近世畿内では何故に普通小作が広がったのか
                  
堀込 純一



      目  次
はじめに  P.2
Ⅰ 在郷町の形成発展と天下人によるその変質  P.3
(ⅰ)寺内町としての在郷町  P.3
(ⅱ)信長の「楽市楽座令」なるもの  P.8
(ⅲ)秀吉による大坂の拠点化  P.16
Ⅱ 大坂の経済力に眼をつける徳川幕府  P.19
Ⅲ 近世初頭の開発急増とイエの増大  P.22
(ⅰ)新田開発による耕地拡大  P.22
 《補論 大和川の付替え工事と新田開発》  P.26
(ⅱ)農業経営体(イエ)の変化  P.27
Ⅳ 商品作物の増大と農村加工業の発展  P.37
(ⅰ)商品作物の増大  P.39
(ⅱ)絞油・綿織など農村加工業の発展  P.42
Ⅴ 幕府の市場統制と株仲間の独占化  P.44
(ⅰ)大坂を中心とする幕藩制的全国市場  P.44
(ⅱ)堂島の米市場  P.46
(ⅲ)青物市場と魚市場  P.50
(ⅳ)油市場の統制と支配  P.51
(ⅴ)綿関連では摂河泉一帯の株仲間独占は実現できず  P.57
(ⅵ)株仲間を通じた流通・物価統制  P.65
Ⅵ 自由で公正な売買を求める闘い  P.83
(ⅰ)金肥値上げ反対の闘いが先行  P.84
(ⅱ)持続的で大規模になる農民たちの国訴運動  P.86
Ⅶ 下層人民の「人並み」を求める多面的な闘い  P.91
(ⅰ)権力・村役人との闘いと格差是正を求める闘い  P.92
(ⅱ)苛烈な差別と果敢に闘う部落民  P.106
Ⅷ 幕藩権力の統制も共同体規制も弛緩  P.113
(ⅰ)幕府領・旗本領・大名領の錯綜  P.113
(ⅱ)共同体の規制緩和  P.116
Ⅸ 普通地主小作関係の広がり  P.118
 (ⅰ)土地金融と土地集積の分離  P.118
 《補論 貢租収取率の低下と年貢徴集法の転換》  P.128
 (ⅱ)農民層分解にともなう無高と下層農の増大  P.138
 (ⅲ)地主・小作関係の拡大  P.149
終りに代えて― 普通地主・小作関係をもたらした諸条件  P.155
 




はじめに

 戦前の最大の階級矛盾は、資本・賃労働関係での矛盾とともに、地主・小作関係での矛盾(とりわけ寄生地主制)にあることは言うまでもないことである。
 『帝国統計年鑑』によると、50町歩(約50ヘクタール)以上の地主は、新潟県262人、秋田県213人、熊本県104人、千葉県65人などとなっている(1924年)。小作地率は、富山県59・6%、大阪府56・1%、鳥取県54・4%、愛媛県53・8%、新潟県51・6%、山梨県50・7%などである(1888年)。小作農率は、島根県63・9%、富山県61・9%、新潟県60・2%、山梨県59・8%、島根県55・4%などである(1887年)。
 これらを見ると、寄生地主制がもっとも発達したのは、日本海側の東北・北陸地方であり、中でも新潟県が上位にあり、大地主数では新潟県がもっとも多かったことがわかる。
 高沢裕一氏の研究によれば、「新潟県の寄生地主制は一八世紀後期―一九世紀初期の頃には体制的に確立する」(同著「米作単作地帯の農業構造」―堀江英一編『幕末・維新の農業構造』岩波書店 1965年 P.188)と言われる。明治維新後に、より一層発達する寄生地主制は、すでに近世中後期に確立しているのである。
 近世の地主・小作関係は、大別して、質地地主・小作関係と普通地主・小作関係の二つのタイプに分れる。このような分化は、幕藩権力の土地法、農業の生産性の向上、商品農業の発展の度合、売買慣習の強弱などさまざまな要因によって規定された。
この中で、普通地主・小作関係は、「地主がもともとの所有地、または質流れ・売買によって獲得した所有地を小作人に貸し付け、小作させる関係」(萬代悠著『近世畿内の豪農経営と藩政』P.15)である。このタイプは、当時、「経済先進地」とされた摂津・河内・和泉などの畿内で発展した。ただし、普通地主・小作関係は、不可欠な条件として、その地方において、農業も含めて市場経済がかなり発展していること(詳しくは後述)が要求される。
 普通地主・小作関係に対して、質地地主・小作関係は、土地の永代売りが規制された下で、経営的に行き詰まった百姓が自己の所持地を質入れして借金し、その債務が返済できないまま流質(ながれじち)となって、地主・小作関係が形成されるタイプのものである。
 二つのタイプは、全国的見地からみると、やはり質地地主・小作関係の方がはるかに多く、それはさまざまな色合いを持つが畿内以外の地方に広くみられたが、本稿ではもう一つの普通地主・小作関係の形成要因とその背景を検討してみる。

Ⅰ 在郷町の形成発展と天下人によるその変質

(ⅰ)寺内町としての在郷町

 戦国時代、畿内とその近国には農民の力の伸張を象徴するものとして在郷町が形成された。それは、農村の定期市が毎日の市立(いちたち)となり、やがて、その延長線上に、農民と農村手工業者・農村の商人の手による町場建設となったものである。在郷町の多くは真宗寺院を中心にして建設された寺内町であり、町衆の多くは真宗門徒である。
 寺内町は、15世紀末より、畿内において数多く形成され、近世初期には30ケ所前後ほど存在したといわれる。寺内町の作られかたは、「成立の動機については(1)封建領主の門徒化による設営(大和今井〔いまい〕・越中城端〔じょうはな〕など)、(2)門徒が封建領主から土地を買得または寄進されて設営(近江山田、河内富田林〔とんだばやし〕・八尾〔やお〕、摂津天満〔てんま〕など)、(3)門徒自身の実力をもって一定の区域を占拠し、または惣の結合をそのまま寺内とするもの(和泉貝塚、越中井波〔いなみ〕、伊勢長島など)と、三つの型に区分できるほか、建設の主体によって、(1)寺院側の完全なイニシアティブによるもの(摂津石山・山城山科〔やましな〕など)、(2)有力土豪・大名の寄進や門徒化によるもの(大和今井・越中城端など)、(3)門徒集団による買得(ばいとく)ならびに一定区域の占拠によるもの(河内富田林など)などがある。」(『大阪府の歴史』1996年 P.135)と言われる。
 水本邦彦氏によると、1500年以前に成立したものは、摂津の名塩・石山・富田、河内の出口・久宝寺、大和の下市・飯塚、山城の山科など、1530~1570年に成立したものは、河内の招堤・枚方・八尾・大ケ塚・富田林、和泉の貝塚、大和の今井などである。(同著「畿内寺内町の形成と展開について」―戦国大名論集13『本願寺・一向一揆の研究』に所収 P.379)
 このうち、出口(現・枚方市)は、蓮如など真宗オルグの布教を契機に寺内が形成され、それが寺内町に発展したのである。1475(文明7)年に、「夫(それ)ヨリ河内ノ国中振ノ郷山本ノ内(うち)出口邑(むら)ト云(いう)ニ立出テ見玉(みたま)フニ、方(ほう)二町計(ばかり)の淵(ふち *水のよどんで深い所)これ有り、是(これ)能(よき)地ナリト則(すなはち)淵ヲ埋め平地トシテ一宇(いちう *一軒)御建立(ごこんりゅう)有り、今ノ光善寺是(これ)ナリ」(『枚方市史』第六巻 P.321)と、蓮如によって一坊舎が建てられたことに始まる。
 石山(大坂)は、蓮如(1414~1489年 75歳)が法主職を実如に譲って隠居した後の、「明応第五(*1496年)の秋下旬ノ比(ころ)ヨリ、カリソメ(仮初め)ナカラコノ在所(ざいしょ *場所)ヲミソメ(見初め)シヨリ、ステニ(既に)カタ(型)ノコトク(如く)一宇ノ坊舎ヲ建立セシメ......」(『石山本願寺日記』上)たことが契機である。そこは、「虎狼ノスミカ(住処)なり、家ノ一モナク畠ハカリ(ばかり)ナリシ所」(『拾塵記』)であったが、堺の商人樫木屋道顕・万屋(もずや)休意や、万屋の一族である豪商・松田五郎兵衛の協力を得て作られ、大坂御坊となった。
 石山本願寺は、「西は大坂湾に面して本願寺の軒下にまで大船が入り、(旧)大和川・平野川・猫間川・淀川が合流し、一つの城砦をなしていた。ここには石山六町と呼ばれる寺内町が発達し、諸国から召された番衆(*番人)が、番屋に屯(たむろ)して寺内を警固した。一旦緩急の際はそれが数倍にも数十倍にも達し、遠い国は番役銭(ばんやくせん)といって銭で代納していた。とにかく石山本願寺は水陸交通の要地にある全国的経済の中心であるとともに、難攻不落の城でもあった」(井上鋭夫著『一向一揆の研究』吉川弘文館 P.565)のである。
 これに対し、16世紀に形成された寺内町は、在地の小領主層など門徒のヘゲモニーによるものである。たとえば、招堤(しょうだい)は「天文十辛丑(*1541年)の比ヨリ、江源六角の余流(よりゅう *支流)栗太郡片岡邑ノ住(じゅう)片岡佐渡守正好ノ嫡男(ちゃくなん)大和守正親の舎弟片岡五郎右衛門尉(じょう)正久、/同江南八幡山ノ城主左馬守義昌ノ三男四郎左衛門尉綱久」の二名が将軍足利義晴に願い出て、河内国の牧之郡(ママ)内の荒れ地に蓮淳(*蓮如の6男)を招き入れ、そこに道場(仏道を修行する場所)を建て、天文12年に「方八町の境内縄張」り(縄張りとは、建築場所に縄を張って建物の位置を決めること)、招堤寺内と名乗ったことに始まると言われる。(『枚方市史』第六巻 P.317)
 今井は、今井兵部という一向坊主が開いたと言われる。「今井村ト申す処(ところ)ハ、兵部ト申す一向坊主ノ取立て申す新地(*新開地)ニテ候、この兵部器量(きりょう *才能と徳)ノ者ニテ四町四方ニ堀ヲ堀リ廻シ、土手(どて)ヲ築キ、内ニ町割(*町を設けるために空地を仕切ること)ヲ致シ、方々(ほうぼう)ヨリ人ヲ集メ、家ヲ作ラセ、国中(*大和国中)ヘノ商(あきない)等イタサセ、又(また)ハ牢人ヲ呼集(よびあつ)メ置キ申し候」(『大和軍記』―『続群書類従』第二十輯〈下〉に所収 P.538)と。
 だが、資産もない一介の坊主が新地を開くとは言えず、本人の出身が、あるいはその縁者に小領主などがいたのではないかと推測させる。
 寺内町の郭では、山科の場合、「御本寺(ごほんじ)」「内寺内(うちじない)」「外寺内(そとじない)」と三郭から成り、「御本寺」には本願寺御坊(ごぼう)、「内寺内」には坊官(各坊の事務などを行なう僧侶)屋敷・多屋(たや)の諸施設があり、「外寺内」には各種職業の住人が住んでいた。そして、それぞれの郭は、堀と土居によって囲まれていた。 
 それが石山の場合は、「内寺内」を除いた二郭構成となっていたと推定されている。すなわち、本願寺御坊の周囲には、南町・北町・新屋敷・清水町・北町屋・西町の六町と、その枝町である桧物屋(ひものや)町・青屋町・造作町・横町・中町などの職人区域から成っており、各町は年寄・宿老・若衆を中心として自治的に運営されていた。本願寺自体は要害堅固で、石山合戦の時には、周辺のたくさんの砦によっても支えられていた。
 寺内町の階層構成について、水本氏は慶長期の富田林を素材に分析し、「中世末寺内町の階層構成を推測するならば、(ⅰ)寺内町上層(支配層)、(ⅱ)中堅町民、(ⅲ)借屋層、の三グループに分けられよう。(ⅰ)は、商業活動に専念する者、半商半農的性格の者と、具体的様態は区々であろうが、寺内町運営に当たる支配層である。(ⅱ)の中堅町民は、職人、中小商人、中小農民から構成されていた。職人については......一軒を有した独立の生産者であり、またこのクラスの商人は、周辺農村を対象とした小売商人であったと思われる。(ⅲ)の借家クラスの具体相は殆(ほとん)ど捉えられない。(ⅰ)の町支配層に従属した隷属民と想定するに留めざるを得ない。」(水本邦彦前掲論文 P.385~386)としている。
 寺内町の運営は、(ⅰ)のうちの数人による合議制である。寺内町は経済的な特権とともに、「守護不入」、すなわち自検断を各寺内町とも保持していたと思われる(室町後期・戦国時代の畿内とその近国の惣村も自検断であった)。
 寺内町が自治都市として発展するためには、領主・地域権力との関係でさまざまな努力があり、単に商売に専念すればよいというものではなかった。
 たとえば、浄土真宗(一向宗)の勢力が強くなると、たえず競争相手の法華宗や守護大名との戦いが繰り返されるようになる。現に本願寺が山科(やましな)から石山に移転したのも、1532(天文元)年8月24日に、室町幕府の管領・細川晴元、近江守護・六角貞頼、法華一揆の連合軍に攻められ、大谷一向堂・大津顕証寺・山科本願寺などが焼き落とされ、法主(ほっす)・証如(光教)が摂津石山(大坂)に逃れたのがキッカケであった。1)
 大坂に逃れた本願寺は、体制を整え、加賀・越前だけでなく畿内近国でも教線を伸ばし、また寺内町もますます強化された。本願寺は、各地の信徒集団から毎年の志納金、勧進の物、「加地子的土地の寄進」など(笠原一男著『中世における真宗教団の形成』新人物往来社 1971年 P.315~333を参照)、厖大な経済的支援によって栄えた。
 寺内町の特徴の一つは、各種の特権を持ったことにある。山科を追われた証如は、石山(大坂)に居を構えた。そして、細川政元(晴元の祖父)・澄元(晴元の父)以来の由緒(この経過と内容は正確にはわからない)をもって、証如などは懸命に諸公事免除などの特権獲得の工作を行なう。その結果、1538(天文8)年7月、「細川(*晴元)より、制札(諸公事免許)来り候」(『石山本願寺(証如上人)日記』九日条)となり、8月には「徳政の儀、大坂寺内(じない)相除(あいのぞ)くの由、下知(げち *命令)来り候」(同前 二七日条)となる。大坂寺内は、諸公事免除のみならず、徳政の対象からも外れることとなったのである。石山は本願寺が移転する前から、各種の特権を確保したようであるが、石山本願寺になってからも政界工作を必死に行ない、晴元から再確認を入手した。
 寺内町の特権確保は、石山寺内だけに止まらない。富田林の寺内町の場合、以下の経過を辿った。「一五五九~六〇(永禄二~三)年蓮秀の子興正寺証秀は、(*河内国)石川郡内の芝地を一〇〇貫文の礼銭によって三好長慶から取得し、翌年周辺の中野・新堂・毛人谷・山中田四か村出身の年寄八人の手によってこの地を開発させ、御堂を建立し、畠屋敷などの町割(まちわり)をおこなって寺内町を設立し富田林(とんだばやし)と名づけた。そして永禄三年三月に畠山・遊佐氏の臣高屋城主安見美作守直政から、①「諸公事免許」、②「徳政行ふべからず」、③「諸商人座(公)事」、④「国質・所質?(ならび)ニ付沙汰(つけざた)、⑤「寺中の儀(ぎ)何(いず)れも大坂並(おおさかなみ)に為すべし」という五項目の権限を獲得している。①は守護役以下の諸公事の免許で、③は、寺内町商人・手工業者に対する権門(*大貴族・大寺社など)の座役銭の免除で、権門支配と座からの解放を意味し、権力の『不入(ふにゅう)』の完成であり、言葉では表現されないが『楽市・楽座』を意味する。先に述べた②は徳政適用除外で、④は、国質・所質・付け沙汰などの物件の差押(さしおさえ)行為の禁止で、商取引の安定と安全の確保のためのもので、以上は戦国時代の都市法の一つの典型を示している。そしてそれが『大坂並』ということで、大坂寺内(石山寺内)を一つのモデルとして諸権利が承認されている所に注目したい。」(峰岸純夫著「一向一揆」―岩波講座『日本歴史』8 近世4 に所収 P.147)と、言われる。
ところが、地域権力である畠山・安見などの支配が動揺すると、富田林寺内は、1561(永禄4)年、三好方の三好康長に①大坂並みの諸公事免許、②国質・所質並びに付沙汰の禁止、③諸商人座公事の免除の三項目を確認させる。さらに翌年には、畠山・安見らを河内から追い出し、高屋城を占領した三好康長ら高屋城在城衆に対して、安見直政が承認した先の5項目とほぼ同じ内容のものを承認させている。
 このように、石山本願寺の宗教的権威と権力を背景にして、具体的には「大坂並」の特権が、外(ほか)の寺内町にも応用されたことは確実である。
 寺内町は商人など支配層が町を運営したが、「在郷町=局地的市場圏」がこの寺内町=一向一揆という形をとる場合が多い理由について、水林彪氏は次のように述べている。「局地的市場は、その内部に階級的・階層的関係をはらみつつも、諸個人を対等の商品所有者たらしめることを通じて平等の人格にしてゆき、在郷町の人々をいわば同市民的関係に再編してゆくのであるが、浄土真宗こそは、このような水平的な社会関係にもっとも適合的な宗教であったからである。真宗の祖親鸞(しんらん)は、現世においては身分制的差別が存在するけれども、仏の前では人々はみな平等であると説いていた。この教えは領主と農民の身分的差別を相対化し、領主の農民支配の正当性を疑わしめずにはおかないであろうから、民富を形成すべく日々、年貢不払いなどの闘争を試みていた農民の心を捉えていったに違いない。......局地的市場圏と在郷町の成立は、民富の形成の帰結である。その民富の形成は領主との闘争なしには実現されない......」(同著『封建制の再編と日本的社会の確立』P.50)というのである。
 大意としては同意するが、しかし他面では真宗の次のような実態もまた軽視してはならないであろう。すなわち、現世と来世が真向から対立する考えは、大方はやがていずれか一方に収斂せざる得ない。それは、来世の考えを信じて現権力との戦いに死んでゆく多くの民衆か、敵方と同様の差別・主従制などを受容する教団指導層か―の道である。真宗教団は次第に巨大化するとともに、本寺―有力末寺―地方末寺の重層的な組織構造をもち、しかもそれを政略結婚をも利用して作り上げ、巨大教団の基盤とした。その重層的組織構造がまた門徒(貧しい庶民)から生産物や金銭を吸い上げて、教団を維持・強化したのである。その組織構造は、まさに当時の守護大名・戦国大名と決してひけを取らないものである。であるが故に、一部権力者との癒着も必然となるのである。

注1)1527(大永7)年2月、桂川畔の川勝寺での戦いで、三好勝長・政長兄弟を主力とする細川晴元方の軍勢に敗北した将軍足利義晴・管領細川高国(晴元の義理の伯父)は、近江坂本に脱出し、ここに足利幕府は一旦崩壊する。これにより、京都には実力者が存在せず、義晴らに対抗した「堺政府」は、足利義維(将軍足利義澄の子。「堺公方」と呼ばれた)を擁した管領細川晴元や三好元長(三好長慶の父)などにより担われた。
 1532(天文元)年7月、一向一揆は、畿内近国で大蜂起を行なう。細川晴元は、8月2日、日蓮宗をはじめ顕密諸宗に檄をとばし、一向一揆との戦いに備えさせた。8月5日、北摂の一向一揆が、池田城(現・池田市)を包囲する。同じころ、晴元方の木沢長政(山城守護)は、堺の東方で一向一揆と激突し、浅香道場(現・堺市)を焼き打ちする。これに対し、8月8日、一向一揆は、晴元の居る堺の町を包囲して反撃する。8月11日、近江守護・六角貞頼は、山科本願寺を攻撃するために坂本に着陣する。8月24日、晴元・六角・法華一揆の連合軍は、山科本願寺などを焼き落とし、法主証如を摂津石山に走らせる。だが、翌天文2年2月、一向一揆は堺の晴元を襲い、晴元は淡路に逃れる。同年3月、木沢長政は法華宗徒を率いて、摂津で一向一揆と戦う。同年4月、晴元の軍兵が堺より一向一揆を追い払い、石山城下に迫る。法華一揆は5月、京都を打ち廻り(軍事的示威行動)、軍事力を誇示する。とともに、石山包囲戦に加わり、猛攻する。戦いがなかなか決着しない中、1533年6月、晴元は本願寺証如と和す。これにより、法華一揆は京都に帰還する。1534(天文3)年3月、法華一揆は、山科郷の年貢の代官請負を禁裏に要請するが、しかし、これは朝廷に拒否される。同年10月、幕府(9月、将軍義晴は近江より帰京している)は、下京六角町に地子(じし *町場の屋敷地に課せられた地代)納入を命じたが、同町は"近年は地子は有名無実"といって、断わった。このころ法華一揆の強い町衆によって、地子未進運動が盛んであった。12月、法華一揆による関所妨害が止まず、幕府はこれに対し、停止を求めている。他方、一向一揆との戦いが再燃し、1535(天文4)年6月、細川晴元の兵が本願寺の兵を大坂に破る。それとともに、同年11月、晴元は、上下京町衆による当道新座(琵琶法師ら目の不自由な人たちがつくった座で、本座に対して新座)の積塔(しゃくとう *年中行事の一つ)を停止させた。晴元と法華一揆との関係が怪しくなってくるのである。そして、1536(天文5)年3~4月、山門(比叡山延暦寺)は、京都法華宗を日蓮宗に改めるように幕府に訴える。だが、この訴えは相論のうえに、山門が敗訴する。同年5月になると、山門側の攻撃に備え、法華一揆が相国寺に陣を張るとの流言が盛んとなる。よって、上下京町衆と法華一揆は、連日、早鐘をついて防衛体制を堅くした。同年6月1日、山門三院の大衆集会は、ついに法華一揆弾圧の決議を行ない、顕密諸宗に救援の檄を飛ばした。7月23~26日、鴨川の近辺で、山門と六角の連合軍が法華一揆と連日交戦する。だが、結局27日、法華一揆の側は大敗する。下京は炎上し、町衆は約3000人の死者を出した(天文法華の乱)。28日には、法華一揆が立て籠もる六条の本国寺も陥落し、上京の3分の1が焼失する。京都町衆によって担われた法華一揆は、細川晴元との友好関係の下で、一時期、京都の地子銭不払い・新関所の反対などを行なったが、結局は晴元など権力者の思惑に振り回され、最後には解体されるのであった。

 (ⅱ)信長の「楽市楽座令」なるもの

 ところで、後に天下人となる織田信長にとっては、権力拡大過程の最大の敵は、ライバルの戦国大名のみならず、本願寺勢力(単なる教団でなく、ひとかどの守護大名に匹敵するか、それ以上の経済力・軍事力を備えた宗教王国)でもあった。長島の一向一揆との戦いは、1570(元亀元)年から1574(天正2)年までかかり、天正2年9月に鎮圧した際には、2万人以上を虐殺した。翌1575(天正3)年8月、越前一向一揆を鎮定する際には、5万人以上を殺戮した。石山本願寺を屈服させる石山合戦は、1576(天正4)年4月から1580(天正8)年8月まで4年以上を要したが、信長は計略をもって、"正親町天皇の調停"という体裁で本願寺顕如を屈服させた。
 織田信長が「天下」取りを進める過程で「楽市・楽座」を命令したことは、有名なことである。
 信長はそれに先立ち、家督を継いだ年(1551〔天文20〕年3月)の翌年・天文21年10月12日、大森平右衛門尉(信長の知多郡郡代か?)ヘ、以下の命令を下す。

智多郡?(ならび)に篠嶋(しのじま *知多半島の先方、知多湾上の島)の諸商人の当所守山(現・滋賀県守山市)往反の事は、国質・郷質・所質?(ならび)に前々(まえまえ)或(あるい)は喧嘩(けんか)、或は如何様(いかよう)の宿意(しゅくい *年来のうらみ)の儀ありと雖(いえど)も違乱(いらん)あるべからず候、然(しか)らば敵味方を致すべからざるもの也、仍って状(じょう)件(くだん)の如し、
  天文廿壱年
    十月十二日                信長(花押)
  大森平右衛門尉殿
        (奥野高広著『織田信長文書の研究』上巻 吉川弘文館 P.24~25)
   
 知多郡と篠島の商人が守口市との間の往来の自由を保証するよう―に命じた。そのために、債権者が債務者に債務の弁済を求めて、同国人・同郷人・同じ所の者の財産を押さえることを禁じ、ケンカや平穏を乱す行為を禁じ、敵対しないようにせよ! と命じたのである。
 同年12月20日には、加藤全朔、加藤紀左衛門尉へ、以下のように命令している。

商売の儀に就(つ)きて、徳政・年紀要脚(*年限を切った売買)・国役の事、免許せしめ訖(おわ)んぬ、?に永代売買の田畠・屋敷・野浜等の義(儀)は、縦(たと)い売主或いは闕所(けっしょ *領主の罪で幕府によって没収され、新領主が未だ決まっていない土地)或は被官退転たりと雖も異儀(異議)あるべからず、然らば年貢・色成(いろなり)・所当(しょとう)・上年貢の事は、証文の旨(むね)に任せてその沙汰あるべし、?に質物の義(儀)、盗物たりと雖も蔵(くら)の失墜となすべからず、本利(*元金と利息)の算用を遂(と)げて請(う)けなすべし、蔵に於て失質(うしないじち)の事は、大法の如く、本銭の一倍を以って相果(あいはた)すべく候、次に付(つけた)り沙汰、理不尽の使(つかい)あるべからず、自然かくの如く免許の類(たぐい)、棄破(破棄)せしむと雖も、代々の免状あるの上は、自余に混(ま)ぜず、末代に於て聊(いささ)かも相違あるべからざるもの也、仍って状件の如し、
    天文廿壱                  三郎
      十二月廿日                信長(花押)
  加藤全朔
  加藤紀左衛門尉殿
                    (『織田信長文書の研究』上 P.26~27)
  
