奇兵隊はどのようにして生み出され解体されたか
    ――長州藩の財政改革と軍制の洋式化
                  堀込 純一
          目 次
はじめに  P.6
A 幕末農兵のいろいろ  P.6
B 長州藩の財政と経済  P.9
 (1)藩財政の困窮と士庶へのしわ寄せ  P.9
 (2)重就時代の財政改革  P.11
 《補論 石高制と大坂堂島米市場》  P.16
 (3)藩政後期の財政の構造的特徴  P.21
C 家臣団の構成  P.28
 (1)分限帳にみられる家臣団構成  P.28
 (2)家臣団の中核=大組の任務  P.32
 (3)家臣団の重層的階層構造  P.33
 (4)扶持方成・在郷住宅の制から屋敷地の流動化  P.37
 (5)門閥身分制が生み出す諸矛盾  P.40
D 防長の天保大一揆  P.41
 【被差別部落民に対する農民の襲撃】  P.43
E 天保の改革  P.49
F 海防強化と軍制の洋式化  P.56
 (1)海防強化を幕府が全国に指令  P.56
 (2)相州警衛に際しての来原良蔵の意見書  P.58
  (ⅰ)尊王攘夷としての軍役  P.59
  (ⅱ)相州海防の軍備体制  P.61
  (ⅲ)西洋学の導入と洋式兵制の強化  P.64
  (ⅳ)相州での農兵構想  P.66
G 安政の諸改革と政権交代  P.67
 (1)周布派の財政改革  P.67
 (2)坪井・椋梨派の農産物取立て政策  P.73
 (3)軍制改革を眼目とした安政改革  P.75
  (ⅰ)「三大要綱」の決定と諸改革の討議  P.75
  (ⅱ)安政の軍制改革  P.84
   【丙辰丸と庚申丸の建造】  P.84
   【西洋学所の独立】  P.85
   【兵制改革】  P.86
 【農兵の取立て】  P.90
 (4)来原良蔵・吉田松陰の正兵・奇兵構想  P.91
  《補論 二人の孫子と正・奇論》  P.96
 (5)吉田松陰の竹島開拓計画  P.103
  《補論 吉田松陰の朝鮮侵略論》  P.106
  《補論 坂本龍馬の蝦夷地・竹島開拓計画》  P.109
H 公武合体から急進的尊王攘夷へ転換  P.112
 (1)松陰晩年の怒りと焦り  P.114
  (ⅰ)時局に対する藩の消極的対応に焦燥  P.114
  (ⅱ)次々と暗殺計画や破壊活動の提起  P.118
   水野忠央暗殺計画/藩政府要人を下から突き上げ/梅田雲浜脱獄計画/大原西下策 
  (ⅲ)井伊大老襲撃に呼応した間部詮勝暗殺計画  P.124
  (ⅳ)再下獄と江戸送り・処刑  P.131
   《補論 松陰の思想形成》  P.135
 (2)藩是となる長井雅樂の「航海遠略策」とその破綻  P.156
  (ⅰ)幕府の融和路線と「和宮降嫁」  P.156
  (ⅱ)「航海遠略策」に基づく新たな藩是  P.158
  (ⅲ)長井雅樂の東奔西走  P.159
  (ⅳ)雅樂を激しく批判する久坂玄瑞  P.162
  (ⅴ)久光の「率兵上京」に焦る長州藩  P.168
  (ⅵ)幕府側のゴタゴタ  P.172
  (ⅶ)藩是を転換し巻き返す長州藩  P.178
  (ⅷ)長州と土州の不和の始り  P.187
Ⅰ 尊攘激派に引きずられる長州藩  P.188
 (1)攘夷期限の設定から暴走へ  P.188
  (ⅰ)将軍を上洛させ攘夷期限を強引に設定  P.189
  (ⅱ)攘夷決行をめぐる幕府側の本音  P.193
  (ⅲ)長州藩の攘夷断行  P.194
 (2)生麦事件の処理が不調に終り薩英戦争  P.197
 (3)長州藩の外国船攻撃に対する評価が朝幕で正反対  P.198
J 攘夷戦争さなかに奇兵隊の登場  P.200
 (1)周布の唱える軍事の下層化  P.200
 (2)玄瑞の御楯組―集撰組結成  P.201
 (3)高杉の奇兵隊結成  P.204
  (ⅰ)綱領・規則の制定  P.205
  (ⅱ)奇兵隊への加入者続出  P.207
 (4)藩ナショナリズムの高揚と民衆の軍事的組織化  P.212
 (5)教法寺事件の発生  P.214
K 8・18クーデターで京都から追放さる  P.216
 (1)尊攘激派の「攘夷親征」  P.216
 (2)会薩同盟による8・18クーデター  P.220
 (3)藩内権力闘争の激化  P.222
L 勝馬に乗る朝廷の保身術  P.223
 (1)孝明天皇の手のひら返し  P.223
 (2)天皇の時代認識修正と変わらぬ攘夷思想  P.226
  《補論 触穢思想と天皇制について》  P.228
? 幕府・慶喜と公武合体派雄藩の対立  P.234
 (1)長州藩の処分問題  P.234
 (2)横浜鎖港問題で参預会議解体  P.235
 (3)一会桑の京都支配体制  P.238
N 長州藩の巻き返し策動と禁門の変  P.239
 (1)藩中枢と奇兵隊の距離関係  P.239
  (ⅰ)七卿と奇兵隊の関係が深まるのを恐れた藩政府  P.240
  (ⅱ)奇兵隊員の処遇改善を図る赤根武人  P.245
 (2)池田屋襲撃事件  P.247
 (3)藩主雪冤運動から武装上京へ  P.247
 (4)慶喜の繰り返された説得  P.249
 (5)禁門の変  P.250
 (6)将軍の親征なき「長州征伐」  P.252
O 長州藩の内紛と第一次幕長戦争の終結  P.254
 (1)4カ国連合艦隊との馬関戦争  P.254
 (2)藩内権力闘争の激化  P.258
  《補論 周布政之助の自刃》  P.260
 (3)内紛を利用した第一次幕長戦争の終結  P.264
 (4)解散命令に対する諸隊の抵抗  P.265
  (ⅰ)元治の内戦―椋梨派の敗退  P.266
  (ⅱ)干城隊を利用した身分秩序の再強化  P.275
P 第二次幕長戦争に向けての諸準備  P.278
 (1)長州処分をめぐる幕府・朝廷・諸藩内部の対立  P.278
  《補論 幕府歩兵隊の形成》  P.286
 (2)条約勅許と兵庫即時開港の要求  P.291
 (3)長州藩の武備恭順・待敵方針・大割拠論  P.297
  《補論 高杉晋作・桂小五郎の大割拠論》  P.306
 (4)既存の軍制を改革し次々と銃砲隊を編成  P.309
   【中間から始まった銃隊編成】  P.309
 【藩士上層も銃隊編成】  P.316
   【今度は足軽の銃隊編成】  P.321
   【大組も銃隊編成】  P.322
   【陪臣も銃隊編成】  P.323
 (5)西洋兵器の大量購入  P.328
 (6)長州藩の新たな軍事体制  P.330
   《補論 被差別部落民の諸隊》  P.332
 (7)新たな用兵学と士官の養成  P.343
 (8)薩摩藩との和解の道  P.345
   《補論 坂本龍馬の実像と海援隊の規約》  P.348
  (ⅰ)薩摩藩名義での武器大量購入  P.350
  (ⅱ)薩長交易の再開  P.353
  (ⅲ)ユニオン号事件  P.356
   《補論 亀山社中・近藤長次郎の侵略思想》  P.363
  (ⅳ)和解を必要とした薩摩側の事情  P.370
  (ⅴ)薩長盟約が成る  P.379
Q 第二次幕長戦争の開始と幕府側の敗北  P.384
 (1)両軍の配置と作戦  P.384
 (2)四境での戦争  P.387
 (3)長州再征に反対する薩摩藩と休戦に持ち込む慶喜  P.393
 (4)岩倉具視の新国家構想と廷臣22人の列参運動  P.398
  《補論 孝明天皇時代の主な廷臣処分事件》  P.405
  《補論 岩倉具視の初期の政治構想》  P.410
R 王政復古クーデターへの道  P.432
 (1)孝明天皇の急死と恩赦問題  P.432
 (2)兵庫開港と長州処遇での対立  P.435
  (ⅰ)曖昧なままの長州処分  P.435
  (ⅱ)大勢は兵庫開港に賛成  P.436
  (ⅲ)朝廷人事の混乱  P.437
  (ⅳ)新将軍慶喜と四侯との対立  P.439
  (ⅴ)徹夜の拡大朝議でまたもや新将軍慶喜に押し切られる P.440
 (3)二つの王政復古勢力と新政体構想の提起  P.442
  (ⅰ)薩土盟約  P.443
   《補論 赤松小三郎の画期的な政体構想》  P.447
  (ⅱ)岩倉具視と三条実美の和解  P.453
  (ⅲ)西郷と久光の動向  P.453
  (ⅳ)薩長・長芸間の出兵協定  P.455
  (ⅴ)土佐藩と安芸藩の「大政奉還」の建白  P.458
   《補論 「大政奉還」論の嚆矢は春嶽か一翁か》  P.460
  (ⅵ)討幕の勅書を要請され、偽勅を渡す  P.464
  (ⅶ)慶喜の「大政奉還」と戸惑う朝廷  P.469
  (ⅷ)薩摩藩主の率兵上京が決定  P.473
  (ⅸ)三藩兵力の相次ぐ上京  P.474
  (ⅹ)土佐藩の新政府構想と薩摩藩との交渉  P.480
S 王政復古クーデターから戊辰戦争へ  P.482
 (1)政変の実行  P.482
 (2)慶喜の処遇をめぐっての攻防  P.487
 (3)鳥羽伏見の戦い  P.488
 (4)戊辰戦争がもたらしたもの  P.494
T 諸隊の整理と脱退騒動  P.499
 (1)戦費や凶作で藩財政が絶望的に悪化  P.499
 (2)諸隊の精選と脱退の動き  P.500
 (3)相次ぐ農民一揆  P.507
  (ⅰ)殿敷村一揆未遂事件は諸隊脱退の3カ月前  P.507
  (ⅱ)占領地の豊前企救郡の一揆  P.508
  (ⅲ)郡一円に拡大した美禰郡一揆  P.509
  (ⅳ)大津郡渋木村などの一揆  P.510
  (ⅴ)もと占領地の大森県浜田での騒動  P.511
 (4)藩庁と脱退部隊との全面対決  P.515
 (5)農民一揆と脱退騒動との関係  P.523
終わりに  P.527
  
  
  
はじめに

 薩長史観においては、どうしても明治維新の立役者として薩長人を中心にとりあげる。そして、その中でも権力奪取以前に亡くなった人物や、維新以降、政権にさからった人物に人気が集まりやすい。前者で言えば、たとえば長州の高杉晋作である。薩長の枠をとりはらうと、司馬遼太郎の小説に影響されて坂本龍馬が圧倒的な人気である。後者で言えば、西郷隆盛である。その理由は、権力者として手を汚していないと思われているからである。あるいは、判官(ほうがん)ひいきからである。
 しかし、薩長史観では、明治維新で「活躍」した人物たちの影の部分は専門的な研究者以外には知られていない。これは、小説家やメディアなどが、依然として今日でも薩長史観の、あるいは皇国史観の呪縛から解放されていないためである。一例を挙げれば、坂本龍馬は徳川政権すらも朝鮮領と認めていた竹島(現・鬱陵島)の開拓によって、日本の海外雄飛を夢見ていた。
 長州藩の奇兵隊についても、誤解されている。これは一部の左翼の明治維新=ブルジョア革命説という誤りによって、奇兵隊があたかもブルジョア革命での市民軍あるいはその萌芽であるかのようにイメージされている。しかし、本論で明らかにするように奇兵隊はれっきとした長州藩の兵である。藩の武器と藩の財政から給与が支給された軍隊である。
 以下では、長州藩の財政構造・藩士の編制、農兵隊の形成などや、幕末の政治情勢で長州藩が陥った苦境などをみることにより、奇兵隊が形成された過程と背景を研究してみたいと思う。
 

A 幕末農兵のいろいろ

 日本封建制(近世)においては、ほとんどの藩で武士を都市に集住させ、幕府は参勤交代制を採った。この兵農分離制は独特のもので、西欧封建制にはないものである。猟師など一部をのぞいて、農民に武器を所持させない政策は、幕藩制の主要な制度である。それが、幕末の「内憂外患」の下で、幕藩権力の武装力を補うものとして農兵制が登場したことは、それだけでも幕藩体制が根幹から動揺しだしたことを意味する。
 1840年代、中国でのアヘン戦争の情報が伝わり、西洋の艦船が日本周辺に出没し、対外的な危機が迫るようになると、主に海防のために農兵組織の設置構想が提起されるようになる。幕府重臣・筒井政憲は、1846(弘化)年、1848(嘉永元)年の2度にわたり、当時の老中首座・阿部正弘に、海防充実のために農兵を組織すべきと上申した。しかし、この提案は幕閣中枢によって、まだ受け入れられるところとならなかった。
 つづいて、翌1849(嘉永2)年、伊豆の幕府代官・江川太郎左衛門(英龍)が、農兵設置を建白した。それによると、農民の100人に付き1人の割合で、16歳から30~40歳の男子を対象に農兵に取り立て、代官支配地(幕府直轄領)だけでなく私領(藩領や旗本領など)でも同意を得られた地域では、農兵を組織化し、軍事訓練を行なう―というものである。農兵は、平時においては農業に従事し(ただし軍事教練はある)、手当の支給はないが、しかし、各家の所持する高(たか *収入・年貢などの基準となる量。上から指定された村高を家単位で分割した)に応じて課税されるさまざまな課役は免除される(ただし20石以下)。また、農兵となった期間は、苗字帯刀を許す特権が与えられた。だが、この江川の提案も、受け入れられなかった。
 しかし、「開国」後になると、水戸藩や長州藩などの諸藩において、農兵を組織するようになる(水戸藩の農兵については、拙稿「尊王攘夷の旗頭・斉昭と日本近代の序章」中の《補論 水戸藩の農兵制と藩内抗争での農民の対応》〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照)。
 1861(文久元)年10月、英龍の子の江川英敏が新たに農兵設置を幕府に建議する。これは、江川代官支配地だけでなく、関東八州と駿河・遠江・三河にわたる範囲で農兵を組織するものであった。また、その任務は、従来の海防とともに、管内の宿村の治安維持も挙げられるようになった。
 幕府は、ようやく農兵取立てを認めるようになり、「甲府代官は、文久三年(一八六三)五月、一五歳から六十歳までの強壮者や猟師鉄砲をリストアップさせ、『勇壮人』という名の治安維持組織をつくらせ、村組毎(ごと)に取締世話役、同助、世話役を任命した。元治元年(一八六四)の天狗党西上の際には陣屋警備にあたった(『甲府市史 通史編第二巻 近世』)。/同じ甲斐の石和(いさわ)代官支配地では文久三年八月から『強壮人』の徴募が開始され、数か村毎に一番から一三番までに編成し、緊急時には陣屋の東西南北を固めることとした。非常は半鐘によって知らされることとされたほか、翌年一月には『足並揃(あしなみそろえ)』と称して調練も実施された(『石和町誌 第一巻 自然編・歴史編』)。/甲府・石和とも、韮山代官に対する農兵取り立て許可よりも早く、またその性格は農兵というよりも自警団に近いものだったと思われる。」(樋口雄彦著『幕末の農兵』現代書館 2017年 P.104~105)といわれる。
 幕府は、1863(文久3)年10月、江川代官支配地にも、ついに農兵取立てを認めるようになった。翌11月には、木村董平(馬喰町御用屋敷詰、武蔵・相模支配)、佐々井半十郎(馬喰町御用屋敷詰、武蔵・下総支配)、北条平次郎(常陸・下総支配)、山内源七郎(真岡代官、下野・常陸・下総支配)、松村忠四郎(馬喰町御用屋敷詰、武蔵・下総支配)、福田所左衛門、今川要作(安房・上総・下総支配)、小笠原甫三郎(岩鼻陣屋、武蔵・上野支配)、中村勘兵衛(塙代官、陸奥支配)らの諸代官にも農兵取立てを命じた。これは、文久期の幕府の軍制改革の一環となった。
 関東での農兵設置の背景と経過は、以下の通りである。
 関東の領主支配は、幕府領・旗本領・大名領・寺社領などが複雑に入り組み、しかも小規模の知行所(領知)が多いという特徴がある。とくに武蔵国では、500石以下の旗本領が約7割を占めていたのである。このため、知行主である旗本は年貢収入を優先し、訴訟・警察など知行地の統治一般まで手が回らず、それを名主など村役人に任せていたのである。
 この不備を補うために、1805(文化2)年、新たに関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)を設置した。これにより、関東取締出役(通称「八州廻り」)は、幕府領だけでなく、旗本領・大名領などに対しても警察権を行使できるようになった(領主によっては拒否できた)。従来、旗本領主の裁判権は、大名領とは異なり、火罪・獄門に当たる事件は関与できず、それらは幕府の奉行所が取扱っていたのである(当時は司法権・警察権が混在していた)。
 しかし、その限界は、①「無宿・悪党」の集団的徒党化には対処できなかったこと、②処罰者の江戸送りなどの経費は各村に押付けられ、その財政負担が一村では困難となったこと、③商品経済の発展とともに、農民層分解・村落の荒廃が進み、特定の地域を廻村するだけでは任務が遂行できず、広域的な取締りが必要とされたこと―などにあった。
 そこで、1827(文政10)年に、組合村を設置することが法令化された。この組合村は、幕府領・旗本領・大名領などの違いに関係なく、近隣の村々を村高の大小を考慮しながら、3~6村ぐらいで小組合とし、この小組合を10前後集めて大組合とした。この大組合が、組合村の単位である。もともとの村役人(名主など)の中から1人を選んで小組合の統括者として小惣代とし、小惣代の中から数人を選んで、大組合を運営する大惣代とした。
 組合村の機能は、「大別して、①警察的支配の強化、②村内訴訟の処理、③経済統制(*とくに商人・居酒屋・湯屋・髪結床などに対する)、④若者対策と封建意識の再建という諸点」(森安彦著「幕末期の幕政」―郷土史研究講座5『幕末郷土史研究法』朝倉書店 1970年)と言われる。すなわち、組合村の設置は、関東取締出役体制の不備を補いつつ、農民支配を再編強化する所に、その目的があったのである。
 しかし、幕末期も進行すると、「外憂」のみならず、農民一揆や打ちこわしなどの「内患」も激しくなり、それを暴力的に鎮静化させる武装力がますます必要になる。幕藩領主のこの武装力を補うものとして、農兵の設置が必要になったのである。
 だが、言うまでもないが、農兵は一様なものではなかった。幕末期には、じつにさまざまな形態の農兵が出現した。
 樋口雄彦著『幕末の農兵』によると、「幕末、幕府の軍事組織は、同じ百姓・町人を構成員としたものでありながら、『兵賦(へいふ)』という全く別の存在があった。......広義の農兵といってもよいのであるが、地域に密着した狭義の農兵とは違い、幕府が直轄軍の兵卒とすべく江戸に集めたものである。文久二年(一八六二)十二月、旗本に対し所領の多寡に応じた人数を差し出させ、総計で六四〇〇人規模を徴兵する計画が打ち出された。それが兵賦と呼ばれたものである。また、慶応元年(一八六五)五月からは幕府直轄地での徴募も開始され、千石に一名という基準で選ばれた彼らは、御料所1)兵賦(御料兵)と呼ばれ、やはり江戸で銃隊に編成された。........./しかし、助郷(すけごう *宿駅の人馬不足の時、夫役〔ぶえき〕として近郷に割り当てて人馬を徴発すること)の過重さや遠隔地であること、あるいはすでに開始されていた農兵取り立てと二重の負担となることなどを理由に、韮山代官支配地をはじめ、全国の幕領では兵賦に対する反発の動きが一斉に起こった。」(同著 P.148)といわれる。【下線は引用者によるもの。以下、同じ。】
 しかも、軍事的観点からも、その構成員が旗本の家臣、旗本領の農民、金銭で雇われた者などが混在し、兵士としての均質性がとれなかったなどの問題点も存在した。
 そこで、「慶応三年(一八六七)一月になると兵賦は金納化され、結果、実際には宿村からは人は駆り出されず、金銭で雇われた者ばかりが兵卒を構成することとなった(「幕末維新期の軍事と徴兵」)。金で集められた兵士、特に幕府陸軍の歩兵の多くは、農村から流入し都市にあふれた無産者たちであり、いわば傭兵だった。彼らは士官・下士官をつとめる幕臣たちの下で、兵卒として働くことになった。」(同前 P.148)のである。
 農兵といってもいろいろあり、地域に密着した狭義の農兵もあれば、幕府陸軍の歩兵のような傭兵もあった。しかし、長州の奇兵隊は、これらのいずれにも属さなかった。

注1)御料所とは、幕府直轄領のこと。全国の要所に存在し、合計で約400万石に達した。

B 長州藩の財政と経済

 奇兵隊は狭義の農兵隊でも、傭兵隊でもないが、あえて言えば水戸藩の天狗党に類似している。それは共に藩士が農民・町人などの民衆や神官を指導する関係にあって、士庶が混在しているところに共通性がある。しかし、両者には決定的な相違がある。それは、天狗党が私党であるのに対して、奇兵隊は正式に藩の兵であるということである。
 したがって、問題は、何故に奇兵隊が長州藩にしかも幕末に形成されたのか―である。あらかじめその要因を述べると、それは、①下級武士(陪臣・足軽など)や武家奉公人(中間など)が大量に存在していたこと(関ヶ原以降、毛利氏は中国8カ国から防長2国に削減されたが、それに見合って家臣団を削減していない)、②郷校・私塾・寺子屋などの教育機関が充実し、全国でも有数の数(郷校は第一位、私塾は第四位、寺子屋は第二位)であり、郷校・私塾ではとりわけ尊王攘夷のイデオロギーがなされたこと、③急進的な尊王攘夷によって二度にわたる「長州征伐」や4カ国連動艦隊の攻撃を受けるなどして、幕末、藩ナショナリズムが高揚したこと―などである。
 以下では、遠回りになるが、幕末長州藩の軍事編成と奇兵隊の創設の経過と背景を検証してみることとする。

 (1)藩財政の困窮と士庶へのしわ寄せ
 萩藩(長州藩)は関ヶ原の戦いで敗北し、中国地方の大国から防長2州に削減された。長州藩も薩摩藩と同様に、江戸時代初期から財政難に苦しんできている。(薩摩藩の財政難については、拙稿「薩摩藩の借金累積と琉球・道之島収奪」〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照)
1625(寛永2)年の検地によると、防長2国の総石高は65万8299石である。このうち、支藩領計18万3022石(長府領8万3011石、岩国領6万0001石、徳山領4万0010石)と士卒の給禄を除いた萩藩の御蔵入地(おくらいりち *直轄領)の石高は約20万石であるが、税率50%で藩の実収は現米で約10万石と算定された。  
 しかし、幕府への手伝い普請、天災による田畑の荒廃、江戸藩邸などの奢侈な生活などで、藩の借金は累積してゆく。「寛永二十一年(一六四四)にははやくも銀三六八二貫目余の藩債ができた。そのころの標準米価で米に換算すれば一二万二七三三石に相当し、藩の一ヵ年分の収入(*約10万石)を上回る額である。」(『山口県の歴史』山川出版社 1971年 P.191)といわれる。
 その後も藩の借金は図表1のように増えつづける。当時の借金対策は、どの藩も大同小異であるが、一つは消極策としての倹約、一つは積極策としての耕地の開発がある。しかし、大幅な改善は、やはり農民への年貢増徴、士卒の給禄の減俸である。
 萩藩は、「正保三年(*1646)には高八〇〇石以下の藩士の給領地や社寺領は、すべて藩におさめて浮米(うきまい)支給(*知行地ではなく蔵米が支給されること)にかえ、同時に一門以下、全員の給禄を平均二〇パーセント削減した。これは万治三年(一六六〇)にいたって返還されたが、代わって馳走米(ちそうまい)の制度がはじまり、天和二年(一六八二)からは農民に対しても石別銀(こくべつぎん)三匁程度の馳走を命じた。」(同前 P.191~192)といわれる。
 馳走米銀とは、形式的には「寄付」であるが実質的には「強制的な寄付」を藩士や農民に割り当てて財政難を緩和したものである。つまり、藩士の給与削減と農民の年貢増徴である。1)
 藩は、1686(貞享3)年3月から翌年2月にかけて、貞享検地を行なう。これにより、新田5万7496石余が検出され、荒廃地約6000石余が台帳から削除され、差し引き約5万1496石の増高となった。この検地で、税率は40%に引き下げられたため、新たに現米2万600石近くの財源が生み出された。しかし、この程度ではとうてい藩の赤字解消とはならない。

 図表1  萩藩の藩債
     年       藩債額(銀) 米価(1石当り) 藩債額(石高換算)
 1644(寛永21)年  3682貫     30匁      122733石
 1646(正保3)年   6200 26       238462 
 1676(延宝4)年 12000 57 210526
 1682(天和2)年 22000 40 550000
 1708(宝永5)年 13000 70 185914
 1731(享保16)年 15000 41 365854
 1738(元文3)年 25200 76 331579
 1758(宝暦8)年 41300       68 607353
 1837(天保8)年 92026      100 920260     
  出所:『山口県の歴史』山川出版社 1971年 P.191(石高換算は筆者の計算)

 1704(宝永元)年、萩藩は諸士に対して、半知の馳走米を命じた。半知とは、知行地(家臣へ支給された土地)の半減を意味し、50%の減俸となった。藩士の生活は極めて厳しいものとなった。
 1707(宝永4)年11月、萩藩藩主毛利吉広が死去により、支藩である長府藩毛利紘大の長男・吉元が宗家毛利氏の家督をつぎ、萩藩第五代藩主になる。
 しかし、吉元が就封した宝永4年の藩債は1万2000貫目であり、吉元は重臣とともに財政再建策をたてる。そして、幕府の許可をえて、1709(宝永6)年から5カ年の非常倹約令を発令する。それとともに1709~1710年にわたって、士卒に半知の馳走(給与半減)を命じた。しかし、その結果は意外なものであった。1712(正徳2)年の決算は、藩債が5万余貫目と逆に大幅に増大していたのである。
 その訳は、財政再建を相談した2人の重臣の「放埓(ほうらつ)な政治と生活」にあったと言われる。吉元はこの2人を罷免し、その知行を削り、新たに清廉潔白の士を登用し、さらなる財政再建を行なった。
 この結果、1730(享保15)年の決算書によると、この18年間に3万5000貫目の償還に成功し、負債は総計1万5000貫目に減少した。しかし、享保16年の標準米価に換算すると、負債額は36・6万石に増えているのである。

注1)馳走(ちそう)とは、相手方とくに主君に対し周旋奔走して忠勤をつくす意で、一般的に使われる「饗応」とは別の意である。馳走米は、主君のために、納入者(家来)が自ら請うて納める形をとった。

 (2)重就時代の財政改革
 その後、萩藩の負債はふたたび増加し、1738(元文3)年には、2万5200貫目にもなっている。
 1751(宝暦元)年4月、萩藩(長州藩)第七代藩主に毛利重就(しげかた)が就く(在位 1751年4月~1782年8月〔宝暦元年~天明2年〕)。重就もまた支藩長府藩の出身である。重就は、長州藩の中興の祖と言われ、長州の産業を大いに開発した。
 重就は、就任の翌年に帰国し、1753(宝暦3)年正月に、実兄である毛利広定を当職(*国家老)に任じて国元の政治をまかせた。「当時の防長両国の石高は八二万七三七一石余、そのうちから支藩への配地一八万三〇二二石余と、一門以下への給地(*知行地)一九万七二〇三石余とをのぞいて、のこりの四四万七一四五石余が御蔵入地の総高であった。このなかから、さらに天災による荒廃地一万八二四〇石余、庄屋・畔頭(くろがしら *部落長)への給与二五〇〇石余、寺社領一六一二石余、その他諸役所の敷地などをのぞけば、課税地の現高は四二万一一八二石余となり、その税収は正租・雑税・付加税をあわせて米一四万八二二五石余、銀一七〇五貫目余であった。一方、負債の方は吉元がのこした一万五〇〇〇貫目に加えて、享保十七年(一七三二)の秋には中国・四国・九州の全域にわたる蝗害(こうがい *ウンカやイナゴの害)によって三〇万石にちかい減収となり、ついで寛保三年(一七四三)には大洪水で一三万五五〇〇石、延享二年(一七四五)には数度の洪水で一四万二〇〇〇石、その後も延享四年に一三万五〇〇〇石、寛延元年(一七四八)に九万七〇〇〇石と、うちつづく天災のために田畑に大きな被害をうけた。これらのことが原因となって、宝暦四年現在の藩債は三万貫目にのぼり、その利息をふくめて毎年米一三万四〇〇〇石、銀一万一〇〇〇貫目ばかりの赤字がでる計算であった。」(『山口県の歴史』1971年 P.194)といわれる。
 そこで重就は、幕府に実情を報告し、1754~1757(宝暦4~7)年の4年間、藩の格式規模を10万石クラスの大名と同じ程度に落として、他藩との交際費や参勤交代経費を節約して、家族の生活費もまた20%削減した。他方、士卒には半知(給与半減)を命じ、農民に対しても収穫1石ごとに4升の臨時税を課した。だが、それでも赤字は解決しないで、1758(宝暦8)年の藩債はついに4万貫目を突破してしまった。
 ここにおいて、重就は藩政の根本にさかのぼって、財政再建を図らざるをえなくなり、1759(宝暦9)年2月、坂時存(さかじぞん)・羽仁正之・佐々木満令(みつよし)・粟屋勝之の4人を「御前仕組方(ごぜんしくみかた)」に任じ、萩城内の「獅子ノ御廊下」に設けた仕組方役所へ出仕を命じ、財政計画を審議させた(「仕組」とは、財政整理や行財政改革の意)。藩政府からは、当職・毛利広定、裏判役兼記録所役・高洲就忠(なりただ)、所帯方帳方役・村田為之(ためゆき *天保改革に参加する村田清風の祖父)らが参加した。
 この会議では、結論的には、新たな検地を行なうこととなった。それは、根本的な財政対策として、第一に新田の開発をあげ、それとともに第二に、発展しつつある商品経済にあって、良港を開くための資金を見つけ出すために新たに検地を行なうこととした(支藩の長府領には赤間関〔西の浪華と称された〕、岩国領には柳井津〔やないつ〕という良港があるが、萩藩には良港がない)。
 検地は1761(宝暦11)年の冬に着手され、翌年の秋にはほぼ終わった。この際の「検地仕法は、下見(したみ *百姓・村による申告)・上見(うわみ *代官による査定での上乗せ)で構成される面責丈量・石盛(こくもり *耕地・屋敷地の反当り標準収穫量。租税の賦課の基準になった)四ツ物成(高一石に田方米四斗、畠方一〇匁の収納)など、貞享検地と同じであったが、『古高を減らさない』という実施方針が貫かれ、増徴に傾斜していった。宝暦検地終了後一六年に当たる安永八年(1779)に郡用方(郡奉行所)が作成した百姓作徳(さくとく *取分)のモデルによれば、上田一反=高三石、中田一反=二石、下田一反=一石としたうえで、上田の出来米(できまい)は一・六五石(有籾〔ありもみ *収量〕一升×三〇〇歩×籾摺率〔もみすりりつ〕〇・五五〔*1升の籾が5・5合の玄米になる〕=一・六五)、出米(だしまい *正租四ツ物成〔*4割〕+諸懸かり〔*臨時税〕+郡村費)=百姓負担の全体)は一・六四八一七石となって、百姓作徳は、〇・〇〇一八三(一合八勺三才)、すなわち皆無同然となる。表作の米は残らないので、裏作の麦ほかで凌(しの)いでいる、という(「検地已来者〔いらいは〕作徳之〔の〕くつろぎ之無〔これなし〕)。右のモデルでは、石高の五五%が出来米という関係にあり(......貞享検地では六〇%)、石高は出来米の一・八倍に水増しにされている。原租率は〇・七二七(一・二÷一・六五=〇・七二七)と、七公を超えている。」(田中誠二著「藩財政改革論」―岩波講座『日本歴史』第13巻近世4 2015年 P.120)のである。
 過酷な収奪で、七公三民にすら至らず、表作の米のほとんどは藩に吸い上げられ、萩藩はこの米を相場をみて大坂市場で売り捌き、藩の収入にしたのである。(《補論 石高制と大坂堂島米市場》を参照)
 宝暦検地は、結局、増高6万3373石余に対して減石は2万1764石余で、差引(さしひき)4万1608石余の増加となった。
 検地の結果を帰国中の重就が聞き、大いに喜んだといわれる。しかし、今回の検地は、新規事業の資金を生み出すことが目的なので、この増高からの収入を経常費へ繰りこむことはできなかった。そこで重就は、1763(宝暦13)年の春、別途会計の法を定め、蔵元役所のなかに独立の一局を設けて「撫育方(ぶいくかた)」と名づけた。その名の意味は、さきの検地の増高からの新物成(しんものなり *新たな税収)をもって別途の資金を充実させ、他日の用に備えることができるならば、財政破たんの不安も除かれ、結局は士民撫育の趣旨に添い得るというものである。
 このため、別途会計と本会計の混同は厳に戒め、所帯方の役人は新物成を当てにしないようにさせ、引き分けた新物成は直目付(じきめつけ)および蔵元方が立ち会って、所帯方から撫育方へ引き渡し、「撫育方の収支決算は一般には公開せず、直目付役が藩主名代の資格でその監査にあたることにした。/したがって、撫育方の収入は確実にはわからないが、幕末の嘉永三年(一八五〇)以降、一〇ヵ年間の平均は米約二万六〇〇〇石、銀二五〇貫目と記録されている。」(『山口県の歴史』1971年 P.196)といわれる。
 確かに、撫育方の別途会計が、その一部を所帯方(本会計)への補助、士民に対する課税の減免、儀式の復興、藩政功労者への褒賞金などにも使われたようである。しかし、基本は新規事業への投資資金として積極的に使われ、利益を生み出していったのである。
 その投資先は、新田の開発、防長特産の四白として有名な塩・紙1)・?(ろう)・米の生産・販売、貿易港を発展させるための金融業と倉庫業の経営が主なものである。
 【製塩業】製塩業は、一戸あたり一枚(1町5段〔*約1・5ヘクタール〕が1枚)の経営を原則とした。撫育方関係の塩浜には、大浜・鶴浜・江泊〔えどまり〕浜(以上、防府市)・青江浜(吉敷郡秋穂〔あいお〕町)・遠波浜(山口市)などがあり、塩戸145軒・面責約217町歩であった。防府市の浜は、古浜・中浜・西ノ浦浜などとともに、三田尻浜と総称され、防長塩業の中心をなした。
 その販売統制のために大会所(おおかいしょ)が中関に設けられた。各浜にはそれぞれ年寄があって、その浜所属の塩戸を統率した。1772(明和9)年には、諸浜の惣代として年寄の上にさらに大年寄役を置き、防長塩業の総本締(そうもとじめ)とした。この大年寄役は、支藩の岩国領・徳山領の浜などの塩戸を統制した。
 防長塩業の主な販路は北国であるが、残りは大坂市場や九州へも輸出した。1800(寛政12)年には、幕府とも契約し、毎年三田尻塩1万石を長崎奉行を通して販売した。その需要先は蝦夷地方面であるから、海産物販売のための保存・貯蔵に使われたものと思われる。「塩の値段は各浜から選出した直立(ねだて)の会議にかけて大年寄が決定した。三田尻浜の塩問屋は四六軒あって、その大半が問屋口(とんやぐち *三田尻近くの沿岸部)に住んでいた。そのうち北国向けの塩を取扱う店は六軒に限られ、その六軒を大問屋、他を小問屋と称した。塩の販売にあたっては、問屋からその量を会所に通知し、会所では従来からの実績に照らして、それを各浜に割りあてた。業者から直接に問屋へ販売する事は、『抜売(ぬけう)り』として、厳しく禁止されていた。」(『山口県の歴史』1971年 P.198)のである。藩の統制経済の下で、自由売買は禁止されていたのである。
 また、1770年代の末に、瀬戸内の10州の塩田は生産過剰と塩価の暴落で極度の疲弊に陥った。この経験を踏まえ、生産調整が瀬戸内の諸国業者の間で協定された。
 【貸銀所・越荷方】藩は、西廻り開運の発展を重視し、伊崎(いざき)・中関(なかのせき)新地の開発や室積(むろづみ)港の整備を行ない、経済活動の拠点とした。
 赤間関(下関市)は長府領で東部下関に位置したが、西廻り海運の発展とともに、下関西部が発展し、竹崎浦や今浦などは漁村から商業を営む町へと変貌した。萩藩は今浦の西に隣接する本藩領伊崎に港を設け、新地を開発させた。それは、萩の豪商・梅谷吉右衛門に請け負わせたのであるが、梅谷の資金だけでなく、撫育方の資金も投入された。
 伊崎新地は、1768(明和5)年に完成したが、会所・米蔵4棟が建てられ、二階建ての長屋が軒を連ねたといわれる。伊崎では、長州米の販売、越荷業務(倉庫業や金融業など)、市立、芝居興業などが行なわれた。
 中関新地も梅谷吉右衛門によって開発された。ここでもやはり撫育方から米銀の融資を受けて、西泊に港を築き、蔵・貸家・茶屋・居宅・常設の芝居小屋などが建設された。
 塩業の発展とともに、中関は三田尻塩の輸出港として栄えた。そこには撫育方の資本によって貸銀所が設けられ、諸国の廻船を相手に金融と倉庫業が営まれた。
 明和~安永期(1764~81年)には、室積再開発が伊崎新地と同様の目的をもって実施された。ここでも撫育方の資金が融資され、港・町並みの整備、会所・蔵の建設などが進められた。
 1793〔寛政5〕年には、室積会所仕法が定められた。室積(むろづみ)会所(光市)もまた撫育方によって経営された。ここでは防長米の入札売りを主要業務とした。だが、付随して廻船に対する融資や倉庫業も行なわれた。「寛政五年(一七九三)二月の『仕法式目』によれば、会所には本締(もとじめ)役・検使役・頭取(商人)などがあって毎月の入札高を計算し、毎年八月の決算期に、一ヵ年の営業成績を撫育方へ報告する。貸銀は問屋を保証人とし、貨物を担保として、その倉入れがすむのを待って貸し渡す。この場合は倉敷料(*貨物を保管する料金)の収入もあるので、貸銀に対する利息は月八朱(*8%)とする。他国人への貸銀は問屋が責任を持つことにし、会所との直接の取引はおこなわない。借主が違約したときは担保の品物を処分し、なお不足のときは保証人である問屋の私財を差し押さえるとある。月八朱の利息は民間の質屋にも認められていたが、ここでは別に倉敷料の収入があり、しかも債務者とのあいだには地元の問屋が介在し、貸し倒れの心配もなかったのであるから、撫育資金の利殖法としては、かなり有利なものであった。」(同前 P.199)といわれる。
 下関の越荷方は、密貿易の監視を担当していた八幡改方(ばはんあらためがた)の建議により、室積会所のやり方を参考にして、伊崎新地(撫育方が港湾施設のために最初に干拓した所)に設けられた。その業務は、廻船の積荷をいったん陸揚げさせ、商談が成立するまで、それを質物として金を貸すか、あるいは倉庫だけを提供して倉敷料を徴収するのであった。「伊崎はあたかも北国と九州、あるいは関西・四国方面との中継貿易港の観があった。室積や中関とほぼ同じ経営内容でありながら、ここだけとくに"越荷"の役所と呼ばれたのはそのためである。取引額もしだいに大きくなったので、資本金を一〇〇貫目に増額したが、それでもなお不足のため、享和元年(一八〇一)には所帯方からも一〇〇貫目を出資して共同経営とした。/この後、越荷方はますます繁昌し、天保十一年(一八四〇)年には村田清風らによる藩政改革の一環としてその規模を拡張し、専任の越荷方・検使役・本締役を任命した。ついで慶応元年(一八六五)にはさらに越荷方の権限を拡大して、他藩との通商事務をすべてこれに一任した。」(同前 P.200)のであった。
 重就時代の別途会計としての撫育方の仕法は、その後も守られたが、1800(寛政12)年、第九代藩主斉房(なりふさ)の時に、宝蔵の貯金を一掃して所帯方の会計に組み込まれたことがあった。しかし、その後は明倫館(藩校)の教育費を補助した程度で、1861(文久元)年までの60年間大きな支出はなかった。
 【製蝋業】明治維新後に断髪令が出されるまでは、?(ろう)を原料とする鬢付(びんつけ *髪型を固めるために使う練り油)は男女の必需品であり、また燈火用としての?燭(ろうそく)の需用もたかかった。?は櫨(はぜ)の実を原料とする。そこで重就は、?の製造を製紙(和紙)にも劣らない産業と考え、山野や不毛の畦畔(あぜ)などに櫨の木を栽培することを奨励した。撫育方でも、?の増産に力を入れ、藩内で消費した残りは、大坂市場に盛んに輸出した。

注1)楮(こうぞ)の樹皮は、紙の原料となる。周防国の北東部である山代(やましろ)地方は、早くから製紙の特産地である。萩藩は、財源確保の一つとして、ここに目をつけた。「寛永検地(*1625年の検地)で山代全域を蔵入に取り込み、あまつさえ増徴した。山代寛永検地高は四万八〇一五石であり、三井(みい)検地(*1607~11〔慶長12~16〕年)山代蔵入高二万石の二・四倍となった。続いて寛永五年(*1628年)に楮(こうぞ)検地を行い、楮一釜=〇・三一石に石盛をし、石高一石に一〇匁の収納とした。ここに山代固有の楮石が成立し、楮石は畠への『二重年貢』と認識されていた。この時の帳面楮(ノルマであり政策目標値)は、七万二〇〇〇釜(一丸=三釜漉〔す〕きで二万四〇〇〇丸)で、藩政期最大である。山代請紙制は、楮石の成立を前提として、楮石だけからでなく、田方石・畠方石の物成(ものなり *年貢)をも紙の収納で決済する特異な徴租法で、それに紙の専売制が重なった制度である。......山代紙は、寛永末には米と並んで藩財政収入の二大柱の一つとなり、紙の売却代銀(七〇〇貫目)は、『江戸御遣銀(おつかいぎん)』(江戸方予算)に引当てられた。」(田中誠二著「藩財政改革論」―岩波講座『日本歴史』第13巻近世4 P.108)といわれる。

 《補論 石高制と大坂堂島米市場》
 近世封建制社会を統合し、再生産する基本的制度は、石高制である。この石高が決定される方法には、2つのケースがある。①実際に検地を行ない算定される場合と、②あらかじめ決められた年貢高から逆に村高を算定する場合とである。
 ①の場合、田畠一筆ごとに上・中・下・下下・屋敷地の各種に区別された対象の土地に、実際、竿入れして丈量し、それぞれの地種に斗代(石盛)を設けて石高を算出する。斗代(石盛)は、米を栽培すると仮定した場合、土地一反当りどれだけの米が収穫できるかという「法定収穫高」であって、米栽培をしない畠や屋敷地も米の収穫高で換算して算出する。斗代(石盛)の決定に際しては、土地の生産条件や裏作などを考慮して、総合的に判断して行なう。だから、斗代は実際の収穫高に近いものではあるが、抽象的な数値である。この斗代(石盛)を検地された土地一筆ごとの反別に乗じると、一筆ごとの石高が算出され、その合計が村高となる。
 ②の場合、1595(文禄4)年、九州地方で行なわれた太閤検地である。この時、各大名にはじめて知行宛行状を発給したといわれるが、この際に確定された知行高は実際に竿入れがなされたものではなく、当該年の年貢量を村位別の年貢率で除して村高を算出したものである。
 石高制の意味するところは、(A)将軍が大名や旗本などの領主階級を編制する基本原理であるとともに、(B)百姓などから年貢や諸役を収取する基準となることである。
 (A)では、大名や旗本などの領主は、将軍から石高で示された領地を与えられ(あるいは安堵され)、これに対して、将軍への御奉公(軍役や普請役など)を勤めることで「主従契約」を果たす。豊臣政権時代、とりわけ小田原攻めの頃以降、知行石高100石につき5人の比率で軍役が課せられるようになった。江戸時代の17世紀中頃の軍役人数割りは、200石の武士の場合、侍1人・馬の口取1人・槍持1人・甲冑持(かっちゅうもち)1人・小荷駄1人―計5人の従者を率いるのがモデルとされた。
 (A)では、諸大名などに普請役が幕府から課せられ、各地の城や河川などの修築・整備などに動員された。戦争がほとんど無くなった後にも、幕府は諸大名に普請役を課してその経済力を奪って統制し、諸大名のほとんどが江戸初期から藩財政の困難を抱え、幕府に依存するように仕向けられた。
 (B)では、百姓の場合、毎年の年貢、ときにはそれに上乗せされた臨時の付加税はもちろんのこと、軍役に伴う陣夫役、城や河川修築の普請人足役、諸大名の参勤交代の際に、各宿駅での人馬継立〔*宿から宿へ荷物などを人馬で送り届けること〕を補充する助郷役(すけごうやく)、日光社参人馬役、朝鮮通信使・琉球使節迎接関係の役などの諸役も村高に応じて課せられた。
 兵農分離は日本独特の制度であるが、武士の城下町への集住と参勤交代制などは、諸大名や旗本などに重い負担を強いた(この負担は結局は百姓の肩にかかるが)。大名などの領主は、年貢を取立てて自己の食料にするだけでなく、さまざまな生活手段や交際のための贈答などにどうしても貨幣が必要となり、市場で年貢米を販売せざるを得ない。
 このために、商品経済が発達し、領国内の市場のみならず、全国市場が形成され発展する。全国市場は、幕府直轄の大坂・京都・江戸の三大都市、なかでも大坂を中心に形成される。 
 国持大名クラスの大藩は、大量の年貢米と各藩の特産品を大坂などで販売して貨幣に換え、その金でさまざまな物資や工芸品を購入して自藩ないしは江戸に持ち帰るという形で、全国市場と結びついた。全国市場が江戸よりも大坂が中心となった理由は、江戸よりも近畿の方が商品農業や手工業が発達していたことにある。しかし、それだけでなく、幕府自身もまた、大坂を全国市場として発展させるための諸政策を打ち出しているからである。
 すなわち、幕府は1619(元和5)年に、大坂を将軍家直轄領とし、大坂城代や大坂町奉行職を設置する。そして、大坂城を10年の歳月をかけて修復し、城下町の整備・拡大を大坂在住の町人や伏見など近隣の都市の豪商を招いて推進した。
 大坂は、経済的に大きく発展した。「大坂の町々には、青果・鮮魚・塩魚・鮒(ふな)・木材・棉・油・生糸の取引のための市場が次々と開設され、質屋などの金融機関、銅製造などの手工業も発達し始めた。そしてなによりも、元和・寛永期(一六一五~四四)は、年貢米の徴収とその換貨を領主の主導で行いうるようになる画期であった。それまでの年貢米の徴収・換貨方式は、各農民が村の庄屋へ現物を納入し、庄屋が堺・平野・大津・長浜などに送り出し、地元の市場でこれを銀に換え(百姓払)、この貨幣を庄屋が領主に納入するというような形態であった。しかるに一六二一(*元和7)年には、江戸浅草御蔵(おくら)奉行に先駆けて大坂に御蔵奉行が置かれ、一六二五(*寛永2)年には大坂御金奉行が初任され、一六二八(*寛永5)年には年貢米の百姓払が停止されて、年貢米が蔵奉行を通して大坂で換貨されるというシステムが形成されるにいたる。それは一六二二(*元和8)年における地域商人の発行する私札の制限と相まって、大坂が諸局地市場を統合して、幕府の統制する全国的規模の領主的市場圏の中枢として発展してゆく起点となった。」(水林彪著『封建制の再編と日本的社会の確立』山川出版社 1987年 P.188~189)のである。  
 大坂を中心とする全国市場の形成は、17世紀の後半期と言われる。戦国時代に形成された大坂内外の在郷町は、全国市場の形成とともに、従来のような狭い局地的な流通ではなく、遠隔地市場向けの特産物資の集散地・加工地として発展する。大坂南方の在郷町は棉の集散・加工地として、大坂北方・西方の在郷町は酒造の特産地として発展する。

 図表2 大坂における主要商品の移出入〔1714(正徳4)年〕
      移出              移入             
 品名    銀高(貫)  %     品名    銀高(貫)  %    
①菜種油 26005  27.1    ①米     40813 14.2
②縞木綿    7066    7.4 ②菜種    28048    9.8
③長崎下り銅  6587 6.9    ③材木 25751 9.0
④白木綿    6264 6.5    ④干鰯 17760 6.2
⑤綿実油    6116 6.4    ⑤白木綿 15749 5.5
⑥古手   6004 6.3 ⑥紙 14464 5.0
⑦繰綿   4209 4.4    ⑦鉄 11803 4.1
⑧醤油 3898 4.1    ⑧掛木 9125 3.2
⑨鉄道具 3750 3.9    ⑨銅 7171 2.5
⑩油粕 3267    3.4    ⑩木綿 6704 2.3
⑪塗物道具 2839 3.0    ⑪煙草 6495 2.3
⑫小間物 2838 3.0    ⑫砂糖 5614 2.0
⑬胡麻油 2088 2.2    ⑬大豆 5320 1.9
⑭焼物 1574 1.6    ⑭塩 5230 1.8
⑮酒 1200 1.3    ⑮小麦 4586 1.6
⑯その他   12094 12.6    ⑯その他 81928 28.6
総計     95799   100.0    総計    286561   100.0        
出所:『日本経済史1600―2015年』慶応義塾大学出版会 2017年 P.24

 図表2は、1714(正徳4)年の数字であるが、大坂市場における主な商品の移出入である。
 まず、移入米の数値は、移入品全体の14・2%を占め最も多いが、それは納屋米(なやまい *貨幣納年貢や在払い制のために商人の手を経て大坂へ運ばれる米)であって、蔵米(くらまい *領主が直接に収取する米納年貢)は含まれておらず、蔵米を含めれば、一五万貫を超える数値を示すということ、したがって、この段階で、納屋米は大坂登米(のぼせまい)総量の三割程度に達しているということである(水林彪前掲書、P.215)。移入・移出ともに米についで多いのは、綿関係の衣料品と菜種・菜種油であった。綿は、戦国期以降に急速に普及してきた大衆衣料品であり、菜種は油の原料で、夜の光となって日常生活を豊かにするものである。油を絞ったのちに出る油粕は、干鰯(ほしか)とともに、重要な肥料であり、農業生産を発展させるものであった。全体的に見て、移入品のほとんどは農産物や水産物など第一次産品であり、移出品は加工品がほとんどである。このことは、大坂が年貢米の販売先であるだけでなく、大坂とその周辺地で農産加工業が発達していることを示している。なお、移出品の第三位にランクされる長崎下り銅は、いうまでもなく、長崎を窓口とする海外貿易のためである。
 以上から全国市場としての大坂に、いかに米が集まっていたかがよくわかる(年に15万貫超)。その市場が堂島米市場である。(堂島米市場は、天満の青物市場、雑喉場〔ざこば〕の魚市とともに三大市場として並称された)
 大坂は江戸時代初期から、諸藩の蔵屋敷や蔵元が存在していた。各藩ははじめ蔵物販売を自ら行なっていたが、のちの寛文期(1661~73)には、その事務を町人の蔵元に代行させるようになる。
 その蔵元のなかでよく知られた者に淀屋がある。その淀屋(淀屋橋南詰)の門前(北浜)で、米相場が開かれていた。だが、1697(元禄10)年、堂島新地の開発にともない、米市場もこの地に移転し、堂島米市場が発足した。
 正徳(1711~16年)頃、江戸の三谷三左衛門ほか2名が、幕府から堂島に大坂米座御為替御用会所の設立を許可され、同会所が米取引を取り仕切った(だが、1722〔享保7〕年頃に廃止)。その後も、江戸商人による大坂での米取引の会所(市場)設立願いがしばしば出され、開廃が繰り返された。このような状況に不満を抱く大坂商人らは、江戸商人の進出に対する反対運動を展開する。そして、1730(享保15)年8月、ついに幕府に認められた、大坂商人による堂島帳合(ちょうあい)米市場が設立された。
 この間、大坂米市場では早くから米切手による取引や、延売買(のべばいばい *一種の先物取引)が行なわれていた。しかし、幕府はこのような取引は米価を高騰させるものとして禁じた。だが、正徳・享保の頃(1711~36年)から、米価が著しく下落するようになったため、幕府は政策を転換して米の延売買禁令を緩和するようになった。堂島米市場では、延売買も認められた。
 堂島における米取引の仕組は、正米取引市場・帳合米取引市場・石建取引市場から成っていた。
 正米(現物)取引は、現物としての正米を裏付けとした取引である。しかし、実際には、諸藩の蔵屋敷が発行した米切手による取引である。
 帳合米取引は、帳合(ちょうあい)つまり帳簿に記入計算することによって成立する取引で、物件代金の授受を行なわない。帳合米取引は、三季商内(さんきあきない)といって、1年を3季に分けて取引し、期末ごとに総決算がなされた。その標準米は建物(名目的な観念的なものとしての標準銘柄)と呼ばれ、筑前・肥後・中国・広島の4蔵米および加賀米があてられた。
 幕末期になると、全国的な米相場形成や米穀流通のうえに果たす堂島米市場の機能が低下し、とくに帳合米取引が不振となった。そこで1863(文久3)年以降、帳合米取引の仕法(やり方)を縮小した石建米商(こくだてまいあきない)が盛んとなった。しかし、それは取引単位が20石とされ、期限も1カ月あるいは2カ月などに縮小された。
 堂島米市場の帳合米取引は、いわゆる投機取引であるが、この相場が正米取引の相場をリードするものとなり、ひいては全国の米価を平準化する役目を果たした。
 堂島米市場で活躍する米商人は、一般の米商人より上位に位置づけられ、1731(享保16)年12月、米仲買株500枚を許されている。翌年には、さらに米方両替株50枚が下付され、彼らは堂島における営業独占権を保証された。米仲買株は、その後増加し、計1351枚になったといわれる。幕府は、天保の改革で1841(天保12)年末から株仲間解散令を出すが、翌年8月、米仲買株の廃止と堂島米市場の存続が決まった。1851(嘉永4)年の問屋仲間の再興でも、他の仲間よりも優位に置かれた。堂島米市場は、格別なものとして、幕府から優遇された。
 米仲買は、浜方と総称され、堂島15町に住んでいたが、蔵米の入札を行なうほかに、正米方、帳合方、績方(正米の蔵出しおよび輸送を行なう者)の3種のうち1~2種を兼業した。また、米仲買の内から5人の米方年行司が選出され、彼らは堂島船大工町の米方会所に出勤して、浜方に関する公私の取締りを行ない、浜方を代表して対外的な折衝も行なった。彼らの任期は1年である。
 萩藩の領主米(年貢米)は、近世当初から一定量の大坂廻米を行ない、藩の財政運営に組み込んでいた。これは、「藩政立(*成立?)当初から財政窮乏に悩まされ、一定量の販売が安定的に期待できる大坂市場に依存せんとしたため、また近世を通して大きな収入源となっていた紙の販売と抱き合わせになっていたためと考えられる。しかし大坂廻米高の設定は、金融資本よりの借銀に規定されたものではなく、蔵入収入から給人(*下級の家来)支給米や、国元での政務・諸郡における諸費用を差し引いた残米を販売米として計上し、大坂へ廻漕していた。また大坂における販売も、米価を勘案しながら、より有利に実行できるようにしており、確かに大坂市場に依存しているものの、領主権力側の主体性は一定度留保されていた。」(伊藤昭弘著「萩藩における大坂廻米と領国市場」―『瀬戸内海地域史研究』第7輯 文献出版 1999年)といわれる。
 しかし、元禄期(1688~1704年)を境に、萩藩の財政構造が大坂金融資本への依存が進んだこと、それに伴い借銀に規定された大坂廻米が現出するといった状況に陥ったことなどにより、長州藩は買米を実行し領外へ移出するようにな。さらには給人の家計の安定化のために給人米も大坂など他国へ移出されるようになる。その行き着く先は「飢餓移出」的状況が進行する。まさに藩は借金によって大坂資本にコントロールされるようになったのである。そのため萩藩は領民への食料安定供給を可能させるために領国市場を開放しはじめ、他国米の移入を容認するようになっていった。他国米の移入は、領国内金銀の流出の点で問題をはらむが、しかし、安価な移入米は、海岸沿いの塩田地や漁村などのコスト削減(経営の安定化)につながるものであった。

(3)藩政後期の財政の構造的特徴
 中興の祖といわれた重就(在位1751~82年)と治親(在位1782年8月~1791年6月〔天明2年~寛政3年〕。実際は重就の院政)の代は、宝暦検地による収奪強化、撫育方設置による経済基盤の強化などを行なったが、どうも財政は好転しなかったようである。世嗣治親の田安家(節姫)との婚姻(1771(明和8)年)、江戸上屋敷・中屋敷の焼失(1772〔安永元〕年)と再建、日光手伝普請(1778〔安永7〕年)などで出費が重なったからである。
 斉房(在位1791年7月~1809年2月〔寛政3年~文化6年〕)の代では、撫育銀の放出、所帯方の緊縮財政などによって借銀を減少させ、財政を改善した。
 だが、斉煕(在位1809年4月~1824年2月〔文化6年~文政7年〕)・斉元(1824年7月~1836年9月〔文政7年~天保7年〕)・斉広(1836年12月10日~同年12月29日〔天保7年〕)の代は、藩主とその係累の浪費と、税徴収における失政などで藩政期最大の財政危機を引き起こした。「文政初年(*1818年)の藩借銀五万貫目への増加......、天保元年(一八三〇)六万貫目、同二年七万貫目に借銀は膨らんだ。財政補填(ほてん)策としてとられた、大富・小富(米入札に名を借りた富くじ)・産物会所一件(藩札を大増刷して領内産物を買い占め、大坂為替〔かわせ〕によって正銀を得た)・萩相場所(米入札)の四つは、甚大なインフレーション(継続する物価の上昇)を招き、天保二年の防長大一揆を引き起こした。四つの政策は廃止され、藩札の三分の二への減価、産物会所一件による札座への借銀の増加と未収銀、大富・小富・萩相場所運上の廃止などによって、大幅な減収となった。」(田中誠二著「藩財政改革論」P.125)のである。(防長大一揆については、詳しくは後述)
 藩財政の大まかな動きを、藩の借銀でみると、1758(宝暦8)年から1821(文政4)年まで4万貫目台で推移し、1822(文政5)から5万貫目台、1830(天保元)年に6万貫目台、1831(天保2)年に7万貫目台、1832(天保3)年に8万貫目台と借銀が増大し、1837(天保8)年には9万貫目台のピークを迎える。
 ここで萩藩(長州藩)後期の財政構造の特徴を整理すると、その第一は、藩借銀の返済のために、士分と百姓に対する馳走米が構造化していることである。
 石川卓美著『防長歴史用語辞典』(マツノ書店 1986年)によると、「士卒の馳走米は正保二年(一六四五)知行高二歩減を発端とし、万治・寛文(*1658~73年)のころからしだいに恒例化して課税の性質を帯び、高一〇〇石につき軽くて五石、重くて二〇石の場合があった。高一〇〇石の四つ物成(*四割の年貢)の手取りが四〇石であるから、二〇石の馳走米を納めると知行半減となる。これを半知馳走米と言った。馳走米は禄高の高下によって等差があり、下に薄くされたとはいえ、扶持米・切米取り1)にも及ぶので賦課対象高は四〇~五〇石に達する。かりに藩士への知行配当総高四〇万石として、これに対する半知馳走米は、四つ成一六万石の半額であるから八万石となり、藩庫にとっては極めて有力な財源である」(P.235)と言われる。
 半知は、繰り返しになるが、「例えば高一〇〇石の家臣であれば、四ツ物成で米四〇石の収入があるとみて、四〇石のうちの半分二〇石を藩が召し上げて、これを藩の借銀返済に廻すことをいう。半知のことを、『二十石懸かり』という。/ただし、二〇石のうちの五石は、旅役出米(たびやくだしまい)といって、江戸番手を中心とする家臣の出張費を拠出するものである。したがって『五石懸かり』という場合、旅役出米の拠出のみで、純粋の馳走はない。」(田中誠二著『萩藩財政史の研究』塙書房 2013年 P.378)こととなる。
 農民が要求された馳走は、前述したように1682(天和2)年のものが初めてであり、石別3匁の銀であった。藩主斉房の代の1800~1809(寛政12~文化6)年には、百姓の馳走米は「三升懸かり」になって、当時にあっては異例のことであり、領民は喜んで「殿様祭り」を始めたといわれる。田中氏によると、「地下馳走米は、『五升懸かり』が限界値であり、その場合高一石の正租米四斗に対し、一二・五%の付加税を意味する。」(同前 P.379)のであった。(5升÷40升×100=12・5%)
 馳走米の構造化は、それに伴い大坂廻米の構造化に連関する。長州藩の大坂廻米は、元禄期(1688~1704年)を境に、大坂米市場に隷属するようになったことは前述したが、それは言うまでもなく藩借銀が大きく大坂などの富商(銀主)に依存するようになったためである。
 田中誠二氏によると、「......藩による大坂廻米には、目標値があったことが知られる。文化度(*1812年)統制以降は七万石、文政四年(*1821年)分以降は九万石、文政十二年(*1829年)分以降は一〇万石である。大坂廻米増加は、藩借銀増加に対応している。」(田中誠二著『萩藩財政史の研究』P.381)という。藩借銀の増加とともに、大坂廻米が増加するようになったのである。
 財政の構造的特徴の第二は、財政が本会計と別会計に引分けられ(分離)、しかも別会計が複数となっていることである。
 財政分離の一つ目は、本勘(いわゆる一般会計で、所帯方が管轄した)と返済方(あるいは借銀方)の引分けである。これは、「宝暦九年(*1759年)閏七月、宝暦改革の開始にあたり、請(うけ *収入)に見合った払(はらい *支出)をするという原則が宣言され......、『本勘』と、家来中・地下(じげ *百姓)馳走米をもって借銀返済に充てる借銀方を引分ける事が命じられた。御所務米銀=『本勘』と、御馳走米銀=借銀方とを引分けたのである。......藩借銀を家中・地下馳走米によって返済するという原則は、これ以降幕末・維新期まで引継がれている。」(田中誠二著「藩財政改革論」P.121)のであった。
 これについては、1791(寛政3)年に、「当職(*国家老)毛利就兼が『上(かみ)御借銀は御家来・地下馳走米を以て利且納(りかつのう *元金の一部と利息を返済すること)相成り行く形ニ候へ共、元銀ハ悉皆(しっかい)上々様御遣払(おつかいばらい)の銀子(ぎんす)ニて、下(しも)江(え)御被(おんかづか)せ〔*下々へ負担させる〕はこれ格別に成られる形これ無き様の参り懸り候』と批判しているように、『上』『上々』(藩主とその係累を指す)が遣(つか)って出来た借銀を家中・地下に『被(かづか)せ』る(馳走米を課して負担させる)のは、本来的にはおかしなあり方である。藩主家のいわば浪費を、家中・地下が負担している」(同前 P.382~383)からである。
 財政分離の二つ目は、撫育方の本勘からの引分けである。これは、前述したように重就の時代の「宝暦検地」の目的でもあった。撫育方は、宝暦検地の際にできた増石4万石余を基本財源に、一般会計とは別に設けられ、「藩主の許可のない限り支出を許さない、いわば藩主裁量経費である。高四万石からの収入以外にも、『手置銀』(綿・木綿運上、藍運上銀ほかの浮物銀)、没収減少石(家臣からの没収・減少石を管理、のち本勘に管理替)、山銀(御立山=藩有林の立木売却益、家臣への『御預け山』立銀、それに笠戸山銀)、宝暦検地以降の蔵入新開・畠田成による増石、それに撫育方馳走米(家中増石分からの家中馳走米、同増石ぶんからの地下馳走米、蔵入増四万石からの地下馳走米)などによる収入がある。とくに撫育方馳走米は、半知・五升懸かりで七五〇〇石もあり、借銀から自由で困ってもいない撫育方が馳走米を召上げるのはおかしい、と評判の悪かったものである。」(同前 P.383)と言われる。2)
 財政分離の三つ目は、本勘を江戸方請と地方請(国元請)に引分けたことである(「地江戸(じえど)引分け」という)。「前者(*江戸方請)は江戸御用諸役が管轄し、後者(*地方請)は国元の所帯方役が管轄する。前者の財源は、『本所務』とも呼ばれているように、石高に懸かる正租(田方物成と畠方物成)であり、後者の財源は、『小物成』と呼ばれ、浮米ほかに付く口米(くちまい)・延米(のべまい)3)、酒税、紙売上益等のいわば雑税」(田中誠二著『萩藩財政史の研究』P.384)である。
 1772(安永元)年に、江戸上屋敷・中屋敷が類焼し、さらに借銀が重なり、翌年から「仕組」(財政整理・行財政改革)が命じられ、3年間の半知と5升の地下馳走米が下された。しかし、1778(安永7)年には、日光手伝普請がかけられ、さらに10年間の半知令(地下馳走米5升も)が命ぜられる。臨時出費が続いたため、新借銀がさらに増加する(この間の1782〔天明2〕年8月に重就は隠居し、治親が家督を継ぐ)。
 そこで、1784(天明4)年に、「本勘」の中で、地方(じかた *国元)と江戸方に引分ける「地・江戸引分け」が行なわれる。地方は当職(所帯方)が、江戸方は当役(御用所役)が責任を持ち、それぞれ四分の一を節約して、臨時出費に充てて新たな借銀はしない―というものである。
 しかし、新借銀はなかなか止まず、前述の1791年の当職・毛利就兼の批判が出る。この批判もあってか、毛利斉房が新藩主に就いた「寛政三年(*1791年)撫育方馳走米四二四貫目が返済方へ、翌年同じく四五四貫目、そして寛政一二年(*1800年)撫育銀一掃の五三二三貫目が借銀返済のために放出された。借銀額の減少によって、家臣馳走米が一〇石懸りに(三ツ成支給)、地下馳走米が三升懸かりに『宥免』された〔*減額された〕。後年村田清風が『永久の目安』と称(たた)えた馳走米の減額であり、約一〇年続いた。また斉房の代には、このほかに『所帯方一途(いっと)地方捌き』が行われた。これは享和二年(一八〇二)から文化七年(一八一〇)まで行われた、本勘の地・江戸引分け下での国元(当職―同手元役―所帯方)による財政主導権の掌握である。それまで江戸方請払(*収支)は、藩主―当役―同手元役―御用所役が掌握していたのを、国元の所帯方が輪番で御用所役を兼帯することによって、江戸方の財布の紐(ひも)を締め上げたのである。『御納戸銀』や『江戸方修補銀』(これらは利殖されて利子収入があった)などの『遊ひ銀』を借銀返済に回すことも行われた。」(田中誠二著「藩財政改革論」P.124)のであった。そして、斉房時代のこの手法は、天保の財政改革にも継承されるのであった。
 本会計(本勘)と別会計の分離は、いわゆる「独立採算制」をとることにより、赤字体質の分野の収支状況を改善する思惑があったと思われる。だが、そのことにより、かえって全体収支の構造が見分けにくい形にもなっている。
 実際、特別会計は返済方・撫育方だけでなく、さまざな役所(大納戸方・御厩方・郡方・札座など)の貯えを「修補銀」4)と称して、所帯方はおろか、家中・地下へも貸付け、利息をとって、役所の雑費や構成員への心付けに使っているのであった。そもそも役所は本来、利潤を得るためのものではなく、共済金的な性格をもつ「修補銀」を貸し付けて利潤を得ることもおかしなことなのである。ここでは、「独立採算制」が裏目に出て、全体の財政収支の改善ではなく、逆に個々の役所の狭い範囲で、しかも構成員の利益のために、黒字部分が金融活動に利用されているのである。 
 財政の構造的特徴の第三は、藩札の利用である。
 萩藩は、1677(延宝5)年に初めて藩札(延宝札)を発行し、その後、1730(享保15)年に享保札を発行した。だが、「とくに、享保札は、家臣救済の名目で銀札を乱発したこと、享保十七(一七三二)年の激甚な虫害で二九万二七四〇石余の損害をこうむったことなどによって、領内に信用不安が蔓延したので、元文五(一七四〇)年一月に実質九年間で通用が停止された。」(『山口県の歴史』1998年 P.168)のであった。
 宝暦の改革でも、銀札が発行された。「宝暦三年(*1753年)八月、長州藩は、『札遣(ふだつかい)仕法之(の)覚』をだし、再度、銀札を通用させることにした。この銀札は、一〇カ年で約五〇〇〇貫目に達したのである。同藩は、享保札の失敗にかんがみ、領民に信用不安を生じさせないため、札座引替米として毎年一万七七七四石余を支出し、正銀四九五貫目を得て銀札の引替準備銀とした。......今回、長州藩は、城下町萩で櫨?(はぜろう)を取りあつかう豪商花田治左衛門(じざえもん)に札座を請け負わせ、領域経済の拠点である萩渡り口(萩市)・山口(山口市)・瀬戸崎(長門市)・船木(宇部市)・波野(田布施町)・鹿野(周南市)に札座を設け、銀札の通用をはかり、享保期と同様に諸上納銀を銀札で上納させることとした。/安永五(一七七六)年十一月、長州藩は、札座の請負を花田治左衛門から萩の豪商山中六右衛門・熊屋五右衛門・大黒屋六兵衛・重村吉左衛門・田村金右衛門の五人に変えた。以後、長州藩は、享和三(一八〇三)年二月に札座の五人を為替御用聞(かわせごようきき)とし、大坂の豪商広岡久右衛門と為替の取組みを行わせ、国産品を銀札で調達し、大坂で売りさばいて正銀を得るという仕組みをととのえた。これは文政十二(一八二九)年の産物会所の設置以降に展開する産物取立政策のさきがけをなすものである。」(同前 P.169~170)といわれる。
 藩札とは、江戸時代、諸藩が幕府貨幣の不足を補い領内の通貨量を調整するため、また自藩の財政窮乏を救済する狙いで発行した紙幣のことである(幕府の直轄地では公的な札は発行されなかった)。藩札の発行には、原則として幕府の許可を必要としたが、それが制度化されたのは1730(享保15)年で、藩札の使用期限は20万石以上の藩で25年、20万石未満は15年とされた。藩札は、幕府貨幣との関係から、金札・銀札・銭札(ぜにさつ)がみられたが、銀札が最も多かった。だが、そのほかにも米札(べいさつ)・綛糸札(かせいとさつ)・轆轤札(ろくろさつ)・鯣札(するめさつ)・昆布札(こんぶさつ)などの特殊なものもあった。
 藩札の発行には、各藩は札(さつ)奉行などの職制を設け、藩内外の富商が登用されて札元(さつもと)となり、その商人信用に裏付けられてその流通が順調に行なわれ、それにより藩当局の国家信用も強化される場合が多かった。また、藩札は要求に応じて正貨である幕府貨幣と交換することが原則であり、そのため領内各地に藩札会所(銀札会所、札座など)が置かれた。
 しかし、江戸時代中期以降、藩札が領内特産物(木綿・砂糖・紙・青蓆〔あおむしろ〕・?〔ろう〕など)の藩専売制との関係で用いられ、それら国産品を産物会所(国産会所)で買い占めるための資金として利用される事例が多くなった。
 また、藩札は幕府貨幣と兌換される文言が記載された場合が多いが、藩財政の窮乏を打開するために乱発され、準備された正貨をはるかに上回る量の藩札が発行され、正貨と藩札の交換比率である札価が大幅に下落することも稀なことではなかった。このため、インフレーションを起こし人民収奪を強め、藩経済・藩財政をしばしば混乱させた。このため、たびたび百姓一揆が各地で起こった。
 近世最後の50年間(1822~1872〔文政5~明治4〕年)は、和市(売買価格)の変動が激しい時期といわれるが、萩藩も藩札の大増刷でインフレを起こし財政を不安定にしたり、あるいは藩札をうまく利用して攘夷運動などに利用したりした。
 長州藩(萩藩)では、幕末の50年の間では、3回の藩札大増刷があった。①1829~31(文政12~天保2)年、②1858~64(安政5~元治元)年、③1868~69(明治元~2)年の3回である。
 萩藩(長州藩)では①の時期、「一万五〇〇〇貫目分の藩札の第一次大増刷を行い(出札合計三万八〇〇〇貫目)、領内産物の買い占め、大坂為替を使っての正銀(しょうぎん *それ自身、額面と同じ値打ちをもつお金で、紙幣に対していう。銀本位制では銀貨)取込みを行ったが、藩札価が三分の二に下落した。藩札の取込みが行われ(消札・封印)、天保一〇(*1839)年には出札二万四五八七貫目まで減少して小康を得たが、幕府天保銀発行による相対化もあったであろう。この失敗は教訓とされ、大増刷はしばらく控えられた。」(田中誠二著「藩財政改革論」P.128)といわれる。藩札は決して「打ち出の小づち」ではなく、兌換準備銀がなければインフレーションとなって、その反動がしっぺ返しとなるのである。
 ②の時期、萩藩は、「二万五〇〇〇貫目の第二次大増刷を行い(出札合計四万一九六一貫目、金一両=藩札七五匁の和市〔*レート〕で五五万九四八〇両余)、産物取立、交易拡大、山口移鎮〔*藩主と藩庁の移動〕、攘夷戦争準備・実行などに使われた。今回は米価高値・『後ろ金銀』の手当てがあり、また幕府悪鋳・大坂銀安下で、相対的に藩札の流通を可能にした。」(同前 P.128)といわれる。
 「後ろ金銀」とは、藩札との交換を可能とする準備金(正貨)である。①の時期の失敗を教訓にして、藩札の乱発にならないように準備金を用意したと思われる。しかも、この時は幕府の悪鋳などの条件もあり、相対的に札価の下落を招かなかった一因ともなったのである。しかし、それにしても、本会計と撫育方などの別会計が連結されておらず、総合収支が不明ではあるが、藩札の準備金を用意できたことからみて、いかに撫育方など別会計が黒字であったかを逆に証明しているのである。このことは、総合的にみると、藩が人民からの収奪でいかに潤っていたかを示すものでもある。
 ③の時期の「第三次大増刷は、明治元―二年(一八六八―六九)の戊辰戦争期に行われたもので、明治三年三月出高(でだか)一三万貫目(金一両=藩札六四匁の和市で金二〇三万一二五〇両)となった。元治元年出高から八万貫目を超える大増刷である。戊辰戦争の戦費調達に使われたとみられる。新政府金札発行当初の安値、米価騰貴、『後ろ金』の準備と藩札の取り込み、産物・交易政策の展開、などによって藩札の流通を可能とした。」(同前 P.128~129)といわれる。
 明治維新後の1871(明治4)年の調査によると、全国諸藩の約80%にあたる244藩で藩札が発行された。同年の廃藩置県の際に、藩札回収令が発布され、政府が買い上げ、約8年の歳月を費やして、1879(明治12)年6月に回収が終った。萩藩(長州藩)の藩札処理もまた、新政府によって担われることとなった。

注1)扶持米(ふちまい)とは、蔵米から支給する分限帳記載の禄米のことである。知行地を給される武士と違って、下級武士や中間(ちゅうげん)などには藩の直轄地からの収入である蔵米から支給された。一人扶持は一人の食糧を意味し、長州藩では、一人扶持は1日5合、1年1石8斗が定則であった。切米(きりまい)とは、知行高のほかに職務俸として、または特別の事由によって手当米を加給する分限帳記載の禄米である。知行は、知行地給付の場合であっても蔵米支給の浮米(うきまい *特定の土地と結びつかないから浮米と呼んだ)の場合であっても、必ず「高〇〇石」と表現するが、切米はただ「〇〇石」と「高」を冠しない。
 2)幕末の長州藩は急進的な攘夷方針をかかげ、討幕へいたるのだが、それ以前に、「毛利氏は朝廷からの依頼をうけて、幕府とのあいだの周旋に乘り出すことになり、翌文久二年(*1862年)には"京都周旋費"として、毎年一万両の支出を撫育方に命じた。撫育方の金を国事に使用したのはこれが最初であるが、この周旋費の支出が皮切りとなって、その後の軍事費など、臨時的支出はそのほとんど全部を撫育金によって支弁した。とくに徳川氏との関係が悪化してからは、人的戦力の劣勢を優秀な武器の力で補うことが必要となり、慶応元年(*1865年)以降、イギリスからの銃砲購入費に九万八八八〇両、軍艦(三隻)購入費に約一一万両を支出したほか、慶応三年の京都出兵費、明治元年(*1868年)の東北戦争、翌二年にかけての箱館戦争などの軍事費もみな撫育方の貯金に頼らざるをえなかった。しかも、明治四年(*1871年)の廃藩置県にあたり、宝蔵にはなお一〇〇万両の金があまっていたので、そのうち三〇万両を毛利家にとどめ、七〇万両を大蔵省を経て政府へ上納した」(『山口県の歴史』1971年 P.201)といわれる。
3)口米とは、田租徴収に当り、関係役人の雑給やネズミ喰いなどの補充のために、年貢米1石について3升、すなわち3%の付加をして藩庫に収める雑税。延米(のべまい)とは、収納用の斗升(とます *一斗入りの枡〔ます〕)の容量と量り方(はかリかた)の操作によって自動的に余計に賦課される名目外の税米。「貞享年間(1684~88)収納斗升(すのとます)を改調して入実(にゅうじつ *実際の収納量)を一斗〇七〇一八七余とし、更に量り方に操作を加えて、入実を一割増しの一斗一升になるようにした。これを貢米一斗として徴収するが、増徴される一升部分を延米といい、貢米一石については延米一斗となるので斗延とも斗延米とも」(『防長歴史用語辞典』P.280)いわれる。この延米は三割部分が藩庫に入り、残りの七割は宰判(他国の郡役所に相当)の経費に充当した。
4)修補銀とは、もともと武士を対象としたものであった。「高率の馳走米がつづき、生活に行き詰まった武士のなかには、表道具の刀を質において、"竹光(たけみつ)"で体裁(ていさい)をごまかすものもあった。禄高相応の馬も飼えず、槍一筋、鎧(よろい)一領の手入れもおろそかになりがちであった。馳走米が減免できないかわりには、せめて武具修補料なりとも補助して、武士の誇りをもたせてやろうとの親心も、背に腹はかえられないとの譬(たとえ)のとおり、武具には回らないで、腹のなかにおさまってしまうことが多かった。」(『山口県の歴史』1971年 P.205)と言われる。このため、修補制度は武士を対象とするものとしては廃止となる。その代わり、修補制度は農民を対象とするものとなる。そこでは、地方ごとにさまざまな目的を定め、その目的のために資金を準備し、地下の村役人に運営させ、困窮した農民の生活のたしにした。「貧農救済のための修補には、(1)直接に困窮者の救済を目的とした救民修補、(2)農民の負担を軽減し、再生産を援助することを目的とした土木関係の修補、(3)地方の特産振興を目的とした修補など」(同前 P.206)があった。これらは、一方で過酷な収奪を行ない、他方で恩着せがましく資金援助をして統治する支配者の狡猾さがうかがえる。しかも、修補制度は藩の資金だけでなく、村民の寄付金も含まれており、庶民の隣保互助の精神も利用されているのである。

C 家臣団の構成
 
 毛利氏は豊臣政権の時に、五大老の一人で、安芸・周防・長門・石見・備後・出雲・隠岐・伯耆の8カ国、112万石を領有する大大名であった。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで西軍に属して戦い、これに敗れると、周防・長門に減封された。
 毛利輝元は同年10月に家督を長男・秀就(ひでなり)に譲るが、国元で藩政を掌握する。そして、同年11月に、毛利元就の4男・穂田元清(ほいだもときよ)の長子である秀元を長府(3万6200石)、元就の次男である吉川元春の次男・吉川広家を岩国(3万石)、さらに1617(元和3)年に、輝元の次男・就隆(なりたか)を徳山(3万石)に分知した。
 しかし、1634(寛永11)年閏4月、将軍家光による朱印改めに際して、長府藩主・毛利秀元と下松(くだまつ)藩主(後の徳山藩主)・毛利就隆は、独自に領地朱印状を獲得し、萩本藩からの自立をはかろうとした。だが、これは実現しなかった。
 他方、岩国藩では、吉川広家が家康や秀忠と懇意であったため、息子広正の実子証人の提出が免除されていた。これが、1617(元和3)年の将軍秀忠の上洛に際して、諸家の証人改めが行なわれ、広正証人の未提出が指摘された。そこで急いで実子広正が本藩主秀就にしたがって江戸に赴くように手配した。しかし、広正の実子証人と江戸在府は実現しなかった。その後も、種々工作をおこなったが、広正は家光への「御目見え」はできたが、ついに諸侯の行なう「月次之御出仕(つきなみのごしゅっし)」は許されなかった。こうして、岩国藩は実質は支藩でありながら、形式的には支藩の体裁は整わず、萩藩の家来という位置づけが続き、1870(明治3)年3月になって、ようやく諸侯に列するようになった。
 なお、1653(承応)年、長府藩主・綱元は秀元の次男・元知(もととも)に、長府領内の清末(きよすえ)1万石を与えて分知した。これにより、長府・徳山・岩国・清末の4「支藩」が成立した。図表3が示すように、4「支藩」の高は合せて18万3022である。

 (1)分限帳にみられる家臣団構成
 萩藩(長州藩)の家臣団構成は、元和期(1615~24年)の頃に、基本が形成される。しかし、その前提としての1610(慶長15)年検地は、農民の年貢収奪を強化し、欠落(かけおち)百姓を生み出し(逃散)、生産地を荒廃させる。そのうえ、幕府の手伝い普請役の押し付けは、藩財政をいっそう困難にさせ、1625(寛永2)年の検地を必然化させる。
 この検地は、藩の蔵入地を増大させ、家臣の知行地を対照的に減少させ、さらに知行地入れ替えもあって、知行地を給付される家臣の「自立性」をいっそうを弱め、幕藩制的ヒエラルヒーに則した家臣団の原型を作り出す。
 市村祐一氏によると、1622(元和8)年の分限帳1)での家臣団構成は、「まず一般的軍団編制としては、一〇〇〇石以上の家臣のうち三支藩主と一門を含む二一名が筆頭グループ(後の寄組)であり、主戦闘員である五〇石以上の家臣は五〇名ずつ六組のグループ(大組―各組平均一万七〇〇〇石)に編成され一〇〇〇石以上の組頭がこれを統制している。藩主の側近には母衣(ほろ)・使番(つかいばん)を含み三〇名前後からなる三グループが配置され、舟手組として村上氏を中心とする水軍五組があり、定詰衆は一〇〇石以下の家臣三五名がこれに宛てられ、このほか五〇石以下の少身衆グループ、無役衆・組大工鍛冶グループにわかれている。」(同著「長州藩における家臣団形成過程」―『日本社会経済史研究』近世編 吉川弘文館 1967年)のであった。
 ここでは、200石台と50石以下の家臣が最も多く、50~400石の家臣は427名で全体の53%を占め、家臣団の中核となっている。
 それが、1652(慶安5)年の分限帳(ぶげんちょう)によると、家臣団構成は、図表3のようになる。
 日本の近世封建制は、中世のそれとは異なり、陪臣制を容認した。陪臣とは、「家来の家来」で、たとえば将軍の家来は大名や旗本などであるが、その大名にも家来がおり、将軍からみた場合、大名の家来が陪臣にあたる。これは鎌倉時代には認められておらず(当時は一般に「家の子・郎等」と称されていた)、日本近世特有のものである。これにより、ピラミット型の重層的支配構造が成り立ったのである。
 図表3によると、当時の家臣のうち、「知行取り」は907人で、その知行高は、計45万3765石である。これから、支藩の知行高計18万3022石を差し引くと、萩藩の家臣の知行高は計は27万743石である。これは、萩藩の高(寛永2年の検地結果では、防長2国の石高が65万8299石余なので、支藩の高を差し引くと)47万5277石の57・0%を占める。
 分限帳の冒頭は、長府・徳山・岩国の3「支藩」が置かれている。次に数千石から一万石を超える一門がある。これは三丘宍戸(ししど)家・右田毛利家・厚狭(あさ)毛利家・吉敷(よしき)毛利家・阿川毛利家・大野毛利家と、須佐益田家・宇部福原家である(後世には、一門6家と両家老とされた)。次に、一千石以上の大身(たいしん *身分が高く俸禄が多い人)からなる寄組(よりぐみ)が続く。この寄組からは、以下の諸組の頭が選ばれる。以上が、上層身分である。
 以下には、江戸定詰(えどじょうづめ)、藩主の供廻りをする手廻り組、足軽部隊を率いる物頭組が続く。そして、次が分限帳に載る家臣団で最大の大組(おおぐみ)が続く。大組(後に八組ともいう)は、一般の馬廻り(大将の乗った馬のまわりに付き添う護衛の騎馬武士)に相当するもので、家臣団の中核である。次の船手組は水軍である。
 家臣団の内では、3支藩を除くと、総数904名中、最も多いのは大組である。その数664名は全体の73・5%であるが、その総知行高は全体の30・0%を占めている。したがって、平均知行高は215石にしかすぎず、序列は手廻組(藩主の護衛)よりも落ちる。

 図表3  慶安5(1652)年分限帳の構成
 名称    組数  人数  知行高計(石) 平均知行高(石)
 支藩主 3   183022 61007
 一門 8 60000 7500
 寄組 12 23050 1921
 江戸定詰 18 5005 27
 手廻組    2 48 10838 226
 物頭組 1 25 11050 442
 大組 8 664 142785 215
 船手 3 37 11146 301
 用方 60 1494 25
 検断 14 268 19
 大工 21 466 22
 平郡加子 441
 寺社 4200  
計     ―   907 453765 ―               
出所:森下徹著『武士という身分』P.12

 この分限帳には、知行取りだけでなく、その末尾に「扶持方・切米遣(つか)わす者」も記載されている(図表4)。扶持米は知行地に対する語で、蔵米から支給する分限帳記載の禄米のことである。扶持方とは、知行地をもたない小身衆のことである。(切米とは、季節に応じて、何度かに分けた扶持米のことで、後には金銭に替えて支給することもあったという。)
 ここには、切米取りの侍衆が三百数十人、足軽や中間など武家奉公人が千数百人、さらに医者や細工人、船頭・加子(かこ)などの専門技能者などさまざまな職種のものがいた。つまり、武士も非武士も混在しているのである。
 森下徹氏は、「どこまでが武士か」と設問し、1718(享保3)年の規定を参照して次のように述べている。「これ(*享保3年の規定)は慶安四年(一六五一)に出された、足軽・検断・中間・カ子(*加子、水主)・御手大工・御手職人などに対する木履(ぼつくり)使用禁止を再確認したものである。ただし今回のには理由が付されていて、『御家来大小身の面々より末々(すえずえ)』は『侍(さむらい)一等』であるが、足軽以下は『匹夫一等』、御手職人は『工職一等』であって侍ではないからだ、という。つまり家臣団は、『侍』、『匹夫』、『工職』の身分別には三つのグループからなるという認識が示されている。」(森下徹著『武士という身分―城下町萩の大名家臣団』吉川弘文館 2012年同前 P.15)というのである。

図表4  慶安5(1652)年「扶持方・切米遣わす者」
 名称           人数  知行高に直し(石)  平均(石)
 扶持方・切米取の侍衆   352 12327.2 35
 同医者・外科 6     438.5 73
 茶道 12     686.2 57
 鷹匠 7 266 38
 膳夫 19 817 43
 陸の者 132 3736.6 28
 掃除坊主 42 478.4 11
 諸細工人 62 1058.4 17
 船頭  31 609.8 20
 弓の者 140 2580 18
 鉄砲の者 504 7551.6 15
 厩の者 76 1155.2 15
 中間 1000 13262.8 13
 煮方の者 47 714.4 15
 加子 250 3470.3 14
 駕籠の者 21 407 19   
  計 2701 49559.4 ―  
 出所:森下徹著『武士という身分』P.14

 藩の武装力としては、「侍」と「匹夫」とに大別されるが、その「侍」の中でも上層と下層に分けられる。家臣の台帳が知行取と切米取とで別々であったように、知行が与えられているか否かは、大きな身分上の標である。つまり、役(たとえば軍役、普請役など)は、知行に応じて与えられるわけであり、その意味では知行取であることが武士の条件であるといっても過言ではない。

注1)分限帳(ぶげんちょう)とは、知行(ちぎょう *領地)を給される家臣について、組ごとに知行高と名前とを記した帳簿である。これは、数年おきに作り替えられている。しかもそこでの記載順は筆並(ふでなみ)といって、家臣団内部での地位を表現するものともなっており、家臣の序列が記された基本台帳であった。

 (2)家臣団の中核=大組の任務
 江戸初期から比べると、もっとも大きな変化は、大組の拡大と再編である。大組は、元和期(1615~24年)には6組で、各組平均50名程度であったのが、1653(承応2)年には、8組に増加し、各組構成員も延宝期(1673~81年)に80名以上に増員されている。
 1660(万治3)年に、萩藩の基本法典ともいうべき「万治制法」が作成され、家臣、寺社、領民に向けた法が定められた。大組は家臣団の中核をなすものであるが、「万治制法」の中に、大組などの組頭に対する指示として、次のような条文がみられる。

一 与頭(くみがしら)・番頭ならびに組の証人心得(こころう)べき事
 右与頭は諸士の司(つかさ)たる上は、礼儀正しく法度(はっと)を守り、組中の諸士 
 と親疎なく一和せしめ、諸役・番等甲乙(こうおつ)無く〔*差別なく〕申し付けくべ
 し、すべて何事に依らず、依怙(えこ)私なく理(ことわり)に随い、その沙汰有るべ
 し......

 ここで、組頭が組中に割り当てるものを「諸役・番等」と表現している。この諸役とは軍役や普請役などであり、番とは藩主の身を守り、その居住地を守護することである。そして、これらの任務は知行高に応じたものとして割り当てられる。
 森下徹氏によると、「普請役こそが平時における軍役とみなされていた」とし、「普請役に対し、大組の家臣は知行高にほぼ対応した人足を知行地から拠出していたことはたしかである。その限りでは、供連(ともづ)れを調達して戦陣に向かうのと同じということになる。」(同著『武士という身分』P.37)のである。
 関ヶ原以降、島原の役を除き軍役はほとんどなくなるが、その代わり17世紀前半には普請役が多くなる。しかし、萩藩に対する幕府の普請役は1649(慶安2)年の江戸普請を最後になくなり、領国の普請役も、17世紀後半にはしばらく続くが、それも次第に減少して来る。17世紀半ばを境に、その普請役に入れ替わり、番役が重要になってくる。
 江戸番手は八番体制であるから、順番が回ってくるのは8年に一回である。しかし、江戸に登らない時は、国元の番役、すなわち城番を行なった。江戸番手に赴く1組を除いた7組が、1カ月交代で城番を行なうのであった。この城番とセットとなったものに、火消し役があった。大組7組は、1カ月ごとに交代で、城番とともに火消し役を担った。火事ともなると、城番は城に駆け付け番所を守り、他の6組は月交替で火元に向かう3組と、所定の部署に詰める3組に分け、大組総出で対処した。
 私的主従制の原理をベースとした封建制は、家来にとって、江戸番手―城番(宿直)の守衛、ひいては藩主の護衛が究極の任務であり、火消し役もその関係からセットとした重要な任務であった。その他には、搦番(からめばん)といって、城下で暴力事件が発生した場合、諸口を封鎖する勤務もあった。ただし、搦番は月番で組全員が勤めるものではなく、各組数人があらかじめ決められており、配置についた。
 藩士の任務としては、番方を本務とするが、それ以外にも役方(役所勤め)がある。萩藩の場合、一般にいう国家老を国元加判(くにもとかはん)、江戸家老を江戸加判と呼んでいる。加判衆の基本的任務は家臣団の統制・管理である。ほかに国元には領内の統治全般にかかわる当職(とうしょく)と呼ばれる家老もいた。これらはいずれも一門クラスが勤める場合が多い。
 江戸家老を頂点とする江戸藩邸政府を行相府といい、国家老を頂点とする藩地の政府を国相府といった。江戸政府の江戸家老は当役といわれ、藩地の国家老は当職とよばれた。この当職の下に当職手元役があり、この下に多数の職制があり、各奉行や代官もこれに属した。諸役所が集まった機関は蔵元といわれ、もともと二の丸にあったが、後に三の丸に移った。蔵元には、米方・呉服方・濃物方(こまものかた)、貸銀方や金銭出納に関する内勘方(ないかんかた)・銀子方、諸役人を監視する検使役などが集中していた。また、様々な役所とともに、種々の蔵も集中していた。蔵元のある屋敷の最深部には、御書院や当職手元役所があり、当職とその直接の配下である手元役などが執務する場所である。また、加判衆が寄合する所でもあった。

(3)家臣団の重層的階層構造

 先述したように、知行取の内は、下地(したじ *知行地)を与えられた者と、浮米(うきまい *知行高に相当する年貢米)を給付される者とに二分される。前者は地方(じかた)知行といい、後者は蔵米知行といわれる。
 江戸時代は、時代が下るにしたがい、土地生産力も向上し、商品経済も発展する。これにより、各藩とも表向きの表高と実高は次第に隔離して来る。したがって、藩財政の改善のために、これを利用するのが一般的となる。すなわち、家臣への知行量を減らし、蔵入地(藩直轄領)を増やして、藩財政の赤字を減らすというのである。このため、扶持米取りの武士が増えるのであった。
 長州藩のこの点について、田中彰氏は、「支藩のぞいた宗藩(*本藩)のみの家臣団への知行地(給領)の比率は、寛永二年(一六二五)当時は約五十七%、幕末近くの文政から安政期(十九世紀二〇~五〇年代)ころには二十八%余となっている。地方(じかた)知行(*家臣の地方領地)は時代とともに絶対的にも相対的にも減少しているのである。蔵米取りの一般化する傾向にある江戸時代にあっては、比較的地方知行の比率の高い藩のひとつといえるだろう。」(同著『幕末の長州』中公新書 1965年 P.14~15)と評価している。それでも、57%から28%への激減である。
 さらに諸組には、知行取と浮米取の別とともに、石高の高の違いによる身分差もある。図表5(田中彰著『幕末の長州』P.15)は、1852(嘉永2)年の調査になるものである(ただし、上士・中士・下士・準士の区別は、明治元年の官制改革以後のもの)が、諸組の内での石高による階層が明確である。

 図表5   長州藩の家臣団構成(主な格と人数)
 格の各称   石高    人数             明治元年12月以後 
 一門            6(人)             上士
 二家老           2                上士
 寄組 1000石以上 62               上士      
 大組(八組)              (大組計1378人)  中士上等
       100石以上   569
70石以上   177
50石以上 264
        40石以上   368               
船手組    (船手組計29人)  中士上等
100石以上   11
70石以上 9
50石以上 7
40石以上 2                       
 遠近附                 (遠近附計216人) 中士下等
100石以上   2
        70石以上 3
50石以上 28
40石以上 37
39石以下 146             
寺社組                 (寺社組計87人) 中士下等
       100石以上   9
70石以上 6
50石以上 16
40石以上 11
39石以下 45                       
 鷹匠     39石以下     (鷹匠・鵜匠合せて7人)  下士上等
 鵜匠 39石以下                   準士下等     
 無給通             (無給通計512人) 下士上等
70石以上    6
50石以上 18
40石以上 44
39石以下 444
 船頭                  (船頭計50人)  下士上等                 
        70石以上    1
50石以上 3
40石以上 1
39石以下 45
 膳夫              (膳夫計25人)   下士上等    
        50石以上   3
40石以上 4
39石以下 18
 江戸徒士   (江戸徒士計75人) 準士下等
40石以上    2
        39石以下 73
 地徒士 (地徒士計55人) 準士下等
        40石以上    2
39石以下 53
 三十人通 (三十人通計55人) 準士下等
40石以上 1
39石以下 54
 陣僧 39石以下 39 準士下等
 大坂船頭 39石以下 1              準士下等    
 諸士雇    118              準士(後に下士下等)
 足軽以下 2958    
総計5675人
                   (出所:『藩史大辞典』、『防長回天史』など)

 他に陪臣(上士などの家来)が、500~600人ほどに上ったといわれる。
 ところで、家臣団の中核をなす大組は、1652(慶安5)年の代替わりの年に、1組80人ないし80人強で構成される8組(堅田組・益田組・佐世組・柳沢組・門田組・桂組・山内組・清水組)と定められた。
 それ以前の1645(正保2)年の分限帳では、大組は6組363人と、江戸組2組63人であった(計426人)が、その構成内容をみると、最も多い200石台で3割近くを占め、それも含めた200石台以上で6割を超えていた。他方、100石台も100石未満も、それぞれ2割を切っている。
 それが、1652(慶安5)年の分限帳(大組664人)では、その構成内容は、寄組から任命された組頭は1000石以上で、中には4500石や3000石の者もいた。この層は全部で25名前後でしかない。大組の中堅層は、200石台102人、300石台66人で、全体の3割近くである。しかし、圧倒的多数は大組全体の半分近くを占める下層部分で100石未満である。内訳は、50石台が最も多く176人、次に60石台・70石台が多い。
 このことは、大ざっぱに言うと、構成員の多くが200石台以上から、100石未満へと下降したことを意味する。
 この背景には、藩財政の困窮と商品経済の発展とともに町人身分の台頭がある。この代替わりのわずか6年前の1646(正保3)年には、藩主秀就は、財政ひっ迫につき、家臣への知行の2割を収公し(2割カット)、しかも800石以下の給地は藩に収め、浮米に替えて給与することとなっている。
 足軽・中間(ちゅうげん)を武士とみるか、それとも「日用(ひよう)」層(日傭層)としてみるかは、専門家でも意見が分かれるが、今日では後者の「身分的中間層」として捉える見解が多いようである。
 石川卓美著『防長歴史用語辞典』で「足軽」をみると、「防長移封以前は、弓・鉄砲・槍組もみな中間として編成されていたが、移封後に足軽組を組織して物頭役を置き、中間とは切り離して別の一階級とした。足軽には手回足軽・先手足軽・城代付足軽の三種類があった。手回足軽は藩主の護衛に任ずるため秀就の時に設けられたもので、秀就は足軽が人数が多いのにもかかわらず、各組頭の支配から離れて分散し、組織化されていなかったのを憂い、身体強健で弓銃にすぐれた者を選抜して二組に分け、大組の士を手回物頭に任じてこれを掌握させた。その後四組を加えて六組とし、一組を二一人で構成し総員一二六人とした。後にまた改めて弓隊を四四人、銃隊を九九人と定めた。先手足軽ははじめ弓隊一〇〇人、銃隊四七七人であったが、後これを二五組に分け、各組二一人とし総員五二五人とした。そのうち五組は弓隊、二〇組は銃隊で、各組に組頭として大組の士をおき、さらに寄組の士が大頭として全体を統轄した。城代付足軽は城代に付属し一組二一人をもって構成され、城内の警備にあたった。これらの足軽は秀就の代には名字を許されていたが、次の綱広の代には弓隊の者のみが認められ、銃隊の者は書上げ名字しか認められなかった。禄高も扶持一人日別一升、米一〇石以下であった。......」(P.7)といわれる。
 同じく「中間」を同辞典でみると、以下のようになっている。「防長移封以前に約八四〇人あったが、移封後にこれが足軽・中間二階級に分けて組織されるに及んで、寛永一四年(一六三七)に五四〇人となり、のちしだいに増加して元文三年(一七三八)には一二〇〇人をこえ、足軽以下の総員数二八八三人となった。中間には、大組中間、蔵元付中間、地方組中間、百人中間、新百人中間、新中間などの別があった。大組中間は十三組中間とも称し、安芸吉田以来隨従の家筋で、足軽と共に組ごとに総代二人を選び、歳首にあたっては殊に藩主への謁見を許された。この中間は特に遇されて、万治制法にも『吉田以来古参の筋目の中間共、猥(みだりに)分散せざる様憐愍(れんびん)加えるべき事』と規定されている。その員数は四〇〇人で、これを一三組に分け、うち一〇組は三一人、三組は三〇人をもって構成された。蔵元付中間は二八九人あり、棒・鎌杖・槍・長刀・居合・捕縛などの武技を学び、諸局の手子役、または直目付・評定所などの打回りを勤めた。地方組中間は二三五人あって槍の修練を行い、蔵元付中間と同様に諸局の手子役を勤めた。百人中間は盗賊方とも称し、一〇〇人を二組に分けて一組を五〇人とした。新百人中間は盗賊方新組ともいい、また百人中間と合せて上両組とも称した。新中間は下両組とも称し、六八人で一組を編成した。中間の各組には無給通の士を組頭に置き、また幕末には足軽とともに銃隊・砲隊に編成された。」(P.238)といわれる。
 足軽や中間の任務は、軍事的な方面に限定されるものではない。百人中間が盗賊方とも称されるように、治安方面の任務も果たしたのである。さらに注目すべきは、蔵元付中間である。その任務には、「諸局の手子役」がある。それは、一体どのような勤めであろうか。
 秀就の代(在位 1600年10月~1651年1月)に、領内は18の宰判(さいばん)と呼ばれる行政区に分けられ、蔵元諸役所の一つである郡奉行のもとに、それぞれ現地の勘場(かんば)という役所が置かれた。
 勘場の責任者は、代官である。代官は大組という士分が勤める役職で、2年余の任期で、いくつかの宰判の代官を転任したようである。ただし、普段は萩に居り、したがって勘場の日常的な業務は、下代(しもだい)以下の役人があたった。
 この下代のもとに、町方・作事方・寺社方・山方などがあり、それぞれに分れて担当して勤めた。これらの役人は、やはり2~3年程度で交代し、いくつかの宰判を渡り歩くながら昇進していった。これらの下代以下の役人は、三十人通(さんじゅうにんどおり)や無給通(むきゅうどおり)と呼ばれる士分の最下級層が勤める役職である。ただ、近世後期にもなると、豪農層からの登用も多くなってくる。
 この下代以下の役人の下には、手子(てご)と呼ばれる層がいた。手子は、町方・作事方・寺社方・山方などの担当者のそれぞれのもとで、仕事を果たした。だが、手子には、「定勤」の者と、臨時に増員されたりもする「助勤」の二種類がある。
 勘場付の手子(地下手子)は、18世紀中頃から、4年の年限がきたあとは必ず自らの組に戻り、組役を果たす―すなわち、特定の者が地下手子を勤め続けることがないようにした。しかし、これには代官たちの抵抗があり、一部の手子についてはその規制から除外することが要求された。このことは、これらの手子が勘場での日常業務の遂行に欠かせない存在になっていることを意味する。実際、19世紀半ばから一部の手子は、代官たちの要求通り引続き勤務し続けるようになっている。
 この地下手子は、士分とは異なり「匹夫」といわれた、ほかならぬ中間や足軽によって担われたのである。しかも手子の8割以上が中間によって占められており、足軽は残りの部分を担ったにすぎない。当時、足軽は主には番方を勤めていたので、役所勤めの地下手子は中間が中心的に担ったのである。(手子など中間については、森下徹著「中間」を参照。〔塚田孝編『シリーズ 近世の身分的周辺』吉川弘文館 2000年〕に所収)

(4)扶持方成・在郷住宅の制から屋敷地の流動化
 萩藩(長州藩)の財政窮迫も、江戸初期からであるが、農民への厳しい課税はもちろんのこと、家臣に対する給与も実質的に削減された。いわゆる「馳走米」による半知である。すなわち、家臣自らが知行(給与)を半分に減らすことを願い出るように仕向けることである。
 このため、萩藩には奇妙な制度が設けられた。その一つが、「御扶持方(おふちかたなり)」である。
 森下徹氏によると、「扶持方成とは、借銀を自力で返せなくなった家臣が、知行をすべて藩に返上して、生活に必要な生活費=扶持方だけを受け取るものだった。その間は知行は藩に管理してもらい、そこから上がる年貢で借銀返済をおこなった。借銀処理を藩に代行してもらうものだった。」(同著『武士という身分』P.68~69)といわれる。
 元文4年(1739年)の分限帳では、その扶持方成が別の帳簿にまとめて記載され、231人にのぼっているという(その多くが大組とみられる)。森下氏は扶持方成の階層別人数を分析し、「人数としては下層ほど多いわけだが、比率でみるとどうだろうか。大組と扶持方とを足した人数を母数とすると、二〇〇石台では三五%、三〇〇石台では三八%と、中堅層では全体のじつに三分の一以上にのぼるのである。他方で一〇〇石未満は一四%にとどまっている。比率からいうと中堅層で断然多かったことがわかる。」(同前 P.67~68)という。これにより、大組は中堅層が扶持方成としてごっそりと抜け落ち、組織としては空洞化してしまったと結論付けている。
 扶持方成の者は、借銀の処理を藩に委任したわけであるから、その分厳しい生活上の制約が課せられた。すなわち、「扶持方成のうちは奉公をしない『身分』なのだから、藩主への御目見えもなく、袴着着用も禁止する。倹約だけに努め、家のなかにじっとしていて親族や朋友との付き合いもするな。やむを得ない外出も夕方か夜分にこっそりおこなうこと。それが扶持方成相応の暮らし方なのだ」(同前 P.69)とされる。
 厳しい倹約生活と謹慎生活を経て、一定年数が過ごされ借銀が返済されるようになると、ふたたび元の組に戻れるようになる。分限帳をみると、数年程度で復帰するものが多く、扶持方成はあくまでも一時的な状態であった。しかし、扶持方成は、18世紀に入ってから分限帳に多く見られるようになったと言われる。半知の馳走米が珍しくなくなると、扶持方成も繰り返し生まれたのである。
 家臣の生活が全体的に困窮する中で、扶持方成の制だけでなく、萩藩には「在郷住宅」の制が設けられている。萩藩には郷士制は制度としてはない。その代わり、「在郷住宅」の制が武士の下層を代表したともいえる。
 郷士は、各藩によって、その成立事情も、制度内容も異なるが、郷士とは一般的には"農村に土着した武士、あるいは農民で武士の待遇を受けた"ものである。前者で有名なのは、かつて長曾我部氏に使えた者で「一領具足」と称され、地方に土着したものである。後者は各藩に比較的多いが、水戸藩の上層農民で、藩への献金によって郷士身分を得た者などが有名である。1)
 萩藩の「在郷住宅」の制は、「......当初は家計窮迫し、勤務に堪(た)えがたくなった藩士が、負債整理のため藩庁の許可をえて一定期間萩の勤務を離れ、知行所その他縁故の村落で倹約住居する制度であったが、のちにはとくに家計窮迫とまではいかなくても、請願によって一定制限のもとで在郷住宅を許可したので、藩士の在郷居住は一般化した。」(田中彰著『幕末の長州』P.16)と言われる。
 木村礎氏の研究によると、『防長風土注進案』には、各村落ごとに「在宅御諸士足軽以下?(ならびに)陪臣の事」という項目があり、これに村落居住の藩士以下の名前が列挙されている。その記載では、"その数は1299名で、これは全家臣約5700名弱の約23%に当たり、士分のみについてみれば2717名中832名の約31%、足軽以下では約3000名中461名で約16%が在郷している。士分中でも下層のものほど在郷の傾向が強い"(『史学雑誌』62の8)とされている。
 しかし、「在郷住宅の制」が盛んになるということは、萩城下の家臣が少なくなることである。それは、藩の緊急事態(たとえば、藩の関係か所の火事など)に対応できる人員が足りなくなるだけでなく、消費の減少となって商人の活動分野を縮小させることを意味する。
 このため、「在郷住宅の制」を禁止したようであるが、しかし、それで知行地を無くした藩士の中堅層などが萩に集まるようになったとしても、彼等家臣の経済的窮乏が改まらないかぎり(実際、馳走米の半知は繰り返され常態化する)、問題は解決しない。実際、今度は安定的に屋敷地を所持できなくなるのであった。それは、経済的な力をつけてきた町人が、「所帯人」となって家臣の家計をやりくりし、管理するようになり、その町人の私欲で家臣の屋敷地売買を促し、借銀に充てたりした。また、上級役人と結託した手子(十三組中間・百人中間・地方中間などが多い)が利権にありつき私腹をこやし、他人名義で身分不相応な屋敷地を実質的に所持した。それらは、多くが貸家として運用され、さらに利益拡大が目指されたのである。
 もちろん、屋敷地は藩主から拝領したものであり、自由に売買できるわけではないが、萩藩では一定の制約の下で、所持権の売買が認められた珍しいケースであった。それでも上級所有権は藩主が持つので、厳しい取調べと不正摘発は免れなかった。
 だが、藩の藩士に対する経済的締め付け(農民への収奪は言うまでもないが)が藩士の生活を恒常的に犠牲にしており、中下層藩士や軽輩の内部での弱肉強食の生存競争をとりわけ熾烈なものにしているのである。
 
注1)献金と引き換えに支配階級に出世する手法は、中国では前漢の武帝時代(在位:前159~前87年)に盛んとなった。社会構造が違うため単純には比較できないが、古代中国の専制国家を支えたのは官僚制であるが、その高級官僚への登竜門となったのが郎官である。郎とは、宮中に泊まり込み天子を守る役職である。郎官に選ばれるには、いくつかの方法がある(詳しくは、拙稿『漢代専制国家の支配秩序と官僚制の構造』P.84~88を参照)が、その一つとして「富貲(ふし)」がある。それは一定額以上の財産を上納すると郎官になれた。水戸の郷士も、米や貨幣などを藩に上納することで、支配階級の一員となれた。
 長州藩では、郷士制度が不在であったので、奇兵隊など諸隊創設の際、農町民がつぎつぎと志願した一因ともなったと思われる。

(5) 門閥身分制が生み出す諸矛盾
 江戸時代の支配階級は、農民・漁民・町人・職人などの被支配階級との矛盾・対立を基本としていた。それと同時に、支配階級内部においても、大雑把に言うと、君主―士分―軽輩(足軽・中間など)―陪臣(主だった士分の家臣。君主からみると又〔また〕家来)の身分階層性に分れていた。それは、基礎的にはピラミッド型の戦闘体制を維持する軍役制に基づくもので、同時に、封建的な身分秩序・支配秩序を維持・再生産するものであった。
この階層的身分制度が世襲化され再生産されたのが、日本近世の封建制の支配階級の基本構造である。
 だが、その封建的な身分秩序は、他面ではさまざまな矛盾を生み出し、広汎な社会的差別をもたらした。たとえば、「長州藩における士格において直参と陪臣との間には社会的差別があり、況(いわん)や士格と軽輩とは服装上に差別をもち、門構えにも制限があり、軽輩の中でも足軽・中間・小者があり、苗字を称する上でも差別されまた与えられないものもいた。士格に属さぬ足軽以下の卒席班のものあるいは大禄でも陪臣においては、当時書生(*家督を継ぐ前の若く修業時代の者)の登竜門たる藩黌(はんこう *藩の学校)明倫館へ入学することも許されなかった。しかしかれらにとっては学問か武芸によって、より高い身分層へ取立てられ立身することが目標だったし、またそうすることによって生活の困窮を緩和するより他に途(みち)はなかった。」(梅渓昇著『明治維新前期政治史の研究』未来社 1963年 P.86)のである。
 自然界と同じように、差別こそが、社会秩序の根幹と観念する儒教においては、さまざま差別を作り出し、維持することが支配秩序を維持・再生産することであった。このことは、本家の中国以上に日本では強く、特に、服装や礼儀など、目にみえる形式は身分差を現わすのには最も分かりやすいものであった。なお、儒教において身分差こそが社会秩序を維持するという理屈は、自然界の弱肉強食に基づくものであり、人間界も自然界のそれを見習うことで社会秩序が維持されると考えたのである。
 だが、世襲的な身分制・門閥制は、上級層の生活を安定させ(被支配階級などの犠牲のうえに)、虚栄心や安逸さも保証するが、しかし、他面では彼らの向上心を押しとどめやすい。逆に、下級層は能力があっても向上心があっても、門閥制(家格制)によってその能力は発揮できない。自己実現が阻止されるのである。
 幕末期はその社会的矛盾が爆発した時代であり、下級武士層は時代の困難を打開する先頭にたったのである。たしかに、農民一揆や打ちこわしは、江戸期において最大の力を発揮した。しかし、その弱点(反体制運動としての弱さ)は、社会変革の理論や指導者を(不幸なことに)広範に生み出すことができなかった。したがって、人民運動は下級武士層の尊王攘夷運動を凌駕する変革思想を打ち立て、身分解放の運動で対抗することができなかったのである。

D 防長の天保大一揆

 そのような長州藩の財政構造・経済統制の下で、1831(天保2)年7月、防長大一揆は勃発したのであった。
 7月26日、山口宰判小鯖(おさば)村観音原(現・山口市)の皮番所で、石見屋嘉右衛門(かえもん)一行の積荷の中から皮が発見された。石見屋は、藩の御用達(ごようたし)商人で、三田尻宰判中関(防府市)に本拠を構えていた。
 昔から瀬戸内海にそった地方では、稲が穂をはらむ時期に青田の近くを皮が通ると、必ず大風雨がおこって、その年は凶作になるという迷信が信じられていた。そのため農民たちは、自警的に皮番所を設けて皮の持ち運びを許さないと警戒していた。これについては、藩も認めていた。
 だが、御用商人の荷の中から一枚の皮の敷物が発見されたため、農民たちの怒りが爆発した。農民たちは、御用商人が大風雨を発生させ米不足を起こし、買占め米の高騰でもうけようとしていると考えて怒ったのである。
 一揆勢はまず中関の石見屋を打ちこわすと、次に中関・大浜・宮市・三田尻の村役人や豪農の家々を次ぎ次ぎに打ちこわし、その後、一部は小郡(おごおり)に向かい、一部は山口に乱入した。
 同じ頃、たまたま小郡宰判の岐波村丸尾崎(現・宇部市)でも似たような事件が起こっていた。26日から海が荒れ、避難していた安芸国仁保(にほ)島の船頭鉄五郎が、薩摩の商人から注文を受けて、牛骨を下関へ運搬する途中であることが露見したのである。7月29日の夜、附近の農民が集団で船を襲い、その後、小郡・船木方面に押し出した。
 8月2日、藩は一揆勢の要求を聞くという形で鎮静工作が行なわれ、一揆側も要求書を提出してひとまず「鎮静」した。だが、8月3日、大島宰判三蒲(みがま)村(現・大島町)では、米を密かに積み出して売り捌こうとした者が打ちこわされた。
 その後、一揆は連鎖的に広がり、「萩本領では周防(すおう)部の都濃(つの)・熊毛・上関・山代(玖珂郡)・大島郡、長門(ながと)部では阿武・美禰(みね)・船木・吉田・大津郡の各地に波及し、九月になると支藩の徳山領でも一揆がおこった。」(『山口県の歴史』山川出版社 1971年 P.203)といわれる。「この間、豪農商層が打ちこわされるという全国的にも有数の大一揆となった」(『山口県の歴史』山川出版社 1998年 P.251)のである。
 一揆の主体は、「米価騰貴・米穀買占めにより困窮化している『買喰』層=下層農・貧農であり、村落共同体規制によって中農層をも動員する型において、一揆が展開している。打毀(うちこわし)場面で重要な役割を果たしたのは、馬喰(ばくろう)・鍛冶屋・日雇(ひやとい)・大工・瓦師・木挽(こびき)・左官・髪結(かみゆい)・鋳物師・廻村の紙商などの雑業層、および職業化まではしていないが、商品生産に巻込まれつつ窮乏化している『買喰』層であった。」(三宅紹宣『幕末・維新期長州藩の政治構造』校倉書房 1993年 P.296)といわれる。
 「買喰(かいぐい)」層とは、自分の田畠からの収穫だけでは食料がまかなえず、さまざまな諸稼(かせ)ぎや雑業に従事し、その収入で食料を購入して生活をしている人たちである。このため、買占めを行ったと疑われた米屋や、米を消費する酒造業者が各地で集中的に打ちこわされている。江戸時代後期の長州藩では、富を蓄積した豪農商と、土地を失って没落した下層農・貧農の階層分解が進み、大量の「買喰」層が生みだされていた。豪農層は村役人に就任していることが多く、村政で不正を行っているのではないかと疑惑をうけて打ちこわされた。
 藩は各地からの急報を受けて、諸郡の代官に命じて、一揆勢の要求を聞いて、鎮撫にあたらせた。「農民の要求は全体で五〇項目以上にもおよんだが、中心的な箇条は貢租その他の負担軽減に関するもの、村政の改善に関するもの、商業・金融に関するものなどであった。
1 田租は四ッ成(四〇パーセント)の原則を守ること。
2 畑租も本租だけにし、畦畔(*あぜ)の茶・桑の木などに対する課税を免除すること。3 地下馳走米(じげちそうまい *臨時税)を廃止あるいは減少すること。
4 郡費超過の場合の地元負担を軽減すること。
5 米・雑穀・菜種・櫨の実(はぜノみ *ロウ作りの材料)などの自由販売を認めること。」(『山口県の歴史』1971年 P.203)などである。
 防長一揆が全国有数の大一揆に発展した要因には、長年にわったった収奪が基底にある(前記の1~3)が、藩の経済統制に対する不満や反感があった。
 たとえば、4、5にみられるように、藩の経済統制の強化(国産方の統制など)に反対し、「自由販売」の要求が広範に存在した。
 萩藩は、1607~1611(慶長12~16)年に、三井(みい)検地を行ない、財政基盤を強化し、以降の地方(じかた)支配や藩財政の大枠を作り上げた。三井検地で、田方(たがた)=米納、畠方(はたけがた)=銀納の原則を打ち立てた。畠方とは、田方以外の畠・屋敷・小物成(こものなり *本年貢が田畠にかけられたのに対し、それ以外の雑税の対象〔山・茶・魚・紙など〕・鉱山など)である。そして、田方石高一石から米0・73(73%)、畠方石高一石から銀10匁の収納とした。これにより、米0・73石=銀10匁(米一石=銀13・7匁)の公定和市(公定価格)を設定した。
 これにもとづき、萩藩は、1628(寛永5)年に山代地方(全域が蔵入地=直轄地)固有の楮(こうぞ *紙の材料)石を成立させ、山代請紙制を制定した。それは、山代の楮に1釜=0・31石に石盛(石高を定めること)をし、石高1石に10匁の収納とした。そして、楮石からだけでなく、田方石・畠石の物成(本年貢)をも紙の収納で決済するようにして、山代請紙制は紙の専売制が重なった、特異な年貢取立て制度なのである。
 それは、高めの石に設定され収穫米のほとんどが公定価格で山代で売り出され、代銀は紙の収納で決済されるもので、田方への過酷な収奪と、畠の「二重年貢」(楮石が意味するところ)であった。山代紙は、米と並んで寛永期末(17世紀半ば)には、藩財政の二大主柱であった。萩藩は、後に塩・?(ろう)などの産物でも専売制をとるようになり、藩財政の危機を緩和する手段となったのである。
 また、藩の失政がまねいた猛烈なインフレで、農民など民衆生活は極度に疲弊した。田中誠二著「藩財政改革論」(岩波講座『日本歴史』第13巻近世4 に所収)によると、「文政初年の藩借銀五万貫目への増加を受けて、文政七年(一八二四)五年間半知(*家臣への知行を半減)・五升(*百姓に対する)の『仕組』(*行財政改革)が行われたが、文政一二年世嗣(せいし)斉広(なりとう)の婚儀(将軍家斉の女〔むすめ〕を娶った)の莫大な出費もあって、天保元年(一八三〇)六万貫目台、同二年七貫目台に借銀は膨らんだ。財政補填(ほてん)策としてとられた、大富・小富(米入札に名を借りた富くじ)・産物会所一件(藩札を大増刷して領内産物を買い占め、大坂為替〔かわせ〕によって正銀を得た)・萩相場所(米入札)の四つは、甚大なインフレーション(継続する物価の上昇)を招き、天保二年の防長大一揆を引き起こした。四つの政策は廃止され、藩札の三分の二への減価・産物会所一件による札座への借銀の増加と未収銀、大富・小富・萩相場所運上の廃止などによって、〔*藩財政は〕大幅な減少となった。」(P.125)のである。
 藩札の発行とその停止は、古くから繰り返され、それに伴う人民収奪も繰り返されてきた。
 また、米・雑穀・菜種・ハゼの実などの自由販売の要求の背景には、藩の流通統制がある。長州藩は、1829(文政12)年に、産物会所を設置した。翌年5月には、菜種・綿以外の商品の他国仕入を統制し、国産品の取立て(藩による買い上げ)を実施する。
 江戸時代の元禄・享保期(1688~1735年)から、次第に伸張する商品生産をめぐって、領主権力や特権商人が収奪を強め、生産者農民との矛盾が拡大してきた。そして、ついに1830(文政13)年8月、長州では上ノ関・熊毛・津野宰判(いずれも瀬戸内海側の経済先進地帯)に、「国産御内用」反対の一揆がおこっている。それは、言うまでもなく藩による商品作物の買い上げによる収奪強化に対する、公然たる反対行動である。それが、翌年の天保大一揆でふたたび要求され、全藩に広がったのである。
 
 【被差別部落民に対する農民の襲撃】
 ところで、天保大一揆のキッカケが、吉敷郡小鯖村で露顕した"牛馬皮の運搬で凶作になる"という迷信であることを想起する必要がある。これにともない被差別部落民が襲撃されるという事態も起っている。それは単なる民衆の迷信にとどまらず、領主階級がそれを利用して差別を助長し、人民を分断支配する策をとり続けてきたことによる。
 百姓による被差別部落民への襲撃は、言うまでもなく反人民的な行為である。ただ、これを踏まえつつも、この背景には領主権力の穢れ思想を利用しての、人民の分断・差別支配があることを見逃してはいけない。例えば、戸籍帳(宗門改め)を農民などと被差別部落民とで完全に別に記載し身分差別を明確にしたり、穢れ意識を利用して、斃(たおれ)牛馬の処理作業や刑死人の扱いを被差別部落民に押し付けるなどの身分規制を厳格に行なっている。 
 長州藩による差別政策は、布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』などによると、以下のように繰り返されている。
 1713(正徳3)年には、穢多など賤民に対する厳しい取締り、規制を以下のように村々に申し渡した。

一(第一条)、茶筌・垣之内・道の者・遊君・川田等、皆(みな)穢多(えた)の名の由(よし)候、此者共(このものども)の内、悪人の媒(なかだち)仕(つかまつ)る様ニ相聞え、甚だ謂はざる儀に候、頭取(とうどり)仕る者より急度(きっと)穿鑿(せんさく)せしめ、悪調の儀(ぎ)仕らざる様ニ申し付けるべき由、申し渡すべく候事
一(第二条)、近年、萩(はぎ)在々共ニ盗人多く、諸人迷惑せしむ候、穢多共(ども)随分精を出し、悪人捕(とら)へ候様ニ申し付くべき候事
一(第三条)、所々の市日ニハ、方角(ほうがく *それぞれの地)の穢多一両人市ニ付け候節、悪人とらへ申すべき事
一(第四条)、百姓同前ニ御国法を守り、居宅衣類等、男女共ニ奢(おごり)成る躰(てい)〔*奢侈の形・様子〕仕りまじき由、申し聞かせ候事
一(第五条)、家職の外、町人商人ニ似せ商(あきない)仕(つかまつ)りまじき由(よし)、申し付くべき事
一(第六条)、他国の穢多半間(仲間)・関念仏・操り(*人形を糸で操る芝居)・春駒(*正月の祝いに馬の首の形をした物を頭に載せて、歌い舞い歩き、祝儀をもらう人々)・三味線挽(弾き)・小歌うたひ・猿まわしの類(たぐい)宿(やど)仕り候ハハ、庄屋畔頭(くろかしら)え付け届け候様、申し付け候事
一(第七条)宮番所ニ、宮番半間(仲間)の外、右の類(*第六条であげた人々)の者、一切宿貸(やどかし)申さざる様ニ申し付け候、縦(たとへ)半間(仲間)たりとも宿貸候ハハ、庄屋・畔頭へお届け候様ニ付くべき候事
右の趣、穢多共え手堅く申し付くべく候、悪人捕へ候者えは御褒美(ごほうび)遣わさるべく候、若(も)し右の廉々(かどかど)相背(あいそむ)くに於てハ、厳科に処せらるべく、此旨(このむね)申し渡し候 以上
  巳(*正徳三年)五月廿九日     御代官
                            庄屋中  (「御書付控」)
            (定本『近世被差別部落関係法令集』明石書店 P.107~108)
  
 被差別部落民など賤島れ差別された人々に対し、この中に悪人の仲立ちする者がいると一方的に決めつけている(第一条)。他方、近年萩に盗人が多いので、被差別部落民らがこの悪人を捕まえるように命じている(第二条)。各地の市の日には、穢多の1~2人が見張り・警備をする際、悪人を捕まえるべきと促している(第三条)。そして、第四条では、被差別部落民なども百姓と同じように国法(藩法)をよく守り、住宅や衣類について華美・奢侈とならないように規制している。
 第五条では、被差別部落民が家職(皮革などに関わる仕事など)以外で、平人に対して商いをすることを禁止している。明確な身分規制である。しかし、このことにより、被差別部落民の身分・職業などが定められていたこと、平人との交流が極めて厳しく制限されていたことが分かる。
 第六条では、被差別部落民や芸能関係の仕事で村々を回る人々が宿泊する場合は、庄屋・畔頭に届け出るよう義務付けている。宿泊の監視を明確に義務付けている。第七条では、第五条であげた芸能者の宿泊を、神社を警備する宮番の詰所に一切させないこと、たとえ仲間でも宿泊する際には庄屋・畔頭に届けるように義務付けている。
 全般的に、被差別部落民など賤民とされた人々の仕事上、生活上の規制・監視が定められている。しかし、第四条・第五条の規定は、被差別部落民などの一部ではあれ、経済力をつけ実質的に平人と変わらないような生活・仕事ぶりに、大いに警戒しているふしが見られる。そのため、身分規制が厳しく課せられているのである。
 1737(元文2)年には、「御国中穢多共、毎々(つねづね)平人ニ紛(まぎ)れ謂(い)はざる仕形(しかた)之(これ)有るニ付き、向後(こうご)男女共ニ(トモに)髪の結(ゆひ)様御改(あらため)させ候条、穢多共男の分は月代(さかやき *額から頭の中ほどにかけて頭髪をそった部分)仕(つかまつ)りちゃせん髪(*男が髪を後ろで束ね、そこから茶筌〔抹茶をたてる時に使う道具で、小さな竹筒の下半分を細かく割り、その先を内側に曲げたもの〕のような形にしたもの)ニ結(ゆひ)、一切髪をわげ申さず、女の儀は折りわげニして此外(このほか)格別のわげ一切仕りまじく候」と、被差別部落民の髪型を差別・規制した。これも身分規制であるが、髪型で一目でわかるようにして、平人との差別を明確にしたのである。
 1743(寛保3)年には、「諸郡における在々穢多共(ども)牛馬の商売せしめ、?(ならびに)平人に紛(まぎ)れ呉服濃物(美濃物の呉服か?)等商ひ候由相聞(あいきこ)え、甚(はなは)だ謂はざる儀〔*とんでもないこと〕に候、自今(じこん)皮商売の外(ほか)ハ急度(きっと)差留(さしと)め候」と、皮商売以外の商売をきつく禁止している。
 ここでもまた、被差別部落民が家職以外の商いをすることを繰り返し禁止している。
 1791(寛政3)年には、「諸郡穢多の中(うち)内証(ないしょう *内々の暮らし向き)宜しき者も之(これ)有り、分ケて山口羽坂の儀ハ有徳(うとく *金持ち)の者も之(これ)有り、在町え銀銭をも貸(かし)候やう相聞え、自ら平人も儀理を失ひ、穢多の銀銭ニても借受(かりうけ)候者も之(これ)有る哉(や)、穢多共ハ自然と高ぶり町家農家えも入り込み、形(な)りふりも平人ニ紛れ、穢多の身分としてハ甚だ以て謂はざり候」と、被差別部落民の内で金持ちになったものが平人に紛れるような行為をしているのを禁止し、身分制の形骸化を警戒している。このことは、被差別部落民の内部でも格差が強まり、一部の金持ちの地位が実質的に上昇し、個別に平人化を目指していることを示している。
 1819(文政2)年には、藩は穢多身分のものが平人に紛れて、細工物商売で出歩くことを厳禁した。

穢多の身分トして平人ニ交(まじは)り申さざる様との儀、寛政三年御沙汰筋も之(これ)有り候処(そうろうところ)、近来、細工物売(ものうり)歩行(あるきゆき)候荷物の仕立(したて)、形振(なりふり)旁(かたはら)も全く平人ニ相紛れ、町家・農家抔(など)えも猥(みだり)ニ入り込み候躰(てい)の儀ニ之(これ)有る哉(や)ニ相聞こえ、甚だ以て謂はざる風俗に候、自今、不作法の儀(ぎ)之(これ)有るに於てハ、厳科に処せらるべく候条、此段(このだん)示さるべく聞え候事
  文政二卯年十二月廿一日   郡奉行高杉小左衛門え之(これ)を渡す
右の通り、沙汰相候へ共、取しまり筋の儀ハ、分けて御代官中え授け相成り然るべきとの儀に候間、手堅く沙汰相成り候様、同人申し達し候事     (「御書付控」)
            (定本『近世被差別部落関係法令集』P.308~309)

 被差別部落民が身分を偽り、商売しながら平人として振る舞い、町家などに入り込むのをふたたび咎(とが)めている。
 1863(文久3)年、支藩の徳山藩で領内の被差別部落民に対して、「右(みぎ)近年他所(たしょ)へ罷り出で、全く商人躰(てい)ニて売買等致し、或(あるい)は温泉え入治(にゅうち *温泉に入って療養すること)せしむ等の儀(ぎ)之(これ)有り、御領内ニても祭ニテ□□建提灯(ちょうちん)を数□灯し、其外(そのほか)身分を相考へず、兎角(とかく)□平人ニ紛れ或は平人に馴合(なれあひ)の儀、少なからず心得違(こころへちがひ)の至り謂はざる事ニ候」と令している。一般の商人風に売買したり、温泉に入って療養したりして、平人に紛れなれ合うことは心得違いの無法の至りであると禁止している。
 天保大一揆のキッカケとなった牛馬皮の運搬に関しても、その道筋・時期・時刻などについての差別的な行政が行なわれている。
 たとえば、「享和三年(一八〇三)に久原村垣之内のエタ(*被差別部落民を指す)が牛を殺したかどで取調べをうけた際の藩の書付に、牛骨運搬の道筋について、『穢多村に於て、通路の枝小道は、以上九ヵ所棒杭(ぼうくひ)を立て、本往還筋牛牽(うしひ)き通り候様ニ仕り候事』とあり、通路が定められている。文政六年(一八二三)には、『諸村ニ於て牛馬捨皮、穢多共へき取り候節、先年已来(いらい)持通りの道筋定まり居り候由、前々の通り脇道往来仕りまじく候、是迄(これまで)定(さだまり)たる道筋之(これ)無き所の儀は此度(このたび)相定め申すべく候事』とされたが、このように通路を特別に定めねばならなかったのは、『皮類船積(ふなづみ)津出(つだし)等の儀ニ附き候てハ、厳重の御沙汰仰せ付けられ置き候処(そうろうところ)、間々(まま)心得(こころへ)ざる者(もの)之(これ)有り、持ち逢ふ候節(そうろうせつ)地下人(*百姓)多数罷り出で狼藉(ろうぜき)に及び、終(つひ)ニハ御厄害ニも至り候』という、牛骨運搬の俗信とそれによる『平人』・部落民間の対立という事実が背後にあるからである。この対立を、藩権力は助長拡大し、それを支配の道具としていた。」(布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』 
 三一書房 1980年 P.261)という。
 このように藩の差別政策は厳しく行なわれていたが、このことにより、天保大一揆での打ちこわし軒数は総数741軒に上るが、そのうち171軒(23%)が被差別部落民に対するものであった。主な事例は、山口の「羽坂穢多(*被差別部落民をエタと称した)七四軒」、防府の「大渡穢多五十軒」、船木宰判東須恵村の「穢多7軒」などである(同前
 P.197)。
 布引氏によると、「徳山藩では、九月二日の夜、夜市村の百姓が福川村で米商人等を打毀(うちこわ)したことに端を発した一揆が、『川崎穢多村え罷(まか)り越し候もの家残らず打毀し、諸道具取集め焼立て候』とあるように、小鯖の皮番所事件同様、青田伝説という『迷信』が原因となっている。また百姓らは『古市穢多共えは一切相障(あいさわ)り申さずニ付き安心せしめるの通り申し聞かせ置き、不意ニ推(押)し寄せ狼藉(ろうぜき)に及び、遂(つひ)ニ居家(きょか *住んでいる家)道具共ニ焼亡ニ及ばせ候』(『夜市福川百姓一件記』)という。百姓が部落民をだまし討ちにする――このことは、百姓・部落民間の分裂の深刻さを如実に示している」(同前 P.197)のである。
 それが、商品経済の拡大の中で、被差別部落民の中からも一部の者が、経済的に上昇し、地位の向上をはかりつつあることに対して、農民や町人の一部には、これを認めない差別意識が強く存在している。それは、たとえば1860(万延元)年に、「熊毛郡上久原村エタと岩国領玖珂町町人が牛骨運搬で喧嘩(けんか)した時、玖珂町の者が『差別をゆるめるとすぐにつけ上って困る』という意識を持っていた」(布引敏雄著「幕末長州藩差別民諸隊の活動」―『日本史研究』112)ことが、はっきりしている。
 封建的な重層的な身分秩序の下で、自分等より低い身分のはずの被差別部落民が地位上昇するのに脅威をおぼえるという差別意識が被差別部落民への襲撃となっているのである。
 天保大一揆でも、この事は露骨に表れている。一揆の主な要求は前述したが、布引氏によると、次のような事例もあったという。「......小郡宰判では/一 東洲川近辺穢多村之(これ)有りニ付き、不時(ふじ *思いがけない時)牛馬皮積出(つみだ)シ覚束(おぼつか)無きニ付き、穢多共(ども)運送六ヶ敷(むずかしき)場所、遥かなる深山え所替(ところがえ)願ひの事 一 牛馬皮舟積(ふなづみ)等時分(じぶん)を定め、乱(みだり)ニ取悩す者ハ焼捨(やきすて)高免(こうめん *お許し)願ひの事/船木宰判では/一 
 穢多共(ども)農業仕り候得は(そうらへば)、牛馬を買込(かいこみ)つぶし(潰)ニ付き、農業差留(さしとめ)願いひの事......」(布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』P.199)など。
 牛馬皮の積出し場所をなかなか簡単には行なわれない場所に設定して欲しいという要求は、被差別部落民の身分解放を認めず、厳格に身分規制のもとに置こうという要求であり、被差別部落民の農業への進出を阻止し、職業の自由・営業の自由を妨げ、封建的な身分秩序の再生産に農民自身が加担するものである。
 もちろん、領主階級の差別・分断支配の政策は一般的に唱えられたのみではなく、この天保大一揆でも、具体的行為として認められる。
 たとえば、藩の重臣の『浦靱負日記』には、「穢多村こわしニ付き穢多中(えたちゅう)百姓と出合(であい)合戦仕(つかまつ)り候ニ付き、役人静(しづま)り候様差図(さしず)候得共(そうらへども)聞入れ申さずニ付き、穢多中打殺(うちころし)候様指図〔*百姓中に対し指図〕仕り候ニ、懼(おそ)レて穢多退散仕り候由風聞に致し候事(天保二年八月五日)」(布引前掲書P.207から重引)と記述されている。これなどは、領主階級が農民と被差別部落民を合戦させるという差別・分断策を露骨に示した事例である。
 この天保大一揆の翌年春、村田清風1)は前藩主斉煕の隠居する江戸葛飾邸に詰めていたが、藩主斉元の命を受けて国政改革のプランを具申した。その控(ひか)えが、「此度談」である。そこには、天保大一揆を「鎌倉以来六百年芸(*安芸のこと)以来三百年の御家と御国を百姓蹴立(けりたて)候(そうろう)口惜(くちおし)さ」と断じ、「誠に以て国家危急の大難」に当り、「国家長久の御基立(おんもといだて)」をはかるために、以下の諸点をあげている。
一 御威光の事 一 撰挙の事 一 風俗の事 一 富国の事 一 時の事 一 勢の事 一 誠の事 一 文武の道別して御せり立ちの事などである。
 1836(天保7)年5月、前藩主斉煕(なりひろ)が卒去し、9月には藩主斉元、12月には新藩主斉広(なりとう)と続けざまに死去した。翌年4月、斉元の長子敬親(たかちか)が第13代藩主となった。
 この頃の藩の負債は、斉元の代の8万貫目(天保初年〔1830年〕)よりもさらに苦しくなり、9万貫目を突破している。江戸に居た敬親は、その報告を聞き、幕府の許可を得て、5カ年間の非常倹約を令した。また、当職益田元宣(もとのぶ)を国許から呼び寄せ、財政改革について協議する。

注1)村田清風(1783~1855年)は、1783(天明3)年4月26日に、長門国大津郡三隅村で八組(大組)の村田四郎右衛門の長男に生まれる。1797(寛政9)年、15歳で明倫館に入学し、26歳で退館した。1808(文化5)年、手廻組に入って小姓役に任じ、1810(文化7)年、右筆役密用方に勤めて兵学を研修した。1814(文化11)年、異船防禦方に参画し、神器陣(後述)の編制を指導した。1821(文政4)年御用所右筆、1824(文政7)年当職(国家老)手元役へと昇進し、北条瀬兵衛などと財政運営にあたる。その後も、当役(藩主随従の家老)手元役、撫育方頭人などを歴任し、1831(天保2)年の大一揆という藩政の混乱の中で、表番頭格の当役用談役(実務役人の最高位)となる。この時に、財政改革の建白書を上書したが容(い)れられず、翌年に用談役を辞任した。1837(天保8)年、新藩主敬親(たかちか *在位1837~69年)が襲封し、翌年、清風は地・江戸両仕組掛(*仕組みとは財政整理・行財政改革のこと)に任ぜられ、財政改革に着手する。1840(天保11)年7月の藩庁大会議を経て、長州藩の天保改革が本格化した。天保改革は本文の通りであるが、1843(天保14)年4月、士卒の借財整理を狙った公内借37ヵ年賦皆済仕法が債主(金持ち町人)などの反発を招き、金融の停滞・財政危機を深めた。これにより、1844(弘化元)年、清風は江戸手元役を辞任し、翌年、三隅村の旧宅に戻った。1855(安政2)年、後継者の周布政之助がふたたび財政改革を発令し、清風は請われて江戸方内用参与に任じられたが、4日後の5月26日、萩の自宅で「中風」再発のため死去した。73歳。

E 天保の改革

 萩藩の天保の改革が始まった直接的な契機は、1837(天保8)年の一揆である。前年の長雨で、萩藩でも飢饉が発生し、そこに天保8年2月の大塩平八郎の乱がもたらされ、同年3月、支藩長府藩領の下関や、萩藩の三田尻・大島・徳地・美禰(みね)・小郡の諸宰判で一揆が勃発した。
 この報を江戸で聞いた敬親は、 翌1838(天保9)年春、国に帰るとともに、まず児玉資昌(すけまさ)を仕組掛に任じ、ついで8月には、葛飾手元役・村田清風と郡奉行・香川影長(かげなが)らを地江戸両仕組掛に任じた。萩藩史上では、しばしば「仕組(しくみ)」という用語が登場するが、それは「財政整理・行財政改革を意味する用語」である。
 この時の改革は、清風らにあまり権限が与えられなかったため、十分な成果が挙げられなかったようである。そこで、1840(天保11)年5月27日、清風を江戸当役用談役に昇格させ任にあたらせた。
 同年7月7日、清風や坪井九右衛門ら11名は、藩政改革の上申書を藩主敬親に提出した。この時の、主な意見をあげると、以下の通りである。

〔村田清風〕
 長い間の行政上のよくない慣習は、無くそうとしてもなかなか根絶することができないものである。いま問題となっている藩の借銀八万貫目を無くするためには、歳入を増加し、歳出を減少する以外に方法はない。しかしながら、これを実施する事は、長い間の政治上の慣習があり、改善はむずかしい。そのため、次のようなことを政治上の基本に置くことを提言する。
一、 御威光の事 君臣の間に心が通い合うようにする。太平が続くと君臣の間が離反するものであるが、これを許してはならない。
二、 選挙の事 平時なら別であるが、現在は非常の時であり、人材を抜擢して登用すべきである。
三、 風俗の事 役人は庶民の手本となるよう、常に質素倹約に心がけること。
四、 富国の事 武士・庶民ともに節約に励み、百姓は農業に努めること。
五、 強兵の事 家来は足軽に至るまで、文武に精励すべきである。
六、 時勢の事 改革をなすものは家臣であるが、それを進めるのは主君である。
七、 至誠の事 過去の改革の失敗は、当事者に至誠が足りなかったためである。

〔坪井九右衛門1)〕
 現今、負債が八万貫目となり、これを返済することが当面の課題である。この解決は困難であり、かつての陶(すえ *陶晴賢)・尼子氏との戦いに匹敵するといってよいであろう。これは行政上の悪習慣の結果である。すべての行政を藩主が直裁せず、当役・当職の両職が代行したことより弊害が生じた。またそのことから、君主の威信も低落している。今こそ、親政が政治の基本であることを確認し、そのような状態に近づけるよう、君臣が努力すべきであると考える。そのためには、まず両職や加判役がもっと主君に近づくようにし、固い話しばかりでなく、雑談や遊覧をともにすることも必要である。そうすれば、上下の心が一致するようになり、主君の考えている政治が実施できる。そういう時ともなれば、倹政が実現するであろう。

〔木原源右衛門〕
 藩財政の負債を解決することは、百年を要する難事業である。当職手元役である私としては、このことについて意見が申しにくい立場である。経済的なことは、政治ではどうにもならないといわれているが、そうではないと思う。主君に泥を塗ったような失態が、この山をなす負債問題である。このような問題で、意見を申し述べる立場にあるのは家老である。家老の職務は、主君に意見具申をなすことにある。主君に意見を述べようとすれば、事の本質をよく知って言上しなければならないし、知らなければ言上できないはずである。昨今の傾向として、行政上の失態が明らかになった時、とかく下僚の責任となる。このような行政体質を改善しない限り、率直な意見具申は出ないと思う。主君のとられる措置に間違いはないと思うが、家臣の言上する意見について、十分な考慮をはらってよく聴くべきである。  (以上、(『萩市史』第一巻 1983年のP.824~826による)

 さすがに封建時代らしく、主君を崇(あが)め奉っている。これは3人とも共通している。藩の莫大な負債を解決することは極めて難しいことも、共通の認識である。しかし、具体的プランらしきものを持っているのは、清風だけのようである。
 さらに広く意見を求めることとなり、「同年八月七日、各部局の責任者三一名が、各部局の当面する問題点と、将来にわたる改善点について意見書を提出した。これは、財政再建のための提言であるため、各部局における経費節約の具体策を書き上げるものが多かった。とくに代官からは、農村における無許可寺社の存在、御蔵元検使役からは必要以上の貯米存置の指摘など、今後の改革に有益な問題提起が多かった。」(『萩市史』第一巻 P.827)と言われる。
 清風らの改革の要は財政改革であるが、その基本方針は、「入るを量(はか)って出(いず)るを為(な)す」という、収入に基づいて支出を決定するというものである。そのため、財政建て直しのために、支出の抑制が第一目標とされ、厳しい倹約令がしかれ、とくに華美な家作の禁止や、女子綿服など日常生活の隅々まで徹底して規制を行なった。
 しかし、天保の財政改革の核心をなすのは、藩借銀・家臣借銀の公内借捌(さば)きである、といわれる。「藩借銀とは、所帯方の借銀帳簿に載っているものを言い、公借(撫育方・「上々様方」・札座・諸役所などからの借銀)を大量に含んでいた。この点をこれまでの研究史では、見落としてきた。この公借(*藩からの借銀)を、帳消し・凍結・利下げ、年延べ(永年賦化)をしたのが、公借捌きである。天保九年(*1838年)の借銀(九万二〇二六貫目)の中身は、以下の通りである。①無利元居(むりがんずえ *元利ともに払わない)三万二八四一貫目は、札座・御悩借方・撫育方・御納戸銀など特別会計からの借銀、②元居利払(元銀は据え置き利子のみ払う)二万二八四九貫目は、寺社祠堂銭・諸役所修補銀、市中・諸郡永納米(えいのうまい *利子のみ払う内借)など特別会計からと永納米の借銀、③年賦借(元銀・利子の一定額を払う)二万九一七八貫目は、大坂御用達借・藩内豪農商借などの内借(ないしゃく *町人などからの借銀)、④当用借(短期借入で利子が高い)は七一五四貫目など、で構成されている。これらの利且納(りかつのう *年賦の元利払)は、年一万二一七五貫目にも及ぶ。これらの公借を帳消し・凍結(無利元居・元利留)・準凍結(元居利払)にしたのが公借捌きである。一方の内借(年賦借・当用借が多く、内外御用達が主な銀主)を利下げ・年延べしたのが、内借捌きである。/右の所帯方による公内借捌き(天保一一~弘化元年)の結果を示す弘化四年(一八四七)の借銀帳は、①無利元居約二万貫目、②元利留約一万貫目、③元居利払三一〇七貫目(利払は年一四〇貫目のみ)の合計三万三四九二貫目に整理された。以上のほとんどを公借が占める。一方の内借がほとんどの年賦借の部は、家臣借銀の内借捌きと同じ手法がとられた。家臣借銀の内借捌きは、天保一四年に実施され、家臣は藩に肩代わりしてもらった借銀の利子三%を年々藩に納入し、藩は銀主に年々利子二%を払い、三七年後に元銀を皆済するというもので、事実上の借銀踏み倒しである。家臣の公借は、翌年に帳消しにされた。藩が肩代わりした家臣借銀は、弘化四年には一万二四三二貫目になっている。こうして、④年賦借の部(肩代わり部分を含む)は二万八九八四貫目となり、その利且納(一年の元利払)は一三九五貫目と、画期的に改善された。」(田中誠二著「藩財政改革論」―岩波講座『日本の歴史』第13巻近世4 に所収)のである。 
 1838(天保9)年の利且納年1万2175貫目が1847(弘化4)年には年1395貫目になったのであり、88・5%も減額されたのである。まさに当時の藩政治権力のなせる業である。

図表6 藩借銀・馳走米・米価・大坂届け高の推移
   年次    藩借銀(貫目) 家中馳走(石) 地下馳走(升) 買米値段(石別匁) 大坂廻米届け高(石)     
1821年(文政4)  49981.90 15    5.0 57.1 85099
1822年(文政5)   51426.90 17 5.0 55.6 83750
1823年(文政6)   52231.20   17 55.7 90000
1824年(文政7) 53006.20 20 58.1 89848
1825年(文政8) 58530.60 20 4.5 70.9 79078
1826年(文政9) 53488.20 20 5.0 57.3 94227
1827年(文政10) 51891.70  18   5.0 57.5 90900
1828年(文政11) 50584.60  20    4.5    90.9   85539
1829年(文政12)  53155.90 15 70.7 100945
1830年(天保1)   61982.80 20    5.0 100.4 93550
1831年(天保2) 70294.80 20 94.3 99942
1832年(天保3) 81555.28 20 103.5 79111
1833年(天保4) 80824.90 20 158.7 55000
1834年(天保5) 80049.10 20 98.0 76640
1835年(天保6) 78654.40 20 143.5 80466
1836年(天保7) 80006.60 20 219.8 42284
1837年(天保8) 90092.90 20 4.5 139.3 79582
1838年(天保9) 92026.00 18 165.8 55787
1839年(天保10) 87184.67 20 84.4 59000
1840年(天保11) 85252.50 18 4.5 73.9 76100
1841年(天保12) 67636.00 15 91.7 73000
1842年(天保13) 63210.00 13 72.2 66300
1843年(天保14) 51403.00 13 86.9 63270
1844年(弘化1) 64721.00 13 81.3 67509
1845年(弘化2) 63794.00 13 3.5 98.4 68730
1846年(弘化3) 63425.50 13 3.5 82.0 63500
1847年(弘化4) 62476.80 13 94.0 63500
1848年(嘉永1)   58579.80 13 87.7 75770
1849年(嘉永2) 13 114.2 60000
1850年(嘉永3) 20 175.1 13931
1851年(嘉永4) 60000.00 18 84.5 81000
1852年(嘉永5) 18 93.9 66475
1853年(嘉永6) 18 97.6
1854年(安政1) 15 85.3
1855年(安政2) 20 70.9         
 出典:田中誠二著『萩藩財政史の研究』塙書房 P.375~376 P.451~452

 農民政策では、「力田(りきでん *農業を励み勤めること)」の方針の下、農事に精励させ、荒畠地の租税廃止、年貢徴収法の改善を図った。
 しかし、農民への年貢などの収奪の根幹は藩財政改善のためには不可欠なので、一揆勢の農民たちの要求を受け入れることはできない。だからといって、農民たちが、重税に窮迫して逃散するか、一揆に立ち上がるのも藩として容認できない。そこで農民救済として、修補(資金援助)制度の拡充が行なわれた(これは清風後の改革においても続けられた)。
 修補は、もともとは武士を対象とした政策であった。高率の馳走米(臨時課税)がたび重なり、生活に行き詰った武士の中には、刀などの武器までも質に入れてしまう者がいた。せめて武具修補料なりとも補助して、武士としての誇りとたしなみを維持させる目的で修補制度が実施された。しかし、その効果は薄く、援助された資金は結局、食料に消費されるだけであった。このため、武士を対象とした修補制度は廃止され、農民を対象としたものに変わった。
 それは、遅くとも1810(文化7)年ごろには行なわれ始めており、「......地方ごとに必要に応じて特定の目的を定め、その目的のために資金を準備し、出納の権限を郡の大庄屋や恵米方(けいまいがた)などの地下(じげ)役人に任せておけば、農民の救済も迅速適切におこなわれるであろう。」(『山口県の歴史』1971年 P.205)と設立されたのである。「資金には郡村費を節約したり、郡単位で加入することになっていた諸郡御救(おすくい)頼母子(たのもし *無尽のような一種の民間金融)の取当米を割(さ)いて、その元米にあてた例が多い。また、この修補米銀によって恩恵に浴するものが同郡・同村の身近な人たちであった関係から、地方有志の寄付によった場合も少なくない。....../貧農救済のための修補には、(1)直接に困窮者の救済を目的とした救民修補、(2)農民の負担を軽減し、再生産を援助することを目的とした土木関係の修補、(3)地方の特産振興を目的とした修補などがあった。」(同前 P.205~206)という。
 (1)では、鰥寡(かんか *男やもめと未亡人)孤独(*みなし児)・無告の者(*よるべの無い者)・病者など困窮している者や、貧窮者の育児を支援するなどの修補があった。(2)では、道路・土手・橋・川ざらえ(浚渫)など、農業の再生産に必要なインフラを行なう修補である。(3)は、産業振興を目的としたもので、養蚕・楮苗(こうぞなえ)植付・牧牛・櫨(はぜ)・紙すきなどの地方特産を奨励した。
 商業政策では、藩が専売制などの興利(こうり)事業を行なうことが、農民を弱体化させ、政治の乱れとなるとして、「禁興利」をかかげて商業利潤の収奪を禁じた。しかし、他方では、1840(天保11)年11月に、下関の越荷方(こしにがた)の拡充を図り、藩外からの商業利潤は積極的に獲得することとした。
 当時、幕府の流通政策によって、東北などの商品は西廻り航路を通って大坂に集荷されていた。この体制の下で、商品を一時下関に留めておいて、大坂市場の値段が上がってから持ち込み販売すればより多くの利潤をあげることができた。萩藩はこれを利用し、これらの船に倉庫と資金(金融)を提供し、倉庫料や貸付利子をとることによって利益をあげた。これが越荷方(こしにがた)である。
 このほかには、淫祠解除(いんしときのけ)政策も行なわれた。「淫祠」とは、藩の帳簿に登録されていない小さな寺社・堂庵・路傍の石仏などの民間信仰の施設を藩の立場から指したものである。萩藩は、1842(天保13)年9月20日、「淫祠」の解除(ときのけ)を命じ、民衆の抵抗を抑えつつ、最終的には合計2万2176宇の施設を破壊したと言われる(『山口県の歴史』1998年 P.254~255)。これにより、藩の推奨する以外の信仰を排除し、民間信仰を体制内へ誘導し、村落秩序を図った。
 天保改革は、軍事分野でも行なわれた。清風は早くから海外防備に関心をもっており、1814(文化11)年、異船防禦方に参画し、大小筒による「神器陣(しんきじん)」2)編成を指導した。1839(天保10)年、アヘン戦争で清とイギリスが対立し、翌年、清が敗北したとの報に接し、危機意識を強くし、海防政策の重要性を新たにした。そして、1841(天保12)年5月、高島秋帆の武州徳丸が原での洋式銃隊の訓練に藤井平左衛門らを派遣し、視察させている。そして、平左衛門を秋帆に入門させ、秋帆の高弟を萩に招き、洋式軍備の導入を図ろうとした。
 1843(天保14)年4月には、羽賀台(阿武郡福栄〔ふくえ〕村)に総数1万4110人を動員し、九隊編成で大々的な操練を行なっている。これには武士のみでなく、藩内各地域の農民も動員し、全藩的規模の操練であった。
 1843(天保14年4月、村田清風らは、37カ年賦皆済仕法を発令する。「これは藩士の藩への負債(公借)は、一貫目につき毎年三十目(*目とは匁の別称)の割(わり)で三十七ヵ年納入すれば元利皆済とし、藩士の商人に対する借金(私債)は藩が肩替りし、そのかわりに藩士は公債同様の割で藩へ三十七ヵ年賦の義務を負う、というものであった。つまり、藩が藩士の借金を肩替りし、商人に対しては三十七ヵ年元金すえおきにし、その間年利二朱を払い、最後の年に元金を皆済(かいさい)するというのである。これと並行して商人への利下げも行なわれた。薩摩藩の調所(ずしょ)笑左衛門(広郷)による藩の負債二五〇年賦返済という強引な政策ほどではないにしろ、やはりこれは特権商人抑圧策であり、』なかば借金の踏み倒し政策である。」(田中彰著『明治維新の敗者と勝者』NHKブックス 1980年 P.94)といわれる。(1両=50~80匁、1両=16朱)
 37カ年賦皆済仕法は、家臣の窮乏を救うと称して、特権商人からの借金を踏み倒すものであるが、家臣の窮乏は藩の負債累積によって引き起こされたものなので、言うなれば権力者=藩の踏み倒しにすぎない。
 さすがに、これに対する大商人たちの不満は強く、とりわけ萩の商人たちから反撃がおこり、ついに村田清風失脚の要因となる。その事情について、『長州藩財政史談』(マツノ書店 1976年 いわゆる「正義派」の一人である兼重慎一の談話をまとめたもの)は、次のように述べている。「長州の萩というところは北海の浜に独立していて、一向に世情に通じないところで、他国(*他藩のこと)と通商などということは余りありませぬ。物産を取立てて利益を得るというようなこともありませぬ。ただ萩の城下に集まっていて、第一は萩(*萩藩のこと)の御用を勤めて、その方で営業をしております。それからして多人数の御家来中の所帯元(*家計のやりくり)を致しまする。万石以上の家老が五人もおりました。七、八千石を戴きます者が三、四人、それから五千石、三千石の者がたくさんおります。その所帯元を商人が受けるような次第で、その侍が貧になるのを商人は幸いと致します。高利の金を貸付けて、その代わりに知行米を引受けて、安く勘定をして高く売るというようなことを致します。それから種々の策略をして、それを以て財を蓄えるというのが萩の商人の第一の商売であります。故に侍が豊饒になり、商人に諂(へつら)わぬようになりますと商人の利益がなくなりますから、この新改革は商人の忌(い)む(*憎み嫌う)ところとなりました。甚だ恐るべき次第でありますが、遂に政府の更迭となって当時の書生などは大いに慨嘆したものであります」と。
 1844(天保15)年6月、村田清風らは退陣し、代わって坪井九右衛門らが藩の主導権を握る。三十七ヵ年賦皆済仕法は破棄され、11月、「公内借捌(さばき)」という新たな政策が発令される。それは、「藩士の負債のうち公債は破棄し、内借(私債)は藩が肩替りして銀主に支払いをし、無借の者へは、知行高百石について銀一貫目を下付するというものだった。藩士の『八分一借』(知行高百石につき五石を十年以内の抵当として、利息五朱以下で借金すること)も新たに認められた。」(田中彰著『明治維新の敗者と勝者』P.95)という。
 商人抑圧策から大きく転換した新政策は、清風らの商人抑圧策に不満をもっていた萩の商人たちからは歓呼の声で迎えられたという。しかし、商人たちに迎合した政策も、その財源がもとより無く、1845(弘化2)年、坪井らは新たに5000貫の新債を大坂でおこさねばならなかった。

注1)坪井九右衛門(くえもん *1800~63年)は、佐藤氏の出身だが大組の坪井氏(100石)を嗣ぐ。江戸右筆より江戸相談人兼手元役となる。1840(天保11)年の改革では、村田清風とともに有力なメンバーとして参加した。1843(天保14)年、37ヵ年賦皆済仕法で村田清風の抑商政策が失敗し翌年失脚すると、坪井は萩の特権商人に妥協する政策に転換する。その後、坪井派は反対派によって退けられ、1846(弘化元)年、坪井は隠退させられ、翌年には禁錮に処せられた。周布政之助らの安政初期の改革が村田清風と同様の轍をふみ失敗すると、1856~57(安政3~4)年、椋梨藤太らの改革となり、坪井はカムバックする。椋梨・坪井派は、「均田」政策や農兵取立ての方針を打ち出し、さらに藩内物産取立て政策・上方との積極的な交易などで富国策を推進しようとした。だがまた、反対派によって敗退し、周布派の安政の改革がはじまる。坪井は阿武郡羽島に流される。そして、1863(文久3)年10月28日、結党強訴の罪名で、野山獄で処刑された。64歳。末松謙澄著『防長回天史』では、村田清風と坪井は対比され評された。村田が「直情径行の風」に対し、坪井は「少しく剛腹(*強情で道理にそむく)自ら用ふ(*自らを尊信する)」といい、「才物」で世情に通じ、「吏務に熟す」と評された。しかし、これらは坪井・椋梨派を俗論派、村田・周布派を正義派と単純に見立てる、後者の側にたった「長州史観」である。このためか、坪井関係の史料はほとんど残されず、まとまった伝記もないのが実情である。
2)「神器陣」は、中央に大砲、左右に小銃30~40を配置し、まず砲撃・銃撃で打撃を与えておいて、その後、後備(うしろぞなえ)の刀槍隊が切り込むものである。この段階では、小銃の威力が未だ十分でなく、基本はまだ刀槍である。

F 海防強化と軍制の洋式化

 18世紀末までには、イギリスの産業革命が終り、19世紀になると世界資本主義は地球上のあらゆる土地を植民地化あるいは市場にしようという策動を顕わにする。これに抵抗する者に対しては、武力をもってでも打ち砕いたのである。1840年代に入ると、アヘン戦争が起こり、イギリスをはじめとして世界資本主義の日本への侵出が現実に差迫るようになる。

(1)海防強化を幕府が全国に指令
 水野忠邦政権は、アヘン戦争で清朝がイギリス軍に全面的に敗北したのを受けて、1842(天保13)年7月、「異国船打払令」を止めて、異国船に薪水・食料の給与を許可する「天保薪水令」に切り替えた。翌8月には、水野政権は懸案の江戸湾防備体制の強化を図る。江戸湾の相模側を武州川越藩に、同じく房総側を武州忍(おし)藩に防備させ、それぞれの持ち場に砲台や遠見(とおみ)番所を増設させた。9月には、海防の範囲を全国に広げ、海岸に知行地を持つ大名・旗本に現有の兵力・火器の数を報告させ、さらに大砲など兵器を整備し、西洋砲術をできるだけ採用するように促している。12月には、江戸近海の防備のために、下田奉行を復活させ、新たに羽田奉行も設置し、幕府直轄とした。
 長州藩は、1844(天保15)年7月(「弘化」への改元は12月2日)、異国船の来襲に備えて、長門北浦海岸を7地区に分け、各方面防備の総奉行を任命した。そして、藩士に対しても、非常の際には7地区に出動するようにして、その出動先を割り当てた。
 同年10月には、異賊防禦手当掛(かかり)・山田亦助1)と砲術家・郡司源之允に対し、北長門海岸調査を命じた。それは、異国船の来襲に備え、北長門海岸における砲台築造場所と、狼煙(のろし)設置場所を選定することであった。
 両名は、10月17日から11月27日にかけて、阿武郡の海岸や、北浦海岸を南下し赤間関に至るまで調査し、12月に、復命書を提出した。 
 それによると、「台場は六二カ所に築造し、そのうち四〇カ所に陣地砲を備え付けるという案であり、狼煙場は従来よりも半減して、一二カ所設置すればよいというものであった。台場築造場所は、北から江崎浦四・須佐浦六・大井浦二・越ケ浜二・小畑中の台一・鶴江台一・萩城下一五・通浦三・瀬戸崎浦三・向津具四・阿川浦四・肥中浦二・室津浦三・蓋井島一・六連島一・竹の子島二・引島(彦島)四・赤間関四であった。また狼煙場は北から須佐の高山・惣郷の金井崎・越ケ浜・見島・大島・相島・通浦の番山・向津具の岬・角島・神田岬・蓋井島・六連島である。/萩町近辺の台場の位置について詳述すると、大井浦二カ所は大井浜と上山台(串山)、越ケ浜二カ所はよめなきの端と根なしの端、小畑中の台、鶴江壇、萩城下一五カ所は浜崎川口・菊ケ浜・高句麗浜、東海手では二の曲輪(くるわ)四カ所、山中矢倉、西海手では二の曲輪三カ所、西ノ浜二カ所であった。」(『萩市史』第一巻 P.877)といわれる。
 この原案は採択され、翌1845(弘化2)年、萩町の台場築造からはじまった。まず菊ケ浜に仮設の砲塁を築き、この砲塁で試射を行なったところ良い結果だったので、この方法で他の台場も築造することになったのである。その後、順次台場築造は推し進められた。
 他方、西洋列強の日本に対する「開国」・通商の圧力はいよいよ切迫し、これまで唯一日本との貿易を行なってきた西洋の国・オランダは、1844(天保15)年7月、使節コープスに国書を持たせ日本に派遣し、「開国」を勧告した。しかし、幕府は翌年6月、オランダ国王に返書を送り、「開国」勧告を拒んだ。
 1846(弘化3)年閏5月、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航し、通商を求めた。しかし、幕府はこれも拒絶した。1847(弘化4)年6月、オランダ船が長崎に入港し、「オランダ風説書」を提出し、幕府の外交政策について変えるように忠告した。1850(嘉永3)年6月、オランダ船が長崎に来航し、またもや風説書を提出し、アメリカが日本と貿易を開く意志があることを告げた。1852(嘉永5)年8月、オランダ商館長クルチウスがオランダ東インド総督の書簡を幕府に渡し、明年アメリカ使節が来航し、「開国」要求を行なうことを予告した。
 異国の圧力がますます強まる中で、1853(嘉永6)年2月9日、長州藩は水軍先鋒隊・陸軍先鋒隊を編成することを決定した。「水軍先鋒隊の設置理由は、『もし見島(*萩沖の離島)などに外国軍艦が攻撃してきた時、見島常備軍の兵力ではたちまち壊滅するであろう。その時はどうしても強力な援軍を派遣する必要がある。それには航海術の心得(こころえ)があり、しかも砲術を身につけた特別選抜軍を編成し、いざという時に至急出動できるようにしておく必要がある』というものであった。このため藩士の中から砲術を修業した者二四名を選抜し、快速船三艘に乗り組ませ、見島その他の浦まで常時航海して、非常の異変に対処することにしなければならないとした。/陸軍先鋒隊の設置理由は、『北浦諸所において外国船が攻撃を仕掛けてきた時、現在の防備体制では、まずその方面に在郷する武士が一隊を組織し、本隊が到着するまで防戦することになっている。しかし、このような体制では、緒戦の防衛はおぼつかない。武芸に秀れた者の中から壮平兵を選抜し、これらの者で一隊を組織する。そうして、いざという時に急拠出動し、在郷武士隊とともに緒戦に備える』というものであった。このため、三~四〇人の特別選抜隊をつくり、常時出動に備えて待機する必要がある」(同前 P.878~879)とした。
 同月13日には、御前(ごぜん)警衛隊を編成することも決定された。それは、異国船が来襲した時、ほとんどすべての藩士が出兵するため城内の警備が手薄になるので、熟達の藩士を選抜し、藩主の警固をするものである。定員は100名とし、藩主が江戸に居るときは当職の直属とし、藩主が帰国したときは藩主の直属として、藩主の身辺や城内・藩邸の警備に従事することとした。のちの1854(嘉永7)年10月(「安政」への改元は11月27日)、藩は水軍と陸軍に分けられていた先鋒隊を合併する。
 長州藩が先鋒隊を創設した1853(嘉永6)年6月3日、オランダの予告通り、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、「開国」要求を記したアメリカ大統領国書を幕府に渡した。ぺリーは、国書への回答を明年に受け取るとして、6月12日、琉球へ去った。

注1)山田亦介(1808~64年)は、1808(文化5)年12月18日、大組の山田市郎右衛門(禄高142石)の嫡子に生まれる。村田清風の甥である。長沼流兵学を修め、1842(天保13)年に異船手当習練用掛となる。1852(嘉永5)年、古賀?庵(とうあん)の著『海防臆測』を印刷して、隠居・知行削減の処分を受けた(林子平と同じ)。この頃に、吉田松陰に兵学を教授したと言われる。1858(安政5)年、隠居を免ぜられ、海防手当方・軍艦製造用掛となる。1859(安政6)年、小銃隊編成の意見書を提出し、1860(万延元)年には、庚申丸を製造する。1863(文久3)年、政務員となり、1864(元治元)年12月、禁門の変の責任をもって、野山獄で椋梨派によって斬首される。

 (2)相州警衛に際しての来原良蔵の意見書
 ペリー来航に際し、長州藩は幕府の命令で直ちに大森海岸に出動し、警固にあたった。同年11月14日には、幕府の命で、長州藩の警衛地は相模(さがみ)となった。具体的には、千代崎(三浦郡浦賀町)から三崎(三浦郡三崎町)・腰越(こしごえ *現・鎌倉市)に至る沿岸部で、およそ20里余である。
 藩主慶親(敬親)は、12月5日、海岸防禦について、広く家臣の意見を徴した。これに対して、桂小五郎・来島又兵衛など22人が、12月22日までに意見書を上げた。  
 その内の一つに、「恐れ乍ら外夷防禦の儀に付き、愚見の廉々申上げ候事」と題した来原(くりはら)良蔵1)の意見書がある。
 同意見書は、冒頭で「此度(このたび)外夷防禦に付き、銘々所存の廉々(かどかど *諸箇条)遠無く申し出ずべく様仰せ付けられ候(そうろう)御事、誠に此上(このうえ)もなき国家の御幸福、いと有難(ありがた)き御事に存じ奉り候、古(いにしえ)より国の治ると乱るるとは、言路の開くと開けさるとにより申し候、言路開けは、君臣上下の情おのつから能(よく)通し候て、万事の利害得失も明白に相分(あいわか)り申し候故、自然と国も能く治るにて御坐(ござ)候......」(妻木忠太著『来原良蔵伝』上〔開明堂東京支店 1940年〕P.87 以下、来原意見書の文は同書による)と、「言路開通」が治国において極めて重要と前置く。そして、以下のように11カ条にわたって来原は意見を述べる。
 ①上下一統心得の事、②御人数積り御雑費積りの事、③殿様相州え御引移り遊ばされたく存じ奉り候事、④禁裏御警衛の為(ため)京都御屋敷え御人数両三隊差出だされたく存じ奉り候事、⑤人才(人材)御撰挙の事、⑥御備場(おそなえば)御人数配(くば)りの事、⑦隊伍を整へ候事、⑧鉄砲打方(うちかた)稽古の事、⑨土兵を仕立(したて)候事、⑩器械造作(ぞうさく)の事、⑪学校を立(たて)並(ならび)に蘭学を開き候事。
 そして、来原意見書は、その最後の部分で、次のように主張している。すなわち、「以上十一ヶ条、当今(とうこん)差当り候御急務と存じ奉り候、中に付きて、相州御引移り人材御撰挙の両條、尤(もっとも)肝要の御儀に御坐候間、此(この)両條御取行ひに相成(あいなり)候はは、其(その)餘(よ)の條目は勿論(もちろん)御手当(*経費)の儀も随(したが)って相調(あいととの)ひ申すべく候様に存じ奉り候、......」(P.108)と。

注1)来原良蔵(1829~62年)は、桂小五郎・周布政之助・吉田松陰らと親交があり、桂の妹ハルを妻としている。1851(嘉永4)年の江戸番中に、儒学や兵法・砲術などを学んでいる。1858(安政5)年12月、藩命で長崎に赴き、西洋銃陣の直伝習をうけ、翌年6月、帰藩して軍制改革に尽力する。同年9月には、明倫館助教兼兵学科総督となる。1861(文久元)年、長井雅樂の「航海遠略」策を支持し協力する。だが、1862(文久2)年、藩論が即時攘夷(小攘夷)に決するや、責任を感じ、同年8月横浜の外人を襲撃して攘夷の魁(さきがけ)を果たそうとするがなしえなかった。よって、8月29日、江戸藩邸で自刃した。

 (ⅰ)尊王攘夷としての軍役
 来原は、相州防禦の主題からして、③と⑤を「尤肝要の御儀」としているのである。これを見るに、③をあげた背景には、来原の尊王攘夷の思想が確固として存在している。
 来原は、③で、「当地(*江戸)御参勤の儀は、前段申し述べ候通り、御軍役第一の儀に御坐候故、既に御受場(*命令された部署)相定り候上は、当地(*江戸)におゐて別に御用之(これ)なき御事と存じ奉り候間、早速(さっそく)彼地(かのち *相州)え〔*殿様が〕御引移(おんひきうつ)り遊ばされたく存じ奉り候、」(P.93)と、早速、相州の受け持ちの地へ引き移るべきと言う。
 ここで、「前断申し述べた候通り」というのは、①で、「元来当江戸の城は、天朝守護の為(た)め、皇国鎮護を専(もっぱら)として、将軍家の御居城と相定められ候(そうろう)事故(ことゆえ)、御大名方御参勤の儀も、此(この)心得にて、畢竟(ひっきょう)天朝守護の御軍役と存じ奉り候、猶又(なおまた)公儀よりの御差図(おさしず)申し候得は(そうらえば)、万事如何敷(いかがわしく)相聞え候得共、是亦(これまた)公儀は天朝の宣命(せんみょう *国語で記した勅命)御取次(おとりつぎ)の御役にて御坐候得は、今天朝よりの宣命にて、某々(だれそれ)の地に異賊襲来致し候故、某(それがし)の公(*藩主)罷(まか)り向(むか)ひ〔*上からの命令で「向かう」〕、防禦すべきの旨、御差図之(これ)有り候得は、江戸は扨置(さておき *もとより)、蝦夷琉球の土地にても、御辞退は相成りまじき次第と考え候、右申す通り、公儀よりの御差図は、すなはち天朝の宣命にて御坐候得はこそ、是迄(これまで)御城普請・川々の御手伝等にても、御人数差し出され、猶又(なおまた)芝上野両寺の火の御番等も御勤め遊ばされ、時に依りては、御出馬も在為被(あらせら)れ候御事に御坐候、増して此度相州御備場の儀は、専ら、天朝の御為(おんため)、日本第一の要害を御守り遊ばされ、殊更(ことさら)海内(かいだい)諸侯数多き御中にて、格別の御撰ひに御預(おあずか)り遊ばされ候御事故(おんことゆえ)、誠に御家未曾有の御面目に御坐候」(P.89)と述べたことを指している。
 来原の考えによれば、諸大名の江戸への参勤は、畢竟、天朝を守護する軍役なのであり、また公儀は天朝の宣命の取次なのであるから、公儀の指図としての相州防禦はすなわち天朝の命令なのであって、「天朝の御為」なのである。したがって、「上下一致していよいよ身命を擲(なげう)ち、御奉公を相勤むべき」だというのである。
 だからこそ、藩主が率先して相州へ引移ることが重要なのである。「万一此儀(このぎ)相調ひ難(がた)く、此迄(これまで)の通り当御屋敷(*江戸藩邸)に御住居遊ばされ、彼地えは別の一手の御人数差出(さしださ)れ候次第に相成り候ては、其(その)弊害誠に言語に尽し難き儀にて御坐候」(P.93~94)といって、次の三点をあげる。
 すなわち、「先(まず)第一には天朝え対し御忠勤の儀も薄く、且又(かつまた)是迄(これまで)御参勤の儀は、何等(なんら)の御為(おんため)と申し訳も相立ち難く、第二には人気の盛衰に拘(かかわ)り、御武名を減削致し申すべく、第三には御国空虚に相成り、雑費給し難く、立処(たちどころ)に御所帯御困窮に成り行き申すべく候、其外(そのほか)万事御為(おんため)宜しからず考え奉り候間、何卒(なにとぞ)彼地御引移り、此度の一件に付きては、第一の御事柄と存じ奉り候、右様(みぎよう)相成り候はは、人心奮発は固(もと)より諸事(しょじ)の御取廻し、旁(あまねく)御都合宜(よろしか)るべき様存じ奉り候、」(P.93~94)と強調している。
 藩主自らが相州へ引移らないとすれば、天朝への忠勤もならず、毛利家の武名も落ち、藩内の士気も衰え財政的にも困窮に陥り、その他すべてが不都合となるというのである。
 来原の考えは、尊王攘夷で首尾一貫しており、しかもそれが肥大化し、参勤それすらも「天朝守護のための軍役」であると理屈付けするほどになっているのである。
 したがって、11箇条のうちの④で、禁裏(御所)警衛のために、国元から兵を差し出し守備すべきとしている。大坂も若狭の小浜も、ともに京都に近く、「万一外夷此等(これら)の処(ところ)え襲来致し候ては、甚(はなはだ)愁うべきの事」だからである。
 京都藩邸の兵士を増やすことは幕府にお願いしなければならず、その許可が出るか否かも計り難いが、「日本国中え尊王攘夷の大義を唱え示すの事柄にて御坐候得は、何卒(なにとぞ)此(この)御一挙あらせられたく存じ奉り候」(P.95)と、主張するのであった。
 来原は、二つあげた「尤肝要な御儀」の、もう一つの⑤については、次のように述べている。

人才(人材)御使ひ方の儀は、夫々(それぞれ)の器(うつわ)に当り候て、固(もと)より御疎(おろそか)は之(これ)有るまじく候得共、大豪傑の士にあらさるよりは、大抵(たいてい)能不能(のうふのう)之(これ)有り、治世尋常の用に適し候者も之(これ)有り、又は軍国非常の用に長(ちょう)し候者も之(これ)有り候事故、時勢相応の人物御撰ひ成らせられ、是迄(これまで)御役等相勤め居り候者は勿論(もちろん)、一旦(いったん)御咎(おとがめ)仰せ付けられ候者たり共、才能の士は旧悪御免に成られ、改めて御使ひ方之(これ)有りたく存じ奉り候、且又(かつまた)諸浪人の内にても、稍(ようやく)器量之(これ)有り候者は、其(その)短を捨て其(その)長を取り候て、御召抱え之(これ)有りたく存じ奉り候、......(P.96~97)

 これは非常の際での人材抜擢を述べたものなので、極端に効用主義・利用主義になっている。それほどに、心理的には切迫しているのであろうが、ただ来原は次のような指摘も行なっている。すなわち、「猶又(なおまた)右浪人の内にても、儒学・兵学・蘭学其他(そのた)器械造作の事抔(ことなど)に長し候者共、只今迄の治世にては、指(さし)て入用も之(これ)無き故、浪人にて罷(まか)り居り候得共、追々(おいおい)諸藩よりも此等(これら)の人物穿鑿(せんさく *根ほり葉ほり知ろうとすること)致し候様子(ようす)にて、今一両年も過ぎ候後は、如何程(いかほど)の高禄高俸を以て、御招きに相成り候共、其(その)節に至り候ては、浪人とては一人も之(これ)有るまじく候間、一時(いっとき)も早く御詮議之(これ)有りたく存じ奉り候」(P.97)と述べている。

 (ⅱ)相州海防の軍備体制
 肝心の相州海防の軍備体制については、⑥⑦⑧⑨などで論じている。
 ⑥の「御備場(おそなえば)御人数(おにんずう)配(くば)りの事」では、次のように意見を述べている。

此度御引受(おひきうけ)に相成り候御場処(おばしょ)の儀は、千代崎より三崎に至り、夫(それ)より腰越(こしごえ)に至る迄、大?(たいはん *おおよそ。?は凡の俗字)沿海二拾里余ばかりも之(これ)有るべき様に存じ奉り候、右の内にて陣屋砲台等の儀は土地の要害険易(けんい *険しきと平らかと)の形勢等熟察の上、或(あるい)は有懸(ありかか)りの者相用ひ、又(また)は新たに御築造等の御積(おつも)り之(これ)有り候て、某々(ぼうぼう *どこそこ)の砲台には某々(*だれそれ)の者取懸り、某々の陣屋には某々の者相詰(あいつめ)候様御役(おやく)配り、早速御決着の上、一統え御沙汰相成り、面々夫々の心得を以て稽古方(けいこかた)仕(つかまつ)り、公儀より只今(ただいま)出張の御差図(おさしず)之(これ)有り候とも、御差閊(おさしつか)え之(これ)無き様御仕(おつかえ)構(かま)え之(これ)有りたく存じ奉り候、(P.99)

 ここでは至極当たり前のことを言上している。すなわち、土地の形勢を熟察して、これに適合するように砲台や陣屋を、新たに設けたり旧来のものを利用すべきとしている。
 ⑦の「隊伍を整へ候事」は、以下のように意見を述べている。まず、「隊伍を整え候は、軍法第一の儀に御坐候」と唱え、「当今にては、古来よりの風習も之(これ)有り」として、「下部小者(こもの)の儀は、其(その)主人主人是(これ)を管轄し、御中間の者は御中間頭是(これ)を管轄し、足軽は物頭(ものがしら)是(これ)を管轄し、八組の士は八組頭是(これ)を管轄し、是(これ)よりして総奉行〔*が統括し〕、総奉行より以上は総じて上御一人(かみごいちにん *藩主)の御管轄と申す訳にて、大抵(たいてい)は既に相定(あいさだま)り候事と存じ奉り候」(P.100)と、旧来の兵力管轄のあり方を確認している。
 そのうえで、なお修正すべき点はないかと分析する。すなわち、「併(しか)しながら組頭彌(いよいよ)其(その)器に当り候哉(や)、組子彌(いよいよ)調練に熟し候哉、人数組彌(いよいよ)的当(適当)に御坐候哉(や)の処(ところ)を、得と(とくト)御熟察の上、夫々(それぞれ)の御修補あらせられたく存じ奉り候」(P.100)と。
 そして、来原は具体的な提案として、次のように具申する。

就中(なかんづく *とりわけ)八組の士と御中間の者は、取分(とりぶん *配分)多人数の儀に御坐候得は、先(まず)此(この)二ツの隊伍(たいご)能(よく)相調(あいととの)ひ候はは、其余(そのよ *そのほか)は随って相調ひ申すべきと存じ奉り候、聊(いささか)試みに其(その)次第を申し候に御中間の者五百人之(これ)有り候得は、是(これ)五人伍(ご *中国古代の軍隊編成で五人一組)にわかては百伍に相成り候〔*500人を一組五人とすると100の伍ができる〕、この百伍を右八組の内にて、器に当り候者を撰(えら)ひ、五人宛(あて)御預(おあずかり)に相成り候得は、八組百人にて五百人の御中間を管轄する次第に相成り申し候、又(また)其上(そのうえ)にて、或は五伍二拾五人、又は拾伍五拾人なりとも一隊となし、士大将の器に当り候者を撰ひ、隊長となし、猶又(なおまた)右八組の内にても、手子(てこ)両三人或は五、六人も召連れ候者は、御預りの人数を合せては、七人八人或は拾餘人の一伍も之(これ)有るべく候得共、是(これ)以て人々平日の覚悟にもより、猶(なお)大小身の分限も之(これ)有り、人数の多少は、皆々一様(いちよう)と申す訳には相成りまじく候故、先(まず)其(その)大略を整え候(そうろう)上にて、平日銃砲打方(うちかた)其外(そのほか)諸調練等も此(この)隊伍にて、稽古(けいこ)致し候得は、大変革の事(こと)之(これ)無く候て、隊伍都合相調ひ申すべく様に存じ奉り候、併しながら、是(これ)以て人数取調(とりし)らへの上にて、御坐無くては、委細の儀は空論に申し尽し難く候間、夫々(それぞれ)の当りを以て、得と御詮議(おせんぎ *評議して物事を明らかにすること)あらせられたく存じ奉り候、(P.100~101)

 来原の提案は、八組と中間が多人数なので、この二つの隊伍を整えれば、他の組もまた当然に整うとして、伍(1組5人)単位の編成を提案する。たしかに、長州藩の家臣団構成では、1852(嘉永2)年の調査によると、大組(八組)が1378人、無給通512人、士分に含まれない足軽・中間などが2958人―これらが、大きな集団をなしていた(先述の図表5を参照)。だが、そのほとんどは1組数十人であり、基本単位は大きかった。
 来原はこれを1組5人の伍で編成することを提案した。この意味するところは基礎単位の人数を5人という少ない人数にすることで、伍の結束を強化し、また少数精鋭の集団にするのである。そして、上位クラスの有能な者を隊長とすることにより、集団の統括と指揮命令系統を強くする狙いもあった。
 この少数集団が、少数精鋭の隊となしうるのは、その集団行動の訓練とともに、銃器の性能の進歩にある。中国古代に組織された伍が近代に至って復活しえたのは、その背景として、武器の進歩があった。
 ⑧の「鉄砲打方稽古の事」は、この新たな編成単位と結合した具体的な調練であり、今日急務の稽古である―と意見する。

鉄砲打方の儀は、当今の急務にて御坐候得は、貴賤上下に拘(かかわ)らす下部小者に至る迄、一統稽古仰せ付けられたく存じ奉り候、右稽古の次第は、前段(*⑦を指す)の隊伍相調ひ候(そうろう)上にて、是(これ)を日割(ひわり)時割(ときわり)に致し、たとへは朝六時より四時迄は、某々の隊、四時より九時迄は某々と相定め、役勤(やくづとめ)の者は、或は隔日にも致し候て、稽古場におゐて木札の籍に銘々(めいめい)姓名を書記(かきし)るし、籍札調らへ方は、記録所頭人・番頭・御目附等順番にして相勤め候様に致し、右役割日割等御決着の上、一統え御沙汰之(これ)有り、其(その)時其(その)日に当り、病気或はよんどころ無き差障(さしさわ)り等之(これ)有り候者は、其(その)事柄委細書付(かきつけ)にして、懸り(*係)役人迄相達(あいたっ)し候様仰せ付けられたく存じ奉り候、......(P.102~103)

 伍単位での鉄砲打方の稽古は、「当今の急務」にて、「貴賤上下に拘らず下部小者に至る迄」も重要なこととしている。これは刀槍を主とする従来の戦法とは異なる、鉄砲中心の戦法がしからしむ(そうさせる)ところであり、決して身分解放を目指しているからではない。
 ⑨の「土兵を仕立候事」は、本稿全体のテーマであり重要なことなので後廻しにすることとし、次に西洋学の導入と西洋兵備について、項を改めて検討することにする。
 
 (ⅲ)西洋学の導入と洋式兵制の強化
 意見書は、その⑩で「器械造作の事」を、次のように述べている。

器械造作の儀は、早速御取懸(おとりかか)りに相成らず候ては、叶(かな)わざる儀と存じ奉り候、就中(なかんづく)鉄砲船艦は、別して(*特別に)容易ならざる物にて、莫大の御物入(おものい)りも之(これ)有るべく候故、第一造作の利害得失、夫々(それぞれ)の術(すべ)に通じ候者に御尋問の上、広く世界の衆智を合せ、其(その)長(ちょう *すぐれた所)を取り候にては、徒(いたず)らに金銭を費(ついや)し候のみにて、実用に相叶(あいかない)申すまじく存じ奉り候間、能々(よくよく)御研究あらせられたく存じ奉り候、(P.105~106)

 長州藩は、すでにこれまでも西洋式の軍備に力を注いできた。しかし、ペリー来航は、従来のレベルの海防での不十分性を露呈させ、日本側も大型船の建造による対抗を余儀なくさせる。だが、それには莫大な費用が伴うものであり、来原はその点もふくめた研究の必要性を提起したのである。
 来原は、また⑪で「学校を立(たて)並(ならび)に蘭学を開き候事」を述べて、稽古とともに兵器製作・陣地構築・兵法の研究を士卒に修行させるべきという。

御備場え御人数差出(さしだ)され候上は、夫々平日の御役配り猶又(なおまた)諸事の稽古等は、御疎(おろそ)か無く仰せ付けられ候得共、人情大抵閑暇(かんか)事無きの時に当り候ては、多くは安逸(あんいつ)遊惰(ゆうだ)に走るの習ひも之(これ)有り候事故、此処(ここ)におゐて、屹(きっ)と御制導(せいどう *制御し導くこと)あらせられたく存じ奉り候、右制導の御仕方は先(まず)彼地(かのち)御本陣を大?(たいはん *おおむね)稽古場作りに致し、儒学・兵学・弓馬・剣槍・大砲・小銃其他(そのた)火薬製造・器械造作等に至る迄、夫々の事に長し候者両三人宛(あて)師範と相定め、時宜(じぎ)に随って、日割時割等の規則を立て、諸事の稽古仰せ付けられたく存じ奉り候、就中(なかんづく)器械造作城堡(じょうほう *城・砦)築造其餘(そのほか)攻守戦略の大概(たいがい)に至りては、往昔(おうせき *むかし)とは大いに事変り候勢ひに御坐候処(ところ)、此等(これら)の事柄(ことがら)得と(とくト)承知仕り候者、只今御国におゐて幾人之(これ)有り候哉(や)、誠に微少の儀に御坐候得は(そうらえば)、何卒(なにとぞ)此(この)儀に付き候ては、蘭学御引立(おひきた)てあらせられたく存じ奉り候、左様候得は、前段の事件は固(もと)より彼(か)の情状をも察知致すべく、旁(ひろく)利益多くべく存じ奉り候、尤(もっとも)蘭学の儀に付き候ては、彼是(かれこれ)差障(さしさわ)り申出(もうしい)で候者も之(これ)有るべく候得共、元来(がんらい)火薬銃砲等は、西洋諸国より渡来の品にて、彼の長を取り、我用(わがよう)となし候は、従来(じゅうらい)有り来たり候事に御坐候処(ところ)、今更(いまさら)事新しく彼是(かれこれ)申立(もうした)て候は、甚(はなはだ)愚(おろか)なる儀と存じ奉り候故、何卒(なにとぞ)此(この)学に通し候者、両三人御召(おめ)し登(のぼせ)に相成り候歟(か)、又は新たに御召し抱えに相成り候て、別に1箇導場を立て、御引立てあらせられたく存じ奉り候、此(この)両條御取行(おんとりおこ)ひに相成らず候ては、往先(ゆきさき)如何程(いかほど)の弊風(へいふう)出来(しゅったい)致すべき哉(や)、又は如何程の不覚(ふかく *油断して、し損すること)之(これ)有るべき哉、誠に恐るべきの事に御坐候間、能々(よくよく)御詮議あらせられたく存じ奉り候、(P.107~108)

 警衛地での兵士の文武の修行もルーチン化すると、ややもすれば「安逸遊惰」に走る傾向をもつので、それを防止するために、来原は警衛地の本営を学校形式にして「儒学・兵学・弓馬・剣槍・銃砲、その他火薬・器械の製造」に至る迄、文武技術に長じた者を師範にして学ぶべきとした。ついては、「器械造作・城堡築造、その餘(よ)攻守戦略の大概に至り候ては、往昔と大いに事変り候勢ひ」なので、来原はとりわけ蘭学を重視するべきことを提案する。蘭学の引立てについては、反対者もいるが(国学的な攘夷主義者は頑強に反対する)、もともと火薬・銃砲は西洋から渡来してきたものであり、従来「彼の長を取り、我用となし候」なので、あれこれ反対するのは甚だ愚かなことである。よって、蘭学に長じた者二、三人を登用するか、新たに召抱えるべきだと来原は提案する。そうしなければ、先行きどのような弊風(悪い風習や風俗)や不覚が起きるか―わからないであろうと、将来を見通して警告している。
 長州藩は、早くも1719(享保4)年1月に、政治の根本は「人づくり」にあるとして、城内の南三廓内に、藩校・明倫館を創建している。その教育方針は儒学であったが、18世紀半ばには、萩でも蘭学研究が具体化する。1758(宝暦8)年、京都の蘭学者・山脇東洋が、死刑囚の死体を解剖して、『蔵志』を著わし、医学の発展にとって実験・観察の必要性を提唱する。すると、その門人で萩の医師栗山孝庵が同僚の熊野玄碩(げんせき)ら数人と、処刑された盗賊の遺体をもらい受け解剖して『図志』を著わす。翌1759年には、17歳の女性死刑囚の解剖を、全国で初めて行なっている。
 第九代藩主・毛利斉房は、明倫館を拡充し入学定員を増やし、1799(寛政11)年には、勉学範囲を学問・詩文の分野にまで広げた。
 第十三代藩主・敬親は、1840(天保11)年に、萩八丁の南苑(なんえん)内に医学所を設け、青木周弼(しゅうすけ)を蘭書翻訳掛に任命している。藩士の他国遊学や他藩士の招聘もおこない学問の発展を図り、蘭書の輸入や西洋医学も奨励した。
 そして、明倫館が手狭になったので、新たに城下江向(えむかい)に学館を建設し、1849(嘉永2)年2月に落成した。その敷地は2町(約220メートル)四方にわたり、中央には孔子を祭った聖廟があって宣聖殿と称した。敷地の西には講堂・文庫・寮舎・事務室など、東には演武場、北には練兵場があった。これらとは別に、済生堂(さいせいどう)という医学所もあった。済生堂は、南苑の医学所を移したものであるが、後に好生館(こうせいかん)と改称した。そこでは医学修行規則を定め、漢方学科に医経・経方の2科を、洋学科に訳書・原書の2科を設けた。
 この医学を中心とした洋学から、後に西洋兵学が生まれるのだが、来原はこの意見書で蘭学のさらなる発展・充実を提起しているのである。

(ⅳ)相州での農兵構想
 農兵の組織化については、幕府ではアヘン戦争後の弘化年間(1844~48年)、すでに論議されはじめている。ペリーの来日で、相州の一部を警衛地として任された長州藩内でも、農兵の組織化が真剣に検討されるようになったのである1)。来原は、その構想を次のように述べている。

御備場御人数配(くば)りの儀は、夫々(それぞれ)の当り(*分担)を以て、御疎(おろそか)は之(これ)有るまじく候得共、沿海二拾里餘(よ *余)の場処(場所)に御坐候得は、右に厚けれは左に薄きの儀も、自然出來(しゅったい)致すべく、猶又(なおまた)處(ところ)により候ては、指(さ)して要衝と申す地にも之(これ)無く候得共、敵人上陸〔し〕、人家田畠等乱暴致し候ても差し置き(*放置しておく)難く、左様候得は(そうらへば)とて、兼々(かねがね)御人数差出され置き候ては、無益に相成り、又(また)一向(いっこう)御手当之(これ)無くては、不安心なる場処も之(これ)有るべく候間、此等(これら)の処(ところ)には、其(その)土地の漁夫百姓を撰(えら)ひ候て、兵卒(へいそつ)に仕立(した)て備置(そなえお)かれたく存じ奉り候、土兵仕立て方の儀は、先(まず)一郷一村にて総人数を積り(*測り)、或(あるい)は三人に一人、或は五人に一人なりとも、身体強壮なる者を撰ひ候て、小銃一挺(いっちょう)宛(あて)渡し置き、其(その)多少に随って、五隊十隊にも分ち置き候て、伍長隊長は夫々の人を撰ひ、毎月四、五度或は五、六度も調練致し、前段の場處に備へ置き候はは(そうろはば)、旁(ひろく)便利宜(よろ)しき様存じ奉り候、猶又(なおまた)兵卒御取上げに相成り候者共(ものども)は、調練其外(そのほか)に儀に付き、農作の妨(さまたげ)にも相成るべく候間、物成(ものなり *税)年貢等減少致し、土兵に御取上げ之(これ)無き者よりは、利分(りぶん *有利)宜しき様にして御使ひ方之(これ)有る候はは、人心動揺の儀も少(すくな)く、御手配り簡便に相調ひ申すべく存じ奉り候、是又(これまた)現場夫々の当りを以て、御詮議あらせられたく存じ奉り候、(P.104~105)

 村民の3人に1人、あるいは5人に1人の割合で、身体壮健な者を選抜し、毎月5~6度の頻数で調練する。ただし、農兵にとられた者とそうでない者との不公平がないように、前者に対しては年貢などを軽減するというものである。
 長州藩は、幕府の命令によって、1855(安政2)年から三浦半島の警備に動員されるようになったが、藩はこのため翌1856(安政3)年、現地において約200人の農兵を組織化・動員しようとした。だが、それは実現しなかったと言われる。(樋口雄彦著『幕末の農兵』P.124)

注1)田中彰著『幕末の長州』(岩波新書 1965年)によると、農漁民による兵備は、実質的にはそれ以前に組織されているようである。「長州藩で見島(*萩の沖合の島)の軍用方強化がはかられ、農民や漁人の強健な者百数十人によって警備隊がつくられたのは、嘉永二年(一八四九)のことだ。ペリー来航に先立つこと五ヵ月、嘉永六年一月には、長州藩全家臣団の沿岸八区の部署割当てと兵備がきめられ、さらに家臣団の隊編成も進められていった」(P.43)と言われる。

G 安政の諸改革と政権交代

 1853(嘉永6)年6月、アメリカの東インド艦隊司令官ペリーが軍艦4隻を率いて、遣日使として来日する。これにより、長州藩は海防体制の一環として相州の地域を担当した。この年の9月12日、政務役椋梨藤太が罷免され、周布(すふ)政之助が政務添役(せいむそえやく)から政務役に転任された。周布は、はじめて藩政府の中枢に進出したのである。政務添役は、赤川太郎衛門が任命された。

 (1)周布派の財政改革
 幕府は、「米艦渡来して国事多端に趨(おもむ)かんことを慮(おもんばか)り五ヶ年間節倹の令を発した」が、長州藩の「藩公即ち幕府の意趣を承(う)けて其(その)主旨を闔藩(こうはん *藩全体)に達したりしが、相州警衛の命あるに及びて財政益々(ますます)困難ならんとす、依りて藩公(*敬親)之(これ)を憂ひ、先考(*周布のことを指す)及び浦靱負(うらゆきえ)等の要路に諮(はか)り、士卒に曉諭(ぎょうゆ *さとすこと)して質素倹約に勉(つと)めしめ、また諸臣をして経費省略の意見を開申(かいしん *申し開くこと)せし」(周布公平監修『周布政之助伝』上巻 P.131~132)めた。
 と同時に、藩主は、1854(嘉永7)年2月28日、江戸在勤者にすべて綿服を用い、駕籠側(そば)の藩士には尻割羽織・半服・股引(ももひき)を着用するように命令した。
 翌29日には、江戸の浦靱負らは藩地の老臣らに、国元に於いても倹約に努めるべきと伝達した。
 3月14日には、藩主はさらに馬具や駕籠の華麗なものや、火事羽織・頭巾(ずきん)に羅背板(*羅紗に舶来の毛織物)を用いることを禁じた。また、4月1日には、帰国の時期が迫る中で、旅装を改め、綿服・尻割羽織・半服など簡素なものにした。4月14日には、藩主は参勤ごとに老中以下諸有司への恒例の贈り物についても減少しようと、幕府に願い出た。
 藩主・敬親は1854(嘉永7)年4月に江戸を発ち、5月に帰国する。帰国した藩主は6月21日、重臣たちを集めて、「釐革(りかく *改革)の容易ならざるを要路に説き、江戸・藩地の職員和衷協同(わちゅうきょうどう *心を合せ力を合せる)各自の意見を披瀝(ひれき)して、其(その)規画(企画)経営に努力せしめ」(同前 P.145)たのであった。そして、裏判役(うらはんやく *保証のために文書の裏に署名あるいは花押するする役)口羽善九郎を仕組方(しくみかた *財政整理と行財政改革の役目)に任命し、記録所役・井原孫右衛門、奥番頭・小沢一学、納戸役・林主税、配膳役・三田杢兵衛などをそれぞれ仕組方の用掛に任じて、宝暦4(1754)年の重就の故事にならい、特に一局を設けて、大がかりな改革に着手させた。天保の改革に次ぐ、第二回目の安政改革である。
 ついに閏7月3日、藩政府は、1854年より5カ年にわたる節倹令を、次のように発した。

昨丑年(*1853年)水旱(すいかん)に付き、損毛(*収穫減)夥(おびただ)しく御所務(*雑税)余分に相劣(あいおとろ)え、尋常の御時節にても、御繰り巻き〔*やりくり〕礑(はたと)差し詰まり候上、異国船渡来に付き、大森村(*現・東京大田区)え人数出張、公儀御代替〔*将軍家慶の死亡により家定に継承〕外(ほか)御造作入りの廉(かど)相嵩(あいかさ)み、就中(なかんづく)相州御備場(おそなえば)御委任に付いては、別して莫大の御費用彼是(かれこれ)に付き従来御難渋の御所帯(*財政)、彌(いよいよ)以て御借財相増(あいま)し、之(これ)に加わるに、右御備場此徃(このさき)年々の御物入(おものい)り立ち償い〔*経費を埋め合わせる〕の目途(めど)相立ち難(がた)く、誠に以て国家(*長州藩)の御危急、御大事の御時節に候條、一先(ひとまず)当(とう)寅年(*1854年)より徃(さきゆ)き五ヶ年の間、非常の御詮議を以て、常格に拘(かかわ)らす、諸事省略仰せ付けられ、御備場御用御滞(おんとどこお)り無く相調(あいととの)い候様、仰せ付けらるべきとの御事に候、之(これ)に依り御仕組筋、御取締り等(とう)の儀、追々(おいおい)仰せ聞えられ候得共(そうらへども)、其内(そのうち)前段の趣、下においても篤と(とくト)勘弁せしめ、是迄(これまで)の風俗引き替え、彌(いよいよ)以て節倹を尽し、質朴(しつぼく)の古風に復し文武の修行怠(おこた)らず、御奉公の覚悟肝要になすべく候、若(も)し不心得(ふこころえ)にて、御時節柄(がら)不相応(ふそうおう)の所行(しょぎょう *ふるまい)之(これ)有らば、屹(きっ)と御沙汰(おさた)に及ばらるるべく候事
右の通り、御家来中末々迄(まで)内意(ないい)触(ふ)れ達し候事、 (同前 P.148)

 これにより、仕組掛は周布政之助1)らの要路と相談し、財政を整理し、役所部門を統廃合して職員の減少をはかった。
 また、藩は8月25日、士卒の馳走米を5年間半知とする令を出した。しかし、「半知の令は禄高百石毎(ごと)に現米二十石の出米(だしまい)にして苛刻(*過酷)の重課なりしを以て、藩公は士卒の困窮を憫憐(憐憫)し其年(そのとし)一年を限り、特に五石を軽減して十五石掛(かかり)となす」(同前 P.175~176)のであった。馳走米がほとんど恒例化しており、士卒の困窮が激しいので一年限りだが、20石の馳走のところ5石軽減の15石馳走で、あたかも士卒に同情しているかのような体裁をとったのである。
 そのためか、9月~15日には、さらに職員の減員の方策を計画している。
 妻木忠太著『偉人周布政之助翁伝』の年譜によると、この年1854年12月8日の項には、「先考(*周布を指す)政務役をもってまた手元役の事務を掌理す是(ここ)に於て先考の勢力大(おおい)に加はる」(P.9)と、記されている。
 翌1855(安政2)年1月、周布らは旧債務の処理を議決し、口羽善九郎らを大坂に派遣し、返済の延期と利率の低減を交渉させている。
 1855(安政2)年4月25日、藩主の決済を経て、諸士の負債返還延期の令が布(し)かれる。それは、以下のような文案になっている。

(前略)此度(このたび)非常の御仕組(*財政整理・行革)に付き、重き御馳走(ごちそう)請わさせられ、御家来中も、下地困窮の折柄(おりがら)、取続き相成り難く差し閊(つか)えも之(これ)有り由、相聞こえ候に付き、厚く御詮議(*評議)の上、半知の出米(だしまい)中は、公内借共(とも)、左の通り道付け仰せ付けられ候事、
一、 公内借一統、元米銀調(ぎんととの)え延引〔*元金返済の延期〕、加え詰め五朱利(*5%の利息)調え仰せ付け候、
 但し、五朱以下の諸借は、利銀(りぎん)行形(なりゆき *もとのまま)にして、且納(かつのう)延引仰せ付けられ候事、
 附(つけたり)、無利元年賦の儀は、是迄(これまで)の且納辻(*現金分割返納の場合)、
 半方返納仰せ付けられ候事、
一、 過(すぐ)る卯年(*1843〔天保14〕年)仰せ出だされ候通り、知行高百石に付き、現米五石の質入れ借りの外(ほか)、内證(ないしょう)銀仕(つかまつ)り候様(そうろうよう)之(これ)有り候ては、往先(*先行き)御奉公の妨(さまた)げに付き、相印渡し其外(そのほか)借銀差留(さしと)められ、御定めの餘(*ほか)、内々取替え借越しに相成り候共(そうろうとも)、一円(*全面的に)銀主損亡(そんぼう *損失)に仰せ付けらるべき筋に候処(そうろうところ)、万一心得(こころえ)違いにて、右様の金取引(かねとりひき)候面々(めんめん)之(これ)有り候共、彌(いよいよ)以て銀主損亡為(な)すべき候事、
一、 宿代並(ならびに)分扶持2)等、證文差し免(まぬが)れ候処、間々(まま)準(ひと)へ〔*公平なこと〕を以て、取行い候面々之(これ)有る哉(や)と相聞え候、是等(これら)御仕法を猥(みだ)り、不謂(いわれざる)事に候、右の類(たぐい)御詮議の上、銀主損亡に仰せ付けられ、借主えも御咎(おとがめ)仰せ付けられ候事、
 但し、向後(こうご)は宿代の儀、分過(*過分)の證文差留められ、高百石に付き、
 百五拾目(匁)を見詰めに仰せ付けられ候、分扶持の儀も、高四拾石より九拾九石餘迄
 (よまで)半扶持、百石より百五拾九石餘迄一人扶持、百六拾石より弐百四拾九石餘迄
 二人扶持、弐百五拾石以上三人扶持、尤(もっとも)八百石以上並(ならび)に三拾九
 石餘以下の面々えは、右様の仕組立て、容易に仰せ付けられ難く候事、
一、 屋敷券状質借りの儀、過る卯年以来差留め候儀に付き、若(も)し内々にて取引せしめ居り候共、銀主損亡勿論(もちろん)の事、
一、御仕法の大坂借り、引米(ひきまい)の儀は、此度(このたび)の御沙汰(おさた)に及ばず候事、
一、切手其外(そのほか)現質物の儀、同断、
一、御悩借方(おのうかりかた)に於いて、当用借りの儀は、行形(なりゆき)の通り返済仰せ付けられ、向後(こうご)御貸し下げをも仰せ付けられ候事、
一、凶事借りの儀も、向後御貸し下げ仰せ付けられ候、尤(もっとも)是迄(これまで)借用懸(かか)りの分は、諸借に準し且納(かつのう)延引、五朱利調え仰せ付けられ候事、
一、頼母子3)(たのもし)の儀は、相互に親類知音(ちいん *知人)の情義を以て、危急の難を救い合い候仕法(しほう *方法)に候処、近来(きんらい)身上に不相応(*ふさわしくない)、銀高の頼母子、其外(そのほか)実意を失ひ候(そうろう)取捌(とりさば)きせしめ、且(かつ)会座の節、飲食の取扱い分過(過分)の儀も之(これ)有る様に相聞え、甚だ以て風俗宜(よろ)しからざるに付き、向後(こうご)頼母子の儀差留められ、是迄(これまで)有る懸りの分は、先取りの面々懸戻(かけもど)しの銀を、当卯年より三朱利付き十五年経(だて)にして、主取りの面々え割付け、返済仰せ付けられ候事、
 但し、取り建て親(おや)其外共(そのほかども)返し懸りの儀、是迄(これまで)無
 利の約定の分は、無利十五ヶ年経、三朱以下利付きの約定の分は、利息行形の通りにし
 て、十五ヶ年経(だて)仰せ付けられ候事、
 附(つけたり)、以往(いおう *以後)とても、実に余儀無き趣も之(これ)有り、親
 類中申し合わせ、懸捨(かけすて)同様の仕法立(だ)てを以て、頼母子(たのもし)
 取立(とりたて)の類は、苦しからず候事、
 附、頼母子の準にて、内借取引(とりひき)之(これ)有る様に相聞え候、右は諸借同
 様、且納(かつのう)延引、五朱利調え仰せ付けられ候事、
右の通り仰せ出だされ、御貸付け銀利下げ候に付きては、公損も少なからず候、下(しも)に於いても、銀主迷惑の筋(すじ)之(これ)有りといへとも、御時合い〔*この時期〕勘弁(*堪忍)せしめ、誠実に取引仰せ付けられ候、尤(もっとも)借主の儀は、公銀を始め、銀主え損亡を懸(か)け候趣(おもむき)容易ならざる儀に付き、其段(そのだん)篤(あつ)く相考え、彌(いよいよ)以て節倹を尽し、追って御馳走御宥免の上は、堅固に元済相調え候様心懸(こころがけ)有るべく候、万一借財不納を幸(さいわい)と、存じ入り候様なる軽薄の風儀(ふうぎ)之(これ)有り候ては、御政道に妨げ相成る儀に付き、旁(かたがた)心得違い之(これ)無き様にと仰せ出だされ候事、
 ......  (『周布政之助伝』上巻 P.215~216)

 負債返還延期を発令する原因は、言うまでもなく、藩による馳走米の恒常化であって、このしわ寄せが金持ちに押付けられたのである。したがって、周布ら藩首脳部も、負債返還延期令によって、「御政道の妨げ」になる危険性を覚悟し、「旁心得違い之無き様にと」釘をさしたのであった。しかし、それでも効き目はなかった。「而(しか)して士民(しみん)信を此(こ)の整理に置かず往々(おうおう)天保公内借捌の寛典を思ひ罪を当路者(*重要な地位にある人)に帰し誹謗(ひぼう *悪口を言うこと)至らざるなし」(『修訂 防長回天史』二 P.82)と言われる。
 このためか、周布らは天保改革の功労者・村田清風を再び起用し、江戸方内用参与に任じ、風圧をはねかえそうとした。しかし、清風は復帰した4日後の5月26日、萩の自宅で「中風」再発のため死去してしまう。
 この政策への批判は一通りではなく、天保の改革と同じように、政府要員の大幅な入れ替えになる。すなわち、8月8日、仕組方・口羽善九郎が罷免され(21日には用談役と裏判役も罷免)、11日には政務役の周布政之助が遠近方に左遷され、代わりに椋梨藤太4)が政務役に就いた。また、罪を得て退隠していた坪井九右衛門も復帰し、江戸方御用掛となった。8月24日には、郡奉行蜷川(にながわ)四郎右衛門が大坂頭人に移され、25日には、手元役清水新三郎が明倫館頭人に移され、内藤万里助・長井彌次郎は用所兼所帯方を罷免された。その他、辞表を提出した者が極めて多かったといわれる。11月下旬になると、口羽・内藤・周布・蜷川などは、「逼塞」「遠慮」などの罰を受けるに至る。
 『修訂 防長回天史』はこの政変を評して、「此(この)更替(こうたい *交代)の跡を見るに全く天保の更替と其(その)轍(てつ)を同くせり、財政計画を立てて失敗せる所相同じ、村田派退(しりぞ)きて坪井派進む所相同じ、畢竟(ひっきょう)峻厳(しゅんげん)なる法令に対する人心の不穏(ふおん)の為(た)めに政府員は其(その)地位を保つ能(あた)はざるに至り、反対派は之(こ)れに乗じて代りて取りたるものと謂ふべく二政派は終(つい)に此(ここ)に至りて画然(かくぜん)たる結果を生じたるなり」(『修訂 防長回天史』二 P.84)と。
 『周布政之助伝』も、当時の世間の厳しい雰囲気を次のように表現している。「此(この)令既に闔藩(こうはん)に発布したりしが、債主の不利益多きのみならず、頼母子開始の禁止は窘窮(きんきゅう *苦しみ行き詰ること)せる士民の金銭融通を停渋(ていじゅう *とどこおること)せるものにして、非難不平の聲(こえ)四方に喧囂(けんごう *騒がしいこと)せり、是(ここ)に於て藩政府は物情鎮綏(ちんすい *しずめやすんずること)の方法を謀議し、債主を説得慰諭(いゆ *慰め諭すこと)して借主を訓誨(くんかい *おしえること)誡飭(かいちょく *いましめつつしむこと)し、更に天保改革に尽瘁(じんすい *心を尽くし力をつからす)せし村田清風の蹶起(けっき)を促し、家老格の優遇を以て整理の事務に鞅掌(おうしょう *きわめて忙しいこと)せしめしも、旬日ならずして病没し、怨言歎嗟(えんげんたんさ *うらみなげき)の聲(こえ)益々(ますます)甚だしく、早晩要路交迭(更迭)の機期を招徠(しょうらい *招き寄せること)したり、......」(上巻 P.217)と。
 今回は、天保の改革の時よりもはるかに士民の怨嗟の声は、厳しいものがあった。それは、事実上の「借金踏み倒し」で金持ちからの批判を浴びただけでなく、庶民金融としての頼母子講までも禁じたからである。頼母子講は、庶民の相互扶助によってカネを融通し合うもので、日常生活に不可欠のものである。たとえ、ごく一部にこの頼母子講を悪用した者がいたとしても、その儲けはたかが知れたものであって、頼母子講の禁止による庶民の生活困難の方がはるかに重大なものなのであった。それこそ、為政者の政治感覚が問われる問題であった。

注1)周布(すふ)政之助は、1823(文政6)年3月23日に萩町に生まれた。だが、父兼正が同年6月25日に亡くなり、兄兼親も同年7月9日に亡くなったため、政之助はわずか生後6か月で68石の家督を継いだ。母が村田氏の出身のため、周布は村田清風の影響を強く受けた。政之助は8歳ころから明倫館に学び、1844(天保15)年8月に、明倫館廟司を命ぜられる。1847(弘化4)9月、25歳の時、蔵元検使暫役を拝命する。翌年6月には、蔵元検使本役に任ぜらる。同年12月には、明倫館の拡張につき、明倫館専任検使役に転任する。1850(嘉永3)4月、地方右筆唐船方添役(そえやく)を拝命する。1851(嘉永4)年11月、江戸方右筆添役を拝命する。翌1852(嘉永5)年5月には、江戸方政務座添役に任ぜらる。1853(嘉永6)年6月、ペリーが初めて来航する。この年の9月、政務役の椋梨藤太が免ぜられ、政之助が添役から政務役に転じた。ここで周布は、はじめて藩政中枢に参画するようになる。
2)分扶持は、扶持が分割支給されたことを指すが、ここではその証書を形(かた *担保)に借金することを指す。宿代は、家臣の屋敷地「売買」(屋敷地の流動化)により、従来よりも質素な住居に移っても、更に借金を重ねると新たな住居の家賃(宿代)も納められず借金が増えるケースと思われる。いずれも、藩士の借金の形態である。
3)頼母子(たのもし)とは、掛け金を出し合って、一定期日に籖(くじ)や入札により順次に金を融通する庶民金融の一種(無尽も同じ)。種々のやり方があるが、後に金を受け取る者ほど利子が付く方法が一般的。
4)椋梨藤太(むくなしとうた *1805~65年)は、1805(文化2)年、遠近付士椋梨景雄(禄高49石余)の長男に生まれる。1843(天保14)年、右筆坪井九右衛門の添役(そえやく)となり、1848(嘉永元)年には右筆明倫館用掛となる。1853(嘉永6)年、政敵の周布政之助と右筆を交代し、1855(安政2)年に一時復帰するも翌年には退役し、1857(安政4)明倫館頭人となる。だが、周布派に逐われ、1860(万延元)年には熊毛代官も免職となる。1863(文久3)年の8・18クーデターのあと、坪井らと仲間を集め、藩主に迫り、隠居を命じられた。1864(元治元)年8月の第一次朝幕戦争で長州藩が敗北すると、政務役に復帰する。しかし、元治の内戦に敗北し、1865(元治2)年2月(「慶応」への改元は4月7日)、船で支藩の岩国藩へ逃亡を図る。しかし、風波にさえぎられ、陸路、津和野へ入り捕らえられ、諸隊の強い要求により閏5月28日、野山獄で斬首された。61歳。

 (2)坪井・椋梨派の農産物取立て政策
 1855(安政2)年8月15日、藩主は自ら施政の重点項目を以下のように定めて、執政に授けた。
一 人気の事
二 仕組(*財政改革)の事
三 地(*国元)江戸手当の事
  道中の儀も同断
四 火薬製造の事
五 農兵取立(とりたて)の事
六 総奉行取立の事
七 諸役人賞罰の事
八 不毛の地詮議の事
九 均田の事(*農民層分化を防ぎ、土地所有を平均化する)
十 役屋敷組屋敷の事
十一 女教の事  (『修訂 防長回天史』第二編 P.84~85)

 江戸へ参勤(9月2日出発)する直前の8月30日、藩主敬親は諸臣に対し、「近年異国船渡来致し東西頻(しき)りに相窺(あいうかが)ふ、其(その)動静奸謀異心計り難く、実に皇国御艱難(かんなん)の秋(とき)なり、......海防少(すこし)も猶予(ゆうよ)相成坐(あいならざ)ることに候、......此(この)御艱難の時に当(あた)れり、防夷(ぼうい)軍政(ぐんせい)他家に抽(ぬきんで)て速(すみやか)に相調(あいととの)へ聊(いささ)か微忠を尽し叡慮(えいりょ *天皇の心)を安(やすん)じ奉る外(ほか)更に他慮なく候、......海防今日其期(そのご)に至れば一同義憤せしめ文武精錬し虚飾に堕す廉耻(れんち *恥を知る心)節操を守り我等(われら)素志を遂(と)げ候様彌(いよいよ)報国の奉公怠(おこた)るべからざる事」と、訓諭を下す。
 また、同日、新政府は負債延期令を撤回する。これにより、人心はようやく治まったようである。
 周布派は村田清風らの天保改革と同じ轍を踏んで、政府中枢を追われた。これに代わって藩政を担った坪井・椋梨派は、どうであろうか。「......外圧の衝撃とともに、時代は転換しつつある。この時期にふたたび登場して改革を遂行しようとする坪井・椋梨派もまた大きく変わりつつあった。勿論、かれらが幕藩領主階級である以上、農民層の分化を阻止し、"均田"政策1)を打出していることは当然であるが、その産物取立政策には、かれらの変わりつつある姿をみることができる。」(田中彰著『幕末の長州』岩波新書 1965年 P.49)というのである。
 この頃、西南の諸藩では、競って藩内の産物を取り立てて藩の専売制に組み込む政策が実施されつつあった。農民が商品作物を生産することが発展することを背景にして、肥前藩は1845(弘化2)年に国産方の設置についで、1854(安政元)年には代品方(のちの佐賀商会)という藩営の商業所あるいは貿易所ともいうべき機関をつくっている。松山藩は、同じ1854年5月に、道後縞の会所を設置した。宇和島藩も、藩産物方を1856(安政3)年に創設している。
 坪井は、天保の大一揆の教訓を踏まえて、その二の舞を避けながら専売制に取り組むこととした。すなわち、坪井の考えとしては、「これまでの政策では、つねに収支を領主財政のそれのみから考えている。しかし、たとえ仕入(しいれ)銀一〇〇貫を投じて産物を買入れ、それを他国に売って八〇貫目にしかならなくても、二〇貫目の損と思ってはいけない。仕入銀一〇〇貫は、産物を買入れた藩内のその土地におちてそこを潤しているのだから、他国販売銀の八〇貫とあわせた一八〇貫は、結局、『御国中の潤沢融通』となっていると考えべきだ」(同前 P.50)というのである。
 したがって、坪井はこのような考え方に立って産物取立政策を行なうのであるが、「その実施にあたっては、その土地土地の実情に通じた大庄屋・庄屋クラスの地主・豪農五十六人(延六十人)を"勧農産物江戸方御内用"という役に任じている。これらの地主・豪農層を"江戸方"という藩中央に直結させて、かれらに産物の仕入銀を貸下げて買入れさせようというのだ。しかし、その折にはちゃんと抵当のための質物をとることを忘れてはいない。」(同前 P.50~51)のであった。
 
 (3)軍制改革を眼目とした安政改革
 ペリー来航以降、長州藩の政権交代は激しく、党派対立も次第に厳しくなってくる。しかし、それは未だ1864(元治元)年以降のような激烈なものではなかった。したがって、対抗者を完全に政治の舞台から追放するようなものではなかった。
 1855(安政2)年8月11日、周布政之助は政務役を辞めさせられ、遠近方1)に左遷させられた(政務役は椋梨藤太が代る)。同年8月29日、周布は異船手当用掛(海防方)の兼勤を命ぜられた。しかし、同年11月21日、藩主は周布と口羽善九郎などを罰し、周布は30日間の「逼塞」となった。
 周布は、1857(安政4)年2月5日、先大津代官を命ぜられる。その後、同年9月2日、先大津代官を免ぜられ、江戸方用所役兼(けん)地方所帯役に任じられ、ようやく再起の運びとなった。周布は翌1858(安政5)年2月11日、江戸方用所役兼任を罷められ、遠近方兼右筆唐船方を命ぜられる。
 用所役とは、江戸政府の被管(直属)であって、経常金穀(きんこく *財政)の調査や融通の計画などを掌(つかさど)り、矢倉方と協議してその事務を行なう。なお、矢倉方とは、江戸藩邸内の金穀の出納をはじめ、諸工事需用品などを管理する役所である。
 所帯方は、藩政府の出納を掌り当職に属したが、後世、重職となる。


注1遠近方(えんきんかた)とは、はじめ御国留守居役に属していたが、のちに当職の管轄となった役職である。その職務は、諸士の江戸その他への出役に対する課役や出銀(だしぎん)にあたり、路程の遠近あるいは任務の頻度(ひんど)軽重(けいちょう)を調査して公平に諸役を賦課すること、老中と組頭との連絡を緊密にすることなどが主なものである。のちに、諸士の諸々も願い伺いや藩府の指令はことごとく遠近方を経由することとなり、また諸士以上の犯罪を判決して藩主の裁断を仰ぐ職掌となったので、その地位と権力も甚だ重くなった。

 (ⅰ)「三大要綱」の決定と諸改革の討議
 1858(安政5)年4月、幕府は日米修好通商条約の調印に関して、諸大名の意見を求めた。これについて、長州藩では重臣のみならず、下級武士も含めたいわゆる「勤王の志士」たちも議論が沸騰する。5月14日、益田弾正をはじめとする重臣たちは議論を尽くして、「三大要綱」を議定する。その内容は、以下の通りである。

此度(このたび)墨夷(*アメリカを指す蔑称)一件、幕府(ばくふ)天朝え御窺(おうかがい)相成(あいな)り候処(そうろうところ)、下田条約(*1857年5月26日締結の下田協約のこと)の外、一切御許容あそばされざる節は、自然異変も計り難きに付き、防禦の処置、聞こし召されたくとの叡慮(*天皇のこと)仰せ出だされ候処、幕府にては、最前仮条約の外(ほか)、御扱い方之(これ)無く、勅諚(ちょくじょう *みことのり)の通りにては、国家の御為(おんため)に相成らずとの由にて、列侯御気付(おきづき)の筋、仰せ出だされ候様、御達(おたっし)之(これ)有り、誠に皇国の御一大事、容易ならざる儀、就いては此の御方に於いても、忠?(ちゅうとう *真心からの正直な言葉)の御建白(*上に対して自らの意見を述べること)、あらせざりては、天朝・幕府は申すに能わず、御祖宗え対せられても、相済(あいすま)せらまじき儀と存じ奉り候、之(これ)に依って私共(わたしども)愚昧(ぐまい)を顧(かえり)みず、集議の趣(おもむき)申上げ候、元来(がんらい)墨夷申上げの趣、表は懇切(こんせつ)忠告の様(さま)相見(あいみえ)候得共(そうらえども)、内実(ないじつ)過心(かしん *誤った気持ち)を抱蔵(ほうぞう *抱え込み)仕(つかまつ)り候は、追々の応接にても相察(あいさっ)せられ候処、幕府に於いても、寛容の御取扱いあらせられ候は、一時の御権宜(けんぎ *臨機に施す適宜の処置)にも之(これ)有るべく候得共、数ヶ所開港、夷人雑居、邪教(*キリスト教を指す)の寺院建立(こんりゅう)等相成り候ては、人心疑惑、遂に禍乱(からん *わざわい)を生し候は、必然の勢(いきおい)にて、御国体も相立てず、後患(ごかん *後の憂い)免れ難き様相見え候、此度叡慮の通り、墨夷〔*の要求〕御拒絶に相成り候はは、眼前異変生し候儀も之(これ)有るべく候得共、御国体におゐては、聊(いささ)か御屈辱之(これ)無く、海内(かいだい *国内)の死力を尽し、遂に防戦候様、御英断相成り候得は、人心忽(たちま)ち一変し、太平の流弊(りゅうへい *因習の弊害)相改まり、兵馬調練砲艦の製造等は、不日(ひならずして)相整ひ、皇国御興起の良策、此外(このほか)には有り御座まじく、恐れ乍(なが)ら叡慮ここにおいて出で候は、誠に天下の大幸共(とも)申し奉るべく儀にて、幕府に於いても、勅意遵奉(じゅんぽう *従いまもること)あらせられ、然るべき御事に存じ奉り候、此段(このだん)御建白あらせられ候はは、
天朝えの御忠節
幕府えの御信義、且(かつ)は
洞春公(*毛利元就)以来の御忠志を継がせられ、御孝道にも相協(あいかな)ひ申すべく儀と存じ奉り候間、
御熟慮の上、御建議あらせられたく、伏(ふ)して懇願(こんがん)仕り候、右の通(とおり)能(ほどよく)仰せ上げられたく存じ頼み候、以上、  (『周布政之助伝』上 P.291~292)

 ここで、「朝廷に忠節」「幕府に信義」「祖先に孝道」という長州藩の「藩是三大綱」が確立する。但し、西洋諸国との通商は、天皇・朝廷の言う通り、拒絶するものであった。5月12日、藩政府は周布政之助をして、この建議を藩主にもたらすために東下させた。周布は、5月25日、帰国中の藩主に尾張領で謁見し、建議を藩主に上らせた。
 1858(安政5)年夏から冬にかけ、長州藩は政府要員の大幅な入れ替えを行なった。「六月二十六日当職役益田弾正を当役に任じて、当役浦靱負(ゆきえ)を当職役に転ず、翌日用談役内藤兵衛・江戸手元役赤川太郎右衛門・前田孫右衛門を免じ、内藤万里助を用談役となし、孫右衛門を藩地手元役に任ず、越えて二十九日、右筆役三宅忠蔵を罷め、先考(*周布のこと)之(これ)に代りて手元役の事務を兼ね〔*右筆を兼ねて〕、兼重譲蔵また右筆役となる、......石津新蔵は右筆添役より本役に陞任(しょうにん *昇任)せり、斯(か)くて七月十三日宍戸(ししど)九郎兵衛用所役となり、十月十八日坪井九右衛門疾(しつ *)を以て撫育方用掛の職を辞し、十一月七日井上與四郎用談役となる、是(ここ)に於て安政二年に更替したりし九右衛門・太郎右衛門等の一派、概(おおむ)ね職を去りて先考及び万里助・孫右衛門等改進の一派要路に列し、藩公を輔(たす)けて諸政を釐革(りかく *改革)するに至れり。」(『周布政之助』上 P.295~296)とされる。
 長州藩の政府中枢は、1858(安政5)年7月24日、兵庫警衛地の出兵を議定して、藩主の決済を26日に得た。「開国」へ進む幕府の動きをみて、情勢の急迫を感じた藩主敬親は、人事を刷新し諸政の改革を着手しようと、重臣たちに討議させた。
 浦靱負の『浦日記』によると、7月25日、梨羽直衛・清水圖書・内藤万里助・周布政之助・石津信藏・兼重譲藏・前田孫右衛門・渡辺伊兵衛・工藤半右衛門が大書院に集まり、会議を行なっている。26日には、前日の会議の模様を藩主が聞き取り、28日には、御前会議を行なっている。この御前会議には、内藤万里助・周布政之助・石津信藏・兼重譲藏・前田孫右衛門・福原荒助・内藤吉兵衛・松原太郎右衛門・八谷藤兵衛・宍戸九郎兵衛・渡辺伊兵衛・工藤半右衛門が出席している。
 この時の模様をまとめたと思われる周布政之助自筆の文書は、重臣たちの改革意見の要点を大方示している(『周布政之助伝』上 P.299~327)。それは、「江戸・藩地両政府の諸員相会し、釐革(りかく)施設に関する事項を講究(こうきゅう *事物の理を考えきわめること)審議して其(その)意見を上(たてまつ)る、藩公之(これ)を閲覧し、其旨に協(かな)ふ〔*藩主の意向に合う〕ものは、各條自ら朱点を加え、先考(*周布のこと)をして抄録して再び上(のぼ)らしむ、弾正(*益田)藩公の意を以て之(これ)に附箋(ふせん *用件を書いて、または目印として貼りつける紙片)し、要路と共に日夜論難討議して施設の要項を記」(同前 P.299)したものである。一例をあげると、
 
一、 農兵の事
御両国(*防長2国)御手広の海岸急変の節、防禦(ぼうぎょ)方の儀、在住の諸士のみにては、行届(ゆきとど)き難きに付き、農兵御引立(ひきた)て置き、肝要の事と存じ奉り候段、同人(*浦靱負のこと)申上げ候処、
思召(おぼしめ)しに相叶(あいかな)ひ、御朱点を御加え成らせ候、
(上附紙)
 諸宰判御代官所に於いて、農兵取立(とりたて)の仕法、遂に詮議(せんぎ)申出で候 
 様との御事、

 浦靱負が、農兵取立(防長2国は海岸線が長く、諸士だけでは防禦できないので農兵を取り立てるべき)の意見を述べたところ、藩主の「思召しに相叶ひ」、朱点を加えられた。それに益田弾正が附箋を付け、農兵取立てを詮議し上申するとした―のである。
 論議の範囲は、①「御軍政の事」、②「文武御引立の事」、③「民政の事」―に及んでいる。軍制改革が第一に掲げられていることが示すように、この度の諸改革はあくまでも軍制改革を中心としたそのための諸改革である。
 重臣たちの論議の特徴を分野別にみると、まず①「軍制改革」の項では、7人から13カ条にわたって意見が提出された。それらの中で特徴的なのは、なんと言っても毛利筑前の次の意見である。

一、 練兵の事、
 ......
 実事練と申し候得(そうらえ)は、第一弊俗の階級論直勤陪臣の隔(へだ)て、是等(これら)の處(ところ *処)よりして親睦仕らずしては、練兵の実意には相叶(あいかな)わず、然(しか)る共(とも)上下尊卑の常格は、乱世といへとも、屹(きっ)と〔*厳重に〕相立(あいた)て申さずしては、所謂(いわゆる)烏合(うごう *規律も統一もなく寄せ集められた人々)の兵に候得共、治平(ちへい *治まって太平なこと)の弊風〔へいふう *悪い習俗や風習〕、全く礼譲を失ひ、互いに相争ふ心多し、不謂(いはざる)事に候、別して昵近(じっきん *親しみ近づくこと)陪臣、隔意(かくい)之(これ)有り候ては、一軍の害に相成り申し候、何卒(なにとぞ)礼を以て、一和仕り、一向(いっこう)勇義(ゆうぎ *勇気と義と)の處に心を鍛え候様、御処置肝要の御事に存じ奉り候段、筑前(毛利)申上げ候處、......

