輸出量を半分にすればオランダ人が支障となり、アメリカ人も不満をもつだろう。③たとえ長崎で交易をはじめても要求が増大し、江戸に来るようになり、ついには戦争となるであろう―と、反論する。
 そこで、二人は、第二案を示す。それは、「御備(そなえ)さへ御手厚く候へバ心丈夫に候へ共如何(いか)にも御手薄故(ゆえ)俗に申す、ぶらかすと云(いう)如く、五年も十年も願書(ねがいがき)を済(すま)せるともなく断(こと)わるともなくいたし(致し)、其中(そのうち)此方(このほう)手当(てあて *用意、準備)此度(このたび)こそ厳重に致し、其上(そのうえ)にて御断(ことわり)に相成(あいなり)然るべし」(『水戸藩史料 上編乾』P.20)というものである。決定的な回答をのらりくらりとして引き延ばし(ぶらかし政策)、時間稼ぎをして武備を整え、その上で交易を拒否するというものである。
 これに対し、斉昭は「......詰(つま)る所、我(わが)答ハ当節御手薄に付(つき)御備御手厚に相成り候迄(まで)ぶらかし候義しかと御見留(みとどめ)これ有りて、出来(でき)候義に候ハバその儀存意これ無し、異船来(きた)り候へバ大騒(おおさわぎ)致し、帰り候へバ御備向(そなえむき)忘れ候事さへこれ無く候ハバ、ぶらかすも時にとりての御計策に候へバ已(や)む無く候共、少々たり共交易御済(すま)せの義ハ祖宗の御厳禁故(ゆえ)、拙者へ御相談にては宜敷(よろしき)とハ申上げざる由(よし)申す」(同前 P.20~21)と、答えている。斉昭は、「ぶらかす」のも時の「計策」としては「已む無く」と了承している。しかし、少しでも交易を認めたならば、それは祖宗いらいの厳禁であるため「宜しい」とは言えない、と答えているのである。

注1)島津斉彬は、老中からの諮詢に応えた7月の上書の最後の部分で、次のように言っている。「将に又(また)海防御手当(*処置)仰せ出だされ候上は、頭立(かしらだち)一身に引受け致し総裁候者(もの)御座無(ござなく)く候ては行届(ゆくとど)く間敷(まじき)事ニ而(て)、人心第一ニ御座候間、御連枝(*将軍家の兄弟)方の内御一人諸(もろもろ)指揮仰せ出でられたく、右仰せ付けられ候御人躰(にんてい *人柄)の儀(ぎ)迄(まで)申し上げ候は、重畳(ちょうじょう *幾重にも重なること)恐れ入り候得共(そうらえども)、当年御年配と申し人望と申し、異国の事情も委細に御会得(えとく)被為在(あらせられ)候は、水戸中納言殿の外(ほか)被為在(あらせられ)間敷(まじく)と存じ奉り候間、海防の儀御委任仰せ出だされ候様、怖れながら念願奉り候、......」(「幕末外交関係文書」の一 P.637~638)と。斉彬・慶永・宗城・斉昭などと阿部との連携の中で、斉昭と水戸藩主慶篤の海防参与が決定されていったのである。

 (3)幕府有司から登場した限定的通商論
 1853(嘉永6)年6月22日、第12代将軍家慶が死去する。このような事態の下で、幕府首脳は同月23日、外国使節への対応策について、正式な評議を開始した。この結果、ペリーに通告した通り、長崎のオランダ商館長を通じて回答を送るとし、他方、内容的には回答延引策(「ぶらかす」策)をとる、とした。回答延引には、将軍の死去・代替わりの大礼・この際での「祖法」の変更はできないことなどを口実とした。この口実は、斉昭の発案とも言われる。
 また幕府首脳は、アメリカ国書とペリーの書簡を布衣(ほい *六位以下の武士)以上の有司(官吏)とすべての大名に明らかにし、6月26日、同月27日、7月1日に、各々の意見を求めた。
 たとえば、6月26日の老中の「達(たっし)」は、評定所一座1)に対し次のような訳を以て諮詢(しじゅん *参考意見を求めること)している。

今度浦賀表え渡来の亜墨利加(アメリカ)船より差し出し候書翰(しょかん)和解(わげ *和訳)写し二冊相渡し候、此度(このたび)の儀は、実に国家の一大事ニ之(これ)有り、通商御許容ニ相成り候得は(そうらえバ)、御国法相立ち申さず、却(かえっ)て後患も少なからず、御許容無きの節は、防禦の手当上下一同格別厳重ニ行届(ゆきとど)からざり候ては、御安心の場合ニは至り難(がた)く候間、右の書翰の趣(おもむき)得と(とくト)熟覧を遂(と)げ、彼方(*アメリカ)の術中ニ落ち入らざる様、一躰(いったい *一体)の利害得失(りがいとくしつ)後来の所迄(ところまで)も、銘々深く思慮を尽くし、如何(いか)様(よう)の御所置(*処置)ニ而(て)、其(その)図に当り申すべき哉(や)、仮令(たとひ)忌諱(きい *忌み嫌うこと)ニ触れ候筋(すじ)ニ而も苦しからず候間、聊(いささか)心底を残らず遺策(いさく *ておち)之(これ)無き様、十分に評議致し申し聞かるべく候事、  (「幕末外交関係文書」の一 247号 P.414)
 
 アメリカ船の浦賀来航を「実に国家の一大事」とし、江戸湾深く侵入しようとするぺリー艦隊に危機感を現わし、通商を許容する場合にも、しないにも場合にも、いずれの場合も難問を抱える中で、諸官吏の腹蔵ない意見を、たとえ忌諱に触れるような意見でも構わないから述べよ―と、なりふり構わず命じている。
 ペリー再航に備えた幕府首脳の諮問に答えて、公儀中枢の有司たちは、7月下旬から8月にかけて、答申を提出した。その主な答申は、以下の通りである。
 海防掛の中では、意見が分かれた。勘定方は限定交易論をとったが、大小目付は明春には国務多端を理由に回答を与えず、海防整備を急いで出来るだけ早く手切れに及ぶべきだ、というものである。
 海防掛以外の三奉行は、来春までには内海の防備は整わないとみて、国威を失わないようにしながら、「穏便」を主とするものである。具体的には、漂流民の保護は行なうが、交易・開港・和親はできない―とした。武備充実までの引き延ばし策としては、"アメリカが他の西洋諸国に対して、米の日本との独占的交易権を承認させ"、それをオランダを通じて長崎に報告すれば、交易に応じようというものである。だが、それは西洋諸国の連携を全く知らず、「最恵国待遇」に無知な方策であった。
 海防掛以外の大小目付は、要求拒否を建前としながら、穏やかに交渉し、国内事情を述べて回答をしばらく待つように諭すべきとした。
 外交の最前線にいる浦賀奉行の戸田氏栄(うじよし)は、この機会に、通商の域をこえて通信まで実現すべきとし、海防強化と積極的な開国を同時に始めようとした。
 他方、武官では、書院番頭一同は、通信通商の拒否を主張しつつ、武備のために1~2年の時間稼ぎのために、オランダを通じて回答延期を通告す、というものである。武官の一部には、要求を拒絶し、承服しなければ打払えと主張する者もいた。
 全体的にみれば、武備不十分なため、来春の回答を延期する、戦争を避ける、というものだったようである。

注1)評定所とは、老中の諮問機関であるとともに、幕府の最高の司法機関である。ここにおいて、寺社奉行・町奉行・勘定奉行が合議して職務を勤めた時の呼称が、「評定所一座」である。

(4)「開国」要求に対する諸大名の態度
 当時すでに世間では、アヘン戦争で清朝が破れたことが広く知られるようになっており、未曾有の社会的動揺の下で、幕府の下僚や知識人・町人までが老中の公募に応じて、建白を献じたと言われる。
 意見書は800通近く提出されたが、その内で大名の意見書は約250通程(ほど)あり、大多数の大名が提出したのであった。小野正雄著「大名のアヘン戦争認識」(岩波講座『日本通史』第15巻近世5)によると、一部では各藩の家臣の意見も踏まえて報告された大名意見は(A)「通商拒否論」、(B)「戦争回避論」、(C)「通商許容論」に分けることができる。
 小野氏によると、各論の内容は以下のようになる。
(A)―「(1)通商の許容は国益に反し有害である。(2)清はイギリスに通商を許したために戦争を招き、国家主権を侵された。(3)したがって日本はアメリカの要求を最初から拒絶すべきであり、そのために戦争になっても止むを得ない。」(P.301)
 この主張の代表的なものは、長州藩主毛利慶親(よしちか)、土佐藩主山内豊信(とよしげ)、桑名藩主松平定猷(さだみち)などである。
(B)―「(1)通商を開くのは望ましくないが、拒絶すれば戦争となる。(2)日本の軍備の現状では外国に勝てない。(3)したがって、確答をしないで時を稼ぐ、あるいは一時的に通商を行うなどの措置をとり、軍備が整った段階で打払いを実施して鎖国の旧法に戻す。」(P.305)
 この主張は、薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)、出石(いずし)藩主仙石久利、彦根藩主井伊直弼(なおすけ)の三者のものである。"外国との戦争は当面は避けるべきだ"というのが、当時の大部分の大名の意見であった。しかし、そのうえで、時間稼ぎをして軍備を整え、「鎖国」に戻す、というのが三人の意見である。
(C)―「(1)相互に交易を開くのは世界の大勢であり、鎖国の維持は不可能である。(2)開国要求を拒絶し戦争となれば、軍事力は外国が優越しているから、日本に勝算はない。(3)この際、アメリカの通商要求を受け入れ開国に踏みきるべきである。」(P.309)
 このように「通商許容」を積極的に説いた意見は、洋学の盛んな藩のものであり、代表的には佐倉藩主堀田正篤(まさひろ *後に正睦〔まさよし〕)、津山藩主松平斉民(なりたみ)、中津藩主奥平昌服(まさもと)、津藩主藤堂高猷(たかゆき)、飫肥(おび)藩主伊東祐相(すけとも)、美作藩主三浦朗次(あきつぐ)などである。
 以上の(A)、(B)、(C)は、主張が比較的明確なものである。だが、大多数の大名の態度は、なんとなく「戦争回避」を願ったものであり、当面の具体策と将来展望がはっきりとしたものではなかった。
 同じ問題をさらに詳しく区分して分析したのが、井上勲著「開国と幕末の動乱」(日本の時代史20『開国と幕末の動乱』吉川弘文館 2004年 に所収)中の「表1―嘉永6年7月幕府諮問に対する諸大名の意見分布」である。
 それは、対外方針として、諮問に答えた232の諸大名の意見の内容を(A)「当面」と(B)「将来」にわけている。
 そして、まず、(A)「当面」では、(アメリカの要求に対して)①「拒絶」のグループが、「単純拒絶」28、「即時拒絶」11、「折衝拒絶」45で、計84(全体の36・2%、以下同じ)となっている。「単純拒絶」とは、ただ拒絶すべきと主張するだけで、実行に移す方策が述べられていないものである。②「回答延期」グループは、39(16・8%)で、③「許容」グループは、「時限許容」39、「即時許容」6、「単純許容」1で、計46(19・8%)である。「時限許容」とは、5~10年間を限って交易を許容しようという方針のことである。「単純許容」とは、具体的に実行に移す方策が述べられていないものである。
 他に、「単純折衝」8、「方針不明」13、「答申不能」42がある。
 この中で、驚くべき事というべきか、ありうる事というべきか、「方針不明」「答申不能」が合せて55で、全体の23・7%を占めていることである。
 次に、(B)「将来」の方針としては、「鎖国」130、「再考」12、「開国」8、「不明」40、「答申不能」42となっている。全体の56・0%が、本音としては「鎖国」(従来の海禁政策)という現状維持を求めており、戦略的に「開国」を求めているのは、わずかに3・4%でしかない。
 (A)と(B)とのギャップは、本音では現状維持だが、その場合、アメリカとの戦争になる可能性があり、その際、敗北することが十分考えられるので、それを避けるために「時間稼ぎ」を行なう―という大名が多く存在することを意味する。そこでは、当面の対処策が論じられるだけで、戦略的な思考が全く欠如しているのが明白である。したがって、将来的にも「開国」を目指す方針をもつ大名は、わずか8にしかすぎない。

 (5)避戦論に危機感をいだく攘夷派
 このような状況にたいして、攘夷論者の斉昭は、公然と立ち向かう。7月8日に、10カ条の覚書を幕閣に提出し、対抗する。それは、以下のものである。

一(第一条)和戦の二字廟算(*幕府のはかりごと)御決(おんけっし)成られ候儀、第
一の急務と存じ候事
一(第二条)戦の一字へ御決に相成り候上(うえ)ハ、国持大名始め津々浦々迄(まで)大号令仰せ出だされ、質素倹約等令して行なわざる武家ハ勿論(もちろん)百姓町人迄(まで)覚悟相究(あいきわ)め、神国総体の心力一致致(いた)させ候儀肝要(かんよう)と存じ候事
一(第三条)当秋出帆の蘭人(*オランダ人)へ仰せ付けられ、軍艦(蒸気船取り交わす の義勿論)数艘・舟大工・按針役等取揃(とりそろ)へ、尚又(なおまた)大小銃砲、国許(くにもと)へ罷帰(まかりかえ)り次第不時に積立て献上仕(つかまつ)り候様(よう)これ有り度(たき)事
一(第四条)公辺(*公儀)に於てハ勿論の御義、国持大名始メ諸家分限に応じ大砲鋳(いた)て、尚又(なおまた)兼(かね)て大船の用材・銅鉄等心懸置(こころがけお)き候様これ有り度事
一(第五条)槍剣手詰(てづまり)の勝負〔*接近戦〕ハ神国の長ずる所に候間、御旗本・
御家人ハ勿論諸国一統、試合実用の槍剣悉(ことごと)く出精(*精を出す)候様これ有り度(たき)事
一(第六條)銃砲の義、近来追々(おいおい)開け候へ共、いまだ洋夷の精妙(*すぐれ
て巧みなこと)に比し兼(かね)候間、前件同様悉く研究致し候様これ有り度(たき)事
一(第七條)御料(*幕府領)私領(*大名・旗本などの領地)海岸要害の場所へ屯戍(と
んじゅ *たむろして守る所)を設け、漁師等取交し土兵(どへい *その土地の兵隊) 相備(あいそな)へ度(たき)事
一(第八条)諸家の備立(そなえだて *軍制)甲越(*甲州流・越後流)其外(そのほ か)種々流派相用(あいもち)い候得共、活用変通これ有り度事
一(第九条)諸家蓄穀の義、油断これ無き様に致し度事
一(第十条)伊勢神宮始メ御崇敬民心一致候様御仕向(しむ)ケ、耶蘇(やそ *キリスト教)邪教彌(いよいよ)以て御禁絶の儀、当節迂遠(うえん *まわりくどい)の様に候へ共、実は御急務と存じ候事―(『水戸藩史料 上編乾』P.45~46)

 斉昭の「10カ条」は、戦略目標も明らかにしないで、ただただ「和戦」のいずれかを「第一の急務」とするもので、戦略なき戦術主義に陥っている。ただ、さすがに遅ればせながら軍艦の用意を指示することになっている。そして、特異なことに、斉昭の攘夷主義の根底にある伊勢神道の崇敬を強調し、異常なまでにキリスト教禁止を「御急務」としてあげている。

Ⅲ 大号令公布をめぐる激しい対立
 
(1)和戦いずれかの決着を求める斉昭建議書
 1853(嘉永6)年7月3日に、幕府の「海防参与」に登用された斉昭は、同月8日には、10カ条の覚書を老中の求めによって建議した。これは、筒井・川路との「合意」である「ぶらかす」策を棚上げにし、持論の強硬論の採用を狙ったものである。
 10カ条の覚書をさらに詳しく説明したものが、「海防愚存」と題される上書である。「海防愚存」は二つあり、7月10日に提出されたものが「十条五事建議書」であり、8月3日に提出されたものが「十三箇条建議書」である。
 斉昭は7月10日の「十条五事建議書」では、冒頭(「一つ目の事」)、次のように言っている。「一、和戦の二字御決着、廟算一定〔し〕、始終御動(ゆるぎ)これ無く儀、第一の急務と存じ候事。/本文和戦の利害、戦を主と致し候得(そうらえ)ば、天下の士気引立(ひきたち)、仮令(たとひ)一旦(いったん)敗(まけ)を取候(とりそうろう)ても、遂(つひ)には夷賊を逐退(おいしりぞ)け、和を主と致し候得ば、当座は平穏の様にても、天下の人気(じんき)大いに緩(ゆる)み、後には滅亡にも至り候......」(日本思想大系56『幕末政治論集』岩波書店 P.9)と。
 そして、斉昭は以下のように、「和すべからざる筋合(すじあい)十ヶ条」をあげる。

◎一ヶ条―日本は往古からその武威が海外に知れ渡っているのに、「......此度(このたび)渡来のアメリカ夷、重き御制禁(*海禁政策のこと)を心得ながら、浦賀へ乗入(のりいれ)、和睦合図の白旗差出(さしだ)し、推(おし)て願書(*米大統領の親書のこと)を奉(たてまつ)り、剰(あまつさえ)内海え乗込、空砲打鳴し、我儘(わがまま)に測量迄(まで)致し、其(その)驕傲(きょうごう *おごり高ぶること)無礼の始末(しまつ)言語同(道)断にて、実に開闢(かいびゃく)以来の国恥とも申すべく候。......我を劫(おびやか)し我を要し(*必要とする)候(そうろう)夷賊を、御退治これ無き而已(のみ)ならず、万々一願(ねがい)の趣(おもむき)御聞済に相成(あいなり)候様にては、憚(はばかり)ながら御国体に於て相済(あいすみ)申すまじく......」(同前 P.9)というものである。
◎二ヶ条―「切支丹の儀は、御当家御法度(ごはっと)の第一に相成居(あいなりおり)、国々末々迄も高札建置(たておき)候処(ところ)、......アメリカを新に御近付けに相成候はば、何程(いかほど)御制禁これ有り候ても、自然右(みぎ)宗門再起の勢(いきおひ)必然の儀、憚(はばかり)ながら祖宗の神霊に対せられ、御申訳(もうしわけ)これ無き......」(同前 P.9~10)が故である。
◎三ヶ条―「......和蘭陀(オランダ)の外に、又々(またまた)無用の交易御開(おひらき)に相成(あいなり)候はば、神国(*日本を指す)の大害(たいがい)此上(このうえ)は有るまじく......」(同前 P.10)が故である。
◎四ヶ条―「ヲロシヤ(ロシア)・アンゲリア(イギリス)等、先年より交易を望(のぞみ)候得(そうらえ)共(ども)、御許容これ無き候処、アメリカ夷(えびす)え御許容遊ばされ、万一ヲロシヤ等より願出(ねがいいで)候はば、何を以て御断(ことわり)遊ばさるべく候哉(や)......」(同前 P.10)というものである。
◎五ヶ条―「......初(はじめ)は先(まず)交易を以て因(*事の起る元)を求(もとめ)、遂(つい)には邪教を弘(ひろ)め、又は種々の難題(なんだい)申掛(もうしかけ)候儀、彼等(かれら)が国風にこれ有り、遠くは寛永以前邪宗門の患(うれ)ひ、近くは清朝鴉片烟(アヘンえん)の乱、前車の覆轍(*失敗)に候」(同前 P.10)故である。
◎六ヶ条―蘭学者などは「鎖国」をやめて交易をすべきというが、「神国の民心固結(かたくむすび)、武備充実し、中古(*ここでは鎌倉時代)以前の国勢にも回復いたし候はば、外国迄も押渡り、恩威を弘(ひろめ)候事も相成り申すべく候共、当時(*今日)太平遊惰の風俗、外国より僅(わずか)に数艘の戦艦渡来候てさへ、人心恐怖いたし候間、彼に要せられ候て交易相始(あいはじめ)候様にては、外国へ渡り遠略(*遠大な征服計画)を施(ほどこし)候事抔(など)、真に席上の空論に候」(同前 P.10~11)こと故にである。
◎七ヶ条―「夷賊内海え乗入、我儘に測量迄致し候ても、打払(うちはらい)の儀相成らず、諸国の士民空(むな)しく奔命(*忙しく奔走すること)にのみ疲れ候様にては、人々解体の勢(いきおひ)これ有る」(同前 P.11)故である。
◎八ヶ条―長崎の海防は清国やオランダに対するのみでなく、外国一般に対するものである(*対外関係のトラブル処理の事)。それなのに、浦賀近辺で外国の願書を受取り、万一にもその願いを許容するようでは、「譬(たと)へば上(*お上)にて間道(*抜け道)の往来を御許し、右両家(*長崎の海防を受け持つ黒田、鍋島家)へ無用の御関所番仰付け置かれ候姿に相当り、両家の気請(きうけ *受取る気持ち)如何(いかが)にこれ有るべき哉」(同前 P.11)が故である。
◎九ヶ条―アメリカの無礼・横暴には一般の民でさえ心外に思っているのに、「......打払(うちはらい)の儀決定に相成らず、余り寛宥(かんゆう *許すこと)仁柔(じんじゅう *情けがあって柔軟なこと)の御処置のみにては、下々は御懐合(ふところあい *胸中の気持ち)相分からず候故、奸民(かんみん *悪い民)共(ども)御威光を恐れず、異心を生じ候も計り難(がた)く、国持(*国持大名のこと)始め御取締にも拘(かかわ)り候様成行(なりゆき)候も測り難い」(同前 P.11)からである。
◎十ヶ条―外国の通商・「開国」要求にたいして、当面は融和的に対処して時間を稼ぎ、その間に武備を整え、全備の際に祖先以来の国法を厳重にするという意見は、尤もであるかのようであるが、この12か年(*水野忠邦政権による天保の改革が開始されて以来)、諸家の武備は格別に進んでいる訳ではない。「今日にも彌(いよいよ)打払の方に御決着に相成り候得ば、天下の士気十倍いたし、武備は令せじして相整(あいととのい)候儀、影響よりも早く〔*疾(はや)いことの譬え〕これ有るべし。左候てこそ憚(はばかり)ながら征夷の御大任にも叶(かなわ)せられ、諸国一統武家の名目にも相当致すべき候。」(同前 P.12)が故である。

 「二つ目の事」では、斉昭は、「一、廟議、戦の一字に御決着に相成り候上(うえ)は、国持(*国持ち大名のこと)初(はじめ)銘々(めいめい)津々浦々迄(まで)も、〔将軍が〕大号令を仰せ出(いざ)され、武家は勿論(もちろん)、百姓町人迄覚悟(かくご)相極(あいき)め、神国惣体の心力一致致(いた)すべく候儀肝要に為(な)すべき事。」(同前 P.13)と、将軍の大号令が必要と強調した。
 以下、「三つ目の事」では、日本が得意な接近戦を磨くこと、「四つ目の事」では、軍艦・蒸気船・船大工・按針(船の操舵者)を用意すべきこと、「五つ目の事」では、銃砲の技は外夷(*西洋人を侮蔑した称)に劣るので、幕府・諸大名は研究し、武器・弾薬を準備すべきとした。
 斉昭の主張は、国内に対しては、「大号令」を発して今にも戦争を始めるかのような姿勢を見せながら、外国に対しては、穏便にことを収めるというものである。このため、今日では、研究者の間では「内戦外和」策と呼ばれている。
 「一つ目の事」で10カ条にわたって「和を主とする」策を批判するのであったが、その第六条では、次のように述べている。「万国の形勢往古と相違(あいたが)い致し候処(ところ)、我神国のみ鎖国の趣意を守り、大海に孤立致し候儀、始終覚束(おぼつか)無く候間、矢張(やは)り外国え往来いたし、広く交易の道を通じ候方然(しか)るべきとの説、蘭学者流など窃(ひそか)に唱(とな)へ候哉(や)に候得(そうらえ)共、神国の民心固結(かたくむす)び、武備充実(じゅうじつ)し、中古(*鎌倉時代)以前の国勢にも回復いたし候はば、外国迄(まで)も押渡(おしわた)り、恩威(*恩恵と威光)を弘(ひろめ)候事も相成(あいなり)申しべく候得共、......」(同前 P.10)と。
 民心を団結させ、武備を充実するのは、単に「日本の独立」を維持するというのだけではなく、それによって国勢を回復し、「外国迄も押渡り」海外侵略をし、日本国の国威を広める―というのが、斉昭の狙いなのである。
 斉昭の立論は、後の時代の植民地諸国の帝国主義に対する「民族解放革命」などでは決してなく、あくまでも軍事的劣勢を建て直し、5~10年後には欧米列強に対峙し、(欧米列強に伍して)弱い立場の国々を侵略し植民地にするというものである。ここでも、斉昭は攘夷論の底に露骨な侵略思想を秘めているのである。
 しかし、このような考え方や計画は、斉昭一人のものではない。当時の大名や「志士」と呼ばれる人物に多く見られるものである。今ここで具体名を挙げれば、島津斉彬・黒田斉溥・松平慶永・橋本左内・吉田松陰・久坂玄瑞・佐久間象山など、枚挙にいとまもない。近代日本の侵略主義は、思想的にはすでに幕末に形成されているのである。それは、明治維新とその後の富国強兵策とともに、現実のものとなっていったのである。
 その一例として、たとえば、黒田斉溥の思想がある。斉溥は、「往古より武国の名高き日本の武威衰え候哉(や)ニも相聞へ」(「幕末外交関係文書」の一 285号 P.571)と現状を歎き、5~6年ぐらいの間、米露に通商許可を与え、その間に武備を完備すべきとする。そのために、大艦船を許可し、商船もまた西洋風に造るべきとする。
 そして、自由に海外貿易をすることも許可すべきとする。「既に日本も往昔は異国え勝手次第ニ罷(まか)り越し、支那ニ而(て)倭寇と唱え大ニ恐(おそれ)候由(よし)毎々(つねづね)所載これ有り......急ニ武備盛(さかん)ニ相成り候様思召(おぼしめし)候ハハ(そうらえば)、往古の如く一統へ勝手次第仰せ付けられ候ハハ、日本の武威世界へ輝き、万国恐服(きょうふく *恐れ服従すること)疑い無き儀ニ御坐(ござ)候、其上(そのうえ)一統困窮の折柄(おりがら)、平日倹約仕り武備厳重の旨度々(たびたび)仰せ出で候得共(そうらえども)、十分思召通りニ相成らず、恐入(おそれいり)候事共ニ御坐候、右等(みぎら)の御世話も、右の通り異国えの商売一統御免(ごめん)仰せ付けられ候ハハ、日本繁昌(はんじょう)疑い無く、且又(かつまた)武備厳重ニ相成り申し候、......」(同前 P.573)と、海外との自由貿易を「一統」に許可すれば、「日本の武威世界へ輝き、万国恐服疑い無い」と主張する。武力による他国の侵略と従属化である。その旧例として、斉溥は「倭寇」の掠奪・侵略を自慢げに挙げている。
 また、黒田斉溥は、「世界の形態、皇国後来の儀等(とう)得と(とくト)御賢慮これ有り候ハハ、得難き時節、且(かつ)天運の然らしむる儀と存じ奉り候間、此節(このせつ)武備中興、彌(いよいよ)以(もって)日本武国ニ仕りたく存じ奉り候間、此段(このだん)は得と御評議尽くされたく存じ奉り候、......?倩(うるはし)世上の模様を考え候ニ、年々以もって)万国相開ケ、武事心掛(こころがけ)厚く候間、迚(とて)も日本永久鎖国の儀は相成(あいな)らざる時節(じせつ)到来と存じ奉り候、後来如何(いか)様の御都合(ごつごう)ニ至るべき哉(や)計り難く、好き(よキ)御時節(おんじせつ)武備中興振立(ふるいたち)候得は(そうらえバ)、皇国万全の良策此上(このうえ)無く、御美事(おみごと)ニこれ有るべく存じ奉り候、......」(同前 P.574)と、今こそ「武備中興」の好機ととらえている。
 斉溥は、今こそ武備を整え、「倭寇」から秀吉の時代のように中国・東南アジアに「雄飛」(侵略)する準備期とするのであった。中国や朝鮮を貴族の「長袖国」(貴族の国)と揶揄(やゆ)し、これに対して、日本は「武威の国」であるといって、秀吉は無法な朝鮮侵略(文禄・慶長の役)に踏み切ったが、結局、江戸時代ついに批判的な総括はなされなかった。そこへ加えて、幕末、日本自身の植民地化の危機に逢着し、武士や民衆などの士気をあげ、団結を高めるるために、攘夷・富国強兵と、その先の「海外への雄飛」すなわち海外侵略が高らかに歌い上げられたのである。

 (2)プチャーチン来航で事態はさらに複雑化
 しかし、1853(嘉永6)年7月18日、ロシア使節プチャーチンの艦隊が軍艦4隻で長崎に入港するという新たな事態が発生する。ペリー艦隊が浦賀に来航してから、わずか1カ月余り後のことである。プチャーチンの来航は、「アメリカ艦隊の日本遠征の情報により促進されたもので、ロシアはそれに便乗して長年の対日通商の懸案の実現を図ったもの」(秋月俊幸著『千島列島をめぐる日本とロシア』北大出版会 2014年 P.205)といわれる。
 長崎奉行・大沢秉哲(のりあき)から19日に発せられた第一報が、江戸に着いたのは7月27日であり、ここに幕府首脳は、新たな難題を抱えることとなり、攘夷・「開国」論争もまた一層激しくなるのである。 
 ロシア使節に対する対応策は、評定所(寺社奉行・町奉行・本多安英〔勘定奉行〕)、目付、勘定奉行などで評議され、8月2日までに各グループの意見が出揃った。大方の意見は、"アメリカと同等にロシアも取り扱うべきで、従って、まず老中宛ての外務大臣ネッセルローデの書翰(ロシアの国書)を受取り、熟慮して処置すべきだ"というのである。プチャーチンが、戦術として長崎に来航した点について、幕府の大方は心証として好意的であったといえる。
 これらの評議の内容は、8月2日に、海防参与の徳川斉昭にも回覧された。この際には、斉昭も大きな異論は唱えなかったようである。
 だが、斉昭は8月3日付けで、二つ目の「海防愚存」すなわち「十三箇条建議書」を書き上げる。これは、「十カ条の覚書」のうち、「十条五事建議書」で詳説し残したカ条と新たに追加して述べたカ条を合せた「十三箇条」を老中に建議したものである。
 ここでも、冒頭、「一、異船渡来の節〔の〕取計(とりはからい)方急度(きっと)御治定(ちてい *決まりをつけること)し、御代替(だいがわり *家祥〔後の家定〕が10月23日に新たに将軍職につく)御初政(*新将軍の最初の政治)に仰せ出だされ、人心一致候様致(いた)し度(たき)事。」(日本思想大系56『幕末政治論集』P.19)と述べて、「和戦」の内のいずれかを治定しない限り、6月のペリー来航時の誤りを繰り返し、人心もまたまとまらないと主張する。
 そして、この冒頭の項で、斉昭は「諸役存意(*意見)の内、御目付中海防掛は勿論(もちろん)其外(そのほか)迄も、六月中申出(もうしで)の書付(かきつけ)は、趣意貫き、御役柄流石(さすが)感心の事に候。右(みぎ)存意(ぞんい)を腹にいたし、草稿取調候はば、士風(しふう)引起(ひきおこ)し申すべく存ぜられ候。」(同前 P.20)と、六月の目付意見を褒(ほ)めちぎっている。その意見とは、「(異国船に対して)国法に従い、あくまでも長崎への回航を命じ、聴かなければ打払うべき」である。したがって、斉昭の本音はあくまでも攘夷なのである。

 (3)斉昭建議書をめぐり論議は紛糾
 西丸留守居(次期将軍の重臣)・筒井正憲は、斉昭の建議書を多分に意識して、8月4日付で、「長崎表へ渡来魯西亜(ロシア)船御取扱之義ニ付申上候書付」と題した意見書を老中に提出した。
 それは、ネッセルローデの書翰を受取るべきと結論を述べる。そして、ロシアが通商を求めた場合は、アメリカへの対応も含めて次のようにすべきだと主張する。「アメリカ合衆国の要求をすべて拒否すれば必ず『戦闘』になるので、要求のうち一つくらいは聞き入れることになるであろう。それゆえロシアの要求も何か一つは聞き入れる。この二つの国は、日本の隣国(「御隣地」)であることと、外国に対する『御祖制』(*祖法)を策定したときには国名も知らなかった国であることを勘案して、通商を許可する。それ以外の国も同様の要求をするであろうが、日本は『小国』であり、産物も多くないので、アメリカ合衆国とロシアが、他国からの通商要求を出させないようにする、という条件を付して、両国には通商を許可する。」と主張する。さらに筒井の意見書は、「鎖国の護持」を唱える人々に対して、アヘン戦争の轍(てつ)を踏まないような見通しがあるのか、と疑問を投げかけ、紛争になった際に、これらの人たちは防御を引き受けてくれるだろうか、と揶揄(やゆ)する。その上で、「もしその保証もなく鎖国の維持を唱えるのであれば、それは『口先筆先之(の)論』であり、『私議』にすぎない、と批判する......。」(麓真一著『開国と条約締結』吉川弘文館 2014年 P.68)というのである。
 これに対し、8月5日、斉昭は筒井の意見書に反駁(はんばく)する書簡を老中に提出する。斉昭はそこで、筒井の意見書をいろいろな角度から批判するが、つまるところ、「......参河(*三河)風の意地を養ひ、各方(おのおのがた)の御先祖等初(はじめ)御旗本一統義勇を振ひ候義、御当家(*将軍家のこと)の根本にこれ有るべし。然るに外夷〔の〕強訴同様の願(ねがい)御許容然るべき抔(など)との評議、日光神霊如何(いかが)思召(おぼしめ)さる哉(や)。不肖(ふしょう)ながら神胤の末を汚し候愚拙(*斉昭のこと)が心中御推察給(たまう)べく、かく申し候......」(『水戸藩史料 上編乾』P.74~75)と。結局、斉昭の結論は、先祖の決めた国法をただ守るか否かの硬直した考えであり、そのような頑迷な考えがやがて幕府そのものの滅亡を導くのであった。
 この背景には、当時の世界情勢に於いて、日本の置かれた位置が真剣に考え貫(つらぬ)かれておらず、また貿易そのものへの誤った理解から抜けきっていない上に、誤った歴史観から日本的華夷思想(中華思想)にどっぷりとつかった差別思想などがある。
 だから、斉昭にとっては、「肥前守(*筒井のこと)存意(*意見)の趣ニてハ皇国上下一統を腰ぬけに致すべし」という一言で事足りるのである。
 それでも、不利な立場にあるとさすがに感じる斉昭は、「毎度申し候通り、愚拙が了簡(りょうけん *考え)も武備御行届これ無きの内〔*軍備が劣勢の状況で〕、此方より無謀の事を起し候(そうろう)積(つもり)には曾(かつ)てこれ無し。来春異船再渡(*再渡来)の節、幾重にも平穏に申し諭(さと)し、其上(そのうえ)にて異人承服致さず彼より兵端を開き候ハバ、上下一統死を決し異人残りなく退治致したく、夫(それ)ニハ一日も早く和戦の二字御懐合(かねあい)聢(しか)と御評決〔し〕天下へ大号令を出し、大小名一統覚悟相究(あいきわ)め候様仕向(しむ)け候儀、何よりの御武備と存じ候」(同前 P.75)と、弁明せざるを得なくなる。
言い訳は、前の下線部分に明瞭である。さらに重要な問題は、斉昭の発想である。「......異人承服致さず彼より兵端を開き候ハバ、上下一統死を決し異人残りなく退治致したく、夫ニハ一日も早く和戦の二字御懐合聢と御評決......」といっているが、戦術的関心から戦略レベルの評決を迫っているのである。だが、戦術は戦略目標によって統御されなければならないのであって、斉昭の場合、まさにあべこべになっているのである。これでは、不断に戦略レベルの問題と戦術レベルの事柄が混同され、結局は単に事態の変動に追随するだけに終ってしまうのである。
 8月6日、斉昭は「海防参与」の辞職を願い出る。"自らが役職にいる限り、諸有司が本音を述べず、それでは幕府のためにならない、だから新将軍が本丸に移る前に前もって辞任の願いを提出した"というのが表向きの理由である。だが、本音は「戦」の覚悟を固め「大号令」を発しなければ「海防参与」に留まっても意味はないと自らの存在を誇示し、強引に自己の主張を押し通そうという魂胆である。老中首座・阿部正弘は斉昭の辞任願いに対して、この非常時に幕府中枢が分裂することを恐れ、必死に斉昭を慰留する。阿部は斉昭を通じて、有志大名の幕政に対する支持を確保する狙いがあったため、斉昭の慰留に努めたのである。
 そして、8月8日、阿部正弘は斉昭に会って、「大号令」の文案を提起してほしいと要請した。また、正弘は自らも「原案」を作成した(後述)。『水戸藩史料』によると、斉昭の文案は所在不明で残らなかったようである。 

 (4)意見対立はむしろ深まる
 1953(嘉永6)年8月10日、老中は、斉昭の建議書について、各有司に評議させる。評議は紛々として意見はまとまらなかったが、ただ、「廟議を決戦に定めんとの一義に於ては皆(みな)之(これ)を非難せり」と、『水戸藩史料 上編乾』も自ら認めている(P.69)。
 特に、海防掛の勘定奉行・勘定吟味役は、江川英龍に起草させて、8月3日の斉昭建議書を批判させた。その主旨は、やはり避戦政策の優先が不可避なことを述べ、ロシアのみに対して限定的な交易をしようというものである。「......元享(*建武の中興に至る「元弘」のことか?)以来、御先祖様、王朝へ御忠節を尽くされ候故(ゆえ)、天の御恵(めぐみ)これ有り、数百年の御武徳を積みなされ、其上(そのうえ)東照宮御一生の御苦労ニ寄(よ)り、万世不易(ばんせいふえき)の御基業御定め遊ばされ候を、一時の潔白を専らと仕(つかまつ)り、俄(にわか)ニ烈(はげ)しき儀仕出(しだ)し、御取返(とりかえ)し相成(あいな)らざる事出来(いできた)り候ては、かさねがさねの御大功を、わずかの堪忍(かんにん)成兼(なりか)ね候より、水の泡と仕り候様〔に〕相成り、恐入り候儀と拠無く(よんどころなク *やむを得ないで)申上げ候......」(『幕末外国関係文書』の二 4号 P.17)と、避戦を主張する。
 そして、ロシアが他国の渡来を防ぐと保証した場合という条件をつけて、交易を許すと主張する。「......尤(もっとも)手段ぐらかし(*「ぶらかし」)ニ候共、交易相始め候ハバ、手ぬるき取計(とりはからい)ニて、追って懶弱(らんじゃく *なまけがち)ニ相流(あいなが)れ候節、いたし方(かた)これ無き候ニ付、それよりも敗軍ハ天命と覚悟仕り、此節(このせつ)夷人と一戦の積(つも)り厳正ニ取計候方(とりはからいかた)潔白ニて、且(かつ)勇気もこれ有り候(そうろう)体(てい)相見(あいみえ)候得(そうらえ)共(ども)、御沙汰の如(ごと)く無謀......」(同前 P.17)と、決戦論を批判している。
 また、『水戸藩史料 上編乾』によると、「......勘定奉行等は曰く、目下軍備未だ整(ととの)はざるに直(ただち)に戦を令するは無謀の甚(はなはだ)しきものにて殆(ほとん)ど社稷(しゃしょく *国家祭祀が転じて、国家そのもの)を危(あやう)くするの恐れあり、今日の要は和戦を言はずして姑(しばら)く歳月を延(のば)し先(ま)ず我が軍備の整理を務むべしと。大小目付は曰く、将軍初政の大令は実に一世の方向億兆(*万民)の信疑に関する所なり、則(すなわち)万世不刊の典ならざる可(べか)らず、故に此(こ)の大令は先ず書記府をして文案を起草せしめ監察に於て討論し、儒官に命じて潤色せしめ殊(こと)に鄭重を要すべし」(P.69~70)と、それぞれ意見を表明している。
 再び、通商と「開国」をめぐって、幕府中枢で激しい論議が高まった。しかし、阿部は、ロシア国書がまだ江戸に着かず、その内容がわからないこと、将軍代替わりの行事も重なっていたこと―などにより、この論議をいったん棚上げとすることにした。  

(5)「大号令」の原案つくり
 1853年の8月上旬の間に、阿部と斉昭の間で「大号令」の草案の検討がすすんだようである。最終的には、阿部が作成した草案に斉昭が朱書を加える形で、「大号令案」(第一次案)が作成された。阿部の草案は、以下のものである。

此度(このたび)亜米利加合衆国より差出し候書翰和解(わげ)二冊相達し候ニ付(つき)、願出(ねがいで)候ヶ條、御聞届有無(うむ)、其(その)利害得失夫々(それぞれ)思慮尽くされ建議致され候趣、各(おのおの)熟覧を遂げ、集議参考の上、御聴きに達し候、然る処、諸説紛紛の内a)、詰(つま)り和戦の二字に帰宿致すと申すべしb)、前文願いの趣(おもむき)至極(しごく)c)平和穏当に申し成り之(これ)有り候得共(そうらえども)、交易御許容の儀ハ始終如何様(いかよう)の儀出来(しゅったい)致すべき哉(や)と思召し候、仍而(よって)此節(このせつ)御初政(*新将軍の政治始め)の折柄、祖宗の御法を替(かわ)せられ候儀ハ深く御心痛d)思召され候に付、旧来の御制度を守(まも)せられe)、今般(こんぱん)願いの趣ハ容易に御聞届け遊ばされず候思召しf)の旨(むね)仰せ出だされ候、尤(もっとも)当時辺海を初(はじめ)、御備向(おんそなえむき)未だ御手薄の義に付、渠(かの)申立て置き候書翰の通り、弥(いよいよ)来年渡来致し候とも御聞届けの有無ハ申し聞かず、相g)成るべく丈(だけ)此方(このほう)よりハ争端を開き申さざる様(よう)如何(いか)にもh)平穏ニ夫々応接i)取計(とりはから)せ候得共、万々j)一(まんまんいち)彼より乱妨(らんぼう)に及び候儀之(これ)有る間敷(まじ)くとも申し難く、其筋(そのすじ)に至り候而(て)ハ拠無(よんどころな)き儀k)、差図(さしず)次第(しだい)無二念(むにねん)打払(うちはらい)、闔国(こうこく *全国)の力を尽し、御国威相立て候様致すべし、右に付(つき)何(いず)れも不覚悟(ふかくご)之(これ)有り候而ハ御国辱にも相成り候儀に付、必ず接戦に及びべき心得(こころえ)を以(もって)防禦(ぼうぎょ)の御備(おんそなえ)相立て、士気憤発(ふんぱつ)激励いたし候様(そうろうよう)上意(じょうい)に候、右の趣(おもむき)一同承知奉られ、万一事(こと)起り候節ハ毫髪(ごうはつ)も〔*毛筋ほども〕御国体を汚(けが)さざる様(よう)上下挙而(あげて)心力を尽し、忠勤相励まらるべき候事

 阿部の草案に対し、斉昭が手を入れ修正する。その箇所は、a)からk)の下線部であるが、斉昭はそれを以下のように添削した。
a)は、「同異は之(これ)有り候得共」へ、
b)は、「候」へ、
c)は、抹消
d)は、「添翰(てんかん *添削の筆)の趣にては其(その)心底、本文の通りとも計(ばかり)も相見えず、交易御許容に相成り候ては、邪宗門厳重御制禁の廉(かど)に触れ候のみならず、国力衰弊(こくりょくすいへい)人心惑溺(じんしんわくでき)の端を御啓(おひら)き遊ばされ候筋にて甚(はんは)だ不容易〔の〕事に」へ、
e)は、「祖宗の御旧法を守せられ」へ、
f)は、「御沙汰に及ばれ難き尊慮」へ、
g)h)i)j)は、抹消へ、
k)は、「最早(もはや)御用捨(ごようしゃ)遊ばされ難く候間、又(また)御堪忍(ごかんにん)遊ばされ難く候間」へ―と、添削してある。
(なお、阿部草案の「当時辺海を初」の部分には、「面々建議致され候通り」と朱書があり、挿入文言か?)
 斉昭の添削の特徴は、通商拒否の諸理由が付加され、阿部よりもはるかに通商拒否の意志が強く出ている。しかし、「御備向き未だ御手薄」の現状を踏まえ、アメリカ側の通商などの願い(要求)には答えず―という「ぶらかし」政策は、ほとんど修正しないでいる。斉昭もこの点について、やむを得ないと思っていたと思われる。また、万一、アメリカ側から乱妨してきた場合の処置については、斉昭は阿部と結論的には同じだが、「拠無く」の部分がやや強調して表現されている。
 以上の号令案の趣旨は、後藤敦史氏がまとめたように、「①通商を拒否し、鎖国祖法の維持を図る、②海防未整備により、返答は延期し、日本側からは穏健に対応する、ただし、③万一の場合には打払を実行する、④その時に備えて海防を強化する」(同著『開国期徳川幕府の政治と外交』P.128)の4点となる。

(6)評議の再開とロシア対応策の検討
 「大号令」問題がふたたび幕府中枢の有司の間で評議になったのは、1853(嘉永6)年9月13日のことである。「評議の席上で筒井が阿部の原案(*「第一次案」のこと)を読み、各々に大号令の公布についてその可否を問うたのであるが、答申が揃う前、一五日にロシアの国書が江戸に到着したため、ロシア対応策との兼ね合いで、この議論は展開することとなった。」(三谷博著『ペリー来航』P.148)のである。
 プチャーチンが提出したロシアの国書(外務大臣ネッセルローデの老中宛て書簡)は、使節を日本に送る目的に、「両国の和睦安穏を固定せるの策を献ぜしめん」ことに2策あるとし、「其(その)一は、両帝国の境界を定めるにあり、......其第二件は、......日本国の内(うち)何れの湊(*港)なりとも、貴国と約定して、魯西亜臣民の往来を許し、我国(わがくに)の産物を以て貴国の有餘(ゆうよ *余ったもの)と交易せしめんことを請うにあり」(『幕末外交関係文書』の二 49号 P.147~148)と、明記している。
 プチャーチンがペリーとは異なり長崎に来航した点で、好意的に評価する有司が多かったようであるが、1853(嘉永6)年8月末、ロシア部隊がカラフトのコシュンコタンに上陸し占拠した。これはロシア皇帝の命令で、プチャーチンは当初は知らされていなかったのであるが、いずれにしても、ロシアはカラフト全島の占領という軍事的威嚇を背景にして、対日交渉に入ったのである。
 「大号令」問題については、各有司グループの意見は9月末までに提出されたが、相変わらず収斂しなかったようである。大小目付が海防掛と否とを問わず賛成する一方、海防掛の勘定方・三奉行・江川英龍はいずれも反対した。また、筒井正憲と大目付の深谷盛房は号令の公布自体には反対しなかったが、無謀の打ち払いを諌め、平穏の処置をとるように主張した。(『水戸藩史料 上編乾』P.82~87)
 中でも江川は、「一度合戦始め候上は、中々(なかなか)以て二年三年ニは事済み申すまじく、差當(さしあたり)硝石不足仕(つかまつ)るべく、殊(こと)に必用(必要)の砲類も未だ行届(ゆきとど)きまじくに付き、......器械迄も整わざるに存じ候ほどの兵を以て戦(いくさ)候ハ実に危なき次第、万一仕損じ等も御座候ハバ、国中の御取締向き此節(このせつ)心配候次第よりは百倍六ケ敷(むずかしく)相成るべし、......頻(しき)りニ武備専ら仕り候様(そうろうよう)御世話御座候て、今四五年も相立て候上ならでは、戦争の儀は申出し難き事に存じ奉り候」(『幕末外国関係文書』の二 161号 P.542)と、明確に非戦を述べる。江川の見通しでは、武備の充実を専らにしても4~5年は対戦できない、というのである。
 以上のように、9月半ばの評議では、目付方は「大号令案」に賛成したがそれは少数意見であり、大号令の発令に反対する意見が大勢を占めていた。
 反対意見は、特に「第一次案」の①と③に反対であった。これに対し、斉昭は改めて「大号令の発令」を促す建議書を提出した。そこでは、対外戦争の回避の重要性については一定の理解を示しているが、「しかし、『如何程(いかほど)穏当に扱(あつかい)候而(そうろうて)も彼より不法狼藉(ろうぜき)に及(および)候節ハ御草案の通り心得候外(ほか)これ有る間敷(まじく)』として、外国側からの攻撃に際しては、打払の覚悟がひつようであると唱えた。そもそも『近来異人ども横行いたし候も、畢竟(ひっきょう)恐れ乍(なが)ら御国威相衰(あいおとろえ)候ゆへ』であり、ここで『一統覚悟の気合(きあい)これ有り候へバ、異人共も存外(ぞんがい)横行も致さざる勢(いきおひ)と存じ奉り候』と述べ、日本側の戦争も辞さない強固な意志を示すことで、諸外国の接近・来航が減少する、と大号令の対外的な効果をも主張した」(後藤敦史前掲書 P.130)のである。
 しかし、斉昭の反論はやはり戦略なき戦術主義であって、しかも日本側の「戦争も辞さない強固な意志を示すことで、諸外国の接近・来航が減少する」というのは余りにも主観主義的な願望で、かつ精神主義でしかない。
 斉昭の建議書に基づき、阿部は1853(嘉永6)年10月14日、改めて三奉行や海防掛たちに号令案に関する評議を命じた。しかし、それでも大小目付以外は大号令を不可として、意見は変わらなかった。ただ、妥協案とも言うべきか、三奉行および海防掛勘定方が連名で修正文案を上申した。その文言は、阿部・斉昭の「第一案」を土台にしているが、最大の違いは①の「通商を拒否し、鎖国を維持する」という長期方針が削除されていることである。①が無くなれば、さまざまな形の通商許可も含めた柔軟な対応が可能となるのであった。
 しかし、それは斉昭の側からみると、「通商拒否」という大原則が無くなることであり、「平穏姑息な文案」でしかない。こうして、斉昭はこの間の評議に深く失望し、1853年10月19日、海防参与の辞意を表明する。阿部は斉昭の辞意表明を受けて、直ちに慰留に動いた。そして、10月25日、水戸藩家老に対して、「委細仰せ立てられの趣(おもむき)御尤の儀にハ候得共、今暫(しばらく)の内、是迄(これまで)の通(とおり)御登城これ在(あ)られ候様仰せ出でられ候」と、海防参与の辞任を認めないという台命(将軍の命令)が下されたのである。
 そして、阿部は再び大号令案を示し、斉昭の添削を求めたのであった(10月25日)。しかし、文言は前のものを使っているが、もっとも肝心なことは①の「通商拒否・鎖国維持」の長期方針が全く示されていないのであった。阿部は、明らかに衆議に基づいて、三奉行・海防掛勘定方が連名で上申した文案に沿った文案を示したのである。
 しかし、斉昭は自己の主張する方針と大きく違う阿部の新たな文案に対し、根本的な点で反対しておらず、二次的なところで修正しているのでしかない(詳しくは、後藤前掲書のP.132~134を参照)。斉昭は、もはや将軍の信任を受けている阿部の新たな方針に抗(あらが)えなくなくなっているのであろうか。
 こうした経過を経て、大号令は、1853(嘉永6)年11月1日に発令された。実際に発令された大号令は、次のような文言であった。

亜墨利加合衆国より差出し候書翰の儀に付、夫々建議致され候趣、各(おのおの)熟覧を遂げ集(衆)議参考の上、/御聴に達し候処、諸説異同は之(これ)有り候得共、詰(つま)り和戦の二字ニ帰着致し候、然ル処(ところ)、面々建議致され候通り、当時近海を初、防禦筋等御全備ニ相成らざる候ニ付、渠(かの)申立て置き候書翰の通り、弥(いよいよ)来年渡来致し候共、/御聞届けの有無は申聞(もうしきこ)さず、成るべく丈(だけ)此方よりは平穏ニ取り計らさせ申すべく候得共(そうらえども)、彼より乱妨に及び候儀之(これ)有る間敷(まじく)共申し難く、其節ニ至り、不覚悟之(これ)有る候而(て)は/御国辱にも相成り候儀ニ付、防禦筋実用の御備(おんそなえ)精々(せいぜい)心掛(こころがけ)、面々忠憤を忍ひ、義勇を蓄へ彼の動静を熟察致し、万一彼より兵端を相開き候ハハ(そうらわば)、一同奮発、毫発も御国体を汚さざる様、上下(じょうげ)挙而(あげて)心力を尽し、忠勤相励むべしとの/上意ニ候、
            (「幕末外国関係文書」の三 55号 P.221)

 この実際に発令された大号令をみると、①の「通商拒否・鎖国祖法の維持」は完全になくなり、②「御聞届けの有無は申聞さず」という短期方針が示されているにすぎない。また、斉昭自身により、③の万一の場合は打払うという方針も削除されることとなっている。ただ、「不覚悟」であっては「国辱」にもなるので、防禦の備えを「心掛」るようにと命令しただけである。まさに結論的には、「第一次案」の①③が削除され、三奉行や海防掛勘定方に極めて近い大号令になったのである。
 こうして、この時点での幕府の方針は、(a)「開国か鎖国(祖法)の維持か」―この根本問題について、ペリーへの回答を避け、(b)海防が不備であるから平穏の折衝を行なう、(c)ただし、相手側から兵端を開いた場合への備えと決意を固めておくこと―である。

Ⅳ ロシアとの本格的交渉に入る

 1853(嘉永6)年6月のペリー来航に遅れることわずか1カ月余の7月18日、ロシア使節プチャーチンは、通商と国境画定を求める国書を携えて、軍艦4隻を率いて長崎港に入港した。しかし、ロシア政府は同年8月末、カラフトのコシュンコタンに部隊を上陸させ占拠した(プチャーチンは当初、この方針を知らなかった)。ロシアはカラフト全島の占領という軍事的脅しを背景にして、対日交渉に入ったのである。
 だが、この年・10月に、クリミヤ戦争が勃発(1856年3月に終わる)し、その影響は東アジアにも波及する。プチャーチンはイギリス東インド艦隊による拿捕の危険を回避しながら対日交渉を行なわざるを得なくなる。
 プチャーチンは、1853年12月5日にも、長崎に再び来航し、国境・通商に関し幕吏と本格的に協議に入る。
 幕府は、ロシアの国書に対する返書について、9月頃に草案を作り、各級高官の評議を経て、ようやく12月18日に魯西亜応接掛を通してプチャーチンへ送った。返書の要点は、①国境問題については、将軍の代替わりなど国事多端の折り急速には返答できない、②通商問題については、祖法の法令(海禁政策)を改めることが難しい―というものであった。
 具体的な交渉は、1853年12月20日から精力的に始まる。主な交渉者は、日本側が魯西亜応接掛の筒井肥前守政憲・川路左衛門尉聖謨(としあきら)で、ロシア側はプチャーチンである。以下では、一般にはほとんど知られていない日露交渉をやや詳しく追ってみることとする。

(1)姑息な時間延ばしを図る日本側
 12月20日の交渉は、「国境及び和親交易」が中心である。
 前段で、①「全権大使」の任務・権能の範囲などでの捉え方、②国境・通商に関して解決の時間限度を3~5年の幅(日本側)で考えるか、あるいは出来るだけ早く解決するか(ロシア側)などの違いが論議された。
 後段では、国境問題で具体的な論議がなされた。千島方面については、互いに古来から自国領と主張したが、現実的にはエトロフ島とウルップ島の間を境にして、北をロシアが、南を日本が支配している点で、類似した認識のようであった。
 もっとも激しかったのは、カラフトの領有に関するものであった。ロシア側はカラフトの南部は日本のものであるが、中部・北部はロシア領と主張した。これに対して、日本側は、封建制により当該領主に調べさせないと判断できず、それには3~5年を要すると答えた(『幕末外国関係文書』の三 137号 P.392~394)。日本の交渉態度は、アメリカの時も同じであるが、のらりくらりとして「時間延ばし」を行ない、相手に諦めさせようというものである。
 12月22日の交渉も、「国境及び和親交易」問題が中心である。
 この日、川路は国境問題について、「カラフトを半分ニ引分(ひきわけ)、貴国より差置(さしおか)れ候(そうろう)軍卒守兵(*この年8月末にクシュンコタンを占拠した部隊のこと)は、境界相分(あいわかり)次第引払わせるべくとの儀に於(おい)ては、一昨日申し聞き候通(とおり)ニこれ有るべし、エトロフの儀ハ、其(その)砌(みぎり)申し述る通ニて、存寄(ぞんじより *意見)もこれ有りまじく候、」(同上、P.399)と述べた。これに対し、プチャーチンの反応はあいまいなものであった。
 だがこの日、プチャーチンは、カラフト境界にかかわって、まず概略の取決めがなされないと、コシュンコタンのロシア部隊の進退も明らかにできない。したがって、当地で「荒増(あらまし)の取極(とりきめ)ハ致置(いたしおき)」、細かい点については、来春2~3月頃に、現地で当該大名や幕府の役人も立ち会って調査したいと提案した。
 これに対し、川路はカラフトを半分に分割して領有するのなら応じてもよいかのような気配をみせた。
 通商問題では、プチャーチンは2港開港で松前(あるいは箱館)と江戸に近い港を想定し、後者が不都合ならば、大坂でもよいと表明した。また、通商許可に数年もかかるのは有り得ないと主張し、もっと早くできるはずだ、とした。
 これに対し、川路は「我国地境の続きたるハ、貴国のみ」と言い、他の欧米と異なり「只(ただ)貴国ニ限り、手厚の御取扱(とりあつかい)もこれ有り候」(同上 P.409)と、ロシアへの「好意」を示した。
 その後、交渉論議は、通商そのものの評価に移る。プチャーチンは、ロシア国書への幕府の返書では外国との通商を懸念しているが、「西洋諸州ニてハ、通商を以て其国(そのくに)を富(とま)し候事はこれ有り候得共(そうらえども)、通商を以て国を害し候儀ハ承及(うけたまわりおよ)ばざり候」(同上 P.410)と、説得する。
 これに対し、川路は「我国は西洋諸国と違ひ、自国の者外邦(*外国)に到り候儀これ無く、坐して外邦の船の到るを待つ故、異国通商ハ国の痛(いたみ)に相成(あいなり)、益には相成申さず、」(同上)と、日本にとっては通商は益にはならないと述べている。要するに、日本は輸出しないで輸入するのみだから、通商が利益にならないとの趣旨とおもわれる。しかし、それは幕府自身の海禁政策が原因となっているのであり、通商そのもが一般的に害になるわけではない。
 プチャーチンはさらに説得し、「通商利益の儀ニ付(つい)ては、色々の談話これ有り、商売交易の道ハ、其国の直(あたい)安(やすき)の物を他邦に遣(つかわ)し、他邦の直安の物を持帰(もちかえり)、自国にて貴(たか)く売る事ニて、其利益少なからず」(同上)と述べている。
 これは、国家ではなく、民間商人の立場からの通商利益を述べたものであろう。だが、川路らは当時、朝貢システムの慣習から国家統制を離れた民間商人同士の自由貿易とそこから得る利益などは、とても理解できなかったと思われる。論議は、どうもすれ違いになっているようである。

(2)世界の大勢を説き攻勢をかけるプチャーチン
 交渉は12月24日にも行なわれ、この日も「国境及び和親交易」が中心であった。
 この日の談判は、プチャーチンの猛烈な演説で、日本側はほぼ全面的に押しまくられたといってよいであろう。きっかけは、川路がプチャーチンの今次の交渉が50年前のゴロヴーニンの時に比べて、極めて急(せ)いているようだが、その理由を聞きたい、と発言したことにある。
 これに対し、プチャーチンは以下のように展開する。
①「先(まず)蒸気船を以て勘辨(かんべん *よく考えて事を決する)あるべし、右船〔の〕発明以来、常船の三分の一余の迅速を得るハ、是(これ)世界の一変ニ候、近来日本沿海〔を〕異国船往来の繁きを以ても推察有(ある)べし、遠路も近く、世界もせばまり候道理ニて、事を延ばしがたき時世と存(ぞんじ)候、」(同上 P.432)
②「貴国二百年来外国の交(まじわ)りを絶(たち)、獨(ひとり)国を鎖して、海外に独立せられ候故、異国の事体に通じ給(たま)ハず、随(したがっ)て武備も弛(ゆる)ミ
候様ニ相見(あいみえ)候處(ところ)、外国は追々(おいおい)相開け、武事鍛錬致し軍陣戦闘の器械悉(ことごと)く精利(せいり *優れて鋭いこと)を極(きわめ)、航海の術ハ勿論(もちろん)、船製作等巧妙を極候......、其餘(そのあまり)太平打続(うちつづき)、全国御武備御手薄ニて、甚(はなはだ)以て懸念仕(つかまつ)る所ニ候、依てハ都(すべ)ての軍器等西洋風ニ傚(ならわ)させられ、武事専ら御修飾(*整え飾ること)これ無きてハ相叶い難(がた)き時世ニこれ有り、」(同上 P.434)
③「世界の国々互(たがい)ニ近く相成(あいなり)、異国の船々往来繁く相成候ニ付(つい)てハ、薪水食料を求め候為(ため)、是非御国地へ立入(たちいり)申すべし、且(かつ)石炭ハ蒸気船必用の品ニ付(つき)、是又(これまた)御国地ニ於て求め候ハねバ相叶い難く候、扨又(さてまた)軍陣の器械(きかい)古に引競(ひきくら)べ候ては、逐々(ちくちく)精密辨利(べんり)を極候ニ相成候、貴国ニも御備(おんそなえ)これ無くては相成り難き時世ニ付(つき)、御入用ニも候ハバ、蒸気船軍船は勿論、大砲其外(そのほか)の軍器いくらも差上(さしあげ)申すべく候、」(同上 P.435)
 外国との関係を200年も制約し、「太平の夢」をむさぼっている間に、武備もゆるみ、諸外国に立ち遅れているではないか、西洋風の軍備を備えなくては独立も叶わない時世になっているのではないか、そのためには交易が必要ではないか―というのである。
 このプチャーチンの言は、川路らにとって急所をつかれた、ものすごく痛い点であったと思われる。日本の武士階級は秀吉の朝鮮侵略の頃から、「武威の国」を自慢していたのであり、その自慢の点が厳しく批判されたのである。これでは、彼らが考える「日本の誇り」が何一つなく完膚なきまでに吹き飛ばされてしまうのである。
 12月26日の交渉は、一昨日の交渉でプチャーチンが一方的に押しまくった勢いに乗じて、さらに露骨な脅しをかけるが、これにはさすがの日本側も怒りを露(あら)わにする。
 プチャーチンは、この日、「双方立会(たちあい)の上、巨細(こさい *大きい事と小さい事)ニ場所の取調をも致し候上、右の御役人(*現地調査をした幕府役人)御帰りニて、委細の始末(しまつ)御申上(もうしあげ)これ有り、其上(そのうえ)ニて御評議も出来(でき)申すべとし存(ぞん)じ候、」(同上 P.461)と、やや妥協的な姿勢をみせる。これまでは、双方が現地で落合い調査するのは、細かい点を詰めるためであったのが、ここでは「巨細に場所の取調をも致し」となっているのである。
 このうえで、プチャーチンは「貴国の三月四月頃迄(ころまで)ニ、御役人御出役これ無く候ハバ、我国より彼国(*カラフトのこと)へ人民を植付(うえつけ)申すべし、迚(とて)も際限も無く相待(あいまち)候儀は致し難く候間(そうろうあいだ)、何(いず)れニも御役人差遣(さしつかわ)され、早々(そうそう)御定(さだめ)これ有るべく候、」(同上)と、植民地主義丸出しの恫喝をかける。
 これに対し、川路はただちに応じる。見分(調査)の役人が「境界を取極(とりきわめ)る事ハ相成り難く」と断言し、さらに「扨々(さてさて)無理(むり)成(なる)事を申され候、一体彼(か)のアニワ港(*カラフトの南部)ハ、我国所領なるは分明(ぶんめい)なる處(ところ)、我国へ一応の断りもなく、勝手に人を差渡(さしわた)し置(おき)候のミならず、右体(みぎのてい *ロシアが植民するということ)無理なる事(こと)申掛(もうしかけ)候段(そうろうだん)相済(あいすまさ)ざる事ニ候、右心得(こころえ)ニては、迚も事ハ整い難くこれ有るべくニ付(つき)、談判(だんぱん)も無益ニ候、」(同上)と言い放つ。
 まさに、あわや談判決裂かの事態に至る。ここは、プチャーチンが、自分が言いたいのはただ交渉を速やかにしたいだけであり、「此(この)段(だん)御勘弁これ有りたく候、」と述べて、事無きに至る。
 交渉は、国境問題でも、交易問題でも、同様のやり取りが繰り返されているが、12月28日の交渉で、ようやく事態に、わずかな動きが出てきた。それは、幕府役人を現地に派遣することに係るものである。
 この日、筒井肥前守は、「何と歟(か)使節の顔を立遣(たてつかわし)たく候間、江戸表へ申上候て、地境(ちざかい)取調の為(ため)、来春ハ其筋の役人を遣(つかわ)し申すべく候間、右役人小人数にて罷越(まかりこし)共(とも)、貴国の人(ひと)穏順(おんじゅん)の取扱(とりあつかい)致し、失礼の儀(ぎ)無き様に致すべしとの書付(かきつけ)差出(さしだし)候一條、早々決着致したく候、」(同上 P.496)と申し出る。
 この件はすでに一日前にロシア側に知らされていたので、この日ただちに書付は日本側に渡された。
 さらに、この12月晦日(みそか)には、事態は大きく進展する。ロシア使節プチャーチンから日本側露西亜応接掛へ「条約項目」が手渡されたのである。  

(3)条約項目の検討に入るがアメリカに先を越される

 1853年12月晦日に、プチャーチンから日本側に渡された、条約項目に係る書簡は、冒頭で次のように述べている。(正文は漢文であるが、以下は和訳)

大魯西亜国の 大君主と、
大日本国の 大君主と、両国の好(よしみ)を通し、万世の後迄も限(かぎり)なく、惣躰(そうたい *すべて)実意を以て、御懇意を取結び、睦敷(むつまじく)して、何の心置(こころおき *遠慮)もなく、熟談約束をなし、双方国境を聢(しか)と相定(あいさだめ)、且又(かつまた)後来通信(*信〔まこと〕を通ずる)和好の規定を相定(あいさだめ)申したく、......(「幕末外国関係文書」の三 185号 P.532)

 以下には条約の項目内容として、「修好」、「国境査定」、「大坂・箱館の開港」、「難破船の救助」、「居留民の住居」、「信仰の自由」、「貿易章程」、「アヘンなど制禁の物の交易厳禁」、「領事官の派遣」、「犯罪人の処罰」、「利益均霑(きんてん)」、「批准」が述べられている。
 各項目の中身は、未だ練り上げられたものではないが、項目自身は1854年12月21日、下田で調印された日露和親条約と同じである。
 だが、条約交渉は簡単には進まず、1854(安政7)年1月8日、ロシア艦隊は一時的に長崎を退去した。そこに、ペリー艦隊が予定よりは早く来航する。日米交渉は、比較的スムーズに進展し、2月10日から横浜交渉が始まり、数回の正式交渉ののち、3月3日に、日米和親条約が締結・調印された。(詳しくは後述)
 これとは異なり、日露交渉はなかなか進展しないでいた。アメリカとは違って国境交渉という困難な面があったためだが、他面、クリミヤ戦争の影響もあった。英仏はトルコを援助し、1854年3月、ついにロシアに宣戦布告した。プチャーチンは、英仏の極東艦隊の鋭鋒を避けながら行動し、また対日交渉も行なわなければならなかった。
 プチャーチンは、同年9月に大坂湾に出現し、京阪地方を騒がせたが、翌10月には下田に入港した。ここで、長崎交渉が継続され、1854年12月21日、幕府との間で、ようやく日露和親条約が調印されるのであった。
 その内容は、下田・箱館・長崎を開港するが、両国固有の問題として国境問題があり、条約ではエトロフ・ウルップ両島間を国境とし、カラフトを両国雑居地と定めた。
 日露和親条約は、全9条であるが、内容は以下の通りである(「幕末外国関係文書」の八 193号 P.410~413)。
  
前文(略)
第一條 今より後、両国末永ク真実懇(ねんご)ろにして、各(おのおの)其(その)所 領において、互いに保護し、人命は勿論(もちろん)什物(じゅうぶつ *日用の道具) においても損害なかるべし、
第二條 今より後、日本国と魯西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし、 エトロフ全島は、日本に属し、ウルップ全島、夫(それ)より北の方クリル諸島は、魯西亜ニ属す、カラフト島ニ至りては、日本国と魯西亜国の間ニおいて、界を(わか)分たず、是迄(これまで)仕来(しきたり)の通(とおり)たるべし、
第三條 日本政府、魯西亜船の為(ため)に箱館・下田・長崎の三港を開く、今より後、魯西亜船難破の修理を加へ、薪水食料闕乏(けつぼう)の品を給し、石炭ある地に於ては、又これを渡し、金銀銭を以て報ひ、若(もし)金銀乏敷(とぼしき)時ハ、品物にて償ふべし、魯西亜の船難破にあらざれば、此(この)港の外(ほか)決て日本〔の〕他港に至る事なし、尤(もっとも)難破船につき諸費あらば、右三港にて是(これ)を償ふべし、
第四條 難船漂民ハ両国互に扶助を加へ、漂民はゆるしたる港に送るべし、尤(もっとも)滞在中是(これ)を待(まつ)こと緩優(かんゆう *ゆったりした様)なりといへども、国の正法を守るべし、
第五條 魯西亜船下田・箱館へ渡来の時、金銀品物を以て入用の品物を弁ずる事をゆるす、
第六條 若(もし)止むことを得ざる事ある時は、魯西亜政府より、箱館・下田の内一港 に官吏を差置べし、
第七條 若(もし)評定を待べき事あらば、日本政府これを熟考し取計(とりはら)ふべ し、
第八条  魯西亜人の日本国にある、日本人の魯西亜国にある、是(これ)を待事(まつこ と)緩優にして、禁錮することなし、然(しか)れども若(もし)法を犯すものあらば、 是を取押へ処置するに、各(おのおの)其(その)本国の法度(はっと)を以てすべし、
第九条  両国近隣の故を以て、日本にて向後(こうご)他国え免(ゆる)す処(ところ) の諸件は、同時に魯西亜人にも差免(さしゆる)すべし、

 第二条のカラフトのことについては、両国の間で理解が異なり、ロシア側は「界を分たず」を、未だ国境画定がなされていない―とした。だが、日本側はこれまでの仕来りとおりとして、南部を日本領と理解した。
 第八条は、いわゆる「領事裁判権」にかかわるもので、第九条は、いわゆる「最恵国待遇」である。   

Ⅴ 日米和親条約の締結とこれに続く西洋諸国

 1853(嘉永6)年6月に、来春ふたたび来航すると言って江戸湾を退去したペリーは、その後琉球を訪れ、琉球政府に強要して貯炭所の建設や産物取引所の設置などを認めさせた。さらに南シナ海方面を航行し、1854(嘉永7)年1月(この年12月に「安政」と改元)には、琉球にもどった。 
 それより以前、ペリーは、日本がアメリカの「開国」・通商要求を拒絶した場合のことを考えて、その際には報復手段として琉球占領を計画し、本国政府からその承認を得ていた。
 しかし、本国ではその後、共和党政権から民主党政権に変化した。その民主党のピアス政権は、共和党のような積極策をとらず、ペリーの行き過ぎた行動には批判的であり、それを抑え込もうとする方針を採った。
 このため、ペリーは日本行きを早めた。また、ペリーは、イギリス・フランス・ロシアなどが東アジアにあるアメリカ艦隊の行動に対し干渉するような動きをとったので、予定よりも日本訪問を早めたのであった。
 7隻からなるアメリカ艦隊は、安政元(*正確には嘉永7)年正月11日(西暦1854年2月8日)に伊豆沖に現われ、ついで江戸湾に進み、1月16日には浦賀沖を通過して金沢錨地に集結した。浦賀奉行は、艦隊の浦賀沖での碇泊を交渉したが、ペリーは承諾せず、さらに羽田沖まで進み、江戸市街を遠望した。あわてた幕閣は、神奈川駅のはずれの横浜で交渉を行なうと譲歩した。
 幕府を代表する応接掛(交渉委員)は、林大学頭(儒役)・井戸対馬守覚弘(町奉行)・鵜殿長鋭(ながとし *目付)らであり、1月19日に浦賀に着いた。そして、浦賀奉行の井沢美作守・戸田伊豆守2名と相談しながら対応することとなった。
 幕府としては、「ぶらかし」政策によってぬらりくらりと対応し、確答を与えない行動をとって、ペリー艦隊の退去を図った。それには、次のような経過があった。「(*1月)28日艦隊が江戸近く進む気勢を示したとき、斉昭はにわかに登城し、溜場詰(たまりばつめ *譜代有力大名の詰め場)の大名を集めて対策を協議した。というより、この機に『我が武威を示』さんとしたのであるが、筆頭の彦根藩主井伊直弼(なおすけ)ら一同に反対された。井伊は、『おたくでは早くから軍備を整えているからできるかもしれないが、うちではとても打ち払いなどできないことだ』と言ったという。斉昭は前年夏の諮問に際して、打ち払い強硬論を上申した桑名藩主松平定猷(さだみち)に期待していたのが、当人は『俯伏(ふふく *うつむき伏す)唯(ただ)平穏を希(ねが)う』のみで『溜場詰の議(ぎ)皆(みな)之(これ)に和同し』たので、『斉昭事を共にする者なきを知り、憮然(ぶぜん)として退』いた。」(土居良三著『開国への布石』未来社 2000年 P.227 『』中の言は、渡辺修二郎著『阿部正弘事蹟』からの引用)と言われる。
 さらに、「......二月一日追い打ちをかけるように、老中松平忠固は密かに勘定奉行松平近直に命じ、横浜に急行して『閣中の内意』を左のように林に伝えさせた。/『応接の事(こと)一々旨(むね)を老中に請(こ)うなかれ、若(も)し之(これ)を老中に請わば、老中又(また)之(これ)を前中納言(斉昭)に諮(はか)らざるを得ず。然(しか)るときは平和の談判に不可なるものあらん。卿等(きょうら)宜(よろ)しく相議して専決事に従うべし。若し後日責を蒙(こうむ)ることあらば老中之(これ)に任ぜん。』(同前 P.227)と断言している。
 ペリーとの交渉において、いちいち老中の指示を要請するな!(老中の「和」という方針に従って)自分たちで専決して対処せよ!と命じている。そして、後日、責任問題が生じるとしたら、老中が責任をとる―というのである。ここには、一々、老中に相談すると、海防参与の斉昭にも諮問しなければならないから、既定方針に沿って、現地で専決せよ―といって、実に斉昭が「邪魔者扱い」されている様子が明瞭となっている。まさに、斉昭の「攘夷論」は、すでに幕閣の意志とはかけ離れており、いうなれば完全に「浮いて」いるのであった。
 嘉永7(1854)年2月10日、正式な日米間の交渉の第一回目が行なわれ、前後四回の交渉を経て2月30日、両国協定の大綱がほぼ成ったので、ペリーが日米和親条約草案を提出し、これに基づいて両国全権が審議をすすめた。交渉を開始して以来1カ月足らずの同年3月3日(西暦1854年3月31日)に、日米和親条約が締結・調印される。同条約の12ケ条は、以下の通りである。

一(第一ケ條)日本と合衆国とハ、其(その)人民永世不朽の和親を取結ひ、場所人柄の
差別これ無き事、【両国の和親】
一(第二ケ條)伊豆下田・松前地の両港ハ、日本政府ニ於て、亜墨利加船薪水食料石炭欠 乏の品を、日本にて調(ととのえ)候(そうろう)丈(だけ)ハ給(たまひ)候(そうろう)為(た)メ、渡来の儀差免(さしゆる)し候、尤(もっと)も下田港は、約條書面調印の上(うえ)即時にも相開き、箱館ハ、来年三月より相始(あいはじめ)候事、......【開港の場所及び時日】
一(第三ケ條)合衆国の船日本海濱(かいひん)漂着の時扶助いたし、其(その)漂民を 下田又(また)ハ箱館に護送し、本国の者(もの)受取(うけとり)申すべく、所持の品物も同様に致すべく候、尤も漂民諸雑費は、両国互(たがい)に同様の事(こと)故、償(つぐないに)及ばざり候(そうろう)事、【漂民の扶助】
一(第四ケ條)漂着或(あるい)は渡来の人民取扱(とりあつかい)の儀ハ、他国同様緩 優にこれ有り〔*自由あらしめ〕、閉籠(とじこ)メ候儀致すまじく、しかしながら正直の法度〔*日本の公正な法〕にハ服従いたし候事、【漂民及び渡来人民の取扱い】
一(第五ケ條)合衆国の漂民其他(そのた)の者ども、當分(とうぶん)下田箱館逗留(とうりゅう)中、長崎に於て、唐・和蘭(オランダ)人同様閉籠メ窮屈の取扱これ無く、下田港内の小島周りおよそ七里の内は、勝手に徘徊いたし、箱館港の儀ハ、追(おっ)て取極(とりき)め候事、【遊歩区域】
一(第六ケ條)必用(必要)の品物其外(そのほか)相叶(あいかなう)事ハ、双方談判 (だんぱん *交渉)の上(うえ)取極候事、【必需品及び必要な事務の取極め】
一(第七ケ條)合衆国の船右両港に渡来の時、金銀銭あわせて品物を以て、入用の品(し な)相調(あいととの)ひ候を差免し候、尤も日本政府の規定に相従(あいしたがい)申すべし、且(かつ)合衆国の船より差出(さしだし)候(そうろう)品物を、日本人好まずして差返(さしかえし)候時は、受取(うけとり)申すべく候事、【必需品の交易】
一(第八ケ條)薪水食料石炭あわせて欠乏の品を求(もとむ)る時ニハ、其地(そのち) の役人にて取扱すべし、私に取引すべからざる事、【欠乏品の供給は官吏の取扱い】
一(第九ケ條)日本政府外国人に當節(当節)亜墨利加人に差免(さしゆる)さざりし候 廉(かど *箇条)相免し候節ハ、亜墨利加人にも同様差免し申すべし、右に付(つき) 談判猶(なお)豫(あらかじめ)致さざり候事、【利益均霑(きんてん *同等の利益を得ること)】
一(第十ケ條)合衆国の船若(も)し難風に逢いたる時ハ、下田箱館の港の外(ほか)猥 (みだ)りに渡来致さざり候事、【開港しない港は碇泊禁止】
一(第十一ケ條)両国政府に於て無據(よんどころなき)儀これ有りて候模様ニより、合 衆国官吏のもの下田に差置(さしおき)候儀もこれ有るべし、尤も約定調印より十八ヶ月後にこれ無き候てハ其儀(そのぎ)に及ばざり候事、【領事官の派遣】
一(第十二ケ條)今般の約條相定(あいさだめ)候上ハ、両国の者堅く相守り申すべし、尤も合衆国主(*大統領のこと)に於て、長公會大臣と評議一定の後、書を日本大君(*
将軍)に致し、此事(このこと)今より後十八ヶ月を過ぎ、君上許容の約條取替(とりかわ)し候事、【条約の遵守及び批准】

 ペリーは当初、通常の通商条約の締結を要求したが、幕府側の閉鎖的な海禁政策を「祖法」とするかたくなな態度があって、そのため「開国」への現実的な第一歩として、和親条約に満足せざるを得なっかった。日米和親条約の特徴は、第八ヶ条にみられるように、従来からの国家間交易に留めること(民間の自由な貿易の禁止)であるが、下田・箱館2港の開港、石炭・水・食料などの供給、漂流民の救護、領事の下田駐在などが取り決められ、通商条約への足がかりを得たことである。だが、第九ケ条の片務的な最恵国条款にみられるように、明確に条約の不平等が示され、しかもそれが対米関係にとどまらず西洋列強に連動する形になっているのである。
 3月5日、米使応接掛は上申書を提出し、条約書も添えて調印の経過を報告した。「応接掛は書中で、条約書には老中方の書判(かきはん *花押)もなく、応接掛の書判ですませたこと、ペリーの江戸参府および江戸湾内測量を拒否したことなどを述べて、国威を立てたと自負した。しかしここに端(はし)なくも応接掛の越権行為が判明して、幕吏の中からも不満の声が噴出した。」(吉田常吉著『安政の大獄』吉川弘文館 1991年 P.52~53)と言われる。
 この年、幕府はアメリカとの和親条約調印に続き、8月23日には、イギリスとの日英和親条約(日英約定)に調印し、長崎・箱館を開港する。イギリスの対日交渉はクリミヤ戦争と深くかかわっていた。東インド艦隊長官スターリングは、1854年7月長崎に入港し、日本の諸港がロシア海軍の対英軍事行動の基地と化すことを阻止するために、日本に対して戦時中立国としての義務遵守を要求した。しかし、当時の日本は国際法に関し全く無知であり、スターリングは結局諦めて、日米和親条約と同様の日英約定を締結することで終った。
 同年9月2日には、幕府はこれまでヨーロッパ諸国の中で唯一、長崎出島で通商関係をもっていたオランダに対して、新たに下田・箱館を開港する。
 同じ9月、英仏連合艦隊は、ロシア太平洋艦隊の根拠地であり、またアラスカへの重要な中継地でもあったカムチャッカ半島のペテロパヴロフスク港を、南米カリャオ港から長駆攻撃する。だが、激戦の末敗れる。(しかし、この戦いによって、ロシアはアラスカの防衛が不可能なことを覚り、カラフトや沿海州の確保に力を入れるようになる)
 同年12月21日、幕府は前述したように、日露和親条約を締結し、下田・箱館・長崎を開港する。

Ⅵ 安政改革と斉昭の軍制参与就任

 (1)阿部は辞任願いを出して将軍の信任を得る
 斉昭は、嘉永7(1854)年3月3日に、日米和親条約が締結されると、その1週間後、海防参与の辞任を表明する。老中首座の阿部正弘は必死に慰留に努めるが、今回はそれもかなわず(海防参与辞任の表明は前年10月にもあった)、4月になって辞任は認められた。
 斉昭が辞任願を出した理由は、日米和親条約の締結交渉での日本側全権の態度に、大いに怒りをもったからである。「......去る二月十九日の第二回の談判で、応接掛が下田の開港を提議したことで、斉昭は失態も甚だしいとし、応接掛を改選し、あえて開戦を辞さない決心で談判すべしと建議した。林と井戸が江戸に召還され、二十二日幕議が開かれたが、ペリーの強硬な態度を知って、阿部閣老は下田の開港もやむをえないとしたのである。条約調印後、阿部閣老は応接掛の上申書で越権行為を知って、三月九日これを斉昭に告げたので、斉昭は翌日登城して海防参与を辞任する内意を閣老と側衆に伝え、以後は病と称して登城しなかった。そして十八日に辞任の願書を提出した」(吉田常吉著『安政の大獄』P.53~54)のであった。
 同年4月10日、今度は阿部正弘が辞意を同僚の牧野忠雅に伝えた。表向きの理由は、自分がこのまま今の地位(老中首座)にいては、「諸向憤発の儀、覚束(おぼつか)なく、海防を始め御取締向等(とう)後手(ごて)に相成る」からというのである。だがそのさらに立ち至った中味は、「ペリーの来航(*再度の来航)がわかっていながら、『武備相整い、海岸防禦(ぼうぎょ)筋(すじ)行届(ゆきとど)く』ことができず、したがって『万端穏便』に対応せざるをえなかった。このため『国法相崩れ』『国辱』を蒙ることとなったのは、まったく老中首座の任にある私の『不行届』のゆえである。/これは上、家慶、家定に対して申し訳ないばかりか、『諸藩に対し面目を失う』結果となり、阿部のやることは万事『手緩(てぬる)』いということになって幕威にかかわる。したがってこれ以上いまの地位に留まることはできないから、老中首座を免じてほしい。」(土居良三著『開国への布石』 P.248~249)ということである。
 だが、土居氏によると、さらにその奥には本当の原因があるようである。それは当時反阿部勢力の陰謀があり、それを事前に封ずるために、将軍家定(在位1853年10月23日~1858年7月4日)に辞任願を出して、それを将軍が却下すれば結果的に信任されたと同じ効果を発揮し、反阿部勢力の陰謀(阿部追い落とし)が打ち砕かれることになるからである。
 その陰謀の担い手については、明確にすることは困難であるが、どうやら溜間詰(たまりばづめ)の勢力である―という。溜間詰は、有力な譜代大名などが詰める間であり、それは三家三卿、家門に次ぐ譜代大名のトップクラスである。当時は、彦根の伊井家をはじめ、会津・高松・桑名・忍(おし)の松平家、姫路の酒井家、伊予松山の久松松平家、佐倉の堀田家―以上8家の藩主が詰めていた。井伊・酒井・堀田は大老を出した家柄であり、他は松平を名乗る一門である。この溜間は、将軍出座の間に最も近く、直接将軍に言上することが許されていた。
 そもそも徳川幕府は、三家三卿・家門と有力譜代大名のバランスの上に成り立ち、中小規模の譜代大名の老中政治によって運営されていた。したがって、病弱な将軍を補佐するものとして、御三家出身の斉昭が老中政治に影響力をもつ(斉昭と阿部の協力関係)ようになると、必然的に有力譜代大名が対抗関係をもつのであり、当時の溜間詰めのリーダー的存在が井伊直弼なのであった。しかし、溜間詰の譜代大名が力を持つようになると、阿部は斉昭と交流をもつ島津斉彬・松平慶永・伊達宗城ら外様をふくめた雄藩との連携を強める―という関係になる。
 阿部の老中辞任願いは、見事に成功し、阿部は将軍から続行命令を受けて、信任されたのであり、溜場詰の大名らによる阿部追い落とし作戦は失敗したのであった。

 (2)幕府財政の危機に呻吟する阿部ら幕閣
 将軍家定の信任を得た阿部は、1854(嘉永7)年5月26日、勘定奉行(松平河内守・川路聖謨)が調査し秘密とされた幕府財政の書類(嘉永7〔1854〕年4月付け)を斉昭に送り、財政改革について相談した。当時、ペリー来航以来の海防・警備、それに皇居造営などで幕府財政がさらにまた一段と危機を深めたからである。
 この財政に関する書類の一部が『水戸藩史料』上編乾に掲載されているが、それによると、嘉永6(1853)年の歳計の清算書として、江戸湾などの砲台造築・沿岸警備の強化など海防支出が計386万6000両余で、計画よりも73万6000両余不足している。これに「年々〔の〕御繰合(くりあわせ)御不足」14万両余もあるので、「是非共一ヶ年貮拾(20)万両以上の御倹約(ごけんやく)之(これ)無く候ては迚(とても)御勝手向(おかってむき)は立行(たちゆき)難(がた)くと存じ候」(P.394)と、勘定奉行は訴えている。(《補論 幕府財政構造の変遷》を参照)
 阿部の相談に対する斉昭の助言は、以下のようなものであった。

一(第一カ条)御収納の金穀(きんこく)よりも御出方(*支出)相過(あいすご)し候ニ付(つき)、年々金銀吹立(ふきたて *貨幣に鋳ること。「吹く」とは、金属を溶かすこと)を以て御補(おんおぎなひ)、夫(それ)ニても莫大ニ御不足ニ相見(あいまみ)へ御同意恐れ入り奉り候。是非御改正の上、量入為出(入るを量〔はか〕りて出〔い〕だすを為〔な〕す)の御規矩(きく *規則、基本)御立(おたて)然(しか)るべく存じ候事。
一(第二カ条)量入為出候儀、諸向きの御入用(*支出)を半減又(また)ハ三分一御減抔(など)申す事にてハ人心服し兼(かね)候のみならず御摸(おさぐり)通り何共(なんとも)安心致さず候間、是非御制度の上より御変通(ごへんつう)之(これ)無く候てハ相成るまじく存じ候。
一(第三カ条)御制度の基本、武家ハ武を張り候為(ため)ニ之(これ)有るべし。この武の一字ハ日本あらんかぎり御当家(*徳川家)あらんかぎりハ決して御動(おゆるが)し相成らず。扨(さて)御制度の儀ハ時勢ニより御変通ニて然るべし。況(いわん)や太平の習俗流弊(りゅうへい *以前から伝わっている悪いこと)を古例先格と心得(こころえ)候類(たぐい)ハ一円御決断ニて復古(ふっこ)然るべく候事。
一(第四カ条)富国強兵ハ方今(ほうこん *現在)の急務勿論(もちろん)に候処(そうろうところ)、富国のみを主とし強兵を忽(ゆるがせ)にいたし候ハ町人共の見識と存じ候。強兵のみ論じ富国を忽にいたし候ハから理屈(空理屈)と存じ候事。
一(第五カ条)御取締年限(ねんげん)長過(ながすぎ)候へハ退屈いたし候間、始めハ三ヶ年の間(あいだ)厳重云々(うんぬん)と仰せ出だされ人心風俗倹素(けんそ *倹約で質素)ニ赴(おもむ)き候上、又候(またぞろ)御年限続け仰せ出だされ方と存じ候事。

 第一カ条・第二カ条にいう「量入為出」(中国では「量入以(もって)為出」と表現)は、中国古来から言われるもので、収入と支出の釣り合いを計るという意である。したがって、斉昭も幕府財政の莫大なアンバランスを目の前にして、現行制度を前提にした上での支出の半減とか三分の一減とかでは、多くの人が納得しないので、大変革を主張する。
 しかし、その肝心の変革の中身については、斉昭は具体的には提起できないでいる。ただ、制度の基本については第三カ条で、「武を張る」こと、すなわち武家の権威と権力を持続させることを第一として、「太平の習俗流弊」を止めて、復古(家康時代か)に帰れ! と言うだけである。
 そして、当時多くの大名などの「共通認識」かと思われる「富国強兵」に関しても(第四カ条)、富国のみを主として強兵をおろそかにするのは、町人共(商人)の考えだとして、批判する。それでも「外敵が迫る」中で、幕府財政が惨憺(さんたん)たるものなので、「富国」を言わざるを得ないのである。
 ただ、藩政改革を行なった経験から、第五カ条で、改革期間を長過ぎないようにするべきと適切な助言をしている。

《補論 幕府財政構造の変遷》
 徳川幕府の財政状況を検証する一つの方法として、江戸城の金蔵の貯蓄を調べることがある。
 児玉幸多著『日本の歴史』16元禄時代(中公文庫 1974年)によると、徳川家康が死亡した時に、江戸城に残された金銀は、193、4万両であり、秀忠(将軍在位1605~23年)の死亡時(1632年)には約330万両であった(P.374~375)。
 第三代家光(在位1623~51年)の時代は、江戸城西ノ丸の全焼、30万人の大名・家来を率いた上洛、日光東照社の造営と11回に渡る社参など物入りが多く、第四代家綱(在位1651~80年)の時代も大火が多く、出費が重なった。しかし、「明暦の大火」(1657年1月)で江戸城の天主閣の下の奥金蔵(おくかなぐら)が焼け落ち、金銀は溶けて地中に流れ込んだ。金銀を1660(万治3)年8月までに吹き分けたところ、これが小判にして390万両ほどになったと、言われる。
 だが、「家綱の晩年の延宝年間(*1673~81年)には、さきに万治二年(一六五九)に鋳造した非常用の金銀の分銅のうち、金分銅七個をつぶして小判五万七千余両とし、銀
分銅四十個、千七百五十八貫を銀貨にした。すでに天守の金蔵にあった四百万両近い金銀に手をつけていた」(児玉幸多前掲書 P.378)のである。
 古島俊雄著「幕府財政収入の動向と農民収奪」(『日本経済史大系4』近世下 東大出版会 1965年)でも、「明暦の大火」で溶解した金銀について、「分銅に鋳立て、金分銅二一個、その他分銅をえて、これを非常用に保存したが、延宝・天和(*1673~84年)と小判に吹立てて、うち金分銅一七個を失っている(『吹塵録』第一二冊、一六頁)。一七五〇(寛延三)年の調べではさらに減少して三個、一三〇貫三五〇匁を保有するにすぎない。この年、ほかに銀分銅五個二一九貫七八〇匁、印子(いんす *江戸時代、中国から輸入した金塊)三〇六個三〇貫一二九匁をもつが(『誠斎雑記』〔『江戸叢書』巻九〕一四~六頁)、これらは一七八五年頃(天明期)にいたるまでそのまま保有されている。」(P.7)と述べられている。
 これによると、1750(寛延3)年には、金130貫350匁(金2607両)、銀219貫780匁(金換算4395・6両)、印子30貫129匁(金換算602・58両)で、非常用の分銅は金換算で総計7605・18両にまで減少していることになる。
 だが、古島氏は、「これに対して奥金蔵に保有された金銀貨は金に換算して、一七五〇年の一一四万八千両余から漸増して、一七七一(明和八)年には一七一万七千余両となり、ここから一転して激減に向い、一七八八(天明八)年四一万七千余両、一七九八(寛政一〇)年三七万七千余両となっている。吉宗治世以後の財政建直しの努力と、田沼期の窮乏を明らかに知ることができる。」(同前 P.7)と述べている。
 徳川幕府の財政は第五代綱吉の時代(在位1680~1709年)から、急速に困難になっていく。このために、通貨を改鋳し、金銀貨の質を低下させ、その益金をもって財政を補填するようになる。これを行った勘定奉行・荻原重秀のいうところによると、「幕領四百万石から納められる年貢米と、元禄時代から始めた長崎運上の四万両、酒運上の六千両を加えて、一年に七十六、七万両の収入にすぎない。このうちから旗本・御家人の給与三十万両を引くと、残るところは四十六、七万両である。ところが歳出は、綱吉の最後の年の宝永五(一七〇八)年には一四〇万両におよんでいた」( P.387)といわれる。
 そこで以下では、歳入・歳出面から徳川幕府の財政構造を見てみることとする。
 山口啓二氏の研究では次のようになるとされる。徳川幕府の成立当初の直轄領石高は、約200万石であったが、一世紀余り後の享保年間(1716~36)に入ると、約400万石に達する。この幕領からの年貢はほぼ140万石(したがって幕領の石高の35%)で、その内訳は米が80万石程度で、残る60万石分は、貨幣納で(関東では金納、関西では銀納)それは金に換算すると約50万両にあたる。以上が総収入である。
 他方、支出の方は、地方知行(じかたちぎょう *給与形態が土地)を与えられていない旗本と、すべての御家人への禄米の合計が約53万石、役料(家禄より上位ランクの職務を担う場合の給与)が計約36万石で、これら合せた給与が約90万石(総収入の3分の2近く)となる。残り50万石の内、大奥経費が19%、中央行政費が7・6%、地方行政費が9・9%といわれる。なお、山口氏の言うように、軍夫・夫役の人数も含めて考察すべきであろう。(同著『鎖国と開国』岩波書店 1993年 P.119~121)
 享保年間から約100年超経過した天保期(1830~44年)の財政構造をみると次のようなる。「天保期の幕府年貢高は一四〇万石前後、年貢率(*収奪率)は約三三%であったが、一八四一(天保一二)年に幕府は年貢引上げのために幕府領で石高の再調査を開始したが、近江では検地反対一揆がおき、中止を余儀なくされた。」(杉山伸也著『日本経済史』近世―現代 岩波書店 2012年 P.122)といわれる。
 ここで言う「幕府年貢高は一四〇万石前後」というのは、物納も貨幣納も含めた年貢総量である。そして、杉山氏は古島氏の前掲論文(1843年と1844年の貨幣方収支)を参考にしながら、しかし、1844(弘化元)年は江戸城本丸の修復費が計上された例外年なので、1843(天保14)年を対象として、財政構造を次のように分析した。「そこで米方収入(*現物年貢収入)の平均を五五万石、一石=一・一両として四三年度に加算して再計算すると、経常収入と臨時収入の比率は六三%対三七%となり、年貢米の全収支にしめる比率は五六%になる。享保期には金方収支(*貨幣納収支)だけをみても年貢収入が約六〇%強......をしめていたので、この時期には年貢への依存度は減少しており、それは御用金や貨幣改鋳益金など臨時収入の恒常化と表裏の関係にあった。それだけでなく、米納のうち現物納が約五〇%から四〇%に低下しているのに対して、代金納のシェア約三〇%から約四五%に増加しており、年貢に基礎をおく幕府財政が構造的に破綻していることをしめしている。一八一八(文政元)年以降の貨幣改鋳で三七年(*天保8年)までに幕府の収益は九〇〇万両にのぼり、三二年から四二年までの改鋳益金の総額は七五五万七〇〇〇両、年平均六八万七〇〇〇両にのぼった」(杉山前掲論文 P.123~124)のである。
 この100年超の期間における幕府財政構造の変化を示す特徴を大ざっぱにあげると、まず第一は、年貢総収量の変化である。
 古島敏雄氏の論文「幕府財政収入の動向と農民収奪」を参考にすると、年貢総収量は2つの山があるという。一つ目は、1741~65年の平均が160万石を超えていること1)、二つ目は、1796~1820年(ただし、1806~10年を除く)の平均が150万石を超えていることである。この間で最も少なかったのは、天明の大飢饉(1782~87年)を含む1786~90年(天明6~寛政2年)約130数万石である。
 収奪量は年貢賦課率によって規制される面が多いが、この年貢賦課率は、一つ目の時期が平均三六・九%、二つ目の時期が三四・二%である。農民一揆などで、収奪にも限界があるのである。1821~8(文政4~8)年から年貢総収量は傾向的に低落し、1831~35年期には130数万石に落ちる。
 第二は、米立年貢量中での代金納比率の増大である。
 代金納は、18世紀の末期ころから漸増してくるが、推定では、「享保期の代金納率二七%前後から文政天保期の四〇%近くへの大きな変動を想定してよい。」(古島前掲論文 P.16)と言われる。このように「......代金納を望む動きが農民側から生じるにせよ、領主側の要求に基づくにせよ、農民にとっては貨幣入手の増大と、米納年貢納入後に手元に残る米の量を増加させていることを示している。この場合、貨幣入手は、米自体の販売によることも考えうるが、それよりも、米販売よりも有利な商品化可能作物の採用、栽培面積の拡大、問題となる作物の生産力の増大、あるいは農産物加工業の発展による貨幣入手の増大のあることが予測されるのである。農民経済全般が商品流通に深く入りこみつつあることの表現であるとみてよい」(同前 P.16)のである。
 第三は、年貢外貨幣収入の変化である。
 封建的土地所有者としての幕府が、本来、土地所有による年貢収入に依存することが基本ではあるが、しかしそれ以外の特別な収入を持つことは早くから始まっている。「江戸時代初頭よりもつそのような収入部門は長崎貿易収入たる長崎会所の上納金や金銀山収入であるが、漸次重要度をましてくるものに、臨時の各種造営費・土木工事費の諸大名への賦課金がある。そのほか河海の舟運に対する運上金、大坂を中心とする株仲間の運上金、町人・百姓に対する御用金の強制的借上げも、その額の多いことでは特色となろう。さらに諸大名・町人・百姓等に対する貸付金の利子収入も後期には重要な意味をもってくる。貨幣悪鋳の際の改鋳益金も幕府財政の特殊性をなす。」(同前 P.10)のである。
 年貢外貨幣収入を項目別にみると、長崎貿易や鉱山収入には大きな変動はない。もっとも金は最大の産出を誇った佐渡金山が、元和の末頃(1623年前後)、400~500万両を上納していたのが、寛永末年(1643年)ころにはそれがほとんど無くなり、銀山も元和の末頃に5000~6000貫(金換算で10~12万両)であったが、元禄期(1688~1703年)になると10分の1に減少した。
 長崎貿易はもともと朝貢貿易のために幕府の統制の下にあったが、金銀流出が激しかったので新井白石の時代に貿易統制で縮小させられた。白石の調査によると、1648~1708(慶安元~宝永5)年の約60年間に金239万7600両余、銀37万4200貫(金換算で748万4000両)が流出し、銅も1663~1707(寛文3~宝永4)年の34年間で、11億1449万8700斤も海外に流出した。1601(慶長6)年以降の107年間に日本で産出された金の4分の1、銀の4分の3が海外に流出したのである。そこで、幕府は長崎貿易を制限し、唐船を年間30艘、オランダ船年間2艘と定め、貿易額も唐船に年間銀6000貫目(金換算12万両)、オランダ船に年間3000貫目に抑えた。
 また、享保改革期に松平乗邑・神尾春央らの過酷な取り立てで年貢増徴は極点に達し、また、既存耕地からの増収は限界に達し、田沼時代(1758~86年)は、直接税(年貢増徴)から営業税を導入し定着させた。商工業者の同業者組合である株仲間に、販売の独占権を与える代わりに運上金や冥加金(みょうがきん)の名目で、営業税を上納させた。
 そして幕府は、自らも専売体制を整備し、輸出品としての銅を扱う銅座や、蝦夷地などからの俵物(干海鼠・干鮑・フカヒレなど)・諸色(雑物)を扱う俵物会所を設け、輸出品の拡大を奨励した。
 田沼政治を財政上で決算すると、「田沼意次が政治の主導権を握る以前の1755年、幕府の貯蓄額は253万両であったのが、1770年には、300万4000両に増やしている。しかし、この年をピークにして貯蓄額は大きく減少し、田沼失脚後の1788年には81万7000両にまで減少した。」(『プロレタリア』紙2015年2月1日号 拙稿『幕藩制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源』②)のであった。
 この田沼意次は、1761~62年に御用金を大坂商人に課した。空米切手(先物)の禁止と同時に幕府御用金170万両を上納させた。しかし、これは70万両しか集まらず、打ち切られた。だが、田沼はその復活を狙い、たびたび法令を出し、ついに1785年に再度、大坂商人に対し御用金徴収が課され、翌年には御用金を全国の諸身分に拡大して課す全国御用金・貸付会所令が発令された。しかし、田沼は怨嗟の下で、1786年8月に失脚し、これもまた失敗する。(御用金について詳しくは、拙稿『幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源』②を参照―『プロレタリア』紙2015年2月1日に所収)
 ところで、年貢外貨幣収入は、とりわけ、その変動が激しい。5カ年単位でその年平均をみると、対象期間で150万両のレベルを超えたのは、1736~40(元文元~5)年期、1756~60(宝暦6~10)年期、1786~90(天明6~寛政2)年期、1816~20(文化13~文政3)年期、1821~25(文政4~8)年期、1826~30(文政9~天保元)年期、1831~35(天保2~6)年期である。
 この流れの中で、全貨幣収入の中での年貢外貨幣収入の比率をみると、きわめて印象的なのは、1786~90年期が72%であったのが、次の5年期(1791~95〔寛政3~7〕)には36%まで激減する。ただしその後、年貢外貨幣収入の比率は目覚ましく伸張し、(30年後の)1821~25年期には、78%前後ぐらいを占めるようになる。
 年貢外貨幣収入を額でみると、1786~90年期の平均は157万5000余両で、その後の2年間の平均は61万5000余両に激減し、松平定信退任(1793年7月)後五年間の平均はさらに減少し、36万7879両となる。
 幕府財政は、大きく分けると定式(経常)と臨時の収支に区別できる。次の表は、前掲の古島敏雄論文中の表(P.40~41)を抜粋したものである。

 各期別臨時収支の動向          (単位:両)
                      臨時支出     臨時収入
                    期間内計 年平均  期間内計 年平均 
1789~1790(寛政1~20)年期   294000 147000 286000 143000
1791~1795(寛政3~7)年期 216000 43200 165000  33000
1796~1800(寛政8~12)年期 707000 141400 310000 62000
1801~1805(享和1~文化2)年期 750000 150000 808000 161600
1806~1810(文化3~7)年期    831000 166200 451000 90200
1811~1815(文化8~12)年期 735000 147000 677000  135400

 上記の表にみられるように、1791~1795年期になると、臨時支出は年平均で4万3200両に激減する。それは、前期の約3分の1である。臨時収入もまた、この期は年平均で3万3000両で、前期の23%である。臨時収入は次の期(1796~1800年期)も6万2000両の低い水準にとどまっている。
 古島氏によると、「臨時支出のうち、全時代を通じて一般的にみられるものは、宮殿・神社・仏閣等の造営・修復、治水工事、幕府の営む祭事・仏事、朝鮮来聘(らいへい)使(*朝鮮通信使のこと)の出費であり、それに対しては収入として、諸大名の御手伝(おてつだい)上げ金、百姓の国役高掛金2)が対応して徴収されている。それらは寛政改革(*1787~93年)の倹約令下においても、他の時代に比べてとくに多くはないかもしれないが、収支の主要項目となっている。」(P.37~38)と言われる。
 しかし、寛政の改革の頃は、直前の天明の大飢饉による全国の疲弊、また田沼時代、幕藩が百姓の商品生産へ介入し広汎な一揆が起こり、これらを目前にして幕府は年貢収奪に「逡巡」し、大がかりの臨時負担も課すこと出来得なかったために、臨時収入が激減したのであった。
 年貢外貨幣収入を大きく変動させた要因としては、諸大名への御手伝金・百姓への国役とともに、改鋳益金がある。
 貨幣改鋳は、1736(元文元)年の元文改鋳以降、80数年にわたって、行なわれていなかったが、1818(文政元)年に水野忠成(ただあきら)が老中に就任すると「文政の貨幣改鋳」として再開された。「貨幣改鋳による通貨供給量の増加とともに幕府の財政規模はさらに拡大した。一八〇〇年代に一四〇万両前後であった金方(かながた)収支(*貨幣のみの収支)の財政支出規模は、改鋳直後の二〇年には三五〇万両、二一年には四八七万両(*前年の1・4倍)と急激に膨張した。幕府の財政収支は、米方収支が限界に達して停滞的であったのに対して、金方収支の規模は拡大し、米方収支と金方収支の比率は一八〇〇年前後の一対二から、一〇年代には一対四、二〇年代には一対六になった......。金方収入は年貢米を主とする経常収入と臨時収入にわけられ、一七九六(寛政八)~一八一五(文化一二)年の臨時収入をみると、臨時収入は大名手伝金および国役高掛金など年平均で一一万両、臨時支出は治水工事・修復費・蝦夷地入用・買上米代金など年平均一五万両で、金方の約一〇%にすぎなかった(古島「幕末財政収入の動向と農民収奪の画期」)。しかし、一八一八年の文政の改鋳以降、こうした財政構造は大きく転換した。」(杉山伸也著『日本経済史』近世―現代 岩波書店 2012年 P.116)のである。
 それは、財政規模を大幅に拡大しただけでなく、米方収支に対する金方収支の規模をやはり大幅に拡大させたのである。この構造転換において、最も大きな役割を果たしたものこそが改鋳益金なのである。「一八一八(文政元)年以降の貨幣改鋳で三七年(*天保8年)までに幕府の収益は九〇〇万両にのぼり、三二年から四二年(*天保3~13年)までの改鋳益金の総額は七五五万七〇〇〇両、年平均六八万七〇〇〇両にのぼった(作道洋太郎「幕藩体制と通貨問題」)。」(同前 P.124)のである。
 なお、改鋳益金は、1843(天保14)年39万4400両、1844(弘化元)年85万6400両となっている(大口勇次郎著「幕府の財政」〔日本経済史2『近代成長の胎動』岩波書店 1989年〕P.163)。幕末財政における改鋳の役割は、依然として大きいのである。
 年貢外貨幣収入は、「文政の貨幣改鋳」以降、改鋳益金がもっとも大きな位置を占めるが、他に、御用金(大名手伝金ならびに農民・町人の上納金など)、諸貸付返済金、流通過程からの税収(各種運上金や長崎会所上納金)などがある。
 以上の経過を経て、嘉永~安政期(*1848~1859年)の幕府の財政構造が形作られるのであるが、その特質を井伊家史料所収の「幕府勘定所勝手方勘定帳抜書」を分析し、森田武氏は以下のようにまとめている。
 「①米方の収入は嘉永期及び安政年間の同三年(*1848~1856年)迄ほぼ五〇万石台から六〇万石台が維持されているが、これは、年貢収奪がすでに限界に来た形で維持されていることを示している。そして、この限界性は、天保期の延長線上にある。
 ②金方の特質をみると、歳入においては、歳入総計は嘉永元年から同六年迄、同五年を除いてほぼ一四〇万両台であり、その内、年貢金を主たる内容とする定式納が最も多く八〇~九〇万両台、次いで『別口納』が二〇万両台、金銀座益金と江戸城、日光・増上寺霊屋等の普請・修復手伝金が続いているが、この内、金銀座益金は嘉永期に次第に低下し、天保十四(*1843年)に約四十万両、弘化四年(*1844年)三十七万両であったのに比し、嘉永六年(*1853年)には約十万両に減じる。いわば、物価対策を見据えて財政の緊縮を図って来たといえるだろう。歳出も又(また)、この緊縮傾向に見合った内容であり、天保期と似た性格をもち、判明する対外防備費も嘉永四年の大筒(おおづつ)鋳立(いたて)費五千六百八十三両、同五年の台場築増・大筒鋳立・打場取立費約二万両にすぎない。かかる動向の後、歳出面において嘉永六年(*ペリー来航)の対外関係の緊迫化を契機に、海防費の比重増加が顕著になって来る。同年の場合、台場の大筒鋳立・玉薬・大船製造費として三十四万五千両を計上せざるを得なくなる。従って金方に限っていえば、六十七万両余の赤字を招来することになる。安政一~三年(*1854~56年)は海防・軍事費の細目を知ることが出来ないが、海防関係費以外の支出を嘉永期全般と同様とすれば嘉永年度並に達していると思われる。従ってこの段階の金方の財政規模も拡大し歳出入共二百万両前後を上下する。そして、この財政膨張を支えたのが、大口氏が指摘するように貨幣改鋳益金と大名手伝金、諸上納金である。すなわち、安政三年の金銀座御益納は全金方収入の約二五%、大名手伝金・諸上納金合せて約二六%を占めることになる。」(同著「幕末期における幕府の財政・経済政策と幕藩関係」―『歴史学研究』第430号 1976年3月)といわれる。
 改鋳益金に依存することは、物価上昇を招き、経済の混乱をもたらすこととなる。だが、天保改革でかかげた上知令が、当該大名や農民たちの反対で撤回せざる得なくなる(1843年閏9月)。と同時に水野忠邦らが失脚するという事態が、幕府の権威がすでに喪失していたことを意味する。それから10年して、ペリー来航(1853年)と「開国」・通商を迎える。それからさらに明治維新まで、幕藩体制は15年も持ちこたえた。しかし、徳川幕府を基底部で支える経済の混乱は解決せず、幕藩体制そのものの変革が問われていたのであった。

注1)八代将軍吉宗の時代(在位1716~45年)に推進された享保の改革は、後の寛政の改革(松平定信)、天保の改革(水野忠邦)の起点となる。享保の改革での財政改革の基本は、倹約による支出抑制と増税(農民収奪)による収入増加である。増税強化や新田開発・殖産興業政策などで、1730年には、江戸城の金蔵には新たに100万両の金が蓄積された。しかし、1732年頃から享保の大飢饉で幕府財政は再び悪化した。さらに改革という名の農民収奪が進められ、1744(延享元)年の180・1万石の年貢総収量となり、ピークを記録した。
2)田沼失脚の1786(天明6)年、全国の諸身分に課せられた全国御用金は、全百姓から持高100石につき銀25匁、全町人から間口一間(いっけん)につき銀3匁、宮門跡(みやもんぜき *宮が法統を伝える僧となる寺)を除く全寺社から15両を上限とする御用金を徴収することになっていた。