 加藤氏は熱田の有力な一族である。加藤氏は質営業もしていた。文書の内容は、徳政令・年紀要脚・国役の事は免除する。年限無しで買入れた(永代売買のこと)田畠・屋敷・野浜などは、たとえ売主が犯罪により領地・財産を没収となり、或いは被官(主人に仕える身)のために困窮したため取り戻したいと言っても却下する。従って、年貢・色成(畑年貢)・所当(雑税や公事)・上年貢(未詳)の事は、売渡証の通り納める。並びに質物は、盗品であっても藏(質屋)の損失としない。本利の計算をして請け出させる。質屋が質物を失った場合は、大法により元金の一倍を弁償する。次に、お上の無理な無法な裁断によって、債務を棒引きにする命令を出させる(付沙汰のこと)ようなことはしない。上記のような免除をした事項を破棄する場合があっても、代々の免状をもっているから、後々までも相違ない―というものである。
 以上の文面からは、当時、この地方も畿内同様か或いはそれに準ずるほどに市場経済が発達していることを確認できる。これは、東山地方や東北地方とは、雲泥の差である。
 信長は、1559(永楽2)年2月、上洛して将軍足利義輝に謁見する。同年3月には、岩倉城(現・愛知県岩倉市)を落として、尾張上四郡を平定する。翌1560(永禄3)年5月、今川義元を桶狭間に討ち、一躍、天下を狙う戦国大名の一人に躍り出る。1567(永禄10)年8月、斎藤竜興の美濃・稲葉山城を陥落させ、井口を岐阜と改め、本拠地をここに移す。そして、同年10月、岐阜城下の加納(現・各務原市)の市場に、以下のような命令を発する。

   定              楽市場
一(第一条)当市場に越居(えっきょ)の者、分国(*信長が支配する領地)の往還に煩(わずらい)あるべからず、?(ならび)に借銭・借米・地子・諸役は免許せしめ訖(おわ)んぬ、譜代相伝の者たりと雖も違乱あるべからざるの事、
一(第二条)押買(おしかい)・狼藉・喧嘩・口論すべからざるの事、
一(第三条)理不尽の使を入るるべからず、宿をとり、非分(ひぶん *道理をはずれたこと)を申し懸(か)くべからざるの事、
右(みぎ)の条々、違犯の輩(やから)に於ては、速(すみやか)に厳科(*厳しい処罰)に処すべきもの也、仍って下知(げち *命令)件の如し、
  永禄十年十月日           (*信長の花押)
 
 9月に、北加納宛てに「楽市楽座の上にて、諸商売すべきこと」と命令し、違犯の輩は速やかに厳罰するとしている。そして10月には、「楽市場」宛てとして、上記の「定」を下知して、「移住者の信長領国内の往還の自由を保証し、借銭・借米・地子・諸役を免除し、押買(おしがい *押し売りの対語)・狼藉・喧嘩(けんか)・口論などを禁止するなど」従来寺内楽市場が保持していた特権を改めて保証した。加納の「楽市場」は、13世前半に住職が親鸞に帰依して真宗に改宗し浄泉坊と称して、その後、寺内町が形成されていたものである。翌年9月にも加納宛てに同様の禁制を下している。
 1568(永禄11)年2月、信長は北伊勢を攻略し、9月には、足利義昭を奉じて、入洛する。10月2日には、摂津・和泉に矢銭(やせん *軍用金)を課し、諸国の関所を撤廃した。矢銭は、大坂の本願寺に5000貫(1貫=銭1000文)、堺の南北荘(現・堺市)に合わせて2万貫であった。他にも、10月6日に、奈良の法隆寺に矢銭として銀子150枚を納めるように命令し、23日には奈良中に制札銭を賦課している。
 当時、石山本願寺は5000貫を納め、法隆寺も12月9日に礼銭600貫を納めている。しかし、「堺の市民はこれを拒絶し、『三十六荘官一味同心して櫓(やぐら)を上げ、堀をほり、北の口に菱(ひし)を蒔(ま)き、防戦の用意をして』待った(総見記)。平野庄の住民に檄を飛ばし、相共(あいとも)防禦に当らんことを求めたのは、実にこの時であった。」(豊田武著『増訂 中世日本商業紙史の研究』岩波書店 1952年 P.384)と言われる。
 当時、堺と共に自治都市の一つと謳われた平野庄は堺にもっとも近くにあり、共同戦線に立ちうる位置にあった。その時に、堺から届いた文書には、「織田上総介(かずさのすけ)近日駈け上り候それ聞え候、其元(そこもと)御同心に於ては、双方示し合せ領堺(領境)に出向きこれを防ぐべく候、ご相談のため、かくの如くに候、 恐惶謹言/堺会合衆(さかいえごうしゅう)/平野庄年寄御衆中 (末吉文書)」との呼びかけがあった。
 しかし、堺の最も有力な町人である今井宗久は鉄砲・火薬の商人であり、信長によって既に焦点を当てられていた。そして、「宗久は、堺五ヶ荘とそこの塩合物(塩魚)の勘過料(通行税)代官職を与えられた。」(奥野高広著『織田信長文書の研究』 P.153)のであり、堺は翌年4月、矢銭を払い、信長の保護下の制約された条件下で、「自治都市」の体裁を保ったのである。
 1569(永禄12)年10月、信長は伊勢の諸城を降し、諸関を撤廃する。翌元亀元年(1570年)6月、信長は家康と共に姉川で朝倉・浅井を打ち破る。同年9月、本願寺顕如(光佐)は、信長の伸張に警戒感を強く抱き、諸国の門徒に檄を飛ばして、挙兵して信長と戦うことを命令した。同年9月以降、朝倉・浅井連合軍は南下し信長軍と戦い、膠着する中で比叡山延暦寺が朝倉・浅井連合軍を援護する。このため、信長は正親町天皇の仲介で、12月に、朝倉・浅井連合軍と和睦する。1571(元亀2)年1月、信長は近江横山城の木下秀吉に対し、「北国(*越前など)より大坂へ通路の諸商人、その外(ほか)往還の者の事、姉川より朝妻(あさずま *現・滋賀県米原市)迄(まで)の間、海(*琵琶湖)陸ともに以って堅く相留(あいとど)むべく候、若(も)し下々(しもじも)用捨(ようしゃ)候者あらば、聞き立てて、成敗すべきの状件の如し」(『織田信長文書の研究』 P.445)と通行させないように指示した。8月、信長は近江に出陣し、9月には志村城(現・滋賀県東近江市)、金ガ森城(現・守山市)を攻撃する。この後、同月、有名な比叡山の焼打ちが行なわれる。
 1572(元亀3)年1月、六角承禎(義賢)父子が一向一揆と連絡して、金ガ森城と隣接の三宅城に籠城して、信長に抗戦する。同年7月、佐久間信盛は金ガ森城を攻略し、三宅城も降伏する。9月、信長は金ガ森を拠点とするために、「楽市・楽座」を次のように宣言した。

    定 条々             金森
一(第一条)楽市・楽座たる上ハ、諸役を免許せしめ畢(おわ)んぬ、?(ならび)に国質・郷質を押□べからず、付(つけた)り、理不尽の催促使停止の事、
一(第二条)往還の荷物は当町(*金ガ森)え着くべきの事、
一(第三条)年貢の古き未進?に旧借米銭已下(以下)は、納所せざるの事、
右(みぎ)違背(いはい)の輩に於ては、罪科に処すべきの状件の如し、
    元亀三年九月日           (信長の朱印)
                 (『織田信長文書の研究』P.576~577)

 第一条(諸役の免除)と第三条(徳政の対象外とする)は、寺内町の場合と同じであり、これを織田権力が保証するというものである。第三条は、局地的市場圏の中核である寺内町とは異なり、局地的市場圏よりもはるかに広い領域を支配する(あるいはそれを目指す)織田権力の統制下に寺内町を再編する過程で、物資の流路を指定したものである。
 なお、第一条の「国質」とは、債権・債務関係において、債務者が債権者の債務履行要求に応じなかった際に、その損害賠償を求めて債務者の同国人または同国人の動産を私的に差し押える行為をいう「郷質」も同じく同郷の者または同郷の者の動産を私的に差し押さえる行為をいう。
 1576(天正4)年2月、信長は安土城を築き、ここに移転する。翌天正5年6月、城下の山下町に全文13ヵ条からなる以下の「掟書」を下達する。これは従来、「楽市・楽座令の典型」とされたものである。

    定  安土山下町中
一(第一条)当所中(*山下町)楽市として仰せ付けらるるの上は、諸座・諸役(*棟別銭・兵粮米など)・諸公事(*多数の名目の雑税)等悉(ことごと)く免許の事、
一(第二条)往還の商人、上海道(*中山道)はこれを相留(あいとど)め、上下(*上り下り)とも当町に至って寄宿すべし、但し、荷物以下の付け下しに於ては、荷主次第の事、
一(第三条)普請免除の事(但し、御陣・御在京等、御留守去り難き時は、合力致すべき事)、
一(第四条)伝馬役免許の事、
一(第五条)火事の儀、付火(*放火)に於ては、その亭主に科(とが *罰)を懸(か)くべからず、自火に至っては、糾明を遂(と)げ、その身を追放すべし、 但し、事の躰(てい)に依りて、軽重あるべき事
一(第六条)咎人(*犯罪人)の儀、借家?(ならび)に同家たりと雖も、亭主その子細を知らず、口入(くちいれ *取り持ち、仲介)に及ばざれば、亭主にその科あるべからず、犯過の輩に至っては、糾明を遂げ、罪過に処すべき事、
一(第七条)諸色(*色々な物品)買物(かいもの)の儀、縦(たと)い盗物たりと雖も、買主これを知らざれば、罪科あるべからず、次に彼の盗賊人を引き付くるに於ては、古法に任せて、臓物(*不正に入手した品物)を返付(へんぷ)すべきの事、
一(第八条)分国中(*信長の支配領地)徳政を行うと雖も、当所中は免除の事、
一(第九条)他国?(ならび)に他所の族(やから)当所に罷(まか)り越し、有り付き候はば(*住み着いたならば)、先々より居住の者と同前、誰々の家来たりと雖も、異儀(異議)あるべからず、若(も)し給人と号し、臨時の課役は停止の事、
一(第十条)喧嘩(ケンカ)・口論、?(ならび)に国質・所質・押買(おしがい)・押売り・宿の押し売り以下、一切停止の事、
一(第十一条)町中に至って譴責使・同打ち入り等の儀、福富平左衛門尉・木村次郎左衛尉両人に相届け、糾明の上を以て申し付くべき事、
一(第十二条)町竝(まちならび)に於て居住の輩は、奉公人竝(ならび)に諸職人たりと雖も、家竝(いえなみ)役免除の事(付〔つけた〕り、仰せ付けられ、御扶持を以って居住の輩、竝に召し仕わる諸職人は格別の事)
一(十三条)博労(ばくろう *馬牛の仲買人)の儀、国中の馬売買、悉く当所に於て仕(つかまつ)るべきの事
右(みぎ)条々、若し違背ある族(やから)は、速に厳科に処せらるべきもの也、
   天正五年六月 日        (『織田信長文書の研究』P.300~304)

 織田信長の「楽市・楽座令」は、旧説では、「戦国大名や織豊政権が座商業を骨骼とする中世商業のもろもろの桎梏や制約から一般商人を解放して、商業を自らの支配下に統制し、掌握するための画期的な政策として評価されてきた。座は、中世的な諸関係を大胆に否定し、近世的秩序を切り開いていった信長・秀吉にとっては、当然打破され、否定されなければならない存在とみなされてきた」(佐々木銀弥著「楽市楽座令と座の保障安堵」―永原慶二編『戦国期の権力と社会』東大出版会 1976年 P.157)というのであった。
 しかし、この見解は史実を曲げて、信長を不当に過大評価するもので、明白に誤りである。第一に、信長は上記のように「楽市・楽座」を許可しただけでなく、同時に座も承認し、その商人をも利用しているからである。
 たとえば、①1568(永禄11)年10月に、洛中四座(小舎人・雑色衆、南方・北方座中)に、「屋地子?に諸役・諸公事」を免許し(『織田信長文書の研究』下 P.844)、②1576(天正4)年7月に、近江の「油座の事、先規の旨に任せて、座人の外(ほか)売買の儀、堅く停止せしめ」(同前 P.220)、③同年9月、越前国北ノ庄(現・福井市内)では「諸商売は楽座に申すと雖も、軽物(*絹座)・唐人座(*薬種座)に於ては」、越前橘屋三郎衛門尉が知行するようにと指令し(同前 P.246)、④1579(天正7)年3月、「堺南北馬座の事、先々より有り来りの如く」、馬匹の売買や馬を使っての物資運搬の独占権を認める(同前 P.428)―などしている。
 また、信長は寺内町に対しても、一律にその特権を許しているだけではなかった。大澤研一氏によると、「敵対する寺内町に対しては武力弾圧(破却)で臨んだものの、敵対しない場合または降伏した場合は安堵するというやり方で対応した。摂河泉では、信長が厳しい姿勢を見せた例としては、天正五(*1577)年二月十七日に一揆勢力の拠点となっていた貝塚を攻めたケースがあり、また一揆勢力を分断した上で旧来の特権を安堵した例としては富田林の場合が有名である。」(同著「中近世移行期における在地寺内町の動向」―『巨大都市大阪と摂河泉』雄山閣 2000年 に所収 P1.63)といわれる。
 信長は、あくまでも彼の軍事作戦に応じて、あるいは領国拡大計画に応じて、使い分けているのである。したがって、寺内町の特権を許可した場合でも、信長権力に服従しその統制に従うことが前提であったのである。
 第二は、信長の「楽市・楽座」は、既に楽市を勝ち取っている寺内町などのさまざまな特権を再保証し、自らの統制下に置いたものであって、決して信長特有の新たな政策ではなかったのである。このことは、前述したように、既に石山寺内がその形成過程で権力者から種々の特権を獲得していったことで明らかである。
 ここでは多言は必要もなかろうが、さらに留意すべきは、佐々木銀弥氏の指摘である。氏によると、楽市令でよくみられる押買・狼藉・喧嘩・口論・国質郷質所質などの禁止は、すでに「十五世紀から十六世紀にかけてひとつの形式がととのえられていった市場法を構成していた基本的諸条項を継承したもの」(同著「楽市楽座令と座の保障安堵」P.199)なのである。そして、氏はその証拠の一つとして、『武家名目抄』(江戸時代、塙保己一が幕府の命で鎌倉期以降の武家関係の名称や品目を網羅した解説書)に記載された1510(永正7)年の次の制札をあげている。

          掟
一(第一条)押買狼藉の事
一(第二条)国質所質の事
一(第三条)喧嘩口論の事
右(みぎ)條々 堅く停止せしめ訖(おわ)んぬ 諸商人此等(これら)此旨(このむね)〔で〕当市ニ於て売買致すべし 若し違犯に至るの輩(やから)成敗を加えるべきもの也 
 所定置(ところさだめおく)件の如し
 永正七年二月廿日               左衛門尉(在判)
                        近江守(在判)
                        若狭守(在判)
          (改訂増補 故実叢書『武家名目抄』第五 15巻 P.431)

 第一条・第三条は、市場の治安を維持する検断条項であり、第二条は売買の安定化を図る条項である。国質郷質所質は、「楽市令」でもしばしば禁止対象として見られるものであるが、このことは売買取引が、未だ個人として当事者間だけで完了していない当時の日本の売買関係の特質をよく示している。
 第三に、信長の楽市令を過大に評価することは、すでに存在した中世の自治都市の存在と、彼らの功績を覆い隠す役割を果たすものである。
 勝俣鎮夫氏は、『日本史大事典』の「楽市・楽座」の項で、これを「戦国時代から安土桃山時代にかけての都市・市場政策」と規定する。そして、続いて「従来、楽市・楽座令は、戦国大名および織豊政権が領国経済の統一、その中心としての城下町の繁栄を目的として発布したものであり、楽市は城下町を課税免除、自由交易の場とするために、楽座は独占的な商工業座の解体を目的とした政策であるとされてきた。しかし現在では、これら権力の発布した楽市・楽座令以前に、各地に『縁切(えんき)り』を基本的性格とする楽市場なるものがすでに成立していたことが想定され、この法令は城下町の繁栄を目的とした楽市場の機能の利用と位置づけられるに至っている。そして、この楽市と楽座の関係は、楽市(場)はすべて市場の座(市座)がない楽座であり、楽座は楽市の一つの属性にすぎないとされている。その意味で楽市・楽座令という呼称より、楽市令のほうがふさわしいといえる。」(詳しくは同著『戦国法成立史論』を参照)と述べている。
 さらに勝俣氏は、「楽市令」の項で、これには二種あり、一つは「保証型楽市令」で、もう一つは「政策型楽市令」であるとする。前者は「すでに楽市場として存在していた市場に、その楽市の機能を保証した」ものである。後者は、前者を前提にして「新城下町・新市場の楽市化による繁栄を目的にした」ものである。
 勝俣氏の見解の中で、見落とすことができない重要な点は、「各地に『縁切り』を基本的性格とする楽市場なるものがすでに成立していた」と指摘していることである。勝俣氏はその代表例として、伊勢の桑名、筑前の博多、摂津・和泉にまたがる堺などをあげている。 
 これらは、中世の自治都市、自由都市として、寺内町の形成以前から存在していたものである。しかし、個別研究があまり進んでいないためか、あるいは楽市令の旧説が幅をきかせていたためか、寺内町以外の中世の自治都市、自由都市の存在とその功績はあまり評価されていない。
 だが、鎌倉時代から一部ではじまった惣村は、中世の百姓の闘いの基盤であった。1428(正長元)年の正長一揆いらい実に100数十年にわたって展開した土一揆は、室町幕府内部の権力争い(1467~1477年の応仁の乱に代表される)すなわち秩序の混乱とともに、幕府の権威と権力を失墜させた。このことがまた、自検断をも遂行する惣村を近畿とその近国などに拡大させた。こうした時代だからこそ惣村のみならず、交通の要衝、商人の取り引きが盛んな地に自由都市・自治都市を生みだすことは当たり前なことである。
 一例を挙げると、伊勢の桑名である。桑名は、伊勢神宮との結びつきが強く(神宮の造営用材は木曽川上流の木曽材が使用された)、鎌倉など関東とも海運事業で結ばれていた。陸路でも近江商人など各地の商人が往来したという。
 1510(永正7)年、近くの豪族・長野氏が侵略してきたときは、桑名住民は逃散を行ない対抗する。このため、この地の海運は混乱し、伊勢神宮などは大きな迷惑をこうむり、逃散住民の還住を懇望した。
 桑名自治都市は、地侍の性格をもつ「三十六家氏人」によって運営されていた。「桑名衆の自主的な行動に対して永禄元年(*1558年)の保内商人惣分申状(今堀日吉神社文書)は、『桑名ハ、既ニ上儀(*お上の命令)をさえ不致承引』と表現している。また枝木明朝等連署書状案(同文書)では『この津は諸国商人罷り越し、何の商買をも仕る事に候、殊に昔より十楽(*仏教用語で、十の楽をいう)の津ニ候ヘば、保内(*保は、中世の所領単位で、荘、郷、名〔みょう〕と共に並称された)より、我かままなと(我が儘など)と申す儀もおかしき申し事候(下略)』と保内商人に対し枝村が、桑名は座の拘束を受けない自由取引の湊であることを強調して訴えている。」(『三重県の地名』P.87)のであった。「昔より十楽の津」と言われるように、随分前から桑名は、自治都市・自由都市なのであった。しかも、それは仏教用語で表現されるように、俗世間から隔絶したアジール的な「縁切り」の地として認識されていたのである。(中世の自由と平和については、網野善彦著『増補 無縁・公界・楽』平凡社選書 1978年第一刷 を参照)
 信長が発した楽市令は、個々の点では新規なものではないが、天下を狙う計画の中で、整理統合されて利用されたのである。前出の大澤氏によると、信長の新しさは、「戦国大名や根来寺などの旧勢力は『道場』『御坊』といった表現で寺院そのものを〔*楽市令の〕宛所としているが、時期は同じでも織田政権はそうした宛所では一切発給せず、『寺内』『惣中』を宛所にしている」(前掲論文 P.64)という。すなわち、領国支配の拡大を明確に意識しているのである。

 (ⅲ)秀吉による大坂の拠点化

 信長から中国攻めを任された羽柴秀吉は、1580(天正8)年4月、英賀(あが *現・姫路市)落城後、英賀の町人・百姓たちを姫路の山下に召し寄せ(6月19日羽柴秀吉書状「利生護国寺文書」紀伊続風土記)」、10月28には、「龍野(たつの)町(*現・姫路市)に楽市による諸公事役1)の免除などを定めた三ヵ条文からなる制札(「羽柴秀吉禁制」姫路紀要)を与えるなど、新しく城下町建設に取組んでいる」(日本歴史地名大系『兵庫県の地名』P.447)のであった。「楽市楽座」の政策は、秀吉にも受け継がれ、秀吉の部将たちも次々と各地で同様に打ち立てている。
 1582(天正10)年6月、本能寺の変で織田信長が自害(後継ぎの信忠は二条城で自害)すると、織田政権の遺領は秀吉が掌握することとなる。翌天正11年、秀吉は石山本願寺の跡地に巨大な大坂城を建て、ここを拠点として全国制覇に突き進む。秀吉は四国・九州の平定後、さらに小田原の後北条氏や奥州地方をも平定し、文字通り天下人となる。
 この過程の1585(天正13)年5月、秀吉は、本願寺の顕如に大坂天満の地を与えて御坊を建設させ、一向門徒との関係を改善した。しかし、完訳『フロイス日本史』5 豊臣秀吉編Ⅰ〈第二部六六章〉(中央公論社 2000年)によると、秀吉は、「雑賀に移っていた大坂の仏僧(*顕如)に対しては、彼が悪事をなさず、なんらの裏切りなり暴動をなさぬようにと、川向うにあたり、秀吉の宮殿の前方の孤立した低地(中之島、天満)に居住することを命じたが、その住居に壁をめぐらしたり濠を作ることを許可しなかった。顕如はそこに多くの美しい屋敷を構え、その周辺には一つの大きく立派な街ができあがった。それはいずれも彼の宗派である一向宗のものであり、彼は同宗派の首長であった。」(P.54)と言われる。
 寺内町の自治のシンボルとも言うべき「構え」(堀や土居など)は、堺でも破壊された。1586(天正14)年、堺南北荘の濠を埋めることを命じた。秀吉は、堺の軍事的施設を破壊し、純粋な商業地にして、自らに奉仕させることを図ったのである。
 秀吉の寺内町対策は、信長のそれの延長線上にあるものであるが、その意図は1587(天正15)年六月十八日付けの次の史料に明明白白である。

      覚
  (中略)
一(第一条)伴天連(バテレン)門徒の儀ハ一向宗よりも外ニ申合せ候条聞し召され候、一向宗その国郡ニ寺内ヲ立て、給人へ年貢を成さず、?(ならびに)加賀国一国門徒ニ成り候て、国主の富樫を追出シ、一向宗の坊主ともへ知行せしめ、その上(うえ)越前まで取り候て、天下のさハり(障り)ニ成り候義(儀)その隠れ無き事、
一(第二条)本願寺門徒坊主、天満に寺を立てさせ免(ゆるし)置き候、寺内ニ前々の如くニハおおせつけざる候事、
一(第三条)国郡または在所を持ち候大名、その家中の者ども伴天連門徒ニ押付(おしつけ)成り候事ハ、本願寺門徒の寺内を立てしより太(はなはだ)然るべからざる義(ぎ)候間、天下のさハり(障り)ニ成るべく候条、その分別(ふんべつ)これ無き者ハ御成敗せられるべく候事、
            (神宮文庫蔵「御朱印師職古格」所収 大坂城天守閣)

 第一条で、一向一揆が加賀一国はおろか越前までも支配した歴史を述べて、これを「天下のさハり」と断じている。そして、第二条では、今度、天満に寺を立てさせることを許可したが、寺内を「前々の如く」にはさせない、すなわち、自由都市にはさせないと命じている。第三条では、国持ち大名などが家臣などを無理矢理キリスト教に入信させることは、本願寺門徒以上に由々しきことであり、「天下のさハり」となるもので、その場合は成敗されるとした。ここでは伴天連に対し、その活動が天下の障害となる事例として、一向宗門徒のケースを引き合いに出している。それは、いずれも「天下の障り」となり、秀吉の治世の障害となると断じた。従って、秀吉の対寺内町政策は、これまでのような自由都市・自治都市の性格を許さないとした―のである。この政策は、太閤検地によって完遂されたのである。
 羽柴(豊臣)秀吉が、大坂城の築城を開始したのは、1583(天正11)年4月、柴田勝家を越前北庄に攻め敗死させた後の6月2日からである。本格的な築城工事は9月1日から始められ、30余カ国から百姓らが日夜2~3万人も動員された。しかし、秀吉は工事を急ぎ、動員された百姓は5万人近くに膨れ上がった。工事は、翌1584年3月の小牧・長久手の戦い(その後、秀吉と家康の和睦)、1585(天正13)年3月21日から4月26日にわたる根来・雜賀衆との戦い(これで一向一揆の軍事的抵抗が終る)などと、並行して敢行された。
 築城工事は、開始された「三か月後の十一月には、はやくも天守閣の土台が築かれ、本丸・山里丸・二の丸・三の丸、あわせて周囲三里八町(一二・一五キロメートル)の巨大な城が姿をあらわしはじめた。」(『大阪の歴史と風土』株式会社毎日放送 1973年
P.136)といわれる。本丸の天守閣は遅くとも1586(天正14)年に作られており、二の丸は1583(天正14)年春から1585(天正16)年春にかけた大工事で完成し、また1594(文禄3)年春からは大坂城下の町を囲む惣構(そうがまえ)の堀普請も行なわれている。
 巨大な城を築いた地・大坂(石山)の戦略的配置については、「五畿内の中央にして......四方(しほう)広大にして、中に巍然(ぎぜん *山の高大たるさま)山岳なり。麓(ふもと)を廻る大河は淀川の末、大和川(*旧大和川)流れ合ひてその水(みず)即ち海に入る。大小船日々岸に着く事、数千万艘(そう)と云ふ事を知らず。平安城(*京都)へは十余里、南方は平陸にして、天王寺・住吉・境津(*堺)へ三里余り、皆、町・店屋(みせや)辻小路を立て続け、大坂の山下(さんげ *城のふもと)となるなり。五畿内を以て外構(そとかま)へとなし、かの地の城主を以て警護となすものなり。」(「柴田退治記」)と評されている。
 大坂の城下については、史料の関係からあまり明確ではないようである。しかし、秀吉は「伏見・堺の町人を移住させて城下の発展をはかり、東横堀川以東には、すでに島町・近江町・鍛冶町・糸屋町・小人町・杉桁町・鎗屋町・常盤町・両替町・雪踏町・藤森町・愛宕町・聚楽町・上堺町・笠屋町・清水町・木綿町の十七町があったといい、新開の城下は、東横堀川と西横堀川の間を船場(せんば)、西横堀川以西を下船場といった。東横堀川以西は、今橋筋・淡路町筋・本町筋というように、橋筋で呼んだらしい。下船場には阿波の商人が群居した阿波座や、土佐商人の集まった土佐座があり、商業もしだいに盛んになって、京橋南詰には青物問屋が軒をつらねて市場をなし、北詰には鮒売仲間が鮒(ふな)市場を開いて近郊の川魚を売買したが、やがて魚商らは天満鳴尾町から靭町・天満町に移り、生魚・塩魚の区別なくとりあつかった。諸商・諸職の数もかなり多かったものと考えられている。」(『大坂の歴史と風土』P.139~140)と言われる。
 三の丸は完成は1585年とも1598(慶長3)年ともいわれるが、その三の丸の北は、淀川下流の大川(おおかわ)、東は大和川(旧大和川)を境とし、南は空堀(からぼり)、西は東横堀川をもって限りとした。1598年には、天満堀川、1600(慶長5)年には阿波堀川が開削され、西横堀川もこの頃開通した。のちに「水の都・大坂」と言われるようになるが、その原型は秀吉時代の堀川開削で整えられたのである。
 大坂近在では、1583(天正11)年2月に河内国から検地が始められ、1585(天正13)年7月、根来制圧が終ってから和泉地方の検地も始められた。1591(天正19)年になると、摂津国の検地も開始され、摂河泉の検地の大部分は1594(文禄3)年に行なわれた。朝鮮侵略の最中であった。
 交通の便を得て、また近在の農村の発展をうけ、京都とは淀川で結ばれた大坂は、外のどこよりも商業が盛んとなった。諸大名は人口の集中する大坂に競うように米蔵を設け、本国から年貢米を輸送して売買させ、換金したり必要物資を調達した。