 当時の改革の矛盾というか、ジレンマというか、一方で、直参と陪臣(ばいしん *家来の家来)との間があまりに隔てらていると実際の練兵ができず、他方、両者の間の「上下尊卑」の身分秩序がなくなると、「烏合の兵」になってしまう―というのである。だから、「礼を以て」、団結し、"勇義の心を鍛える"ようにすべきだというのである。
 日本の近世封建制は、武士階級の内部でも複雑で体系的な階層秩序があるが、それに杓子定規に従っておれば、現実に則した練兵ができない。とくに西洋式の銃陣訓練では、かえってその身分秩序は邪魔ものである。しかし、身分解放を目的として「開国」に備えるわけではなく、現存の秩序を西洋諸国の侵出から守るためだけに、西洋式軍制と練兵を導入するという「技術効率主義」とも言うべき姿勢(和魂洋才)では、"分け隔てなく、しかし上下尊卑の身分秩序の根幹を失わない"というジレンマは決して解決しない。それは、単なる"勇義の心を鍛える"という精神主義では解決しえないのである。(この問題は、明治維新によっても解決できなかった)
 次に周布政之助は、次の2カ条を述べている。

一、 兵制詮議(せんぎ)仰せ付けられ、御旗本・八手(*八組)共(とも)調練仰せ付けられたき段、政之助(周布)申上げ候処
 思召しに相叶ひ、御朱点を御加え成らえ候、
一、 御中間(おちゅうげん)頭、是迄(これまで)無給通(むきゅうどおり)え仰せ付けられ候得共、向後(こうご)大組百石以下の内、御人撰にて、頭役仰せ付けられたき段、同人申上げ候処、
思召しに相叶ひ、御朱点を御加え成らえ候、
(上附紙)
 本書御中間頭、仕る役(やく)詮議の上、申出で候様との御事、

 周布は、兵士の訓練の対象を旗本と八組(大組)に命令されたいとしている。一見当たり前のことを言っているようであるが、西洋式訓練から旗本(軍中で藩主のいる本陣で藩主を守る武士)や大組(長州藩の家臣団では中核である)から逃亡させないためである。
 特に注目すべきは、中間頭をこれまで無給通(士分の中では最下級クラス)であったのを大組の100石以下へと昇格させたことである。これは西洋式の銃陣訓練で中間などの活躍が大いに期待されていることを意味し、そのために中間頭の身分を昇格させたのである。
 次に②「文武御引立」の項では、18人が37カ条の意見を提出した。前の「軍制改革」の項と違い、これほど多くの重臣が意見を述べたのは、一門も含めほぼ全員が意見を提出したからである。この背景には、まさに政治情勢の緊迫化が迫る幕末という時代状況があると思われる。
 意見の中には、月並みなものもある。たとえば、財政改革のために倹約を追求することである。だが、倹約は、江戸時代を通じていつも言われてきたことである。しかし、内藤万里助は、心構えや一般論ではなく、具体的な倹約策を次のように直言している。

一、 御倹政の事、
 右御倹約の儀、是迄(これまで)迚(とて)も御疏(おんうと)く之(これ)無き御事に候得共、猶又(なおまた)時勢に乗し、御斟酌(しんしゃく *汲み取ること)仰せ付けられ、諸事御資格に相泥(あいなず)まれず〔*身分格式に拘泥しないで〕、御省略仰せ付けられたく候、国家を治(おさめ)るの要は、一利を與(あた)ふよりは、一害を除き候儀肝要(かんよう)と承け及び候間、何事も簡易を主として、古風に復し、冗官を省き雑費を減せられ候様、精々(せいぜい)御詮議仰せ付けられ、然(しか)るべき哉(や)と存じ奉り候段、万里助申上げ候処、早々遂に詮議候様仰せ出で、朱にて御印を御附(おつけ)成らせ候、
(上附紙)―A
 御国力強盛の本は、風俗改まり質素に本(もと)つき候儀(ぎ)に之(これ)有るべきに付き、......(虫喰)御教導振り如何(いか)様の處(ところ)然(しか)るべき哉(か)、
(上附紙)―B
 簡易を主とし古風に復し候様の儀は、如何様の處より御手を下されて然るべき哉(や)、 
冗官を省き雑費を減せられ候様の儀は、如何様の處(ところ)を眼目に......(虫喰)御
手下され然るべき哉
一、 士民の困窮御救恵の事
 一統奢侈(しゃし)の風俗を改め、質素に本(もと)つき候様、御教導仰せ付けられ、
御国力強盛に立至(たちいた)り候様之(これ)有りたき段、万里助申上げ候処、思召
しに相叶ひ、御朱点を右文言え御印をも御加え成らせ候、

 内藤が「古風に復し冗官を省き雑費を減せられ候様」にと提言するのに対し、益田弾正は藩主の意を踏まえて、附箋を2つ附けている。Aでは倹約の教導を如何様にすべきかとしつつ、その位置づけは「国力強盛の本」としている。これは、時勢を背景にしていると思われる。従来は、倹約は専ら財政改革を目的としたものであった。だが、今や倹約は「国力強盛の本(もと)」へと、積極策に転じているのである。万里助も、同様のことを「士民の困窮御救恵の事」で言っている。
(幕府の老中首座・阿部正弘は、すでに1855〔安政2〕年12月頃には、"「開国」をして、積極的に交易を行ない、富国強兵を図り、そのうえで「万国に対峙する」"という政治路線を打ち出している)―〔詳しくは、拙稿『攘夷の旗頭・斉昭と近代日本の序章』〈労働者共産党ホームページに掲載〉を参照〕
 Bでは、冗官を省き雑費を減ずるには、どこを眼目に着手すべきか検討すべきとしている。
 ②「文武御引立」の項でも、①「軍制改革」の項と同様に、「技術効率主義」を積極的に行使しつつも、身分秩序の大切さも強調している。

一、 明倫館の内にては、階級持方(もちかた)に拘らす、芸術(*技術)の長短を以て、座並(ざなみ *席順)を定め、文学諸武芸、等科を相立て置き、名籍(*名札)を掛(か)け、座並の儀も、御参堂其外はれ立ち候節は、席順を以て、着座仰せ付けられたく、此(この)儀小事の様に候得共、容易に相行(あいおこな)われ難き儀に御座候、乍爾(しかりながら)学校は、才徳成立(なりたち)の場所に候得は(そうらへバ)、仮令(たとい)御貴族にても、壮年にて才徳成就(じょうじゅ)仕らざる内に、御家格を以て、長者よりも上座(かみざ)を仰せ付けられ候ては、其(その)人の才徳成就の期は御座なく、館外に於いては勿論(もちろん)、貴賤の差別(さべつ)屹(きっ)と相立(あいた)て、敬礼を失わざる様(よう)之(これ)無くては、御貴族の御詮(かひ)も、之(これ)無き儀候得とも、学校は格別の地に成り置かれ候得は、館外の事には関係仕らざる候、此(この)旨趣能々(よくよく)御碎(おくだ)き成され候て、御貴族方より御手を下され候はは、其(その)以下には、十口(とく)と〔*いろいろと〕申す者、決して御座なく候、若(も)し旧習に泥(なず)み候者(もの)之(これ)有り候はは、夫々(それぞれ)御咎(おとがめ)仰せ付けられたき段、同人(*周布政之助)申上げ候処、
思召しに相叶ひ、御朱点を御加(おくわ)え成られ候、
(上附紙)
 此(この)一條の眼目は、大臣より手を下させ候処にて之(これ)有るべく様(よう)
 相見(あいみ)へ、尤(もっとも)候得は其(その)処置(しょち)如何(いか)様に
 して然るべき哉(や)
 ここでも、明倫館(藩校)の内外を区別し、内部では「才徳」のすぐれた者で順序付け、外部では身分(家格に)よって差別すべきとしている。
 この身分秩序を維持・防衛するために、宍戸九郎兵衛は、「復古思想」をかかげて、西洋思想の導入に制限を設け、枠組みを設けているのである。

一、 總(すべ)て御政治は、復古の御主意に之(これ)有りたく、
 御先代方、御美政(おんびせい *善いまつりごと)古典に赫々(かくかく)と〔*光輝く様〕相顕(あいあらわ)れ候得は、御改革と号し、新奇を御求め遊ばれ候には、申す及びまじくと考え奉り候段、同人(*宍戸九郎兵衛)申上げ候処、
思召しに相叶ひ、御朱点を御加え成られ候、
(上附紙)
 御政治は復古の御主意に之(これ)有りたき段は、尤(もっとも)の事に付き、諸役所に於いても、銘々(めいめ)其(その)心得にて、諸事(しょじ)取計(とりはから)ひ仰せ付けられたく、猶又(なおまた)御改革と候ても、新奇の事を御求め遊ばされ候にては之(これ)無く、是迄(これまで)の旧弊、又(また)は暫時(ざんじ)も閣廉(おきたださ)れ難き〔*少しの間も止めただしがたい〕を御改革の御主意は、勿論(もちろん)の事に付き、以往(いおう *これより先)と候ても、其(その)処(ところ)弁別肝要の儀に候間、彼是(かれこれ)御処置振り如何(いか)様にて然るべき哉、

 宍戸らの復古思想は、のちの明治維新においても中心思想となって、天皇制の復活を正当化したが、当時の長州藩の「藩是三大綱」をも支えるものであった。すなわち、「朝廷に忠節」、「幕府に信義」とともに、「祖先に孝道」が「藩是三大綱」の一つとなっているのである。ただし、この場合の復古思想は、日本の祖先崇拝思想によって儒教の復古思想を正当化する形となっている。
 だが、益田の附箋が言うように、問題は復古(古きものを維持する)と改革の見分け、すなわち「其処弁別肝要」といっても、その弁別の基準すらなく、つきつけめると諸個人のそれぞれの判断次第になっているのである。したがって、西洋技術の導入をめぐる争いは、明治維新以降も激烈な党派闘争の火種になり続けるのである。
 なお、注目すべき事は、周布が以下のような提言をもって、「利権町人」に対する敵意を堅持していることである。

一、 銀百目(*匁)に付き、米貮(二)石替えの御定(おさだ)め、和市(*公定価格)を以て御貸銀仰せ付けられ、諸證文をも調え渡し仰せ付けられ来たり候処、貮石と申す和市は、近年之(これ)無く候に付き、扶持家賃突替(とっか)えなとと唱え、證文を調え候て、下に於いて、銀立(ぎんだて)を心遣(こころつか)い、右の證文を質入れにして、借銀を仕り候様相成り、終(つい)に利権町人の手に落ち申し候、当節十ヶ年二十ヶ年にても、?(なら)し候て御定め、和市立替え仰せ付けられ、下に於いて、銀主を心遣い、借銀仕り候ても、上(かみ)の御銀を貸し下げ候ても、同様に相成り候様に仰せ付け候はは、自然と町人の利権、上(かみ)え帰し候て、御家来中成立(なりたつ)一助とも、相成り申すべき儀に御座候段、同人(*周布政之助)申上げ候処、
思召しに相叶ひ、御朱点を御加え成され候、
(上附紙)
 本書利権町人に落ち申さず様、町人の権利上(かみ)ヘ帰し候て、御家来中成立(なりたち)の筋と相成り候儀、眼目に相見へ、至極(しごく)尤(もっとも)の事に付き、早々御仕法立て詮議仰せ付けられたく候事、

 特権的町人の経済的な勢力がいくら伸張しても、藩が権力を背景に金融政策を遂行し、「自然と町人の利権、上え帰し候」ようにするべきと周布は、提言する。その政策を提言する大義名分は、家来たちの生活を成り立たせることである。
 その際の政策は、具体的には明らかではないが、「当節十ヶ年二十ヶ年にても、?し候て御定め、和市(*公定価格)立替え仰せ付けられ......」というように、かつて村田の失脚の原因となった「三十七ヵ年賦皆済仕法」や、周布自身が失脚する原因ともなった「負債返還延期令」と同様な方法と思われる。
 周布は、あくまでも武士階級の見地から町人をただ利用するだけであって、武士の生活崩壊は許せないのである。そのためには、権力をフルに使って「利権町人」の横暴を放置しないのである。この点は、ヨーロッパ中世とは根本的に違う。ヨーロッパ商人たちは都市自治を拠点に領主から自治権を買収あるいは闘争を通して獲得し、自らの権力基盤を拡大した。彼らは、商業的な勢力拡大だけでなく、政治権力も同時に強化拡大したのであり、この点が日本の商人とは根本的異なるのである。商人たちが都市を拠点として政治権力を拡大させた歴史がなければ、絶対王政を打倒するブルジョア革命も準備できなかったであろう。
 ③「民政の事」の項では、4人が12カ条の意見を提出している。
 八谷藤兵衛は、伝統的な儒教の観点から、民政の基本を次のように述べている。

一、 農政を厚くして国力を壮にする事、
 右富国強兵の本は、農政第一の儀、勿論(もちろん)の御事に付き、御倹政の実相相行(あいおこなわ)れ、末(*商業)を逐(お)ひ候(そうろう)者(もの)少く、本(*農業)を務む者多く、御国力農饒(豊饒)に相成り候様、御制度仰せ付けられたく、租税を薄くし、課役を省き候事、勧農の本に付き、御代官役其(その)任に当たり候者、御撰(おえらび)にて、精々其(その)職掌を尽し、御徳沢遍(あまね)く行届(ゆきとど)き候様、仰せ付けられたき段、藤兵衛申上げ候処、
思召しに相叶ひ、御朱点を御加え成らせ候、
(上附紙)
 民政は万民に本(もと)を務(つとめ)させ候て、御国力豊饒(ほうじょう)に相成り
 候御制度肝要の儀候処、其(その)御制度如何(いか)様仰せ出られ然るべき哉(や)、
 且又(かつまた)租税を薄くし課役を省き候時は、如何様の仕法然るべき哉、猶又(な
 おまた)御代官役の人物は、如何様の人柄御撰び遊ばされて然るべき哉、

 藤兵衛は、農を本にし商業を末とする農本主義を唱え、国力を豊饒にするために、租税を薄くし課役を省く勧農(かんのう)を進める代官選びが重要と強調する。これらは、中国で古代以来一貫して強調され、儒教の基本ともなっており、なんらの新鮮味もない。ただ、藤兵衛の意識では、当時の政治状況を背景にして、「富国強兵の本は、農政第一の儀」と位置づけ直すところに新鮮味がある。しかし、余りにも時代の変化が理解できていない。  
 そこで、周布政之助の方から次のような意見が提起される。

一、 第一農を勧め地力人力を尽し候〔*農業の生産性を高めるために、土地生産性を高め、人を合理的に配置する〕手段、第二山海の生産無益に朽果て申さず様、夫々(それぞれ)諸世話仰せ付けられたく候、尤(もっとも)此儀(このぎ)は、御代官の専務にて、郡中御箇條歴然の事に付き、御代官え厚く御委任仰せ付けられたき段、同人(*周布)申上げ候処、
思召しに相叶ひ、御朱点を御加え成らせ候、
(上附紙)
 二條(*勧農と山海の生産)共(とも)御代官の職掌中、第一の儀に付き、御代官役人
 撰の儀は勿論、地下役人(じげやくにん)に至る迄、人物精撰、各々(おのおの)其(そ
 の)職を尽し、世話致し候様之(これ)無くては、諸事行届き申しまじく且(かつ)御
 代官へ御委任の儀は、其(その)細目(さいもく)之(これ)有るに付き、如何様の処
 を以て、仰せ聞かれ然るべき哉、
一、 売買諸品座元一切禁止仰せ付けられたき段、同人(*周布)申上げ候処、
思召しに相叶ひ、御朱点を御加え成られ候、
(上附紙)
 諸品座元禁止の儀は、衆人の論も之(これ)有り、旁(かたがた)尤の事に付き、禁止仰せ付けられたく、就(つ)いては見込みの処も之(これ)有るに付き、一応聞こし召されたき事、

 周布は、儒教的な理念ではなく、長州藩の現実を儒教思想と融合させつつ、第一を農業、第二を「山海の生産」にする。「山海の生産」とは、林業、製紙―楮作り、塩業、?燭生産―櫨(はぜ)作り、漁業などを意味している。これらは、米と共に大坂市場などに出荷され、藩の経済力を高めているものである。
 これらの商品作物からの利益を商人に奪われないように、「売買諸品座元」を禁止し、藩の専売品として統制・管理するわけである。しかも、座元禁止を「衆人の論も之有り」と言って、商人の中間収奪を嫌う農民の要求を代弁し、あたかも民衆の利益を追求するかのようなポーズを益田はとっているのである。
 なお、③「民政の事」の項では、周布と宍戸九郎兵衛が共に5カ条ずつ意見を提起している。宍戸は、各宰判の代官が、勧農において重要な役割を果たすので、短期間で交代するのでなく永勤すべきこと、富豪が馳走米銀を差し出した場合、地元の宰判の水利事業や窮民の救いなどに優先的に投資すべきこと、農民層分解で土地無し層をなくすため均田政策を行なうことなど―を提案している。
 『偉人周布政之助翁伝』の年譜によると、1858(安政5)年8月11日、「藩公大に時勢に鑑み兵制を改革し内政を刷新し以て其の変に応ぜんとす是日(このひ)先考(*周布)等諸有司を政庁に会して之(これ)を審議せしめ終(つい)に数日に及ぶ、」(P.14)と言われる。軍制などの改革のための審議は、7月につづいて8月にも熱心に行なわれているのであった。

(ⅱ)安政の軍制改革
 安政の諸改革の討議とともに、軍政改革は急ピッチで進む。それは、旧勢力との論争を通しながら、諸分野で進行する。内外情勢の緊迫化もまた、軍政改革を後押したのであった。しかし、前述したように政権交代も繰り返され、党派対立も次第に厳しくなってくる。だが、それは、未だ1864(元治元)年以降のような激烈なものでがなかった。軍制改革は、このような状況の下で推進された。

 【丙辰丸と庚申丸の建造】
 ペリー一行が来航した年の1853(嘉永6)年9月15日、幕府は諸藩に対し大船の建造を解禁した。翌1854(嘉永7)年2月、幕府は海防上の必要性から、長州藩にも大船の建造を申し入れた。
 幕府は、1855(安政2)年6月、諸大名・旗本に洋式調練を命じるとともに、翌月には長崎に海軍伝習所を設けた。この年、幕府は伊豆戸田(へた)村で、スクネール型の大艦・君沢丸を建造した。スクネール型とは、西洋式帆船のことである。当時の日本の技術では、蒸気船は建造できなかったが、スクネール型の大船は製造できたのであった。
 1856(安政3)年1月、長州藩は御船大工棟梁の尾崎小右衛門に対し、大船製造法とその運転技術の習得のために伊豆などに出張することを命じた。当役浦靱負(ゆきえ)らは、江戸品川沖に繋舶していたスクネール船を見学し、この状況を藩主に報告し、スクネール船の建造に踏み切った。同年2月、尾崎小右衛門にスクネール船製造御用掛(かかり)を命じるとともに、幕府の若年寄・本多忠徳の家臣で船大工棟梁の高崎伝蔵など4名の技術者を招いて協力させた。
 造船は、藩内各地の船大工などを動員し、小畑村(萩市中小畑)蛭子堂鼻で行なわれた。建造中のスクネール船には、ホート・ホーイスル砲1門、6斤軽架砲1門、ランケ架砲1門、6ポンド砲1門が装備された。同年12月、完成したスクネール船の進水式が行なわれた。
 1857(安政4)年1月、スクネール船にはマストが取り付けられ、船は外装・内装ともに装備され、2月には造船所の近くで試運転が行なわれた。藩は、3月6日、スクネール船の竣成届けを幕府に提出し、そして同船の江戸回航の許可を求めた。同年5月、スクネール船の船長には尾崎小右衛門が決まり、その他の舸子(かこ *水主)も選定され、航海練習が始まった。5月25日、このスクネール船は、完成した年にちなんで丙辰丸(へいしんまる)と名づけられた。翌月の閏5月5日、丙辰丸は初めての航海として大坂行きを命ぜられ、同月13日に出航し、6月6日に大坂に入港した。そして、同月16日に帰港の途につき23日に小畑村繋泊地に無事もどった。
 1858(安政5)年7月21日、藩は山田亦介を軍艦製造御用掛に任命した。これは、一時中断していた軍艦製造を再開するものであった。6月21日、藩は幕府に大艦製造の許可を求め、許された。軍艦製造は、この6月から本格的に始まった。軍艦は、1860
(万延元)年5月3日に進水式を行ない、庚申丸(こうしんまる)と名づけられた。8月には庚申丸は完成し、同月23日に乗組員14名が任命された。同月25日、山田亦介が庚申丸御用掛に任命された。
 建造された丙辰丸と庚申丸は、以降、毛利海軍の主力艦となるのであった。

 【西洋学所の独立】
 軍制の洋式化には、洋学導入の発展も並行した。洋学は、長州藩においても西洋医学とともに進歩した。
 1855(安政2)年、好生館(医学所)の附属として西洋学所が設けられた。そこでは、能美隆庵・田原玄周・松島瑞益(ずいえき)らが西洋学師範、田上宇平太・青木研蔵が西洋学師範掛に任命された。隆庵は医書と文法諸を、玄周は兵書一般を担当した。瑞益は、長崎に出張して、幕府が開いた海軍伝習所でオランダ士官から兵学を学んだ。当時、これを長崎直伝習(じきでんしゅう)と称し、瑞益につづいて北条源蔵ら数人が派遣された。
 松島瑞益は、長崎で2年間海軍学を学び、帰国後は兵制の改革と軍備の充実に力を尽くした。西洋学所も松島らの献策により、砲術・艦砲術・海洋砲術の研究を中心に行なった。だが、当時の大砲は砲身が青銅でできており、着弾距離が短く実用に適さなかった。そこで藩は1858(安政5)年、鋼鉄製の砲身にするために萩の上ノ原に反射炉を設け、大砲の鋳造を行なった。
 1859(安政6)年、西洋学所を好生館から独立させ博習堂と名づけて、兵学専門の機関(海軍学中心)とした。このとき、松島瑞益は医業を廃し松島剛蔵と改名して、田原玄周とともに博習堂の師範役となった。

 【兵制改革】
 幕府は、ペリーが浦賀を去って1週間後の1853(嘉永6)年6月19日、新任の長崎奉行として現地に赴く水野忠徳に、軍艦をオランダに注文する事を命じた。水野は、購入した軍艦を運転し航海できる乗組員を養成するために、オランダから海軍軍人の教師団を招き日本人を教育することを企画した。これが、海軍伝習所となる。
 1855(安政2)年10月24日、海軍伝習所の開所式が長崎西役所で行なわれた。この開所式には、教授陣と諸藩士が参加した。幕臣37名、佐賀藩士48名、薩摩藩士16名、長州藩士15名、津藩士12名、熊本藩士5名、福山藩士4名、掛川藩士1名といわれる。(土居良三著『幕末 五人の外国奉行』中央公論社 1997年 P.88)
 この伝習生(萩では、これを直伝習生と称した)として、長州藩からは15名が送られたが、彼らは目的により3つの部門に分かれた。①軍艦製造、②大砲製造、③西洋銃陣―の研究である。この直伝習生の監督として、御密用方から来原良蔵が派遣された。
 1855(安政2)年11月、松島瑞益などは長崎から帰国し、藩政府に直伝習生の増員派遣を請願した。これに対し、藩政府は松島瑞益および福原清介をふたたび長崎へ遣(つか)わした。
 長州藩は、1858(安政5)年7月20日、山田亦介の隠居を解くとともに、21日、山田を登用し手当方とし、軍艦製造用掛密用方用掛を兼任させた。山田は、1852(嘉永5)年に古賀?庵の著作『海防臆測』を活刷し、急進的な海防論を主唱したため藩の譴責を受けて隠居を命じられていた。その山田が軍制改革の専任者として登用されたのである。軍制の洋式化が、一歩一歩前進してきたのである。
 1858(安政5)年10月27日、藩政府は来原良蔵の要請により、長崎へ直伝習生30人を派遣することを決定した。当時、藩では西洋陣法の研鑽について、その得失が定まっていなかったが、ただ旧慣を墨守するだけでは武備の衰頽を招くのみなので、試みに小禄の者30人を選抜し長崎で修行させ、帰国の後に調練を藩主に閲覧してもらい、深く研究し、検討することとした。
 30人の内訳は、「御手廻組銃隊四組と大組(*八組)銃隊一九組の中(うち)兵庫屯戍(とんじゅ *たむろして守る)の一組を除ける十八組とより、各組一人宛(あて)貮拾貮(22)人に御中間組のもの八人を選びて差遣せん」(『来原良蔵伝』上 P.428)とするものであった。
 同年12月23日、山田亦介は来原良蔵に、次のような書簡を送り、激励している。すなわち、「洋式銃陣に熟練することが藩にとって目下の重大事である。なぜならば、洋式銃陣を取り入れた兵制改革を近く断行する予定であるからだ。その時期については、来春、貴殿の帰国を待って相談する。したがって一層の努力を望む」(『萩市史』第一巻からの重引 P.886)と。
 翌1859(安政6)年1月20日、来原はまた江戸政府に要請し、西洋銃陣修行のために30人派遣を求めた。周布らはいろいろ検討したようだが、ようやく13名を長崎に派遣した。しかし、幕府は2月、突如として長崎伝習生を中止することを発令した。反動的で独断的な井伊政権の決断である。
 海洋に面する長州藩は早くから外寇に備え、藩主斉煕の時代(在位1809~24年)には、「神器陣」(既述)が編成された。「然(しか)るに闔藩(こうはん *藩全体)世禄の士は、因習の久しき剣槍弓矢を貴(とうと)び、火器は軽卒(けいそつ *身分の低い兵卒)の執(と)れるものとなして賤(いやし)み、其(そ)の隊伍に編入せらるるを屑(いさぎよ)しとせざりければ、之(これ)に応ぜるもの甚(はなは)だ僅少(きんしょう)であった。かくて藩政府は、神器陣の練習を勧誘奨励して継続したりし......」(妻木忠太著『来原良蔵伝』下 P.70)というのであった。
 しかし、事の難しさは、根が深かったようである。その理由は、第一に、神器陣の編制は古来の隊伍法と大いにことなり、その実戦運用に円滑さを欠くものであって、早晩改革の必要を説く者がいただけでない。第二に、「嘉永六年(*1853年)封内(*藩内)の海防疆域(*境域)を八大区に分画し、一門及び両家老(*益田家と福原家)を其(その)総奉行に任じ、各麾下(かくきか)を以て警衛の戍兵を編成せしめて操練を督励したり、之(これ)を一手別練習と称す、斯(か)くて政府は、一手別の練習を開始せしめて其(その)実行を董督(とうとく *正しく取締ること)し、漸(ようや)く隆盛に趨(おもむ)かんとするの傾向ありしが、諸士若(も)し之(これ)に熱中せば神器陣の操練(そうれん)頓(にわか)に衰廃せんとするの憂(うれい)あり、加之(しかのみならず)、一手別練習の規模なほ確定するに至らず、依りて藩公は壮年の士にして、未だ神器陣を習練せざるものを曉諭(ぎょうゆ *言いきかす)して悉(ことごと)く之(これ)に入門せしむ、実に安政元年閏七月十五日なり、」(『周布政之助伝』上巻 P.220)と言われる。
 一手別練習は、藩議も決定しておらず、八手(八大区)それぞれ規則が異なり、その操練もまた別々であったのである。「是(ここ)に於て、藩政府は神器陣見合役(監督官)をして、一手別間稽古の練習を監視せしめ、以て其(その)統一を企図せしも未だ効験(こうけん *効果)を認むる能(あた)はず、先考(*周布政之助のこと)等大に之(これ)を憂慮して凝議(ぎょうぎ *いろいろ相談する)したりしが、遂に其(その)編制と操練との二途に出でて一致せざるを兵制の大欠点となし、斉煕公の遺法と雖(いえど)も、時勢に鑑(かんが)み速(すみやか)に改正して新制を創設するを急務となし、日々慎重の審議をなし、神器陣増補の名を以て新に麾下(*藩主の旗本)並(ならび)に八手の一手別銃陣練習を開始せんとす、依りて汎(ひろ)く兵家諸流の軍法火技等を参酌(さんしゃく *あれこれ比べて善い方を採る)して其(その)長所を採択し、一手毎(ごと)に銃陣素檠(すだめ *狙い方向を定める)の各監視員を置きて操練の統一に努力せしむべきを決せり、尋(つい)で其(その)草案成るに及び、十二月二十八日(*1854〔安政元〕年)藩公に上覧して裁断を仰ぎたり、藩公之(これ)を嘉納し、翌二年正月十七日浦靱負(ゆきえ)をして其(その)内命を八手総奉行及び神器陣見合役等に達せしむ、」(同前 P.221)と言われる。
 兵制の洋式化については、守旧派の反対もありいざこざもあって延び延びになっていた。だが、「今や嘉永より安政に入るに従って既に神器陣の用うるに足らないことは明白化し、従来の封建武士団の軍事力を西洋近代軍事力に対抗しうるごとく改革し、刀槍に代わるに鉄砲をもって主戦兵器とし、銃陣を採用することは猶予を許さない情勢に立ち至っていた。しかし、かかる西洋銃陣の採用という軍制改革は、従来の刀・槍の有した個人の力量差を消滅せしめ、集団的共同的戦力として封建武士団を更新強化するものであったから、その結果は必然的に門閥身分制によるピラミッド方の戦闘体形を崩し、門閥身分の高下(こうげ)を問わず並列することになり、封建武士団の組織とその精神を破壊せんとする方向をもつものであった。従って、長州藩もその採用には頗(すこぶ)る強い抵抗に遭遇しなければならなかった。」(梅渓昇著『明治前期政治史の研究』未来社 P.80)のである。
 それにもかかわらず、対外的危機を打開するものとして、軍制の洋式化は1859(安政6)年の夏秋ごろから、本格化する。
 1859(安政6)年6月、長崎から帰国した直伝習生たちは、萩城下の深野町馬場で西洋銃陣の練習を開始する。藩の重臣たちはこれを見学した上で、西洋銃陣を採用するか否かを判断することになっていたが、老臣6名中これを見学したものはわずか2名に過ぎなかった。やはり、老臣たちの多くは西洋銃陣の採用には消極的であった。
 だが、藩主敬親は採用に積極的であって、同年7月1日、次のような内意を組支配中に伝えた。すなわち、「西洋銃陣は現在テスト中である。そこで志のある者は、江戸では江川太郎左衛門方に入門し、国元では長崎伝習者について訓練を受けるようにせよ。これを学ぶと外国の風に堕するという誹(そし)りにこだわることなく、外国の長所を取り入れる気持で習練せよ」(『萩市史』第一巻 P.887)というものである。
さらに8月25日、「江戸当役益田弾正は、国元政府に書状で藩主の意向を伝えた。それによると、差し当たり次のような措置をとることを指示している。
一、 諸士に対し洋式銃砲取り扱いの習練を命ずること。
二、 操練の隊は小銃隊(四〇人)・弓隊(二〇人)・槍隊(二〇人)・弓槍銃馬上隊(二〇騎)、大砲隊(四〇人)と定める。
三、 操練場所は西ノ浜とする。
四、 右の操練の結果は軍制改革の検討材料とする。」(同前 P.888)とした。
 また同年9月10日、藩政府は、道家龍介・氏家彦十郎・山田宇右衛門・波多野金吾・松島剛蔵・赤川直次郎・藤井百合吉を軍制詮議掛(かかり)とし、翌11日には、山田亦介と来原良蔵とに、軍制改革の調査を命じた。そして、14日には、諸士卒に対して、軍政詮議(せんぎ *評議して物事を明らかにすること)に関して意見があれば封事(密封)をもって意見を提出するように、公募を行なった。
 この頃、江戸で習練する諸士の銃陣と長崎で練習した銃陣との規則にやや違いがあったため、藩政府はこれを調整させるために、来原良蔵・前田孫右衛門らを江戸に召命した。来原らは、11月5日に、江戸の桜田藩邸に到着したが、そのわずか8日前の10月27日、来原良蔵の義兄・桂小五郎の師である吉田松陰が処刑されたのを聞き、痛く悲歎し追悼をした。
 江戸に着いた来原は11月12日、右筆役を除かれ、有備館に入舎させられて文武諸業御用掛に任命された。
 藩主敬親は、この頃、軍制改革に熱心で関係者の討議研究を促した。井上與四郎・内藤万里之助・周布政之助ら重臣と、今回出府した来原良蔵・前田孫右衛門・野村彌吉・正木市太郎との討議研究が進み、1859(安政6)年12月、軍政改革の次のような大要が決定された。

一、 練兵場修行を五科に分ち、第一科を生兵(*新兵)教練・小隊教練・鼓法・大隊教練の四等とし、第二科を大砲手続玉打・砲隊教練の二等とし、第三科を歩銃姿勢玉打・十八陣習練小隊・諸役式の三等とし、第四科を騎銃姿勢玉打・騎銃隊習練・金鼓貝旌旗用法の三等とし、第五科を大隊司令の式・砲隊司令の式・歩騎撤隊司令の式の三等となす事、
二、 西浜教練場を新設して諸士の練兵場となすを以て、古習練場を習練場と改称して軽卒の練兵場となす事、
三、 一手別操練は言ふべくして行はれざるの情態あるを以て、神器陣と共に一時中止せしむる事、
四、 明倫館練兵場に於いて、諸士に入込(いれこみ *泊まり込み)稽古を命じ、先ず第一科中の生兵小隊両教練より開演し、また習練場に於いて軽卒の砲隊銃陣稽古を続行せしむる事。
五、 射術稽古場三箇所中、其(そ)の二箇所を合して、新に大砲稽古場を開き残余の一箇所を弓家の射場となさしむる事、
六、 足軽諸物頭役は、直ちに部下足軽の小隊司令たるべきものなれば、砲隊銃陣規則を会得(えとく)し、卒伍の所為(しょい *なすところ)をも習熟し置かしむる事、
七、 騎射打球は、嚮(さき)に本国に於いて其(そ)の稽古場を没収し、一時中止の姿となりたれども、此(こ)の技術は撤戦法の一助ともなるべきものなれば、復活して銃陣稽古の休日を以て其の技を修めしめ、軍政改革実施の後(のち)其の存廃を決する事、
八、 海軍を拡張する為(た)め、森重正之進に造艦用掛を命じ、航海運用諸術海軍操習法及び艦内砲射撃法等を調査せしめ、博習堂(*西洋学所を独立させたもの)師範役と協商(*相談して取りはからうこと)せしめる事、 (『来原良蔵伝』上 P.129~130)

 この大要決定の特徴は、①練兵場の銃陣修行を五科に分けて具体化したこと、②一手別操練とともに神器陣を一時、中止したこと(神器陣は事実上、廃止)、③足軽・中間などの軽卒の銃陣稽古を明確に位置付けたこと、④海軍の拡張を続行させたこと―などである。とくに、軽卒の重視は、明確なものがある。

  【農兵の取立て】
 長州藩は、領国での海岸防禦・異国船対策のためにも、領内の農兵取立てを強化した。そして、1859(安政6)年8~9月にかけて、宰判(さいばん *他国の郡に相当。幕末には18宰判)の代官から農兵取立ての方法について、意見を聴取している。
 その主なものを紹介すると、以下のようである。「吉田宰判では従来からの二〇人に加え、新規に六〇人の農兵を取り立て小銃の稽古をさせること、有事の際は在郷の諸士1)六名をその指揮役とすることなどを答申した。/奥阿武(おくあぶ)宰判では、領内には二九七人ほどの鉄砲持ちがいるとしつつ、妻子・家財を異人から必死に守ろうとする海辺の住人とは違い、海から離れた地域は人口も少ないので、農業の妨げになるという理由から農兵取り立てに消極的な返答を寄せた。当島(とうじま)宰判は、かねて六〇人余の猟師に春秋二回の打ち方稽古を命じているほか、緊急時には十八歳から五十歳までの壮健者約六〇〇人に鉄砲・斧・鎌・竹槍などを持たせ、地下役(じげやく *村役人)の者が率いて出動することになっていると回答した。熊毛宰判では、従来からの四五人に加え、三〇人ほどの農兵を増員して在住の諸士に付属させ、竹槍・猟筒などを持たせ、農閑期に毎月二回の稽古、春秋の『玉打(たまうち)』を実施する、有事には兵粮倉庫の警衛に当たらせるといった方針を述べた。大島宰判では、各地に農兵五〇人ずつを配置し、笠・法被(はっぴ)・長脇差・竹槍・斧・鎌などを持たせるものの、農業専一なので砲術稽古はさせない。夷人上陸の際は米蔵警衛や海辺警固などに従事させる、萩からの指令を待つには遠いので臨機応変に対処するといったことを上申した(以上、国立歴史民俗博物館所蔵の木戸孝允文書による)。」(樋口雄彦著『幕末の農兵』 P.124~126)と。
 これをみると、積極的な宰判や消極的な宰判もみられるが、兵農分離の原則に縛られている宰判代官もみられる。だが、農兵を在郷諸士が率いることが傾向的にみられるようである。それは、武士による指揮・統率という軍事的観点のみならず、農兵隊の自立化を防止する意味合いからも、農兵隊を在郷諸士に「付属」させたのである。
 また、農兵隊はあくまでも各地の郷土防衛が本務なので、各地の兵粮倉庫の警衛や、農業経営への配慮などが重視された。
 
注1)長州藩でも、一般の家臣団は城下町萩に居住することが原則であった。だが、長州藩には在郷住宅の制度があった(既述)。それは、当初、家計が窮迫し勤務に耐えがたくなった藩士が、負債整理のために一定期間萩での勤務を離れ、知行所あるいは縁故の村落で倹約住居する制度(藩庁の許可が前提)であったが、後には、特に家計窮迫とまでいかなくても、請願によって一定制限のもとで在郷住宅を許すようになった。このため、藩士の在郷居住は広がったといわれる。

 (4)来原良蔵・吉田松陰の正兵・奇兵構想
 1858(安政5)年8月末頃かと思われるが、来原は日夜、国事に深く悩み寝ることも出来ない時期があったようである。その頃の手記に「寝られぬまま」がある。
 それは概括すれば、①藩公の親政、②要路(藩政府の幹部)の留任、③諸士の品評(人物評価)、④衣食住の制度、⑤兵制の改革、⑥学政の変更―の範囲にわたっている(『来原良蔵伝』上 P.391~400)。そのうち、⑤を抜き出してみると、以下の通りである。

一、 兵制を治むへき事、〔1〕
一、 総奉行と組頭先(まず)合体すへし、〔2〕
一、 今の天山流は、西洋流の精整にしかす(如かず)、火縄銃はトントン銃の便利に及はす、〔3〕
一、 一手操練の日数をまして、組中不勤の届(とどけ)を出さすへし、〔4〕
一、人々の器械をしらへ(調べ)其(その)不足を補ふへし、〔5〕
一、 穣苴、荘賈を斬り1)、光弼、用済を斬る、後世(こうせい)此(この)まねをする者なし、二人に及はさるも宜(む)へなるかな、〔6〕
一、君公は洞春公(*毛利元就)まねして、自ら諸手の先陣をしたまへかし、左(さ)あらは、下々もおのつと(自ずと)先祖のまねをすへし、〔7〕
一、土兵を組立て銃隊の正兵となし、士は暫時奇兵となすへし、土兵編方(あみかた)別に是(これ)を出す、〔8〕
一、火縄銃に長する者は、先(まず)其儘(そのまま)にさし置て、別に一隊をなし、釼(やいば)槍(やり)に長する者、是亦(これまた)別に一隊となし、以て奇兵に備(そな)ふへし、〔9〕

 〔2〕は、政治と軍事を一体とすべき―と提起しているのである。それほど時勢は厳しくなっているという認識である。〔3〕は、銃陣は洋式を用いるべきで、火縄銃をドンドル(Dondor)銃に改めるべきとする。〔4〕は、各組の部下の操練日数を増やし、个(個)組から勤怠(きんたい *出勤と欠勤と)を届けさせるようにすべきとする。〔5〕は、士卒、百姓など兵士の所持する武器を調べ、その不足分を補給すべきとする。〔6〕は、中国の故事に則り、軍紀を厳格にすべきとする。
 〔7〕と〔8〕が、正兵と奇兵に関係する条項である。来原は、〔7〕で、「土兵を組立て銃隊の正兵となし」というように、百姓ら民によって銃隊を編成し、これを正兵とするのである。神器陣と異なり、銃隊が中心であり、従って正兵なのである。正兵に対する奇兵は、士が担う。〔8〕では、奇兵として、火縄銃の一隊(恐らくこれには猟師も含まれていると思われる)と、剣槍に長じた一隊をあげている。剣槍の一隊は正兵にはなれないが、敵の抜刀隊には対処できるのであり、その存在を許容したのであろう。
 後の奇兵隊との関連は不明であるが、「奇兵隊」の発想のはしりにはなったと思われる。
藩の軍事力に農民も登用する点では、吉田松陰もまた似たような論を行なっている。
 吉田松陰はペリー来航直後に書いた「将及私言」(1853〔嘉永6〕年8月)以降、兵学のことについてはほとんど発言していない(山鹿流兵学師範の家職を継いでいたにもかかわらず)2)が、1858(安政5)年9月24日、「西洋歩兵論」を書いている。松陰の最後の兵学意見ともいうべき、この書で松陰は次のように述べている。西洋歩兵の兵制を施行するに関し、

今大略(たいりゃく *あらまし)を以て云はば、大番士(おおばんし *大組あるいは八組のこと。約1000人)中三十人を撰(えら)んで大いに歩兵を精錬させ、是(こ)れを師長として足軽以下農兵に至るまで3)(農兵は百人中一人を取らば御両国中二千五百人は得べし。此の輩〔やから〕に平日一人扶持〔ふち〕を下し置かれ,教演行役等に臨まば更に軍食米一升宛を賜ふべし)一統教演せしむべし。是(か)くの如(ごと)くなれば不日(*やがて)に精兵となるべきなり。其の他(そノた)平士(ひらし)は益々(ますます)短兵接戦を督責(とくせき *うながしせめる)せしむべきなり。然れば吾が邦(*長州藩)固有の得手(えて)は一塩(ひとしお *ひときわ)精錬に至るべし。尤(もっと)も三十人と云ふは真の手初(てはじ)めを云ふなり。其の下手(したて *養成)の順序を詳(つまびら)かに云はば、少壮の士三十歳以下二十歳左右(*周り)の士にて志あり気あり才ある様の人物を選び、六ヶ月を期し大坂岡村貞次郎(*浜松藩の大坂留守居役)へなりとも遣(つか)はし、業(ぎょう)成りて帰らば第一に御奥御馬場に於て是(こ)れを考試(こうし *試験)し、彌々(いよいよ)実用に適すべきを御見定(みさだ)めの上、毎日同処にて平士少壮の者及び足軽・御中間(ちゅうげん)を時刻を分ちて訓練し(平士は辰牌〔*午前八時〕より午牌〔*正午〕まで、足軽以下は未牌〔*午後二時〕より酉牌〔*午後六時〕までなどと定め、或は隔日にするも亦〔また〕可なり)、君公(くんこう)時々御観臨遊ばされ、是(か)くの如くすること三十日にも及ばば、其の得失(とくしつ)弁を待たずして一国の通論(*一般的に通ずる議論、公論)となるべし。是(こ)れより少壮中の人物を撰び、漸々(ぜんぜん *だんだん)に師長の員を増し農兵をも訓練し、又(また)大坂・江戸其の外(そノほか)諸藩にて盛(さかん)に歩兵の行(おこな)はるる処々へ、十人十五人を一組として修行に差越(さしこ)され、益々増隆に趣(おもむ)く様に致したきことなり。此の法行はるる一年計(ばか)り、然る後(のち)備定(そなえさだめ)の大令を下布(かふ)せば絶妙の策ならん。備定の大略は、八手(*前述の大番士)へ各々(おのおの)足軽・御中間・農兵等を附属し、其の内の役付(やくづき)は大番以下の壮士を以て是れに充(あ)つべし。是れ正兵にして、其の余の平士は皆(みな)武具を提(ひっさ)げ専(もっぱ)ら接戦を心掛(こころが)くる、是(こ)れ奇なり。......   (『吉田松陰全集』第五巻 P.32~33)

 松陰は、「只今(ただいま)の神器陣位(ぐらい)の遊戯三昧(ゆうぎざんまい)の事にて日を竟(お)へ〔*物事が終ること〕ては、勝算断じてあることなし。」(同前 P.30)とか、「容易に今の神器陣をも更張(こうちょう *今まで弛んでいたものを改めて盛んにすること)せんなどは障碍(しょうがい)なきにしも非(あら)ず」(同前 P.32)とか言って、神器陣を否定的にみて、西洋歩兵論を提唱する。
 その西洋歩兵は、あくまでも士分(武士身分)が指揮者であって、足軽・中間などの士分外の層(後の卒族)や農兵を統率するのである。そこには身分制は厳然と維持されており、農兵などは藩の軍事力を補う点で利用されているにすぎない。、低い身分の者を登用し出世させることと、身分制の解体(身分制からの解放)とは、全く次元が異なる事柄なのである。
 松陰は、その少し前の1858(安政5)年5月上旬に記した「愚論」(『吉田松陰全集』第四巻に所収)の中でも、「当今兵力単弱の故は、将(しょう)其の人に非(あら)ざると、兵を選ぶこと精(くわ)しからざるとの二つに御座候。......万石以下、又(また)諸藩千石以下の士は軍役は皆虚額のみに相成り、仮令(たとい)頭数(あたまかず)ありとも精兵何程(なにほど)も之(こ)れなく候。夫(そ)れ故(ゆえ)此の局を一変し、万石以下以上に限らず、材武にして随分一戦仕るべしと願出(ながひい)で候ものへ、力に任(まか)せ有禄無禄・武士浪人に拘(かかわ)らず調募(徴募)させ、千夫長百夫長其の大小に準じ、賊艦一隻二隻攻取(せめと)り候事を委任仰せ付けられ候はば、世禄大身より下賤の徒(と)浮浪に至るまで、悉(ことごと)く奮発(ふんぱつ)国の為に力を致し候様相成り申すべく候。」(P.343)と言っている。これもまた、封建的身分制を解体するという政治展望をもったものでなく、あくまでも当時の情況を踏まえた上で封建的な軍事力の再編を言ったものでしかない。
 現に、松陰は農民一揆については、極めて冷淡に鎮圧の対象としてしかみていない。1855(安政2)年4月6日、野山獄で書いた「獄舎問答」(『吉田松陰全集』第二巻)では、「百姓一揆の如きは、連年苛虐の致す所にして触るる所ありて発す、亦(また)自ら一種なり。......其の已(すで)に起るや、草茅屋舎(そうぼうおくしゃ)一掃残すことなし〔*家屋は残すことなく破壊されてしまう〕。実に恐るべしと雖(いえど)も、久々堪重(かんじゅう *重任に堪え得る意)を持すること能(あた)はず〔*百姓一揆を鎮める困難な任務に堪えることができない〕。今の兵士を用ひ是(こ)れを蕩滅(とうめつ *悪しきものを絶滅させること)せば、何の難(かた)きことかあらん。」(P.138)と、農民の生活と闘いに極めて冷酷である。
 また、松陰は(また来原良蔵も)、この士分に指揮された足軽・中間・農兵の歩兵を正兵、士分のみで構成された隊を奇兵と位置付けているが、それは言うまでもなく、孫子の兵法に基づいている。すなわち、

孫子曰(いは)く、「兵は正を以て合ひ、奇を以て勝つ」(*第五・勢篇)と。千古の合戦、千変万化と雖(いえど)も、皆(みな)此(こ)の一句に外(ほか)なること能(あた)はず。正は堂々正々の陣法にて、是(こ)れ節制(*統率)錬熟(れんじゅく *ねれて熟達すること)の兵に非(あら)ざれば、是れに當(あた *当)ること能はず。奇は紛々紜々(ふんぷんうんうん *ごたつき乱れる様)の戦勢にて、是(こ)れ精悍(せいかん *挙動が鋭く勇敢なこと)剛毅(ごうき *意志がしっかりして物事に屈せぬこと)の兵に非ざれば、是れを任ずるに足らず。西洋人、歩兵を以て軍の骨子となす、是れ孫子の所謂(いわゆる)正なり、其の他騎兵・砲兵等は所謂(いわゆる)奇なり。余(よ)因って思ふ、正は西洋歩兵の節制をとるに如(し)かず、奇は本邦固有の短兵接戦(刀剣等の短い武器を用いて敵に接近して戦うこと)を用ふるに如かずと。 (同前 P.29)

 しかし、孫子の正・奇論は、その陣法・戦法をいっているのであり、軍団の分業として正・奇に分け、それぞれを正兵・奇兵と定めているわけではない。天野鎮男氏によると、藤塚鄰・森西洲著『孫子新釈』は、「本篇(*勢篇のこと)を読んでみると、一つの軍隊が或(あるい)は正法を用ひ、或は奇策を用ふるのである。最初から正兵と奇兵とに二分してをるのではない。......勿論(もちろん)正法奇策を運用する上に於ては衆多の兵の中から正法戦術に長ずるものと奇策戦術に長ずるものとを区別しておくことは所謂(いはゆる)分数形名の上から見て必要なことであらうけれども、能(よき)将は之(これ)を適所に運用するのであって、決して前とか後とか、敵に当るとか傍(かたわら)より出づるとかの区別が決定してをるものではない」(新釈漢文大系36 天野鎮男著『孫子呉子』明治書院1972年 P.112 から重引)のである。初めから正兵・奇兵があって、それぞれが専門的にそれぞれの任務を担うなどという固定的関係などではないのである。(《補論 二人の孫子と正・奇論》を参照)
 しかも、松陰は武士の身分制を否定できないのか、奇兵の基本的戦法を「本邦固有の短兵接戦を用ふる」と定めているのである。これでは、否定的な神器陣と基本的な点で、どこが違うのかと疑わざるを得ない。「短兵接戦」は武士身分の最低の生命線となっているのである。やはり、松陰はここでも身分制に固執しているのである。

注1)司馬穣苴(しばじょうしょ)は、春秋時代の斉の将軍で、景公(在位前547~前490)年に仕えた。ある年、燕・晋の軍を防ぐため出陣にあたり、"自分は微賤の出身で士卒の信頼に乏しいから監軍(軍目付)を付けて欲しい"と願い、景公は荘賈(そうか)を任命した。穣苴は"明日正午、軍門で会おう"と、荘賈と堅く約束をした。だが、当日、驕慢な荘賈は、将軍が軍に赴いているのだから、自分が約束の時間に赴くまでもないと高をくくり、親戚と別れの宴をして、ようやく夕刻に到着した。穣苴は直ちに荘賈を斬刑に処して権威を確立した。他方、兵卒には親身に接し人心を掌握して、燕・晋の軍を追い払った。
2)吉田松陰(寅次郎 *1830~59〔文政13~安政6年〕)は、杉百合助(禄高26石)の次男に生まれ、5歳の時に、叔父の吉田大助の仮養子となり、6歳にして山鹿流兵学師範の吉田家(禄高57・6石)を嗣ぐ。だが、松陰は杉家で育てられ、山鹿流の奥儀免許をもつ叔父・玉木文之進に教育された。
 松陰は、その後、九州遊歴(1850年)や江戸・東北の遊歴(1851~52年)を繰り返し、さらに1853年には近畿・関東・江戸など諸国遊歴を行なっている。この年、ペリー来航に際し、浦賀に赴き視察し、同年10月には長崎に来航したロシア船で密航を企てるが、すでにプチャーチンは出航した後であった。翌1854(安政7)年3月27日夜、アメリカ船での密航を再び企てるが、これも失敗し、翌日奉行所へ自首する。そして幕府の裁断で、松陰と金子重之助は長州藩での幽閉となる(10月、萩に到着)。
 松陰は野山獄に囚われ、その最中の1855(安政2)年4月6日、「獄舎問答」(「野山雑著」に所収)を書く。そこで松陰は、「今の務(つと)むべきは、民生を厚うし民心を正しうし、民をして生を養ひ死に喪して憾(うら)みなく、上を親しみ長に死して背(そむ)くことなからしめんより先なるはなし。是(こ)れを務めずして砲と云ひ艦と云ふ、砲艦未だ成らずして疲弊之(こ)れに随ひ民心是(こ)れに背く、策(さく)是(こ)れより失なるはなし。」(『吉田松陰全集』第二巻 P.140~141)と、いますぐの砲艦製造を否定している。したがって、同年7月段階では、「果して朝鮮を来たし満州を収めんと欲すれば則ち艦に非ずんば不可なり。是(こ)れ余の本志なり。今は未だここに及ばず、則ち巨艦待つべきなり。」(同前 P.149~150)と、砲艦製造よりも、民力休養を優先している。だが、朝鮮・満州の侵略・併合は、「是れ余の本志なり」と言って、変えてはいない。
 しかし、松陰は対外的危機の渦中において、兵法師範の家職についているにもかかわらず、兵学の確信を持ちえていない。1855(安政2)年某月12日付けの某宛ての書簡(日本思想大系54『吉田松陰』P.210~211)では、兵学修行に出る「某」に対して、自らの経験を反省し、三策を提唱している。上策は、和漢の学問を捨てて蘭学を3年間学ぶ、中策は、洋式砲術を専門に学ぶ、下策は、東奔西走し、いろいろの人物から学ぶ―である。下策を実行した松陰は、「嘆惜すべきの至りなり」と言い、「返す返すも洋学専要に存じ奉り候」と記している。しかし、後述するように、松陰の正・奇兵論は、「洋学専要」とはなっていない。
 長州藩の軍事洋式化は、周布政之助・北条瀬兵衛・山田亦介(松陰の洋式兵学の師)・来原良蔵らの軍制改革集団によって推進される。だが、松陰はこの集団に招かれず、1857(安政4)年以降、松下村塾は、周布らの軍制改革集団との対立関係が深刻になっていく。(兵家の松陰が、長州藩軍事の洋式化作業から浮いていた点については、詳しくは、須田努著『吉田松陰の時代』(岩波書店 2017年)のP.121~123を参照。
3)松陰は、1858(安政5)年5月上旬に記した「愚論」で、大名の軍役はもはや空虚なものでしかなく、頭数があっても精兵はいかほどもいない―と言って(先述)、「世禄大身より下賤の徒浮浪に至るまで、悉(ことごと)く奮発(ふんぱつ)国の為(た)めに力を致し候様相成り申すべく候。」(山口県教育会編纂『吉田松陰全集』第四巻 P.343)と述べている。幕藩制のための軍事力がすでに有名無実となっているから、「世禄大身より下賤の徒浮浪に至る」あらゆる身分のものから、あらたに軍役を担う者を徴募すべきとしている。そして、その軍事力は天皇の守衛にも使われるべきとした。同年7月16日に書かれた「時義略論」では、次のように言っている。「今急に天子に奏し、京城(*京都)にては如何にも其の形勢を得ざる故、叡山(*比叡山)臨幸の策を献ずべし。琵琶の湖に拠(よ)り、大津の糧に因(よ)り、扨(さ)て精兵五百人を出し、[御両国(*周防・長門)士農工商の壮丁一五万とみて、百中一を抜き千五百人を得べし。三分の一を以て京城を(朝廷)を守護するなり]、行在(あんざい *天皇行幸の時の御殿)を守護し、又(また)近畿の義故(ぎこ *かつて恩義をかけた縁故の者)義兵を調募(ちょうぼ *徴集)し、益々(ますます)警衛を厳重にし、三家・大老を召し、征夷(*将軍のこと)の失策を反復懇到(こんとう *ねんごろで行届くこと)に説諭すべし。」(同前 P.381)としている。

《補論 二人の孫子と正・奇論》
 紀元前2~紀元前1世紀、前漢初期の歴史家・司馬遷が著した『史記』には、兵法家孫武と孫?(そんぴん)の短い伝記が記されている。それによると、孫武は、春秋時代の斉の出身で、呉王闔廬(こうりょ *在位・前514~前496)に仕え、その覇権拡大を支えた。
 孫武が死んだ後、100年余りして孫?がやはり斉に生まれた。孫?は、孫武の子孫である。孫?は、ともに兵法を学んだ友人・?涓(ほうけん)の嫉妬から冤罪を受け、「足斬りの刑」となっている。しかし、孫?は斉の実力者・田忌(でんき)に見出され、これに仕えた。そして後年、魏が趙と結んで韓を攻撃したとき、斉は韓の救援要請に答えた。斉の田忌は魏の都・大梁をめがけ、魏の領内に撃ち入った。この時、魏の将軍・?涓は、斉軍を背後から追撃態勢に入った。孫?はこれに対し、田忌に献策し、?涓を馬陵(ばりょう)に誘い込み、ついに自決に追い込んだ。
 有名な兵法書『孫子』の著者は、孫武である。『孫子』は、計篇、作戦篇、謀攻篇、形篇、勢篇、虚実篇、軍争篇、九変篇、行軍篇、地形篇、九地篇、火攻篇、用間(ようかん)篇から成り立っている。
 正・奇論は、主に勢篇で説かれている。それは、六つに分割できる。(以下の読み下し文は、浅野裕一著『中国の古典 孫子』〔講談社 1986年〕、新釈漢文大系36『孫子・呉子』〔明治書院 1972年〕を参考とした)

(A)孫子曰(いは)く、凡(およ)そ衆を治(おさ)むること寡(か)を治むるが如(ごと)くするは、分数(ぶんすう)是(これ)なり。衆を闘(たたか)はしむること寡を闘はしむるが如くするは、形名(けいめい)是なり。三軍の衆、畢(ことごと)く敵に受(こた)えて敗(はい)无(な)からしむべき者は、奇正(きせい)是なり。兵の加ふる所、?(か *砥石のように堅い石)を以て卵に投ずるが如くするは、虚実(きょじつ)是なり。

◎分数―人数を分けること。部隊を小さく分けて、それぞれ長を置き、指揮させることによって、臨機応変させる。◎形名―形は目に視えるもので旌旗(せいき *はた)類。名は耳に聞こえるもので金鼓など。軍争篇に、「軍政に曰く、言ふこと相聞えず、故に金鼓を為(つく)る。視ること相見えず、故に旌旗を為る、と。夫(そ)れ金鼓・旌旗は人の耳目を一にする所以(ゆえん)なり。」とある。形は形篇を参照。◎三軍―大国の諸侯の有する軍隊のすべて。全軍。◎奇正―正は基本的で常套的な戦術で、奇は敵が思いもよらない意表をついた戦術。「奇正」については、諸説ある。◎虚実―虚は空虚の意で、戦備が手薄なことで、実はその逆で戦備が充実していること。虚実篇を参照。

(B)凡そ戦(たたかひ)は正(せい)を以て合ひ、奇を以て勝つ。故に善(よ)く奇(き)を出(いだ)す者は、窮(きは)まり無きこと天地の如く、竭(つ)きざること江河(こうが *揚子江と黄河)の如し。終りて復(ま)た始まるは、日月(じつげつ)是なり。死して復た生ずるは、四時(しいじ *春夏秋冬)是なり。聲(こえ *声)は五に過ぎざるも、五聲の変は、勝(あ)げて聴(き)くべからざるなり。色は五に過ぎざるも、五色の変は、勝げて観(み)るべからざるなり。味は五に過ぎざるも、五味の変は勝(あ)げて嘗(な)むべからざるなり。戦勢(せんせい)は奇正に過ぎざるも、奇正の変は、勝げて窮(きは)むべからざるなり。奇正の相生(あいしょう)ずること、循環の端(はし)無きが如し。孰(たれ)か能(よ)く之(これ)を窮(きは)めんや。

◎「凡そ戦は正を以て合ひ、奇を以て勝つ。」―難解である。後述。◎「戦勢は奇正に過ぎざるも」は、"戦闘上の勢は、奇法・正法の二つにすぎないが"の意。「奇正の変は勝(あ)げて窮むべからざるなり」は、"奇法と正法との組み合わせによる変化の型は無限にあり、とてもすべてを極めつくすことは出来ない"の意。◎「奇正の相生ずること、循環の端無きが如し。」は、"奇法と正法が代る代る生じるのは、丸い輪に終点がないようなものである"の意。

(C)激水の疾(はや)くして石を漂(ただよ)はすに至る者は、勢(いきほひ)なり。鷙鳥(しちょう *荒々しい鳥)の疾くして毀折(きせつ *破り折る)に至る者は、節(せつ)なり。是(こ)の故に善(よ)く戦ふ者は、其の勢(いきほひ)険(けん)に、其の節(せつ)短なり。勢は弩(ど *バネじかけで矢や石を射る石弓)を?(は)るが如し、節は機(き *バネ)を発するが如くす。

◎「勢」―(C)のテーマである。これを、"激しく流れる水は石を浮かせて漂わせる"ことをもって、表現している。◎「節」―鷲や鷹などの猛禽類が、急降下し、一撃で獲物の骨を打ち砕くに至るまでが「節」である。◎「是(こ)の故に善く戦ふ者は、其の勢険に、其の節短なり。」は、"だから巧みに戦う者は、戦闘に突入する勢いがギリギリまで蓄積され険しく、その蓄積された力の放出は、一瞬の間である"の意。◎「勢」と「節」の関係を、石弓(弩)の操作で表現している。

(D)紛紛紜紜(ふんぷんうんうん *物事が入り混じって乱れる様)、闘乱するも乱(みだ)るべからず。渾渾沌沌(こんこんとんとん *水が盛んに流れ、ぐるぐる廻る様)、形(かたち)圓(めぐ)るも敗(やぶ)るべからず。乱は治より生じ、怯(きょう)は勇より生じ、弱は彊(きょう *強)より生ず。治乱は数(すう)なり、勇怯は勢(いきほひ)なり、彊弱は形なり。

*いかに整然と統制されていた軍隊でも、激しい戦闘の中では次第に陣形も崩れ、指令も行届かなくなり、役割分担も混乱に陥るようになる。「統制の治乱を分ける要因は、軍の部署割りと編成の技術(分数)であり、兵士の勇怯を決定する要因は、戦闘に突入する際の勢いであり、戦力の強弱を左右する要因は、軍が身を置く態勢(形)である。そこで将軍は、たえずこれら三者に気を配り、治・勇・強なる状態を保持し、乱・怯・弱へと転落せぬように努力し続ける必要がある。」(浅野裕一著『中国の古典 孫子』P.129)とされる。

(E)善(よ)く敵を動かす者は、之(これ)に形(かたち)すれば、敵(てき)必ず之(これ)に従ひ、之(これ)に予(あた)ふれば敵必ず之(これ)を取る。此(ここ)を以て之(これ)を動かし、卒(そつ *部隊)を以て之(これ)を待つ。

*『孫子』は、主導権をもって敵に勝利するために、自軍が有利な形に持ち込む誘導方法として、二つの手段をあげる。一つは、「之に形する」方法で、それは敵が決して座視できない要地に進撃し、そこを攻撃する構えをすれば、敵は必ずそれに従って、それに対応する。もう一つは、わざと要地を放棄するならば(「之に予ふれば」)、敵軍は必ずこの要地を占領するために出向いて来る。あるいは、自軍の一部を囮(おとり)にして、敵軍をおびき出す。「このように、必ず追従・対応せざるをえない形を示すか、または必ず食いつきたくなる利益・餌(えさ)で釣るかして、周到に準備した勢の射程距離内に敵軍をおびき出し、勢の恰好(かっこう)の標的にする」(同前 P.131)のである。

(F)故に善(よ)く戦ふ者は、之(これ)を勢に求めて、人を責(せ)めずして、之(これ)が用を為(な)す。故に善(よ)く戦ふ者は、人を択(えら)びて勢に與(したが)はしむること有り。勢に與はしむる者は、其の人を戦はしむるや、木石を転ずるが如し。木石の性、安(あん)なれば則(すなは)ち静(しずか)に、危(き)なれば則ち動き、方(ほう)なれば則ち止まり、圓(えん)なれば則ち行く。故に善く人を戦はしむるの勢、圓石を千仞(せんじん)の山〔*高い山〕に転ずるが如きは、勢なり。

*以上から、「善(よ)く戦ふ者は、之を勢に求めて、人を責めず......」、勝利をつかみとる。将軍が精兵を使うのにはこしたことはないが、たとえ素人の農兵でも勝利しうるのは、「之を勢に求めて」指揮するからである。
 以上が勢篇の内容である。しかし、古来、中国でも日本でも、正と奇との意味・内容について、さまざまな解釈がなされた。たとえば、"定石と奇策"とか、"正兵と奇兵"とかの解釈である。しかし、これらは一面の真理をついているが、正と奇との関係を示す"日月や四季の循環運動・反復運動や、円環の比喩"などを用いた説明と照らしあわせると、どうにもしっくりとしないのである。
 ところが、1972年4月、山東省南部の古都・臨沂(りんき)の南1キロの所で、漢代の墓(銀雀山漢墓)が発掘された。そこからは、膨大な文物が発見された。それは、『孫子』、『六韜(りくとう)』、『尉繚子(うつりょうし)』、『管子』、『晏子(あんし)』、『墨子』、『孫?兵法』、『漢武帝元光元年暦譜』などである。ここに、孫武の『孫子』とともに、初めて孫?の『孫?兵法』が復活したのである。
 『孫?兵法』が明るみにされるにつれ、正・奇に関する解釈と理解は画然として前進した。『孫?兵法』の奇正篇は、以下の通りである。なお、これは元来、『孫子』の一部ではないかと解釈する研究者もいるが、ここでは保留として、前に進める。(読み下し文は、中国・銀雀山漢墓竹簡整理小組編『孫?兵法』〔訳者・村山孚〕徳間書店 1976年 を参考にした)

(A)天地の理、至れば返り、盈(みつ)れば敗(やぶ)る、□□是(これ)なり。興(こう)に代わり廃(はい)に代わる、四時是(これ)なり。勝あり不勝あり、五行是なり。生あり死あり、万物是なり。能あり不能あり、万生(*万人??)是なり。余りある所(ところ)有り、足らざる所有り、形勢(けいせい)是なり。故に有形の徒(と)は、名づくべからざる莫(な *無)し。有名の徒は勝つべからざる莫し。故に聖人は万物の勝を以て万物に勝つ、故に其の勝は屈(つ)きず〔*限りなくある〕。

*「天地の理、至れば返り、盈れば敗る」というのは、物事の運行が終点に至れば元に返り、全面開花する極限になれば、それは次には凋落するという、循環運動の節理を述べ、その代表例として「日月」をあげている。太陽が最も衰えるのが冬至であり、だがそこからは太陽は日ごとに力を増し、夏至に至って最盛期となる。夏至からは次第に力を落とし、次の冬至で再び最も衰える。このため、中国では古来より、「郊祀祭天」が行なわれ、二十四気の一つである冬至と夏至の日にそれぞれ祭を行なった。太陽が最も南に傾く冬至では、太陽が衰えないようにと祈った。
*「余りある所有り、足らざる所有り、形勢是(これ)なり。」は、形勢の特質を示すもので、余力・余裕のあるなしで「形勢」の差を表している。したがって、「有形の徒」(形を現わした部隊)に名前をつけないことはなく、「有名の徒」(姿を現わさない部隊)は勝たないことはない。

(B)戦は、形を以て相勝(そうしょう *相剋。詳しくは後述)する者なり。形は以て勝つべからざる莫(な)きも、其(そ)の勝つ所以(ゆえん)の形を知る莫(な)し。形勝の変、天地とともに相敝(あいつ)き、しかも窮(きわ)まらず。形勝は、楚越の竹を以て之(これ)を書するも足らず。形は、皆(みな)其の勝を以て勝つ者なり。一形の勝を以て万形に勝つは、可ならず。形を制する所以(ゆえん)は壱(いつ *一)なれども、勝つ所以は壱なるべからざるなり。故に善(よ)く戦ふ者は、敵の長とする所を見て、則ち其(そ)の短とする所を知り、敵の足らざる所を見て、則ち其の余り有る所を知る。勝を見ること日月を見るが如(ごと)し。其の勝を錯(お)く〔*勝が定まる〕や、水を以て火に勝つが如し。

*『孫?兵法』は、五行思想に深く影響を受けている。五行とは、万物を組成する五種の元気(万物の根本の力、天地の気)のことであり、木・火・土・金・水を指す。「戦は、形を以て相勝する者なり。」の「相勝」は、「五行相勝(相剋〔そうこく〕)」では、五行次序を土・木・金・火・水とし、後に来るものが前のものを次々に負かす勢いにあるという意味である。すなわち、"木は土に剋(勝)ち、土は水に剋ち、水は火に剋ち、火は金に剋ち、金は土に剋つ"のである。五行思想でもう一つ重要な柱は、「五行相生」である。「五行相生(そうせい)」は、五行の次序を木・火・土・金・水とする。すなわち、木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ずるのである。
*「形勝の変、天地とともに相敝き、しかも窮まらず。」―勝利する形の変化型は、天地とともにおおい尽くすほど沢山あり、しかもそれはきわまりがない(究極的なものがない)、という意。
*「一形を以て万形に勝つは、可ならず。形を制する所以は壱なれども、勝つ所以は壱なるべからざるなり。」―すべての形に勝つような「形」はない。ありえない。敵軍の形を制圧する所以(ゆえん *理由、原因)は一つだが、勝利する理由は一つであるはずがない、という意。だから、「善く戦ふ者は、敵の長とする所を見て、則ち其の短とする所を知り、敵の足らざる所を見て、則ち其の余り有る所を知る。」のである。敵の総合的な分析とそれに基づく判断が不可欠なのである。そうすれば、あたかも日月を見るように、勝利は明らかである。

(C)形を以て形に応ずるは、正なり。無形にして形を制するは、奇なり。奇正は無窮にして、分なり。之(これ)を分するに奇数を以てし、之(これ)を制するに五行(ごぎょう)を以てし、之(これ)を闘はわせるに□□を以てす。分定まれば則ち形有り、形定まれば則ち名有り。............同(ひと)しければ以て相勝に足らず、故に異を以て奇となす。是(ここ)を以て静を動と為(な)すは奇、佚(いつ *あやまち)を労(ろう *功績)と為すは奇、飽を飢と為すは奇、治を乱と為すは奇、衆を寡(か *少ないこと)と為すは奇。発して正と為(な)さば、其の未だ発せざるは奇なり。奇(き)発すれども報(むくい)ざれば、勝つ。

*「形を以て形に応ずるは、正なり。無形にして形を制するは奇なり。」―基本的で常套的な陣法(軍勢の配置・編制の法則)・戦法で、同質の陣法・戦法に対するのが正であり、敵が思いもよらない戦術、意表をついた戦術で、基本的・常套的な陣法・戦術を制圧するのが奇である。この語句は、まさに『孫子』の(B)すなわち「凡そ戦は正を以て合ひ、奇を以て勝つ。」に対応する表現である。
*「同しければ以て相勝に足らず、故に異を以て奇となす。」―敵軍の陣法・戦法と自軍の陣法・戦法が同じならば、五行思想のいう相勝(相剋)にはならない。だから、相勝(相剋)となるように敵が思いもよらない戦術、すなわち奇によって勝利をたぐりよせる、という意。
*「発して正と為さば、其の未だ発せざるは奇なり。奇発すれども報いざれば、勝つ。」―軍隊を発して正(基本的で常套的な陣法・戦法)とすれば、その時点では、奇は未だ現出していない。奇を発しても、敵がこれを知らないままで対処しなければ、必ず勝利する、という意。

(D)余奇(よき)有るは、過勝(かしょう)なる者なり。故に一節痛めば、百節用いられず、同体なればなり。前に敗れて後(のち)用いられざるは、同形なればなり。故に戦勢(せんせい)は、大陣□断、小陣□解。後(うしろ *後備え)前に乗ずるを得ず、前(まえ *先備え)後を然(ふ)むを得ず。進めば道有りて出で、退けば道有りて入る。

*「余奇有るは、過勝なる者なり。」―余りにも奇に偏ることは、誤った勝利を呼びこむこととなる。そうすると、弊害が生ずる。『孫子』形篇で、「善なる者の戦ふや、奇勝無し」と言うように、奇抜な戦術を追うのみでは勝利できない。むしろ弊害の方が多くなってしまう。軍全体の一部が痛むと全体を運用できない。同体すなわち、どの一部も有機的な全体の一部だからである。

(E)賞未だ行なはれず、罰未だ用いられず、而(しこう)して民(たみ)令を聴(したが)ふは、其の令、民の能(よ)く行なふ所なればなり。高きを賞し下(ひく)きを罰して、民(たみ)其の令に聴(したが)はざるは、其の令、民の能く行なはざればなり。民をして不利と雖(いえど)も、進んで死して踵(きびす)を旋(かえ)さざらしむるは、孟賁(もうふん *古の勇士の名前)の難(かた)しとする所なり、而(しか)も民を責(せ)むるは、是(これ)水をして逆流せしむるものなり。故に戦勢は、勝てば之(これ)を増し、敗(やぶ)れば之を代え、労(つか)るば之を息(やす)め、飢(う)うれば之に食(くら)はす。故に民(たみ)□人を見るも未だ死を見ず、白刃(はくじん)を蹈(ふ)むも踵(きびす)を旋(めぐら)さず。故に水を行(や)るに其の理を得れば、石を漂(ただよ)はし舟を折(お)る。民を用ふるに其の性を得れば、則ち令(れい)行なわるること流るるが如し。

*民に令を下し、将軍の命令通りに部隊の運用がなされるのは、民の性に従い、それをくみ取るからである。「故に戦勢は、勝てば之を増し、敗れば之を代え、労るば之を息め、飢うれば之に食はす。」のである。

 『孫?兵法』の発掘は、従来のあいまいな理解・解釈を克服するうえで、貴重なものである。
 それは第一に、正と奇の循環運動を鮮明にしたことである。
 『孫?兵法』の(C)が、「発して正と為さば、其の未だ発せざるは奇なり。奇発すれども報いざれば、勝つ。」ということは、自軍全体が正の時は当然にして、自軍全体が奇となっていない状況である。これが、敵に察知されないようにして(無形の時間帯)、自軍の配置転換をしたり、あるいは巧みな誘導作戦でもって敵をおびき出す段階となると、自軍は奇である。そのうえで、公然と敵の虚を突いたり、有利な形のもとで敵を壊滅させる。この段階は、もはや「公然たる行動」であるからには、正である。
 『孫?兵法』の(C)の冒頭で、「形を以て形に応ずるは、正なり。無形にして形を制するは、奇なり。」は、まさに正から奇へ、奇から正へと、次々に循環運動をする様を表現するものなのである。
 こう考えると、自軍を正兵と奇兵に分け、専門的な分業関係にする事は、孫子の兵法とは著しくかけ離れた発想である。吉田松陰は、「西洋人、歩兵を以て軍の骨子となす、是(こ)れ孫子の所謂(いわゆる)正なり、其の他騎兵・砲兵等は所謂奇なり。」という理解は全くの誤りである。騎兵もまた、正とも奇ともなるものであり、とりわけ奇に特化したものではない。松陰はまた、「正は西洋歩兵の節制(*統率)をとるに如(し)かず、奇は本邦固有の短期接戦を用ふるに如かず」というが、これこそ木に竹を継ぐの類で、折衷主義そのもである。これでは、神器陣の考え方は永遠に脱却できないであろう。松陰は、奇と正が段階を追って代り、全体的には正奇が併用されるということが理解できていないのである。
 第二に、『孫子』の難解な命題「凡そ戦は正を以て合ひ、奇を以て勝つ」を解釈できる大きな糸口をもたらしたことである。
 それは、今、第一で述べたように、「形を以て形に応ずるは、正なり。無形にして形を制するは、奇なり。」が、『孫子』のこの難解な命題を説明していることで明らかである。とともに、『孫?兵法』の(C)が、「同しければ以て相勝に足らず、故に異を以て奇となす。」と言うように、同形同士(戦力の差も大きくない場合)では決着はつかず、したがって、五行思想の相勝(相剋)のように異をもって敵を打ち負かすことができるのである。(これは五行思想の観念論を前提としている)
 したがって、奇抜な戦術の追求のみに没頭することは危険であり、かつまた、正を軽視することは更に言語道断である。勝利は、奇抜な先述の追求のみではありえないのであり、「形を以て形に応ずる」正は基本であり、それなくしては奇による勝利はありえない。正と奇は軍の変化の基本形であり、両者のさまざまな形態での併用によってこそ勝利に到達できるのである。その点で、両者の間には、優劣関係は存在しないのである。

(5)吉田松陰の竹島開拓計画
 来原良蔵はまた、長門産石炭の販路拡張と竹島開拓にも、強く関心をもっていた。来原は、元来、開国論者であり、富国強兵論者である。したがって、藩の急務として、①銃陣の振興、②航海学の講究、③開港・通商―を建言していた(『来原良蔵伝』上 P.359).
 だから、「君(*来原良蔵のこと)長崎に稽留(けいりゅう *とどまる)せるに方(あた)り、国産石炭の販路拡張と竹島(鬱陵島〔うつりょうとう〕)開墾とに関して斡旋(あっせん)するところあった。此(こ)の二件は君の長崎出張に際し、會(たまたま)同地に淹留(えんりゅう *永くとどまること)せる興膳昌藏の首唱である。」(同前 P.430~431)といわれる。
 しかし、興膳昌藏は唐津藩主小笠原佐渡守長国の援助が無理であることを覚り、ついで吉田松陰を説得した。松陰はこれを聞いて、大いに賛成したと言われる。松陰は、早くから朝鮮侵略を唱えている。従って、興膳の竹島開拓に大いに賛成したのである。(《補論 吉田松陰の朝鮮侵略論》を参照)
 翌1858(安政5)年2月、松陰はたまたま門人の久坂玄瑞が東遊の途についているので、江戸に居る桂小五郎に次のような書簡を送っている。

久坂実甫(*久坂玄瑞)東遊、僕(ぼくの)同志の士に付き何事も老兄(*桂小五郎)へ商議(*相談)致し候様申し置き候。......茲(ここ)に一名利奇男子〔*頭がするどく人並みすぐれた男子〕長府人興膳昌藏と申すものあり。竹島(*現:鬱陵島)開墾の策あり。此(こ)の段幕許(*幕府の許可)を得、蝦夷同様に相成り候はば、異時(いじ)明末の鄭成功(*台湾に拠って清朝に抵抗した明末の臣)の功も成るべくかと思われ候。此の深意は扨(さ)て置き、幕吏変通の議〔*臨機応変に事を処する議〕、興利の説〔*利益になる事業を興し企てる説〕今日の急に候へば、竹島開墾位(くらい)は難事に非(あら)ざるべし。是(こ)れ一御勘定(*幕府の勘定奉行)の主張にて行(おこな)はれ申すべくと默算(もくさん *大ざっぱに計算すること)仕(つかまつ)り候。委細玄瑞(げんずい)存知の事に付き御運籌(うんちゅう *策をめぐらすこと)下さるべく候。天下無事ならば、幕府の一利、事あらば遠略(えんりゃく *外国侵略計画)の下手(げしゅ *手をくだすこと)は、吾が藩よりは朝鮮・満州に臨むに若(し)くはなし〔*橋頭堡に匹敵する〕。朝鮮・満州に臨(のぞま)んとならば、竹島は第一の足溜(あしだまり *根拠地)なり。遠く思ひ近くに謀るに、是れ今日の一奇策と覚え候。高論(こうろん *貴兄の意見)如何(いかん)。......
    二月十九日              寅二拝白
  桂君 足下
 竹島の議、福原清介(*松陰の兵学門下)等も同説なり。此の地の様子書中尽し難く、 
 委細玄瑞口頭にあり。
 (日本思想大系54『吉田松陰』岩波書店 1978年 P.224~225)

 松陰は、竹島を蝦夷地と同様に和人が開拓し(つまり、植民地とすること)、日本の領土とする魂胆である。「朝鮮・満州に臨まんとならば、竹島は第一の足溜なり」と、露骨に朝鮮・満州侵略に竹島が橋頭堡となると強調している。
 松陰は、同年6月28日付けで、江戸にいる久坂玄瑞に送った書簡でも、竹島にかんして、次のように述べている。

......竹島、英夷の有となること甚だ信じ難く候。興膳(*昌藏のこと)、近日も福原まで申し来り候。北国船(*北前船)毎々(つねづね)往返(おうへん *ゆききする)其(そ)の前後を通船致し候へども何たる事も之(これ)なき様子、又(また)英夷(えいい *イギリスを指す蔑称)既に據(よ)るとも苦しからず、矢張り開墾を名とし交易をなし、因(よ)って外夷の風説を聞くこと尤(もっとも)妙(みょう *すぐれて巧みなこと)。英夷既に據れば別して差捨て難く〔*とりわけそのままにしておけない〕候。左なく候てはいつ何時(なんどき)長門などへ来襲も測るべからざるなり。寸板も海に下す能(あた)はざるの陋(ろう)〔*ちょっとした小舟でも海を渡ることのできない「海禁」の悪習。海防政策による渡航禁止を指す〕を破るには是れ等(など)にしく(如く)妙策は之(こ)れなく候。黒龍・蝦夷は本藩よりは迂遠(うえん)、夫(そ)れよりは竹島・朝鮮・北京辺の事こそ本藩の急に相見(あいみ)え候。」(同前 P.235)

 当時、竹島はイギリスがすでに占領しているという噂がたっていたのであろうか。その風説を前提としても、「矢張り開墾を名とし交易をなし」、外国の事情を探るべきと、松陰は主張する。それでも、イギリスの竹島占領は捨て置きにはできない。それはいつでも長門襲撃の拠点となるからである。そして、松陰は本藩にとっては「竹島・朝鮮・北京辺の事こそ」重要なことと、久坂の蝦夷・黒龍行きを止めるのであった。
 同年7月10日付けの、桂小五郎・赤川淡水・久坂玄瑞宛ての手紙でも、松陰は、「赤川・久坂二君北地行は誠に愚論、周布政(*周布政之助)などの左様申し候、御止まり然(しか)るべく候。」と、玄瑞らの蝦夷・黒龍視察を批判している。
 また、松陰は7月11日付けの、桂小五郎宛て書簡でもまた、竹島に関して次のように書き送っている。

......竹島論、元禄(げんろく)度朝鮮御引渡しの事に付き六ヶ敷く(むずかしク)もあらんと此(こ)の地にても議し申し候。併(しかし)当時(*目下)大変革の際に御座候得ば、朝鮮へ懸け合い、今に空島に相成り居(お)り候事無益に付き、此方(このほう)より開くなりと申し遣わし候はば異論は之(これ)有る間布(まじく)、若又(もしまた)洋夷共(よういども)已(すで)に彼が有と相成り候はば致方(いたしかた)なし。開墾を名とし渡海致し候はば、是(これ)則(すなはち)航海雄略の初めにも相成り申すべく候。蝦夷の事、精々論じては見(み)申すべく候へ共、政府の事体(じたい *ありさま)中々(なかなか)夫程(それほど)の雄志(ゆうし *海外進出・侵略の志)之(これ)無く、是(これ)のみ嘆息(たんそく)の至りに御座候。......
   七月十一日                      松陰寅拝
 桂小五郎兄 足下
(別紙)
竹島・大坂島・松島合せて世に是(これ)を竹島と云(いう)、廿五里に流れ居り候。......
                                (同前 P.238)

 松陰は、2月19日付けの桂小五郎宛ての書簡では、「竹島開墾位は難事に非ざるべし」といっていたが、よくよく検討した結果であろうか、ここでは「元禄度朝鮮引渡しの事に付き六ヶ敷くもあらん」と認識を変えている。
 これは、幕府が1696(元禄9)年1月、鳥取藩や松江藩から事情を聞いたうえで、"もともと日本領でないので、朝鮮へ返還するという筋合いでもない"、したがって、日本人の竹島渡海禁止令を出すことによって、竹島の朝鮮領を認めたこと1)が分かったからである。
 しかし、松陰は竹島が朝鮮領であることを知ったにもかかわらず、依然として、「開墾を名とし渡海致し候はば、是則航海雄略の初めにも相成り申すべく候」と、竹島領有への意志を変えていない。松陰の侵略思想は、明白である。
 なお、松陰は別紙で、「竹島・大坂島(*未詳。鬱陵島の属島と思われる)・松島合せて是を竹島と云」という認識している。これは、当時の常識であろうが、安倍政権も含め、今日の日本政府は鬱陵島と独島を切り離し、江戸幕府は、鬱陵島の朝鮮領は認めているが、竹島(当時の松島)は朝鮮領として認めていないなどとへ理屈をこねている。安倍首相は、「尊敬する」吉田松陰の認識にすら逆らって、竹島(現)日本領を主張しているのである。
 今日の竹島日本領という主張は、史実を隠蔽した手前勝手な主張の典型例である。
 ところで、松陰や来原良蔵らの竹島開拓計画は、結論的にはどのようになったのであろうか? 
 『来原良蔵伝』上によると、「(*桂)小五郎は既に寅次郎(*松陰)の書に接したりしが、事(こと)頗(すこぶ)る重大なるを慮(おもんばか)りて姑(しばら)く措(お)きしも、藩政府の長井雅樂(うた)もまた之(これ)を説きければ、村田蔵六(後、大村益次郎永敏贈従二位)と共に幕府に請願せんとし、万延元年(*1860年)六月大目付久貝因幡守正典に之(これ)を謀った。正典乃(すなは)ち小五郎等の説に同し、更に之(これ)を勘定所へ申請せしめた。蓋(けだ)し其の事は勘定所に属するのである。小五郎等乃ち勘定奉行山口丹波守直信を訪(と)ひて、其の内意を窺(うかが)ふた。直信また其の議を賛して小五郎に示諭(しゆ *告げさとす)するところあった。依りて小五郎等は、老中久世大和守広周(ひろちか)を訪(と)ひて、竹島(*現・鬱陵島)開墾に関する意見を質(ただ)し、二人連署の書を致して命(めい)を長藩に下さんことを請ふた。広周同じく小五郎等の意見に賛せるも、藩主の請願にあらざれば、閣議に付しがたき旨を伝へた。かくて幕府の内議もまた竹島開墾の意見に同せるもの少々ならざりしが、會(たまたま *ちょうど)藩政府より請願の不可を報じ来りしかば、小五郎等の宿志(しゅくし *念願の志)は、遂に貫徹しえずして寝むに至った」(P.438~439)と言われる。
 「幕府の内議もまた竹島開墾の意見に同せるもの少々ならざりし」というのは、誇張した筆法と思われるが、結局、藩中枢の請願却下で沙汰やみとなった。問題は、明治維新以降に持ち越されたのである。

注1)鳥取藩は、幕府の問い合わせに対し、「竹島松島其外(そのほか)両国(*因幡・伯耆)の附属の島はない」と回答している。鳥取藩は、竹島(現・鬱陵島)だけでなく松島(現・竹島)も自藩領ではないと回答しているのである。幕府が竹島への日本人の渡海を禁止したことを対馬藩を通じて、朝鮮側に通告したのは、1696(元禄9)年10月16日である。幕府の態度決定の経過は、詳しくは、内藤正中・金柄烈著『竹島・独島』(岩波書店 2007年)を参照。

《補論 吉田松陰の朝鮮侵略論》
 1853(嘉永6)年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に来航する。これを聞いた松陰は、翌4日浦賀へ向け出発し、見学する。9月18日、松陰は海外視察のために、長崎沖に来泊中のロシア艦に乗船するつもりで江戸を発ち、10月27日に長崎に着く。しかし、ロシア艦はすでに出航したあとであった。最初の密航失敗である。同年11月、萩に戻ったところで、来訪していた宮部鼎三・野口直之允とともに、海路で東上する。途中、大坂・京都などを経て、12月27日に、江戸に着く。
 1854(嘉永7)年3月5日(「安政」への改元は11月27日)、金子重之助とともに、再来航のアメリカ艦に乗込み海外に渡航しようと、江戸を発つ。3月27日夜、アメリカ艦ポーハタン号に乗込んだが、渡航要請が拒否され、二度目の密航も失敗した。
 松陰らは、翌日自首して、4月15日には江戸伝馬町の獄舎に入れられる。そして、9月18日、幕府より、金子とともに自藩幽閉を命ぜられる。松陰らが江戸を発ち萩に着いたのは10月24日であった。松陰は野山獄へ、金子は岩倉獄に入れられる。
 吉田松陰が、朝鮮という存在を強く意識するようになるのは、ペリー来航後である。1854(安政元)年12月12日付けの兄・杉梅太郎宛ての書簡では、次のように述べている。

〔*新井白石の改革で長崎貿易が制限されたことを述べた後〕然るに近比(ちかごろ)又(また)如何(いか)なる故に哉、華盛頓(ワシントン)・英吉利(イギリス)・魯西亜(ロシア)等の互市(*外国との対等な交易)を免許に相成(あいなり)たる趣、後年必ず吾国(わがくに)の財用欠乏に至るべし。此事(このこと)往古の事を以て来今(*今日)の事(こと)察すべし、失計の大なるもの也。若又(もしまた)互市を拒まんとならば其(その)備(そなえ)なくんばあるべからず。其備と申すも海岸へ悉(ことごと)く人数を配り足りとて、徒(いたず)らに国力を費(ついや)すまでにて万夷を制御するに足らず、一時の決策にて夷等(えびすなど)を打破り候はば□□□の事は容易なれ共、夷等船にて東に来り西に去り、出没起伏、或(あるい)は松前を犯し或は新潟を掠(かす)め、上方(かみがた)へ来り西国を擾(みだ)りせば、終(つい)に吾邦の疲弊を招くべし。兵(へい *兵法)固(もと)より先声後実する〔*強いという評判で先に敵を脅し、後で実力を行使する〕ものあり、今(いま)大(おおい)に船艦を打造し北は蝦夷を収め西は朝鮮を服し、駸々(しんしん *事のはやく進歩するさま)然(ぜん)して進取の勢を示し候はば、群夷(ぐんい)自ら手を収むべし。何となれば縦令(たとひ)一度近づき少利を得る共、又(また)其(その)本国を襲はれん事を恐るるなり。計(はかりごと)此(ここ)に出でずんば永久を保するの策に非ず。然(しかれ)ども今の幕府にては是程(これほど)の雄略の人なし、悲夫(かなしいかな)。悲夫。夷虜の患、吾(われ)未だ其(その)底止(ていし *止まる)する所を知らざるなり。 

 松陰は、西洋諸国の「開国」・通商要求に直面した日本の危機を打開するために、まず大船を造り、北は蝦夷を支配し、西は朝鮮を服従させ、海外進出の姿勢を示せば、西洋諸国の日本植民地化あるいは従属化は阻止できるとした。対外危機を、日本が逆に海外進出で打開しようとしたのである。その際、松陰は華夷思想に強く縛られており、西洋諸国に対峙するための一環として、蝦夷地と朝鮮の支配をもくろんだのである。
 松陰は、同じ頃かと思われるが、同年冬、野山獄で「幽囚録」(『吉田松陰全集』第二巻 P.39~58)を書いている。その中でも、以下のような構想を述べている。

日(*太陽)升(のぼ *陞)らざれば則(すなは)ち昃(かたむ)き、月(つき)盈(み)たざれば則ち虧(か)け、国(くに)隆(さか)んならざれば則ち替(おとろ)ふ。故に善(よ)国を保つものは徒(ただ)に其(そ)の有る所を失ふことなきのみならず、又(また)其の無き所を増すことあり。今急に武備を修め、艦(かん)略(ほ)ぼ具(そな)はり?(ほう *砲)略ぼ足らば、則ち宜(よろ)しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加摸察加(カムサツカ *カムチャッカ)・?都加(オコツク *オホーツク)を奪ひ、琉球を諭(さと)し、朝覲(ちょうきん *琉球を参勤させること)会同すること内(うち)諸侯と比し(ひとシ *同じ)からしめ、朝鮮を責めて質を納(い)れ貢(みつぎ)を奉ること古(いにしえ)の盛事の如くならしめ、北は満州の地を割(さ)き、南は臺灣(台湾)・呂宋(ルソン *フィリピン)の諸島を収め、漸に(ゼンに *次第に)進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺圉(へんぎょ *国境)を守らば、則ち善く国を保つと謂(い)ふべし。然(しか)らずして群夷争聚(そうしゅう)の中に坐し、能(よ)く足を挙げ手を揺(うごか)すことなく、しかも国の替(おとろ)へざるもの、其(そ)れ幾(いくば)くなるか〔*諸外国の争い集まる渦中にいて何等なすこともできないでいて、しかも衰えない国はあるまい〕。(P.54~55)

 ここでは、西洋諸国に対峙するための日本の海外侵出は、飛躍的に拡大している。蝦夷地・朝鮮はおろか、カムチャッカ・オホーツク、満州、台湾、ルソンにまで触手を伸ばしている。そして、朝鮮に対しては、『日本書紀』などの誤った歴史観を真似して、「質(*人質)を納(い)れ貢を奉ること古(いにしえ)の盛事の如く」するとしている。
 松陰は、1855(安政2)年4月18日付けの来原良蔵宛ての書簡「来原良三に與(あた)ふる書」では、次のような構想を述べている。

今の計を為(な)さんには、和親して以て二虜(*アメリカ・ロシア)を制し、間(すき)に乗じて国を富まし兵を強くし、蝦夷を墾(ひら)き、満州を奪ひ、朝鮮を来たし、南地を併(あわ)せ、然る後に米を拉(ひし)ぎ欧を折(くじ)かば〔*アメリカやヨーロッパ諸国をうちくだけば〕、則ち事(こと)克(か)たざるはなし。......
                 (『吉田松陰全集』第二巻 P.320)
 
 アメリカなどと和親外交をしつつ、富国強兵をはかり、蝦夷地を植民地化し、満州・朝鮮や南地を植民地あるいは属国として、「然る後に」アメリカやヨーロッパを打ち破る―という構想である。ここでは、和親外交をとりつつ、富国強兵策を推進し、蝦夷地・朝鮮・満州・南地を併合すると、「富国強兵」策を位置付けている。そして、欧米打倒の前提として、蝦夷地・朝鮮・満州の支配が不可欠となっているのである。したがって、竹島開拓・領有は、朝鮮・満州侵略の重要な橋頭堡となるのである。
 1855(安政2)年4月24日付けの兄・杉梅太郎宛ての書簡でも、同様のことを述べている。

魯・墨講和(*ロシア・アメリカとの和親を指す)一定、決然として我より是(これ)を破り信を戎狄(じゅうてき *夷。差別語)に失ふべからず。但し章程(しょうてい *規約)を厳にし信義を厚ふし、其の間を以て国力を養ひ、取易(とりやす)き朝鮮・満州・支那(しな *中国に対する蔑称)を切り随(したが)へ、交易にて魯国に失ふ所は又(また)土地にて鮮満にて償ふべし。......... (日本思想大系54『吉田松陰』P.193)

 ロシアやアメリカとの和親条約を締結したからには、こちらからこれを破るようなことはしないで、国力(富国強兵)を養い、そして、手近で併合し易い朝鮮や満州・中国を植民地化あるいは属国として、ロシアとの交易での損害を朝鮮や満州の土地をもって償いとするべきだ、というのである。日本型華夷思想によって、朝鮮や満州などを差別し侮る松陰は、ロシアとの交易から生ずる(と決めつけている)損害を朝鮮・満州の併合で補償するというのである。余りにも自己中心主義で自分勝手な考えである。こうした発想は、天皇を戴く日本は万国に冠たるもので、朝鮮や満州・中国が日本の支配に跪(ひざまず)き、奉仕するのは当然という考え(神道思想)から導き出されるのである。
 とりわけ、朝鮮支配に関しては、神功皇后の「三韓征伐」など、全く架空の歴史物語に依拠して、朝鮮併合は当然と強調しているのである。(古代の日朝関係については、拙稿『朝鮮侵略の歴史に学ぶ―「三韓征伐の虚構性と「文禄・慶長の役」の非道性』を参照)

《補論 坂本龍馬の蝦夷地・竹島開拓計画》
 久坂玄瑞の蝦夷地開拓論は、水戸学の影響と思われるが、長州では有志の間で年来、竹島開拓が熱心にとりあげられていたようである。
 坂本龍馬は、蝦夷地開拓も、竹島開拓も、両方に強く関心をもっていた。ここで、簡単に坂本龍馬の履歴を示すと以下の通りとなる。
◎1835(天保6)年11月に、郷士坂本家の次男として生まれる。(兄1人、姉3人)
◎1853(嘉永6)年3月、剣術修行のために江戸に立つ。翌年6月、高知に戻る。
◎1856(安政3)年8月、再び江戸に行く。
◎1857(安政5)年1月、北辰一刀流長刀兵法目録一巻を授与される。9月、高知に帰着。
◎1861(文久元)年8月、土佐勤王党が結成される。龍馬、これに参加。
◎1862(文久2)年3月24日、龍馬の第一次脱藩。
◎1862(文久2)年12月29日、『海舟日記』に、「千葉十太郎来る、同時坂下龍馬子来る、京師の事を聞く」とある。
◎1863(文久3)年2月23日、土佐藩士寺村左膳(後に重役となる)の日記に、龍馬について、「此(この)者郷士なり、先年勤王論を以て御国(*土佐)出奔(しゅっぽん)、薩長の間を奔走し頗(すこぶ)る浪士輩の名望アリト云(いふ)、当時勢(いきおひ)ニて召返(めしかえ)され可然(しかるべき)と云の論有リ」と記される。
◎1863(文久3)年2月25日、龍馬の脱藩の罪が赦免される。(『続再夢紀事』)
◎1863(文久3)年4月2日、龍馬、大久保一翁(忠寛)に面会し、松平春嶽宛ての書簡を預かる。その後、第一回福井行き。
◎1863(文久3)年4月23日、神戸海軍操練所設置が将軍家茂から許される。4月27日、神戸の海軍私塾(勝麟太郎)運営許可される。
◎1863(文久3)年5月、龍馬の第二回福井行き。
◎1863(文久3)年11月、山内容堂の土佐勤王党弾圧が始まる。龍馬らにも帰国命令がでるが、これに従わず第二次脱藩。
◎1864(元治元)年2月20日、長崎行きの途中、龍馬が熊本で横井小楠と面談(勝海舟の長崎出張に龍馬以下の門14人名が同行)。長崎からの帰途、龍馬ふたたび小楠と面談。
◎1864(元治元)年5月、神戸海軍操練所が発足。
◎1864(元治元)年6月、下田で龍馬は勝に会い、蝦夷地開発構想を語る。

 勝海舟の『海舟日記』1864(元治元)年6月17日の項には、次のような記述がある。

◎十七日
乗替船の為(ため)、翔鶴丸、長崎丸、引船(ひきふね *引っ張られる船)の為、黒龍丸入津。坂本龍馬、下東、右船にて来る。聞く、京摂(けいせつ)の過激輩数十人(「二百人程」の傍注あり)皆(みな)蝦夷地開発、通商、国家の為(ため)憤発す。此(この)輩、悉(ことごと)く黒龍船にて神戸より乗廻(のりまは)すべく、此義(このぎ)御所并(なら)びに水泉公(*老中水野忠精)も御承知なり。且(かつ)、入費三、四千両、同志の者、所々より取集めたり。速やかにこの策(さく)施(ほどこ)すべくと云う、士気甚だ盛んなり。

 この年の5月29日、神戸海軍操練所設置が布達されているが、それから1カ月もたたない時に、坂本たちは蝦夷地開発のために途中、下田港に仲間と共に寄ったと思われる。(操練所が廃止されるのは翌年の3月12日)
 この年の7月19日に禁門の変、8月4日に4カ国連合艦隊と長州藩の馬関戦争勃発と、尊攘激派と長州藩が暴走した結果、長州藩は「純一恭順」の椋梨派と、「武備恭順」を唱える奇兵隊との間で激しい戦いがあった。だが、いずれにしても「朝敵」となった長州藩は、「恭順」の姿勢を示さざるを得なくなった。
 坂本龍馬は、尊王激派とは路線を異にした(勝麟太郎・松平春嶽・横井小楠と類似の路線)が、尊攘激派のエネルギーを無駄にしないために、蝦夷地開拓に誘導したと思われる。 
 しかし、徳川幕府はロシアの南下政策が浸透する前は、蝦夷地は日本領土ではないと言っていた(松前藩のみが日本領と主張)が、その後、幕府は積極的に日本領として主張し、徳川斉昭に至ってはサハリン・千島諸島まで領土拡大の態度を示した。これは言うまでもなく、アイヌ民族とは関係なくロシアとの領土分割線に入ったためである。
 列強との領土分割戦であることをどの程度、自覚していたのかは不明であるが、当時の有志はほとんどが蝦夷地開拓を当然のことと理解していた。国家をもたないアイヌなどは眼中になく、とりわけ特権商人などはアイヌを奴隷として扱ったのである。すなわち、蝦夷地開拓とは、ロシアの侵略を阻止するという大義名分をもって、アイヌなどを一顧だにしない、日本領土の拡大なのであった。
 その後も坂本龍馬は蝦夷地開拓に熱心であり、1867(慶応3)年2月14日付けの河田佐久馬(鳥取藩の勤王派の代表)宛ての手紙では、次のように述べている。

「......その儀とは例の、先年からと同様に、北門の方面に手はじめすること(*蝦夷地開拓と交易の準備)をまたまた考えております。今回はすでに北行の船も借り受けております。その期限は三月中旬から四月一日までには多分、出帆しようと心積りいたしております。
 この計画をはじめる時には、必ずや老兄(*河田のこと)が留守では困ることですので、私も薩摩藩の方へはこの件連絡いたしません。どうかそのお心積りで準備いただき、何となく三月初旬までのうちに、そろそろと下関までお出ましいただけましょうか。私も二月十日に長崎から下関に帰ってきた所でございます。詳しくはお目にかかった上で、お話いたします。......」(宮川貞一著『坂本龍馬からの手紙』教育評論社 2014年 P.194)

 龍馬は、薩摩藩の保護下にあることから解放されたいこともあったのであろうが、船を使った事業を発展させようとしていたと思われる。その一つが蝦夷地の開拓と、その蝦夷地物産を使った交易である。この事業は、文久年間(*1861~63年)からすでに考えている。
 もう一つが、竹島開拓である。これは長府藩がとても熱心で、それに触発されたと思われる。その熱情の一端は、1867(慶応3)年3月6日付けの印藤聿(いんどうのぼる *長府藩士)宛ての次の手紙にも表れている。

「【第三段】......例の竹島(*当時は現・鬱陵島を指す。今日の竹島は当時松島と呼んでいた)行きのことは以前からお耳に入れましたとおり、三吉大夫(*長府藩家老の三吉周亮のこと。長府藩報国隊総督、藩船満珠艦の艦長)にもお伝え申し上げた所、随分とご賛同下されました。いずれ近日中に再び長府から下関へ出てきて『藩として渡航を決すべし』とのことでした。その後はお目にかかっておりませんので、お返事を待っている所です。けれども最近の〔長府藩の〕世情を見ると、目前の問題でなければ相談することはできない状況のために竹島開拓計画には随わない方向でしょうか。そうであればその計画は実行できないでしょう。残念な結果になるでしょうね。
【第四段】
 私は以前、蝦夷地へわたることを考えていた頃(*文久年間)から、新しい国を開きたいとの考え方をつのらせ、一生の大計画と考えてきました。そういうわけで、この竹島行きのことは私一人ででも実行しようかと思っております。そのうち伊藤助太夫様は長府藩とは別に私の志を憐れんでくれました。なおかつ私の積年の思いもあるために、計画倒れにならぬよう密かに志を奮いたたせております。然(しか)らば、先ごろ長崎において大洲藩の蒸気船(*のちのイロハ丸のこと)を三月十五日から四月一日までの間に借が決まりそうです。近頃その期限も来るでしょう。......」
         (宮川禎一著『坂本龍馬からの手紙』 P.201~202)

 竹島開拓は、吉田松陰、来原良蔵なども熱心だったが、それよりも力を入れていたのは長州の支藩・長府藩である。しかし、竹島が当時すでに朝鮮領であったことが明確であり、松陰らも自覚していたのであるが、弱肉強食の日本的華夷思想ではそんなことはお構いなしなのであった。このことを知らないで今日の日本政府も、竹島=日本領を主張しているのであろうか。

H 公武合体から急進的な尊王攘夷へ転換

 1658(安政5)年4月、幕府が日米修好通商条約を調印するにあたって、諸大名の意見を求めた。長州藩はこのような時代状況に際して、重臣たちは論議を重ね、「三大要綱」(朝廷に忠節、幕府に信義、祖宗に孝道)を決定し藩是としたことは既に前述した。藩是確立ととともに、長州藩は藩政府要員の交代と安政の改革を推し進める。
 この渦中の1858(安政5)年6月19日、幕府は強引にアメリカと日米修好通商条約を調印する。 
 これに対して、6月24日、水戸家の徳川斉昭・慶篤、尾張家の徳川慶恕(よしくみ *慶勝)らが不時登城(大名の登城日は定められているが、これを無視した登城)し、大老井伊直弼らを詰問した。だが、井伊ら老中はこれを問題ともしないではねつけてしまう。
 それどころか、7月5日には、斉昭・慶恕・越前の松平慶永(春嶽)らに謹慎を命じる。そして、7月には、さらにオランダ(10日)、ロシア(11日)、イギリス(18日)と、次々に修好通商条約に調印する。(フランスとは9月3日に調印)
 朝廷では、孝明天皇が天皇の許可もなく調印したと幕府に激怒し、8月8日、水戸藩・尾張藩などに「戊午の密勅」を下す。
 勅諚の内容は、婉曲な表現をとっているが、条約の強行調印と水戸家・尾張家などへの幕府の処罰を責め、幕府は三家以下諸大名と協議して、国内治平・公武合体・外国の侮りを受けぬような方策をたてるようにというものである(詳しくは拙稿『攘夷の旗頭・斉昭と日本近代の序章』〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照)。
 勅諚は、8月8日に水戸藩の京都留守居役に授けられ、同月10日には幕府の禁裏付・大久保忠寛(一翁)にも同文のものが下された。なお、水戸藩へは武家伝奏の「別紙」が付けられ、それでは「......猶(なお)同列の方々(かたがた)三家・家門の衆以上隠居に至る迄、列藩一同にも御趣意(おんしゅい)相心得(あいこころえ)候様向々(むきむき)へも伝達(でんたつ)之(これ)有るべく仰せ出だされ候。以上」(『水戸藩史料』上編坤 P.239)とあった。
 「戊午の密勅」は、尾張・越前・加賀・薩摩など13藩に、その写しと「副翰」が懇意の公卿を媒介として伝えられた。
 長州藩への「戊午の密勅」は、8月20日、老臣毛利筑前の家臣甲谷岩熊(京で絵画を修業していた)が、中山忠能・正親町三条実愛(ともに議奏)の依頼を受けてもたらされた。長州藩への「副翰」の内容は、次のものである。

小子熟天文を推考(おしかんがえ)るに、十一月上旬迄の内、善悪吉凶は弁(わきま)えずと雖(いえど)も、国中(くにじゅう)頗(すこぶ)る騒動の兆(きざし)之(これ)有り、蛮夷覬覦(きゆ *望むまじきことをうかがい望むこと)の時節、帝都警備(けいび)未だ全備ならずして、事情急迫にして心中(しんちゅう)私に深く苦悩す、沈勇(ちんゆう *落ち着いて勇ましいこと)忠烈(ちゅうれつ *勇ましい忠義の心)の人(ひと)有て事を他事に属し、密かに衆を摂州の辺に潜居し、若(も)し急変有らは機に応じて速(すみやか)に内裏(だいり *御所)を守護し、叡慮を安んじ奉るは、誠に以て天下の忠臣と謂(いう)べし、然(しか)るに未だ其人(そのひと)を得ずして国難を憂(うれい)て寝食を忘るる、何日(いつのひ)か叡念を休み奉らむ、悲し哉(かな)悲し哉、
(『来原良蔵伝』上 P.374)

 長州藩は、この年の6月21日、いままでの相州警衛から兵庫警衛へと変更された。長州藩への怪しげな「戊午の密勅」は、このことを踏まえて、御所の警備を非公式に命じたのであった。朝廷は、長州藩を幕府側から引き離すために、同藩の尊王主義を最大限に利用したのであった。
 ところで、幕府が外国との間で条約調印をするには、天皇・朝廷の許可が必要とは、必ずしも決まりとなっている訳ではない。しかし、当時すでに朝廷の権威は浮上し、幕府の高官や大名の中でも、条約調印に際し朝廷の許可を経た方が、国内の円満となるという考えは、少なからず広がっていた。それが、「戊午の密勅」が幕府の手を経ず、直接に水戸藩など諸大名に発せられたということは、幕府へのあからさまな挑戦であった。1)
 だが井伊直弼の強権政治は、6月25日、将軍の継嗣に紀伊藩の徳川慶福(よしとみ *7月21日に家茂と改名)を決定し、ついで反対派の徳川斉昭らへの処分のみならず、いわゆる「尊攘派の志士」たちへもつぎつぎと弾圧を下したのであった。世にいう「安政の大獄」である。水戸藩と尊攘公卿を主に狙った「安政の大獄」ではあったが、多くの勤皇の志士も弾圧された。(この間の経緯は、拙稿『攘夷の旗頭・斉昭と日本近代の序章』〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照)

注1)「戊午の密勅」から受ける感覚では、秘密の詔(みことのり)と誤解されやすい。しかし、幕府へもその内容は伝えられているのであり、秘密でもなんでもない。「密(ひそ)か」の意味は、①人目を避ける、②わたくし(私)する、自分の思うとおりにする―がある。それからすると、「戊午の密勅」は②の意味で、正式な手続きをとらない、孝明天皇の思う通りの勅諚という意味になる。現に、「戊午の密勅」は、一つには、関白を排除して決定された(江戸時代では初めて)こと、二つに、幕府の頭越しに諸大名に伝達されたこと―で、極めて特異な性格がある。

 (1)松陰晩年の怒りと焦り
 長州藩では吉田松陰が江戸送りとなり、幕府の審問の結果、松陰は1859(安政6)年10月27日、死罪の判決が下り、即日、伝馬町の獄舎内で処刑された。
 では、幽囚の身であった吉田松陰は、何故に「安政の大獄」で処刑されたのであろうか?

 (ⅰ)時局に対する藩の消極的対応に焦燥
 当時の藩政府の情況をみると、「安政の大獄が吹き荒れる安政五年六月、長州藩では坪井九右衛門にかわり周布政之助が政権を掌握、藩政改革を遂行していた。その長州藩は『戊午の密勅』を黙殺した。周布は、財政再建と洋式兵制への移行(安政改革)を実行しており、藩外での活動には消極的であった。安政五年の段階で、尊王攘夷運動の"舞台"において、長州藩は水戸藩・薩摩藩に比べ"出遅れ"ていた。」(須田努著『吉田松陰の時代』岩波書店 2017年 P.160)のであった。
 松陰は、日米和親条約締結(1854年3月)以降の幕府の外交政策・姿勢に批判的であったが、藩政府のこのような動向にさらに焦りを感じていた。
 すでに1858(安政5)年の1~2月頃と思われるが、松陰は、「明倫館諸生連名上書文案」(『吉田松陰全集』第五巻 P.39~41)を代作する。そこでは、次のように述べている。

......(略)......若(も)し幕府に於て彼れが凶?(きょうえん *災い)に恐れ墨使(*アメリカ使節)へ万事御任(おまかせ)相成(あいな)り候はば、立所(たちどころ)に彼れが臣となるのみに之(こ)れなく、終に我が全国を奪はるるに立至(たちいた)り申すべく、此(こ)の所何分(なにぶん)にも幕府へ精々(せいぜい)御直言(おんちょくげん)仰せ入れられ、若し幕府にて御得心(おんとくしん)之(こ)れなき事に候はば、御国(おくに *長州藩)計(ばか)り特立(とくりつ *他人に頼らず独立)しても此の大義は天下へ御唱(おとな)へ相成らず候ては、第一皇国の大恥辱、天朝に対し奉り相済(あいす)みまじく、將(は)た又(また)御祖宗様特に洞春公(*毛利元就)皇室御尊奉の御思召(おぼしめし)にも相叶(あいかな)ひ申すまじく、実に以て恐れ入り奉(たてまつ)り候御事(おんこと)と存(ぞん)じ奉り候。...... (P.41)

 アメリカの言いなりになっていれば、日本はその属国、それどころか日本全国が植民地になってしまうと、松陰は危機感を訴える。だから、この点を幕府に直言し諫めるべきだというのである。さらに、もし幕府が納得しないならば、長州藩だけでも特立して、大義を天下に訴えるべきだとする。こうしなければ、まず第一に天朝に、また祖宗(とくに皇室尊崇の高かった毛利元就)に対して申し訳ないというのである。
 その後の1858(安政5)年5月、益田弾正ら藩政府首脳は、長州藩の藩是として「三大要綱」(天朝への忠節・幕府への信義・祖宗への孝道)を決定する。しかし、藩政府の時局に対する対応は相変らず消極的であり、松陰は同年7月13日、「要路役人に与(あた)ふ」(『吉田松陰全集』第五巻 P.44~46)と題した意見書をあげる。それは、日米修好通商条約が強行的に調印された事態に対する藩の対応を要求するものであった。

違勅の事は六月二十一日の調印(*事実は6月19日)にて一も二もなく御座(ござ)なく候。此の段着眼之(こ)れなきものは誠に痛痒(つうよう *痛みとかゆみ。ここでは自分自身への影響や利害)を解せざるの至りと存じ奉り候。......何分神速(しんそく *人間業〔わざ〕とは思えないような速さ)に幕府へ忠告、天朝へ密奏、御一同に御発し成さるべく候。叡慮(えいりょ *天皇の考え)改まり候はば抔(など)申す事、誠に誠に愚昧の見〔ぐまいノけん *愚かで道理に暗い考え〕に御座候。能々(よくよく)事理(じり *物事の道理)御弁別然るべく存じ奉り候。天朝の御憤懣(ごふんまん)はいつよりの事と思召(おぼしめ)され候や。......臣子として体認(たいにん *自分で経験して確固と心に飲み込むこと)もせず余所目(よそめ)に見て安坐して居り、若しや万一(まんいち)叡慮〔考えが〕改まり候はば如何(いかん)などと、改まりもせぬ、叡慮を下げすみ仕(つかまつ)り候は、実(げ)に実(げ)に悪逆無道不仁に與(くみ)するの大なるものに付き、若し御役人中にかかる人物も之(こ)れあり候はば早々差替(さしか)へられ、不忠のものの見懲(みこらし *みせしめ)に成さるべく候。......今両三日の機を失ひ候はば、又(また)百年位は腰はのり申さず、腰ののらぬのみに之(こ)れなく、国家の滅亡疑なく候。且(か)つ腰ののるのらぬと申すも一国(*一藩)一家の私事に之(こ)れなく、かかる皇家の御大事に手に逢ひ申さずして、江家の家名〔*毛利氏は大江広元の子孫〕何を以て立行(たちゆ)き申すべくや。何分機会を御失ひ成しえず候様、江家の為(た)め、天朝の為(た)め祈り奉り候事。...... (P.44~46)

 この危急期で様子見などとは、とんでもない。幕府への忠告(諫め)や天朝への密奏などを行ない、幕府の外交姿勢を変えさせないと、我が藩は「悪逆非道」「不仁」の側に加担することになってしまい、ここ数日の機会を失うと国家の滅亡は疑いない―とまで思い詰める。
 7月13日付けの前田孫右衛門への書簡でも、次のように述べている。

甚だ申上げ難(がた)き事に候へども、要路中に若(も)しや俗論邪説どもは御座(ござ)なくや。甚だ気遣(きづかわ)しく存じ奉り候。
今日廟議(*藩首脳の評議)如何(いかが)相決(あいけっ)し候や。幕議違勅の上は御雷同(ごらいどう)遊ばされず候段は申す迄も御座なく候へども、今日徒(いたず)らに安坐致し候ては矢張(やは)り桀を助けて逆を為すの理〔*暴君桀王を助けて謀反をなすのと同じこと〕に御座候。此の所(こノところ)如何(いかが)御手を下され候や。道太(*中村道太郎)上京仰せ付けられ候由(そうろうよし)、本藩の国是は勿論(もちろん)御密奏(*内密に奏上すること)相成るべく候所、勅旨下り候迄は御見合(おみあわ)せ成され候や。陳(さ)て又(また)江戸へ今一応の御忠諫(ごちゅうかん)是(こ)れ亦(また)肝要の儀と相見え候間、此の條何如相決し候や。此の両件にて凡そ国是相定まり候儀に付き、内々(ないない)大意の處(ところ)御教示待ち奉り候。是(こ)れ等の儀書中を以て御伺い申上げ候も如何(いかがわ)しく候へども、何分(なにぶん)切迫の儀に付き御高免(*ご容赦)頼み奉り候。已上。(同前 P.78)

 松陰は、佐久間象山の教えもあってか、もともと鎖国論者ではなく、開国の必要を認めている。5月28日付けの「続愚論」(「戊午幽室文稿」に所収)でも、次のように述べている。

......(略)......鎖国の説は一時は無事に候へども、宴安(えんあん *何もせずに遊び暮らすこと)姑息(こそく *目の前の安きを求めること)の徒の喜ぶ所にして、始終(しじゅう)遠大の御大計に御座なく候。一国に居附(いつ)き候と天下に跋渉(ばっしょう *山を越え、川を渡ること)仕るとは人の智愚(ちぐ *かしこいことと愚かなこと)労逸(ろういつ *労苦と安楽)、近く日本内にても懸絶(けんぜつ *かけ離れること)致し候事、況(いはん)や四海に於てをや。何卒(なにとぞ)大艦打造、公卿より列侯以下、万国航海仕り、智見(ちけん)を開き、富国強兵の大策相立(あいた)ち候様仕(つかまつ)りたき事に御座候。...... (『吉田松陰全集』第四巻 P.348)

 松陰は、鎖国策について"一時的には無事であろうと大計にはならない"と批判し、むしろ、大艦を造って海外に出て知見を広げ、富国強兵を計る様にすべきとしている1)。そのような松陰が、では何故、日米修好通商条約の調印を進める幕府を厳しく批判し、諫めるのであろうか。
 それは、松陰が手放しの開国論者ではないところに端的に示されている。そのことは既にこの安政5(1858)年1月19日付けの海防僧・月性への書簡で明らかである。
 すなわち、松陰は、日本64カ国がアメリカに屈服しようとも防長2カ国だけは「確乎として特立して、天下恢復(かいふく)万国撻伐(たつばつ *攻めて討つこと)の基本」となるようにと同志と相談するが、かえって孤立する。それを月性にぐちった後、「是(こ)れに仍(よ)り来原(*来原良蔵)生(せい)至極(しごく)慕(した)はしく存じ候処(そうろうところ)、来原の書中には委曲(いきょく *詳しいこと)之(こ)れなく候へども、墨夷(*アメリカの蔑称)に吾が国を開いて貰(もら)ふを愉快とするに似たり。此(こ)の所(ところ)吾が師(し)象山甚だ活眼あり。大意吾が国より人を開くは妙、左(さ)候へば通信(*友好国関係)通市(*通商)も心のままなり。人に開かれ涙出でて呉に妻(めあわ)す分2)にて迚(とて)も国は持ちこたへ得ざるとなり。僕(ぼく)其(そ)の説に服す。」(『吉田松陰全集』第八巻 P.33~34)と主張する。
 要するに、「開国」・通商するならば、主導権を奪われてはならないというのである。松陰は、これを師である象山の意見としてあげているが、松陰の他所の所では、「国辱」が連発されている所をみると、「国辱」をはねかえす論理的根拠を象山から借りてきたと言える。
 また、1858(安政5)年4月中旬頃書いた「対策一道」では、次のように言っている。

......弘化の初め蘭使(*「開国」を勧めたオランダ国王の使い)至りて変を上(たてまつ)る。ここに於てか天下紛々(ふんぷん)として兵を言ふ。時に和を主とする者少なく、戦を主とする者衆(おお)し。其の後十年、墨(*アメリカ)・魯(*ロシア)・暗(*イギリス)・拂(*フランス)駸々(しんしん *物事の進行が速い様)として来り問ふ、而(しか)して墨夷の患(うれひ)最も深し。ここに於てか兵を言ふ者益々(ますます)盛(さかん)なり、而して向(さき)の戦を主とする者多くは変じて和を主とす。和を主とする者衆くして、戦を主とする者寡(すくな)し。夫(そ)れ戦を主とする者は鎖国の説なり、和を主とする者は航海通市の策なり。国家の大計を以て之(こ)れを言はんに、雄略を振ひ四夷(*周りの異民族を差別した表現)を馭(ぎょ)せんと欲せば、航海通市に非(あら)ざれば何を以て為さんや。若(も)し乃(すなは)ち封関鎖国(ふうかんさこく *関所を封じて国をとざすこと)、坐して以て敵を待たば、勢(せい)屈し力縮(ちぢ)みて、亡びずんば何をか待たん。且つ神后(*神功皇后)の韓を平(たいら)げ、貢額を定め、官府を置きたまふや、時に乃ち航海あり、通市あり。......
           (「戊午幽室文稿」―『吉田松陰全集』第四巻 P.329)
 
 オランダ国王の「開国」勧告があって以来、今や和を主張する者が多くなり、戦を主張する者は少なくなった。和を唱えるものは航海通商を策とし、戦を唱える者は鎖国説である。しかし、国家の大計の観点から考えれば、周りの異民族を馭(使いこなす)には航海通商が不可欠である。これは、古代、神功皇后が三韓征伐を行ない、貢物の額を定め、朝鮮半島に日本の官府を置いた時代も、航海通商があったことで明らかである―というのである。松陰は、近隣諸国をきり従がえるには航海通商が不可欠として、その証拠に「神功皇后の三韓征伐」を事例に挙げるのであった(しかし、神功皇后の「三韓征伐」は史実ではなく全くのフィクションであり、『日本書紀』の創作である)。

注1)松陰は開国論を唱えたが、その貿易論は長崎出島流での「朝貢貿易」の域をでていない。
2)斉の景公が強国である呉の侵略を避けるために、涙を流して政略結婚で娘を呉に嫁がした故事。『孟子』離婁篇上。

 (ⅱ)次々と暗殺計画や破壊活動の提起
 それがさらに、松陰の心象を大回転させる事態が発生する。それは、この安政5年夏の松陰の「コペルニクス的転回」に関係しているのである。松陰は、浄土真宗の僧である月性や黙霖との文通・対話により、急激に水戸学的な尊王論から国学的な尊王論に変貌したのである。(この点については、《補論 松陰の思想形成》を参照)
 したがって、すべての物事を尊王を第一とする観点から位置づけるようになり、攘夷のために尊王を利用するのではなく、尊王のために攘夷をも活用するという態度に転換したのである。その心情は極めて宗教的であり、ファナティックである。だから、尊皇のためなら、天朝のためなら、すべてが許されるというものである。"目的のためには、手段は選ばず"という態度であると言っても、決して過言ではない。

 〈水野忠央暗殺計画〉
 だからこそ、次にみるような水野忠央暗殺計画などが提唱されるのであった。
 1858(安政5)年9月9日付けの松浦松洞1)宛ての書簡は、松陰の焦りを如実に顕したものである。書簡は、尾州の徳川慶勝・水戸の徳川斉昭・越前の松平慶永(春嶽)・一橋慶喜が日米修好通商条約に調印したことに反対し、不日登城したことで処分されたのは、紀州藩附け家老水野忠央(新宮3・5万石を領す)の姦策によると決めつける。

......(略)......且(か)つ姦猾人(かんかつじん)浅智に非ざるは、姦物(*水野忠央を暗に指す)は隠身(いんしん)の術を仏家に学びたるとみえ、己は隠れて堀田(*老中堀田正睦)と伊賀(*老中松平忠固)とで違勅をやらせ、物論(*世間の批判の声)が八ヶ間布(やかまし)く候へば二人を仆(たお)し、間部(まなべ *鯖江藩主の間部詮勝。安政5年6月、老中に再任)を出して天朝を懾(おど)かさせる、彦根も矢張(やは)り遣(つか)はれ手(て)ならん。且つ隠身の奸物も仆(たお)れる時が来たらば仆れもせうが、姦物は天下に多きもの、前狼後虎(ぜんろうこうこ *一つの災難を避けても、次の災難が降りかかるたとえ)、事亦(ことまた)艱(かた)し。四名公様(*慶勝・斉昭・慶永・慶喜のこと)今の姦物を御碎き成さらねば、後の奸物はもういけません。......
(日本思想大系54『吉田松陰』 P.248)

 注目すべきは、この時点では、この間の弾圧(安政の大獄)や将軍継嗣問題での首謀者は、紀州藩の附け家老・水野忠央であり、水野が黒幕として一切を謀計したと松陰は決めつけている。井伊直弼も水野に操られているというのである。このような判断は、もちろん松陰の情報網の限界であろうが、それだけでなく、松陰の判断の甘さもあると思われる。
 水野も大奥工作を行ない、南紀派の重要な人物ではあるが、全体の統括者はやはり井伊直弼である。(詳しくは、拙稿『攘夷の旗頭・斉昭と日本近代の序章』〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照)
 松陰はこの書簡の最後に、「追伸」のような形で、次のように申し添えている。

此(こ)の書(しょ)尤(もっと)も存ぜられず候はば、来島(*又兵衛)を初め尾寺(*新之丞)・高杉(*晋作)・半井(なからい *春軒。長州藩の藩医)・杉蔵(*入江)・栄太郎(*吉田稔麿)其の外(そノほか)日常の同志へ悉(ことごと)く御見せ、是非書附(かきつけ)を以て御聞かせ下さるべく候。日下(*久坂玄瑞のこと)も多分此の書達せぬ内に東下ならん。同前(*同じく書附を以て反応を聞かせて欲しいとのこと)。書成る時丑の鐘耳に徹し候。一人の姦猾(かんかつ)さへ仆(たお)し候へば天下の事は定まり申すべく候。"其の巨魁(きょかい)を殲(つく)して脅従(きょうじゅう *脅迫されて従うこと)は治むること無し(*賊の首領だけを滅ぼし、脅されて加担していた者はその罪を問うなの意)"。此の八字(*殲其巨魁脅従無治)変に処するの大活術(*大切な生きた方法)なり。僕(ぼく)目指す所の奸物一向恐(おそ)るるに足らず。都合(つごう)江戸の一邸のみ。且(か)つ新宮(*水野の領国)の人心甚だ服せず、是(こ)れを以ても奸物の奸たるを知るべし。入鹿(*乙巳の変で殺された蘇我入鹿)を誅した事実を覚えて居る人は一人もなきか。水戸には立派な大日本史がある、出して見給(みたま)へ。営中で打捨てるは上策〔*殿中で斬り捨てるのは最上の策〕、一邸を襲ふは中策、坐視観望(ざしかんぼう)は言ふに足らざるなり。此の事(こと)越前より行はれ候はば妙々。/此の一条は同志へも秘密、山田へ御謀り然るべく候。此の外(こノほか)策なし、嗚呼(ああ)嗚呼(ああ)。一夕は入鹿(*水野を指す)を誅し、直足(ちょくそく)にて東営(*江戸城に登る)、入鹿の罪を明白に書き立て将軍へ呈(てい)し、前の八字の意味を合せ天下へ大令を発すべし。天下は一夕に定まる〔*すぐにも安定する〕。然る後、天朝尊く幕府重し。藤氏の尊栄(そんえい)乃(すなは)ち越氏に帰するなり。事破れた時は?義・徐敬業なり。2)                      (同前 P.249~250)

 松陰は、創作された『日本書紀』の「大化の改新」(これも多分に脚色偽造がなされており、今日では「乙巳の変」と称されている)を真似て、水野忠央一人を殺害すれば、天下はたちどころに安定すると夢想する。これは革命家の考え方とは正反対である。むしろテロリストの考え方である。しかし、この計画も塾生の賛同を得られなかった。

 〈藩政府要人を下から突き上げ〉
 この時期、松陰は当役(行相)益田弾正3)に宛ててしばしば書簡や意見書を送っているが、9月6日付けの書簡では、門下生の入江杉蔵4)の書(松陰に宛てたもの)を一見して欲しいと同封している。

......頃(このご)ろ伏して時勢を考ふるに、幕政既に是(か)くの如し。竦座(しょうざ)誠に思ひて寒心せし〔*慎んで座して真剣に考え心配する〕所のもの、卒(にわ)かに廷議の決する所となる。臣(しん)聞きて喜び起つ。叡慮(えいりょ)の明断〔*戊午の密勅のこと〕、公卿(こうけい)の英決、誠に仰いで頼るべく伏して重んずべし。果して皇国神尚(な)ほ真に在(いま)すなり。然(しか)れども事(こと)、実に是(ここ)に至る、乃(すなは)ち、叡断(えいだん)の出(い)づる所、独り違勅討伐の命あるのみ。吁(ああ)、是(こ)の命に至りては則ち、宸襟の戚(うれい)〔*天皇の憂い〕其(そ)れ果して如何(いかん)ぞや。臣(しん)逆旅(げきりょ *旅の宿)に在りて憂苦(ゆうく)寝(い)ねられず。竊(ひそ)かに列藩を観るに固(もと)より皆(みな)頼るべからざるに非(あら)ず、正論(せいろん)憤発も亦(また)あり。是(こ)の時に当りて決して傍観の意を挟(さしはさ)むのみに非ず。但(た)だ、朝廷と諸侯と隔絶すること二百余年なり。是(ここ)に於て、朝廷果して大命を誰れに委(ゆだ)ねんや、亦(また)義仲(*木曽義仲)・董卓(とうたく *漢末の将軍で、勝手に皇帝を廃立した)の畏(おそ)れあり。諸侯果して孰(いず)れか挺出(ていしゅつ)して自ら此の命に任ぜんや〔*誰がぬきんでて、違勅討伐の大命に任ずる者があろうか〕、亦(また)騒擾の懼(おそ)れに魁(さきがけ)するあり。歎息(たんそく)すべし。義として忽(たちま)ち立たざる所以(ゆえん)のものは独り情(じょう)相通(あいつう)ぜざるに住(とど)まればなり。我が藩の朝廷に於ける、家系祖先固(もと)より言を待たず。当今の正議尤(もっと)も能(よ)く朝廷に徹して、君公亦(また)能(よ)く天情を察す。諸藩最も若(かくのごと)くなること能(あた)はず。而(しか)も蓋(けだ)し、朝廷特に倚頼(いらい)す〔*特に頼りにする〕。今(いま)夫(そ)れ天下の義勢唯だ沮情(そじょう)に屈す〔*大義のために行動しようとする力が、それを阻止しようとする力に屈する〕。フンして之(こ)れを伸ばし、激して発せしめ、整へて之(こ)れを挙ぐ〔*天下の義勢を励まし拡大させ、助長し、奮い立たせ、整えて実行すること〕、所謂(いはゆる)義倡(ぎしょう *大義を主張すること)なり。是(こ)れを以て賊を誅して夷を攘(はら)ふ〔*攘夷〕べく、天下の諸侯誰か之(こ)れに背(そむ)くものぞ、其(そ)の策は曰く、「誠なれば以て成り、私を挟(さしはさ)めば決して成らず」と。臣(しん)私(ひそ)かに列藩を察するに、任ずべきもの甚だ稀(まれ)なり。且(か)つ此(こ)の任(にん)豈(あ)に肯(あ)へて之(こ)れを他藩に委(ゆだ)ねんや。我が公これに在り、公其(そ)れ此(こ)れに重任(じゅうにん *重い役目)せんかな。然(しか)らば則ち公を責むるものは益(*益田弾正)執政と清(*清水図書)御史(*直目付)との職なり。執政を責むるものは内藤(*内藤万里助)・前田(*前田孫右衛門)・周布(*周布政之助)君の職なり。三君を責むるものは両国士民の分なり。臣(しん)鄙微(ひび *卑しくて低い身分)なりと雖(いえど)も士民の数に在り、故に昧死(まいし *言う所が不当ならば死んでお詫びする意)を以て敢(あ)へて白(もう)す。
                 (『吉田松陰全集』第八巻 P.102~103)

 入江杉蔵は、「戊午の密勅」が発せられたことを知って、大いに喜んで、「果して皇国神尚(な)ほ真に在(いま)すなり」と、やはり皇国の神はいるんだと、宗教的な受け止め方をしている。そして、孝明天皇の叡断が出たからには、幕府に対して「違勅討伐の命」があるべきとする。賊を倒して、攘夷を行なうべきとする。こうした事態に際して、傍観者であることはできない。天皇の「違勅討伐」の命は、はたしてどの諸侯に下るか。それは我が公こそが適任だ。そうなれば、藩主をせきたてるのは益田執政と清水直目付の仕事であり、執政をせきたてるのは内藤・前田・周布の仕事であり、この3君をせきたてるのは防長2国の士民のなすべき務めである。自分(入江)も卑しく低い身分の者ではあるが、その士民の内にあり、死を覚悟して言上する―というのである。

 〈梅田雲浜脱獄計画〉
 1858(安政5)年9月8日、京都で梅田雲浜ら勤皇の志士が逮捕される。以降、京都や江戸で勤王の志士が次々と捕らえられる。小浜藩士・梅田雲浜は勤王の志士でありながら、他面、経世家でもあり、商才にも富んでいた。このため、雲浜は京都などでは、「勤王家の山師」とも噂されていた。1856(安政3)年12月、雲浜は長州と上方の間での物産交易を開くため、長州にやってきた。雲浜は当役・浦靱負の家臣秋良惇之助の紹介で坪井九右衛門と合い、先の物産交易の計画を説得した。産物取立政策を実行に移していた坪井は、渡りに船とばかりに梅田提案を受け入れ、雲浜を長州藩産物御用掛とした。
 松下村塾の塾生の一人に赤根武人5)という人物がいる。彼は安政3年8月頃に松陰門下となったが、その後、京都に上って、梅田雲浜に学んだ。雲浜が1858年9月に捕縛されると、赤根も一時、捕らえられたが、疑いが解けて帰国した。その時、松陰は赤根に伏見の獄を破り雲浜を救出する策を授けた。それは、1858(安政5)年10月8日付けの肥後藩士某宛て書簡で明らかである。

......梅田入獄に付き一門生(赤根武人とて梅田へ寓居仕り居り候処、少しく疑を蒙り候へども事〔こと〕解け帰り来る)亡命(*脱藩)せしめ上京させ、大和の土民を協合(*協同)、伏見の獄を毀(こぼ)たせ候様致し候。其の生、才あれども気(き)少し乏し。成せば宜しきがと案労(あんろう *心配すること)仕り居り候。...... (『吉田松陰全集』第八巻 P.113)

 しかし、この策も成功していない。松陰は、1858(安政5)年10月になると、反幕勢力弾圧を強める幕府(井伊政権)への批判をいっそう強め、困難な状況を打開する策として、時局に対して傍観者的対応の藩政府への揺さぶりをかけ、京都の公卿をも巻き込んだ一策をひねり出す。

 〈大原西下策〉
 それは、10月21日付けの大原重徳(三位)宛ての以下の書簡で明らかである。

......実に天下の時勢(じせい)誠に切迫に相成り候所、幕府は北條(*鎌倉時代の実権者・北条一族)等の覆轍(ふくてつ *先人が失敗したあと)最早(もはや)踐(ふ)み申さず〔*北条一族滅亡の前例をふまないこと〕、只々(ただただ)穏便(おんびん)にして志士仁人の何とも取留む(とりとム *引きとめる)べき廉(かど *理由)之(こ)れなき様に仕(つかまつ)り、只もの(ひたモノ *ひたすら)月日を延ばし、其の内に外夷の交(まじは)りは日に堅(かた)まり候て何とも手出し相成らざる様にして、果(はて)は神州を挙げて外夷へ渡し候策に相考へられ候。是(こ)の時に当り、坐(い)ながら勤王の諸侯のみ御頼み思召(おぼしめ)し候ては、涸轍(こてつ)の鮒(ふな)が江漢の救(すくひ)を待ち候〔*車のわだちの跡のたまり水の中の鮒が揚子江や淡水の救いを待つように、何もしないで空頼みすること〕とか申す様にて誠に事に及ばざる事に御座候。二百六十大名の有様(ありさま)大抵(たいてい)御聞(おきき)及びも遊ばさるべく、実に浩嘆(こうたん *大いに嘆くこと)のものに御座候。右に付き囚奴(しゅうど *松陰を指す)等志(こころざし)を決し一策を建て居り候間、何卒(なにとぞ)小助(*白井小助)御同道にて御父子(*大原重徳父子)御西下の策〔*長州へ下向し義挙すること〕御定め遊ばされたく存じ奉り候。左(さ)候はば同志の士(し)申合(もうしあわ)せ政府(*藩政府)へ號哭哀救(ごうこくあいきゅう *大声で泣きながら懇願すること)仕り、大臣のもの拝謁を遂(と)げ主人(*藩主)赤心(*飾りのない真心)申述(もうしの)べ、義唱(ぎしょう *尊王攘夷の大義を唱えること)仕らせ申すべし。事(こと)万々(まんまん)諧(かな)はず候時は同志の士のみ相結び候ても、一方の義挙は屹(きつ)と其の効(こう *てがら)相立ち申すべくと囚奴の苦衷(くちゅう *苦しい心の内)此(ここ)に決し居り申し候。左なく候ては只々御観望(*傍観すること)成され候ては、河の清(す)めるを待つ〔*百年河清を待つ〕如くに御座候。......
     (同前 P.120~121)

 大原は、中納言重尹の子で、名を重徳といい、正三位左衛門督(しょうさんみさえもんのかみ)である。当時、参議であった。重徳の子は、重実という。1858(安政5)年1~3月、老中堀田正睦が条約調印の勅許を得ようとした際、これを阻止するべく関白に反対し孝明天皇に加担して決起した公卿88人の一人である。
 松陰は、この書簡で幕府は北条氏の轍は踏まないで、攘夷派にクレームを付けられないようにただひたすら既成事実を積み上げ、「果は神州を挙て外夷へ渡し候策」を考えていると批判する。このような事態では、公卿とて何にもしないでただ、勤王の諸大名の行動を頼りにしているだけでは、「涸轍の鮒が江漢の救」を求めるようなものでしかない。だから自分としては事態を打開する一策を建てたので、是非とも父子で長州へ西下して欲しい。そうすれば、我らは同志と申合せ藩政府に訴え、藩主が尊王攘夷の大義を唱えるようにする。それが出来ない場合は、同志の者だけでも義挙に決起する―というのである。
 松陰は、長州の決起で擁立する公家を大原重徳父子にしたのであった。しかし、松陰の人物評価は甘いものであった。「......大原といふ公卿は、世間の狭い、事大主義的な尊皇ファナティックに過ぎない......。藩の行相府手元役内藤萬里助ですら、『松陰大原を信ずること亀著(きし *占いの道具)の如し。然れども大原はもと一無聊(ぶりょう *手持無沙汰)の公卿に過ぎざるのみ。紳笏(しんこつ *古代文官の装束で、大帯と笏〔しゃく〕)の族は皆これを度外に置く。』と評してゐる」(河上弥一徹太郎著『吉田松陰の手紙』潮出版社 1973年 P.99)と言われる。

注1)松洞の名は温古であり、通称は亀太郎である。松洞は号。1837(天保8)年、萩郊外の松本の魚商の家に生まれる。のち藩士根来主馬の家臣となる(陪臣)幼くして絵に秀で、京都の小田海僊に師事する。1856(安政3)年末、幽室の松陰を訪ね、以来その教えを受ける。1858(安政5)年、江戸や京都で活動するが、翌年2月帰国する。5月、松陰へ東送の命が下ると、松陰の肖像を描く。1862(文久2)年春、同志と共に上京し、尊王攘夷運動に奔走する。長井雅樂の公武合体論を軟弱であり、幕府を利するものとして批判する。その頃、たまたま長井が京都に居り、遂にこれを刺そうと計画する。しかし、ある人に諫められ果たすことができず、1862年4月13日、粟田山に入り、自殺する。享年26歳。
 2)王莽が前漢を簒奪し、仮皇帝と言っていた頃、?義は劉信を擁して兵を挙げたが失敗した。唐の武后(則天武后 在位690~705年)が中宗を排したので、徐敬業は武后を討とうと挙兵するが敗死する。
3)益田弾正は、毛利家の永代家老の家に、萩で1833(天保4)年に生まれた。領邑は須佐にあり、禄1万2060石余である。1849(嘉永2)年6月、17歳の時、松陰の兵学門下となる。1853(嘉永6)年より、藩政の枢機にあって藩主敬親を補佐した。1864(元治元)年の禁門の変では、自ら兵を率いて上京し、利あらずして帰国し、のち恭順派によって徳山に幽閉され、11月12日、福原越後・国司信濃と共に切腹を命ぜられる。松陰は師弟関係もあり、しばしば文通し、意見書もあげた。弾正は、よく松陰の改革意見を採用し、松陰の立場を擁護した。
 4)入江杉蔵は、足軽嘉伝次の長男として、1837(天保8)年に萩土原(ひじはら)に生まれる。13歳の時、御蔵元(財政をあつかう役所)の膂徒(しょと *下級役人)となり、21歳にして江戸藩邸の膂徒となる。1858(安政5)年7月、江戸より藩の飛脚として帰国し、初めて松下村塾を訪ねる。同年10月、再び帰国した時松陰を訪ね、11月に入門した。当時、松下村塾の塾生の間には老中間部詮勝襲撃・暗殺の議論が起こり、17人が血盟したが、入江はその内の一人である。だがこの計画は洩れて結局失敗する。このため、松陰は再び野山獄に投ぜられる。この時、入江は松陰の救出活動に奔走し、他の7人とともに家囚となる。彼は松陰に師事する期間が塾生の中では最も短かったが、晩年の松陰と意見が合い、弟・野村和作とともに松陰の指示に沿った活動に挺身した。1860(万延元)年閏3月免獄し、江戸に派遣される。1863(文久3)年1月、27歳の時、これまでの功績により士分の待遇を受けるようになる。同年5月の米仏などとの下関戦争では、馬関総奉行所列座に挙げられ、1864(元治元)年7月の禁門の変では、参謀の一人となったが、鷹司邸で戦死した。享年28歳。
 5)赤根武人は、周防大島郡柱島(はしらじま)の医師の子である。幼くして海防僧・月性に学び、浦靱負の家臣(毛利家からすると陪臣)となる。1856(安政3)年、松陰の門下生となるが、のち京都に上り、梅田雲浜に師事する。文久年間に国事に周旋し、1863(文久3)年9月、高杉晋作の後を承けて奇兵隊の総督となる。翌年8月には、4国連合艦隊と下関に戦う。1865(慶応元)年、高杉の藩内権力闘争に異見を懐き、逃亡する。のち、新撰組伊東甲子太郎(きねたろう)の配下となり、長州藩恭順派に内応する。1866(慶応2)年1月藩に捕らえられ、同月25日、山口鰐石で処刑される。享年28歳。

(ⅲ)井伊大老襲撃に呼応した間部詮勝暗殺計画
 だが、情勢はいよいよ急をつげ、緊迫する。それは、10月末ごろの小国剛蔵1)宛ての書簡に伺える。

......未だ屹(きっ)と相決し候には之(これ)無く候へども、尾・水・越・薩(*尾張・水戸・越前・薩摩)合従(がっしょう)、奸大老(*井伊直弼)を襲撃するの策と相聞(あいきこ)え候。近日山県半蔵2)帰着(きちゃく)候へば愈々(いよいよ)の儀相聞え申すべき也。果して然らば天下瓜分(かぶん *瓜のように分割される)すべき今日に付き、吾輩(わがはい)中々(なかなか)凝滞(ぎょうたい *留まりとどこおること)すべきに非ず。京師(けいし)にて間部下総守(*間部詮勝)殊(こと)の外(ほか)の邪説、大意(たいい)違勅の事は水戸・堀田両人の罪と申し候由(よし)、内藤豊後守(*伏見奉行。水野忠邦の弟。梅田雲浜を逮捕したが、勤王の志士の逮捕に穏和策をとり安政6年に罷免された)頻(しきり)に兇威を振ひ正論有志の者召捕(めしと)り候由、誠に悪(にくむ)べき事に候。江戸にても土州(*山内容堂)・宇和島(*伊達宗城)隠居の内意あり、是(こ)れ等も黙しては居り申すまじく、左(さ)候へば過疑(かぎ *疑いすぎる)致し候へば面目(めんぼく)を天下に失ひ候事少なからず、政府(*藩政府)も殊の外奮激(ふんげき *感激してふるいたつこと)喜ぶべき事に御座候。右に付き僕(ぼく)存念(ぞんねん *考え)之(こ)れあり、同志の士と相談したく、半蔵(*山県半蔵)帰着の上は世間甚だ沸騰(ふっとう)思ひ遣(や)られ候に付き、其の節に至りて御報知も間に合ひ申さず候間、旁々(かたがた *どのみち)死を畏(おそ)れざる少年三、四輩弊塾(へいじゅく *松下村塾を指す)まで早々御遣(おつか)はし然るべく候。申上げ残し候事は委細二生(*岡部富太郎と品川弥二郎)の口述に附し候。大谷茂樹に内密談じ置き候大原三位の策(*大原を長門に迎え義挙を計ろうとする「大原西下」策)は奸人遮(さえぎ)りちとゆとりが行き〔*ちょっと手間がかかる〕候。其の内に江戸の事(*井伊大老襲撃のこと)起り候へば宜(よろ)しく候。江戸の事振はざる時は必ず前策(*大原西下策)を果たすなり。...... (同前 P.124~125)

 この書簡では、不確かながら尾張・水戸・越前・薩摩の連合による井伊大老襲撃が画策されてている(実際は、水戸藩が中心で薩摩藩士も1名参加)情報が、松陰にもキャッチされている。また、京師での間部・内藤の勤皇派への弾圧、江戸での山内容堂・伊達宗城への隠居処分が進められ、これらを黙止していることは出来なと松陰は強く断じている。幸いにも藩政府首脳もことのほか憤激しており、松陰はこれを好感している。これまでは水野忠央暗殺をめざしていた松陰は、新たな事態に、新たな策を考えついたようである。他方で、「大原西下策」は、トラブルがありしばらく延期となる。だが、井伊大老襲撃が失敗するようであれば、「大原西下策」を必ず決行すると述べている。この書簡で注目すべきは、小国に対し、「旁々死を畏れざる少年三、四輩弊塾まで早々御遣はし然るべく」と、人集めを要請していることである。松陰は、具体的行動が切迫していることを予感しているのである。
 11月に入っても、松陰の書簡では井伊大老襲撃計画が、引き続いて強い関心の的となっている。11月2日付けの生田良佐3)宛ての書簡では、「......爾来(じらい *その後)京師(けいし)間部(まなべ)の奸謀(かんぼう)益々(ますます)深く天朝の御勢(おんいきおひ)誠に気遣(きづか)わしく候所、同社(*正論の同志)中にても色々案じ付きも之(こ)れあり、......。扠(さ)て又(また)江戸も甚だ騒擾の聞え之(こ)れあり、飛脚引続き度々(たびたび)参り〔*同志からの飛脚通報〕、尾・水・越・薩、彦根を襲ふの謀(はかりごと)と相見え候。......」(同前 P.126)と見える。
 11月4日付けの増野徳民宛ての書簡では、「......此のたび尾・水・越・薩等江戸に於て彦根大老打毀(うちこわし)の議起り候。土州・宇和島二正論の侯、幕府より隠居せよとの事、左(さ)候へば是(こ)れも憤懣(ふんまん)極まるべくに付き四侯の論に加わる事必然、此の御方(みかた)へも四侯より相談之(こ)れあり(我が藩勿論御同意の事と察し候。)たる由(よし)。夫(そ)れに付き長井雅樂(うた)帰国、早速御直目附(おんじきめつけ)に成り、急に江戸へ行く様に山縣半蔵御早遣(はやつか)はしにて帰る筈(はず)、今日も着(ちゃく)すべし。着の上大老打毀の事(こと)委(くわ)しく相知れ申すべし。天下の大論是(こ)れより起るなり。......」(同前 P.127)と言って、増野(在周防国山代)相談したいから早く萩にきてくれと、要請している。
 しかし、松陰が夢想するほど、先にあげた大名たちが、井伊襲撃を考えていたわけではなかった。主体となった水戸藩でも参加者はいずれも藩に迷惑をかけたくないという思いで脱藩しているのである。それぞれ藩が主体となって井伊襲撃を計画していたわけではない。それに尾張藩・越前藩は、全くと言ってよいほど関係してはいない。
 11月6日付けの周布政之助宛ての書簡は、江戸での井伊襲撃に呼応し、長州藩は京都で間部詮勝、内藤豊後守を殺害し、勤王の魁(さきがけ)となるべきと考えたものであるが、松陰の思い通りにはならなかった。まずは、松陰の計画を見てみよう。

此の度(たび)江戸の様子伝聞仕(つかまつ)り候処、薩藩発起(ほっき)にて越前藩申合せ大老彦根侯打果(うちはた)し、且つ上国(じょうこく *京都)へも義挙相企て候由(よし)。左候へば尾張・水戸等は勿論(もちろん)同意に之(こ)れあるべく、又(また)土佐・宇和島等も正論主張候段(そうろうだん)忌諱(きき *畏れ避けていること)に触れ、御隠居成され候様幕命を蒙(こうむ)られ候由に候へば、是(こ)れ亦(また)同意と察せられ候。其の他(そノた)平日正論の大小藩孰(いず)れも此の挙(こノきょ)に後(おく)れ申すまじく候。右に付き御当家に於ては他藩の誘ふ迄(まで)も之(こ)れなく、勤王の御志(おころざし)確然(かくぜん)たる御事に候へば、此の度の一挙に付き、下(しも)より御願(おねがひ)申出(もうしい)づるには及ばず、謹んで御指揮相待ち然るべき事に御座候へども、私共(わたしども)時事憤慨(ふんがい)黙止(もくし)し難(がた)く候間、連名の人数4)早々上京仕り、間部下総守・内藤豊後守打果し、御当家勤王の魁(さきがけ)仕り、天下の諸藩に後(おく)れず、江家の義名末代に輝かし候様仕りたく存じ奉り候。此の段御許容を遂(と)げられ下され候様願ひ上げ奉り候。以上。......    (『吉田松陰全集』第八巻 P.128~129)

 この書簡は、いよいよ行動の時が来たと考える松陰が、藩政府の中心的要人である周布政之助に意中を明らかにしたものである。その本気度は、同じ日の11月6日付けの前田孫右衛門(藩の要人)宛ての次の書簡で明確である。

別紙願事(ねがいごと)近日発し候様同志中(どうしちゅう)追々(おいおい)盟約仕り置き候。右に付き左の件々御周旋願ひ奉り候。
一 ク―ボール(*軽便な速射砲の一種)三門、百目玉筒(*筒は大砲のこと。玉の重さによって百目以上を大筒、三十目以下を小筒、その中間を中筒と呼んだ)五門、三貫目鉄空弾(*鉄玉などの実心弾に対する中空弾)廿、百目鉄玉百、合薬(*火薬)五貫目貸下げの手段の事。
一 京師へ伝之輔(*伊東伝之輔)・悦之助(*惣楽悦之助)両人早々御遣(おつかい)下されたく頼み奉り候事。
但し梅田一件(*梅田雲浜の救出計画のこと)の手(て)都合の為(ため)甚だ差急(さしいそ)ぎ申し候事。
一 長崎へ組の者一人、肥後へ組の者一人御遣い相成(あいな)り候様頼み奉り候事。
肥後人愛敬左司馬(*名は正元)先日(*11月2日)来り候に付き、一通りの事(こと)申し約し置き候。是(これ)へ一書注進遣(つかわ)したく候。
殿様御隠居の風説専(もっぱ)ら行(おこなわ)れ候。此時(このとき)に当り政府上(かみ)平穏論之(これ)有り候ては義士の心実に不穏(ふおん)に付き、別紙願事(ねがいごと)御許容相成り候様御申合(おもうしあわせ)頼み奉り候。此(この)書は前広(まへびろに *前以て)差出し候筋には之(これ)無く候得共(そうらへども)、兼(かね)ての儀故御目に懸け、前条の件々をも御頼み仕り候訳に御座候。俗吏原(ぞくりばら *俗吏の輩)へむざと御見せは御断(おことわ)り仕り候。尤(もっとも)周翁(しゅうおう *周布政之助)へも一通示し置き候なり。

 前田孫右衛門は、長州藩大組の士(禄173石余)であるが、藩主の信任が厚く、1855(安政3)年に当職手元役に任じられ、郡奉行も兼任した。1860(万延元)年には、用談役に転じ、直目附となる。1858(安政5)年の松陰らの間鍋詮勝襲撃策を、藩政府首脳中、唯一、是認した人物である。(元治元年の禁門の変・4国連合艦隊の馬関襲撃の際、藩政府の要職にあったため、野山獄に押し込められ、12月18日に処刑された。) 
 この書簡は、大胆にも藩の武器の借用を申込み、京都ならびに長崎・肥後への伝達を依頼している。ここまで頼み込みをするのは、要路に前田のような理解者が存在するからできたと思われる(家老益田弾正は、松陰の兵学門下生)。そして、事実上、松陰の指令が貫徹した場合、それは長州藩のレッキとした正式の行動となるのであった。恐らく、松陰は乾坤一擲(けんこんいってき)、勝負にでたのであろう。それほどの決意であった。
 さらに松陰は、家族への決別の書「家大人・玉叔父・家大兄に上る書」(全集第四巻―「戊午幽室文稿」に所収)も、この11月6日に書いている。

頑兒(がんじ)矩方(*松陰)泣血再拝して、家嚴君(*父杉百合之助)・玉叔父(*叔父玉木文之進)・家大兄(*杉梅太郎)の膝下(しっか)に白(もう)す。矩方稟性(ひんせ
*産れながらの性質)虚弱、嬰孩(えいがい *赤ん坊)以来(いらい)連(しき)りに篤疾(とくしつ *重い病)に罹(かか)る、而(しこう)して不幸遂(つい)に病に死せず。弱冠(じゃっかん *元服の歳)而還(このかた)、?(しばしば)重典(*厳しい法律)を犯す、而して不幸遂に法に死せず。二十九年間を回顧(かいこ)せば、当(まさ)に死すべきもの極めて多し。今に迄(いた)りて未だ死せず。復(ま)た父兄今日の累(るい *迷惑をかけること)を致す、不幸の罪何を以てかこれに尚(くわ)えん〔*加えん〕。然(しか)れども今日の事、皇家(*皇室)の存亡に関(かかわ)り、吾が公の栄辱(えいじょく *栄誉と恥辱)に係る、萬々(まんまん)休止すべからず。古人の所謂(いhaゆる)忠孝両全(りょうぜん)ならず〔*忠孝が両立しないこと〕とは、此の類(たぐい)是(こ)れなり。
......(中略)......。
......頑兒(*頑固者)虚弱狂暴、本(もと)より人の数中(かずのうち)に在らず。天下反(かえ)つて虚名を謬聴(びゅうちょう *誤り聞くこと)し、認めて豪傑と為(な)す者あり。向(さき)に愚論数道を以て之(こ)れを梁川緯(*勤王の儒者・梁川星巌のこと)に致す。緯(*梁川)竊(ひそか)に上(かみ)青雲の上を?(けが)す〔*高い地位にいる天皇をわずらわす〕、蓋(けだ)し、乙夜の覧(いつやノらん *天子が読まれること)を経たりと云ふ。一介の草莽(そうもう *在野の臣)区々の姓名、聖天子の垂知を蒙る〔*天皇に知られる〕、何の栄か之(こ)れに加へん。兒(じ)の死する何ぞ晩(おそ)きや。近日正三位源公(*大原重徳のこと)、七生滅賊〔*七たび生まれ変わり、賊を滅ぼす〕の四大字を以て賜る。且(か)つ其の世子(せいし *大原重実を指す)の詩数章を伝え、高徳(*勤皇家・児島高徳のこと)を望み博浪の鉄椎(てつつい *鉄で作ったツチ)〔*秦の始皇帝を暗殺しようと鉄椎を投じたこと〕を望む、其の意甚(はなは)だ切(*切望)なり。兒(じ)豈(あ)に死ぜざるべけんや〔*自分が望まれて、どうして死なないでいられようか〕。不幸の子は唯(た)だ慈父(じふ)之(こ)れを愍(あわれ)み、不弟の弟は唯だ友兄之(こ)れを恕(ゆる)す。定省怡々(ていせいいい *親孝行をすること)、復(ま)た膝下の歓を?(つく)す能(あた)はず。願はくは愛を割(さ)き友を抑へ、兒を以て死すること已(すで)に久しと為(な)し、尋常の親肢(しんし)、身体髪膚(しんたいはっぷ)、併(あ)せて以て賜はらんことを。頑兒の願(ねがひ)、何を以てかこれに加えん。泣血漣々(きゅうけつれんれん *血のような涙がこぼれ落ちる様子)、所思(しょし *思い)を竭(つく)すこと能(あた)はず。頑兒矩方泣血拝白。

 松陰は、父・兄それに叔父へ生まれてこの方、お世話になったことを感謝しつつも、今や皇家の存亡にかかわる時勢、毛利家の栄辱にかかわる時期になったといって、忠義に献身せざるをえないと表明する。そして、古来からの「忠孝両全」ならずの境遇にいたったことを宣明し、忠に奉仕するとする。それは、一介の草莽の身である自分の書が、天皇の閲覧をみ、また公卿の大原から「七生滅賊」の字を賜り、感激したという理由である。
 だが、儒学者としての松陰は、儒教の世界でもっとも尊敬する孔子や孟子の忠孝観とは正反対の見地から天皇に奉仕するというのである。
 孔子は、その著『論語』の子路篇で、「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。」と言っている。「孔子も孟子も父子関係と君臣関係の両立をはかってはいるが、孔子は、究極的に選択せざるを得ない場合は父子関係を優先している。」(拙稿『漢代専制国家の支配秩序と官僚制の構造』P.43)のである。つまり、忠に対して孝を優先しているのである。中国での国家主義が強まる5)と、体制のための儒学は変質し、孔子の教えから逸脱し、孝よりも忠を優先する考え方に至るのである。この考えを導入してきた日本の儒学はほとんどが、孔子の思想よりも変質した後の忠孝観をそのまま受容している。松陰もまた、その例に漏れないのであった。
 こうした忠孝観から、松陰は先の引用の(中略)部分で、次のような間部暗殺計画を明示するのであった。すなわち、

頃(このこ)ろ忽(たちま)ち江戸の報を得たり、尾・水・越・薩、将に襲ひて彦根大老を誅せんとすと。頑兒(がんじ *松陰を指す)之(こ)れを聞き、距躍三百(*躍り上がって喜ぶこと)して曰く、『神州の正気、遂に未だ消蝕(しょうしょく)せざるなり。政府(*藩政府)の議、固(もと)より当に四家に合従して邪気を鎮圧すべきなり』と。然(しか)れども兒(じ)猶(な)ほ憾み(うらミ *口惜しく思うこと)あり。事(こと)四家より出づ、吾れ人に因(よ)りて功を成すは、公等(こうら)碌々(ろくろく)の数を免かれざる〔*平凡で役に立たない類以外の何者でもない〕なり。ここを以て兒(じ)私(ひそ)かに自ら量(はか)らず、同志を糾合(きゅうごう)して神速に京に上(のぼ)り、間部の首を獲(え)てこれを竿頭(かんとう *さおの先)に貫き、上は以て我が公勤皇の衷(ちゅう *心中)を表し且(か)つ江家(こうけ *大江広元を先祖にもつ毛利家のこと)名門の聲(こえ *名声)を振ひ、下は以て士民の公憤を発して、旗を挙げ、闕(けつ *天子の宮城の門)に趨(おもむ)くの首魁(しゅかい *さきがけ)とならん。...... (同前 P.431)

 松陰は、謙遜して、自らの才能も顧みず、同志をまとめて、速やかに上京し、老中間部詮勝の首級を挙げて、天皇に勤王の意志を表明し、併せて毛利家の名声をあげる(松陰はここでも4藩に対する競争意識が強烈に噴出している)というのである。幽囚の身である松陰がリーダーになって、上京し間部の首をあげるというのである。藩政府からみると、とても容認できない申し出でなのである。
 周布政之助など藩政府首脳は、父や兄はもちろん、親交のある来原良蔵(桂小五郎の妹と結婚)や、叔父の玉木文之進らを差向けて、いろいろと説得する。しかし、松陰は頑なにこれらをはねつける。ちなみに、萩には居なかった桂小五郎や高杉晋作・久坂玄瑞は、情勢が熟していないと、松陰の計画に賛成しなかった。
 また、11月15日付けの来原良蔵宛ての松陰の書簡でも、江戸から戻った長井の情報では、4藩連合による井伊大老襲撃計画もはっきりまとまったものではない―といわれる。すなわち、「然る処(ところ)長井の言に云はく、四藩合従の事(こと)未だ取留め候事に之(こ)れなく候、」(『吉田松陰全集』第八巻 P.138)と。
 松下村塾の高弟たちもまた、こぞって反対する。高杉晋作・久坂玄瑞・飯田正伯・尾寺新之丞・中谷正亮の5人は、連名で血判して、次のように諫めている。

......先生此度(このたび)正論(せいろん)赫々(かくかく *ひかり輝くさま)御苦心の程(ほど)誠に以て感激奉(たてまつ)り候。然(しか)る処(ところ)天下の時勢も今日に至り大(おおい)に変(かわり)、諸藩鋒(ほこ)を斂(をさ)め旁観(ぼうかん)仕(つかまつ)り候事、甚だ以て歎息(たんそく)の至りに候得共(そうらへども)、将軍宣下(せんげ)も相済(あいす)み、人気稍(やや)静(しずま)り候得ば義旗(ぎぎ)一挙実に容易ならざる事にて、却(かえっ)て社稷(しゃしょく *藩=国家)の害を生む事(こと)必然の儀に御座候。然ると雖(いえど)幕吏猖獗(しょうけつ *悪者や悪いことがはびこること)、有志の外(ほか)諸侯に隠居せしめ候乎(かな)、或いは交易開け候上には必ず旁観成(なり)ぬ勢(いきほい)に相成り申すべく候。方(まさ)に此時(このとき)実に御互(おたがい)国の為(ため)鞠躬尽瘁(きくきゅうじんすい *一生懸命心を尽くし力を労すること)仕るべく、夫迄(それまで)は胸を押え鋒を斂め何にも社稷の害(がい)仕出(しだ)さぬ様(よう)国の為万々祈り奉り候。急便ながらジ縷能(あた)はず〔*こまごまと丁寧に説明できないが〕尺寸の愚礼に候得共、同志中熱血の所瀝(しょれき *真心を打ち明けること)に候得ば能々(よくよく)御熟察(ごじゅくさつ)冀(こいねが)ひ奉り候」(安政五年一二月一一日付け 吉田松陰あて 〔『高杉晋作の手紙』〕 P.36)

獄中の松陰と、獄外の高弟たちという環境の違いも大きく、なによりも情報の違い、討論相手のある無しでは決定的な違いがそこにあり、結論の違いを導き出したのであろう。松陰には、全く心の余裕がないのである。そこまで追い詰められたのであろう。
注 1)小国剛蔵は、1823(文政6)年、長門国須佐(すさ)に生まれる。代々長州藩の家老を務めた益田氏の家臣である。19歳(1842年)の時に江戸に行き、1845(弘化2)年、22歳の秋に昌平黌に入り、また安井息軒に学ぶ。大計を懐き、蝦夷地開拓を唱え、単身、奥羽より蝦夷に渡り見聞する。1851(嘉永4)年、須佐に帰り、家禄50石で郷校育英館の教授に抜擢される。1853(嘉永6)年、益田弾正に従い、浦賀警備に出役する。その後帰国し、九州各地を歴遊する。帰国後、ふたたび育英館の教授となる。1858(安政5)年春ごろから松下村塾生と育英館生との交換教授が始まる。小国は海防僧月性や土屋蕭海と親しく、松陰ともしばしば書簡を交わした。1862(文久2)年、長州藩藩主が公武合体を周旋するにあたり、益田弾正に従い、京都にのぼり、諸藩士の間で周旋する。1864(元治元)年7月の禁門の変では、久坂玄瑞の遺託もあり、帰国する。だが、翌月、恭順派により益田弾正が徳山に幽閉される。小国は須佐に帰り、仲間とともに、弾正奪還しようと奔走するが遂にかなわず、益田は切腹を命ぜられる。小国は蟄居を命ぜられ、翌1865(慶応元)年閏5月、病死する。享年、42歳。

注1)山県半蔵は、1829(文政12)年3月15日、萩郊外松本村の安田直温の第三子として生まれる。幼いとき、松陰と共に玉木文之進の塾に学ぶ。1843(天保14)年に、松陰の兵学門下となる。20歳ころまでは松陰と親しかったが、その後、養父の山県太華(松陰の論争相手)の国体論を奉じて、交友関係は疎遠となった。半蔵が山県太華の養子となったのは、1848(嘉永元)年である。1865(慶応元)年??、幕府の問罪使が広島に来るや、宍戸備後介と改称し、中老格として陳情弁疏に努めた。功により禄が加増され、宍戸氏を称す(宍戸?〔たまき〕)。明治維新後、山口藩権大参事、刑部少輔、司法大輔などを歴任する。
2)生田良佐は、毛利氏の一門・毛利隠岐の家臣。僧月性の影響を受け、国事に奔走し、1858(安政5)年松陰に会い大いに啓発される(22歳)。京都で活動していた良佐は、「戊午の密勅」が降りると帰国し、翌年明倫館に勤めた。のち周防大野村に帰り、子弟を家塾で教えた。1861(文久元)年に没。
3)いわゆる「血盟の十七士」のことである。しかし、その名前のすべては明らかになっていない。知れるのは、岡部富太郎・有吉熊次郎・作間忠三郎・入江杉蔵・吉田栄太郎・時山直八・佐世八十郎・久保清太郎・増野徳民・品川弥二郎・福原又四郎である。
4)中国の古代専制国家の支配秩序は、家族秩序(男尊女卑の男系社会の中国では、家族秩序は父子関係で表現される)を基礎としたものである。その父子関係は、尊尊主義(子は父を尊敬する)と親親主義(子は父を親愛する)で構成され、その尊尊主義を君臣関係の尊尊主義に転轍した家族国家論が、国家支配を正当化するイデオロギーとなった。詳しくは、拙稿『漢代専制国家の支配秩序と官僚制の構造』を参照。

(ⅳ)再下獄と江戸送り・処刑
 しかし、松陰は12月15日を以て、萩を出発しようとしたが、藩政府要人の周布政之助は、毛利家の保身もあって、11月29日に、松陰らの出発を藩主に請い、松陰を厳囚とする。厳囚された松陰は、同志・友人との面会はもちろん、文通さえ許されない身に陥る。
 12月5日、借牢願いの形をとって、松陰を投獄する旨の藩命が下る。しかし、父・百合助の病気のため、投獄延期が認められ、12月26日に野山獄に入る。しかし、投獄の罪名(「聞込み」)があやふやのため、岡部富太郎・福原又四郎・入江杉蔵などが、周布や井上與四郎(兄・梅太郎と懇意)を詰問した。岡部ら8人は城下を騒がした暴徒として、自宅に幽囚される身となった。
 ところで、この間の1858(安政5)年12月11日頃に、「大原西下策」は、田原荘四郎が藩へ密告するに至り、失敗する。田原は長州藩の軽卒で松下村塾生ではないが、当時、松陰の命で「大原西下策」に協力していた者である。失敗の報は、萩には12月28日に届いている。(日本思想大系54『吉田松陰』岩波書店 P.277の脚注)
 松陰はふたたび野山獄に収監されたが、その直前に大原重徳からの手紙が着き、返事を出した(12月21日付け。「大原西下策」の失敗の報が届く直前)。その中には、当時の松陰をめぐる人物(藩政府要人も含め)の評価がなされている。やや長い文面だが、以下に引用してみる。

田之輔(*伊東伝之助)出足後仙吉(*岡仙吉)帰着、閤下(こうか *身分の高い者に対する敬称)の御近状(ごきんじょう *近頃の様子)伏聴(ふくちょう *拝聴すること)し奉り切に下衷(かちゅう *身分の低い自分の心中)を慰め候。伝之輔へ託上(たくじょう)仕り候件(*「大原西下策」のこと)最早(もはや)閤下に達し候事と遠想し奉り候。此の一件御決策遊ばされ候はば僕輩(ぼくはい)力を致すの地(じ)之(こ)れあり、爰(ここ)を專途(せんど *成敗を決する大事な場)と相働き申すべく、付いては仙吉又々(またまた)来る早春上京せしめ、委悉(いしつ *委細)は其の節(そノせつ)の談に申上げべく候へども、差当(さしあた)り候急務申上げ置き候。大事の成敗は恐れながら人物の御鑑定に之(こ)れある儀と存じ奉り候。仙吉沈実(*沈着誠実)頼むべき者に御座候。伝之輔軽卒(けいそつ *身分が低い者)には候へども正直他(た)なく(*二心が無い)候。和作(*野村和作。入江杉蔵の弟)・荘四郎(*田原荘四郎)等追々(おいおい)参殿仕り候由、和作は年少心元(こころもと)なく候へども亦(また)鋭果(*鋭敏果敢)愛すべき者に候。荘四郎は臆病者(おくびょうもの)にて嫉妬(しっと)の気(き)之(こ)れあり候故、大事の談は必ず御用捨(ごようしゃ *ご遠慮)頼み奉り候。福井忠次郎と申す者(もの)是(こ)れ亦(また)同志に候へども、元来(がんらい)刀筆吏(とうひつり *文書の記録をつかさどる小吏)に付き事に因(よ)りては御談じ出來兼(できかね)候儀も之(こ)れあるべく、是(こ)れ等(など)も御明鑑(*明らかにされる)に之(こ)れあるべく候。松浦亀太郎と申す者(松洞と号し画家なり)上京仕り候はば同志に付き御一面願ひ奉り候。陳(さ)て後悔仕り候一儀は周布(すふ)政之助に御座候。此の者自重論(じちょうろん)には候へども剛正(*気性が強く正義感に富むこと)比(ひ)なき由(よし)先書(せんしょ)申上げ候処大いに間違ひにて、誠に執拗(しつよう)人言を容れざる〔*片意地でしつこく他人の言を受け入れない〕偽(にせ)君子(清太・杉蔵などと宋の高若訥なりとて歎息仕り候)1)にて、井上與四郎と申す奸人吸引(かんじんきゅういん *邪悪な人間を味方に引き込むこと)、頗(すこぶ)る国事を誤り申し候。其の詳(しょう)は賤著「厳囚紀事」と申すもの後便(こうびん)差上ぐべきに付き御瞥覧(ごべつらん *ちらっと目を通すこと)遊ばさるべく候。已に僕も其(そ)の中(あ)つる〔*奸人の中傷にあう〕所となり、近日投獄の次第に相成り候。幸(さいわい)に與四郎先日江戸に罷(まか)り越し、(十六日此の地発程)政之助も近日同断、是(こ)れにて大いに国害を除き申し候。政之助従行(じゅうこう)赤川直次郎(*淡水)と申す諸生水戸へも留学仕り居り、藩中の才子に候へども、軽薄人にて政之助へ阿諛(あゆ *おもねりへつらう者)仕り候者に付き、此の輩(やから)へ大事御語(おかた)り成され候はば直ちに大害を引出し候に付き、必ず御用捨(ごようしゃ)頼み奉り候。先般(せんぱん)京師へ過(よぎ)り候長井雅樂(うた)奸才(かんさい)周布に勝(まさ)ること数等(すうとう)、御面会遊ばされざる事(こと)幸(さいわい)と存じ奉り候。此の地にて僕輩の密議に参じ候者(もの)久保清太郎・佐世八十郎(*後の前原一誠)・岡部富太郎(三人大番士)・入江杉蔵・吉田栄太郎(両人軽卒)・仙吉・僕と以上七人、外に在官人にて来島又兵衛・来原良蔵・桂小五郎(此の人僕太〔はなは〕だ知己、人物皆妙)・前田孫右衛門・宍戸九郎兵衛・兼重譲蔵・中村道太郎、儒官にては小田村伊之助(*松陰の妹の夫)、皆(みな)與(とも)に議すべき者に御座候。門下少年輩僕と死生を同じうし候者又(また)十数人も之(こ)れあり候。人物の品題(ひんだい)〔*人物の評価〕は後便(こうびん)委細申上ぐべく候へども、其の内(うち)例の一策(*「大原西下策」)は僕か若しくは前の七人より添書(てんしょ)先容(せんよう *先にとりもつ)仕らざる者〔*添書をして紹介しない者〕へむざと御沙汰(おさた)必ず御断(おことわ)り仕り候。古人も申し候様小事と雖(いえど)も成さんとする者は数人のみにて、敗らんとする者は挙(あ)げて数(かぞ)へ難し〔*いちいち名を挙げることもできないほど多い〕にて、御座候間、尋常の嫉妬見(しっとみ *嫉妬の目)抔(など)と御引受け遊ばさるまじく願ひ奉り候。此の事急務に付き下執事まで申上げ置き候。僕事(ぼくのこと)投獄仕り候へども、周布・井上発程の後は大事の妨げとも相成るべき儀毫(ごう)も之(こ)れなく候間、旁々(かたがた)御決策の程(ほど)祈り奉り候。余は仙吉の上京を期し候。恐惶謹言。
              吉田寅次郎矩方再拝

 松陰は、大事の決行には当事者の人物鑑定が重要だと、独り独りの性格や特徴を書上げる。そして、大事決行を妨げる者の筆頭に、周布政之助を挙げる。従来、松陰は周布を高く評価してきたが、今やその周布が松陰らの計画を妨げるものとして立ちはだかることへの苛立ちと怒りが叩き付けられているのである。松陰の再下獄の張本人は、周布であることは間違い無いであろう。周布に次いで批判された者は、井上與四郎、赤川直次郎(淡水)そして長井雅樂(うた)である。
 さらに松陰は、今回の間部暗殺計画の仲間の名前を挙げる。名前を挙げなかったが、自分と死生をともにする年少の者も十数人もいるとも言っている。また、官職についている人物でも味方と思われる人物として、桂小五郎・来島又兵衛・来原良蔵・前田孫右衛門などを挙げている。
 そして松陰は、「追伸」にあたる部分で、以下のように述べている。

尚(な)ほ以て久保・佐世・杉蔵・仙吉身命を擲(なげう)ち相働(あいはたら)き頼母(たのも)しく候。従来僕の大知己(だいちき)は来原・桂に候処、来原は長崎行(ゆき)、桂は一昨日来島と同じく江戸より帰着、未だ一面を得ず、之(これ)に依り三人此の議(*「大原西下策」)に洩(も)れ候。在江戸同志の士(*高杉・久坂)是(これ)亦(また)此の書に載らず候。
弊藩の事体(じたい *事態)井上・周布の邪説にて勤皇の事も打止め、東武(*幕府を指す)へ媚(こび)を献策候事に相成(あいなり)、両人東行(*江戸行き)も其為(そのため)と察せられ候。外(ほか)に大臣一人毛利出雲(此人〔このひと〕正論に非ず)〔*毛利一門六家の一人〕東行、尤(もっとも)此事(このこと)の首謀は長井なり。之(これ)に依り来(きたる)三月は主人(*藩主)を参府(*江戸に参勤)さするの定算(*決まりきった計算)と相見え候。然る共(しかルとも)僕輩同志の士(し)一死を以て誓て此(この)駕(かご)を止め〔*藩主の駕籠を伏見で止めること〕候覚悟にて種々苦心仕り候。当(とう)十月筑前侯(*黒田藩主)病気参府なし、肥前侯(*鍋島藩主)父子共(とも)在国、薩摩侯在国、肥後(*細川家)は俗論家に候処(そうろうところ)在江戸、右様の形勢の処(ところ)、弊藩世子(*長州藩後継ぎ)在江戸の上に寡君(かくん *自己の君主を謙遜した呼び名)参府仕り候事、大事去る矣〔い *語句の末尾に用い、断定の意を現す字〕と存じ奉り候。幸(さいはひ)長井・井上・周布東行の後、来春発駕以前、誠に好機会に御座候間、必々(かならずかならず)御下向(*大原の長州入り)御決心遊ばされるべく候。若し此(この)機会を失ひ候はば、後挙(*後の義挙)は最早僕輩の知る所に御座無く候。

 ここでは、松陰は九州の主な藩主の動向を述べ、「伏見要駕策」を必ず実行する決意を述べている。松陰は、これまで藩主敬親の参府に反対してきたが、ここではそれを変え、むしろこの機会に参府途上の伏見で駕籠を止め、有力な勤皇公卿あるいは天皇に面会し、江戸の井伊大老襲撃に呼応し、義挙に決起させる計画を企てのである。この「伏見要駕策」は、大原卿および大高又二郎など他藩の志士により計画だてられたもので、これを放置しておくと毛利家にいかなる災難をもたらすかしれないと、むしら松陰は積極的に推進することにしたのである。
 しかし、肝心の藩主はこの段階では倒幕の考えは毛頭なかった。それに藩政府の要人たちは勿論そのような考えはない。大高又二郎と平島武次郎(とともに梅田雲浜の門下)が
1859(安政6)年1月15日萩に来て、「伏見要駕策」の打ち合わせのため藩の要人と会おうとした。これには松陰は小田村伊之助・入江杉蔵に周旋させるが、藩政府は面会を拒絶したのである。
 この頃、高杉晋作・久坂玄瑞など多くの塾生は、松陰の勤皇責幕運動について時期尚早と考え、松陰は孤立化する。この頃、松陰を支えたのは入江杉蔵・野村和作兄弟や小田村伊之助など、ごくわずかな人々であった。
 入江杉蔵の弟・野村和作は、同年2月24日、兄に代わり、松陰の大原卿宛ての書をもって、脱走・上京する。だが、松陰らの意図は実現せず、和作は京都藩邸に自首し捕らえられ、護送されて3月22日萩の岩倉獄に投ぜられる。
 1859(安政6)年4月19日、長州藩の江戸藩邸に幕府から、松陰を江戸に送れとの命令が下され、この命は5月14日頃に萩に伝えられた。5月24日、東送の命が藩から下され、松陰を閉じ込めた檻輿は、翌日萩を出発し、6月24日江戸に着き、松陰は藩邸内の牢に入れられた。7月9日には、評定所の呼び出しがあり、幕府役人の尋問を受け、伝馬町の獄舎に入れられる。以後も、9月5日、10月5日と尋問があった。この結果、10月27日に評定所において死罪の判決があり、伝馬町の獄舎内で処刑された。

注1)高若訥は宋朝の諫院(諫官の役所)を主宰する役人である。ある時、范仲淹(はんちゅうえん)が事を起こして職を奪われると、欧陽修は高若訥を責めた。若訥(じゃくとつ)はこれを怒り、奏上して修を夷綾の令に左遷した。松陰は入江杉蔵などとともに、周布が高若訥と同じだと嘆いたというのである。

《補論 松陰の思想形成》
 松陰は、1835(天保5)年4月3日、長州藩の山鹿流兵学師範・吉田大助が死去すると、6歳にして吉田家八代目を継ぐ(前年に吉田家の仮養子となっていた)。しかし、松陰はまだ幼く、家学教授は高弟たち(叔父・玉木文之進など複数)が代理教授を行なった。 
 10歳の時に、代理教授はなくなったが、山田宇右兵衛などが家学後見となった。家学後見がすべてその職を解かれ、松陰が初めて独立の師範となるのは、1848(弘化5)年1月、19歳の時であった。
 その後の松陰の思想形成は、諸国遊学で始まった。1850(嘉永3)年8~12月(21歳)に、九州諸国を遊学した。翌1851(嘉永4)年には、藩主の東行に伴い遊学生として加わり、江戸で安積艮斎(あさかこんさい)・古賀謹一郎・山鹿素水・佐久間象山などに従学した。また、鳥山新三郎の主宰する鳥山塾で、来原良蔵・井上壮太郎・中村百合蔵などの長州藩士や、宮部鼎三・江?(えはた)五郎などの他藩士とも交流し議論を戦わせた。
 この年・1851年5月27日付けの叔父・玉木文之進宛ての手紙で、松陰は江戸の文学(学問)・兵学情況を次のように伝えている。

......方今(ほうこん)江都(*江戸)文学・兵学の事(こと)三等に分れ居り候哉(や)に相見(あいみ)え候。一は林家(*幕府の儒役)・佐藤一斎等は至(いたっ)て兵事をいふ事をいみ(忌)、殊に西洋辺の事共(ことども)申し候得ば老仏(*老子・仏教)の害よりも甚(はなはだ)しとやら申さる由(よし)。二は安積艮斎・山鹿素水等西洋事には強(しひ)て取るべき事はなし、只(ただ)防禦の論は之(これ)無くてはと鍛錬す。三は古賀謹一郎・佐久間修理(真田信濃守藩人。田上宇平太〔*高杉晋作の叔父で、砲術に長ける〕が紹介にて逢ひ申し候。尤〔もっとも〕古賀・作間〔*佐久間〕知音〔ちいん〕にては之〔これ〕無し)西洋の事(こと)発明精覈(せいかく *詳しく調べること)取るべき事多しとて頻(しきり)に研究す。矩方(のりかた *松陰のこと)按(あん)ずるに一の説は勿論(もちろん)取(とる)に足らず、二、三の説を湊合(総合)して習練仕(つかまつり)候はば、少々面目を開く事(こと)之(これ)有るべきかと存じ奉り候。
        〈日本思想大系54『吉田松陰』P.28)

 松陰は、当時の西洋の学問・兵学についての江戸知識人の評価を三つに分類し、自らは安積艮斎らの二のグループと、佐久間象山や古賀謹一郎らの三のグループを総合して、学ぶべきと考えている。
 松陰は、同年8月17日付けの兄・杉梅太郎宛ての手紙では、今後の読書方向に関して、次のように書き送っている。

  武士の一身成立覚束(おぼつか)無き訳左の通り。
一 是迄(これまで)学問迚(とて)も出来(でき)候事(そうろうこと)之(これ)無く、僅(わず)かに字を識(し)り候迄に御座候。夫故(それゆえ)方寸(ほうすん *心)錯乱(さくらん)如何(いかん)ぞ哉(や)。
先(まづ)歴史は一つも知り申さず、此(これ)を以て大家(たいか)の説を聞き候処、本史を読(よま)ざれば成(な)らず、通鑑1)や綱目2)位にては垢(あか)ぬけ申さずの由。二十一史3)亦(また)浩瀚(こうかん *広大なさま)なるかな。頃日(このごろ)とぼとぼ史記より始め申し候。
史論類、綱鑑4)の初めを見候ても多きかな。大家は急需(きゅうじゅ *差迫って必要なこと)とは申さず候へ共、閑暇(かんか)の節(せつ)見たく存じ候。
兵学家は戦国の情合(じょうあひ)を能々(よくよく)味(あじはひ)候事肝要と存じ奉り候。其(その)情合を味ふは、覚書・軍書・戦記の類、学者衆の埒(らち)もなきものと申され候ものの尋思(じんし *心を落ち着けて考えること)推究(すいきゅう *深く調べ考えること)の功を加え候はば、少々自得(じとく *自分の努力によって理解すること)の処(ところ)も之(これ)有るべき歟(か)に考えられ候。今武経全書(*山鹿素行が著わした兵学書)中にも其(その)情境茫然(ぼうぜん)として得心(とくしん)行き申さず候事も之(これ)有り候へ共、誰に問(とひ)ても能(よく)通じ申さず候。
此(この)二条、志のみにて未だ得果(えはたし)申さず候。
経学、四書集註(ししょしつちゅう *大学・中庸・論語・孟子を四書という。集註とは、諸家の注釈を集めること)位も一読致し候ても夫(それ)では行(いけ)申さず候。宋・明・清諸家種々純儒(じゅんじゅ *真の学者)之(これ)有り、中にも周程張朱(*周郭頤、程顥・程頤、張載、朱熹)、其外(そのほか)語録類・文集類、又(また)明・清にも斯道(しどう *聖人の道)を発明するの人何(なんぞ)限(かぎり)あらん。夫等(それら)の論は六経の精華を発し候ものにて、皆読(よむ)べきものの由。
此(この)二条、志のみ。.........(同前 P.39~40)

 松陰は、史学・兵学と経学関係をあげ、いずれも未だ勉強不足で、それらを追究することを志として述べている。そして、輿地学(よちがく *地理学)、砲術学、西洋兵書類、本朝武器制、文章、諸大名譜牒(*系図)、算術、七書(*六韜・孫子・呉子・司馬法・尉繚子・三略・李衛公問対を指す。中国の代表的兵書)などをあげて、いずれも「一骨折れ申すべし」と言っている。さらに、詩歌・茶湯・棋・書画・印・立花・能・謡・浄瑠璃の芸術分野もあげて、これらについては、「嗟々〔ああ〕、陋(ろう *いやしい)なる哉(かな)。厭(いとふ)べし、厭べし。」といって、否定的である。
 松陰は、経学とともに家学としての兵学の重要性を主張し、注目すべきは史学をも重視している。これが後に、国史(『日本書紀』や『大日本史』など)への依拠となり、尊王思想への傾斜に連なったと思われる。西洋兵書については、この段階では種々の兵書の一つとしてあげているにすぎない。
 1851(嘉永4)年12月、松陰は熊本藩士・宮部鼎三とともに、東北への遊学にむかい、翌年4月に江戸に戻る。しかし、この東北遊学の旅は藩の手形を待たずに行ったので、「亡命」の形になった。
 江戸に戻った松陰は待罪書を提出する。すると、藩からは帰国の命が下り、1852(嘉永5)年5月に萩に戻る。同年12月9日、亡命の罪により、松陰は士籍および家禄を剥奪され、父・杉百合助の「育(はぐくみ)」となる。「育」とは、石川卓美著『防長歴史用語辞典』によると、「他人を養子とし、または養子となることで、家督とは関係なく、これによって縁付きまたは立身などの条件をよくする目的とする戸籍関係」であると言われる。
 しかし、藩主敬親の温情により、父から「10カ年の諸国遊学」願いを提出させる体裁をとり、藩は松陰の遊学を許可した。1853(嘉永6)年1月、松陰は萩を発ち、途中、近畿で有志などと交流し、5月24日、江戸に到着した。江戸では、鳥山新三郎宅に投じ、第一回江戸遊学に交わった人々や、桂小五郎・松浦武四郎・北山安世などと交流することとなる。5月25日、松陰は鎌倉に伯父・竹院和尚を訪ね、6月1日に江戸に戻る。それから間もない6月4日、長州藩大組の士・道家竜介より、ペリー艦隊の浦賀入港を聞き、直ちに浦賀に向け出発し、夜の10時ころに到着する。
 6月6日付けの道家竜介宛ての手紙では、浦賀現地での様子を次のように書き送っている。