(3)阿部正弘らの安政改革
 阿部正弘は、さらに1854(嘉永7)年6月5日、斉昭に37カ条にわたる改革事業を示した書簡も送り、相談した。いわゆる「安政改革」につらなるものである。その37カ条は、『水戸藩史料』上編乾(P.395~400)に掲載されているが、以下のようなものである。
①「御人選 褒貶(ほうへん *ほめることと謗〔そし〕ること)黜陟(ちゅっちょく *しりぞけることと上せること)の事(人材登用)
②諸大名の常例の献上物の三分の二を減らす事
③月のうち1日、15日、28日、役人以外は登城御免とする事(ただし、年始・五節句〔*1月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日〕・八朔〔8月1日〕はこれまで通り)
④「御旗本御家人勤め向き心願之(これ)有るニ付き、日々同列(*同じ地位)初め御役家へ罷り越し候風習(ふうしゅう)急度(きっと)停止の事」
⑤諸大名旗本が年始の外(ほか)御府内通行での「供連れ人数格別に相減じ候事」
⑥10万石以上の大名並びに四品以上の老若以外は御府内通行を馬上で行なう事(ただし、年始はこれまで通りでもよい)
⑦馬喰町御貸附御蔵前蔵宿立替金などで、武家方借用分の返済は延年の事
⑧大奥の女性や奥向きの男子の人減らしの事
⑨奥小姓などの三分の一を減らし、表方武官に編入する事
⑩非常の節、町方人歩(人夫)差出しの儀を早々に取調べるようにする事
⑪「御鷹匠・御鳥見・能役者」の類は人数を減らす事
⑫文武の学校や操練場を御府内に2~3カ所設けたいから、その土地を取調べる事
⑬諸弓組などは必ず鉄砲の稽古を兼ねて行なうべき事
⑭浜御庭での操練、ならびにそこの海上での水戦の稽古を行ないたいので取調べる事
⑮浦賀奉行・下田奉行の往復は、船にて行ないたい事
⑯「箱館奉行取調べの事」
⑰「蝦夷の儀如何(いかに)致し候て然(しか)るべき歟(か)海防懸り(掛)其外(そのほか)へ見込み尋ねの事」
⑱「品川駅取拂ひ方評議いそぎ(急ぎ)相定めたき事」
⑲「五番六番の御台場少しも早く出來(でき)候様致したき事」(*江戸湾に11か所の台場を設ける計画だったが1~3番までしか出来ず、⑱も含め早く増やしたいとの事)
⑳異国船が浦々へ来航してきた場合、最寄りの諸家からそれぞれ報告があるが「無益の費」ともなるから、関係の諸家で相談し、一カ所からの届出に致したい事
?異国船に対する応接の事は日記に致すべきなので、正式な届け書のほかに日記も差出すように致したい事
?異国船が江戸湾に入って来た際には、在府の大名と旗本を組み合わせた水陸軍制を定め、年番(1年交代で務めること)を申し付け置きたい事
?隅田川の上、戸田あたりに囲い米の土蔵を建てたい事
?関八州に所在する大名へはなるべく妻子を在所に住居致させるよう相触れたい事
?江戸ならびに近郷の遊民の取締に付いて取調べたい事(*遊民を蝦夷地に送り新田開発に従事させる目論み)
?旗本や陪臣の乗馬方が太平の華美なものに流れているのを、軍用の実践的なものへ改めたい事
?名目はなんであれ、海防局を一カ所に設け、海防掛の面々を月々12回くらい日を定め、寄合がなくても種々討論研究させたい事
?杉田成卿・箕作阮甫などが天文台へ出役するのにならい、?の海防局に附属する一局を設け、諸藩の陪臣で学識があり外国事情に通じた儒者・蘭学者・兵家・砲術家などを出役させ、月々12回くらい出席させ、海防掛の者ともいろいろ議論させるようにしたい事
?商人どもの持ち合わせている米の多くは深川にあるやに聞いているが、海辺に近くもしやの折りよくないので場所替えをしたいが、公儀の米ではないので無理な指図は致し難い。それでも、なんとか工夫して理屈付けしたい事
?「昨年も相達し置き候通り、諸国御代官所金納候処も成るたけ米納籾納ニ致したき事」
?道中筋の人馬継立ての儀は、前々より「宿々助郷(すけごう)難渋の処(ところ)当節必死と迷惑の由(よし)ニ候、就中(なかんづく)宿駅より遠方の村々より出(いで)候
人足並びに右(みぎ)人足代ニ出銀致し候村々別て(*とりわけ)困窮致し、自然農業も取り続け難く、折々は相潰(あいつぶ)れ候村々も之(これ)有り歟(か)の由(*事情)」と聞く。それにひきかえ、宿役人はその人足代で飲食いし、仕事は近場の別の人夫に申し付け、あるいは商売荷物の賃銭高い物は宿人足に持たせ、武家荷物で定められた賃銭は多く助郷村夫に持たせるなど横着をしている。これらは「以ての外(ほか)なる次第、精々念入り〔に〕悪風を改め、百姓共立ち行き候様致したき事」
?二条(*京)大坂の番を三年目に交代させても然るべきか、これだけでも?の百姓らの痛みも余程(よほど)相減じ申すべく存じ候事」
?日光の門主、正月・四月・九月と一年に三度も往復しているが、これもなんとか減らすことが出来ないか
?「大井川・安倍川・興津川・酒匂川」に橋をかけ、時代遅れなことは止め、「東西通路の便利並びに往来のもの失費少なきを肝要と存じ候」。「尤(もっとも)川渡しを以て渡世致し来たり候もの(者)共ハ船手なとへ取り遣わし候て大ニ御用立て申すべきかの事」
?「神社仏閣普請の節、屋根を銅葺(どうぶき)ニ致し候儀容易ニ御免之(これ)無き様致すべき事」
?武家・百姓・町人で無届けで「剃髪出家」になるものがいるが、「右願い必ず公辺へ出(いで)候様手重に(*丁寧に)致したき事」
?「百姓農業を廃し商人と相成り候儀容易ならざる事ニ享保度(*享保の時)仰せ出だされも之(これ)有り候(そうろう)筈(はず)、右仰せ出だされ通り又々(またまた)相触れたき事」
 これらに対し、斉昭は従来からの持論を踏まえて、以下のように五点にわたって論評している。
 第一は、②③について、朝貢制度の趣旨から、慎重に取扱うべきと主張している。阿部の提案は「御尤(ごもっとも)」ではあるが、「朝貢の二ツハ大小名奉上(ほうじょう *君主に奉仕する)の礼を尽(つく)し候大廉(たいれん *大きく行ない正しく利欲を貪〔むさぼ〕らないこと)に之(これ)有り。倹約の、取締のと申すも畢竟(ひっきょう *とどのつまりは)治世ニ朝貢等の勤めを缺(かき)申さず、治世に武備差支(さしつかえ)之(これ)無き様いたし候ために之(これ)有るべき候。然る処(ところ)ずらと朝貢の廉(かど *条理)御左略(さりゃく *適当に取扱う)ニ相成り候へバ難渋(なんじゅう)申立て候様成り行き申すべき哉(や)。其上(そのうえ)大名の人情我まま(我が儘)ニなりやすく怠惰(たいだ)ニ流れやすく候間、勤向(つとめむき)減少いたし候ハバ、尚々(なおなお)我まま(我が儘)のみつのり(募り)候患(うれい)も之(これ)有るべき哉(や)」(『水戸藩史料』上編乾 P.404~405)と、やんわりと批判する。
 ここで斉昭は、朝貢制度は二つあり、貢ぎ物を欠かさないこと、武備に差支えないようにすることといい、②の献上物、③登城回数―の削減に異議をたてている。
 二つとも、ヨーロッパ封建制にはないものである。②の献上物とは、中国漢代の「酎金(ちゅうきん)」制度をまねたものである。これは、「漢代の制で天子が初めて熟した醇酒(じゅんしゅ *混ぜ物のない良い酒)を宗廟に薦める時、諸侯が皆(みな)献金して祭を助け此(こ)れを飲む。之(これ)を酎金といふ、もし、酎金の分量少く、或(あるい)は質の悪い時は其の領土を削られたもの。」(小柳司気太著『新修 漢和大字典』)といわれるものである。江戸時代、収賄が日常茶飯事であったことは、この酎金制度と深いかかわりがあると思われる。酎金制度に類似したものは、今なお北朝鮮では行なわれている。
 ③の定期的な登城制は、日本封建制の独特なものである。武士を生産過程から遊離させ、城下に集中させる(これに伴い町人・職人を住まわせる)のは、日本独特の制度である。これととともに参勤交代制があり、諸大名は在府中には定期的に登城し、務め(将軍への
奉仕)を果たした。日本の封建制は、私的な主従制原理をベースにする点ではヨーロッパ封建制と共通するが、城下集中・参勤交代は日本独特である。中国では、私的な主従制を原理とした封建制(フューダリズム)の時代はなかったが、日本は明治維新までの千数百年間にわたり中華文明圏に属し、直接間接に中国文化の影響を受けたので、日本独特の封建制となった。
 第二は、⑧⑨⑪の人員削減についても、自己の経験から賛成しかねる態度をとっている。すなわち、「先年愚老(*斉昭を指す)決断ニて大奥(*水戸藩の)悉(ことごと)く人別を減じ在府の家中数百人国勝手(*水戸での務め)申付け、鷹匠・馬乗・医師・職人等家業不得手(ふえて)の者ハ残らず減禄等申付け候処(ところ)畢竟(ひっきょう)不手際(ふてぎわ)ゆヘとハ申しながら十年計(ばかり)政事(政治)ニ携(たずさは)り申さずの内ニ右件々残らず元ニ復し却(かえっ)て以前よりも人別過(すご)し候〔*多くなってしまった〕様(よう)成り行き、朝暮竊(ひそか)ニ歎息(たんそく)いたし居り候」(同前 P.405~406)というのである。
 だが、だからといって、「大奥も御側も一切手を付兼(つけかね)候」ではなく、「御分限の元帳を御正し或ハ?(かけ)めり又(また)ハあちらこちら融通(ゆうづう)いたし候へバ、耳目(じもく)を驚かせずして始終ハ御行届きニ相成るべく候......」(同前)としている。この点で、斉昭には決定打も妙策もない、ということである。
 第三は、⑫⑭の文武学校ならびに浜御殿の操練場開設には、斉昭は大賛成の態度をとる。ただ、斉昭は、「扨(さて)学校の本意ハ世子国子(こくし *中国でいう公卿大夫の子弟)門子(もんし *中国でいう卿大夫の嫡子)を始メ重役大身(たいしん)の嫡子を教導致し候が急務と承(うけたまは)り候処、公辺(こうへん *公儀)初(はじ)メ国々の学校多分(たぶん *多く)ハ小身の士のみ出精いたし、且(かつ)惣領ハ馬鹿ニても家督(かとく *家の跡目を嗣ぐこと)すると心得(こころえ)次男三男又(また)ハ下賤(げせん)の者、出身(しゅっしん *ここでは出世)の為(ため)ニ修行いたし候事ニ成り行き候」(同前 P.406)と批判し、自分の考えでは、「万石以上(三千石以上にても然るべき哉)の子弟並びに御側勤めの族(やから)等文武修行仰せ付けられ、若君御誕生遊ばされ候へバ右の中ニて御生長遊ばされ候間如何計(いかばかり)歟(か)......」(同前)と提起している。ここには、斉昭の貴族主義がいかんなく発揮されている。
 第四は、⑰の蝦夷地の事については、拡張主義者としての斉昭は大賛成である。「......蝦夷の儀ハ御開拓之(これ)無く候ヘハ遠からず魯夷(*ロシア人に対する蔑称)等の有(ゆう)と相成り候儀は差見(さしみえ *予見)候。右地ニハ金銀銅鉄石炭又(また)ハ薬種其外(そのほか)の名品も之(これ)有るべし。其(その)人を得られ候て御委任成られ候ハバ十年を出(いで)ずして日本六十余州を七十余州にも遊ばされ候儀、容易ニ候」(同前 P.407)と、蝦夷地をめぐるロシアとの領有争いに断固たる態度を示しているのである。なお、斉昭はここで、蝦夷地を日本内の10カ国に匹敵すると考えている。
 第五は、??について、斉昭は「至極の急務」と捉えている。しかし、「方今の中、出家と町人程(ほど)安楽(あんらく)無事(ぶじ)なるものハ之(これ)無き候間、御触(おふれ)のみニてハ三日法度(みっかはっと *ごくごく短期間の法度。「三日天下」の類)ニ相成り申すべき哉(や)、仍(よっ)てハ正邪本末の次第(しだい)得と(とくト)御見定め此(この)二ヶ条実に御行届きニ相成り候様......」(同前)と決意を述べている。
 儒教では農業を本とし商業は末と差別された。従って、農業を止めて商人になることはとんでもないことである。これは中華文明圏のうち、とりわけ儒教が強い所では、頑(かたく)なに主張されてきた。阿部や斉彬のみならず、ほとんどの武家がこのように商業を軽視し差別していたのである。
 斉昭は最後に、「つまる所は第一ヶ條御人選云々(うんぬん)御決断之(これ)無くてハ其余(そのよ)の條も空論相成り候」(同前 P.407~408)といって、この点では外形的には阿部と一致している。だが、その中身(どのような人選基準か)については、果して同様とは言えなかったのではなかろうか。
 幕府は同年6月16日、令を発して、「当今武備心懸(こころがけ)専要の御時節ニ候間、厳しく驕奢(きょうしゃ)を改め節倹(*節約)を守り行粧(こうそう *行装)質素ニ致すべき事ニ候」と命じ、「召連れ候人数一万石以上先供(さきども *主人の先に立つ供の者)駕籠脇(かごわき)共一三、四人、五万石以上一七、八人、十万石以上二拾人ニ限り縦令(たとひ)国持たりとも貮拾(二十)四、五人に過(す)ぎ申さざる様触面(*触れ書き)之(これ)有り......」など、具体的に制限を示して「総て質素を守り武備の嗜(たしなみ)専一ニ心掛(こころがけ)らる候」と指示したのである。(『水戸藩史料』上編乾 P.408~409)
 守屋嘉美氏によると、この37カ条の「大綱はほぼ四項に大別される。第一は積極的な人材の登用である。第二は、幕府のみならず諸大名、旗本の財政窮乏を打開するための方針が立てられた。第三には、とみに著名な対外問題処理のための海防局設置構想や文武の設立などがあげられる。そして第四に、あまり取りあげられてはいないが、注目すべき対農村政策が打ち出される。」(同著「阿部政権論」―講座 日本近世史7『開国』有斐閣 1985年 P.87)のであった。
 第二については、人員削減を主としている点では、単に「諸大名、旗本の財政窮乏を打開する方針が立てられた」といっても、根本的な財政改革とは思えない。
 大口勇次郎氏は先人の研究成果を踏まえつつ、文久3(1863)年の「幕府勘定帳」を分析し、①「財政の定式(*経常)部分は一応機能しており、倹約令による緊縮の方針も堅持されていた」、②「開港以降は、開港場の整備、台場砲台の建設、陸軍の創設など軍事海防上の必要から別口(*経常以外の臨時収支)経費は増大した」、③「歳出の膨張にたいして、幕府は歳入を拡大する努力を続けたが、従来の仕組にもとづく年貢収納は限界に達しており、大名上納金も開港後は諸藩の力を海岸警備に向けたため、財政的に期待することは出来なくなった。かくして財政収支のバランスは、貨幣改鋳の利益金によって辛うじて維持された」と、幕末の財政状況をまとめた(同著「文久期の幕府財政」―『年報・近代日本研究』第三号 1981年11月)。
 大口氏が言うように、幕末の幕府財政の経常収支の部分は「一応機能」しているが、それは諸階級層に対する倹約令によることが大きい。しかも開港後の対外危機への対処(軍事・海防)で歳出が膨張し、その影響は諸大名・旗本を直撃している。従って、旗本などへの経済的救済は、小手先のものであり、しかもそれさえ十分なされてはいない。そのため、財政収支のバランスは、貨幣改鋳の利益金に大きく依存し、それはそれで物価の高騰をもたらし、幕末の経済危機を深めるのであった。
 また、第四の「注目すべき対農村政策」と言われるが、極めて疑問である。対農村政策は、?と?にみられるが、?は先述したように、儒教の伝統的な姿勢でしかない。?も百姓を「気遣っている」が、それは儒教的「仁政」の範囲内のもでしかない。その証拠には、?で百姓を「気遣う」のみで、具体的な対策は挙げられず(助郷役の廃止など考えていない)、ただその代わりに「宿役人」の「不正」が槍玉にあげられているのである。しかし、幕府をはじめとする領主階級は、宿役人・村役人を媒介としない限り、農民をはじめとする民衆支配はできないのであり、「宿役人・村役人」制度そのものを変える気など、さらさらないのである。
 以下では、阿部政権の下での、「改革政治」が比較的に実現した方面を中心に、具体的に検討してみる。

 (ⅰ)開明的な少壮官僚の登用
 第一の人材登用は、旧来の枠・手順を越えた形で、すでにそれ以前から行なわれていた。その典型は、筒井政憲や川路聖謨(としあきら)などである。二人は、阿部のブレーンである。二人は、斉昭と折衝をおこなったり、長崎でプチャーチンと交渉を行なっている。
 しかし、当時、幕府内で実権を握っていたのは勘定所の役人であり(この中には阿部に抜擢された者も少なくない)、さまざまな改革政策も財政的見地から消極的にならざるを得なくなる。その点を、雄藩大名から保守的と批判され、矛盾を生み出していた。
 このような情勢下で、阿部はさらに新しい吏僚層を抜擢する。1853(嘉永6)年5月、堀利煕(としひろ)は徒頭(かちがしら)1)から海防掛目付に任ぜられ、造船や砲術訓練に携わっていた。日米和親条約調印後の1854年4月に北蝦夷(樺太)視察を命じられ、同年8月から箱館奉行に就任し、蝦夷地政策を推進する(拙稿『徳川幕府の北方政策―蝦夷地の内国化とアイヌへの同化政策』を参照。労働者共産党ホームページに掲載)。
 永井尚志(なおゆき)は、1853年10月に徒頭から海防掛目付に抜擢され、翌年4月、目付のまま「長崎表御取締御用」を命じられ、長崎海軍伝習所が設立されると、その総監督となっている。
 岩瀬忠震(ただなり)は、1854(嘉永7)年1月、徒頭から海防掛目付に抜擢され、以後、中央で阿部の下で、外交交渉に携わった。このことは、同年6月18日、岩瀬が老中首座・阿部正弘から「長崎、下田、浦賀、その外へ、何国の船にても、夷船渡来の節、応接の模様により出張仰せ付けられ候。その心得(こころえ)に罷り在るべし。」と命じられていることで明確である。
 堀・永井・岩瀬の3人は、1400~3000石の旗本出身であり、いずれも昌平校に合格しており、「幕末の三傑」と言われた。
 大久保忠寛(一翁)は、1854年5月に、徒頭から海防掛目付に抜擢された。大久保は永井や岩瀬と同じように、三河以来の「恩顧譜代」で500石の旗本である。大久保は三人より軽輩であるが、表だけでなく奥向きの事情に通じており、その性格から目立ちたがりでなく、岩瀬や勝海舟をよくサポートした。大久保は、旗本よりも身分の低い御家人(将軍の直臣であるが、旗本と違い「御目見え」ではない)出身の勝海舟を推挙し、下田取締手付に起用させ、後に海軍伝習所に進むのを支援した。また、「江戸無血開城」の際にはよく勝を補佐し西郷を応接した。
 これらのほかに、松平近直(ちかなお)、井上清直、江川太郎左衛門(英龍)なども抜擢された。彼らはほとんどが大身とはいえないが、大目付、目付、勘定奉行、各開港場の奉行、外国奉行などに任命され、頑迷な攘夷派をおさえながら幕末の対外交渉に活躍した。

注1)徒(かち *徒士とも歩行とも書く)は江戸時代の武士の一身分であり、将軍・大名や大身の直参・陪臣の家中に見られる、騎乗を許されない徒歩の身分(最下級)の武士をいう。当時は、大雑把に言うと、士分である侍・徒と軽輩である足軽・中間(ちゅうげん)に分けられていた。しかし、それでも侍と徒の間でも格式の上で大きな格差があった。たとえば、侍身分の者は御目見(おめみえ)以上の格とされ、主君に拝謁を許されたのに対し、徒身分の者は御目見以下とされた。また、両者の間では、相互に通婚がないのが一般的であった。さらに、足軽身分から徒身分への昇格は比較的に容易であったが、徒身分から侍身分への昇格は稀なことであった。俸禄(給与)の面においても、侍は知行取(ちぎょうとり *土地での給与)格だが、徒は蔵米取(くらまいとり *幕府や藩の倉庫からの米で給与)の格とされた。幕府では、直参(じきさん)は旗本と御家人であるが、御目見以上の旗本が侍格で、御目見以下の御家人が徒格である。しかし、俸禄は100石前後がその格差の境目であるが、旗本の半分ぐらいが知行取で、他は蔵米取であった。役職においても、旗本は数少ない布衣(ほい)や諸大夫の格の重職に就くことができたが、御家人は徒組・百人組・先手組など軽輩の職に就くだけでまず重職には就けなかった。徒組は通常、将軍の身辺警護が主な仕事である。江戸時代を通じ、徒組は基本的に本丸15組、西ノ丸5組であった。各組の統括者が徒頭である。

《補論 箱館奉行堀利煕の郡県制への傾斜》
 19世紀半ばになると、幕府の蝦夷地第一次直轄が行なわれた1799(寛政11)年~1821年とは異なり、蝦夷地への異国船の来航はロシアのみならず、アメリカ・イギリス・フランス・オーストラリアなどに拡大する。このため、蝦夷地「防衛」と日本北辺の国境画定(ロシアとの領土分割)が、これまで以上に強化される。
 1854(嘉永7)年6月、幕府は箱館附近(方4~5里)を直轄し、箱館奉行をふたたび設置する。
  箱館奉行所がふたたび設置される前年の1853(嘉永6)年4月、堀利煕と村垣与三郎(範正)は北蝦夷地(サハリン)の視察を命じられる。ロシアのプチャーチンとの国境画定をふくめた和親条約の交渉がすすんできたからである。再置された箱館奉行には、1853年6月末に竹内保徳、7月21日には、堀利煕が命じられる。翌年秋には、村垣範正も箱館奉行に就く。
 そして、堀と村垣は、1854(嘉永7)年9月29日付けの上申書を老中に呈出する(「安政」への改元は11月27日)。この書の起草は徒目付平山謙二郎(1853年の堀・村山の北蝦夷地視察に同行)が行ない、これに堀が手を入れ、堀・村垣連名で提出されたものである。
 上申書は、欧米諸国との外交が進む中で、ロシアとの蝦夷地北辺での領土分割(アイヌ人を抜きにした国境交渉)を眼目に、堀らの蝦夷地経営論が展開されている。
 ここでは、まず第一に、蝦夷地の警備について、その「薄さ」を述べる。
 すなわち、松前氏の城下はややマシながら、「本蝦夷地広大の儀ニて、頓(ととのふ)て内地の四国九州を合せ候程(ほど)ニ之(これ)有り、殊(こと)に山海の険阻を隔(へだ)て、人民も甚(はばはだ)少く、所々(ところどころ)台場形の処(ところ)、周廻(しゅうかい)五百五十二里の中、箱館を相除き、江指(江差)、ソウヤ(宗谷)、子モロ(根室)、アツケシ(厚岸)、クスリ、エトモ(絵鞆)都合六个(カ)所の外(ほか)之(これ)無く、何(いず)れも百目以上貫目以下(*目は匁の別称。1貫=1000匁)の筒(つつ)壹(一)貮(二)挺ツツ相備(あいそなえ)、勤番人数士分(しぶん)より徒士(かち)足軽迄(まで)七、八人程ツツ、外(ほかに)在住足軽と号し漁業働(はたらき)のもの(者)え非常の節のミ帯刀致させ候(そうろう)積(つも)りのもの七、八人ツツ、相詰め居り候のみニて、如何(いか)にも手薄の義ニ之(これ)有り......」(「幕末外国関係文書」の七 247号 P.658)と。
 蝦夷地(後の北海道)周廻552里のうち、「台場形」の所はわずか6カ所であり、そこに筒が1~2丁と言う貧弱さである。しかも、勤番人数は、士分―徒(かち)―足軽―臨時の足軽を合せても、1カ所あたり14~16名程度でしかない。
 したがって、「兵備筋の儀は甚(はなはだ)手薄ニ相見え、畢竟(ひっきょう)曠遠(こうえん *広々とした)の土地、相応(そうおう *ふさわしい)大禄の諸侯数十輩差置かれ候ても、手余り候程の地域ニ候得は(そうらへば)、如何様(いかようの)御沙汰等御座(ござ)候ても、小藩手限りニては行届くべく様御座無く候」(同前 P.659)という。大藩数十が担当しても「手余り」なのに、松前氏のような小藩だけでの警備では行届かないのは当然のことと結論付けている。
 上申書は、第二に、広大な蝦夷地の土地の豊かさを報告する。
 「海辺(かいへん)山合(やまあひ)谷間(たにま)川流(かわながれ)等極て打開(うちひら)け、拾里貮拾里ニ渉(わたり)候場所何个所も之(これ)有り、......中ニもユウフツ(勇払)、イシカリ辺に至り候ては、六、七拾里より貮、三拾里程(ほど)場広の地ニて、其余(そのほか)西はクトウ(久遠)よりヲタルナイ(小樽内)迄、東はヤムクシナイよりシャマニ(様似)迄、方位ニ寄り甲乙は之(これ)有り共、都(すべ)て南受けの地ハ、諸穀諸菜(*諸々の穀物や野菜)ともに生熟(成熟)仕り候処(ところ)多く、東西在(*和人が住んだ松前寄りの村々を西在、箱館寄りの方を東在といった)ハ、猶更(なおさら)米穀等迄儘(ことごと)く出來(でき)......」るとし、「中々(なかなか)内地諸州等ニ比例仕り難く候得共、大凡(おおよそ)の処(ところ)奥羽筋越後辺同様の地味(じみ)ニ之(これ)有り、一躰(いったい)全洲の形勢地利を通し考え仕り候得は、北方二、三分通りは曠漠(こうばく)のミにて陽気薄く、野菜丈(だけ)は可也(かなり)生育仕り候得とも、穀物等の種芸は相成り難き外(ほか)七分の中(うち)四分通りは山壑(さんがく *山谷)藪沢(そうたく)に属し候得とも、其中(そのうち)より物産少なからず」(同前 P.659~661)といい、材木や鉱物(金・銀・銅・鉄・鉛・石炭など)の産出をあげる。 また、穀物が難しい土地でも、牧畜に適した土地として、イシカリからソウヤ、モンヘツ(紋別)からシャリ(斜里)の平地がよいとしている。残りの三、四分もまた、人力によって、「諸穀諸菜ともに生熟仕り候地味ニ御座候」(同前 P.662)としている。
 堀らがとりわけ注視しているのは、漁業である。「......東西一円ニ漁業皆無と申す儀ハ古来より之(これ)無き趣(おもむき)、内地何(いず)れの国ニても、此地(このち)生産の塩引き鮭・数の子・鯡(にしん)・昆布等行(ゆき)わたり申さず場所は之(これ)無きにても、莫大な漁利相知れ申し候儀ニ御座候」(同前 P.663)と、その利益を見込んでいる。
しかし、蝦夷地開拓の元手にもなろうかと期待する漁業は、場所請負人の過酷な収奪と不法な酷使、非道な虐待(とくに番人らによるアイヌ女性へのレイプ)などで、その働き手のアイヌ人口が減少するという事態に直面しているのであった。
 すなわち、「然る処、文政度(*文政年間)、御戻地(*松前復領)以来、矢張り旧領の時の通り、右漁利のミ相恃(あいたの)ミ、請負商人共え山林藪沢海濱(かいひん)夷民(*アイヌを指す)の進退(しんだい *立ち居〔たチゐ〕振る舞い)迄(まで)一切相任せ置き、運上金仕向金のミを所務(しょむ *松前藩の仕事)といたし、運上の高下ニよって、人品をも相撰(あいえら)はず場所引き請け申付け置き候向きも之(これ)有り、又(また)は請負の者(もの)正路の人物ニても、纔(わず)かに三、五年ニ一両度ツツ、見廻り、或(あるい)は更ニ支配人え相任せ置き、他国ニ住居仕り候者もの〔*請負人が他国に住み、支配人任せ〕も之(これ)有り、一切右場所支配人の心一杯ニ差配(さはい *指図)仕り候儀ニて、右支配人と唱え候ものハ、漁方番人と唱え候ものより成り上がり、番人は場所働く方のものより見立てられ候趣ニ相聞え、右等の内ニは無頼の博徒(ばくと)帳外人(*宗門帳に載らない者)と唱え候類(たぐい)、父母親戚にも疎(うと)まれ候輩(やから)、当分糊口(ここう *くちすぎ)の為(ため)蝦夷地ニ縁故を求め立入り、追々(おいおい)場所馴(な)れ候ニ随(したが)ひ、それぞれ頭分(かしらぶん)に相成り居り候ものも儘(まま)之(これ)有り候故、心なく夷人とも遣(つか)ひ立て、往々(おうおう)非道の儀も之(これ)有り、漁業働き方に応し、貨米(*賃米)賃銭其外(そのほか)酒・煙草(タバコ)・衣服等遣し物ニ付(つい)ては、品々姦計(かんけい)を設け夷人を欺き候(そうろう)類(たぐい)少なからず、饑凍(きとう *飢え凍える)ニ及ひ候老人小児等も顧(かえりみ)ず、風波甚だしき節も強(しひ)て漁業相働かせ、溺死(できし)等致し候ものも年々(ねんねん)之(これ)有り候由(よし)、生残り候足弱(あしよわ *老人・女性・子どもを指す)のもの共別段撫育(ぶいく *儒教の仁政で、民を慈しみ養うこと)手当も仕らず、又(また)は越年致し候節は、メノコ(夷婦をメノコと申し候)を奪ひ妾に致し候類を初しめ(*始め)惨刻(*残酷)の扱い方少なからず、......」(同前 P.663~664)と、場所請負制の下でのアイヌに対する残忍な取り扱いを厳しく非難している。(詳しくは、拙稿『幕府の北方政策』―労働者共産党ホームページに所収)
 堀・村垣は、アイヌに対するこれまでの残忍な対応を、身を以て感じた。それは、「此度(このたび)廻浦(かいほ *浦々を廻って巡見すること)の節馬夫(*馬方)人足(*力仕事をして生計を立てている人)等ニ出(いで)候もの、支配向き?(ならびに)私共(わたしども)召連れ候もの(者)共ニ就き、番人付添(つきそい)のもの(者)等の目を忍ひ、和語(*日本語)を覚え居りかた言(カタコト)交じりに歎訴(たんそ *なげき訴えること)仕り候者、東海岸は一円ニ之(これ)有り、実ニ蠢愚(しゅんぐ *愚か)固陋(ころう *かたくなで心が卑しい)の夷人とも、箱館松前え出候事も之(これ)無く、恣(ほしいまま)に支配人番人等〔の〕十分の呵責(かしゃく *せめさいなむこと)を受け、年来悲歎仕り居り候処(ところ)、此度私共廻浦仕り候を幸(さいわい)と、積年の寃苦(えんく *無実の罪に苦しむこと)を愬(うった)へ〔*訴え〕候儀と不便(ふべん *哀れ、不憫)に相聞へ、実地見分(じっちけんぶん)仕り候ては、何分御捨て置き難く成られ次第に......」(同前 P.664~665)、なったからである。
 しかし、堀らは幕府時代の「同化政策」については一言も発しておらず、その民族抑圧政策には触れていない。儒教の「仁政」なるものが、専制者の「慈愛」と差別・抑圧が混合したものであることから必然である(「蠢愚固陋の夷人とも」という決めつけ)。
 だが、堀らは、このアイヌに対する松前藩ならびに場所請負人の対応が、実は、日本が蝦夷地を確保し続ける上で、極めて重要な問題と受け止める。これが、上申書が提起する第三の問題である。
 異国船の渡来が頻繁になる中で、「此地(このち)の容子(ようす)夫々(それぞれ)偵察仕り候上は、天理(*天地自然の道理)を表と致し、荒撫(蕪)を開き、人種を繁くし、息なし(*一息に)撫育を加ふると唱へ、夷民を手懐(てなず)け、其(その)欲する所を與(あた)へ、追々誑誘(きょうゆう *たぶらかしいざなう)致し候ハハ、元より彼我の辨もなき〔*物事の区別もできない〕蝦夷共ニ候得は、支配人番人等の惨毒(さんどく *むごたらしくそこなうこと)を免(まぬが)れ候を幸ニ存し、聳動(しょうどう *おどろく)帰服(きふく *つき従って支配下に入ること)仕るべくは必然の勢ひに之(これ)有り、左候ハハ事実辞柄(じへい *口実)ともに如何(いかん)とも為(な)しがたき運(はこ)ひニ相成り申すべき哉(や)と甚(はなはだ)心配仕り候、此地(このち)一旦(いったん)外夷のものと相成り候ハハ、内地の寶府(ほうふ *宝の出る中心地)を奪(うばわ)れ候のミならず、夷民を併(あわせ)て彼が助けといたし、内地の患(うれひ)目前に逼(せま)り申すべく、一躰(いったい *おしなべて、もともと)蝦夷人種寒苦飢餓ニ堪(た)へ、水陸の険阻ニ馴(な)れ、強壮健実天性に備(そなわ)り、教育法を得(え)候時は、一廉(ひとかど *際立っていること)の御固メとも相成るべき者ともニ之(これ)有り、......此後(こののち)とも何等の御沙汰も之(これ)無く、空(むなし)く旧来の姿に差置かれ候ハハ、最早(もはや)後年の楽しミも之(これ)無くと、愚直一図(一途)の心より寃苦(えんく *無実の苦しみ)ニ逼り、如何様の心を生し申すべき哉(や)も計(はか)り難(がた)く、虚(うつろ)に乗し誘導いたし候外夷とも之(これ)有り候ハハ、行行(ゆくゆく)御国境の戍卒(じゅそつ *国境を守る兵卒)とも相成るべきもの(者)を棄(す)て、勍敵(けいてき *手強いかたき)の資(たすけ)と致し候次第ニ成り行き申すべく哉(や)......」(同前 P.665~666)と、とてつもない苦しみにさらされているアイヌを、旧来のように取扱っていれば戍卒どころか敵に追いやってしまうというのである。
 以上を踏まえて、掘らは、第四に蝦夷地の領有を、松前藩はおろか、諸藩にも分領せずに、幕府の直轄とすべきことを提起するのである。
 松前藩の領有については、「前條申上げ候通り、伊豆守(*松前氏)小身の儀ニ候得は、如何様(いかよう)厳重の御沙汰(おんさた)御座候とも、中々広大の蝦夷地(えぞち)周海の取締向き夷民撫育等(とう)迄(まで)相届く様(よう)之(これ)無く」(同前 P.666~667)と、否定している。
 他方、「又(また)外(ほかの)諸藩え分ケ持ち等仰せ付けられ候とも、是迄(これまで)田畑も開(ひら)け申さざる地故、米穀初(はじめ)諸式一切領内より漕(運)送いたし、輪番交代(*蝦夷地勤番の)等仕り候儀ニては、忽(たちま)ち疲弊(ひへい)仕り永続も致し兼(かね)、蝦夷人撫育等親切ニ行届(ゆきとど)くまじく」(同前 P.667)と、これまでの経験から無理であると断定している。
 また、「一向(いっこう)ニ相応(そうおうの)大藩の向きえ下され切りニ割付(わりつけ)遣わされ候ハハ、夫々(それぞれ)人民(*領内の人民)を移し開墾も仕り、警衛向きも行届き申すべく候へとも、本々(もともと)外国接境の場所ニて、山丹(さんたん *沿海州)満州(*中国東北部)東?察都加(*カムチャッカ)何(いず)れも程近(ほどちかく)の地、九州其外(そのほか)陸続(りくつづき)の地勢とハ相違仕り、抜道(ぬけみち)手近(てぢか)の儀故、行々(ゆくゆく)私民充満仕り候ハハ、後弊如何(いかん)之(これ)有るべき哉(や)、銘々(めいめい)夫々功労を積み開墾等いたし候上は、自然御義理合いも之(これ)有り、其期(そのご)ニ及ひ御取戻しにも相成り申すまじく、左候得は、一患を去り一弊を植え候姿に相成り、其端(そのたん)を今日ニ醸(かも)し候事とも御深慮(ごしんりょ)在(あ)らせらるべく御義存じ奉り候、」(同前 P.667)と、大藩への分割も否定するのである。
 大藩による開墾・経営がたとえ成功しても、蝦夷地は国境の地であり、蝦夷地でふくれ上がった人民の逃亡の恐れもあり、また、努力して開墾したのをその後になって幕府が取り戻すのも問題である。このように、「一患」を除いても、新たな「一弊」をもたらすもので、大藩に分割・分領するのも止めるべきだ―というのである。
 そこで上申書は、結局は、幕府の直轄しかないというのである。すなわち、「旁(ひろく)熟考仕り候へは、行末(ゆくすえ)の御取締(おとりしまり)迄(まで)相立て、今日の御強ミにも相成り候上は、御手数(おてかず)相懸り候とも、再度先年の御振合い御斟酌(おしんしゃく)之(これ)有り、直捌(じかさばき *幕府直轄)仰せ出だされ、御旗本御家人次三男厄介(やっかい *家督に世話を受ける者)ニ至迄(いたるまで)、内願のもの(者)共ハ、夫々御撰びの上、御手当等御仕法(おしほう)相立て御移しニ相成り、其外(そのほか)陪臣(ばいしん *家来の又家来)浪人ニて御用立つべき者ハ、夫々御処置ニて御引き移し之(これ)有り、常々武備を練り文学(*学問の総称)を兼ね候様御世話在らせられ候方、永久の御為(おんため)然るべく存じ奉り候」(同前 P.667)、「御旗本御家人?(ならびに)次三男ニ至る迄(まで)願(ねがひ)に任(まか)せ相移し、文武講究(*研究すること)の暇(ひま)山野険阻を駈け走り、風浪に舟楫(しゅうしゅう *舟と舵と)を操(あやつ)り、又は禽獣(きんじゅう)を狩り、飽迄(あくまで)強健(きょうけん *すこやか)壮実(そうじつ *さかん)ニて奢侈(しゃし)安逸(あんいつ *何にもしないでブラブラしていること)の風なく、一廉(ひとかど)御用立て候人物数多(すうた)出来(でき)候得は、此地(このち)の禦備(ぎょび)ニ限りと申さず、時宜(じぎ)次第猶又(なおまた)御用方も之(これ)有るべく、追々(おいおい)大船の運用相熟し、海路自在ニ相成り候上は、江都(*江戸)近海御警衛其外(そのほか)所々(しょしょ)御備え向き、不虞(ふぐ *予期せぬ事態)に応し緩急の声援に相成り候儀少なからず、御功験(ごこうげん *手柄の効き目)の有無とも都(すべ)て向後(こうご)の御仕向け方に依り候儀ニて、極(きわめ)て御大業容易ならざる得失にも関係仕り候儀故、再応(さいおう *再度)熟慮仕り候......」(同前 P.669)と、幕府直轄を願出ている。それは当面のことだけでなく、「永久の御為」になるように、直参の二、三男や陪臣・浪人などを移住させ、蝦夷地のみならず江戸などの警衛の軍事力ともなるからである。
 ここで上申書は、注目すべきことであるが、俄然(がぜん *たちまちに)、「封建・郡縣」論争に分け入っていく(この部分は、堀が挿入した文章である)。
 すなわち、「前古の治乱盛衰歴朝の強弱廃興の事跡をも通考仕り候処(ところ)、和漢政務の規模夫々(それぞれ)品替り異同は之(これ)有り候得共、大本の処(ところ)はつまり封建郡縣の二ツにて、各(おのおの)一得一失(*一長一短)之(これ)有り、何(いず)れも永久弊(へい)無きと申すニは行届(ゆきとど)き難く、封建の弊は尾大不掉(びだいふとう *臣下の勢いが強大で君主の自由にならない喩〔たとえ〕)抔(など)相唱へ、大名強大ニ相成り、往々(おうおう)命令をも用ひず、如何(いかん)とも致し難きに至り、郡縣の憂(うれひ)を陵夷(りょうい *物事が漸次衰えること)土崩(どほう *物事が破れて支えきれない様)抔(など)申し候て、いはずとなく人々上を戴(いただ)く心薄く、私欲ニ流れ、如何とも取締付き難きニいたり申し候」(同前 P.669)という。
 中国思想では、古来から各時代の目指すべき政治形態を、「封建制」か「郡縣制」かの何(いず)れかに収れんさせてきた。
 この場合、「郡縣制」は、専制国家の政治制度であり、整備された官僚制が前提とされ、地方の郡や縣の長官など上層部には中央から派遣された官僚が就任し、その下に地方で選抜された役人があり、それらが地方人民を支配した。時代によって、国家が分裂したり統合されたりしたが、中国では、秦帝国いらい王朝は変わっても「郡縣制」が継続した。
 「封建制」は典型的には周王朝のもとで実施されたが、これは階級社会以前の時代であり、「王」によって分封された地方を受封者が支配した。王と受封者との関係は家族的宗教的な紐帯(ちゅうたい)で結ばれており、王と受封者は多くが同一の血縁者であり、そうでない場合でも擬制的な家族関係となっていた。
 したがって、江戸時代の封建制は中国周代の封建制(私的な主従制の欠如)とは、根本的に異なるものであるが、ただ分封された地方を中央権力を担う集団とは異なる集団が支配することを任されたという点での類似性で、論じられているのである1)。
 すなわち、「封建制」の短所は、「尾大不掉(びだいさればふるはず)」といって、動物の尾が余りに大きいと自分の力ではふるい動かすことができないのと同じで、諸大名(臣下)の勢力が余りにも大きいと授封者(日本の場合は将軍など)自身が自由に振る舞うことが出来なくなっていくことである。
 他方、「郡縣制」の短所は、公の精神が薄れ私欲に流れ、陵夷土崩に至ることである。
 上申書は、先の文言にすぐ続けて、「然る処、二百年の昌平(しょうへい *国が盛んで世が静なこと)を極(きわ)めせられ、士風軟美ニ相流れ、人々温和(*おとなしく逆らわない)遜柔(そんじゅう *へりくだり穏やか)のミを旨(むね)といたし候より、諸国隅々(すみずみ)迄も風習相及ひ、列国諸藩にも事実取失ひ候事等儘(まま)之(これ)有り哉(や)ニて、封建の名は存し候へ共、士気次第ニ衰微(すいび)仕り候(そうろう)姿、左(さ)ながら郡縣の世弊に近く相見え候......」(同前 P.669~670)という。
 つまり、「二百年の昌平」により、徳川時代の封建制も「士風軟美ニ相流れ、人々温和のミを旨」とするようになり、封建制とはいえ、あたかも郡縣制と同じような弊害に陥っていた―というのである。
 ところが、「近年外夷の儀ニ付(つき)度々(たびたび)御英断の御沙汰も之(これ)有り、諸大名とも銘々(めいめい)相励(あいはげ)ミ、不日(ふじつ *遠からず)全州の武備厳重に相整ひ、封建の御事実(*物事、実態)相顕れ申すべく、左候得(さそうらへ)は、前文(*前述のように)尾大不掉と申し候様の弊、只今(ただいま)より御深慮在(あ)らせられず候ては相成り申すまじき哉(や)、万一諸大名兵威振(ふる)はず、右等の御懸念(ごけねん)之(これ)無き程の義ニてハ、迚(とて)も強大暴戻(ぼうれい *荒々しく人道にはずれていること)の外夷ともを押し鎮め候儀ハ叶(かな)ひ難く、眼前の御大患追拂(おひはら)ひ申すべく期(き)之(これ)有るまじく......」(同前 P.670)
という。
 すなわち、近年の異国船の渡来で対外的危機が深まる中で、日米和親条約の締結や武備の強化など将軍の英断もあって、諸大名も軍備の強化などに励み、封建制らしい長所も蘇ってくるであろう。しかし、そうすると「尾大不掉」の弊害を今から深く考慮しなければならないが、だからといって、封建制の長所が伸張しないと、とてもではないが「強大暴戻の外夷」を取り鎮めることもできない。
 したがって、このうえは、「外防内顧とも相整え御万全の御用意在らせられざり候ては相叶(あいかな)ひ難く、右等の御深慮(ごしんりょ)を廻せられ、外防の義は是迄(これまで)度々仰出(おほせで)も之(これ)有り、追々相整え申すべく、又(また)内々の弊患御救ひ在(あ)らせられ御仕法(*方法)、根本を御養ひ、御旗本を御手丈夫ニ御仕立(おしたて)在らせられ御処置も、昨年以来格別ニ御世話も之(これ)有り、不日ニ御充実に相成る儀と存じ奉り候へとも、此上(このうえ)とも彌以(いよいよもって)大名威服仕り候様御仕向けの程(ほど)眼目の御儀ニ御座候処(ところ)、万石以上の儀は、家々見込みも之(これ)有るべき歟(か)、万石以下御直参(おじきさん)の面々は、何(いず)れも御膝本(おひざもと)住居仕り、文武研究等ハ如何様にも出來(でき)仕るべく候へとも、風霜(ふうそう *年月の)艱苦(かんく *苦しみ)を経歴(けいれき *歳月が過ぎ去ること)仕り候儀は、心掛(こころがけ)之(これ)有り候とも、実地の処(ところ)に当り申さず候故(そうろうゆえ)、前文の通り蝦夷地追々御開(おひらき)相成り、内願の者共御移し、夫々(それぞれ)御仕立(おしたて)相成り候ニは最上の場所......」(同前 P.670~671)という。
 すなわち、内憂外患(対外危機と尾大不掉の弊)を見据え、諸大名への威服〈犯し難い権威で従わせる)・統制強化を眼目としているが、万石以上の諸大名に対する見通しはあるとしても、万石以下の旗本御家人に対してはどうか。彼等に対し、文武研究はどうにかさせることは出来るにしても、「実地の処」(実際の訓練)は覚束なく、その点で蝦夷地への移住を行ない、開拓と防備を経験させることが極めて有効であると推奨する。
 この蝦夷地移住の利点として、①功労者に対する内地での宛行(あてがい *給与・手当)の経費を軽減でき、②また、内地の出費(蝦夷地開拓の経費負担)をしないで、「外国(*ロシア)接境御手広の御兵備」を用意できる―ことをあげる。
 そして、「......追々(おいおい)右のもの共多人数土着仕り、小身のもの迄(まで)農兵を養ひ、譜代のもの出來(でき)候得は、莫大の人数にも相成るべし、右等運船打砲等練達(れんたつ)いたし、東海通り江戸表え直乗(じかのり)等(とう)常々習熟仕り候ハハ、組々御定め置かれ、緩急(かんきゅう)何(いず)れの地えも御差向け相成るべし、左候ハハ、彌(いよいよ)前文尾大不掉の弊をいまだ萌(も)えざる中(うち)ニ御防き、本根(もとね)を御培養在(あ)らせられ候(そうろう)御処置此外(このほか)之(これ)無きの儀と存じ奉り候間、深く御賢慮を廻せられ候様仕りたく......」(同前 P.671)という。
 幕臣として将軍への忠義を第一とする堀らは、直参の二、三男、陪臣、浪人などを蝦夷地に大挙移住させ、ロシアとの国境の地・蝦夷地に、巨大な経済拠点と一大軍事拠点を作ることによって、ロシアとの領土分割を有利に進めるだけでなく、操船と大筒操作に熟練させ、江戸防衛や諸大名への睨(にら)みをきかせる(「尾大不掉の弊」を事前に摘み取る)ことを狙いとしたのである。堀らは、このためにこそ、蝦夷地の幕府への収公(第二次幕府直轄)と、幕府直営の蝦夷地経営を上申したのである。
 1855(安政2)年2月22日、幕府は松前氏の居城周辺を除き、全蝦夷地をふたたび上知(幕府に収公)する。第二次直轄である。同年3月には、蝦夷地の警備を仙台・秋田・津軽・南部・松前の各藩に命じる(前年に欧米諸国と和親条約を締結し、箱館などを開港した)。
 しかし、蝦夷地開拓を主眼とした幕府方針の中で、最も重要な漁業経営(蝦夷地での稼ぎ頭である)をめぐって、場所請負制の存続を主張する見解と、幕府直営を主張する見解(勘定奉行など)が激しく対立した。結局、堀ら箱館奉行は妥協し、蝦夷地の上知を貫徹しつつ、場所請負制は存続させた。
 だが、堀の郡縣制への意気込みは盛んである。それは、1855(安政2)年4月、堀の署名文書である「在府箱館奉行上申書」(「幕末外国関係文書」の十一 63号 P.207~212)にも表れている。
 この上申書は、同年3月29日、斉昭が老中に提出した「蝦夷地経営の件」(「幕末外国関係文書」の十 93号 P.??)への反論である。
 斉昭の上申書は、冒頭、「北地御開拓一条、奉行織部正(おりべのしょう)実地見分(*検分)の上建議の趣(おもむき)、多分(たぶんに)尤(もっとも)至極(しごく)感心いたし候」と、一応評価しながら、次の点で異議を唱えている。
 それは、①北蝦夷(*カラフト)、エトロフ、クナシリの重要性を考えよ、②大船を建造せよ、③松前城を召上げ城代を置き、各地に奉行を増員配置せよ、④邪教を防ぐため各地に神社を建てよ―の4点である。
 斉昭は、当時のロシアと国境交渉について、カラフト全島の領有の立場から①を特に主張している(幕閣では、カラフト南半部の領有が主流)。そして、③でも「エトロフ奉行、久奈尻(クナシリ)奉行、北蝦夷地へも奉行三人御立(おたて)、アツケシ、ソウヤ其外(そのほか)大場所は奉行、小場所は新(あらた)に御代官御立に相成り、天晴(あっぱ)れの〔*立派な〕御料(ごりょう *幕府領)」にせよと、主張する。
 これに対し、堀は、②に賛成であり、①③に関連して主に反論している(④については触れていない)。
 まず第一に、奥地を優先して開拓することは、「多分の御物入(おものいり)ニ相成り、其上(そのうえ)御成功相成り候共、有余を以て右御入費埋(う)め仕り方も之(これ)無き哉(や)には、前文通り人数配当致し置き、隴畝(ろうぼう *畠)墾開(開墾)其外(そのほか)物産仕立(したて)方等ハ、南方(みなみかた)口蝦夷より手を下し申すべく積(つも)り......」(P.208)と反論する。
 奥地の開拓を優先することは、経費が莫大となること、たとえ成功してもその穴埋めの財源もないことを論拠として、反論する。また、奥地の勤番は、「雑費給(たま)ひ難きのミニも御座なく、実に以て窮陰(きゅういん *日照が極めて少ない)湿?(しつれい *湿気による災い)ニて、如何様(いかよう)強壮の者ニ候共、土地馴(な)れ申さざる候ては、往々病廃人と相成り候義(そうろうぎ)相違も之(これ)なく......」(P.210)と、実地経験からの難点を理由にあげる。奥地への早急な送りこみは机上の空論であり、犠牲者を増やすだけというのである。
 そして、南方を護って北方に及ぼす策は、何よりも箱館の警備などが未だ調わず、異国船の渡来する現状では、そのことも彼等に見透かされており、「不時ニ南蝦の中え分拠致し、大船を以て羽翼(うよく *助けとなるもの)応援を継ぎ、要害ニ依り屯戍(とんじゅ *駐留)の設けを施(ほどこ)し候得ば」(P.211)、大変な事態になり、「蝦夷全州の安危」にかかわるからである。
 だから、「勇武逞(たくま)しき深謀」ではなく、「......御経画(*計画)を積ませられ候上ハ、歳月を追ひ漸々(ようよう)御成功なされるべき所を御待(おまち)遊ばされる外(ほか)之(これ)無きと存じ奉り候」(P.211)と、皮肉まじりに反論する。
 そして、最後に、斉昭の松前城も召上げろという考えに対しては、箱館港が発展すればそれだけ「松前江指(江差)とも行々(ゆくゆく)衰耗に及び申すべく哉(や)」といって、いずれは幕府直轄と見通し、次のように述べている。

夷地開拓御成功ニ随ひ、人戸繁殖し御政(おんまつりごと)施手(ほどこして *役所・役人)繁く相成り申すべく間、奉行数人追々(おひおひ)増加之(これ)有り、地役の中からよりも、御用辨宜(よろ)しき〔*御用をよくわきまえている〕もの(者)御引立、御代官等仰せ付けられ、松前威望(いぼう *権威と人望と)之(これ)有る大禄の者抔(など)惣鎮守府え差置かれ、全く郡縣の治法を御用(おもちひ)在(あ)らせられ候ハハ、御万全の御儀と存じ奉り候(P.212)

 堀は継続しうる基盤もなく、奉行を乱立させるのでなく、人戸の繁殖に応じ、追々奉行を増やし、地元から代官も取立て、松前にも「威望のある大禄の者」を惣鎮守府の長官に据え、秩序ある郡縣制を用いれば万全の対処となるというのである。堀は、ここに見られるように、少なくとも蝦夷地における政治制度として、郡縣制を推奨しているのである。
 現実に、北蝦夷地(カラフト)では、幕府による経営や、大野藩のような有志の藩による場所経営が行なわれる。だがしかし、これも結局成功せず、1864(元治元)年になって、北蝦夷地の直捌制(じきさばきせい)も中止となった。
 幕府は、北蝦夷地の直捌制とともに、農業・牧畜・鉱山などの経営にも挑戦する。これらでの当初での利益は困難であったので、余計、幕府による取り組みが必要であった。その他に見落とすことができないのは、箱館産物会所の再設置である。幕府は、第一次幕領期につづいて、1857(安政4)年に、蝦夷地産物の流通統制とそれへの課税のために産物会所をふたたび設置したのである。
 蝦夷地の全体方針において、郡縣制を目指した堀の方向性は、1858(安政5)年4月、井伊政権が確立すると大きく変化し、旧体制の方向に後退する。そして、1859(安政6)年11月には、蝦夷地は東北6藩(津軽・南部・秋田・庄内・仙台・会津)に分領される。(詳しくは、拙稿『徳川幕府の北方政策』〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照)
 それでも箱館産物会所にみられるように、幕府の蝦夷地商業統制はなくならず??、1861~68年(慶応期)には、黒龍江や上海へ積極的な「出貿易」がなされ(航海訓練も兼ねた)、幕府直営姿勢はなくなっていない。

注1)日本では、近代となって西洋のfeudalismの訳語に「封建制」をあてたため、しばしば誤解されるが、西洋feudalismと中国封建制(周代)とは、根本的に違う。大ざっぱにいうと、まず①時代が違い、西洋のそれは階級社会のものであり、中国の場合は前階級社会のものである、②次に、授封者と受封者との関係が、西洋の場合は私的な主従制原理に基づいているが、中国の場合は、同じ血縁関係(擬制的家族も含む)で同じ宗教を奉じている者同士の関係である。しかし、日本中世から近世にかけての封建制は、大枠として、私的な主従制原理に基づく君臣関係であり、中国周代の封建制とは基本的に異なる。しかし、日本の封建制は、ヨーロッパのそれと比較し公的な君臣関係が制度的に強いこと、また華夷思想などの中国思想や中国政治制度の影響が大きい。(しかし、日本封建制は近世に至り、身分制の徹底化により重層的な身分階層制が発達するなど独自の支配秩序を成長させる)

 (ⅱ)海防・軍備強化を進める
 阿部らの改革事業の内、大船建造、砲台建設、洋式砲術の講習、諸藩の練兵、人材抜擢、繁文縟礼(はんぶんじょくれい *複雑で煩雑なな規則や礼式)の整理・省略は、これ以前から既に行なわれているものであった。従って、阿部らの安政改革の特徴は、端的にいうと海防と外交であり、具体的には次のようになる。
 第一は、海防・軍備の充実策である。1853(嘉永6)年9月15日、幕府は大船建造の禁を解除する。すなわち、幕府へ上申し許可を得た上で、諸大名が大船を建造すべきとしたのである。
 同年9月には、泥縄式であるが品川沖に台場を建設した。しかし、出来上がった台場は昼夜兼行の大工事であったが、結局、ほとんど役には立たなかった。砲台築造は、この他にも大坂湾沿岸や箱館でも行なわれた。
 また、大砲や小銃製作のために、伊豆韮山(にらやま)に反射炉を建設した。反射炉とは、燃焼された火炎が、天井によって反射するように曲げられて金属を加熱溶解、製錬する炉のことである。幕末の日本では、幕府や諸藩によって海防の必要性が叫ばれ、青銅に代わって鋼鉄の大砲が造り始められ、反射炉はその製鋼用に用いられた。佐賀藩は最も早く1850~51(嘉永3~4)年に、薩摩藩は1852~57(嘉永5~安政4)年に、伊豆韮山の反射炉は、江川太郎左衛門によって1853~58(嘉永6~安政5)年に建設された。
 水戸藩では、反射炉はすでに天保改革の時に計画されたが、藩政改革の挫折で中断していた。だが後に斉昭は、1854~56(安政元~3)年に那珂湊に反射炉を建設した。斉昭は海防参与を辞任した直後に、「鋳造した大砲を献納することを条件に、幕府から一万両、さらに地元湊の豪商木内家から五千両を借りるなどして、尊攘改革派の郡奉行金子孫二郎らを建設係に任命して、安政二年(一八五五)十一月第一基の工事を完成し、翌三年三月はじめてモルチール砲を鋳造して好結果を得た。第二基も竣工したが、安政五年以後は政情混乱して廃止同然となり、元治元年(一八六四)天狗党の乱の兵火で焼失した。」(瀬谷義彦著『水戸の斉昭』茨城新聞 1979年 P.188)のであった。
 斉昭はそれより以前、鋳造していた75門の大砲の内、1門を残し74門すべてを幕府の軍備増強に資するために、1853年に陸路(6月)と水路(11月)で輸送し、幕府に献上した。
 第二は、長崎海軍伝習所の創設である。
 阿部正弘は、ペリーが浦賀を去って1週間後の1853(嘉永6)年6月19日、新任の長崎奉行として現地に赴く水野忠徳に、軍艦をオランダに注文することを命じた。その水野は、購入した軍艦を運転し航海できる乗組員を養成するために、オランダから海軍軍人の教師団を招き、オランダ国王から献呈されることになったスンビン号(のち観光丸と命名)を練習艦として日本人の教育を始めることを企画した。これが、長崎海軍伝習所の始りである。
 教師団としてのペルスレイケン中佐以下の将校、下士官たちが長崎に到着したのは、1855(安政2)年の夏であった。これに合わせて、勝麟太郎(海舟)など第一期の生徒団(40余名)が薩摩藩から献上された軍艦昇平丸で50日を費やして長崎に着いたのは10月20日である。同月24日には、海軍伝習所の開所式が、長崎西役所で行われている。この開所式には、教授陣と幕臣・諸藩士が参列した。幕臣は37名で、諸藩は佐賀藩48名、薩摩藩16名、長州藩15名、津藩12名、熊本藩5名、福山藩4名、掛川藩1名といわれる(土居良三著『幕末 五人の外国奉行』中央公論社 1997年 P.88)。
 水野の主導の下で、彼を補佐して開校の準備を推進したのは、永井尚志(なおむね)である。その後、水野忠徳は勘定奉行に栄転し帰府したので、伝習所を運営したのは永井尚志であった。幕府内で、伝習所の運営を支援したのは、岩瀬忠震(ただなり)と松平近直である。
 オランダの第二次教師団は、カッテンディーケ以下、航海・運用・数学・天測・蒸気機関などをそれぞれ専門とする海軍士官・下士官たちであり(中には海軍軍医もいた)、一行は1854(安政4)年8月、幕府がオランダに注文した軍艦ヤパン号(のちに咸臨丸と命名)で長崎に着任した。
 オランダ教官たちは、熱心に日本人生徒を指導し、このため帆走や砲術など目覚ましく成績が向上し、船大工・製帆工・鍛冶などのすぐれた職人も生まれた。海軍伝習所では、幕臣のみならず諸藩の藩士の参加も許された。勝麟太郎(海舟)は、1853(嘉永6)年6月、アメリカ使節の再渡来に際して、どのような態度をとるべきか―についての老中の広範な意見徴集での上申書で、①西洋風の軍制への転換、②すぐれた将の選択、③海防には軍艦が必須であり、その調練が重要なことを述べている。
 勝は再度の上申を要求されて、さらに詳しく意見を述べているが、その中には、①下情が上に達するように言路を開くべき、②海国兵備の要は軍艦である、③交易の利をもって武備を整えるべき事、④教練の学校を立てるべき事などを主張している。勝は、④の中で、「若し御家人の内(うち)人数不足の分ハ、諸藩より召し出され、御人選の上(うえ)教授仰せ付け候ハハ、暫時の内ニ上達、出藍の者これ有るべく候、......」(「幕末外交関係文書」の一 338号 P.735)と、教練を幕臣のみならず諸藩からも応募させる案を出していた。
 実際、海軍伝習所においては、幕臣は勝麟太郎・榎本武揚・肥田浜五郎、薩摩藩は五代友厚・川村純義・肥前藩は佐野常民・中牟田倉之助などが学んでいる。
 第三は、蕃所調所(ばんしょしらべしょ)の開設である。その主要な任務は、海防掛が討論研究するための海外資料の収集と翻訳である。
 1856(安政3)年2月13日、それまで洋学所と称していた蘭学の翻訳教育機関が、蕃書調所と改称され、開校に向けての準備に入った。このために、御用掛若年寄・遠藤但馬守、目付大久保右近将監(忠寛)、儒者古賀謹一郎などが役職を発令された。だが、実質的には頭取古賀と同兼帯の大久保忠寛が、教授の人選や蕃書調所の運営にあたった。
 4月4日に、以下のような教授陣が発令された。
教授役 箕作阮甫(津山藩)、杉田成卿(小浜藩)
同手伝 高畠五郎(徳島藩)、松木弘安(薩摩藩)、東条英庵(長州藩 当時は幕臣)、原田  
    敬策(岡山藩)、手塚律蔵(佐倉藩)、川本幸民(三田藩)、田島順介(安中藩)
 顔ぶれは、箕作阮甫(みのづくりげんぽ)をはじめ、当代一流の蘭学者を揃えている。そして、薩摩の松木(のちの寺島宗則)や長州の東条などほとんどが外様藩士であった。
 開校式は、1857(安政4)年1月11日に行なわれた。当日は、閣老以下が、教授の蘭書講義を受けた。
 後の文久年間(1861~63年)に、幕府が初めてヨーロッパに留学生を送った時、選ばれたのは蕃所調所の後身である開成所の教授手伝の西周(にしあまね)と津田真道である。蕃書調所はのちに開成所、さらに医学所を加えて、明治期には東京大学にいたる。
 第四は、講武所の創設である。
 1855(安政2)年2月5日、講武所の開設委員の顔触れが発令された。総裁には、大目付の跡部良弼(水野忠邦の弟)・土岐頼旨、大番頭の久貝正典、書院番頭の池田長顕、兵部少輔の稲葉正巳、頭取には、目付の鵜殿長鋭など7人が命ぜられた。
 講武所は、それから1年余も後の1856(安政3)年4月25日、築地南小田原町にようやく開設された。その時には、総裁は久貝と池田になっていた。
 だが、のちの海軍につながる海軍伝習所と比べ、のちの陸軍につながるはずであった講武所は、阿部の計画とは異なり挫折に至る。このことについて、土居良三氏は、「結果から言えば講武所の出発に当たって、幕府創設のときそのままの軍制で大番、書院番の長を、その専任総裁に横滑りさせたことが、本来の改革を頓挫させた最大の原因である。/海軍や調所に関することは、すべて新しい場で、新しい人によって創めることができたが、陸軍、即ち地上で武器をもって戦い、守るのは武士の伝統的職分であったから、守旧的にならざるをえない。」(同著『開国への布石』P.296)のであった。
 西洋的な軍制を導入する阿部政権の傾向は、井伊直弼政権(井伊の大老就任は1858〔安政5〕年4月23日)が成立する直前から逆転し始めている。
 幕閣は、1859(安政6)年1月13日、突然、伝習の中止と教官の帰国を長崎奉行に指令し、2月8日には、海軍伝習所が閉鎖される。理由は正確には不明であるが、井伊政権の反動化にあることは間違いないであろう。
 伝習所の三期生で後に外交官になる田辺太一によると、同じ2月、「講武所にて銃隊調練に、専ら西洋式を用(もち)ゆ可(べか)らざるを戒め、万延元(*1860)年に到り、全くこれ(*「西洋式の調練」のこと)を停(とど)めたるのみならず、安政四(*1857)年九月より、廓門(くるわもん)の守衛に西洋式銃を用ひたりしをも、其(その)旧に復して、再び弓を飾らしめたるがごとき、蕃書調所をも廃して、これを医学館の附属とせんとの議さへありて、当時其(その)頭取たる、古賀謹一郎も、最早(もはや)洋学の運は尽きたりと、嘆息せしことは、予(*田辺)が親しく聞きしことありき、......」(同著『幕末外交談』東大出版会 1976年覆刻 P.92~93)という。
 阿部が熱心にとりくんだ3つの事業(海軍伝習所・蕃書調所・講武所)は、まさに風前の灯(ともしび)に陥ったのだが、1860(万延元)年3月3日(改元は3月18日)に「桜田門外の変」が起こり、井伊大老が水戸浪士などによって殺される。これにより、守旧的な反動路線はなくなり、「安政改革」における海軍と学問研究は生き延びるのであるが、しかし、講武所はついに立ち消えとなってしまう。

(ⅲ)何回も繰り返された物価調節の失敗と産物会所構想への転換
 幕末には、産物会所構想1)が1855(安政2)年、1856(安政3)年、1859(安政6)年、1860(万延元)年、1862(文久2)年、1865(慶応元)年と、何回も提起されて議論された。しかし、これらはほとんど議論倒れに終わっている。実施らしきことにまでこぎつけたのは、文久2年の国益会所の計画だけである。だが、これも「......実際に於ては、......産物会所や貸付金(*金融活動も構想されていた)のことは実現せずただ役所としての職能を果たすのみに終わった」(本庄栄治郎著『増補 幕末の新政策』有斐閣 1935年 P.326)と言われる。

〈安政2年の阿部の提案〉
 1855(安政2)年11月4日、老中阿部正弘から評定所一座・大目付・勘定所奉行・目付・勘定吟味役へ渡された産物会所案は、次のようなものである。(「市中取締續類集」諸家国産の部、第四―本荘前掲書からの重引)
①内憂外患の今日では、「急務は富国強兵」である。
②「非常の時は非常の措置」が必要であり、それが産物会所構想である。
③構想の具体的な内容―A)諸国の物産を幕府領・私領(大名領・旗本領)の別なく江戸に集中すること、B)それら産物は、江戸の4~5カ所に設ける「産物会所」に集める事、C)そして、そこで武士も含めたすべての者に直(じか)売りすること、D)産物売上高に応じ、幕府へ冥加上納金を納め、これを諸雑費(後の議論では、海防強化の資金にも)当てること―である。
 これに対し、評定所一座は、①諸国産物を残らず江戸へ集めるのは、江戸・大坂のみならず全国各地で支障がでること、更にこれを地方へ送りかえすのは、運送が二重手間となること、②諸産物の内にはすぐには売買が成立しないものもあり、それを買い上げる場合、すべての領主が対応できるわけでなく幕府が残りを買上げなければならず、その際の莫大な資金を用意できないこと―などで反対した。そして、株仲間の再廃止と海陸両会所の設立による売買値段の把握と物価のコントロール、および運上金の取り立てを提案した。
 町奉行は、評定所一座の①②には賛成したが、諸問屋再興後(1841〔天保12〕年12月、天保の改革で株仲間は解散させられたが、1851〔嘉永4〕年3月に株仲間再興令が出る)の諸物価の低下という調査をもって、株仲間の解散には反対した。
 また、寺社奉行は、「富国強兵」のために「商人共の権を取上げる」ことには賛成であるが、しかし一挙に行なうのは混乱が生ずるので反対である、可能なところから徐々に行なうべきとした。このように、議論は区々としてまとまらなかった。
 老中首座・阿部正弘のこの産別会所構想は、安政の大地震・津波、黒船来航、幕府財政の窮乏など内憂外患に直面する中から提起されたものであり、かつまた、「急務である富国強兵」路線の一環である。そして、それは幕府の強権を以て、全国の流通を画一的に統制・支配する構想である。従来の物価調節・統制策がいずれも失敗してきたので、幕府が直接流通を組織しコントロールすることに乗出すことを提案したものである。
 だが、それにしては余りにも粗雑なものであり、もしすべての幕府権力を集中して、直接に組織するとしたならば(それだけの力と意志が幕府にあったとは思えないが)、既存の幕藩封建制自身の根本的な変革となったであろう。

〈安政3年の上申書〉
 1856(安政3)年7月、海防掛目付からと推定される上申書(「幕末外国関係文書」の十四 201号)が提出され、そこでも産物会所構想が述べられている。  
 そこでは、大船製造解禁を時勢にあった「英断」と評価し、大船製造により、「千里一息の便相開(あいひら)き、兼(かね)て風待ち滞船難破等の患(うれい)之(これ)無く、其(その)利千百倍の儀ニ之(これ)有り」(P.610)とするが、それ故にまた弊害(大船を所持する諸大名や大商人のみが大利を専らとする)もあり、制度を大きく変えなければならないとする。
 そのために、まず第一に、「御国地沿岸枢要の港々え、通船改会所・諸産物会所兼(かね)て御取立(おとりたて)」(P.611)あるべきとする。すなわち、「江戸を始め、摂州大坂、兵庫、泉州堺、長州下之関、肥前長崎、隠岐の嶋、越前敦賀、越後新潟、出羽坂田(酒田)、奥州石之巻、平、下総銚子、伊豆下田、志州鳥羽、私領の分は、役所会所取立て候地だけ、向い寄り奉行御預(おあずかり)代官支配所に御引替(おひきかえ)」(P.611)とする。そのうえで、
(1) 江戸入津の船々は、旧来、浦賀にて船改めを行なってきたので船改めはそのままとし、産物会所は江戸に取建てることとし、おいおい浦賀番所を横浜辺に移し、会所を兼ねるようにする。
(2) 江戸より出向く船は、会所より浦賀まで手形を遣(つか)わし、海船問屋は会所付属のものとし、荷物積み込み・艀船(はしけぶね)の株を海船問屋に引き受けさせ、改めは会所より證文差し出し、浦賀までの改料は納めないようにする積りである。右の浦賀商船改方は、従来通りとする。
(3) 奉行持ちの場所は、当該の代官所手附(てつけ)やその他の手代(てだい)を派遣し運営させ、これまでその地方で問屋だったものを会所御用達(ごようたし)とし、勘定方や目付方などが交代で相詰(あいつ)め、その地で荷物を買い取り・積み出し船は、送付先の港までの浦證文を差し出すこととする。
(4) 浦證文のある船は、会所にて引き受け、公平な取り扱いをする。従来は、あらかじめ其の地の引受け問屋と取引がない場合、数か月も掩留(えんりゅう *おおいとどめること)させ、結局、法外な安値で買い取り、また、不意の船には法外な高値で売渡すなどの弊害があった。
(5) 宛て先の港に入津した時は、会所で浦證文・印鑑を照合し、用達が扱い・仲買が入札して取引を行ない、惣勘定の際に二分の口銭(2%の税)とする。積み出しの時も、其の地の売主から売り高の二分を納めさせる。
(6) 問屋には、株札を与え、その株高に応じて株運上(税)を差し出させる。
(7) 買主が資金の調達が難しい場合は、会所より融通し貸渡す。この貸し金は、会所御用達より出させ、一割の利子を徴収する。もっとも会所のある港々の取引は、為替手形をもってすれば便利であり、また巨万の取引も手軽にできる。
(8) すべて会所の益金は、役人の手当を差し引き、残高は大艦製造・大砲小銃鋳立(いたて)・武備筋・文学(学問の総称)筋の用途に当て、その余りは救助筋・国産開発方・工作物などの入用・蝦夷地や南島の開拓に用い、それでも余った分は金蔵に納める。
(9) これまで唐蘭物をはじめ錦(五色の糸で種々の模様を織り出した厚地の美しい織物)・金蘭(錦の地に平金糸で模様を織り込んだ豪華な織物)・純子(緞子〔どんす〕のことか?)・天鵞(天鵝絨〔てんがじゅう〕 *ビロード)・縮緬(ちりめん *絹織物の一種で、ぬるま湯に入れ縮ませたもの)・羽二重(はぶたえ *上質の絹糸で織り、練った純白のもの)その外(ほか)高価な品は、難破船や船中の不取締も少なくなかったので、従来、陸送してきて運賃も船賃の5~6倍もかかり、取引値段が高価だった。しかし、大船での安全な海上輸送となれば、価格も格別に減じ、捌(さば)きも良くなり、さらには外国取引・密貿易の弊害も盛んとなるであろうから、是非とも当時の商法を改正し、産物会所を開設しなければ困難となる。
(10) 幕府の用船は、枢要の場所場所の御用達に預け置き、非常の時は御用を勤めさせ、平常の時は諸国荷物の積み取りに用いさせ、産物を手広に取集め利潤を得させるようにして、御船預りの冥加(みょうが)として百石に付き金30両、千石に付き300両を納めさせる。もっとも廻米やそのほか御用品は無賃で運送させ、警衛や案針役(パイロット役)は常例通り用達が賄うべきである。
(11) 諸侯の手船(大名所有の船)によって買荷・積込みの分は、会所へ差し出し、買高に応じ、二分の税を納める。蔵屋敷へ積込み販売してきた向きは、これまでの石高(販売実績)を調べ、役人が立ち合い、一分の税を納めさせる。ただし、これまで積み来たりし高に超過した分は、常例の二分の税を課す。また、諸侯が手船を以て買荷運送並びに参勤交代とも、最寄りの浦会所にて取扱うこと、すなわち、国元を出帆して最寄りの会所ある場所へ一先ず入港し、買荷物の改めを受け、浦證文を受取り、出帆すること、参勤交代御暇(おひま)の節は積載した武器類を届け高と照らし合わせ、浦賀・大坂二カ所で改めることとする。
 第二に、陸路輸送の貨物については、
(1)山方より駄送り(荷駄送り)にて会所に差し出す分は、地廻り(その土地)買い取り並びに買い積み船との取引とも、会所で入札し、売り高に応じ二分の税を納めさせる。追々は上州桐生・野州足利・甲州郡内・武州八王子秩父等、絹市のある場所へ会所を取り建て、その地の「巨農素豪」の者共へ問屋株を許し、御用金を仰せ付け、江戸へ積み送り、江戸会所にて仕切(しきり *決算)相立ち次第、売り高に応じ三分の税を納めさせる。
 近年、山方の場所場所へ上方の豪商並びに都下の大店より出張し買入れ所を設け、安値段で買い占めをする風がある。民も運賃をかけて江戸へ積み出し、問屋どもに拒絶されるよりも、利益は薄くとも安心であるから、損失に至る場合でも売り捌くことがあるようである。甲州郡内の織物なども大坂商人が出張所を設け、多くを買い占め、上方へのぼせ、江戸表へは却って上方から高価になって積み下されるようである。だから上述のような絹布会所が出来れば、このような弊害を防ぎ、お上の利益ともなり、下民の便宜にもなり、有り難いことである。
(2) 諸国辺境の場所、いささかの産物でも、農間(*農業労働の合間)仕事として仕立てた品は、最寄りの会所へ差し出させ預り置き、凡(すべ)ての見積額の半分ほどを無利息で貸し与え、取引ができ次第、残りの代金も渡すようにすれば、民の助けとなり、私領(大名領・旗本領)などに於いても便利であろう。もっとも農民が耕作の余暇に作った製品は売主税を課さないで、農民より買い集め持ちだした者は、荷主へ渡し次第、定式の税を課すこととしたい。

 安政3年のこの構想は、全面的な全国流通統制をはかるとともに、外国貿易が解禁されることも予想して考えられている(大藩との競合)のであり、さらに、外国貿易も含め、幕府の「御益筋」が徹底して考えられているところに特徴がある。そこには、諸藩救済的な発想は存在しないのである。
 この構想(一説では、岩瀬忠震がイニシャティヴをとったと推測されている)は、阿部の先の構想よりも、確かにより実際的なものである。しかし、「商業利権を商人に専らとさせない」といいつつ、流通に対する幕府の全面統制であり、果して、このような事業が幕藩封建制と両立しうるか―極めて疑問である。
 本庄栄治郎氏によると、「......吉宗以後多く設けられた各地の国産会所は、早くは生産奨励の意味を有したものであるが、後には国産の売買に関するもの、即ち専売類似のものとして考ふべきものが多くなった。」(同著『増補 幕末の新政策』P.113)と言われる。もちろん、安政2年・3年の幕府の産物会所の構想は、後者のタイプである。
 この頃、産物会所を構想するキッカケは、地震・津波などの天災、黒船来航、幕府財政の困窮などの事態に直面したことであり、その狙いは、①産物の「〆(占め)買い・〆(占め)売り」さらには密貿易の弊害を除き、物価高騰に対処すること、②「商業における商人の権」を挫き、利権を商人に専らとさせないこと―である。
 端的にいうと、①は物価対策であり、②は幕府が直接に流通を組織化し、商人の商業における支配権を奪い取る政策である。
 第一の物価問題は、享保の改革時から大きな社会問題となっている。しかし、その後、寛政の改革でも、天保の改革でも、成功したとは言えない。その失敗から、幕府は自ら流通を組織化する産物会所構想へ転換するようになる。

〈従来の物価問題への対策〉
 第8代将軍・徳川吉宗(在位1716~45年)時代、さまざまな改革が行なわれたが、"米価安(やす)の諸色(しょしき)高"の現象、すなわち米価が下落する一方で、他の一般商品はいっこうに値段が下がらない―という物価問題が社会問題として登場してくる。米価安は1723(享保8)年頃から始まり、1731(享保16)年には、最高時の4分の1にまで下がった。これは一言で言うと、大坂市場への米の供給過剰が直接原因である。衣服・諸道具・菓子・玩具などの増産や新製品の製造を禁止する倹約政策と年貢米増徴政策の下で、米の供給過剰が露呈したのである。他方、他の商品価格下がらなかったのは、都市人口の増大や消費水準の上昇で商品需要が高まって来たこと、農民自身も金肥による生産向上や賃稼ぎなどで商品経済・貨幣経済に巻き込まれざるを得なかったことなどがある。"米価安の諸色高"の物価問題は、その後長く幕府を苦しめ続けることとなる。
 物価問題の解決のために、1723年10月、大岡忠相(ただすけ)らの町奉行は老中に上申書を提出し、生活必需品を取扱う商人に対して、問屋・仲買・小売の者まで仲間を結成させ、相場を書き出させ、高値になった時には、仲間で吟味してその理由を申し出させることを提案した。翌年5月には、布・綿・米・茶・醤油・薪炭・酒・紙など22品目を取り扱う問屋などに組合を結成すべきと命令がなされた。しかし、組合結成はなかなか順調に進まず、1726(享保11)年に至って、ようやく22品目中15品目の商品を取扱う問屋などの登録がなされた。しかし、組合結成には至らなかった。
 1751~88(宝暦元~天明8)年の時期も、財政支出の削減(大奥経費や土木工事費など)、財政収入の拡大(新田開発や冥加金の上納など)とともに、物価対策が行なわれた。
 だが、18世紀後半、大坂などの都市で株仲間が続々と結成されるようになる。そのわけは、18世紀中頃から畿内近国の農村で、商品農業者・農村加工業者のみならず農村商人が広範に成立し、大坂や在郷町の都市商人が形成する市場とは異なる市場の形成を望み実現し始め、これに対抗して都市の生産者や商人が株仲間を結成して自分たちの生業を特権として維持しようとしたためである。2)
 株仲間の結成は、幕藩体制では公許される必要があったが、18世紀後期の幕府は、これを支持した。というのは、幕府は直轄都市の商人を通じて市場の掌握や、株仲間公許の見返りとしての冥加金収入を期待したからである。株仲間は、運上あるいは冥加の名で呼ばれる徴収単位にもなったのである。こうして、ほぼ田沼政権時代3)にあたる天明年間(1781~89)の大坂市中では、100種類を超える株仲間が成立している。
 1787~93(天明7~寛政5)年の松平定信政権は、前代の田沼政権の腐敗政治を次ぎ次ぎと改革する。物価問題にかかわる政策は、以下のものである。
 ①1787年11月、田沼政権が専売機関として設けた人参座・鉄座・真鍮座を解散させた。一般の商工業者の団体では、その後、江戸の菜種買問屋・同買次問屋、棉実問屋・同仲買株・八王子石灰竈元(かまもと)・八丈島荷物会所などを、大坂の繰綿延(くりわたのべ)売買会所、舂米屋(つきごめや)株・薪問屋株・炭問屋株などが解散させられた。 
 ②1788(天明8)年10月、幕府御用達(ごようたし)の町人すべてに対して、幕府からの拝借金(無利子)の返納を厳しく命じ、返済できない者には営業停止を行なった。他方、新たに財政計画をたて、江戸の富商(ほとんどが高利貸)を起用して、物価調節などの経済政策に協力させた。勘定所御用達とは、勘定所の御用を努める町人で、幕府常設の金融グループである。彼らは米価調節資金として39万両の御用金を命ぜられた。しかし、年六分の低利で預けられた幕府の公金を使って、それをはるかに上まわる利子で武家や町人に貸付け、その差額を稼ぎとしたため、さきの御用金の見返りは十分にあったのである。彼らは、猿谷町貸金会所など幕府の各種金融機関が創られると、その経営にも参加して利殖をはかり、幕府との「共存共栄」を目指した。
 ③1789(寛政元)年9月、幕府は大坂米蔵の納宿(おさめやど)を全廃し、年貢米は村々の直納とした。翌年には、江戸の納宿も全廃し、江戸の有力商人に上納を一手に引き受ける「廻米納方(かいまいおさめかた)引請人(ひきうけにん)」に任命した。これが「米方御用達」の起りである。
 納宿というのは、幕領の村々からの年貢米を廻送し蔵納めまで一切を引き受ける株仲間である。彼らは、難破船や欠米(かんまい)が生じた時、村々に貸しつけたり、それをかさにきて種々の不当な要求を押しつけたりする中間搾取機関のようなもので、農民泣かせの悪徳商人である。
 定信政権は、米価調節の資金調達は勘定所御用達に担わせ、その買米技術は専門知識をもつ米方御用達に担わせた。
 ④定信政権は次々と米価対策を行ない、幸いにも1788(天明8)年、1789(寛政元)年と作柄が順調だったため、米価は低落に転じた。ところが、ここでまた"米価安の諸色高"が起こる。下層の民衆は米価の低落で一息ついたが、浅草の蔵米を給付され生活する旗本・御家人は米相場が一般物価に比べて安いため、手取りが減ることとなり、窮乏が促進された。これに対し、手数料をとって幕臣の蔵米の換金にあたる札差(ふださし)は、惣札差株仲間を結成し、米の仲買を通じて蔵前相場を上げ下げして莫大な利益を得ていた。それだけでなく、札差は生活困窮の幕臣に対して、蔵米を抵当にした年利40%もの高利金融で法外な利益を得ていた。そのあくどさは、世間で知らぬものはいないほど有名であった。
 定信政権は、1789年9月、棄捐令(きえんれい)に代表される札差仕法(しほう)を発布する。それは、(ⅰ)1784(天明4)年以前の債権・債務はすべて棄捐(*破棄)する。(ⅱ)それ以後、1789(寛政元)年5月までの債権・債務は、今後の年利を6%(当時の実勢は年利18%ぐらいであった)に下げ、知行高100俵につき1カ年3両ずつの年賦償還とする。(ⅲ)1789年6月以降のもの、新規貸付は年利12%とする―というものである。これにより、札差は一朝にして120万両近くの債権を失うこととなった。
 だが、このような強権発動は、幕臣の当面の危機を救うこととなるが、他方で、将来の金融の道(幕臣の借入れ先)を閉ざす事となる。そこで定信政権は、3万両を投じて、その内2万両は直接に札差に貸与し、残りの1万両は新たに勘定奉行御用達として登用した特権大商人10人の出資する分とを加えて、札差のための貸金会所(猿谷町貸金会所)の設立資金とした。これらは、札差を幕府の強力な統制下に置くことを狙いとしたものである。
 ⑤定信政権は、1790(寛政2)年2月13日、物価引下げ令を公布した。これは、米価に準じて諸物価の下落をはかることを狙いとしたもので、幕領・私領の別なく全国的に商品の仕入れ原価を引き下げ、また、商人の買い占めを厳しく取締るものである。だが、一部の分野で一定程度の引き下げは行なわれたようであるが、なかなか幕府の思う様には事態は進まなかった。
 定信政権の商業・物価政策は、総じて「たんなる特権商人抑圧政策ではなかった。むしろ特権商人を選択的に幕府に統合し、利用するというものであった。たしかに、物価騰貴をもたらしたものとしては当時一般に評判が悪く、これを廃止してもさして商品お需給を悪化させない部門については、株仲間の解散が命ぜられた。けれども定信政権の株仲間政策の基調は、むしろ田沼政権と同様に、三都株仲間を通じて物価引下げを図ろうとし続けたこと、そのような形で株仲間の多くを温存したことであった。......」(水林彪著『封建制の再編と日本的社会の確立』山川出版社 1987年 P.410~411)といわれる。
 松平定信は、1793(寛政5)年7月に、老中を辞任する。形は辞任であるが、実質は罷免である。だが、定信政権に参与した人々が残ったので、政治路線はそのまま継承され、米価を引き上げ・他の物価を低下させるための市場統制も継続された。定信政権下でも、米価を調節するための機関として江戸町会所などがあったが、幕府は1805(文化2)年、さらに米価掛(かかり)を設置し、ここに資金を貸し下げたり、一般の米問屋や仲買に買米資金を補助する小網町貸付会所を設置したりした。
 他の商品の流通統制としては、江戸の伊豆七島島(しま)会所・玉子会所・長芋(ながいも)会所・菱垣(ひがき)廻船積問屋仲間を成立させ、大坂では油や棉関係の株仲間が発展した。
 だが、幕府の畿内流通統制は、文政期(1818~30年)に入って、自由市場を求める民衆の広範な抵抗を受けるようになる。1823(文政6)年5月、摂津・河内の1007カ村が木綿売り捌きについて国訴する。株仲間の側はこれに押され、大坂市中以外の村々では農村生産者・商人の取引は自由であることを承認した。幕府もこれを受けて、株仲間支配は農村に及ばないことを令した。油関係では、1805(文化2)年の摂津・河内の568カ村、1823(文政6)年の摂津・河内の1179カ村、1824(文政7)年の摂津・河内・和泉の1406カ村が菜種売買自由を要求して国訴する。しかし、幕府は綿以上に油流通には固執し、これらの国訴はことごとく退けられた。
 関東でも、農村の生産者や商人の力に押されてと思われるが、前述の玉子会所・長芋会所が廃止される。1819(文政2)年には、巨大な株仲間組織の菱垣廻船積問屋の会所である三橋会所が米価調節関係で失敗し、廃止された。
 畿内の農村生産者・商人の市場は、都市の特権商人に対抗して、大いに発展したといわれる。「ただし、このような農村生産者・商人の発展は、都市の株仲間とは別の農村の株仲間の結成の方向に進み、都市の株仲間に対抗する一方で、農村に次々に生まれてくる無株の商人にも対立するようになった」(水林前掲書 P.372)のである。そこでは、各々の市場を統一して大市場の形成と自治活動の発展によって、封建領主との対抗関係を作ることには至らなかった。逆に、幕府の分断・支配のもとで商人たちの階級形成は進まず、個々に幕府の経済政策に利用され、そのもとでの利益確保に奔走するだけであった。
 1817(文化14)年8月、水野忠成(ただあきら)が老中格となり、1818(文政元)年には老中となり、水野政権が成立する(~1834〔天保5〕年)。この頃になると、幕府の経済政策は株仲間に依存したものから、貨幣政策を中軸にすえた経済政策に転換するようになる。
 水野忠成は家斉の近習から立身した人物で田沼意次に匹敵するような積極経済を推進した老中である。「その忠成には、物価調節には貨幣増発策のほうが有効であるという考え方があった。加えて、改鋳によって巨額の益金を出し、窮迫する幕府財政を建て直そうとする考えも働いていた。幕府財政は定信政権の諸政策で好転し、寛政末年の頃には江戸・大坂の金蔵の金銀は100万両を超えるまでになっていたのであるが、その後、将軍家斉の大奥を中心とする豪奢な生活は、この金銀を半分近くにまで減らしてしまっていたのである。改鋳は、一八一八年の真分二分判の発行を振り出しに、一八三二(天保三)年の二朱金鋳造まで、都合八回に及んだ。この間の益金は、金で一八〇万両余、銀で三八〇万両余であり、幕府財政は大いにうるおった。そしてこの文政金銀は、この益金規模からも察せられるように、これまで八〇年余の長きにわたって基準貨幣の役を果たしてきた元文金銀の地位にとって代わるものであった。」(水林前掲書 P.415)のであった。
 1833~39(天保4~10)年、江戸期の三大飢饉の一つと言われる天保の大飢饉が、全国を襲った。天候不順は1830(天保元)年から始まっており、1833年にはとりわけ陸奥の寒冷・出羽の大洪水となり、関東も凶作となった。1835~36(天保6~7)年には、全国的な大飢饉となり、庶民を飢餓に陥れた。1836年の飢饉は、奥羽地方が最も激しく、死者は10万人規模になったといわれる。翌年の春もまた、全国の餓死者が多数でたが、江戸でも品川・板橋・千住・新宿などに御救小屋(おすくいごや)が設けられた。
 水野忠邦が老中首座となるのは、天保大飢饉の被害がようやく落ち着きはじめた1839(天保10)年12月である。大飢饉で米価は暴騰したが、やがて平年作・豊作となると落ち着いてきたが、他の諸物価は大飢饉の後もいっこうに安くならなかった。"米価安の諸色高"である。
 水野忠邦らの天保改革でも、物価政策・株仲間については大きな問題となった。諸商品の価格は何故高いのか―大坂町奉行所は、その原因について調査を命ぜられた。「調査の結果、大坂の株仲間組織の集荷力の減退による大坂への物資廻着量の減少がその原因であるとする報告書をまとめている。大坂町奉行はそこから、株仲間の再強化策を提案しているが、しかし、その株仲間が積極的に諸物価を吊(つ)りあげているのではないか、という判断が江戸の幕閣にはあった。株仲間が過分の利得を求めて買占め・独占価格の操作を行っているのではないかという観測である。株仲間がもはやかつてのように物価安定のために機能する力をもたず、かえって物価吊上げの原因になっていると判断され」(水林前掲書 P.432)たようである。そして、1841(天保12)年12月13日、株仲間の禁止令が発せられた。
 だが、18世紀後半からの商品生産の発展は、前述したように幕藩体制に適合的な都市の生産者・商人中心の市場に対立する農村の商品生産者・商人の市場を形成させた。だが、「都市に対する農村の対抗、株仲間に対抗する農民的自由市場の形成は、しかし、畿内近国先進地域に限定された特徴であった。関東では、農村商人の活動は萌芽的にはみられたものの、領主制的な市場を崩壊に導くような発展はみられないまま幕末・維新期を迎える。その他の諸地域では、事態は畿内近国とむしろ正反対であった。......各藩で十八世紀後期以降、諸特産物の開発が進むが、その商品化の形態はおおむね藩専売制4)であった」(水林前掲書 P.372)からである。5)
 したがって、単に既存の株仲間を解散すれば解決するものではなく、「大坂への物資廻着減少」をもたらした原因を解明し、その解決策を求めなければならなかったのである。具体的には、既存の複雑な市場構造の変革(無株の商人も含めた)と公共性の観点からの統一化が求められた。そこでは、当然にも藩専売制をも変革し組み込む全国市場の形成が要求された。この問題は、必然的に幕藩制国家との衝突となる。
 だが、天保の改革は、幕藩体制の変革は直視できず、既存の幕藩制的枠組みを前提として対処し、しかも株仲間を解散すれば解決につながるかのような態度をとったのである。
 ともあれ、水野政権は1841(天保12)年12月に、株仲間解散に踏み切った。しかし、この政策の遂行面でも、不十分性があったようである。
この解散令によると、「文化十(一八一三)年に成立した菱垣廻船積問屋仲間(十組問屋)を解散させ、同七年(*天保7年)から毎年、幕府に献上してきた冥加金(みょうがきん)一万二百両を免除しただけでなく、すべての問屋仲間・組合を解散させ、仲間以外の一般商人の自由売買をみとめていることは明白である。ところが問屋側の受取り方はいろいろで、江戸でも十組以外の仲間は自分らに関係ないことだとし、江戸以外のところでは江戸の問屋仲間だけの解散令であるとして、従来通り仲間として活動をつづけるものも少なくなかった。また問屋仲間は解散したが、問屋個々の商売は自由であったから、ずるずると仲間の機能をもちつづけるものもあった。」(北島正元著『日本の歴史』18幕藩制の苦悶 中公文庫 1974年 P.459)のである。
 そこで幕府は、翌天保13(1842)年3月、「改めて、今後は仲間・組合はもちろんのこと、問屋の名目も廃止する。また物価に関係がない(*と判断された)のでこれまで除外してきた湯屋・髪結床の仲間も、弊害がみとめられるので解散すると触れ出した。ついで同年10月には符帳(*商品に値段をつけるための隠語・記号)による取引を禁止し、商品一品ごとに正札(しょうふだ)をつけ、帳面に元値段・売値段を記入すように命じ」(同前)ている。
 幕府は、株仲間解散という大方針を全国の直轄都市や代官支配地(天領)だけでなく、諸藩にも通達し、一斉に実施させようとした。しかし、諸藩の多くは、この方針を無視するところが多かったようである。中には広島藩のように、天保期に入ってむしろ問屋株の結成を奨励する藩もあった。また、仲間外の商人たちも、自由流通の下で買い占め、セリ売り、横流しなどが一層盛んとなり、主要商品の大坂入荷量を増やすという幕府の意図は達成されなかった。
 そこで水野政権は、今度は物価公定など直接的な強制手段をもった物価引き下げ手段をとった。1842(天保13)年に次々と物価引き下げを命令する。3月、江戸の諸色掛の名主に物価値下げを命令し、5月、物価引下げ令のを公布し、10月、前述のように符帳での取引を禁止し、商品一品ごとに正札を付けさせるなどした。
 水野政権による一連の強権的な物価対策により、①多くの商人は、商品の質と量を落して抵抗した。しかし、②地代・店賃(たなちん *家賃)の引き下げが初めて実現し、引き下げ率は3、4%~20数%に及んでいる。③職人・日雇いの賃金も公定され、大工・左官は飯料とも一日銀4匁2分(銭453文)、石工は同じく銀5匁(銭530文)、一般の日雇いは銭200文などと決められた。職人たちは、仕事先が減少した上に、賃銀までが抑制されのであった。④貸金や質屋の利子も、引き下げられた。ただし、質屋仲間は、休業して抵抗したため、得意先の武家や町人が困窮したので、幕府も珍しく命令をゆるめた。
 水野政権は、銭相場と小売価格が密接な関係にあると眼をつけ、1842(天保13)年8月5日、金1両に対し銭6貫500文を公定相場とするとした。銭相場が公定で引き上げられたのだから、商人は小売価格を安くして誠実に商売をするようにとの趣旨である。 
 水野政権の強権的な種々の物価対策で、どうやら物価は落ち着いてきた(商品によりその度合いは異なるが)ようである。しかし、水野忠邦が1843(天保14)年閏9月に失脚すると、諸物価はふたたび上昇に転じた。強権により、今までは一時的に物価上昇が抑えられていただけなのである。
 ともあれ、水野忠邦の決断により、株仲間は解散された。従来は全国市場を握る株仲間の統制機能に依存して、幕府は物価対策を行なってきた。それが水野政権では、株仲間を解散によって、物価引下げを実現しようとした。正反対の政策への転換である。この決断に至るうえで影響を与えた要因としては、いくつかの説がある。水戸国産品の自由な流通を妨害する江戸問屋の横暴を批判した斉昭が、幕閣に進言したというのも一つの説である。 
 とともに、「もう一つは、株仲間解散令の発布される二ヶ月前の天保十二年(一八四一)七月に、取締諸色の江戸鈴木町(すずきちょう)肝煎(きもいり)名主源七が、つぎのような要旨の上書を幕府に提出していることである。これによれば、以後(いご)諸問屋から商品流通の独占権を取り上げ、諸産物の集散地や大都会の便利な所々に検閲所を設けて、代官の監督下に商品を集め、それを江戸の町会所が一手に集貨し、売り払うといういわば中央卸売市場の構想」(北島前掲書 P.462)である。
 北島氏によると、第三の説が、農政学者・佐藤信淵の学説である。水野忠邦は、1844(天保15)年6月、ふたたび老中首座に返り咲くが、翌1845(弘化2)年2月、病気を理由に辞職する。忠邦は再度の失脚の直前、佐藤信淵の著『経済問答』を読んで強く興味をもち(忠邦の侍講〔じこう〕塩谷宕陰〔とういん〕が信淵の門人)、近臣の秋元宰助を信淵のもとに送り、書簡でいろいろ質問している。
 佐藤信淵の産業統制論は、彼が空想した理想社会を前提としている。それを述べた「乗統法(すいとうほう)」は、諸大名の割拠と、士農工商賤民の身分制を全廃し、全日本を一人の君主のもとに統一し、すべての土地と生産・運輸手段を国有とし、同じく生産も商業も国営とする社会である。また、この社会では、君主を除き、すべての日本人は平等・同権であり、「草・樹・?・匠・賈・傭・舟・漁」の8種の職業のいずれかに従事するとした。そして、この社会では各級段階の学校を整備し、才能のある者は誰でも入学させ、無料で学ばせ、すべての官吏は大学の卒業生から採用するというのである。
 これは、多くの学者がいうような「絶対主義国家」の構想ではなく、神道の皇統主義の立場から中国の一君万民主義(専制国家)を具体化したものである。
 「垂統法」の国家体制に照応したものが、「復古法」である。信淵が忠邦のために起草した『復古法』の要旨は、以下のようなものである。すなわち、勝手掛老中の総管のもとに、新しく奉行所(奉行1人、加担6人)をたて、その奉行は町奉行を3人に増してその上席の者を当て、かつ勝手掛奉行を兼任させる。また、京都・大坂にも奉行所を設け、江戸から奉行が毎年一度参勤する。このうえに、諸国に令して万物をこの奉行所に集め、これをすべて「お上の御産物」と定める。この産物の売却方法は、各品についてそれぞれ商人年寄を呼び出して入札させ、落札者に品物を渡す。落札した年寄は、それを仲買を経て小売人に渡し、売却させて、その代金を仲買・年寄を通じて奉行所へ納めさせる。ただし、商人に儲けを得させるために、品物ごとに適正な利益を決めて収益させる。そして、奉行所に納入された代金の30分の1を奉行所に積んでおいて、士民の困窮者を救済するための資金にあてる。信淵の計算では、産物代金約1億3000万両のうち3000万両は幕領で売買したものであるから、その30分の1である100万両を奉行所に収める。この内、70万両を士民の救済にあて、残りの30万両を毎年積み立てておくと、5年で幕府財政の赤字は消えてしまうであろう、その後は金銀が増えるばかりであろう―というのである。
 北島氏によると、この信淵の産業統制論が、その後の老中首座・阿部正弘などの産物会所構想に大きな影響を与えたと言われる。
 しかし、信淵の「垂統法」「復古法」は絶対主義官僚国家の理想的な国家像を描いたものとは、とても思えない。むしろ、中華文明の影響を受けたものであると思われる。中国では、すでに古代から流通統制政策・専売制度は発達しており(《補論 塩鉄専売制と塩鉄会議》を参照)、その延長上に産業統制国家を信淵は描いたものと推定される。

注1)17世紀後半、金銀の産出が急速に衰え、出島などでの輸入代金は銅や俵物に大きく依存するようになる(俵物とは、イリコ・干しアワビ・フカヒレを指し、中国で需要があった)。1785(天明5)年、幕府は大坂銅座詰めの長崎会所役人に対し、大坂俵物会所(俵物商人による俵物の廻着集荷所)の接収を命じ、長崎会所による独占的な俵物集荷を開始した。全国各地に集荷人を任命し、アイヌ漁師などから安く仕入れた俵物を長崎会所が集荷人から即金で買い上げる体制を作ったのである。幕府は、1799(寛政11)年、東蝦夷地を直轄とした時に、蝦夷地産物の集荷・販売機関として、幕府直営の箱館産物会所を設けた。この時は、江戸と箱館に会所を設け、全国の要地に御用取扱い商人を置いた。 
 1812(文化9)年、場所請負制の復活で産物会所は廃止となったが、1855(安政2)年の第二次幕府直轄(蝦夷地の)を行なうと、1857(安政4)年に、蝦夷地産物の流通統制と、流通過程での課税による収益を目指して、箱館産物会所を設けた。この時は、箱館・江戸・大坂・兵庫に会所を設け、他の要地にも用達商人を置いて、売買価格の2%を口銭(手数料を名目とした税)として上納させた。幕末のいろいろな産物会所構想は、この箱館産物会所の経験も踏まえているのである。なお、箱館産物会所については、拙稿『幕府の北方政策』(労働者共産党ホームページに所収)を参照。
2)株仲間は、構成員の寄合によって仲間組織が運営され、日常的な事務をつかさどる年行司、定行司などの機関が、年寄・組頭・肝煎などの諸役が設けられた。株仲間の特権は、その排他性に特徴的に現われている。それは、仲間の数の株数を限定して、一定数に固定し、仲間外の者が同じ営業をすることを阻止しようとしたことにある。廃業や新規開業は、株の売買・賃貸によって行なわれた。
 3)田沼意次は、第9代将軍家重の小姓として身を起こし、やがて1万石の大名となり、第10代将軍家治の1767(明和4)年に側用人となる。1772(明和9)年には正規の老中となり、1786(天明6)年8月に失脚する。
4)藩専売制には、さまざまなタイプがあった。藩が特定の地区の農民を他と遮断して、特定商品の生産を強制し収取するタイプ、藩が藩営農場・工場を経営するタイプ、特定生産物を藩が買い占め販売するタイプ、特定商人を指定して藩が間接的に生産物を買い占める販売するタイプなどである。だが、いずれのタイプでも民間における商品の自由流通は原則として禁じられていた。このため、大規模な百姓一揆では、幕藩に対する要求の一つに専売制の廃止がかかげられていた。
5)近代以前の市場は、世界のどこでも多様な市場がつながりあって形成されていた。「中世初期からヨーロッパ社会は多様な市場を不可欠な構成要素としていた。そのかぎりではヨーロッパはすでに完全に市場依存型社会であった。しかし、人々は市場をたくみに飼い馴(な)らすよう腐心していた。市場は放っておけば富と物資の分配に大きな偏(かたよ)りを生じさせることは当初から知られていた。したがって、公権力を担う者が市場を管理し、そこをめぐる流通・取引を厳しく統制することは通念化していたとさえいえる。いわば市場は私的取引と公的管理がつねに交差するところではじめて機能することができた。表現を変えれば、自由と規制は矛盾するものではなく、最終的には公共性のなかの自由を標榜して、貧者と消費者のためにすべての市場は設けられていた」(山田雅彦著「ヨーロッパの都市と市場」―地域の世界史9『市場の世界史』山川出版社 1999年 P.80)のである。市場の奔放さ(暴力性も含め)は、公的管理なしには継続しないこと―これは、どこでも共通する。その「公的管理」のあり方がまた、東アジアと西欧とでは異質であり、それぞれの歴史の色合いを特徴づけているのである。専制国家(皇帝の手足となる官僚制による公的管理)と自治都市(民主制の伝統をもつ市民代表の公的管理)とでは、当然なことに近代以前の市場の規制の違いを生み出すからである。

《補論 塩鉄専売制と塩鉄会議》
 前漢の武帝(在位 前141~前87年)時代は、「外、四夷を討ち、内、功利を興す」と言われるほど、周りの異民族を制圧・侵略する対外戦争が打続き、そのこともあり、国内では出世主義と利益志向の功利主義の風潮が盛んとなった。
 戦費の負担が重なる国家財政の立て直しに最も寄与したのが、専売制といわれる。専売制の総括的指導を行なったのは、御史大夫(ぎょしたいふ *三公の一つで、地方の監察と統括を行なう官)・張湯であり、具体的には、大農令(*国家財政全般を司る官の長官)・鄭当時の推薦で大農令副官となった山東の大製塩業者・東郭咸陽(とうかくかんよう)と南陽(河南省)の大製鉄業者・孔僅(こうきん)が担った。「......前一一九年にこの二人は塩鉄専売の具体案を建議し、武帝の裁可を得た。ただちに二人はおのおの全国を巡察して、鉄鉱石の産地五〇カ所に鉄官、製塩業がいとなまれていた三六カ所に塩官という官署を設置した。ここまでの塩と鉄の専売化の手順は同じであるが、以後は異なっている。鉄の場合は国家の直接管理をはかり、鉄官に官営の冶金(やきん *鉱石から金属を精製する技術)・鋳造の作業場を付属させて国家直営とした。鉄官の官吏には孔僅が各地で採用した実務経験者が多くを占めた。労働力は一般農民の更卒(こうそつ *23~56歳の成年男子)、労働刑に処せられた囚人、官奴婢(かんぬひ *官が所有する奴隷)をあて、専門の工匠も配置した。....../塩の場合は、製塩をおこなったのは募集に応じた民間製塩業者であり、設備・器具は塩官の管理下におかれた。生産品はすべて買い上げ、以後販売は国家の手に委ねられたと思われる。塩の密造に対しても厳しい罰則があった。/この両専売制は、一部の商人から反発があったものの順調に進められ、国家財政の再建に絶大な貢献をしたことはまちがいなく、武帝期の対外遠征を保障する有力な財源となった。なお、前七八年には全国に??(かくこ *政府で酒を専売すること)官がおかれて酒の専売も試みられたが、その内容など具体的なことは不明である。」(世界歴史大系『中国史』1 山川出版社 2003年 P.411)と言われている。
 武帝期の国家財政の安定化に大きな役割を果たしたのは、この専売制とともに均輸(きんゆ)と平準(へいじゅん)である。均輸も平準も、桑弘羊が立案し、前110年に施行された。「この両者の目的は、物資の流通の平均化と物価の安定を国家の施策によってはかるとともに、財政収入の増大を目的としたものであった。/均輸については、その具体的内容が明瞭ではなく、諸説あるが、実施機構として大農のもとに数十人の専門官をおいて郡国別に担当させたこと、全国各県に均輸官を設置して実施の拠点としたことは確かである。一般的には、人民が上納すべき賦(*軍費に当てる税)や租(*土地生産物からの税)を、その土地の特産物や国家の必要とする物資(絹織物など)に換えておさめさせる。首都への輸送やそれらの物資を必要とする地域への輸送・販売を国家の手でおこなうことによって、商品の売買、運送にあたる商人の利益を抑え、物価の差額分を国家収入とする、というものである。....../平準は大農に属する平準令をおき、その管理下の倉庫に首都へ送られる物資を集積し、必要な時期・地域に売り出し、また余剰物資を安く買い占めることによって物価の安定と物資の供給をはかるとともに、物価の差額分を国家の収入とするものである。これはいずれにせよ均輸と表裏一体のものであり、均輸の体制によって実現しえたものであった。」(同前 P.412)のである。
 専売制と均輸・平準は、国家財政を安定化させるとともに、商人層に大打撃を与えた。中国では古くから、儒家思想のみならず法家思想も、農業が本業とされ、商工業は末業として差別され蔑視されてきた。(このような考え方は、中国近代に至るまで連綿としてつづけられてきた。明治維新に至るまで千数百年に渡って、中華文明の影響を直接・間接に受け続けてきた日本もまた、同じであった。このため、商人たちはヨーロッパと異なり、経済力のみならず政治力も強化し、階級形成を行なう事はほとんどできなかった。)
武帝の死後の前82年、各郡国などから賢良・文学(官吏にふさわしい人物を推薦する際の基準。それが官僚を指すようになった)の推挙が命ぜられ、60余人が宮中に集められ、翌前81年2月には、彼らに民衆の生活の苦しさを報告させるとともに、塩鉄・酒の専売制度および均輸・平準を存続させるべきか否かを担当官と議論するように詔勅が下った。
 会議では、「賢良・文学はいずれも年若い儒生であり、儒家思想の立場から農本主義を主張し、専売制と均輸・平準はいずれも民を商工業に向かわせながらその利を国家が吸いあげて民を苦しめる、仁義に反する策であるから廃止すべきことを主張した。これに対して、担当官の側から出席して主に発言したのは中心人物たる桑弘羊であり、多数の儒生を相手にはほとんど一人で論陣を張った。彼は国家の当面する最重要課題は匈奴をはじめとする異民族の攻撃から祖国を守ることであって、辺境防備が第一に必要なことであり、そのための国家財政の確立にとってこれらの諸策は不可欠であると主張した。....../結果は、試みとして一時的に全国の酒?(しゅかく *酒の専売)と三輔(さんぽ *首都圏地域)地域の鉄官を廃止することになったが、諸史料から判断するとこれらもどこまで実現したか疑わしいところがある。」(同前 P.420~421)と言われる。(詳しくは、拙稿『漢代専制国家の支配秩序と官僚制の構造』を参照)

(3)今度は軍制参与に就任する斉昭
 斉昭は、海防参与辞任の三か月後の1854(嘉永7)年7月5日には、今度は幕府の軍制参与に任命された。斉昭は藩主時代から、攘夷のための軍備強化に努めてきた。また、ペリー来航の年、1853(嘉永6)年11月12日には、幕府から大船建造の命を受け、同年12月15日には、大砲74門を幕府に献上した。
 「......斉昭は、〔*幕府の軍制参与に〕就任するとまもなく、軍制改革の具体的提案を行い、なかでも毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう *寺院の鐘をつぶし、大砲を造ること)という大胆な計画を示すと、阿部もこれを承認した。/斉昭は、さきの水戸藩社寺改革で毀鐘鋳砲を実施し、しかもこれが失脚を招く原因となった......が、今回はあえて全国の寺院を対象としてこれを行おうというのである。寺院の反発を封ずるためには、幕命よりも朝廷からの指令のほうが有効と考えたのであろう、十二月、太政官符(だじょうかんぷ)をもってこれを全国へ布告した。/この計画に対しては当初から幕府内にも反対の空気が強かった。しかし、ともかく太政官符布告にまで至ったのは、斉昭と阿部老中との連携によるところであったにちがいない。/ともかく斉昭は、隔日登城する熱心さで、軍制改革のみか幕府の人事にも介入し、さらには人材登用、武備充実、諸大名の登城拝廟の礼の省略、裁判渋滞の弊の是正などについてもしきりに意見を述べ、その断行を迫った。」(瀬谷義彦・鈴木暎一著『幕末維新・水戸藩の栄光と苦境 流星の如く』NHK出版 1998年 P.50)のであった。
 ここでも、斉昭の「熱心さ」と性急さが現われているが、翌安政2(1855)年3月3日、幕府は太政官符を受けた形で、毀鐘鋳砲を全国に指令した。だが、この指令は、第一に全国の寺院関係者の大反発に遭遇する。寺院関係者の反発は、かつての水戸藩の場合にもあったが、今回は全国が対象であり、今回は前回の比ではない。何十倍の非難である。 
 第二は、幕府の役人の間での不評である。太政官符などという古めかしい形式をもって朝廷の権威を復活させるような政治に対しては、幕府軽視の傾向を助長するとして反対する者もおり、世評は悪かったのである。(太政官符を利用するための裏工作は、斉昭が関白鷹司政通を通して行なった。政通の夫人は斉昭の姉)
 しかし、毀鐘鋳砲の指令は、ついに実現することはなかった。というのは、1854(嘉永7)年10月、江戸は大地震に見舞われ、江戸市中だけでも、7000~1万人の死者がでたといわれる。安政の大地震である。11月4日には、大津波が下田を襲い、プチャーチンのディアナ号を大破沈没させた。この地震による被害をただちに救済するために、とても毀鐘鋳砲などの諸政策はかなわず、自然と中断の形とならざるを得なかったのである。(江戸では、12月28日に日本橋での大火もあった)
 だが、斉昭にとっての痛手はそれ以上であった。この安政大地震で、斉昭は最側近の藤田東湖と戸田忠敞を一挙に失ったからである。

Ⅶ 斉昭の幕政からの離脱―阿部と斉昭の路線的乖離の明確化

 (1)「下田三箇条」をめぐる幕府内の議論
 1854(嘉永7)年3月3日、日米和親条約が締結・調印され、その後、西欧諸国と次ぎ次ぎに同様な条約が調印されたことは、先述した。それより後の1855~56(安政2~3)年の最大の外交問題は、いわゆる「下田三箇条」と呼ばれる問題である。「下田三箇条」とは、日米間で問題となる①日本沿岸の測量問題、②アメリカ人の上陸止宿問題、③領事駐在問題である。
 ①の測量問題では、1855(安政2)年3月27日に、アメリカ測量船が下田に来航し、同月29日に、日本沿岸の測量許可を要求する書翰を提示した。アメリカ艦隊司令官ロッジャースが提出したその書翰には、"海難事故を防ぎ、日米両国の利益になるので、測量は認められるべきである"と記されていた。
 この問題に対して、幕府は5カ月後の再来航に備えて、関係諸部門の評議を命じた(4月14日)。その評議はまたまた大議論になっていくのであるが、結論は以下の通りである。すなわち、評定所一座・遠国奉行・海防掛勘定奉行ならびに勘定吟味役は同一見解であり、"断わる予定であるが、諸大名に諮問したうえで測量を許可する含みを残した"ものである。他方、大小目付は、"測量拒否の態度を示し、アメリカに使節を送ってこの問題を談判する"というのである。結局、この5月16日の段階では、①測量問題では、関係諸部門での評議は、不一致となった。
 ②の上陸止宿問題は、1854(嘉永7)年11月、下田を津波が襲い、プチャーチンの乗艦ディアナ号が大破沈没し、被災したロシア人をアメリカ船カロラインフートで帰国させることが発端であった。同船は、1855(安政2)年2月9日、乗組員を下田の玉泉寺に残して出航し、ロシア人が仮止宿する戸田(へた)に向かった。
 プチャーチンは、下田奉行にアメリカ人の上陸止宿を認めるように申し入れた。だが、2月14日の戸田村宝泉寺での交渉で、勘定組頭・中村為弥はこれを認めなかった。プチャーチンは、アメリカ人数人を止宿させることで、ロシア人500人が助かると重ねてアメリカ人の止宿許可を求めた。
 しかし、この際には、日本側の特別措置(後に先例としない)として終わり、カロラインフートは戸田のロシア人と下田のアメリカ人を乗せて退去した(4月21日)。
 だが、問題は解決しておらず、4月23日に、箱館に入港したロッジャースが提出した書翰で再燃する。すなわち、日米和親条約の第四条と第五条によれば、アメリカ人は下田と箱館において、暫時居住して自由な行動が認められる―という主張なのである。
 この問題を箱館奉行から進達された老中阿部は、1855(安政2)年5月21日、早速、評定所一座・海防掛・応接掛に評議するよう命じている。翌22日、評議の結論が阿部に上申された。それは、次のようなものである。すなわち、この問題は条約の解釈の問題なので、米使応接掛の意向が分からないと評議できないというものであった。
 米使応接掛の解釈は、25日頃には具体的に提示された。それは、まず第一に、第四条は漂流民らを「閉籠禁錮いたし候儀(そうろうぎ)等(とう)之(これ)無く」とのアメリカ側の求めに応じた条文であり、室内に閉じ込めたりしない―という意味であるとした。
 第二に、第五条の条文は、「一合衆国の漂民(ひょうみん)其他(そのた)の者とも、当分下田箱館逗留(とうりゅう)中、長崎ニ於て、唐和蘭人同様〔の〕閉籠(とじこ)メ窮屈の取扱(とりあつかい)之(これ)無く、下田港の内(うち)小島周り凡(およそ)七里の内は、勝手ニ徘徊(はいかい)いたし、箱館港の儀ハ、追(おっ)て取極(とりきめ)候事」と記されているが、米使応接掛は「其他の者とも」とは、「渡来の船々乗組の者」を指すと示した。また、下田・箱館で「繋泊滞在(たいざい)罷(まか)り在(あ)り候中、すへて五里七里の定めの通り、上陸遊歩をも相免(あいめん)し」と指摘している。
 米使応接掛の解釈は、やはり下田・箱館でも宿泊は船中で行ない、居留(上陸止宿)を認めていないのである。
 これらの解釈を受けて、評定所一座・海防掛大小目付・長崎奉行・下田奉行・浦賀奉行は、連名で1855(安政2)年6月2日付で、次のような結論を上申した。
 第一は、第四条については、条約の漢文と横文字を参照すると、アメリカ側の要求する上陸の際の自由行動を拒否する論拠を見出すことはできない―とした。
 第二に、第五条も漢字と横文字を斟酌すると、米使応接掛の主張する"漂流民以外は船中で寝泊まりさせる"という解釈を押し通す事は出来ないとした。この上申を受けて、阿部は最終的な上申を求める。最終的な評議書は、日米和親条約の和文にある「当分」とか「一時」とかの表現を根拠に、「無際限滞留いたし候議ハ、決して相成(あいな)り難き事ニ相極メ置(おき)、一時の逗留は御聞済(おききすみ)方(かた)然るべき哉(や)と存じ奉り候」(「幕末外交関係文書」の十二 51号 P.102)と述べて、少なくとも期限を決めた上での逗留(上陸止宿)を認めざるを得ない―とした。
 ③の領事駐在問題は、1855(安政2)年5月に、議論されている。米使応接掛の林大学頭や徳川斉昭らが、この問題での協議を求めている。この問題の諮問は6月16日に出され、緊急を要したようで、翌日には回答するように指示されている。
 まず、勘定方(勘定奉行・勘定吟味役)の結論は、アメリカ官吏の駐在を断った上で、やむを得ない場合は認める―というものであった。
 だが、大小目付の結論は、これとはニュアンスが異なっていた。それは、①条文上、アメリカ側が領事の駐在を必要と認めた場合は、置くことができる―と解釈し、アメリカ側の駐在要求を拒否できる見込みはない、②やむを得ない場合は、アメリカの領事駐在を認めることになるが、その際には、将来日本がアメリカに領事を置くことを認めさせる。そうすれば日本とアメリカが対等の立場を保つことができる―というものであった。
 領事駐在問題は、ニュアンスの違いはありながらも、やむを得ない場合は、アメリカ領事の駐在を承認するというものであった。