注1)公事(くじ)とは税の一種ではあるが、それは実に多様であり、その内容については諸説ある。その賦課主体は、禁中、権門寺社、幕府、地方有力寺院から村落寺院にまで至り、それらの仏神事の費用として徴収された。諸公事の免除とは、この税が免除されることをいう。
 供御(くご)とは、天皇や将軍の飲食物を指し、供御人とはそれを上納するものであり、荘園ごと、あるいは所領ごとに給免(きゅうめん *税を免除されること)田畠や在家(田舎の土地に住居を持つこと)を保証される代わりに、決められた生産物を上納しなければならない。供御人はもともと、上納する生産物を生産・採取した集団成員を指したが、鎌倉時代に入ると、貢進する供御の欠乏が進行するに従い、営業者(交易者)を供御人に任じ課税するようになる。これらの営業税負担者は供御人として営業権を認められ、座(商工民の組合組織)を結成し、営業権の独占を主張する。とともに、供御人としての身分を利用して交通免除の特権を得て、諸国を自由に遍歴して交易を行なった。座公事免除とは、座にかかる公事が免除されることを指す。

Ⅱ 大坂の経済力に眼をつける徳川幕府

 徳川家康は豊臣政権に引き続いて、大坂平野の各所にみられる経済力を評価しそれを利用するために、豊臣氏の滅亡後の大坂に外孫の松平忠明を送り込んだ(忠明の母は家康の長女)。大阪平野などに広がる中世以来の寺内町の経済力は、すでに豊臣政権時代から高く評価されており、家康もこの点を継承したのである。
 忠明は大坂城の再建にとりかかると共に、自らのプランにより、城下町の建設を進めた。
 忠明は、大坂の町の復興に力を入れて、まず大坂の陣で戦に巻きこまれるのを避けて東天満・船場・西船場などから離散した人々を連れ戻し、家屋を作らせた。広大な大坂城地のうち本丸と二の丸を残し、三の丸には新たな市街地を開くことを考えた。そのためには、避難民を戻しただけでは十分でなく、山城の伏見町人などを集団移住させた。また、平野郷(現・大阪市平野区)、堺の住民などをも移住させ、市街地を整備させた。
 市街地整備には、例えば軍事上の見地も踏まえて、(秀吉の計画を継承し)市中に散在する寺院や墓地を集め、寺町を作り上げた。また、堀川の整備も進められ、すでに掘られていた阿波堀・東横川のほかに京町堀・江戸堀・道頓堀(どうとんぼり)・西横堀などを完成させた。江戸時代の大坂の町は、大川(天満川)以南を現在の本町筋を境にして北組と南組に分け、大川以北の天満を中心とする町を天満組と称し、この三組を合せて「大坂三郷」と呼んだ。
 大坂復興の目途がついて、5年後の1620(元和5)年には、忠明は2万石を加増されて、大和郡山12万石に移封された1)。そして、幕府は1619(元和5)年に大坂城代、1623(元和9)年に大坂定番制を創設した。
 大坂城代の職務は、城中にあって大坂城を警衛するとともに、西国大名の監視である。大坂城代の地位は、幕府内では老中・京都所司代に次ぐ重職であり、幕府の信任が厚い譜代の中級大名から選任された。大坂城代の役地(やくち *もともとの封地以外に、その役に就いた場合の俸給)は1万石である。
 城代の次に位置するのが、定番(じょうばん)である。定番は定員2名で、その職務は城代を補佐し、城の警備にあたった。主に、京橋口と玉造口を警備した。
 この他に、大番と加番があった。番とは軍役の意味で、大番は旗本とその子弟で構成された。その職務は、城の警護である。加番は、定番に加勢するもので、1~2万石の小大名が就いた。
 以上とは別の職務として、奉行がある。幕府直属の藏奉行が置かれ、定番支配下の金奉行・鉄砲奉行・弓奉行・具足(ぐそく)奉行・材木奉行(のち破損奉行)と合せ、六奉行と呼ばれた。
 民政の中心は、1619(元和5)年9月に創設された大坂町奉行が務めた。京橋口門外の東西に接したので、東町奉行所・西町奉行所と呼ばれた。大坂町奉行には、3000石前後の旗本が就任し、配下には与力・同心がいた。
 大坂の市街地は「大坂三郷」と呼ばれたが、惣年寄が市政の実務を担当した。各町の町政は町年寄が担った。大坂城代や大坂町奉行所からの触(ふれ)は、惣年寄に伝達され、惣年寄は惣会所で惣代および町年寄に伝達した。惣年寄の職務は、この触などの伝達の外に、町年寄などの任命、諸役徴収、公事(くじ)訴訟の調査・上申などである。
 惣代は、市中の各組から扶持銀(ふちぎん)を与えられ、惣年寄を補佐し、組の事務に専従する。惣代は元来は町代と呼ばれた。町代は番所に昼夜勤めていたが、町人が町奉行所に提出する願書を代書させるようになったため、それを専門に扱う者ができ、これを町代と呼ぶようになった。町代は町奉行所の仕事も手伝うようになり、多忙となる。そこで事務仕事などに精通する者を雇いいれて、奉行所に差し出したのが惣代と呼ばれるようになった。この惣代は惣会所に住み、手代や物書きを使うようになった。
 各町には、町年寄と町代がいる。町年寄は名誉職だが、公役・町役を免除され、若干の祝儀を受けた。その職務は、触書などを町内に伝達すること、地子・役銀の徴収、水帳絵図(町全体の屋敷地の台帳となる絵図面。これに登録された者が町人として町の「自治」に参加した)などの書類作成・保管、町内式目(町内の取り決め・掟)管理、家屋敷の売買譲渡証文(町の土地は農地と異なり、売買が許された)への証人としての加判、訴訟の調停、請願書への捺印(なついん)、町の清掃など、多岐にわたった。
 町年寄を助けて町政事務をとったのが町代である。町代は、公事訴訟の代書も行なった。 
 貸家の管理人が家守(やもり)であり(落語に出てくる大家さん)、家守は準町人の資格を持つ。家屋敷を町中に所有する者を町人というが、町人は公役・町役を負担した。公役とは、大坂町奉行所や惣会所の経費・消防費など、諸費用を負担することであり、町役とは、各町の町会費用や橋普請の費用など、町の運営費を負担することである。町人や家守は町政に参加できたが、借家人は参加できなかった。
 大坂城を中心とする幕藩制的所領の配置は、「概括的にいえば、大坂城を中心にその周縁一〇キロ圏内の東成・西成・住吉三郡(現大阪府)を幕府領・旗本領で固め、その周縁一〇~二〇キロ圏内、すなわち淀川を渡った川辺郡(とくに南半の口川辺の地域)・豊島(てしま)郡(現大阪府)内において譜代大名の大坂城代と大坂定番大名に飛地を与えた。......」(日本歴史地名大系『大阪府の地名』P.74)のであった。
 幕府はさらに享保期(1716~36年)以降、8代将軍吉宗の血筋を引く御三卿の家を興し、幕府領の多い摂河泉に所領を配置した。田安家は1746(延享3)年、摂津・和泉などに計6カ国で10万石の所領を与えられ、翌年にも和泉大鳥郡約30カ村1・3万石余が給された。一橋家も、1747(延享4)年に和泉国など6カ国で10万石を与えられた。清水家も、1762(宝暦12)年、和泉国25カ村など含めて10万石が与えられた。
 幕末の摂津国(西摂を除く)8郡、河内国16郡、和泉国3郡は、幕府直轄地を除外すると、高槻・麻田・丹南・狭山・伯太・岸和田の在地大名6藩(城下町があったのは岸和田藩と高槻藩のみ)、それに他国に本拠地を置く芝村・郡山・小泉・小田原・下館・淀・土浦・飯野・古河・高徳・関宿・館林・沼田・半原・加納・神戸・膳所・西王路・三上・岡田・浅尾の各藩飛地領21、旗本領76、御三卿領21、宮・堂上家領および寺社領51に分割されている。きわめてまとまりがなく、複雑に入り組んだ支配構図になっている。
 錯綜した領主領は、「摂津国豊島郡ではもっとも著しく、村々はすべて二人ないし四人の領地・知行地に分割された。幕末の同郡八二カ村は代官支配の幕府直轄地四九カ村、三卿(徳川氏分家の田安・一橋・清水の三家)のうち一橋家領が一九カ村、大名領が麻田藩領一五カ村、半原(はんばら)藩領一四カ村、岡田藩領一カ村、旗本知行地は三六カ村にわけられているが、たとえば原田村の場合、幕府直轄地・一橋家領および旗本の船越氏・鈴木氏知行地に四分割され、同村の『村明細帳』には、『まことに碁石を打ち交ぜ候よう』な入組支配であると記されている。」(『大阪府の歴史』山川出版社 1996年 P.202)のであった。
 摂河泉での所領が複雑に入り組んだのは、同地が江戸から離れており(しかし、経済的には重視しなければならない)、しかも朝廷が近くに居り、外様大藩など「敵対勢力」に影響されないかと警戒して、幕府は大藩を置かなかった訳である。だが、それは他面では、その地の支配や年貢の徴収にはきわめて不便であった。しかし、このことは逆に被支配側の農民などにとっては、(不便な面もあったが、)巨大な藩支配の下に置かれずに、人民が団結さえすれば幕藩権力に抵抗しやすい面もあったのである。
 村方には、庄屋・年寄・百姓代の村方三役が村政を担った。庄屋の仕事は、村の行財政全般にわたった。上からの触などの伝達、年貢の割り振り・徴収、戸籍の管理(宗門人別帳)、諸帳簿の管理、訴訟関係の事務などである。庄屋は、通常、村に一人であるが、大村では、2~3人である。
 年寄は、庄屋に次ぐ存在であり、庄屋に準じた仕事をした。庄屋が病気や不在のときは、代理を務めた。
 百姓代は、実質的に庄屋の相談的役割を果たし、諸書類には年寄同様に連印した。

注1)松平忠明が大坂を領有していた時、大阪城内には幕府米蔵があり、その出納管理は幕府の国奉行が握っていた。江戸時代初期の頃、近畿地方などでは国奉行が置かれ、主従制原理の封建制的支配と並行して、国家的単位の支配も行なわれていた。国奉行の職務は、国絵図・一国郷帳の作成管理、知行割り、国家的夫役(ぶやく)の賦課などである。摂津・河内・和泉の国奉行は、片桐市正であった。国奉行の制度は、17世紀後半になると、大坂城代(同じく京都所司代や伊勢国の山田奉行などにも)などの行政機構に解消され、国奉行の呼称も消滅した。

Ⅲ 近世初頭の開発急増とイエの増大

(ⅰ)新田開発による耕地拡大

 歴史的に経済を発展させ、その蓄積をもつ摂河泉でも、近世の主産業である農業の生産力は目覚ましく発展するとともに、農業経営体が大きく変化した。その背景には、新田開発の急増がある。
 近世初期は、日本史上最大の耕地拡大の時期である。「戦国末期から近世初頭、ほぼ慶安(*1648~1652年)・寛文期(*1661~1673年)ころまでの約一〇〇年間は、......耕地面積が約三倍にもなる」(体系日本史叢書7『土地制度史』Ⅱ P.159)、特異な時代である。図表1(『土地制度史』Ⅱ P.28)によると、1450年頃(足利義政が将軍就任の直前)を100.0とすると1720年頃には3倍超となっている。

   図表1 耕地面積の増加           
            耕地面積     比率
 古代   930年頃   86.2千町歩   91.1
 中世   1450年頃   94.6 100.0
 近世 1600年頃 163.5 172.8
1720年頃 297.0 313.9
 近代 1874年頃 305.0 322.4

 耕地面積ではないが、尾張藩の新田開発もまた、図表2が示すように急角度で伸張している。
  図表2  尾張藩の近世初期の新田開発         
              尾張国総高    尾張国新田 
 1608(慶長13)年   47.2345万石 
 1635(寛永12)年    1.7848石           
 1645(正保2)年             4.2209
 1654(承応3)年 5.6734
 1671(寛文11)年 7.8435  
 出典)大系日本史叢書7『土地制度史』Ⅱ P.160
 
 近世初期の耕地増加は、主として幕藩権力の勧農政策(大土木・水利事業など)によるものであった。
 その最たるものが、利根川水系と荒川水系の治水を柱とする関東平野の開発・新田開発である。「荒川と合流して江戸湾(東京湾)に注いでいた利根川を、分水界の反対側である太平洋に直結する現在の水路に改造する開発は、文禄3(1594)年に始まる。承応3(1654)年には利根川本流が銚子に移され、寛文6(1666)年に新利根川の開削が完了し、現在の水系が構築された。利根川の氾濫から切り離された江戸では、埋立による平地の造成と合わせて、旧河川を利用した運河網や堀が整備された他(ほか)、元和期(1615~23)に上水道水路として新たに開削された神田川や、同じく上水道として承応2(1653)年に通水した玉川上水が整備された。さらに、人工的な管理の下に置かれた利根川、荒川の新旧流域においては大規模な新田開発が進められた。」(萬代悠・中林真幸著「近世の土地法制と地主経営」―岩波講座『日本経済の歴史』2近世 P.158)のであった。
 同じように、城下町を建設しつつ、大河川の大規模治水工事によって沖積平野に新田を開発する事業は、17世紀後半の寛文期に頂点を迎えたと言われる。たとえば、「津軽藩による岩木川水系の開発......、伊達藩による北上川水系の開発......、木曽川下流域における尾張藩の開発......等、幕府や大藩が大河川両岸を支配する地域においては、治水工事と沖積平野の新田開発が一体的に行なわれた」(同前 P.158)のであった。
 もっとも近世の農業生産力の発展は、それとともに農民自身による農業技術の発展がもたらしたものでもある。
 農業技術の発展は、たとえば、かつての草木の刈敷やし尿の利用から干鰯(ほしか)・油粕・鰊粕など金肥の投入による土地生産力の向上、品種改良による早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)への分化、あるいは土地・気候に合わせた新品種開発などで稲収量の増加、千歯(せんば)こき・唐箕(とうみ)・千石(せんごく)どおしなどによる脱穀や選別過程の省力化、深耕に適した鍬の改良など―である。
 大坂の周辺農村でも、江戸時代前期には開発が大いに進んだ。現・豊中市、吹田市などで新田村ができたが、特に17世紀に末に、河村瑞賢による淀川治水工事が行なわれ、安治(あじ)川の開削が進み、新田開発が行なわれた。その結果、大坂市中では、堂島(現・北区、福島区)、安治川(現・福島区、此花区)、曽根崎(現・北区)、堀江(現・西区)の新地ができた。淀川の河口でも、豪商の資金によって、土木技術が駆使され、開発が進められた。「元禄一五年(一七〇二)の検地では、市岡(現・港区)・春日出(かすがで *現・此花区)・泉尾(いずお *現・大正区)など約六〇〇〇町歩・四千余石の新田が成立した。その後も干拓などによる新田が生れ、現在の大阪市西淀川・此花(このはな)・港・大正・住之江(すみのえ)各区に広がる広大な地域が形成された。宝永元年(*1704年)大和川付替え工事が行われ、河内の旧河道に新田が開かれるが、摂津でも東成郡・住吉郡では、旧河川での洪水禍の防止、水量の減少などがあり、新河道では耕地が河川敷になるなどの影響がでた。」(『大阪府の地名』 P.64)と言われる。
 大坂湾に注ぎ込むいくつかの大きな河川の川口での新田開発は、おおざっぱに言うと、元禄期(1788~704年)、宝暦・明和・安永期(1751~1780年)、文政・天保期(1818~1844年)が画期をなしたと言われている(大阪市史編纂所編『大阪市の歴史』創元社 1999年 P.177~178)。
 なかでも大和川の大規模付替え工事もまた、新田開発に大きく関わった。
 河内平野の中央部は、東南に高く西北に低い地形のため、大和から河内へ出た大和川は、柏原で南部から北流する石川を合わせ、ここで北折して二俣で久宝寺川(長瀬川)と玉串川(玉櫛川)に分れ、玉串川はさらに英田で吉田川と菱江川に分れ、吉田川は深野池・新開池に入ったのちに西進してふたたび菱江川と合流し、さらに森河内で久宝寺川、京橋で平野川と合し、淀川に入った。これが古(ふる)大和川の流路である。
 しばしば起きる大和川の洪水は、半世紀以上に渡る庄屋・甚兵衛とその子孫らの困難な運動の結果、ようやく1704(宝永元)年10月に完成する。
 大和川の付替え工事は大規模なものであり、延長7920間(14・34キロ)、幅100間(181メートル)にわたり、新田は反別にして1063町8反余、石高にして1万954石余を生み出した。総工費は7万500両余で、うち3万7500余両は幕府負担、3万4000両は助役(御手伝普請)の諸大名負担となった。
 開発された新田は、「その数四八、内訳は古大和川筋四、久宝寺筋一〇、玉串川筋三、菱江川筋一、吉田川筋二、楠根川筋一、平野川筋三、深野池八、新開池五、池沼八、池床三となっている。このうち開発者の出自の明らかな三十六新田について開発主体を類別してみると、町人負担新田(推定とも)七五%、農民請二二%余、寺院請二・八%であった。これらの新田の開発は宝永二年(*1705年)から進められ、三年間の鍬下年季(くわしたねんき *年貢免除期間)を経て同五年から年貢を徴収された。新川床や堤敷となった潰地(つぶれち)二百七十町歩余に対しては、二百七十四町九反歩余の代知(*替え地)が狭山西除・東除古川床ならびに味右衛門池南側で下付され、年貢の徴収は他の新田に準じて行なわれた。」(『大阪の歴史と風土』株式会社毎日放送 1973年 P.466)のであった。(《補論 大和川の付替え工事と新田開発》を参照)
 新田の石高と面積などは、以下の通りである。

図表3 新田面積と新田石高
       開発予定面積  入札地代金    新田石高    新田面積
長瀬川筋    301町余    8277両    2745石余    281町余
玉串川筋    114町余    3422両余   1027石余    102町余
菱江川筋     48       720   456 44
吉田川筋 36 630 441 45
新開池床 207 11902 2597 240
深野池床 281 11240 3113 276
楠根川筋 14 280 150 13
西除川筋 16 320 151 19
東除川筋 6 123 ―       ―
大乗川筋     0.38 11      ―       ―
依網池  5 200 20 5
                   (出所:『大阪府の地名』P.40)

 大和川の付替えは、今までこれを用水としてきた流域の村々にとっては水源がたたれることを意味する。そこで、「旧河道に井路川(いじがわ)を残し、築留(つきどめ)など石川との合流点に数個の樋(ひ)を設けて下流の村々を潤すこととなった。築留樋は一番樋から三番樋まであり、これらから取り入れた水は二俣分水で東西の両用水井路に分たれ、東井路筋二十五カ村、西井路筋五十三カ村の灌漑用水をまかなった。恩地川と平野川筋にもそれぞれ用水組合があって、恩地川用水組十五カ村は白坂樋と八尺樋から、青地樋組二十一カ村は青地樋・井手口樋から水を引いた。かくして用水引用の体系は一おう整えられたが、付替え以前から水旱両難の場所であったこの地域の用水事情が、細い井路川の新設によって改善されようはずはなかった。樋元に近い上流村々は乏しいながらにもまだ用水に恵まれていたが、下流の村々になると『三里川上築留?(より)来り候得者(そうらへば)、少々の旱魃ニても用水一切下り申さず』(『新家村明細帳』天保三年)というような状態であった。水不足に対処する手段としては、以前から採られてきた井戸水灌漑があった。大和川の水量は多くなかったけれども、伏流水には恵まれていたところから、とりわけ古(ふる)川床その他に開発された新田では、多くの井戸を掘って旱魃に備えた。」(『大阪の歴史と風土』 P.466~467)のである。
 1000町歩余の新田の多くは、河道に開かれた砂地の畑が多かったため米作に適さず、一般に井戸水を補助として綿の栽培が行なわれた。もともとの田の綿作率が40~60%に対して、新田ではさらに90~100%へとなった。
 新田開発は、新大和川の河口部でも盛んとなった。付替えられた新たな大和川が運ぶ土砂が堺港に堆積し、新たな開発対象地となったのである(もともと堺海岸は暗礁が多く決して良好な湊地とは言えなかったが、新大和川によって土砂が流れ込み港としての機能は衰えていった)。
 新田開発は、他方で、堺などの近郊の農村部では深刻な問題を生み出した。百姓たちの新田への移住で人手不足が露呈するのであった。(詳しくは後述)

 《補論 大和川の付替え工事と新田開発》
 近世の摂津国8郡、河内国16郡、和泉国4郡には、淀川、大和川、石川、平野川、寝屋川など多くの河川が流れ、農業用水、生活用水に利用されるのみならず、人や物資を運ぶ水運として調法(重宝)された。
 しかし、その反面には、大風雨の際には大洪水という厄災をもたらした。大阪平野では古代より水害が多かったが、「一七世紀になっても、元和六年(一六二〇)から貞享二年(一六八五)の六五年間に一二回の洪水があり、うち八回は玉串川水系(*旧大和川流域の一部)のものであった(大和川付替工事史)。」(『大阪府の地名』P.39)といわれる。
 旧大和川もしばしば大洪水をおこし、河内の被害は甚大であった。そこで、今米村(いまごめむら *現・東大阪市)の庄屋・九兵衛は同志とともに、大和川の支流である石川と大和川の合流点付近(*現・柏原市片山町と藤井寺市船橋町の境)から西方に流す水路を作り、堺港に水を落とす工事計画を立て、沿川諸村を説得した。だが、新川筋にあたる村々では反対が激しく、九兵衛は1656(明暦2)年に死去する。久兵衛の志は、長男太兵衛、三男甚兵衛に受け継がれ、以後、半世紀に渡って困難な運動がつづけられた。
 甚兵衛らの粘り強い嘆願運動に対し幕府もついに折れ、1671(寛文11)年、一部に杭木の打ち込みを始めた。しかし、新川となる予定の29カ村の村人は、祖先から受け継いだ田が無くなるとか、今まで以上に水害が起こるとかいって、断固として反対した。このため、付替え工事は失敗した。
 1674(延宝2)年6月、淀川、大和川が氾濫し、畿内はまたもや大洪水となった。その様子を『延宝録』は、次のように描写している。「十四日、河内国仁和寺堤切れ、淀川、河内に押込(おしこみ)申し候。同日、河内かしわら(柏原)きれ(切れ)申し候。河内・堺・和泉まで一面に淵(ふち)成り申し候。同十五日ニ福島きれ(切れ)、摂津国田畑残らず淵ニ成るなり。河内国、上ハ平方(枚方)、下ハ大坂、東ハ山のねき(*山のきわ)、南ハ和泉まで残らず水入り、田畑もこれ無く候。」(『大阪府の歴史』山川出版社 1996年 P.216 から重引)と。
 1675~76(延宝3~4)年もまた、洪水が連続した。このため甚兵衛らは、大和川の付替えの嘆願を繰り返した。しかし、新川筋にあたる29カ村もまた、反対の嘆願を行なった。その反対理由は、「(一)新川の川床になる田地が多く、古川床・深野池・新開池を開発しても、得られる新田はわずかである。(二)北流している川が新堤に堰止(せきと)められて、洪水になる。(三)瓜割村(現・大阪市平野区)、山之内村・杉本村(現・大阪市住吉区)の辺りは二丈(*約6メートル)も掘らねばならず、難工事である。(四)古川筋は流水量が減少し、若江郡・渋川郡(*ともに河内国)旱損場となる。(五)新川より北は狭山池(*現・大阪狭山市)の水がもらえなくなる。(六)六つの街道が切断され、交通が不便となる(『松原市史』)。」(『大阪府の地名』P.39)というものである。
 幕府は、1684(貞享元)年に河村瑞賢ら専門家を派遣し、数十日間、大坂市街とその近辺の調査を行ない、2月から改修工事が始められた。淀川河口の南北3・78キロ余の九条島を掘り割って新川を作り(安治川の改修は翌年12月に完成)、貞享3年には淀川と旧大和川の合流点(大坂城の北側、京橋)の川幅を拡張して中津川・神崎川の水路を改良した。さらに曽根崎川・堂島川も改良し、大坂市中の諸河川が改修・整備された。
 淀川を改修した河村瑞賢もまた、大和川の付替え工事については新大和川から流れ込む土砂が大坂川口を高くし、諸国の船の出入りに支障を来たすことを恐れ、賛成ではなかったようである。
 1685(貞享2)年、大和川はまた大水となり、深野池や新開池は土砂で埋まるほどであった。この事態に、甚兵衛や太兵衛らの付替え運動は、ますます盛んとなった。
 1687(貞享4)年、上方代官として万年長十郎が就任した。かれは甚兵衛の主張を理解し、積極的に幕府にとりつぎ、ようやく1704年(元禄17年=宝永元年)2月から、大和川の流路付替え工事が開始されるようになった。新しい川筋となる村々や水運業者らの反対もあったが、工事は急速に進められ、同年12月には竣工した。
 それは工事によって、新たな投資機会(新田開発)を見出した大坂の町人たち(高利貸し)の後押しがあったからである。1705~08(宝永2~5)年にかけて、旧大和川筋や、深野池・新開池で次々と新田が開発され、その広さは約1063町歩(約10・5平方キロ)に及んだ。そのうち主なものは、菱屋岩之助の開いた菱屋東新田・田中新田・同西新田、河内屋源七の開いた河内屋南新田・同北新田、川中新田、柏原仁兵衛の開いた柏原新田などである。とりわけ有名なのは、大坂の鴻池一家により開拓された鴻池新田(約200町歩)、東本願寺が主として開発にあたった深野新田(約200町歩)である。深野新田は、後に、鴻池らの手に移った。