.........佐久間?(ならびに)塾生等其外(そのほか)好事の輩多く相会し、議論紛々(ふんぷん)に御座候。......
此度(このたび)の事(こと)中々(なかなか)容易に相済み申しまじく、孰(いず)れ交兵に及ぶべきか。併(しか)し船も砲も敵(かなわ)ず、勝算甚だ少(すくな)く候。御奉行(*戸田氏栄のこと。もう一人の浦賀奉行・井戸弘道は当時在府)其外(そのほか)下曽根(*金三郎。筒井政憲の次男)なども夷人の手に首を渡し候よりは切腹仕(つかまつ)るべきとて、頻(しきり)に寺の掃除申付(もうしつ)けられ候。佐久間は憤慨(ふんがい)し、事(こと)斯(ここ)に及ぶは知(しれ)たこと故、先年より船と砲との事やかましく申したるに聞かれず、今は陸戦にて手詰(てづめ *厳しく詰め寄ること)の勝負〔の〕外(ほか)手段之(これ)無しとの事なり。何分(なにぶん)太平を頼み余り腹つづみをうちをる〔*衣食満ち足りている〕と、事ここに至り、大狼狽(おおろうばい)の体(てい)憐れむべし、憐れむべし。且(かつ)外夷へ対し面目を失ふの事(こと)之(これ)に過ぎず。併(しか)し此(これ)にて日本武士へこしめる〔*ふんどしを締める〕機会来り申し候。賀すべきも亦(また)大なり矣。...... (同前 P.90~91)

 松陰は、浦賀に急行すると知り合いが少なからず居り、「議論紛々」となる。師である佐久間象山などは、前々から船や砲の準備を言ったじゃないかと愚痴をこぼし、今や陸戦で手厳しく攻め寄せる以外に手段はない―と言っているのであった。松陰は、①太平にうつつを抜かし、大狼狽に成ったことを憐れみ、②外夷に対し、日本国は面目を失った、③しかし、これで新規まき直しの機会が来た―と感想した。
 ②の国辱については、6月16日付けの宮部鼎三宛ての書簡でも、「当今列藩の士気奮起するもの甚だ多し。閣老(*阿部正弘など)の犢鼻垂(とくびすい *ふんどしの締りがないこと)を奈(いかん)ともする無きなり。此度(このたび)の一事(いちじ)国体を失ふもの甚だ多し。」(同前 P.92)と述べている。
 さらに、6月20日付けの兄・梅太郎宛ての手紙でも、「幕吏腰脱(こしぬけ)、賊徒胆驕(*むき出しの驕〔おご〕り)、国体を失ひ候事千百数(かぞ)ふべからず。」、「夷書(*アメリカの国書)引受けの次第、国体を失するの甚だしき、......」と、「国体を失ふ」の言辞が連発されている。この感覚は、その後の松陰に絶えずつきまとうものであり、終生拭い去れるものではなかった。
 6月10日に、松陰は江戸に戻るが、この頃、「将及私言」を書く。これは、松陰が対外事情の急迫を藩主に上書したもので、提出されたものの日付けは「丑(嘉永6年)の八月」となっている。「将及私言」は、「〔*ペリーが回答を得るために再来航する〕来春迄(まで)僅(わず)かに五、六月の間なれば、此(こ)の際に乗じ嘗膽坐薪(しょうたんざしん *臥薪嘗胆)の思(おもひ)をなし、君臣上下一体と成りて備(そなえ)をなすに非ずんば、我が太平連綿の余を以て彼の百錬千磨の夷(えびす)と戦ふこと難(かた)かるべし。」と前置きし、以下、急務の条々を「大義」「聴政」「納諫」「内臣を飭(いま)しめ、外臣を親しむ」5)「四目を明にし、四聰(しそう)を達す」6)「砲銃」「船艦」「馬法」「至誠」として、論列している。
 松陰は、冒頭の「大義」の条で、「普天の下(もと)王土に非ざるはなく、率海(そつかい)の濱(ひん *浜)臣に非ざるはなし。......然(しか)れども天下は天朝の天下にして、乃(すなは)ち天下の天下なり、幕府の私有に非ず。故に天下の内(うち)何(いず)れにても外夷の侮(あなど)りを受けば、幕府は固(もと)より当(まさ)に天下の諸侯を率ゐて天下の恥辱(ちじょく)を清(そそ)ぐべく、以て天朝の宸襟(しんきん *天皇の御心)を慰(なぐさ)め奉るべし。......」(『吉田松陰全集』第二巻 P.12)と言い切る。 
 通常、儒教の本家である中国では、「天下は天下の天下なり」といって、天下はみんなのものであり、一君主のものではない、と理解されている。げんに『六韜(りくとう)』では、「太公(望)曰く、天下は一人の天下に非らず、乃ち天下の天下なり」(中国の思想10『孫子・呉子 尉繚子・六韜・三略』徳間書店 1965年 P.258)と言われている。
 それが、江戸時代の儒者の多くは、神道の影響もあって、あるいは中国に対抗する意識もあって、"天下は、天照大御神の子孫である天皇(万世一系の天皇)が率いる天朝(朝廷)の天下"と意味内容を変容させた。勤王思想とは、まさにこのような変容の結果を前提に、天皇がすべてに超越するものとして崇(あが)めさせたのである。
 松陰はすでに、その洗礼を受けているのである。したがって、「船艦」の条で、「......夷等此(こ)の時(*西洋諸国が侵略し江戸が騒擾した時)に乗じ前請(*「開国」・通商の要求)を申(かさ)ねば、国家の大礼、華夷の名分を知らざるもの、動(やや)もすれば一時権宜(ごんぎ)の策に託し、国体を屈し和議をなさん抔(など)いふに及ぶべきも量(はか)るべからず、実に寒心すべき事〔*ぞっとする事〕に非(あら)ずや。......」(『吉田松陰全集』第二巻 P.16~17)と、西洋諸国を蔑視している。
 それは、「国家の大礼、華夷の名分を知らざるもの」と蔑視するだけでなく、世界の冠たる日本に対し、「和親・通商」を求めること自身、礼を欠くものであり、文明の進んだ中華と遅れた夷との関係を弁えない(華夷の弁別を知らない)ものと批判していることに明瞭である。だからこそ、松陰は「洋夷」とか「外夷」とか、華夷思想に基づく用語を常用し、生涯それを止めなかった。華夷思想に基づく差別思想は、払拭できなかった。この点では、横井小楠とは対照的である。
 肥後藩士・横井平四郎(小楠)も、もともとは攘夷論者であった。しかし、その世界認識と諸外国との外交関係に関する考えは、急激に変化している。
 1850(嘉永3)年5月に、三寺三作に宛てた手紙では、「譬(たとへ)人民は皆(みな)死果(しにはて)、土地は総(すべ)て尽き果て候ても醜虜(しゅうりょ *西洋人に対する蔑称)と和を致し候道理(どうり)之(これ)無く候」と、コチコチの攘夷主義者であった。
 それが、1853(嘉永6)年に著わした「夷虜応接大意」では、次のようなものになった。すなわち、「我国の万国に勝(すぐ)れ、世界にて君子国とも称せらるるは天地の心を躰(てい)し仁義を重んずるを以て也(*天皇制とは言っていない)。されば亜墨利加(あめりか)・魯西亜(ロシア)の使節に応接するも只(ただ)此(この)仁義の大道を貫くの条理を得るに有り。此条理貫かざれば、和すれば我(わが)国躰(国体)を損(そこな)ひ戦(たたかは)ば破れ、二ツのものの勢(いきおひ)真に顕然たるは更に又(また)云(いふ)に及ばざる事也。」 
 ここでは、「我国の万国に勝れ」ていることを依然として強調している(しかし、「万国に冠たる日本」「万世一系の皇統」という国学者流のものではない)、米露などに対する対応の根本基準を、「只此仁義の大道を貫く」ことに置いた。格段の進歩である。
 それが、『海国図志』を読んだ後は、さらに質的に変化し、ワシントン思想(世界平和・統治のために世界に知識を求めること・君臣の義を廃し統領は選挙すべきこと)やアメリカ共和制を大いに評価するようなになった。1857(安政4)年5月、越前藩の村田氏寿が藩命を帯びて、九州諸藩の動向を調べ、また小楠を藩に招聘する工作をもって熊本を訪ねた。その際、村田はしばしば小楠と討論し、また小楠が弟子たちと研究会をもった現場にも臨み、そこからえた内容を「横井氏説話」(『関西巡回記』に所収)として残している。その内容は、次のように記した。

道は天下の道なり。我国の、外国のと云(いふ)事はない。道の有(ある)所は外夷といへども中国なり。無道に成らば、我国・支那(*中国〔China〕への蔑称)といへ共(ども)即ち夷なり。初(はじめ)より中国と云ひ、夷と云事ではない。国学者流の見識(けんしき)大(おおい)にくるいたり。遂に支那と我国とは愚な国に成(なり)たり。西洋には大に劣れり。......爰(ここ)で日本に仁義の大道を起さには(ネバ)ならず、強国に為(な)るではならぬ。強あれば弱あり。此(この)道を明にして世界の世話やきに為らには(ネバ)ならぬ。一発に壱万(一万)弐万(二万)も戦死すると云様(いふよう)成(なる)事は必(かならず)止(や)めさせには(ネバ)ならぬ。そこで我日本は印度(いんど)になるか、世界第一等の仁義の国になるか、頓(とん)と此(この)二筋の内、此外(このほか)には更に無い。
 
 松陰も小楠も、開国・鎖国か、和戦かと論ずるレベルでなく、その論ずる際の思想的基準に基づくべきだと主張する。一見、構えは似ているが、結論は正反対である。その基準を小楠は、「仁義の国」に定めるのに対して、松陰は人心を一致させるために皇国の基礎の確立に求めた。
 したがって、華夷思想がはらむ差別思想を受け継いだ尊王思想を奉ずる松陰は、西洋諸国の「開国」通商の要求に対して全面的に拒否する。「将及私言」の前書きで、「夷人幕府に上(たてまつ)る書を観るに、和友通商、媒炭食物を買ひ、南境の一港を請ふ等の事件、一つとして許允(きょいん *許可すること)せらるべきものなし。」(同前 P.11)と言うのは、そのなせるワザである。
 だが、ペリーがもたらしたアメリカ大統領フィルモアの国書は、「余が強力なる艦隊をもってペリー提督を派遣し、陛下の有名なる江戸市を訪問せしめたる唯一の目的は次の如し。即ち友好・通商、石炭と食糧との供給および吾が難破民の保護これなり」と記されており、この段階で、「南境の一港」を具体的にあげて開港を要求している訳ではない。
 次いで、松陰は文字通り国難と言うべき事態に対して、「船艦」の条で、雄藩は協力し、天朝・幕府を支えるべきと提言している。すなわち、「当今の勢、如何(いか)にも列藩(れっぱん)力を協(あわ)するに非(あら)ざれば、兎角(とかく)事(こと)成らざるべし。故に仙台・会津・加(賀)・越(前)・尾(張)・(伊)勢・肥(前)・薩(摩)等の諸藩侯と商議(*協議)遊ばされ、水府老公(*徳川斉昭)・福山閣老(*阿部正弘)へ其の事を面議(*直接会って協議すること)遊ばされ、或は蘭人に命じて艦を貢せしめ、又(また)は工匠に命じて新たに製造し、並びに江戸及び各藩にて盛んに水操(*海上での操船訓練)を興すことを許允ある如くあり度(た)きことと、上は恐れ多くも天朝・幕府の御為(おんため)、下は六十六国生民の為めに希願の心黙止(もくし *黙ってほおっておくこと)し難(がた)く存じ奉る事なり。......」(同前 P.17)と。
 国難の事態に際し、松陰は藩主・敬親に対し、雄藩との協力をもって、徳川斉昭・老中の中心・阿部正弘と協議すべきとした。それは、天朝や幕府の御為であると、明言している。この当時、松陰は明らかに、尊王ではあったが倒幕論者ではなかった。
 兵学者としての松陰は、「砲銃」の条で、「砲銃は小技芸なり。隊を整へ陣を張り、分合進退(*隊陣を総合的に動かすこと)して戦をなすは大術なり。故に小技芸に泥(なず)み、大術に暗きは必敗の道なり。本邦の砲術も強(し)ひて是(こ)れを卻(しりぞ)くるには非ざれども、その術多くは技芸家の言にして、未だ兵家の論定(ろんてい *論じて結論を定めること)を経ざるものなれば、一概に用ひ難し、西洋法に至りては、常に是(こ)れを実戦に施す故に、一門砲一口銃の論、其の精妙(せいみょう *わざが細かくて勝れたさま)を極むるのみならず、戦をなすの大術に至りて、大いに然らざること能(あた)はざるものあり。故に大砲小銃共に西洋の器械節制(*統制)に?(なら)ひ、日々操演をなすべし。今日の事勢甚だ急にして猶予狐疑すべきに非らず〔*ぐずぐず疑いためらう時ではない〕。......」(同前 P.15~16)
 この段階でも、和法を否定している訳ではないが、緊急時にあたって武器としても陣法兵法としても、西洋法の操演に踏みだすべきと、提唱している。
 1853(嘉永6)年9月18日、松陰は江戸を発ち、長崎を目指した。海外視察を目的に、長崎に停泊中のロシア艦に乗船するためである。途中、梁川星巌(京都)、宮部鼎三・横井小楠(熊本)などを訪ね、交流を重ねたため、長崎に着いたのは10月27日であった。だが、その時はすでにロシア艦は、長崎を出航したあとであった。このため、松陰は11月13日、萩に戻った。
 しかし、同月26日、萩に来た宮部鼎三らとともに、松陰はまたまた江戸に向かった。ペリーが再び来航する(国書への回答を受け取るため)とした時期は、翌年の春であった。江戸に着いた松陰は、鳥山新三郎宅に投宿し、そこで長州藩を亡命して寄宿していた金子重之助と出会うこととなる。
 ペリー艦隊(7隻)の再来航は、予定よりもやや早く、1854(嘉永7)年1月16日であった。松陰が米艦に乗込み海外の視察を行なおうと、金子と江戸を発ったのは3月5日であった。3月6日、松陰らは神奈川で佐久間象山と会い、話し合いをもっている。
 松陰らは、3月27日の夜、米艦ポーハタン号に乗船することには成功したが、しかし、渡航じしんは拒否された。密航に失敗した松陰と金子は、翌日、幕府に自首する。幕府は、吟味の上に、9月18日、松陰と金子を長州藩が幽閉するように命じた。これにより、二人は10月24日に萩に着き、松陰は野山獄へ、金子は岩倉獄へ入れられた。この冬、野山獄で、松陰が書いたのが「幽囚録」である。
 松陰は、「幽囚録」の中で、密航の経緯(いきさつ)を述べているが、密航決意にあたって、師である佐久間象山の影響が強いことを、次のように述べている。

吾が師平象山(*佐久間象山のこと)は経術(*儒教の教義に基づいた政治上の教学)深粋なり、尤(もっと)も心を時務に留む。十年前、藩侯執政たりしとき7)、外寇の議を上(たてまつ)り〔*1842年11月の上書〕、船匠・?工(ほうこう *砲工)舟師・技士を海外より傭(やと)ひ、艦を造り?を鋳(い)、水戦を操し?陣を習はんことを論ず。謂(おも)へらく、然(しか)らずんば以て外夷を拒絶し国威を震耀(しんよう *ふるい輝やかす)するに足らずと。其の後(そノご)遍(あまね)く洋書を講究し、専ら?学(*砲術学)を修め、事に遇(あ)へば輙(すなわ)ち論説する所あり、或(あるい)は之(こ)れを聲詩(せいし *音楽)発す。話聖東(*ワシントン)の事〔*米国を指し、ペリー来航のこと〕起り、蘭夷の報ずる所〔*オランダから事前に米国使節の訪日の情報があった〕を聞けば則ち曰く、「未だ見ず?台(砲台)海潯(かいじん *海岸)を環(めぐ)らすを、南風(*ペリー来航の情報を指す)四月甚だ心に関る」。?台を品海(*品川海岸)に築けば則ち曰く、「疇昔(ちゅうせき *昔)の戯談(ぎだん)呆?(ぼうちょう *堡塁)に憑(たよ)る、当今の急務元戎(げんじゅう *主要武器)に在(あ)り」。象山又(また)復書を持ちて夷国に到らんと欲す、則ち曰く「微臣(*象山を指す)別に謀を伐つの策有り、安(いず)くにか風船を得て聖東(*ワシントン)に下らん」と。〔幕府が〕蘭夷に命じて軍艦を致さしむと聞きては大いに喜びて謂へらく、徒(た)だ之(こ)れを蘭夷に託するは未だ善を尽(つく)さず、宜しく俊才巧思(こうし *深い考え)の士(し)数十名を撰(えら)び、蘭舶に付して海外に出し、其(そ)れらをして便宜(べんぎ)事に従ひ以て艦を購(あが)はしむべし、則ち往返(おうへん *往復)の間、海勢を識(し)り、操舟(そうしゅう *艦を操作すること)に熟し、且(か)つ万国の情形を知るを得ん、其の益たるや大なりと。因(よ)って竊(ひそ)かに建白する所有り。然れども官(*幕府役人)能(よ)く之(こ)れを断行することなし。予(*松陰)が航海の志(こころざし)、実に此(ここ)に決す。 (『吉田松陰全集』第二巻 P.44~45)

 佐久間象山は、藩主・真田幸貫(ゆきつら)が老中の時期、海防のために外国人を傭って大艦を造り、砲術を習い、海戦を訓練すべきことを言上した。その後も、洋書を研究し、専ら砲術を修めたと言われる。1853(嘉永6)年3月、ペリー艦隊が来航するとの報をえて漢詩をつくるが、幕府が軍艦製造をオランダに依頼することを聞いて喜ぶが、それでは不十分として、優秀な士数十人をオランダ船で海外に送り出し、艦を購入させ、その行き返りの際に、その士に操船を練習させ、また海外情勢をさぐらせるべきと、建白した。  
 象山は送り出す数十人の士の内に、松陰を推挙したが、結局、この策は不首尾に終わった(『吉田松陰全集』第二巻 P.45の注)。松陰は、佐久間のこの策を断行しなかったのを見て、国禁を犯してでも渡航しようという志を決したというのである。まさに、松陰の人生を左右するするような大きな決断には、佐久間象山の影響が強かったのである。
 ところで、「幽囚録」は、松陰の尊王主義をさらに強めた様子を示すとともに、外国の侵略を防ぎ日本の独立を保つためには、近隣諸国の併合を手段とすることを明示している。
 ペリーが来航し国書を提出した際に、幕府はそれを開示し、諸侯の意見を募った。そのときに松陰は、「......同志と議し、苟(いやしく)も二、三の名侯心を協(かな)へ力を戮(あわ)せ、正議を発し俗説を排するものあらば、則ち天下の論(ろん)定まるとし、?々(しばしば)之(こ)れを政府(*長州藩政府)に言(もう)す。」(同前 P.46)とした(後の「雄藩連合」のはしり)が、藩政府はこの策に乘り気ではなかった。松陰は、佐久間象山の策を受けて、このように幕府を支えるとともに、「幽囚録」では皇京を守る論を展開し、尊王主義を強めている。
 すなわち、孫子の「九地篇」の説を応用し、日本列島の中央部にある京都を防禦する策を提唱するのである。孫子の説は、「故に善(よ)く兵を用ふる者は、譬(たと)へば率然(そつぜん)の如(ごと)し。率然とは常山(じょうざん *主峰は河北省にある)の蛇なり。其の首(かしら)を撃てば則ち尾至り〔*尾が助けに来る〕、其の尾を撃てば則ち首(かしら)至り、其の中を撃てば則ち首尾(しゅび)倶(とも)に至る。」(新釈漢文大系36『孫子・呉子』P.287)と言うものである。松陰はこれを模して、次のように主張する。

夫(そ)れ神州(*日本)は東北は蝦夷に起り、蜿蜒(えんえん *ヤモリ)委蛇(いい)として〔*はらばって行くさま〕西南のかた対馬・琉球に至る、長さ千里に亙(わた)りて広さ百里に過ぎず。是(こ)れ常山の蛇に非(あら)ずや。首至り尾至る。豈(あ)に其の術なからんや。蓋(けだ)し畿内は所謂(いはゆる)六合(りくごう *天地四方。世界)の中心にして万国の仰望(ぎょうぼう *見上げる。あがめる)する所、皇京の基、万世易(か)はることなし。故に吾れ嘗(かつ)て之(こ)れが策を為(な)して曰く、京を去ること近くして地の便と為すもの伏見に若(し)くはなし、宜(よろ)しく大城を起して幕府と為して以て皇京を衛(まも)るべし。西に摂津・和泉あり、之(こ)れに備ふるに船艦を以てし、以て東海・陸奥を制し、北に若狭・越前あり、之(こ)れに備ふるに船艦を以てし、以て山陰・北陸・出羽を制す、是(ここ)に於て諸道を制するの本(もと)立たん。諸道又(また)備ふるに船艦を以てす、首至り尾去るも唯(ただ)意の欲する所、以て進攻すべく、以て退守すべし。夫(か)の武蔵の専ら海を一面に受け三面皆(みな)山にして、一たび賊の為(た)めに海を扼(やく *おさえること)せられなば、海運為(た)めに絶ゆるが若(ごと)きに非(あら)ざるなりと。 (同前 P.47~48)

 松陰は、畿内を防衛するに各地の船艦をもってすることにより、江戸に比較し畿内の方が首都防衛の観点からは優れているとする。このため、皇京の近くの伏見に大城を築いて幕府の所在地とし、もって皇京を衛るべきと主張する。しかし、これは『孫子』の「常山の蛇」をただ機械的に机上で応用しただけで、現実性をもたない。
 むしろここでの松陰の主張は、幕府の朝廷に対する従属性を述べることによって、尊王主義を強調する結果となっている。しかも、この尊王主義は、「蓋し畿内は六合の中心にして万国の仰望する所」と勝手に決めつけ、自己陶酔に陥っている代物である。独りよがりの観念の産物である。
 しかし、その日本は今や西洋諸国の侵略の的となっている。この現実自身からは、逃げることはできない。そこで松陰は近隣諸国を併合し、西洋諸国に対峙し、日本の独立を保とうとするのである。

日(*太陽)升(のぼ)らざれば則ち昃(かたむ)き、月盈(み)たざれば則ち虧(か)け、国(くに)隆(さか)んならざれば則ち替(おとろ)ふ。故に善(よ)く国を保つものは徒(ただ)に其の有る所を失ふことなきのみならず、又(また)其の無き所を増すことあり。今(いま)急に武備を艦(かん)略(ほ)ぼ具(そな)はり?(ほう *砲)略(ほ)ぼ足らば、則ち宜(よろ)しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・?都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭(さと)し、朝覲会同すること内諸侯と比(ひと)しからしめ〔*参勤交代させることは、内地の諸藩と同じにさせる〕、北は満州の地を割(さ)き、南は台湾・呂宋(ルソン *フィリピン)の諸島を収め、漸(ぜん)に進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺圉(へんぎょ *国境)を守らば、則ち善く国を保つと謂ふべし。......」 (同前 P.54)

 松陰は、西洋諸国に侵略されようとする日本の独立を保つためには、「徒(いたずら)に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり。」と、平然と言ってのける。日本の独立を保つには、旧来からの土地(領土)を奪われないようにするだけではなく、今まで領土でなかった所をも日本の領土にすることが秘訣であると、平気で主張するのである。これでは、西洋諸国の侵略主義と同じではないか。あまりにも自分勝手な主張である。
 こうした批判に対して、松陰ら国粋主義者は、日本は「万国の仰望する所」で、世界の中心の国だから、近隣の諸国を侵略し併合してもかまわない―と反論するのであろうか。それこそ、自分勝手な決めつけであり、独りよがりの考え方である。この考え方の基には、歴史的に形成されてきた日本型の華夷思想・日本型の華夷秩序があるが、それに輪をかけたのが、国学思想である。本居宣長らの国学思想は、世界は皇統連綿とした日本を首座にしており、日本を中心にして形作られているという観念的な独断である。
 このような松陰の考えは、「幽囚録」の「自序」が次のように述べることで、ますます明らかである。

蓋(けだ)し〔*考えてみるに〕一治一乱は政(まつりごと)の免(まぬ)かれざる所、一盛一衰は国の必ずある所にして、衰(すい)極まりて又(また)治まるは則ち物の常なり。況(いはん)や皇国は四方に君臨し、天日の嗣(し)の永く天壌と極りなきもの、安(いずく)んぞ一たび衰へて復(ま)た盛んならざることあらんや。近年来、魯西亜(ロシア)、米利堅(メリケン *アメリカ)、駸々と(しんしんト *次々と)して来り逼(せま)る、而(しか)も官吏苟且(こうしょ *間に合わせ)にして権宜(けんぎ *時に応じての便宜。方便)もて処分す。是(こ)れ豈に(あニ *どうして。下に反語が来る)永世変ずることなからんや。皇天(こうてん *天照大御神など神代の神々)、吾が邦を眷祐(けんゆう *めをかけて助けること)す、必ず将に英守(*賢明な君主)哲辟(てつぺき *賢い諸侯)を生じ、一変して古(いにしえ)の盛に復するものあらん。是(こ)の時に方(あた)りて、万国の情態形勢を察観し、之(こ)れが規画(きかく)経緯(けいい)を為すに、図を按じ筆を弄(ろう)空論高議する者〔*謀を色々めぐらすに、唯、無駄に方法を考え書きすさけぶだけで空論かわす者〕、固(もと)より此(ここ)に與(とも)にすることを得ざるなり。吾れ微賤(びせん *身分が低くいやしいこと)なりと雖(いえど)も、亦(また)皇国の民なり。深く理勢(りせい *今日の衰勢状況を理解する)の然る所以(ゆえん)を知る、義として身(み)家を顧惜(こせき)し、黙然坐視(もくぜんざし)して〔*我が身や家のことだけを大切に考え惜しんで〕皇恩に報ぜんことを思はざるに忍びざるなり。然らば則ち吾れの海に航せしこと〔*密航を謀ったこと〕、豈に已(や)むを得んや。......     (同前 P.39~40)

 「天日の嗣の永く天壌と極りなきもの」とは、国学特有の考え方で、天照大御神の系統の子孫が皇位を継承する(万世一系)皇統主義は、天壌(天地)無窮すなわち天地と同じように永遠に続く―ということである。これは、(国学思想に於いては)日本だけの固有のことであり、日本が世界諸国に勝(まさ)りすぐれた根拠とされた。こうした独善的で史実に合わない間違った考え方が、江戸時代後半ごろから、多くの儒学者や儒学を学ぶ武士の間にも拡がった。
 松陰の場合も、例にもれなかったが、松陰の不幸は、その考え方が国史の学習で裏付けられていることである。それは、たとば『日本書紀』、水戸学の所産である『大日本史』、頼山陽の『日本外史』などである。だが、不思議なことには、松陰は兵法学の場合と異なり、歴史をあくまでも実証主義的に徹底的に問い詰めようとした形跡がないのである。兵法家としての松陰は、西洋兵法の研究を追究するためには、国禁の密航を犯してまで自分の眼で西洋事情の分析や西洋軍備の検証を追究した。
 しかし、歴史問題となると、松陰はいとも容易(たやす)く「神功皇后」の存在やその「三韓征伐」を鵜呑みにしている。当時においても、すでにはるか以前から朝鮮の正史にあたる史書は存在しているのであり、その研究や『日本書紀』との比較検討すら行なわれていない。だからこそ、歪曲された史実を前提に、日本独立を保つためには朝鮮侵略などが必要と、平然と主張できるのである。
 囚われの身の松陰の尊王攘夷思想にさらに磨きをかけたのは、月性や黙霖との親交である。
 松陰と月性の文通は、1855(安政2)年3月から始められた。月性は周防国遠崎妙円寺(浄土真宗)の住職である。若い頃、諸国を歴遊し、詩と仏道の修行に励んだと言われる。月性は詩において名をはせ、とともに憂国の論が藩内尊攘派を鼓舞した。月性は、英米などがキリスト教の布教と武力をもって日本を強迫するのに対して、仏教と武力をもって防ぐべきとして、『仏教五国論』を著わしている。1856(安政3)年、西本願寺の広如上人に招かれ東山別荘に寓居(ぐうきょ)し、在京の志士たちと交わった。月性は、いつも海防を論じ、「海防僧」と呼ばれた。しかし、1858(安政5)年に没した。
 松陰とは、詩文の批評を交換し、親しくなったが、また時事をも大いに論じた。互いに、海防では共通の問題意識をもっており、松陰は月性を高く評価している。
 月性が本山に徴(め)された時、松陰は次の「浄土真宗清狂師の本山に応徴するを送る序」(1856〔安政3〕年7月下旬。「丙辰幽室文稿」に所収)を書いて送っている。[清狂は、月性のこと。応徴とは、招きに応えること]

浄土真宗の清狂師、慷慨(こうがい *不正義を悲しみ憤慨すること)にして義を好み、天下を以て己が任と為(な)し、其(そ)の法〔*仏法のこと〕を以て村里を激励す。村里信従(しんじゅう)して、寔(まこと)に繁(おお)く徒(*信徒)あり。蓋(けだ)し聞く、其の徒、内(うち)本朝を崇(とうと)び、外(そと)夷狄を憤(いきどお)り、入りては家に孝に、出でては郷に義にして、禍福を?(おそ *怖)れず、死生を顧(かえり)みず、凡(およ)そ其のかくの如(ごと)き者、奴隷婦女に至るまで、靡然(びぜん *なびき従うさま)として風を成(な)せりと。事(こと)国庁(*藩庁)に達す。庁、議して師をして遍(あまね)く法を封内(*領内)に説かしむ。封内漸く(ようやク *次第に)化せり。

 仏法と武力をもって「海防」の強化を村人に訴え、儒教的徳目で教化するにつれ、信者が増加する。これをみて、藩も農民支配にも役立つと考えたのであろう、領内全般において布教させたのである。松陰も大いにこれを評価する。
 しかし、幕府の評価については、両者の間では明確な相違がみられた。1855(安政2)年4月24日付けの兄・梅太郎あての松陰書簡では、次のように述べられている。

扨(さて)国論を一定せしめ、本藩(*長州藩)より頻(しきり)に幕府に御建白之(これ)有る事、急務之(これに)過ぎず。然る時は幕議善なれば必ず本藩を以て良き杖柱(*頼みの柱)と頼み、不善なれば憚(はばか)る所ありて敢(あへ)て放恣(ほうし *勝手気ままで締りがないこと)なるに至らず。之(これ)要するに神州の大福は之(これ)を過ぎず、幕府への御忠節は即(そく)天朝への御忠節にて二つ之(これ)無く〔*二つの別個の事ではない〕候。上人法話中、往々(おうおう)幕府・水府(*水戸藩)等を誹謗(ひぼう)の口上(こうじょう)之(これ)有りたる様、獄囚輩(*松陰のこと)承(うけたまは)り帰り誠に痛心仕(つかまつ)り候。何分(なにぶん)二百年来の大恩も之(これ)有る事、夫(それ)は扨置(さておき)、今幕府を易(か)え置く事を反復(はんぷく)思惟(しい *考える)仕り候得共(そうらへども)、徒(いたず)らに天下を擾乱(じょうらん)するまでにて未だ其(その)人物出で申さず候。幕府に御随従の上は、幕府に少しも隔意(かくい *うちとけない心)之(これ)無き様に仕らざる候ては神州の不幸、外夷心を生ず〔*国内の一致が損なわれると外敵が異心を起こす〕本(もと)に御座候。
                     (『吉田松陰』岩波書店 P.193)

 藩主をもたず、王臣として天皇への忠誠を誓う月性に対して、松陰は幕府への忠節はすなわち天朝への忠節であり、二つは別個の事柄ではなく分ちがたく結びついたものと、月性に反論する。長州藩は、関ヶ原の戦いで敗者と成り、徳川家康によって防長二カ国(中国地方の約半分を領していたのが)へと削減された。それにもかかわらず、松陰は幕府への二百年来の恩顧もあるので、幕府を誹謗することはできないとする。それに今の外夷が重大な問題となっている時期、国内が不団結ならば外国に付け込まれるのであり、いたずらに騒乱を起こすべきではない―というのである。
 黙霖は、1824(文政7)年10月、安芸国長浜に生まれる。婚姻外に生まれ、母の手で育てられた。若くして僧侶としての修行を積み、諸国を遍歴するが、18歳の時に、耳が聞こえなくなる。だが、22歳の時に本願寺の僧籍に入り、浄土真宗の僧となる。
 漢詩が上手で、皇室の衰微を嘆き、1851~52(嘉永4~5)年の頃から倒幕論を抱くが、容易には人に語らなかった―と言われる。(後、「安政の大獄」で捕らわれるが、僧侶であることを以て免罪とされた)
 勤王精神が並はずれて強かった黙霖(もくりん)は、水戸学者をも「偽君子」と非難した。それは松陰との論争の中で、次のように述べていることでも明らかである。

水府などは代々天家(*天皇家)のことをば知(しり)たる日となり。それですら将軍一人の賢不肖を見定めて諫言(かんげん *いさめること)し、王室を貴(とほと)ぜしめたることなすことなし。これ天下皆(みな)知るところなり。数代の将軍の中には一人や二人や三人の賢人なきことなし。それを見立てて諫(いさめ)することもならぬ男にして帋上(しじょう *帋は紙のこと)に空論して王室を貴むと云(いふ)たとて天地神明豈(あ)に之(これ)を信ぜんや。
  (1856〔安政3〕年8月24日付け「松陰宛書簡」)(*なお、川上喜蔵編著『宇都宮黙霖・吉田松陰往復書翰』錦正社 1972年 を参照)
  
 松陰は黙霖との論争をとおして、急激に水戸学的な「尊王攘夷」から本居宣長・平田篤胤ら国学の尊王論に移行していく。桐原健真著『吉田松陰―「日本」を発見した思想家』(ちくま新書 2014年)によると、松陰の読書対象のうち、尊王論関係の書籍(1854年10月~1857年10月の間での読了書籍1460冊のうち、尊王論関係は89冊だが、その対象は1856(安政3)年夏から大きく変わっていった。1854年10月から1856年6月までは、水戸学系著作のみであった。それが1856年7月から1857年10月には尊王論といっても国学系が圧倒的となっている。1854年7月から1857年10月の「全期間を通した読了書籍をみると、水戸学系著作は三〇冊、国学系著作は、約二倍の五九冊となる。」(P.174)のであった。
 1856(安政3)年8月18・19日付けの松陰と黙霖との往復書簡で、松陰は次のように述べている。

僕(ぼく)上人ノ書ヲ読ムコト数十篇、具(つぶさ)ニ上人ノ心ヲ知ル。上人(*黙霖)僕ノ書ヲ読ムコト数十篇、蓋(けだ)シ亦(ま)タ具ニ僕ノ心ヲ知ラン矣。然(しか)リ而(しこう)シテ一事合(あ)ハザル者有リ。余り残念さに今朝の答に及び候処、漫(みだり)ニ他事ヲ引クと思はれ候由、益々(ますます)残念也(a)。枝葉(しよう)の論は林の如く〔*大そう多いこと〕なれば皆々(みなみな)打置き、先(まず)ず僕心を改めて申すべし、善(よ)く聞き給(たま)へ。
僕は毛利家の臣なり。故に日夜(にちや)毛利に奉公することを練磨するなり。毛利家は天子の臣なり。故に日夜天子に奉公するなり。吾等(われら)国主に忠勤するは即(そく)天子に忠勤するなり。然共(しかれども)六百年我主(わがあるじ)の忠勤も天子へ竭(つく)さざること多し(b)。実に大罪をば自ら知れり。我主六百年来の忠勤を今日に償はせたきこと本意なり。然共幽囚の身は上書も出来ず、直言も出来ず、唯(ただ)父兄親戚と此(この)義を講究(こうきゅう *研究すること)し蠖屈亀蔵(かっくつきぞう *尺取り虫のように体を曲げ、亀のように首をひっこめること)して時の至るを待つのみ。時と云(いふ)は吾(われ)他日宥赦(ゆうしゃ *罪をゆるす)を得て天下の士と交ることを得るの日なり。吾天下の士と交るを得る時は天下の士と謀り先ず我が大夫(*家老)を諭(さと)し六百年の罪と今日忠勤の償(つぐない)とを知らせ、又(また)我(わが)主人をして是(これ)を知らしめ、夫(そ)れより幕府をして前罪を悉(ことご)く知らしめ、天子へ忠勤を遂(とげ)さするなり。若(もし)此事(このこと)が成らずして半途(はんと *中途)にて首を刎(はね)られたれば夫迄(それまで)なり。若(もし)僕幽囚の身にて死なば、吾必ず一人の吾(わが)志を継ぐの士をば後世に残し置くなり。子々孫々に至り候はばいつか時なきことは之(これ)無く候。今朝書に「一誠(いっせい)兆人(ちょうじん *多くの民)ヲ感ゼシム」と云(いふ)は此事なり。御察(おさっし)下サレベク候。僕口上にて呶々(どど *けんか)することは生来(せいらい)大嫌(だいきらい)にて右等の事も常には申さず候へ共、上人の事故(ことゆえ)申出(もうしで)候。僕がこれに死ぬる所を黙して見て呉(くれ)よ(c)。天朝の堯舜(ぎょう・しゅん)たること、征夷(*徳川将軍家)の莽操(*王莽と曹操)たることは吾も固(もと)より知る。知ればこそ学問を勉め心腸(しんちょう *心の内)を磨(かた)し他日為(な)す事あらんとなり。征夷の罪悪を日夜朝暮(にちやちょうぼ)口にせざるは大に説あり。今幽囚して征夷を罵(ののし)るは空言なり。且(かつ)吾(われ)一身も征夷の罪を諫めずして生を偸(ぬす)む。されば征夷と同罪なり。我(われ)主人も同罪なり。己の罪を閣(おき)て人の罪を論ずることは吾死すともなさず(d)。故に前の云ふ所の時を得る迄は、吾が心腸の工夫と親戚の教諭〔*杉家幽室で父・叔父・親戚子弟を相手に孟子の講義をしたこと〕のみなり。他日主人を諫(いさめ)て聞かざれば諌死(かんし)する迄なり。三仁8)の中にて僕が師とするは比干一人のみ。仮令(たとひ)主人が聴かざればとて、箕子や微子の如く吾主人を去(さり)て他国へは仕(つかへ)は得(え)せず。是(これ)吾一身のみならず子々孫々へ伝へ、皆々比干たらしめ申し候。比干たらずして箕微たる者は、吾(わが)子孫とは致し申さず候。此(この)一条は僕天地神明の照覧を受(うけ)て一心に誓ひ居(おり)候。我(わが)主人我(わが)直諫(ちょっかん)を容(い)れて六百年来の大罪を知る時、我主人より諸大名且(かつ)征夷をも規諫(きかん *ただしめ諫めること)を尽すなり。征夷の事は我主人の君に非ざれども、大将軍は惣督の任にて二百年来の恩義(おんぎ)一方(ひとかた)ならず(e)。故に三諫も九諫も尽し尽すなり。尽しても尽しても遂に其(その)罪を知らざる時は、已(や)むことを得ず、罪を知れる諸大名と相共(あいとも)に天朝に此(この)由(よし)を奏聞奉(たてまつ)り、勅旨を遵奉(じゅんぽう)して事を行ふのみなり。此時(このとき)は公然として東夷(*暗に徳川将軍を指す)は桀紂(けつちゅう *夏の桀王と殷の紂王を指し、代表的な悪王)と申(もうす)なり。今の東夷仮令(たとひ)桀紂にもあれ、我主人も我身も未だ天朝へ忠勤を欠き居(おり)たれば、征夷の罪を挙ぐるに遑(いとま)あらず。唯(ただ)己の罪を顧(かえりみ)るのみ(f)。上人へ極々(ごくごく)不足なるは、上人の心は一筆奸権(かんけん *よこしまな権力)を誅するに在(あ)り。是(これ)孔子春秋を作るの意9)なれば悪(あし)とは申さず候へ共、今天下の危急累卵(るいらん *物事が非常に危ない状態にあること)の勢(せい)申すに及ばず、中々筆を弄(ろう)する所にてはなし。上人今日征夷を以て桀紂とすれば、我主人なども飛廉・悪来(*紂王に仕えた悪臣で親子)とするならん(g)。桀紂廉来に向(むかい)ては一言半語の規諫は死すとも出さずとの貴意なり。然ればとて今日の"其(その)隙に乗じて興起を企てるは天下の賊なり"との御見識なれば(h)、今の時遂に是(この)一筆の外(ほか)王民(*黙霖の号)の王民たる所以(ゆえん)なきなり。僕(ぼく)此(この)御心を余りに残念に存じ、覚へず仏澄(ぶっちょう *仏図澄のことか?)に比せしは実に過言妄言なり。然共(しかれども)周亡後の夷斉(*伯夷と叔斉のこと)、晋亡後の淵明(*陶淵明のこと)に似たり。余りに残念なことではなきか。僕実は上人へ今一層(いっそう)忠告致したくあれ共、迚(とて)も上人の従はざるならんとて是(これ)迄(まで)申し出(いだ)さず候。然共(しかるとも)今夜に至ては実に忍び得ず候。上人の論にては実に独行特立(どっこうとくりつ *他に依ることなく自ら信ずる所を守って世に立ち行なうこと)なり。桀紂廉来へは一言も諫めぬとありては、吾等の如く主人持(しゅじんもち)たる者は絶(たへ)て相謀らざるの勢なり。人(ひと)善に遷(うつ)らず過を改めずんば、一筆姦権(かんけん *よこしまな権力)を誅すると雖(いえど)も姦権依然たり。朝廷興隆の辰(とき)も期すべからざるなり。夫(それ)では誠に上人を以て僕は誠に頼(たより)少(すくな)く存ずるなり。何分僕が感悟(かんご *感じて悟ること)の鄙説(ひせつ *いやしい説)再三熟考下され御採用なされば、誠に天下の蒼赤(そうせき *蒼生赤子。人民)、祖宗の神霊いかばかり目出度(めでた)からん。上人を見て論じたけれども、藩人は皆(みな)縄墨(じょうぼく *規則)を以て僕を縛り心底に任(まか)せず候。 (ゴチックは、原文にある強調)
 (日本思想大系54『吉田松陰』岩波書店 P.214~218)

 この「書簡」は松陰と黙霖の間でかわされた往復問答なので、原文の上欄に黙霖の評語や反論などが書き込まれている。煩雑なのですべてではないが、一部を述べると以下のように(a)~(h)なる。

(a)○僕(ぼく)此(この)書を両度よむ、其中(そのなか)に泣きし所あり、微笑したる所あり。終に至りて泣くに涕(なみだ)も出ぬほど胸塞(ふさ)がれり。○昨日も松如が家に帰りて後も中心怏々として〔*心に満足しないさま〕楽しからず候。僕妄(みだり)に人を称(あぐ)せず、学雅(みやび)なりとも文巧(たくみ)なりとも、其(その)志(こころざし)大丈夫の人に非(あら)ずは称せず。しかるに僕が足下(そっか *貴殿)を尊信する、中々(なかなか)言に述べがたし。然るに一事の合不合(*一致不一致)とて上人の心(こころ)僕(ぼくの)志に非ずなどいへり。又(また)志の大異なる由を前書に云へり。幾度見るとも其(その)意也。僕は志の同不同を争ふこといや(嫌)也。人は人(ひとの)志あるべし。吾(*自分。我は人に対し、吾は己についていう)は我なり。しかれども王室を奉るものは、其(その)心(こころ)至誠(しせい)より出るなれば同志と云ふこと概して知らるる也。あまり不平なる故(ゆえ)又(また)一書を贈る。今朝届きたか。
(b)これもよくしる(知る)ところに候なり。僕等は祖先のことにて悪(にく)むところなり。平生言(いへ)ることならぬゆへに、その心を以て之(これ)をみれば実に肺肝(はいかん *心の奥底)を微視して、その言の味(あじ)大(おおい)に出で我をして泣しむるなり。
(c)よ(読)みしとき毛髪(もうはつ)迄(まで)堅(たち)しなり。感じて泣(なく)はここなり。
(d)亶(まことに)爾(しかり)。たとひ罪人とならずとも此(この)心ありたし、況(いはん)や幽室の人に於てをや。このことを一生忘るることなかれ。多分言たけれども一言にて尽(つく)せり。
(e)これは尤(もっとも)なることに候。我は将軍の禄を食(はま)ず、諸侯の臣に非ず、之(これ)を喜ぶのみ。
(f)義卿(*松陰のこと)に在(あ)りては誠に然り、然り。感服。
(g)諸侯にまれ士にまれ、王家を奉るの心あれば我(われ)敬(けいする)なり。飛廉を云ふこと勿(なか)れ。
(h)これはそこつ(粗忽)なることあり。表に王を敬する為(まね)して自然興(おこら)んとする諸侯に三、四人もあるべし。我これを云(いふ)なり。その論長し。一一(いちいち)言(いふ)も面白(おもしろ)からず候。少々事起れば義兵にて直ちに復古になるよふに思ふ人あり、浅き慮(おもんばかり *思慮)なり。これにも大に論あれども言はず候。

 この「往復書簡」の最後には、松陰の言葉として次のような叙述がある(おそらく、黙霖との「問答筆語」の後に書き込まれた思われる)。すなわち、「右黙霖は一向宗の僧也(なり)。耳一向に聞こえず、言舌不分りなれども、志は至って高し。漢文を以て数度の応復(おうふく)之(これ)有り候処(そうろうところ)、終(つい)に降参する也。此(こ)の人は芸(*安芸)宇土浜(*現・呉市)の産也。」(同前 P.219)と。松陰は、どの点かは明らかにしていないが、黙霖に対して「終に降参する也」と書き込んでいる。
 1856(安政3)年冬、松陰は留学先の水戸で、会沢正志斎に学んでいた友人の赤川淡水(おうみ)に宛てて次のように書き送っている。

天朝を憂(うれ)へ、因(よ)つて遂に夷狄を憤(いきどお)る者あり、夷狄を憤り因つて遂に天朝を憂ふる者あり。余、幼にして家学を奉じ、兵法を講じ、夷狄は国患にして憤らざるべからざるを知れり。爾後(じご *それ以来)?(あまね)く夷狄の横(よこしま)なる所以(ゆえん)を考へ、国家の衰へし所以を知り、遂に天朝の深憂、一朝一夕の故に非(あら)ざるを知れり。然れども其(そ)の孰(いず)れか本、孰れか末なるは、未だ自ら信ずる能(あた)はざりき。向(さき)に八月の間、一友に啓発せられて、矍然(かくぜん *驚いて左右を顧みるさま)として始めて悟れり。従前天朝を憂へしは、並(みな)狄に憤をなして見(けん)を起せり。本末(ほんまつ)既に錯(あやま)れり。真に天朝を憂ふるに非ざりしなり。今、貴文(*赤川の文章)先ず宇内(うだい *天下)の状形を掲ぐ、其の意、吾が八月の前と大異(*大きな違い)なくなり。
             (桐原健真著『吉田松陰』ちくま新書 P.167)
  
 松陰の尊王論が従来の水戸学的なものから国学的なもの変化したことについて、源了圓はその著『徳川思想小史』(中公新書 1973年)で「コペルニクス的転回」と称している。まさに、松陰の思想は以降、単に観念的度合を深めただけでなく、あらゆる批判をはねつける宗教的領域に陥ってしまうのである。天皇制の絶対化は、尊皇がすべてに超越し、尊皇のためにはすべてが許されることとなる。
 松陰の思想については、戦後歴史学において皇国史観から解放された以後でも、研究者の間で評価が正反対に分かれている。その中で、留意すべきは明治維新をブルジョア革命と性格づけ、松陰を革命家などと評価する見解である。前者については、その歴史的誤りの背景に戦前からの労農派・講座派論争に求め、両派を批判した見解を、筆者は『プロレタリア』紙2018年9月1日号に掲載したので、それを参照願いたい。
 後者については、松陰の「草莽崛起」論を含め、その理論内容を以下に検討してみる。
 一部の左翼研究者は、松陰を農民の立場にたった者としてまず評価している。たとえば、「万物中にて最も霊なるは、人民にしくはなし」(「武教全書講録」)、「聖人の政(まつりごと)は、上を損じて、下を益す」(「獄舎問答」)、「最も急かつ要なるものは、農(のう)勧(すす)み民(たみ)富むこと」(「未焚稿」)」などの言葉から、松陰を人民至上主義者、人民の友と評価する。しかし、それは早計である。これらの言葉は松陰の独創ではなく、中国古代の王を讃える・あるいは戒めるための常套句なのである。ちなみに、「民と利を争わず」なども、王=国家に対する戒めの言葉である。
 歴史的事実を踏まえるならば、これらの常套句があっても歴代の王(独裁君主)の人民に対する収奪と抑圧は、決して無くならなかったのである。そもそも中国古代(あるいはそれ以前から)からの天命思想は、"天が民を生じ、それを治めるために天子(帝)を選んだ"といって、すなわち、民のために王制を正当化しているのである。
 また、松陰の尊王思想を「一君万民主義」と評価し、四民平等思想と曲解している。下層身分の民に対して、松陰が個別に同情した場面があったとしても、かれが封建的身分制度を全面的否定したとは言えないのである。そもそも「一君万民主義」なるものは中国の君主独裁制の一種であり、とても平等主義思想とはいえないのである。北一輝の国家社会主義(彼もまた一君万民主義を唱える)はマルクス的共産主義と本質的に相容れないものであり、両者を同一視することは誤りである。
 百姓一揆に対する松陰の態度について、「百姓一揆の如きは、連年苛虐の致す所」などという片言をもって、松陰を農民の味方などといっているが、これも早計である(この言葉も中国古代からの常套句)。松陰はその語に続けて、百姓一揆の猛威を述べた後に、「今の兵士を用ひ是(こ)れを蕩滅(とうめつ)せば、何の難きことかあらん。」(「獄舎問答」)といっているのである。松陰は民を治めるのに兵力を使えば、百姓一揆とて収めることは難しいことではない、と言ってのである。
 次に多くの誤解がある、「草莽崛起(くっき)」10)について、やや詳しく検討してみる。晩年、松陰は「草莽崛起」を多用するが、再下獄した松陰が1859(安政6)年2月9日頃、佐世八十郎(後の前原一誠)に宛てて次のような書簡を書いている。

吾(わが)藩当今の模様を察するに、在官にては迚(とて)も真忠真孝は出来申さず候。尋常の忠孝の積(つもり)ならば可なり。真忠孝に志あらば一度は亡命して草莽崛起(そうもうくっき *在官在禄でない浪人志士の決起)を謀らねば行け申さず候。亡名の時は御胸中にあるべし〔*亡命の時がいつかあるということを胸に秘めておくべき〕。拙意(せつい)は前説の如し。伏見の一難必ず免れず〔*参勤の途中、藩主が他藩の志士に待ち伏せされること〕。多き御家来中に此事(このこと)を知るもの何人ぞや。知ると云(いへ)ども身の動かぬも皆(みな)然り。已(すで)に之(これ)を知る、又(また)動く身にて旁観(ぼうかん)して西する〔*佐世は2月9日に長崎伝習を命じられ、下旬に出発した〕は如何(いかん)。......(『吉田松陰全集』第八巻 P.221~222)

 松陰は、尋常の忠孝なら普通の忠孝はできるが、在官では真の忠孝はできない―という。だから、真の忠孝を志すならば「一度は亡命(*脱藩)して草莽崛起を謀らねば」ならないというのである。問題は、真の忠孝であり、そのためには「草莽崛起」が必要といっている。あくまでも忠孝を貫くうえでの「草莽崛起」である。つまり、忠孝思想を超越しようというのではない、ということである。
 次の書簡は、1859(安政6)年4月7日つけの北山安世宛てのものである。

......(前略)......徳川存する内は遂に墨(*アメリカ)・魯(*ロシア)・暗(*イギリス)・拂(*フランス)に制せらるることどれ程(ほど)に立ち行くべくも計(はか)り難(がた)し、実に長大息(*長いため息)なり。幸(さいはひ)に上に明天子あり。深く爰(ここ)に叡慮(えいりょ *天皇のお心)を悩まされたれども?紳(しんしん *貴顕の人)衣魚(いぎょ *衣服や書物などにつく虫。シミ)の陋習(ろうしゅう)〔*貴族たちがシミのように物をそこない破る悪い習慣〕は幕府よりも更に甚(はなはだ)しく、但(た)だ外夷を近づけては神国の汚(けが)れと申す事(こと)計(ばか)りにて、上古(じょうこ *大昔)の雄図遠略(*雄々しい企てと奥深い謀りごと。外国併呑)等は少しも思召(おぼしめ)し出されず、事の成らぬも固(もと)より其の所なり。列藩の諸侯に至りては征夷(*徳川将軍)の鼻息を仰ぐ迄(まで)にて何の建前もなし。征夷外夷に降参(こうさん)すれば其の後に従ひて降参する外(ほか)に手段なし。独立不羈(ふき *束縛されないこと)三千年来の大日本、一朝(いっちょう *いったん)人(ひと)の羈縛(きばく)を受くること、血性(けっせい)ある者〔*義侠心に富んだ者〕視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起(おこ)してフレーヘード(*オランダ語の自由)を唱へねば腹悶(ふくもん *非常に思い悩む)醫(いや)し難し。僕固(もと)より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益(ひえき *役に立つこと)なし。徒(いたず)らに岸獄(がんごく *牢屋)に坐するを得るのみ。此の餘(よ)の処置(しょち)妄言すれば則ち族せられん〔*罪が一族に及ぶ〕なれども、今の幕府も諸侯も最早(もはや)酔人(すいじん *酔っ払い)なれば扶持(ふち)の術なし〔*酔っ払いなのでサラリーマン化してしまっている〕。草莽崛起の人を望む外(ほか)頼みなし。されど本藩の恩と天朝の徳とは何如(いか)にしても忘るるに方(かた *方法)なし。草莽崛起の力を以て近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興(*いったん衰えた勢力を再び盛んにすること)を輔佐(ほさ)し奉れば、匹夫の諒(まこと)負(そむ)くが如くなれど〔*分を越えた行為のようであるが〕、神州に大功ある人と云ふべし。......(同前 P.292~293)

 ここで松陰は、徳川幕府、朝廷の貴族、列藩諸侯のだらしななさを深く嘆く。その上で、日本の独立を確保には、最早、幕府も諸侯を頼りにはならないから、「草莽崛起の人を望む外なし」となるのである。その「草莽崛起の力を以て」、本藩の維持や天朝の中興をはかるべきだ―というのである。まさに封建制を維持し、天皇制の復興をはかるための「草莽崛起」でしかない。同じ4月ころの野村和作宛ての書簡では、次のように言っている。

......(中略)......然(しかれ)ども僕も実に要策(*「伏見要駕策」のこと)で死ぬる積(つも)りにて、夫(それ)已来(いらい)諸友(しょゆう)悉(ことごと)く絶交、三友(*小田村伊之助・久保清太郎・久坂玄瑞か)へ激論を仕懸(しかけ)、又(また)誠意を通ずるも死罪の周旋を託(たく)する積(つもり)なればなり。然供(しかるとも)よく思て見よ、自ら死ぬ事の出来ぬ男が決(けっし)て人を死なす事は出来ぬぞ。〔*ゴシックは原文での強調〕夫(それ)よりは十分死なれる程(ほど)功(こう)を立つるがよし。"扶桑(ふそう *太陽)豈(あに)影(かげ)無からんや、浮雲翳(かげ)つて忽(たちま)ち暗し"〔*扶桑を君主の聖明として、それが佞臣に遮られて暗くなっている〕。吾志(わがこころざし)は迚(とて)も吾君(わがきみ)には達せぬなり。現(うつつの)所作をやらねば死ねぬ死ねぬ。"吾(われ)豈(あに)今公(きんこう *現藩主)の恩を忘れん哉"。此(この)恩御当代に報ぜぬは万々遺憾(いかん)なれども、いずれ尊攘の為に死んで差上(さしあげ)るなり。
"義卿(*松陰のこと)義を知る、時を待つの人に非(あら)ず。草莽崛起、豈(あに)他人の力を仮(か)らん哉"。
恐(おそ)れ乍(なが)ら天朝も幕府・吾藩も入(い)らぬ、只(ただ)六尺の微躯(びく *小さな身体)が入用。されど義卿豈(あに)義に負(そむ)くの人ならん哉。御安心御安心。...... (同前 P.349)

 ここでは、「草莽崛起」は、「他人の力は仮らん哉」といって、自力での決起を述べている。であるが故に、「恐れ乍ら天朝も幕府・吾藩も入らぬ」と言っているのである。つまり、天朝・幕府・藩という組織の力に依存するのでなく、自らの判断で自らの力で決起するというのである。他から言われて活動・決起するのでなく、あくまでも自力で活動するという意味である。したがって、「天朝も、幕府・藩も入らぬ」というのは、その力を借りないということであり、それらの組織や体制を解体するなどというのは曲解である。

注1)宋の司馬光が撰述した『資治通鑑』のこと。周の威烈王から五代までを書いた史書。
 2)朱子が編書した『資治通鑑綱目』のこと。『資治通鑑』に基づき、史実に道義上の批判を書き加えたもの。
3)『史記』および『漢書』以下『元史』至る王朝別の21種の正史。
4)明の袁黄の編書した『歴史綱鑑補』のこと。『資治通鑑』に関する書を合せ補綴(ほてつ *つくろいつづること)した書。三皇紀(伝説上の聖王である伏羲〔ふぎ〕・神皇〔じんのう〕・太昊〔たいこう〕の事跡を記したもの)より元紀に至る。
5)内臣(君主側近の重臣)と外臣(それ以外の一般の藩士)の分裂は国家(藩)の重大事として、その結束を訴えている。
6)広く事実を見聞すること。そのためには、賢人と交わり、読書をすることが一番である。(『書経』舜典)
7)水野忠邦政権の時、松代藩主真田幸貫は1841(天保12)年6月から1844(天保15)年5月まで老中を務めた。なお、幸貫は松平定信の次男。
8)『論語』―微子に、「微子これを去り、箕子これが奴と為り、比干諫めて死す。孔子曰く、殷に三仁有り」とあるが、この三子(微子・箕子・比干)を三仁と言った。殷の紂王の暴政にそれぞれの形で対処した。
9)孔子が『春秋』を作った時、文章の書き方で人々の善悪をほめたり誹(そし)ったりしたことを意味する。
10)草莽とは、草むらの意であるが、転じて仕官しないで在野にある臣を指した。高木俊輔氏によると、「もともと草莽は、諸侯やその体制に『臣』として忠誠を誓う在野の協力者であり、体制の危機に際してはなによりも忠誠に出た行動を期待されていた。けっして権力を志向してはならず、政治的活動ののちには再び野(や)に戻るべき人とされた。」(『日本史大辞典』平凡社)と言われる。
 崛起(くっき)とは、「①山が高くそばだつ。又(また)その様、②急に起り立つこと」という意である。

(2) 藩是となる長井雅樂の「航海遠略策」とその破綻

 長州藩に対する「戊午の密勅」は、1858(安政5)年8月20日、右田毛利家の家臣・甲谷岩熊(当時、義奏加勢の正親町三条実愛で奉公していた)によって、もたらされた。その内容は、前述した。それとともに、別ルートから、水戸家と幕府へ下された勅諚の写し(戊午の密勅)も既に到着していた。
 これを受けて、長州藩政府は周布政之助に命じて、兵庫御備場(おそなえば)差遣(さけん *使いにやる。出張させる)の名目で、上京させた。「九月一三日入京した周布は、翌一四日夜、御所において正親町三条実愛と対面し、御所内での評議の様子を尋ねるとともに、〔藩主〕敬親の存意を伝達した。それは和と戦と、どちらを選択したとしても、諸外国に付け入られることがないよう、諸大名は勅諚の通り『三家以下列藩一同、幕府を補翼仕り候様(そうろうよう)之(これ)有りたく』、朝廷においても『公武御合体の御処置肝要(かんよう)』というものである。また、通商条約調印過程の幕府の諮問に対する毛利家の対応については、『大膳大夫(*敬親のこと)ニおゐて者(は)、条約調印違勅の罪(つみ)遁(のが)れ難(がた)く抔(など)と申す儀、幕府え向き候ては甚だ申しかね、実に以て拠(よ)んどころ無き次第も之(これ)あるべしとはづし置き候て、ただ御国内人心一和の処置之(これ)あり然るべくと申し出候』と説明した。」(上田純子著「長州藩の国事周旋と益田右衛門介」―『幕末維新の政治と人物』有志者 2016年 P.175)といわれる。
 藩政府は、周布が上京し、朝廷に答えた長州藩の態度は、従来と変わらず当り障りのないものであった。やはり、幕府の強権政治への配慮が依然として強かったのである。

 (ⅰ)幕府の融和路線と「和宮降嫁」
 しかし、1860(安政7)年3月3日、井伊大老が水戸や薩摩の浪士によって桜田門外で暗殺されるや、幕府の対応は大きく変わった。反動的で強権的な井伊政権に代わって登場した、久世広周と安藤信行(宣睦)を中心とする政権は、幕府と朝廷の間、幕府と雄藩との間を亀裂させた井伊政権の政治路線から、一橋派(一橋擁立運動を担った雄藩)や朝廷との融和を求める公武一和路線へ転換したのであった。
 新政権は、井伊大老側近者を処分し、一橋派の幕臣や一橋派の雄藩などへの処分を取り消す。そして、公武間の協調を象徴するものとして、孝明天皇の妹・和宮と将軍家茂との婚姻を申し入れた。すでに有栖川宮熾仁親王と婚約をしていた和宮は、この婚姻に強く抵抗し、孝明天皇も受け入れなかった。
 朝幕間の交渉は、何回か続いた。幕府は、1860(万延元)年4月1日付け(「万延」への改元は3月18日)、同年5月26日付け、同年7月4日付けの三回、「和宮降嫁」を奏請した。これに対し、孝明天皇は、第二回の奏請に対して、岩倉具視の献策を受け入れ、幕府が「蛮夷拒絶」の措置をとることが先決条件であると回答した。7月4日付けの老中の奏請は、これに対する返事であったが、孝明天皇は却下した。そこで、老中たちは、再三再四熟議し、ついに「蛮夷拒絶」の年限を示すことによって、天皇の了解をとることとした。その奉答書は、第三回目の奏請を修正する形で、7月29日に呈出された。
 この「老中奉答書」は、天皇が公武一和のための「和宮降嫁」をしぶる理由として、次のようにまとめている。

......併しながら、兼々(かねがね)毎度(まいど)仰せ出だされ候通り、夷人の居り候地え御縁組の御事、衆心も動揺致すべき哉。且(かつ)蛮夷の義は、何(いず)く迄も拒絶に相成り候様との御念願故(ゆえ)、三社(*伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂神社)え幣使(へいし *神殿に供える絹を捧げる天皇の使い)を立てさせられ候程(そうろうほど)の御事、?(ならびに)当御代(とうみよ)より蛮夷和親(*西洋諸国との外交)始り候ては、神宮(*天照大御神)御始(おんはじめ)先帝(*仁孝天皇)に対せられ御申訳(おもうしわけ)之(これ)無く、...... 
     (「老中奉答書」―『幕末政治論集』岩波書店 1976年 P.175)

 これに関し、老中たちの奉答書は、主に次の三点をあげて、孝明天皇の了解をとろうとしている。
①いち早く公武合体を行ない、人心を統一し、その上で「外夷防禦」し「一途に攘夷」をすすめるには、是非とも「此度(このたび)の御縁組み」が大事であること、
②夷人の居る江戸への縁組みという懸念に対しては、「江戸の儀は、夷人在留仕(つかまつ)り候横浜の地とは行程(こうてい)八里も相隔(あいへだた)り、其間(そのかん)六郷川と唱え候舟渡しの大河(たいが)之(これ)有り、右(みぎ)川を限り江戸の方へは勝手に遊歩(ゆうほ)仕りせざり候」(同前 P.176)ようになっていること、
③「蛮夷拒絶」については、「当節より七、八年乃至(ないし)十ケ年を相立て候内、是非是非応接を以て引き戻し候乎(か)、又(また)は干戈(かんか)を振ひ征討を加え候乎(か)......何(いず)れにも其節(そのせつ)は屹度(きっと)叡慮を立たせられ、御安心に相成り候様の御所置(おんしょち)に相成るべく、右(みぎ)凡(およ)その年限は申上げ候得共(そうらへども)、夫(それ)迄(まで)にも万一(まんいち)彼より兵端を開き候乎、又は条約に背(そむ)き候乎、又は御国制を犯し候様の義(ぎ)之(これ)有るに於ては、速(すみやか)に御所置に相成り候様、一同にも精々勘考(かんこう)罷り在り候。」(同前 P.177)と約束した。
 どうやら、7~8年の内に、交渉により「鎖国」時に戻すか、武器をもって西洋諸国を征討するか、いずれにしても孝明天皇の懸念を取り払うとの③の回答が、最大の決め手になったようである。孝明天皇はこうして幕府の公武一和を受け入れ、「和宮降嫁」を承認した。
 1860(万延元)年11月1日、「和宮降嫁」が発表され、翌1861(文久元)年10月20日、和宮の一行は反対派の襲撃を警戒しつつ、江戸に向かった。
 だが、急進的尊攘派は、「和宮降嫁」は幕府が朝廷から人質を採る策謀であり、通商条約の締結に反対の孝明天皇を退位させるための手段として批判した。桜田門外の変によって、テロリズムの「効果」を知った彼らは、外国人を次々に襲撃して幕府の融和路線(公武合体)を攻撃した。1860(万延元)年12月にはアメリカ公使館通訳ヒュースケンを暗殺し、1861(文久元)年5月には、水戸浪士などによって、イギリス公使館を襲撃し(東禅寺事件)、1862(文久2)年1月には老中安藤信正が水戸浪士によって襲撃される(坂下門外の変)。これにより、安藤は負傷し、失脚する。
 このような情勢を背景に、今まで国政から疎外されていた雄藩(外様雄藩)の「国事周旋」が始まる。最初に朝廷と幕府を和解させ国内を統一しようとしたのは、とくに長州藩である。 

 (ⅱ)「航海遠略策」に基づく新たな藩是
 同藩では、直目付役の長井雅樂(うた)が、1861(文久元)年3月下旬、藩の今後の方針として「航海遠略策」を藩主に建言する。その内容は、朝廷と幕府のメンツを立てながら公武一和を強調する。そして、"すでに修好通商条約も批准し終わった今日、攘夷派が主張するように条約破棄はできるわけはない。世界の大勢からみても開国が当然である。従って、ただ国を開くというのではなく、むしろ積極的にこちらから外国へ乗り出し、すすんで貿易を行ない世界侵出を行なうべきである。そうして次第に皇国の武威を振るえば、五大洲の諸国は自ら貢ぎ物を捧げて日本にやって来るであろう"―というものである。
 藩主慶親は、幕府と朝廷の仲がうまくいかず、藩是「三大綱」の主意が貫徹しないのを痛憤していた。「依りて御右筆役周布政之助等の要路は、みな藩公の本旨を体して苦心焦慮し、御直目付役長井雅樂の起草して同僚の内藤造酒・梨羽直衛に致したる建策に基づき、伸張の審議を凝(こ)らし、公武合体して海内の一和を図り、我より航海して外国の事情を探り、其の長所を採りて彼(*外国)を制せんとせる藩議を決した。君(*来原良蔵のこと)もまた御右筆役の職にありて、固(もと)より此の商議に参加した......(中略)......〔周布〕政之助は要路の議決したる趣旨を自ら草し、之(これ)を藩公に上った。実に文久元年(*1861年)三月二十八日のことである。藩公乃(すなは)ち要路の議定したる建言を善となし、其の趣旨に依りて公武の間に周旋せんことを決し、雅樂を京都・江戸に遣(つかは)して先容(せんよう *先にとりもつ)をなさしめた。」(妻木忠太著『来原良蔵伝』下 P.236~237)という。
 ただ、藩要路が議決したが、「周布政之助が修正案を出し、外国の出方しだいでは、開国の前に攘夷もありうるとの一条を加え、長井が藩を代表して公武間の周旋に乘り出した。」(『山口県の歴史』山川出版社 1971年 P.219)のであった。
 藩の議決のまもなくした5月15日、長井雅樂が著した「航海遠略策」は、単なる「鎖国論」を批判し、日本の海外雄飛(世界侵出)をにらんだ開国論を次のように展望していた。(海外侵出という点では、吉田松陰と全く同じである。)

......徒(いたず)ラニ海岸嶮峻(けんしゅん *険しい)ヲタノミ鎖国仕リ候テハ、鎖国ハ漫々覚束無(おぼつかな)ク候。然(しか)レバ当今ニ於テ攻取ノ勢ヲ張(はり)候儀、第一御急務ト存ジ奉リ候へバ、仰ギ願ハクハ、神祖ノ思召(おぼしめし)ヲ継セ賜ヒ、鎖国ノ叡慮思召シ替ラレ、皇威海外ニ振ヒ、五大洲ノ貢(みつぎ)悉(ことごと)ク皇国ヘ捧ゲ来ラズバ赦(ゆる)サズトノ御国是(おんこくぜ)一旦(いったん)立セ賜ハバ、禍(か)ヲ転ジテ福ト為(な)シ、忽(たちま)チ黠夷(かつい *悪かしこい外国)ノ虚喝(きょかつ *こけおどし)ヲ押ヘ、皇威海外ニ振ヒ候期(き)も亦(また)遠カラズト存ジ奉リ候。然レドモ太平ノ余、即今(そっこん)神后(*神功皇后)攻取ノ御跡ヲ踏(ふ)ミ候ハン事、是亦(これまた)下策ニ出申(いでもう)スベク候ヘバ、急速ニ航海御開キ、渠(かれが *彼が)巣穴(すうけつ *住居の賤称)ヲ探リ、黠夷ノ恐ルルニ足ラザルコトヲ士民ニ知ラシメ、漸次(ぜんじ)皇国ノ御武威ヲ以テ五大洲ヲ横行仕リ候ハバ、彼ラ自ラ皇国ノ恐ルベキヲ知リ、求メズシテ貢ヲ皇国ニ捧ゲ来ランコト、年ヲ期シテ待ツベク候。  (日本思想大系『幕末政治論集』 P.219)

 雅樂は、ここで国学者の主張を逆手にとって、「神功皇后の三韓征伐」なるものを例に挙げ、日本は古来から世界に雄飛(侵出)してきたのであり、「鎖国」によって日本を防禦することは「神慮」に叶わないというのである。

 (ⅲ)長井雅樂の東奔西走
 1861(文久元)年5月12日、長井雅樂は京都に到着し、同月15日、議奏・正親町三条実愛に面会し藩是を説明し、了解を得た。孝明天皇も嘉納(進言などをほめて聞き入れること)したといわれる(『来原良蔵伝』下 P.238)。
 しかし、藩内では新たな藩是の基礎をなす「航海遠略策」について、すべてが賛成していたわけではない。久坂玄瑞は、すでに3月段階で批判的な態度を中村道太郎に書き送っている。 
 桂小五郎は、1860年3月の桜田門外の変後の7月より、水戸藩の志士と「成破同盟」(水戸側が破壊活動を行ない、長州側が事後の収拾を行なうもの)結び、幕閣を改造し時局を匡正(きょうせい *間違っているものを直すこと)しようと画策していた。6月11日、義弟の来原良蔵に送った書簡では、大意、次のように述べている。「抑(そもそ)も東禅寺の事件(*5月28日、イギリス公使館襲撃)は、正気の凝滞(ぎょうたい *とどこおって通じないこと)して止むをえざるの下策に出でたるものにして、其の失敗は甚だ遺憾(いかん)である。此の情態は容易に鎮静しがたく、町奉行頼方は刺客に殺されたりといひ(*これは誤報)、閣老安藤対馬守信睦もまた暗殺せられんとして、免(まぬが)れたるの風説さへありて、形勢日に切迫し、幕府の姦吏(かんり)を艾除(かいじょ *刈り取って除く)せざれば、皇国の元気の恢復(かいふく)しがたきに方(あた)り、長井雅樂が公武の合躰(*合体)に周旋して江戸に出でんとせるは、甚だ疑惑を生ずるところである。」(同前 P.239)と。
 長井雅樂は、6月14日に江戸に着いたが、江戸留守居手元役の宍戸九郎兵衛は、雅樂の策に明確に反対した。雅樂はこれに対して、藩主の趣旨(公武合体の)をもって、説得した。
 雅樂は、江戸に着いて、まず世子の毛利定広に藩主が建白しようとする趣旨を説明した。これを受けて、7月2日、世子は老中久世広周(ひろちか)を訪ね、藩主建白のために長井雅樂が出府してきたことを告げ、面接を要請した。久世はこれを快諾し、その日の夕刻、雅樂は久世邸を訪問し、藩主建白の趣旨を説明した。この説に対して、久世は痛く感服し、公武周旋を毛利に委託しようかの意を漏らしたと言われる。雅樂は、久世の委嘱(いしょく)によって、さらに老中安藤信睦を訪ね、同じく藩主建白の趣旨を説明した。安藤もまたこの説に賛同した。
 こうして、雅樂は新たな藩是が朝廷に容れられ、また二人の老中の賛同をえたので、東西の情勢を復命(ふくめい *命令に従って行動した結果を命令者に報告すること)するべく8月9日に江戸を発った。途中、京都に寄り、萩には28日に着いた。
 9月16日、藩主は雅樂らを従え、東勤に向かう。しかし、途中花岡で病気となり、しばらく静養したため遅れることとなる。そのため、藩主は雅樂を江戸に先発させた。
 他方、「〔周布〕政之助は曩に(さきニ *これより以前)京摂(けいせつ *京都・摂津)を経て江戸に出でしが、広く諸藩の志士に交じりて、従来我が藩の周旋せんとせる其の方針を変更するの必須なるを察し、将に藩公の駕(かご)を途中に迎えて抱懐(ごうかい *胸にいだく)せる意見を開陳せんとし、小五郎に謀(はか)りて世子公の允許(いんきょ *許可)をえたれば、九月七日久坂玄瑞を伴ひて西上し、一六日伏見に着した」。途中、藩主が病で静養しているとの報を接し、10月2日入京し正親町三条実愛に面会し、10月7日に廿日市で直目附役梨羽直衛に会い、共に益田弾正に面会し、自分の正直な気持ちを吐露した。「然るに公駕に随従せるもの、多く政之助の西上を僭越(せんえつ)となし、其の意見の貫徹すべくもあらざりければ、九日待罪書(*罪を認めて処分を待つという書)を〔益田〕弾正に致し、是日(このひ)玄瑞は直に帰国を命ぜられた。ついで十一日、政之助もまた江戸在勤を免ぜられしかば、二十日萩に帰りて閑居(かんきょ *世事から身を引いて、のんびりと暮らすこと)せしが、二十八日遂(つひ)に其の職を罷(や)められた。」(同前 P.248)のであった。
 周布政之助は、3月に「航海遠略策」に基づく新たな藩是を議決した要路の一人であるが、京坂や江戸での情報を総合すると、どうもこの方針に確信をもてなくなったようである1)。その変更を藩主に訴えるべく久坂玄瑞と西上したが、益田など藩主に随従する重臣たちに反対されて、結局、罷免されることとなった。
 11月13日、藩主・慶親は、江戸麻布邸に着いた。21日に、老中久世広周が長井雅樂を召して、長州藩の建白の趣旨を書面にして提出するに命じた。藩主は初めこれを辞退したが、幕府役人の説得によって、12月8日、遂に雅樂に書面を久世に提出するようにした。その時、同時に藩主慶親の上書(日本思想大系56『幕末政治論集』岩波書店 に所収)も出された。その主旨は、以下のようなものである。
 すなわち、"世上では鎖国論・開国論が盛んだが、根本からみれば「是等(これら)は枝葉の説とも申すべき哉(かな)。.........閉鎖の実は御国体の上に在(あ)るべし。御国体相立(あいた)ち候へば、開鎖(*開国・鎖国)和戦(*平和・戦争)は時の宜(ぎ)に随ひ〔*時宜に適したものに随い〕、......然るに又(また)御国体を相立ち候基本と申し候へば、大倫大義を明らかにし、天下の議論純一人心和協の御処置に之(これ)有るべき哉(かな)」(P.223)と言う。そして、「此の時勢に当り候ては、今一際(ひときわ)天朝御崇(おんあがめ)奉るの御取扱い振り世上へ相顕(あいあらは)れ候はば、天下の人心感服(かんぷく)仕(つかまつ)り、右物議(ぶつぎ)御鎮静容易に相整(あいととの)ひ、御国体の基本も立ち申すべき哉(かな)。」(P.223)"というものである。
 根本は、国体を立てることであり、それには天朝を崇め、天下の人心が感服するようにすること、すなわち勤皇である―というのである。
 これらを受けて、幕閣は協議をすすめ12月晦日、公武の周旋を毛利氏に委託しようとの内意を示した。
 幕府の意向を承けて、「藩公直(ただち)に雅樂を遣して之(これ)を広周に謝せしめ、且(か)つ国家(*長州藩)の大事なれば、末家(まっけ *支藩)老臣以下に協商謀議したる後に竭尽(けつじん *尽す)せんとし、応諾の猶予(ゆうよ)を請はしめた。ついで翌二年(*1862年)正月三日、藩公雅樂に上京を命じ、幕府信頼の次序(じじょ  
 *順序付け)を内奏し、朝議を窺(うかが)ひ奉りたる後に帰国せしめて、末家老臣の意見を徴せしむべく決した。」(『来原良蔵伝』下 P.251~252)のであった。
 これによって、雅樂がまさに江戸を発とうとした1月15日、安藤信睦を襲撃する坂下門外の変が勃発する。これは、まさに桂小五郎が水戸藩の西丸帯刀・岩間金平などと密約した「成破同盟」の実行の結果と言われる。このため、桂とその従者・伊藤利輔は、幕府の嫌疑を受けた。だが、有備館の藩士たちの嘆願や、雅樂の老中説得などによって、桂らは事無きを得た。
 坂下門外の変で、幕府は一時混乱し、長州藩の公武一和の周旋もしばらく中止の形となった。だが、2月24日、幕閣は長井雅樂を営中(江戸城)に召し、「周旋に関して将軍頼の命を伝えた。是(ここ)に於いて藩公(*慶親)は、公武の協和を図らんとせば、幕府先ず朝廷尊崇の誠意を表はすべきである。依りて幕府は将軍に代りて権大納言(ごんだいなごん)田安慶頼を上京せしめ、従来の失政を謝し奉らしむべきとなし、三月四日雅樂を遣(つかは)して之(これ)を広周(*久世広周)に説かしめた。広周之(これ)を容(い)れたれば、藩公は雅樂に命を授けて上京せしめた。」(同前 P.254)のであった。
 幕府から正式に公武間の周旋を依頼された長州藩藩主は、公武一和をなすには将軍名代を上京させ、この間の幕府の失政を謝罪すべきとした。これを久世が了解したため、藩主は朝廷工作のために、長井雅樂を上京させた。
 ところが、当時、島津久光の「率兵上京」の噂が江戸にも伝えられた。そこで藩主慶親は雅樂に、京都並びに藩地での用務を処理したのち、薩摩・肥後の両藩に使いさせ、もし途中で久光一行と会うようなことがあれば、久光に長州藩の藩論の趣旨を陳述するようにと命じた。こうして、3月7日、雅樂は江戸を発して、西上の途についた。
 時に兵庫警衛地の長州藩総奉行は、一門の毛利隠岐であるが、老齢のため任務に耐ええず、その子・将監が代わって任地に赴くこととなった。しかし、藩政府は将監の任務の重さに比して余りに年少なので、これを補佐する者として隠退している浦靱負を再び引っ張り出した。浦は、国家の非常時と老齢をおして、奮然としてこの任を応じたといわれる。
 また藩主慶親は、「逼塞」の期が満ちた周布政之助をふたたび採用し、公武一和の建白の件に尽力させようと命令した。周布は命を受けて、3月14日、東上した。
 長井雅樂は、士雇(さむらいやとい)の時山直八(松陰の門下生)を従え、3月7日に江戸を発ち、18日に京都に到着した。翌19日、雅樂は召し(呼び寄せること)におうじて、正親町三条実愛に謁見(えっけん)し、関東の情勢を詳しく説明し、公武周旋が進捗している状況を細かく説明した。

注1)1861(文久元)年4月12日、ロシア軍艦ポサドニックが対馬占領を企図して、島民と衝突した。対馬藩士に犠牲者も出た。この事件では、7月23日に、今度はイギリス艦が対馬に赴き、ロシア艦の退去を要求した。結局、ロシア艦は8月15日に退去して落着した。対馬は、長州藩とはほど近いで距離であり、ここでのロシアの占拠・イギリスの抗議など対外的危機が昂じ、藩内でも攘夷論が高まったことは想像に難くない。

 (ⅳ)雅樂を激しく批判する久坂玄瑞
 ところで、当初から「航海遠略策」に批判的な久坂玄瑞は、1862(文久2)年3月6日、以下のような「長井雅樂罪案」(5つの罪状)を記している。

戊午(ぼご *1858年)の歳(とし)士気奮興勤皇の御盛意屹(きっ)と相建(あいた)て申すべきの処(ところ)譎詐(けっさ *いつわること)し、百端(ひゃくたん *いろいろの糸口)厚き御思召しの御直書(*「戊午の密勅」のこと)を反故(ほご)にいたし候事一也(なり)。
吉田寅二郎(*松陰)赤心報国の志(こころざし)厚きものに候処豺狼(さいろう *ヤマイヌとオオカミ。転じて残酷で欲深い人)の如き幕府の姦吏に引渡し申し候段、幕吏共〔の言う〕其の大原卿を乞ひ下し〔*「大原西下策」のこと〕且(かつ)間部侯(*老中間部詮勝)を要撃するなどの二件は一円存じ居り申さず候よし吉田の「留魂録」にも相見え申し候。仮令(たとひ)幕吏共より申付け候事に候共、長井枢密(すうみつ *政治の機密)に居り候儀に候得ば取計振(とりはからいぶり)も之(これ)有るべきの処(ところ)其の儀之(これ)無く急に罷(まか)り帰り吉田(*松陰)を縛(ばく)し関東に連れ登せ候始末(しまつ)国家(*長州藩)の大耻辱(恥辱)に相成り候儀引出し申し候事二也。
青蓮院(*中川宮)・近衛侯・尾張・水戸・一橋・越前・土佐・宇和島など有志の御方(おかた)悉(ことごと)く幕譴(ばくけん *幕府の譴責)をも蒙(こうむ)られ候折柄(おりがら)、彦根に媚(こび)を献じ恐れ多くも御昇進など請ひ受け候段、千載(せんざい *長い年月)の後公論如何(いかが)わしく之(これ)有り候事をも仕出(しだ)し候事三也。
此度(このたび)上様(*藩主)御旅中にて御病気に御悩み遊ばされ候て御両国(*防長2国)の人心恟々(きょうきょう *びくびく恐れる)として御気遣い申上げ候折柄に候得共、少数も顧(かえり)みず公駕(*藩主の乗る駕籠)を不測の地に御供仕り候段人臣の至情(しじょう *真心)相悖(あいもと)り候仕方(しかた)四也。
天朝も御叡慮御悩み遊ばされ容易ならざる勅諭も之(これ)有り候処、此度(このたび)公武御合体を名目とし実は外夷交易御免の勅状(勅諚)を申し下すなど言語道断の振舞(ふるまい)五也。
............已上 (福本義亮著『松下村塾偉人久坂玄瑞』東京誠文堂 1934年 P.467)

 松陰の門下生は、長井雅樂が松陰の江戸送りを行なったとして、ほとんどが嫌っていた。玄瑞のこの書でも、松陰に関わる第二項がもっとも細かく長い文章となっている。しかし、政局との関係でみると、第五項でいう批判点、すなわち「公武御合体を名目とし実は外夷交易御免」が長井批判の眼目となっている。
 大阪や京都に集ってきた薩摩人(久光に随行の選に漏れた者もいた)や脱藩浪士たちは、いずれも攘夷論を強調し、長井雅樂を「姦物」として除かんとする説も高く、このことは次第に朝廷にも伝わるようにようになる。
 1862(文久2)年4月5日、朝廷は京都下の形勢と関東の情勢を検討するために廟議を尽くした。そして、7日には、関白九条尚忠は、議奏・伝奏を通して、「和宮降嫁」の条件であった10カ年の内に条約拒絶の攘夷を幕府に実行させるという勅諚を摂家(摂政になりうる家格の貴族)以下の公卿に広く周知させた。
 この頃、藩主慶親は、公武周旋が進捗しないのを憂慮し、雅樂と相談したいのでしきりに雅樂の帰東を促していた。このことを雅樂の報告で聞いていた正親町三条実愛は、長井雅樂を13日に召して、藩主の上京を命ずる内諭書を授けた。これを受けて、雅樂は4月14日、京を発って江戸に向かった。
 他方で、久坂玄瑞らは、藩内で雅樂追い落としの策動を激化させている。4月19日、久坂玄瑞・佐世八十郎(のちの前原一誠)・楢崎仲介・久保清太郎・中谷正亮・楢崎彌八郎の連名で、「長井雅樂弾劾に関する建白書」を藩政府に提出している1)。その中で、雅樂を次のように弾劾している。

此度(このたび)公武御合体御周旋御手切れ〔*長州藩が公武合体の周旋を止めるということ〕に相成り純然たる勤王の御処置之(これ)有り候第一着は長井雅樂譎詐(けっさ *いつわり)不臣の罪を正すに之(これ)有り候儀故、浦大夫(*浦靱負)上京の上(うえ)早速(さっそく)三条・中山・大原其の外の御名卿に謁せられ委曲建白に相成り天聴に相達(あいたっ)し候て国是一定の基を立つべし。其の言の大略に曰く、私主人(*毛利慶親)昨年以来公武御周旋仕(つかまつ)り候は時勢慨歎(がいたん)の誠心より発し候儀にて、幕府をして年来暴慢の過失を改めしめ朝廷の御正論を遵奉(じゅんぽう)致さしめ候覚悟に候。此の事周旋申付け候家来(けらい)長井雅樂一己(いっこ)の取計(とりはから)いよりして朝廷に対し奉り種々失礼の言(げん)申し立て、幕府に諛佞(ゆねい *弁舌たくみにへつらうこと)致し終(つい)に朝廷の御不平を蒙(こうむ)り主人最前の旨意(しい *考え)相貫(あいつらぬ)き申さざる次第に立到(たちいた)り候段、誠に以て恐れ入り奉り候。雅樂(うた)の不心得(ふこころえ)故(ゆえ)右様相成り候儀とは申しながら私主人に於ては何とも申し分け(訳)候言葉之(これ)無く誠恐誠懼(せいきょうせいく *大いに恐れ入ること)の至り堪(た)えざる候。左ながら既往(きおう *過ぎ去ったこと)は咎(とが)めず来るは猶(なお)追うべく候間、私?(ならびに)在京役人共申し合わせ是迄(これまで)の周旋は丸々御断(おことわ)り致し雅樂は厳重に罪科に行ひ主人早速上京仕り、純然たる忠節を尽し叡慮(*天皇の考え)相貫き皇威御回復に相成り候様之(これ)有りたく江戸表へ申し遣はし候。此の段諸殿下へ申し上げ奉り置き候間能々(よくよく)御亮察(りょうさつ *思いやること)遊ばされ御序(おついで)の節天聴に達し候様懇願(こんがん)候と申しわけされ雅樂是迄(これまで)の罪過一々書取(かきとり)に相成り委細江戸表に仰せ越され即時御処置之(これ)有るべし。......... (同前 P.507)

 この建白は、長井雅樂を中心としたこれまでの周旋をきっぱりと止め、「純然たる勤王」の方針に切り替えるべきとして、その第一着は長井雅樂の罪を正すことにあるとした。すなわち、これまでの雅樂の幕府へのへつらい・朝廷への失礼を詫び、雅樂を厳重に処分すべきとした。そして、雅樂の罪を12カ条も並べ立て、「一身を寸断致すとも足り候事にては之(これ)無く候......」と憤激の言葉を投げつけている。
 しかし、当時は久光の「率兵上京」の動きが西国では政治的焦点となっており、久坂玄瑞は奮い立って、藩内外の同志と連絡を取り、軍資金を調達して、脱藩までしてこれに「合流」することを企てる。結局、玄瑞は藩命による医学修行という形で、同年3月24日萩を発ち、4月11日に入京する。「前後して久留米の真木和泉(いずみ)、筑前の平野国臣(くにおみ)、土佐の吉村虎太郎、出羽の清河八郎、但馬の田中河内介など、各地の政治運動家たち百余名が、続々と大阪・京都に集まってきた。」(一坂太郎著『吉田松陰――久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」』朝日出版 2015年 P.134)と言われる。
 島津久光の「率兵上京」に伴い大坂の薩摩藩邸の様子や脱藩浪士の様子が活発となると、長井雅樂はこれが公武周旋の阻害にならないかと深刻に考慮し、来原良蔵らを大坂に派遣し、説得させることとした。その際に長井雅樂は、「毛利氏の正大なる議論(*公武一和のための周旋)を陳述して徹底すべく之(これ)を説明し、諸士(しょし)之(これ)に屈服せば最上である。彼れ異見を主張して此(こ)の議論に服従せざれば、人臣として主君の意旨を奉ずべきの道を説き、我が藩に於いては、藩公の従来公武へ進言せる次序あれば、決して疎暴の行為の許されざることを陳(の)ぶべきである。若(も)し我が藩のものにして、其の心得(こころえ)に違(たが)ひて暴挙に加はることあらば、是(こ)れ藩公示諭の主旨に背(そむ)けるものなるを以て、見る毎(ごと)に状情に依りて直(ただち)に逮捕すべきである。洛中に於いて騒動の勃発せば、常に我が藩公の示せるところに従ひ、一手の兵を率ゐて之(これ)を討撃すべきを以て、予(あらかじ)め之(これ)を諄知(じゅんち *懇切に知らせること)すべく断言して帰京すべし」(『来原良蔵伝』下 P.295)と命じたのである。
 来原良蔵の大坂での説得活動では、大島三右衛門(*のちの西郷隆盛)とも議論を闘わせており、大島は長井雅樂の考えには反対したと言われる。
 この頃、玄瑞たちが長井雅樂の企図を阻害し、他藩の同志とも謀ってさらに大きな謀計をもって不祥事を起こすことを警戒し、藩は久光の入京(4月16日)を前にして、玄瑞に帰国を命じようとした。しかし、京坂の藩邸の少壮の藩士たちが玄瑞を深く信頼し、また、玄瑞なくしては京坂の薩摩をはじめとする諸藩の確かな情報が入手できない(薩摩藩はとくに他藩への情報漏えいについて厳格であった)ということもあって、ついに帰国をさせることができなかった。
 久光の「率兵上京」に際して、国元の老臣たちは時局に対応するために、世子定広の帰国を強く願った。当役益田弾正らはこの要請を受け入れ、藩主の了解を得て、幕府に世子の帰国を請願した。幕府の許可が出て、世子は4月13日に江戸を発ち、28日に京都河原町の藩邸に入った。
 5月1日、浦靱負(ゆきえ)は議奏・中山忠能の召しにおうじて伺い、世子の入京を報告した。その際、忠能は世子の滞京を歓迎するとともに、次のような勅旨を授けた。

......(前略)......先達(せんだって)父大膳大夫(*毛利慶親)戎夷(じゅうい *野蛮な夷の意)跋扈(ばっこ *思いのままにのさばること)御国威逡巡(しゅんじゅん)の儀を相歎(あいなげ)かれ、勤王の志を主とし、幕府を助け至治(しち *十分よく治まること)の基本を立てられたき趣意にて、柳営(りゅうえい *将軍の居るところ)に申し談じの上、公然と公武の御間(おんあいだ)に周旋させられ、全く叡慮の向かわせられ候処、幾重(いくえ)にも丹精(たんせい *真心を込めて行なうこと)之(これ)有るべくの趣(おもむき)、家臣長井雅樂を以て委曲(いきょく *詳しいこと)の事情、内々(ないない)言上し、国忠(*国家への忠義)の段深く〔天皇が〕御満悦在(あ)らせられ候、然(しか)る処、雅樂の儀俄(にはか)に帰府に付いては、大膳大夫建白の旨趣(ししゅ)未だ徹底致さず、御残念に思召(おぼしめ)し候処、幸(さいは)ひ其元(そこもと)上京に付いては、父朝臣(あそん *五位以上の人に付ける敬称)の深意に随ひ、程克(ほどよく)周旋之(これ)有るべく、御依頼思召し候、此段(このだん)内々申し達すべきとの御沙汰候事、   (同前 P.316)

 毛利慶親が、「勤王の志を主とし、幕府を助ける至治の基本を立てられたく」、公武間の周旋を行なうとのこと、孝明天皇も全く「御満悦」であるという。ところが、長井雅樂が突然江戸に戻ってしまった。これは、慶親の建白の主旨が「未だ徹底致さざる」事であり、極めて残念である。幸い世子が上京してきたので、ほどよく周旋するようにと沙汰した―というのである。ここでは、勅旨の文で長井雅樂への批判が明確に示されているのである。
 なお、先の文に続けて、以下のような任務が伝えられている。

但し、当時(*今日)浪士蜂起鎮静の処、内々島津え御沙汰在らせられ候得共(そうらへども)、其(そ)の藩に属し候輩(やから)も少なからざる旨(むね)に付き、同様(どうよう)取締り並(ならび)に方今非常の変(へん)何時(いつ)生ずべくも計り難(がた)き形勢に候、其節(そのせつ)は、薩州と力を合せ鎮静の計(けい)有るべく、是又(これまた)御沙汰(おさた)在らせられ候事、 (同前 P.316)

 4月23日、寺田屋事件があり、薩摩藩の急進的尊攘派の有馬新七らが久光の命で上意討ちとなった。急進的尊攘派は薩摩武士だけでなく諸国から集まっており、何時蜂起するかわからないので、その際は、薩摩藩と長州藩が協力して鎮静化すべきと命じたのである。
 長州藩の側としては、世子の滞京が喜ばれたのは栄誉であったが、気がかりの諸点もあったので、5月3日、次の点を問い合わせ、あるいはお願いした。
 ①長井雅樂が俄かに帰府したことが、藩主の建白の旨が「未だ徹底致さざる」と評価された点をもっと詳しく教えて欲しい。
 ②世子に対し、藩主の深意に従い、公武間の周旋をせよと命じられたが、世子は未だ「部屋住み」の身であり、藩主と相談もしたいので猶予を与えて欲しい。
 ③浪士の取締りの件は出来るだけ行なうが、「意外の儀は、心底に任せざる候に付き、其の段悪しからず聞こし召さられ」て欲しい。ただ、浪士らの「非常の変」に際しては、薩摩と精々申合せ、宸襟を安んじるようにしたいとした。
 これに対し、中山忠能は5月5日、ふたたび浦靱負を召し、次の朝旨を世子に賜った。
一、 国忠の段御満悦の事、
一、 父朝臣(*藩主)深意に随ふ事、
一、 建白の旨趣未だ徹底致ず、御残念に思召し候事、
一、 浪士鎮静の事、(浪士達の勤王の精神は評価するが、関東とのやりとりの関係もあるから、朝廷の対処方針を待つようにとの事)
 この朝旨で、肝心な点は三番目なので、その項について全文を紹介すると、次のようになっている。

一、 建白の旨趣未だ徹底致さず、御残念に思召し候事、
右は長井雅樂半途にて、引戻しに相成り候は、全て関東に於て安藤対馬守(信睦)再出以下、事々(ことごとに)幕府不正に付いては、大膳大夫周旋の路(みち)も相塞(あいふさが)り候に付き、右周旋も辞退の由、就いて〔は〕関東え建白の趣意徹底致さず候て、忠誠も空しく相成り、御国是も相立ち難(がた)き段を御残念に思召し候事、
但し、長井雅樂差出(さしだ)し候建白の儀は、先の御国是(おんこくぜ)右様の御事にても之(これ)あるべき哉(や)、試(こころみ)に書取り差出し候迄の儀にて、朝議は勿論(もちろん)上(うえ)列藩(より)下(しも)蒭蕘(すうぎょう *卑しい者)に至る迄、高等の説(せつ)之(これ)有り候はば、其(その)説に随ひ違議(いぎ)之(これ)無き候旨(むね)言上候、但し、右建白中朝廷御処置(おんしょち)聊(いささ)か謗詞(ぼうじ *そしる言葉)に似寄(によ)り候儀も之(これ)有り、御懸念も在らせられ候得共(そうらへども)、是等(これら)は主人(*藩主)上京せられ候はは、委細に御弁解在らせられ候、然(しか)し開国航海の儀は、第一御国体変動容易ならざる儀に付き、軽易(けいい)に叡断(えいだん)遊ばれ難く、天下の衆議聞こし召され候上(うえ)の御事に之(これ)有るべきと、御沙汰在らせられ候事、 (同前 P.319)

 長井雅樂が公武周旋の中途で江戸に戻ったのは、毛利慶親の周旋ひいては藩の国是も貫徹しないものであり、大変残念である。しかも、雅樂の建白には朝廷を誹謗する言葉があり懸念するが、これも藩主が上京して弁解すればどうにかなるであろう。しかし、「開国航海の儀」は、国体の変動になるのであって簡単なことではなく、天下の衆議を聞いた上でなければ判断できないことである―と、これまでとは異なり、雅樂の『航海遠略策』への厳しい態度を露骨に示したのである。やはり、孝明天皇の頑迷な攘夷方針は、堅持されているのである。
 このことは、長州藩内部の『航海遠略策』をめぐる激しい抗争が、京都の公卿社会をも巻き込んで拡大され、久坂玄瑞らの工作が功を奏したのであった。雅樂の建白中の「謗詞に似寄り候儀」とは、「天朝御隆盛の時は、京師の鴻臚館(*外交施設)を建て置き候ことも之(これ)ある由(よし)に候へは、皇国の御旧法と申すにても之(これ)なく......」という文面を指し、「鴻臚館時代の往昔(おうせき)を今日の開港と同視したるは、朝廷の御処置を聊(いささ)か謗詞し奉(たてまつ)るに類似してゐるのみならず、開港は国体を変動せるものにして、軽易に裁断しがたきこと」(同前 P.219~220)というのである。
 これは、明白に言いがかりであり、長井雅樂失脚(朝廷への出入りを阻止)を狙ったケチ付けでしかない。
 京都でのこのようなやり取りが交わされていたのに、雅樂は露知らず4月22日に江戸に到着し、内勅を藩主にあげて復命していた。先の5月5日に中山忠能から渡された朝旨によって、玄瑞らの雅樂攻撃はますます激しくなる。
 こうして、藩主慶親は京都の情勢を耳にして自らの尊王の誠意が損なわれることを憂慮して、まず益田弾正に命じ、京都の浦靱負に「謗詞」の件を中山権大納言に謝罪させた。そして、遂に長井雅樂を謹慎させた。ついで、雅樂の処分を要路に審議させ、その結果6月5日、雅樂は老中格を辞めさせられ、謹慎し後命を待つべきとの処分を受けた。
 他方、たびたび長井雅樂弾劾の建白書を提出していた玄瑞は、ついに6月晦日から7月朔日にかけて、松下村塾の同志と雅樂を近江に暗殺することを計画する。しかし、この暗殺計画は失敗し、玄瑞は自訴して罪を待つこととなった。玄瑞は、京都藩邸で謹慎となった。この謹慎は9月15日に解かれることになるが、その謹慎中の7月4日、玄瑞は雅樂の処分が確定しないこと不服として、またまた雅樂弾劾の建白書を提出した。
 そこでは、「長井雅樂上を欺き国を売り、容易ならざる御当家の御危難を醸成し、恐れ多く九重の上(かみ)〔*皇居の天皇〕宸襟お悩み遊ばされ候程(そうろうほど)の大事引き起こし候次第言語に絶し、御厳命を以て切腹仰せ付けられざる候ては天朝御尊敬の御旨趣決して相立ち申すまじく候......」(福本義亮著『松下村塾偉人久坂玄瑞』P.514)と、雅樂の切腹を建言している。それなくしては、長州藩の天朝を尊敬する趣旨が立たないというのである。
 雅樂は6月21日江戸を発ち、7月21日に親族に監守されることとなった。長井雅樂が藩命により責任をとらされ、自決したのは翌1863(文久3)年2月6日であった。

注1)久坂玄瑞は、長井雅樂への批判を強めると同時に、松陰死後の松下村塾でその門下生と共に松陰思想を勉学し、また、「一燈銭(いっとうせん)申合(もうしあわせ)」を作って門下生の結束を強めた。「一燈銭申合」とは、「写本の筆耕料を積み立て、投獄された同志の救済や、『義士・烈婦』を顕彰する建碑を行うなどと謳(うた)っているが、集まった金銭は微々たるものであった。玄瑞の真の目的は、藩内同志の結束を確認することにあったのだろう。参加した者は、高杉晋作・入江杉蔵・佐世八十郎ら二十三名におよんだ。」(一坂太郎著『吉田松陰―久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」』朝日新聞出版 P.129)といわれる。

 (ⅴ)久光の「率兵上京」に焦る長州藩
 1862年2月から1863(文久3)年10月頃にかけて、京都・大坂・江戸などでは天誅旋風(テロと暗殺)が吹き荒れた。それとともに、張り紙や投げ文が行なわれ、幕府やそれに同調する公卿を批判する強迫政治、富商への恫喝と献金強要が行なわれた。
 二、三の例をあげると、1862(文久2)年2月、「和宮降嫁」に関係した者として、岩倉具視・千種有文・富小路敬直(たかなお)・久我建通(たてみち)および女官の今城(いましろ)重子・堀河紀子などが強迫され、辞官することとなる。九条忠尚も関白を辞し、出家した。7月には、九条家の家士・島田左近が薩摩藩士に暗殺され、首が先斗(ぽんと)町に晒された。左近は、井伊直弼の懐刀・長野主膳と協力して「安政の大獄」に活躍した人物である。1863(文久3)年1月、千種家の雑掌・賀川肇が京都の自宅で殺され、首を一橋慶喜の宿舎である東本願寺に、腕を千種邸と岩倉邸に投げ込まれた。これらはほんの一部であるが、詳しくは拙稿『攘夷の旗頭・斉昭と日本近代の序章』(労働者共産党ホームページ)を参照して頂けれ幸いである。狙われたのは、主に「安政の大獄」に協力した者と「和宮降嫁」に関係した公卿などである。しかし、中には軍資金要求を拒否した豪商もいた。
 井伊政権の強権政治・恐怖政治に代わって、急進的尊攘派の恐怖政治が京都を中心に展開されたのである。
 こうした荒れた政治状況の下で、1862(文久2)年3月、島津久光が兄斉彬の遺志を継いで、一千の兵を引き連れ「率兵上京」を行なうという情報を、久坂玄瑞は耳にする。久光は朝廷を動かし、朝廷改革や幕府政治の改革を狙ったのである。
 1862(文久2)年1月中旬時点で、大久保一蔵(*利通)が近衛父子に伝えた久光の朝幕改革構想の骨子は、次のようなものである。「攘夷実行を求める孝明天皇の意思に対して幕府は因循姑息であり、和宮降嫁はこのままでは幕府の朝廷に対する優位をもたらす危険がある。これに対抗して『皇国復古』するには武力の後ろ盾(たて)が必要であり、薩摩藩に対して『滞京守衛』の勅諚が下されるよう周旋してほしい。関白九条尚忠に代えて近衛忠煕(ただひろ)を関白に(*島津家と近衛家は深い姻戚関係)、また青蓮院宮(中川宮・尹宮〔いんのみや〕・朝彦親王 *孝明天皇と義兄弟)永蟄居(えいちっきょ)を解き朝議に参加させるべきである。将軍家に勅使を派遣し、一橋慶喜を将軍後見職に、越前前藩主松平慶永(よしなが *春嶽)を大老に任じるよう要請してほしい。」(高村直助著『小松帯刀』吉川弘文館 2012年 P.40)と。
 久光は、1862年3月16日、鹿児島城二の丸から京に向かい出発し、藩兵1000余を率い藩主の参勤行列と同様の形をとった。しかし、そこには野戦砲4門と小銃100丁が伴なわれたものものしいものであった。なお、久光は出発前の「三月十日、随行者に対して、『各国有志』との勝手な交際を禁止し違反者は処分するという諭告を発し」(同前 P.42)ている。
 久光一行は4月16日に入京し、その日に小松帯刀・大久保一蔵らと共に近衛家に参上し、中山忠能(ただやす)・正親町三条実愛(さねなる)・久世通煕(みちさと)の三議奏同席の下で、9カ条の朝幕改革意見書を提出した。その9カ条は、以下の通りである。

①粟田口宮(*青蓮院宮)・左府公(*前左大臣近衛忠煕)・鷹司公父子(*前関白の政通と前右大臣の輔煕)御慎(おつつしみ)解かさせられ、且(かつ)関東に於ける一橋・尾張・越前等御慎解之(これ)有り候様仰せ出でされたき事。
②右御慎解ノ上、左府公関白職仰せ出だされ、関東に於てハ越前前中将殿大老職ニ任せさせられたく、此儀(このぎ)ハ家格ニ付き先例ハ之(これ)無き筈(はず)ニ御座(ござ)候得共(そうらへども)、非常ノ時節、非常ノ処置(しょち)之(これ)有り候様仰せ渡されたき事。
③田安後見、名(な)有テ実(じつ)無き事御座候ニ付き、免許(*職をやめさせること)致し候様仰せ渡されたき事。
④安藤対馬守(*坂下門外で襲われた安藤信正)手疵(てきず)平癒(へいゆ)し、出勤仕り候由。是(これ)ハ天下ノ人心ニ関係仕り、然るべからざる事ニ御座候間、速(すみやか)ニ退職仕り候様仰せ渡されたき事。(幕府は4月11日に罷免している)
⑤久世大和守(*老中久世広周)早々上洛仕り候様仰せ渡され、前件ノ儀速ニ取行ひ候様屹度(きつと)仰せ渡されたき事。
⑥前件ノ儀仰せ渡されニ付(つい)テハ、恐れながら朝廷御威光(ごいこう)立たさせられず候デハ、幕役共(ども)遵奉(じゅんぽう)仕り候儀懸念(けねん)存じ奉り候間、大名二、三家エ御内勅相下(あいくだ)され、若(も)し幕役共違勅ノ趣(おもむき)ニ之(これ)有り候ハバ、速ニ弁責仕り候様仰せ渡されたき事。
⑦此(これ)已後(いご)ハ叡慮ノ趣(おもむき)浪人等エ相洩らさざる様、御取締り厳重御座(ござ)有りたく存じ奉り候事。
⑧浪人共ノ説(せつ)妄(みだり)ニ御信用(ごしんよう)在らせざる様存じ奉り候事。
⑨越前在職ノ上ハ上洛仰せ出だされ、将軍未(いまだ)若年ノ事候付き、非常ノ時節御懸念に思食(おぼしめ)され候間、一橋後見(こうけん)仰せ付けられ、朝廷尊崇ノ道、関東に於て精々(せいぜい)尽し奉り、邪正ノ弁(わきまえ)明白ニ相立て、外夷御処置、天下ノ公論ヲ以て、永世不朽ノ明制(めいせい *私のない公明な法制)定めさせられ、皇威海外ニ振るわせられ候様罷(まか)り成りたく、恐れながら存じ奉り候事。
             (日本思想大系56『幕末政治論集』P.227~228)

 これに対して、「早速同日、『浪士共(ども)蜂起、不穏の企(たくら)みこれ有り候処......和泉(*久光のこと)当地滞在、鎮静これ有り候様』(『玉里島津家史料〔鹿児島県〕史料』一)との勅諚が下され、これによって久光の率兵上京は正当化された」(高村直助著『小松帯刀』 P.45)のである。
 この勅命が下された数日後の4月23日、寺田屋事件が起こり、尊攘激派の有馬新七・柴山愛二郎・橋口壮介・橋口伝助・弟子丸龍助の5人が上意討ちとなり即死した。他にも数十人が薩摩藩邸に連行され監禁された(この中には土佐藩の吉村虎太郎・宮地宜蔵などもいた)。田中謙助は、藩命で切腹させられた。鎮撫使の側でも、道島五郎兵衛が即死し、即死者は計6人、重傷者は2人となった。
 集まった有志は薩摩藩の者だけではなかったが、彼らは関白九条尚忠や京都所司代・酒井忠義を襲撃し、義挙の魁(さきがけ)になろうとしていたのである。この上意討ちにより、薩摩藩の急進的尊攘派の首脳部は壊滅するのであった。(西郷隆盛は、久光一行の先発として、九州諸藩の動向を調べ、下関で待機するように命じられたが、急進派の暴発を鎮めようと無断で大坂に向かった。これが誤解され、隆盛は4月10日、二度目の流刑処分となった。)
 久光の意見書にもあった江戸への勅使派遣は、5月中旬になってようやく決定した。これにともない、久光が勅使に随行することも決まった。 
 この決定の直前、5月11日、孝明天皇の勅書は、勅使をして幕府に伝達させる三事策について朝臣に下して諮詢(しじゅん *相談すること)した。その三事策とは次のようなものである。
 
①其(その)一に曰(いは)く、大樹(*将軍)大小名を率ゐて上洛し、国家を治め夷戎を攘(はら)ふことを議し、上(うえ)は祖神の宸怒を慰め、下は義臣の帰嚮(ききょう  
 *心を寄せること)に従ひ、万民和育の基を啓(ひら)き、天下を泰山の安き〔*ゆるがぬ泰山のように安定させること〕に於て比せしめん〔*同類のものにさせる〕と欲す。
②其二曰く、豊太閤(*豊臣秀吉)の故典に依り、沿海の大藩五国をして五大老と称し、国政を咨決(しけつ *相談)し夷戎を防禦(ぼうぎょ)するの処置を為(な)さしむれば、則(すなは)ち環海の武備堅固(けんご)確然(かくぜん *しっかりとした)、必ず攘夷の功有らん。
③其三曰く、一橋刑部卿をして大樹を援(たす)け、越前(えちぜん)前中将大老職に任じ、幕府内外の政(まつりごと)を補佐せしめば、当(まさ)に左衽(さじん)の辱(はずかしめ)〔*左衽は夷狄の衣服の着方であり、屈辱の表現〕を受けざるべし。
此れ万人の望み、恐らくは違(たが)はざらん。朕(ちん)が意、この三事に決し、是(これ)を以て使いを関東に下す。蓋(けだ)し幕府をして三事中の一を選びて以て行(おこな)はしめんと欲す。是(これ)を以て周(あまね)く群臣に詢(と)ふ。群臣忌憚(きたん *)する所無く、各(おのおの)心丹(しんたん)を啓沃(けいよく)し〔*心に思う処を説いて、君主の心に注ぎ込むこと〕、宜(よろ)しく?言(とうげん *正しい言葉)を奏すべし。        (同前 P.230)

 三事策は、以下のようにそれぞれを採用したものである。①は、長州藩の桂小五郎が岩倉具視や千種有文に説いたもの、②は岩倉具視などの考え、③は薩摩藩の島津久光の主張である。②の岩倉の考えは、藩名を特定していないが、狙いは薩・長2藩の独走を避けるためである。①は、国家を治め夷を攘い、安定した皇国の建設を強調したもので、③は、幕政改革を主眼としたものである。ここに、薩・長の2藩の違いが明らかになりつつあったのである。長州藩は薩摩藩への立ち遅れを取り戻そうと、その違いを攘夷に求め、シャニムニ攘夷を押し立てることとなる。
 この三事策は、岩倉具視・中山忠能・正親町三条実愛によって作られた勅書(字句修正はあったと思われる)として、5月20日に、大原重徳(しげとみ)に授けられた。
 1862(文久2)年5月22日、島津久光は勅使大原重徳を押し立てて京都を発ち、6月7日、江戸に入った。

 (ⅵ)幕府側のゴタゴタ
 これを待ち受ける幕閣は、事前に手を打っていた。1862(文久2)年5月7日に、松平慶永に政務参与を命じ、5月9日には、将軍後見職に就いていた田安慶頼を免じていた。後者の問題は、将軍がすでに成人したから後見職はいらないという、京都向けの作戦である。
 また、慶永(春嶽)の意見により、長州藩の建議を採用して、将軍家茂の上洛を決定してこれを6月1日に公表した。6月2日には、久世広周が辞任し、幕閣は水野忠清が老中首座となる。しかし、その実権は板倉勝静がもち、水野・板倉政権となった。(この時の老中は、水野・板倉と脇坂安宅・松平信義)
 6月10日、大原勅使は江戸城に上り、白書院で将軍に面会した。そこで勅使は、次のような勅諚を伝宣した。

外夷の事ありしより、神宮(*天照大御神)・御代々に対せられて恐(おそれ)多ければ、叡慮御憂苦を絶えさせられず、何とぞ外夷を拒絶せんと思召(おぼしめ)されども、公武一和ならでは成りかぬるにより、和宮を御降配(*「降嫁」のこと)遊ばされて、一和を天下に表したれば、十年内には必(かならず)掃攘(そうじょう *はらいのぞく)あるべき事と叡慮を安(やす)んぜらる。扨(さて)当春松平大膳大夫(*毛利慶親)公武の間に立ち、天下の為(ため)に周旋せしに、豈(あに)料(はから)んや西国・中国の浪士ども蜂起して、容易ならざる事を唱へ、既に天下の乱にも至るべき形勢なりしを、島津三郎(*久光)程(ほど)よく鎮静したれども、原来(がんらい)外夷の事より起りたれば、外夷の事定まらずんば実に治まりたるにはあらず、因(よ)りて深く国難の増長せるを歎き思召さる。国難なければ天下幸福なり、天下の幸は徳川家の幸なり、徳川家幸なれば朝廷の御安心は申すに及ばず。故に深く宸衷(しんちゅう)をめぐらされ、数々御廟算(ごびょうさん *朝廷の計画)在(あ)らせらるる中にも、人選登庸(登用)を最上と思召さるるが故に、此(この)趣(おもむき)を仰出(おおせいだ)さる
  (『徳川慶喜伝』2 P.32~33)

 国難を除くことが天下の幸福であり、そのための算段をいろいろ朝廷はもっているが、人材登用が今、最も重要と考えている―と述べる。続いて「一橋後見の事、頃日(けいじつ *近頃)大樹公(*将軍)年頃に付き、田安大納言免ぜられて間もなき事なれば、名目は輔弼(ほひつ *輔佐)にても、其実(そのじつ)は後見として政事を御談合あるべし。又(また)大老は家臣の事にて、越前は家柄(*一門であること)なれば名目差支(さしつか)へば、政事総裁職と称すとも、其実は大老職にて政事を取計(とりはか)らはるべし。」(同前 P.33)と命じた。
 しかし、幕府側はもたもたし、なかなか意見がまとまらず、6月13日、大原勅使は再び登城し、勅諚への回答を促した。しかし、老中らは決まりきった答でお茶を濁した。すなわち、"将軍が長じたので後見職はもう必要はない、慶永(春嶽)は政務参与に就いているので事実上、大老と同じ任務に服しているので改めて大老と称するのに及ばない"―というのである。
 今回の勅使は島津久光の私益を狙って組織されたものであるという情報も朝廷から漏れてきたり、また、越前藩からも"大老職は譜代の職なのであり、一門たる越前藩が受けるべきでない"という形式ばった反対もあった。
 これらに対し、久光は"今日非常の際に、先例や典故に縛られるべきでない"と、幕府側を説得し、勅諚に答えるべきと工作した。
 6月18日、大原勅使は三度(みたび)登城し、回答を迫った。この時、老中たちは慶永の政事総裁職への就任は受け入れたが、一橋慶喜の将軍後見職にはあくまで拒否した。しかし、慶永は政務参与に就いて以来、さまざまな幕政改革を主張し、慶喜の将軍後見職に登用することを主張してきた。それにもかかわらず、老中たちが余りにも因循(いんじゅん *古いしきたりにしがみつき、煮え切らない)なので、遂に役職辞退を決意して、この日から登営しなくなった。老中たちはいろいろの手段を尽して慰留に努めたが、慶永は6月23日に政務参与辞任の願いを提出した。
 久光や薩摩藩は慶永を慰留するとともに、一橋慶喜の後見職就任の回答を迫り、ついに政治的な強硬手段を採るようになった。「左衛門督(さえもんのかみ *大原重徳勅使)も之(これ *薩摩藩の圧力)を卻(しりぞ)くることを得ず、二十六日再び脇坂・板倉の両老中を招きて其(その)即答を促せり。此時(このとき)大久保一蔵(*利通)等(とう)密に謀りて、死士三名を隣室に伏せ、『老中もし勅旨を拒まば、大原卿は座を立ちて隣室に出づべし。それを合図に老中の座に闖入(ちんにゅう *突然、無断で入りこむこと)し、違勅の罪を鳴らして忽(たちま)ち天誅を加ふべし』と諜(しめ)し合せたり。斯(か)くて老中等は尚も承引の気色なかりければ、左衛門督は座を起つべき最後の一言として、『愈(いよいよ)御請(おうけ)なきに於ては、禍害(かがい)立所(たちどころ)に足下(そっか *貴殿)の身に及ぶべし』と?言(ようげん *声を張り上げてわざと人に知れるように言うこと)したるに、老中も已(や)むことを得ず、遂に命を奉ずべしと答へたり......。斯くて両人は承服したれども、左衛門督は尚(なお)未だ安んぜず、薩藩士も亦(また)幕議の反覆(はんぷく *本へ戻すこと)を恐れしかば、二十七日同藩の壮士十余人(海江田武次〔信義〕・奈良原喜左衛門〔清〕等其〔その〕首謀者たり)老中退営の鹵簿(ろぼ *身分の高い者の行列)を観ると称し、三々五々列を為(な)して江戸城の桔梗門外を徘徊(はいかい)せしかば、幕府は疑懼(ぎく *疑いおそれること)して、急に老中退出の時刻を晩(おそ)くしたり。此(この)示威運動も亦(また)図に当りて、勅旨遵奉の幕議を決するには多少の効果ありしなり......。」(同前 P.38~39)と言われる。
 薩摩藩の"目的のためには手段を選ばず"という政治手法は、その後の重大局面では繰り返し行使されている。1)
 6月9日、大原勅使は4度目の江戸城登城をし、"朝命遵奉を承知しないと、生きて再び帰らじ"と決意を述べた。こうして、ようやく老中たちは異議を唱えなくなる。7月1日には、大原勅使は5度目の登城をし将軍と面会する。そこでようやく将軍の口から、"一橋慶喜を将軍後見職へ、松平慶永を政事総裁職に登用し、政事向き万端朝廷に相談あるべければ、この旨(むね)奏聞する"と、答えている。(この間、幕府は6月27日に、京都守護職を新たに設置し、京都所司代をその支配下に置いた。6月30日には、京都所司代の酒井若狭守〔忠義〕を罷免した。)
 こうして幕府は、7月6日に、隠居になっていた一橋慶喜に再び同家を相続させ、将軍後見職に任命した。松平慶永はこの間(かん)登営していなかったが、政治ブレーンの横井小楠がやっと7月6日に江戸に到着し、これと相談した結果、政事総裁職に就任することを決意した。幕政改革のための積極策に転じたのである。幕府は、7月8日に慶永を政事総裁職に任命した。
 この頃、慶永は幕政改革の構想として、小楠の献策に基づいて、以下の「国是七条」を切り札とした。

一(第一条)大将軍上洛して列世の無礼を謝せよ。
一(第二条)諸侯の参勤を止めて述職(じゅっしょく)と為(な)せ。
一(第三条)諸侯の室家を帰せ。
一(第四条)外藩・譜代に限らず賢を撰び政官と為せ。
一(第五条)大いに言路を開き天下とともに公共の政を為せ。
一(第六条)海軍を興し兵威を強めよ。
一(第七条)相対(あいたい)交易を止め官交易と為せ。

 第一条は、幕府のアメリカなど西洋諸国との「開国」・通商関係が、朝廷などとの討議を経た上での「公論」として行われたものでないこと、幕府の都合による自分勝手なものであることから、「列世の無礼を謝せよ」となっている。
 第二条・第三条は、参勤交代制が諸大名の財政を圧迫させているので、これを緩和し、述職(大名は在府中登城して、領内の政務に関して報告すること)制度に代えることを主眼としている。参勤交代制が将軍家を護衛することを名目に、実際は主に人質制度となっているので、述職制度に代えると人質としての大名妻子は江戸に居る必要はなく、国元に返すことも勝手となる。しかも、一般大名の場合、3年に一回の参勤で在府期間は約3カ月と短縮される。これにより、在府期間だけで経費は6分の1に減少される。そのうえ、人質の帰国が加わればさらに減少する。それで浮いた経費は、軍備充実にまわせることとなる。一石二鳥である。
 第四条・第五条は、政治の質的転換を狙ったものである。江戸時代の身分制からして、能力のない者でも当然のごとく重要な役職を占めることとなる。この身分制がもたらす弊害を除去するために、徳川時代は家老職をはじめとして複数制をとった。だが、それでも賢人を登用する点は改善されていない。もし、賢人を異例に抜擢すると武士階級内の諸階層から不満や意見が出て身分制そのものが維持できなくなるであろう。(この点で、私的主従制原理〔封建制〕をとらない君臣制原理の中国専制国家では、君主の考え一つで賢人の異例な抜擢は可能である。賢人探しは、君主の重要な仕事である)
 身分ではなく賢人か否かを選抜の基準とすることは、小楠の場合、「言路をひらき天下とともに公共の政」を行なうことと深く結びついている。小楠の場合、その政事参加者が限ぎられている点で致命的な限界性をもつ(今日のような主権在民制ではない)が、少なくとも幕府とか朝廷とか、諸大名に限定されないで、天下の賢人によって「公共の政」をする道が開ける。
 第六条は、阿部正弘政権下では、海軍養成はそれなりに進められていたが、井伊政権下でそれは停止させられた。それを再び復活させようというものである。
 第七条は、西洋流の相対貿易を止めて、官貿易とする―すなわち、国家が貿易統制をするというものである。これは、長崎の出島貿易が、一種の朝貢貿易(日本型朝貢貿易)であったことに比較すると、質的に異なるものである。従って、そこでは華夷秩序は無くなっている。だが、彼我の経済力の差を考慮すると、過渡的には官貿易を行ない、その後着実に「相対貿易」にするとすれば、それは経済混乱をあらかじめ防ぐ現実的な方策であろう。
 小楠の草稿では、この7カ条以外にも「金銀銅座を廃し、貨幣を公にせよ」(貨幣政策の統一)、「天下の金鉱を開け」があるが、この二ヶ条は他日を期したと思われる。
 横井小楠は、多くの幕末儒学者やその影響を受けた幕末の志士とは異なり、将来日本を天皇制支配の国家にしようとは思っていない。むしろアメリカ共和制やイギリス議会制を評価している。小楠の場合、何故そうなったのであろうか。
 小楠の思想形成の進展の観点からみると、攘夷思想からの大きな変化は二つ挙げることができる。一つは、"農を本(もと)とし商工を末とする"儒教からの脱却である。
 1855(安政2)年、小楠は魏源の『海図図志』を読んで、西洋諸国への肯定的評価と「開国」論に転じたと言われる。その年、小楠は熊本藩にあてた建白書で、「西洋諸国の事(こと)粗(あらあら)承(うけたまわ)り候には彼の国々経済第一と仕(つかまつ)り候は、土地より生ずる物と掘出する物と并(ならび)に諸工を集めた工作場をこしらへ諸物を製造せしめ、此(こ)の三つの利を以て国計(*国家財政)といたし候故官府(かんぷ)何方(いずかた)も富有(*富裕)に之(これ)有り、民百姓を累(わず)らはさずして大砲・軍艦等莫大(ばくだい)の費(ついへ)を能く弁(わきま)へ候事に承り候」(『横井小楠遺稿』日新書院 1942年 P.84)と言っている。
儒教の農本主義に対し、小楠は農業とともに鉱業そして製造業の重要性を理解できていたのである。
 二つ目は、討論(言路開通)を通じた「公共の政」を作り上げようとしたことである。ほとんどの人士が天皇制の確立によって日本国内の人心を統一し、外敵に対処しようと考えていたのに対し、小楠は「公共の政」によって、国内を統一させようとした稀有な思想家である。2)
 小楠は、1856(安政3)年12月21日付けの村田氏寿宛ての書簡では、「政事何ぞ変動の事、総て学校に下し、衆論一決の上にあらざれば、決して国王政官の所存(しょぞん)にて行ない候義は相成(あいなり)り申さず。将又(はたまた)執政大臣等要路の役人、是又(これまた)一国の公論にて黜陟(ちゅっちょく *無能の者を退け功労ある者を登用すること)いたし候由(そうろうよし)。」(日本思想大系55『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内』P.479)と、公論にもとづく政治を述べている。
 また、1860(万延元)年に書いた『国是三論』では、「英吉利(イギリス)に有っては政体一に民情に本(もと)づき、官の行ふ処(ところ)は大小となく必悉(ひっしつ *すべてかならず)民に議(はか)り、其(その)便とする処に随て其(その)好まざる処を強(し)ひず。出戎出好(しゅつじゅうしゅっこう *兵を出すことと和親を通ずること)も亦(また)然(しか)り。」(同前 P.448)と、民意にもとづく議会政治を大いに評価している。
 さらに、大政奉還後の政治制度としては、「一大変革の御時節なれば、議事院建てられ候筋(そうろうすじ)尤(もっとも)至当也。上院は公武御一席、下院は広く天下の人材挙用。」(「新政に付て春嶽に建言」―同前 P.466 慶応3(1867)年11月3日)と、上院・下院の議事院を建て、「議政」と「行政」の分立を主張している。
 これらは、単に議会制度の導入を図ったというだけでなく、その議会政治が民意に基づいて運営されるべきとしている点が出色である。
 儒学から出発した横井小楠が、その観点を維持しながら西洋の学問を吸収して、このような結論に到達していることは異例なことである。そして、"堯舜三代の治"は西洋諸国にあるとして、「勿論(もちろん)其(その)人々相互の講習討論は尤(もっとも)盛(さかん)に行れ、面々所見(しょけん)殊(ことなり)候共〔*他人と意見が違っても〕、遂には一本の大道に帰し申すべく候。是(これ)則(すなわち)舜の開四門達四聰〔*広く天下万民に聞いて君主の耳をふさがぬようにすること〕の道にして、天下の人才と天下の政事を共に致し、公平正大、此(この)道を天下に明にするは此外(このほか)に道は之(これ)なく候。」(日本思想大系55―小楠の「立花壱岐宛て書簡」P.476)と述べている。
 「国是七条」は、いずれをとっても至難のものであるが、しかし、幕府首脳部はこの改革案に対して消極的であり、冷淡であった。そこで、慶永(春嶽)は8月24日に、またもや引籠りになってしまった。3)
 その後、小楠は幕府要路を説得した。これにより8月28日、大久保忠寛(一翁)は小楠を呼び寄せ、"幕閣が「国是七条」を認めることとなったので、速やかに春嶽に出仕するよう説得してほしい"と申し入れた。こうして、慶永は小楠の意見をいれて、閏8月6日から登城するようになった。この日、参勤交代制度が述職制度に代えることが、幕議で決まった。この決定は閏8月15日、諸大名を集めて知らされ、併せて各藩の武備を充実するように命令された。あわせて、幕府への進献の軽減と、老中・若年寄への進物(しんもつ)も全廃となったことが申し渡された。
 第一条の将軍上洛については、小楠は幕府がいくら公武一和をかかげても、尊王の誠を実際に行為で示さない限り、不可能と幕閣を説得した。この結果、老中たちは"明年2月1日に将軍を上洛させる"ことで意見が閏8月11日ころに一致し、9月7日に正式に発表された。
 これら一連の説得工作で小楠は一橋慶喜をはじめ幕府要路に高く評価された。水野忠精や板倉勝清などは、小楠を幕府のブレーンとして登用させるべきとして、その申し入れを行なった。しかし小楠はこれを辞退している。その理由ははっきりしない。
 今回の勅使東下で朝廷・久光側は、当初の"慶喜を将軍職へ、慶永を政事総裁職へ"という人材登用を成功させた。しかし、そのやり方が余りにも強引であったため、幕政改革を嫌う因循姑息な老中たちとの関係を悪化させた。
 越前藩の家老・中根靱負(雪江)もまた、"今度の大原勅使は頑固で見聞が狭く古臭い強情(ごうじょう)の激烈家で、三百年来の幕威を挫(くじ)き皇威を関東に輝かさんとして、薩州の兵力を背景に勅使の権威を誇示し、老中らを指して家人(けにん *家臣)の如く扱い、幕府役人に至ってはほとんど奴隷に等しい有様である。そして、慷慨(こうがい *正義にはずれたことを悲しみ憤慨すること)激論し、罵辱(りじょく *ののしり辱しめること)口に任せ、聞くに堪(た)へざること多々にわたった"と述ベている。
 だが、今回の勅使下向は、いずれにしても幕府の権威をまた一歩大きく衰退させたことは明らかである。幕府の人事に朝廷が介入し、しかも実質は一外様大名の薩摩藩が朝廷の権威をかり、また自らの権力を背景にして介入したのである。徳川政権初期に制定された公家諸法度は、これにより完全に形骸化した。

注1)1967(慶応3)年12月9日、王政復古クーデターが薩摩藩の武力を露骨に示して成り立ったものであることは有名なことである。しかし、今回の大原勅使を擁した久光が、幕府に出府許可申請した際の理由は、藩主が参勤延期になっていることのお詫びであったが、その延期は藩邸が焼失したためとされた。だが、その焼失は家臣の堀小太郎(後の伊地知貞馨)が理由作りのために放火したことが後に露見する。薩摩藩の伝統ともいえるマキアヴェリズムである。
 2)尊攘派から毛嫌いされたのは、桂小五郎の次の言動からも明らかである。1862(文久2)年9月3日、桂は越前藩の中根靱負(雪江)に会い、「......近来世人、横井小楠を〔指して〕彼人(かのひと)ハ勤王の志なし、斯(かか)る人か(が)越前公の参謀とありてハ天下の為(た)め然るへからす(べからず)なと(など)評し合ひ其中(そのなか)壮年の輩ハ今後途中に於て出会(であい)なハ容赦なく刺殺すへしと申し居り、又(また)熊本藩士中にも横井ハ本藩人刺し殺すへし、決して他藩人の手を仮(か)らすと申す輩あるよしなり、されハ此節(このせつ)横井ハ他出なき方(ほう)然るへし」(『続再夢紀事』一 P.75~76)と、恫喝まがいの「忠告」をしている。
 3)その後の幕政改革は、主なもので参勤交代制の緩和ぐらいで、他は細かなもので余り進展していない。 

 (ⅶ)藩是を転換し巻き返す長州藩
明らかに長州藩は、薩摩藩の公武合体策に立ち遅れた。競争意識の強い(功名心の強い)長州藩はこれを挽回するために、攘夷方針を先鋭化し、果敢に朝廷工作をすすめる。このために、長州藩は1861(文久元)年3月に、長井雅樂の「航海遠略策」を藩是にしていたのを1862(文久2)年7月には破棄し、藩是を「破約攘夷」に切り替える。
 藩主慶親は、6月6日、大原勅使が江戸に着く直前、面談を避けるかのように中山道を通って、西上した。桂小五郎は世子定広の命を受けて、藩主一行を途中で迎え、京都の情勢を報告して、藩の方針を検討する任務を下された。小五郎は、「......六月二〇日、中山道中津川駅で藩主一行と合流した。その夜から藩主のもとで、益田弾正・浦靱負・林主税・兼重譲蔵らの重臣に小五郎も加わって、三日間におよぶ密議のすえ、ついに公武周旋という従来の路線を破棄することになったのであった。/こうして小五郎は六月二八日に帰京、藩主一行は七月二日に入京した。......七月五日、小五郎と周布と中村九郎兵衛が他藩との外交折衝の任にあたることを命ぜられた。/翌六日、藩主・世子、支藩の徳山藩主毛利玄蕃(げんば)、老臣の毛利伊勢・益田・浦、それに林・周布・兼重・井上小豊後・宍戸九郎兵衛・山田宇右衛門・中村九郎兵衛・桂小五郎・来原良蔵・竹内正兵衛らによる藩論決定がひらかれた」(大江志乃夫著『木戸孝允』中公新書 1968年 P.86)のであった。
 長州藩の路線を大きく変える会議には、これらの他に、当役・益田弾正に随行する政府諸役に加え、当職手元役・御備場用談役・学習院用掛・銃陣教授方と、当時在京の主だった役職者が列座した。「そこで毛利敬親(*慶親)から、『御信義を以て、叡慮の向ふ処御丹精抽(ぬき)んでられ御周旋成らるべく、眼目の御旨意(ごしい)其余(そのあまり)略(はかりごと)此段(このだん)御決心の段』が宣言される。その『御決心』に到る激しい議論の過程では、『藩士多数の向背(こうはい *従うこととそむくこと)』が問題となったことも指摘されている(*井上勝生著『幕末維新政治氏の研究』塙書房)。広く藩士層を巻き込んで拡大した政治論議は、近世社会をその政治構造から揺るがすうねりとなって、彼らを藩政意思決定の場に押し上げようとしていた」(上田純子著「長州藩の国事周旋と益田右衛門介」―『幕末維新の政治と人物』有志社 2016年 に所収)といわれる。
 長州藩の朝廷への猛烈な巻き返し工作、勤王の志士たちのテロなどにより、久光たちが京都を留守にしている間に、朝廷では明らかに急進的尊攘派の公卿たちの勢いが盛り返してきた。
 1862(文久2)年8月21日、久光は大原勅使に先立って、高輪の藩邸を出発し京に向かった。だがその日、途中の武蔵国橘樹郡生麦村で「生麦事件」が引き起こされる。 
 当時、上海から横浜に来ていたイギリス商人リチャードソン、香港から来ていたボロデール夫人、横浜在住のウッドソープ=C=クラークとウィリアム=マーシャルの4人が街道を乗馬してやってきたところ、久光一行の行列と遭遇する。「わき(*脇)へ寄るようにと注意されたので、道路わきを進んでゆくと、久光の乗っている駕籠がみえてきた。こんどは引き返すようにと命じられたので、そのとおり馬の首をめぐらそうとしたとき、突然、行列中の数名の者が大刀をふるって斬りつけてきた。リチャードソンは瀕死の重傷を負って落馬し、薩摩藩士によってとどめをさされた。他の二人も重傷を負った。ボロデール夫人のみ、無事、横浜に帰りつき、急を居留地の人々に伝えた。」(小西四郎著『日本の歴史』19開国と攘夷 P.277~278)といわれる。
 話を来た居留地の外国人は憤激し、各国施設や艦隊司令官などを訪問して強硬態度をとるよう要求した。だが、イギリス代理公使ニールは自重説を唱え、この日軍艦2隻を率いて入港した提督キューバ―と協議して、外交交渉で事態を収拾する方法をとることした。
 閏8月6日、勅使大原重徳が京都に到着し、補佐役の久光も翌日には京都に入った。久光は、今回の勅使補佐の功を認められ褒(ほ)められる。久光は、公武合体を大事にすべきことを議奏・伝奏を通じて言上する。その中には、「幕府既に一橋・越前を登庸(登用)し、大政を変革すべしとの詔(みことのり)を遵奉したる上は、朝議確乎(かっこ)として動揺し給(たま)ふべからず、又(また)匹夫(*急進的尊攘派を指す)の激論一切御採用あるべからず、徐(おもむろ)に関東の処置を御観察あるべし。......」(渋沢栄一著『徳川慶喜伝』2 東洋文庫 P.99)との文言もあった。
 しかし、長州藩はこれに激しく反発する。毛利慶親は家臣を近衛関白の邸に派遣し、「叡慮の決定は、戊午(ぼご)以来聊(いささか)も御動(おゆる)ぎ遊ばされざる処(ところ)、御深衷を察し奉らず、今尚(いまなお)破約攘夷の国是に御疑(おうたがひ)もあらせらるるかと忖度(そんたく)する者あり。されども大膳大夫(*慶親)父子に於ては、追々(おいおい)仰せ出されたる勅諚(ちょくじょう)?(ならび)に御沙汰書の趣、全く破約攘夷の叡断(えいだん)なりと窺(うかが)ひ奉れば、断然独立して力を此(これ)に尽さんとす」(同前 P.99~100)と言上させた。そして、朝議で「破約攘夷」を確定するようにと働きかけたのである。長州藩の薩摩藩に対する対抗意識はなみなみならぬものがあった。
 この頃、土佐藩もまた、「五畿一円を御領(*朝廷領)とし、朝廷の基礎を定めたる上にて、断然攘夷の勅を下すべき事。参勤交代の制を改めて、諸大名の困弊を救ふべき事。政令一切朝廷より施行し、諸大名も京都へ参勤すべき事。内勅を諸大藩に下して、闕下(けっか *天皇)を警衛せしめたる後、勅使を関東に遣はすべき事。」などを提起し、「今方(いままさ)に神州英武の気を挽回し、皇権を恢復(かいふく)するの大機会なれば、速(すみやか)に決行せられんことを請ふ」(『徳川慶喜伝』2 P.100)と建白した。これは、土佐勤王党の武市半平太が起草したと言われる。ここでは、既に「王政復古」を明確にしている。
 これらに対して、島津久光は閏8月21日、近衛関白に12カ条の方策を含んだ長文の建白書を提出した(全文は、日本思想大系56『幕末政治論集』P.241~246)。この12カ条を要約すると、以下のようになる。
①朝廷は姦党の邪謀に惑はされず、関東の威勢に恐れず、廷議確乎(かっこ)として動揺せざるやうなしたき事。
②九条前関白を責罰したき事。
③匹夫の論は激烈に過ぎ、且つ己(おのれ)が名利の為(ため)にするもの多ければ、猥(みだり)に採用せざるやうなしたき事。
④親王・摂家を始め、公卿一般、皆(みな)忠誠の心を以て奉公し、猥に匹夫の輩(やから)に面談せざるやう、厳に取締りたき事。
⑤青蓮院宮(*後に中川宮)を還俗(げんぞく)せしめ、政事(政治)相談ありたき事。
⑥公卿等の黜陟(ちゅっちょく *退けることと昇進させること)につきては、たとひ関東より異議を申立(もうした)つとも、朝議動揺せざるやうになしたき事。
⑦禁裏(きんり *御所)六門の警護を撤し、更に二、三の大藩に命じ、交代して禁闕(きんけつ *御所の門)を守護せしめ、会藩(*会津藩)の京都守護は免ぜられたき事。
⑧何事によらず、関東へ命ぜられたる事どもは、御請(おうけ)の後(あと)遅延に及び勝(がち)なるが故、時々御催促ありたき事。
⑨刑部卿(*一橋慶喜)・春嶽(*松平慶喜)等既に登庸(登用)したけれども、老中以下諸有司は、政権の両人に帰するを好まざるに似たり、両人に政権なくては、勅命通りの変革行はれざれば、両人に政権を委任するやう、此際(このさい)きつと御内命ありたき事。
⑩春嶽上京猶予(ゆうよ)の請願あれども、尚之(なおこれ)を督促し、上京の上は攘夷の事につきての謀議ありたき事。
⑪諸大名等縁辺(*縁故)を求めて、国事周旋を請ふ者多けれども、よく其(その)趣意を糺(ただ)し、実心勤王なるに於ては内命を下さるべきも、目下関東に於て大政変革の際なれば、差当(さしあた)りて上京せしむべき必要なきが故に、其旨(そのむね)御沙汰ありたき事。
⑫攘夷は方今(ほうこん *現今)の一大事なれども、関東に於て既に外国と条約を取替(とりか)はしたるを、謂(いは)れなく破棄を命ぜらるるも遵奉(じゅんぽう)し難(がた)かるべし、且(かつ)昇平(しょうへい *豊かに栄える太平の世)久しく驕惰(きょうだ *たかぶって事をおこたること)の風習改まらざるに、攘夷を決行するは全く無謀の挙なり。寧(むし)ろ関東をして旧政を一新し武備を充実せしむるやう、お世話あらせられたき事。

 12カ条の方策での眼目は、一つ目に急進的尊攘派を採用しないこと、二つ目には、「攘夷を決行するは全く無謀の挙なり。寧ろ関東をして旧政を一新し武備を充実せしむ」ことである。もちろん、一つ目と二つ目はきわめて密接な関係にある。久光は幕府の旧政の一新を求めるが、攘夷にはまだ早く武備の充実が先決という態度である。したがって、攘夷の決行を最優先とする長州藩とは鋭く対立するのであった。
 だが、久光はこの後、帰国の途につくこととなった。重要局面でのこの帰国については、首をかしげざるを得ない。だが、研究者によればその理由は、①急進的尊攘派が朝廷内でも伸張し、久光が嫌気をさしたこと、②「生麦事件」の結果、本拠の薩摩がイギリスなどの艦隊によって襲撃されることを恐れたこと―などが挙げられている。
 1862(文久2)年閏8月24日、土佐藩主・山内豊範は重臣を従え、河原町の長州藩邸に毛利慶親を訪問し、「破約攘夷」を嘉納する勅書を示され、ともに攘夷のために協力することを誓い合ったと言われる。攘夷勅使を新たに江戸に派遣する問題は、この頃から起っているようである。「半平太(*土佐勤王党の首領・武市半平太。端山)は、九月十六日夕刻、小南五郎右衛門とともに薩摩藩士本田弥右衛門宅に出席した。長州藩からは前田孫右衛門、宍戸九郎兵衛、久坂玄瑞、佐々木男也(おなり)ほか一名の五人、薩摩藩からも村山斉助、藤井良節が来会し、都合十人で勅使問題を合意した。のちに実現する攘夷勅使として三条実美(さねとみ)、姉小路公知(きんとも)の二卿を特命するまでには異論が続出したが、ようやく三藩会議で薩摩藩が長土両藩の主張に折れたために決定を見た。『武市端山在京日記』には、『勅使の一件、談合一定す。酒肴など出し更(ふ)けて帰る。三藩和合、議論一定、愉快千万なり』とその喜びを記している。」(入交好脩著『武市半平太』中公新書 1982年 P.85~86)のであった。
 この2日後の9月18日、「薩長土三藩主上書」なるものが、関係する公卿に提出された。その文面は、以下の通りである。

先年以来(いらい)外夷跋扈(ばっこ)、未曾有(みぞう)ノ御国辱ニ付(つい)テハ、神宮(*天照大御神)を始め奉り御代々様ニ対せられ、宸襟(しんきん *天皇の心)御悩(おなやみ)在らせられ候御儀、今更(いまさら)申上げモ恐れ多く存じ奉り候。然処(しかるところ)、追々正邪ノ弁(*弁別)相立ち、御有志の御方(おかた)御慎解(*慎みの処分が解除)相成り〔*いわゆる「違勅調印」に抗議した一橋慶喜ら、ならびに青蓮院宮・鷹司政通らの処分解除を指す〕、且又(かつまた)三藩出張(しゅっちょう)士気奮励候儀、千歳ノ一時〔*千載一遇の好機〕、此機(このき)失ふべからざる事ニ候。元来(がんらい)一橋・越前等再出ノ段、勅諚ヲ以て仰せ出だされ候〔*大原勅使の伝宣のこと〕儀、偏(ひとえ)ニ関東に於て有司共(ども)取扱わざるにヨリ叡慮貫徹仕らず、人心瓦解(がかい)致し、攘夷覚束(おぼつか)無く思召(おぼしめ)され候事ニ之(これ)有るべく候。何分ニモ一日ノ安ハ千歳ノ禍(わざわい)ニ候得バ(そうらへば)、恐れ多くモ夷狄撻伐(たつばつ *むち打ちたたく)ノ宸断(*天皇の決断)遊ばされ、此度(このたび)勅使御東下〔*勅使を江戸に下したこと〕ニ付テハ、屹度(きつと)関東ヘ仰せ出だされ、攘夷ノ御決議早速(さっそく)聞こし召され〔*「聞く」の尊敬語で「お聞きになる」〕候様遊ばれたく候。尤(もっとも)一昨冬(*1860年冬)、七、八箇年乃至(ないし)十箇年外夷拒絶仕るべき段、関東に於て御請(おうけ)之(これ)有り候ニ付き、御猶予ノ儀御願(おねがひ)ニ相成るべき歟(や)ニ候得共、右ハ姦吏共(ども)罷(まか)り在(あ)り候時ノ事ニテ、今日ニ相成り決(けっし)テ御異議之(これ)有るまじきニ付き、断然(だんぜん)攘夷ノ勅諚仰せ出だされたく存じ奉り候。

 1860年に当時の老中たちが7~8年ないし10年の内に「外夷拒絶」と約束したが、それは姦吏の先送りの手段であった。本年、大原勅使が東下し、幕閣も変革されたので幕府も攘夷について異議も決して無いはずなので、きっぱりと「攘夷の勅諚」を出して欲しいと願い出たのである。
 この「薩長土三藩上書」は、長州藩の久坂玄瑞が起草したものであり、その草案には、「前書き」にあたる文言として、「壬午九月十六日夜薩邸に会する土人小南、武市、さつま藤井、本田、高崎(*正風)、村山(*才助)、吾(わが)藩宍戸、前田、佐々木、久坂会す。攘夷勅使一件三藩より申立(もうしたて)に相決す」(福本義亮著『松下村塾偉人久坂玄瑞』P.516)と記されている。
 攘夷勅使を補佐するのは、土佐藩主山内豊範である(山内家は三条家と縁戚関係にあった)。1862(文久2)年10月11日、豊範は藩兵500余人を率いて京都を発し、ついで12日、正使三条実美・副使姉小路公知も出発する。長土の藩士などは変名を使って随行したが、これには武市半平太も混じっていた。攘夷勅使の出立に際しては、議奏・野宮宰相が長州藩家老・益田弾正に、"此度(このたび)勅使下向(げこう)については、長門守(*毛利定広)は江戸に於て叡旨貫徹に尽力し、親兵の事をも周旋すべし"と伝えている(『徳川慶喜伝』2 P.104)。
 勅使三条実美らは、10月27日、江戸に到着した。だが、これを迎えた幕府の内部では相変らず奉勅の可否や勅使の送迎の仕方などで甲論乙駁(こうろんおつばく *いろいろ議論百出でまとまらないこと)となった。
 これまでの幕府の対外関係の方針は、1858(安政5)年以降、西洋各国と結んだ修好通商条約をなし崩し的に朝廷はじめ全国に認めさせることであった。徳川政権は、公式的には、"条約を拒絶する力がないので、一時屈して和を結ぶけれども、力を蓄えて(富国強兵して)攘夷する"と繰り返し、孝明天皇にも約束してきた。だが、幕閣は、それを修正して、"開国・通商は世界の大勢だから日本もそれに加わっていくという方針"に切り替えようとしていた。したがって、1861~62年(文久元~2年)の初めにかけて、幕府がもっとも期待していたのが、長井雅樂(「航海遠略策」)による朝廷工作であった。この態度自身は、みずから朝廷・天皇の日本的な攘夷思想(触穢思想)を説得して変えさせようという覚悟も思想もなかったのである。
 ところが、長井雅樂を後押しした長州藩自身が藩是を180度変えて、破約攘夷に切り替えた。そして、土佐藩と協力して、年内二度目の勅使を江戸に送り込んで、攘夷決行を迫るというのである。慶喜も慶永も攘夷主義者ではないのであるが、幕閣の内へ送り込んだ朝廷や尊攘派志士の方からみると、二人が幕府の中心に座ったのに速やかに攘夷に取り組んでくれると思うがそうにはならず、切歯扼腕(せっしやくわん *歯ぎしりし腕を握りしめ、ヤキモキしていること)していたからである。
 しかし、二度目の勅使を目前にして、幕府は相変わらず老中の間だけでなく、慶喜と慶永(春嶽)の間でも意見があわず、まとまりを欠き、モタモタするのであった。
 年内二度目の勅使が東下との報を受けて、「幕府内の意見は大きく二つに分かれた。/一つは、松平慶永と横井小楠の説である。さきに幕府が独断で開港したのは、幕府の私(わたくし)による非政だから、ここでいったん白紙に戻し、全国の公論によって開鎖(*開国・鎖国)いずれとも決めようというのである。慶永や小楠はむろん開港論者・積極貿易論者なのだが、それよりも、全国の公論でいずれかに決めるということのほうが一段と大切だと思っている。そうして、いったん白紙に戻すときや、また公論で鎖国に決まった場合には、アメリカはじめ西洋諸国が怒って戦争になるかもしれないから、必戦の覚悟をしておこうというのである。越前藩側の記録『続再夢紀事』は、この説を"破約必戦"の論と呼んでいた。慶永は、この破約必戦論を九月中旬ごろから営中で説きはじめ、一方の横井小楠は、九月二十一日訪れてきた長州の周布政之助や桂小五郎らに説いて同意を得ていた。つまり、この論は、いわゆる尊攘派をも含みこめる議論だったわけである。/もう一つの説は、一橋慶喜が代表し幕閣幹部の多数がこれに従っていた。幕府が日本を代表して条約を結んだという既成事実をあくまでも固守しようというものである。いまこれを白紙に戻したのでは、幕府の威信が対外的にも国内的にも崩れてしまう。それでは今後の政治がとれないと考えるのだ。権力をもっているものは必ずといっていいほどこのような発想をする。かつては井伊直弼がそれをやり、いまは、その井伊に処罰された旧改革派(*一橋慶喜擁立運動を行なった)の一橋慶喜が、新しく権力の座に坐(すわ)ってそれをやろうとしている。」(松浦玲著「理想のゆくえ」―日本の名著30『佐久間象山・横井小楠』に所収 P.64)というのである。
 このゴタゴタで春嶽などは、攘夷と開国を二転三転したり、慶喜や春嶽は引籠ったり、辞表を出したり引っ込めたりしている。
 しかし、慶喜の説は不確かなもので、思想的政治的な確固とした裏付けを欠いたものであった。それを証拠づけるものとして、松浦玲氏は次の3点をあげる(同前 P.65)。
 第一は、10月8日、小楠が慶喜に面会し、慶喜があくまでも開国を堅持するのに敬意を表し、次いで"あなたが京都へ行って開国説を奏上しても、なお朝廷が聞き入れない場合には政権を返上する覚悟があるか"と尋ねたとき、慶喜はこれに対する確答を避けている。
 第二に、三条勅使らが江戸に到着する直前、山内容堂が"攘夷実行の勅諚に対し、強硬な意見を唱えて征夷大将軍が攘夷をしないなら、「攘将軍」(将軍罷免)の議に及ぶかもしれない"と脅すと、慶喜は当惑し攘夷奉承に傾いてしまったことである。慶喜は、政権を犠牲にしてまで開国論を主張する気持ちがないのである。
 第三は、大久保忠寛(一翁)が、"できもしない攘夷を一応お請けするというのは間違っているから、あくまでも攘夷は国のためにならないと申上げ、これが聞き入れられなければ政権を奉還して家康の旧領であった駿遠参三国の大名に戻ろう"と主張しはじめると、慶喜は迷惑がり、幕議が攘夷奉承を決定した後に、一翁を講武所奉行に左遷してしまったことである。(大久保のこの説は、「大開国論」と呼ばれた)
 やはり、慶喜は最後的には徳川政権の維持に固執しているのであった。ここで、注目すべきは、慶永・小楠・一翁などは、既にこの時から日本全体の結束のためには徳川家の「政権返上」を明らかにしていることである。1867(慶応3)年10月のいわゆる「大政奉還」の5年前である。
 幕府側のゴタゴタは勅使の江戸到着後も続き、ようやく「攘夷奉承」の幕議となった。これにより、ようやく将軍が勅使と対面したのは、勅使江戸到着の一か月後の11月27日であった。勅使が下した勅書は、「攘夷は先年来の叡慮にして、今日に至るまで御変動あることなし、さて柳営(*幕府)に於て追々(おいおい)新政を施行し、朝旨を遵奉(じゅんぽう)せること、叡感斜(ななめ)ならず〔*天皇の受け止め方は喜びが一通りでない〕、然(しか)るに攘夷の事一定せざるに於ては、人心一和にも至り難く、国乱の程(ほど)如何(いかが)と叡慮を悩まさるれば、宜しく攘夷の策を決して、速(すみやか)に諸大名に布告すべし、策略の如きは武将の職掌(しょくしょう)なれば、速に衆議を尽し、至当の公論を決し、醜夷(しゅうい)拒絶の期限をも奏聞(そうもん *奏上)すべし」(『徳川慶喜伝』2 P.121)と厳命した。
 前回の大原勅使の際の勅書によって、幕政改革がじょじょに進んでいるのは喜ばしいことである1)。だが、それに比べ攘夷問題はいっこうに進展していない。速やかに決めて諸大名に布告しなさい、との命令である。奉答の期限は、12月5日とされた。
 また、別の勅書として、「今般攘夷の策を決して天下に布告せば、外夷何時(いつ)海岸を劫掠(こうりゃく *脅かしかすめること)し、畿内に闖入(ちんにゅう)せんも測り難(がた)ければ、禁闕(きんけつ *御所)の御守護を厳重に仰付(おおせつ)けられたき思召(おぼしめし)なり。......故に諸藩より、身材強幹にして忠勇気節に富める者を選抜して、御親兵(ごしんぺい)と為(な)し、京都守護の任に当(あ)たらしめ、其(その)武器・食糧は、石高に応じて諸藩に賦課すべし。......」(同前 P.121~122)と下した。
 勅使は12月4日、江戸城に入って返事を催促し、続けて5日にも三度(みたび)入城した。この時、将軍家茂は奉答書をささげた。それには、「勅書謹みて拝見いたし、勅諚の趣(おもむき)畏(かしこま)り奉(たてまつ)りぬ、策略等の儀は御委任なりたれば、衆議を尽し上京の上、委細奏聞し奉るべし」と認められ、末尾には「臣家茂」と署名されていた。この署名は、極めて異例であり「臣」としたのは前例のないことであった。これは、明確に天皇と将軍の関係を君臣関係と認めたもので、開幕以来の関係が変質したことの証(あかし)である。もう一つの勅書(親兵設置)については、幕府は婉曲に断った。
 なお、将軍上洛の時期は、「来春」とされ、これに先立って、将軍後見職の一橋慶喜が12月5日、一橋家の家老ら数十騎を従え出発し、24日には実家である水戸藩の武田耕雲斎らが後を追った。慶喜は、1863(文久3)年1月5日に京都に入り、東本願寺を宿舎とした。この前後には、土佐藩前藩主・山内容堂(1月25日)、政事総裁職の松平慶永(2月4日)、京都守護職2)に就いた松平容保(かたもり *会津藩主)らも相次いで上京した。

 〈長州藩が支払った代償〉
 長州藩の巻き返し作戦は、完全に成功した。将軍の上洛も決まり、後は攘夷決行の日取りを決定することであった。しかし、これに至るまでには、同藩においても少なからずの犠牲を負わざるを得なかった。
 まず一つめは、「航海遠略策」を提唱して、公武一和のために東奔西走した長井雅樂が藩内政争に敗れて、謹慎となり、ついには1863(文久3)年2月6日、切腹させられた。久坂玄瑞ら藩内急進派と朝廷内の急進派公卿の連携によって、長井雅樂は詰め腹を切らされたのである。
 二つ目は、これまで同藩の軍制の洋式化を実際に推進してきた中心人物の一人である来原良蔵の自決である。来原(雅樂の甥にあたる)は、長井雅樂の「航海遠略策」に心から共鳴し、実際に雅樂の唱える公武一和策のために協力してきた。しかし、藩の路線が「破約攘夷」に大きく転換することとなり、家臣としてそれに従わざるを得なくなった。自己の見解がそれに合わなくとも、服従しなければならないのである。来原(くりはら)は、封建道徳にのっとって自らを殺して必死に藩論に従い、忠義を果たそうとしたのであろう。
 その「けじめ」としてか、「みそぎ」としてかは分からないが、来原は藩命で江戸に出た際、横浜の外国人襲撃を計画する。「来原は、〔*1862(文久2)年〕八月二五日江戸に到着した。二七日、同志を語らって横浜の外人居留地に斬りこもうとし、小五郎(*義兄にあたる)や、竹内正兵衛、波多野金吾(広沢真臣)、それに世子の旨をうけた侍臣(じしん)志道(しじ)聞多(井上馨)、長嶺内蔵太(くらた)の説得も聞かず、品川に出むいていった。竹内と井上与四郎らはさらに来原をさがして二八日、藩邸につれもどり、世子みずから説得にあたった。来原は涙を流して世子の命に従ったが、二九日の早朝、切腹して死んだ。次のような遺書が残されていた。/『私はかねてから尊王攘夷の志が行届かないために、従来忠義と考えていましたことがすべて不義不忠となってしまい、自分をあやまり、人をあやまった罪は遁れることができず、割腹いたしました。死後の余罪はなおさら恐れ入ります。以上。』」(大江志乃夫著『木戸孝允』P.92)と書き残した。
 従来の自分の考えと180度反対の藩論が決定してしまったので、それに忠実であるための実践として外国人襲撃を図った。しかし、世子の説得でこれも出来なくなった。残された道は切腹以外になかったのである。
 これと似た心理は、高杉晋作にもあった。これが三つ目である。松陰も晋作ももともと頑迷な鎖国論者ではなく、外国の長所を取り入れることに吝(やぶさ)かではなかった。
 晋作は、1862(文久2)年4月から7月にかけて、幕府の千歳丸(ちとせまる)に便乗して、上海に渡り、同地を視察している。その際、"いかに勤王と申しても、富国強兵でなくてはどうしようもない"と感じていた。そして、「その地で中国人に対して、『鎖国や禁書は国を衰微させるゆえんのものである、聖人といえどもこのわが言を正しいとするであろう』と書き残して帰国した。その高杉が七月に帰国し、閏八月に江戸在勤、学習院用掛を命ぜられて江戸にでてくると、みずから『狂挙』と名づけながら、久坂らとともに横浜の各国公使館襲撃計画に没頭し、計画が挫折する(*11月13日)と、さらに品川の御殿山に新築中のイギリス公使館に焼打ちをかけた(*12月12日)のであった。/それは、何よりも、自分たち自身の攘夷への姿勢を正す必然の過程として必要とされたのであった。だから、この焼打ちを、誰も公表しなかったし、犯人が高杉・久坂らであることは当時は判らなかったのであった。それは、かれら自身にとってさえ『狂挙』であったし、しかも、かれらはまさしく、その『狂挙』を必要としたのである。」(大江志乃夫著『木戸孝允』P.93)と言われる。
 しかし、大江氏はこの「狂挙」が「攘夷への姿勢を正す必然の過程として必要とされた」と言うが、果たしてこの論理は正しいのであろうか。疑問である。要は、このような行動の基礎は長州藩の7月の路線転換に由来する。この路線転換の背景と根源をみると、長州藩の「私」(私益)であり、薩摩藩への競争意識である。この「私」のために、封建制的秩序の下で、矛盾のしわ寄せが家臣に押付けられたのであった。この不条理の犠牲になったのが典型的には、先の来原良蔵の哀れな最後であった。立ち向かうべき壁と、その打開の方向が、決して封建制の解体に向かわない―この苦々しい史実の切開と正しい解決方向の獲得こそが歴史家にとっても必要なのではないだろうか。
 根本的な打開方向の欠如は、しかし最後には長州藩そのものの存亡の危機へと転落させたのであった。

注1)今回の幕政改革で最大の改革は参勤交代制の緩和(述職制への転換)で、その他では
進献制度の縮小・諸大名の綿服着用・供揃えの簡素化などである。
 2)京都守護職は、1862(文久2)年7月27日に、設置が決まった。同年閏8月1日に、会津藩主・松平容保が京都守護職に任命された。容保は、京都所司代・京都見廻組・新撰組を指揮して、尊攘派の志士の取締りにあたった。当初、容保と共に島津久光を京都守護職につかせたいとの天皇の内意が近衛家に伝えられた(高村直助著『小松帯刀』P.51)。だが、これは久光の方から辞退した。

 (ⅷ)長州と土州の不和の始り
 1862(文久2)年10月、三条実美勅使を奉じて土佐藩主山内豊範らが江戸に入って以来、長州藩と土州藩は交流を深めた。土佐藩では、武市半平太が率いる土佐勤皇党が藩参政吉田東洋を暗殺(同年4月)して、藩政に影響力を強めた時機である。
 11月5日、土佐藩は、長州藩世子定広を招いて酒宴を開いた。この時、容堂は酒興に乗じて、長州藩を諷(ふう)した。これに対して、久坂玄瑞は僧月性(げっしょう)の詩を吟じて、「廟堂の諸老何ぞ遅疑(ちぎ *ためらい、ぐずぐずすること)する」の所で中断した。その時、周布政之助がすぐさま立ち上がって容堂を指さし、"侯もまた廟堂の一老公なり"と言って、席を去ったと言われる。周布は、どうも酒癖が悪いようである。
 ついで11月13日、久坂玄瑞・高杉晋作らが先述のように横浜の外国人居留地を襲撃しようと図った。だが、容堂がこれを知り、すぐさま長州藩邸に知らせた。薩摩藩の寺田屋事件(前年4月)の二の舞になるのを恐れた長州藩では、世子みずからが出馬し久坂・高杉らを説得して計画を中止させた。その後、酒の席となったが、そこへ土佐藩士4人が駆け付けた。酒気を帯びて馬上にあった周布は、ここでもまた土佐藩士に向かって次のように放言した。すなわち、"容堂公は朝廷の信任を受け、新たに幕議に参画する事になった。しかるに因循に日を経過するだけだ。それがこのような事件を激成したのだ。容堂公がちゃらかしているのでなくて何だ。"と。激高した土佐藩士は、周布を斬ろうと詰め寄った。すかさず高杉が機転をきかして、"俺が斬る"と言って、周布の馬を斬った。馬はたまらず周布を乗せたまま走り去ったという。
 「後(のち)土州人来(きたり)テ?刺(ぐうし *二人刺し違えて死ぬこと)センコトヲ請フ。世子(*定広)慰諭シテ之(これ)ヲ還ヘシ、世子躬(みず)カラ土州邸ニ詣(まい)リ老公ヲ見(まみへ)テ公輔(*周布政之助)ノ不敬ヲ謝ス。老公曰(いは)く敢(あへ)テ念トナスコト勿(なか)レ、益(ますます)以(もっ)テ二藩ノ好(よしみ)ヲ成サントス。又(また)使(つかい)を馳(は)セテ其(その)厳譴(げんけん *厳しくとがめること)ナカラン?(こと)ヲ請フ。故ヲ以テ公輔死ヲ免(まぬ)カレタリ。」(日本史籍協会編『野史台 維新史料叢書十三』伝記四 東大出版会覆刻 1974年 
 P.64~65)と言われる。
 この事件は、小さなことではなかった。藩は容堂に謝罪して、周布を帰国させた形にして、以後、麻田公輔に変名させた。これにより、周布は江戸においては公然と外交折衝ができなくなるからである。
 しかも、周布の放言は単なる酒癖にとどまらない問題であった。長州藩の次代を背負う高杉までが、激烈な攘夷行動に走ることを余儀なくされたその意味である。今や、幕府の改革のレベルでなく、幕府そのものの存続を問う段階が近づいている情勢がしのびよっているからである。事件の数か月後の翌1863(文久3)年3月3日、ブレーン横井小楠の影響を強く受けた松平慶永は、将軍の上洛途中、大津で将軍を迎え、"今日の情勢は道理でものごとが運ぶようなものではなく、この上は将軍職を辞す以外にはない。自分も政事総裁職を辞する覚悟である"と建言する―という情勢になっているのである。
 長州藩と土州藩との間のみならず幕府と諸藩との間の溝を見出した桂小五郎は、必死に次の手を模索せざるを得なくなる。大江志乃夫氏によると、「こうした溝を確認した上で、長州藩は何をなすべきか。ここに、小五郎は、従来の雄藩の連合による破約攘夷路線の確立という方針を一転しようとはかる。たぶん、松島剛蔵あてと考えられる宛先不明の小五郎の手紙は、この新方針の提案であった。」(大江志乃夫著『木戸孝允』中公新書 P.109)と言われる。
 事実、桂小五郎はその手紙で次のように述べている。

......御国(*長州藩)も今日より割拠の覚悟をきめ、防長を一天地と相心得(あいこころへ)て、速(すみやか)に用意(ようい)仕(つかまつ)らざるては、真に他日(たじつ)勤王の決戦も六つケ敷(むずかしく)と存じ奉り候、右に付き麻翁(*麻田公輔、周布の改名)も一と通り御咎(おとがめ)仰せ付けられ候はは御国(おくに)における御改革の大将に致し、高晋(*高杉晋作)ら帰国の上(うえ)、麻田翁の先に立ち候て必死に尽力仕り候はは速に成就(じょうじゅ)仕るべく候、もしも此(こ)の義(*方針)容易に相運(あいはこび)び兼(かね)候はは、麻翁と共に高晋、弟(てい *桂小五郎)らも一先(ひとまず)亡命なりとも仕り、一周旋仕るべき歟(か)と此内(このうち)竊(ひそか)に申し談じ候処(そうろうところ)、高晋ももとより否(いな)は之(これ)なく候、老兄(*松島剛蔵とみられる)如何(いかが)思し召され候哉(や)、速に御答(おこたえ)願ひ奉り候、兎の角(どノみち)、右の両条の外(ほか)手段之(これ)無くと愚考仕り候......  (『木戸孝允文書』一 文久二年一二月 P.288)
 
 「今日より割拠の覚悟をきめ、防長を一天地と相心得て」とは、「他日勤王の決戦」のための割拠論として有名なものである。そのためにも、周布を大将として高杉と桂を藩政機構の改革の中心人物として想定している。だが、それが容易なことではないと桂も考えており、改革が不可能な場合は、3人とも亡命して活動しようと思っている。情勢としては、「右の両条(藩政改革か脱藩か)の外手段之無く」と、深刻に考えているのである。

Ⅰ 尊攘激派に引きずられる長州藩

(1) 攘夷期限の設定から暴走へ 

 (ⅰ)将軍を上洛させ攘夷期限を強引に設定
 京都では相変らず「天誅」と称したテロが横行していた。朝廷内でも少壮の急進的尊攘派の公卿が進出していた。1862(文久2)年12月、朝廷には新しく国事御用掛(幕府の動向を監視する役割を持つ)が設けられ、ここで専ら朝議が行なわれるようになった。関白・左右大臣などの重職者とともに、三条実美・姉小路公知・三条西季知(すえとも)らの少壮急進派も国事御用掛に任命された。そして、翌年2月には、国事参政・国事寄人(よりゅうど)の2職も置かれ、これには専ら少壮急進派が任じられた。彼らは、関白に圧力をかけ、自在に動かし、幕府に攘夷日を決定させようとした。
 巻き返し策動の成功で、薩摩藩に対する遅れを回復した長州藩は、攘夷断行を推進するために、さらにさまざまな工作を展開する。
 たとえば1863(文久3)年1月27日、「京都東山の料亭翠紅館に肥後藩士宮部鼎蔵、土佐藩士武市半平太、長州藩士久坂玄瑞、松島剛蔵、水戸藩からは山口徳之進、林長左衛門、下野隼次郎らの藩士が参集した......。/この会合は長州藩世嗣毛利定広が主催した。これでもわかるように、そこでは、諸藩に分散する攘夷派の横断的なネットワーク化をはかるとともに将軍の上洛および攘夷断行が論議されたことは容易に想像できる。毛利は、攘夷断行の朝議督促を幕府に伝達、天皇の加茂社、大和行幸を献策―など表裏両面から攘夷運動を画策した人物だからだ。」(岡村青著 シリーズ藩物語『水戸藩』現代書館 2012年 P.139~140)と言われる。この会合は、将軍の上洛を迎え、いかに攘夷決行を将軍に認めさせるかを急進的尊攘派で相談するためのものであった。尊攘派は、明らかに藩の垣根を越えて横議を進めだしたのであり、長州藩はこの先頭に立ったのである。
 将軍上洛が1863(文久3)年春に行なわれる―と決定されると、薩摩藩は尊攘激派の跋扈する京都の情況を前にして、出来るだけ「公武合体派」にとって有利にするために、将軍上洛の時期を延期する方針を提起する。大久保一蔵や松平慶永などは、この方針にそって公卿などにさまざまな工作をする。しかし、これは朝廷内外の尊攘激派によって、ことごとく失敗する。
 それどころか、朝廷は尊攘派を増長させるようなことも行なっている。1863(文久3)年1月2日、毛利藩主父子が帰国願いを出すが、これに対し朝廷は藩主慶親の帰国は許すが定広の帰国は許さず、1月17日には、"皇家のために丹精を抽(ぬきん)で周旋する功績すくなからず、叡感あらせらるる"の旨で、慶親を特に参内させ、御剣を賜い、参議推認の宣旨を下した。はじめ慶親は、幕府の推薦を受けずに、朝廷から直ちに任命されるのは武家諸法度に背くといって固辞した。しかし、朝廷は、"拝受の後に、一橋中納言(慶喜)に通報せば可なり"といって、慶親の固辞を許さなかった。慶親の参議叙任は長州藩のみならず、尊攘激派を喜ばせたのは想像に難くない。(前年夏に大原勅使を補佐して江戸に着いた島津久光は、官位推薦を幕府に願ったが拒否されている)
 尊攘激派は、将軍上洛を目前にして、慶喜や関白などに攘夷期限を定めよ―と圧力をかける。2月11日朝には、久坂玄瑞・寺島忠三郎(以上、長州藩士)・轟武兵衛(熊本藩士)の3人は、鷹司関白の邸に乗込み、今日中に攘夷期限を定めよ―と無茶な要求で迫る。多分かねてから打合せがあったのであろう、午後からは橋本実徳・三条西(さんじょうにし)季知(すえとも)・正親町実愛・豊岡隨資(あやすけ)・三条実美・姉小路公知・壬生基修(もとなが)・錦小路頼徳・四条隆謌(たかうた)・沢宣嘉(さわのぶよし)・中山忠光など13人の公卿も関白邸に参集し、玄瑞らの建白をいれて直に奏上せよ―と迫る。関白が明日にも参内して奏上すると答えると、公卿らは即時に奏上せよとなおも迫る。そこにまた、毛利定広や松平淡路守も駆け付け、公卿らに加担し、速やかに奏聞あるべしと迫る。
 そこでやむなく、関白は参内し奏上する。天皇は騒ぎが大きくなることを恐れ、その請願を勅許した。これにより、三条実美らを勅使として慶喜の宿舎に派遣し、"差当り攘夷期限を早々に聞こし食(め)されたし"と通告させている。そこで慶喜は、春嶽・松平容保・山内容堂を招いて相談し、三条らとの対面は午前二時ごろから始まった。勅使らが速やかに攘夷期限を定べしと迫るのに対し、慶喜らは将軍が間もなく上洛するのだから、それを待って奏上すると答える。このような押問答が数回繰り返されて、どうしても埒(らち)があかない。しかたなく慶喜は、"勅諚の趣は天下の重事なれば、篤と考え、明日夕にまで奉答せん"と答える。だがそれでも三条勅使らは即答を要求する。
 そこで容堂と相談し、縁戚関係にある容堂を使って三条実美の本音を引き出した。それによると、三条らも久坂玄瑞など尊攘激派の強迫もあって、簡単にはひきさがれない―とのことであった。
 こうした攘夷期限をめぐる激しいやり取りは徹夜になり、結局、慶喜らは連署の奉答書を勅使に渡した。それには、「将軍帰府(*京から江戸に戻ること)後二十日の御宥免(ゆうめん *猶予)を蒙り、相違なく拒絶(*外交通商関係の断絶)いたさせ候事御請(おうけ)仕(つかまつ)りぬ、滞京(*将軍の京都滞在)は十日限りたるべきよし、朝廷より御沙汰あるべき御都合の事」(『徳川慶喜伝』2 P.148)としたためられていた。こうして、攘夷期限は4月中旬ごろとなった。三条らの勅使一行がようやく退出したのは、12日の東の空がほのぼのと白みかけたころであった。
 政争渦巻く、こうした情勢の京都に、将軍家茂一行は向かったのである。3月3日、慶永(春嶽)は、大津に将軍を迎えて謁し、「方今の形勢、道理によりて事を為(な)すべからざるものあり、故に此上(このうえ)は将軍職を辞せらるる外(ほか)遊ばされ方なかるべし、臣も亦(また)道理の行はれざる世に立ちて重職を?(けが)すべきにあらねば、速(すみやか)に職を辞せん覚悟なり」(「続再夢紀事」一 P.400)と言上している。慶永の今回の上京は、極めて重要な時機での重い任務を帯びたものであった。しかし、政事ブレーンの横井小楠は、同行できなかった1)。
 1863(文久3)年3月4日、将軍家茂、老中水野忠精・同板倉勝静らは兵3000を率いて入京し、二条城を宿舎とした。徳川将軍の上洛は、1634(寛永11)年6月に家光が上京して以来、120余年ぶりのことである。
 翌日5日の夜、一橋慶喜は将軍の名代として参内し、午後12時頃に孝明天皇と対面する。慶喜は、従来の幕府の失政を謝り、「和宮降嫁」については御礼を述べる。そして、「......井伊掃部頭(直弼)不正の取計(とりはからい)ありしより以来、諸人疑惑を生じ、号令また明らかならず、ついては従来も庶政(しょせい *諸方面の政務)を挙げて関東へ御委任ありしといへども、此際(このさい)改めて尚又(なおまた)御委任の御沙汰を下されなば、天下に令して外夷を掃攘(そうじょう *はらいのける)仕(つかまつ)ることを得ん」(『徳川慶喜伝』2 P.173)と奏した。
 これに対し、孝明天皇は、「庶政は従来の如く関東へ委任する存虜(ぞんりょ)なり、攘夷の挙は尚(なお)出精すべし。」と答えた。
 一橋慶喜は、御前を下がった後、鷹司関白にこのことを書記して授けられることを要請した。だが、文書化したものは、ただ攘夷委任の文字があるだけであった。一橋はこれに抗議し、ようやく天皇が話した通り、「総てこれまで通り御委任するべし、攘夷の儀精々忠節を尽すべき事」と改書したものを授けられた。関白の行為は、攘夷派公卿などの抗議を恐れた小細工であった。このため、慶喜が二条城で復命したのは6日の明け方であったという。慶喜は「攘夷奉承」の代りに、「庶政委任」を改めて確認しておきたかったのである。
 だが、急進的尊攘派の策動は、手が込んでいた。3月7日、将軍家茂は、慶喜はじめ諸老中、さらに当時在京する諸大名(10名ほど)を引き連れて、「庶政委任」などの請書の提出とお礼のために参内する。ところが、天皇の前で関白が下した朝廷の沙汰は、「征夷将軍の儀、是(こ)れまで通り御委任遊ばされし上は、叡慮を遵奉し、君臣の名分を正し、闔国(こうこく *全国)一致して攘夷の功を奏し、人心帰服の処置あるべし、国事については、事柄によりて直に諸藩へ御沙汰を下すことあるべければ、予(あらかじ)め示し置く」(同前 P.175)というものであった。
 これは、3月5日の孝明天皇の発言とは異なるものである。尊攘激派が書き改めたものである。「事柄によりて直に諸藩へ御沙汰を下す」ということは、多くの有識者が懸念する「政令二途に出る」事態がはっきりしたのである。まさに、「二重権力」状況である。
 尊攘激派の策動に対し、「公武合体派」は慶喜・春嶽・容堂らが、近衛前関白・中川宮(青蓮院宮)などと連絡をとりあい、久光を呼び寄せて巻き返しを図るが、「公武合体派連合」は挫折する。春嶽は、失望のあまり、「今は将軍職辞任の外なかるべしと言ひ、三月五日には二条城に登り、重ねて其(その)意見書をさへ捧げたるが、意見の行はれざるを見て、九日遂に政事総裁職の辞表を呈出(ていしゅつ)せり(続再夢紀事)。肥後守(*松平容保)・容堂・伊予守(*伊達宗城)等(とう)之(これ)を非とし、再起を勧告したれども春嶽応ぜず」(『徳川慶喜伝』2 P.176)という事態となる。慶喜も関白もつよく慰留に努め、必死になって翻意を促した。しかし、春嶽の意志は変わらず3月15日、重ねて辞表を提出し裁可を迫った。だが許可されなかったので21日、許可なく無断で帰国してしてしまう。幕府はこれに対し、政事総裁職を免じ、逼塞(ひっそく)を命じた。
 島津久光は、急きょ呼び寄せられ3月15日に入京したが、京都情勢があまりにも「公武合体派」にとって不利なので、滞京わずか5日で引き揚げてしまった(生麦事件でのイギリス艦隊の動向も心配だったと思われる)。ついで、山内容堂も26日、伊達宗城も27日に、それぞれ帰国してしまう。
 「公武合体派」の雄藩がいなくなった京都で、将軍と慶喜は尊攘激派によってもみくちゃにされた。3月11日の賀茂行幸に供奉したあと、将軍の滞在期間が終る3月13日で江戸に帰ろうとしたが、これは許されなかった。将軍の無力さを世間にさらして、その権威を貶(おとし)めようという尊攘激派の作戦である。幕府側はその後、将軍の東帰を三度も布告し、三度とも取り止めに追い込まれている。
 なんとか尊攘激派の横行する京都を離れたかった幕府側は、4月18日、①英仏艦隊が摂海(大坂湾)に入るとの風聞があることを名分にして、将軍みずから大坂湾を巡視すること、②横浜などの鎖港の実効を挙げるために、慶喜は東帰すること―を朝廷に願い出た。だが、朝廷側はあくまでも攘夷決行の期限が曖昧(あいまい)になっていることを責めたて、"慶喜が東帰して攘夷をするならば、何月何日からやるのか、将軍の自筆で期日を明記し、提出せよ"と要求した。また、将軍の大坂湾巡視も、帰京して報告せよと釘を刺した。
 こうして、幕府は4月20日、この日から20日後の5月10日を攘夷の期限とすることを上奏した。このような大ざっぱな期限は、幕府が端(はな)から本気になって攘夷をするつもりがなかったから言い出せたのであった。
 ともあれ、攘夷期限が確定されたことにより、二つの命令が出る。一つは、4月21日、天皇から武家伝奏の坊城俊克・野宮定功を通じて諸大名京都留守居へ、もう一つは、4月23日、将軍から老中水野忠清(ただきよ)を経て諸大名京都留守居へ―発令された。
 前者は、「外夷拒絶の期限、来る五月十日御決定相成(あいな)り候間(あいだ)、ますます軍政相調(あいととの)え、醜夷(しゅうい)掃掃(そうじょう)これ有るべく仰せ出され候事」である。
 後者は、「攘夷の儀、五月十日拒絶に及ぶべき段、御達(おたっ)し相成り候間、銘々(めいめい)右の心得(こころえ)を以て自国海岸防禦筋、いよいよ以て厳重相備(あいそな)え、襲来候節は掃掃いたし候様、致さるべく候」である。(『修訂 防長回天史』四)
 この二つの攘夷令は、諸大名に混乱をもたらすものであった。前者は、外国船の即時打払い令なのに対し、後者は、拒絶(通商条約破棄)は平和的な外交交渉で行なうことを前提とし、もし外国が「襲来」した場合は打ち払え―というものである。大多数の大名は、後者の立場をとった。前者は、長州藩などのごくごく一部であった。 
 攘夷期限の確定の結果、将軍は4月21日、退京して大坂城へ入ることができ、慶喜は4月22日、江戸に向けて出発することができた。(なお、将軍が江戸に戻れたのは、ようやく6月16日であった。)

注1)1862(文久2)年12月19日夜、肥後藩の江戸留守居役吉田平之助および同藩の都築四郎・谷内蔵允と、吉田の妾宅で用談し、のち二階で酒宴となった。そこへ刺客が侵入した。吉田と都築は傷を負い、吉田は後に死亡する。この時、小楠は刀を取る暇がなく、うまく逃れて常盤橋の越前邸まで戻り、差し替えの刀を取って、すぐに引き返した。しかし、その時には刺客たち3人はすでに立ち去っていた。この報告を受けた肥後藩(小楠の士籍が属す藩)は、切腹を含む処分をはかろうと、越前藩に"小楠を引き取って、国許へ帰らせたい"と申し入れた。小楠の態度が士道にもとるためと言われた(だが小楠は「武士は棄り候」と開き直っている)。だが、春嶽ら越前藩は、引き渡すと小楠の命がないと考え、肥後藩の申し入れを拒否し、越前にかくまった。この事件のため、小楠はついに上京して、春嶽のブレーンとしての役目を果たすことができなかった。

 (ⅱ)攘夷決行をめぐる幕府側の本音
 攘夷決行の期限が無理矢理に決められる前、江戸では生麦事件の処理をめぐって、幕府内では議論百出であった。開国を維持する意見の内でも賠償金を支払う派と払わない派があり、鎖国に転じるべきとする意見の内にも支払う派と払わない派が存在した。しかし、次第に大勢は変化し、4月21日、遂に賠償金を交付することに決定した。
 1863(文久3)年5月8日、生麦事件の賠償金は、老中格小笠原長行が独断で交付するという体裁をとってイギリスに支払われた。他方で、幕府は"天皇の命により鎖港の応接を開始せん"と通告した。これには、各国公使はみな無謀なことと抗議した。
 幕府は、「攘夷拒絶」―鎖国交渉の開始という建前をみせながら、本音では戦争になると恐れてイギリスに賠償金を支払うことにしたのである。
 朝廷で、正式に攘夷期限が5月10日と勅諚が出された関係で、それに反する賠償金支払いは小笠原の「独断専行」とし、鎖港の交渉開始は正式な形をとった。賠償金支払いが、小笠原の「独断」という体裁をとったのは、慶喜との密接な連絡・連携で行なわれたことから明らかである。4月22日に京都を発った慶喜は、きわめてゆっくりとした旅程で東海道を江戸へ向かい、途中、神奈川奉行・浅野氏祐へ"5月7日に小田原に着き、神奈川に宿泊し、次には横浜居留地を巡覧するので用意せよ"と命ずる。横浜居留地の巡覧は中止となったが、小笠原を乗せた蟠竜丸が横浜に入港したのは、慶喜が神奈川を去って間もなくであった。
 また、イギリスへの賠償金10万ポンドは、神奈川税関の銀貨をもって5月9日に支払われた。これほどの大金を税関に用意させるのは、「独断」ではいくらなんでも不可能であろう。10万ポンド(=40万ドル)は、ヒュースケン殺害事件の時に幕府が支払った1万ドルの40倍という大金なのである。(この時、東禅寺事件の賠償金1万ポンドも支払われている)
 攘夷期限の5月10日を直前にした5月9日、幕府は賠償金を支払うとともに、横浜市民に対し、「今日英国へ洋銀(*賠償金)を渡したれば、軍艦(*イギリスの)差向(さしむ)けの虞(おそれ)なく、交易も是(こ)れまでの通り差許(さしゆる)されたれば、安堵(あんど)して家業を励(はげ)むべし」と布告している。

 (ⅲ)長州藩の攘夷断行
 これに対し、長州藩は異なる態度をとる。急進的な尊攘派が藩政を握り、無謀な攘夷への突入である。
 5月10日の攘夷決行に入る前に、急進的な尊攘派は藩政の改革を推進し、椋梨―坪井派を処分している。
 長州藩は、1862(文久2)年7月の藩是転換により、薩摩藩に対し政局の主導権を奪われたのを取戻し、翌年の8・18クーデターによって京都から放逐するまで、京都を中心とする中央での主導権を握っていた。しかし、国元ではそれと異なり、藩是転換後、椋梨―坪井派(いわゆる「俗論派」)の議論が沸騰し、藩是に反対する「御意(ぎょい)難事件」が起っている。「俗論派藩士は、『今日に至るまで、幕府へ対し如何程(いかほど)の信義を尽したるや、未たその幾分(いくぶん)を尽したるの事を聞かす、然るに今(いま)俄(にわ)かに信義(*幕府に対する)を擲棄(ほうき)するときは、幕府の威に触れ、如何(いか)なる不幸の社稷(しゃしょく *藩)に及ぶや計るへからす』と述べたという。俗論派の主張は、幕威を絶対視する佐幕論であるが、藩地の一藩士は、『当地も君侯(*藩主)久々御留守故(ゆえ)、京師の事抔(ことなど)色々取沙汰(とりざた)之(これ)有り、虚実(きょじつ)相分兼(あいわかりかね)、人心穏やかならざる候』と報じ......」(井上勝生著「幕末における御前会議と『有司』」―幕末維新論集4『幕末の変動と諸藩』吉川弘文館  P.138)ている情況である。
 1863(文久3)年2月11日、藩主慶親は次のような「地(じ)江戸政府合一令」が発令した。これは、京都にあった時、世子と藩主が謀ったもので藩地に帰るに際して発令されたものである。

一(第一条)地江戸合一にして、加判役定員六人の内より、一人京都詰(つめ)、一人江戸詰にて、当職は月番交代仰せ付けらるべくとの事
一(第二条)裏判役(藩地家老、当職の補佐役)の廃止
一(第三条)用談役の手元役兼務
一(第四条)蔵元両人、御所帯方、御用所役合併(がっぺい)一局にして定員六人、内(うち)一人京都詰、一人江戸詰、一人大坂詰(つめ)仰せ付けらるべく候事
一(第五条)遠近方、江戸方御右筆一局にして定員六人、内一人京都詰仰せ付けらるべく候事
一(第六条)郡(こおり)奉行四人に仰せ付けられ、一人宰判管轄、御代官役差止(さしとめ)らるべくとの事
一(第七条)町奉行、作事奉行一局にして、三市中に一人宛て差置(さしおか)らるべく候事        (『修訂防長回天史』四 P.82~83)

 この令の特徴は、従来の「当役中」(加判役、当職、当役で構成されていた藩制最高位の役職)は、加判役一局に縮小され(第一条)、藩制初期から続いていた当役・当職が廃止されたのである。そして、財務部局(第四条)、政務部局(第五条)、地方支配機構(第六条)、町方支配機構(第七条)が徹底して簡素化され集中化されたことにある。第六条では、代官すら全廃されたのである。
 また、この地江戸合一令において、最も重要なことは、第五条が示すように江戸と地方(国許)の両右筆と、遠近方(家臣団の会計処理や罪科の最終決定をおこない、家臣団を統制する)の三者を合併したことである。その後、この部局は「政務座役」と正式に改称され、藩政の実権をいっそう確実に掌握したのである。攘夷実行を前にした藩政改革である。
 当役・当職制度は、参勤交代制度に対応する制度で、江戸勤務中と藩主の国元への帰国中に付き添い輔佐する当役と、藩主留守中の国元の藩政を主導する当職の二元制であった。これに代わり、地江戸政府合一令により中央集権制となるが、その頂点は藩主親政であり、萩城内の大書院を政事堂と改称し、同所で藩主直接の諮問や決裁が行なわれた。これは、御前会議と称された。
 4月16日、藩主敬親は、萩城から山口の中河原の御茶屋に移った。これは、5月10日の攘夷期限が迫る中で、戦場となる下関により近く、藩の中心地となる山口を前線本部とするためである。
 攘夷期限が5月10日に決定した直後の4月21日、毛利定広は京都を発ち、途中西宮・兵庫の海岸防備を視察したのち帰国し、5月11日、萩に到着した。これに先立ち、久坂玄瑞ら30数名が京都を発ち山口に戻り、4月26日、攘夷期限の発令を受けて攘夷先鋒を勤めるために下関に移った。
 攘夷断行の最前線の司令官は、「赤間関(あかまがせき)海防総奉行」の家老・毛利能登であり、指揮下の兵員はおよそ600~1000名である。砲台は壇ノ浦・前田の両台場を中心に7か所ほど設けられていたが、装備された砲は大小合計28門程度といわれる。軍艦は、丙辰(へいしん)丸・庚申(こうしん)丸のほかに、イギリスから買入れた壬戍(じんじゅつ)丸と癸亥(きがい)丸の計4隻である。
 京都を脱走した国事寄人・中山忠光(中山忠能の7男で、当時19歳)を盟主に戴いた玄瑞らの「光明寺党」は、正確に言うと、総奉行の指揮下にはいない有志の部隊にしか過ぎなかった。しかし、この意気盛んな有志部隊は、藩主父子の容認のもとにあった。
 その他に、藩外の志願兵としての応援隊が、土佐の山内家・因幡の池田家・肥後の細川家・筑前の黒田家・筑後の久留米藩や柳川藩、水戸の徳川家などの藩士数十人も参加している。
 【5月10~11日の戦い】1863(文久3)年5月10日の夕方、横浜から長崎を経て上海に向かうアメリカ商船ペムブローグ号が、周防灘から下関海峡(今の関門海峡)を通過しようとしていた。しかし同船は、激しい風波によって豊前国田野浦沖に錨をおろして潮待ちをして待機した。これに長府藩(長州藩の支藩)の兵が乗り込み尋問すると、潮待ちで停船中と答えた。そこで、長府藩兵は、"本日は攘夷期限であるから、砲撃されることを覚悟すように......"と伝えて引き上げた。「この長府藩の報告を受けた本藩派遣の総奉行毛利能登は、『幕府の御用状を持参しているので、勝手に打払ってはならぬ』と指示した。しかし、光明寺党(隊長久坂玄瑞)の壮士などはこの指示を無視し、夜半庚申(こうしん)丸(長州藩の軍艦)を進めて米船を砲撃した。」(『下関市史』P.897)のである。
 玄瑞らが乗込んでいた軍艦庚申丸は三田尻から下関にやってきて、軍艦癸亥(きがい)丸とともに、暗闇に乗じてペムブローグ号に接近し、警告もなしに襲撃し2発を命中させた。専念寺砲台と亀山砲台からも砲撃を加えた。米船はあわてて錨をあげて豊後水道に逃げ去った。
 毛利能登は、戦意不足として総奉行を解任され、息子の宣次郎がこれに代わった。
 【5月22~23日の戦い】5月22日夜、下関海峡の豊浦沖に仮泊していたフランス軍艦キンシャン号(情報艦)は、翌23日早朝、海峡を通過し西進したところ、壇ノ浦などの長州藩砲台から砲撃された。だが、沖合に停船するキンシャン同号には、各砲台からの砲弾は届かなかった。キンシャン号は、砲撃の理由を聞こうとボートを下ろしたが、このボートに砲弾が命中し水兵が即死した。キンシャン号は、やむなく玄界灘に脱出した。キンシャン号は、かなりの損害をこうむったが沈没を免(まぬが)れ、長崎に入港した。
 【5月25~26日の戦い】この状況をキンシャン号から知らされたオランダ軍艦メジュサ号は、だが長年の通商関係をもっていたので砲撃はされないであろうと考えて、長崎から横浜に向かう航路を変えず5月25日夜から翌早朝にかけて下関海峡に入った。だが同号は、たちまち長州藩砲台や庚申丸・癸亥丸から激しい砲火を浴びせられた。メインマストや煙突は破壊され、被弾30発余、死者4名、重傷者5名を出した。同艦は、癸亥丸と庚申丸の間を強行突破しながら反撃した。この反撃で、癸亥丸のマストの根元に命中し、大きな被害を与えた。次の一発は、亀山八幡宮の楼門を貫いた。三発目は、和船に当り、数名の死傷者を出した。オランダ軍艦は、かろうじて豊後水道に逃れた。尊攘激派の意気は、大いにあがった。しかし、それは束の間であった。以降、欧米艦の報復にさらされた長州藩は、戦力の圧倒的差を味わされたのである。
 【6月1日の戦い】6月1日、横浜から来航したアメリカ軍艦ワイオミング号(南北戦争中の北軍艦)は下関沖に進入した。「このアメリカ軍艦ワイオミング号は、壬戌(じんじゅつ)丸を長州藩方の旗艦と認め、先ず突進して壬戍丸を猛然と攻撃した。壬戍丸は難を避けようとしたが避け切れず、士官室を破壊され、左舷中央を撃ち抜かれた。さらに第二弾は機関部に当ったので、熱湯が噴出して水夫が三人即死し、一三人が重軽傷を負った(*その後6月3日までに全員が死亡)。そのため、同艦は間もなく黒煙を発して沈没した。残った庚申丸・癸亥丸は、米艦を攻撃したが反撃され、庚申丸は沈没して、癸亥丸も再起不能の損害を受けた。これにより、長州藩海軍は、壊滅的な損害を被った。
 【6月5日の戦い】キンシャン号が砲撃されたという情報を得たフランス東洋艦隊司令官ジョーレス提督は、本格的な報復措置を計画した。6月5日早朝には、フランス軍艦セミラス、タンクレードの2艦が豊後水道から下関海峡に入った。この時、長州藩の下関防衛体制は、海軍は壊滅状態であり、各砲台もこれまでの戦いで甚大な被害を受けていた。
 「フランス艦隊は、門司側田ノ浦沖から下関砲台に向け、五分ごとに一発・一発発射して反応を確かめたが、長州藩方からの反応はなかった。そこでジョーレス提督は、上陸軍を編成(一五〇人)して、前田砲台の占領を企図した。タンクレード号が、前田砲台へ約二四〇ヤードに近づいた時、長州藩方の前田砲台は、二四ポンドの巨弾を発射した。一発はタンクレード号の前マストに当り、一発は後マストに当った。さらなる一発は右舷に命中した。しかし、タンクレード号はこれらの被害に屈せず、発砲を続けて前進した。やがて、同艦の発した一弾が、前田砲台に命中し、同砲台の照準手山内賢之允は即死した。このため、防衛諸兵は砲台を見限り、後方の松林に身を潜めた。/上陸したフランス軍は、三隊に分れて一隊は前田砲台を占領し、他の二隊は付近の森林に潜む砲台守備兵の掃討戦を行った。この掃討戦では、双方共に相当の死傷者が出た。しかし砲台を占領したフランス上陸兵は、大砲を壊して砲台に火を放ち、火薬庫を開いて火薬・弾丸を海へ投棄した。さらに、砲台兵の宿舎として使用していた慈雲寺に進入し、武器・経典を奪って、本堂に火を放った。最後に、前田村三十三戸の民家に対し、石油を注いで焼き払った」(『下関市史』P.921~922)のである。
 彼我の戦力差は、歴然としており、隠しようもなかった。この敗北が、奇兵隊創設の直接のきっかけとなった(後述)。

 (2)生麦事件の処理が不調に終り薩英戦争
 1863(文久3)年2月ころ、イギリスの代理公使ニールは、薩摩藩に対する要求をも一応幕府に通告するとしたが、「幕府は薩摩藩内の犯人を逮捕できないというので、直接同藩と交渉するため艦隊を派遣し、犯人の逮捕・処刑と、償金二万五千ポンドの支払いを要求し、もしこれに応じないときには、艦隊司令官は適当な処置をとるであろう」(小西四郎著『日本の歴史』19開国と攘夷 中公文庫 P.279~280)と言っていた。
 幕府は、ニールに対し、しばしば薩摩藩に対して直接行動をとらないように要請した。しかし、6月22日、キューバ―提督の率いるイギリス艦隊7隻は、ニールや公使館員らを乗せて、横浜を出航し鹿児島に向かった。艦隊は27日、鹿児島湾口に姿を現わし、翌日から交渉が始まった。
 イギリスは、事件の犯人の処刑と2万5000ポンド(10万ドル、金6万330両余)の賠償金の支払いを要求し、24時間以内の回答を要求した。薩摩藩は、犯人はまだ捕らえられぬこと、賠償については、事件の起りは薩摩側としては当然の処置であり、将来幕府および薩摩の重臣が、ともにイギリス側と会合して、談判したいとの長文の回答を送った。
 この回答を受けて、ニールは外交交渉を断念し、7月2日、まず薩摩藩の汽船3隻を拿捕(だほ)した。これらは薩摩藩がヨーロッパ諸国から購入した高価なもの(総計35万余ドル)であった。
 これをきっかけにして、戦闘が開始された。この日は、猛烈な台風が襲来し、激しい風雨のもとで砲戦が展開された。薩摩側の参戦した砲台は10カ所、備砲は83門、イギリス側はアームストロング砲以下101門であり、交戦時間は3時間半におよんだ。イギリス側はミスがあって、旗艦の応戦が交戦開始から約2時間も遅れた。イギリス側は旗艦船長など戦死13人、負傷50人の被害、薩摩側は戦死5人、負傷10数人、町屋敷約350戸・士邸60戸さらに集成館などが焼失した。焼失面積は市街地の約1割に及んだと言われる。戦闘は翌日も若干あったが、4日午後、艦隊は退去した。
 戦争自体は痛み分けに終わったが、予想外の被害を出したイギリス側のショックは大きく、他方、薩摩側には「戦勝」気分が広がった。薩摩の「善戦」は、江戸でも好意的に評価されたようである。しかし、藩首脳部はイギリス側の戦闘力に衝撃を受け、再戦も困難なことを認識した。
 「明治時代」になってからの話であるが、島津家史料の収集・整理を行なった市来四郎は、久光が後に語ったこととして次のように伝えている。すなわち、「世の風潮は攘夷説が盛んである処(ところ)から、小松・大久保等が言にも、兎角(とかく)攘夷をせねばならぬ、人気も纏(まと)まらないということを、毎度言った、其中(そのなか)に小松(*帯刀)は、開港もせねばならぬと云うことが腹にあったけれども、大久保(*一蔵)抔(など)は各藩士抔の情実を酌(く)みて、鎖港を以て目的として居った様で、故に拙者(*久光)も攘夷は不可なりと云ったことはなく、無謀の攘夷は宜(よろ)しくないと云うことを建言〔*朝廷へ〕した。......[戦争の被害甚大で和睦がなった時]開港説を始めて小松が腹を吐いたそうです(『史談会速記録』一〇~一一輯)。」(高村直助著『小松帯刀』吉川弘文館 2012年 P.63)とのことである。
 イギリスとの講和交渉は江戸で行なわれた。薩摩藩は形式的に支藩の佐土原(さどはら)藩主島津忠寛が賠償金を支払うこととし、11月1日、2万5000ポンドを幕府から借りて(結局、返済せず)イギリス側に交付した。犯人の逮捕処刑については、それを約束した証書が渡された。この基本合意は、3回目の交渉(10月5日)でなされ、この時、薩摩が軍艦購入・留学生派遣の斡旋(あっせん)をイギリスに依頼したので、以降、両者の関係は一転して親密な方向をたどるようになった。

(3)長州の外国船攻撃に対する評価が朝幕で正反対
 長州藩が馬関海峡(下関海峡)で外国船を砲撃したことに対して、「六月朔日(ついたち)朝廷は、『其(その)拒絶期限を誤らず掃攘(そうじょう)に及びたる段、叡感(えいかん *天皇のご機嫌)斜(ななめ)ならず、弥(いよいよ)以て勉励し、皇国の武威を海外に輝かすべし』と沙汰し(毛利家記)、六日又(また)列藩に諭(さと)して、『外夷拒絶期限を布告せる上は、夷船掃攘の心得(こころえ)勿論(もちろん)なるに、傍観の藩ある由(よし)、深く宸襟(しんきん)を悩まさる。長州既に兵端を開きたれば、皇国は一体なり、互(たがひ)に応援して外夷を掃攘し、叡慮を貫徹すべし』といへり(公純公記。村井政礼手録)。十四日正親町少将(公董)を攘夷監察使となして長州に差遣(さしつかわ)し、『長門宰相父子(毛利慶親・定広)が期限を誤らずして外夷を膺懲(ようちょう *うちこらしめること)せしは、叡慮斜ならざる所なり』との勅使を伝えしむ(七月八日宣達す。......)。大膳大夫(毛利慶親)は勅使の旅館に就いて下向(げこう)の恩を謝し、弥(いよいよ)勉励掃攘を誓へり(防長回天史)。此(この)前後朝廷は小倉(藩主小笠原大膳大夫忠幹)・中津(藩主奥平大膳大夫昌服)・筑前(藩主松平〔黒田〕美濃守斉溥)・秋月(藩主黒田篤之助)・津和野(藩主亀井隠岐守?監)の諸藩に令して、『長藩危急の際は、速に援兵を出して神州の武威を輝かすべし』といひ......、又(また)列藩には、『外夷渡来せば二念なく打払ふべし、尤(もっと)も警備の諸藩互に相援(あいたす)けて、尽力防禦あるべし』と達せり(六月十八日。......)。......」(『徳川慶喜伝』2 P.250~251)といわれる。
 天皇・朝廷は、長州藩の外国船砲撃で攘夷決行に突入したことを大いに喜び、「弥以て勉励し、皇国の武威を海外に輝かすべし」と激励した。また、近隣の諸藩に対しても、「長藩危急の際は、速に援兵を出して神州の武威を輝かすべし」と叱咤(しった *大声を挙げて励ますこと)した。
 これに対して、幕府は対照的な態度である。6月12日、老中水野忠清は、長州藩を詰問して、「夷国拒絶の儀は談判中にて、未だ御手切(おてぎれ *互いの関係を断つこと)とならざるに、猥(みだり)に兵端を開きたるは、国辱を引起したるに当(あた)れり。愈(いよいよ)御手切とならば、其(その)節は二念なく打払(うちはら)ふべし。彼より襲来せざる中は、粗忽(そこつ *軽率なこと)所行(しょぎょう)あるべからず」(同前 P.252)と言っている。そして、実質的な「支藩」である岩国藩の藩主吉川監物(経幹)と家老の一人を召して、7月8日、重ねて「拒絶は勅命なれども、策略は素(もと)より御委任の事〔*具体的な作戦は幕府に委任されているという事〕なれば、此上(このうえ)応接の形勢によりて、愈(いよいよ)打払ふべき時は、改めて達すべければ、航海の異船に対して猥に発砲すべからず」(同前 P.252)と、長州藩を戒めた。
また、7月12日には、小倉藩領を占拠した長州兵を撤退させ、筑前・芸州・中津の諸藩に命じて、小倉藩を応援させた。
 そして、7月15日、「使番(つかいばん)中根一之丞(正聖)等を、九州方面視察と称し、朝陽艦に乗じて西航せしむ、其実(そのじつ)は長藩を詰問するにあり。長藩士等(ら)之(これ)を聞きて大に憤(いきどお)り、朝陽艦が防長の近海に到るや、各砲台は発砲して之(これ)を威嚇(いかく)し、又(また)小倉藩士(二人)の嚮導(きょうどう *水先案内)として搭乗せるを探知し、幕艦の警衛と称して之(これ)を捕へんとしければ、小倉藩士は船底に自尽せり。加之(しかのみならず)攘夷を為(な)さざる幕府には此(この)船不要なるべしとて、借用を申込むなど、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)なり。一之丞等は詰問書交付の為(ため)、船を馬関に繋(つな)ぎて小郡(おごおり)に去りたる時、長人は遂に朝陽艦を奪ひ、8月21日一之丞の旅館を襲いひて其(その)従者数人を殺し、翌日一之丞の帰航を追尾して之を船中に殺害せり(防長回天史。文久癸亥筆記。長州記事)。」という事態に発展する。この時は、すでに8・18クーデターが起り、長州人は京都から放逐されて、孤立した情況にあった。
 
J 攘夷戦争さなかに奇兵隊の登場

(1) 周布の唱える軍事の下層化
 藩政改革や軍制改革を推進してきた周布政之助は、1860(万延元)年閏3月5日付けの宍戸九郎兵衛あての手紙で、次のように述べている。

......御軍制成就と申し候ても〔*軍制改革は3~4年もすれば成就すると予測している〕も、五百石以上の歴々、軍事に練熟致し候様には覚束無く〔*軍事は歴々の上層武士のみの問題ではなく〕、以下の士より足軽・百姓まで押し及ぼし〔*動員するべきであり〕、御国中在々所々(ざいざいしょしょ)津々浦々(つつうらうら)家数に応じ、銃隊を取立て〔*編成し〕、隊々多少により、役付きの諸士兼(かね)て在住仰せ付け置き候はば〔*銃隊に対応して役付きの諸士を在郷させれば〕、先賢土着の説1)も容易に行なわれ申すべく、難渋の士の御救い方にも相成り申すべく、御城下住宅少なく成り候はば、商戸奢侈(しゃし)の基を抜き候術(すべ)にも相当し、御城下質素(しっそ)にも相成り申すべく候、右の類(たぐい)の事にて、御軍制より風を移し俗を変え候手段、廉々(れんれん)之(これ)有るべくに付き、御熟案願い奉り候...... (『周布政之助伝』上 P.566)

 軍事の改革は、上士の問題にとどまらず、下士より足軽・百姓まで対象を押し広げ、藩内のいたる所で家数に応じて銃隊を編成し、隊の多少によって、役付きの諸士を在住させるならば、先賢の武士土着論も容易に実行でき、生活困難な士の救済にもなり、その結果として、"城下の住宅が少なくなれば、商家が得る奢侈の根元を解消する"てだてともなり、城下全体の質素倹約にもなるであろう。このように軍制改革より風俗を質素にする手段ともなるであろう。これは格別なことなので、よくよくお考えくださいと、提案している。
 軍制の洋式化について、従来から特権的な上層武士層には強い抵抗と不満があった。軍制の洋式化は、足軽・中間をも「一人前の軍事力」として取扱うことになるので、武士身分の家格制をおびやかすからである。しかし、周布や前田孫左衛門などの重臣においても、軍制の洋式化に理解がある者には、当然のこととして軍事の下層化(足軽・中間や百姓をも動員するべきとする)が主張されるようになる。
 軍事の下層化は、長州藩でも農兵の取立てを盛んにした。「長州藩では文久元年(一八六一)頃から藩内各地で農兵取立てが活発化し、藩からの勧奨のみならず、豪農らによる献金がそれを後押しした。こうして結成された農兵は、たとえば小郡(おごおり)宰判で組織された農兵『郷勇隊』では、大庄屋層が重役、庄屋層が各係、一般農民が兵士といった具合に、藩による村落支配機構をそのまま移行させたようなものであった。」(樋口雄彦著『幕末の農兵』P.157)と言われる。
 1863(文久3)年2月10日、周布政之助は、小銃局設置に関連し、正木市太郎宛ての書簡で人民の武装化について次のように明言している。正木は、萩で大砲小銃の鋳造をつかさどっている者である。