 (2)斉昭と2老中の激論
 斉昭が「下田三箇条」の問題で最初に懸念を示したのは、領事駐在問題であった。1855(安政2)年5月6日、斉昭は登城して老中たちに対し、間近に迫ったアメリカ艦船の来航に伴う領事駐在問題の交渉について、どのように対応するのかを問いただした。
 「川越藩主松平直侯宛徳川斉昭書翰」(『大日本維新史料稿本』所収)によると、「老中阿部正弘は『当時談判中のよし』と協議中であると答えている。老中松平忠優(ただます *のちに忠固)は『とても御備も不行届(ゆきとどかず)、今(いま)事(こと)出来(しゅったい)候而(て)はとても利なく』と防備ができていないので、なにか問題があれば日本側に不利であり『大窮迫に而(て)迚(とて)も戦争に相成(あいなり)候而(て)立行(たちゆき)不相成(あいならず)』と紛争の回避が重要であると回答した。また、老中松平乗全(のりさと)は『なまなか一戦して其上(そのうえ)にてゆるし候よりは、却而(かえって)今の中(うち)より済(すま)せ候(そうろう)調(しらべ)に致置(いたしおき)候方御威光もよろしく』と領事の駐在を認める方向で準備すべきである」(麓慎一著「日米和親条約締結後の幕府外交」―『歴史学研究』749号 2001年5月)と述べたのである。
 これに対し、斉昭は、「下田に領事を駐在させればその次には江戸城を見せるようにアメリカ側は要求するであろう。その次には将軍との縁組みなど無理難題を申し出るであろう、と懸念を表明した。さらに徳川斉昭は、老中松平忠優に将軍との縁組みに至らなくても、忠優の娘との縁組みをアメリカ人が申し出たらどのように対応するのか、と尋ねた。すると老中松平忠優は冷笑したというのである。また、徳川斉昭は領事の駐在によって『下田不残(のこらず)天主教に相成候はば此所(ここ)に砦(とりで)出來(でき)』と、アメリカ人に慣れ親しむ者が出ることを憂慮した。すると老中松平乗全は『下田の人はかき集めてわずか三萬人位ならん是(これ)を御捨(おすて)被成(なられ)候へば可然(しかるべく)と答えた」(同前)という。まさに斉昭の怒りが、天をついた様子がまざまざとうかがえる。
 この会談の模様は、斉昭の第8子の松平直侯から松平慶永へ、慶永から伊達宗城にも回覧され、宗城は2人の老中に対して、「閣内の売国論」と激しく批判している。
 「下田三箇条」をめぐる激論は、ついには斉昭の3人への強い罷免要求に発展する。1)
 1855年6月晦日の斉昭から阿部への書簡は、次のように言っている。(文中の「二」は老中第二席の牧野忠雅を、「三」は同第三席の松平乗全〔のりさと〕を、「四」は第四席の松平忠固〔ただかた〕を指す)

二・三・四の一条、貴兄(きけい)御身(おんみ)ニ取リ候テハ嘸々(さぞさぞ)御心配ト深察致シ候ヘ共(そうらへども)、カカル御大事ノ場ニ臨ミ、聊(いささか)モ黜陟(ちゅつちょく *退けると上〔のぼ〕すと)之(これ)無(なく)候テ非帯(?「非常」か)ノ改正行なわる候筈(はず)ハ決テ之(これ)無候へバ、国家の為(ため)御一分ノ御迷惑ヲ御忍ビ、御決断の方ト存候(ぞんじそうろう)。扨(さて)二・三ハ碌々(ろくろく *凡庸)備員(*数揃え)ノミ故御転(おころび)ニ相成(あいな)るべく候へ共、四ハ先々(さきざき)御用ニ立(たち)候由(よし)、過日(かじつ)御内話(みうちばなし)ノ節モ愚意(ぐい *己の考えの謙称)申述(もうしのべ)候(そうろう)処(ところ)、今程(いまほど)御決心ニ相成候哉(や)。愚老(*斉昭のこと)見込ミハ二・三ハ元ヨリ論じ足らざる候処、四ハ俗論苟且(こうしょ *間に合わせ)御承知の通りニ之(これ)有り、......四ハ廟堂俗論の根元ニ候間、万一、二・三ノミ動(うごか)シ、四ガ二席ニ相成り、貴兄ノ権ヲ分チ候様(そうろうよう)相成り候ハバ、必(かならず)牛角両派ノ勢ヲナシ〔*二つの派に分れる勢いとなり〕、溜(たまり *溜間詰め)初(はじめ)俗論家ハ向(むかひ)ニ相成るべく、左候(さそうら)へバ天下ノ事(こと)奈何(いかん)ともすべからず、臍(ほぞ)ヲカミ〔*後悔する〕候テモ間(ま)ニ合(あい)申すまじく候。仍(よっ)テハ二・三・四一同表発(ひょうはつ *公表)ハ今日ノ上策、右ガ御六ヶ敷(おんむずかしく)候ハバ二ハ古老ノ廉(かど)ニテ先(ま)ヅ御据置(すえおき)、三・四ハ是非(ぜひ)御決済之(これ)有りたく。  (『懐旧紀事』)

 老中首座阿部正弘は、1855(安政2)年8月4日、「開国」派の乗全と忠優(忠固)の老中罷免を行ない、幕政改革の方針を公布した2)。その後に、斉昭は正式に幕政参与(政務参与)を命ぜられた(8月14日)。

注1)斉昭は、1853(嘉永6)年7月3日に水戸藩主慶篤とともに海防参与に任命されるが、その際にすでに松平忠優・松平乗全・牧野忠雅との間でひと悶着があった。同年6月16日、阿部正弘が斉昭を海防参与に推薦するが、「此の議(*推薦のこと)あるや他の閣僚も概(おおむ)ね之(これ)を可とするの色ありて、牧野備前守忠雅・松平和泉守乗全は大に然(しか)りと答え久世大和守広周は最も賛成の意を表せり。然るに松平伊賀守忠優(後に忠固と改む)は独り之を不可として曰(いは)く、老侯を引いて大権を執らしむるは宜(よろし)く再思(さいし)すべきことなり、防海の儀を問はんと欲せば彼の邸(やしき)に就いて問ふこそ適当なれ、是(こ)れ事体にも適(かな)ひ且(か)つは旧例にも背(そむ)かざる所なり、軽率に之を起して後の悔(くひ)を遺(のこ)すこと勿(なか)れと。是(ここ)に於て牧野忠雅・松平乗全も又(また)頓(にはか)に説を変じて忠優に賛成せしが故に、正弘の議は直(ただち)に成立するに至らず。結局、将軍の台旨(*将軍の意思)に因(よ)りて裁決するの外なきを以て......」(『水戸藩史料』上編巻一 P.33)ということがあった。斉昭のかの三者に対する「遺恨」があったのである。
 2)人事問題は、乗全・忠優の罷免、斉昭・慶篤の海防参与への任命、さらには堀田正睦(開国派)の老中再任へと進展する。これら一連の人事刷新について、守屋嘉美著「阿部政権論」(講座 日本近世史7『開国』有斐閣 1985年)は、次のように指摘している。「......より本質的な問題は、幕政改革の一端であった蝦夷地政策に関し、蝦夷地全領上知による幕府の直轄化を主張する箱館奉行堀(*利煕)と、従来通り松前氏の支配を求める両松平老中(*乗全と忠優のこと)との対立である。堀の主張は岩瀬(*忠震)等海防掛大小目付の支持を受けており、正弘も彼らの構想に沿って蝦夷地政策を遂行しているのをみれば、正弘を中心とする幕府内改革派と溜間詰大名と結びつく松平両老中ら守旧派との政治路線をめぐる対立が根底にあったとみなければならない。」と。

 (3)実際は影響力が落ちる斉昭
 先述したような、幕府関係諸部門の討論経過にもかかわらず、老中は1855(安政2)年8月13日、「下田三箇条」に関して、次のような「覚」を下田奉行に下した。

        覚
当三月中、其地(そのち)江(え)渡来の亜米利加船より申立て候(そうろう)浦々暗礁等測量の儀、御許容相成り難く候間、御断(おことわり)の積(つもり)相心得(あいこころえ)、右船追而(おって)渡来の節は速(すみやか)ニ其方共(そのほうども)応対ニ及び、精力を尽(つく)し如何様共(いかようとも)申し諭(さと)し、承伏(承服)致させ候様取り計らるべく候。若(もし)又(また)如何様申し諭し候ても納得致さず申し募り候ハハ、追而(おって)此方政府より応接のもの(者)彼国(かのくに)江差向け委細(いさい)政府え掛け合い及ぶべき趣(おもむき)をも申し談し、相断(あいことわり)候様致すべく候。且又(かつまた)官吏差置き候儀并(ならびに)異人上陸止宿の二个(箇)条も、此方(このほう)ニ而(にて)差支(さしつかえ)之(これ)有り相成り難く候間、兼而(かねて)其(その)心得を以(もって)応接談判(だんぱん)及ひ候様致さるべく候  (「幕末外交関係文書」の十二 131号 P.292)

 8月13日付けの老中からの下田奉行への「覚」は、これまでの幕吏たちの討論経過とは大きく切断されたもので、「下田三箇条」を三つとも拒否するものであった。①アメリカの要求する日本沿岸の測量は認められない、②アメリカ人の上陸止宿は認められない、③アメリカ領事の駐在は認められない―と、従来の討議方向とは全くと言ってよいほど異なる方針を示した。
 日米和親条約締結後の最も大きな問題は、同条約第11条に記された領事駐在問題(日米間で解釈の違いがあって、日本側は"日米双方が必要と認めなければ領事は置かれない"、米側は"どちらか一方が必要とした場合、18か月後に領事を派遣できる")であったが、これを含む「下田三箇条」における急激な方針転換は、徳川斉昭の主張・影響が大きいと言われる。
 しかし、8月4日の2人(乗全・忠優)同時の罷免、8月13日の下田奉行宛て老中達、8月14日の斉昭の幕政参与への就任など一連の動きは、幕閣政治における斉昭の権威を高めたかのように見える。
 だが、それは実は幻影であった。その時、斉昭は幕閣政治とそれを支える官吏たちからも完全に浮いていることが露呈しているのである。実際は、多くの官僚が、8月13日の老中「達」を一時的な方便として解釈しているからである。そのことは、以下の動きで明らかである。
 8月13日の老中の「覚」と同日に、幕府は一万石以上の諸大名に次のような申渡しを行なっている。日本沿岸の測量問題は、幕府のみならず諸大名にも直接関係する事柄だからである。

亜墨利加(アメリカ)測量願出(ねがいで)候(そうろう)処(ところ)、御断(おことわり)相成り候ニ付(つき)彼の方より若(もし)此上(このうえ)如何様の儀申し上げ候も計(はかり)難きニ付(つき)心得せしめ相達し候事 
  (「幕府沙汰書」―『大日本維新史料稿本』)

 しかし、このような拒絶の姿勢は、この間の幕府方針にもそぐわず、問題が発生した場合に強硬な措置をとってよいかどうか迷う藩もあり、幕府に真意を問い合わせる藩もあったのである。その一例として、麓慎一氏は江戸湾を警備していた熊本藩の事例をとりあげている。それによると、熊本藩は8月23日、留守居の吉田平之助を浦賀奉行・松平信武のところに派遣し、幕令の真意を探らせるため、以下のように述べさせている。

亜米利加の儀は既ニ和親を御取結(おんとりむすび)ニ相成り居り候上は、渠(かれ)か願(ねがい)の趣(おもむき)至極(しごく)尤(もっとも)の様ニ御座(ござ)候処、①是迄(これまで)の御取扱(おとりあつかい)振(ぶり)と違(たがひ)此節(このせつ)御断切(ごだんぜつ)の御評議ニ相成り候儀は、②近来(きんらい)水戸前中納言様隔日(かくじつ *一日おき)御登城も蒙(こうむ)り仰せらるたる御様子ニ付(つき)、全体の御模様(おんもよう)打替(うちかわ)り此上(このうえ)願(ねがい)ケ間敷(がましき)儀は御許容之(これ)無く、模様次第ニは御打払(おうちばらい)の御決定ニも在(あ)らせられ候哉(や)。又(また)③測量の儀は初発より御免(ごめん)之(これ)無くの御見亘(おみわたり)を以て御評決ニ相成り候哉(や) (『改訂 肥後藩国事史料』第一巻 図書刊行会 1973年 P.757)
 
 吉田は、今回の測量問題に関する幕令を①が示すように、明確に外交政策の転換と捉えている。そして、この転換の理由を②徳川斉昭の影響によるものなのか、それとも③測量問題は当初から拒否するつもりだったのかと、浦賀奉行松平信武に質問している。
 これに対し、浦賀奉行は、拒否の理由として(ⅰ)測量を許可すればアメリカの要求がさらに増大する、(ⅱ)日本では自国の者にさえ測量を認めていないこと、(ⅲ)弛(ゆる)んでいる武士たちの意識を引き締めること―などを挙げる。その上で、「根元ハ上(*将軍を指す)より仰せ出でられ候事ニ之(これ)有るべく候得共(そうらへども)、前中納言様江も得斗(とくと)御相談在(あ)らせられ候て御決議ニ相成りたる事」(同前 P.758)であろう―と回答している。 
 しかし、浦賀奉行は、実際にアメリカ側と応対する時は、「事を分(わけ)御諭(おさとし)ニ相成り候(そうろう)事故(ことゆえ)、急ニは御打払ト申す埒(らち *物事のくぎり)ニは至る間敷(まじく)......」(同前 P.758)と、直ちに強硬な態度に臨むことはないと伝えている。そして、浦賀奉行は総括的に、「併(しかしながら)御沙汰筋の儀は表立(おもてだって)仰せ出され候事ニ付(つき)、重畳(ちょうじょう *幾重にも重なること)実備の覚悟はいたし置(おき)候様」(同前 P.758)と述べている。
 ここで浦賀奉行は、「併御沙汰筋の儀は表立仰出候事ニ付」と、8月13日付けの老中の「覚」を位置付けていることに留意する必要があるだろう。これはかつて、「大号令」を出す際に斉昭が、「内戦外和」を唱えたが、それと同じことなのである。浦賀奉行・松平信武はそのように理解しているのである。
 さらに熊本藩は、8月24日、今度は留守居の福田源兵衛を幕府の奥右筆組頭のところへ遣わし、この「覚」の意図を再確認している。そして、在府の重臣たちは8月25日、国元の家老に次のような報告を行なっている。

両通の通り御言葉の異同ハ之(これ)有り候得共、測量御断(おことわり)ニ相成り候迚(そうろうとて)俄(にわか)ニ戦争を引起(ひきおこし)候訳ニ之(これ)無く、必竟(ひっきょう *畢竟、結局)ハ公儀諸藩ともニ武備一致ニ心を揃(そろえ)本気ニ相成り候様との御趣意ハ相替(あいかわる)儀(ぎ)之(これ)無く、左候ヘハ御備場(おそなえば)の儀も先(まず)ハ当時の侭(まま)ニ而(て)子細(しさい *さしつかえ)之(これ)無く互(たがい)ニ安心致し候 (同前 P.761)

 8月13日付けの老中の下田奉行あての「覚」は、斉昭と交流をしている大名間でも話題となっている。それは、『昨夢紀事』にも記されている。すなわち、1855(安政2)年12月16日、越前藩主松平慶永が薩摩藩主島津斉彬と会談した際の話である。
 『昨夢紀事』三(東大出版会 1968年に復刻) によると、慶永が斉彬に対し、「下田三箇条」の内の測量問題について質問すると、斉彬は勘定奉行・水野忠徳と面談した際の話を紹介しながら、次のように答える。"水野は領事駐在と沿岸測量を拒否するつもりである。"というのに対し、斉彬が戦争覚悟でアメリカ側の要求を拒否するのかと尋ねると、水野は「其節(そのせつ)ハ其節に応したる御評議も工夫もあるへし」(P.383)と答えたという。つまり、斉彬は、「愈(いよいよ)『コンシェル』(*領事)も測量も亦(また)御免に相成るべくと推量(おしはか)られ候」と感じ取り、「おそらく領事駐在も沿岸測量も許可することになるだろう」と、自らの感想を述べている。これに対し、慶永は、「然(しか)らは先(まず)此(こ)の発令ハ全く無益虚妄に帰し申すべく、其処(そのところ)ハ如何(いかに)あるへき」と、危惧を表明する。そこで斉彬は、「一時の御権道(*方便)とか申す事になるへし」といって、8月13日の「覚」が結局は、一時的な方便となるであろう、と見通しを述べたと言われる。
 さらに慶永は、幕府の「弱腰外交」を嘆いた上で、「水老公(*斉昭のこと)は兼而(かねて)御咄(おはなし)ニ及ふ如く参謀ハ名のミにて案山子(かかし)同様との御事にてハ如何(いか)にも気の毒の事に候はすやイッソ御引入も然るへからん」と述べている。慶永は、斉昭の政務参与が名ばかりであって、案山子同然なのだから、辞任した方がよい―と率直に述べているのである。
 この一連のやり取りをみると、斉昭派の雄藩大名たちも、斉昭が老中や幕吏から既に浮いた存在であることを認識しているのである。
 1856(安政3)年7月21日、アメリカの軍艦1隻が下田に来航し、アメリカ総領事ハリスが8月5日に着任して、下田郊外の玉泉寺を領事館とした。ハリスの領事駐在の要求に対し、実際に、阿部政権はそれを認める指示を8月24日に、下田奉行に伝達する。その同じ日に、老中は斉昭にも次のような書翰を送っている。

何(いず)れも合考(あいかんがえ)再三打返し評議致し、漸(ようやく)一同決定仕り、伺い(*将軍への伺い)の上別紙の通り下田奉行江相達し申し候間、別帋(べっし *別紙)書類其外(そのほか)残らず御心得の為(ため)御覧に入れ奉り候。御序(おついで)の節御返却願い奉り候  (「海防雑記」一〔『大日本維新史料稿本』に所収〕)

 領事駐在の問題に関して、斉昭にも確かに関連書類は残らず渡されている。しかし、それは、領事駐在を承認する決定が将軍によって決済された後であり、それら書類の返却も序(ついで)の時でよい、と極めて素っ気ない対応である。確かに、麓慎一氏が言うように、「安政2年8月13日の『下田三箇条』に関する老中の指示は、徳川斉昭の意向によって出されていた。一方で、実際にハリスが到来して領事駐在が許可される際には、徳川斉昭は政策の立案過程から排除され、審議の結果を通知されただけであった。」(同著「日米和親条約締結後の幕府外交」)のである。
斉昭が幕閣政治から疎んじられているのは、1855(安政2)年10月、阿部が自ら引いて堀田を老中首座に譲った老中人事からも明らかである。かつては阿部と頻繁に文通し、情報交換を行なっていた斉昭は、この件に関しては、阿部から全く相談されていないのみならず、事前に一言も知らされていないのである。
 堀田の老中再任人事に関しては、さまざまな論評があり、松平慶永は、先輩である堀田正睦を首座にすすめ、"大権を分ちあった"と考えた。島津斉彬は、阿部と牧野の両閣老によって推挙されたものの、背後で溜間詰の井伊直弼らの画策があったのではないかとの推測をしている(直弼は堀田から溜間詰の仕来〔しきた〕りをいろいろ教わっている)。しかし、柳河藩主・立花飛騨守鑑寛(あきとも)は、11月5日、慶永に書簡を送って次のように述べている。

然(しから)ば堀田氏再勤の一件、彼是(かれこれ)聞糺(ききただ)し候処(ところ)、荒増(あらまし)相分(あいわか)り申し候。右は元来(がんらい)阿閣(*阿部正弘)好まざる儀は相違御座無く候由(よし)。然る処、当今一通りならざる御用多(おおく)これある処、何事にも阿閣壱人(一人)へ打懸(うちかか)り取扱(とりあつかい)に相成り候に付(つき)、阿閣も心底に任(まか)せられず、此後(こののち)迚(とても)如何(いか)様の変動あるべくとも計り難く候得共(そうらへども)、事の一、二悉皆(しっかい *ことごとく)一人へ懸り、甚(はなはだ)痛心致され候旨、且(かつ)外々にてハ上席出來(でき)兼(かね)候間、堀田氏へ再出(さいしゅつ *再出馬)取計いに相成り候趣(おもむき)に御座候。去り乍(なが)ら万事(ばんじ)矢張(やはり)阿閣より出(いで)候由承り申し候。先(まず)看板の積(つもり)共にやと存ぜられ候。探索の儘(まま)、極密(ごくみつ)申上げ候。御他言堅く御断(おことわり)申上げ候。(『昨夢紀事』三 P.337~338)

 堀田は、阿部の先輩(堀田は1841年3月から43年閏9月まで老中の経験がある)であり、再任で、政権は実質的に阿部・堀田連立政権と言ってよく、この堀田への礼儀が斉昭にはなかったのである。そして、堀田は、1856(安政3)年10月17日には、外国事務取扱・海防月番専任(勝手方月番は従来通り)1)となるのであり、斉昭が幕府の外交政策の立案過程から排除されるのは必然である。 
 既述のように、斉昭が具体的な政策立案から遠ざけられたのは事実であり、それは斉昭自身も証言している。1856年9月21日付けの斉昭の慶永宛ての書翰は次のように言っている。

正月以来登城も仕らず、異船の模様も伺い奉らず候処、墨夷(*アメリカ人を差別した称)も押(おし)かけ下田へ官吏連来(つれきた)り候由にて差置(さしおき)候儀御免ニ相成り候ヘハ心得候様ニと先達(せんだっ)て閣老より申し参り、其後ハ何御沙汰も伺わず候 (『昨夢紀事』二 P.3)

 同じ頃、斉昭が尾張の徳川慶恕(よしくみ)に宛てた書簡でも、「内密御承知の通り拙老事ハ例の奸人奸僧抔(など)の讒(そしり)にも候哉(や)、当正月以来登城も仕らず候へバ夷狄の模様も相心得ざる候処(ところ)去ル〔*九月〕十七日両奉行(*川路聖謨・水野忠徳のこと)御目付(*岩瀬忠震のこと)来り候......」(『水戸藩史料』上編乾 P.759)と述べている。さらに、『水戸藩史料』自身が、「是(こ)の時に当り斉昭は猶(なお)幕政参与の名ありと雖(いえど)も〔*1856年〕正月以来絶えて登城なく(幕府より追て御沙汰ある迄は登城に及ばずとの内命ありし故なり)......」(同上編乾 P.758)と、明言している。
 麓慎一氏の考えでは、斉昭が政策立案過程から排除された理由は、斉昭と堀田との間の不和にあると言われる。それは、島津斉彬と阿部との会談の内容(『昨夢紀事』一 P.440)から、すなわち、「徳川斉昭は老中に再任された堀田正睦を叱りつけたり、挨拶(あいさつ)もしなかったというのである。そのため徳川斉昭と堀田との関係は頗(すこぶ)る悪くなっていた。そこで老中阿部は、徳川斉昭に老中側から話をするまでは控えてくれるよう求めたのである。徳川斉昭は、それは良いこともあれば迷惑なこともあると答えたというのである。おそらく、徳川斉昭が安政3年1月以来登城しなくなり、外交政策の立案過程から排除されるようになった要因は、この堀田との不和であろう。」(麓慎一著「日米和親条約締結後の幕府外交」)というのである。
 堀田正睦(佐倉城主)は、そもそも「蘭癖(らんぺき)大名」と言われる程で、もちろん開国派であって、攘夷派の斉昭とは路線的に真向から対立する。それだけでなく、斉昭が御三家の権威をもって正睦を叱りつけたり、無視するなどしたりして、個人的な関係も悪化したのである。

注1)海防掛老中は、すでに寛永期に松平定信が、天保期に土井利位・真田幸貫が任命されている。しかし当時の海防掛は、臨時の職務であった。それが1845(弘化2)年には常置の職務となった。弘化2年に常置となった海防掛の任務は、各方面からの海防に関する伺(うかが)いや届けの取扱いであり、月番(一カ月交替で勤務すること)で老中阿部正弘と牧野忠雅が行なった。それがペリー来航後の1854(嘉永7)年正月からは松平乗全と松平忠優を加え、4名による月番制となった。1856(安政3)年7月、ハリスが来日し本格的な外交交渉が始まると、海防掛老中も月番制から専任制となった。同年10月、海防掛老中は堀田正睦の専任制(海防月番専任)に変わった。この背景には老中において、外国との新たな貿易開始にあたっての調査がはじまりつつあったことがある。その狙いは、新たな通商政策に対処するために、堀田を責任者とした外交機構の整備と対外問題の命令系統の一本化であった。しかし、1858(安政5)年6月、日米修好条約が締結され、堀田が老中を罷免される。その後任には、太田資始・間部詮勝(まなべあきかつ)・久世広周(くぜひろちか)が任ぜられ、月番制が復活する。そして、同年7月8日、海防掛は廃止され、外国奉行が設置される。それには、水野忠徳・永井尚志・井上清直・堀利煕・岩瀬忠震が任命された。

 (4)貿易での利益を富国強兵の基本とする阿部
 1856(安政3)年8月4日、老中達が出された。それは、『大日本古文書』の「幕末外国関係文書」の十四(213号)「八月四日老中達、評定所一座以下交易仕法の件」である。それは、以下のような内容である。

和蘭(オランダ)蒸気船将より申し出で候、英吉利(イギリス)国より猶又(なおまた)交易取結び相願(あいねが)い申すべきやの儀に付(つき)、夫々(それぞれ)評議いたし申聞られ候趣もこれ有り候処、右は容易ならざる大儀(たいぎ *骨が折れること)に付(つき)、得と(とくト)評議に及び候上ならでは、何とも差図(さしず)に及び難く、然(しか)る処(ところ)西洋諸州交易弥弥(いよいよ)盛(さかん)に成行(なりゆ)き候趣、当節の模様にては往々(おうおう *あちこち)の処、甚(はなは)だ以て痛心(つうしん)掛念(けねん)の事に候。

 1854年3月3日、日米和親条約の締結以降、つぎつぎと西洋諸国と和親条約を結ぶが、もちろん、西洋諸国の狙いは次の通商条約の締結であり、この達が出される直前の7月8日にはオランダ軍艦が長崎に、7月10日にはアメリカの軍艦が下田に入港している。また、7月21日付けの長崎奉行からの飛脚便では、近いうちにイギリスもまた来日する予定であると記している。
 こうした情勢下で、英吉利が交易を求めてくるのは、「容易ならざる大儀」であり、よくよく評議する事なくしては方針を示すことはできない。そして、「西洋諸州交易」がますます盛んであり、この波が日本にも押し寄せて来ていることが、まことに「痛心掛念の事」であるといいながら、阿部らは大胆にも次のような交易開始を提言する。前の文にすぐ続けて、

交易御許容に相成り候節、魯西亜(ロシア)、亜米利加(アメリカ)、英吉利、払朗西(フランス)、4ヶ国は勿論(もちろん)、其余(そのあまり)国々より挙(こぞ)って願出(ねがいで)申すべく、其節(そのせつ)彼は御許容、是(これ)には相成り難しとの議論も相立ち申すまじく、右様相成り候上は一向(いっこう)に本邦(*日本)にても航海の厳禁を御変革遊ばされ、外(ほかの)国々へも海舶(*海をわたる大船)差向(さしむ)け、交易互市(ごし)の利益を以て富国強兵の基本と成され候方、今の時勢に協(かな)ひ然るべき哉(や)に候えども、夫(それ)とても如何様(いかよう)勉強出精習練致させ候ても、此上(このうえ)五年七年を経(へ)申さずしては、万里の航海覚束(おぼつか)無き儀にこれ有るべく、......

 今かりにイギリスに対して貿易を許せば、他の諸国も同じように要求するようになり、その場合、結局すべての国に許可せざるを得なくなる。そうなった場合、これまでの海禁政策を変革し、日本も大船で海外に乗出し、「交易互市の利益を以て富国強兵」を基本とする事こそ今の情勢にかなっているというのである。すなわち、今までの海禁政策の下での限定的な居貿易に止まらず、積極的に出貿易に転じ、対等な「交易互市」(互市とは、華夷秩序の及ぶ範囲外の外国との対等な取引を意味する)で利益を確保し、以て「富国強兵の基本」1)とすべき―というのである。ここにおいて、明治近代が第一に掲げ、海外侵略の基盤となった「富国強兵」策が明確に打ち出されているのである。
 阿部の「開国」・通商方針は、『昨夢紀事』の1855(安政2)年12月の項に既に書き残されている。それは、松平慶永(春嶽)が、薩摩の麻布別邸に島津斉彬を訪ねた際、斉彬が次のように述べたという。それは、12月11日、斉彬が江戸城に上った際の阿部との懇談であるが、

其節(そのせつ)阿閣(*阿部正弘)の咄(はなし)に、天下を人の一身に比(くら)へハ骨肉の差別ある如(ごと)く、肉ハ深疵(ふかきず)にても再ひ癒合(いえあひ)候得(そうらえ)と(ど)も骨を砕(くだ)き候ては取返(とりかえ)しかたし(難し)、大名の参暇(さんか *参勤と在国)なとハ骨の尤(もっとも)大なるもの故(ゆえ)、中々(なかなか)動かすへき事ならすといへる故、外夷の交通条約ハ骨子にハこれ無き哉(や)と難問(なんもん *疑問)せしに、阿(*阿部正弘)の答に是(これ)は骨にあらす(ず)肉に当(あた)れり、異国通信(*国交)の義ハ、東照宮(*家康)御代にハ頻(しきり)にこれ有る義にて、則(すなはち)編年集成にも南蛮船八十余艘長崎へ渡来、神君(*家康)御喜悦(きえつ)斜(なな)めならずとこれあり、御三代(*家光)に至って御禁絶ありしは葡萄牙人(ポルトガル人)の妖教(ようきょう *キリスト教を指す)を日本へ相伝(そうでん *次々と受け伝えること)せしより御停止となりし事(ことに)候へハ通信商儀(*国交通商)ハ敢而(あえて)神慮(*神君家康の考え)にも相背(あいそむ)け申す間敷(まじく)との事候へは此節(このせつ)先(さ)き行(ゆ)き致(いた)し兼(かね)候事を強而(しひて)主張に及び候へハ唯(ただ)理屈家となりて何の所詮(しょせん)なく〔*結局、効果がなく〕候へハ......
(中根雪江著『昨夢紀事』三 P.378~379)

 松平定信いらい、家光時代の海禁政策を「祖法」としてかたくなに護持してきた歴代老中の中で、ようやく阿部正弘は「祖法」でない(「通信商儀ハ敢而神慮にも相背け申す間敷」)と否定したのであった。その根拠は、家康が海禁政策をとっていなかったことに求められた。
 阿部の通商方針は、少なくとも1855(安政2)年12月には、一部仲間内では明らかになっており、斉昭との路線的隔(へだ)たりが明確になっているのであった。このことは、阿部がみずから老中首座を降り、堀田正睦(まさよし)を再度老中に招いたのみならず、老中首座に据え、堀田・阿部連立政権とも言える組閣をなした時点(1855年10月)で予兆されていたのであった。というのは、堀田は世にいう「蘭癖大名」として有名であり、攘夷論者としての斉昭とは対照的な開国論者であるからである。
 1855(安政2)年10月の安政大地震で、斉昭は戸田銀次郎(忠敝)・藤田東湖という最重要な側近を失い、政治的な打撃を受けた上に、同じ10月に堀田正睦が老中首座となって再登場し、斉昭は新たな論敵に立ち向かわざるを得なくなっている。そして、今まで良好な関係を保っていた阿部正弘が「開国」のみならず通商に踏み込み(12月)、斉昭との路線的な対立を明らかにしたのである。斉昭の幕閣での影響力は、ほとんど無くなってしまったのである。
 阿部・堀田連立政権は、「開国」・通商に明確に舵を切り、1856(安政3)年8月4日の阿部の通商に関する諮問に続いて、10月17日、将軍家定の命で貿易取調掛が設置された。この日、堀田は正式に将軍より外国事務取扱を命じられ、海防月番専任となった。同月20日には、若年寄本多忠徳、大目付跡部良弼・同土岐頼旨、勘定奉行松平近直・同川路聖謨・同水野忠徳、目付岩瀬忠震・同大久保忠寛、勘定吟味役塚越元邦・同中村時萬が外国貿易取調掛に命じられ、貿易開始にあたって具体的に何をなすべきかを調査立案することになる。
 だが同じ頃の1856年8月に、中国でアロー号事件(第二次アヘン戦争)が起り、幕府内部で通商を巡って、慎重派と積極派の激しい意見対立となり紆余曲折を経る。
 しかし、この中で筒井政憲が久しぶりに上申書(「幕末外交関係文書」の十五 93号)を提出し、従来の長崎貿易(一種の朝貢貿易)を総括し、自らの自由貿易を提唱したのである(内容については、後述)。積極的通商派の明確な登場である。
 だが、朝貢貿易から自由貿易への転換―貿易利益による「富国強兵」策は、明治維新以降、歯止めなき強兵策となり、それを背景としたアジア侵略へと発展してしまうのであった。それは、防禦のための「富国強兵」が、西洋列強に対峙し更には列強に伍するとして、アジア近隣諸国を侵略・併合する路線に変質して行ったためである。

注1)海外貿易を行ない利益をあげて、それにより「富国強兵」をはかるという考えは、1853(嘉永6)年ペリー来航時、アメリカ国書(アメリカ大統領親書)に対して、いかなる態度をとるべきかを、老中は諸有司・諸大名のみならず、一般町人にも諮問した。その際、小普請組の向山源次郎が提出した上申書に注目した阿部らは、再度、「通航互市」に関して向山に諮問した。その時に、向山は家康時代には海外貿易が盛んに行なわれていたのであって、"通航互市は祖法に背かず"と主張した。その上で、"今は西洋諸国との通商を許す好機会である"として、外国商館の設立、輸出入品などの具体的な方策を示す。そして、貿易による利益を以て武備を整えるべきと主張する。貿易の利益によって、「......公儀は申すに及ばず、御旗本以下の御武備をも御世話成り下され候ハハ、凡(およそ)拾箇年程(ほど)ニは、荒増(あらまし)御手当(*武備のための処置)行届(ゆきとどき)見込み申すべくニ御座候、......畢竟(ひっきょう)交易の利は、国土を切り従え産物を広めるより其(その)利(り)大なる者に付(つき)、異邦ニては、其(その)費(ついえ)を厭(いとわ)ず、万里の波濤を踏(ふみ)、再三来(きた)りて相願(あいねがう)事ニ御座候、方今(ほうこん *今日)我に於いても富国強兵の一策、互市を置(おい)て別策これ無く候、......」(「幕末外国関係文書」の一 336号 P.722)と、対等貿易の利益による「富国強兵」策を先駆的に強調している。しかも向山は、武力で他国を侵略し輸出先を拡大するよりも、対等貿易の方が利益が大きいと認識しているのである。費用のことを考えると、軍事侵略よりも「平和的貿易」による利益の方がすぐれているというのである。

第四章 条約調印と将軍継嗣をめぐる対立

Ⅰ 結城派の弾圧と藩政改革
 1855(安政2)年10月の安政大地震は、斉昭の最側近の戸田銀次郎(忠敞)と藤田東湖の「両田」を死没させ、斉昭の政治活動に大きな打撃を与えた。それだけでなく、水戸藩の安政改革をも中断させた。というのは、大地震の前日・10月1日、藩は来春、藩主慶篤が水戸に帰国して、海防見分をはじめさまざまな藩政振興にあたる予定であると公表していたが、ところが大地震で帰国できなくなったからである。
 そして、翌年、藩内の亀裂と相互の憎しみを深める事件が起こる。藩は1856(安政3)年4月25日、藩内の改革反対派の結城寅寿を死罪とし、他にも10余人に処罰を下したのである。
 代々家老の格式の家柄に生まれた結城寅寿(ゆうきとらじゅ)は、幼くして斉昭に寵愛され、1840(天保11)年に23歳の若さで参政に抜擢された。そして、1842(天保13)年には、執政にまで上りつめる。未だ25歳の若さである。ところが、この頃から藩政改革に不満をもつ門閥派の中心人物として、東湖らの改革派と対立するようになる。1844(天保15)年5月、斉昭が幕府から譴責を受け失脚すると、寅寿は藩政の実権を握る。だが、11月に斉昭は謹慎解除となると、寄合頭列となって江戸から水戸へ移る。1847(弘化4)年9月、老中阿部正弘寅寿処罰の諭告を発表すると、10月、藩庁は30歳の寅寿に対し隠居謹慎を命じ、家禄も半減し、残り500石は家督を継いだ種徳に与えた。
 しかし、藩内にはまだ同調者がおり一定の力をもっていたが、改革派の藩士や豪農らの雪冤運動などによって、1849(嘉永2)年3月、斉昭の復権・藩政への関与が許されると、結城派の勢力は衰える一方であった。1851(嘉永4)年ごろには、結城派は勢力挽回のために、毎夜同士が結城の家に密会し策を練ったという噂が立った。しかし、改革派(別名で天狗派といわれた)は、斉昭が1853(嘉永6)年のペリー来航を機に幕政で重きをなして、ますます力を増し、他方、結城派はいっそう追い込まれるようになった。
 こうした勢力関係を挽回するために、「結城の参謀で、嘉永五年奥右筆頭取の要職を罷免された谷田部藤七郎(はじめ雲八)らが結城と謀り、侍女某の手を経て藩主慶篤に、天狗共が奥向きへの取り入り、悪逆を企てている旨を密告したのが露見したため、藩政府部内には結城らを死罪にすべしという強硬論がもち上ったという。ところが東湖の反対があって強硬論は沙汰やみとなり、結城は長倉(東茨城郡御前山村)に土着していた水戸家の支族松平松之允の屋敷に預けられるだけで済んだ。その時他の同士らも処罰されたが、谷田部はいち早く江戸に逃れ、かねて斉昭と不仲だった高松藩を頼って姿をくらました。」(瀬谷義彦著『水戸の斉昭』茨城新聞 1979年 P.192)のであった。
 安政の大地震で東湖らが死んだ翌年の1856(安政3)年4月25日、結城は「長倉の松平屋敷に幽閉中を、突然水戸から遣わされた大目付伊藤孫兵衛のてにかかって斬殺された。身分の高い場合にある死を賜う、切腹といったものではなく、犬猫のような殺され方だったと伝えられる。......その他十数名が断罪された中に、死罪になった十河(そごう)祐元という藩医がいる。......その最後は哀れであった。罪状は結城の君公毒殺に同意し、毒薬を準備したというものである。表面中立の立場を取ろうと努めたらしい『水戸藩党争始末』によれば、結城の処刑と同じく一回の取り調べもなく、罪状を読み上げられた祐元は、無実を訴え大声で『御糾明(ごきゅうめい)、御糾明』と叫び続けているところを首打たれ、その首は恨めし気に目をみはり、唇が二、三度開いて物言うごとくだったので、居合わせた者は身の毛がよだつ思いだった」(同前 P.193)と言われている。
 この年の12月、高松藩に潜んでいた谷田部も、東海道大井川の辺りで捕らえられ、翌1857(安政4)年8月、厳しい拷問の末に処刑されたと伝えられている。
 この事件は、水戸藩の党争をその後、いっそう激烈にするキッカケをなすものであるという評価が、今日、定着している。
 松平慶永(春嶽)は、若い時から徳川斉昭を尊敬していたが、維新後、「逸事史補」と題する歴史随筆を書いている。それは、後の天狗党の筑波挙兵と市川三左衛門らの水戸藩私物化と藩の滅亡に至るまで尾を引く、水戸藩の激烈な藩内抗争についての斉昭の責任に関して、次のように述べている。

此(この)両党(藤田党と結城党)ノ争ひの起源といふは、実ハ水戸斉昭卿(即〔すなわち〕烈公)の大失策ナリ。大不徳なり。此事(このこと)をしる(知る)ものは方今天下ニしりたるものなし。余ハ或(ある)人(名覚ゆワザと不記)より内々聞(きき)たり。結城寅寿といふ人ハ、頗(すこぶる)姦才ありて、言葉巧(たくみ)にして、容貌少年ノ時ハ大美少年なりし。家老ノ家なりときけり。又(また)一説には、跡に家老ニなりたるともいへり。美少年のころ烈公の側ニ侍したりといふ。烈公其(その)才智あるを好みし、弁舌の清爽なるを喜ひ給(たま)ふ。其上(そのうえ)美少年にして、実に逢ひ難き好男子なるよし。且又(かつまた)、烈公ハ元来○○家(*伏字となっているが、明らかに「好色家」)ニして、妾(めかけ)数人を置き、其上、峯寿院公主(家斉公の女〔むすめ〕烈公の養母)の上臈(じょうろう *御殿女中の上位の者)唐橋と密通せられし事あり。このかく迄の○○家故(ゆえ)、寅寿を愛寵し、?(しばしば)○○を行ハれしよし(真偽難保證)。これにより、寅寿も公の最愛を受け、水戸家に於てハ頗(すこぶる)勢威盛ン(さかん)なるよし(*結城は天保十一年参政、同十三年執政=家老になる)。其後(そのご)藤田虎之助(*東湖)出て、遂ニ側用人と相成(あいなり)、政権を専らにして藩政一変革し、文武の両道盛ンなり、他藩の及ふ所ニあらす。
遂ニ寅寿の姦才を上申し、烈公ハ正直なる御方(おかた)故、藤田の正論を信用し、寅寿を黜(しりぞけ)られたり。寅寿の威勢屬(つらなる)水泡、あれともなきかことくになれり。茲(ここ)に於て、寅寿ハ烈公を深く恨(うら)み奉り、藤田党を悪(にく)む事(こと)豺狼(さいろう *残酷でよく深い人)の如(ごと)し。これか即(すなわち)原因なり。人を誹謗(ひぼう)するやうなれとも、実事を記されは分(わ)からず、依ってここに是(これ)を記載せり。(『松平春嶽全集』第一巻 P.336~337)

 若き頃より、斉昭の薫陶を受けた春嶽(松平慶永)が、このように水戸藩内の抗争を総括することは、一見信じがたいことである。しかし、春嶽は斉昭の影響を受けて攘夷派であったが、後に橋本左内などの説得によって開国派に転じている。それは、春嶽の理性的な思考方法を十分に示している。その春嶽が後年になって、水戸藩の血を血で洗う抗争の責任を斉昭と藤田東湖・戸田忠敝に帰しているのである。一考に値する考え方である。

Ⅱ ハリス上府をめぐる論争

(1)上府問題での応酬
 在日アメリカ総領事兼条約改訂全権委員のタウンゼント・ハリスが、軍艦サン・ジャント号に乗って下田に来航したのは、1856(安政3)年7月21日(和暦、以下断わりなき場合は同じ)である。日米和親条約は貿易規定をもっていなかったので、ハリスの主な任務は、これを改訂し、日米貿易を発展させる新たな修好通商条約を締結することであった。
 下田奉行は、ハリスの来日の目的がいかなるものか、それを通詞・与力などを通して探らせた。その様子であるが、「総領事ハルリスは意(い)既に駐在を決し容易に拒絶すべくもあらず、殊(こと)に彼は二十五日より既に上陸して泰然永住の準備を為(な)し、下田奉行に対しては其(そ)の無権力なるを謂(い)ひ無権力の奉行と応接するは無益なれば江戸に進行して閣老(*老中のこと)と直接の談判に及ばんとの望(のぞみ)を懐(いだけ)り」(『水戸藩史料』上編乾 P.743)と、評された。ハリスは下田奉行には権限がないと見抜き、老中との直接の交渉を望んでいるというのである。
 下田奉行の井上清直・岡田忠養は、ハリスと会って談判し、その駐在を拒もうとしたが、結局、それは失敗している。その背景には、日米和親条約第11条の解釈が日米間で行違いがあり、前述したように日本側の解釈の不十分性にあったようである。
 7月28日、下田奉行井上清直・下田奉行組頭(副奉行)若菜三男三郎・通詞・森山栄之助(多吉郎)などが連れだって、ハリスに応接し、「ともかく、領事設置のことはさておいて、上陸し仮館に入り、今後の交渉は下田において行なおうということになった。」(江越弘人著『幕末の外交官 森山栄之助』弦書房 2008年 P.83~84)といわれる。
 だが、ハリスの日本駐在の決意は固く、やがてアメリカ軍艦サン・ジャント号は、8月6日に退去してしまった。ここで下田奉行はますますハリス駐在の拒絶が困難となり、この上は、ハリス駐在問題を"アメリカ政府に紹介するか、あるいは直ちに許可するか"のいずれかと上申し、老中の指揮を仰いだ。
 8月17日、老中は、下田奉行の伺書にたいする処置を諸有司に諮問した。「時に大小目付は曰(いは)く下田奉行の具申する所(ところ)既に斯(かく)の如し、今に及んで拒絶せんとするも到底(とうてい)其(そ)の効を見ざるべし、故に総領事の駐在は之(これ)を許し向後の取締を厳にするの外(ほか)なかるべしと、土岐頼旨・林大学頭アキラ・井澤成義・竹内保徳・村垣範正等も同じく許容を可とし、且(か)つ仮居住を以て年所(ねんしょ *年数)を経過せば其の弊害亦(また)少からざるべし、故に寧(むし)ろ之を公許して其の取締法を講究(こうきゅう *研究すること)せしむるに如(し)かずと、勘定奉行等も又(また)ほぼ同意見に出で米政府に照会するの不可を言ひ蘭文(オランダ語)との異同を詮考(せんこう *よく調べ研究すること)し拒絶の談判を任ぜしむべし、若(も)し果して領事駐在の必要ありて許容せざるべからざるものとすれば其の場所竝(ならび)に館舎建築等の諸事をも調査せしむべしと建議せり。是(ここ)に於て閣老は衆議を採り遂に許容に決したり」(『水戸藩史料』上編乾 P.744)というのであった。
 8月22日、幕府はハリスの強硬態度についに折れ、ハリスの下田駐在を認め、その後の交渉にも応じることにした。
 8月24日、幕府は目付岩瀬忠震(ただなり)を下田に派遣し下田奉行に対して、ハリス駐在を容認したと、次のように訓令させた。

亜墨利加(アメリカ)官吏?(ならびに)上陸止宿の儀ニ付(つき)、彼船(かのふね)渡来も候ハハ、此方(このほう)ニて差支(さしつかえ)の趣(おもむき)を以て、相成り難き段(だん)応接に及ぶべき旨(むね)、兼(かね)て下田奉行え申渡し置き候得共(そうらへども)、今般(こんぱん)官吏の趣を以て渡来の亜人(アメリカ人)え応接の上、仮ニも滞留致させ候上は、今更(いまさら)引拂(ひきはらひ)候儀も出来(でき)申すまじく、実々(じつじつ)当今止(や)むを得ざる時勢ニ付、官吏差置き候方ニ、下田奉行え相達(あいたっ)し候間、其方(そのほう)儀(ぎ)早々彼地(かのち *下田)え相越し、下田奉行〔と〕相談じ、取締向き十分ニ取計られべく候(「幕末外国関係文書」の十四 272号 P.793)

 ただし、「邪教(*キリスト教のことを指す)伝染は勿論(もちろん)、土地の愚民外(ほか)夷人の風習押し移さざる様、得と(とくト)下田奉行申し談じ、最初より渡来迄(まで)の御取締筋厚く勘辨(かんべん *考えて事を定めること)の上、家居其外(そのほか)も、相成るべくだけ極々(ごくごく)狭小ニ取計らひ、御国患(おんこっかん)相成らざる様」(同前)に、厳重に取締りが行届(ゆきとど)くようにすることを条件に容認した。
 同日、老中はこの間の諸有司の意見も含め、諸書類を残らず斉昭に呈覧し、事態を心得るように、以下のように達した。既に名目であっても、幕政参与としての斉昭に情報を提供せざるを得なかったのである。

今般下田に亜国より官吏差渡(さしわた)し候義に付(つき)右官吏差置(さしお)き方に付、品々議論も尽くさせ向々(むきむき)評議仕奉(つかへまつら)させ候処、別紙の通り申し聞かせ、尚(なお)一同打寄せ精々評論仕り候得共(そうらへども)、当節強(しひて)御断(おことわり)の事〔*ハリスの駐在を拒絶すること〕に取計い候ても容易に承知は仕(つかまつ)らず、却(かえっ)て後年不都合の儀出來(しゅったい)候てハ如何(いかが)に付、夫(それ)により申し聞こゆ候趣何(いず)れも合い考え再三折り返し評議致し、漸(ようや)く一同決定仕りの上別紙の通り下田奉行え相達し申し候間、別段書類其外(そのほか)残らず御心得の為御覧に入れ奉り候。御序(おんついで)の節、御返却願い奉り候。以上。

 ここでは、老中は斉昭にハリス駐在問題の諸有司の議論を知らせたが、それはすでに老中決定が済まされた後のことであり、別にこの問題について斉昭に相談するというようなものではなかった。しかも、それらの書類はついでの時に返却して頂ければよい―と極めて素っ気ない態度である。
 これに対し、斉昭は次のような答書をもって返事している。

御書類拝見返上(へんじょう)仕り候。ケ様(かよう)に相成り候も其(その)元ハ勇武に之(これ)無くと御備之(これ)無くとの二ツと存じ候。墨夷(ぼくい *アメリカに対する蔑称)官吏差置き候上ハ諸夷も同断、下田ハ夷狄の巣となり、箱館も同断に相成るべく、色々御差打ち出来申すべく候。しかし乍(なが)らケ様に相成り候上ハ已(や)む無く候へバ、一日も早く公辺ハ勿論(もちろん)諸国に大中小の艦砲充て満つ候様御指揮之(これ)有る様仕度(つかまつりたく)候。兵端の開け候を御厭(いとい)遊ばされ候へバ、終(つい)に御城内迄も入れ候様相成るべくも計り難く、恐れ入り候事に候也。
  八月念四(*廿四日)夜(即刻燈火認)        水隠士(*斉昭のこと)
   備中守(*堀田正睦)
   伊勢守(*阿部正弘)
   備前守(*牧野忠雅)
   大和守(*久世広周)
   紀伊守(*内藤信親)
  
二白(*追伸)御城へ入れ候迄御済(おんすま)せに相成り候へバ、又(また)京へ入る事を好み終ニハ御縁組(ごえんぐみ)迄も致したく好み候半(そうろはん)故(ゆえ)其(その)ままにハ遊ばされ難く、此方(こちら)より兵端を御開きに相成らず候てハ相成らざる様相成るべし。左候時ハ諸夷申し合せ一御大事に相成るべく候。官吏置き候へハ邪宗も必ず行なわれ、日本人ニて彼へ付(つき)候人追々(おいおい)出来申すべく懸念(けねん)仕り候尽くさず。

 斉昭は、ハリスの駐在を認めざるを得ないようになった根本原因は、①「勇武」が無く、②「御備」が無いことの2点にあると持論を述べる。そして、アメリカ官吏の下田駐在を認めると他の西洋諸国に認めざるを得なくなり、よって、下田・箱館は「夷狄の巣」となるので、幕府はもとより諸大名にも武備を整え、開戦を厭(いと)わないようにすべきと主張した。そうでなければ、外国人が江戸城にまで入り込んでしまうというのである。
 しかし、日本的華夷秩序の下ではあるが、1633(寛永10)年からオランダ商館長の江戸参府は恒例化しており、将軍はすでにオランダ商館長を江戸城で「引見」1)しているのである。オランダ人に許容していることをアメリカ人などに許容しないというのは理屈にあわない。むしろ斉昭には、極度の「触穢(しょくえ)思想」があって、西洋人に接すること自身が穢(けが)れとなる―差別意識を濃厚にもっていたのである。
 幕府が、8月22日に態度を急変し、ハリスの下田駐在と今後の交渉に応じるとしたのは、ハリスの頑張りもあるが、実はアジア情勢の緊迫化というより大きな問題が明らかになってきたからである。
 この頃(7~9月)、オランダ船などからの新情報として、イギリス海軍総督ボーリンクが来航し、日本に「開港互市」を求めるだろう―という風説が広がっていた。この1856(安政3)年に、ロシアとオスマン帝国との間のクリミヤ戦争が終結し、ロシアの南下政策は挫折する。それは、英仏がオスマン帝国を支援することにより、また、参戦こそしなかったが、オーストリアもまたドナウ川流域に勢力拡大を図る動きを強めたのである。同年3月30日のパリ条約では、オスマン帝国の独立と領土保全、ドナウ川航行の自由、黒海の中立化、ボスボラス・ダーダネルス両海峡の外国軍艦の通交禁止などが決められた。  
 このクリミヤ戦争の終結で、ヨーロッパでの紛争もおさまり、西洋諸国の東洋貿易を広げようとする動きが強まるので、日本は早く「開国」した方が賢明である―というのがオランダの忠告なのである。
 8月28日、目付岩瀬忠震が下田に赴き、下田奉行の井上・岡田とともにハリスに応接し、仮居住を許可すると通知すると、ハリスは「仮」としないで「永住」するとした。これを幕府側が認めると、ハリスはさらに"他の数カ所の良港を開く"ことを要求した。
 折から9月1日、オランダ船が下田に入港し、英国総督ボーリングが18艘の軍艦をもって、近いうちに長崎に来航するようであり、其の節「開国互市」の要求を日本が拒否すれば開戦に及ぶであろう―との情報をもって警告した。
 この情勢を受けて、9月17日、勘定奉行川路聖謨・水野忠徳、目付岩瀬忠震が斉昭を尋ね、下田にもたらされた情報を告げ、斉昭の意見を聴取した。
 斉昭は、翌日18日付けの阿部宛ての建議では、以下のように述べている。

......年々歳々其(その)毒(どく)深入り御同様恐入り候事に御座候。しかし乍らケ様(かよう)大病に相成り候上ハ劇薬ハ用兼(もちいかね)候半(そうろはん)、各方(おのおのがた)御論も同案、寛薬柔剤にていやし置き候外(ほか)之(これ)無く候へ共(そうらヘども)、其中(そのうち)何事をも御捨て置き候て公辺(*官府)初(はじめ)大小名等迄(まで)大中小の砲等数多く手厚く相成り候様遊ばされ置きたく候......若(もし)御手当(おてあて)悪しく候へバ日本ハ夫切(それきり)に相成り、御手当宜(よろし)く候へバ是迄(これまで)御忍従遊ばされ候も一時の御良策と相成り、後世迄も格別に存じ奉るべく候ヘバ是迄御忍従遊ばされ候儀も反故(ほご *無駄)と相成らず、夷狄共も清国抔(など)と違(たが)ひ今以って日本ハやはり強国と存じ、以後恐れ候様相成るべく候へバ、矢張(やはり)此度(このたび)の義ハ御秘し置かせられず京師へも有(あり)のまま御申し上げ、諸大名等へも御触(おふれ)に相成り云々(うんぬん)の模様(もよう)故(ゆえ)別して大中小砲玉薬手厚く備(そなえ)候御触にてハ如何のものに候半......内地の御備ハ一日も御早く御手厚く成られ置きたく、毎度ながら又々(またまた)申し進め候也。
  九月十八日                水隠士
     勢州(*阿部正弘)殿参

 斉昭もすでに和親条約が締結しているので、やはり「劇薬」(再びの「鎖国」)はよくなく、「寛薬柔剤」を用いるべきとし、ただ相手の言うがままでなく武備を強め、相手方が「清国抔と違ひ今以って日本ハやはり強国」と恐れさせるのが良策と主張する。この武備への手当(準備)の良し悪しで、これまでの「忍従」も「一時の良策」として後世評価されるであろう―と言っている。
 そして、斉昭は翌19日、再び建議して、万一開戦になった場合のことを考え、特に京畿の守衛(天皇の守護)を強調している。「(*イギリスなどの艦隊が)万一大坂へ来り兵威を見せ候ハバ諸司代大坂城代近国の大名集り候てもとても防(ふせぐ)ハ六ケ敷(むずかしく)候半(そうろはん)、左節にハ主上(*天皇)にてハ何(いず)れへ御立退(おたちのき)相成るるべき哉(や)......」(『水戸藩史料』上編乾 P.752)と言って、大坂も京都も、さらには比叡山も適せず、甲府城への立退きをも考えている。
 1856(安政3)年10月4日、アメリカ総領事(コンシュール・セネラール)ハリスは書を老中に提出し、①国書奉呈のため、出府(江戸に赴く)を乞(こ)い、②日本にとって「至重至大の事件」2)を稟告(ひんこく *告げ知らす)すること―を述べた。
 この問題を巡って、幕府ではまたまた大評議があって、大要は二派に分れたようである。すなわち、一つは阿部正弘を中心とした拒絶派であり、もう一つは堀田正睦が領袖(りょうしゅう)の許容派である。「正弘以為(おもへ)らく〔*思うには〕、総領事の駐在は元より我の欲せざれども事情(じじょう)已(や)むを得ざるを以て姑(しばら)く之(これ)を許したるなり。然るに彼は其(そ)の駐在を以て足(た)れりとせず、更には出府を乞(こ)ふに至る、我又(また)枉(ま)げて之を許さん乎(か)。彼の要求は、又(また)将(まさ)に此(これ)に止まらざるものあらんとす。斯(かく)の如(ごと)くんば終(つい)には全く祖宗(そしゅう)の旧法をも破り回復すること能(あた)はざるべし、且(か)つ出府の事は横浜条約(*日米和親条約)にも載せざる所なれば我(われ)之(これ)を拒絶するに辞なきに非(あらざ)るべしと。正睦等の議に曰はく、彼が出府を乞ふ所以(ゆえん)のものは自ら理(ことわり)の存する所あり。従前(じゅうぜん)彼我(ひが)の間に奉行輩を以て応接するは徒(いたず)らに時日を費(つひや)すのみならず、事情も亦(また)交々(こもごも)相通(あいつう)ぜずして往々(おうおう)事の齟齬(そご)する所あり、且(か)つ彼に出府を許すとも其の要求の事件に至りては諾否(だくひ *承諾するかしないか)の権(けん)我に在(あ)り。其の許すべきものは直(じか)に之を許し、許すべからざるものは断して之を斥(しりぞ)くべし。要するに皆(みな)直接に面議するの簡捷(かんしょう *手軽で素早いこと)に如(し)かずと」(同前 P.781~782)の対立である。
 諸有司の間でも、それぞれの意見があってなかなか意見はまとまらなかったようであるが、時勢は堀田の方にあったのであろう。幕府は、10月17日、輸出入品の調査や準備のために貿易取調掛を設置し、既述のように老中堀田正睦が外国事務取扱を命じられ、海防月番専任となった。同20日には、参政(若年寄)本多忠徳らが掛を命じられ、「互市開始」にかかわる諸事項を調査することとなった。
 幕府は、ハリスの申し出について、議論は紛糾しなかなかまとまらなかったが、10月末、下田奉行に応接させることにした。下田奉行井上清直・岡田忠養はハリスに面会し、"ハリスの出府はまかりならず、下田に於いて国書を受取ること"を説得したが、ハリスはかたくなにこれを拒否した。このようなやりとりが11~12月に数回あったが、ついにハリスを説得することはできなかった。
 そして、12月16日、ハリスは再び書簡を提出して、出府の件を要請した。書簡の大意は次のようなものである。

余は合衆国大統領の書を齎(もたら)し来り、殊(こと)に重大事件を稟告(ひんこく)せんとする者なり。然(しか)るに余が出府を拒(こば)み且(か)つ未(いま)だ余の書翰に答へざるのみならず、軽卒にも下田奉行の輩(やから)をして我が国書を受取らしめんとするは国交上の礼儀を弁(わきまへ)ぜざるの所為(しょい)といふべし。然(しか)れども是(こ)れ悪意ありて然るに非(あら)ず。畢竟(ひっきょう)無知に坐すものなるべし、故に余は敢(あへ)て之(これ)を尤(とが)めず、唯(ただ)早く其の非を悟(さと)らんことを望むなり。日本は今や大災厄(だいさいやく)に臨めり。假仮(たと)ひ之(これ)を米国より起(おこ)さざるも他の諸国より惹起(じゃっき)すべし。若(も)し之を濟(すく)はんとせば亦(また)策なきに非ず、是(こ)れ余が出府の上(うえ)面?(めんけい *面談)を望む所なり。
                    (『水戸藩史料』上編乾 P.783~784)

 ハリスの再度の出府要請の書簡に対して、幕府諸有司はふたたび評議に及んだが、なお又、賛否両論の溝は埋まらなかった。大小目付(岩瀬忠震・大久保忠寛など)は、ハリスの願意を容(い)れ、出府を許すべしとし、勘定奉行など(松平近直・川路聖謨・水野忠徳ら)は、拒絶の考えである。議論は12月から翌1857(安政4)年正月にまで延長されたが、結局、ハリスに答書を渡し、下田奉行に応接させるというものである。1857年1月16日付けの幕府よりの答書は、以下のものである。

貴国ヨリ日本の事務に関係せる重大の事件を自分共え直(じか)に申立てるべき旨(むね)、貴国大統領ヨリ命(めい)之(これ)有る趣(おもむき)其外(そのほか)の件々とも、去年九月中の書簡?(ならびに)同十二月ニ至り猶(なお)申立ての書面夫々(それぞれ)熟覧せしむ。然(しか)る処(ところ)下田箱舘開港以来、両国の諸件を辨(べん)ぜんため両所に奉行差置(さしお)き委任せしむる上ハ、假令(たとひ)重大の事といへども申立る事もあらバ其地(そのちの)奉行へ申し聞らるるハ則(すなはち)自分共え直に申立るも同様なれバ隔意(かくい *遠慮)なく奉行へ談話あるべし、此(この)趣(おもむき)告知せしむるもの也。
   安政四年巳正月
                     (*老中五名の署名と花押)

 しかし、幕府は、ハリスに対する態度を確固として堅持していた訳ではない。他面では、諸有司に命じてあらかじめハリスの出府に関する行程を調査させ、ハリス出府の準備をもしていたからである。
 下田奉行たちは、1月16日の訓令により、その後しばしばハリスに応接する。だが、ハリスはなお出府の主張を堅持し、さらには、新たに三箇条の要求を提出する。それは、①下田・箱舘の2港に於いて、土地を借り家屋を造営することの許可を求め、②領事およびその家族の必需品は日本の官吏の干渉なく、自由に商人から買い入れることを許可すべきとし、③日米和親条約にある「遊歩地区域」(下田は方7里、箱舘は方5里)について、領事は漂民とは異なり、日本駐在の総領事として永住する者なので、この規定には関係しない―の3点である。【①の理由は、日米和親条約の第9条〔日本政府が他の外国人に許した利益は、日本人にも許す―利益均霑〕)の趣旨からすると、日蘭和親条約の第12条〔出島商館の住居や土蔵などは、長崎奉行の判断で、オランダ人へ譲ることができる。〕、同第13条〔出島内の建物の改築については長崎奉行に報告し、費用は商館の個人的な財源から支出することができる〕によって、オランダ人と同様の権利をアメリカ人にも適用すべき―というのである。】
 ハリスの三箇条の要求に対し、下田奉行はあの手この手を使って拒否するが、ハリスもまた一歩も退かず自らの主張をもって応える。これには下田奉行たちは行き詰まり、ついに3月2日、老中の指揮を仰ぐこととなる。

注1)オランダ東インド会社の商館は1609~41(慶長14~寛永18)年までは、平戸に、1641年以降は、長崎出島に置かれた。その商館長(カピタン)は、日本貿易を許可されていることへの御礼で江戸に上り将軍に拝謁して献上物を差し上げた。これを「御礼参り」、「拝礼」、「参府」などといった。カピタンらが「参府」を許されたのは1609年からであるが、1850(嘉永3)年までの218年間に116回を数えた。1790(寛政2)年からは、5年に1回となった。だが、種々の事情で行なわれなかった年もあり、幕末になるほど回数は減じている。
 2)ハリスのいう「重大事件」というのは、列強の日本進攻に関する情報である。つまり、アロー戦争(後述)で清国と戦っている、「英仏艦隊は中国との戦争が終れば日本に来航するだろう。その時の使節には香港総督ボウリングが内定している。さらにロシアの南下に対してイギリスは蝦夷地の占領を企てている。」(土居良三著『幕末 五人の外国奉行』P.183)というものである。ハリスはこのような「威嚇」をひそめた情報を将軍に恩着せがましく直接知らせることによって、日米間の通商条約を早く締結しようとしたのである。
  
(2)オランダ人がもたらしたアロー号事件の詳報
 ハリスの三箇条をめぐるやりとりがあった最中の1857(安政4)年2月はじめ、長崎に来航したオランダ人から、前年10月におこったアロー号事件の情報がもたらされた。
 アロー号は、洋式船体に中国式艤装(ぎそう *船に種々の装置や設備を施すこと)をほどこした中国人の帆船で、香港船籍をもち、イギリス人を船長としていた。アロー号は、日頃、イギリス国旗をかかげて香港・広州間を往復していたが、1856年10月8日、広州市前面の珠江に停泊中、乗組員の中国人14名中12名が海賊の疑いで清国官憲に逮捕され、イギリス国旗が引き下ろされた。
 これに対し、広東駐在領事パークス(後の日本駐在公使)は、賜暇(しか)帰国中に事あればそれを狙い悶着を起こそうとしていたロンドン政府の空気にあおられていたので、帰任直後に報告を受け、広東欽差大臣(*欽差とは勅使の意)葉名?に強硬な抗議を行なった。
 清国側は容疑者を釈放し、謝罪を行なったにもかかわらず、パークスは強引に交渉を決裂させ、イギリス全権・香港総督バウリングと謀って現地のイギリス海軍を動かし、広州周辺の砲台を占領し、総督衙門(がもん *兵営の門)を砲撃し、広東市中まで焼払わせた。
 イギリスのこのような非道な行動の背景には、アヘン戦争によって押付けられた南京条約の履行を渋る清国政府と、それを不満とし、中国での貿易の伸び悩みにあせるイギリス政府との対立がある。「〔*貿易の〕伸びなやみの原因は、〔*イギリス側からすると〕貿易機構の欠陥にあるとされ、条約港をふやすこと、条約港以外の地域(内地)を開かせ、また内河航行権を認めさせることによって国内商業の幹線路に直接接触すること、内国関税(*国内での関税)を廃止させることなどの必要が叫ばれた。また、従価五分(*5%)を原則とする協定関税率が定められたが、徴税機構はもとのままであったので、徴税吏となれあう外国商人によって合法貿易の脱税が大規模におこなわれた。このことは個々の商人を利するものではあっても、安定した商業秩序の樹立を妨げるものであった。また、清国政府は広東に欽差大臣をおいて(両広総督の兼任)、外国公使との対等の交渉にあたらせたが、北京に外国公使がはいることを認めず、しかも広東の欽差大臣は同地にうち続く排外運動を背景として、一八四〇年代の終わりから急速に外国官憲に対し非協力的となり、さらに北京政府は外国公使との直接通信を拒んだので、清国政府との外交上の接触方法を改めることの必要が痛感されるにいたった。以上のような事情を背景として、五〇年代にはいるとイギリス政府部内には、ふたたび武力行使をしても大規模な条約改正をおこなおうとする考えが兆すようになった。」(世界歴史大系『中国史』5 山川出版社 2002年 P.22)のである。
 ところが、中国国内の太平天国の乱(1851~64年)が起こり、また1853~56年にはクリミヤ戦争によって、イギリス勢力が東アジアに集中することを妨げた。そのうえ、清国に対する武力行使を正当化するような事案もなかったのである。そこへ絶好の開戦口実となるアロー号事件が起こったのである。
 アロー号事件の情報は、オランダの長崎商館長によって1857(安政4)年2月1日付け(3~4か月遅れ)で、幕府に報告された。これを受けて堀田正睦は、評定所一座、海防掛(目付、勘定奉行)、長崎・下田・箱館三奉行へ、2月24日付けの「英人広東焼払の件」(「幕末外国関係文書」の十五 216号 P.567~568)を通達した。そこでは、次のように述べられている。

           覚
英人広東を焼払(やきはらい)候(そうろう)一条に付(つき)、和蘭甲比丹(カピタン)話説の趣、再応(さいおう *今一度)勘弁(かんべん *よく考えて事を定めること)致し候処(ところ)、蘭人の申立て、今更の事ニハ之(これ)無く、追々(おいおい)差迫り候儀ニ相聞え、右ハ彼国(*オランダ)情願(じょうがん *真心の願い)を遂(とげ)るべきと、強(しい)て牽合附会(*自分の都合のよいようにこじつけること)致し候儀とも相聞(あいきこ)えず、実に当時(とうじ *現今)外国人御取扱振(おとりあつかいぶり)、事情に応(こたへ)ざる儀ハ、我国人ニも粗(あらあら)相分(あいわか)り候程(ほど)の義ニ付(つき)、漸々(ようよう)彼の怒(いかり)を積み候ハハ、広東の覆轍(ふくてつ *失敗の前例)を踏み候も計り難く、尤(もっとも)御警戒致すべき儀ニ之(これ)有り。既(すで)ニ寛永以来の御祖法を御変通(へんつう *時にあたって自由自在に変化し適応すること)遊ばされ、和親御取結ぶニも相成り候上(うえ)ハ、寛永以前の御振合(ふりあい *つりあい)も之(これ)有り、御扱い方も亦(また)随(したが)って御改革之(これ)無き候てハ相成るまじく、然(しか)ルを兎角(とかく)仕来(しきたり)ニ拘泥(こうでい)致し、瑣末(さまつ)の儀迄(まで)六个敷(むずかしく)差拒(さしこば)み、追年(年を追って)外夷の怒を醸(かも)し候ハ、無算(むさん *無思慮)の至りニて、万々一(まんまんいち)砲声一響(いっきょう)候ハハ、最早(もはや)御取戻しも相成り難く候間、外国人緩慢(かんまん *緩やかなこと)の御取扱い、且(かつ)長崎下田箱館の三港ハ、諸事同様の取扱振りニ相成り、文書の往復応接の礼節等、都(すべ)て外国人とも信服(しんぷく *信頼すること)致し候様、真実の御処置にこれ無く候ては相叶(あいかな)い難き時勢にこれ有り。既に英吉利評判記(*ボウリング来日の噂)、亜米利加官吏(*ハリス)の申立(もうしたて)、尚(なお)又(また)今般(こんぱん)蘭人(*クルシウス商館長)の申立等、一々差迫り居(お)り、此上(このうえ)是迄(これまで)の御仕法(*やり方)にては永く取支(とりささ)えるべく様(よう)之(これ)無きハ顕然(けんぜん *はっきり現われる様)の儀ニ付(つき)、無事の内ニ、是迄(これまで)の御法(ごほう)早々(そうそうに)御変革之(これ)有り、其上(そのうえ)の御取締(おんとりしまり)相立て候様取計い候方、長策ニ之(これ)有るべく候間、右の心得を以て、向来(こうらい)の御処置振り等(とう)篤(とく)と勘弁熟慮いたし、早々取調申聞(もうしきこ)されるべく候事。

 イギリスの香港総督のボウリングの来日の噂、亜米利加ハリスの和親条約改正の要求に加えて、今度はオランダからアロー号事件勃発の情報を得て、堀田正睦ら老中の衝撃は、アヘン戦争時とは比べものにならなかったと思われる。西洋人の対日通商要求の噂や新情報が、ヒシヒシと「一々差迫り居り」の情勢下で、自ら変革しないで従来の「仕来り」をただ墨守するだけで、「追年外夷の怒を醸し候ハ、無算の至りニて、万々一砲声一響候ハハ、最早御取戻しも相成り難く」と、取返しができない事態(日本が侵略される)になってしまうと怖(おそ)れているのである。
 確かに圧倒的な軍事力や経済力の差のもとで、日本外交が忍耐を強いられるのは、現実を直視する限り致し方がないであろう。そこでは、挽回のための戦略的対応が必要である。しかし、だからといって、アロー号事件で広東が無理無法で焼払われるという非道に対して、この「覚」では批判がましい言葉が一言も発せられていない―というのは解せないことである。小国であればこそ、是非・善悪・正義と不正義の違いを鮮明にする態度が必要であり、それがまた外交で大きな武器となるのである。この肝心の点を蔑(ないがしろ)にして、ただただ西洋諸国を恐れ、あまつさえ西洋諸国の不正義に迎合する態度は、幕府の下劣な本性を示すだけである。

 《補論 アロー戦争と天津条約・北京条約》
 アロー号事件の勃発に対して、イギリス政府(パーマストンのホイッグ党内閣)は、現地官憲の措置を承認して、開戦を決定するとともに直ちに出兵を準備した。しかし、議会では反対論が上下両院で沸騰する。野党のコブデンは、アロー号の香港船籍の有効期間がすでに切れていたことなどを指摘し、激しくバウリングを批判し、彼の提出した政府反対動議(下院)は16票の差で成立した(1857年3月3日)。しかし、パーマストンは下院を解散して総選挙に持ち込み、新議会では85票差で信任を得た。こうして、イギリスは前カナダ総督エルギンを全権代表として、軍隊と共に中国に派遣した。アロー戦争(第二次アヘン戦争 1856~60年)の本格化である。
 イギリスの呼びかけに応じたナポレオン三世のフランスは、フランス人宣教師が1856年2月に広西省西部で清国官憲に殺害されたことを開戦理由として、イギリスと共同行動をとることを決定し、外交官グロを全権として派遣した。米露両国は、戦争には参加しなかったが、条約改正要求については英仏と共同行動をとることを決めて、それぞれ全権を現地に送った。
 派遣されたイギリス軍は、途中、ベンガルでの反乱を鎮圧したため中国到着が遅れ、1857年12月末になって、ようやく英仏連合軍は兵力を結集し行動を起こした。1858年1月初め、連合軍は広東を占領(1861年10月まで)し、葉名?を捕え、広州市内に占領行政を布いた。
 同年2月、英仏米露の4カ国代表は、同時に北京へ公文を送り、上海における条約改正交渉を要求した。これに対し、北京政府は英仏米とは広東で、露とは黒龍江で交渉すると回答した。しかし、4カ国代表はこれを不満として、あい前後して大沽(タークー *渤海沿岸で、天津に近い)に押しかけた。北京政府は代表を送って交渉しようとしたが、英仏はその代表の資格が不十分だと難癖を付け、5月20日、英仏連合軍は大沽砲台を占領し、天津まで進出した。ようやく交渉が行なわれ、6月中に北京政府と4カ国代表それぞれとの間に天津条約が結ばれた。
 天津条約の内容は、①南京・漢口など10港の開港、②長江(揚子江)の航行自由、③キリスト教布教の自由、④外国人の中国内地旅行の自由、⑤中国人の外国渡航の公認、⑥領事裁判権の整備などである。4カ国の天津条約はそれぞれ内容は異なるが、いずれも最恵国条款をもつので、結局、上記のような内容に集約される。
 天津条約は交渉の当時から、北京などで激しい主戦論が巻き起こり、広東などでも排外運動が展開された。これらの主戦論を背景に、清国政府は4カ国の要求に否定的であった。これに対して、内外の情勢から判断して条約締結は仕方ないという和平論が、直接に外国代表と交渉した桂良らの現地当局者、貿易の利害関係にある上海付近の地方官憲などによって唱えられた。
 このため、太平天国の乱などの国内不安に脅されていた北京政府は、英仏連合軍が撤退すると新たな動きを開始する。「五八年十~十一月、天津条約に基づく貿易規則と税率表が協定されたが(これによりアヘン貿易が合法化された)、このとき北京政府は桂良、花沙納、何桂清らの清国代表に対し、関税全免を交換条件に、できれば天津条約を破棄させること、少なくとも(1)外交使節の北京駐在、(2)揚子江の開放、(3)内地旅行(以上はいずれも英清条約だけに規定された)、および(4)英仏あわせて六〇〇万両(テール)の償金とその支払い完了までの広州城の保障占領、の四項目を撤回させることをひそかに命じた。
......しかしイギリス側の強硬態度を知り、かつ関税収入を重視する桂良らはこの訓令に従わなかったが、折衝のすえ、使節の首都常駐権を行使しないという了解をエルギンからとりつけた。しかしこれは、使節の随時入京権、ならびに天津条約の批准交換を北京でおこなう権利の不行使までも約束したものではなかった。」(『中国史』5 P.24~25)といわれる。
 1859年4月、露清間の天津条約の批准交換が北京で行なわれた。同年6月には、英仏公使が天津条約の批准交換を北京で行おうと大沽沖に現われた。そして、6月25日、イギリス軍艦が白河(海河)を遡(さかのぼ)ろうとしたとき、大沽砲台から砲撃を受け、大敗する。大沽沖まで同行していたアメリカ公使は、清国側の指示に従い、大沽の北約16キロの北塘(ほくとう)から上陸して北京に入った。しかし、皇帝に謁見する際に、叩頭令(こうとうれい *頭を地につけてお辞儀する令)を求められたため北京を退去し、北塘で批准交換を行なった。
 英仏両国は、再び2万の軍を派遣し、1860年8月、北塘から上陸し、大沽砲台を背後から攻め落とし、天津に進撃した。北京政府はあわてて代表を送って交渉は一旦成立するが、英仏全権の謁見が問題となり、結局決裂する。英仏連合軍の北京進撃を前に、9月22日、咸豊(かんぽう)帝は皇后・側近などを引き連れて、熱河離宮へ逃れた。この間、パークスら約40名の外国人が捕らえられ、その半数が虐遇で死亡した。
 皇帝不在のため、英仏との交渉は皇弟の恭親王(きょうしんのう)奕?(えききん)が欽差大臣として当った。しかし、交渉はなかなか進捗しないで、その間に連合軍は北京郊外の円明園に侵入して掠奪を働き、北京を開城した。捕虜虐殺に対する報復について英仏の間で見解が分かれたが、イギリス代表のエルギンは単独で円明園の宮殿を破壊させた。交渉は、ロシア全権の工作もありようやくまとまり、天津条約批准交換と北京協定が10月24日(英)、25日(仏)にそれぞれ行なわれた。これによって、天津条約は外交使節の北京常駐の規定を含め全面的に実施されることとなり、賠償金は1600万両に増え、新たに天津も開港された。そして、イギリスに対しては九龍半島南部が、ロシアに対してはウスリー川以東(沿海州)が割譲された。
 英仏両国は、清国政府内の恭親王ら和平派(1861年11月に北京でクーデターが起こり、主戦派は粛清された)を外交的軍事的に盛り立て、1862年には太平天国に公然と敵対し、武力干渉に踏み切っている。太平天国の乱は、天朝田畝(てんちょうでんぽ)制度(土地国有制)、男女平等、弁髪禁止、悪習(てん足やアヘン吸引など)の撤廃をかかげた、中国史上初めて社会改革を目指した農民反乱であった。しかし、太平天国は内部対立で弱体化し、最終的には英仏軍や曽国藩らの率いる軍事力などで鎮圧され、1864年7月に滅亡する。

  (3)下田協約の締結
 ハリスは、上府の要求が幕府の曖昧な態度で延び延びになって、焦りを感じていた。また、他方で、「下田滞在が長引くにつれて、待遇面での不満がいろいろ吹き出してきた。そこで通商条約の交渉を行なう前に、和親条約の不備を補訂しようともくろんで、安政四(*1857)年二月二日から三日間にわたり下田奉行と折衝を重ねた。」(川田貞夫著『川路聖謨』吉川弘文館 1998年 P.286)といわれる。
 すなわち、「安政二年二日(一八五七・二・二五)・四日・七日の三日にわたる両下田奉行との会見席上、ハリスは、(一)内外貨幣は同種同量をもって交換し、五%の改鋳費を出すこと、(二)食糧と石炭を入手する場所として、長崎港をアメリカ人にも開くこと、(三)食糧がが欠乏してしかも貨幣をもたないアメリカ船にたいして、品物で支払をすることができるようにすべきこと、(四)日本で罪を犯したアメリカ人は、領事の審理を受け、もし有罪ならばアメリカの法律によって罰すること、(五)アメリカ人が土地を賃借し、建物を自由に購入・建築・修繕・改造する権利と、このような目的のためアメリカ人が必要とするときは、いつでも資材と労力を供給されるべきこと、(六)総領事およびその使用人は、総領事とその家族のために買物をする権利を有し、支払は日本役人の介入なしに直接販売人になすこと、(七)下田および箱館における遊歩範囲を、総領事としてのハリスに適用しないで、日本全国を彼の総領事職権のなかに包含させるべきこと、の諸要求を提出した。」(石井孝著『日本開国史』吉川弘文館 2010年 P.226~227)のである。
 江越弘人著『幕末の外交官 森山栄之助』によると、幕府は1857年2月頃には、すでに「開国・通商」の方針を決めていたようである。3月21日、森山は一人でハリスを訪ねている。そこで細かなことを話し合った後、酒の席となる。そこで、森山は次のようなことを話す。すなわち、「森山多吉郎は、ハリスに『今から質問することは空想(夢)としてうけとり、すぐに忘れて欲しい。もしも、下田奉行において貴下と通商条約を結ぶ意思があるとすれば、貴下はいかなる態度をとられるか』という質問をした。ハリスはそれに答えて、将軍に直接渡さなければならない書簡は、江戸でなければならない。〔*通商条約の〕評議についてはそれとはまったく別で、全権状を持った適当な人物であるならば、いつでも評議する用意があると告げている。/それに対し、森山多吉郎は、奉行たちがオランダ人と通商条約を評議している事実はないこと。奉行たちが条約に関して評議すべき用意ができ次第、ハリスと行ないたいとの意向を有していることを明言した。このようにハリスは記録している〔*その著『日本遠征記』に〕が、多吉郎はその日記〔*『森山多吉郎日記』〕には、まったく触れていない。」(同著 P.96)という。
 しかしながら、江越氏は、「多吉郎の発言は、それとない条約締結へのサインであったのである。そうして『オランダ人と通商条約の評議をしていない』ということは、半分は事実で半分は虚偽であった。なぜならば、幕府は、通商条約締結は時間の問題と見ていたので、気心の知れたオランダ人との間で、そのための土台を固めようと、長崎で六月から日蘭追加条約の交渉に入っていた。八月二十九日(十月十六日〔*陽暦〕)には調印を済ませ、さらに九月七日(十月二十六日)には日露追加条約を調印した。これは、和親条約の追加という体裁をとっているが事実上の通商条約で、この既成事実をもってハリスと日米通商条約作成にあたろうとしたものであった。この時、長崎での日本側全権は水野筑後守忠徳と岩瀬伊賀守忠震であった。」(同前)といわれる。幕府の通商条約締結への動きは、現実にはすでに、走り出しているのであった。
 ハリスの上府問題と通商条約の協議の問題は、切り離され進められた。そして、ようやく1857(安政4)年5月26日、下田協約(日米約定)の締結にこぎつけた。
 下田条約は9カ条でなりたっている。その内容は、以下の通りである。

   〈規定書和文〉
帝国日本に於て、亜米利加合衆国人民の交(まじわ)りを、猶(なお)処置せむ為(ため)に、全権下田奉行井上信濃守(清直 *川路聖謨の実弟)中村出羽守(為弥)と、合衆国のコンシユル、ゼ子ラール、エキセレンシ―、ツウンセント、ハルリスと、各(おのおの)政府の全権を持て、可否を評議し、約定する條々左(ひだり)の如(ごと)し
   
   第一个(か)條
日本国肥前長崎の港を、亜米利加船の為に開き、其地(そのち)に於て、其(その)船の破損を繕(つくろ)ひ、薪水食料或(あるい)は欠乏の品を給し、石炭あらハ、又(また)夫(それ)をも渡すへし、
   第二个條
下田?(ならびに)箱館の港に来る亜米利加船必用(ひつよう)の品、日本に於て得(え)かたき分を辨せむ為に、亜米利加土人を右の二港に置(おき)、且(かつ)合衆国の下官吏を箱館の港に置(おく)ことを免許す、
 但(ただし)、此(この)箇條は、日本安政五午年六月中旬、合衆国千八百五十八年七
 月四日より施すへし、
   第三个條
亜米利加人持来(もちきた)る処(ところ)の貨幣を計算する時は、日本金壱分(一分)或は銀壱分を、日本分銅(*重さを比較する際の基準とするオモリ)の正しきを以て、金ハ金、銀ハ銀と秤(はかり)し、亜米利加貨幣の量目を定め、然(しか)して後(のち)吹替入費の為、六分丈(だけ)の餘分(よぶん)を日本人に渡すへし、
   第四个條
日本人亜米利加人に対し法を犯す時ハ、日本の法度(はっと)を以て日本司人罰し、亜米利加人日本人に対し法を犯す時は、亜米利加の法度を以(もって)コンシユル、セ子ラール〔*総領事〕或はコンシエル罰すへし、
   第五个條
長崎下田箱館の港において、亜米利加船の破損を繕ひ、又は買ふ処の諸欠乏品代等は、金或は銀の貨幣を以て償ふへし、若(もし)金銀とも所持せさる時は、品物を以て辨すへし、  
   第六个條
合衆国のエキセルレンシー、コンシエル、セ子ラールは、七里堺(さかい)より外へ出(いず)へき権ある事を、日本政府に於て辨知(べんち *わきまえ認識する)せり、然(しか)りといへとも、難船等切迫の場合にあらされハ、其(その)権を用ふるを延(のば)す事を、下田奉行望めり、此(ここ)に於て、コンシユル、セ子ラール承諾せり、
   第七个條
商人より品物を直買(じきがい)にする事は、エキセルレンシー、コンシユル、セ子ラール?(ならびに)其(その)館内に在(あ)るものに限り差免(さしゆる)し、尤(もっとも)其(その)用辨の為に、銀或ハ銅銭を渡すへし、
   第八个條
下田奉行は、イキリス語を知らす、合衆国のエキセルレンシー、コンシユル、セ子ラールは、日本語を知らす、故に真義は、條々の蘭語訳文を用ふへし、
   第九个條
前个條の内第二个條ハ、記する処の日より、其餘(そのよ)ハ、各約定せる日より行ふへし、
右の條々日本安政四巳年五月廿六日、亜米利加合衆国千八百五十七年六月十七日、下田御用所において、両国の全権調印せしむるもの也、
                         井上信濃守(花押)
                         中村出羽守(花押)
 下田協約は、第三条の日米通貨の交換問題と、第四条の領事裁判権の問題が後世まで問題とされるが、この点については詳しくは後述とする。
 次いで幕府は、1857(安政4)年8月、日蘭追加条約を結んだ。それは、これまでの和親条約を大幅に改訂したもので、実質的には通商条約であった。その内容は、長崎・箱館における通商を開始し、しかも「船数並びに商売銀高とも、其の限(かぎり)を立(たつ)る事なし」とした。また、オランダ人の信教の自由が認められ、さらに別紙覚書で踏絵(ふみえ)の廃止や、オランダ人が妻を連れて開港場に来住することなども認められた。
 ただし、両国商人による自由貿易は認められず、従来の会所貿易の枠内であり、あくまでも会所において役人が仲介する方法であった。(会所貿易については、拙稿『薩摩藩の借金累積と琉球・道之島収奪』〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照)
 また、同年9月には、これとほぼ同じ内容の日露追加条約(28カ条)も調印され、いよいよ西洋諸国との貿易開始の気運は高まった。
 ところで、斉昭は、1856(安政3)年正月いらい、老中からの情報も途絶え、幕閣政治から遠ざけられていた。一橋慶喜は、父斉昭に幕政参与の辞退を、1857(安政4)年5月頃から勧めていたようである。それにもかかわらず斉昭は受け入れなかったので、慶喜はこのことを阿部に内願した。しかし、阿部はこの6月17日に39歳の若さで急逝してしまった。慶喜は、ひきつづき母・登美宮に書を呈出し、斉昭の辞表提出を勧めている。1857(安政4)年7月23日、斉昭はついに軍制参与・幕政参与を免じられる。

 (4)ハリスの上府要求をめぐる日本側の論争
 ハリスが江戸に上り、将軍に拝謁しアメリカ国書を渡し、さらに日本に迫っている「重大事件」の内容を伝えたい―という要求は早くから提出されていたが、これに対しても、日本側の態度は一致していなかった。
 幕府内諸有司の間でも諾否の両論に分かれていた。1857(安政4)年正月、海防掛の大小目付はハリスの上府を許可すべしと上申した。すなわち、「元々和親懇切の條約(*日米和親条約)相済(あいす)み候國より差置き候(そうろう)永住の官吏、出府の儀申上げ候儀ニ候得は、先達(せんだっ)て評議仕り申上げ置き候通り何れにも願いの趣御聞届け相成り候......」(「幕末外国関係文書」の十五 188号 P.465)と。
 そして、一時の都合でなく、長策をもって対応すべきと、次のように述べている。

近来御旧例追々(おいおい)御改めの上は、何事も公平切実(せつじつ *誠)の御処置ニて、猥(みだ)りニ夷人の怒(いかり)を引出し申さざる様成り置かれ候方、御長策と存じ奉り候、尤(もっとも)眼前の都合に泥(なず)み、ひたすら御拒絶の儀申上げ候は之(これ)有るべき哉(や)計り難く候得共(そうらへども)、是迄(これまで)迚(とて)も、一躰(いったい)の事柄、一時の都合を計り、御國の勝手のみ考え、公平切実に之(これ)無き儀は、悉(ことごと)く遂(つい)ニは彼れ強顔に押付けられ候儀、数々前轍も之(これ)有り候間、深く後来の御為(おんため)を謀(はか)り候ては、......厚く御勘弁あらせられ、在住の官吏に限り、御召し寄せの方ニ御決定之(これ)有り候様仕りたく......
(同前 P.466~467)

 旧例を改め、外国人に公平切実の処置をもって対処し、清国の前轍を踏まないようにと、促しているのである。
 だが、海防掛の勘定奉行・同吟味役は、対照的にこれを不可と上申した。その理由について、彼等の上申書(同年3月)は、アメリカ領事ハリスに上府・将軍引見を許すと他の諸国からも次々と同様の要求が起こり、「各国の使節其外(そのほか)江戸表召し呼ばはれ候ハハ、忽(たちま)ち御國力衰弊(すいへい *衰えやぶれること)宿村の愁苦(しゅうく *うれい苦しむこと)と罷り成り......」(「幕末外国関係文書」の十五 274号 P.727)と、もっともらしく言う。しかし、その心底には華夷秩序・華夷思想に基づく、西洋人に対する次のような差別思想が歴然として存在しているのである。

素(もと)より彼れの礼節と唱え候は、聖賢の道とハ雲泥(うんでい)の違(ちがい)ニて、驕慢(きょうまん)の夷人、此方(このほう)の指図に随(したが)ひ、諸事神妙(しんみょう)に振舞(ふるまい)候儀は甚(はなはだ)以て覚束無(おぼつかな)く......
(同前 P.727)

 ハリスの下田駐在でさえ非難がある中、ましてや上府ともなれば、それ以上の非難で世論が紛糾するのは目に見えていた。幕府は、ハリスの上府を拒否し、一切を下田奉行を通じて談判するように告げた。しかし、ハリスは態度を硬化して、決して譲らなかった。
 事態を動かしたのは、たまたま米艦が7月20日に、下田に入港したことである。下田奉行は、ハリスが無断で海路江戸に赴くことを恐れ、早急にハリス上府の日程を決めることを老中に要請した。
 堀田ら老中は、ハリスの上府がもはや避けられないと覚悟し、ハリスの上府を9月下旬と内定した。そして、8月6日、下田奉行はハリスについに上府の許可を与えた。さらに8月14日、幕府は、海禁政策を決めた寛永以前の先例と万国の通常規則によってハリスの上府を許可した旨を公布した。
 この正式決定の前の7月24日、幕府はハリスの上府を許可したことを御三家・両卿(田安家・一橋家)・溜間詰大名に内達し、各々の意見を求めた(『水戸藩史料』によると、溜間詰大名たちには、この内達は7月20日に渡されたという)。これに対して、徳川斉昭・慶篤(水戸藩主)の父子、尾張藩主徳川慶恕は、いずれも上書してこれを不可としている。
 8月になって、溜間詰大名は、上申書を老中へ提出した。「......すでに上府の許可を与えたあとで、かれこれと評議して上申するのは力ない次第であるが、溜間詰一同は重き職前の台命(たいめい *将軍の命令)を被っているので申し上げると述べて、当代になって初めて蛮夷の者どもに謁見を許しては、諸蛮もこれにならい、甚だ本意に背く取り扱い方で、許可すれば国辱となるから、登城はもちろん、上府を許すべきでないと述べた。上書に記された藩名は、高松・彦根・会津・忍・松山・桑名の六藩であった。......ハリスの上府拒絶は、高松侯松平頼胤によって溜間詰の意見としてまとめられたと思われる。三家・溜間詰を初め、九月になって提出された大廊下詰(おおろうかづめ)・大広間詰(おおひろまづめ)の大名の意見も同じく上府拒否であった。」(吉田常吉著『安政の大獄』 吉川弘文館 1991年 P.85~86)といわれる。諸大名は未だ以て、世界の情勢と、日本の置かれた位置がわからないのである。

(5)ハリス念願の江戸上りで堀田に長広舌
 1857(安政4)年10月、粘りに粘ったハリスは、ようやく念願の江戸上りを実現する。ハリス、ヒュウースケン(通訳)らの一行は、10月7日に下田を出発し、天城・箱根の嶮を通って、陸路で江戸に入った。江戸には10月14日に到着し、九段坂下の蕃書調所を宿舎とした。10月18日には、老中首座の堀田正睦と初の対面を果たす。
 そして、10月21日に、ついに将軍家定に謁見し、アメリカ大統領の親書を渡し、「合衆国大統領よりの信任状を呈するにさいして、私は、陛下(*将軍家定)の健康と幸福を、さらに陛下の国土の繁栄を、大統領が切望しているむね、陛下に述べるように命じられました。......」と、挨拶を述べた。
 その翌日、ハリスは井上清直を通して、書簡を堀田正睦に送った。ハリスは、「重大事件」については、将軍謁見が済んで下田へ帰った後に、下田奉行に陳述するという「妥協案」がかわされていたのにもかかわらず、自ら堀田か、あるいは全閣老に対して情報を提供する用意がある―と書簡で述べている。こうして、10月26日、ハリスは堀田の役宅を訪ねて、約2時間に渡る長広舌をふるい、いち早くアメリカと通商条約を結ぶことが日本の利益であることを強調した。
 その「演説」のあらましは、以下のようなものである。
 まず、蒸気汽船の発明は、かって大洋に隔てられた諸国を大幅に近づけ、それにより各国間の通商を大いに増加させ、各国の富と人民の幸福を増大させた。従って、西洋諸国は国富の源泉となる通商を大いに促進させた。
 つづいて、日米関係の変化に及び、カリフォルニアの金鉱発見は合衆国西岸における人口を急増させ、アジアの東岸と西洋との通商路を変化させるであろうと見通し、合衆国の東岸とカリフォルニアを結ぶ鉄道の完成は、合衆国の西岸とアジアの東岸を結ぶ直線の上にある日本との交通は、絶えず増大していくであろう、と言う。
 つづいて、ハリスは貿易に課する適度の課税は、日本の諸外国との貿易の増大により日本に大きな収益をもたらし、それによって日本は立派な海軍を維持できるであろうと主張する。また、自由貿易の活動によって、日本の資源が開発されるならば、それは交換しうる莫大な価値を生み出し、その生産は国民が必要とす食料生産を少しも阻害することなく、日本の過剰労働力などをもって振興するであろう―とも言う。
 ハリスは、貿易がいよいよ盛んとなり、西洋各国は世界中一族となるように願っていると言い、アメリカは日本に対して二つの願いがあるという。「其(その)一は、使節同様の事務宰相ミニストル(*公使)一名アゲント(*外交員)を、都下え置附(おきつ)ケ候様致したく義」と「一方の願(ねがい)は、国々のもの(者)勝手に商売いたし候義(そうろうぎ)相成り候様いたしたく候」(「幕末外交関係文書」の十八 44号〔十月二十六日西丸下老中役宅対話書 老中堀田備中守正睦と米国総領事ハリスと 日本重大事件に就いて〕 P.107)と、①公使を江戸に駐箚(ちゅうさつ *駐在)させること、②自由貿易を許すこと(これらはアメリカのみだけでなく、「諸国の懇望」でもあるという)―である。
 つづいてハリスは、「日本の重大事件」の核心に踏み込む。「......ハリスは、日本に危機が迫っていることを強調し、ヨーロッパ諸国、とくに英国の侵略主義と対照的に、米国の平和主義を強調した。......英国は日本と戦争をしようと心がけているが、そのわけは、英国がインドをロシアにとられはしまいかと恐れており、またロシアがサハリン・アムールを領有するのをにくみ、それから満州・清国を侵略することを恐れている関係から、英国はこのロシアの企図に対抗すべくサハリン・蝦夷地を領有しようとしていると。さらに彼は、アヘン戦争で清国が弱っていること、現在英仏両国が連合して清国に戦争をしかけ、清国の前途が悲観すべきものであること、フランスは朝鮮を、英国は台湾を望んでいることなどから、アヘンの害毒におよび、英国人は日本にもアヘンを売りひろめようとしている、といった。こうしたヨーロッパ諸国とは反対に、米国は東方に領土を得ることを望まず、米国はかつて戦争にうったえて領土を獲得したことがない、と力説し、英仏両国政府が対清戦争に米国の参加を求めたが、米国はこれを拒んだことをあげて」(石井孝著『日本開国史』P.245~246)いる。
 この中で特徴的なことは、二つある。一つは、「英吉利(イギリス)は、日本と戦争を致し候義を、好(このみ)て心掛(こころがけ)居(お)り候」(「幕末外国関係文書」の十八 44号 P.108)と、断言していることである。ハリスはこの断言をもって、現実にアロー戦争が進行中の英清間の戦争を背景に、堀田に「圧力」をかけたのである。つまり、このような侵略的好戦的なイギリスが間もなく日本にも押し寄せて来るのだから、その前に日米間で通商条約を結べば、イギリスの侵略を封じ込めることができるというのである。すなわち、「大統領の心得ニては、合衆国と堅固の條約(じょうやく)御結び成られ候ハハ、必ず外国も右を規則とし、御心配の儀等は、向後決して之(これ)有るまじく存じ奉り候」(同上 P.116)というのである1)。イギリスの好戦性を強調することにより、「平和的な」アメリカとの条約締結を促進させたのである。そうすれば、イギリスよりの戦争仕掛けを封ずることができるというのである。
 もう一つは、アヘンの弊害の強調である。前のイギリス問題でも、第一次アヘン戦争から第二次アヘン戦争(アロー戦争)にかけての動きを極めて詳細に説明したが、このアヘン問題でもハリスは事細かに説明する。すなわち、「一、阿片(アヘン)を用ひ候へは(そうらへば)、躰(からだ)を弱くいたし候事、外(ほか)の毒より厳しく御坐(ござ)候、一、阿片を用ひ候へは、富家も貧ニ相成り、才気これ有るものも精神疲れ、物事相考ヘ候義相成り申さず、終(つい)ニハ何れも非人(*被差別者をさす)同様道路ニ倒臥(たおれふ)し候様相成り、右貧困より、盗賊の悪事を仕出し、死を顧みざる働きいたし候もの少なからず候、一、年々千人計(ばかり)ツツは、アヘンの為(ため)ニ悪事を仕出し、刑罰ニ逢(あ)ひ申し候」(同上 P.113)と、阿片の恐ろしさを強調する。そして、「一、英人は、日本ニても、唐国(*清国のこと)同様阿片を好み候もの之(これ)有るべきと、持渡し売弘(うりひろ)メたき志願ニ相見(あいみ)え申し候......一、條約成られ候ハハ、阿片の禁を聢(しか)と御立て成られ候様、大統領申し聞(きか)せ候」(同上 P.114)と、アメリカは通商条約にアヘンの禁止をうたうように大統領が申されたというのである。 
 ハリスは、通商条約を締結しないと、如何(いか)に日本の脅威になるかを、イギリスの侵略性とアヘンの恐ろしさを例にあげて説得しつつ、日本為政者たちがこだわる宗教問題でも安心させようとする。すなわち、「一、二百年前、ホルトガル人イスパニア人御放逐成られ候頃と只今とは、外国の風習大(おおい)ニ異(ことな)り申し候......一、亜墨利加ニては、宗旨抔(など)は皆(みな)人々の望(のぞみ)ニ任せ、夫是(それこれ)禁し又(また)は勧(すすめ)候様の事(こと)更に之(これ)無く候、何を信仰いたし候とも、人々の心(こころ)次第ニ御座候、一、西洋ニては、一方の宗門を外宗ニ改め候もの之(これ)有り候とも、干戈(かんか *武器)を用ひ候様の儀は、当時(*今日)決して之(これ)無く、其(その)人の好(このみ)ニ任せ候儀ニ御座候、一、当時欧羅巴(ヨーロッパ)ニては、信仰いたし候(そうろう)基本を見出し申し候、右は銘々(めいめい)心より信じ候故、其(その)心ニ任せ候より外(ほか)致し方之(これ)無きと決着いたし申し候」と、強引にキリスト教を押しつけるようなことはしない、と約束する。信仰の問題は、個々人が「心より信じ候故、其心に任せ候」を基本とする―というのである。
 さらにハリスは、通商条約を結ぶことによる日本のメリットについても、抜け目なく挙げる。すなわち、米大統領の言伝(ことづて)として、「一、軍船蒸気船其外(そのほか)何様の軍器ニても、御入用の品は、持渡し候様致すべく、海軍の士官・陸軍の士官・歩軍の士官幾百人なるとも、御用ニ候ハハ、差出し申すべく候、一、大統領願ニは、西洋各国と、若(も)し確執(かくしつ *強く自己主張して譲らず、そこから起る争い)等これ有る候節は、格別の取扱い媒(なかだち)ニ立置(たてお)かれ候様、兼(かね)て申唱(もうしとな)え心掛け罷(まか)り在(あ)り候、一、先(ま)ず亜墨利加国と條約御結び成られ候ハハ、外(ほかの)国々も、右を踰(こ)へ望(のぞ)み候儀は、決して之(これ)有るまじく、右の廉(かど *箇所、条件)則(すなわち)媒(なかだち)ニ相立ち候印(しるし)ニ御座候」(同上 P.122)ことを挙げている。
 アメリカは、日本の軍備強化に手を差し延べるだけでなく、アメリカ以外の国との条約の内容が日米通商条約以上に日本にとって不利にならないようにする、そのための仲立ちを務める―というのである。
 そして、最後にハリスは、「イギリスが対清国戦争が終わったならば計50艘ほどで、江戸表に押しかけるはずであると、ふたたび「脅し」をかけながら、アメリカと通商条約を結び、かつ英仏などの他国にも同様に締結するならば、自分(ハリス)が書状を送って、50艘を1艘または2~3艘に限定して事が済むようになるであろう―と条約の締結を迫ったのである。
 ハリスの一世一代の大演説は、硬軟を織り交ぜながら、「アメ」と「ムチ」を使い分けながら、イギリスの好戦性・侵略性に比較しての、アメリカの「平和主義」を売り込む形で、通商条約の締結を幕府に迫るものであった。

注1)ハリスは、国務長官マースィからの訓令で、日本に着く前にシャム(後のタイ)との間で通商条約を締結することを命ぜられる。だが、その内容は他国のそれよりは劣ったものにならないようと厳しく命令されている。つまり、イギリスがシャムと締結したレベル以下であってはならない―ということである。「ちなみに一八五五年の英暹(*英吉利と暹羅〔シャム〕)条約は、シャムの海港における自由貿易が認められているほか、一方的な治外法権・協定税率・最恵国待遇を含む不平等条約である。関税率については、輸入品は一率に従価三%という低率であり、輸出品は個別的に決められている。居留の英国人は、シャムの当局から発給された旅券があれば、一定の限度内で国内を旅行することができ、キリスト教の信奉、教会の建設を認められる。米国政府は、この種の条約を日本にも課そうとしたのである。」(石井孝著『日本開国史』P.217~218)といわれる。ハリスは、1856年5月29日、イギリスと同等の条約をシャムとの間で締結している。石井氏によると、シャムは隣国のビルマがイギリスの植民地にやがて陥ることを予測しており、「シャムの閣僚は、英国にたいする恐怖と怨恨を表明し、米国の保護下に入ることをもっとも熱望し、もし同盟条約を作ろうとするならば、米国の求めるすべてのものを、貿易の独占権さえも与えるであろう、とハリスにいった。」(同上 P.248)というのである。(ビルマが、イギリス植民地であるインド帝国に併合されるのは1886年)

(6)「日本の重大事件」に関する幕府諸有司の意見
 1857(安政4)年10月26日のハリスと堀田正睦の会談記録は、同月28日に評定所一座や海防掛などの諸有司に示された。堀田正睦は、阿部正弘の衆議制の手法を踏襲し、おのおの討論の上、速やかに意見を提出するように命じたのである(「幕末外国関係文書」は、これを「米国総領事日本の重大事件申立ての件」として、各上申書を扱っている)。
 これに対し、評定所一座・海防掛(勘定奉行と同吟味役)は、11月4日ころ、上申書で次のように述べた。

彼方の志願は、アゲント(*公使)を都下え差置き候と、国々のもの勝手に商売いたし候との二个(カ)條ニて、其(その)主意の基づき候所は、西洋各国ニては、世界一族ニ相成り候様いたしたくとの趣(おもむき)ニ相聞え、渠(かれ)の申立てニ任(まか)せ候得は、遂には諸蛮一般の風習ニ押移り、邪教制禁は勿論(もちろん)、すべて御制度廃弛(はいし *廃れゆるむこと)いたし候様成行き申すべきは顕然(けんぜん *あきらかなさま)ニて、左候迚(さそうろうとて)、申立ての趣(おもむき)御拒絶相成り候得は、戦争の端ニ罷(まか)り成り、何ニ従ひ候ても、容易ならざる次第柄ニ候得共(そうらへども)、当今の形勢、兎ニ角穏便の御処置御座候より外(ほか)之(これ)有るまじく候得共、右躰(みぎのてい)御制度相立ざる次第ニ付(つき)、諸家の家格国制等ニ拘(かか)り候儀御国内不服のものも出来(しゅったい)致す御義ニ付、御三家方初(はじめ)諸大名えも御尋ねの上、御治定(おんちてい *決まりをつけること)之(これ)有るべし、尤(もっとも)右御治定の趣(おもむき)叡聞(えいぶん *天子のおきき)に達せられ候方哉(や)と存じ奉り候、......  (「幕末外国関係文書」の十八 83号 P.250~251)

 評定所一座・海防掛(勘定奉行と同吟味役)は、ハリスの要求2カ条を(①公使を江戸に置くこと、②自由貿易を認めること)を認めれば、「諸蛮一般の風習に押移り」、「すべて御制度廃弛」することは明白だが、そうかといって拒絶すれば、「戦争の端」にもなるので、「兎ニ角穏便の御処置御座候より外之有るまじく」と、消極的ながらハリスの要求を許容するという態度をとった。ただし、ハリスの要求を受け入れると、国内の不服も起るので、御三家や諸大名の意見を諮ってから決定するべきとした。
 他方、大小目付、林大学頭(儒役)、筒井政憲(鎗奉行)は、同じ11月4日ころに、以下のような上申書を提出した。

......諸国交通宇内(うだい *天下)一様の姿ニ相成り候様致したく、当時海外一般の志願ニ御座候間、一方孤立ニ致し居り候ハ、永久安泰成り難(がた)しとの段は、稍(ようやく)宇内の形勢を心得(こころえ)候者は辨(わかち)居り候儀、......〔*英ボウリングの〕軍艦差向け、願意追詰め申立て候ハハ、万一戦争等相起り候得ば、猶更(なおさら)の儀、左迄(さまで)の儀ニ及び申さず候共、必定(ひつじょう)御無拠(おんよんどころな)く願意十分に御差免(おんさしゆるし)相成り申すべき歟(か)......旁(かたがた *どのみち)申立ての趣(おもむき)御取立て成され、二个條(にかじょう)の願意(がんい)御聞届け成され候様存じ奉り候......尤(もっとも)外国人都府ニ差置かれ候付(つい)ては、彼是(かれこれ)浮言(ふげん *無根の説)流布(るふ)仕り、人心疑惑を生じ自然大名折り合わず等の儀(ぎ)之(これ)有り候ては、是又(これまた)之(これ)を以て外(ほか)の儀ニ付(つき)、銘々(めいめい)存じ寄りをも御尋ね成らるべき哉(や)ニは候得共、たとひ異存の者(もの)之(これ)有り候共、詰(つま)り差置かれざり候半(そうろはん)では相成るまじき儀御坐候間、申立ての趣は、溜詰(たまりづめ)国持(くにもち)初(はじめ)へ一覧仰せ付けられ、御城又は御宅ニても、時勢変革の次第一同篤(とく)と納得(なっとく)仕り候様、精々御懇(おねんごろ)ニ御説諭(おんせつゆ *教えさとすこと)成られ、成るべく丈(だけ)早々御決定の御挨拶(ごあいさつ)仰せ達せられ候方然るべく存じ奉り候、......(「幕末外国関係文書」の十八 84号 P.252~253)

 大小目付、林大学頭、筒井政憲は、世界全般が相互に交通・貿易するのは全般的傾向であり、これに応じなければ日本は孤立し「永久に安泰」しないし、イギリスが軍艦を差向け「開国」通商を迫るに際し戦争は避けなければならず、いずれにしても、ハリスの要求2カ条は許容するのがよい―とする。とりわけ、「異存の者これ有り候」とも受け入れるべきと、積極的に受け容れるとしているのである。
 同じく11月4日ころ、対外関係の第一線に立つ、浦賀奉行溝口讃岐守・下田奉行井上信濃守清直・箱館奉行竹内下野守保徳は、「日本の重大事件申立ての件」について、次のように上申した。すなわち、大小目付も、評定所一座などの見解も、「大同小異」と認識し、既に西洋諸国と和親条約を締結していることを踏まえ、「既ニ親睦御取結びの上は、外夷といたし忌嫌(いみきら)い候義(そうろうぎ)之(これ)無く、誠実を以て御処置御座候方より外(ほか)は御坐(ござ)有るまじく......」(同上 85号 P.255)と、対外態度を改めて誠実に対応するべきであるとし、三奉行は「大目付御目付見込(みこ)みの通り、......追(おっ)て御治定次第仰せ達せられ候......」(同前)と、大小目付の意見に賛成した。また、井上・竹内は、別に、アゲント(公使)の都下駐在と「自由貿易」を認めるべきとした。
 これら3奉行や大小目付が前向きの態度を示す中で、海防掛の勘定奉行・同吟味役は、11月5日、分厚い書き抜きを老中へ提出し、10月26日のハリス・堀田会談でのハリスの主張について、真剣に検討し、疑義のある諸点などを提示した。(同上 87号)
 その主な点の第一は、アメリカが領土の拡張を望んでいないとの主張は偽りであるとした。「合衆国 メキシコと戦争の上、メキシコの地カリホルニー(*カリフォルニア)を掠取(かすめと)り、......償銀の代りメキシコ領メシルタルと申す地を取り候趣も相見え候間、申立ての趣は偽りと相聞え申し候」(P.259)、「合衆国のもの共、南亜墨利加の内、イスハニア(イスパニア)領キュバ(キューバ)島を、属嶋ニいたしたくと企て、サントイス嶋をも属島といたしたくと相企て候を、嶋主承引致さざる趣も相見え候......」(同前)と、オランダの書類などを証拠としてアメリカを批判している。
 さらに、ハリスが"アメリカは他邦と合盟したことはあっても、干戈をもって強制したことはない"と主張したが、これも偽りであるとして、「メキシコの和親、干戈を用ひ候上(そうろううえ)仕成り候と申すに及ばず、去ル寅年(*1854年)彼國使節ぺルリ神奈川に渡来の節、数艘の軍艦引連れ参り候は、若(も)し御国(*日本)ニて條約相拒み候ハハ、直(ただち)ニ干戈を動(うごか)し候存意ニ相違も之(これ)無く、帰路琉球國え罷り越し、押(おし)て條約取結び候次第も之(これ)有り、偽りの儀と相聞え申し候」と批判している。
 第二は、英清間のアロー戦争(第二次アヘン戦争)に関わる問題である。ハリスの事細かな英清戦争の説明は、その事実をもって日本を恐怖させ威嚇し、通商条約締結を急がすものと批判する。また、「唐國と英夷戦争の節、亜墨利加人英夷を助け申さずの儀、別に趣意も之有る哉(や)」と疑う。「左も之(これ)無く候てハ、......〔*ハリスの言う〕西洋各國世界一統いたし候ニ差障(さしさわ)り候ものは、取除き候との趣ニ見合(みあわ)せ〔*引き比べて〕、不都合哉(や)ニ相聞え申し候」(同上 P.270)と、厳しく批判する。
 第三に、英清間の戦争の原因であるアヘンに関するアメリカの主張の欺まん性に関することである。「阿片の至毒たる事、唐蘭風説書其外(そのほか)諸書ニも相見え、右を売り弘(ひろ)メ、大利を得、清國を亡(ほろ)ぼし申すべきと仕成り候儀は申すに及ばず、......阿片を清國え運(はこ)ひ入れ候儀、英夷の外(ほか)は、亜墨利加船重(お)モの由(よし)ニ付(つき)、右(みぎ)毒を以て、清國を傾け申すべきと、英夷と同意いたし、取計(とりはから)い候儀ニ相違も之(これ)無く相聞え候......」(同上 P.273)と批判する。 
 したがって、アメリカが日米通商でアヘンは取り扱わないという主張は、「......全魯西亜和蘭の條約(*和親条約のこと)中、阿片厳禁の个條(カ条)之(これ)有り候故、改めて亜墨利加條約取替(とりかわ)させ相成り候ハハ、必ず右の个條御立(おんた)ち相成るべく候ニ付(つき)、阿片を以て大利を得候事は相成り難く」(同上 P.273)、それ故に、とり飾って恩着せがましく言っているだけであると、厳しく批判するのであった。
第四に、宗教問題についての懸念である。ハリスは、宗教問題に関して、"諸個人が「心より信じ候故、其(その)心に任(まか)せ候」を基本とするものであり、決して上から諸個人に押し付けるものではない"ともっともらしいことを言うが、それは信用できないというのである。その証拠として、「......交易を以て相親(あいしたし)ミ候風俗ニ相成り候ては、西洋各夷同士ニては、一応(いちおう)左も之(これ)有り哉(や)ニ候得共(そうらへども)、近来西洋各国、宗門の儀より、戦争およひ(及び)候儀も之(これ)有り、......仏蘭西(フランス)より琉球國え、耶蘇(やそ)宗門の教師相渡り、同國を化誘(かゆう *諭し導く)致すべくと仕成り候趣ニ見合い〔*言ってることとやっていることを見くらべて〕、偽(いつわ)りの儀と相聞え申し候」(同上 P.279)と、1844(天保15)年にフランスが琉球に来て通商を求め、拒否されるや、フランス人宣教師を無理矢理に在琉させた事件をもって、ハリスの言をそのまま信じられないと批判しているのである。
 第五に、ハリスが日本に来る途中にシャムに至って通商条約を結んだのは、イギリスがかねてよりシャムを略奪するつもりがあって、それを防ぐために行なった―という主張への批判である。
 それは、次のような客観分析を踏まえての批判である。すなわち、「......印度(インド)地方は、シャム隣国ニて、印度ニは、英吉利(イギリス)領多く、軍艦等の備(そなえ)も多く之(これ)有り、其外(そのほか)近洋(きんよう)新阿蘭陀(*オランダ領ジャワ)?(ならびに)右(みぎ)近傍の諸島とも、英夷領多く候処(ところ)、右を防ぎ候(そうろう)為(ため)ニ、遠海数万里掛(かか)り隔(へだ)て候合衆國條約取結び、後楯(うしろだて)と仕り候儀は之(これ)無きの筋(すじ)ニて、悉(ことごと)く偽(いつわり)の事と相聞え申し候」(同上 P.282)と。
 そして、第六に、ハリスの甘言に惑わされることがないように上申し、また、"一国の存亡は条約の有無に因らず"として、「......是迄(これまで)西洋の内(うち)亡(ほろ)び候國々も数多く相聞え、國を保ち候は、戦守の力(ちから)之(これ)有り候故の儀ニて、條約ニは寄り申さざる儀哉(や)ニ相聞え申し候」(同上 P.283)と、条約に依存する危険性を警告しているのである。
 海防掛の勘定奉行・同吟味役の上申書は、ハリスの主張を冷静に分析し、その正否を突き詰めることを通じて、大小目付などの「ハリス要求の積極的受け容れ」派の前のめりを牽制するものであった。
 諸有司の意見の中で特筆すべきは、目付岩瀬忠震の上申書である。岩瀬は、日蘭・日露の追加条約を結んで長崎から江戸へ戻る途中、天竜川近辺で、ハリスと堀田正睦との会談の内容を耳にし、11月6日、早速、老中への上申書をしたためた。
 「積極受け入れ」派の岩瀬は、すでに通商条約を結ぶべきとしているので、彼の上申は具体的に横浜を開港すべきと個別具体的に展開しているのである。
 「幕末外国関係文書」の十八(89号)によると、岩瀬は横浜開港の理由を次のように述べている。岩瀬は、下田に代わるべき新しい開港場について、諸外国が大坂を強く要望していると想定し、それを阻止しなければならないとする。理由は大坂が京都に近く、攘夷派などの反対が予想されることがある。これも一つの理由であるが、しかし、岩瀬はもっと根本的なことを考えている。大坂は、その地勢やこれまでの実績から既に商業の大中心地となっており、「日本全国の利権の七、八分は、同所ニ帰し候勢(いきおひ)之(これ)有り候(そうろう)場所ニて、古来より金主等も夥(おびただ)しく、長崎表交易の利潤も八、九分は、大坂商売の手に落ち候儀ニ御座候......」(同上 P.328)状態である。従って、もし大坂に新たに外国貿易の利益が加わるなら、江戸をはじめ全国の都市が衰微してしまうだろう―というのである。
 これに比べ、「江都(*江戸)ニは、全国の諸侯(*大名)が会聚(かいしゅう *寄り集まること)仕(つかまつ)り候場所(*消費地)ゆへ、人別戸口ハ日を追て繁華ニ候得(そうらへ)とも、諸国運漕(うんそう *船で物を運ぶこと)の便(べん)六个敷(むずかしく)、殊(こと)ニ品川浦は、沖がかり(*沖に停泊し、接岸できないこと)の場所ニて、船圍(ふながこひ)等出來(でき)候湊ニ之(これ)無く、江戸人別戸口沢山(たくさん)ニ之(これ)有り候故、全く土地入用の諸貨物多く入船仕り候迄の儀ニて、諸国へ引合(*取引)出入交易の利潤之(これ)無く、詰(つま)り土地切りの地〔*つまり商業地でない〕商(あきな)ひニ之(これ)有り候間、偶(たまたま)富豪のもの之(これ)有り候ても、遥(はるか)ニ大坂ニ及び申さず、東海廻りの船々も兎角(とかく)大坂え直走(じきはし)り致し候儀多分(たぶん)ニて、東北の諸品も、大坂より買い下げの手元の品を、格外高価ニ引受け候分も儘(まま)之(これ)有り、都(すべ)て利権を大坂ニ〆(しめ)られ候地勢(ちせひ)......」(同上 P.329)である。
 だからこそ、江戸を衰微させないようにしなければならない。このため、横浜を開港し、外国官吏を江戸に置かないという狙いとともに、全国的な経済利権を掌握させるのである。すなわち、横浜開港によって、「盛(さか)んニ貿易御開き相成り候得者(そうらへば)、内ニは、日本全国の諸貨物儘(ことごと)く外国品替えの為(ため)ニ持運(もちはこ)び、外ニは、万国の貨品(*貨物)都(すべ)て江都(江戸)の捌方(さばきかた)ニ依(よっ)て、全国え配賦(*配布)致し候様成られ、天下の利権全く御手許(おてもと)ニ帰し......」(同上 P.330)と、江戸が外国貿易のための貨物の集散地となって栄えるという構想である。
 また、横浜が江戸に近いため、なにか弊害が起こった場合、速やかに処置でき、さらに各国船の入津を近場で確認できて、ロンドンのように治安・軍備にも対処できるというのである。
 こうして、横浜開港は朝廷をなだめ、諸藩の反対をなくし、結局は、「天下の利権を御膝元ニ帰し、万世の利源を興し、中興一新の御鴻業も、これニ従て相立ち候御基本」(同上 P.330~331)とされたのである。
 これに対し、勘定奉行兼(けん)長崎奉行の水野忠徳の上申書は、対照的である。岩瀬とともに、日蘭・日露の追加条約の締結交渉にあたった水野ではあるが、まず、外国公使を江戸に駐在させることに反対する。
 「幕末外国関係文書」の十八(『大日本古文書』所収)の117号によると、水野は、ミニストル(公使)の江戸駐在に強く反対する。すなわち、「若(も)し御差許(おんさしゆる)し相成り候へハ、長崎箱館下田等の振合(ふりあい *釣り合い)を以て、遊歩(ゆうほ)其外(そのほか)随意ニ取行(とりおこな)ひ申すべく處(ところ)、六十余州上下人民群居(ぐんきょ)仕り候事故、密買(みつばい)筋は勿論(もちろん)、諸事御取締(おんとりしまり)相立て難く、歳月を重ね候内ニハ、何様(いかよう)の故障出來(しゅったい)仕るべきも計り難く、殊(こと)ニは御厳禁の邪宗誘導致され、人心固結(こけつ *かたく団結すること)仕るべき哉(や)」(同上 P.385)と、その理由をあげている。
 そして、ミニストルも、開港場も、江戸からできるだけ遠い場所を選ぶべきと主張する。また、京都(*天皇が住む)に近く人民の群集する大坂も開港することに反対し、「此度(このたび)長崎帰路(きろ)紀(*紀伊)伊(*伊勢)志(*志摩)の海岸巡見(じゅんけん)仕り候處(ところ)、長崎ニは劣り候へとも、下田浦賀よりは遥(はるか)ニ勝(まさ)り候良港両三个所(三カ所)之(これ)有り候故、右等の内ニ御治定(おんちじょう *御決定)相成り候(そうろう)歟(か)」(同上 P.387~388)と、具体的に候補地をあげる。水野は、岩瀬が推す神奈川・横浜は、「海岸浅瀬の大湾にて、港とは申し難く」(同上 P.389)と排斥する。
 水野はまた、江戸・大坂の地以外を開港すると江戸が衰微するという説に対しては次のように批判する。「当節の姿ニてさへ、遊民のみ多く、只々(ただただ)浮華(ふか *うわべが華やかで実質が伴わないこと)の風俗ニ成行き、既ニ先年より後府内(ごふない)人数減方(へらしかた)御世話もあらせられ候程の儀、此上(このうえ)徒(いたず)らに商売等群集仕り候は、最も好まざる筋ニて、異人は暫(しばら)く差置き、御国人(*日本人)計(ばかり)ニても、後(のちの)御取締(おんとりしまり)相立ちかね、殊(こと)ニは物価沸騰仕るべき哉(や)」(同上 P.390)と。
 ここに見られる水野の最大関心事は、治安の確保と秩序の維持である。それに対して、岩瀬は、なによりも「富国強兵」のために、交易の利益による軍備強化を急ぐことであった。
 岩瀬忠震の水野への反論は、11月20日頃の上申書でなされた。岩瀬は、江戸より遠隔の地に開港することは、国家の為にならないのみならず、外国も承知しないであろう―という。そして、外国の側が、あくまでもミニストルの江戸駐在を主張してくるのに対し、「飽(あく)まて彼レが意表ニ出(いで)、横浜御開港、万国入津(にゅうしん)の御大業を都府へ御引受(おひきうけ)の義、断然仰せ出で(*宣言すること)候ハハ、ミニストル住宅等の義は、瑣々末々の余波と相成り、格別御手数の義も之(これ)無く、御取極め相成るべく哉(や)、兎ニ角(とにかく)同所御開きの義は、彼ニ於テ甘心承伏(しょうふく)のミならず、表ニは、皇居神領私領迄を避(さけ)させられ、天下の大事を御引受遊ばされ候(そうろう)大義相顕(あいあらは)れ、裏ニは、御國地惣体の利権を御膝元に帰し、万世の御益筋御取締相附(あいつ)キ、富国強兵の御基本相立ち候......」(「幕末外国関係文書」の十八 121号 P.398~399)ようにと強調した。
 岩瀬は、「積極的受け入れ」派として、海外貿易をあくまでも主張するのだが、くしくもそれは、阿部正弘が1856(安政3)年8月に諮問したさいに発した「富国強兵の基本」と同様に海外貿易の利益によって推進するものである。