(ⅱ)農業経営体(イエ)の変化

 農業生産力の発展は、隷属農民自身の自立化への願いや闘いとあいまって、旧土豪層の系譜を引く大農の経営体を変化させた。かつての土豪・地侍は、豊臣政権の兵農分離で武士となって城下町に集住した層と、農村に残って農民に帰った層に大きく分かれた。
 その内、後者は、帰農して手広く農業経営を行なったが、一方で、家内下人(家内奴隷)や兄弟など親族を使った手作り経営と、他方で、「自立」した下人や高持の小百姓へ余った農地を貸し付ける小作経営を行なってきた。
 しかし、農業生産力の発展と耕地の増加を背景に、手作り経営をともに担ってきた親族の分家、それに続いて家内下人の「自立化」で、旧土豪の大農層の手作り経営部分は縮小し、残りは小作人による経営に移行する。また、残った手作り経営での労働の担い手は、家内下人などから出替(でがわわり)奉公人に移っていった。ただし、出替奉公人1)といっても、依然として隷属性は強く、奴隷労働に近いものもあり、18世紀中葉でも、多くの出替奉公人の年季(契約で定めた奉公の期間)は長く、出身地も遠く、給料も極めて低いものであった。これが変り、一年季・日雇いなどの短期契約で、給料も比較的に高くなるのは、18世紀末から19世紀にかけての頃である。また、「自立化」したかつての家内下人の層も、わずかな自作地・小作地しか持てず、少なからずの者が没落・離村していったのである。2)
 旧土豪の系譜を引く大農からの小百姓の分出が顕著にみられたのは、畿内である。他の地方では分出が少なかったり、あるいは分出したとしてもかつての主人である大農への隷属は強く残った。親族で分家した者でさえ、本家への隷属は簡単には払拭できなかったのである。
 畿内でのイエ経営体の増加を、史料が比較的に残存する和泉国大鳥郡上神谷(にわだに)豊田村(現・堺市)のケースを素材に以下、検討してみる。図表4は、戸口の変遷である。

図表4  豊田村戸口の変遷
   年次         家数(A) 人数(B)  B/A  
1604(慶長9)年    48 ―      ―
1644(寛永21)年   43     380     8.83
1649(慶安2)年    53     339     6.40
1662(寛文2)年    65     479     7.37
1696(元禄9)年    99     561  5.67
1704(宝永1)年    144     602     5.28
1721(享保6)年    117     602 5.15
1736(元文1)年    118     595 5.04
1755(宝暦5)年    115     543 4.72
1776(安永5)年    120 540 4.50
1788(天明8)年    120 539 4.49
1800(寛政12)年   112 531 4.74
1822(文政5)年    110 520 4.73
1834(天保5)年    109 493 4.52
1860(万延1)年    98 479 4.89
1866(慶応2)年    105 459 4.37   
出所:『堺市史』続編第一巻 P.633

 図表4をみると、人数は大きく増大し、18世紀前半には最も多い602人となる。家数も17世紀半ばごろから増えはじめ、天明期までは増加しつづける。その後、やや減少し、100家族前後で停滞する。この結果、一戸あたりの平均家族数は、1644年から1696年に、8.83人から5.67人へと減少している(18世紀後半には4.5人前後へと更に減少している)。17世紀半ばから、約1世紀余におよぶ家数の増加は、明らかに小家族の分立によるものである。
 1602(慶長7)年の豊田村の名寄帳には計42の経営体が確認されるが、水林彪著『封建制の再編と日本的社会の確立』には、その内の24イエを適宜選んで、その変遷を表にして掲げてある(P.208)。
 それによると、豊田村農民の経営体は、その階層の区別なく、分家がなされ、経営体としてのイエが増えている。太閤検地の頃(1590年代)、豊田村で20石以上の土地を所持する上層のイエは、小谷(95・17石)、神田(53・58石)、南太夫(36・55石)、北大夫(28・39石)、藤五郎(24・49石)、宗五郎(23・26石)、大下(21・23石)である。この内、藤五郎以下の3イエは、「杣(そま)」(木こりを中心とした兼業農家)と身分表記されていた。
 最大の所持者・小谷家では、1662(寛文2)年の名寄帳3)で、当主・治太夫が77石(約数で示す。以下同じ)に減じ、新屋が分家し47石となっている。1773(安永2)年の名寄帳では、その新屋家から左平太が3石で分家している。(新屋は、経営が悪かったのか、6石に減少している)
 小谷家に次いで所持地が多い神田家も、1662年名寄帳で、当主・理兵衛が28石に減じ、三十郎が分家し19石となっている。1773年の名寄帳では、神田当主の経営体は消滅し、三十郎家を受け継いだ作右衛門も3石に減じている。明らかに、没落である。
 南太夫家は、1662年名寄帳では、当主・喜左衛門が24石に減じ、南右衛門と太兵衛が分家し、ともに8石の所持となっている。喜左衛門家は1773年名寄帳では、喜左衛門2石(隠居分家か?)、吉左衛門(26石)、治兵衛(11石)、善兵衛(4石)と、分化が続いている。同じく太兵衛家では、弥三郎(9石)、六右衛門(14石)と分化が続いている。 
 北太夫家は、1662年の名寄帳の段階で、経営体としては消滅している。
 藤五郎家では、活発な分家が行なわれている。1662年段階で、当主・藤兵衛が21石で、二郎左衛門(13石)と清右衛門(14石)が分家している。1773年段階では、当主・小兵衛が所持地を増やし32石となり、長右衛門が3石で分家している。同年段階の二郎左衛門家では、権右衛門が当主として22石に増やし、しかも善右衛門(5石)、嘉左衛門(4石)が分家している。
 宗五郎家では、1662年段階で、藤五郎が21石で受け継ぎ、長兵衛と久左衛門がともに11石で分家している。
 大下家では、1662年段階で、受け継いだ弥三兵衛が10石となり、太郎右衛門は分家し9石となっている。
 上層7家以外でも、分家は行なわれている。二、三の例を挙げると以下のよになっている。1607年名寄帳で17石の所持とされた「ため川」家では、1662年段階で当主と思われる喜右衛門が17石で、与三が3石で分家している。同家では1773年段階では喜右衛門4石、一郎右衛門19石、仁左衛門6石となっている。一郎右衛門がイエを引き継いだとみられる。3石で分家した与三家も、1773年段階で、小右衛門5石、喜一郎0・2石と記載されており、かなり小規模な分家が行なわれている。
 1607年名寄帳で12石の所持とされた「観音寺」家では、1773年段階で、二郎右衛門と八右衛門が共に1石の所持で記載されている。これは困難な経営を強いられたものとみられ、両方とも困窮化しているとみられる。1662年段階の名寄帳では当主の市左衛門の所持は未だ12石であったからである。
 1607年の名寄帳では、8石の所持とされた「宗五郎」家では、1773年段階で、市兵衛32石、太郎兵衛1石の所持となっている。「宗五郎」家は、約4倍にも所持地を増やし、極めて繁栄し上昇したのであった。
 1607年の名寄帳では、6石の所持とされた「次衛門」家も、極めて上昇している。1662年段階では、次右衛門7石であったのが、1773年名寄帳では、与二兵衛28石、治右衛門11石と共に(分家時の所持高がいくらかは分からないが)、所持地を大幅に増大させている。
 以上をみると、上層の経営体での分家が活発だが、しかし、分家した経営体のほとんどが零細経営である。上層以外の分家でも零細経営がみられるが、しかし、急速に所持地を増大させた「宗五郎」家や「次衛門」家の子孫も見ることができる。下人の中でも、稀な例として小谷家の下人であった新介(1662年時点で4石)のように高持になった事例もある。
 ただし、水林彪氏の作図で登場した経営体は、豊田村の約半分強であるが、その中でも、没落し消滅した経営体が目立つのである。上述したように上層農家である北太夫家は、1662年名寄帳では消滅している。上層農家以外でも、1607年段階の「衛門二郎」家(19石)、「弥二郎」家(12石)、「与二郎」家(10石)が、早くも1640年名寄帳では消滅している。同じく「新太夫」家(12石)は1662年段階で、「源五郎」家(13石)は1772年段階で、それぞれ消滅している。以上は、いずれも中堅規模の農家の消滅である。もちろん、小規模農家でもいくつか消滅している。1607年名寄帳の「与二郎」家(2石)、「弥一郎」家(2石)、「祐玄」家(0・5石)は、いずれも1662年名寄帳では消滅している。
 だが、名寄帳には登場していない(つまり、無高の水?百姓)が、上層農家などから「自立」した新たな経営体の存在を見落としてはならない。
 小酒井大悟著「所有・経営からみた土豪の存在形態とその変容過程」(渡辺尚志編『畿内の村の近世史』清文堂 2010年)によると、1644(寛永21)年時点で、豊田村42家の内、9石以下の高持農家では、下人は抱えていない。10石から20石の所持農家では、わずか4軒が下人を抱えるだけで、残りの14軒は零である。20石以上の5家では、すべてで下人を所持している。
 小酒井氏の論文の表から下人所持の家だけを抜き出すと、以下の図表5の通りとなる。

 図表5  豊田村の寛永21年の下人所持   
 名前      高(石)   下人  下女 
小谷       75.488 13 11
左太夫(新屋)  46.83 13 12
長二郎(神田)  26.745 5 4
藤兵衛      20.631 6 4
藤五郎      20.295 1 3 
小計               38 34 
新左衛門     18.219 1 0
惣左衛門     11.718 1 0
九兵衛      11.675 1 0
久左衛門     10.938 4 2 
小計               7 2 
合計               45 36 

 小谷家の下人は、近世初期、家内奴隷的存在として、主家と同一の家屋か、あるいは長屋に居住していたと思われるが、「寛永二十一年(*1644年)時点では、小谷家の下人総数のうち半分にあたる一二名が、家持下人(*主家とは独立した屋敷を持たされている)とその家族だったことになる。残り一二名は、一組の夫婦が認められるのを除くと、個別的に存在し、主家と同一の家屋に住まわされていたとみられる。ただし、残りの一二名には、比較的若い者が多く、家持下人の家族成員である者が含まれる可能性もあるが、特定・判断は困難である。」(小酒井大悟前掲論文 P.143)と言われる。
 そして、小谷家の経営は、約半分が血縁家族や被官・下人で耕作される手作り地であり、残りの約半分が小谷家の被官や一般の百姓の小作地としてなっていたのである。
 だが、鷲見等曜著「徳川初期畿内村落構造の一考察」(『社会経済史学』23―5・6 1958年)によると、元禄7年(1694年)段階では、小谷家の下人はすべて、家持下人とその家族成員(合計65人)となっていると、言われる。下人の隷属度は一歩緩和されたのである。そして、この中から独立した経営体を持つ下人も成長する。
 小酒井論文によると、小谷本家の下人である仁介や源四郎、分家・新屋の下人である善七などが、独自の経営体を持ったといわれる。
 こうして、イエの確立が一般農民はおろか隷属度の高い下人層にまで広がり、厳しい生存競争の中で勝ちぬいた経営体が、継続して生き残ったのである。イエが広範な百姓家で確立することなくしては、後の農民層分解もそもそも成り立たないし、普通地主・小作関係もまた成立しないのである。
 もう一つの事例として、上瓦林村を検討する。摂津国西部(西摂 *現・兵庫県)に南北に武庫川が流れるが、武庫川右岸(西側)の、武庫川とその分流である鳴尾川・枝川・申川(さるがわ)がつくる三角州上に鳴尾村(摂津国武庫郡に属す *現・西尾市)がある。この鳴尾村に接して北側に瓦林(かわらばやし)地区がある。この地区は近世に三つの村に分れ、北から上瓦林(かみかわらばやし)村・瓦林村・下瓦林村と連なる。
 武庫川下流域には、戦国時代、百間樋(ひゃっけんび)用水などが開削されたが渇水期の水争い、雨期の洪水は無くならなかった。しかし、近世初頭、武庫川(むこがわ)の連続堤が築かれ、悪水抜きの新堀川が掘削され、久右衛門新田・助兵衛(すけべい)新田・五郎右衛門新田・荒木新田などが次々と開発された。下瓦林村地内にあった久兵衛新田(成立は寛永14〔1637〕年)は、その後、下新田村(下瓦林村の北東)となるが、それは遅くとも元禄期とみられる。
 この地方の17世紀の家族構成がどのようなものであったかは、正確にはわからないが、比較的古い史料に、万治2年(1659)年1月の上瓦林村の「亥ノ年宗旨人改帳」(尼崎藩領)がある。
 これによると、当時の上瓦林村の家数は合計で56軒あって、その内訳は、庄屋1軒、本役人21軒、半役人3軒、隠居13軒、後家3軒、から在家2軒、寺宮2軒、ありき・かみゆい2軒、神主1軒、下人家持8軒となっている。
 ここでいう「本役人」「半役人」「柄在家(からざいけ)」とは、『兵庫県史』第四巻によると、「本役人・半役人は、この村(*上瓦林村)でいえば、慶長十六年(一六一一)に実施された検地帳において田畑だけでなく屋敷地をも登録されている本家格の農民である。名請地の高に応じて課される年貢とともに、屋敷地単位に課される夫役(ぶえき)をも負担する身分の家である。本役人は一軒前、半役人は半軒前の夫役を負担した。本家格の家で身体限り(*破産)し、夫役負担能力を失って役人身分から転落した者が柄在家である。」(P.117)とされる。
 役人(夫役などを担う百姓)が負担する諸役は、一般的には、陣夫、公儀普請、川除け・道・橋の普請、参勤の伝馬継ぎ、大坂売米の蔵出し人足などである。諸役の割付けは、各家の高ではなく、役人家の数で行なうもので、その際、本役人が一、半役人が〇・五の割で均等に行なう。
 ここで言う「隠居」は、「本家から田畑や場合によって下人も分与されて、いちおう本家と別個に経営をおこなっているが、屋敷地を持たず本家の屋敷地内に分居している分家=隠居」(『西宮市史』第二巻 P.121)である。「隠居」とは、分家のことなのである。
 当時の「隠居」とは現代人が想像するようなものではなく、「親すなわち隠居のほうが次男以下を連れて分家するのであり、かつ財産=土地も長子と分割して所持している。また隠居が長子と分割して所持する土地は隠居がなくなれば普通そのあと次男に譲られ、相続をうけた次男も身分としてひきつづき隠居と称する」(同前 P.124)のであった。 
 この両者の社会関係は、次のようである。すなわち、「この本家にあたる役人の家と分家にあたる隠居身分の家との間には強い従属関係はみられない。そればかりか田畑を分割するとき、役人の家(本家)と隠居の家とが持高(もちだか)をほとんど半分に分けあっていることが多い。そのうえ下人まで分けあっていることすらあって、隠居が本家と高を別に持つだけでなく、まったく別個に農業経営をおこなっていることも明白」(同前 P.125)である。 
ただ、分家の与えられた分余地が零細な場合は、その土地だけでは生活できないので、本家やあるいは他の百姓家の土地を下作(小作)しなければならない。また、本家と分家の所持地が零細の場合は、共倒れになることもあり得るのである。
 であるが故に、幕府は1643(寛永20)年3月に、田畑永代売買禁令を発し、1673(寛文13)年ころには、分地制限令(百姓が所持する持高が10石以下の場合、みだりに分割していけないとする法令)を発しているのである。繰り返し分家を輩出して、本家も分家も没落してしまっては、収奪対象の本百姓が無くなってしまうからである。
 図表6は、万治2年の上瓦林村で、下人を抱えている農家の家族構成をみたものである(『西宮市史』第2巻 P.115から抽出作成)。

図表6  下人を持つ農家の家族構成(上瓦林村)                  
名前       血縁の家族       血縁計  家内下人  家持下人   下人計
     夫婦・子 既婚の子夫婦 弟夫婦                       
市兵衛   7 2  9 8(0) 5(10) 13(10)
孫左衛門 6 6 5(0) 0 5(0)
助左衛門 8 8 0 1(4) 1(4)
孫右衛門  8 2 10 6(5)  2(3) 8(8)
新右衛門  4 4 3 0 3(0)  
道寿    3 2 5 1(2) 0 1(2)
八右衛門  5 5 0 1(3) 1(3)
平右衛門  4 4 1(1) 0 1(1)
四郎右衛門 7 2 9 2(2) 0 2(2)
久右衛門  3 2 5 1(3) 0 1(3)
忠三郎   5   5 2(0) 0 2(0)  
注:()内は、それぞれの家族員

 この当時の上瓦林村の家族構成の特徴は、第一に、複合大家族が次第に崩れ、直系単婚家族が主流になる過程にあることを示している。すなわち、総数56軒の上瓦林村のうち、弟夫婦がいるのは、岡本市兵衛家のみであり、複数の血縁家族が同居する家は、もはや無くなる寸前である。
 また、下人を抱える家数も、図表6にみられる様に、56軒中11軒であり、全体の19・6%となっているが、その下人の内訳は、家内下人29人(その家族員は計14人)、家持下人9人(同じく20人)となっている。つまり、下人総数38人中、家持下人が9人と、下人全体の23・7%となっている。家内下人が主家と同居し、主家の戸内家族の一部となっているのに対し、家持下人は一応、イエを構えた独立した戸であり、宗門帳にも記載される。このことは、家持下人の方が、家内下人に比較し、はるかに隷属度が少なく、中身は別にして、一応「自立した存在」なのである。
 第二の特徴は、分家が続行していることである。
 家内下人を含めた戸内家族数が21人(家族員もふくむ)と、村内で最も多い孫右衛門家は、「......実に万治二年(*1659年)以後に分割相続したため寛文三年(*1663年)の持高が一五石余になっているのであり、万治当時は二八石程度の持高であったとみられる。」(『西宮市史』第二巻 P.115)と言われる(寛文3年時点で、30石以上の持高は市兵衛家34・6石、孫左衛門家31・4石のみ)。
 この地方でも、分割相続が盛んに行なわれ、分家が続出しているのである。万治2年の宗門帳では、56軒中13軒が隠居(分家)であり、全戸数の23・2%を占めている。なお、この村でも五人組が組織されおり、この宗門帳では14組の五人組があるが、その内、3軒の隠居(分家)が五人組の責任者的地位をしめている。
 第三の特徴は、下人の内訳は既述したが、家持下人は実に8軒に上り、その中の2軒が五人組の責任者的地位を占めている。
 第四は、当時としては珍しいか否かは不明であるが、宗門帳では「後家(未亡人)」3軒と集計されているが、「後家」という表記がなされている家は6軒に上っている。そのうち、柄在家を務める「後家」2軒、一般的な分家の「後家」2軒、連れ合いが下人だった「後家」2軒である。宗門帳が「後家」3軒とした理由は、不明である。ただ、「後家」3軒のうち1軒は、五人組の責任者的地位にある。
 全体的にみると、この上瓦林村でも、複合大家族は極めて少数になってゆき、分割相続が盛んである所から、単婚家族がますます増加してゆくことは明らかである。封建的な主従制を再生産しやすい大家族制が少数化傾向の中で、下人や「後家」への差別が緩和する傾向も明らかであり、幕藩権力の「小農保護」の政策も加わり、単婚家族が定着するものと思われる。
 上瓦林村をふくむ武庫郡内19カ村(尼崎藩小松組に属した村々)の人口は、1670(寛文10)年から1699(元禄12)年の約30年近くの間に、4109人から4910人へと、約2割も増加している(『西宮市史』第二巻 P.123~124)。このような趨勢のもとで、分家はつづき、単婚小家族が広まって行くのである。
 譜代下人が発生する形態は、従来のように売買形式で行なわれるものと、17世紀後半の元禄期に近いころは、下人養子の制をとったものが表われてくる。
 売買形式のものとしては、次の史料にみることができる。

   永代ふ代(譜代)書物の事
小林村五兵衛男子虎と申す者、永代其方(そのほう)へ進し申し候者の代銀五拾目(もんめ)慥(たしか)ニ請け取り、御蔵へ□申す所(ところ)明白実正なり、若しこの者(もの)取にげ(取り逃げ)?落(かけおち *欠落)仕り候ハハ尋ね出シ申すべく候、若し居り申さず候ハハ右の人ニ相替(あいかわり)ぬ人(ひと)代りに相立(あいた)て申すべく候、宗旨の儀ハ其方の宗旨ニ成らるべく候、その請状として仍って件の如し
                      小林村  おや
                            五兵衛(印)
   寛文拾三年(*1673年)
      丑ノ三月
         下かわらはやし
             久右衛門殿
    (今井林太郎・八木哲浩共著『封建社会の農村構造』P.131から重引)

 ところが宝暦期(1751~64年)ころから、次のような「下人養子」の制がみられるようになって来る。

   恐れ乍(なが)ら書付けを以て願い奉り候(控え)
一、 齋藤新八郎様御預所(おあずかりどころ)播州加東郡社村、平兵衛忰(せがれ)年三十五松之助と申す者、私(わたし)男養子ニ仕度(したく)願い奉り候、尤も宗旨の儀は代々真言宗ニて、同村慈眼寺一乗院旦那(*檀家と同種の意)ニ紛れ無く御座(ござ)候、則(すなはち)寺請証文別紙ニ取り置き申し候、人別(にんべつ)入り願い奉り候

   一札の事(控え)
一、 齋藤新八郎様御預所播州加東郡社村、平兵衛忰三十五松之助と申す者、その村庄右衛門方へ下男ニ望み申され候ニ付き、遣シ申し候間、其の元人別帳え御書入れ成らるべく候(下略)
    宝暦十年辰年正月
                       社村親  平兵衛
                       同村年寄 三郎右衛門              
                       同村庄屋 善左衛門    
  播州尼崎御領分
    上瓦林村 庄屋
       勘四郎殿 
          (今井・八木共著『封建社会の農村構造』P.126~127から重引)

 しかし、松之助は前者では「下男養子」となっているが、後者では明確に「下男」となっている。明らかに養子縁組の体裁を採りながら、実際は労働力としての下男を確保したのである。これは近代に入っても祇園などで行なわれた方法である。養子縁組の形式をとりながら、実際は働き手を丸ごと売買しているのである。松之助の場合は、三年後の宝暦13年(*1763年)には、家持下人に成り代わっているようである。
 その後、譜代下人は元禄期ころから、家持下人となるケースが活発になり、享保期には次第に主家に縛られる状態が緩和されるようになる。そのポイントは、「即ち譜代下人(家持下人)は享保を境として次第にその数を減じて行くこと、しかもそれは役百姓へと身分を開放した結果の数の減少ではなく、死滅と都市への流出による減少であったこと、享保頃幾分(いくぶん)残っていたと考えられる賦役労働(*主家への無償の労働奉仕)もなくなっていくこと等が要点である。下人から役百姓への身分の解放が村内に居住する限り不可能であったのは、彼等の能力に於て上昇する機会が持ち得なかった故のみでなしに、役百姓と柄在家・下人とを差別する身分の固定が厳重になりはじめていた為(ため)である。従って彼等が下人身分から離脱する道は、江戸時代後期に至り賤視されるに至った柄在家となるか、或(あるい)は都市へ流出するかであった。勿論(もちろん)下人の身分として留まっている場合にも、主家に対する関係が他の年傭(ねんやとい)・日雇(ひやとい)と全く異らないものとなっていたことは注意される点である。」(今井・八木共著『封建社会の農村構造』P.142~143)とされる。
 土地所持から全く「解放」された働き手は、江戸時代半ばころから、従来の譜代下人からしだいに年季奉公人へ移り代って行く。これに伴い旧土豪の系譜を引く大規模経営者の多くは、手作り経営が困難となってゆくのである。