......偖(さて)従来(じゅうらい)思召し立ての小銃局、追々(おいおい)成立ち候よし承りおよび恭(うやうや)しき喜び此事(このこと)に御座候、器械乏しく候ては、戦わざる以前に外夷の軽侮を受け、残念至極に付き、何分に尽き御丹精候て、製造一途(いちず)防長二州中にて、事足(ことた)り候様成り置かれたく仰せ希(ねがひ)候......御国中(みくにじゅう)要地(ようち)要津(ようしん)え、大小銃充満いたし候様罷(まか)り成り申すべく、左候はば、一先(ひとまず)外夷を圧倒するの手立(てだて)とも相成り申すべく、
人民は五、六ケ月執業(しつぎょう *訓練)仕(つかまつ)らせ候得(そうらへ)は、一箇の士とは相成るべく候得共(そうらへども)、器械(*武器)を与へ申さず候ては、執業の目途目途(めど)之(これ)無く、終(つい)に竹槍位(くらい)を持(もた)せ、死生の間へ立て候て、働き候様にと申し候ては、上(かみ)御慈悲も欠け候訳に付き、何卒(なにとぞ)製造局において器械十分に御仕出し相成り、御国中の人民、凡(およ)そ七十万、この内三十五万は婦女、十七万五千は男にて老幼と見(み)候、引き残り拾七万五千の丁壮男児え、御引当ての大砲・小銃御調(ととの)へ置き相成り候はば、此上(このうえ)無く御大功と存じ奉り候、此(この)一條老兄(*正木)御引請(おひきうけ)成られ、御苦心候はば、十分相調(あいととの)へ申すべき哉(や)と、只管(ひたすら)希望仕る儀に御座候......  (『周布政之助伝』下 P.377)

 周布は、軍隊に於ける訓練や規律について、安易に考えているが、武器確保の重要性については冷徹に見据えている。人民武装化の実際的裏付けを、空言とはしていないのである。

注1)幕藩制度の主柱に参勤交代制がある。定期的な藩主の江戸在住である。それに伴い、多くの藩士が江戸に住み着く。武士の都市集住は江戸だけではなく、国元でも行なわれた。だが、武士の都市集住は、その生活が奢侈に流れ士道が堕落すると批判する論者は江戸時代初期から存在する。その代表の一人は、山鹿素行である。武士生活の倹約が叫ばれるたびに、武士土着論が主張される所以である。

(2) 玄瑞の御楯組―集撰組結成
 奇兵隊の前身は、光明寺党であるという主張があるが、これは疑問である。
 話はやや遡るが、1862(文久2)年1月21日、久坂玄瑞は土佐の武市瑞山に書簡を送り、はっきりとした倒幕の姿勢を次のように示した。

其後(そのご)如何(いかが)在らせられ候や、此内(このうち)は山本(*喜三之進)・大石(*團蔵)君御来訪下され何(なんの)風景も之(これ)無く御気毒(おきのどく)千万存じ奉り候。最早(もはや)御帰国ならんと御察し仕り候。此度(このたび)坂本君(*坂本龍馬)御出浮(おんしゅつふ *脱藩)在らせられ腹蔵無く御談合(おだんごう)仕り候事(そうろうこと)委曲御聞取(おききとり)願ひ奉り候。竟(つひ)に諸侯恃(たの)むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽(そうもう)志士糾合(きゅうごう)、義挙の外(ほか)には迚(とて)も策(さく)之(これ)無き事と私共(わたしども)同志中(ちゅう)申合せ居り候事に御座候。失敬(しっけい)ながら尊藩(*土佐藩)も弊藩(へいはん *長州藩)も滅亡して大義なれば苦しからず。両藩共(とも)存し候とも、恐れ多くも皇統綿々、万乗の君御叡慮相貫(あいつらぬ)き申さずしては神州に衣食する甲斐は之(これ)無きかと友人共申し居り候事に御座候...... 
        (福本義亮著『松下村塾偉人久坂玄瑞』P.501~502)

 これまで、幕府諫争、それがダメなら倒幕との態度にとどまっていた玄瑞も、この時期において倒幕の態度を外部に明らかにしたのである。
 その年の11月、横浜の在留外国人襲撃を高杉らと計画するが、これは世子に説得され中止に至るが、12月12日、玄瑞は高杉らとともに品川御殿山の英国公使館を焼き打ちした。世子の説得によって一度は挫折した「攘夷断行」(11月13日)の直後と思われる時期に、「気節文章」(攘夷血盟書)は、起草された。その主旨は以下の通りである。

......(前略)......百折不屈(ひゃくせつふくつ)、夷狄を掃徐(そうじ)し、上は叡覧を貫き、下は君意を徹するほか他念これなく、国家の御楯(みたて)となるべき覚悟肝要なり、
同志中一旦連結の上は進退出処(しゅっしょ)盡(ことごと)く相謀(あいはか)り、自己の了簡(りょうけん)に任(まか)すまじき也
同志中落途(*落伍)之(これ)有るか又(また)は所存(しょぞん)相違(そうい)之(これ)有る時は何国までも論辯(ろんべん *良し悪しを論じわかつこと)すべし、面従腹琲(面従腹背)は、武士道に於て愧(は)ずべき所なり
秘密の事件は父母兄弟たりとも洩(もら)すべからず、万一召捕られ八裂(やつざき)に逢うとも露顕(ろけん)致す等(とう)之(これ)有るまじき儀也
御楯組中一人たりとも恥辱(ちじょく)を蒙(こうむ)る時は其(その)餘(よ)の恥辱たり、相互に死力を以て救援し組中の汚名を取りまじき也、我々共死生を同し正気を維持するに付(つき)ては、いか計(ばかり)離流顛沛(てんぱい *挫折すること)に逢うとも尊攘の志(こころざし)屈し撓(たわむ *疲れていやになること)べからず、聚散離合(しゅうさんりごう)を以て、志を変ずるは禽獣(きんじゅう)と謂(い)ふべし、幾(いく)千万里を隔(へだつ)とも正議凛然(りんぜん)見苦しき振舞(ふるまい)之(これ)有るまじき也
右(みぎ)同志の契約、違背(いはい)致し候時は幾應も論辯せしめ、万一承引(しょういん *納得)之(これ)無きに於ては組中(くみじゅう)申合せ、詰腹(つめばら)に及ぶべし、依って天神地祇に誓ひ血盟する事(こと)如件(くだんのごとし)。

 玄瑞起草の「気節文章」は、「夷狄を掃除し、上は叡慮を貫き下は君意を徹する外他念之無く国家の御楯となる」目的をもったもので、その加入者の規約的なものが羅列された契約書であり、最後に「天神地祇」に誓い、血盟している。
 これにより御楯組(みたてくみ)という血盟集団が結成される。参加者は、高杉晋作・久坂玄瑞・大和弥八郎・長嶺内蔵太(くらた)・志道聞多(*のちの井上馨)・松島剛蔵・寺島忠三郎・有吉熊次郎・赤禰幹之丞(赤根武人のこと)・山尾庸三・品川弥二郎である。後に京都組、国元組からも、瀧彌太郎・山田市之允(いちのじょう)・吉田稔麿(としまろ)・野村和作などが加わり、総勢25名となる。うち、11名は松下村塾生である。
 1863(文久3)年3月、幕府より「奉勅攘夷」の決定が各藩に布告され、翌月には、攘夷期限を5月10日とする勅令が発せられた。玄瑞は、攘夷の先頭にたとうと京を発ち、4月25日に山口に帰着した。翌日、敵情探索を目的として、玄瑞は馬関(下関)に派遣され、ここを決戦の場所と見極め、長州藩の全力を集中すべきと藩政府に進言した。と同時に、玄瑞は御楯組の同志や諸藩の脱藩浪士を加えて、攘夷実行の中核部隊として集撰組(しゅうせんぐみ)を下関で結成した。
 集撰組は当初、竹崎(清末支藩領)の長泉寺を宿舎としていたが、5月初めに細江(ほそえ)の専念寺、光明寺に移転、光明寺をもって本陣と定めた。
 萩の本藩士・金子文輔の書いた『馬関攘夷従軍筆記』によると、この集撰組について、「有志党なるもの凡そ五、六十名計(ばか)り、久坂義助(*玄瑞)、之(これ)を統轄し、専念寺及び光明寺にあり。人、称して光明寺党と云ふ。」と記述されている。「光明寺党」というのは、他称であり、やはり自らは集撰組と称していたのである。
 だが、集撰組は軽輩(士雇、足軽、中間など)が多く、藩士からは軽侮されていた。「光明寺党」というのは、そのような軽侮のニュアンスが込められていたものである。
 5月10日の攘夷決戦では、集撰組は久坂玄瑞(砲台軍監)の指揮で、亀山砲台・甲山(かぶとやま)砲台守備、遊兵に三分され奮闘し、その様子は『奇兵隊日記』に伝えられている。久坂自身は、庚申丸に乗ってその指揮をとっている。
 御楯組と集撰組は、玄瑞がともに統括者である。「ただし両者の性質はかなり異なるものであった。御楯組が長藩士のみで構成され、藩主父子への忠誠を重視し、封建割拠論を是認する血盟集団であったのに対し、いっぽうで藩単位の行動に限界を感じていた久坂の理想が、実現に一歩前進した形となったものが、諸藩浪士(肥後、鳥取、備前、島原、膳所等)を含んだ集撰組の結成であった。/その後、久坂は京都周旋の藩務に忙殺されたため、六月六日深夜に来関した高杉がこれを引き継ぐ格好となり、その結果、士農工商の別なく、忠義の有志を隊員とする奇兵隊が結成されることから、今日、集撰組は奇兵隊の前身としての位置を与えられている。/しかしながら、久坂の集撰組構想に農兵を含まなかったことの意味を見逃してはならない。この事実はようやく宿願が叶(かな)い、大組士となった(*玄瑞は寺社組にあって、修行中の「医生」の身であったが、4月22日付けで大組に列され、蓄髪を許された)久坂義助の硬質な指導観と結びついている。そもそも集撰組とは精鋭武闘集団たることを誇る名である。久坂はそこに本来の武士の存在意義を再確認し、文弱化した世禄士(*世襲で禄を食む藩士)への鉄槌(てっつい)としたのである。それは医員あがりの俄(にわか)平士(ひらし)の虚勢ではなく、いちじるしい士道の後退を嘆く真情に出るものであった。/尊王思想と直結して形成された久坂の士道論は、万葉期の『ますらを』を理想の武人とする復古的色彩の強いもので、攘夷でも対外防衛の西海の辺境に配備された『さきもり(*防人)』が意識された。久坂は藩国防衛のプロフェッショナルは、堅固な侍魂と尊王精神を備える忠烈義士でなくては勤まらぬと見た。」(林田慎之助著『高杉晋作・久坂玄瑞』明徳出版社 2012年 P.254~255)のであった。
 久坂も高杉も、同じく身分制に厳格で、武士意識が強い。しかし、非常時に結成された奇兵隊の場合、高杉の予想に反して足軽・中間などの軽輩のみならず農兵町兵も加入を希望する。高杉は、これを臨機応変の処置として、容認している。しかし、久坂の集撰組には、農兵町兵は含まれていない。
 1863(文久3)年5月10日の攘夷断行が近付くと、久坂玄瑞ら有志数十人の光明寺党は、「攘夷の先鋒」になりたいと山口の藩政府に願い出た。光明寺党のメンバーは、入江九一、山県小輔(狂介、有朋)、滝弥太郎、天野清三郎(渡辺蒿藏)、長野熊之丞、馬島甫仙、赤根幹之丞(赤祢武人)、元森熊次郎、岡千吉、堀平三郎、吉田栄太郎、山田虎之助、藤村英熊(太郎)などである。そして、4月28日には攘夷派の公卿中山忠光を迎え、首領に祭り上げる。
 久坂ら光明寺党の戦いは目覚ましく、八組士など正規軍600余人を率いる馬関総奉行・毛利能登の指揮が「消極的」と非難し、能登を罷免に追い込む。

(3)高杉の奇兵隊結成

 攘夷断行で長州藩は、1863(文久3)年5月、フランス・オランダ・アメリカ艦と砲火を交えるが、藩の軍艦を沈められたり、馬関(関門海峡)の砲台を壊されたり、前田村を焼かれたりする。威勢よく攘夷を唱え、無謀にも外国艦隊を砲撃したが逆に報復を受けて、長州藩はみじめにも敗北する。
 この事態に対処するために、藩は6月3日に高杉晋作を復籍させ、4日には、山口に居た藩主父子が、高杉晋作に下問した。それに対して、晋作は「願わくハ馬関の事を以て臣に任(まか)せよ。臣一策あり。請ふ、有志の士を募り一隊を創立し、名(なづ)けて奇兵隊と云(いわ)ん。然(しか)れとも専ら奇兵のミを以て従事するにあらす、奇兵の中亦(また)正あり、奇ある也。所謂(いはゆる)正兵ハ惣奉行の兵あり、これに対して奇兵とせん」(定本『奇兵隊日記』下 マツノ書店 1998年 P.10)と答えたという。

 (ⅰ)綱領・規則の制定
 6月6日、毛利敬親は、高杉の奇兵隊構想に賛成し、早速、馬関(下関)に行って、来島又兵衛と謀って兵を集めることを命じた。晋作は、藩主から馬関(下関)防禦を委任されたのである。
 その日の内に下関へ出た晋作は、翌7日、奇兵隊結成綱領ともいうべき「五カ条」を制定し、山口の藩政府へ提出した。これは以下の5カ条である。

一(第一条)奇兵隊の儀ハ有志の者相集(あいつどい)候(そうろう)ニ付(つき)、陪臣・軽卒・藩士を不撰(エラばず)、同様に相交(あいまじは)り、専ら力量を以て貴(たっと)ひ、堅固の隊(たい)相調(あいととのえ)申可(もうすべき)と存奉(ぞんじたてまつり)候。
一(第二条)此後(このご)御伺(おうかがい)申すべき廉(かどかど)ハ書面を以て、前田孫右衛門迄(まで)差出(さしだし)申すべく)候間(そうろうあいだ)、直(ただち)ニ御前(*藩主)へ差出され候様奉願(ねがいたてまつり)候。
一(第三条)奇兵隊人数日々に相加(あいくわえ)候に付き、是迄(これまで)小銃隊の内もこれ有り、又(また)ハ小吏相勤(あいつとめ)候者もこれ有り候。御一手人数(*正規の藩士)の内もこれ有るへく候得とも(そうらへども)畢竟(ひっきょう)匹夫(ひっぷ)〔の〕志(こころざし)奪ふべかざるに候(そうら)へハ、是等(これら)も拒(こば)み難(がた)き趣(おもむき)御座候(ござそうろう)。素(もと)より御組立の人数内を、是(これ)より相招(あいまねく)ハ仕らざる候得共、自然奇兵隊へ望(のぞ)み参(まいり)候ハハ(はば)隊中へ相加へ申すべきと存奉(ぞんじたてまつり)候。
一(第四条)此(これ)往き毎(ごと)〔の〕合戦其働(そのはたらき)銘々勇怯(ゆうきょう *勇気と怯懦と)も相顕(あいあらわ)れ申すべきニ付(つき)、日記具(つぶさ)に相調置(あいととのえおき)差出すべく候間(そうろうあいだ)、賞罰の御沙汰、陪臣・軽卒・藩士に拘(かかわ)らす、速(すみやか)に相行(あいおこなわ)れ候様仕度(つかまつりたく)存奉(ぞんじたてまつり)候。
一(第五条)隊法の義ハ和流・西洋流に拘らす、各(おのおの)得物(えもの *武器)を以て接戦仕(つかまつ)り候事。
 六月七日
                          高杉東行(*晋作のこと) 
     (定本『奇兵隊日記』下 P.10~11)

 第一条は、「有志の集まり」であるから、「陪臣・軽卒・藩士」を問わずに相交わり、堅固な隊を作るとしている。あくまでも、「有志の集り」とした。だがここでは、農民や町民は対象となっていない。
 第二条は、尊攘派に理解のある重臣・前田孫右衛門を仲介として、藩主との連結を確保している。恐らくは、反対勢力の妨害を考慮して、奇兵隊の合法性を確保したと思われる。
 第三条は、これまで小銃隊に属していた者、小吏を勤めていた者、あるいは各組に所属する正規の藩士からも加入する者が出るだろうが、各自の志を尊重し、希望者を参加させるとしている。もちろん、既存の組織からの引き抜きはしないことも断わっている。2)
 第四条は、合戦での各人の働きを日記につけ、賞罰の際の証拠とし、「陪臣・軽卒・藩士」にかかわらず速やかな賞罰を行なうべきとしている。
 第五条は、戦法は和流であろうとも西洋流であろうとも、それに応じた各自の好みの武器をもって戦うとしている。
 全体的には、各人の志を尊重し、その有志の集まりとして、奇兵隊を位置付けているのが、特徴的である。
 高杉は、奇兵隊結成とともに、同日、軍中での守るべき法令5カ条もつくった。

一、軍中法令を作る 左の如し
   法令
一(第一条)諸隊士ハ令を伍長に聞き、伍長は令を惣督(そうとく)に請(う)け、一隊一和肝要(かんよう)たるへき事
一(第二条)陣中猥(みだり)に他行(たぎょう *外出)為(な)すべからず、若(も)し不時の節ハ出合せ候者之(これ)有り、其(その)場(*ばあい)在合(ありあわ)さる輩ハ不覚(ふかく)為すべく候事
一(第三条)酒宴、遊興、淫乱、高声禁止すべきの事
一(第四条)喧嘩(けんか)口論すべて無用の雑言(ぞうごん *くだらない悪口)停止すべく、若(もし)計謀(けいぼう)策略(さくりゃく)建言(けんげん)致すべき筋ハ、其(その)伍長より惣督(総督)へ申達(もうしたっせ)らるべく候事
一(第五条)陣中敵味方強弱批判停止の事
                        (同前 P.11)

 第一条は、隊士―伍長―惣督の指揮系統の下で、一隊の団結が極めて重要なこととした。第二条は、当然なことではあるが、陣中勝手な外出を禁止した。後半部分は意味不明な点もあるが(不意の出動もあるが、それに間に合わないことは不覚であるという意か?)、あくまでも集団行動を求めたと思われる。第五条は、陣中、敵味方の強弱や批判をしないよう厳しく批判した。第三条は、作法を述べたものだが、実際は酒は飲んでいたようである。第四条は、「無用の雑言」は禁止したが、しかし、隊にとって有用な考えは、伍長―総督へ意見するようにさせている。これは、注目してよいものであろう。
 なお、高杉は奇兵隊の創設を行なっただけでない。馬関に到着以来『正規軍』の再編成も進めていた。正規軍は八組士のうち二組が馬関に出張していたのだが、奇兵隊の創設に「尋(つい)で晋作は更に出戍(しゅつじゅ *兵士の出動)大組中の精鋭百名を選抜して正兵となし、其(その)編成を先鋒隊と名(なず)け(後また選鋒隊と更〔あらた〕む)、之(これ)に対して奇兵隊を小隊と称し、同時に其(その)規則を定めて七月九日藩政府に報告」(『周布政之助伝』下 P.535)した。その規則は、それぞれ以下のものである。

    【先鋒隊陣中規則】
一、 先鋒隊中老少を撰(えら)ばず、専(もっぱ)ら忠節忠功を守り進退堅く老中の指揮に隨(したが)ふべき事、
一、 合戦勝利の是非、武備謀計(ぼうけい)の善悪、聊(いささ)かも私の批判を加ふべからず、若(も)し私意(しい *意見)相違の儀(ぎ)有らば、以て老中山口御旗本え言上致すべき事、
一、 酒宴(しゅえん)遊興(ゆうきょう)淫乱(いんらん)高声(こうせい)皆(みな)人の惑(まど)ふベき也、堅く禁制すべき事、
右の條々(じょうじょう)堅く相守らるべき事、
    【小隊規則】
一、 小隊中老少を撰ばず、専ら忠節を守り進退堅く司令官の下知(げち *指図)に隨ふべき事、
一、 合戦勝利の是非、武備謀計の批判、若し私意相違の儀有らば、以て司令官老中え言上致すべき事、
一、 酒宴遊興淫乱高声皆人の惑ふべき也、堅く禁制すべき事、
右條々堅く相守らるべき事、
 亥(い *1863年)七月九日高杉晋作書状を以て、馬関より之(これ)を贈る、

 これらによると、先鋒隊の指揮は老中が行なうことになっているが、小隊(*奇兵隊)の場合、その指揮は司令官(*高杉晋作)となっている。奇兵隊の軍事行動は、大幅に司令官の「自由裁量」に委ねられているのである。

 (ⅱ)奇兵隊への加入者続出
 危機にたたされた長州藩は6月21日、次のような藩令を下した。「事務に長じ才器・人望あり、機密の参謀にも採用すべき人物があれば、『草莽間の者にても苦しからずに付(つき)』、その人物の姓名等を書いて支配支配へ申出よ、と。眼前の危機を乗りきるためには、もはや武士のみには頼っておれない」(田中彰著『幕末の長州』中公新書 1965年 P.90)というのである。
 長州藩は、それ以前、1863(文久3)年1月8日、地方組の入江九一、蔵元付の山県小輔(有朋)、山下新兵衛組の杉山松助、それに品川弥二郎を士雇(さむらいやとひ)に昇格させ、3月2日に山下新兵衛組の伊藤俊輔(博文)を同じく士雇に昇格させた。
 士雇というのは、扶持方三人、恩米十石以下で、勤功ある卒族(*足軽・中間など準武士身分の者)を士列に班するための一階梯とみなし得る。
 6月の藩令後は、こうした人材登用がさらに激しくなった。7月1日には、浦靱負(ゆきえ)の臣赤根幹之丞(武人)・同白井小助、小野又八郎組林半七、地方組堀平三郎・同野村和作(靖)を士雇に昇格させ、7月6日には下関伊崎の豪商白石正一郎、山下新兵衛組吉田栄太郎(稔麿〔としまろ〕)も士列に昇格させた。奇兵隊が結成されたのは、こうした時代情況の下であった。
 田中彰氏は、このような昇格を「幕藩体制の伝統的な階級制度は、いまや崩壊を余儀なくされていた」(同前 P.90)と評価するが、これは間違いである。士農工商の身分制度の解体と、それを維持しつつ、より下層からの立身出世を認めることとは別の事柄である。現に農民を郷士に昇進させるのは、身分制度の解体なのではない。古代中国では、財政を賄うために巨額の財産を貢献した者(農民であれ商人であれ)を官僚に登用した。幕末の農工商を卒族や士雇に登用したのも、同質の事柄である。奇兵隊の創設者とされる高杉晋作は、人一倍に武士意識が強かった3)のであり(田中氏もこれは認めている)、武士身分を維持することと、下層身分からの武士階級への立身出世を認めることとは同じ事ではない。後者は、決して身分制度の自動的な解体へはつながらない。
 奇兵隊結成は、大きな反響をもった。下関攘夷戦争に参加し、『馬関攘夷戦従軍筆記』(史料的価値の高い日記)を書いた金子文輔は、大意、次のように記している。
 六月七日
 晴れ、私は同じ隊の者を七、八人誘って、前田村の砲台に行き、一昨日の戦争の地を見学した。......
 この日、私共が外出中、光明寺党の滝弥太郎・赤根武人・入江杉蔵が来営した。その時、次のように話したという。その話しとは「当地で、有志党を編成する。志願をする者には、入党を許す」と。我が隊員の中には、既にそのことを知り、有志党に加入したものも若干名いた。先鋒隊の隊長などは、出来る限りの手段を講じて、加入阻止を図ったが、隊員の有志党への入隊を止めることは出来なかった。
............
 六月九日
 本日の夕方、雨の降る中を神田恒之允・藤山吾作・増山義作と私の四人は、先鋒隊の営所を脱出して有志党(*奇兵隊)へ入隊した。有志党の屯所は、白石正一郎の邸宅であった。この日、当地へ出張してきた先鋒隊の輜重(しちょう)方にいる親族の時山清之進を訪ね、有志党へ入隊する事を告げた。 (『下関市史』P.926~927)

金子文輔は、5月4日に召集を受け、歩兵第三小隊に編入されて、赤間関出張を命じられた。この歩兵第三小隊の属する隊は先鋒隊で、1852(嘉永6)年に創設された藩の最初の西洋式軍隊であった。同隊は、歩兵隊と砲兵隊によって編成されていた。
 金子らの奇兵隊入隊を促した最大の要因は、隊長に対する不満である。6月5日の戦いのあと、新地の営所に帰り、夕食(酒肴が下賜された)後、本日の戦況についての話となった。「すると議論が沸騰して、やかましくて眠ることも出来なかった。しかし、全員一致して確認したことは、『隊長は臆病だ』ということであった。」(同前 P.924)という。
 奇兵隊への加入者は続出し、数日で50~60人にも達したといわれる。
 先述したように晋作は、奇兵隊のメンバーを、下級藩士に想定しており、農民町人を考えていない。だが、実際には、武士以外の者も入隊している。『白石正一郎日記』によると、1863(文久3)年6月8日の条には、「高杉、当家にて奇兵隊取り立てあい成り」として、白石正一郎・その弟廉作(れんさく)・井関右衛門・山本孝兵衛などが入隊していると記されている。
 武士意識の強い晋作ではあるが、彼は民間の入隊者の出世にきわめて熱心である。「ほんらい国を護るのは、武士の仕事である。それゆえか、晋作は奇兵隊に入って来た庶民を、武士身分に『昇格』させようとした形跡がある。とくに民間の協力者第一号ともいうべき白石正一郎の『昇格』を熱心に周旋している。たとえば六月八日付、前田孫右衛門あて書簡で、/『白石正一郎事、ひとかたならず周旋仕り候間、何ぞひとかど相立ち候御沙汰仰せ下され候よう、御取り計らい頼み奉り候』/と頼む。あるいは同日、来島又兵衛あて書簡でも、/『白石正一郎儀、本藩御徒士(かち)に仰せつけられ候よう奉り候』/と頼む。その甲斐あってか、白石は攘夷に協力した功により三十人通という本藩(宗藩)士の身分を手に入れた。」(一坂太郎著『高杉晋作と長州』吉川弘文館 P.77~78)のであった。
 身分序列を脅かされる上級武士には不人気の政策かもしれないが、藩主にとっては危機存亡に際して、背に腹は代えられないことであった。
 奇兵隊の結成を皮切りに、藩内では次々と諸々の隊が編成された。「文久三年十二月に定められた主要諸隊の隊名・定員・駐屯所は、奇兵隊三〇〇人・赤間関、遊撃隊五〇〇人・三田尻、八幡隊一〇〇人・山口、集義隊五〇人・小郡、義勇隊五〇人・上関となっている。もちろん、その他にも多くの隊ができた。」(同前 P.96)のである。
 奇兵隊の身分別の構成について、『山口県史』史料編幕末維新6は、次のように述べている。「『防長維新関係者要覧』、『萩藩給禄帳』、『旧長藩殉難者名簿』等と照合すると六四五名の肩書を知ることができる。情報不十分な四名を除き、六四一名について出身身分を分析すると、武士出身三一八名(四九・六%)、農民出身二五八名(四〇・三%)、町人出身三二名(五・〇%)、寺社関係者三三名(五・一%)となっている。また、武士出身者の内訳は、直参一〇二(三二・一%)、陪臣一三三名(四一・八%)、扶養者七二(二二・六%)、支藩出身者一〇名(三・二%)、他藩出身者一名(〇・三%)となっている。/士と民の割合は半々、つまり半分近くが武士の格好をした百姓だった。また、武士でも陪臣や扶養者といった、武士身分の中では低い地位の者が半分以上を占めていたことも分かる」と言われる。
 しかし、諸隊はあくまでも農兵隊とは異なるものである。第一に、諸隊メンバーの身分が農民や町民から脱せられ、最下級ではあれ武士身分になっているからである。第二に、農兵隊は隊員になると課税が軽減されるなどの特典があるが、基本は矢張り百姓である。諸隊のメンバーは、百姓仕事からは全く遊離し、給与が藩から支給される。第三に、諸隊は「有志」の部隊であるが、農兵はあくまでも藩によって組織された部隊であり、兵員には「有志」は無関係である。
 
注1)1862(文久2)年12月12日のイギリス公使館焼打ちの後、高杉はなかなか江戸を離れなかった。1863(文久3)年に入って、3月には将軍が上京することもあり、いよいよ「攘夷親征」の論は盛んとなった。世子・定広は心配して、2月3日付けで、周布と高杉に一刻も早く上京するように促した。これにより周布は上京したが、高杉はまだ腰をあげなかった。ようやく江戸を発ったのは3月1日であった。この頃、高杉はかなり思い詰めており、京都の尊攘激派の活動には賛成しておらず、定広の帰国を願っていた。3月11日、高杉は周布を訪ね、"どこか閑静の処に赴きたい"と申し出ている。政治活動を表面から退きたいという願いである。これを聞いた定広は、3月15日、高杉に10年間の暇を出した。これにより、高杉は形式上、毛利家の士籍を召し放たれたわけである。だが、実際には、定広の京の宿舎である妙満寺境内の寺院一カ所を貸渡され住んでいた。そこで、高杉は入道となって、西行法師をもじって「東行(とうぎょう)」と号した。その後、高杉は4月10日に萩に戻り、松陰の墓のある萩の東郊に小さな庵を借りて住んだ。下関での攘夷戦の初期まで、そこで生活した。
 2)奇兵隊綱領は、既存の組所属の藩士の加入を認めているが、あえて引き抜きはしないとしている。それに対し、藩庁は、1863(文久3)年12月、既存の役に就いている藩士が奇兵隊をはじめ諸隊(しょたい)へ参加するに際しての資格を次のように制限し規定している。

御別紙(おんべっし)此段(このだん)役付きの外(ほか)たりとも願い出の上(うえ)入隊(*諸隊への入隊)差免(さしゆるさ)れ候事
一、 諸子本人嫡子根役(ねやく *本来の役)之(これ)有る面々ハ勿論(もちろん)其
 外(そのほか)ニても本人嫡子の義ハ隊入り差留(さしとめ)られ候、尤(もっと)も 
 総管(そうかん)外(ほか)役付き、御沙汰を以て仰せ付けられ候面々の義は本人嫡子 
 たりとも格別に候事
 【*本来の役付きであれそうでない者であれ、本人嫡子は入隊不可。ただし、諸隊の役づきを指名されたものは論外】
御別紙此段相定(あいさだ)められ役付きに進み候者ハ申し出の上(うえ)兼(かね)て望みの役に相成り候組筋の儀ハ根組人払いニ相立ち入隊差免れ候事
一、 諸組の者本人又(また)は代勤等ニて根組御用相欠け候者の儀ハ代りの人物相建て根
 組差閊(さしつか)へ之(これ)無き様仕置き候て隊入り差免れ候、又(また)家来も
 本人嫡子等ニて根の人数缺(か)ケニ相成り候者の儀ハ隊入り差留められ候事
 【*諸組の者の場合、代人を立て根組に支障なくすれば可能。陪臣も組の定数が欠ける場合は不可】
御別紙此段去る子(*1852〔嘉永5〕年)御沙汰相成り候通り留守扶持の義ハ向後(こうご)立ち下されざる候事
一、 百姓町人の儀ハ農作物商売等取り続け候者跡(あと)え立ち置き隊入り相望(あいの
 ぞ)み候ハ差免れ、其外(そのほか)家子等捨て置き迯(に)げ〔*逃げ〕去り百姓町
 家の潰(つぶ)れニも建ち(*立ち)至り候者の義ハ厳重ニ逐(お)ひ返し候様仰せ付
 けられ候、尤も是迄(これまで)隊入り仕(つかまつ)り候狙撃(そげき)等の業(わ
 ざ)ニ熟達せしめ志気(しき)も之(これ)有りる者の義は御詮議の上(うえ)何分の
 沙汰仰せ付けるべき候事
 【*百姓町人の場合は跡取りが用意できた場合は可能。潰れ家になる場合は、不可。ただし、狙撃者の場合は、検討の上沙汰する。】
一、 諸士並(ならび)に足軽(あしがる)已下(いか)御咎(おとがめ)仰せ付けられ帰
 島し〔*島流しにされ〕世上徘徊(はいかい)差留められ又(また)は諸組代役代勤等
 差留められ候等未だ御咎筋残り居り候者ハ隊入り差留め候、志気芸術(*技術)等抜群
 (ばつぐん)の聞(きこ)へ之(これ)有る者ハ其隊々々(そのたいそのたい)より申
 し出の上(うえ)御詮議を以て隊入り仰せ付けらる義も之(これ)有るべく?(こと)
 【*御咎めのある者は不可。ただし、士気が高く技術が高い者は、各諸隊の申し出に基づき検討の上、可能の場合もある。】
一、 農商兵の儀ハ別紙ハ雛形(ひながた)の通り町奉行・御代官役等より送状(おくりじょう)差遣(さしつかわ)すニ付き、夫(それ)を目途(めど)ニ入隊差免れ候事
 【*農商兵の場合は、町奉行・代官の送状を遣わすので、それを基準に入隊可能。】               
       (『奇兵隊日記』第四 P.143~145)
3)1864(元治元)年2月3日付けの佐世八十郎宛ての書簡では、「猶(なお)亦(また)先日より申し上げ候通(とおり)、弟(てい *高杉を指す)も八組の士故(ゆえ)、固(もと)より八組士の強き事を欲し候得共、已(や)むを得ず奇兵隊など思い立ち候事にて御座候。此度(このたび)干城隊振興に相成(あいな)り候は大幸の至りに付き、早々干城隊総督英気の士御撰(おえらび)に相成り、諸隊の規律法度も干城隊より初(はじ)まり、諸隊の指揮号令も干城隊総督政府より請け、会議処へ諸隊の総管呼び出し申合す様相成り......」(『高杉晋作の手紙』P.200)と述べている。高杉は奇兵隊結成を非常時に「已むを得ず」結成したと言い、今や藩士から選抜した干城隊が出来たのだから、この干城隊によって諸隊を指揮号令していることを「大幸」としている。このことを八組(大組)出身者としての高杉は本音で、やはり八組出身の佐世(前原一誠)へ伝えている。

(4) 藩ナショナリズムの高揚と民衆の軍事的組織化
 無謀な攘夷戦に突入した長州藩では、これに異論を唱えることはとてもあり得ない雰囲気であったようである。米仏艦隊が反撃に移る直前の1863(文久3)年5月29日、世子定広は戦勝に沸き立つ馬関に入り、各地の砲台を巡視した。
 その後、昼近くに廻船問屋白石正一郎邸で、軍議が開かれた。この時、砲術家・中島名左衛門(みょうざえもん *高島秋帆の弟子で、1861年に豊後府内藩で砲術指南をしていたが、この年長州藩に招かれた砲術指南・砲台築造を指導)は、世子から防備状況について下問された。「中島は、周囲の者が戦勝に酔い気焔(きえん)を挙げているのを苦々しく思っていて、砲台の貧弱なことや砲術の未熟さを指摘し、外国の軍艦に対して勝算がなく、その攻撃に慎重論を述べた。その夜、中島は宿舎で暗殺された。」(大村紀八郎著『大村益次郎伝』鳥影社 2010年 P.168~169)と言われる。
 この暗殺に藩中枢部がかかわっていたか否は不明であるが、テロの恐怖で攘夷断行を後押しし、異論はおろか「論ずること自身を否定した問答無用の態度であることは、明白である。
 だが、外国軍により下関が占領されたとの報を受け、藩は城内の御霊社や歴代の霊牌木像などを内陸へ避難させた。これを聞いた士民の間では、「御城下を御捨て成され候」と、動揺が起こった。だが他方では、庶民の中からも異国の侵攻に対抗する動きがでる。藩庁は、菊ケ浜土塁の築造の請願を受けて、6月9日、これを採用した。
 菊ケ浜土塁の築造には万を超える諸階級層が参加し、長州藩のナショナリズム高揚の代表的な事例として、後世においてもしばしば取り上げられている。しかし、その実相については必ずしも正確ではない。
 たとえば、その当時流行った里謡(りよう)に、次のようなものがある。
 
男なら
お槍かついで(*かつがせて) お仲間となって(*を連れて)
ついてゆきたや 下の関
尊王攘夷と 聞くからは
女ながらも 武士の妻
まさかの時には しめだすき(締め襷)
神功皇后さんの 三韓退治が
かがみ(鏡)じゃないかいな
オオシャリシャリ

 この歌は、明らかに「武士の妻」の立場から書かれている。民衆の間から自然発生的に生まれたものでないことは、明らかである。したがって、里謡(民間でうたい伝えられた歌)といっても、単純に受け容れることはできない。もっとも悪しき意味でのイデオロギー性は、「尊王攘夷」と「神功皇后の三韓退治」とに現われている。
 神功皇后は明らかに神話上の人物で架空のものである。また、「三韓退治」というのも史実を全く歪曲したもので、歴史上ありえない(詳しくは、拙稿『朝鮮侵略の歴史に学ぶ』を参照)。こうした史実の歪曲を前提として、ナショナリズムが鼓吹されているのである。
 「尊王攘夷」は明らかに、小攘夷の立場(*今すぐの攘夷のこと。詳しくは、拙稿『攘夷の旗頭・斉昭と日本近代の序章』を参照 労働者共産党ホームページに掲載)を鼓吹したもので、恐らく主唱者の一人である久坂玄瑞ら尊攘激派の政治路線が最後まで藩の方針になっていたならば、長州藩の壊滅は免れず、日本の一部植民地化もあり得たであろう。
 この里謡は、「大正時代」にはほとんど忘れさられていたようであるが、1935(昭和10)年頃から、復活したようである。恐らくそれは、軍国主義の台頭という情勢が背景にあったものと思われる。その後、歌詞は「三韓退治が」が「雄々しき姿が」へ、「尊王攘夷と聞くからは」が「お国の大事と聞くからは」に修正されたが、そのイデオロギー性は全く変わっていない。
 7月になると、豪農・豪商・村役人の積極的協力で、諸隊が相次いで結成される。「小郡宰判(*郡にあたる)中の有志者を中心とした郷勇隊(五〇〇人)、地下(じげ)猟師による狙撃隊(五八〇人)、小郡津市での自力隊(二〇〇人)、寺社家による大砲隊・社僧兵(一六〇人)、豪農商秋本新蔵発起による東津隊(一五〇人)、医師佐分利顕民らによる佐分利隊(二五〇人)、百姓秋本治郎助らによるエレキ隊(八〇人)、二島(ふたじま)庄屋小野恒太郎発起の小野隊(一五〇人)、秋穂(あいお)に駐屯した御楯隊(二七〇人)などが設立された」(田中彰著『幕末の長州』P.104)と言われる(数字は誇大と見られる)。
 また、「七月十日には山口近郷の被差別部落民のなかで、品行方正・強壮勇敢・健歩才気の科目に応じた者を採用した。身分外の身分の者も、攘夷の一翼を担わされたのである。かれらには帯刀・胴着を許した。そして、七月二十七日には、夷警あるときには一般民衆に長脇差を許可し、また、僧侶・農商の区別なく武技を習うことを許可した」(同前 P.101)のである。
 攘夷断行に決起した藩が外国艦隊に打ち破られ、今や藩存亡の危機にたつ長州藩は、長州ナショナリズムを煽り立て、民衆の軍事訓練をも許可し、一部は攘夷の一翼に組織化していったのである。
 だが、長州藩はその翌年の1864(元治元)年8月5日、英仏米蘭の4カ国と馬関(下関)戦争を戦い、敗北する。8月14日には、4カ国と講和条約を結ぶ。だが、このことは防長の民衆には秘匿とされ、外観的には攘夷方針を堅持しているかのように装っていた。 
 このことについて、脱藩し逃走した元奇兵隊総督の赤根武人は、1865(元治2)年3月27日に逮捕され投獄されるが、その獄中で次のように書いている。

長(*長州藩)ノ国の為(ため)攘夷セシヨリ、一図ニ朝意ヲ奉スルヲ以テ口実トナシ、更ニ公義(*公儀。幕府のこと)ノ命令ニ従はず、遂(つひ)ニ疑(うたがひ)ヲ諸藩ニ構(かま)ヘリ、又(また)御沙汰ニモアラス和親ヲ講シテ、縦(ほし)ヒママニ夷ト結フ〔*朝廷の指示もないのに、4カ国と勝手に和親を結び〕、是(これ)仮令(たとひ)一時ノ権謀(けんぼう *臨機応変のはかりごと)ト云(いふ)トモ、天幕(*朝廷と幕府)ヲ蔑如(べつじょ *さげすむこと)シ奉るの所為(しょい *しわざ)、天地容(い)るべからざるノ大罪ナリ、再ひ征討ヲ蒙(こうむ)ルトモ彼レ決シテ辞(じ *言葉)アルヘカラサル〔*再征があっても、文句が言えない〕也、然るところ我(われ)熟(つらつら)中国四国ノ形勢ヲ察すスルニ、長州和夷(*4カ国と和親したこと)ノ事(こと)未タ世上(*世間)ニ発露(はつろ)セサルカ故ニ、民心尚(なお)帰嚮(ききょう *心を寄せる)ヲ失わざるニ似タリ、又(また)長州ノ為ニ周旋セントスル諸侯方モ之(これ)有る乎(か)ニ聞ケリ...... 
    (三宅紹宣著『幕末・維新期長州藩の政治構造』から重引 P.261~262)

 攘夷、攘夷と唱えながら、馬関戦争に負けると、天朝や幕府の指示もなく勝手に4カ国と講和条約を結び、外交関係を持つ様(ざま)である。これでは再度征討を受けても文句の一つも言えないことである。だが、藩は4カ国との和親については世間には露も明らかにしていない。だからこそ、民心は未だに藩を支持し、信頼している。また、長州に好意をもつ諸侯もまたこれと同じか―と、赤根は批判している。
 この赤根と同様な見解は、他の藩も少なからず抱くようになる。たとえば、1866(慶応2)年11月、鳥取藩での「太平論」という意見書は、次のように述べている。

長賊従来(じゅうらい)攘夷を唱えて天下の人心を惑乱し、其(その)力(ちから)敵する事(こと)能(あた)ハす一時に降り(*降参し)、彼に和親するを権謀なりとし、今に至りて猶(なお)攘夷の事を名として衆民を動揺せんとす...... (同前 P.262)
 
 鳥取藩の藩士もまた、長州藩の「攘夷論」は単に名目であり、民心を操作する手段に化していることを批判している。実際に、長州藩上層部は開国論に転じているにもかかわらず、表向き「攘夷」を掲げているのは、民心収攬の権謀術策なのだ―というのである。

(5)教法寺事件の発生
 危機にたつ長州藩をすくうべき結成された奇兵隊は、しかし藩にとっては面倒な事件を早速起こす。軍役制度に基づく軍事集団と攘夷思想に基づく有志の軍事集団の併存で、両者の間の矛盾が対立として顕在化する。教法寺事件である。だが、その前に奇兵隊は小倉藩と紛争を起こし、それは幕府との公然たる対立も引き起こす。 
 長州藩の青銅砲は施条(筒の中に溝が彫られている)がなく(従がって命中率が悪い)、射程距離も短い。だから関門海峡を通過する外国艦を馬関から狙っても、九州側に逃げられては弾が届かない。だが、馬関の対岸の九州・田ノ浦は、徳川譜代の小倉藩小笠原家の領地であり、その小倉藩は攘夷に慎重である。長州藩のような即時打ち払いでなく、むしろ幕府方針にそっており、相手が襲撃して来たら打ち払うというものである。
 このため、外国艦を挟撃することがなかなか困難であった。そこで長州藩は、小倉藩に"攘夷の勅"に違反していると抗議文を送ったり、九州側の砲台を貸せと申し入れたりする。だが、慎重な小倉藩は動かない。
 そこで、憤慨した奇兵隊がついに1863(文久3)年6月15日より、海峡を渡って沿岸を占領し、しかも田ノ浦・和布刈(めかり)岬に砲台を築いてしまった。「攘夷」のためには、他藩領を侵害しても構わないという独善的な態度である。
 朝廷は期日通りに攘夷を実行した長州藩に対して、7月1日、褒勅を下す。だが、幕府は小倉藩からの要請もあり、長州藩の勝手な外国艦砲撃と小倉領侵入などを糾問するために、使節・中根一之允(いちのじょう)を幕府軍艦朝暘丸で馬関に送り込んだ。
 奇兵隊は朝廷からは褒められているのに、幕府から咎(とが)められる筋合いはないと激高し、朝暘丸を拿捕(だほ)してしまう。藩は穏便に解決しようとしたが、尊攘激派は8月19日夜、使節の一員である目付鈴木八五郎と従者2人を斬殺し、22日には中根も刺客が殺してしまう。この暗殺事件も後々まで尾を引き、幕長間の対立を深刻にした。
 奇兵隊と藩の既存の軍事集団との矛盾・対立も顕在化する。奇兵隊6年半の歴史において、高杉が奇兵隊に在籍したのは、最初のわずか3カ月ほどである。高杉が「奇兵隊総管(惣督・総督・惣監などともいう)」を命じられたのは、文久3(1863)年6月27日である。同時に、晋作は政務座役も兼職する。これは、同年4月に、江戸方右筆と地方御右筆が合併して成った役職で、藩主直轄の行政府の一翼である。
 ところが、正規軍(先鋒隊)と奇兵隊が衝突した「教法寺事件」により、8月28日、高杉は政務座役を免ぜられる。
 「教法寺事件」とは、次のようなものである。8月9日、以前から進められていた壇ノ浦・前田などの砲台の修築がほぼ終わり、世子定広がそれらを巡視することになった。8月16日、定広は下関に到着し巡視をはじめたが、その日は奇兵隊が担当する前田砲台だけで日が暮れてしまった。先鋒隊が担当する壇ノ浦は翌日回しになってしまった。その晩、教法寺で慰労の酒を呑んでいた先鋒隊士の間から、誰とはなしに"今日のことも、総奉行の更迭(6月13日、毛利宣次郎は総奉行を解任され、異例にも寄組国司〔くにし〕信濃が抜擢された)も、奇兵隊士・宮城彦助の差し金に違いない"と、糾弾の声があがった。
 宮城は、500石取りの大組所属でありながら、同輩と意見が合わないからと、奇兵隊に入隊した藩士であった。「先鋒隊は宮城の下宿に詰問(きつもん)に押しかけた。宮城は、いったん下手(したて)に出て、その場を収め、晋作の宿舎を訪れて事情を説明した。このとき、宮城はすでに自分一人が死んで事態を収拾する覚悟を決めていたという。晋作は宮城とつれだって、話し合いのため教法寺に向かった。ところが彼らが門内に入ると、奇兵隊の襲撃と勘違いした先鋒隊は、小銃を撃ちかけてきた。実際に、急を知った奇兵隊は阿弥陀寺の本陣を飛び出し、晋作の背後から、教法寺に詰めかけていたのである。射撃を浴びて激昂(げっこう)した奇兵隊は、晋作の制止も聞かばこそ、なだれを打って寺内に突入した。驚いた先鋒隊は、ほとんどがその場から逃走したが、病床にあって逃げ遅れた倉田幾之進が斬殺されたほか、隊士と従僕ら四名が負傷した。しばらくあと、奇兵隊使用人の奈良屋源兵衛が帰営の途中、殺気立つ先鋒隊士がたむろする路上を、事件を知らぬまま通りかかり、全身を槍で突かれて無残な最期を遂(と)げた。両隊は、それぞれ本陣に戻り、夜を徹してかがり火を焚(た)き、大砲まで構えて一触即発のにらみ合いを続けた。晋作はすぐに使いを派遣して、事態を定広に報じ、定広は馬関総奉行国司信濃とともに、手を尽くして鎮定にあたった。翌十七日、さすがに両隊ともに興奮は収まり、闘争の危機は去った。」(青山忠正著『高杉晋作と奇兵隊』吉川弘文館 2007年 P.144~145)のであった。
 この翌日、京都で8・18クーデターが勃発し、長州藩は京都を追放される。高杉は教法寺事件に関し、総督としての責任を免れることをできなかった。しかし、8・18クーデターで藩内は大混乱となり、これが一段落するまで教法寺事件の責任問題は先延ばしとなった。
 9月10日、高杉は政務座役に再任されるが、今度は奇兵隊総督の方を免ぜられる(12日)。しかし、これは懲罰ではなく、高杉は奇兵隊を離れて、山口で政事に専念するためであった。10月1日には、奥番頭(おくばんがしら)に列せられ、新知160石(父・高杉小忠太とは別の家として独立した)を与えられ出世する。奥番頭とは、藩主の側近くで、殿中諸事一切の統括を行なう役目である。他藩で言えば、側用人に当たる。当時は、8・18クーデターにより、長州藩は朝敵となっていた困難な時期である。
 だが、奇兵隊自身は、坪井・椋梨派の攻撃にさらされ、9月1日頃には、奇兵隊解散論も起っている。同月25日には、奇兵隊は7卿警衛の名で三田尻へ遠ざけられる。それでも、周布・前田らが復職し、周布派が巻き返しを行ない(坪井は10月27日に切腹)、奇兵隊は10月10日には、藩の正式の軍と定められ、隊員の届出が指令された。


K 8・18クーデターで京都から追放さる

(1) 尊攘激派の「攘夷親征」
 公武合体派の危機感とは反対に、尊攘激派は長州藩の外国船砲撃で大いに意気があがった。中でも、真木和泉は「攘夷親征」「王政維新」の策を朝廷に建言した。その大要は、以下の通りである。

天下の耳目を新たにせんが為(ため)に、暦本の制を改め、幣制(*貨幣制度)を定め、土地・人民の権を収め、税額を減じて民心を帰向(きこう )せしめ〔*税額を減少して人民を朝廷に馴(な)れ親しませる〕、蹕(ひつ *天皇の御車。ここでは御所)を浪華(なにわ)に移して旧套(きゅうとう *昔ながらのやり方)を脱却し、加太・明石・両灘の兵備を厳にして浪華海を固め、関塞(かんさい *国境のとりで)を十所に設け、無数の船舶・砲?(ほうこう *?は筒と同じ)を造りて国防を厳にすべし。親征して攘夷の権を総攬(そうらん *一手に握って統〔す〕べ治めること)し、勅使を赤間関(*下関)に差遣(さしつかわ)して、攘夷を藩国に布告すべし。親征の部署を標(しる)し、錦旗・革車(かくしゃ *皮で武装した車)を造り、服色を更(あらた)め、圭冠(けいかん *身分を示した冠)・戦袍(せんぽう *陣羽織の類)を用ゐ、又(また)攘夷使・諫官を置く。  (『徳川慶喜伝』2 P.253~254)

 真木は、天皇が今こそ先頭に立って攘夷を行なうという「攘夷親征」を唱え、また「王政維新」として土地・人民をその手に押えることを主張した。この建議は、6月17日、翠紅館で長州藩士と議定したものといわれる。
 宮部鼎三(肥後藩士)・土方楠左衛門(土州藩士)・山田十郎(肥後藩士)らは中川宮(青蓮院宮)に、次のように建策する。すなわち、「幕府因循にして攘夷の事(こと)期待すべからず、越前(*松平慶永)亦(また)開国説に傾きたれば、薩越合従して遥(はるか)に関東に応ずる時は1)、首鼠両端(しゅそりょうたん *穴から首を出して左右を窺がうネズミのように、迷って形勢をみること)の諸藩は之(これ)に誘はるべし。斯(か)くては朝廷孤立に陥るベければ、親征(征、原文「政」とあり、今意改す)こそ方今の一大急務なれ。其(その)第一策は、鳳輦(ほうれん *天皇が乗る輿)を濃尾の間に進め、宮は小田原城へ進発せられ、横浜の夷賊を掃攘し、次いで箱館・長崎の賊巣を一掃せらるべし。第二策は、鳳輦を男山(*石清水八幡宮)に進め、宮(みや)大坂城に成らせられ、紀淡・中国の海防を厳にせられ、其上(そのうえ)如何(いか)やうとも叡慮の儘(まま)に取捨(しゅしゃ)あらせられるべし。さて鳳輦を進められ、鳳詔を大樹(*将軍)・及び諸侯に下し給ひて、皇国一統速(すみやか)に掃攘の功を奏せしめば、老奸・巨賊も悚服(しょうふく *おそれて服従すること)すべく、万一(まんいち)度(ど)すべからざるの賊臣あらば、誅罰を加へらるべし。もはや衆議の時期に在らず、唯(ただ)宸断(しんだん)の一事あるのみ。......」(同前 P.254~255)と。
 7月6日、堂上公卿の滋野井実在・東園基敬・壬生基修・四條隆謌・錦小路頼徳・沢宣嘉も連署して次のような上書を行なった。

微臣の輩(ともがら)昧死(まいし *言う所が不当ならば死んでお詫びをする意)建言仕り候。方今時勢(じせい)益(ますます)切迫し、既に長州に於ては兵端(へいたん)相開き摂海へも夷艦時々乗り入れ候上(そうろううえ)は何時(いつ)大挙襲来も計り難き折柄(おりがら)、幕府に於ては攘夷の勅命御請ハ申し上げながら兎角(とかく)因循(いんじゅん *ぐずぐずして煮え切らないこと)仕り明瞭の所置(しょち)之(これ)無く候ニ付き、微臣の輩苦心に堪(た)へず候。迚(とても)只管(ひたすら)幕府え而已(のみ)御命令ニては決して叡慮貫徹の期これ無く、遂(つひ)ニ醜夷(しゅうい *西洋)の正朔(せいさく *暦)をも奉し候様成り行くと存じ候間〔*王が建国する時には必ず暦をつくる。従って、外国に服従する時も、支配者の暦を使うようになる意〕、何卒(なにとぞ)断然聖策を定められ、御親征の儀(ぎ)天下え布告(ふこく)在(あ)らせられ候ハハ、闔国(こうこく *全国)の士民(しみん)一心戮力(いっしんりくりょく *心を一つにして協力する)、速に醜夷を掃(はら)ひ、太平を奏し候儀、数年の内(うち)期すべくと存じ候間、即今の急務は此他(このほか)ニ良策之(これ)無く候。呉々(くれぐれ)も御果断(おんかだん)伏して希上(ねがいあげ)候事。
但(ただ)し、前条申し上げ候(そうろう)御親征の儀は、即今鑾輿(らんよ *天子が乗る輿〔こし〕)を進められ候儀ニては之(これ)無く、先(まず)御親征と申す義(ぎ)天下え布告ニ相成り候ハハ、人心一定(じんしんいってい)却(かえっ)て鎮静仕るべく、左も之(これ)無く候ては天下の人心(じんしん)適従(てきじゅう *従い頼ること)する所(ところ)之(これ)無く四分五裂の勢(せい)判然と相見へ候間、御布告の儀(ぎ)之(これ)無く候ては有志の輩(ともがら)悲憤に堪へず、騒擾紛乱(そうじょうふんらん)如何(いかが)成るべく哉(や)計り難く候間、何分急速に布告の儀(ぎ)行なわれ候様希上候事。          (『岩倉公実記』上 P.754~755)

 幕府に攘夷を命令しても、当の幕府はぐずぐずして埒(らち)があかない。従って親征の儀を天下に布告し、全国の士民が一致協力して「醜夷」を払い太平を取り戻すようにすべきである。数年のうちに払うべきである。今はこれよりほかの良策はない。但し、親征といっても、今すぐに行なうというのではない。まず親征を天下に布告するだけである。
そうでもしないと、天下は四分五裂し、人心が安定しないからである。すぐに布告することを願い奉る―というのである。公卿たちも、内心では攘夷を実力で行なうのは難しいとわかっているのか、ポーズだけを示すことで攘夷熱をクールダウンさせ、とりあえず混乱と分裂を防ぐという姑息な手法をとったのである。 
 7月18日、「長藩も亦(また)吉川監物(*岩国藩主)・及び家老益田弾正・根来上総(かずさ)等をして鷹司関白に上書し、『一歩鳳輦を進め給(たま)はば、叡慮貫徹、人心一致仕るべし』とて、宸断を請ふことを勧む。関白曰(いは)く、『長門宰相父子(*長州藩主父子)の志は叡感浅からざれども、其事(そのこと)至重(しちょう *極めて重い)にして、衆議の後にあらざれば聖断を下し難きの勅あり』と(防長回天史。経幹公御東上記。三条実美公記)。因りて長藩士は中川宮・徳大寺内大臣(公純)・柳原中納言(光愛)・烏丸侍従(光徳)及び上杉弾正大弼(斉憲、出羽米沢藩主)・松平相模守(池田慶徳、因幡鳥取藩主)等を遊説し、又(また)関白邸に就きて、『此(この)建白採用せられずば、大膳大夫父子(*長州藩父子)は不忠に陥るベければ、憐察を垂れて〔*関白が憐みをもって〕叡聞(えいぶん *天皇の耳)に達せられよ、然らずんば臣等(ら)此処(ここ)を去らず」とさへいえり(防長回天史。三条実美公記。七年史)。」(『徳川慶喜公伝』2 P.255)と、執拗に活動した。
 見られるように、公卿や関白が尊攘激派に同情的ではあるが、それでも一歩「慎重」なのは、彼らの本能とも言うべきか、もしもの場合を考えての保身術からである。彼らは歴史的な保身術として、「勝馬」に乘って、ほそぼそではあれ皇室を存続させてきたのである。
 「攘夷親征」の論が盛んになるとともに、尊攘激派のテロ活動も盛んとなる2)。「攘夷親征」に反対する者あるいは攘夷を幕府に委任すべきと言う者に対して、暗殺が次々と行なわれる。たとえば、徳大寺家の家臣・滋賀右馬允をはじめ二条寛斎(二条殿の落胤といわれる)、東本願寺の用人・大藤幽叟、西本願寺の用人・松井中務、越前藩の用達(ようたし)・矢島藤十郎などを殺害した。また、松平慶永が開国説をもって上京し、朝議を変えようとの噂(うわさ)がたつと、慶永を"姦賊、朝敵、国賊"とののしり、一歩も入洛させまいと宿舎になる予定の高台寺を焼き打ちしている。
 1863(文久3)年8月13日、尊攘激派の工作により、ついに「攘夷親征」の詔が発せられる。すなわち、「今度攘夷御祈願の為(ため)大和に行幸あらせられ、神武帝の山陵・春日神社等御拝の為(ため)、暫く御逗留ありて、親征の軍議を催され、其上(そのうえ)神宮(*伊勢神宮)に行幸あるべし」(同前 P.257)というのである。

注1)松平慶永は、政事総裁職を辞退し、福井に立て籠った(文久3年3月25日)後、6月1日大評定を行ない、横井小楠の献策にそって、全藩死を覚悟して「大挙上京」して、朝廷と幕府に次の建議を行なうことを決議した。「①攘夷はとうてい実行できないことであるが、天下に布告した以上、今更あとには引けぬ、交渉の過程で是正するほか方法はない。鎖国の談判に当たっては日本国の独立と威信を保つよう十分注意し、各国の公使を京都にあつめて将軍・関白など朝幕要路の人々列席のうえで談判をひらき、双方の意見をだしあって十分研究し、しかるのち開鎖・和戦いずれかに決すべきである。②近来幕府の施政にミスが多いが、これは将軍の側近に人材が乏しいからである。今後は朝廷が政治をおこない、賢明な諸侯を幕僚とし、さらに人材をあつめるべきである」(圭室諦成著『横井小楠』吉川弘文館 1967年 P.242~243)というものである。慶永らは、外交的危機が深刻になる中で、幕藩体制の解体と新たな政治体制の構築を提起しているのである。
2)1863(文久3)年5月20日、薩長間の軋轢(あつれき)が、ついに露呈する事件が起こる。姉小路公知が、暗殺されたのである。姉小路は三条実美とともに急進的な尊攘派であったが、将軍家茂の大坂湾巡視のさい、監察役として同行し、この時、開国派の勝海舟に説得され、当時の日本が置かれた実際の姿を自覚するようになり、以降次第に開国派に転じるようになる。このことが急進尊攘派の怒りをかったと思われる。姉小路は5月20日の夜、内裏の北門・朔平門の外で殺された。
 この犯人については、種々の説が流れたが、現場に残された刀が薩州鍛冶の作であったため、薩摩藩士田中雄平が嫌疑を受けた。田中はこれに対し屠腹して抗議した。しかし、薩摩藩は内裏の乾門の守衛を免ぜられ、9門の往返をも許されなくなった。だが、犯人がわざわざ兇器を残すこと自身、不思議なことである。しかも、姉小路暗殺のと同じ夜、学習院の門扉に貼り紙がされ、"三条中納言は公武一和を名として、実は天下の乱を好む者なり、速やかに辞職・隠居しなければ、旬日のうちに天誅が加えられる"と記されている。急進的な尊攘派の内部の対立によって、このような事件が惹起したのは明らかではあるが、事件そのものの真相は明らかでない。

(2)会薩同盟による8・18クーデター
 「攘夷親征」については、日和見派の公卿も、中間派の在京諸大名もさすがに反対する。孝明天皇の身の安全を第一として、「攘夷親征」はとんでもないことであると、反対したのである。
 「政変の計画は、めんみつにつくられた。基本は、公武合体派の武力によって、御所の九門を固め、公武合体派以外のものをその中に入れず、天皇を手中にして、その意志として尊攘派を排撃しようとしたのである。中川宮の参内を第一に、つぎつぎに発する指令の手順がきめられ、『正義(公武合体派)の公卿・諸藩主の召集』『異論(尊攘急進派)の公卿の参内禁止』をはじめ浪士の京都からの追放など、一挙に尊攘派を圧服する計画が成立した。とくに取り締まるべしとされ、指名手配された尊攘派の中心人物は十二名。いわく、真木和泉・久坂玄瑞・桂小五郎・宮部鼎三(肥後藩士)・轟武兵衛(同上)等々である。八月十五日には、すでに計画ができあがったようであるが、それは十八日の未明から実施された。/文久三年(*1863年)八月十八日の午前一時ごろ、中川宮が急に宮廷内に入り、ついで近衛忠煕父子・二条斉敬らの公卿、京都守護職松平容保・所司代稲葉正邦(淀藩主、文久三年六月任)も参内、武装した会津・薩摩・淀藩兵らも九門内に入り、門はただちに厳重に鎖(とざ)され、召命のない者は、たとえ関白であっても入門させないとの厳命が下った。さらに在京の土佐・因州・備前・阿波・米沢藩主などにも、藩兵をひきいて至急参内すべしとの命が伝えられた。」(小西四郎著『日本の歴史』19開国と攘夷 P.304)のであった。
 8月18日の「親征慎重派」だけの朝議は、大和行幸延期、尊攘急進派公卿の参内・面会禁止が決定され、国事参政・国事寄人(よりゅうど)1)は廃止された。
 政変は、町田明広著『幕末文久期の国家政略と薩摩藩』(岩田書院 2010年)によると、"前年から徒目付として在京し一月からは中川宮にも仕えていた高崎正風らが、中川宮と会津藩とに働きかけ、天皇の了解のもとに決行された"ものであった。
 クーデターの武装力は、交代要員を呼び戻した会津藩の兵1900人を中心として、薩摩藩の150人などであり、これに対して長州兵は2600人を数えていた。しかし、密かに勅命が発せられ、在京していた諸藩の多くが、「攘夷親征」には慎重であったため、長州藩は武力対決を控えて七卿を擁して国元へ引き上げざるを得なかったのである。
 クーデターの成功により、三条実美をはじめとする尊攘急進派七卿の官位が剥奪(はくだつ)され、8月29日には、長州藩主・毛利敬親・元徳(広封、定広)父子の入京と藩士の御所門内立ち入りが禁止され、長州藩京都藩邸は事実上閉鎖された。このため、三条実美以下の尊攘派公卿は、長州へ落ち延びていった(七卿落ち2))。また、後続を期待して決起した天誅組の大和五条の乱や、それに呼応した沢宣嘉・平野国臣らの生野の乱も簡単に鎮圧されてしまった。
 朝廷はただちに久光上京を促し、久光は10月3日、小銃隊12隊・大砲隊2隊の総勢1700の兵を率いて京に入る。
 久光は、旧来からの公武合体派の雄藩の前藩主たち、松平慶永(春嶽)・山内容堂・伊達宗城を京に呼び寄せ、また一橋慶喜、さらには将軍家茂にも上京を促した。しかし、かつて小笠原道行らが狙った京都の武力制圧計画が失敗したにもかかわらず、公武合体派の京都における優位性確立は、薩会両藩が行ない得たのであり、幕府自身の主導権あるいは慶喜の主導権が図れるものではなかった。
 この時機、諸藩の実力者がぞくぞくと入京し(ただし山内容堂は遅れた)、慶喜・将軍の上洛を待つ間、会同して「予備会議」の形で議論がなされた。
 10月7日、朝廷は勅を下して、"鎖港談判の儀につき聞召(きこしめ)したき事あれば、一橋中納言上京あるべし"といい、同月10日には、"尚又(なおまた)大樹(*将軍)にも引続き早々上洛あるべし、尤(もっと)も過日御沙汰の通り、一橋中納言にも上京あるべき事"と促した。
 これに対し、幕府中枢部ではさまざまな意見があったが、結局、10月17日、将軍の上洛を断わり、慶喜を上京させることを奏上し、これを慶喜に命じた。しかし、朝廷はなおも将軍の上洛を命令する。これには、幕府も断わる言葉もなく、11月5日、用意が整い次第速やかに上洛すると了承した。
 慶喜の上洛については、尊攘激派の種々の妨害があり、慶喜は陸路を避け、俄(にわ)かに10月26日、海路をとって上京した。慶喜は11月12日に兵庫に着き、21日に大坂城に入り、26日入京した。

注1)尊王攘夷運動が高まり、諸大名や志士が朝廷に建議することが多くなると、1862(文久2)年12月、衆議を尽して朝議を決定するために、国事御用掛の官職を新設した。これには、青蓮院宮尊融入道親王(孝明天皇の義兄)・関白近衛忠煕・左大臣一条忠香・右大臣二条斉敬・議奏中山忠能・同三条実美ら29名が兼任で任命された。公家の門閥にとらわれず有能な人材を登用する趣旨であり、会議所には小御所があてられた。各人は、毎月10日ずつ執務することとなり、当面、攘夷実行の具体策を協議するのが課題であった。しかし、三条実美ら尊攘急進派はさらに勢力を拡大させるために翌文久3年2月、新たに国事参政・国事寄人(よりゅうど)の官職を新設した。国事参政には、大蔵卿豊岡随資・左近衛権少将東久世通禧らの急進派4人が任用された。国事寄人には、滋野井実在・東園基敬・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳・沢宣嘉ら10人の少壮公家が任用された。彼らは、尊攘急進派の志士と連携し、権勢を振るった。しかし、8・18クーデターにより、彼ら急進派公家は失脚した。
 2)長州へ落ち延びた公卿7人は、三条実美・三条西季知・東久世(ひがしくぜ)通禧(みちとみ)・四条隆謌(たかうた)・錦小路頼徳・壬生基修・沢宣嘉である。

(3)藩内権力闘争の激化
 8・18クーデターで、長州藩など尊攘激派の勢力が京都から一掃されると、藩内での権力闘争が激しくなる。これまで藩政をリードしてきた麻田公輔(山内容堂に対する暴言事件によって、6月9日に、周布政之助を改名)の党派に対する批判が一気に噴出したのである。批判勢力の中心は、萩に残った非役の家臣たちで、坪井九右衛門・中川宇右衛門・椋梨藤太・岡村伊右衛門・三宅忠蔵などである。
 8月29日、椋梨・中川らは萩から山口にでかけ、藩主慶親に面会し、藩政現指導部の罷免を求めた。翌日には、椋梨らに同調する者たちも、山口政事堂に押しかけ圧力をかけた。坪井・椋梨派の行動については、岩国藩主吉川経基もこれを支持した。
 彼らが批判する要人は、直目付毛利登人(のぼる)・同前田孫右衛門・政事堂内用兼表番頭格麻田公輔である。藩主父子は、この圧力を前にして、9月1日付けでこの3人を罷免した。
 また、奇兵隊を解散せよ! との要求もあったが、この問題は結局、9月6日、下関から小郡(おごおり)宰判(さいばん *他藩の郡に相当)秋穂(あいお)村に転陣することで、どうやら治まった。瀬戸内海に面する秋穂は、山口への入り口に当り、その防衛を任務とするという名目で移動させられた。
 しかし、藩政要路の人事も、9月8日に、京都から益田右衛門介(弾正改め)が率いる2000人を超す兵力が帰国すると、たちまち逆転することとなった。9月9~10日にかけて、坪井・椋梨派の財満(ざいま)新三郎・兼常亘人・岡本吉之進・進藤吉兵衛・粟屋吉十郎らが、「徒党強訴(ごうそ)」の罪で「逼塞(ひっそく)」に処せられた。
 同時に、毛利登人・前田孫右衛門・麻田公輔の3人が復職した。わずか10日ほどの短期間での目まぐるしい人事逆転であった。そして、高杉晋作(10日付け)・長嶺内蔵太・楢崎弥八郎(15日付け)・久坂義助(19日付け *玄瑞を改め)が次々に政務役に、大和弥八郎(20日付け)が直目付に任命された。
 他方、9月25日には、中川宇右衛門・椋梨藤太・岡村伊右衛門・三宅忠蔵は隠居・他人面会禁止に、小倉源五右衛門・井上兵衛・山縣与一兵衛は遠流(おんる)に、内藤俊樹は永遠流に処せられた。リーダー格の坪井九右衛門は野山獄に押込められた上、10月28日に切腹を命じられた。その理由は、「然(しから)ば九右衛門儀、多年御政事をも取扱い候(そうろう)身分として尊王攘夷の御大事切迫の御時勢を憚(はばか)らず、右体(みぎのてい)陰謀を企て、御政道の妨げ、国家(*長州藩)の邪魔せしめ候段、不届(ふとど)き至極(しごく)謂はざる事に候。之(これ)に依り切腹仰せ付けられ候こと」(『防長回天史』五 P.68)、というものであった。

L 勝馬に乗る朝廷の保身術

 (1)孝明天皇の手のひら返し
 1863(文久3)年11月15日、孝明天皇は久光に密勅を下し、21カ条について諮詢(しじゅん *相談)した。それは、以下の点である。

①戊午(安政五年)の年公卿落飾の事以来、とかく疑念・偏執の処置多きは、朕が痛心する所なり。其後(そのご)時勢?(しばしば)改まりて、過激の輩(やから)起り、志は忠誠ながら、浪士の暴論に惑はされ、前後を弁(わきま)へず、朕が存意を矯め(たメ *偽る)、関白も権を失ひ、両役(*議奏・伝奏)も唯(ただ)時宜(じぎ)を見ての勤め方なるは、深く心痛する所なり。是(こ)れによりて、尹宮(いんのみや *中川宮)従来股肱(ここう)の連枝なれば、内密申談(もうしだん)じ、会津をも頼みて、既に八月十八日の一件となり、深く喜悦する所なり。されば同日以前の憂患はほぼ攘(はら)ひたれども、今後の事(こと)亦(また)一大事なれば、深く其方(そのほう *久光を指す)を頼み思召(おぼしめ)すなり。
②攘夷の事は今更(いまさら)申すまでもなけれども、何分年久しき治世〔*長く平和が続いたこと〕にて、武備充実せず、無理の戦争は皇国の為(ため)とも存せず、此後(こののち)の所は何とぞ真実の策略にて、皇国永代穢(けが)れなく、速に安慮の攘夷あるやう、方策の建白を望む。
③関東へ委任するか、王政に復古するかの両説あり、暴論の輩は復古を申張(もうしは)りて、種々計略を運(めぐ)らせども、朕は初(はじめ)より之(これ)を好まず、孰(いず)れも大樹(*将軍)へ委任する所存(しょぞん *考え)なり。何処(どこ)までも公武手を引き、和熟(わじゅく *和らぎ睦ぶ)の治国に致したきなり。
④八月十八日以前の勅諚は、既に言へるが如く真偽不分明なれば、不審あらば尋ぬべし。十八日の事は実に会藩(*会津藩)の忠勤を感悦(かんえつ *心に感じて喜ぶこと)する所なり。
⑤堂上の暴論なれるも、全く有志・浮浪の語らひによる。自今(じこん)彼(か)の輩堂上家?(ならび)に地下(じげ)官人へ、猥(みだり)に入込(いれこ)まざるやうに致すべし。〔*堂上とは、地下に対して昇殿〔清涼殿に昇ること〕を許された四位以上の公卿〕
⑥公武和熟を望むことは前文の通りなり、然れば関東も戊午(ぼご)以来の処置を改め、朕は深く幕府を頼み、幕府は深く皇室を尊奉せば、万民自ら幕府を尊ぶべし。
⑦大樹上洛せば種々倚頼(いらい *頼る、すがる)することもあらん、其時(そのとき)其方(*久光)も出格の助勢あるべし。
⑧八月十八日以来は朕が座前の評決となりて、中途の計策もなく、深く安心する所なれども、とかく次の評議(御前にあらざる中途の意なるべし)になり易(やす)く、十八日前に挽(ひ)き戻さんも測り難ければ、忽諸(こつしょ *消滅する様)し難し、其方(*久光)意見建白あるべし。
⑨十八日の改革は実に朕の心より発(おこ)れり。然(しか)るに真の叡慮に在らずして、尹宮(いんのみや *中川宮)・会藩、又(また)は右府(二条斉敬)以下の所為(しょい *しわざ)のやうに風説すと聞く。是(こ)れによりて疑念を生じ、無益の怪我人(けがにん)などありては、深く心痛する所なり。以来何等(なんら)の風説ありとも、決して信用すべからず。万一疑はしき儀あらば、密書にて直に尹宮・前関白等に尋ぬべし。宜しく虚説流伝の禁遏(きんあつ *抑え込んでとどめること)方を勘考(かんこう *考えること)すべし。
⑩堂上の中、十八日の改革を喜ばず、三条(*実美)以下を惜(おし)む色あり、斯くては深く将来を案ぜらる。其方の美策にて説得あるべし。
⑪先年来(せんねんらい)偽勅を布告し、朕深く迷惑する所なり。将来如何(いか)やうの儀ありとも、真偽を正し、風説を信ぜざるやう、列藩へも聞かせ置くべし。
⑫正親町少将(公董 *中山忠能の子で忠光の兄)は今(いま)差控(さしひかえ)を命じ置きしが、毛利秀才(*中山忠光の事にて、正親町少将の実弟。大和五条の天誅組の乱に参加)と同じく何事を仕出(しで)さんも測り難ければ、辞表を出さしめ、辞官位・除席の上、実父中山家にて堅固に籠居然るべし、此事(このこと)熟考して父大納言へ説得すべし。
⑬関白(鷹司輔煕)は辞職然るべしと思ふ、尚(なお)意見を建白すべし。
⑭実美以下七人は、脱走後も種々の姦策を廻(めぐ)らし、実に害の基たり、きつと厳重の処置あるべし。因(よ)りて帰洛させたる上、後禍を遺(のこ)さざるやうの手段を依頼す。何分大胆の輩(やから)故(ゆえ)、厳重ならずしては宜しかるまじきなり。
⑮元(もと)同輩にて脱走せざる輩は、当時差控・他人面会を禁止せり。脱走せざるだけ軽罪ながら、何等の密計を企てんも測り難し、右の輩は其方の智略にて、改心のやう説得なるまじきか。其事(そのこと)為(な)し難くば、決して宥免(ゆうめん)せず、厳重に籠居せしむべし。
⑯姉小路(公知)一件にて其(その)藩へ嫌疑の及びしは気の毒なり、是(こ)れ決して朕の真意にあらず。
⑰列藩に布告せる浮浪取扱(とりあつかい)の事、尚(なお)後禍(*のちのちの災い)をなさざるやう勘考すべし。
⑱堂上の事、追々(おいおい)申聞けたき事もあらん、又(また)内密に諮詢(しじゅん *意見を尋ねること)すべし。
⑲大樹上京せば依頼すべき儀もあらん、右の箇条内々(うちうち)申合はせ置きたし。
⑳其方(*久光)勤王誠忠、感悦する所なり。将来朕が申出さん所、周旋深く頼み置くなり。
?是(これ)までとかく疑念偏執(へんしゅう *偏見を固執して他人の意見を受け付けないこと)、虚を以て真となし、遂には内儀までへも疑(うたがひ)掛(か)くるに至る、誠に心痛に堪へず。爾来(じらい)右やうの事決してなきやう、万一あらば其方の取押(とりおさえ)方深く頼む所なり。右の条々早く返答あるべし。会藩も守護職の事なれば、此(この)書状遣(つかは)すべきや、内々相談に及ぶ。(「島津久光公実紀」三) 〔詳しくは、日本思想大系56『幕末政治論集』〈岩波書店〉所載の「孝明天皇宸翰」P.319~324を参照〕

 ここでは、①8・18クーデターを全面的に評価し、②これまでの「暴論」にもとづく政治の責任を尊攘激派の浪士や公卿などに帰し、③性急な攘夷でなく、公武合体派の主張に理解を示し、攘夷は幕府に委任する、④8・18以前は偽勅が布告され、「朕深く迷惑する所なり」と居直った(何故、8・18の以前に偽勅と言わなかったのか)―ものとなっている。
 しかし、このように手のひらを返したような孝明天皇の態度は、力関係の変化によっては元に戻ることが十分あり得るものである。このような融通むげの政治的態度は長い武家政権の下で、細々ではあれ天皇制が生き延びてきた最奥の理由であり、手段であった。つねに多数派の側に身を寄せ、ただただ生き延びることだけが目的の王権制(万世一系の天皇制の実態)であり、そこには政治目標も、ことの善悪・正邪などは全く関係がない―という無論理の王権制である。
 ようやく、公武合体派が京都で優位体制を築いたが、しかし、「大攘夷」を狙い「開国貿易」の方針を確立するには、尊攘激派の一掃だけでは容易に進められず、まだまだ大きな障害があったのである。
 その最大なものは、公武合体派が優位にたったとしても、肝心の孝明天皇の攘夷思想は決してなくなっていないことである。これについて、慶喜が述べた有名な談話がある。
 「明治」になってからの慶喜の回想談を記した『昔夢会筆記』によると、慶喜は、「先帝(*孝明天皇)の真の叡慮というのは、誠に恐れ入ったことだけれども外国の事情や何か一向御承知ない。昔からあれは禽獣だとか何とかいうようなことが、ただお耳にはいっているから、どうもそういう者のはいって来るのは厭(いや)だとおっしゃる。煎じ詰めた話が、犬猫と一緒にいるのは厭だとおっしゃるのだ。......」(同書 P.163)と、あきれている。
 日本の中華思想は、国学の影響でその思想的核心が天皇中心主義になると、その穢れ思想を根拠に極めて非科学的非合理的なものに変質した。確かに中華思想そのものは差別と従属の大系ではあるが、一応建前としては、天子は天が選んだ徳のある者となっている。したがって、天子は一つの家系に限定されず、また徳の優劣によって決まるから漢人でなくとも非漢人でもよいのである。しかし、日本の中華思想(華夷思想)は天皇家の連綿とした支配に優位性(本場中国の華夷思想に対して)をもたせているので、正義か否か、公正か否か―などの思想を基準としたものでない。しかも、天皇の命令にはその思想基準とは関係なく、臣下は服従しなければならないという不合理性が終始つきまとうのである。同じ誤りを歴史的に繰り返すということは、ここにこそ由来するのである。天皇制をかかげる限り、天皇を絶対とする限り、失敗から学ぶ学習能力はなく、同じ失敗を繰り返さざるを得ないのである。

(2)天皇の時代認識修正と変わらぬ攘夷思想
 1863(文久3)年12月30日、朝廷は一橋慶喜・松平容保・松平慶永・山内容堂・伊達宗城に対し、朝議参与を命じた。(無位無官の久光は遠慮し、遅れて翌年1月13日に任命されるような手筈をとった。)
 将軍家茂は、1863(文久3)年12月27日江戸を発ち、海路をとって翌年1月8日に大坂城に到着した。そして、1月15日に二条城に入った。
 1864(文久4)年1月27日、孝明天皇は将軍家茂および在京の諸大名・高家を小御所(清涼殿の北東にあり、江戸時代、幕府の使者や京都所司代などが天皇に謁見した所)に召して、次の宸翰を下した。

朕不肖ノ身ヲ以(もって)夙に(つとニ *早くから)天位ヲ踐(ふ)ミ、忝(かたじけなく)も万世無欠ノ金甌(きんおう)〔*国家が独立強固で、外国の侵略を受けたことのないこと〕ヲ受ケ、恒ニ寡徳ノ〔*自分=孝明が徳望が薄いと謙遜している〕先皇ト百姓(ひゃくせい)トニ背(そむか)ンコトヲ恐ル。就中(なかんづく)嘉永六年(*ペリー来航の年)以来、洋夷頻(しきり)ニ猖獗(しょうけつ *悪者がはびこること)来港シ、国体殆(ほとん)ド云(いう)ベカラズ、諸価沸騰(ふっとう)シ生民(*人民)塗炭(とたん)ニ困(くるし)ム。天地鬼神、夫(それ)朕ヲ何トカ云(いは)ン。嗚呼(ああ)、是(これ)誰ノ過(とが)ゾヤ。夙夜(しゅくや *早朝から深夜まで)是(これ)ヲ思テ止(やむ)コト能(あた)ハズ、嘗(かつ)テ列卿武将ト是(これ)ヲ議セシム。如何(いかん)セン、昇平(*平和な世)二百余年、威武(いぶ)ノ以(もって)外寇ヲ制圧スルニ足(た)ラザルコトヲ。若(もし)妄(みだり)ニ膺懲(ようちょう *うち懲〔こ〕らすこと)ノ典(*のり)ヲ挙(あげ)ントセバ、却(かえっ)テ国家不測ノ禍(わざわい)ニ陥(おちい)ランコトヲ恐ル。幕府断然朕ガ意ヲ拡充シ、十余世ノ旧典ヲ改メ、外ニハ諸大名ノ参勤ヲ弛(ゆる)メ妻子ヲ国ニ帰シ、各藩ニ武備充実ノ令ヲ伝ヘ、内ニハ諸役ノ冗員(じょういん *過剰人員)ヲ省キ入費ヲ減ジ、大ニ砲艦ノ備(そなえ)ヲ設ク。実ニ是(これ)朕ガ幸ノミニ非(あら)ズ宗廟生民ノ幸也。且(かつ)去春上洛ノ廃典ヲ再興〔*第三代将軍家光が1634年7月に入京して以来230年ほどして、家茂が1863〈文久3〉年3月に入京したこと〕センコト、尤(もっとも)嘉賞(かしょう *よみしほめること)スベシ。豈(あに *どうして〈下に反語がくる〉)料ナランヤ〔はかりがたい事ではないか〕、藤原実美(*三条実美)等鄙野(ひや *風俗などが卑しい所)ノ匹夫(ひっぷ *身分の低い、教養のない男)ノ暴説ヲ信用シ、宇内(うだい *天下)ノ形勢ヲ察(さっ)セズ、国家ノ危殆(きたい *非常に危ないこと)ヲ思ハズ、朕ガ命ヲ矯テ(ためテ *偽って)軽卒ニ攘夷ノ令ヲ布告シ、妄(みだり)ニ討幕ノ師(*軍団)ヲ興(おこ)サントシ、長門宰相(*長州藩主毛利慶親。宰相とは参議の唐名)ノ暴臣ノ如キ、其(その)主ヲ愚弄(ぐろう)シ、故ナキニ夷舶ヲ砲撃シ、幕使ヲ暗殺シ、私(ひそか)ニ実美等ヲ本国ニ誘引ス。此(かく)ノ如キ狂暴ノ輩(やから)必罰セズンバアル可(べか)ラズ。然(しか)リト雖(いえども)、皆(みな)是(これ)朕ガ不徳ノ致ス処(ところ)ニシテ、実ニ悔慙(かいざん *恥ずかしく悔やむこと)ニ堪(たへ)ズ。朕又(また)オモへラク、我ノ所謂(いはゆる)砲艦ハ、彼ガ所謂砲艦ニ比スレバ、未ダ慢夷(まんい *おごりたかぶる外国)ノ胆(きも)ヲ呑(のむ)ニ足(た)ラズ、国威ヲ海外ニ顕(あらは)スニ足ラズ、却て洋夷ノ軽侮ヲ受(いけ)ン歟(か)。故ニ頻(しきり)ニ願フ、入テハ天下ノ全力ヲ以テ各(おのおの)其(その)要港ニ備ヘ、出テハ数艘(すうそう)ノ軍艦ヲ整ヘ無飽(むあく *満足しないこと)ノ醜夷ヲ征討シ、先皇膺懲ノ典ヲ大ニセヨ。夫(それ)去年ハ将軍久シク在京シ、今春モ亦(また)上洛セリ。諸大名モ亦東西ニ奔走シ、或(あるい)ハ妻子ヲ其国ニ帰ラシム。宜(うべ)ナリ、費用ノ武備ニ及バザルコト。今ヨリハ決シテ然ル可ラズ、勉(つとめ)テ太平因循(いんじゅん *古い仕来りに従っているだけで改めないこと)ノ雑費ヲ減省シ、力ヲ同(おなじ)フシ心ヲ専決ニシ、征討ノ備ヲ精鋭ニシ、武臣ノ職掌ヲ尽シ、永ク家名ヲ辱(はずかしむ)ルコト勿(なか)レ。嗚呼(ああ)、汝(なんじ)将軍及ビ各国ノ大小名、皆(みな)朕ガ赤子(せきし)也。今ノ天下ノ事、朕ト共ニ一新センコトヲ欲ス。民ノ財(たから)ヲ耗(へら)スコト無ク、姑息(こそく *その場しのぎの)ノ奢(おごり)ヲ為(な)スコト無ク、膺懲ノ備ヲ厳ニシ、祖先ノ家業ヲ尽セヨ。若(もし)怠惰(たいだ)セバ、特(ただ)ニ朕ガ意ニ背クノミニ非(あら)ズ、皇神ノ霊ニ叛(そむ)ク也、祖先ノ心ニ違(たが)フ也。天地鬼神モ亦(また)汝等(なんじら)ヲ何トカ云(いは)ンヤ。
   文久四年甲子(きのえね)正月 
 (日本思想大系56『幕末政治論集』岩波書店 P.330~331)

 この宸翰も、近代日本の対外路線の根幹にかかわる問題点を内包している。全体的な基調は、「如何セン、昇平二百有余年、威武ノ以外寇ヲ制圧スルニ足ラザルコトヲ。」と言って、「小攘夷」を棄てて、「大攘夷」への転換を図ったかのような態度を示す。
 しかし、それに至る理由が極めて、お粗末である。第一は、「小攘夷」の責任を、三条実美をそそのかした「匹夫の暴説」や、毛利藩主を愚弄し外国船砲撃などに至らせた「暴臣」にすべて、おおいかぶせていることである。そこでは、上位者の責任に目をつぶり、下級者に責任を押し付けている。まさに、重層的階層的支配秩序のもとで、「トカゲのしっぽ切り」で、支配構造の根幹を維持しようというものである。
 第二に、「然リト雖、皆是朕ガ不徳ノ致ス処」などと殊勝げに言っているが、それは単なる慣用句であり、実際的な総括をした上での言葉ではない。問題は、そこにあるのではない。問題は、孝明天皇がかたくなに固執する「穢(けが)れ思想」であり、「華夷思想」である。「穢れ思想」によって、外国人を人間として扱わず、「華夷思想」によって、外国を対等なものとして交(まじ)わらず、天皇を最上位に戴く日本が世界に冠たるものとして幻想するという時代錯誤を払拭できないのである。これらのことに、孝明天皇は全く無自覚なのである。(《補論 穢れ思想と天皇制について》を参照)
 であるが故に、「出テハ数艘ノ軍艦ヲ整ヘ無飽ノ醜夷ヲ征討シ、先皇膺懲ノ典ヲ大ニセヨ。」と、侵略思想をむき出しにするのである。これは明らかに欧米諸国の侵略主義に対して、軍備を整え、逆に征討・侵略する姿勢を示すものである。それは、「先皇膺懲ノ典」に則って行動せよという命令で明らかである。古代天皇制の朝鮮侵略を模範とせよ―ということである。
 最後に、この宸翰は天皇制への求心力を強めるために、「汝将軍及ビ各国ノ大小名、皆朕ガ赤子也」と、中国ゆずりの家族国家論を唱え、さらに日本でとりわけ根強い「祖先崇拝」をもちあげて、奮励の檄をとばしている。すなわち、天下を朕と共に一新する努力をしないと、「皇神ノ霊ニ叛ク」のみならず、それぞれの「祖先ノ心ニ違フ」というのである。

 《補論 触穢思想と天皇制について》
 穢(けがれ)とは、キタナイことの意であるが、罪や災(わざわい)とともに古代から不浄観念を構成した。罪は広く人間生活の全般的運行を妨げ、社会のルールを意図的に破壊する反社会的行為である。災と穢は、天災や生理的異常がもたらす自然的現象であり、社会に通常とは異なる異常事態をもたらすものである。
 だが、穢は、災とは異なり人畜の死や出血(月経)・出産などの生理的事態を神秘的にとらえ、危険なこととした。穢が、罪や災ともっとも異なる点は、その「呪的な強い伝染力」をもつと観念されることにある。したがって、死には喪屋(もや)を、出産には産屋(うぶや)を別に建てて隔離し、厳しく警戒し忌避(きひ)した。死者の家族や親族を「汚染」すると観念された死穢は、とりわけ忌避された。3世紀ごろの倭人の習俗を記した『魏志倭人伝』は、遺族が10数日の喪に服し、最後に全員が水浴して穢を浄化したと伝えている。
 穢観念が日常生活の細部まで浸透しているのは日本だけに限らない。カースト制度が今なお強いインドや、古代ギリシャなどが有名である。
 穢の本質は、ある現象ないしは事物に対する特定社会の人間の考え方・態度であり、「穢れとは、人間の属する秩序を攪乱(かくらん)するような事象に対して、社会成員の抱く不安・恐怖の念が、そうした事象を忌避(きひ)した結果、社会的な観念と定着していったもの」(山本幸司著『穢と大祓』平凡社選書 1992年 P.77)と言われる。
 この場合の秩序は、「人間の社会生活・社会関係が人間社会を取り巻く周囲の自然とともに形成し、人間社会と自然界とを貫通している、人間を取り巻く全環境における安定した事物の状態を秩序と呼ぶ。」(同前 P.96)とされる。
 したがって、「この秩序においては、政治的事件や社会状況など人間社会の事象が、安定的に円滑に進行しているか否かがそのまま、天体の運行、気象の変動、作物の豊凶といった自然現象に影響を与える。他方、そうした自然現象の変調は、必ずなんらかの人間社会における異変と結び付いたものとして捉えられる。/そうした秩序が観念の世界に投影され、秩序の価値を代弁する存在となったもの、それが神である。いわば大文字で書いた秩序が神だといってもよい。」(同前 P.96~97)のである。
 だから、穢れとされる事象は神にたいする不敬であり、敵対行為とされ、それに対する神の怒りが神罰である。
 だが、中国と異なり、日本社会の中心である天皇は神によって選ばれた皇帝ではなく、神の子孫である。したがって、日本では易姓革命はありえない。だが、天皇の祖先神に対する不敬は、やはり神の怒りの対象であって、易姓革命はなくても個々人の天皇への祟り(とりわけ、深刻なのは怨霊の祟りである)が生じ、あるいは死命を制する事態となる。
 しかし、それでも神の子孫である(人間一般から超越している)天皇は、人間社会では至高の存在であり、神と共に「穢れから最も忌避される」べき存在である。
 日本語の「イミ」の動詞である「イム」には、清浄なものを特別扱いして隔離する意味の「斎(いむ)」と、不浄なものを特別扱いして隔離する意味の「忌(いむ)」との両方の行為が含まれる。ここから、「前者は、人が積極的に神事に慎む意味からやがて〈斎戒〉となり、後者は消極的に神事・公事から隠退する意味の〈服忌〉ないし忌服(きふく *喪中のこと)となった。」(『世界大百科事典』―「穢」の項。薗田稔氏執筆)と言われる。
 927(延長5)年に完成した『延喜式』には、穢に関して、次のように規定されている。(式とは、律令の施行細則である。)なお、(イ)(ロ)などの符丁は、引用者が便宜的に付けた。

(イ)凡(およ)そ穢悪(えお)の事に触れて忌(い)むべきは、人の死は三十日を限り(葬〔ほうむ〕るの日より始めて計〔かぞ〕えよ)、産は七日、六畜の死は五日、産は三日(鷄は忌む限りに非ず)、其(その)宍(しし *肉)を喫(はめ)るは三日(此の官は尋常に之〔これ〕を忌め。但〔ただ〕し祭の時に当たらば、余〔ほか〕の司〔つかさ〕も皆忌め)。
(ロ)凡(およそ)喪を弔(とむら)い・病を問ひ、及び山作所(*陵墓など造営の場所)に到り、三七日の法事(*死亡の日を含めて21日目に行なう法事)に遭(あ)わば、身(み)穢れずと雖(いえど)も、而(しか)も当日は内裏(だいり)に参入(まい)るべからず。
(ハ)凡そ改葬及び四月已上(*以上)の傷胎(しょうたい *流産のこと)は、みな三十日を忌め。その三月以下の傷胎は七日を忌め。
(ニ)凡そ祈年(としごい)・賀茂・月次(つきなみ)・神嘗(かんなめ)・新嘗(にいなめ)等の祭(まつり)の前後の散斎(さんさい *7日間の物忌み)の日は、僧尼及び重服(ちょうふく *父母の喪に服すること)にして奪情従公(*その人を欠くことができず、やむなく職務にあたる場合をいう)の輩(ともがら)も、内裏に参入することを得ず。軽服(ちょうふく *父母以外の親族の喪に服すること)の人と雖も、致斉(ちさい *3日間の物忌み)ならびに前の散斎の日は、参入ることを得ず。自余(じよ *それ以外)の諸祭の斎日(さいじつ *物忌みする日)も、皆(みな)此(この)例に同じくせよ。
(ホ)凡(およそ)甲(こう)の処(ところ)に穢れ有り、乙(おつ)其(その)処(着座を謂ふ 下また同じ)に入り、乙及び同処(どうしょ)の人は皆(みな)穢れと為(な)せ。丙(へい)、乙の処に入らば、只(ただ)丙の一身のみ穢れと為(な)し、同処の人は穢れと為さず。乙(おつ)、丙の処に入らば、同処の人(ひと)皆(みな)穢れと為せ。丁(てい)、丙処に入るとも穢れと為さず。其(その)死葬に触れたらんの人、神事(かんごと)の月に非(あら)ずと雖も、諸司ならびに諸衛の陣及び侍従の所(ところ)等(など)に参著(さんちゃく)するを得ず。
(ヘ)凡そ鴨御祖社(かものみおやしゃ *賀茂神社)の南辺は、四至(しし *四方の果て)の外に在(あ)ると雖も、濫僧(らんそう *私度僧)・屠者(としゃ *動物を解体する仕事の人)等、居住することを得ず。
        (虎尾俊哉編『延喜式』上 集英社 2000年 P.169~173)

 これによると、(イ)触穢(しょくえ)の忌(いみ *身を清めて慎むこと)は、人の死の場合は30日、人の出産の場合は7日、六畜(馬・牛・羊・犬・いのしし・鷄の称)の死の場合は5日、六畜の出産の場合は3日(鷄は除外)、六畜の肉を食した場合は3日と定められた。だが、その他にも「穢悪の事」として、改葬・傷胎(流産)・懐妊・月事(生理)・失火・埋葬などが記されている。(「物忌(ものいみ)」とは、特定の期間、飲食・言行を慎み、身心を清めて不浄を避け、家の中に籠(こも)ること)
 (ロ)喪を弔ったり病人へ見舞に行ったり、山作所に参ったり、三七の法事に出た者は、たとえ身の穢れがないといっても、当日は内裏への参内は許されない。
 (ハ)改葬したり、流産(四カ月以上)の者は、30日の物忌みで、3カ月以下の流産は7日の物忌みである。
 (ニ)特定の祭の斎日は、僧尼・重服の者は、内裏に参内できない。軽服の者でも、致斎ならびに散斎の日には、参内できない。
 なお、祈年祭(きねんさい。「としごいのまつり」とも言う)は、年穀の豊饒・皇室の安泰・国土の繁栄を神々に祈った。
 賀茂祭は、京都の上賀茂神社(賀茂別雷社)・下賀茂神社(賀茂御祖社)の例祭で、由来は欽明朝の時代、気候不順・凶作が続いたので占ったところ賀茂神の祟りであるのがわかったので、これを鎮めるために行われたといわれる。平安遷都(794年)により、皇城鎮護の神となった。810(弘仁元)年から歴代の内親王が斎王(天皇即位の時、未婚の皇女が神社に奉仕する)となった。
 月次祭は、古代の宮廷と伊勢神宮で、6月と12月に行われた。どちらも旧穀の米飯を神饌(しんせん *神に供える酒食)とする所に特色がある。新嘗祭(宮中)・神嘗祭(伊勢神宮)は、新穀によって神事が行なわれる。
 神嘗祭は、天皇がその年に収穫された新穀を伊勢神宮に奉る祭儀である。皇室では特に勅使を派遣し、奉幣(ほうへい *神前に幣〔ぬさ *紙・麻などを切って垂らしたもので、神に祈る時に使う〕を奉ること)させた。皇室では、天皇が遥拝式を行ない、賢所(かしこどころ *神鏡を祭ってある所。現在は神殿・皇霊殿とともに宮中三殿という)で親祭(天皇・貴人が自ら祭りの式を執り行うこと)の儀がある。
 新嘗祭は、民間の収穫儀礼を宮廷化したもので、大王(「天皇」の名称は7世紀末から)の行なう最も重要な祭儀である。律令制時代は、11月の下卯(または中卯)の日と、翌辰の日の2日間の行事である。卯日には、神祇官斎院において、畿内を中心に特定の大社304座の神々に対して班幣(ヌサを分つ)があった。卯の夕刻には、天皇が入浴斎戒ののち、神嘉殿(しんかでん *内裏の西にある中和院の正殿)において自ら神々とともに、新穀による神酒や神饌を食する祭儀が行なわれた。それは、深夜に二度繰り返された(これは月次祭と同じで、違いは新穀か旧穀かにある)。辰の日には、新嘗会(豊明の節会)とよばれる宴がある。これには天皇出後の下に、群臣が参列し歌笛が奏され舞が行なわれた。  
 大嘗祭は新嘗祭から分化したもので、新天皇の即位に際して行なわれた。両者の違いは、①大嘗祭では、悠紀(ゆき)・主基(すき)に指定された国に斎田を設定し、その米が祭りで使われた。だが、新嘗祭では、畿内の官田の米などが使われた。②祭場は、大嘗祭では悠紀殿・主基殿を中心とした大嘗宮を仮設したが、新嘗祭では常設の神嘉殿を用いた。③祭りの期間は、大嘗祭が4日間で、新嘗祭が2日間である。
 これらの内、大嘗祭(新嘗祭)、祈年祭、月次祭(季夏と季冬の2回)とを合せて、「四箇祭」と称し、年中恒例の官祭の中でも、「国家の大事」とされた。
 (ホ)は、穢の認定基準を示すものである。「ケガレ(*穢)の認定には甲乙丙丁の四段階を設け、その発生の場所を甲穢の所とし、そこへ入って座ると本人と同居者が乙穢になり、乙穢の者の所に入って座ると本人のみが丙穢に染まり、また乙穢の者が出かけた先で座ると、そこの同居者はすべてが丙穢となる。しかし、そのあと丁にあたる誰かが丙穢の所に入って座したとしても、もはや丁穢ということにはならないものと認定された。」(横井清著『的と胞衣(マトとエナ)』平凡社ライブラリー 1998年)のである。
 また、死葬(葬送)に触れた人は、たとえ「神事月」(神事のある月)でなくとも、「諸司ならびに諸衛陣および侍従者等」の大内裏内へ参着できないとされている。
 これらの条項にかんして、丹生谷哲一著『検非違使(けびいし)』は、いずれも『延喜式』の神祇の部、臨時祭の部に集中していることを指摘したうえで、「......その内容上のきわだった特徴は、神社(祭)と内裏、換言すれば神と天皇が穢(けがれ)をもっとも忌避さるべきものとみなされているところにある。そこにはすでに太政官制に基礎づけられた律令天皇制=公権力におけるある種の矮小化が認められる。したがって(ホ)において甲乙丙丁の穢の伝播に続けて『不得参著』とされている『諸司?(ならびに)諸衛陣及侍従者等』というのも、厳密には本来の律令的官衙とはいえないのであって、それはいわば『清められた』内裏・天皇にみあったものであったろう。そして(ヘ)にみえるようにかかる清浄なるものの対極的存在としてすでに中世的賤民の原型たる濫僧・屠者が位置づけられている」(同著 P.38)というのである。
 日本の神道は、世界宗教となった宗教と比較すると、いわゆる「教義(体系)」なるものが存在しない。唯一、「掟」らしきものを挙げれば、「浄―不浄」の価値基準である。この「教義」の問題性もさることながら、その教義の貧弱さによって、絶えず他宗教の「教義」を取り入れることによって「再生」してきた歴史がある。その典型が、「神仏習合」である。
 この「浄―不浄」概念によって、もっとも「清浄」な存在として、神とともに穢から忌避されてきた天皇は、単に宗教的な存在であるだけでなく、同時に、政治的存在(最高権力者)である。したがって、日常的な政治活動において、穢は強くその制約要因となった。
 村井章介氏によると、日本の支配層の意識が極度に閉鎖的になったのは9世紀とみることができるという。近代以前においては、王土には限界がないのが一般的なのであるが、日本の支配層は次のような画定をした。すなわち、『貞観儀式』(9世紀後半)の巻10で、「穢(きたな)く悪(あし)き疫鬼の所所村村に蔵(かく)り隠(かくら)ふるをば、千里の外、四方の堺(さかい)、東方陸奥、西方都値嘉(五島列島)、南方土左(*土佐)、北方佐渡よりをち(*遠く彼方〔かなた〕)の所を、なむたち疫鬼の住(すみ)かと定め賜(たま)ひて......」と、追儺(ついな)祭文に示された。
 この追儺祭文によると、東は陸奥、西は五島列島、南は土佐、北は佐渡が日本の境界と観念された。そして、疫鬼はこの境界から追放されるべきものとされた。追儺とは、宮中の年中行事の一つで、大みそかの夜、舎人(とねり *下級官人)が扮した疫病の鬼を追い払い、矢で射って、災害を払い除く儀式である。これが後に民間に広がり、節分として「鬼は外」「福は内」と叫ばれた。
 ここに日本国家の領域が、ケガレをその内部から追い出す範囲として措定され、海外との交流が消極的となり、閉鎖的となっていったのである。そして、「日本の支配層の意識のなかで、境界観念にかぎらず生活のあらゆる場面において、ケガレの観念がグロテスクなほどに肥大化してくるのが、ちょうどこのころ(*9世紀)だった」(村井章介著「王土王明思想と九世紀の転換」―岩波書店『思想』1995年1月号に所収)と言われるのである。
 しかし、穢観念の肥大化は放置すると、政治機能までを疎外するようになる。
 実際、「政」は「まつりごと」と言われるように、官人の活動においては、先にあげた祭りの外にも多くの祭りにも関わっている。その際、必ず問題となることは、穢れた官人が神事に随ってよいか否かの問題である。保延年間(1135~1141年)の祭礼と触穢関係者について記した『宇槐雑抄』(左大臣藤原頼長の著)は、「丁穢人(ていえのひと)其(その)身神事に随ふ哉(や)否やの事。」と設問し、「北山抄。丁穢人神事に従ふに憚(はばか)り無し。天慶(てんぎょう)八年(*945年)外記日記。丁穢人(清蔭卿)奉幣の事に行く。但し手は宣命(せんみょう *)を取らず。神事は丁穢を忌(い)む故(ゆえ)なり。」と答えている〔触穢のレヴェルが、甲―乙―丙―丁とあるのは(ホ)にも表記されている〕。
 このように、触穢は前近代の朝廷活動では、きわめて重要な位置を占めていた。但し、触穢問題は、前近代日本の独特の問題である。『宇槐雑抄』(『群書類従』25輯に所収)が、先の引用部分にすぐ続けて、「穢事は律令に載らず、式より出づ」(『群書類従』巻451  
 P.358)とあるように、本来、「穢事」は律令制に由来するものではない。
 穢観念の肥大化が政治活動の阻害要因となるにつれ、それをクリアーするための種々の方策が編み出される。
 そこで考えだされたのが、一つは、内裏や貴族の活動域への「不浄の人、入るべからず」、「汚穢(おえ)不浄の人、入来すべからず」などにみられる「穢れの予防」である。もう一つは、儀式の中止や延期からのがれるために、儀式遂行上のさまざまな便法を駆使することである。
 山本幸司氏によると、その便法には、「所定の場所の代りに穢れていない場所を用いる」、「内裏以外の場所で行う」、「所定の担当者の代理に穢れていない人物に担当させる」、「神使が内裏穢を避けて参内せず発向する」、「規定を緩和したり、儀式を一部省略する」などである。(山本幸司著『穢と大祓』P.133~139)
 さまざまな変遷を続けながらも、皇室と朝廷を縛りつづけた穢思想は、幕末の「開国」論争をも強く規制した。孝明天皇や当時の公卿が開国を拒否した最大の理由は、西洋人は穢れているからだという勝手な決めつけである。
 1858(安政5)年、老中堀田正睦らが外国との条約調印に関して、天皇の勅許を得ようと上京した。堀田の随行員である「忠震(ただなり *岩瀬忠震)が着いた頃(安政五年二月)の京都の政治情勢は基本的に条約反対、攘夷であったが、その最も強い理由は『怖れ』であった。天皇や公家たちは化け物を怖がるような意味で外国人が怖かったのである。だから外国人が日本に住み、全国を旅行する、ひょっとしたら京都にも来る、と思っただけで彼らは怖気(おじけ)をふるった。もう一つの反対理由は儒教倫理的なもの、すなわち『外国人は利益の為(ため)ならどんな悪行でもする、無道徳の禽獣である』という信念である。『怖れ』も『無道徳』も事実から帰納された結論ではなく『感情』であったから説得不能であった。」(小野寺龍太著『岩瀬忠震』ミネルヴァ書房 2018年 P.202)と言われる。
 西洋人に対する偏見(「怖れ」と「無道徳の禽獣」という決めつけ)は、言うまでもなく、天皇制を規定付ける穢れ思想と日本的華夷思想から発するものであった。だから、堀田や岩瀬は、理性的な説明では全く公家たちを説得できなかったのである。ちょうど同じころ将軍継嗣問題で、慶喜擁立をはかる松平慶永の命で朝廷工作を行なった橋本左内も、公卿たちの西洋諸国に対する無知と偏見にはほとほと手を焼いた。だから、理屈での説得が極めて困難であった。
 明治維新後、徳川慶喜と何人かが座談した回想談『昔夢会筆記』(渋沢栄一編 平凡社)で、慶喜は孝明天皇の攘夷について、次のように話している。萩野由之の「攘夷ということにつきましての真の叡慮というものはいかがでございましょうか。」という質問に答えて、「先帝(*孝明天皇)の真の叡慮というのは、誠に恐れ入ったことだけれども、外国の事情や何か一向御承知ない。昔からあれは禽獣だとか何とかいうようなことが、ただお耳にはいっているから、どうもそういう者のはいって来るのは厭(いや)だとおっしゃる。煎じ詰めた話が、犬猫と一緒にいるのは厭だとおっしゃるのだ。別にどうというわけではない。どうかしてああいう者は遠ざけてしまいたい、さればといって今(いま)戦争も厭だ、どうか一つあれを遠ざけてしまいたいとおっしゃるのだ。」(P.162~163)と言っている。 
 ここでも、公家社会は西洋に対する「無智」と「怖れ」で覆われていたことが、証言されている。こうした欠陥をもった天皇・朝廷の頑迷な「攘夷」で、幕末・維新の政治は振り回され、厖大な人命が失われていったのである。

M 幕府・慶喜と公武合体派雄藩の対立

(1)長州藩の処分問題
 公武合体派の諸侯(雄藩前藩主など)で構成された「参与会議」(『徳川慶喜公伝』では、「後見邸会議」と称している)は、①長州藩および京都を脱した七卿に対する処分問題、②横浜鎖港の実施をめぐる問題―これらが大きな問題であり、参預間の意見対立が顕在化する。そして、幕政改革と開国への明確な政策転換を主張する参預諸侯(島津久光・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂)と、雄藩の国制介入を嫌う幕府有司、および両者の中に立つ一橋慶喜のあいだの対立と相互不信が激化する。
 まず長州藩ならびに七卿に対する処分題では、朝廷関係者・政事総裁職(春嶽の後任に川越藩主の松平直克〔なおかつ〕が就任)・老中・参預の間に、多少の意見の違いはみられたものの、1864(元治元)年の2月上旬に一応の方針が打ち出されている。
 それは、「長州藩の末家(*支藩主)および家老のうち、各一人を大坂に呼び出し、閣老が下坂して、なぜ親征(*攘夷親征のこと)を企画するにいたったのかといった『不審』の箇条を尋問するとともに、三条以下七卿の引渡しを求め、もしそれに応じない場合は、断然征討するというものであった(『続再夢紀事』二)」(家近良樹著『徳川慶喜』吉川弘文館 2014年 P.68)と、言われる。
 なお、尋問箇条は、「三条実美等七人を誘引せし事、幕船(*朝陽艦のこと)を引留めし事、幕吏を暗殺せし事、薩船に砲撃せし事」(『徳川慶喜公伝』3 P.9)などである。そして、2月11日に、「征討軍の部署は、紀伊中納言(紀州藩主)を〔*将軍の〕名代とし、松平肥後守(*松平容保)を副将とし、老中有馬遠江守(道純)を差添(さしぞえ)とし、討手(うって)としては阿州・因州・薩州・雲州・肥後・芸州・備前・小倉・福山・竜野の諸藩にせしむべし」(同前 P.9)と決定し、13日には朝議もこれを認可した。
 これに関連し、幕府は2月10日、松平肥後守(容保)に所領5万石を加増し、翌日、征長の副将となして陸軍総裁職に任じた(13日に、陸軍総裁職を軍事総裁職に改称した)。これは新設の職である。2月15日、容保が就いていた京都守護職には、松平慶永(春嶽)が任じられ、容保は免ぜられた。
 軍事総裁職は、陸軍奉行・講武所奉行・大番頭・書院番頭・小姓組番頭・騎兵奉行・歩兵奉行・旗奉行・軍艦奉行・騎兵頭・歩兵頭・持頭(もちのかしら)・槍奉行・新番頭・先手・使番・鉄砲方・徒頭(かちがしら)・小十人頭などの指揮権を任され、軍備に関係する事で、大事は老中と相談し、小事は全権をもって指揮するものである。このような重大な権限をもつ職を新設し、松平容保を就任させたのは、8・18クーデターの功労者であったからである。

 (2)横浜鎖港問題で参預会議は解体
 参預会議を後に分裂にまで導いたのは、横浜鎖港問題である。幕府首脳全体を含めて、「開国・通商」にむけて意志一致できるか否かの問題が存在していたからである。
 幕府は、1861(文久元)年12月に、江戸・大坂の両市と新潟・兵庫の両港の開市開港延期を交渉する使節団を派遣し、翌年には、1863(文久3)年1月1日から5年間延期することに成功した1)。さらに幕府は、1863(文久3)年12月29日、外国奉行池田長発らを鎖港談判のために欧州に出発させている。鎖港談判とは、長崎・箱館の両港はこれまで通り開港し、攘夷に固執する朝廷の手前、横浜一港のみを閉ざすための外国との交渉である。
 参預会議に出席する実力者は、慶喜を含めて開国論者2)であるので、慶喜と参預諸侯とは意気投合し、参預たちは慶喜の指導により、幕政は改革され、開国の国是が定められると期待していた。
 ところが、将軍の上洛を前にして、将軍を取り巻く幕閣は、いったん簡素化した服制を旧に戻すなど復古的な傾向を強めてきた。8・18クーデター以降、幕府の権威が回復してきたと誤認したのである。横浜鎖港でも家茂上洛を前にして、江戸で次のように決定してきていた。すなわち、老中たちは、国家の前途を左右するほどの大問題であるにもかかわらず、"昨年は長州の攘夷、今年は薩摩の開国に従うとすれば、幕府に一貫性が無く、外様大名に翻弄されていることになるので、開国説はとらない"(慶喜の回顧談である『昔夢会筆記』)というのである。日本の前途にとって、開国が良いか悪いか―と真正面から問うていないのである。そこにあるのは、ただ幕府の体面・体裁が良いか悪いかというメンツ主義でしかない。そのため、幕府の基盤がすでに空洞化してきていることをみる冷静な眼は存在しないのである。
 1864(文久4)年1月21日、天皇は上洛した将軍家茂に対し勅旨(ちょくし *天皇の意思)を下し、「醜夷の征服は国家の大典なれども、無謀の征夷は朕が好む所にあらず」と述べた。1月27日でもまた同様の事を述べた。公武合体派が円満に一和したかのように見えた。だが、参預諸侯は、旧態依然の老中と親密な関係をもつ慶喜を疑い、2月11日、連署して、次のように慶喜に迫った。
 すなわち、"急進的尊攘派が京都から一掃され、朝廷もかつてとは異なり"無謀な攘夷"を唱えず反省している今日、真の公武合体がなり、新たな改革政治の好機となっているが、将軍上洛して今や半月にもなるのに世間を括目させる献策の一つも出ていない。改革に時期を失すると天下の笑い者になろう。これは誠に歎き悲しむべき事柄である。一橋公をはじめ要路の方々が天子の輔弼となって「中興挽回の偉功」を奏せられ、上下を安心せられることを、伏してお願いします"と、連名の署名で訴えた。
 わざわざ書面で、しかも参預諸侯の連署で願い出たということは、尋常なことではない。参預諸侯たちの不満と批判が吹き出たのである。
 ところで横浜鎖港問題が参与会議で問題となるや、慶喜は、幕府の意見を執って、「既に横浜鎖港談判の使節も差遣(さしつかわ)したることなれば、今に至りて俄(にわか)に開国の方針に変ずべきやうなし、先ず遣外使節の事を公布し、国是を鎖港攘夷に定め置き、使節の帰朝を待ちて、然る後(のち)如何(いか)やうにも変更せん、今(いま)急に開国と定めば、人心鎮定の道なし」と主張したといわれる(『徳川慶喜公伝』3 P.16)。
 周りの人々には、慶喜は開国論者と知られていたのだが、その慶喜が幕府の方針を採用して、横浜鎖港の談判をすすめるべきだと公然と主張したのである。開国論者の参預諸侯は、少なからず驚いたと思われる。
 将軍も将軍で、頑迷な老中の主張にただ従うだけであった。そこで慶喜は、後見職として、将軍に真っ向から逆らうわけにもいかず、慶喜も将軍・幕府の主張に従ったのである。
 しかも、慶喜もまた、薩摩の動きに敏感となり、その策動に気付くようになり、警戒を強める。慶喜は、幕府を出し抜いて、天皇・朝廷を裏から動かし政治のヘゲモニーを握ろうとする薩摩の政治手法が、基本的に長州藩のそれと同じで、徳川家にとって不利だと直感したものと思われる。自らの開国論の信条を曲げてでも、横浜鎖港問題で薩摩藩の言うとおりにしないで、老中たちに加担したと思われる。
 だが、慶喜のあまりにも幕府側を気遣(きづか)ったこのような姿勢に、公武合体派の参預諸侯などは、大いに驚いてしまう。しかし、慶喜と参預諸侯との決別は、理屈のうえのことだけではなかった。それは、慶喜の「大暴言」である。酒が入っていたとはいえ、慶喜は日頃の憤懣を一挙に爆発させてしまったのであった。
 慶喜は、中川宮(青蓮院宮)が何故に「天下の大愚物・天下の大奸物」である3人(久光・春嶽・伊達宗城)を信用するのか―と問題を投げかけ、それは久光に経済的に世話になっているからではないかと答を出す。ならば、明日からは天下の後見職である慶喜が世話をするから、自分に随従すべきと中川宮に迫る。批判は宸翰に及び、過日の宸翰の内容は三人を「赤子」として取扱っているが、それも中川宮が3人を信用し、3人の遊説をそのまま天皇に申上げているからである―と、痛烈に中川宮と3人の関係を批判している。最後に慶喜は、自分の言っていることが間違いならば、今日限りの関係になろうと、中川宮へ突きつけている。
 それにしても、今や政局を左右するほどの3人を「天下の大愚物・天下の大奸物」と罵倒する慶喜は、常軌を逸している。礼儀も体面も考慮しないで、慶喜は本音をぶちまけている。しかし、慶喜は3人を批判しているが、中心は薩摩藩の久光(「陪臣風情」と侮辱している)である。これにより、慶喜はいよいよ薩摩藩を敵にまわすことが明確になるのであった。
 しかし、慶喜の剣幕と「暴言」は尾を引いたと思われる。その後、慶喜と参預諸侯とが融和しないのを見かねて、春嶽と薩摩の小松帯刀(たてわき)が両者の間を調停したが効果はなかった。そのため、参預諸侯の側は、幕府の因循と慶喜の奮励不足を批判し、幕府側の水野和泉守は参預会議は天下の害物として、その廃絶を主張するようになる。
 そのうち、山内容堂は藩内の不穏(長州藩激派と藩内激派の連絡)を鎮める必要を唱えて2月25日に帰国する。尾張藩の徳川慶勝は、2月26日、ようやく入京し、参預を命ぜられるが、慶喜を嫌って参預となる事を辞退している。3月9日になると、慶喜は参預を辞することとなる。すると、他の参預諸侯も相次いで辞任する。朝廷もしかたなく、これらの辞任の願いを許可し、その代わり、御用がある場合は参内させるようにした。こうして、参預会議はわずか3~4か月の短期で解体することとなった。
 だが、こうなると慶喜は明らかに孤立する。そして、自前の兵力をもたない慶喜は、幕府の「威光」か、あるいは天皇の「権威」に、ますます依存するようになる。

注1)幕府は、将軍家茂の名で1861(文久元)年3月23日、米英仏蘭露の5カ国に両港両都の開市開港の延期を要請する。そして、その年の12月24日には、正使竹内保徳、副使松平石見守らを、開市開港延期の交渉のために欧米に派遣する。これは最初の遣欧使節であるが、その任務は江戸・大坂の両都および新潟・兵庫の両港の開市開港がまじかに迫っている中で、その延期を各国と交渉することである。大坂・兵庫は攘夷思想に固まった天皇・朝廷(欧米人を人間としてみなさない)をわずらしたくないこと、江戸は将軍の膝元であり、欧米人と距離をとっておきたいことからの延期交渉である。翌1862(文久2)年5月9日、イギリスとの交渉は成功し、「ロンドン覚書」が調印された。ただし、無条件でイギリス側が延期を承認した訳ではない。その代償として日本側は、自由貿易を制限する一切の制度をなくすこと、税率を引き下げる要求を認めなければならなかった。他の国とも、この「ロンドン覚書」を基準として、それぞれ協定が成立した。同年8月19日にロシアと、同年閏8月9日にフランスと調印している。
2)慶喜は、斉昭の影響からか攘夷論者であった。それがいつごろからかは不明であるが、開国論者に転向している。松平慶永が初めは斉昭の影響で攘夷論者であったが、慶喜を将軍候補に擁立する頃(1857〔安政4〕年)から開国論者に転向したのと同じである。

(3) 一会桑の京都支配体制
 1864(元治元)年3月25日、一橋慶喜は将軍後見職を免ぜられるとともに、新設の「禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮」職に任ぜられる。「禁裏御守衛総督」というのは、禁裏=御所を守る役で、「摂海防禦指揮」というのは、摂海=大坂湾の周辺から侵攻して来る外国勢に備える役目である。いわば、京坂方面の防衛総司令官である。
 当時、諸外国との修好通商条約締結によって、大坂の開市・兵庫の開港の期限が迫り、また、3月に至って列国艦隊が集団をなして摂海に襲来するという情報がもたらされ、一刻の猶予もないとして「摂海防禦」の専職が設けられたのである。
 だが、この職はきわめて曖昧(あいまい)で、そもそも幕府の職制なのか、それとも朝廷の職制なのか、それすらはっきりしないのである。「したがって、権限もはっきりしないのだが、本来なら将軍がもつべき京都・大坂方面の軍事指揮権を委(ゆだ)ねられたことはたしかなようである。ある意味では、慶喜に対してしかるべきポストを用意するための職、という意味合いのほうが強いかもしれない。/実際に慶喜は、このころから次第に〈朝臣化(ちょうしんか)〉の傾向を強める。つまり、徳川将軍家の一族でありながら、なんとなく天皇の直接の臣下という立場に立つ動きを示すようになるのだ。朝臣と幕臣の二股(ふたまた)がけのようなもの、といえばよいだろうか。」(青山忠正著『幕末維新奔流の時代』文英堂 1996年 P.134)というのである。
 参預諸侯との決別で孤立を深める慶喜は、京都における「政治基盤」を求めて、朝廷の内側に入ったともいえる。慶喜は、積極的に「総督」の地位を求めたともいえる。しかし、皮肉なことに、慶喜が「朝臣」化の度合を一段と深めると、逆に江戸の幕閣や幕臣との関係が疎隔され、彼等からうとまれることとなる。
 「総督」となった慶喜は先ず、さっそく「公武一和」を現実のものとするために、御所警備の新たなプランを提示する。それは、これまでのような、諸大名による警備ではなく、「幕府の交代寄合(こうたいよりあい *万石以下三千石以上の非職の旗本のうち、課金ではなく課役を出した者)に、御所九門の警備をさせる」(家近良樹著『徳川慶喜』P.76)というものである。この狙いは、諸大名(その藩士)が京都警備を名目として滞京する中で朝廷との結びつきを強化するのを排除することである。
 このプランは現実化し、「四月十六日には諸侯の京都市中警備が免除となり、ついで同十九日、禁裏御守衛総督・京都守護職・京都所司代(四月十一日、松平容保の実弟である桑名藩主の松平定敬〔さだあき〕が任命される)三者による皇居内外の巡邏(じゅんら)・警備が始まる。つづいて五月に入ると、慶喜は西は相国寺前通、南は今出川通に面していた二九八一坪の広大な土地を、二年間の条件付きで伏見宮から借りることに成功する......。ここに、いわゆる一会桑(いっかいそう *一橋・会津・桑名)三者による京都支配体制の端緒がひらかれた」(同前 P.76~77)のである。
 慶喜はまた、関白の二条斉敬(なりゆき)や中川宮などに働きかけ、将軍家茂への大政委任を改めて確認することとした。「その結果、同月(*4月)二十日に参内した家茂に対し、大政を委任する(ただし、国家の重大事については逐一奏聞する)こと、横浜はぜひとも鎖港すべきこと、長州藩および三条ら七卿の処分に関しては幕府に一任することを骨子とする勅書が下る(『孝明天皇紀』五)。」(同前 P.77)のであった。
 だが、慶喜と幕閣との間で、対立がもちあがる。それは、水戸藩内で天狗党の筑波挙兵が3月末にあり、彼らが幕府に横浜鎖港の即時実施を要求する(天狗党の挙兵については、拙稿『尊王攘夷の旗頭・斉昭と日本近代の序章』〔労働者共産党ホームページ〕を参照)のである。
 この天狗党に対する処置で、慶喜などと幕閣とで対立するのである。江戸の幕閣は、とり急ぎ、水戸藩にただちに天狗党を鎮圧することを求めた。これに対し、「水戸藩の尊攘派を重要な支持基盤とする一橋慶喜や、松平春嶽辞職後に政事総裁職となった川越藩主の松平直克は、協力的な姿勢を示さなかった。それどころか、横浜鎖港の早期実現に向けて提携を深める動きすら見せた。そのため、江戸の幕閣と慶喜・直克の間で、四月以降、緊張が高まる。」(家近良樹著『徳川慶喜』 P.78)のであった。そして、この天狗党問題と横浜鎖港方針をめぐる両派の対立は、家茂が5月7日に京都を発ち、大坂を経由して江戸に帰った(5月20日)あと、さらに大きくなる。
 将軍の帰府に先立って、江戸に戻った松平直克は、早急な横浜鎖港の実施を命ずる勅諭に従って行動すべく主張するが、横浜鎖港に消極的な老中(中心は板倉勝静)などと激しく対立する。直克は、「......家茂が帰府すると、六月三日に将軍と会い、横浜鎖港の実施を妨げているとして、老中二名、若年寄二名、その他複数の役人の排斥を主張し、それが聞き届けられなければ自身の登城を中止すると宣言した。そこで、今度は板倉らが登城を停止し、直克に対抗することになる。/この将軍をも巻き込んだ大騒動は、結局、両派共倒れとなり(六月二十二日に、直克は政事総裁職を罷免される)、その間隙をぬうように、横浜鎖港に反対する政治勢力(開国派の老中や幕吏)が要職に復帰してくる」(同前 P.79)ようになる。
 この事態により、夏ごろから幕閣では、直克の言動に慶喜が関与しているのではないかとか、天狗党と慶喜が「内通」しているのではないか―と、盛んに噂された。そして、幕府内部では、慶喜の排斥と天狗党への弾圧が激しくなる。
 慶喜の側は、このような動きに警戒し、自らの保身もあって、幕閣をこれ以上刺激したくないと、明確な態度を示さなくなる。

N 長州藩の巻き返し策動と禁門の変

(1) 藩中枢と奇兵隊との距離関係  
 1863(文久3)年10月1日、坪井・椋梨派をあらかた処分した毛利慶親は、全家中に次のような諭告を発し、8・18クーデター以降の藩内の動揺を抑えた。

我(わが)日の本は天津日嗣(あまつひつぎ *天照大御神の系統をひく天皇)の知食(しろしめす *統治する)大御国(おおみくに)にして其中(そのなか)に生ずるもの皆(みな)其(その)御民(みたみ)なり。其民に自然上下の分(ぶん)ありて君臣の別あり。吾(われ)辱(かたじけな)く二州(*防長2国)を預り領し汝等(なんじら)と君臣の義ありと雖(いえ)ども、其本(そのもと)は均(ひとし)く天子の御民なり。汝等能(よ)く吾に事(つかへ)るは乃(すなわ)ち能く天朝へ事る所以にして能(よ)く事(つか)へざるは又(また)能く天朝へ事へ奉らざるなり。吾能く天朝へ事へざる時は汝等吾を補導匡正し能く天朝に事へしむは臣子の職なり。幕府も亦(また)同様にて、天朝の為(ため)天下の諸侯を牽(ひき)ゐ天朝に藩屏(はんぺい)し外夷をして覬覦(きゆ *望むまじきことを伺い望むこと)せしめざるを征夷府の職掌とす。若(も)し其(その)職(しょく)缺(かけ)る時は尽力周旋して天朝へ事(つか)へしむる、是(これ)吾等諸侯の職掌なり。臣子たる者亦(また)各(おのおの)其(その)主(あるじ)の為に力を尽す所也。......二州は天朝の御為(おんため)如何(いか)様(よう)に相成り候ても是非尽力し其職に背(そむ)かざる積り(つもリ)にて、幕府の吾を信せざるは今更(いまさら)詮方(せんかた)無きと心得(こころえ)候処、幕府愈(いよいよ)吾に快からず、これに加えるに奸徒(かんと)の為(ため)京都大変(*8・18クーデターで京都から一掃されたこと)と相成り、もはや吾が正気(せいき)尽き果てん勢いにて、これまた吾が精神の足らざる所、人を恨(うら)むべきに非(あら)ず。実に天下の人、吾を知らざるは尤(もっと)もの事にて、この度(たび)、汝らの中にさえ、臣としてその君を知らず、党議を生じ候事、誠に恐るべきの至りと相考え候。......(中略)......元来二州に換え、尊攘の儀尽力(じんりょく)致すとも、畢竟(ひっきょう *つまるところ)皇国の民たる職を尽くす所以(ゆえん)なれば、いよいよ吾を助け、吾が職を尽くさしむるの策を求むべし               
                  (『修訂 防長回天史』五 P.103~107)

 慶親は、冒頭、日本は万世一系の皇統が治める国であり、諸侯は天朝に仕え、家臣は職に仕えるのが本文である。したがって、慶親がよく天朝に仕えない時は、汝ら家臣が慶親を「補導匡正」し、よく天朝に仕えるように仕向けるのが嘉新の職掌である。幕府もまた同じで、征夷府の職掌が缺るときは、諸侯が周旋して天朝によく仕えるようにすべきである。二州がその力を尽して、尊攘のために働くことは「皇国の民」の職分を果たすことにほかならないのであり、党派対立・党派闘争をやめて、藩主たる吾の「皇国の民たる職」を尽くすこと助け、その策を考えるように諭告した。

 (ⅰ)七卿と奇兵隊の関係が深まるのを恐れた藩政府
 しかし、事態は慶親の思うようには進まず、尊攘激派の急進策は、藩外の同志と結合してますます進行するのであった。その一つが生野の乱への一部の奇兵隊員の関与である。
 1863(文久3)年9月12日、高杉晋作は奇兵隊総督を辞任した。総督二代目になったのは、21歳の河上弥一(弥市)と22歳の滝弥太郎である。
 だが、若き総督河上弥一は、半月余で奇兵隊を脱走する。
 すなわち、大和行幸(攘夷親征)の先鋒として8月17日に挙兵した天誅組は、幕府の出先機関である五條代官所を血祭りにあげたものの、8・18クーデターで苦戦に陥り、27日には壊滅する。この天誅組に呼応しようと、筑前浪士平野国臣と但馬の北垣新太郎は、9月28日、三田尻を訪れ、都落ちしていた7卿と長州藩に協力を求める。それは、北垣らが日本海岸沿岸防備の目的で結成した数千人からなる但馬地方の農兵を挙兵させようという計画への協力であった。長州藩は平野らの申し出を表向きは断わったが、河上弥一は奇兵隊から8人を引き連れ、7卿の一人・沢宣嘉(のぶよし)を奉じて、10月2日、三田尻を脱走し、海路東に向かう。
 『奇兵隊日記』10月2日の条には、「今夜、沢公御脱走。其節(そのせつ)、河上弥市、白石廉作、伊藤百合五郎、長野熊之丞、和田小伝二、小田村信之進、下瀬熊之進、井関英太郎、以上八人御供(おとも)にて脱走いたし候事」と記載されている。河上と長野は、大組の藩士である。白石廉作は、奇兵隊結成の場所となった白石邸の当主・正一郎の弟である。伊藤(5人扶持高25石)と井関(4人扶持高15石)は、無給通り(近習通りともいう)という下士の家格である。和田は陪臣で、小田村は三田尻中船頭で3人扶持高25石、下瀬は遠近附(えんきんづき)で2人扶持高18石である。白石を除くと、ほとんどが下級武士である。
 10月9日、一行が播磨飾磨港(しかまこう *現・姫路市)に着いてみると、すでに天誅組は潰滅した後であった。しかし、河上は強引に但馬に進み、12日、生野代官所を無血占拠する。ここを本営にして付近の農兵を召集したところ、約2000人が集まった。
 これに対して、幕府側は姫路・出石(いずし)・豊岡らの諸藩が追討軍を送ると、農兵たちは態度を一変する1)。沢は脱出に成功したが、平野は捕らえられる(後、禁門の変にさいして斬殺される)。主戦派の河上ら10数人は妙見山に立てこもるが、農兵に迫られ、全員が自刃した。
 長州藩にとって、より深刻なのは、8・18クーデター後、多くの他藩の尊攘浪士が7卿に従い藩内に流入し強硬論を主張し、それが藩政に強く影響したことである。「京都政界の手詰まり模様を見て取った(*参預会議の内部対立と政治停滞)長州の国内では、もういちど京都に兵力を送り込み、政局の主導権を取り戻そうという進発論が盛んになった。その主唱者は、三条実美に随従する浪士の首領、久留米の真木和泉らであった。とくに真木は十月末には、『出師(すいし)三策』を著して、世子が軍勢を率いて上京することを軸にした過激な方策を唱え、国内の強硬論を煽った。長州内部でも中村九郎・来島又兵衛らが、これに同調したが、麻田公輔や晋作は慎重な態度を取った。」(青山忠正著『高杉晋作と奇兵隊』P.153)と言われる。
 1863(文久3)年10月26日、6卿は三田尻から山口に移動した。その中には、沢宣嘉はいなかった。生野の乱に加わり、長州藩を抜けだしたからである。この移動にさいして、奇兵隊が護衛にあたった。しかし、奇兵隊は6卿警備の任務を解かれた。沢を擁して生野の乱に参加した河上弥一らの行動をみて、6卿と奇兵隊の関係が深まるのを藩政府が恐れたからである。奇兵隊は、三田尻を拠点して富海(とのみ)から小郡にかけての海岸防備を命じられた。
 この頃、奇兵隊のほかに遊撃隊・八幡隊・集議隊・義勇隊などが、あいついで結成された。藩は、奇兵隊をはじめとする諸隊の独断行動を恐れ、諸隊を藩の統制下に組み込むことに力を注ぐ。1863(文久3)年12月12日には、藩主慶親は諸隊の隊長を萩に召集して、親諭書を発し兵員及びその駐屯地を定め、隊士が守るべき規則も制定した。

    (親諭書)
当今(とうこん)皇国多難に付き、志気正しき者(もの)処々に奮発致し外患を攘(はら)ひ皇運御挽回(おばんかい)等(とう)相謀り折柄(おりがら)国中における有志の者(もの)少なからず正気(*天地人に存在する正しい気)団結(だんけつ)要地に屯(たむろ)致し候付き、隊中規矩(きく *規則)厳密に相立(あいた)て国力衰弱に至らず国政益(ますます)興起(こうき)致し宿志の通り天朝への忠節相達(あいたっ)し候様いたしたき事に候。之(これ)に依って諸隊における此度(このたび)申付け候條(じょう)堅く相守(あいまも)らしめ各(おのおの)忠勤を抽(ぬき)んでるに於ては本懐(ほんかい *本意)を為(な)すべく候なり。
     (兵員及び駐屯処)
  遊撃隊   五百人
右(みぎ)来島又兵衛管轄、三田尻に差し置かる
  奇兵隊   三百人
右(みぎ)瀧彌太郎・赤根武人総督、赤間関に差し置かる
  八幡隊   百人
右(みぎ)堀真五郎・駒井政五郎総督、山口に差し置かる
  集義隊   五十人
右(みぎ)桜井慎平総督、小郡に差し置かる
  義勇隊   五十人
右(みぎ)佐々木亀之助・秋良敦之助総督、上関に差し置かる
右の通り諸隊人数定め仰せ付けられ候事
    (規則書)
此度(このたび)遊撃隊其外(そのほか)諸隊人数定め仰せ付けられ候に付き、志気芸術(*技量)の間(あいだ)精選の上(うえ)も精選候て入隊仕(つかまつ)らせ過不足(かぶそく)之(これ)無き様(よう)取立て仰せ付けられ、引請けの陣所も相定(あいさだ)められ候付き、勝手に所替(ところがえ)等(など)仕(つかまつ)り候儀相禁(あいきん)じられ候。御遣方(おつかいかた)の儀は時に於て諸隊救応其外(そのほか)敵衝(てきしょう *要所へ向かう)へ差し出され他国役(*他国への出撃)等(など)仰せ付けらる儀も之(これ)有るべく候條御下知(おげち)次第に進退せしむべく候。平日の儀は学校の心得(こころえ)を以て是迄(これまで)定め置く所の規則を以て文武修行相励(あいはげ)まれるべく候事。
一(第一条)私闘は申すに及ばず総(すべ)て妄挙(もうきょ)暴発(ぼうはつ)の儀陣中第一の御厳禁(ごげんきん)に付き、向後(こうご)万一右(みぎ)等(など)の儀(ぎ)之(これ)有るに於ては不被為得止(止むをえらざる)事御軍律を以て屹度(きっと)御糺(おただし)仰せ付けらるべく候條其(その)隊々に於て平日厳重に相誡(あいいまし)め候様仰せ付けられ候事
一(第二条)諸士本人嫡子(ちゃくし *跡継ぎ)根役(ねやく *本来の役目)の面々は勿論(おちろん)其外(そのほか)にても本人嫡子の儀は隊入(たいい)り差留(さしと)められ候。尤(もっとも)総督其外(そのほか)役付き御沙汰(おさた)を以て仰せ付けられ候面々の儀は本人嫡子たりとも格別(かくべつ *特別、特例)の事
一(第三条)諸組の者本人又(また)は代勤(だいきん)等にて根組御用相?(あいかく)る者の儀は代わりの人柄(ひとがら)相立て根組差し閊(つか)え之(これ)無き様仕置(しおき)候て隊入り差免(さしゆる)され候。又(また)家来(けらい)の儀も本人嫡子等にて根の人数(にんずう)缺(かく)に相成り候者の儀は隊入り差留めらる候事
一(第四条)百姓町人の儀、農作商売等(など)取り続け候者(もの)跡(あと)へ立ち置き隊入り相届(あいとど)け候はば差免さるべし、其外(そのほか)家子(いえのこ)等(など)捨て置き逃げ去り百姓軒(ひゃくしょうや)町家(まちや)の潰(つぶ)れにも立至(たちいた)り候者の儀は厳重に逐返(おひかえ)し候様仰せ付けられ候。尤(もっとも)是迄(これまで)入隊仕(つかまつ)り居る狙撃(そげき)等の業に熟達せしめ志気も之(これ)有る者の儀は御詮議(ごせんぎ)の上(うえ)何分の沙汰仰せ付けらるべく候事
一(第五条)諸士ならびに足軽以下、先年御咎(おとがめ)仰せ付けられ帰島し(*島流しになり)世上徘徊(はいかい)差留められ又(また)は諸組代役代勤等差留められ未だ御咎筋残り居る者は隊入り差留められ候。志気芸術等(など)抜群(ばつぐん)の聞(きこ)え之(これ)有る者は其(その)隊々より申し出の上(うえ)御詮議を以て隊入り仰せ付けらる儀も之(これ)有るべき候事
一(第六条)着服其外(そのほか)は兼(かね)ての御作法(ごさほう)相守(あいまも)り諸士匹夫の差別〔*士分と足軽・中間などとの間の差別〕相立(あいた)て候様隊長隊長より堅く取締り仰せ付けられ候事
一(第七条)隊入りの面々は向後(こうご)総督より覚書(おぼえがき)を以て政事堂へ申し出(で)御聞届(おききとどけ)相済(あいす)み候段刎紙(ふんし??)を以て差下(さしくだ)され候付き、前段の通り志気芸術試(ため)し候儀は勿論(もちろん)身上(みのうえ)差障筋(さしさわりすじ)之(これ)無きか否か委曲詮議の上(うえ)覚書差出(さしだ)さるべく候事
一(第八条)農商兵の儀は別紙(べっし)雛形(ひながた)の通り町奉行御代官役等より送状(おくりじょう)差遣(さしつか)はさるに付き夫(それ)を目途(もくと)に入隊差免(さしゆる)さるべく候事
一(第九条)諸隊入費米銀の儀は別紙小割書の通り上中下三等に分ち人別に当り惣高(そうだか)渡し方仰せ付けられ候付き、隊中にて引請け役人を相定(あいさだ)められ総督の印形(いんぎょう *みとめ、実印、官印の総称)締りにして御蔵元役座へ御勘定遂げるべき事
右(みぎ)の通り仰せ付けられ候條、隊長申合せ規則相立て御軍制に相叶(あいかな)ひ候様吟味(ぎんみ)を遂げ猶又(なおまた)平日の儀は学校にて文武修業仕(つかまつ)り候(そうろう)心得筋(こころえすじ)取り失はざる様心遣(こころづかい)有るべく候事         (『修訂 防長回天史』九 P.607~611)

 諸隊の編制につては、『修訂 防長回天史』九は、次のように述べている。「総管(又〔また〕総督と称す)は隊中一切の事を総掌し賞罰を司(つかさど)り以て厳に隊中の紀律を維持す、之(こ)れが為めに実際は殆(ほと)んど生殺(せいさつ)の権をも掌握せり、何となれば廉恥(れんち)を破り紀律を干(おか)すこと甚しき者は先(ま)ず之(こ)れをして自殺せしめ後に政府に禀(まを)する〔*上官へ申上げる〕が如きこと少からざりしを以てなり、軍監は総管に副(そへ)たり、隊兵を二分する如きの時に方(あた)りては其(そ)の一部は総管之(こ)れを統(す)べ其(その)一部は軍監之(こ)れを率(ひき)ゆ、其他(そのた)諸差引方あり書記あり稽古掛(けいこかかり)あり会計方あり器械方あり斥候(せっこう)あり、数伍(一伍の人員均しからず約三十人を以て規準としたるが如し)を以て小隊とし(小隊中の伍数も亦〔また〕一定せず)数小隊を以て一隊とす、伍に伍長あり小隊に隊長及び押伍あり(隊長と押伍とは猶〔なお〕総管と軍監との如し)以て之(こ)れを節制す」(P.611)と。
 総管(総督)は隊中の一切を取り仕切り、隊員の生殺の権を握る者である。軍監はその総督を補佐する者で、作戦中に隊を二分する時には他の一方を率いる者である。小隊の隊長と押伍の関係も、総管と軍監の関係に類するものである。
 また、給養については、「給与の定額は詳(つまびらか)ならずと雖(いえど)も文久三年(*1863年)十月奇兵隊は国力養成の為め隊士の月俸を銀三歩に減少せんことを請ひ同隊附属狙撃隊は日給二匁を半減することを請ひたることあるに依り稍(やや)其(そ)の一斑を窺(うかが)ふべし、尋で同年十二月諸隊規則を布(し)くに当り級差を三等に分ち米銀給与の事を定め(其額詳ならず)、慶応三年(*1867年)二月一口一日米一升月別二十匁を給することを令す」(同前 P.611~612)としている。第六条、第九条などにより、身分差別の階梯性が厳然と維持されていることが明らかである。
 1863(文久3)年12月18日、奇兵隊は馬関出張を指令された。途中、大雪と寒さで40余人の病人を出しながら、奇兵隊は23日正午ごろに下関(馬関)に到着した。翌日から、奇兵隊は児玉小民部が率いる撰鋒隊と交替して、馬関警備を行なった。馬関防禦の任についた奇兵隊は、1863(文久3)年12月と1864(元治元)年2月の二度にわたり、薩摩藩関係の船を砲撃した。外国貿易にからむ薩摩船を攻撃して、長州藩の攘夷の姿勢をアピールした。だがそれは、8・18クーデター以来の「薩賊会奸」という敵意が込められていたのであった。
 進発論は1864年(2月20日に「元治」と改元)に入ると、ますますその勢いを増した。そのうち、来島又兵衛が遊撃軍を率いて、京都へ「脱走暴発」する勢いを示した。遊撃軍とは、奇兵隊の創設につづいて結成された諸隊9隊の内の一つで、三条実美らの護衛を任務として三田尻に駐屯していた部隊である。
 これを心配した世子定広は、1月23日、高杉に命じて、来島らを思いとどまらせようとした。これは結論的にいうと成功しなかった。そこで高杉は来島に、"政務役になってもらった新地60石で腰が抜けたか"と言われる。これに怒った高杉は、"京都で周旋中の宍戸九郎兵衛・桂小五郎・久坂義助の意見を聞いて、彼らが進発に賛成するなら、その旨をすぐに報せよう"と言い放ち、復命もしないでそのまま京都に向けて脱走してしまう。
 在京メンバーの意見も高杉と同じで、進発には反対であった。久坂義助などは高杉とともに帰国し、来島らの進発論を説得したが、これも成功しなかった。
 高杉の無断出国に対し、藩は追手を派遣することを論議していた3月19日、高杉が自ら戻って来た。高杉の脱走は、一昨年につづいて2度目であり、さすがに定広もかばいきれなかった。高杉は、いったん「親類」の高杉小忠太預けとなり、3月29日に、知行没収と野山獄入りと決まった。

注1)小前百姓と対立する豪農の動向については、長倉保著「生野の乱の史的背景――在地豪農の動向を中心に」(『日本社会経済史研究』近世編 に所収。吉川弘文館 1967年)を参照。

 (ⅱ)奇兵隊員の処遇改善を図る赤根武人
 生野の乱へ脱走した河上に代わり、1863(文久3)年10月4日付で、奇兵隊総督に任ぜられたのは、赤根武人である。翌1864(元治元)年2月29日に、滝弥太郎も藩政府の吏員に転じたので、総督は赤根一人となった。
 これまでの奇兵隊総督はすべて毛利家譜代の毛並みの良い家臣だったが、赤根は瀬戸内海に浮かぶ周防桂島(現・岩国市)の島医師・松崎三宅(さんたく)の長男として、1838年に生まれた。15歳の時、桂島を出て、周防阿月(あつき 現・柳井市)の郷校克己堂で学ぶ。さらに僧月性、吉田松陰、梅田雲浜などに師事する。1857(安政4)年、阿月に住む長州藩重臣浦家の家老赤祢忠右衛門の養子となる。1862(文久2)年12月の御殿山英公使館焼き打ちに、高杉晋作・久坂玄瑞らとともに参加し、奇兵隊にも結成当初から参加している。
 奇兵隊総督となった赤根武人は、1864(元治元)年4月23日、一通の嘆願書(隊士の「名員帳」とともに)を藩政府に差し出した。それは、次のようなものである。

別紙名員帳、赤祢(赤根)武人已下(いか)内藤忠次郎に至る迄(まで)、多くは匹夫下賤のものにござ候え共、元来当隊発足の節、御届け申し候廉(かど)もこれ有り候(そうろう)通り、有志の者相集まり候に付(つき)、陪臣・軽卒・藩士を撰ばず同様に相交わり、専ら力量をもって貴び、取り立て候(そうろう)隊にござ候。去年来攘夷の御場処(場所)再び出張仰せ付けられ候。一統素(もと)より醜虜(*西洋人を指した蔑称)や決戦の覚悟にござ候間、何卒(なにとぞ)格別の御詮議を以て、入隊中一同士列に准ぜられ候よう願い奉り候。以上
  甲子 四月二十三日             赤根(祢)武人
  山口政事堂 各中様
           (出所 一坂太郎著『高杉晋作と長州』吉川弘文館 P.88)
  
 入隊者全員を「士列」に加えてほしい、とのことである。まさに奇兵隊活動への献身の源が立身出世であること(少なくとも大きな要因)をハッキリと見せつけているのである。隊員を「平等」に「士列」にすべきだ、という考えである。
 だが、長州藩は、この嘆願を採用しなかった。それどころか、逆に、隊員間の身分差を明示するような措置を命じた。
 『奇兵隊日記』の元治元(1864)年6月21日条によると、馬関出張中の奇兵隊の面々に対し、袖印着用の命が出た。「それによると袖印の寸法は縦九寸(*1寸=3.03センチ)、横三寸。諸士(*藩士)は白絹地。足軽以下は晒布(さらしぬの *漂白した布)に『何条何某組』と書く。陪臣の場合も士格は絹、以下は晒布とし、肩書に主人の姓名を書き込む。それから苗字が公認されていない者は、名だけ書くようにとある。以上の目的は身分を明白に示すことにあったことは明らか」(一坂太郎著『高杉晋作と長州』吉川弘文館 
 2014年 P.91)である。しかし、7月2日にも、再度、袖印着用厳守の命令がなされる。実際には、命令通りに正確に袖印着用がなされていなかったのである。
 『奇兵隊日記』の同年7月6日条によると、服装についての細かい規定もなされたことが記されている。「それによると、『諸士(宗藩の家臣)』は『古来将士の礼服』である鎧(よろい)・直垂(ひたたれ *袖くぐりがあり、無紋)を儀式などで着用することが認められ、条件つきだが模様も可能だった。ところが『御手大工・御細工人・足軽』といった下級武士や農商は無地であることが強調されており、いわゆる軽卒などは、武士扱いされていなかったことがうかがえる。」(同前、P.91~92)と言われる。
 布地については、藩士は条件つきで絹着用が認められた(木綿縞形付の輸入品も)が、下級武士や農商は木綿しか許されなかった。そして、これらは「士分と匹夫」の区別をはっきりさせ、「混雑」を避けるためだと明言し、「若し違反の者」がいたら処罰する、とされている。

(2)池田屋襲撃事件
 長州藩で、藩内外の尊攘激派による「進発論」がしきりに唱えられていた頃、1864(元治元)年6月5日、新撰組が池田屋を襲い、急進的尊攘派の志士を殺害する「池田屋事件」が起こる。
 京都の町は、一会桑の支配下におかれると、急進的尊攘派の志士たちにとって厳しく活動しにくいものとなった。三条木屋町の武具商・桝屋(ますや)喜右衛門(本名は古高〔こだか〕俊太郎で、近江国栗太郡出身の尊攘派の志士)は、かねてからマークされていた。この喜右衛門が検挙され、家宅捜索が行われた。
 その結果、京都所司代の発表では、"数十人が徒党を組んで、風向きを考えた上で、御所を焼き払う"計画だというのである。噂では、北風を待って洛中に火をつけ、その混乱に乗じて天皇を長州に移し、また中川宮や松平容保が参内する途中を要撃するとのことであった。
 古高逮捕の報は、ただちに急進的な尊攘派の志士たちに伝えられ、その善後策を協議するために、桂小五郎(後の木戸孝允)・吉田稔麿(としまろ)・杉山松助(以上、長州藩)、肥後藩出身の宮部鼎蔵(ていぞう)、土佐藩出身の北添(きたぞえ)佶摩(きつま)などが、三条通河原町東入ルの旅館池田屋に集合した。
 この会合をキャッチした新撰組(会津藩支配下)が京都守護職・京都所司代に報告した。襲撃は6月5日五ッ時(午後8時)に協力してする予定だったが、両職の配下の者がなかなか集まらなかったので、四ッ時(午後10時)、新撰組一手で襲撃することとなった。
 宮部や吉田ら7人が殺害され、23人が捕縛された。脱出できたのは、わずかに桂小五郎・淵上郁太郎(元肥後藩士)などであった。激闘の後に、所司代配下のものなど3000人が、ものものしいいでたちで馳せ集まり、一帯は緊迫した状態となった。この大弾圧は、池田屋襲撃だけで終ったものではない。守護職の会津の藩兵・所司代の桑名の藩兵を動員して、京都全体が戒厳状態におかれたのである。とくに長州藩邸は、700人もの兵士で包囲された。

(3)藩主雪冤運動から武装上京へ
 長州藩では、8・18クーデター(1863〔文久3〕年)で京都を追放された後、その反動として、坪井九右衛門・椋梨(むくなし)藤太らが一時的に藩政権を握ったが、1863(文久3)年9月8日、益田右衛門介(弾正)が2000の兵を率いて帰国すると、たちまち麻田公輔(周布政之助)らが政権に返り咲いた。
 当時、周布は藩内で尊攘派を統制できる唯一の重役であったが、しかし、それも次第に難しくなっていった。それは、藩内に亡命した公卿たちを抱え込んだこと、さらに行き場を失った多くの急進的尊攘派の志士たち(藩外の)が長州藩に居ついて過激な主張を行なったことなどによるものであった。久留米の水天宮神職の真木和泉などはそのリーダー格であり、長州での急進論の筆頭でもあった。
 こうして、藩主父子の雪冤(せつえん *無罪を明らかにして身の潔白を示すこと)のために、世子を奉じての「武装上京論」が藩論を制することとなった。これには、周布も高杉も断固として反対した。藩士で「武装上京論」の急先鋒は、世子警衛軍の長である来島又兵衛であった。高杉は、1864(文久4)年1月23日、世子定広の命を受け、来島の説得に行くがこれは失敗する。そこで藩に無断で上京し、京都駐在の政務役・久坂(くさか)玄瑞(げんずい)に来島の説得を依頼する。これらは前述した。
 長州藩きっての急進的尊攘派とみなされていた久坂も、桂や高杉の報告を聞いてさすがに「武装上京論」を無謀と判断した。久坂は帰国して来島を説得する。そして、来島を同伴してふたたび上京した久坂ではあるが、参預会議が解体(3月)するのをみて、逆に今度は「武装上京」の好機とみた。そこに池田屋事件(6月5日)である。この報が長州藩に達すると、もはや進発論(武装上京論)を阻止することができなくなった。長州藩はすでに1864(文久4)年6月4日(「元治」への改元は2月20日)、世子定広の上京を藩内に布告していたので、池田屋事件は「武装上京」論をますます強めたといえる。
 6月15日、来島の遊撃隊が進発し、16日家老福原越後が表向き江戸行きと称し、兵300を率いて進発する(24日に伏見に入る)。これに続いて、久坂義助・寺島忠三郎・入江九一ら、それに久留米の真木和泉率いる浪士団を含めた兵300も進発し、京都郊外の山崎に着く。26日には、家老国司(くにし)信濃が兵300とともに山口を進発し、嵯峨の天龍寺に入る。
 朝廷は、長州藩兵の進発と京都周辺への布陣に大いに脅える。6月27日、朝議が開かれ、"毛利父子のうち一人を召して叡慮のあるところを諭し、かれが悔悟の意を表すれば勅勘を免ずべし"との意見が大勢を占めた。これは、長州派の公卿の提議した内容である。にもかかわらず、老中稲葉正邦(淀藩主)も、これに賛成した。
 慶喜は遅れて夜に入って朝議に参加し、大勢の意見を全面的に論駁(ろんばく)した。すなわち、「長藩大兵を擁して京都に迫れるは、臣子の分を失ひ、不敬(ふけい)至極せり。然るに尚(なお)大膳大夫父子(*毛利父子)の一人を召すなどとは、朝威に関する所(ところ)大なり。宜しく長州には順序を経て願い出(い)でしめ、其(その)兵は速に引払(ひきはら)はしむべし。朝議若(も)し父子の一人を召すと決するが如きことあらば、某(それがし)は肥後守(*容保)・越中守(*定敬)と共に職を辞せんのみ」(『徳川慶喜公伝』3 P.59)と。ここにおいて、朝議は定まった(6月28日午前5時過ぎ)。
 この年3月、参預会議が解体した後、島津久光は4月帰国した。薩摩藩は、以降、「禁闕(きんけつ *御所)御守衛一筋(ひとすじ)」の方針をとった。したがって、京都の西郷吉之助らは、会津・一橋側からの支援要請も、長州に味方する側からの支援要請も拒絶してきた。しかし、長州藩の武力を率いた強引な雪冤運動を批判する一橋慶喜の態度については支持した。長州の武装兵が御所の安全をも脅かしたからである。
 6月29日、勅命があって、「頃日(けいじつ)輦轂(れんこく *天皇の乗る車)の下(もと)穏(おだやか)ならざれば、御守衛総督として諸事(しょじ)御委任遊ばさるるにより、専ら励精(れいせい *精神をふるい起たせること)して叡慮を安んじ奉るべし」(同前 P.60)とされた。慶喜は、長州藩に対する軍事的な全権を掌握したのである。

(4)慶喜の繰り返された説得
 慶喜の方針は、できるだけ長州を説得して、どうしても聞かなければ征討するというものである。慶喜は、何回もの説得を試みている。第一回目は、29日、伏見の福原越後の所に目付羽太庄左衛門を派遣し、"歎願のことは追々沙汰があるが、今日の所は退去すべき"と説得した。越後は真木和泉・入江九一などを招いていろいろ説得したが、真木らは矯詔(きょうしょう *偽りの詔)といって全然受け付けなかった。
 第二回目は、大目付永井尚志らを派遣し、朝命をもって福原越後を召したが、越後は病と称して拒否した。しかし、越後は真木和泉や久坂玄瑞らと相談の上、7月4日に伏見奉行所に来て、朝命を受けた。その朝命は、「長州勤王の志(こころざし)深厚なりし処(ところ)、近頃(ちかごろ)出願の旨ありとて、兵器を携えての出張、甚だ不穏の挙動なり。天竜寺に在る者(*浪士が多い)は早々帰国せしめ、福原越後は伏見表に少人数にて滞在し、出願の儀は其(その)筋道を経て申出(もうしい)で、謹慎して沙汰を待つべし」(『徳川慶喜伝』3 P.60)というものである。越後は、入京を許されんことを請い願い出た。また、屯集の者たちを諭したが、彼等は尚も「矯勅」と言って抵抗した。
 第三回目は、朝廷は屯集者が哀訴を依頼する諸藩を示して、更に説得しようとしたので、慶喜がこれを阻止し、代わりに稲葉正邦が在京25藩士を説得役として徴募したところ、7月6日、因幡・安芸・筑前・備前・対馬・津和野の6藩士が応じた。これらの藩士は伏見に赴き、8日を限りにして撤兵すべしと説得したが、効果はなかった。
 第四回目は、慶喜が芸州・因州・対州の藩士をもって、伏見の越後の所に赴かせ、次のように説得させた。すなわち、"長藩はかねてより勤王の志が厚く、人望の帰する所なり。
......かねて入京を禁ぜられたるも憚(はばか)らず、妄(みだり)に兵器を携えて近畿に逼(せま)れるは、其(その)所為(しょい)強訴(ごうそ)に等しく、朝廷に対し奉り恐懼(きょうく)に堪へざる所なり。斯(か)かれば寛大の叡慮も貫徹することを得ざるが故に、一旦(いったん)人数を引払ひ穏(おだやか)に歎願せば、其(その)目的も達し難きにあらざるべし。因りて十一日を限り嵯峨・山崎の屯営を撤して帰国せしめ、越後一人僅(わずか)なる人数を以て浪華(なには)に留まりて命を待つべし。"と。
 越後はこれに感謝し、嵯峨・山崎の屯集者を説得することを約束した。しかし、屯集者たちは説得に応じなかったので、今回は越後自ら説得に赴き、真木和泉・入江九一・久坂玄瑞・寺島忠三郎・松山深蔵らの諸隊長を丁寧に説得した。これには、久坂・入江・寺島らは同意したが、真木・松山らは頑強に抵抗し、諸隊の多くが後者に賛成したので、ついに越後の説得も成功しなかった。
その後、慶喜は7月16日、永井尚志や戸川?三郎らを伏見に遣わし、17日を限りに引払うように説得した。ところがこの頃、薩摩兵の応援部隊数百人が京都に到着する。すると、薩摩藩はこれを背景に、いよいよ長州討伐論の気勢を挙げた。そして、17日、薩摩藩の吉井幸輔(友実)、土佐藩の乾市郎兵衛、久留米藩の大塚敬助・田中文次郎などが連署して、「討伐断行」の建議を提出する。もはや戦いを避けることは、困難となってきた。

(5)禁門の変 
 長州では、7月に入ると遂に世子定広の進発上京を決定した。名目は天皇への歎願(雪冤)だが、実際の標的は、8・18クーデター以来のいきさつを踏まえて、京都守護職松平容保の打倒である。7月6日、先鋒として家老益田右衛門介(弾正)が兵600を率いて山口を進発し、13日に山崎方面に展開した。定広は、13日、三条実美ら5卿と共に、海路上京の途についた。
 1864(元治元)年7月18日、武家伝奏から長州藩京都留守居役・乃美織江に対し、長州兵の即時退去が通達された。同日夜、長州藩は家老の益田右衛門介・福原越後・国司信濃の連名で松平容保に天誅を加えん事を名目に兵を動かすことを宣言する。そして、福原越後に率いられた700余人は東海道を下ると称して入京を目指し(越後はもともと江戸へ向かうのが表向きの目的で、その途中伏見に寄った形にしていた)、国司信濃に率いられた天龍寺の長州兵800余人のうち、一手は来島又兵衛に率いられ蛤門(禁門)に向かい、もう一手は国司信濃に率いられ中立売門へ向かい、山崎の兵は鷹司邸に入らんとして、三方向から御所を目指した。
 これを知った慶喜は、急きょ、衣冠姿で乗馬参内し、関白に開戦を進言した。時あたかも、伏見から大垣藩が長州藩と戦闘に入ったとの早馬の報告があり、砲声も聞こえてきたので、「速やかに誅伐すべし」との勅命が下る。慶喜は、ただちに御所をめぐる九門をことごとく閉門させ、自らは部下を引率して出動した。
 京都守護職の会津藩の守備担当は、「御所西側の蛤(はまぐり)門であり、会津藩の総兵力は約一五〇〇、そのうち約半分を伏見の長州勢にそなえて九条河原に布陣させ、のこり半分のうち一隊が蛤門奥の内裏の門である唐門を、一隊が黒谷の会津藩本営を、二隊が蛤門を守備した。この兵力分散と、長州兵が門を正面攻撃してくるものと想定した布陣が、会津藩の思いがけない苦戦をもたらした。長州兵は、蛤門と下立売(しもたてうり)門のあいだの築地(つきじ)を破り、背後から蛤門の会津兵に攻撃を仕掛けるとともに、直接に唐門を攻撃した。」(大江志乃夫著『徳川慶喜評伝』立風書房 1998年 P.216)のであった。
 ただ、福原越後に率いられた伏見の長州兵は、途中、大垣藩の待ち伏せ攻撃にあって敗退し、御所攻撃に参加できなかったため、長州兵の攻撃の持続性は急速に減退した。さらに、乾門守備の薩摩兵などの救援で、会津兵はかろうじて唐門を守りきることができた。
 長州兵は力戦の後、ついに力尽き、久坂・入江・寺島らは鷹司邸で自刃し、来島は蛤門で負傷した後に自決した。戦線を脱出して天王山まで落ち延びた真木和泉や松川深蔵も、21日に追討勢に迫られて、同志17人とともに天王山で自決した。
 しかし、戦闘の規模に比して、京都市街は大きな被害を受けた。「久坂らが鷹司邸にこもったとき、鷹司邸から火が発したが、さらに薩摩兵が中立売門外の商家に火を放ったので、双方の火災がひろがり、京都市中は西は堀川まで、南は九条野まで焼きつくされる大火災となり、市街の中心地から幕末以前の建物はほとんど姿を消した。」(同前 P.216)といわれる。この兵火によって家屋4万3000軒が焼き尽くされ、多くの民衆は突然に日常生活を破壊されたのであった。
 7月21日、世子定広は讃岐の多度津(たどつ)で敗報を聞き、ただちに上京を中止して長州へ引き返した。
 この戦いで、全体の指揮をとった総督慶喜は、京都市街の落焼などの失敗はあったが、全体的には指揮官としての任務を大過なく果たした。
 1864(元治元)年7月21~23日にかけて、宮中会議が催され、23日、天皇出席の御前会議で、「防長追討の議」が決せられた。翌24日には、慶喜に対し、次のような勅命があった。

松平大膳大夫予(かね)て入京を禁ぜしに、陪臣(*天皇からすると、毛利氏はまた家来となる)を以て強訴し、更に悔悟(かいご)の意なく、言を左右に寄せて容易ならざる意趣を含み、既に自ら兵端を開き、禁闕(きんけつ *御所)に対して発砲せること其(その)罪軽からず、加之(しかのみならず)父子黒印の軍令状を国司信濃に授けしこと、全く叛謀(*謀叛)顕然(けんぜん *はっきり現れること)たり、かたがた防長に押寄せて速に追討あるべし(『徳川慶喜公伝』3 P.110)

 慶喜は即日、紀州・高松・彦根・土州・津・姫路・尼ヶ崎・薩州・明石・岸和田の諸藩に対して、大坂・兵庫・堺・西ノ宮を警備させた。とともに、阿州・筑前・津山・因州・肥後・久留米・備前・雲州・松山(伊予)・柳河・芸州・薩州・浜田・宇和島・肥前・津和野・松山(備中)・小倉・中津・福山・竜野の、西国21藩に出師(すいし *出兵)の準備を命じた。
 長州処分問題は、1863年の8・18クーデター以来、ずっーとくすぶり続けていた問題である。ここに至ってやっと処分の明確な理由が出たといえる。しかし、長州処分は、慶喜の仕事ではない。彼の権限ではなく、やはり幕府の仕事の範囲になるのである。
 そこで慶喜は、大目付永井尚志を東下させて、将軍の上洛を促し、ついで上京中の老中阿部豊後守正外(まさとう)にも、幕府内で長州処分を行なうように東帰させた。
 しかし、関東では急いで将軍の上洛を決行する様子が見えない。これをみて薩摩藩の小松帯刀はもどかしく、慶喜に"在京の手兵を率いて挙げたまうならば、弊藩は喜んで先鋒を承ります"と申し出ている。だが、慶喜は幕府の嫌疑に注意して(慶喜に謀叛の兆し有りとの嫌疑)、将軍上洛を督促する使いをしきりに派遣した。

 (6)将軍の親征なき「長州征討」
 孝明天皇は禁門(蛤御門)の変で御所に向けて発砲されたことに怒り心頭となる。朝廷は1864(元治元)年7月21~23日、天皇を御前にして宮中会議を開催し、「防長追討の議」を決した(前述)。また、7月27日には、有栖川熾仁親王ら14名の長州寄りの公卿を処分した。
 朝廷の命を受けて、8月2日、将軍家茂から長州藩征討の命令が諸侯に下され、将軍みずからの進発(朝廷への儀礼や折衝としての上京ではなく、軍事出動としての進発)が発せられる。
 幕府による「征長命令」は、西国の21大名に出兵命令として出され、「征長総督府」が組織された。
 そして、征長総督に紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)を、副将に越前藩主松平松平茂昭(もちあき)を任命した。しかし、8月7日には紀州中納言の総督をやめて、尾張前藩主・徳川慶勝(松平容保・松平定敬の実兄)に代えた。征長総督の徳川慶勝はその就任にあたって、全権委任を幕府に申請して許可された。
 8月13日、幕府は長州攻撃を5つの口に決め、担当する諸藩を西国の諸藩として、それぞれ部署を決定した。そして、進発征伐の日程は、およそ5~6ヶ月とみた。
 10月1日、横浜鎖港問題はしばらく猶予し、長州藩征討の軍をすすめよ! との朝命が下った。征長総督府の二人が上京し、在京の幕閣と協議の場をもったのは、10月3日である。10月11日になって、幕府は、ようやく将軍進発の道程を発表した。11月18日を総攻撃の開始日と決定した。幕府は、口には「進発」、「進発」と大声で叫ぶが、将軍の進発道程を発表したのは、禁門の変から3カ月近くも経てからである。
 確かに、気乗りのしない諸藩が多い「征長軍」の士気を高めるためには、将軍家茂の親征以外にはあり得なかった。だが、幕府は上方・西国の情況が理解できず、ついには将軍親征はなかった。
 幕府の長征なるものの実際行動は、このようにゆったりとした弛(ゆる)んだものとなっていた。これには理由がある。それは、老中たちが幕府の権威がますます落ちているのを理解できないで、長州征討の部署を定め、将軍の進発を呼号すれば、長州藩はたちどころに屈服するのではないかと、時代錯誤も甚だしく信じていたからである。
 実際問題、たしかにこの間、総督・副総督人事のもたつきもあった。だが、それ以上に大きな原因は、幕閣で大きな錯乱があって、時勢に合わない反動政策が布かれたためである。すなわち、禁門の変の鎮圧が全く幕府の威令のもとでなされたと誤認し、先に緩和された参勤交代制(1862〔文久2〕年に緩和したもの)が復活されたのである。征長軍の組織化だけでも大変なのにそれに加えて、参勤交代による出府命令である。
 これに対し、多くの大名が反対あるいは不満を漏らした。総督の徳川慶勝は名古屋を発つときに、この中止を幕府に請うた。九鬼隆義(摂津三田藩主)・秋月右京亮(日向高鍋藩世子)などは、松平春嶽に書簡を寄せて不満を訴えた。その他にも、因幡・備前・肥後などの諸藩も不平を漏らした。このため、多くの諸藩は、病気・道中での故障・住宅の修復などを理由に、江戸出府を延期した。よって幕府は、10月25日、さらに譜代大名にその妻子・家族を府下に呼び戻すように命じたが、これもまた実行されなかった。時も時、長州征討で物入りが多いときに参勤交代制を復活させる老中たちの政治感覚の鈍さは、幕府の権威をさらにまた落とし、人心はいっそう離れてしまったのである。
 それに加えて、幕閣は、1863(文久3)年8・18クーデター後につづき、急進的な尊攘派が京阪地方から一掃されたこの機会に、横浜鎖港方針を撤回するようになる。すなわち、「元治元年(*1864年)の八月二十二日、江戸の幕閣は、イギリスに対し、横浜鎖港要求の事実上の撤回を通知する......。ついで、九月十二日には、六月に老中に就任したあと、翌七月に外国御用取扱(とりあつかい)を命ぜられた阿部正外(まさとう)が京都入りする。そして彼は、この後、関白の二条斉敬と会談した際、欧米諸国の強い反対を理由に、横浜鎖港が困難であると訴えた。」(家近良樹著『徳川慶喜』P.87~88)のである。この頃には、幕閣は開国派が多数を占めていたのである。彼らは、孝明天皇を説得することもなく、鎖港方針を撤回したのであった。
 肝心の長州征長でも、諸藩は一応幕命を受けて出兵はしたものの、必ずしも全面的に幕府に協力するものではなかった。長州藩に対して同情する藩もあれば、あるいは征長が順調にすすめば再び幕権が強大となるのを嫌う藩もあった。中には従軍自体を辞退する藩もあった。また、出兵は莫大な費用が重なるものであり、多事多難な折り、負担をなるたけ減らそうという諸藩も多かった。このような事情で、征長軍は全体的に士気がふるわなかったのである。
 この頃、長州では4カ国連合艦隊の襲来を迎えていた。その馬関戦争の真っ最中の8月6日、清水清太郎・麻田公輔(周布政之助)が支藩岩国に派遣され、藩主吉川(きつかわ)監物(けんもつ)に「天朝・幕府へ御詫びの儀」について周旋を依頼している。その周旋方針は、"この度、京師変動の趣は益田右衛門介・福原越後・国司(くにし)信濃等、宰相様(参議慶親)御趣意取り違え、取り計らざるにより起こり候"というように、禁門の変の責任を3家老に押付け、事態の収拾を図ろうというものである。そして、2人は、慶親が幕府との交渉の全権を吉川監物に委任するという内意であることを告げ、監物もこれを承諾している。
 ここには、長州藩の無責任体制が露骨に示されている。これほどの事態を起こしながら藩主父子の責任は一かけらも示されなかったのである。一切の責任は3家老などに押付けられたのである。
 だが、朝廷は8月22日、「従四位上参議左近衛権中将大江慶親・従四位下左近衛少将大江定広」の位階官職を停止した。毛利氏の姓(かばね)は「大江」であるので、叙位任官の宣旨には、毛利でなく「大江」がつけられる。
 将軍家茂は、毛利父子に許していた「松平」の称号1)および大膳大夫・長門守の官途名、それに慶親の「慶」字ならびに定広の「定」字(12代将軍家慶、13代将軍家定の一字をそれぞれ賜っていた)を剥奪(はくだつ)した。
 これだけならば、きわめて形式的なものと受け取られるが、実際はそうではない。「......実態はさらに深刻で、要は大名としての公的な人格を否定されのである。具体的には、毛利家当主父子は言うまでもなく、家臣に至るまで、領外へ出ることができなくなる。当然ながら、江戸城への式日の登城など、大名としての儀礼的な処遇も停止される。江戸・京都・大坂などにあった屋敷は没収され、その要員は抑留された。/さらに、このような事実は、全国の一般庶民にまで知られてしまう(*これにより、商人や宿場関係者との取引関係が困難となる)。......政治的にも経済的にも、実質的内容をともなう制裁措置にあたる」(青山忠正著『高杉晋作と奇兵隊』P.163~164)のである。
 この頃、幕府は、各地の長州藩邸を没収し、江戸の在邸藩士男女121人を幽閉した。また、幕府は毛利慶親父子の官途名を「取上げ」、将軍が与えた松平の称号および名の一字も(これらは徳川氏の擬似的一門扱い)剥奪した。さらに、支族の周防徳山藩主・長門府中藩主・長門清末藩主・周防岩国藩主(吉川監物)とともに毛利親子に謹慎を命じた。

注1)「松平」姓を与えて擬似親族扱いにするのは、中国古代の「封建制」を見習ったものである。中国「封建制」は、周王が「封建」する相手は親族か擬似親族に限られている。これは血統的宗教的同一性(祖先崇拝)をもって、統一を図っていたからである。ヨーロッパ中世の封建制(フューダリズム)は、これとは全く異なり、私的主従制を原理とした契約関係である。

O 長州藩の内紛と第一次幕長戦争の終結

 長州藩では、禁門の変(蛤門の変)で大敗した直後の8月5日、英仏米蘭の4カ国が下関を襲い、長州藩は日本内外から襲われる二重の危機に陥った。長州藩を滅亡の淵に導いたのは、明らかに尊攘激派の方針の誤りであった。

(1)4カ国連合艦隊との馬関戦争
 1864(元治元)年8月5日、4カ国の連合艦隊が下関を砲撃したのは、前年の5月10日攘夷断行の際、下関海峡通過の外国艦船に対し長州藩が砲撃したことに対する報復措置である。
 4カ国公使は長州藩の砲撃について幕府を責めたが、全く要領を得なかったので、1864年に入って英国公使オールコックの首唱で、6月連合艦隊を以て下関を攻撃することとなったのである。これを留学中の井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)らがイギリス現地で知り、急きょ6月上旬に横浜に戻り、ただちに英国公使館に赴き、"我ら攘夷の不可なるを藩国に説くので、しばらく侵撃の猶予を請う"とした。これにより、英公使は2人を英艦に乗せて長州に送り、連合艦隊の攻撃前に帰藩させた。そこで、12日経過の後には答をだすべきと約束した。しかし、藩論は「一藩決戦」に決まり、2人を英艦に戻し、3カ月の猶予を設けるように交渉させた。しかし、時はすでに遅く、藩の時間かせぎも効なく4カ国連合艦隊の攻撃を受けるのであった。
 英仏蘭米の4カ国連合艦隊が横浜を出発し長州へ向かったという情報が山口に到達したのは、7月27日であった。
 同日、三田尻で慶親・定広父子の臨席のもとに、支藩の長府侯毛利元周、徳山侯毛利玄蕃、清末侯毛利元純、本藩重臣が会して、善後策が討議された。ここでは、内政外交とも今後の基本方針を決定した重要な会議だったと言われる。
 岩国侯吉川監物(けんもつ)は不参加だったが、使者を派遣して次のような意見をのべている。

今度京師(けいし)の変動(*禁門の変を指す)は出先(でさき)三大夫以下参謀の者共(ものども)御主意を取違(とりちが)え意外(いがい)の暴動に及び遂に御名義(おんめいぎ *お名分)相立(あいた)たざる次第に立到(たちいた)り候。付(つい)ては首謀の面々御取締り仰せ付けられ、是(これ)を以て天朝へ御申開(おもうしひら)き遊ばれ、御名義御取返しの御処置在らせられたき事

 そして、『修訂 防長回天史』六は、この意見にすぐ続けて、「二十八日清水清太郎岩国使臣に面し、藩議未だ確言することを得ず。而(しかして)も意(おもふに)略略(りゃくりゃく)監物と同じきを告ぐ」(同著 P.31)と述べている。その後の処置は、実際にも3家老4参謀の切腹・斬首となっている。
 4カ国連合艦隊に対する方針としては、"自らは開戦はしないが、敵が攻撃をかけてきたら反撃する"こととした。かつて攘夷期限が5月10日と決められた際の、幕府が採った方針と同様なものになったのである。尊攘激派からすればトーンダウンである。
 防衛総司令官にあたる赤間関総奉行には、筆頭家老の宍戸備前が任ぜられ、杉徳輔(のち孫七郎)と井上聞多(のち馨)が外艦応接を命じられた。
 『防長回天史』によると、藩の防衛体制は下関(赤間関)を中心に、奇兵隊・膺懲(ようちょう)隊をはじめとして、本藩・支藩の兵士や農兵隊など合計すると約2000に達したと言われる。「長州側の主力砲台は、奇兵隊総督赤根武人が指揮する前田砲台、軍監山縣狂介(*有朋)が指揮する壇ノ浦砲台の二ヵ所、装備の砲は合計三十数門、配備兵力は奇兵隊を主力に六〇〇人程度である。火力に劣る長州側は、砲戦では勝ち目がないことを察し、陸戦に誘導する策をあらかじめ立て、兵士を砲台から内陸部へ引きあげる動きを見せた。」(青山忠正著『高杉晋作と奇兵隊』P.160)のであった。
 8月2日から3日朝にかけて姫島に終結した4カ国艦隊の18隻(うち1隻は輸送船)はやがて下関海峡に入り、5日午後3時40分に、旗艦ユリアラス号の号砲を合図に100門以上の艦砲が一斉に火をふいた。戦いは開始された。4カ国連合艦隊の弾着は正確だったので、長州側の多くの砲台はたちまちのうちに破壊された。第八番架砲砲手・奇兵隊員の福田直右衛門は、被弾して即死した。艦砲の威力の前に、諸隊は手も足も出なかった。夕暮れには、艦隊からは一部の陸戦隊が上陸し、前田砲台は破壊された。
 翌6日の戦闘は、さらに激しいものとなった。旗艦ユリアラス号艦長のアレキサンダー大佐の指揮する陸戦隊800、イギリスの海兵・軽歩兵1200、フランスの海兵および水兵・陸戦隊350、オランダの同じく兵200、アメリカの海兵隊50、合計2600の兵員が上陸し、諸砲台を破壊し、長州兵と戦った。
 上陸作戦は7日にも行なわれ、同日、長州側の砲・大小60数門が押収された。「戦いは八月五日に始まり、砲台を占領破壊されて七日に終わった。人的損害は長州側戦死一四人、負傷四十数人、外国側戦死一一人、負傷五五人でほぼ互角。これらの結果を踏まえ、八日にはユリアラス艦上で英軍キューパー提督との間に講和談判が開始された。」(同前 P.160)のであった。
 馬関戦争の敗北は、少なからずの有志にとって、これまでの「攘夷」の観念性が強く自覚されものであった。4カ国と戦った山縣狂介(有朋)は、のちに回顧談『懐旧記事』で次のように述べている。「此(こ)の戦いは前後凡て七回、予は敵の上陸して散兵を以て進むを見て大いに悟る所あり。又(また)其(そ)の携帯する所の利器を見て、兵の強弱は軍略の如何(いかん)に係ること勿論(もちろん)なれども鉄砲の利鈍は大いに勝敗の数に関する事を明かにせり、此戦我兵中『ミニヘール』銃を携帯するもの僅々(きんきん)数十挺のみ、余は皆『ゲベール』及び火縄銃なり。又(また)只(ただ)槍を携ふるものもあり。防戦の困難推(おし)て知るべきのみ」と。
 山縣もまた、この時の実践を通して、「小攘夷」から「大攘夷」への転換、すなわち今すぐの攘夷ではなく富国強兵をはかって万国に対峙することを図らざるをえなかったのである。
 このときの講和使節は、高杉晋作であった。久坂義助(玄瑞)は禁門の変で討ち死に、中村九郎は謹慎中、桂小五郎は潜伏し行方不明という事態においては、井上・伊藤の人脈からすると、高杉以外に適任者はいなかったのである。
 高杉はこの頃、萩の実家で座敷牢に入れられていた。その高杉に対して、藩政府は8月3日付けで、「御手当方御用掛」の沙汰を下し、5日には馬関出張が命じられ、さらに6日には手廻り組に組み込み、政務役に任じた。罪人から瞬く間に政府員へと復活したのであった。
 講和使節は然るべき立場の人間でなければならないという理由で、高杉は家老宍戸備前の養子・宍戸刑馬(ぎょうま)と称して談判に赴いた。8月8日の第一回交渉は、互いに瀬踏み程度で終わった。二回目は10日に設定された。しかし、高杉・伊藤は出席できななかった。5卿をはじめとして、長州藩内には講和反対を主張する頑迷な「小攘夷」の強硬論者が多く、高杉・伊藤を暗殺しようと狙う者(後に大村益次郎を暗殺した上代某など御楯隊の仲間)がおり、二人は身を隠さざるを得なかったためである。交渉には、代わりに毛利登人が出た。14日の最終交渉では、高杉・伊藤も出席でき、講和条約が締結された。

一 今日より以後、総して外国船馬関通航の節は懇切に取扱(とりあつかい)を加ふべし
一 石炭食物薪水其外(そのほか)船中入用の品(しな)売渡(うりわた)すべし
一 馬関海灣(かいわん)風濤(ふうとう *風と大波と)つよき処(ところ)故(ゆえ)、風波の難に逢(あ)ひし時は障り無く上陸すべし
一 新規に台場を調(ととのふ)るは勿論(もちろん)、古き台場を繕(つくろ)ひ?(ならび)に大砲置きましき事
一 馬関町より始めて外国艦に向ひ砲発せしによって此度(このたび)焼失に及ぶべきの処(ところ)焼(やき)さ(ざ)る故、其(その)償金を出す事、其外(そのほか)に軍の雑費を二ヶ条、江戸に於て四ヶ国欽差(きんさ *君主の使い)より決定するの段(だん)承知致す事

 この間、最大の問題となったのは賠償金支払いであるが、長州側は、外国艦砲撃は、あくまでも天子・将軍の命令によるものとして、支払い責任を将軍に転嫁し、外国側もそれを了承した。三〇〇万ドルという莫大な賠償金は、結局、徳川家と明治政府が分割で支払う結果となったのである。
 しかし、長州藩の賠償金問題の態度は公正ではない。そもそも強引な攘夷期限設定は、長州藩をはじめとする尊攘激派が、公卿を使って朝廷にゴリ押ししたものである。また、朝廷とは違って幕府は、"こちら側からは攻撃しないで、相手が攻撃した場合防衛する"というものであり、長州藩の言い分は史実を歪曲している。
 この頃、藩主慶親は、「今度京師(けいし)変動(*禁門の変を指す)ありしより尊王の微志は却(かえ)って朝敵の姿となり、攘夷も一己(いっこ)の攘夷となり、尊霊に対し奉(たてまつ)りても恐懼(きょうく *畏れ多いこと)限りなし。是(こ)れ迄(まで)覚悟せし事なれども此際(このさい)にあたり二州の人民尽き果(はて)るまで掃攘(そうじょう)せしむるは実に遺憾(いかん)の至りなり。依って今、和を議するは外患を緩(ゆる)めて再び尊王の大義を天下に貫徹せんと欲する所以(ゆえん)なり。汝等(なんじら)此(この)深思を熟考し、愈(いよいよ)謹慎勉励し、父子の指揮に随ひ進退肝要に候也」(『修訂 防長回天史』六 P.163~164)と家中全体に諭示して、藩内の鎮静化を図った。講和条約の調印は、あくまでも外患を緩和して、「再び尊王の大義を天下に貫徹せん」がためである。

 (2)藩内権力闘争の激化
 1864(元治元)年9月1日、藩主敬親(慶親)は山口在住の諸士を召集し、「今般追討軍差し向けられ候由(よし)、相聞こえ候。その節に至り候ては誠意恭順を尽くし、条理明白弁解に及ぶべく候。しかれどもやむをえず乱入いたし候節は、多年の微衷(びちゅう *自らの志の謙称)、天地に愧(は)じざる所、死を以て鴻恩(こうおん *大なる恵み)に報(むく)い奉(たてまつ)らんのみ......」(『修訂 防長回天史』六 P.176)との親諭を下した。そして、翌2日、これについて意見のある者は忌憚(きたん)なく申し出るようにと令した。
 すると、「この動きが引き金になったようで、この前後に、椋梨党の立場をとる世禄の家臣たちが八〇〇人ほど、萩から山口へ進出してきた。彼らは、麻田(*周布政之助)政権をになった政府員の更迭を要求して、敬親(たかちか)・広封(ひろあつ *定広)に強烈な圧力をかけた。そのためまず九月一日、椋梨党の領袖(りょうしゅう)、岡本吉之進が大納戸役に就き、現政府員には辞表を呈する者が相次いだ。」(青山忠正著『高杉晋作と奇兵隊』 P.165)と言われる。
 藩要路の人事が椋梨派に傾く情勢に対し、公然と反対するのが奇兵隊をはじめとする諸隊1)であった。
 9月6日、奇兵隊は藩主父子宛てに、"政府要員の更迭反対"の上書を行ない、9月8日にも、奇兵隊・膺懲隊・集義隊・御楯隊の各隊と野村靖の連名で、同じような上書を呈出した。諸隊の上書提出は、これ以降、翌年2月までの間に、計17回にわたって続けられた。その要点は、〔「征長軍」が国境に迫るのに対して〕藩内を充実して「待機抗戦」の方針確立と椋梨派の排斥である。
 諸隊の繰り返えされた椋梨派排斥運動にもかかわらず、麻田公輔(周布政之助)は、9月25日、病気を理由に「追討応接事務担当」を罷免された。同日、藩主父子は、政務役など藩重臣を召集して、第一次幕長戦争の終結をめぐる対応を議論した。この場で、政務役井上聞多(のちの馨)は、「武備恭順」を強硬に主張した。これには敬親も大いに耳を傾けたと言われる。
 これに対する反対論が、椋梨派の「純一恭順」である。椋梨派の主張は井上聞多の談によると、「攘夷と云ふことは今までは行けるものと思って居たが到底(とうてい)やれぬ。且(か)つ京都では一敗して其上(そのうえ)石州(*石見)口の方からも芸州口からも馬関の方からも日本中の兵を引受けては防長の存亡は火を睹(み)るより明かである故に、此所(ここ)では切(きり)ては〔*切り札としては〕毛利家の社稷(しゃしょく *最も重要な国家祭祀。転じて国家)を存するのが藩祖元就公へ尽すのである。就(つい)ては御両殿様は割腹なされても宜(よ)い、それから十万石も存(*損)して貰(もら)って且(か)つ幕府の血統を貰い受け、社稷(しゃしょく)を立てやう」(『修訂 防長回天史』六 P.201~202)というもので、藩主にとってかなり厳しいものである。
 だが、徳川時代中頃いこうにおいては、このような立論は決して珍しいものではない。徳川時代初期においては、君主と家臣の関係はパーソナルで、個人的主従関係・絆(きずな)が極めて強かった。しかし、徳川時代中期ごろからは、君主と家臣の関係は個人間というよりは、君主の家と家臣の家との間の主従関係が一般的となった。それは殉死の激減、幕府の大名家取潰し政策の変更(末期養子の容認)、お家騒動の激減などに、象徴的に現われてきた。このため、藩主の地位は重臣との力関係(「主君押込めの構造」)、最終的には幕府の裁定に大きく依存するようになる。従って、藩の存続のためには徳川家の親族から養子(あるいは夫人)を迎えることも頻繁となる。
 だから、椋梨派の主張も、幕府にたてつき、しかも敗北した上では、決して極論ではなかった。これに対して、井上聞多の主張は、「〔*禁門の変は〕何も朝廷に向って弓を彎(ひい)たのではない......」、「防長二州の土地を削るとか、或いは両君公の体へ傷が付くと云ふやうな事になれば朝廷との方とではない幕府の方と戦って斃(たお)れるまでやる」(同前 P.201)というもので、これが「武備恭順」である。
 この主張がそれなりに支持されるのは、幕末においては幕府と藩の関係が次第に空洞化し、とくに外様雄藩は幕府よりも朝廷との関係を強め、君臣関係が変質してきたためである。したがって、「尊王」か否かは、幕末においては途轍(とてつ)もなく重要な問題である。そして、天皇制を選択しなかった場合の共和政への傾向をもつ主張が、幕末日本ではほとんどなかったのである。これこそが、その後の日本近代の不幸な事態と歴史を招いた大きな要因である。
 話を本へ戻すと、会議での井上発言に刺激され、井上は政事堂の帰途、襲われ瀕死の重傷を負う。全身50数針も縫合する重傷であったが、奇跡的に命は取留めた。しかも、この同じ日、これまで藩政改革をリードしてきた麻田公輔が自刃するのである。(《補論 麻田公輔の自刃》を参照)
 これらを契機に、10月になると旧麻田派の勢力は一気に衰退して行く。「まず十月三日、敬親が山口から萩に帰城すると、九日から十三日にかけ、毛利登人・大和国之助・前田孫右衛門・渡辺内蔵太(くらた)が直目付を、小田村(おだむら)素太郎(もとたろう)・瀧弥太郎・山縣半蔵・寺内暢蔵が小納戸役を罷免され、十九日には清水清太郎が加判を免じられた。これにかわり、二十四日、中川宇右衛門が遠近方、椋梨藤太が政務役に登用されるいっぽう、村田次郎三郎・楢崎弥八郎・波多野金吾(広沢真臣)らが政務役を辞し、おおむね二十五日までに政府役員は全面的に交代していった。そればかりか、禁門の変で軍事面の責任者とされた宍戸左馬助(*九郎兵衛)・佐久間佐兵衛・竹内正兵衛・中村九郎(佐久間の実兄)は野山獄に投ぜられた。十月二十一日には、ついに諸隊に対しても、解散令が通達されている。」(青山忠正著『高杉晋作と奇兵隊』P.166~167)のであった。
 禁門の変の責任を処分する形で、11月11日から12日にかけ、益田・福原・国司の三家老が切腹となり、12日、宍戸・竹内・中村・佐久間の4参謀も野山獄で斬首された。なお、「正義派」においては、4参謀に加えて、12月にかけて処分された前田孫右衛門(政務掛)・毛利登人(政務員)・大和国之助(出納役)・渡辺内蔵太(世子付き)・山田亦介(又助 *政務員)・松島剛蔵(海軍頭人)・楢崎弥八郎(政務役)を合せて、「野山十一烈士」と称されている。
 政府役員の全面的な交代の背景には、広島に置かれた「征長総督府」が10月初旬以降、本格的に活動を始めたことがある。

注1)諸隊とは1863(文久3)年6月の奇兵隊創設後、相次いで結成された同様の有志軍隊の総称である。1864(元治元)年9月までに結成されたものは、膺懲隊(総督赤川敬三)、集議隊(桜井慎平)、八幡隊(堀真五郎)、遊撃隊(石川小五郎)、御楯隊(太田市之進)、南園隊(佐々木男也)の計7隊であり、総数は600人程度であった。各隊の総督以下の幹部は、大方、麻田派であり、奇兵隊総督赤根武人・軍監山縣狂介のように松下村塾グループの者もいた。
 
《補論 周布政之助の自刃》
 1864(元治元)9月25日、周布政之助(麻田公輔)は自刃する。周布が最後に残した藩公への遺書は、次のように述べている。

   申上(もうしあげ)置(おき)候事
私儀(わたくしぎ)再生の
鴻恩に浴(よく)し候身分として、識力不足従来心掛(こころが)け候御奉公の心事(しんじ *心の中で思っている事柄)一(ひとつ)も相達(あいたっ)せず、却(かえ)って不忠とのみ相成り、随(したが)って孝をも節義をも失ひ、天地の間に身を置く所(ところ)之(これ)無く、深く恐れ入り奉り候、御国事万端(ばんたん)監物(けんもつ *岩国藩主)様え
御托(おたく)し遊ばされ候由、陰ながら之(これ)を承(うけたまわ)り有り難き次第に存じ上げ奉り候、爾(しかり)ながら私に於ては、一身の公義相立たず、絶食(ぜっしょく)し命を待ち候心得(こころえ)に御座(ござ)候処(そうろうところ)、慈愛の至情止むを得ず、第一
君臣の大義終身の一大事と存じ奉り、此如(かくのごとく)相愼(あいつつし)み罷(まか)り居り候、然る処(ところ)
御忠節
御信義
御孝道今日に到り、如何(いかが)と苦心の餘(あま)り、自訴にても御免(ごめん)に相成り候はは、最後の御奉公と考え奉り、其(その)儀をも得ず、今更(いまさら)御奉公の廉目(かどめ *理由の名目)相立たず、甚だ以て恐れ入り奉り、死後の余罪消す処(ところ)御座(ござ)無く候得共(そうらへども)、精神を天地の間に残し候て成るとも、酬(むくい)奉るべき
鴻恩(こうおん)候間、心事御憐如(ごれんじょ *あわれんで許すこと)成り下され候様願ひ奉り候、之(これ)に依って申上げ候、   以上、
       甲子九月念五(*25日)      戮(*麻田公輔)

 文面を見る限り、周布にとって最も大事な忠孝・節義が失われ、「天地の間に身を置く所」が無くなったので自決するというのである。
 1864(元治元)年7年月19日、周布や高杉らの制止も振り切って、長州藩は禁門の変へと突入する。この戦いで長州藩は大敗する。それだけでなく、8月5日には下関戦争が起こり、前年につづき英米仏蘭の4国連合艦隊の来襲で完敗する。今やなすすべもなく、打開の展望もなく、周布政之助は、ついに自刃するのであった。
 周布はかつて長井雅樂の「航海遠略策」を支持(条件付きだが)し、情勢の変化に伴いそれを「破約攘夷」の方針に転換する。だが、新たな方針の下で、強引にも攘夷期限が設けられ、久坂玄瑞に代表される尊攘激派の暴走に長州藩は引きずられる。そして、外国船の無条件の打ち払いという攘夷戦争で敗北する。この結果、長州藩は8・18クーデターにより京都から追放される。だが、攘夷戦争敗北の教訓を理解できないまま、長州藩は禁門の変・4カ国との馬関戦争へと突入し、またもや大敗する。
 周布政之助(麻田公輔)は、この間、藩政の中心におり責任を有するが、しかし彼は単なる攘夷論者ではなかった。長井失脚の頃、すでに周布の心境は、次のようであったと『周布政之助伝』下はいう。すなわち、「......而(しか)して先孝(*周布を指す)等は已(すで)に内外の事情を察知し、縦令(たとひ)攘夷に決定すると雖(いえど)も、単に鎖港の本意にあらず、先(ま)ず外艦の侵寇を攘排(じょうはい *打ち払い排除する)して、皇威を天下に輝耀(きよう *ひかり輝くこと)したる後に開国を行はんとするに在り、されば長藩の勅旨を伺候(しこう)して〔*勅旨をうかがって〕藩是を攘夷に決するに及び、先孝は一詩を賦して所懐(しょかい *心に思うところ)を舒(の)べ、之(これ)と共に攘夷の後に開国すべき趣意を書して知友に示せり、其(その)詩に『欲振国力立皇基、大厦将傾独木支、挙世滔々走名利、至誠只有鬼神知』とありて、其書に『攘排也、排開也、攘夷而後国可開〔*攘は排なり、排は開なり、攘夷しかして後、国を開くべし〕』とあり、之(これ)に據(よ)りて先孝は毫(ごう)も利名の念なく、常に至誠を以て益々(ますます)皇基の鞏固(きょうこ)ならんことに奔走(ほんそう)せると共に、外寇を攘排して開国を断行せんとするの主意を明白にし得べし、」(P.131~132)と。
 しかし、現実政治において、揮毫通りに政治操作を行なうことは、口で言うほど生易しいものではなかった。攘夷と開国とは、手軽にもて遊べるような代物(しろもの)ではないのである。
 周布は、「先ず外艦の侵寇を攘排して、皇威を天下に輝耀したる後に開国を行はん」とするというように「皇威を天下に輝耀」することが第一である(この点では吉田松陰と同じ)。
 幕末の勤王の志士に大きな影響を与えた会沢正志斎(水戸藩)の言葉で言えば、「神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣(てんじつのし *天照大御神の血統を受け継ぐ天皇)、世(よよ)宸極(しんきょく *皇位)を御し、終古(*永久)易(かわ)らず。固より〔*神州は〕台地の元首にして、万国の綱紀〔*万国を統轄するもの〕なり。」(日本思想大慶3『水戸学』岩波書店 P.50)なのである。
 だが、この場合、肝心の天皇・朝廷には政治路線はなく、穢れ思想に基づいて最も「清浄」な天皇の支配を維持し、その皇統を万世に伝えることだけが自己目的化しているのである。だから、現実の政治においては、路線にもとづく方針はどうでもよいのであり、天皇・朝廷の政治路線が不確定というのではなく、そもそも政治路線は不在なのである。必要ではないのである。むしろ確固とした政治路線をもつことは、万世に皇統主義を維持する上にとって邪魔なのである。それは、常に勝馬に乗り、天皇制を維持することが歴史的に培われた保身術となっているからである。
 そんな天皇・朝廷に政治路線を求めることは不可能なのであり、求めること自身が誤りなのである。政治路線に裏付けられた政治をなしえない天皇・朝廷、その政治的不確かさに依存する長州藩―これは相互に無責任でもたれあう構造となる。穢れか否かで外国と渡り合おうとする天皇・朝廷をファナテックに宗教的に崇める態度では、「攘夷」方針は究極的には日本社会の破滅に至るまで暴走することは明らかである。それが「攘夷親征」―攘夷断行―禁門の変・「長州征伐」と馬関戦争の内憂外患となったのである。
 とても周布(麻田)の頭の中だけで成立する「攘夷後開国」なる説を理解し得る長州藩士は、極めて少なかったであろう。現に藩内で「武装上京」の急先鋒である来島又兵衛を、高杉は説得できなかったのである。
 そして、馬関戦争で4カ国艦隊に攻撃される。高杉は、「......歎息をして言ふに、どうしても毛利家は亡びる。いっそ是(こ)れから外国でも朝鮮でも宜(よ)いが出て行って、他日毛利家の子孫を其所(そのところ)へ迎へて家を嗣(つ)ぐだけの事をやらうじやないか」(『修訂 防長回天史』六 P.150)と落胆している。
 井上聞多は、伊藤とともに留学先のイギリスから急遽(きゅうきょ)帰国し、4カ国との戦争を阻止しようと奔走する。その最中、世子が和議の方針を出す。これに対して、井上は噛みつく。「......一時の権謀を以て和を議すると云ふ書付(かきつけ)を元徳公(*世子のこと)が渡して是非(ぜひ)之(こ)れを取計(とりはから)へと云ふことだ......。それから一時の権謀と云ふことはどう云ふことか私には解(わか)りませぬ、それは馬関で一時先(ま)づ和議をして置(おい)て幕兵へ当る、幕兵へ当って首尾(しゅび)能(よ)く勝(かち)を制したら再び攘夷をやると云ふ、それで権謀と云ふ話だ。そこで権謀と云ふことは餘程(よほど)自分の方に餘地(よち)があっての話である。公は先達(せんだっ)て国家は亡びても遺憾はないと仰(おほせ)有った、加ふるに一方は幕兵に当る、一方は馬関で戦ふと仰有ったではないか、今日はそれが権謀と変じましたか、と云ふので又(また)議論になった。成程(なるほど)外国人と云ふものは日本人から見たら皆(みな)禽獣(きんじゅう)と云ひませうが決して犬でありませぬ、同じ人間であります。それで仮りに犬と見た所が犬でも来(こ)いと云ふて来た時分に、呼んだ人が其(そ)の頭を撲(なぐ)ると再び来るものではありませぬ。詰(つま)り畜生でも信義と云ふものは要(い)りませう、矧(いはんや *まして)人類の者へ持て行て暫時(ざんじ)己れが幕府の兵と戦って勝つか負けるかやって見るまで待て、それから貴様と戦をするのだとさう言はずとも其位(そのくらい)の事は察しませう。それは迚(とて)も出来ませぬ、さう御心が朝夕に変わっては国を維持することが出来ませぬ、私はそんなことは出来ませぬ......」(『修訂 防長回天史』六 P.139~140)と。
 井上は、同様の批判を藩政府幹部にも投げつける。井上の主張の核心は、「さう御心が朝夕に変わっては国が維持することが出来ませぬ」という処にある。それは、周布の"攘夷ののちに開国"という方針に対する痛烈な批判でもある。
 批判をされた世子は、今度は「信義を以て和を議すると書き替えた」が、井上はこれにも喰ってかかる。すなわち、「僅(わず)かな間に復(ま)た変じましたか、権謀と信義と云ふことは表裏の差違がある、それは尚(なお)出来ませぬ、何故に又(また)信義を以て和議をなさるのですか、"いや変じたのではない、実はどこまでも信義を以て和を議するのであるが攘夷論を止めさせることが出来ぬと思ふから仕方なしに権謀と書いたのであるが、実は信義を以て和議をする積りである"、そんなら、信義を以て和を議すると仰(おおせ)有るが、若(も)し仮りに出来はしませぬが仮りに出来たとして、幕府と戦って勝った所で天子に再び攘夷の勅命が出たらどうなさいますか、"それは天子の命だからさう云ふ時は致し方がない"、そんなら信義を以て和を議すると云ふのはどう云ふ訳でありますか、信義と云ふことが立たぬ、又(また)公は朝廷に仕(つか)ふる朝命さへ奉ずれば国の為(た)めになると云ふ御考えですか、君に仕ふるに道を以てすと云ふことがありませう、何故(なぜ)道を以て御仕へにはなりませぬか、天子が若し国を亡ぼしても遺憾はない攘夷をせよと云ふことを仰せられたらなぜ裳(も)に縋(すが)って御諫(おいさ)めなさらぬ、御聞(おきき)入れにならなければ死して御諫めなさい、それが出来ぬ位なら今日和議をなさる必要はないと云ふ......」(同前 P.140~141)
 井上は、藩主以下重臣に至るまでの御都合主義、情勢の変化につれ攘夷と開国の方針の間を揺れ動くご都合主義を痛烈に批判するのであった。こう言う井上自身どれほど自覚していたか否かは、不明であるが、天皇や藩主の命令であれば、理屈抜きで従う武士道の没論理性・没思想性という急所を突いているのである。"君に仕ふるに道を以てす"というのは、儒教本来の思想であり、徳川期の日本儒教にはほとんどみられないないのである。原始儒教においては、君主と道が違う場合は君臣関係を解消し、君主と別れて自らの道を歩むこととなる。この点で、井上が言う"君に仕ふるに道を以てす"という考えは、孔子の考えに忠実である。
 なお付言すれば、井上は、「成程外国人と云ふものは日本人から見たら皆禽獣と云ませうが......」と、当時の天皇以下の西洋人観を紹介しながら、この考えを批判している。幕末日本でどれほどの人間が、こうした考えから孝明天皇の浄穢思想を説得し変えさせる作業をしたのであろうか。井上は、明確な自覚があったとは思えないが、幕末政治・思想的核心部分に接近していたのである。
 ところで、麻田公輔は、幕府の征長と馬関での外国艦隊の攻撃という文字通りの「内憂外患」に直面し、すでに精神的な病に陥っていたのかもしれない。
 青山忠正氏によると、「麻田(*周布)は昨年の政変(*8・18クーデター)直後から奇行が目立ち、定広(*世子)上京をめぐる同輩との議論でも『狂体』を演ずることがあった。すでに精神の平衡を失していたかもしれない。」(同著『高杉晋作と奇兵隊』P.156)といわれる(ただ、家族・友人はこれを極力否定している)。高杉が来島又兵衛らの「武装上京」を思い留まるように説得したが成功せず、藩を脱走して上京したことを咎められて野山獄入りとなったことは、すでに本文で述べた。その時(5月5日)、麻田公輔は泥酔して馬で野山獄の門前に乗り付け、抜刀して大声でわめいて立ち去ったという。獄中の高杉を激励したのであろうが、その姿は尋常ではない。
 9月10日、藩主は、麻田に対して「追討使(*征長使)応接の事項を調査」させようとしたが、すでに麻田は寓所に閉居し、お召しに応じなくなったと言われる。
 そして、吉富簡一の言によると、「元治元年九月五、六日と覚ゆ、自裁せられ懸(か)けしを細君(さいくん)之(これ)を止められ」(『周布政之助伝』下 P.761)と言うように、椋梨派が藩政の要路をしめた九月の初旬から自決の兆候があったのである。その後、家族は勿論、友人などからもいろいろ励まされ、刃物も身の周りから遠ざけられたという。
 だが、ついに9月25日夜、「......家内寝静りたるを見て、居間にて自裁の覚悟なりしも、前より毎夜細君気を付けられ、此(この)体(てい)を見て止(とめ)られみよ女(*「みよ女」は奉公人)を以て私(*吉富)へ報知あり、夫故(それゆえ)翁(*麻田)は小用に行かれ、同しく細君付添(つきそ)はれ果たされす、不得止(やむをえず)畑へ運動する迚(とても)出られ、後ろに始終細君付添はれし故(ゆえ)、立(たち)なから咽喉(のど)を刎切(はねき)られ、如此(かくのごとく)に至れり、」(同前 P.763)となるのであった。
 江戸時代の侍の自決(切腹など)は、忠義観念が不動の岩盤として武士をがんじがらめにし、自己の行動を忠孝の観念で説明できず追いつめられる場合、しばしば行なわれた(殉死は主君とのパーソナルな関係において、「二君に仕えず」という観念からの追い腹である)。 そこでは、身分制や忠孝観念からの解放に活路を見出し得ず、自決で辻褄(つじつま)を合せるだけなのである。この意味では、切腹などの自決は、封建制の諸矛盾を隠蔽する役割をもつ。そこからは、身分制からの解放の思想を作り上げることには至らない。

(3) 内紛を利用した第一次幕長戦争の終結
 徳川慶勝が率いる「征長軍」においては、薩摩藩が重要な役割を果たした。中でも西郷吉之助は、征長総督参謀という地位につき、彼の方針が大きく時局収拾に影響した。西郷は安政期からの勤皇の志士であるが、1862(文久2)年に島津久光の勘気にふれて島流しになっていたが、大久保一蔵(利通)らの画策によって、1864年2月に鹿児島に帰ることができた。西郷は、早くも3月には、藩兵の統率に当たる軍賦役となって京都にいた。禁門の変(蛤門の変)では、薩摩藩兵を督戦した。
 征長総督参謀となった西郷は、孫子の"戦わずして勝つ"の方策を最上と考えていた。だから小松帯刀宛ての手紙(1864〔元治元〕年10月25日付け)で、次のように述べている。「吉川辺内情の次第〔*岩国藩の吉川家と長州本藩との対立〕、委(くわ)しく申し説き〔*尾張の徳川慶勝に詳しく説明し〕、其の上御策略〔*講和条件について〕敵方両端に分かれ〔*長州藩内が二派に分かれ〕、暴党・正党と相成り居り〔*いわゆる尊攘派と椋梨派に分裂して居る)候儀、誠に天の賜(たまもの)と申すべき訳、譬(たと)え、一致のものにもいたせ〔*たとえ分裂して居なくても〕、策を廻(めぐら)し両端に相成り候様致すべきこそ戦法に御座候〔*二つに分けるようにすることが、戦法である〕処、両立のものを一(いつ)に死地に追いはめ候儀〔*両派を結束させ背水の陣に追い込むことは〕、誠に無策のものと申すべく、実に拙(まず)き次第に御座候。」(『西郷隆盛全集』一 P.434)と。
 長州藩で椋梨派が政権を掌握し、「純一恭順」を行なうとしたことは、西郷にとってまさに「天の賜(たまもの)」であった。征長総督・徳川慶勝もまた、穏やかに長州藩を謝罪させる方針を採っていたので、西郷とは一致していた。
 1864(元治元)年10月18日、毛利支藩の徳山藩主毛利玄蕃が伊達宗城に書簡を送り、恭順の意思を示し、宗城はこの書簡を征長総督府に提出した。この情報をつかんだ上で西郷は、11月3日岩国に至り、岩国藩主吉川(きつかわ)経幹(つねもと *監物)と連絡をとり、4日には、"禁門の変の責任者である三家老らの処罰、長州にいる三条実美ら5卿(生野の乱に参加した沢宣嘉は行方不明、もう一人の錦小路徳は1864年4月病死)の他藩への移転、山口城の破却など"を長州藩に説き、事態の収拾を図った。
 11月11日、長州は益田・福原・国司の三家老に自刃を命じ、4参謀を斬刑に処した。征長総督・徳川慶勝が大坂を発ったのは11月1日、広島に到着したのが11月16日であった。慶勝が広島に着く前に、すでに第一次幕長戦争での処理作戦は終了していたのである。
 12月24日、広島藩主浅野茂長は、征長総督・徳川慶勝に、速やかに長州藩の処分を終えて解兵すべきことを建議した。露骨に言えば、征長総督府の広島からの撤収要求である。慶勝は27日、独断で出征諸藩に撤兵帰休を命じた。慶勝や西郷からすれば、慶勝が全権を任じられたから軍紀違反とはならないと言うのであるが、軍律上・作戦上のことならいざ知らず、兵団自身を任命権者の許可なく勝手に解くことは違反である。