(7)ハリスと幕府有司の会談
 1857(安政4)年11月6日、堀田正睦は、アメリカ官吏出府取扱掛の土岐頼旨・川路聖謨・鵜殿長擦鋭・永井尚志ならびに下田奉行井上清直を蕃書調所へ遣わし、ハリスの演説に関し、いくつかの質問をさせている。そのような事態になったのは、海防掛の勘定奉行・同吟味役の上申書も一因かと思われる。しかし、土岐らとハリスの会談は、実質的には、通商条約条約締結の予備交渉にもなっているのである。
 質問は、ハリスの2要求(①公使駐箚、②自由貿易)を中心に行なわれた。①の公使駐箚(駐在)については、「公使を都下に相互に置くこと」、「公使の職務」、「公使と領事の違い」、「公使の官爵」、「各国公使の席次」、「公使の待遇」、「公使の任期」、「米国から公使・領事を派遣している国名」、「米国に駐箚する公使の国名」、「公使を都下に置く理由」、「駐在公使が相互の国以外の国とのもめ事の仲裁」などの諸点にわたった。
 日本側がもっとも関心をもった点は、これまでの経緯(いきさつ)から、「公使を都下に置く理由」である。日本側が、「一体都下ニ ミニストルを置き候は、開港の場所より都下え里数も隔(へだ)て居り、土地の事情等速(すみやか)に辨兼(わかちかね)、自然大事ニも拘(かかわ)り候故、都下ニ ミニストル差置(さしお)き候事ニ候哉(や)」と質問すると、ハリスは以下のように答える。
 
一、 右は、ミニストル差置き候一个條(一か条)ニ御座候、
一、 自国政府より申し越し候大事は、他人を経ず、直(ただち)ニ其国(そのくに)外国事務宰相え談判致さざる候ては叶(かな)い難(がた)く候ニ付(つき)、都下に罷(まか)り在り候儀ニ御座候、(「幕末外国関係文書」の十八 88号 P.315)

 ハリスの答は、本国からの大事なことは直ちに駐在国の担当者に談判することが、主なる理由としている。これに対して、日本側が、「其外(そのほか)ニも个(か)條之(これ)有り候哉(や)」と問うと、ハリスは次のように述べる。

一、 別ニ个條と申し候ては之(これ)無き候得共、〔*ミニストルが〕自國の別府と相成り、両國の事務取扱い候職務ニ御座候、
一、 両國の事を引き請け、意味違い等之(これ)無き様、何事も穏便且(かつ)急速ニ取扱い候(そうろう)為(た)メニ罷り在り候儀ニ御座候、(同上 P.316)

 ハリスは、ミニストルが「自国の別府」であって、両国に関わる事務を行なうものであり、「何事も穏便且急速に取扱(う)」ためには、都下に置く必要があると、補足している。
 しかし、日本側としては、本音のところ、清国の事例に照らして、公使の在り方、所在地などを聞き出したい筈である。何故ならば、イギリス艦隊はアロー戦争が終結すれば、やがては日本に迫ると「脅かされて」いたからである。
 確かに一部では、それに関わる質問をしている。例えば、最初の方で遠まわしに、「ミニストルを都下ニ置き候儀、和親の國は、相互ニ置き候哉(や)」と問うている。これへのハリスの答は、「是(これ)ハ一般ニて、支那の外(ほか)は、何(いず)れの國も、都下ニ差置(さしお)き申し候」(同上 P.309)である(「支那」という表記は、日本的華夷思想の下で差別的なものとして使われている)。しかし、せっかくハリスが「支那の外は」と述べたのに対して、日本側は「何故に清国の場合は、例外なのか」とたたみかけて質問していない。
 だが、しばらくしてようやく、日本側が「支那には、ミニストル差置き申さず候哉(や)」と質問すると、ハリスは「支那ニは、ミニストル壹人(一人)差遣(さしつかわ)し之(これ)有り、尤(もっとも)五港の内を廻り居り、都下えは住居仕らず候、右故(みぎゆえ)夫是(それこれ)混雑(こんざつ *もめること)出来致し候」(同上 P.314)と答える。
 ハリスは、日本側がこの間、公使を都下に置くことの可否でもめてきたことを知っているはずだが、清国が外国公使を北京に置くことを拒否している理由を述べていない。日本側もまた、この点について追究しようとしていない。
 さすがにハリスは、気になったのか、日本側に「右の外ニも、ミニストル儀ニ付、心得ニも相成り候廉(かど *条理)之(これ)有り候ハハ、承(うけたまわ)り申したく候」と言われると、次のように述べている。

一、 唯今(ただいま)支那ニもミニストル差置き候哉と御尋(おたず)ねニ付、北京ニは罷り居らず、五港(*上海・寧波〔にんぽー〕・福州・厦門〔あもい〕・広州)の内を廻り居り候旨(そうろうむね)申上げ候、右の儀ニ付(つけ)猶(なお)申上げるべく候、
一、 当時英吉利仏蘭西と支那との戦争は、英仏両國のミニストル北京ニ罷り居らざる故、差起き候儀ニ御座候、
一、 若(も)し両國のミニストル北京ニ罷り居り候ハハ、右の混雑相成らざる様、日数十日の間ニ取扱い出來(しゅったい)致すべき事ニ候、
一、 假令(たとへ)は、日本於て、合衆國と今般條約成らせられ、右條約中ニ、大事之(これ)有り候節は、合衆國ミニストル取扱い申すべくと申す文言(もんごん)御認め置かれ、尚(なお)西洋各國とも、右の振合い(*均衡)ニて、凡(およそ)十个國(十か国)も同様の条約御取結び相成り候ハハ、萬一魯西亜(ロシア)なと他の一个國と御確執出来(しゅったい)致し候共、外(ほか)九个國は、残らず御國(*日本)え荷擔(かたん)致し候儀ニ御座候、

 ハリスは、アロー号事件が起こった理由として、英仏の公使が北京に駐在していなかったことにあるとしているが、それは開戦に至った理由としては、ごくごく一部に過ぎない。イギリスの侵略主義がアロー戦争を引起した主因であることを、隠蔽している。それは、日本と通商条約を締結した際には、日本の首都にミニストルを駐在させ、東アジアでのアメリカ政治を展開させたいためである。依然として、華夷秩序の中心でいたい清国が、北京にミニストルを近づけず、西洋列強の外交がスムーズに展開できないという轍を踏まないためである。
 もう一つの要求としての「自由貿易」に関して、ハリスはまず、次のように述べる。

一、 日本も、外國同様品物ニ寄り、外國より持ち込み候儀を御禁じ成られ候(そうろう)権は之(これ)有り候、
一、 外國ニは、又(また)御國禁の外(ほかの)品を持ち込み候丈(そうろうだけ)の権(けん)之(これ)有り、併(しかし)持ち込み候得共、夫々(それぞれ)租税は出し申し候、
一、 租税(そぜい)差出し候得ハ、何品ニ寄らず、御国人(*日本人)に勝手ニ売渡し候儀(そうろうぎ)相叶(あいかな)ひ申し候、 (同上 P.318)

 そしてまた、ハリスは「自由貿易」の意義を次のように主張する。

一、 勝手の交易(*自由貿易)と申し候は、租税差出し候得は、政府の手を経ず、御國の民人と自國の民人と、相対(あいたい *当事者だけで事を行なうこと)ニて交易致し候事ニ御座候、
一、 日本政府に於て、米(コメ)?(あはせて)金銀津出し(つだシ *出港)致させざる権(けん)之(これ)有り、其他(そのた)は何品ニても差支(さしつか)え無く輸出致し候儀相成り候段、則(すなはち)勝手交易の趣意ニ御座候、
一、 西洋各國交易の法は、皆(みな)商人相対ニ之(これ)有り、政府ニては、一切携わざる候、もし政府ニて交易致し候得は、甚(はなは)だ以て威(たけし *威厳)を落(おと)し申し候、
一、 荷物持ち越し候もの之(これ)有る節は相改め、夫々(それぞれ)租税差し出させ、右ニて政府の手は相離(あいはな)れ申し候、 (同上 P.318~319)

 ハリスは、懇切丁寧に「自由貿易」のあり方を説明する。ポイントは、政府と商業の関係である。それは、国家の支配下に行なわれる朝貢システムとは対照的であり、民間人同士の相対貿易に政府は一切関与しないのである。政府は、ただ成立する売買に一定の租税を課するだけである。交易自身に国家の関与をさせないという意味で、まさに「自由貿易」なのである。
 相対貿易は、売買において国家の干渉を排除し、当事者だけで売買を成立させるものである限り、当事者同士の「対等性」を前提とする。従って、日本側が「世界中一族ニ相成り候様致したくと申す儀は、交わり方模様等猶(なお)承りたく候」との問いかけに、ハリスは、「外に趣意は之(これ)無く、互(たがい)ニ平等ニ致し、壹人(一人)飛離(とびはな)れ候て己(おの)が意を立て候儀等之(これ)無き様いたし候事ニ御座候」(同上 P.319)と答えている。つまり、売買当事者は「平等」でなければ「相対」取引にならず、誰一人飛び抜けた「特権者」を許さないのである。だからこそ「自由貿易」とは、専制君主が一元的に統轄する朝貢システムとは、正反対なものである。(《補論 中華文明圏から西洋文明圏への転入》を参照)
 さらにハリスは、日本側の要望に答えて、「外國同様に港を開く」こと、すなわち通商条約を結ぶことの意味を、以下のように展開する。
一、 第一个條は、両國の時務を取扱候官人を都下え差置(さしお)き候事、
一、 第二个條は、外(ほか)ニ添(そふ *増し加える)港等を、年月を定(さだめ)て御開き相成り候事、
 右は假令(たとへ)は、下田は交易筋ニ不便ニ付(つき)、御閉(おしめ)成られ、右代
 りニ外(ほか)の港を御開き成されるべきとの儀を申し候事ニ御座候、
一、 第三个條は、日本政府ニ、商売の儀ニ付(つき)持渡し候品物の税差出し申すべき事、一、第四个條は、阿片(あへん)は持渡し申すまじき事、
一、第五个條は、両國の民人交易商売致し候儀、都(すべ)て役人の立入(たちいり)之(これ)無きとの事、
一、末の个條は、右の通(とおり)條約御結び置かれ、此上(このうえ)十五个年(十五カ年)を過ぎ候ハハ、両國政府一方の願(ねがひ)次第(しだい)相替(あいか)へ候儀相成り申すべきとの事、
一、右十五个年と定め候上(そうろううえ)は、今般御法御定め成られ、右年限中得(とく)と利害を御覧(ごらん)成られ、猶(なお)如何(いか)様ニも御主法御定め成らるべく候、(同上 P.320~321)

 これらは、実質的に、間もなく結ぶべき通商条約の骨組を示すものである。

《補論 中華文明圏から近代西洋文明圏への転入》
 「蘭癖(らんぺき)」大名として世に知られた堀田正睦は、阿部に請われれて再度老中になり(1855年10月)、翌年10月17日には、外国事務取扱・海防月番専任となる。 堀田は、1856年8月5日に、アメリカの総領事ハリスが着任し、一歩一歩手を打って粘り強く修好通商条約へ向けて前進する過程で、もはや通商条約締結の腹を固めるざるを得なくなり、海防掛などに次のような諮問を行なっている。

「海防掛等へ談ずべき大凡」(*1857年3月の諮問―「堀田備中守正睦覚書案、貿易取調掛へ、外国人取扱?〔ならびに〕貿易筋の件」の下書きとみられる)
一、 外国御所置の大本旨趣、隣国に交わる道を以て致すべきや、夷狄を処する道を以て致すべきや、此(この)大本(たいほん *基本となる根本的なもの)掛りの人々見込(みこみ)一様(いちよう)ならずしては、取調向(とりしらべむき)諸事(しょじ)行違(ゆきちが)い申すべく候間、得と(とくト)討論決定いたし置きたく候事。
二、 互市御開きの儀、英夷の動静に拘らず御発(おんひらき)、御国内にも表立ち仰せ出され候方然るべきや否やの事。
 右御発相成り候わば、諸国より必定(ひつじょう)願出るべき間、願(ねがい)に応じ夫々(それぞれ)仰せ付けられ候方にこれ有るべきや、又(また)は此方(このかた)より触れ示し申すべきやの事。
三、 互市相開け候以上は、御国益は勿論(もちろん)、諸藩も同じく益を得、積年の疲弊を補い候様いたし度(たく)、且(かつ)互市の利権商賈(しょうこ *商人)の手に落ちざる様いたし度(たき)仕法(しほう *方法)の事。
四、 貿易の物品、天造人造に随(したが)って、定額の多寡(たか *多さ少なさ)?(なら)びに製造取集方(とりあつめかた)等の事。
五、 三港へ外国商館取立(とりたて)可否の事。
六、 船鈔(トン税)貨税(関税)等の事。
(土居良三著『幕末 五人の外国奉行』P.167~168)
 
 堀田はここでまず第一に、外交問題に対処する根本的な態度として、「隣国に交わる道を以て致すべきや、夷狄を処する道を以て致すべきや」と、二者択一を迫っている。このことは、堀田がどの程度自覚しているか否かは別にして、古来からの華夷思想・華夷秩序からの離脱を図っていることを意味している。というのは、堀田は二者択一を迫るような諮問を行なっているが、実は腹の底では日米修好通商条約を覚悟しているからである。
 その証拠に堀田は、「二」「三」で「互市御開き」とか「互市相開け」とか言って、「朝貢」ではなく、「互市」を前提とした貿易(互市交易とは対等な交易を意味する)を考えているのである。そこでは既に、華夷秩序と結びついた「朝貢」・「冊封」という考えは視野に入っていないのである。
 しかし、堀田は当時の状況を考慮したのかどうかは不明であるが、「三」で、互市貿易をするからには、日本国の利益(実際は幕府の利益)だけでなく、諸藩の利益も図るとしている。そして、「互市の利権」が商人の掌中に陥らないようにしなければならない―と主張している。ここは、堀田の封建領主としての限界であろう。いかに「蘭癖」大名と称されようと、やはり封建領主の限界を打ち破っておらず、従来からの商人に対する統制・支配の姿勢をなくすことはできないのである。 
 堀田は、従来の中華文明圏の「朝貢」制度を打ち破ろうとしているが、他方では、商人に対する幕府の支配・藩の支配という「抑商主義」は克服出来ていないのである。従って、堀田は中華文明圏からの離脱を図りながらも、そっくり西洋文明圏への転入を成し遂げられてはいない。
 この点では、1856(安政3)年10月の「筒井政憲の上申書」(「幕末外国関係文書」の十五 93号 P.217~222)の方が、はるかにラディカルである。

 「十月 大目付筒井肥前守政憲上申書 老中へ 貿易の件」
貿易筋の儀に付、申し上げ候書付(かきつけ)
                            筒井肥前守
 此度(このたび)外国貿易の儀、御差許(おんさしゆる)しにも相成るべきニ付(つき)、右御用向(ごようむき)取扱(とりあつかい)候儀、諸役ニ仰せ付けられ候段、御英断の程(ほど)戴悦(たいえつ *悦びをいただく)奉り候。右は毎々(つねづね)申し上げ候通り、当時の天運時勢に候哉(や)、宇内(うだい *天下)万国各(おのおの)通親(通信)貿易致さざる国はこれ無く候......

 今回、外国貿易が許されるような方向性になったのは、全くの英断である。それは、今日の「天運時勢」に沿うもので、世界各国で通信・貿易をしない国はないのである―と筒井は先ず述べる。そして、西洋諸国などの通商要求を拒み「鎖国」を続けていたならば、
「終(つい)ニハ?端(きんたん *争いの始り)を開(ひらき)、戦争とも相成り候時ハ、仮令(たとひ)一端の御勝利は之(これ)有り候共、御国中の疲弊相益(あいまし)候得(そうらへ)は、自然内乱を醸(かも)すまじく共申し難き事ニ候得ハ、諸蕃の御応接方も、甚(はなはだ)御迷惑の事ニ之(これ)有り。」状況になるという。
 「開国」・通商を拒み続けたならば、戦争にも至り、その場合、たとえ一時の勝利があっても国内が疲弊し、内乱をも生み出し、西洋諸国への対応も大変なことになったであろう。
 彼等の願いを許容すれば、追い詰められての「開国」ではなくなり、「主客の勢大(おおい)ニ違(たが)ひ候事ニ御座候」と、通商の実務でも余裕を持って対処できるとした。
 その上で、筒井は「鎖国祖法」論を否定し、そもそも家康時代には海外とも貿易を積極的に行なっていたと以下のように主張する。

国初ニは、此方(このほう)よりも諸蕃江(え)御書(おふみ)遣(つか)わされ、交易筋の義等仰せ遣わされ候事、歴然書記ニ相残り居(お)り候事ニ候得(そうらへ)ハ、其節(そのせつ)の振合(ふりあひ *釣り合い)ニ御復し遊ばれ、諸国の商船此方(このほう)御定めの港え渡来致し、此国(このくに *日本)の商賈(しょうこ *しょうにん)互市(ごし)致し候共、先格(せんかく *先例)も之(これ)有り。又(また)此方の船々異国え通商の儀も、是(これ)又(また)同格の事ニ候へは、只今(ただいま)交易の儀御免遊ばされ共、御復古の訳ニて、御国威を墜(おと)され、御国体を失わされ候筋ニは之無き候間、当時の天運時勢ニてハ、此度(このたび)の仰せ出だされ、当然至極の御良策と感服候。

 今回の通商許可は、いわば家康時代への「復古」であり、「当然至極の御良策」と、筒井は主張する。そして、以下のように従来の長崎会所での貿易の仕方(A)と西洋諸国のそれ(B)とを比較し、後者の自由貿易に倣(なら)った方が国益を増すと主張する。

扨(さて)右交易仕法の儀ハ、(A)是迄(これまで)唐和蘭商売方は、長崎会所取扱(とりあつかい)、代わり物ニ遣わされ候銅・俵物其外(そのほか)、都而(すべて)会所ニて買入れ置き、夫(それ)を以て〔*唐和蘭が〕持渡(もちわた)す諸品の直段(ねだん)ニ応し、兼て(かねテ)の定(じょう)直段を以て相渡し候事ニて、買留め候諸品は、会所に於いて、五个所(*京都、堺、長崎、大坂、江戸)の商人共え入札申付け、高札(たかふだ)の者え買取らさせ、其(その)直段の外(ほか)、分割を以て冥加金(みょうがきん *租税にあたる)会所え相納(あいおさ)めさせ、売り遣わし候荷物引渡し遣わし、商人共受取り候(そうろう)上(うえ)、五个所宿老共(ども)の手板を以て津出し致し、世上え売捌(うりさば)き候義ニ之(これ)有り候得は(そうらへば)、詰(つま)り公儀ニて唐和蘭と商売遊ばされ候(そうろう)姿(すがた)ニ之(これ)有り候得(そうらへ)共、(B)異国ニての商売は、右様国王の直商売(じかしょうばい)ニは之(これ)無きの間、仕入(しいれ)商品は商人共(ども)自分ニて仕入れ、官府えハ他国へ商売船出し候ニ付(つき)、積荷の高に応じ、上金致し、商売船差出(さしだ)し候由(そうろうよし)、又(また)他国の商船自国え渡来交易致し候時、其(その)他国より渡来の船の荷高等ニ寄り、何程(なにほど)か其(その)国え上金又(また)ハ品物等差出し候事の由(よし)ニて、商売交易の儀は、其(その)自国の商賈(*商人)より渡来の商船荷主え掛合(かけあひ *交渉し)、直段(ねだん)取極(とりき)め、夫々(それぞれ)交易致し候由ニて、国王より役人を以て直段懸合(かけあい *掛合)、交易渡物(わたしもの)等、公儀より相渡し候事ニ之(これ)無く、他国渡来の商船荷主より自国の商賈と相対(あひたい *第三者を交えず相談し、納得の上で事を行なうこと)にて直段取極め、交易致し候事ニて、公儀えは双方より運上(うんじょう *商工・運送業者に課した税金)冥加(みょうが)等(とう)出し、夫(それ)を官府へ取立て、役所入用国費ニも相用(あいもち)い候由ニて、官府ニて、右取引の儀ニ付(つき)聊(いささ)かも骨折り申さず、双方の上金を受取り候迄ニて、假(たと)へ商売方ニ付(つき)争論等起(おこ)り候共、商人同士の義、官府ニては、其(その)曲直を港々罷(まか)り在り候其国の官吏と商談の上、取扱い候迄ニ之有り候由、此方(このほう)ニても、弥(いよいよ)交易相始(あいはじめ)候事ニ候ハハ、右様の御振合(おんふりあい)ニ相成り候ハハ、商売金高の多き程(ほど)、官吏の金高も増(ま)し候道理ニ之(これ)有り、海外諸蕃ニて、他国商売の増し候を希望いたし候は、是之故(このゆえ)ニ御座候、

 筒井は、(A)長崎の会所貿易と(B)西洋諸国の貿易の仕方の違いを、端的にいうと、(A)は公儀(幕府)が商売し、(B)は商人同士が自由に商売し、国王はただ貿易額に応じて税金を課すだけであるとする。(B)では、商人たちの交渉で争論が起こっても、官府は単に「曲直」を示し、相手国の官吏と商談するだけである。
 ここにこそ、中華文明圏と西洋文明圏との間の根本的な違いが存在する。つまり、国家と商人(取引)の関係が、その歴史的な形成過程からして異なるのである。
 古代においては、専制的な領域国家と都市国家の違いを基に、中国など専制国家では都市自治はなく、儒教思想によって「抑商」政策の下で商人は差別された(官人にはなれなかった)。だが、後者の地中海世界では、その地勢を利用して早くから交易が発達していた。
 一例をあげれば、黒海・エジプト・シチリアの三大穀倉地帯は、ギリシャ人の交易圏にしっかりと組み込まれていた。アテネなどの市民共同体では、土地と地下資源は市民共同体のものとされ、その所有は市民に限定されたので、商業や工業は自然と居留外国人や解放奴隷が担うようになった。居留外国人は参政権はなかったが、税や軍務の負担はあった。それでも、アテネには外国人が集まった。デロス同盟の盟主であるアテネのピレウス港は、当時の地中海第一の商港となって栄え、大勢の外国人が集まり、貿易・両替・金融業に携わったのである。
 西洋史でいう「中世」においては、西洋では、商人などの為政者が都市の自治権を封建領主から買い取ったり、自ら武装し自治権を守ったりして、「都市の空気は自由にする」という諺(ことわざ)があるように、都市は逃亡した農奴を受け入れた。また、ハンザ同盟などに代表されるように、自治都市同士の協力とネットワークで、地域間の貿易を発展させた。
 中国史では、「中世」という西洋的な時代区分はありえないが、元朝から明朝の始めの時期、中国専制国家・社会では古代と基本的に異ならず、商業・商人は国家の全面的なコントロールの下に置かれた。
 中世日本は、16世紀中頃に「勘合貿易」が途絶え、中国専制国家体制から離脱するが、権門(大寺社・大貴族など)の庇護下で商人は商売を行なったが、武家政権の勢力が増大するとともに、その支配権の下に統制され、やはり自治都市はごく一部でごく一時的に行なわれたのみで、封建領主に対抗した都市自治は発展しなかった。(琉球は近代を迎えるまで、中国の冊封下にあり〔日中両属〕、朝貢貿易を継続させた)
 日本は、近世初期において、豊臣秀吉の中国・東南アジアへの勢力拡大の野望のもとで、朱印船貿易が活発となる。徳川幕府は、その初期において、朱印船貿易を継承したが、キリスト教の浸透に危機感を抱き、1613(慶長18)年に、キリシタン禁制・宣教師追放を発布する。それにもかかわらず宣教師の潜入がつづき、幕府は1631(寛永8)年、ごく一部の特権商人などのみに海外派遣を認める奉書船制度(朱印船制度から)へ移行した。しかし、宣教師の潜入はやまず、ついに1633~36(寛永10~13)年に、極めて厳しい一連の海禁令(日本人の海外往来の禁止・奉書船貿易の全面禁止)・キリスト教の禁止・限定された海外貿易の全面的な統制などを施行した。
 この間、海外貿易の形態は、居貿易(日本内での外国との貿易)においては、1604年から幕府によって糸割符制度が施行された。それは、輸入生糸をパンカダ(一括購入の価格)によって、特定の商人に独占的に購入させ、その商人たちが国内市場へ転売し、その際に得た莫大な差額利益を一定の比率で、その商人たちに配分させる制度である。
 しかし、幕府は金銀の流出(既に金銀の産出も激減していた)に危機を感じ取り、1655(明暦元)年4月に、糸割符制度を廃止し、自由取引を認めた「相対仕法」に移行した。
 しかし、その結果は幕府にとって思わしくなく、①取引の主導権が外国商人たちに取られたこと、②商品価格が高騰したこと―などにより、幕府は1667~68(寛文7~8)年ごろから再び長崎での貿易統制を模索し、1685(貞享2)年に「貞享令」を発布し、貿易高・貿易船の隻数を制限する。 
 1697(元禄10)年には、長崎会所を開設し、貿易実務を行なわせる。長崎会所は、幕府勘定所・長崎奉行の支配下で、種々の貿易品目を統一的に勘定・決済する市政機関である。そこでの貿易実務のシステムは、以下の通りである。
 すべての商品の「元値」が、目利(めきき)―札宿老―長崎奉行の階梯を経て決定され、基本的に輸入価格の決定権が日本側に握られるようにした。それとともに、価格決定の基準となる「元値」が最終的には長崎奉行に掌握されていることに見られるように、長崎貿易は国家貿易である(長崎会所の役人は民間から選ばれたとしても、それは幕府の許可の下である)。これらのことは、長崎貿易が幕府の「恩寵」のもとで許された貿易であり、「朝貢貿易」の一種の形態であることを意味する。
 この点をみると、筒井の主張する貿易論は西洋流の自由貿易論であり、画期的なことである。まさに中華文明圏から西洋文明圏への転換を意味するものである。しかし、実際は、国家(幕府)の統制を維持したい勘定所との意見対立で、筒井のいう自由貿易は必ずしも全面的に進捗したとはいえないのである。

(8)「日本の重大事件」に関する諸大名の意見
 堀田ら老中は、かねて評定所一座などから要請のあった諸大名からの意見聴取も始める。1857(安政4)年11月11日、御三家・溜間詰大名・大廊下詰大名に、また15日には、他の諸大名に諮問した。「これに応じて提出された諸大名の意見のうち、承認論が過半を占めてはいたが、拒否論も承認論の半数ほどあり、ことに徳川斉昭のごときは、相変らずの頑論を表明していた。」(石井孝著『日本開国史』吉川弘文館 P.256)のであった。
 前水戸藩主・斉昭は、11月15日、「米国総領事日本の重大事件申立の件」(「幕末外国関係文書」の十八 105号)で、老中へ以下の意見を提出した。

何(いず)レの道江戸え商館等御立(おた)てニ相成り候尊慮(そんりょ *おぼしめし)ニ候ハハ、決(けっし)て御不為(ふため *ためにならないこと)と存じ奉り候、実ハ何レの港へ成(なり)とも、夷狄を指置(さしお)き候ハ、然(しか)るべからざる御義ニ御座候へ共、是迄(これまで)既(すでに)済(すま)せの事故(ことゆえ)、三港(*長崎・箱館・下田)の義ハ、暫(しばらく)ハ已(や)む無く、彼も人類ニて、表(おもて)御懇切(おんこんせつ)御為(おんため)の由ニて申上げ候へハ、一圓ニ(いちえんニ *全面的に)御断(おことわり)も遊ばれ兼(かね)候...... (同上 P.361~362)

 斉昭の態度は、明確に、江戸へミニストルを置くことに反対であり、何れの港を開くことにも反対である。しかし、従来の長崎に加え、1854年3月の日米和親条約締結で下田・箱館も開港しているので、むげに全面的に拒否することも出来ないので、次のような方策を提言する。

聊(いささか)も好事(このむこと)ニハ之(これ)無く候へ共(ども)、拙老(*斉昭のこと)事ハ、今公辺(こうへん *おおやけ)よりハ退隠の身分ニ候ヘハ、公辺御親属ニて身柄の者と、墨夷(*アメリカ人を差別した称)え御申し聞こえ之(これ)有り候ても苦しからざる身分ニ候故、御親属の拙老を墨國へ遣わされ候ヘハ、此迄(これまで)の御懇意ハ之(これ)有るまじく候、拙老も二百余年の御厚恩を報(むくい)奉らず、此(この)まま朽果(くちは)て候よりハ、日本の御為(おんため)墨國へ遣わされ、其(その)代り此方(このほう *日本)へ商館等立て候義ハ相成らずと、厳重御達しニ仕度(したく)候、(同上 P.362)

 斉昭は、当時、幕府公職からは退いてはいたが、御三家(将軍家の重要な親戚)の身柄(公辺親属)という身分を利用して、自分がアメリカへ派遣されれば(説得すれば)、アメリカもミニストルを江戸に置くという処置を撤回してくれるのでは......という幻想を懐いて、渡米案を提起した。しかしこれは、当時の日本的封建社会の支配階級の常識的儀礼を踏まえた提案であり、西洋人には全く通用しない独りよがりの方策でしかない。
 しかも、その渡米案は、以下に見るように、とても現実性をもたない破天荒なものであり、その狙いはなかなか理解しにくいものである。

但(ただし)、願(ねがい)の通り、拙老墨國へ遣わされ候義ニ候ハハ、参(まい)りたき者ハ、誰ニても参り候様、御達(おたっし)ニ相成り、浪人ハ勿論、百姓町人等の二、三男三、四百万人も下され、重追放、軽(かろ)キ死刑の者迄も、御免(ごめん)ニて下されに相成り、召連(めしつ)れ参り、墨夷ニて交易致したき品ハ、拙老扱(あつかい)中次(なかつぎ)ニて致し候ハハ、万々一拙老初(はじめ)彼地(かのち *米国)に於て殺(ころさ)れ候共、日本の御不為にハ相成るまじく、又(また)中納言(*息子の慶篤のこと)此地(このち *日本)ニ居(い)候ヘハ、水戸ニ障(さわ)りも之(これ)無く、又(また)百姓町人等も、元より好まざる者ハ二男三男を下され候故、是亦(これまた)如何(いかに)相成り候とて、其(その)家元ハ此地ニ恙(つつが)無く之(これ)有り候ヘハ、厭(いと)はざる事ニ御座候、(同上 P.362)

 斉昭は、その渡米計画で、浪人・百姓・町人300~400万人を引き連れて行くという(この数は、「万」が衍字で、300~400人という説もある)。その数からして、この計画がいかに現実性がない破天荒なものであるかがよくわかる。その渡米費と当座の生活費がべらぼうな額になり、とても当時の幕府で賄いきれるものでないからである。また、渡米した斉昭らが、「万々一拙老初彼地に於て殺れ候共、日本の御不為にハ相成るまじく」という下りは、日米通商条約の締結阻止の口実となるという狙いであろう
しかし、通常では、アメリカで斉昭が殺される謂(い)われは全くありえない。極めて恣意的な設定である。
 斉昭の渡米計画が捨て石としての性格を多分に保持していることは、引き連れて行く者が、浪人や百姓町人の二、三男、それに「重追放・軽キ死刑の者迄」を想定していることで窺える。また、この移住計画には女性が考えられていないことでも、本当に真面目なものかどうかが疑われる。(なお、この文中で「墨夷ニて交易致したき品ハ、拙老扱中次ニて致し候ハハ」の節はよく理解できない。アメリカが日本と交易したい品々の代りに、斉昭ら移住者が現地で生産し、売買するということか?)
 次に、斉昭は「大艦大砲の製造」によって、西洋諸国の開港要求を阻止するという方策を提唱している。

夷狄を港へ差置かれ候ハハ、拙老義、先年より夷狄を防禦(防御)致し候ハ、大艦大砲の二ツニ止り申し候と見抜き(海外ニて防禦致し候節は、内地ハ静〔しずか〕ニ候処、内地ニて事〔こと〕出来候ヘハ、大ニ混雑いたし、其中〔そのうち〕ニハ、内地の姦人等又〔また〕騒ぎ立ち候へは、海外ニて防禦いたし候外〔ほか〕之〔これ〕無く候と、先年より見抜き居り候事ニ候)居り候......(同上 P.363)

 斉昭は、「夷狄」が押し寄せる時代、前々より主張しているが、日本を守るには「大艦大砲」に限ると言う。そのためには、「海外ニて防禦いたし候外之無く候」と強調する。この考えは、「攻撃こそ最大の防御」というレベルを超え、海外での防禦(戦争)という体裁から海外侵略に容易に転化するものである。蝦夷地を開拓し、さらにサハリン全島を日本領にしようと、ロシアとの領土分割戦に挑んでいる斉昭としては、当然のことであるが......。ここにも、斉昭の侵略主義がみえすいている。
 斉昭は、この「大艦大砲」の製造のために、幕府につぎのような要求する。

港へ夷狄差置(さしお)き候上(うえ)ハ、遅速ハ格別〔*艦船の動きに対応するのが重要〕、何レ事ハ出来(しゅったい)〔*いずれ、もめ事・戦争になる〕申し候ヘハ、何卒(なにとぞ)早く拙老へ百万両下され候て、年来存じ込み(*あらかじめ計画している)候通りの大艦大砲製し候て、日本の御為(おんため)ニしたく存じ奉り候......(同上 P.364)

 ここでもまた、日本防衛のためと称して、斉昭は100万両を下賜せよ! というのである。斉昭一人に100万両を与え、自由に使わせるほどには、当時の幕府に余裕があるわけはなく、また、それほど斉昭が信頼されていた訳ではないのである。
 斉昭は、最後に再び、江戸にミニストルを置くことを拒絶し、交易そのものを拒絶し(「日本ハ他の品を不用、日本國中の品ニて事欠〔ことか〕き候義ハ御坐有るまじく」)、開港することは「征夷の御名目にも拘〔かかわ〕り候」と、将軍の価値がないとまで極言しているのである。
 溜間詰大名一同の「日本の重大事件」に対する見解は、「幕末外国関係文書」の十八(144号)に掲載されているが、その要旨は井伊直弼自筆の以下の覚書に見えている。
 
   大意
一、 此度(このたび)亜墨利加の願意(ねがい)御聞届(おききとど)けに及ばず相済(あいすみ)候得ば重畳(ちょうじょう *この上なく満足なこと)に候得共、夫(それ)にては迚(とて)も済(すみ)申しまじき事。
一、 依(よっ)て即今(そくこん *ただ今)の御返答、ミニストル一条御承知にて、何(いず)れ日本よりも彼地(かのち)へ差越(さしこ)され候迄(まで)猶予(ゆうよ)の儀、御利解(ごりかい)の事。
 並(ならび)に英吉利えも使節(*ハリスのこと)より伝達御頼みの事。
一、 右も整(ととの)い兼(かね)候得ば致方(いたしかた)無く、残念乍(なが)ら此処(ここ)にて御許容相成る候より外(ほか)は之(これ)なき事。
 但(ただ)し、使節申し聞こゆ候通り実事にて、英吉利渡来、外々よりも渡来、兵端を開き候ては大(おおい)に御損の事。
一、 ミニストル置く場所、何卒(なにとぞ)御府内(ごふない)外(そと)に御取極(とりき)めに相成り候様の事。
一、 此上(このうえ)御武備厳重に御世話有るべき事。(『井伊家史料』五 P.??)

 溜間詰大名の書付(11月26日付け)は、高松城主松平頼胤・彦根城主井伊直弼・桑名城主松平定猷(さだみち)・忍城主嫡子松平忠矩・高松城主嫡子松平頼聡(よりとし)・姫路城主酒井忠顕(ただてる)・長岡城主牧野忠雅・西尾城主松平乗全(のりやす)の連名である。
 この書付は、ハリスの要求に対し、全面的には反対であるが、「夫にては迚も済申しまじき事」といって、日本からの領事がアメリカに赴くまで猶予を願い、これも受け入れなければ「残念乍ら......御許容相成る外は之なき」とする。最初の態度から正反対なものに変化している。そして、ただ一つの主張としては、ミニストルを置く場所を府内の外にするというものである。最後には、日本の「武備を厳重に」するべきとしている。
 ここでの思考方法は、ハリスの攻勢に全面的に追いまくられた場合、これを単に受け入れるというもので、そのような不利な現状を長期計画を立てて脱するという戦略的発想は皆無である。
 同じく1857(安政4)年11月26日付けの越前国福井城主・松平越前守慶永(春嶽)の意見書は、極めて重要な特徴を示している。それは、この頃一橋慶喜を将軍跡継ぎに擁立する運動を激しく展開する「開明派」なるものの特質を、よく表しているからである。
 その内容は、まず「一(第一条)方今の形勢、鎖国致すべからざる儀は、具眼(ぐがん *ものの本質を見抜く力があること)の者(もの)瞭然(りょうぜん *はっきりしていること)と存じ奉り候」、「一(第二条)我より航海を?(はじ)め、諸州え交易ニ出(いで)候事、企望(きぼう *ねがい望む)の折(おり)ニ候故、道理を以て来(きた)り乞(こ)ひ候者は、御拒絶之(これ)無きの筈(はず)ニ候へは、ミニストル(*公使)の儀も、同断ニ御座候」(「幕末外国関係文書」の十八 145号 P.444)と、ハリスの2点の望み(①公使を江戸に置くこと、②自由貿易)を承認している。
 ついで、慶永は、「一(第三条)強兵の基は、富国ニ有るべく御座候得は、今後商政(しょうせい *話し合い政治)を釐(おさ)め〔*正しく改める〕、貿易の学を開き、有無相通(あいかよ)ハし、皇国之(これ)有るよりの地利ニ拠(よ)り、宇内第一の富饒(ふじょう *富裕)ニ致したき事ニ御坐候」(同上 P.444~445)と、敢然と「富国強兵」論を展開する。
 そして、「一(第四条)......彼我の習俗(しゅうぞく)相違ニ之(これ)有り、何時(いつ)何様(なによう)の釁端(きんたん *争いの始り)相啓(あいひら)き候半(そうろはん)も計り難く、支那阿片(アヘン)の一乱、前車鑑(かんが)み......」(同前 P.445)と、アヘン戦争を教訓とし、また、「(第五条)......最も怖(おそ)れるべきは、他の諸国の幅湊(ふくそう *寄り集まり混み合うこと)ニ在らずして、英魯二国の並至(ならびいたる)ニ候、両雄竝立(ならびたたざる)情実......」(同前 P.445)と、列強間なかでもイギリス・ロシアの覇権争いにとりわけ留意すべきとする。
 そのうえで、慶永は、「一(第七条)人を制すると、人に制せらると、争う所僅(わずか)に先の一字ニ候、当今の勢、此(これ)ニ止むべく存じ奉り候、/一(第八条)左(さ)すれは、坐(ゐ)ながら外国の来責(らいせき *来たりて責め立てる)を俟居(まちお)り候より、我より無数の軍艦を製し、近傍の小邦(*小国)を兼併(*併合)し、互市の道〔*対等貿易の道〕繁盛(はんじょう)ニ相成り候ハハ、反(かえっ)て欧羅巴(ヨーロッパ)諸国に超越する功業(こうぎょう *功績)も相立(あいた)ち、帝国の尊号(そんごう *尊んでいう称)終(つい)ニ久遠(くおん)ニ耀(かがや)き、虎狼の徒〔*残忍な者〕異心消沮(しょうしょ *消え衰える)仕るべく、是(これ)只管(しかん *ただ一筋に)懇願(こんがん)の次第ニ御坐候」(同上 P.445~446)とする。
 現今の情勢では、もっとも肝要なことは、「人を制するか、人に制せられるか」であると、慶永は言い、ただ外国から「開国」・通商を責められるのを待つのではなく、「無数の軍艦」を造って、「近傍の小邦を兼併」し、「互市の道」を繁盛させ、ヨーロッパ諸国を超越する功績をなし、日本帝国の誉れが永遠に輝くことを、慶永はただただ願うのである。
 松平慶永は、日本の活路を富国強兵の道に求め、今日の情勢では「無数の軍艦」を製造し、近隣の小国を併合し、ヨーロッパ諸国に超越することであると定めたのである。
 そのために、慶永は国内政治の重点を以下に定める。

一(第九条)右ニ付(つき)、内地の御処置、只今迄(ただいままで)旧套(きゅうとう *古い習慣や考え方)ニては相済(あいす)み難く候、其(その)大綱を申し候ハハ、第一兼々(かねがね)申上げ置き候賢明の御方(おんかた)儲貮(ちょじ *世継ぎの君)ニ建てらるべく候事、
一(第十条)天下の人材御挙用之(これ)有るべきの事、
一(第十一条)太平の文飾御厳省之(これ)有て、兵制御改め相成るべく候事、
一(第十二条)大小名の疲弊を極(きわ)め候陋習(ろうしゅう *悪い習慣)を破るへき事、
一(第十三条)内地は勿論(もちろん)、蝦夷地まて、山海共種々御措置之(これ)有るべきの事、
一(第十四条)四民の業を励(はげま)し候事、
一(第十五条)諸芸術の学校を興すべく候事、

 慶永は、国内政治の重点課題に、「賢明の方を将軍継嗣に」、「人材登用」、「兵制改革」、「陋習の廃止」、「産業の興隆」、「庶民の生業を奨励」、「諸芸術の学校設立」を掲げる。ここで重点課題の筆頭に、将軍継嗣の問題が掲げられるように、以降、政局は条約問題と将軍継嗣問題が密接にからんで展開することとなる。
 つづいて、最後に慶永は、「天意御伺いの上、鋭意御施行相成り候はは、強弱主客勢(いきおひ)を転し候機会全く今日ニ之(これ)有るべく存じ奉り候」と、天皇に承諾を求めるべきと言って、布石をうっている。
 かつて斉昭にかわいがられた慶永は、もちろん攘夷派としての態度をとっていたが、ここでは積極的な「開国」・貿易論者に変化しており、しかも「富国強兵」策をとって、西洋列強に対峙するために近隣の小邦を併合するという侵略の道を明確にしているのである。
 ついで12月25日、薩摩藩主島津斉彬もまた、老中の諮問に答えて、上申書を提出する。そこでは先ず、米国の要求を受け入れるべきと主張し、次いで海外へ打って出、積極的な貿易をするべきと次のように言う。

異人都下に差置き、商道十分に御開(おひらき)ニ相成り候上は、諸外国えも、通船等(つうせんとう)仰せ付けられ、五大州(*世界各地)御随意(ごずいい)ニ御制(*制度)御相成り申し候様〔*世界各地へ自由に交易に行けるような制度に成れるように〕御処置当然の御事(おんこと)と存じ奉り候(「幕末外国関係文書」の十八 213号 P.751)

そして、斉彬はこれにすぐつづけて、将軍継嗣を公然と述べる。

就いては右外夷入り込み候様成り行き候へは、人心を固結(こけつ)致させ候儀(そうろうぎ)専要ニて、第一には、西丸(*将軍後継者)建儲(けんちょ *後継者を建てること)の御事と存じ奉り候。恐れながら是迄(これまで)世子(*後継ぎ)在らせられず、人心不安ニ存じ奉り候折柄(おりがら)故(ゆえ)、少しも早く御養君(*後継者)御治定仰せ出でされ候は、上下一同(じょうげいちどう)人心安堵(あんど *安心)仕(つかまつ)り、皇国の御鎮護も彌(いよいよ)根源(*根がすわること)ニ相成ると申しべし。勿論(もちろん)御血筋(おちすじ)御近き御方(おかた)、当然の御事ニは御坐候へ共、斯(かか)る御時節ニ御坐候得は、少しも御年増の御方、天下人心の固メニも相成るべし。然(しから)は一橋殿御事、御器量御年輩、旁(ひろく)人望も御叶(おんかなひ)成られべく存じ奉り候間、第一ニ此儀(このぎ)仰せ出だされたく、尤(もっとも)御台様(*将軍夫人。斉彬の養女・篤姫のこと)御入輿(ごにゅうよ)在らせられ候御事故、偏(ひとへ)ニ御出生待ち上げ奉るべき義(ぎ)当然ニ御座候得共、当時(*今日)の形勢ニては、一日も早く御養君仰せ出だされず候ては、相済み難(がた)き御時節と存じ奉り候。......
(同前 P.751~752)

 斉彬は、次期将軍後継者として、血筋の近い人という考えもあろうが、今日の情勢においては、それより少しでも年長の人生経験者の方を一刻も早く選んだ方がよいとする。この点で、「器量(*才能と徳)」「年輩」「人望」にかなう一橋慶喜がもっとも適任だと推し出す。
 そして、同日、斉彬は堀田正睦にも書簡を送り、次のように述べている。

一橋殿御事は、老卿(*斉昭)とは、御人物抜群〔に〕御相違ニて、此義(このぎ)は、憚(はばか)りながら御請合(*保証)申上げ候。御領分等の御所置(処置)、余程(よほど)御行届(おんゆきとどき)ニ相成り候儀は、通行の節(*参勤交代の時)たしかに見聞仕り候。右ニ付(つき)、誠ニ恐れ入り候得共(そうらへども)、彌(いよいよ)御養君(*将軍継嗣)仰出(おおせいだ)され候上は、老卿万事御口入(くちいれ *口出し)これ無き様、御用心専一と存じ奉り候、夫(それ)さへ御処置に相成り候へば、御掛念(懸念)はこれなくと存じ奉り候、(「幕末外国関係文書」の十八 214号 P.753~754)

 もともと独自の狙いから「開国」論者である斉彬は、松平慶永らとともに慶喜擁立工作に熱心であったが、ここでは明確に老中や大奥に嫌われている斉昭の出しゃばりを封ずることが慶喜のためにも肝要と述べている。慶永も斉彬も、今や斉昭から離れた自立の主張を明確にしているのである。
 慶永がこのようにかつての斉昭的な攘夷論から路線変更し、積極的貿易による「富国強兵」路線に至ったのは、明らかにブレーンの橋本左内らの思想的影響によるものであった。斉彬は薩摩藩の歴史を負って、もともと積極的な交易論者であり、その考えを崩すことなく攘夷論者の斉昭と尽き合ってきたのである。斉昭の路線的な孤立化は、なお一層明らかになってきているのである。
 しかし、それでも斉昭はなお頑迷である。この年(安政4年)12月29日、幕府は海防掛の勘定奉行川路聖謨(としあきら)・永井尚志(なおゆき)を水戸藩邸に派遣し、やむなく通商条約調印に至った事情を説かせた。「斉昭はこれを察して対面を謝絶したが、慶篤(よしあつ *現藩主・斉昭の息子)や家臣の勧めでようやく対面した。斉昭は開口一番、両人何故あって参ったか、と怒鳴りつけた。川路は、堀田備中守には今日は御用繁多(はんた)で寸暇(すんか)なく、やむをえず両人で参上した次第で、追々(おいおい)言上することをお聞き取り下さい、と言うと、斉昭は頭(かぶり)を振って、元来(がんらい)備中守は不埒千万(ふらちせんばん *道理にはずれ甚だしく不届き)、先だっても意見あらば申せとのことで、我が意見を申し遣わしたが、会得(えとく)しかねるのみならず、備中も伊賀(松平忠固〔ただかた〕)もぐずぐず申した由(よし)、もっての外(ほか)の事どもなるぞ、備中・伊賀には腹を切らせ、ハリスは首を刎(は)ねて然(しか)るべし、切ってしまえ、と怒鳴った。永井が恐る恐る時勢が変わった旨を言上しようとすると、斉昭はいよいよ機嫌(きげん)を損じ、己れの米国渡航のこと、百万両の金子(きんす)のことなど持ち出し、建白(けんぱく)についての何の返答もなく、相談とは言語道断、と畳み掛けて叱責(しっせき)した。川路は慶篤にとりなしを願ったが、慶篤は茫然(ぼうぜん)として言葉もなかった。川路は仕方なく斉昭に対して、今後外国の処置は台慮(*将軍の考え)を伺い、備中守を初め取り計らうであるから、その節には思し召し(*お考え)はあらせられないでしょうか、言上したところ、斉昭は、それは此方(こなた *自分)の知らぬこと、勝手にすべし、と答えた。」(吉田常吉著『安政の大獄』P.134~135)と言われる。老練な川路は、「異存のない旨の答を得たとして退き、控所で挨拶(あいさつ)に出た家臣の安島帯刀(たてわき *信立)に、今後の処置には思し召しはない旨の御返答を得た、と伝えて、川路・永井の両人は藩邸を退出した」(同前 P.135)のであった。
 斉昭のこの間の疎外状況に対する怒りが爆発した形であるが、川路はこれで斉昭に形式的にも挨拶する必要はなくなったとして、手切れを安島に伝えたのである。

Ⅲ 通商条約締結問題で朝幕関係は大きく変化  

(1) 条約交渉の経過とその内容
 ハリスとの日米通商条約の交渉は、1857(安政4)年12月11日から、九段坂下の蕃書調所で開始された。日本側の全権委員は、下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震であり、ハリスが起草した条約草案に基づいて、逐条審議ですすめられた。条約交渉は前後13回行なわれ、翌年の1858(安政5)年1月12日にすべての審議が終り、日米修好通商条約14カ条と貿易章程7則が決定した。

          第一條
向後(こうご)日本大君と、亜墨利加合衆國と、世々親睦なるへし、
日本政府は、華盛頓(ワシントン)に居留する政事に預(あずか)る役人を任し、又(また)合衆國の各港の内に居留する諸取締の役人、及ひ(及び)貿易を処置する役人を任すべし、其(その)政事に預る役人及ひ頭立(かしらだち)たる取締の役人は、合衆國に到着の日より、其(その)國の部内を旅行すへし、
合衆國の大統領は、江戸に居留するチフロマチーキ・アケント(*主任公使)を任し、又(また)此(この)約書に載る、亜墨利加人民貿易のために開きたる、日本の各港の内に居留するコンシュル又はコンシュライル・アケント等を任すべし、其(その)日本に居留するチフロマチーキ・アケント?(ならび)にコンシュル・セ子ラール(*総領事)は、職務を行ふ時より、日本國の部内を旅行する免許あるへし、

       第二條
日本國と欧羅巴(ヨーロッパ)中の或る國との間に、さし障(さは)り起る時は、日本政府の囑(たのみ)に応し、合衆國の大統領、和親の媒(なかだち)となりて扱ふべし、
合衆國の軍艦、大洋にて行遇(ゆきあひ)たる日本船へ、公平なる友睦(ゆうぼく *仲がよいこと)の取計(とりはから)ひあるへし、且(かつ)亜墨利加コンシュルの居留する港に、日本船の入る事あらは、其(その)各國の規定によりて、友睦の計らひあるべし、

       第三条
下田箱館港の外(ほか)、次にいふ所の場所を、左の期限より開くべし、
 神奈川 午(*安政5年)三月より凡そ一五个月の後より、西洋紀元千八百五十九年七月四日、
 長崎  同断、                    同断、 
 新潟  同断、凡そ二十个月の後より、         千八百六十年一月一日、
 兵庫  同断、凡そ五十六个月の後より、        千八百六十三年一月一日、
  若(も)し新潟港を開き難き事あらは、其(その)代りとして、同所前後に於て、一 
  港を別に撰(えら)ふべし、
神奈川港を開く後(のち)六个月(六カ月)にして、下田港は鎖(とざ)すへし、此(この)个條の内に載(のせ)たる各地は、亜墨利加人に居留を許すべし、居留の者は、一箇(いっこ)の地を、價(あたひ)を出して借り、又(また)其(その)所に建物あれは、是(これ)を買ふ事妨(さまたげ)なく、且(かつ)住宅倉庫を建る事をも許すへしといへとも、是(これ)を建るに託して、要害の場所を取建(とりたて)る事は、決して成(なさ)さるへし(ざるべし)、此(この)掟を堅くせんために、其(その)建物を新築改造修補なとする事あらん時にハ、日本役人是(これ)を見分(けんぶん *立ち合って見届けること)する事当然たるへし、
亜墨利加人建物のために借り得る一箇の場所?(ならび)に港々の定則は、各港の役人と、亜墨利加コンシュルと議定すへし、若(も)し議定しかたき(難き)時は、其(その)事件を、日本政府と亜墨利加チフロマチーキ・アケントに示して、処置せしむべし、其(その)居留場の周囲に門墻(もんしょう *門と垣根と)を設(もう)けず、出入自在にすへし、
 江戸 午三月より凡そ四十四个月の後より、       千八百六十二年一月一日、
 大坂 同断、凡そ五十六个月の後より、         千八百六十三年一月一日、
右二个所は、亜墨利加人、唯(ただ)商売を為(な)す間にのみ、逗留する事を得べし、此(この)両所の町に於て、亜墨利加人建屋を價を以て借るへき相当なる一区の場所、?に散歩すへき規定は、追(おっ)て日本役人と亜墨利加のチフロマチーキ・アケントと談判しべし、
雙方(そうほう)の國人品物を売買する事、總(すべ)て障りなく、其(その)拂方(はらいかた)等に付(つい)ては、日本役人これに立会(たちあ)はす〔*立ち合わず〕、諸日本人亜墨利加人より得たる品を売買し、或(あるい)は所持する、倶(とも)に妨(さまたげ)なし、
軍用の諸物は、日本役所の外(ほか)へ売るべからず、尤(もっとも)外国人互いの取引は、差構(さしかま)えある事なし〔*関係がない〕、此(この)个條は、條約本書取り替せ済(すみ)の上は、日本國内へ觸渡(ふれわた)すべし、
米(コメ)?せ麥(むぎ)は、日本逗留の亜墨利加人?(ならび)に船々乗組たる者、及ひ船中旅客食料の為(ため)の用意は與(あた)ふとも、積荷として輸出する事を許さず、
日本産する所の銅余分(よぶん)あれは、日本役所にて、其(その)時々公(おおや)けの入札を以て拂(はら)ひ渡(わた)すべし、
在留の亜墨利加人、日本の賤民を雇ひ、且(かつ)諸用事に充(あて)る事を許すへし、

    第四條
總て國地に輸入輸出の品々、別冊の通(とおり)、日本役所へ、運上(うんじょう *租税)を納むへし、
日本の運上所にて、荷主申立ての價(あたひ)を、奸(かん *偽り、よこしま)ありと察する時は、運上役より、相当の價を付(つけ)、其(その)荷物を買入る事を談すべし、荷主もし是(これ)を否(いな)む時は、運上所より付(つけ)たる價に従て、運上を納むへし、承允(*承引)する時は、其(その)價を以て、直ちに買上(かいあぐ)べし、
合衆國海軍用意の品、神奈川長崎箱館の内に陸揚げし、庫内に蔵(をさめ)て、亜墨利加番人守護するものハ、運上の沙汰に及はず、若(も)し其(その)品を売拂ふ時は、買入る人より、規定の運上を、日本役所に納むべし、
阿片(アヘン)の輸入厳禁たり、もし亜墨利加商船三斤(さんきん)以上を持ち渡らは、其(その)過量の品は、日本役人是(これ)を取上(とりあぐ)べし、
輸入の荷物定例の運上(うんじょう)納済(おさめずみ)の上は、日本人より、國中に輸送すとも、別に運上を取立(とりたて)る事なし、
亜墨利加人輸入する荷物は、此(この)條約に定めたるより、余分の運上を納むる事なく、又(また)日本船及ひ他國の商船にて、外國より輸入せる同し荷物の運上高と同様たるべし、

   第五條
外國の諸貨幣は、日本貨幣同種類の同量を以て、通用すへし、(金ハ金、銀ハ銀と、量目を以て、比較するをいふ、)
雙方の國人、互(たがい)ニ物価を償ふに、日本と外國との貨幣を用ゐる妨(さまたげ)なし、
日本人外國の貨幣に慣(なら)はされハ(慣わざれば)、開港の後(あと)凡そ壹个年(壱カ年)の間、各港の役所より、日本の貨幣を以て、亜墨利加人願(ねがい)次第引替(ひきかえ)渡すへし、向後(こうご)鋳替(いがえ)のため、分割を出すに及はず、日本諸貨幣ハ、(銅銭を除く)輸出する事を得、?(ならび)に外國の金銀は、貨幣に鋳るも鋳さるも、輸出すべし、

   第六條
日本人に対し、法を犯せる亜墨利加人は、亜墨利加コンシュル裁判所にて吟味の上、亜墨利加の法度(はっと *法令)を以て罰すべし、日本奉行所・亜墨利加コンシュル裁判所は、雙方商人逋債(*負債から逃げる)等の事をも、公けに取扱ふべし、
都(すべ)て條約中の規定、?(ならび)に別冊に記せる所の法則を犯すに於ては、コンシュルへ申し達し、取上げ品?に過料は、日本役人へ渡すへし、
両國の役人は、双方商民取引の事に付(つい)て、差構(さしかま)ふ事なし、

   第七條
日本開港の場所に於て、亜墨利加人遊歩の規程、左の如(ごと)し、
 神奈川 六郷川筋を限(かぎり)とし、其他(そのた)ハ、各方へ凡そ十里、
 箱館  各方へ凡そ十里
 兵庫  京都を距(へだた)る事十里の地へハ、亜墨利加人立入さる(ざる)筈(はず)に付(つき)、 
      其方角を除き、各方へ十里、且(かつ)兵庫に来る船々の乗組人は、猪名川より海湾迄の川
      筋越(こゆ)べからず、
 都(すべ)て里数ハ、各港の奉行所又(また)は御用所より、陸路の程度なり、(一里は、亜墨利加の四千二百七十五ヤールト、日本の凡そ三十三町四十八間一尺二寸五分に当る、)
 長崎 其(その)周囲にある御料所(*幕府領)を限(かぎり)とす、
 新潟は、治定の上、境界を定むべし、
亜墨利加人重立(おもだち)たる悪事ありて、裁断を受(うけ)、又は身持(みも)たざる〔*品行が悪い〕にて、再ひ裁許の處(ところ)をられし者は、居留の場所より、一里外に出(でる)べからず、其(その)者等は、日本奉行所より、國地退去の儀を、其(その)地在留の亜墨利加コンシュルに達すべし、
其(その)者とも諸引合(ひきあひ *取引)等、奉行所?にコンシュル糺(ただ)し済みの上、退去の期限猶予(ゆうよ)の儀は、コンシュルより申立てに依(よっ)て相叶(あいかな)ふべし、尤(もっとも)其(その)期限は、決して一个年(一カ年)を越ゆべからず、

    第八條
日本にある亜墨利加人、自ら其(その)國の宗法を念し、礼拝堂を居留場の内に置くも障りなく、?(ならび)に其(その)建物を破壊し、亜墨利加人宗法を自ら念するを妨(さまたげ)る事なし、亜墨利加人、日本人の堂宮を毀傷(きしょう *傷つけこわす)する事なく、又(また)決して日本神仏の礼拝を妨げ、神躰(神体)仏像を毀(やぶ)る事あるべからず、
双方の人民、互(たがい)に宗旨に付(つい)ての争論あるべからず、日本長崎役所に於て、踏絵(ふみえ)の仕来(しきた)りは、既に廃せり、

   第九條
亜墨利加コンシュルの願(ねがひ)に依て、都(すべ)て出奔人(しゅっぽんにん *逃亡者)?に裁許の場より迯去(にげさり)しものを召捕(めしと)り、又(また)はコンシュル捕(とら)へ置きたる罪人を、獄に繋(つな)く事叶(かな)ふべし、且(かつ)陸地?に船中にある亜墨利加人に、不法を戒(いまし)め、規則を遵守(じゅんしゅ)せしむるがために、コンシュル申立て次第、助力すへし、右等の諸入費?に願(ねがひ)に
に依て、日本の獄に繋きたる者の雑費は、都(すべ)て亜墨利加コンシュルより償ふへし、

   第十條
日本政府、合衆國より、軍艦・蒸気船・商船・鯨漁船・大炮・軍用器?(ならびに)兵器の類、其他(そのた)要需の諸物を買入れ、又(また)ハ製作を誂(あつら)へ、或(あるい)は其(その)國の学者、海陸軍法の士、諸科の職人?せ船夫を雇ふ事、意のままたるへし、
都て日本政府注文の諸物品は、合衆國より輸送し、雇入る亜墨利加人ハ、差支(さしつか)えなく、本國より差送るべし、合衆國親友の國と、日本國万一戦争ある間ハ、軍中制禁の品々、合衆國より輸出せず、且(かつ)武事を扱ふ人々は、差送らさるべし、

   第十一條
此(この)條約に添(そへ)さ(ざ)る商法の別冊は、本書同様双方の臣民に遵守すへし、

   第十二條
安政元年寅三月三日、即ち千八百五十四年三月三十一日、神奈川に於て取替(とりかわ)したる條約の中、此(この)條々に齟齬(そご)せる廉(かど)は、取用(とりもち)ゐず、同四年巳五月廿六日、即ち千八百五十七年六月十七日、下田に於て取替したる約書(*下田協約を指す)ハ、此(この)條約中に悉(つく)せるに依りて取捨(とりすつ)べし、
日本貴官又(また)は委任の役人と、日本に来(こ)れる合衆國のチフロマチーキ・アケントと、此(この)條約の規則?に別冊の條を全備せしむるために要すべき所の規律等、談判を遂(と)く(ぐ)べし、

   第十三條
今より凡そ百七十一个月の後、即ち千八百七十二年七月四日に当る、双方政府の存意(ぞんい *考え)を以て、両國の内より一个年前に通達し、此(この)條約?(ならび)に神奈川條約(*日米和親条約)の内存し置く个條(カ条)、及ひ此(この)書に添(そへ)たる別冊ともに、双方委任の役人実験の上、談判(だんぱん *かけあい)を尽(つく)し、補ひ或(あるい)は改める事を得(う)べし、

  第十四條
右條約の趣(おもむき)は、来(きた)る未(ひつじ)年六月五日即ち千八百五十九年七月四日より執行(とりおこな)ふべし、此(この)日限或(あるい)は其(その)以前にても、都合(つごう)次第に、日本政府より使節を以て、亜墨利加華盛頓(ワシントン)府に於て、本書を取替すへし、もし余儀(よぎ)無き子細(しさい *物事の事情)ありて、此(この)期限中本書取替し済(すま)すとも、條約の趣ハ、此期限より執行(とりおこな)ふべし、
本條約は、日本よりハ、大君の御名と奥印を署し、高官の者名を記し、印を調して、證とし、合衆國よりハ、大統領自ら名を記し、セケレターリス・フハン・スタートともニ自ら名を記し、合衆國の印を鈴して、證とすべし、尤(もっとも)日本語英語蘭語にて、本書写ともに四通を書し、其(その)訳文は、何(いず)れも同義なりといへとも、蘭語訳文を以て、證據(しょうこ *あかし)となすべし、此(この)取極(とりきめ)のため、安政五年午六月十九日、即ち千八百五十八年亜墨利加合衆國独立の八十三年七月二十九日、江戸府に於て、前に載(のせ)たる両國の役人等、名を記し、調印するもの也、
                          井上信濃守(花押)
                          岩瀬肥後守(花押)
    (出典 「幕末外国関係文書」の二十 194号 P.474~484) 

 条約交渉での「中核的部分」は、自由貿易の原則にかかわる点である。1857(安政4)年12月11日の会談で、幕府側は、"一時に貿易を拡大すると、かえって混乱を来たすので、しばらくオランダ・ロシアとの追加条約で決められた方法に基づいて貿易を行ないたい"といい、その方法は"交易場と称する広い場所を開港場に設置して、内外人とも一同、品物をその場所にもちより、互いに入札して取引し、自宅では取引しない"というものである(石井孝著『日本開国史』P.261)。
 オランダ・ロシアとの追加条約(オランダとは1857年8月、ロシアとは同年9月に調印)とは、従来の長崎での会所貿易での、本体貿易(公貿易)に付随した脇荷貿易(商人同士の私貿易)を拡張するかたちで、長崎・箱館での通商を認めたものである。これは、当初、オランダが要求した「緩優交易」(自由貿易)を排し、従来からの会所貿易(管理貿易)の拡大によって列強の通商要求に応えようとしたものである。
 これに対し、ハリスは、このような管理貿易の方法を、「自由の商売ニは之(これ)無く、矢張(やはり)役人立合(たちあい)の交易」(『大日本古文書』―「幕末外国関係文書」の十八 P.553~554)であると、キッパリと批判した。幕府側の提案は、ハリスが提起した草案(交渉のたたき台)にある、「亜米利加人と日本人との間に於て、自由に品物を売買するを妨(さまた)げる所の独り商売(*独占商売)は、此度(このたび)は省(はぶ)き去り、斯(かく)の如くに日本人に買(かは)るる品々の自由の用ひを日本人に禁ずる節度の法度(はっと *決まり)ハ、惣(すべ)て引戻(ひきもど)さるべし」(「幕末外国関係文書」の十八 P.525~526)という、自由貿易の原則に真っ向から違(たが)うからである。
 ハリスの極めて強い反対にあって、幕府側は、「米国人は品質や価格のもっとも気に入った店で買ってよく、なんら役人の仲介なしに自分の希望する人に売ってもよい」(石井孝『日本開国史』P.262)と大きく態度を変え、ハリスを驚かせたと言われる。ハリスは、これこそ「万国普通の商法」といい、オランダ・ロシアとの追加条約にある原則の放棄であると喜んだ。
 自由貿易の原則は、条文においては、第三条の「雙方の国人品物を売買する事、總て障りなく、其拂方等に付ては、日本役人これに立会はす(*立ち合わず)諸日本人亜墨利加人より得たる品を売買し、或は所持する、倶に妨なし」として、表現されている。
 ただし、幕府側主張を考慮し、日常不可欠である「米?せ麥は、日本逗留の亜墨利加人?に船々乗組たる者、及ひ船中客食料の為の用意は與ふとも、積荷として輸出する事を許さず.........」(第三条)と、輸出を禁止している。
 また、「軍用の諸物は、日本役所の外に売るべからず」(第三条)と、軍需品の民間取引は禁止している。
 アメリカはかねてからの約束通り、阿片売りつけについては、禁止の姿勢を示した。それは、第四条で、「阿片の輸入厳禁たり、もし亜墨利加商船三斤以上を持ち渡らは、其過量の品は、日本役人是を取上べし」と明文化したことで明らかである。阿片の輸入禁止は、アメリカが最も早く日本と条約を結び、その内容を自国にとって有利に進める大きなカードとして使われたのである。一説に、この裏には、アヘンの代りにアメリカの重要産業である煙草(タバコ)を売りつけようという狙いもあったといわれる。
 次いで、貿易活動のための開港場・外国人居留地(神奈川・長崎・新潟)の設定(第二条)や遊歩区域の設定(第七条)は、天津条約と同様であるが、政治経済の拠点である江戸・大坂を開市場として開放し、商業活動だけを認めた点は異なっている。
 ハリスの提起した草案では、開港・開市の候補地としては、「箱館・大坂・長崎・平戸・京都・江戸・品川・本州西海岸の二港・九州の炭鉱附近の一港をあげ、江戸および品川を開いて六カ月後に下田を閉鎖する」(石井孝著『日本開国史』P.265)とあった。
 だが、交渉過程では、幕府側は京都・大坂・江戸を開くことについては、強く反対した。それは、いうまでもなく京都は天皇が住み、大坂はその京都に近かったからである。天皇や貴族は、その穢れ思想から、人間でなく禽獣同様にみなす西洋人を近づけたくなかったからである。「条約勅許問題」から、幕府側は京都・大坂を開くことを極力嫌ったのである。江戸については、将軍の膝元であり、政治的軍事的意味合いから開市するのをさけたのである。あと、品川は、遠浅で停泊地として不適当であったこと、平戸は小さくて市場の発展性がないこと、また、九州の炭坑付近は長崎附近で見出すことができる―などによって、立ち消えとなった。
 貨幣関係条項については、日米約定(1857〔安政4〕年5月26日締結の下田条約のこと。修好通商条約調印により廃止)が踏襲され、内外貨幣の同種同量交換(金は金と、銀は銀と、量目をもって交換)、外国貨幣の日本国内通用が、第五条で定められた。さらに天津条約と同様に、日本貨幣の輸出が許可された(ただし、銅銭を除く)。しかし、第五条の規定の不十分性によって、開港直後、異常な貨幣輸出が伸張し、日本の国内経済に深刻な影響を与えた。その原因は、金と銀の交換比率が国内と外国とでは、大きく異なっていたためである。1)
 関税については、ハリスは「日本国民の産業に重荷を課し、商人にとっても迷惑で、密貿易の取締に多大な経費を要し、国家の収入に益するところがない」という理由で、輸出税を課すことに反対し、輸入税のみを課し、そのあるものを無税・一割税・三割五分税の三段階に分け、その他を二割にすることを提唱した(「幕末外国関係文書」の十八 P.765,767 石井孝著『日本開国史』P.276 )。また、外国船に課税されるトン税については、ハリスはイギリスと共に課税しないとした。その理由は、英・露・蘭はアジアから小船を出すことができるが、太平洋を横断するアメリカは小船では済まされず、大船を使用するアメリカにとっては不利であるからである。
 1858(安政5)年1月10日、幕府側は、トン税については承認したが、輸入税とともに輸出税を課することを決定したと、ハリスに述べた。だが、ハリスに反対され、1月12日の交渉では、幕府側は、輸出税をともに12・5%にすることを提案した。「ハリスは、かかる輸出税は、貿易の繁栄をすべて粉砕するであろうとして反対し、輸出税を五%とし、それ以上は絶対譲れない、と述べた。これにたいして幕府側では、さきにハリスの提案した第二類の輸入税一〇%を五%に減ずるであろう、といい、輸出税関係はすべて解決された。」(石井孝著『日本開国史』P.277)といわれる。
 関税に関する交渉は、ハリスの要求が多く通った。「幕府に関税収入を確保するという観点から、輸入税を平均二〇%の高額に設定する一方で、アメリカ人船員が日常に使用する品目の多くを無税とした。また、輸出税は平均五%とされたが、輸入税では、イギリスの主要貿易品である綿製品を二〇%、フランスの主要貿易品のワインを三五%の高額に設定し、対日貿易における他国の権益軽減が企図されている。」(鵜飼政志著「『不平等条約体制』と日本」―日本の対外関係7『近代化する日本』吉川弘文館 2012年)のである。
 通商関係とともに重要な、居留権・領事裁判権・宗教関係条項などの修好問題は、以下のような取り決めとなった。のちのちに問題となる関税自主権については、なんら討議もされていない。
 居留権の問題では、ハリス提出の草案では、開港場・開市場ともに、アメリカ人の永久居住が認められていたが、条約第一条では、開港場な限って永久居住(「居留」)が認められたが、開市場では「ただ貿易の目的でのみ、居住することを許される」とされている。ところが、条約の和文では、「......職務を行ふ時より、日本国の部内を旅行する免許あるへし」となって、意識的な誤訳となっている。天津条約と異なり、幕府側はアメリカ人の日本国内旅行権を認めず、「公務」目的によるアメリカ外交官・領事にのみ限定したのである。
 領事裁判権については、ハリス草案が容易に承認された。石井孝氏によると、「領事裁判についての規程は、ほとんど論議されることなく、ハリスの提出した原案のとおりに決定された。ただわずかに一回、一二月二三日の会談で、幕府側が領事裁判所は領事館か、と質問し、ハリスが、そのとおり、と答えただけであるのは、まさにこの問題について特徴的であるといわなければならない。何ゆえに、このような重大な問題が論議をへないで決定されたかというと、すでに安政四年(*1857年)の日米協約にあった条項がほとんどそのまま踏襲されたからである。」(『日本開国史』P.276)といわれる。
 その日米協約の第四条は、「日本人、亜米利加人に対し法を犯す時は、日本の法度(はっと)を以て、日本司人罰し、亜米利加人、日本人へ対し法を犯す時は、亜米利加の法度を以(もって)、コンシュル・セネラール或はコンシュル罰すへし」と規定している。
 そして、この規定も、「商議に当たった下田奉行によると、日露和親条約第八条における先例のとおりで、『一体之(の)趣意不相当之(の)儀も之(これ)無く候間、右之(の)趣(おもむき)承届(うけたまわりとど)』けたとして簡単に承認されている。」(同前 P.230)と言われる。
 だが、この点について石井氏はすぐ続けて、「しかし日露条約の場合には、日本にあるロシア人のみでなく、ロシアにある日本人もひとしく、おのおのその国の法律で処分されることを規定したものであって、日本にある米国人についてのみ規定した日米協約とは、根本的な差違がある。」(同前)と、批判している。
 相互主義が貫かれていない、との批判である。片務的であるというのは、日米協約だけでなく、日米修好通商条約の第六条の場合も変更されずに、そのままである。すなわち、『日本人に対し、法を犯せる亜墨利加人は、亜墨利加コンシュル裁判所にて吟味の上、亜墨利加の法度を以て罰すべし、......」とあるだけで、「アメリカ本国に於いて、アメリカ人に対し、法を犯せる日本人」の処罰方法については、全く触れていないのである。
 従来、領事裁判権についての研究者の批判が、ややもすると観念的で「紋切り型」に終わっているのではないかと総括し、より深い研究成果が生み出されてきている。たとえば、森田朋子著『開国と治外法権』(吉川弘文館 2005年)では、領事裁判制度について、その起源と歴史的変遷、アジアとヨーロッパの双方からの認識、治外法権と領事裁判権の違い―など広範な視点からの捉えかえしである。その上で、森田氏は、「......この領事裁判制度は異文化の存在を前提とした制度であり、文化相対主義に根ざした調整法であった」(P.3)、「領事裁判権は国際法において、『自主自立』の独立国家と『半主』の国家を区別する指標であった。ヨーロッパ社会は近代国際法をトルコやアジアに持ち込んできたが、それはあくまで領事裁判権を介在した国際関係であり、対等な近代国際関係ではなかった。」(P.11)と、指摘するのであった。
 宗教問題については、ハリスの提出した草案がそのまま決定された。それが、第八条である。草案が大した議論にもならず、そのまま承認されたのは、この条項だけであった。
 なお、片務的な最恵国待遇については、日米修好通商条約では触れていないが、それは日米和親条約で規定されているので、引続き有効とみなされたと思われる。
 以上、日米修好通商条約を概観したが、その全体的評価は他のアジア諸国と同様に、「不平等条約体制」であることに変わりはない。ただその度合いが中国などと比較すると、相対的に中国ほど過酷ではないという程度でしかない。とくに、関税自主権の喪失、領事裁判権の譲渡、最恵国待遇の片務的譲渡などに、その不平等性は顕著である。
 幕末のアメリカとの「開国」・通商については、従来、ぺリーの「率いた艦隊(黒船)の脅威のもと、徳川幕府は従属的に条約を結んだとする『幕吏無能説』が多かった。しかし近年では、黒船来航時における徳川幕府の用意周到な対応、特に条約締結交渉時における幕吏らちの交渉力を高く評価する『幕吏有能説』が顕著になっている(加藤祐三著『黒船前後の世界』筑摩書房 1994年、三谷博著『ペリー来航』吉川弘文館 2003年)。他方、締結された条約をめぐる評価は伝統的であり、ぺりーとの条約をもって、近代日本の命運が規定されたとする理解が多い。」(鵜飼政志著「『不平等条約体制』と日本」)と言われる。
 そして、鵜飼氏は、「開国」の経緯がそのまま開港以降の日本の国際関係を規定したわけでない―とする。「対日関係の規範となった通商条約も、幕末においては最大の貿易相手国であった日英修好通商条約であり、明治初年以降ではオーストリア・ハンガリー帝国と結んだ日墺修好通商航海条約である。前者は、東アジア地域で発行された欧米人向け商工名鑑に必ず明記され、後者は条約改正交渉において、対象となる標準条約とされた。しかし、幕末・明治の対外関係は、日米条約をモデルとして描かれることが常である。これは適切とはいえない。」(同前)と主張する。
 そこで、日米修好通商条約と日英のそれとの比較をすると、主な違いは次の通りである。
 第一は、領事裁判権に関する規定が、他国が結んだものよりもさらに精緻化されていることである。
 すなわち、鵜飼氏によると、「日英両国民による犯罪は相互の法律をもって処するとしたことに加え、『裁断は双方に於て偏頗(へんぱ *不公平)なかるへし』(第五条)とされ、また日本人が英国人を訴える場合の領事館における手続きが規定された第六条でも、領事が判断困難とした時は『日本司人へ申立(もうしたて)倶(とも)に吟味』することが明記され、天津条約とほぼ同一の内容になっている。これらは、領事裁判が実行可能な環境を対清条約と同様に規定することを命じた本国政府の訓令に従がったものである。両条の規定は、開港後、日英官憲の仲裁により、多くの領事裁判が和解の方向で処理される結果になったことも指摘しなければならない。そしてそれは、本来、領事が自国民を裁くにすぎない領事裁判が、日本では外国人に対する実質的な治外法権の付与へと混同・拡大解釈されていく歴史の始りでもあった」(同著「『不平等条約体制』と日本」)のである。
 鵜飼氏の最後の指摘、「実施的な治外法権の付与へと混同・拡大解釈されていく」という点はきわめて重要であり、近代日本外交の当初の最大課題ともなっていた由来でもある。
 第二は、日米修好通商条約では規定を欠いた最恵国待遇に関することである。
 それが、日英修好通商条約第二十三条では、「日本政府寄り向後(こうご)外国の政府及(および)臣民に許すへき殊典(しゅてん *)ある時ハ貌利太尼亜(ブリタニア)政府国民へも同様の免許あるへし」と、明確にきていされているのである。
 このようにして、他国が対日条約で獲得した新たな権益が、イギリスにも自動的にもたらされることになるのである。
 なお、貿易章程は、日米条約よりも日蘭・日露条約のものに近いが、5%課税対象品目に、「木綿および羊毛の毛織物」や「生絹」が加えられている。これらは、イギリスの主要貿易品目であり、ハリスが意図的に高課税品目に指定したものであるが、エルギン(イギリスの交渉者)はその意図を打ち破り、イギリスの利益が得られるようにしたのであった。
 その他、いろいろ明文化されたものが多いが、「日英修好通商条約は安政五カ国条約のなかでも最も精密で、開港以降、日本居留の外国人たちが模範とした」(鵜飼氏の前掲論文)と言われるのである。

注1)開港、自由貿易の開始とともに、いくつものトラブルが起こるが、その最大なものは物価騰貴とともに生じた金貨の大規模な海外流出である。わずか1~2年で、流出した金貨の規模は、約50万両と推定されている。一体、何故にこのような事態が起こったのであろうか。それは結論的に言うと、海外との交易が極度に制限されていた当時の日本独自の金銀比価と、世界的標準の金銀比価との間に、大きな開きがあったことに由来するのである。「当時日本では、金一に対し銀は約五という比価であったが、諸外国では金一に対し銀は約十五の比価であった。だから世界的標準からいって、日本の銀は金に対して割高であり、逆にいって金が銀に対して低く評価されていた。ここに目をつけたのが、利にさとい外国商人である」(日本の歴史19 小西四郎著『開国と攘夷』中公文庫 1974年P.196)。このような状態では、日本以外で金1で銀約15に両替し、それから日本へ行ってその銀約15で金に両替すると、金約3を手にすることが出来る。約3倍に近い儲(もう)けである。なんの苦労も労働もなく、ボロ儲けである。これにはさすがのハリスやオールコックも驚き、このことで貿易の正常な発展が損なわれると心配して、幕府に金貨の改鋳をおこなうべきと進言した。そこで、幕府も金貨に含まれる金の量目を減らす形で改鋳し、金銀の比価を欧米に変えたのであった。そして、1860(万延元)年4月から新金貨を流通させて、金貨の流出を止めたのであった。だが、幕末の欧米との貿易開始にともなう金貨の大量流出と物価高騰は、諸階級層の生活を直撃し、尊攘派が開国派の足元をすくう口実ともなった。
              
 (2)幕府の朝廷工作と天皇側の対応
 通商条約の逐条審議は、1858(安政5)年1月12日に終わった。この交渉が終りに近い1月4日、日本側全権はハリスを訪れて、調印には朝廷に奏聞して勅許を仰ぐことになった事情を告げた。幕末、異国船の来航がひんぱんとなり、幕府は1846年頃から、
同問題については、武家伝奏や京都所司代をつうじて、途中経過も含めて朝廷に報告するのが次第に慣例となっていった。とりわけ、ハリスの下田駐在、上府、登城の許可については、その都度、朝廷に奏聞(そうもん *天子に申し上げること)した。(《補論 江戸時代の朝幕関係と幕末における変化》)
 ハリスは、権限もない天皇に勅許を求めること自身が意味がないと言って、調印延期に反対した。日本側全権は1月5日、60日以内の条約調印を約束した老中首座堀田正睦の書簡をハリスに交付し、必死に説得した。
 条約調印の延期は、交渉が終了した1月12日、ハリスがこれに妥協して、3月5日まで延期されることが確認された。

《補論 江戸時代の朝幕関係と幕末における変化》
 江戸時代における天皇・朝廷と幕府の関係を考える際に、まず第一に押えておかなければならないのは、徳川家康は実力で以て権力を掌握したのであって、天皇から征夷大将軍に任じられたから権力を掌握したという考えは誤りである―ということである。 天皇・朝廷を支配下に置いた徳川幕府の時代の朝幕関係の基本的な関係は、公家諸法度に定められた。
 徳川家康は、1613(慶長18)年6月に、5カ条の公家衆法度を朝廷に申し渡した。その第一条は、「公家衆は家々の学問に昼夜怠(おこた)りなく励(はげ)むこと」(『近世法制史料叢書』第二)と定めた。公家衆は、政治にくちばしをはさむな! ということである。これは、1595(文禄4)年に豊臣秀吉が制定した「御掟(おんおきて)追加」の第一条を踏襲したものである。
 家康は、大坂城が落城した1615(元和元)年の7月に、17カ条からなる禁中並(ならびに)公家諸法度(『徳川禁令考』前集一)を定める。これは、家康が、天皇以下、公家のあるべき姿を具体的に指示したもので、7月17日、大御所(前の将軍)の徳川家康、現将軍の徳川秀忠、朝廷内の最高位である前関白の二条昭実(あきざね *すぐに関白職に復帰する)の三者の連署によって発令された。
 法度(はっと)の第一条は、「天使諸芸能の事、第一御学問也(なり)」と規定し、史上初めて、天皇の行為を法的に規制した。家康は、政道の担当を武士の職分とする一方、天皇や公家には、現実政治にかかわることのない学問や芸能にいそしめ! ということである。
 第二条および第三条では、朝廷内の階層が細かく定められた。これまで親王と大臣の席次は、しばしば問題となり宮中における重大問題であった。この法度によって、在官時の序列として太政大臣・左大臣・右大臣(以上を「三公」という)の下に親王(天皇または上皇の皇子)を位置付け、三公が官を辞すれば親王の次となった。さらに、その次位に諸親王(皇胤二世以下の王にして、親王の宣下〔せんげ *天皇が命令を下すこと〕がある者)を置き、さらにその次位に清華(せいが)出身〔*公卿の家の格式を表わすもので、摂政・関白に任命されうる摂家に次ぐもの〕の大臣を置いた。(摂家は近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家の総称)
 第四条では、摂家出身者でも「器用」のない者(能力のない者)を三公や摂政・関白1)に任ずるのを禁じ、第五条では、「器用の御仁」は老年に至っても、辞表を出すことを認めないことにしている。この「器用」の認定主体は幕府であり、幕府が三公や摂政・関白の人事に介入する根拠とした。
 第六条では、養子は同姓を以てすべきことを規定した。これは直系親王を摂家などの養子とすることを抑え、それとともに女子および女系の家督相続を禁じるものであった。
 第七条では、文武の官位を截然(せつぜん)と区別し、武家の官位は公家の官位の外にあることを明示し、その叙位の権を幕府におさめるようにした。徳川親藩では最上でも大納言にとどまって大臣に任ぜられることはなく、大名および旗本でその要職にある者も多くは五位の「国守」なるにすぎなかった。武家の官位は、幕府の推挙なしには受けることが出来なかったのである。
 第十一条および第十二条では、堂上(どうじょう *昇殿を許された四位以上の者)・地下(ぢげ *昇殿を許されない五位以下の官人あるいは家格)は、関白、伝奏2)の命令を遵守すべきこと、これに違背する者は流罪に処せられることが規定された。これによって、幕府は武家伝奏や京都所司代を通して公家を監視したのである。
 しかし、18世紀後半頃から、朝幕関係を揺るがすような思想が広がり始める。本居宣長(1730~1801年)など一部の国学者は、大政委任論(天皇によって、大政が徳川家に委任されたという考え方)を主張し、幕閣でも、18世紀後半の寛政の改革を主導した松平定信らが、大政委任論を主張するようになる。(大政委任論については、拙稿「幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源」⑯〔機関紙『プロレタリア』2016年4月1号に所収〕を参照)
 幕末になると、内憂外患とりわけ対外的危機が強まる中で、外交問題に対する朝廷の積極的態度や、幕府側においても朝廷の政治的役割を無視できないと見る傾向が強まってくる。
 清国に対するイギリスのアヘン戦争(1840~42年、第一次アヘン戦争)が終わる頃には、アメリカ、イギリス、フランスなどの西洋諸国の艦船が、日本へしきりに来航するようになる。これらの情報は、幕府から朝廷に必ずしも伝えられたわけではないが、公家たちは姻戚関係にある諸大名などを通じて確保していた。たとえば、前水戸藩主の徳川斉昭の実姉が関白鷹司(たかつかさ)政通(まさみち)の妻であるという関係から、鷹司家へはかなりの量の情報が斉昭から伝えられていたと言われる。
 1846(弘化3)年8月29日、朝廷は突如として幕府に勅書を下し、海防の強化を命じた。「その勅書には、近年異国船がときどき渡来するという噂を内々に耳にしている。しかし幕府は厳重な海防態勢をとっているとかねがね聞いているので安心はしているが、異国船渡来の情報があまりに頻繁(ひんぱん)なので心配である。幕府は異国を侮(あなど)らず畏(おそ)れず海防をいっそう強化し、『神州の瑕瑾(かきん *日本国のきず・恥)』とならないように処置し、天皇を安心させるようにせよ」(藤田覚著『幕末の天皇』講談社 2013年 P.155)という趣旨が記されていた。
 形だけだとしても、朝廷が幕府に命令するというのは、江戸時代初期の朝幕関係からは信じられないような変わりようである。
 と同時に、武家伝奏は、この「海防勅書」を京都所司代に伝える際に、「異国船の儀、文化度(*「文化」年間時代)の振り合いもこれ有り候につき、差し支(つか)えこれ無き事柄は、近来の模様あらあら申し進め候様には相成りまじき哉(や)」(同前 P.155)と、対外情報の報告を幕府に求めている。朝廷はその根拠を「文化度の振り合い」、すなわち1807(文化4)年に、幕府が蝦夷地におけるロシアとの軍事的紛争を朝廷に報告した先例に求めているのであった。
 しかし、軍事力も政治力もない朝廷にとって、幕府に代わって対外交渉をできるわけでなく、できることは唯(ただ)鎌倉時代の元寇の際と同じように「国家と国土の安穏」を神仏に祈願するだけであった。1847(弘化4)年4月25日、石清水八幡宮の臨時祭を挙行した。そこで読み上げられた宣命(せんみょう)には、次のように孝明天皇の命令が記されていた。

近くは相模国御浦(みうら)郡浦賀の沖に夷の船の著(つき)ぬれば、その来由(らいゆう *由来)を尋るに、交易を乞(こ)うとなむ申す、それ交易は、昔より信を通ぜざる国に濫(みだり)に許したまうことは、国体にも拘(かかわ)りぬれば、たやすく許すべきことにもあらず、許したまわず衣糧(いりょう *衣服と食物)を支給し、船舶は飛帆して却(しりぞ)き還(かえ)りぬ、また肥前国にも来着なとなむ聞こし食(め)す〔*お聞きになる〕、利を貪(むさぶ)るの商旅が隙(すき)を伺うの姦賊(かんぞく)が情実の知りがたきを如何(いか)にやは為(せ)んと、寤(さめ)ても寐(ね)ても忘れたまう時なし、掛(か)けまくも〔*言葉に出して言うことも〕畏(かし)こき〔*おそれおおい〕大菩薩、この状を平く安く聞こし食して、再び来るとも飛簾(ひれん *風の神)風を起こし、陽侯(ようこう *海の神)浪を揚(あ)げて速やかに吹き放ち、追い退(の)け攘(はら)い給(たま)い除(よ)け給い、四海異なく、天下静謐(せいひつ)に、宝祚(ほうそ *皇位)長く久しく、黎民(れいみん *民)快楽に護(まも)り幸い給い、恤(あわ)れみ助け給うべし、恐れみ恐れみも給わくと申す (『孝明天皇紀』一 P.370)

 この宣命を見ると、天皇もまた幕府の海禁政策の長い歴史に影響されているのか、交易を通信のある国に限定して、みだりに行なうべきでない、としている。それは、夷狄との交易は国体にかかわる(穢〔けが〕れる)からという理由からである。そして、商業自身を「利を貪る」ものとして否定的に捉えている。これは儒教と同様の考え方である。宣命は、交易を求めてくる外国の商人を毛嫌いして、風の神や海の神が撃退し、天下が落ち着き、人民が守られることを願っているのであった。
 1845~48(弘化2~嘉永元)年にアメリカ・イギリス・フランスなどの艦船が頻繁に来航したが、1849(嘉永2)年も、3月にアメリカの軍艦プレブル号が長崎に、閏4月にイギリスの軍艦マリナー号が浦賀・下田に、11月にイギリスの軍艦が琉球に来航した。
 このような事態の中で、幕府は同年5月、勘定奉行・寺社奉行・町奉行・海防掛・長崎奉行・浦賀奉行に、異国船打払い令の復活の可否を諮問し、8月には、諸藩に海防の強化を命じた。そして、12月、外国船に対する薪水給与令を修正し、より厳しく対処することとした。
 海防の強化は諸藩に対してだけでなく、武士以外の民衆に対しても応分の協力を求めるよう触書(ふれがき)が出された。この触書は朝廷にも廻された。このため、朝廷は1850(嘉永3)年4月5日、宸襟(しんきん *天皇の心。叡慮〔えいりょ〕)穏やかならずとして、七社七寺に命じて、同月8日から17日間、「万民安楽、宝祚(ほうそ *天子の位)長久」を祈祷させた。七社とは、伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日の各社であり、七寺とは、仁和寺(にんなじ)・東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺(おんじょうじ *三井寺)・東寺・広隆寺の各寺である。
 その後も、対外危機が深刻化するとともに、「夷狄(いてき)調伏(ちょうぶく)」、「異国撃攘(げきじょう)」の祈祷の回数が増え、そのための寺社の数も拡大する。
 アメリカ艦隊司令長官ペリーが浦賀に来たのは、1853(嘉永6)年6月3日であるが、実はその前年の1852(嘉永5)年6月10日に、オランダ商館長クルチウスから秘密報告書が報告され、ペリー艦隊が近いうちに来日し、「開国」・通商要求をつきつけることを報じていた。幕府はこの情報に接するや対策を海防掛や長崎奉行などに諮問させるとともに、長崎警備の佐賀藩・福岡藩、琉球を支配する薩摩藩、江戸湾警備の会津・彦根・川越・忍(おし)の4藩、さらに浦賀奉行などにペリー来航の予告情報を知らせるとともに、警備強化を命じていた。
 しかし、この時、幕府は朝廷には情報を知らせてはいなかった。だが、幕府からの報告はなかったが、徳川斉昭から関白鷹司政通に情報が伝えられていた。このルートなどを通じて、事態の切迫さは公家社会にも広がっていたことは、おそらく間違いないであろう。
 翌年6月に、ペリーが浦賀に来航し、アメリカ国書が渡され、1カ月半遅れで今度はプチャーチンが長崎に来航したことは、次々と幕府から朝廷に報告された。
 これに応えて、朝廷はやはり神仏に祈る以外に手はなかった。6月15日、七社七寺に祈祷を命じる。8月15日、石清水放生会(ほうしょうえ)で、「国家安穏」を祈る(放生会とは、功徳を積むために生き物を逃す儀式)。9月11日、伊勢神宮に「国家安穏」を祈る。11月23日、熱田神宮ほか畿内以外の10社に「国家安穏」の祈祷を命じる。12月3日、伊勢神宮ほか畿内19社に「国家安穏」を祈る。
 神仏に祈るだけの朝廷ではあるが、動揺する阿部ら閣老は、それでも精神的な「協力」を求める。ペリーの来航にわずか1カ月半遅れて、ロシア使節プチャーチンが長崎に来航(1853年7月)し、交易と日露間の国境画定を要求した時、老中首座阿部正弘は、その返翰案(幕臣の古賀茶渓が起草し、阿部が添削したもの)の中で、次のように述べている。

当時(*今日)世界の模様、前とは打って変わり、交易の風俗駸々(しんしん *物事がはかどる様)と日に盛んにして、商売船は五大州へ満ちたり、かかる時世に候へば先例のみをもって目前の矩(のり *決まり)には致し難し......この間も合衆国の者ども、こなたへ交易申し込めたり、向後諸方より交易申し込み候は定めて踵(きびす *かかと)を接するをく...... (東京大学史料編纂所所蔵『大日本維新史料 稿本』所収を、家近良樹著『幕末の朝廷』から重引 P.121)
 
 その上で、阿部は以下のようにも吐露している。

わが君主(=一三代将軍家定)には、新たに位に嗣(つ)がれ、御政事(せいじ)向き、新しくあい定めらる節なれば、かかる大切のヶ条は、是非京都え奏聞に及び、海内の大名衆え仰せ渡され、なおまた臣民へも御知らせ、一同打ち揃い評議のうえ、唯一人異存申すものこれ無きうえにて評議決定いたし候、決定のうえにて、そのヶ条え取り懸り候に付(つき)、いずれ三・五年の月日は是非あい懸り申すべき訳也、......(同前 P.122)

 阿部正弘を首座とする老中たちは、ここで、前近代の全員一致主義から、挙国一致して国家の最終方針を決定して対処する必要を強調する。その対象として、幕府は「海内の大名」、「臣民」とともに、「天皇・朝廷の同意」が不可欠だと判断したのである。
 こうした傾向は、紀州藩の家老・水野忠央(ただなか)に至っては、はるかに鮮明である。1854(嘉永7)年2月21日付けの幕府への上申書で、アメリカとの交易を許可すべきと主張した後、次のように述べている。

交易の義(ぎ)仰せ出だされ候ては、柔弱に相当り、かつは神祖(*家康のこと)の御制令にも相拘(あいかかわ)り候哉(や)と思召(おぼしめ)され候はば、朝廷え仰せ進ぜられ、叡慮(*天皇の考え)にて交易御許容あらせられ候はば、国持衆(*大名のこと)も是非は申すまじく存じ奉り候、(同前 P.123)

 水野は、目前の難問(アメリカとの交易問題)を打開するために「叡慮」を利用し、一部大名の異論を封ずる作戦をたてる。しかし、それは、天皇制に全面的に依存し、自ら幕藩体制を崩壊させる道でもある。
 1853(嘉永6)年は、幕府にとってはペリーやプチャーチン来航に止まらず、重大問題が重なった年であった。同年6月22日、将軍家慶が死去し(7月22日発表)、10月23日に世子家定(いえさだ)に将軍宣下があって、第十三代将軍となった。
 この時にあたり、朝廷は武家伝奏の三条実万(さねつむ)・坊城(ぼうじょう)俊明(としあきら)を勅使として、江戸に派遣することになった。11月7日、実万は下向の挨拶で京都所司代脇坂安宅(やすおり *竜野藩主)に面会し、関白鷹司政通の意向(幕府は未だ異国船の措置を決定していないが、人心を動揺させないで、平穏を旨とする措置をとるべき)を伝える。これに対し、脇坂は去る11月1日に発した「海防大号令」(①「開国か鎖国の維持か」について、ペリーへの回答を避け、②海防が不備であるから平穏の折衝を行なう、③相手側から兵端を開いた場合への備えと決意を固めておくこと)を提出して答えた。
 江戸に入った勅使たちは、11月13日に登城し、家定に将軍宣下を伝え、同月27日には帰京の挨拶のためにまた登城した。この時、実万と俊明は、阿部ら5閣老と対談し、"アメリカの国書の趣は神州の一大事であるから、衆心が動揺することなく、また国辱とならないように"との朝廷の意向を伝えた。これに対し、阿部らは、"外交事情を詳しく述べ、将軍は叡慮が安んじられるように専心し、閣老らもその意を体して尽力している。叡慮においてなにか思し召しがあれば、遠慮なく仰せ付けられたい"と述べた。
 勅使たちが帰京して復命すると、12月29日、関白鷹司は、海防大号令を朝臣たちに示し、諭告(諭し告げる)した。つまり、朝廷上層部は、この時点でも幕府に対し、根本的な異論は示していないのである。ただ、京都および最寄りの海岸警備については、11月の勅使たちが幕府に申し入れ、翌年2月13日にも、武家伝奏を通じて所司代に督促している。その翌14日、関白鷹司邸に議奏らが参集して、京都守衛について評議した。この時、関白鷹司は、"京都守衛には譜代大名をもって当て、その上で尾張か彦根を総督とする"ように、強く要求している。
 1854(嘉永7)年4月9日(安政への改元は11月27日)、幕府は彦根藩に対し江戸内海警備を解いて、かねて井伊直弼の強調していた京都守護を命じた。その翌10日、京都から急報が入り、去る4月6日、京都が大火となり、内裏(御所)が炎上したと知らせた。
 変報が届くと、幕府は4月15日、高家(徳川幕府の礼式を掌った家)由良(ゆら)貞時に上京を命じ、天皇・女御(にょうご)以下女房衆に数々の金品を献上させ、同月16日には、内裏を造営することを奏聞し、阿部正弘自ら作事奉行となり、勘定奉行石河政平以下勘定・普請役20余人を派遣し、造営を督励させた。
 しかし、この騒ぎの中で、1854(嘉永7)年3月3日、日米和親条約条約は既に締結調印されていた。
 混乱の最中、4月29日、所司代脇坂安宅は、ペリー再航後の近況を報じた上申書を武家伝奏に提出した。「上申書では、海防の不備によって、やむをえず漂民の撫恤(ぶじゅつ *いつくしみあわれむ)と欠乏品の供給を許したと述べ、追って老中より申し越すであろうと結んでいる。なおこの上申書に、幕府が去る九日に発した触書(ふれがき)を添えて呈上した。上申書には、条約調印にはふれず、開港場もあげていないが、触書では、条約については同様であるが、伊豆の下田と松前の箱館を開いたとあり、質素倹約を守り、水陸軍備の充実すべきことを諭旨している。所司代の上申書は幕府の奏聞(*奏上)とはいい難く、正式の奏聞は翌年になるが、外患の切迫に憂慮していた廷臣は、二港の開港を知って不安に陥り、神国の汚辱としたのである。」(吉田常吉著『安政の大獄』P.62~63)と言われる。
 しかし、幕府が内裏造営を誠実に推し進めているのを慮(おもんばか)ってか、閏7月、武家伝奏の三条実万(さねつむ)は内書を所司代に授け、幕府の二港開港の措置を認めた上で、改めて海防を厳重にするように命じている。
 同年9月18日、ロシアのプチャーチンの軍艦が大坂・天保山沖に停泊した。これによって、京都・大坂などの人心は、動揺した。彦根藩は警固の人数を増やし、洛中洛外を巡見させ、警護を強化した。一時は、彦根遷幸の噂も流れたが、結局、間もなくしてロシア艦が退去することによって、落ち着きを取り戻すようになっている。
 9月21日、所司代は、イギリスに長崎・箱館2港で薪水・食糧などの供給を許したことを関白に上申し、10月18日には、オランダにアメリカと同様に下田・箱館を開港したことを武家伝奏に上申した。
 1855(安政2)年5月、幕府は下田奉行都築(つづき)峰重(みねしげ)を禁裏付に任命した。8月25日に着任した都築は、9月18日、所司代脇坂とともに、関白鷹司政通・武家伝送奏三条実万・東条坊(ひがしじょうぼう)聰長(ときなが)、議奏広橋光成(みつしげ)・万里小路(までのこうじ)正房(なおふさ)に面会し、米・英・蘭との和親条約の謄本を初めて呈上し、脇坂はやむをえない次第によって、薪水・石炭などの供給を許したことを述べた。質疑に対しては、外国事情に詳しい都築が答えた。
 9月22日、脇坂が仮皇居に参内すると、関白鷹司から次のような朝旨が伝達された。

去る十八日三箇国への条約書写持参、演説の都築駿河守直話の次第等、委細奏聞に及び、条約書写も叡覧に入れられ候処、段々の御処置振(おんしょちぶり)具(つぶさ)に聞召(きこしめ)され、殊(こと)の外(ほか)叡感に在(あ)らせられ、先以(まずもって)御安心遊ばされ候。容易ならざる事情、斯迄(かくまで)に居合(おりあい)候段、千万御苦労の御儀と思召(おぼしめ)され候。尚(なお)此上(このうえ)の御取扱振(おとりあつかいぶり)、御国体に拘(かかわ)らざる様、御頼(おたのみ)思召し候。右の趣(おもむき)宜(よろ)しく申上(もうしあ)ぐべき旨(むね)仰出(おおせだ)され候。且又(かつまた)各様には一と通り(ひトとおリ)ならず御心労、其外(そのほか)掛(かか)りの面々も骨折(ほねおり)の儀と、御察(おさっし)思召し候。(『忠成公年譜所載文書』)

 朝旨は、天皇が詳しく報告を聞き、ことのほか「御安心」したこと、今後も「国体に拘らざる」ように(国体を汚さないように)と「御頼」したという。そして、最後には、関係者の努力・御苦労をねぎらっている。
 正式な報告が極めて遅く、「事後承認」の形になったにもかかわらず、天皇・朝廷は、和親条約の締結に満足していたのである。つまり、この時代までは、朝幕関係は極めて平穏なのであった。

注1)摂政(せっしょう)とは、幼帝あるいは女帝の時に、天皇に代わって政治を行なった職。摂?(せつろく)ともいう。関白(かんぱく)とは、天皇を補佐して政務を司った重職で、太政大臣よりも上位。
 2)武家伝奏とは、武家の奏請(天子に願って許可を得ること)を朝廷に取り次ぐ職。武家伝奏と並んで両役と称されたものに議奏がある。議奏は、天皇の側にあって、諸般の政務を合議して決め、奏上した。


(ⅰ)林・津田の説得
 幕府は、ハリスとの日米修好通商条約の交渉に前後して、あるいは並行して、朝廷に対する工作を行なっている。 
 京都所司代から老中に昇進した(1857年8月)脇坂安宅(やすおり)は、後任の本多忠民(ただもと)とともに上京する。1857(安政4)年11月10日、脇坂は参内(さんだい *皇居に参上すること)して、ハリスの上府・登城の始末を奏聞し、さらに12月6日、本多忠民がハリスの演述書などを提出した。
 幕府は、同月13日に、ハリスの要求をいれて通商を許可し、また、公使の駐在、下田港の代りの港などの要求は、なお談判の上で決定すべき旨を奏聞し、外交事情を説明するために、儒役・林大学頭・目付津田半三郎正路(まさみち)を上京させることにした。
 これに対して、朝廷は、両人の上京の前に幕府に勅して、畿内および近傍の諸国に外国公使を駐在させ、開港場を設けることのないように要望した。この背景には、林・津田の特使が上京する前に、京都では間違った噂(うわさ)が飛び交っていたからである。すなわち、日米交渉では、横浜のほかに大坂・兵庫など十数港にアメリカ側が土地を借り、いずれも領事を差置き、そこに残らずキリスト教会を建てることが決まり、林・津田の上洛はこれらの件について、朝廷の承認を得るためだ―という噂である。
 大きな不安を覚えた内大臣三条実万(さねつむ)は、東坊城聡長、太閤鷹司政通、関白九条尚忠などに働きかけた1)。そして、修好通商条約に反対しないまでも疑問の声を、天皇の叡断(決断)の形で表明すべきとした。この結果、太閤の主導の下で、「畿内および近傍の諸国に外国公使を駐在させ、開港場を設けることのない」ようにとの要望が出来上がったのである。
 12月26日、林・津田の両使は入京し、同月29日に、京都所司代邸に、武家伝奏の広橋光成(みつしげ)・東坊城(ひがしぼうじょう)聡長(ときなが)を招請し、通商条約に関わる説明をした。林・津田は、まず朝廷から話のあった"京都の開市、畿内近傍諸国の開港"については拒絶すると告げた上で、以下のような説明をした。

①『ぺルリ日本紀行』等の書物を輸入し翻訳する作業が近頃終わった。その結果、ようやくペリー来航の背景が幕府側にも十分に理解できるようになった。ペリー来航が、単にアメリカ一国使節の来航問題にとどまらないこと、ここ四、五十年来「万国の形勢」が「一変」したことを受けての来航であること、諸外国がアメリカと一種の同盟関係にあること、したがって、アメリカ一国との戦争だと勝利をおさめうるだろうが、欧米諸国が相手だと簡単には勝利が見込めないこと、等々がそれである。
②ハリスが「慶長の頃、ポルトガル」人が江戸城で将軍に謁見した事実などを知悉(ちしつ)したうえで、江戸への出府を請願したので、幕府側は拒絶できなかった。また、鎖国制度は寛永以後のものであり、それ以前は「外国商船往来はもちろん、江戸表へ夷人(=外国人)差し置かれ候儀」もなされていたので、鎖国制度を罷(や)めることにはそれほど問題はない。いずれにせよ、鎖国制度は到底維持できないので、これからは、「万国へほどよく」付き合うことにした。また、外国とトラブルを生じ酷(ひど)い目にあった身近な例として清国がある。清国は、外国と戦争して以来、内乱状態となり、いまだ「平治」には至っておない。
③ハリスが下田・箱館にアメリカ商人を居留させたいと願いでた。さらに、一〇港の開港を要求したが、幕府はこれを減らす方向で検討している。その他、「開市の儀」、つまり外国商人に解放する場所の対象としては京都ははずし、江戸の近所とする。また、みだりに雑居させない。(家近良樹著『幕末の朝廷』中公叢書 2007年 P.222~223)

 林・津田の説得にもかかわらず、朝廷側は納得しなかったようである。当時の公家社会では、①ハリスの押し付け的態度への批判、②尾張藩主徳川慶勝(慶恕)ら一部大名の条約締結への不満、③万世一系の神国が欧米諸国の進出で汚されることへの拒絶意識、④欧米諸国の貿易の有り様への批判―などが渦巻いていたからである。

注1)太閤とは、本来、関白職を子どもに譲った者のみに許される敬称である。鷹司政通は、1823(文政6)年に関白・内覧となった(内覧には朝廷から発せられる公文書の草案や、下から上がって来る文書を天皇に奏上する前に見ることができる特権があった。したがって、この特権を持っている限りいつでも天皇に面会できる)。それから30数年も関白職を務めたが、その間に、1848(嘉永元)年3月、1853(嘉永6)年4月に、辞意を表明したが、いずれも却下された。それが1855(安政2)年11月23日に新内裏が完成し遷幸がすむと、政通は病弱をもって3度目の辞意を表明する。政通は、1856(安政3)年8月に関白職を離れることを許される(後任は、左大臣の九条尚忠)。だが、政通は関白職をやめた後も長年の在職に対する礼遇として「准后」に任命された。「准后」の席次は、関白の下席、太政大臣の上席である。しかも政通は、関白をやめても内覧の特権保持が孝明天皇から与えられた。このため、政通は朝廷内で絶大な権勢を保持できた。このことは、関白九条尚忠との関係を悪化させる本ともなった。なお、「准后」(准三后とも言う。太皇太后・皇太后・皇后に准ずる待遇の意)となった政通は、12月9日、多年の功労に報いるために、「太閤」の称号が送られた。
 鷹司政通が30数年も関白職に就き、長期となったのは、後任に適した人物がいなかったためである。左大臣の九条尚忠は十分な経験と年齢であり、娘が孝明天皇の准后(女御)であり、申し分なかったが、ただ「女癖」が悪く、かつ決断力がなかった。右大臣の近衛忠煕もまた優柔不断であった。このため、鷹司政通は1856(安政3)年8月関白職を離れた後も、内覧の特権が保持され(関白もまた内覧の特権を持つので、二元政治になる可能性を持つ)、同年12月には太閤の称号が送られていた。政通の関白職罷免のあとは九条尚忠が襲い、1862(文久2)年6月、尚忠は関白をやめ後任は近衛忠煕がなった。だが忠煕は、1863(文久3)年正月に関白職をしりぞき、政通の息子の鷹司輔煕が関白となった。