注1)出替奉公人とは、譜代下人のように、永続的かつ超世代的に主家に奉公するのではなく、年季を限った「契約」による雇い主―被雇用者の関係に入って労働する者である。
2)本来、奉公人とは武士の主従関係における従者を指すものであった。すなわち、主人の従者に対する所領給与=「御恩」と、従者の主人に対する軍事的勤務=「奉公」という封建的関係から生じたものである。それが近世においては、武士階級だけでなく、一般に主家の身分・職業のいかんにかかわらず、その家業・家事に従事して労働を提供する者の総称となった。近世初期においては、若党・足軽・中間など武士の従者、すなわち武家奉公人を指す場合が多かったが、やがて農家の下男・下女、商家の召使い、職人の徒弟なども奉公人と呼ばれるようになった。「これらの奉公人は、主家の身分・職業はもとより、時期や地域の違いに応じて多様な形態をとるが、奉公契約の形式、反対給付の内容、奉公期間などを基準に分類するならば、①譜代の奉公人、②人身売買や質入れによる永代(えいたい)・年季(ねんき)決めの奉公人、③雇用契約による長年季(ながねんき)・短年季(たんねんき)の奉公人の三類型に分類できる。①は代々主家に隷属する下人や身分契約による一身永代の奉公人であり、また②は人身の売買や債務関係によって生じ、金銭の授受をともなうもので、年季身売奉公(質奉公)のように一定期間を限っての奉公であっても、年季明けには本金(ほんきん)・身代金(みのしろきん)の返済を必要とする。①②では奉公期間中の労働提供が対価を生じない無償労働であるのに対して、③は奉公期間中の労働への対価として給金が支給される点で雇用契約に基づく有償労働である。そして近世における奉公人の形態は、一般に一七世紀後半ころより①②の類型から、しだいに③の類型へ移行していくと考えられる。(『日本史大事典』 松本良太氏執筆)と言われる。しかし、日本封建制における主従契約は片務的性格が強く、西欧の双務契約的性格と大きく異なる。日本の武士世界での「御恩」―「奉公」関係が片務的であることは、第一に、イエ意識による集団主義の強さが尋常でないこと、第二に、伝統的な祖先崇拝とに基づく。第一は、集団に埋没する日本の個人は、西洋のように個人間が「神の前での平等」の意識をもたず、対等な契約関係をもたらさない。そして、近世の主従関係は、初期には未だ存在したパーソナルな(個人間の)関係から、やがて家と家との主従関係に変質した。第二に、現在の主従関係が片務的でも、将来の子孫の食い扶持が保証されるようにと耐え忍ぶのであり、むしろ現在の主従関係が存続していることはご先祖様のお蔭と感謝し、その片務性に忍従するのである。支配階級の片務的な主従関係が、人民の間の奉公人契約にも受け継がれたのである。
3)豊臣政権の検地(太閤検地)によって作成された検地帳は、田・畠・屋敷地とその名請人を土地の地理的順序で一筆ごとに記載した。これに対し、名寄帳は検地帳の記載をバラバラにして、各経営体ごとに、その当主の名の(名請人として示さる)下に、その経営体が村のあちこちに散在する所持地を集計し、記載したものである。名寄帳は、検地帳(水帳とも言う)とは異なり、村側で作成されたもので、それは年貢の集計事務には便利なものである。検地帳と名寄帳では、記載形式の違いのみならず、それぞれの名請人の数が異なる場合がある。名寄帳にはイエ経営体の当主だけが名請人として記載されているが、検地帳では当主以外のイエ構成員も名請人として登場しているのである。このほかに家数帳があり、これはイエを掌握するものである。家数帳の作成目的は、百姓・町人に対して、国家的役を課すための帳簿である。

Ⅳ 商品作物の増大と農村加工業の発展

 分家による小農の増大、旧土豪層系の大規模経営での働き手の下人から奉公人への切り替えなどの背景には、農業生産力の向上があった。
 新田開発とともに、稲作生産力の発展が、全国的にもたらされた。図表7は、それを端的に表現するものである。
 図表7  全国の米生産・稲作面積・人口
  年    全国米生産  全国稲作面積   年    全国人口 
       (1000石) (1000反)         (1000人)
1600(慶長5) 19731    20650   1600(慶長5)   17000 
1650(慶安3) 23133    23450            
1700(元禄13) 30630    28410   1721(享保6)   31290 
1750(寛延3) 34140    29910          
1800(寛政12) 37650    30320   1804(文化1)   30691 
1850(嘉永3) 41160    31700   1846(弘化3)   32212 
1872(明治5) 46712    32340   1874(明治7)   34516 
出所)『日本経済の歴史』2近世 P.63とP.160から抜粋
注)1反=991平方メートル 1石=180.39リットル

 1600~1850年の250年の間で、稲作面積は1・5倍、米生産は2・1倍の増加となる。だが、1600~1700年の間に、稲作面積はすでに1・4倍となっている。同じく米生産の場合は1・6倍で、その後も増大しているのは、内包的な発展によるものと思われる。人口は1600年後の100年間で1・8倍となるが、その後の1800年には1700年よりも約60万人も減少している。これは江戸時代の三大飢饉の一つと言われる天明飢饉で、約100万人が亡くなっているからである。その後の天明飢饉でも数十万人の餓死者を出して減少する。だが、幕末にむけて、人口は徐々に回復して、1846(弘化3)年には3221・2万人にまでなっている。
 山崎隆三著「江戸後期における農村経済の発展と農民層分解」(『岩波講座 日本歴史』第一二巻 近世四 1963年 P.338~339)は、畿内での稲作生産力の発展を次のように述べている。すなわち、摂津国武庫郡上瓦林村の岡本家では、米の反当り収量(平均)が享保12~20(1727~35)年の1・39石から文政7~天保元(1824~30)年の2・23石へと、約1・6倍となっている。反当り所要労働力でも、河内で、元禄2~文政6(1689~1823)年の間に、ほぼ半減していると。
 これは先述したように、脱穀用具の千歯こき、選別用具の千石通(せんごくどおし)・唐箕(とうみ)などの農業技術がおよそ17世紀後半から普及し、また、品種の改良や栽培技術の進歩などが行なわれたことによる。なかでも特に生産力発展の最大の要因は、魚肥・油粕など金肥の導入である。金肥の導入は、従来の入会地での刈敷や厩肥など自給の場合と比べ、土地生産性で格段の差をもたらした。
摂河泉の近世前期の農業構造は、稲作の生産性の向上を前提に、一般的には、中河内以南の綿作、北河内以北と摂津の菜種作、大坂近郊の野菜づくりなど、商品作物の増大をもたらした。

 (ⅰ)商品作物の拡大

 17世紀後半にもなると、摂津では商品作物の栽培が進展する。
 西摂(摂津国のうち川辺郡・武庫・有馬・八部・莵原の5郡。現在は兵庫県に属す。)は、菜種作とともに酒造業が早くから有名である。伊丹などが江戸積みの酒造業を始めたのは、文禄・慶長期(1592~1615年)頃からと言われるが、「伊丹では寛文(一六六一~七三)頃から寒造りの集中醸造を始め、元禄期(*1688~1704年)には最盛期を迎えた。」(『大阪府の地名』P.39)のであった。
 伊丹、池田など川辺郡を中心とする酒造業の発展は、「百日稼ぎ」と称して冬期、丹波や但馬から出稼ぎにくる杜氏職人と共に、良質な米が不可欠である。そして、「これらの産地はもはや一村的範囲の地主米を原料とする酒屋や単なる地売り酒屋といったものではなく、......原料面では領主的米穀市場に関連し、販売面では江戸積をおこなうことによって大きな展開をみせた所である。しかも伊丹・池田といった一八世紀以降も酒造地として持続する在郷町における酒造のほか、川辺郡では農村部にまで隔地間流通に関連する加工業、江戸積の特産地が出現している......。」(八木哲浩著『近世の商品流通』塙書房 1962年 P.35)のであった。
 この酒造業の発展は、地域一帯の農村部にまで大きな利益をもたらした。しかし、享保期から顕著となった物価問題、すなわち「米価安の諸色高」によって、これらの地域もまた大きな影響をこうむる。「享保期(一七一六~三六)に入り、幕府が暴落した米価の引上げを策して酒造制限令を緩和したことを契機に、酒造業では伊丹におくれをとっていた西宮・灘が大きく躍進した。天明五年(*1785年)の江戸入津(にゅうしん)樽数をみると、伊丹が一二万二千六六〇樽で全体の一四・五パーセントであるのに対して、灘目(なだめ)に今津(いまず)・西宮(現西宮市)を加えた灘五郷1)からの江戸積樽数は四三万四千六九一樽で全体の五六・二パーセントを占め、伊丹酒を圧倒するに至っている」(『大阪府の地名』 P.40)のである。
 幕府は、飢饉時になると、しばしば倹約令を発し、ぜいたく品の製造を禁止したが、食べ物で言うとソバ・ウドンすらも禁止した。ましてや酒造が対象にならない訳はなかった。それが、「米価安」を改善するために酒造制限令が緩和され(米の需要を増大させる)、北摂の酒造米も増産されたのである。
 摂河泉の農業における商品作物の生産が早い所では、一部が17世紀から広がり出したが、本格的な発展はやはり18世紀である。とりわけ有名なのは、綿作と菜種作である。
 木綿栽培は、室町時代からみられ、近世初頭には急速に広がり、大衆的な衣料品の原料となった。西摂では、米作のほかに商品作物として綿作や菜種作が行なわれた。「菜種は武庫(むこ)平野の低湿な所や、播磨平野でも加古川や市川下流の低湿地で米の裏作として栽培された。西摂おける菜種の作付面積は一八世紀初期には二〇パーセントをやや上回る程度であったが、元禄―宝永期(一六八八~一七一一)頃から、水車新田(現・神戸市灘区)をはじめ六甲山の南斜面を流れる芦屋川・住吉川・石屋川などの河川の流域で、水車による油絞り業が発展するのに刺激されて、一八世紀の後半に入ると急速に増加して四〇パーセント台から五〇パーセント台に達した。武庫平野の綿作は武庫川東岸の山陽沿いの村ならびに以北の村で多く栽培され、一八世紀の中期から作付面積は四〇パーセント前後に増加している。」(『兵庫県の地名』 P.39)のであった。
 西摂の綿作による高収益は、「武庫郡下大市村(*現・西宮市)の農民彦兵衛の記録によると、彼は安永四年(一七七五)には、一町七反半ぐらい経営していたが、そのうち一町一反ばかりを米作にあて、六反半を綿作に振り向けていた。このように耕作面積から見ると、綿作よりも米作のほうが圧倒的に多いが、農産物販売高の点からいえば、米は銀七九六匁八厘(一四石五斗)であったのに対して、綿は一貫二九九匁(一六本)に達しており、綿作は米作に比べてはるかに効率の高い経営を行なうことができたことが明らかであった」(同前 P.641~642)のである。
 大坂周辺は全国で最もすぐれた綿作地帯であるが、なかでも「摂津国住吉郡平野郷(*現・大坂市平野区)では宝永三年(*1706年)に田方の五二・〇%、畑方の七八%、平均して六一・八%に綿作が行なわれ、同国島下郡吉志部東(きしべひがし)村(現・吹田市)では、貞享元年(*1684年)に田方の四分の一以上に綿作が行なわれていた。」(『兵庫県史』第四巻 P.181~182)といわれる。なかには田地にも綿作を行い、年貢は米を買って納めるという所もあった。また裏作に菜種を栽培するところが多く、大坂北部ではとくに顕著であった。
 河内国の農業は、大別すると「淀川流域(交野郡・茨田郡)の水田一毛作型、丹北郡北部・古大和川筋新田の綿作型、その他の地域の稲・綿作型である。」(『大阪府の地名』P.765)といわれる。淀川の沿岸は、たびたびの洪水で被害を受ける低湿地なので、稲の一毛作しかできない。やや高い所の土地では、綿作が行われた。
 綿作は、中河内を中心に半田農法で行なわれた。近世の農学者である大蔵永常は、その著『綿圃要務』(日本科学古典全書第十一巻)で、「左程(さほど)の深田(ふけた)にあらざれども、泥がちの湿気の田ありて、半田(はんだ)と号して盤に香(かう)を盛(もり)たるがごとく、壱畦は田、壱畦は畑にして、土をかき揚(あげ)たる方に綿を作り、低き方に稲を作るを掻揚田(かきあげた)ともいひて、其田(そのた)の処(ところ)に水溜(たま)れども畑はよく乾き、殊(こと)に田土を揚たるものなれば土肥(つちこえ)て、外(ほか)の肥(こや)し半分入(いれ)て綿よく出来(でき)、水田の稲も一段見事に出来るなり。」と、半田方式を説明している。それは、言うなれば「田の土を掻き揚げて畦(うね)とし、ひと畦ないし数畦ごとの畑部分に水田部分をまじえた耕地の形態で、例えていえば水田のお盆のなかに、一畦ないし数畦ずつの畑を、規則的もしくは不規則に並べた耕地形態とでも表現できようか。」(『大阪の歴史と風土』株式会社毎日放送 P.468)というものである。
 しかし、河内の水利に不便な地域や砂地の所は、ほとんどが綿作であった。中河内の綿作を盛大にした基礎は、半田農法と、それとともに前述した大和川の付替えがある。
 1757~59(宝暦7~9)年には、丹北郡全郡の平均綿作率は40%といわれるように盛んであった。しかし、「河内最大の商品作物であった綿の栽培も一九世紀半ば頃より衰微するのが一般的傾向である。丹北郡高木村(現・松原市)の綿作率は天保八年(一八三七)に三四パーセントであったのが、文久二年(一八六二)に二六パーセント、慶応三年(一八六七)に一六パーセントとなった。その原因は(一)米価の異常な高騰が綿価の上昇を上回ったこと、(二)綿作には稲作の二倍の肥料と人手(ひとで)が必要で、そのいずれもが高騰し収支を償わないことであろう。」(『大阪府の地名』 P.765)とされている。
 米・綿の裏作には、麦と菜種が栽培された。農家の日常的な食事では、米が2分で麦が7~8分で、麦が主食であった。麦はまた、味噌・醤油の原料であったから麦の作付率は、丹北郡で80~90%であった。菜種は、摂津国川辺郡で盛んで、ここでは約50%も作付された。(『大阪府の地名』 P.766)
 和泉国での商業的農業で顕著なものは綿作である。「大鳥郡踞尾村(つくのおむら *現・堺市)では、寛永三年(*1626年)綿作の事実が知られ、日根郡自然田村(じねんだむら *現・阪南市)では同一〇年(*1633年)に畑方綿作のほか、田方綿作の展開の事実が確認されている。......綿作率は大鳥郡の村々を中心に平野部の多い村で四〇~五〇パーセント、山手の村々で二〇パーセント前後である。近世中期以降は田方綿作の漸次的な衰退がみられ、全体として綿作は減少ないし現状維持的な傾向をたどり、河内の半田地帯とは違った傾向をみせる。泉郡長井村(現・泉大津市)の綿作は宝暦四年(*1754年)本田畑合計への作付率が四二パーセントであったが、寛政一一年(*1799年)には三七パーセント、嘉永三年(一八五〇)には二三パーセント、慶応二年(一八六六)では一〇パーセントと急減し、稲作のほうが漸増する。同郡忠岡村(現・泉北郡忠岡町)も同様な傾向をたどり、寛政元年(*1789年)で全体の作付合計の三六パーセント、天保九年(*1838年)で二六パーセント、嘉永三年(*1850年)二三パーセント、明治元年(*1868年)一八パーセントと漸減していく。」(『大阪府の地名』 P.1217)のであった。
 ここでは、中河内で中心的に進められた半田農法に対し、輪作農法がとられた。田方綿作において、米作と綿作が隔年ごとに行なわれたのが、輪作農法である。
 農村で生産された原料の棉や菜種は、大坂や在郷町の商人へ売られ、大坂市中や在郷町で製品化されて全国各地へ出回ってゆく。大坂市中は、日常の生活必需品の加工都市であり、織物・製油をはじめ醸造・家具小間物などの生産も行なわれた。
 これにより、棉・菜種などの工業原料の生産増加は、当然、製造業(衣料品生産、食用・燈火用・肥料としての油粕などのための絞油業など)との相互依存と相互発展をもたらした。

注1)灘目とは、灘の辺りという意味で、東は武庫川より西は旧生田川の近傍に至る、沿海およそ24㎞ばかりの地域の総称である。具体的には、上灘(摂津国莵原郡)と下灘(摂津国八部郡)から成る。これに武庫郡の今津を加えて灘三郷という。文化・文政期(1804~30年)の最盛期には、上灘(かみなだ)がさらに東組・中組・西組の三組(郷)に分れ、この上灘三組に下灘と今津を合わせて、江戸時代の灘五郷が成立したのである。灘五郷の酒作りが、最大都市・江戸の需要に応えるほど発展したのは、①原料となる良質の酒米が近辺で作られたこと、②酒造に好適な地下水が発見(1840年)されたこと、③六甲山系の急流を利用した水車精米(せいまい)が盛んであったこと、④丹波杜氏(とうじ)といわれる技術集団が維持されたこと、⑤江戸に最速で送られる樽廻船との提携―などがある。

 (ⅱ)絞油・綿織など農村加工業の発展

 加工生産では、大坂三郷や堺が中心である。だが、商業的農業の発展と共に、平野郷・池田・天王寺・住吉などの在郷町を中心に農村にも加工業ができるようになった。
 綿の加工工程は、大雑把には、実綿(さねわた)から種をとる綿繰(わたぐり)→綿を縒(よ)って糸にする糸引(いとひき)→糸を織って織物にする製織の過程がある。綿にかかわる仕事が盛んとなるに従がい、地域間分業も形成される。「布施界隈(かいわい)が綿作を主としたのに対し、平野郷では繰綿、八尾市域ではとりわけ木綿織生産が盛んであった」(『大阪の歴史と風土』 P.462)のである。「平野郷では製織はもちろんであるが綿繰がとくに盛んで、宝永二年(*1705年)に繰屋一六六軒、綿繰は関東・東北へ送っていた。池田では糸引一〇八軒があった。そして大坂市中では綿繰もあるが、帯・足袋(たび)・組緒(くみお *糸を組み合せて作ったヒモ)などの二次加工が多いのが特色である。」(『大阪府の地名』 P.65)とされる。
 河内国でも木綿織は、農家の副業として重要な仕事であった。木綿織は、「男女とくに女性が農閑期や夜なべに行う仕事であった。安永六年(*1777年)の河内郡額田(ぬかた)村(現・東大阪市)の明細帳(額田家文書)に『男は耕作の外ニ草履(ぞうり)・草鞋(わらじ)を作り、筵(むしろ)を織(おり)、女は糸をつむき(紡ぎ)、木綿(もめん)を織り申し候』とある」(『大阪府の地名』 P.766)が、それほど木綿織は一般的であった。
 和泉国でも、農家の副業として、紡織・木綿織が行なわれた。「和泉の場合は繰綿加工と木綿織とが海岸沿いの幾つかの在郷町を中心に進行しており、岸和田藩では寛政二年(*1790年)持高一〇石につき織機一台と制限している。泉州木綿全体の産額は文化七年(一八一〇)で一〇〇万反、文久三年(*1863年)二〇〇万反に達した」(同前 P.1217)と言われる。1)
 燈油(とうゆ)は、中世においては荏胡麻(えごま *シソに似ているが茎や葉は緑色で毛が多く、臭気がある)から採った油が主であった。だが、近世には菜種を絞ってできた油が盛んとなり、さらに17世紀初め頃からは、菜種油と綿実油が燈油の主体となってきた。「大阪で絞油業が隆盛となるのは元禄(*1688~1704年)以降で、船場や島之内・天満で生産され、江戸への販路を開拓した。......また京都・大津の油商人も京橋三丁目(中央区)にて売買するようになり、遠里小野(おりおの)村(*現・大阪府住吉区)の油屋を再興して京口油問屋ととなえた。」(新修『大坂市史』第四巻 P.237)といわれる。
 また、住吉郡平野郷町には綿実絞油業が展開することとなり、その後、在方にも絞油業が広がることとなった。
 大坂の絞油業は、延享四年(*1747年)ごろには、菜種絞油屋は長堀・東堀・阿波座堀・上町・天満などに二五〇軒余、綿種絞油屋は東堀・阿波座堀・天満に二七軒余存在していた。ところが、「このころから、摂津国西部の武庫・兎原・八部の三郡に新しく在方絞油業が興り、大坂・堺・平野郷町などの絞油業は非常な打撃を受けることになった。在方絞油業は、都市部の人力絞りに対して、水車絞りで生産力が高く、また原料の入手にも恵まれていた。こうした在方絞油業の勃興のため、明和・安永期(一七六四~八一)には幕府もこれらを公認せざるをえず、在方を含めた株立て(*株仲間の株数を設定すること)が行なわれた。これによれば大坂菜種絞油屋二五〇軒、大坂綿実絞油屋三〇軒に対し、水車新田絞油屋は二〇軒、兵庫・灘目(なだめ)絞油屋は八三軒、西宮絞油屋は一四軒であった。当時、灘目地域の水車絞油屋八一株の生産能力は年間約四万五千石、大坂市中の人力絞油屋二八〇軒の生産能力は年間約一万四千石であった。灘目は大坂市中の約三倍、一株当たりでは約一〇倍の生産能力をもっていた」(同前 P.237)ことになる。これでは、とても勝負にはならなかったのである。
 しかし、菜種から絞られた油は燈油として使われただけでなく、その油粕は良質な肥料になり、干鰯(ほしか)とともに農家にはとっては貴重なものであった。だが、油問屋や絞油業者は、菜種を安く買い取り、高価な油・油粕として百姓に売りつけた。幕府も江戸の灯油確保のために西国の菜種の増産を奨励し、物価統制のためにとりわけ大坂の油問屋や油業者を株仲間に組織して、その特権的地位を保護した。
 幕藩権力を背景とした商人たちの百姓圧迫に対し、摂河泉の農民は村々を越えて団結し果敢に闘った。1740(元文5)年の摂津での肥料高値反対以来、自由で公正な売買を求める運動(いわゆる「国訴」運動も含め)は30件もあり、この内菜種・肥料に関するものは25件に上っている。(詳しくは後述)

注1)近世農村の製造業では、織物業、陶磁器業、醸造業などが有名である。この中で、16~17世紀の高級絹織物の供給源は、中国の明であった。これを参考に、古代いらい技術を蓄積してきた京都西陣の職工がこれを消化・吸収する。この技術は18世紀以降、全国各地に広がるが、関東では桐生が代表的な所となる。18世紀末には、桐生では西陣産の多様な織物のかなりの部分を生産できるようになった。織物技術の伝播は重層的であり、西陣から桐生や丹後に波及し、そこから更に全国各地に伝えられた。「京都・西陣の織物業では、生産を担当するのは男性職工による専業経営であった。職工は厳格な徒弟制のもとで専業経営内での技術伝習を受け、獲得した技能を基盤に可能であれば独立した機屋(はたや)となった。仲間組織は徒弟を経ない入職を規制し、技術・技能の独占を図っていたのである。しかし、上述のように、西陣の製織技術は様々なルートで西陣以外にも伝播する。その過程で、『男性職工』の専業経営という生産形態上の特徴は失われた。桐生の場合、町場でこそ男性職工・専業経営の存在は否定されないが、周辺農村部の機屋では製織作業は専ら女性が担当しているし、農家内で製織作業が営まれることも多い。尾西地方では、そうした農村的特徴は、ほぼすべての製織現場に当てはまった。これらの女性職工たちが、数人~十数人単位で、一つの集中作業場で作業をすることもあった。研究史において『マニュファクチュア』経営(*工場制手工業)とされるのは、こうした集中作業場を指している。しかし、そこで製織作業に従事しているのは、おもに年季契約の10歳代の若年女性であった。10歳代後半以降にも職工が作業場に残り、『反織工(たんおりこう)』として反当り工賃(出來高給)を給されることはあるが、こうした支払い形態は農家内で原料糸の供給を受けつつ作業を行う『賃織(ちんおり)』と同じである。これらを考慮すれば、この集中作業場は若年女性に製織技術を伝習する機関としての性格が強かったといえる。希釈化された技能は、親方―徒弟制によらずとも集中作業場での作業の中で身についたのであり、一定の技能を形成した女性職工の作業の場は、多くの場合、世帯内にあった。さらに製織技術が単純な白木綿の場合は、技能の伝習の場自体が世帯の中(母親から娘へ)となる。一部の織物生産地を除いて、製織工程は女性が自宅において、世帯の副業として従事する作業と位置づけられていたのである。工業部門としての織物業の発展は、その一面で、農家経営が非農業就業機会を世帯内に回収するプロセスでもあったのである。」(谷本雅之・今村直樹著「農村工業の拡大と鉱業の自立」―岩波講座『日本経済の歴史』2近世 2017年 P.209)といわれる。

Ⅴ 幕府の市場統制と株仲間の独占化

 (ⅰ)大坂を中心とする幕藩制的全国市場

 畿内での商業的農業と農村加工業の発展を背景に、幕府は大坂を中心とする全国商品市場の発展を促し、かつ統制した。
 大坂・京都・江戸の三都を中核とした幕藩制的全国商品市場は、少なくとも17世紀中頃には形成された。なかでものその中心は大坂市場であった。それは、大坂やその周辺が早くから商品作物の栽培やそれを原料とした加工業を発達させ、地域の局地的諸市場圏を拡大・発展させたからである。
 幕藩制的な全国市場の中核に対応するのが、地方の諸藩の城下町を核とする領国的市場圏である。地方のある藩の観点からみると、戦国末期の在郷町が建設される以前の「定期市的段階にあった農村部の市場関係を、上から強引に城下町へ吸収し、ここを中心とする求心的な領国市場圏を作っていったのである。例えば信州の上田地方には、中世末に原之郷・海野郷・保野・前山・馬越などの六斎市(ろくさいいち *月のうち六斎日〔仏教で月に6回、斎戒し仏事を行う日〕に所定の場所で開かれた市)のネットワークが存在していたが、寛文・延宝期(*1661~1681年)までには、馬越を除く市場は城下町上田に吸収されて純農村と化し、ただひとつ馬越だけが、局地市場としてではなく、上田城下町の分身たる出町として残存するというような状況であった。」(水林彪著『封建制の再編と日本的社会の確立』P.213)といわれる。
 城下町には、藩が石高制に基づいて獲得した大量の年貢米の一部を特権的に買入れ、主に領国で販売する商人がいる。彼らは、米以外にも、藩が農民などから年貢として徴収したり、あるいは藩が独占的に買い占めたりした特産物を、後には取扱うようになる。
 多くの米や特産物は、高く販売し利益を得るためには、ともに大坂市場に運び販売する方がはるかに有利であった。そして、藩は販売で得た貨幣で、さまざま必要物資を購入して、自藩や江戸藩邸の消費に当てるのであった。
 一定の独立性をもったいくつもの領国市場が、大坂を中心に寄り集り連携して全国商品市場を確立するのは、17世紀後半である。大坂を中心とする全国商品市場が形成されるのは、京都・大坂などでの手工業生産の発展、江戸などの大消費都市の成立(武士と町人の集住)、各地の特産物の生産の増進などの諸条件(社会的分業)によっていた。
  