(4) 解散命令に対する諸隊の抵抗
 (ⅰ)元治の内戦―椋梨派の敗退
 1864(元治元)年10月21日、椋梨派の藩政府は、諸隊の領袖を政事堂に集め、奇兵隊をはじめ諸隊に解散を命じた。だが当日、奇兵隊の赤根武人・八幡隊の堀真五郎・真武隊の秋良雄太郎は召命に応じなかったので、これらの隊には解散令が送り付けられた。
 諸隊解散令は、以下の通りである。
                      
                       諸隊へ
右(みぎ)先達(せんだって)より御恭順の思召(おぼしめし)に在(あ)らせられ下々(しもじも)迄(まで)其(その)沙汰(さた *指示)仰せ付けられ置き候処、此節(このせつ)別(べっし)て〔*とりわけ〕御謹(おつつしみ)成られ候に付き、諸隊とも一応身元引き取り仰せ付けられ候。尤(もっとも)身元(みもと)之(これ)無きの部は一所にも差し置くべし。素(もと)より引き取り仰せ付けられ候共(そうろうとも)何時も御用仰せ付けらるべく候に付き下され物の儀は是迄(これまで)の通り相違無きの候間(そうろうあいだ)早々御恭順の御容姿に相支(あいつか)へざり候様〔*恭順の体裁に障りがないように〕仰せ付けられ候事。
案ずるに当時(とうじ)召命(しょうめい)を受けし諸隊総督等は荻野隊守永彌右衛門・奇兵隊赤根武人・膺懲隊赤川敬三・御楯隊太田市之進・義勇隊桑原謙蔵・八幡隊堀真五郎・集義隊桜井慎平・真武隊秋良雄太郎及び旧遊撃隊飯田竹治郎・河村三郎右衛門・賀屋主税・久保無二三・高橋熊太郎と藩記に見ゆ。而(しこう)して赤根武人・堀真五郎・秋良雄太郎召しに応ぜざりしを以て奇兵隊・八幡隊・真武隊には解散令を封送したりと云ふ。                 (『修訂 防長回天史』六 P.284)

 何とも歯切れの悪い「解散令」ではある。「御恭順の御容姿に相支へざり候様」という語句からは、解散は「見せかけ」と解釈し得るかもしれない。しかし、それは不確かなことであり、召命に応じなかった諸隊が存在したのは当たり前である。すなわち、最後には、「解散令を封送したり」という文字があるからである。
 実際、諸隊の大半はそれに応じなかった。同じ日、諸隊の幹部が周防の山間部の徳地に集り、次の「諭示」と呼ばれる規則を定めている。

一、 礼譲を本とし人心にそむかざる様(よう)肝要たるべく候。礼譲とは尊卑の等を乱さ
 ず、其の分を守り、諸事身勝手これ無く、真実丁寧にして、いばりがましき儀これ無き 
 よういたし候事。
一、 農事の妨げ少しもいたすまじく、猥(みだ)りに農家に立ち寄るべからず。牛馬等小
 道に出遇(であ)い候はば、道べりによけ、速かに通行いたさせ申すべく、田畑たとひ
 植え付けこれ無き候所にても踏みあらし申すまじく候。
一、 山林の竹木、櫨(はぜ *漆に似ており、?〔ろう〕を製する)、楮(こうぞ *樹皮
 は和紙の原料)は申すに及ばず、道べりの草木等にしても伐取(かりとり)申すまじく、
 人家の菓物(くだもの)、鶏、犬等を奪い候抔(など)は以ての外(ほか)に候。
一、 言葉等尤(もっと)も丁寧に取りあつかひ、聊(いささ)かもいかつかまじき儀これ
 無く、人より相(あい)したしみ候よういたすべく候。
一、 衣服其(その)の外(ほか)の制、素(もと)より質素肝要候。
一、 郷勇隊のものはおのずから撃剣場へ罷(まか)り出で、農家の小児は学校へも参り教
 えを受け候ようなづけ申すべく候事。(*「郷勇隊」は農兵隊である)
一、 強き百万といへどもおそれず、弱き民は一人と雖(いえど)もおそれ候事、武道の本
 意といたし候事。(『修訂 防長回天史』六 P.285~286)

 以上を見ると、農民の生活に配慮し、肌理(きめ)こまかく気をつかっている事がよくよく見える。しかし、これらは余りにも当り前なことばかりであり、逆に諸隊の中にはこれらを守り得なかったほどの乱暴者が存在していたことを意味する。実際、無軌道極まる隊士の存在や、隊士を忌み嫌う農民もいたことが伝えられている(一坂太郎著『長州奇兵隊』を参照)。
 さらに問題なのは、第一条である。諸隊の規律の根本を「礼譲」とし、「尊卑の等(とう)をみださず、其の分をまもり、諸事身勝手これ無く......」としている。「尊卑の等」とは、身分のランクとその秩序を守ることであり、身分制からの解放・平等思想とは全く無縁なものである。
 『修訂 防長回天史』六(P.286~287)によると、解散命令に対して、山口に召集された諸隊の責任者たちと野村靖之助らは相談して、「諸隊は宜しく相(あい)連結して以て後事を図るべし」とした。そして、切腹させられた益田右衛門介の知行地である須佐において、「五卿を茲(ここ)に奉じ諸隊共に其地(そのち)に拠るべし」と、各地の諸隊に檄(げき)を飛ばした。しかし、徳地(*佐波郡徳地町)にいた山縣小輔(狂介)は、この方針を非とし、「須佐は偏僻(へんへき *余りにも隔たった田舎)にして退(しりぞき)て守るに便なるも進(すすん)で事を為(な)すに足らず。若(し)かず、直(ただ)ちに進んで山口に集(あつま)り至誠(しせい)以て素志(そし *平素からの志)を達するの手段を講ぜんには」と主張した。この意見が広まり、11月4日頃より、諸隊は続々と山口に結集した。それは、常栄寺(毛利隆元〔元就の長男〕の霊を祀っていた)と鴻峰大神宮社に参籠(さんろう)し祈願することを名分とした結集であった。
 彼らは解散令に断乎として反対し、以下のような建白書を藩主父子に呈出した。それは、椋梨派の「純一恭順」方針とそれに依拠する藩主の態度への強烈な批判である。

......(前略)......御両殿様(*藩主父子)程(ほど)なく御帰萩(*萩に戻ったこと)遊ばされ候事既に闔国(こうこく *長州藩全体)の人心を動し(*動揺させ)視聴を驚(おどろか)し候上(そうろううえ)近日の処置に至り候ては恐れ乍(なが)ら臣等(しんなど)の解(げ)せざる所、疑惑の至りに存じ奉り候。今日天朝への御恭順・四境の賊軍を御待ち成られ候御大策は八月晦日仰せ出だされ候御直書の趣(おもむき)御決意遊ばされ且(かつ)微臣等追々(おいおい)申上げ候処に御座候得ば再三陳述に及ばず。御国是毫厘(ごうりん *少しも)も御動揺之(これ)無く天地に愧(は)じざる御至誠を以て、二州(*防長2州)御顧み遊ばさざるの正義を張り廟堂の委任を専(もっぱら)にし方輿(ほうよ *土地土地)の士気を振励(しんれい *振るいはげむこと)し主客の形(かたち)老壮の勢を審(つまびらか)にし眼前の小勝敗に拘(かかわ)らず天下万世の公論を恃(たの)み確然御守(おまもり)候はば、天日未だ地に墜(お)ちず天祖の威(い)祖宗様の霊(れい)御照鑑(ごしょうかん *照らしてよくみること。照覧)遊ばれ御海運の期(き)断然疑ひ無く存じ奉り候。......(中略)......内外多端の時に至り候ても確然(かくぜん *しっかりと)不動の御趣意在らせられ候に、〔*椋梨派は〕却て妄誕(もうたん *うそ、いつわり)の邪説を唱へ御恭順の名を仮り偸安(とうあん *安楽をむさぼり将来を考えないこと)の心(こころ)貪権(どんけん *欲深いはかりごと)の私を成さんとす。其(その)心を推究(すいきゅう)するに、恐れ乍(なが)ら御両殿様(*藩主父子)まで罪を帰し奉り御両国の生霊(*人民)を以て悉(ことごと)く奸賊(*幕府軍)の手に帰し候ても其(その)一身の安を謀(はか)り候儀と洞察仕(つかまつ)り候。堂々たる二州(*防長二州)の地を以て御祖宗様以来三百年養士の報いに売国謀身、其(その)君を大難に陥(おとしい)れ奉(たてまつ)り候外(そうろうほか)之(これ)無きは実に痛憤(つうふん)切歯(せっし)に堪へず存じ奉り候。今日の御新政を伺(うかが)い奉り候に御直書(*8月の藩主の方針)の御趣意に違(たが)ひ、万事(ばんじ)監物様(*岩国藩主)へ御委任相成り、旧来の諸有司(*周布派)を罷黜(ひちゅつ *やめ退けること)し、昨年来俗論を以て罪を得(え)候(そうろう)者ども次第に御採用相成り候事(そうろうこと)堪へず驚懼(きょうく *驚きおそれること)の次第と存じ奉り候。御帰萩(*藩主が山口から萩に戻ったこと)の儀は暫時(ざんじ)俗論鎮静の御為(おんため)とも仰せ出だされ候得共(そうらへとも)、今日の処置に至り候ては如何程(いかほど)御国是に於て御変(おかわ)り之(これ)無き段、御弁解遊ばれ候とも恐れ乍(なが)ら信服仕(つかまつ)り候者(もの)決(けっし)て之(これ)無く候。先日監物(けんもつ)様御帰邑(*岩国に帰ったこと)の節(せつ)宮市(みやいち)に於て拝謁(はいえつ)仕り、御両殿様御趣意〔*として〕監物様御周旋の御策伺い候所(そうろうところ)、京師変動(*禁門の変で長州勢が都から追放されたこと)に付き三大夫(*益田・福原・国司)以下廟堂の諸有司を罪し天幕(*朝廷や幕府)の間へ御謝し遊ばされ候との御事、恐れ乍ら三尺の小児も其(その)非を知り候程(ほど)に御下策、決て御両殿様御趣意に之(これ)無き儀と恐れ察し奉り候。元来奸賊征伐の論を唱へ候は去年八月以来に之(これ)有り、既に手配迄(まで)相定(あいさだ)め居り候位(そうろうくらい)、今七月変動(*禁門の変)以後始(はじめ)て起り候事に之(これ)無く候へは独(ひとり)三大夫に罪を御委任成され候ては相済(あいすま)ず、且(かつ)京都の変は奸賊と鋒(ほこ)を交(まじへる)のみにして対天朝へ御申訳(おんもうしわけ)之(これ)無き儀は決て之(これ)無く候。たとひ御両殿様正義御唱(おとなへ)遊ばされ候ても奸賊天朝を壅蔽(ようへい *ふさぎおおうこと)し神州の国是を誤り候へば、堂々の兵を以て先ず国賊(*日本内の賊)を御討滅遊ばされ宸襟(しんきん *天皇の心)を安んじ奉り候程の儀も有るべく御座候(ござそうら)へは兵を交へ候とも一概に罪と申す訳には之(これ)有るまじく、不幸にして衆寡(しゅうか *多人数と少人数と)敵(かなは)ず挫折を取り候故俗論誣説(ぶせつ *偽りのうわさ)を起し候得共(そうらへども)、万一京師の軍大を勝(かち)得(え)奸賊を微塵(みじん *微細なもの)に致し候(そうろ)はば其時(そのとき)如何(いかが)之(これ)有るべく候哉(や)。勝敗は時運に之(これ)有り、一度の挫折(ざせつ)を以て定論(ていろん)には仕り難く候。然(しから)ば征討論は此節(このせつ)の儀に起り候事に之(これ)無く候得共(そうらへども)三大夫以下を罪し御謝し遊ばれ候とも決て惻隠(そくいん *あわれみ、同情すること)の心を生じ候儀は之(これ)無く、愈(いよいよ)我が畏縮(いしゅく)を侮り我が虚弱(きょじゃく)に乗じ申すべく候。素より京師の変は君上(*藩主)御存じ之(これ)無き儀に候得共、其の申訳の為(ため)今日迄(まで)同心(どうしん)合力(ごうりき)患難(かんなん)を共に御凌(おしの)ぎ遊ばれ候諸臣(*3家老ら処刑された者)を殺戮(さつりく)致し候は恐れ乍ら君上(*藩主)兼(かね)ての御仁徳とも御相違遊ばれ候御処置、決て御趣意とは存じ奉らず候。必然(ひつぜん)讒邪(ざんじゃ *心がねぢけて人をそしること)の私忿(しふん *私憤、自分一身上のいかり)にかかり奸賊に御随(おしたが)ひ遊ばれ候様にては、天朝への御忠節も廃し宸襟に従はず、前議を踐(ふ)まず候ては幕府へも御信義も相立ち申さず、正義を忘却し万世の公論に背(そむ)き、御家名の瑕瑾(かきん *きず、欠点)に相成り候ては御祖宗様へも御孝道も空しく相成り、兼々(かねがね)御両国中へ御告諭遊ばされ候御趣意八月十五日・晦日(みそか)の御決心の御直書も反古(ほご)同様に相成り、御国民に信を御失(おうしな)い遊ばれ候段(そうろうだん)実に以て堪えず、悲泣(ひきゅう)の至り〔に〕存せんと欲して却て亡び、治めんと欲して却て乱れ候は眼前の事と存じ奉り候。諸隊解散の儀に至りては最も其(その)謂(いは)れ無き事と存じ奉り候。人材育成・武備修整は第一の急務。他日大攘夷の思召(おぼしめし)も之(これ)無く武備人材も御棄(おす)て遊ばされ候程(ほど)にては御国是御変動之(これ)無きとは申し難く候。若又(もしまた)諸隊を立たれ置き兵を練り候て御恭順の御趣意相立ち申さざる儀に候はば御両国中の城郭を毀(こぼ)ち武士は悉(ことごと)く甲冑(かっちゅう)を砕き雙刀(そうとう)を脱し御国中隅々(すみずみ)迄(まで)一個の武器も之(これ)無き様(よう)遊ばれ候ては御恭順には相成り申すまじき哉(か)。俗論畏縮の徒(と)大節に望み此(かく)の如(ごと)き妄説を唱へ御国是を乱(みだ)し候段(そうろうだん)言語に絶し候儀に存じ奉り候へは、伏(ふし)て願はくば雷霆(らいてい *激しい雷)の御英断を以て速(すみやか)に山口へ御帰り遊ばされ俗論邪説の者を御抑(おんおさ)へ人材を育成し武備を充実し御国是(おんこくぜ)愈(いよいよ)以て確定遊ばされ是迄(これまで)仰せ出だされ候御直書の趣(おもむき)御踐行(ごせんこう *言ったことをふみ行なうこと)遊ばされ候様堪えず(*いつも)懇願の至り存じ奉り候。古(いにしえ)より人君英節(えいせつ *すぐれた志操)を以て主と為(な)すと承(うけたまわ)り候へは一時〔の〕人情を拒き兼(ふせギかね)万世の国辱を御取り成され候様之(これ)有り候ては御両国数百万の生霊(*人民)一日に消滅仕るべく候......(後略)......
 甲子(*1864年)十一月           奇兵隊中
                         御楯隊中
                         膺懲隊中
                         遊撃隊中
                         八幡隊中
                         其他同志中1)
                 (『修訂 防長回天史』六 P.289~292)

 この建白書が誰の手により起草され、どのレベルで討議され決定されたかは、不明である。だが、幕末長州藩史を正義派と俗論派の対抗関係を軸として単純化する―長州史観に沿うものであることは、一見して明らかである。それは、ここに引用した部分だけでも4回も「俗論」が登場していることだけでも明白である。言うまでもなく、正義派とは村田清風―周布政之助―桂小五郎―久坂玄瑞―高杉晋作などの系譜であり、俗論派とは坪井九右衛門―椋梨藤太などの系譜を指している。
 建白書は、この長州史観にのっとり、「俗論」派とこれに傾く藩主父子を厳しく批判する。最近の藩主父子の態度は「俗論」派を優遇し、8月に藩主自ら決められた「天朝への御恭順、四境の賊軍を御待ち成され候御大策」に相違するものである。そもそも「尊王攘夷」に敵対する「奸賊」を征伐する論は、前年(1863年)の8・18クーデター以来のものであり、今年(1864)年7月の禁門の変をもって初めて起こったものではない。したがって、禁門の変の責任として3家老に罪を押し付けのは相済まぬことである。又(また)禁門の変じしん、「奸賊」との交戦であり、決して天朝に対して申し訳がないことではない。「交兵候とも一概に罪と申す訳には有るまじく......」というのである。自分たちの主張が正しく「正義」であるから、禁門の変の際の武力行使は許されるという論理である(独善主義)。しかし、当時の長州藩の方針が正しいというのならば、4カ国連合艦隊との馬関戦争での敗北と講和条約の締結を経て、「大攘夷」に方針を変える必要は全くなかったのである。このことを隠して、禁門の変を正当化しても誠実な態度とはいえない。それに、そもそも孝明天皇や朝廷貴族は、その穢れ思想の故をもって、御所で流血させたことじしんを非難しているのである。これでは、全くの論議のすれ違いである。
 椋梨派は、禁門の変の犠牲者たちの考えを引き継ぐ諸隊を解散するというのだが、これはとんでもないことであり、何らの「謂れなき事」であると抗議する。そして、建白書は、①藩主が、椋梨派の巣窟である萩から山口に帰り、椋梨派を抑え人事を刷新すること、②人材を育成し、武備を充実して、「武備恭順」「待敵方針」をもって「尊王攘夷」の国是を確かなものにすべきこと―を要求するのであった。
 ところで、話はやや遡(さかのぼ)るが、奇兵隊の創設者である高杉晋作は、4カ国連合艦隊との講和条約を調印したあと、8月30日に、政務役兼石州境軍務管轄を命じられ、9月2日、椋梨派の復活の動きを見て、役目を辞退し、萩の実家に戻ってしまった。椋梨派の藩政府は、10月16日、高杉の辞職願いを許可し、再び高杉小忠太の「育(はぐくみ)」とした。
 10月24日、高杉は、椋梨藤太が政務役に登用され、また宍戸左馬之助らが投獄される動向を見て、自分も捕縛される危険を感じて、萩を脱走した。25日夜には山口に現われ井上聞多(馨)を見舞い、26日夜には政務役を罷免された楢崎弥八郎を共に行動するように誘ったが拒否された。27日には、徳地に退いていた山縣狂介と野村靖之助を訪ね、徹夜で議論して直接行動に決起すべきだと持ち掛けた。しかし、山縣も野村も、時期尚早と応じなかった。10月29日、高杉は下関の白石正一郎邸に向かい、そこで筑前勤王党の中村円太と会い、さらに11月2日には長府毛利家の大庭伝七(白石の実弟)を説得し、中村もふくめ筑前博多に向かった。高杉は、筑前で仲間を見出そうとしたのである。
 当時、征長総督府は、解兵の条件として、①長州藩父子の謝罪書面の提出、②三条実美ら5卿の領外移転、③山口城破却―この三条件を長州藩に提示していた。これらの内、①はいかようにも文面はつくれるので問題なく進められ、③は屋根瓦をはがす程度でお茶を濁すことができた。問題は、②である。これについては、筑前黒田家の側から5卿を筑前に移転させると申入れがあったため、総督府は5卿との交渉を黒田家に任した。高杉が筑前で同調者を募った背景には、このような状況があった。
 1864(元治元)年11月4日、藩政府の解散命令に応じなかった奇兵隊・御楯隊・八幡隊・遊撃隊・南園隊・膺懲(ようちょう)隊などは、先述したように常栄寺・鴻峰大神宮参詣を名目として、藩内各地から山口に集った。その数は700人以上と言われる。諸隊は、湯田で三条実美ら都落ちの5卿を陣中に迎え、11月17日、支藩長府藩を頼って、下関から東へ2里の長府城下に入った。移転に備える5卿に対して、諸隊は名分を失うことを恐れ移転に反対し、5卿を確保する態勢をとったのである。
 その頃、奇兵隊総督である赤根武人は萩に赴き、藩政府と交渉を始める。征長軍が迫る中、赤根は、諸隊が静かにすれば、捕らえられている「正義派」の要人を処刑しないなどの約束を取り付けた。赤根は、長州内の内戦を避けたかったのだ、と言われる。
 しかし、そこに高杉晋作が潜入していた九州筑前から戻り、赤根の方針に異を唱える。そして、高杉は諸隊の幹部に向かって、武力行使に入ることを説得する。
 「十二月十二日夜、晋作は酒気を帯び、功山寺の東隣にあった修繕寺に駐屯する御楯隊を訪ね、優柔不断をなじった。御楯隊は、しばらく前に各郡代官所を襲撃する計画を立てていたのだが、晋作の意見で中止した経緯がある。その場に集まったのは、御楯隊から総督太田市之進・冷泉雅次郎(天野御民)・品川弥二郎、南園隊総督佐々木男也(おなり)、遊撃隊総督石川小五郎・同軍監高橋熊太郎、諸隊客分の野村靖之助らである。太田・石川・高橋を除けば、二年前の文久二年十一月、御楯隊血盟のメンバーでもあった。顔ぶれを通して、諸隊の基盤がどこにあったかをうかがえる。しかし、他国浪士を多く含む遊撃隊の石川・高橋(水戸浪士)以外は、過激な行動にこぞって反対した。/諸隊が同調をためらう理由は、大きく言って二点ある。一つには、奇兵隊総督赤根武人が進めてきた萩政府との『調和論』が順調に運び、十二月六日以降には、諸隊解散(十月十一日通達済み)は取りやめ、諸隊員は『土着』と内決、という事情があった。/二つには、征長軍と五卿の存在である。下関対岸の小倉には副総督府があり、解兵条件の五卿移転を待ち望んでいた。その五卿を長府に置いたまま、下関で行動を起こせば、征長軍の介入を招きかねない。今、ここで事を起こすのは、どう見ても得策ではない。」(青山忠正著『高杉晋作と奇兵隊』P.172)のである。
 赤根武人の椋梨派藩政府との交渉が順調に進むかにみえた12月14日、高杉は遊撃隊の石川・高橋と力士隊を預かる伊藤俊輔(*博文)を説得し、約50人程で決起する。高杉らは、三条ら5卿2)に挨拶したあと、長府から下関の馬関新地の会所を目指す。交通の要衝である下関市街の大部分は支藩の長府領か清末領であるが、馬関新地だけは本藩領であり、会計事務や外人応接にあたる会所が置かれていた。
 12月16日の明け方、高杉らは会所を包囲し、空砲を放って威嚇して、奉行の根来上総(かずさ)に資金・食糧の引渡しを迫った。だが、根来自身1863(文久3)年当時の家老であり、もともと旧麻田派である。交渉の結果、要求はかない、また椋梨派の役人も萩へ追い払った。それから高杉は手勢十数人を率いて三田尻に急行し、癸亥丸(きがいまる)の艦長佐藤与蔵を説得して味方に引き入れた。当時、海軍松島剛蔵は萩で謹慎状態に置かれており、海軍側はそれに反発していたのである。
 高杉らの馬関決起後の12月16日、椋梨派の藩政府は、諸隊への非協力3カ条(諸隊への駅々での人馬の継立〔つぎた〕て、米銀貸与、食糧その他の売り渡しを禁止)を藩内に発令した。 
 高杉らの武力決起が行なわれた当時、萩の藩政府は征長総督府の対応に追われ、とくに巡見使の応接に忙しかった。これにより、征長軍の解兵が進むからである。巡見使が広島から山口へ入る頃の12月18日、藩政府は(既に3家老は切腹〔11月11日〕・4参謀は処刑〔11月12日〕されていたが)さらに前田孫右衛門・毛利登人・大和国之助・渡辺内蔵太・山田亦介・楢崎弥八郎・松島剛蔵の7人を捕縛し、翌19日には斬首している。そのうえさらに同日、村田次郎三郎・小田村素太郎(のちの楫取素彦。松陰の妹と結婚)・波多野金吾(のちの広沢真臣)の3人を投獄している。12月25日には、家老清水清太郎が主命で切腹している。
 征長総督府との関係は、3家老の切腹で既に折り合っている筈(はず)なので、新たな犠牲者の拡大は、明らかに高杉らの武力決起に対する見せしめである。赤根武人の椋梨派との政治交渉は、これで完全にぶち壊しになってしまった。
 椋梨派の藩政府は、12月24日、諸隊を鎮圧するための出兵を決め、毛利宣次郎を鎮静奉行に命じた。翌日には、鎮圧部隊は萩を出発した。翌年1月1日、政府側使者は伊佐村(現・美祢市 *長府と山口の中間)に転営していた諸隊に、"政府員の交代などの嘆願はすべて却下し、山間部への退去と武装解除"を命じた。これに対して、諸隊が対抗姿勢を強めたのは、当然のことであった。
 このような事態は、赤根の進めていた「調和論」の全くの破綻を示し、赤根武人は1865(元治2)年1月2日に脱藩して筑前に走り、さらに上方に出奔したが、のち捕らえられた。赤根は、逃走中の1865(元治2 「慶応」への改元は4月7日)年3月10日、養母宛ての手紙で、「諸隊いよいよ鎮静仕(つか)まつり置き候ところ、高杉晋作一手遊撃隊わたくしの議論ききわけ申さず、下ノ関新地之一暴挙致し候てより、萩俗論家共たちまち約束にそむき、こころなくも前田已下(いか)有志の人々をさんりく(*殺戮)いたし、残念の至り、なげかわしき事にござ候」(一坂太郎著『高杉晋作と長州』吉川弘文館 
 2014年 P.98 からの重引)と、訴えていた。3)
 1865(元治2)年1月6日夜半、諸隊は、山口北西の絵堂(*現・美祢市。秋芳洞の近く)に進出していた椋梨派の藩政府軍400余を奇襲し、大田(*現・美祢市。絵堂の南)を占拠してここに陣を構える。他方、太田市之進が率いる御楯(みたて)隊は、長府から小郡(おごおり)を経て、1月10日に、山口を制圧した(幽閉中の井上聞多を救出。井上は小郡・山口の有志で編成された鴻城隊の総督に推挙された)。
 藩政府軍は1月10日に陣容を建て直し、大田攻撃を1月11日、14日にも行なう。諸隊は苦戦しながらも、藩政府軍を打破る。1月14日には、高杉・伊藤それに石川らの遊撃隊も、諸隊主力に合流する(高杉らが戦闘に参加したのは、約10日間のうちで15日と16日のみである)。諸隊は16日、絵堂北の赤村まで退却していた藩政府軍を夜襲し、明木(あきらぎ)に追い払っている。その後、大田の諸隊陣営で今後の作戦会議が行なわれた。ここで、高杉は直ちに絵堂街道から明木の敵陣を突くべきと主張した。だが、山縣狂介(赤根武人が脱走した後の奇兵隊を率いた)は、ひとまず山口に出て本拠を固め、その後、三方面から萩に軍を進めようと主張した。議論の結果、高杉が自説を撤回し、山縣の方針に従うとして、諸隊は山口に移った。
 また、山口の鴻城隊は、同じ16日、山口と萩の中間にある要衝・佐々並(ささなみ)を攻めて、政府軍を退却させた。
 奇兵隊が絵堂で椋梨派の政府軍を攻撃していた頃、藩政の実務を担っている八組士や遠近附士の約200人から成る「中立派」(鎮静会議員といわれた)が結成された。彼らは、椋梨派を要路から降ろし、「正義派」の復権を進めた。この「中立派」は、のち「干城隊」と称した。
 諸隊が萩に迫るとともに、癸亥丸が萩置きで空砲の威嚇射撃を行う中で、1月28~30日にかけ、山田宇右衛門・兼重譲蔵・中村誠一ら旧麻田派が復帰する。他方、椋梨派は椋梨藤太(17日、政務役から大納戸役に配転されていた)をはじめ、中川宇右衛門・三宅忠蔵・小倉源五右衛門・山縣与一兵衛・村岡伊右衛門・進藤吉兵衛・工藤半右衛門・諫早巳次郎らがそれぞれ役職を罷免された。
 椋梨派が頑強に抵抗し、まさに「正義派」と激突せんかの空気が萩市街を覆うのを前に、2月9日、藩主父子・清末(きよすえ)藩主毛利讃岐守元純・長府藩主毛利左京亮元周(もとちか)などが萩城に集まり事態収拾を図った。
 2月12日には、長府・清末藩の兵700人、鎮静会200人が萩城に入り、藩主敬親に政府員更迭の徹底化を進言する。諸隊もこれに応じて14日夕、萩城下松本口に進出し、東光寺に陣を強いて圧力をかけた。
 同じ日、村田次郎三郎・波多野金吾・小田村素太郎(もとたろう)・瀧弥太郎が赦免され、他方、直目付井原主水ほか10名以上が免職となった。この日、椋梨藤太ら12名は岩国藩(吉川監物)に亡命するため、萩を脱走する。だが、2月17日、途中、津和野藩の領内で捕縛され、萩に送還された。椋梨派の終焉である。(椋梨らの処刑は閏5月28日)
 1865(元治2)年2月20日、敬親は「封内の大乱を醸(かも)し......罪を洞春公(*毛利元就)以下歴世の神霊に謝し、以て心力を尽くさん」として、22日からの3日間、城内の御霊社に藩士を集めて臨時祭を行なった。ここで、藩主父子は、自らの「不明不徳」を先祖の霊にむかってお詫びをするという体裁をとって、藩士に詫びたのである。 
 藩主敬親は、後世の歴史研究者から「そうせい侯」と揶揄(やゆ)されるほど定見のない藩主なのであった。
 2月28日には、藩主敬親(たかちか)は、政府要員とともに萩から山口に戻り、4月25日には、政庁所在地をふたたび山口に定めた。

注1)「中(じゅう)」とは、仲間内のことで、連中とか講中とか使われる。「中」は、戦国時代、一向一揆でもすでに使われている。
 2)5卿は、1865(元治2)年1月14日、長府功山寺を出発し、18日に筑前宗像郡赤間駅に渡り、しばらく滞在した後の2月13日、大宰府に移った。
 3)赤根武人は、1866(慶応2)年1月25日、一度の裁判もなく処刑された。処刑の理由は、「旁(かたがた)多年の御厚恩を忘却し、不義不忠の至り、罪科遁(のが)れ難(かた)く、これに依って斬首仰せ付け候事」という漠然としたものであった。
 なお、赤根武人は逮捕された後の獄中で、攘夷と開国を便宜的に使い分ける藩の御都合主義を次のように厳しく批判している。

長(*長州藩)ノ為国(国のため)攘夷セシヨリ、一図ニ朝意ヲ奉スルヲ以テ口実トナシ、更ニ公義(*幕府)ノ命令ニ不従(したがわず)、遂(つい)ニ疑ヲ諸藩ニ構ヘリ、又(また)御沙汰ニモアラス和親〔*外国との〕ヲ講シテ,縦(たと)ヒママニ〔*気ままに〕夷ト結フ、是(これ)仮令(たとひ)一時ノ権謀ト云(いふ)トモ、天幕(*天朝と幕府)ヲ蔑如(べつじょ *軽んじること)シ奉ルノ所為(しょい *行ない)、天地容(い)るべからざるノ大罪ナリ、再(ふたた)ヒ征討ヲ蒙(こう)ムルトモ彼レ決シテ辞アルへカラサル也〔*征討を止める筋合いのことでもない〕、然処(しかるところ)我熟(つらつら)中国西国ノ形勢ヲ察スルニ、長州和夷(*外国と和親すること)ノ事(こと)未タ世上ニ発露(はつろ)セサルカ故ニ、民心尚(なお)帰嚮(ききょう *心を寄せること)ヲ失わざるニ似タリ、又(また)長州ノ為ニ周旋セントスル諸侯方モこれ有る乎(や)聞ケリ......(鳥取藩庁記録「慶応乙丑筆記」十九)―三宅招宣著『幕末・維新期長州藩の政治構造』校倉書房 1993年 P.271から重引

 これは1865(慶応元)年の中頃と推定されるが、内容は前述の井上聞多の藩主批判と同質のものである。なお、この論策は「奇兵隊日記附属叢書」(『奇兵隊日記』四 P.93~96)にも所収されているが、無題として所収されているので赤根が執筆したものと判断するのは困難である―と三宅氏は述べている。

 (ⅱ)干城隊を利用した身分秩序の再強化
 藩政の政権交代がなされ「正義派」が実権を握っても、諸隊は萩城下の監視包囲を続けた。ここで高杉晋作は、藩の秩序が崩れるのを恐れて、干城隊を利用して奇兵隊など諸隊をコントロールしようと画策する。
 1865(元治2)年3月7日(「慶応」への改元は4月7日から)、諸隊の経費は藩の蔵元から支給されるようになる。それまで諸隊は、隊員の給与も支え難く、勘場(宰判の役所)などから仕方なく借金して運営されていた。それがようやく、蔵元からの下付で賄われるようになったのである。それは、諸隊の経済的安定をもたらすが、逆に今度は諸隊の「自由度」を奪い、藩の統制下に入ることを意味する。
 3月13日、諸隊は、10隊1500人と制限され、各隊の総督・定員・営所も定められた。同月16日には、萩郊外で奇兵隊・八幡隊・遊撃隊・御楯隊・南園隊の合同調練が行なわれ、世子広封(ひろあつ)が閲兵する。諸隊の藩政府の統制下に服すことがさらにはっきりとする。
 3月15日、干城隊は藩主から公認とされた。総督は鈴尾駒之進(禁門の変の責任を負って切腹した家老福原越後の嗣子)で、頭取は佐世八十郎(後の前原一誠)である。
 干城隊頭取の佐世に対して、高杉は3月5日付けの長文の手紙(長さ10メートル)を送って、諸隊の封じ込めを図っている。「これによれば『国内規律』も一応立ち直ったので、諸隊中の『土民は農に帰り、商夫は商を専らに』すべきと言う。さらに、思わぬ増長を遂げてしまった奇兵隊を結成した当時の心境を、次のように振り返る。/『猶又(なおまた)先日より申し上げ候(そうろう)通り、弟(てい *高杉自身を指す)も八組の士故(ゆえ)、固(もと)より八組士の強き事を欲し候得共(そうらへども)、やむを得ず奇兵隊など思い立ち候事にてござ候』/八組士が弱体化したから『やむを得ず奇兵隊』というのは、結成当初から晋作が抱き続けて来た複雑な思いだ。だからこそ晋作は干城隊と諸隊の力関係を、次のようなものにしようと提案する。/『此の度(たび)干城隊振興に相成(あいな)り候は大幸の至りにつき、早々干城隊総督英気の士御撰(おえら)びに相成り、諸隊の規律法度も干城隊より初(そ)まり、諸隊の指揮号令も干城隊総督、政府より請け、会議処へ諸隊の総管呼び出し申し合わすよう相成り』/云々。諸隊の頂点に干城隊を置き、藩からの命もまず干城隊が受けて、各諸隊に知らせるというのだ。」(一坂太郎著『長州奇兵隊』P.102)と。
 高杉はあくまでも、奇兵隊を非常事態での臨時措置として設け、後には、本来の藩士の部隊である干城隊を中心とした身分秩序の下に諸隊を位置づけるとしたのである。1)
 高杉は、また、諸隊を藩内各地に分散する案も次のように提起している。すなわち、「奇兵隊半分・遊撃隊半分、赤間関・小瀬川口へ交代して出張致し置き候。其の外(ほか)八幡・膺懲・御楯・南園・集義、馬関・小瀬川・石州口へ手分けして出張致させ、干城隊鴻城(山口)に常居として政府の命を請け、諸隊に号令し......」(前掲の手紙)と。
 高杉はそれ以前、山縣や太田ら諸隊幹部にあてた2月23日付けの書簡でも、「外患内憂(がいかんないゆう)互(たがひ)に切迫の時勢に付き、諸隊中にても隊長等は申すに及ばず伍長伍尾衆に至る迄(まで)深く心を用ひ少々の不平は堪忍(かんにん)之(これ)有りたき事ならむ。萩表の様子(ようす)を察するに、既に政府一新、干城隊も確たる事(こと)故(ゆえ)、内憂を消滅する儀は政府諸君子、干城隊諸壮士に任せ置き、諸隊の者は手を分け、外患を防禦する事(こと)急務ならむ」(『修訂 防長回天史』七 P.103)といい、諸隊を藩士より格下に扱っているのが明白である。高杉はやはり身分意識を強烈に保持しているのである。
 3月中旬、藩は鈴尾駒之進(福原越後の嗣子)を干城隊の総督に、佐世八十郎(後の前原一誠)をその頭取に任命する。3月20日には、山内梅三郎を干城隊総督見習い兼奇兵隊総督に任命した。
 藩主公認となった干城隊もまた、軽輩の者たちが諸隊に加入し、諸隊が強盛(きょうせい)になっては、譜代御家来の威光が立たないとして、藩士の精鋭を選抜し、諸隊の上に立ち敵を打ち砕き、すべての家来の模範ともなるような干城隊再興を命令するように願い奉っている。
 その狙いは、諸隊の上に立って(指導して)敵を挫く体制を作り、藩内家来の模範になるような干城隊(総督は門閥・人望を兼備する者)を再興し、藩内身分制秩序を再建することである。諸隊が椋梨派の政府軍を打ち負かし、藩主の権威が大きく凋落し、諸隊の権威が上昇している情勢の下で、身分制秩序の再建は焦眉の課題なのである。
 実際、諸隊はふたたび征長軍が襲ってくるのに備え、実際、藩内各地に配置される。たとえば、御楯隊は瀬戸内海側の三田尻、遊撃隊は芸州口に近い高森、奇兵隊は馬関に近い吉田村を本拠とするなどである。
 しかし、赤根武人が逃亡したあとの奇兵隊は、寄組(一門・家老に次ぐ重臣層)4700石という大身の山内梅三郎というわずか17歳(数え年)の少年が第四代の総督となる(内戦後、各諸隊のトップには重臣が就いた)が、それは名ばかりで、隊の実権は軍監の山縣狂介と福田侠平が握っていた。そしてまた、各地に配置させられた諸隊は、「御親兵」と称して、山口に分隊を送り込んで藩上層の動きを監視するなど抵抗した。
 4月上旬頃には、毛利幾之進・山内梅三郎が、「諸隊の歎願書」(平隊員の意向がどの程度反映されたものかは不明)として、六ヵ条の願いごとを上訴するが、その中には、第六条として次の願いが歎願されている。

正邪分明〔の〕御実効相挙(あいあが)り候得ば(そうらへバ)、干城隊を以て御国中第一の精兵に相成(あいな)され、御両殿様(*藩主父子)御守衛、諸隊の指揮をも仕(つかまつ)り候様相成り、四方要衝の地へ諸隊分配出張仰せ付けられ、尤(もっとも)偏倚(へんい *かたよること)の議論これ無く日新の御政体を以て富国強兵の基を開き正義凛然(りんぜん *りりしい様)と相立て、御宗祖様に対せられ万世の後(のち)天地に慙(はじ)ざるの御功業御確守遊ばされ候様願ひ奉り候事 (『修訂 防長回天史』七 P.125)

 これに対して、藩主慶親は、4月13日に直目付や諸隊総管らを花江の館に召集し、会議を行なっている。「総管等(など)上疏(じょうそ *箇条書きにして上に奉ること)して公(*藩主)の速に山口に帰り且(かつ)椋梨藤太以下を罪に処せんことを請ふ。公、容易に之(こ)れを許さず、先ず其(その)罪状を審糺(しんきゅう *くわしく問いただす)せしむ。而(しこう)して〔*そして〕諸隊の望む所も唯(ただ)党首及び権現原の刺客を罰するに止まり、其他(そのた)に及ばず。且(かつ)干城隊を以て諸隊の上に置かんと請ふが如き要求極端に馳(は)せざるを以て世禄の諸臣と諸隊との間を融和するに於て大に便宜を得たるものの如し。蓋(けだ)し、外患前に在り、藩内人心の一致は防長上下の最も其(その)急を感じたるに因る。」(『修訂 防長回天史』七 P.125~126)といわれる。
 諸隊解散を強行すべく諸隊鎮圧の藩政府軍を派遣した椋梨派(藩主はこれを是認した)が、諸隊に敗退したばかりである。藩主は、諸隊の存在を考慮し、干城隊を諸隊の上に置く処置に躊躇(ちゅうちょ)したものと思われる。孤立に追い込まれようとする藩を守り抜くには、先ずは「藩内人心の一致」こそが急務であり、世禄の家臣と諸隊の軋轢(あつれき)解消と融和を第一に考えなければならなかったのである。信用を落とした藩主が、「干城隊を以て諸隊の上に置かん」とする処置を、早急すぎ極端と感じたのも無理からぬものである。
 それでも諸隊の編成作業は推進される。「四月には諸隊の編成隊形を整備すべく、役員を定めて隊員五〇名毎(ごと)に総管・軍監・書記・斥候・隊長・押伍を各々一名宛(あて)おき、五〇名増す毎に書記以下を各々一名加えることとして組織の強化を図り、また足軽以下の入隊を許可し、同時に文久三年(一八六三)十二月発布の農町人の入隊制限を含んだ諸規則を各条項増補の上(うえ)再発令した。その『刎紙』の一条がいうところは、『此度(このたび)改て人数定限(ていげん)仰せ付けられ往々(おうおう)不足に及び候共(そうろうとも)勝手に入隊仕(つかまつ)らせず、第八条の心得(こころえ)を以て其節(そのせつ)申し出でられ候様仰せ付けられ候事』というのであり、この第八条とは、文久三年十二月発令の『農商兵の儀は別紙雛形(ひながた)の通(とおり)町奉行御代官役等より送状差遣(さしつか)わせらるべきに付き、夫(それ)を目途(めど)に入隊差免(さしまぬ)がれるべく候事』という条項をさすのである。......更に陪臣についても、『諸隊の内(うち)陪臣入隊も少なからず哉(や)に相聞(あいきこ)え候処(そうろうところ)、此度御軍制改革仰せ付けられ、千石以上の面々一手働(いってばたらき *一つの戦闘集団として軍役に従うこと)に仰せ付けられ候。就(つい)テハ主家(しゅけ *先の千石以上の面々こと)差閊(さしつかへ)の面々モ之(これ)有るべき哉(や)ニ付き、右等の部ヨリ帰省の義申し出で候ハハ早々入隊差除き、主家差し返し候様仰せ付けられ候事』と藩令を下している。」(田中彰著「長州藩における慶応軍政改革」―幕末維新論集④『幕末の変動と諸藩』吉川弘文館 P.101)のである。
 ここでは、農商兵の自由な入隊を制約することを改めて布告し、また陪臣の入隊も主家の都合によることを鮮明にしている。いくら有志の集団である諸隊でも、農商兵や陪臣の入隊を制限することによって、封建的軍事力としての性格を改めて厳しく通達しているのである。
 
注1)中岡慎太郎は高杉の影響を強く受けた一人であるが、1867(慶応3)年9月12日付けの、土佐藩の兵制改革を進める大石弥太郎宛ての手紙で、次のように言っている。「長州御国(*土佐藩のこと)と同じく大禄士分多く、肉食因循(いんじゅん *古いしきたりに従がい、改めないこと)にて、歩卒の業(わざ)を恥ぢ、中々兵制立ち難く、此の勢いを高杉疾(と)く洞見(どうけん *見抜く)せし故(ゆえ)に、奇兵隊を始めとし、諸隊を作りたり」とし、「諸隊なる者は陪臣、足軽、百姓を論ぜず、器(うつわ)により卒となり、長となり、全く有志家の心の侭(まま)に取り立てたる者故(ゆえ)、将卒一致、追々(おいおい)強兵となり、攘夷の時も、内戦の時も、四境の追討(*第二次幕長戦争は長州側から「四境戦争」と言われた)も皆(みな)此(こ)の隊の功をなし国威を輝かしたり」と絶賛している。しかし、他方で、中岡は、「御国は先ず長州の兵制を習い、尤(もっと)も足軽以上を募って可なり。新たに農兵など立てるは不可なり」と、庶民を兵士にすることには否定的である。(平尾道雄著『坂本龍馬・中岡慎太郎』参照)




 (1)長州処分をめぐる幕府・朝廷・諸藩内部の対立
 1864(元治元)年12月27日、征長総督徳川慶勝は長州追討の諸軍に撤兵を命令した。ついで翌年の1月4日、慶勝自身、広島を発して帰途に着く。ところが翌5日、慶勝のもとに幕府の命令書(前年12月24日付け)が届けられた。それは、老中の松平康秀・松前崇広(たかひろ)・阿部正外(まさとう)・水野忠清・本荘宗秀(むねひで)5人が連署したものであった。その内容は、現地の状況もわきまえぬ高飛車なものであり、以下の通りである。

一、 毛利大膳父子(*敬親・広封)父子、江戸表へ指し下しの事。但し、御人数の内にて警衛の事。
一、 三条(*実美)以下七人、江戸表へ指し下しの事。
一、 大膳家来どもきっと相慎(あいつつ)しみ置かせ下知(げぢ *いいつけ)相待ち候様、吉川(きつかわ)初め末家どもの内へ御達(おたっし)なさるべきの事。
一、 江戸表より御下知これあり候まで、所々(しょしょ)出張の御人数を初め引き揚げこれなく、いよいよ油断なく警衛なさるべきの事。〔*指示があるまで駐兵を続けること〕(『七年史』乙丑記上)
             (野口武彦著『長州戦争』中公新書 P.97 より重引)

 すでに解兵を済ましていた徳川慶勝は、大いに苦境に陥った。今さら、駐兵を続けることは不可能だったからである。そこで慶勝は、"自分は委任を受けて最善のことをした。自分の判断が間違っているのならば、幕府の思うままに処置してくれ"と、開き直った。そのうえで、穏便な解決策として、"藩主父子を薙髪(ちはつ *剃髪)隠居させて他藩へ預け、防長の地は10万石削減し、家督は親族のいずれかに嗣がせ、萩城は元通りのままとする"―ことを提案した。
 幕閣は、この提案に全く耳を貸さず、すぐさま"朝廷へ復命のため上京せず、まっすぐ江戸に戻ってこい"と命令した。以後、第二次幕長戦争が終るまで、毛利父子の江戸召致の当否をめぐって、政局の混迷が続くのであった。
 佐々木克氏によると、「長州藩処分については、京都において衆議で方針を定めるべきであるとする主張が、当時の主潮流となっていた。」(同著『幕末政治と薩摩藩』吉川弘文館 2004年 P.308)といわれる。征長総督・徳川慶勝は、朝命によって諸侯を上京させ、衆議によって長州藩処分を決定すべきであると、奏上している。熊本藩士・長岡良之助は、将軍が上洛し、諸藩有志諸侯が参集し、島津久光・松平春嶽・伊達宗城などが一橋慶喜を補翼して「万事一和」の体制で基本方向を決めるべきと主張している。
 だが、1865(元治2)年1月15日、幕府は、将軍の進発を中止することを発表した。長州の処分は、藩主父子を江戸に呼びつけ、幕府の専裁で行なうので、将軍がわざわざ進発する必要はない―ということである。しかし、朝廷は1月18日、これとは異なり、"長州藩の処置は皇国にとって即今の急務かつ大事であるから、将軍は速やかに上洛すべし"と、幕府に要求した。
 江戸の幕閣は、幕府の置かれた状況を全く理解できていないので、慶勝や朝廷の対応に驚いた。そして、このようなことになったのは、京都の「一会桑」体制の陰謀によるものではないか、と疑心暗鬼になった。だが、これは邪推であり、一橋慶喜はむしろ慶勝の解兵の措置に大いに批判的であった。
 福地源一郎著『幕府衰亡論』(平凡社 1967年)は、第一次征長後の長州処分をめぐる幕閣内の不統一にかかわって、次のように述べている。

然るに、当時幕府の内情を顧(かえりみ)れば、すでに前章にも述べたる如く、江戸幕閣と在京幕閣との間において議論常(つね)に陝(あ)わず、加うるに一橋卿が水戸家より出で、御養君論に関しては明らかに当将軍家(*紀州出身の家茂のこと)と対立の候補者たりしを以て、後宮〈大奥〉を初めとして、内廷にも有司にも、自ら一橋卿およびその同論の諸侯に対して猜忌(さいき *ねたみ嫌うこと)の念を挟(はさ)み、甚だしきは卿を目して覇位(はき *覇者の位)を覗覦(きゆ *そっと望む)するの人となし、密かに京都を煽動する陰謀者なりとまでに疑いたる者の江戸に多きを以て、卿が京都に在って籌画(ちゅうかく *はかりごと)せる所は幕府に利あらずと認めて、往々(おうおう)江戸幕閣これを疎隔し、また実際においては、在京幕閣は外交の事情に疎(うと)く、江戸幕閣は国内の大勢に通ぜざる所ありしがために、相互に噬噛(ぜいし *かみつくこと)して政令自然と二つに分かれ、幕議の帰する所は方?円鑿(ほうぜいえんさく *四角な柱を立てるために丸い穴をあけること)の勢いを成したりき。これ、長防処分についても幕議の速やかに決せざりし第一なり。 (P.187~188)

 幕閣の反動的復古は既に先述したが、それは旧来の朝幕関係への復帰志向(幕主朝従)や幕府の諸藩への敵視政策とつらなるものであった。この中で、禁門の変以降、幕閣の慶喜への猜疑の深まりと攻撃が一段と強化された。
 家近氏によると、「まず〔*1864年〕八月五日に、慶喜の護衛として在京していた水戸藩士の国元への帰還を命じる幕命が下る。そして、これに代わって、幕府から二百余名の人員の貸与が通知されるが、これは慶喜に対する露骨な嫌(いや)がらせ行為であった......。そして、この嫌がらせ(敵視)政策の最たるものが、元治元年(*1864年)の十二月と翌元治二年の二月に、二度にわたって行なわれた、慶喜の江戸への連れ戻しを目的とした老中(前者が松前崇広〔たかひろ〕、後者が阿部正外と本荘宗秀)の率兵上洛であった。/二回におよんだ老中の率兵上洛は、慶喜の連れ戻し以外、次のような目的も有した。それは①文久期以来、次第に定着しつつあった朝主幕従の政治秩序を、従前どおりの幕主朝従のそれに引き戻すことを狙った、②将軍の上洛を拒否し、併(あわ)せて開国への国是転換を図った、③慶喜とともに、朝廷との協調関係の樹立に熱心であった松平容保の江戸への連れ戻しも実現しようとした、④諸藩の周旋方を京都から追放することをめざした、等々であった(久住真也著『長州戦争と徳川家』岩田書院 2005年)。」(同著『徳川慶喜』P.90)といわれる。
 2老中の率兵上京(3000の兵を引率)での任務遂行は、慶喜・容保・朝廷、それに薩摩藩によってことごとく抵抗され、徒労に帰した。余りにも幕府の置かれた地位について、認識不足なのであった。逆に、二人は1865(元治2)年2月22日、関白二条斉敬(なりあき)から、率兵上京を詰問され、将軍上洛の遅延を責められた1)。そして、阿部は将軍上洛を促すために江戸に戻るように命じられ、24日、江戸に帰った。本荘は大坂で摂海警衛につくように命ぜら、京都から遠ざけられた。つまり、江戸から率いてきた兵力を京都から退去することを命令されたのである。その後、本荘も将軍上洛催促の朝命を受けて、3月15日に江戸に向かった。
 同日、京都守護職の松平容保は、大老酒井忠績(ただしげ)〔*姫路藩主で、2月1日に大老に格上げされた〕に書簡を送り、将軍が速やかに上洛すべきを説いた。
 政局は、あくまでも毛利父子を江戸に召致し厳罰を加えることに固執する幕府側と、毛利父子の江戸招致は不可能として、将軍が上洛して事態収拾にあたるべきとする京都の「幕府」側(慶喜・容保など)との間での綱引きが続いた。有力諸藩はほとんど後者を支持する形となった。
 江戸幕閣と在京幕閣との対立は政局を混乱させたが、それをさらに複雑化させたのが薩摩藩などの朝廷工作であった。小松帯刀や大久保一蔵などの工作によって、3月2日、朝廷は所司代・松平定敬(さだあき *桑名藩主)を召し出し、次のような朝旨を伝えた。

一、 長州父子、江戸表へ召し呼ばれ候趣(おもむき)なれども、この頃国内も不穏の由候へば、しばらくその儘(まま)に差し置き申すべく候。
一、 実美(*三条)らも同断なれども、また同様その儘差し置き申すべく候。
一、 諸大名参勤、古格に引き戻し候様、去秋達(たっ)しこれあり候由に候へども、諸藩ともこの時勢につき内輪(うちわ)迷惑の様子も相聞(あいきこ)え候。よりて、やはり文久二年改革の通りに致すべき旨に候事。(『七年史』乙丑記上)
              (野口武彦著『長州戦争』 P.109 より重引)

 これには、幕閣は大いにショックを受けたと思われる。中でも(長州処分のみならず)参勤交代制の問題にまで、朝廷が介入してきたのである。「長州征伐」により、幕府の権威が復活したと思い込んでいた老中などは、ことさら衝撃を受けたのである。
 衝撃は、江戸の幕閣だけではなかった。一会桑体制の担い手もまた、大いに驚く。一橋慶喜・松平容保・松平定敬は相談し、この朝旨を関東へ通達することはしばらく止めるべきと、異議を申し立てた。これには、公卿の間でも賛成する者があり、結局、天皇がこの朝旨を撤回することになった。
 当時、江戸幕閣では、将軍上洛に関して、2つの傾向に分れていた。だが、京都から戻った阿部・本荘それに松前崇広が上洛賛成に転じ、これに対し、諏訪忠誠(ただまさ *信濃高島藩主)が最も強硬に反対し、牧野忠恭(ただゆき *長岡藩主)が諏訪に同調した。酒井大老と水野忠精(ただきよ *山形藩主)は、のちに容保の説得に応じて上洛賛成に転じたようである。なお、4月11日に免職になる稲葉正邦(淀藩主)の態度は不明である。
 1865(元治2)年3月29日(「慶応」への改元は4月7日)、幕府は、諸藩に対して長州藩主毛利父子の江戸招致の命令を拒めば、将軍が直ちに進発すべきとして、その準備をするようにと命じた。4月11日には稲葉正邦が、19日には牧野忠恭・諏訪忠誠が相次いで老中を罷免された。(将軍の上洛は、幕府と朝廷ではその理由が全く異なっている。朝廷側は、長州藩処分を京都で衆議・決定するためであり、幕府側は、長州征伐のためである。同床異夢。)
 そして、4月18日、ついに将軍進発令が発せられた。「毛利大膳父子等容易ならざる企(くわだて)あるの趣(おもむき)相聞え、更に悔悟(かいご)の体(てい)なく、且(かつ)御所より仰進(おおせしん)ぜられし趣もあり、かたがた征伐仰出され、五月十六日進発す」(『徳川慶喜公伝』3 P.148~149)と。
 長州征伐の理由が「容易ならざる企てあるの趣」という、抽象的かつ曖昧(あいまい)なものであったため、大方の受け止め方は否定的か、中立的なものであった。
 案の定、将軍の進発が決定されると、前の征長副総督の越前藩主・松平茂昭(春嶽の後継者)は幕府に建白書を送って、"またまた大兵を動かすのは必ず天下の乱れを起こし、諸大名や人民の困窮をもたらすので、思い留まるべき"と、再征は害のみが多く一利もないことを訴えた。そして、父の春嶽は、この建白書の写しを朝廷をはじめ諸方面に送付した。
 だが進発は強行された。将軍の一行はものものしいいでたちで1865(慶応元)年5月16日に江戸を出発し、東海道を西に軍を進めた。「この日の将軍は、陣笠をかぶり、錦の陣羽織・小袴(こばかま)を着(き)、馬にまたがって江戸城を出発、神君家康が関ヶ原に進発したときの例にならって、金扇および銀三日月の馬標(うまじるし)を立てて進んだ。歩・騎・砲の幕兵が前後を警衛し、老中・若年寄以下、幕臣・諸藩主・諸藩兵も随行し、威風堂々たるものであった。」(小西四郎著『日本の歴史』19開国と攘夷 中公文庫 
 P.401~402)といわれる。
 この一行には、文久期の軍制改革いらいの成果ともいうべき部隊が随従している。「馬に牽(ひ)かれた大砲を先頭に、新式の歩兵隊がゲベール銃を肩にして、一斉に打ち鳴らす太鼓に合わせ、足並みを揃えて行進」(野口武彦著『長州戦争』P.112)している。そして、江戸の群衆が大勢で見物する中の壮麗な軍事パレードであったとも言われる。しかし、将軍家茂は、生きて再び江戸の地を踏むことはなかった。
 将軍一行が西上の途(みち)にあった5月22日、伊予宇和島前藩主・伊達宗城は、幕府の征長の命令を奉じないことを明らかにした(宇和島藩と長州藩は姻戚関係にある)。
 将軍らは、5月26日には駿府城に入った。この日、備前岡山藩主の池田茂政は、長州再征は不当として、京都に藩士を派遣し情勢を探らせた。その結果、征長中止を幕府に建言する方針を固め、鳥取藩主池田慶徳・阿波藩主蜂須賀斉裕の同調を求めた(池田茂政と池田慶徳は、慶喜と実の兄弟)。池田慶徳の考えは、時期尚早という返事であったが、蜂須賀は"軽挙に失せず慎重に事に当たるべし"と建白した。伊勢津藩主藤堂高猷(たかゆき)や肥後藩も消極的であった。長州藩再征は、一部の小藩が賛成したが、ほとんどの大藩は反対した。薩摩藩以外にも、征長に反対(あるいは賛成しない)の藩は、少なくなかったのである。
 将軍家茂の一行はゆるゆると歩を進め、閏5月22日にやっと入京し、直ちに参内して長州再征の理由を奏上した。すなわち、「毛利大膳(*藩主敬親)昨年伏罪の処(ところ)、其後(そのご)激徒再発し、加之(しかのみならず)私(ひそか)に家臣を外国に遣(つかは)して、大砲・小銃等の兵器多数を購入し、其上(そのうえ)密商等の所業に及べる事、確証あるによりて進発仕(つかまつ)りぬ。又(また)曩(さき)に仰出されたる諸大名参勤交代復旧については、長州処置の折柄(おりがら)、何分(なにぶん)即答申上げ難きにより、暫時(ざんじ)御猶予を願ふ」(『徳川慶喜公伝』3 P.155)と。
 だが、天皇は口頭で、「長防の処置は、大坂に滞在して篤(とく)と評議を遂(と)げ、至当の処(ところ)を言上すべし、国家重大の儀なれば軽挙することなかれ、総(す)べて尾張玄同(*尾張藩主)以下、一橋中納言(*慶喜)・松平肥後守(*容保)・松平越中守(*定敬)へも熟談すべし」(同前)と宣(の)べた。将軍は、これを「謹みて御請(おうけ)をなせり」(同前)という。
 こうして、「閏五月下旬から六月にかけて大坂城の御用部屋で断続的に開かれた評議の席で、処分に至るまでの段取りが決まる。つまり、岩国藩主の吉川経基と、長州藩の支藩にあたる徳山藩主の毛利元蕃(もとみつ)の両名を大坂に呼び出し、長州藩に関わる疑問点を問い質し、そのうえで最終的な処分に及ぶことになった。長州藩に関わる疑問点とは、(1)高杉らの挙兵にまつわる件、(2)同藩が外国から兵器を購入している件、(3)ならびに密貿易を行っている件(長州藩は元治2年2月に大村益次郎を上海に派遣し、藩所有の蒸気船を売却し、その利益をもって銃器の購入を図った)、等であった。そして、これら諸点について明確な回答がない場合は、再討をも含む決断を下すことになった。
 だが、幕閣の軍事方針は実に甘いものであった。将軍は老中以下諸有司を従えて、大坂城に滞在し、第一次征長の再現を夢見て、"今更(いまさら)兵を大坂以西に進めんよりは、徐(おもむろ)に長州より伏罪使の至るを待つに如(し)かず"と坐していた。
 しかし、長州から伏罪使が派遣される様子は一向になく、将軍が江戸を進発して以来2カ月も経過する。
 ついに幕府は、一橋慶喜と阿部正外が上京して朝廷の許可を得て、6月23日、長州支藩徳山藩主・毛利元蕃(もとみつ)と毛利家支族・吉川経幹(つねまさ *監物)に大坂へ出頭することを命令した。長州藩の処分に着手するためである。しかし、長州藩は、病気を理由に、この出頭命令を拒絶した。また、家老の宍戸備前は広島を訪れ、しきりに安芸藩に長州への寛大な処置を賜るように周旋を依頼した。安芸藩はこれに応え使者を上坂させ、長州の上坂の猶予を周旋した。しかし、幕府はこれを拒絶し、今度は長州支藩の長府藩主・毛利元周(もとちか)・同清末(きよすえ)藩主・毛利元純(もとずみ)などの、大坂への出頭を9月27日までに行なうように命じた。しかし、長州はこれに対しても、同様の理由で拒絶した。
 幕府は、完全に長州藩の時間稼ぎのための外交交渉に翻弄させられた。この間に、長州藩は軍備の増強を着々と図っていたのである。
 将軍家茂は、1865(慶応元)年9月16日二条城に入り、21日ついに参内して長州藩再征の勅許を得た。2)
 しかし戦争開始(1866年6月)までには、まだまだ紆余曲折があり、幕府大軍の大坂滞在は約1年と長い時間を要することとなった。野口武彦著『長州戦争』(中公新書 2006年 P.131)によると、この時の幕府軍の陣容は以下のようである。(ゴシック体は、歩兵隊関係)

 図表7 幕府の征長軍編成
編成    隊名     兵員数   指揮官名                  
一番隊  歩兵一大隊    1150   歩兵頭 戸田肥後守、同並 城織部
     歩兵一大隊    1565   歩兵奉行 河野伊予守
     御持小筒組三小隊      持小筒頭並 大平鉱次郎
     大砲一座                                
二番隊  大御番・御先手  1127   御先手 藤沢讃岐守             
三番隊  書院番           書院番頭 本多日向守            
四番隊  千人同心槍隊
     千人同心銃隊   1325                         
五番隊  銃隊一大隊         講武所奉行 遠藤但馬守
     大砲一座                                
六番隊  中奥小姓・御番組      中奥小姓 蜷川左衛門尉           
七番隊  中奥御番組         中奥御番 大沢主馬             
八番隊  御先手      1764   御旗本奉行 山名壱岐守           
九番隊  歩兵一大隊    1652   陸軍奉行 竹中丹後守、歩兵頭 富永相模守、
                   同並 森川荘次郎・都築鐐太郎
     大砲一座 
     御持小筒組三小隊
     御中軍      3782
     歩兵一大隊     ?   陸軍奉行 溝口伊勢守、歩兵奉行 小出播磨守 
     大砲一座
     御持小筒組三小隊  100
     講武所鉄砲方    300
     講武所槍剣方                                    
十番隊  御側衆同勢
     歩兵半大隊     ?   歩兵頭 平岡越中守、同並 朝比奈織之丞     
十一番隊 老中同勢                                   
十二番隊 老中同勢                                   
十三番隊 老中同勢                                   
十四番隊 若年寄同勢    1807
左右備       809                         
十五番隊 奏者番・玉薬奉行                              
十六番隊 歩兵二大隊半   2000   歩兵頭 久世下野守、同並 岡田左一郎・深津
                   弥左衛門・井上佑次郎
     御持小筒組六小隊
     大砲二座                               

 なお、陸軍奉行(5千石)・陸軍奉行並(3千石)は陸軍中将に、歩兵奉行(3千石 一旅団を指揮)は陸軍少将に、歩兵頭(2千石 連隊を指揮)は陸軍大佐に、歩兵頭並(千石 一大隊を指揮)は陸軍大佐に相当する。
 しかし、ここに示された兵員数は、野口氏が言うように極めて疑わしい。「右の一覧から、とりあえず歩兵隊関係でわかるだけの数字を合計してみると、ブランク(*?のこと)があるにもかかわらず六千三百六十四人になる。この数字は、大手前・西丸下・三番町・小川町の歩兵屯所全部の定員六千三百八十一名とほぼひとしく、実際にこれだけの員数が集められたかどうかは疑わしい。しかもそっくり下坂したのでは、江戸に留守部隊も置けない。誇大な数字と見るべきであるが、確認はできない。」(野口武彦著『幕府歩兵隊』P.113)のである。(幕府歩兵隊については、《補論 幕府歩兵隊の形成》を参照)
 先述したように、幕府は長州再征の勅許を9月16日に手にした。だが、今度は別の新たな問題が、引き起こされた。9月17日、英仏米蘭4カ国の外交団が艦艇に乘って、大坂湾上に来航したのである。条約勅許と兵庫の即時開港を要求するためである。

注1)上京した本荘宗秀と阿部正外が、1865(元治2)年2月22日、参内を命じられて、関白二条斉敬(なりあき)から"何のために上洛したのか"と質問された。二老中は、"筑波山挙兵後の水戸藩内の鎮静化のために、一橋慶喜にしばらく暇を下されたくお願いに上がった"と答えた。しかし、関白は、"昨年5月、将軍の東下の代りに「名代」として慶喜を上京させると、将軍の直書がある"と、さらに2老中に詰めよった。二人は、"新任の者だからその辺の事情はわからない"と、言い繕(つくろ)いをするのが精いっぱいであった。国家の根本問題で老中間の引き継ぎがなされなかったような失態は、久世広周(老中在位1851年12月~1858年10月)が、老中辞任の際に、天皇に「破約攘夷」を約束したことを後任の老中に引き継がなかった事例でも既に存在した。「......すくなくともこの二つの例をみる限りにおいて、幕末の幕閣組織・老中政治は、基本的かつ構造的な欠陥をもっていたように思える。庶政委任体制のもとにおける国政運営の最高実務は、老中を中心とした幕閣にまかされることになっており、幕府が責任を持って職務を遂行することを原理原則としている。これが朝廷と諸藩の合意事項(幕府も当然のはずであるが)であった。その重い責任のある立場の老中が、上述のような失態を演じたのである。そのことは単に本荘・阿部両老中の失態・失策にとどまるものではなく、幕閣・老中の基本的体質的欠陥を明るみに出し、幕府自身の体制的危機を招いたことを意味していたのであった。すなわちこの事実関係を知った誰もが、幕府にはもはや国政を責任をもって担当する能力がないと判断し、したがって幕府に庶政(諸政)を委任する体制自体に批判的になってゆくのである。少なくとも薩摩藩には、そのような傾向がはっきりとみえてくる。」(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』P.310)のであった。
2)長州再征の勅許に対して、大久保一蔵は二条関白に向けて、「朝廷これを許し候(そうら)はば、非義の勅命にて、朝廷の大事を思う列藩一人も候はず、至当の筋を得、天下万民御尤(ごもっと)もと存じ奉り候てこそ、勅命と申すべく候得(そうらへ)ば、非義の勅命は勅命に有(あ)らず」と言い放った。勅命に関しては、すでに1863(文久3)年の8・18クーデターの前後で、正反対の内容をもつ綸旨(りんじ)が出され、評判を落としていた(孝明天皇は今後の勅命が真の勅命と言った)。ここで、大久保は長州再征の勅命に対して、「非義の勅命は勅命に有らず」と、正論を吐いたのである。しかし、それでも天皇制の利用を廃止するという事にまでは発展しなかった。自己の立場・考え方に照らして、「非義の勅命」と「有義の勅命」に色分けしただけである。天皇制を利用し得るものとしての態度は、なんら変わらなかったのである。

《補論 幕府歩兵隊の形成》
 1854(嘉永7)年3月、日米和親条約が調印され、「開国」の圧力が一度に重くのしかかる中で、時の老中首座・阿部正弘らは安政改革の一環として、軍制改革を行なう。
 1854年7月24日(「安政」改元は、この年11月27日)、大目付井戸弘道・筒井政憲、勘定奉行松平近直・川路聖謨(としあきら)、目付鵜飼長鋭(ながとし)・一色直温(なおあつ)・岩瀬忠震(ただなり)の7人が軍制改正掛(がかり)に任命された。講武場創設の大綱が決められた。しかし、この年から翌年にかけて「安政の大地震」などもあって講武所の正式な開場は1856(安政3)年4月になってからである。
 だが、海軍と比較し、陸軍の改革は極めて遅々たるものであった。講武所の師範役は、剣術・槍術・弓術・柔術・砲術の各分野が決められた。確かに、当時の時勢を反映し、流派のメンツを超えた実践的な軍制を立てようという姿勢はあったが、如何(いかん)せん現実ばなれは甚だしく時代遅れそのものであった。かろうじて砲術部門はあったが、旧来の戦法に固執し、刀槍中心の域を脱していない。
 深川越中島に銃隊調練場ができたのは、ようやく1858(安政5)年1月であった。しかし、伝統的な刀槍に誇りをもつ武士たちにとって銃隊編成の意義がわからず、越中島調練場への出席者も減少し、かんばしいものではなかった。
 当時の講武所掛の目付から出された建白は、つぎのように嘆いている。

......当今の模様にては年月を経(へ)候とも、実用御用立ち候ものに数多(あまた)教育相遂(あいと)げ候(そうろう)見据(みす)ゑも之(これ)無き儀と相聞(あいきこ)え、尤も稽古(けいこ)罷(まか)り出で候ものもその向(むき)により候ては御役前(おやくまえ)、名目のためにのみ出席、或いは御番入り等の廉(かど)を差し含み、成業(せいぎょう *事業あるいは学業など本来の業を成し遂げること)の心掛(こころが)けは差し置き、多少の日数ただただ出席いたし候までにて、頭取等の手前、品よく取り繕(つくろ)ひ候ものもこれあるにや相聞え候。......
かつまた講武所において、諸組御役前稽古の儀は、弓・砲見分(けんぶん *検分)し、年限り仰せ出だされ候趣(おもむき)も〔*一年間稽古して、その技量を見届けることになっている〕これ有り候えども、とかく他場所出役(でやく)〔*他の出役になっていると称し〕または老若病者など多く、はかばかしき稽古もこれ無きやにて、諸組与力(よりき
 *奉行などを補佐した職)・同心(どうしん *与力の下にあった下級の役人)等は当番前後、諸加番日(かばんび *番に加勢する日)前後など相除き出席仕(つかまつ)り候事ゆえ、纔(わず)かに一月のうち三、四日ならでは出席仕り難き様子これ有り。一通り砲器取り廻し等(など)呑(の)み込み候のみにては余術はもちろん、銃陣一隊の変形自在を得(え)候まで相進み候ものも、さまで多人数には之(これ)無き趣、......
  (『勝海舟全集』16―「陸軍歴史」巻十八 勁草書房 1974年 P.484~485)

 真面目に稽古に出席する者が少ないうえ、肝心の小隊運動ができていないというのである。単に銃器の操作を学ぶだけでなく、小隊運動ができるか否かは銃隊としては極めて重要問題であり、それができいということは軍隊といえないと言っても過言ではない。「教練するのは、歩兵戦闘の基本単位だった小隊である。一小隊の兵士は三十二名を半隊二つに分け、前方十六人は二人一伍(いちご)の二列八組から散兵に展開し、後方十六人は二列横隊で補助兵になる。各半隊には司令士または押伍(おうご *副官)が付いていて、行進を先導し、散開時には両翼に位置する。小隊運動の基本である。」(野口武彦著『幕府歩兵隊』P.44)とされる。
 1860(安政7)年1月、講武所は神田小川町に移転する。そして軍制改革の再検討がなされ、翌1861(文久元)年5月11日、池田長顕(ながあき)ら10名の新チームが作られ、さらに軍制改革が進められた。 
 1862(文久2)年6月、ようやく軍制改革取調べが上申された。これにより、ヨーロッパ各国の兵制に倣(なら)って、「全国御備へ」(国民軍の創設)を作るべきとしたが、これは将来の問題として、とりあえず「親衛常備軍」の創設に専念することが基本方針となった。それは、オランダ兵制を手本として、総軍を歩兵・騎兵・砲兵の三兵種をもって編制するとした。
 まず第一に砲兵は、軽野砲隊と重野砲隊がある。軽野砲隊は、六斤砲(6ポンド砲のことで、重量6ポンド〔2・7キロ〕の砲弾を発射する)と十二ドイム・ホーイッスル砲(口径120ミリの榴弾〔到達点でさく裂させる砲弾〕砲)を装備する。砲兵の戦闘単位は砲座であり、一座ごとに砲八門、砲手64人で、六座を設定したので計384人である。うち、二座は騎砲隊(移動砲隊)としている。
 重野砲隊は、十二斤砲(砲弾従量・4キロ)と十五ドイム・ホーイッスル砲(口径150ミリ)を装備する。江戸城外郭門13か所で半砲隊ずつで六座半、大砲五十二門、砲手56人である。重野砲隊の任務は、「郭門邏戍(らじゅ)」すなわち外郭門を警備するので、砲座は固定である。
 砲兵の兵員調達源は、軽・重ともに諸組の同心があてられた。だが、砲手定員は800人で、当時の同心数は2854人であるため、2054人が冗員となる。
 第二に、騎兵は重騎兵と軽騎兵がある。重騎兵は、騎銃(カービン銃〔歩兵銃より小型〕)を携行し、全軍を護衛して敵の歩兵を駈け破るものである。騎兵の戦闘単位は騎兵大隊(エスカドロン)で、一隊96騎で編成され、6騎兵大隊が設定された。
 軽騎兵は、短槍を持って、重騎兵の側面および騎砲兵を護衛する。俊敏性が要求される。2騎兵大隊、192騎が設定された。
 騎兵の調達源は、小普請(こぶしん *非役の旗本などを指す)の御目見(おめみ)え〔*将軍に拝謁できる〕以上の者、諸組与力(与力は乗馬できる身分)などである。だが、与力は数多く、軽騎兵だけでも300騎以上が冗員であったと言われる。
 第三に、歩兵は、重歩兵と軽歩兵がある。重歩兵とは、西洋兵制では銃剣を武器とする戦列歩兵である。文久改革案では、重歩兵総計6381人が、先鋒4778人(6連隊〔12大隊〕)、郭門邏戍520人(13小隊)、留守部隊1073人(4大隊)と設定されている。1連隊は2大隊から成り、1大隊は小隊10隊から成っている。1小隊は、20伍(2人一組で40人)・銃卒400人から成っている。
 重歩兵は、「士分以下の兵卒であり、旗本の知行地から供給させる。旗本の知行高に応じて五百石は一人、千石は三人、三千石は十人という割合で賦課する。但(ただ)し、五百石以下及び端高(はしだか *たとえば千三百石取りの場合は三百石分を指す)・足高(たしだか *役職手当)、蔵米取(くらまいとり *土地ではなく蔵米から給与される)は兵賦の代りに金納。百石から五百石以下までは百俵につき金二両〔*知行取の百石は蔵米取の百俵に換算される〕、五百石以上千石までは同二両二分、千石以上は同金三両。......」(野口武彦著『幕府歩兵隊』P.54)である。
 軽歩兵は、銃をもつが帯刀していて、隊列に入らずに機動的に戦う。軽騎兵のうち、「先鋒」大砲隊・火薬運搬車・輜重車(しちょうしゃ *兵器・食糧・被服などを運搬する車)の護衛が任務で、「撒兵(さっぺい)」とも言われる。一大隊は銃卒256人の定員で四大隊1024人(うち旗手が4名)である。「親衛狙撃隊」は四大隊844人が設定されている。
 「先鋒」の調達源は小普請の御目見え以下の御家人(ごけにん)であり、「親衛狙撃隊」のそれは、小十人(こじゅうにん)組1)・富士見宝蔵番・天守番・徒士(かち)組の番士である。いずれも御目見え以下の軽輩である。軽輩であるが故に、銃卒を担い得たのであり、士分であれば拒否されたであろう。
 だが、文久軍制改革は、伝統的な諸矛盾を正面から解決することなく、これを将来の課題として持ち越して、とりあえず近代的銃砲隊の形成に突進した。つまり、本来、将軍の親衛隊ともいうべき旗本の過剰な存在を解決しなかったこと、上層武士には鉄砲を持たせず、また徒歩では戦わせないこと―などである。これでは、従来の軍役体制は、基本的に残存せざるを得ない。ここにおいて、海軍と違って、陸軍の近代化が遅々として進まない体制問題があったのである。
 では、肝心の銃隊の担い手は誰がなるのか? ここに農兵とは異なる形で、農民が徴集されることとなった。
 1862(文久2)年12月2日、幕府は、歩兵人員差出しの命令をすべての旗本知行地に発布した。いわゆる「兵賦令」である。

兵賦(へいふ)は銃隊に組み立て、陣営に差し出し置くべく、十七歳より四十五歳まで、壮健の者(もの)相撰(あいえら)び、五ヶ年季交代の者差し出すべく、主人・当人の存じ寄り〔*思い付き〕次第、継ぎ年季(*五カ年以上継続すること)苦しからず。格別(かくべつ)御用立ち候者〔*とりわけ役に立つ者〕は御取立てにも相成(あいな)るべく、歩兵組と唱え勤め中小揚(こあがり)のもの次(つぎ)たるべく、脇差(わきざし *大小刀のうちの小刀)のみ帯び候積(つも)りにて、勤めに付き候諸道具・衣類・脇差とも御貸し渡しに相成り、給料は主人主人にて一ヶ年金十両を限り、程能(ほどよ)く取らせ遣(つか)はすべく、勤め中食糧は下さるべく、金納は三月、十一月と両度に御勘定所へこれ納め、御蔵米取(*蔵米から給与支払いの旗本)は三季渡しの節、その高に応じ引き落し御渡しの旨、尤(もっと)も兵賦(*銃隊に召集された者)は正月中旬までに呼び寄せ置き申すべき旨(むね)命ぜらる。
(『勝海舟全集』巻17―「陸軍歴史」二十 P.20)

 兵賦とは、元来、軍役課徴金の意味であったが、この頃になると、指し出された兵士当人を意味するようになった。だが、人数割りは、旗本の窮乏を考慮して、当分の間、三千石以下から五百石までは、先述の割合の半分でよいこととなった。また、兵賦当人を指し出すのに故障がある場合は、半減の金納でもよいこととなった。さらに、五百俵以下は、「追って御沙汰まで、兵賦・金納とも差し出すに及ばず」と猶予が与えられている。
 この「兵賦令」の特徴は、以下の点に特徴がある。
①銃隊を組織するために、農民などを差し出し、これを屯所に入れる。
②兵卒は17歳から45歳までの壮健な者を選び、5年を限度に入隊させる。主人や当人の希望次第では、年季を延ばしてもよい。
③勤務成績がよい者は、身分を取り立て出世させることもある。
④名称は「歩兵組」とし、勤務中は小揚(こあげ)に次ぐ身分とする。小揚とは「浅草御蔵小揚の者を指し、三両一人扶持を与えられた最下層の奉公人」のことと言われる。小揚は蔵米になる米を陸揚げする者であり、歩兵組はそれに次ぐ身分というのである。
⑤脇差はさす事ができる。
⑥武器・附属品・衣服は、お上が貸与する。
⑦給料はそれぞれの主人が決めるが、1か年10両以下がほどよいとされた。
⑧食糧は、お上が支給する。
 歩兵は、江戸近郊の農民出身者が多かったが、生活費と武器は主人とお上の支給によっていた。農兵との最大の違いは、郷土防衛・郷土の治安維持の要素が主な農兵に対して、歩兵組はその戦闘行動は幕府の指揮の下にあり、郷土防衛とは全く無関係であったことである。兵賦は金納でもよいとなったので、旗本たちには金納が増え、幕府は江戸で歩兵に雇い入れることが増大した。このため、歩兵隊は後になればなるほど、ますます傭兵部隊に化していったのである。
 幕府歩兵隊の戦場での初経験は、1864(元治元)年3月、筑波山で水戸天狗党が挙兵し、藩内でこれを鎮圧できず、6月、幕府が諸藩と共に追討軍を送ったときである。追討軍が水戸藩内で天狗党を鎮圧できないほど、天狗党は戦さなれしていたが、幕府歩兵隊は初めてにしてはまずまず善戦したようである。
 しかし、文久軍制改革における陸軍の大きな欠陥は、官僚組織が上から作られたため、有能な士官が徹底的に不足していたことである。陸軍上層部には大身の旗本などが座り、最下層には農民出身の歩兵や江戸の町で雇い入れた歩兵はいたが、戦いの前線で指揮をとる士官が足りず、適切な指揮が無く敗退した事例は天狗党鎮圧の実戦においてもみられたのであった。
 この頃、陸軍奉行から歩・騎・砲の三兵から選抜した士官をオランダに派遣して、最新の知識と技術を学ばせようという計画が提起された。ところが、この件を検討するうちに、なにも遠いオランダにわざわざ派遣しなくとも、近くの横浜に駐在するイギリス兵の総督から伝習を受けた方が手っ取り早いということに気付く。当時、横浜には1862(文久2)年8月の生麦事件の結果として、イギリス兵の駐兵権が認められ、約1000の兵士が駐在していたのである。
 歩兵隊はイギリス歩兵式の調練を受けて、見違えるようになった。士官養成は、実地に部隊運用をしなければありえない、歩兵も士官の指揮なくしては実際の訓練とはならない。「調練は、一小隊四十人を単位としてそれが二十組、八百人が一体になって進退を繰り返す。『開け』の号令で隊列ごとに疎開し、『詰め』で閉縮する。『旋(まわ)れ』で旋回する。行軍隊形から戦闘隊形に転じ、さらに散兵線を布(し)いて火線を形成する。大隊運動の基本原理は、縦隊の横隊への変換・散兵への展開・また密集隊形へに収束という定石である。最前線に散戦隊が進出し、補備隊(援隊)が背後から掩護(えんご *本隊や友軍の行動や拠点を敵の攻撃から守ること)し、後方に予備隊が待機する。予備隊はただ温存される兵なのではない。前線の戦闘中は無傷で保存しておき、最後の勝機で決戦に投入される兵力」(野口武彦著『幕府歩兵隊』P.101)なのである。
 日常的な訓練以外にも、ときには日英合同の演習も行なわれている。
 幕府歩兵隊は、旗本の多くとは全く関係ない所で形成されていったのである。こうして近代的な軍組織からはじき出された旗本は、今や自らの存在理由は一かけらもない無用の長物となってしまったのである。

注1)小十人組(扈従人組とも表記する)は、大番・書院番・小姓組・新番とともに「五番方」と称し、幕府常備軍の一翼を担った。江戸初期に作られ、大坂冬の陣(1614年)に従軍している。10組を定数として、各組には頭1人(役高1000石、布衣、若年寄支配)、組頭2人(役高300石、御目見え以上)、組衆20人(役高100俵10人扶持、御目見え以上)があった。平時は江戸城中の檜の間、小十人番所に勤番し、将軍の出行には輿(こし)前に供奉(ぐぶ)した。戦時には、将軍の旗本として出陣した。

 (2)条約勅許と兵庫即時開港の要求
 イギリス公使オールコックは、1864(元治元)年11月、本国に召還され、その後、ウインチェスターがしばらく代理公使となっていた。次のイギリス公使は、上海領事から日本公使に就任したパークスである。パークスは20余年も中国に滞在し、アロー号事件の時には広東領事であって、第二次アヘン戦争(1856~60年)を積極的に仕掛けた人物の一人である。
 パークスは、1865(慶応元)年閏5月に、長崎に到着する。長崎には約一週間滞在し、この間に諸藩の藩士から貿易の利益を独占する幕府への非難と、外国との貿易を熱望する諸藩の要求がある―との報告を受けた。横浜へは閏5月16日に着任するが、その途中長州に立ち寄り、桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔(*博文)らと会見し、情勢を討議し同藩の考えを聞いている。
 閏5月2日には、代理公使ウインチェスターが幕府に対して、諸大名の自由貿易実行を勧告する。パークスは江戸着任後、老中水野忠精(ただきよ)と会見して、貿易が不振となることを憂慮して、長州問題の平和的解決や諸大名の貿易参加を勧告した。しかし、水野は強硬態度を示して、パークスの勧告を受け入れなかった。
 8月に入ると、パークスは本国から下関賠償金支払いについて、次のような方針を受け取った。(7月15日、幕府は第一回支払いを行なう。だが、第二回以後の支払いの延期を各国に要望していた)
 その方針とは、「償金第二回以後支払いの猶予の要求を拒否し、一八六六年(慶応二)内に、全部支払うことを要求せよ。しかし次の三つの条件が承認されるならば、延期を承認し、かつまた償金総額の三分の二(二百万ドル)を放棄してもよい。
(一) 幕府が、兵庫・大坂を一八六六年一月一日(慶応元年十一月十五日)から、開港・開市すること。(一八六二年のロンドン覚書は、一九六八年に延期している)1)
(二) 幕府をして、条約勅許を得させること。
(三) 輸入税をだいたい五分(5パーセント)に軽くすることを原則とし、五分ないし一割に改めること」(小西四郎著『日本の歴史』19開国と攘夷 P.369~370)というものであった。
 9月には、パークスはさらにイギリス外相から、「償金支払い延期の拒否か、または代償を要求するかを、四国(英・仏・米・蘭)使臣間で交渉せよ」との、訓令を受けている。
 フランス公使ロッシュは、はじめの内は必ずしも全面的に賛成ではなかったが、のちには賛成するようになる。条約勅許や税率引き下げは、フランスにとっても有利であったからである。オランダは、軍事力が強力でなく、イギリスに追随していた。アメリカは、南北戦争(1861~1865年)が終るまで、積極的な対日方針を展開できなかった。
 遅くともこの頃までには、諸外国は、"幕府が全面的に日本を統治しきれておらず、尊王攘夷運動が高まるにつれ、雄藩が徳川氏との主従関係を疎かにして天皇・朝廷と直接に結びつき、天皇・朝廷の権威が浮上してきており、条約関係を安定的にするには天皇・朝廷の承認も必要である"ことを理解してきた。
 時も時、この年閏5月には、将軍家茂も上方に居り、4カ国公使は日本との条約を確かなものにするには好都合と考え、イギリス軍艦5隻・フランス軍艦3隻・オランダ軍艦1隻の計9隻の連合艦隊を以て、兵庫沖に赴いたのである。
 4カ国は、条約勅許と兵庫即時開港の要求を幕府につきつけたが、しかもそれは7日間の期限付きの要求であった。もしその間に回答が無ければ、上京して直接朝廷と談判するというものであった。
 当時の幕政は、老中の阿部正外・松前崇広の指導のもとにあった。9月25日、幕閣会議が大坂で行なわれ、兵庫の即時開港を回答する方針が決定された。阿部・松前らは、4カ国公使らが直接朝廷と交渉することを恐れ、また幕府の権威を見せつけるために、このような決定を行なったのである。兵庫の即時開港を回答するということは、条約勅許は不要であるとの態度である。つまり、改めて条約勅許を朝廷から受けるのでなく、このことを前提として、兵庫開港をすぐに行なうということである。
 この決定は、朝廷・尊攘派雄藩との真向からの対立を意味する。それどころか、「一会桑」体制の立場をも完全に無視する措置でもある。慶喜は、尊攘派の反対を押えることができないと猛烈に怒り、大坂に駆け付け、若年寄・立花種恭(たねやす)を兵庫に派遣して4カ国の回答期日を延期させ10日間の猶予を得た。そして、将軍に対しては、すぐに上洛して勅許を得るように説得した。だが、老中たちは、なかなか将軍を入洛させない。
 そこで、慶喜は、"阿部・松前が勅許もなしに列国の要求を受け入れ、兵庫開港を行なおうとしている"と公卿を煽動する。この結果、朝廷は前代未聞の幕府人事への介入を行なう。すなわち、「『井上主水正(もんどのかみ *義斐〔よしあや〕)が大坂町奉行の身を以て、一応の談判に十日の猶予を承諾せしめたるに、阿部豊後守(*正外)・松前伊豆守(*崇広)が老中の重任を以て、僅(わずか)に一日の猶予を得たるは誠意の足らざるなり、まして叡慮をも伺はず、直に其(その)請(うけ)を許さんとせしは不届(ふとどき)至極(しごく)せり。凡そ幕府の処置(しょち)宜(よろ)しきを得ざるは全く両人の罪なれば、両人に改易・切腹を命じ、関東留守居の酒井雅樂頭(*忠積)・水野和泉守(*忠精)に半地・永蟄居を命ぜん』との議を決したるが、是(これ)には堂上一人の反対者もなかりき。因りて二条関白(*斉敬)は豊後守・伊豆守・処罰の朝旨を公(*一橋慶喜)に伝へたるに、公、『堂上の憤激はさることながら、斯(か)くては将軍の職掌にも障(さは)れば、切に寛宥(かんゆう)せらるべし』とて、肥後守(*松平容保)・越中守(*松平定敬)と共に関白に内請すれども、朝廷聴(き)かず、叡慮を以て、『豊後守・伊豆守の官職を召放(めしはな)ち、国許に謹慎せしむべし』との命を将軍に伝へらる。」(『徳川慶喜公伝』3 P.183~184)とのことであった。
 だが、官位の剥奪はともかく、朝廷による老中の罷免とは未だかつてないことであり、朝廷の幕府人事への露骨な介入である。この朝命(9月29日伝達)には幕府側が怒り、将軍の職責を果たせないと、1865(慶応元)年10月1日、家茂の将軍職辞表を朝廷に提出した。
 すなわち、「臣(しん)家茂幼弱不才の身を以て、叨(みだり)に征夷の大任を蒙(こうむ)り、及ばずながら日夜勉励(べんれい)仕(つかまつ)りしに、内外多事の時に膺(あた)り、上(かみ)宸襟(しんきん)を安んじ奉り、下(しも)万民を鎮め、国を富まし兵を強うして、皇威を海外に輝かすこと能(あた)はず、竟(つい)に職掌を?(けが)さんと痛心の余り、胸痛強く鬱閉(うっへい *物事がふさがって流れないこと)今に及べり。然るに臣の家族慶喜は闕下(けつか *天皇のもと)に在(あ)ること年久しく、その事務に通達し、大任に堪(た)へたれば、臣は退隠して慶喜に相続せしめ、政務を譲らんとす、願はくは臣の時の如く、諸事(しょじ)御委任(ごいにん)成し下されんことを、当今の時務は別紙を以て奏聞(そうもん)す」(『徳川慶喜公伝』3 P.185)と。
 幕閣は、慶喜の画策をみてとり、後継に慶喜を推奨するという「皮肉」をもって、朝廷・慶喜をあてこすったのである。
 ただこの表をみると、今や、佐幕派、尊皇派を問わず、「富国強兵」を行ない、「皇威を海外に輝かす」ことが、常識的な見解となっているのが明らかである。この事が、家茂にはできないから辞職するとのことである。また、この時の別紙とは以下の内容である。

臣家茂謹(つつし)んで宇内(うだい *天下)の形勢を熟考するに、近来(きんらい)時運(じうん *時のまわり合せ)変遷(へんせん)して、和親を結び、有無を通じ〔*貿易のこと〕、互いに富強を計る、これ天地自然の気数(きすう *変化・流れ)、已(や)むを得ざる勢(いきおひ)なり、皇国に限り一向(いっこう *ひたむきに)外交あらせられずんば、卑怯(ひきょう *勇気がない)退縮(たいしゅく *すくむ)、却(かえっ)て国体国威をも損ぜん。既に先年(せんねん)下田にて〔*実は神奈川・横浜〕亜米利加(アメリカ)使節と和親条約を取替(とりか)はせ、奏聞を遂げて御許容なりたる以来、追々(おいおい)鎖国の旧格を変じ、漸々(ようよう)富強の基を開きたるに、其後(そのご)外交拒絶を仰出されたるにより、なるべく聖論を遵奉(じゅんぽう)せんの志なれども、又(また)無謀の掃攘(そうじょう)は致すまじき旨もあれば、何(いず)れにも富国・強兵の策立ちたる上ならでは、膺懲(ようちょう *うち懲らすこと)の典も行はれ難(かた)く、ついては彼の長を採(と)り、貿易の利を以て多く船?(せんぽう *砲を備えた船)を設備し、夷を以て夷を制するの術を講ずる事、当今第一の急務と存じ、之(これ)に務むる折柄(おりがら)、防長の事(こと)起(おこ)りて大坂城まで出張せるに、料(はか)らず夷船兵庫港に来り、条約の勅許を請へり。若(も)し臣に於て取計らひ得ずんば、彼自ら闕下に出でて直(じか)に申立てんといひ、種々の論談応接も承諾(しょうだく)仕(つかまつ)らず、さりとて無謀の干戈(かんか *武器)を動かしては必勝おぼつかなく、仮令(たとい)一時は勝算ありとも、四方環海の国、東西南北旦暮(たんぼ *明け方と夕暮れ方)に攻掠(こうりゃく)を受けなば、皇国生民の糜爛(びらん *ただれること)此時(このとき)より相始まり、不仁・不義・此上(このうえ)あるべからず、臣が一家の存亡は姑(しばら)く置き、宝祚(ほうそ *皇位)の安危(あんき)にも関(かかわ)り、陛下万民を覆育(ふいく *天地が万物をおおい育てること)遊ばさるる仁徳にも戻(もと)れり、臣家茂に於ても職掌を曠(むなし)くするものなり。是等(これら)の処(ところ)篤(とく)と思召し分けさせられ、衆口(しゅうこう *大勢の人の言うところ)に動かされ給(たま)はず、断然(だんぜん)卓見(たっけん *すぐれた意見)を以て、改めて条約について?(きょ *虚)を去り実を存し、至当の談判(だんぱん)仕(つかまつ)らんこと、判然と勅許あらんことを請ふ。さすれば外は外夷制馭(せいぎょ *コントロールすること)の実備を立て、内は防長追討の功を遂(と)げ、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民を安堵(あんど)せしめん。尤(もっと)も外夷の闕下に進むことを止め、来る七日まで兵庫港に控へさせたれば、なるべく速(すみやか)に御沙汰あらんことを請ふ。  (『徳川慶喜公伝』3 P.185~186)

 日米和親条約の調印いらい、「鎖国」の旧格も徐々に変わりつつあり、今日、「無謀の掃攘」(小攘夷)ではなく「富国強兵」の策(大攘夷)をとらなければ、外国の攻勢に対処できない。したがって、貿易の利をもって軍備を整え、「夷を以て夷を制する」ことが、当今の第一の急務であるとして、この見地から「改めて条約について?(虚)を去り実を存する至当の談判を許可する」よう懇請する。この日、将軍は阿部と松前を免職とし、藩国で謹慎させた。
 ついで将軍は、"3日を以て大坂を発し、伏見に泊し、東海道を経て帰府する"と布告した。これは幕閣側の抵抗戦術であり、江戸に帰るのに東海道コースを採り(大坂から船で江戸へ帰るコースではない)、しかも伏見に宿泊するというのは、朝廷や慶喜などの慰留を促す作戦である。
 朝廷は、将軍の辞職戦術に驚き、京都守護職に命じて、将軍の帰府を思いとどめさせることとした。慶喜・容保・敬定は、将軍慰留のために早速伏見に出張し、真意を探り出す。それはやはり、老中たちの狙いが"兵庫開港の勅許を得る"ことにあった。
 慶喜・容保・敬定・小笠原道行は、これを受けて10月4日に参内し、"条約勅許・兵庫開港の已むべからざる"を奏聞して、天皇の裁可を仰いだ。
 10月4日、小御所で廷議があり、二条関白・賀陽宮(中川宮朝彦親王)・議奏・伝奏などが出席し、孝明天皇も「御透聞」(*御簾の奥で天皇が朝議の模様を聞くこと)となる。公卿の多くは、「条約勅許・兵庫開港」に否定的であった。参預会議の時に、開国方針に反対したのは慶喜自身であり、横浜鎖港を確約したのは将軍であった。それからわずか1年半後に、条約勅許の要請である。朝廷の反発は、当然のことであった。
 だが、これに出席した慶喜は、"条約を勅許すれば、兵庫沖の夷船は必ず退帆する"と言い、さもなければ京都をも襲う国難となるであろうと言う。慶喜は、威(おど)し賺(すか)し〔*脅したり、機嫌をとったりする〕で弁じたてる。
 さらに慶喜は、在京の薩摩・肥後・土佐など10数藩の藩士およそ30人を呼び寄せ、それぞれの意見を求めた。肥後・会津・土佐など多くの藩士が、"三港(長崎・箱館・神奈川)開港を御許容し、これまでの条約は改正すべき"というものであった。これに対し、薩摩の大久保一蔵だけは、ただただ退帆させるべきと主張し、これに賛成したのは備前の藩士のみであった。しかし、大久保とても、退帆させる具体策などはなかったのである。
 慶喜は、諸藩の輿論(よろん)をも利用して、朝廷に圧力をかけたのであった。関白・山階宮(やましなのみや *晃親王)・賀陽宮以下が、一旦(いったん)御前を退きて協議を凝(こ)らしたが、なすべき手段もなく当惑した。このとき、孝明天皇は勅書を二条関白に下した。その宸筆の勅書は、次のように述べている。

倩(うるわしく)熟考候ニ官武の議論透聴の処(ところ)実に以て容易ならざる義(ぎ)、時刻ヲ移シ候ては取戻し相成らざる場合に及び、左(さ)候得は神宮(*天照大御神)より連綿の皇統忽(たちま)ち廃絶候ては朕一分の義ニてハ決して之(これ)無く、朕代に於て右様の処置(しょち)候ては実に以て申し訳之(これ)無く恐懼之(これ)に過ぎず候。且(かつ)万民塗炭(とたん)の苦患ハ眼前左候得ハ是又(これまた)見聞に忍びず実に痛心を以て候。此上(このうえ)ハ一橋始(はじ)め申し出で候ニ任(まか)セ候外(ほか)之(これ)無く、実に差し向かい黙止し難き次第(しだい)推察ニて承服すべく候事                (『岩倉公実記』上巻 P.959~960)

 孝明天皇は、長年、安政諸条約を勅許してこなかったが、もうこれ以上その態度を取りつづけ「取戻し」のできないことに到っては、自分だけの義の問題にとどまらず、「皇統忽ち廃絶」という肝心の問題になってくる。だから、止む無く承認した―というのである。それにつづけ、「万民塗炭の苦患」を挙げて、承認止む無しの決断をした―というのである。
 だが、真っ先に「連綿の皇統廃絶」の件をあげているように、後者はとって付けたものでしかない。皇統が自分の代で終わることが最大の懸念であり、そのために長年の持論を転換したのである。
 そこで、関白・山階宮・賀陽宮ら一同(いちどう)は八景の間に於て勅書を拝見し、御請(おうけ)を申上げ、更(さら)に御沙汰書を作り、武家伝奏を以て慶喜に渡した。その文は、「条約の儀(ぎ)御許容あらせられ候間、至当の処置(しょち)致すべき事」(同前 P.960)という簡潔なものであった。しかし別紙には、次のような条件が述べられていた。

別紙の通り仰せ出だされ候ニ付きては、是迄(これまで)の条約面、品々不都合の廉(かど)之(これ)有り、叡慮に応ぜざる候ニ付き、新ニ取調べ相伺(あいうかが)ふべし、諸藩衆評(しゅうひょう)の上(うえ)御取極(おとりきめ)相成るべき事、兵庫の儀は止められ候事           (同前 P.960)

 孝明天皇の決断により、ついに条約は勅許となった。しかし、兵庫の開港は不許可であった。兵庫は京都に近く、ここに夷人が出入りすることには、公卿たちは生理的に賛成できず(穢れ思想による)、軍事的にも許されなかったのである。こうして、1858(安政5)年いらい、前後8年にわたり、政局を揺さぶり続けた条約締結をめぐる争点は消滅したのであった。

注1)幕府は、1861(文久元)年12月24日、江戸・大坂の両市と新潟・兵庫の両港の開市開港の延期を交渉する使節団(正使・水野保徳ら)を派遣する。これにより、開港開市は1868年1月1日(和暦で慶応3年12月7日)に延期された(安政条約では、1862(文久2)年11月からの開港開市であった)。しかし、延期については条件があった。延期の代償として、日本側は自由貿易を制限する一切の制度を無くすこと、税率を引き下げること―これらの要求を認めなければならなかった。他の国との交渉も、この「ロンドン覚書」を基準として、それぞれ協定が成立した。だが、1865(慶応元)年9月、英仏米蘭の4カ国公使は大坂湾に来て、兵庫の先期開港(1866年1月1日〔和暦で慶応元年11月15日〕)と条約勅許を幕府に要求したのであった。

 (3)長州の武備恭順・待敵方針・大割拠論
 幕府との対立を決定的に強め、さらには倒幕論にまで発展する可能性をもつ説に「割拠論」がある。それは、もともとは越前藩のブレーン・横井小楠が松平春嶽へ献策した考え方である。「松平春嶽が辞職帰郷したとき、横井は『処時変議』と題する一篇を草して建言した(*1863年4月)。それは、ひと口で言えば越前藩の割拠政策への転換の主張であった。農兵取立て、蒸気船購入、安島開港、そして藩主が陣頭に立って、士卒と苦楽を共にし、庶民の疾苦を訪(おとな)い、軍事的にも政治的にも経済的にも強力な藩体制を確立することを、具体的に展開した長文の建言であった。そして、さらにつづけて、この割拠体制を確立するために何よりも必要なのは団結であると力説した『朋党の病』について建言した」(大江志乃夫著『木戸孝允』中公新書 1968年 P.125)のであった。
 1863(文久3)年の8・18クーデターにより京都から追放された長州藩の内部では、1864(元治元)年春ころから、当面の方針について、次の両様の見解が顕在化してくる。
 一方に、「割拠論がある。戦国時代の群雄割拠の過去に倣(なら)い、藩領域に独立して他日(たじつ)を期する方針である。他方には世子(せいし)進発論があった。世子定広(さだひろ)親(みずか)ら軍を率いて上洛し、長州藩の復権を果たそうとの方針である。藩内の論調は、世子進発への傾斜を強めていった。」(日本の時代史20 井上勲著「開国と動乱」P.63)のである。これが、結局、禁門の変へと至る。
 しかし、長州藩は禁門の変(7月19日)の大敗北で朝敵となり、いやおうなしに割拠せざるを得なくなる。
 それに先立ち、元治の内乱が鎮静会員と三支藩の介入で静まった関係からも、1865(元治2)年3月22日、三支侯(長府・徳山・清末)は山口に在って、藩主敬親に"時務の要を質(ただ)さん"と、7カ条にわたって書面で質問した。それに対し、藩主は3月23日、以下のように返答した。
 第一条は、"今後の藩は、「御忠節・御信義・御孝道何(いず)れの廉(かど)にて凛然(りんぜん)相立ち申すべき哉(か)」(『修訂 防長回天史』七 P.92)"の質問への回答である。
 朝廷への忠節・幕府への信義を貫くことが同時に、先祖への御孝道になると、原則的に答えたうえで、「この余は即今の通り御恭順にあらせられ、内(うち)人民御撫育、衆心一致富国強兵の御処置を以て、外(そと)侮(あなどり *幕府・他藩・外国を指す)を請けさせられず候様、御手を着けられ候儀にこれ有るべく候」(同前 P.93)とした。
 ここで言う「恭順」とは「武備恭順」のことである。それは、長州藩の正義を主張し、受け入れられ無ければ戦争も辞さぬ、という態度であり、「武備恭順」を藩是として藩内の安定を図ったのである。
 第二条は、「防長二州に於て当今の形勢先(まず)割拠の姿に相成り候。就(つい)ては所謂(いはゆる)外(そと)恭順内(うち)武備充実を旨とし領民へ布告し方向を知らしめたき事。但し右辺の実行如何(いかが)相心得(あいこころえ)申すべき哉」(同前 P.92)への回答である。
 「御同意に存じ候」と答えたうえで、「......御恭順是迄(これまで)通りにて変(へん)ぜざるる候。武備充実は藩屏(はんぺい)の御職掌に付き用兵学益々(ますます)隆盛〔とし〕大小銃調練、要衝の地軍配等置かせられ候儀、即(すなはち)他日(たじつ)敵愾(てきがい *君主の恨みをはらすこと)の御準備〔*敵対勢力との戦いの準備〕にも相当るべき......」(同前 P.94)として、武備充実を推進すると答えた。
 第三条は、"国是も確定し政令も一途に出るようになったうえは、「御軍制且(かつ)諸隊平常の御規約拝見したい」(同前 P.92)"との要望に答えたものである。
 これには、「御軍制の儀は近年追々(おいおい)御増補の趣を以て御規則立ち置かられ候得共(そうらへども)、尚(なお)追(おっ)て御改正をも仰せ付けらるべき條(じょう)、諸隊規約書の儀は当節(とうせつ)詮議(せんぎ *評議して物事を明らかにすること)中に付き近日の内(うち)御披見(ごひけん)に入るべく候」(同前 P.94)と答えた。
 第四条は、「諸隊分配?(ならびに)浪士始末(しまつ)承(うけたまわ)り置きたく候事」(同前 P.92)という質問への回答である。
 これには、次のように答えている。「浪士始末の儀(ぎ)只今(ただいま)残らず解散と申す訳にも運(はこ)ばれ難(がた)く是迄(これまで)諸隊人数中に罷り居り候儀に付き、先(まず)当分(とうぶん)行形(なりゆき)の処(ところ)に〔*今ある形に〕差し置かれ、追て始末を就(つ)かれ候て然るべし。尤(もっとも)隊中規約に入らざる儀(ぎ)之(これ)有り候得ば即刻解散させ申すべく候。......」(同前 P.94)と。
諸隊に他藩浪士がどのくらい入隊していたかは明らかではないが、この回答では追々整理するというものである。禁門の変を惹起させた一因に浪士達の強硬意見もあったのであり、支藩などでは特に苦々しい気持ちが本音としてあったと思われる。しかし、七卿を抱えた経緯もあり、余り邪険にあつかうこともできないのである。
 第五条は、「諸藩へ使節往復の儀は何(いず)れの藩にても御故障筋これ無き哉(か)の事。但し礼譲を厚く相心得べく候事」(同前 P.92)という要望をかねた質問への答えである。
 これには、「御親類の諸藩は格別の儀にも之(これ)有るべく候得ども当今の時勢に付き、重大の事件にて列藩へ御使者往復の儀は御本末間〔*本藩と支藩の間がら〕に付き御相談の上(うえ)御取扱い之(これ)有りたく候。腰書の趣(おもむき)御同意に存じ候」(同前 P.95)と答ている。
 元治の内戦を支藩の協力で鎮静化しただけに、さすがに支藩をとうとび"重大事件に関しては支藩とよく相談して行なう"と誓っている。
 第六条は、「他国人領内通行或(あるい)は休泊の儀(ぎ)旧に依り差障(さしさは)り無く仰せ付けられ候哉の事」(同前 P.92)への回答である。
 これへの回答は、次の通りである。すなわち、「他国人通行休泊等差障り候儀(ぎ)之(これ)無く候得共(そうらへども)、当時勢(とうじせい)に付き諸関門又(また)は口々の番所等にて取糺(とりただ)しの上(うえ)若(も)し不審体(ふしんてい)の儀も之(これ)有り候(そうら)はば其(その)所へ留置(とめお)き最寄(もより)の役所へ申し達し差図(さしづ *指示)受けるべく候。尤(もっとも)留置き候とも諸事丁寧(ていねい)に取扱ひ候儀は不能(かなはず)申し候、且又(かつまた)城下止宿(ししゅく)の儀は成丈(なるたけ)ばかり相断り申すべく候」(同前 P.95)と。
 他国人の領内通行は旧来通りにすべきとの三支藩の要望に対し、基本的には同意する。しかし、さすがに緊張した当時において、本藩の本音は不審の輩の横行については警戒すべきと訴える。幕府のスパイがいつ潜入するかもしれないからである。それは、"留置人に対し丁寧に取扱うにしても限度があり、どの場合でも丁寧とはなりえず、又、城下での止宿はなるべく断わるようにしていただきたい"という言葉に現われている。
 第七条は、「諸廻船入津(にゅうしん *入港)等の節(せつ)諸事(しょじ)粗忽(そこつ)之(これ)無き様取扱はさせ申すべく候得共(そうらへども)、異船入港上陸等の節(せつ)一時講和の御権謀(ごけんぼう *臨機応変のはかりごと)を旨(むね)とし、是又(これまた)同様取扱ひ申すべき哉(か)の事」(同前 P.92)という問いへの答である。
 これへの回答は、「御同意に存じ候。尤(もっとも)異国人の儀は言語不通の国柄(くにがら)に付き纔(わづか)の意味違ひより不法無礼の所業(しょぎょう)出來(でき)及び候儀も計り難く候に付き、右様の節は彼(か)の船将へ委細(いさい)応接に及び曲直(きょくちょく)相糺(あいただ)し申すべく候」(同前 P.95)というものであった。
 言語が不通なのでわずかなことで紛争になるので、船将と委細交渉すべきとしている。
 全体的には、椋梨派を鎮圧したあと、三支藩とは基本方向を一致できたと思われる。『修訂 防長回天史』の著者もまた、「是(ここ)に於て乎(か)毛利氏執(と)る所の主義確然(かくぜん *確かに、固く)一定す」(同前 P.93)と評価している。
 「武備恭順」が長州全体の基本路線となったのである。このあと、第一次幕長戦争の終結時には、本藩と一線を画し、また椋梨派を支持した岩国藩主(吉川氏)とも、協調行動をとれるようになったのである。
 藩政府が椋梨派から「正義」派に交代するとともに、諸隊追放は解除されるようになる。1865(慶応元)年4月の上旬頃、毛利幾之進・山内梅三郎が、以下のような諸隊の嘆願書を上らした。(第六条については、既述)

  (嘆願書)
一(第一条)権現原(ごんげんがはら)の刺客(しかく)厳密探索(を)仰せ付けられ、確証を取り御究めに及ばず洩れざる様(よう)速(すみやか)に厳罰の御処置之(これ)有りたく存じ奉り候事。
一(第二条)奸物(かんぶつ *悪賢い人物)巨魁(きょかい *親玉)の者だけ神速厳罰仰せ付けられ、其他(そのた)は寛大の御処置を以て外患に向ひ前非を償い候様仰せ付けられたく存じ奉り候事。
一(第三条)諸郡県令御人選せしめ急速出郡仰せ付けられ、民心慰撫三百年来の鴻恩(こうおん *大いなる恩)此時(このとき)と日夜日新の御政事貫徹仕り候様之(これ)有りたく存じ奉り候事。
一(第四条)鴻城へ御蔵元役人の如き輩(やから)御人選を以て速に差し出されたく候事。一(第五条)御一方様(*藩主父子のどちらか)急速鴻城へ御出(おい)で遊ばれ大号令を以て御国中残らず方向を知らしめ速に御軍制一新(し)衆心協和外患防禦の御手配等(など)仰せ出でされ候段、尤(もっとも)急務と存じ奉り候事。
一(第六条)正邪分明御実効相挙(あいあが)り候得(そうらへ)ば干城隊を以て御国中第一の精兵に相成(あいな)られ御両殿様御守衛〔し〕尚(なお)諸隊の指揮をも仕り候様相成り四方要衝(ようしょう)の地へ諸隊分配出張仰せ付けられ、尤(もっとも)偏倚(へんい *かたよること)の議論之(これ)無く日新(にっしん *日々あらた)の御政体を以て富国強兵の基を開き御正義凛然(りんぜん *りりしい様)と相立て御宗祖様に対せられ万世の後(のち)慙(はずかしか)らざる天地の功業御確守遊ばされ候様願い奉り候事。               (『修訂 防長回天史』七 P.124~125)

 嘆願書の大要は、①鎮静会員を狙った権現原のテロ犯1)を探索し、迅速に厳罰に処すること(第一条)、②椋梨派の巨魁だけを速やかに厳罰し、それに付き従った他の者は寛大に扱い、外患に力を尽くして前非を償わせるうようにすべきこと(第二条)、③地方役人を速やかに人選し、民心を慰撫すべきこと、そして役人が300年来の毛利氏の恩に報いるような政事を貫くようにすべきこと(第三条)、④山口城へ御蔵元役人のような財政に明るい人物を選んで指し出すべきこと(第四条)などであるが、諸隊に直接関係するのは、第五条、第六条である。
 第五条は、藩主父子のうち、いずれかが山口においでになって、藩の方向を示す大号令をかけて、軍制を一新し「衆心協和外患防禦」の手配をすることが急務であることを訴えている。幕府軍の征長に対する対処を急ぐべきだ、というのである。
 第六条は、この嘆願書で最も肝心な条項である。すなわち、干城隊を藩内で随一の精兵部隊とし、なおかつ「諸隊の指揮」を行ない、四方の要衝へ諸隊を分配・出張させるべきとした。
 これらは、明らかに従来からの上層武士の優位性を保持(諸隊をその指導下に置く)しながら、藩内の団結を図って割拠体制をとり待敵方針を徹底することを狙いとしたものである。
 1865(慶応元)年4月22日、藩は馬関開港の中止を布告した。「赤間関に於て異国船開港等の儀は決して仰せ付けられざる儀に候処、昨年来講和の御約定も之(これ)有る儀に付き、右(みぎ)御約條通り堅く相守り外国へ信義を建て他日の御国害を生ぜざる候様精々(せいぜい)心遣(こころづか)い仕(つかまつ)り候様仰せ付けられ候事」(『修訂 防長回天史』七  P.133)と。
 元治内戦後、イギリス行きを希望していた高杉晋作は、それが実現せず長崎より帰ると、馬関統一論(長府・清末両支藩を替地して馬関を本藩が掌握するという計画)を唱えた。 
高杉は大割拠論により、その間の富国強兵策の一環として、馬関を外国貿易の開港場としようとしたのである。2)
 しかし、馬関の大部分は長府領であり(清末領もまた在る)、二藩にとって馬関はその財政基盤である。したがって、二藩から高杉らが唱える馬関統一説には猛烈な反対論が起こったのである。それはついに、高杉晋作・伊藤俊輔・井上聞多の3人を刺殺する謀議にまで発展する。このため、高杉は愛妾とともに伊予道後に、井上は別府に、伊藤は馬関に、それぞれ潜伏せざるを得なくなったのである。
 藩政府は、長州全藩の一致融和を急務としていたので、支藩との不一致を作り出す「馬関統一・開港」を行なわないことを明確に宣言しなければならなかったのである。
 藩は諸隊と世禄の部隊との融和をはかりつつ、「〔*1865〈慶応元〉年〕五月初めから毛利家は、長州再征に備えた体制固めに入る。敬親は萩から山口に完全に移転、この地を改めて本拠とし、統治機構を簡略化させ、現職加判役が分担して職務を担う体制をつくり、この職を当役と称した。当役は国政方引請(政務担当)と国用方引請(ひきうけ)民政兼勤(財政及び民政担当)に分けられた。これら政府機構を総称して『政事堂』と呼ぶ。」(青山忠正著『高杉晋作と奇兵隊』P.191)といわれる。
人事としては、国政方引請(ひきうけ)に毛利筑前、国用方引請民政兼勤に宍道安房、蔵元役に玉木文之進・山縣九右衛門・山縣弥八・正木市太郎・北條新左衛門・中島市郎兵衛、用所役民政方引請に渡辺伊兵衛・秋村十蔵、用所役国政方引請に山田宇右衛門(兼筑前手元役)・兼重譲藏・広沢藤右門(波多野金吾を改名)・前原彦太郎(佐世八十郎を改名)・中村誠一・藤田与次右衛門が、5月7~9日に発令された。
 村田蔵六・伊藤俊輔・井上聞多の奔走で但馬出石から4月26日に帰国していた桂小五郎は、5月27日、政事堂内用掛・国政方用談役に任ぜられた(毛利筑前内閣の官房長官に相当すると言われる)。桂らは、第二次幕長戦争に備えて、一刻も早くと体制づくりを進める。
 幕府による長州再征(長州第二次幕長戦争)が確実になる中で、椋梨派にとって代わった桂らの新政府は、武備恭順の方針をとった。それは幕府支配に対し明確に対抗するための「大割拠論」であった。
 桂は、長州に戻ると、すぐに伊藤俊輔や村田蔵六(大村益次郎)らと謀って、「今の急務は二州一和(いちわ)寸隙(すんげき *わずかな隙間〔すきま〕)なきの実を天下に示すに在り、宜(よろし)く吉川氏(*岩国藩主)の来山(*山口訪問)を促し、又(また)三支藩及び吉川氏をして芸備等五藩に託し嘆願書を幕府に提出せしむべし」(『修訂 防長回天史』七 P.148)と相談している。
 また、閏5月ころの桂小五郎は、「......外(そと)薩州と合し、内(うち)岩国と和し、兵制を洋式に改革するは当時の三大政策たりし」(『修訂 防長回天史』七 P.172)と、防長二州の団結、薩摩との同盟、兵制の洋式化を最も重視している。
 1865(慶応元)年5月22日、藩新政府は、諸老臣連署して、広く士民に訴える現今の方針を告げた。それは、以下の通りである。

御両殿様(*藩主父子)多年の御正義天人(てんじん)共に知る処(ところ)、去る子(ね 
 *1864〔元治元〕年)七月京師(けいし)変動(*禁門の変)ありしより悉皆(しっかい *ことごとく)湮滅(いんめつ *跡形もなく無くなること)の姿に相成り御誠意御恭順も殆(ほとん)ど御国辱と申す程(ほど)に及び候得共(そうらへども)、一端(いったん)追討軍勢(*第一次征長軍)解散に相成り候。折柄(おりがら)当春御国内紛擾(ふんじょう *元治の内戦を指す)容易ならざる事態に立至(たちいた)り御両殿様深く御苦慮成(な)され下(しも)一統(いっとう *一同)を以て恐れ入り奉り候。就(つい)ては御蟄居中ながら止むを得られざる事に成られ御廻在(*介在)速(すみやか)に人気鎮静に及び有り難き(あリがたキ)御事に存じ奉り候処、藩屏(はんぺい *守りとなること)の御任〔*藩屏の任務〕御武備充実は片時(かたとき)も閣(おか)れ難き〔*止められ難き〕候事に候得共(そうらへども)天朝・幕府に対せられ御恭順御謹慎の儀は少(すこし)も御緩(おゆるが)せ無き御儀に付き、最早(もはや)頓(とん)にも〔*時を移さず〕御寛大の御処置(おんしょち)之(これ)有るべき筈(はず)と御国中一統渇望奉り候処、豈(あに)図(はか)らんや〔*どうしてか〕頃日(けいじつ)に至り御当家に於て何ぞや御嫌疑に触れ候趣も之(これ)有る由(よし)相聞(あいきこ)え実に驚愕(きょうがく)の至りに候。素(もと)より御国是確乎(かっこ)不動(ふどう)是迄(これまで)の御忠節(ごちゅうせつ)天地神明に愧(は)じせらず御事に付き、万一再討兵四境に相迫(あいせま)り候共(そうろうとも)條理(条理)明瞭(めいりょう)御弁解に及ばれるべし。尤(もっとも)止むを得らざり候ては去る子(ね)九月仰せ聞かれ候御直書の旨(むね)彌(いよいよ)奉體(ほうたい 奉戴 *謹んでいただくこと)し御国中一団の正義と相成り一致戮力(りくりょく *協力)臣子の分を尽すの外(ほか)更に他念(たねん)無く候。此度(このたび)の事件実否(じっぴ)分明ならざり候得共(そうらへども)御国家興廃(こうはい)存亡(そんぼう)大義名分の係(かか)る処(ところ)に付き、此段(このだん)能々(よくよく)相心得(あいこころえ)不覚悟(ふかくご)之(これ)無き様(よう)相心得らるべく候事。 
                 (『修訂 防長回天史』七 P.162~163)

 禁門の変いこうの長州藩をめぐる多難な環境を整理し、その上で、「天朝・幕府に御恭順御謹慎」している。したがって、寛大な処置が下ると思っていたが、最近、藩がまた嫌疑に触れるような事がおこっていると聞いて驚いているところである。もとより天朝・幕府に忠節を尽す国是は確固不動であるから、天地神明に恥じることがないのである。万一、再度の征長軍が四境に迫ってきた時は、条理明瞭に弁解に努める。もっとも止むを得ない場合は、"国中一団の正義となって一致協力して臣下としての本分を藩主に対し尽くす"ほかはない、と居直っている。
 ここには、当時の藩政府がとっている「武備恭順」の姿勢が明瞭に見てとれる。同時に、またも嫌疑がかけられているとして、藩内を必死に鎮静化しようと努めている要路の心持がはっきりとしている。まさに、当時の長州藩のぴりぴりした様子が歴然として見えるのである。
 1865(慶応元)年5月23日、藩主は文武改革の要綱を発令し、25日には、干城隊へ次のような親書を賜い激励した。

干城(かんじょう *国家を守る楯と城)は武士の職掌にして藩屏は我等の天職なり。忠節信義至当(しとう)を得ざるは〔*当然のことができないことは〕我等の失職にして文武其(その)道を得ざるは武士の恥辱(ちじょく)とす。其(その)罪(つみ)皆(みな)我等に帰するのみならず遂に祖先を恥かしむるに至る、豈(あに)慎まざるべけんや。故に先般尊霊に祈誓(きせい *祈り誓うこと)するの事体を実践し〔*諸隊勝利後の祈誓〕且(かつ)世臣をして悉(ことごと)く干城と為(な)さしめんと欲す。汝等(なんじら)能(よ)く此意(このい)を体認して其(その)職に協(かな)ふ〔*一致する〕時は則(すなはち)我等をして天職を修めしむる所以(ゆえん)なり。務めて寛厚(かんこう *心がひろやかでおとなしいこと)を本とし苟(いやしく)も名に流れて其(その)実を失ふなかれ。依って此度(このたび)厳示(げんじ)する條令(じょうれい)謹慎確守し各(おのおの)よろしく其(その)業を勤むべきものなり。
   (條々)
一(第一条)文武は人材育成の基礎にして偏廃すべからざる候條(そうろうじょう)両道相兼(あいか)ね国家の裨補(ひほ *助け補うこと)と相成り候様講習いたすべき候事一(第二条)喧嘩(けんか)口論(こうろん)総て卑劣(ひれつ)がましき儀(ぎ)堅く禁止の事
一(第三条)階級持方(もちかた)に拘(かか)はらず親睦一和を旨(むね)とし互(たがひ)に敬礼を尽し長幼尊卑の倫序(りんじょ *序列のすじみち)失わざる様(よう)酩々(銘々)厚く相心得(あいこころう)べく候事
一(第四条)御政体を譏議(きぎ *そしって悪く批評すること)し衆人を誹謗(ひぼう)し無根(むこん)の造言(ぞうげん *作り事)雑話等堅く禁止の事
一(第五条)気付(きづき)筋〔*気づいたこと〕之(これ)有り候得ば越俎(おっそ *順序を越えて上級に訴えること)の行(ぎょう)之(これ)無き様各(おのおの)其(その)長へ申し出で、條理明白に論談及ぶべく候、尤(もっとも)趣意無く雷同(らいどう)し或(あるい)は徒党がましき儀(ぎ)之(これ)有るに於ては法に處(しょ)せらるべく候事
一(第六条)諸役付きの面々は各(おのおの)其(その)職に力を尽(つく)し無用の周旋(しゅうせん)堅く停止の事
一(第七条)文武学校とも規則(きそく)厳粛に相守り互(たがい)に救助いたし唇歯(しんし *利害関係が深い関係を表現)手足(てあし)と相成り大平(太平)柔惰(じゅうだ *弱くておこたること)の弊風(へいふう *悪い風習)を一洗(いっせん)し苟(いやしく)も士道失はず切磋(せっさ *学問・道徳をねりみがくこと)勉励(べんれい *一心に努力すること)衆人の模範と相成り候様実行(じっこう)肝要(かんよう)を為(な)すべく候事                     (同前 P.164~165)

 第四条、第五条、第七条などは、封建的な特徴をよく示している。だが、第三条は藩主ら支配階級の苦しさを見せつけている。すなわち、一方で、封建的な身分秩序を前提にした上で「親睦一和」を強調しながら、他方では、「長幼尊卑の倫序」を失わないように強調せざるを得ない事情である。本来は藩を維持・防衛するのは武士階級の任務であるにもかかわらず、その武士のみでは国家(長州藩)を防衛できない事態に陥っている。農兵・商兵出身者に依存しない限り正規軍も、諸隊も維持できないのが、現実なのである。身分を越えた「一和」を強調せざるをえないのである(藩の存続のためには)。しかし、封建的秩序も失わないようにした。第三条こそは、この矛盾点を集中的に表現しているのである。
 さらに5月26日、藩主父子は、諸隊総管を召して、先の23日の士民への諭書とともに次の誡めの言葉を下している。すなわち、「此度(このたび)再討の軍勢を又々(またまた)差し向け候哉(や)の風聞(ふうぶん)之(これ)有り。万一四境に迫り候とも條理明細に弁解に及ぶべき覚悟に候得(そうらへ)ば止むを得ざる次第に相成り候共、指揮(しき)之(これ)有り候迄(そうろうまで)は軽挙暴動之(これ)無き様(よう)厳重に其(その)隊々(たいたい)へ申し聞かせ置き候様との御事」(同前 P.165~166)と。「軽挙暴動」を厳重に戒めたのであった。
 1865(慶応元)年6月5日、藩は対幕方針を、次のように士民に明示し、諸官衙(かんが *役所)を戒めた。

   (其一)
今般(こんぱん)大樹(*将軍)御進発の趣意に付いては成丈(なるたけ)理非御弁解相成るべく候得共(そうらへども)、理不尽(りふじん)に乱入致すに於ては拠無(よんどころな)く一戦に立至(たちいた)り申すに付き、何(いず)れも決心致し今日より戦場と覚悟(かくご)相極(あいきわ)め鎮静(ちんせい *気持ちを静め落ち着かせること)罷(まか)り在り候様(そうろうよう)此段(このだん)御家来中末々(すえずえ)在町(ざいちょう)に至る迄(まで)洩(も)れざる様(よう)急速に相達せらるべく候事。
   (其二)
此度(このたび)大樹御進発の儀(ぎ)確報(かくほう)之(これ)有り。浪華(なには)御着き容易ならざる勢(いきおひ)に付き、不日(ふじつ *近いうち)暴襲(ぼうしゅう)及ぶべきも計り難(がた)く誠に以て御切迫の場合に之(これ)有り候間、一藩益(ますます)混和(こんわ *よくまざりあうこと)致し兵力を強くし不覚(ふかく)相成(あいな)らざる候様(そうろうよう)防戦の手配各(おのおの)見込みの廉々(かどかど)聞こし召されたく候間、明後七日昼時(ひるどき)迄(まで)に申し出で候様、其上(そのうえ)御前に於て御軍議仰せ付けられるべく候條此段(このだん)夫々(それぞれ)へ急速に相達せらるべく候事。
   (其三)
今度(こんど)上国(*京都)向けの形勢切迫の場合に相聞(あいきこ)え候間、諸役所向き必至の差置(さしお)き難き御用向きの外(ほか)は諸鼻丸々畳に仰せ付けられ御軍備一巻の御取調べ仰せ付けられ候事。 (『修訂 防長回天史』七 P.174~175)
【*著者によると、「諸鼻丸々畳」は諸々の新事件は停止の意、「軍備一巻」は軍備専一の意】

 将軍進発が確かとなった(将軍は5月16日に江戸を発ち、閏5月22日に京に入っている)ので、①幕府軍が理不尽に乱入することも有り得るので、「今日より戦場と覚悟すべき」こと、②「防戦の手配」を7日昼までに申し出ること、③放置しておけないこと以外の役所事務は停止し、軍備専一にすること―が言い渡された。
 6月27日には、藩は対敵政策を定め、これを士卒に発令し、また諸隊総督には隊中に告示させた。その文は以下のものであった。

敵兵四境に迫り御国内に踏込(ふみこ)み候節は無二念(むにねん *間違いなく)決戦有るべく候事。
 但し、地理に依り持久の策第一に付き、小勝利を見て軽易(けいい *軽々しく)御国外(*防長二州の外)へ進まれまじき事。
 軍艦を以て海岸を劫(おびやか)し人家を焼払(やきはら)ふ敵の計策(けいさく)当然の事に付き、少(すこし)も動揺すべからず厳粛にして敵を待つの心得(こころえ)肝要の事。            (『修訂 防長回天史』七 P.181)

 再討の風聞が伝えられて以後、藩重役では5月頃から「待敵の処置」が申し合わされている。三支藩ならびに岩国藩との団結を強め、幕府軍の乱入を待って反撃し、国家(藩)を防衛するという作戦である。

注1)井上聞多が襲われ瀕死の重傷を負った事件からおよそ5か月後の1865(元治2)年2月11日、権現原事件が起こった。藩主敬親が椋梨派の排除を決意し、それを伝えるために鎮静会議員の香川半介・桜井三木三・冷泉五郎・江木清次郎の4人が山口の諸隊陣営に派遣された。任務を果たした4人が、萩に帰る途中、明木の権現原で中井栄次郎ら7人に待ち伏せ攻撃された。香川・桜井・冷泉の3人はその場で絶命し、江木のみが傷を受けながら萩にたどり着き、生還した。
2)伊藤俊輔(博文)は、但馬に潜伏していた桂小五郎が1864(慶応元)年4月26日に馬関に突如現れた翌日、桂の宿を訪ねている。そこで伊藤は、「......不肖(ふしょう *へりくだって自分のことをいう)親しく海外の実況を目撃せしに、皇国の隆興を図らんとせば、今後(こんご)開国方針を取り万国と交通を行ふの外(ほか)なしと思はる。但し大政の統一を内に定むるにあらざれば、国威を外に伸(の)ぶるを得ず、因(よっ)て我等は勤王倒幕の機運(きうん)漸(ようや)く熟せる目下の趨勢(すうせい *ありさま、なりゆき)に乗じ、断乎(だんこ)として防長の武力を挙げ、統一の大業を助成する覚悟を固めざるべからず」(『伊藤博文伝』(上)原書房 1970年 P.202)と、桂に述べた。もちろん桂は、これに賛成する。大分以前から割拠論を考えてきた桂は、幕府との対立が深まる中で、必然的に倒幕論に達する。同年7月18日、桂は対馬藩士・大島友之丞に宛てた書簡で、「今日の長州も皇国の病を治し候にはよき道具と存じ申し候。」(『木戸孝允文書』第二 P.91)と書き送っている。桂の視点はすでに日本の復興に向かっており、長州はその手段と割り切っている。

《補論 高杉晋作・桂小五郎の大割拠論》
 高杉が上海から長崎に戻ったのは、1862(文久2)年7月14日であるが、それから2カ月後余の閏8月下旬と思われる頃、高杉は江戸に居る藩の重臣・宍戸九郎兵衛(左馬之助)宛てに次のような書簡を送っている。この年、長州藩は長井雅樂の唱える「航海遠略策」に基づく公武一和にそった藩是を大きく転換し、「奉勅攘夷」(破約攘夷)の方針を確立した。これに対し、高杉はもちろん賛成するが、天皇頼みの攘夷方針については賛成できなかった。

......天朝の御趣旨、破約攘夷に相定(あいさだ)め候事なれば、我(わが)君上にも、破約攘夷の趣旨御奉命遊ばされ候はば、今日より二国(*防長二国)を勤王の為(ため)抛(なげう)つと御決心(ごけっしん)遊ばされ候(そうろう)時は、二国士民残らず、今日必死の時節と決心仕(つかまつ)り候得(そうらへ)ば、公卿方へ出入も、越前春嶽・一橋公への議論も、幕府小吏の穴をつつく事も、水府有志・薩土の有志を謀るも、我藩俗吏(ぞくり)京師・江戸にて散財(さんざい)致す事も、御両殿様京師(けいし)御在居も、皆々(みなみな)訳の分からぬ無益(むえき)〔の〕事に御座候、右様(みぎよう)御処置(おしょち)有るも、右様の取計(とりはからい)致(いたし)ても、皆々今日必死の時と決心出来(でき)ぬ故(ゆえ)也。決心未だ附(つけ)ぬのに勤王と申し唱へ、右様の虚動(きょどう)之(これ)有るの儀は、功名勤王にて真勤王には之(これ)無き事なり......  (一坂太郎著『高杉晋作の手紙』講談社学術文庫 2011年 P.91)

 高杉は、「真の勤王」を唱えるのであれば、京師・江戸で散財することは勿論、幕府に対する批判も、公卿などと交渉したり、水戸・薩摩・土佐の有志と謀りごとを立てたりすることも、すべて「無益な事」と批判する。防長2国に割拠し、士民残らず決意し、「富国強兵」の実を挙げることこそが「真の勤王」だ―というのである。高杉は、遅くとも1863(文久3)年4月ごろまでには、倒幕の意思を固める。
 1864年に入ると、藩主父子の雪冤運動のための「武装上京」論が高まり、遊撃隊を率いる来島又兵衛などの急進論が強まる。これに反対したのが、周布政之助、桂小五郎、高杉晋作らである。高杉は、世子に来島を説得するように命令されるが、しかし説得は成功しなかった。高杉は復命もしないで上京し、桂小五郎や久坂義助(玄瑞)らに相談する。だが、藩政府の中には、高杉が任務を放棄して脱藩した―と非難する者もいた。そうした時期の1864(文久4)年1月下旬(「慶応」への改元は4月7日)頃、「某あて」の書簡で、次のように憤懣をたたきつけていた。

拙者(せっしゃ)は御割拠も真の御割拠が得意也。進発も真の進発が得意也。うはの割拠〔は〕不得意也。
君の為(た)め尽くす心は玉となしくだく(砕く)我身(わがみ)は瓦なりけり
前句の尽す心は玉となしと申す意は、君公の御上京を留むる也。即(すなわち)大割拠也。砕く我身と申すは拙者独立独行、甘じて暴発致す訳(わけ)也。諸君宜敷(よろしく)読みたま得(え)よ。
自作不忠不孝人 欲令国政為維新
笑他俗吏凡心老 時好習来称?臣  〔*?臣とは、忠愛の情に厚い臣〕
 (同前 P.44)

 「うはの割拠」とは、上っ面だけの割拠を指し、高杉は「真の割拠」を標榜した。高杉自身は、一概に「進発」を否定している訳ではないようであるが、藩主自身が割拠の方針をとるからには、これに従うと言う考えである。
 さまざまな小説やドラマで、高杉晋作は「自由な人物」というイメージがつくられているが、実際は忠孝を第一とし、藩と共に行動する信念が強い。現に、桂小五郎に宛てた1862(文久2)年8月26日付けの書簡では、「然る処(ところ)弟(*高杉を指す)事も大兄(*桂を指す)御存(ごぞんじ)の通(とおり)、勤王の志は一朝一夕の事には御座無く候。必竟(ひっきょう *とどのつまり)今日まで偸生(とうせい *生命を惜しむこと)仕り候は、成丈(なるたけ)は国(*藩)と与(とも)に仕度(した)き故に御座候。......」(同前 P.82)と、国とともに勤王に努めると言っている。
 確かに、高杉は何回か「脱走」する。だが、これは忠君愛国をつきつめる中での行動であり、むしろそれは「独断専行」の性質から生じたものである。
 1864(文久4)年2月23日、諸隊が椋梨派の藩政府を打倒したあと、高杉は諸隊の増長を抑えるために、大田市之進、山縣狂介など諸隊の幹部に7名に宛てた書簡で、「萩表の様子を察(さっす)るに既に政府一新、干城隊も確たる事故(ことゆえ)、内憂を消滅する儀は政府諸君子、干城隊の諸壮士に任(まか)せ置き、諸隊の者は手を分(わけ)外患を防禦する事(こと)急務ならむ。」(同前 P.190)と、先述のように諸隊を分散化することを提案している。そして、それに続けて「大割拠論」に関して、次のように述べている。

赤間関も我(われ)断然国体に愧(はず)かしめざるやう開港すべし。然(しか)らずんば幕薩は申すに及ばず、遂には外夷の妖術に陥(おちい)るならむ。五大洲中へ防長の腹を推し出して大細工を仕出(しだ)さねば大割拠は成就致さずならむ。......
 (同前 P.190)

ここで高杉は、下関開港をはっきりと打ち出している。自刃した麻田公輔(周布政之助)の言でいえば、"攘して開する"である。開港の目的は防長2国の「大割拠」のためである。こうなると、幕府の開港路線との違いは、「国体を愧かしめざる」形をとるか否かのレベルとなる。しかし、これは些細な次元の問題であり、幕府との残る対立面は中央政治の主導権争いである。両派とも天皇を擁しての権力掌握争いである。
 1865(元治2)年3月5日付けの佐世八十郎あての長文の書簡でも、高杉は「割拠論」を次のように展開している。

兎も角(とモかく)両国(*防長2国)を五大洲の強富国にすれば随分勤王も出来(でき)候様愚按(ぐあん)奉り候。好名(功名)だてが一番悪(あ)しく御座候。爾(しかり)ながら天下の形勢を丸で見ずでは〔*勤王も〕相叶(あいかな)はず候。双眼四足両国中に在(あ)り候て、しり目にて天下の形勢を窺(うかが)ふ位にて丁度(ちょうど)宜しきかと存じ奉り候。......  (同前 P.202)

 割拠して防長二国を五大洲でも「強富国」にすれば、勤王もできるという。そして、「双眼四足」を防長2国にしっかりと置き、天下の形勢は「しり目(*瞳だけ動かして後ろを見やること)」で窺う程度が丁度いい―と主張するのである。
 桂小五郎もまた、割拠論者である。8・18クーデター後も、桂は必死に長州藩の活路を求めた。「小五郎はまだあきらめていなかった。打開の道はあると信じていた。薩摩を中心とする会津・越前・宇和島の四藩連合に対抗しての長州を中心とする『正藩合一』の路線の形成に依ってである。池田屋の変は、守護職にたいする反感を強め、因州鳥取、備前岡山の両池田藩、それに芸州の三藩に守護職の横暴を糾弾する声があがりはじめた。小五郎は、この三藩に、伊予大洲・津和野の諸藩を連合し、四藩連合と対抗しようとした。」(大江志乃夫著『木戸孝允』中公新書 1868年 P.142)のであった。
 桂が8・18クーデター後も、執拗に京都での情報収集などの活動を続けたのも訳があった。「すでに原則としての割拠論を早くからうち出しながら、割拠が現実の藩の孤立化に結果する情勢のもとで、小五郎は、まだ雄藩連合の立場をふっきれていない。小五郎が京都に残留したのは、そうした矛盾からであった。/それは無理もなかった。情勢の急激な展開のなかで、主体の確立と多数の獲得という政治的課題の実現にあたって、往々にしてこの両者は一見矛盾する課題として現出する。......」(同前 P.132~133)からである。
 禁門の変以後は、さすがに潜伏活動に挺身せざるを得なくなるが、「小五郎は、対馬藩邸に出入りしていた但馬出石(いずし)の商人広戸甚助の助けを得て、出石から京都の対馬藩邸の大島友之丞にあてた書簡に、『天下の正藩大に割拠、決して賊令に応じないよう十分に御尽力ひとえに祈り奉ります』とある。小五郎の方針は、藩割拠体制の確立と、割拠体制を確立した諸藩の同盟の実現であった。」(同前 P.146)といわれる。

(4) 既存の軍制を改革し次々と銃砲隊を編成 
 幕府軍の第二次征長が押し寄せる危機的事態の下で、長州藩に課せられた軍事変革(いわゆる慶応の軍制改革)は、新式火器の大量輸入と、同時に軍政・軍制全般の変革・戦法の変革などである。
 長州藩はまず第一に、新たな「西洋陣法」を取り入れた隊編成など軍の近代化を徹底化した。
 長州藩は、ペリー来航いらい西洋軍制の導入をはかってきたが、伝統的な刀槍に依拠した戦法に固執した上層武士などの反対により、全藩的な近代化は遅々として進まなかった。西洋式軍制は一部において、取り組まれてきただけであった。しかし、禁門の変での大敗は、長州藩の軍制改革にも大きな影響を与えたようである。
 『防長回天史』に引用された「木戸の自叙の要旨」によれば、「前年天王山の役(*1864年7月の禁門の変)兵士弓銃刀槍を混用し其(その)大不利を知れるを以て、今や機に乗じ兵制を一変せんと欲し其(その)利害を参政山田宇右衛門にも謀(はか)り大村益次郎を抜擢し軍事を改正せしむる......」(『修訂 防長回天史』七 P.201)と、桂らは考えていた。

 【中間から始まった銃隊編成】
 1865(慶応元)年4月19日、藩は蔵元付中間(ちゅうげん)・地方(じかた)組中間・百人中間に対し、「右(みぎ)是迄(これまで)諸役所手子役(てこやく)等専一(せんいつ)に召され仕え来り候処(ところ)御詮議(ごせんぎ)の趣(おもむき)之(これ)有り、向後(こうご)軍役(ぐんやく)専務に召され仕え候に付き、銃陣修行第一に仰せ付けられ候。尤(もっとも)自道手子等相勤め候儀は是迄の通り相心得べき候。就(つい)ては少壮の者、銃陣彌(いよいよ)以て懈怠(けたい *なまけること)無く出精仕り候様仰せ付けられ候事」(『修訂 防長回天史』九 P.155~156)と命じた。
 手子とは、各郡の役所の最下層で仕事を行なうものである。郡奉行のもとには、各勘場(かんば *郡の役所)があるが、その責任者は代官(大組の士分が勤める)である。しかし、彼らは通常萩に居り、勘場の日常業務は下代(しもだい)以下役人が行なう。下代の下には町方・作事方・寺社方・山方など(他に各代官独自のものがある)の担当者(三十人通や無給通など士分の最下層が勤める)がおり、そのさらに下が手子役である。手子役には、「定勤」と臨時に増員される「助勤」の二種類がある。勘場付の手子は4年の年限が来た後は、必ず自らが属する組(根組)に戻り、本来の組役をはたす(一部は、仕事上の必要性からこの規制からはずれた)。手子役の約8割は中間が勤め、残りを足軽が勤めた。
 これらの軍役でなく役所仕事を務める中間にも、これからは軍役につく(一部を除く)ので銃陣修行を第一にせよ、というのである。
 5月3日には、挟箱(はさみばこ)・駕籠(かご)・槍持・小人(こびと)の四役に命じて、5月11日以後、月15日間(5・10の日を除く)、練兵場で操練をさせた。5月3日には、大組中間(ちゅうげん)の要請を許可して、毎月6回、銃陣を明倫館で練習させた。
 5月17日、砲術修行の法を定め、大砲師家に対して、各自の流儀によって門弟に教授することを禁止した。その代わり、みな藩の砲兵塾に練習させた。砲兵の統一を図るためである。
 禁門の変後、但馬の出石に潜伏していた桂小五郎が、この年(1865〔慶応元〕年)の4月に帰国し、5月27日、政事堂内用掛(*政事堂の顧問)および国政方用談役心得に任命されたことは前述した(桂は、6月24日に正式に国政方用談役〔民政部門の参謀格〕に就いた)。
 桂は、その直前の5月13日に、次のような建言書を政府に提出している。

防長二州蕭然(しょうぜん *もの淋しく静かな様)深夜の如キ形情ニ御座無くてハ、所詮(しょせん)御民政御軍政の挙(あが)リ申さずハ、元ヨリ人心迷惑、敵ニ対セバ必百敗、万々御国家御維持ト申す事ハ覚束(おぼつか)なく存じ奉り候、人心迷惑ハ御賞罰の因循(いんじゅん *古いしきたりに従って改めないこと)ニアリ、御軍政の立たざるハ未だ御一定の御手当之(これ)無き故(ゆえ)ナリ、恐れながら千年の御社稷危急存亡の決、此日(このひ)の際ニ之(これ)有り候事ハ申上げ候迄(まで)モ之(これ)無く、就いてハ御民政御軍政、日夜御工夫(ごくふう)在(あ)らせられ、不足不徹の事(こと)之(これ)有り候得バ(そうらへば)、一々御指図遊ばされ候て迅々速々整斉(せいせい *整え揃えること)仕り候様、屹度(きっと)御厳命在らせられ、只管(ひたすら)廟堂ヨリ漸(ようやく)取調べ候て窺(うかが)ひ奉り候節、御判断遊ばされ候様の御事ニてハ、恐れながら今日の急、中々(なかなか)間ニ合い申さずハ必然ト存じ上げ奉り候付き、
器械其外(そのほか)御軍備の品、元ヨリ俄(にわか)ニ二州ヘ十分行きトドキ(行届き)候様御手当仰せ付けられ候事ハ、御六ツケ敷(おむずかしき)事ニ存じ奉り候得共(そうらへども)、迅速ニ御一定の御手当ハ御決議之(これ)無くてハ相叶(あいかなは)ず、御一定相成り候上ハ、山口ヨリシテ諸郡ノ御手当(おてあて)士農町兵の規則等モ相定リ、一ヨリシテ相始(あいはじめ)、少シモ早ク十分の所迄(ところまで)相調(あいととのえ)候様、向々(むきむき *思い思いの方向に)ニオヰテモ勉励(べんれい *職務などをつとめ励むこと)仕(つかまつ)ざりてハ相叶ず、譬ハ(たとえば)御所帯方ノ局アリ、一銭ニてモ無用の軽費(*経費)ヲ厭(いと)ひ候ハ、実ニ其(その)職ヲ尽シ候訳(そうろうわけ)ニ御座候得共、一定の御手当之(これ)有り候上ハ、イカ様ニモ繰巻き致シ、一ヲ逐(お)ヒ〔*一つ一つ〕候て漸漸(ようよう)十分の所迄、御備事(おそなえごと)少シモ早ク相調(あいととの)え候様、精力を尽し申さずてハ相済(あいす)まず、左(さ)無く候てハイカ程(いかほど)金ヲ厭候トモ〔*金を節約しても〕、終(つひ)ニ敵ニ相渡(あいわた)し候金ニ相成(あいな)り候ハ当然の事ニ付き、是等(これら)の儀モ一定の御手当之(これ)有り候上ハ、万端(ばんたん)御直(おんじき)ニ御指図在らせらず候てハ、百年相待(あいま)ち候トモ決して十分の御備(おんそなえ)御六ツケ敷(おむずかしく)存じ奉り候、農町兵等ニテモ御取立(おとりたて)相成り候上(そうろううえ)ハ、農町兵丈(だけ)の規則ハ規則ニて厳重ニ相立て、非常の節ハ、何地の農町兵ハ何々隊ヘ附属仰せ付けらると歟(か)、何ト歟(か)、是等(これら)の事迄(ことまで)モ迅速ニ屹度(きっと)相定リ居り候得(そうらへ)ハ(ば)、兼(かね)て名々(めいめい)其(その)心得モ之(これ)有るべし、左無く候てハ、必ず万事不都合(ふつごう)のみニ相成り申すべきト存じ奉り候、必竟(畢竟)蕭然深夜の如キ形情ニ相成り申さずハ、兼て御一定の事之(これ)無き故(ゆえ)ト存じ奉り候、御一定之(これ)無きの時ハ、敵ニ臨ミ諸兵モ尽ス処(ところ)ヲ知らず廟堂モ一時ニ万務(ばんむ *すべての職務)差し閊(つか)え、却(かえっ)て内地(*藩内)ヨリ紛擾(ふんじょう *もめごと)致シ候様相成り候てハ、我ヨリ必滅ヲ招キ候訳ニて、其場(そのば)ニ臨ミ料理の致シ方(かた)之(これ)無き儀ハ眼前の事ト存じ奉り候、恐れながら今日の急(きゅう)御国家維持の御手段、御民政御軍政日夜(にちや)御工夫在らせられ、上(かみ)ヨリ廟堂の者ヘ御催促遊ばされ、御手当等〔の〕事モ御直ニ御指図(おさしず)在らせられ、御迫リ立ち御座無くてハ、御民政御軍政等の間ニ合い(マにアイ)申さずハ、元ヨリ万端(ばんたん)覚束なき事のみト恐れながら存じ上げ奉り候、          (『松菊木戸公伝』上 P.468~470)

 長州藩は幕府との戦争に備え、外にたいしては、「蕭然深夜の如き形情」で、静かになにくわぬ顔で民政軍政をととのえるべきとする。そうでなければ人心は迷惑し、敵に対しては必ず百敗し、国家(藩)の維持は覚束ない―のである。
 内に対しては、上下一致協力して、民政軍政を刷新し、確乎として時期の到来を待つ。そして、武器を調達し、士はもちろん農町兵をも徴募し、農町兵向けの規則も作り、非常時には附属させる隊も決め、軍備の迅速な充実を訴えている。これまでのように、藩庁から取り調べを命じたのち決定を下すのでは、今日の危急時には間にあわない。とにかく兵器の充実と農商兵の整備は緊要であり、このための財政運用は迅速を旨として、戦時体制の確立が必要である―というのである。
 桂の役職が決まったのと同じ5月27日に、村田蔵六は「......軍政専務の用所役を仰せつけられた。以後、長州藩の近代的軍事力の建設は蔵六に一任されることになり、軍制改革の責任者として藩政の中枢に名を連ねることになる。」(大村紀八郎著『大村益次郎伝』P.195)といわれる。
 この頃、村田蔵六1)は長州藩の軍制改革について、次のような構想を抱いていた。

民政・軍制の改革で、殊(こと)に軍政に於ては、四境に幕府の大敵を引受けることになれば、今日までの諸隊や世禄の士族隊ぐらゐでは、到底(とうてい)対抗ができない故(ゆえ)、この際(さい)農民町人から募集して兵役の任に就かしめることが必要である。すなはち防長二州が出る覚悟がなくてはならぬし、その世禄の士は当然応召の義務はあるが、農民・町人は職業を抛(ほう)つて応召する場合の給与が問題であり、もちろんこれは藩政府が負担すべきである。農民町人はこれを青年より採用するが、徒(いたず)らに烏合(うごう)の衆を集めたのでは戦時に役立たないから、あらかじめ兵式訓練を行ふ必要がある。これを決行するのは急務である。次には軍艦・銃器の準備である。
            (丹潔編『大村益次郎』マツノ書店 1999年)―(竹本知之著『幕末・維新の西洋兵学と近代軍制』思文閣出版 2014年 P.85 から重引)

 村田蔵六は、世禄の諸士の部隊や奇兵隊など諸隊だけでは幕府軍に勝ちえないので、農商兵の組織化をも一段と進めた(この点は、桂もまた同じである)。ただし、農商兵は生業があり、それをなげうって応募するのであるから、その給与は藩が負担するの当然である。また、その生業の維持と租税の確保のためには、農民・町人を無制限には募集できない。そこで藩は、5月22日、農商兵の人員を限定し、節制の規則を以下のように定めた。

一 御国中(おくにじゅう)農商兵千六百人に相定められ、十六歳より三十五歳迄(まで)軍役(ぐんやく)召し仕えせられ候。最も年限中毎年人別米一俵宛て立ち下され候事。
 但(ただ)し、諸郡人数割りの儀は追て沙汰(さた)仰せ付けらるべく候事。
 附(つけ)たり、三十五歳相満(あいみ)ち候共(そうろうとも)軍役相勤めたく願い出候者は御詮議の上(うえ)召し仕えせらるべく候事。
一 技芸(ぎげい)試(ためし)の上(うえ)上等の者は年限中新組足軽に準ぜられ、苗字帯刀差免(さしゆるさ)れ候事。
 但し、中等以下の者は昨年御沙汰の通り相違(そうい)之(これ)無く候事。
 附たり、戦場に相臨み候者、又(また)は格別に勤功(きんこう)相績み候者は御詮議振り之(これ)有るべく候事。
 附たり、年限相満ち候者又は病気其外(そのほか)にて軍役差除(さしのぞ)かれ候。以後は全く以前に差返(さしかえ)し候事。
一 調練定日、一ヶ年十八日に仰せ付けられ候事。
 但し、正月二月三月七月十一月十二月、以上六ヶ月、月別三日宛ての事。
 附たり、調練定日の儀は御養ひ(*だんだんに作り上げる)仰せ付けられ候事。
 附たり、毎月一度宛て砲発調練、毎歳両度宛て玉打ち経験の事。
一 十五歳に相満ち候者又は病気其外(そのほか)にて軍役差除かれ候者と交代の生兵(*新兵)を毎年選擢(せんたく *選抜)し、二月朔日(ついたち)より同晦日(みそか)迄(まで)日稽古仰せ付けられ候事。
 但し、日稽古中御養ひ仰せ付けられ候事。

 農商兵の定員を国中で1600人に定めた。その年齢は、16歳から35歳が対象である。農商兵となった者は、年別一人当たり米1俵が支給された。農商兵はその技芸が試され、上等のクラスの者は新組足軽に準じられ、苗字帯刀を許された。調練は、1年間で18日に定められた。実戦に慣れさせるために、毎月1度、発射訓練を、毎歳2度、玉打ち訓練を行なうとした。【大村紀八郎著『大村益次郎伝』によると、幕末長州藩の士籍班は約2600人である。その内部は、一門・永代家老・寄組からなる上士、大組・船手組・遠近付・寺社組からなる中士、無給通・徒士などからなる下士となっている。それらの下に、士雇〔さむらいやとい〕や足軽・中間など士籍に準ずる層、3000人余がいた。】
 5月23日、藩主は士大夫に対して、兵制改革の大方針を令した。それは、"文武興隆は昔から言ってきたが、ようやく吉田時代(*毛利元就が安芸国吉田荘から身を起こした当時)のような簡易質略の風が再興され、諸制度・軍陣も実用的になるようにとの趣旨も、追々手が付けられるようになってきた"と述べ、それに続いて次のように述べている。

......終(つい)に御国中一般火器隊の御手組に相定められるべし。之(これ)に依って萩・山口両学校に於て益々(ますます)御引立(おひきたて *励まし盛んにする)仰せ付けられ、文道は国学・漢学を以て人才の成就するを要務とす、武術は諸種の内(うち)当今の専業は歩騎砲三兵学・海軍等即ち御軍制の大関係する所にて、卒伍の頭に立つ諸士たれば用兵学第一にて一己(いっこ)の技芸に泥(なず)まず修行方肝要の事に候。就(つい)ては大小身を論ぜず少壮の者は一端(いったん *一部分)入学をも仰せ付けらるに付き、各(おのおの)勉励尽力して古来の御武威を補賛(ほさん *補い力をそえる)仕(つかまつ)り候様之(これ)有りたく、万一兼(かね)て遊惰(ゆうだ *怠惰)にて文武共一廉(ひとかど)の御用に相立たず歟(か)又(また)は飽食暖衣(ほうしょくだんい *不足なく満ち足りた生活)逸居(いっきょ *安楽生活)せしめ候者等(ものなど)之(これ)有るに於ては取糺(とりただし)仰せ付けられ候上(うえ)、御心外ながら品(しな)に寄り御預(おあずか)り石(こく)又は減知或(あるい)は隠居或は家継(いえつぎ)仰せ付けられず等(とう)夫々(それぞれ)御咎(おとがめ)仰せ付けられ候事/......
                    (『修訂 防長回天史』九 P.160~161)

 この方針は、中級幹部宛てのものであるが、国中「一般火器隊」とすることを目指している。文道と武術は未だアンバランスな関係になっているが、家禄の大小に関係なく藩の塾に入って用兵学を学ぶべきとしている。それが、「卒伍の頭に立つ諸士」の肝要とした。そして最後に、遊惰で飽食暖衣の者は、世禄を減地するか、あるいは隠居あるいは家督を継がせないと脅している。この恫喝は、当時の長州藩の置かれた立場の過酷さを示してあまりある。まさに危急存亡のときなのである。
 5月27日には、村田蔵六を用所役となして軍政に専任させ、同28には、直目付・杉孫七郎を軍政事務専任とした(村田は6月6日、大組に列し100石取りとなる)。
 藩主は5月28日、政府要員や山口駐在の老臣を召し、次のような親書を言い渡した。

元来(がんらい)三末家岩国?(ならびに)一門其外(そのほか)大臣の者とも要衝の地へ分配仰せ付け置かれ候儀は先公〔の〕深き思召しに在らせられ候御事(おんこと)に候処(ところ)、年月相隔(あいへだた)り御深旨を奉らず。察するに今日の危急に臨み候ても因循に打ち過ぎ、実備相調(あいととの)えざる向きも之(これ)有るやに相聞(あいきこ)え候。当今国家危急の場合に立至(たちいた)り候に付きては農町の者迄(ものまで)も報国の覚悟致し居り候趣(おもむき)神妙の事に候。然処(しかるところ)大臣の分として前段の通り不覚(ふかく)之(これ)有り、自然下々(しもじも)の者より軽侮(けいぶ)を受け候様相成(あいな)り候ては第一大臣の職も相立たざる事に付き、心外ながら屹度(きっと)申付け候外(そうろうのほか)致し方(いたシかた)之(これ)無く、我等(われら)に於ても天朝に対し奉(たてまつ)り藩屏の任(にん)相立たず且(かつ)先公〔の〕深旨にも相背(あいそむ)き恐れ入り奉り候。兼(かね)て兵制の儀は西洋陣法採用(さいよう)申付け置き候通り、速(すみやか)に〔防長〕二州一致の軍制を相調えたく、一門其外(そのほか)隊制・武器等急速〔に〕遂(と)げ詮議し当家の武威を汚(けが)さざる儀(ぎ)肝要に為すべく候也  (同前 P.164)

 三家(*徳山・長府・清末の三支藩)岩国ならびに一門を要衝の地に配したのは先公の深い御考えなのに、今日の危急存亡の秋になっても実備がなされていないのは、あまりにも因循(古い仕来りにこだわって、なんら改めないこと)に打ち過ぎているからだと批判する。下々の農町の者までが報国の覚悟をしているのに、この有様では第一大臣の職さえもなりたたない。天朝の藩?(当然にも幕府の藩?という考えはなくなっている)として、その任を遂行するためにも、先公の深旨に背かないためにも、すでに申付けてある通り西洋陣法を採用して、迅速に防長2州の一致した軍制をを整えるように隊制・武器を揃え、毛利家の武威を汚さないようにする事が肝要である―とした。
 藩内の封建領主へ西洋軍法の採用(隊制・武器の充実)を迫るとともに、5月29日、老臣以下禄高1000石以上の諸臣に対して、それぞれの家臣を山口に出して兵学を学ぶようにさせた。以下は、禄高に応じた修学させる家臣(壮年で軍事心掛けの者)の数である。
一 家来6人宛て――宍戸備前 毛利筑前 毛利出雲 益田清次郎 福原駒之進
一 家来4人宛て――毛利能登 毛利豊之進 毛利隠岐
一 家来3人宛て――5000石以上
一 家来2人宛て――3000石以上
一 家来1人宛て――1000石以上

 閏5月4日には、福原駒之進に対し、毛利筑前の事務見習いを命じ、専ら軍政に関与させた。同じくこの日、歩兵塾の規則を定め、三期に分けてその業を終えるようにした。

  〈歩兵塾規則〉
一 修業の法第一期第二期第三期を以て等級を分ちて、入門等一期を七十日と定め小銃運動?(ならびに)司令の法則を学ぶを要とす、七十日に至り其(その)業を試み若(も)し未熟に候はば尚(なお)三十日の間(あいだ)重(かさ)ねて其業を学び、三十日に至り更(さら)に是(これ)を試み其業成就(じょうじゅ)に至ては第二期に移る。
一 第二期を五十日と定め仮りに操練場小隊司令の任を授け、生兵(*新兵)引き建て(立て)?(ならびに)小隊運動の指揮を司(つかさど)らしめ且(か)つ前業を練熟するを旨とす、旁(かたはら)用兵学を修業し第三期に移るの階梯(かいてい *階段)とす。
一 第三期日数期限(きげん)之(これ)無く専用兵学を修学し、小隊司令或(あるい)は大隊司令其外(そのほか)相応の任務を持つ。
右(みぎ)此度(このたび)規則仰せ出だされ候付き宜しく相守らるべく候事。
 丑(*1865年)五月(*「閏」が欠か?)

 閏5月17日には、砲兵塾規則も定められた。要旨は、歩兵塾規則と同じといわれる。
 閏5月11日には、ついに中間(ちゅうげん)のみによる銃隊編制が命令された。いわゆる第四大隊である。その令文は、次の通りである。

                         御蔵元付御中間之者
                         大組同断
                         地方組同断
                         百人同断
右(みぎ)軍役専務に召し仕えられ......此度五組合併にして銃隊組分(くみわけ)をも仰せ付けらるの事に付き、向後(こうご)十六歳より三十歳迄(まで)の間、一旦小隊入りより中等迄(まで)も相進まざる者は諸手子召し仕えられ候儀は此度(このたび)差留められ候。就(つい)ては右年限中仮令(たとひ)手子相勤め居り候共異変の節は兼(かね)て定め置かれ候隊中へ馳集(かけあつま)り遂(つひに *その結果として)其節(そのせつ)候儀は勿論(もちろん)平日操練の節たりとも其向(そのむき)より知達次第操練場へ罷(まか)り出(い)で候様仰せ付けられ候事
 但し三十一歳以上にても在非役(*在役・非役)とも差し閊(つか)え之(これ)無き面々は銃隊組入(くみいれ)をも仰せ付けられ候事
......                  (『修訂 防長回天史』九 P.167~168)

 御蔵元付中間・大組中間・地方組中間・百人中間の5組が合併され(百人中間は新旧がある)、新たに銃隊として編成され、第四大隊となった。この対象年齢の中間(ちゅうげん)は、たとえ手子として勤務していても、緊急時には決められた隊へ結集することとされた。
 6月6日、村田蔵六の身分を大組に昇格させ、100石の禄を与えた。7月には、文武総裁である世子の意をもって村田は諸事に当り、軍政については専断の上で上聞させるようにした。また、世子は福原駒之進を学校奉行に命じ、6月8日には、杉孫七郎・桂小五郎・広沢藤右衛門(真臣)・前原彦太郎(一誠)を学校掛兼(けん)干城隊頭取とした。

 【藩士上層も銃隊編成】
 6月9日、更に以下のような軍制改革の令が大身の家臣へ発せら、詮議すべきとされた。これは、中上層諸士の銃隊形成とともに、近世封建制の軍役体制を突き崩す大きな一歩となった。

御軍制の儀、先年以来(いらい)追々(おいおい)増補仰せ付けられ、就中(なかんづく)西洋陣法御採用(さいよう)相成り沿革(えんかく *移り変わり)詮議をも仰せ付けられ候得共(そうらへども)未だ一定の法則相立(あいた)て難(がた)き趣(おもむき)も之(これ)有り候処、当時勢(とうじせい)武備充実急務の儀一日も閣(お)かれ難く〔*止めることも出来なく〕に付き、此度(このたび)大身の面々へ御達(おたっし)書付(かきつけ)を以て仰せ出だされ候。御旨意を以て尚又(なおまた)詮議(せんぎ *評議して事を明白にすること)仰せ付け、大格左の通り
一(第一条)御一門(ごいちもん)?(ならびに)御神本(*益田)・福原両家是(こ)れ迄(まで)一手(*一軍)出張の節(せつ)総奉行仰せ付けられ候処(そうろうところ)古法に復せられ以来一手働きに仰せ付けられ候。銃卒一大隊より五、六小隊迄(まで)、砲卒一砲隊より半砲隊迄取立て、銃砲共(とも)司令以下役付(やくづき)内輪(うちわ)に於て申付け、総(すべ)て軍制区々之(これ)無く併合区分救応等差湊(さしつどふ)之(これ)無き様(よう)手組(てぐみ)仰せ付けられ候事。
 但し、知行高に応じ精々(せいぜい)銃卒取り建て候儀肝要に候処、当分器械其外(そのほか)差し閊(つか)え之(これ)有るべきに付き、相成丈ケ(あいなるたけ)の手組にして其餘(そのよ)追々取立て候様仰せ付けられ候事。
一(第二条)一手に付き御旗本より軍監一人宛て差し出され候こと。
一(第三条)老中の儀是(こ)れ迄(まで)総奉行闕間(*欠員)の節(せつ)一手の指揮仰せ付けられ候処、以来(いらい)差止められ寄合備(よりあいそなえ)一手働きに仰せ付けられ、尤(もっとも)人数不足にては隊制相整(あいととの)はず兵力微弱に付き、寄組(よりぐみ *大身の層)合併仰せ付けられ候儀も之(これ)有り候。司令の儀は兵学熟達の者・知行高の者等(など)相勤(あいつと)め、其(それ)以下役付きの儀は内輪に於て申付け、総て軍制区々の儀(ぎ)之(これ)無く併合区分等差湊(さしつどふ)之(これ)無き様(よう)手組仰せ付けられ候事。
 但し、同断。(*当分、器械などが不十分なのでそれに応じた手組にし、追々充実すべきこと)
一(第四条)砲隊取建ての儀は御詮議の趣(おもむき)之(これ)有り。知行所に於(おけ)る農民の内(うち)膽氣(たんき *どきょう)之(これ)有る者十人二十人程宛(ほどあて)相選び兼(かね)て装薬其外(そのほか)手順(てじゅん)等(など)習はせ置き候様、尤(もっとも)野戦砲弾薬とも面々(めんめん)用意の分(ぶん)附け出し仰せ付けられ不足の分は御武具方より差出され地形或(あるい)は兵隊の多少に因(よ)り一砲隊半砲隊等(など)手組仰せ付けられ候事。
一(第五条)寄組の儀(ぎ)古法の通り寄合備(よりあいそなえ)勿論(もちろん)の事に候。或は四、五人或は八、九人、十五、六人等(など)寄合一大隊又(また)は半大隊等(など)併合の儀は御差図(おさしず)之(これ)有り候。大小隊司令の儀は兵学熟達の者・知行高の者等相勤め、其(それ)以下役付きの儀は家来の者へ申付け、尤(もっとも)銃卒寡少(かしょう)の面々は半隊司令をも相勤め候心得(こころえ)を以て間隔(かんかく *へだたり)之(これ)無き様手組仰せ付けられ候事。
 但し、同断。
一(第六条)寄組小知行の面々多人数組合にては御軍制差し閊(つか)え之(これ)有り候に付き足軽以下の司令仰せ付けられ候儀も之(これ)有るべく候事。
一(第七条)大組千石以上寄組備へ併合仰せ付けられ候。精々銃卒取立て小隊半隊等(など)司令銘々(めいめい)相勤め候様仰せ付けられ候事。
一(第八条)同九百九十九石以下の面々は足軽以下銃砲司令仰せ付けられ候事。
別紙の通り人張(ひとばり *備えるべき陪臣)相定め候條(じょう)、銃卒取り建て置き候心得(こころえ)肝要に仰せ付けられに付き、司令等相勤め候節は従卒配置の儀は追て仰せ出でされ候事。         (『修訂 防長回天史』九 P.169~171)

 この令の目的が、西洋陣法の採用を大身の家臣に拡大することにあるのは明らかである。 
 まず第一に、毛利一門と益田・福原両家老家の場合は、それぞれの(家来などで組織された)銃砲隊を編成するとされた。銃卒は一大隊(300人前後=4中隊=8小隊)から5~6小隊(1小隊=37人前後なので)185~222人前後となる。砲卒は、1~0・5砲隊である。
 1865(慶応元)年10月時、一門の三丘宍戸家の禄高は11329石、厚狭毛利家は6696石である。従来、萩藩では人張定(ひとばりさだめ *禄高に応じて備えておくべき陪臣数)は、100石につき2人であった。したがって、三丘宍戸家の人張は少なくとも226人であり、厚狭毛利家は同じく134人である。この数からすると、銃卒でいうと、宍戸家で6小隊、厚狭毛利家で3小隊は編成しなければならない。
 司令以下役付きは、それぞれの一門・両家で命ずる(第一条)。重要なことは、「総て軍制区々之無く併合区分救応等差湊之無き様......」(この文言は、第一条・第三条で使われている)と言われるように、武器・戦法・兵の編成などがバラバラにならないようにと注意していることである。従来は、一手ごとに武器・戦法・兵の編成が異なっていたのであるが、それを統一化すべきとしている。(近代の特質の一つは、画一化・均一化である)
 第二に、寄組の場合、それぞれの寄組だけでの一手働きが命令されているが、人数不足の場合は寄組どうしで合併するように命ぜられることもある。
 寄組は、先述したように士分の中でも上層に属し、それより下位の諸組の頭を務める。この寄組には、17世紀中頃、堅田(かただ)・国司(くにし)・山内・桂・熊谷(くまがい)・益田・柳沢・児玉・清水・志道(しじ)・内藤・榎本など21家が存在していた。その禄高は、享保末期(18世前半)に定められた規定では、5000石以下1000石以上とされた。だが、その石高もその後、6126石余から250石に拡大され、幕末には62家に増大した。
 このため、250石取りでは人張は5人となり、とても銃隊1小隊をも満たせない。したがって、陪臣数の少ない寄組の家同士が合併しなければ1小隊をも形成できないのである。
 司令は、「兵学熟達の者」あるいは「知行高の者」、それ以下の役付きは内輪で決めるようにとなっている(第三条)。司令では、「兵学熟達の者」に統一化されてなく、「知行高の者」もあり、妥協的な部分が残っている。従来、諸組の頭を務めた寄組の諸家は、「兵学熟達の者」を司令に戴くことに変わったのである。しかし、それだけでは不満だけがたまると考えたのか、「知行高の者」も司令になりうる余地を残したのであった。
 また、「寄組小知行の面々多人数組合」の場合は、軍制が甚だしくまちまちなので、「足軽以下の司令」が命令された(第六条)。これまでも、銃隊行動は士分よりも足軽の方が経験豊かであったためと思われる。さらに、第八条では、「同(*大組)九百九十九以下の面々は足軽以下銃砲司令」と、一律に定められた。 
 第三に、大組の1000石以上の者は、寄組備へ併合されるとした(第七条)。先述したように、大組は長州藩でもっとも数が多く、家臣団の中核を占めた。大組は八組(はっくみ)とも称したが、それは諸士を8組に編成し、このうち6組を藩地にとどめ萩城の勤番などを務めさせ、2組を藩主の参勤に従がわせ警固させ、江戸にも駐在させたからである。
 人員は、承応年間(1652~55年)に600余家だったのが、文化年間(1804~18年)には1200余に増大した。禄高は、40石から1000石の間であって、多くは下地を給与された。1852(嘉永2)年の調査によると、大組(八組)の分布は、100石以上560人、70石以上177人、50石以上264人、40石以上368人で、計1378人である。100~1000石の層の分布が不明であるが、100石未満から40石の層が、58・7%を占めている。
 したがって、大組に属する家では、陪臣はゼロか、あるいは多くてもせいぜい20人である。これでは、銃隊の1小隊(37人前後)でさえ編成できない。そのため、大組に属する諸士自身を寄組備に併合したのである。
 第四に、砲隊編制では知行所内の農民をあてにし、度胸のある農民を訓練させておくようにとしている。野戦砲・弾薬ともそれぞれが用意しなければならないが、不足分については藩の方から支給するとされている。藩の新たな正規軍は、士分や軽卒(足軽・中間など)のみでなく、農民層にも開かれたのである。それなくして、膨大な幕府軍に備える戦力は形成できなかったのである。
 ついで、160石~1050石の中層とごく一部の上層の諸士の銃隊、すなわち第5大隊の形成に関する令文(別紙にあたる)も発せられた。

諸士是迄(これまで)百名(石か)に付き二人の人張(ひとばり)に仰せ付けられ置き候処、御詮議の趣(おもむき)之(これ)有り、向後(こうご)百六十石以上の面々(めんめん)左の通り相定め候。尤(もっとも)千石以上下地(したじ)持ちの面々は是迄の通り相心得(あいこころえ)られ、百五十九石九斗九升以下の面々は人張勝手次第(かつてしだい)仰せ付けられ候。右定員人張は銃手(じゅうしゅ)のみにて千石以下自分備え(*武装自弁)銃隊相立(あいた)てられ難(がた)く組合備えとして司令成られべく、御付(おつ)き主人は一統(いっとう)単騎働きの心得を以て無用の従卒召連れ候事(そうろうこと)相成(あいな)らざり候は勿論(もちろん)、分外(ぶんがい)の銃卒差出し候儀は苦しからず候得共(そうらへども)仮初(かりそめ)にも虚飾の人張は堅く差留(さしと)め候に付き此段(このだん)心得違ひ之(これ)無き様(よう)相心得(あいこころえ)らるべく候事。
 但し、拠無(よんどころな)く定(さだめ)の人張(ひとばり)相整(あいととの)えざる面々は願出(ねがいで)の上(うえ)御料簡(ごりょうけん *思案)を以て人数に当り左の通り恩扶持(おんふち)当分(とうぶん)預り石(あずかリこく *支給された石を一時返上すること)差し免(ゆる)され、右へ当る兵卒雇入(やとひい)れの儀は御軍制方に於て取捌(とりさば)き仰せ付けられ候。若(も)しも定の人張(ひとばり)仕(つかまつ)らず徒(いたずら)に高禄を食(は)むもの(者)之(これ)有るに於ては取糺(とりただし)の上(うえ)御心外ながら減知をも仰せ付けられ候事。
 附(つけ)たり、庶子(しょし *嫡子以外の実子)其外(そのほか)家子(いえのこ)罷(まか)り居(お)り候(そうろう)者は根の人張へ〔*元来の人張〕へ相加えられ候事。(以下、見やすくするために、漢字表現をアラビア数字とする)

一 160石より199石9斗9升迄   1人
一 200石より249石9斗9升迄   2人
一 250石より299石9斗9升迄   3人
一 300石より349石9斗9升迄   4人
一 350石より399石9斗9升迄   5人
一 400石より449石9斗9升迄   6人
一 450石より499石9斗9升迄   7人
一 500石より549石9斗9升迄   8人
一 550石より599石9斗9升迄   9人
一 600石より649石9斗9升迄  10人
一 650石より699石9斗9升迄  11人
一 700石より749石9斗9升迄  12人
一 750石より799石9斗9升迄  13人
一 800石より849石9斗9升迄  14人
一 850石より899石9斗9升迄  15人
一 900石より949石9斗9升迄  16人
一 950石より999石9斗9升迄  17人
一 1000石より1049石迄    18人
 但し、右の外(ほか)浮米(うきまい *土地を支給しないで、蔵米を給与すること。特定の土地と結びつかないので浮米という)取の面々(めんめん)右に準じ之(これ)を増す
右の通り人張(ひとばり)定員仰せ付けられ候、尤(もっとも)千石以上下地(したじ)持ちの面々は是迄の通り百石に二人の御作法彌(いよいよ)相違無き候事。
兵卒一人に付き三人半扶持(ふち *土地でなく米で給与する禄)
一 米六石三斗定(さだめ)
  内(うち)小割
米三石六斗
 但し、日別米一升宛てにして一ヶ年分(ぶん)凡そ引当(ひきあて)
同二石七斗
 ?(秤?)和市七斗替(かえ)にして此(この)代銀三百八十五匁餘(よ)
 但し、俸銀三十目(もんめ *匁)宛てにして一ヶ年分三百六十目に当る分、尤(もっとも)二十五匁餘過銀に付き閏月(うるうづき)之(これ)を補う
今般(こんぱん)人張(ひとばり)の儀(ぎ)御沙汰相成り候趣を以て、兼(かね)て家来召し抱え居り候面々は姓名年齢等など書き記し、猶又(なおまた)相応の人柄之(これ)無く〔*それなりの技芸が無く〕御預り石(こく)願い出で候面々共、当八月中限り支配申し出で支配所に於て取縮め〔*人張を減らす〕御軍制方へ申し出でらるべく候、此段(このだん)心得させ触達(ふれたっし)仰せ付けられ候事
(『修訂 防長回天史』九 P.172~175)

 これによると、1000石以上(実際は1050石以上)は、これまで通りで、「禄高100石につき2人」の人張定(ひとはりさだめ)である。新たな人張定では、159石9斗9升以下の面々は、「勝手次第」となった。すなわち、自由となったのであるが、生活に余裕がないという実状からすると、人張を備えなくともよい―ということである。
 新たな人張定は、160~1050石の層の陪臣数の軽減である。従来と比べると、各層とも2~3人の軽減となっている。但し、よんどころなく人張ができない場合は、「預り石」にして、藩の方で要員は確保するとしている。若し、定め通りに兵卒を雇い入れないで、高禄を貪っている者に対しては減知を行なうというのである。

 【今度は足軽の銃隊編成】
 6月15日には、中間についで今度は足軽の銃隊(装條銃隊)編制が命令された。『防長歴史用語辞典』によると、足軽には、手回(てまわり)足軽・先手(せんて)足軽・城代足軽の三種類があった。手回足軽は、藩主の護衛のために初代藩主秀就(ひでなり)の時に設けられた。身体強健で弓銃にすぐれた者を選抜して2組に分け、大組の士を手回物頭に任じて掌握させた。その後、4組を加え6組とし、1組21人で計126人となった。後にまた改めて、弓隊44人、銃隊99人と定めた。先手足軽は、はじめ弓隊100人、銃隊477人であったが、後これを25組に分け各組21人として、計525人と定めた。そのうち5組は弓隊、20組は銃隊であり、各組の組頭は大組の士が務めた。さらにその上に、寄組の士が大頭として置かれ全体を統轄した。城代足軽は城代に付属し、1組21人をもって構成され、城内の警備にあたった。
 『修訂 防長回天史』によると、「近年(*幕末)に至り、三田尻の舸子(かこ)銃手を足軽とし之(これ)を分ちて五隊と為(な)し各一隊を物頭に属す」(同著九 P.175)とした。

                      御手廻御先手足軽中
右(みぎ)是迄(これまで)各組一隊の御仕法(ごしほう)を以て物頭役へ御預(おあずかり)成られ置き候処、御詮議の趣(おもむき)之(これ)有り、只今の御預差除(さしのぞ)かれ一統合併して装條銃隊に仰せ付けられ、尤(もっとも)技芸等選びの上一組四十宛て番数にて物頭役へ御預成られ、尤(もっとも)御手廻御先手等(など)唱来(しょうらい *呼び習わしてきたこと)の儀は行形(なりゆき)の通り〔*今のままで〕唱え仰せ付けられ候事
......(中略)......
                      御城代附足軽中
右御詮議の趣之(これ)有り、御先手足軽へ加入仰せ付けられ候事
                    (『修訂 防長回天史』九 P.176~177) 

 この改革により、6月17日に従来の物頭役を免じ、同20日に、新たな物頭役を任命した。銃隊は、第一装條銃大隊一番中隊~四番中隊、第二装條銃大隊一番中隊~三番中隊である。        
 7月6日には、三田尻の足軽5隊も2隊に編成し、第三装條銃大隊とした。以上により、第一大隊から第五大隊にいたる歩兵部隊が成立したのである。

 【大組も銃隊編成】
 7月13日には、長州藩家臣団の中核であった大組(八組)の八手への分配を止め、大組八組を合併させることとなった。

今般(こんぱん)御軍制御改正仰せ付けられ候処、兼(かね)て定め置かれ候八手御分配の御仕法(*方法、仕方)向後(こうご)差止(さしと)められ、且又(かつまた)銃砲一般の御手組(おてぐみ)仰せ付けられ候。付(つい)ては右司令等士官数百人の御引当(おひきあて *引き入れて充当すること)も之(これ)有り、その餘(よ)壮年の面々は追(おっ)て編隊の上(うえ)御旗本御守衛其外(そのほか)斥候(せっこう)散兵(さんぺい)等の御遣方(おつかいかた)も之(これ)有り候間、文武修行方の儀は追々(おいおい)御沙汰相成り候。御旨意を奉じ彌(いよいよ)以て用兵学を勉励せしめ候様仰せ付けられ候事。
......             (『修訂 防長回天史』九 P.188~189)

 大組の八組への分配を差止め、銃砲一般の組にするというのである。その理由は、下関攘夷戦争いらい老若混交の組(部隊)では駆け引きが煩いのみで一致した防戦もできなかったこと、銃砲一般の備え立ての時代、大組から司令役として引当てされ、元来の八組には老功の者だけが居残ってしまったことなどがある。しかし、「畢竟(ひっきょう)八手の御制度は刀槍接戦の御手組にて当今銃砲の戦闘にては損(そん)ありて益(えき)無し、利害得失前後瞭然たる事に付き」(『修訂 防長回天史』九 P.188)、分配を止め、八組を合併し、萩城の番勤めも差止めとなったのである。残りの壮年者の遣い方については、おいおい沙汰するというものである。
 7月18日には、足軽の手廻・先手の区分と名称を廃止し、一般に「装條銃隊」と称させた。18日には、物頭の名称も廃止し、「中隊司令士」と称させた。
 7月25日、煮方(にかた)・厩(うまや)の中間を銃隊に編成し、苗字を称することを許した。だが、壮年の者たちは、本職の余暇をみて銃陣を練習させるようにした。
 7月27日には、13組の中間を合併し、6組に再編した。
 改革はさらに進み、9月20日には、萩野流砲術を廃止し、西洋流砲術を研究して子弟を教導すべきとした。

 【陪臣も銃隊編成】
 10月5日には、一門・両家老家の八家以下、禄高1000石以上の家兵を大隊に編成し、周防及び南長門に在る者を南大隊とし、北長門に在る者を北大隊とした。その構成は以下の通りである。
南第一大隊 宍戸備前(人数1大隊) 【*以下カッコ内は人数を表す】
南第二大隊 毛利隠岐(5小隊)
南第三大隊 清水美作(3小隊) 浦滋野助(3小隊) 井原主計(2小隊)
南第四大隊 佐世仁蔵(3小隊) 村上亀之助(2小隊) 村上河内(1小隊)
南第五大隊 毛利筑前(半大隊) 堅田健介(半大隊)
南第六大隊 毛利筑前(1大隊)
南第七大隊 毛利出雲(1大隊)
南第八大隊 粟屋帯刀(半大隊) 梨羽筑後(2小隊) 国司主税(1小隊) 宍戸備中(1小隊)
南第九大隊 益田孫槌(3小隊) 児玉若狭(2小隊) 内藤常陸(半小隊) 赤川蔵人(半小隊) 佐々木式部(半小隊) 内藤真伍(半小隊)
南第十大隊 鈴尾駒之進(1大隊)
南第十一大隊 毛利能登(半大隊) 桂武之助(1小隊) 宍戸丹後(半小隊) 口羽熊之允(半小隊) 山内新右衛門(半小隊) 熊谷岩尾(半小隊) 秋里音門(半小隊) 二宮餘次(半小隊)
南第十二大隊 高田健之助(半大隊) 山内梅三郎(半大隊)
北第一大隊 御神本(益田)主殿(1大隊)
北第二大隊 志道安房(2小隊) 柳澤備後(2小隊) 榎本伊豆(1小隊) 児玉主税(1小隊) 宍戸播磨(半小隊) 根来上総(半小隊) 繁澤河内(半小隊) 渡辺丹波(半小隊)
北第三大隊 毛利豊之進(半小隊) 周布治部(1小隊) 福原相模(半小隊) 益田石見(半小隊) 椙杜駿河(半小隊) 桂衛士(半小隊) 乃美山三郎(半小隊) 益田寄與三(半小隊)

 従来、刀槍による接近戦を専らとする一門・両家老家以下、1000石以上の家臣の兵も、ついに銃砲隊に編成替えすることとなった。
 そして、10月6日、南第四大隊の佐世仁蔵(人数3小隊)は、城代役の任務を有するために、率いる兵とともに同大隊から独立に行動させることになった。また、南第五大隊の堅田健介(人数半大隊)は八幡隊の総督、南第十二大隊の山内楳(梅)三郎は奇兵隊の総督であるため、その兵を率いる諸隊に併合し、南大隊には関与しないようにした。14日には、瀧彌太郎を軍政用掛とし、徳山藩(支藩)の山崎隊の総督にするなどした。
 1866慶応2)年1月26日には、南北諸大隊の部分的な修正があり、再編された。それは、以下の通りである。
①南第四大隊―柳澤備後(人数2小隊)が北第二大隊から移動し、村上太郎左衛門(人数半小隊)が新たに編成され加入した。
②南第九大隊―高洲三郎(人数半小隊)が新たに編成され加入した。なお、内藤真伍(人数半小隊)は、南第十一大隊へ移動した。
③南第十一大隊―内藤真伍(人数半小隊)が南第九大隊から移動してきた。
④北第一大隊―御神本主税(人数1大隊)が無くなり、旧北第二大隊の大部分(志道安房の2小隊を除く)と、旧北第三大隊の益田與三(人数半小隊)及び新たに編成された内藤為之助(人数半小隊)とによって、新北第一大隊が編成された。
⑤北第二大隊―志道隼人(人数2小隊) 周布治部(人数1小隊) 毛利留次郎(1小隊) 
 椙杜駿河(人数半小隊) 福原相模(人数半小隊) 益田石見(人数半小隊) 乃美山三郎(人数半小隊) 桂衛士(人数半小隊) 山内新右衛門(人数半小隊)で構成された。大部分が旧北第三大隊の部隊であるが、志道隼人・毛利留次郎の部隊は新たなに編成されたもの、山内新右衛門は南第十一大隊から移動してきたものである。
⑥北第四大隊(第三大隊のことか?)―旧北第三大隊の毛利豊之進の部隊が、人数半小隊だったのが6小隊に膨張し、単独で新北第四大隊を編成した。
 だが、組替はこれにとどまらず、4月に入って、南第三第四大隊が合併し、当分の間、浦滋之助(人数3小隊)・井原主計(人数1小隊)・佐世仁蔵(人数1小隊)・柳澤備後(人数2小隊)で1隊を編成することになった。
 以上で、第二次幕長戦争前の長州藩の大規模な軍制改革の枠組みがなった。しかし、この新たな「藩正規軍」は士分や軽輩(足軽・中間など)のみで組織された訳ではないのである。
 柳澤京子著「長州藩慶応期軍制改革と藩正規軍」(『戊辰戦争の新視点』下 吉川弘文館 2018年 に所収)によると、農兵出身者が大きな比重を占めたのであった。すなわち、「......一八六五年(慶応元年)十月の編成に戻ると、藩正規軍のなかに『農兵』が占める割合が多いことがわかる。実際、農兵出身者兵の占める割合は全体の五七%ほどになる。この数字は、『尋常銃』(*従来のモデルであるゲベール銃。ライフル銃〔施條銃〕が日本に輸入される以前から長崎に経由で入っていた)を所持する者の割合が五八%ほどと、農兵出身者と『尋常銃』所持者の数がほぼ拮抗(きっこう)することを示す。なぜ士分層を超える割合で農兵出身者が組み込まれるのか。そこで厚狭毛利家の家中構成を思い起こしてもらいたい。家格相応の給人人数を常時雇い入れることにどこの家も苦心していたため、他家の『足軽中間』隊も内実は本当に家中の者だけで占められていたかどうかはわからない。それに『砲卒』は、すでに藩から知行所(給領地)農民のなかから取り立てることが命ぜられていた。給領地農民を取り立てることを前提にして、正規軍編制がなされているのであり、また藩正規軍は農兵を大量に組み込まないことには編制が不可能だった」(P.64~65)のである。
 
  図表8 1865(慶応元)年10月軍制改革時の正規軍内訳の事例

一手別       隊の規模   内訳      人数        配属
宍戸備前     銃隊1大隊 2小隊(A1)  299(但士官銃卒共) 南第1大隊
(三丘宍戸家)一門         3小隊(B1)
 11329石            3小隊(C1)
野戦砲4門 (但しD) 40(但士官砲卒共)  計339
毛利能登     銃隊半大隊  2小隊(A1)  149(但士官銃卒共) 南第11大隊
(厚狭毛利家)一門          2小隊(B2)
6696石      野戦砲2門 (但しD)    20(但士官砲卒共)    計169
御神本主殿    銃隊1大隊  2小隊(A1)  299(但士官銃卒共)  北第1大隊
(須佐益田家)永代家老        2小隊(B1) 
12063石       野戦砲4門 (但しD)    40(但士官砲卒共) 計339
堅田健介     銃隊半大隊  1小隊(A1)  149(但士官銃卒共)  南第5大隊
(寄組)            1小隊(B1)
6126石             2小隊(C1)
益田孫槌     銃隊3小隊  1小隊(A1)  111(但士官銃卒共)  南第9大隊
(寄組)              1小隊(B1)
3975石             1小隊(C1)                       
梨羽筑後     銃隊2小隊  1小隊(A2)  74(但士官銃卒共) 南第8大隊
(寄組→八組頭)          1小隊(C1) 
3218石                                          
村上亀之助    銃隊1小隊半 半小隊(A2)  57(但士官銃卒共)  南第4大隊
(寄組)2393石 1小隊(B3)
村上河内     銃隊1小隊     (B4)  37(但士官銃卒共)  南第4大隊
(寄組)1655石                                        
宍戸播磨     銃隊半小隊          20(但士官銃卒共)  北第2大隊
(寄組)1013石                                    
内藤真伍     銃隊半小隊          20(但士官銃卒共)  南第9大隊
(大組)1073石                                        
出所:柳澤京子著「長州藩慶応期軍制改革と藩正規軍」P.62~63
注:A1は士分持筒装條銃、A2は士分足軽之間持筒装條銃、B1は足軽中間之間持筒尋常銃、B2は足軽中間農兵之間持筒尋常銃、B3は足軽農兵持筒尋常銃、B4は足軽農兵之間持筒装條銃・尋常銃、C1は農兵持筒尋常銃、Dは12ポンド・フランス式。

 一門など八家や大身の家臣で組織された部隊も態勢を整えたが、図表8に見られるように、領内の農民や町民が多く動員されている。柳澤京子氏の前掲論文によると、長州藩正規軍
が8535名、清末・徳山・長府の支藩隊2113名、諸隊1500名、農商兵1600名余りで、計13748余名となる。この「一万四〇〇〇人を欠く兵員数のなかで農民・商兵など武士ではない出身身分兵の割合は過半数を占めていた」(P.65)のである。それは、農商兵以外の分野(藩正規軍や諸隊)でもまた、農商兵出身者が多数を占めていたからである。
 1866(慶応2)年1月30日、藩は在萩の15歳以上の諸士を当主・嫡庶を問わずに、出陣の心得を以て、昼間、明倫館に居住して文武の講習をさせるようにした。それは、2月2日より休日を除き、10日間行なうようにした。
 藩は、同日、鷹匠・鵜匠などの職を廃止する。軍事とあまりかかわらない閒職(かんしょく *ひまな職)をやめるということである。
 長州における軍事色は、全面的に蔓延(まんえん)するようになる。それは、子どもの遊びにまで浸みこむことで明らかである。藩は、2月初旬、次のような令を発する始末である。

諸郡農町其外(そのほか)幼年の者とも多人数(たにんずう)相催(あいもよお)し子供隊(こどもたい)と唱へ御法度の衣類〔*禁止されている衣類〕を着し、小銃昇騎馬提燈(ちょうちん)目籠(めかご *物を入れる目のあらいかご)長持(ながもち *衣類・身の回りの道具を入れる直方体の箱)等(など)太鼓を打ち、行軍備え振りにて騎馬相交(あいまじ)え市中其外(そのほか)巡行せしめ候趣(おもむき)に相聞(あいきこ)へ、肝要の御兵制を以て玩物(がんぶつ)同様に取扱(とりあつか)ひ全く練物(ねりもの)見せものの仕方(しかた)甚(はなは)だ以て心得(こころえ)ざるの事候。向後(こうご)右体(みぎのてい)の儀(ぎ)之(これ)有るにおいては屹(きっ)と御沙汰に及ばるべく候事。

 庶民それも子どもにまで、当時の藩内の軍事一転張りの様子が身に染みて理解できていたのである。
 1866(慶応2)年4月2日には、藩の国政・国用・軍政の三局が併合され、大村益次郎は三兵(歩・騎・砲)教授役となり、軍政用掛を兼ねた。全般的な軍事統制が、一段と進行したのである。第二次幕長戦争開始の2カ月前である。

注1)村田蔵六(大村益次郎)は、1825(文政8)年5月3日に、長州藩小郡宰判(さいばん)鋳銭司(すぜんじ)村字(あざ)大村(現・山口市)の勘場(*村役所)付きの医家に生まれた。祖父良庵は鋳銭司村の重富家生まれだが、三代で絶家となった村田家を相続し、四代目となった。村田家は、農民身分で本百姓の最下層「四半軒(しはんけん)」だが、良庵は小郡勘場の付きの医者であった。良庵と妻との間には「むめ」という一人娘がいた。「むめ」は長じて、秋穂村西天田(にしあまだ *現・山口市)の地下医(じげい)藤村孝益を婿養子として迎えた。二人の間に長男として生まれたのが宗太郎で、後の村田蔵六である。1827年頃、孝益は「むめ」と宗太郎を連れて鋳銭司を去り、実家のある秋穂に転居した。このとき、孝益は村田家の世話人や親戚に対して、長男宗太郎が成長した時には村田家を再興する約束をしたといわれる。
 村田蔵六は、医業を志し、蘭医や漢学者に入門したり、長崎でシーボルトに学ぶ。1846(嘉永元)年には、大坂で緒方洪庵の適塾に学び、塾頭にもなる。1850(嘉永3)年に帰郷して医業を開くが振るわず、1856(安政3)年宇和島藩に招かれ、兵書翻訳や軍艦製造などに従事した。同年宇和島藩士として江戸に出て、幕府の蕃書調所教授手伝い、講武所教授に出仕した。
 1860(万延元)年4月20日、村田蔵六は青木周弼(しゅうすけ)の「育(はぐくみ)」(身元引受人)として、長州藩に召し抱えられた。だが、蔵六は幕府の蕃書調・講武所の教授であり、また宇和島藩に出仕していたので、この処理が必要であった。このための交渉は、幕府との関係では、蕃書調所と講武所への出資を継続させることを条件に認められ、宇和島藩(長州藩とは姻戚関係)との関係では、宇和島藩に必要な兵書の翻訳を蔵六に継続させることを条件に長州藩への移籍が認められた。しかし、蔵六の長州藩での給与は、年25俵(徒士なみの5人扶持相当)で、宇和島藩時代の5分の1以下であった。
 1861(万延2)年1月に帰国した蔵六は、1月28日に御手廻組に所属させられ、翌日には博習堂御用掛となった。博習堂は、藩の兵学を中心とした研究機関であり、西洋学所が改称されたものである。1863(文久3)年5月12日、井上聞多・伊藤俊輔らがイギリス留学に旅立つが、その洋行の世話掛に蔵六は任命されている。だが、実際の仕事は、井上らが藩から支給された旅費の大部分を品川辺で使い果たし、代わりの資金を工面するために、藩御用達の大黒屋と交渉し、借金することであった。同年6月、江戸に居た蔵六に帰国命令が出て、9月20日に江戸を発った。10月24日、攘夷に備えた軍備強化のために、手当防禦(ぼうぎょ)事務用掛に任命された。1864(文久4)年2月24日に、兵学校教授役を命ぜられた。また同年(元治元年)5月10日には、自らの建議で製鉄所の設置の命が出され、蔵六は鉄熕(てっこう)御用取調方(*鉄熕とは鉄製の大砲)を命ぜられた。この年、7月の禁門の変につづき、8月に4カ国艦隊との馬関戦争があるが、その講和交渉の結果、下関に外国船との対応にそなえて外人応接掛が設置され、その掛に任じられた。同年8月29日、蔵六は政務座役事務扱となるが、11月には山口明倫館の学業などが停止となり、兵学校教授の役を免ぜられた。だが、12月9日には、博習堂用掛兼赤間関応接掛を命じられた。1865(慶応元)年、山口明倫館が再興されたのに伴い、3月13日兵学校御用掛兼御手当御用掛を命じられた。蔵六は、同年4月、桂が但馬出石の潜伏先から帰国するのに、伊藤俊輔などとともに奔走し、5月27日に、桂の強い推挙と思われるが軍政専務の用所役を仰せつけられた。1866(慶応2)年4月2日には、三兵教授役となり、軍政用掛を兼ねた。

(5)西洋兵器の大量購入
 第二は、近代兵器の獲得である。ライフル銃(装條銃)を中心とした兵器で装備された軍編成のためである。

西洋で発達をみた小銃1)は、アメリカ独立戦争(1775~83年)で威力を発揮した後装式施條銃によって、従来と比べ格段に性能を高め、これまでの前装式滑腔小銃はやがて姿を消すようになる。
 幕末日本に輸入された銃については、ゲベール銃やミニエー銃の名前がしばしば登場する。これらは、銃種を大別した際の名称である。ゲベール銃とは、一口で言うと前装滑腔式(ぜんそうかっこうしき)の洋銃のことである。前装とは、円形の弾丸を銃口から装填(そうてん)することであり、滑腔とは銃腔面がなめらかな筒(銃身の筒)のことである。点火は火縄式ではなく雷管(火薬に点火する方式の一つで、引き金を引くと撃鉄が雷管を強打して中の火薬を発火させ、発射薬に着火させる)式となっている。有功射程距離は、長くてもおよそ200メーターほどである。オランダの制式軍用銃だったものが、大量に日本に輸入された。また、国産品の小銃もこれをモデルにして製作された。当時、国内でもっとも行き渡っていた銃種である。
 ミニエー銃は、弾丸を発射する銃腔面にらせん状の溝が刻み込まれた施条銃である。発射すると弾丸に回転が与えられ、弾の速度、射程距離、命中率が飛躍的に高くなる。射程距離は300メーター以上に伸びた。当時、いろいろなメーカーのモデルが輸入されたが、長州藩が輸入した制式は不明である。諸種の中で、著名なのはイギリス軍が1853式として採用したエンフィールド銃である。(ミニエー銃には、前装と後装がある)
 このようにゲベール銃とミニエー銃では、性能が大きく異なるが、問題はそれに止まらないのである。ゲベール銃の場合は、「......せいぜい五〇~一〇〇メートルの距離で使用され、密集部隊からの一斉射撃が主な戦い方であった。戦闘が交わされる距離(レンジ)を考えると、弓や槍の併用もおかしくはない。ところが、施条銃の採用によって戦闘のレンジが五〇〇メートル近くまで飛躍的に伸びると、もはや弓や槍は無用のものとなり、散開して遠距離から狙撃する戦い方(散兵戦術)に変化する。......火器が新式でも戦術・戦法や軍編制を改めなければそれを活用することはできなかった。」(戦争の日本史18 保谷徹著『戊辰戦争』吉川弘文館 2007年 P.2)のである。
 藩は、1865(元治2)年の3月下旬頃、楊井(やない)謙蔵を長崎に派遣し、プロシア領事を通じてライフル銃800挺を購入した。
 1865(慶応元)年4月18日、藩は令を発して、火縄銃および甲冑(かっちゅう)を売却し、装條銃を購入させた。

〔*火縄銃・甲冑は〕右(みぎ)当時勢(とうじせい)甚だ不便利ノ器械(きかい)殆(ほとんど)無用ノ長物(ちょうぶつ)共申すべきノ所、今以て兵制不開(ふかい)ノ国トモ之(これ)有る様(よう)相聞(あいきこ)え候付(そうろうにつき)、手筋之(これ)有り次第(しだい)早々売払(うりはらい)仰せ付けられ、右代銀ヲ以て装條銃・?銃(じんじゅう *銃の先端部に剣に似たものを装着して、槍のような戦い方ができた)其外(そのほか)便利器械御買い入れ仰せ付けられ候事 (「忠正公実録」)
        柳澤京子著「長州藩慶応期軍制改革と藩正規軍」P.61 からの重引)
     
 装條銃は、銃身の筒の中に溝が掘られ、弾丸が回転しながら発射されるので、従来の滑腔式(溝がついてない)とは比較にならないほど命中率が高い。より性能の高い武器を確保することにより戦闘力を強めたのめである。なお、武士の携帯する武器は自前で用意するのが原則である。そのために、土地あるいは米が給与されているのが、近世の軍役体系である。
 5月11日には、兵器の統一をはかるために、士民が銃砲を勝手に製造することを禁止する令を発している。和洋の兵器が統一なく勝手に製造されることは、戦力の強度を妨げるからである。
 長州藩が最も欲しいのは、西洋の最新の武器である。村田蔵六(のちの大村益次郎)は、3月に続いて、さらに装條銃(ライフル銃)購入のために、青木群平を長崎に派遣した。しかし、これは幕府の妨害により、目的を果たせなかった。
 桂小五郎は、1865(慶応元)年7月、武器買い付けのために、井上聞多と伊藤俊輔を長崎に派遣した。二人は、イギリス商人グラバーと密かに会見し、蒸気船1艘、小銃7300挺の買い付けに成功した。この取引は、坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介で成功したのであった。だが、坂本龍馬の背後には薩摩藩がおり、しかもグラバーとの取引も薩摩藩の名義で行なわれたのであった。小銃は8月下旬、井上が指揮し、薩摩藩の胡蝶(こちょう)丸と海門丸によって、三田尻に運ばれた。蒸気船(ユニオン号)は、伊藤の指揮で下関に運ばれ、藩の海軍局の点検を受けて引き渡された。
 小銃も船も、薩摩藩の名義で購入されたことは、後の「薩長盟約」から倒幕での共闘への発展―という重要な契機ともなった。
 購入代金は、以下のようになった。木製蒸気船ユニオン号は、その代金が7万ドル(3万9000両と見積もる)で、小銃の内訳は、ミニエー銃4300挺(1挺18両で、7万7400両)、ゲベール銃3000挺(1挺5両で、1万5000両)で、小銃代金計9万2400両である。
 長州藩の1865(慶応元)年5月の武器購入概算が装条銃1800挺、剣銃2000挺、その金額合計は4万6400両であった。したがって、5月の概算からすると、小銃代金は約2倍に上っている。小銃・艦船などを合計すると、17万1700両にのぼり、この内、一般会計からの支出は1万5000両のみで、残りは特別会計である撫育金から賄われた。一般会計が莫大な赤字にもかかわらず、非常時に備えて積み立てられた撫育金は、長州藩が長年かけて人民からの収奪で蓄積したものである。
 長州藩は、グラバーとの取引で大量の武器を確保した。「この時点ですでに長州藩では装條銃・従来銃(尋常銃)合せて一万一〇〇〇挺余りを新規購入していたといわれている。この数量はほぼ全兵士に銃が行き渡るものであり、一八六五年九月には剣銃の一部を長府・徳山・清末の支藩に贈る余裕も生じていたとされている。」(柳澤京子著「長州藩慶応期軍制改革と藩正規軍」―『戊辰戦争の新視点』下 吉川弘文館 2018年 P.61)のであった。

注1)小銃とは、一端を閉じた管の中で火薬を爆発させ、その時に発生するガス圧で弾丸を発射させるものである。この点では、拳銃も大砲も原理的には変わりない。ヨーロッパにおける小銃の発達は、日本でいう近世末期においては、「①施条による命中弾の増加(滑腔銃の数倍といわれる)、②黒色火薬から綿火薬への火薬の改良、丸弾から尖頭弾への弾丸の改良および口径の縮小化、遊底(*射撃に必要な弾薬の装填、閉鎖、撃発、抽筒の諸作用を行なう)の完全閉鎖によるガス漏れ防止等でもたらされた初速および射程の増加(......)、③連発式による発射速度の増加(毎分約2発から約12発に増加)、によって性能が向上し、その威力は従来の10倍あるいはそれ以上に向上したといわれ、これが歩兵の戦闘法を改革する要因となった。」(『世界大百科事典』平凡社 津村秀一郎氏執筆「小銃」の項)といわれる。

(6)長州藩の新たな軍事体制
 「慶応期軍制改革」によって、長州の軍事力は次のように再編された。(田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』岩波新書の江戸時代 1993年 による)

(一)家臣団体
(イ)干城隊......「鎮静会議」家臣団の建議により編成......。
   支隊......衝撃隊、浩武隊、精鋭隊、集英隊、鐘秀隊、酬恩隊・致人隊(足軽)、多治 
   比隊(山口居住中間組)、博習隊(細工人)、亀山隊(不詳)
(ロ)第四大隊......蔵元中間・大組(十三組)中間・地方組中間・百人中間による銃隊編成。
(ハ)第五大隊......150~1050石家臣団より禄高に応じた家臣による銃隊編成。
(ニ)装条銃隊......足軽隊。第一・第二・第三大隊より成る。
(ホ)南北大隊......1000石以上の家臣の陪臣隊。南大隊(周防・南長門)は第一~第十三 
大隊、北大隊(北長門)は第一~第三大隊より成る。
(ヘ)その他.........南第十四・南第十五大隊、大津一中隊(以上家臣の統率による編成)、北第四~六大隊、宣徳隊、強義隊、回天隊、北強団、国信隊、忠告隊、正名隊(以上陪臣隊)、散兵中隊(徒士以下)等。
(ト)支藩の隊......報国隊(長府藩士民)、山崎隊(徳山藩士民)、第一大隊(同足軽中間)、朝気
隊、斥候銃隊、武揚隊、順詳隊(以上徳山藩士)、育英隊(清末藩士卒農)、建尚隊、精義隊、日新隊、敬威隊(以上岩国藩士)、戦翼隊(岩国藩士卒農商)等。
(*注)陪臣隊・支藩隊で士農商合隊は便宜ここに加えた。
(二)諸隊
御楯隊、鴻城隊、遊撃隊(軍)、南園隊、膺懲隊、奇兵隊、八幡隊、第二(南)奇兵隊、集義隊、荻野隊等。
(三)農(商)兵隊、その他
(イ)干城隊支配......郷勇隊(農兵)、市勇隊(商兵)、神威隊(社人)、金剛隊(僧侶)、民砲隊(社人・僧侶・農商兵)、狙撃隊(猟銃兵)等。
(ロ)その他......町兵(奇兵隊附属)、郷侠組(同上)、地光隊(遊撃軍附属)、維新団(被差別部落民)、勇力隊(力士・遊撃軍附属)、山代神威隊〔神機隊〕(社人)、階行団(僧侶)、猟銃隊(農兵)、剣銃隊(同上)、山代茶洗組(被差別部落民)、報国団(農兵)、一新組(被差別部落民・御楯隊附属)、勇力組、バトロン隊(一向宗徒)、好義隊(町人・奇兵隊附属)等。
(ハ)支藩の隊......盤石隊(長府藩力士・報国隊附属)、朝市隊、吾往隊(以上長府藩商兵)、第一大砲隊、東衛団大隊、西衛団大隊、下松砲隊、富海砲隊、結草団(以上徳山藩農町兵)、狙撃隊(徳山藩猟師)、臼砲隊(徳山藩夫卒)、野勇隊(清末藩農民)、武揚隊、敢従隊、北門隊(以上岩国藩農民)等。

 先述したように「元治内戦」で、中立を装って鎮静会が登場し、奇兵隊や遊撃隊など諸隊とともに、椋梨派を打倒した。その鎮静会員によって、1865(元治2)年3月に干城隊が再興されたことは前述した。
 確かに、干城隊は、新たな軍事体制の一覧表に見られるように、幾つもの支隊を従えている。このほかにも幾つかの隊に干城隊から長官を派遣している。また、農商兵のいくつかも、また干城隊に附属している。たとえば、郷勇隊~狙撃隊などである。しかし、奇兵隊や遊撃隊などに附属する町兵隊や被差別部落民の隊もある。(《補論 被差別部落民の隊》を参照)
 総じて、干城隊を指揮系統の中心とする高杉らの目論見は必ずしても成功していない。諸隊に対する指揮系統を確立できていないのである。
 藩令では、諸隊の定員は1600人とされ、藩の管轄下に置かれた。年齢は16歳から35歳までで、任期中は毎年人別米1俵が支給され、技芸がある者は足軽に準じ、苗字帯刀が許された。そして、身分秩序は相変わらず強く、『奇兵隊日記』5月15日条によると、服装規定は、元治元年6月の取り決めに戻るとされた。「御手大工・御細工人・足軽以下の者」は、胴着・帯とも木綿で、白地が許された(元治元年の時は、胴服は紺の無地染めだけであった)が、相変わらず絹を用いるのは厳禁であった。

《補論 被差別部落民の諸隊》
 ここに示された諸隊のうち、維新団、山代茶洗組・一新組が、被差別部落民の隊である。
 被差別部落民の隊を組織することを主張したのは、天保改革を主導した村田清風が初めてかどうかは不明であるが、少なくとも彼は以下のように述べている。
 すなわち、村田は、欧米諸国のアジア進出を聞き知り、「釈迦(しゃか)の本国の印度(*インド)も今は英夷(*イギリスを蔑視て称した)の所有となり、奴隷の如く使われ、恥をしらざる(知らざる)に似たり。」(「随身談」〔海寇防禦論〕―『村田清風全集』上巻 P.345~346)と、言う。
 さらに欧米諸国の動きが日本に迫ると、皇国存立の危機を覚える。そして、「夫(それ)海寇防禦ハ当今の急務なり。皇国の安危へかかるなり。御家御国の一大事なり、生(いき)としいけるもの、誰か心慮(しんりょ *思い、考え)を尽ささらんや。......凡(すべ)て智略ある者はその智略を上(かみ)え申し出(いで)させ、勇力ある者はその勇力を以て防禦を為(な)すへし、豪農豪商共に米穀金銀を上(かみ)え捧げ、防禦の費(ついえ)に供し、そのお蔭を以て家族も安全をはかるへし、是(これ)も士農工商の民の一和よりすへし。一和は何を以てせんや、大学に云う、仁親を以て宝とするより興るへし。また人々義勇なる時は、おうこ六尺(ろくしゃく *貴人の駕籠をかつぐ人)を以ても海寇は叩き殺すへし。茲(ここ)によって在上の君子仁義の政を以て奢(おごり)をおさへ、儉素(けんそ *倹約で質素)を貴(とうと)ひ、信賞必罰を以て四民を活発なし玉(たま)ふ事、是(これ)海防の大眼目なるへし。......」(「甲寅野芹」―『村田清風全集』上巻 P.423)と、「士農工商の民の一和」強く唱え、その結束した力で海防に当るべきとした。そして、仁義の政治により「四民を活発」にするのが、「海防の大眼目」と強調した。
 これにより、身分外の身分である被差別部落民をも、その一翼に参加させるとした。すなわち、「雑戸の者といえども、一小口(*一部署)を別ニ渡し禦(ふせが)せしむへし......」(「御国御手当惣論」―『村田清風全集』上巻 P.438)とした。しかし、これは領主階級の統治の動揺を抑えるのを補助させるためであって、被差別部落民の解放のためでないことは言うまでもない。
 そのことは、次の言でも明らかである。すなわち、「......唯(ただ)智略ある者は、防海の良策を献し、勇力ある者は、槍刀または棒、熊手(くまで)、鳶口(とびくち)或は刺鯢(しげい *鯨を刺しとめる)の釼もり、また投鋒(なげほこ)等を以て平常習熟の技をなさしめ、六十才以上の老人は、不寝番(ふしんばん *夜通し寝ないで番をする人)、婦女は焚出(たきだ)し、十五才以下の小児は兵粮(ひょうろう)配(くば)り、十五才より六十才まては戦闘をなさしめ、沿海の者は舟師に使ひ、山村の者は陸戦を為(な)さしめ、僧巫(*僧侶や巫〔みこ〕)雑戸のもといえども使令すべし、鉦鼓〔しょうこ *ドラとツヅミ〕にても鳴らしむべし、戎狄〔じゅうてき *欧米人を指す〕は犬猫に比すれば、雑戸の者にあたらすへし、犬鶏牛馬も其(その)用あるへし、......」(「長夜の寝言」―『村田清風全集』上巻 P.396)という考えで明瞭である。
 当時の支配層は、依然として牢固たる日本的華夷思想を堅持しており、天皇を戴く皇国は世界を導く冠たる国であり、欧米諸国を戎狄蛮夷と見下している。したがって、その戎狄に対しては、やはり身分外の身分たるほど蔑(さげす)まされる雑戸をもって当らせる―といのである。雑戸とは、長州藩では、穢多・宮番・茶筌(ちゃせん)・猿曳(さるひき)・非人の5種の差別された民1)を総称したものである。
 欧米人を犬猫同様なものとして軽蔑したのは、孝明天皇や貴族たちと全く同じである。欧米人は、犬猫同様に穢れた存在として忌避されたのである。このような差別思想が、攘夷思想の背景になっており、排外主義を高めたのである。
 欧米人を「犬猫同様」と見なして、「開国」を拒否したのは、清風の息子・大津四郎右衛門唯雪ではもっと「洗練」されたものとして、表現されている。唯雪は「答春嶽心得書二十二ケ条」を書いて、春嶽に反論して幕府の開国政策を批判した。
 すなわち、その中の第一五条で、唯雪は"外国人も人間である"という主張に反駁して、「素(もと)より彼等も天地間人ニ間違ひ之(これ)無く候得とも、天地間に生せしとて尊き者は尊キ、賤シ者ハ賤シ、何そ同日の論を立つべき哉(や)」と述べ、以下のように展開する。

諸国に穢多(えた *被差別部落民を指す)といふ者(もの)是(これ)在り、則ち天地間の人間にして手足口目違(たが)ひ候者ニハ更ニ之(これ)無く候得とも(そうらへども)、小前百姓町人といへとも同席せず、飲食を共ニセズ、是(これ)則ち皇国の風儀とす、前の如く言ヘハ諸国大名も穢多も天子(てんし)蒼生(そうせい *人民)も皆(みな)天地間の人ニてハ之(これ)無き哉(や)、蒼生と天子といえども手足身体ハ変る事なし、又(また)天地間に生(うまれ)る者ニて同じ事と言(いふ)ハ、牛馬鶏犬も皆天地間のものニて候得共、牛と同席せる者なく、犬の椀(わん)ニて飲食するものも之(これ)無く、百姓穢多と言(いふ)とも同席ハ致さす、まして万乗(ばんじょう *古代中国で天子は領地千里四方を有し、そこから兵車一万を徴発するので、天子を指す)の君と蒼生と皆それそれ品の替りたる事ハ不弁とも知(しり)たる事ニ候、増して禽獣(きんじゅう)に同様なる醜夷(しゅうい *外国人を差別した表現)を何(なんぞ)尊敬致しかく申すにや
 『大津唯雪雑集』―「答春嶽心得書二十二ヶ条」)―(布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』P.270 より重引)

 穢多が小前百姓(零細農民)と「同席せず、飲食を共にせず」と、権力者に仕向けられてそれが慣習化したことをもって、差別を当然視している。この立論は、差別の事態に対する異論を既存の慣習をもって答えとしている。しかし、この立論・方法は、被差別部落民への差別そのものを分析・論評していない代物である。だから、動物と人間の違いをもって、人間同士の差別を正当化するもので、全く論理のすり替えである。そのうえで、「禽獣に同様なる醜夷をなんぞ尊敬致す」やと、反論する。だが、「禽獣と醜夷」は同様なものではない。両者を同じものと把握する自らの差別的観念を前提とした誤った主張であり、全く独りよがりのものである。
 同様な思想をもつ村田清風は、だからこそ、「夷を以て夷を制す」という中国古来の政策を応用して、被差別部落民をも長州藩防衛を担う軍事力の一環とするのであった。
 1863(文久3)年6月、奇兵隊が創設されたが、その直前の5月ころかと思われるが、吉田稔麿は松下村塾同門の入江九一を通して、山口の藩庁へ次のような「屠勇取立(とりたて)上書」を提出した。

(前略)偏(ひとえ)に兵数を増(まし)候儀に御座候、愚存にてハ方今(ほうこん)兵数定額巨多(きょた)候得共(そうらへども)、精選(せいせん)候時ハ実ニ言甲斐(いいがい)もなき有様(ありさま)に御座候、依而(よって)早々(そうそう)沙汰(さた *指示)成され、実用に適し候様(そうろうよう)御配慮肝要(かんよう)存じ候、され共(ども)その弊に至りてハ農事を奪ひ、重(ママ)ね候気方には参り兼(かね)申すべきと存じ候、右の場合ニ候得は(そうらへバ)農は減少スベカラズして、兵(へい)亦(また)益々増加すべし、左候(さそうろう)に依而(よって)浮食の徒〔*生産にたずさわらない人々〕を沙汰(*用いること)するより外(ほか)ニ方策これ無し、浮食大抵(たいてい)軟弱(なんじゃく)用いるべからざるニ候、僧侶山伏虚無僧(こむそう)陰陽師(おんみょうし)卜筮(ぼくぜい)等の類は、政教厳明漸(ようやく)を以て民心に徹底候様取計(とりはからひ)気長ク御導き候はは、無難(ぶなん)ニ本(もと)に反(かえ)り御役(おやく)ニ相立ち申すべく候、先日御覧(ごらん)の書中に申し上げ候穢多(えた)生の儀は、是迄(これまで)良民ニ不歯(ならばず)鬱屈(うっくつ)罷(まか)り在り、宦(官カ)の御用も候ははと相待ち願い居り候(そうろう)内情推察すへき儀存じ候、追々(おいおい)農兵取立(とりたて)頻(しきり)に御世話(おせわ)在(あ)らせられ候得共、農民等は大にふはづみ(*評判が悪いことカ?)にて難儀(なんぎ)に心得(こころえ)居り候哉(そうろうや)に風評もこれ有り申し候、依而(よって)農兵員数減ぜられ、穢多杯(抔〔など〕)兵に取立てられ、右(みぎ)兵粮小々(少々)充農より取立てせられ候はは一挙両利(*一挙両得)の御計ひと存じ候、是(これ)と申すも苛(きびし)く上より命ぜられ、是非兵卒ニ相成り候様にと仰せ出でられ候てハ、此事(このこと)行なわれ難く候間(そうろうあいだ)、有志の穢多非人御用ニ相立ちたく願ひ出候者御免(ごめん *許されること)成られ、兵卒に御取立(おとりたて)、その名を何とか改め、その格を本格より一層高くし〔*その位をもともとの身分より一層高くあげて〕目覚ましくはで(派手)に装はせ、給金相応(そうおう)にあてがひ候はは、我勝(われがち)ニ部伍(*部隊の基礎単位)に入らん事を願ひ出(で)申すべくと存じ奉り候、農兵も苛く促されず、有志の者(もの)勝手次第(かつてしだい)願出候様仰せ付けられ候はは、却て都合(つごう)宜しき様存じ奉り候、(中略)
方今遊民沢山(たくさん)ニシテ本(もと)に務る農民甚だ希少ニ候、治世の久き農畝(うね)を離れ、争いて末(すえ *農を本にし、工商を末とした)ニ走り候その極弊(きょくへい)米粟乏しく物価騰貴ニ候、凡(すべ)て富国ノ政(まつりごと)ハ兵工商ノ浮食を抑へ減し候て、基本たる農民を増し揚給(あげたま)ふにあり、而(しか)レトモ今時ハ外寇蝟集(いしゅう *一時に集まること)四辺騒擾(そうじょう)の折柄(おりがら)ニ候得は、兵ヲ増シ鉾(ほこ)ヲ鋭(するど)くするにあり、此時(このとき)にあたり古人ハ能(よ)く兵ニ農を寓し屯田(とんでん)と申し候へ共、只今(ただいま)末に走るの折柄迚(とて)も人情苦に苦を(後欠)
   (三宅招宣著「吉田稔麿の政治思想」―来栖守衛著『松陰先生と吉田稔麿』マツノ書店 2010年に所収 増補部のP.6)

 稔麿の「屠勇取立上書」の目的は、ひとえに兵数を増加させることにある。現今は兵の数だけは多いが、実戦のために精選するととても足りない。だからといって、ただ農民を多く採用したのでは、肝心の農業に支障をきたす。そこで浮食の徒を動員する外にない。だが、彼らの多くは軟弱で用をたさない。そこで、稔麿は穢多・非人などに目をつけた。
しかし、兵卒の徴発は上から厳しく命令してもうまくはいかない。したがって、有志の穢多・非人で願い出る者を取り立て、その名を改め、格を上げて、派手な装いにさせ、給与も相応にあてがったならば、我勝ちに応募するであろう。富国の政治は、兵工商の末を抑え、本である農を増やすことにある―としている。
 吉田稔麿の富国強兵は、全くもって儒教の教えそのものである。同時代の横井小楠が、富国とは鉱山開発や工商の発展にあることとし、攘夷論から開国派に転じたことと比べると、天地ほどの違いである。しかも、稔麿は支配者の観点から、兵員を増加して軍事力を補うために被差別部落民などを利用するのであった。
 それから間もなくした7月7日、藩は吉田稔麿に対し、「屠勇取立方」を命じた(来栖守衛著『松陰先生と吉田稔麿』)。その令の但し書きは、以下の通りである。

稔麿〔の〕事は最前英太郎と申す組の者にて、余程(よほど)有志の者ニ付き、士御雇(さむらいおやとひ)ニ仰せ付けられ候、此者(このもの)の事兼(かね)て軍役の内(うち)え穢多(えた)共(ども)を御用成られ候て、一廉(ひとかど *並はずれて)相働くべきとの見込み之(これ)有るの仕法(しほう *やり方)旁(かたはら)工夫仕(つかまつ)り居り、至極実直(じっちょく *律義)の儀に付き、本文の通り仰せ付けられ然るべく、仕法旁は追(おっ)て伺い奉るべく候       (『諸隊史料集』上)―田中彰著『長州藩と明治維新』吉川弘文館 1998年 P.146 から重引)

 吉田稔麿は、萩城東北の松本村で、中間(ちゅうげん)の長男に生まれ、松下村塾の英才であり、この藩令が出される2日まえの7月5日、「御扶持方弐人、米弐石四斗」をもって、「名字差し免(ゆる)され士雇(さむらいやとひ)に準ぜられ候」と、登用された。
 そして、文久3年7月10日、藩は以下のような、被差別部落民の軍事登用令を下した。

右(みぎ)、今度異賊打払い仰せ付けられ候ては、垣之内壮年の者、戦場に罷り出でたく相願ひ候者(もの)之(これ)に有るに於ては、兼(かね)て心得(こころえ)宜しく、左の科目ニ相叶ひ候者の儀は、願ひの通り差し免され、穢多の名目差し除かれ、平常一刀?(ならびに)胴服(どうふく *丈の短い羽織)をも差し免さるべく候、尤(もっとも)壱村凡(およ)そ百軒ニ五人の外(ほか)、差し免されず候事、
  強壮の者  勇気の者
  早道の者  才智アル者 
右(みぎ)の趣(おもむき)を以て沙汰仰せ付けられ候条、願書(がんしょ)差出し候ハハ郡奉行座に於て、篤(とく)と詮儀(詮議)の上(うえ)行状書相添(あいそ)え、当月中を限り、山口御手当え差出し候様仰せ付けられ候事、
 亥
  七月
亥七月十日刺賀佐兵衛え之(これ)を渡す、諸郡えも廻達相成り候様之(これ)を授く、
    (『諸隊史料集』上)―(布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』P.264~265から重引)  

 この「左の科目」として設けられた基準は、「強壮の者、勇気の者、早道の者、才智アル者」である。特典は、採用されると帯刀・胴服着用を許可されるが、それは1村およそ百軒に五人という割合に限定されている。エリート意識をくすぐり、立身出世競争を煽り立てる仕組みになっている。
 長州藩の存亡の危機(馬関戦争)をむかえ、今や、農民・町人などにととどまらず最も抑圧・収奪されてきた被差別部落民などをも対象に、藩権力の補助的軍事力として求めざるを得なかったのである。
 ちなみに、このような政策の採用は長州藩に限らず、幕府においても既に1853(嘉永6)年に、つぎのような令が下されている。

 嘉永六丑九月
   領分の穢多武役(ぶやく)其外(そのほか)ニ遣(つか)ひ候ても苦しからず哉(や)  
   の旨(むね)問合(とひあわせ)?(ならびに)挨拶(あいさつ)
領分ニて穢多のもの共(ども)、武役其外用人足ニ遣(つかひ)候ても苦しからざる儀ニ御座候哉(や)、公辺(*公儀筋)御定(おさだめ)も御座候哉(や)、兼(かね)て心得(こころえ)罷り在(あ)りたく、此段(このだん)伺(うかが)ひ奉り候 以上
                        松平伯耆守家来
                           原四郎兵衛
 九月廿六日
 付札
書面、穢多方の儀は、その品(*人柄)ニ寄り、領主心得を以て遣はされ候とも、差支(さしつかえ)の筋ハ之(これ)有るまじく候とも、平人同様の遣ひ方ニハ相成りがたくものニ之(これ)有り候、               (『徳川禁令考』前集五 P.??)