(ⅱ)孝明天皇らの対応
 こうした情況の中で、家近良樹氏によると、孝明天皇はノイローゼになるほどに悩んだと言われる。「......安政五年(*1858年)に入った段階で孝明天皇が勇んで幕府の勅許要請を拒絶する決意を固めたわけではなかった。天皇にはあい反する思い(考え・心配)があったからである。その一つは、幕府の推奨する開国路線を認めると、それに反発する政治勢力との間で、深刻な闘争が出来し、それがやがて内乱状態にまで発展するのではないかとの強い危惧(きぐ)の念であった。他方、開国通商を認めないと、欧米諸国との間に戦争が引き起こされ、結果として、国民に多大な犠牲を強(し)いることになるという心配も強かった。」(家近良樹著『幕末の朝廷』P.227~228)のである。
 1858(安政5)年1月8日、幕府は堀田らの上洛を命じ、1月12日、京都所司代は、老中首座堀田正睦の不日(*近いうちに)上洛(川路聖謨・岩瀬忠震が随行)を武家伝奏に通達する。これは、一つには、ハリスとの約束の期限があったこともあるが、老中首座と言う幕閣のトップが上洛することによって、ことは一気に解決する―という幕府側の楽観的な見通しがあったためである。
 だが、孝明天皇側は、極めて不安であった。孝明は天皇即位が1846(弘化3)年であるから、在位してはや12年になり、年齢も28歳になる。しかし、関白や武家伝奏・議奏などに政治判断を任せてきた政治システムにおいて、自らが責任をもって政治判断・政治決定を行なうことは極めて困難なことであった。
 だが、孝明天皇は、堀田らの上京を前にして、明確に「開国」反対、条約調印反対の意思を固める。これには、側近の説得もあったかと推測できる。では、孝明がこのような態度を決める背景・理由とは、一体、何であろうか。
 孝明は、世界史の流れも知らぬ無知蒙昧で、単純な攘夷思想(触穢思想に基づく)によって、条約調印に反対したわけではない。幕府のこの間のアメリカとの折衝は、斉昭―鷹司政通のラインを通じて、あるいは林・津田の説明書などによって、孝明はすべて知っている。鷹司はこれらの情報をすべてと言ってとよいほど孝明天皇に知らせていたのである。では、何故、反対なのか。
 先ず第一は、ハリスすなわちアメリカの余りもの押し付け的態度への反感である。押し付けの実態については、事実以上に誇張されたものもあるが、それは噂として拡散したものである(それが意図的にどれほど成されたかは不明)。これは、事実でない情報も混じっていたことを除けば、正当な態度である。
 第二は、尾張藩主徳川慶勝の情報によって、幕府の手口・狙いが明らかに知られ、これへの反発があったことである。1857(安政4)年12月下旬、左大臣近衛忠煕に宛てられた手紙には、「①ハリスがあまりに『我儘(わがまま)』を『申し立て』るので、『此(この)節は(徳川御)三家その外諸大名も、もはや(通商条約を)御拒絶と存候(ぞんじそうろう)事』、②林・津田の上洛は、『王命を籍(借)りて三家および天下の大名を押しつけ、赫々(かくかく)たる神州を』肉食する欧米人のような国にする『了見』だと思われるといった、慶勝の考え(見込み)が記されていた。そのうえで、最後に『万一ハリスの申すこと寛有に御沙汰あらせられ候事も御座候(ござそうろ)はば、天下大不幸(中略)に御座候』との言葉が添えられた。」(家近良樹著『幕末の朝廷』P.224~225)のであった。 
 孝明とその側近にとって、「王命」を利用せざるをえない弱さが幕府にあることを嗅ぎ取ることができたのである。
 そして第三は、祖先に対する孝明の責任感である。これが最後の決め手であったと思われる。このことは、孝明が1月17日に九条関白に送った手紙の中で、「天下の一大事の上、私の代より、可様(かよう)の儀ニ相成り候ては〔*「開国」・通商になっては〕、後々迄(まで)の耻(*恥の俗字)のはち(恥)に候半(そうろはん)や、其(それ)に付いてハ、伊勢(*伊勢神宮)始めの処(ところ)ハ、恐縮少なからず、先代の御方々え対し不孝、私一身置き処(ところ)無きに至るに候間、誠ニ心配仕り候」と、言っていることで明白である。「天下の大不幸」であるから「開国」反対なのではなく、祖先に対し不孝であり、申し訳ないから「開国」反対なのである。
 しかし、幕府の「開国」通商路線に批判的な孝明が、幕府路線に同調するベテラン政治家の太閤鷹司政通と一人で対決することは、非常に心もとないことであった。
 ここにおいて、孝明は1858(安政5)年1月14日、左大臣以下12名へ外交措置に関する勅問を行なった。すなわち、大臣になっていない摂家(代々、摂政・関白に任ぜられる資格のある五摂家のこと)当主の声をも朝議に反映させる形で、太閤に対抗する手法を採ったのである。
 そして、孝明は翌15日には、幕府によって提出されたアメリカ側の資料を彼等に見せ、1月22~23日のうちに、それぞれの考えを示した意見書を武家伝奏に提出するように命じた。さらに1月25日には、諮問の範囲が拡大され、在官の参議以上(大納言・中納言・参議など)にも意見書を提出するように命じた。
 他方、孝明はこの間、動きを活発化させ、1月17日には、所労で籠居中の関白九条尚忠1)に、次のような宸翰(しんかん *天皇直筆の文書)を送っている。
 その内容の第一は、1月14日に左大臣以下に勅問をおこなったものの、彼らが関白と太閤に遠慮して自分の意見を答えないかもしれない、そうなれば、形だけの「勅問」となるので、関白の名前で、「遠慮なく(意見を)申し出」るようにと、言い渡してくれないかとの依頼であった。
 すなわち、「実ニ今度の儀ハ、天下の大事(だいじ)故、皆々(みなみな)腹蔵無く申し出で候ハハ然(しか)るべく存じ候。然(しか)し誰も貴公(*九条関白)太閤(*鷹司政通)え対し、申したき事も憚(はばか)り〔*遠慮し〕申さず、半分ニて止(やめ)ニ致し候事も之(これ)有りて計り難く、左候てハ、勅問も誠の式作法同様ニ成り候ては、実ニ何の約立たず(役立たず)と在り候、両公(*武家伝奏・議奏)の処(ところ)ニても、遠慮無く人々存意(*思うところ)次第十分ニ申し入るべき様然(しか)るべし。其上(そのうえ)ニて、捨用(しゃよう *否決と採用)ハ評議の上の事ニ候事」(「幕末外国関係文書」の十九補遺 1号 P.1)と、自由な意見表明の上で決定すべきとした。
 その第二は、近く朝廷を「開国」・通商に同調させるために上洛して来る老中の堀田がばらまくであろう金銀のために、朝廷上層部が判断を誤ることがないように、堀田の献物を受取らせないように武家伝奏に申し入れることを依頼した。
 すなわち、「実ニ右献物以个程(いかほど)大金ニ候共、其(それ)に眼くらミ候ては、天下の災害の基(もと)ト存じ候。人欲〔というのは〕兎角兎角(とかくとかく)黄白(*金と銀)ニハ、心の迷ふ者ニ候、心迷ひも事によりてハ、其限(そのかぎり)にて済み候得共、今度の儀、実に心迷ひ候てハ、騒動ニ候半(そうろはん)哉(や)。右に付き、私に於いては、以个躰(いかてい)にも〔*どのようであろうとも〕受けまじく存じ候」(同前 P.2)と、固い意思を述べた。
 その第三は、「開国」・通商について、広く多くの意見を徴すべきとして、「三家始め大小名へ、存意尋(たず)ね出し候ハハ、又々(またまた)列侯諸国主の存じ(*これから起こる事態を予知し、それへの心構えをすること)の程(ほど)も宜(よろ)しかるべき哉(や)」(同前)と言って、その取り扱いを関白に依頼している。
 最後に、孝明は前述したように、「私の代より、かようの儀にあい成り候ては、......其(それ)に付(つい)ては伊勢(神宮)始(はじめ)の処は恐縮少なからず、先代の御方々に対する不孝、私一身置く処無き至りに候......」と言いつつ、よい方策が見出せないので、よろしく取計ってくれ! と関白に依頼している。
 しかも「但し、太閤えハ、未だ一言も、此(この)書付の儀ハ申さず候」(同前 P.3)と、太閤には内緒の依頼だと明言している。この17日の宸翰において、初めて、天皇は太閤と距離をおいていることを関白に表明したのである。これはいうまでもなく、開国是認論の太閤と自分の考えが違うことを告げたということである。
 そして、1月26日の関白宛ての宸翰では、孝明のさらに明確な態度が打ち出される。
①「何分ニも、国体不安の時と、恐縮限り無き事ニ候。之(これ)に依り開港開市の事、如何様(いかよう)ニも、閣老上京の上、演舌(演説)候共、固ク許容(きょよう)之(これ)無き様、況(いわん)や畿内近国は、申す迄(まで)も〔の〕事ト存じ候」(「幕末外国関係文書」の十九補遺 3号 P.5)と、開港開市に反対する。
②「此義(このぎ)何(いず)レニモ、三家以下諸国大小名、総(すべ)て勅聞有て、各(おのおの)腹蔵無き処(ところ)、勅答有るべき様、岐度(きっと)申渡され然るべき事」(同前)と、諸大名の意見を徴集すべきと重ねて要求している。
③そして、自分(*孝明)は「開国」・通商に反対であり、「異人の輩(やから)、夫(それ)ヲ聞き入れず候ハハ、其時(そのとき)ハ打拂(うちはらひ)然(しか)るべき哉(や)ト迄(まで)モ、愚身に於いてハ、決心候事」(同前)と、場合によっては打ち払いも辞さないとの考えを初めて表明する。
 続いて孝明は、万一、太閤が妥協案を示しても、関白が気張って、それを阻止してほしいと依頼するのであった。
 1月の中旬頃から、京の町には、鷹司太閤を批判し、これに対し、孝明天皇が「英明」で「剛直」であるという噂が盛んに拡がった。九条関白に対しては、幕府よりでなく天皇よりだ―という噂である。これは、恣意的な噂を流し、特定な世論を形成を図る京都一流の政治手法である。
 この工作が功を奏したか否かは明らかではないが、孝明が廷臣たちに行なった諮問に応じた、意見書の内容は次のようなものであった。まず全体てきな特徴は、大半の公卿がそれまで諮問ということを受けたことがなかったので、「当惑至極」に陥り、実際のところ、これといった儀対策も浮かばなかったようである。そのため、彼らの多くは、通商条約そのものの可否に関しては意見を表明せず、徳川御三家以下諸大名の意見を聞いたうえで判断すべきだと返答した。また、同様に多かったのは、京都および京都近在での開港開市は避けるべきだとの意見であった―と言われる。これらは、いずれも孝明の考えに沿うもので、なんらかの誘導があったかと思われる。
だが、朝廷上層部では、意見の対立が徐々に明らかになりつつあった。武家伝奏の東坊城聡長は、孝明天皇が開港を望んでいないことをよく知っていたから、それに沿った意見を述べた。内大臣の三条実万は、当時、条約勅許問題と折り重なって展開している将軍継嗣運動に深くかかわっていたため、安易に幕府の開国要求を受け入れば有志大名の朝廷からの離反を招きかねないことを恐れた。従って、彼は天皇が老中以下諸大名の意見を広く聞いた上で「聖断」を下すことを求めた。これらに対し、太閤の鷹司政通は、積極的に開港すべきだという立場であり、堀田らが上洛してきたら、その要求を受け入れるのがよいとした2)。
 
注1)九条忠尚は、1856(安政3)年8月、30数年にわたって関白を務めた鷹司政通が退くと、関白に就任した。しかし、孝明は九条関白の政治手腕を心配し、鷹司政通に内覧の特権を認め、給与も従来と同じようにすることを幕府にはからい、後には太閤の称号も与えた。九条関白は、これに不満を抱いたのか、1857(安政4)年7月4日いらい、忌服(きぶく *近親者の死のため喪に服すこと)と称して、朝廷に出仕しなくなる。それは翌年に入っても続いていた。その間、朝廷での采配は、政通が行なっている。
 2)堀田正睦は、1月21日に江戸を立つが、その日、斉昭は鷹司太閤に書簡を送って、「夷狄(いてき)の儀に付(つい)ては、先年打払(うちはらい)を止められず候得ば、此上(このうえ)なき極(ごく)御上策と存じ奉り候故、追々(おいおい)打払の論、下官(*斉昭のこと)にて認め候儀にて、天下一統に存じ居り候処(そうろうところ)、只今にては登城を申し付けられ、懇切の訳に相成り候上は、又(また)謂(いは)れなき打払と申す事にも相成り兼(かね)申すべく候得ば、何分只今より御内備(おんうちぞなえ)御手厚(おんてあつく)御整(おととのい)相成り、彼より兵端開き候節、大和魂を振起(ふりおこし)、防禦も聊(いささか)差支(さしつかえ)これなき様相成り候方と、下官は存じ奉り候。」(『水戸藩史料』上編坤 P.14)と述べている。斉昭は、水戸藩京都留守居の情報で、孝明天皇が攘夷に傾くのを知り、国論がまとまらない(公武不一致)のを恐れて、当面攘夷を中止して国防の整備に努めることを説いているのである。

(ⅲ)堀田正睦らも上洛して説得
 1854(嘉永7)年3月3日の日米和親条約締結の際には、幕府は朝廷に際し「事後承認」の形で報告した。だが、今回の日米修好通商条約においては、調印の前に朝廷に報告し、「承認」を得ようとしている。しかも、通常は京都所司代・禁裏付を介して武家伝奏に幕府の方針を伝えるというのがこれまでの方法であった。それが今回は、わざわざ特使を江戸から派遣する形をとったのである。それは、一体、何故か。
 端的に言って、それは、一部の大名の根強い抵抗があり、それを克服し「挙国一致」の体制をとる手段として、「天皇の承認」を利用しようとしたためである。堀田ら老中や外交関係の幕吏らは、実際、「天皇の承認」は容易に得られると予想していた。だが、現実にはその楽観的見通しは覆され、結論を先回りして言うと、完全に拒否されるのであった。
 堀田正睦は、1858(安政5)年1月8日に上京を命じられ、1月21日に江戸を出立し、2月5日に京に着いた。幕府は、京都滞在中の出費がかさむのを考慮して、堀田に5000両を貸与し、別に2000両を下賜して、京都対策の裏付けを謀ったのである。 
 随行員には、勘定奉行川路聖謨(としあきら)、目付岩瀬忠震(ただなり)、奥右筆組頭原弥十郎、両番格奥右筆立田録助、勘定組頭高橋平作、細工頭格徒(かち)目付平山謙二郎、勘定日下部(くさかべ)官之丞が命じられた。彼らも相前後して江戸を立ち、全員がそろった上で、2月6~7日に堀田の宿舎(本能寺)で打合せの会合が行なわれている。
 2月9日、正使堀田正睦は参内し、将軍や御台所(みだいどころ)からの贈答品を献上した。「正睦は将軍よりの献上品として〔*天皇へ〕色絵鳳凰香炉(こうろ)・伽羅(きゃら)一本・黄金五十枚、准后への献上品として羽二重(はぶたえ)二十疋(ひき)、また御台所よりの献上品として〔*天皇へ〕大紋綸子(りんず)三十端、准后への献上品として色綸子十端をそれぞれ献じ、他に将軍より九条関白へ白銀百枚・巻物十、鷹司前関白へ同断、両伝奏へ白銀五十枚・巻物五ずつ、勾当内侍(こうとうのないし *女官の首位)へ白銀三十枚をそれぞれ贈った。」(吉田常吉著『安政の大獄』P.141)と言われる。堀田は、小御所(こごしょ)で孝明天皇に拝謁し、天杯を賜った。
 2月11日には、堀田は宿舎(本能寺)に、武家伝奏広橋光成(前権大納言)・同東坊城聡長(前権大納言)、議奏久我建通(権大納言)・同万里小路正房(権大納言)・同徳大寺公純(きんいと *権大納言)の5人を招き、第一回目の会談がもたれた。
 堀田は先ず世界の情勢(アヘン戦争、西欧諸国での貿易の一般化など)を述べ、さらに国内の大勢が開港に傾いている実態などを説明した。川路ら随員も熱心に説明を行なった。その後、広橋などの質疑に応答したあと、堀田は日米修好通商条約の案を示し、すみやかにこれに勅許を賜りたいと奏請した。しかし、その日、広橋らからは、条約勅許についての返答はもらえなかった。
 つづいて、2月13日にも会談がもたれ、広橋・東坊城の武家伝奏と議奏万里小路が招かれた。この日は、11日に説明した外国事情の要旨を記した長文の書取(かきとり)を提出し、重ねて条約の勅許を奏請した。この書取には、1843(天保14)年のオランダ国王の「開国」勧告から説き起こし、年次を追って各国の事情、英仏連合軍と清国との戦争、ロシアとオスマン帝国との戦争、諸外国間の条約など、多岐にわたって国際情勢を説明した。そして、最後に次のように述べた。

元来(がんらい)西洋人共(ども)、虚喝(きょかつ *からおどし)もこれあり候へども、追々(おいおい)対話を遂(と)げ、其外(そのほか)書籍、又(また)は蘭人差出し候風説書(*噂話の書付)、並(ならびに)持渡しの器械、其外実地(じっち)経験合考(あいかんが)え仕り候得ば、強(あなが)ち虚喝のみにも之(これ)なき段、追々相分かり、最初は不承知の人々も、次第に発明(*新たに物事を考えだす)いたし、鎖国相成らざる儀、会得(えとく)致し候儀、此節(このせつ)は十に八、九に相成り候儀に御座候。前文相認め候〔*日米通商条約を〕議は、西洋人申し聞こゆ候趣を、一概に取り用ゆ候訳にては御座なく、先(ま)づ夷人共追々の移りを其儘(そのまま)申上げ候通(とおり)相認め候事。」(「幕末外国関係文書」の十九 153号 P.334)
 
 堀田らの理路整然とした説明は、一部の公卿、すなわち東坊城聡長などを納得させたようである。堀田らは太閤鷹司政通・右大臣鷹司輔煕父子の他にも東坊城らの支持を獲得した。
 しかし、孝明天皇は堀田らの上洛に際して、廷臣に対し、幕府関係者と個人的に面会する事を禁止していた。これは、言うまでもなく、廷臣が幕府から送られる献上品や賄賂によって、開国拒否の考えを捨てることを恐れたためである。この規制は絶大な威力を発揮したらしい。精力的に説得工作を展開する予定であった川路や岩瀬は、全くのお手上げだった。「すなわち、『川路氏堂上方へ見(まみ)へ、論究仕るべき旨(むね)、岩瀬両人にて申し立て候処(そうろうところ)、御断り御逢いこれ無き故(ゆえ)、致し方これ無く、(中略)川路も大いに瘠(や)せ、岩瀬も度々(たびたび)ため息つき候由』と噂されるような状況がみられるようになる(安政五年五月「国事記」―『大日本維新史料 稿本』八一七ノ二)」(家近良樹著『幕末の朝廷』P.243)のであった。
 それに加えて、公卿たちには海外知識がほとんどなく、また、そもそも理屈が通らない、理屈が避けられる文化状況が存在していたのである。「橋本左内が二月九日に三条実万(さねつむ *内大臣)に会って懇談したさい、三条の海外知識がどの程度かを試すつもりで、『海外の景勢(形勢)御洞察候や、又は御詳聞候やと御問い詰め申し候ところ、茫然(ぼうぜん)御様子、それにては御咄(おはな)しむつかしく(難しく)候』と江戸に報告している。海外の話になると、『茫然』たる状態になるのが京都の公卿であった。『そんな状態だから、説得が困難になるのだ』と橋本はちゃんと問題点を指摘している。/また、堀田老中が京都から江戸の閣老たちに送った書簡(二月二十五日)のなかに、『別に理屈にても申し出(いで)候事に候わば、何とか論破も致すべき心組みに候えども、理屈も何も差置き、ただただひたすら落涙......』という個所があるが、これは京都朝廷の議奏・伝奏という役目の公卿が堀田に会って、天皇が異人一条について深く心配され、寝食も安らかでない状態だから、どうか宸襟(しんきん *天皇の心)を安んじさせるような取りはからい(つまり攘夷)をお頼みするといって、涙をこぼすばかりだという状況を書いたものである。」(松岡英夫著『岩瀬忠震』中公新書 1981年 P.113~114)といわれるのである。

(3) 朝廷内部の議論と対立
 1858(安政5)年の正月末か2月の初め頃、太閤鷹司政通は、左大臣近衛忠煕に宛てて書簡を送った。その内容は、「①前夜、徳川斉昭から「打ち払ひ」策を中止し、武備充実を図ることが『ごく上策』であるとする旨の手紙(*先述した書簡)が届いたこと、②この手紙を『内々』で天皇にみせたこと、③返却されれば関白(*九条尚忠)にもみせること、④この『とおり人和のきざし』が出てきたことを『実に恐悦(きょうえつ *自分の喜びを他人にいう語)に存じ』、『御安心のため』に、このことを近衛にも『申し入れ』ること」(家近良樹著『幕末の朝廷』P.242~243)―であった。太閤は、「人和のきざし」で問題の処理が容易であると、極めて楽観的にみている。
 だが現実には、堀田らの上洛と説得工作によって、朝廷内部では、かえって分岐があらわとなって来る。鷹司太閤父子、東坊城ら武家伝奏グループらの「開国」通商是認派と、左大臣(近衛忠煕)、内大臣(三条実万)、徳大寺公純ら議奏などの条約締結反対派への分岐である。
 こうした折りの2月16日、孝明天皇は左大臣近衛忠煕に手紙を書き、太閤父子と武家伝奏が天皇や九条関白を排除した形で、幕府へ同意の表明をしてしまうのではないか―との恐怖感を吐露している。天皇は、同じような内容の書簡を、2月20日に九条関白にも送っている。

(ⅰ)朝議により一旦は勅答案を裁可
 疑心と安危が朝廷上層部に渦巻く中で、1858(安政5)年2月21日、朝議が開催される。この日、病気療養中の太閤は、先述したように楽観的であったためか、朝議を欠席した。これによって、朝廷側の堀田への回答内容がすんなりと決定した。すなわち、回答内容は、① 人心が折り合うことが国家にとって大事なので、徳川御三家以下諸大名の率直な意見(「赤心」)をいま一度聞きたい、② ついては、このことを諸大名に通知し、彼らの返答が寄せられたら叡覧に供するように取り計らってほしいというのが、その骨子であった。
 翌22日の朝議には、鷹司太閤も病身をおして出席した。太閤の楽観論が前日の朝議で見事に打ち砕かれたからである。太閤は、「承久の乱」1)をあげて前日の決定を批判し、通商条約を認める勅許を迫った。この試みは、一旦は成功するかに見えたが、結局、孝明天皇の抵抗で前日の決定の線まで戻された。2) 
 2月23日、朝廷は武家伝奏広橋光成・同東坊城聡長、議奏久我建通・同徳大寺公純(きんいと)を堀田の宿舎に派遣し、通商条約の調印は人心の折り合い、国家の重要問題であるから、「三家以下諸大名の赤心、聞こし食(め)されたく思し召し候。今一応台命(たいめい *将軍の命令)を下され、各(おのおの)所存(しょぞん *考え)書き取られ、叡覧(えいらん *天子が御覧になること)に入れられ候様、宜(よろ)しく御取り計らい之(これ)あるべき旨(むね)申し入るべき様、関白殿・太閤殿命ぜられ候」(『九条尚忠文書』一)との朝旨を通達した。つまり、条約は勅許せず、再議を命じたのであった。
と同時に、①兵庫の開港は除きたいこと、②御所の警衛が手薄なので、然るべき大藩の大名をして厳重に警固させたいこと、③数港を開いて商館を建設すれば、これへの反感から騒乱が起こらないか、所見を承りたいこと―の尋問三カ条の通達書を手交した。
 2月25日、堀田の宿舎を訪れた議奏・武家伝奏の両役に対し、堀田は、まず尋問3カ条に関して、①兵庫の開港を除くのは至難なこと、②御所警衛の件については評議の上で対策を講ずること、③和親交易は富国強兵の基であって、条約調印を拒めば擾乱が生じることは明らかであり、むしろ外国人に対しては武備強化を盛んにし、信服させるように努めること―と回答した。
 他方、堀田はこのときまで、さる23日の朝旨を江戸に報告していなかったが、この日出向いて来た議奏万里小路正房が落涙しながら天皇が心配している様子を語り(前述)、関東から朝旨について奉答すれば、勅答も速やかに出るであろうと伝えられていた。そこで堀田は、23日の朝旨の通達書と25日の議奏・武家伝奏との会談の様子を江戸に書き送った。
 堀田は、江戸を発つときには容易に目的を達成すると豪語したが、天皇・朝廷の抵抗に遇い、それも今は空しく、ハリスと約束した3月5日が間もなくと迫ってきた。2月25日、堀田は、江戸に戻るのが延び延びになっている事情をハリスに伝えることを同僚に依頼し、また、3月1日に、堀田はハリスに書簡を送って、帰府遅延を告げ、委細は全権委員の井上清直と談判すべき旨を伝えた。
 江戸では、堀田の2月25日付けの書簡を29日に受取り、老中は直ちに将軍の意向を伺い、老中連署の返簡を3月1日に送る。これは、3月4日に、京都に着いた。翌5日、堀田は、宿舎を訪れた武家伝奏の広橋・東坊城と議奏坊城(ぼうじょう)俊克(としかつ)に、幕府の次のような奉答書を提出した。

叡慮の趣(おもむき)御尤(ごもっとも)の御事に思召(おぼしめ)され候得共(そうらへども)、人心居合(おりあい *譲り合って解決すること)方の儀は、如何様(いかよう)にも関東にて御引請(おひきうけ)遊ばされ候間、叡慮を安んじさせられ候様遊ばされたき旨(むね)仰せ出され候間、此段(このだん)伝奏衆迄(まで)、早々通達あるべく候。 (『九条尚忠文書』一)

 実は、幕府の奉答書が出される前には、武家伝奏東坊城らの下工作があった模様である。すなわち、2月26日、九条関白は、前日25日の堀田と武家伝奏・議奏との会談の様子を知らされて、「朝廷が執拗に求めた御三家以下の尋問が難しければ、将軍家定の考えを奏上することで妥協できないかとの考え(案)を武家伝奏に洩(もら)らしたらしい。そのため、このことを強く念頭に植えつけられた東坊城が、後日、堀田らに、関白の了解を得ることなしに、『大樹公(=将軍家定)御引き受け遊ばし候はば御安心の御事』といった主旨の発言を『まったく一狐(一個)の了見』でしたという(『孝明天皇紀』P.802~803)。
これは朝廷にあって事態の打開に苦慮していた東坊城が、関白の考えに沿って、堀田(幕府)が受け容れやすいプランを幕府側に伝えたものであった。」(家近良樹著『幕末の朝廷』P.255~256)というのである。
 したがって、3月5日に渡された幕府の奉答書には、「人心居合方の儀は、如何様にも関東にて御引請(*引き受け)遊ばされ......」という文言が明示されたのである。
 九条関白の態度は、3月に入ると、急速に幕府寄りになっていったようである。2月29日、鷹司太閤はついに内覧の辞退が認められ、太閤の権勢は急速に衰える。代わって、朝廷の統括は九条関白が行なわざるを得なくなる。しかし、朝廷の責任者になると、幕府との関係を維持する役目が九条関白に負わされることとなる。
 そして、3月5日、九条関白は、条約勅許を改めて願い出た幕府の奉答書を受け入れることを明らかにした。九条関白は参内して、"将軍が人心の折り合いを引き受けるという以上は、朝廷においてもあえて異論もなく、また、条約勅許の旨は仰せ出されず、ただ天聴に達し置いたとのみ返答あって、とりあえず堀田を江戸に帰らせては如何"と奏上した。だが、天皇は不満であり、あくまでも関白の主張に賛成ではなかった。
 しかし、勅答案は、すでに関白らによって用意されていた。それが、以下の内容である。

人心居合の処(ところ)は、先以(まずもって)御安心遊ばされ候得共、神宮始(はじめ)御代々〔*天照大神から始まって、代々の天皇〕へ対させられ候ては何共(なんとも)恐多(おそれおおく)、東照宮以来の御制度を御変革あらせられ候儀は、天下の人望如何(いかが)と思召(おぼしめし)、再応(さいおう *再度)叡慮を悩まされ候間、何共御返答の遊ばされ方これなく、此上(このうえ)は関東に於て御勘考(かんこう *勘案)あるべき様、御頼(おたのみ)遊ばされたく候事。」 (吉田常吉著『安政の大獄』P.162からの重引)

 「人心居合」の件については、関東が引き受けるというので朝廷側は安心であるが、条約の諾否は天皇が判断できないので、この上は「関東に白紙委任」するという文面である。孝明天皇は、とうてい受け入れられなかったのである。
 だが、幕府寄りの立場を明らかにした九条関白は、その後、強引にも、青蓮院(しょうれんいん)門跡(もんぜき)3)尊融(そんゆう)法親王(中川宮ともいう。孝明の父・仁孝天皇の養子)、左大臣近衛忠煕、内大臣三条実万らが外交について会談するのはよくないとし、その直奏を禁止し、また、青蓮院宮の参内を一時停止させた。朝廷内の対幕強硬派の中心人物の活動を制限する処置をとったのである。

注1)1221年5月、公家勢力の権力回復を狙って後鳥羽上皇らが、北条義時追討の院宣を下し、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。しかし、北条泰時らの率いる幕府軍が西上し、朝廷側を打ち破る。幕府勢力は、以降、京都に常駐し、これが六波羅探題の始めとなる。この結果、7月、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に流された。閏10月には、土御門上皇も土佐に流された(翌年、阿波に移される)。
2)幕府側の立場にたつ鷹司太閤は、2月21~22日の朝議に不満であった。他方、孝明天皇は、天皇の意志に逆らう太閤に不満であった。2月28日、天皇は九条尚忠関白に宛てた宸翰で、鷹司太閤の内覧辞退を取り計らうように命じる。太閤は29日、病をもって内覧の辞退を奏請した。これには、朝廷上層部の一部に異論がでたので、辞表はしばらく天皇のもとに留め置かれたが、太閤の発意で、外交分野については以後内覧として携わらないことになり、九条関白が専決することとなった。鷹司太閤の内覧辞退は、結局、7月27日に、天皇によって認められた。
 3)門跡とは、皇子・皇族や貴族の子弟が、法統(ほうとう *仏門の伝統)を伝えている寺院。

(ⅱ)孝明天皇の抵抗と廷臣たちの集団決起
 しかし、幕府の奉答書を受け入れるか否かをめぐって、朝廷内はもちろん公家社会総体が大揺れとなり、「下剋上」状態となってしまうのである。
 3月6日、天皇は早速、左大臣近衛忠煕に向けて、九条関白に対する不信を表明する。このため、九条関白が勅答案を議するために、3月9日、左大臣近衛忠煕、右大臣鷹司輔煕(*太閤の息子)、内大臣三条実万および五摂家の一条忠香(ただか)・二条斉敬(なりゆき)・九条幸経(ゆきつね)の三権大納言を召集するが、左大臣と内大臣は関白の措置を不満として参内しなかった。しかし朝命により、二人は出仕を促されたが、近衛忠煕はついに出仕しなかった。
 議論は紛紛としてなかなか決しなかったが、九条関白が頑強に自説を固持し、息子から勅答案を知った前関白の鷹司政通が賛成したことから、3月11日、ついに勅答案が裁可された。
 だが、九条関白の専断的態度は、多くの廷臣たちを憤慨させた。
 勅答案が上層部で議論される前より、反対派の行動があわただしくなる。まず3月3日、病気がちだった議奏の久我建通が、抗議の意味を含めて辞表を提出する。3月6日、前述したように、孝明天皇が、九条関白への不信感を左大臣近衛忠煕に対し表明する。
 3月7日には、孝明は、かねて久我建通から推薦のあった中山忠能を議奏に補任する。同じくこの日、中山忠能(ただやす *権大納言)・正親町三條〔おおぎまちさんじょう〕実愛(さねなる *権中納言)・正親町(おおぎまち)実徳(さねあつ *権中納言)・八条隆祐(たかみち *参議1))・中院(なかのいん)通富(みちとみ *参議)・橋本実麗(さねあきら *参議)・野宮(ののみや)定功(さだいさ *参議)の7人が、連名で意見書を武家伝奏に提出した。それは、以下の通りである。

夷族申立ての一件、誠以(まことにもって)神国重大の変異に付(つき)、愚昧(ぐまい *愚かで物の道理が分からないこと)の者共(ものども)恐れ入り候得共(そうらへども)、先日両度(りょうど)書取(かきとり)を以て申上げ候。右追々(おいおい)御評定の御事と存じ候得共、実ハ昼夜憂苦(ゆうく)寝食を忘れ候間、亦々(またまた)言上せしめ候。
一、 天照皇大神宮以来、赫々(かくかく)たる神国、当御代(とうみよ)にて、蛮夷の国と伍をなし〔*対等に交際する〕候ては、神国の汚穢(をわい *けがれ、よごれ)、御瑕瑾(かきん *きず)、皇祖に対し奉られ、何共(なんとも)恐懼(きょうく *非常に畏れかしこまること)歎息(たんそく *非常になげくこと)の至りに候。近年連々(れんれん)天災、偏(ひとえ)に神慮を尊信せらるべき儀と存じ候。
一、 堂々たる皇国として、蛮夷の猛威(もうい)に驚嚇(きょうかく *ひどく驚くこと)し、彼の驕傲(きょうごう *たかぶりおごること)不礼を捨置(すてお)き、申す條に随従し、礼待(れいたい *敬意を以てもてなすこと)応接(おうせつ)奔走に暇(ひま)なく、天下万世に恥辱(ちじょく)を遺(のこ)し、万王一系の神国を、一漁落販叢(ぎょらくはんそう)〔*単なる漁民の部落と商家の聚楽〕にひとしく心得(こころえ)候征夷家(*徳川将軍家)の処置、如何(いか)なる狂妄(きょうもう *差別表現で、異常な状態での誤った判断)の徒の商量(しょうりょう *取り計らい)に候哉(や)。今度(こんど)叡慮(*天皇の考え)伺ひの為(た)め、面々上京に付、御沙汰の趣〔*堀田の条約勅許の奏請に対し、朝廷は諸大名の衆議を徴して叡覧に供すべしとの応答〕にも応えず歟(か)、一切意味解(と)き難(がた)く、若(もし)京都御同意の趣を以て、列国の大小名以下万民を押し候積(つも)り〔*朝廷が条約勅許に同意したとして、諸大名以下庶民を押さえつける積り〕かと存ぜられ候得共、真実御同意在(あ)らせざる候儀は、何(いず)れも貫徹せず、却(かえっ)て関東の為め、衆心を破る基(もとい)かと不審に存じ候。
一、 墨夷(*アメリカを指す)一使者の応接すら、強情(ごうじょう)容易ならざる由に候に付(つき)、尚更(なおさら)心苦(こころぐるしく)仕(つかまつ)り候。子細(しさい)は、此上(このうえ)諸蛮追々(おいおい)来集し、表には互市利潤を説き、実は欲する所を極(きわ)め、拒(こば)めば大砲・軍艦を以て恐嚇(きょうかく)せしむるの夷情、本(もと)より日本を併合し、国人を籠絡(ろうらく)の結構(けっこう *たくらみ)にて、追々(おいおい)姦謀(かんぼう *よこしまなはかりごと)遠慮(えんりょ *深い考え)に陥(おとしい)れ、夷族所々に散居し、好言利欲にて吾(わが)国民を誘ひ懐(なつ)け、彼方(かのほう)の教法(*キリスト教を指す)に従はしめ、能(よ)く人気を察し、地理要害を知り、方々に巣窟(そうくつ)を構置(かまえお)き、終(つい)には許(ゆるし)がたき難題(なんだい)を設け、兵端を開き、皇国を押領(おうりょう)するの時に至り、何を以て敵対すべき哉。たとひ兵端を開かずとも、右の通(とおり)にては、所謂(いはゆる)不奪不?(ふだつふえん)の夷情〔*奪わなければ満足しない西洋人の心〕、広大の猛威を張り、随意に皇国を脅制(きょうせい *おびやかし押さえつけること)するの時は、戦はずして降参の場に至るべく、神国に生れて、匹夫(ひっぷ *身分が低く教養がない男)と云(いえ)ども、口惜(くちおしき)次第には之(これ)無き哉(や)。況(いわんや)従来(じゅうらい)大禄(たいろく)を領する諸藩、人々至誠(しせい *この上なく誠実なこと)の赤心(せきしん *飾りのない真心)承(うけたまわ)りたき事に候。且(かつ)右の場合に及ぶ節は、乗輿(じょうよ *天皇の乗り物。転じて天皇を指す)を何れの地に安んじ奉る、大樹公(*将軍のこと)以下条約を致し候輩(やから)も、亦(また)何れの地に逃れ、安居せられ候心得に候哉(や)。関東始(はじめ)諸大名の見込み(*見通し)、詳(つまびらか)に聞食(きこしめ)され候上、返事御沙汰肝要に存じ上げ候。
右等毎々(つねづね)恐れ入り候得共、国家の為(ために)存じ奉り候間、忌諱(きい *恐れ避けていること)を顧(かえり)みず言上(ごんじょう)仕(つかまつ)り候事。
  三月七日
                     〔7卿の署名〕
         (「幕末外国関係文書」の十九 229号 P.504~505)
  
 7卿の意見書は、第一に、西洋諸国と対等に国交をもつことは、「神国(*日本)の汚穢、御瑕瑾」になる―という考えである。ここには、神国思想をベースに、外国を見下す考え方が、牢固として継続されているのである。それとともに、日本独特の穢れ思想もあって、西洋人と接触すること自身が穢れることになるという差別的排他的思想が強く打ちだされているのである
 第二は、アメリカとの通商条約を結ぶことに関して、「万王一系の神国」を単なる漁村・商人の町と同様に考える徳川将軍家(幕府)の処置は、まさに「狂妄の徒の商量」でなかろうか―というのである。幕府に対する強烈な批判である。
 第三は、欧米諸国は表面上は「互市利潤」が目的かのように言うが、実は日本に浸食して終には戦争をしかけ「押領」「併合」するのが狙いであると決めつけ、最後に、将来を見通した諸大名の意見を天皇が聞き、その上で返事するべきだ―というのである。
 さらにまた、勅許反対派の公家たちの行動は、なお一層激しくなる。3月9日、議奏の徳大寺公純(きんとも)が御所を出て家に帰る途中、何者かに襲われる事件が起こる。怪我(けが)はなかったようであるが、徳大寺は武家伝奏の東坊城聡長(ときなが)と間違われて襲われたのであった。東坊城は、鷹司太閤の側近で、幕府方とみられてきた人物である。このため、朝廷内の「暴れん坊」といわれる大原重徳(しげとみ)らの襲撃を受けたのである。
 また、この日の夜、決起した中下層廷臣たちの黒幕とみられる内大臣三条実万(さねつむ)が、東坊城の悪い噂をもとに彼を排斥する動きに出る。さすがに九条関白は、確たる証拠もなく単なる噂だけで、天皇に言上するわけにはいかないと、これを拒否する。(だが、容易ならない事態の進展により、後の3月11日、九条関白は東坊城へ今日から参内しないほうがよい、と忠告した。これを受けて、東坊城は辞表を提出し、それは17日に認められる)
 孝明天皇は、関白らが用意した勅答案を思いがけずも裁可したが、やはり本心は反対であった。「十一日の夜(二更〔にこう〕許〔ばか〕り、午後十時頃)、密かに近習(きんじゅう *側近くに仕える臣下)富小路(とみのこうじ)敬直(ひろなお *左馬権頭)を召し、この度(たび)の勅答は国家の安危にかかわり宸憂に堪(た)えず、何とか書き改めにならぬものかとの勅書を下賜して、久我建通の許(もと)に遣わした。時に建通は病気引き籠(こも)り中であったが、直ちに中山忠能・正親町三条実愛・大原重徳・岩倉具視(ともみ)らを招き、勅答案の末文、すなわち幕府委任の件(くだり)について協議の末、ついに同志の廷臣が多数列参(れっさん *連れだって参内すること)して、武家伝奏・関白に書き改めを迫ることに決し、大原・岩倉が同志を歴訪して勧説(かんせつ *勧め説得する)した。かくて翌十二日午(うま)の刻(正午)頃から廷臣は続々と参内し、改刪(かいさん *けずり改めること)を請う願書に署名した者は、中山忠能以下八十八人に及んだ。」(吉田常吉著『安政の大獄』P.163~164)と言われる。その時の88人の意見書は、以下の通りである。

同意の輩(やから)恐多(おそれおおく)候得共、国家の為(ため)、萬死を顧みず申し上げ候。此度(このたび)関東え御返答の趣、止むを得られざる御事とは恐れ察し奉り候得共、多罪を顧みず言上奉り候。去る月(*2月)仰せ出だされ候神宮御始(はじめ)御代々え対せられ、如何(いかに)之(これ)有るべき哉(や)。叡慮の悩まさるの事、実々重大の儀ニ候処、何共(なんとも)申上げず、人心居合(おりあい)の儀は引き受け候趣言上し、堀田備中守城使として上京の趣意とも、相違の廉(かど *条理)も之(これ)有り、如何ニ存じ候。将又(まさにまた)此度御返答ニ、関東え御依頼遊ばされ候旨相見え候。左候ハハ、條約以下、惣(すべ)て関東存意の通り取り計らい候節ハ、再応(さいおう *再度)仰せ達せらる方(かた)之(これ)無き哉。然る時に、天下の人望を塞(ふさ)ぎ、朝運武運相共(あいとも)ニ衰弊(すいへい)致し候様相成(あいな)るべき哉(や)と、深く歎息(たんそく)仕り候。尚又(なおまた)内乱の程(ほど)も計り難く、一同憂苦の至りニ候。御返答御文面の内、御返答の儀、遊ばされ方(かた)之(これ)無く、此上(このうえ)は関東に於て御勘考有るべき様、御頼み遊ばされ候と申す処(ところ)の御文面、御差除(さしのぞ)くニ相成り候様、伏(ふ)して願い奉りたく候事。
  三月十二日
        〔以下、88名の署名〕
  
 関白らの作った勅答は、通商条約の問題以下すべて幕府の意向を取計るもので、これでは天下の人望を塞ぐもので、朝廷も幕府もともに衰えてしまう。なお又、内乱に発展しまう恐れもある。こう述べた後、具体的には、勅答の最後にあった「此上は関東に於て御勘考有るべき様、御頼み遊ばされ候」の文面を削除するようにと要求するのであった。
 彼ら一同は、関白が参内するのを待ったが、関白は病気と称して参内しないので、この要求を盛り込んだ願書を武家伝奏広橋光成に渡し、その日の夜には関白邸に押しかけ、同家の諸大夫(関白の家来)を通して、自分たちの要求を採用して欲しいと伝えた。関白から、申し入れの所は委細承知との返事を得て、午後7時頃には、集団は退散したようである。
 なお、この3月12日には、現任の公卿13人の上書も出され、「叡慮御安し薄く相聞え候哉(や)」、「御頼みと在らせられ候も如何哉(や)」などの点を問題にした。13人の公卿とは、3月7日に連署し意見書を提出した7人に、さらに権大納言大炊御門(おおいみかど)家信(いえこと)、広幡忠禮(ただあや)、権中納言四辻公績(きんいさ)、中納言三条西季知(すえとも)、日野資宗、庭田重胤の6人が加わっている。
 次いで、3月13日には、有栖川宮(ありすいがわのみや)熾仁(たるひと)親王が、強硬にも外交拒絶の意見を上書する。そして、決起は下層の公家へなお一層拡大する。3月13~14日に、非蔵人(ひくろうど)2)合せて55人が連署して、外交措置の幕府への委任を不可とする意見書を提出し、17日には、地下官人(じげかんにん *清涼殿への昇殿を許されない官人)97人が連署して、外交拒絶の意見を上申した。3)
 ところで、88人も連署した意見書を提出した列参公家たちは、3月13日参内し、前日の意見書に対する返答を関白に求めた。すると、九条関白は、武家伝奏広橋光成を通して、次のよう答えた。すなわち、九条関白は列参公家たちの意見書の趣意を天皇に言上したところ、天皇もその趣意に同意したので、評議した上で先の勅答を改定する―というものである。
 公家たちの「下剋上」的な集団行動は、天皇の賛意を得て、完全に成功したのである。この行動を推進した議奏久我建通・大原重徳・中山忠能・正親町三条実愛・長谷(ながたに)信篤(のぶあつ)・大炊御門家信・五条為定・岩倉具視らの公家たちは、この事件以降、対幕強硬派として活躍する。それとともに、彼らの活動は、従来の五摂家とそれに従属する縁故の家柄の公家による朝廷支配体制(これを「摂?(せつろく)門流制」という)を明治維新にむけて次第に崩壊させていくのである。

注1)太政官は、律令制下、天皇を補佐し中央の全官庁および諸国を統括した役所で、長官は太政大臣で、これに次ぐのが左右大臣、その下に大納言・中納言・参議などがあって事務を分担した。参議は、四位以上の有能な者が任ぜられ、定員は8名である。参議は公式の名称で、普通は宰相といった。
2)非蔵人は、賀茂社、松尾社、稲荷社の社家(神職を世襲とする家柄)などから出て、無位無官で御所の雑用を務めた者を指す。なお、蔵人(くろうど)とは、蔵人所(くろうどどころ)の職員をいう。蔵人所は令外の官(りょうげノかん *大宝律令に規定されていない官)で、嵯峨天皇の時代・810(大同5)年3月に始めて設置された。同じく嵯峨朝に令外の官として設置された検非違使庁(けびいしのちょう *今日の裁判機能と警察機能を担った)とともに蔵人所は、「一般行政と検察を太政官の複雑な官僚的行政手続きから解放し天皇の意思に直結させる点に特色」(日本通史Ⅰ 義江彰夫著『歴史の曙から伝統社会の成熟へ』山川出版社 1986年 P.143)がある。
3)当時の公家社会にこのような攘夷の雰囲気をつくらせたのは、斉昭らの工作のみならず、儒者梅田雲浜(うめだうんぴん)や梁川星巌(やながわせいがん)のような尊王攘夷論者が公家たちに遊説していたこともある。彼等は、盛んに攘夷論を唱え、朝権がふるわないことを嘆いていた。

(ⅲ)勅答内容の変更で堀田の勅許奏請は失敗
 東坊城が武家伝奏を罷免された3月17日の翌日には、新たな勅諚(ちょくじょう *みことのり、勅語)がほぼ出来上がり、左大臣近衛忠煕以下に回覧される。ついで19日には、中山忠能に内示され、中山らが案文を潤色し完成する。
 そして、3月20日、堀田は召集され、所司代本多忠民をともなって参内する。天皇は、小御所で堀田を引見し、関白・議奏・武家伝奏の列座の下で、"御三家以下諸大名の意見を徴して、改めて勅裁を請うべきである"と、以下の勅諚を授けた。

墨夷の事、神州の大患、国家の安危ニ係リ、誠に容易ならず、神宮(*天照大御神)を始め奉り、御代々へ対せられ、恐多(おそれおおく)思召され、東照宮已来(いらい)の良法ヲ変革の儀ハ、闔国(こうこく *国内残らず)人心の帰向(きこう *心を寄せること)ニモ相拘(あいかかわ)リ、永世安全量(はか)り難く、深く叡慮を悩まされ候。尤(もっとも)往年(おうねん *先年)下田開港の条約容易ならざるの上、今度仮条約の趣ニテハ、御国威立ち難く思召(おぼしめ)され候。且(かつ)諸臣群議ニモ此度(このたび)の条々、殊(こと)ニ御国体ニ拘(かかわ)リ、後患(こうかん *後の難儀)測り難きの由(よし)言上候。猶(なお)三家以下諸大名ヘモ台命(*将軍の命令)を下され、再応(さいおう)衆議の上、言上有るべく仰せ出だされ候事。
     (福地重孝著『孝明天皇』秋田書店 1974年 P.106~107 より重引)
  
 変更された勅答は、①今度の通商条約を「御国威立ち難く思召され候」と、明確に否定的であり、②御三家以下諸大名に意見を聞き、衆議の上で天皇に新たに言上すべきとし、幕府への「白紙委任」的な文言は無くなっている。

Ⅳ 将軍継嗣問題での全面対立

 (1)将軍継嗣問題の発生
 将軍継嗣問題は、ペリーが初めて来航し程なくして退去した後の1853(嘉永6)年6月22日、徳川家慶が61歳で亡くなった直後から始まっている。それは、世子家祥(同年11月23日に家定と改名)が、生来、病弱であり、子どももいなかったためである。しかも、ときあたかも対外関係が緊迫し始めた時期である。
 第13代将軍家定については、暗愚であったとする説と、他方で、歴代将軍と比較して、将軍としての資質が特に劣るわけではないとする見方もある。しかし、病弱であり、子どもがいなかったことは確かである。
 一つの興味ある説として、吉田常吉氏の考えを紹介する。「家定の父家慶には、祖父家斉(いえなり)の五十余人に及ばないとしても、流産二人を除いて、二十七人の子女があった。家定の兄弟姉妹のうち、成長したのは一橋慶昌(よしまさ)と暉姫(てるひめ)の二人だけで、それもそれぞれ十四歳と十五歳で死亡し、他はすべて早世している。当時の上流社会では、公家・武家に限らず、女性は厚化粧であった。幕府の大奥も例外ではなかった。含鉛(がんえん)白粉(おしろい)による厚化粧の鉛毒は、母体を通じて胎児に及び、さらに一層毒害を流すのは、厚化粧して奉仕する乳母の授乳による含鉛乳汁であった。大奥で将軍の子女が死産、または次々に早世するのは、驚風(きょうふう *漢方でいう小児病)と称して恐れられたが、この鉛中毒が原因と思われる。家定の異常な振舞(ふるまい)も、慢性中毒にかかって神経麻痺の後遺症となったのであろう。......」(吉田常吉著『安政の大獄』P.117)と言われる。
 幕末島津家の「お由羅騒動」の本と言われるのも、斉彬の子どもが次ぎ次ぎに早世した原因を斉興の側室お由羅が呪殺したとの噂から起っているが、むしろ先の吉田説の方がはるかに可能性が高いと思われる。

 (ⅰ)南紀派と一橋派の対立
 将軍家慶が死去してわずか5日後の1853(嘉永6)年6月27日、数寄屋坊主(すきやぼうず *殿中で茶道をつかさどる江戸幕府の職名)組頭野村休成は、井伊直弼に提出した上書で、速やかに紀州藩主徳川慶福(よしとみ)を養君として西丸(*次期将軍の住むところ)に迎えるべきことを主張している。つづいて、適切な人物を選んで補佐の任にあたらせ、そのために阿部正弘を溜間詰に敬遠し、その代わりに間部(まなべ)詮勝(あきかつ)を老中首座にすべきことを説いている。さらに、異国船警備を国持大名に命じたことを批判して、譜代大名にのみ命じるべきであるという。徳川家にとって、井伊・本多・酒井・榊原は特に由緒ある家柄で、非常の備えに当てられるべきであるから、格別に仁恵をかけるのが「神君の御趣意」にかなっている―というのである。(東京大学史料編纂所『大日本維新史料』類纂の部「井伊家史料」三 P.89~91)
 野村休成は、その後も安政元年から2年(1854~55年)にかけて、しばしば意見書を井伊直弼に宛てて書いている。野村は、将軍世子について「一日も早く御養君仰せ出だされ、御代(みよ)万代(ばんだい)不易に成り置かれたく......」(「井伊家史料」四 P.149)と希望する。さらに近縁の慶福をさしおいて、一橋慶喜(斉昭の七男で、三卿の一橋家へ養子)を立てるのは、「眼前乱世の本(もと)ニて、三百年来御相続遊ばされ候甲斐も御座無く、殊(こと)に権現様(*神君家康のこと)御定めの御趣意ニも相叶(あいかな)はざる......」(同前 P.275)と、厳しく批判している。
 阿部の政治手法を批判する野村は、「権現様以来、御国禁の音信交易を異国へ通し、前々より御仕来(しきたり)の内払を御止め、国家の失費を物の数ともせず、異国の毛唐人バらを尊敬し、異国の真似(まね)を仕り、西洋流などをまな(ぶ)」(同前 P.228)ことも非難する。そして、「御新法を御取用ひ之(これ)無く、前々より御仕来(しきたり)の御代々の御法令ニ御復し遊ばされ候へバ、天下泰平国土安穏」(同前 P.149)というのである。
 他方、越前藩主松平慶永(よしなが *三卿の田安家の出身で越前へ養子)は、1853(嘉永6)年7月2日、家慶の喪が発せられ、総出仕で登城したとき、薩摩藩主島津斉彬と慶喜擁立について密談し、互いに力を合わせて周旋(しゅうせん *世話をする)することを約している(『昨夢紀事(さくむきじ)』一 P.64)。しかし、このとき斉彬は帰国しているので、中根雪江の記憶違いかと思われる。だが、二人の間でなんらかの形で連携・協力する合意があったとは思われる。
 同年8月10日夜、慶永は老中首座阿部を訪ね、自分が建白したペリー対策について意見を聞いた時、慶喜擁立に同意を求めた。これに対し、「正弘は己れもかねて慶喜をと思っているが、継嗣問題は無上の重事であるから、軽々しく口にすべきでなく、己れの心に秘め置き、良い折(おり)を見て申し上げるから、決して人に語り漏らすな、と戒めた」(吉田常吉著『安政の大獄』P.119~120)と言われる。
 1853(嘉永6)年10月、井伊家の家臣中村弥五八は、井伊直弼に宛てた上書で次のように述べている。「御三家ニて御手柄(おてがら)之(これ)有り候ハハ、其(その)御方(おかた)ニ御威望出來(でき)、又(また)国主方(*国持大名の方)ニて御顕功(おんけんこう *明らかな手柄)之(これ)有る候ハハ、公儀の御命令自ら御用(おんもち)ひ之(これ)無く、詰(つま)る所(ところ)英雄割拠の勢(いきおひ)ニ」なる恐れがあるが、その際、「御取直(おとりなお)しの御役目(おやくめ)」は、井伊家をおいて外にない―と(「井伊家史料」三 P.247)。これが、家康時代から、常に前備えを任されていた井伊家の、将軍の権威を最後的に守る使命観というのである。
 1854(嘉永7)年5月21日(「安政」への改元は11月27日)、井伊直弼は、老中松平乗全(のりさと)に宛てた書簡で、「将軍世子がいまだ決定していないことを『甚だ心痛』し、世上の人心を安定させるためにも、今年中に決定をみるよう要望している(「井伊家史料」三 P.355~356)。しかし、安政元年中にはきまらなかったので、翌二(*1855)年正月一〇日、乗全にたいしかさねて世子決定を促し(「井伊家史料」四 P.18)」(石井孝著『開国史』P.297)ている。
 だが、この年(1855年)8月4日、直弼に近かった松平乗全と松平忠優(後に忠固)は、斉昭の厳しい批判もあって老中を罷免される(前述)。直弼にとっては、大きな打撃であった。阿部と斉昭は、対外政策においては、だんだん開きが出てきてはいるが、溜間詰(たまりまづめ)の諸大名のリーダー的存在の井伊直弼に対しては手を取り合っていたのである。
 しかし、徳川慶福を次期将軍に擁立しようとした南紀派は、井伊直弼を筆頭とする溜間詰だけではなかった。とりわけ大きなグループは、将軍家定の側近と、大奥である。
 側近グループは、世子が「英明」な人物と噂される一橋慶喜に決まると、病弱な家定の将軍としての権威が落ちるが、年少の慶福1)では、その懸念が解消される。側近たちは、反斉昭・反慶喜の気運をかきたてるように、大奥に工作をするのであった。
 鮫島志芽太氏によると、「〔*慶喜擁立工作の〕失敗の理由はいろいろあるが、その第一は水戸藩の体質とそれを代表する斉昭の人となりや事の運び方に対する嫌悪の感情の影響にあった。江戸城の大奥では『水戸の大鬼(斉昭)・小鬼(慶喜)が将軍家を乗っ取りに来たら、わらわたちは死にます』と言って、こわがったという。その中心は家定将軍の生母・お美津の方(本寿院)と乳母の歌橋だった。この二人は家定の不明瞭な言葉を正確に解したそうだ。以上の水戸・斉昭に対する嫌悪の感情は、将軍の周囲の男の諸役にも強くあった。むしろ、将軍の側役・用人たちが女たちを煽った形跡がある。家定将軍は島津篤子を御台所にしてから一時、慶喜を養子に入れてもよいという気持ちを示したという。斉彬の指示により篤子の必死の説得があったとみられる。けれども、家定は生母や乳母らに『自害して死にます』と泣かれて当惑した。これらの江戸城大奥の反水戸の感情は、紀州藩の家老・水野忠央が、大奥にいた妹を使って金品で工作した姦計であったともいわれている(岩瀬忠震〔ただなり〕が中根師質に語った記録)。」(鮫島志芽太著『島津斉彬の全容』P.184)のである。
 水野忠央(ただなか)は、紀州藩付家老(つけかろう *幕府が親藩を監督するために置いた家老。従って、幕府の許可なく勝手に罷免することはできない)で新宮3万5000石の城主であるが、江戸定府であった。忠央は、文学を好み、有職故実(ゆうそくこじつ *朝廷や武家の礼式・典故〔典拠となる故事〕)に通じていたが、また他方ではなかなかの野心家でもあった。
 忠央は、慶福を擁して次第に勢力を伸ばし、1852(嘉永5)年、藩内の実権を握る10代藩主治宝(はるとみ)とその寵臣である家老の山中俊信が相次いで没すると、藩の全権を左右するほどになる。そして、その年の10月、尾州・水戸両藩の付家老と語らって、年頭賀礼を諸大名と同列にするよう幕府に願い出でた。これは、結局、幕府によって却下されたが、忠央が一般大名と同列にのし上がるという野望を持っていることを鮮明にさせた。
 さらに、忠央は慶福を将軍継嗣とする野望を懐き、大奥や将軍側近に対する工作を積極的に進める。「忠央には十一人の妹があり、その四番目の妹は西丸新番組頭杉源八郎の養女となって家慶に仕え、お広の方(のちお琴の方)として寵を受け、弘化元(*1844)年から嘉永五(*1852)年にかけて二男二女(いずれも早世)を生んだ。忠央は大奥の縁故を利用して、最も勢力のある将軍家定の乳母であった老女歌橋(うたはし)と結託し、将軍の生母本寿院を説いて慶福支持に傾けた。また五番目の妹は徒頭(かちがしら)薬師寺元真(もとざね *筑前守)の養女となり、将軍側近の御側御用取次(おそばごようとりつぎ)平岡道弘に嫁いでいたので、忠央は薬師寺・平岡のみならず、御側御用取次夏目信明(左近将監)には賄賂をもって働きかけ、いずれも南紀派に引き入れた」(吉田常吉著『安政の大獄』P.123~124)といわれる。
 もっとも、大奥の動向は、忠央の工作もさることながら、斉昭の、大奥節約策やいわゆる「女くせ」の悪さなどでもともと評判は悪かったのである。したがって、慶喜擁立は、その斉昭の野望として嫌われたのである。
 将軍継嗣をめぐる闘いは、南紀派有利で推移したが、その過程の1855(安政2)年の秋、斉昭にとっては極めて不利な事態が立て続けに襲いかかった。一つは、斉昭の両腕とも言われる戸田銀次郎と藤田東湖が、10月2日の江戸大地震で命を奪われたことである。有能な2人のブレーンの喪失によって、斉昭のその後の政治活動は、なお一層精彩を欠くものとなった。もう一つは、10月15日、堀田正睦が老中に復帰して、しかも老中首座にすわったことである。開国派の堀田が攘夷派の斉昭と、政治的にうまく行くはずがない。しかもこの人事について、斉昭は事前に阿部から相談を受けておらず、斉昭と阿部との関係も次第に疎遠となり、路線的には大分かけ離れたものとなる。これらは既述した。
 一橋派の擁立工作は、斉昭の政治的影響力の凋落の下で、その中心的推進力を松平慶永や島津斉彬にますます移動させた。
 1856(安政3)年8月、アメリカ総領事ハリスが下田に着任し、さらにイギリス艦隊が大挙来航の風説などもあって、対外関係は一層緊迫したものとなった。「当時、慶永は国許(くにもと)にいたが、ついに継嗣問題こそ当今の急務と考え、まず同志を糾合(きゅうごう)することになった。同年十月六日、慶永は書簡を尾州藩主徳川慶恕(権中納言)に送って、時局多難の際、第一の憂患(ゆうかん)は将軍の継嗣が決定しないことで、その確定は治乱の急務、天下嘱望(しょくぼう)の基本であるから、一日も早く英発(えいはつ *才智が早くわきでること)のゆえをもって慶喜を継嗣に迎えるよう周旋されたいと述べたのである。また慶永はこの日、阿洲藩主蜂須賀斉裕(なりひろ)にも書簡を送って、継嗣決定の急務を説き、時節がら年少の継嗣では不適当であるとし、暗に慶喜の擁立に尽力されたいと述べた。斉裕は前将軍家斉の子息で、慶永は将軍家と近親の斉裕を同志に引き入れ、一橋派の強化を計ろうとしたのであった。これに対して慶恕(よしくみ)は、慶喜とはただ一面識あるのみで、談論したこともなく、軽々しく推挙し難く、かつ親族結党の嫌疑を受ける虞(おそ)れがあると答えて、賛成しなかった。一方、斉裕は慶永の意見に同意した」(吉田常吉著『安政の大獄』P.120)のであった。
 慶永の工作で、一橋派は譜代大名の間に拡がり、また、有力な外様大名である宇和島藩主伊達宗城(むねなり)や土佐藩主山内豊信(とよしげ)などを仲間に引き入れた。
 対外的危機にゆさぶられ、安中(あんなか)藩主板倉勝明(かつあき)のように、譜代小藩でありながら将軍継嗣問題に積極的にとりくむ大名も出現して来る。慶永からの工作に応じた勝明は、老中阿部正弘と従兄弟の関係から、9月9日に書簡を阿部に送り、10月2日には若年寄本多忠徳(ただのり)に送り、それぞれ慶喜擁立を勧めている。また、勝明は慶永にも書簡を寄せ、種々の情報を知らせている。
 慶永と志を同じくする島津斉彬は、養女敬子(後の篤姫)を右大臣近衛忠煕(ただひろ)の養女とし、1856(安政3)年12月18日に、将軍家定の御台所にすることに成功している。言うまでもなく、斉彬は不利な大奥の政情を塗り替え一橋派に転換させるために、篤姫を大奥に送りこんだのである。
一橋派に結集する面々は、対外的危機が進み幕府権力が動揺する中で、旧来のしきたりにとらわれずに「名君」を得て幕政を強化し、外国使節との謁見がある場合、将軍の名代として立派な対応ができる後継者を欲したのである。ここでは、血統よりもすぐれた人物が重視されたのである。
 慶永や斉彬の精力的な活動で、一橋派の巻き返しが進む中で、1857(安政4)年6月17日、老中阿部正弘が突然に死去する。これは、一橋派には大きな痛手であった。阿部はその立場からして、慶喜擁立を公然と唱えなかったが、彼が登用した開明的な官僚のほとんどが一橋派であり、また、阿部の存在によって南紀派との闘いが五分に持ち込める可能性があったからである。

注1)諸大名が江戸城に登城する場合、それぞれの控え所が定められている。御三家は大廊下(松之大廊下)上の部屋、加賀・越前は大廊下の下の部屋である。それらの南東にある大広間には、薩摩・仙台・黒田(福岡)・藤堂(津)・長州などの国持大名の席である。松之大廊下と中庭を挟んで反対側(東側)にある柳の間は、前記以外の外様大名と中大名で従五位の席である。溜詰(たまりづめ)の間は、以上の大名の席よりはるかに北方の大奥(将軍)に近い席で、譜代大名の魁で、特殊な礼遇を受けた者で、会津家・高松家(水戸の支藩)・井伊家の3家は代々溜詰である。その他に、伊予松山の松平家・姫路の酒井家・忍の松平家もこれに次ぎ、桑名の松平家・庄内の松平家などは功労のある場合には、溜詰となる。この場合は一代限り、あるいは二、三代限りである。帝監の間(先の中庭の北側)は、譜代大名で、溜詰に次ぐものである。譜代大名の席は、他にも鴈の間、菊の間などがある。
 2)1857(安政4)年段階で、慶福は12歳であるが、他方、慶喜は21歳で立派なな大人である(家定は34歳)。だが、慶福が1849(嘉永2)年にわずか4歳で藩主となった紀州家は、8代将軍吉宗の出身家であり、11代将軍家斉(いえなり)の子息の斉順(なりゆき)、斉彊(なりかつ)は共に(将軍家慶の弟で)紀州家を相続しており、御三家の中では最も徳川宗家と緊密な関係であった。従って、慶福と将軍家定とは、従兄弟(いとこ)の間柄である。なお、慶福は紀州家11代の斉順の子であるが、12代の斉彊(斉順の弟)の後を相続した。

(ⅱ)両派対立の本格化
 1857(安政4)年6月、阿部が急死した。それだけでなく、同年9月13日には、かつて斉昭と激論し、老中を罷免された2名のうち松平忠固(忠優を改名)が老中に再任された。同日、もう一人の松平乗全は溜間格に昇進した。新たな老中人事は、一橋派にとって一層不利となったのである。
 慶永は、頽勢(たいせい *衰え行く形勢)を挽回するために、大奥工作も試みる。実は、越前家の故藩主斉善の侍女である本立院が、将軍家定の生母本寿院の姉であり、その関係をたどって、大奥に入説(にゅうぜい *説得に入る)する。しかし、大奥は反斉昭で固まり、とても歯がたたなかったようである。
 そこで慶永は、1857年9月16日、老中首座堀田正睦を訪れ、初めて将軍継嗣問題を提起し、会談した。だが、「正睦はもっぱら台虜(たいりょ *将軍の意向)によるべきで、私に(*私的に)議すべきことではないが、強(し)いていえば血統の近い紀州を挙ぐべきであろうが、これをおいては田安・一橋の外(ほか)にはあるまいと答えて、要領を得させなかった。」(吉田常吉著『井伊直弼』吉川弘文館 1963年 P.214)のである。当時、ハリスの上府問題に忙殺されていた堀田にとっては、将軍継嗣問題はあいまいにして置いた方が得策と考えたのであろうか。
 その後1857(安政4)年10月には、慶永は老中の久世広周(ひろちか)・松平忠固にも入説し、慶喜を推戴する。
 さらに、11月26日には、「日本の重大事件申立の件」に関して、次のように建白した。すなわち、①開国して、「富国強兵」を計るべきこと、②アヘン戦争を教訓にして、「......坐(い)ながら外国の来責を俟(まち)居(おり)候より、我より無数の軍艦を製造し、近傍の小邦を兼併し、互市の道(みち)繁盛(はんじょう)ニ相成(あいなり)候ハバ、反(かえっ)て欧羅巴(ヨーロッパ)諸国に超越する功業も相立」こと―その上で、慶喜推戴を述べる。③「右に付(つき)、内地の御処置、只今迄(ただいままで)の旧套(きゅうとう)ニては相済(あいす)み難く、其(その)大綱を申し候ハバ、第一兼々(かねがね)申上げ候賢明の御方(おかた)儲貮(ちょじ *世継ぎの君)ニ建てらるべき候事」と。そして、④人材登用・兵制改革・大名の疲弊救済・四民の業の奨励・種々の学校の興隆などの諸政策を推進すべきと。(「幕末外国関係文書」の十八 145号 P.444~446)
 この頃、時局は、10月21日にハリスが登城し将軍に国書を呈出し、26日にはハリスと堀田の面談が行なわれる。いよいよ日米通商条約交渉が迫る中で、堀田は11月11日、御三家・溜間詰大名にハリスの演述書を示して、意見を徴した。同月15日には、諸大名にも同じく意見を徴した。これに応えて、12月25日、島津斉彬は外交措置に関する答申書(「幕末外国関係文書」の十八 213号 P.753~754)の中で、通商開始や公使の駐在は止むを得ないとし、そのような事態に対処するものとして「年長・才器・人望」を備えた将軍の継嗣をたてることが急務であると論じ、それにふさわしい人物として公然と一橋慶喜を推戴する意見を述べた。
 年が明けて1858(安政5)年1月12日、慶永は老中首座の堀田正睦が下城する頃を見計らって、その邸宅をうかがい、仲間に引き入れようと説得した。その際、慶永は2点を強調したと言われる。すなわち、「建儲の件は、斉彬はじめ外様諸侯の主唱による形では宜しくない。同様に朝廷からの示唆によることも不可である。まず徳川家の世嗣ぎを外様の口出しで決めたとあっては『恐れ多けれど上の御稜威(みいつ *威光)も閣老の御権柄(*権力)も払地(*拭い去ること)にて御家門に列したる我等式まで面目なく、口惜しく存じ候』ことになる。....../また島津、山内など京都の公家有力者と縁筋のものは、この件に関し朝廷に働きかけるものとみてよい。もし先に『禁廷(*朝廷)より御沙汰あらば如何(いかが)候や、理(ことわ)りなるお筋にも〔*道理ある筋道にも〕候わば、御違背もなされがたかるべし。』その結果、『将軍家の世嗣を禁裡(きんり *御所)よりの指図となりては、将軍をさし替えられたらんも同じ事にて、上(*将軍)の御恥辱は申すに及ばず、各方にもいみじき御手抜けには候わずや、関東(幕府)の御威光はそれ切りに廃(すた)れ果てぬべし。』」(土居良三著『幕末 五人の外国奉行』P.208)というのである。
 しかし、条約問題で頭がいっぱいの堀田にとってみれば、将軍継嗣問題に手をつける余裕もないが、それでも慶永にとっては感触がよかったようである。
 そして、将軍継嗣をめぐる両派の闘いは、条約勅許を幕府が求め、堀田らが上京する事態の中で場所を京都に移して、熾烈(しれつ)に展開されるようになる。
 それは、1858(安政5)年1月6日、斉彬が将軍継嗣の内勅を得て、この問題を決着させようとしたように、一橋派の外様大名が天皇を利用して1)、自派の有利な展開をはかる姿勢を明らかにすることから始まった。
 堀田正睦が条約勅許を求めて上京することが決定される2日前の、1858(安政5)年1月6日、島津斉彬は「藩地から書簡を左大臣近衛忠煕(ただひろ)に送って、一橋慶喜を将軍継嗣に擁立することを訴え、紀州慶福・田安慶頼も近親ではあるが、人物では慶喜に匹敵せず、よって内勅をもって慶喜を継嗣とするよう配慮ありたいと述べ、将軍の御台所(*篤姫)もこの旨は承知のことと申し添えた。斉彬はこの日また内大臣三条実万にも書簡を送って、同じ意見を述べたのである。よって二十七日忠煕は斉彬の依頼に応じて、年長・英明・人望のゆえをもって、慶喜を継嗣に立てるべしとの内勅を幕府に下す旨の上申書案を起草し、実万の加筆を得て、これを関白九条尚忠に呈し、前関白鷹司政通には尚忠より内談されたいと申し入れた。」(吉田常吉著『安政の大獄』P.148)と言われる。(しかし、結論的にいうと、この内勅降下は実現しなかった)
 他方、江戸で精力的に工作を行なっていた慶永は、京都入説(にゅうぜい)を決意し、1月24日、腹心の家臣・橋本左内に上京を命じた。左内の任務は、表向きは「航海術原書取調」のため大坂に行くのであったが、実際は、側面から堀田の条約勅許の任務を援助し、少しでも早く堀田を帰府させ、将軍継嗣問題で一橋派を有利にさせるというものであった。
 左内一行は1月27日に江戸を発ち、2月7日に京都に着くが、慶永は1月28日に、斉彬の1月6日付けの近衛忠煕・三条実万宛ての書簡の内容を入手する。慶永は、2月1日、城中で松平忠固に斉彬の内勅降下を求める献策書を示し、"内勅降下となれば幕府の威光にかかわる。したがって、早く将軍継嗣を決定すべき"と勧めた。斉彬の動きを利用し、慶喜擁立を老中に迫ったのである(これは慶永と斉彬の間で約束済みの連携プレーかもしれない)。松平忠固は、この情報提供に感謝するような素振りを示したと『昨夢紀事』は言う。
 ともあれ、京都に着いた左内は、土佐藩主山内豊信の添書(そえしょ)をもって、三条実万との対面のための工作をする(豊信の夫人は実万の養女)。2月9日、左内は実万(さねつむ)との対面を許され、海外の情勢を説き、攘夷の不可と「開国」が止むを得ない事情を述べて、懸命に説得した。しかし、これらについて、実万は納得するものではなかった。しかし、実万が話の過程で、"御三家・家門の内に英傑の者がいれば、その人物が恃(たの)み"と言ったので、左内がそれは一橋慶喜だとすかさず応える。実万はそれを喜び、慶喜の将軍継嗣に周旋することを約束した。左内は、2月14日、16日、22日、30日と立て続けに実万邸を訪れ、慶喜擁立を説得する。
 左内はまた、孝明天皇の信任が厚い青蓮院宮門跡尊融法親王(*孝明天皇の義兄弟。中川宮ともいう)を工作する。宮は、慶永の開国論(もともとは攘夷論者であったが、左内などの説得で開国論に変わった)を嫌っていたので、橋本左内は宮の家士である伊丹蔵人を説得し、3月8日、宮と面談することができた。「橋本の入説の趣旨は、廷議が遷延(*条約勅許をめぐる朝議の混乱)するのは太閤と関白との隔絶よりは正邪の争いと存ずるが、かくては外患から内乱を生ずる憂いがあるから、川路(*聖謨のこと。奈良奉行の頃、宮と知り合っている。堀田の随行員)を召して朝旨と幕意とを調和し、断然勅命を降下されたく、かつ和戦治乱いずれにせよ、賢明の副将がなければ収拾されぬというにあって、要は降勅によって慶喜を継嗣に立てることで、宮は橋本の入説に共鳴したのである。」(吉田常吉著『安政の大獄』P.151)といわれる。
 左内は、攘夷論者の宮に対して、条約勅許というよりは将軍継嗣問題に重点を置いて説得し、さらには慶喜擁立のために勅諚の必要性までも賛成させた。後に宮は、川路聖謨と面談した際、腹を割って話し合い、慶喜が継嗣にふさわしいと語っている。
 さらに、左内の工作は鷹司太閤にも向かう。太閤は開国論者であるため、孝明天皇・九条関白と対立していた。このため、太閤は当時、廷臣間で不評をかっていた。このため、鷹司家の諸大夫小林良典(よしすけ)と侍講(じこう *君の前で講義する人)三国大学(みくにだいがく)は、太閤に直接諫(いさ)めた。三国の考えは、"開国説を不可とし、和戦両様の策を立て、挙国一致して国難に当るべき"というものである。
 太閤に対しては、女婿の議奏久我建通(夫人が太閤の三女)や三条内大臣家の諸大夫森寺常安なども説得したが、鷹司太閤はなかなか所信を変えなかった。
 左内は、三国大学が三国湊出身の儒者であり、『昨夢紀事』の著者である中根靱負(越前藩の重臣)とも懇意であることから、三国に接近し、3月8日には、三国・小林とかなり深い密談を行なっている。ここでは、九条関白にはすでに南紀派の入説が入っており、近衛左大臣や三条内大臣の力では関白の威力に及ばないので、太閤を味方につける以外にはない、そのためには越前侯慶永の直書による要請が必要となった。
 慶永の三国宛ての直書(3月18日付け)は3月21日に着き、それは直ちに鷹司太閤に披露された。そこには、堀田が帰府する際に、「英傑・人望・年長」の三条件に適(かな)う者(*実質的に慶喜を指す)を将軍継嗣にすべきとの勅諚が必要と書かれていた。この頃、鷹司太閤は三国・小林などの説得を受けて、天皇の考えに近くなり、太閤の子息である右大臣輔煕(すけひろ)もまた、太閤の考えに従っている。
 薩摩藩では、西郷吉之助(隆盛)が、斉彬の指令のもとに大奥工作を行なっていたが、大奥は南紀派の牙城であり、極めて困難であった。1858(安政5)年2月下旬、御台所(篤姫)から養父近衛忠煕宛ての書簡を入手した西郷は、橋本左内に遅れること1カ月、同年3月上旬に入京した。西郷は近衛家老女村岡(津崎矩子〔のりこ〕)を通して、書簡を近衛に呈出した。村岡は、近衛の側近であり、在野の勤皇志士との連絡や周旋に力を貸していた。
 西郷はまた、歌道で近衛家に出入りし、また勤王僧と知られ、青蓮院宮とも知己である京都清水寺成就院(じょうじゅいん)の月照と知り合いとなり、内勅により慶喜を将軍継嗣とする運動に携わった。西郷は、左内の工作で慶喜擁立工作が進んでいるとし、3月20日には、江戸に向かっている。
 他方、井伊直弼は、慶永よりも早く、1858(安政5)年1月9日、腹心の長野義言(主膳)を京都に送り、やはり堀田らの条約勅許の活動を側面から援助するように命じた。
 長野義言は、直弼にとって国学の師である。国学を研究し、京都には知己も多い長野にとって、今回の任務はうってつけであった。
 長野は、1月11日に江戸を発ち、21日に彦根に寄り、24日には京都に着いている。左内よりは、2週間ほど早く京都に入っている。長野は、26日に、九条関白家の家臣である島田左近を頼り、彼を通じて外交事情などを関白に進言した。
 2月5日の堀田らの入京(条約勅許を請う)を前にして、関東の政情を知りたかった九条関白にとっては、長野の上京は、極めて有り難かったようである。長野の懇切な説明と説得により、九条関白も徐々に幕府寄りに傾いていった。3月5日、関白はついに、条約勅許を願う幕府の奉答書を受け入れることを宣言する。 
 しかし、これには孝明天皇が不信を持ち、天皇は左大臣近衛忠煕に宛てた書簡で明らかにした。その後、廷臣たちの「下剋上」的な集団決起により、九条関白も幕府寄りの態度を修正し、孝明天皇に歩調を合わせるようになる。
 ところで長野は、京都で情報を収集する中で、重大なことをキャッチする。それは、2月15日付けで、江戸の彦根藩側役・宇津木六之丞に送った書状によると、次のようなものである。長野は、上京以来、井伊家の京都守護を不安とする風説の出所をさぐっていたところ、「昨年(*1857年)十一月中旬、水戸老侯斉昭が前関白鷹司政通に対して、近々関東より叡慮を伺うため役人(儒役林大学頭ら)を上京させるが、打ち払い(*攘夷のための)に治定されたく、さすれば斉昭自身上京して帝都を守護すべく、さもなければ国家は治まるまいと入説したという。その深意を探ったところ、
 右打払と申(もうす)も、実々国家の御為(おんため)思召(おぼしめし)ての事共(こ
 ととも)相聞(あいきこ)へず、全く一橋家を西丸へ御定め成され度(たく)思召(お
 ぼしめす)処(ところ)より、公辺を始(はじめ)御役方の事をも申上げられ候(そう
 ろう)様子。
と斉昭の陰謀を述べ、さらに正月中旬、西国の大名が近衛左大臣に書簡を送って、勅命によって西丸を治定しようとする、島津斉彬の運動を探索して、
 西国大名外様衆の計(はから)ひにて西丸御治定、(斉昭の)帝都御守護等の事迄(こと
 まで)申上(もうしあげ)候事は其意(そのい)を得ず、第一公辺を軽(かろ)しめ成
 され候(そうろう)御所行、言語道断、悪敷(あしく)申さば隠謀(いんぼう)の躰(て
 い)にも相聞(あいきこ)え、容易ならざる御儀、(『井伊家史料』五)
と報じた」(吉田常吉著『安政の大獄』P.155)のである。
 しかし、これらの情報は、多くが誤った伝聞であった。前述したように、斉昭は鷹司太閤への書簡(1858〔安政5〕年1月末か2月初め)で、「打払い」策を中止し、武備を充実することが上策だと述べているのである。
 だが、長野が聞きつけた情報で唯一確かで重要だったのは、西国の大名(島津斉彬)が内勅によって、「西丸治定」(将軍継嗣の決定)を工作しているということである。敵方の一橋派の動向を的確に捉えていたからである。
 にもかかわらず、長野は今度の任務では一橋派に対する対策は直弼から指示されていなかったので、2月18日にいったん京都を離れ、20日に彦根に戻った。ところが、その日の夕方、島田左近から19日付けの密書が届き、「上の養の字の事」について九条関白が尋ねたいと言っているので、至急入京されたい―と請(こ)われた。「上の養の字の事」とは、西丸すなわち将軍継嗣の事である。

注1)カール・マルクスは、その著『資本論』第1巻「資本の生産過程」第1篇「商品と貨幣」第1章「商品」第3節「価値形態または交換価値」A「簡単な・単独な・または偶然的な・価値形態」三「等価形態」の注21)の中で、王臣(君臣)関係について、次のように言っている。「......たとえばある人は、他の人々が彼にたいし臣民たる態度をとるが故にのみ王である。ところが彼等は、彼が王であるが故に自分たちは臣民であると信ずる。」と。斉彬も後の討幕派も、「天皇を利用する」として、天皇を「錦の御旗」にするが、それは同時に利用する者がみずから膝を屈し、超越者を作り出すことに奉仕しているのである。

 (ⅲ)両派の政治理念の相異
 そこで、長野は落ち着く間もなく、21日に彦根を発ち、22日に入京した。将軍継嗣問題について、長野主膳は、関白の諮問(諸大名や主君直弼の意見を聞きたい)を使者に答えた様子を、宇津木六之丞宛ての書簡で以下のように述べる。長野はかねて主君・直弼の考えを承っているとして、元来(がんらい)紀州・水戸のいずれの方にも人物の好悪はなく、また斉昭のいう「年長の方」と申すのも理の当然であると前置きして、次のように言う。

治平打続き候事は全ク大将軍家の御威徳第一、東照宮の御恩沢天下に溢れ候故ニて御座候。然(しか)る所(ところ)天下の治平は大将軍家の御威徳にこれある事にて、賢愚に而已(のみ)これある儀にては御座なく、是(これ)実は皇国の風儀にして、外国と異る処(ところ)に御座(ござ)候。然るに今(いま)御血脈近き御方をおきて、発明の方にと申(もうし)候はば、外国流にして、正統を尊信すべき皇国の風儀にはこれなき事に御座候間、主人には何国(いずく)迄(まで)も御血脈近き御方に、天下の人望これあるべしと思召され候。(「井伊家史料」五 P.445)

 長野はあくまでも、主君・直弼の持論である血統尊重論を述べる。そして、自分の考えでは、将軍の継嗣は台慮(将軍の意向)によって決すべきもので、諮問があれば内輪の大名をもって言上すべきである。それを、外様大名ごときが水戸徳川家に荷担して継嗣を内願とするとはもっての外である。このようなことが行違いになった際には「国乱の基となる」とまで、述べている。
九条関白から諮問を受けた長野義言は、まず最初に、主君直弼の持論として「天下の治平は大将軍の御威徳にこれある」といって、「賢愚」にあるというのではないと答える。これが日本の風儀であり、「賢愚」で選ぶのは外国流の風儀と切って捨てる(名君の故を以て、下より上を選ぶは唐風と批判)。この考え方は、本居宣長など国学者がよく唱える考え方であり、直弼がいかに長野など国学者流の思想の影響下にあるかを示している。
 次に長野は、自分の考えとして、将軍の継嗣は台慮によって決めるべきであり、諮問があった場合でも内輪の大名で決めるべきとする。これは、斉彬の動きを念頭においており、「外様大名がごときが......もっての外」と差別視して、こんな風では「国乱の基」となるとまで極論している。長野の考えは、一橋派の考えとは正反対であり、為政者を選ぶという公問題を、伝統と称して私的見地からのそれに終始しているのである。ここには、「万世一系の天皇」という国学者流の考えをベースとして、主従制という封建原理にズッポリとはまっているのである。
 これに対して、松平慶永や橋本左内の政治理念・政治構想は未だ封建制の枠内であるが、それでも時代状況に精一杯対応したものであって、直弼や長野らの保守的観念的なものとは大いに相違している。
 慶永は、時代状況を踏まえて、「神君の思召(おぼしめし)」とは違うが「時勢の変」だから止むを得ないとして、当時の老中のように5~6万石の大名ではなく、大国の藩主を登用して老中の上に置き、すべての幕政に参与させるという政治改革プランを提起する。具体的には、外様より島津斉彬・鍋島斉正・伊達宗城、家門より松平慶永・池田慶徳(斉昭の子で家門とみられた)を選んで「五大老」とし、その上に「惣督」として斉昭を置き、この政治体制の下で大改革を行なおうというものである(『鳥取池田家文書』第三 P.220~222)。斉昭は慶喜の実父であるということから、「五大老」の上に祭り上げたものと思われる。この「五大老」制は、実質的な雄藩連合政権案である。
 橋本左内の構想になると、単なる雄藩連合からより統一国家的な制度構想となる。つまり、まず将軍世子の決定から始まり、次に、斉昭・慶永・斉彬を「国内事務宰相」の「専権」とし、鍋島斉正を「外国事務宰相」の「専権」にする。そして、川路聖謨・岩瀬忠震・永井尚志ら開明官僚を副(そ)え、また「天下有名達識の士」を「御儒者」という名目で、陪臣(将軍からみて家来のまた家来)・処士(民間にいて仕官しない者)を問わず登用し、「右専権の宰相に派別に致し附置(つけおく)」というのである。このような制度改革のうえに、ロシア・アメリカなどから各種学問・技術の教師50人ばかりを招いて、各地に学校を設け、広く物産の開発に着手し、とくに蝦夷地の開発を重視する1)―というのである。(『橋本景岳全集』上巻 P.554~555)
 左内の構想は従来の「藩」の枠内を越えて、日本全国を「一家」とする見解であり、あらゆる人材を登用して、外国に対峙しうる中央集権的な国家建設を展望しており、後の倒幕・佐幕の枠組みを越えたものである。

注1)蝦夷地開発には、論者によって、内地の「乞食」、遊民、被差別部落民などを集団で派遣し、開墾に従事させるという主張がさまざまあるが、これらは、封建的な身分差別の意識が濃厚に存在している点で共通している。しかも左内の場合、富国強兵を勧めるとともに近隣の国々を併合して、西洋列強に対峙する考えをもっているので、この観点から蝦夷地開発の狙いもみる必要がある。

 (2)一橋慶喜擁立運動の失敗
 長野義言(主膳)は、条約勅許問題で、九条関白が幕府寄りとなり、将軍継嗣問題でも関白を味方に引き入れることに成功し、江戸に戻ることとなった。長野は、3月4日、京都を発ち、彦根を経由し(6日着・8日発)、江戸には3月17日に到着した。
 しかし、この頃に、公家たちの集団決起が次ぎ次ぎと起こり、外交問題を幕府に白紙委任する関白らの態度への批判が広範囲に拡がった。この動きに、九条関白も屈服し、3月20日、条約勅許を事実上拒否した勅諚が、先述のように堀田に下る。
 公家たちの「下剋上」的な決起が行なわれていた最中の3月12日、橋本左内は鷹司太閤・右大臣輔煕父子を味方に獲得していた。左内は同月14~15日には、三条実万(さねつむ)を訪れ、継嗣問題について内勅の降下を懇願し、さらにその内勅には、継嗣選定の条件として「年長・英傑・人望」を要望した。実万は、この要望を承知した(『橋本景岳全集』上巻 P.826)。この条件によって、継嗣が慶喜であることが歴然となるのである。
 しかし、「この条件にたいし、南紀派が猛烈な反対運動を展開した。三月二一日(*条約勅許を拒否した勅諚が下りた翌日)にいたり、南紀派の策動で『年長』の二字を省くことになったところ、左内は異常な努力で、いったんこれを復活させたのであった。彼はそのときのことを、『其節(そのせつ)ハ必死の覚悟ニて激論、之(これを)為(な)す所へ向ひ摧破(さいは *くだき破る)、竟(つい)ニ上吉(じょうきち)の御運ニ相成(あいな)り、関東(*幕府)の御為(おんため)、御所の御為、誠ニ有り難き義ニ存じ奉り、落涙仕(つかまつ)り候』(『橋本景岳全集』上巻 P.831)と、感激をもって報じている。しかし、左内のこの感激もつかの間で、最後の段階になって、情勢はまた逆転した。三月二二日堀田に伝えられた御沙汰書には、『急務多端の時節、養君御治定、西丸御守護、政務御扶助に相成り候者、御にぎやかにて御宜(およろ)しく思召し候』(同前 P.840)とあって、かの三条件は完全に削除されている。南紀派と結ぶ九条関白が、独断で三条件を取除いてしまったのであった。これは、幕府をして自由に継嗣を選択する余地を与えたもので、南紀派の勝利である。」(石井孝著『日本開国史』P.321)と言われる。
 慶永・斉彬・斉昭・宗城らの、一橋慶喜を将軍に擁立する運動が失敗した最大な原因は、前述したように大奥が斉昭を徹底的に嫌ったことである。しかし、斉彬・慶永らの朝廷の内勅をもって、一橋派が有利に工作をすすめる面でもまた敗北したのである。
 
第五章 大弾圧の下から尊王攘夷派の台頭  

Ⅰ 安政の大獄

 孝明天皇の条約勅許を獲得できなかった堀田正睦、川路聖謨らは、失意と落胆を抱えながらも、新たな決意をもって、1858(安政5)年4月5日、京都を発ち20日に江戸に帰着した。
 ハリスは、上府の際に病をかかえ、海路、下田に戻っていたが、かねての約束である3月5日の条約調印日に江戸に到着し、堀田の帰還を待ち構えていた。堀田らが江戸に帰着した日から4日後の4月24日、堀田はハリスと会見し、京都での状況を報告(だが天皇が条約に反対する態度は秘された)し、そして、「人心不居合(ふいあい)〔*折合がつかない〕」を理由に調印の延期を申し入れた。しかし、ハリスは、「雙方(そうほう)談判済みの上〔商議が決定したにもかかわらず〕、国内人心の居合等を以て〔*調印を〕差延(さしのば)し候儀は、万国共ニ決て之(これ)無き事ニ候」、「若(も)し江戸政府にて、右調印出来(でき)致さざる儀ニ候ハハ、出来致し候(そうろう)権(けん)之(これ)有り候方え、私(わたし)罷(まかり)り出で御談し申上げ候外(そうろうほか)、致し方之(これ)無く候」、「此儀(このぎ)は、外(ほかの)国々えも、速ニ響(ひびき)申すべく候事故(そうろうことゆえ)、向後(こうご)外国のもの、条約取結び候ニ、江戸えは罷り出で申さず、』直ニ京師え罷り出で申すべく候。左候得(さそうらえ)は、大君の権も薄く、御国躰(国体)を失ひ候様相成るべし。此末(このすえ)の成り行きは、私申上げず候共、御辨知(べんち *わきまえること)在らせらるべき儀と存じ奉り候」(「幕末外国関係文書」の二十 43号 P.192~193)と厳しく批判した。その上で、明後日の会談で調印期日を決定することを求めた。
 4月26日、堀田は、調印の暫時猶予を繰り返した。ハリスは前回同様、幕府の因循の処置を非難し、イギリス艦隊の渡来が近いこと、清国と同じ轍を踏むべきでないこと―などで脅しながら、まずもってアメリカと通商条約を結ぶことによって、この危機を回避すべきと力説した。そして、すみやかな調印日の決定を迫った。
 堀田はやむを得ず、調印の期日を今より6ヶ月後と提案した。しかし、ハリスはそれでは長すぎて承認できないと言い、90日の猶予を提案した。結局、この日は調印日の折り合いはならなかった。
 5月2日、下田奉行井上清直がハリスを訪問し、堀田以下の老中連名の書簡を送り、調印を7月27日まで延期し(ハリスに妥協)、かつアメリカとの条約調印後30日を経なければ、他国との条約に調印しないことを誓った。さらに同月6日、堀田はハリスを招いて、国内の協議決定まで条約の調印を行ない難い旨を記した米国大統領宛ての親書をハリスに交付した。
 堀田は、京都を出発する前には、すでに条約調印の決意を持っていたようである。しかし、堀田が江戸に帰着して、間もなくして、井伊直弼が大老に着任し、すでに堀田は実権を失い、外交においても自己の方針を貫徹し得ない状態に陥っていたのである。

(1)密やかに素早く井伊直弼を大老職に任命
 前述したように、将軍継嗣問題で一橋派は内勅を得て有利に進めようとした。だが、朝廷内の関係は流動きわまりなく、橋本左内が京都を発った以降の情報を的確にキャッチしていなかったようである。また、将軍の意向も正しく掴(つか)んではいなかった。
 「松平慶永の命を受けて京都入説に奔走した橋本左内は、運動の成功を確信し、三月二十六日下坂して、ついで宇治・奈良に遊び、四月三日京都を立って、十一日に帰府して復命した。慶永が十五日登城すると、岩瀬忠震(ただなり)が叡慮は慶喜である旨を密かに告げ、また大目付土岐頼旨(よりむね)・目付鵜殿長鋭(ながとし)も『西城の廷議佳兆(かちょう)之(の)趣』を告げ、互いに歓んだが、翌十六日松平閣老(*松平忠固のこと)と会談したところ、これまで明言を避けてきた忠固が、台慮(たいりょ *将軍の考え)は慶喜に決定し、堀田閣老の帰府次第に評議があろうと得意気(とくいげ)に語り、ただ大奥に縺(もつ)れ事があって迷惑していると告げた。ついで十九日には、慶永は蕨(わらび *現・埼玉県蕨市)に着いた堀田閣老に直書(*直筆の手紙)を送ったが、その日の夕方、慶永は橋本を岩瀬の許に遣わして様子を探らせると、明日の正睦(*堀田)の帰府を待って、継嗣の発表があり、将軍もこれを了承したが、ここに一難事があると告げた。岩瀬が言うには、慶喜が継嗣になれば、本寿院(*家定の生母)が自害するとの決心で、将軍も当惑しているが、いずれ付属の徒が授けた奸計であろうから、その他に障害はあるまいとし、正睦帰府後の勅諚などの発表の順序を告げた」(吉田常吉著『安政の大獄』P.174)といわれる。一橋派は、左内が京都を発って以降の朝廷内の変転について、全くつかんでいないのである。
 堀田は、それまで将軍継嗣問題に関して、自分の考えを表に出していなかったが、京都から戻ってから、明確に一橋派と同じ考えであることを明らかにする。「はたして堀田は、江戸に帰ってから三日目の四月二二日(*21日という説もある)、将軍家定にたいして慶永を大老に推すことを進言した。これよりさき斉昭の人望が落ちてくるのに応じて、一橋派の間には、慶喜を将軍の世子にすると同時に、慶永をその補佐とする議論が高まってきた。堀田は、そのような意見をいれたのであろう。そこで彼が、慶永を大老にすることを将軍に推したのは、慶喜を世子とする前提であった。しかし、時はすでにおそかった。将軍はこれをしりぞけ、翌二三日、井伊直弼を大老に任命したのである。このようにして幕閣の権力は南紀派の手に帰した。」(石井孝著『日本開国史』P.327~328)のである。
 将軍家定が将軍継嗣を紀州慶福に決定する経緯は必ずしも明確ではないが、一橋派の動きをキャッチし、素早く対応し、直弼を大老に担ぎ出す工作に走った重要人物の一人に松平忠固がいたことは確かである。
 溜間詰大名の後押しで再入閣した忠固は、「口では慶喜擁立に賛意を表していたが、内実は直弼と同じく南紀派であった。」(吉田前掲書 P.171)のである。その忠固は、一橋派の動きが急であるとみるや、事前に根回しをして大奥や将軍側近などの南紀派を動かし、一気に井伊直弼を大老に担ぎ出したのである。ただ、忠固の工作はこの成功により幕閣内で権威を振るおうという魂胆があった様である。現に、直弼は間もなくして忠固の老中職を罷免している。
 井伊直弼の側役である宇津木六之丞が記した『公用方秘録』によると、宇津木は後に聞いたことと但し書きをしながら、4月22日の条に、次のように書き込んでいる。

松平越前守(*慶永)へ御大老仰付(おおせつけ)らる然るべき旨、伺(うかがい)に相成り候処、上様御驚(おんおどろき)、家柄と申す人物に候へば、彦根を差置(さしおき)、越前へ仰付らるべき筋これなく、掃部頭(かもんのかみ *直弼)へ仰付けらるべしとの上意にて、俄(にわ)かに御取(おとり)り極(きめ)に相成り候との事(こと)承(うけたまわ)り申し候。(吉田前掲書〔P.171〕から重引)
 
 将軍の最終的な決定要因は、やはり封建的な門閥主義なのであった。まさに旧態依然たるものである。
 井伊直弼が大老に任命されるや、岩瀬忠震は勘定奉行永井尚志(なおむね)・目付鵜殿長鋭とともに、老中に抗議して、大老を任命すること自身には反対しないが、"直弼はその器ではない、かかる人物で艱難の天下が治まるべきや"と詰問した。老中たちはこれに対して、ただ"直弼は単に員に加わるのみ"と、その場しのぎの言い逃れをするばかりであった。阿部正弘に登用された開明派の官吏たちはほとんどが、この間、別段の建議もしていない直弼を軽くみていたのである。

(2) 直弼の迅速な処置
 今までツメを隠していた直弼は、1858(安政5)年4月23日、大老職に就くや、諸課題に対する措置を迅速につぎつぎと打つ。
 まず、4月25日、直弼ら幕閣は、三家以下諸大名に登城を命じ、勅諚を公表し、朝廷との約束に従い、諸大名の意見を徴した。その際、堀田は、"叡慮に戦争の気持ちは無く、また、万国の形勢一変の折り柄処置を誤って事を外国と構えてはならないから、先般朝廷へ奏請した以外に取扱い方はない。しかし、勅命であるから再び衆議を徴する旨を示す"とした。そこには、諸大名の意見を形式的にもう一度徴し、朝廷に再び報告すると言う手順を踏むだけであって、あらかじめ幕府の方針と違う意見が諸大名から出ることを防止する狙いがあった。
 直弼が大老に就任するや、老中内の力関係は大きく変わり、堀田は内部で完全に浮き上がり、老中の地位そのものもあやしくなってきた。一橋派の中心である慶永は、これを聞いて、直弼に堀田留任の工作をかける。慶永は、宇和島の伊達家が井伊家と旧縁(初代秀宗が家康の命で、井伊直政の女を娶る)であることに眼をつけ、伊達家を介して直弼を説得しようというのである。問題が重大なため、慶永の盟友・伊達宗城(むねなり)が、直接直弼に会い、直弼の真意を質(ただ)すこととなった。
 4月27日、宗城は外桜田の井伊家上屋敷を訪れる。会談は、条約調印問題での諸大名の動静などで意見交換がなされ、その後、堀田の上京について話が及ぶ。その中で、直弼は、"条約の調印はやもう得ない。問題はいかにして叡慮を安心させるかだ"と言いつつ、堀田の京都工作の失敗を非難し、それをもって堀田を罷免すると、主張した。
 これに対して、宗城は真向から反駁(はんばく)し、"堀田を罷免して、叡慮に従うならばよいが、罷免の上でまた次の者が同じ轍(てつ)を踏むのであれば、かえって京都の嫌疑が生じるであろう。対米交渉も同じであり、ここで今までの関係者を更迭するならば、ハリスは大いに疑いをもつであろう。このため、堀田は現今なおさら必要な人物である"と強調した(『昨夢紀事』十一 P.392~393)。
 直弼は、宗城のこれらの主張にうなずく他はなかったようである。しかし、将軍継嗣問題については、宗城の慶喜擁立には決して賛成しなかった。むしろ、将軍継嗣問題は血統の近い紀州慶福を就けるべきとした。将軍も本寿院(家定の生母)も、その意向である、とした。直弼は、"一橋派の慶喜擁立のバックには斉昭の陰謀がある"と、一貫して疑っていた。直弼は、むしろ慶福が将軍継嗣に決まった場合、従来通り二心なく忠勤を励むようにと、宗城を説得した。
 1858(安政5)年5月1日、ついに将軍家定は、大老・老中を召集し、将軍継嗣を紀州慶福に決定するという台命を下す。しかし、このことは条約問題があるため、厳秘にして公表されなかった。
 5月2日には、前述したようにハリスに妥協し、条約調印の延期期日を短縮し7月27日とした。同日、直弼は慶永と会談し、"もし将軍継嗣が紀州慶福に決まった場合、これまでの持論をやめて、今と変わらず将軍家への忠誠を尽くして欲しい"と要請した。これに対して、慶永は、"自分は幕府に対し二心があるはずがないが、しかしこうまで思い込んだことが実現しないとあっては、そのときどんな気持ちになるか分からない。このような気持ちは、自分だけでなく他の人にも多いだろう"と答えている。
 5月6日には、直弼は一橋派の官吏に対し左遷人事を行ない、重要役職からの排除措置をとった。まず大目付土岐頼旨は大番頭に、勘定奉行川路聖謨(としあきら)は西丸留守居の閑職に左遷された。5月20日には、目付鵜殿長鋭が駿府町奉行に、京都町奉行浅野長祚(ながよし)が小普請奉行に左遷された。これらは粛清人事の第一弾に過ぎない。対米交渉のために、岩瀬忠震や永井尚志らの処分は後回し1)になっていたのである。

注1)岩瀬忠震は1858年7月9日、水野忠徳・永井尚志(なおゆき)・井上清直・堀利煕とともに、初代外国奉行に任じられた。しかし、9月3日、日仏条約の調印が終わると、岩瀬は作事奉行に左遷された。そして、安政の大獄で作事奉行も罷免される(8月27日)。永井尚志もまた、岩瀬とともに軍艦奉行を罷免された。だが、将軍慶喜の下では、重職に起用され、第二次幕長戦争では、外国奉行・長州御用係・大目付にふたたび起用されている。

(3)ついに日米修好通商条約の調印
 天皇の勅許を得られなかった幕府は、ふたたび諸大名に対して条約調印に関する意見を徴した。この結果、ほとんどの大名が条約調印やむなしであった。しかし、その中で三家の水戸藩主慶篤とその父・斉昭ならびに尾張藩主徳川慶恕(よしくみ)1)は、調印反対など幕府の意図しない答申を行なった。そこで直弼は、反対派の斉昭らを説得する工作をするとともに、腹心の長野主膳をふたたび上京させ、幕府と歩調を合わせる関白九条尚忠を援護するなどの工作をさせた。
 その上で直弼は、条約調印の勅許を奏請する上使を1858(安政5)年5月下旬には決定した。そして、直弼は、今まで将軍継嗣を紀州慶福に決定したことを老中どまりで公表していなかったが、ついに6月18日に発表することとして、その準備を重ねてきた。
 そこに全く予期せぬ新たな事態が突発する。それは、ハリスが6月17日に、ポーハタン号に乗って横浜に入り、"勅許をえぬままに条約調印を行なう"ことを幕府に突きつけたことである。その背景は、以下の通りである。
 1858(安政5)年6月13日、米艦ミシシッピ号が下田に入港し、ハリスに清国の情勢を報じた。その内容は、英仏が清国と戦って大勝し、天津条約を結んで5港を開かせ、さらに英仏両国はこの戦勝の余勢を駆って日本に来航し、和親条約を破棄して通商条約の締結を迫るというものである。ついで15日、米艦ポーハタン号が、さらに16日にはロシア艦アスコリド号が相次いで下田に入港し、その情報はいよいよ確実になったという。ハリスは、英仏の艦隊が来航すれば、先の日米修好通商条約の内容より、さらに厳しい要求が日本に突きつけられると告げて、速やかな日米条約の調印を迫ったのである。
 幕府は、17日夕方から岩瀬忠震・井上清直などを送りハリスと折衝させたが、ハリスは頑として日本側の調印延期要求をはねつけ、速やかな調印を繰り返した。
 1858(安政5)年6月19日、ついに日米修好通商条約がポーハタン号の船上で調印された。当時、岩瀬ら外国奉行や海防掛一同は、無断調印の好機と考えており、今やハリスの強引な要求をはねつけるような粘りはなかったからである。
 福地源一郎(桜痴)の書『幕末政治家』によると、後に外国奉行井上直清の語ったこととして、岩瀬忠震が多くの非難に抗して、勅許なくとも調印すべきと考えていた理由6つを以下のようにあげている。(土居良三著『幕末 五人の外国奉行』中央公論社 1997年 P.191~192)

 第一、「ハリスが両国の利益を重んじ」力をつくして立案したもので、次には「不肖なれども我輩が畢生(ひっせい *生涯)の才智を揮(ふる)いて、及ばずながらも日本の利益を保護して、漸(ようや)く議定した条約」で、いま誰が全権となって交渉しても、「是(これ)より優等の条約を議定すること、尤(もっと)も難(かた)かるべし」である。
 第二、日米のこの条約に勅許なければ、英仏との条約にも勅許は期待できないから、彼等は艦隊を連れて、「勅許の大権ある京都に談判すべしと」大坂に乗込み、「戦争の端を開きて日本の禍(わざわい)を招くの恐れあり」。
 第三、この条約の調印を延ばしている間に、英仏全権が「十数艘の軍艦を率いて品川沖に乗込み、和親貿易の条約を議定すべしと要求するに至れ」ば、その要求は日米のそれより不利益となること明らかであるから、先にこの条約に調印し「其(その)関門を設け置くの安全なるに若(し)かず」である。
 第四、艦隊に乗込まれ「城下の盟(*敵に首都まで攻め込まれて結ぶ降伏の誓い)を恥」じて、「勝敗に拘(かか)わらず一戦を試みたる上にて、和親貿易を開くべしとする主張する輩(やから)」があるが、敗けて頑固者の迷夢を醒(さ)まさせるにはよいかも知れないが、そのため「取返しの成らざる禍根を日本に残す」ことはもっとも避けなければならない。だから「今日の長計」は先に日米条約に調印、英仏とは「戦わずして和するに若かず」である。
 第五、「勅許を俟(ま)たずして条約に調印する事より、議論沸騰して、益々(ますます)朝廷の震怒を招き、徳川氏をして遂に不臣の名を得せしむるに至ることもあろ」うが、それは朝廷が世界の大勢を知らないから「一途に攘夷と思召し給う」のである。だから勅許を待たず調印することは「不臣に似て実は決して不臣に非(あら)ざるなり」である。
 第六、「此の調印の為に不測の禍を惹起して、あるいは徳川氏の安危(あんき)に係わる程の大変にも至るべきが、甚だ口外し難き事なれども、国家の大政に預かる重職は、此(この)場合に臨みては社稷(*国家)を重しとするの決心あらざるべからず。」(*この下線部は原文の強調部分)

 この後、条約勅許がないところで調印したことが、最大の焦点となる。しかし、朝廷の許可をえないと条約を調印できないというルールは、当時、存在しているわけではない。それにもかかわらず、条約勅許が必須であるかのような風潮がつくられたのは、尊王攘夷運動によるものである(その責任の一端は幕府自身にある)。天皇・朝廷はそのような風潮を利用して政治権限を拡大したのである。しかも、その基礎には幕藩制の動揺により、外様大名とりわけ「西南雄藩」や斉昭が、直接朝廷の有力公家との交流・結びつきを強め、朝廷もまたこの関係を政治権限強化のために利用したのである。
 しかし、天皇・朝廷の世界認識はまったくお粗末なもので、とうてい外交交渉を担えるものでなかった。その守旧的意識は、「攘夷」のスローガンを共通項として、「勤皇攘夷」派の志士も全く同じであった。しかも、それは独りよがりのものであり、世界の現今の状況を深く理解できないものであった。そのことは、後年、1863(文久3)年5月の下関戦争、同年7月の薩英戦争、1864年8月の下関戦争という大きな代償を経ることなしには、世界認識を変えて攘夷派の多くが「開国派」に転換(実際は「大攘夷」への転換、後述)できなかったことで、実証された。
 開明的な外交官である岩瀬は、封建制の枠内(未だ主権在民制ではなかった)ではあるが、すでに徳川家の利益ではなく、日本全体の利益を最上の価値とするようになっており、そのためには朝廷や幕府の命令も敢然としてはねつける気構えに至っていたのであった。この点では、無断調印にオーケーを出した直弼は、やはり徳川家の私的利益を最上とする頑迷な封建制論者の域を超えることは出来ていなかったのである。

注1)徳川慶恕(後に慶勝)は、尾張藩の支藩である美濃国高須藩の第10代藩主松平義建の次子。母は水戸の徳川治紀の女であり、徳川斉昭は叔父にあたる。1849(嘉永2)年、長らく幕府からの養子が続いたあとの尾張徳川家を相続する。実弟に、尾張藩主となる茂徳(〔もちなが〕、或いは〔もちのり〕)、会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬がいる。

(4)押しかけ登城で斉昭ら処分さる
 1858(安政5)年6月21日、日米修好通商条約の調印を終えた直弼は、堀田正睦、松平忠固の登城を停止し、23日には、両人の老中職を罷免した。堀田は京都からの帰府後、一橋派に公然と傾いたため、直弼の忌諱に触れたが、ハリスとの交渉のため処置が延ばされていたのであり、結局、条約勅許の獲得に失敗した責任をとらされたのである。忠固は、自説に固執し幕閣と協調を欠き、ついには直弼と権勢を争ったためである。そして、同日、太田資治・間部詮勝・松平乗全を老中に新任あるいは再任し、太田を老中首座とした。
 同じく6月23日、一橋慶喜・田安慶頼が不時登城(登城日は、各人決められていた)し、大老井伊直弼らに対し、条約無勅許での調印を問詰する。6月24日には、徳川斉昭・徳川慶篤・徳川慶恕(慶勝)・松平慶永が不時登城し、条約調印問題で井伊大老を問詰する。慶永はまた、久世老中に対して、将軍継嗣の発表延期を強く説いた。一橋慶喜・田安慶頼は前日に続いて定日登城し、井伊大老や諸老中に面会し、再び問詰する。
 この時、『昨夢紀事』十四(P.270~271)は、城中の様子を次のように描いている。

一、 諸有司輩(*一橋派のこと)、今日こそ老公(*斉昭)の大議論にて忠邪黒白も分るべけれとて、已(すで)に大老初の談判となりしより、事の子細も泄(も)れ聞(きこ)ゆるやと、させる〔*さしたる〕所用もなきを用あり気(げ)に、代る代る松の御廊下を往来して、少々声高に声(聞)えし時は、今や老公の暴論の出たるぞや抔(など)いひて、片(固)唾(つば)を呑み耳を欹(そばだて)たりとぞ。
一、 已(すで)に御談済(すみ)たる後、閣中定(さだめ)て蕭索(そうさく *めぐり惑うさま)粛然たらんと思ひしに、案の外、大老・閣老呵々(かか)大笑して?遽(そうきょ *急ぐさま)甚(はなはだ)しかりば、大久保右近将監(*忠寛、5月20日駿府町奉行より禁裏付に任命)堪(こら)え兼て、京都の事を伺ひに托して大老に謁し、其序(そのついで)に今日は珍しく御三家方の不時御登城なりしが、如何(いか)なる御用候ひしやと問ひたるに、大老何か色々申立られたれど、さしたる事にもあらず。老公老公と鬼神の如くいひしかど、おもひの外(ほか)何ばかりの事もなしと打笑(うちわら)はれしとぞ。
一、老公語(ご)窮する時は、越前を呼べ呼べと仰せられ、大に窮して越前を呼べと御座を立給(たちたま)ひし事もあり、越前を頼みに御登城ありしが、老公といひて、恐ろしき事にい(言)ひもおも(思)ひもしたるものを、御老耄(ろうもう)ありしにや、今日の御様(おんさま)体(何カ)んぞをかしけれと、閣中にて大笑(おおわらひ)せられしとぞ。/......