  
   図表8  大坂市場における主要商品の移出入 (1714〔正徳4〕年)
     移出              移入
   品名      銀高(貫)     品名     銀高(貫)
  1、綿関係    25000      1、米      40000
  2、菜種油    10000以上    2、綿関係 35000
  3、長崎下り銅 6500      3、菜種 28000
  4、醤油 4000      4、材木 25000
  5、鉄道具 3750      5、干鰯 17000
  6、油粕 3250      6、紙 15000
  7、塗物道具 2800      7、鉄 12000
  8、小間物 2800      8、薪 9000
  注)数値は概算   
  
 18世紀初めの大坂市場に集散した主な商品は、図表8(水林彪著『封建制の再編と日本的社会の確立』P.215)に示される。圧倒的に多いのは、米・綿関係・菜種(油)である。
 この中で、移入米の数値は納屋米(なやまい)だけであり、蔵米(領主が直接収取する年貢米)は含まれていない。納屋米とは、年貢上納後に残った米(一部の富農)や、年貢の金納化後には年貢上納などのために換金する際に、販売した米が商人の手を通して大坂市場に運ばれた米のことである。納屋米と蔵米を合計すると、15万貫を超える規模となると言われる。
 綿は戦国時代から急速に普及してきた大衆的な衣料品用のものであり、大坂を加工基地として集散した。菜種は燈火用・食用の原料であるが、これもまた大坂やその周辺で加工され、全国に販売された。菜種の搾りかすである油粕は、干鰯などとともに金肥となり、畿内などの農業の生産性を高めた。
 移出の3の「長崎下り銅」は、長崎貿易での支払い貨幣のことである。かつての金銀産出が急速に衰え、この頃は銅が金属貨幣として用いられていた。当時の幕府役人たちは、海外交易の支払いは金属貨幣という固定観念があったようである。(より詳しくは、拙稿『奇兵隊はどのようにして生み出され解体されたか』〔労働者共産党ホームページに掲載〕の《補論 石高制と大坂堂島米市場》を参照)
 幕府は、1672(寛文12)年に、河村瑞賢によって、西廻り航路を開発させた。これによって、大坂を中心とする全国商品市場はさらに充実化された。
 この航路は、日本海沿岸を西南方向に下り、下関を経て瀬戸内海を通って大坂に至った。その大坂から今度は太平洋岸を東進して江戸に至る航路である。西廻り航路の開発で、大坂は従来の瀬戸内海・四国・九州に加えて、東北地方・蝦夷とも結びつき、さらに諸国諸藩の米や特産物の集散地となった。
 蝦夷との結びつきは、長崎貿易において金属貨幣が枯渇する中で、その代用となった俵物(なめこ・いりこなどの海産物)を確保する大事な航路となる。東北との結びつきは、年貢米や紅花など最上川地域の特産品を、大量に大坂市場にもち込んだ。 
 最大の消費地である江戸の商品需要は、大坂からのいわゆる「下り物」に大きく依存したため、大坂―江戸の間の海運業を発展させた。西廻り航路の開発で海運業はさらに発展するが、菱垣廻船は元禄期(1688~1704)の頃に隆盛を極める。だが、やがて1730(享保15)年には、菱垣廻船から酒樽輸送専門の樽廻船(たるかいせん)が分離独立し、次第に菱垣廻船を上回るようになる。

 (ⅱ)堂島の米市場

 大坂は「天下の台所」と言われ、その三大市場は堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場(ざこば)の魚市場である。なかでも堂島の米市場がもっとも発達した。
 年貢米や特産物を販売し、必要物資を買い付けるために、諸大名はすでに豊臣政権時代から蔵屋敷を畿内各所に設置した。江戸時代初期には、蔵屋敷は敦賀・大津・堺・長崎・江戸などにも設置されたが、最も多いのは大坂であった。
 諸大名の年貢米や各地の国産品は、寛永年間(1624~44年)以降、しだいに大坂に運ばれるようになった。それが1672(寛文12)年、先述した幕府の命令で河村瑞賢が西廻り航路を開いたので、大坂には北国や西国の物産がより一層集中し、畿内で加工された物品は江戸や他の地方に分散された。
 この航路の開発は、幕藩制的全国市場の中心としての大坂の地位を、確固なものとした。一例として挙げれば、「西廻りによる北国諸藩の蔵米の廻漕量はしだいに増加して、元禄一〇年(一六九七)頃には三十数万石に及び、同じ頃の敦賀(現福井県敦賀市)・小浜(現同県小浜市)経由の大坂入津(にゅうしん)米量のほぼ二倍に達している。」(『兵庫県の地名』P.38~39)のであった。
 大坂の蔵屋敷は、「交通の便利がもっともよく、堂島に近い中之島・土佐堀川・江戸堀川沿岸に多く置かれた。その数は明暦年間(一六五五~五八)には二十五にすぎなかったが、元禄年間(一六八八~一七〇四)には九十五、天保年間(一八三〇~四四)には百二十五に」(『大坂の歴史と風土』P.164)まで増えた。
 蔵物の出し入れは、初めは諸藩の役人が行なっていたが、やがて「蔵元」という商人に任せ、その会計は「掛屋」に任せた。蔵元と掛屋は多くが豪商の兼業であった。諸藩は財政が早くから逼迫し、これらの豪商に借金をしたが、やがてはこれらの豪商に財政立て直しを依存するようになる。(堂島市場について、詳しくは拙稿「明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期」??〔労働者共産党機関紙『プロレタリア』2021年8月1日・9月1日号に掲載〕を参照)
 年貢米制度に依存する幕藩制下、当然、米の商品化には幕藩権力の統制があった。それ故に、先述したように、多くの諸藩の年貢米が大坂市場に集中した。しかし、上層農などは、収穫した米の一部を地元の商人などに売渡していた(米の商品化)ようである。従って、尼崎藩(摂津国の尼崎周辺を藩領とした。4~5万石)では、17世紀、しばしば以下のような御触れが出された。

◎慶安五年(*1652年)触書 「一 御年貢御皆済(おんかいさい)仕らざる候内(うち)ニ借銀借米一円ニ出シ申すまじく候、御年貢の外(ほか)当米わきわきへ出シ申すと訴人これ有るニハ米主の儀ハ申すに及ばず庄屋・年寄・組頭曲事(くせごと)ニ仰せ付けらるべきの事」
◎延宝四年(*1676年)触書 「一 皆済(かいさい)以前、在々の米商買(ママ)致すに於ては其(その)村の庄屋・年寄籠舎(ろうしゃ)、売主に死罪に為すべき事」
◎貞享二年(*1685年) 「一 年貢皆済これ無き以前、米商売致すべからず、若し相背(あいそむき)候ハハ(はば)その売人?(ならびに)庄屋・年寄まで曲事に申し付くべし、尤(もっとも)皆済以前借銀借物(かりもの)の方江(かたへ)一切遣わさざるの自然(じねん *もしも、万一)押取(おしとり *無理に取ること)ものこれ有らハ急度(きっと)仕置(しおき)に申し付くべき事」
          (以上、八木哲浩著『近世の商品流通』 P.158 からの重引)

 「慶安五年触書」では、年貢皆済以前に借銀・借米の支払いに収穫米をつかってはならないとし、年貢上納以外に売り払っていると訴えがなされた場合、売主はもちろんのこと、その村役人も処罰すると命じている。それが「延宝四年触書」では、庄屋・年寄は籠舎、売主本人は「死罪」とより厳しくなっている。しかし、「貞享二年触書」では厳しい処罰は、以前のレベルに戻している。だが、年貢皆済以前に借金取りが無理矢理奪い取ったケースも、仕置をすると付け加えている。
 しかし、商品経済が進展した摂津などでは、尼崎藩は貢租米の特殊な売却方法である「郷払米制度」を採るようになる。すなわち、「一八世紀になると、尼崎藩の場合村々の上納する貢租米は御膳米や蔵米給与分にかぎり蔵納めさせ、他は蔵納めの手続をふまないで、領主のおこなう入札によって、ほとんどを直接村々から局地内の商人に手渡させ局地内で売却することが多くなっている。......もちろん他の地方でも、城下町などで貢租米の一部が地売(じうり)されることは普通にみられるところであるが、......尼崎藩をはじめ摂津地域の領主が貢租米の多くの部分を在払(ざいばらい)しているのは、一般の地売とは意味を異にする特殊な例とみるべきである。村々から直接局地内の商人の手に渡る在払の入札を尼崎藩など摂津地域の村々では『郷払米』『郷渡米』とよんでいる。」(八木前掲書 P.105~106)といわれる。
 「郷払い」は、現実に、「青山氏の時代(*青山氏が藩主となった時代で、1635~1711年)、元禄期(一六八八~一七〇三)にも、すでに西宮・今津あるいは伊丹・北在の酒造地帯に向けて藩領の貢租米の郷払いが行われていたが、まだ郷払いの量率はそれほど多くはなかった。しかし、松平氏の時代(*1711年から明治維新まで)には、瓦林組村々を例にとると、寛政(一七八九~一八〇〇)以降幕末まで平均して貢租米の五〇パーセント、二千四百石もの米が郷払いされ、年によっては七〇~九〇パーセントに達している。この状況は瓦林組村々だけでなく、摂津地域の藩領全体についていえることで(播磨の藩領を除く)、諸史料からの計算結果では、藩が売却しうる米の量は貢租米の約五〇パーセント強であるが、それがほとんど郷払いの形で売却されたとみられる」(『新編 物語藩史』第八巻 新人物往来社 1977年 P.106~107)のである。
 尼崎藩など摂津地域の領主は、自藩で消費する分を除いて、他は「領主のおこなう入札によって」、局地内の商人に売却する「郷払い」制をとっている。尼崎藩の領地は西摂であり、わざわざ大坂堂島まで運んで売却せずに、地元商人を相手に入札させ、売却している。この場合の利点は、①堂島まで運ぶ運送料を省くことができること、②同じ摂津地域なので、堂島市場での売値とほとんど変わらない(遠距離地域間の価格差を考慮する必要がない)―のである。
 実際、摂津地域では、尼崎藩のみならず、摂津地域での第一の大藩・淀藩もとっており、丹波国篠山藩(武庫郡に飛地を領していた)や、またいくつもの旗本領などは、「郷払」を行なっている。これらの米の大口需要者は、伊丹や西宮・今津の酒造業者である。 
 そして、この「郷払い」された米は、18世紀には町方の商人が主に落札していたが、18世紀の末からは、町方の商人とともに在郷の商人が落札し、町方の米屋・酒屋などに搬入している。
 18世紀の後半期以降、販売側では、上層農だけでなく広範な農民も米の販売をするようになった。1795(寛政7)年7月、尼崎藩は、改めて年貢皆済以前の米販売を禁ずるお触れを出した。ところが、「これに対し武庫郡津門村(つとむら *現・西宮市)の庄屋・年寄から、年貢皆済以前に農民が余剰米を販売することを禁じられては、肥料の調達にさしつかえ貧窮化の因にもなるので、早稲・中稲・晩稲とも、それぞれ摺(す)り立てた量の六割を年貢として納め終われば、年貢皆済前でも逐次(ちくじ)早稲・中稲の余剰米を売ることを認められたい」(同前 P.81)と、役所に願い出した。
 この願いは、藩によって認められた。しかも、尼崎藩は広く藩内(摂津地域だが)に、同様の許可をはかったようである。早くから金肥を導入し、商品経済が発達した摂津の農業経営において、資金的余裕がない(幕藩権力は、百姓たちが"財の余らぬように不足なきように治める"として、百姓がかつかつで生きるほどまでに収奪した)百姓にとって、農業経営を維持するためには、米販売で肥料支払い代金を早く入手したいのである。
 在郷商人の仲買活動は、19世紀にはさらに活発化し、在郷商人の成長は目覚ましいものとなる。この過程で、在郷の有力商人などは、在株を設定し、米販売の独占的地位を獲得する動きを既に18世紀後半から見せ始めている。
 しかし、幕府は物価統制のために、何回も、諸国登(のぼ)せ米や納屋米の調査をおこなっているが、彼等に株設定を許可しなかった。
 天保年間には、天保飢饉で米価が高騰し、幕府は納屋米の流通増大とその統制強化を痛感する。そこで、1835(天保6)年2月、これまでたびたび出願されていたが許されなかった、大坂の納屋物雑穀問屋仲間の取立てがようやく許可された。
 他方、在方で仲買活動を発展させてきた在郷商人たちは、1837(天保8)年7月、摂津国嶋上・嶋下・豊島・川辺・武庫・莵原・有馬の7郡の五穀仲次人33名が「五穀仲次取締り方」を出願する。しかし、これもまた幕府は却下する。
 そこで彼らは、八部郡も加えて、摂津8郡の惣代として大坂納屋物雑穀問屋の配下に加わるという形で株仲間を結成しようと考えた。そして、1838(天保9)年7月、大坂納屋物雑穀問屋年行司は、摂津8郡の在郷商人の仲間加入を申請した。しかし、ここで灘筋酒造業者の妨害が入り、結局は、摂津8郡の在郷商人の野望(大坂の特権商人と結託して株仲間に加入する)は実現しなかったようである。少なくとも、莵原・八部2郡の在郷商人は、灘筋の酒造業者の配下に組み入られることになったのである。
 結局、「統制の強い菜種(*後述)と対比して流通自由な商品とされる米については、江戸時代を通じてついに幕府による直轄都市商人に有利な統制はおこなわれずに終わった。」(八木前掲書 P.266)のである。

 (ⅲ)青物市場と魚市場

 天満の青物市場は、はじめ大坂城北の京橋口付近にあったが、大坂冬の陣、夏の陣で離散し、1616(元和2)年、京橋一丁目の淀屋の屋敷地に復活した。だが、その後移転を命ぜられ、1653(承応2)年に天神橋の北詰に移転した。
 1701(元禄14)年に発行された『摂陽郡談(せつようぐんだん)』では、有名な青物として、「東成(ひがしなり)郡の天王寺大根・蕪青(かぶら)、西成郡の木津村大根・蕪青、江口村大根、長町人参葉(にんじんば)、大坂天満宮大根・蕪青、住吉郡の桑津村大根、豊島(てしま)郡神津島村(こうづしまむら)椋橋(くらはし)の大根、能勢郡の牛蒡(ごぼう)などのほか西成郡の勝間村(こつまむら)新家の白茄子(しろなす)、木津村の越瓜(しろうり)、海老江村(えびえむら)の冬瓜(かもうり)、住吉郡遠里小野村(おりおのむら)の瓜・姫瓜、武庫郡鳴尾村の西瓜(すいか)、兎原(うのはら)郡田辺村・小路村(しょうじむら)の田辺瓜や、豊島郡細河(ほそかわ)郷・川辺郡山本村の柿、島下郡吹田村(すいたむら)のくわえ(慈姑〔くわい〕)なども名産としてあげられて」(『大阪府の歴史』山川出版社 1996年 P.181)いる。そして、「交通が便利になると紀伊・近江・山城などの野菜や果実も集荷され ♯ ねんねんころいろ天満の市よ、大根そろえて舟に積む、舟に積んだらどこまで行きゃる、木津や難波の橋の下......♯ と、子守歌にもうたわれて大いににぎわった。」(同前 P.181)のであった。
 ところで、大坂南郊の農民たちは、鮮度のよい青物を一文でも高く売ろうと大坂市中に持ち出したが、それではわずかばかりの商品のために手間暇(てまひま)かかり、肝心の農作業に支障をきたしたので、市中に隣接する畑地に簡単な青物の取引場を設け、町の商人を相手に売買するようになった。
 このような動きが、野菜を生産する村々で行なわれるようになり、在地の農村では農民出身の在方商人が台頭するようになる。「青物生産者から商人が生れ、彼らを中継ぎとして生産者から市中の八百屋商人へという、新しい青物の流通経路が形成されつつあった。そしてこの経路では天満市場が除かれていたので市場側にとっては大問題」(『新修 大坂市史』第四巻 P.68~69)となる。そこで、天満市場の問屋・仲買が、役所へ告発する事態となる。幕府公認の市場と直売り農民との対立である。
 「天明三年(*1783年)四月にはひとまず、天満市場側の抗議を受け入れて市場以外への青物直売(じきうり)禁止令が出されたが、農民は引き下がらず、まず市中北辺の村々が相談して各代官所に出願した。」(同前 P.69)のであった。これを受けて、南部の難波村(中央区・浪速区)、木津村(浪速区・西成区)、今宮村(西成区・浪速区)、塩町口野畑村(中央区)、吉右衛門肝煎地(天王寺区)の五ケ所が連印して、同年6月に出願した。 
 その主張は、「(一)天満市場外で立売(たちうり)するのは、市場に適切な売場所がないからで、出荷する人の多さに比べ、天満橋東詰から龍田町浜までのわずか四町ほどの市場では狭すぎる。(二)青物のうち茄子(なす)は、藍(あい)・つる物などの世話で多忙な夏期に収穫するためとても市場へ持ち出す人手(ひとで)もなく、これまでも畑や居村の出口で直売している。(三)冬作の大根・人参は市中の八百屋や商人と取り引きし、先銭や代金の半額を請け取ることで年貢の手当(てあて)や下屎(しもごえ)代銀に充てているが、百姓にとっては、はなはだ勝手がよい。」(同前 P.69~70)というものである。
 百姓たちの願いはすぐには受理されなかったようであるが、「文化八年(一八一一)難波村は一三品に限り、『はした荷』を村内の『青物稼(あおものかせぎ)渡世の者』に販売することが認められたが、このころ同村には高持九六人、小作人一八〇人に対し、青物渡世人(青物商)が二五三人を数えている(『青物立売一件』)。」(同前 P.70)のであった。
 在方の青物商は、いまや難波村の農民(高持と小作人)に匹敵するほど増大している。このような状態は、難波村がとても純農村とはいえず、すでに町化しているのを示している。
 雑喉場(ざこば)魚市場は、1597(慶長2)年に、靭(うつぼ)町に開設され、1618(元和4)年に上魚屋町に移転し、幕府に冥加金を上納して大坂唯一の魚市場になった。それから「同八年(*元和8年=1622年)には鮮魚商を残して塩魚(しおうお)商は新開地の海部堀(かいふぼり)永代浜に移った。鮮魚商は上魚屋町が川口に遠く漁船の出入りに不便であったため、京町堀と江戸堀のあいだの鷺島(さぎしま)に出張所をおいたが、やがて本拠をも移して雑喉場魚市場となった。播磨・備前・備中・備後・安芸など瀬戸内を始め、和泉・紀伊や淡路など大阪湾の魚類から、伊勢・志摩・因幡・長門および九州・四国に至るまで、広範囲の水産物が大量に集まり活況を呈した。/一方、永代浜に移転した塩魚商らは、塩干魚の市場をたてて塩魚・干魚(ほしうお)・鰹節の取引を行い、また近郊農村の主要肥料となった干鰯(ほしか)などの魚肥(ぎょひ)もあつかい、営業するものは新天満町・新靭町・海部堀川町から油掛町・信濃町・京町堀に広がり、あわせて靭の島といい日本最大の干鰯肥料市場となった。これらのほか、慶長初年に御用市場と定められた京橋鮒(ふな)市場が発展して京橋川魚市場となり、問屋五軒、仲買五〇軒を数えた。」(『大阪府の歴史』1996年版 P.182)といわれる。
 魚市場からは、鮮魚と塩魚の市場が分岐されただけでなく、干鰯肥料市場までが生み出された。これは、まさに摂河泉など周辺農業が金肥を大量に使用して、生産性を競ったからである。そのため、日本最大の干鰯肥料市場が出現したのであった。

 (ⅳ)油市場の統制と支配

 畿内の商品作物で著名なのは、菜種と綿であろう。菜種は油の原料であり、その油は燈油として日常的に大量の需要があるものである。とくに近世後期ともなると、都市の住民の夜間生活が長くなり、農村でも夜なべ仕事が広がった。
 油の全国流通の中心となったのは、やはり大坂市場である。その大坂市場では、京口油問屋、江戸口油問屋、出油屋が中心的担い手であった。
 京口油問屋は、近世以前の京・伏見への油供給の拠点が、近世初頭、山崎から大坂に移動することによって成立した。さらにその後、京口油問屋は、西日本や日本海側の各地間の交易でその仲介者になり、同問屋を通じて取引が行なわれた。江戸口油問屋は、幕藩体制の成立で、江戸の消費が急激に高まり、それに対する円滑な供給のために成立した。幕府にとって江戸時代初期、油については、大坂から江戸への「下り物」を確保することが最大の政策目標であった。
 出油屋が大坂に出現したのは、この二者より遅れ、正徳年間(1711~15年)と言われる。この出油屋は、大坂周辺の絞油業者が在方からの出店として発足させたものであり、各地からの絞油の荷受け機関の役割を果たしたものである。それとともに出油屋は、西日本各地から大量に産出される油の荷受機関としての役割も果たした。
 幕府が商取引の秩序のために、17世紀後半に仲間組織を認可するようになるが、その代表的な一例が、大坂のこれら油問屋である。
 ところで、近世初期、幕府の油市場対策の重点は、江戸市中における燈油の不足と高値を生じさせないことであった。これが最優先の課題である。このために、大坂市場に対しては、より具体的で多面的な方策が採られた。幕府の菜種・水油に対する流通統制が始まるのは、元禄(1688~1704年)ごろからである。
 幕府は、以下の法令を大坂に廻着された種物および油に対して行なった。
*1698(元禄11)年6月26日には、「油種ならびに油買〆(*油の買い占め)致すまじくの事」と禁止のお触れを出す。(『大阪市史』第三巻 P.149)
*1713(正徳3)年6月5日には、「燈油(とうゆ)高直(たかね)ニ付き、吟味を遂ぐるの処(ところ)、諸国より廻着し菜種買込(かいこみ)置き族(やから)これ在り、高直ニ成る段(だん)相聞こえ候、菜種買込置き候もの共、早々売り出しもうすべく候、その外(ほか)荷主より預り置き、又(また)ハ質物に取り置き類もこれ在る由(よし)、是又(これまた)荷主トモへ相対(あいたい)致し〔*差し向かいで相談し合意する〕、早速売り出しさすへく候、この上買志め(買い占め)置くものこれ在らば、彌(いよいよ)穿鑿(せんさく)を遂げ、急度(きっと)沙汰せしむべく候、自然当地の詮議(せんぎ)を遁(のが)る為(ため)、他所にのけ置き候儀(そうろうぎ)相知らハハ、曲事を為すべく候條、この旨(むね)三郷町中触れ知らすべきもの也」と(同前 P.187~188)、買い占め・買い置きを厳しく禁じている。
*1718(享保3)年には、大坂の油問屋・出油屋を差し置いて、出油の直買(じきがい)を行なうことを禁じた(津田秀夫著『新版 封建経済政策の展開と市場構造』 P.30)。
*1723(享保8)年には、燈油の下直(したね *低価格)販売を命じ、1726(享保11)年には、大坂に廻着した種物を、大坂の問屋仲間以外の町人が取り扱うことを禁じた次の触れを発した。「諸国?(より)登り候菜種綿実、問屋の外の者共(ものども)引き請け商売致し候ニ付き、高直(高値)ニ成り候段、去ル卯年(*1723年)絞油屋とも訴え出し、詮議を遂ぐる処、問屋の外ニ菜種綿実大分(だいぶ)所持の者これ有り、早速問屋共に売渡さセ候、共(其ヵ?)以後燈油直段(値段)不時(ふじ)の上りもこれ無く候、彌(いよいよ)向後(こうご)問屋の外、町人菜種綿実引き請け商売仕りまじく候、尤も油屋に加り候儀ハ相対に為すべく候、若し囲い置き〆売り等いたし、油高直ニ成らハハ、吟味を遂ぐるべく候間、絞油屋の者とも(者共)も存ずその旨(むね)、早速(さっそく)来訴(訴来)候、随分(ずいぶん)油下直(したね)ニ成る様ニ覚悟致すべく候」(『大坂市史』第三巻 P.242)と。
 以上は、大坂三郷を対象とした法令である。しかし、18世紀に入ると、大坂市場は強力なライバルの出現に対処しなければならなくなる。すなわち、「大阪島之内(現・大阪市中央区)・堺に始まった一七世紀の都市・在郷町の人力絞り油業をはるかにしのぐ水車絞り油業が、一八世紀には六甲山系南麓、灘目の川々(芦屋川・住吉川・六甲川・生田川)に沿う村々に台頭した。この灘目の水車絞り油業は瀬戸内海を東上してくる他国の種物(菜種・綿実)を原料として始まったが、その出現はこの地西摂の農業を刺激し、なかでも武庫川下流域では耕地の七割にも及ぶ面積に菜種が作られ、他地方にみられない盛大な菜種作地帯が一八世紀に出現した。」(『兵庫県の地名』P.75)のであった。「そのうえ正徳(*1711~16年)のころからは、西摂(*摂津国の西部)で絞った油は大坂の問屋の手を経ずに江戸へと直積(じきつみ)されていた。遠隔地市場に向け直接に販売する独自性をもって、西宮の嵯峨屋利右衛門・小池屋一郎兵衛が『近郷の油買集(かいあつめ)御当地(江戸)へ積下』す江戸積問屋として活躍していたのである。つまり大坂の手を経ずに大量の他国種物を買い入れ、また油の江戸積みもするという西摂の絞り油屋・油問屋は、大坂の種物問屋・絞り油屋・出油屋・油問屋とほぼ同じ基盤に立った競争相手として、大坂を脅かした」(八木哲浩著『近世の商品流通』塙書房 1962年 P.179~180)のである。 
 1743(寛保3)年正月、幕府は次の触れを出した。