 松平伯耆守の家来原四郎兵衛の、穢多を武役などで領内で使用してよいものか、幕府がこの点の定めがあるか―という問い合わせに対して、"差しつかえない。しかし、平人同様の使い方にはならない"と回答している。このような際にも、平人と同様な使い方はならないと、差別あるいは身分規制を示しているのである。この書面では、"公辺御定あるや否や"の質問には、直接、答えていないが、淀みない回答からすると、既に定められていることは確実である。
 1860(安政7)年2月には、神奈川表の警備をさせた穢多・非人への給与を示した次の文書も残されている。

安政七申年二月            御目見持格  文蔵忰
                    支配勘定   教授方助合
                         木暮東之輔
一、 金弐拾参両
朝陽丸御船へ乗組、長崎表へ相越(あいこし)候処(そうろうところ)、助合(すけあい)の者に付き、教授方同当(同等)一日金弐分宛て、四拾九日弐拾四匁弐分の処(ところ)、壱両弐分相減(へら)し下され候事
一、 神奈川表御取締として、渡船場?(ならびに)仮見張所へ相詰(あいつめ)させ候穢多非人、塩、噌(味噌か?)、薪(たきぎ)代一日壱人銭三百七拾弐文づつ、関所金取上げ物御払い代、?(ならびに)過料銭(かりょうせん *行政上、軽い禁令を犯した者に支払わせる金銭。刑罰ではない)別廉(べつかど *別の理由)に相立て、御金蔵へ仮納め相成り居り候内を以て下さる (『日本財政経済史料』―定本『近世被差別部落関係法令集』P.376)

 神奈川警備で、渡船場や見張所へ詰めた穢多非人に、塩・味噌・薪代として、一日一人372文ずつ支給された。
 ところで長州藩では、1863(文久3)年の被差別部落民の軍事登用令が下されると、同年10月には支藩の徳山藩でも、「万一異常の節は、屹度(きっと)御用ニ相立つ......」(『徳山藩大令録』)にとの徴発動員令が、「穢多中」に下されている。
 さらに、「元治元年(一八六四)七月七日には、諸郡代官へ『御国中において穢多非人の内(うち)強壮の者相撰(あいえら)び申し出で候様仰せ付けられ候事、但し年齢をも付け出し仰せ付けられ候事』(『諸取集記録』二)と藩命が下った。まさに京都蛤門(はまぐりもん)の変の前夜、長州藩兵が国司(くにし)信濃等に率いられて陸続と上京しつつある最中の事である。これは京都での戦争のための人員不足を補充するための徴兵であったにちがいない。」(布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』P.265~266)と言われる。
 蛤御門の変で長州藩は敗北し、藩内の権力闘争で周布・高杉派(自称『正義派』)が敗北し、権力が椋梨派に掌握されると、諸隊の解散が企図される。すると、「正義派」諸隊の反乱が惹起される。
 この時、椋梨派は被差別部落民の利用を図る。「慶応元年(一八六五)正月一三日防長両国の『穢多中』に対して『国賊(高杉等の正義派諸隊)共(ども)御両国内乱妨(らんぼう)狼藉(ろうぜき)の所業せしめ、片時も閣(やめ)がたくニ付き、孰(いず)れも精心を尽し討ち果たすべきもの也』(『諸取集記録』三)と諸隊討伐が命ぜられる」(布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』P.266)のであった。被差別部落民は、幕末の動乱の中で、支配階級によってさまざまに利用され続けるのであった。
 被差別部落民の隊の一つである維新団の結成は、布引氏によると、1866(慶応2)年5月とされるが、それは第二次幕長戦争の直前の時期である。同じ頃、一新組(三田尻の被差別部落民などで結成。御楯隊に附属)も、山代茶筌組(山代宰判の茶筌で結成)も組織される。
 維新団らが上から権力によって組織されたかは、その規則をみれば明瞭である。維新団の規則は、以下の通りである。

一(第一条) 各々(おのおの)其(その)分限を相弁(あいわきま)へ、弥(いよいよ)以て謹慎(*つつしみ)を専一とし、陣中は勿論(もちろん)、惣(総)して諸人ニ対し無礼不当の処業(しょぎょう *ふるまい、所業)あるへからす、若(も)し見咎(みとがめ)候様の事せしむるに於ては、屹度(きっと)厳科に処すべき事
一(第二条) 団中(だんちゅう)物静(ものしずか)にして法度(はっと *決まり)を相守り、互(たがひ)に深切(親切)を尽し、喧嘩(けんか)口論(こうろん)堅く禁止の事
一(第三条) 進退かけ引(駆け引き)の儀は、一切隊中の差図(さしず)を請くべく候、自然我儘(わがまま)の働き、又(また)ハ臆病(おくびょう)躰(てい)の振舞(ふるまい)せしめ、頭役人の号令を待さる(またザル)ものは厳罰を加ふべき事
一(第四条) 敵間(*敵との距離)を計(はか)らず、猥(みだり)に暴発し、或(あるい)は敵を見さる(みザル)うち退足(ひきあし)建て〔*退却する〕候ものは、即時厳罰申し附くべき事
一(第五条) 夜軍の節、敵身方(味方)を弁(わきまえへ)ず、猥に放発せしめさる事一(第六条) 銃卒の儀は、素(もと)より身のまわり軽便(けいべん *身軽で便利なこと)肝要の事ニ付き、兼(かね)て相定め置き候制度通り、少(すこし)も花美(華美)の出立堅く停止の事
一(第七条) 各(おのおの)所持(しょじ)の器械、暫時(ざんじ)も身をはなすましき事
一(第八条) 陣門外出の儀、堅く差し留め候、尤(もっとも)無拠(よんどころなき)用事の節ハ、頭役人え申し出で、聞き届けの上(うえ)差し免(ゆる)すへき事
付(つけた)リ、隊用の外(ほか)夜行停止の事
一(第九条) 遠見番(*高い所から遠くの敵を偵察する番)、又は人改(ひとあらため *人を調べること)候処(そうろうところ)昼夜(ちゅうや)山野?(ならびに)陣所辺の廻り番、篝火(かがりび)焚き、不寝番(ふしんばん *夜どおし寝ないで番をすること)等、夫々(それぞれ)交代をもって、苦労をいとわす怠(おこた)り無く相勤むるべき事
付り、其外(そのほか)格別骨をり(骨折り)候事柄(ことがら)、又は不自由の儀といへとも、能々(よくよく)勘弁(かんべん *こらえて忍ぶこと)せしめ、決して勝手(かつて)がましき儀申すべかさる事
一(第十条) 農町家におゐて買掛(かいかか)り〔*ツケ買いのこと〕、又は少しニても押掠(おうりゃく *略奪)かましき儀(ぎ)厳禁の事
一(第十一条) 酒宴(しゅえん)高声(*声高なこと)等堅く停止の事
一(第十二条) 竹木採用(*刈り取り用いること)?(ならびに)漁猟一切禁制の事
一(第十三条) 火盗(*火事・盗み)の用心肝要たるへき事
一(第十四条) 団中願い筋の儀も之(これ)有る節は、其(その)小隊小隊肝煎(きもいり *世話人)の者より頭役人え相達し申すべく候、決して筋無く内願申し出でましき事
右の条々堅く相守るべく候、若し違背(いはい)せしむ者之(これ)有るは曲事(くせごと *不正な事)たるべき候事
 丙寅
   五月

 維新団の規則が最もその階級性を示しているのは、第一条である。それは、「各々其分限を相弁へ、弥以て謹慎を専一とし」の文言に明瞭に表れている。すなわち、身分外の身分である被差別部落民は、その「分限」をよく弁えて(自己の身分をよく弁えて)、「諸人ニ対し無礼・不当の所業」あってはならない―とまずもって、釘を刺されているのである。そして、それを破ると「厳科に処す」というのである。
 以下の条項には、一般の軍事集団にしばしば見られる文言に似たものもある。しかし、それらは第一条の身分規定が前提として、厳しくのしかかっているのであって、その点を欠落すると誤った解釈に陥るであろう。
 また、規則の全体的な調子が「教育する」(教え込む)という観点となっており、この点でも維新団が上から権力によって組織化されたことを示している。
 このことは、次の上関茶筌隊の「盟約」と比較すると、さらに明瞭である。

一(第一条) 毎月三八の日正六ツ時(*6時)より稽古取り懸(か)かりの事、尤(もっとも)道程弐里又(また)ハ壱里(*約3・9キロ)相隔(あいへだた)リ候部(ぶ *かつての宰判)ハ、五ツ時(*8時頃)出揃(でそろひ)の事
一(第二条) 定日出勤、一日欠け候ても誓約(せいやく)違い候間、乱髪(らんぱつ *髪の毛を束ねていないこと)申し付け候事
一(第三条) 同出勤、弐度三度不勤(ふきん)に及び候節ハ、半髪にして固屋(こや)前〔の〕正義柱(せいぎはしら)に括(くく)り付け置き候事
一(第四条) 盗(ぬすみ)かたり(*詐欺)其外(そのほか)不義(ふぎ)なる事(こと)致し候者ハ、見届(みとどけ)次第(しだい)取糺(とりただし)の上(うえ)割腹(せっぷく)申し付け候事
一(第五条) 何時(いつ)ニても異変の節ハ、各(おのおの)屯処(たむろしょ)大野稽古場ニ集合致し、一同其向(そのむき)へ馳(は)せ付け、粉骨を尽すべく候事
                         頭取元
                            金作(血判)
                         大野村
                            宇三郎(血判)
                         (以下一五名之を略す)
右(みぎ)慶応元年一月廿九日同心致し候事(血判)
                         (以下一四名之を略す)

 「盟約」の内容は、かなり厳しいもとなっているが、全体基調は自分たちで作った文言であり、上から作られた文言とはなっていない。このことは、手取り足取りで教え込むという維新団の規則とは対照的であり、自分たちの決意・誓約としての「盟約」となっていることで明らかである。
 上関茶筌隊の「盟約」が1865(慶応元)年11月29日付けであるので、この隊の結成もこの頃と思われる。隊の参加者は、熊毛郡・玖珂郡・大島郡などの茶筌であり、延べ約40名ほどである。上関茶筌隊は、毛利氏一門の「大野毛利氏の家臣の隊と思われる吉見隊へ附属することとなり、鉄砲二九挺を借りうけ、大野村(*上関宰判)八幡社内へ屯所を構え、稽古場を建てて訓練に励んだ。稽古場の建設は、竹木を大野毛利氏よりもらい受け、庄屋福永藤次兵衛の取計いによってなされた。その他は茶筌自らが『自力を以て取り続け候』という。彼らの意気ごみの程がうかがわれる。」(布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』P.274~275)といわれる。
 だが、上関茶筌隊は、1866(慶応2)年3月、28名全員が第二奇兵隊によって逮捕された。その嫌疑は、同隊が「敵謀の周旋」というものであった。布引氏の研究によると、首謀者と見られた大野村茶筌金作と熊毛宰判小周防村茶筌富蔵のそれぞれの口述書(多少の食い違いはある)によって、事件の概要は次のようなものである。すなわち、「茶筌金作は妻子をつれて大野村を出奔(しゅっぽん)し、京へ上り天下の情勢を知った。そして新選組へ出向き入隊を願ったところ、妻子を同伴しないという条件付きで入隊許可を得たので、妻子をつれて郷里に帰ってきた。そこで同志を募り新選組に参加せんとしたが、行を共にする仲間を得ず、上京を断念。やむなく近在の茶筌によびかけて一隊を組織し、吉見隊(一門大野毛利氏の家臣の隊か)に附属し、小銃の訓練に励んでいたが、敵との通謀の嫌疑によって捕縛された」(布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』P.272)というものである。
 布引氏の前掲書では、「金作口書によると、富蔵が『互(たがひ)ニ賤しき者故、迚(とて)も一通(ひととおり)の御奉公ハ相成らざる事、兼(かね)て承け及びニ付き、出精(しゅっせい *精を出して物事を行なうこと)の手段これ無く候』と言ったので、金作は『御国恩さえ忘れずハ、同類相募(あいつの)り、御暇(おひま)をもらい他国へ参り、戦争の節(せつ)御国御為(おんため)裏切(うらぎり)なり共(とも)致し候様の手段より外(ほか)これ無し』と答えたという。富蔵口書によると、金作が『同志の者を募り置き、戦争相始まり候節、勝軍の方(ほう)加勢(かせい)致すべし、尤(もっとも)その内敵方合力(ごうりき *力を添えること)致し候ハハ格外出精も相成り候』と述べた」(P.273~274)となっている。
 二人とも、賤民からの解放を希求していることは、確かである。しかも、それは上関茶筌隊作りのために、熊毛郡・玖珂郡・大島郡にわたって隊員工作を行なっているようなので、彼らの解放要求は単に個人的なものでなく、同じ茶筌仲間の解放も願っていることは確かである。
 ただ、二人の方法は、下線部後者の発言からすると、極めて危ういものであり、このため嫌疑を受けたと思われる。
 上関茶筌隊は全員逮捕の上、首謀者・金作は第二奇兵隊の取り調べ中に、自殺して果てる。結局、隊も解体される。
 上関茶筌隊の解体の直後の5月、維新団、一新組、山代茶筅組が上から組織され、第二次幕長戦争に動員される。
 これら被差別部落民で構成された諸隊は、1866(慶応2)年6月に、芸州口の戦線に投入され、幕府軍との激しい戦いを行なっている。三宅招宣氏によると、「維新団は、一八六六年(慶応二年)幕長戦争において、抜群の戦功を挙げた。たとえば同年六月一四日、芸州口の戦において『熊毛垣の内(かきノうち)穢多人数百七十人位、遊撃軍の先手え罷り出で、誠ニ強壮の者計(ものばかり)ニて、敵中え何の支(さは)り(*障り)もなく入込(はいりこみ)、働キ高名仕(つかまつり)候事』(「浦靱負日記」慶応二年六月十七条)と、先手を担って活躍して」(同著「吉田稔麿の政治思想」―増補『松陰先生と吉田稔麿』に所収 増補部のP.9)いる。
 また『修訂 防長回天史』八は、7月末から芸州口での幕府大軍の再攻勢に際し、「我軍遊撃二小隊(二番・五番)・御楯二小隊(四番・六番)・遊撃臼砲二門・吉敷兵四小隊・維新団二小隊(一番・二番)をして四十八坂の戦に当らしめ......」(P.607~608)、「松原口は衝撃隊三小隊・御楯隊一小隊(二番)・及び致人隊、右方の山を守り、衝撃隊四小隊その山下に備へ、勇力隊、経小屋山を守り、左方の山は遊撃隊二小隊(三番・四番)・御楯隊一小隊(五番)及び維新団二小隊(三番・四番)これを守り、而(しこう)して遊撃隊臼砲二門を左右の山に分置す......」(P.608~609)と記すように、維新団は芸州口の一翼を堂々と担っている。
 被差別部落民の戦士も、何人かは激しい戦いの中で戦死する。だが、彼等への差別は、戦死の後にも続けられる。「差別の存在を明瞭に知りうるのは、藩当局へ提出された軍監よりの報告書の記載に於てである。例えば、七月の軍監木梨連の遊撃軍戦傷死者に関する報告書は、はじめに遊撃隊死傷者の氏名・位階・死傷場所等を三〇名にわたって書き連ねた後に
       外ニ
         維新団七人
 右六月十九日大野に於て手負(ておひ)
        同壱人
 右同断同処にて不帰
と氏名も記されず一括して扱われ、遊撃隊士とは差別された報告がなされている。また、九月の木梨連の政事堂宛(あて)報告書は、死傷者を『士分』・『下分』・『又家来(*陪臣)』および『維新団』の四つに分類して記載している。さらに九月の御密用方宛木梨連報告書は、御楯隊の戦死者の氏名・位階を記入した後に『同隊 屠卒者壱人』と記している。この屠卒者とは一新組の兵士であることである。」(布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』P.270~271)と。
 長州藩の差別・分断政策は、根本のところで変わっていないのである。

注1)穢多は、斃牛馬処理・皮細工など皮革業や、夜回り役・牢番・捕吏など警察末端業務、および芸能活動など行なった。のちに経済力がついた者は、農業への進出を図った。宮番は、神社の清掃・警備などが主であるが、村見廻りや捕吏の任務をつかさどる時には、穢多の統轄下に入った。茶筌は、主に竹細工や芸能に携わった。猿曳とは、猿廻しのことである。非人は、長州藩では数が極めて少ないと言われる。非人とは、「......物貰いを業とし、生産には全くたずさわらないものであった」(布引敏雄著「長州藩の非人について」―『長州藩部落解放史研究』P.113)であるが、野非人と定住の非人に大別される。前者は飢饉のときに巷にあふれるほど増加するが、飢饉がおさまると姿を消す。後者は萩城下にのみ非人部落があった。長州藩でも賤民は各種さまざまであったが、18世紀初頭より整理統合が行なわれ、雑戸と言われるような賤民は、穢多・非人・宮番・茶筌・猿曳に分けられていったようである。

(7)新たな用兵学と士官の養成
 第三は、限られた時間ではあるが、新たな用兵学に基づく士官の養成である。いくら立派な軍事編成の確立や新式兵器の確保を行なったとしても、用兵に長けた士官層を養成しない限り、敵に勝てないからである。
 藩は1865(慶応元)年5月24日に、三兵塾を開設した。それは、4か月で小隊指揮を練成するもので、歩兵塾と砲兵塾のほかに、偵察を主な任務とする騎兵塾が設けられた。
 蔵六は、士官候補生の教育機関である兵学校(三兵塾)で、出身階層や石高の上下にかかわらず、少壮の人物を入学させ、速成の教育を行なった。「歩兵」「砲兵」は定員がなく、「騎兵」のみは、27名とされた。
 歩兵塾と砲兵塾は、修業課程を三段階に分けた。その第一期は70日間で、歩兵塾では、小銃技芸・小隊運動・司令法則を、砲兵塾では、大砲の使用法・火具製造法を教えた。試験の結果、合格者は第二期に進む(落第した者は、さらに30日修業し再試験に挑戦する)。第二期は50日間で、教練場で実際に兵を用いて小隊および砲隊の指揮実習を行なった。第三期は、もっぱら用兵学や戦術の教育を行なった。
 同年6月24日には、「三兵学科塾」が創設された。これは、部隊指揮官になっている者を対象に、築城術・戦闘術から戦略まで教えるのであった。
 大村が制定した「三兵学科塾」の規則には、そこで行なわれた教科が以下のように記されている。

第一級 築城学。(付〔つけた〕り算術加減乗除比例法四種)
第二級 答苦知機(タクチーキ=戦術)小戦法 ......
第三級 陸地測量。皇国地理学
第四級 須多羅的儀(ストラトギー=戦略)。海岸防禦法 ......
第五級 万国地理
第六級 万国歴史

 これらには「各級『真・権』があり、権級は毎月六回行われる策問会における点数によって昇級した者、真級は権級獲得者のうち、目付師範役に合格した者に授けられるという、村田得意の実力昇級システムである。」(大村益次郎没後百五十年事業実行委員会 山本栄一郎著『大村益次郎』2016年 P.78)といわれる。
 村田蔵六は、兵学校や自らの私塾(普門塾)でのテキストとして、自身が翻訳したクノープの三兵戦術書『兵家須知(へいかすち)戦闘術門』を用いた。
 1855(安政2)年に、高野長英がプロシア人ブラントの三兵戦術書(1833年刊行)の蘭訳本を訳した『三兵答苦知幾(タクチキ)』が刊行されると、たちまち日本の兵学界を席巻したと言われる。三兵戦術は、決戦戦力である歩兵を主体に、騎兵と砲兵を組み合わせた統合された戦力の戦術を著わしたものである。長州藩の博習堂でも用いられた。 
 ブラントの書に次いで注目されたが、クノープの先の戦術書(1853年刊行)である。その内容は、「根源タクチキ(戦術)、適応タクチキ、総括タクチキ、蘊奥(うんのう *学問・技芸の奥深いところ)タクチキに大別される。三兵戦術に関しては、根源タクチキ編に各種兵隊の多寡配合法、三兵運動の遅速、歩兵タクチキ、騎兵タクチキ、砲兵タクチキがあり、適応タクチキ編には、各種兵隊敵我接近法、各種兵隊の併合を論ず、がある。」(大村紀八郎著『大村益次郎伝』 P.181)といわれる。
 欧米の歩兵の戦い方の歴史を、大村紀八郎前掲書によってみると、以下の通りである。
 17世紀に入ると、槍隊に代わって銃隊が主体となり、銃の命中精度が未だ低いことなどもあって、火力発揮が容易な横隊の密集隊形が好まれた。
 18世紀後半になると、横隊に加えて衝撃力がすぐれた縦隊が組み合わされ、戦況に応じて臨機応変の戦闘隊形をとる混合隊形が主流となった。このとき、主力部隊が行進隊形から戦闘隊形に転ずる際、味方の防護と敵の弱点形成のために、先頭部隊を広く散開させて射撃により敵を攻撃する「散兵戦術」が用いられるようになった。
 1775年に起ったアメリカの独立戦争では、独立軍側の兵は組織的な訓練は受けていないが士気は非常に高く、自らの判断で行動し、「散兵戦術」を用い、しかも地形を利用した射撃でイギリス軍を撃ち破った。これにより、「散兵戦術」は大いに注目されるようになる。
 19世紀に入ると、ナポレオンは徴兵された訓練の行届かない国民軍の特性を逆に生かし、散兵の射撃をもって敵陣を混乱させ、その直後に運動の容易な縦隊隊形により、白兵突撃を行なって決戦を求める戦法を多用した。
 ナポレオン以降は、ライフル銃(施条銃)の出現や砲兵火力の発達で、縦隊戦術の密集隊形はこれらの火器の格好の目標となったため、「散兵戦術」はさらに応用拡大された。クノープの戦術書は、こうした歴史の流れを受けて従来の三兵戦術に新たな面をくわえたものといわれる。もっとも、これもやがて銃と大砲がさらに改良され威力がさらに向上し、「散兵戦術」が戦場の主体となるので、過渡的な時期のものといわれる。
 だが、「散兵戦術」が、すべての面で万能である訳ではない。『兵家須知戦闘術門』の第7章の同戦術の長所と短所が言及されている。それによると、「散布戦闘法則則(すなわ)ち撒兵隊ノ功力ヲ枚挙(まいきょ)スルコト左ノ如シ。寡数(かすう)ノ兵士ヲシテ曠場(こうじょう *広々とした場所)ヲ占領セシメ、敵ノ大勢ト対戦シ、兵士ノ進退動挙自在(じざい)寛裕(かんゆう *ゆったりして落ち着いている様)ニシテ、是(これ)カ為(ため)ニ其(その)発射モ功実(こうじつ *実のある仕事)を得(え)而(しこう)シテ蔽障(へいしょう *おおい防ぐ)セル地形ノ利ニ頼リ得(う)ヘシ。然(しか)レトモ其(その)以テ害タル処(ところ)アリ、統卒(とうそつ)其(その)所属指麾官(指揮官)ノ引導(いんどう *導くこと)を受ルコト鮮(すくな)ク、是(これ)ニ依テ多クハ自己ノ思慮ニ任(まか)スルコト多シ。又(また)撒布戦闘ニ於テ決戦ノ大功ヲ顕(あらは)スコト罕(まれ)ナリ。而シテ撒布横隊若(も)シ曠闊(こうかつ *広大なこと)平坦ノ地ニ在(ある)トキハ騎兵ノ侵襲(しんしゅう)ニ対シテ支撃(しげき *持ちこたえて撃つこと)スルコト能(あた)ハス。此(かく)の如ク小ノ騎兵ト雖(いえ)トモ之(これ)ヲ支戦スルコト能ハス」(大村紀八郎著『大村益次郎伝』より重引 P.94~95)と。

 「散兵戦術」は、少人数で散開し、物陰によって射撃するため、とりわけ諸グループの士官の指揮のレベルが大きな戦力差の要因となる。しかも、士官は多くの人数を要する。この点で、士官の養成は、なおさらのこと、重要な課題になるのであった。

(8)薩摩藩との和解の道 
 幕府軍との戦いで勝利するには、長州藩一国の戦時体制を整えるだけでは、決定的に不十分である。長州藩以外に、外交交渉をもって仲間づくりや中立派を拡大させることが、不可欠である。このために、長州本藩は、三支藩(長府・清末・徳山)と岩国藩との団結を前提に、近隣の諸藩(中国地方や九州地方など)に対する政治工作を強化する。この中で大きな成果をあげたのが、薩摩藩との和解である。
 1865(慶応元)年の7~8月、長州藩が薩摩藩名義で大量の小銃と船を購入したことが、薩長和解の大きなキッカケとなったこと、その仲介には坂本龍馬や中岡慎太郎などがなったことなどは先述した。
 実は、薩長間の和解構想とその実現のための活動は、両藩以外の所からそれ以前から始まっていた。「......第一次長州戦争の最中(さなか)から終了後にかけての時点で、薩摩藩と長州藩の和解を画策する動きが出てくる。中核を担ったのは、月形洗蔵や早川養敬(勇)ら福岡藩の勤王派および中岡慎太郎や土方久元・坂本龍馬ら土佐脱藩グループであった。」(家近良樹著『西郷隆盛』ミネルヴァ書房 2017年 P.153)のである。
 中岡慎太郎は、1838(天保9)年4月に、土佐安芸郡北川郷の大庄屋の長男として生まれる。1861(文久元)年8月に土佐勤王党が結成されるが、9月頃に血盟文に署名している。1863(文久3)年9月長州三田尻に行き、三条実美に面会し、9月19日、三田尻招賢閣1)に入る。同年10月に脱藩し、11月25日、招賢閣議員に推任される。1864(元治元)年7月の禁門の変に参加し、負傷する。同年8月初旬、忠勇隊(三田尻には脱藩浪士が多く集り、それにより作られた隊。禁門の変にも参戦)隊長に挙げられ、4カ国連合艦隊との馬関戦争に参加する。同年11月、忠勇隊士は長府功山寺に移転し、5卿の警固にあたる。11月18日、中岡は真木外記とともに忠勇隊総督となる。以降、京都情勢を探ったり諸藩の有志と会見を行ない、三条らに報告する。薩長和解運動が実を結び始めるのは、1865(慶応元)年4月30日、赤間関で桂小五郎と面談して以降である。同年閏5月には鹿児島に入り、薩摩藩内で薩長和解の説得を行なう。そして、西郷と桂の面談を設定する。しかし、この時は両者の面会は実現しなかった。
 坂本龍馬は、1835(天保6)年11月、高知城下屈指の豪商「才谷屋」の分家の郷士の家(町人郷士2))に生まれる。1861(文久元)年8月に、土佐勤王党に加盟し、翌1862年3月には脱藩する。同年10月、勝海舟に会い、その「門下生」(客分としての意味合いが強い)となる。1863(文久3)年4月、勝麟太郎は、神戸海軍操練所の設置許可を将軍家茂から得る。同4月、神戸に勝海軍私塾の運営許可も得る。同操練所は翌年5月に発足するが、坂本が同操練所や勝の海軍私塾の塾頭を務めたという史料はない。
1864(元治元)年10月、操練所・勝塾は、海舟の軍艦奉行免職(2000石の給与が無くなり、本の100俵に戻る)により閉鎖状態となる(神戸海軍操練所は1865〔元治2〕年3月10日に廃止)。勝の門下生である近藤長次郎や坂本龍馬らは、薩摩藩に預けられる3)。だが、坂本・近藤らは1865(慶応元)年5月、亀山社中を設立する。これは後に土佐藩の援助を受け、海援隊に名称を変更する(1867年4月)。「亀山社中は、結成当初は薩摩藩の庇護(ひご)の下、家老・小松帯刀らの傘下に置かれ、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得ることを目的とした。一方で、メンバーは航海術の習得に努め、私設海軍として国事に奔走していた。特に顕著な事蹟は、軍艦・武器や米など、当時の薩長両藩が必要としていた物資を相互間で調達・運搬することにより、それまで犬猿の仲であった薩長間の融和のきっかけを作りだした」(町田明広著『攘夷の幕末史』講談社現代新書 2010年 P.90)のであった。(《補論 坂本龍馬の実像と陸海援隊の規約》を参照)

注1)1864(元治元)年7月19日の禁門の変にともない、三条実美らはいわゆる「七卿落ち」となる。七卿は、長州藩が構える三田尻の別邸英雲荘の大観楼に落ち着く。七卿に付き従ってきた衛士たちも、同藩が設けた宿舎に入る。そこには、脱藩して来た各地の志士が集まるようになる。久留米出身の真木和泉をはじめ、宮部鼎三(肥後)、中村円太(筑前)、福羽文三郎(津和野)などである。長州藩は後に、そこの会議所を招賢閣と名づけるようになる。京都から追放された尊攘激派の主なものは、この頃ほとんど三田尻の招賢閣に集まり、同所は尊攘激派の中枢となった。宮地佐一郎氏によると、「招賢閣の日常生活は、諸国から集まった浪士を、長藩佐々木男也、佐世八十郎(前原一誠)が周旋統制した。朝は六時(むつどき)に起床、東方京都方面に向かって礼拝、食後、文武の講習、昼飯後は武術稽古、晩飯に至るまで自由時間は与えられない。夜は兵書の講義があって、一日の課程を終える。毎月、朔日(ついたち)は操練、四の日は策問、七の日は遠足、九の日は詩歌音楽の課業があって放縦(ほうじゅう)は禁ぜられ、非常時下の国風が布(し)かれていた。」(同著『中岡慎太郎』中公新書 1993年 P.130)と言われる。
2)江戸時代の武士は、城下町に居住することが原則である。しかし、農村に居住することを原則としながら、しかも百姓でなく武士身分を与えられた者がおり、これを一般的に郷士という。郷士は各地でいろいろ異なるが、大きくは旧族郷士と取立郷士に分けることができる。前者は、近世初頭なんらかの理由で郷士になった者で、土佐藩の郷士・薩摩藩の外城衆が有名である。後者は、多額の献金や新田開発の功で郷士格を与えられた者である。土佐藩の郷士には、いくつかの種類がある。1613(慶長18)年、土佐藩は布告を発して、一領具足(いちりょうぐそく *長曾我部氏の遺臣)の浪人たちから希望者を募って香美(かみ)郡山田村の開発を行なわせた。これが郷士採用のはじめであり、これを「慶長郷士」と呼んだ。何故、一領具足の不満をなだめるために、彼らの生活を成り立たせ、郷士身分に取立てたのか。それには理由があった。関ヶ原の戦いで西軍が破れ、長曾我部氏に代わって、山内氏が新たな大名となった。その山内氏が1600(慶長5)年に入部するにあたり、武器をもって抵抗したのが一領具足であり、本拠浦戸城に立て籠って戦った。これを浦戸一揆といい、一揆軍は273人の死者を出した。入国をようやく果たした山内一豊は、その2か月後、桂浜で相撲を興行し、見学に来た一揆関係者73人を捕縛し、磔(はりつけ)刑に処した。この怨みを軽減し、治安を改善するために「慶長郷士」の制が布かれた。ついで1644(正保元)年に、家老・野中兼山は郷士制度を拡大し、やはり長曾我部氏の遺臣を主な対象として、開墾事業への従事と引き換えに郷士に取り立てた。これを「百人衆郷士」という。その後も郷士制度は拡充されたが、しかし、病気や貧困のために郷士の身分を継続できない者も現われるようになった。このため、元禄期(1688~1704年)以降、郷士の身分や領知、つまり「郷士株」を金銭で譲渡する者も出現した。これを「譲受(ゆずりうけ)郷士」という。これは商品経済が発達するとますます助長され、1763(宝暦13)年には、町人でも正式に郷士になれるようになった。藩政府は、未開地の多い幡多(はた)郡開発のために身分にかかわらず、郷士希望者を募ったためである。これ以降、土佐には「町人郷士」が続出する。宝暦13年の募集に応じた郷士は、その開発地の名にちなんで「幡多郷士」と呼ばれた。1822(文政5)年にも、新田開発が行なわれ、この時取り立てられた者は「仁井田・窪川郷士」と言われた。坂本龍馬の家系は、今の南国市の中心部から北へ10キロ余り入った山合いの才谷という集落の農民であったのが、1666年に高知城下に移住し商人となった。屋号を才谷屋とした坂本家は質屋・酒屋など商売を手広くし、繁昌する。才谷屋が豪商の地位を獲得するのは、直益(なおます)の代である。1770(明和7)年、藩庁が幡多郡開発のために、再び郷士を募集した。この時、直益には2人の子がいたが、直益は郷士の資格を取得すると、長男の八平(はちへい)直海(なおみ)を分家させ郷士坂本家の祖とした。この直海が、龍馬の曽祖父にあたる。龍馬の父は八平直足(なおたり)というが、『土佐藩郷士調査書』によると、領知高は161石余であった。これは高杉晋作の世襲家禄160石とほぼ同じで、郷士のなかでも恵まれた境遇であった。しかし、土佐藩の上士下士制度は苛酷で、上士(山内氏が掛川からつれてきた家臣)によって、下士(一領具足)は百姓町人と同様に「斬り捨て御免」の対象となった。
3)薩摩藩が坂本ら土佐藩脱藩グループを保護した背景には、「文久3(*1863)年末に発生した長崎丸の沈没事件によって多くの汽船乗組員を失ったことが大いに関係した。つまり勝の許で航海術を学んだ龍馬らを、代替的存在として活用しようと考えた」(家近良樹著『西郷隆盛』ミネルヴァ書房 2017年 P.124~125)と言われる。この事件は、1863年12月24日、薩摩藩の傭船(やといぶね)長崎丸が繰綿などを積んで兵庫から長崎へ廻航している途中、長州藩の奇兵隊士などの砲撃を受けて、乗組員68名中28名が溺死した事件である。翌年1月にも、長崎に船で向かう途上の薩摩藩士が長州藩士によって殺害される事件が起こっている。長州藩側の言い分は、いずれも薩摩藩が外国商人と長崎で交易して利益を上げているのを懲戒するというのである。だが、それは言うまでもなく、1863(文久3)年の8・18クーデターへの報復の一環である。
 
 《補論 坂本龍馬の実像と海援隊の規約》
 小説やドラマに描かれた坂本龍馬については、しばしば史実と異なるものがある。たとえば、勝海舟の主宰する神戸海軍操練所で、龍馬は塾頭となっているものがあるが、龍馬は操練所に入れる資格はなかった。操練所の入塾資格は、関西在住の旗本御家人の子弟および四国・中国・九州辺の諸大名家来であり、浪人の龍馬には資格はなかった。龍馬の活動としては、亀山社中とその後身の海援隊でのものが重要である。
 勝海舟の失脚により、1864(元治元)年10月に、神戸海軍塾(勝の私塾)と神戸海軍操練所は事実上閉鎖となるが、その後、龍馬や近藤長次郎らは海舟の肝いりで薩摩藩に預けられる。
 1865(慶応元)年5月に結成された亀山社中は、結成当初は薩摩藩の庇護(ひご)の下、家老・小松帯刀らの傘下に置かれ、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得ることを目的として活動した。この活動を背景に、龍馬は薩長同盟の「仲介者」になり得たのである。1866(慶応2)年6月の第二次幕長戦争では、長州藩の軍艦ユニオン号(薩摩藩桜島丸、後に長州藩乙丑〔いつちゅう〕丸)に乗込み、下関での幕府軍との海戦に参加し、長州藩の勝利に貢献している。
 亀山社中は、「慶応三年(一八六七)四月、土佐藩の援助を受けることとなり、海援隊と名を改めた。龍馬は脱藩の罪を許されて、その隊長に任ぜられ、発足時は隊士二十二人、水夫三十数人の陣容であった。......海援隊は土佐藩の援助を受けたものの、基本的には外郭団体として自由が保障されていた。......なお、慶応三年七月、中岡慎太郎によって陸援隊も組織され、海援隊と合せて翔天隊とも呼称された。」(町田明広著『攘夷の幕末史』 P.91~92)という。
 陸海援隊の性格は、その規約に表れている。大町桂月著『伯爵後藤象二郎』によると、規約は以下の通りである。

一 出京官
 参政            一員
 監察            一員
 附属書生          二員或は三員
 右書生、当時出京両官の自選を許す。外藩応接の際、陸援隊中の機密を掌る。
一 陸援隊
 隊長
 脱藩者、陸上斡旋の才ある者、皆(みな)此(この)隊に入る。国に属せず、暗に出京官に属す。天下の動静を観(み)、諸藩の強弱を察し、内応外援、控制変化、遊説間諜(かんちょう *スパイ)の事を掌(つかさど)る。
一 出崎官
 参政            一員
 附属書生          二員
 右書生、当時出崎官の自選を許す。外藩応接の際、並(ならび)に海援隊中の機密を掌る。
一 海援隊
 隊長
 汽帆(*汽船・帆船)各船之(これ)に属す。脱藩の者、海外開拓に志ある者、皆此隊に入る。国に属せず、暗に出崎官に属する。運船射利(しゃり *利益を目当てにすること)、応接(*人に面会・交流すること)出没、海島を拓き、五洲の輿情を察する等の事を掌る。

凡(およそ)海陸両隊仰ぐ所の銭糧〔*貨幣と糧食〕、常に之(これ)を給せず、其(その)自営自取に任す、但(ただし)臨時官給、固(もと)より定額無く、且(かつ)海陸用を異にすと雖(いえど)も、互(たがい)に相応接(あいおうせつ)〔*互いに助け合い〕、其(その)給する所は多く海より生ず。故に其(その)射利する所は、復(ま)た官に利せず、両隊相給するを要す。或(あるい)は其(その)所轄の局に由つて、亦(また)其(その)部分金を収む。即ち両隊臨時の用に充(あ)つべし。右等の処分、京崎出官の計議(けいぎ *相談し計ること)に任す。

 この規約によると、第一に、両隊とも国(土佐藩)には所属しないが、陸援隊は出京官(土佐藩の京都出張の官)に属し、海援隊は出崎官(土佐藩の長崎出張の官)に属する。正式には土佐藩に属さないが、その出京官・出崎官に属する。土佐藩と両隊の関係は、いわば相互利用の不即不離の関係といえる。
 第二に、陸援隊の任務は、天下の情勢を観望し、諸藩の強弱を観察し、時に特定の藩の動きに呼応あるいは応援する。状況の変化に応じては、控制(他の自由を制すること)する。また、己らの主張を各地で説き、敵側の情報を密かに入手し味方に知らせる―ことなどである。海援隊の任務は、船を利用した運送業で利益を得、人との応接に出没し、海島を開拓し、世界の情勢を観察する―ことなどである。
 第三に、その構成員は、両隊共に脱藩者を挙げている。ついで、陸援隊は、陸上での「斡旋(あっせん)の才ある者」、つまり間に入って両方がうまくゆくように取りはからうのが上手な者を挙げている。海援隊は、「海外開拓に志ある者」を挙げている。つまり海外に出て開拓し、その地を占拠する志がある者である。
 第四に、両隊とも、土佐藩からの定期的な給与はない。臨時の支給がある程度である。基本は自給にある。だが、「多くは海より生ず」というように主に海援隊の射利にある。したがって、その利益は両隊に給する。
 幕末時、「海外開拓に志ある者」のほとんどが、その海外雄飛の目的が西洋諸国に「対峙」することからして、弱い立場の諸国の独立や利益を尊重する気持ちは存在せず、海外侵略に至ることは明らかである。そのことは、坂本龍馬が朝鮮領の竹島開拓に熱心だったこと、後述する近藤長次郎の侵略思想で明らかである。
 だが、1867年11月15日、龍馬と中岡が京都で暗殺された後、海援隊は求心力を失い、1868(慶応4)年閏4月、土佐藩によって解散させられた。

 (ⅰ)薩摩藩名義での武器大量購入
 1865(慶応元)年5月、坂本龍馬は鹿児島を訪ねた後、同月19日に横井小楠を訪問し、同月24日には大宰府で三条実美に謁見する。これは、大宰府の5卿を護衛する中岡慎太郎の紹介と思われる。
 この時、たまたま大宰府の5卿の近況を伺うために来ていた小田村素太郎(吉田松陰の妹と結婚)と坂本龍馬が面会する。坂本は、「......薩藩の事情を陳(の)べ長薩(ちょうさつ)相輔(あいたす)くるの利を説く。蓋(けだ)し土藩浪士坂本龍馬・石川清之助(*中岡慎太郎のこと)は長薩両雄相争ふの大局に利ならざるを察し之(こ)れが和解を冀(こひねが)ふに切なり。龍馬の大宰府に至るや先(ま)ず此意(このい)を五卿に陳べ小田村等に邂逅(かいこう *思いがけずに会うこと)して其意(そのい)を漏らしたるなり。」(『修訂 防長回天史』七 P.192)というのである。
 これが縁で、坂本は閏5月1日、馬関を訪ね桂小五郎と面会し、時に鹿児島から東上する西郷(中岡慎太郎も同行)と会談することを勧めた。しかし、この会談は結局、実現しなかった。西郷はそれよりもいち早く上京し、天皇と一会桑の結託により長州征伐の勅許が下りることを阻止する方が重要であったからである。
 しかし、待ち構えていた桂は、中岡から"西郷は馬関通過"の報を受け、大いに立腹したと言われる。だが、桂とて「薩長和解」の重要性を理解していたので、長州藩の「大割拠」「富国強兵」のためにも、後事(武器購入・薩長和解など)を井上聞多・伊藤俊輔らに託したのである。
 和解醸成の最初の事業が、先述した小銃や船の(薩摩藩名義での)購入であった。それは、単に対幕府戦に備えた武器確保に止まらなかった。「......伊藤・井上等乃(すなわ)ち阪本(*坂本龍馬のこと)等と謀り薩藩に託し其(その)名義を假(か)るの策を建てたり。是(これ)当時に在りては実に一石二禽(いっせきにきん *一石二鳥)を打つの案たり。銃砲汽船購入の便路を得る、是(こ)れ其(その)一なり。薩藩にして果して此等(これら)の労を取らば以て其(その)我と親しまんとするの真意を表するに足(た)り、我が壮士等を誘導して怨(うらみ)を薩に解(と)かしむるの便を得(う)べし、是(こ)れ其(その)二なり。」(同前 P.194)というのである。
 井上・伊藤の懸命な活動で、小銃と汽船の買い付けが薩摩藩名義で進められる。他方で井上聞多は、鹿児島まで赴いて、薩長両藩が提携することの重要性を遊説している。「井上は七月二十八日小松(*帯刀)と共に鹿児島に赴き、?(しばしば)薩の老臣桂右衛門(*久武)及び大久保一蔵(*利通)伊地知(いじち)壮之丞(*貞馨〔さだか〕。のち、堀小太郎に改名)等と会談し、両藩間沮隔(そかく *阻隔)の事情を陳弁し将来提挈(ていけつ *手をひいて助け合うこと)の必要を論じ、従来の感情を融和するに力(つと)め開国勤王の必要を説き、滞留十余日にして再び薩藩の汽船に乗じ長崎に帰れり(八月二十日前後なるべし)。」(『修訂 防長回天史』七 P.303)という。
 だがその頃、藩内では手違いが起り、武器購入に関して紛糾しており、桂などは余程嫌気がし職を放り出したいほどであった。つまり、手元役の山田宇右衛門が国政方引請(見習い)鈴尾駒之進からの報告の聞き間違いなのか、小銃購入については藩主の承認を得たが、汽船については承認を得ていないのに、山田の勘違いで両者とも承認されたと思い込んでいたというのである。そこに、海軍局の抗議がもちあがったのであった。

  (海軍局の質問書)
御国内(*長州藩)海岸三面兼々(かねがね)懸念に之(これ)有り、追々(おいおい)海軍方より海軍御興隆の儀(ぎ)歎願仕(つかまつ)り候得共(そうらへども)、当今(とうこん)多端(たたん *問題が多いこと)の御費用之(これ)有る儀に付き御許容遂げせられず余儀なく差控(さしひか)え居り候折柄(おりがら)、今般(こんぱん)他向(たむかひ)より夷艦御買入れの御窺(おうかがひ)等相済(あいす)ませ候由、然る処(ところ)兼(かね)て差置(さしお)かれ候(そうろう)海軍局の者共(ものども)一圓(いちえん)不承知(ふしょうち)実に驚愕(きょうがく)の至り如何(いかが)の次第(しだい)御座候哉(や)。後来の心得も之(これ)有る儀に付き篤(とく)と御詮議(ごせんぎ)遂(と)げられ沙汰(さた)下さるべく候事。
                       海軍局各中

 海軍局の抗議の背景には、次のような教訓があったからである。それは、かつて壬戍丸・癸亥丸の購入の場合、修理費や他の雑費で多くがかかり、かえって高くついた経験があったことである。そこで、専門家としての海軍局の人間を購入交渉に派遣すべきであり、購入交渉は海軍局に委任すべき―というのである。
 桂・井上・伊藤はこのようなことがあることを予想して廟議が動揺しないように、かねてから警告しており(つまり藩主の許可を得て置くべきこと)、ところが政府員(山田ら)の不注意から海軍局の抗議を招く結果となった。政府員は、桂らと海軍局の間にたって、汗をかいて百方調停を謀ることとなったのである。
 この問題は、結局、「幾(いくばく)も無く政府員等の議、蒸気商船一隻・蒸気砲艦二隻を購入し商船は井上伊藤の斡旋(あっせん)する所を取り砲艦は海軍局に命じて調査せしむるものとし、費用は撫育(ぶいく)資金を以て本勘(ほんかん *本会計)を補給し十五万両を支出するに決し案を具して(八月三日)公(*藩主)の裁可を得たり。意(おも)ふに撫育資金は歴世(れきせい)厳規(げんき *厳しい規制)あり容易に費消すべからずと雖(いえ)ども今や藩国浮沈の大事に臨めるを以て遂(つい)に此議(このぎ)を決せしなり」(『修訂 防長回天史』七 P.290)となった。
 まさに長州藩の浮沈の際に立って、背に腹は代えられないというのである。だが、それは12万8400両余(ミニエー銃7万4400両、ゲベール銃1万5000両、木製蒸気船3万9000両余)にさらに上積みして15万両で解決したこととなる。それはまさに、多年にわたって別会計としてため込んだ撫育局の金で解決したのである。そこには、本会計とは別に別会計としての撫育局の資金がうなるほどあったのであり、人民の目をくらまして収奪してきた賜物(たまもの)なのである。
 グラバーからの武器大量購入は、薩摩藩の庇護下にある坂本龍馬らの仲介を得て、薩摩藩名義で成し遂げることが出来た。この感触を経て、藩主敬親・広封(ひろあつ)父子は、9月8日付けで、以下のような島津久光・茂久父子宛ての親書を送る。
  
   島津中将様
   島津少将様
一書(いっしょ)敬呈(けいてい)仕(つかまつ)り候。秋冷(しゅうれい)相募(あいつの)り候処(ところ)、愈(いよいよ)以て御父子様御安健(ごあんけん)成られ御座候御様子(ごようす)欣然(きんぜん *喜こんで)罷(まか)り居(お)り候。扨(さて)昨年中は貴国と彼是(かれこれ)不信の次第に立到(たちいた)り、千万(せんばん *いろいろに)御気毒(おきのどく)の義存じ奉り候。下拙(げせつ *拙者)微志(びし 
 *わづかなこころざし)も兎角(とかく)不行届(ふゆきとどき)故(ゆえ)、家来の者(もの)心得違(こころえちがひ)も之(これ)有り。大(おおい)ニ痛胸(つうきょう)、今日迄(まで)打ち過ごし申し候。然る処(ところ)、先年来(せんねんらい)征夷府(*幕府)に於て、外夷に対し候(そうろう)処置(しょち)不行届(ふゆきとどき)よりして、人心の動揺ニ立到り、恐れ乍(なが)ら朝廷御威徳も御衰傾(おんすいけい)ニ及ぶべしと相考え、憂嘆(ゆうたん)の餘(あまり)、微力を顧(かえりみ)ず周旋(しゅうせん)致し候処(そうろうところ)、諸事(しょじ)齟齬(そご *くいちがい)多く、赤心も貫徹致さず而已(のみ)ならず、今日の場合ニ立到り候(そうろう)次第(しだい)、何共(なんとも)残念の事(こと)御座候。此度(このたび)貴国え罷り出で候家来の者より、御様子(ごようす)委細(いさい)承知(しょうち)致し、万端(ばんたん)氷解に及び候。貴国に於て勤王の御正義、殊更(ことさら)御確守(ごかくしゅ)の由(よし)、実に以て欽慕(きんぼ *敬って慕うこと)の至りに候。皇国の御為(おんため)此上(このうえ)無くと、蔭(かげ)ながら欣躍(きんやく *喜んでこおどりすること)致し御依頼候。弊藩(へいはん *自分の事に関するへりくだった語)の義ハ前段の趣(おもむき)ニ付き、日夜朝廷の御様子(ごようす)懸念(けねん)罷(まか)り居り候(そうろう)而已(のみ)。心事(しんじ)何(いずれ)も御憐察(ごれんさつ *あわれんで思いやること)、是(ここに)祈り候。委曲ハ上杉宗次郎(*近藤長次郎)ニ相咄(あいはなし)候間(そうろうあいだ)、御聞取(おききと)り下さるるべく候。先(まず)ハ好便に任せ此(かく)の如くに御座(ござ)候。恐惶(きょうこう)頓首(とんしゅ)
   九月八日                   広封
                          敬親
 尚々(なおなお)、先日(せんじつ)家来の者(もの)貴国へ罷り出で候節(せつ)は、彼是(かれこれ)御懇切(ごこんせつ)ニ成し下され候由(よし)有り難く存じ奉り候。此後(このご)も然(しか)るべく御依頼致し候。
                          以上
       (河内和夫著『玉里島津家文書』下 南方新社 2006年 P.51~55)

 ここでは、薩長両藩の確執について反省があり、家来の話から貴国の「御様子委細万端致し氷解に及び候」と、不信は無くなったというのである。ついで「貴国に於いては、勤皇の御正義ことさら御確守の由、実に以て欽慕の至りに候」と相手を称賛し、勤皇の正義でもって、幕府と対抗する意志をかいまみせている。その後、長州藩が置かれた窮状を告白し、最後に「追伸」で、「此(こ)の後も然(しか)るべく御依頼致し候なり」と結んでいる。これは、明らかに長州藩が薩摩藩に対し、協力関係を求めたものである。

 (ⅱ)薩長交易の再開
 薩摩藩名義での武器大量購入は、薩長和解への大きな一歩であったが、それは軍事分野に止まらず、両藩の交易関係再開と発展をも展望し得るものであった。
 蒸気船購入に際しての内紛を調停する過程で、藩政府は、「......就(つい)ては蒸気商船一艘(凡そ長さ二十間位〔くらい〕堅剛〔けんごう〕価五万両余)現金拂切(はらいきり)御買入れ同艦二艘(凡そ同断、海軍局に於て取調べ図面をもって伺うべし)御注文仰せ付けられたく、左(さ)候得(そうらへ)ば商船にても御手に入り次第(しだい)時に臨んでは庚辛・癸亥・丙辰三舶を〔*新たに購入した船舶と〕組み合わせ假成(かなり)海軍の御備立(おそなえだて)も相調ふべし。無事(ことなき)の節は御国産交易と為して対州(*対馬)・北国等へ運用(うんよう)致し候得ば又(また)富国の御手段も之(これ)有るべし。......」(『修訂 防長回天史』七 P.292)と藩際交易の発展も視野に入れている。
 これに関連して、『修訂 防長回天史』七は、「此時(このとき)に当り政府は海軍興隆・物産疏通(そつう *さわりなく通ずること)に意あり。而(しこう)して桂等は之(こ)れに因(よ)りて長薩融和の助長に意あり。桂・高杉が前後馬関駐在応接方・越荷方・対州物産取組に任ぜしも之(こ)れが為(た)めなり......。其(その)対州物産と云ひ薩摩を云はざるは外嫌(がいけん *世間の聞え)を避けしものにして其実(そのじつ)薩藩と意志を通ぜし所ありしなり故を以て、九月九日藩内に令して薩船の来るものは之(こ)れを厚遇し其(その)薪水(しんすい)欠乏品を請ふものは之(こ)れを供給せしむ。銃砲船艦購入の事件の為(た)め労を取れる薩藩老臣以下に物を贈て之(こ)れを謝(しゃ)せしも亦(また)此時(このとき)に在り(桂右衛門・小松帯刀・市来六左衛門・大久保一蔵・伊地知壮之丞等十人に紙?紗〔すうさ *縮みのある薄絹〕等を贈ること各々差あり。又〔また〕銃器運送船の船長士官水火夫等に贈る所亦〔また〕各々差あり)」(P.310)と述べている。
 ここに言うように、しばらく断絶していた薩長交易がこのとき再開したのであり、世間向けには対州交易と言っているが、その実は薩長交易なのであった。
 長州藩は従来、大坂市場を中心に国産品の販売を手掛けてきたが、1858(安政5)年の後半には薩摩と交渉し、翌年2月頃には薩長交易をも開始している。
 そこに、政局にからんで新たに薩摩藩から兵粮米入用の話が舞い込んでいる。すなわち、1865(慶応元)年9月21日、幕府はついに長州再征の勅を強引に手にした。これを見て、西郷隆盛は、幕府出先の一会桑と朝廷の結託がいよいよ強まる大勢を阻止するべく、帰国して兵を整え、率兵上京して朝廷の決定過程に圧力をかけ、自派に有利な状況を確立することをもくろんだ。そのために、薩摩藩兵の糧食が不可欠なのであった。
 小松帯刀・西郷隆盛は9月24日に、坂本龍馬らと帰国の途に着くが、その際、兵粮米問題を坂本に託して馬関に赴かせた。「坂本の使命は陽に糧米の準備に在り。而(しか)も是(こ)れ抑(そもそ)も末なり、其(その)真意は長薩和解に在り。故を以て其(その)馬関に至るや桂・高杉等と晤談(ごだん *うちとけて語り合う)して共に皇室の式微(しきび *王室がおとろえること)を痛歎(つうたん *いたく嘆く)し回天(かいてん *天下の形勢を一変させること)の策を講し大に謀る所なりしなり。」(『修訂 防長回天史』七 P.452)と言われる。
 もともと薩摩は地勢的に水田耕作には不利であって、米生産は十分ではなかった。したがって、不意の出兵には、一般的に兵粮米問題は重要であるが、それ以上に薩摩藩では切実な問題なのであった。
 なお、10月4日付けの木戸孝允宛ての広沢真臣の書簡は、「龍馬ヘハ松音(*松原音三)、小素(*小田村素太郎)、僕(*広沢真臣)、三人相対(あいたい)し、今朝御意(ぎょい *藩主の許可)を得(え)置き候通り、粮米の事(こと)決しに及び答(こたえ)置き候」と、解決したとの旨を連絡している。
 ところで、1859(安政6)年に成立した薩長交易では、薩摩側にとって、米の輸入は輸出品の砂糖や藍玉とともに、重要な貿易物資である1)。その後、順調に進展した薩長交易は、1864(元治元)年3月に中断する。前年の8・18クーデターにより、薩長間の関係が極度に悪化したためである。さらに同年8月25日には、幕府は防長2州に対し禁輸令2)を発し、これが追い打ちとなっている。
 ところが、「第一次長州征伐」の終了後の「長州処分」問題がこじれ、1865(慶応元)年の秋には、先述のように薩長和解の動きが出始めて、薩長交易は再開された。この年、桂小五郎と高杉晋作は越荷方3)頭人に任命され、下関での諸国物産の流通の責任者とされたのであった。

注1)長州側が販売した主な交易産物は、米、牛馬骨・鯨粕、綿・衣類、半紙、塩、石炭などである。薩摩側の主な産物は、藍玉(藍〔あい〕は、たで科の一年生植物であるが、その葉・茎から染料が取れる)、砂糖、煙草、鰹節、硫黄、琉球反物、琉球塗り物などである。
薩摩は火山灰土地帯が多く、米生産に限界がある。そのうえ、奄美大島・琉球に砂糖生産を押し付け、そのため、穀類を同地に廻さなければならなかった。牛馬骨・鯨粕は農業肥料用である。長州が要求した砂糖は貴重品であり、必ずしも藩内需要に限らず、北国や五島などへの売りさばきのためでもある。長州藩は薩長交易の展開に伴い、以降、五島・小倉・越前・会津・対州(対馬)などへと交易圏を拡大していく。薩長交易については、詳しくは関順也著「長州藩からみた薩長交易」(『山口経済学雑誌』七―九・一〇)、吉永昭著「専売制度と商品流通」(『歴史学研究』229号)、田中彰著『幕末維新史の研究』(吉川弘文館)の第三章を参照。
 2)幕府は、触書を出して長州との交易を禁止した。「毛利大膳父子叛逆に付き、近国の面々え追討仰せ付けられ候に付きては、武器其外(そのほか)米穀等を始め、諸国より長防の両国え輸入候儀相成(あいなら)らず、万一海上陸路とも運輸致し候もの之(これ)有り候ハハ、近隣国々おいて急度(きっと *厳重に)差止め、尤(もっとも)時宜ニ寄り討ち留め候ても苦しからず候間、其段(そのだん)相心得、右運輸の品々ハ差し留め候領主ニおいて取上げ置き、其段申し聞かすべく候......」(『徳川禁令考』前集〔二〕P.107)と、長州藩毛利父子の叛逆を理由としたものである。
 3)越荷方の越荷は、越方面から船で廻漕された荷物という説もあるが、越方面に限らず一般的には他国から船によって運ばれた物産の意と言われる。寛文年間(1661~72年)に、河村瑞賢によって西廻り航路が開発され、北国・蝦夷地などと大坂市場との回路が発達すると、下関(赤間関)の位置は飛躍的に高まった。かつて島津斉彬は1857(安政4)年の夏ごろ、医師の川畑魯水に、西洋諸国が日本の開国に望みをもっており、それを断ち切るのは出来ないことだが、通交を開いた上は取締りが重要だとして、次のように語っている。「地ノ利ヲ考フルニ、兵庫大坂モ望ミヲ掛ケタル〔*英米仏などが〕由ナレバ、此処(ここ)ハ心配ナル場所ナリ、次ニ、下ノ関ハ九州ノ咽喉(のど)ニテ、開市場ニ宜シキ地ナリ、長崎ハ不辨(ふべん)ナルノミナラズ、取締ニモ不都合なり、長崎ヲ惜テ下ノ関ヲ開クトキハ、中国ノ半バ、四国ノ半バ、北国ハ一円、九州ハ勿論(もちろん)、ミナ此地(このち)ニ開市スルヲ宜(よろ)シトスルノ見込(みこみ)ナリ、......(中略)......公義(*幕府)ガ下ノ関ヲ長州ノ領分ニ與(あた)ヘタルハ拙策ナリ、公義ニナリテ、今ノ世振(せぶり)ヲ考フルニ、長崎其外(そのほか)九州ノ諸所ニ少シヅツノ公領アランヨリ、下ノ関・小倉ノ二ヶ所ハ公領トシ、取締ヲナサバ咽(のど)ヲ占メ付ル訳ニテ、九州ノ諸大名ハ進退動クコトカタキ場所ナリ、中国・四国モ半バ此所(ここ)ヨリノ取締ニカカルベシ、夫(そ)レニ兵庫大坂堺等ニテ取締ルモノナラバ、厳重ナルベシ、乱世トナリタラバ、必ズ下ノ関ハ九州ノ咽ニテ要所ナルベシ、......」(『島津斉彬言行録』岩波文庫 1944年 P.189~190)と、下関の戦略的な重要性を指摘している。もっともこれは、大坂近辺の商品作物生産の発展を背景に大坂市場が拡大し、さらに1672(寛文12)年河村瑞賢によって西廻り航路が開拓され、大坂市場が日本の中心的市場にのしあがったからである。これにより、蝦夷地・東北・北陸などの商品は、大概下関を通過せざるを得なくなったからである。
 毛利重就は1763(宝暦13)年、検地による増加高4万余石を別会計として撫育方(ぶいくかた)を設け、新田開発、港湾整備などを行なった。1780(安永9)年には、御撫育方御蔵会所が設置され、越荷商いが盛んとなった。越荷は荷主が相場をみて売り惜しんだり、あるいは積荷を倉庫に保管委託してこれを担保に資金を借りることなどがあり、撫育方はそれを目当てに倉庫業や金融業を行ない発展した。このような事業を室積の会所、中関の貸銀所、伊崎新地(赤間関)の越荷方は行なった。藩は1840(天保11)年、伊崎新地の越荷方を拡張し、藩外交易のすべての業務を越荷方に担当させた。1866(慶応2)年には、山口・萩・三田尻にも越荷方会所を設けた。

 (ⅲ)ユニオン号事件
 銃は薩摩藩名義で買っても、その後は自由に長州藩で使用できる。しかし、船の場合はそうはいかない。船の運用では、常に旗(どの藩所属の船かを表す)を掲げざるを得ず、また船の運用を誰が主宰するかが問題となる。ここに井上・伊藤が購入したユニオン号(薩摩名・桜島丸、長州名・乙丑丸)にかかわる事件が発生する原因があった。
 薩摩藩名義で銃・艦の購入が決まり、すでに小銃は藩内に持ち込まれている段階の1865(慶応元)年9月、上杉宗次郎(近藤長次郎)は長州藩主父子に引見され、島津久光への感謝状(9月8日付け)を託されている。「そこには『委細ハ上杉宗次郎(筆者注・近藤長次郎)へ相咄(あいはなし)候間(そうろうあいだ)、御聞取(おききとり)下さるべく候』と書かれており、毛利父子の並々ならぬ近藤への信頼がうかがえる。このことにより、久光も近藤に一目置いたことはまちがいない。」(町田明広著『攘夷の幕末史』講談社現代新書 P.96)と言われる。
 この時に、上杉宗次郎は久光に上書を奉呈している。余談ながら、ここには近藤長次郎の侵略思想が明白に示されている。(《補論 亀山社中・近藤長次郎の侵略思想》)
 1865(慶応元)年10月18日、上杉昶次郎(近藤長次郎)は井上聞多宛ての書簡で、ユニオン号受取りについて、次のように記している。

御拝別の後は益々(ますます)御安全成るべし、珍重珍重、然(しから)バ
第一、 船の義、是(これ)ハ其(そ)の御地ニ於て、兼(かね)て御示談(ごじだん)申上げ候、貴兄御存慮(ごぞんりょ)の如く、船印、国号(*所属する藩の名)、彼の国(*薩摩藩)の名前を借用仕り、社中(*亀山社中のこと)乗組み水夫を其(そ)の通りにて、航海仕(つかまつ)り候事ニ談決仕り、今日漸漸(ようよう)、船、受取り仕り候。扨(さて)、夫(それ)より一先(ひとまず)、国(*薩摩藩)に乘り返り、夫より御地(*長州)ニ罷(まか)り出で、御談判仕るべく候間、此(こ)の段ハ左様御安心下さるべく候
(吉村淑甫著『龍馬の影を生きた男 近藤長次郎』宮帯出版社 2010年 P.263)

 ユニオン号の受け取りがようやく成ったことが報告されている。と同時に、上杉と井上・伊藤との間で交わされた運用取り決めを正式なものにしたい、ということを述べている。
 1865(慶応元)年11月10日、伊藤俊輔は木戸孝允に宛てた手紙で、上杉の今回の功績を次のように述べている。

此度(このたび)、上杉(*近藤長次郎)、蒸汽艦乗組み到着し、委細(いさい)、大塚正蔵より御報知申上げ、御承知の御事と存じ奉り候、上杉も此度は一方(ひとかた)ならず苦慮、薩、崎陽邸監(*崎陽は長崎)など、随分俗論を吐(は)き候由にて、別(わけ)て苦心仕り候由、尚(なお)、同人(*近藤長次郎)英国行きの志に御座候(ござそうろう)処(ところ)、我が藩の為(ため)、両三月も遅延仕り候くらいの事ゆえ、何卒(なにとぞ)、疎(おろそか)には御座(ござ)あるまじく候へ共(そうらヘども)、政府(*長州藩政府)屹度(きっと)、御礼これ有りたく愚考(ぐこう)仕り候、金なれば、百金也(なり)、二百金くらいは賜(たまは)り候ても宜(よろ)しきかと存じ奉り候、最も私より斯(か)く贅言(ぜいげん *よけいな言葉)仕り申さずとも、東行先生(*高杉晋作のこと)へも気付け申上げ置き候事に付き、仰せ越さるべく候へ共、気付きの侭(まま)、書加(かきくわ)え置き申し候、悪しからず御了承願い上げ奉り候
            (吉村淑甫著『龍馬の影の男 近藤長次郎』P.258~259)

 伊藤は、今回の銃・艦購入での上杉の苦労は格別であったことを評価し、その苦労のために、上杉はイギリス留学が三月も遅れたことを木戸に報告している。また、今回の上杉の功績は、金にすれば100両ないしは200両にも値すると褒め上げている。注目すべきことは、伊藤はここで、上杉のイギリス留学を既に知っていたことである。
 この頃、上杉(近藤長次郎)は、以下の桜島條約六ヵ条を長州藩海軍局の中島四郎と、「調停者」と思われる坂本龍馬に宛てて、提出する。(坂本は11月24日に大坂を発ち、12月3日に下関に到着している。坂本は薩長和解の政治工作という忙しさの中で、ユニオン号問題の調停にも時間を割かなければならなかった)

 〈桜島條約〉
一 旗号は薩州侯御章御拝借の筈(はず)
一 乗組(のりくみ)の者は多賀松太郎・菅野覚兵衛・寺内信左衛門(*新宮馬之助)・早川二郎(*黒木小太郎)・白峰俊馬(*鵜殿豊之進)・前河内愛之助(*沢村惣之丞)〔*以上が亀山社中の士官〕、水夫・火焚(ひだき)は従来(じゅうらい)召連れの者を以て航海仕り候(そうろう)筈
 尤(もっとも)御国(みくに *長州藩)よりは士官二人乗組み申すべき筈(はず)、其他(そのた)水夫・火焚等不足の分は加入(*補充)申すべき筈
一 船中(せんちゅう)賞罰の権、士官共承り申すべき筈
 但し、始て馬関到着の節、前河内愛之助・上杉宗次郎(*近藤長次郎)、井上氏(*井上聞多)に対座の節御国の御方(おかた)と雖(いえ)ども無差別(むさべつ)御作配(おさはい *取りさばくこと)申し候様(よう)御沙汰(おさた)之(これ)有り候事
一 六百両金子(きんす)は士官共(ども)預り申すべき筈
 右は前河内愛之助・多賀松太郎・上杉宗次郎三人、井上氏に対談の節相極(あいき)め候事、其(その)子細は兼(かね)て商売の権は士官共承(うけたまわ)り候筈の処(ところ)俗事方(ぞくじかた *会計方)乗組みに相成る筈に相定め候に依って右様(みぎよう)相極め候事
一 船中諸修復、食料・薪水等、士官・水夫・火焚等の給料(きゅうりょう)、其他(そのた)総ての雑費は御国より御賄(おまかない)の筈
一 御国御用の節は薩州侯御用向き相弁(あいわきま)え申すべき筈
 右(みぎ)六ヶ條は御国御産物当時(とうじ)諸国御差閊(さしつかえ *封鎖されること)に付き、薩州侯御章拝借(はいしゃく)の上社中(*亀山社中)乗組み候様御頼(おたのみ)に付き、右の次第(しだい)盟約に相極め候事
 慶応元丑十二月                   上杉宗次郎
    中島四郎殿
    坂本龍馬殿
                    (『修訂 防長回天史』七 P.487~489)

 これは、船の運用について、亀山社中にヘゲモニーがあることを示している。長州藩の士官2名が乗り込むことになっているが、亀山社中の士官は6名であり、長州藩はヘゲモニーを採れないのである。このことは、船中の賞罰権のみならず運用全般にかかわり、とりわけ「商売の権」にも大きく関わる。上杉は、このユニオン号の運用を支配することにより、亀山社中の商売を発展させようとしているのであり、そこに長州藩の越荷方が乗込むこととなったので、越荷方の行動に制約を課す方法として600両を「士官どもが預かる」ことにしたのである。
 これらについて、長州の海軍局は大いに不満であり、結局、桜島條約の改訂版として、次の案文が海軍局の財満百合熊・中島四郎・福原三蔵の連名で藩政府に提出された。

  〈約束〉
一 旗号は薩州侯御章拝借の事
一 毎日の事務(じむ)当番士官管轄(かんかつ)勿論(もちろん)に候得共(そうらへども)賞罰其外(そのほか)廉(かど)有る〔*問題のある〕事件は総管へ御相談の事
一 薩州より御乗込み士官〔*亀山社中の士官を指す〕月俸(げっぽう)只今迄(ただいままで)の通りに相定め候事
一 水夫・火焚等薩州において相定められ候通り之(これ)有り候得共、此(これ)以後(いご)働きに応じ差引(さしひ)き〔*清算する〕致すべき候事
一 商用の儀(ぎ)越荷方(こしにかた)より一人乗組み取捌きの儀に付き、船中一統関係致さざり候得共荷(に)出し入れの儀は当番士官へ相談の事
一 当舶の儀は海軍局規則外たりといへ共(ども)大略海軍学校の定則に従(したが)ひたく候事
一 碇泊中其外(そのほか)一統月俸の外(ほか)不条理の失費一切(いっさい)存じ申さず候事
一 船中一切の失費は会計方引請けの事
一 当藩商用間暇(かんか *ひま)の節は薩州侯運漕物(うんそうぶつ *船で運ぶ物)相弁え申すべく候得共、其節(そのせつ)の失費薩州より差出さるべく候事
 丑十二月                  坂本龍馬
                       中島四郎
    多賀松太郎様
    菅野覚兵衛様
    寺内信左衛門様
    早川二郎様
    白峰駿馬様
    前河内愛之助様
                          (同前 P.491~493)

 桜島條約改訂版は中島四郎ら三名の連名で藩政府に提出され、そのまま承認されたようである。この改訂版が上杉の桜島條約と異なる点は、一言で言うと、船の運用のヘゲモニーが長州側に移っていることである。桜島條約は運用の権を「士官ども」としたのに対して、改訂版は、士官の上に「総管」を設けることによって、賞罰その他の重要問題については、「総管に相談」すべきとして、士官の多数意見であろうとも封ずるることが出来るようにした。
 また、「商用の儀」は越荷方が一人乗込み「取捌く」こととし、「荷の出し入れ」という技術的な面に関しては当番士官に相談することにした。つまり、「商用」に関しては、士官たちは関与できないようにしたのである。
 さらに、この船は長州藩の海軍規則外のものであるが、「大略海軍の定則に従がう」ようにした。これにより、ユニオン号の運用は長州藩が握る形となり、上杉の狙い(亀山社中の商売発展)はほぼ完全に封じられたのである。
 注目すべきことは、改訂版としての〈約束〉の提起者が中島四郎だけではなく、坂本龍馬も連名とされていることである。坂本は薩長和解という大目的のために、あえて長州藩の要求を呑み込んだのである。
 ユニオン号の運用取り決め経緯について、12月24日付けの木戸孝允に宛てた中島四郎の手紙は次のように述べている。

......新条約(*桜島條約の改訂版)相束(あいたば)ね、上杉(*近藤長次郎)より請取(うけと)り候古約定書(*桜島條約のこと)は、龍馬奧書ニ約束不条理ニ付き、相改(あいあらた)め候段認め置き候様ニ申し談じ候事(新古約束書ハ明朝持参仕るべく候事)。崎陽へ運用の義申上げ置き候処(そうろうところ)、坂本論ニ是非上国(*長州藩を指す)運用然(しか)るべきとの義に相成(あいな)り、是(これ)は定て何歟(なにか)様子(ようす)坂本見込みの処(ところ)あるなるべし。然処(しかるところ)艦代金相渡(あいわた)し候(そうろう)期限も延引ニ相成る故、是非とも崎陽へ運転の義(ぎ)上杉申し張り候得共(そうらへども)、熟思(じゅくし)仕り候ニ此義(このぎ)然るべからざる故(ゆえ)ハ、若し御上坂〔し〕薩政府と御相談(*薩長盟約のこと)相叶(あいかなは)ざる時ハ艦を如何(いかが)仕るべき哉(や)、故ニ代金暫(しばら)く相断(あいことわ)り置き、艦は上国行き坂本御一同薩政府と談決(だんけつ)然るべき様、谷(*高杉晋作のこと)、坂本、私(*中島四郎)迄も宜(よろ)しき哉(や)に相考(あいかんが)え候処、上杉是非代金相渡し申さずては薩政府へ対し面目無きとの事、然る処(ところ)馬関へガラバ(*イギリス商人)より春助(*伊藤俊輔)へ金の事申し遣わし候得(そうらへ)バ、此方(このほう)金(かね)相待ち呉(く)れ候様申し候ても、不都合(ふつごう)之(これ)無き様考えられ候得共、上杉条理(じょうり *筋道)申し立て、折り合い申さず候。且(かつ)、谷氏へは代金相渡し候様との沙汰も之(これ)無く、其上(そのうえ)舟一件最初より存じ申さざる事故(ことゆえ)、是非(ぜひ)木戸氏出関(*下関へ赴くこと)、決定相成らざるてハ叶(かな)はずと也(なり)。
谷氏の論ニ海軍局より代金相渡し候ても、宜(よろ)しき見込(みこみ)之(これ)有り候はば其段(そのだん)諾(ゆべな)ひ呉れ候はば随分(ずいぶん *もちろん)相渡し申すべきとの義ニ候得共(そうらへども)、海軍局より左様の義(ぎ)仕るべき筈(はず)も之(これ)無く、且(かつ)渡し方も不同意なり。 
      (同前 P.490~491)

 この文面を見る限り、近藤長次郎(上杉昶次郎)が最初の約束(上杉と井上・伊藤の)に固執し、頑強に自分の言い分を主張している様子が明確である。「上杉の固執」の当否は別にして、上杉の主張は正当なものである。したがって、井上・伊藤・高杉などは、この問題の解決には非常に苦慮し、薩長和解を進めていた木戸孝允や坂本龍馬の高度な政治的判断に委任せざるを得なかったのである。
 これとは対照的に、坂本は「是非上国運用然るべきとの義」との見解である。極めてはっきりしているのである。薩長和解のためには、長州側の要求を丸のみすべき、という考えである。
 この違いは、(A)上杉と坂本の置かれた立場の違いと、(B)当時の情勢との関連で、「薩長和解」という問題とユニオン号の運用とを比較し、どちらをより重要視するかの問題である。
 (A)の問題―従来、坂本龍馬が神戸海軍操練所や勝私塾の塾頭であったという固定観念が流布されてきた。だが、これは疑問である。坂本は神戸海軍操練所への入塾資格はないので、神戸海軍操練所の塾頭ということはあり得ない。勝私塾に関しても、松浦玲氏は次のように言う。すなわち、「佐藤与之助(*出羽庄内の出身で、1854年頃に勝麟太郎に師事する)は翌安政二年(*1855年)には麟太郎に随行して長崎に行く。年長(*勝より二つ年上)であるにも拘(かかわ)らず、最後まで麟太郎に師事しとおした。のちに神戸の海軍塾と海軍操練所の両方を取(とり)しきるのは、坂本龍馬ではなくてこの人なのである。手堅い実務の人だった。」(同著『勝海舟』筑摩書房 2010年 P.71)というのである。  
 坂本龍馬も、1865(慶応元)年9月9日付けの乙女(姉)・おやべ(乳母)宛ての手紙で次のように言っている。(この手紙は極めて長文で紙の表裏にびっしり書き込まれ、のちに結婚する「お龍」のことが紹介されている)

 私たちと行動をともにしている土佐出身の同志のうち、盛んに活躍しているのは、二丁目の赤面馬之助(*新宮馬之助)。水通町の近藤長次郎。そして甥の高松太郎(龍馬の姉・千鶴の子)です。望月亀弥太(かめやた *池田屋事件で死去)は死にました。
 この者たちを含め全員で二十人ほどの同志を引き連れて、今は長崎の方に出て稽古をしております。土佐の国を出てきた者のひとりは今イギリスに留学しております。日本からはすでに三十人ほども英国にわたり、学問修行に励んでいるとのこと。実に先々有望なことであります。
 私は長崎を離れて、ひとり天下を周遊し、時期が至れば諸国の人員を引き連れて一気に挙兵するつもりです。現在は京都に居りますが、五、六日のうちにはまた西国へ行くつもりです。...... 
 (宮川禎一著 増補改訂版『坂本龍馬からの手紙』教育評論社 2014年 P.78)

 坂本はここで、土佐を脱藩した同志などと行動をともにし、"今は長崎で稽古"をしていると報告しているが、これは亀山社中のことを指していると思われる。しかし、注意すべきは、「私は長崎を離れて、ひとり天下を周遊し......」という下りである。
 坂本は亀山社中の仲間と連携はしているが、常時、行動を共にしている訳ではなく、自分は「ひとり天下を周遊」しているのである。したがって、長州藩が薩摩藩名義で銃・艦を購入した件の実務は、近藤長次郎などが行なっていたのである。
 こうした事情から、上杉宗次郎(近藤長次郎のこと)名義の桜島條約は、中島四郎・坂本龍馬宛てとなっており、ここでは坂本は「調停者」としての第三者的立場に位置づけられているのである。
 一見すれば、何で身内の坂本に対して(中島四郎とともに)桜島條約の確認を要求するのか―不思議である。しかし、この間、井上や伊藤とともに実務を担ってきた上杉(近藤長次郎)は、長州藩の中島四郎だけでなく、薩長間の和解を進めてきた坂本にも同条約を確認するように要求しているのである。
 これに対して、坂本は中島と連名で、亀山社中のメンバーに、桜島條約の改訂版として、前記の〈約束〉を提示し、妥結するよう要求しているのである。
 (B)に関しては、明らかに大局的に見れば、近藤長次郎の方が不利である。坂本とすれば、薩長の和解を進めてきた立場だけではなく、大局的見地からユニオン号の運用については政治的な処理をする(亀山社中に妥協を強いる)のが賢明なのであった。この事は、亀山社中の大方は理解したのではないかと思われる。しかし、〈約束〉の宛先には、近藤長次郎の名前は省(はぶ)かれている。長次郎は、納得しなかったものと思われる。
 結局、ユニオン号事件は、高度な政治的な判断により解決された。すなわち、「是(ここ)に於て山田宇右衛門は馬関出張を命ぜられ(十二月二十六日なり、同日戸田亀之助長崎行きを命ぜられる)上杉等と交渉して改定案に同意せしめ、而(しこう)して汽船(*ユニオン号)は上杉の議に従ひ長崎に廻航することとなれり(*長州側に引き渡す前に、一度長崎に廻航することを上杉が要求)。然(しか)れども是(こ)れ猶(なお)一時の処理にして交渉は明年に至り纔に(わずかニ *やっと)其(その)局(きょく *物事の終り)を結び、乙丑丸(いっちゅうまる *ユニオン号のこと)始めて毛利氏の有(ゆう)に帰したり」(『修訂 防長回天史』七 P.493)というのである。
 しかし、この結末は悲惨なものであった。桜島條約に固執した近藤長次郎は、翌1866(慶応2)年1月、亀山社中のメンバーに厳しく批判され、自らの命を絶ったのである。批判された理由は、英国行きをメンバーに知らせず、抜けがき的に行なおうとしたことが槍玉にあがったのである。
 あれほど桜島條約に固執した長次郎であるが、最後には〈約束〉の線で妥協した。この内容(改訂版)は大いに長州藩にとって有利なものであり、亀山社中のメンバーからは長次郎が長州藩から賄賂をもらったからではないか―と疑われたのが発端のようである。その真偽はわからないが、いずれにしても、亀山社中のメンバーには秘密でグラバーの船に乗って英国留学を図ったことが集中的に批判され、ついには自決に追い込まれたのではないかと思われる。ユニオン号問題の「局を結ぶ」のは、近藤長次郎の自決であった。

《補論 亀山社中・近藤長次郎の侵略思想》
 近藤長次郎は、1838(天保9)年3月7日、高知の饅頭屋・大里屋伝次の長男として生まれた。坂本龍馬よりは、3歳若い。長次郎の家は水通町三町目で、龍馬の家は本丁二丁目であり、2つの町区は通りをはさんで筋向いにあった。だか、ら小さい時から顔見知りであったことは、確実である。
 松浦玲著『勝海舟』(筑摩書房)によると、「......(*1862年)十二月五日、勅使(*三条実美)との応接に多忙であった松平春嶽(*慶永)は、帰邸後に土佐の間崎哲馬・坂本龍馬・近藤昶次郎(*近藤長次郎)に面会した。間崎らは大坂近海の海防策を申立てたという。」(P.197)からには、この頃には、龍馬と長次郎は、緊密に行動をともにしていることとなる。
 勝麟太郎(のちの安房守。海舟)の『海舟日記』の1862(文久2)年12月11日の条に、「○当夜、門生門田為之助・近藤昶次郎来る。興国の愚意を談す」()とある。したがって、長次郎は、これ以前に勝の門下生となっている訳である。
 同日記の同年12月29日(小の月で晦日。この年の大晦日)には、「千葉十太郎(*重太郎)来る、同時坂下龍馬(*坂本龍馬)子(し)来る、京師(けいし)之(の)事を聞く」とある。坂本を子(し)と敬称で表記していることをみると、勝は龍馬を評価しているのは間違いない。長次郎と龍馬がいずれが先に海舟の門下生になったかについては、いろいろ論議されているようだが、いずれにしろ、龍馬はたんなる「門下生」ではないようである。
 他方、長次郎は勝塾や神戸海軍操練所で、航海術を本格的に学ぶ。だが、時には勝の命で、重要な役割を果たしている。1863(文久3)年の8・18クーデター後の9月10日に、松平春嶽の上京を促す書簡を福井に届けるように託されている。このような役目は、たいがい坂本龍馬が行なっていたのであるが、この時は不在であったのか、長次郎が行なっている。
 勝が書いた『海軍歴史』巻十七(P.176~177)の「神戸海軍操練所設置」に、観光丸に乗り組んだ勝塾の者として、「仮雇(手当が月1両2分)」が、松平三河守家来道家帰一、勝安房守家来黒木小太郎・多賀松太郎・千頭義郎・近藤長次郎・新宮?樹・鵜殿豊之進の7人、「御雇手伝(手当が月1両)」が、津軽越中守家来工藤菊之助、九鬼長門守家来前田又太郎、勝安房守家来横井左平太・同大平・岩男内蔵之丞の5人、合計12人が挙げられている。ここには、近藤長次郎の名が見られる。(横井左平太と大平は、横井小楠の甥である)
 近藤長次郎は神戸海軍操練所の中で頭角をあらわしたのか、勝が軍艦奉行を罷免され、坂本らと薩摩藩に預けられ、後に亀山社中を創設し活動するうちには中心的人物の一人となっている。だからこそ、薩摩藩名義で長州藩がグラバーから小銃・船を買い付ける際の実務を行なっているのである。
 1865(慶応元)年9月8日付けの長州藩父子の島津久光宛てのお礼の書簡を託された時、近藤長次郎(上杉宗次郎)は久光に拝謁し、次のような上書(「上杉宗次郎ヨリ久光公ヘノ上書」―鹿児島県史料 『玉里島津家史料』三 P.745~751に所収)を提出している。その内容は以下の通りである。
 長次郎は、"現在の日本は喧々囂々(けんけんごうごう)と騒々しく、内乱が東西に起り、人心がきわめて不安定な状況である。加えて、外国人が猛烈な勢いで軍艦を日本に差し向けている。そして、通商条約の不履行箇条を責め、幕府の対応によっては、たちまち戦争になりそうな勢いである"と、現状を分析して、その実態を嘆じる。そして、日本の歴史を振り返って、

我か赫々(かくかく)為(た)る神州(*日本)ハ、四夷(*東夷・西戎・南蛮・北狄)を来貢セしめ、威を海外ニ震(ふる)ひ、日々(ひび)地(*領土)を弘(ひろ)むる(拡大する)を以て祖宗の御志願と遊ばさるる事(こと)明白なり、神皇后(*神功皇后)自ら海軍を率ひて三韓(*新羅・百済・高句麗)を征し、府を彼之(かの)国ニ立て、人を彼之国ニ居(す)へ、互市(*交易)朝貢を監視す、若(も)し其之(その)貢(みつぎ)を怠れハ、忽(たちま)ち兵を遣(や)りて之(これ)を罰す、以(もって)後々の帝皇皆(みな)之(こ)れニ法(のっと)り、或(あるい)ハ京師(けいし)ニ鴻臚館を立て、異人ニ接応し、市人ニ命して、肆々(しし *並べて)貿易をなさしむ、嘗(かつ)て唐土可法(とうどのっとるべき)の政典を得て、我邦を補益(ほえき)セんと欲して、学才の人を選ミ、年々遣唐使と為(な)して、彼の土(つち)遣(つか)ハさる安倍氏・吉備氏其余(そのよ)ハ数ふるニ遑(いとま)あらず、嗚呼(ああ)明なるかな、当朝(*日本)の天皇尽(つく)セるかな、当時の大臣深く天下の勢を察して事を執り、国光を異域ニ流さるる事、恐れながら敬伏(敬服)の至りに堪えず存じ奉り候、只(ただ *ほかでもなく)神州の国体ハ二千有余年皇統連綿として窮極有る無く、崇義好仁(*義をあがめ仁を好む)、富国強兵、四方に軽蔑を蒙(こうむ)らざる事、之(これ)則(すなは)ち神州の国体なり、豈(あに *どうして)攘夷鎖港を以て神州の体を得ると申すべくや、

 ここのパラレルで、長次郎は"攘夷鎖港は神州の国体ではない"と結論付けている。しかし、その論法は、完全に『日本書紀』の誤った史観に基づいたものであり、華夷思想に裏付けられた帝国思想である。
 すなわち、「神州ハ、四夷を来貢セしめ、威を海外に震ひ、日々地を弘むるを以て、祖宗の御志願」と、周りの異民族から貢ぎ物をもたらせ、海外に領土を拡大させるのが祖先からの志であり願いである―決めつける。中でも、「神功皇后の三韓征伐」、「朝鮮を朝貢国とする」ことなどを事例としているが、これは歴史の歪曲であり、まったく史実とは異なるものである。(拙稿『朝鮮侵略の歴史に学ぶ』を参照)
 さらに、長次郎は"神州の国体は、2000有余年、皇統連綿として限りない"と皇国史観を堅持し、尊王攘夷派との共通した見地に立っている。「万世一系」史観がそもそも史実に裏付けられない観念的なイデオロギーであり、華夷帝国を支える国学思想・国学運動の誤った主張である。
 長次郎は、先の叙述に引き続いて、日本の国体は「攘夷鎖港」ではなく、古来より広く海外と往来しており、「鎖国」(日本的海禁政策)は徳川将軍家によってやむをえず祖法化されたもので、家康がもう少し長生きしていれば、「今日旭旗を五大洲ニ翻(ひるがえ)し、今の英国なども来貢せしむる事(こと)必定(ひつじょう)也」と言いきる。ここでもまた、長次郎の侵略思想・覇権思想があらわになっている。
 また、「鎖国」に踏みきった理由は、キリスト教の布教によって人心が擾乱(じょうらん)させられ、不測の事態が生じることを恐れたためであると説明する。
 そして、長次郎は当時(幕末)、安閑天皇(534~535年とされる)の陵から硝子壜(ガラスびん)が出土した情報をもとに、「此(こ)の時分已(すで)ニ西洋人と商通する事ハ、邦俗なりし」というあやふやなこと(ガラスびんが直接西洋人との交易でもたらされたか否かは不明)をもって、西洋との交易を「邦俗」と断定している。さらに、長次郎は言う。

又(また)御国の中祖家久公ハ、御手兵を以て琉玖(流球)を制伏(征服)成られ、当年ニ至る迄(まで)来貢(らいこう)不断の由、誠に神州の至栄盛典(しえいせいてん)ニして、先王の御志(おころざし)之(これ)に過ぎず、義久公の御志又(また)是(これ)琉玖にて止(とどま)り申すべきヤ、但し此(こ)の時騒乱の後にして、百姓の疲労少なからず、諸士数年の困労(こんろう *苦しみと疲れ)を御配慮成られ、琉玖耳(のみ)にて御返師(*兵を還す)成られたる事なるべし、家久公当今(とうこん)此の挙を致されなハ、必ず唐土・印度(インド)迄も深入り成らるるべき事ハ必然なり、

 通商と侵略は本来別の事柄であるが、長次郎は海外との通商にからめ、久光をおだてあげるためなのか、島津氏の琉球処分を褒め上げ、あげくは義久公の御志は琉球止まりではなかったのではないか―と久光に投げかける。そもそも、琉球処分(琉球併合)それじしんを悪びれることもなく、何らの反省もしていない。しかも、"義久公の御志は琉球処分に尽きるものではなかった"などとうそぶいて、さらなる薩摩藩の侵略拡大を煽り立てるのであった。だからこそ、"今、家久がいたならば、必ず中国・印度まで攻入ったであろう"と、大風呂敷を無反省にも広げるのであった。
 そのうえで、長次郎は開国論に対する批判へ反論する。ひとつは、"開港すれば外国宗教の害が伝染する"という主張への反論である。それは、"今まで太平が続き、士民とも大道を納得しているので、一、二の宗教が持ち込まれようが、国を捨て主に背を向けるようなことはしない。現に開国して10余年経つが宗教の害が民を惑わしたことを聞かない"というものである。もう一つは、"日本は小国だから、ただ鎖港を固守して国を守るべし"との主張への反論である。これに対しては、長次郎は「国威更張、軍勢盛大は国の大小ニ依るべからず」と言って、小国オランダを例にあげて、「世界ニ横行し、英・仏・米ニ続て事を計る、是只(これただ)海軍の力と、並(ならび)ニ弘く世界ニ交通し、貿易の利を獲(え)て、且(かつ)印度の地(*インドネシアのこと)を領し、今日の如く御座候、小国たりとも、何そ憂ふべき事有らん乎(か)、只(ただ)人(ひと)務(つと)むるに有るべく候、」と、海軍の力・貿易の利・領土の拡大でオランダは力を得たと反論した。
 この伝でまた、長次郎は次のように述べて、久光を煽り立てる。

御国(*薩摩藩のこと)の如きも、日本地内にしてハ誠に古(いにしえ)ハ不弁利(不便利)の御国柄の様に存じ奉り候へ共(そうらへども)、当今世界ニ交通して、国を富ませられ海軍を更張して四夷を制伏(征服)成られ候ニハ、返て(却って)便利の御地形と存じ奉り候、其の子細(しさい)は、抑(そもそ)も唐土・印度ニ接近ニして航海の利(り)宜(よろ)しく、又(また)山川御港の如きは、世界を引受け互市(*対等な貿易のこと)成られ候ニハ、殊(こと)ニ勝地(*景色のよい土地)のよし、西人も往々歎称(*ほめたたえること)仕(つかまつ)り候事、彼の書籍に見及ひ申し候、右ニ依てハ、山川港ニ於て開港成られ、洋人を引受け互市を盛(さかん)ニし、海軍を更張して五大州ニ航海し、世界の勢ニ依て事を計りもふし(申し)たく、是(これ)より外(ほか)当時の(*今日の)大経綸(*国家を治めるための大策)有るべからず候、

 薩摩は、古において国内では不便利な国と思われてきたが、今日では世界と交通し、国を富ませ、海軍を強め厳しくし、周りの異民族を征服するには却って便利の地かと思われる。それは、中国・インドの近くにあり、航海するには好都合の立地であるからだ。また、薩摩藩には山川のような良港が存在し、世界を引き受けて貿易するには殊(こと)に抜群であると説く。そして、先にすぐ続けて、具体的な対外政策を説明する。

先(まず)指当(さしあた)り、朝鮮に御往来成られ、夫(それ)より天津港・江南・香港・広東等ニ月々交商成られ、館(*交易事務所)を置き人を居(す)へ置く申すべし、清国は打続き兵乱ニて、上下困?(こんもう *苦しみ体力を減じること)の時ニ御座候ハ、少しく恩恵を施し、江南の民を懐(なつ)け候ハ、十年を出でずして我が業成るべく候、其の中、使節を遣(や)りて清王ニ会し、説くに当今の勢を以てし、利害得失を弁明仕り、日本・清国同心一致を以て西洋を制伏(征服)セんと申し候ハ、彼は年来(ねんらい)洋人ニ犯され、宿怨(しゅくえん *長年の恨み)浅からず、殊ニ我が日本とハ旧好も之(これ)有り、又(また)内は長髪賊(*洪秀全らの太平天国の乱)ニ苦められ、兵力大ニ微々の秋(とき)ニ御座候ハ、喜(よろこび)て同心仕るべきハ必定ニ御座候、夫(それ)より道を借り、黒龍江を越(こ)へ、魯国(ロシア)ニ至り、魯の君臣ニ会し盟約し、魯国の産物を黒龍江ニ運転し、我が船も黒龍江迄(まで)遡り貿易仕(つかまつ)るべし、魯国の鉄は殊ニ上品の聞(きこ)へ有れハ、之(これ)を我が邦ニ転し、大小銃を造るべし、
 
 長次郎は、まず朝鮮との往来を恒常化させ、そこから中国各地との交易を発展させ、そのうちに使節を派遣して、日本・清国の「同心一致を以て西洋を制伏セん」と申込めば、清国はきっと喜ぶはずである。そうなれば、清国から「道を借り」、黒龍江を越えて魯国の君臣と盟約を結んで交易を発展させる。殊にロシアの鉄は上品だと評判であり、これを輸入し丈夫な大小銃をつくるべきとした。
 江戸時代、朝鮮との交易はもっとも安定的で釜山には対馬藩の出先機関(倭館)があり、宗氏は朝鮮の臣下として(日朝両属)、日本と朝鮮を結ぶの形の中継貿易を担っていた。農耕可能な土地が少ない対馬藩は、収入の大きな部分をこの交易に依存していた。この関係を利用し、朝鮮と日本の交易を確かなものとし、さらに天津・江南・香港・広東などでの貿易を発展させ、江南の民に恩恵を施し手なづけ、西洋人の侵略を受けている清王との盟約を結ぼうとした。日清・日朝間の友好・同盟をもって、西洋の圧迫をはね返そうという発想は、師匠である勝安房守の構想であるが、長次郎もまたそれを受け継いだと思われる。
 しかし、長次郎は、日朝・日清の友好・同盟に止まらず、その先にはロシアと好を通ずる狙いが明確にもっていたのである。その発想は、次のような情勢観とその中での日本が対処すべき方向性をもくろんでいたことで明白である。すなわち、先に続けて、

当時西洋各国と抗衝(こうこう *互いに張り合うこと。抗衡)するものハ、魯国より外(ほか)有るべからず、往年セバストホル戦争の以後ハ和睦仕(つかまつ)り罷(まか)り有り候共、内心互(たがい)ニ相軋(あいきし)る魯国、西洋へ出る処(ところ)の黒紅海(*黒海のことか?)の兵備は、戦争以後約束ニて廃棄し、其の後は東洋ニ出るを以て専務と為(な)し候、英・仏予(あらかじ)め之(これ)を察し、魯国の東海ニ出(い)てなハ、容易ならざる大事ニ付き、力を究(きわ)めて相拒(あいこば)ミ居り候、右の昭然(しょうぜん *あきらかな様)ニ御座候、私(わた)し当年長崎出遊の砌(みぎり)、蘭軍艦メジサノ船将より承り候ハ、今より十年を出(いで)ずして、西洋諸州と魯国と大戦争有るべし、其の処(ところ)ハ、必ず東海の近辺にして、日本の地辺ニ有りと、又(また)米国の当時長崎在留の学人も、此(こ)の言を申し出で候趣ニ御座候、此の時節ニ指当り、日本も今の勢ニてハ、其の余炎ニかかり、不側(不測)の害を受くる事計(はか)るべからず候、豈(あに)愛国の人、徒手(としゅ *〔何かするのに〕手に何ももっていないこと)なすの時ニ有るべからず候、右の秋(とき)本邦も海軍可成(かな)りに罷り成り居りもふし(申し)候ハ、両間ニ於て事を為し、魯国破れなハ、中ニ入(いり)て和を結び、西洋敗(やぶれ)しなハ其の虚ニ乗(じょう)し、爪哇(ジャワ)・呂宋(ルソン *フィリピン)・蘇門刺〔蘇門答刺 *スマトラ〕)の地を略(りゃく *かすめとること)し、電撃を以て本邦の幅員(ふくいん *広さ)を弘(ひろ)め申すべきハ此の時にして、又(また)千載(せんざい *千年)の偉功(いこう *立派な手柄)ニ御座候て魯・英事無くハ、偏(遍〔あまね〕)く世界ニ交通し、新和蘭(新オランダ *インドネシア)の如き地を占め(*占領し)、追々遠略(*遠大な計画)を為し申すべく候、両事の内(うち)何(いず)れニ付きても、猶更(なおさら)早く貿易通商を盛(さかん)ニし、海軍を更張成られ、世界ニ通し清朝・魯国に結ひ、西洋各国と親しみ候事(そうろうこと)第一の急務ニ御座候、

 長次郎は、当時の国際情勢の核心を、ロシアと英・仏などとの対立とみる。この発想は、越前の松平春嶽などの影響があったと思われる。若くして徳川斉昭にかわいがられた春嶽は、島津斉彬らとともに将軍継嗣に慶喜(斉昭の7男)擁立の運動を行なう。その中心的工作者である橋本左内は、イギリスを中心とするグループとロシアを中心とするグループとの対立の下での国際情勢をリアルにとらえ、日本はロシアと提携すべき事を提唱している。左内は、当時の活動家の中では極めて俊英にして、観念的な開国派ではなく、実際的な開国派(侵略派でもある)であった。左内を重用するとともに、春嶽は攘夷派から開国派に転換したと思われる。
 ところで長次郎は、"ロシアはクリミア戦争(1853~56年)で南下政策を挫かれるが、両者とも内心は摩擦が残り、再びロシアが南下政策をとるとすれば東洋方面からしかない。したがって、今から10年のうちに、ロシアとイギリスなど西洋諸国との大戦争が有り得るのであり、しかもそれは東海の日本近辺である。その際、今の状態では日本も巻きこまれ損害を受ける可能性がある。そこで、日本の海軍を充実・整備し、その害を避けるだけでなく、むしろ日本がのし上がる好機とすべき"というのが、長次郎の策である。つまり、両者が戦い、もしロシアが負けた場合は、その間に分け入って講和をすすめ、もしイギリスなどの方が敗北した場合は、「其の虚に乗じ、爪哇・呂宋・蘇門答刺の地を略」し、電撃的に日本の領土を拡大すべきだというのである。もし、両者の大戦争がない場合は、広く世界に通商・交流して、インドネシアのような地を占領し、おいおい遠略を実現すべきとする。
 だからいずれにしても、世界との貿易・通商を盛んにし、海軍を更張し、清国・魯国と結び、西洋各国との親善が「第一の急務」である。そして、この計画を実施するためには、

又(また)前文申上げし通り、我が邦ハ清国と風俗を相類し、地形・人情も旧来承知の事ニ候ハ、先(まず)是(これ)ニ鞭(むち)を付け〔*ムチをうってこらしめる〕、後年世界横行の基礎と為し申すべく候、......以後は西洋を制伏(征服)する道(みち)幾等(いくら)も有るべく候、
仏国近来(きんらい)軍艦時々朝鮮釜山沖に碇泊する由、魯国又(また)朝鮮と相結ぶの議(ぎ)頻(しき)りなる趣き、此の度(たび)も又々(またまた)彼ニ先鞭(せんべん)致され候てハ口惜しき義ニ候ハ、願いは来春、先(まず)有合(ありあわせ)の御艦を以て、早々朝鮮ニ御往来御初(おはつ)成し致され存じ奉り候、
 
 ここでも長次郎は、日本の遠略のために、まず朝鮮との往来を恒常化し、中国との外交・通商を以て日本が世界を横行する基礎とする。このように、日本の遠略には、手始めとして朝鮮・中国との関係作りが極めて重視されているのである。
 そして、長次郎は、次のように日英の比較をした上で、今こそ「日本一新」の好機と久光に訴える。英国抔(など)も、元は偏所(へんしょ)の一海国にて、?乎(ばくこ *疎んずるさま)として日本に及ばざる〔こと〕大に候共、然(しか)ると雖(いえど)も其の志気(士気)卓犖(たくらく *抜群)、務めて遠略を為(な)すを以て、威(い)五大州ニ震(ふる)ひ申し候、日本は世界の中央に居し、四方環海、軍を出し五大州を横行仕り候ニハ実ニ便捷(べんしょう *素早い)ニして、英国如きの及ふ所ニ御座(ござ)なく候、然るニ、今迄(いままで)徒(いたずら)ニ環海の阻(へだたる)を恃(たの)ミ、晏然(あんぜん *安らかなさま)戦を忘れ、怠佚(たいいつ *怠りだらしなさ)侈靡(しひ *おごりてみらだなこと)、昇平(しょうへい *豊かに栄える太平の世)の栄ニ堪弱(耽溺〔たんでき〕)し、富国強兵遠略を務めず打過(うちす)き候て、終(つい)に今日の勢ニ相逼(あいせま)り申し候、清国は二万里の大邦をして海を受くる事一面ニ過ぎず、我が邦清国と比する十二分一ニ足らざる国にして、四面(しめん)皆(みな)海なり、一朝清国の如き挙(きょ)〔*イギリスなどに侵略されたこと〕御座候ハ、豈(あに)数月を保ち申すべき哉(や)、明府(めいふ *県令の尊称。ここでは薩摩藩を指す)上は明主の遇(ぐう)を得〔*天子のお目見えを得ていること〕、下(しも)百姓の人望を荷(にな)ふ、此の秋(とき)ニ膺(あた)り、小嫌疑を御断絶成られ、真実日本一新の御機会と御覚悟成られ、通商を盛(さかん)ニし、海軍を更張成られ、国家保護の道を御考究成らるべく希(ねが)い奉り候、

 日本よりも英国は小さな国でありながら、「遠略をなす」のはその士気の高さによる。それに比べ、日本はその位置からしてイギリスよりも有利でありながら、徳川200数十年の中で「昇平の世」に耽溺し戦を忘れて、西洋諸国に圧迫されるという事態にある。いまこそ、「日本一新」の好機ととらえ、重ねて「通商の盛ん」と「海軍の更張」を訴え、「国家保護の道」を考えていただきたい―と訴えるのであった。
 最後に、長次郎は、実際的な方策として、船舶運用のための海軍士官の精錬、士官から水主に至るまでの優遇、大船修理のドックの建設、製鉄所の建設、それらの業に携わる大工・鍛冶工などの養成を献策する。
 長次郎(上杉宗次郎)の上書は、開国派の見地から、従来の松平春嶽・橋本左内・勝海舟・吉田松陰などの方策を取り入れながら、日本の進むべき道としての侵略と領土拡大の遠略を述べたものであった。

 (ⅳ)和解を必要とした薩摩側の事情
 「武備恭順」の下で割拠主義をとる長州にとって、諸隊などに「排外排薩」の感情が強くありつつも、理性的に考える立場に立てば薩長和解を進めることは、非常に大事なことであり、必要なことである。このことはまた、薩摩側にも別の事情からあてはまる。薩長和解は、薩摩側からも必要なことであった。
 薩摩藩の基本方針を考察するために、やや時代をさかのぼってみると、次のようになる。
 1864(元治元)年3月に参預会議が解体するまでの島津久光の基本方針は、一口でいうと、いわゆる公武合体であった。「かつて幕府は勅許を得ないで日米通商条約を結び、以後、多くの国々と同様の条約を結んできた。幕府に違勅の罪のあることは十分理解しつつも、だからといって攘夷を主張し、幕府にその実行を迫ることは、対外危機の招来以外の何ものでもない。幕府の持つ、この負い目をそのままに国内政局を無事に乗り切るには、有力諸藩が幕府を助けながら、朝廷と妥協の道を探る以外にないというのが久光の結論で、その具体的方策が公武合体であった。」(芳即正著『島津久光と明治維新』新人物往来社  
 2002年 P.139)といわれる。
 しかし、一橋慶喜と他の参預諸侯との対立が外交路線をめぐって明白となり、参預会議は3月に解体する。久光は同年4月11日に左近権中将となり、従四位上に進むが、一会桑の京都支配体制の確立を見届けたあと、4月18日に京都を発って帰国の途に着いた。
 その後、久光が率いる薩摩藩の方針は、対外的には「禁闕(きんけつ *天皇家)守衛一筋(ひとすじ)」であり、対内的には富国強兵である。
 前者については、京にあった西郷が鹿児島の大久保一蔵に宛てた1864(元治元)年6月8日付けの書簡で明らかである。(それは、一会桑体制の爪牙である新撰組が池田屋を襲った事件(6月5日)など京の情勢などを主に知らせたものである。)

......(*一会桑体制による長州志士などの弾圧の下で)ともあれかくもあれ、此(こ)の末(すえ)如何(いかが)形行(なりゆき)申すべきや、長州も只々(ただただ)止り居り候事にもこれなく、大破に相成(あいな)るか、又(また)は大挙して発(おこ)り立ち申すかに御座(ござ)あるべく候。只今は薩州の処(ところ)双方より望みを掛(か)けられ候(そうろう)模様に御座(ござ)候得共(そうらへども)確乎(かっこ)として動き申さず、禁裏御守衛を一筋に相守(あいまも)り居り候事に御座候処(そうろうところ)、各国(*各)の心配は露程(つゆほど)も存ぜず安気なものに御座候。...... 
           (『西郷隆盛全集』第一巻 大和書房 P.309~310)

 京都は池田屋事件に見られるように一会桑体制の弾圧下にあるが、この後、長州藩が破産するか大挙して決起するかは分からないが、ただこのままで何もないことはありえなであろう。今のところ、薩摩は長州と一会桑の双方の側から味方になるよう望まれているが、「禁裏御守衛を一筋に相守り居り候事」と書き送っている。
 西郷は、6月25日付けの大久保一蔵宛ての書簡でも、次のように述べている。6月20日からおいおい長州人が大坂に着き始め、23日には福原越後が惣宰(そうさい)となって大坂を発ち24日には伏見に着き、しばらくは滞在の模様と伝えた。24日には、薩摩藩の京都留守居へ幕府(一会桑体制)から呼び出しがあって、淀の辺に人数を出して警衛するようにとの達しがあったと述べたあと、

即刻御書付(おかきつけ)を以て御断(おことわ)り相成り候儀に御座候。此の度(こノたび)の戦争は全く長(*長州藩)・会(*会津藩)の私闘に御座候間、無名の軍を動かし〔*大義名分の無い軍隊の出動〕候(そうろう)場合にこれなく、誠に御遺策の通り〔*久光が帰国する際の指示に従って〕禁闕御守護一筋に相守り候外(そうろうほか)余念なき事に御座候間、左様(さよう)御含み下さるべく候。...... (同前 P.332~333)

 今回の戦争(後に禁門の変と称されるようになる)は、長州と会津の間の「私闘」であると断定し、西郷は淀辺への薩摩兵の出動要請(幕府からの)を断わっている。そして、久光の命令通り、「禁闕御守護一筋」を相守るとしている。このような態度は、大久保一蔵宛ての6月27日付け、7月4日付けなどの書簡でも継続している。(禁門の変は7月19日に勃発)
 だが、長州藩が武装力をもって朝廷に圧力をかけ、御所の安全が脅かされるようになって、薩摩藩は7月17日、土佐藩・久留米藩とともに、朝廷に対し、長州兵の討伐断行を建議している。薩摩は一会桑支援ではなく、「禁闕御守衛一筋」の見地から禁門の変で長州兵と戦ったのである。
 京にあって薩摩兵を指揮した西郷吉之助は、戦後の長州処分に対し厳しく、大久保に宛てた9月7日付けの手紙では、次のように述べている。

長州御征討の儀に付いては、一日も御延引(ごえんいん)の訳これなく、速やかに御手(おんて)付け居り候得ば(そうらへバ)、異人の一挙も空(むな)しきものに相成(あいな)るべく候処、ヶ様(かよう)の異難(いなん)先立ち、残心(*残念)の事に御座候。長(*長州)にては此(こ)の両変(*長州征討と4カ国連合艦隊による馬関砲撃)に余程(よほど)勢いも挫(くじ)け、段々歎訴(たんそ *なげき訴えること)手段もこれ有り、畢竟(ひっきょう *とどのつまり)、狡猾(こうかつ *ずる賢い)の長人に候得ば、如何(いかが)の巧(たく)みかも計(はか)り難(がた)く、益田等三人(*益田右衛門介・福原越後・国司信濃)の家老打ち洩(も)らし候故、只今(ただいま)御預り(*3人は支藩徳山藩に預けられていた)とは申すものの、必ず是(これ)を以て暫(しばら)く動静を伺(うかが)い居り候ものからも計られず候に付き、是非(ぜひ)兵力を以て相迫(あいせま)り、其の上(そノうえ)降(*降伏)を乞(こ)い候わば、纔(わず)かに領地を与え、東国辺へ国替(くにがえ)迄(まで)は仰せ付けられず候わでは、往先(ゆくさき)御国(*薩摩藩)の災害を成し、御手の延び兼(か)ね候儀も計り難く、......
                       (同前 P.383)

 この時点で、西郷は長州人に対し、「狡猾の長人」と酷評し、もし降伏を申出てきたら、領地を削減し、東国あたりに転封すべきと主張している。そうでなければ、薩摩藩の害をなすであろう―と言い切っている。
 だが、西郷吉之助は同年(1864年)9月11日、大坂にいた勝海舟に面談し、政局観を大きく変えることとなる。このことは、9月16日付けの大久保一蔵宛ての手紙に記されている。ここで西郷は、勝について「実に驚き入り候(そうろう)人物にて最初は打叩(うちたた)く賦(つもり)にて差し越し候処、頓(とん)と頭を下げ申し候。どれ丈ヶ(ドレだけ)か智略のあるやら知れぬ塩梅(あんばい)に見受け申し候。先ず英雄肌合(はだあい)の人にて、佐久間(*象山)より事の出來(でき)候儀は一層も越え候わん。学問と見識においては佐久間抜群の事に御座(ござ)候得共(そうらへども)、現時に臨み候ては、此(こ)の勝先生とひどくほれ(惚れ)申し候。」(同前 P.399)とベタ褒めである。その理由は、当時、兵庫港へ英仏などが艦隊をそろえて向かい、条約問題で交渉をかけてきたが、これへの対処方策について、勝が次のように主張したことにある。

摂海(*兵庫港)へ異人相迫(あいせま)り候時の策を相尋(あいたず)ね候処、如何(いか)にも明策(*良策)御座候。只今(ただいま)異人の情態においても、幕吏を軽侮(けいぶ *軽く見てあなどること)いたし居り候間、幕吏の談判にては迚(とて)も受け難(がた)く、いずれ此(こ)の節、明賢の諸侯四、五人も御会盟に相成り、異艦を打ち破るべきの兵力を以て、横浜並びに長崎の両港を開き、摂海の処(ところ)は筋を建て談判に相成り、屹(きっ)と条約を結ばれ候(そうろ)わば皇国の恥(はじ)に相成らざる様成り立ち、異人は却(かえ)って条理に服し、此(こ)の末(すえ)天下の大政も相立ち、国是(こくぜ)相定(あいさだま)り候期(そうろうき)に御座ありとの議論にて、実に感服(かんぷく)の次第に御座候。弥(いよいよ)左様の向きに成り立ち候わば、明賢侯の御出揃(おんいでそろ)うまでは、受け合うて異人は引き留め置く〔*海舟が責任をもって幕府を動かし、外国船の摂海への来航を引き留めて置く〕との説に御座候。右に付いては、今よりヶ様(かよう)の策を用い候儀疑いなき事に御座候間、摂海へ異人相迫り候節、初めて此の策を唱え出し、急速に相決(あいけっ)し候様致さず候わでは相成り申すまじく、一度此(こ)の策を用い候上は、いつ迄(まで)も共和政治をやり通し申さず候わでは相済(あいす)み申すまじき候間、能々(よくよく)御勘考(ごかんこう *考えること)下さるべく候。若(も)し此(こ)の策を御用(おんもち)いこれなく候わば、断然と割拠の色を顕(あら)わし、国を富ますの策に出(いで)ず候わでは相済み申すまじき儀と存じ奉り候。       (同前 P.399~400)
                     
 西郷は勝安房守の説にいたく感心し、これに大きく傾倒する。そして、明賢な諸侯によって対外問題を処理するとなれば、引続き「共和政治」(今日の意味とは異なり、賢明な有力諸侯による政治のこと)をやり通さねばならない―と主張する。もし、これが実現できないならば、断然、「割拠」と「富国」の政策を採らざるを得ないと主張する。
 これに対する返信(10月6日付け)で、大久保一蔵も「勝安房守え御面会の由(よし)議論の趣(おもむき)実に感服仕(つかまつ)り候」(『大久保利通文書』一 P.228)と、肯定的である。
 勝との会見による西郷の政局観の大きな転換は、その後の長州処分の方針にも影響を与えている。西郷は、長州藩内部の分裂を利用しつつ、徳川慶勝総督の許可を得て、寛大な処置を採って速やかに処分を終えたのである。西郷は、長州への過酷な処分が幕府のみを利することを理解し、これは薩摩藩にとって有利ではない、と見たのである。
 大久保一蔵もまた、別の角度から幕府への不信を高めていた。大久保は、1865(元治2)年2月11日付けの「日記」に、水戸天狗党事件の結末に関連して、次のように書き記している。

常野(*常総〔現・茨城県〕と野州〔現・栃木県〕)浪士ハ越前敦賀(つるが)え土蔵ニ押込(おしこめ)ラレ去ル四日ニ武田(*耕雲斎)始め廿七(*27)人儘(ことごとく)刎首(ふんしゅ *首を斬りたつこと)、七日迄(まで)ニ七百余人凡(すべ)て死刑ニ処し殺す盡(つく)しいたし候由(そうろうよし)其(その)取扱(とりあつかひ)苛酷(かこく)を究(きわ)め衣服を剥取(はぎと)り赤身(*裸)ニなし束飯(*食事に際し箸を使わせないことか?)ニテ獣類ノ会釈(えしゃく)ニ候由、是(これ)ハ田沼(*意尊)取計(とりはからひ)ニて橋公(*一橋慶喜)辺えハ全ク談合(だんごう)ニ及ばざる候由、実ニ聞くニ堪(たへ)ざる次第〔に〕より是(これ)ヲ以て幕(*幕府)滅亡の表(あらわれ)ト察せられ候。               (『大久保利通日記』一 P.242)

 敦賀で降伏した武田耕雲斎ら水戸天狗党にたいする処遇が余りにも礼節を欠いた酷いものであった(大久保の得た情報の細部が誇大であったとしても)。これを聞いて、大久保は「幕滅亡の表れ」と鋭く見抜いたのであった。
 第一次幕長戦争の処理について、征長軍参謀の西郷隆盛は、長州に対する「寛大な」処置を持って終らせた。これは先述した。しかし、幕府はこれを生ぬるいと納得せず、以降、長州処分問題は第二次幕長戦争の休戦に至るまで政局の中心問題でありつづけたのであった。
 1865(元治2)年1月18日、朝廷は長州処分問題の解決のために、将軍の上洛を命じた。だが、幕府はそれを拒否し、2月に入ると、逆に"長州藩主父子と三条実美らの江戸召喚"を命ずる。この幕府の命令に対して、島津久光は「五卿長(*長州)父子等東行(*江戸召喚)の幕命時務ニ暗キ所置(しょち)歟"と批判し、「恐れながら是非朝威ヲ以て御差止(おさしと)め相成らず候テハ、此末(このすえ)暴令ヲ行ヒ〔*重ね〕、終(つひ)ニ御国威モ消滅仕り候儀ト心痛仕り罷り居り候」(日本史籍協会叢書『島津久光公実紀』二 P.332~333)という危機感から、大久保一蔵に朝廷工作を命ずる。
 大久保らの工作により、1865(元治元)年3月2日に、朝廷から京都所司代に対し、長州藩父子らの江戸召喚停止を命ずる勅書が下され、幕令の撤回が成功する。
 しかし、幕府はなおも長州再征を狙い、1865(慶応元)年5月16日(「慶応」への改元は4月7日)、将軍一行がものものしくも西に向かって進発した。これを知った大久保は、5月21日に鹿児島をたって京都に赴き、政治情勢を探り、7月8日に鹿児島に帰る。
 そして、1865(慶応元)年8月4日、大久保は、薩摩藩士のイギリス留学団の責任者である新納(にいろ)刑部(ぎょうぶ)と町田久成に宛てて、長文の手紙を送っている。以下はその大意である(勝田政治著『〈政事家〉大久保利通』講談社選書メチエ 2003年 P.46~47)

 長州再征は将軍家の「私闘」であることから、有志者はもちろん「匹夫」まで反対している有様である。幕府は将軍自ら大坂まで進発すれば、諸藩はすべて「饗応」(*迎合してもてなすこと)するであろうと思っていたが、現実は四国・九州地方の諸藩は「粛然」と鳴りを潜め、「天下の人心」は再征反対であり、とても実行することは無理である。再征の再強硬論者は会津藩であり、「幕威」を拡張する意図からたとえ「朝威」が立たなくとも、「幕威」を押し立てようとしている。これに同調しているのが「譎詐(けっさ)」(*偽り欺くこと)限りない慶喜と「尊幕」の桑名藩である。国内の動乱を誘発し莫大な軍事費を浪費し、「名」にそむき「義」にもとり「天」や「人事」から離れて勝利した戦争は、古今東西に例はない。こうしたことが実行されるならば清国の二の舞になり「悲憤」にたえない。また、「具眼の諸藩」(肥前・越前・土佐・宇和島藩等)は、開国(貿易)政策をとろうとしていることから、長州再征を強行するならば、幕府の統制力は急速に落ちて、諸藩割拠の情勢となろう。したがって、薩摩藩としては「富国強兵」に努めて藩力を「充満」して、たとえ一藩であっても朝廷を支え、「皇威」を海外に輝かせるという「大策」に着眼しなければならない。  (原文は、『鹿児島県史料 大久保利通史料』一 P.9~13)

 大久保は、ついに幕府を改革しそれを支える態度から大きく転換する。最終的に幕府を見限るようになる。
 だが、幕府を支える一会桑も執拗に工作をつづけ、9月21日、将軍家茂は参内して長州再征の勅許獲得に成功する。
 大久保は長州再征を阻止するために、8月25日に鹿児島を出立し、9月13日に大坂に着く。そこで、大久保は西郷隆盛・吉井友実と協議し、"藩主会議の「公議」によって再征問題の決定をおこなうべき"と、再征阻止の工作を行なうことを決め京に向かう。
 朝議は薩摩支持の近衛内大臣・正親町三条大納言と、幕府支持の二条関白・朝彦親王(還俗した中川宮)との間で対立した。だが、再征が内定される。大久保は、長州藩がすでに恭順の態度をとっているのに、このうえ再征などというのは幕府の「私闘」であると断じ、これを朝議が許可するならばこれもまた「私」に陥ってしまう―といって、長州再征阻止の勅諚内定を二条関白に迫る。
 だが、最終的には、慶喜が"諸藩の意見により朝議を動かすとは何事ぞ、幕府の決定通り再征を勅許しなければ将軍以下一同辞職する"と恫喝し、再征が決定される。このとき、大久保の有名な「非義の勅命は勅命に有らず」と言う言葉が出る。
 しかし、幕府にとっては新たな難題が降りかかる。9月16日、英・米・仏・蘭の4カ国公使が、条約勅許・兵庫先期開港を要求するために、艦隊を率いて来航していたのである。この問題も、朝議では長州再征問題と同様な構造での対立となる。朝彦親王らが幕府の上奏に条約を認めるべきとしたのに対して、近衛内大臣らは「雄藩会議」という「天下の公論」によって朝廷主導で決めるべき(大久保提案に基づく)とし、外国への回答延期の交渉をすべきとした。
 だがここでも、慶喜が大きく立ちはだかる。"回答延期などを承諾するような外国ではなく、そのような交渉をすれば直ちに戦争となろう、「皇国焦土」とならないためにもすぐに勅許すべき"と強硬に主張した。しかし、朝議では「大久保案」が採用され、交渉のための勅使に大原重徳が派遣(随従として薩摩藩家老の岩下方平と大久保一蔵)されることが内定した。これに慶喜が猛烈に抗議し、「雄藩会議」に対し在京諸藩の重役招集を提起する。慶喜は、招集された重臣の多くが開国論であることを楯に条約勅許を強調した。結局、最後は孝明天皇の決断で10月5日、条約勅許のはこびとなった(しかし、兵庫の先期開港は拒否)。
 大久保らの薩摩藩は、この長州再征と条約問題で反対の工作を展開するが、結局、慶喜の工作でいずれも失敗する。これにより、大久保ら薩摩藩は、ますます幕府離れの方向をとるようになっていった。
 事態は、一会桑の思うような方向ばかりには進まず、一会桑と幕閣との矛盾・対立も無くなりはしなかった。そこで、会津藩の重臣外島機兵衛が大久保を尋ねる。そして、「......旧好を修メ與(とも)ニ力ヲ公武ノ為(た)メニ盡(つく)サンコトヲ求メタリ、然(しか)ルニ利通ハ薩藩ノ期スル所ハ朝廷奉護ノ外(ほか)他ニ意ナキヲ以テセシカ......体ヨク其(その)要求(*外島の要求)ヲ謝絶シタルナリ......」(「戸島機兵衛への書簡 慶応元年十月十三日」の解説―『大久保利通文書』一 P.336)と言われる。
 戸島が「公武ノ為メニ盡サン」ことを求めたのに対し、大久保は「薩藩ノ期スル所ハ朝廷奉護ノ外他ニ意ナキ」と答えて、外島の要求を断わったのである。
 西郷が1865(慶応元)年11月11日付けで、久光の腹心である蓑田伝兵衛に宛てて出した手紙でも同様に、薩摩藩の「自主独立」的な立場を鼓舞した。すなわち、

一・会・桑の作略も皆(みな)崩れ立ち、天下の人心も相離れ、致し方(かた)なき処(ところ)より頻(しき)りに会人(*会津人)此(こ)の御邸(おやしき *在京薩摩藩邸)へ出で、媚(こ)び候事共(そうろうことども)笑うに堪(た)えず候。......橋・会・桑困窮の事に御座候由、いずれ大樹公(*将軍のこと)には、大坂より逃げ下りの模様と相窺(うかが)われ申し候。橋・会より関白殿下(*二条斉敬)へ、大坂より罷り下られ候方に申し上げ候との説もこれある事に御座候。大坂においても粮食(りょうしょく)も乏しく、当年中相支(あいささ)え候儀も六ヶ敷(むずかしく)、况(いわん)や西に兵を進め候儀、万々(ばんばん)覚束(おぼつか)なき事と相聞かれ申し候、攻口(せめぐち)等の儀(ぎ)各藩へ通達(つうたつ)相成り候え共(そうらエども)、人数を繰り出せと申す儀はこれなく、手数迄(まで)の計にて、退(ひ)き口の謀(はかりごと)と相察(あいさっ)せられ申し候。此の上、戦(いくさ)を初め出し候わば、直様(すぐさま)紛乱(ふんらん)の勢い眼前に相見得(あいみえ)申し候、......当分の処(ところ)、一言発すれば名分大義を明らかにし、義を以て立ち確乎(かっこ)として動かず、諸藩を圧倒いたし候姿(すがた)もこれあり候。変(*動乱)に入る入らぬの境(さかい)肝要の場合にて、至極(しごく)謹慎を加え、評議を尽し候事共ニ御座候。......
       (『西郷隆盛全集』二 P.79~81)

 会津人がこのところ、頻りに薩摩藩邸に来ているが、それは媚びを売るものであり、笑に耐えないものである。戦(長州再征)すれば、すぐにも幕府側が混乱し揉(も)めることは目に見えたことである。今は、何事も大義名分を明らかにし、義をもって屹立(きつりつ)し、「確乎不動」の態度を示し、諸藩を圧倒することが肝要なことである―と書き送っている。
 家老の小松帯刀も、12月6日付けの桂久武宛ての書簡で、一橋慶喜との会談の模様を次のように書いている。

昨日は一橋公より罷(まか)り出で候様との事に付き罷り出で候処(ところ)、御依頼の事共にて、至て御懇(おねんご)ろの御談(おはなし)に御座候、其節(そのせつ)御咄(おはなし)に......夷人承知の場合には至るまじく、多分再び摂海え来航に相成り候半(はん)は、容易ならざる大事にて、余程(よほど)御心配に相成り居り、且つ長州御処置も差し迫り居り候間、兼(かね)て御両殿様(*久光父子)御見込(おみこみ)もこれ有るべく、野夫(やふ *小松自身が謙遜して自分を指した表現)見込の処(ところ)十分申し立て候様、再三御懇意に仰せ聞かれる事に御座候間、自然申し上ぐべき場合もこれ有り候わば申し上ぐべしと、程(ほど)能(よ)く申し上げ置き候(「維新史料編纂会引継本」)
          (高村直助著『小松帯刀』P.129~130より重引)

 高村氏によると、「丁重な態度で兵庫開港や長州処分についての薩摩藩の意見を聞かれたが、適当にはぐらかしておいたということであろう。江戸幕閣との関係で『一会桑』勢力は行き詰まり、薩摩との協調を模索していたのである」(同前 P.130)という。一橋慶喜も、幕閣との関係が必ずしもうまくいっていないのである。小松はこんな慶喜に対して、もはや同情することもなく、適当に対処しているのである。
 さらに、慶喜は越前藩にも手を廻して、薩摩藩の内情をさぐらせている。同藩の家老・中根雪江が、1866(慶応2)年元旦、尋ねてきた。その時には、小松との間で次のような問答となっている。

此時(このとき)、中根、当時勢に処する意見を尋ねしに、小松、弊藩は御案内の如く種々嫌疑を受け居り困難少(すくな)からす(ず)、されと嫌疑の如きは今更(いまさら)致し方なき故(ゆえ)毎事条理に就(つ)きて履行する覚悟なるか(が)、かかる世態にても条理につきて履行すれは(ば)敢(あへ)て処しかたき(難き)にあらす(ず)、此節(このせつ)時事の為(た)め周旋奔走の労を執らさ(ざ)るも決して度外視するにあらす(ず)、条理に就かれさ(ざ)る幕議を賛助すれは(ば)共に条理を失ひ到底(とうてい)天下の為(た)め益なきのみならす(ず)却(かへっ)て害あらん事を恐れてなり、去りなか(が)ら今日の事も明日は変す(ず)る世なれは(ば)、来月中旬にも至らは(ば)或(あるい)は形勢の一変する事もあらんか、若(も)し形勢いよいよ一変して尽力すへ(べ)き時機(じき)到来せは(ば)更に力を尽くすへ(べ)し、しかし最早(もはや)藩士限りにては行届(ゆきとど)くへ(べ)きにあらさ(ざ)る故(ゆえ)大隅守(*久光のこと)に上京を申立る積(つも)りなりと申し故、中根、果してさる時機到来せは(ば)大隅守殿上京せらるへ(べ)しやと尋ねしに、小松、先年来度々(たびたび)上京しけれと(ど)いつも充分の功験(効験 *ききめ)を見さ(ざ)りし故(ゆえ)容易には動かれさ(ざ)るへ(べ)けれと其機(そのき)已(すで)に熟せんには必(かな)らす(ず)動かれさ(ざ)るにあらさる(非ざる)へ(べ)し、其際(そのさい)は大蔵太夫(*春嶽のこと)殿にも是非御上京あらん事を希望すと申し故、中根、時機充分熟せんには大蔵太夫も必す(ず)御同意すへ(べ)しと答へ、さてしか形勢一変せす(ず)とも貴下(*小松)には長く此地(このち)に滞在せらるる積りやと尋ねしに、小松、今日まて(で)少(すくな)かの兵を率て在京せしは窃(ひそか)に幕府の御為(おんた)めにもと思ひての事なるか(が)、当正月中又(また)は二月中旬頃まて(で)滞在して此上(このうえ)の形勢を考へ矢張(やはり)優柔不断〔*幕府が〕ならは(ば)速(すみやか)に帰国して已に着手せし海軍の整頓を図るへ(べ)き心?(しんさん *心づもり)なりと申し......
                  (中根雪江著『続再夢紀事』十五 P.1~2)

 小松帯刀は、すでに薩摩藩が幕府により疑われていることを自覚し、中根の質問に対し、「毎事条理に就きて履行する覚悟」と正直に答えている。長州藩のためとか、幕府のためとか―言わないで、あくまで"条理に基づいて行動する"というのである。
 2月1日の再度の訪問の際には、次のように、さらに突っ込んだ応対となっている。

此時(このとき)、小松、長防の御所置已(すで)に御奏聞を済(すま)され近々毛利家へ達せらるるよしなれと(ど)拙生は二州の士民容易に承伏(承服)すまし(じ)と考へらるるなり、如何(いかが)となれは(ば)一昨年謝罪申出し時(とき)直(ただ)ちに御所置あらは(ば)領地の内(うち)何程かを没収せらるるは当然の事にて已(すで)に吉川(*岩国藩主)も其(その)覚悟なりし故、一段没収せられし領地を更に本藩(*毛利氏宗家)へ御預けともならは(ば)人心は平穏なりへ(べ)しと申し程(ほど)なれと(ど)今日は形勢一変して前日に同し(じ)からす(ず)過般(かはん *先ごろ)諸隊より寛典(かんてん *ゆるやかな掟)とある上は現時の侭(まま)にて御済(おすま)しある様にと永井大監察(*永井尚志)へ申し出で、大監察も聞き置くべしと答へ、又(また)吉川も此節(このせつ)別段の寛典ならさ(ざ)れは(ば)人心承服すまし(じ)、若(も)し承服せさ(ざ)れは(ば)止むを得す(ず)本藩とともに事に従ふ外(ほか)あるへ(べ)からす(ず)と申し居るよしなれは(ば)なり、幕府の御考察は如何(いかが)此節にても矢張(やはり)異議なく御請(おうけ)に及(およ)ふ(ぶ)へ(べ)き御見込にあらさ(ざ)るかと申しし故、中根、幕府は御受(おうけ)に及ふ(ぶ)へ(べ)き御見込かと想像せらるるなりと申ししに、小松、さては別に御密策にてもあるものか、若(も)し御密策なくは(ば)彼れ(*長州藩)の容易(たやす)く承伏せさ(ざ)るは明らかなる事(こと)故、直ちに御討入(おうちいり)の外(ほか)あるへ(べ)からす(ず)、されは(ば)永井始(はじめ)は兵隊を率(ひきい)て出張せらるへ(べ)しやと申し故、中根、さる準備ありとは聞かす(ず)と申ししに、小松、さらは(ば)一昨年の如く諸藩の兵を徴集して討入らるるものか、一昨年は長藩士の暴挙に対して諸藩一同大いに奮起しけれと(ど)、今日は時勢一変し故(ゆえ)一藩たりとも二念(*ほかの考え)なく徴に応す(ず)へ(べ)しとは思はれす(ず)、已(すで)に或(ある)藩にては過般来出兵せさ(ざ)るに決し居るとの事なるか、此(この)藩は幕府の親藩なり、然るに猶(なお)斯(かく)の如し、況(いはん)や外藩をや、定めて御目的違(ちがひ)に至るへ(べ)しと申し聞え、尚又(なおまた)大久保一翁(*忠寛)老、此節(このせつ)の意見は如何(いかが)と問ひし故、中根、此の老は従来公議会を開らき【大久保の公議会は大公議会小公議会の二種に分ち、大公議会は全国に関する事件を議し、小公議会は一地方に止まる事件を議する所とすへ(べ)し、議場は大公議会所を京都或は大坂に設け、小公議所を江戸其外(そのほか)各都会の地に設くへ(べ)し、又(また)大公議会の議員は諸侯を以てこれに宛て、此内(このうち)五名を撰(えらび)て常議員とし、其他(そのた)の議員は諸侯自ら議場に出るも管内の臣民を撰て出場せしむるも妨(さまたげ)なき事とすへ(べ)し、其(その)会期は五年に一回これを開らき、臨時議すへ(べ)き事件あれは(ば)臨時にも開らくへ(べ)し、小公議会の議員及び会期はこれに準し(じ)て適宜(てきぎ)の制を立(たつ)へ(べ)しとの意見なりしとそ(ぞ)】、天下とともに天下を治むへ(べ)しとの持論なるか、今日も矢張(やはり)其論(そのろん)なりと答へしかは(ば)、小松、方今(ほうこん)此(この)老の持論を措(お)きて外に良策あることなし、故に其論の行はるると行はれさ(ざ)るとは治乱の分るる所なり、さて大久保老召(め)されたる上は勝老(*勝海舟)も召さるへ(べ)きやと尋ねし故、中根、此節(このせつ)詮議中のよしに聞けりと答へしか(が)、小松、此(この)両老に事を執(と)らせらるれは(ば)天下は忽(たちま)ち治安に帰すへ(べ)し、とされは(ば)いよいよ事を執らせらるるには直ちに閣老に登庸(登用)あらん事を望めと(ど)も時運いまた(未だ)さる英断を行はるるには至らさ(ざ)るへ(べし)云々(うんぬん)申したりき
                 (同前 P.53~57)

 小松は、中根との討論の中で、大久保一翁の動静をたずねるや、中根の答えに"天下とともに天下を治むべし"との持論を堅持しているのを聞き、大久保と勝に時局の処理を執らせれば「天下は忽ちに治安に帰すべし」と云う。そして、そのためには二人を登用させなければならないが、しかし、時運は未だそのような英断を下せるようなものではない、と言い放つ。それほど、小松は幕閣の旧套墨守に絶望している。
 幕府に絶望し、割拠方針をとる薩摩藩にとって、いずれ日本を全面的に改革するには、同類の長州藩のような仲間を必要とするのであった。
 そして現実は、これより10日あまり前の1月22日に、薩長盟約がすでに確約されていたのである。

 (ⅳ)薩長盟約が成る
 1866(慶応2)年1月22日、薩長間での盟約が成立する。以下の盟約は明文で取交されたものではなく、木戸孝允(桂小五郎)が両者間の合意内容を六カ条(木戸孝允が1月23日付けで坂本龍馬に宛てた手紙に記されたもの)にまとめ、それを坂本龍馬が裏書(保証)したものである。

一(第一条)戦と相成り候時は、直様(すぐさま)〔*薩摩藩は〕二千余の兵を急速差登(さしのぼ)し(*上洛し)、只今(ただいま)在京の士と合し、浪華(*大坂)へも千程(ほど)は差置(さしお)き、京坂両処を相固(あいかた)め候事
一(第二条)戦(いくさ)自然も我(*長州側が)勝利と相成り候気鋒(きほう)之(これ)有り候とき、其節(そのせつ)〔*薩摩側は長州藩の復権を〕朝廷へ申上げ、訖(屹)度(きっと)尽力の次第(しだい)之(これ)有り候との事
一(第三条)万一戦(いくさ)負色(まけいろ)に之(これ)有り候とも、一年や半年に決して潰滅致し候と申す事は之(これ)無き事に付き、其間(そのかん)には必ず尽力の次第訖度(きっと)之(これ)有り候との事
一(第四条)是(これ)なりにて幕兵東帰せしときは、訖度朝廷へ申上げ、直様〔*長州藩の〕冤罪(えんざい)は、朝廷より御免(ごめん)に相成り候都合(つごう)に、訖度尽力との事
一(第五条)〔*鹿児島から〕兵士をも上国の上〔*上洛の上で〕、橋会桑(*一会桑)等も只今の如き次第にて、勿体(もったい)なくも朝廷を擁し奉(たてまつ)り、正義を抗(こば)み、周旋(しゅうせん)尽力の道を相遮(あいさえぎ)り候ときは、終(つひ)に決戦に及び候(そうろう)外(ほか)之(これ)無きとの事
一(第六条)冤罪も御免の上は、〔*薩長〕双方誠心を以て相合し、皇国の御為(おため)に、砕身(さいしん)尽力仕(つかまつ)り候事は申すに及ばず、いずれの道にしても今日より双方、皇国の御為(おんため)相暉(輝)き、御回復に立至(たちいた)り候を目途(めど *目標)に誠心を尽し、訖度(きっと)尽力仕るべきとの事

 第一条は、幕府軍と長州藩の間で戦争となった場合、急速に薩摩藩は2000の藩兵を鹿児島から派遣し、在京の兵(禁門の変以降、約1000が常駐していた)と合せて、京都と大坂を固める。天皇を擁している「一会桑」体制に対決するためである。
 第二条は、戦争が長州藩の側に有利となった場合、そのときは薩摩藩が朝廷と交渉して、戦争を終結させるように間違いなく尽力する。
 第三条は、万一、戦況が長州藩にとって不利となっても、同藩は1年や半年で壊滅することは決してないので、その間に薩摩藩が朝廷と交渉して、必ず戦争を終結させるように尽力する。
 第四条は、幕府軍がこのまま江戸に引き上げて戦争が行なわれなかった場合は、薩摩藩が朝廷に交渉して、すぐさま長州藩の冤罪を朝廷の命で「御免」になるように尽力する。長州藩は奉勅をもって攘夷に献身したのだから、「冤罪」であると抗弁してきた。「御免」により、長州藩の政治的復権がなされる。
 第五条は、戦争とならなくても、幕府軍が京・大坂に滞在し、かつ一会桑体制が居座り、朝廷を擁して正義を拒み、長州藩の雪冤(せつえん)と政治的復権を遮(さえぎ)る場合は、薩摩藩は一会桑との不退転の対決に入る。
 第六条は、冤罪が晴れた場合は、薩長両藩は誠心をもって協力しあい、皇国のために粉骨砕身するのみならず、「皇威」が輝き皇国が回復するように共に尽力する。

 この薩長盟約は、従来、倒幕のための軍事同盟とするのが通説であった。しかし近年では、主眼が長州藩の「冤罪」を雪(そそ)ぐために薩摩藩が尽力することを約束した盟約だ―との評価が有力となっている。青山忠正著『明治維新と国家形成』〔吉川弘文館〕、芳即正著『坂本龍馬と薩長同盟』〔高城書房〕、佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』〔吉川弘文館〕、三宅紹宣著「薩長盟約の歴史的意義」〔『日本歴史』647号〕・「薩長盟約の成立と展開」〔同761号〕)などである。
 たとえば、佐々木克氏は次のように言っている。「この密約は、かつては『倒幕のための軍事同盟』であるとの解釈があったが、青山忠正が正しく指摘したように、慶応二年一月の時点における薩摩藩の行動方針を木戸孝允に告げ、薩摩藩がその実行を確約したもので、薩長両藩の双務的な契約関係を定めたものではなく、成文化して取り交わしたものでもない。またこの密約は両藩の首脳部だけが知るもので、一般の藩士には秘密にされた(そのうちに漏れ広まってゆくが)から、そもそも文章化する必要も感じなかったとみるべきであろう。その意味でも、引用した六ヵ条は『薩長密約木戸メモ』といった方が適切であろうが、木戸自身『皇国之興復にも相係り候大事件』(龍馬宛書簡)であるという認識であったし、薩摩藩も、この密約の遵守(じゅんしゅ)を最も重要な政治・運動課題としたから、形式的には密約であるが、内容的には盟約(固い誓い、約束)である。」(同著『幕末政治と薩摩藩』P.324~325)と。
 1866(慶応2)年1月21日、薩長間の盟約が確認された。他方、その同じ日、幕府は長州処分案を上奏し、勅許を得る。その内容は、"長州藩主毛利敬親父子の朝敵の罪名を除き、祖先以来の忠勤を思い寛大の主意をもって、封10万石を削り、敬親を隠居・蟄居、広封(定広)を永蟄居にし、家督は別に選び、三家老家(益田右衛門助・福原越後・国司信濃)は永世絶家にする"というものである。これでも幕府としては、大目付永井尚志や寄合大久保忠寛などの意見を取り入れた、寛大なものにしたというのである。
 幕府は、この勅許を長州藩に申し渡すために、老中小笠原長行、大目付永井尚志・同室賀正容などを広島に派遣した。一行は、2月4日に大坂を発ち、同7日に広島に到着した。
 小笠原らは、2月22日、安芸藩をして、長州藩の家老・宍戸備前・同毛利筑前ならびに三支藩主、毛利家支族・吉川監物(経幹)を広島に召喚した。また、宍戸備後助(宍戸?〔たまき〕)も広島に滞在するように命じた。
 しかし、長州藩などは病と称して、召喚に応じなかった。そのため小笠原は、3月26日、重ねて敬親父子、長門(広封)の嫡子興丸、三支藩主、吉川監物ならびに本藩家老2人を召喚した。期限は、4月15日とした。
 芸藩はこの伝達を辞退したが許されず、よって召喚期限4月15日を延期することを要請した。4月2日、老中小笠原道行はこれを許し、長州藩主父子および三支藩主などの出頭期限を4月21日とし、勅命を拒んだら「征伐」すると達した。
 長州藩側が、幕府の伝達使・小笠原長行との折衝を長引かせている頃の4月14日、大久保一蔵は、大坂留守居役・木場伝内の名前で出兵拒否の建言書をつくり、これを携えて大坂城に登り、老中板倉勝静に提出した。その建言書の内容は、以下の通りである。

  〈薩藩征長出兵拒絶上申書〉
即今(そっこん)内外危急ノ時節、防長御処置(*長州処分)ノ儀、其(その)当否ニ依リ皇国ノ御興廃ニ拘(かかわ)リ候(そうろう)重事ニテ、実に以テ容易ナラザル儀ニ候、追々(おいおい)御達(おたっし)ノ趣モ在(あら)セラレ、猶又(なおまた)来ル廿一日マデニ大膳(*長州藩主)父子召呼(めしよ)バセラレ、若(も)し此度(このたび)御受(おうけ)仕(つかまつ)らず候ハバ(そうらはば)、御討入り(*長州征伐)相成(あいな)り候間、相心得(あいこころえ)テ御指図(おさしず)ヲ待チ候様、仰せ渡サレ承知仕り候。一昨年尾張前大納言殿(*徳川慶勝)総督トシテ差向(さしむか)ハレ、伏罪ノ筋(すじ)相立チ解兵マテ相成り候処、却(かえっ)テ御譴責同様ノ御都合(ごつごう)ニテ、就中(なかんづく)神速御上洛ノ朝命(ちょうめい)御請(おうけ)之(これ)無きノミナラズ、却テ容易ナラザル企て之(これ)有るヲ以テ、御再討仰せ出サレ、御進発相成リ、終ニ今日ニ立至(たちいた)リ、御討入り時日御達し相成り候(そうら)ヘドモ、天下ノ乱階(らんかい *乱れの糸口)ヲ開カセラレ候事、実に明白ニ御座候、朝廷ヨリ時世相応ノ御処置ヲ以テ、寛典(かんてん *ゆるやかな処分)ニ処セラレ候(そうろう)御達しノ御趣意モ在セラレ候処(そうろうところ)、御奉戴(ごほうたい *謹んで戴くこと)之(これ)無きの由(よし)伝聞(でんぶん)仕リ、天下ノ衆人物議(ぶつぎ)喧々(けんけん *かまびすしいさま)、恐懼ニ堪へザル〔*畏れ多くも聞くにに堪(た)えざる〕次第ニ御座候、征伐ハ天下ノ重典(じゅうてん *重大な儀式)、国家ノ大事、後世青史(せいし *歴史)ニ恥ザル名分大義判然(はんぜん *はっきりとしているさま)ト相立チ、其(その)罪ヲ鳴(なら)シ、令ヲ聞カズシテ〔*長州征伐の命令を聞かないでも〕饗応(きょうおう *決起して対応)イタシ候様ニ之(これ)無くテハ、至当(しとう *適切なこと)トハ申シ難(がた)く候、尤(もっと)モ凶器ハ妄(みだ)リニ動(うごか)スベカラズトノ大戒(*おおきな戒め)モ之(これ)有り、当節天下ノ耳目相開ケ候ヘバ〔*世間の状況を見聞きすれば〕、無名ヲ以テ〔*名分のないままで〕兵機ヲ作スベカラザルハ、顕然(けんぜん *はっきり現われるさま)明著(めいちょ *明らかに著しいこと)ナル訳ニ御座候、決(けっ)シテ国人これを討つべからずト謂(い)フニ、却テ撥乱済世(はつらんさいせい *乱れをおさめて正しい世にもどすこと)ノ御職掌ニテ、動揺ヲ醸(かも)シ出サレ候(そうろう)場合ニ相当(あいあた)リ候、前条(*前に言うように)天理ニ相戻(あいもと)リ〔*天理にそむき〕候(そうろう)戦討ハ、大義ニ於テ御受ケ仕リ難く候、仮令(たとえ)出兵ノ命令承知仕り候トモ、止(や)ムヲ得ズ御断(おことわり)申し上げ候間、御聞届(おききとどけ)下サレ候様願い奉り候、京都重役共ヨリ申し上げ候様申し越し候ニ付き、此段(このだん)申し上げ候、以上
                        御名代(*藩主忠義の代理)
  寅四月十四日                  
               (『鹿児島県史料 忠義公史料』第四巻 P.107)

 なお、次のような「薩藩主署名の出兵拒絶の添書」もある。

別紙家来共より言上の趣(おもむき)、兼て申し聞け置き候(そうろう)趣意に御座候処、別紙家来共ヨリ言上ノ趣、兼(かね)テ申し聞き置き候(そうろう)趣意ニ御座候(ござそうろう)処(ところ)、既ニ長州ノ儀(ぎ)御請書差し出さず候節ハ、一同討ち入り候様仰せ渡され候趣(おもむき)承知仕り候。御決定ノ上(うえ)容易ならざる御儀ト恐れ入り候得共(そうらへども)、皇国ノ御大事ニ相拘(あいかかわ)り、且つ名分(めいぶん)条理(じょうり)相立たず候テハ、御請(おう)け仕り難き儀、兼テ確定ノ旨趣(ししゅ)之(これ)有り、別紙ニモ申し上げ候通り、大義に於て相済み難く、止むを得ず御断り申し上げ候間、宜(よろ)しく御聞き届け下され候様相願い候。 以上。
                          松平修理大夫(*忠義)
                  (『鹿児島県史料 忠義公史料』第四 P.175)

 藩主忠義の添書があることは、薩摩藩は兼てから「出兵拒絶」の日が来ることを予想し、かつその際の用意がなされていたことを意味する。
 大久保一蔵は、これらの「出兵拒絶書」を持って、4月14日、老中板倉勝静に会見して提出した。しかし、板倉は17日になって、これを却下した。そこで大久保は、19日に再び板倉に面会し、不受理の理由を詰問するとともに、幕府が従来、朝命を遵奉しない点・6カ条を挙げて、大いに論難したと言われる。
 しかも現地では、長州藩側は本藩の藩主敬親父子、三支藩・岩国藩の藩主の召喚に遂に応じなかった。代わりに、本藩は宍戸備後之助(後の宍戸?)、小田村素太郎を名代として派遣し、三支藩・岩国藩も各々老臣を名代として派遣した。
 5月1日、小笠原は三支藩・岩国藩の名代(宍戸備後之助は傷を負い出席できず)に、前述の長州処分を伝え、さらに本藩の家督は興丸に継がせることを命じた。
 5月19日、吉川監物は家臣を広島に派遣し、3支藩との合議の日数が必要なので、請書提出の期限を29日にまで延期することを請い、小笠原はこれを許可した。但し、その期限までに請書が出されなければ、従軍諸藩に令し、6月5日をもって諸方面進入の期日とすることを明らかにした。
 それでも、「(*5月)二十五日長藩は、其(その)老臣の嘆願書・士民の陳情書に、四家連署の歎願書を添へ、四家の老臣をして携へて広島に赴かしむ。其(その)趣意とする所は、『更に正当の処置を以て二州の生民(せいみん *人民)を救助せよ』といひ、『此(この)窮厄(きゅうき)の心事を酌(く)み、天地広大の御沙汰を仰出(おおせいで)されん事を願ふ。、御達(おたっし)の儀は、とかくの御請(おうけ)申上げん事も仕(つかまつ)り難し』といへるを反復するのみ、歎願と称すれども、実は命令拒絶の書なれば、壱岐守(*小笠原道行)直ちに之(これ)を却下し、幕府・長藩の関係此(ここ)に於て断絶せり。」(『徳川慶喜公伝』3 P.231)といわれる。
『徳川慶喜公伝』の著者・渋沢栄一は、長藩などの歎願書は、その実は「命令拒絶の書」と断じ、ついに幕長間の手切れとなり、戦争に突入するのは必至とみた。
 そこで小笠原は、芸藩に対してその兵を国境へ進軍するように命じた。しかし、芸藩はこの間つねに長州藩に同情的であり、小笠原の出兵命令を辞してついに応じることをしなかった。
 長州処分の請書提出は何回も延期されたが、最終的な期限である5月29日になっても、ついに長州側の返事はなかった。

Q 第二次幕長戦争の開始と幕府側の敗北

(1) 両軍の配置と作戦
 第二次幕長戦争は、1866(慶応2)年6月から開始される。だが、その直前の4月、第二次奇兵隊事件1)が勃発する。しかし、これは大局的にみると、幸か不幸か長州側の大事にはいたらなかった。
 長州再征とうたわれた戦いの幕府軍側の陣容は、下記のような配置となった。

 〈幕府軍の部署〉
(1)芸州口討手〔一番手〕広島藩浅野安芸守。〔中軍先方一番手〕彦根藩井伊掃部頭・与板藩井伊兵部大輔・高田藩榊原式部大輔。〔二番手〕津山藩松平三河守・明石藩松平兵部。
(2)石州口討手〔一番手〕福山藩阿部主計頭。〔二番手〕浜田藩松平右近将監・津和野藩亀井隠岐守。〔応援〕鳥取藩池田相模守・松江藩松平出雲守。
(3)周防大島口〔一番手〕松山藩松平隠岐守・宇和島藩伊達遠江守。〔二番手〕徳島藩蜂須賀阿波守。〔応援〕中津藩奥平大膳大夫・今治藩松平壱岐守。
(4)小倉口〔一番手〕肥後藩細川越中守、柳川藩立花飛騨守、小倉藩小笠原左京大夫・千束(小倉新田)藩小笠原近江守・播州安志藩小笠原幸松丸。〔二番手〕福岡藩黒田美濃守・佐賀藩鍋島肥前守。〔応援〕岡藩中川修理大夫・島原藩松平主殿頭。
(5)萩口(一番手)薩摩藩島津修理大夫。(二番手)久留米藩有馬中務大輔。
               (野口武彦著『長州戦争』中公新書 P.152~53)

 だが、薩摩藩の出兵拒絶で、(5)の萩口は消失となった。しかし、幕府はこれに対する代替措置を講ずることもなく、戦争に突入している。また、征長総督の本営のある芸藩は、芸州口の攻撃を命じられたが長州に同情的であり、むしろ幕府と長州藩の間に入って、長州の寛大な処置を訴えて周旋したのであった。このため芸藩の執政辻将曹(しょうそう)らは謹慎を命じられ、長州藩は先鋒役も解かれることなった。また、幕府本営が存在する芸州藩が第二次征長に乗り気でないということは、幕府軍に対する自由で闊達な指揮をふるう点で制約された。
 他にも、いろいろな口実を設けて出兵しなかった大藩は、宇和島藩と佐賀藩であった。これら出兵拒否の大藩は、ゴシック体で記した。
 それでも幕府軍の諸藩兵は1865(慶応元)年11月ころから広島城下に集結しはじめ、その数だけでも軍夫を含めて2万5000人に上ったといわれる。(『広島県の歴史』山川出版社 1999年 P.209)
 絲屋壽雄著『大村益次郎』(中公新書 1971年)によると、「幕府軍の作戦は、四境より迫って、一挙に防長2州を占領するというものである。
一、優勢な海軍の援護のもとに、幕兵および松山兵を大島に上陸させこれを占領する。
二、芸州口方面では、幕軍の主力十五隊および和歌山、彦根、高田の兵は、海軍と時期をあわせて、本道、海浜、海上より相応じてまず岩国を攻略する。
三、石州口方面では、鳥取、松江、浜田、福山の諸兵および和歌山の別働隊は津和野より迫る。
四、小倉口の肥後、柳川、小倉の兵は機を見て馬関を攻めこれを占領する。」(同著 P.104~105)というものである。
 対する長州藩側の布陣は、以下の通りである。

  図表9 第二次幕長戦争での長州藩側の諸兵配置
                                         
 指揮役     方面        諸兵配置            備考       
宍戸備前    芸州方面小瀬川口  遊撃隊・南第一・第二大隊・
                  その他農平隊など                 
毛利能登    船木宰判辺     南第十・第十一大隊・椙杜駿
                  河その外一隊・その他               
毛利出雲    小郡宰判辺     八幡隊・萩野(義昌)隊・嘉  八幡隊はのちに     
(副)鈴尾五郎              川屯兵浪士・南第八大隊・そ  小倉口出陣
                  の他農兵など                  
毛利豊之進   両大津宰判辺    北第三大隊・その他               
毛利常太郎   三田尻宰判辺    御楯隊・第三大隊足軽隊・南  開戦後、御楯隊
(毛利筑前代理)           第六大隊・その他農兵など   小瀬川口に出陣            
毛利宣次郎   萩表守衛      干城隊・鐘秀隊・北第四・第
                  五・第六大隊・第五大隊・二
                  番砲隊・その他                              
毛利伊賀    上ノ関宰判辺    第二奇兵隊・南第三・第四大  開戦後、大島に
(隠岐代理)   (花岡辺)      隊・その他浩武隊・南第五大  出陣 
                  隊・その他                               
御神本主殿   石州方面仏坂口   清末藩兵・南園隊・第四大隊
(益田弾正)               ・北第一・第二大隊・その他
                  陪臣隊など                  
益田孫槌    山代宰判辺     膺懲隊・その他農兵
        (芸州方面亀尾川口)
        徳地宰判辺     干城隊支隊・その他農兵            
山内梅三郎   馬関方面小倉口   奇兵隊・南第十二大隊・長府  のちに八幡隊鴻
                  毛利家兵(報国隊)      城隊、来援  
        山口        干城隊・鴻城隊・集義隊・第  開戦後、鴻城隊
                  一・第二大隊・一番砲隊・南  亀尾嘉川口、集
                  第七・第九大隊・その他農兵  義隊小瀬川口に
                  など             出陣     
出所:青山忠正著『高杉晋作と奇兵隊』P.199 ゴチックは干城隊と諸隊。なお、指揮役・配備とも開戦後に変動あり。また、第二奇兵隊には不祥事があった1)。

 絲屋壽雄著『大村益次郎』によると、「......長州藩の作戦は、兵を要地に配し、幕軍の動作にしたがってこれを各個に撃破しようというのである。

一、 海軍力の優勢な幕軍に対して大島守備のために多数の精兵をついやすの犠牲を避け、土着の村上氏の水兵、僧兵およびこの地の農商兵をもって守備に充て、むしろ幕軍を上陸させ土人(*土着人のこと)の敵愾心を昂揚させ、緩急に応じて援兵を繰り出すのが得策である(大村案)。
二、 芸州口においては、苦之坂限り防禦の構(かまえ)を堅固にし、大竹村、中津原を右として、小方、久波辺に進入すれば、幕軍は必ず海上、陸地両方面より来攻して小方、久波両所に放火する。久波・小方を幕兵の手で焼払えば人民の恨(うらみ)は敵兵に帰するであろう。また苦之坂より二十日市まで七里の間には人家がなく、敵兵は宿るに陣所なく、わが兵が苦之坂を固く守れば退くこともできぬ。滞陣すれば芸州人民の苦しみは大きいから、必ず幕軍と芸州人との間に内部から不和を生じ、戦わずして芸州地より撤兵せざるを得ないであろう(大村案)。

 右の大村意見はその後の軍議で、兵力をもって広島城下の兵を一旦追い払い、闕下へ哀訴したのち、国境に引き取り守るべしというふうに方針が訂正された。

三、 石州口の作戦は、力のおよぶだけ大森、浜原口あるいは杣口を防禦し、わが兵力を損じないようにし、敵がわが位置を変じ、止むを得ないときは、わが兵を郷田に引揚げ、敵に大森を譲る。こうしておいて我より大森を攻めれば、大森の土人(*土着人のこと)は幕兵の使役に堪えず人心は自ら離散し、戦わずして敵兵奔走に疲れ内部的に瓦解することは必至である(大村案)。
四、 小倉口方面では敵の機先を制して馬関海峡をわたり、まず門司・田の浦の敵を一掃し、海に沿うて西し、小倉城を陥落させ、ひろく豊前一帯を押える(高杉・山県の意見。)」                         (絲屋前掲書 P.105~107)といわれる。
 だが、事前の見通しと実際の進行をみると、大島郡方面と小倉口方面は見通し通りであったが、石州口方面は予想以上に勝利的に前進し、領外に大きく踏み込んで敵を負かした。だが、芸州口方面は近代装備の幕府軍に阻まれ、思い通りには敵を負かす事ができず、膠着状態となる。広島城下の幕府軍を追い払うことなどはできなかった。


注1)第二奇兵隊は、はじめは南奇兵隊と称され、白井小助らによって1865(元治2)年1月に創設される。隊は、熊毛宰判室積(むろづみ)周辺や大島・上関・都濃(つの)の各宰判の「有志」で構成された。1866(慶応2)年4月、立石孫一郎ら百数十人の隊員が、5隻の船に分乗して倉敷へ脱走し、幕府領の代官所を襲う事態が起こった。何故、こおような事件が勃発したのか―この理由は明らかにされていない。田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』によると、その理由は「第二奇兵隊の兵士の不平を抑えようとした書記楢崎剛十郎(毛利隠岐家臣)を斬った隊員が、もはやこうなっては他藩で功を挙げ、罪を償う以外にないという立石の煽動に従がったとする説、立石が養家の商業上の私怨で倉敷代官へ報復したという見方、第二次征長軍の背後攪乱(かくらん)説などさまざまである。」(同著P.85)と言われる。しかし、藩の処分は厳しく、45名が斬首(内、34名は農民と思われる)となっている。

(2) 四境での戦争
 では、実際の戦闘はどのように展開したのであろうか。第二次幕長戦争を、長州では今でも「四境戦争」と呼んでいる。四境とは、大島郡方面、芸州口方面、石州口方面、小倉口方面である。
【大島方面の戦い】
 最初の戦地となった大島郡は、瀬戸内海に浮かぶ「周防大島」(以下、大島と記す)のことである。大島(岩国藩領)は安芸灘と伊予灘をへだてるような位置にあり、左むきをしたオタマジャクシのよな恰好をしている。全島の大部分が山地である。
 戦いは、6月7日、幕府軍艦の大島砲撃をもって開始された。幕府海軍の木製蒸気船・富士山丸(排水量1000トン)と翔鶴丸(同350トン)が上関方面から近づき久賀浦へ砲撃を加えた。応射がないので、そこには大砲の配備がないことがわかる。
 翌日、島の南北両方から進攻した。南側からは、伊予松山藩の松平勝成の軍勢である。宇和島藩は派兵しないので、単独の行動となった。藩兵約150人が大島南岸を占領した。上陸に先立って、念入りの砲撃が無差別に加えられ、民家300軒が焼き払われ、住民が殺傷された。北側からは前記の幕府海軍の軍艦と松江藩の八雲丸などが砲撃し、その援護の下で幕府歩兵隊が上陸した。上陸は9日、11日と行なわれた。幕府歩兵隊は、西丸下屯所の二大隊(1番隊・16番隊)・小筒組三小隊・大砲一大隊で、総人数1300人である。わずかに配置されていた長州兵は、本土に撤退したので幕府軍・松山軍は容易に大島の要所を占拠した。
 だが、6月13日の早朝4時ごろ、突然のゲリラ戦が始まる。高杉晋作が率いる長州海軍の丙寅(へいいん)丸(排水量94トン)が小型ながら、その機動力を生かして幕府軍艦4艘の間をネズミ花火のように走り回り大砲を打ちまくって、またたくまに立ち去ったのである。
 長州側は、そもそも大島にはあまり重点を置かずに、適度に抗戦して放棄する予定であった。ところが、大島住民の被害の惨状が藩内を憤慨させた。6月15日、第二奇兵隊・洪武隊六大隊が西浜から上陸し、反攻した。長州歩兵は、山々の峰に1500人程が散開し、高地から攻め下り有利に展開した。銃撃戦の最中に、幕府歩兵指図役並・松平友之丞が下腹部を射ち抜かれ即死し、その他指図役8人、歩兵10人も戦死する。
 そこにまた、「思いかけない」事態が起こる。今までおとなしく飯などを炊いていた農民が、突如、竹槍や鍬を持ち出して抵抗しだしたのである。なかには小高い場所から石を投げつけ、鬨(とき)の声をあげて長州軍を声援する者もいた、と言われる。
 現地住民をも味方に引き入れた長州勢は、幕府勢を島北部の久賀方面に追い詰める。そこに幕府軍艦からの援護射撃があって、幕府勢はかろうじて大島から撤収できた。
【芸州口の戦い】
 芸州口は、幕府軍の主力をなし、先鋒総督紀伊中納言(茂承〔もちつぐ〕)が広島に居て、芸州口・石州口の両方面を指揮した。
 芸州口はもともと、芸藩が先鋒を務めるはずであったが同藩がこれを辞退したので、彦根藩(井伊直憲)と高田藩(榊原正敬)が代って先鋒を務めた。
 幕府軍本営のある広島と攻略目標の岩国とは、直線距離で約32キロでしかない。瀬戸内海に臨む海岸線は、広島―廿日市―大野(対岸は厳島)―玖波(くば)―大竹―岩国へと西に延びていく。
 戦いは6月14日の朝、先鋒の井伊家の軍勢が現在の広島・山口県境の小瀬川を渡河しようとしている時、大竹北方の鍋倉山から臼砲(きゅうほう)の発射音が鳴り響き、井伊勢の近くで砲弾が破裂する。つづいて銃の一斉射撃が浴びせられる。井伊勢は、たちまち隊伍を乱して崩れ立った。長州勢は、この日の早くから遊撃隊・衝撃隊・地光(ちこう)隊・維新団がひそかに上流の地点で広島藩領に渡り、峰に登って待機していたのである。
 井伊勢は、「......どこかに踏みとどまろうにも、地理を知り尽した長州兵は山伝いに間近の峰々に先回りして銃撃を加えてくるので、退路を失った士卒は無我夢中で遁走する。なかには海上の船に殺到し、先を争って乗り込もうとしているうちに溺死(できし)する者も多かった。小銃で船を漕(こ)ぐ姿など憐れを催(もよお)すほどだ。井伊勢が逃げ去った後には、大量の装備が山のように遺棄(いき)されていた。」(野口武彦著『長州戦争』P.174)と言われる。
 井伊勢が一方的に崩れ去ったので、大竹に着陣していた榊原勢も敗走する井伊勢に引きつられて、一戦も交えることなく一緒に敗走した。
 芸州口の緒戦は、長州勢の軍監も予想しないほどの勝戦であった。長州勢の遊撃隊・衝撃隊は、長州藩正規兵制に編成された諸隊であり、地光隊は遊撃隊に附属する地雷火・火箭(かせん *火をつけた矢)の製造隊である。維新団は被差別部落出身者によって組織された部隊である。この戦いで維新団の働きは抜群であり、その黒づくめの服装と共に鮮やかな印象を残した。彼らの「身分解放」を願った士気が、とりわけ強かったためであろう。
 翌15日、長州勢は前日の勝利の勢いに乗じて、幕府軍の本拠地大野を目指し、軍勢を小方に進めた。しかし、この日の幕府軍の戦いぶりは、前日と全く異なった。一夜のうちに、前線部隊がすかっり入れ替わったのである。長州勢は有利な高所から銃撃するのだが、井伊・榊原軍と違って、簡単に退却するどころか頑強に反撃してくるのである。
 新たな幕府軍は、征長総督の紀州藩付家老(*幕府が任命する家老)水野忠幹(ただもと *支藩新宮藩3万5千石の藩主)が率いる一隊と、幕府歩兵隊の一大隊である。幕府歩兵隊が近代的な戦法と武器で装備され訓練された部隊であるが故に、長州軍に匹敵するのは理解できる。では、水野隊は何故なのか。実は、水野隊も和流の伝統的な装備で出陣してきた。だが、それでは到底(とうてい)太刀打ちできないことが判明したので、ひそかに用意してきたミニエー銃600挺と大砲2門で対抗したのである。
 芸州口の戦いは、大野と玖波の中ほどにある四十八阪(しじゅうはちざか)をめぐる激しい争奪戦となった。長州勢の方が高地を占めているので有利なのだが、幕府勢は損害を出しても踏ん張ったのである。
 6月19日の戦闘は20日未明まで続行したが、長州軍はどうしても四十八坂を抜くことができず、やむなく小方まで撤退した。玖波・小方の沖には、幕府の軍艦がいて砲撃してくるので、海岸通りは進めない。すなわち、新たな強力な敵軍と軍艦からの攻撃で、正面から大野を攻められないのであった。6月25日、長州軍はもう一度、大野攻略を計るがまたもや撃退される。芸州口はその後、7月中旬まで膠着(こうちゃく)状態が続くのであった。
【石州口の戦い】
 石州口での戦いは、南園隊・精鋭隊・須佐大隊などの諸隊が配置され、大村益次郎参謀が自ら指揮を執った。ここでは攻守が完全に所を変えていた。長州軍は、藩境を専守防衛するのではなく、積極的に攻勢に出て進出した。
 敵地である松平武聡(たけさと)の浜田藩6万1千石領との間には亀井茲監(これみ)の津和野藩4万3千余石領がある。だが、津和野藩は無抵抗で長州軍を通過させたので、6月17日、まず浜田藩境の石見(いわみ)益田(ますだ)を占領した。これで矢面にたった幕府側は、阿部正方(まさかた)の福山藩11万石の兵・1650人である。
 しかし、戦いは意外に手間取り、4時間ばかり交射するが埒(らち)が明かなかった。須佐大隊の兵が後ろの山に登って、そこから狙い撃ちするに至って、ようやく福山兵も崩れ去り、浜田に退いた。
 益田を失った幕府軍は、城下町浜田で敵を引受けなければならなかった。7月10日、幕府は後方支援として定められていた松江藩(松平定安)の応援出兵を命じ、陸路だけでなく、海路からも参戦せよ、と要求した。
 しかし、この頃、幕府内の一部には早くも休戦を考える動きが出始め、石州口の兵の士気に影響を与え始めた。各地の戦闘で敗れた軍勢が、それぞれ浜田に引揚げ、誰一人戦線の収拾を図る者もいなかった。福山勢は自国へ帰ってしまい、石見現地に残ったのは松江兵5~600人だけであった。鳥取藩の池田慶徳(よしのり)は石州口の指揮を命じられたが、要領よく辞退して責任を免れた。
 幕府軍の敗北は雪崩現象となり、諸大名はみな戦線を放棄した。浜田藩はいよいよ窮し、ついに浜田城を自焼する以外にはなくなった。藩主は出雲に逃れ、藩士は焼き捨て自刃する者が多かったといわれる。こうして、石州の幕府領は悉く長州兵に占領された。
【小倉口の戦い】
 幕府軍は豊前小倉を前線基地にして、肥後(細川慶順)、久留米(有馬慶頼)、柳川(立花鑑寛)などが集まり(肥前・筑前の兵は小倉には来ず、ただ国境を守った)、主戦派の老中小笠原長行(ながみち)が乗り込み督戦した。
 この戦線でも長州軍が終始、攻勢に出て、6月17日の緒戦で門司・田ノ浦の陣地を焼払って勝利した。軍艦がまず砲撃を加え、砲弾を打ち込み、つづいて奇兵隊などの陸戦隊が上陸し、敵に損害を与えてさっと引き揚げるという戦法である。この戦法を繰り返して、長州軍はじょじょに小倉城に迫っていった。
 7月27日、長州勢は軍艦4隻を先頭に大小の船舶数百艘を連ねて、一気に上陸作戦を敢行した。支援する長州艦と阻止しようとする幕府艦の砲弾が激しく行き交う中を長州歩兵は小倉方面に進出した。今回は、肥後兵も勇敢に迎え撃った。だが、幕府軍は応援も出さず、沖合の幕府艦も砲撃しなかった。石州口では7月18日、浜田城が自焼し、実質的に休戦状態となり、同月20日には将軍家茂が大坂城で亡くなった。それにはかん口令がしかれたが、やはり少しずつ洩れ出し、幕府軍全体に動揺が始まっていたのである。7月30日には、主戦派の小笠原道行までが小倉を離脱し、長崎へ逃亡してしまったのである。
【芸州口の最後の戦い】
 芸州口の幕府軍がにわかに攻勢に転じたのは、7月末であった。「先月(*6月)の敗退の後、井伊・榊原は広島に引っ込んでしまっていた。紀州公も部下の善戦がなんら報(むく)われないのに立腹して、総督辞任を申し出ていた。/幕府上層部には内訌(ないこう *うちわもめ)があり、和平派の老中で総督補佐だった丹後宮津藩主の本庄伯耆守宗秀が、独断で講和交渉を始め、人質の長州藩士を釈放してしまったのである。怒った総督は辞表を出して諸兵を広島に引き揚げた。ところが、突然それを撤回して幕府は攻勢に転じ、山路・海道の両口から精兵を繰り出して勝負を掛け、長州軍もこれに応じた作戦を進めていたが、ついに8月7日、大野付近で最後の攻防戦が展開されたのである。/背景には、政局がらみの思わくがあった。七月二十日に将軍家茂が大坂城で病死し、次期将軍の大任を担わされた徳川慶喜は、ともかく長州に一勝して自分の声望を高めておこうと考えていたのである。一度叩(たた)いてから講和に持ち込む肚(はら)であった。」(野口武彦著『幕府歩兵隊』中公新書 2002年 P.134)のである。
 8月2日、幕府勢は、西丸下歩兵隊が海岸通りを、三番町歩兵隊・水野大炊頭隊(紀州勢)が山間の道を玖波に進撃し激戦を展開した。しかし、ついには敵の防御線を破れなかった。8月7日、大きな台風が山陽から近畿地方を襲いかかった。これに紛れて大野をめがけて長州勢は、猛烈に攻めたてた。しかし、幕府兵も激しい風雨の中をよく守った。
 だが、この攻撃と同時に、長州勢は、大野と廿日市を結ぶ本街道を扼(やく)する地点である宮内村(現・廿日市市)を攻撃し包囲し、ついには突入して占領した。このため、幕府軍は策源地の広島と前線との間の陸路を切断され、頑強に死守した大野村の幕府軍は孤立化し、もはや撤退するしかなくなった。
 この様子を『修訂 防長回天史』八は、「我軍(わがぐん)大野口の攻撃は両道(*四十八阪口と松原口)共に利なしと雖(いえ)ども、明石口(*宮内の北方)の戦ひ大勝を得るを以て大野の敵は其(その)終に守るべからざるを計(はか)り、九日(*8月9日)朝、兵を出して松原を衝(つ)かんとする虚勢を作し暫(しばら)く我と兵を交(まじ)へ自ら其(その)営を焼き海陸の諸兵尽(ことごと)く退く、是(ここ)に於いて我軍松原峠の斥候(せっこう)営を焼き玖波小方に帰る」(同著 P.613~614)と記した。これにより、芸州口方面の戦闘は終了した。
 第二次幕長戦争を総合的に総括すると、長州側が戦闘要員が敵よりも少ないにも関わらず、先進的な武器と新たな「散兵戦術」を駆使して有利に戦ったといえる。互いに決定的に勝利したとはいえないが、しかし、長州側は敵を防禦線以内に踏み込ませないどころか、豊前・石見を占領地とするなどの点で優勢であり、「勝利的」な休戦に持ち込んだといえるのである。
 1867(慶応2)年7月、広島に居た副将老中・本荘宗秀は、大坂にいる老中に宛てて、戦況を次のように書き送っている。

長防御討入(おうちいり)については、諸大名へ人数差し出し候より仰せつけられ候ところ、いずれも言を左右に寄せ、人数を差し出さず、たまたま差し出し候向きも少人数、すこし多き分は農民共が過半にて、御供(おとも)御軍勢の向きは、米・金に不自由し、拝借等相願(あいねが)い、兵勢甚(はなは)だもって振わず。銃砲等も官軍(幕府側の軍隊)はゲベル(*ゲベール銃)甚だ少なく、火縄付きの和筒(わづつ)のみ。長(*長州藩)は、農人に至るまでゲベル銃を相用い、必取の英気鋭く、なおまた薩人も長へ心を寄せ、英夷(イギリス)も長へ応援致し候様子。この分にては、とても速やかに御成功はおぼつかなく......  (小西四郎著『日本の歴史』19 開国と攘夷 P.414からの重引)
       
 用兵と武器を中心とした戦力の様相は、大きく幕府側が立ち遅れていた(幕府直轄の銃隊などを除き)。また、薩摩藩をはじめとして西国の雄藩のいくつかが出兵しない、あるいは渋ることは事前にわかっていたが、これに対する手当もなく戦争に突入した。これらが勝敗を大きく左右したのである。
 加賀藩士の高嶺清八・岡田助三郎が、小倉口の状況を探索して、本藩へ次のように報告している。

長州勢は、押し出し候節は銃隊は駈足並(かけあしなみ)にて押し来り、発砲の矢頃(やごろ)に至り候えば、太鼓打ち止め、直(すぐ)に散兵(さんぺい)と相成り、銘々(めいめい)物陰(ものかげ)を撰(えら)びて手早く身を隠し、顔ばかり出し砲発(ほうはつ)致し、匍(ふせ)て進み寄り候由(中略)、小銃は皆(みな)尖丸(*尖頭弾)にて、柵杖(さくじょう *弾丸を前口から装填する際に使う棒)を遣(つか)い候ことなく、巣口より玉を入れ〔*元込めのこと〕、その台尻を地に突着しては撃ち出し候故、至極(しごく)玉込め早く御座候、散兵の働き手早(てばや)なること各(おのおの)感心仕(つかまつ)り居り申し候、大砲は尖弾・丸弾入り交(まじ)りこれ有り候由、旗は小隊に至って短き小旗壱本(一本)まで、槍は一本も御座無く、服は黒あるいは紺色の筒袖(つつそで *袂〔たもと〕がなく、筒のような形をした袖)にて、羽織も多分は着用仕(つかまつ)らず、笠は韮山笠(にらやまがさ *編み笠に似て小型・扁平であり、「こより」で作り、黒漆を塗った笠)を着用仕り居り候えども、戦さの節は雨中にても着用致さざる由(金沢市立図書館所蔵「慶応二年小倉行日記」)   
    (戦争の日本史18 保谷徹著『戊辰戦争』P.1~2 より重引)

 大村益次郎の散兵戦術が、徹底して駆使されたのは石州口での戦いであった。大村は第二次幕長戦争の戦いについて、基本的には防禦を基本とした作戦をたてていたが、大村自身参謀を勤めた石州口では積極的に攻撃を行ない、散兵戦術を行使している。
 福山藩の史料は、ここでの戦いの様子を次のように述べている。

すでにして長州兵は多田村の関門を撃破し、進んで益田市街(*現・島根県益田市)に入り、散兵をしき、三々五々あるいは屋宇(おくう *建物)・牆壁(しょうへき *土塀)の間に潜み、あるいは樹陰より発砲し、かつその銃はみなミニエー(銃)なるをもって、その威力はわがゲベール(銃)よりはるかに強烈なり。......(中略)......後刻より双方発砲および戦争、敵は散兵をもって麻畑等繁(しげ)みの内より多人数入れ替え新手(あらて)をもって発砲す          (大村紀八郎著『大村益次郎伝』P.202 より重引)

 散兵戦術に関しては、次の福山藩士の書簡の方がより詳しく書かれている。

長人(*長州兵)千人ほど出(で)候噂(うわさ)に候えども、ようやく一バタイロン(大隊)のうちを半分に分け一行(縦隊)に押し出し、それより合図にて散兵に分れ候ても、二人ぐらいずつの打ち方、草木の陰あるいは百姓家の家根(屋根)の上などより打ち出し、身体顕(あらわ)し申さず、一場所より二発は打ち申さずよし。煙を目当てに打たれ候ことを厭(いと)い、一発打ち候と場所をかえ、ことに立ち込み(立ち撃ち)いたさず皆(みな)寝込み(寝撃ち)のよし。また元込めの筒を多く用い候様子のよし。山を登りまた駈け下り、あるいは屋根の上より打ち、すぐに飛びさがり候よし。猿のごとしと申しおり候。また追々詰め寄るに従い、散兵広く散り候ゆえ多人数のように思い候よし。しかるところ御家(*福山藩)の人数はかかり初めは十分に散じ候ても、詰め寄るに従い、追々すぼみ集り候ゆえ、なお〔敵の弾に〕当たり候よし。いまさら後悔(こうかい)間に合い申さず、畳の上の今津流(兵法)ばかばかしきこと諸人申しおり候  (同前 P.202~203)
                   
 第二次幕長戦争の結果は、先進的な武器とそれに伴う用兵作戦の導入度合の差によって、基本的には決まったといえる。しかし、もう一つ忘れてはいけないことは、藩内士民の存亡をかけた意気ごみの点で、幕府側と比較した場合、その必死さが格段に異なることである。この意味で、藩ナショナリズムの鼓吹は、決して軽視できない役割をはたしたのである。

 (3)長州再征に反対する薩摩藩と休戦に持ち込む慶喜
 第二次幕長戦争が開始(1866年6月7日)されると、薩摩藩は薩長盟約に従い、「禁闕守衛」を名分に兵を送り続ける。「忠義公年譜」の諸条には、その様子が次のように記されている。

*7月10日―是ヨリ先、幕長開戦ニツキ禁闕守衛兵六隊増遣ノ議ヲ決シ、是日(このひ)先ツ(まヅ)三隊(番兵二隊、外城兵一隊)ヲ豊端・万年ノ二汽船ニテ東上セシム(十六日着坂、十九日一隊二十日二隊)着京、
*7月17日―禁闕守衛兵一隊(串木野、市来)、物主有馬雄之助ヲ東上セシム、
*7月22日―禁闕守衛兵一隊(伊集院、郡山)、物主大野五左衛門ヲ東上セシム、
*7月26日―禁闕守衛兵一隊(国分)、物主井上助右衛門ヲ東上セシム、
*7月30日―禁闕守衛兵一隊(伊作、阿多、田布施)、物主鈴木荘七ヲ東上セシム、
*8月4日―禁闕守衛兵一隊(加世田)、物主前田新次郎東上ス、
        (『鹿児島県史料 忠義公史料』第七巻 P.707~708)

 以上合わせると、計8隊を鹿児島から京都へ出発させている。その総計は1100人余といわれる。
 幕長戦争の最中の7月20日、島津久光・茂久父子は連署建白書(7月9日付け)を二条関白に提出した。これは、6月7日に大久保一蔵が家老・小松帯刀に宛てた建白書草案を久光自らが添削したものである。
 そこでは、次のようなことが述べられている。すなわち、「幕府の諸藩に対する統制力は地に墜ち、『天下の人心』は幕府を見離しているのが現状である。最近、百姓一揆をはじめとする民衆騒擾が各地で頻発しているが、とくに将軍在陣中の大坂での打ちこわしは『卑商賤民』の『苦情』から起こったものであり、忍び難い情勢である。......こうした時に外国からの攻撃を受けたならば防禦する術はない。今なすべきことは、長州再征を速やかに中止し、朝廷から寛大の処分(長州藩雪冤)を発表することである。そのうえで『天下の公議』をもって政体を変革し、武備の充実につとめるべきである。」(『鹿児島県史料 玉里島津家史料』四 P.682~684)と。
 建白書の結論は、長州再征の中止、天下の公議をもって政体を変革することである。だが、その背景には人民の動向も述べられ、支配者の「懸念」にも気を使っている。それはもとより、薩摩藩の要求を正当化するための一助ではあるが、彼らの人民の闘いと要求に対する認識の程度が把握できる。以下、その部分を引用してみる。

既に一昨年来大乱の機(き)相顕(あいあらわ)れ?(しばしば)干戈(かんか *武器)を動し、幾多(いくた)の蒼生(そうせい *人民)を殺し候上(そうろううえ)、眼前(がんぜん)若州・信州辺の天災、及ひ丹波・大和の一揆、兵庫・大坂・江戸の騒動伝承仕(つかまつ)り候、即今(そっこん)兵庫・大坂の義、将軍家御在陣中、号令粛整(しゅくせい *謹んでキチンと行儀正しいこと)、軍威四方ニ輝くべきの処(ところ)、却て足本(あしもと)ニ卑商・賤民の如き厳威を憚らず、大法を犯し候義、所謂(いはゆる)命に堪えざる苦情ニ出(いで)候事ニて、忍ぶべからざるの次第ニ御座候、最早(もはや)鎮定の形ニは候得共(そうらへども)、米価ハ勿論(もちろん)諸色(しょしき *もろもろの物価)未曾有(みぞう)の騰貴(とうき)ニて、既ニ当年炎旱(えんかん *日照り)水溢(すいいつ *洪水)の憂(うれい)も図られず、此上(このうえ)兵端(へいたん *戦いのおこるきっかけ)を開き候ては、争乱の日(ひ)長(ちょう)シ、率土分崩(そつどぶんほう *国の果てまで分れ崩れること)救ふべからざるの勢(いきおひ)ニ及ひ候は案中(あんちゅう *想定できる範囲内)ニて、其時(そのとき)ニ当り、外患を受(うけ)候節は、何を以て防禦仕(つかまつ)るべき哉(や)、是(これ)卑臣等(とう)年来痛心慨歎(がいたん)する所ニ御座候、

 この上書は、最早一昨年から大乱の様相を呈していると規定する。最近では、第二次征長に赴かんとする将軍の威厳を、兵庫・大坂の一揆・打ちこわしが打ち崩しているというのである。まさに、弾圧され逮捕された民が、一揆・打ちこわしの首謀者は誰かと尋問され、それは"城中にいる(*将軍を指す)"とうそぶくのであった。
 実際、1865(慶応2)年の農民一揆・打ちこわしは江戸期最大の規模に拡大し、第二次征長がいかに人民の生活破綻を招いたかを物語っている(詳しくは、拙稿『明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期』―『プロレタリア』紙589号〔2018年11月1日号〕を参照)。
 また、戦いの最中の7月、長州藩は、「謹テ諸藩明侯閣下ニ白(もう)ス」として、このままでは「自然天下分裂の勢ヲ開キ、外夷の術中ニ陥(おちいり)候様相成るべき哉(や)ト、是(これ)ノミ遺憾ニ存じ奉り候」と案じ、就いては、「上(うえ)天朝を奉戴(ほうたい)シ、下(幕府)ヲ扶(たす)ケ、早ク奸邪ヲ誅鋤(ちゅうじょ *スキ除いて根絶やすこと)シ、......名義相立て、人心一致」となるようにとのという嘆願書(『鹿児島県史料 忠義公史料』四 P.201~202)を薩摩藩に提出する。
 これをうけ薩摩藩京都留守居の内田正風は、22日、加賀藩など32藩にこれを回達した。長州藩の歎願書には、薩摩藩松平修理大夫内 内田仲之助の名で、次のような添え書きなされていた。すなわち、「右書面ニ付(つき)、? 廻状 ?別紙長防ヨリ弊藩へ依頼の趣(おもむき)これ有り、至情(しじょう *ま心)余儀無く、併(しか)しながら今日の形行(なりゆき)ニテハ、取伝(とりつたえ)候儀モ不都合の姿ニ御座候得共、御互(おたがい)ニ武門の通情傍観ニ堪え兼(かね)、無拠(よんどころなく)別紙相添(あいそ)え及び御通達候間、御推量御承知(ごしょうち)下さるべく候、以上、」(同前 P.202)と。
 ところが、「二十五日、肥前・肥後・筑前・久留米・柳川・土佐・米沢・出雲・松山・忍の十藩がこれを拒否した」(芳即正著「薩摩藩と薩長盟約の実行」―明治維新史学会編『明治維新の新視角』高城書房 2001年に所収 P.94)といわれる。   
 久光父子が連署して提出した建白書は、7月末から8月初めにかけて朝廷内で検討・議論された。(以下、議論の推移は、刑部芳則著『公家たちの幕末維新』中公新書 P.190~192 による)
 7月29日の朝議では、議奏・正親町三条実愛が奮闘した。正親町三条は、薩摩藩の建白書を積極的に支持し、是非採用すべきであると主張した。だが、内大臣近衛忠房は、もともと薩摩藩とは深い関係にあるのにもかかわらず、正親町三条の意見を支持しなかった。それは、二条関白が、"あまり薩摩藩に肩入れしすぎると、朝幕間の協調が保てない"と苦言していたからである。
 また、この日の朝議では、山階宮晃親王が"将軍家茂の死を理由に長州解兵をしてはどうか"と提案した。この案には、正親町三条や議奏柳原光愛も同意した。しかし、議奏広橋胤保が、解兵は認められないと反対した。これには、武家伝奏野宮定功が同調した。これに対し、正親町三条が反論すると、両者は再び無口となった。だが、広橋は、"この問題は幕府に委任していることもあり、一会桑と相談したほうがよいのではないか"と言うと、多くの公家たちが賛同したと言われる。しかし、議論は8月2日に持ち越された。 
 8月2日の朝議には、孝明天皇から朝彦親王(中川宮)に対し、"兵事については不案内のため、幕府に一任したほうがよいのではないか"との御沙汰が示されたと言われる。この日の朝議には、正親町三条は、欠席している。
 8月4日の朝議では、諸藩からの長州征伐解兵を求める意見と、慶喜の出陣について議論された。慶喜は正親町三条に対し、"長州藩は芸州(安芸)・雲州(出雲)・石州(石見)と周辺諸藩にまで兵力を拡大しており、このまま放置すれば朝廷と幕府の権威が立たなくなる。自らが現地に赴いて指揮を執らなければならない。毛利父子の首を取るか、自分の首を差し出すか―どちらかだ。解兵などという処置は認められない"と、強硬に主張した。孝明天皇もまた、長州征伐解兵には反対の態度を示していた。この日の朝議には、近衛・九条道孝・柳原・広橋は、欠席している。
 天皇の意志もあって、一橋の意見を抑えることは、困難であった。だが、山階宮と正親町三条は諦めきれず、近衛に相談するが、しかし近衛は断わった。なおも正親町三条は、二条関白を訪問し説得するが、なんら変わらなかった。
 結局、久光父子の建白書は採用されなかった。孝明天皇は慶喜の主張に積極的に同意し、再征続行が決定されたからである。天皇は、「長州征伐の儀、諸臣色々可否を議し、或(あるい)は解兵の論もあれど、朕は解兵すべからずとの決心なれば、速(すみやか)に進発して〔*慶喜が将軍の名代で出陣〕功を奏すべし」(『徳川慶喜公伝』3 P.270)と勅したのであった。
 慶喜が将軍の名代で出陣すべきという主張は、すでに7月の初めから一部で唱えられていた。これは、朝廷では賀陽宮(中川宮朝彦親王)、諸藩では肥後・土佐・久留米・肥前の藩士が唱えはじめた後、幕府内部でも同調者が出たものである。しかし、将軍家茂が7月20日に死去するとともに、立ち消えとなっていた。(将軍家茂の死因は、脚気〔かっけ〕による心不全とみられている)
 ところが、将軍死去にもかかわらず、後継者と大方が予想した慶喜は、7月27日、徳川宗家は相続したが、将軍職への就任は辞退した。それは、大奥や尾張藩(徳川茂栄)など反対派への遠慮の体裁をとったためである。しかし、慶喜の本音は、宗家相続に現われている。
 7月28日、慶喜は将軍家茂の名をもって、「臣(*家茂)が病患危(あやう)きに至らば、家族慶喜をして相続せしめ、且(かつ)征長の軍務は急を要するを以て、慶喜を名代として出陣せしめん」(同前 P.264)と上奏する。これは、翌29日に勅許された(しかし、家茂の遺言は、田安亀之助を後継者に指名していたのであって、これは偽作である可能性が極めて高い)。
 その日、ただちに徳川家相続・防長追討の「台命」(将軍の命令。家茂の死は未だ公表されていない)が慶喜に下る。だが、慶喜は"徳川家相続ならびに名代出陣の事は御請けするが、重き御職任の儀はその任に堪えず"と言って、政事向きの任務は断わり、7月晦日、「禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮」を辞任した。
 これに対し、孝明天皇は8月7日、「禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮」の辞任を許す。しかし、「明くれば八日勅して、『将軍職御断(おことわり)の次第は、許され難き筋なれども之(これ)を聞召(きこしめ)さる』との御沙汰あり(一橋家日記。国事伝達書)。徳川家相続の事(こと)愈(いよいよ)決定したれば、〔8月〕十九日将軍家危篤の旨(むね)を奏上せるに、公(*慶喜を指す)に対し、『前将軍同様厚く御依頼遊ばさるべければ、政務筋是(これ)までの通り取扱ふべし」と仰出(おおせいだ)さる」(同前 P.264~265)事態となる。
 将軍でもないのに、政務筋もこれまで通り「委任」するというのは、前代未聞のことである。孝明天皇は、1864(元治元)年3月に参預会議が解体し、その直後、慶喜を「禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮」に任命して以来、とりわけ慶喜を信頼し贔屓(ひいき)にしていたのであった。このことが、将軍でもない慶喜に、「大政委任」とする異常な事態となったのである。 
 ところで慶喜は、他方で、名代出陣の準備を進める。多くの大名が長州再征に反対あるいは消極的な中で、兵力の主力は旗本・御家人にならざるを得ない。しかし、その軍事力は旧式なものであり、勢い慶喜が頼るのは洋式の幕府歩兵となるのであった。「斯(か)くて公(*慶喜)は紀伊中納言(*徳川茂承)をして、諸藩の兵を督して石州口より進撃せしめ、自らは御名代として芸州口の大手より進むの方略にて(再夢紀事)、手兵を三日に分ちて出発せしめんとす(国事記)、其(その)兵は、一橋家附属の兵凡(およそ)千三百六十七人(朝比奈閑水手記)、幕府の兵を合せて十三大隊、兵員凡五、六千人に及ぶ(......)、是(こ)れ公(*慶喜)の統率せらるべき本軍の主力なり。此時(このとき)松平肥後守(*容保)は幕軍の連敗を聞きて悲憤やる方なく、職を所司代松平越中守(*弟の定敬)に譲り、自ら在京の藩兵を率ゐて石州口より進み、芸州口に於ける公(*慶喜)の本軍と合して、一挙(いっきょ)長軍を討たんとし、数回懇願したれども、公(*慶喜)は、『肥後守若(も)し闕下(*御所)を離れば、廷議の変動を奈何(いか)にすべき』とて許し給(たま)はず(七年史。会津松平家譜)。」(『徳川慶喜公伝』3 P.269)と言われる。
 慶喜は、8月8日には、出陣の暇乞(いとまご)いのために、参内までしている。慶喜の出陣の狙いは、あくまでも有利な休戦に持ち込むことであった。
 しかし、小倉城が陥落(8月1日に自焼)し、11日には小倉口の幕府軍が勝手に解散してしまった報が伝わると、慶喜の態度は一変する。出陣を中止するというのである。これには松平容保が強力に反対する。だが、慶喜はあえてこれを振り切って、ついに出陣を止める。そして、慶喜は8月13日、二条関白に解兵の勅許を内願する。これには、さすがの孝明天皇も不満をもち、すぐには認めなかった。
 8月16日、慶喜は、休戦と諸藩主招集(今後の方針を議論し決める)を朝廷に願い出て、同日、朝議は解兵を決める。しかし、朝議では慶喜に対する不満の声が続出する。あまりにも変わり身が、速すぎるのである。
 8月20日になって、ようやく家茂の発喪(親族は一定期間家などにこもって慎み過ごすことになる)と慶喜の徳川宗家相続が布告される。8月21日には、慶喜は休戦の勅命もかち取る。
 これにより、慶喜は芸州口に勝安房守(海舟)を派遣し交渉に当たらせ、9月2日、厳島で正使・広沢兵助(真臣)、付添い太田市之進・井上聞多・長松文輔と会見させ、長州藩との休戦協定が締結された。交渉では、「安房守曰(いは)く、『吾公(*慶喜のこと)深く時勢に鑑(かんが)みる所あり、諸大名を京都に会し、公議輿論(よろん)に従うて大政を更新し、長州の処分も至当の措置に出(い)でんとす、卿等(きょうら)宜(よろ)しく其意(そのい)を領し、兵を収めて後命を待つべし、若(も)し之(これ)を肯(がえん)ぜずとも、幕兵の引揚(ひきあ)げを尾撃すること勿(なか)れ』と、兵助答へて曰く、『弊藩は唯(ただ)自衛の為(ため)に兵を動かしたるのみ、毫も(ごうモ *いささかも)侵掠(しんりゃく *侵略)の意なし、况(いわん)や幕府の大故(たいこ *非常に悪いこと。将軍家茂の死を指す)を幸として兵を弄(ろう)するが如きは、決して欲する所に在らず、若し幕府にして兵を収め大政を更新せんとならば、其(その)実績の彰然明著(しょうぜんめいちょ *明らかに著しいこと)ならんことを希(ねが)ふのみ』と」(『徳川慶喜公伝』3 P.275)問答がなされたと言われる。
 いかに長州藩が近代的な軍備を備えたといっても、大坂さらには江戸まで追って攻め続けることは、一藩のみでは不可能である。とてもそれだけの継戦能力はないからである。
 戦争は、実質的には幕府側の敗北であったが、慶喜はこれを勅命でもって休戦にもちこんだのである。幕府側の撤兵は、9月4日から開始された。