 越前は格が違うために、この場に出られず、越前頼みの斉昭が直弼らに物笑いにされたというのである。『昨夢紀事』は、最後に「一、今日 事のならざるのみならず、老公多年の威名、今日に至って烏有(うゆう *全く無いこと)となれりと、諸有志の失望限りなしとぞ。」と締めくくっている。
 しかし、この政治的闘いの帰趨は、6月23日、慶喜と慶頼が不時登城し、慶喜が井伊大老や老中たちと面談した際の態度で既に決まっていたのである。このとき、慶喜は(A)条約問題で井伊大老らを詰問し、(B)将軍継嗣問題での自己の態度を表明している。
 慶喜は、(A)では、一つには、条約調印について、"大老は知っていたのか""将軍は御存じだったのか"とたたみかける。直弼は、これらにただ"恐れ入り奉り候"と繰り返すばかりであった。"貴殿は反対だったが、堀田や松平忠固が無理に強行したのであろう"と言うと、"否、自分も同意した"と答える。"それはけしからぬ。違勅になるのをどう思うか"1)と詰問すると、"自分もそう思って初めは反対したが、多勢に無勢で仕方なく賛成した"と答えた。直弼は、真面目に答えるつもりはなく、その場をただやり過ごすことに注力したと思われる。
 次に慶喜は、二つ目の追及では、勅命に反した条約調印を、老中たちの手紙で、しかも単に事務的な宿次で送ったことを批判した。直ちに、直弼が京都へ行って「申し開き」をせよと叱責した。これについては、直弼は恐れ入って、"いずれ自分か他の老中が上京いたします"と答えている。
 (A)の問題では、直弼は慶喜に対してあくまでも「低姿勢」であった。しかし、(B)の問題になると、直弼は内心「しめた」と思ったにちがいない。というのは、将軍継嗣問題で、慶喜が慶永など慶喜擁立派と明確に異なる態度を示したからである。すなわち、慶喜は自ら将軍養子の件はどうなったのかと尋ねた。これに対し、直弼は顔色を変えて、ただ"恐れ入り奉り候"と繰り返すばかりであった。慶喜が、"決まったのかまだ決まっていないのか"と尋ねても、直弼はやはり"恐れ入り奉り候"でしかなかった。そこで慶喜が、紀州殿に決まっているのではないかと問い詰めると、ようやく"そうである"と答えるのであった。そこで慶喜が、"紀州殿はお弱いと聞いていたがそんな様子でもなかった。御幼年であるから心配だと懸念する向きもあるが、お前たちが補佐してくれれば不足はない。自分も徳川のために奉公するから......"と述べると、直弼は大いにありがたかったのであった。慶喜は、"自分に野心がないことは既に堀田正睦、松平忠固(ただかた)に伝えてある。久世広周も知っているはずだ。"といって、紀州殿に決定したことを早く発表するのがよい、とまで勧めている。
 ここまで、慶喜が将軍継嗣継嗣問題で明らかな態度を示したのでは、慶喜擁立派は敗北するのは眼に見えている。
 6月25日、幕府は、登城した三家・三卿以下諸大名および幕吏に対して、紀州藩主徳川慶福(よしとみ)を将軍の継嗣に決定した旨を正式に発表した。
 この間の一橋派などの幕閣への抗議について、吉田常吉氏は、「三家の不時登城にせよ、松平慶永の大老面責にせよ、表は違勅調印を責めているが、内実は継嗣公表の延引であった。彼等は条約の調印は時勢の流れと受け止めており、むしろ将軍家の私事である継嗣の決定を重大視し、違勅調印を駆け引きの具にして、あわよくば紀州慶福を一橋慶喜にと逆転を図ったのである。それがことごとく失敗して、一橋派同志の失望は大きかった。」(同著『安政の大獄』P.200)という。
 将軍継嗣問題が単純に「私事」と言うのには語弊があるが、攘夷派と開国派が混在する一橋派にとって、将軍継嗣問題で結束を図らざるを得なかったのである。そして、当時の身分制の下では、将軍の意志が不可侵絶対であり、それは逆に言えば、将軍さえ確保したならばいかなる政治問題も自派あるいは自己にとって有利に進め得るのであった。しかし、それが成功した場合、次は一橋派内の対立になり得るであろうが......。
 7月5日、今度は老中の逆襲が始まり、慶喜は登城停止を命じられる。斉昭には謹慎2)・蟄居(ちっきょ)、慶勝・慶永には隠居・謹慎、慶篤(水戸)には登城停止が命じられる。そして、7月6日、将軍家定、島津斉彬が死去する。この日、水戸藩主・徳川慶篤は、登城禁止を命ぜられる。
 新将軍が決定した後も、井伊大老らの追撃は止まず、1859(安政6)年8月27日、慶喜は隠居・謹慎を命じられ、8月28日、斉昭は永蟄居、慶篤は差扣(さしひかえ)3)の処分が命じられる。(慶篤の差扣は9月30日に免除される)
 こうして、10月25日、徳川慶福(家茂)が、第14代将軍に就任する。

注1)水戸徳川家出身の一橋慶喜にとって、徳川一族意識も強かったが、それ以上に尊王意識は強烈である。慶喜は、小さい時から江戸より水戸に住まわされ、斉昭からも厳しい教育を受けた。慶喜晩年の証言であるが、「若(も)し一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときあらんか、我等はたとひ幕府に反(そむ)くとも、朝廷に向ひて弓引くことあるべからず。これは義公(*光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」(松浦玲著『徳川慶喜』P.51~52)と、教訓を受けたと言われる。
2)徳川幕府の時代には、武士に関しては、自宅に閉居させて外部との接触を禁ずる刑が発達したが、制度的には閉門・逼塞(ひっそく)・遠慮が一般的である。謹慎は上級武士に適用される例外的なものである。その内容は、通常、逼塞と同じく門戸を閉じて昼間の出入りを禁じ、遠慮よりは重いといわれた。
3)差扣(差控)は、江戸時代、武士または公家の責任問題(自己あるいは他者のことにかかわらず)が発生した場合、居宅に籠居・謹慎させることをいう。当人は、この際、直ちに支配の役人に差扣伺いを出した。伺いを出すと"差扣に及ばず"という下命が出される場合と、事情によっては御役御免・御番遠慮・御目見遠慮などが命ぜられる場合がある。差扣になると、居宅の門を閉じて籠居するが、昼での潜り門から目立たないように出入りすることは許された。差扣には、決まった期間の定めはない。

(5)一橋派の最後の闘いと孝明天皇の反撃
 条約調印と将軍継嗣の二大問題に区切りをつけた幕閣は、老中連署で止むを得ず条約調印したことを告げる奉書を6月21日に朝廷に送り、この奉書は27日夜に着いた。事情を説明する特使の派遣さえもなかった。ただ、小浜藩主酒井忠儀(ただあき)の所司代任命を奏聞(そうもん *奏上)し、また老中間部(まなべ)詮勝(あきかつ)を条約調印弁疏(べんそ *弁明)のために、近々上京させる旨を奏聞していた。
 幕府の奉書は、翌6月28日に奏聞された。このときの様子を後に近衛左大臣が「戊午の密勅」を水戸藩留守居見習いの鵜飼幸吉に示した口達の中でで、次のように述べている。すなわち、「主上(*孝明天皇)殊(こと)の外(ほか)御憤激ニて仰せ出だされ候。三家始(はじめ)諸大名赤心(せきしん *真心)承(うけたまわ)り候上(そうろううえ)相決し申すべき旨(むね)申し置き候を、伺(うかが)い無く調印致し候段、朕(ちん *天皇の自称)ハ有れども無(なき)も同様の事、神宮(*伊勢神宮)始(はじめ)え対し候ても申し訳(わけ)之(これ)無く候間(そうろうあいだ)位を譲り引き込み申すべきと以ての外の御様体ニて仰せられ候......」(『水戸藩史料』上編坤 P.242)と。孝明は、「伺い無き調印」を怒り、これでは「朕ハ有れども無も同様」と、自己の存在が全否定されたことに怒りを爆発させ、譲位すると言い放ったのである。
 激怒する孝明天皇は、6月28日、参内した公卿たちに次のような勅書を示した。

条約を結ぶことは、どうしても神州の瑕瑾(かきん)であり、天下の危亡のもとであり、どこまでも許可し難い。しかるに幕府が条約調印したとあっては、まことに存外(ぞんがい *思いのほか)の次第で、じつに悲痛などといっているぐらいのことではなく、言語に絶することである。このうえは考えることはなにもない。自分がなまじいに天皇の位にいて、世を治めることは、しょせん微力であってできない。こうなっては、このまま位についていて聖跡を穢(けが)すのも恐れ多いので、まことに嘆かわしい次第であるが、英明の人に帝位を譲りたく思う。さしあたり祐宮(さちのみや *後の明治天皇で当時7歳)がいるが、天下の安危にかかわる一大事のときに、幼年の者に譲ってもしかたのないことであるから、伏見・有栖川(ありすがわ)の親王のだれかに譲りたい。(小西四郎著『日本の歴史』19開国と攘夷 中公文庫 P.133~134)

 譲位とは、天皇個人にとっては最後の政治的手段であり、孝明の怒りがいかに物凄いものであるか―よく分かる。孝明は、この事態を速やかに関東に通達すべきと言って、そのまま引籠ってしまった。他の公卿たちが退出するなかで、九条関白のみ残り拝謁を願い、ようやく夕方になって対面でき、九条関白は譲位を思い留まるように慰留し、また三家・大老の内の者を招致し、事情を尋問することとした。この結果、翌6月29日、三家・大老のうち一人が早々上京すべし―との召命が幕府に下った。この召命が江戸に届いたのは、7月6日であった。
 しかし、幕府は、尾張・水戸家は謹慎中であり、大老は米露の軍艦が入港し、さらに英仏の軍艦数十艘が渡来する風聞もあり、これらへの対処で忙しく暫時の猶予を賜りたいとした。そして、不日上京する間部閣老および酒井所司代から垂問(すいもん *上から下へ質問を行なうこと)を賜りたいと奏聞した。これは、体よく朝命を拒絶するものであった。その後、幕府は、7月10日にオランダと、同月11日にロシアと、同月18日にイギリスと次々に修好通商条約に調印し、これらを事務的に朝廷に報告した(フランスとの調印は9月3日)。朝幕関係は、ますます疎隔状態を強めるようになっていくのであった。
 ところで、京都は学問の中心的な都市でもある。当時、有名な学者は、梁川星巌・梅田雲浜(うんぴん)・頼三樹三郎(*頼山陽の男)・池内陶所などであった。彼等は、塾をひらいて子弟に教授するとともに、宮・堂上の諸家に出入りし、盛んに「尊王攘夷」を説いたのであった。
 直弼に完璧にへし折られた一橋派は、ふたたび宮・堂上に入説(にゅうぜい)し、朝命によって局面の打開をはかろうと最後の努力をふりしぼった。すなわち、「将軍継嗣の内定を知った近藤了介(*橋本左内の先の京都入説で、その指揮下で奔走した)は、すでに青蓮院宮の家臣伊丹蔵人に違勅を理由に再度の勅諚降下の周旋を依頼していた。また江戸では薩州藩士の堀仲左衛門(後の伊地知佐貞馨〔さだか〕)・有村俊斎(後の海江田信義)らが主君島津斉彬の意を受けて橋本左内らと連絡を保って奔走していたが、継嗣の発表を聞くと、六月二十七日堀は書簡を橋本に送って、青蓮院宮・近衛家に入説して、勅諚をもって慶喜を継嗣とすること、もしこの策が行われ難ければ、慶喜を将軍の後見に、慶永をその補佐とするようにとの列侯の建策上奏によって勅命を下されたく、その上で彦根・上田(*松平忠固のこと)の両候を打倒して、政治を正道に復させるべきであると説得していた。一橋家家臣平岡円四郎もまた大老の打倒を唱えていた」(吉田前掲書 P.211~212)といわれる。
 左内・平岡や水戸・薩摩藩士らは、大勢を挽回しようと謀議をかさね、元水戸藩士(薩摩藩士の父が事情により水戸藩士となる)で薩摩藩に復帰した日下部(くさかべ)伊三次を京都へ派遣することにした。7月9日に江戸を発ち19日に京都に入った日下部は、翌日早速、水戸藩京都留守居の鵜飼吉左衛門・幸吉父子に会い相談し、22日に、先の内大臣三条実万(さねつむ)に謁見し、江戸の近況を報告し、"幕府の条約調印と将軍継嗣の決定は違勅であり、実万より井伊大老に説いて、自らその職を去らしめるか、これが不可能なら、尾張・水戸・越前の三侯の謹慎を勅諚によって解くこと、また幼年の将軍(*家定は7月6日に死去)を補佐するために一橋慶喜を継嗣とすること、もしこれが叶わなければ、斉昭を「副将軍」として後見させること"を入説した。これに対し実万は、"水戸藩がこの後の重責に耐えられるか"と質す。日下部は、多少の不安を抱きながらも、水戸藩はその任を果たすと答えたといわれる。
 さらに、日下部は、「三条家諸大夫丹羽正庸(まさつね *豊前守)・同家家士富田織部(基建)らの同志と往来し、また左近衛権中将阿野公誠(きんみ)を訪れて、水戸藩への勅諚の降下を入説した。」(同前 P.213)のであった。
 島津斉彬は、井伊大老の専制を矯正しようと、薩摩に戻っていた西郷吉之助をふたたび京都に送り込み、周旋を命じた(斉彬は7月6日に急逝する)。西郷は、7月14日に入京し、梁川星巌などの処士(しょし *仕官していない在野の人)をはじめ、清水寺成就院の僧月照(青蓮院宮と懇意)、久我家諸大夫春日潜庵、長州藩士大楽(だいらく)源太郎らと連絡を取り合い、一橋派の巻き返しに奔走した。西郷は、7月下旬主君斉彬の訃報(ふほう)に接し、深く絶望し帰国しようとしたが、僧月照らの同志に励まされ工作を続ける。そして、日下部らの勅諚降下の運動を支援するのであった。
 朝幕関係の緊迫化が強まると、京都では流言蜚語(りゅうげんひご *いい加減な噂)が盛んに飛(と)んだ。その極めは、"井伊大老が7月5日に江戸を発ち、彦根に寄り、兵4000を率いて15日に近江蒲生郡の武佐宿に泊まり、その後入京する"というものである。噂(うわさ)は噂を呼んで、"大老は、天皇を強要して鳳輦(ほうれん *天皇の乗る輿〔こし〕を指すが、天皇自身を意味するようになった)を彦根に移す"とまで噂が流布(るふ)された。
 噂の流布も含めて、朝廷では激しい勢力争いが展開する。
 前々から太閤は内覧の辞退を望んでいたが、7月27日、その鷹司政通の内覧が罷(や)めさせられた。その背景には、一つは、幕府寄りの九条関白の思惑があった。というのは、太閤の息子の鷹司輔煕がかねて九条関白の辞職を勧告したが、九条関白は、これを政通の入れ知恵と疑念した。さらには政通が孝明の譲位を諌止(かんし)しなかったことをもって、新たな幼帝を利用し自らが摂政となって近衛左大臣を関白に据え、朝政を左右する―と、疑念をますます強めた。これらにより、九条関白は讒奏(ざんそう *人をそしる奏上)して、天皇に政通の内覧辞退を許すように請うた。
 もう一つは、孝明天皇の思惑である。孝明は井伊大老ら幕府の攻勢に焦りを強め、朝廷内の結束を自己の下に進めるうえで、その疎外物として次第に太閤と九条関白に定めた。孝明は、まず第一弾として、その一人である太閤の「内覧辞退」を認め罷免した。次の標的は、関白九条尚忠である。
 同じ7月27日、天皇は九条関白を召して、次の勅書を示し、議奏・武家伝奏と評議するように命じた。
①関東に於いて、三家以下を厳罰に処したのだから、幕府より賄賂を受け、幕府に追従すると弾劾された前武家伝奏・東坊城聡長(ときなが)に対しても、穏便の処置でなく「急度慎(きっとつつしみ)」または落飾(らくしょく *髪を剃り落して僧になること)に処して、公家の人気を鎮めるのが正道ではないか。
②大老が上京して遷座(せんざ *天皇を御所を遷〔うつ〕すこと)を申し出るかもしれないのだが、桓武天皇以来の京都を立ち退くことは出来ない。もし関白がこの遷座に同意であれば、過日いらいの譲位を速やかに執り行うべきである。
③間部閣老や井伊大老の入京に備え、条約調印の件について衆議を尽しておくべきである。1)
 しかし、九条関白は、御前を退いて議奏・武家伝奏と評議した確かな良策も生まれず、近衛左大臣以下へ勅問する程度であった。
 8月に入ると、孝明の譲位の意志はますます固くなる。「......四日宸翰(しんかん)を関白に下して、間部閣老の上京までに沙汰することがあるから、明日参内すべきこと、議伝両役(*議奏・武家伝奏のこと)の参集とを命じた。翌五日関白および議伝両役が参内すると、天皇は一同を御前に召し、勅書の拝見を命じた。すなわち譲位の勅書で、(一)条約調印は違勅に当る事、(二)三家・大老の内の召命を拒んだ事、(三)露国とも条約を結び、英仏とも同断の旨を届け棄てに奏上した事、右の次第を捨て置いては朝威が立たず、いかに政務を関東に委任してあるとは申せ、天下国家の危亡にかかる大患をそのままにしてはいかがあるべきや、国家万民のためとて申し遣わした事の一つも貫徹しないのは、朕の薄徳の致す所であるから、関東詰問と譲位の両条を衆議の上、速やかに関東に通達すべし」(吉田前掲書 P.219)と命じた。
 九条関白は勅旨を拝して恐懼し、退下して、両役と相談したが、なかなか良い知恵は生じなかった。そこで、国事の諮問にあたる近衛忠煕左大臣・鷹司輔煕右大臣・一条忠香内大臣の三公および前の内大臣三条実万に勅意を伝え、その意見を聞いた上で評決することとした。
 8月6日夜、近衛ら4人は、会同して対策を練ったが、その中で、三条実万が日下部伊三次から水戸藩への降勅の入説を受けていた関係から、「密勅降下」の方法にとることとした。すなわち、勅諚を斉昭に下して、①関東の役人を問詰し、②内政を改革し、③外侮を防禦する―という3つの事を行なわせ、かつ、二、三の大藩に命令して、斉昭を補佐させれば、叡慮を貫徹させるというものである。しかし、この内容は抽象的かつ一般的なものであるばかりでなく、幕府に敵対して行動し得るか否か、斉昭や二、三の大藩の実効性が極めて不確実なものであった。しかし、この案は強行された。
 翌8月7日、近衛忠煕ら4人と議奏・武家伝奏が参内した。朝議の前に、近衛が天皇の御前に召され、昨夜、三条らと内談して決定した計策を天皇に示した。孝明はこれを嘉納し、これまでの譲位を止めた。次いで朝議が開かれ、「密勅降下」の計策が合意された。ただし、将軍継嗣が決定された事情を勅問することは中止となった。
 九条関白は、この日の朝議には、欠席した。後日の責任を回避するために参内しなかったのである。

注1)吉田常吉著『安政の大獄』吉川弘文館 1991年 P.218~219

(6)「戊午の密勅」が下る
 8月7日の深夜、勅諚の降下が治定して、翌8日、武家伝奏・万里小路大納言は水戸藩の京都留守居・鵜飼吉左衛門を呼出し、勅諚を授けた。10日には幕府の禁裏付大久保忠寛へ、同文のものが下った。それは以下のものである。

先般墨夷〔との〕仮条約(*幕府は「仮条約」と報告していた)余儀なき次第ニて、神奈川に於いて調印〔せる〕使節へ渡され候儀、猶又(なおまた)委細〔は〕間部下総守上京〔し〕言上に及ばるの趣(おもむき)候へ共、先達(せんだっ)て勅答〔の〕諸大名衆議〔につき〕聞し食(め)されたく仰せ出だされ候。詮(せん)も之(これ)無く誠〔に〕皇国重大の儀、調印の後(あと)言上す。大樹公(*将軍のこと)、叡慮の御伺いの御趣意も相立たず、尤(もっとも)勅答の御次第ニ相背(あいそむ)き軽卒の取計い、大樹公賢明の處(ところ)有司心得(こころえ)如何(いかが)と御不審思し召され候。右様の次第にてハ蛮夷(ばんい *「開国」を迫る西洋の国々を指す)の儀(ぎ)暫(しばら)く差置き、方今(ほうこん *ただいま)御国内の治乱如何(いかが)と更に深く叡慮(えいりょ *天皇を指す)を悩まされ候。何卒(なにとぞ)公武〔の関係の〕御実情を尽くされ、御合体・永久安全の様(よう)にと偏(ひとへ)に思し召され候。三家或(あるい)ハ大老上京仰せ出だされ候處(そうろうところ)、水戸尾張両家慎(つつしみ)中の趣(おもむき)聞し食され、且又(かつまた)其の余〔の〕宗室(*一族の家)の向きにも同様御沙汰の由も聞し食され候。右ハ何等(なんら)の罪状に候哉(や)計られ難く候へ共、柳営(りゅうえい *将軍の居る所。幕府)羽翼(*味方)の面々、当今(とうこん)外夷(*外国)追々入津(にゅうしん)不容易の時節、既ニ人心の帰向(きこう *心を寄せること)にも相拘(あいかか)わるべく、旁(かたがた *どのみち)宸衷(しんちゅう *天子の御心)を悩まされ候。兼(かね)て三家以下諸大名衆議〔を〕聞し食されたく仰せ出だされ候は全(すべ)て永世安全・公武御合体ニて叡慮を安んじられ候様思し召され候儀、外虜(がいりょ)計(ばかり)儀にも之(これ)無く内憂(ないゆう)之(これ)有る候てハ殊更(ことさら)深く宸襟(しんきん)を悩まされ候。彼是(かれこれ)国家の大事に候間、大老閣老その他三家三卿家門列藩外様(とざま)譜代(ふだい)共(とも)一同群議(ぐんぎ *衆議)評定(ひょうじょう *相談して決めること)之(これ)有り、誠忠の心ヲ以て得と(とくト)相正し、国内治平、公武御合体彌(いよいよ)御長久の様(よう)、徳川御家を扶助(ふじょ)之(これ)有り、内(うち)を整え、外夷の侮(あなどり)を受けざる様にと思し召され候。早々商議致すべく勅諚の事。
(『水戸藩史料』上編坤 P.238~239)

 これが、いわゆる「戊午(ぼご)の密勅」である。なお、水戸藩への「密勅」には、以下のような武家伝奏の「別紙」も付いていた。

勅諚の趣(おもむき)仰せ進められ候。右は国家の大事ハ勿論(もちろん)徳川家を御扶助の思し召しに候間、会議之(これ)有り。御安全の様(さま)勘考(かんこう)有るべき旨(むね)以て出格(しゅっかく *破格)の思し召し仰せ出だされ候間、猶(なお)同列の方々(かたがた)三家・家門の衆以上隠居に至る迄(まで)、列藩一同にも御趣意相心得(あいこころえ)候様向々(むきむき)へも伝達(でんたつ)之(これ)有るべく仰せ出でされ候。以上。
  八月八日
尚々老中への奉書も今日仰せ出だされ候事。
(上包)
 水戸中納言殿              広 橋 大納言
                     万里小路大納言

 幕府に対しての「戊午の密勅」は、8月19日に到着したが、それにも「添書」と伝奏の「別紙」が付けられていた。これは、九条関白の幕府に対する配慮に基づくものである。 
 その「添書(そえしょ)」には、「......何分(なにぶん)蛮夷〔の〕事件ニて、関東に於ても大改革の御時節ニ候得(そうらえ)バ、万一此上(このうえ)公武御隔心(かくしん *心にへだてがあること)がましき儀(ぎ)之(これ)有り候てハ甚(はなはだ)以て叡慮悩まされ候間、格別の儀を以て御隔意(*隔心)無く仰せ進められ候間、此段(このだん)悪しからず御聞き取りに相成(あいなり)候様(そうろうよう)遊ばれたく御沙汰の事」と書き込まれている。九条関白は、この密勅をもって、「公武御隔心」にならないようにと、幕府は理解して欲しいと願ったのである。
 「戊午の密勅」は、2つの点で、これまでにない方法で決定された勅諚(みことのり)であった。
 一つは、関白を排除して、「密勅」が決定されたことである。これは、江戸時代を通じて、一回もなかったことである。
 二つ目は、勅諚が幕府の頭越しに、御三家・家門はいうまでもなく、諸藩に(水戸藩を媒介に)通達されるべきとされたことである。これもまた、前例のないことである。また孝明天皇の命令によって、勅諚の写しが薩摩・長州・尾張・越前などの有力藩にも伝えられた。その間に立ったのはそれら諸藩と縁故のある公卿であった。
 孝明が「戊午の密勅」の意味するところをどれ程自覚して強行したかは、不明である。だが、客観的に見て、「戊午の密勅」は、朝幕間の全面対立をもたらすものである。「密勅」では、天下重大のおり、「公武合体」を願うとされているが、その文面とは180度異なり、朝幕間の非和解的対立にいたる筋合いの内容である。
 ここで一つ疑問と言うか、違和感がある。それは、「密勅」と言っても水戸藩だけでなく、二日遅れで幕府にも渡されている点で、どうも現代人の感覚で言う、「密勅」イコール「秘密の勅諚」とは異なるようである。そこで久松潜一・佐藤謙三編『古語辞典』(角川書店)をみると、「密(ひそ)か」の漢字表現として、「窃か」、「私か」が同類のものとして掲載されている。「密かにす」の意味では、「わたくしする。自分の思うとおりにする。」とある。その用例には、『平家物語』四・南都牒状の「ほしいままに国威を密かにし、朝政をみだり」とある。
 以上を踏まえると、「戊午の密勅」とは、正式な手続きをとらない(孝明天皇の思うとおりにする)勅諚―という意になる。

 (7)直弼の命令で大弾圧
 (ⅰ)密勅にかかわる者を次ぎ次ぎと逮捕
 「戊午の密勅」は、1858(安政5)年8月8日、水戸藩の京都留守居・鵜飼吉左衛門に授けられた。吉左衛門は、即日、子息である京都留守居見習いの鵜飼幸吉に命じて東下させた。ほぼ時期を同じくして、日下部伊三次(くさかべいそうじ)も、三条実万から勅諚の写しを受けて別ルートの木曽路を東に急いで下った。8月16日深夜、幸吉は江戸の水戸藩主慶篤の下に勅諚をもたらした。慶篤は、勅諚のことを駒込藩邸に謹慎中の斉昭に告げ、その意向を聞いて、翌17日、捧受した。そして、武家伝奏宛ての請書をしたため、京都へ帰る幸吉に托した。
 8月19日、登城禁止中の慶篤は老中の太田資始(すけもと)と間部詮勝(あきかつ)を藩邸に招き、水戸藩に降った勅諚を披露(ひろう)した。そして、慶篤は、将軍の御威光を考えれば、御三家と御三卿以外は、幕府からこの勅諚を廻達する方がよいと述べた。「これに対し、幕府は、水戸藩から御三家・御三卿へ勅諚を廻達することには同意したものの、列藩一同への廻達は、幕府の手によるか否かの問題を含めて、いっさい拒否した。さらに、この諸侯への廻達問題は、老中の間部が上洛したうえで朝廷に返答すると、水戸藩関係者に応えた」(家近良樹著『幕末の朝廷』P.282~283)と言われる。
 この間、登城をひかえていた井伊直弼は、8月20日、事態の緊迫化を感じ、病をおして登城し、8月8日付けの勅書(「戊午の密勅」)への奉答書を武家伝奏に進達した。それには、「亜墨利加(あめりか)仮條約(*幕府は当時「仮條約」といって糊塗していた)調印相渡し候儀ニ付(つき)、去る八日仰せ出だされ候勅諚の御書付御別紙御書取共(とも)昨一九日到著(到着)拝見奉り候。然(しか)ル處(ところ)八日公方(*将軍家定)様薨(みまかり *薨去)御遊ばされ候ニ付(つき)委細上様(*新将軍慶福)へ言上に及び候。先ず取り敢えず此段(このだん)御請け申上げ奉(たてまつ)り候」(『水戸藩史料』上編坤 P.249~250)と、とりあえず受け取ったとの返答に止まっていた。
 同月20日、慶篤は勅諚奉戴のことを祖廟に告げ、また藩士にも内達して、大いに喜んだ。そして、勅命にそって前中納言徳川慶恕(尾張・紀州藩にはすでに伝達されている)に伝達するよう、その準備を整えていた。しかし、幕府の横やりでそれは叶わなかった。
 その後も、慶篤は8月21日、24日、27日、28日と老中(太田資治・間部詮勝)を招き、諸藩への「勅書伝達」を迫った。しかし、結果は、同じ言葉のやり取りがただ繰り返されただけであった。
 8月29日、大老井伊直弼は、勅諚に対する上奏文案を閣議に提出した。「其(その)大意は朝廷より直ちに勅諚を水戸家に降されしは古例なきことにて争乱の基なるを以て其の伝達を差止めたり、その詳細は間部詮勝をして奏聞せしむべし」(同前 P.266)というものであった。
 同日夕、太田・間部の2閣老が水戸藩邸を訪ね、「慶篤に告げて曰(いは)く、勅書伝達の事は幕府の允(ゆる)さざる所なり、朝廷に対する事は総(すべ)て詮勝に委託して可なりと、慶篤其の失体(失態)を論じ直ちに列藩に伝達すべしと対(こた)へしに、資始(すけもと)等百方之(これ)を抑へ幕命に背くは実に容易ならずとの意を告げ且(か)つ婉詞(えんじ *遠回しの言葉)巽語(そんご *穏和な言葉)を以て暗に斉昭を疑ふの意を陳弁し去れり」(同前 P.268)と言われる。
 ところで、再任の京都所司代酒井忠義は既に8月16日に江戸を発ち、9月2日に着任した。間部詮勝は、その9月2日に江戸を発ち、同月17日に、京都妙満寺に着く。この間の8月28日、直弼の懐刀の長野義言(主膳)は、桑名宿で酒井を待ち受け、尊王攘夷の志士たちの逮捕を進言している(長野はすでに8月3日に入京し、反幕派の公家や諸藩の勤皇の志士たちの動静をさぐっていた)。
 その頃朝廷では、孝明天皇の九条関白排除の動きが、急をなしている。9月2日、孝明は近衛左大臣・鷹司輔煕右大臣・一条忠香内大臣・三条前内大臣などに勅書を下し、幕府寄りの九条関白の辞職を勧告した。そして9月4日には、九条関白の内覧を罷(や)め、左大臣近衛忠煕に内覧を宣下した。
 これに対し、「九月十日直弼は書簡を詮勝に送って、去る二日九条関白が辞職を強要されていると報じ、関白がなお在職中であれば、尚忠を通じて関東の真意、すなわち『折角(せっかく)御国体を思召(おぼしめし)候(そうろう)有り難き叡慮も、却(かえっ)て争端之(の)基と相成るべきに付(つき)、如何様(いかよう)にも御丹精、関東之御処置は、御国体を厚く思召候処(ところ)より、勅答も済まざる内にも条約御許しに相成候』との趣意を叡聞に達すべしと述べ、さもなければ奸賊(*斉昭をはじめとする反幕派)のために万民塗炭(とたん *非常な苦しみ)に陥るであろうと断じ、
 兼(かね)て御承知之(の)奸賊手先之(の)者共(ものども)初(はじめ)、一々御召
 捕(おんめしとり)厳しく御吟味候はば、奸謀相顕(あいあらは)し、君側之悪人御除
 き成され候御手段も付き申すべく、将軍家茂我意(わがい)之(の)振舞(ふるまい)
 抔(など)と奸賊申し唱へべく候へ共(そうらへども)、実に危急存亡之(の)秋(とき)
 に付(つき)、御英断御座候様支度(したく)、(『井伊家史料』十)
と、君側の悪謀方(あくぼうかた)を取り除くために、ついに奸賊の一網打尽を命じた」(吉田常吉著『安政の大獄』P.234~235)のである。
 他方、京都に向かう途中の、「九月十三日間部閣老は美濃加納宿で直弼の書簡に接すると、早速詮勝は、九条関白の辞職が決定しないうちは、尚忠を通じて奏聞が可能で心強いと述べ、斉昭に宥免(ゆうめん *罪を許すこと)の勅命が下ったら一大事とし、岡礫仙院(おかれきせんいん)を吟味すれば、斉昭の将軍毒殺の陰謀が露顕するであろうといい、かつ江戸においても上京した水戸藩士を逮捕されたいと、東西呼応して一味の逮捕に当る必要を説き、己れもこの度(たび)天下分け目の御奉公と存じ、一命にかけて勤めるとの決意を述べた。この日直弼はまた間部閣老に書簡を送って、関白・武家伝奏の更迭について家茂に天皇からの指示があるまでは、新任の方々には申し述べ難いとの心得方を示し、なお伝手(つて)を求めて、水戸の陰謀、堂上方の奸計の次第を叡聞に達するよう取り計らうことが肝要であると述べ、志士の逮捕に酒井所司代が弱気になったらしいと伝えた。その酒井所司代にも、この日直弼は書簡をもって、近藤茂左衛門を初め奸人手先の一網打尽を命じ、かつ九条関白の辞職を阻止するように指令した」(同前 P.235~236)のであった。  
 これで、世にいう「安政の大獄」が開始されるのであるが、しかし実際には、弾圧はすでその直前からに始まっていたのである。
 酒井所司代は、8月28日に桑名宿で直弼の家臣長野主膳(義言)から梅田雲浜ら志士の逮捕を進言されていた。しかし「酒井は朝廷をはばかり、はじめその逮捕に消極的であったが、......上京の翌日(*9月3日)関白辞任(*正確には内覧罷免のこと)の通報を受け、五日には京都町奉行所に処士(しょし)近藤茂左衛門が拘留され、これから廷臣と尊攘(*尊王攘夷)志士との連携が明るみに出るに及んで、七日、ついに雲浜の逮捕に踏み切った」(瀬谷義彦・鈴木暎一共著『流星の如く』NHK出版 P.69)のである。
 9月5日に東町奉行所に逮捕された近藤茂左衛門は、信州松本で大名主を勤め、また問屋を営む豪商(屋号堤屋)である。8月3日に上京していたが、実弟の山本貞一郎(弘素〔ひろもと〕)の罪に連座して逮捕されたのであった。
 貞一郎は江戸浅草向島に住む風流人(和歌をたしなみ、書も巧み)であるが、水戸藩邸に出入りし、同藩有志に知己が多く、斉昭にも知られていた。尾張・水戸・越前の藩主
らが謹慎の処分を受けると、兄とともに上京して、その兄の伝手(つて)で正親町三条家などに三侯の謹慎解除の周旋を依頼する。
 「戊午の密勅」が水戸藩に降下されて以降、貞一郎は町奉行所から警戒されるようになる。9月3日、たまたま町奉行所の目明しが近藤方を出た近藤抱えの宰領飛脚源右衛門を取り押さえた。すると、飛脚は、近藤から貞一郎の娘2人と妾の3人連名に宛てた一通の書簡を所持していた。それには、貞一郎の三侯の処分解除の行動が天聴に達したことなどが書かれていた。これにより、近藤の逮捕・家宅捜索などを通して貞一郎手記の文書も新たに発見される。こうして、反老中・勤王の志士たちと堂上方との連携が明確にされた。
 これ以降、志士たちの逮捕が始まり、史上まれにみる大獄が始まったのである。
 9月5日、近藤が逮捕(貞一郎は8月30日、当時流行したコレラで死んでいた)された日、梅田雲浜も逮捕されている。雲浜逮捕とともに、梁川星巌も捕らえられるはずであったが、星巌も数日前にやはりコレラで死んでいた。9月10日には、捜索が近辺に迫った西郷は僧月照とともに、京を脱出する。奈良方面をめざしたが、探索が厳しくこれを諦め、薩摩に落ち延びた。
 間部詮勝は1858(安政5)年9月17日に入京するが、その翌日、早速西町奉行小笠原長常に命じて鵜飼父子の逮捕を命じた。鵜飼父子は梅田雲浜が逮捕された際に、関係書類を焼却した。しかし、同月20日、草津付近で、鵜飼父子が安島帯刀(たてわき *水戸藩家老)や日下部伊三次、鵜飼吉左衛門に送った密書数通が押収された。その内容は、「戊午の密勅」降下の事情と緊迫した京の情勢を報じたものであるが、「とくに十六日夜の西郷吉兵衛の談話として、万一間部侯が暴政をあえてしたら、薩・長・土三藩は多数の兵を待機させているから、三藩の兵力をもってこれを粉砕すべしとて、『カンボウ(間部侯)位は一時に内払、直に沢山城(佐和山城、彦根城の意)へ押懸(おしか)け、一戦に踏潰(ふみつぶ)し申すべし。当時赤鬼(井伊を指す)関東へ人数多分呼下(よびくだ)し置(おき)候間、沢山城は空虚に付(つき)、一戦に落城に及ぶべしとの見込(みこみ)之(の)由(よし)』(井伊家史料十)と記している。もとより西郷の談話は一味同士の意見であって、三藩協議の上での計画ではなく、間部閣老の入京に憤激した西郷が、江戸の同志を奮起させようとしたものであった。」(吉田常吉著『安政の大獄』P.242)と言われる。
 9月17日には、飯泉喜内1)が、江戸で逮捕される。9月18日には、「戊午の密勅」を水戸藩邸にもたらした鵜飼父子が逮捕された。9月22日には、前の太閤鷹司政通の諸太夫である小林良典2)が逮捕される。その後、宮・公卿の家臣や出入りの者が次ぎ次ぎと捕らえられた。9月27日には、日下部伊三次が江戸で逮捕され、12月27日、預り中に病死する。
 10月に入ると、4日、儒者藤森弘庵(日下部や飯泉などと交友があった)が町奉行所に拘引される。5日には、日下部の息子・平裕之進が召喚され、8日には、勝野豊作(旗本阿倍四郎五郎の家来であるが、日下部の上京の際に行を伴にする)の妻や息子・森之助、保三郎が拘禁される。日下部が逮捕された時、勝野豊作は居合わせたが難を逃れ、その後水戸藩邸に投じて庇護された。居ること1年余の1859(安政6)年10月、病没した。
 梅田雲浜が逮捕されると、交流していた者は各地へ退避した。その一人である儒者・池内陶所は、知人を頼って伊勢松坂に落ちたが、10月25日夜、密かに自宅に戻り、翌日町奉行所に自訴した。老母・妻女への迫害があったためである。
 ところで、老中間部詮勝は1858(安政5)年9月17日に入京したあと、ただちに朝廷工作を行なう。まずは、九条関白が天皇支持勢力に追い落とされるのを阻止し、巻き返しを行なった。10月19日には、九条関白の辞表が却下され、九条忠尚の内覧が復された(近衛左大臣の内覧を罷む)。その上で、間部は24日に、入京以来初めて参内し、「無断調印」の事情を九条関白などに説明する。そして、10月25日、徳川家茂に将軍宣下がなされる。間部のもう一つの大きな上京目的が実現するのであった。
 今まで弾圧は、主に水戸藩と公家社会との連携に関係する人間に対するものであった。それが越前藩や伊達藩(伊予宇和島)の有志に拡大する。
 橋本左内は、この年(安政5年)7月、主君慶喜が不時登城で幕府の譴責を受け、隠居・慎(つつしみ)となった直前、病にかかり床に臥(ふ)していた。9月中旬には全快した。だが、10月22日夜、江戸の町奉行の与力・同心10余人が常盤橋内の越前藩邸を訪れ、左内の召喚を求めた。この日は藩士の遅延対応で左内は関係書類を処分できた。翌23日、左内は親戚分の滝勘蔵に連れ添われて出頭し、町奉行から牢屋敷預りを申し渡された。こうして左内は幽囚の身となるが、「飯泉喜内の関係者」という嫌疑は左内などにとって全く身に覚えのないことであった。
 京都での弾圧は、10月中は小康状態であったが、間部の朝廷での弁疏(無断での条約調印に関する)が始まるとともに、朝廷を幕府の思うとおりに威服させるため、次第に苛烈になって行く。
 11月3日には、大覚寺門跡の家士である六物空万(ろくぶつくうまん)が伏見奉行所の手で逮捕される。11月13日には、鷹司家の侍講である三国大学(越前藩重臣・中根靱負とは旧知)が京都町奉行所に拘禁される。11月30日には、頼山陽の息子である頼三樹三郎も逮捕される。
 この間、間部詮勝(あきかつ)は、九条関白へ幕府が朝廷の許可なく条約を調印した事情を、前後3回にわたって弁明した3)。その弁明は、九条関白を通して孝明天皇にも伝えられたが、孝明はあくまでも承知しなかった。しかし、弾圧が強まり逮捕者が増えるにつれ、孝明もついに譲歩せざるを得なくなり、12月末になって次のような勅書を下した。"いずれ蕃夷は、天皇の考えのように遠ざけて、前々の国法どおり鎖国の旧法に引き戻すとのことで安心した。何分とも早く、良策を立てて引き戻してほしい。条約を調印した止むを得ない事情は、了解した"と。
 京都で捕らえられた者は、1858(安政5)年の末から翌年の初めにかけて、三回にわたって鶤?籠(とうまるかご)で江戸に送られた。ときに、間部詮勝は、井伊大老の指示で、公卿の逮捕をもねらっていた。これを察知して、左大臣近衛忠煕・右大臣鷹司輔煕は辞官・落飾(剃髪して仏門に入ること)を、前関白鷹司政通・前内大臣三条実万は落飾を願い出た。
 孝明天皇は、なるべくならば落飾まではさせたくないと考えていたが、幕府側は強硬であった。1859(安政6)年2月5日、京都所司代酒井忠義から九条関白に対し、次のような処分内命が出され、その実行が促された。それによると、青蓮院宮―慎、鷹司政通・三条実万―隠居・落飾・慎、近衛忠煕―辞官・落飾、鷹司輔煕―辞官・落飾・慎、以下、多くの公卿の辞官、隠居、出仕停止などであった。これについて、天皇・関白と幕府側との折衝があったが、ほとんど幕府側の意図どおりに処分が行なわれた。

注1)元土浦藩士であったが、浅草蔵前の豪商の手代となり、中年を過ぎてから三条家に仕え堂上諸家の家臣と親交を結んだ。幕府が日米和親条約で下田・箱館を開いて神州を汚したと、厳しく批判した。1857(安政4)年12月、喜内は江戸に戻るが、京都の情報を江戸の同志に伝え、また江戸の情況を京都の同志に伝えた。喜内逮捕・家宅捜索でも多数の関係書類が押収された。
2)侍講の三国大学とともに主人の政通を直諫し、1858(安政5)年3月頃には、政通の政治的立場を幕府寄りから天皇寄りに移行させた。処分は遠島となるが、1859(安政6)年11月、人吉藩預かりの終身禁固となった。
 3)10月24日、間部らは参内する。天皇には会えなかったが、間部は小御所で九条関白ならびに武家伝送に対面し、弁明のための疏状6通と諸大名の建白書を提出した。第一の疏状は、世界の大勢を説き、今列国と戦っても必勝は期し難いから、まず条約を結び交易をして、その間に軍備を整え、その上で「和戦」のいずれかに決しなければならなかった。無許可調印の事情説明。第二の疏状は、外交の件については、親藩の中にも陰謀を企てる者がおり、堂上などに入説して幕府の処置を非難し、外患に乗じて内乱を起こそうと言う者がおり、平和を保つためにも条約調印が必要であった。第三の疏状は、斉昭の「陰謀」なるものを述べたものである。すなわち、「老侯は先年寺塔破壊・梵鐘鋳潰しによって罪を得たのを遺恨に思い、その後一橋慶喜を西丸に入れて、我意内謀を企てようと志し、また外交の事に関しては、老侯は阿部正弘に入説して幕政参与となったが、元来夷人と内通していたから、議論は和戦いずれとも一貫せず、条約調印のやむなきに至ったのは、全く老侯の謀策に相違なく、内は堀田正睦・松平忠固らと通謀し、外は公卿方へ入説して容易ならざる一条を企て、かつ前将軍(*家定)の薨去にも疑わしいことがあり、当将軍も紀州邸に住居の折(おり)と、また継嗣になってからも、危急に陥ったことがそれぞれ両三度もあり、かくては天下は大乱となるであろう」(吉田常吉著『安政の大獄』P.256)と非難している。全体的に歪曲に満ちているが、とりわけ下線部は全くのでっち上げである。極めて低劣な陰謀論である。第四の疏状は、条約調印について、「たとえ幾万の軍艦が一時に押し寄せ、たちまち戦争に及ぼうとも、大老は勅許を得た上でなくてはと固く決心していたが、大老の病気不参に乗じ、正睦・忠固の両人が井上清直・岩瀬忠震に命じて調印させたもので、その根本は幕府を非分に陥れようとする水戸老侯の奸計によるものである」(同前 P.256~257)と、ここでもでっち上げを行なっている。岩瀬と斉昭とは、思想的にも現実政治の進め方でも互いに相容れない関係にあり、条約調印の背景に斉昭の陰謀があるというのは、アクロバット的な論理操作である。ここでは、むしろ条約調印に関して、いかに直弼に信念がなかったかを逆照射している。第五の疏状は、勅書に従って改めて諸大名の意見(条約調印など外交処置)を聞いたところ、その多くは平穏の処置を望んだ―と報告している。第六の疏状は、兵庫開港について、今幕府を非分に陥れようとする者がおり、堂上にもこれに加担する者がいるから、まず内乱邪謀の者を取り鎮めてから、兵庫閉鎖はいかようにも処置したいと述べている。井伊・間部らは政治目的のためには、いかなるウソも策謀も用いると言う、日本の為政者がしばしば歴史的に用いてきた下劣な政治手段に陥っているのである。

(ⅱ)水戸藩内の対立と南上運動
 水戸藩主・徳川慶篤は、「密勅」を受けて、諸藩への伝達の許可を老中に求めるとともに、在国家老などの意見を諮問し藩論の統一を行なうために、高橋多一郎(奥右筆頭取)を水戸に派遣した。8月21日夜、高橋愛諸(多一郎)は水戸より帰府し、「藩議十三個条」を復命した。そこでは、老中の妨害を排して「戊午の密勅」を伝達すべきとした。そのうえで、(1)「井伊の儀ハ是迄(これまで)暴政行なわれ違勅の罪も之(これ)有り候間、早速登城差留(さしとめ)命ぜられ候様仕度(したく)一同評論御座(ござ)候」(『水戸藩史料』上編坤 P.256)と、厳しく大老を批判している。(2)「閣老えハ井伊間部ハ兎も角も(とモかくモ)外(ほか)ハ違勅の罪ニて諸役人を討ち申さずと申す儀御示しあられ候様云々(うんぬん)の事」(同前)と、閣老の分断策を図るべきとした。そして、(3)「久世閣老御引立(おんひきたて)の儀御内諭(*内々に諭す)あられ候てハ如何(いかが)の事」(同前)と、老中久世広周を味方に引き込むべきとした。(4)「越前えも密勅下り候儀と存(ぞん)じ候間、諸事(しょじ)越前と御示合(おんしめしあわせ)ニ罷(まか)り成り、存亡を共ニ遊ばされ然(しか)るべく存じ奉(たてまつ)り候」(同前 P.257)と、越前の慶永との同盟を強調した。
 しかし、すでにこの時に、かつての尊王攘夷派の論客(『新論』著者)・会沢正志斎は、「密書」の実行に反対する。「去りながら京都ニてハ関東の情勢ハ委細ニ御存知(ごぞんじ)御座無く、御当家ニて御引受け遊ばされ候へバ叡慮の通りニ相成(あいな)るとの御見込みニてハ其期(そのご)ニ至り京都ニてハ狼狽致され候儀之(これ)有るべき歟(か)と存じ奉り候。万一天下忠勇の士鋒鏑(ほうてき *刀のほこさきと矢じりと)ニ懸(かか)り貪濁(たんだく *欲張って不正のこと)の世と相成り候處(ところ)外虜(がいりょ 
*エビス)是(これ)ニ乗じ候ハバ天朝も国体も如何(いかが)相成り候も計(はか)り難く存じ奉り候」(同前 P.260)と。すなわち、「密勅」は、関東の事情も知らない朝廷が行なったものであり、天皇の思い通りにはならないであろう。むしろこの混乱に乗じて外国が介入すれば、天朝も国体も危うくなるのであり、「公武合体」が重要視されるべき―というのである。
 藩内は、やがて大きくは3つに分裂する。①密勅をあくまでも実行すべきとする激派、②返納命令が確かに朝廷から出ているのならば、朝廷へ直接返納すべきという鎮派、③幕府の命令に従い、密勅を幕府へ返納すべきとする保守門閥派―である。鎮派は会沢正志斎称らであるが、激派の指導者は、安島帯刀、高橋多一郎、金子孫二郎らである。
 「戊午の密勅」を諸藩に伝達する事を禁止した閣老は、8月晦日になると、水戸藩政に対して露骨に介入するようになる。岡田信濃守・大場彌右衛門・武田修理(耕雲斎)の3家老が「隠居」、安島彌次郎・尾崎豊後の2家老が左遷され「表家老」1)とされた。また、高松・守山・常陸府中の三連枝による水戸本藩への巡視・臨監は、続行させた(さすがに尾張・紀州の付家老によるそれは解除した)。
 7月5日の斉昭への処分(慎)いらい、幕府の水戸藩への一連の抑圧策に、さらに密勅阻止が加わり、水戸の尊攘派の士民が激高し、「斉昭を藩主に擁立」したときのように、南上運動が起こる。9月に入ると、密勅を奉じ斉昭らの冤罪(えんざい)を雪(すす)ごうという尊攘派の士民1200~1300人ほどは、続々と江戸にむかって出発した。士分のものは、江戸へ出ることができたが、農民らは松戸の関門を閉ざされ、下総小金(こがね)宿の旅籠(はたご)や近辺の寺院などに分宿した(第一次屯集)。
 水戸藩は表向き農民らが国元に帰るように説得したが、逗留が長引くにつれ農民たちは人員を交替した。藩の説得はじっさいは、農民たちの行動を見て見ぬふりとなった。だが、水戸藩も本音は、幕府との軋轢(あつれき)をできるだけ避けることにあった。藩は幕府に対し、連枝三藩による監視の解除を求めた。これに対し幕府は9月19日、藩の要求を認めた。慶篤と斉昭は、これを機に雪冤(せつえん)運動の鎮静につとめた。これによって、士民らは退去し、国元に帰ることとなった。
 しかし、激派の一部はあくまでも密勅の実践化を図ろうと、幕府の禁止にもかかわらず、西国各地の諸藩に向かって「奉勅義挙」の同盟結成を働きをかけることを決めた。住谷寅之助、大胡聿蔵(だいごいつぞう)、関鉄之助、矢野長九郎は、他の同志との協議の上で、西国に出発することとなった。1858(安政5)年10月10日の夜、4人は二手に分かれそれぞれ江戸を発った。
 関と矢野は中山道を一路北に急ぎ、福井・鳥取・萩の諸藩有志との連帯を目指した。「しかし、やっと福井へたどり着いた関の一行は、そこでまったく手ごたえを得られず、次の目的地鳥取へ向かった。鳥取では、安達清風との会談が、帰途の再訪を含めて長い。しかもここでは、まったく別行動で西国を遊説していた藤田東湖門下の志士、桜任蔵とも出会っている。こうして関らは長州萩までの旅を続けたが、いずれの地でも目的を達することができず、安政六年(一八五九)二月二十六日、むなしく水戸に帰りついた。」(河内八郎著『幕末関東農村の研究』名著出版 1994年 P.170)のであった。
 他方、住谷と大胡の組は、日光街道を北上し高崎に出て、北陸を経由して大坂を経て高知・宇和島・徳島を目指した。「四国山脈に分け入った彼らは、立川(たじかわ)関所(高知県大豊町)から土佐藩の坂本竜馬と奥宮喜惣次に書状を送って、来訪を求めた。ようやくやって来た竜馬ら土佐藩士との雪中の会談も、議論のみに終わり、さらに足を伸ばした宇和島でも、藩主宗城(むねなり)の致仕(隠居)、江戸参政吉見左膳の逮捕の報を確認したままで終わっている。戻りの徳島滞在でも、取るに足るような成果はなく、途中、伊勢に参詣し、翌六年(*1859年)正月十七日に水戸に帰着した。」(同前 P.171)のであった。
 「戊午の密勅」をかかげて、井伊政権を切り崩そうと西国諸藩と同盟を結成しようとする激派の目論見は、こうしてあえなく失敗したのであった。

注1)君主・奥方やその侍女などの住む所で勤める奥家老に対して、政務一般に携わる家老を表家老という。

(ⅲ)直弼の命で大処断
 1858(安政5)年12月12日、幕府は未曾有の大獄で、寺社奉行・町奉行・勘定奉行各一人、それに大目付・目付各一人の合議制で審理する「五手掛(ごてかかり)」を組織し、審理することとなった。具体的には、寺社奉行板倉勝静(かつきよ)・町奉行石谷(いしがや)穆清(あつきよ)・勘定奉行佐々木顕発(あきのり)・大目付久貝正典・目付松平康正である。木村敬蔵は、評定所留役勘定組頭として関与した。この中では、石谷のみが井伊派であった。
 五手掛の内では、処分を巡り、寛大な処置を主張する板倉・佐々木と、厳罰を主張する石谷との間で激論が交わされた。この内情が老中に知られることとなり、1859(安政6)年2月、担当が交代させられた。2月2日、板倉は寺社奉行を免じられ、佐々木・木村は免職・差控えとなった。翌日、町奉行池田頼方(よりかた)を勘定奉行兼任とし、寺社奉行本荘(ほんじょう)宗秀を新たに任命した。ついで10日、評定所留役勘定組頭吉田昇太郎を木村の後任とした。こうして、五手掛は改組され、厳罰派によって固められた。
 嫌疑者に対する刑の宣告は、1859(安政6)年の8月27日、10月7日、10月27日の3回に分けて行なわれ、同時に、関係する諸大名や藩士なども処分された1)。「安政の大獄」の処罰者はおよそ200人で、うち切腹・死罪・獄門が8人、獄死8人、遠島・追放・押込などが約50人にのぼった。以下は、その主な人物である。

徳川斉昭(前水戸藩主)―水戸に於いて永蟄居
徳川慶篤(水戸藩主)―差扣(さしひかえ *差控)
一橋慶喜(一橋家当主)―隠居・慎
徳川慶恕(尾張藩主)―隠居・慎
松平慶永(越前藩主)―隠居・慎
山内豊信(土佐藩主)―慎

安島帯刀(水戸藩家老)―切腹
茅根伊予之介2)(水戸藩士)―死罪
鵜飼吉左衛門(水戸藩士)―死罪
鵜飼幸吉(水戸藩士)―獄門
鮎沢伊太夫3)(水戸藩士)―遠島

橋本左内(越前藩士)―死罪
頼三樹三郎(儒者)―死罪
飯泉喜内(旗本家来)―死罪
吉田松陰(長州藩士)―死罪
小林良典(鷹司家家臣)―遠島
村岡たか(近衛家老女)―押込(おしこめ *一定期間一室に閉じ込め出入りを禁じる処罰)

 松平慶永(春嶽)は後に、その回顧録「逸事史補」で、安政の大獄について、次のように述べている。

飯泉喜内始(はじめ)、安島其外(そのほか)余(よが)家来橋本左内等死刑に処せられ候事を、幕吏の者よりくわしく承(うけたまり)候に、実に愍然(びんぜん *ふびんな様)ともいふへく、残念とも云(いふ)へく、切歯に堪(た)へさるの話なり。飯塚喜内・安島・茅根・橋本其他(そのた)有志の者捕縛、夫々(それぞれ)穿議(せんぎ *罪人の取り調べ)之(これ)有(あり)、町奉行所へも毎々(ことごとく)呼び出され、口書(くちがき *供述書)も相済ミ、奉行(町両奉行)・勘定奉行・大目付・目付・寺社奉行段々(だんだん)評議を遂げるの所、さして格別の罪状も之(これ)無く、さりながら罪状なしとも申し難く、之(これ)に依り重刑ハ流罪、其外(そのほか)追放・永蟄居ぐらいにて刑事伺(けいじうかがい)差出し候処(そうろうところ)、老中も一見いたし、此位(これくらい)にて然るべきとの評議相極ま(あいきわま)り、大老掃部頭(かもんのかみ *井伊直弼)へ差出し候処、少々考(かんがえ)候間、一両日留置(とめおき)、尚以て附札(つけふだ)相下ヶ(あいさげ)申すべきとの事〔*大老の意見がつけられて下ってくるとの事〕。両三日経て、俄(にわか)ニ掃部頭より附札に死刑とありて、一同心中(しんちゅう)驚愕(きょうがく)せり。当時(とうじ)掃部頭ハ、飛鳥(とぶとり)も落ちる程ノ勢(いきおひ)故に、役人も、これを押返(おしかえす)こと不能(あたはず)して、惨酷ノ刑に処せられたり。此事(このこと)は誰も知る人之(これ)き故、衆人のこれを知らんか為(ため)に(ここ)に記載せるなり。(「逸事史補」―『松平春嶽全集』第一巻 P.301)
 吉田松陰も橋本左内と同様に、幕府の取り調べに対して、悪びれず自己の主張を述べたと言われる。すなわち、志士の弾圧に憤激し、老中間部詮勝を暗殺しようと計画した事、公卿大原重徳(しげとみ)を長州に迎え、藩主がこれを擁立することを計画した事などを自ら進んで述べた。だが、松陰もまた、たいした刑に処せられるとは思っていなかったようである。したがって、1859(安政6)年10月6日付けの飯田正伯宛ての手紙では、「......小生落着(らくちゃく)如何(いかん)は未だ知るべからず〔*自分の刑がどう決まるか今はまだ分からない〕。死罪は免(まぬが)るべし。遠島にも非(あら)ざるべし。追放は至願なれども恐らくは亦(また)然(しか)らざらん。然れば重ければ他家預け、軽ければ旧に仍(よ)るなり〔*軽ければこれまでのとおりであろうか〕。いづれ当年中にどちとか片付(かたづ)き申すべく......」(山口県教育委員会編『吉田松陰全集』第八巻 P.399)と、記している。
 松陰は、10月27日に処刑される(享年30歳)のであるが、そのわずか20日ばかり前でも、死刑などとは露とも思っていなかった。せいぜい重くても他家預け(毛利家以外での預り)、軽ければ旧(もと)に復す(つまり萩に戻って牢暮らし)の程度と思っていたのである。同日付けの高杉晋作宛ての手紙でも、同様のことが書かれている。

注1)井伊・間部らは、斉昭陰謀論に凝り固まって、水戸藩関係者への弾圧を強めた。そして、1859(安政6)年8月27日に斉昭を永蟄居とするのを始め、家老、藩士などを厳しく処分した。同時に、井伊一派は、開明的な幕府の官僚たちをも、以下のように処分した。
*8月27日―作事奉行岩瀬忠震・軍艦奉行永井尚志(なおむね)を罷免し、禄を奪い、差控えを命じ、西丸留守居川路聖謨(としあきら)を罷免し、隠居・差控えを命じた。
*8月28日―小普請奉行浅野長祚(ながよし)・西丸留守居大久保忠寛を罷免した。前の老中太田資始(すけもと)に慎を命じた(太田は既に7月23日に老中免職であった)。
*9月6日―前の老中堀田正睦を隠居とした。
*9月10日―前の老中松平忠固(ただかた)を隠居とした。駿府奉行鵜殿長鋭(ながとし)・精姫(あきひめ)用人並黒川嘉兵衛・書物奉行平山謙二郎・小十人平岡円四郎・外国奉行支配調役高須鉄次郎を免職・差控えを命じた(長鋭は隠居も)。
2)茅根伊予之介は、水戸藩の奥右筆頭取。右筆とは、文書をつかさどった職。
3)鮎沢伊太夫は、水戸藩の勘定奉行。

Ⅱ 密勅返納をめぐる水戸藩内の対立激化
 間部詮勝の帰府(1859年3月)以後、弾圧はいっそう厳しくなった。このため、水戸の士民がまたまた決起し(第二次屯集)、5月2日には、2000~3000人の士民が南上運動にはせ参じた。6月6日付けの幕府の小人目付による「水戸風聞」(『井伊家史料幕末風聞探索書』)によると、「安島帯刀・茅根伊予之介の逮捕・訊問によって水戸藩士民はふたたび動揺し、用人・大番頭(おおばんがしら)はじめ諸役人から郷士・百姓・町人・山伏・修験まで加わって南上し、その数およそ一万九百六十五人程が小金原へ押出している。小金には野陣小屋二か所ほどを幕張りなどして建てたが、ほかに松戸宿や古河(こが)などの日光道中の諸所にも旅宿する者があり、かれらは日雇稼ぎをして逗留している由、右の人数のうち九百六十五人程は、江戸へ入って小石川屋敷、小梅屋敷と、その出入りの旅籠(はたご)に分宿している。......」(瀬谷義彦・鈴木暎一著『流星の如く』P.74)と言われる。
 この探索書はあくまでも噂であり、従ってその人数は正確でなく誇大と思われる。水戸藩士・小宮山南梁の筆記した記録(『南梁年録』)では、半分とみても5000人ぐらいだろうと推定している。
 だが、斉昭や慶篤は、多くの士民による南上運動での屯集が幕府のさらなる弾圧の口実となるのを恐れて、繰り返し屯集解散の諭書を発した。また、藩庁は奥右筆頭取高橋多一郎・郡奉行金子孫二郎・同野村彜之介(つねのすけ)ら激派の指導者を小金や小梅に派遣して帰藩するように説得させた。
 しかし、屯集者たちは前年9月とは異なり、これらの説得に応ぜず、解散・帰国しなかった。それは、高橋ら激派の指導者が南上運動を支持する立場をとっていること知っていたからである。また、藩庁自身が、幕府に抗議する屯集者の気持ちを理解し、旅宿や食料の世話をしていたから、と言われる。
 藩庁の懸命な説得により、神官など一部の強硬派を除き、8月上旬ころには大半が帰藩した。ところが、幕府は前述のように8月27日、斉昭を永蟄居、慶篤を差控え、慶喜を隠居・慎に処断することを命じた。また、安島帯刀を切腹、茅根伊予之介・鵜飼吉左衛門を死罪、鵜飼幸吉を獄門にするなど命じた。
 永蟄居となった斉昭は、9月1日に江戸を発ち、同月4日に水戸城に入った。斉昭は、幕府の催促もあって、9月19日付けの親書をもって、最後まで小金に残っていた神官などが水戸に戻るように促した。やむなく神官たちは退去し、これをもって第二次小金屯集は終った。その後、藩庁は金子・野村を逼塞(ひっそく *30~50日間、門を閉ざして、昼間は出入り禁)、高橋を遠慮に処し、すみやかに水戸に帰るように命じた。
 幕府は、水戸藩の対応を見届けて、9月末、慶篤については差控えを解除した。藩庁はまた、11月12日に、高橋・金子・関鉄之助を蟄居、野村らを小普請組(非役になること)に左遷した。これら激派への処罰は、幕府の内命によるものである。

 (1)密勅返納を画策する幕府
 だが、水戸藩を大きく揺るがし、藩内の大分裂をひきおこす事態が、新たに出現する。それは、勅諚返納(密勅返納)問題である。
 水戸城に幽居する斉昭は、迷いやすい性格をもつ慶篤が幕府の巧妙な甘言よって、勅諚(密勅)を手放ししないか―これが最大の心配事であった。そこで、9月末、密かに家老大場一真斎(彌右衛門)に命じて、勅諚を江戸藩邸から水戸へ運ばせ、10月はじめに水戸城内の祖廟に収めた。
 確かに、幕府は勅諚返納を画策していた。「密勅」が水戸藩に保持されていると、今後の政局に禍根を残すと、直弼は考えていたのである1)。そこで、水戸藩をして勅諚を返納させるためには、朝廷の命が効果的と考え、この年(1859年)の2月に既にその沙汰書を得ていたが、その内容が幕府の意向に必ずしも沿うものではなかった。
 その正式なものは残っていないようだが、大同小異の文面は、公家の千草有文が京都所司代の公用人三浦吉信への書簡の中の草案文として、『水戸藩史料』上編坤(P.630~631)に掲載されている。
 それによると、朝廷が「戊午の密勅」を水戸藩や幕府に下した理由として、「備中守(*堀田正睦のこと)帰府後、関東の取計(とりはからい)一向(いっこうに)不分明、実に神州如何(いかが)相成り候事(そうろうこと)哉(や)と深く憂苦(ゆうく)し、三家・大老の中〔*内より〕召寄候得共(そうらへども)上京延引(えんいん)誠に以て不安の心に至り致(いた)し方無く處(ところ)止むを得ざる次第......」(P.630~631)とした。 
 だが、「大樹(*将軍)大老老中ニモ蛮夷に於いては何(いず)レ共(とも)遠ケ(とおざけ)鎖国の旧法ニ復すべき儀ニ決定の事(こと)慥(たしか)ニ聞き取り神州の大慶(たいけい)之(これ)に過ぎず、彌(いよいよ)以て氷解候。全く夷族ヲ遠ケたき所存より是(これ)ら申し出でシ候訳故(わけゆえ)、先文の通り大樹以下処置決定の事ニ候上は外(ほか)ニ所存モ之(これ)無く候間、水戸え其(その)子細申し述べ早々書取(かきとり)引戻シニ相成るべき様に取量(とりはかり)之(これ)有るべき事」(P.631)と、返納すべきこととした。
 間部が幕閣を代表して、「無勅調印」の事情を朝廷に納得させるための「方便」として、条件が整い次第「鎖国の旧法に復す」と言った。これは、現実の進行(開国開港)と全く矛盾するのであり、これを水戸藩に隠すために、2月6日の勅命の書き直しが直弼らにとって是非とも必要なのであった。
 そこで直弼は、またもや長野義言(主膳)を京都に遣わして文面の改訂を奏請させ、11月に成功した。その勅命は、次のような文面である。

昨年八月八日水戸中納言へ下し置かれ候勅諚の書附(かきつけ)?(ならびに)添書共(とも)此度(このたび)返上(へんじょう)之(これ)有り候様仰せ出だされ候間、其段(そのだん)水戸中納言え達せらるべく候。仍(よっ)て此段申入れ候事
   十一月
別紙去る二月六日御達し申入れ候書取ハ御取替(おんとりかえ)の儀宜しく御取計い給(たま)ふべく候事
   十一月十九日            光成(*武家伝送の広橋光成)
     酒井若狭守殿(*京都所司代)

 12月15日、慶篤が登城すると、井伊大老は勅命が下ったと口達し、三日を限って勅諚を幕府に返納すべきと厳命した。翌日には、若年寄安藤信正が水戸藩邸に赴き、改めて返納を厳達し、もしこれを拒めば「違勅」に当ると、威嚇した。 
 慶篤は、その期限の延期を願い、これを許されたので、すぐさま側用人と小姓頭取を水戸へ走らせ、斉昭へ幕命を伝えた。斉昭は有司と協議したが結論を得なかった。よって12月20日、城内で大評定を開いて決することとした。諸家老、諸番頭、弘道館教職などに広く意見を聞き、衆議を尽して結論を出そうとしたのである。

注1)長野主膳が、1859(安政6)年1月11日、直弼側近の宇津木景福(かげとみ *六之丞)に宛てた書簡で、「......勅書此儘(このまま)ニてハ水府(*斉昭を指す)御心得違いの種と相成り大害の基本と〔*直弼が〕深く御配慮遊ばされ候......」(『水戸藩史料』上編坤 P.630)と述べている。

 (2)返納問題で藩議はさらに沸騰
 議論は、4~5日の間つづき、若輩の諸生たちも城中へ詰めかけ、それぞれの役々へ盛んに申立てを行ない、勅諚返納問題をめぐって水戸藩内は沸騰する。
 主張は、大きくいって次の3つに分かれた。
 ①幕府に返納―幕命に随って返納する立場で、保守・親幕派を結集した。これは諸生党(門閥派)と呼ばれ、その後、激派と数年にわたって血を血で洗う死闘を繰り返す。(市川三左衛門など)
 ②幕命とはいえ返納すべきでない―朝命を絶対として、朝命の真意を調査し、返納すべきか否かを決定する。これは激派と呼ばれ、水戸の尊王攘夷派を結集し、「桜田門外の変」、「筑波山挙兵」の母体となる。
 ③朝廷の命令であれば朝廷に返上すべき―幕府への返納には反対の立場で、尊皇・佐幕を両立させようというもので、鎮派と呼ばれた。 
 しかし、激派の指導者たちは、この間、いずれも処分を受けていたため議論に加わることは出来なかった。議論の中で、鎮派の領袖と目されていた会沢正志斎は、次のように進言している。

勅書返上の義(儀)京都より仰せ出され候上ハ已(や)むを得ざる御次第と存じ奉り候へ共(そうらヘども)、此度(このたび)は表立ち公辺(*幕府)より御伝達ニ相成り候處(そうろうところ)御品ハ御直(おんじか)ニ御下ケ(おさげ)遊ばされ候義ニ候へバ御返上も元の如く御家老〔*水戸藩の家老が〕御使いを以て御直(おんじかに)御返納ニ相成り候て宜しく候様存じ奉り候〔*直接朝廷に納めるべきが当然〕。尤(もっとも)公辺よりも御見届(おんみとどけ)の為に然(しか)るべき役人御遣(おつかい)ニて然るべく存じ奉り候。(『水戸藩史料』上編坤 P.651)

 会沢は、"水戸藩が朝廷への直達の事例は、初鮭をはじめ、『礼儀類典』『大日本史』『扶桑拾葉集』の献上などこれまで例も多いことだ。ともあれ、勅諚返納は重き事柄だから、幕府の老中とも十分相談されたい"と、筋を通した立論を展開する。
 また別に、弘道館の助教・訓導は、連名をもって次のように上申した。"勅諚は、もともと幕府経由で発せられたものではなく、水戸藩へ直接下されたものである。したがって、朝廷から直接返納を申し渡されたのならばやむをえないとしても、そうでなければ返納とはいかがなものか。そこで専使をもって朝廷へ伺いを立ててはどうか。そこまで出来かねるのであれば、せめて奉書をもって朝廷の意向を確認し、どうしてもというのであれば、天皇の考えに従うことにしてはどうか。このような手筈(てはず)をとってこそお家柄も立つというものではないか。"(同前)と。
 結局、正志斎の言うように「直接朝廷へ返納すべき」という主張が大勢を占めた。藩庁は、諸国へ対し、朝廷への直接返納を行なうことを公表した。12月26日、家老の太田資忠(すけただ)・肥田政好は、この藩議を老中安藤信正へ伝えるために、江戸へ向かった。
 他方、高橋多一郎・金子孫二郎・関鉄之助など返納に反対する激派は、大評定の決定に不満を抱き、さらに態度を硬化させる。そして、水戸街道の要衝である長岡宿(茨城町。水戸城から2里ほど)に屯集して気勢をあげ、鎮派と対立することとなった。
 12月26日、長岡に屯集する激派の長岡勢(士分20余人と神官・農民20余人)は、城中での大評定の藩議(返納は止むを得ないとしても、幕府へではなく朝廷へ直接返納すべきこと)を届け出ようとする太田資忠・肥田政好両家老の出府を押しとどめた。長岡勢は、勅諚の朝廷への返納も許さず、むしろ諸藩へ回達こそが最善の策と考えたからである。
 押し問答の末、ようやく長岡を通過し江戸に着いた家老たちは、早速安藤信正に届け出た。しかし、安藤はあくまでも幕府への返納を厳命した。その後も、家老たちは安藤邸に赴き、藩情を説明して、理解を求めたが拒否された。
 翌1860(万延に改元は3月18日)年に入っても、同様の駆け引きが続くが、1月9日、安藤信正は水戸藩小石川邸を訪問して、幕府への返納を執拗に迫り、これ以上遅延するならば「違勅の罪」は免れないと恫喝した。
 ここまで厳しい幕府の態度に迫られて、慶篤は江戸の家老たちと協議し、"返納を命ずる勅命の証書と引き換えに、勅諚(密勅)を幕府に返納する"こととし、家老肥田政好に水戸に帰り衆議を一致させることを命じた。しかし、肥田が水戸行を固持したため、奥右筆の一人を代役として水戸へ遣わした。

 (3)幕府への返納を阻止する長岡勢
 しかし、新たな方針についても、議論は百出した。だが、結局、他の方策が見つからず最後は慶篤の意志に従うこととなった。だが、問題は激派が長岡に屯集しているため、幕府への返納も簡単ではなかったのである。そこで先ず、長岡勢を説得して解散させ、その上で返納することとした。
 1月13日、参政(若年寄)大森多膳、同岡田新太郎、側用人戸田銀次郎(忠則)、目付長尾景英、郡奉行村田理介(正興)などが長岡宿に赴き説得するが、長岡勢は頑として応じず、翌14日、大森らは説得を打ち切って帰らざるを得なかった。
 1860(安政7)年1月15日、安藤信正(老中に就任)は、登城した慶篤に対してまたもや勅諚返納を迫り、「二十五日を期して返納すべし。若(も)し此の期を遅延せば愈々(いよいよ)嫌疑を老侯(*斉昭のこと)に及ぼし且(か)つ違勅に処せられ、水戸家は竟(つい)に滅亡するの外(ほか)なく復(また)救護するに術(すべ)なかるべし」(『水戸藩史料』上編坤 P.671)と、最後の脅しをかけた。
 慶篤はただちに、家老の白井織部・肥田正好らを水戸に派遣し、斉昭に知らせる。しかし、斉昭は焦燥するも長岡勢の抵抗を口実になんとか返納を先送りにしようとはかった。また、激派はあくまでも返納を拒否する姿勢を貫きつづけた。そこには、次のような事情があった。
 すなわち、水戸家が滅亡の窮地にたたされているとの認識は、単に安藤信正の脅しの言辞のレベルではなかったのである。激派はまた、別の角度から、そのような危機感を実際に抱いていた。「......長岡勢の意は勅書返納を以て国家(*水戸藩のこと)滅亡の秋(と
き)と為(な)して死を以て之(これ)に殉(したが)へんとせしなり」(同前 P.673)と思い詰めているのであった。
 返納期限も過ぎた1月27日、慶篤は、幕府に対し使いをもって、藩の内情を報告し、やむなく遅延を申し出る。すると、安藤信正老中は、翌28日、水戸藩の家老を官邸に招いて、次のように厳しく命じた。「苟(いやしく)も違勅に陥らは水戸家は滅亡するにあらずや。仮令(たとえ)如何(いかが)なる障害あるも今は躊躇(ちゅうちょ)すべき時にあらず。若し抗拒するあらば斬り棄(す)つるも苦しからじ、又(また)縦(たと)ひ途上妨害に逢(あ)ひ勅書に対して多少の不敬の事あるも之(これ)を違勅の罪に比すれば軽重(けいちょう)同日の論に非(あら)ず。徒(いたず)らに遅延して後の大悔(*大いなる後悔)を取ること勿(なか)れ」(同前 P.677)と。勅諚の返納に抵抗する士民に対しては切捨ててもよいから、一刻も早く返納すべきと安藤老中は催促するのである。
 1月29日、水戸では長岡に屯集する士民を退散させようと、一部では家族・親類を動員し、説得する。しかし、長岡勢は、「......苟(いやしく)も幕府の欺(あざむ)く所と為(な)り勅書を返納せんとするに於(おい)ては臣子の義、身命を抛(なげう)ちて之(これ)を防かざるべからず。勅書の去留は国家大義の関する所なり。父兄の命ありとも雖(いえど)も豈(あに)私情を以て公義を棄(す)つべけんや」(同前 P.680)と、東アジア的な公私観をもって、拒否した。
 他方、江戸の重役たちは安藤老中の気迫に押され、2月5日の期限までに勅諚が江戸に届くように是非取計ってほしいと、水戸の重役に書簡をしたため要請した。水戸の家老たちは、"斉昭への嫌疑が深まるばかりでなく、藩が窮状に陥る"と謹慎中の斉昭にどうにか頼み込み、抵抗者たちを鎮めるための諭書を懇願した。
 1月20日、家老などは、士分以上を弘道館に召集して、斉昭の諭書を示し、勅諚返納の止むを得ないことを示した。
 斉昭が書いた諭書は、「......若し〔*返納を〕相拒(あいこばめ)ハ京師公辺へ対し相済まず、家(*水戸藩)の安危ニも拘(かかわ)り候程(そうろうほど)も計り難く候得バ(そうらへば)詰まり多人数厳重の処置ニも至り申すべく候」、「士民ニても主君の旧恩を存じ、我等教諭の處(ところ)承服致し候様ニと存じ候。社稷の為(ため)士民の為、心配の余り此段(このだん)申し聞かせ候也」(同前 P.683)と、「主君の旧恩」をもって承服してくれるようにと命じた。
 しかし、それでも長岡勢の屯集は続行された。2月1日、江戸からの使者(小姓頭取)が長岡で抑留され、元の家老大場一真斎の説得でどうにか通行できるという始末である。2月3日、江戸からの急使がまた来て、勅諚返納の期限である2月3日が近づいているので早く「密勅」を江戸に上らせるようにとの慶篤の命を伝えた。
 ここに至って藩論はますます紛糾し、①朝命に遵(したが)い断然返納すべし、②たとえ朝命があっても一応、伺いを経ずして返納すれば千載の悔いを残す、③断固として従うべきでない―などの主張がなされ、藩論は統一できなかった。
 このうち、返納論者としては最も強硬な会沢正志斎は、次のように強調する。すなわち、「臣を以て君を制し奉(たてまつ)り、君臣の分(ぶん)相立ち申さず、御政事(政治)ハ之(これ)無き事ニ相成り候......」、「非常の義には非常の御手当勿論(もちろん)に候間、剣槍試合の師範へ(水府流は師範慎中)常格に拘(かかわ)らず勅書御登らさせニ付てハ道中警固御用(ごよう)仰せ付けられ候間、門人の内(うち)夫々(それぞれ)相撰(あいえら)び、尤(もっとも)表役御床机廻り等の内よりも相撰び召連れ候て江戸まで罷り登り候様仰せ付けられ候方と存じ奉り候。猶又(なおまた)道中筋非常の御備(おそなえ)ニ鳥銃も松戸迄(まで)は同心抔(など)に持たせ候て然るべき哉(や)と存じ奉り候。万一白刃(はくじん)を揮(ふる)い候者(もの)之(これ)有り、刃傷に及び候は憐(あはれ)むべく候へ共浪人(*脱藩者)ニ相成り候者の儀、天朝公辺御尊敬の筋には代(か)へ難く候間、已(や)むを得ず御決断の外(ほか)之(これ)無く存じ奉り候事」、「長岡の者、尊王攘夷の御文字を主張仕(つかまつ)り候由(そうろうよし)、実は尊攘(*尊王攘夷)の義を取違(とりちがえ)自分の主意に取付け候ニ御坐(ござ)候。追々(おいおい)申上げ候朝命にて御返納との御義に候得ば速やかに御返納遊ばされ候こそ尊王の義ニ御坐候處(ところ)無識の者共(ものども)何と心得(こころえ)候哉(や)大なる相違に御坐候」、「攘夷の義も謀主の持論は御伝達候へば諸侯儘(ことごと)く応じ候て攘夷も出来(でき)候事の様ニ申し候へ共、此節(このせつ)......大諸侯も幕府の権家(けんか *権門)へ媚(こび)候位の勢にて中々危き事は仕らず御家のみ孤立にて忽(たちま)ち敗を取り天下の笑い物と成り候間、謀主の拙謀(せつぼう)足取らず〔*歩調を合わせない〕候へ共(そうらへども)客気(かくけ *血気の勇)の者共(ものども)其(その)説ニ欺(あざむ)かれ居り候義本(もと)より御洞察遊ばされ候御義とは存じ奉り候......」(同前 P.688~690)と。
 会沢は、屯集者は尊王攘夷を取り違えており、朝廷が返納せよと言っているのだから返納することこそが尊王である―という。非常のときには非常の手段も必要であり、妨害者に対しては決断しなければならない。また、会沢は攘夷についても、今や大諸侯も幕府に媚びて攘夷などできないのであって、水戸家のみ孤立してたちまち敗北し天下の笑い物になってしまうと主張している。
 これに対し、激派の元家老武田修理(耕雲斎)は、京師への伺いを経たる後ならでは、あくまでも返納すべきではない、と反対する。武田は、「......此度(このたび)の御沙汰ニ相背(あいそむ)き御返納に相成らず候てハ此上(このうえ)両公(*斉昭と慶篤)御難の程(ほど)計り難き旨(むね)おいおい申し唱え候得共(そうらへども)、右ハ一時利害の俗見にて元より御扶助〔*徳川宗家を水戸藩が補佐すること〕の思し召しより仰せ出だされ候勅書の儀、公辺(*幕府)に於ても深く御敬承遊ばさる筋ニて毛頭御隔意を生じ候御訳ニハ之(これ)有るまじく、却(かえっ)て御返納にも相成り候はば彼是(かれこれ)讒者(ざんしゃ *悪口を人をそしり傷つける者)の口実に陥り候儀も之(これ)有るべし。左様(さよう)相成り候てこそ此上(このうえ)両公御難の程(ほど)計り難き御儀ニ成り行く〔と〕申すべし。」(同前 P.692)と、一時的な利害に拘泥するな! と反論する。
 藩論が紛糾に紛糾を重ね、激派はまた長岡に屯集し、通行改めをする事態となって、在国の家老たちは次のような対応策とることとなる。第一は、斉昭の威望に頼って、事態の鎮静化を図ることとである。第二は、江戸へ使者を派遣し、幕府に懇願し返納の期日を猶予することである。
 2月6日、第二の目的をめざして、家老白井久胤・杉浦政安、参政(若年寄)岡田徳守などが水戸を発して南上した。これには目付、奥右筆などが随った。この一行は返納期日の延期要請のためなので、長岡勢もまた妨げはしなかった。
 ただ当時、幕府の命にしたがって勅諚を返納することについては、弘道館訓導の川瀬教文も、次のように厳しく批判している。「......非常の御時節宸襟を悩ませられ、勤王の御家柄折角(せっかく)の御依頼ニテ御下(おさ)ゲ渡(わたし)ニ相成り候御儀ニ御坐候へば、是迄(これまで)御廻達御遷延(ごせんえん)ニ相成り御事情ヲ縷々(るる *細々と述べる様)御陳謝遊ばれ候上、朝廷へ御直納〔*朝廷へ直接返納する事〕遊ばされ候儀は格別、公辺(*幕府)ヘ御返納遊ばされ候テハ御名義ニ於て如何(いかが)と苦心仕り候」(同前 P.700)、「恐れ乍(なが)ら返納論者の御率先遊ばされ候様ニテ有志の輦(輩カ?)竊(ひそか)ニ悲歎(ひたん)解体仕り候姿ニ罷(まか)り成り、他藩有志の輩ニ於テモ嘸々(ぶぶ)慨嘆致され候事ニ之(これ)有るべし。将来時勢の変遷ニ由(よ)り候テハ天下後世如何(いかが)様の公評ヲ下シ申すべき哉(や)モ計り難く、万一君上の御明徳ヲ虧損(きそん *かけ損じる)奉り候様の義(ぎ)之(これ)有り候テハ御名望ニ相関わり候義ニテ恐れ入り候次第ニ御坐候。」(同前 P.701)と。
 激派に同調する川瀬は、高橋多一郎の慫慂(しょうよう *誘いかけ)もあって、持論を斉昭に上書したのである。
 2月8日に江戸に着いた家老白井らは、激派などを押えて"返納やむなし"の線で藩論を統一する処置について、慶篤に相談する。9日、「慶篤は家老興津良能(*蔵人)側用人飯田正親をして、藩情を幕府に披陳し勅書返納の為斉昭の藩政に與(あず)かり裁決するを允(ゆる)されんことを請(こ)はしむ」(同前 P.702)といわれる。
 これには、幕閣もいぶかったと思われるが、2月11日、幕閣は水戸藩家老を召喚して、「斉昭の広く親諭するは謹慎中憚(はばか)る所なかる可(べか)らず、但(ただし)返納の為(た)め密に重臣に面諭するは不可なかるべし」(同前)と言い渡した。これには慶篤も驚いたのであろう、安藤信正を招いて再確認しているほどである。
 江戸の藩邸は直ちに、このことを国許へ急報した。これには、在国の家老たちも半信半疑であったのであろう。2月13日、"斉昭が返納のために動いてもよいのかどうか"、さらに江戸藩邸に問い合わせている。
 しかし、11日夜の江戸家老の国元への伝達には、別紙として高橋ら激派への処分に関する「内達」(12日付け)も含まれていた。江戸の家老たちは、斉昭の親諭で人心を鎮めると同時に、高橋ら激派の有志を処分し、長岡勢を平定しようと計画したのである。
 高橋ら処分の内議は、次のようなものである。

追啓(ついけい)昨夜夜通(よどおし)御運(はこび)申し候(そうろう)高橋多一郎・関鉄之助等を初(はじめ)御処置の儀、尚又(なおまた)長岡の諸生同様の儀、速(すみやか)ニ取計らい、右相済み候はば御一品(*水戸藩に下された密勅のこと)差登(さしのぼ)の為(ため)に早行(そうこう *朝早く出立すること)候様申し達すべき旨(むね)御下知(げち)有らせられ畏(かしこ)まり奉り候處(そうろうところ)、何を申すも実地の情態も之(これ)有る儀、手順(てじゅん)如何(いかが)之(これ)有るべき哉(や)。...... (『水戸藩史料』上編坤 P.705)

 江戸と水戸の間で、返納の運びがいよいよ緊迫し、同時に、激派・長岡勢への処置も動き出す事態に、「長岡勢の激昂も亦(また)極点に達した」(同前 P.707)といわれる。2月14日夜、江戸で側用人の久木久敬が遭難し、また同夜、家老太田資忠や側用人・目付などの家に無署名の投げ文があった。その大意は、"勅書返納をはかり国家(藩)を誤る者は、久木と同じく誅戮(ちゅうりく *罪ある者を殺すこと)を加ふべし"というものであった。
 ここに至り、会沢正志斎は藩秩序が乱れることを歎き、斉昭に書を呈出し、速やかに長岡勢を処分し、勅書返納を断行するよう訴えた。
 2月14日、江戸の慶篤は、父・斉昭に宛てて、①勅書を25~26日までには江戸に登らせ、②それを長岡勢が妨害するのならば、厳重の処置―を依頼する。この書簡が水戸に着く前の15日、斉昭は家老などの嘆願により、以下のような諭書を下付した。

一昨年中納言へ下し置かれ候處の勅諚(*戊午の密勅)、此度(このたび)返納致すべき旨(むね)仰せ出ださる故(ゆえ)早速返納致すべき處(ところ)士民にて彼是(かれこれ)拒み今以て差登(さしのぼり)する義(ぎ)妨(さまたげ)る由(よし)、臣下として君命を用いざる者(もの)之(これ)有り候てハ相済(あいす)まざる血気の者共とハ申しながら、君臣の礼取り失ひ国禁を犯し不作法の所業(しょぎょう)も之(これ)有る歟(か)に聞(きこゆ)る處(ところ)、我等申し聞き承服致す勅書早速差登(さしのぼ)せに相成る上ハ存じ詰まる素意(そい)推察致す事故(ことゆえ)非常の儀何分にも寛大の仁恕(じんじょ *憐み深く思いやりがあること)申付くべき旨(むね)中納言へも申し聞かすべく候也。

 藩論は区々に岐(わか)れ纏(まと)まる兆しもなく、激派は実力行動に入る事態となり、斉昭に最後にのこされた論拠は、「君臣の礼」であり、「国禁を犯すな」などの陳腐なものでしかなかった。
 2月16日、斉昭はついに、「長岡処分」を決行させた。家老たちは、斉昭の命を受け長岡に出張し、まず彼等に説諭を加え、もしこれに随わず反抗した場合は臨機応変の処分をするとした。そのため出張の将士を次のように部署(役目を割り当てること)した。家老には鳥居忠順、参政には大森尹諧(多膳)、大寄合頭(士大将のこと)には雑賀重明・市川弘美、大番頭には朝比奈泰尚・蘆澤元永、書院番頭には加藤直博・蘆川友直、その他側用人・目付・寺社奉行・馬廻頭・町奉行・郡奉行などで、それぞれの部下を引率し、2月18日に出発することを内定した。
 また藩庁は、18日、高橋多一郎、関鉄之助、住谷寅之助、矢野長九郎、浜田平助など激派の幹部に評定所に出頭するように命じ、高橋と関に蟄居、住谷ら3名に小普請組へ左遷するとの処分を発表した。
 住谷と矢野は出頭し、三日間拘留された。浜田は出頭に応ぜず脱藩し、行方をくらました(浜田は閉門の処分)。
 これらとは別に、金子孫二郎は召喚されていなかったが、18日夜、嫡男と3人の藩士を伴って脱藩し、ひそかに間道を通って江戸に向かった。
 高橋多一郎も、18日、召喚状が届くとただちに蟄居の屋敷から嫡男と郷士2名、農民2名の計5名を連れて脱藩し、中山道を大坂に向かった。かねての手筈(てはず)により、薩摩藩有志と大坂で会合し、「挙兵」するためである。
 関鉄之助は、親戚の家に蟄居していたが、召喚状が着くや、屋敷の裏手から悠然と立ち去り、脱藩した。
 他方、家老たちは同18日、予定通り諸士を水戸城内に集め、斉昭の諭書を奉じて長岡に出張すべきと命じた。しかし、ここでもまた議論が起こり、午後になっても出発できない状況であった。この事態となっても、異論が続出するには理由があった。すなわち、「士民一体返納をば拒(こば)み申し候。只(ただ)長岡出張は不法を致し候故(そうろうゆえ)其所(そのところ)は悪(にく)み申し候へ共、返納の事は右の通りの様子に候」(『水戸藩史料』上編坤 P.722)という、大方の人心があったからである。
 徳川光圀いらい、尊皇の最右翼を任じてきた水戸藩にとって、「戊午の密勅」は有史以来の誉れであり、それをただ幕府の命に従がって幕府に返納するということ(朝廷に返納するのならばまだしも)は、藩の名誉を傷つけ、藩の存在理由すら問いかねない事態なのであり、容易に幕命を受け入れるのが困難な問題なのであった。ここでは、尊皇と佐幕を両立させてきた従来のレベルを超越し、文字通二者択一を迫られるようになったのである。
 全体的には、長岡出張に積極的になれない事態を見てとり、家老鳥居忠順、参政大森尹諧は自ら率先して出馬すれば他の役の者も続いてくるだろうと、まず手兵のみを率いて進行した。だが、それに続いたのはわずかに目付・徒目付など数人でしかなかった―といわれる。そこで仕方なく、台町(だいまち)薬王院(やくおういん)に滞留し、後続部隊を待つこととした。しかし、それでも期待した人数にははるかに及ばず、これでは長岡の激派と戦っても勝算は覚束(おぼつか)ないと、長岡行きを断念し城中に戻ることとした。
 その帰途、「消魂橋(たまげばし)事件」が起こる。下町の消魂橋付近で、評定所の動静を探りに来ていた長岡勢十数人と藩庁の部隊(24~25人)が鉢合わせとなり、一戦を交えたのである。これを知った斉昭は、この事件がまた幕府の弾圧の口実となることを恐れて、再度の出陣を促したが、それでも部隊の集合自身が進まなかった。
 ところが2月22日、会沢正志斎ら弘道館の教職と諸生有志およそ200人は、武力追討のために自発的に長岡へ出陣する決意を固めた。藩庁はこれに乗じ、彼等を二手に分け、下町街道と上町街道とから長岡へ向かわせることとした。
 この動きを知った長岡勢は、対応を協議した結果、いたずらに藩兵へ敵対すると反逆の汚名をとり、大志も空しくなるとして、藩兵が到着するまえに解散して後日を期することにした。「解散時の長岡勢は、士分の者と神官らで六、七〇人、これに農民などが加わって総数一二〇から一三〇人ほどと推察される。/かれらの自発的な解散は、表向きには藩庁軍との衝突を避けようとしたためといえるけれども、実は、前年(*1859〔安政6年〕)九月ころから高橋・金子・関らによって極秘裡に進められてきた大老井伊直弼暗殺の計画がようやく実行段階に入り、高橋らの主力が地下に潜行しなければならなくなっていた、という事情によるのである。」(瀬谷・鈴木共著『流星の如く』P.89~90)といわれる。
 藩庁が差向けた長岡追討軍およそ400人は、24日、長岡に到着したが、そのときは長岡勢はすでに解散しており、翌日追討軍はむなしく水戸の城に戻った。


Ⅶ 桜田門外の変と尊王攘夷派の拡大 
 
 (1)井伊大老の暗殺
 1860(安政7)年1月4日、水戸藩士の木村権之衛門・畑弥平・内藤文七郎は、高橋多一郎・金子孫二郎から密命を帯びて、水戸を発ち江戸に入った。密命とは、①勅諚返納に関して、朝命の真偽を確かめること、②井伊大老などの暗殺の決意を語って、薩摩藩有志との連携を策す―ことである。
 木村は、江戸に着くや早速薩摩藩邸に赴いて、有村雄助・治左衛門兄弟、田中直之進らと会談し、次のような計画への協力を呼びかけた。その計画とは、「この上幕府が勅諚(*「戊午の密勅」)を〔*水戸藩から〕奪い取ることになれば、水戸藩士は前後を顧みず奮い起ち、五〇人をもって一手は直弼を討ち、一手は横浜商館に放火し、共に征伐する決意。ひとまず有志が京に上って勅諚を返納すべしという朝命が真か否かを確認するため両人(畑と内藤)が一月十五日出立する手筈。そこで薩摩藩では、京都守禦(しゅぎょ)の人数の派遣方を手配されたい」(瀬谷・鈴木共著『流星の如く』P.92)ということである。
 水戸藩激派は、薩摩藩の藩挙げての勤皇に目をつけ、東西呼応して反幕行動に立ち上がろうというのである。そして具体的には、水戸激派50人ほどの潜居場所を"三田の薩摩藩邸近くに用意し、木村ら3人を親類の名目で藩邸に潜居させてほしい"と、薩摩側へ申し入れた。有村らが、この申入れを快諾したので、木村は1月19日の夜に水戸に戻って同志に報告している。
 木村権之衛門から報告を受けた高橋・金子らは、井伊大老らの襲撃の具体策として、24カ条を決定したが、以下はその主なものである。
一、「斬奸(ざんかん)」の期日は、来月(二月)十日前後とする。ただし、事情切迫の節はくり上げるとも延引はしない。
一、来月上旬、藩主慶篤に勅諚の返納不可を申し立てるという名目で有志を出府させる。
一、朝命をもって条約を撤回させる手段を講ずること。
一、薩摩藩からは三〇〇〇人を出兵し、ただちに京都を守衛する。
一、勅諚奉還を名目とし、水戸藩から一〇〇ないし二〇〇人を守衛として京都へ派遣する。一、木曽街道と東海道へは人数を差出すこと。ただし、これは水戸藩で行う。
一、「斬奸」成就のうえは、首級は南品川まで馬にて運び、それより舟路。
一、浅草観音へ夜五ツ時(午後八時ころ)、百度参りのこと。ただし「カン」と問えば「ヲン」と答えること(*合言葉のこと)。
一、提燈(ちょうちん)はぶら提燈で、上の方へ桜の花一輪つけること。
一、一家を買切って会所を立てること。
ただし、麻布・青山辺。「我思故人」という割符を用いること。
一、 打合せは浅草出会いに江戸へ入り、潜伏は五日限りのこと。
一、 高橋・金子は江戸の薩摩藩邸へ潜み、他は所々へ潜むこと。(瀬谷・鈴木共著『流星の如く』P.93~94)

 いったん水戸に帰っていた木村権之衛門らは、水戸で練り上げた「斬奸」計画をすり合わせるために、1月23日、ふたたび江戸に向い、27日には薩摩側と折衝した。薩摩側の有村兄弟は、京都守衛のための出兵の件は応諾したが、ただ日程上、2月10日前後の決行は無理があるので、しばらく延期する必要があるとした。薩摩側は、これから田中直之進をただちに帰国させ、計画を伝えるが、それでも戻るのに18日間はかかるからだ、というのである。
 水戸側は、密計が洩れないためには一刻も早い方がよい―と、即刻断行を促したが、やはりそれは物理的に無理であったので、水戸側が折れて、決行日を3月20前後とするこっとなった。
 田中直之進は、2月21日に鹿児島に到着し、早速、大久保利通に報告した。だがそこには、先の「斬奸」計画にはなかった点が2つ含まれていたと言われる。「一つは、かねて紅葉山(*江戸城内の)に人数をしのばせておき、ここから火の手をあげれば幕府要人は登城するから、待ち伏せて打ち果すか、これが成功しなければ登城先を討つか、この両策に決したこと、いま一つは、直弼ばかりでなく、水戸藩連枝(れんし)の高松藩主松平頼胤(よりたね *讃岐守)と老中安藤信正の両人も『斬奸』の対象にされていたこと、二点である。/大久保利通は、田中から受けた『斬奸』計画をもとにただちに建議書を作成し、薩摩藩庁へ提出した。/しかし、当時の藩庁は、藩主島津忠義の実父久光が実権を握っていて、久光は大久保の建議を認めなかったので、尊攘有志は行動をおこすことができず、ここに水・薩両藩による『斬奸』計画は、事実上挫折のやむなきに至ったのであるが、水戸側はまだそれを知る由もなかった。」(『流星の如く』P.94~95)のである。
 2月末までには、水戸激派の襲撃メンバーの大方が出府する。江戸入りまでの道中は、水戸藩や幕府などの厳しい取調べで苦労したが、江戸に入っても水戸藩士への厳戒があり、同じ宿舎に長くは留まることはできず、転々と旅籠を変えた。
 薩摩屋敷では、金子孫二郎と有村治左衛門が談義を重ね、当初予定の決行日を当初の2月10日前後から2月28日に延期する。しかし、水戸・薩摩とも多数の参加が見込めない中で、決行日はさらに延期される。襲撃対象者も、安藤信正・高松藩主松平頼胤をはずし、井伊直弼一人に絞るようになる。
 3月1日、金子孫二郎はついに決断し、決行日を1860(安政7年、「万延」への改元は3月18日)年3月3日とし、場所は登城中の桜田門外とした。総指揮は金子孫二郎が執り、実行部隊と、襲撃後の政治工作のために上方に向かう人員(高橋ら)に分れていたが、現場指揮は関鉄之助が執り、金子は品川の川崎屋で待機した。
 3月3日早朝、芝愛宕山に水戸脱藩士17人と薩摩の有村治左衛門が終結し、大雪の中を桜田門外に到着した。作戦では関の指揮の下で、岡部三十郎・畑弥平が検視見届け役、斎藤監物1)が趣意書の提出役とし、まず森五六郎が正面から切りかかり、これに気付いた駕籠廻りの彦根藩士が前方に進む隙に、左右から6人ずつが攻撃し、残りの3人が後尾から襲撃するというもであった。
 襲撃は成功し、直弼の首級があげられた。不意をつかれた彦根藩士は闘死者4人、深手を負い後に死亡した者が4人であった。彦根藩士は大雪の下で雨合羽を着、刀には柄袋(刀に雪水が染みるのを防ぐため)がつけられており、攻撃された際ただちに刀を抜くことができなかったのである。
 襲撃側は、稲田重蔵が現場で即死した。深手を負った有村治左衛門・山口辰之介・鯉渕要人・広岡子之次郎らは、かねての定め通り直後に自決した。佐野竹之介・斎藤監物・黒沢忠三郎・蓮田市五郎は老中脇坂安宅邸へ、森山繁之介・杉山弥一郎・大関和七郎・森五六郎らは細川斉護邸にそれぞれ自訴した(うち、佐野・斎藤はまもなく落命)。海後磋磯之介・増子金八・広木松之助は、江戸を逃れ各地に潜伏し、海後と増子は明治維新後まで生き延びた。広木は北陸へ逃れ、大坂へと向かうが警戒が厳しく、剃髪して鎌倉上行寺に赴き、同志らの処刑を知って自決する。
 関鉄之助・岡部三十郎・野村彝之介・木村権之衛門(野村・木村は襲撃参加者ではない)は、かねての手筈に随って、大坂に向かった。桜田門外で井伊大老を暗殺した水戸藩首謀者の狙いは、直弼一人を斬り捨てることだけが目的ではなかった。同時に、薩摩藩などと協力して、勅使を奉じて幕政改革を断行することであった。
 金子は、襲撃成功の報を畑(畑は江戸藩邸、さらに国許へも報告)から受けたあと、有村雄介の従者となって高橋多一郎らが待つ大坂へ向かった。だが、有村を追尾していた薩摩藩捕り方によって逮捕され、金子は江戸へ、有村は薩摩へ護送される。関鉄之助と岡部三十郎は、事件後、大坂に向い、薩摩藩士の決起を促したが、その工作も効果がなかった。その後、関は西国を廻り九州まで行き、最後は水戸に戻り袋田(久慈郡大子町)の豪農宅に潜伏するが、追手が迫り越後の雲母(きら)温泉に逃れるが、そこで逮捕され後に死罪に処せられた。
 先に大坂での工作に向かった高橋多一郎父子などは、やはり幕府の追及が厳しく活動すら出来ず、幕吏に追い詰められた。包囲網をかろうじて突破した高橋父子は、四天王寺に逃げ込み、寺役人に事情を告げて一室に籠り、自刃した。
 江戸で自訴した者全員、ならびに金子・岡部など江戸へ護送された者も、1861(文久元)年7月までに死罪に処せられた。

注1)直弼襲撃には、神官3人が参加した。斎藤監物・鯉渕要人・海後磋磯之介である。中でも斎藤は、格式の高い常陸二の宮の神官である。

(2)喧嘩両成敗で穏便な処置
 幕閣の最高位である大老が、登城過程で暗殺されるというのは、前代未聞のことである。
水戸藩主慶篤は、彦根藩士の復讐を懸念し、水戸の床机廻り(親衛隊)のうち70余人を江戸に呼び寄せ、警戒態勢をとる。また、斉昭は、指名された者以外の出府を厳禁し、激派に信頼厚い岡田徳至(信濃守)・大場一真斎・武田耕雲斎をとくに呼びよせ、士民の動揺を抑えるように命じた。
 彦根藩は、当初、藩主直弼が首級をあげられたことをひた隠しに隠した。当時の武士のモラルからすると、いかなる理由があろうとも敵方に主人の首をとられたこと自身が最高の恥辱だからである。
 幕府は、事件の直後、諸藩に命じて水戸藩士民の大挙した出府を警戒させるとともに、水戸藩の江戸家老を召喚して、藩邸の出入りを厳重にするように示達した。だが、この事件は、加害者が徳川御三家の一つ水戸家であり、被害者が譜代の名門井伊家であることから、幕府はその処理に苦慮した。幕府はとにかく事態がこれ以上悪化しないように穏便に済ませることを図り、伝来の仕来(しきた)りに沿って「喧嘩両成敗」で処理することとした。したがって、幕府も当初、大老の横死すら秘密にさせ、もっぱら彦根藩の慰撫につとめ、3月晦日に至ってようやく大老職を罷免した。他方、水戸藩に対しては、藩主慶篤の登城を停止した。喧嘩両成敗で、どうにか幕府の権威を保とうとしたのである。
 では、幕府と水戸藩の間を極度の緊張関係に陥らせた「密勅返納」問題は、どうなったか? 水戸藩の家老たちは、幕府老中に対し、藩情を説明し、激派を刺激しないためにも返納をしばらく猶予するよう嘆願した。
 それでも幕府は、返納を求める態度を変えず、むしろ朝廷に返納を督促する勅諚を改めて下付するよう要求するあり様であった。朝廷側は、これを初め拒否していた。だが、幕府側が"水戸藩が密勅を返納すれば寛宥(かんゆう)の処置がとられるであろうという穏やかな文面に改めること"を条件に、ふたたび朝廷に下付を求めた。そこで朝廷もやむなく6月22日に、新たな勅諚を幕府に下し、それが7月1日に江戸へ到着した。
 ところがこの時期、幕府内には、水戸藩内の事情を無視して圧力を加えることは避けるべきであるという傾向が強まり、新たな勅諚は水戸藩には伝えられず、10月19日には、かえって返納の延期を認める通達が発せられている。
 また、幕府は人事面でも、直弼の腹心であった薬師寺元真をしりぞけ、直弼派の中心的人物である水野忠央(ただなか *和歌山藩家老)を隠居させる一方、水戸藩主慶篤のこの間の登城禁止を解除した。 
 当時の幕閣は、勝手掛の久世広周(「安政の大獄」について、不満をもち老中職を罷免されていたが、万延元年閏3月に再任)、外国事務掛の安藤信正が主軸となっており、一般に「安藤・久世政権」といわれる。
 ときに、桜田門外の変から5か月余り後の1860(万延元)年8月15日、斉昭が急逝した。時期が時期だけに彦根藩の報復の噂も一部であったが、持病の心臓発作によるものと見られている。
 斉昭死去の知らせは、17日に江戸に着き、慶篤は幕府の許可を得て翌18日に江戸を発ち、早くも同日夕刻に水戸に到着した。斉昭は蟄居中の身のまま亡くなったのであり、いわば罪人であった。罪人の汚名をつけられたままで葬るわけにはいかなかった。慶篤は、幕府に謹慎解除を嘆願した。幕府は8月26日、老中久世広周を小石川藩邸に派遣し、斉昭の永蟄居を免じ、28日には喪が発せられた。9月27日(9月29日という説もある)に、斉昭は水戸の瑞竜山の徳川家代々の墓地に葬られた。諡(おくりな)は、烈公(れっこう)である。
 桜田門外の変後も、水戸藩浪士は1861(文久元)年5月28日のイギリス公使館襲撃の東禅寺事件や、1862年1月12日の老中安藤信正を襲った坂下門外の変などに参加する者が相次いだ(後述)。これらの激派の志士たちの思想的背景には、藤田東湖の神道・儒学が混交した考え方が大きな影響を与えていた。
 彰考館で『大日本史』の編纂に参加した豊田天功は、桜田門外の変にかかわって、東湖の『弘道館述義』が「我東照宮」の段で、「扶桑(*日本を指す)の根柢(こんてい)を培養し、天下を富嶽の安きに措(お)く」と書いているのを、次のように批判している。

コレハ我ヲ主トシタル言、其(その)主意(しゅい)尤(もっとも)宜(よろ)シケレトモ、文章ニ認メテハ甚(はなはだ)目ニタチ、中国、神州ナドノ字面(じづら)ト違(ちがい)候。実ニ天保学、一国流ナドノ譏(そしり)ヲ恐ル。況(いわんや)桜田乱妨(らんぼう)ノ徒、懐中ニアリタル書付(かきつけ)ニモ、天下ヲ富嶽ノ安(やすき)ニ置クト云(いう)語アリタルニ於(おいて)ヲヤ。必(かならず)斯(この)書コレガ俑(よう *使者と共に埋める木偶)ヲ作リタルト申サレベク候。不可不改(あらためざるべからず)。(吉田俊純著『水戸学と明治維新』P.178から重引)

 天功は、中国古典の「天下を泰山の安きに措く」ではなく、東湖が「天下を富嶽の安きに措く」と表現するところに、儒学の伝統とかけ離れた東湖の独りよがりをみる。それは、日本の独自性を必要以上に強調する、狭隘なナショナリズム・排他主義以外のなにものでない。

 (3)攘夷運動の激発
 井伊政権は1858(安政5)年6月19日にアメリカと、同年7月10日にオランダと、7月11日にロシアと、7月18日にイギリスと、9月3日にフランスとそれぞれ修好通商条約に調印する。1859(安政6)年5月28日には、幕府は神奈川・長崎・箱館を開港し、英・米・仏・露・蘭との貿易を許可した。また後には、各国は駐日公使館の設置と館員の駐在を次ぎ次ぎと要求し、幕府は再三にわたる強硬な要求を受け入れざるを得なかった。そして、アメリカは麻布の善福寺に、オランダは芝の長応寺に、イギリスは高輪の東禅寺に、フランスは三田の済海寺に公使館の設置を許され、官員の常駐が許された。
 安政の修好通商条約の締結により、外国との貿易の中心は、長崎から横浜に変わった。
横浜貿易では、イギリスが主要な貿易相手国である。綿織物・毛織物や武器・艦船が主に輸入され、代わりに生糸・茶などの原料品が主に輸出された。貿易は日本側の大幅な輸出超過で、製糸業などは急速に発展した。しかし、安価な綿織物の輸入で、綿織物や棉作は大きく圧迫された。また、銀の流出がひどかった。
 流通面でも、在郷商人の活動などが活発となり、従来からの江戸の問屋を中心とする流通機構を突き崩した。幕府は、1860(万延元)年閏3月19日、江戸の特権商人を保護するために、雑穀・水油・?(ろう)・呉服・生糸の五品について、神奈川直送を禁じ、江戸の問屋を経由するように命じた(五品江戸廻送令)。しかし、その効果はなかった。横浜貿易に直接参加する者が次第に増加していったためである。
 輸出入の変化に伴い、経済界は混乱し、多くの士民の日常生活において物資欠乏・物価高騰をもたらした。とりわけ農耕手段をもたず給与に依存する下級武士層への影響は、きわめて強かった。尊王攘夷というイデオロギーとともに、貿易の影響による物価高騰が下級武士を尊王攘夷に駆り立てた。
 攘夷運動は、開港前後から外国人殺傷事件(その通訳などを行う日本人も含む)の繰り返しとして頻発(ひんぱつ)する。その主なものは、以下の通りである。
*1859(安政6)年7月のロシア士官水夫殺傷事件―夜の8時ごろ、非武装のロシア士官水夫が、食糧を仕入れるために横浜に上陸したとき、路上で数名の武士によって襲われた。2名が死亡し、1名が重傷を負った。だが犯人は捕まらず、幕府がロシアに謝罪し、神奈川奉行の免職・犯人逮捕の約束・被害者の葬儀・墓の築造をもって、事件は落着した。同年10月には、同じく横浜で、フランス領事館の傭人(清国人)が殺された。
*1860(安政7)年1月のイギリス公使館の通訳・伝吉が殺される事件―イギリス公使館の通訳伝吉は、10数年前、アメリカに漂流して救助された漁民であるが、英語が話せたので通訳となった。この事件について、桂小五郎は長州藩士にあてた手紙で、「......(*伝吉は)至って心実(しんじつ)よろしからざる者にて、しょせん彼を笠にきて(*イギリス勢力をバックにして)、皇国を軽んじ候(そうろう)様子などこれあり候様子、然るところ四、五日前、右(みぎ)東海寺(*仮公使館)門前より壱丁程の所に、暮方(くれかた)女子の羽根をつき候にたわむれおり候所を、後より短刀にて刺(さし)つらぬき、そのまま短刀を刺しおき候て、いずくともなく逃げ去り候よし、誠にきび(気味)のよき事をいたし候」と書き送っている。木戸孝允も、当時はバリバリの攘夷論者である。
 この年は、さらにオランダ船長、フランス公使館傭いのイタリア人などの殺傷事件も起こっている。
*1860(万延元)年12月のイギリス公使館の通訳ヒュースケン暗殺事件―桜田門外の変後、安藤・久世政権は「公武合体」路線に切りかえ、口先では攘夷を唱えたが、1860(万延元)年6月21日にポルトガルと、同年12月14日にプロシャと修好通商条約を調印した。当時、アメリカの通訳・ヒュースケンは、来日中のプロシャ使節のための通訳もおこなっていたが、12月5日夜9時ごろ、赤羽のプロシャ使節宿舎から麻布善福寺の公使館に帰る途中、中の橋(麻布)付近で襲われた。ヒュースケンは護衛の武士3名とともに騎乗していたが、襲われて公使館で落命した。加害者は水戸の浪士と噂されたが、実は薩摩藩士の伊牟田(いむだ)尚平・樋渡(ひわたり)八兵衛らの仕業であった。
 これは大きな外交問題となり、諸外国は幕府の取り締まりの不備や犯人の未検挙などを抗議し、英仏公使は江戸から横浜に退去した。結局、幕府がヒュースケンの母に1万ドルを贈ることによって、事件はおさまった。 
*1861(文久元)年5月の第一次東禅寺襲撃事件―イギリスの公使オールコックは、香港からの帰途、長崎奉行の制止を振り切って、兵庫より陸路の帰還を強行した。これを知って尊攘派の水戸浪士ら(一部には下野出身者も参加)18人が東禅寺を襲撃する。5月28日夜、浪士らは両国の川開きの雑踏にまぎれて泉岳寺に集合し、東禅寺の裏門や総門などから乱入した。尊攘派は公使館書記官オリファントや、オールコックに同行した長崎領事モリソンなどを負傷させた。しかし、イギリス公使館は西尾・郡山の藩兵と幕府の講武所から派遣された外国御用出役の計200人ほどが警固しており、襲撃は失敗する。首謀者の有賀半弥・古川主馬之介はその場で討ち死にし、下野出身の小堀寅吉は現場を脱出したものの傷が深く自決する。その他の者もほとんどが、逃げ戻っても後に自害するか、捕縛され死罪となった。追跡を免れた黒沢五郎・高畠房次郎は翌年1月の坂下門外の変に参加し、岡見留次郎は1863(文久3)年8月の天誅組の乱に参加する。東禅寺事件により、幕府は負傷した2人のイギリス人に対し、1862年2月、1万ドルの賠償金を支払った。また、イギリスは水兵を上陸させて直接警備するようになった。
*1862(文久2)年5月の第二次東禅寺襲撃事件―前年の東禅寺襲撃事件が解決し、公使オールコックは賜暇により帰国する。代わりに陸軍中佐ニールが代理公使となる。当時、仮公使館はイギリス水兵30名、および大垣・岸和田・松本の3藩約500名で警備されていた。ところが一人の武士が、代理公使の寝室に近づき狙ったが、発見される。その武士は、水兵2名を殺害し、逃走する。翌日、松本藩邸で伊藤軍兵衛が自刃し、同人が前日の犯人であることが判明する。軍兵衛は、水戸浪士が再び襲撃する噂を聞きつけて、外国人のために同胞が殺しあうことを憂え、かつ、警備による松本藩の出費が重なることを心配し、一身を犠牲にして代理公使を殺し、松本藩の警備任務を解こうとしたのである。
*1862(文久2)年8月の生麦事件―薩摩の国父・島津久光は、公武合体運動の主導権を握ろうと上京し、朝廷に嘆願し、江戸に勅使を派遣して幕政改革を図った。1862年5月、一橋慶喜を将軍補佐、松平慶永を大老にして幕政を改革すべしとの勅旨をもって大原重徳(しげとみ)が勅使となり、これを島津久光が藩兵をもって護衛して6月はじめに江戸に到着した。幕府首脳はこれに納得せず押問答がつづいたが7月に入り、慶喜が将軍後見職に、慶永が大老と同格なみの政事総裁職に任ぜられることとなった。一応、目的を果たした久光は、8月に江戸を発ち京に向かった。その途中、武蔵国生麦村(現・神奈川県)で、イギリス商人の一行4人が久光の大名行列(約400人)に遭遇し、久光の家来によって殺傷された。イギリス商人1人が、ひん死の重傷を負い落馬してとどめをさされた。他の2人も重傷を負った。ボロデール夫人のみが無事で横浜に帰り着いて、事態を報告した。1)
*1862(文久2)年12月のイギリス公使館焼打ち事件―1862(文久2)年9月、朝廷は攘夷を決定し、翌月、勅使の三条実美・姉小路公知(きんとも)を江戸に派遣する。そして、幕府に攘夷断行を促す勅諚を下した。長州藩尊攘派の高杉晋作ら10余人は、この勅使を迎えてますます意気があがり、11月13日横浜外国人居留地襲撃を計画した。だが、同藩世子毛利定広の慰留によって、中止のやむなきに至った。その後、高杉らは同藩桜田邸の物見所に謹慎中、御楯(おたて)組を組織して、攘夷の実効をあげる機会を狙っていた。12月5日、幕府は攘夷の勅諚を奉承したが、他方で、これまで江戸市中の寺院をもってあてていた外国公使館を新たに品川御殿山に建築することとし、その工事を着々と進めていた。中でもイギリス公使館の工事が最も進んでおり、それは周囲に深い空堀と高い木柵とをめぐらせた二階建ての広壮な建築が完成しようとしていた。勅使一行は12月7日に帰京の途につき、世子定広も9日に京都に向かった。高杉らは、イギリス公使館を焼打ちして攘夷実行の狼煙(のろし)をあげ、先の横浜襲撃の失敗を取り戻そうとした。12月12日の夜、高杉晋作・久坂玄瑞・志道聞多(しじもんた *井上馨)・伊藤俊輔(博文)・長嶺内蔵太ら12名は、夜中の八ッ時(13日午前2時ころ)、イギリス公使館に潜入し、火薬を仕掛けて爆発させ全焼させた。イギリス側は4カ月前の生麦事件に次いでこの事件に遭遇し、ますます強硬になった。他方、幕府は対外的に開国通商を約束しながら、朝廷からは攘夷実行を迫られ、いっそう窮地に追い込まれた。

注1) 生麦事件の勃発に対し、居留外国人たちは激しく怒り、各国艦隊司令官などに強硬処置をとるように迫った。だが、イギリス代理公使ニールは自重説を唱え、外交交渉での解決を図った。しかし、それは12隻のイギリス軍艦を横浜港に入港させ、その軍事的威圧のもとでの交渉であった。
 ニールは本国の訓令にもとづいて、賠償額10万ポンド(40万ドルに相当)、20日以内の返答を幕府に突きつけた。同時にニールは、薩摩藩に対しても、犯人の逮捕・処刑と、賠償金2万5000ポンドの支払いを要求した。
 幕府は、朝廷や尊攘派の手前、老中格小笠原長行が独断専行したという形をとり、1863(文久3)年5月9日、11万ポンド(うち1万ポンドは第二次事件の償金)の支払いで落着した。
 だが、薩摩・イギリス間の解決は、一戦なくしては前進しなかった。1863年6月22日キューバー提督の率いるイギリス艦隊7隻は、横浜を出港し、27日に鹿児島湾内に入った。外交交渉は成立しないで、戦闘に入った。イギリス側は、まず薩摩藩汽船3隻を捕獲する。薩摩側はこれを機に、砲台10カ所の備砲83門が一斉に火ぶたを切った。イギリス側はほとんどの艦が被弾し、旗艦ユーリアラス号のジョスリング艦長(大佐)とウィルモット中佐が砲撃弾で戦死するなど死傷者は60余名に及んだ。しかし、イギリス側の武器の性能は格段の差があり、ほとんどの薩摩砲台は破壊され、集成館(武器製造所)も破壊され、琉球貿易船も焼き落とされた。また、鹿児島市街も折からの烈風もあって、その約1割が焼き尽くされた。
 戦いの結果、薩摩は攘夷に固執した無謀な行動が、かえって損失を増大させることを覚った。こうして、薩摩藩は外国船撃攘・異人斬りという「小攘夷」をすてて、富国強兵をおこない万国に対峙する「大攘夷」へと路線を転換するのであった。薩英間の交渉は江戸で行なわれ、この年の11月1日、薩摩が2万5000ポンド(約10万ドル、金6万330両余)を幕府から借用して支払うことで落着した。犯人の逮捕・処刑については、それを約束する証書が渡された。イギリス側からは、薩摩藩のために軍艦を買入れる仲立ちをするとの約束がなされた。
 こうして生麦事件は解決する。これを契機に、薩摩・イギリス間の関係は一転して親密なものへと転換する。他方、幕府の雄藩への統制力の衰えが明白となり、幕府の権威はいっそう衰えるのであった。