燈油直段(ねだん)高直ニ付き、諸人痛みニ成り候、菜種綿実(わたみ)買〆(かいしめ)候族、并(ならびに)正油商ひの外、時々相場高下を以て、損得致し差し引き(*清算)し候商人これ有り、油相場引上げ候も相聞こへ候、この義(儀)停止の旨(むね)先年(*享保11年)触れ置き候処(そうろうところ)心得(こころえ)違(たが)え、猥(みだり)ニ相成り候様ニ風聞(ふうぶん)これ有り候、彌(いよいよ)有体(*右体ヵ?)の儀これ無き様ニ相心得(あいこころう)べき旨、今日三郷町触(まちぶれ)申し渡し候、その方共の儀触書の趣(おもむき)急度(きっと)相守り、これ已後(以後)猥の儀これ無き様(よう)相慎み、油直段(ねだん)下直(したね)ニ成る様(よう)仕るべく候、尤も諸国ニて油絞り草(しぼリくさ)作増(つくりまし)、その国々ニ有来(ありきたり)候(そうろう)油屋どもへ売渡し、その余ハ囲い置かず、当表(*大坂)へ積登(つみのぼ)せ候様ニ、今度諸国へ仰せ渡らせ候筈(そうろうはず)ニ候、且又(かつまた)摂州西ノ宮嵯峨屋利右衛門を始(はじめ)、その外(ほか)兵庫辺絞り油屋ども?(ならびに)西国筋の内ニも、当地へ絞り油積登(つみのぼ)せず、江戸へ直積(じきつみ)致し候者共(ものども)これ有るニ付き、当地目先の油すくなく(少なく)、油直段高直ニ成り候趣も相聞こへ候ニ付き、今亥ノ年(*寛保3年)より三ヶ年の間(あいだ)江戸直積(じきづみ)致さず、当地へ残らず積登せ候筈ニ、江戸に於ても仰せ渡らせ候條、この旨(むね)相心得、彌(いよいよ)直段(値段)引下ヶ候様に仕るべき事、右の通り申し渡し候間(あいだ)承知せしむべき者なり    (『大阪市史』第三 P474~475)

 冒頭、諸人泣かせの菜種・綿実の買い占め、相場の高下を利用した金儲けは、先年禁止の触れを出したこと―を再確認する。その上で、諸国での油絞り草の栽培を増加し、その国々の油屋へ売り渡した余りは、囲い置かないで大坂へ送り出すようにと命じ、また、兵庫あたりの油屋どもが大坂に送らず、直に江戸へ絞り油を送り出しているとの噂もあるので、今年から3か年の間江戸への直積をしないで、大坂へすべて送る様にと江戸においても命じた。この旨をよく心得、油値段を引き下げるようにと命じている。
 幕府は、油値段の引下げを名分に、油を江戸に直積みすることを禁止し、大坂へ集中するようにと、油問屋・絞り油屋・菜種問屋・綿実問屋とそれぞれの年行事に対して命じているのである。
 そして、同年閏4月には、西宮―兵庫地方の水車仲間が、"種物を大坂相場に準拠せず高値で買い込むため、油が高値になる"として、以後は大坂相場に準じて仕入れるべきと命令している(八木哲浩著『近世の商品流通』P.180)。
 幕府の狙いは、明らかである。大坂を油市場の中心とし、他を大坂市場に従属させようということである。しかし、この命令は、あくまでも大坂周辺(在郷町・農村加工業地帯)の絞り油業者や油問屋などに対する統制であった。
 ところが1759(宝暦9)年8月、幕府は、新たに次のような命令を発した。

燈油の儀、寛保三亥年ニも相触れ候通り、......近年又候(またぞろ)猥ニ相成り、大坂へ積み廻し候菜種(なたね)数無きニて、油高直(たかね)ニ候、尤も豊凶ニも依るべき事ニ候得共(そうらえども)、是(これ)まで直段格別下直(したね)と申す儀もこれ無きに付き、国々より大坂え積登セ候油種、先年の通り、摂州兵庫、西宮?(ならびに)紀州、中国筋、四国筋、西国筋ニて絞り候油(しぼリそうろうあぶら)売払ひ候節は、右の国々の分は江戸表え直積廻(じきつみまわし)致さず、且(かつ)菜種等の儀も随分(ずいぶん)作増(つくりまし)し、大坂え積登(つみのぼ)セ売買せしむべく候、
一 綿実の儀も、近年専ら水油ニ絞り出し、菜種同様の事ニ候うえは、向後(こうご)大坂綿実問屋相定め候間、右(みぎ)問屋の内え積登セ申すべく候、諸事菜種同様ニ相心得申すべく候、
右の趣、この度(たび)改め相触れ候上は、大坂え積登セの菜種綿実、他所ニて猥りに道買ひ或(あるい)は艀下(はしけした)買ひ且(かつ)隠れ絞り致すまじく候、勿論(もちろん)大坂表問屋ども菜種売買込み升(?)の紛らわしき儀(ぎ)向後(こうご)致させず、尤も是(これ)まで取り扱い候口銭(*手数料)の掛り物まても、今般(こんぱん)相改め引下ヶ、大坂問屋問屋ニて明細ニ懸り札ニ記し差し置き、謂(いわれ)無き余慶(余計)の懸り物これ無き様に取り計らひ、聊かも疑わしき儀致すまじく候、若し用ひさる族(やから)これ有るに於てハ、吟味を遂げ、曲事ニ申し付くべき條、諸国一統(いっとう)急度(きっと)相守るべく候、
右の通り、御料(*幕府領)は御代官、私領(*旗本領・大名領など)は地頭より触れ知らすべき者なり、
         (『御触書宝暦集成』一三七九号 P.473~474)
         
 この法令は、従来とは異なり、菜種や綿実を作る農民への初めての直接命令である。これは、たとえば西摂の兵庫・西宮の農民にとっては、これまで灘目(灘五郷)の在々で売払っていたことが一切禁じられることを意味する。
 しかし、大坂三郷にとって、競争相手は西摂だけではない。大坂周辺の堺や平野郷もまた、競争相手なのである。たとえば、平野郷の場合、1754~58(宝暦4~8)年の間の絞油業の状況をみると、次のようであった(平野郷は綿作地帯の中心地である関係から、綿実油である白油が菜種油である水油の生産よりも1・2~1・6倍ほど多い)。
 すなわち、平野郷では「水油と白油との両者を合わせると、五年間のうちで、一年間に最高の年は宝暦六年の七八一石五斗であり、最低でも、宝暦八年の五五〇石三斗が生産されている。これだけでも、この段階としては、平野郷の絞油業はかなりの程度に達していたと推測してよいであろう。しかも、綿実の場合には、平野郷に集荷したほぼ半分に相当する量を、綿実のままでさらに河内の村々の絞油業者に売り渡しているのである。また、量としては大したことはないが、大坂にも出荷する年がある。宝暦九年の段階で、一六二六五〇貫目の綿実を綿実中買(仲買)が売買している。その取扱業者は多少減少するが、それでも一三軒もある。/このことからみて分かるように、なるほど大坂に絞油業の大中心地があり、わが国最大の油市場が存在していたが、それとは別に、平野郷はそれ自体絞油業をもち、その地域での中心地であった。それとともに、これらの村々の絞油業者のための原料の集荷と、近辺の絞油業地域への原料の分配とをおこない、さらに、生産された油の買い集める市場としての地域的な中心地」(津田秀夫著『新版 封建経済政策の展開と市場構造』御茶の水書房 1961年 P.30~31)であったのである。
 宝暦9年(1759年)の近畿以西の農民に対する規制は、6年後の1766(明和3)年には、さらに全国各地に適用され、地域的に拡大されることとなる。

燈油の儀、寛保三亥年(*1743年)相触(あいふ)れ候以後、宝暦九卯年猶又(なおまた)改め相触れ候処(そうろうところ)、右(みぎ)卯年触書(ふれがき)の趣をも弁(わきま)えず、寛保三亥年大坂町奉行所ニて申し渡し候通り、今(いま)以て一国切り絞草(しぼりぐさ)買い受け、絞油稼(かせ)ぎ致し(いたシ)候もの之(これ)有る段(だん)相聞え、心得違(こころえちがい)の至りニ候、これに依って猶又(なおまた)相触れ候條、何(いず)れの国々ニても、手作りの絞草を以て手絞りニ致し、その分の油を大坂表(おもて)出油屋どもえ積登(つみのぼせ)すべき儀ニて、一村の内たりとも、他の絞り草を買い受け、絞油稼ぎ致し候儀は相成(あいな)らざる事ニ候間、その旨(むね)相心得(あいこころえ)、諸国一統(いっとう)卯年相触れ候趣(おもむき)、彌(いよいよ)違失(いしつ)無く、急度(きっと)相守るべく候、
右の通り、御料(*幕府領)は御代官、私領(*旗本領、大名領など)は領主、地頭より触れ知らすべき者也、
  三月
右の趣、相触れらるべく候、
             (『御触書天明集成』二九六一号 P.867~868)

 ここでは、手作りの菜種から手作りの油を作り、それを大坂の出油屋に積登(つみのぼ)せるべきと、従来の方針を改めて触れ出した。いささかも大坂出油屋以外には、売渡してはならないと厳命したのである。しかも、他村からは勿論(もちろん)、「一村の内たりとも、他の絞り草を買い受けて、絞油稼ぎ」をしてはならないとした。幕府が大坂市場を全国市場の中心に仕立てあげようという政策意図は、確固たるものがあった。
 幕府は、1770(明和7)年8月には、仕法改正として、大坂市中の外、摂河泉の在方にも、油稼ぎ株を設定することとした。摂河泉在方の絞油業者の不満をやわらげ、体制内に取り込むためである。しかし、この方策は冥加金が上納できない零細層は株を取得できないのであり、結局、その層をふるい落とし、残りの株を取得した在方商人を囲い込み従属化させ、その上で株仲間全体を排他的・閉鎖的なものにするものであった。 
 しかも、農民に対しては、「......いちおう在々絞り油屋に対する農民の菜種販売の自由は回復されたけれども、在株の設定、種物買い場の指定、直買(じきかい)札の下付(かふ)によって、農民が干鰯(ほしか)屋へ売ったり、質入れすることはなお許されないことになった。したがって、いぜん売り先は手狭(てぜま)で、この点でも仕法改正は農民的流通にとって不都合であったといえる。かくして以後の国訴は絶えずこの不都合の排除を要求し続けなければならないこととなる」(八木哲浩著『近世の商品流通』 P.187)のであった。
 なお、この明和期(1764~72年)には、京口油問屋と江戸口油問屋の二者は、ともに出油屋を経由しなければ油を購入できない(大坂市中の絞油業者からの購入を除いて)ことが法的に確立した。ここに大坂油市場での出油屋の独占的地位が、確立されたのである。
 1776(安永5)年、幕府は、無株の油稼ぎは厳禁とした。幕府が狙う油市場の統制は、さらに厳しくなったのである。
 農民に対する厳しい制約は、西摂の広範な農民たちを決起させた。1776(安永6)年6月、武庫郡村々は、販売先の手狭(制約)に反対して、「国訴」1)運動を展開する。翌月には、川辺郡・武庫郡13カ村から訴状が出され、販売先を手広くすることを公認するように迫った。しかし、幕府はこれらの「国訴」を、8月には却下している。
 幕府の統制は、大坂周辺の農村加工業地帯の絞り油屋・商人たちを、大坂出油屋を中心とする大坂市場構造に組み込むだけではなく、生産者農民の販売活動に直結する部分にまで拡大するのであった。それは、他方で大坂への廻着商品量がしだいに減少する事態を押しとどめ、株仲間の勢力衰退を挽回しようという企みも含まれていた。ともあれ、幕府の株仲間の独占権強化の方針は、かえってその悪弊を露呈させるものとなった。その最大のものは、農民生産者からの菜種の買いたたきである。逆に、農民たちが買う油の小売り相場は高値となっている。それは、農民たちの天明の「国訴」運動の訴状にも明記されていた。
 だが、幕府は農民たちの苦境を無視して、1797(寛政9)年4月、株仲間の独占権をさらに強化し、農民たちへの直接統制(とりわけ、売買面に対して)を強める法令を発する。
 その骨子は、以下の通りである。「第一に、幕府は絞り油屋に対して菜種を農民から直買(じきがい)するように命じ、農民に対しては種物を在々で売る場合に絞り油屋へのみ売るように命じた。仲買行為や農民が在々で種物を干鰯屋(ほしかや)へ売ったり質入れすることを直接端的に禁じたわけである。/第二に、在々絞り油屋の油直小売りを禁じた。従来明和の仕法によって、いちおう摂河泉在々で絞った油は大坂出油屋へ送る規定になっていた。しかし、......それは必ずしも厳格には行なわれなかった。農民はいわば黙認されて、最寄(もよ)りの在々絞り油屋から日用油の直小売りをうけてきたのであったが、ここに明確に直小売りが禁じられた」(八木哲浩著『近世の商品流通』 P.192)のである。
 寛政9年の法令により、大坂の油仲買の主張(大坂周辺の在々絞り油屋が直小売りするのは違法)が通った。この点は、これまで必ずしも明確ではなかったのである。これで大坂の株仲間の独占権は、さらに強化された。また、幕府は農民に対し、以後毎年、菜種の作高・販売高・販売先を村ごとに報告するように命じている。「これによって農民の種物の脇売(わきうり)・質入れをいっそう確実に取り締まり、直売(じきうり)を励行しようと」(同前 P.193)したのである。

 (ⅴ)綿関係では摂河泉一帯の株仲間独占は実現できず

 幕府は綿関係では、油関係のような厳しい統制を布くことはなかったようである。
 17世紀から18世紀前半期の畿内の綿の流通機構がどうであったかは、史料的な制約であまり分からないとされる。ただ大坂市中と平野郷の事情からみて、後にみるほどの株仲間による独占的特権による制約はあまりなかったようである。
 大坂での綿市の起源は不明であるが、「綿商人は寛永年間(1624~44年)京橋一丁目に於て青物市川魚市と相竝(あいなら)んで市場を開始し、畿内近江等より輸送し来れる実綿繰綿を引請け、荷主の希望によりては荷物到著(到着ヵ?)の際(さい)相応の内銀を貸与し、売却を終れば内銀と差引(さしひき)して計算を了とするを常とし、口銭(*手数料)は綿代銀百匁につき一匁三分を徴収せり。」(『大阪市史』第三 P.350)といわれる。
 その後、流通機構の分化が進み、問屋仲間・仲買仲間・小売および綿打仲間等の区別もしだいに明確となっていった。まず正保年間(*1644~48年)には、問屋部門が綿市問屋と唱えて独立し、仲間を定めて営業したが、その後、青物市場と同じく移転を命ぜられて、片原西ノ町(相生町の西半)に移った。これらの「綿市問屋は石丸定次(*大坂町奉行)の命により、改めて三所綿市問屋と称し、十七名の問屋旧慣に従ひて営業し、仲間以外に類似の業を営む者あるや、官(かん)之(これ)を禁ずるに躊躇せざりき。」(同前 P.409)と、お上の特権的な保護下にあった。
 また「万治年間(*1658~61年)綿買次(かいつぎ)問屋起り、江戸・北国・西国筋に繰綿(*綿の実から吹き出た繊維の綿を種子から分離した塊り)を輸送するを業としぬ。綿屋仲間は寛文六(*1666)年七月石丸定次の許可せる所にして、諸方より大阪に輸送し来る実綿繰綿の仲買業に従ひ、又(また)篠巻屋・地島屋・綛糸屋(かせいとや)をも営み、年行司十人を置き、組中の取締に任じ、且つ毎日繰綿相場の高下を町奉行所に上申せり。......」(『大阪市史』第一 P.409)といわれる。
 平野郷では、大坂よりも早く綿市場が開設され、諸国の商人が集まっていたといわれる。そして、「一八世紀初期元禄―享保(*1688~1736年)ごろには、平野郷にはつぎのごとき流通機構がすでに出来ていた。すなわち在々の百姓綿を平野郷の繰屋や売問屋(仲買)が買い、かれらの手を経て繰綿が買問屋に集められる。買問屋はこの繰綿を大坂の三所綿市問屋に送るか、または大坂の手を経ないで江戸その他の遠隔地へと直積(じきつみ)する、という機構である。宝永二年(*1705年)当時、繰屋は実に一六六、売問屋が八、買問屋が九のほか、綛屋(かせや *綛とは、紡いだ糸を掛けて巻く道具)一一、綿打ち四三、綿実買い三二を数えた」(八木哲浩著『近世の商品流通』 P.227~228)と言われる。
 平野郷の市場は、まさに大坂市場に匹敵するほどの規模で形成されていたのである。しかし、平野郷でも18世紀、既存の仲買の外に、脇買衆が発生する。これら新興商人の台頭により、既存の買問屋はしだいに減少するようになる。
 こうした状況下で、18世紀後半になると、大坂や堺などの都市商人や、在郷町・農村加工業地帯の商人たちは、農村からの新興商人などライバルの攻勢に対抗しようと、①繰綿の延売買(のべばいばい *先物取引のこと)なども行なう繰綿売買会所の設置、②仲間株立てなどにより、農村から新たに発生する商人や生産者農民の売買を、権力の力をも利用して規制し、綿取引における自らのヘゲモニーを確立することを図った。
 さきの①については、「すでに一七世紀以来、大坂の三所綿市問屋は地方仲買に綿の買入れ資金を貸しつけたり、また畿内の綿作農民に貢租納入のさい為替銀を立かえ、その代わりにその生産した実綿(みわた)を引き取って口銭(こうせん *手数料)を取るという方法で、いわばすでに実綿・繰綿の先買(さきがい)を行なっていた。繰綿の延売買はいわばこの先買の方法を積極的に利用するものである。すなわち一八世紀後半期、大坂市中や平野郷等で引き続いて新興商人の台頭が進み、また一般綿作農村にも在郷商人の激しい族生があった。このため都市・在郷町等を中心とする既往の流通機構を超えて、さらに流通が展開する勢いとなった。ここに三所綿市問屋や、また平野郷等の既往の商人は、自己を中心とする流通機構を持続し、商品の流通量を確保するために、将来の需要を見越して先物を買う方法を積極的に利用し、幕府権力を背景に独占的市場構造を作り上げようとはかることとなる。常時延売買を行なう場所としての綿の延売買会所はかくして出願せられることとなった......」(同前 P.231~232)となったのである。
 早くは、1745(延享2)年に、摂津国西成郡難波村の長兵衛が綿寄せ場設立を計画し、出願した。しかし、これは許可されなかった。ついで1759(宝暦9)年に、大坂本天満町の野村屋五郎兵衛が繰綿延売買会所を出願し、これは翌年3月に許可された。この年は、堺にも同じ会所の設立が許可された。1774(安永3)年には、平野郷でも、大坂繰綿売買会所(松屋理右衛門)の出店という形で、延売買会所の設立が許可された。その後、さらに1777(安永6)年に江戸室町2丁目の清兵衛店藤右衛門の出願で、大坂にもう一つ延売買会所が許可された。他にもいくつかの出願が続出したが、これらはどうやら不許可とされた。だが、延売買会所は、投機的だとの批判にさらされ、百姓たちの激しい攻撃を受けることとなる。
 ②は株仲間として幕府の公認となり、商売を独占することである。「安永元年(*1772年)四月まず綿屋仲間が株立てを出願し、それは同年六月に免許され一三七名の株立てが実現した。ついで三所綿市問屋も同年七月株を免許(当初五名)されている。この大坂市中の商人の株立てにつづいて、その翌年摂河在々の実綿・繰綿・木綿商人の株立てが出願される。仲買一人の株料として月に銀九分の割りで、仲間合せて毎年一五〇両の冥加金を上納することを条件に、綿毛綿仲買株一五〇〇枚の免許を願ったのである。......この出願は、摂河在々といっても、やはり在郷町・農村加工業地帯(繰屋・木綿織地帯)の有力な商人・加工業者が中心になって行なったものと考えられる。かれらのねらいは、冥加金の負担にたえない在郷町・農村加工業地帯の群小商人や一般農村における族生せる在郷商人の大多数を脱落せしめること、それによって一八世紀後半動揺しはじめていたかれらの勢力を回復し、さらに摂河一円において流通の独占うちたてにあった」(同前 P.233~234)と考えられる。 
 その後、彼らは摂津・河内の農村綿商人に対して株仲間への加入を働きかけ、1772年の公認時137名であった大坂綿屋仲間は、天明期(1781~89年)には、381名へと増加する。
 幕府の株仲間政策の主な狙いは、「米価安の諸色高」を解決しようとするものであったが、それを利用した特権商人たちの狙いは独占化によって、排他的に利益を囲い込むものであった。すなわち、菜種の場合と同じであるが、綿の場合も在郷町2)や在方の商人を加入させる工作を通じ、入会金を用意できない零細業者を振るい落とし、さらに新加入者を大坂株仲間の下に従属化させるのであった。
 このような政策は、新興の在郷商人にとどまらず、綿作農民に大きな打撃を与えるものであった。こうして、いわゆる大規模な「国訴」運動が展開されることとなった。
 運動のうねりは、安永~文化期(1772~1818年)と文政・嘉永期(1818~1854年)に大きくなる。前者では、主に延売買や株立てによる流通規制に反対するもので、規模も一般にまだ小さかった。
 安永2(1773)年、幕府は、摂河在々の実綿・繰綿・木綿商人たちの仲買株出願を受けて、摂河泉の村々に支障の有無を問い合わせた。
 これに対し、村々は次々と反対の申し立てを行なった。たとえば摂津国莵原郡住吉村以下9カ村では、以下のような返答書であった。すなわち、「村々はこれまで生産した実綿を諸方の繰屋・木綿商人と値段を交渉して、手広に売却してきた。しかるに仲買株の株立てがなされ実綿・木綿の取引が株札を持つ者に限られるようになれば、農民はもちろん諸商人まで売買が手狭(てぜま)となり、値段まで下落して難渋する。だから株の免許差止めを願う」(八木哲浩著『近世の商品流通』P.236)と。
 摂河農民と在郷の群小綿商人の反対により、摂河地域における株立ては、ついに実現しないで終わった。
 他方、延売買会所については、綿取引を"安全かつ行なう"という設立目的に反し、関係者の人為的な操作で市場価格を変動させ投機取引をうみだすようになり、また、農民にとって商人が会所に吸い寄せられ、生産者のもとを訪れなくなり、正綿取引が停滞するようになる。
 このため、安永6~7(1777~78)年の国訴運動は、いずれも延売買会所の廃止を要求している。とりわけ安政7年1月の国訴では、「延売買三ヶ所?(より)差上げ候程の御冥加銀」は「摂河両国の村々恐れながら総高掛リニ仰せ付けられ下され延売買会所御差止め成り下され」る、とまで言って出願している。すなわち、延売買会所三ヶ所が上納している冥加銀の分を、摂河両国の村々にその高に応じて上納させてもよいから会所を廃止して欲しいとの願い出である。
 高まる国訴運動と会所の投機機関化で、とうとう幕府は天明7(1787)年12月に大坂と平野郷の会所を廃止し(『大阪市史』第二のP.120を参照)、翌年には堺の会所も廃止するに至った。
 しかし、綿作地域でかつ綿取引が盛んに行なわれる時期には、多くの売り手と買い手が一堂に会して、円滑で安全な取引を行なうことは、双方にとって便利なため、取引場所の開設を出願する者は絶えなかった。だが、株仲間の特権を脅かすものといって、三所綿市問屋・綿買次積問屋・綿屋仲間などの新たな試みに対する妨害などもあり、許可に至らなかった。
 それでも大坂屋弥兵衛は、寛政11(1791)年12月、享和元(1801)年10月、文化3(1806)年と、設立願いを繰り返した。そして、文化7(1810)年4月に、ようやく幕府の許可を得ることができた。
 三所綿市問屋などの反対にもかかわらず、大坂屋弥兵衛の開設願いが許可された最大の理由は、百姓たちの「了解」ができたからであろう。文化3~4年にかけて、摂河村々と大坂屋弥兵衛との交渉が何回か行なわれ、ここで、市場設立において、①実綿市売りが正路の値段で手広に捌けると農民たちが判断し、②村々の百姓たちが便利宜しき売買に弥兵衛が同意した旨の一札が弥兵衛へ手渡されている。これらの合意点は、文化4年の国訴状においても要求されている(八木哲浩著『近世の商品流通』P.239)。こうして、大坂屋弥兵衛に開設許可が下されたのである。
 しかし、実際に市場が運営されると、百姓たちにとっては期待外れに終わったようである。「第一この市場は『大坂表の外(ほか)摂河泉在郷ニて綿市場相建て申すまじきこと』を条件に、在郷ではなく市中に設けられた。このため普通、買いに来た仲買に自宅で庭売りしていた農民には、最初からあまり縁のない市場であり、またかりに農民自身が市場に運んでも、口銭を払ったり値段不引合等のためにかえって不利になる点も多いので、農民はあまり利用しなかった。このため市場での正綿売買は少なく、しぜん空売買が多くなったらしい。」(同前 P.240)といわれる。
 この状況を打開するために、弥兵衛は翌文化8(1811)年に、在方での市場開設を出願する。これに対し、幕府役人は摂河の村々に賛否を問うた。だが、村々は、百姓の庭先での手広の取引ができなくなるとの警戒や、空売買が盛んとなった延売買会所の二の舞を怖れて、反対あるいは批判的態度が多く、弥兵衛の計画は実現しなかったようである。さらにまた、弥兵衛が先に大坂市中に開設した実綿市売場の方も、三所綿市問屋などの圧迫もあり、「市場不景気」などの理由で文政12(1829)年には中止となった。
 三所綿市問屋など既存の問屋が独占化を狙うさまざまな規制は、零細商人ばかりでなく綿作農民の広範な怒りを引き起こし、国訴運動の第二のピークをもたらした。その代表的なものが、1007カ村の有名な文政6年の闘いである。
 文政6(1823)年5月13日、摂河泉786カ村の村々惣代63人の連印をもって、「実綿売捌方(うりさばきかた)手狭(てぜま)ニて難渋仕り候ニ付き手広ニ相成り候様歎き御願(おねがい)」と題した訴状が提出された。その結論は、次のようなものであった。

......数万の百姓、綿荷物売捌方(うりさばきかた)手狭(てぜま)ニ成り行き、御年貢御上納ニ差支(さしつか)え候間、何卒(なにとぞ)三所実綿問屋株御取放(おとりはなち *免許取り消し)成り下され、百姓勝手次第に売買手広(てびろ)ニ相成り候様仰せ付けさせ下されたく、恐れながら願い上げ奉り候
                   (八木哲治著『近世の商品流通』 P.246からの重引)

 この訴状は、明確に三所実綿問屋株の「取放(とりはなち)」、すなわち免許取り消しを要求したのであった。これは真っ向から「御政道」を批判することであり、百姓たちの意気込みを示したものであった。だが、この訴状は幕府のメンツさえもないがしろにするものであり、「株の取放を願い出るべき道理(どうり)無し」として、却下された。
 そこで5月25日、786カ村の代表は、次のようにわづかな部分修正をした訴状を再提出した。修正された部分は、上記の下線部を、「近国他国へ直売(じきうり)直船積(じきふなづみ)とも百姓勝手次第売買手広ニ往古?(より)仕来(しきたり)の通り相成り候様仰せ付けさせ下し置かれ候様」に書き直したものである。
 真正面から「免許取り消し」を要求するのは、幕府の政策を頭から否定するものなので、百姓達は部分的に譲歩し、文面を手直ししたのであった。今、筆者には5月13日の訴状全文を入手できないので、当時の状況を伝えるものとして、以下に5月25日の訴状の全文を掲載する。