 (4)岩倉具視の新国家構想と廷臣22人の列参運動
 第二次幕長戦争を前後して、朝廷内では激しい権力闘争が展開されている。「朝廷改革」を唱えて、二条関白や賀陽宮(中川宮、尹宮)朝彦親王などを朝廷中枢から引きずり落そうというものである。これには、処分中の岩倉具視の画策も要因となっていた。
 岩倉具視は、「和宮降嫁」を推進したとして、久我建通、千種有文、富小路敬直らとともに尊攘激派に糾弾され辞官・落飾したが、さらに朝廷からも処分され(詳しくは、《補論 孝明天皇時代の主な廷臣処分事件》を参照)、1862(文久2)年9月から洛北に隠棲する。
 蟄居中の岩倉は、王政復古をなしとげようと、天皇を中心とする新たな国家構想を練り上げ、天皇への建白(密奏)を行ない、かつまた薩摩藩との連携を求めた。
 岩倉の「全国合同策」は、1865(慶応元)年の秋ごろに書かれた(《補論 岩倉具視の初期の政治的態度》を参照)。しかし、条約勅許問題を棚上げにして、とにかく天皇の下に幕府側勢力も反幕勢力も結集し、力を合せて、国難に対処すべきという構想であった。しかし、この構想は、ほかならぬ孝明天皇自身が、一橋慶喜の強い要請によって条約勅許を行なった(1865年10月5日。ただし兵庫開港は不可)ために頓挫する。
 また、同年12月、「和宮降嫁」に関連し処分された公卿たちの赦免が問題となった際に、とくに岩倉は賀陽宮朝彦親王から薩摩藩士と連絡をとっていると警戒され、赦免に反対された。こうして、岩倉は政治活動をしばらく自粛するようになった。
 それが再び活発な活動をするようになったのは、1867(慶応2)年の5月頃からである。このとき、岩倉は「全国合同密奏書」を書いて、天皇への意見書としている。
 そこでは、まず「国内相争ヒ上下不和ヲ生シ候ハ実ニ当路ノ重職(*朝廷中枢)啓沃(けいよく *君側にいて心を開いて教え導くこと)匡輔(きょうほ *ただしたすけること)の力ニ乏(とぼし)ク陛下聖明ノ徳ヲ裨補(ひほ *たすけおぎなうこと)奉(たてまつ)ルニ不足ノ罪ニ之(これ)有るべくト窃(ひそか)ニ恐懼(きょうく)憂慮(ゆうりょ)罷り在り候」(『岩倉具視関係文書』一 P.235)と、朝廷の最高首脳部を批判する。
 当時、この任に当たっていたのは、関白・左大臣二条斉敬、内大臣近衛忠房、賀陽宮(かやのみや)朝彦親王1)、山階宮晃(あきら)親王2)である(右大臣徳大寺公純は政治的発言が余りみられない)。この4人の関係では、関白と賀陽宮が幕府と協調する傾向であり、近衛忠房と晃親王が反幕寄りの傾向を示した。
 岩倉は、この4人に対して批判的なのである。朝廷改革を急ぐ岩倉は、首脳部に改革の力がないとすると、朝廷改革は今度はいきおい天皇に集中せざるを得ない。その前提として、

今(いま)国内和同攘夷一定の策ヲ図ラント欲セハ......恐れながら陛下(へいか)寛然(かんぜん *心が大きいさま)江海の御大量ヲ以て〔*天皇が海のように大きく広い度量を示して〕御自(おんみずか)ラ罪ヲ引かされ候(そうろう)思召(おぼしめ)しニテ、一七ノ間(?)モ加茂八幡エ行幸在らせられ御自ラ幣帛(へいはく *神前の供物)ヲ捧げられ御祭奠(おさいてん *まつり)在らせられ、聖衷(せいちゅう *天皇の心中)至誠(しせい *この上ない真心)懇惻(こんそく *ねんごろにいたわること)ヲ以て〔*天皇の真心よりのいたわりの気持ちを以て〕廟前に於て詔書ヲ下され天下臣民ニ御誓(おちかひ)ヲ立てさる〔は〕今なり。醜虜猖獗(しょうけつ *悪いことがはびこること)国威縮屈(しゅっくつ *縮まりかがみこむこと)内難(ないなん *国内の難事)交ぜ起こり生霊(せいれい *民)困苦ニ至リ候ハ実ニ朕ノ不徳(ふとく)政令(せいれい)其(その)当(とう)ヲ失ヒ統御(とうぎょ *統治)其宜(そのよろしき)ニ違(たが)ヒ候ヨリ致ス所ニシテ、上ハ祖宗ノ聖烈(せいれつ *功業)ヲ発揚スルニ足らず下ハ蒼生(そうせい *人民)ノ性命(生命)ヲ保覆(ほふく *保護)スルニ足らず日夜恐懼(きょうく)憂慙(ゆうざん *心配しはじいること)自ラ止(や)ム事(こと)能(あたは)ず、自今一新海内(かいだい *国内)を更張(こうちょう *気をしめ直して改革すること)し臣庶ト戮力(りくりょく)同心(*心を合せ)誓て、醜虜ヲ圧服シ皇威ヲ八紘(はっこう *地の果て)ニ輝シ蒼生(そうせい *人民)を安撫(あんぶ *懐〔なつ〕けること)シ浦安(うらやす *心のやすらかな)瑞穂(みづほ)の国〔*日本の美称〕タル所以(ゆえん)ヲ失(うしなは)ざらシメン。
              (『岩倉具視関係文書』一 P.235~236)
 
 今日の困難を招いた責任として、前作の「全国合同策」以上に、天皇の「不徳」や「罪」を強調し、これからは一新して臣庶と協力して皇威を世界に輝かす―と神に誓うようにすべきとした。その上で、薩摩、長州、一橋、会津、桑名、越前、土佐、伊達(仙台)、因州、備前、米沢、阿波(徳島)の12侯を速やかに召集し、その他の諸侯にも上京を命じ、廟堂において「軍国の要務」を議論させ、「御国是一定に相成る」ように勅命を発するべきだとする。そして、次のように万機において親裁する体制を採るようにすべきと建言した。

且(かつ)上古列聖の世(よ)四方王化ヲ梗(こう)スル〔*阻害する〕者(もの)之(これ)有り候ヘハ御自ラ兵馬の間ニ立たされ御征伐モ在らせられ候。若(も)し故(ゆえ)アレハ皇子(みこ)皇后(こうごう)天皇ニ代ラシメラレ候。此(この)祖宗の深旨ニ在らせられ候所、中古以来(いらい)今日ニ至(いたる)マテ兵馬の権(*軍隊を編成・統帥する権能)ヲ臣下ニ委(ゆだね)られ身(み *おのれ)征伐の労ニ当らざるハ祖宗の深旨ニ相戻(あいもと)リ〔*もとる、背く〕候所ニシテ朕(ちん *天皇の自称)甚(はなは)だ此(これ)ヲ恐レ此ヲ憂フ。自今征夷の職ヲ罷(や)メ将府(*幕府)執政の制ヲ改メ朕(ちん)親(みずか)ラ万機ヲ統(す)ヘ、日夜励精(れいせい *精神をふるいたたすこと)文(ぶん *法律)を修メ武ヲ奮(ふる)ひ膺懲(ようちょう *討ちこらすこと)の典ヲ正シ海内生霊ヲ安(やすん)セン。 (同前 P.236~237)

 中古以来、兵馬の権を臣下に委ねてきたことは、祖宗の深旨(奥底の意味)に背(そむ)くものであり、これからは征夷将軍の制度を廃止する。幕府が全国の政治を行なうことを改め、天皇が万機(ばんき *政治上の多くの大事な事柄)を親裁する体制とする。天皇専制政治の勧めである。
 そして、全国66国の2800万石(慶長年間。その後、開墾で50~60万石増。)のうち、2000万石が諸侯に分封され、800万石が幕府の直轄地(そのごくごく一部が天皇家に支給された)となったとして、これを改め「徳川宗家ヲ関東の地百万石ニ封シ列侯の上班(じょうはん *上級の席次)ニ置キ、徳川三家ハ十万石歟(か)二十万石の地ニ封シ、残ル六百数十万石ヲ以て軍国の経費ト親王・公卿の邑(おほざと *直隷地)トニ充(あ)て、法親王ハ蓄髪(ちくはつ)還俗(げんぞく *僧籍を離れて俗人に戻ること)セシメ各食邑ヲ與(あた)ヘント......」(同前 P.237)すべきとした。
 岩倉は、先に天皇親裁の体制によって国家一元化の構想を推し進めながら、他方、ここでは相変らず封建制を述べるなどの矛盾をおかしている。自覚なき矛盾といえる。
 しかし、岩倉の新たな国家構想は、前年秋の「全国合同策」よりも更に急進化している。一般的に天皇親裁を主張するだけでなく、「兵馬の権」を握った天皇による親裁制度である。専制国家体制が、また一歩進展したのである。
 政局は、1865(慶応2)年6月7日から第二次幕長戦争に突入し、その解決に集中するようになる。戦争自身は、先述したように長州藩の有利・幕府軍の苦戦として推移した。こうした中で、7月18日、芸州藩主浅野長訓(ながみち)、備前(岡山)藩主池田茂政(もちまさ)、阿波(徳島)藩主蜂須賀斉裕(なりひろ)が連名で、朝廷に征長軍の解兵を建白する。同月20日には、薩摩藩主島津茂久(忠義)とその父・島津久光の連名による建白書も朝廷に提出された。
 薩摩藩の建白書は、先述したように長州藩の罪を許す寛大な詔を下して戦争を終結させ、同時に公議を尽して「政体変革」を断行して皇威の回復をとげられるように要望している。
 薩摩藩のこの建白書について、「......朝議が行われたが、晃親王と近衛忠房内大臣、議奏正親町三条実愛(さねなる)3)が採用することを主張し、朝彦親王と関白二条斉敬が強く反対して、結局採用が拒絶された。また天皇も征長軍の解兵に反対で、戦争続行論者であった。」(佐々木克著『岩倉具視』P.94)のである。
 だが、この7月20日には、将軍家茂が大坂城で死去し、第二次幕長戦争の行く末に影を落とす。将軍の死はしばらく秘密にされたが、いつまでも隠しておくわけにはいかなかった(正式な公表は、8月20日)。
 幕府は、7月27日、慶喜の宗家相続と、慶喜の出陣を許可するように奏請した。これらは、翌28日に勅許された。ついで、8月4日には、天皇出席の御前会議に慶喜が出て、直接、出陣について奏上し、天皇は"速やかに進発せよ"と、これを許可する勅語が下された。
 しかし、戦局は幕府にとってさらに悪化する。小倉口の方面総督・小笠原道行が将軍家茂の死を知って、7月30日~8月1日にかけて戦線を逃亡し、長崎に逃げ去ったのである。幕府に完全に見捨てられた小倉藩は城を自焼して、長州の占領軍にゲリラ戦で果敢に抵抗するが、大勢をくつがえすことはできなかった。
 戦争の続行を断念した慶喜は、8月13日、今度は一転して休戦・解兵を朝廷に内願した。わずか10日もたたない中での慶喜の変わり身の速さに、各方面からは批判が浴びせられた。しかし、朝議としては、慶喜の奏請を受け入れるしか道はなかった。天皇も朝廷も、慶喜に完全にもて遊ばれたのであった。
 この間、慶喜の方針に反対する公卿の勢力は、正親町三条実愛・山階宮・柳原光愛などであり、賛成するのは賀陽宮(中川宮)・広橋胤保・野宮定功などである。二条関白と近衛忠房は、朝幕間の対立を恐れ、孝明天皇に迎合する態度をとった。 
 この中で、正親町三条の態度を支持し、陰から同調者を募る工作を進めていたのは、岩倉具視である。洛北の岩倉村に幽居中であった岩倉は、朝議に参加する資格は無く、もっばら密奏したり、仲間を増やす工作を行なってきた。
 「天下一心策密奏書」は、1866(慶応2)年8月に書かれた(将軍の死亡が公表された20日以前)と思われる。
 そこでは、長州再征が薩摩、尾張、安芸、肥後、阿波、備前など諸藩によって反対されており、「天下ノ公論已(すで)ニ定マル所」と断定する。それにもかかわらず、この「天下ノ公論」を「朝議遂(つい)ニ御採用在ラセラレス誠ニ遺憾(いかん)ノ至(いたり)ニ堪エス候」と、岩倉は朝議を批判する。そして、以下のように名指しをもって糾弾する。

方今(ほうこん)天下ノ衆評(*長州再征に反対する「天下ノ公論」のこと)姦佞(かんねい *心がねじけて人にへつらうこと)ト唱へ之(これ)ヲ擯斥(ひんせき *排斥)セント欲スル者ハ、朝廷ニ於テハ尹宮(いんのみや *朝彦親王)幕府ニ於テハ一橋中納言・会津中将ニ候。尹宮ハ天下ノ大勢ヲ洞見(とうけん *見通すこと)セラルル識量ニ乏(とぼし)ク之(これ)有り候テ、且(かつ)臨機ノ変通ヲ曉(さと)ラレス初メハ薩摩ニ倚頼(依頼)セラルルモ中頃ヨリ幕府ニ依頼セラルル事ト相成り候て一橋・会津・桑名等ト情好(じょうこう *仲のよいこと)月ニ厚ク日ニ濃(こく)カニ之(これ)有り。今日ニ至り候てハ如何(いかん)トモスルコト能(あた)ハサルノ情態ト相成リ所謂(いわゆる)毒ヲ喰(くら)ハハ皿マテノ俗諺(ぞくげん *民間に行なわれることわざ)ノ如ク、此上(このうえ)ハ何(いず)ク迄(まで)モ幕府ヲ扶助(ふじょ)セラレ候テ一橋・会津等ト進退ヲ共ニ致サレントノ決心ト推察され候。実に以て無策ノ極(きょく)、飛蛾(ひが)ノ燈火ヲ恋フ如キ者ニ之(これ)有り候  (『岩倉具視関係文書』一 P.252)

 岩倉は、朝議の主導権を握る賀陽宮(中川宮、尹宮)朝彦親王を名指しで非難し、無能呼ばわりし、ただただ慶喜や会津と心中するのみと毒づいている。そして、「万一不慮(ふりょ)ノ危禍(きか *特にあやうい災い)ニ遭遇セラルルコト之(これ)有り候ハハ、恐れながら陛下の御失徳ト相成り申し候て、列聖の神霊ニ対せられ御申し訳モ之(これ)無きの次第ト深ク歎息(たんそく)仕り候」(同前 P.252)と、搦(から)め手から天皇を責める。すなわち、尹宮に依存した判断ばかりしていると、何かつまづいた場合、天皇自身の責任を問われ天皇の座を追われることになりますよ、と最大限の詰問をするのである。
 この間、慶喜の要求をことごとに受け入れていたのは、尹宮ばかりでなく天皇自身でもあるのを、岩倉はよく承知したうえでの攻勢である。
 そして、将軍死去のこの時期が好機とばかりに、孝明天皇に「王政復古」をすべきと次のように迫る。

伏テ願(ねがは)クハ陛下(へいか)天運循環皇室中興ノ時機到来シタルコトヲ御洞知アラセラレ候テ、幕府ヘ自今以往(いおう)私心ヲ棄(す)テテ公理ニ基ツキ王政復古ノ上徳川氏ハ列藩ト與(とも)ニ扶翼(ふよく *事業を助けること)ノ任ヲ帯(お)フ可(べ)キノ旨ヲ御懇諭(ごこんゆ *丁寧に諭すこと)アラセラレたく、其(その)御懇諭ノ勅書ニハ私心ヲ棄テテ公理ニ基ツキ政柄ヲ奉還スルノ要ハ国威ヲ恢張シテ外夷ヲ圧倒スルニ在リ、之(これ)ヲ施行スルノ本ハ天下ヲ合同スルニ在リ、天下ヲ合同スルハ政令一(いつ)ニ帰スルニ在リ、政令一ニ帰スルハ朝廷ヲ国政施行根軸ノ府ト為スニ在リ、是(こ)レ上ハ神明ノ心ニ従ヒ下ハ億兆(おくちょう *人民)ノ望(のぞみ)ニ応スルナリ云々(うんぬん)トノ御趣意ヲ書キ載セラレ度(たく)候。此(かく)ノ如ク名分ヲ正シ大義ヲ明カニシテ御沙汰相成り候ハハ幕府ニ於テ承伏(承服)仕(つかまつ)らざる事ハ之(これ)無きト存じ奉り候。 (同前 P.253~254)
 
 岩倉は、今こそ「政柄ヲ奉還スル」ときであり、それは「外夷を圧倒スル」―「天下ヲ合同スル」―「政令一ニ帰スル」―「朝廷を国政根軸ノ府ト為ス」ことである。それは、「大樹(*将軍)他界の趣ニ之有ル」今日が、好機であるとする。
 岩倉が千種有文に宛てた書簡(8月2日付け)では、既に7月末(29日の朝議の際か?)、「堂上(*昇殿を許された公家)彼是(かれこれ)列参、一歩も退かずと迄(まで)の内評(ないひょう)之(これ)有り候」(『岩倉具視関係文書』三 P.165)と、一部で列参運動が始まっているようである。
 そこで、岩倉は千種に対して、"至急同志を一人でも二人でも募って、正親町三条実愛か大原重徳へ運動して列参する"よう促している。しかし、これは正親町三条が逡巡し、大原も因循し遅疑して未発となる。
 だが、岩倉は井上石見(薩摩藩士)宛て書簡(8月7日付け)で、「朝議今日に至り候ては一も見るべくなく百事(ひゃくじ)去り申し候事には候得共(そうらへども)爰(ここ)に行ふへきは唯(ただ)一事(いちじ)強諫(きょうかん *手強くいさめること)の道のみ......」(同前 P.171)といって、岩倉邸に出入りする諸藩士や処士(在野の有志)をも使って、列参運動を働きかけ続ける。
 藤井良節・井上石見の兄弟に宛てた8月21日付けの書簡では、当面の目標として、(1)二条関白・尹宮など4~5人の退職、(2)鷹司政通・久我建通・岩倉具視など幽閉中の公卿の処分解除と出仕、(3)桜木公(近衛忠煕)の関白復職などを掲げた。さらに「復古政(まつりごと)の事、御委任(*幕府への大政委任)止められ候事、外夷処置の事、総体国是の基本は実に以て列藩衆議公平に之(これ)無く候ては条理立つべからざる事には候......」(同前 P.174)と述べている。幕府への「大政委任」をやめて、「列藩衆議」の政治運営を提唱しているのである。
 22人の廷臣による列参運動は、8月30日に敢行されている。この日の「参内の前に中御門経之は二条(*関白)を訪れ、意見書を天皇に提出するための賜謁(しえつ)を願った。これを許可した二条は、中川宮や野宮定功の退職要求が出されることを知ると、全責任は自分にあると関白の辞意をもらした。/この日の酉刻(午後六時)、中御門、大原重徳、北小路随光、高倉永?(ながさち)、千種有任(*有文の息子)、岩倉具綱、岩倉具定(以上2人は具視の息子)、大原重朝(しげとも)など二二人が参内し、御学問所で次の意見書を提出した。①朝廷主導で諸藩主を召集、②文久二年・三年(一八六二・三)・元治元年(一八六四)に処分された公家の赦免、③朝廷改革、④長州解兵。」(刑部芳則著『公家たちの幕末維新』P.194)である。
 9月2日、孝明天皇は大原重徳一人を召して、諸藩召集のことは許すが、他の箇条はなお勘考する、と述べた。
 ①については、8月29日に、朝命によって諸侯を京都に召喚することが決定されていたが、9月8日、24藩に上京の命が下った。
 ②に関連しては、9月4日、二条関白と朝彦親王が辞表を申し出た。列参運動の主旨が、朝廷首脳部である自分らへの抗議活動であることを理解したからである。これに対して、孝明天皇は却下したが、二人は責任を負って参内・朝議参加を辞退した。「天皇は二人に全幅の信頼を寄せていたわけではないが、長年の相談相手を一度に失うことになって怒った。天皇の怒りが強かったことは、大原重徳(*22人を代表して意見書を言上した)を『暴人』と呼び、大原と中御門そして彼等に加担した正親町三条実愛に閉門を命じたことで明らかである。また晃親王にも蟄居が命じられ、他の一九人の列参公家は差し控えの処分になった。」(佐々木克著『岩倉具視』P.96)のである。
 大原・正親町三条・岩倉らの「朝廷改革」は、孝明天皇に阻止され、一頓挫させられたのである。

注1)中川宮朝彦親王(1824~91年)は、伏見宮邦家親王の第4子である。1836(天保7)年8月に仁孝天皇(孝明天皇の父)の養子となり、奈良一乗院門跡に補せられる。翌年12月には親王宣下を賜り、1837(天保9)年閏4月に得度(とくど *出家すること)して、尊応入道親王と称した。1848(嘉永元)年3月に二品に叙し、1852(嘉永5)年3月勅旨により、改めて京都粟田口青蓮院門跡となり、尊融と改称し、世に粟田宮と称せられた(門跡とは、皇族や貴族の子弟が法統を伝えている寺院)。1858(安政5)年、通商条約調印と将軍継嗣の問題が起こると、条約勅許に反対し、将軍継嗣には慶喜を嘱望した。このため、「安政の大獄」により1859(安政6)年2月「慎(つつしみ)」に、同年12月には隠居・永蟄居に処せられた。1862(文久2)年4月、幕府の内奏により、永蟄居を許され、青蓮院門跡にもどった。朝彦親王への孝明天皇(義兄弟にあたる)の親任は厚く、同年12月に国事御用掛(朝議に関与する)が新設されると、この職に就いた。翌1863(文久3)年1月には、特旨をもって還俗(げんぞく *僧籍を離れて俗人に戻ること)の内勅を賜り、中川宮と称した。当時、尊攘派(即今攘夷)と公武合体派(武備を充実した上での攘夷)との対立が激しくなり、会津藩・薩摩藩と協力し、1863(文久3)年8月18日の政変を行ない、長州藩など尊攘派勢力を京都から追放した。同年8月27日、名を朝彦(あさひこ)と賜り、弾正尹(だんじょうのかみ *役人の罪悪を糺し、内外の非道を糾弾し、風俗を粛正する弾正台の長官。検非違使の設立で、京都市内を対象とするように限定された)に任ぜられ、尹宮(いんのみや)と称された。翌1864(元治元)年10月、宮号を賀陽(かや)宮と改称した。その後も、公武合体派の重鎮として国事にあたったが、1866(慶応2)年12月、孝明天皇が死去すると、次第に孤立する。
2)山階宮晃(あきら)親王(1816~1898〔文化10~明治31〕年)は、伏見宮邦家親王の第1子である。親王は、はじめ京都山科の勧修寺門室を相続し出家したが、その後、勅勘(勅命による勘当)を受けて、その身分を止められたが、1864(文久4)年1月9日、島津久光・一橋慶喜らの奏請によって宥免され、還俗の勅命を受けた。同月17日、山階(やましな)宮の称号を賜り、新たに一家を創立した。幕末の朝廷にあって国事御用掛として朝議に参与し、薩摩藩と連携し、王政復古に貢献した。
 3)正親町三条(おおぎまちさんじょう)実愛(さねなる)〔1820~1909年〕は、前参議実義の子である。1859(安政6)年2月、九条関白排斥運動に連座して「慎」の処分を受けた。しかし、同年8月権大納言に、翌年6月には議奏に任ぜられた。1862(文久2)年12月には、国事御用掛となった。1863(文久3)年1月議奏を、2月権大納言を辞したが、同年8月ふたたび議奏となり、1864(元治元)年10月、権大納言に還任した。1866(慶応2)年10月、議奏を辞し、廷臣22人の列参運動に坐して処罰され、「閉門」となった。1867(慶応3)年3月、明治天皇践祚(せんそ)の直後、勅勘を免ぜられ、5月議奏に復帰した。同年10月、討幕の密勅を薩長両藩に伝え、さらに王政復古がなされると、12月議定となった。

  《補論 孝明天皇時代の主な廷臣処分事件》
 江戸時代は、公家世界でも家格制度が発展・整備される。公家世界は、まず京都御所の清涼殿(儀式専用の殿舎)に昇殿できる堂上(どうじょう)と、昇殿できない地下(じげ)に大別できる。地下は地下官人ともいわれ、堂上公家の家臣や御所に勤務する下級官人をいう。
 堂上公家には、摂家(せっけ)―清華家(せいがけ)―大臣家―羽林家(うりんけ)・名家(めいか)・半家(はんけ)という家格がある。
 摂家は、代々、摂政(せっしょう *幼帝または女帝の時、天皇に代わって政治を行なう職)・関白(かんぱく *天皇を補佐して政務をつかさどった重職。太政大臣よりは上)に任ぜられる家柄である。これには、近衛・九条・一条・二条・鷹司の五家があり、五摂家といわれる。
 清華家は、摂家に次ぐ家格で、各種大臣までは昇進できる。清華家には、大炊御門(おおいのみかど)・花山院・菊亭(今出川)・久我(こが)・西園寺・三条・醍醐(だいご)・徳大寺・広幡(ひろはた)の九家がある。
 大臣家は、摂家、清華家に次ぐ家格で、大臣に欠員があれば任ぜられる。しかし、近衛大将は兼任できない。大臣家には、嵯峨(正親町三条)・三条西・中院(なかのいん)の三家がある。
 以上が、朝廷内の上層部に位置し、それ以外の公家と一線を画している。
 羽林家は、近衛中将や同少将などの武官の官職に就く家で、これに対照するのが文官に就く名家である。これらのどちらにも属さないのが、「中途半ばの家」ということで半家が生まれた。この三家は同格で、俗に平堂上(ひらどうじょう)と呼ばれる。
 公家世界では、これらの家格とともに、一族と門流というつながりがある。一族は、もともと先祖が同じ家々を指すが、圧倒的に藤原鎌足系が多い。他には、天皇家から臣籍に降下した一族の系統や、古代からの一族の菅原家・大江家などもある。
 門流とは、五摂家に、清華家・大臣家、平堂上が属する系統をいう。近衛家が48家でもっとも多く、一条家が37家、九条家が20家、鷹司家が8家、二条家が4家であり、どこにも属さない非門流が15家存在した。門流に属する公家は、毎年元旦に門流の摂家に年頭挨拶(あいさつ)をし、元服・結婚・養子などの際にも必ず摂家から許可を得なければならなかった。
 朝廷の官職で、もっとも力を持っているのは、関白である。近世の政治は幕府が行ない、朝廷は疎外されていたが、武家の叙位と任官、改元、鋳銭に関しては、幕府が朝廷に伺い
を立て、天皇の裁可を得て執行された。この場合、関白が天皇に上奏し、天皇の裁可を得ると、武家伝奏によって幕府に知らされる。
 議奏は、天皇から関白を経て降りてきた案件を識事(しきじ *位階をもち職務のある者)に命じ、また、下から識事を経て上ってきた案件を関白に申し上げる。議奏は、天皇の側近で、朝廷内の上下を調整する役割を持つ。
 武家伝奏は、先述したように幕府に対する朝廷の窓口役であり、幕府に朝廷の意見を伝える役目も持ち、京都所司代などとの交渉を担った。
 朝廷の事はすべて関白が取り仕切るが、時には朝議によって決定され、その朝議には議奏・武家伝奏も参加できる。この意味で、議奏(ぎそう)と武家伝奏(*この二役は「両役」といわれた)は、幕末の朝廷内では重要な役割を持ったのである。
 幕末期、公家社会でも激しい内部対立が展開された。孝明天皇時代、主なものでも4回の廷臣処分が行なわれた。
 第一回目の処分は、1862(文久2)年7~9月である。この時は、九条尚忠・久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直の5人が、処分されている。しかし、この処分は、天皇の積極的意志で行なわれたものではない。その背景には、尊攘激派のテロリズムがあった。
 「安政の大獄」で苛酷な弾圧を主導した大老井伊直弼が、1860(安政7)年3月3日、桜田門外で暗殺された。「安政の大獄」への反動である。尊攘激派は、外国人への襲撃も繰り返す。1862(文久2)年1月15日には、坂下門外の変が起こり、老中安藤信正が襲われる。安藤は落命まではしなかったが、4月11日に老中を罷免される。
 テロリズムに味をしめた尊攘激派は、この年の夏ごろから京都を中心に、「天誅」と称してテロ活動を活発化させる。朝廷政治へ圧力をかけ、朝廷内の佐幕派を排除するためである。
 一例をあげると、7月には、九条家(前関白九条尚忠)の家士島田左近が暗殺され、先斗(ぽんと)町にさらしものとされた。島田は、井伊大老の懐刀・長野主膳に協力した人物である。8月には、「安政の大獄」で、志士の逮捕にあたった目明しの文吉が殺され、三条河原にさらしものとなった。9月には、京都西町奉行所与力の渡辺金三郎・上田助之丞、京都東町奉行所与力の大河原重蔵などが暗殺され、京都粟田口に梟首(きょうしゅ *さらし首)された。11月には、長野主膳の妾・村山可寿江(かずえ)が襲われ、三条大橋の橋柱に縛りつけられ、生きさらしとされた。(天誅テロリズムについては、詳しくは拙稿『尊王攘夷の旗頭・斉昭と日本近代の序章』〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照) 
 天誅テロは、公家にも及んだ。長州藩の長井雅樂の『航海遠略策』にもとづく「公武合体」策を進めてきた関白九条尚忠や京都所司代酒井忠義などへの批判の高まりとともに、特に、「和宮降嫁」に関係した者たちで、「四奸二嬪(しかんにひん)」(久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子)が狙われた。(「五賊」として批判されたのは、九条尚忠・久我建通・正親町三条実愛・中山忠能・酒井忠義)
 8月16日には、公卿の広幡忠礼(ただあや)・正親町実徳・庭田重胤・柳原光愛・豊岡随資(あやすけ)・長谷信篤(のぶあつ)・阿野公誠・滋野井実在・河鰭公述・三条実美・正親町公董(きんただ)・姉小路公知(きんとも)・壬生基修(もとなが)の13名が連署して、「四奸二嬪」を弾劾する文を関白近衛忠煕(ただひろ *九条尚忠の後任)に提出した。久我建通(内大臣)に対する弾劾は、九条前関白に協力し、岩倉と千種を使いにして、京都所司代酒井忠義に朝廷の機密を提供し、ひたすら幕府におもねり諂(へつら)ったというものである。他の5人に対する弾劾も同じようなもので、要するに幕府に協力的だったというものである。こうなると、孝明天皇を筆頭に「公武合体派」はすべて、弾劾の対象となるのである。
 天誅テロが迫る中で、すでに正親町三条実愛と中山忠能は相談して、とりあえず岩倉に近習を辞退することを勧め、岩倉は7月24日に辞表を提出した。25日には、正親町三条実愛・中山忠能・野宮定功も議奏の辞職を申し出ていた。
 8月20日、朝議は、岩倉・千種・富小路の3人に対して、蟄居(ちっきょ)を命じ、さらに辞官・落飾を請うことを命じた。同日、3人は辞官・落飾を請い、孝明天皇は直ちにこれを許可した。8月25日には、久我建通が罷免され蟄居・落飾、今城重子が辞職・隠居となった。
 閏8月25日には、すでに辞職していた前の関白九条忠尚が落飾・重慎、その嫡子道孝が差控(さしひかえ)、9月1日には具視の養父岩倉具慶(ともやす)・有文の子千種有任(ありとう)が差控を命じられ、堀河紀子の辞職が許可された。
 正親町三条と中山は、8月21日に引責辞職願を提出した。これに対し、関白近衛忠煕は願いを受理しないで差控を命じ、しかもその差控も閏8月3日には宥免(ゆうめん)となった。両者に2日遅れて差控を命じられた久世通煕も、閏8月5日に宥免とされた。関白としては、朝廷内で近衛関白と島津久光との間に入って折衝できる人材が欠如し、3人は早期に宥免とされたのである(ただし、久世は体調をくずしていたため、2人が期待された)。
 今回の処分で、孝明天皇は、久我や岩倉たちが「冤罪」であると思っていたようである。その証拠に、天皇は関白に対し、「四奸二嬪」排斥を回避するように薩摩藩に依頼できないかと述べている。しかし、久我の存在を快く思っていない近衛は、この孝明の依頼をきっぱりと断っている。
 第二回目の処分は、1863(文久3)年の8・18クーデターにかかわるものである。
 1862(文久2)年12月、朝廷には新しく国事御用掛が設けられ、朝議は専らここで行なわれるようになった。摂関家出身の関白・左右大臣などの重職者とともに、三条実美・姉小路公知・三条西季知(すえとも)などの少壮急進派も国事御用掛に任命された。翌年2月には、国事参政・国事寄人の二職も置かれ、少壮急進派が任じられた。朝廷は彼ら尊攘激派に引きづられ、実際に攘夷断行の方向を強めた。幕府に対しては、攘夷期限の日取りを明確にするように迫り、天皇には攘夷親征に決起するように迫った。
 尊攘激派の無謀な「攘夷親征」を阻止するために、薩摩藩・会津藩や中川宮などの協力で、1863(文久3)年の8・18クーデターが組織された。
 刑部芳則著『公家たちの幕末維新』によると、薩摩藩士高崎正風(左太郎)が、中川宮尊融親王に三条実美ら尊攘激派を朝廷から排除する計画について、天皇の同意を得てほしいと依頼した。その後、国事御用掛・近衛忠煕にも同じことを依頼するが、近衛は動揺し即答できなかった。8月15日に、クーデターの計画案が中川宮に知らされ、中川宮は協力を明らかにした。だが、近衛は決断できなかった。17日には、京都守護職松平容保から計画を聞いた右大臣二条斉敬が賛同し、内大臣徳大寺公純も承諾した。この流れの中で、近衛忠煕もようやく協力を決意した。
 8月18日、午前一時過ぎ、「天皇からの命に応じて中川宮、二条、徳大寺、近衛父子、松平容保と京都所司代稲葉正邦が参内した。御所の公卿門以下の九門は閉ざされ、薩摩藩・会津藩・淀藩の藩兵が警護する。/特別に許可された者以外は参内禁止となった。国事参政と国事寄人は廃止され、大和親征行幸の詔も取り消された。天皇の召しに応じて参内した正親町三条実愛、中山忠能、阿野公誠には、議奏の就任が命じられた。三人とも固辞したため『議奏格』となった。」(刑部前掲書 P.144)といわれる。関白鷹司輔煕は、全くカヤの外であった。
 三条実美・三条西季知・豊岡随資らの尊攘激派の公卿は、ぞくぞくと鷹司邸に集まって来た。午前十一時頃になって、ようやく鷹司が参内し、政変の結果が知らされた。鷹司は、不測の事態が起こることを警戒し、長州藩の堺町門警備を解くことに反対した。しかし、それは通らなかった。
 他方、鷹司邸には、勅使柳原光愛が派遣され、長州藩兵の退京が命じらた。三条実美などの公家たちは、勅命にさからえず、長州藩兵を率いて、東山の妙法院に向かい、ここを本陣とした。急進派公家・長州藩士・諸藩の尊攘激派など、合せて約2600が議論し、今後の進退が決められた。この中で、毛利元純(長門清末藩主)や吉川経幹(つねまさ *岩国藩主)らは、長州藩に戻って武備充実を図ることを提案した。そして、「攘夷の先鋒」として、三条らの同行を求めた。
 ここで公家たちの行動は、分れた。豊岡随資・烏丸光徳・滋野井実在・東園基敬は、帰宅して罪状を待つこととした。他方、三条実美・三条西季知・壬生基修・四条隆謌(たかうた)・錦小路頼徳・沢宣嘉・東久世豊禧は、逃れることとした。いわゆる「七卿落ち」である。
 当然、天皇の許可もなく京都を離れることは、違反行為である。8月24日、長州に逃れた七卿は、官位を剥奪(はくだつ)された。また、京都に残った豊岡随資・烏丸光徳・滋野井実在・東園基敬・万里小路博房・橋本実麗・正親町公董は「差控」となり、広幡忠宏・徳大寺実則・長谷信篤は議奏を罷免されたうえで、他人との面会を禁じられた。処分された者は、17人に上った。なお、新たな議奏には、正親町実徳・柳原光愛・広橋胤保が任じられた。
 第三回目の処分は、1864(元治元)年の禁門の変にかかわるものである。
 藩主の雪冤運動を展開していた来島又兵衛、久坂玄瑞など長州藩士は、「公武合体派」の一橋慶喜・島津久光・松平春嶽・伊達宗城の参預会議が空中分解する(1864〔文久4〕年3月)と、その機に乗じて、率兵上京する。同年7月には、禁門の変(19日)となり、長州藩は敗北して「朝敵」となる。
 「朝敵」とはなったが、以前から攘夷の先頭にたってきた長州藩に対しては、少なからずの公卿たちが同情した。
 宮中の内外が緊迫し始めたのは、7月18日の夕暮時であった。御所には、権大納言大炊御門家信、前権大納言中山忠能、有栖川宮幟仁・熾仁父子、権中納言橋本実麗など20余人の公卿が列参した。議奏正親町実徳からの報告では、日没前に自宅に投げ文があり、それは松平容保の罪状と天誅を加えるの理由が書かれ、そのために長州藩は一戦を交える覚悟が記されていたという。
 長州藩の戦争覚悟に対し、20余人の公卿が列参したのである。この問題に対処するために、関白二条斉敬や議奏・武家伝奏が参内したが、二条関白は、右大臣徳大寺公純、内大臣近衛忠房、中川宮朝彦親王、山階宮晃親王、権大納言九条道孝などをも参内させた。両派が着座し、二条らが長州藩の意見は聞き入れられないと主張すると、大炊御門らは攘夷を受け入れるべきだと反論する。議論が白熱する中に、一橋慶喜が参内する。彼は長州藩を追討する勅語を発することを求め、孝明天皇はそれに応じた。
 「無謀な攘夷」を嫌う孝明天皇は、長州に同情的な公卿たちを放置しなかった。7月27日、天皇を面前にした朝議は、有栖川宮幟仁親王・同熾仁親王・鷹司輔煕・同輔政・大炊御門家信・正親町実徳・日野資宗・中山忠能・同忠愛・橋本実麗・勧修寺経理・石山基文・同基正(もとなお)・五辻安仲・平松時厚(ときあつ)を、参朝停止、他行・他人面会の禁止の処分とした。8月7日には、五条為栄(ためしげ)も参朝停止の処分を受け、計16人が処分された。
 1862(文久2)年、1863(文久3)年に次いで、1864(元治元)年の今回と、3年連続した処分で合計38人の公卿たちが朝廷から追放されたのである。

《補論 岩倉具視の初期の政治構想》
 岩倉具視(1825~83年)は、1825(文政8)年9月15日、前権中納言堀河康親の第2子として、京都の堀河で生まれた。幼いころから、儒学を教える明経博士・伏原(ふせはら)宣明(のぶはる)に学び、その世話で1838(天保9)年に岩倉具慶の養子となった。1853(嘉永6)年、関白鷹司政通の門に入り(歌道の門人)、朝廷改革の意見を述べた。
 それが契機となり、1854(安政元)年、孝明天皇の侍従(天皇の側近くで仕え、雑務を処理する官)となり、ついで近習となった。1858(安政5)年1月、日米修好通商条約調印の勅許奏請のために老中堀田正睦が上京すると、勅許阻止を図って中山忠能など88人とともに列参運動を行ない、堀田を追いつめた。列参運動とは、許可なくして直接参内し、意見を述べる運動のことである。列参運動の二日後の3月14日、岩倉は少将内侍(ないし)今城重子を通して、意見書「神州万歳堅策」を天皇に内奏した。
 その内容は、第一「和親(わしん)不可然(しかるべからざる)の事」、第二「徳川家長久(ちょうきゅう)可被思召(おぼしめさるべく)の事」、第三「国内一致防御の事」、第四「皇国警衛?(ならびに)江府大坂等の事」、第五「国宝融通の事」の5項目にわたっている。
 第一の「和親不可然の事」は、アメリカとの開国・通商を否定すること、またその理由が述べられている。だが、その前提として、岩倉の世界観・歴史観も知りうるような内容をも展開している。

墨夷(*アメリカを差別的に表現している)の一條、古今未曾有ノ大事ニ候。若(も)し仮条約(*幕府は朝廷に対して仮条約と言い繕っている)ノ如(ごと)ク許さるに於ては、神代ノ間ハ云(い)ハス神武帝ヨリ幾千年ノ間堂々タル神武ノ皇国独立ノ規則、当御代ニシテ一時ニ廃毀(はいき *こわしてすてる)セラレ、遂(つひ)ニ異邦ノ属(*属国)ト成(なさ)ン事(こと)誠ニ恐懼(きょうく)悲歎(ひたん)の至(いたり)ニ候。抑(そもそも)天地間に於て日ヨリ尊(とうと)キハナシ、人ヲ初メ万物ノ生育ミナ(皆)日光ノ恵(めぐみ)ナラズト云(いふ)ナシ。
日本紀(*日本書紀)ニ云、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)共に議(はか)りて曰(のたま)はく、吾(われ)已(すでに)大八洲国(おほやしまのくに *日本の美称)及び山川草木を生めり、何(いかに)ぞ天下(あめのした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ。是(ここ)に於て共に日神(ひのかみ)を生み大日?貴(おほひるめのむち *天照大御神のこと)と号(まう)す。此子(このみこ)光華(ひかり)明彩(うるは)しくして、六合(りくごう *くに)の内に照り徹(とほ)る。故(かれ)、二神(ふたはしらのかみ)喜びて曰はく、吾が息(こ)多(さは)ありと雖(いへど)も、未だ若此(かく)霊(くしび *神秘)に異(あや)しき児(こ)有らず。久しく此(こ)の国に留めるに宜(よろ)しからず。自(おの)づから當(まさ)に早(すみやか)に送りて、授(さづ)くるに天上(あめ)の事を以てすべし。是時(このとき)に天地(あめつち)相去(あいさ)ること未だ遠からず。故(かれ)、天柱(あめのみはしら)を以て天上(あめ)に挙(おくりあ)ぐなり。
然レハ日ハ皇国の祖先皇太神宮(*天照大御神)ニマシマシテ、日嗣(ひつぎ)ノ皇統世々(よよ)絶(たへ)スシテ益(ますます)盛(さか)ン成ル事、仰テモ猶(なお)余リアリ。万国ミナ此国(*日本)の祖神ノ恩沢(おんたく *恵み)ヲ蒙(こうむ)ラサルナシ。又(また)火食ニ至テモ火ノ浄穢(じょうえ)ヲ択(えら)ハルル事(こと)曾(かつ)テ他邦ニ聞かざる所(ところ)なり。思ふに是(これ)大世界中ニ獨(ひと)リ日本ト称し最(もっとも)尊セラルルノ謂(いひ)ニ非(あら)スヤ。依って若(も)し和親同盟等許容(いるる)者は、天孫神聖清浄ノ神州(*日本)、醜虜(しゅうりょ *けがらわしい夷)犬羊(けんよう *悪者)糞土(ふんど *けがれた地域)ノ域ト接シ血ヲ飲ミ毛ヲ茄フ(クラふ *茹ふ)ノ輩ニ伍(ご)ヲナシ〔*仲間になること〕候事、大小ノ神祇世々の聖主え対せられ候テノ儀ハ勿論(もちろん)弘安の先皇〔*モンゴル来襲時の天皇〕え如何(いかが)之(これ)有るべき哉(や)。皇天の悪(にくし)ミ神明ノ罰(ばつ)何(いづ)レニヨランヤ、恐懼(きょうく *非常におそれかしこまること)スルニ暇(いとま)アラス。且(かつ)当時世界ノ形勢変革ノ説ハ墨夷ノ弁論ニシテ古昔(こせき)ノ良法ヲ廃棄ナサシメン計(はかりごと)ナランカ。深ク信用スル時ハ災害?(ならび)ニ起ルベシ。且(かつ)邪正ノ理(ことわり)古今(ここん)貫徹の事、ナンソ形勢変革ニ依(よら)ンヤ。彌(いよいよ)古来制度ノ通リ守られ候事、朝家安全武運長久天下泰平(たいへい)ト存じ奉り候。  (日本史籍協会編『岩倉具視関係文書』一 東大出版会 P.119~120)

 岩倉の世界観は一般の公家たちと同じで、神話と歴史がないまぜとなった非科学的な物語である『日本書紀』に依拠するものである。したがって、あまりにも独りよがりの優越感にひたったもので荒唐無稽である。
 第一に、皇国の祖先神である天照大御神は、「日の神」であり、それ故に世界あまねく恵みをもたらしている―という。そもそも太陽神信仰は、日本のみならずエジプトや南米諸国にあまた存在しており、日本だけではない。しかも、岩倉は天照大御神が「日の神」だから世界に恵みをもたらす―と恩着せがましくも言っているが、そのような傲岸不遜な態度はあまりにも自分勝手な思い込みである。"日本が世界諸国にこのうえない恩恵を与えている国である"などという認識は、当時の世界諸国のただの一国すら持っていなかったであろう。
 第二に、岩倉は「火の浄穢」は日本だけと言うが、これは岩倉の一知半解による誤解であるか、あるいは独りよがりの決め付けである。
 井狩彌介氏によると、インドのヒンズー教では不浄を除去・消滅させるには2つの方法があるという。「......一つは時間による消滅......。もう一つは文献などでは沐浴という言葉に代表させているような儀礼による......除去という二種」(岩波講座 東洋思想『インド思想』3 P.229)である。もともとは時間による消滅が基本であったが、後代になるにつれ儀式による消滅方法が増大した。
 日本でも、前者の"時間によって不浄の消滅をはかる"というのは『延喜式』でも明らかであり(既述)、神事の前には潔斎して心身を清めることを行なう。しかし、神道儀式で「火」を使用することは稀に行なわれたようであるが、一般的ではない。「神道事典」などで調べても、ほとんど神道儀式での「火」の登場は目にしない。
 だが、岩倉のいう「火の浄穢」というのは、神仏一致の観点からあえて推測すれば、密教にある「護摩を焚く」ことを指しているのではなかろうか。
 密教を体系的にまとめた『大日経・疏』では、「護摩(ごま)、是(これ)焼く義なり。護摩の由(よし)は、能(よ)く諸業を焼き除く」と、述べている。業とは、インド語のカルマン〔行為〕の訳語であるが、身・口・意による善悪の所行である。仏教では、「悪因悪果(悪いことをすれば悪い報いを得る)」、「善因善果(善いことをすれば善い報いを得る)」の考えがあり、この現世での業(カルマン)の結果、その当事者の来世(虫・動物、人間などにに生まれ替わるか、もしくは天上に生活できる)の処遇が決定される。
 護摩は、智慧の火で煩悩の薪を焼払う意味で、火を燃やして仏に祈り、一切悪事の根を払うことである。この儀式は、密教で行なわれる1)。したがって、密教の「護摩を焚く」行為は、"火は「一切の諸業(カルマン)を焼き除き、よりよい来世願う"のであって、穢れを浄めるための儀式ではない。これは密教と神道の目的が違うのであり、輪廻思想があるかないかの違いである。したがって、岩倉の「火の浄穢」なるものは、思い付きか、あるいは誤解に基づく主張でしかない。
 本家のヒンドゥー教では、もともと祭火は献供(けんきょう *さしあげる供えもの)を運ぶ役割を果たすのである。献供は、具体的には①乳、②生酥(しょうそ *酥とは乳汁)、③酥油、④酪(ヨーグルト)、⑤密の5つである。これらの供え物が火壇(密教でいう護摩壇)に投ぜられ、その祭火によって天上の神に運ばれるのである。したがって、祭火それ自身が不浄を浄めたり、諸業を「焼き除く」役割を果たすものではない2)。
 岩倉の言う「火の浄穢」は、一知半解であり、そのうえ独りよがりの主張である。
 岩倉は、当時の公家が一般的に抱いた世界観を同じようにもっていたのであり、「天孫・神聖・清浄」の日本に対して、西洋諸国を「醜虜・犬羊・糞土」と観念的に決めつけ、古来制度の通りに守り抜き(しかし、古来制度は「鎖国」ではなかった)、「朝家安全・武運長久・天下泰平」のために、西洋諸国との開国・通商を拒絶するのであった。しかし、それは余りにも世間知らずの「井の中の蛙」的な世界観・歴史観を前提にしたものであった。
 その上で岩倉は、拒否する具体的理由を、次のように数えあげる。①アメリカと条約を結べば他の諸国とも結ばなければならず、そうすると日本は「処々に開港商館ヲ立て終(つい)に万虜商館旅泊の国ト成ン、然る時ハ神州ノ貴(とほと)キモ貴(とほと)シトスルニ足ラス」(P.120~121)というのである。
 ①の拒否理由は、明らかに浄穢思想を根拠にした拒絶反応である。開港地や外国商館が増えると、外国商人の訪日も増えるのであり、したがって、清浄で貴い神州が穢れるからだというのである。このような排他的で独りよがりな考え方は、まさに「井の中の蛙」の発想であり、開国・通商を拒否する理由にはならない。
 ②開国し貿易が増えると、「五穀ヲ初メ国産必用ノ諸品神州に足(たら)シメ余分ヲ以テ取賄(とりまかなは)ンニ於ては十ニ一ニモ足るべからず、......夷情猶(なお)飽(あ)キ足ラシメンニハ国民年々困乏(こんぼう *貧乏で苦しむ)ニ至リ誰カ墨夷ノタメニ是(これ)ヲ忍(しのぶ)べき哉(や)、終ニ憤怒ノ餘(あま)リ是非ノ論ナク自ラ兵端ヲ開ク......」(P.121)というのである。人民の必要を満たした上での余った国産品で貿易するには、十分の一にも足らない、それでも猶アメリカの貿易要求を満たせば、年々国民は貧乏に陥り、怒りの餘り自ら戦争になってしまう恐れがある―から拒否するのである。
 ②の拒否理由には、その前提として、外国の言いなりで貿易を行なうという岩倉の勝手な理屈がある。日本人民の衣食住を削って、その分を輸出に回す必要はさらさらないのであり、日本側が主体性をもって貿易に臨むことを論外とした主張である。
 ③貿易内容をみると、「墨夷ヲ始(はじめ)諸夷すべて彼ヨリ渡来ノ諸品多クハ奇翫弄具(きかんろうぐ *かわった玩弄物)ニシテ有益ノ物(もの)稀(まれ)ナリ。唯(ただ)?織のみ寒ヲ禦(ふせ)クノ一助ト成(なる)ヘシ、トケイ(時計)を嘗(な)メオルゴル(オルゴール)ヲ食(く)ヒテ命ヲ続クノ術ハ有るべからず......」(P.121)というので拒否するのである。
 ③の拒否理由は、②の拒否理由の延長線上にある論理で、同様の誤りがある。貿易は基本的に需要と供給の関係がベースにあるのであり、外国が玩弄物のみを押し付けるならば
貿易自身が発展しない。それがまかり通るならば、その貿易なるものは対等・平等の国同士の貿易ではなく、支配―従属の関係にある国同士の貿易である。その貿易関係は、発展するどころか、早晩行き詰まるものである。「時計をなめ、オルゴールを食って命をつなぐ」などという譬(たと)えは論外であり、為にする「批判」にしか過ぎない。
 ④アメリカとの仮条約の中で、「殊(こと)ニ許し難きハ数ヶ所ノ開港ト十里ノ横行ト踏法ノ国禁ヲ除ク等ノ三事なり。」(P.121)と、「数ヶ所の開港」・「十里の遊歩域の許可」・「キリスト教禁止を除くこと」の三つがとりわけ許し難いとした。
 ④の拒否理由は、①に関係したもので、外国人が訪日し「遊歩区域」を歩き回ること自身を「穢れた行為」として、単に拒絶しているに過ぎない。なお、幕府は日米和親条約で、キリスト教の解禁をしている訳ではなく、岩倉の事実誤認である。それは、1857(安政4)年8月に締結された日蘭追加条約で認められたものである。日蘭追加条約は、これまでの和親条約を大幅に改定し、実質的に通商条約となっているが、そこでは、「またオランダ人の「信教の自由が認められ、さらに別紙覚書で踏絵(ふみえ)の廃止や、オランダ人が妻を連れて開港場に来住することなども認められた。」(拙稿『攘夷の旗頭・斉昭と日本近代の序章』〔労働者共産党ホームページに掲載〕P.173)のである。
 これは、外国人が居留地で自らの信仰を維持することを認めているに過ぎない。岩倉は、外国人が自らの宗教を自由に信仰することすら否定し厳禁するのであった。これもまた、浄穢思想からくるものであった。
 ⑤ペリー来航で和親条約を結んだ時、幕府は「......士農工商其(その)男子ハ勿論(もちろん)婦女嬰児(えいじ)ニ至リ虚実ヲ諭(さと)さず唯々(ただただ)ケトウジン(毛唐人)トのみ今ニノノシリ(罵り)偏(ひとえ)ニ仇敵ノ如ク思フ、是(これ)則(すなはち)神武ノ風習ノ然ラシムル処(ところ)ナラン。一ト度(たび)和親タランニハ此(この)風習モ失フヘシ。然レハ則(すなはち)終(つひ)ニ噛臍(*臍〔ほぞ〕を噛〔か〕む)ノ患(わずら)ヒ如何(いかん)トモスヘカラス(ともすべからず)」(P.122~123)と、これまでとは180度異なる観点から和親に反対している。
 すなわち、岩倉は宮廷政治家らしく君主の気まぐれで全く正反対の行動に出た場合のことも考えて、ひとたび和親条約締結になった場合のことを考えて、士農工商の人民に事実に即した説明もなく、「唯々毛唐人トのみ今ニ罵り偏ニ仇敵ノ如ク」思ってきた―幕府のその態度が悪いと言って拒否理由にしているのである。
 実際、そのような態度を終始取り続けたのは天皇・朝廷側であり、幕府側ではごく一部の人間が同様な態度を取ったかもしれないが、当初の生理的拒否反応は徐々になくなり、むしろ和親条約の締結を承認するように朝廷側に要求したのである。岩倉の⑤の拒否理由は、まったく事実関係を捻じ曲げたものでしかない。
 宮廷政治家・岩倉は、このように攘夷とは正反対の立場から、「......世界ノ形勢一変ノ上ハ如何(いかが)ニモ吾国数千年ノ規則ト雖モ〔*この事実認識自身が間違い!〕又(また)改めるべし。但シ大変革ニ及フノ時ハ貴国(*アメリカを指す)ニシテ限るべからず。先(ま)ツ旧好ノ唐(中国)蘭(オランダ)ヲ始(はじめ)トシ西洋欧羅波(ヨーロッパ)各国ニ使節ヲ立て其(その)風習ヲ察シ其(その)産物ヲ視(み)、且(かつ)ハ諸蕃乞(こ)フ所ノ港口ノ地、乞フ所ノ交易ノ物(もの)吾国ニ足(たる)ヤ足らざるヤ凡(すべ)て後日ノ為(た)メトク(篤)ト算計シテ各(おのおの)盟約すべし。......同盟ノ国タランとスルニ其(その)国ノ形勢風習ヲ知らスンハ有りへカラス且(かつ)ハ信ヲ失フ所なり。......」(P.124)と、条約締結の相手国をよく知るために使節を立てるべき(これを含む前後13行は、朱書)とまで言っているのである。そして、「......和戦〔*アメリカなどと戦争するにしろ和親するにしろ〕共ニ彼カ風土人心等ヲ知らずハ所謂(いはゆる)井蛙ノ論ニテ無智ノ至極ト言(いふ)ヘシ」など、天に唾するが如き言動を平気でしているのである。
 第二「徳川家長久可被思召の事」では、岩倉は次のように述べている。

......〔*幕府に対して〕不審不当ノ條モこれ有り、始終糺問(きゅうもん)致したき事ニは候得共(そうらへども)今ニ至リ候テハケ様(かよう)ノ既往(きおう *過ぎ去った事)ハ論じらるに及ばず歟(か)。唯々(ただただ)国内一致且(かつ)徳川家長久?(ならび)ニ征夷ノ名号(みょうごう)空(むなし)カラサラシメ武威(ぶい)益(ますます)盛(さか)ン成ルヘク厚キ思召(おぼしめし)ノ趣(おもむき)実事(じつじ)ヲ以テ心服(しんぷく *心から服従すること)仕(つかまつ)り候様宜(よろし)ク大義ヲ失ハサル弁舌ノ人ヲシテ御説得在らせら候ハハ和順ニシテ叡慮(えいりょ *天皇の心持)ノ旨(むね)立たせられ候様拝服(はいふく *謹んで服すること)致シ申すべく哉、仮令(たとえ)御十分ニ至らざり候トモ中折(なかおれ *中途半端な妥協的な理解)ノ義ニハ相成るべく存じ候。

 岩倉は、ここでは外国に乗ぜられないように「国内一致」が必要であり、そのためには「徳川家の長久」と征夷将軍の名が空しくならないように「武威」がますます盛んになるように―と考えている。後年の倒幕の運動からすれば、考えられないような態度である。
 したがって、天皇・朝廷の「攘夷」の考えを幕府役人と協議・説得すべきとする。もし、幕府役人との協議でうまくいかなかった場合は、「御三公」(*御三家のこと)の内、「御一公」との協議によって解決すべきとする。そのうえで、「右(みぎ)御説得ノ上(うえ)猶(なお)強情ニ申募(もうしつの)リ候ハハ徳川家ノタメ是非ナキ次第ヲ以テ速(すみやか)ニ三家三卿(*田安家・一橋家・清水家)譜代(ふだい)の大名等え宣旨(*天皇の命令を書いた文書)下され、俗吏ノ面々御取除(おとりのぞ)キノ様仰せ付けられ然るべく存じ候」(P.127)と、あくまでも徳川家が長く安泰であるような方策を考えている。
 したがって、後に常態化するような、朝廷と雄藩が直接連絡をとって、幕府を責めたてるようなことは決して考えていない。
 すなわち、「右(みぎ)此(この)挙ニ乘シ大内裏ノ昔ヲ存シ或(あるい)ハ深ク諸大名ヲ頼(たのみ)存じ候ナトハ決テ宜(よろ)しからざる所ニ候。仮令(たとえ)東ニ伊達(*仙台藩)西ニ志摩津(*薩摩藩)各(おのおの)奮起シテ朝家ヲ護(まも)り奉(たてまつ)り候モ小事ニシテ挙用スルニ不足、今ヤ外(そと)諸蕃ノ大敵ヲ引き受け内(う)チ争乱ヲ生シ徒(いたずら)ニ士民ヲ損害スル事(こと)誠ニ悲歎すべき義ニ存じ候。」(P.127)と、有力大名との連携・結託を否定しているのである。
 第三「国内一致防御の事」では、次のように述べている。

戦争ニ及フ時ハ四方海岸ノ吾国夷船(いせん)何(いず)レノ地ヨリ上陸モ計リ難ク候。依テ先(まず)海国ノ諸大名ヲシテ本国ニ還シ宜(よろし)ク其(その)海岸ヲ守ラシムヘシ。各(おのおの)累代相伝ノ自国(じこく)殊(こと)ニ心力ヲ尽シ閑(ひま)等ノ軍ハ成スヘカラス。尤(もっとも)隣国互ニ援兵ヲ出シ兵糧(ひょうろう)又々(またまた)互ニ扶助シテ国々一致厳密ニ防禦(ぼうぎょ)有るヘク、尤(もっとも)仁義ヲ以テ衆和(しゅうわ)之(これ)有る様(よう)勅命ヲ下シ台命(*将軍の命令)を添え仰せ渡さるべく存じ候事 (P.128)
 
 岩倉は、ここでは一般的なことを述べているに過ぎない。そして、根拠なき自身とも言うべきか、「軍艦大砲ノ術ハ彼レニ及ばずトモ陸戦ハ吾国ノ得ル所なり」と言い放っていいる。このような考えは、当時、武士もふくめて常識であったようである。徳川斉昭もまた、西洋諸国に比して、日本は白兵戦が得意と言っている。これは刀槍戦を指しているようだが、全くの世間知らずで、「井の中の蛙」でしかない。西洋諸国の銃砲中心の戦争方法に対して、あたかも別個に陸戦があるかのような観念論に陥っているのである。
 そのあげく、岩倉は「......衆心一(いつ)ニ帰和シテ万死を顧みず人事の限リ武略ノ極(きはま)リヲ尽サンニハ何ソ(なんど)又(また)神風モ吹(ふき)サランヤ」と、公家らしく神風信仰を吐露(とろ)するのであった。
 第四「皇都警衛?ニ江府大坂等の事」では、岩倉は次のように述べている。

海無し国ノ大小名ヲシテ三分トシ、一ヲ以て皇都ヲ衛(まも)ラシメ一ヲ以て江府ヲ援(たす)ケ一ヲ以て大坂ヲ護(まもら)スヘシ。但シ海国ノ諸大名各(おのおの)自国を守らしめると雖(いえど)も猶(なお)一手ノ勢ハ出サシムヘシ。武臣制度ニ曰く、高一万石ニ五十騎、十万石ニ五百騎なりト、其(その)将卒諸国ヲシテ合(あは)セタランニハ数百万ヲ以テ員(かぞ)フヘシ。是(これ)モ尚(なお)三分ニシ一ハ皇都一ハ浪華一ハ遊兵トシテ守禦欠乏ノ所ヲ補益スヘシ。江府元ヨリ旗本ノ大軍アリ、依テ此(この)一勢ハ除ク所なり。斯(かく)シテ賞功罸罪(ばつざい)厳正タルヘク存じ候事 (P.132)

 岩倉は、武臣制度を基準にして、厖大な数の武士を動員して、京都・大坂を防衛させ、また江戸城の防備にも増援させるという構想をたてるが、これは全くの机上の空論である。 
 現状でも、武士制度を支える人民の生活は困窮しているのに、さらに京都や大坂を警衛する軍事動員を倍加させるというのである。
 この背景には、京都の政治的地位の向上がある。対外的危機によって、幕府の権威の低下が目に見えてくる(その一つが桜田門外の変である)のに対して、京の朝廷の権威が相対的に浮上してきたことがある。
 岩倉は、第二では有力大藩との連携・結託を否定しているが、京都防衛に武士を動員し利用しようというのは、明白である。このツケが最終的には人民に回されるのは、火をみるよりも明らかである。
 なお、岩倉は、「右(みぎ)三都会の地、平常(へいじょう)遊手浮食ノ徒?(ならび)ニ往々(おうおう)窮民多シ。此等(これら)ノ輩(やから)兵起(おこ)ラハ遂(つい)ニ食スルニ物ナク恐ラクハ盗(ぬすみ)ヲナシ、或(あるい)ハ一揆ヲ起シ、或ハ流亡シテ墨夷ニ随順スヘシ」と、対外的危機を前にして、人民の動向を極度に警戒している。
 このことは、階級社会の現実を岩倉も認識していることを示し、己(おのれ)が支配階級の片隅に位置していることを自覚しているのである。
 第五「国宝融通の事」では、岩倉は次のように述べている。

戦争地方ニヨリ鳳輦(*天皇の乗り物)遷御(せんぎょ *天皇が他の場所に移ること)?(ならび)ニ将軍甲府え移ラルル等ノ儀ヲ初メ警衛ノ所置(しょち)防禦(ぼうぎょ)ノ術、大小万事金銀ニヨ(依)ラサルナシ。但し小名ハ勿論(もちろん)大名ト雖(いえど)モ近年追々(おいおい)困乏疲弊ノ極ニ至リ、殊(こと)ニ相伝ノ軍器砲楯猶(なお)其外(そのほか)当時(*当節)必用(ひつよう)稀(まれ)成(なら)ン歟(か)。新ニ制作センニ其(その)費(つひへ)幾計(いくばかり)カ知るべからず。速ニ数億万ノ鋳金(ちゅうきん *金属貨幣)之(これ)有りたき儀ニ候得共(そうらへども)其(その)功(*仕事)ニハ成るべからず。依て今ヨリ五ケ年或ハ七ケ年ノ間ヲ限リ天下金銀札ヲシテ通用(つうよう)足ラシメンハ忽(たちま)チ其(その)功ナルヘシ。......
                          (P.135~136)

 対外危機を前にして、朝廷も幕府も物入りが増える時期である。戦争準備に止まらず、天皇の遷御や将軍の移居もあるかもしれない。したがって、かさむであろう経費のねん出として、すぐさま貨幣鋳造をすべきところだが、その金銀銅が無いので、その代わりとして金銀札の発行・通用を5~7年に限り行なうべきと提言している。今や、国家危急の時だから臨機応変の措置として、紙幣発行の策をとるべきだ―というのである。
 しかし、もともと触穢思想の偏見に基づいて、頑(かたく)なに「攘夷」を唱え、戦争の危険性を増大させているのは、孝明天皇をはじめとする朝廷である。そのことから生ずる諸措置の経費を紙幣発行でしのごうと言うのである。だがその行く末は、今日でいうインフレ策であり、結局、そのしわ寄せは人民に来ることは、必定である。朝廷の誤った政策の結果を、人民の肩に負わせるという反人民的な政策である。
 岩倉の「神州万歳堅策」は、開国・通商反対の論拠を触穢思想に基づく天皇制に求め、また攘夷と開国・通商の二股政策を採用している所に、最大の特徴がある。そして、この段階では、岩倉は有力諸藩と結託して幕府に対抗する政策を未だ採用していないのである。
 井伊大老が暗殺された後の幕閣は、「公武合体」策をとり、人心の安静を第一とした。そのため、まず「和宮降嫁」を再三再四、朝廷に内願した。
 これに対し、朝廷側の意見はまとまらなかったようであるが、岩倉は以下のような意見書を書いて、「和宮降嫁」が「皇威の御消長に関係仕るべき間、頗る御大事」と「降嫁」に踏み切るべきと進言した。
 まずは関東の「和宮降嫁」の内願は、凋落しはじめた幕府の権威を朝廷の威光によって補うためであると、次のように述べている。

......〔*幕府の〕因循(いんじゅん *古い習慣にしがみつくこと)苟息(こうそく *姑息。一時逃れ)今日に至り候ニ付き天下の人心は彌(いよいよ)益(ますます)帰服仕(つかまつ)らず、関東の老吏等も始(はじめ)て畏懼(いく *おそれること)の念慮(ねんりょ)相生(あいしょう)し(じ)、朝廷の御威光を假(か)り奉(たてまつ)り候て関東の覇権を粉飾(ふんしょく)仕り天下の人心を圧服致させ候覚悟ニて和宮御縁組を急遽(きゅうきょ)に内願仕り、再三の及ひ候儀と存じ奉り候。
   (「和宮御降嫁ニ関スル上申書」―『岩倉具視関係文書』一 P.142)

 この幕府の狙いについての認識は、岩倉も尊攘激派も大差ない。だが、尊攘激派などが、"それだから「和宮降嫁」の内願は拒否すべきだ"というのに対して、岩倉は逆にこの機会を利用すべきだというのである。その対応は、180度異なるのである。

臣具視、熟ら(つらつラ *よくよく)目今(もっこん *ただいま。現今)天下の大勢を観察仕(つかまつ)り候ニ御国内億兆(おくちょう *厖大な数)の人民は億兆の心を懐(いだ)き銘々(めいめい)其(その)方向を異に仕り候て、外(そと)は五蠻(ごばん *英仏米蘭露の五国を指す蔑称)の大敵諸港に輻輳(ふくそう *方々から寄り集まること)仕り動(やや)もすれ?端(きんたん *血祭りの始め)を開き御国政に干犯(かんぱん *干渉して他の権利を犯すこと)仕り其(その)垂涎(すいぜん *非常に物を欲しがること)の土地を併呑(へいどん)すへきの勢も相見(あいみえ)申し候。誠に皇国危急の秋(とき)にして憂慮(ゆうりょ)に堪(た)へず候。之(これ)に依て其(その)匡済(きょうさい *悪をただして善に導くこと)の長計を愚考仕り候ニ関東へ御委任の政柄(せいへい *政権)を隠然と朝廷え御収復遊ばされ候御方略(*方策)に拠(よ)せられ、先(ま)つ億兆の人心を御収攬〔*人心をとらえる〕其(その)帰向(きこう *心を寄せること)する所を一定致させ候て、輿議公論(よぎこうろん *世間一般に唱えられる公平な議論)に基(もとづ)き御国是を儼然(げんぜん *おごそかで犯すべからざる威光のある様)と御確立遊ばされはんては相成り難きと存じ奉り候。......併(しか)しながら此(この)大事業を急遽に成就仕り候には固(もと)より口舌(*口先ばかりの人間)の能(よ)く為(な)す所には之(これ)無く候、必す(ず)干戈(かんか *武器)に訴へ申さず候はんては相成り難く、左(さ)候ては却(かえっ)て天下の大乱を醸(かも)すべきの基(もと)とも相成り然(しか)るべからず候。只々(ただただ)時機到来を御待(おま)ちあそばされ漸次(ぜんじ *だんだんに)其(その)指針に従ひ御動(おうご)き遊ばれはんては相成り難く候。......(中略)......
......朝廷に於ては特別出格の聖恩を垂れさせられ候て関東の内願を御許容在(あ)らせられ公武御一和を天下に表示遊ばされて、漸次に五蠻の條約引戻(ひきもどし *和親条約のレヴェルに戻す)は勿論(もちろん)国政の大事件は奏問(そうもん *奏聞。天子に申し上げること)の上(うえ)夫々(それぞれ)執行仕るべき様(よう)関東え懇々(こんこん)と御沙汰在らせられ候得ば、関東に於ても朝廷より特別出格の御保護を蒙(こうむ)り奉り候儀ニ付き、御沙汰に背(そむ)き奉り候儀は出来(でき)難く仕り必定(ひつじょう)御請(おうけ)仕るべくと存じ奉り候。箇様(かよう)に御委任の政柄を隠然と朝廷に御収復の御方略に拠せられ候得ば、大政御委任の名義は猶(なお)関東に存在仕りながら其(その)実権ハ朝廷に於て握り為(な)され御事に相成り申すべく候。......
               (同前 P.142~145)

 岩倉の長期目的は、明らかに国政を朝廷のもとに取り戻すこと(王政復古)である。この長計にのっとって、「和宮降嫁」を許し、「公武一和」を天下に明らかに示して、徐々に5カ国との条約も引き戻し、それだけでなく国政の大事件は天皇の許可のうえで執行するように仕向けて、名義は「大政委任」の形を維持しながらも、実権は朝廷に於いて握るようにすべきだ―というのである。拙速な行為は、「朝廷の私戦」と捉えられ中立派を増大させるばかりでなく、徳川恩顧の諸大名が武器をとって朝廷に敵対すること、あるいは「一隅に割拠」し時機をみて関東に成り代わって覇権を握ろうとする雄藩を現出させるからである。
 「和宮降嫁」は、結局、最後に孝明天皇の決断で本決まりとなった。和宮の一行は、1861(文久元)年10月20日京都を発ち、議奏坊城俊克と武家伝奏広橋光成が勅使となって同行した。また、岩倉具視と千種有文が2人に付き添うこととなった。
 「和宮降嫁」は、尊攘激派の解釈(幕府の朝廷への強要)とは異なり、朝廷と幕府のそれぞれの思惑が一致した結果により成立したのである。だが、世間の人びとは、そのようには理解していなかったようである。「公家社会では権関白(久我建通のこと。議奏首席で天皇の信任をもとに権威を示していたことから、蔭の関白と言われていた)が髭(ひげ)和尚(千種有文)と守宮(もりのみや。宮殿を守る意と夜行性爬虫類のヤモリの意を合せた岩倉につけられたあだな)の二人の手下を使って、幕府から賄賂をとり、所司代に加担して、天皇を欺(あざむ)いて和宮を人質とする幕府の姦策を幇助(ほうじょ)した、という噂が流された。」(佐々木克著『岩倉具視』吉川弘文館 2006年 P.34)のであった。
 江戸での老中との実際の交渉を行なったのは、岩倉と千種であった。岩倉はなかなかの外交巧者であった。岩倉らは、尊攘激派が流したデマ(①幕府が和宮を人質として孝明の廃帝を企てている、②)外国に海岸の測量を許可した、③老中の久世・安藤が西洋人と兄弟の如く親しくしている)を問いただし、幕府側の誠意をみせた誓書を要求した。幕府は老中の誓書で処理しようとしたが、岩倉はさらに老中は退役する場合があるからといって、将軍の自筆の誓書を要求した。以下は、その将軍の誓書である。

先年来、度々(たびたび)容易ならざる讒説(ざんせつ *人を悪くそしること)、叡聞に達し、今度御譲位など重き内勅の趣(*廃帝の流言)、老中ヨリ具(つぶさ)に承り驚愕(きょうがく)せしめ候、家茂ヲ始め諸臣ニ至(いたる)迄(まで)、決て右様の心底これ無き條(じょう)、聖慮を安めらるべく候、委細ハ老中ヨリ千種・岩倉へ申し入るべく候、誠惶謹言(せいこうきんげん *おそれかしこまって謹んで言うこと)
  十二月十三日
                              家茂
                         (『孝明天皇紀』三 P.719)

 岩倉は、1861(文久元)年12月14日江戸を発ち、24日に京都に帰着した。しかし、翌25日に参朝し、将軍の誓書を呈上したのは、千種有文であった。岩倉は、11月21日に実母の淑子(すえこ *勧修寺経逸〔つねはや〕の女)が亡くなったため喪に服し、参朝できなかったからである。
 井伊大老が1860年に桜田門外で暗殺され、幕府の権威の衰えが天下に知れ渡り、これに乗じて、翌年夏ごろから雄藩の中央政界への進出が目立ち始まる。
 まず長州藩が、1861(文久元)年5月頃から、長井雅樂の「航海遠略策」に基づき「公武合体策」を推し進める。これには、朝廷も幕府も大いに乗り気であった。しかし、久坂玄瑞らは雅樂を厳しく批判し、朝廷も1862(文久2)年5月頃から批判的となる。長井の「公武合体策」がかならずしも朝廷中心ではなかったからである。これにより、長州藩内では、雅樂への批判がさらに強まり、結局、長州藩は6月に長井を失脚させた。そして、薩摩藩に対抗する意味合いからも、7月には「公武合体」の強調から「破約攘夷」へ藩是を転換する。
 この1862(文久2)年4月16日、島津久光は1000余の藩兵を率いて、御所を守衛することを名義に上京する。久光は、この「率兵上京」にあたり下準備工作に、江戸滞在の堀次郎(後の伊地知貞馨〔いじちさだか〕)を京都に送り込む。岩倉は、この際に堀次郎と面会し討論している。
 当時の京都は、尊攘激派の伸張により、「天誅」と称したテロ活動が吹きまくっていた(1862〔文久2〕年2月から、翌文久3年10月)。朝廷もさすがにテロ活動には手をやき、その鎮圧を久光に依頼する。この結果が、4月23日の「寺田屋事件」である。
 久光の政治目的は、朝廷改革と幕政改革であり、その具体案を示して孝明天皇が願う処の「徳川家扶助」「公武一和」に尽力したい―と建白したのである。久光の建白に応えて、大原重徳を正使とした江戸への勅使派遣(久光が随行)が、5月中旬頃に決定する。
 その直前の5月11日、孝明天皇はいわゆる「三事策」を提示し、これを廷臣に諮問した。「三事策」とは、①将軍が上洛し、「夷戎を攘(はら)い」、国家を治めること、②豊太閤の故事にならい、沿海の大藩五か国を五大老とし、「攘夷の功」をあげること、③一橋慶喜を将軍補佐、松平慶永(春嶽)を大老にして、幕政を補佐すること―である。(久光の朝幕改革構想と「三事策」については、本稿P.171を参照)
 「三事策」の①は長州藩の主張、②は岩倉具視の主張、③は薩摩藩の主張である。岩倉は、「神州万歳堅策」では、朝廷が雄藩と結託して幕府に対抗する策を採らないとしていた。「和宮降嫁」に関する意見書でも基本的には変わっていない。ところが、久光の「率兵上京」の頃には、従来の対幕策が大きく転換し、雄藩との提携を積極的に進める見地に至っている。幕府老中たちの「因循姑息」に愛想をつかしたというのであろう。
 しかし、岩倉はただ一藩との提携は、その藩の覇権を生み出す危険性があるとみて、②の五大老制を提案しているのである。五大藩とは、薩摩・長州・仙台・金沢・土佐の五藩である。岩倉の五大老制は実現していないのであるが、その狙いは、あくまでも朝廷中心の「公武合体」であり、公論に基づいた「王政復古」なのであった。
 しかし、尊攘激派の勢いは、「寺田屋事件」で鎮静するものではなかった。その執拗な攻撃は、岩倉ら「和宮降嫁」を推進した公家たちをも狙い撃ちした。1862(文久2)年7月24日、岩倉は仲間のすすめもあって近習を辞退する。正親町三条・中山・野宮定功もまた25日に、議奏を辞職した。
 1862年8月20日、朝廷は岩倉・千種・富小路に対して蟄居(ちっきょ)を命じ、さらに辞官・落飾(僧体になること)を請うことを命じた。25日には、同じような処分が久我建通にも下された。閏8月25日には、近衛忠尚に対して重慎・落飾が命じられた。
 こうして岩倉は、京都北郊の岩倉村に隠棲し、政治の表舞台から姿を消した。岩倉は2年数か月にわたって、岩倉村でひっそりと過ごしたが、ようやく諸士が来訪するようになるのは1865(元治2)年の早春からである(慶応への改元は4月7日)。
 この間には、1863(文久3)年の8・18クーデター、1864(元治元)年7月の禁門の変、同年8月の第一次長州征伐と4カ国連合艦隊の馬関攻撃などが起こり、政情は大きく変化する。長州藩と尊攘激派は京都から追放され、政局は長州処分の問題をめぐり、幕府・諸藩・朝廷の諸関係が激しくせめぎ合う形となった。
 1865(慶応元)年閏5月、将軍家茂は大坂城に入り、第二次長州征伐の本営とした。だが、長州征伐に反対する諸藩は勢いを増し、とくに薩摩藩は幕府から離反する姿勢を明確にする。
 すなわち、西郷隆盛は8月28日付けの書簡(大久保一蔵・蓑田伝兵衛宛て)で、「......膳所(ぜぜ)の一挙〔*膳所で勤王派による将軍暗殺の風説が流れ、ここでの宿泊を止め大津駅に変更した〕にさえ幕人(*幕府の人間)数多(あまた)相加(あいくわ)わり候趣と相見得(あいみえ)候えば、内輪(うちわ)の混雑推(お)して知られ候事に御座候。段々承(うけたまわ)り候えば、幕人諸浪士と結び合い候者過分の由、江戸城を二篇(にへん *二回)焼き候も、幕人内応の者より火を挙げ候説に御座候。幕中の有志は悉(ことごと)く退かれ、其の上(そノうえ)浪士抔(など)と内を謀(はか)り候位(そうろうくらい)の事に候得ば、自らたおれ(倒れ)候儀、疑(うたがい)なき事に御座候。......」と完全に幕府を見限っている。(しかし、西郷の指摘(幕人の幕府からの離反)は誇張があり、また下線部の如きは謀略的風説である。)
 大久保利通も、9月21日、朝廷が幕府の要請で長州征伐の勅許をえると、「非議の勅命は勅命に有らず」と、孝明天皇をも厳しく批判する。西郷・大久保らは公然と、割拠(自立)の方針をとるのであった。
 そのような情勢の下で、岩倉は1862(文久2)年の処分以来、3年間の沈黙を破って、自らの政治的見解を積極的に明らかにした。その文書が「叢裡鳴虫(そうりめいちゅう)」である。それは、香川敬三(水戸藩処士)とともに岩倉邸を訪れた井上石見(薩摩の諏訪神社の神職で、薩摩藩の周旋工作にあたっていた)を通じて、小松帯刀と大久保利通に渡されたものである。岩倉は、王政復古のための政権構想に雄藩の薩摩藩の位置を重視し、小松と大久保の「叢裡鳴虫」に対する意見を聞きたいと、斡旋を井上に依頼したのである。(なお、岩倉は姉婿中御門経之を通して「叢裡鳴虫」の考えを朝廷にも広げようと工作している)
 「叢裡鳴虫」は、政事情報も暗い蟄居中に書いたものであるが、岩倉の目的はあくまでも王政復古である。すなわち、「......朝廷今日ノ急務ハ確乎(かっこ)不抜ノ廟議ヲ定メテ天下ノ人心ヲ収攬(しゅうらん *人々の心をとらえること)スルニ在リテ彼ノ三事策ハ猶ホ用ヰテ朝議ノ基礎ト為スニ足ル。」として、その基本的方向性は「三事策」に沿った新たな政治システムの構築であった。確かに、冒頭部分で「敬(つつしみ)テ案スルニ前年(*1862年)宸裁(しんさい *天皇の裁定)アリシ三事策ハ終始事勢(*時勢)ニ適切ナル善猷良謨(ぜんゆうりょうぼ *よいはかりごと)ト時局ニ明カニシテ世務(せいむ *世の中の仕事)ニ老(た)ケタル士ハ......讃称(さんしょう *ほめたたえる)シテ已(や)マス、爾来(じらい *それ以来)歳月ヲ経(へ)ルト雖(いえども)今日仍(な)ホ勅意ヲ拡充シテ実地ニ施行スルモ何ノ障碍(しょうがい)カ(が)之(これ)有ラン......」(『岩倉具視関係文書』一 P.146)と言っている。
 これは、孝明天皇への心服を表わすだけでなく、大原勅使に随身し、幕政改革(一橋慶喜の将軍後見職、春嶽の政事総裁職への就任)を促した久光の功績に「敬意」を表わしたものである。
 だが「叢裡鳴虫」は、決して「三事策」の単なる解説書なのではない。その証拠には、そこには以下に示すように、岩倉の新たな政治構想が盛り込まれているからである。
 すなわち、「三事策」の①では、次のように改革策が述べられている。

右(みぎ)本策(*将軍が上洛し、国家を治めること)ヲ断行スルハ今日ヲ以テ好機会トス。今ヤ大樹(*将軍)大坂城ニ在リ、和宮ヲ江戸ヨリ迎ヘテ共ニ二条城ニ居リ、日々参朝シテ天顔(てんがん *天皇のお顔)ニ咫尺(しせき *前近くに出てお目にかかること)シ君臣ノ間(あいだ)水魚ノ如クナルトキハ〔*君臣関係が非常に親密なこと〕誰カ能(よ)ク之(これ)ヲ離間(りかん)セン。政令ハ内外ヲ論セス、大事ハ具状(ぐじょう *つぶさに)宸裁ヲ仰キ万機一途(*一筋の道)ニ出テシムヘシ。幕吏カ曾(かつ)テ望(のぞ)ム所ノ公武一和其実(そのじつ)始メテ挙(あ)カリ、国内協和諭(さと)サスシテ成ルヤ必(ひっ)セリ。誠ニ国家ノ幸福ナリ。...... (同前 P.157)
 
 政令は内外を問わず、大事な問題は天皇の親裁を得て「万機一途に」出るようにする。このために、和宮を江戸から移し、将軍とともに二条城に住まわせ、そこから御所に参勤して
天皇と将軍が「水魚の交わり」のような君臣関係を作る必要がある。そうすれば、「政令二途に出る」弊害はなくなるというのである。そして、「公武一和」は初めて成果があがるというのである。
 「三事策」の②の「五大老」制は、次のように捕捉されている。

右大藩(*沿海の雄藩)ノ中ニ就キ経世(けいせい *世の中を治めること)ノ才アル者五人ヲ撰定(選定)シテ幕府評定衆ト為(な)ス。而(しこう)シテ大樹参朝シ政(まつりごと)内外ト無(な)ク関白ト評決シテ上奏施行スルヲ以テ、国家ノ大事ハ朝廷ニ於テ議伝両役(*議奏と武家伝奏)・老中・評定衆会議シテ其(その)利害得失ヲ審(つまびら)カニス。此(かく)ノ如クスルトキハ朝幕(*朝廷と幕府)岐(き *分かれ道)セス、政令一(いつ)ニ出テテ(イでて)他ヨリ毫モ(ゴウも *少しも)異論ヲ容(い)ルヘキノ隙(すき)ナシ。但シ五大老ノ名称ノ如キハ必(かなら)スシモ本文ニ拠(よ)ラスシテ可ナリ。其(その)宜(よき)ニ従ヒ更ニ之(これ)ヲ撰定スヘシ。

 「五大老」制の提起は大きく変わり、かつての「五大老」は「幕府評定衆」になっている。そして、国家の大事に関しては、将軍・関白のみならず両役・老中・評定衆の会議で決め、それを上奏して許可を得る―としている。
 これはもはや、朝幕とは名のみで、実際は天皇の下に一体化した政治システムに変化している。「政令二途に出る」弊害をなくすために、朝幕一体化している。それに加え、従来は幕府中枢の活動に関与できなかった外様などの雄藩を恒常的に新政治システムに参加させているのである。
 「三事策」の③については、次のように改変されている。

右(みぎ)大樹猶(な)ホ弱齢ニシテ方今(ほうこん)国家危急ノ秋(とき)ナリ。一橋氏ハ禁裡(禁裏)御守衛総督ヲ以テ補翼(ほよく)兼子シメ(カネしめ)、越前春嶽氏ハ評定衆ノ一人ニ列セシムヘシ。

 かつての「一橋の将軍後見・春嶽の政事総裁」は完全に老中の抵抗で失敗し、岩倉としては、慶喜はすでに「禁裏御守衛総督」として取り込んでいるのでそのまま天皇を補翼させ、春嶽は「幕府評定衆」の一人として遇することとした。これは、老中たちの抵抗を排して、朝幕一体の政治システムの中に解消するものである。
 今や岩倉の「公武合体」は、朝廷と幕府の「自立」を前提とした、その両者の「一和」ではなく、明確に天皇を頂点とした朝廷基軸の下で、幕府を取り込んだ形の「公武合体」なのである。しかもそれは、単に朝幕の二者のみではなく、雄藩をも参加させた新たな政治構想である。
 そして、留意すべきは「建武の中興」での武士の登用で、楠正成よりも足利尊氏を重視した故事を教訓として、大藩の登用には「朝廷古今ヲ鑑照シ功労ノ如何ヲ考ヘ公明正大ノ措置アラン」(同前 P.152)こと強調しているのであった。
 岩倉は、「叢裡鳴虫」に引き続いて、「続叢裡鳴虫」を書いている。前者が書かれた時期は、6月とか8月とか諸説あるが正確には分からない。だが、9月7日付けの藤井良節(井上石見の兄)宛ての書簡で、「御舎弟(*井上石見のこと)え御伝声、事件いかがに哉(や)、昨今のうち両士(*小松と大久保)入来の旨に候えども誠に大事の前、寸刻も油断あるべからざる急務と存じ候に付(つき)、待ちかね音信に及び候、否や一筆頼み存じ候」(大久保利謙著『岩倉具視』中公新書 19743年 P.144~145)と述べている。したがって、井上石見に「叢裡鳴虫」に手渡したのは、それ以前である。
 しかも、大久保一蔵がこの年3回目の上京をめざし、大坂に着いて(9月13日)西郷隆盛や吉井友実と長州再征阻止のための協議を行なっている。しかし、9月20~21日の朝議は、慶喜の要請に応えて長州再征を決定した。したがって、「続叢裡鳴虫」は、長州再征をめぐっての緊迫した時期に書かれたのは間違いない。
 岩倉は、「続叢裡鳴虫」の冒頭部分で「......拙陋(せつろう *つたなく卑しい)ヲ顧(かえり)ミス続編を艸(草)す、蓋(けだ)シ独(ひと)リ薩藩ニ対シテ言フノミ、請フ此意(このい)ヲ諒セヨ」(『岩倉具視関係文書』一 P.165)と、言い切っている。その熱烈さは、「予三郎氏(*久光のこと)ニ面会スルノ時ニ於テ始メテ非常ノ偉器タルコトヲ知レリ」、「予ハ薩藩ヲ仰慕(ぎょうぼ *あがめ深く慕うこと)シ薩藩ノ宿志ヲ貫キ国家ノ柱石タランコトヲ望ムナリ」(同前 P.167)とまで言わせている。そして、その頼みの薩摩藩主父子の速やかな上京を、次のように促している。

......而シテ今ヤ薩藩主父子依然トシテ国ニ在リ。袖手傍観(しゅうしゅぼうかん *袖〔そで〕に手をいれて、そばで眺めていること)朝家ノ安危(あんき)ヲ度外ニ措クモノノ如シ、予(*岩倉のこと)怪訝(かいが *あやしみいぶかること)ニ堪(た)エス。夫(そ)レ朝廷ハ寸兵モ有セス、惟(ただ)口舌(こうぜつ)ヲ以テ争フノミ。若(も)シ一朝(いっちょう *ひとたび)木曽義仲カ朝廷ニ迫リテ東伐ノ宣旨(せんじ)ヲ請フカ如キ梟雄(きょうゆう *残忍で勇猛な人)ノ出ツル有ラハ朝廷衣冠ノ徒(と)豈ニ(アに *どうして)能(よ)ク之(これ)ヲ折衝センヤ、其(その)暴威ニ抑圧セラルルヤ必セリ。又(また)長防ノ処分ノ如キ其(その)結局如何(いか)ナルヲ知ラス、至忠至誠ノ者(もの)豈ニ坐視拱黙(ざしこうもく *袖手傍観)ノ秋(とき)ナランヤ。惟(ただ)願フ、薩藩父子ノ中(うち)速(すみやか)ニ上京シ、須曳(須臾〔しゅゆ〕)モ〔*わずかの間も〕宮闕(きゅうけつ *宮城)ノ側ヲ離ルス、外ハ皇家ノ城湟(じょうこう *城の堀)ト為(な)リ内ハ朝政ヲ預聞(よぶん *かかわること)シ鞠躬(きくきゅう *身をかがめ慎みかしこまること)補翼(ほよく *ほさすること)以テ宿志ヲ成サンコトヲ旦暮(たんぼ *朝夕)切望ニ堪エサルナリ。    (同前 P.168~169)

 「続叢裡鳴虫」の本旨は、「三事策」について、補足して説明することにある。しかし、その内容はことさら目新しいものはほとんどない。
ただ、「朝議ノ第二策ハ其意(そのい)幕府の故格ヲ破リ威権ヲ殺(そ)クニ在(あ)リ。薩長二藩ニシテ尚(な)ホ力ノ足ラサルコト有ラハ他ノ諸大藩ニ頼ラント欲セシナリ。海岸ノ五大藩トハ東ニ伊達、西ニ嶋津、南ニ山内、北ニ前田、中国ニ毛利ナリ。」(同前 P.181)と、さらに一歩踏み込んで内幕を吐露している。 この文面をみると、岩倉は当初から頼るべき雄藩は、薩長二藩に定めていることが明らかである。
 さらに注目すべきは、同書の最後に、幕府の行く末・徳川氏の処遇を次のようにはっきりとさせている。

既ニ幕府ヲ廃シ政柄(せいへい *政権)朝廷ニ復帰セハ徳川氏ハ関八州ノ領主タルコト当然ニシテ徳川氏モ恥(は)ツヘキコトニ非(あら)ス。此(この)論ハ重(かさね)テ之(これ)ヲ草サントス。姑(しばら)ク此(これ)ニ贅(ぜい)ス〔*これに続く〕。
            (同前 P.183)

 ここでは、幕府を廃止し、徳川氏は関八州の領主に格下げする―と明言している。岩倉は、さらに一歩踏み込んだ発言をしているのである。
 当時の切迫した情勢の下で、「続叢裡鳴虫」もまた、長州再征の問題について少なからずの分量を割いている。「三事策」を論ずる前の部分で、岩倉は幕長の間で「開戦ニ至ラハ勝敗ノ何(いず)レニ帰スルヲ問ハス恐ラクハ朝廷ノ大患タラン」(同前 P.170)と予測している。その理由は、すぐに続けて以下の通りである。【ゴチックは、引用者による。】

何トナレハ、幕府勝利ヲ得ンカ、譜代ノ大小名ハ論ナク〔*勿論だが〕観望ノ〔*様子見の〕外藩モ亦(また)必ス之(*勝利した幕府)ニ畏服(いふく *恐れて従うこと)セン。是(ここ)ニ至レハ幕威乍(たちま)チ又(また)頓(にはか)ニ〔*急に〕振起(しんき)シテ勢(いきおひ)破竹ノ如ク、将(ま)サニ謂ハントス、"天下何ソ恐ルルニ足ラン、長州堤封二州ニ跨(またが)リ人口百万(ひゃくまん)加フルニ草莽(そうもう)敢死(かんし *決死)ノ士(し)数万協力シテ之(これ)カ〔*長州の〕干城(かんじょう *藩を守る武装力)ト為(な)リ之(これ)カ爪牙(そうが *暴力装置)ト為リ強武(きょうぶ)比(ひ)ナシト誇称(こしょう *自慢げに誇大に言う)セシモ幕府ノ大旆(たいはい *大旗)一指スレハ〔*大旗を一振りすれば〕枯ヲ振ヒ朽ヲ拉(くじく)カ如シ〔*枯れ木をゆすり朽ちた木をつぶすかのようだ。物の破りやすいたとえ〕、天下誰カ復(ま)タ幕府ニ抗スル者ソ。大小ノ諸藩苟(いやしく)モ幕府ニ抗セハ討伐シテ假(か)スルコト無ク〔*大目に見ることなく〕復(また)長州ノ如クニ為サン"ト。若(も)シ其(そ)レ此(かく)ノ如(ごと)クンハ朝廷ニ対シ何等(なんら)ノ意見ヲ述ヘ何等ノ事柄(ことがら)ヲ為スヤ測ラレス、之ヲ思ヘハ心膽(しんたん *心胆)ヲシテ寒カラシム。又(また)長州勝利ヲ得ンカ、元来(がんらい)長州ハ天下人心ノ帰スル所(ところ)観望ノ外藩ハ其(その)強武ヲ仰慕シ、必ス之(これ)ニ葵向(きこう *ひまわりが日の照る方向に廻ること)シテ其(その)威勢ハ天下ヲ圧スヘシ。此時(このとき)ニ至リ長藩主父子其志(そのこころざし)至忠至誠ヲ在シテ臣従ヲ駕馭(がぎょ *馬をのりこなす)スルノ才略アラハ〔*家来を使いこなす才知があれば〕則(すなは)ち可ナリト雖(いえども)、若(も)シ其(その)才略ナク臣従ノ輔導(ほどう *たすけ導くこと)ニ倚頼(依頼)シテ策ヲ建ツルモノトセハ、其(その)臣従及び寄食ノ志士カ過激ノ暴説再燃シテ又(また)朝廷ノ上ニ行ナハレ其(その)憎(にく)ム所ハ当路(とうろ *重要な地位にあること)ノ大臣ト雖(いえども)之(これ)ヲ擯斥(ひんせき *排斥)シ其(その)愛スル所ハ枢要ノ地ニ立タシメ、癸亥八月(きがい *文久3年の8・18クーデター)ノ挙ニ報センコトヲ計ル〔*8・18クーデターへの報復を計る〕ハ必セリ。此(かく)ノ如クナレハ天下復(ま)タ大(おおい)ニ乱レン。而(しこう)シテ主上(しゅじょう *天皇)亦(また)彼(かの)輩(やから)ノ言論ニ圧セラレ宸襟(しんきん *天皇の心)ヲ悩マスコト何如(いかん *如何)ソヤ。   (同前 P.170~171)

 岩倉は、幕府が勝利した場合は、あの長州を打ち負かしたからと幕府に反抗する藩はなくなり、そうなれば朝廷に対して、幕府がいかなる無理難題を仕向けるか予測できない。これは全く肝を冷やす事態である―と警戒する。
 また、長州藩が勝利した場合は、藩主父子が家来を使いこなす才知があればよいが、その才知がなくて家来のいうがままに策を建てれば、家来や尊攘激派の志士の「過激ノ暴説」が再燃する事態となる。また、同様に朝廷政事に対しても依怙贔屓(えこひいき)な態度をとり、必ずや8・18クーデターへの報復を行な
うであろう。こうなると天下はまた大乱となる。そして、その暴説は天皇を悩ますこととなるであろうが、それはいかがなものであろうや―と危惧する。
 こうして、「然ラハ勝敗ハ孰(いず)レニ帰スルモ此(これ)朝家ノ大難ナリ。預(あらかじ)メ之(これ)を駕馭スルノ成算(せいさん *成功する見込み)ヲ胸中ニ蓄ヘサル可(べ)カラス。」(同前 P.171)と薩摩藩に警告している。天皇第一の岩倉の立場からすれば当然であろうが、長幕戦争の帰趨が朝廷にいかなる影響を与えるかが、唯一の関心事なのである。
 朝議においては、長州再征について、激しい意見対立があって容易にまとまらなかったが、最後は孝明天皇の裁断で征伐の勅がおりた。
 岩倉はこの書で、この長州再征については次のように言明している。

今ヤ戎夷外(そと)ニ覘(うかが)フ兄弟相閲(あいすべ)ク〔*互いに統制する〕時ニ非(あら)ス。故ニ長州ハ当初一意(いちい)勅命ヲ奉シテ周旋(しゅうせん *勅命実現に奔走すること)シタル功労ニ対シ、其(その)首謀者一人ヲ罸(ばっ)スルニ止(とど)マリ其他(そのた)ハ宥(ゆる)シテ問ハス。而(しこう)シテ其(その)藩主ニ上京ヲ命シテ朝議ニ参預(さんよ)セシメバ庶幾(こひねがは)クハ異論ノ起ルコトナカラン。  (同前 P.173~174)

 ここでも岩倉の立場は、薩摩藩と一致している。そして、岩倉は朝廷政治をもまた批判し、改革の必要性を述べている。
 岩倉は「近年天下ノ人心朝命ヲ信セサルノ傾(かたむ)キアル者ハ何ソヤ」と設問し、それについて「朝命ノ有ルモ終リ無キニ由ルカ(*言いぱなっし)」、「詔勅ハ真ニ宸衷(*天皇の心)ニ出ツルモノニ非ス」などの評価を挙げ、次のように彼の意見を表明している。

......此(この)?(へい *弊)ヲ洗剔(せんてき *除去すること)スルニハ従前発しシタル所ノ勅諚ヲ履行スルニ在リ。之(これ)ヲ履行スルニハ夫(か)ノ三事策ヲ以テ基礎ト為(な)シ、前ニ依頼スル所ノ藩主ハ挙ケテ五大老ニ班セシメテ自今施行スル所ノ政令ハ真ニ宸懐ヨリ出(い)ツルコトヲ知ラシムルニ在リ。此(かく)ノ如ク其(その)実ヲ挙クルトキハ天下ノ人心帰向スル所(ところ)自ラ定マラン。...... (同前 P.174)

 岩倉は、朝廷政治への批判・不信に対しても、「三事策」の実践により解決しうるとしている。
 9月に入ると、岩倉は朝廷を中心とした政治構想を現実化させるための「全国合同策」を書き、中御門経之を通して二条関白に上申した。
 「全国合同策」の核心は、「方今の形勢外(そと)ハ醜夷(しゅうい)猖獗(しょうけつ *悪者や悪いことがはびこること)内(うち)ハ幕吏跋扈(ばっこ *思うままにのさばること)四海鼎拂(ていふつ *かなえが沸くように議論がわきたつこと)群雄割拠の姿(すがた)顕然トシテ天下の危急目睫(もくしょう *目とまつげ)の上ニ集リ〔*危難が迫っていること〕候」(『岩倉具視関係文書』一 P.184)という情勢の下で、国政一元化の構想を具体化することである。
 その内容は、「薩藩の始末」、「長藩の始末」、「脱藩及び草莽志士の始末」、「世評の始末」、「醜夷の始末」と諸方面のこの間の動きを分析し、日本の独立をも脅かす対外危機を前に、「全国合同」の具体策を提起することであった。
 薩摩藩・長州藩・脱藩浪士及び草莽の志士に対しては、今までの「勤王攘夷」の働きを評価し、さまざま遺憾(残念なこと)もあろうが「既往(きおう *過ぎ去ったこと)ノ公怨ハ悉皆(しっかい *すべて)遺却(いきゃく *忘れ去ること)シ向後(こうご)諸事一新......皇国合同、醜夷の禍患ヲ掃攘(そうじょう *はらい去ること)シ国威御更張」の覚悟であるから、朝廷に協力すべきとした。そのために、薩長両藩は速やかに上京すべきと促した。脱藩及び草莽の志士に対しては、鎮静にして勅諚を待ち、国家緩急に際には忠勤すべきとした。
 これらの勢力と対立する幕府に対しても、「公怨ハ悉皆遺却」して、朝廷に協力すべきとした。
 ただ「醜夷ノ処分」については、今後の衆議に委ねるとして、肝心の問題は先送りしている。そして、とにかく国内の一致協力が必要と訴えている。
 ここで注目すべきことは、従来の叡慮は「遺憾少なからず候」といって、朝廷のみならず天皇の不手際をも批判していることである。
 たとえば、「薩藩の始末」では、久光の勤王の志が中途半端になった原因として、「恐れながら叡慮如此(かくのごとく)終始御一貫在らせざる候てハ如何ナル廟論ヲ惹起シ再ひ皇威の不振ヲ招キ候様立ち至るべき歟(か)ト竊(ひそか)ニ杞憂(きゆう)苦慮(くりょ)仕り候」(同前 P.187)と、率直に批判している。それは、8・18クーデターの前と後とでは、一貫性がないというのである。
 「長藩の始末」でも、「......此間(このかん)ノ事ハ恐れながら叡慮終始御一貫在らせざり候ヨリ差し起こり候歟(か)ト存じ奉り候。之(これ)カ為ニ如何(いかが)の廟議モ差し起こり其(その)結果終(つい)ニ昨秋七月十九日ノ暴動(*1864〔元治元〕年の禁門の変)アルニ及ヒ候......」(同前 P.189)と、批判している。
 「世評の始末」でも、「......抑(そもそも)一昨年八月ノ一挙(*8・18クーデター)ニ原(もと)ツクカ将タ〔*それとも〕廷臣ノ密奏ニ由(よ)ルカ且又(かつまた)列藩ノ建言ニ起ルカ事実ノ捉(とら)フ可(べ)キ者ナシト雖(いえども)、恐れながら聖断(せいだん *天皇が下す裁断)前後齟齬(そご *くいちがい)スルニ原由(げんゆう *みなもと)セスシテ何ソヤ......」(同前 P.193)と、天皇の裁断の一貫性のなさを批判している。
 これらは、大久保利通の「非義の勅命は勅命に有らず」という批判と同工異曲である。つまり、「真ニ宸衷ニ出ツル」詔勅とは、天皇自身が矛盾した詔勅を出すことを改めるべきだ、ということである。
 「全国合同策」は、最後に「副議」を設け、幕府と薩摩藩へ朝廷からの次のような沙汰書を降すべきとして、その草案(岩倉起草)を掲載している。

 〈幕府への御沙汰書〉
内憂外患旦夕(たんせき)ニ差し迫り容易ならざる形勢ニ推移シ、日夜深く宸襟(しんきん *天皇の心)を悩まされ往時の政令御熟慮の処(ところ)、御遺憾(*残念)の件々モ少なからず候。今度万機一新天下協戮(勠ヵ *協力)軍備ヲ拡張シ外夷ノ心膽(心胆)ヲ取り挫き不日(*いつか)国害掃蕩(そうとう)の成功とげらる〔の〕遠大の御方略運(はこ)ばされるべく思召し候。之(これ)に依(よ)り国家の重事厚ク御評議遊ばされたく早々上洛之(これ)有るべく仰せ出だされ候事。 但し長州ノ処分御委任中如何(いかが)ト思召され候得共(そうらへども)未タ干戈(かんか *鋒と楯すなわち武器)ヲ交えざる儀ニ付き、責問の筋(すじ)暫時(ざんじ)猶預(猶予)上京仰せ附けらるべく思召し候。嶋津大隅守(*久光)勤王佐幕の忠志士浅からず是迄(これまで)追々(おいおい)御沙汰の次第モ之(これ)有り候ニ付き、上京致すべく仰せ下され候事。

〈薩摩藩への御沙汰書〉
天下ニ率先(そっせん)勤王ヲ唱ヘ幕府ヲ佐(たす)ク其(その)忠志叡慮感在(あ)らせされ候処、往年(おうねん)彼是(かれこれ)御遺憾の件々モ少なからず候。今度万機一新天下協勠国威更張遠大の御方略運ばされるべく思召し候ニ付き、厚く幕府ヘ御談合の事ニ候。之(これ)に依り御倚頼(依頼)の筋あらせられ候間、急速上京致すべく仰せ出され候事。 (同前 P.204~205)

 「全国合同策」の特徴は、何が何でも天皇の下に国政一元化を推進しようということである。幕府と反幕勢力とが真向から対立しているにもかかわらず、天皇の権威のもとに諸勢力を強引に統合する訳である。その大義名分は、西洋諸国の圧迫であり、属国化の危機に対して、国内諸勢力は天皇の下に団結すべきである―ということである。
 すなわち、「「醜夷ハ之(これ)ヲ攘除スルノ外(ほか)処置ナシト雖(いえども)昨年(*元治元年)ノ勅書ニ無謀ノ攘夷ハ朕カ好ム所ニ非スト仰出(おおせいだ)サレタルカ如ク軽卒ニ着手ス可(べ)カラサルハ当然の事、第一ニ国内同心勠力(りくりょく *力を合せる)スルニ非ラサレハ到底攘除ノ功ヲ奏スルコト能(あた)ハス候。」(同前 P.195)だからである。
 だから、「醜夷ノ処分ハ衆議ヲ取リ天下億兆ノ趨向(すうこう *物事のなりゆき)スル所ヲ確定シ断然ト鎖攘和親(*世評は鎖国・攘夷・和親の3つの傾向にあると認識)ヲ決定在らせたく......」(同前 P.201)と、肝心の問題を先送りしている。
 岩倉は、当時、外交問題は「攘夷」、「鎖港」、「和親」の三つに大きく分かれていたと認識している。「攘夷」とは、通商条約を全面的に破棄し、日米和親条約における外交関係まで「引き戻す」こと、「鎖港」とは、元治元年の国是で目標とされた「横浜鎖港」が実現された状態で、限定的な「交易」関係にあること、「和親」とは、長崎・横浜・箱館三港での交易関係のみならず更に一歩踏み込んで「同盟関係」を求める外交関係である(佐々木克著『岩倉具視』P.88)。岩倉は、この三分裂は容易には修復できないと見ている。
 しかし、この条約問題こそが対立の主原因であり、それを解決せずして天皇の下に団結せよ!というのである。これは、まさに政治路線の一致なき団結を進めるという、まさに本末転倒の政治観でしかない。こうした体質は岩倉に限るものではないが、矛盾を解決する正当な政治ではない。これは、矛盾を隠蔽したままでの上辺(うわべ)だけの団結でしかなく、一時しのぎの糊塗策にすぎない。
 しかし、この条約問題を一気に孝明天皇は裁断してしまう。9月21日の長州再征に引続き、10月5日に天皇は条約を勅許する(兵庫開港のみは不可)。いずれも一橋慶喜の強硬な主張に対して、朝議では異論もでたが、慶喜を厚く信頼する孝明天皇は勅許する。
 これには岩倉は、まさに驚天動地である。条約問題を棚上げにして、とにかく天皇の下に「全国合同」をはかろうと計画していたのが、天皇の一言でいとも簡単に岩倉の構想は「水の泡」と帰したからである。
 10月6日付けの藤井・井上兄弟宛ての岩倉書簡は、「只今中卿(*中御門経之)より来状、昨夜条約勅免に相成り候旨、だんだん歎息の趣(おもむき)申し越され、誠に以て仰天、言語もこれなき事に候、右に付いては目前、長藩そのまま差置かれ、此(かく)のごとき次第、輦下(れんか *天皇のおひざ元)とても平穏覚束(おぼつか)なく存じ候、実に以て御案じ申上げ候間......」(大久保利謙著『岩倉具視』P.152 から重引)と、とても驚いている。
 さらに岩倉に追い打ちをかけたのは、「和宮降嫁」に関連し処分を受けた公卿の赦免問題が11月頃に朝議で討議され、岩倉には厳しい評価が下されたことである。尹宮朝彦親王は、千種有文・富小路敬直はともかく、久我建通と岩倉具視の赦免には異議を唱えた。12月には、孝明天皇も彼らの赦免を朝彦親王に相談したが、親王の考えは変わらなかった。朝彦親王は、とくに岩倉については、薩摩藩士が出入りしていると警戒している。これを聞いて天皇は、千種有任(有文の息子)を通じて、岩倉に自重するよう促した。
 これを知った岩倉は、以後、薩摩藩士のみならず武家との交流を固く断わり、自身の活動もひかえるようになる。岩倉が再び活動を再開し活発化させるのは、第二次幕長戦争が開始される直前の5月頃からである。

注1) 釈迦の死(前5世紀と前4世紀の説がある)後、仏教勢力は100年間ほどは統一を保っていたが、その後、保守派の上座部(じょうざぶ)と進歩的な大衆部(だいしゅぶ)に分裂し、さらにそれぞれの内部でも諸派が次々と生まれ、200~300年の間に約18の部派に分かれる。部派仏教の時代である。しかし、前1世紀ころから新たな仏教運動が起こる。この運動は、従来の出家修行者を中心とするものからより広範に在家を含めた仏教に変えようというもので、自ら大乗(大きな乗り物)と称し、在来のものを小乗といって批判した。
 原始仏教は、その根本原理の一つに「無我」の原理をおいた。それは、「一切の存在は自我のような固定的な実体性をもたないというものである。言いかえれば因果性を離れた永遠の存在はありえないということ」(末木文美士著『日本仏教史』新潮社 1992年 P.80)である。仏教は、宇宙の創造者とか絶対者の存在を認めない。宇宙や世界は既存のものとして前提とされ、その創造者を問わない。原始仏教の「無我」の原理は、大乗仏教では「空」と呼ばれ、やはり最も中心的な原理とされた。
 だが、インド仏教は7世紀ころから勢いを欠き、この沈滞を打ち破るものとして、密教が台頭する。7世紀の初めに『大日経』が作られ、7世紀後半には『金剛頂経』が生まれ、密教を体系的・総合的に説いた。末木氏によると、密教の発展段階として、「1 所作(しょさ)タントラ―儀式の作法などについて説く。2 行(ぎょう)タントラ―外面的な作法の上に内面的な瞑想が加わる。3 瑜伽(ゆが)タントラ―自我と絶対者の合一を説く。4 無上(むじょう)瑜伽タントラ―瑜伽タントラをさらに発展させ、身体的・生理的要素の強い瞑想を説く。/このうち、所作タントラは雑密(ぞうみつ *雑部密教)にあたり、行タントラは純密(*純粋密教)のうちで『大日経』など、瑜伽タントラは同じく『金剛頂経』など、無上瑜伽タントラは『秘密集会タントラ』など、中国や日本には部分的にしか伝わらなかったタントラ類を含んでいる。」(同著『日本仏教史』P.79~80)とされる(タントラとは、密教の経典のこと)。中国や日本に伝わったは3までであり、それに対して、チベットでは4が最も重視されているという。
 従来の原始仏教・部派仏教・大乗仏教では、すべてが究極的には空に帰する「無我の原理」であった。ところが密教は、これらと根本的に異なり絶対者を設定し(それが大日如来)、この大日如来は永遠の宇宙的実態であり、自我がこの宇宙的な大日如来と一体化することにより、自我も絶対性を獲得できるとしたのである。それは、古代インドの哲学書ウパニシャッドにみられるように、ブラフマン(宇宙原理)とアートマン(自我の原理)の一致の理論と近似して来るようになる。これにより、従来の仏教の無我・空のもつ現世否定性が消えて、密教においては顕著な現実肯定性が支配するようになる。
 しかも、密教は、従来の仏教をまとめて顕教(けんきょう)とよび、密教と顕教を峻別した。だが、顕教は広く民衆に向かって開かれ、その世界観を明瞭に説いたが、それに対し密教は自己を非公開の教団の内に閉鎖し、秘密の教義と儀礼(呪的要素を含めて)を師資相承によって伝えるのであった。しかも、密教は、究極の真理性は密教のみに認め、顕教には認めない排他性が強かった。
 密教の全盛期は8~12世紀であるが、ヒンズー教の諸説を取り入れる。すなわち、諸尊を讃嘆し帰依する秘密語としてのマントラ〔真実の言葉〕を唱えたり、特定の文句で宗教上の深い意味を念じ込み、心を統一し、煩悩を滅除する。また、女性の生殖力を崇拝し、宇宙の根本原理であるブラフマンと同一視されたシバ神の神妃ドゥルガーの活動力であるシャクティ(性力)によって救済をはかるものとする説などである。
 こうして密教はヒンズー教との区別を不明なものとし、仏教の独自性を失い、密教は次第にヒンズー教に融合・吸収されていった。イスラム教がインドに侵入するとともに、密教の残光もうすれゆき、13世紀の初め、仏教を当時代表した密教はインドでは衰滅する。
 2)転生・行為(業)・解脱は、ヒンズー教・仏教・ジャイナ教など古代のインド思想では共通してセットとして捉えられ、受け入れらている(井狩彌介「輪廻と業」―岩波講座 東洋思想『インド思想』2 P.298~299)。
 インド古来のヴェーダ思想に基づくこの考えは、①人間は死後もまた地上の世界に再び生をうけるという「再生」あるいは「転生」の考え、②人間が一生のうちに行なった諸々の行為(カルマン)は、当事者の意識・無意識を問わず、彼の将来の運命を規定するという「業」の概念、③人間が繰り返す「転生」(輪廻)は永劫に続くのであり、これから解放されることが解脱(げだつ)である。①という運命の束縛から解放されること(解脱)、そのための条件を探求することが、インド思想の古来からの究極的な方向となったのである。
 ヴェーダ文献によると、「......胎児は胎膜に包まれて一〇もしくは九の月の間もしくは任意の期間〔母胎のうちに〕留まったのちに誕生する。彼は生まれては寿命のある限り生きる。そして、彼が死んだときこの世から〔来世へと〕定められた彼をひとびとは〔葬送の〕火へと運ぶ。その〔火〕から彼は〔この世に〕来たのであるが、その〔火〕から彼は〔来世へと〕生まれる」(同前 P.304)と言われる。ここでの下線部に付いて、井狩氏は次のように説明する。すなわち、「この謎めいた表現は、祭火を中心として展開されるヴェーダ祭式のサイクルにおける基本概念のひとつを背景において初めて理解されうる。ヴェーダ祭式の基本は、火壇を築いてそこに安置した聖なる火、すなわちアグニの神に供物(くもつ *神仏に供えるもの)を献じて付託するという形式にある。献じられた供物を、天と地、神々と人間との仲介者の役割を果たす火神アグニが天上へと運んでゆく。天と地、超自然的な諸力と人間との間の交流と富の交換の機能をになう祭式の場において、火神アグニはみずから神でありつつ両世界の媒介者の役割を受けもつものである。」(同前 P.309)と。
 密教が依拠したインド思想では、祭火は天上と地上の両世界を仲介することが本来の役割なのであった。もともとは、密教が行なう護摩を焚き、「能く諸行(カルマン)を焼き除く」意味はなかったのである。

R 王政復古クーデターへの道

(1) 孝明天皇の急死と恩赦問題
 慶喜が周りの反応をみながら将軍職に就いたのは、1866(慶応2)年12月5日である。反対派の妨害がありながらも慶喜が将軍の座につけたのには、孝明天皇のバックアップが大きな力となった。
 将軍家定が死去したのが1858(安政5)年7月6日で、家茂がその後に就いたのが10月25日である。その間の空白は、3カ月と20日前後である。家茂の死が1866(慶応2)年7月20日であるから、慶喜が将軍職に就くまでの空白期間は、約4か月半ぐらいである。したがって、それがとりわけ長い空白期間とはいえない。
 しかし、当時と今回では、情勢の厳しさと幕府の安定度合は決定的に異なっていた。長州問題の処理も未だ解決していないのに、兵庫開港は間近に迫っていたのである。条約では、兵庫開港は1968年1月1日(陰暦の12月7日)であり、少なくともその半年前から準備に入っていなければならなかった。それに列強はその前倒し実施を執拗(しつよう)に要求していたのである。
 ところが、孝明天皇が12月25日に急死した(36歳)。慶喜の将軍就任後、わずか20日ばかりであった。これまで、慶喜の要求を何回も受け容れ、慶喜の活動をバックアップして来た孝明天皇の急死は、慶喜にとっては大きな痛手であった。
 こうしたことから、かつては孝明天皇の急死は岩倉などの暗殺であるという説が有力であった。だが今日では、発病から死亡までの経過を記録した史料を医学関係者が検討した結果、死因は「紫班性痘瘡(とうそう)と出血性膿疱(のうほう)性痘瘡の両者をふくめた出血性痘瘡」であることが明らかにされた。これにより、今日では孝明天皇の死因は、天然痘(疱瘡)であることがほぼ「通説」の位置を占めるようになった。暗殺説は否定されたのである。
 孝明天皇の死をうけて、1867(慶応3)年1月9日、清涼殿(小御所)で践祚(せんそ *皇嗣が天皇の地位を受け継ぐこと)が行なわれ、明治天皇が新たな天皇に即位した。
 これに伴い、朝廷では大赦(たいしゃ *恩赦の一種で、皇室や国家にめでたい事があった時、一定の範囲の罪に対し刑を許すこと)が行なわれた。
 1月12日の朝議では、1863(文久3)年の幽閉者全員と、1864(元治元)年の幽閉者は選抜して赦免が、関白近衛忠煕と内大臣近衛忠房から提案された。この結果、15日大赦令が公布された。
 これによると、文久3年の幽閉者(8・18クーデター後の処分)のうち、広幡忠礼、徳大寺実則、長谷信篤の「自分遠慮・他人面会禁止処分」が、東園基敬、万里小路博房の「差控処分」が解除された。元治元年の幽閉者(禁門の変後の処分)のうちでは、有栖川宮幟仁親王、正親町実徳、石山基文、平松時厚、五条為栄、五辻安仲の「参朝停止・他人面会処分」が、石山基文の「差控処分」が解除された。そして、いずれも参内を許可されている。
 また、禁門の変で嫌疑を受けた前関白鷹司輔煕は、1864年8月13日に嫌疑が解けたものの参内が許されていなかったのが、この日、参内が許された。1862(文久2)年に九条尚忠が受けた「重慎」も解除されたが、彼の参内と他人面会は許可されなかった。洛外に住む尚忠の居住地はそのままで、月に一日のみ入京を許された。
 尚忠が完全復帰できなかったのは、息子の九条道孝と不仲だったためである。幕府側を支持した尚忠と、長州藩寛大処分を主張する道孝では、意見が真っ向から対立するため、道孝から入京制限が要請されたのである。
 しかし、この恩赦はその基準があいまいで、少なからずの公卿たちの不満を作り出した。公卿たちの処分解除を求めてきた正親町三条実愛は、「和宮降嫁」を推進した九条忠尚が許されながら、久我建通・岩倉具視らが許されなかったのは、不公平だというのである。
 また、有栖川熾仁親王など6人は、禁門の変で長州藩に内応したと噂されたが、その罪科は不明であった。だが、その内の日野資宗は出仕を許され、同罪の中山忠能1)以下の数人は赦免されていない。さらに、文久3年8月から罪科不明にもかかわらず幽閉されてきた東園基敬や万里小路博房などは赦免になったが、元治元年に同罪とされた豊岡随資・烏丸光徳・滋野井実在・有栖川宮熾仁親王・中山忠能たちの罪は解除されなかった。(以上、刑部芳則著『公家たちの幕末維新』P.204~205)
 岩倉とともに処分された千種有文も、大いに不満をもらした。久我・岩倉や自分が罪を許されないのは、前関白近衛忠煕と賀陽宮朝彦親王が妨害しているからだと岩倉に書簡を送っている。
 公家たちの不満がよほど大きかったとみえる。朝廷は1月23日、孝明天皇の葬儀にとなって長州解兵を布告した。そして、25日には、第二次の大赦が行なわれた。文久3年の幽閉者のうちでは、豊岡随資、正親町公董、橋本実梁、烏丸光徳、滋野井実在の「差控」が、元治元年の幽閉者のうちでは、有栖川宮熾仁親王、中山忠能、橋本実麗、勧修寺経理の「参朝停止、他行・他人面会禁止」が解除された。これに伴い、いずれも参内を許された。
 だが、文久2年の「四奸二嬪」排斥運動で処分を受けた久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直ら、文久3年の8・18クーデターで京都を脱走した三条実美らの7卿、1866(慶応2)年8月の列参運動で処分された24人は依然として許可されなかった。「前二者は復帰が警戒され、後者は処分から月日が経っていないことが赦免を難しくしていたと思われる。」(刑部芳則著『公家たちの幕末維新』P.207)のである。
 2月27日には、九条尚忠の「参朝・他行・他人面会」が許可された。これは、かねてより准后九条夙子(尚忠の娘)の要請があったが、父娘の面会に配慮したものである。
 大赦への不満は公家社会では、実に大きかったようである。孝明天皇の忌日から100日目を迎えた(慶応2年12月25日に死去したが、29日に死んだように公表された)という名目で、3月29日、三回目の赦免が行なわれた。前年の列参運動を行なった中御門経之や大原重徳など22人と、正親町三条実愛と山階宮彰親王が赦免された。また、久我・岩倉・千種・富小路の入京が許された。久我たちは完全な赦免ではないが、月に一度は入京することが許されたのである。
 多くの廷臣が孝明天皇の死を経て、明治天皇の即位に伴う大赦で処分を解除された。それらの公卿の中では、薩長寄りの公卿が多く、彼らはもとより朝廷の権威回復、なかには「王政復古」を目指す者もおり、大赦はのちの徳川幕府解体・王政復古の実現に大きな要因となる。

注1)中山忠能(ただやす *1809~88年)は、権大納言中山忠頼と正親町実同の女・綱子との間に生まれた次男である。1853(嘉永6)年6月、アメリカ使節ペリーの来航にあたり、武家伝奏・三条実万の諮問に答え、ペリーの要求を拒否すべきとした。1858(安政5)年2月、老中堀田正睦が上洛し、条約勅許を求めた際、正親町三条実愛ら6人とともに連署し、外交拒絶意見を建言した。そして、翌月の88人の公卿の列参の先頭に立って、外交に関する朝議の変更を陳情した。井伊大老の暗殺後、「和宮降嫁」問題では、岩倉具視・久我建通・正親町三条実愛らと奔走した。1860(万延元)年10月、和宮御用掛を命ぜられ、1861(文久元)年10月の「和宮降嫁」ではその東下に供奉した。だが、尊攘激派のテロ活動が激しくなると、「四?二嬪」の一人として攻撃され、1862年8月、「差控」に処せられた。しかし、同年12月、国事御用掛が設けられると、これに加えられて朝議に預かった。1864(元治元)年7月、禁門の変に際して、長州藩のために奔走し、参朝停止ならびに他人面会を禁止された。1867(慶応3)年1月、明治天皇が即位すると、程なく処分を解かれた(明治天皇は、忠能の娘・慶子の生んだ孫)。岩倉具視・正親町三条実愛らと王政復古をはかり、1867(慶応3)年10月、討幕の密勅を薩摩・長州二藩に下した。同年12月の王政復古で、議定に任ぜられた。

(2)兵庫開港と長州処遇での対立
 新将軍徳川慶喜にとって、当面の重要な政治課題は、先述した兵庫開港問題と、長州処分である。

 (ⅰ)曖昧なままの長州処分
 長州処分に関しては、将軍家茂の死去により休戦になり幕府軍は撤退しているので、休戦も解兵も実質的には異ならないのである。だが、休戦は時期をみて再び開戦となる可能性もあると解釈する者もでてくるので、慶喜は孝明天皇の大喪を契機として、解兵を天下に明らかにし、幕府には用兵の意思がないことを公示する必要があった。
 1867(慶応3)年1月17日、幕府は解兵の沙汰を奏請した。程なく朝廷より勅許があり、幕府は1月23日、解兵の令を天下に布告した。長州藩へはその旨を安芸藩を通じて伝達させた。
 長州はそれ以前、「......尚(なお)石州・芸州・豊前の一部を占領したるが、〔慶応〕三年正月孝明天皇崩御の報に接するや、使(つかい)を芸藩に遣(つかは)して大喪を弔(ちょう)し、且(かつ)言はしめて曰(いは)く、『曩日(のうじつ *先に)貴藩より撤兵を申込まれたる時は、弊藩の冤(えん)未だ雪(すす)がず、又(また)撤退を命ぜんにも、兵士等(ら)之(これ)を奉ずるの勢なかりしかば、已(や)むことを得ず之(これ)を辞したれども、今や大喪に遭遇し、恐懼(きょうく *恐れ多いこと)の至(いたり)に堪(た)へざれば、厚く諸兵を諭(さと)して、悉(ことごと)く境内に退け、以て謹慎の意を表し、且(かつ)は貴藩年来の好意に酬(むく)ゆべし』と、因りて芸藩領内の長兵を収めたり、先づ芸藩の恨(うらみ)を解かんとするなり。然れども石州・?(ならび)に小倉の二方面に於ける占領地は依然として保有せり」(『徳川慶喜公伝』3 P.322)という情態であった。
そして、2月8日、芸藩の使者が山口にいたり、解兵の令を伝えると、長藩は次のように答えている。「朝命の忝(かたじけな)きを拝すといへども、甲子(元治元年)・乙丑(慶応元年)以来(いらい)藩情上達せず、今や休兵に継ぎて解兵の令あるも、朝廷より直(じか)に寛典の恩命に接するあらずんば、闔藩(こうはん *全藩)一日も生(せい)を聊んずる(やすンズル *安心する)こと能(あた)はざれば、宜(よろ)しく之(これ)を天聴に達せざるべからず、之(これ)を達するには一に貴藩によるの外(ほか)なし」(同前 322~323)と。長州藩は、未だ納得していないのである。

 (ⅱ)大勢は兵庫開港に賛成
 孝明天皇は、1865(慶応元)年10月5日、通商条約を勅許した。しかしその際、兵庫開港は許可しなかった。新将軍となった慶喜は、1867(慶応3)年3月5日に、朝廷に兵庫開港を要請した。慶喜の言い分は、"条約を結んだからには、その条約内容を履行しないと、諸外国から信義を失う。だから、開港期限が迫っているので、兵庫開港を許可して欲しい"というものである。条約では、兵庫開港の期日は1867(慶応3)年12月7日であり、諸準備のために6か月前には公表しておく必要があった。
 だが、摂政二条斉敬(明治天皇が14歳という若さのため、即位のときに摂政となった)や内大臣近衛忠房は、孝明天皇の遺志をたてにとって、3月19日、慶喜の要請を許可しなかった。慶喜は、3月22日に、再度要請する。
 さらに慶喜は、3月28日から4月1日にかけて、大坂城でイギリス公使パークス、オランダ公使ボルスブロック、フランス公使ロッシュ、アメリカ公使ファルケンボルクと公式会見をそれぞれ個別に行ない、条約に基づいて兵庫を開港すると明言した。
 慶喜が朝廷の許可を得る前に、このような態度に出たのは、朝議で勅許を得る自信があったからと思われる。実際、この頃になると、兵庫開港に反対する藩はほとんどいなくなっている。「土佐藩が開誠館を創設して交易による富国強兵策に着手したのは一年前(*慶応2年)の四月だが、同年の暮れと、この年二月に蒸気船を購入し、坂本龍馬の海援隊を開成館事業の準専属として組織させるなど、事業の強化をはかったのがこの四月だった。/世は貿易・交易の時代になっていた。諸藩にとっては貿易・交易の場が多くなることは、歓迎すべきことだった。」(佐々木克著『幕末史』P.237)のである。
 朝廷は3月29日、慶喜に開港不許可の回答を再度行なっている。そして、同日付けで武家伝奏飛鳥井雅典は、尾張藩・肥前佐賀藩・越前福井藩・薩摩藩・土佐藩・宇和島藩など25藩に開港の可否に関する意見を求めている。
 しかし、薩摩藩の島津久光は、慶喜の兵庫開港に関する行動に大いに不満であった。というのは、慶喜は有力藩に対してこの問題に対する諮問を行なっていながら、自らこれを反故にしたからである。
 慶喜は2月中旬、久光ら有力者に対して、兵庫開港に関して意見があれば3月20日までに書面をもって申し出るように、老中板倉勝静の名前で通告していた。それは、①兵庫開港の期限が迫っていること、②これ以上、期限を先延ばしにはできないこと、③将軍である自分は兵庫開港を「許容」する考えであることを明示した上での諮問であった。(家近良樹著『西郷隆盛』ミネルヴァ書房 2017年 P.225)
 それが回答期限である3月20日を待たずに、性急な慶喜は先述したように3月5日、22日と立て続けに朝廷に兵庫開港を要請しているのである。これでは、久光らが"約束とは違う""抜け駆けだ"と怒るのは、当然のことである。
 しかも、慶喜は3月末からの外国公使との公式会見が将軍代替わりの挨拶(あいさつ)のためと言いながら、実際は兵庫開港問題の談判を行ない、期限通り開港することを明言しているのである。これでは、久光らが怒らない訳がないのである。
 薩摩藩は元来が開国派である。土佐、越前、宇和島の各藩もそうである。それが、兵庫開港問題でもめるには、もっと奥深い理由が存在していたからである。それは二つある。
 一つは、兵庫開港問題と長州問題の解決のうち、どちらを優先させるか―ということである。幕府を廃止し、徳川家を諸侯なみに格下げすることを考えている薩藩らは、外交問題を朝廷の名義で行ないたいのである。幕府の主導権で兵庫開港問題が解決されるのには、不満なのである。
 もう一つは、貿易の管轄権を幕府独占から諸藩にも開放すべきだという主張である。薩摩藩に限らないが、多くの藩は貿易による利益で「富国強兵」をもくろんでいるのであり、幕府の貿易独占への批判はイギリスなどの外国へ率直に告げられている。
 この兵庫開港問題での対立は、派生的に朝廷の人事問題に飛び火し、さらに対立を激化させるのであった。

 (ⅲ)朝廷人事の混乱
 1867(慶応3)年の4月に入り、イギリス公使パークスが幕府に対して、京都を見学した上で、越前の敦賀に旅行をしたいと言って、その許可を求めた。敦賀を希望したのは、幕府と結んだ条約で候補に挙がっていた新潟(イギリスは日本海側の開港地を以前から求めていた)の代替港として浮上した敦賀を視察するためである。
 4月13日、老中の板倉勝静はパークスと会見して、京都市中に立ち寄らないことを条件に、公使一行の敦賀行きを了承する。4月15日、公使一行は大坂を出発し敦賀に向かうが、この日、京都所司代から武家伝奏に対し、一行の伏見通行を許可したとの通知がなされる。だが、このことが朝廷を大混乱させることとなる。
 幕府の通知を黙認し、京都に近い大津を通過させたのは、議奏・武家伝奏の落ち度であると、両役の責任を問う声があがったのである。その背景には、もちろん触穢思想に基づく偏見と排外意識がある。
 武家伝奏は、4月16日付けで京都所司代に宛てた文書で、"イギリス人の通行は6~7人と聞いていたが、実際には17人もの多くが通行したとの風聞がある"と、幕府の対応の悪さを指摘した。
 この16日には、土佐藩の脱藩浪士が、滋野井実在と鷲尾隆聚(たかあつ)のもとを訪れ、幕府がパークス一行の伏見から大津への通行を許可したこと、それに議奏の広橋胤保(たねやす)・六条有容(ありおさ)・久世通煕(みちさと)、ならびに武家伝奏の野宮(ののみや)定功(さだいさ)が異論を示さなかったことを、強迫じみて批判した。滋野井と鷲尾は、内大臣近衛忠房と国事御用掛一条実良に向かい、土佐藩脱藩浪士の主張を説明しながら、両役の4人の処分を要求した。
 事態を重く見た近衛と一条は、すぐさま二条摂政邸を訪れ、さらに議奏柳原光愛と葉室長順を呼び寄せ、徹夜でその対応を図った。この結果、広橋・六条・久世・野宮の4人に辞表を出させ、4月17日に罷免した。これら4人は、いずれも幕府寄りの人物とみられていた。
 また、この日には、薩摩・鳥取・岡山の三藩に、外国人が潜伏している恐れがあるとして、京都市中と伏見・大津両駅の警備が命じられた。
 パークス一行の敦賀行きは、4月10日に小松帯刀・西郷隆盛らが大坂湾上のイギリス艦を訪問してパークスと会見したあとだったため、敦賀行きは薩摩の「勧誘」と見なされていた。その上に、幕府を通り越して直接三藩に京都市中などの警備が命じられたのである。これについては、さすがの久光も「軽率の至り」と批判している。
 広橋ら公卿4人の解職については、慶喜が猛烈に怒った。4月18日、慶喜は板倉勝静・松平越中守を従えて、二条摂政の邸(やしき)に乘り込み強く批判し、4人の復職を求めた。将軍慶喜と摂政二条との議論は激しくかつ長時間にわたり、慶喜は正午に出かけて帰館したのは翌日の御前1時ころである。この激論の中で、広橋ら4人の復職は認められず、二条摂政は逆に正親町三条実愛を代わりに対置した。このとき慶喜は、摂政を難詰して、"かかる上は辞表を出すべき"と切言した。
 この慶喜の強烈な抗議もあって、朝廷は早くも19日には三藩への指令を取り消した。また、国事御用掛の近衛忠房・一条実良・九条道孝、議奏柳原光愛を罷免、滋野井実在・公寿、正親町公董、鷲尾隆聚を差控にしている。滋野井らの処分は、要職人事が個人的な意見で左右されては秩序が維持できないという観点から、彼らの「軽率な行動」が処罰された。国事御用掛の3人と柳原が処罰されたのは、広橋ら4人と同様にイギリス人の通行許可を取り次いだ罪によるものである。なお、二条摂政は一連の混乱の責任をとって、19日に辞職を申し出た。
 だが、やがて幕府と朝廷の妥協がなって、早くも三日後の4月22日、議奏の柳原が再職し、近衛・一条・九条の3人も国事御用掛に復帰している。4月30日の朝議では、二条摂政の辞職の申し出も撤回された。あまりにも、「軽い人事」である。
 これ以降、広橋ら4人の復職を要求する慶喜と、反幕的な正親町三条実愛らの要職への採用を謀る薩摩藩とが、摂政二条を中心とする朝廷中枢との駆け引きを繰り広げるのであった。

 (ⅳ)新将軍慶喜と四侯との対立
 前年の慶応2(1866)年9月7日、諸侯に対し上京するべきとの朝命が発せられた。これは、徳川宗家を継いだ慶喜が、長州処分と兵庫開港の問題を協議するために諸侯の上京を朝廷に願い出て、それが聞き届けられた結果である。
 島津久光は、当初、この朝命に応えて上京することに否定的であった。当時、大久保一蔵らは、この機会をとらえて幕府の権威を破り、朝廷の威光を確立する好機ととらえた。しかし、逆に、諸藩の力で慶喜を新将軍に就任させようという勢力の活動もあり、京都の政治状況は錯綜していた。そのため久光は上京をやめて、代わりに小松帯刀、西郷隆盛らを上京させた。彼らは10月25日に、京都に到着している。
 その後、12月5日には慶喜が新将軍に就任、12月25日には孝明天皇が急死、翌慶応3年1月9日には明治天皇が即位、それに伴ない大赦が行なわれ大量の公卿が処分を解除されるなど、政治局面大きく変わる。
 これを受けて、小松・西郷・大久保らは、島津久光・松平慶永・山内容堂・伊達宗城(むねなり)らの上京を工作し、この四侯らの力で朝廷内勢力を自分らに有利な関係にかえようと図った。
 西郷は2月1日、鹿児島に帰り機会をみて、久光に上京とその意義を話し、久光出馬を願い出た。それは、久光によって快諾された。「そこで早速、西郷は久光の命で、山内容堂と伊達宗城に上京を促すために、高知と宇和島に行く。容堂は『気味よき御返答にて、生きて再び帰らずと迄(まで)』いった。しかし、宗城の方は大分(だいぶ)ぐずついて、上京するとは言ったものの、『覚束(おぼつか)なく思われ』たと、大久保に知らせている。松平慶永には小松帯刀が越前藩京都藩邸に申し入れる。」(芳即正著『島津久光と明治維新』新人物往来社 2002年 P.175)と工作した。
 1867(慶応3)年3月25日、島津久光は兵700余を従えて鹿児島を出発し、4月2日に大坂着、同月12日に入京した。4月15日に伊達宗城、4月16日に松平慶永が入京した。山内容堂はやや遅れて5月1日に上京した。容堂の本音は、薩摩藩への不信があったのである。
 ともあれ、京に会した四侯は5月4日、5月12日、5月17日と協議を重ねる。と同時に、5月14日、5月19日、5月21日と、二条城で将軍慶喜との折衝を行なう。
 朝廷人事では、5月6日、二条摂政邸で四侯が希望したのは、議奏に正親町三条実愛、徳大寺実則、万里小路博房、国事御用掛に中山忠能を任命する事であった。これに対し、二条はこの間、詮議してきたが中山は要請を断わり、正親町三条は辞退し、徳大寺・広幡忠礼は「所労(*疲れ、病気)」を理由に引き受けないと状況を説明した。
 四侯側は迅速な決定を要求したが、二条は早急な決定に難色を示し、それでも四侯の意見を熟慮すると述べた。
 5月7日、四藩の藩士らは協議し、二条摂政に尽力することを申し入れた。また、西郷が近衛忠房を、小松帯刀が正親町三条を、大久保利通が柳原光愛を、土佐藩が徳大寺実則を説得し協力を呼びかけた。近衛は尽力することに同意し、正親町三条は議奏に就任することを承諾した。また、柳原も異論はなかった。
 5月8日に朝議が開かれたが、人選については議論されなかった。それは、賀陽宮・山階宮・近衛忠房・鷹司輔煕が欠席したためであった。それとともに、二条摂政が簡単には人選できないのは、将軍慶喜が広橋・六条・久世・野宮の4人の復職を強く要求していたためである。
 二条摂政は、将軍慶喜と四侯の要求の板挟みにあって、なかなか決断できなかった。薩摩藩とは姻戚関係にある近衛であるが、忠房もまた簡単には薩摩藩の要求を受け入れることはできなかった。忠房は、中御門経之と大原重徳を絶対登用させてはならず、正親町三条実愛がこれをもって議奏を固辞すると言うならば固辞を受け入れるよりほかはないとまで考えていた(刑部芳則著『公家たちの幕末維新』P.220)。それは、幕府と薩摩藩の意見対立で、「公武合体」が崩れることを恐れたからである。
 結局、議奏には長谷信篤が5月14日に(在任・同日~12月9日)、正親町三条実愛が5月16日に(在任・同日~12月9日)、新たに任命された。柳原光愛(在任・慶応3年4月22日~12月9日)と葉室長順(在任・慶応2年10月21日~慶応3年12月9日)は、留任となった。二条摂政は、正親町三条実愛を議奏に新たに任命することにより、四侯側に譲歩したのである。
 兵庫開港と長州処分の問題では、四侯側は長州処分を優先的に解決し、兵庫開港は新天皇の勅書に従がって解決する方針をとった。だが、慶喜は兵庫開港を優先すると言って、鋭く対立した。
 この対立は、結局、松平春嶽が「二事並行の折衷案」を提起し、慶喜がこれを受け入れて「決着」した。久光と伊達宗城はまだ不満を抱いていたが、慶喜は強引にこの形式で事を決することとした。

 (ⅴ)徹夜の拡大朝議でまたもや新将軍慶喜に押し切られる
 1867(慶応3)年5月23日、御所の虎の間で長州藩の寛大処分と兵庫開港の許可に関する朝議が開かれた。
 この会議に出席したのは、摂政二条斉敬、賀陽宮朝彦親王、山階宮晃親王、前関白近衛忠煕・鷹司輔煕、内大臣近衛忠房、国事御用掛一条実良・九条道孝・鷹司輔政、議奏正親町三条実愛・柳原光愛・葉室長順・長谷信篤、武家伝奏日野資宗、将軍徳川慶喜、老中板倉勝静・稲葉正邦、京都所司代松平定敬、松平慶永(春嶽)などである。
 この顔触れは異例であり、拡大の朝議とも言うべきものである。したがって、それだけ重要な朝議なのである。
 だが、それにもかかわらず薩摩・越前・宇和島の三侯は欠席とのことなので、二条摂政は幕府を通じて出席を促した。しかし、松平春嶽のみが下刻(午後5時頃)に参内しただけであった。(山内容堂は病気により帰国願いをすでに5月22日に幕府に提出し、27日に京都を発って帰国した)
 会議は、戌の刻(午後8時ころ)に始まった。冒頭、二条摂政は叡慮の旨を伝えて、"今日大樹始め一同参内の事、御満足に思召さる、国事の儀どもは遠慮なく申し出づべし"との勅諚であるという。これに答て慶喜は、次のように発言した。

今日参内せるは長州処分と兵庫開港とを奏聞せんが為なり、抑(そもそも)長州は先年禁闕(きんけつ)に発砲し、朝敵の罪(つみ)遁(のが)れ難きを以て、先代大樹より言上(ごんじょう)の上、総督尾張大納言(慶勝)をして征討せしめしに、大膳父子(*長州藩主父子)恐懼(きょうく)して、謝罪状・及び三老臣の首級を差出(さしだ)したるが、其後(そのご)又(また)再征の師(*軍隊)起りて未だ其(その)功を奏せざるに、先代大樹の喪によりて休兵となり、更に先帝の大喪によりて解兵の事を仰出(おおせいだ)され、以て今日に及べり。然(しか)るに昨冬上京せし諸藩の所存を承(うけたまわ)りしに、再討は宜(よろ)しからずと申し、目下(もっか)上京の四藩も亦(また)寛大の処置を請(こ)へり、慶喜に於ても同様なれば、願はくは速(すみやか)に寛大の朝議を決せられんことを。さて又(また)兵庫開港の事は、先年条約勅許の際、兵庫のみは停(とど)めらるる旨(むね)仰出されたれども、方今海内の人心年を逐(お)ひて開け、外国の交際亦(また)日々に親密を加ふるのみならず、既に当春外国人に応接せる時、彼より開港を迫りたる程(ほど)の事なれば、更に勅命を以て兵庫を開かれんことを請ふ。此事(このこと)は昨年上京の諸藩を始め、其他(そのた)の藩々へ勅問ありしに、十中七八は開港然るべしと申上げし次第もあり、目下上京の四藩(*薩摩・越前・土佐・宇和島)の意見も亦(また)之(これ)と同じ。但(ただ)し四藩は長州処分寛大の御沙汰ありし上、兵庫を開港すべしとの旨なるも、兵庫開港を遅延せんには、禍乱(からん *災難)立(たちどこ)ろに生ぜんの虞(おそれ)あり、慶喜に於ては両件一時に御裁可あらんことを願ひ奉るなり。 (『徳川慶喜公伝』3 P.361~362)

 ここにみられるように、この拡大朝議は兵庫開港と長州処分が「両件一時に御裁可」となり、慶喜の思惑通りに決着をみた。四侯側が慶喜に要求したのは、毛利敬親父子の官位復旧や入京許可などであり、寛大処分の具体的内容を示すことであった。しかし、慶喜はこの点に踏み込まず、「両件一時裁可」の形をとって、実際は兵庫開港問題を優先したのである。
 結局、この徹夜の朝議において、またもや新将軍となった慶喜によって、四侯側は押し切られてしまい、慶喜の政局乗り切りが成功したかのように見受けられた。
 それと関連し、四侯の側の問題もあった。すなわち、四侯の間で少なからずの立場の違い、見解の相違があったのである。大きくは、越前藩・土佐藩と薩摩藩・宇和島藩との違いである。とくに際立ったのは、土佐藩と薩摩藩の違いである。土佐藩の山内容堂は早い時期から開国論であったので、兵庫開港の立場にたっていた。外国貿易を活発にして、それを富国強兵に役立てようとしたいのである。薩摩藩の久光も開国論であるが、それ以上に長州と協力して将軍制を廃止し、政権を朝廷に奉還することが重視されたのである。宇和島藩・伊達宗城の意見は必ずしも明らかではないが、兵庫開港よりも幕府の政権返還を重視する点では、薩摩と一致している。
 それに、幕府との距離感では、越前・土佐は外様の薩摩・宇和島とは大きく違う。越前・福井藩はなんといっても家門の筆頭に類するものであり、幕府と方針が異なっても、その行動には限界がある。全面的には対立できないのである。土佐藩は外様とはいえ関ヶ原の戦いを契機に、遠江・掛川5万石から高知20万石に栄転したのであり、この恩義は容堂にも継承されていたのである。

(3)二つの王政復古勢力と新政体構想の提起
 1867(慶応3)年5月23日の拡大朝議で四侯会議は敗北し、薩摩藩などはいよいよ「王制復古」とその後の新たな政体の実現に進むのである。
 5月25日、薩摩の京都藩邸では、久光を前にして小松帯刀が議長となって、西郷・大久保など総勢10名の指導部は会議を開き、"長州とともに事を挙げる方針"を決定するの
であった。この模様は、新納(にいろ)嘉藤次(かとうじ *京都留守居役兼勝手掛)の日記の5月25日条に、「御座の間にて、(小松)帯刀殿より、この節の事、是(これ)より先の策、相談、長(*長州)と共〔に〕挙事の議、あらあら相定まる、なお伊地知(いじち)正治(まさはる)、心得を聞きて尊聴し、御決着の賦(くばり)なり〔*京都藩邸での決定を藩主茂久に報告し最終決定を仰ぐ段取り〕、関山・西郷・大久保・田尻・蓑田・吉井・内田・拙(*新納)にて候」(青山忠正著「慶応三年一二月九日の政変」―明治維新史学会編『講座 明治維新』第2巻「幕末政治と社会変動」P.224)と記されている。
 1867(慶応3)年6月初め、大久保利通が国元政府にあてた書簡(案)では、次のように書かれている。

......畢竟(ひっきょう)幕府の意底、四藩の御公論を採用、悔悟(かいご)反正(反省)、勅命奉戴、正大公平の道を以て、皇国の御為(おんため)に尽力いたすべしとの趣意、毛頭(もうとう)相顕(あいあら)われず、是非(ぜひ)私権を張り、暴威を以って、正義の藩といえとも圧倒畏伏(いふく)せしむるの所為(しょい *おこない)、顕然(けんぜん)明白にて実に助くべからざるの次第に御座候。......終(つひ)に幕府、朝廷を掌握し、邪を以て正を討ち、逆を以って順を伐するの場合に至り候は案中の勢ひゆえ、今一層(いっそう)非常の御尽力遊(あそ)ばされたく、此上(このうえ)は兵力を備え、声援を張り、御決策の色を顕(あら)わされ、朝廷に御尽くし御座なく候(そうらい)ては、なかなか動き相つき兼(か)ね候ゆえ、御引き合いの為(ため)、長州えも御使い差し立てらる御賦(おくば)りにて...... (『大久保利通文書』一 P.475~476)

 幕府は、四藩の「公論」を採用し、今までを反省し、勅命を奉戴して、皇国のために力を尽すつもりなど毛頭ないと批判する。そして、この上は兵力を背景にして、宣伝して朝廷を助けるために決着をつける必要がある。そのためにも、長州と相談する必要がある―と国許に伝えている。

  (ⅰ)薩土盟約
 しかし、薩摩藩のこの政変計画が具体化する前に、ほかから新たな活動計画が出てくる。
 その一つは、芸州浅野家の動きである。芸藩では、勅に応じて世子浅野長勲が5月28日、宇品港を出発し、6月5日、入京した。これに先立ち、芸藩は京都での活動方針を熟議し、次のような決議を行なっている。

夫(それ)国家は古来の秩序あり、妄(みだ)りにこれを破壊すべからず、彼(か)の幕府の如き、已(すで)に衰頽(すいたい)の極運に陥ると雖(いえど)も、依然、委政の大権を執り皇国の政府にして、これを無視すべきにあらず、彼の某藩及び某藩士の如く、幕府の失政を追窮して、これが討滅を事として政権を褫奪(ちだつ *はぎうばうこと)せんと謀るが如きは素(もと)より狂暴にして時変は益々(ますます)激生の虞(おそ)れあるべし、故(ゆえ)にこの時に当たりては、陰険なる手段を斥(しりぞ)け、宜(よろ)しく整々(せいせい)堂々として、名分を正し、条理(じょうり *そうでなければならない訳柄)に拠(よ)り、徳川氏に勧諍(かんそう *すすめていさめること)忠告して、政権を朝廷に還納せしめ、その身(*将軍慶喜のこと)は退きて藩籍に就き、諸侯と共に朝政を献替(けんたい *輔佐すること)して、皇基を鞏固(きょうこ)にし、万国と対峙せしむるの方策の外(ほか)、その当を得たるものあらじと為(な)すべしとの決議なり 
 (『藝(芸)藩志』七七巻 〔第14巻 P.39~40〕)

 芸藩は、薩摩藩のように武力を背景に、「大政奉還」を迫るのではなく、幕府を努めて説得し「大政奉還」させ、徳川氏は一諸侯として諸藩とともに朝政を補佐し、「万国に対峙」しうる国家に作り直す―という方針をとったのである。
 もう一つは、土佐藩の動きである。6月13日、土佐藩の参政・後藤象二郎が坂本龍馬とともに、山内容堂への建策を携行して、長崎から上京して来たのである。だが容堂自身は、既に5月27日に京都を発して帰国していた。そこで後藤は、6月17日、土佐藩京都藩邸の寺村左膳ら重役らに対し、自らの計画を披瀝(ひれき)し、彼らの賛同を得た。その内容は、次のようなものである。

方今(ほうこん)天下の形成、四分五裂......その原因、ただ吾が日本国の政令、二途(にと)に出て、天下の人心、その嚮(むか)う所を一定せざるによる、今この危急の時にあたって、豈(あに *どうして......〔下に反語が来る〕)区々の旧規を墨守(ぼくしゅ)すべけんや、今日より更始(こうし *古いものを改め、新しく始めること)一新の御英断を以て、既往(きおう)の是非曲直を問わず、大政は宜(よろ)しく朝廷に帰し、王政復古、以て海外万国と並立の大業を立つべし、これ今日の急務たり、いやしくも議論、ここに決せば、この大条理を以て各藩の主を説き、同心協力、幕府に建言して速やかに政権を解かしめん
(『寺村左膳日記』6月17日条―青山忠正著「慶応三年一二月九日の政変」からの重引)

 岩倉具視らも願望していた「王政復古」が、現実の政局に登場してきたのであった。後藤ら土佐藩の「政権奉還建白」は、旧来の通説では、後藤が長崎ならびに京都に向かう船中で坂本龍馬と協議してなった、いわゆる「船中八策」から得た構想といわれる。
 しかし、青山忠正氏によると、「『船中八策』とは、土佐出身の岩崎鏡川(きょうせん)が『坂本龍馬関係文書』(日本史籍協会、一九二六年)に『新政府綱領八策』と題して収録した文書の別名だが、伝存の経過や現所蔵者などが明記されず、内容・体裁とも、きわめて不統一なものである。推測だが、維新史料編纂官岩崎は、赤松小三郎の建言書などを史料として閲覧できる立場であり、それらをもとに半ば創作した可能性も否定できない。端的に言って、『船中八策』は史料として信憑性の低い文書である。しかし、だからといって、後藤が長崎で、坂本を通じて政権奉還のアイディアを得ることがなかったというわけではない。......」(同前 P.231)のである。
 赤松小三郎の建白書は、この慶応3年5月に、薩摩藩、越前藩そして幕府に提出されており、これらのルートのいずれかから情報をつかんだ坂本龍馬が、大いに賛同して後藤象二郎と協議した可能性は十分にあるのである。
 その内容は、政府・議会などの点で、「船中八策」と矛盾するものではない。むしろ思想内容的には、それよりもはるかに優れたものである。(《補論 赤松小三郎の画期的な政体構想》を参照)
 6月20日、土佐の後藤象二郎は、薩摩藩家老・小松帯刀と会談し、土佐藩の方針に関して、基本的な了解を得る。そして、23日、土佐・薩摩の会談が開かれる。土佐側からの出席者は後藤象二郎・福岡藤次(孝弟〔たかちか〕)・真辺栄三郎・寺村左膳であり、それに坂本龍馬・中岡慎太郎が陪席した。薩摩側からの出席者は、小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵である。
 その会談でまとまったのが、次の「薩土盟約」である。

方今皇国ノ務(つとめ)、国体制度ヲ糺正(きゅうせい *悪いことを正すこと)シ、万国ニ臨テ恥(はじ)ず、是(これ)第一義トス。其(その)要(かなめ)、王制復古、宇内ノ形勢ヲ参酌(さんしゃく *くみ取ること)シ、天下後世ニ至テ猶(なお)其(その)遺憾(いかん)ナキノ大条理ヲ以テ処セン。国ニ二王ナシ、家ニ二主ナシ、政権一君ニ帰ス。是(これ)其(その)大条理。我(わが)皇家綿々一系、万古不易(ばんこふえき)、然(しかるに)古(いにしへ)郡県ノ政(まつりごと)変シテ今(いま)封建ノ体(てい)ト成ル。大政遂(つい)ニ幕府ニ帰ス。上(うえに)皇帝在(ある)ヲ知らず。是(これ)ヲ地球上ニ考(かんがえ)フルニ、其(その)国体(こくたい)?(この)如き者アラン歟(か)。然則(しかるにすなわち)制度一新、政権朝(ちょう)ニ帰シ、諸侯会議、人民共和、然後(しかるのち)庶幾(こひねがはば)以テ万国ニ臨テ恥ず、是(これ)ヲ以テ初テ我(わが)皇国ノ国体特立(とくりつ *他に依存なく自立すること)スル者ト云(いふ)ヘシ。若(も)し二三ノ事件ヲ執(と)リ、蝶々(ちょうちょう *しきりにしゃべる様)曲直(きょくちょく *曲がったこと)ヲ抗論シ、朝・幕・諸侯倶(とも)ニ相弁じ難く、枝葉(しよう)ニ馳(は)セ小条理ニ止(とどま)ル、却テ皇国ノ大基本ヲ失ス、豈(あに)本志ナランヤ。爾後(じご *その後)、執心公平(しゅうしんこうへい)、所見万国(しょけんばんこく)ニ存ス〔*公平に執着し、世界の意見を考慮する〕。此(この)大条理ヲ以テ此(この)大基本ヲ立ツ、今日(こんにち)堂々諸侯(*衆にすぐれた諸侯)ノ責ノミ。成否(せいひ)顧(かえりみ)ル所ニアラス、斃(たおれ)テ後(のち)已(やま)ン。今般更始一新、我皇国ノ興復(こうふく *盛り返すこと)ヲ謀リ、奸邪ヲ除キ明良ヲ挙ケ〔*賢明忠良の者を登用すること〕、治平ヲ求メ、天下万民ノ為(た)メニ寛仁明恕(*心広く人を憐み、心を察して罪を許すこと)ノ政ヲ為(なさ)ントテ、此(この)法則ヲ定(さだむる)事(こと)左ノ如シ。
一、 天下ノ大政ヲ議定(ぎじょう *合議で決める事)スル全権ハ朝廷ニ在(あ)リ、我皇国ノ制度法則、一切ノ万機、京師ノ議事堂ヨリ出(いずる)ヲ要ス。
一、 議事院(*議事堂と同じ)ヲ建立スルハ、宜(よろし)ク諸藩ヨリ其(その)入費ヲ貢献スベシ。
一、 議事院上下ヲ分チ、議事官ハ上(かみ)公卿ヨリ下(しも)陪臣・庶民ニ至(いたる)マテ、正義純粋ノ者ヲ撰挙シ、尚且(なおかつ)諸侯モ自ラ其(その)職掌ニ因テ上院ノ任ニ充(あ)ツ。
一、 将軍職ヲ以テ天下ノ万機ヲ掌握スルノ理ナシ。自今(じこん)宜ク其(その)職ヲ辞シテ諸侯ノ列ニ帰順シ、政権ヲ朝廷ニ帰ス可(べ)キハ勿論(もちろん)ナリ。
一、 各港外国ノ条約ハ、兵庫港ニ於テ新(あらた)ニ朝廷ノ大臣・諸侯ノ士大夫(したいふ *重臣)ト衆合シ、道理明白ニ新約定ヲ立テ、誠実ノ商法ヲ行フヘシ。
一、 朝廷ノ制度法則ハ、往昔(おうせき)ヨリノ律例(*律令のこと)アリト雖(いえど)モ、当今ノ時務ニ参シ〔*時局の課題に直面し〕、或(あるい)ハ当(あた)ラサル者アリ。宜ク其(その)弊風ヲ一新改革シテ、地球上ニ愧(はじ)サルノ国本ヲ建(たて)ン。
一、 此(この)皇国興復ノ議事ニ関係スル士大夫ハ、私意ヲ去リ、公平ニ基(もとづ)キ、術策ヲ設ケス、正実(誠実)ヲ貴(とうと)ヒ、既往(きおう)是非(*善いことと悪いこと)曲直(*不正と正と)ヲ問はず、人心一和ヲ主トシテ、此(この)議論ヲ定ムヘシ。
 右ニ議定セル盟約ハ、方今ノ急務、天下ノ大事、之(これ)ニ如(し)ク〔*打消しや反語を伴って、〈匹敵する〉意〕者ナシ。故(ゆえ)ニ、一旦(いったん)盟約決議ノ上ハ、何ソ其事(そのこと)ノ成敗(せいばい *成功と失敗と)利鈍(りどん *都合よく行く場合と行かない場合と)ヲ視(み)ンヤ。唯(ただ)一心協力、永ク貫徹セン事ヲ要ス。
    慶応丁卯六月
                   (『大久保利通文書』一 P.480~483)

 ここでは、全権を朝廷が掌握し、将軍職は廃止する、外国との条約は、朝廷の大臣や諸侯の士大夫の衆議のうえで新たに結び直す―としている。そして、未だ初歩的なものではあるが、上下2院の議会制度をうたっている。
 薩土盟約がなると、この動きを加速させるために、後藤象二郎は安芸藩や宇和島藩を勧誘する。芸藩の家老・辻将曹は異議なく賛同する。宇和島藩の伊達宗城は、"時機尚早"とするが、結論的には同意を示した。
 薩摩藩は、島津久光が長州の山縣狂介(のちの有朋。5月から薩摩藩京都藩邸にかくまわれていた)・品川弥二郎(以前から同様にかくまわれていた)を、6月16日に引見した。そこで久光は、"不日、特に西郷を山口に遣わし与(とも)に議する所あらん"と、言葉をあたえている。7月には、村田新八を長州に派遣し、薩土盟約の事情を報告させている。
 後藤象二郎は、容堂の承認、また国許の同意を獲得するために、7月3日、帰国の途につく。
 だが、その直前と思われるが、芸州の辻将曹、薩摩の小松帯刀、土佐の後藤象二郎などが会談する。そこで、「将曹は......該(芸州)建白の趣意を説明す。帯刀等は大いに之(これ)に賛同し、この挙(きょ)誠に佳(か)なり、宜(よろし)く三藩連署にて之を建白すべきの協議あり。我に於いて素(もと)より拒むべきにあらざるを以て、将曹は之(これ)を承諾したり。然るに西郷吉之助は云ふ、この建白の挙や、幕府の採否、固(もと)より必すべからず、いわんや非常の事、起こらざるを保せざるをや、宜しく一面は兵備をなして朝廷を守衛し、一面は採用せずんば則ち断然、政権を徴復(ちょうふく *とり戻すこと)するの方策に出づべきなりと。依って兵力を帯びて還政(かんせい)を建白する事に決す」(『藝藩志』七八巻 〔第14巻 P.63~64〕)ことになったと言われる。
 その後、辻は在京中の世子浅野茂勲に復命し、三藩連署での建白について承認を得た。さらに辻は、「これらの計画を備前岡山の池田家、因州鳥取の池田家、阿波徳島の蜂須賀家に通報し、備因阿三藩側の賛同も得た」(青山忠正著「慶応三年一二月九日の政変」 P.237
)のであった。
 7月初旬に帰国した後藤象二郎は山内容堂を説得し、容堂は後藤の説を受け入れ、重臣たちに建白書について諮問し、藩論の統一を図った。しかし、後藤の説に関しては、薩摩藩内のみならず土佐藩内でも異論があった。
 その代表は乾退助(のち板垣に改姓)である。乾は在京時から、「前藩主容堂(山内豊信)の態度に憤慨し、密に同藩士中岡慎太郎(道正)、谷守部(干城)、毛利恭介等と議して薩藩に応ぜんとし、小松帯刀・西郷吉之助に告げて曰(いは)く、『弊藩(*土佐藩)の要路、皆(みな)佐幕に傾き因循姑息に陥れるは、余(*乾)等の慨歎に堪へざる所、貴藩に対しても面目を失へること多し。然れども余等同士の徒(と)尚(なお)尠(すくな)からねば、今や断然藩を脱して討幕の師(し *軍隊)に加はらんとす。足下(そっか *貴殿)等若(も)し余等の微衷(びちゅう *自分の本心)を諒(りょう *よしとする)せば、希(ねが)はくは共に盟を立てん。余に三旬の暇を仮(か)さば、本国に帰りて同志を糾合(きゅうごう)し、飛檄(ひげき *人々に廻される檄文)一たび至らば期に応じて上京せん、......」(『徳川慶喜公伝』4 P.36)と約束して、5月27日に土佐に発っていった。
 帰国した乾(いぬい)退助は、同志を糾合し京都からの知らせを待っていた。しかし、そんなことも知らない藩庁は乾を大目付に任命し、軍務総裁とした。喜んだ乾は脱藩を思い留まり、兵制を改革し、銃隊を組織し、時機を待った。
 そこに後藤象二郎が、「大政奉還」論を携えて帰国したのである。乾は、"徳川氏は馬上に天下をとったのであり、馬上においてこれを覆さない限り、徳川氏が朝廷に政権を奉還するはずがない"と、しきりに容堂を説得する。しかし、容堂は乾を罷免して、これに応えた。
 8月20日、藩主山内豊範は重臣を前に、"近日中に天朝、幕府に建白をする"とし、容堂もまたこれに賛同し、建白の事は後藤と寺村左膳に委任するとした。しかし、容堂はあくまでも武力を以ての幕府への勧諍は、制止した。
 京都の福岡孝弟からは、情勢が険悪化しているので、後藤らの建白が早期になされることを促す報告が入り、後藤・寺村らは急きょ、8月25日、軽装で高知を発ち、9月2日に大坂に着き、9月4日に京都に至った。しかし、薩摩藩士は、土佐藩の「率兵上京」がないことに落胆する。

《補論 赤松小三郎の画期的な政体構想》
 赤松小三郎は、1831(天保2)年4月4日に、信州上田藩の松平伊賀守忠優(のち忠固)の下級武士(約15石)・芦田勘兵衛の次男として生まれた。名は芦田清次郎である。 
 少年の頃は、兄の柔太郎とともに、叔父の植村重遠の塾で数学を学んだ。清次郎は、1848(嘉永元)年に江戸に出て、数学者の内田弥太郎の「マテマテカ塾」に入り、めきめきと頭角を現す。また、佐久間象山について、蘭学も学んだ。1852(嘉永5)年、22歳の時、西洋兵学者の下曽根金三郎信敦にも入門した。
 1854(安政元)年、清次郎は上田の下級武士・赤松弘の養子となる。翌年安政2年、赤松清次郎は、勝海舟の門人となり、同年に創設された幕府の長崎海軍伝習所に赴く。正規の伝習生ではないが、海舟の従者としての「員外聴講生」という身分であった。長崎では、航海術、測量術、オランダ式兵学などを学んだと言われる。また、清次郎は長崎時代、オランダの兵学書を3冊、翻訳している。『新銃射放論』、『選馬説』、『矢ごろのかね 小銃?率(こうりつ)』である。
 1859(安政6)年に長崎海軍伝習所が閉鎖されると、同年4月に江戸に戻る。1860(万延元)年3月、養父が病没し、清次郎は赤松家を相続する。1861(万延2)年1月、清次郎は小三郎と改名する。以降、小三郎は1864年まで上田にあって、雌伏の時を過ごした。
 1864(元治元)年9月、小三郎は再び江戸に出た。第一次幕長戦争に際して、小銃など武器の買い付けの任務のためであった。江戸滞在中に、小三郎は横浜駐留のイギリス士官に英語を学び、1865(慶応元)年4月に長州再征の令が下り、大坂に在陣し、その合間の1865~66年に、金沢の浅津富之助とともに『英国歩兵練法』を翻訳し刊行した。
 その間、いったん帰国するが、藩は小三郎を用いることがなかったため、1866(慶応2)年2月京都に出て、兵学塾を開き、最新のイギリス式兵法を教授した。これに目を付けたのが薩摩藩であった。同藩は赤松を京都藩邸に招聘(しょうへい)して教授をこい、
村田新八・篠原国幹・中村半次郎・野津道貫・東郷平八郎・上村彦之丞らが門下生になった。
 ようやく名を知られるようになった小三郎は、1866(慶応2)年8月、幕府に建白書を提出する。これを受け、幕府は開成所教官兼海陸兵書取調役に赤松を任用しようとした。しかし、これは主家が了承しなかったので、実現していない。
 幕府への建白書は、「方今世上形勢の儀に付き恐れながら申上げ奉り候口上書」と題したものである。関良基著『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(作品社 2016年)によると、その口上書の内容は、「......公儀による第二次長州征伐の決断を批判した上で、その敗北の教訓に、身分制度にとらわれない人材登用を行なうよう訴えたもの」(同著 P.28~29)である。そして、敗戦を教訓とした改革を訴える。「すなわち、『列藩高禄の者は学術乏しく、低位に人才(材)これ有り候へ共、故例に泥(なず)みてこれを用ひざるは一般の弊風(へいふう *悪い風習)に候へば、右様御改革仰せ付けられ候方御大益にこれ有るべく候』と。高禄の者ほど学芸に乏しく、身分の低い者にこそ努力を惜しまず有用な人材が多く出ているのであるから、旧来の身分制度にとらわれず、その能力に応じて人材を登用すべきである」(同前 P.29)とする。
 赤松は、同年9月には、今度は藩主の松平忠礼(老中を経験した松平忠固の急死でわずか10歳で家督を継いだ)に建白書を提出する(忠礼は17歳)。これも表題は先の幕府宛ての口上書と同じである。だが、その内容は、幕府宛てのものよりさらに激しく身分制度の打破を訴えるものとなっている。すなわち、「同建白書は、『上下隔絶の儀御廃止、下輩に至る迄(まで)言路貫通〔*意見を自由に述べられること〕仕(つかまつ)り候様御改正遊ばされ、人才御撰抽(ごせんちゅう)の儀は門地(もんち *家柄)格禄に毫も(ごうモ *少しも)拘泥(こうでい)せず、其の人々の学術智略御撰用相成り候儀肝要(かんよう)に候』と訴える。主要な論点は、領内において上下を隔(へだ)てる身分制度を廃止し、身分の低い者であっても自由に意見を述べる権利を与えるよう制度を改正すべきこと、さらに、人材を選ぶ際、門閥や家禄は一切不問にして、その人物の『学術』と『智略』を基準とすべき」(同前 P.29)とするものであった。
 明治維新は、厳正にみるかぎり、「身分解放」を真正面からかかげて中心テーマとした変革ではなかった。西洋諸国の植民地化の危機を脱し、富国強兵を以て西洋諸国と対峙することが目標であったがため、必要なかぎりで人材登用を行なったが、幕末時点で実質的に身分制度を骨抜きにするように訴えた提言は極めて珍しいことである。
 1867(慶応3)年4月、島津久光は四侯会議のために上京した(4回目)が、この際に、赤松を引見して『英国歩兵練法』の修訂を依頼した。赤松はこれに応じて、修訂版全10巻をなして献呈する。その間のことと思われるが、同年5月、島津久光と松平慶永(春嶽)に建言書を提出している。
 春嶽へ提出されたものは、「御改正の一二端申上げ奉り候口上書」と題され、5月17日付けである。久光へのものは、「数件御改正の儀申上げ奉り候口上書」と題され、5月ではあるが日付けは明らかでない。二つは、その内容がほとんど同じであるが、島津版には春嶽版にはない文言がいくつか加筆されていることから、島津版の方がやや後にかかれたものと推測されている。さらに、歴史作家の桐野作人氏によって、第三の「御改正口上書」が発見され、それは慶応3年5月に幕府に提出されたものと言われる。赤松が慶応3年5月に書いた建白書は、少なくとも春嶽・久光・幕府の三か所に宛てて提出されている。
 そこには、新たな政体構想が次のように書かれていた。(久光宛ての文章。①~⑦の番号は、便宜のため筆者がつけた。)

 数件御改正之儀奉申上候口上書
一、天幕御合体、諸藩一和、御国体相立(あいた)て候根本ハ、先(ま)ず天朝の権を増し徳を備へ奉り、?(ならび)ニ公平ニ国事を議し、国中ニ実ニ行なわるべき命令を下して、少しも背(そむ)く事(こと)能(あた)ハさるの権(けん)有る局を御開き立て相成り候事、蓋(けだ)し権の帰すると申すハ、道理ニ叶(かな)い候公平の命を下し候ヘハ、国中の人民承服(しょうふく)仕(つかまつ)り候ハ必然の理ニ候、第一天朝ニ徳と権とを備へ候ニハ、天子ニ侍する宰相ハ、大君・堂上方・御旗本の内、道理ニ明ニして方今の事務ニ通し、万国の事情を知り候人(ひと)を撰(えらび)て六人を侍せしめ、一人ハ大閣老ニて国政を司(つかさど)り、一人ハ銭貸出納を司り、一人ハ外国交際を司り、一人ハ海陸軍事を司り、一人ハ刑法を司り、一人ハ租税を司る宰相とし、其(それ)以下の諸官吏も皆(みな)門閥を論せす人撰して、天子を補佐し奉り、是(これ)を国中の政事を司り且(かつ)命令を出す朝廷と定め、亦(また)別に議政局を立て、上下二局ニ分ち、其(その)下局ハ国の大小ニ応して諸国より数人ツツ道理ニ明なる人を自国および隣国の入札(*投票)ニて撰抽(せんちゅう *選び抜くこと)し、凡(およそ)百三十人を命し、常ニ三分の一ハ都府ニ在(あ)らしめ、年限を定めて勤めしむへし、其(その)上局ハ堂上方・諸侯・御旗本の内ニて入札を以て人撰し、凡三十人を命せられ、交代在都して勤むへし、此(この)両局ニて総じて国事を議し、決議の上、天朝へ建白し、御許容の上、天朝より国中ニ命し、若(も)し御許容無(な)きケ条(かじょう)ハ、議政局ニて再議し、弥(いよいよ)公平の説ニ帰すれハ、此(この)令ハ是非共(ぜひとも)下さるることを得さる事を天朝へ建白して、直(ただち)ニ議政局より国中ニ布告すへし、其(その)両局人撰の法ハ、門閥貴賤ニ拘(かかは)らす、道理を明弁し、私(わたくし)無く且(かつ)人望の帰する人を公平ニ撰むへし、其(その)局の主務ハ旧例の失を改め、万国普通の法律を立て、?(ならび)ニ諸官の人撰を司り、万国交際、財貨出入、富国強兵、人才教育、人気一和の法律を立て候を司り候儀、御開成相成り候儀、御国是の基本かと存じ奉り候(①)
一、人才御教育の儀、御国是の相立て候基本ニ御座候事(②)
一、国中の人民、平等ニ御撫育相成り、人々其(その)性ニ準(じゅんじ)て、充分を尽(つく)させ候事(③)
一、是迄(これまで)通用の金銀、総じて御改め、万国普通の銭貨、御通用相成り、国中の人口と物品と銭貨と平均を得(え)候様、御算定の事(④)
一、海陸軍御兵備の儀ハ、治世と乱世との法を別(わか)ち、国の貧富ニ応じて御算定の事(⑤)
一、船艦ならびに大小銃その外(ほか)兵器、或(あるい)ハ常用の諸器械、衣食等製造の機関、初(はじめ)ハ外国より御取り寄セ、国中是(これ)ニよって物品に不足無(な)き様(よう)御処置の事(⑥)
一、良質の人馬および鳥獣の類(たぐい)、御殖種の事(⑦) 〔②~⑦は主旨のみ〕
    (『鹿児島県史料 玉里島津家史料 五』P.194~198)

 これらと比較するために、以下に、いわゆる「船中八策」を掲示する。(a~hの番号は便宜のために筆者がつけた)

 〈坂本龍馬 船中八策〉(慶応三年六月)
一、 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出(い)ヅベキ事。(a)
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機(*天下の政治)ヲ参賛(*たすけること)セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。(b)
一、有材ノ公卿・諸侯及び天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。(c)
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採(と)リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。(d)
一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典(*重大な法典)ヲ撰定スベキ事。(e)
一、海軍宜ク拡張スベキ事。(f)
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。(j)
一、金銀物価、宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。(h)
 以上八策ハ、方今天下ノ形勢ヲ察シ、之(これ)ヲ宇内(うだい *世界)万国ニ徴(ちょう *求める)スルニ、之ヲ捨テテ他ニ済時(さいじ *世の中を救うこと)ノ急務アルベシ。苟(いやしく)モ此(この)数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回(ばんかい)シ国勢ヲ拡張シ、万国ト並立スルモ亦(また)敢(あえ)テ難(かた)シトセズ。伏(ふし)テ願(ねがは)クハ、公明正大ノ道理ニ基(もとづ)キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始(こうし)一新セン。

 これにより、両者を比較すると、赤松口上書の①はいわゆる政体のポイントであるが、「船中八策」ではこれに対応するのが、(a)(b)(c)(d)となっている。
 「船中八策」にあって赤松口上書で触れていないのは、(e)と(j)である。これは、天皇制の評価にもかかわるものであるが、「船中八策」の方がはるかに天皇制を重視している。もちろん、赤松口上書も天皇制を軸として国家統一を志向しているという限界を有している。しかし、「船中八策」のように「律令」を修正した法典を考えている訳ではない。
 赤松口上書にあって「船中八策」にないものは、(2)(3)(7)である。(2)は人材教育であり、赤松はこれを「国是」を立てるうえでの基本と称している。(7)は、良質の馬・牛・豚・鶏などを外国から輸入して国内に扶植し、人民の身体を強健にして、「富国強兵」を構想している。
 最大の問題は、(3)である。これこそ赤松の政体構想のみが当時、有していた考えであり、他に卓越するものである。すなわち、「人民平等」、「個性の発揮」である。重要な事柄なので、以下、全文を転載する。

一 国中の人民平等ニ御撫育相成り、人々其(その)性ニ準て充分を尽させ候事、
 蓋(けだ)し是迄(これまで)人々性(*個性)ニ応して力を尽し候儀不同これ有り〔*諸個人の個性が発揮できたか否かが同等ではなかった〕、遊民多くして農のみ多く労(いさを)し、他の諸民ハ運上(うんじょう *税金)少く候ヘハ、第一百姓の年貢掛り米を減し、士・商・工・僧・山伏・社人の類(たぐい)迄(まで)、諸民諸物ニ運上を賦(ふ)し、遊楽不要(ふよう)ニ関り候諸業諸品ハ運上の割合を強くし、諸民平等ニ職務ニ尽力し、士ハ殊(こと)ニ務(つとめ)を繁(しげ)くし、国中の遊民・僧・山伏・社人・風流人・遊芸の師匠の類ニハ夫々(それぞれ)有用の職業を授け候(そうろう)御処置、治国の本源ニ之(これ)有るべく候、

 赤松はここで、儒教思想とは真向から対立する「平等思想」を高らかにうたっており、それを「治国の本源」とまで主張している。それは主に、課税の不平等性を批判し、農民への過重な税を緩和させるべきとする。そして、「士・商・工・僧・山伏・社人(*神主など)の類迄」も課税し、特に武士に対しては重くすべきとしている。
 ここでは、その人権思想は十全に開花してはいない(「職業選択の自由」もうたわれていない)が、赤松の平等思想は、「人々其性に準て充分を尽させ」というように、「個性発揮」の方向に向かう兆しを見せている。
 幕末当時の最大の政治課題は「日本の独立」であり、明治維新は「身分解放」をテーマとしたものではなかった。その中で、赤松のみが「平等」→「個性発揮」→「人権思想の発展」への手がかりを残したのであった。坂本龍馬が論じたとされる「船中八策」なるものも、この根幹が理解できないで、ただ議会制を導入しているだけなのである。
 従来の歴史研究者や政治学研究者が赤松小三郎の業績を軽視し、ほとんど研究を深めなかった最大の原因は、彼ら自身が近代市民憲法における「人権」を理解できなかったことにある。
 杉原泰雄著『人権の歴史』(岩波書店 1992年)は、近代市民革命とともに近代市民憲法に登場し19世紀を通じて西欧社会に人権保障の体制を特徴付けるものとして、第一に「人権の目的性と権力(政府)の手段性」、第二に「人権の不可侵性(いかなる権力も侵すことができない)」、第三に「自由権の保障を中心とした人権保障」(P.44~48)―をあげている。ここに見られるように、権力(政府)は手段であり、人権こそが目的である。
 ところが、幕末の識者のみならず、従来の研究者のほとんどが、「手段」の方ばかり論じ、「目的」の方を軽視してきた。それが故に、赤松の見地を十分に理解できなかったのである。
 ここで、幕末・明治維新は、西洋文明を取捨選択したのであって、「目的」は導入しないで「手段」のみを導入したので、制度論に終わったのは当然である―という解釈をする論者もいるかと思われる。その場合は、西欧文明のいう「目的(人権)」を意識的に導入しなかったのであり、それこそ伝統的な中華文明を意識的に残したこととなる。その伝統的な中華文明(中国を中心とする)では、専制国家が近代にいたるまで継続し(今日もまた復活している)、そこでは人権が「目的」ではなく、国家それ自身の永続化が「目的」である。古代中国では、天子(皇帝)が文字通り国家であり、誇張なく天子=国家なのである。西欧と比較し圧倒的に国家の存在が重く、国家の力が強い中国では、諸個人は国家に隷属し、国家からの諸個人の解放などは想像にさえできない。日本もまた、その影響は今日に至るまで根強く残り続けている。
 なお、余談ながらモンゴル帝国の影響を強く受けたロシア(「タタールのくびき」)の1917年革命は、人権思想の継承と発展に失敗した。それにかかわる問題点については、拙稿『ロシア法文化と二つのソビエト憲法』―理論誌『プロレタリア』2号(2002年3月)を参照してほしい。
 ともあれ、日本史に人権思想をもたらした先駆者である赤松小三郎の最後もまた、悲劇的である。赤松は1866(慶応3)年夏の段階でも、薩摩の武力倒幕路線を翻意させるべく西郷などを説得している。だが、この頃、上田藩はしきりに赤松の帰国を命令してきていた。8月20日頃に、赤松はついに帰国を決意した。 
 9月3日、帰国の準備中であった赤松は、京都の五条東洞院通を下がった所で襲撃されて殺害された。だが、この事件は闇に葬られ、下手人は分からずじまいとなった。しかし、事件の115年後、ついに犯人が判明する。「暗殺を実行したのは、小三郎の門人であり、西郷の腹心の部下であった中村半次郎(*桐野利秋)と田代五郎左衛門であった。他に、少なくとも小野清右衛門、中島建彦、片岡矢之助という三人の薩摩藩士が見張り役などで協力している。中村半次郎の日記によれば、中村は赤松小三郎が野津七次(道貫)と歩いているところを尾行し、小三郎が野津と別れて一人になったところを田代と二人で前後から襲った」(関良基著『赤松小三郎ともう一つの明治維新』P.61)と言われる。薩摩藩士が犯人であるという話は以前からあり、それは薩摩藩の軍事機密が漏れることを恐れたためと言われる。

 (ⅱ)岩倉具視と三条実美の和解
 京都の情勢は、6月ころ、坂本龍馬と中岡慎太郎が岩倉具視を説得し、大宰府の三条実美との和解を勧告し、朝廷内部からも新たな動きが出始める。
 岩倉は、今や幕府からは人心が離れ、諸藩の割拠の情勢を見て、今こそ幕府を廃して皇室を再興すべき時機として、中山忠能1)・正親町三条実愛・中御門経之などと協議する。そして、薩摩の小松・西郷・大久保らをして、久光の決起を説得させた。
 9月には、中岡慎太郎が大宰府に赴き、三条実美を説得して、岩倉らと協力するように促した。しかし、三条は"岩倉ごとき大奸(*岩倉は当時からこのように悪評された)とともに大事を図ることはできない"と拒否する。しかし、東久世通禧は、"今の京都で岩倉の右に出る公卿はいない。たとえ大奸なりとも、皇室の回復に力を尽すならば、これと謀議するも何の不都合があろうか"と、三条を説得する。これにより、三条もようやく納得する。
 9月、京都では、岩倉具視・中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之が、「王政復古ノ大挙(たいきょ)を図議(とぎ *謀を相談すること)」する。この席で、中山忠能が来る王政復古の新制度にかんして、「建武の中興」を模範としたいと提起する。このことを玉松操に諮問すると、玉松は「王政復古ハ務メテ度量ヲ宏クシ規模ヲ大ニセンコトヲ要ス故ニ官職制度ヲ建定センニハ當(ま)サニ神武帝ノ肇基(ちょうき *土台をすえる)ニ原(もと)ツキ寰宇(かんう *天皇の治める領土全体)ノ統一ヲ図リ万機ノ維新ニ従フヲ以テ規準ト為スヘシ」(『岩倉公実記』中巻 P.60)と答えた。これに対して、岩倉もまた同意した。

 (ⅲ)西郷と久光の動向
 薩摩藩首脳が5月25日、京都の藩邸で今後の方針として、"長州とともに挙事"すると決定して以後、6月22日に、薩土盟約がなり、このことを7月初めには村田新八を派遣して長州へ報告させている。この当時、薩摩藩は藩全体の方針として、武力をもって倒幕するという状況では未だない。京都藩邸でも、国許でも、西郷らの対幕強硬論者を批判し、挙兵反対論が巻き起こっている。
 その様子を家近良樹著『西郷隆盛』(ミネルヴァ書房 2017年)は、「道島家記」(『大日本維新史料稿本』)を史料として、次のように述べている。「道島は、どうやら、かねてから鹿児島に在って、西郷らの言動を藩にとって重大な危機を招く冒険主義的なものだと批判する立場にあった人物らしい。その道島は、日記の慶応三年(*1867年)八月一日の条に次のように記した。それは、(1)京都において二条城を襲撃するなど、『倒幕』を企てた『張本』人が、『西郷・吉井・伊地知』であるらしいこと、(2)これに対し、『関山・田尻・蓑田』が『諫争(かんそう)』し、討幕路線が阻止されたらしいこと、(3)大久保・小松の両人は、この時点で挙兵には慎重らしいことに、それぞれ触れる。/そして、この後、道島は次のように倒幕論を痛烈に批判した。『すなわち長州が二の舞にて、一葉の兵気は強くとも、直に兵糧切れに相成り、皆殺しに成り候儀は疑い無き事に候処、何の見当(けんとう)に右(の)次第暴挙の心(こころ)生じ候や、実に国家(=薩摩藩)の大賊憎むべきの者共に候』。」(同著 P.253)と。
 西郷は、現実に長州からの使者(6月時点で、久光が西郷を山口に派遣すると言ったが、それが果たされておらず、その理由を聞き出すために派遣された)・柏村数馬に対して、次のように語っている。それは、小松の邸で西郷がしゃべった「三都一時に事を挙げ候策略」というものである。
 その内容は、「京都藩邸には兵士一千人がいるのでこれを三手に分け、一手は御所を『守衛』し『玉(*天皇のこと)』を確保し、場合により山崎男山に移動、一手は会津邸を急襲、一手は堀川辺の幕兵屯所を焼き払う。国元から三千人を上坂させて、大坂城を落とし大坂湾の軍艦を破砕する。江戸には〔*薩摩藩士が〕一千人がいるので、水戸浪士らの協力を得て甲府城に立て籠って幕府軍の上京を阻止する、というのがその内容である(『防長回天史』)。また西郷は〔*大政奉還の〕建白につき、『幕府に採用これ無きは必然に付き、右を塩(汐)に幕と手切(てぎれ)の策』と述べている。」(高村直助著『小松帯刀』吉川弘文館 2012年 P.179~180)のである。
この計画については、高村直助氏は、「この挙兵計画、今日の目から見ていかにも劇画的な奇襲作戦で、関東に関しては特にそうである。また『奪玉』前には特段の名分も準備がないようで、自らの正当化は天皇の身柄確保後のことになる。このような点から見て、この計画は相当にずさんであり、軍事的・政治的リスクが大きく、強行すると自爆に終わる可能性が大きかった」(同前 P.180)という評価が下されている。
 また、家近良樹氏は、次のように評価している。「この西郷発言の字句をそのまま素直に受け取れば、京都・大坂・江戸(関東)での対徳川全面戦争(武力倒幕)計画であったことは疑いない。また、この西郷発言からは、その他、次の諸点も辛うじて推測し得る。(1)挙兵計画がごく少数者の間で立案された(換言すれば、多数の同意を得たものではなかった)こと、(2)西郷らが、どうやら挙兵後に関しては明確な見通しを持ってはいなかった(せいぜい同志公卿の協力を得て、挙兵後、討幕を命じる綸旨を入手できる見通しを有していた程度であった)らしいこと、(3)薩摩側は単独での挙兵を考えていたこと(西郷は「万一」土佐側の協力を得られない場合は、「弊藩一手にて」挙兵すると柏村数馬らに伝えた。すなわち、長州側に対して軍事力の提供など直接的な協力はいっさい求めないで、薩摩藩のみで「事を挙げ候心組み」であることを伝えた)。......それにしても、ざっくりしたと言えば聞こえは良いが、随分粗(あら)い挙兵計画だなとの印象を受ける。」(『西郷隆盛』P.244~245)と。
 この間、久光は幕府の長州処置を注視していた。「特に幕府は広島藩を通じて長州処置を進めるが、思うようには運ばない。そのうち幕府は、佐賀藩主鍋島閑叟(かんそう)を呼んで周旋させるが、これもうまくいかない。しかし閑叟が登営した翌日、松平慶永・伊達宗城の二人が登営しても、老中板倉は何の話もしない。これを聞いた久光は、八月三日の忠義(*薩摩藩主。久光の長男)あて書簡に『是(これ)にて四藩(*四侯のこと)を度外に置き候義(そうろうぎ)顕然(けんぜん)に御座候』と書く。幕府は長州処置について四藩を無視して進めようとしていることがはっきりした、と憤慨する」(芳即正著『島津久光と明治維新』P.189)のであった。
 四侯のうちの越前・春嶽は8月6日に離京し、宇和島・宗城は8月18日に離京し、それぞれ帰国する。薩摩・久光は当時、深刻な体調不良(腰と脚の痛みで歩行も困難)で、8月15日、大坂に下り待機する。9月6日に、国元から島津備後(珍彦〔うずひこ〕。久光の3男)が禁裏守衛のため約1000名の兵士を率いて大坂に到着すると、9月8日、久光は帰国して療養に専念したいと朝廷に願書を出して許可を得て、15日に藩船宝瑞丸で大坂を発ち、21日に鹿児島に着いている。(なお、山内容堂はそれより以前の5月27日に、病気で帰国)

 (ⅳ)薩長・長芸間の出兵協定
 土佐の後藤象二郎は、7月3日に帰国し、ようやく2カ月ぶりの9月4日、京都に再び入った。9月7日、後藤は小松・西郷と会談するが、ここで西郷は先の薩土盟約を破棄する方針を示した。その「表向きの理由として、『薩長初め浪人輩の見込みには、とても後藤の議論は口には言うべくして行なわれがたき事なり、とかくむずかしきをいうより、早く事を起こし候ほう、埒(らち *物事の区切り)明き候なりと、議大半一定せしゆえ、来る二十日迄(まで)に兵を挙げるの見込みなり、とのことを西郷吉之助ならびに小松帯刀より後藤に咄(はな)し』があったという〔『寺村左膳日記』同日条〕。実際には、建白から将軍職条項が削除される結果になったことが、薩摩の構想と齟齬(そご)をきたした最も大きな要因である〔佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』吉川弘文館 二〇〇四年〕。」(青山忠正著「慶応三年一二月九日の政変」P.241~242)と言われる。
 9月9日にも、ふたたび会談がもたれる。後藤はこの席で、挙兵の延期を要請したが、西郷らはこれも拒否した。
 土佐藩の動きに懐疑的になっていたのは、芸州藩もまた同じである。同藩は、さかのぼる事7月23日に、老中板倉勝静から、毛利家に対し、家老上坂(大坂にのぼること)の命令を伝達するように命じられていた。家老上坂は、5月23日の拡大朝議で決定された長州藩への「寛大処分」を申し渡すためである。「八月一三日、芸州は、この命令を山口へ伝達した。芸州兵がこの毛利家家老の上坂に、警衛のため同伴するので、芸長の合同で大坂に兵力を派遣する名分が立つのである。さらに九月一〇日から一三日にかけ、京都では辻将曹と小松帯刀が、大坂では黒田益之丞と大久保一蔵が会談し、長州と提携した出兵策を協議していた〔『藝藩志』七八巻、七月二三日条。九月一三日条〕。薩摩が、土佐に対し、盟約破棄を通告するのは同時期」(青山忠正著「慶応三年一二月九日の政変」P.243)である。
 佐々木克氏によると、「九月十日、小松と辻が話し合った。辻は、まず建白書を差し出して、慶喜に大政奉還と将軍職辞職を強硬に迫る、しかし採用されなかったときには武力に訴える、これが芸州の国論だという。そういうことなら、と小松は辻に〔*薩摩藩の〕政変計画をうちあけた。」(同著『幕末史』ちくま新書 2014年 P.257)と言われる。
 このような動きと符節を合わせるように、9月15日、久光は大坂を出港し、同月17日、浅野茂勲も京都を出発し、それぞれ帰国の途についた。実際に出兵が具体化するとき、藩の責任者クラスが、現地に居るのは、後々、責任を追及される恐れがあるからである。
 9月17日、大久保一蔵と大山格之助(綱良)は、かねてから薩摩藩京都藩邸に潜んでいた品川弥二郎・伊藤俊輔(のちの博文)とともに山口を訪ね、翌18日、宍戸備前、木戸準一郎(のちの孝允)、広沢兵助(のちの真臣)の待座する中で、毛利敬親父子に謁見する。
 大久保は、久光が徳川慶喜に建言したところの要旨や京都の情勢を説明し、その上で次のように長州藩に対し要請している。

幕府ハ私意ヲ以テ公議ヲ拒絶ス。故ニ弊藩(*薩摩藩)ニ於テハ兵力ヲ以テ之(これ)ニ臨ムニ非(あら)サレハ皇国ノ憂患(ゆうかん)ヲ匡救(きょうきゅう *正し救うこと)スルコト能(あた)ハスト思慮シ、寡君(かくん *臣下が他国人に対して自分の君主を言う謙称)已(すで)ニ決意スル所アリ。土佐藩ノ後藤象二郎ハ容堂侯ノ意ヲ承(う)ケテ王政復古ヲ唱ヘ、安芸藩ノ辻将曹モ亦(また)之(これ)ニ左袒(さたん *賛成すること)ス。尊藩(*長州藩を指す)ハ已ニ皇国ノ為(ため)ニ大難ニ当(あた)リ天下ニ先(さきだ)チ戦闘ニ従事セラルルヲ以テ、尊藩ヲ煩(わずら)ハスハ情ニ於テ為(な)スヘカラス。然ルニ弊藩ハ京師(けいし)ニ於テ幕府ヲ伐(う)チ禁闕(きんけつ *御所の門)ヲ衛(まも)ルノ任ヲ尽スコトヲ得(う)ヘシト雖モ、其(その)終(おわり)を全(まっと)ウスルハ微力ノ能(よ)ク為ス所ニ非(あら)ス。是(これ)ヲ以テ尊藩ノ援助ヲ乞(こ)ハント欲(ほっ)ス。情勢洵(まこと)ニ已(や)ムヲ得(え)サルニ出(い)ツ、今ヤ尊藩ハ幕府ヨリ貴支族(*吉川家を指す)ヲ徴スノ命ヲ受ケラルルヲ以テ兵隊ヲ発シテ之(これ)ニ随従セシメ弊藩ヲ援助セラルルコト有ラハ則(すなは)チ皇国ノ大幸ナリ    (『岩倉公実記』中巻 P.56)

 四侯会議で相談し、幕府の長州処置・兵庫開港問題でのやり方を批判したが、幕府は私意をもって「公議」を拒絶した。故に、薩摩藩は「兵力を以て」、幕府の私意を止めなければ「皇国の憂患」を救うことができないと考えた。したがって、わが藩は「王政復古」のために、「京師に於て幕府を伐ち禁闕を衛る」任務に力を尽すが、微力のため最後までやりとげられるかわからないので、是非とも長州藩の援助を御願いしたい―というのである。  
 これに対し、世子広封(ひろあつ *定広)は久光のこの春の奮闘を敬服するとともに、"今回の大挙は久光の建言が拒否された憤りをもって決議されたのか"という質問に対して、大久保は次のように答えた。

然ラス。幕府カ失政ノ罪跡(ざいせき)ハ顕然(けんぜん)トシテ天下衆人ノ已ニ知ル所ト雖モ四藩カ建言ヲ採用セサルヲ見レハ則チ其(その)心術ノ不正ハ愈(いよいよ)益(ますま)ス明著ナリ。抑(そもそも)戊午(ぼご)以来〔*1858年、条約締結に不満の孝明天皇が勅諚を水戸藩などに降した〕有志ノ諸藩カ力ヲ国事ニ竭(つく)シテ今日及(およ)ふ、人事已(すで)ニ尽セリト謂(ゆ)フヘシ。而(しか)ルニ国事ノ日ニ非(ひ)ナルコト此(かく)ノ如ク甚(はなはだ)シ。若(も)シ之(これ)を拱黙坐視(こうもくざし *手をこまねいて目をつぶり座ったまま何もしないこと)スルトキハ則チ大禍(たいか)ヲ後世ニ貽(のこ)シ終(つい)ニ匡救ス可(べ)カラサルニ至ラン。弊藩ハ皇国ノ傾覆(けいふく *傾きくつがえること)ヲ以テ之(これ)ヲ度外(どがい)ニ置クコト能(あた)ハス。故ニ寡君カ決意スル所アリシナリ。(同前 P.57)

大久保は、幕府との折衝は「人事已に尽せり」と断定し、もはや武力をもっての交渉以外に決着し得えない―と述べる。翌日の9月19日、両藩は「出兵条約書」を取り交わす。
 同日、大久保は、主命で山口に向かっていた芸州藩の勘定奉行植田乙二郎(おとじろう)と宮市駅で行き逢い、植田とも出兵手順を協議している。その植田は、9月20日、山口で長州側と会談し、長芸間で「出兵協定」を成立させている。
 これらの出兵計画の要点は、以下の通りである。「九月二六日までに、薩摩兵を乗せた軍艦二艘が周防(すおう)三田尻(みたじり)に到着、一艘はそのまま先発して大坂に向かう。もう一艘に長州兵を乗せ、さらに御手洗(みたらい)に寄港して芸州兵を乗せる。三藩兵の大坂着を確認したうえ、翌日夜、京都で政変を決行する(在京薩芸兵力二〇〇〇)。その直後、増援三藩兵力一八〇〇で大坂城を攻撃する。一挙ののち、島津茂久・浅野長訓の両家当主が挙兵上京する〔『大久保利通日記』一。佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』〕。......なお、計画実施は九月中の予定だった。」(青山忠正著「慶応三年一二月九日の政変」P.245)と言われる。
 しかし、この出兵計画は、結局は実現していない。その原因は、薩摩の門閥層など国元での出兵反対論が強かったためである。期日の9月26日はおろか10月に入っても薩摩船は三田尻に到着しなかった。
 このため、長州藩は10月3日、挙兵の延期を決定した。すでに挙兵の時期は失われたとの判断である(「失機改図」)。長州藩は、出兵延期を薩摩藩京都藩邸および広島の芸州藩政府に伝えるために、同藩の福田侠平らを派遣する。


 (ⅴ)土佐藩と安芸藩の「大政奉還」の建白
 他方、土佐藩はこの10月3日、ついに「大政奉還」の建白書を幕府に提出した。
 後藤象二郎は、7月3日の帰国以前から、幕府の若年寄永井玄蕃頭(尚志)に工作してきたが、「再上(*再度の上京)の後も会合を重ねて、政権返上の急務なるを語りしに、玄蕃頭(げんばのかみ)之(これ)を可とし、九月二十日に至り、速(すみやか)に建白書を呈出すべき由(よし)象二郎に慫通(しょうよう *説きすすめること)せりといふ(寺村左膳日記)。蓋(けだ)し幕府に於ても伊賀守(*板倉勝静)・玄蕃頭等謀議の結果、土藩に対して其(その)建議を納(い)るるの内約既(すで)に調(ととの)ひたるなるべし。」(『徳川慶喜公伝』4 P.49)なのであった。
 また、薩摩藩も薩土盟約は破棄したけれども、「王制復古」・「上下両院構想」などは共通した考えだったので、10月2日、後藤に対して"貴藩の建白提出に反対しない"旨の連絡を行なっている。
 こうして、10月3日、後藤象二郎は老中板倉勝静に建白書を提出し、4日には、寺村左膳と神山(こうやま)佐多衛(さだえ)が摂政二条斉敬にその写しを提出した。
 建白書は、慶応三年丁卯九月付けの「山内豊信上書」と、別紙(寺村左膳・後藤象次郎・福岡藤次・神山左多衛の連署)から成っている。「山内豊信上書」は、次のように「王制復古」を提起している。

誠惶誠恐、謹デ建言仕(つかまつ)り候。天下憂世(ゆうせい)ノ士、口ヲ噤(とざ)シテ敢(あへ)テ不言ニ至リ候ハ、誠ニ懼(おそる)べきノ時ニ候。朝廷・幕府・諸侯、旨趣(ししゅ)相違(あいたが)フノ状アルニ似タリ、誠ニ懼(おそる)べきノ事ニ候。此(この)二懼(*二つの懼れ)ハ我ノ大患ニシテ彼ノ大幸也(なり)。彼ノ策、是(ここ)に於て乎(や)成る矣ト謂ふべく候。此(かく)如き事態ニ陥リ候ハ、其(その)責(せき)至竟(しきょう *結局)誰ニ帰すべきヤ。併(しか)シ既往(きおう)ノ是非曲直ヲ蝶々弁難ストモ、何ノ益カアラン。唯(ただ)願(ねがは)クハ、大活眼大英断ヲ以テ、天下万民ト共ニ一心協力、公明正大ノ道理ニ帰シ、万世ニ亙(わたっ)テ不恥(はじず)、万国臨ンデ不愧(はじざる)ノ大根柢(こんてい)ヲ建テザルベカラズ。此(この)旨趣(ししゅ)、前月上京ノ砌(みぎり)ニモ、追々(おいおい)建言仕り候(そうろう)心得(こころえ)ニ御座候(ござそうら)ヘドモ、何分(なにぶん)阻当(そとう *さまたげ)ノ筋ノミ之(これ)有り、其内(そのうち)図らずモ旧疾(きゅうしつ *持病)再発仕り、已(や)むを得ず帰国仕り候以来、起居動作(どうさ)ト雖も不随意(*思うままにならない)ノ事ニ成り至リ、再上ノ儀(*再上京の件)暫時(ざんじ)相調(あいととの)ひ申さず候ハ、誠ニ残憾(ざんかん *恨みが残ること)ノ次第ニテ、只管(ひたすら)此事(このこと)ノミ日夜焦心(しょうしん *あせること)苦思(くし *にがにがしく思うこと)仕り罷(まか)り在り候。因テ愚存(ぐぞん *愚かな私の考え。謙称)ノ趣(おもむき)、一二家来共ヲ以テ言上(ごんじょう)仕り候。唯(ただ)幾重(いくえ)ニモ公明正大ノ道理ニ帰シ、天下万民ト共ニ、皇国数百年ノ国体ヲ一変シ、至誠ヲ以テ万国ニ接シ、王制復古ノ業ヲ建テザルベカラザルノ一大機会ト存じ奉り候。猶又(なおまた)別紙得度(とくと)御細覧仰せ付けられたく、懇々(こんこん *親切に繰り返し説くさま)ノ至情(しじょう *まごころ)黙止(もくし)し難く〔*黙っておれず〕、泣血(きゅうけつ *血の涙を流して泣くこと)流涕(りゅうてい *涙を流して泣くこと)ノ至(いたり)ニ堪へず候。
  慶応三年丁卯九月
                           松平容堂
        (日本思想大系『幕末政治論集』岩波書店 1976年 P.511)
  
 今や数百年間つづいた武家の時代を終らせ、真心をもって外国と交際し、王政を復古すべき時であることを、懇々と将軍に訴えている。そして、別紙には、8条の改革項目を寺村・後藤・福岡・神山の連名で掲げている。
 その8カ条は、薩土盟約と比較すると、大まかには類似している。ただ、薩土盟約の第三項目の"徳川氏の将軍職を止め、諸侯の列にさげる"ことが欠如している。だが、この建白書では、「庠序(しょうじょ *学校のこと)学校ヲ都会ノ地ニ設ケ、長幼ノ序ヲ分チ、学術技芸ヲ教導セザルベカラズ。」と、教育問題を新たな項目として掲げ重視している。
 土佐藩の建白書提出後、数日した10月6日、芸州藩(藩主浅野長勲〔ながこと *1842~1937年。1856年に浅野長訓〔ながみち *1812~72年〕の養嗣子となる)もまた以下のような政権奉還の建白書を老中板倉勝静に提出している。

......兵庫開港・防長処置の儀につきては、既に御布告の趣もあり、今更(いまさら)建議すべき事もなけれども、再三言上せるが如く、一日も早く御裁許あらんこと、切望の情に堪へず。熟(つらつ)ら天下の大勢を考ふるに、甲是・乙非、物情背馳(はいち)し、漸く済(すく)ふべからざる世態(せたい *世のありさま)に逼迫(ひっぱく)せり。其(その)原因は固(もと)より一言・半句にて悉(つく)さるべきにあらねど、畢竟(ひっきょう)大義・名分・明ならずして、国体懐頽(かいたい)せるより起りたれば、徒(いたずら)に枝末の瑣務(さむ *細かなこと)にのみ御注目ありて、大本(たいほん)に御反省なくば、木に縁(よ)りて魚を求むるが如く、何事も徒労に属して、時運(じうん *時のまわり合せ)御挽回(おばんかい)の期あるべからず。抑(そもそも)我邦は万国に卓絶(たくぜつ)し、終古一姓(*万世一系のこと)にして、君臣の大義儼(げん)として存するが故に、此(この)自然の至理に基(もとづ)き、大義を明にし名分を正し、政柄を朝廷に帰し奉り、公平灑脱(しゃだつ *俗気がないこと)、天下群辟(ぐんへき *多くの弱者)と共に九重(ここのえ *内裏)の上に於て万機を御献替(*輔佐すること)あらせられ、聊(いささか)も矯勅(きょうちょく *偽りの勅)の嫌(きらい)・壅塞(ようそく *ふさぐこと)の疑(うたがい)なきやう、御反省の実跡(じっせき)を立てらるべきなり。事(こと)?(ここ)に至りて尚(なお)旧轍(きゅうてつ *ふるい轍〔わだち〕)を踏ませられては、内外の不都合を醸(かも)し、遂に滔天(とうてん *天にはびこるほどの大悪)の禍害を引起(ひきおこ)して、烈祖(れっそ *功業が大なる祖先)の御遺志も泡滅(ほうめつ *泡の如く滅すること)せんかと、深く痛心の情に堪へず、何とぞ御熟慮ありて、御決断あらんことを願ひ奉る。 (『徳川慶喜公伝』4 P.54~55)

 もはや「国体懐頽」なのであるから、万世一系の伝統に基づく君臣関係から「政柄を朝廷に帰し奉」るべきと述べている。
 "天皇が幕府に「大政を委任」したため、幕府が全国政治の大権を握っている"という虚構の「大政委任」論は、国学者の歴史歪曲に始まり、天皇や貴族を中心とした世界に浸透したが、それだけでなく「寛政の改革」で有名な松平定信が老中時代の18世紀末ごろには幕府の中枢にまで、浸透していた。それが、将軍家茂が上洛した1864(元治元)年4月に、幕府が攘夷を飲む代わりに、朝廷が「大政を幕府に委任する」という「取引」が行われたことにより、幕末には「大政委任論」は諸大名の間でも常識と化してしまったのである。であるが故に、親幕府的な大名からも「大政奉還」が飛び出しても、もはや不思議ではなかったのである。
 だが、「大政奉還」は、土佐藩のそれが初めてのことではない。「大政奉還」論の嚆矢(こうし *物事の始め)は、5年前の1862(文久2)年に、大久保忠寛が述べた主張である(《補論 「大政奉還」論の嚆矢は大久保一翁》を参照)。それより5年経過して、ついに追いつめられた幕府は、その主張を受け入れ「大政奉還」・将軍職の辞退を表明したのである。