(4)水戸激派のテロリズムへの傾斜
 水戸激派は、桜田門外の変の際に、薩摩藩有志との連携で天皇を擁し幕政を改革しようとしたが、これは失敗した。しかし、桜田門外の変より4か月ばかり後の1860(万延元)7月、今度は水長同盟を結成して、同様の計画を実践しようとした。長州藩尊攘派志士との間で、"夷狄を打払い、夷狄に通謀する姦吏の排除"を目標とする盟約を結んでいる。「万延元年(1860)六月、長州藩の軍艦丙辰丸(へいしんまる)が品川に停泊すると、艦長の松島剛蔵は江戸藩邸有備館長の桂小五郎(木戸孝允)とはかり、水戸藩と結んで志願を達成しようと決意した。そこで松島は七月八日、水戸藩の西丸帯刀(さいまるたてわき)と江戸の下谷で会見して連携を約し、十二日と十五日にも会談した。十二日と十五日には、長州側から桂、松島と佐賀藩士の草柳又三が、水戸側から西丸のほか、岩間金平、園部源吾、結城(ゆうき)藩士の越(こし)惣太郎が同席した。/十九日には、その会談を受け、丙辰丸船上において、水戸藩は安藤老中の暗殺もしくは横浜襲撃といういわば破壊活動を、長州藩は幕府に迫って事後の収拾をはかる、とする盟約(丙辰丸の盟約)をとり交わした。破壊活動を『破』といい、事後収拾を『成』と称したので、これを成破の同盟ともいう。」(瀬谷・鈴木著『流星の如く』P.113~114)といわれる。
 しかし、幕府の圧力の下で、水戸藩の藩情は激派にとって不利となり、また長州藩でも当時藩主慶親が直目付(じかめつけ)長井雅樂(うた)を信任し、長井の方針が藩を動かしていた。長井が1861(文久元)年3月、藩主に建白した「航海遠略策」によると、長井の方針は、"公武合体し、開国進取の方針をとり、国威をはり、五大州(世界)を圧倒すべし"という「大攘夷」である。
 激派が藩政の実権を握れない「水戸側では、長州藩の要人周布(すふ)政之助に望みを托し、こちらでは安藤老中打倒をはかるので、長州ではその機に乗じ、京都で幕政改革のための勅諚を下す工作を進めてほしい、と改めて要請したものの、周布がまもなく謹慎処分を受ける身となって、頼みの綱が切れ、盟約の実行は不可能となった」(同前 P.123)のであった。
 桜田門外の変に直接かかわらなかった長岡勢残党は、長岡占拠の解散後、大貫村(大洗町)や島田村(水戸市)などへ移動しなおも屯集を続け、勅諚返納阻止と幕政改革を目指していた。1860(万延元)年8月に斉昭が急逝するや、彼等は期せずして出府の途につき、新宿(にいじゅく)村(東京・葛飾区)で相会(あいかい)した。しかし、幕吏にはばまれてそれ以上前進できなかった。そこで進退を議論したが、意見が一致しないで二派に分かれ行動することとなった。
 一つは、林忠左衛門ら37人(のち1人増加)で、薩摩藩を頼って攘夷の先鋒となろうというものである。しかし、薩摩藩ではその処置に困り、結局彼等を水戸藩に引き渡した。水戸藩はただちにこれらの者を江戸の藩邸に幽閉し、翌年12月に放免となった。だが、幽閉中に38人のうち9人が病死している。
 もう一つは大津彦五郎らの多数派である。彼等はしばらく時期を待って行動をおこそうという者たちで、折しも水戸へ向かう慶篤の駕(かご)をひそかに警固しながら帰国した。だが彼等は、城下には入らず、南郡の小川村(霞ヶ浦の北岸)に屯集し、岡田徳至(信濃守)・大場一真斎・武田耕雲斎ら激派に理解をもつ者が主導する藩政の実現を求めた。これら三老の藩政への関与は認められたが、しかし、藩政の実権は激派の思うようにはならなかった。
 そこで、激派は一時的に鳴りをひそめざるを得なくなる。そして、激派の結集の拠点としては、藩が領内各地に農民の教育機関として開設した郷校が利用された。

Ⅳ 坂下門外の変と尊攘派雄藩の政界工作
 (1)将軍家茂と和宮の婚儀
 将軍家と朝廷の間の関係を融和させる公武合体のために、政略結婚として、和宮を将軍家茂に嫁がせる話は、すでに井伊政権の時に始められていた。
 将軍家茂は、1858(安政5)年、13歳のとき(紀州藩主時代)に既に伏見宮貞教(さだのり)親王の妹・則子女王(倫宮〔みちのみや〕)との間に縁談話があったが、これは確定までには至っていなかった。この頃、孝明天皇の姉は30歳で、孝明の皇女・富貴宮はこの年に生まれたばかり(翌年8月に死亡)で、年齢の点から最も適していたのは妹の和宮であり、家茂も和宮も13歳であった。しかし、和宮はすでに有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約していた。このため、和宮は頑強に家茂との婚儀に付いては抵抗した。
 幕府は、1860(万延元)年3月、直弼が暗殺されたあとも、この婚儀に付いては継承した。しかし、その政治的位置づけは井伊政権時代のものとは異なっていた。井伊政権時の政略結婚の意義は、勤王の志士を弾圧し、朝臣を威嚇して、朝廷を屈服させた機会をとらえて、幕府が朝廷を統制する一つの手段として考案されたものである。すなわち、禁中並(ならび)公家諸法度を厳重に守らせるとともに、他方では、宥和策として朝廷に経済援助を行ない、公武間の平穏を保つことであった。言うならば、当時の力関係を反映して、"政治は幕府に一任し、朝廷は幕府の施政をそのまま容認する"という、幕府中心の公武合体方針にもとずく政略結婚である。
 ところが「安藤・久世」政権になると、幕府の権威の衰えによって、同じく公武合体といっても、内実は"朝廷の権威をかりて幕府の権力・権威を強固にする"ことを目指し、朝廷を利用する意味合いになっているのである。この背景には、現職の大老が白昼、街頭で暗殺されることに示されるように、幕府の権威の衰えは庶民の目からみても歴然としたことがある。それとともに、朝廷の権威が相対的に浮上する要因となったことに、勤王派の雄藩が幕府の了解抜きに、直接朝廷に近づき、相談し、政治課題に取り組む状況が生み出されてきたからでもある。
 この婚儀に付いて、孝明天皇ははじめは反対であった。だが、幕府は、この婚儀により国内の人心が落ち着き、おいおい海防も整い、そうすればひいては攘夷も可能となりうるとほのめかし、さらに孝明天皇・朝廷を説得した。
 朝廷内部の公卿のうちにも、違う観点からこの婚儀に賛成するものがあった。その代表格は、当時、孝明の侍従をしていた岩倉具視であった。彼は天皇の諮問に答えて上書(1860〔万延元〕年6月)し、次のように述べた。

......目今(もくこん *現今)関東(*幕府のこと)の覇権ハ最早(もはや)地ニ墜(お)チ候て、昔日の強盛(きょうせい)ニハ之(これ)無く、井伊掃部頭(かもんのかみ *井伊直弼)ハ大老の重職ニ居り候て自己の首領サヘ保護仕(つかまつ)り難(がた)く路頭ニ於テ浪人の手ニ相授(あいさず)ケ申し候。是(こ)レ明確タル一證ニ御座(ござ)候。箇様(かよう)ニ覇権ノ地ニ墜チタル関東ニ御依頼遊ばされ〔*大政を委任なさる〕候て内憂外患ヲ防遏(ぼうあつ *防止)仕リ、皇威御更張ト申ス儀ハ、世俗ノ諺(ことわざ)ニ申し候"長竿ヲ以テ天上の星ヲ敲(たた)キ落ス"カ如キ者ニ御座候......しかしながら、此(この)大事業(*朝廷の権力を回復すること)を急遽(きゅうきょ)ニ成就(じょうじゅ)仕リ候ニハ固(もと)ヨリ口舌ノ能(よ)ク為(な)ス所ニハ之(これ)無く候、必(かなら)ス干戈(かんか *武器)ニ訴ヘ申さず候半(そうろはん)ては相成り難く、左候(さそうろう)ては却(かえっ)て天下の大乱ヲ醸(かも)すべく基(もと)トモ相成り然るベカラズ候。只々(ただただ)時機到来ヲ御待(おまち)遊ばされ漸次(ぜんじ)其(その)指針ニ従ヒ御動キ遊ばされ候半ては相成り難き候。......目今の時機(じき)ハ先(ま)ツ其(その)名ヲ棄てられ候て其(その)実ヲ取らせられ候(そうろう)御方略肝要の御事ト存(ぞん)じ奉り候。幸ニモ過日以来関東ヨリ熱心ニ和宮御縁組(えんぐみ)ヲ再三内願に及び居り候儀故(ゆえ)、朝廷ニ於テハ特別出格の聖恩ヲ垂(た)れられて関東の内願ヲ御許容あらせられ公武御一和ヲ天下ニ表示遊ばされ候て漸次ニ五蛮(5つの外国)ノ条約引戻(ひきもどし *解消)ハ勿論(もちろん)御国政の大事件ハ奏聞の上、夫々(それぞれ)執行仕るべく様関東ェ懇々(こんこん)ト御沙汰あらせられ候得(そうらえ)は、関東ニ於テモ朝廷ヨリ特別出格の御保護ヲ蒙(こうむ)リ奉リ候儀ニ付(つき)、〔*朝廷の〕御沙汰ニ背(そむ)キ奉リ候儀ハ出來(しゅったい)仕リ難き〔は〕必定(ひつじょう)、〔*和宮降嫁の内願を〕御請(おうけ)仕るべくト存じ奉り候。......関東江は先ツ五蛮条約引戻の儀(ぎ)速(すみやか)ニ実行仕るべき様御沙汰遊ばされて真実の御請も申上げ候ハハ〔*幕府が本当にこれを承(うけたまわ)るならば〕皇国の御為(おんた)メト思召され、和宮ェ御勧め遊ばされ御納得あらせられ候得は関東ェ御縁組の内願御許容の御沙汰遊ばさるべき御儀と存じ奉り候......  (『岩倉公実記』上巻 P.384~387)

 孝明は、この上書をみて大いに心を動かされたようである。攘夷という念願が、この降嫁による公武一和策によって実現するかもしれないと思ったからである。
 1860(万延元)年7月、幕府は次のように、「和宮降嫁」が実現すれば、攘夷を実行すると朝廷に誓約する。すなわち、"現在は外国と戦争を始める時ではないが、しかし出来るだけ軍艦・銃砲の製造に当っている。だから、今後七、八年ないしは十年のうちには、必ず外国と交渉して、条約を廃棄するか、あるいは戦争をして外国を打ち払うか、どちらかの方法をとる"というものである。
 不確かなな見通しと甘言をもって、孝明を説得したのである。この誓約に乗って、孝明は「和宮降嫁」を決断した。1860(万延元)年11月1日、「和宮降嫁」が正式に発表された。和宮は、翌1861年(文久元)年3月に京都を出発し、江戸に向かうことに内定した。  
 しかし、幕府は外国との関係から、プロシャ、スイス、ベルギーと、新しく条約を結ぶ許可願いを提出したりして、ゴタゴタが生じたので、和宮の京都出発は1861(文久元)年10月20日に変更され、11月15日に江戸に入った。
 「和宮降嫁」について、尊攘派の志士たちは、幕府の陰謀(将来、何か決定的な問題が起った際に和宮を人質にする)と考え、和宮一行が江戸に向かう途中で要撃して、京都に戻そうという風説が流れた。このためもあって、一行は中山道をとって江戸に向い、その護衛は厳重を極め、12藩が輿(こし)を警衛し、29藩が沿道を警固した。また、一行の安全な通行のために、沿道の多くの農民や町人が助郷などに駆り出されたのであった。

(2)坂下門外の変と安藤老中の失脚
 水戸と長州の同盟(丙辰丸盟約)による尊攘運動の前進が破たんしたあと、関東の常陸(ひたち)や下野(しもつけ)の尊攘派志士の間では、新たな動きが始まった。
 その中心になった人物は、宇都宮藩の大橋訥菴(とつあん *訥庵)1)である。訥庵は熱烈な排外主義者で、1853(嘉永6)年、ペリー艦隊の来日に際し、幕府に徹底的な攘夷を提言した。1855(安政2)年の大地震を機に、江戸郊外の小梅村(現・東京都墨田区)に隠棲した。だが、井伊直弼の「条約無許可調印」に憤激し再び「国事」に奔走し、桜田門外の変後は尊攘派志士の間に隠然たる勢力を持つようになった。
 1861(文久元)年7月、幕府の「和宮降嫁」奏請の報が伝えられると、公武合体に反対し、王政復古の構想を密奏するために、門人の津和野藩士・椋木(むくのき)八太郎を1861年9月5日に京へ派遣した。 
 その内容は、①勅命さえ得れば夷狄攘斥運動は発展し、神州の命脈は恢復(かいふく)する、②幕府の武威は衰え、夷狄の侮りで毒がまわり、幕府滅亡はこの10年の内にあることは明白である、③天朝の御威光を古に復し(王政復古)、「宝祚の無窮に至らん」とする―などである。
 訥庵は、宇都宮藩ゆかりの正親町三条家2)をとおして密奏するが、それは失敗する。当時の朝廷内では、公武合体派が強かったためである。
 訥庵(とつあん)は、王政復古のための密奏と同時に、具体的な行動として「斬夷」を考えていた。これは、「和宮降嫁」の問題だけでなく、安藤信正(信睦)が和学講談所の塙次郎(塙保己一の子)に命じて「廃帝」の故実を調査させているという風説(事実であった)を聞いて憤激し、夷人を斬ることで幕府を窮地に陥れ、「和宮降嫁」の阻止を狙ったものである。
 訥庵は、同郷(宇都宮)の児島強介を密かに水戸へ派遣し、「斬夷」について協力を求める(強介は宇都宮の商家に生まれたが、若くして水戸の藤田東湖や茅根寒緑に学び、水戸には同門の知己も少なくなかった)。しかし、水戸藩激派の野村彝之介(つねのすけ *桜田門外の変後、藩内に戻って潜伏していた)や原田市之進らは、「斬夷」よりも安藤老中の要撃(「斬奸」)を主張した。
 結局、訥庵は水戸との連携を求めて、野村らの主張を受け入れ、安藤要撃の具体策を激派と打ち合わせる。両者の連絡役は、「斬奸」にもっとも熱心な平山兵介がつとめた。
 しかし、攘夷決行の計画は、他にもあった。この年の10月頃、訥庵の門人で長州藩士多賀谷勇は、武州の郷士・尾高長七郎と相談して、日光輪王寺宮を奉じて、日光もしくは筑波山に拠って義軍を募(つの)り、攘夷の先鋒になろうという計画である。2人は初め水戸を遊説し、それから真岡(もおか *現・栃木県真岡市)の小山春山を訪ね説得し、さらに宇都宮の菊池教中(訥庵の義弟)を訪れた。菊池は大いに賛成し、2人を江戸に送り、訥庵の援助を求めるように配慮した。多賀谷は、10月21日夜、小梅の訥庵邸を訪ね、計画の大略を説明した。
 しかし、日光宮の擁立方法も、同志の徴募の件も具体的なことが決まっておらず、訥庵は多賀谷の策を危ぶんだ。それでも訥庵は義軍の決起そのもは望むところなので、30人の同志は必ず集めるようにといい、30両の金を与えて、各地の遊説にむかわせた。訥庵に比べ、菊池教中の方ははるかに積極的であった。「この挙に好機至れりとして、当時開墾した新田に農兵を養成訓練し、武器を集め軍資金を調えた。義軍の備えとして、前軍を児島強介、中軍を訥菴、後軍を教中と仮に隊伍を編制して、機の熟するのを待った。」(『宇都宮市史』第六巻近世通史編 P.468)のであった。
 その後、多賀谷は日光宮用人・柴田山城と会見し、日光宮奪取を謀り、尾高長七郎は訥庵門人の中野方蔵とともに上州・野州・下総と各地を奔走した。しかし、人数集めはかんばしくなく、とても訥庵のいうような30人には届かなかった。「十一月八日の夜から九日の朝にかけて集まる者は、野州(*下野)の児島強介・河野顕蔵・小山春山・横田祈綱その子の晶綱・川路義路・国分五郎、下総の福田又介・長谷川俊十郎、上野の小関隼之介、丹後の宇野東桜、伊予の得能淡雲、長門の吉田栄次郎、薩摩の鮫島雲城、筑後の松浦寛敏、江戸の乙葉大介ら二〇名たらずであった。この集合に平山兵介始め水藩からほとんど一名も参加しなかったことは、彼らはまず斬奸を強くしていたためである。」(同前 P.468~469)といわれる。
 大橋訥庵はこれをみて、大事の決行はなり難いと判断し、人数不足を理由に同志の解散を命じた。日光宮擁立運動は、10月下旬から11月初旬にかけて、わずか20日間たらずのものでしかなかった。
 他方、安藤要撃の方はどうか。決行期日ははじめ1861(文久元)年12月25日、ついで28日と定めたが、水戸藩庁などの警戒が厳しく、集合の機が得られなかったため、やむなく年を越した1月15日に改めなければならなかった。要撃者は、水戸側から平山兵介、小田彦三郎、川辺次左衛門と、黒沢五郎(東禅寺に討入った)、高畠房次郎の五人、宇都宮側からは河野顕三と河本杜太郎と決まり、一同しばし宇都宮に潜伏したあと江戸へ向かうこととなった。
 宇都宮に潜伏するについては、宇都宮藩の陰ながらの支援があったためである。「宇都宮藩では、国家老の戸田忠厚は江戸藩邸の間瀬忠至とともに、藩士県(縣)勇記らを介して、訥菴たちの策謀をひそかに援助するところがあった」(同前 P.470)が、宇都宮での潜伏でも手を貸している。3)
 しかし、1862(文久2)年1月12日、決行日の3日前、訥庵が突然幕吏に逮捕され、小梅の塾も家宅捜索を受ける事態となった。
 それは、前年の末、「宇都宮の人で大橋(*訥庵)の門人岡田真吾とその義兄松本棋太郎(きたろう)は、一橋慶喜を擁して日光山に旗をあげ、檄(げき)を発して挙兵、『斬奸攘夷』の旨を朝廷・幕府に建白しようと企て、まず同志児島強介にはかると了解が得られたので出府し、大橋にこの素志を打ち明けると、大橋も同意したのみならず、一橋家の近習番山木繁三郎は昵懇(じっこん)の間柄であるからといって、一月八日、みずから山木を訪ね、うかつにも岡田らの建白書の慶喜への取次ぎを依頼した。山木はこの計画を知って、老中久世広周(ひろちか)に自訴したので、大橋ら関係者はあえなく逮捕されるに至った」(瀬谷・鈴木著『流星の如く』 P.124~125)という事情のためである。
 しかし、幕吏は訥庵を逮捕したが、関係者が安藤老中暗殺を計画していた件については、察知することはできなかった。訥庵の妻が証拠となる書類を破棄したり、隠蔽していたためである。
 安藤老中要撃をねらうわずか6人の部隊の方は、計画を延期することもなく1月15日、上元(陰暦1月15日の佳節)の登城日をもって襲撃した。平山兵介は、乱闘のすきをついて安藤の駕籠に切りかかり、老中の背中などに突き傷を負わせた。しかし、安藤老中は60人ほどの警固の藩士に守られており、平山はこの藩士によって倒された。残りの5人も皆、切り殺された。安藤信正(信睦)は、かろうじて坂下門内に逃げ込み、命だけは助かった。計画ではもう一人、川辺次左衛門が参加するはずであったが、川辺は現場へ早く着きすぎ、しばらく付近を歩いて時間をつぶし、あらためて門外に来てみると、事件はすでに終わっていた。
 参加者は、桜田門外の変の時と同じように、各自が「斬奸趣意書」を懐中にしていた。川辺は、長州藩邸の桂小五郎を訪ね、この「斬奸趣意書」を渡した後、自刃している。この趣意書によると、安藤老中の「悪行」なるものは以下の点である。
(一) 幕府は、和宮の降嫁を朝命によることとして、公武合体の姿を装っているが、事実は奸謀威力をもってした強奪であり、今後は和宮を擁して外夷と交易を進めようと勅許を求めてくることは必定である。
(二) もしその勅許が得られなければ、天皇の譲位を迫ろうと、すでに和学者に命じて廃帝の古例を調査させている。これ実に将軍家を不義に陥れ、万世ののちまでも悪逆の名を流すことになる。その暴逆は北条・足利をはるかに凌(しの)ぎ、まことに切歯(せっし)痛憤(つうふん)に堪えない。
(三) 沿岸の測量を許して日本の形勢を教え、あるいは品川御殿山を残らず外夷に貸与したのは、かれらを導いてわが国を奪わしめるようにと謀るも同然の所業といわざるをえない。
(四)安藤老中は、外夷と格別の親交をもち、一方、国内の忠義憂憤の者を仇敵のように扱う。老中をこのまま要職にとどめておけば、天朝を廃し、幕府を倒し、みずから封土(*家来になる代わりにもらう土地)を外夷に請うようになることは明白である。
(五)したがって、われわれ微臣は、痛哭(つうこく)流涕(りゅうてい)、大息(たいそく *大きななげき)のあまり、奸邪の小人を殺戮(さつりく)して、天朝・幕府を安(やす)んじ、国家万民を外夷から守り、禍害を未然に防止しようと決意して一挙に及んだ次第である。  (『宇都宮市史』第六巻近世通史編 P.126~127)

 安藤老中を殺害しようと狙った尊攘派の志士たちも、朝廷と同様な「小攘夷」(今ただちの攘夷)であり、排外主義である。この意味で、差別的な華夷思想のレベルを超克しえていない。
 この事件で、安藤信睦(のぶゆき *信正)はかろうじて命だけは助かったが、この年(文久2)年の4月には辞任した。久世広周もまた、同年6月に免職となった。これにより幕閣は、同年3月、老中に就任した水野忠精(ただきよ *山形藩主)と板倉勝静(かつきよ *備中松山藩主)を中心に運営されるようになる。

注1)訥庵(1816~62年)は、長沼流兵学者の清水赤城の第四子として、江戸飯田町に生まれる。1829(文政12)年、14歳のときに信州飯山に赴き、一族の飯山藩士・酒井義重の養子となる。1835(天保6)年、20歳のときに江戸に出て、1837年に佐藤一斎の門に入る。のち故あって養家を辞し、旧姓に戻る。1841(天保12)年、佐藤一斎の勧めもあって、江戸の豪商大橋淡雅の養子となる。そして、養父の郷里である宇都宮藩の士籍を獲得し、藩侯の侍講を勤め、他方で、隅田川東岸小梅村に思誠塾を開いて、子弟の教育にあたった。訥庵の学風は、はじめ佐藤一斎の影響で陽明学的な色彩が強かったが、のち専ら朱子学を奉じた。
2)宇都宮藩は、藩主はじめの多くが訥菴の講義を受け、少なからずの門下生がいる。また、訥庵の義弟・菊池教中(訥庵の妻が教中の姉)は、豪商でありながら宇都宮藩の新田開発に貢献し、士籍を得ている。訥庵はこの教中とともに、尊攘運動を展開する。宇都宮藩は、訥庵らの影響もあって、尊攘精神が高く、外国人暗殺事件が繰り返されていた頃、幕府から外国公使館の護衛を命じられるが、これを辞退している。この宇都宮藩は、1858~59(安政5~6)年ごろから、宇都宮藩が正親町三条家の財政をみるということで家臣を派遣した。これを通し、宇都宮藩は京都の情勢を把握していたのである。
3)坂下門外の変の関係者への幕府の弾圧も、厳しかった。事件後の関係者の捕縛は、宇都宮関係者に集中した。事件後8カ月にわたり、10余人を投獄し、数十回におよぶ取調べが行なわれたが、結局、事件の真相にまではたどり着いてはいない。だが、投獄された者のうち4名が獄中死した。それは、中野方蔵・横田藤太郎・小島強介・得能淡雲である。大橋訥庵(順蔵)と菊池教中は釈放後わずかにして病死した。ようやく生き残ったのは、岡田真吾・松本?太郎・小山春山・多賀谷勇の4名であった。

 (3)長州・薩摩・土佐など諸藩の攘夷工作
 桜田門外の変によって、幕府の権威と権力が庶民にもわかるように歴然と低下する中で、上方では尊攘派の志士による「天誅」旋風が舞い上がっていた。「天誅」とは、天に代わって罪ある者を誅罰するということであるが、この場合は、尊攘派の急進派が開始した猛烈なテロリズムを指していた。狙われたのは、「安政の大獄」など幕府の活動に協力した者や、公武合体と称して「和宮降嫁」に関係した公卿などである。
 1862(文久2)年7月下旬ころから、「和宮降嫁」に関係した岩倉らが非難されるようになり、岩倉具視(ともみ)、千種(ちぐさ)有文、久我建通(たてみち)の3人は、7月24日、病気を理由として近習を辞任することを願いでる。翌25日には、正親町実愛・中山忠能・野宮定功の3議奏も、「和宮降嫁」に関係したので進退伺を提出している。関白九条忠尚も、6月、関白・氏の長者・内覧を辞し、閏9月、出家して円真と号した。 
 8月16日には、広幡忠礼・柳原光愛・三条実美ら13名が連署し、岩倉が幕府と通謀したという弾劾文を関白近衛忠煕に提出する。
 この頃から、岩倉・千種・久我に富小路敬直(たかなお)、および女官の今城(いましろ)重子、堀河紀子(のりこ)は「四奸二嬪(しかんにひん)」と非難され、一部の廷臣や尊攘派志士に脅迫されるようになる。8月20日には、朝廷は岩倉・千種・富小路にまず蟄居を命じた。22日、岩倉は辞官落飾(頭を丸める)して、友山と称した。9月25日には、洛中よりの追放令が出て、岩倉は郊外の岩倉村に潜居する。翌年2月15日に、岩倉は重謹慎となる。
 1862(文久2)年7月、九条家の家士・島田左近が暗殺された。犯人は薩摩藩士田中新兵衛らであり、左近の首は先斗町にさらされた。左近は、直弼の懐刀(ふところがたな)長野義言(よしこと *主膳)と協力して「安政の大獄」に活躍した人物である。
 同年8月には、目明しの文吉が殺害され、屍(しかばね)は三条河原にさらされた。文吉も、「安政の大獄」のときに、島田左近と結び志士の逮捕にあたった人物である。犯人は、岡田以蔵ら土佐藩士である。
 9月には、京都西町奉行所の与力・渡辺金三郎・上田助之丞、京都東町奉行所の与力・大河原重蔵、同じく同心・森孫六らが、近江石部宿で暗殺され、京都粟田口に梟首(きょうしゅ *さらし首)された。彼等もやはり、「安政の大獄」に活躍した者たちである。
 11月には、長野主膳の妾である村山可寿江(かずえ)が襲われ、三条大橋の橋柱にしばられ、生き晒(さら)しとされた。
 1863(文久3)年1月には、儒医・池内大学が岡田以蔵らによって大坂で暗殺され、首を難波橋にさらされた。池内は「安政の大獄」では追放刑にされていたが、尊攘急進派から「裏切り者」として殺された。
 同じく1月、千種家の雑掌・賀川肇が京都の自宅で殺され、首を一橋慶喜の宿舎である東本願寺に、腕を千種邸と岩倉具視邸に投げ込まれた。
 同じく1月、摂津藩士・宇野八郎が「坂下門外の変」にからみ、幕府側のスパイと目され、江戸新橋御用屋敷で長州系急進派によって暗殺された。
 1863(文久3)年7月、徳大寺家用人の滋賀右馬大允とその妻が自宅で襲われ、妻は斬殺され、右馬大允も傷を負った。その理由は、「攘夷を妨げ主家を因循に導いた」というものである。同月、徳大寺家の侍・二条寛斎は熊本藩士らに襲われて斬殺され、さらし首となった。寛斎は、佐幕論者である。
 同じく7月、京都の油商・八幡屋卯兵衛が殺され、三条河原にさらされた。その理由は、「商品買占めで庶民を苦しめ......」とされている。犯人は、軍用金を要求して断わられた天誅組といわれる。
 1863(文久3)年8月、西本願寺の用人・松井中務が京都の自宅で暗殺された。松平慶永と親交があったためである。
 1863(文久3)年8月、姫路藩の用達(ようたし)である紅粉屋又左衛門が、同藩士・江坂栄次郎に殺害された。理由は、家老高須隼人と結んで利益を図ったといわれる。
 1863(文久3)年9月、江戸本所相生町の商人・箱屋惣兵衛が殺され両国橋にさらされた。理由は、"外国人の手先となって暴利をむさぼっている"というものである。
 1863(文久3)年9月、石清水八幡宮別当寺双樹院住職・如雲が、天皇調伏(ちょうふく *人を呪い殺すこと)の僧として、土佐の北添佶麿によって斬殺された。
 1863(文久3)年10月、石清水八幡法円寺の僧・忍海が、中川宮の意を承けて孝明天皇を調伏したとの疑いで、鳥取藩士・勝部静男らによって斬殺された。
 これらの他にもいくつかの暗殺事件が起こっており、1862(文久2)年2月から翌1863年にかけて、尊攘急進派によって少なくとも50数人以上が暗殺されている。
 そして、「天誅」とともに、張り紙や投げ文などによる脅迫がしきりと行なわれた。とくに10月には、近畿各地に幕政や商人(両替商や貿易商など)を批判する張り紙が横行した。それらは、"態度を改めないと、「天誅」を加えるぞ!"というのである。しかしその中には、富商の家に押し込み強盗を働く「偽(にせ)勤王」もあらわれた。こうして、京阪一帯は、テロの恐怖におおわれた。
 これらは、京阪だけでなく、他の地方にも大きな影響を与えた。彦根藩では、井伊直弼の腹心長野義言や重臣宇津木(うつぎ)六之丞が斬罪に処せられている。江戸では、和学講談所の塙次郎が暗殺されている。
 「天誅」などの脅迫やテロに対して、幕府の力は衰え容易に取締りもできなかった。それに、勤王雄藩の上京も相次いで、急進的な尊攘派を勢いづかせたこともあった。
 桜田門外の変、坂下門外の変などの襲撃事件の後、勤王雄藩が京都に集まり、朝廷に近づく動きが公然とあらわれるようになる。
 薩摩藩の国父・島津久光(藩主島津忠義の後見人)は、1862(文久2)年3月、兄
斉彬の遺志を継いで、薩摩藩の力を背景に中央政界に乗出そうと、1000余名の藩士を率いて鹿児島を出発した(「率兵上京」)。
 京都についた久光は、同年4月、あくまでも封建秩序を維持することにつとめ、尊攘派の家臣がそれを乗り越え、天皇に直接結びついて突っ走るのを抑えるために、寺田屋に集合していた薩摩藩士有馬新七ら急進派を上意討ちとした。世にいう「寺田屋事件」1)である。
(《補論 寺田屋事件にみられる急進的尊攘派と島津久光との方針対立》を参照)
 久光は、念願とする公武合体運動を推進し、幕政を改革するために勅使を江戸に派遣することを朝廷に建言した。それが受け容れられ、久光は1862年5月、勅使大原重徳(しげとみ)を護衛する形で東海道を東下し、6月はじめに江戸に着いた。公卿大原重徳は幕府に対し、一橋慶喜を将軍後見人に、松平慶永を政事総裁職(大老に相当)にして、幕政を運営すべきとの勅旨を伝えた。いまや朝幕関係は、逆転の兆しをみせ、朝廷が幕府の人事に介入するようになったのである。
 大原重徳・島津久光らを迎え相手をした幕府首脳は、水野忠精(山形藩主)・板倉勝静(備中松山藩主)・松平信義(亀山藩主)・脇坂安宅(竜野藩主)の4人の老中である。彼ら幕府首脳部は、いかに朝命であろうとも、無位無官の久光(藩主ですらない)の息のかかった勅使の要請を、素直にそのまま受け入れるわけにはいかなかった。しかし、何回かの抵抗の後、結局、最終的には幕閣は勅使の命を受け入れ、慶喜、慶永を前述の役職に任じた。
 ここでは、明確に朝幕間の力関係が変わり、朝権はまた一段と上昇したのであった。このことをもたらしたのは、言うまでもなく、勤王派雄藩が幕府をパスして直接に朝廷と結びついて政治の大方向を取り扱うようになったためである。
 しかし、久光の勅命による「幕政改革」の方針は、大きく2つの点で問題があり、端的に言えば挫折することとなる。
 1つ目は、実際の権限は依然として老中にあり、慶喜も慶永もその権限は限定されていたからである(最大の改革は参勤交代制の緩和である)。2つ目は、久光じしん、新たな幕府の人事で、具体的にどのような政治を行うかについて、何らの構想を持っておらず、提示していないのであった。これでは、既存の老中政治は変わらず根本的な「幕政改革」は行なわれないのである。(詳しくは、松浦玲著『徳川慶喜』岩波新書 1975年 P.67~73 を参照)
 土佐藩は、1850(嘉永3)年に山内豊信(とよしげ *容堂)が藩主に就任し、吉田東洋を中心に藩政改革を進めた。1861(文久元)年ころも、藩政は吉田東洋によって運営されていたが、東洋は「佐幕・開国」論者であり、藩全体としては穏和な公武合体派である。だが土佐藩でも尊攘派が台頭し、1861年8月に、武市瑞山らを中心に土佐勤王党が組織され、200名ほどの規模となる。だが、藩内は上士対下士・郷士の対立、勤王党対佐幕派の対立は激しく、1862(文久2)年4月、吉田東洋は暗殺された。藩庁中枢の東洋派は退陣したが、代わって藩政を担ったのは東洋よりもさらに佐幕派的傾向が強い者たちであった。
 だが勤王諸藩がぞくぞくと上京する中で、同年8月、土佐藩主山内豊範(とよのり)は多くの尊攘派の藩士を従がえて入京した。武市瑞山は他藩応接掛に就任し、諸藩の尊攘派志士と密接に交流した。瑞山は、"政令を一切朝廷が御施行され、諸大名もまた、ただちに朝廷に参勤するようにしなければならない"という、王政復古論をもっていた。
 島津久光が京都から薩摩へ向かった翌月の9月(文久2年)、薩摩・長州・土佐の3藩主の連名で、ふたたび勅使を江戸に派遣し、攘夷の勅命を下すべきとの建議が出された。朝廷はこれを受け入れ、26歳の急進派の公卿三条実美(さねとみ)を勅使に任命し、土佐藩主にその護衛を命じた。勅使一行は、同年10月に江戸に赴いたが、瑞山は変名を使い、公卿の家臣のふりをして随行した。
 勅使一行を迎えた幕府首脳は、再度の攘夷督促にとまどった。一橋慶喜や松平慶永は辞表を出したり、ひっこめたりしたが、結局、12月5日になって将軍家茂が孝明天皇の意志を奉承したとの答書を提出した。この時、朝廷からの"朝廷直属の親兵を設置せよ"との要求も伝達されたが、さすがにこれは受け入れなかった。
 長州藩は、1858(安政5)年5月に、公武合体をもって難局を乗り切る「藩是三大綱」(朝廷に忠、幕府に信、先祖に孝)を藩是として決定した。同年6月、藩政は坪井九右衛門派から周布(すふ)政之助派に代わった。
 中央情勢はつぎつぎと目まぐるしく変化する中で、1861(文久元)年3月、直目付(じかめつけ)長井雅樂(うた)は、藩政府に「航海遠略策」を提言する。「航海遠略策」は、開国策と公武合体策を一緒にしたもので、4500字にもおよぶ大論文であるが、その主旨は以下のような内容である。

皇国の御為(おんため)と思召(おぼしめ)され、京都・関東とも是迄(これまで)の御凝滞(ぎょうたい *意思が通じず滞っている様)丸々御氷解遊ばされ、改て急速航海御開き、武威海外に振ひ、征夷の御職相立ち候様にと厳勅(*厳しい勅命)関東へ仰せ出され候はば、関東に於て決して御猶予は之(これ)あるまじく、即時勅命の趣を以て列藩へ台命(*将軍の命令)を下され、御奉行の御手段是(これ)あるべく、左候得(さそうらえ)ば国是遠略(こくぜえんりゃく)天朝に出で、幕府奉じて之(これ)を行ひ、君臣の位次(いじ *位の順序)正しく、忽(たちま)ち海内一和(かいだいいちわ)仕(つかまつ)るべく、海内一和仕り候て、軍艦富み士気(しき)振起(ふるいおこし)仕(つかまつり)候はば、一箇(いっこ)の皇国を以て五大洲を圧倒仕り候事、掌(たなごころ)を指すより易(やす)く之(これ)有るべく候。

 天朝―幕府―大名の位次秩序が正しければ、「海内一和」となり、そうすれば軍備は充実し、皇国が「五大洲(*世界)を圧倒」するというものである。ここでは、①「大政委任論」(徳川幕府の天下統治は天朝が委任したものという擬制)が現実政治ですっかり定着していること、②その下で「海内一和」がなり、軍備が整えられ士気がたかまれば、「世界を圧倒」することができること―が強調されている。
 そのためには、「小攘夷」ではなく、「大攘夷」に立つべきだという主張である。すなわち、「急速航海御開き、武威海外に振ひ」に示されるように、開国・通商により富国強兵をすすめるべきことが眼目となっている。「武威海外に振ひ」は、明らかに豊臣秀吉が朝鮮侵略の際に、日本は「武威の国」と誇った(官僚制の発達した中国・朝鮮を「長袖国」と批判し、それとの対比で)ことが前提とされているのである。
 周布政之助ら藩政府は、「航海遠略策」を受けて、これを藩の基本方針とする案をつくる。その内容は、「公武合体を推進した上で、急務第一の問題として航海により諸国事情を熟知し、わが国の力を蓄える、......さらに、往古に鴻臚館を設けて(*7~9世紀頃)外国使節を受け入れていたわが国にとって開国は当然で、開国・鎖国で混乱すると中国(清国)のように侵略を受ける危険がある......。最後にただし書きとして、長州藩が建造した洋式船の庚申(こうしん)丸の海外航海と蒸気船の購入を幕府に願うことを付け加えてい(る)」(農山漁村文化協会『江戸時代 人づくり風土記35 山口』1996年 P.346)のであった。この案は周布政之助が書いたもので、藩主の承認をえて、1861(文久元)年3月に、藩の基本方針となる。そして、長州藩はただちに朝廷と幕府との調停に乗出し、その工作には長井雅樂が指名された。
 1861年4月、長井は朝幕間の周旋のために、東上する。まず京都で大納言正親町(おおぎまち)実愛(さねなる)に面会し、「航海遠略策」を説き、実愛はさらに孝明天皇に伝えたところ、非常に喜ばれたといわれる。次に長井は江戸に入り、幕府工作を行なう。だが、当時江戸藩邸は尊攘派がたむろし、藩邸を取り仕切っていた周布も、長井の考えを批判する桂小五郎や久坂玄瑞などの説得で、その立場を変えつつあった。このため、長井が江戸に着くと藩邸は騒然となる。しかし、長井本人の説得、周布や村田蔵六などのとりなしなどでどうやら収めることができ、ようやく幕府工作に乗り出すことができた。
 当時、幕府は、「和宮降嫁」の準備や、欧米と開港延期の交渉をしており、長州藩の意見は願ってもないことであり、1861年12月、将軍の了承を得て、幕府から藩主慶親(敬親)へ「公武周旋」の内命が降りる。ともあれ、「航海遠略策」は、当時の「公武合体論」の世情を背景にして、朝廷や幕府(安藤・久世政権)に説かれ、まさに長州藩の中央政界への進出のキッカケとなったのである。
 しかし、事態は急変する。1862(文久2)年1月、坂下門外の変が勃発し、藩内でも松陰門下の尊攘急進派が台頭する。
 長井雅樂は再び周旋に動き、1862(文久2)年3月18日に入京し、朝廷工作を行なう。長井雅樂は、「正親町三条・中山・大原・岩倉の諸卿に謁して、大膳大夫(*毛利慶親)が誠実に公武に周旋するの意を述べて、開国遠略の建白書を上(たてまつ)り、『朝廷は今より、従来の如き婉曲の御沙汰を廃され、万事明白に仰出(おおせいだ)さるべし。尚(なお)開国遠略策にも勝(まさ)れる良策あらば、長藩は何時(いつ)にても此(この)主張を抛棄(ほうき)すべし』といへり(忠能卿手録。岩倉公実記。官武通紀)。此(この)議(ぎ)朝議に上(のぼ)るや、堂上も地下(じげ)も異論紛出(ふんしゅつ)し、所衆村居修理少進(政礼)結城筑後守(秀伴)の如きは、『此(この)説は老中伝来の和交説を潤色したるものにて、関東に阿党(*おもねる)せる奸説なれば、公卿以下之(これ)に蠱惑(こわく *たぶらかすこと)せらるべからず』といふに至れり(村井政礼日記)。按(おも)ふに雅樂(うた)の意見は正論にして、また誠意ある周旋ながら、酒井若狭守の浅野伊賀守に語れるが如く、惜(おし)いかな時機既に遅れたるなり(浅野氏祐談話)。去年雅樂が出府せし時、江戸長藩邸の過激派は、これをもって幕府左袒(さたん *味方すること)の説となし、御家の耻辱(ちじょく *恥辱)限りなければ、?刺(ぐうせき *二人刺し違えて死ぬこと)して死せんとまで痛論する者ありて、既に藩内にも異論ありしなり(長井雅樂一件書類)。然るに今年に至りて島津和泉(久光、薩州藩主茂久〔のち忠義〕の生父)東上の説(......)伝はりければ、皆(みな)薩藩に立後(たちおく)れたるを憤慨し、山田亦助の如き、和泉を途中に防止せんとさへ企つる者あり、......」(P.13~14)と、『徳川慶喜公伝』2は述べている。
 長井の率直な説得にもかかわらず、「このとき、朝廷には薩摩藩主島津久光が工作をしており、尊攘派の志士たちも京都に集まっていました。雅樂(うた)のたび重なる朝廷説得工作は一時は成功したかにみえましたが、五月になって差し戻されました。理由は私信でもって朝廷に建議したこと、文面に朝廷を非難するところがあるというものでした。私信で出したのは朝廷側の了解を得ていたことであり、文面はいいがかりです。京都の情勢変化で、朝廷内には攘夷の空気がみなぎっていたことによるものでしょう。」(『江戸時代 人づくり風土記35 山口』 P.347~348)といわれる。
 いいがかりを付けられた文面とは、「鴻臚館(*古代の外交施設)の昔を思ひ、国威を五大洲に振ふの大規模なかるべからず」という個所である。これに対して、朝廷は「これ上古(じょうこ)朝廷隆盛(りゅうせい)の時代を、今日の如き外国より迫られて已(や)むを得ず国を開きたる時代に比したるにて、朝廷を誹謗(ひぼう)せるなり」と難癖をつけたのである。このこじつけは、攘夷論を擁護するための立論であるが、「畢竟(ひっきょう)これ誣罔(ふもう *無い事をしいて偽る事)の説ながら、尊攘派の長藩久坂玄瑞等が雅樂(うた)の周旋を喜ばず、其(その)計画を破壊して藩論を一変せしめんの謀(はかりごと)に出づ。」(『徳川慶喜公伝』2 P.31)と言われる。
 長井雅樂の「航海遠略策」は、わずか1年もたたずして、朝廷によって却下されたのであった。
 1862(文久2)年4月、長州藩の重臣たちは、京都の情勢が久光の上京で一変する事態をみて、藩主父子の何れかの帰国を請願した。藩主慶親は幕府の許可を得て、世子の毛利長門守(定広)を帰国させた。定広は4月13日江戸を発ち、途中、29日に京都に立ち寄った。その直前、「......此(ここ)に至り長藩士宍戸九郎兵衛・北条瀬兵衛等少将(*岩倉具視)に請ひて曰(いは)く、『吾藩の世子長門守、近日江戸より至り、伏見駅を通過すべければ、島津家と同じく勅旨を賜はらん』と。廷議之(これ)を可とし、五月朔日(ついたち)中山大納言は浦靱負(ゆきえ *長州藩家老)を召し、『長門守も大膳大夫(*藩主慶親)の志に従ひて国事に周旋し、且(かつ)暫く輦下(れんか *天皇のお膝元)に滞在して警衛の任に当り、薩藩と共に浪士を鎮撫すべし』との宣旨を授けたり。此に至りて長門守、靱負をして答へしめて曰く、『浪士鎮撫は謹みて命を奉ず、国事周旋の事は、長門守未だ部屋住(へやずみ)の身にして、建白の一条に於ても委細の事情を知らず、加之(しかのみならず)父大膳大夫目下江戸にあり、父子東西に隔離して、或(あるい)は齟齬(そご)を生ぜんの虞(おそれ)あれば、速(すみやか)に江戸に照会したる上にて御請すべし』と。これ長藩が新に画策する所あらんが為(ため)なり。」(『徳川慶喜公伝』2 P.25)と言われる。
 こうして、薩長2藩は朝廷の命を受けて、共に国事周旋(国に関わることのため、いろいろ奔走すること)を行うが、しかし、その方向は異なった。すなわち、「此(ここ)に於て薩長二藩は共に国事周旋の任に膺(あた)りたるが、大膳大夫(*毛利慶親)の周旋は、先ず開国遠略策を撤して即今攘夷の新国是を定めんとし、島津三郎(*久光)の周旋は、薩摩守(*島津斉彬)の遺志なる一橋公推戴の精神を体(てい)しつつ、異なりたる形式にて貫徹せんと務むるものなれば、国是の如何(いかん)よりは、先ず一橋公を奉戴して、時局を救済するを主眼とせり。されば同じ周旋ながら、其(その)意味には自ら異なるものありしなり。」(同前 P.26)と、評されるのであった。
 1862(文久2)年6月6日、毛利慶親は江戸を発ち西上の途に就く。それは、大原重徳勅使が東下に向かう4日前という時期であった。慶親は7月2日に京都に着き、直ちに「航海遠略」策にもとづく藩の方針が京都の公卿・浪士などに評判が悪い状況の打開を、重臣たちと練る。
 その結果、開国・公武合体の「航海遠略」策を放棄して、「一意叡慮の在る所を候(さうらふ)し〔*従い〕、之(これ)を遵奉(*命に従い守る事)する」(同前 P.54)ことに決したのである。これにより、長州の藩論は全く一変したのであった。
 朝廷は、7月27日、藩論の一変した長州に対して朝旨を下し、毛利父子の内、一人は滞京し、一人は東下して、朝廷の方針に従い周旋することを命じた。その周旋の沙汰書は、①故斉昭に大納言を贈り、「戊午の密勅」に関わり幕府から処罰を受けた者を大赦すること、②水戸中納言(慶篤)を奨諭し、故斉昭の遺志を継ぎ、"皇国の為に丹誠を抽(ぬきん)づべきよう"、幕府より申渡すべきこと―であった。
 しかし、この沙汰書の内容は粗雑なものであった。とりわけ、①では、「当時死罪若(も)しくは牢死したる者、また流罪・幽閉にて死亡せる者、長岡駅にて横死せる者、さては桜田・東禅寺・坂下等の事件、其他(そのた)国事に斃(たお)れたる輩、近くは伏見寺田屋にて闘死したる者の霊を祭り、礼をもって収葬し、子孫をして祭祀せしめ、現存の者はそれぞれ旧に復すべしとの叡慮なれば、其(その)姓名を調査言上の上、前条の諸件を遵行すべし」となっている。
 だが、長岡駅で横死した者はおらず、現存の者を旧職に復帰させるべきとしても実際の情況に不適合となるのであった。最大の問題は、伏見寺田屋で闘死した者の霊を祭る件であり、後々まで薩長軋轢の一因ともなる問題である。すなわち、寺田屋事件は久光の命令での上意討ちであり、この沙汰書である限り、久光のメンツは丸つぶれとなるのである(決極は、この部分は削除となる)。
 この頃、毛利慶親は、中山大納言を通し、次の6つの箇条についての質疑書をのぼらす。その要点は、①現行の条約を破却す、②過失ある幕府の有司を責罰す、③諸大名ならびに諸藩士・浪人等、正義の徒の幕譴を蒙(こうむ)れる者を大赦す、④条約を破却する上は、海内決戦の意を以て防備の策を講ず、⑤京都および神宮(伊勢神宮)の警衛を厳にす、⑥将軍上洛の事に決せば、今秋春嶽(松平慶永)の上京を猶予せんも可なるべく、将軍上洛せば、諸大名予参の盛典を挙げて、公武永久の基を開くべし。
 朝廷からは、⑥に関して、将軍上洛はすでに幕府が決めており、朝廷から別に言うことはない。春嶽状況の件も、大原勅使が掛け合い中であり、定広が江戸に行き、大原勅使や久光と熟談すべきとした。そして、他はすべて伺いの通りとした。
 長州藩は、この6箇条を、「六箇条の朝旨」ともちあげ、しかも「朝旨は攘夷に在り、朝旨を奉じて幕府をして其(その)実を挙げしむ」と宣伝した。すなわち、「破約攘夷」である。ここに、長州藩は、1862(文久2)年7月、藩是三大綱が転換され、藩是は「破約攘夷」となる。「破約攘夷」とは、幕府が欧米諸外国と締結した条約を廃棄させ、武力で欧米勢力を追い出すという考え方である。
 この転換は、幕府にたいする関ヶ原いらいの恥辱を晴らすだけでなく、薩摩藩の「率兵上京」の威力に驚き、長州藩の遅れを挽回する所にその本音がある。
 これにより、長井の「航海遠略策」は放棄され、藩内では長井が朝廷を誹謗したという理由で処罰せよ! との尊攘派の声が強まり、1862(文久2)年11月15日に処刑が決定され、長井は翌年2月6日に切腹した。(高杉晋作・伊藤博文・井上馨らが江戸品川のイギリス公使館を焼き打ちをするのは、1862年の12月である。)
 長州藩は、藩の世子を先頭に、公式非公式に攘夷断行のための工作を繰り広げた。「たとえば文久三年(一八六三)一月、京都東山の料亭翠紅館に肥後藩士宮部鼎蔵、土佐藩士武市半平太、長州藩士久坂玄瑞、松島剛蔵、水戸藩からは山口徳之進、林長左衛門、下野隼次郎らの藩士が参集した......。/この会合は長州藩世嗣毛利定広が主催した。これでもわかるように、そこでは、諸藩に分散する攘夷派の横断的なネットワーク化をはかるとともに将軍の上洛および攘夷断行が論議されたことは容易に想像できる。毛利は、攘夷断行の朝議督促を幕府に伝達、天皇の加茂社、大和行幸を献策―など表裏両面から攘夷運動を画策した人物だからだ。」(岡村青著シリーズ藩物語『水戸藩』現代書館 2012年 P.139~140)といわれる。
 政局の中心は、明らかに京都に移りつつあった。「文久二(*1862)年十月から翌年三年はじめにかけて、筑前(福岡)藩主・芸州(広島)藩主・久留米藩主等々十数藩の大名がぞくぞくと京都に集まってきた。今や政局の中心は、京都に移ろうとしていた。将軍後見職の一橋慶喜も、将軍に先立って京都に上り、文久三年正月入京、ついで同月老中格小笠原長行(ながみち)・前土佐藩主山内豊信が、翌二月には政事総裁職松平慶永が入京、そのほかこのころ尾張(名古屋)藩主・肥後(熊本)藩主らも入京した。」(小西四郎著『日本の歴史』19開国と攘夷 P.265)のであった。
 1862(文久2)年12月、幕府は勅使三条実美に答書で、天皇の意志を奉承するとしたが、この時、攘夷の方策について将軍家茂が自ら京都へ赴き言上すると、約束した。
 家茂の上洛に先立って、将軍後見職の一橋慶喜は先発として京都に上ることを命ぜられた。その際、慶喜は水戸藩庁に、用達(家老)に復職したばかりの武田耕雲斎を同行させたい―と申し入れた。当時の京都は長州藩などの尊攘派の志士や勤王雄藩がぞくぞくと集まっていた。そこで水戸藩尊攘派の領袖と目されていた耕雲斎を同行させることによって、自己の立場を有利にしたいという思惑が慶喜にあったからとみられている。
 1862(文久2)年12月5日、一橋慶喜は、一橋家の家老ら数十騎を従えて江戸を発し、同24日、武田耕雲斎・魁介(かいすけ)父子、梅沢孫太郎、梶(かじ)青次衛門、大胡(だいご)聿蔵(いつぞう)らが後を追った。慶喜らは翌年1月に入京した。
 この前後に、政事総裁職の松平慶永や、新設の京都守護職に就いた松平容保(会津藩主)らも相次いで上京する2)。将軍家茂は、翌1863(文久3)年3月4日、3000の兵を率いて京都に到着し、二条城に入る。
 水戸藩主慶篤は、当初、江戸留守をつとめると定められていたが、急きょ、尾張藩主徳川茂徳と交替して上京することを命ぜられた。慶篤は、1863(文久3)年2月16日、弟の昭訓(あきくに *余四麿。16歳)ら1000余人を従えて江戸を発ち、3月5日に京都に到着した。京都に着いた慶篤一行は、水戸家にゆかりのある西本願寺の本圀寺(ほんこくじ)に入り、ここを屯所とした。
 この一行の中には、藤田東湖の4男・小四郎の姿もあった。小四郎はこの機会に多くの諸藩尊攘派の人士と交流をしている。尊攘派にとって藤田東湖は見上げる人物であり、小四郎が暖かく歓待されたことは間違いないであろう。
 政局の中心が京都に移り、尊攘派の志士のみならず、諸藩の大名などが家臣を率いて上京する事態となると、その経費はほとんどが農民・町人などの民衆の肩にかかった。その一例を水戸藩の事例でみると、富商には調達金が課され、村々には高掛上納金(*高掛〔たかがかり〕とは、村々の年貢量を示す高に応ずる意)、年貢の先納、さらには高掛りによる人足の拠出などが命ぜられた。農民や町人はこれらの多大な賦税に苦しまなければならなかったのである。ちなみに、藩主慶篤が上京した際には、領内から集められた金は、2・2万両にのぼったといわれる。
 江戸時代、農民一揆や打ちこわしが頻発するが、幕末のそれは、最も多かった天保の大飢饉時のそれに準ずるほどの規模となったのである(大塩の乱もあった)。まさに内憂外患である。
 慶篤は、将軍目代として帰府の命令を受けたので、1863(文久3)年3月25日に京を発ち、4月11日に江戸に着いた。その際、京都には、弟・昭訓を残し京都警固の任を命じた。昭訓の任務遂行のためには、松平頼位(よりたか *前宍戸藩主で、現藩主頼徳の父)と武田耕雲斎を補佐とし、また精鋭の藩士を選んで滞京させた。それは、奥右筆頭取・原市之進、目付・山口徳之進、小十人(こじゅうにん)目付・梅沢孫太郎、同梶清次衛門、徒歩(かち)目付・岩間金平、軍用掛手添(てぞえ)・下野隼次郎などで、総勢120人ほどであったと言われる。この部隊は、本圀寺勢(ほんごくじぜい)と呼ばれる。

 注1)有馬新七をリーダーとする薩摩藩の急進的な尊攘派は、久光の決起を待ちわびていたが、その行動がなかなか現われないので、"今は猶予すべきにあらず、先ず〔幕府寄りの〕関白(九条尚忠)と所司代(酒井忠義)とを斬りて義挙を激成すべし"と、集まった。4月21日には、久留米水天宮の神官・真木和泉も大坂に来て計画に、参加した。これ等の尊攘派(薩摩藩以外の諸藩の志士も参加した)70余人は、4月23日に大挙して薩摩藩大坂藩邸を脱出し、同夜伏見の寺田屋に宿泊した。久光は、奈良原喜八郎・大山格之助(綱良)ら9人の薩摩藩剣客を選抜して上意討ちとした。これにより、有馬ら6名が即死・2名が重傷となった。そして、30余人を伏見の藩邸に、30人を錦小路の藩邸に拘引した。
 この時、真木和泉は命拾いをしたが、彼は尊攘派志士の中でも、最も早くから倒幕論を主張した人物といわれる。「安政の大獄」のころ書いた『大夢記』では、"天皇が天下の政治を行なうべきとし、徳川氏は甲斐・駿河の二国の領主に落とすべき"と述べている。文久年間になると、その倒幕論はますます先鋭となり、1861(文久元)年12月には、「義挙三策」を作り、その優劣を論じている(《補論 寺田屋事件にみられる急進的尊攘派と島津久光との方針対立》を参照)。
 2)当時、一橋慶喜・松平慶永を中心に幕閣は、一方で諸大名との折り合いを図りながら、他方では幕府の軍事力などの強化を急いだ。前者では、幕藩体制の支柱の一つである参勤交代制の緩和を行なった。1862(文久2)年閏8月、大名の参勤は3年1勤とし、溜間詰・同格以外の大名はおよそ100日間の江戸滞在とし、かつ大名の妻子が国許に帰ることを許可した。これにより、諸大名の財政負担を軽くし、その分(ぶん)対外軍備の強化にまわせるようにしたのである。
 後者は、安藤・久世政権の軍制改革を引き継いだもので、文久2年後半には、陸軍総裁・陸軍奉行・歩兵奉行・騎兵奉行を設け、また洋式の将軍親衛隊も組織した。海軍力の強化のためには、オランダに留学生が派遣された。
 また、尊攘派志士の横暴なふるまいを取締るために、京都所司代のうえに京都守護職を設置した(7月27日)。閏8月、会津藩主松平容保(かたもり)がこの職に任命され、12月に京都に着任し、京都所司代などを指揮した。容保は孝明天皇の厚い信頼を受けたが、容保の考えの基本は穏和な公武合体論であった。

《補論 寺田屋事件にみられる急進的尊攘派と島津久光との方針対立》
 1862(文久2)年4月23日朝、薩摩藩士をはじめ諸藩の急進的尊攘派約70人が、薩摩藩藩邸などから大挙して伏見に向かい、その夜、寺田屋に宿泊した。この報を得て、島津久光は、有馬新七と親交のある奈良原喜八郎・大山格之助(綱良)など9人の剣客を選んで鎮撫させた。世にいう「寺田屋事件」である。
 このような事態に立ち入ったのは、急進的尊攘派と島津久光との間での方針上の違いと対立がある。
 これに先立ち、公武合体派の伸張に対し、西国の尊攘派志士たちはいらだっていたが、1861(文久元)年2月、尊攘派公家中山家の侍・田中河内介が、主家の所用で大宰府に至り、真木和泉・松村大成・轟武兵衛(肥後藩士)・平野国臣らと交流する。さらに田中は薩摩に入り、大久保一蔵(利通)・有村俊斎(後の海江田信義)と意見を交換し、尊王攘夷派の大義を説く。
 また、清河八郎(出羽出身)は、同年冬、中山忠愛の手書と田中河内介の添書を持って西下し、筑後・肥後・豊後・薩摩を遍歴し、志士の糾合をはかる。そして、清河は京都に帰り、田中河内介とともに、中山忠愛を奉じて薩摩に入り、島津久光を決起させ義兵を挙げようと謀る。だが、費用が乏しく計画倒れとなる。そこで、さらに青蓮院宮(中川宮、尊融親王)の令旨(りょうじ)を奉じて西下しようとしたが、これもまた費用が得られなかった。
 九州の志士達は、京都の情勢がわからず焦燥感をもっており、宮部鼎蔵(肥後藩士)や松村深蔵などは、自ら京阪に赴き情勢を探るほどであった。この頃、薩摩藩の柴山愛次郎(道隆)・橋口壮介(兼三)が、東上の途中に清河八郎と遭遇し、久光の「東上の企て」を知らせる。これを聞いて、清河は、"是(これ)百世の一大機会なり"と欣喜雀躍し、西下の計画を中止し、久光を盟主として、また遥か水戸の有志とも相応じて事を挙げようと檄を飛ばし、西国の志士を召集した。
 薩摩の島津久光は、兄・斉彬の遺志を継ごうと「率兵上京」により中央政界へ薩摩藩を登場させようと、その下工作を行なう。1861(文久元)年12月、堀次郎(伊地知貞馨)らを京に派遣し、近衛忠房に面会し、時事のことを建議し、天皇に剣を献上した。孝明天皇は、これを大いに嘉(よみ)した(ほめた)。さらに、攘夷についての勅諚降下を願ったが、これは近衛に拒否された。"「和宮降嫁」も済み、公武一和の時に当たって、それでは政令二途に出づるの非難を免れない"からである。
 1862(文久2)年1月、薩摩藩側は、重ねて近衛に次のように言う。「和宮の降嫁は幕府の奸謀にして、攘夷の叡慮を安ぜんとは表面の口実に過ぎざれば、此上(このうえ)如何(いか)なる邪謀を施さんも測るべからず、万一彼(*幕府)に先んぜられて制(*制約)を受けば、主客を異にせん、兵を動かすは固(もと)より天朝の安否に関すれども、斯(か)く危急の時には已(や)むことを得ざるにより、皇国復古の大業を建てんことこそ願はしけれ。」(『徳川慶喜公伝』2 P.16~17)と。
 そして、1000名の「率兵上京」を述べて、京都の守衛が整ったらば、滞京して天皇を守護すべきとの勅諚を下されることを願う。さらに、勅使を江戸に派遣して、幕政改革を迫るよう請うた。
 近衛大納言忠愛は、これに対して、"今は幕府寄りの九条関白の威力が朝廷を圧しているので、中山・正親町三条などの同志の行動は困難をきたしている。先ず長州・土州などの同志を糾合して、幕府に建議し、それを幕府が用いなければ、それから叡慮を伺っても遅くない。其の時は自分も協力する"などと答える。薩摩藩のこの動きを岩倉具視がみて、中山・正親町三条とともに、薩長2藩の国事周旋の志を天皇に報告する。孝明天皇は、これを大いに悦(よろこ)んだ―と言われる。
 1862(文久2)年4月16日、久光は1000余の藩兵を率いて入京する。久光はその日に、近衛大納言(忠愛)の邸宅をたずね、出府の理由を次のように述べる。「余が此度(こたび)関東へ出府の趣旨は、去々年以来修理大夫(*薩摩藩主・島津忠義)の参府を両度まで猶予を請ひたる御礼、且(かつ)は江戸藩邸焼失後の処置に付き、種々指揮すべき必要あるが為なれども、そは表面の言のみ、実は公武合体ありて皇威を振興し、幕府の弊政(へいせい *弊害の多い政治)を改革せられん事を建白するに在るなり。抑(そもそも)去午歳(安政五年)以来幕府政(まつりごと)を失ひ、或(あるい)は勅許を経ずして外夷に通商・貿易を許可し、或は正議(正義)の親王・公卿を始め、一橋・尾張・水戸・越前・其他(そのた)有志の大名以下諸藩の志士等を厳科(げんか *厳しい罰)に行ひて、宸襟(*天皇のこと)を悩まし奉る事(こと)大方ならず〔*一通りではない〕、之(これ)が為(ため)に人心離畔(りはん *離反)し、浪人どもは尊王・攘夷を主張するの余り、慷慨(こうがい)激烈の説を以て交(まじわり)を四方に結び、大老を途上に要撃し、外人を殺傷するなどの変事(へんじ)頻々(ひんぴん)として起り、遂には容易ならざる暴挙をも企(くわだ)つるに至れり(和泉〔*久光のこと〕を要〔擁〕して討幕の兵を挙げんとするをいふ)。此(かく)の如き形勢にして押し行かば、全国の騒乱ともなりて、勤王の趣意に副(そ)はざるのみならず、却(かえっ)て外夷の術中に陥(おちい)らん。余は家督の者にはあらざれども、三百年来徳川家の鴻恩(こうおん *大恩)に浴し、特に亡兄(斉彬)臨終の際、宿志を継承して天朝・幕府の為(ため)に尽力せよとの遺命をも受けたれば、徒(いたずら)に坐視傍観せんは、不忠不義の罪(つみ)遁(のが)れ難(がた)しと考へ、修理大夫と議して、一度関東に出府し卑見(ひけん)を開陳(かいちん)せばやと、出府の途(みち)すがら、今日入洛参殿したる次第なり、願はくは叡慮(えいりょ *天皇の考え)をも伺(うかが)ひ奉りたき所存なれば、此旨(このむね)委細奏聞を請ふ」(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』2 平凡社 1967年 P.20~21)と。
 久光の行動に対して、薩摩藩内もまた穏和派と激派に分かれ、激派の中には脱藩し、今にも久光が義挙に決起するがのごとく吹聴した。これに応じて、西国を中心に急進的な尊攘派はこぞって薩摩に集まった。だが、薩摩藩の小松帯刀などは、"久光は公武周旋のために出府したのであり、天下の義挙などという計画はない"と、鎮静につとめる。
 島津久光の率兵上京に期待する急進的尊攘派は、薩摩藩の対応がはっきりしないので、折から清河八郎や田中河内介より、武器を携えて至急大坂に上れ―という呼びかけに応えて、争って京阪に集合した。彼らは、幕府打倒の自分たちの計画の実現を望んでいた。たとえば、小河弥右衛門は、"幕吏を更迭して時局を救済せんとするは弥縫策(びほうさく)なり"といい、平野国臣は、"一橋公を将軍となし、松平春嶽(慶永)を大老となして、幕府を改革せんとするが如きは、迂遠(うえん)なり"と批判している。『徳川慶喜公伝』2 によると、平野国臣は、4月、曇華院の家司(けいし)結城筑後守秀伴を通じて、討幕三策を朝廷へ建白し、次のように述べている。
 
島津和泉(*久光のこと)滞坂中、綸命(*天皇の命令)を下して浪華・彦根を攻めしめ、青蓮院宮(*中川宮)の幽閉を解き、幕府党の吏員を退け、鳳輦(ほうれん *天皇が使う輿〔こし〕)を箱根に進めて、幕府の罪科を問はせ給(たま)ふべし、これ上策なり。又(また)和泉伏見に至りて幕吏を掃(はら)ひ、宮の幽閉を解き奉り、命(めい)を四方に伝へて兵を召し、然る後(のち)宮を奉じて幕罪を問ふ、これ中策なり。又(また)和泉入京の上(うえ)幕吏を掃ひ、二条城に拠りて官軍を募り、姦徒を罰して尊攘を議す、これ下策なり。(『徳川慶喜公伝』 P.19~20))

 明確な倒幕論である。久留米の水天宮祀官であった真木和泉もまた、1861(文久元)年12月12日の「義挙三策」で、すでに次のように述べている。

  〈諸侯に勧めて事を挙ぐる得失〉
今(いま)事を挙ぐるには、九千の兵なくんば有るべからず。少なくしても必ず三千は無くては叶わざる也。然(しか)れば大諸侯にあらざれば挙ぐることを得ず。大諸侯にて九千の兵を出すならば、事の成(なる)は勿論(もちろん)、其時(そのとき)の勢(いきおひ)甚(はなはだ)熾(さかん)にて、天下の諸侯これに応ずる者(もの)速(すみやか)ならん。又(また)天下士民、事の必ず成を頼みて人気勃起し、仮令(たとひ)一方に非義の義を守り、籠城する者ありとも、天下これに与(くみ)せず、其(その)領国の士民より起りて倒戈(とうか *寝返り)するに至るべし。是(こ)れ諸侯を勧めて挙げしむこと、方今の妙策なり。然りといへども、今日の諸侯と云ふもの、誰是(だれかれ)と云ふ差別もなく、其家を重んじ、其事の成否を深く勘(かんが)へ過ぐして、決断するものなく、且(かつ)老臣等(など)兎角(とかく)鄭重(ていちょう)の説〔*自重論〕のみ多くして、且又(かつまた)一日と推しやり、機を失ふこと甚し。......
  〈諸侯の兵を仮(か)り事を挙ぐる得失〉
仮りたる兵一千を以て華城(*大坂城)を取り、固く保ちて行在(あんざい *天皇行幸の際の仮の住まい)とするを待つべし。是(これ)には必ず義徒の内にて謀主ともなるべき人物一人、差継ぎて勇にして断決ある者一人、都(すべ)て二人付副(つきそ)ひて可なり。而(しか)して京にて鑾輿(らんよ *天皇の輿〔こし〕)を抜き取り、条城(*二条城)を乗っ取り、諸有司を撃ち、彦根(*彦根城)を焼くことは、義徒これを任ずべし。然れども義徒も一千は無くして叶わず。尤(もっとも)千の内五百人義士にて、五百人は農民或(あるい)は力士・盗賊の類にても可なり。然れども、是等(これら)の人を募るに、機(き *事のなりゆき)見(あら)はれ易(やす)きの憂あり、熟考すべし。......
  〈義徒 事を挙ぐる得失〉
義徒のみにて事を挙ぐるならば、前二策とは大段(*大概)大に異なるべし。何者、義徒のみならば、皆(みな)義勇とは云へども、資糧もなく、器械(*ここでは武器の意)もなく、其(その)勢(いきおひ)誰が見ても孤弱なるべし。然らば諸侯の挙ぐるよりも五倍も十倍も人数多く、同志の頼む心熾(さかん)にして、自然と外に張出す気焔(きえん  
 *盛んな意気)も熾にあるべき事なれど、義勇のみの人、さばかり多く募(つの)ることも出来がたければ、十分にて五、六百人なるべし。五、六百人にては、京中の事(こと)僅(わずか)に成し得るばかりにて、とても華城に手をつくることなし難し〔*大坂城を奪取できない〕。然らば此(この)挙は智計(ちけい *智謀)を専(もっぱら)にして、或(あるい)は声援を仮り〔*大きな支持を受けているような恰好をする〕、或は疑兵を張り〔*兵の少ないのを多くいるように見せる〕、戦争を用いずして彼を圧倒し、彼を迷眩(めいげん *迷って目がくらむこと)し、彼を逃亡せしむる様のことを謀(はか)るべし。然らば先ず義徒を二手に分ち、一手は速に護を奉じ、直に叡岳に幸し〔*天皇を守り、比叡山に行幸し〕、一手は条城に火を掛けて失火と号し、且(かつ)是を蹂躙(じゅうりん)し、若州(*所司代酒井若狭守忠義)が救火に出づるを討取り、差次(さしつ)ぎ京中役所らしきものを始(はじめ)とし、所々に火を掛けて、何とも訳のわからぬ様に狂い廻り、然る後に叡山に集まり、議を決して、右の一手にて二品親王(*青蓮院宮)と中将卿(*三条実美)とを擁し、又京に入り、角士(*相撲取り)を始種々の人を募り、淀城(*稲葉正邦の居城)を屠(ほふ)り、器械を取り、男山(*その山頂には石清水八幡宮がある)に楯籠(たてこも)り、中将卿を大将としてこれを守らしめ、右男山の人数を又(また)二手に分ち、一手にて二品親王を擁し、沿道人を募り、金剛山に楯籠り、折々(おりおり)大和・河内に横行し、資糧を積蓄(つみたくわ)へ、叡岳の援応をなし、都下の地に東兵(*幕府の兵)は一人も入り得ぬ様にし、機を見透(みすか)して華城を乗取り、蹕(ひつ *行幸の行列)を此(これ)に移すべし。其内(そのうち)には、最初叡岳に幸(みゆき)したる時、直(じか)に廻したる詔書?(ならびに)檄文天下に敷きて、諸侯の兵も義徒も追々に集まるべし。......
右三策、これを上中下策と称す。下策は勿論危(あやう)くして用ふべからずといへども、人材と時機の宜(ぎ *筋道にかなうこと)を得ば、笠置(かさぎ)行幸(元弘の変〔1331年〕で後醍醐天皇が笠置山に遷幸したこと)に比しなば、遥(はるか)に上策なるべし。中策に出づる時は、十に八九は成就すべし。上策に出づる時は、万が万まで成就疑ひなし。然れば義士憤激の腸(はらわた)をおさへて、百方手を尽くし、大国にて義を尚(とうと)ぶ君に説き、事を挙げしむるに若(し)くはなし。......  (日本思想大系56『幕末政治論集』岩波書店 1976年 P.206~209)
 
 真木和泉は、諸侯が義挙に決起すれば、「万が万まで成就ひなし」と断定し、そのためにこそ大国(大藩)に決起するように説得するべきことを強調している。真木の思想もまた、あくまでも武士中心主義であり、中策・下策で農民・力士・盗賊などが登場するが、それはあくまでも利用主義の対象でしかない。
 だが、真木らが大きな期待を抱いた久光の考え(公武合体論)とは大きな違いがあり、有馬新一・真木和泉・平野国臣らの「期待」は幻想であった。

第六章 藩政の大混乱と終焉

 Ⅰ 天狗党の筑波挙兵と藩内戦争
 攘夷についての朝廷の厳しい要求によって、幕府は攘夷期限をはじめ4月中旬としていたが、4月3日になってこれを4月23日に変更した。しかし、これもその日限が過ぎたため、朝廷は慶喜にその違約をさらに厳しく問い質(ただ)した。これに対して、慶喜は攘夷実行のためには帰府する必要があり、帰府を請願し、朝廷はこれを許した。ただし、その実行期限を5月10日とすることを、将軍家茂の名で約束させられた。
 慶喜は、1863(文久3)年5月8日に帰府したが、このとき、武田耕雲斎も帰府した(ただし、慶喜よりも早く5月3日に江戸到着)。将軍家茂もまた、海路江戸へ向かい、6月16日に江戸に帰着した。
 京都で、尊攘派の志士と交流し意気盛んとなった藤田小四郎は、5月慶喜に随行して江戸に帰ってきた。しかし、攘夷実行の日限の5月10日になっても、幕府はいっこうに具体的な行動を示さなかった。
 だが、長州藩は攘夷決行日の5月15日、下関でアメリカ船を砲撃した。長州藩は、さきに幕府が日本側から先に積極的な行動をとらないようにと命令していたが、長州藩はあえて攻撃をしかけた。次いで5月22日夜にはフランス軍艦を、26日にはオランダ軍艦をも砲撃した。しかし、6月に入って、長州藩は報復を受け、アメリカ軍艦により、藩の軍艦が撃沈あるいは大破され、また砲台も大破された。6月5日には、フランス軍艦によって下関の諸砲台が破壊され、さらに陸戦隊250名が上陸し、前田・壇ノ浦などの砲台も占領された。朝廷は、長州藩のこの攘夷決行を称賛し、さらに諸藩も長州藩を応援するようにとの命が下った。
 また、薩摩藩は生麦事件の解決の交渉に於いてついに決裂し、7月2日、戦闘に入った。この日は台風が襲来し激しい強風の中で砲撃戦が展開され、双方に損害が出たが、薩摩側は市街地の一部も焼かれた。しかし、彼我の優劣は明らかであり、薩摩藩首脳部は貴重な教訓を得ることとなった。「いたずらに攘夷に固執して、無謀な行動をとることは、かえって損失を招くばかりでであると考えるようになった。外国船撃攘・異人斬りというような『小攘夷』をすてて、富国強兵をおこない、外国の長所を採用し、外国にひけを取らぬ武力をもって万国に対峙(たいじ)するという『大攘夷』へと進まなければならないと悟るようになった。」(小西四郎著『日本の歴史』19開国と攘夷 P.287)のである。
 しかし、「小攘夷」から「大攘夷」への転換は、もともと本音としては開国派の薩摩藩にとっては、比較的順調に進んだ。しかし、神道思想の影響の強い長州藩の場合、その転換は翌1864(元治元)年8月の下関戦争での手痛い大敗まで時間がかかった。
 この転換は、明治維新にとって極めて重要な事柄なので、改めて「小攘夷」とは何か、「大攘夷」とは何か―これを専門の歴史研究者に聞いてみる。町田明広氏によると、「小攘夷」とは、「勅許を得ずに締結された現行の通商条約を、即時に、しかも一方的に破棄して、それによる対外戦争も辞さないとする破約攘夷を主張するもの」(同著『攘夷の幕末史』講談社現代新書 2010年 P.14~15)である。他方、「大攘夷」とは、「現状の武備では、西欧列強と戦えば必ず負けるとの認識に立ち、無謀な攘夷を否定する考えだった。現行の通商条約を容認し、その利益によってじゅうぶんな武備を調えた暁に、海外侵出をおこなうと主張したのだ。公武合体派と呼ばれた人たちは、ここに属した。......その本質は、やはり攘夷であった。」(同前 P.14)といわれる。したがって、単に開国派といわれるからといって、単純に進歩派と評価できるわけではない。その大部分が、侵略思想を胸に秘めて(あるいは公然と)、「富国強兵」を推進し、武備を整え、近隣の諸国を併合して、西洋列強に「対峙」しようというものである。
 ところで、7月に入って、長州藩の重臣は、藩主の意見として、「攘夷親征」の実行を関白以下の廷臣に入説した。しかし、倒幕のキッカケを掴(つか)もうとするこの意見にはさすがに反対論者が少なくなかったと言われる。しかし、急進尊攘派は、あくまでも攘夷を貫徹しなければならないとして、ついに8月13日、「攘夷親征」の詔勅が下る。
 だが、この詔勅は不確かなものであった。「攘夷親征」が決定された後、孝明天皇は、「攘夷親征」の裏面に倒幕の計画があることを知って大いに驚く。そして、孝明天皇は自ら中川宮に次のように自分の意志を伝えている。

朕(ちん)若(も)し親(みずか)ら徳川を討伐せば、和宮(親子内親王)をも討たざるを得ず、これ先帝に対し、且(かつ)は肉身の間柄(あいだがら)、大に忍びざる所なり。さりとて皇国の為(ため)已(や)むなき時は討伐もすべけれども、深く慮(おもんばか)るに、一橋・会津等が奏聞の如く、未だ武器の備はらざるに開戦するは時期尚(なお)早(はや)し (『徳川慶喜公伝』2 P.262)

 孝明は、急進的尊攘派に強く迫られて「親征攘夷」の勅命を出しただけで、討幕そのもは端(はな)から考えていなかったのである。
 そして、8月18日には、今度は逆に公武合体派のクーデターが勃発する。急進尊攘派を一人も入れないという厳戒の下で朝議が開かれ、以下のような事項が決定された。①天皇の大和行幸・御親征の軍議の延期、②尊攘派公卿の官位剥奪および参内禁止、③国事参政、国事寄人の廃止1)、④長州藩の堺町御門警衛の免除―などである。
 薩摩藩と会津藩は協力して、中川宮をはじめとする公武合体派の公卿を動かし、長州などの急進尊攘派を排除する行動に出て、成功するのである。これにより、孝明天皇の大和行幸は延期され、長州藩などの勢力は京都から一掃された。三条実美らの急進尊攘派公卿も、一路長州に落ち延びることとなる(世にいう「七卿落ち」である)
 8・18クーデターにより、幕府に尊王攘夷の実行を挙げさせよとしていた水戸藩本圀寺勢は、孤立する。10月3日には、朝廷の命をうけて島津久光が1万5000(7000という説もある)の兵を率いて再び上京すると、朝議は改まり、朝廷は諸藩藩士あるいは浪士らの公卿への遊説を厳しく取締り、落胆した本圀寺勢の中には、個人的に尊攘運動にまい進するものも現われて来る。本圀寺勢の中心である昭訓が11月23日に16歳で病没したこともあり、本圀寺勢をなおさら悲歎させた。
 もともと幕府は、攘夷は不可能とみていたから、5月9日、生麦事件の賠償金をイギリスに支払い、他方で、横浜の「鎖港」により攘夷の姿勢を示して尊攘派の鉾先をかわそうと、外国と交渉をはじめた。9月、アメリカ、オランダとに横浜鎖港の件を提案し、12月29日には、池田長発(ながおき)を正使とする鎖港談判使節団をヨーロッパに派遣している。

注1)1858(安政5)年1月、堀田正睦は上京し、条約調印の勅許を得ようとしたが、これは失敗した。これは、孝明天皇の頑迷な攘夷論とこれを後押しした中・下級貴族の「下剋上」とも言える集団決起によるものであった。これ以降、朝廷の政治力の浮上と共に現実政治への朝廷のかかわりが次第に重要なものとなってくる。今までのように、ただ幕府の指示のままに従っておればよいということでは済まなくなってきたからである。こうして安政の大獄の後、桜田門外の変、坂下門外の変などで尊王攘夷派が全国的に台頭する中で、1862(文久2)年12月9日、朝廷に国事御用掛が新たに設置される。これにより、関白・左大臣・右大臣以下の重職者とともに、三条実美・姉小路公知(あねのこうじきんとも)・三条季知(すえとも)の少壮急進派も任命される。さらに、1863(文久3)年2月には、国事参政・国事寄人(よりうど)の2職が置かれ、専ら少壮急進派が任ぜられ、朝議はほとんど急進的攘夷派によって動かされるようになった。また、国事御用掛の下に学習院が組織され(2月20日)、無位無官の尊攘派志士でも建言を受け入れる所となった。この学習院徴士として登用された者には、真木和泉・久坂玄瑞などがいた。これにより、朝廷内でなお一層急進的な攘夷論が横行した。朝廷は、将軍家茂を1863(文久3)年3月に入京させ、5月10日を攘夷実行の期限とさせた。しかし、同年8月18日の公武合体派によるクーデターによって、国事参政・国事寄人の2職は廃止された。

(1) 挙兵への準備工作
 1863(文久3)年の8・18クーデターは、急進尊攘派を京都から一掃し、攘夷運動を地方に分散させることになった。「このような情勢のなか、江戸の小四郎は、再度京都へ上って幕府の非を朝廷に訴えようとし、その計画を同志山国兵部に語った。しかし強く慰留されたので断念し、その策に代えて、幕府に攘夷の決行を迫るために筑波山に挙兵することをもくろみ、これを武田耕雲斎に伝えて理解を求めたが、耕雲斎にも時期尚早と強く反対された。/しかしこのとき小四郎は、すでに長州・因幡(鳥取)両藩の有志と密約ができていたらしく、挙兵計画は中止できないとして水戸へ潜入した。そして同志斎藤佐次衛門らと謀り、その実現のため府中(石岡市)に拠点を置くこととし、そこから小川や潮来(いたこ)などへ往来、同志の竹内百太郎(安食〔あんじき〕村〈霞ヶ浦町〉郷士)、岩谷敬一郎(宍倉〔ししくら〕村〈同〉修験〔しゅげん〕)と協議を重ねた。」(瀬谷・鈴木著『流星の如く』P.138)のであった。
 水戸藩激派が郷校を拠点として活動していたことは、前述した。その一例をあげると、「文久三(一八六三)年九月の小川郷校(東茨城郡小川町)での集会の参加者名簿によると、合計七〇一人のうちに水戸藩士の名はなく、郷士四三人、郷医・教員一四人、神官・修験二三人、村役人一六三人、農民四五八人と、農民だけで六五%、村役人をあわせると八九%に達している。これらの参加者の出身地は、行方郡二七六人、新治郡二二七人、茨城郡一六四人となっている。もちろん郷校での教育や尊攘思想の普及、軍事訓練などを指導したのは、藩士とその子弟、郷医・教員、神官・修験、上層農民らと思われるが、明らかに郷校が周辺農民の民衆を尊攘運動に動員する拠点となっていた。」(『茨城県の歴史』山川出版社 1997年 P.258~259)のである。
 水戸藩激派が主に拠点とする郷校は、小川稽医(けいい)館、潮来(いたこ)文武館、野口時雍(じよう)館、那珂湊文武館などである。小川稽医は竹内百太郎が、野口時雍館は田中愿蔵(げんぞう)が、潮来文武館は岩谷敬一郎が館長を勤めた。なかでも小川稽医館や潮来文武館は、水戸から遠く藩庁の干渉もゆるいため、激派の拠点としては都合よく、多い時には1500人もが小川稽医館に群がったといわれる。
 両毛(下野・上野)方面の遊説を終え水戸にもどった藤田小四郎は、活動の軸足を水戸から府中(現・石岡市)に移した。府中は、水戸とは距離があるために藩庁の追及をかわせやすいという利点があるためである。ちなみに、府中は近くに筑波山がある。府中に活動の場所を移した小四郎たちは、稽医館や文武館などとの間をしきりに往復しながら、筑波挙兵の準備をちゃくちゃくと推し進めた。

(2) ついに筑波挙兵
 1864(元治元)年3月27日、天狗党は、丸田稲之衛門(水戸町奉行で、山国兵部の実弟)を総大将に、藤田小四郎・竹内百太郎・岩谷敬一郎を三総裁にして、ついに筑波山に挙兵した。一隊は府中(現・石岡市)出立の時には、60名余名であったが、途中、小川や潮来などから参じるものがあって、筑波山に至った時には100数十人になっていた。筑波に到着してからもさらに新たな者が加わった。それは、木戸村(関城町)の飯田軍蔵、青木村(大和村)の大和田外記(げき)、下総国結城郡菅生(すがお)村(現・水海道〔みつかいどう〕市)の大久保七郎右衛門、下野国芳賀(はが)郡真岡(もおか)の横田藤四郎らである。
 部隊の膨張は、当然のことに軍資金としての金穀の必要性が増大する。小四郎たちは、それ以前から遊説する中で、その調達をはかってきた。府中滞在中にすでに3000両を集めていたと言われる。1864(元治元)年1月に、桂小五郎が斉昭の墓参のために水戸を訪れ、その際、挙兵の一助として、軍資金1000両を約束し、内金として500両を藤田小四郎に渡している。
 小四郎たちは、筑波に来てからも調達を行ない、それは2000両にのぼったといわれる。その調達の際の理屈は、下妻地方の際には、次のようである。"横浜開港以来、物価が高騰し、さらに輸出品のために田地に綿を作付ける所が目立ち、おのずから穀物自身の生産が減少し、農民、町人らの日々の生活が困難になっている。したがって、我々は、身命をかえりみず横浜へ押し出し、外国人を打ち払うつもりであるが、そこで裕福な者は是非金子を払うことで協力願いたい"というもである。そこまでは、なんら問題はない。しかし、その上に、天狗勢は、豪商一人について1000両ずつ、明日までに持参せよ! さもなくば即刻一命は申し受ける! 即答せよ! と武力を背景に恐喝したのである。
 呼び出されて、このような要求をつきつけられた者は、ようやく700両ずつに減額して供出すると約束して、ようやく解放された。その者たちはその後、下妻陣屋の役人に相談し、役人の仲介で一人100両ずつに減額することで落着したといわれる。(『流星の如く』P.145~146)
 1864(元治元)年4月3日、天狗党1)は約170名の部隊をもって、日光山を攘夷の根拠地にしようと、斉昭の神位を納めた神輿(しんよ)を押したてて、徳川幕府創業者・家康を祀った日光東照宮を参拝する。それは、幕府の開国政策に反対し横浜を鎖港するという「義挙」を天下に知らしめるためであった。だが参拝は、宇都宮藩150人、館林(たてばやし)藩70人、日光奉行配下700人余の厳戒のもとで行われた。しかも、東照宮側は、参拝自身も否定的であったが、宇津宮藩の家老縣信緝(あがたのぶつぐ)の仲介で、ようやく天狗党の代表者のみ参拝できただけであった。
 天狗党は、東照宮を参拝する中で4月10日、願文を以て「檄文」とした。その主旨は、次のようなものである。

尊王攘夷は神州の大典(たいてん *重大な決まり)なる事、今更(いまさら)申す迄(まで)もこれ無く候得共(そうらへども)、赫々(かくかく *光かがやく様)たる神州、開闢(かいびゃく)以来、皇統綿々御一姓天日嗣(あまつひつぎ)を受嗣せられ、四海に君臨ましまし、威稜(いりょう *天皇の御威光)の盛んなる実に万国に卓絶(たくぜつ)し、後世に至りても北条相州(*北条時宗)の蒙古を鏖(みなごろ)し、豊太閤の朝鮮を征する類(たぐい)、是皆(これみな)神州固有の義勇を振ひ天祖以来の明訓(*明らかな教え)を奉ぜし者にして、実に感ずるに餘(あま)りあり。東照宮(*家康)・大猷公(*家光)には、別て深く御心を尽させられ、数百年太平の基を御開き遊ばされ候も、畢竟(ひっきょう)尊王攘夷の大義に本(もと)づかれ候儀にて、徳川家の大典尊王攘夷より重きは之(これ)無き様(よう)相成(あいなり)候は実に由々(ゆゆ)しき事ならずや。然(しか)るに、方今(ほうこん)夷狄の害は一日一日に甚(はなはだ)しく、人心は目前の安を偸(ぬす)み、是(これ)に加るに、奸邪(かんじゃ)勢(いきおひ)に乗じ、庸儒(ようじゅ *つまらぬ儒者)権を弄(ろう)し、内憂外患(ないゆうがいかん)日増(ひまし)に切迫し、叡慮(*天皇の考え)御貫徹の程も覚束(おぼつか)なく、祖宗の大訓振張の期も之(これ)無く、実に神州汚辱(おじょく)危急(ききゅう)今日より甚だしきは之(これ)なく、仮初(かりそめ)にも神州の地に生れ神州の恩に浴(よく)するもの豈(あに)おめおめと傍観坐視するに忍(しのび)んや。僕等(ぼくら)幸に神州の地に生れ又(また)幸に危難の際に処し候上は及ばずながらも一死を以(もって)国家を裨補(ひほ *助け補うこと)し鴻恩(こうおん *大恩)の万分に報じ申すべしと覚悟(かくご)仕(つかまつ)り候。......是(ここ)に於(おい)て、痛憤黙(もく)し難(がた)く、同志の士、相共(あいとも)に東照宮の神輿(しんよ *みこし)を奉じ、日光山に会す、其(そ)の志、誓って東照宮の遺訓を奉じ、奸邪誤国の罪を正し、醜虜外窺(しゅうりょがいき *みにくい外国人がもたらす)の侮(あなどり)を禦(ふせ)ぎ、天朝・幕府の鴻恩に報ぜんと欲するにあり、......冀(こいねがわく)は、諸国忠憤の士、早く進退去就を決し、同心戮力(りくりょく *協力)し、上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼(輔翼)し、神州の威稜万国に輝き候よう致したく......(『水戸藩史料』下編 P.576~577)

 天狗党は、冒頭に「尊王攘夷は神州の大典」と宣言し、万世一系の天皇が「四海に君臨」し御威光を発することが「万国に卓絶」すると、全く独りよがりなことを言っている。だからこそ、秀吉の朝鮮侵略を天祖の明訓としている。そこでは他民族に対する侵略を全く反省していない。家康や家光などが「数百年太平の基」を開いたのも「尊王攘夷の大義」に基づいたものとするのも、勝手に史実を歪曲し、自己の行動を正当化するものである。そして、「内憂外患」がますます切迫しているおりがら、「上は天朝を奉じ......、下は幕府を補翼」し、「神州の威稜万国に輝き候」ようにと、祈願している。典型的な「尊王・佐幕」である。
 しかし、天狗党は、日光山を根拠地にすることができず(近隣の諸藩の警戒・監視のため)、翌10日、今市から鹿沼(かぬま)宿へ移動し、さらに太平(おおひら)山(現・栃木市)へのぼって、ここをしばらくの間、根拠地とした。
 天狗党は、檄文にみられる名分をもって、広く天下の同志の参加を呼びかけた。「檄にこたえて参加する者がしだいにふえ、献金する者も各地にみられた。たとえば結城領の豪農岩岡家では金を宇都宮まで届けているし、菅谷(すげのや)村(現、結城郡八千代町)の神官高橋相模(さがみ)が、近隣の豪農から軍資金を調達していることが知られている(『八千代町史』通史編)。」(『茨城県の百年』山川出版社 1992年 P.22)のであった。
 太平山にたてこもった波山勢(*天狗党のこと)は、挙兵の趣旨を一橋慶喜や老中の板倉勝静(備中松山藩主)、さらに岡山藩主・池田茂政、鳥取藩主・池田慶徳(ともに斉昭の実子)などにも伝えた。それぞれの斡旋(あっせん)により攘夷の勅命降下を得ようとしたのである。5月11日、岡山藩主池田茂政は朝廷・幕府に上書して、波山勢の嘆願を聞きいれるよう働きかけた。しかし、それは、成功していない。
 天狗党は、太平山に滞陣中、結城・下館(しもだて)・壬生(みぶ)など諸藩に、尊攘盟約に加わるように工作し、少なからずの藩士に賛同する動きが見られたといわれる。しかし、河内八郎氏によると、筑波挙兵後の天狗党の命運を決定したのは、宇都宮藩だといわれる。それは、日光山の檄に第一に応え、まず天狗党の応接にあたったのが、宇津宮藩家老の縣信緝(あがたのぶつぐ *勇記、六石ともいう)2)であったことをみれば明らかである。「その後数回にわたる応接の中で、六石は、天狗党一行は『私党』であるから、その主張がどんなに意味あるものであっても、それに同盟出来ない、と拒否をした。間瀬和三郎(忠至)を中心とする、いわゆる山陵修補にも大きな役割りを果たしていた六石は、尊王論者と呼ぶにふさわしく、攘夷の回復も目ざし、『翼幕』を説く点からも、天狗党一行の主張とは近い考えに立っていたといえる。しかし『行動』においては、それに同調しなかった」(河内八郎著『幕末北関東農村の研究』名著出版 1994年 P.182)のである。
 このことは、4月21日、天狗党の水戸藩士滝平主殿・池尻嶽五郎との問答で、「若(も)シ、外藩ニテ、尊攘ノ義挙ヲ挙ケ、同盟合体ヲ促シ来ルモ、私ニ附属髄従スル事アルベカラズ、必ス幕府ノ命ヲ待テ進退スベシ......」(同前 P.189 縣の日記『元治ト改元、文久四甲子日記』より)という縣じしんの言からも裏付けられる。
 水戸藩自身を説得できなかった小四郎たちの主張が、いくら「大義」あるものと吹聴されても、縣六石の眼からすればその行動は「私党」のもでしかなく、従って、宇都宮藩家老という公的な立場からは加担同盟できなかったのである。
 こうして、天狗党は味方に獲得すべき有力な隣藩の家老(同じ思想をもつ)ですら、説得できなかったのである。そして、宇津宮藩内でも反対派が勢力を強めて、ついには縣ら家老6人が全員辞職に追い込まれる事態となってしまう。天狗党は、宇津宮藩との連携の望みを断たれ、5月30日には太平山を下山し、ふたたび筑波山に拠点を求めたのであった。
 木戸田四郎氏によると、「筑波勢への参加者は時期によって変化するが、ほぼ三〇〇人から六〇〇人を上下していた。それは大別して三つのグループからなっていた。第一は田丸・藤田等を中心とする水戸藩士とその影響下の志士達であり、これが筑波勢の中心をなしていた。第二は田中愿三(げんぞう *野口村の時雍館のリーダー)を中心とする藩内の豪農・庶民の集団であった。第三は他藩からこれに参加した志士達であった。田中等の行動は極めて大胆であったが、軍紀をみだすものとして早くも七月三日には集団を除名されて別行動をとるようになった。第三のグループは塙重義等を中心としたが、藤田等の行動があまりにも藩内争乱的な行動にあることにあきたらず、八月上旬には筑波勢から分れて鹿島地方に移ったが、間もなく幕府軍によって壊滅させられた。」(同著『茨城の歴史と民衆』ぺりかん社 1979年 P.152)のであった。
 第三のグループが生じる事情については後述とするが、第二のグループの軍紀をみだす行為は、天狗党の一般的評価を落す致命的な要因ともなった。
 天狗党が太平山を降り、結城藩や下館藩に金穀の提供を求めながら、筑波山に戻ったのは6月4日であった。しかし、攘夷の目的達成のためには討幕さえ辞さないとする田中愿蔵たちは、小四郎たち本隊から離れ、6月6日、200余名で栃木町に戻り、町を焼き払い、住民をも斬り棄てている。
 その様子は、旗本畠山氏の知行所の代官所の地代官をつとめた岡田嘉衛門家(名主)に残された「御用留」に、次のように書かれている。

(*6月6日の)夜に入り、六ツ時(*6時)過ぎ、栃木下町より出火いたし候処(そうろうところ)、大筒・小筒の音いたし、其の後、浪人(*田中愿蔵隊の者)共、抜身(ぬきみ)携え、軒並みに踏込み、火付け、消し候えば切殺し候と詈(ののし)り、容易ならざる出火ニ付(つき)、消防人数は勿論(もちろん)、手伝い等一切出し申さず候、中町東側斎藤より下も残らず、西側八百軒(無難)より下モ残らず、下町土橋際(きわ)まで、川間東側片側、上町西側大坂屋・野村治堂院・出井・埼玉屋・ふな屋両縁二軒行野迄焼失の由、怪我人・即死七、八人これ有り候えども、八ツ時(*午前2時)鎮火いたし候。......

 栃木町は豪商が多く、これに目を付けた田中隊の者たちは、カンパを強要し、さらには足利藩の栃木陣屋にも金子の提供を迫った(最初は2万両。それから1万5000両、1万両と減額した)。しかし藩側がこれを拒否したため、田中隊は陣屋を襲撃したばかりか、市街にも放火したのである。田中隊の者たちは、油をもってつけ火し、かつ消火しようとする住民に対してはこれを殺害したのである。火事は夕方6時から燃え続け、鎮火するには翌日午前2時までかかったのである。市街の大藩が焼け野原になってしまった。焼失件数は350~400軒とも、罹災者は700人にのぼったとも言われる。
 田中隊はその後、栃木から真壁宿(現・土浦市)へまわり、金穀を強奪し、同宿も焼き打ちしている。

注1)天狗党の「天狗」という名称は、もともと水戸藩の天保改革期に、改革派に下層出身の者が多かったことから、"成りあがりの者が「天狗」になって威張る"という軽蔑の意味が込められていた。しかし、斉昭は、これを逆手に取って、「水戸にては義気これある有志の者を天狗と申し候」(「新伊勢物語」)と述べた。これにより、斉昭を崇拝する者たちは、「天狗」を肯定的意味合いで使用している。
 2)縣六石(勇記、信緝)は、宇津宮藩の家老であり、大橋訥庵の門人であった。その著『秋思録』で、「訥庵先師(*大橋訥庵のこと)ハ世ニ名高キ正議家ニテ......」と言って敬尊し、その門下生についても「此(この)人々ノ正義ノ有志ニシテ憂国ノ忠士」と称賛している。

(3)幕府追討軍・保守門閥派と大発勢・筑波勢などとの間の激戦
 (ⅰ)天狗党鎮圧の幕府命令
 天狗党の挙兵・勢力拡大を目の当たりにして、朝比奈泰尚・市川三左衛門らの保守門閥派は結束を固め、また弘道館の文武諸生と結んで、天狗党鎮圧をもくろんだ。
 5月初旬には、弘道館の諸生(書生)50~60人が、大洗(おおあらい)の岩船山願入寺で集会し、天狗党鎮圧の方策を検討した。そして、"天狗党は「尊王攘夷」に名を借りて、累代の藩主の厚恩に背いた行動をしている。眼前の君主をさしおいて、直ちに天朝・幕府に忠を尽くそうというのは君臣間の秩序を乱す潜乱の罪である"と批判した。そして、
そのような逆臣は討伐しなければならぬ―という建白書を藩庁に提出した。5月下旬には、市川・朝比奈・佐藤図書(ずしょ)らの門閥重臣をはじめ、弘道館の文武師範、諸生など約500人が会集し、大挙して江戸に向けて南上した。
 幕府は、天狗党の動きを警戒し、水戸藩庁へ説得にあたらせた。藩庁は、太平山神社に目付山国兵部(田丸稲之衛門の実兄)を派遣し説得させたが、それはとても叶うものではなかった。
 幕府は、5月25日付けで、大目付に宛てて次のような筑波勢討伐の命令を下した。

浮浪の徒(と)取締りについては、かねて触れ出されているところであるが、先達(せんだっ)て以来、野州(*下野のこと)太平山や常州(*常陸のこと)筑波山に多人数が屯集横行している。彼らの多くは水戸殿の家来やその領分の者どもで、烈公(斉昭のこと)の遺志をつぐなどと唱えており、捨て置きがたいと考えながら、水戸殿が自力で鎮撫するからといっていたので任せてきた。
然るに、彼らはいよいよ増長して、最近では異形の体(てい)をなして二、三〇人ずつ群れをつくり、中には無宿悪党も加わって、金銭を押借りし、農民に難儀を加えている。このような無礼を働く以上、水戸殿の者だと唱えてもかまわず召捕らえ、手向(てむ)かいするなら打殺しても支障はない。

 水戸藩内の激しい抗争によって、慶篤による藩秩序の維持が不可能とみた幕府は、ついに幕府自身が天狗党鎮圧に乗り出すと態度を明らかにしたのである。
 5月下旬に、諸生派など500余人が、南上し江戸藩邸に向かったが、この中には激派と分かれた鎮派(渡辺半介ら)も同道している。天狗党鎮圧のために保守派と鎮派は同盟したのである。天狗党鎮圧のために、幕府が自ら乗り出し、それに加えて市川ら保守門閥派を含む諸生派と鎮派が同盟して南上し、江戸藩邸の親筑波勢を失脚させようと画策したのである。この圧力によって、5月28日、藩主慶篤は、親筑波勢の立場にたつ江戸家老の武田耕雲斎・興津蔵人、目付の山国兵部らを罷免・謹慎処分にした。これに代わって、市川・朝比奈・佐藤が家老に就任し、江戸藩邸の実権を握った。
 しかし、天狗党追討のために一旦は共同歩調をとった保守門閥派と鎮派であったが、江戸藩邸の実権を握った市川三左衛門らは、この鎮派の渡辺半介らを排斥する。
 これを知った在水戸の家老榊原新左衛門・大久保甚五左衛門らの鎮派は、江戸藩邸の仕打ちは斉昭の遺志に反すると激怒し、水戸に残留していた激派と提携し、慶篤に直訴するために6月17日、江戸に向けて出立した。先に水戸で謹慎を命ぜられていた武田耕雲斎もまた、この状況を憂慮し、藩庁の許可を得ることなしに、一族を率いて同月19日、やはり江戸へ向かった。(しかし、耕雲斎らは江戸に入れず松戸辺で逗留を余儀なくされる)
 この6月17日、幕府はついに第一次追討軍を組織し、天狗党討伐のために出発させた。小出準之助・永見貞之丞が率いる幕府・諸藩連合軍は、3000人あまりの規模であった。
 天狗党はふたたび筑波山に拠点を移し、結城・下館・壬生などで仲間を増やす活動を行ない、その頃には筑波勢はおよそ700~800人ほどにも拡大していた。
 幕府・諸藩連合軍(第一次)には、市川三左衛門が率いる諸生ら700人が合流し、行動をともにした。天狗党追討軍は6月25日下総結城に至り、ここで部隊を二手に分け、本陣が下妻(しもつま)に、他の一隊が下館(しもだて)に布陣した。このほかに、高崎・笠間二藩の兵およそ2000人は小山(小山市)・飯塚(同市)に布陣し、壬生藩の兵300人余は山川陣屋(結城市)を守り、宇都宮・結城・下館・下妻の諸藩もそれぞれ自藩領地を警備した。
 鎮派の榊原新左衛門と同じように江戸に出てきた戸田銀次郎は、榊原らと共に藩主慶篤に対し、これまで幕府とむすんで藩論を左右してきた佐藤図書らの行動を非難する意見を述べた。このため、7月1日、慶篤は榊原・戸田らの意見を受け入れ、佐藤図書・朝比奈泰尚を罷免した(市川三左衛門は天狗党討伐に行っていたため失脚を免れた)。慶篤がふたたび態度を変えたのは、この時、幕府内の権力争いから板倉勝静(かつきよ)が罷免され、「鎖港」問題に積極的な水野忠精(ただきよ)が主導権を握って、水戸藩の市川派を排除すべきと圧力をかけたためである。水戸藩内の激烈な抗争は、藩主慶篤の無定見もさることながら、幕府内の抗争もからまって、天狗党挙兵以降も相変らず継続しているのである。

 (ⅱ)幕府第一次追討軍の敗北と市川派の水戸城占拠
 7月に入ると、追討軍と天狗党軍との間で、各所に於いて激しく戦いが展開されるようになる。7月7日早朝、筑波山ろくの高道祖原(たかさいはら *現・下妻市)で戦いが始まり、互いに発砲すること数刻で、筑波勢は敗退し本営にもどった。しかし、数に劣る天狗党軍は、"少数をもって多数に当るは夜襲にしかず"と、9日の早暁、下妻の幕府本営・多宝院を奇襲し、火を放った。不意打ちをくらった幕府兵は武器を捨てて逃走し、永見貞之丞らも命からがらに脱出した。
 両軍開戦の報を聞いた幕府中枢は、若年寄田沼意尊(おきたか *遠江・相良藩主)を「常野追討軍総括」に任じ、討伐態勢の強化をはかった。7月9日の下妻での追討軍の敗走を聞くや、田沼らは常州・野州の諸藩にさらなる出兵を催促し、水戸藩にも追討を命じた。しかし、敗北した幕府軍は戦意を失い、食料や武器の不足を理由に江戸に帰ってしまい、市川三左衛門らの水戸勢も江戸で態勢を立て直そうと、帰途についた。
 ところが7月15日、市川らは杉戸駅(埼玉県杉戸町)まで来た時、偶然にも水戸へ帰ろうとしていた朝比奈泰尚・佐藤図書らの一行と出会う。江戸での政争に敗れた朝比奈・佐藤らは駒込藩邸に留まり、勢力挽回をはかったがそれも叶わず、やむなく百数十人を率いて水戸に帰るところであった(水戸街道には反対派がたむろしていたため、日光街道に迂回したのである)。
 江戸の藩邸の様子が激変したことを聞いた市川は、江戸へ行くことをやめて朝比奈らと共に水戸へ戻って捲土重来を図ることとした。一行は7月23日に、水戸に帰り、城を占拠した。市川らは、水戸に帰るや、激派のメンバーを捕え、あまつさえ筑波勢の家族らを虐待する有様である。さらに市川は、勝手に恣意的な人事を行ない、反対派を排除した。
 保守門閥派もまた、君主を蔑(ないがしろ)にして、勝手に藩政人事を行なうようになる。これでは、"君主を蔑にして攘夷を唱える"と、天狗党を批判した言葉は自らに帰って来るというものである。いまや、水戸藩内の抗争は、「私党」による「私闘」の限りを尽くそうとしているのである。1)
 常野(じょうや)追討軍総括の田沼意尊(おきたか)は、第二次の追討軍を組織し、その先遣隊が江戸を出発したのは7月16日であった。水戸・府中(石岡)・土浦・笠間・結城・下妻・下館・宍戸(ししど)・宇都宮・高崎・壬生(みぶ)・茂木(もてぎ)・足利などの諸藩も出兵を命じられ、総勢は1万3000余人にまでおよんだ。
 追討軍は、8月20日、結城に終結し、前回と同様に、下妻と下館の二隊に分けて筑波山を包囲した。しかし、追討軍の偵察機能は、全く作動していなかった。というのは、その頃、筑波勢はすでに山を降り、府中(石岡)、潮来(いたこ)、小川方面に分散していたからである。追討軍は、それに全く気付かず、9月初めまで筑波山を包囲していた。全くの肩透かしでしかなかった。
 しかし、天狗党の側においても矛盾が生じていた。「筑波山を下りた藤田小四郎らは、本来の目的は横浜鎖港を実現することによって、攘夷の名分をあきらかにすることであったが、水戸城下のきびしい情勢を知るにおよんで、攘夷の実行の前に水戸城下の諸生派を討とうと、その方針を変更した。ここに筑波勢は窮地にたつ家族らの救済をふくめて、攘夷のスローガンよりも藩内の抗争を優先することになる。この方針変更は、天狗党の挙兵目的に共感して参加した、他藩出身の尊攘派たちを離脱させることになった。久留米藩出身の権堂真郷や下野国足利郡から参加した西岡邦之助ら六〇余人は、横浜の外人街焼打ちを唱えて筑波勢と袂(たもと)を分ち去っていった。」(『茨城県の百年』山川出版社 1992年 P.26)のであった。2)

注1)市川三左衛門は、7月21日、貞芳院(故斉昭夫人)に頼って元城代鈴木重陳の謹慎を解こうとした。しかし、貞芳院は市川を快く思っておらず、これは失敗した。それにもかかわらず市川は7月27日、強引に鈴木重陳を執政(家老)にして政務にあたらせている。以後、人事異動を頻繁に行う中で、反対派を排除し、自派を要職に就けた。8月16日には、執政・戸田銀次郎・尾崎為貴・大森尹諧らを罷免し、佐藤図書・朝比奈泰尚を執政に復帰させている。もはや江戸に居る藩主慶篤の意向とは全く関係なく、国元の運営は市川一派に牛耳られていくのであった。
 2)当時の中央政局は、次のように大きく変化し、これもまた筑波勢分裂の背景をなした。公武合体派による8・18クーデターで京都から一掃された長州藩は、その復権をはかるために、1864(元治元)年6月、家老の福原越後を江戸に派遣(結果は京都止まり)し、久坂玄瑞らの一隊は山崎に布陣する。軍事衝突の危機が深まる中で、7月19日に禁門の変(蛤御門の変)が勃発し、長州は薩会同盟に敗れる。それに追い打ちをかけて、7月23日には長州藩への追討宣旨が下る。これにより朝廷は、"夷狄のことは、長州征伐がすむまではとやかくいわない"という態度になってくる。こうして今まで鎖港問題に熱心であった水戸・岡山・鳥取の各藩(藩主はみな斉昭の実子)は、長州寄りの姿勢を変えることとなる。

 (ⅲ)藩主名代の頼徳―大発勢の水戸藩領入り
 市川ら保守門閥派などによる水戸城占拠に焦燥したのは、筑波勢だけではない。出府して江戸藩邸に滞在する鎮派や激派の者たちも、同様であった。そこで彼らは、7月26日、数十人の連署をもって家老たちに訴え、保守門閥派の制圧のため慶篤の水戸帰国を願った。
 しかし、当時は「長州征伐」の命が天皇の意をうけて将軍から発せられる(8月2日)直前であり、その準備に忙しく、紀州・尾州の藩主も帰国中であり、御三家のうち在府しているのは水戸家だけであった(水戸藩藩主はもともと江戸を離れず、将軍を補佐するのが原則である)。したがって、慶篤は将軍補佐の任を放棄することもできず、そこで慶篤は水戸藩の支藩である宍戸(ししど)藩主の松平頼徳(よりのり)を目代(もくだい *代役)として水戸へ派遣し、藩内の鎮撫に当らせた。これは7月30日、幕府に申請され、認可された。
 8月4日に江戸を発った頼徳一行には、宍戸藩家臣40人、水戸藩の寺社奉行ら数十人、それに先に出府していた家老榊原新左衛門・鳥居瀬兵衛・大久保甚五左衛門、若年寄三木左太夫・谷鉄蔵、大番頭(おおばんがしら)飯田総蔵、書院番(しょいんばん)太田原伝内、富田三保之介ら数百人が参加した。また、先に京で死去した昭訓(慶篤の弟)の神位を奉じて京都から下ってきた石川吉次郎ら数十人も、頼徳一行について水戸へむかった。 道中途次の小金(現・松戸市)では、かねてから屯集していた士民が合流し、頼徳一行の部隊はふくれ上がり、1000人を超えるほどとなった。この集団は、大発勢(だいはつぜい)と称せられた。
 これにさらに、6月19日に一族と共に出府を企てたが江戸に入れず、小金や松戸に滞在を余儀なくされていた武田耕雲斎一行(480余人)が合流し、また、耕雲斎とともに蟄居・謹慎を命ぜられ江戸に留まっていた山国兵部も、大発勢に加わっている。こうして、ふくれ上がった頼徳ら大発勢は、総数3000人に達したと言われる。
 これに対し、水戸城を占拠する市川らは危機感を募らせ、大発勢の進路を妨害するために道中の橋を壊したり、道路に大木を横たえさせたり、さらに沿道の住民に食料や人足を提供させないように仕向けた。このため、大発勢はやむなく堅倉(東茨城郡美野里町 *8月8日に到着)に留まり、道路の開通を待ってようやく10日に水戸城南(みなみ)の台町に到着した。
 藩主目代の松平頼徳の部隊を待ち受けた城内の市川三左衛門らは、ここにいたって頼徳一行の分断をねらった折衝を行なう。「市川弘美(*三左衛門)は参政(*若年寄)天野景教(以内)、目付大井貞幹(幹三郎)、使番渡辺敏(伊衛門)らを頼徳のもとへ遣わし、藩主名代の頼徳の入城は認めるが、随行の者の入城は一切認めないと伝えさせた。これに対し、頼徳が藩主名代としての権限をもって、『速やかに兵を撤去して入城の道を開くよう』命じたところ、天野らは、市川に告げたうえで回答をしたいと言って、その場を去った。」(『水戸市史』中巻〔五〕 P.342~343)と言われる。
 しかし、天野が帰途につくころには、すでに戦いが勃発している。城兵はすすんで藤柄町口に向かい、そこで筑波勢の一部と交戦している。頼徳は城下を戦乱に陥れるのを避けるために穏便に入城を果たそうと考えていたが、市川らの頑強な拒否にあって、やむなく部隊をひとまず那珂湊(現・ひたちなか市。那珂川の河口)に移動させ、事態が好転するのを待つ方針をとった(那珂湊は藩の要港であり、多くの豪商がおり、大部隊の金穀の調達に便宜である)。これは、頼徳部隊の消極姿勢と待機主義を示すものである。
 8月12日、大発勢は台町の薬王院を出発し那珂湊へ向かおうとした。だが、城兵が戦闘をしかけ、進路を阻(はば)んだ。戦闘は数日間にわたって、那珂川をはさんで続いた。そこで頼徳ら大発勢は予定を変え、磯浜(*大洗町。那珂湊の南)の海防陣屋に入った。
 この間の8月14日、大発勢の重鎮である榊原・大久保・鳥居の3人は、連名をもって助川村(*日立市)の海防陣屋の家老・山野辺主水(やまのべもんど *義芸)に書簡を送り、松平頼徳が入城できるようにと斡旋を依頼している。15日には、若年寄三木左太夫、寺社奉行加藤八郎太夫らを江戸に遣わし、事情を慶篤に報告している。だが、このときの江戸藩邸は市川派が掌握していたため、加藤は従者とともに捕らえられ、三木はかろうじて脱出し、磯浜へ戻ることができた。形勢は、一変していたのである。
 幕府は、8月16日、松平頼徳(水戸藩主慶篤の目代として、藩内の鎮静化に派遣された)の父・頼位(よりたか *元宍戸藩主)に対し、"隠居の身分にて容易ならざる事共(ことども)に関係致(いた)し、そのほか水戸殿より御直(おんじか)ニ仰せ上げられ候儀もこれ有り候間、永蟄居(えいちっきょ)"を命じている。
 8月17日には、幕府は「松平頼徳を解任(頼徳に届かず)」(入野清著『幕末、残り火燃ゆ』総合出版社歴研 2014年 P.219)を命じている。「賊徒」と断罪する天狗党と友好的であるからである。しかし、この措置は、現地の頼徳には届いていない。
 だが、幕府の態度が大きく変わったのも知らず、8月16日、頼徳軍は、天狗党の一部の加勢を得て攻勢に転じ、猛攻撃によって祝町(大洗町)の願入寺の諸生党を追い出した。こうして、頼軍はようやく那珂川を越えて那珂湊に移り、そこの湊郷校(敬業館)に宿営した。ただし、小四郎ら天狗党は、小川館に戻った。
 頼徳は、その任務があくまでも水戸城に入城し、藩内の混乱を鎮静化することにあったので、ふたたび8月17日、山野辺主水(義芸)に斡旋を求めたり、江戸にこの間の事情を報告し、事態の収拾には藩主の下向以外にはありえないと慶篤の出馬を要請した。だが、「長州征伐」のために将軍家茂は江戸を留守にしているため、やはり慶篤は江戸を離れるわけにはいかなかった。

 (ⅳ)大発勢・天狗党連合軍と市川派・幕府連合軍との戦闘開始
 8月20日、頼徳は、自ら榊原新左衛門ら2000余の兵を率いて城の東、細谷村(水戸市)の神勢館(藩の砲術訓練所 *城の北東)に至り、そこの指南役福地政次郎の仲介で、城内の渡辺半介(鎮派)を神勢館に呼出し、事態の穏便な解決にさらに力を尽くす事を要請した。渡辺半助は、頼徳の入城には反対ではなかった。むしろその際には、先導役を務める気持であった。しかし、渡辺は激派には敵意をもっており、そうかといって市川派にも反感をもっていた。 
 頼徳は、渡辺半介と大番頭の飯田正親(総蔵)とに入城交渉をあったらせた。しかし、市川らはあくまでも交渉による解決を拒み通し、8月21日、渡辺は、"市川らに入城を受諾させるのは無理"と、頼徳に報告する。市川らは交渉を拒絶するのみならず、あろうことか頼徳軍側の交渉者・大番頭飯田総蔵を拘留するしまつであった。そして、8月22日、市川らはついに神勢館に滞在する頼徳軍を砲撃する。以後、戦いは数日間続いた。いわゆる「神勢館の戦い」である。
 戦いが激しくなる中で、8月23日には、那珂湊に留まっていた武田(耕雲斎)軍も、神勢館の戦いに参加する。だが、林正徳(五郎三郎)の率いる潮来(いたこ)勢も、筑波勢も、助川の山野辺の隊も、頼徳軍を支援するために駆け付けようとするが、市川らの水戸城兵や農兵隊によって阻(はば)まれる。
 この頃、幕府軍の先鋒隊2000余人が弘道館に入り、市川らは強気になっている。常野追討軍総括・田沼意尊は、8月25日、笠間に到着し、26日にはさらに1000余人を水戸に援兵として送り込んでいる。
 頼徳軍を支援する部隊は、南方、北方とも水戸城兵と農兵によって阻まれ、8月29日、頼徳は入城をあきらめ神勢館を退去し、ふたたび那珂湊にもどった。そして、榊原新左衛門を軍事総督、三木左大夫(そうだゆう)・白井忠左衛門を軍事奉行とし、全軍を先軍・中軍・後軍の三陣に分けて守備態勢を固めた。武田耕雲斎は、別隊を率いて館山(ひたちなか市)を守ることにした。また、田丸稲之衛門・藤田小四郎ら小川の天狗党軍は、頼徳軍を支援するために、林五郎三郎らの潮来勢とともに、平磯村(那珂湊の北方)へ駐屯した。
 頼徳は、幕府の手前、筑波勢ら激派と行動をともにすることには慎重な態度であり、あくまでも交渉によって入城を果たそうとした。しかし、事態はそれどころでなく、二本松藩の応援を得た水戸城兵と、頼徳軍の別働隊となった筑波勢・潮来勢との間の戦闘が9月半ばごろまで継続する。他方、天狗党軍から除名された田中愿蔵の一隊150名は、応援のために平磯へやってきたが、これは頼徳軍によって拒否された。やむなく田中隊は、北方へ転戦した。1)
 この頃、常野追討軍総括・田沼意尊は笠間の本営にいたが、頼徳軍が那珂湊に退いたとの報告を受け、次のような布陣をしいた。「歩兵頭城織部(おりべ)、大砲組頭万年?太郎、小筒組頭松平左衛門らの部隊と二本松・壬生藩兵に西方から那珂湊へ、そして歩兵頭北条新太郎・河野伊予守の諸隊と宇都宮・棚倉・佐倉の諸藩兵を南方から磯浜村へ、それぞれ進軍させた。また、北方は松岡(現・高萩市)の中山信徴(備中守)、助川(現・日立市)にいる山野辺義芸2)に命じて防備させ、野州付近の諸藩にはそれぞれの領内の戒厳を命じて敵の走路を断たせた」(『水戸市史』中巻〔五〕P.355)のである。

注1)田中隊は、部田野原(へたのはら)の戦いに参加しながら、9月17日に、二本松兵から助川城を奪還する。だがその後、間もなくして、二本松藩兵に包囲され助川城を脱出して、北方へ逃亡する。田中隊300余名は、八溝山(やみぞさん *茨城・福島・栃木3県にまたがる標高約1000メートルの山)で再起を図ったが、食糧はすでにつき、隊員の士気も低下し、やむなく解散した。田中愿蔵と藤田小四郎とは、「攘夷断行」・「修好通商条約破棄」では一致するが、田中が倒幕を目指していた点では異なっていた。
 2)助川の山野辺義芸は、9月初旬、二本松藩兵に攻められ、進退窮まり、投降する。後日、太田から水戸へ護送された。

 (ⅴ)幕府追討軍の大発勢・天狗党への本格攻撃
 幕府追討軍の攻撃は、9月4日から始まった。同日、水戸城兵は平戸村(常澄村)へ進軍し、涸沼川の対岸の磯浜海防陣屋を砲撃した。
 この日、藤田小四郎・飯田軍蔵ら筑波勢の一部は、潮来勢を率いる林正徳らとともに平磯村を出発し、北方へ進軍した。北方の要地はすでに水戸城兵や農兵が守備していたが、9月5日、筑波勢・潮来勢は那珂郡額田村(現・那珂町)に到着し、水戸城兵を正面と背後から攻めたて敗走させた。額田村は、水戸から久慈郡太田村(現・常陸太田市)に至る途中にあり、ほぼ中間の要地である。藤田・林らの目標は、北郡最大の要地・太田の占領であった。
 しかし、ここは二本松藩兵900余人と市川派の諸生および農兵隊が守備していた。筑波勢・潮来勢が額田村を占領したとの報を聞いた太田の守備隊は、直ちに河合(常陸太田市)に駆け付け、久慈川沿いを守備し、筑波勢・潮来勢の北進を阻止しようとした。また、9月7日には、水戸城兵と壬生・宇都宮の藩兵が水戸城を出発し、額田村へ進攻した。筑波勢・潮来勢はこれを額田原で迎え撃ち、潰走させた。だが、藤田・林らは、勝利をおさめたものの、太田への進軍は無理と判断し、10日、藤田・飯田ら筑波勢は平磯村へ、潮来勢は祝町(大洗町)へ帰陣した。
 他方、水戸藩内の対立・抗争に深入りする事を嫌い、本来の攘夷に専念するために筑波山を下りた第3グループは、鉾田(現・鉾田町)辺に屯集していたが、隊を次のように再編成して鹿島(現・鹿島郡鹿島町)へ進んだ。「一番隊長伊藤益荒(島原脱藩士)、二番隊長林宗七郎(薩摩脱藩士)、三番隊長清水謙介(元町方同心)、四番隊長芳野秀六郎(江戸の儒者芳野世育子)・真田範之助、五番隊長西岡邦之介(下野大前村名主の子)・宇都宮左衛門(下野真弓村農民)、六番隊長熊谷誠一郎、七番隊長川俣茂七郎(出羽松山脱藩士)・水野主馬(結城藩家老の子)で、他藩出身の者が多く、合計六〇〇人余になった」(『水戸市史』中巻〔五〕P.357~358)といわれる。
 しかし、彼らは軍資金も食糧もなく、地理もわからず、集団を統率する者もいなかった。しかも、逃げのびる先々で諸藩兵や農兵に襲撃され、殺害や処刑、さらには自刃するなどして、壊滅していった。
 戦いは、9月初めのうちは頼徳軍の側が善戦していたが、9月中旬、北部や南部の各地での戦闘が収束に向かい始めると、幕府の追討軍は全力をあげて、那珂湊の頼徳軍を攻撃するようになる。
 9月14日、幕府追討軍の目付高木宮内(くない)は、塩ケ崎村(常澄村)に出陣し、他方、目付代の日野根藤之助は北条新太郎の歩兵隊を率いて、那珂川北方の中根村(勝田市)に陣取る。市川三左衛門の率いる水戸城兵は部田野(ひたの)村(現・那珂湊市)方面へ進発する。鹿島地方から北上していた幕府追討軍は、目付戸田五介が監督し、夏目村(東茨城郡旭村)に進み、ここを本拠地として大貫村・磯浜村(共に大洗町)に対峙した。
 9月16日、潮来勢を率いる林正徳(五郎三郎)らは、大貫村から涸沼川を渡って島田村(常澄村)、さらに大場村(常澄村)へ進軍し敵兵を撃破する。しかし、塩ケ崎村の幕府兵に迎撃され、島田村へ退き、さらに水戸城兵の砲撃によって大貫村に引き返し、その後は涸沼川をはさんでの砲撃戦となった。
 9月17日、夏目村に拠っていた幕府追討軍は大貫村に迫り、磯浜村に侵入しようとする。その頃、潮来勢は一部を残し、本隊は祝町(大洗町)に引き上げていたが、残った部隊は大砲を発して、幕府軍の進攻を阻止するために懸命に戦った。
 9月18日、北条新太郎隊をはじめとする幕府軍と市川隊は部田野原(ひたのはら *現・ひたちなか市)に進軍し、左右に翼を広げる鶴翼の陣に兵を配置し、筑波勢の本陣がある平磯口に進撃した。藤田小四郎・飯田軍蔵らは、部田野原の雲雀塚(ひばりつか)に出て迎撃したものの敗北し、退却を余儀なくされた。
 9月18日夜、大胡聿蔵(資敬)の一手が柳沢村(那珂川の北側)の幕府兵を撃破し、翌19日の夜には、小川口の守備隊が那珂川を渡って小泉村(常澄村)の幕府軍を奇襲し敗走させた。
 他方、夏目村の幕府追討軍は棚倉・高崎・佐倉の諸藩兵を大貫村へ進軍させ、塩ケ崎村の幕営からも援兵を派遣し、ともに磯浜村を攻撃しようとしていた。これに対し、潮来勢の林正徳は、他の部隊に川又口(常澄村)を守らせ、自らは手兵を率いて磯浜村から大貫村に進み、大貫(おおぬき)村(東茨城郡大洗町)藤山にいた幕府追討軍を襲撃した。だが、この戦闘で、林五郎三郎(正徳)は戦死する。
 9月20日、大貫口の幕府追討軍は、磯浜村に迫る。主将を失った潮来勢は必死に防戦する。はじめは幕府軍よって風上から放火され苦戦するが、途中で風向きが変わり逆に幕府軍が火勢に追われ、潮来勢はこれに乗じて敵を敗走させた。
 9月21日夜、潮来勢は大貫村の幕営を襲い、これを破った。しかし、翌日、幕府追討軍は大挙して磯浜村に来襲し、これには潮来勢も抗しきれず、ついに退却した。幕府軍はようやくにして、磯浜市街に進入できた。大貫村・磯浜村の戦いは、このようにして数回にわたる激戦の末、幕府追討軍の占拠するところとなった。
 時に、常野追討軍総括の田沼意尊は、25日、笠間を発して水戸に入り、弘道館に本営を定めた。その軍勢は1300人程であったと言われる。
 9月25日、那珂川北方で海岸に近い平磯村に拠る筑波勢に対して、市川軍を先鋒にして、壬生藩兵、幕府軍の北条新太郎率いる歩兵隊などが包囲し、攻撃した。筑波勢は懸命に防戦したが、折からの北風で放火の火勢は村全体に広がり、ついに防禦することができず、田丸稲之衛門以下、那珂湊へ退却した。頼徳軍は、北方戦線も敗退したのである。

 (ⅵ)頼徳の降伏と武田らの離脱  
 ところで、南方戦線が敗北した9月22日、幕府軍から田中銈之助が単身進み出て、潮来勢に投降する。そして、田中は、"宍戸侯(松平頼徳のこと)はもともと幕府に敵対するご意志はないのだから、調停の任に当たりたい"と、頼徳の冤罪を幕府に訴え、救済したいと申し出た。宍戸藩主・松平頼徳はこの言葉を信じ、幕府軍監の戸田五助と相談するようにと、申し渡した。
 これに対しては、疑問を持った者は少なくなかったと思われるが、武田耕雲斎、山国兵部らは、頼徳に真偽をよく確かめてから進退を決すべき、と進言した。しかし、頼徳は"一身をもって二〇〇〇の兵を救えるのなら......"と考え、筑波勢などとともに幕府軍と交戦のやむなきに至った事情を弁明しようと、田中銈之助の申し出を受諾することとしたのである。
 9月26日、頼徳は、側近の用達・鳥居瀬兵衛・大久保甚五左衛門ら30余人を従えて、那珂湊を出発し、戸田とともに江戸へ向かうことにした。しかし、堅倉の手前の西郷地(さいごうち)村(東茨城郡美野里町)に来た時、市川の情報を得て、田沼によって召喚された。頼徳がやむをえなく方向を転じて水戸城下に入ると、28日、田沼は頼徳を拘留した。これは、市川一派がたくらんだことで、頼徳が実際の経過を幕府に述べると、市川派の謀略が暴露されることをおそれたためと言われている。
 田沼は、頼徳の予想に反して、弁明の機会を一切あたえず、逆に「賊魁」と烙印して水戸家一門の松平万次郎(頼遵)邸に身柄を移すとともに、鳥居ら20余人を投獄し、後に死罪とした。幕府は、10月1日、頼徳の父・頼位(よりたか)を新庄藩邸に幽閉し、頼徳の子息と宍戸藩の家臣40人を、江戸の高松藩邸に預け置くという処分を発表した。そして、10月5日、頼徳じしんには切腹を命じた。その理由は、「水戸殿の名代として、領内鎮静のために遣わされながら、かえって逆徒ならびに水戸殿脱藩士と行動を共にし、幕府の御人数に敵対に及んだことは不届きの所業」というものである。 
 当時、幕府は西に「長州征伐」を行ない、東に天狗党討伐を敢行しており、その天狗党と行動を共にすることは、幕府に敵対することなのであった。
 頼徳が切腹を命じられた10月5日、那珂湊では、幕府軍が総攻撃を開始した。10日には、水戸藩内戦中もっとも激しい戦いとなった「部田野(へたの)の戦い」が開始され、雲雀塚での激戦の末、大発勢・筑波勢・潮来勢の連合軍は勝利を獲得した。
 幕府軍は、10月17~18日にも、総攻撃をかけたが、いずれも撃退された。だが、榊原新左衛門らは、幕府追討軍の側に加わっていた戸田銀次郎らが接触してきたのを機会に幕府側に投降することを決心し、10月23日、幕府軍の総攻撃の際に、1154人の榊原隊は投降した。榊原らは、結局、筑波勢・潮来勢と同一視されることをおそれたのである。
 10月29日、投降者のうち、榊原ら466人は下総佐原に護送され、11月2日に佐原に着いた。残りの投降人の内、436人は高崎藩預けとなって、同藩の飛び地下総銚子に護送され、その他の252人は関宿藩(千葉県関宿町)に預けられた。投降人らは、その後預け先を変えられ、1865(元治2)年3月、榊原ら43人は切腹ないしは死罪(斬首)とされた。その大部分は重職についていた藩士であったが、6人は郷士、神官、農民であった。残りの農民などは、後に赦免となった者もいたが、427人が江戸石川島の獄舎に送られている。その内、約120人が獄中死している。
 他方、武田耕雲斎・山国兵部とその隊、および筑波勢・潮来勢は、あくまでも投降に反対し、藩北部の大子(だいご *大子町)方面へ逃走した。その数は、約1000余人であり、中には女性も含まれていた。

(4)天狗党、西上へ
 
 幕府追討軍に降伏しなかった大発勢(武田軍を含め)と天狗党は、幕府側の諸藩兵や農兵などと戦闘を交えながら北上し、1864(元治元)年10月25日、北常陸の大子村(だいごむら *久慈郡大子町)に入るが、その前に態勢を立て直した。
 武田耕雲斎を総大将に選び、大元帥に山国兵部、本陣に田丸稲之衛門、補翼に藤田小四郎・竹内百太郎、それに筑波勢を3隊に分け、それぞれ隊長に天勇隊が須藤敬之進、虎勇隊が三橋半六、竜勇隊が畑筑山、また潮来勢を2隊に分け、その隊長に正武隊が井田因幡、義勇隊が浅倉弾正となった。別に、騎兵隊の長に武田魁介(かいすけ *耕雲斎の二男)がなった。規律として、以下の「軍令条五カ条」を定めた。
一、 無罪の人民を妄(みだ)りに手負(ておわ)せ殺害致し候事
一、 民家へ立ち入り財産を掠(かす)め候事
一、 婦女子を猥(みだ)りに近づけ候事
一、 田畑作物を荒らし候事
一、 将長の令を待たず自己不法の挙動致し候事
上(うえ)制禁の条々相犯(あいおか)すに於いては弾頭(だんとう *断頭)に行ふ者也
 
 これらの規律に違反したり、隊長の命令を待たずに勝手に行動したりする者は、断頭の刑に処するというのである。
 今後の行動方針は、尊王攘夷の目的を明確にして京を守護すること、やむなく幕府軍と戦った事情を朝廷に訴えることであり、そのために、当時、京都にいた禁裏御守衛総督・一橋慶喜を頼って西上するというものである。武田隊も那珂湊を脱出する時には、新地を求めて蝦夷地に渡り、開拓するという選択肢もあったが、水戸学の伝統に従い、大義を重んじて西上の方針をとったのである。
 武田耕雲斎を総大将とする天狗党は、1864(元治元)年11月1日、大子村を出発し、まず進路を北にとった。この日は野州川上村(栃木県黒羽町)に宿陣し、翌2日、河原村(同前)に向かう。ここで黒羽藩と戦闘に入る。天狗党側は、戦死者1名、負傷者2名を出した。しかし、武田は黒羽藩に対して、次のように一行が西上する趣意書を送る。(以下、天狗党の西上経過については、『水戸市史』中巻〔五〕による。)
 趣意書は、西上の趣旨が攘夷の実現にあるとしつつ、「先年刑罰に処せられた結城寅寿の一派である市川三左衛門・佐藤図書・朝比奈弥太郎らが、当五月から領内に結集し、よからぬことを企てた結果水戸が内乱に陥り、外国の圧力をそのままにして、日本の中で死ぬまで戦っては水戸の正義派は全滅し、藩祖や斉昭公に対して不忠不義の至りとなるので、一同なんとか生き延びて戦いを避け、攘夷の本意を貫きたい。」(『水戸市史』中巻〔五〕P.395)と述べた。
ここでは、天狗党決起の直接的契機である鎖港問題には全く触れず、藩内門閥派反対を掲げるが、それだけでは本来の趣旨は無くなるので、大幅に軌道を修正して、本来の攘夷実現に戻ったことを示している。
 これを受けて黒羽藩は、"城下の通過は拒否するが、間道を通るのなら妨害をしない"という対応をする。そこで一行は11月3日、黒羽藩との約束を守り、北上し伊王野村(栃木県那須町)―越堀宿(栃木県黒磯市)と進み、その日は越堀宿と、那珂川をはさんで対岸の鍋掛宿(黒磯市)に分宿する。その夜、大田原藩の役人がやってきて、黒羽藩と同様に城下を通過するのは避けて欲しいという提案を受け、4日は高久村(栃木県那須町)に宿泊し、5日、那須野原を通過して石上村(栃木県大田原市)で昼食をとる。それから夕食の支度をして、その日は夜行軍となる。それが可能となったのは、人馬の徴発ができたからである。
 11月6日早朝、一行は大宮宿(栃木県塩谷町)で朝食をとり、大雨で荒れる鬼怒川を渡るのに一日かかり、対岸の小林村(今市市)で一泊した。この小林村は日光とはわずか3里(約12キロ)であり、日光は大騒ぎとなった。この年の4月に、天狗党が社参したばかりだからである。だが、一行は例幣使街道を南に向かい、7日は鹿沼宿(栃木県鹿沼市)に泊まった。那珂湊からみて、初めて、宿らしい宿での宿泊である。
 鹿沼を出発した一行は、8日大柿(栃木県都賀町)―9日葛生(同葛生町)―10日梁田(同足利市)を経て、太田(群馬県太田市)で11~12日と二泊した。ここは、筑波挙兵の際にも天狗党を支援してくれた所であり、今回も近郷の豪農を呼出し、数百両の「押借り」をしている。
 13日、一行は太田を発ち、例幣使街道を避けて、木崎宿(群馬県新田町)で利根川を渡り武州中瀬村(埼玉県深谷市)に出る。この時は、岡部藩が通過を認めないとしたので、強行渡河を行ない、この夜は野宿であった。14日は、中仙道本庄宿(埼玉県本庄市)で朝食をとり、藤岡(群馬県藤岡市)で昼食をとる。一行は、吉井藩に交渉して、宿泊と通過の許可を得ようとした。しかし、そのうちに七日市藩(群馬県富岡市)の役人がやってきて、やはり"城下通過は困るが、間道があるからそちらを案内しよう"と言った。一行はそれに従い、この日は吉井(群馬県吉井町)に泊まり、翌15日は下仁田(しもにた *群馬県下仁田町)に向かった。
 常野追討軍総括・田沼意尊(おきたか)は、天狗党一行を敗残兵として、当初は容易に討ち取れると思っていた。11月初旬には、関係諸藩に「賊徒追討は首尾よく成功したので、藩地に帰還するように」と命じた。しかし、その見込みがはずれたので、田沼は上州・武州の諸藩に、12日、「脱走の賊徒は、上野国へ立ち入るような風聞が聞こえてくるので、在所の人数を速やかに出陣させ、領分は勿論(もちろん)、他領にも出張して、迅速に追討するように」と命じた。
 川越(前橋)藩は、越生(埼玉県越生町)・今市(栃木県今市市)・八王子(東京都八王子市)方面への出兵命令を受けて、上州木崎(群馬県新田町)にまで近づいていた天狗党に対する備えの部隊を派遣した。
 高崎藩は、水戸への派遣部隊がまだ帰還していなかったので、残った城兵600~700名を4隊に分け、そのうち1隊を城を守るために残し、3隊(200数十人)を天狗党迎撃部隊とした。15日、高崎藩兵は一ノ宮(群馬県富岡市)に向かい、小幡・七日市両藩の兵と合流した。
 天狗党との戦闘は、16日未明から下仁田で開始された。高崎藩一番手は、小坂村(下仁田町)の名主里見治兵衛の屋敷を本陣とした。天狗党はこれをめがけて三方から総攻撃し、高崎勢は総崩れとなった。敗走せず踏みとどまった20人余りの藩兵と天狗党の庄司与十郎が率いる一手とが最後に戦い激戦となった。戦闘は半日で終わり、実践経験に劣る高崎藩側の完敗となった。高崎藩側の戦死者は25名、捕虜となった者10名であり、天狗党側の負傷者は4名で、庄司与十郎はこの戦いの傷がもとで信州に入ってからまもなくして死亡している。一行は、この日の夕方には本宿(下仁田町)に到着している。
 信州諸藩は、幕府の天狗党討伐の命令もあったが、現実に天狗党一行が中仙道を西上して来る形勢から、上州方面に探索方を派遣し情報を集めていた。
 天狗党一行は、17日、本宿を出発し、内山峠を越えて信州に入り、この日は平賀村(長野県佐久市)に泊まった。18日は、千曲川を渡り野沢(長野県臼田町)に出て、その日は中山道の望月宿(長野県望月町)に宿泊した。
 信州諸藩は天狗党追討の準備で大騒動であったが、諏訪の高島藩内では主戦論・非戦論・中立論などさまざまな意見が出ていたが(諏訪地方は、元来尊王思想が根付いていた)、藩主諏訪忠誠(当時老中)の意向でようやく藩論が主戦論でまとまった。19日、高島藩は松本藩と合流してともに戦闘に入ることを申し合わせ、和田峠の戸沢口で対峙することとした。
 翌20日、天狗党一行は和田宿を出発して和田峠にかかると、「東餅屋の集落は松本藩兵が焼き払い、西餅屋の集落は高島藩兵が焼き払った後であった。......高島藩の二番手は二十日未明城を出発し、朝方樋橋村に到着、戦闘配置に就いた。戦闘は午後八ッ半(午後三時)から始まった。天狗党は、戸沢口の高島・松本藩連合軍に対し、正面の香路岩と右手干草山の二方から攻撃を仕掛けた。右手には義勇隊が、正面の先鋒には虎勇隊が配置された。このような複数の方面からの攻撃は、下仁田の戦いの時と同じである。しかし、地の利がある松本・高島藩連合軍も相当持ちこたえ、天狗党も三度押し返されたという。戦闘は膠着(こうちゃく)状態のまま夕方を迎えた。」(『水戸市史』中巻〔五〕P.407)のであった。 
 そこで山国兵部の作戦で、奇兵隊(武田正義の指揮)100人ほどを樋橋村の裏手の山にまわり、高島軍の背後から襲撃させた。「挟み撃ちにあった連合軍に一瞬の動揺が見られ、天狗党はこの動揺を見逃さず、正面からときの声を上げて押し出した。連合軍は混乱して総退却になり、高島軍は樋橋村に火を掛けて逃げ去り、かくて勝負がついた。」(同前)といわれる。
 連合軍側の戦死者は、高島藩7人、松本藩6人(天狗党側の史料では合せて18人)で、天狗党側は、8人以上であった。
 あくる21日、下諏訪を出た一行は、高遠藩が警備を固めているというので、中仙道から伊那街道に入り、その日は松島宿(長野県箕輪町)に泊まった。22日には、「松島を出て伊奈部(長野県伊那市)で昼食をとるが、この辺りから百姓たちの対応が変化してきた。一行はその日上穂(同駒ケ根市)に、翌二十三日には片桐(同松川町)に泊まるのであるが、この時の天狗党員の日記には、『殊の他御馳走也』とか、『百姓とも兵粮さい(菜)等迄ととのへ差出(さしだし)申し候』『殊の外丁寧(ていねい)にて盛砂(歓迎の意を現す盛り砂)等致し、宿屋残らず掃除致し待受(まちうけ)る』という記述が見られる。これは、一つには伊那谷の伝統的な尊王思想もあろうが、他方では和田峠の戦いの結果を踏まえ、これらの宿々では天狗党に抵抗することを諦め、むしろ平穏無事に通過してもらうことを得策(とくさく)と考えるようになったからであろう。」(同前 P.411)とされている。
 百姓の対応の変化は、領主側の態度に連動していた。
 飯田藩は、天狗党が伊那街道を南下してくるという情報を得て、一戦を交えるつもりであったが、他藩から対戦しては困るという申入れを受け、これを口実に迎撃戦はあっさり放棄され、籠城戦に転換した。そこへ地元の国学者(北原稲雄とその弟今村豊三郎)が飯田城に赴き、天狗党との戦闘回避を陳情した。飯田藩はこれを受け入れた。北原・今村・松尾多勢子(たせこ)などは23日、飯島宿で道中奉行横田藤四郎(松尾とは共に平田篤胤の門人)に面会し仲介を願い、片桐で藤田小四郎に会って献金と間道案内を申入れ、平穏な飯田通過の約束をとりつけた。
 24日、天狗党は北原を案内者として、大瀬木(長野県阿智村)までの飯田藩領を無事に通過し、その日は駒場(同前)に泊まった。他方、飯田藩は天狗党一行が通過したのを見届けてから、夕方、城内から軍勢を繰りだし天狗党を追った。これは幕府への言い訳としてのポーズであった。
 駒場宿を出立して木曽路に向かった天狗党一行は、25日は清内路(せいないじ)村(長野県清内路村)に宿泊し、26日、橋場(長野県南木曽町)で中仙道に入り、馬篭宿(南木曽町 *ここは尾張藩の飛び地)に到着した。27日、尾張・岩村・苗木などの諸藩の厳戒の中を、天狗党軍は中仙道を西に向かい、中津川宿(岐阜県中津川市)を通り大井宿(岐阜県恵那市)に着き、ここで宿泊した。
 一行は、28日、御嵩(みたけ)宿に泊まり、28日には尾張藩の暗黙の了解で太田宿(岐阜県美濃加茂市)で木曽川を渡る。この時、耕雲斎は、太田の尾張藩陣屋に、西上の趣旨を通知する。まず、"朝廷からの攘夷の達しがあるにもかかわらず幕府も諸藩も実行していない。これでは日本の危急というべきで憂慮にたえない。われらは烈公(斉昭)の遺志を継いで是が非でも攘夷を実現しなければならない。"と述べ、つづいて次のように言う。
「しかるにわが藩の結城寅寿の残党市川三左衛門・朝比奈弥太郎・佐藤図書らの讒訴(ざんそ)によって幕府の嫌疑を受けたため、攘夷の成功に至らず、これでは烈公の積年の素懐(そかい)も滅んでしまうので、公の縁族の者(*一橋慶喜)に歎願いたしたく、諸藩を通行してここまで来た次第である。御藩は同じ御三家であり、戦闘を交えるつもりはいささかもないから、どうか御領内の休泊をお認めいただき、無事の通行をお許し願いたい。」(瀬谷・鈴木著『流星の如く』P.174)と。
 耕雲斎は、ここで初めて慶喜への嘆願のための上京であることをはっきりと述べたといわれる。しかし、天狗党の一方的な思い込みとは異なり、慶喜は11月29日に、朝廷あての内願書で天狗党追討を明らかにし、それは朝廷から許可される。(《補論 慶喜の天狗党討伐の態度にかかわる当時の政治情勢》を参照)
 29日、天狗党一行は、鵜沼(岐阜県各務原市)に到着する。そのまま中仙道を西進すれば、めざす京都は近江を越すだけである。
 しかしこのとき、加納藩から領内通行を回避するように申し入れがあり、さらに大垣・彦根・桑名の各藩は中仙道で迎撃態勢をとっていた(尾張藩も領内通過になにかと便宜を図ってくれたが、一応防備の体制をとって1500人を動員している)。また、幕府追討軍が中仙道を西上しているという情報も入ってきていた。
 天狗党が中仙道から京都を目指せば、諸藩との正面衝突は必至である。天狗党に勝ち目はなかった。天狗党の目的は、あくまでも水戸藩伝統の尊王攘夷であり、そのために水戸藩出身の慶喜に歎願し朝廷のために働くことである。こうして、天狗党は、30日、中仙道から間道にはずれ長良川を渡って北進し、高富藩(岐阜県高富町)の天王宿で宿泊した。 
 一行は、12月1日、谷汲(たにくみ)川を越えて揖斐(いび)村(岐阜県揖斐町)に着き、ここで宿泊した。揖斐から京へ向かうには、冬場には人馬の通行はまず無理といわれる蠅帽子(はえぼうし)峠を踏破しなければならなかった。これにあえて挑戦し、2日には、日当(ひなた)・金原(ともに岐阜県本巣町)に宿泊した。この日、薩摩藩の西郷吉之助の使いとして中村半次郎(のちの桐野利秋)が、藤田小四郎・竹内百太郎に面会し、"一行は京都へ正面から入るべき"とすすめた。だが、小四郎らは、一橋侯が大津に出張して道をふさいでいるのに、これに敵対して通行するのは本意ではない―と丁重に断っている。
 3日は厳しい山道をたどって長峰へと進み、明けて4日は雪降りの天候の下で、険阻な山道は馬車が使えず、隊士や人夫が荷物を背負い、その日の夕刻ようやく大河原(岐阜県根尾町)に到着した。蠅帽子峠は古来から越前と美濃を結ぶ交通路で、標高987メートルである。冬場は降雪が激しく、雪の多い時は2~3メートルにもなる難所であった。天狗党一行は、5日、難行苦行の末この難所を越えていったが、多大な犠牲をはらった。
 しかし、ようやく越前に入った一行ではあるが、そこでは越前大野藩兵などによって、道々の民家などは焼き払われており、天狗党軍は雪中での野営を余儀なくされている。
 6日、なお降りしきる中を笹又川を渡り、峠を越えて、木本に宿営する。そこからさらに宝慶寺峠を越え、7日には、大本村(福井県池田町)に、8日には、谷口・東俣に、9~10日には、やはり雪の中を湯尾峠を越えて今庄に到着する。一行は、寒さと飢えにさいなまれながら、12月11日、木の芽峠を越えてようやく新保(しんぽ)宿(福井県敦賀市)に到着した。
 ところで一橋慶喜は、1864(元治元)年11月29日に、天狗党追討の内願書を朝廷に提出し許可されている。慶喜は12月3日、追討軍の将として京都を出発し、4日、大津で軍議を開いた。この結果、加賀藩1000人と桑名藩士を加えて先鋒隊とし、筑前藩200人、見廻り組200人を脇備(わきぞなえ)、会津藩500人を後備(うしろぞなえ)として陣容を固め、湖北の梅津(滋賀県西浅井町)には、小田原藩500人を派遣している。さらにこれに先立ち、尾張・大垣・彦根・小浜・福井・大野の諸藩にも使者を送り、美濃・尾張・越前の各口を固めるように命じている。そして、天狗党軍が12月11日、新保宿に着いた頃に、慶喜は湖西を通り湖北の梅津願慶寺に約800人の兵とともに本陣を構えた。
 新保宿の周りには、木の芽峠東は福井藩・丸岡藩・鯖江藩の兵約500人、栃ノ木峠附近には彦根藩約700人、葉原宿には加賀藩一番手約1000人、越坂には小田原藩二番手約650人、樫曲、谷口(敦賀市)に桑名藩三番手約550人、井川(敦賀市)に大垣藩四番手約1500人、道口、小河(敦賀市)に会津藩五番手約1200人が対陣した。さらに、舞崎(敦賀市)附近に福岡・津などの藩兵約500人、金ヶ崎から天筒山にかけて小浜藩兵約2000人、鞠山陣屋には鞠山藩兵約300人、大比田(敦賀市)には大野藩・鯖江藩の約400人の兵が配備された。(入野清著『幕末、残り火燃ゆ』P.174~175 による)
 天狗党軍が新保宿に着いた時には、加賀藩がすでに向いの葉原村まで出陣していた。これを知った耕雲斎は、先に太田宿で出したものと同趣旨の書簡を加賀藩へ送って、通行許可を願い出た。しかし、加賀藩の側は、"今回は追討総監の一橋慶喜殿に加勢するためであるから、通行となれば一戦に及ぶ以外にない。"という返答であった。
 これに対し、天狗党の側では、"ここで降伏すれば松平頼徳や大発勢と同じ運命となる"として、徹底抗戦を主張する者も少なくなかったが、耕雲斎は、"主君同様の慶喜公が討手の大将では、どうして抗戦できようか"と述べて、全軍が降伏することとなった。
 加賀藩がこれを収容し、その数は823人(うち水戸元藩士35人、水戸藩元下士49人、農民335人など)であった。加賀藩の待遇は丁重なものであったが、しかし1月19日、慶喜が田沼意尊の要求に従がって浪士などを幕府軍へ引き渡すと、待遇は一変する。一行は鰊倉(にしんぐら)16棟にほぼ50人ずつ入れられた。倉は戸口から明り取りまで板で打ち付けられ、中はムシロを布いただけで、便所は中央に桶を置くだけという酷いものであった。
 吟味は体裁どおりで、処刑は2月4日、武田耕雲斎・藤田小四郎・山国兵部・田丸稲之衛門ら幹部24人が斬首となった。つづいて2月15日に135人、16日に102人、19日に75人、23日に16など計328人が死刑で斬首となった。武田金次郎(耕雲斎の孫)ら137人は、流罪となった。このとき、構いなしとなった者は18人で、農民であるために水戸藩に引き渡された者は130人であった。

《補論 水戸藩の農兵制と藩内抗争での農民の対応》
 江戸時代において、兵農分離を行ない武士を都市に集中させ、参勤交代制を組織化するのは、日本の近世封建制度の根本的な主柱である。これに対し、城下町に集住する武士階級が奢侈に流れ、兵士としての士風が崩れ、さらに財政窮乏化が追い打ちをかけるようになると、武士を農村へ居住させて封建制度を建て直す「武士土着論」が唱えられた。それは、江戸時代初期から熊沢蕃山、荻生徂徠、山鹿素行などの儒学者によって主張された。幕末の藤田東湖もまた、同様な主張を行なっている。
 しかし、現実には、武士を土着させるのではなく、農民を農兵として組織化し、幕藩領主の武装力を補うことが江戸時代末期に行なわれるようになる。
 それは当初、中国におけるアヘン戦争の情報が伝わり、対外的な危機感が深刻化する1840年代以降に唱えられ、主に海防のための農兵組織であった。海防農兵は、幕府の重臣・筒井政憲が1846(弘化3)年と1848(嘉永元)年の二度にわたり、当時の老中首座の阿部正弘に、海防充実のために農兵を組織すべき事を上申したのが初めである。しかし、この時はまだ幕藩制をゆるがす、この提案は受け入れられなかった。
 つづいて、1849(嘉永2)年、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門(英竜)が、農兵設置を建白した。それによると、100人に付き1人の割合で、16歳から30~40歳の男子を対象に農兵に取立て、代官支配地(幕府直轄領)だけでなく私領(藩領や旗本領など)でも同意を得られた地域には、農民を農兵に組織化し、軍事訓練を行なう―というものである。農兵は、平時においては農業に従事し、手当の支給はないが、しかし、高に応じて課税されるさまざまな税は免除される(ただし20石以下)。また、農兵となった期間は、苗字帯刀をゆるすという特権が与えられた。しかし、この時も、江川の提案は受け入れられなかった。
 「開国」後になると、諸藩でも農兵を組織する動きとなる。水戸藩では、徳川斉昭が1855(安政5)年3月に、郷士や村の名望家層からよりすぐって農兵を組織した1)。『水戸藩史料』上編乾でも、農兵対象者は、「殊(こと)に此の選に当りたる者は民間に在りて所謂(いわゆる)世襲名家なるもの、其(そ)の他(た)甲辰の変(*1844年5月、斉昭が幕府から謹慎を命じられた時)に忠誠を竭(つく)し奔走尽力せし義民有志の徒なれば、義勇報公の精神は死を視(み)ること帰るが如く、平素は勤倹力田以て筋骨を鍛(きた)ひ暇時には剱銃の法を練習し質樸(しつぼく)律儀の風ありしといふ」(P.864~865)者である。その選考基準は、極めて政治的であり、世襲名家や斉昭に忠誠をつくす者たちである。
 長州藩も、ペリー来航の年の1853(嘉永6)年11月から、相模国鎌倉・三浦の2郡の警衛の任務を命ぜられ、そのため約200人の藩士が出張したが、相模地方の村々に1000人規模の農兵を命じた。
 幕府領については、1861(文久元)年10月に、英竜の子の江川英敏が農兵設置を新たに建議した。これは、江川代官支配地だけでなく、関東八州と駿河・遠江・三河にわたる範囲で農兵を組織するものであった。またその任務は、従来の海防とともに管内宿村の治安維持も挙げられるようになった。
 幕府は、1863(文久3)年10月になって、「農兵取立(とりたて)方の儀は先ず其方(そのほう)支配所限り見込みの通り銃隊取建て候様然(しか)るべく......」と、ようやく農兵設置を認めた。幕府は翌11月、江川の他にも、木村董平、佐々井要作、北条平次郎、山内源七郎らの諸代官にも農兵取立てを命じた。これは、幕府の文久期の軍制改革の一環となった。
 関東農村一帯に農兵という武装力を設置した背景は、次のようなものである。「文化二(一八〇五)年の関東取締出役2)の設置と文政十(一八二七)年の改革取締組合3)の設定、及びその後の組合村の取締機能の拡大・強化という対策は、一貫して本百姓体制の維持・再建という意図をもって行なわれたと考えられる。即ち、取締出役・組合村(*10カ村ぐらいが1つの組合村となる)の前提となる事態は、直接的には、無宿・博徒の横行とされるが、そのような事態を生み出したのは、農民層分解の進行による農村内部の構造の変動に他ならず、そのことを基礎にした共同体規制の弛緩(しかん)、即ち、村役人(*家柄のよい村内有力者が就く)による村落支配の動揺・秩序掌握の不徹底によって生じてくると幕府権力側に認識されており、これへの対応は、無宿・博徒に対する警察的取締りの強化とならんで、村落民に対しても村役人を軸とした安定的な村落秩序を形成させる勧農・教化政策という形でなされてくる。......その村落秩序の安定化が単に一村落内だけでの規制強化によっては果たしえず、組合村という広域的・一円的な組織によって行なおうとした」(茂木陽一著「幕末期幕領農兵組織の成立と展開」―幕末維新論集5『維新変革と民衆』吉川弘文館 2000年)のである。そこにさらに内外情勢の危機がつのる中で、農兵組織の設置となったのである。
 江川代官支配地の農兵の編成は、次のようになっている。まずは村高と人数に応じて、多くは豪農層の子弟の中から身体の壮健な者を選抜し、25人を1小隊とする。これを幹部と平の兵士にわけ、幹部は頭取2・什兵組頭2・差引役1の計5人とし、残る20人を5人で1組の4つの伍卒組織に編成し、組ごとに1人の子頭役をおいた。隊は10カ村以上でつくられている組合村ごとに置かれ、村により多少のバラつきはあったが、男子100人につき1人の割合で取り立てた。農兵設置に要する費用は、地主・豪農層の献金によって賄(まかな)われ、鉄砲などの武器も彼らの献金によった。
 農兵は、次第に多くが村役人、地主、豪農層の子弟の30歳以下の壮健者によって構成されるようになり、小前百姓(零細農民)は排除されるようになっていった。このため、1866(慶応2)年6月の「武州世直し一揆」に対し、銃隊中心の江川代官支配下の農兵が鎮圧部隊として動員され、藩兵以上の働きをしたと言われる。そこでは、田無村組合農兵・五日市村組合農兵・日野宿組合農兵・駒木野組合農兵・八王子宿組合農兵などが動員された。村役人・豪農層などは、世直し一揆に対して、農兵をもって敵対・鎮圧したのであった。このことは、出羽国の村山農兵において顕著である。村山農兵は、幕府正規軍を補助するというレベルを越えて、一般農民の世直し一揆を鎮圧する豪農・村役人層の組織として敵対した。
 しかし、村役人・豪農層のための農兵の性格が強くなるにつれ、農民内部の矛盾が顕在化し、村役人中心の編成に内部から批判がでたり、武州川越藩領のように農兵取立てを課役増大として、小前層が中心となって農兵反対一揆が起こり、失敗したような事例もあったりした。 
 水戸藩の安政期の藩政改革では、反射炉をつくるなど軍備の増強に力を入れた。その中で天保期の改革と異なるのは、武士土着論が消えたことである。代わって安政期には、農民を積極的に農兵に取りたてた。その名称は、「御備(おそなえ)人数」であった。「安政二年(一八五五)九月五日、水戸藩は弘化年間に前藩主斉昭のために歎願運動に参加した三四六人の家格を進めた。このうち郷士(ごうし)となった二二人を除く、残り三二四人を御備人数とした。翌日には村役人の格式を進めた。庄屋は在任中苗字帯刀御免、組頭は在任中苗字御免、非常のさいには帯刀を認めた。村役人が御備人数に編入されたと記した史料はないが、以後の動きをみると御備人数と同じ扱いを受けている。少なくとも帯刀を認められたのであるから、農兵の一種として認められたことは疑いない。/同年十月には家格が村役人以上のものを、十二月には献金するものを御備人数に採用した。このほかに海岸の壮丁四九六人が採用された。御備人数は一五〇〇といわれる。安政四年(一八五七)春までに編成を終え、彼らには鉄砲が貸与された。そして、彼らの文武教育機関として郷校が拡充・増設された。」(吉田俊純著『水戸学と明治維新』吉川弘文館 P168)のであった。しかし、これらは、主に上層農民を対象としたものであった。
 水戸藩の農兵構想には、もう一つ別の系統のものがあった。江戸時代、農民を戦闘補助の人足として使うのは当然の前提であった。だが、水戸藩にはこの制度がなかった。しかし、「水戸藩でも初期から郷士・郷足軽の制度があり、荒子(あらしこ *戦場の清掃などにあたる最下層の従者)が徴集された。また猟師も動員された。これらの制度は安政以後も存続した。」(同前 P.169)といわれる。
 ところで、「水戸藩は弘化元年(一八四四)三月に、検地の成果のうえに地方(じかた)知行制を改正し、一〇〇石以上の家臣に知行地を渡した。そして、知行地の農家のうち家臣が軍事動員できる農家を指定した。農戸(のうこ)という。富民と貧民を除いて、一〇〇石あたり一四戸、五〇〇石以上一〇〇石増すごとに一二戸を加えて指定した。農戸は『農兵の意を寓(ぐう)し〔*かこつけて〕』(『水戸藩史料』)、家臣たちが主従関係を確立して、戦闘員に育成するように期待された。また〔*藩の〕直轄地である蔵入地(くらいりち)の一般農民も、貸人(かしにん)として掌握された。貸人とは、家臣が軍役を勤めるときに、知行地の農戸だけでは不足する場合、藩が蔵入地の農民を貸出すので、こう呼ばれた。/しかし、これらは制度的に未整備であった。動員の順番や給金などは決まっていなかった。そのうえ、貧窮化した家臣にとって、農戸を戦闘員に養成する余裕はなかった。結局、農戸・貸人は戦闘補助のための人足にしかならなかった。そして、制度的に整備されたのは、文久三年(一八六三)の攘夷戦に備えたときであった。」(同前 P.169~170)といわれる。
 1863(文久3)年3月、将軍家茂が上洛のさい、水戸藩主慶篤もお供をした。「このとき水戸藩は、一部日常的に農戸を確保している家臣を除き、農戸を停止して貸人に統一した。ついで賃銭を一日二〇〇文と定め、番編成をした。この結果、これまで述べた農民を軍事動員する制度、郷士・郷足軽・御備人数・村役人・猟師・荒子とあわせて、水戸藩領のすべての農家が水戸藩の軍事動員体制に組み込まれたのである。貸人制度は元治の内乱において、反攘夷派の農兵部隊を編成するうえで、有効に作用した。......農戸・貸人は戦闘員として期待されたが、戦闘補助の人足にとどまった。しかし、水戸藩が貸人制によって全農家動員体制を整えたことは、権力基盤を一般農民のうえにもおよぼしたことを意味する」(同前 P.170)のであった。
 尊王攘夷思想を教育する郷校と積極的な農兵取立ては、上層農民を主な対象としたが、結果的に天狗党の基盤を強固なものとした制度である。そして、1863(文久3)年に全農家軍事動員体制を整えたことは、「元治の内乱」を武士層のみならず農民など人民層を巻き込んだ政争とした基盤であった。攘夷派・門閥保守派を問わず、農民は農兵として駆り立てられ、支配者の血を血で洗う内乱に巻き込まれていったのであった。
 1864(元治元)年6月上旬、天狗党がふたたび筑波山に陣を構え、周辺の村々に、軍資金と称して金品を強要するようになると、農民たちも武装し近隣の村々と団結して、自衛行動をとるようになる。他方、藩庁側もまた、支配秩序の維持を目的に、自らの軍事力の不十分性を補うために、民衆に自衛を促すようになる。
 この年の5月、関東取締出役は、「浮浪の徒(と)取り締りについては、人数が所々(しょしょ)に横行、押借(おしが)りなどして百姓の難儀が多く、捨て置き難(がた)きゆえ、たとえ水戸殿名目と相唱(あいとな)えても召し捕え、手向(てむか)い致せば切り殺してもよい。さらに関東取締出役廻村(かいそん)の時は、相互に打ち合わせするように」(『水戸市史』中巻〔五〕P.336から重引)と、村々に命令を出している。農民たちの武装した自衛活動が、権力によって公認されたのである。
 当時の常陸・下総地方の農民の自衛団では、鯉渕村(内原町)を中心に周辺41カ村が結束して結成されたものが有名である。1864(元治元)年7月25日、長岡宿(茨城町)の助郷に駆り出されていた鯉淵村の農民が、筑波勢が水戸城下に攻め入ろうとしたのを目撃し驚いて村に帰って、自衛措置を協議し、村境を警固した。翌26日、鯉淵村は、周辺の村々と一緒になって郷土防衛を目的とした組合を結成している。
 この近在では、以前から尊攘派の押借りなどの犠牲となっていた。「この地域では既に文久三年十一月に『水戸の悪党乱暴』の噂が伝えられていたが、元治元年五月には中妻(内原町)で押借りが横行し、また六月二十五日には田中(*愿蔵)隊が鯉淵村に泊まって人足二〇〇人を取り立て、さらに七月二日やはり田中隊が加倉井村(水戸市内)・田島村(内原町)辺に来て馬等を引いて立ち去った。このような事態に対処するため鯉淵村近隣の小原・市原(共に友部町)等三か村ではこのような押借りに抵抗する申し合わせをしており、七月十日には友部村(同)へ浪士が五人来て鉄砲・金子(きんす)を差し出すよう要求したが、農民達は兼ねてからの盟約に従い早速合図をして集まり、竹槍をもって戦って一人を殺し、浪士達を追い払っている。」(同前 P.488~489)のであった。
 鯉淵村(水戸藩領)周辺は、いくつもの藩領・旗本領・幕府領(天領)が複雑に入り組んだ地方であり、鯉淵勢に参加した村々も次のようにその領主は一様ではなかった。以下は、現代の行政区画にそって分類した。(〔水〕は水戸藩領、〔宍〕は宍戸藩領、〔笠〕は笠間藩領、〔天〕は幕府領、〔旗〕は旗本領を指す)
【水戸市】―平須村〔水〕
【茨城町】―大戸村〔水〕・近藤村〔旗〕・常井村〔旗〕・馬渡村〔旗〕・越安村〔旗〕・蕎麦原村〔旗〕・駒渡村〔旗〕・下飯沼村〔天〕〔旗〕・野曾村〔天〕〔旗〕・栗崎村〔天〕〔旗〕・ 川又村〔宍〕〔天〕〔旗〕
【内原町】―鯉淵村〔水〕・五平村〔宍〕・田沢村〔宍〕・高野村〔宍〕・下野新田〔水〕・小林村〔旗〕・内原村〔宍〕〔笠〕〔旗〕・三湯村〔宍〕〔旗〕・築地村〔旗〕・赤尾関村〔宍〕
【友部町】―小原村〔天〕〔旗〕・鴻巣村〔天〕〔旗〕・友部村〔旗〕・随分附村〔宍〕・柏井〔宍〕・ 仁古田村〔旗〕・長兎路村〔旗〕・湯崎村〔宍〕・住吉村〔宍〕・矢野下村〔宍〕〔旗〕・大古山村〔旗〕・小泉村〔宍〕・下加賀田村〔旗〕・宍戸太田町村〔宍〕
【岩間町】―上安居村〔旗〕・下安居村〔旗〕・土師村〔宍〕
 水戸藩領が4カ村、宍戸藩領が15カ村、笠間藩領が1カ村、天領が6カ村、旗本領が26カ村である(一部の村は領主が複数)。鯉淵村は、これら村々の中心にあり、1862(文久2)年には、庄屋や大山守(実質的な大庄屋)らの不正を糾弾する激しい村方騒動の経験もあった。
 41カ村の村々が盟約を結んだ翌日(7月27日)、鯉淵勢は本格的な戦闘に突入する。「この日七ッ時(*午後4時頃)犬塚村(内原町)で『賊徒』が乱暴しているとの通報に接し、即刻鯉淵勢一〇〇人程が出動して敵方と砲戦となったが、敵が逃げ出したため鉄砲一挺を分捕って帰村した。翌日は田中(*愿蔵)隊が加倉井村(*水戸市内)から鯉淵村へ通行するという先触れが届き、これを攻撃するため飯島村(*水戸市内)まで繰り出し、内原村(内原町)で田中隊を追い払った。田中隊との戦いは二十九日に土師村(岩間町)で激しく行われた。田中隊は同村淡島神社に陣取り、鯉淵勢は総勢二〇〇〇余人をもってこれを二方から激しく攻めたてた。夕方双方は兵をひいたが、その後田中隊は府中(石岡市)方面へ逃げ去ったため、鯉淵勢の勇名は城下にまで聞えたという。」(同前 P.492)のであった。
 その後、鯉淵勢はしばらく組合村々の警戒にあたっていたが、8月15日、小鶴台(茨城町)に出動し、筑波勢と戦い、秋葉(同町)坂上まで追い払っている。これらの戦闘で鯉淵勢は藩庁から高い評価を受け、8月21日には、藩庁から鉄砲100挺が貸与され、翌日には城下の防衛を命令され出陣している。
 8月22日、神勢館で、頼徳軍と市川派・幕府軍との間で激しい戦いがあり、「鯉淵勢は常盤河岸(*水戸市内)等の防衛に配置され、翌日は川根(茨城町)方面不穏の報に帰村、この間藩庁から大砲二門と小銃一〇挺が下付された。二十四日には宍戸陣屋(友部町)の改めに出張している。二十七日小鶴台に出陣して田中隊と戦ってこれを追い払い、翌日川又(茨城町)まで進んだ。この日藩庁から鉄砲七〇挺を与えられている。二十九日には堅倉宿・竹原宿(共に美野里町)へ出張の後再び川又村に宿陣し、翌日竹原宿で幕府軍の指揮下に入った。九月六日から八日にかけて鯉淵勢一同は磯浜方面への出動を命ぜられ、海老沢(茨城町)・夏海(大洗町)方面で活動し、九日には帰村して十一日まで近隣の山狩りを行っている。」(同前 P.493)のであった。
 鯉淵勢の戦いは、休む間もなく続いた。「九月十二日鯉淵勢は再び磯浜方面への出動が命ぜられ、塩ヶ崎村(常澄村)で戦って勝利し、大貫(大洗町)方面へ前進、十三日大場村(常澄村)へ繰り出して敵と砲戦となった。十五には海老沢村へ進出し、翌日は松川陣屋(*夏海の近くで南西方向。大洗町)へ出て夜夏海村へ繰り込み浜手三か所を固めた。十七日も同所を守り、十八日には一二〇〇余人で大貫堀川(*磯浜の近くで南西方向)まで進出して激しい砲戦となった。十九・二十両日は幕府軍の案内を勤めながら大貫近辺の戦争に参加、以後同地域での活動が続くが二十八日には幕府軍北条新太郎の指揮下に組み込まれ、同時に市川弘美(三左衛門)の指揮も受けることとなる。」(同前 P.493)のであった。
 磯浜村を守る潮来勢と幕府・市川派連合軍との戦いは一進一退を繰り返したが、9月22日、潮来勢が退却して、磯浜市街は幕府追討軍が占拠することとなった。
 筑波勢の掠奪から村を守るために自衛団をつくり、その後市川派の藩庁軍ならびに幕府追討軍の指揮下に入った農兵は、鯉淵勢だけではなかった。
 7月27日、筑波勢の横暴に不満を強めていた河和田村(水戸城から西方で約5・5キロ)では、村民一同が藩庁(市川派)に協力することを申し合わせた。その後、河和田村以外にも同調する村々は増加し、8月7日時点では以下の13カ村となっている。(〔麻〕は麻生藩領)
【水戸市内】―河和田村〔水〕・見和村〔水〕・萱場新田〔水〕・中丸村〔水〕・金谷村〔宍〕・ 
大塚村〔宍〕・加倉井村〔天〕〔旗〕・飯島村〔旗〕
【内原町】―大足村〔笠〕〔麻〕〔天〕〔旗〕・黒磯村〔旗〕・有賀村〔宍〕・田島村〔笠〕〔麻〕〔旗〕・牛伏村〔旗〕
 河和田勢は、7月29日、鯉淵勢と共に田中隊と戦う。「八月七日河和田勢は一同白鉢巻たすき竹槍姿で(*藩の)評定所へ出掛けると、それぞれの居村で警備に当たるよう命令された。二十二日には再び出動命令が下って、城下へ詰めた。翌二十三日には鉄砲組四〇余人を除く一五六人が、市川弘美(三左衛門)の配下に組み込まれたが、同日の戦闘で危険を感じてそのうちのかなりの人数が逃げ帰っている。二十八日から九月四日にかけては、田中隊と戦うため長岡(茨城町)へ出張したが、小鶴・奥谷両村(共に茨城町)で筑波勢に加担する農民宅の打ち壊しにも参加している。河和田勢は十月中旬藩庁軍に所属して久慈郡太田(常陸太田市)辺へ出張してその周辺の鎮圧にあたったが、十月二十六日に組織を解散した。」(『水戸市史』中巻〔五〕P.496)と言われる。
 藩庁軍へ協力した農兵隊には、これらの他にも、郷士益子軍蔵(大子村)・郷士木村政次衛門(水府村)に率いられた猟師200人、太田村(常陸太田市)の郷士石川部平に率いられた農民660余人、那珂郡鷲子(とりのこ)村(美和村)の郷士薄井友右衛門に率いられた近隣30カ村、那珂郡額田村(那珂町)に本拠を置き、郷士寺門登一郎に率いられた農兵隊などがある。
 筑波勢を支持した農民が各地に存在したのと同じように、藩庁軍に協力した農民も各地に存在したのである。彼らの大部分が自衛を目的として立ち上がり、共通の敵である筑波勢などと戦うために藩庁軍に協力したのであった。「しかし農民達が藩庁軍を支持して行動したのは七月下旬以降であり、十月には早くも尊攘派農民宅への打ち壊しに対して強い規制が加えられた。翌慶応元(1865)年一月には農兵制度の解体をはじめとして一段と規制が強化され、藩庁軍と農民との同盟関係は短期間で終わった。政権を握った市川弘美ら門閥派が、農民達の政治的自覚を恐れて、争乱が一段落した段階で早々に農民達を帰村させ、以前にも増して農民の生活規制を強化し、自ら支持者との関係を切ったのである。その後門閥派が再び苦境に陥った時、かつて彼らを支持して戦った農民達は、二度と門閥派のために立ち上がることはなかった。」(同前 P.498~499)のである。
 保守門閥派であれ、筑波勢(天狗党)であれ、所詮(しょせん)は、農民達を利用の対象としてしかみておらず、彼らの解放を支援し促すものではなかった。
 農民たちは、藩の内乱過程で、それぞれ筑波勢、あるいは藩庁軍を支持した。
 以下の表は、尊攘派の内の鎮派(元治元年10月に那珂湊で投降)と激派(元治元年12月に加賀で投降)の降参人の身分構成である。水戸藩士は鎮派40・5%、激派49・4%であり、激派の方が1割り近く多い。下士を除く藩士では、さらに激派の方が多く、激派の43・3%を占めている。次いで多いのは農民であり、鎮派29・7%に対し、激派41・4%である。ただし、鎮派は村役人(庄屋など)が多く、9・3%も占めているが、激派はわずか0・6%でしかない。従者・小者の中には農民やその出身者もいると思われるが、内実はわからない。ただ、藩上士の参加が多い激派の方が、当然にも従者・小者も多い(11・7%)。しかし、鎮派でも4・9%も占めている。また、郷士は鎮派の方が、激派に比しはるかに多い。
 しかし、この身分構成は降参人という限定があり、この表がそのまま鎮派・激派の身分構成を示すものではない。ここでは、戦死者が含まれていないということだけでも、この点はあきらかである。ただ、武士とともに農民参加者が多いことを示すものである。

          那珂湊降参人(鎮派)  敦賀降参人(激派)  
 水戸藩士      256(22.2%)     35(43.3%)
水戸藩下士     213(18.5%)     49( 6.1%)
他藩士                   4( 0.5%)
浪人                   10( 1.2%)
郷士         52( 4.5%)      2( 0.2%)
村役人       107( 9.3%)      5( 0.6%)
農民        343(29.7%)    335(41.4%)
医者         14( 1.2%)      5( 0.6%)
神官・修験      64( 5.5%)     18( 2.2%)
僧侶          4( 0.3%)      1( 0.1%)
職人・商人      22( 1.9%)      9( 1.1%)
従者・小者      57( 4.9%)     95(11.7%)
 不明・その他     22( 1.9%)    241(29.8%)        
   計      1154人(100.0%)   809人(100.0%)       
出典:『水戸市史』中巻(五)

 天狗党が攘夷の先鋒になると、3月に筑波挙兵に決起した当初、「開国」後の貿易で物価騰貴に苦しむ関東周辺の民衆に一定の共感を与えたことは確かである。だが、他方で、天狗党の強引な金穀徴発は決定的にその評判をおとすものであった。
 たとえば、天狗党は、「すでに三月十五日に新治(にいはる)郡片野村穀屋伝吉を『糸綿の類(たぐい)莫大ニ買入(かいいれ)、悉(ことごとく)交易し渡世致』したとして天誅を加え市川村でさらし首にし、府中(*石岡)・筑波・柿岡・真鍋などの糸綿商人に金策を行った。......激派の田中愿蔵(げんぞう)らは、五~八月に足利・桐生・大間々・結城などで莫大な金策強談(ごうだん)を行い、六月六日には下野栃木町足利陣屋に三万両を要求し三〇〇〇両でいったん手を打ったが戦闘となり町を焼き払った。一方、水戸街道の府中・竹原・片倉などの宿場にも五月頃激派が屯集し周辺の村へ行き米金を強借りし、日々人足を宛て遣(つか)い、少しでも背けば村へ押し入り放火乱妨(らんぼう)・殺害をした。」(高橋裕文著『幕末水戸藩と民衆運動』青史出版 2005年 P.175)のであった。天狗党がいかに立派な「大義名分」(?)を掲げようとも、民衆から憎まれ、民衆から遊離しては、目的が実現しうるものではない。これは今日の運動でも言えることである。
 天狗党の横暴に反対する農民たちの闘いは、自衛闘争として始まっているので、藩庁軍とともに農兵として戦うようになっても、ときには藩庁の統制を排して、尊攘派農民の居宅を打ちこわしている。
 農民たちの打ちこわしは、7月下旬から9月下旬に集中しているが、10月23日、那珂湊戦争が終わったあとの12月頃まで、一部では断続的に続いていた。打ちこわしは、水戸藩領の各地で行なわれたが、とりわけ、西部・北部が非常に多く、水戸城近郊では河和田や鯉淵周辺が多いと言われる。現在のひたちなか市、東海村、日立市などは打ちこわしは少ないが、それはこれらの地域が戦場となったためで、戦闘にともなう村ぐるみの焼打ちが多いためである。打ちこわしの件数は、正確な統計がないため、史料によっては数百軒から二千軒と幅がある。
 打ちこわしの対象は、「......尊攘激派とそれと共闘した鎮派の一部やそれに協力した藩吏・村役人・郷士・神官・修験・豪農・商人などであったが、彼らは各地の郷校を拠点に尊攘運動や軍事訓練を行い、周辺の村に対し、金策・人馬徴発を行っていた。しかし、打ち毀(こわ)しはそれに止まらず、激派と関係のない村役人・豪農・商人にまで広がった。」(高橋裕文著『幕末水戸藩と民衆運動』P.195)といわれる。
 その一例は、高橋氏の前掲書によると、「八月六日には大宮村(*那珂郡大宮町)で再び打ち毀しが起き、組頭立原善九郎・同宮田忠助(那珂湊戦争参加)の家・蔵・家財・穀物および大宮郷校が村内と隣邦の者によって打ち毀された。さらに、諸生派の年寄菊池茂座衛門の家財が打ち毀され諸帳面その他書き物に至るまで『乱妨』され紛失した。」(P.186)のであった。
 天狗党の尊攘運動の拠点となった郷校の中では、小川・小菅・野口・大宮郷校が打ちこわしの目にあった。特に小菅郷校では、前藩主斉昭の著書なども破棄されている。
 打ちこわしは、天狗党の金策や暴行からの自衛闘争として始まったため、天狗党に加担した郷士や、協力した村の有力者の居宅破壊が多い。だが、農民たちの打ちこわしはじょじょに「世直し一揆」的な様相を示し始める。それは、打ちこわしに参加した農民たちの要求を検討することで明らかになる。
 高橋前掲書の分析によると、農民たちの打ちこわしの特徴として、①施金の要求、②居宅、財産の破壊、③打ち毀された家の材料の分配、④豪農経営の破壊、⑤負債の破棄、⑥耕作放棄・耕作禁止・耕作妨害、⑦土地処分、⑧公文書の破棄、⑨村役人の交代要求、⑩郷校の破壊―とされる。
 このうちで、②、③、⑤は財産の均分化をもたらすもので、「世均(なら)し」に通ずるものである。確かに前向きな処置でないが、厳しい収奪による貧富の差に対する激しい怒りが「世ならし」を求めたのであろう。⑧、⑨は村政への不満や怒りを顕したものであり、高橋氏は、⑨について、次のように言っている。すなわち、「那珂郡飯田村など一四ヶ村は藩への願書で、郷村役人で賊徒(*天狗党を指す)に協力した者がいまだに残っているが、それは畢竟(ひっきょう)郷村申立(もうしたて)も仕らず、敵徒追討のみニ心ヲ用(もち)ひ居(おり)、混雑致し候事(そうろうこと)故(ゆえ)ニ候』なので役人立て替えの時はよく糾明した上で『謹慎の族(やから)』を任命すべきであり、『不当者』の下知は受け付けないし、そのような者が村役を命ぜられても村々は治まらないと不服従さえ公言していた。これは天狗党追討にかまけて村々の農民の意見を聞かない諸生派政治を批判し、尊攘派の村役人を排除しようということであるが、藩の一方的な支配を拒否する姿勢を示していた。」(同著『幕末水戸藩と民衆運動』P.198)と。
 天狗党の横暴に対して決起し、生活防衛を図った農民たちは、藩の内乱過程で藩庁に協力したが、彼らの打ちこわしの根底には豪農、村役人、藩当局への不満や怒りなどが渦巻いていたのである。その意味では、未だきわめて未熟で未分化ながら慶応期の「世直し一揆」に通ずるものがあると言えるのである。
 
注1)『水戸藩史料』上編乾は、農兵の利点だけでなく、その弊害として次のように語っている。「......彼の苗字帯刀の特権を得たる新兵は我が藩の教義に依り神道を崇敬(すうけい)し武勇を尚(とうと)ぶの餘(あまり)或(あるい)は他の流俗の仏(ほとけ)に佞し(ねいシ *おもねり)安を偸(ぬす)むの徒を罵倒し動(やや)もすれば世間の嫌悪を招くものなきに非(あら)ず。是(こ)れ特に戒飭(かいちょく *戒め)ありし所以(ゆえん)なるべし」(P.864)と。これは、神道分離を厳格に行なった結果、仏教を排斥することとなり、軍隊としての統一行動が出来ないことを示している。
2)関東取締出役(通称「八州廻り」)は、幕府が関東の治安維持のために、1805(文化2)年、新たに設置した役職である。関東の知行形態は、天領のほかに旗本領・大名領・寺社料など多くの領主によって分割領有され、錯綜しているのが特徴である。中でも、小領主が多く、武蔵国に知行所をもつ旗本は、その約7割が500石以下である。この旗本領の支配は、年貢徴収が主なもので、村落の取締は村落共同体、とりわけ名主など村役人に委ねられていた。また、旗本の領主としての裁判権は、大名と異なり、火罪・獄門にあたる事件は直接処理しないで、幕府の奉行所が吟味し、科刑にしたといわれる。近世中期以降、関東の農村は大きく変わり、広汎な零細農民の存在、農間余業の増大、商品経済の発達などが進展し、農民一揆のみならず、共同体規制から逃れた無宿・ばくち打ちの横行など顕著となってきた。関東取締出役は、幕府領だけでなく、諸藩領・旗本領に対しても警察権を行使できる権限を与えられていた。ただし、水戸藩領には廻村できないのが原則であった。
 3)関東取締出役の体制は、①無宿・悪党の集団的徒党化に対処できないこと、②召捕った者の江戸送りの経費はすべて村費用によって賄ったため、村の費用が増大し、村の協力が困難となったこと、③村落の荒廃が激化してきたため、特定の地域を廻村するのでは取締りの効果があがらず、全域を網羅できる取締区域(組合村)の設置が不可欠となったこと―などの問題点が続出した。このため、1827(文政10)年に法令が出され、組合村を設置することとした。この組合村は、天領・旗本領・大名領・寺社領などの領主の異同に関係なく、近隣の村々を村高の大小を考慮し、3~6カ村ぐらいで小組合とする。村役人の中から一人を小惣代として選び、小組合の統括者とした。さらに、この小組合を10前後集めて大組合を組織し、組合村の一単位とした。大組合は、小組合の惣代から数人選んで大惣代として、その者たちが運営した。組合村の設置は、関東取締出役体制の不備を補いつつ、農民支配を再編強化するのが目的である。「その機能は大別して、①警察的支配の強化、②村内訴訟の処理、③経済統制(*とくに商人、居酒屋、湯屋、髪結床など)、④若者対策と封建意識の再建という諸点」(森安彦著「幕末期の幕政」―郷土史研究講座5『幕末郷土史研究法』朝倉書店 1970年)であるといわれる。

《補論 慶喜の天狗党討伐と幕末の政治情勢》
 一橋慶喜は、徳川斉昭の7男であるが、1847(弘化)年9月に、三卿の一つ一橋家の養子となり同家を相続した。安政年間、将軍継嗣問題で、松平慶永、島津斉彬などによって次期将軍候補として擁立された。しかし、本人は将軍になろうという気はなかったようである。  
 だが、1858(安政5)年6月に、井伊大老らの「無許可条約調印」に抗議し、不時登城(指定された日に登城する制度に反して、それ以外の日に登城した)する。この件で同年7月登城禁止、8月隠居謹慎の処分を受ける。処分は、「安政の大獄」時にも受け、他者との面会・文通も禁止される。慶喜の謹慎という日陰の生活は、完全に解除されるのに4年近くかかった。1962(文久2)年7月登城し、ようやく将軍家茂に面会できた。
 一橋慶喜は、1862年7月6日に、将軍後見職に任命された。島津久光の護衛の下に、勅使大原重徳の東下をもって、宣旨が下されたからである。同時に、この時、一橋家の再相続を命ぜられた。慶喜は、将軍後見職就任を固辞し、なかな受けつけなかったが、薩摩藩の強迫(無理じい)によって、ようやく就任したと言われる。
 この際に、松平慶永(越前藩主)は、政事総裁職に任命された。慶永は、政事総裁に就く前の同年5月7日に、政務参与を命じられているが、翌日、将軍家茂に拝謁し、次の政見を進言している。「時局艱難(かんなん)の際、速(すみやか)に国是を確定して尊王の大義を明(あきらか)にし、中興の大策を建てんこと」(渋沢栄一著『徳川慶喜伝』2 東洋文庫 1967年 P.62)と。
 しかし、老中たちは自己保身からか慶永の考えに対しては、否定的である。但し、将軍上洛の件のみは、5月26日に幕議決定し、6月1日に発表した。
 薩摩の久光は、勅使大原重徳を補佐し、慶喜を将軍後見職に就け幕政改革を促し、また公武合体を推進した。これに刺激を受けた長州藩は、薩摩に対抗し、破約攘夷(外国との修好通商条約を破棄し、攘夷を推し進めること)を朝議が決定する朝廷工作を展開する。 
 土佐藩もまた、朝廷領を拡大し、政令の一切が朝廷より出るようにするべきと建白している。これは既に王政復古を成し遂げようというものである。
 この頃、西南雄藩は朝廷との結びつきを強化し、自らの政治的影響力を高めようと熾烈に競い合うようになっているのである。
 1862(文久2)年9月18日には、薩長土の3藩主の名をもって、"断然攘夷の勅諚が仰出されんことを請ふ"との建白がなされた。1862(文久2)年10月、この年ふたたび勅使が東下した。勅使は三条実美で、これに随行し周旋するのは土佐藩主山内豊範であった。今回の目的は、「攘夷実行」と「親兵の設置」であった。
 慶喜ら幕府首脳は、「攘夷の勅諚を遵奉する」ことを決定したが、「親兵の設置」については諸藩からの異論もあり、もともとの提案者である薩摩藩が撤回した。
 1862(文久2)年12月15日、慶喜は江戸を発ち、翌年1月5日に始めて京都に入った。その任務は、翌年春に予定された将軍の上洛のために、その先払いをすることであった。
 当時、京都は急進的尊攘派の志士たちによって、すさまじいテロ活動が行なわれ、このテロを背景に攘夷実行を幕府に命令する勅諚を朝議で決定するように公卿に迫る工作が頻りに行なわれた。
 このため、上洛した将軍家茂はあたかも「人質」のような状態に陥(おとしい)れられた。そして、攘夷期限を1863(文久3)年5月10日とするように約束させられ、ようやくのこと江戸に戻ることができた。慶喜が江戸に戻ったのは5月8日であり、将軍の帰府は6月16日であった。
 攘夷期限の5月10日、長州藩は、下関で、横浜から上海に向かう米商船を砲撃し、攘夷戦を開始する。だが、この攘夷戦争で藩の軍艦2隻を撃沈され、大敗する。長州藩は以降、1864(元治元)年8月に至るまで1年3カ月に渡って関門海峡と下関沿岸一帯で攘夷戦争を堅持することとなる。
 薩摩では、6月28日に、英艦7隻が鹿児島湾に入り、生麦事件の被害者の賠償金を要求した。薩摩藩は一時善戦するも、戦力の差は歴然としており、鹿児島市街の多くが焼き尽くされた。
 攘夷戦についての評価は、朝廷と幕府では正反対であった。朝廷はなんら現実を直視しないで、ただ長州藩の行為を褒(ほ)めるだけであった。幕府は、外国との間で外交交渉中なのに、兵端を先に開いたと長州を厳しく詰問した。
 1863(文久3)年8月18日、孝明天皇・中川宮(青蓮院宮)が薩摩藩・会津藩と組んでついにクーデターを起こし、これが成功する。これにより、急進的攘夷派公卿の参内禁止、御所警護の長州藩士の京都引き払い、「攘夷親征」(*天皇が先頭に立って攘夷を実行すること)の中止が発表される。このため、三条実美以下の尊攘派公卿は、長州へ落ち延びていった(七卿落ち)。また、後続を期待して決起した天誅組の大和五条の乱や、それに呼応した沢宣嘉・平野国臣らの生野の乱も簡単に鎮圧されてしまった。
 朝廷はただちに久光を上京させ、久光は10月3日、1万5千の兵を率いて京に入る。
 久光は、旧来からの公武合体派の雄藩の実力者たち、松平慶永(春嶽)・山内容堂・伊達宗城を京に呼び寄せ、また一橋慶喜、さらには将軍家茂にも上京を促した。しかし、かつて小笠原長行(老中格)らが狙った京都の武力制圧計画が失敗した(1863年5月)にもかかわらず、今回、公武合体派の京都における優位性確立は、薩会両藩が行ない得たのであり、幕府が行なったものではない。従って、幕府自身の主導権あるいは慶喜の主導権が図れるものではなかった。
 幕府は、将軍の再度の上洛を促す朝廷の命令を回避するために、代わりに慶喜を上京させた。しかし、ついには将軍の上洛も用意が整い次第と承知する。慶喜は、10月26日、江戸を発ち、海路をとって11月12日に兵庫に着き、26日に入京した。
 孝明天皇は、1863(文久3)年11月15日、久光に密勅を下した(「孝明天皇宸翰」―日本思想大系56『幕末政治論集』〈岩波書店〉を参照)。
 そこでは、孝明天皇は8・18クーデターを全面的に評価し、これまでの「暴論」にもとづく政治の責任を急進的尊攘派の浪士に帰し、性急な攘夷でなく、公武合体派の主張に理解を示すものとなっている。しかし、このように手のひらを返したような孝明天皇の態度は、力関係の変化によっては再びまた元に戻ることが十分あり得るものである。このような融通むげの政治的態度は長い武家政権の下で、細々ではあれ天皇制が生き延びてきた最奥の理由であり、手段であった。つねに多数派の側に身を寄せ、ただただ生き延びることだけが目的の王権制(万世一系の天皇制の実態)であり、そこには政治目標も、ことの善悪・正邪などは全く関係がない―という無目標・無論理の王権制である。
 ようやく、公武合体派が京都で優位体制を築いたが、しかし、「大攘夷」(今すぐの攘夷ではなく、日本の軍備を整えその上で攘夷を行なうこと)を狙い「開国貿易」の方針を確立するには、急進尊攘派の追放だけでは容易に進められず、まだまだ大きな障害があったのである。

〈参与会議の成立と課題〉
 1863(文久3)年12月30日、朝廷は一橋慶喜・松平容保・松平慶永・山内容堂・伊達宗城に対し、朝議参与を命じた。無位無官の久光は遠慮し、遅れて翌年1月13日に任命されるような手筈をとった。
 しかし、公武合体派の雄藩実力者の参与たちで構成される「参与会議」(『徳川慶喜公伝』では、「後見邸会議」と称している)は、①長州藩および京都を脱した七卿に対する処分問題、②横浜鎖港の実施をめぐる問題―これらが大きな課題であり、参与間の意見対立が顕在化する。そして、幕政改革と開国への明確な政策転換を主張する参与大名(久光・春嶽・伊達宗城・山内容堂)と雄藩の国制介入を嫌う幕府有司、および両者の中に立つ一橋慶喜のあいだの対立と相互不信が激化する。
 まず長州藩ならびに七卿に対する処分題では、朝廷関係者・政事総裁職(春嶽の後任に川越藩主の松平直克〔なおかつ〕が就任)・老中・参与の間に、多少の意見の違いはみられたものの、1864(元治元)年の2月上旬に一応の方針が打ち出されている。
 それは、「長州藩の末家および家老のうち、各一人を大坂に呼び出し、閣老が下坂して、なぜ親征(*攘夷親征のこと)を企画するにいたったのかといった『不審』の箇条を尋問するとともに、三条以下七卿の引渡しを求め、もしそれに応じない場合は、断然征討するというものであった(『続再夢紀事』二)」(家近良樹著『徳川慶喜』吉川弘文館 2014年 P.68)と、言われる。
 なお、尋問箇条は、「三条実美等七人を誘引せし事、幕船(*朝陽艦のこと)を引留めし事、幕吏を暗殺せし事、薩船に砲撃せし事」(『徳川慶喜公伝』3 P.9)などである。そして、2月11日に、「征討軍の部署は、紀伊中納言(紀州藩主)を〔*将軍の〕名代とし、松平肥後守(*松平容保)を副将とし、老中有馬遠江守(道純)を差添(さしぞえ)とし、討手(うって)としては阿州・因州・薩州・雲州・肥後・芸州・備前・小倉・福山・竜野の諸藩にせしむべし」(同前 P.9)と決定し、13日には朝議もこれを認可した。
 これに関連し、幕府は2月10日、松平肥後守に所領5万石を加増し、翌日、征長の副将となして陸軍総裁職に任じた(13日に、陸軍総裁職を軍事総裁職に改称した)。これは新設の職である。2月15日、容保が就いていた京都守護職には、松平慶永(春嶽)が任じられ、容保は免ぜられた。
 軍事総裁職は、陸軍奉行・講武所奉行・大番頭・書院番頭・小姓組番頭・騎兵奉行・歩兵奉行・旗奉行・軍艦奉行・騎兵頭・歩兵頭・持頭(もちのかしら)・槍奉行・新番頭・先手・使番・鉄砲方・徒頭(かちがしら)・小十人頭などの指揮権を任され、軍備に関係する事で、大事は老中と相談し、小事は全権をもって指揮するものである。このような重大な権限をもつ職を新設し、松平容保を就任させたのは、8・18クーデターの功労者であったからである。
 参与会議を後に分裂にまで導いたのは、横浜鎖港問題である。
 幕府は、1861(文久元)年12月に、江戸・大坂の両市と新潟・兵庫の両港の開市開港延期を交渉する使節団を派遣し、翌年には、1863(文久3)年1月1日から5年間延期することに成功した1)。さらに幕府は、1863(文久3)年12月29日、外国奉行池田長発らを鎖港談判のために欧州に出発させている。鎖港談判とは、長崎・箱館の両港はこれまで通り開港し、攘夷を朝廷に誓っている手前、横浜一港だけは閉ざすとして、外国と交渉することである。
 参与会議に出席する実力者は、慶喜を含めて開国論者であるので、慶喜と参与諸侯とは意気投合し、参与諸侯は慶喜の指導により、幕政が改革され、開国の国是が定められると期待していた。ところが、将軍の上洛を前にして、将軍家茂を取り巻く老中らは、いったん簡素化した服制(慶喜らが行なった幕政改革の一部)を旧に戻すなど復古的な傾向を強めてきた。8・18クーデター以降、幕府の権威が回復してきたと誤認したのである。
 横浜鎖港でも家茂上洛を前にして、江戸で次のように決定してきていた。慶喜の回顧談である『昔夢会筆記』によると、

予はこの時、もはや鎖港はとうてい行わるべきにあらざれば、この際断然(だんぜん)開港の方針に一変するこそよけれと考えたれば、二条城中にて、酒井雅樂頭(うたのかみ *忠積〔ただつみ〕)、水野和泉守(忠精〔ただきよ〕)等にその事をいい出でたるに、彼等は答えて、「今度将軍家御上洛あるについては、御出発前、御前(*将軍の前)において板倉周防守(すおうのかみ *勝静、後に伊賀守と称す)はじめと評議して、決して薩州の開港説には従うまじき由(よし)を決議したるなり。そもそも昨年御上洛の時には、長州の説に聴きて攘夷の議を決し、今年は薩州の説に従いて開港の議に傾くがごときは、これ幕府に一貫の主義なくして、いたずらに外藩に翻弄(ほんろう)せらるる姿となれば、断じて開港説には同(どう)じ難し」といえり。予(*慶喜)はあくまで開港を主張して、弁論時(とき)を移したる末に、「しからば貴所等(きしょら)はどこまでも攘夷を可とせらるるか」と念を押したるに、二人とも「攘夷の行うべからずして、開港のやむを得ざることは承知しおれり」といえり。時に何の故なりしかは記憶せざるも、彼等は「いかにするも薩州の説に従い難し」といい、果ては、「もし強いて薩州の説を容(い)れんとならば、某等(それがしら)は直ちに袂(たもと)を連ねて辞職せん」といえり。予は「さらば将軍家の思し召しによりて決すべし」とて、台慮(たいりょ)を候(そうろう *尋ねること)したるに、「老中等のいえるとおりなり」と仰せられしかば、今はせんすべなく、「畏(かしこ)まりぬ」とて御前を退き、......(P.27)

 ここには、当時の老中のどうしようもない権威主義、対面主義が現われている。国家の前途を左右するほどの大問題であるにもかかわらず、昨年は長州の攘夷、今年は薩摩の開国に従うとすれば、幕府に一貫性が無く、外様大名に翻弄されていることになるので、開国説はとらないというのである。日本の前途にとって、開国が良いか悪いか―と真正面から問うていないのである。そこにあるのは、ただ幕府の体面・体裁が良いか悪いかというメンツ主義でしかない。将軍も将軍で、これら無能な老中にただ従うだけである。これでは、幕府崩壊も時間の問題であろう。
 慶喜は、いろいろ考えた末、幕府寄りの立場を執って、横浜鎖港の談判を進めることとした。これは、攘夷を進めると朝廷に約束した幕府の立場上、一つぐらい幕府も攘夷らしいことをしなければ恰好(かっこう)がつかないとして、横浜鎖港の談判を行なう必要がある―と言う立場からである。
 しかし、これには開国論の立場をとる参与諸侯が大いに驚く。対立のキッカケは、1864(文久4)年1月21日、同27日に天皇が宸翰を将軍に下し、それへ将軍が奉答した際の文言にクレームがついたことである。
 天皇の宸翰は、将軍はじめ大小名は天皇の赤子であり、相協力して皇国のために尽くすように求めた。それに対し、将軍の奉答書が2月14日に提出された。その中では、「然(しか)しながら膺懲(ようちょう *こらしめること)妄挙(もうきょ)仕(つかまつ)るまじき叡慮の趣(おむむき)は堅く遵奉して、必勝の大策を立つべし。尤(もっとも)横浜鎖交港の儀は、既に外国へ使節を立てたれば、何分にも成功仕りたく存じ奉り候得共(そうらえども)、夷情測り難ければ、沿海の武備に於ては、益(ますます)以て奮発勉励し、武臣の職掌を固守し、大計・大義、悉(ことごと)く国是を定めて宸断(しんだん *天皇の決断)を仰ぎ奉り、皇国の衰運を挽回し、......叡慮を安んじ奉り、上は皇神の霊に報(むく)い奉り、下は祖先の遺志を継述(けいじゅつ *前人の跡を継いで、その事業を明らかにすること)仕(つかまつ)らん。」(『徳川慶喜公伝』3 P.18)と述べている。
 その翌日の2月15日、朝議の場で、伝奏からの話として、将軍の奉答書で、横浜鎖港の下りで、「......何分にも成功仕りたく存じ奉り候得共、......」と言いながら、その述語が曖昧ではっきりしない―とクレームが出たのである。
 これに対し、久光や伊達宗城などは、"無謀の攘夷を好まないと勅諭(宸翰)で言っているのに、急に横浜一港を鎖(とざ)すと言えば戦争になるのは明らかである。これは甚だ無理な主張である"という。すると、中川宮(青蓮院宮)が、"では、いかにすべきか"と迫る。すると、慶喜は、"事が重大なので、熟議の上(うえ)明後日を以て御返事いたします"と引き取って、退出したといわれる。だが、この日、実際は激烈な議論が展開したという史料もある。
 翌16日の午後、慶喜が二条城に登ると、すでに春嶽・久光・宗城などがすでに出仕しており、将軍と酒を酌み交わしていた。そこで久光が、"今朝(けさ)中川宮へ家臣の高崎猪太郎が召されて、昨日の朝議は拠(よんどころ)なき都合より起りたる事にて、叡慮にあらざれば取消しにすべしと言われたのです"と、慶喜に報告する。これでは、昨日と異なって、朝廷には横浜鎖港の方針を貫徹せよ! と要求するつもりはない―という意味合いになる。春嶽もまた、"昨日のことは後見職の心底を試みたるに過ぎずと聞いたのです"といい、"だけど人伝(ひとづて)の話なのではっきりしないので、これから中川宮邸へ伺(うかが)おう"という。そこで、慶喜は3人を率いて中川邸に行き、そこで慶喜本人も認める大暴言が吐かれることとなる。
 慶喜は、そこで中川宮に事の真偽を問い詰める。これに対し、中川宮がいろいろ弁解する。すると、慶喜は、昨日の朝議がウソ偽りといわれるのならば、「恐れながら御一命(*中川宮の命)を頂戴し、某(それがし)も屠腹(とふく *切腹)仕らん」といい、さらに「......原来(げんらい *もともと)朝廷の基本立たざるが故に、とかく朝夕変化し〔*朝令暮改の類〕、天下信を取る所なし。恐れながら宸翰(しんかん *天皇の直筆の文書)も人を欺(あざむ)くの手段に陥りては、天下誰人か畏服(いふく)仕るべき。昨日申上げたる事もあれど、熟ら(つらつラ *よくよく)今日の模様を考ふれば、宸翰を願はんも無益なり。......」(『徳川慶喜公伝』3 P.23)という。
 酒と怒りに酔う慶喜は、ついに本音を漏らす。それは朝廷はおろか天皇批判にまで到達する。そして、目の前の中川宮と久光・春嶽・宗城への「暴言」ともなる。

此(この)三人は天下の大愚物・天下の奸物なるに、何とて宮は御信用遊ばされるるか。大隅守(*久光)へは御台所御任(おまか)せなさるにより、余儀なく御随従にもあるべけれど、明日よりは某(それがし)より差上(さしあ)ぐべければ、某へ御随従あらせらるべし、天下の後見職を、三人の大愚物同様には御見透(おみすかし)あるべからず。畢竟(ひっきょう)三人の遊説を御信用遊ばさるればこそ、今日の如き過誤(かご)を引き出したるなれ。且(かつ)過日の宸翰にも、三人の愚物を子の如く思召さるる旨(むね)記させ給(たま)へり。恐(おそれ)ながら斯(か)かる御目がね違ひ(おめガネちがヒ)、宮の御申上方(おんもうしあげかた)の宜(よろ)しからざるに因(よ)れりと存ず。以来きつと御心得(おこころえ)あるべし。若(も)し某の申上ぐること心得違(こころえちがひ)と思召されんには、重ねて参上も仕るまじく、拝顔も今日限りと存じつめたり。若し又(また)道理と思召さば、前条御満足の儀御周旋下さるべし。右(みぎ)仰出(おおせで)されて後こそ御礼には参上仕るべけれ。 (同前 P.24)

 慶喜は、中川宮が何故に「天下の大愚物・天下の大奸物」である3人を信用するのかと問題を投げかけ、それは久光に経済的に世話になっているからではないかと、自ら答を出す。ならば、明日からは天下の後見職である慶喜が世話をするから、自分に隨従すべきと中川宮に迫る。そして、批判はまたも宸翰に触れながら、過日の宸翰の内容は3人を「赤子」として取扱っているが、それは中川宮が3人を信用し、3人の遊説をそのまま天皇に申上げているからであると、痛烈に中川宮と3人の関係を批判している。最後に慶喜は、自分の言っていることが間違いならば、天皇・朝廷との関係も今日を限りのものになるであろう―と、啖呵(たんか)を切る。
 なりふり構わず怒りと酒に任せ慶喜は本音をぶちまけるが、その最大の批判相手は薩摩の久光である。慶喜は、長州と同じように薩摩藩が天皇・朝廷を利用して、自己の政治的地位を高め、幕府に敵対することに本能的に気付いているのである。だが、結果的にみると、これにより慶喜は薩摩藩全体を敵に回すことが、いよいよ明確になるのであった。
 その後、参与諸侯と慶喜の間を、春嶽や小松帯刀が調停するが効果はなかった。そして、慶喜も参与諸侯も朝議参与を辞任し、参与会議は解体する。だが、こうなると慶喜は明らかに政界で孤立する。自前の兵力も経済力ももたない慶喜は、幕府の「威光」か、あるいは天皇の「権威」にますます依存せざるようになっていくのであった。

注1)幕府は、将軍家茂の名で1861(文久元)年3月23日、米英仏蘭露の5カ国に両港両都の開市開港の延期を要請する。そして、その年の12月24日には、正使竹内保徳、副使松平石見守らを、開市開港延期の交渉のために欧米に派遣する。これは最初の遣欧使節であるが、その任務は江戸・大坂の両都および新潟・兵庫の両港の開市開港がまじかに迫っている中で、その延期を各国と交渉することである。大坂・兵庫は攘夷思想に固まった天皇・朝廷(欧米人を人間としてみなさない)をわずらしたくないこと、江戸は将軍の膝元であり、欧米人と距離をとっておきたいことからの延期交渉である。翌1862(文久2)年5月9日、イギリスとの交渉は成功し、「ロンドン覚書」が調印された。ただし、無条件でイギリス側が延期を承認した訳ではない。その代償として日本側は、自由貿易を制限する一切の制度をなくすこと、税率を引き下げる要求を認めなければならなかった。他の国とも、この「ロンドン覚書」を基準として、それぞれ協定が成立した。同年8月19日にロシアと、同年閏8月9日にフランスと調印している。

〈禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮に就任〉 
 1864(元治元)年3月25日、慶喜は将軍後見職を免ぜられるとともに、新設の『禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮」に任ぜられる。「禁裏御守衛総督」とは、禁裏=御所を守る役で、「摂海防禦指揮」というのは、摂海=大阪湾の周辺から侵攻してくる外国勢に備える役目である。いわば、慶喜は京阪方面の防衛総司令官になったのである。
 この職は、かねてより久光が望んでいた職であり、それを制して慶喜が獲得したようなものである。単に、慶喜が受動的にその役目に就任した訳ではない。
 だが、この職はきわめて曖昧(あいまい)であり、そもそも幕府の職制か、それとも朝廷の職制か、それすらはっきりしていないのである。慶喜は徳川将軍家の一族(三卿)でありながら、なんとなく天皇の直接な臣下という立場に立つ動きを示し、実質的に朝臣と幕臣の二股をかける位置に立つこととなるのであった。
 だが、こうなると慶喜は、幕府から疑いの目でみられる機会がますます増えるのであった。
 「禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮」職に任ぜられた慶喜は、さっそく「公武一和」を現実のものとするために、御所警備のプランを立て、それを実現する。すなわち、「四月十六日に諸侯の京都市中警備が免除となり、ついで同十九日、禁裏御守衛総督・京都守護職・京都所司代(*所司代は容保の実弟である桑名藩主の松平定敬〔さだあき〕)三者による皇居内外の巡邏(じゅんら)・警備が始まる。」(家近良樹著『徳川慶喜』P.76)のである。一会桑(一橋・会津・桑名)による京都支配体制の確立である。
 慶喜はまた、関白や中川宮に工作をし、将軍家茂への「大政委任」を改めて確認することとした。その結果、「同月(*4月)二十日に参内した家茂に対し、大政を委任する(ただし、国家の重大事については逐一奏聞する)こと、横浜はぜひとも鎖港すべきこと、長州藩および三条ら七卿の処分に関しては幕府に一任することを骨子とする勅書が下る(『孝明天皇紀』五)。」(同前 P.77)のであった。
 だが、水戸の天狗党が3月に筑波に挙兵すると、慶喜と幕閣の間で、新たな対立が生じる。天狗党は横浜鎖港の即時実施を要求するが、鎖港は慶喜と一致するのである。京都の尊攘派である本圀寺勢では、4月はじめ原市之進・大場主膳正らが、筑波挙兵について、「嗚呼(ああ)これ市川派の乗ずる基なり、吾(わが)藩遂に土崩瓦解(どほうがかい)を免(まぬが)れざらんか、今や天下紛擾(ふんじょう)の極に達したれば、遠からず国力を尽して周旋すべき大機会も来るべければ、有志の輩(やから)は国力を養ひ持重(自重)シテこそあるべきに、軽挙妄動して自ら大計を誤れるは慨嘆(がいたん)に堪へず」(『徳川慶喜公伝』3 P.96)と、嘆いている。
 だが、幕府は天狗党の鎮圧を求め、この点で慶喜と対立するのである。天狗党と慶喜が「内通」しているのではないかとの噂(うわさ)がたかまり、幕府内部では慶喜排斥と天狗党弾圧の動きがいよいよ激しくなる。
 
〈禁門の変〉
 京都の町は、一会桑の支配下に置かれると、急進的尊攘派の志士たちの活動は厳しくなってゆく。そんな折り、6月5日、新選組が池田屋を襲い、宮部鼎蔵・吉田稔麿ら7人が殺害され、23人が捕縛された。桂小五郎はかろうじて脱出した。このとき、守護職の会津藩兵・所司代の桑名藩兵3000人が京都を戒厳令下に置き、とくに長州藩邸は700人もの兵で包囲された。
 長州藩では、1863(文久3)年の8・18クーデターの後、藩主父子の雪冤(せつえん *無罪を明らかにして身の潔白を示すこと)を主張し、ついには世子を奉じての「武装上京論」が藩論を制するようになった。これには、真木和泉ら他藩の志士たちが長州藩に流入し、遊説したことも大きな力となった。さすがに周布政之助も高杉晋作らも反対したが、その勢いを止めることは出来なかった。長州藩きっての尊攘派とみなされていた久坂玄瑞も当初、「武装上京論」を無謀と判断していたが、参与会議が解体(1864年3月)するのをみると、「武装上京」の好機とみた。
 慶喜の方針はできるだけ長州を説得するが、どうしてもきかなければ征討するというものである。慶喜は総督として種々説得を試みるが、ことごとく長州側に拒否される。7月18日、長州兵らは三方向から御所を目指し、戦いが開始された。結局、長州勢らは敗北し、多くの人材が戦死あるいは自刃した。
 この戦いで、全体の指揮をとった慶喜は、京都市街の落焼などの失敗はあったが、全体的には指揮官としての任務を果たすことができた。
 1864(元治元)年7月21~23日に、宮中会議が開かれ、23日、天皇出席の下での御前会議で、「防長追討の議」が決せられた。8・18クーデター以来、くすぶり続けていた長州処分はようやく処分の明確な理由ができたのであった。しかし長州征討の仕事は、慶喜の仕事ではなく、幕府・将軍の仕事である。
 長州藩では、8・18クーデターいらい、後に尊攘派から討幕派へと発展するいわゆる「正義派」と、長井雅樂の後を継ぐ佐幕派のいわゆる「俗論派」の政争が激しくなる。
 禁門の変で大敗した長州藩は、直後の8月5日、英仏米蘭の4カ国に下関を襲われ、長州は日本内外から攻撃される危機に陥った。
 9月末、山口に於いて、藩主を中心にした藩の方針決定会議では、「俗論派」の主張する「純一恭順説」と、「正義派」の唱える「武備恭順説」が真向から張り合って、容易には結論に至らなかった。だが、10月22日罪を許された椋梨(むくなし)藤太が24日政務員に登用され、「俗論派」はついに藩政を奪還し、禁門の変の責任者を処罰し、幕府に降伏する方針をとった。11月11日、長州藩は益田・福原・国司の3家老に自刃を命じ、4参謀を斬刑に処した。
 しかし、禁門の変いこう、幕閣の慶喜への猜疑は一段と強まり、慶喜への攻撃が繰り返された。家近氏によると、「まず八月五日に、慶喜の護衛として在京していた水戸藩士の国元への帰還を命じる幕命が下る。そして、これに代わって、幕府から二百余名の人員の貸与が通知されるが、これは慶喜に対する露骨な嫌(いや)がらせ行為であった......。そして、この嫌がらせ(敵視)政策の最たるものが、元治元年の十二月と翌元治二年の二月に、二度にわたって行なわれた、慶喜の江戸への連れ戻しを目的とした老中(前者が松前崇広〔たかひろ〕、後者が阿部正外と本荘宗秀)の率兵上洛であった。/二回におよんだ老中の率兵上洛は、慶喜の連れ戻し以外、次のような目的も有した。それは①文久期以来、次第に定着しつつあった朝主幕従の政治秩序を、従前どおりの幕主朝従のそれに引き戻すことを狙った、②将軍の上洛を拒否し、併(あわ)せて開国への国是転換を図った、③慶喜とともに、朝廷との協調関係の樹立に熱心であった松平容保の江戸への連れ戻しも実現しようとした、④諸藩の周旋方を京都から追放することをめざした、等々であった(久世真也著『長州戦争と徳川家』岩田書院 2005年)。」(家近良樹著『徳川慶喜』P.90)といわれる。(この頃には幕閣は開国派が多数を占める)
 2回におよぶ老中の率兵上洛での任務遂行は、慶喜・容保、朝廷そして薩摩藩によってことごとく抵抗され、徒労に帰した。
 こうした情勢の下で、天狗党の西上があったのである。天狗党の悲劇は、慶喜を頼って西上したことである。慶喜は本音では開国派であり、このことは周りの人間は知っていたが、その他は全く知らされていなかったようである。慶喜は、明治維新後の回顧談の中でも、"天狗党を幕府追討軍の田沼意尊に、きわめて実務的機械的に引き渡している"様子がうかがわれる。このことが、天狗党の悲惨な最後をもたらしたのであった。
 では、一体、慶喜は何故このような態度をとったのであろうか。最も有力な理由は、"この時、慶喜は自分自身が危ない身に上となっており、幕府との関係で摩擦を起したくなかったから"というものである。
 「では、いかなる意味で、彼は危機であったのであろうか。当時、『朝敵』長州追討を名目にして、慶喜や松平容保そして朝廷自体も将軍の進発を頻りに促した。しかし、幕閣は言を左右にして将軍進発(上洛)を拒み続け、遂に徳川慶勝(尾張藩主)が征長総督として一切を仕切ることとなった。これは、将軍上洛の際朝廷から難題を約束させられてきた二度の経験から、幕府の権威回復にとって益なしと判断したためである。この将軍進発問題を中心として、幕閣の慶喜に対する猜疑心(さいぎしん)が大きくなり、遂に慶喜江戸召喚のために立花種恭(出雲守)が派遣され、十二月二十五日京都に着くという事態にまで到っていた。従って、慶喜としては京都において実力を確立した自らを危うくするものとして、これ以上幕閣との摩擦を大きくすることは避けたかったのであろう。」(『水戸市史』中巻〔五〕P.466)というのである。
 その後、幕閣は1864(元治元)年12月と翌年2月にも、老中の率兵上洛の際に、慶喜を江戸へ連れ戻そうとしたことは、先述した。若年寄立花種恭と老中松前は長州派遣を名目として西上したが、これは実は慶喜を江戸に召還するのが最大の狙いであった。しかし、慶喜はこの時は、すでに天狗党討伐で梅津へ出陣したあとで、すれ違いに終わっている。
 幕府と朝廷の間に立って、慶喜は京都での自らの政治的地位を守るためには、幕府との対立を拡大するわけには行かなかったものと思われる。


Ⅱ 水戸藩私闘の末路

 幕府の天狗党への過酷な処断が1865(元治2)年春(「慶応」への改元は4月7日)に行なわれるが、その後しばらくは、水戸藩は市川三左衛門ら保守門閥派によって運営された。
 彼らがまず第一に行なったのは、自派への論功行賞と天狗党家族への処罰であった。論功行賞の際たるものは、「争乱鎮圧」に功績があったとして、城代家老鈴木石見守重陳(しげのぶ)の禄高を5000石から7000石へ、市川三左衛門の禄高を2000石から3000石へ、朝比奈泰尚の禄高を1300石から2500石へと、破格の吊上げを行なったことである。水戸藩では前代未聞のことである。また、結城派として安政年間に斉昭によって処罰された士民の復権も行なわれ、刑死した結城寅寿の家名も再興された。
 他方、天狗党の家族へは、むごい報復が行なわれた。とりわけ、武田と田丸の家族には仮借(かしゃく)なかった。武田耕運雲斎の妻と子(9歳と3歳)および孫(13歳と10歳)は、水戸城下の牢屋敷で斬首された。田丸稲之衛門の場合は、83歳の母、10歳と2歳の子など5人が牢死した。また、かつて斉昭の側近として東湖とともに「両田」(2人とも安政大地震で死去)と称せられた戸田忠敝(ただあきら)の跡取りの忠則(中立派)を1865年1月に幽閉し、7月末に死亡させた。
 また、門閥派政権は、1865年早々から「郷中改革」と称して、斉昭時代の諸制度を次ぎ次ぎと覆(くつがえ)した。すなわち、領内各地にあった郷校や、斉昭が創設した農兵を廃止した。弘道館は復活させたが、「弘道館記」の精神を批判し、後期水戸学を異説と見なして、以降朱子学に拠るべきとした。
 しかし、門閥派を支持した幕府内部でも、市川らの「行き過ぎた」政治を警戒する動きが出て来る。それは以下のような事件が起こったからである。すなわち、天狗党鎮圧に協力し、門閥派政権を支えた一人である尾崎豊後の知行地をとりあげて蟄居(ちっきょ)を命じ、同じく執政(家老)杉浦羔二郎(こうじろう)ら13人の幹部を投獄した事件である。さらに中立派の元参政(若年寄)岡田徳守(のりもり)、その弟の徳裕(のりひろ)、元小姓頭美濃部又五郎ら17人を、10月25日、水戸城下にあった赤沼の牢屋敷で真夜中に、極秘に処刑した事件である。
 このようなデタラメな政治が行なわれたのは、門閥保守派の危機感からである。すなわち、「第二次長州征伐」(1865〔慶応元〕年5月12日開始)で大坂に滞在中の将軍家茂が退職し、一橋慶喜に将軍職を譲るという噂が関東辺に流れたのである。そうなれば、市川ら保守門閥派はみな処刑されてしまうだろう―という危機感である。
 水戸藩政の混乱(藩主慶篤の「権威」は全くない)を見て、幕府はみずから乗出し、藩政改革を援助せざるをえなかったのである。
 1866(慶応2)年6月、朝廷も水戸藩の附(つけ)家老中山信徴(のぶあき)を京都に呼びつけ、藩政改革の内諭を伝えている。
 それより先、本圀寺勢(1863〔文久3〕年3月、上京した慶篤が京都を去る際に、弟昭訓と水戸藩士を残して京都警固を命じた。この部隊を本圀寺勢という)の幹部である「長谷川作十郎は、斉昭の第五子(五郎麿、慶喜の兄)鳥取藩主池田慶徳(よしのり)を頼って、自藩の改革意見書を提出している。その中には、門閥派政権の中心人物市川三左衛門や鈴木石見守ら数人の処罰、水戸家と縁戚筋に当たる川越や浜田藩主らが幕閣に入って藩政改革を行う、門閥派政権で処刑された者たちの復権など数項目があげられていたが、それらを実行するにはみな幕府の力に頼る以外に途(みち)のないことは明白である。」(瀬谷・鈴木著『流星の如く』P.185~186)と言われる。藩主慶篤が、藩内諸勢力のほとんどから軽くみられ、藩主としての「権威」が無くなっていたからである。 
 こうして、水戸藩改革は朝廷や幕府の強力なテコ入れで行なわれることとなった。1866(慶応2)年9月、老中板倉勝静と附家老中山信徴の間で、幕府に「水戸藩改革掛」を設置することで合意がみられた。9月末、家老中山が江戸の藩邸にもどると、幕府は老中井上正直、若年寄遠山友禄らを「水戸藩改革掛」に任命したこと、目付堀錠之助(じょうのすけ)らを水戸に派遣し、門閥派をしりぞけることを伝えた。
 水戸に着いた堀は、門閥派に味方する諸生(弘道館の学生)を追放して改革に着手したが、門閥派の抵抗などで人事は停滞して進展しなかった。それに、追われた市川派諸生数百人は、11月、常盤山東照宮(水戸城を東の間近に望む台地に鎮座)に結集し、"改革は藩の存亡にかかわる"と言って、反対の気勢をあげる始末であった。
 結局、堀らの藩政改革は何らの成果もあげずに終り、堀は年の暮れには江戸に帰らざるをえなかった。
 1866(慶応2)年7月20日、将軍家茂が死去し、同年12月5日には、第15代将軍に一橋慶喜が就任する。慶喜が将軍に就任し、懸案の兵庫開港問題が片付く(1867〔慶応3〕年5月24日に開港の勅許が下された)と、慶喜は江戸詰めの水戸藩家老を呼び出して藩政改革を催促する。こうなると、門閥派は大いに驚き、"将軍は暗殺された"とか、"慶喜公が駿河に五万石で隠居し、尾張侯が将軍になった"とか、"最近は米を食べず、刀ももたず、洋服を着て外国から美女を招いて寵愛している"とかのデマを流し、藩政を混乱させ抵抗した。
 しかし、幕府の干渉により門閥派はそれに抗しきれず、重鎮鈴木石見守の罷免を受け入れざるを得なくなる。
 当時、水戸藩内にまとまって残る尊攘派の集団は本圀寺勢であるが、在京本圀寺勢も藩政改革を慶喜に頼らざるを得ない。だが、他面では、彼等は慶喜の兵庫開港には反対であった。本圀寺勢の悩ましいところである。その本圀寺勢の一人で、禁裏御守衛総督時代からの慶喜の側近である原市之進が、1867(慶応3)年8月14日に暗殺されるという事件が起こる。この下手人については、当時さまざまな風説が流れ、その一つには本圀寺勢のものが、慶喜の兵庫開港に原が奔走し、これに怒って暗殺したというものもあった。本圀寺勢もまた動揺していたのである。
 1867(慶応3)年12月9日の王政復古クーデター後、徳川慶喜は大坂に移る時、京都にいた水戸藩士約300名の本圀寺党(本圀寺勢)に二条城の留守を任せた。
 彼らは、1863(文久3)年末いらい、慶喜に附属して京都の警衛に当たっていた。
しかし、天狗党が、結局、敗北(同年12月17日、加賀藩に降伏。翌年2月4日、処刑)すると、藩の実権を握った諸生派(保守門閥派の市川三左衛門が首領)は、本圀寺党を天狗党の党類とみなし、彼らへの金穀を断絶した。本圀寺党は、やむなく慶喜についていかざるを得なかったのである。
 本圀寺党は、鳥羽・伏見後の帰国に当たり、徳川慶勝(尾張藩主)や有栖川宮に根回しを行ない、市川三左衛門ら諸生派幹部を水戸藩「奸人」と決めつけ「藩屏の任を不失(うしなわざる)様処置」すべしという勅諚を取り付けた。これは、朝廷・新政府の水戸藩への露骨な「内政干渉」である。水戸藩内の流血の私闘は有名なことであり、当時の朝廷・新政府が知らないわけはないからである。
 勅諚は、本圀寺党により2月初めに江戸に持ち込まれ、謹慎していた慶喜もこれを支持
し、さらに慶喜の勧告で水戸藩主慶篤も受け入れた。
 慶篤は、3月8日、在江戸の執政朝比奈弥太郎(保守門閥派)に対して、御役御免・謹慎を命じ、さらに本圀寺党と幕府遊撃隊によって、江戸藩邸を固めた。天狗党の復活である。
 水戸の諸生派は天狗派の進撃に備えて、藩領の要所に兵を配備したが、江戸と連絡が取れた水戸の天狗派約800名が水戸城を占拠する。行き場を失った諸生派の市川三左衛門は、「犬死するよりは、むしろ会津に走り佐幕軍に加わり、時機を見て回復するに如(し)かず」と、諸生派一統約500人を引き連れて、3月10日、会津に向かった。
 市川らは、別に「官軍」に敵対するつもりで会津に走ったわけではなく、あくまでも藩内闘争に勝つための当面の避難先に会津を選んだわけである。会津藩がわも、この辺の事情を見抜いていたので、若松城下に入ることを断わり、飛び地の越後領に移ることを勧めた。市川らの水戸藩脱走集団は、越後街道を通って会津領を抜け、3月29日越後水原、4月8日新潟に着いた。
 水戸藩では、市川らの追討軍を派遣して、市川隊の引渡しを要求した。会津藩は、徳川家のために会・水両藩が提携して難局にあたろうと提案したが、追討軍は会津藩と戦ってでも市川隊の引渡しを迫った。だが、水戸藩主慶篤が4月6日に病没したため、追討軍は結局、ひとまず水戸に引き上げた。
 敦賀で降伏した天狗党は、1864(慶応元)年に350人余が斬罪処分となったが、慶応4年に残り130名が釈放となった。この中には、武田耕雲斎の孫・武田金次郎もいた。岩倉具視は、天狗党の勤皇精神を評価し、「官軍」に加えるという内命を伝えたが、金次郎はこれを拒否する。諸生派の天狗党処分で、祖父・父・叔父・母・義祖母・弟、さらに「下女」などをも含め、一族ことごとくが処刑されており、諸生派への復讐の念を克服することができなかったのである。
 金次郎らの帰国願いがかなえられ、しかも朝廷・新政府はこの際に、「奸徒を掃除し、反正(はんせい *以前の正道にかえすこと)の実行を顕(あらわ)す」ようにと、沙汰した。「これはともに本圀寺党に与えた勅諚と同じ内容のものであるが、本圀寺党以上に過激になっている武田らに、一度ならずも二度も、結果的に水戸藩に私闘を示唆した」(佐々木克著『戊辰戦争』中公新書 1977年 P.184)のである。
 武田金次郎らは、1868(慶応4〈「明治」への改元は9月8日〉)年4月末に江戸に着き、諸生派と見られる者10数人を斬り、さらに10数人を捕えた。金次郎らは、5月末に水戸に戻り、水戸でも諸生派の縁故の者十数人が「処刑」された。このため、水戸の街に恐怖が走り、ひそかに水戸を脱出した藩士が40数人にも達した、と言われる。
 7月28日、武田が先鋒隊将となった市川隊追討軍約1000名が水戸を発って、越後方面に向かった。武田らは、8月末に新発田の新政府軍に合流する。しかし、市川隊は、5月はじめに柏崎方面で会津・桑名兵とともに新政府軍と戦い、5月末からは長岡藩における攻防戦に参加し、7月末に長岡が新政府軍に占領されると、会津に移って戦っている。したがって、武田らとは完全にすれ違いとなっている。
 9月22日、会津鶴ヶ城が落城すると、少なからずの旧幕府脱走兵はあくまでも抗戦の意志を保持して、蝦夷地での戦いに向かった。しかし、市川隊は違った。武田金次郎ら水戸藩兵が市川隊を求めて、会津領を捜してまわっていることを察知し、逆に、水戸藩が手薄となっていると見て、新政府軍の包囲網を突破し、水戸に迫った。市川隊は騙して連れて来た一部の長岡兵を含め約500名で、10月1日、水戸城を襲撃し、武器弾薬を奪い、弘道館を拠点として水戸藩兵と戦った。市川隊の絶望的な戦いは、一日だけに終わり、翌2日には銚子へ敗走する。6日には八日市場(千葉県)で追討軍と戦い、壊滅させられた。 
 この戦闘で朝比奈泰尚らは戦死するが、市川三左衛門はしぶとく脱出し、江戸へ逃げ込む。だが、市川は1869(明治2)年2月26日、江戸の青山で逮捕され、4月3日に水戸の七軒町札場で生晒(なまさらし)となり、長岡原で逆磔(さかさはりつけ)となる。逆磔とはいかに、天狗党生残りメンバーらの恨みが強かったかをまざまざと示すものである。
 市川隊の「弘道館の戦い」は、全く展望がなく、仮に勝利したとしても新政府軍の制圧下で鎮圧されることは、目に見えている。まさに大義なき私闘の哀れさだけが残るのみであった。水戸藩の歴史的な藩内私闘は、なんらの生産的な成果を遺(のこ)さなかったのである。

終りに

 今回の執筆を通して、つくづく感じたものが二つある。
 一つは、明治維新以降、とりわけ使われた「富国強兵」というスローガンが、既に幕末にしきりに使用されていたことである。すなわち、「富国強兵」路線は維新政府の専売特許ではないことである。
 本文で示したように、このスローガンは阿部正弘、徳川斉昭、筒井政憲、松平慶永などによってはっきり使われている。欧米諸国による植民地化の危機に直面した当時の支配階級は、一方で、一部屈辱的な条約締結に耐えて、外交的に対処するとともに、他方で、富国強兵を推進して時間をかけてこの危機から根本的に逃れる方針で対処した。
 この方針は、討幕派も「小攘夷」から「大攘夷」に転換することによって、基本的に幕府の路線と異ならなくなるのである。戊辰戦争で徳川幕府が打倒され、明治維新が断行された根本的な理由は、新たな日本国家を天皇を中心として作るか(薩長などが推進)、それとも、天皇を戴きながらも徳川家のヘゲモニーをもって新たな日本国家をつくるかの路線対立である。この意味では、明治維新の性格は、下級武士層を中心として天皇制権力をもって、中華文明圏から近代西洋文明圏へ転入することであった。
 もう一つは、植民地化の危機をバネとして「富国強兵」が進められたが、それは単に日本の独立を維持するためではなく、列強に対峙するためと称して、近隣の諸国を併合し、日本帝国を強化するという侵略思想が、攘夷派であれ、開国派であれ、共通しているということである。
 下関戦争の敗北を通して、長州藩は攘夷派から開国派に転じたという見方は、あまりにも皮相の見(げん)である。彼等は、修好通商条約を認めることによって、「富国強兵」路線をとり、「大攘夷」に転じたのである。もともとの近隣諸国を併合し、植民地化する路線は全く変わっていないのである。
 薩摩藩は、江戸時代を通じて中国・琉球貿易に寄生し、莫大な利益を得ていたので、すでに斉彬の時代から本音では開国派なのである。しかも斉彬は、海外貿易を拡大し、ジャカルタなど東南アジア方面を侵略する構想を描いている。
 明治維新がもたらした天皇制権力は、すでに幕末期から侵略思想を明確にしていたのである。これらのことは、ドラマや小説では全く触れていない。少なくとも、筆者にとっては寡聞にして耳に入らない。専門研究者においても、「小攘夷」から「大攘夷」への転換を強調する人は少ないと思われる。だが、この点を等閑視すると、日本近代の過酷な植民地主義が何故に推進されたかは、理解できないであろう。(終わり)