《補論 「大政奉還」論の嚆矢は春嶽か一翁か》
 1867(慶応3)年10月15日、徳川慶喜の「大政奉還」が許可された。しかし、「大政奉還」論そのものの嚆矢(こうし)は、土佐の山内容堂ではなく、松平春嶽かあるいは大久保一翁である。 
 1862(文久2)年9月21日、朝廷は攘夷督促勅使として三条実美と姉小路公知を江戸に派遣することを決定した。この年の6月には、大原重徳勅使が薩摩藩の島津久光の後援で東下している。しかし、久光は、一橋慶喜の将軍後見職と松平春嶽の政事総裁職(大老に相当)の実現で幕政改革を主眼としていたので、攘夷についてはとりわけ幕府に注文を付けなかった。
 しかし、朝廷内の尊攘激派はこれに大いに不満で、それにさらに輪をかけて長州と土佐の尊攘激派喪輪が不満で、ともに朝廷に圧力をかけ、改めて江戸に攘夷督促の勅使を派遣することとなったのである。三条らの勅使が江戸に到着するのは10月28日であるが、それを前に幕閣の中枢で議論があった。
 そこでは、慶喜が三条らの東下に先立って上京して開国を説くという方針が決まりかけた事があった。それに対して、慶喜の見識にいたく感服した春嶽は、"もしそれが受け入れられなければ政権返上の覚悟があるか"と、念を押した(『続再夢紀事』10月8日)。ところが慶喜は即答を避け、翌日になっても返事を保留した。
 これにまた勅使の待遇問題がからんで、慶喜と春嶽の間に亀裂が深まり、登城をやめた春嶽は長文の辞意表明文を用意した。その中で、春嶽は政権返上問題をめぐっての慶喜とのやりとりを丹念に書き込み、慶喜に政権返上の覚悟のないことを厳しく非難した。
 この辞意表明文の中では、春嶽は、"幕府旧来の「私政」を去って、天下「公共」の道理に基づく政治を行なうべきである。朝廷を尊重し、諸侯の議論を経て天下一致・万民一心の政治を行なうべき"との基本姿勢を述べた。この基本姿勢は、春嶽の政治ブレーン横井小楠の持論である。春嶽はそれを貫く力が自分にはないこと、また病気のこともあって勤務に堪えられないと、辞意を表明している。
 また、外交問題にしても、徳川家の都合で外敵に屈服して条約を結んだのであり、現行条約はいったん破棄し、朝廷や諸侯の衆議して条約を結び直すのが基本であると主張する。しかし、"相手のあることだから、これは一気にできない。今すぐに攘夷を求められても、現行条約を結んだ当事者である幕府としてはお受けすることはできない。どうしてもと強要されるのであれば、政権を返上して一大名となり、一大名として朝廷の命令通りに攘夷戦争に加わるほかなはない"というのである。春嶽は、上京して開国を説くにしても、勅使を迎えて攘夷即行をお断りするにしても、腹の底で政権返上の決心が不可欠だ―というのである。
 これに対する慶喜の返答は、"勅使と言っても実は薩長をはじめ浪人輩のたくらんだことで、彼らのために二百年来の大権を返上などとんでもないことだ"ということであった。
 春嶽は慶喜の姿勢がこの程度のことであり、結局、従来の幕府の因循の開国論であることに嫌気がさし、病気と称して10月13日から出勤停止を続けていた。
 そこに、10月20日、将軍の命で側用取次(そばようとりつぎ)の大久保忠寛(一翁)が、松平慶永の病気見舞いにうかがった。型どおりの見舞が済んだあと、一翁・慶永・横井小楠が閑談したが、その中で一翁は、次のような発言をしている。

(A)攘夷の勅諚奉承(ほうしょう *謹んで受け取ること)は不可なり。如何(いかん)となれば、元来、京都より重大の件を御沙汰(ごさた)ある時はいつも「後々(のちのち)はいか様ともなるべければ、一応は御請けあるべし」と内諭(ないゆ)せらるる事なるが、表面の御沙汰には御書面あり。故に後日まで消滅せざれど、内諭には書面なく口頭のみなれば、後日に至り何の証拠ともならず......
かかる実例に照らして考案すれば、今度はどこまでも攘夷は国家のため得策にあらざる旨を仰せ立てられ、然(しか)る上に、万一京都に於て御聞き入れなく、やはり攘夷を断行すべき旨(むね)仰せ出(い)だされなば、その節は断然、政権を朝廷に奉還せられ、徳川家は神祖(*家康のこと)の旧領、駿遠三(*駿河・遠江・三河)の三州を請ひ受けて、一諸侯の列に降(おり)らるべし。
もっとも、しか政権を奉還せられたらば、天下はいかがなりゆくべきや、あらかじめ測り知られねど、徳川家の美名は千歳(せんざい)に伝わり、かの無識の覆轍を履(ふ)み、千歳の笑いを招かるるには万々勝(まさ)りぬべし。
               (松岡英夫著『大久保一翁』中公新書 P.113~114)
 
 春嶽は大久保一翁の「政権返上」論を高く評価し、他の箇所でも同論を称賛している。それが、以下の(B)(C)である。
 たとえば、春嶽が政事総裁職を拝命した(文久2年7月)後、(B)「御用の事柄ハ忘れたれとも、容易ならざる御評議の節、大久保越中守(一翁を号す)大目付勤中(つとめちゅう)と覚ゆ。御用部屋へ若年寄・大目付・御目付等召し呼び、相談致し居り候。越中守ハ私の建言を御採用在(あ)らせられ候ならハ、異見申し上ぐへしと申したり。老中夫(それ)ハ嫌疑憚(はばか)らず異見遠慮なく申し立つへしといへり。越中守進んていふ、内外の困難実ニ恐れ入り候、到底(とうてい)徳川家にて天下の政権を御掌握在らせられ候事ハ、六ヶ敷(むずかしき)事と存じ候。これに仍て時勢を御量(おはか)りにて、天下の政権を京都へ御返し在らせられ、徳川家ハ諸侯ニ列せられ、東照宮(*家康)御領地在らせられ候駿州一ヶ国、又(また)ハ駿三遠三国を御領地在らせられ候方、却(かえっ)て東照宮お始め歴代へ対せられ候ても、御孝行相成るべく、御家の御安堵(ごあんど)これに過ぎざると申述べたり。一同ハ不平の顔色にして、一言もいひ(言ひ)出るものなし。はたして越中守の先見たヵハす(違わず)、感ずべき事也(なり)。此(この)越中守の心を後世ニ伝へんと思ふヵゆへ(故)に、ここに記しぬ。一翁の先見ハ勿論(もちろん)、徳川家第一の功臣ハ大久保一翁・勝安房なり。」(『松平春嶽全集』第一巻 「閑窓秉筆(かんそうへいひつ)」 P.133~134)
 また、(C)「余(*春嶽)惣裁職(総裁職)中、京都より毎々の伝奏来状アリ。又(また)上洛の事あり。幕議紛紜(ふんうん *盛んなさま)の時、大久保越中守(一翁)大目付勤役中ナリ、進テ云ク、徳川家の傾覆(けいふく *傾きくつがえる)近年ニあり、上洛あつて然るべし、其時(そのとき)幕府にて掌握する天下の政治を、朝廷ニ返還し奉りて、徳川家ハ諸侯の列ニ加り、駿遠参の旧地を領し、居城を駿河に占メ候儀、当時の上策なりと諫言(かんげん)す。衆役人万座大笑いし、とても出来ナイ相談なりといへり。大久保氏の卓識を後世ニ伝へんため記載ス。」(『松平春嶽全集』第一巻 「逸事史補」 P.304)
 しかし、幕府が無くなるという大問題を、いかに一翁とても迂闊(うかつ)に言うはずがない。一翁が最初に胸中を明らかにしたのは、場面として一翁が春嶽の病気見舞いに行った際が、最も可能性がある。公の席で公表したのは、むしろ高い身分をもつ春嶽の方にこそふさわしいものである。しかし、「大政返還」の最初の提唱者が春嶽か一翁か―その真偽は不明である。ただ、いずれにしても、その時期は両者ともほぼ同じ頃かと思われる。
 ところで、1866(慶応2)年7月20日、将軍家茂が急死したが、その後継者は慶喜がもっとも有力であった。だが、将軍を継ぐことを辞退し(反対派の動向をさぐるため。徳川宗家相続は8月20日。将軍就任は12月5日)、第二次幕長戦争の指揮のため、みずからの出陣にこだわった。ところが、小倉口戦線が崩壊したとの報告を受け、慶喜は休戦に豹変した。これには、大方がその身の変わり身の速さに批判的であった。
 この時にあたって、松平慶永(春嶽)は、次のような政体変革の構想を提案した。
 
幕政の衰運に属せる事ハ今日に始まれるに非(あら)され(非ざれ)とも(ども)、今度(こんど)下ノ関口解兵の一事ハ愈(いよいよ)幕政の振ハす(振はず)なれる明証(めいしょう)なれは(なれば)、徳川家に於て速(すみやか)に其(その)時勢を洞察し時運(じうん)に応すへき(応ずべき)処置に及ハれさらん(及ばれざらん)にハ天下ハ忽(たちま)ち四分五裂の惨状を見る事ともなりぬへき(べき)なりとて、公(*慶永のこと)深く憂慮せられ更に一橋殿へ勧告せらるへき(べき)條項(条項)を決せられたり。今(いま)其(その)條項を左に録す......。
一(第一条)、速(すみやか)に大樹公(*将軍のこと)の喪を発せられ候事。
一(第二条)、橋公(*一橋慶喜のこと)〔徳川宗家を〕継統相成り候事。
一(第三条)、橋公継統ありても、幕府ハ今日より之(これ)無き事ゆえ、江戸へ御帰城または其儘(そのまま)滞坂・滞京、すべて叡慮に伺い、取り計らわるべく候事。
一(第四条)、徳川家従来の制度を改め、諸侯へ命令等停(とど)められ、尾紀(*尾張・紀伊)両藩の如く成らるべき事。
一(第五条)、幕府より建て置かれ候(そうろう)所司代・守護職・町奉行等ハ一切廃せられ候か、または其儘(そのまま)据え置き相成り候か、すべて叡慮に伺い取り計らわるべき事。
一(第六条)、兵庫開港・外国交際・諸侯統括・金銀貨幣・その余天下の大政、一切朝廷へ御返上相成り候事。
一(第七条)、もし天下の衆議により、将軍職をこれまでのごとくにと願い、その職を御受け相成り候とも、諸侯へ命令等の書を旧套(きゅうとう *昔からのままのやり方)に復され候までにて、その他の御制度はなお御改正の廉(かど)、之(これ)有るべき事。
           ((『続再夢紀事』五 P.334~335)

 春嶽は、下関の敗戦を挙げて、もはや徳川家の衰運を見切って、先にあげた条項を整理する。そして、慶喜がどのような行動にでるかを心配し、慶喜に対して、幕府の廃止を促し(第三条)、幕府の諸制度を改め、尾張家や紀伊家と同じような振る舞いをする(第四条)ことを促す。また、「兵庫開港・外国交際・諸侯統括・金銀貨幣(*の鋳造)」など天下の大政はいっさい朝廷に還し(第六条)、たとえ「天下の衆議」で将軍職をこれまで通りに行なうことになっても、諸侯への命令書をこれまで通りに出すだけで、その他はすべて改革すべき―と、提言している。春嶽は、幕府廃止をこれまで提言してきたのを踏襲し、ここでもまた粘り強く繰り返している。
 
(ⅵ)討幕の勅書を要請され、偽勅を渡す
 1867(慶応3)年10月6日、大久保一蔵は、長州藩の品川弥二郎とともに岩倉邸を訪ね、中御門経之も交えて、「幕府ヲ討伐シ皇室ヲ興復スルノ順序ヲ謀議ス、且(かつ)太政官ノ職制案ヲ示シ熾仁(たるひと)親王ヲ以テ知太政官事ト為シ、入道純仁親王(仁和寺宮)ヲ以テ征討大将軍ト為サンコトヲ商議ス。一蔵、弥二郎之(これ)ヲ善トス。......」(『岩倉公実記』中巻 P.62)、とのはこびとなっている。
 10月8日には、薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保一蔵、長州藩の広沢兵助(真臣)・品川弥二郎、安芸藩の辻将曹・植田乙次郎・寺尾庄十郎が会合した。これは、出兵および政変の実行が延期されたことを受けての対策協議の会合である。
 そこでの協議は、改めて公家側と連絡を取り、政変を実行すること、場合によっては経過の進み具合で、徳川方と戦闘に及ぶこともあることが確認されたと言われる。三藩代表者は、さきの「出兵協定」を背景に、「政変方式」での新政府創設(「合同大挙ノ事」)を確認したのである。これにより、大久保、広沢、植田は、中御門邸を訪れ、中御門と中山忠能に謁見し、先の決議の要旨を報告した。

一、 三藩軍兵大坂着船の一左右(いっそう)次第(しだい)、朝廷向け断然の御尽力兼(かね)て願い置き奉り候事
一、 容易ならざる御大事の時節ニ付き、朝廷の為(ため)国家(*藩)を抛(なげう)ち必死の尽力致すべき事
一、 三藩決議確定の上ハ如何(いかが)の異論聞こし食され候共、御疑惑下されまじき候事
                 (『大久保利通日記』上巻 P.398)

 これを聞いて、中御門、中山は大いによろこび、中山は"三藩協議し、藩主速やかに上京せんことを望む"と返した。
 この日、三藩側は、青山忠正氏によると、先の三か条の決議とは別に他の4通の文書を提出したという。①これまでの経過を述べた陳情書、②「相当の宣旨(せんじ)降下」を要請した上表、③政変の手順を説明した文書、④政変が目指す政体構想―である。(同著「慶応三年一二月九日の政変」)
 ②の内容は、以下の通りである。

皇国内外ノ御危急謂ふべからずの状態、別紙趣意書ヲ以て申上げ候通りニて、宝祚(ほうそ *天皇の位)の存亡ニ相拘(あいかかわ)リ候(そうろう)御大事の時節(じせつ)、苟(いやしく)も安(あん)ヲ偸(ぬす)ミ傍観(ぼうかん)黙止(もくし *黙っていて放置すること)仕(つかまつ)り難く、国家の為(ため)干戈(かんか *武器)ヲ以テ其(その)罪ヲ討チ奸兇(かんきょう *邪悪)を掃攘(そうじょう *はらいのける)シ王室恢復(かいふく)ノ大業相遂(あいと)げたく制スベカラザルの忠義(ちゅうぎ)暗合(あんごう *期せずして一致すること)〔し〕会盟(かいめい *会合してちかいあうこと)断策(だんさく *裁断)〔し〕義挙に及び候ニ付き伏して冀(こいねがは)クハ相当ノ宣旨降下相成(あいな)り候処(ところ)御執奏御尽力成り下されたく願い奉り候。
                           小松帯刀
           慶応三年丁卯十月        西郷吉之助
                           大久保一蔵
   中山前大納言様
   正親町三条前大納言様
   中御門中納言様
                        (『岩倉公実記』中巻 P.64)

 この要請は、「宝祚の存亡」にかかわる重大な時期に、黙止傍観できないと言って、「国家の為干戈ヲ以テ〔*幕府の〕其罪ヲ討チ奸兇ヲ掃攘シ王室恢復ノ大業相遂げ」たいので、「相当ノ宣旨降下」を願い奉っている。そこには、明確に天皇制の存亡の危機だから討幕の宣旨を降下してくれ!といっており、儒学で常套の「人民の安寧」という常套句の一片さえ存在しない。いかに明治維新なるものが、新旧の支配階級の都合で、彼らの利益のために挙行されたものであるかを示す、一証左である。
 ここで言われる宣旨とは、勅命・勅語を伝える形式の中では、もっとも簡便な手続きで発行される公文書である。これに対し、複雑な手続きで発行され、天皇の一人称で語られる形式の詔(みことのり)が、最も重い取扱いとなる。ここで大久保が宣旨を奏請したということは、形式にとらわれず簡単に入手しうる宣旨でもよいから、公文書をとにかく確保し、みずからの「正当性」を演出するためであった。
 同時に提出された「別紙」は、戊午いらいの幕府の失政・悪政を一つ一つ取上げ、批判して、今や「大義ノ所在ヲ明ニシ王室恢復ノ赤心ヲ貫徹シ干戈ヲ以テ其罪ヲ討シ奸兇ヲ掃攘シテ国家長久ノ基ヲ開キ上(かみ)宸襟を安んじ奉り下(しも)万民塗炭(とたん *泥水と炭火、転じて非常な苦しみ)ヲ救済シ万死ヲ以テ藩屏(はんぺい *ここでは天皇を守る垣根)ノ任ヲ尽シ累代洪恩(こうおん *大恩)ヲ報い奉りたく......」と、武力討幕を明確にしている。
 ③の政変の手順は、「......中山・中御門・正親町三条実愛など限られた公卿が参内したあと、配置の兵士を繰り出して禁裏六門を封鎖し、そのほかの公卿参内を差し止め、同時に守護職邸などに兵士を繰り出す。『かくの如くする時は、朝議の顛倒(てんとう)これ無く、宣旨降下、相違なく、我が軍順逆の当を得る、必せり』という。」(青山前掲論文 P.245)ものであった。
 ④の政体構想は、土佐の大政奉還建白書の別紙の構想に相当するものである。(なお、青山氏によると、この③、④のみは、薩長二藩の記録には見られず、『藝藩志』八〇巻の10月8日条だけに収録されているという)
 ②に関して、大久保らの要請を受けて、岩倉具視・中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之はともに相談し、動揺する芸州藩を除いた薩長二藩に討幕の詔書を下すようにと、中山が天皇に密奏した。だが、そのためには手続きとして、長州藩を「朝敵」から解放する具体的な処置が必要となる。
 1867(慶応3)年10月13日、中山忠能は、毛利敬親父子の官位を復旧する宣旨を広沢兵助に授けようとしたが、中山邸の門前は新撰組が徘徊し、その出入りを監視していたため、岩倉の幼子を呼び寄せその宣旨を渡し、岩倉から渡すこととなった。その宣旨は、次のように述べている。

                         毛利宰相
                         同 少将
戊午(ぼご)以来邦国多事天歩(てんぽ *天のまわり合わせ)艱難(かんなん)の砌(みぎり)、東西周旋其(その)労尠(すく)なからず候処、幕府暴戻(ぼうれい *あらあらしく道理にそむくこと)の餘(あまり)讒構(ざんこう *ないことを作り上げて人をそしること)百出(ひゃくしゅつ)遂(つひ)ニ乙丑丙寅の始末(*長州征討)ニ及び候得共(そうらへども)、従来皇国の為に忠誠を竭(つく)し候父子の至情徹底〔し〕先帝顧命(こめい *臨終に際して遺言して後事を託すこと)の際に於ても深く留められ候。之(これ)に依り今般御遺志御継述(けいじゅつ *前人の後をついでその人の事業を明らかに述べること)本官本位ニ復せられ候間、速(すみやか)ニ入朝あるべし。愈(いよいよ)以て干城の勤め怠るべからざる旨(むね)御沙汰候事。
                          忠 能
  慶応三年十月十三日               実 愛
                          経 之
                (『岩倉公実記』中巻 P.70~71)
  
 ここでもまた、朝廷は1863(文久3)年8・18クーデター直後の孝明天皇の「手の平返し」と同じように、禁門の変―第一次長州征伐の評価を180度転換させている。そのうえで、毛利敬親父子の官位をもとに戻し、「速やかに入朝すべし」と命令している。歴史事実などは全く関係ないのである。いつでも自らに都合のよいように改ざんするのである。それが当たり前になっているのである。
 このようなご都合主義で歴史的事件の評価を次ぎ次ぎに変えるのは、天皇制の保身主義(常に「勝ち組」に乘る)がもたらしたものであり、同時に、薩長の天皇制利用主義がもたらしたものである。天皇と薩長という新旧の支配階級双方が互いに利用し合う所に、明治維新の政治体質がうかがわれるのであり、その本質は人民の利益とは全くかい離しているのである。このような結託(ないしは役割分担)は、今日に於いてもしばしば垣間見ることができる。
 同じ10月13日、中山・正親町三条・中御門は連名で、徳川慶喜を討つ以下の「詔書」を薩摩藩に授けた。

                      左近衛権中将源久光(*島津久光)
                      左近衛権少将源茂久(*島津忠義)
詔(みことのり)源慶喜(*徳川慶喜)累世の威(い)を藉(か)り、闔族(こうぞく *氏族全体)の強を恃(たの)み、妄(みだ)りに忠良(ちゅうりょう *忠義で善良〔の者〕)を賊害(ぞくがい *そこなうこと)し、数(しばしば)王命を棄絶(きぜつ *すてさること)する。遂(つひ)に先帝(*孝明天皇)の詔を矯(た)めて〔*偽り〕懼(おそれ)ず、溝壑(こうがく *みぞ)に万民を擠(おしおと)して顧(かえりみ)ず、罪悪の至る所、神州を将(まさ)に傾覆(けいふく *傾けくつがえすこと)す焉。朕(ちん *天皇の自称)今(いま)民の父母として、是(こ)の賊を討たずして、何を以て上(かみ)先帝の霊に謝(しゃ)し、下(しも)万民の深讎(しんしゅう *深いうらみ)を報ぜん。是(これ)朕の憂憤(ゆうふん)の在(あ)る所、諒闇(りょうあん *父母の喪に服すること)して顧ざるは萬(よろず)已(や)むを得ざるなり。汝(なんじ)宜しく朕の心を体(てい)して、賊臣慶喜を殄戮(てんりく *滅ぼし殺すこと)し、以て山嶽の安〔*「安全」の比喩か?〕に生霊(せいれい *人民、生民)を措(お)き、速(すみやか)に回天(かいてん *国勢を挽回すること)の偉勲(いくん *大きな手柄)を奏せよ。此(これ)朕の願ひ、敢へて懈(おこたり)無(な)かれ。
                     正二位藤原忠能(*中山忠能)
    慶応三年十月一四日        正二位藤原実愛(*正親町三条実愛)
                     権中納言藤原恒之(*中御門経之)
                (同前 P.71~72)

 「詔書」は、徳川慶喜を殄戮せよと、明確に宣(の)べている。その最大の理由は孝明天皇の意を偽り、万民を塗炭の苦しみに陥れ、日本国家を崩壊の危機に陥らせている―というのだ。であるが故に、この賊を殄戮して、万民の安全を確保し、日本国家を挽回せよ―というのである。
 この薩摩藩に降されたものと全く同じ文言の「詔書」は、薩摩藩にくだされた翌日の14日に長州藩に下された。また、その10月14日、正親町三条は、大久保一蔵と広沢兵助を邸に招き、松平容保(かたもり)・松平定敬を誅する次の「宣旨」を授けた。また、錦旗を下賜するのであったが、それは未だ製作中であったので、その目録を授けた。

                           会津宰相
                           桑名中将
右二人久しく輦下に滞り〔*天皇のおひざ元にとどまり〕、幕賊の暴を助け、其(その)罪軽かざる候。之(これ)に依て速に誅戮(ちゅうりく *罪ある者を殺すこと)を加えるべき旨(むね)下され候事。
                           忠能
  十月十四日                    実愛
                           経之
                 (同前 P.73~74)             
   
 この「宣旨」は、慶喜を殄戮するのと同じく、京都守護職の松平容保、京都所司代松平定敬を誅戮せよと、命じている。このことは、薩摩藩にとっても、長州藩にとっても、一会桑(慶喜・容保・定敬)がいかに不倶戴天のて敵であるかをよく示している。薩長の立場からすると、一会桑体制は何回も何回も苦杯をなめさせられてきた、まさに張本人たちなのである。
 正親町三条実愛らは、この「詔書」ならびに「宣旨」を授けた代わりに、薩長二藩の奉命書(請書)をのぼらせることを要求した。いかにも保身にたけた公卿たちの常套手段ではあるが......。それに答えて、大久保一蔵らが岩倉に差し出したのが、以下の文書である。

当節容易ならざる御危急の砌(みぎり)、皇国の為(ため)忌緯(きき *忌み避けること。孝明天皇の死にたいして喪に服していた)を顧みせざれず、御内々御尽力確定不抜の叡慮(えいりょ)伺い取らせられ勅書降下、両藩深く御依頼思し食(め)され候。御旨趣謹承(きんしょう *謹んで承ること)奉(たてまつ)り、卑賤(ひせん *卑しく身分が低いこと)の小臣感激流涕に堪(た)へ奉らずと存じ奉り候。早々寡君(*薩長両藩主)え報知決定の宿志(しゅくし *長年の志)益(ますます)以て貫徹仕り、国家(*藩のこと)を抛(なげう)ち堂々大挙(たいきょ)仕り宸襟(しんきん)を安んじ奉るべく候。此段(このだん)天地に盟(ちか)い、御受(おうけ)仕り候。誠惶頓首。
                        広沢兵助
                        福田侠平
  慶応三年丁卯十月十四日           品川弥二郎
                        小松帯刀
                        西郷吉之助
                        大久保一蔵
   中山前大納言様
   正親町三条前大納言様
   中御門中納言様
   岩倉入道様                  (同前 P.73~74)

 請書は、明治天皇が喪に服しているにもかかわらず、「不抜の勅書」を下したことにいたく感激し(そのように装って)、「国家を抛ち堂々大挙」して、「宸襟を安んじ奉る」ことを天地に誓うとしている。
 しかし、これら一連の行動は、岩倉ら公卿と薩長両藩の首脳が演じたものであり、「詔書」そのものが偽物(にせもの)であった。「......この文章(*慶喜殄戮の詔書)は、岩倉具視が重用していた国学者玉松操(たままつみさお)の手によるものであり、もとより天皇の発言をうけて作ったものではない。また二条摂政をはじめとして、朝廷の上層部や文書作成にかかわる役人は、いっさい関与していない。/大久保がうけとった秘物(ひぶつ *ニセの詔書をこう称した)を発行した者として、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の名前があるが、筆者は本文、署名ともに正親町三条である。なお同文のものが長州にもあたえられ、広沢真臣がうけとったが、これも全文の筆者は中御門だった。/この討将軍の詔は、漢文の公文書などは作ったことのない国学者玉松操が、岩倉具視に命じられて起草した習作で偽勅である。正親町三条は、すべて承知の上で大久保にあたえたのだ。」(佐々木克著『幕末史』ちくま新書 2014年 P.268~269)と言われる。
 薩長と岩倉らの陰謀が進められていた当時、将軍慶喜はすぐさま反撃に移る。

(ⅶ)慶喜の「大政奉還」と戸惑う朝廷 
 将軍慶喜は、この頃、「大政奉還」について煩悶してきた。すなわち、「若し王政を復古せんにも、公卿・堂上にては力足らず、諸大名とても同様なり、さりとて諸藩士等が直ちに大政を執行するは、事情の許さざる所なり、要するに今天下の人材は下々に集まりたれば、其(その)説によりて、百事公論に決する外(ほか)あるべからず」(『徳川慶喜公伝』4 P.55)と思い定めていたが、その具体的な方法に悩んでいたといわれる。
 ところが、土佐藩の幕府への建白に及び、「其中(そのなか)に、『上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を選補し、公論によりて事を行はば、王政復古の実を挙ぐるを得ん』とあるを見て大に喜ばれ、『容堂も亦(また)此(この)言(げん)をなせる上は、此(この)説によらば素願を達するに足らん、今は政権奉還の好機会なり』とて、之(これ)を腹心の老中板倉伊賀守・若年寄格永井玄蕃頭に告げられしに、二人も、『今は余儀なき次第なり、然(し)か思召(おぼしめ)さるる上は、御英断遊ばされて然るべし』と申す。......」(同前 P.55)のであった。
 これにより決断した慶喜は、10月12日、大小目付など諸有司を召集し、「大政奉還」の事由を述べた書付けを示した。そして、次のような発言を行なったと言われる。

我等の見込みは是(これ)より外になし、其方(そのほう)どもは如何(いかが)思ふにや、神祖以来の鴻業(こうぎょう *大きな事業)を一朝にして廃するは、御先霊に対して恐入(おそれい)りたる次第ながら、畢竟(ひっきょう)天下を治め宸襟(しんきん)を安んじ奉るは、即ち神祖の御盛業を継述するなり、方今(ほうこん)徳川家の武備衰弱して、天下諸侯を制馭(せいぎょ *制御)するの威力なきのみならず、二十年来の菲政(ひせい *粗末な政治)を数へ立てられなば、弁解の辞あるべからず。此時(このとき)に当りて、徒(いたずら)に神祖覇図(はと *覇者のはかりごと)の形迹(けいせき *その足跡)に執着して、此儘(このまま)に持ち堪へんとすれば、無理多くなりて罪責(ざいせき)益(ますます)加はり、遂には奪はるるは必然なりと見切りたり。因りて今(いま)政権を朝廷に還し奉り、政令を一途(いっと)にし、徳川家のあらん限り、力の及ぶだけは、天下諸侯と共に朝廷を輔(たす)け奉り、日本全国の力を勠(あわ)せなば、皇国今後の目的も定まらん。さりながら是(これ)とても見越(みこし *隔ての物を越して見ること)の事にて、必ず其(その)通りに行くべきかは洞見(どうけん)し難(がた)けれども、先ず治まるべき条理は此(かく)の如くなるべし。又(また)是(これ)まで通りと申す説もあらんが、出来さへすれば致すまじきにもあらねど、是(これ)は決して出来ぬ事なりと慥(たしか)に覚悟せり、孰(いず)れも存寄(ぞんじより *意見)あらば申せ             (『徳川慶喜公伝』4 P.56~57)

 現状のままでは、結局は、権力を奪われるのは必定なので、今は政権を還し、次の方策を建てるべきだ―という決心なのである。さらに慶喜は、前年12月の宗家相続の際のこととして、「従来我等(われら)菲才(ひさい)・不徳にして、宗家を継承するに堪へざれば、昨年も相続を辞したることは其方(そのほう)どもの知るが如し、然るを已(や)むを得ざる事情ありて遂に之(これ)を請けたるが、其節(そのせつ)我等相続するに於ては、現状のままにて持続すべきにあらねば、大変革を行はざるべからず、それにても宜しきやといへるに、伊賀(*板倉勝静)始め承諾せるを以て、爾来(じらい)追々(おいおい)其事(そのこと)に着手し、旗本なども漸く今日の如くになし得たれども......、中々(なかなか)斯(か)かる事にて成し遂げるものにあらず、孰れにも非常の大事業を施(ほどこ)さずんば適(かな)あじと思ひ込みたりしは、早くよりの事にて、根柢(こんてい *根本)いと深し。......」(同前 P.57)と、徳川宗家を引き継いだ時から、「大変革」のことは考えていたからだと吐露している。
 集まった有司には幕府権力に執着する者が多かったが、しかし、あれこれ私語をかまびしく交(か)わすだけで、上意をくつがえすほどの意見もなかったようである。
 幕府はまた、10月13日には、京都駐在の諸藩の代表者を二条城二の間に集めて、意見を述べさせた。当日、登城したのは、尾張・紀伊・彦根・高松・忍・姫路・高田・庄内・加賀・阿波・筑前・仙台・津山・因幡・肥後・津・米沢・久留米・盛岡・秋田・越前・備前・出雲・柳川・前橋・薩摩・安芸・土佐・弘前・二本松・宇和島・会津・大聖寺・富山・中津・郡山・小倉・大垣・松代・新発田など40藩の重役などである。
 会議は八つ時頃(午後2時頃)に、老中板倉伊賀守・大目付戸川伊豆守(忠愛)・目付設楽(しだら)岩次郎(能棟)などが出席し、諮問案を回覧した。これは慶喜が朝廷に上表するものと同文であり、ただ前後の体裁が異なるだけである。以下は、慶喜が10月14日に上表したものである。

臣(しん)慶喜謹(つつしん)で皇国時運(*めぐり合わせ)の沿革を考ふるに、昔王綱紐(つなひも)を解(と)きて相家(しょうか *宰相・大臣となる家柄)権を執(と)り、保元・平治の乱ありて政権武門に移り、以て臣が祖宗に及び、更に寵眷(ちょうけん *めぐみ)を蒙(こうむ)り、二百余年の間(あいだ)子孫相受(あいう)け、臣其(その)職(*将軍職)を奉ずといへども、政刑(せいけい *政治と刑罰と)当(とう *適切さ)を失ふこと少からず、今日の形勢に至れるも亦(また)畢竟(ひっきょう)薄徳(はくとく *徳が薄いこと)の致す所、慙惶(ざんこう *恥じておそれること)に堪へず。况(いわん)や当今外国の交際(こうさい)日に盛(さかん)なるにより、弥(いよいよ)朝権(ちょうけん *朝廷の権力)一途に出(い)でずしては紀綱(きこう *国家の決まり。のり)立ち難きを以て、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽し、聖断(せいだん *天皇の結論)を仰ぎ、同心・協力、共に皇国を保護せば、必ず海外万国と並立するを得ん。臣慶喜国家に尽す所(ところ)之(これ)に過ぎたるはあらずと存じ奉る。されど尚(なお)見込(みこみ *有望だとあてにすること)の儀もあらば申し聞くべき旨(むね)、諸侯へ達し置き候はぬ、此段(このだん)謹で奏聞(そうもん)仕(つかまつ)り候。     (『徳川慶喜公伝』4 P65~66)

 慶喜が「大政奉還」した公式の名義は、「天下の公議を尽し」、その上で「聖断を仰ぎ」、一致協力して「皇国を保護し」、「万国に並立」することである。ここでも、明治維新の直接的な目的が、対外的危機を克服し、「万国に並立(対峙)」することを示している。そのために、幕府独断の政治を止め、諸侯や公卿を含めた「公議政体」(庶民は除外)を作って、その結論をもって天皇に提出し、最終的には天皇が裁断を下すシステムというのである。
 西郷たちから見れば、慶喜の決断は予想外のものであった。慶喜の心中は正確には分からないが、自信家・慶喜は、新たな政治システムの下でも、慶喜の手腕からして徳川家の政治的ヘゲモニーが確保できるという目算があったのかもしれない。
 10月13日の在京の諸藩留守居役などの集りでは、将軍の「大政奉還」には異議を唱える者はいなかったようである。そこで、老中板倉から"将軍に対しなにか質問したい者、あるいは意見を述べたい者は名乗り出る"ようにとのことがあり、これには次の6人が応じたといわれる。「之(これ)に応じて其(その)名を記したるは、小松帯刀(薩摩藩)、辻将曹(芸藩)、後藤象二郎・福岡藤次(土藩)、都築荘蔵(宇和島藩)、牧野権三郎(備前藩)の六人なり。」(『徳川慶喜公伝』4 P.62)と。
 将軍との対面で(*将軍が陪臣を引見するのは、通常ではありえない)は、次のような会話がなされたといわれる。

......そこで小松帯刀が一番に口を開きまして、さて今日仰せ出だされました上意の趣は、恐れながら時勢御洞観の英断、千古卓絶の御見識である、誠に敬服のほかはございませぬ、皇国のためにいかにも有難(ありがた)き思し召しであると存じます、しかしかような美事(びじ *良いこと)は、とかく消えやすいものでありますから、このごとく御英断の上は、速やかに今日でも御参内の上、御奏聞(そうもん *天皇・上皇に申し上げること)のことを願わしゅう存じますと、忌憚なく申し上げた。すると後藤が語を継いで、ただ今帯刀の申し上げましたとおり、実に容易ならぬ御英断で、天下のためにこの上ない御盛徳(せいとく *さかんな徳)であります、私ども三藩(*土佐・芸・薩摩)は申すに及ばず、他藩でもこの公明正大の御趣意に対しては、異論のあるべきはずはございません、しかし非常の御英断でありますから、朝廷においても容易にお取上げいかがであろうかとは存じますが、万々一お取上げのない時分には、何と遊ばす思し召しでありますかと伺ったところが、将軍家は、予が一旦決心した以上は、いかがにも存意(ぞんい *思うところ)を貫徹する考えである、こう仰せられまして、なおまたその御趣意のあるところを諄々(じゅんじゅん)と御弁明遊ばして、とにかく親藩・譜代の面々に諮詢(しじゅん *他の機関の意思を参考として問い求めること)をして、公議を経たうえで奏聞するであろうと仰せられたのを承って、四人(*他の説では六人)は御前を退出したのである。
               (『昔夢会筆記』平凡社 1966年 P.238)

 小松帯刀は、ここで明らかに西郷や大久保らの武力討幕の路線ではなく、土佐藩らの平和的移行路線の意を示したのである。
 小松・後藤らは将軍との面会が終ったあと、別室で老中板倉と懇談し、これより直ちに参内して、「大政奉還」の上表を提出されたいと申し入れた。慶喜の心変わりを恐れたからである。この結果、14日に上表提出、15日に慶喜が参内することになった。
 翌14日、小松・後藤・福岡・辻の4人が、二条摂政に面会し、慶喜の上表を速やかに裁可することを求めた。だが、二条摂政は、"自分だけでは決められない"といって、責任を負わされるのを回避する姿勢をみせた。そこで、小松は"対応が遅くなっては、天下の大乱となる。その場合は我々にも「決心」がある"と言って、なかば強迫じみた言動でどうにか速やかな裁可を確認させた。
 小松の脅しが効いたのか、午後の朝議では、上表の受け入れが決まり、15日に慶喜が参内するように伝えられた。
 10月15日、慶喜は参内し、「大政奉還」の主旨を議奏・武家伝奏に伝えた。「摂政より之(これ)を天聴に達しけるに、やがて勅許の御沙汰書を賜へり。曰く、『祖宗以来御委任にて、厚く御依頼あらせられたれども、方今(ほうこん)宇内の形勢を考察し建白の旨趣、尤(もっとも)に思召(おぼしめ)され聞召(きこしめ)されぬ、尚(なお)天下と共に同心尽力して、皇国を維持し宸襟を安んじ奉るべし』。別紙に、『国家の大事・及び外国の事は衆議を尽し、諸大名の伺(うかがひ)仰出され等は両役(*議奏・武家伝奏)之(これ)を掌(つかさど)り、其他(そのた)の事は召(めし)の諸侯上京の上(うえ)御決定あるべし、それまでは徳川支配地(*禁裏所領地のこと)・市中取締等、姑(しばら)く旧慣に拠(よ)るべし』とありければ、〔*慶喜は〕恩を謝して退朝あらせらる(史料草案に、翌十六日暁〔あかつき〕七つ時〔午前四時頃〕御退出とあり)。」(『徳川慶喜公伝』4 P.75)といわれる。
同じ10月15日、朝廷は10万石以上の諸侯に上京を命じた。特に、徳川慶勝(尾張)、松平春嶽(越前)、島津久光(薩摩)、伊達宗城(宇和島)、山内容堂(土佐)、浅野長訓(ながくに *芸州)、鍋島閑叟(かんそう *佐賀)、池田茂政(岡山)の8人には、至急上京するように命じた。21日には、10万石以下の諸侯にも、上京を命じている。
 慶喜の「大政奉還」に戸惑った朝廷は、自らの責任で国政を運営できないので、諸侯との合議によって、今後の対応を決めたいとの態度である。
 10月22日、朝廷は、諸侯上京までは慶喜に「庶政委任」を決めている。10月24日、慶喜は将軍職の辞表を提出したが、これもまた諸侯上京まで待つようにと命じられた。将軍の職務は、これまで通りとされたのである。
 10月25日には、諸侯は11月中に上京するように督促の命令が発せられた。だが、多くの諸藩主は様子見であり、11月までに上京したのは、大藩では薩摩、越前、尾張、芸州、彦根などで、あとは京都付近の小藩主十数藩にしか過ぎなかった。

 (ⅷ)薩摩藩主の率兵上京が決定
 慶喜の「大政奉還」は、武力による討幕を狙う勢力にはとっては、機先を制せられた格好である。
 そこで10月21日、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之は、「去(さる)十四日申し達し候條々(*薩長二藩に命じた討幕の「詔書」など)其後(そのご)彼(かの)家祖已来(いらい)行ひ来り候(そうろう)国政を返上し深く悔悟(かいご)を以て恐懼(きょうく)の趣(おもむき)申し立て候ニ付き、十四日の條々暫(しばら)く見合わせ実行の否(ひ)勘考(かんこう *思案すること)すべし。諒闇(りょうあん *天子が親の喪に服すこと)中、且(かつ)生民(*人民)の患(わずらひ)に関係するに依り、深遠の思召(おぼしめし)を以て再び仰せ出だされ候事。」(『岩倉公実記』中巻 P.85)と、薩長二藩に沙汰した。(しかし、この沙汰書は国元には遂に伝えられなかった)
 しかし、岩倉ら公卿と大久保ら武家の謀議で作成された討幕の偽勅は、全く役にたたなかったというのは見当違いである。
 それは、12月の王政復古クーデターの予行練習(少なくともその一部)となっただけでなく、出兵反対論の根強かった薩摩藩内のそれを押さえ込む役割を果たしたからである。薩摩藩内の方針が固まったのは、大きなことであった。
 10月21日の沙汰書が出る前の19日、小松・西郷・大久保は、長州の広沢・品川とともに、大坂から芸艦に乘って西下した。10月22日、小松と西郷は毛利藩主父子に面会し、討幕の挨拶を行ない、26日には鹿児島に到着している。
 翌27日、重臣一同によって衆議がなされ、28日に衆議の模様が久光・茂久(忠義)に報告された上で、10月29日、ついに藩主茂久の率兵上京が決定した。藩主の上洛は、比較的容易に決定された。その最大の理由として、家近良樹氏は、「やはりなんといっても久光が徳川慶喜の政権返上を大いに歓迎し、病床にあって指揮を執れない自分に代わって、藩主忠義の上洛をいち早く認めたこと」(同著『西郷隆盛』P.278)にある―としている。
 家近氏はその他の理由として、以下の諸点を挙げている。すなわち、「(1)政権返上勅許後すぐの十月十五日に、十万石以上の諸侯に対して上洛を命じる朝命が下ったこと、(2)忠義にかねてから強い上洛志向と国事周旋意欲があったことに加え、大久保らが忠義の上洛を求めたこと、(3)慶応三年二月の時点で、すでに『時宜に仍ては』忠義の上洛が行われるとの方針が打ち出されていたこと、(4)新政府が有力諸侯の上洛を待って創設される手筈(てはず)となっていたため、忠義の上洛遅延が許されなかったこと、(5)実際のところ、久光が病床にあった以上、忠義の上洛以外に選択肢がなかったこと、(6)『討幕の密勅』がもたらされ、薩摩側としても藩主クラスの人物の上洛が必要となったこと、(7)中山忠能から忠義の上洛を求める要請が再三にわたってあったこと、(8)これ以前に、明確に討幕を否定する藩主父子の『諭告所』が出され、反対運動が沈静化していたこと」(同前 P.279)である。
 (6)の「討幕の密勅」は、大久保一蔵の日記では、10月14日に、正親町三条実愛から「秘物(ひぶつ)」を受け取ったと記されている。その内容は、小松・西郷・大久保3人がうち揃って帰国した際には、藩主父子と重臣などごく一部にしか見せられず、公開はされていない。長州藩でも公開されていない。まさに、「秘物」として利用されたのである。

(ⅸ)三藩兵力の相次ぐ上京
 討幕の密勅が下されると、武力倒幕派の兵力がつぎつぎと上京を始める。「十月十六日、芸州藩はいち早く五〇〇名近い兵力を送り込んだ。三藩同盟による出兵を待ってはいられず、王室守衛という名目で、宇品から汽船万年号・震天(しんてん)号・和船八幡号(万年号が曳航)に分乗して上京したのである(芸藩志要)。熊本藩も、十六日芸州兵四〇〇が着坂して、翌朝にかけて上京した情報を確認しており、これによると芸藩の在京兵力は七五〇であった(時体探索書)。世子浅野茂勲(もちこと)も海路上京し、十一月二十八日に着京している。」(保谷徹著『戊辰戦争』吉川弘文館 2007年 P.18)のであった。
 10月29日、藩主忠義の上洛を決定した薩摩藩は、11月13日、藩主が西郷隆盛らを従えて、三邦(みくに)丸に乗って鹿児島を出発した。藩主を擁する兵力1000は、春日・翔凰・平運の3艦に分乗して出発した。
 島津忠義(茂久)は、11月18日、三田尻で長州藩の世子毛利広封(ひろあつ)と会見する。そこで、両藩は協議し、次の「要件三條」を決める。

一 御名代(*幕令で上坂すべき長州藩家老と徳山藩主の名代・岩国藩主名代)へ兵隊差し添え、西ノ宮(*摂州)まで上(のぼ)り同所にて時機(じき)見合(みあわせ)
一 十二月二十八日を期し京都に於て挙兵、其(そ)の機に乗じ西ノ宮駐在の兵隊入京
一 前條に引続き両公(*薩長両公)間御上京及び五卿(*三条実美など)方(かた)御帰洛の用意調い次第発途      (『修訂 防長回天史』九 P.485)

 ここでは、芸藩兵が、御名代を護衛する名目で御名代一行に同行し、それに長藩兵も紛れ込ませ、摂津西宮まで上(のぼ)させ、同所で待機させる。そして、京都での挙兵に乗じて、西宮の兵を入京させる。このような手筈(てはず)をとったのである。
 同日の午後には、両藩の重臣同士が協議し、今後の方針として次の6カ条を取り交わした。

 (約定書)
一、 三藩共(とも)浪華根拠の事
一、 根拠守衛(しゅえい)薩藩二小隊、長芸の内(うち)相加え候〔*支援する〕事
一、 薩侯御一手〔*薩摩兵の内の一手〕は京師を専任とす
一、 長芸の内、一藩京師を応援す
一、 薩侯御着坂二十一日にて二十三日御入京、二十五日三田尻出浮候(そうろう)兵(長兵)出帆二十八日西ノ宮着、薩藩より京師の模様(もよう)報知の上(うえ)進入の筈
一、 〇〇の義は山崎路より西ノ宮へ脱(のがれ)詰り芸州までの事〔*挙兵が失敗した場合は、聖駕(せいか *天皇が乗る駕籠)をば山崎路より西の宮に迎へて、更に芸州に奉安すべき事〕           (同前 P.487)

 以上は、三藩の連合東上の計画日程と、その後の挙兵の手筈を取り交わしている。最後のカ条は、事が破れた場合は、天皇を芸州に遷座させる予定を示している。
 18日の夜、忠義と薩摩兵らは、錨(いかり)を抜いて大坂へ向けて出発し、23日に入京、相国寺に屯集した。このとき忠義が率いた薩摩兵は約1000、薩摩の在京兵力はこれで2800を超えたと言われる(保谷徹著『戊辰戦争』P.18)。
 長州藩は、11月19日、幕命に応じて長藩家老と支藩の代表者が上坂するとして、長州兵の東上が近づいてると考え、次のように封内の警備部署を厳しくした。

  (警備部署)
◎岩国領
一 岩国御一手  遊撃隊
◎上ノ関
一 毛利隠岐一手  第二奇兵隊  農兵
◎徳山領
一 徳山御一手  農兵
 右三ヶ所応援兵   一 宍戸備前一手  都濃郡熊毛宰判農兵
◎三田尻
一 毛利筑前一手  農兵
◎諸口応援
一 奇兵隊  膺懲隊
◎馬関口
一 長府御一手  山内梅三郎・毛利能登・高田健之助各一手
◎両大津(*前大津宰判と先大津宰判)
一 毛利少輔三郎一手  農兵
◎阿武郡
一 御神本主殿一手  農兵
◎小倉口
一 第三大隊  鈴尾五郎一手  梨羽筑後同  児玉若狭同
◎石州口
一 振武隊  鐘秀隊  御神本二小隊  六組御中間 第一大隊
◎山口御守衛応援兵
一 毛利出雲一手  千石以上大隊  農町兵 (『修訂 防長回天史』九 P.493~495)
 
 根拠地である本藩―支藩と支族岩国藩の防衛のために、諸隊や農町隊が存分に動員されている。
 ついで長州藩は、11月22日、本藩家老と支藩・岩国藩名代の上坂について、次のように藩内に宣示した。1)

......上国(*京都)の形勢も日に相迫(あいせま)り、諸藩よりも幕府へ?(しばしば)建言(けんげん)督責(とくせき)之(これ)有り、余儀(よぎ)なく政権を朝廷に帰し奉るべくの段言上(ごんじょう)相成り候。就(つい)ては重大の御事件に付き、列藩上京仰せ出だされ候。然る処(ところ)御実事の挙(あが)る挙がらずは則(すなはち)皇国の御興廃にも相係(あいかかわ)り実に以て容易ならざる儀に付き、幕府に於ても従来の譎詐(けっさ *いつわること)にならひ言行(げんこう)齟齬(そご *くいちがい一致しないこと)一時の甘言(かんげん)を以て朝廷を欺き奉り名実相違(あいたが)い致し候節は、勤王の諸藩大義に於て座視すべからざるは必然の道理に付き、巨細(こさい)趣(おもむき)芸薩よりも御親報これ有り。前途(ぜんと)如何(いかが)の形勢に相移るべき哉(や)と御煩念(*わずらわしいとの思い)遊ばされ候(そうろう)折柄(おりがら)、此度(このたび)御末家様方(*支藩)御出山(*長州を出発すること)御相談在(あ)らせられ最前(最善)の御手継ぎを以て、淡路様(*徳山藩主)御名代毛利平六郎様、〔吉川〕監物様御名代宮庄主水ならびに〔本藩〕御家老毛利内匠(たくみ)一同、大坂表差し登(のぼ)らせ候段御決議相成り候。実に世態(せたい *世のありさま)一変、随て二州(*防長)の御処置旦夕(たんせき *時期がこの朝か晩かに迫っていること)に相迫り、向後(こうご)の模様に寄(よ)り尚(な)ほ人数差し登らせ候儀もこれ有るべし。孰(いず)れにも実地の覚悟相定め何分の御指揮相待ち申すべく候事  (『修訂 防長回天史』九 P.504)

 長州藩は徳川慶喜が大政奉還をした(10月14日)のを踏まえ、薩摩藩と意志統一して、11月19日の藩内守備の部署を決定したのに続き、御名代の派遣(実は討幕の兵)を藩内に明確に示した。その総督は、本藩家老・毛利内匠である。
 そのうえで長州藩は、合同出兵について芸州藩と打合せするために、広沢兵助(真臣)を11月22日に広島に派遣した。広沢は芸州藩の植田乙次郎と交渉した。そこではまず、芸藩世子・松平紀伊守が24日に東上に発つこと、またその日の夜までに長州の船艦を誘導する芸藩艦の艤装(ぎそう *艦船に種々の設備や装置を施し航海ならびに戦闘ができるようにすること)を終らせ、25日に芸藩御手洗港(みたらいこう)で長州艦船団を待つ―が決まった。(御手洗港は、瀬戸内海の大崎下島の東端。現・広島県豊田郡豊町)
 広沢は、さらに次の4項目を提示し、交渉した。①長州処分に関わって、幕府の7月の前令(長州三支藩の内一人、岩国藩主吉川監物、長州藩家老一人が上坂せよ)を利用して、その護衛として芸藩兵を東上させ、それに長州兵も共に同行させる作戦を両藩はたてた。だが、大政奉還後の後令(朝廷の沙汰があるまで見合わせにすべき)が出て、この作戦に支障が出た。これを解決するために、"上坂一行すでに前令に応じて出発しており、後令とは行き違いになった"として、芸長両藩兵の上京を推し進め、その言い訳で芸藩が幕府には対応して欲しいこと。
 ②長州藩は兵力輸送を主に船で行うが、それとは別に歩兵砲兵1200~1300を陸路で東上させ、備後尾道に向かわせる(到着予定は11月28日ないしは29日)が、芸藩からあらかじめ人員を派遣して長州兵の営舎の手配を行なって欲しいこと。
 ③同じ頃に発すべき芸藩兵の人数、および幹部の姓名を知らせて欲しいこと。
 ④長芸両藩の兵の上京については、薩摩藩と密接に連絡して進退すべきこと。
 広沢のこの4項目の要求について、11月24日朝に植田乙次郎・石井修理がやってきて、次のように回答した。
 ①④については、承諾したが、②については長州への尾道到着を11月30日に延期して欲しいとし、③については、「尋(つい)て報ずべし」と言って、曖昧にした。
 これについて、「広沢乃(すなわち)之(こ)れを政府に報じ芸藩の誘導艦に便乗し御手洗港に向ひ、以て爾後(じご *以後)の妥商を重ぬ。但し芸藩の内情は長薩の如く断乎(だんこ)たる決意に出づること能(あた)はざりしは掩(おお)ふべからざる事実とす。随(したがっ)て結局、竟(つひ)に兵を出すには至らざりしなり。」(『修訂 防長史』九 P.501)と、同書の著者は述べる。
 11月25日、総督毛利内匠(たくみ)が率いる長州兵は、蒸気船鞠府(きくふ)丸に乗船して三田尻港を出航した。「総督及び其(その)属員等は鞠府艦に塔じ、整武隊・震武両隊は癸亥艦に、鋭部隊は丙辰艦に、総督付属の一部は丙寅艦に、第二奇兵隊は乙丑艦に、鋭部隊は満珠艦に、奇兵遊撃膺懲の三隊は庚申艦に乗じ、砲七発して斉(ひとし)く港を出で、癸亥(きがい)・丙辰(へいしん)二艦は鞠府艦これを曳き、庚申(こうしん)艦〔満珠艦、乙丑(いっちゅう)艦は丙寅(へいいん)艦これを曳き、一画三星の旗章を翻して以て東方に進み、二十六日日没鞠府艦先づ芸州御手洗港に入り、諸艦これに踵(つ)く。」(同前 P.507)こととなった。
 御手洗港では、26日、すでに芸州藩の岸九郎兵衛が総督として乗り込んだ万年丸が待ち受けていた。広沢・毛利内匠など長州藩士と芸藩藩士は、ここで次の五カ条を協定する。

一、 役員数名先発して西宮に至り、同所警衛の大洲藩2)と商議し、迎船其他(そのた)の事を処理する事
 但し、芸藩の艦は即時揚碇(ようじょう *いかりを揚げること)し、先発員は之(こ)れに便乗する事
一、 諸艦(*長艦)は先(ま)づ淡路島に繋泊(けいはく *船をつなぎとめること)し、過日芸世子紀伊守(*浅野茂勲)の上京に随従せし〔*世子は11月28日に着京〕一艦を迎船として同所まで来航せしむる事
一、 西宮着船後、小船をして第一兵士、第二器械、第三諸道具を陸揚(りくあげ)する事
一、 三藩協議の上(うえ)蒸気船一隻を神戸の海辺へ残し置く事〔*非常事態に備える事〕一、船印(ふなじるし)は芸薩両藩の旗章を混用し、二艘だけ長州の旗章を用ふる事〔*長藩はあくまでも幕命に応じて使節を派遣している体裁を保つ〕
 
 御手洗港をつぎつぎと出航した戦艦は、11月28日夜に約束通り、淡路島に投錨する。翌29日、芸艦万年丸の先導で、長州勢は摂津打出浜に上陸した。その後しばらく西の宮に滞陣し、12月9日に、洛西の光明寺に入り、入京許可を待って、翌日京都相国寺に移ったのである。「大洲藩の報告では総勢一〇〇〇といい、相国寺の記録では、だんだんと増えて一六〇〇人ばかりになった......(相国寺史料)。」(保谷徹著『戊辰戦争』 P.19)という。
 一方、山陽道の長州軍も東上を開始した。11月28日、堅田大和が総督となり、杉孫七郎を参謀とした部隊、すなわち第一大隊二中隊(200人。一番中隊司令祖式金八・二番中隊司令有地品之允。中隊司令補助士官佐久間左馬太)、第四大隊二中隊(200人。一番中隊司令林栄次郎・二番中隊司令深栖多門。中隊司令補助士官南部直之允)、第三砲隊(80人。司令安武西市)が三田尻に集まった。それには諸隊の整武隊(400人。隊長森清蔵)・鋭武隊(325人。隊長堀真五郎)が加わった。
 その兵力約一三〇〇は、やはり船で三田尻を出航し、十二月三日備後尾道に上陸、ここに駐屯した。
 他方、幕府側も次々と兵力を上京させた。「十月十九日、撒兵頭並秋山鉄太郎に撒兵一大隊率いて上京、同じく砲兵頭万年真太郎と山砲一座、騎兵頭並白戸石介と騎兵一大隊、歩兵頭岡田左一郎・同並小笠原石見守指揮の歩兵一大隊、遊撃隊頭今堀登代四郎指揮下の遊撃隊一二〇名へ上京命令が出ている。陸軍奉行並藤沢次謙(志摩守)は『三兵引き纏(まと)め出立』を命じられ、歩兵奉行並冨永相模守が先発、歩兵頭佐久間近江守・同並窪田泉太郎鎮章にも上坂の命が下った。/十月二十四日、老中格因幡正巳・松平乘謨、若年寄永井尚服・川勝広運らが、陸兵とともに順動丸ほか蒸気船三艘に分乗して上坂した。遅れて出航した陸軍奉行石川総管らの搭乗船は強風にさえぎられ、石川らは鳥羽に上陸して陸路京へ向かっている(両老中格は翌月半ば帰府)。/十二月十四日には歩兵頭福王平左衛門らが、汽船長鯨丸・長崎丸に分乗して歩兵二大隊とともに上京した。砲兵・騎兵も同行したものと思われる。......この幕府歩兵隊や撒兵隊の兵力移動に関しては、必ずしもすべてが把握できるわけではないが、動員された諸藩兵を含め、開戦前までにおよそ一万五〇〇〇の兵力が大坂城に集結したものと考えられている。」(保谷徹著『戊辰戦争』P.19~20)といわれる。

注1)この頃、山縣は薩摩の動きと連動し討幕に向かうため、諸隊を脱藩させ(数百人規模)挙兵の覚悟をもった。だが、急きょ藩政府の方針が出兵に決まり、諸隊の脱藩はしないで済んだ。11月26日、長州藩先発隊の500人は、三田尻から7隻の軍艦に乗って、上方へむけて出航する。総督は、藩主一門の毛利内匠(藤内)19歳であり、軍隊指揮の実権は整武隊総督・山田市之丞允(いちにじょう *顕義)である。
 2)当時、大洲藩(*伊予)はすでに長藩と好を通じており、長藩兵士が打出浜(*大洲藩の警衛担当地)に着くと、輜重(しちょう *軍隊が必要とする兵器・糧食・被服など)を運搬した。それは、全く幕府の嫌疑をかまわないとする態度である。
  
 (ⅹ)土佐藩の新政府構想と薩摩藩との交渉
 薩土盟約が薩摩側から破棄された(9月7日)後、1867(慶応3)年10月3日、土佐藩は幕府に対し「大政奉還」を建白する。これが慶喜によって受け容れられる。だが、返還された政権を朝廷はもてあまし、その無能力さを露呈させた。
 そこで土佐藩は、新政府の樹立を急ぎ、各方面に工作を行なう。当時、坂本龍馬は海援隊を率いていたが、その海援隊自身、土佐藩の後援で作られた(慶応3年4月に創立、龍馬が隊長となる)ものである。坂本の脱藩の罪も藩から許された。(同様に、中岡慎太郎の陸媛隊も1867(慶応3)年7月に結成されている。)
 土佐藩の新政府構想にかかわった者として、坂本龍馬もその実現に尽力した。坂本は後藤象二郎の代りに、越前に赴き、春嶽の上京を懇請した(10月28日、越前着)。
 春嶽は、"火中の栗を拾いに行ってはならぬ"という藩内の反対意見を押し切って、1867(慶応3)年11月8日、京都の藩邸に入った。
 その翌日、11月9日、土佐の福岡孝弟が春嶽を訪ね、土佐藩の新政府構想を詳しく説明した。それは薩土盟約を踏まえたものである。問題は、土佐藩の新政府綱領を確定する方法である。それは、「まず二、三人の『明眼士』が検討を加えて『議定』する。そのあとで有力諸侯(十月十五日に、朝廷が上京を命じた徳川慶勝、松平春嶽、島津久光、伊達宗城、山内容堂、浅野長訓、鍋島閑叟、池田茂政の八名であろう)の上京をまって、合議のうえで決議する。そして『○○○自ら盟主』となって、天皇に報告し、承認を得た上で『天下万民』に公布する。反対する者には身分を問わず『断然征伐』をくわえる。盟主となる○○○はだれなのか。いろいろな説があるが、龍馬は慶喜を想定していたように思える。/福岡はこのように述べた。上下両院の議事院を開設する。上院は二条摂政と徳川慶喜が『主宰』し、有力諸侯がくわわる。下院は諸藩士と庶民から選抜して議員にする。『有名諸侯(上記八名に慶喜がくわわる)』の合議によって、『国体(新政府の綱領)』を決議する。ついで天皇に報告し、天皇の前で『誓約』して確定する(そのうえで公布する)。一般の諸侯には通達するのみ。反対する者は『追討』する。」(佐々木克著『幕末史』P.273~274)というのである。
 佐々木氏によると、"有名諸侯の合議"を重視するのは、薩摩の武力を背景とした「政変方式」を意識したものだからと言われる。
 11月25日にも、土佐藩士の後藤象二郎、福岡孝弟、神山郡廉(こうやまくにきよ)が春嶽に面会している。"在京している有力諸侯の会議で、新政府を創設することを決議する。そのうえで朝廷内の人材だと評価が高い正親町三条実愛に、これが公論となったと説得して、朝議を動かしてもらう。"―基本的には九日に福岡が春嶽に話したことと同じである。しかし、違う点は有力諸侯がそろうのはいつになるかわからないので、在京の有力諸侯だけで、早く決議しておこうという点だ。だが、この時点で在京しているのは松平春嶽と徳川慶勝の二人だけだから、他の諸侯の上京を促す意味合いがあると思われる。
 土佐藩の後藤らが、慶喜の「大政奉還」後の政局が停滞している事態に、いかに危機感を抱いていたかをよく物語るものである。
 他方、薩摩の大久保一蔵は、藩主茂久(忠義)の率兵上京が決まった後の11月10日、鹿児島を発ち、12日夕方、高知で後藤象二郎と会っている。そこで、大久保は藩主の率兵上京で藩論がまとまったことを報告している。そして、小松帯刀が病気(脚気〔かっけ〕)で高知に行けないことを伝えた。
 小松も、12日付けの手紙を送り、①約束した「外国議事院」について詳しく調査中だが、さらに細かく調べ報告すること、②容堂様が上京したら、藩主茂久と親しくしていただきたいこと、③長州の寛大な取り計らいを実現すること、④慶喜の将軍職辞職の勅許を速やかに運ぶようにと尽力をたまわりたいこと―などを訴えている。
 岩倉から武力討幕延期の沙汰書を渡された翌日の11月17日、大久保は正親町三条を訪ね、延期沙汰書を遵守するが、まずは慶喜の「悔反」に尽力し、「大政奉還」の実質化に努める。だが、慶喜が応じなければ武力行使に踏み切ると述べる。
 11月23日に、藩主茂久や西郷が京都に到着すると、25日には、西郷・大久保などはこれまでの挙兵計画を見直すクーデターを決めている。そして、これを26日、長州藩の品川弥二郎へ、27日には、正親町三条・中山・岩倉へ伝えている。
 この27日には、大久保一蔵は春嶽から藩邸に招かれている。そこには「土佐の後藤も来ていた。春嶽から二十五日の土佐・越前会談について意見を求められ、慶喜と二条が上院を主宰することについて異論を述べた。とくに慶喜には『反正(はんせい)』の実行を明確にしめすべきだというもので、ようするに将軍職を辞職するだけではすまない、はっきりとケジメをつけてからだというものだった。」(同前 P.279)のである。
 ここで、大久保は、新政府に慶喜を関与させることを厳格に否定し、排除することを明確に意思表示したのである。
 土佐と薩摩の対立点は、平和的な政権移行か、それとも武力を背景とした政変方式か―が主要なものではない。むしろ、新政権に徳川慶喜に代表される徳川家を参加させるか否かが、より重要な問題であったのである。
 また、大久保は29日に、正親町三条邸に赴き、朝廷にもはっきりとした注文をつけている。ここで正親町三条は、左大臣近衛忠房に代わって、九条道孝、右大臣一条兼良に代わって大炊御門家信が決まり、二条摂政も辞任の意向であることを述べ、人事が改革されるから新政府を創設することまで考えなくてもよかろうと提案した。これに対し、「大久保が反論し説得する。人事で朝廷の体質は変わらない。まもなく兵庫が開港し、列強の軍艦が到来する。なにかが起こった時にどうするのか。つけこんで何を吹っかけてくるのかわからない。この屈辱的な行為に対して、現状の日本では対応不可能だ。/朝廷が中心になっている政治体制の根本的改革、すなわち新政府の創設が急務だ。そのために薩摩と芸州と長州の兵が上京した......。この兵は新政府の兵で『至理至当』の大変革に反対する者は『掃討』する覚悟だ。この千載一遇のチャンスをのがしてはならない。」(同前 P.279~280)というのである。
 薩摩藩の新たなクーデター計画は、慶喜が本当に「反正」するのなら軍事行動は抑えられているが、しかし慶喜にその気持ちがなく、勅命に逆らえば「掃討」するというものである。
 大久保は、岩倉・正親町三条などの討幕派の公卿の決断を促すとともに、土佐の引き込みを進めた。「(十二月)二日、西郷と大久保が後藤のところに行き、政変の決行について相談したところ、後藤がすすんで同意し、八日決行の予定も決まった。容堂の許可を得ていないが、新政府の創設にあたって異変が起こった場合のためにと、藩兵三〇〇を上京させていたから、在京首脳部が決断したのであろう。」(佐々木克著『幕末史』P.281)とされている。
 さらに12月5日には、大久保・中山・正親町三条・後藤の4者会談でこのクーデターは合意された。後藤は軍事衝突の可能性があることから内心では不満があったが、最終的には合意したようである。
 大久保一蔵に代表される薩摩藩の路線は、単純なものではない。王政復古クーデター直前までの薩土交渉などをみると、「......土佐と薩摩は、盟約を解消した後も接触を断つことなく、むしろ密接な交流と協力関係を維持しながら、最終目標にむかっていたのである。これまで幕末政治の最終局面を、薩長討幕派と土佐・越前公議政体派との対抗関係として述べた史書が多かったが、実態とかけはなれた理解だったといわねばならない。」(佐々木克著『幕末史』P.278~279)と評価されている。1)

注1)正親町三条実愛の日記は、王政復古クーデター直前の来客について、次のように記している。「〇廿七日(*11月27日) 忠能卿(*中山忠能)大久保一蔵等来談....../〇廿八日 新黄門経之(*中御門経之)来談....../〇廿九日 大久保一蔵来談....../●十二月 〇二日 ......大久保一蔵来談....../〇三日 忠能経之等卿来談 大久保一蔵来談....../〇五日 経之卿来談 大くほ一蔵荒木三介等来談......巳半向中山家前亞相(*中山忠能家の二番目の家臣)面談於同席大くほ一蔵後藤象二郎等有面談....../〇七日 一 後藤来談......」と。
 
S 王政復古クーデターから戊辰戦争へ

 (1)政変の実行
 12月8日の夕方、岩倉具視は薩摩・芸州・土佐・越前・尾張の5藩要人を邸に呼びつけ、明日、王政復古がなされることを告げて、その際に混乱が起こった場合の対策として、御所内の要所を警備することを命じた。
 薩摩(720人)は、公家門と台所門の警備を担当し、それを土佐(約70人)が応援する。芸州(約70人)は、朔平門と尋常御門の警備を担当する。越前(80人)は、御所内の西半分を警備し、尾張(75人)は、東半分を警備する―こととなった。
 1867(慶応3)年12月8日、禁裏内で国事評議が開かれ、大宰府に滞在する三条実美ら5卿の官位復旧と帰洛許可が決定され、また、毛利家当主父子の官位復旧などが決定された。「八日の評議が解散したのは、翌日の明け方であった(一八六八年一月三日)。その席には、中山忠能・正親町三条実愛・長谷信篤、武家では尾張慶勝・松平春嶽・浅野茂勲(芸州世子)の六人だけが残された。完全赦免が認められたばかりの岩倉具視、それに中御門経之が呼び出されたのち、薩摩・芸州両藩を主力とする兵力が禁裏六門を固め、許可者以外の入構を差し止めた。有栖川宮熾仁(たるひと)親王・山階宮晃親王・仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王・島津茂久(*忠義)、やや遅れて山内容堂が禁裏内に入った。以上の一三名だけで、新政府の樹立が決定され、天皇の承認を得た。」(日本近世の歴史6 青山忠正著『明治維新』吉川弘文館 2012年 P.166)のであった。
 明治天皇(1852~1912年)は御学問所において、親王・公卿・諸侯を引見し、王政復古を令した。その時の「王政復古御沙汰書」は、以下の通りである。

徳川内府(*慶喜のこと)従前御委任大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然(だんぜん)聞こし食され〔*聞き入れる〕候。抑(そもそも)癸丑(きちゅう *1853年ペリー来航の年)以来未曾有(みぞう)ノ国難、先帝(*孝明天皇)頻年(ひんねん *年々しきりに)宸襟を悩まされ候次第、衆庶(しゅうしょ *人々)ノ知る所ニ候。之(これ)に依り叡慮決せられ、王政復古、国威挽回ノ御基(おんもとい)立たせられ候間、自今(じこん *今後)摂関・幕府等廃絶、即今(そっこん *ただいま)先(まず)仮(か)リニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置(おか)レ、万機行わせられるべく、諸事神武創業ノ始(はじめ)ニ原(もと)ヅキ、縉紳(しんしん *身分の高い人。ここでは公家)・武弁(ぶべん *武家)・堂上(どうじょう *清涼殿に昇殿を許された人)・地下(じげ *堂上の対語)ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚(きゅうせき *喜びと悲しみ、幸と不幸)ヲ同ク遊ばされるべく叡念(*天皇の思い)ニ付き、各(おのおの)勉励、旧来驕惰(きょうだ *たかぶりおごって事をおこたること)ノ汚習(おしゅう *きたない習慣)ヲ洗ヒ、尽忠報国(*君に尽し国に報ずること)ノ誠ヲ以て奉公致すべく候事。
一、 内覧(*摂政・関白などが政務を代行すること)・勅問御人数(*天皇の諮問に答える五摂家)・国事御用掛・議奏・武家伝奏・守護職・所司代、総テ廃絶せられ候事。
一、 三職人体(にんてい)
総裁 有栖川帥宮(*熾仁親王)
議定 仁和寺宮(*純仁親王)  山階宮(*晃親王)
   中山前大納言(*忠能)  正親町三条前大納言(*実愛)
   中御門中納言(*経之)  尾張大納言(*徳川慶勝)
   越前宰相(*松平慶永)  安芸少将(*浅野茂勲)
   土佐前少将(*山内容堂) 薩摩少将(*島津茂久)
参与 大原宰相(*重徳)    万里小路右大弁宰相(*博房)
   長谷三位(*信篤)    岩倉前中将(*具視)
   橋本少将(*実梁)
   尾藩三人(荒川甚作・丹波淳太郎・田中不二麿)
   越藩三人(中根雪江・酒井十之丞・毛受鹿之助)
   芸藩三人(辻将曹・窪田平司・桜井與四郎)
   土藩三人(後藤象二郎・福岡藤次・神山佐多衛)
   薩藩三人(西郷吉之助・大久保一蔵・岩下佐治右衛門)
一、 太政官始(はじめ)追々(おいおい)興せらるべく候間、其旨(そのむね)心得(こころえ)居くべく候事。
一、 朝廷礼式追々御改正在(あ)らせられ候得共(そうらへども)、先(まず)摂?(せつろく *摂政の異称)・門流(*五摂家の系統)ノ儀止められ候事。
一、 旧弊御一洗ニ付き、言語ノ道洞開(どうかい *とおし開くこと)〔*論議を自由に行なうこと〕候間、見込み之(これ)有る向(むき)ハ、貴賤に拘(かかわ)らず忌憚(きたん *遠慮)無く献言致すべく、且(かつ)人材登庸(登用)第一ノ御急務ニ候故(ゆえ)、心当(こころあたり)ノ仁(じん)之(これ)有り候ハバ、早々言上有るべく候事。
一、 近年物価格別騰貴、如何(いかん)トモスベカラザル勢(いきおひ)、富者ハ益(ますます)富ヲ累(かさ)ネ、貧者ハ益(ますます)窘急(きんきゅう *非常に困ること)ニ至リ候趣(おもむき)、畢竟(ひっきょう)政令正しからざるヨリ致す所、民ハ王者ノ大宝、百事御一新ノ折柄、旁(かたがた)宸衷(しんちゅう)悩まされ候。智謀遠識救弊ノ策(さく)之(これ)有り候(そうらわ)バ、誰彼(だれかれ)無く申し出づべく候事。
一、 和宮御方(おかた)、先年関東へ降嫁有らせられ候得共、其後(そのご)将軍薨去(こうきょ)、且(かつ)先帝攘夷成功ノ叡願ヨリ許さられ候処(ところ)、始終奸吏(かんり *悪賢い役人)ノ詐謀(さぼう)ニ出(い)で、御栓(おんせん)無きノ上ハ〔*無益の上は〕、旁一日モ早ク御還京促されたく、近日御迎え公卿差し立てられ候間、其旨(そのむね)心得居るべく候事。
 右の通り御確定、一紙を以て仰せ出でされ候事。 (『岩倉公実記』中 P.147~151)

 王政復古の御沙汰書は、幕府の「大政奉還」・慶喜の将軍職辞退をまず確認し、これを承認した。これにより「王政復古」を宣言し、摂関制と幕府制をともに廃絶し、仮に三職制(総裁・議定・参与)を設け、「諸事(しょじ)神武創業の始めに原づき、縉紳・武弁・堂上地下の別なく、至当の公議をつくし、......尽忠報国の誠を以て奉公を致すべき」とした。 
 総裁・議定・参与は、先に記した人物が決定された。続いて、五摂家制の廃止、意見提出の「自由」、人民生活改善の方策の徴募、和宮の還京などがアトランダムに並べられ、あまり整理した宣言文とはなってはいない。全体的に、宣言の格調は低く、思想的な貧困さを反映している。
 なお、三職の構成員では、その後補充がなされている。議定には、伊達宗城(宇和島)、細川護久(熊本)、鍋島直正・直大(佐賀)、蜂須賀茂韶(徳島)、毛利元徳(長州)、池田章政(岡山)などや、三条実美らの公卿が任じられた。長州の木戸準一郎(のちの孝允)も、参与に登用された。
 王政復古クーデターが御所内で進められた12月9日の前日夜半、西郷隆盛は西宮に待機する長州兵の入京を促し、在京薩摩兵3000近くとともに討幕派の兵力をさらに増強させている。岩倉具視も、土佐藩の陸媛隊を高野山に向けて出発させている。
 他方、徳川方では、「王政復古」が宣言されると、「老中板倉勝清は江戸から伝習砲兵二座、騎兵三小隊、歩兵二大隊を送らせていた。」(松尾正人著『戊辰戦争と廃藩置県』―岩波講座『日本歴史』第15巻近現代1 P.27)といわれる。12月中旬ごろになると、大坂城の旧幕府側の兵力は、「一万五千余にふくれあがった。十二月一八日には若年寄並平山敬忠、大目付戸川安愛、目付榎本道章らの主戦派が、薩藩追放のための『挙正退奸』の表を草して、朝廷に呈し、諸藩の兵を徴することを計画した。慶喜名での上表であるが、慶喜自身は関与していなかったようである。」(同前 P.20~21)といわれる。
 しかし、徳川慶喜は政変計画の情報については、松平春嶽を通じて事前に承知していた。だが、阻止する動きはとっていない。むしろ、主戦派の松平容保・松平定敬を取り鎮め、12月12日の夜には、二人をともなって二条城を立ち退き、大坂城に移っている。慶喜が、とりわけ「王政復古」を阻止しないのには訳があった。すなわち、「新政府に慶勝・春嶽・容堂が参加している限り、自分が決定的に不利な状態に追い込まれる心配はなかったのである。さらに、慶喜は十六日には大坂城で英仏蘭米ならびにイタリア・プロシャの六ヵ国公使を謁見し、外交権は依然として自分の手中にあることを宣言した。外交権に関する限り、京都ではなく、海港を擁する大坂のほうが地理的に有利である。その後、新政府と慶喜側とのあいだは、春嶽・慶勝の仲介周旋にあって、当初の緊張関係は弛(ゆる)み、年末には岩倉までが態度を軟化させ、慶喜の議定(ぎじょう)登用は内定寸前に至った。」(日本近世の歴史6 青山忠正著『明治維新』P.168)のである。
 現実に、12月15日ないし16日頃に、西郷・大久保は長州藩の国貞直人とつぎのような「密議書」を取り交わしている。

 〈朝政維新の急務〉
一(第一条)会桑の輩(やから)速(すみやか)に帰国仰せ付けられ、国許(くにもと)に於て謹慎(きんしん)御沙汰相待ち候様これ有りたき事
一(第二条)一橋(*将軍慶喜のこと)の大政に與(あずか)ると否とは暫(しばら)く差し置き、先ず級を降り諸侯の列に加(くわわ)り削封(*領地の削減)の実効等御責め成られたく候事
一(第三条)参與(さんよ *参与)の人は必ず三人と相定めず多寡(たか)に拘(かかわ)らず人材登庸(登用)急務の事
一(第四条)諸侯万石以上の面々は外様(とざま)譜代(ふだい)に拘らずいずれも朝廷御直(おんじき)支配に仰せ付けられ候様これ有りたく候事
一(第五条)人心混乱の央(なか)に付き、公卿間より京都町奉行一人早々御定め成られたく候事
一(第六条)尹宮(いんのみや *賀陽宮朝彦親王)摂関(*二条斉敬)へ先ず蟄居(ちっきょ)仰せ付けられたく候事
一(第七条)戎服(じゅうふく *軍服)胡服(こふく *中国北方の民族の服)等にても九門内通行差し免(ゆる)されたく候事
一(第八条)町農の者無印鑑にて九門内通行当分(とうぶん)差し止められたく候事
一(第九条)会藩の者又々(またまた)入京暗殺の心底これ有る由(よし)に付き、大久保翁(*大久保一蔵)抔(など)外宿は然るべからざる哉(や)に相考え候事
一(第十条)公卿方(くげがた)固陋(ころう *古くて頑迷)の御見識、尚(なお)繁冗(はんじょう *おびただしく、無用なこと)の御格式等追々(おいおい)御改正在(あ)らせられたく、尤(もっとも)差し向きの儀〔*その方向については〕は順々御手を就けられたく候事
一(第十一条)京地の儀は四方に通じ更(さら)に要害とてもこれ無く狭隘(きょうあい)の地形、旁(かたわら)武を用る場所にこれ無く、素(もと)より至尊(*天皇を指す)御安座の土地にてはこれ有るまじく、此(この)沿革(えんかく)〔*このような環境を〕幸ひ伏見桃山へ御遷都在(あ)らせられたく候事
一(第十二条)海軍御興隆急務の時勢に付き諸侯に令し、禄の多寡に応じ軍艦買入れ朝廷御急用に相備へ候様、尤(もっとも)海辺にこれ無き国柄は万石に付き幾干と甲様〔*一万石に付き幾つの楯と甲〈かぶと〉という比率で〕献金仰せ付けられ浪華(*大坂)へ海軍局御造立造艦等の御用度(ごようど)に御備えなされたく、総督は公卿間より仰せ付けられ候様仕(つかまつ)りたく候事
一(第十三条)外国へ速に御手を下され、改(あらため)て勅許の開港在らせられたく候事
一(第十四条)兵士連日の野陣疲労に堪(た)えず候間、九門内の兵は少々減じ候ても山崎外(ほか)口々(*京都に出入りの口)へ屹度(きっと)引当てに相成るべく諸侯へ御守衛命ぜられたく候事
一(第十五条)慶喜脱走に付き急速外国へ御手下しの事
                (『修訂 防長回天史』九 P.551~553)

 王政復古を成し遂げた薩長の次の標的は、会桑の謹慎と処分(第一条)、徳川慶喜の諸侯への格下げと封地の削減(第二条)、尹宮・二条摂政の蟄居(第六条)である。敵に対する追撃である。
 ついで、万石以上の諸侯を天皇の臣下となし、徳川慶喜との主従関係を断ち切ることが画策された。しかし、面白いことには、この「密議書」では、徳川幕府への敵愾心のみならず、公卿の考えや煩瑣な慣習を古臭いものと断定し、これを順々に変えていくことが約足されているのであった。王政復古が成るまでは、薩長は公卿のこの固陋を無批判に利用してきたのであるが......。「攘夷」を急進的に唱えたのも、公卿うけの良さを最大限に利用したものである。
 それでも形式的には、公卿を立てている。それは、町奉行の一人を公卿から選ぶべきとしたこと(第五条)、海軍局の総裁を公卿から選び出すこと(第十二条)に顕れている。
 最後に、次の局面の重事として、慶喜の大坂城への移動を警戒し(第十五条)、とくに外国公使らの支持を取り付けようとするその動きに対し、改めて新政権による開港を唱えている(第十三条)。

(2) 慶喜の処遇をめぐっての攻防
 大坂城に入った慶喜は、12月16日、イギリス公使パークス、フランス公使ロッシュをはじめとして、アメリカ・イタリア・プロイセン・オランダの外交代表を引見し、大政奉還に至った経過を説明した。
 そこでは、"諸侯の公議で決定されるまで、諸事これまで通り慶喜が政権を執り行うべきとの勅命"にもかかわらず、数名の諸侯が兵を帯同して禁門に突入して行われた「暴戻(ぼうれい *荒々しく道理にそむくこと)」こそが"王政復古の政変"であることが、強調された。そして、慶喜は日本の新たな国体が定まるまでは、条約を締結した者としてその履行に責任を持つと述べ、引続き外交権を掌握すると宣言したのである。
 これに対し、新政府側はどのような態度をとったのであろうか。「新政府側も王政復古を諸外国へ布告するため、薩藩が提出した提案にもとづき、①これまで国政を委任した将軍職を廃止すること、②大日本の政治は内外ともに同盟諸侯の会議を経たのち、有司が奏して天皇が決すること、③条約は大君(たいくん *将軍のこと)の名で締結したが、今後は天皇の名に換えること、などの詔書文面を取り決めた。十二月二十日のことである。ところが、尾張(徳川慶勝)・越前(松平春嶽)・土佐(山内容堂)などから異論が出され、副署押印は拒否された。現在のように四、五藩(藩主)しか在京しないもとで新政を報知しても、諸外国の嫌疑を招くだけではないか、列藩会議を開催したのちでなければ認められない、という反論であった。」(保谷徹著『戊辰戦争』P.24)と言われる。
 反対論者たちの主張は、あくまでも慶喜を含めた列藩会議であり、慶喜を列侯の一員とし新政権の中に位置づける、というものである。
 12月24日の新政府の評議では、政府の財源問題に関連し、"政権を返上したからには領地も返上しなければならず、そうでなければ大義名分がたたない"と主張するものもいた。だが、これに対しては越前の中根雪江(『昨夢紀事』『続再夢紀事』の著者)が、"徳川の所領は朝廷から賜ったものではない。それでは理屈に合わない"と反論した。これには、薩長討幕派の重臣たちもなかなか説得し難いものであった。それぞれ仕える封建君主を抱えていたからである。「結局、公議政体論者たちの巻き返しによって、妥協案に落ち着き、徳川慶喜は『前内大臣』として扱われること、『御政務用度の分、領地の内より取り調べの上、天下の公論を以て御確定』と決まる。新政府の財源問題は先送りされたのである。山内容堂にいたっては、政府用途は日本全国惣高割としてはどうかという願書を提出しており、徳川家にのみ領地『返上』を要求する理屈は立たなかった。また最大の領主である徳川家を議論によって新政府から排除することも、この段階では不可能だった」(同前 P.25)のである。
 この結果を、12月26日、徳川慶勝と松平春嶽が大坂城に赴き、慶喜に伝達している。慶喜はこれを28日に受諾し、春嶽らはこの旨を12月30日に復命している。


(3) 鳥羽伏見の戦い
 だが、年末に至ると、情勢に変化が生じる。薩摩藩は、西郷の命令で10月末ごろから、三田薩摩藩邸に相楽総三など浪士を集め、関東かく乱活動、江戸市中かく乱を命じ、その活動の効果が表れてきたのである。関東かく乱は、野州出流山の蜂起、甲府城攻撃策動、相模の萩野山中陣屋攻撃を行なったがいずれも失敗した(詳しくは拙稿『明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期』―『プロレタリア』紙592号〔2019年2月1日号〕を参照)。
 その後、浪士たちは江戸市中での辻斬り・放火・強盗などを行ない、かく乱活動を江戸に集中した。12月20日過ぎになると、庄内藩や新徴組に対する発砲事件が続発し、23日には遂に江戸城二の丸が焼失した(薩摩藩の伊牟田尚平の放火によるものといわれる)。ここに至って、旧幕府側も12月25日未明、庄内藩の手によって薩摩三田藩邸を焼き打ちにする。まさに西郷らが狙った通り、旧幕府側を挑発し、討幕の口実(その一つ)を獲得したのである。
 薩摩藩邸焼き討ちは、暮れもおしつまった12月28日に、大坂城に届いた。これは、大坂城内を蜂の巣をつついた状態に激変させ、ついに慶喜の思惑を吹き飛ばし、鳥羽・伏見の開戦をもたらす背景となった。
 辞官納地を受け入れた慶喜は、新たに議定に任命されるべく準備をおこなっていた。そこへ江戸での薩摩浪士隊の江戸市中かく乱活動の結果として、薩摩藩邸が庄内藩兵などによって焼き討ちされたという情報が12月28日、大坂に届く。
 1868(慶応4)年1月1日、大坂城では慶喜の「率兵上京」が触れだされる。大坂城の主戦派は、正月2日から前陣を繰り出し、3日、入京と定めた。闘いの名分は、君側の奸を取り除くことであった。その奏聞書は、次のように述べている。

臣(しん)慶喜謹(つつしん)で去(さる)月九日以来の御事体(*王政復古クーデターのこと)を恐察奉り候へは、一々朝廷の御真意に之(これ)無く、全く松平修理太夫(*島津藩主茂久)奸臣等〔の〕陰謀より出で候は天下の共に知るところ、殊(こと)に江戸・長崎・野州・相州、処々(しょしょ)の乱妨(らんぼう)および却盗(きゃくとう *あとずさりしながらの盗み)も、同家家来の唱導(しょうどう *先に立って唱えること)により東西饗応(きょうおう)し、皇国を乱し候(そうろう)所業、別紙の通りにて、天人(てんにん)共に憎むところに御座候間、前文の奸臣共御渡し御座候よう御沙汰下されたく、万一御採用あいなられず候はは、已(や)むを得ず誅戮(ちゅうりく)を加へ申すべく候。此段(このだん)、謹みて奏聞(そうもん)奉り候。
                (菊地明・伊東成郎編『戊辰戦争全史』上 P.26)

 王政復古クーデター以来のことは、薩摩藩家来などの陰謀と断じ、その者を引き渡すように朝廷に求めている。そして、若しこの提案が採用されない場合は、「誅戮」を加えるとしている。なお、『徳川慶喜公伝』4では、乱妨の地として「江戸・長崎・野州・相州」のうち、「薩藩士が長崎を騒擾(そうじょう)せしめたることは、未だ之(これ)を詳(つまびらか)にせず」と注釈している。
 なお、別紙には「薩藩奸党の者罪状の事」と題して、以下の五カ条を挙げている。

一、 大事件〔に〕衆議尽くすと仰せ出され候ところ、去月九日、突然非常御改革を口実とし、幼帝侮り奉り、諸般(しょはん)御処置、私論を主張し候事。
一、 主上(*天皇)御幼冲(ようちゅう *幼も冲も「幼い」の意)の折柄、先帝(*孝明天皇)御依託(*委託)あられ候摂政殿下を廃し、参内(さんだい)止め候事。
一、 私意を以て、宮・堂上を黜陟(ちゅっちょく *退任と昇任と)せしむる事。
一、 九門其外(そのほか)御警衛と唱へ、他藩の者を煽動し、兵仗(へいじょう *武器)を以て宮闕(きゅうけつ *宮城)に迫り候条、朝廷憚(はばか)らず大不敬の事。
一、 家来ども浮浪の徒を語らひ屋敷へ屯集、江戸市中押し込み強盗致し、酒井左衛門尉(*庄内藩主)人数屯所へ発砲乱妨、其他(そのた)野州・相州処々(しょしょ)焼き討ち却盗に及び候は、証迹(しょうせき *あとに残された証拠となるべきもの)分明にこれあり候事。      (同前 P.26)

 これらの書は、大目付滝川播磨守らを上京させ、1月3日に戸田大和守によって、朝廷に上(たてまつ)る予定であった。
 だが、討幕派は慶喜の上洛は何が何でも阻止しなければならなかった。「......討幕派の必死の工作の結果、ついに慶喜上洛を差し止める沙汰が下った。尾越(*尾張と越前)に対して、武装上洛の坂兵(*旧幕府兵)に引き払うよう処置を命じたのである。そして慶喜に対しては次のように命じた。
  先達(せんだ)って下坂に付き、尾・越両藩へ鎮定の儀(ぎ)仰せ付けられ御請(お 
  うけ)申し上げ候ところ、今日大兵伏見表へ押出し候趣、如何(いか)に思し召され
  候、都下人心動揺にも及ぶべく候あいだ、御沙汰これ有り候迄、上京の儀見合(みあ)
  わすべく候事
 ここでは、罷免した会桑の兵力を伴って上京しようとしていることが最大限利用された。もしこの命に従わなければ止むを得ず、いよいよ朝敵として処置するという理屈がようやくここで出来上がった」(同前 P.57~58)のである。1)
 戦いは、伏見と鳥羽で行なわれた。幕府軍は旧幕府歩兵十三大隊と砲22門を主力に会・桑・高松・大垣・伊予松山のなどでおよそ1万が北上した。残り5千は、大坂城などを守衛した。対する薩長側は、およそ4000~5000で対抗したといわれる。
 芸藩は、兵力不足を理由に出兵を辞退した。土佐藩は、山内容堂が"戦いは徳川氏と薩長の間の「私闘」である"として、参戦させなかった。京都に一定の兵力を持っていた大藩のうち、加賀藩は難を避けて藩主前田慶寧(よしやす)をすでに帰国させていた。熊本藩は、藩主細川護久が1月2日、大坂から京都に向かう途中で枚方(ひらかた)に宿泊していた。もともと佐幕色が強かった熊本藩であるが、藩内は激しい論争となった。だが、結局、「朝敵」の烙印(らくいん)を押されるのを避けたいという世子の判断で、戦いには参加しなかった。

【1月3日】
 旧幕府軍の北上を知った薩長側は、伏見方面と鳥羽方面に兵を二分し、伏見方面では旧幕府の伏見奉行所を包囲する形で、防禦の陣を布いた。鳥羽方面は、新政府の命で彦根藩・西大路藩の兵が派遣されていたが、急きょ、薩摩藩の増援部隊が派遣された。
 3日朝、旧幕府大目付の滝川具挙は、見廻組を先発させ偵察させつつ、淀を発って鳥羽街道(伏見の西方を京に向かって北に伸びている)を北上した。薩摩兵はすでに、鳥羽街道の左右に展開し、敵の北上を待ち構えていた。そこで、両軍の間で通せ、通さないの談判が行われたが、薩摩側は朝命がない限り入京させないと通行を拒否した。
 滝川ら旧幕府軍は一旦、小枝橋の南方・赤池まで後退した。のちまた北上して、薩摩軍
と交渉するが埒(らち)が明かない。結局、押し問答の末、午後5時近くになって、旧幕府軍は強行進軍を宣言する。
 これをキッカケに先端が開かれ、薩摩側はラッパを合図に四斤砲を一斉に発射し、双方の銃撃戦が始まることとなる。だが、薩摩の砲弾が滝川の近くの砲車に命中し炸裂する。驚いた馬が滝川を振り落して、鳥羽街道を駆け回った。それ以上に問題なのは、旧幕府軍は縦隊列の行軍形態であり、戦闘隊形をとっておらず、銃砲に弾薬を装填(そうてん)さえしていなかったのである。旧幕軍は慣習的な密集部隊のまま前進して損害を拡大した。 
 薩摩軍には長藩の応援部隊も加わって、敵をさらに攻撃した。悲劇的なのは見廻組である。「近くにいた見廻組の隊士が薩軍に突進していったが、彼らの兵装は和装で甲(かぶと)に刀槍という装備であり銃を持っていない。薩軍の銃弾にさらされて犠牲的な突撃をくり返してた。」(佐々木克著『戊辰戦争』中公新書 1977年 P.23)と言われる。
 後退する旧幕軍の先頭部隊と前進して来る後方からの桑名兵との交錯で、鳥羽街道はなお一層混乱する。それをめがけて薩長軍が銃撃する。旧幕府軍は、作戦らしいものもなく緒戦で大きな損害をこうむった。
 なお、この日の夕方、新政府の(押し通れば「朝敵」であるという)沙汰書が前線に伝達された。これにより、旧幕府軍は「賊軍」のレッテルを貼られるようになる。
 そのうち夜となり、両軍は赤池付近で対峙したまま、鳥羽方面の第一日が終った。
 伏見方面では、午後5時ころに鳥羽方面で激しい銃撃が聞こえると、薩摩軍が伏見奉行所に砲弾を撃ち込んだ。同じ頃、新撰組や旧幕府軍が奉行所から飛び出して、薩摩の陣地に突撃した。しかし、新撰組は剣士の集団ではあるが、銃をもたない。町家の狭い道路を突進したが、薩摩兵の的になるだけであった。
 伏見奉行所と並ぶ御堂には、会津藩が陣取っていた。正面の敵は、長州兵である。ここでも会津兵は白兵戦を挑もうとする。だが、近代的な銃撃戦になれた長州兵は、物陰からあるいは道路に畳を並べて楯にして、銃火を会津兵に浴びせた。会津兵の死傷者は多くなるばかりであった。
 薩長の砲撃が威力を発揮し、銃撃が敵の損害を拡大させ、夜半に至りついに奉行所に薩長兵が突入し、火がかけられた。夜の12時ころ、旧幕府軍は南方の中書島方面に退却せざるをえなかった。
 この日の夜、「新政府では、議定嘉彰親王(仁和寺宮)が軍事総裁を兼ね、議定伊達宗城・参与東久世通禧(みちとみ)・烏丸光徳(みつえ)に軍事参謀が命じられた。また参与橋本実梁(さねやな)・助役柳原前光(さきみつ)に大津口、参与西園寺公望(きんもち)に丹波口の兵を監督させ、在京諸藩に厳戒態勢を取らせた。なかでも彦根井伊家には警衛のため大津口出張が命じられた。」(保谷徹著『戊辰戦争』P.65)のであった。
【1月4日】
 早朝から戦闘が再開された。下鳥羽の旧幕府兵は、前日と同じで二列縦隊の密集部隊で鳥羽街道を北上した。だが、街道を包むように展開する薩摩兵の弾幕を突破することはできず、大きな損害をこうむった。結局、ふたたび下鳥羽に胸墻(きょうしょう *胸ほどの高さのかきね)で築いた陣地まで後退した。薩摩側も激しく攻撃するが、戦いは膠着状態に陥る。
 ところが、「昼過ぎになって、薩摩の増援部隊が下鳥羽の東側二〇〇メートルほどの集落を占拠し、横合いから激しく銃撃を開始した。このときの銃撃戦で旧幕側は歩兵奉行並(なみ)窪田鎮章らが戦死し、午後二時近く、後退をはじめた。南西二キロほどの富ノ森(*現・京都府伏見区)まで後退し、酒樽などに土をつめ、畳や戸板を利用して築造兵(土工兵)が構築した土塁まで退いた。/旧幕側は、さらに退くと見せて街道の両側に伏兵を置き、追撃する薩長兵を推し返すなど、ふたたび富ノ森の陣地をめぐって一進一退の攻防が続いた。このときは薩長側の被害も大き」(同前 P.67)かったようである。
 この日の夕方、旧幕軍は淀城(富ノ森の南西ですぐ近く)に拠って薩長軍の進撃を食い止めよと淀城への入城許可を求めた。しかし、淀藩はそれを拒否した。淀城の藩主・稲葉正邦は当時「幕府老中」の要職についていたのであり、旧幕府軍は大きな目算はずれであった。正邦はこのとき江戸におり、淀藩はその重臣たちが藩主不在のまま徳川家に不利なふるまいをしたのであった。それは旧幕側の敗戦必至と見た素早い処世なのであった。
 この日、伏見では、旧幕軍は町の西南部、堀河の東に防塁を築いた。しかし、指揮官であるはずの陸軍奉行竹中重固が作戦協議のために淀に向かっている間に、この防塁を切り崩され、旧幕軍はズルズルと後退した。
 この間、新政府内では最後の政治抗争が展開されている。「軍事総裁嘉彰親王(仁和寺宮)を征討大将軍と為(な)し、錦旗・節刀を与えて出馬するよう朝命が下った。これに対して参謀伊達宗城(宇和島)は、現在戦闘に参加しているのは〔*政府側では〕薩長二藩のみであり、このまま征討大将軍が出馬しては、この二藩の趣旨から朝議が出ているようになる、諸藩の公議を尽くすべきであると主張し、土芸もこれに賛同した。薩長の戦闘はいまだ坂兵(*旧幕軍)との私闘であるとされる可能性もあったわけである。」(同前 P.68~69)と言われている。
【1月5日】
 この日、戦況は大きく動く。薩長軍は、鳥羽街道の正面に主力軍の火力を集中し、また両脇には余剰兵力を配置して主力軍を支援した。激しい銃撃戦が展開され、薩長軍は次第に旧幕軍を追い上げた。他方、旧幕軍側では会津兵の槍隊が匍匐(ほふく *腹ばいになって進むこと)して側面に廻り込み何度か突撃を試みた。しかし、いずれも銃撃されて損害を出した。
 旧幕軍の多くは淀まで後退し、午後2時ころには富ノ森を支えきれずに一気に淀まで敗退した。伏見方面の薩長軍もじょじょに旧幕軍を追詰め、淀まで迫るほどに進撃した。旧幕軍は淀の小橋・大橋を焼き落とし、八幡、橋本に向けて退却した。
【1月6日】
 淀川をはさんで八幡や橋本の対岸は、天王山の要所がある。薩長軍は6日、八幡に押寄せ、さらに橋本へも攻め寄せようとした。橋本の旧幕軍が依拠した胸壁は強力であったため、そこの旧幕兵は動揺しなかったと言われる。むしろ橋本方面で砲声がしたため、後方を遮断されることに恐れを懐いた八幡の部隊が浮き足立ち、総崩れとなった。
 昼近くに突如起った橋本の砲声は、淀川右岸にあった山崎の関門を守備していた津藩藤堂兵(約1000)が対岸の旧幕軍を攻撃したものであった。それは、前日に新政府の使者が訪れ帰順を迫り、藤堂藩の重臣たちがこれに従がったためである。
 それに八幡から追撃して来た薩長兵が、橋本の側面から旧幕軍の背後をついたので、狼狽(ろうばい)した旧幕軍は一気に、枚方、守口、そして大坂城まで退却した。
 淀藩につづく藤堂藩の「寝返り」は、致命的であった。兵力の点ではまだ戦える余地があったにも関わらず、淀藩・津藩の「寝返り」は旧幕府軍にとって、精神的な強烈な打撃となった。旧幕府軍は、完全に敗北したのであった。
 旧幕府軍の敗北の原因は、いろいろの要素をもっていた。第一は、第二次幕長戦争の「敗北」を教訓としておらず、相変わらずの刀槍に依存した密集戦法であったことである。確かに下級指揮官にはその教訓をつかみ取っていた者もいたかもしれないが、上級の指揮官には恐らく一人もいなかったであろう。
 第二は、大軍を擁した旧幕府軍は、その利点を生かせなかったことである。伏見から淀にいたる街道筋は西に桂川、東に湿地帯が広がり、大規模な部隊が展開するにはそもそも困難な地帯であった。むしろ防衛が難しい京都の地形を考慮すれば(南北朝の戦い、尊氏派と直義派の戦いが長期化した一因)、伏見・鳥羽に限定せずにもっと多くの攻め口を設けるべきであり、それを担う兵力は十分にあったのである。
 第三は、第一・第二の敗因とも関連するが、旧幕府軍は作戦らしい作戦もなく、ただ憤激だけで京都に迫った大部隊であったことである。上級指揮官たちの軍事的な怠慢である。
 第四は、軍事面のみならず政治面でも徳川家の権威・慶喜の権威は凋落しており、そのことが膝元の淀藩や藤堂藩すらも離反させていたことである。徳川慶喜は、小手先の交渉技術には長けていたかもしれないが、大組織を動員した政治的軍事的な能力は弱かったものと想像しうる。
 その後、江戸城の無血開城の後、北関東では旧幕府歩兵隊などによるゲリラ戦が展開されるが、結局は補給がもたず会津など北方に追いやられ、戊辰戦争は北方へと拡大する。奥羽越では、仙台藩と米沢藩が中心となって、諸藩が会津藩と庄内藩へ処分を寛大にするようにと歎願を行なう。だが、奥羽鎮撫総督府は、参謀世良修蔵らがそれを許さず、武力による奥羽鎮撫をあくまでも主張する。これにより、5月3日、奥羽越列藩同盟が形成され、それはさらに奥羽越列藩同盟に発展する。 
 蛤御門の変により、長州藩は「朝敵」となったが、恭順の姿勢を示し、その後の処分は寛大なものとなり、長州藩は封土も削減されず、毛利父子の官位も復旧された。しかし、会津藩の場合、恭順の姿勢を示したにもかかわらず、寛大な処分とはならない。その処置はダブルスタンダードではないか―というのが奥羽越諸藩の新政府(実質は薩長)への批判である。余りにも御都合主義で、自分勝手なやり方に同意できなかったのである。(奥羽越の戊辰戦争については、詳しくは拙稿〈明治維新の再検討〉『奥羽越戊辰戦争は「無駄な抵抗」だったのか』〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照)
 新政府の高官は、1カ月で鎮定すると豪語した奥羽の戦いは、夏から秋にまで展開され厖大な人命が失われ、農民など民衆への巨大な負担を押し付けた。そして、戊辰戦争はその後も終わらず、榎本武揚らの蝦夷地・箱館の五稜郭での戦いと続行され、全国的は鎮圧には1869(明治2)年5月18日までもかかったのである。

注1) ここで慌(あわ)てるのは、討幕急先鋒の大久保利通である。それは、1868(慶応4)年1月2日付けの、以下の西郷宛ての書簡で明らかである。
 
......今形(*今の形)慶喜上京相成り候ては〔*慶喜が新政府の会議に出席しては〕、実に以て取り返し難き次第に立ち至り候は必定(ひつじょう)候に付き、是非(ぜひ)会桑帰国取り計らい、上京と申す今日の御達し振りならでは相済み難く存じ奉り候。若(も)しその儀無く上京相成り候えば、戦さは窮して出來申さず、今日に相成り候ては戦さに及ばず候えば皇国の事はそれ限り水泡と相成り申すべし。...... 
                    (『大久保利通文書』二 P.147)

 大久保はこの日の会議で、"会津兵・桑名兵を帰国させた後でなければ、慶喜の入京を認められない"と主張した。だが、これも尾張・越前・土佐の反対で議決されなかった。しかしこの議決がなければ、"慶喜の上京をとがめ、開戦する名分が無くなってしまう(帰国命令に逆らって、会津・桑名が慶喜とともに入京するのを咎〔とが〕めることができる)。今や慶喜の復権を阻止して新政府を確立するためには、戦争に訴える以外にはない"というのである。何がなんでも戦争にもっていかなければ、大久保らが構想する新たな「皇国」を作ることができないのである。結局は、岩倉の決断で、尾張・越前侯を通して慶喜の単独での入京を伝達させた。

(4) 戊辰戦争がもたらしたもの
 鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府は、1868(慶応4)年1月7日、徳川慶喜追討令を下す。それは、「現在彼(*慶喜)より兵端を開き候上は、慶喜反状(犯状)明白、終始朝廷を欺き候段、大逆無道、最早(もはや)朝廷に於て御宥恕(ごゆうじょ *寛大な心でお許しになさること)の道も絶え果て、已(や)むを得させられず、追討仰せ付けられ候」(保谷徹著『戊辰戦争』P.83より重引)というものである。
 だが、鳥羽伏見の戦いで「先端を開いた」のは、旧幕府側なのか薩摩側なのか、両説があり、正確なところは分からない。むしろ偶発的な面が極めて強いものであると思われる。それにもかかわらず、追討令は強引にその因を旧幕府側になすり付け、慶喜追討の根拠としている。
 しかし、このことは、予想外の結果を招く。新政府の強引な慶喜追討・会津庄内征討に対して、奥羽越列藩同盟が5月に結成され、奥羽越の鎮定が長引く原因の一つともなったのである。
 長州軍の戊辰戦争参加者の人員は、方面ごとにまとめると図表9の通りであり、総勢延べ4636人であった。そのうち、奇兵隊の戦場は、主に北越方面であり、1520人である。
 奇兵隊は、3月17日、ようやく吉田陣営を発ち、馬関から海路、上方へ上った。北越出兵を命じられた奇兵隊は、4月14日に京都から陸路北越を目指し、越後高田(現・上越市)に閏4月19日に到着した。薩長を中心とする西軍は、奥羽列藩同盟に加わった長岡藩の激しい抵抗に遇うがこれを打破り、次いで会津地方に攻め込む。薩長土などの西軍は、9月14日に会津鶴ヶ城に総攻撃を加え、激戦の末、同月22日に同城は降伏する。 
 戊辰戦争はさらに蝦夷地にまで続くが、奇兵隊の任務は会津落城で終り、11月12日に山口に帰る。戊辰戦争における奇兵隊の戦死者は、図表9が示すように74人、負傷者は121人である。

    図表9  戊辰戦争諸隊出兵数と死傷者数
    出兵人員                  死傷者数
 隊名      出兵数       隊名     死   傷     
〈山陽道〉      奇兵隊     74 121
整武隊 400        干城隊 73 89
鋭武隊 325        第一大隊 47 94
第一大隊二中隊 200        振武隊 32 80
第二大隊四中隊 200        第四大隊 24 53
第一砲隊半砲隊 40        整武隊 23 75
第三砲隊 80   鋭武隊 16 22
(計)  1245人       遊撃隊 8 17
〈伏見〉               第一砲隊 4 3
第二奇兵隊 125        第二奇兵隊 3 22
奇兵隊 110        毛利出雲一手  3 12
遊撃隊 97        第二砲隊 2 0
整武隊 97        膺懲隊 1 4  
振武隊 97         計 310人 592人
鋭武隊 97
膺懲隊 40  (出所)田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』
(計) 663人           P.94
〈奥羽〉
第一大隊 200
第四大隊 200
鋭武隊 100
毛利出雲一手 100
第二砲隊半砲隊 50
(計) 650人

〈北越〉
干城隊 550
奇兵隊 510
振武隊 410
第一半砲隊 50
(計)   1520人
〈箱館〉
整武隊 505
第二砲隊 53
(計)    558人
〔総計〕 4636人

 保谷徹著『戊辰戦争』によると、戦争による死傷者の規模は、次のようにみられている。すなわち、新政府の修史局が取りまとめた『明治史要』(1886年)は、新政府側の死者が総計3550名、負傷者が3845名となり、「賊軍」とされた敵方の死者は未だ不十分ではあるが4690名、負傷者が1509名とされている。両者あわせると、死者は8240名、負傷者は5354名となる。
 だが、実際はこれらを上回る規模とみられる。「明田鉄男の労作『幕末維新全殉難者名鑑』によると、鳥羽・伏見の旧幕府側戦死者は二九二名、上野戦争では二三六名、箱館戦争では五四七名に及ぶという。奈倉哲三は、明田のデータをもとに、戊辰の内乱に斃れた旧幕側の人々を八六二五名と数え、新政府側でも靖国神社に招魂された三五八八名以外に一三五九名がこの内乱のために亡くなったとした(奈倉哲三著「招魂―戊辰戦争から靖国を考える」―『現代思想』33-9 2005年)。刑死者や暗殺の犠牲者などを含むとはいえ、合計した死者は1万3572名ということである。」(保谷徹著『戊辰戦争』P.288)といわれる。
 これらの数字だけをみても、旧幕府側の戦死者は、全体の6割強を占めていたことがわかる。
 だが、戦争の残酷さは戦死者の規模に表れているだけではない。その一つは、旧幕府側諸藩の人民に対する広範な略奪・暴行である。1)
 保谷徹氏によると、「もともと征討軍は、幕領の年貢米や各地の城詰米・備蓄米を兵糧に利用しながら進撃してきたわけだが、敵方のものであれば対価を支払う必要もなく、まさに『分捕(ぶんどり)の余勢』で乗り切ってきた......(薩州小荷駄方日記)」(同著『戊辰戦争』P.232)のである。そして、「奥羽征討軍の軍令を見ていくと、戦争の進展につれ、分捕りにかこつけて民間からの略奪を行なわないよう命じたものが目立つようになる。すでに棚倉や磐城平の落城(*7月)後からこうした通達が出されるようになり、目に余るものは征討軍内部での粛清もはじまっている。
○七月一五日
昨一三日以来当所(磐城平)民商家へ略奪少なからざる趣(おもむき)相聞け、定めて小者共の所業(しょぎょう)とは存ぜられ候えども、甚(はなはだ)不届(ふとどき)につき、早々取調べ屹度(きっと)御軍律に処せられるべくこと(奥羽総督府参謀廻章、鳥取藩士天野祐次軍旅日誌)
○七月二十日
先達(せんだっ)て農商家掠奪の儀(ぎ)達し置き候ところ、罪人有無の届けこれ無き藩もこれ有り、且又(かつまた)今般往々分取りと称し、下民を悩まし候者これ有る哉(や)に相聞け候条、此上(このうえ)厳重に取糺(とりただ)しこれ有るべく候(同)
○七月二十二日
兵糧方夫卒(ふそつ)生所(しょうしょ)野州市右衛門と申す者、民家押入り乱妨(らんぼう)に及び候罪を以て梟首(きょうしゅ *さらし首)に相成り、此(この)旨(むね)末々迄(まで)申し聞け候よう廻章来る(同)」(同著『戊辰戦争』 P.233~234)といわれる。
 しかし、その後も掠奪事件が絶えることはなかったようである。仙台藩が降伏した時にも、土地の人民に乱暴や略奪が行なわれた。9月23日、「藤堂藩ノ森川某等三十余名ニテ伊具郡丸森町ニ入リ」、酒食した上(うえ)に丸森館主佐々久馬の家臣浅野治左衛門や足軽組頭岡本武治の息子に暴行する。これをみた武治が止めに入ると、抜刀した藤堂藩士らは武治の頭や手を斬りつけている。その後、「丸森ヨリ十丁程(ほど)隔(へだた)リタル四反田トイフ所ノ百姓喜平治方ニ乱入シ脅迫シテ衣類其他(そのた)十余品ヲ奪ヒ去リキ」(『仙台戊辰史』三 P.800)といわれる。また、同郡筆甫辺にも、「西兵(*西軍)四、五百名乱入シテ土民ヲ脅迫スル」(同前)などしている。
 戊辰戦争における新政府軍のむごさの一つに、戦死者に対する向き合い方がある。
 保谷徹氏によると、「......八代孫次郎は館林藩の軍夫として梁田戦争(*古屋佐久左衛門が率いる旧幕府軍と新政府軍とが現・群馬県の太田市の東隣の梁田で戦い、前者が敗北)のあとの掃討部隊に加わっている。彼は『沼田あたりで殺した人(歩兵)の胆を嘗(な)めた。肉なども竹の皮に包んで持たせられたが、私は捨ててしまいました』(梁田戦蹟史)と証言している。同じ戦争で岩井元次郎は、官軍兵が『この野郎大きい野郎だなあ、肝を取ってやれ』と言って、死んだ歩兵の『腹へ刀を突き立ててグルッとイグって茄子(なす)の糠漬(ぬかづけ)のような物を引き出した』ところを目撃した。鍋で煮た肉を食し、狂ったものの話など、官軍の人肉食にかかわる体験談も少なくない。薩長人が『敵の死骸を持ち来たり、肉を削り喰う』という噂が村の記録に留められた(会津東辺史料)。」(保谷徹著『戊辰戦争』P.224)といわれる。
 このような酷さは、戦国時代でも寡聞にして耳にしたことはない。たとえば、川中島の戦いでも戦死者は敵味方なく手厚く葬られ、遺体を損傷することなどはあり得なかったのである。
 保谷氏によると、「......『賊軍』の死体をいたぶる行為そのものは、奥地へ進撃するにしたがいエスカレートしていったようである。九月、会津城下へ攻め込んだ征討軍参謀は次のような廻章を出して、残虐行為を戒めなければならなかった(鳥取藩士天野祐治軍旅日誌)。
                           各藩へ
討ち取り候ところの賊死体の腹を屠(ほふ)り肉を刻み、残酷の振舞(ふるまい)あるいはこれ有る趣(おもむき)相聞け、以ての外(ほか)の事に候、賊といえども皇国の赤子、右等(みぎなど)粗暴の処置これ無きよう兵隊末々まで申し渡す旨(むね)御沙汰候事
  九月十二日            参謀   」(保谷徹著『戊辰戦争』P.225)
と、回章せざるをえない程、この残虐な行為が西軍の中に目立っていたということである。
 もう一つは、地元女性への集団レイプである。会津戦争史を研究する会津歴史研究会の井上昌威氏が書いた小文に、「会津にある小梅塚」(『会津人群像』26号)がある。それによると、会津領内の女性が新政府軍から受けた被害の残酷さ、非人道性は余りあるものである。
 山縣有朋が率いる奇兵隊や軍夫たちは、山縣が所用で新発田へ去っていた時、やりたい放題を繰り返す無秩序集団になっていた。"女性と金品を求めて村々を荒らし回った。彼らは山狩りと称して村人や藩士の家族が避難している山々を巡り、強盗、婦女暴行を繰り返した。集団で女性をレイプし、時にはなぶり殺す。家族の見ている前でレイプを平然と行い、家族が抵抗すると撃ち殺した。8~10歳の女の子でも、高齢の女性でも見境なく凌辱したのである。坂下、新鶴、高田、塩川周辺では、戦後、犯された約百人に及ぶ女性のほとんどが妊娠していた。医者は可能な限り堕胎したが、それによって死亡した娘もいたという。月が満ちて生まれてきた赤子は、奇兵隊の誰の子かも分からない。村人たちは赤子を寺の脇に穴を掘って埋め、小さな塚を作って小石を載せて目印にしたのである。村人は、これを『小梅塚』とか『子塚』と呼んだ。乳が張ってきた娘たちは、自分の『小梅塚』に乳を絞り与えて涙を流していた"といわれる。
 西軍のこのような残忍さは、尋常なものではない。いくら戦場だとは言え、限度がある。にもかかわらず、蛮行は行われた。その原因には、旧幕府側とくに会津への怨念がある。「一会桑」体制のもとでの、尊攘激派に対する苛酷な弾圧である。しかし、その背景には「天誅」と称した尊攘激派のテロリズムがある。しかし、その前提には、井伊直弼の反対派への厳しい弾圧(いわゆる「安政の大獄」)がある。
 不当な暴力行使の応酬が、戊辰戦争ではとりわけ会津での私怨をもった残酷な仕打ちとして集中されたのである。それはまさに、「私闘」という言葉にふさわしい。戊辰戦争での残酷で非人道的な行為には、まさに怨恨にもとづく復讐心が存在する。 

注1)長州藩の反人民性は、第二次幕長戦争時にもみられている。「すでに、第二次征長のさい、石見(いわみ)に進撃した長州軍は、そこでおこった百姓一揆に対して、その一揆の首謀者を極刑に処し、一揆攻撃の対象となった村役人・豪農商を逆に支持して、民政に強力な弾圧政策をもって臨み、その本質をちらつかせていた。」(田中彰著『幕末の長州』岩波新書 P.169)といわれる。

T 諸隊の整理と脱退騒動

(1)戦費や凶作などで藩財政が絶望的に悪化
 新政府は、戊辰戦争後、戦争中にかかげた「年貢半減令」の撤回を明確にし、旧幕府領や旗本領(新政府の領地となっている)などで先納されている分についても、その免除を収納額の3分の1に留め、残額の再納入を命令している。戊辰戦争中から進められていた贋悪(がんあく *偽物)貨幣大量鋳造や金札の大量発行1)は、諸物価の高騰を招き、庶民の生活を極度に悪化させ、下層民衆の生活を破綻させている。
 それにさらに拍車をかけたのが、1869(明治2)年の大凶作である。「明治二年は大凶作で、天候不順であった東北・関東地方を中心に窮状がはなはだしく、東北では多数の餓死者を生じていた。太平洋側の陸奥・陸中・磐城の三国や岩代国の一部では、三〇パーセント以下の作柄であったという。とりわけ陸中国の胆沢(いさわ)県では、民部・大蔵省に宛て、凶作にともなう県内の作柄を、平均一五パーセントたらずであると報告」(松尾正人著『廃藩置県の研究』吉川弘文館 2001年 P.115)している。
 戊辰戦争で「朝敵」とされた諸藩や西軍と戦った諸藩は藩領を削減されたうえに、インフレや凶作などで、財政はさらに悪化した。
 下山三郎著『近代天皇制研究序説』(岩波書店 1976年)によると、1868(明治元)年頃の「藩債は......内国債合計七四一三万余円、外国債合計四〇〇万余円、内外国債合計七八一三万余円に達している」(同著 P.282)という。だが、債務はこれだけでなく、藩札もあった。それが、およそ「三八一六万余円」もあり、「今かりにこの数字が当時の藩札の合計額に近いものとみると、広義の藩債(藩債+藩札)は実に一一六二九万余円となる。」(同前 P.283)のであった。
 これに対して、全国諸藩の「現収高合計は九〇六万余石であり、貨幣換算すると約三四三〇万円」(同前 P.283)となる。したがって、全国藩債は年間収入の約3・4倍(11629÷3430=339%)となる。
 この計算方法で、15万石以上の大藩15藩に適用してみると、徹底的に整理された静岡藩(徳川家)のみが67%で、残りすべてで借金が現収高を上回っている。最も借金が多いのが秋田藩で461%、最も少ない(静岡藩を除く)のが金沢藩の161%である。残りの大藩は、300%台が5藩、200%台が5藩、100%台が2藩である。
 戊辰戦争で、新政府側の主力を担った鹿児島藩でも177%、高知藩が212%、佐賀藩が230%、山口藩に至っては361%の規模である。

注1)松尾正人氏によると、「贋悪貨幣は戊辰戦争中の会津藩領など各地で大量に密造されたが、悪貨は軍費の財源に苦しんだ鹿児島・高知両藩、あるいは金・銀座を接収した新政府も鋳造した。大量に使用された贋悪貨幣は、一部が新潟、箱館、横浜などの開港場に運び出されて外交問題に発展し、さらに藩県下で物価高騰や徴税の障害を引き起こし、その交換を求めた『贋金騒動』の発生に至った」(松尾正人著『廃藩置県の研究』 P.115~116)のである。

 (2)諸隊の精選と脱退の動き
 1869(明治2)年11月8日、山口藩(1868年5月以降の呼称)は兵制改革を行ない、諸隊のうちから常備兵2250名を精選することを、その長官に命じた。
 戊辰戦争が終結し、諸隊はつぎつぎと凱旋(がいせん)してきたが、合計5000人にものぼる諸隊をそのまま維持することは藩財政からして困難であったからである。
 しかし、この時より数か月さかのぼって既に、諸隊での矛盾が露呈し、諸隊を整理する徴候は表れている。
 1869(明治2)年8月25日、奇兵隊では午前の「九字三十分長官会議の事」が、夜には「今夕八時、嚮導照準者中会議の事」とそれぞれで会議がもたれている。これらの会議の内容は、8月28日の条に記されているが、主に隊の規律にかんするものである。

一、 三ヶ条規則相守(あいまも)るべき事
 内
 一隊中一和の条中、近来武文の修行ニ怠り、徒党ケ間敷(がましき)儀、間々(まま)これ有る哉(や)の事

 一定のグループで事を構え、隊の団結を乱すことに、極度の警戒を示している。そのことは、それに続いての箇所での次のような言及でも明らかである。

一、掲示十八ケ条相守るべき事
............
 一、陣門暮れ六ツ(*6時)時限の条、近来夜入(よるいり)猥(みだり)に相成り、屹度(きっと)取締りこれ有りたく候事
 一、猥に農町家へ立ち入りべからずの条、近来拠(よん)どころ無き節も届方(とどけかた)これ無く、猥に飲食など致し候者これ有るの由(よし)相聞え候事
 一、帰省中、別(べっし)て謹慎なすべき条、近来間々(まま)不法の所業(しょぎょう)少なからざる候事          (定本『奇兵隊日記』下 P.755)

 これらは、隊員が隊外の農町民との接触や、陣所外での相談ごとで門限を過ぎるのを、しきりに警戒している様子がうかがわれる。実際、この頃、規律違反で処分(慎〔つつしみ〕)されたものが次々と出ている。
 同年9月7日の条では、二番小隊で問題が起っている。

一、 小島荒市郎・金子連次・佐藤錆太郎・三谷熊太郎・境重市・松野重吉、右二番小隊中多人数(たにんずう)一同(いちどう)不容易(よういならざる)次第(しだい)申し出で候段、畢竟(ひっきょう)その伍々伍長と相成り居り候者(もの)の罪ニこれ有り候得ハ(そうらへば)、身柄(みがら)慎み居り候段、申し出で候所、改て慎(つつしみ)申し渡され候事
一、同隊伍中、右(みぎ)多人数不容易次第申し出で、今更(いまさら)申し訳もこれ無きニ付き各(おのおの)慎(つつしみ)居り申し出で候得とも、其儀(そのぎ)ニおよはす申し渡され候事              (同前 P.761)

 二番小隊の多人数が「不容易次第」(具体的な内容は不明)を申し出たので、それはそれぞれの「伍」(*基礎単位)の「伍長」の責任だと、伍長たちが謹慎していたので、改めて「慎」の処分が申し渡された。しかし、二番小隊の多人数の「慎」の申し出については、「其の儀に及ばず」と、不問にふした。
 9月27日の条には、恩賞に関する不満が出ているのに対して、注意がなされている。すなわち、「近(ちかごろ)此(ここに)自分の勤功を申し立て、或(あるい)ハ年来の事を修飾致シ書面ニ認メ、一時の恩賞遣(つか)わされ方等の儀(ぎ)手筋を以て歎願致す者少なからず相聞へ候処、是等(これら)の義、畢竟(ひっきょう)廉耻(れんち *廉恥)の心(こころ)薄きより発(おこ)り候事ニて、元来(がんらい)功労抜群(ばつぐん)才器(さいき)これ有る者ハ追々御詮議(おせんぎ)もこれ有るべく候条、自分から官を求め賞を貪(むさぼ)る等の儀、向後(こうご)屹(きっ)と相改め候様仰せ付けられ候事」(同前 P.771)と。
 近頃、自分から功労を申し立て恩賞にあずかろうとする者がいるが、"功労抜群の者や有能な者は追々詮議(せんぎ)するから、自分で功を売り込み賞や昇進をはかったりしないように"と注意がなされている。
 さらに、『奇兵隊日記』を追うと、10月6日の条には、隊内の「小攘夷」に対する注意・警告が行なわれている。

一、 外国交際の義ニ付き、朝廷より追々仰せ出でられ、当今の形勢(けいせい)実に以て至当の御儀の処(ところ)、間々(まま)不心得の輩(やから)前後の弁もこれ無く、只管(ひたすら)攘夷の説を主張し人心を鼓動し、終に朝廷に対し御手煩(おてわずらい)を引起し候者もこれ有り謂(い)はざる事ニ候、是等(これら)の義ハ畢竟(ひっきょう)兼(かね)て仰せ出だされ候(そうろう)御趣意筋(すじ)等閑(なおざり)ニ相心得(あいこころえ)候より起(おこ)り、列藩へ対せられ候ても向後(こうご)屹度(きっと)相慎(あいつつし)むべく候、自然不心得(ふこころえ)の者これ有り候ハハ速ニ厳罸(厳罰)仰せ付けられ候事
  九月
                         施政局
                         軍政局
  
 外国との交際が新政府との間で開始されているのに、未だかつてのような「攘夷の説」を主張するものがいて、朝廷を煩わしている。これは結局、上からの御達しを等閑してきたためであるとし、今後必ず慎むべきであるとした。そうでなければ速やかに厳罰を加える―と警告した。
 薩長などは権力を掌握するために、ご都合主義的に「攘夷説」を利用した結果、深く情勢を知らないで攘夷の「教育」を受けただけの下級武士などは、新政府の外交についていけなかった。そのため、1869(明治2)年1月5日に横井小楠が、同年9月4日に大村益次郎が「小攘夷」主義者に襲撃・暗殺された。(長州の広沢真臣も翌年の1月9日に、暗殺されることとなる)
 いまだ「小攘夷」にこだわる者は、結局、弾圧によって挫折するか、それともテロリズムに走るしかなかった。だが、小攘夷主義者を育て上げた長州藩の責任は重大である。かつて外交問題をもてあそんだ報いが、諸隊脱退騒動の一因となったからである。
 『奇兵隊日記』の10月21日の条には、ついに「自身慎(つつしみ)」が8名、「除隊」が9名、「退隊」が38名ものぼるようになる。
 11月10日の条には、3名が「放逐」、64名が「除隊」となっている。このうち60名は、兵制改革による「常備兵撰精」が理由とされている。11月8日の精選命令による処置が早くも行なわれているのである。
 他方、中央では天皇政府が直接統括する軍事力の確保に迫られており、1868(慶応4)年閏4月20日(「明治」への改元は9月8日)に陸軍編成法を、ついで8月23日には府県兵の規則を軍務官によって統一しようとしていた。そして、「一〇月一〇日には、政府は諸侯による兵隊指揮を禁じた」(田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』P.121)のである。
 翌年になると、軍事力の集中はさらに進められ、4月8日に、府県による兵員の新設は禁止された。そして、8月2日、山口藩は第二次幕長戦争で占領し管轄していた豊前企救郡と石見浜田藩領の地を、それぞれ日田(ひた)県および大森県に移管するように命令を受けた。
 この命令は、財政悪化に悩む山口県にとっては、渡りに舟であった。すなわち、"現在石見駐屯の振武隊500名は大森県に隷属させ、豊前の地は馬関の要地だから日田県から山口藩管轄に移して欲しいが、それができないなら、豊前にいる奇兵隊500名も日田県隷属にしたい"と返答した。
 これに対し、新政府は、"奇兵隊・振武隊ともに東京常備兵とし、豊前地方の管轄替えはできない。そして、常備兵の規則は現在調査中だから、両隊は当分藩預けとし、費用は大蔵省が負担する"と回答した。
 その後10月、山口藩は東京常備兵(親兵)として2000名を朝廷に差し出すことを請願し、1500名が許可された。
 こうして、この節の冒頭に述べたように11月8日に、藩は兵制改革を行なうとして、諸隊の内から常備兵2250名を「精選」することが諸隊長官に命じられたのであった。
 藩のこの命令に対して、「遊撃隊の嚮導(きょうどう)三人は十一月十四日、連署して従来の長官はその人を得ず、軍紀もゆるみ、緩急の用にも堪えないとして、その更迭を軍事局に請うた。軍事局はこの動きを無視し、遊撃隊士全員を除外して他の諸隊の中から常備軍を選抜しようとした。遊撃隊はこれを不満として反発する動きを始め、これがいわゆる脱退騒動の発端となった」(『萩市史』第二巻 P.61)のである。
 藩の精選の命令に対し、遊撃隊嚮導3人は、「従来の長官はその人を得ず」と、真向から率直に批判したのである。この突如とも思える批判は以前から諸隊内部にたまっていた矛盾が、このさいに吹き出したからに違いない。
 田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』(岩波新書の江戸時代)によると、遊撃隊嚮導の十三条からなる願書の内容は、大きく分けて「(一)賞罰の不正・不公平/(二)総督以下幹部の堕落/(三)会計の不始末/(四)兵士に対する差別的な処置1)」(同書 P.123)とされる。そして、続いて「これらは相互にからんでいる。例えば、(二)では、総督以下の幹部は隊務を怠り、隊費で乱行に及ぶのみならず、他国出張中の妓楼・酒店等での遊宴の禁止にもかかわらず、東京出張中には二日も三日も吉原にいりびたっていると述べ、(三)では、兵士の月俸や扶持米(*給与)はきりつめられているのに、本陣用の雑費は膨大で総督の私用などに費やされ、また、季節ごとにつく役料にしても昨年と今年では支給の仕方が異なっておかしい、という。/(四)では、他の隊では他国出張中の月俸は一両以上なのに、この隊では上等兵士が三歩、中等兵士が二歩二朱、下等兵士が二歩となっており(*1両=4分〔歩〕=16朱)、帰省した際も、期限の二〇日間を一日でも過ぎると月俸が引下げられ、また、総督の病気の保養には莫大な隊費を費やすのに、兵士の病気のときにはどんなに困窮しても軍監や書記などは少しも顧みようとしない、と述べる」(同書 P.123~124)のであった。
 差別待遇は他にも、粗末な軍服で問題となり、また戦死者を祀る「招魂場」の設置を真剣に行なっていない―などの批判がなされている。
 ここに、諸隊は幹部と一般兵士が真向から対立し、分裂する形となったのである(しかし、実際の兵制改革は軍事局が想定する通りには進まなかったようである。脱退騒動が拡大したからである)。
 11月17日にも、下層兵士たちは「嚮導中並兵士中」の名前で、当時、諸隊員に人望のあった藩政府内の松原音三(山県九右衛門、大組、250石)に書面を送付して、諸隊幹部の「私曲不正」を訴えた。
 しかし、藩軍事局は、遊撃隊嚮導の意見を全く無視した。「軍事局は遊撃隊を除き、他の諸隊より兵員を精選して常備軍(第一・第二・第三・第四)四箇大隊を編成し、彌二郎(*品川)・靖(*野村)・重臣(*?)等七人を以て監軍となし、また三浦梧楼・堀江芳助・原川魁介等八人を録事となし、従来の隊号を廃したり」(『松菊木戸公伝』下 マツノ書店 1996年 P.1218)となった。選にもれた残りの人員には解散帰休が命じられた。遊撃隊は全面的に排除されたのである。
 この結果、選に漏れた兵士たちは解散命令に服さず、処々に集合して不穏な状態となる。12月1日には、総督早川渡以下、それに与(くみ)する軍監・書記・司令の個々の名をあげて、その処分を要求している。
 その夜には、ついに彼らは"歎願の趣あり"と称して山口を脱出し、三田尻(現・防府市)方面に走った。この動きに同調して、奇兵隊・鋭武隊・振武隊・遊撃隊・健武隊・整武隊などから結集する者はつぎつぎと増え、1200人余りが周防宮市(現・防府市)に集り、ここを本拠とした。「ここにおいて山口の常備軍と三田尻・宮市の諸隊とが相対抗する形勢となり、常備軍は第一・第二・第三砲隊に小郡(おごおり)の柳井田関門、第六員外兵に大内村柊を警戒させた。これに対し諸隊は宮市を本陣とし、山口から勝坂までの間に一八ヵ所の砲台を築き、対決の姿勢を示した。諸隊の主な要求は常備軍長官の更迭や、極端な兵制洋風化の反対、断髪・脱刀令の撤回を求めるものであった。」(『萩市史』第二巻 P.62)といわれる。
12月2日には、「諸隊中」の名で、藩当局に以下のような歎願が提出されている。

甲子(*1864〔元治元〕年)ノ年以来、一同国家(*藩)の為(ため)尽力仕り居り候処(そうろうところ)、積年の内ニハ各隊長官の不正も侭(まま)これ有り、兵士漸く困迫ニ及び、且又(かつまた)御軍政御改正ニ就(つい)ては、病者并(あわせ)四拾才以上の者(もの)強壮たりとも退隊仰せ付けられ候。右様仰せ出でられ候ては即日飢餓ニ及び候者も少なからず、実に以て必死ニ相(あい)セマリ、恐れながら今日の勢ニ立至(たちいた)り篤(とく)と御詮議仰せ付けられ、向後(こうご)兵士の者ハ勿論(もちろん)病者老兵とも立行(たちゆき *生活の成り立ち)相成るべく様、御詮議仰せ付けられ下されたく候事、近来御軍政向けに付(つい)ては全く西洋風俗ニ相成り、最前尊攘の御趣意相叶(あいかな)はざる候、依(よっ)て右等の儀差止められ神州の正気(せいき)を維持仕り候様仰せ付けられたく歎願奉り候事。
                      諸隊中
 十二月二日
                     (定本『奇兵隊日記』下 P.533)

 ここでは、①兵士・病者・老兵の生活が成り立つような措置、②最近の軍政が「西洋風俗」になってしまったので、元来の「尊攘の御趣意」に叶っていないので「神州の正気(*正しい気)」を維持すべきこと―を歎願している。
 ①の要求は正当なものであり、これに対して兵士の給与は半分がピンハネされ、幹部の厚遇のもとになっていたのである。②は、従来の藩の「攘夷」思想の宣伝・教育、総じて尊攘思想を政治の道具としてもてあそんだことのツケが廻って来たことにある。国際情勢の実際が情報として開示されていなかったのである。
 しかし、この段階では未だ両者の衝突とはならず、藩庁は脱退集団への説得に努め、柳井田・柊の常備軍も12月7日には撤収した。翌8日には、藩知事毛利元徳(定広)は、小郡・三田尻をめぐり直諭した。だが、脱退部隊は依然として、旧長官の更迭や自ら望む人物の登用などを繰り返した。12月21日には、楫取素彦(26日に政事堂内用掛となる)を三田尻へ、佐々木源蔵(大組、15石)を小郡へ派遣し、脱退兵の要求をさらに調査させた。
 これに対し、脱退兵たちは「諸隊中」の名で、2通の歎願書を提出している。その内容は「......第一は、戦功賞典にこだわっているのでなく、傷病者や四〇歳以上のものでも退隊せしめられ、なかには即日困窮する者も少なくない、それは『同志の情』として忍びがたく、また、賞罰は『国家の基本』でもあるから、人望に背く諸隊の『長官』を退けて、『兵士の宿憤』を解くようにしてほしい、というのである。....../第二には、今度の軍制改革は『西洋に流溺(りゅうでき *流されておぼれること)』するところがある、という。はじめ『尊攘』をとなえていた『国是(*藩是)』とは齟齬(そご)するところが少なくない、というのである。......対外的危機下、『尊攘』を旗印にして結集した諸隊員たちには、いつの間にか変わった『国是』へのとまどいと不信があったのである。」(田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』P.127~128)といわれる。
 相次ぐ脱退兵たちの要求に、さすがの藩庁も対応せざるをえなくなり、藩庁人事の更迭や諸隊幹部の交替を行なった。すなわち、「藩庁遂ニ各隊将校ノ任免ヲ行ヒ、〔12月〕十七日平賀杢ニ元遊撃隊隊長心得、長松與助ニ元整武隊隊長心得ヲ、赤川?助(こうすけ)ニ元建武隊隊長心得ヲ、尾寺新之允ニ第五大隊給禄改正御用掛ヲ命ジ、十九日北川清助ニ元振武隊隊長心得ヲ命ジ、原田忠蔵・名島小々男ニ謹慎を命ズ。二十日改メテ品川彌二郎ニ権少参事兼掌ヲ命ジ、軍事権少参事木梨精一郎ノ職ヲ免ズ。而(しこう)シテ二十三日笠原半九郎ニ當分(とうぶん)権少参事兼掌ヲ命ジ、江木次郎ニ當分軍事権少参事兼掌ヲ命ズ。二十六日井上小太郎ニ振武隊隊長ヲ命ジ、又(また)楫取素彦(かとりもとひこ)・松原音三・瀧彌太郎ニ政事堂内用掛ヲ、山縣彌八・久保断三・藤井勉三ニ戦功賞詮議用掛ヲ命ズ。二十七日長沼次郎ニ少監察ヲ、藤井勉三ニ物産司事兼掌ヲ命ズ。晦日(みそか)少参事野村素助ニ陸軍長官参謀ヲ命ジ、又(また)一昨二十八日東京ヨリ帰藩セル高杉小忠太ニ當分権大参事ヲ命ズ。」(『修訂 防長回天史』十二 P.232)と、脱退兵たちの要求に大幅に妥協した人事を発令した(脱退兵たちは、諸隊をそれぞれ区別して存置することも要求していた)。
 『修訂 防長回天史』の著者も、これらについて「近日諸職員の黜陟(ちゅっちょく *無能者を退け、有能者を登用すること)は、藩庁の有司等脱退鎮圧の努力に急なりし為(た)め、脱退圧迫の影響を蒙(こうむ)れるの迹(あと)掩(おお)うべからざる所あり」(同前 P.232~233)と認めている。とにかく脱退騒動を収束させるのを急ぎ、脱退兵の要求をのまざるを得なかったのである。 
 1870(明治3)年の正月、年賀のために山口に来ていた徳山・清末・豊浦(以前の長府藩)・岩国の支藩知事らは、事態収拾の協議などに動いた。しかし、なかなか妙案はでなかった。しかし、この段階では、叛乱諸隊との妥協による穏便な解決が目指されていた。
 だが、この動きを一変させるような事態が前年の暮れから新年の正月に勃発する。それは、この時期、藩内の農民が相次いで蜂起したことである。百姓一揆の続発は、広沢真臣など重臣にとっては長州藩の内乱に転化するおそれもあり、脱退騒動以上の重大な事態として捉えらているのであった。

注1)三浦梧楼は、奇兵隊の小隊司令を勤めていたことがあるが、後年、『観樹将軍回顧録』(1925年)で次のように語っている。「隊長の我輩も、兵卒も、一ヶ月の手当てが国札三十匁であった。即ち五十銭に当るのである。然るに我輩が或時(あるとき)、公用を以て山口に出張すると、会計係より旅費だと云(い)うて、五百匁を渡して呉(く)れた。即ち八両とイクラである。月手当三十匁のものに、五百匁の旅費とは、過分も、過分も、非常の過分である。/『これはドウしたことか』と問えば、『本陣の衆はチョッと山口へ来れば、皆旅費として五百匁ずつ渡すことになって居る。請求があれば、又(また)渡す』との答えである。ドウもこれはヒドイ話である。必ず何か私があるに相違ないと、此時(このとき)始めて気が付いたのである」(P.91)と。三浦が予想した通り、本来は60匁であった兵士の月手当の半分がピンハネされて、それが幹部の旅費などに化けていたのである。似たようなことは、今でもある。各県警などでは、特別捜査の褒賞金が貰える場合があるが、それをプールし、仲間内の慰労会の費用としたり、県警本部長などの転勤のさいの餞別に充てたりするのである。
 三浦は、兵士の給与をピンハネしていたのは、奇兵隊ばかりでなく、各隊の隊長もまた行っていたことを批判している。そして、もう一つ三浦が批判していたのは、藩庁である。藩は明治維新の功労として朝廷から10万石もの賞典禄を受けながら、ただ戦死者にわずかな香華料を与えたばかりで、他の兵卒にはなんらの恩典をも与えなかったと批判している(P.92)。

 (3)相次ぐ農民一揆1)
 1868(慶応4)年1月3日、鳥羽伏見の戦いによって戊辰戦争の幕が切って落とされた。戦争は、1869(明治2)年5月18日、五稜郭の戦いで榎本武揚らが降伏することによって終了する。
 戊辰戦争は終ったが、この年は夏からの長雨で秋作が不熟となり、長州藩各地でも生活困窮者が増大した。

注1)かつては天保大一揆(1831〔天保2〕年)から1869~70(明治2~3)年の一揆までの間、長州藩内で百姓一揆は無かったというのが定説であった。しかし、研究が進んで、井上勝生著「幕末における民衆支配思想の特質」(『歴史学研究』502 1982年)により、1860(万延元)年10月大島宰判における「悪魔退散一揆」、1864(元治元)年8月三田尻宰判における「米商人打ちこわし」、1866(慶応2)益田家給領地弥富村における一揆が紹介された。また、三宅紹宣氏も、1851(嘉永4)年の先大津宰判の滝部村一揆、1856(安政3)年の山代宰判での一揆、1867(慶応3)年の岩国領伊陸(いかち)村騒擾を発掘している(三宅紹宣著『幕末・維新期長州藩の政治構造』校倉書房 1993年 P.243~244)。

 (ⅰ)殿敷村一揆未遂事件は諸隊脱退騒動の3カ月前
 生活の極度の困窮のため、1869(明治2)年9月1日から3日にかけて、大津郡1)殿敷村で一揆未遂事件がおこっている。「殿敷村の橋かけ作業に集まった殿敷組の二五名の農民は、生活苦をきりぬけるため、窮民修補御米(*窮民を救うための備蓄米)の下渡(さげわた)しを歎願することを話しあった。そして、他の組へも呼びかけが行われ、九月三日、村内の八幡社へ四四、五名が結集し、一揆歎願についての談合がもたれた。この企ては、庄屋中野半左衛門、畔頭(くろがしら)2)村野惣次郎の巧みな工作により鎮静させられ、一揆蜂起には至らなかった。」(三宅紹宣著『幕末・維新期長州藩の政治構造』P.274)と言われる。
未遂に終わったとはいえ、この事件は三宅氏によると、きわめて重要なものであるとされる。それは、従来、この時期続発する長州の百姓一揆は、諸隊の脱退騒動との関係で論じられ、脱退兵士による指導・煽動により蜂起されたと強調されてきたが、実は、この殿敷村の未遂事件に見られるように百姓一揆は、諸隊の脱退騒動の3カ月も前に起っているからである。

注1)山口県の郡の大雑把な配置を示すと以下のようになる。西端が豊浦郡(下関が属す)で、その東部分が北から大津郡、美禰郡、厚狭(あさ)郡となる。大津郡・美禰郡の東部分が阿武郡(萩が属す)であり、美禰郡・厚狭郡の東部分が吉敷郡(山口が属す)である。阿武郡・吉敷郡の東方には、佐波郡、都濃郡、熊毛郡、玖珂(くが)郡が続く。その東の瀬戸内海に大嶋郡がある。
2)畔頭組は、数個の集落が統合されたもので、組の内部は10軒前後を一単位とする十人組という行政組織がある。畔頭は藩庁―大庄屋―庄屋―畔頭という行政上の指揮系統のもとにある。畔頭組の長である「畔頭は、単なる庄屋の補佐役ではなく、自己の支配する組内において、年貢収納・人身把握・勧農に関して、かなり独自の権限をもって職務を行って」(三宅紹宣前掲書 P.318)おり、なかには当該の組に居住しない者もいる。畔頭は、いうなれば「支配機構の末端としての行政官的性格が示されている。」(同前 P.318)のであった。

 (ⅱ)占領地の豊前企救郡の農民一揆
 これよりやや前、山口藩が占領している豊前企救(きく)郡で、庄屋の不正に怒った農民が決起する。
 第二次幕長戦争で、小倉藩など幕府軍は豊前でも敗退する。1866(慶応2)年8月1日、小倉藩は自ら城を焼き、藩士と町民の多くが、田川郡や周辺の他領へ逃れた1)。小倉藩は、郡境の金辺峠(企救郡と田川郡との境)と狸山(企救郡と京都郡との境)で長州軍と対峙し、藩庁は後方の田川郡香原(かはら)に置いた。
 1867(慶応3)年1月26日、長州藩との間で止戦条約が締結され、もはや企救郡は小倉藩のもとへ戻らぬことが確定し、藩は香原で腰を据えて藩政の復興をはかることとなる(3月18日に、香原藩が成立)。
 他方、「小倉の町は多くの住民が縁故を頼って避難し、荒廃されたまま放置された。企救郡は戦場となり収穫を前にして農民は途方に暮れた。大庄屋と多くの庄屋たちは藩庁と行を共にし、長州・小倉の和議成立後は小倉に長州藩の撫民局が置かれ、新しい大庄屋が任命された」(米津三郎著「維新と混乱」―『北九州の歴史』葦書房 1979年 P.155)のであった。
 1868(慶応4)年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争が始まった。香原藩も多くの近畿以西の諸藩と同じく、佐幕的立場、日和見的立場を捨てて勤王派に組した。
 1869(明治2)年6月の版籍奉還により、企救郡は政府直轄の地となった(日田県の管轄)。香原藩は企救郡の復帰を願い出たが、政府は"企救郡の土地は渡せないが、年貢は政府の蔵米から支給する"こととした。この年の2月1日、小倉には裁判所(今日のそれとは異なり、政府直轄の行政府)も上棟したが、しかし、長州藩は撤兵せずに、占領支配を続けた。
 その下で、「占領政治につきものの政治の腐敗が起こり、大庄屋・庄屋などの地位は金で売買され、村役人は長州藩の役人と結託して年貢を横領するなど不正が横行した。しかもこの年は、前年の凶作で農民は食糧に窮した。政治に対する不満は一揆となって爆発した。一一月(*17日)新道寺村から起こった一揆は、たちまち企救郡一円に拡がり、村役と富豪の家は大部分が打ち壊された。新道寺村の原口九右衛門が首謀者として捕えられ死罪となった。」(同前 P.157)のであった。(翌1870年3月、企救郡は名実ともに日田県の管下となり、長州藩は引き揚げた。)

注1)藩士とその家族は田川郡に落ちて行った。町民も家を捨て、田川・中津・筑前方面に逃れた。この日、期せずして、京都・中津・筑城・上毛・田川の各郡で、農民たちの一揆が勃発する。

 (ⅲ)郡一円に拡大した美禰郡一揆
 美禰郡一揆は、1869(明治2)年12月18日、美禰(みね)郡岩永村(秋吉町)の蜂起から始まる。その原因は畔頭(くろがしら)の年貢米収納時での不正に対して、農民の怒りが爆発したことにある。年貢米を収納するさいに畔頭の松原吉太郎が、1俵当り5合ぐらいも余計に取立てたからである。
 この年は長雨で稲が実らず、農民たちは手元に残る米では足りず、極度に食糧に困っていたのである。したがって、少しの不正でも怒りが高まるのであるが、それが一俵当り五合も収奪されたのでは、たまったものではない。
 幕末期の岩永村は、「孰(いずれ)も小作ニ付キ、手透(てすき *ヒマなこと)の節ハ豆腐あるいは肴(さかな)等小商ひ・駄賃?(かせぎ)等の浮儲(うきもうけ *不安定な稼ぎ)、手透次第〔の〕駄賃(だちん *駄馬で物を運んだ運賃)日雇?(日雇ひ稼ぎ)等(とう)心掛(こころがけ)、他村え出で小儲け且々(かつかつ)渡世(とせい *世渡り)仕(つかまつ)り候」(『防長風土注進案』―美禰宰判岩永村 三宅紹宣著『幕末・維新期長州藩の政治構造』からの重引 P.275)という土地柄である。買喰層でもある彼らが、その日の食い扶持に困り、村役人の不正に敏感となるのは、当然のこととである。
 12月3日、もと奇兵隊員の来嶋周蔵と岩永村内ヶ嶋の養助が、内ヶ嶋の卯吉宅を訪ね、一揆の相談をする。そして、周蔵・養助らが午後10時頃、岩永八幡宮へ出かけ、鐘をついて農民を集めようとした。しかし、まもなく村役人が駆け付け、この時は決起は失敗した。ついで12月5日の夜も、八幡宮に集まって鐘をつき、蜂起しようとふたたび試みたが、この時も村役人が駆け付け、周蔵らは逃げ去った。
 こうした経緯を経て、「十二月十八日、岩永村の明厳寺で取調べがあった。その間、近くの等覚寺に多人数が結集、鐘を撞き、ついに一揆へと展開した。一揆勢は、十九日の明方(あけがた)から行動に移り、中村の松屋勇助方を打毀(うちこわ)し、朸田(おおこだ)へ渡り、秋吉へ出た。ここで二手に分かれ、一手は、青景・赤・絵堂と打毀し、もう一手は、綾木・長田辺を打毀して進み、大田(おおだ)にて合流した。ここにおいて、諸村申合せの上、歎願書を提出し、十二月二十六日に解散し、帰村した。」(三宅紹宣著『幕末・維新期長州藩の政治構造』P.275~276)といわれる。
 一揆勢は、①勘場(*宰判役所)役人や村役人の交替、②畠方小物成・馳走米・干し草・豆葉の廃止、③秋作不熟のための農民の救恤(きゅうじゅつ *被災者などを救い、恵むこと)、あるいは囲籾(かこいもみ *非常時に備えて蓄えた籾)の無利息貸付けなどを主な要求として、歎願した。
 一揆参加者は500~600人で、その中心は「買喰」層の下層農民である。攻撃対象は、庄屋・畔頭などの村役人と、米商人や酒屋などであり、36軒が打ちこわしにあった。(後に要求の①、③の一部は容れられたが、②は拒否された。)
 だが、一揆は隣接の他郡に波及することとなる。「一揆はさらに隣接の厚狭(あさ)郡へも伝わり、明治三年(*1870年)一月五日、河原村から出た一揆勢は於福・大嶺・伊佐村(以上美祢市)を打ちこわし、四郎ヶ原を通って海岸部の厚狭市(*現・??市)・津布田・埴生村(以上山陽町)を経て、一月には吉田(下関市)の勘場(*宰判〔後の部〕の役所)まで押し寄せた。」(『長門市史』歴史編 P.461)のであった。打ちこわしは、全体で百数十軒に至ったといわれる。
 1870(明治3)4月、山口藩は一揆の首謀者を死罪に処したことを政府に報告しているが、その名前は以下の通りである。
◎元佐竹善左衛門家来    来嶋周蔵
◎美禰郡岩永村百姓       養助
                要吉
              直右衛門
                周蔵
◎吉田郡河原村百姓     与右衛門
                綱吉
◎吉田郡於福村百姓       要吉
                  (吉田郡は吉敷郡とどのような関係か??)

(ⅳ)大津郡渋木村などの一揆
 1869(明治2)年12月30日夜には、長州の前大津(さきおおつ)部(宰判が1869年10月に「部」に改称された)の渋木村で、数百人が八幡社に集まり、庄屋宅を打ちこわす行動に出ようとした。不穏な空気が広がり、一揆がおこりかけたのである。「この動きを聞いた前大津部管事兼重慎一は、いち早く駈けつけ、巧みに一揆勢を説得した。しかし、一揆勢はそのまま解散するに至らず、なおも竹槍や鉈(なた)を持って山の中に立て籠った。兼重は懐柔作戦により執拗な説得を続け、明治三年一月一日の暮方になって、ようやく一揆勢は解散した」(三宅紹宣著『幕末・維新期長州藩の政治構造』P.284)といわれる。
 その後も、前大津部では、俵山村などで不穏な動きがあったが、第四大隊の派遣や兼重の説得などで、一揆の発生は押しとどめられたようである。
 しかし、山口藩全体でみると、農民一揆はまだまだ拡大した。翌1870(明治3)年の元旦には、前述したように厚狭郡の吉田・船木の農民が蜂起し、1月12日には、熊毛郡岩田村の一揆、13日には山口藩と境を接する大森県(*旧浜田県、現・島根県の一部)「浜田騒擾」へと騒動は波及する。1869年の末から翌年の正月にかけて、長州藩とその隣接地で相次いで、百姓一揆などが広がったのである。
 一連の農民一揆が勃発・拡大する直前の1869(明治2)年12月6日、長州の諸隊は次のような建白書を藩当局へ提出した。

昔年来(せきねんらい)勤皇の御大業立たせられ、危急艱難の節といえども御撓(おたわみ)これなく〔*嫌気がさすこともなく〕、終(つひ)ニ徳川氏以下罪に伏し、王政御復古あらせられ候ニ付き、追々(おいおい)御賞典賜(たまわ)り御昇進ニ至り、二州(*長門と周防)の士民欣喜(きんき *大喜び)抃躍(べんやく *手を打って喜び踊ること)ニ罷(まか)りあり候。然るところ、近来の事情洞察(どうさつ)仕(つかまつ)り候処(そうろうところ)、天下の人望以前ニ異(ことな)り、道路の浮言ニ候えども、王政は幕政にしかず、薩長ハ徳川氏ニ劣り候など相唱(あいとな)へ候様の義もこれ有る哉(や)と承(うけたまわ)り、誠に憤懣(ふんまん)泣涕(きゅうてい *涙を流して泣くこと)に堪(たへ)ず候。しかのみならず、御封内〔の〕人心離解(りかい)いたし候。かくて、またまた国家騒擾の端(たん)相開け候も計り難く、実に以て寝食とも安んぜず候。其(その)原由(げんゆう *根源の理由)を尋ね候ニ全中間君徳を壅蔽(ようへい *ふさぐおおうこと)下情をして通せざらしむるもの之(これ)有り。権勢を以て私心〔を〕専らに致し候より生する事ニ候やと察し奉り候。若(も)しこの儘(まま)捨て置き候ては恐れながら国家御維持、且(かつ)勤王の御基本も相立てがたき様考へ奉り候。政府向きニおゐて奸曲誤国〔*不正で国を誤らせること〕の徒〔を〕御英断を以て速ニ然るべく御処置仰せ付けられ、公政(公正)忠良の士(し)御運用・御政道御一新(ごいっしん)・万民帰服・富国強兵の策立たせられたく、懇願に堪へざるの至りニ候。臣子の至情黙止(もくし)しがたく忌避を省みず建言仕り候。誠恐誠惶昧死謹言
              (定本『奇兵隊日記』下 P.535)

この建白書の狙いは、国家騒擾の端を開く根本原因を藩主と士民とを隔離し私心をもって権勢を振るう中間の重臣らにあるとする、よってこの事態を変えて政道を一新し、富国強兵などの策を立てることを懇願する―ことである。その結論の前提となる情勢評価として、今や"王政は幕政にしかず、薩長は徳川氏に劣る"ものだとの危機感があるのであった。そして、この認識は先述した百姓一揆の続発で、見事に的中したのである。

(ⅴ)もと占領地の大森県浜田での騒動
 土屋喬雄・小野道雄編著『明治初年農民騒擾』(勁草書房 1953年)には、大森県(旧浜田県)の次のような記録が掲載されている。

明治三年(*1870年)庚午(こうご)〔註 浜田県下〕浜田支庁(此時〔このとき〕本庁は邇摩郡大森にあり)下一揆騒擾の巨魁(きょかい *頭目)は元山口藩除隊前田誠一なる者にして、当時管下に飄零(ひょうれい *落ちぶれて)密(ひそか)に不軌(ふき
 *乱を起こすこと)を計り党類を結び、終に正月十三日に至りて遽(にはか)に土民を誘導(ゆうどう)処処(しょしょ)人家を破却(はきゃく)し金銭を掠奪(りゃくだつ)し、頗(すこぶ)る暴威を振へ市中を蹂躙(じゅうりん *暴力的に侵すこと)するに至れり。是(ここ)に於て官員出張(しゅっちょう)百方説諭(せつゆ *教えさとすこと)を加ふと雖(いえど)も、機に乗じたる兇徒(きょうと *暴徒)毫も(ごうモ *いささかも)承服の色なく却(かえっ)て抗抵(こうてい *抵抗)の勢(いきほひ)あり。此時(このとき)支庁は在勤の官員幾(ほと)んど少にして勢の當(あた)る可(べ)からざるを察し、一時の権略(けんりゃく *臨機のはかりごと)を以て本庁に向(むかっ)て退去すれば、賊徒は其(その)虚(きょ)を時とし直(ただち)に支庁を侵掠(しんりゃく)し暴威益々(ますます)甚(はなはだ)し。是に於て官吏は不日(ふじつ *そのうちに)農兵を東郡に募(つの)り、返り来て賊徒を掃攘(そうじょう *はらいのけること)速(すみやか)に支庁を復し、巨魁誠一(*前田誠一)を討伐し連類(れんるい *同類)を捕縛(ほばく)し民心全く鎮定に属せり。  (P.436)

 長州の諸隊を除かれた前田誠一が首謀者となって、土地の民を誘導して打ちこわし・金銭略奪をおこなったと、大森県(旧浜田県)の記録は述べている。だが、これは概要のみであり、詳しい「顛末の記録は其後(そのご)壬申の震災で散失せるを以て今遺存する者少し」として、「那賀郡原井村元荘屋及び浜田町元大年寄等の日記抜抄並(ならび)に衆人卯助・熊次の口供(こうきょう *被告や証人が述べたことを書きつけたもの)」が附されている。
 これらを素材に、「浜田騒擾(庚午一揆)」の経過を見てみると、以下のようである。(ただし、原井村元庄屋の日記はA、浜田町の元大年寄の日記はB、卯助の口供はC、熊次の口供はDとする)
 1月13日夜八つ時(14日の午前2時)、合図の鐘の音を鳴らした。原井村の元庄屋が起きて様子を探ると、「町方小前(*小商いや雑業に従事する貧困層)沸騰(ふっとう *一揆で激しく騒ぎ立てること)の趣(おもむき)原町・辻町辺より打ち出し、大騒動追々(おいおい)穀屋酒屋抔(など)を打ち破り狼藉(ろうぜき *乱暴な振る舞い)千万、夫(それ)より裁判所(*行政・司法を兼ねた役所)へ乗り込み候処、大参事様其外共(そのほかとも)御退出の様子にて〔*一揆勢は〕早速役所へ入り込み申し候。」(A)という事態となる。
 浜田町の元大年寄の日記によると、一揆勢は13日夜八つ時、「浜田浦原町・辻町辺触れ歩き行き、諸寺院釣鐘(つりがね)撞(つ)き立て檜物屋町へ屯集して、奈良屋次郎右衛門方へ戸の外より焚き出し(*炊き出し)兵粮いたし呉(くれ)候様申し聞かせ候趣の処、狼狽(ろうばい)せし内(うち)大戸打ち毀(やぶ)り、夫(それ)より門ヶ辻町中途(ちゅうと)まで〔*出張り〕御出役(*役人)に出会いいたし候処、後より木切れ小石等投げ掛け、双方抜刀にて素(も)と乱暴の徒故(ゆえ)迚(とて)も議論出来難(できがた)きに付き、多勢旁(かたがた)〔*多勢もあって、どのみち〕御裁判所〔を〕御退きに相成る。」(B)こととなる。
 14日朝になり、「小前の者共(ものども)大橋へ詰め掛け居り候に付き、一揆の賊魁(ぞくかい *賊の頭)素(もと)より長州隊中の由(よし)、前田誠一より小前の者へ申し達し候は、先(ま)ず家別米五升づつ遣(つかわ)し候間(そうろうあいだ)夫(それ)を以て当分の取り凌(しの)ぎ致し申すべき旨、大橋の上にて直(じか)に相達し申し候。同日夜に入り又又(またまた)小前の者(もの)市中へ罷り出で候者多きに付き騒動一形(ひとかた)ならざる由」(A)となっている。
 15日朝、「賊首前田誠一より地町役人呼び出し、金の心配致すべき由(よし)申し達し当惑千万、其外(そのほか)無体の筋〔*無茶な趣旨〕申し聞け、役人に於ても大心配。同日夜大雪に付き、其(その)夜は静かにて相治(あいおさま)り申し候。」(A)といわれる。
 熊次の口供では、「十四日より役所へ相詰め門番其外(そのほか)に遣わされ」(D)ている。
 16日、一揆勢は「今日も御役所へ罷り出で候処(そうろうところ)何かと申し達す事運(はこ)び兼(かね)候に付き、最早(もはや)勘弁(かんべん)に及ばず松原より焼きはじめ浜田市中近辺一時に焼き捨て候旨(そうろうむね)強(しい)て申すに付き、色々相断(あいことわり)延(のば)せ置き候処、同日夜五つ時(*8時)過ぎより頻(しき)りに寺寺の鐘を撞き東の方より御打返し(*反撃)の様子、市中騒動上を下へ......。家の上へ玉の音数十返(すうじゅうぺん)暫く致し賊魁誠一蛭子町油屋太助宅の横側にて伐(う)たれ、其外(そのほか)徒党の人数散乱の趣にて直様(すぐさま)御平治......」(A)となる。
 熊次は、16日、前田誠一の命令で檜物屋町市五郎など4、5人で、「松原浦生産役所へ罷り越し、銀箱二つ持ち返り誠一へ相渡し、尚(なお)同人指図に付き右箱釘付(くぎつ)け之(これ)有るをこじ明け候処、内に当県銀札五百匁許(ばかり)外にブリキ茶入れ一つ、單物(たんもの)一枚其外(そのほか)品々(しなじな)之(これ)有り候に付き、誠一引き上げ何(いず)れへ遣し候哉(や)存じ申さず、然る処(ところ)打返し人数繰り込みに付き、同夜出奔(しゅっぽん)、翌十七日益田村迄(まで)立ち退き候......」(D)となった。
 Aの原井村元庄屋も、Dの熊次も、官側の反撃が16日夜であったとしている。Aによると、「隊中(*官側の鎮圧隊)の儀は大森地役人其外(そのほか)郷津辺の者雇い入れ数十人残らず鉄砲所持(しょじ)、同夜(*16日夜)御官軍の方には怪我人(けがにん)一人も之(これ)無く、町方にては真光町今田屋寅三郎・賊首より雇われ帰り掛け大橋の横にて砲丸に当り死去、同池田仙太と申す者・泉屋より帰り掛け戎町茶屋の前にて打たれ死去、御裁判所の前にて津摩村の者の由(よし)死去、都合(つごう)賊首とも四人、一揆を取組み候(そうろう)者共は残らず当所退去、少々は召捕られ申し候。......同日(*17日)東方より知事様・大参事様其外(そのほか)御人数凡(およそ)百人余御入り込み、益田辺騒動の趣に付き安元様外(ほか)兵隊三十人御出張、知事様御出(おいで)に付き田町迄(まで)出迎(でむかへ)に罷り出。」(A)となった。
 1月17日には、大森県知事なども出馬したが、一揆はすでにその前日に鎮圧されている。
 これらの残り少ない史料をみて不思議なことは、一般の一揆や打ちこわしなどでは通常見られる一揆勢の要求が皆目登場していないことである。この点を念頭において、一揆リーダーの当初の動きを追跡すると、それは卯助のCに経緯(いきさつ)が口述されている。
 卯助(浜田新町)の口供によると、彼は昨年(明治2年)11月に山口藩振武隊を除隊となり、石州那賀郡郷田村に住み着いていた。ときに豊田儀三郎が大森県(旧浜田県)で猪狩隊(いのししがりたい)を結成するとして強壮の者凡(およ)そ200人を募集するとの話があり、卯助はじめ108人が入隊を申込んだ。だが、その後、何の音沙汰もないので、12月中旬、卯助ら入隊希望者約80~90人が原町報福寺へ集って相談し、もう一度儀三郎に掛け合うべしとなった。総代として卯助と新町愛吉が、郷田村へ赴き、儀三郎と話し合ったところ、儀三郎は"いずれ正月~2月の内には沙汰有るべき"との返答であった。このことを仲間に報告したところ、「当正月七日檜物屋町菊次相越し申し聞え候は、同月十一日役始(やくはじめ *御用はじめ)の趣に付き、同日歎願書差出し〔*猪狩隊の結成許可を得るための歎願書と思われる〕採用之(これ)無きの節は儀三郎へ厳しく掛合(かけあい)に及ぶべき旨」を示し合せた。1月11日朝、卯吉、愛吉、菊次、浜田折戸町熊次ら11人が原町玉林寺(ここの留守僧・禅麿も入隊願いの仲間)へ集り、歎願書の件を相談している所に、山口藩除隊の前田誠一がやって来て、何の相談をしているのかと尋ねたので、これまでの経緯(いきさつ)を説明した。すると、前田は、「......先達て当管内益田(*長州藩と境近く)辺へ罷り越し一揆沸騰の手筈いたし長州除隊の者十五人計(ばか)り同所に差し置き候に付き、猪狩隊抔(など)ヘ入隊致し候より此(この)党に相加り候へば仕遂げ候上は〔*やり遂げた上は〕豊前小倉表同様の事件に立至るべし、此(この)事件と申すは昨巳年中百姓共沸騰、県庁役々〔*県庁の役人ども〕追退(おいの)け跡(あと)は長州裁判に相成り、徒党の者は功労に依って大庄屋役に相成り居り候例も之(これ)有り、其節(そのせつ)は急度(きっと)取立て遣(つかわ)すべき旨申し勧め候......」となる。だが、この時は結論には至らなかった。翌日12日朝、誠一が玉林寺へ赴き、禅麿と相談していたようである。「卯助儀は同日八つ時(*午後2時ごろ)罷り越し候処、誠一はじめ愛吉、菊次、熊次、禅麿、円玉(*紺屋町修験明星院)、菊次郎(*原町)、台三郎(*檜物屋町)、善吉(那賀郡谷村)、勘三郎(*原町)、亀二郎(*原町)一同集会、彌(いよいよ)明十三日夜一揆差し越しと決評に相成り居り候に付き卯助儀も同意いたし」たのであった。
 ここでは、一揆の中心となるメンバーと前田誠一との出会いが書かれている。すなわち、猪狩り隊に入隊するより、前田の党に加入した方が、「小倉表の事件」のように、「徒党の者は功労によって大庄屋役に相成り候......」と、誘導したとされている。
 この「小倉表の事件」で、「功労によって大庄屋役に相成り」という事情が精確には理解しがたい。というのは、当時、長州藩の実質、占領下にあった豊前企救郡の百姓一揆を鎮圧した際の功労によって、「徒党の者」が大庄屋役になった〔*誠一の言によれば〕―からである。ならば「徒党の者」は、もともと百姓一揆の味方ではないことを意味する。それが、浜田騒動では、前田や卯助ら山口藩除隊組が一揆をおこしたのであり、農民あるいは町民がリーダーとなって起こした訳ではない。そもそもリーダーの中には、百姓は全くと言ってよいが含まれていない。浜田の町人として参加したリーダー格もはっきりしないが、前田誠一や卯助ら山口藩除隊組に誘われた形となっている。すると、前田たちは、先ず一揆を起こし、その後、どうやって官からの功労にあずかろうというのであろうか。あるいは、残された史料は官側の意図を酌んだ史料ばかりであり、よって今まで述べた一揆の筋立ては全くの権力の謀略にすぎないのであろうか。
 いずれにしても、一揆の要求が一言も残されていないことは、尋常な百姓一揆でも打ちこわしでもないことを意味している。
 『修訂 防長回天史』十二によると、1月16日、津和野藩の使者が山口藩庁に至る。「大森県(*旧・浜田藩)濱田(はまだ)ニ十三日暴民蜂起シ裁判所及ビ人家を破壊シテ脅嚇(きょうかく *おびやかし脅すこと)スト雖(いえど)モ同縣兵力ナキヲ告グ、因テ之(これ)ヲ諾シ北第一大隊二小隊ヲ奥阿武郡部内ノ人心鎮撫ノ為(た)メ徳佐土床ニ急派ス、幸ニシテ大森県壮丁ヲ募リ十七日一揆ヲ鎮定シタリト云フ。十八日大森県栗山権少属広島ヲ経テ宮市ニ来リ、暴民中ニ我藩ノ脱走者六、七輩アリテ煽動指揮シタルコトヲ告ゲ、援兵派遣ヲ請フ。是(ここ)ニ於テ徳佐土床ニ出張セシメタル北第一大隊ノ兵ニ赴援(ふえん)スルヲ命ジ、重見多仲ヲ其(その)軍監トナス又(また)高洲梅三郎ヲ見舞(みまい)トシテ津和野藩及ビ大森県ニ遣(つかわ)シ、且(か)ツ一揆中ニ在リト称スル我藩脱走ノ徒ヲ査検セシム。」(P.260)とされる。
 「浜田騒動」は、山口県諸隊から除かれた者が中心となった一揆と思われる。その真の原因は、山口藩が除隊者たちの生活を全くと言ってよい程(ほど)面倒を見ないで、藩の財政整理の観点から一方的に放り出したことにある。前田や卯助らの行動が、人民の利益にかなっていたかどうか。それは、疑問の余地があるが、しかし、彼らをこのように形に追いやった責任は、山口藩にあるのである。

 (4)藩庁と脱退部隊との全面対決
 1870(明治3)年の年賀のために、岩国・徳山・豊浦・清末の支藩知事らが山口に来ていた。1月3日の午後から4日にかけて、この支藩知事および大参事1)などの会議があり、諸隊嘆願の採否に関して協議が行なわれた。(このレベルの会議が以降、断続的に相次いで開かれる)
 この結果、「彌二郎(*常備軍軍監)及び整武隊隊長心得長松與助の職を免じて、整武隊を姑(しばら)く諸隊会議所参謀座の管理に属」(『松菊木戸公伝』下 P.1225)させた。
 と同時に、支藩知事より諸隊の領袖に、以下のような懇諭書が下された。

此度(このたび)旧長官(*諸隊の)御処置の儀ハ先般御父子様(*本藩の新旧藩主)ヨリ仰せ付けられ置き候通り、双方とも既往を不問の御主意素(もと)ヨリ替せられざる儀ニ候処、此上(このうえ)万一紛紜(ふんうん *ごたつきもめる様)の事これ有るに於てハ、御父子様ハ勿論(もちろん)我等(われら)ニ於テモ天朝に対し奉り、職掌相立(あいたた)ず心外の至り、且(かつ)其方(そのほう)トモ入り入り〔*いろいろの意か?〕申し立ての情実モこれ有り、旁(かたはら)止むを得ず我等ヨリ押テ御父子様へ相願ひ候処、枉(まげ)テ我等へ御任(おまか)セならるべきトノ御事ニ付き、旧長官謹慎仰せ付けられ候者ノ儀ハ丸々我等相預(あいあずか)り厳重取締り致すべく候條、孰(いずれ)モ安心致シ各(おのおの)其(その)旧営ニ帰リ、彌(いよいよ)君臣ノ大義ヲ重(おもん)シ上下ノ名義ヲ相弁(あいわきま)へ心得違(こころへちがひ)の儀これ無き様、一統へもれなく申し聞かすべきモノ也
                   (『修訂 防長回天史』十二 P.250~251)

 結局、旧長官らの不正の件は、支藩知事らが謹慎処分となったその身柄を預かるから安心せよと、諸隊の領袖が隊員に説得しなさい―との懇諭にすぎない。あとは、脱退したものたちは兵営に戻り、「君臣の大義」「上下の名義」をわきまえて、これに違う行為をするな!―というお説教で終わっている。単に、上を信用して処置を御任せにして、自重しなさい―ということに過ぎないのである。隊員の具体的な生活保障については何ら触れていないのである。
 1月6日には新旧の本藩藩主、岩国・徳山・豊浦・清末の知事、本支藩の大参事、木戸孝允などが参列して、「時局収拾」の策を定めるための会議が開かれた。会議は、午前10時より午後5時までかかったが、しかし、決定には至らなかった。
 1月9日にも会議が開かれ、「瀧彌太郎ヲ軍事少参事試補トナシ、奇兵隊振武隊ニ命ジ各一小隊ヲ出シ、吉田・船木ノ暴徒鎮撫ニ向ハシメ、第四大隊ニ一小隊ヲ前大津部ニ派シテ人心ヲ鎮撫セシム」(『修訂 防長回天史』十二 P.251~252)体制をとった。(吉田・船木と前大津への派兵は、農民一揆鎮定のためである)
 1月10日には、また午前より本支藩知事の会議が開かれ、午後には毛利敬親も参加した。この会議では、旧長官らがたとえ有罪であっても「穏(おだやか)ナル御処置」をとるとし、「兵制の義ハ朝廷の御旨趣ニ基セラレ皇国一般ノ御制度相叶候様これ有りたく候事」と、あくまでも兵制の改革を行なうことを決議している。また、廟堂および諸局の旧弊を除き、人材を登用することもうたっている。
 またこの日、藩庁は毛利親信(右田毛利)に陸軍長官を兼任させ、「少シク諸隊ノ希望ヲ容(い)レ緩和ヲ謀リ」(同前 P.252)し措置をとった。親信は、前年の12月2日に、諸隊が歎願書を提出した際の相手である。
 1月12日には、家扶柏村数馬を諸隊の本陣(脱退部隊の)に派遣し、次のような要旨をもった諭書を賜わった。

今度ノ改革ハ朝命ヲ奉ジテ公(*藩主=藩知事)ノ直裁スル所ニ出デタルモノニシテ官吏間ニ在リテ上下ヲ壅閉(ようへい *ふさぐこと)シタルモノニ非(あら)ス、諸隊カ旧将校ヲ弾劾シタルコトニ関シテハ彼是(かれこれ)相和(あいわ)シテ復(ま)タ前罪ヲ問フコト勿(なか)レ、諸隊ノ言フ所(ところ)条理アルモノハ漸(ぜん)ヲ以テ〔*だんだんに〕之(これ)ヲ採用スベシ        (同前 P.253)

 この諭書も、これまでの藩庁の態度とは全く異なってはいない。これに対する諸隊側の答は、「現在ノ官吏将校ヲ黜罸(ちゅっばつ *無能な役人を退け罰すること)シ、自家推薦(すいせん)ノ人物ヲ登用センコトヲ強請(きょうせい *無理にねだること)ス」(堂前 P.253~254)の態度だったという。しかし、『修訂 防長回天史』の著者は、それにすぐ続けて、「諸隊更ニ山口ニ返リ少シク鎮静ノ状アリ」と言って、緊迫した事態がやや緩和したと分析している。
 1月13日、藩主は支藩知事らと共に議事館でおち合い、正装して「誓文花押」をして、さらに共に豊栄(とよさか)神社に詣(もう)でてこれを神前に納めた。午後4時には本支藩知事が列座するところに諸隊役付けの者たちを召して、本支藩一体の決意を訓示して、豊浦藩(*長府藩を1869〔明治2〕年6月に改称)知事に、さきの誓文を読み聞かせた。

一、 従来の国是(*藩是)一定不動の事
一、 兵制は皇国一般の制度ニ従フベシ
一、 自今(じこん *今より後)益(ますます)上下の情実ヲ通暢(つうちょう *意思疎通がよいこと)シ闔国(*全藩)の耳目ヲ一新ニセシムベキ事
附(つけ)タリ、民情安堵(みんじょうあんど)方今の急務ニ付き、人選(じんせん)其(その)当ヲ得シムルヲ要ス
一、 朝廷御誓約ノ叡旨ニ基(もとづ)キ長防二国政令一途〔*政令を一元化すること〕、本支同体、列祖束矢ノ御遺戒〔*三本の矢の遺訓〕ヲ相守リ益(ますます)親睦ノ道ヲ尽シ皇国ノ柱石ト相成るべき事         (『修訂 防長回天史』十二 P.254)

 本支藩主らは、兵制改革・精選などこれまでの態度を豊栄神社に誓約し、これを諸隊幹部に明らかにした。これは、藩主らの決意が固く、もはや再考の余地がないことを意味する。それともう一つ、この誓文で注目すべきは、三条目の「附タリ」で、「民情安堵方今の急務に付き」と、諸隊の脱退騒動のみならず、農民一揆にも懸念を示していることである。両者が結び付くことを最も恐れているのである。
 時あたかも、「此(この)夜〔*1月13日の夜〕深更(しんこう *深夜)熊毛部管事ヨリノ急報来リ、昨夜岩田村ノ農民遽(にわか)ニ竹槍ヲ携(たずさ)へ鐘鼓(*鐘や太鼓)ヲ鳴ラシテ嘯聚(しょうしゅう *呼び集めること)スト云フ、直チニ大参事以下議事館ニ参集決議シ、遊撃隊ヲ出張セシム」(『修訂 防長回天史』十二 P.254~255)という。
 岩田村の農民が蜂起したとの急報が入り、藩庁は直ちに協議し、これを鎮静化させるために遊撃隊を出張させた―というのである。恐らくは、遊撃隊の藩庁への忠誠心を試すために、問題となっている遊撃隊(遊撃隊は全員、「精選」から外されているはずである)をわざわざ指名して派遣したと思われる。
 だが、藩庁に従順な常備軍の方は、同日、騒擾の諸隊との関係を明確にするために上書して、"自ら静粛を保つために、長府に赴き命令を待つ"ことを明確にした。
 1月16日、小郡の農民たちは、役人たちの工作があって、「説諭ニ従ヒ連署上書シテ暴徒ニ附和雷同セズ静穏ヲ保ツヲ誓フ、此日(このひ)之(これ)ヲ嘉奨(かしょう *ほめすすめること)ス」(同前 P.260)であった。
 当時、藩庁は脱退騒動の解決のみならず、続発する農民一揆の鎮静化にも直面していた。このため、先の小郡の宣撫工作のように「成功」した地域もあった。ところが1月16日、津和野藩の使者が来て、第二次幕長戦争で長州藩が占領した"大森県浜田で13日に農民蜂起があり、裁判所や豪農などの打ちこわしがあった。だが、大森県には兵力がなく、津和野藩に応援の要請があった。ことによっては長州藩にもまた応援要請があるだろう"と告げた。
 この情報を得て、藩庁は、「......之(これ *津和野藩からの情報)ヲ諾シ、北第一大隊二小隊ヲ奥阿武郡部内ノ人心鎮撫ノ為(た)メ徳佐土床(*現・阿武郡阿東町)ニ急派ス。幸(さいわい)ニシテ大森県壮丁ヲ募(つの)リ、十七日一揆ヲ鎮定シタリ」(同前 P.260)と言われる。
 だが、18日になって、「大森県栗山権少属、広島ヲ経テ宮市ニ来リ、暴民中ニ我藩ノ脱走者六、七輩アリテ煽動指揮シタルコトヲ告ゲ援兵派遣ヲ請フ。是(ここ)ニ於テ徳佐土床ニ出張セシメタル北第一大隊ノ兵ニ石見ニ救援スルヲ命ジ、重見多仲ヲその軍監トナス、又(また)高洲梅三郎ヲ見舞(みまい)トシテ津和野藩及ビ大森県ニ遣(つかわ)シ、且(か)ツ一揆中ニ在リト称スル我藩脱走ノ徒(と)ヲ査検セシム」(同前 P.260)という事態となっている。
 一揆・打ちこわしは藩内だけでなく、隣接する諸藩にも波及する情勢となる。そして、藩内の脱退騒動もまた再度、緊張状態となってくる。「十八日暴徒(*脱退兵らをこのように表現している)等(など)陽(よう *表向きは)ニ藩庁ノ説諭ニ従ヒ、宮市ノ本営ニ退キ守衛ト称シテ一隊ヲ山口ニ留メ、翌日更ニ上書ス。要ハ山口ヲ退クハ君上ノ膝下(しっか *ひざ元)ニ在リテその煩念(はんねん *わずらわしい思い)ヲ加フルニ忍ヒス、又(また)長府嘯集(しょうしゅう *集まること)ノ徒(常備兵ヲ指ス)ノ疑惑ヲ増シ、大事ヲ誤ルヲ恐ルル為(た)メナリト言フに在リ。而(しこう)シテ常備軍及ビその長官等ノ挙動ヲ不穏当ナリトシテ之(これ)ヲ非難シ常備軍ヲ解散シテ厳ニ之ヲ処分シ、第四大隊モ亦(また)その挙動穏当ヲ?(か)クヲ以テその本営ニ帰ラシメント請ヒ、その態度頗(すこぶル矯激(きょうげき *常並みをはずれて激しいこと)ナリ」(『修訂 防長回天史』十二 P.260~261)と、評価された。
 脱退部隊は、藩主に配慮し山口から宮市に退き(一隊を山口に残す)したが、常備軍に対しては解散と処分、第四大隊に対しては本営への帰隊を突きつけた。とりわけ、長府に居る常備軍への敵視は強烈なものがあった。
 1月20日、老公(敬親)の座敷で、本支藩知事会議が午前から薄暮まで長時間行なわれた。夜半、大参事以下が俄かに会議を開き、「守衛ノ為メ東條太一・神代浪江ヲ萩ニ遣(や)リテ干城隊ヲ召(め)サシムルニ決ス。既ニシテ異議アリテ寝ム」(同前 P.261)こととなった。
 脱退部隊の新たな要求に対し、いかなる対処をするか―そのための本支知事会議が開かれ、長きにわたって論議されたが、結論はでなかった。夜半に大参事らの会議が急に開かれ、萩の干城隊を山口に呼びよせること決まったが、どうやら藩主の承認を得られなかったようである。しかし、実際には、「干城隊一中隊ノ萩ヨリ山口ニ至ル......」(同前 P.262)事態が1月20日に起っている。
 これを見るや、「脱退兵等謂(い)へラク是(こ)レ近侍ノ臣ニ常備軍ト通スル者アリ、干城隊ヲシテ公(*本藩藩主)ヲ萩ニ抜カシメントスルモノナリト。此(ここ)ニ於テ脱退兵等益々(ますます)激昂して二十一日復(ふたたび)山口ニ返リ兵器ヲ擁シテ公館ヲ囲ム。」(同前 P.262)こととなる。そして、22日の夜には、「隊士四十余人公館内ニ乱入シ旧長官ノ処分ヲ迫ルニ至レリ」(同前)と、対立が発展する。
 1月23日、ついに藩主たちの決断の時となる。3支藩知事(徳山・岩国・清末の知事。豊浦藩知事は既に帰国1))は、急きょ登庁し、本藩知事と協議し、干城隊を萩より山口に呼び寄せ、公館を守衛させることに決定した。
 1月24日、奇兵隊・振武隊・健武隊の兵士約600人は、召集された干城隊が山口に来るのを阻止するために、佐々並(ささなみ)に向かった。また、公館外には、脱退兵の多くがぞくぞくと結集した。
 ここに於いて、藩庁は佐々並に向かった諸隊長官と公館外に集まった諸隊に対して、次のような厳命を下した。
                         諸隊中
右(みぎ)干城隊そのほか出山(*山口に来ること)相断(あいことわ)り候心得(こころえ)ニテ奇兵隊・振武隊・健武隊合して六百人位(くらい)無届(むとどけ)ニシテ佐々並へ出張致し候段、会議所ヨリ届出候。然る処(ところ)尋常(じんじょう)ならざる挙動ニ付(つい)テハ何分(なにぶん)の御沙汰(おさた)これ有るべきニ付き、自余(じよ *それ以外)の各隊動揺これ無き様各隊に於て陣屋陣屋ニ鎮静罷り居り申すべく段仰せ出だされ候事。            
    正月二十四日
                          佐々並(ささなみ)出張の
                          諸隊長官中
右(みぎ)此度(このたび)干城隊召し出だされ候ニ付き、奇兵隊・健武隊・振武隊各隊の中六百人無届〔で〕佐々並出張致し候段、会議所ヨリ申し出で候。然る処干城隊出山ニ付(つい)テハ前以て近習ヲ以て仰せ聞かされ候段モこれ有り候処、猥(みだ)リニ出張致し候段、如何(いかが)の義候哉(や)旨趣(ししゅ)取糺(とりただ)し早々帰山(*山口に戻ること)言上有るべく候事
    正月二十四日          (『修訂 防長回天史』十二 P.263~264)
 
 無届で佐々並に出動した600人を譴責し、処分を下すとし、佐々並に出動した諸隊の長官には、隊員が出動した理由・意義を取調べ、早々に山口に戻らすべきとした。
 藩庁の命令にそって、清末侯(藩知事)は佐々並に出動した隊員を説得する。干城隊との衝突を回避しようとしたのである。しかし、出動隊員たちは、この説得を受け入れず、ついには干城隊と出動隊員は佐々並で対峙することとなる。
 この24日、藩主(本藩知事)は、馬関の常備軍、海軍諸艦常備軍、ならびに豊前企救郡出張の第一大隊の一中隊に対し、次のような訓示をする。すなわち、「諸隊の者共(ものども)昨今の挙動御不審の趣モこれ有り。夫々(それぞれ)御手当(*対処すべきとの事)仰せ付けられ候條、常備軍ノ儀ハ益々(ますます)厳粛(げんしゅく)ニテ猥(みだ)リニ軽挙セス御指揮相待ち候様仰せ付けられ候事」(同前 P.266)と。
 木戸孝允も、"討伐の遂に已(や)むべからざる"を知事(藩主)進言し、廟堂(びょうどう)の諸同志と前途を論じ、意志を固めるのであった。
 藩庁もまた、諸隊の隊員を諭して、干城隊の山口入りを阻止しないように図った。そして、1月26日には、公館を包囲する隊員たちに解散を命じた。
 だが、公館包囲の隊員の数はますます増加し、隊員は解散命令を聴かず、関門を閉ぢ、食物の通路も絶ち、徹夜で火を焚いて公館の周囲戍(まも)った。このため、木戸孝允も登庁できず、かえって捕捉される恐れもあったのである。
 公館を囲み武力を背景にして要求を藩主に呑みこませるという戦術は、すでに「元治の内戦(1864~65年)」で山縣狂介たちが採った戦術であり、この時は成功している(椋梨派を打倒)。しかし、柳の下に泥鰌(どじょう)はいつも居るのであろうか。
1月27日、藩庁は平賀杢・赤川?助の遊撃隊長官を、品川弥二郎の整武隊長官を免じた。しかし、それでも藩庁は隊員たちの重囲の裡(うち)にあった。
 山口で狙われた木戸孝允は、山口を脱出し、小郡の近くに数日間潜伏した。そして、1月28日に、海浜にでて乗船して、29日に馬関にたどりついた。以降、木戸は海軍船将佐藤與左衛門、長府から来た野村靖之助・三好軍太郎などと、連日、謀議を重ねる。
 2月2日、萩近郊の諸士や陪臣が集合し、軽挙することなく藩のために微力を尽くすことを決議する。同日、海軍の士卒は、1月24日の藩主の訓示に感激し、脱退兵の「暴虐」、「上下の大義」を滅する態度を批判し、時運を挽回するように努力すると、声明する。
 2月3日、常備軍は諸郡に檄(げき)を飛ばし、脱退兵を「一刀両断」する決意を示した。2月4日、大阪・伏見の生徒兵(修業のため当地に滞在する約80人)が、馬関に帰着した。2月7日、東京にいる藩兵一大隊もするために一時帰国と、兵力を以て脱退兵を鎮圧することを願い出、朝廷はこれを許した。
 長州現地では、3軍に分かれて山口に向けて8日から進軍が始まった。第一軍は、常備軍300名、第四大隊250名、大阪・伏見から参じた生徒兵約80名、上ノ関からの援兵約100名(実態は不明)、家老福原氏の兵一隊からなる。第二軍は、豊浦・清末の藩兵と第一大隊一中隊からなる。第三軍は、徳山・岩国の藩兵と右田毛利家の家兵であり、これを海軍が援護した。
 第一軍は、下関から海路、小郡の海岸に上陸し、柳井田(やないだ)の関門を攻撃した。山口よりは干城隊と昭武隊(鐘秀隊と酬恩隊が合体した隊)が、小郡攻めに加わった。第二軍は、陸路を山ノ井・船木に向けて進軍した。第三軍は、宮市の脱退兵を破り勝阪を攻めた。勝坂口の攻撃には、山口からの第一・第二大隊も加わった。
 戦いは、第一軍が一時苦戦するが、総じていずれも脱退兵を打ち負かした。「戦闘は九日・一〇日の二日間で終わった。/この戦闘で藩側は、山口藩兵一二名、徳山藩兵二名、岩国藩兵六名および夫卒一名の計二一名が戦死し、六四(山口四〇、徳山一三、岩国一一)名が負傷した。これに対し、脱退兵側は約一八〇〇名のうち、戦死者は約六〇名、負傷者は七三名と報告されている。この数字は戦闘の激烈さを物語る。」(田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』P.144)ものである。
 2月11日、豊浦藩知事の率いる第二軍が先ず山口に入り、踵(きびす)を接するように第一軍・第三軍が入る。
 2月12日には、徳地を根拠として宮野付近に屯集する残徒を追討する令が発せられる。また、藩庁は使者を津和野藩・広島藩ならびに大森藩(旧浜田藩領を統治)に派遣し、「兇徒逋逃(ほちょう *罪を逃れること)に関する措置を協定せしめ」(『松菊木戸公伝』下 P.1246)た。
 また、捕らえられた脱退兵への処分が始まった。脱退兵から慕われた松原音三は、陸軍長官参謀兼(けん)権大参事を免じられた。藩庁は首謀者として、「佐々木祥一郎・篠川多仲・室本宗之助・河越縄・内藤源吾・富永有隣・篠窪橘五郎・中村貫一郎・鈴川誠之助・田中五之助・潮田虎市・新坂小太郎・横山小太郎等ヲ暴徒ノ巨魁トシテ揚リ屋(*未決囚を入れた牢屋)ニ入レ」、さらに「第一大隊ノ山口ニアリシ二中隊及び平賀杢・赤川?助ならびニ暴徒ニ助力シタル国司(くにし)健之助ノ家士(かし)佐々木祥右衛門以下四十九人ニ謹慎ヲ命ジ」(『修訂 防長回天史』十二 P.285)た。
 2月13日には、「諸処ニ掲示シテ暴徒ニ参加シタルモ悔悟(かいご)帰順スル者ハ十五日限リ銃器ヲ返上して干城隊ニ届出(とどけい)ヅベク之(これ)ヲ農町家ニ隠匿(いんとく)スルハ曲事(くせごと)タルベキ旨ヲ布告」(同前 P.285)した。
 またこの日、「干城隊参謀諫早作次郎に謹慎」(『松菊木戸公伝』下 P.1246)が命じられた。これは、干城隊がかつて一時、脱退兵と歓談し、融和的な態度をとったことがあったからである。木戸孝允は、これを見て、干城隊を信用しなかったのである。
3月に入ると、脱退兵への処分は相次いだ。「三月一八日(一部は一七日)には、高山盛一ら、諸隊本陣詰の『長官』三二名が『斬首』に処せられ、小隊長一七・砲隊長四・会計一二、計三三名が『牢舎』を命じられた。また、斥候七・応接方一・半隊長二三、計三一名が『遠流』、器械方一三(うち一名遠流)・輜重方二〇・馬掛(うまがかり)三・照準者一・補助長官陣場奉行一の計三八名が『謹慎』、器械方手子(てこ)一・輜重方手子四・会計方手子一の計六名が『身元引取(ひきとり)謹慎』にそれぞれ処せられた。そのほかに二名の『長官』が『斬首』、一名(在役)が『切腹』、一名が『永々処遠流』、二名が『永牢舎』、二名が『永遠流』、二名が『遠流』を命じられている。/一挙に一五〇名の処分」(田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』P.148)である。

図表10 「脱退騒動」処分者内訳
 出身身分   斬罪  切腹  水牢舎  牢舎  遠島  謹慎  他  計(%)
士卒・陪臣   22    2 0 15 14 15 1 69(31)
農民       23 0 0 10 19 21 3 76(34)
町人 2 0 0 6 2    4 0 14(6) 
その他 7 1 0 0 0 0 0 8(4)
不明 30 6 2 2 6 5 3 54(25)
計 84 9 2 33 41 45 7 221(100)
出所:田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』P.150

注1)1868(明治初)年の地方官制で、地方の長官に次ぐ官名を参事とした。翌年(1869年)年6月の版籍奉還後の7月、府・藩・県に対しても画一的な官制が採用され、各地方長官を知事、その下に大参事・権大参事・少参事・権少参事が置かれた。
 2)木戸孝允は、1869(明治2)年12月17日、東京をたって同月21日に神戸に着き、23日には大阪で大久保利通と会談している。25日には、大阪を発って27日に三田尻に到着している。木戸は東京にいる時から、山口藩のもめ事を聞いていたが、三田尻で野村靖之助などから山口藩の内情を聞いて、驚愕する。今まで聞いていた以上に、はるかに事態が深刻であることを知らされたからである。28日、木戸は品川弥二郎とともに山口に入り、ついで登館して毛利敬親・元徳父子に拝謁した。木戸は1870(明治3)年1月5日頃までには、脱退兵の反乱を武力で鎮圧することを決意している。その背景には、樹立されたばかりの維新政府、すなわち天皇制国家の前途に対する憂いがあった。すなわち、「公(*木戸)また以為(おもへ)らく、諸隊の騒擾に関して浮説四方に伝播し、若し之(これ)が為(た)め遂に太政官の根軸動揺するに至らば、海内人心の方向に影響すること多大なるべしと、大に之(これ)を憂惧(ゆうく *うれいおそれること)」(『松菊木戸公伝』下 P.1226)したのである。明治維新が薩長二藩が中心となって推進されたことからすると、山口藩の崩壊或いは弱体化は皇国の前途を大きく動揺させるからであった。
 3)1869(明治2)年11月17日、第二次幕長戦争で長州藩が占領した豊前企救(きく)郡で農民一揆が起り、第一大隊が鎮定のために派遣された。豊浦藩知事はすでに帰国していたが、1月21日、第一大隊の指揮を託された。

 (5)農民一揆と脱退騒動との関係
 戦後歴史学において、山口藩の脱退騒動の歴史的評価は大きく変化してきた。たとえば、小林茂著『長州藩明治維新史研究』(未来社 1968年)では、脱退騒動を「反革命」と規定している。たしかに、一面において脱退兵らは、断髪・廃刀令に反対するなど保守的な側面はある。しかし、当時の農民一揆に対して、同情的な面をもっており、諸隊長官などの腐敗なども批判していた。その点で、「反革命」との規定は、正しくはない。それは余りにも、山口藩や木戸孝允らの維新官僚など、反民衆的な権力者の立場にたった評価である。それに明治維新は、そもそも"革命"などではない。
 であるが故に、原口清氏や田中彰氏などのように、これとは逆の立場から脱退騒動を「民衆的なもの」として評価する主張が出てくる。
 しかし、たとえば田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』(岩波新書の江戸時代 1993年)のように、脱退兵が農民を指導し、両者は同盟関係にあったという「指導=同盟」という評価は、史実にのっとったものとしては極めて疑問が多く、肯定できない。田中氏は、「指導=同盟」関係と評価するだけでなく、「一揆農民と反乱諸隊の結合によって、そこには一種の『コミューン』化のきざしさえあった」(P.137)などという誤った評価にさえ陥っている。
 この点は、三宅紹宣著『幕末・維新期長州藩の政治構造』(校倉書房 1993年)が、実証的に批判しており、それは肯定できるものである。
 では、史実に照らしてみて、田中氏の主張は、どの点が問題なのであろうか。
 まず第一は、三宅氏が言うように、田中氏の研究は、脱退騒動の側から専ら農民一揆との関係を検討しており、農民一揆を正面からとらえていないことである。
 当時、広沢真臣などは、脱退騒動よりも農民一揆の方がはるかに深刻な問題として捉えられていた。1870(明治3)年1月15日付けの、木戸孝允宛ての書簡では、「国内人心何と無く混乱、農民の乱尤も嘆くべく......」、「諸隊暴動心配ニ足らず、農商の拂乱(ふつらん *お上にさからって乱れること)実に以て歎ヶ敷(なげかわしく)」、「防長農商の動揺ヨリ神州一統ニ及び候様相成るべく、御洞察在らせられ候、諸士諸隊の動揺ハ恥ずべきニアラズ、農商の乱ニ相成り候テハ、天朝に対せられテモ君上の御明義ニモ相拘(あいかかわ)リ申すべく偏(ひとへ)ニ存じ奉り候」と、農商の反乱への危機意識を表わしている。
 実際、農民一揆は(既述したように)、脱退騒動が起こる数か月まえから、一揆未遂事件の形ではあるが発生しているのである。
 第二は、両者の間に「指導=同盟」はなかったことである。
 田中氏は、「美禰郡一揆には、諸隊からは福田信太郎・高山盛一・松浦六郎・吉田三郎助・若松次郎三郎・瀬原泰三・幡辺義雄の七名が出向き、彼らは『御赦米(おゆるしまい)』三六〇石を出し、白米を安売りし、大田村など五か所につぎのような立札をたてた。/『此度、美祢郡勘場を始(はじめ)、其外(そのほか)村々役共の不正或(あるい)は心得違よりして如斯(かくのごとき)事件に立到り候段々、百姓中歎願の次第(しだい)一々尤(もっとも)の事に付き、静謐(せいひつ)の上、張本(ちょうほん)又(また)は頭取抔(など)と申す御詮議は毛頭これ無き様、諸隊中より諸儀請合(うけあい)申すべく、且(かつ)近々上下の御為(おんため)宜(よろ)しき役人夫々(それぞれ)差出(さしだ)さるべきに付き、面々家業第一に致し、御国恩を報じ候様肝要の事』(『一揆一件』)/ここには、(1)一揆農民の要求が正当であること、(2)一揆首謀者の取調べをしないよう諸隊が請合うこと、(3)近々然るべき役人と交替させるので家業に精を出すことの三点を諸隊が保障している。」(田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』 P.134~135)と、両者の間の関係を証拠だてている。
 田中氏がこのように言うのは、確かに事実である。しかし、「その諸隊の出張は、実は藩庁の指令により成されたものであるという点が見逃されてきている。」(三宅紹宣著『幕末・維新期長州藩の政治構造』P.277)と、三宅氏は反論する。同じようなことは、既述したように、『修訂 防長回天史』十二も、言っている。すなわち、1月13日の夜中、熊毛郡部管事より岩田村で一揆がはじまったとの急報があったので、「直チニ大参事以下議事館ニ参集決議シ、遊撃隊ヲ出張セシム」(P.255)と。遊撃隊は、「精選」の際に、全面的にはずされた諸隊であったはずである。
 三宅氏は、先の記述に続けて、その証拠(藩庁から派遣された証拠)として、以下の史料を掲載している。

(A)「児玉惣兵衛日記」
百姓共(ども)所々沸騰(ふっとう)に及び候ニ付き、諸隊の者を以て申し諭(さと)し相成り候由、隊中より書付(かきつけ)百姓共え申し聞かせ候由ニて、左の通り之(これ)ヲ写し置く。
[此度美禰郡勘場を初(はじめ)、其外村々役人共の不正或は心得違よりして、如斯(かくのごとき)事件ニ立至り、百姓中歎願の次第ハ尤の儀ニ付き、静謐の上張本又ハ頭取などと申す御僉儀(おせんぎ *御詮議)ハ毛頭これ無きの段、諸隊中急度(きっと)請合(うけあい)申すべく、上下の御為宜しく役人夫々差出すべく候に付き、面々家業専一ニ致し、御国恩を報じ奉り候儀肝要の事]
 巳(明治2年)十二月          諸隊本陣

(B)「一揆一件」
百姓一統え当て大田五ケ所場処え建札(*立て札)申し聞かせ写し
(*建札の内容は(A)所収のものとほぼ同文につき省略)
    諸隊出張人数
      福田信太郎・高山盛一・松崎六郎・若松次三郎・瀬原巻三・幡辺義助
      (*高山と幡辺は後に脱退騒動の首魁として斬首)
   (中略)
右は巡察両人大田え罷り越し、隊中応接二て承け(*受け継ぎ)帰り、直様(すぐさま)山口表え報知として罷り越し候事

 (A)では、田中氏が引用した立札の内容とほとんど同じものが「児玉惣兵衛日記」にも写し取られている。そして、なによりも児玉惣兵衛は、農民一揆を鎮静化させるために諸隊の者たちが派遣されてきたと受け止めている。
 それは一体どこから派遣されてきたのか? 言うまでもない、藩庁からである。そのことは、(B)の最後の行で明らかである。藩の巡察使は大田へやってきて、諸隊が鎮撫していることを確認し、それを受けて帰り、直ちに山口表へ報告したのである。
 確かに、諸隊は農民の要望を受け入れるようにしているが、結局は、(A)の立札の文言の最後に「面々家業専一ニ致し、御国恩を報じ奉り候儀(そうろうぎ)肝要の事」とあるように、国家(藩)の恩に報いるようにと説得しているのである。ここには、とても諸隊と農民の「コミューン」化の兆しなど一かけらも存在しないのである。
 だが、藩庁と脱退兵とは対立していたのだから、脱退兵が藩庁の指令で一揆に決起した農民との折衝に当るわけがない―と反論するかもしれない。しかし、藩庁と脱退兵との対立は、1870(明治3)年1月21日、藩庁が萩の干城隊を呼び寄せて藩主や藩庁を守衛させようとしたことに対し、脱退諸隊が激昂し、兵器を擁して公館を包囲するに至った。この頃を以て、両者の関係は非和解的な対決に転化したのである。
 それ以前は、支配階級内部の矛盾として、両者とも穏便な形で、交渉により解決する姿勢をもっていたのである。したがって、この時期以前の頃は、脱退兵が藩庁の指令に応じて農民と折衝することはあり得たのである。
 だが、これに対して、それは諸隊といっても脱退兵ではなく、残留した方の諸隊ではないか―という反論があるかもしれない。だが、既述したように熊毛部岩田村の農民一揆に対しては、遊撃隊が出動していることから、残留部隊でないことは明らかである。遊撃隊は、常備軍再編の対象からは全員が外されているからである。
 第三は、諸隊が農民を指導したかのような主張は、とても受け入れがたいことである。
 たしかに、元奇兵隊など諸隊を経験した人物が農民一揆には存在していた。それは、表11を見ても推定できる。

 表11 脱退人員とその出身身分

隊名     奇兵隊  整武隊  遊撃隊  振武隊  鋭武隊 健武隊  計(%)
全隊員数(人) 556 572 346 435 359 261 2529
脱退人員(人) 258 275 203 202 171 114 1223
脱退者割合(%) 46.4 48.0 58.7 46.4 47.6 43.7 48.4
士卒 (人) 39 32 11 18 9 6 115( 9.4)
陪臣(人) 67 55 16 27 27 13 205(16.8)
農民(人) 116 104 143 73 104 73 613(50.1)
町人(人) 14 23 8 31 2 4 82( 6.7)
社寺(人) 12 18 8 3 2 10 53( 4.3)
その他(人) 0 1 3 1 0 3 8( 0.7)
不明(人) 10 42 14 39 27 5 137(12.0)
出所:田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』P.120~121

 表11が示すように、諸隊脱退者は全体で1223人(構成員全体の48・4%)にも上る。その内、脱退者の出身身分は、士卒が115人(脱退者の9・4%)、陪臣が205人(同16・8%)、農民が613人(同50・1%)、町人が82人(同6・7%)である。圧倒的に農民出身者が多く、脱退者全体の約半分を占めている。
 これからして、諸隊の規律を離れた脱退兵、しかも農民出身者が農民一揆に同情することは充分あり得ることである。しかし、同情することと指導することは同じ事ではない。そもそも脱退兵が、農民を指導しうる理論と政策をもっていたのであろうか。農民を指導しうるほどの規律が、脱退部隊にあったのであろうか。いずれも証拠もなく、当時の情況からして大いに疑問である。
 個々の脱退兵としては、農民一揆に同情的で、中には一揆の仲間になった者もいる(「浜田騒動」では積極的に煽動している)が、藩庁側と戦争をした脱退兵部隊がまとまって、指揮系統をもって、農民一揆を指導したとはとても考えられない。
 脱退騒動が鎮圧されたあと、脱退兵は各所に逃走する。すでに「明治三年(*1870年)一月二一日の常備軍の『檄文』は、反乱諸隊が肥後・久留米・柳川その他へ使者を遣して『国外』(*藩外)に『党』を結んでいること(*これがどの程度の広がりと結束の強さをもっていたかは不明)を指摘していたが、反乱諸隊は藩鎮圧軍におさえこまれるや、脱退兵の藩外脱走が相ついだ。/脱退兵の藩外脱走は、石州・鳥取・芸州・北九州をはじめ大阪・名古屋・越後などの各方面に及んだ。」(田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』P.146)と言われる。
 新政府が最も恐れたのは、諸隊反乱が他の地域に波及し、農民一揆と結合することであった。1870(明治3)年2月、新政府は東京・京都・大阪の3府をはじめとして、神奈川・兵庫・倉敷・浜田・堺・日田・長崎の各県や四国・九州・中国と畿内の諸藩に取締令を発した。政府の危惧したとおり、日田の農民一揆でその恐れが顕在化した。だが、全体的には脱退兵の運動はしりすぼみとなって行く。農民など民衆とは結合できなかったのである。

終わりに

 奇兵隊誕生の最大の要因は、長州藩の存続危機にある。藩の無謀な攘夷断行によって、4か国連合艦隊との馬関戦争に突入し、敗北に至ったためである。奇兵隊を創設した高杉は下級武士の志願を想定したが、実際にはそれのみならず農民・町民などの庶民も多く志願した。
 その後も長州藩は、8・18クーデターで京都を追われ、禁門の変で「朝敵」となり、第一次第二次の征長を受ける。藩存亡の危機が短期間に繰り返され、長州の士民を襲い続けたのである。
 その政治変動の中で、奇兵隊が継続・維持されたのには理由がある。それは、諸隊がその軍事力を背景とした政治的発言が、今まで雲の上にあった藩政府の行動に大きく影響を与えたことである。政治的発言権が、実質的に「参政権」を獲得するようになったのである。この背景には、藩主敬親が「そうせい」侯と後世の研究者から言われるように、家臣の具申を無定見になんでもかんでも「そうせい」「そうせい」と採用した政治ぶりがあったからである。
 奇兵隊が農兵隊と異なる最大の特徴は、奇兵隊が藩の常備の戦闘集団であるのに対し、農兵隊は藩の軍事力を補助する武装集団であり、主要には郷土防衛が任務であった。両者の給与の有無、優遇措置の程度の違いなどは、最初に既述したとおりである。
 奇兵隊と世禄の藩士との違いは、前者が軍事専門の有志の集団であるのに対し、世禄(先祖代々給与を受けた家臣)の藩士は非常時の軍事的任務以外は、それぞれの任務をもった官吏的性格をもっていた。最大の違いは、尊王攘夷という「有志」をもっていたか否かである。
 奇兵隊のような戦闘集団は、幕末でも特異なものであり、強いて類似したものを挙げると、水戸の天狗党である。ともに教育が盛んな地であり、藩内各地に郷校があり、武士以外の寺社・陪臣・農民町民の子弟も希望によって入学を許可された。
 『日本教育史資料』によれば、郷学(郷校)は全国一〇八校のうち、一九校が山口県にあって第一位を占めていた。また、私塾は全国一一四〇のうち山口県に一〇五、寺子屋は一万五五四六ヵ所のうち一三〇七ヵ所が山口県にあった―と言われる。
 奇兵隊と水戸天狗党の最大の違いは、藩が認可した公的なものであったか否か―である。水戸の天狗党は、ついには公的な存在にはなれなかった。尊攘激派の指導者の政治が、藩内多数を掌握することに執着せず、あまりにも無頓着のまま暴走したからである。もう一つの大きな違いは、組織編成の違いである。それは、西洋軍制の導入の熱意の違いである。水戸天狗党は、戦闘方法が旧来の在り方に強く規制されているだけでなく、西上の際の構成員をみれば明らかなように、身分の相対的に高い戦士には従者が従っており、まだまだ封建的主従関係が強かった。奇兵隊の方は、西洋軍制の導入がはるかに進んでおり、一人一人の戦士に従者が就くようなことはなかった。
 しかし、奇兵隊は最終的には藩に縛られた戦闘集団のため、指導部人事が次ぎ次ぎと入れ替わり、終には藩の方針によって解体されたのであった。(了)