実綿売捌方手狭にて                  御料私領
難渋仕り候ニ付き手広に                摂河州七百八十六村
相成り候様御願(おねがい)歎く                 惣代
                           小堀主税殿代官所
                           河州若江郡高井戸村
                                庄屋  平右衛門
                                   外 二十八人
一 摂河両国の儀は田畑入り交じり候場所にて、畑方は勿論(もちろん)田方の内にても用水悪しき場所は綿作仕り候儀(そうろうぎ)夥しく御座候処、右(みぎ)作り立て候木綿の儀は摂河両国は申し上げるに及ばず、遠国他国の商人までも村々より手広に売り捌き、御年貢の内三歩一石台十歩一大豆石代御口米(おくちまい)代銀納その外(ほか)役掛り銀とも残らず綿売り代銀をもって上納仕り、百姓相続仕り有り難き仕合(しあわせ)に存じ奉り候、然る処(ところ)近年大坂表三所実綿綿問屋仲間(なかま)申合せ、新規の仕法(しほう *やり方)立て仕り、摂河州村々木綿売り捌き方手狭に買留仕り、綿直段(値段)自由に踏み下ゲ買取り候に付き百姓作綿(つくりめん)売り捌き手狭に相成り、第一御収納方に甚だ差支(さしつか)え、且又(かつまた)肥代銀(こやしだいぎん)その外(ほか)諸払い方差支え多く、百姓一統難渋仕り候に付き、恐れながら難渋の始末左(ひだり)に申し上げ奉り候、
一 木綿作りの儀は八月九月中に取入れ候て御年貢御上納銀手当仕り、九月初納より十月十一月十二月まで月々御割賦仰せ触れられ候たびに、毎々段々売り捌き上納仕り候儀に付き、最寄(もよ)り近郷は申し上げるに及ばず、遠国、他国の商人綿品届き候場所へ立ち入り買取り候に付き、諸方人気を以て相場相立(あいた)て、売り払い方手広に御坐(御座)候処、近年三所実綿問屋仲間申合せ、村々商人厳致(厳しくヵ?)取締り仕り、是(これ)まで在方綿商内(あきない)仕り候ものの内、他国商人へ直売(じきうり)直船積(じきふなづみ)仕り候者共(ものども)より、已来(以来)直売直船積仕りまじく誤(あやまり *謝り)証文取り立て、その上過分の口銭(*てすうりょう)を取り候に付き、只今にては都(すべ)て在方綿商人とも三所実綿問屋手先(てさき)同前(同然)に相成り候に付き、他所、他国の商人とも(共)村々入り込み申さず付いては、直段も三所実綿問屋申合せ買い下げ候故、摂河州村々百姓一統(いっとう)大難渋仕り、百姓作り綿売り捌き方前出(ぜんしゅつ)の通り相始め、村々商人とも買入れ綿は三所実綿問屋へ是非(ぜひ)買い請け申さず候ては聞き入れ申さず、他国商人へ売買応対仕り候ても、大坂川内は勿論(もちろん)灘目その外(ほか)住吉堺沖まで積下ゲ候ても、見掛ヶ候節〔*直売・直船積を見かけた際には〕一旦(いったん)三所実綿問屋浜先きまで綿荷物積み戻させ、口銭取り立て、右(みぎ)口銭の上(うえ)問屋浜先まで廻り候船賃も二重に相掛り候儀と、摂河村々数万百姓御年貢御上納第一の作物、わずか八、九軒三所実綿問屋とも引き〆(しめ)、自分の浜先きへ引き寄せ、荷改(にあらため)仕り、口銭御運上同様厳重に取り立て、百姓ども難渋致させ、その上御上納銀入用の時節、是非売り払ず候ては百姓とも叶い難くき場所も見込み、直段踏み下ヶ買取り、他所、他国の商人へは三所実綿問屋の者とも面々勝手次第の直段宜しく売り付け候儀に付き、百姓一同の手
元損銀夥(おび)しき数、近年困窮の百姓必至と相詰り難渋仕り候、
一 木綿作りの儀は稲作と違い、肥手(こえで)も過分に仕込み、手間修理も倍に人手間(ひとでま)も相掛り、手元(*腕前)行き難く合い候へとも、畑方は勿論田方の内にも用水掛り悪しき場所は稲作仕付け(*育てること)相成り難く、是非前々より木綿作り仕付け候国柄(くにがら)に御座候、
一 御料所村々と田方并(ならびに)田受け畑木綿作りの儀は、延享年中(*1744~48年)頃より稲作上合毛並みに御取箇〔*木綿作りは稲作の上田並みの年貢〕仰せ付けされ候所、前書きの木綿売り捌き手狭に相成り候ては直段下直(したね *低価格)に相成るべく候はば、御収納にも相響き候様恐れながら存じ奉り候、
右(みぎ)の通り三所実綿問屋とも厳中に(厳重に)商売筋取り極め仕り、既に去る午年(*1822年)の儀は木綿凶作の年柄(としがら)案外の下直買い留め〔*凶作の年にもかかわらず、安値で買い取られ〕、御上納に差支(さしつか)え一同難渋至極(しごく)仕り、百姓相続相成り難く嘆かわしく存じ奉り候、尤もこの上(うえ)差支え諸人難儀に相成るべき筋御座候節は、諸株の内にても御益銭上納仕り御株にても、去る天明の五未年(*1785年。ただし、この年は巳)に至り御仁徳を以て、恐れ多くも御下知に従い御株仲間御差留め相成り候趣(おもむき)粗(あらあら)承知罷り在り候、然る処(ところ)その頃は三所実綿問屋の儀(ぎ)諸人難儀にも相成らざり候処、近年実綿問屋の者とも纔(わずか)の御益銀申し立て、不実の商い仕り百姓難儀仕り候処、猶(なお)近年厳しく申しかため、摂河綿荷物買い留め仕り、数万の百姓綿荷物売り捌き方手狭に成り行き、御年貢御上納に差支え候間、近国他所直売、直船積とも、百姓ども勝手次第手広に往古仕来りの通り売買相成り候様恐れながら願い上げ奉り候、右の通り御諒容(ごりょうよう *思いやりを以てよしとすること)成らせられ候はば、御益の損も相立たず、在々眼前の潤益と相成り数万百姓御救いと広大の御慈悲有り難き仕合せ(幸せ)と存じ奉り候、以上、
                     小堀主税殿御代官所
  文政六未年              摂河州七十五ヶ村惣代
    五月二十五日           河州若江郡高井戸村
                          庄屋 平右衛門
                            外 二十八名
                            各所庄屋連名
 御奉行様
  高井山城守様東御奉行掛り
  東御当所地方御役所
  寺西源五兵衛様御掛り
              (『編年一揆』第十巻 P.553~554)
 
 しかも訴願は、5月27日、6月2日の両日に、221カ村が追訴し、合計すると、1007カ村が「直売直船積とも百姓の勝手次第」、「売買手広ニ往古?の仕来の通り」を要求するに至ったのである。当時、摂津国は13郡901カ村、河内国は16郡561カ村が存在し、合わせると1462カ村となる。その内、1007カ村は68.9%ものの村々が訴願に参加したのである。
 この訴願は「町奉行所で受理され、奉行所の問屋側に対する調べがあって、七月六日に、農民側が呼び出され申し渡しを受けた。幕府は綿に関しては農民側の言い分を認め、生産者農民からの直売や直船積は『勝手次第』という触(ふれ)を出すことになった。三所綿問屋の独占強化によってその下買人のようになっていた在方商人や他国商人の直買(じきかい)・直船積の自由も回復され、農民の綿の手広売買は実現することになったのである。生産者たちの粘り強い運動は、一応の成果を上げたといえよう。」(新修『大阪市史』第四巻 P.324~325)と評価されている。
 この結果、綿関係では、幕府が油関係のような厳しい流通統制を布かなかったため、大坂の株仲間は摂河の一円にわたる独占権を実現できなかった。そして、生産者農民は在郷の零細綿商人と連合して国訴運動を広範に展開し、ついに自由な直売り・直買いを実現したのである。

注1)津田秀夫氏によると、「『国訴』というのは商品経済の発展を前提にして、入組支配の村々の存在にもかかわらず、支配関係をこえ、郡から国の規模をこえて、それが訴訟という合法的な法廷闘争の形態でたたかわれたところに一つの特徴がある......。/『国訴』は商品経済の展開の成果として生じた農民側の剰余部分を幕府が掌握するために、旧来の商品流通機構に付与した特権によって市場を独占して、直接生産者・一般農民を市場から遮断し接触することを妨げたところから生じた。」(同著『近世民衆運動の研究』三省堂 1979年 P.292)と言われる。津田氏によると、「国訴」という用語は、文政6(1823)年の実綿・繰綿の売買自由を巡った摂津・河内1007か村の農民の法廷闘争の時に用いられたのが始まりである。
2)農村における商品作物の生産や手工業を営む人びとの拠点として、在郷町が建設された。そこでは農村部であるにもかかわらず、市場や町場が成立し、月に何回か市(いち)が開かれた。これは商品作物を生産する商品農業の発展を背景としていた局地的市場圏をなした。畿内での在郷町は、一向一揆の寺内町(じないちょう *治外法権をもつ)を前身としたものが多い。たとえば、富田・大坂・久宝寺・富田林・大ヶ塚・貝塚・今井などである。

 (ⅵ)株仲間を通じた流通・物価統制

 江戸時代の商工業者が、集団を組んで仲間内の便宜を図り、仕事上の益をなすのが株仲間である。仲間は「中間」とも表記し、「中」は「村中」「惣中」「講中」と同じで、平等者の関係を意味し、「間」は人々の交際関係を意味する。
 仲間は、はじめは数人から数十人の規模でなる私的な集団であった。同じ町内の同業者が仲間を作ったり、あるいは同じ地方からの出身者が仲間となった。仲間は、行司、年番、年寄などの役員を互いに務め、定期あるいは臨時の寄合をもち、種々の申合せを行なった。そして、仲間規約を定め、加入者は仲間一同の承認によって、加入が認められ成員となるのが一般的であった。
 幕府は、当初、このような私的な集団に対して否定的であった。それは、江戸城の本丸・二の丸をも焼失させた「明暦の大火(1657〔明暦3〕年1月)」のあった年の9月の法令で明らかである。

一(第一条)(*冒頭に呉服屋・綿屋・両替屋・材木屋・米屋・酒屋など20種類の商人を挙げ)、この外(ほか)諸商人中ケ間(*仲間)一同の申合(もうしあわせ)を仕置(しおき)候ニ付き、新規の商売人中ケ間え入り候者ハ、或(あるいは)大分の礼金或ハ過分の振舞(ふるまい)致させ候故(ゆえ)、商売新規に企て候者迷惑仕(つかまつ)り、その上(うえ)商物(あきないもの)時としてしめうり(占め売り)致し候由(よし)内々(ないない)相聞え候、?(ならびに)町中(まちじゅう)明棚(あきだな *空き店舗)これ有る所(ところの)家主才覚を以て棚(*店)借付(かしつけ)候得は(そうらへバ)、中ケ間の者一味(いちみ)仕り〔*仲間の者がグルになって〕、その棚ニ障(さわり)を申し、棚中間(仲間)と相対(あいたい *合意)これ無き者ニハ棚からせ(借らせ)申さず候故、家主迷惑仕る由(よし)それ聞え候、自今以後、一同の申合(もうしあわせ)停止の事、
一(第二条)材木問題 米問屋 薪問屋 炭問屋 竹問屋 油問屋 塩問屋 茶問屋 酒醤油問屋
 この外(ほか)諸問屋是又(これまた)一同仕り、他国より参り候船(ふね)商人問屋え着かず、すく(すぐ)に荷物売払ひ候得は、その船の商人重ねて問屋え着かず候故、旅人(*異国人)迷惑致すの由(よし)それ聞え候、且(かつは)旅人の勝手且(かつ)ハ諸人の甘(「其」か?)旁(かたわら)ニ候間、向後は船商人心次第(こころしだい)ニ商売致させべく候、一味の申合(もうしあわせ)堅く停止の事、
一(第三条)大工・木挽(こびき)・屋根葺き・石切り・左官・畳屋この外(ほか)職人会所を定め、仲ケ間一同の寄合(よりあひ)いたし(致し)、手間料高直(高値)申合(もうしあわせ)候ニ付て、最前その段(だん)相触れ候間、彌(いよいよ)その意を得べき事、
右(みぎ)惣別(そうべつ)一味同心の寄合、何事ニよらず御法度(ごはっと)の旨、最前も相触(あいふ)れ候、若し自今以後、一同の申合(もうしあわせ)仕(つかまつ)り候者これ在るは、曲事を為(な)すもの也
  九月
                (『御触書寛保集成』二〇三九号 P.1000)

 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるが、しばしば起こる火事は、その後の復興過程で必ず諸物価を高騰させた。酷い場合は、2~3割も高騰するという。まさに庶民ばかりでなく、弱り目に祟り目である。 
 第一条では、諸物価高騰の折り、新規開店の商人が仲間に入るとき、仲間が大分礼金をとったり、過分の振舞を指せたりするのは、新規商人にとっては大変な迷惑である。そのうえ仲間が「占め売り」までしていると、噂に聞いている。また、空き店舗を借りようとするとき、仲間がそれを妨げて、借りられないようにするなどは家主の迷惑である―として、以後、仲間「一同の申合」を停止するように命じた。
 第二条では、問屋仲間が一同申合せして、異国(*日本内の他藩・他領)から来る船を問屋に着かせなかったり、船積み商品を秘密に正規ルート以外に売払うなどして、その船の商品を当てにしている人々に迷惑させている。今後は、船商人が自由に商買できるように、問屋仲間の「申合」を停止すべきとした。
 第三条では、火災後の復興過程で、職人たちが示し合わせて手間賃を高値にすることを従前通り禁止としている。
 しかし、幕府は「仲間」一般に対して、否定的であったわけではない。17世紀前半には、質屋や古物商については、警察行政の見地から取締りに有益とみて、仲間の結成を公認してきた。また、長崎を窓口とした外国貿易統制のために糸割符(いとわっぷ)商人の仲間組織も作った。
 幕府は、寛文・延宝期(1661~81年)には、大坂の商取引の円滑な運用のために、あるいは価格統制のために、積極的に仲間組織を認可し始めた。たとえば、三所綿問屋・綿買次問屋・綿屋仲間、京口油問屋・江戸口油問屋などである。
 1694(元禄7)年には、江戸十組問屋(えどとくみどいや)が結成され、大坂からの「下り物」を扱い、大坂・江戸を結ぶ海運に大きな力を持った(しかし、これは菱垣廻船から樽廻船が分裂し、十組から離れる問屋も現出などして、体制挽回を期して1813年に菱垣廻船積問屋仲間に再編された)。これに対応して、大坂でも大坂十組問屋と称する江戸積問屋が結成され、これは後に大坂二十四組問屋となった。
 だが享保期も、幕府は諸物価の高騰に悩まされ続けた。1717(享保2)年5月には、物価・賃金の抑制のために、「仲間の申合」を禁じた。1721(享保6)年7月には、江戸市中での新規奢侈品の製作を禁止した。また、米価高騰のため、大坂堂島の米商人数名を逮捕し、諸藩蔵屋敷の米延べ売り(先物売買)、買占めを禁止した。同年8月には、諸物価の高騰を抑制するため、江戸市中の商人・職人に組合(仲間)を作るように積極的にすすめた。
 しかし、1724(享保9)年2月には、一転して米価が下落したため、それに応じた諸色(いろいろな商品)の引下げも命じた。同年5月には、江戸の米・水油に関わる問屋に仲間の結成を命じるようになった。この頃から幕府は「米価安に諸色高」に、悩まされ続ける。物価問題は、幕府にとって幕末に至るまで、極めて重要な政治問題でありつづけた。
 享保6~9年(1721~24年)ころになると、幕府は主に生活必需品を対象とする問屋を中心に仲間を積極的に奨励した。「米価安に諸色高」を打開するために、問屋仲間を利用したのである。
 幕府は、米価安を何とか解決しようと、1725(享保10)年11月、江戸の町人に買い米をさせた。買い米は、1731(享保16)年6月に、大坂の富裕な商人にも行なわせた。1744(延享元)年9月にも、米価引き上げのため、江戸・大坂の町人に買い米を命じている。だが、いずれも成功していない。
 1726(享保11)年5月、幕府は物価高騰の原因を調査するために、江戸の米・水油など15品目の問屋の帳面を提出させた。同年12月には、諸物価・銭相場の引下げを命じた。しかし、価格高騰を単なる命令で解決しようなどとは、幻想である。1728(享保13)年、幕府は従来、禁止していた大坂での米切手の延売買(先物売買)を、米価引上げのために逆に許可するようになった。1731年には、前述のように大坂でも買い米を町人に押しつけている。
 この時代には株数(株とは仲間成員としての権利を指す)の固定や、冥加金(実質上、税の一種)上納の義務はなかったが、諸商品の入津量(港に入る量)や地方への移出高、あるいは価格などについて報告させた。
 なお、幕藩権力の御用を果たさせる目的で上から組織された仲間を「御免株」といい、下からの願いによって認可されたものを「願株」という。
 18世紀の後半ともなると、商品生産はいっそう盛んとなる。このため、株仲間の排他的性格がより顕著となる。仲間は初めから仲間の利害を優先して仲間以外に対する排他性をもっていた。それが商品生産の発展と共に、権力が認可した流通ルート以外での売買が盛んとなり、株仲間としての利益がますます減退するようになる。そこで株仲間は、公権力によって、流通にかんする特権の保証を求めるようになる。とりわけ幕藩制的全国商品市場の中心である大坂の問屋層は、これまでの特権的地位を維持するために、冥加金を上納して株仲間として認可され続ける事を望んだ。そして、重商主義的な政策が目立った田沼期には、とりわけ「願株」が増大した。天明年間(1781~89年)の大坂市中には、100種類を超える株仲間が成立している。
 寛政の改革を担った松平定信政権は、「米価安に諸色高」を解決するために、米価調節機関として江戸町会所などを設置した。しかし、松平定信が1793(寛政4)年に失脚したあとも、米価低落の事態はつづいた。「摂河両国に大洪水があった享和二年(*1802年)でさえ、その年十一月の相場は石当たり肥後米六十二、三匁から六十四,五匁、筑前米五十九匁から六十匁ていどにとどまった。文化元年(一八〇四)には、幕府はいつものように、幕領・私領に貯米を命じ、酒造制限令を撤廃し、また諸大名の江戸廻米を例年の二割減らすように指令したほか、大坂で二万七千石の買上米(かいあげまい)をおこなって米相場の引上げをはかったが、ほとんど効果はなかった。」(北島正元著『日本の歴史』18 幕藩制の苦悶 中公文庫 P.129)のである。
 文化元年(1804)年の大坂での買上米が失敗したあとも、幕府はこれにめげずに、さらに翌年11月、重ねて江戸・大坂の富商に買米を命じた。しかし、老獪な大坂商人は、幕府の予定額120万石に抵抗し、結局は、半分の60万石にまで買米量を減額させた。
 定信失脚後の政権は、定信時代の幕閣に参加した人々が引続き担当したため、定信路線を継承し、1805(文化2)年には、幕府はさらに米価掛(かかり)を設置し、ここに米買入資金を貸し下げたり、一般の米問屋や仲買に買米資金を補助する小網町貸付会所を設置したりした。この貸付会所設置の狙いは、米価下落対策と利貸しでの利潤獲得という二重のものであった。また幕府は文化2年、江戸の町人や幕領農民に対して最初の御用金を賦課し、徴収した42・6万両を米価掛の取扱いとした。
 当時の幕閣は、以上のような米価対策のほかに、他の商品の流通統制として、江戸の伊豆七島島会所(伊豆七島の物産を独占的に扱う幕府の専売機関)、玉子会所・長芋会所(江戸地廻りの鶏卵・長芋の流通独占組織)などを設立した。
 しかし、幕府の懸命な物価対策にもかかわらず、効果は上がらなかった。そこで幕府は、衰退する菱垣廻船の挽回を図り、江戸最大の商人独占団体の機能を確立しようという十組問屋の策謀に乗じて、その機能を物価政策に利用しようともくろんだ。だが実際、十組問屋は、内部の紛争解決や、つぎつぎと生み出される中小問屋との関係再編を迫られる。菱垣廻船もまた、樽廻船との競争や海難事故などで、享保年間(1716~36年)に160艘もあった廻船が1805(文化5)年にはわずか38艘にまで激減し、残った船も老朽船が増えていた。
 そこで十組仲間は、菱垣廻船一手積みの特権を回復して輸送面から仲間の独占機能を回復しようと、まず仲間外の新興商人を自らの統制内に組み込もうとした。
 ところが、1807(文化4)年5月、十組仲間内部の紛争が悪化した。それは、薬種問屋仲間に属して砂糖を取扱ってきた問屋が、仲間の申合せを破って、樽廻船に商品を運ばせ争いが絶えなかったところに、同月、17軒の砂糖問屋が"毎年1000両の冥加金を上納する"という条件で、砂糖問屋株の認可と樽廻船一手積みの許可を町奉行所に申請したのである。17軒は町年寄1)・樽与左衛門や町奉行所与力などに、付届けなど充分な根回しを行なった上での申請なので、解決は容易ではなかった。
 そこで、十組仲間は、定飛脚問屋の大坂屋茂兵衛に調停を依頼した。才覚があり、定飛脚問屋仲間を牛耳る茂兵衛の調停案は、砂糖問屋側に有利(株立てをした17軒に加えて、残る薬種問屋35軒の内、砂糖を専らあつかう8軒を加えた25軒に株を認可し、残りの27軒は砂糖の取扱いをやめること、また砂糖荷物には樽廻船一手積みを認める代わりに、砂糖問屋の扱う砂糖以外はすべて菱垣廻船が扱う)であった。十組問屋が難色を示したのは、当然である。しかし、茂兵衛は紛争解決を通して、十組の体質改善を図った方が得策と説得し、ついに1808(文化5)年10月に、和解となった。
 この一件で茂兵衛の発言権は、大いに高まった。そこで、茂兵衛は権力をバックに十組仲間を屈服させ、私欲を肥やす策動を繰り広げる。
 まず、1808(文化5)年11月、十組仲間の幹部を説得し、三橋会所の設立を幕府に出願させた。そのいきさつは、前年8月の深川八幡の祭礼に多数の群衆がおしかけ、永代橋が折れ、死者1500人を出した事件に発する。茂十郎(茂兵衛の改名。彼は養子であり、家督は妻の弟に譲った。)は、幕府が永代橋の再建費用の捻出に思案していたところにつけ込み、永代橋だけでなく、新大橋と大川橋を合わせた三橋の架け替え・修復、並びに維持を、三橋(さんきょう)会所を設置して永久に引き受け、しかも渡銭もとらないという計画を申し出た。その三橋会所の資金は、十組仲間の出金を積み立ててこれに充て、資金に余裕ができれば仲間救済の貸付金にも廻すという計画である。幕府はこれを許可し(文化6年2月)、茂十郎が会所頭取、樽与左衛門が会所取締に任命された。
 三橋会所の幹部は、繰綿・木綿・水油・荒物・両替問屋などで占められていた。茂十郎は、これらの問屋を手足として三橋会所を支配し、当面、菱垣廻船の再建を目指しつつ、お上にテコ入れしてもらい十組問屋の独占的機能を強化することを狙った。そのために、三橋会所を媒介に、冥加金をより多くかき集め上納させようとした。それは、その上納金の半分は十組問屋に貸付金として融通すると、お上から内諾を得ていたからである。幕府側としては、三橋会所を寛政改革期の猿屋町貸金会所や江戸町会所と同じような金融機関として、米価調節などに利用しようという魂胆があったのである。
 茂十郎の資金調達の方法は、きわめて強引なものであった。それは、"拒否するならば問屋の屋敷地などをお上に没収してもらう"と、権力をバックにして恫喝しながら、調達したものである。しかも、茂十郎の背後には、町年寄の樽与左衛門がおり、町人たちも後難を恐れてしぶしぶ応ずるのであった。こうした恫喝まがいの集金方法で、茂十郎は1810(文化7)年12月には、計1万200両を調達したのであった。
 幕府は十組問屋の冥加金上納を褒賞し、約束通り、その半金を三橋会所の資金に貸し付けた。茂十郎は、1809(文化6)年10月に、三人扶持・苗字御免・肩衣(かたぎぬ)着用などを許可され、翌年には、町奉行所御用達(ごようたし)を命ぜられて、その功労をねぎらわれた。
 しかし、幕府にとって肝心なことは、米価をはじめとする物価対策である。1807~08(文化4~5)年の各地の水害などで、米価は一時持ち直したが、1809(文化6)年の豊作でまた下落した。1810(文化7)年11月、再び大坂町人に買米を命じ、前回同様に60万石の請高にすることを承知させた。ただし、三井ら金融グループの豪商14軒に対しては、買米を免除する代りに20万両の御用金を強制した。
 このとき、江戸の三橋会所は、幕府の米価政策に協力すると称しつつ、莫大な利益を狙って20万石の買米を行なった。「(三橋)会所では、とくに大坂市場の建米(たてまい *売買の基準となる米)である肥後米の買占めに重点をおいて、大坂の米問屋七軒に発注したので肥後米が払底し、翌八年(*1811年)二月には石当たり七十匁から八十五匁に騰貴し、他の藏米もそれにつれて騰貴した。七軒の米問屋は十組仲間にそんな計略があるとは知らず買いあさり、肥後米だけでは注文を満たすことができず、ついに空米(くうまい)売りまでやった。そこでかれらは十組に交渉して肥後米を買いもどそうとしたが、御用米をたてにとって高値でなければ承知しないので、空米のかたがつかず処罰され、なかには苦悩のあまり病死したり逃亡するものも現われて、大坂人の同情と十組にたいする憤激をつのらせた。けっきょく二名は摂河払い、二名は三郷払いとなり、大坂市中の人気は一時すっかり沈滞した。」(北島正元著『日本の歴史』18 P.140)のであった。
 しかし、十組の買米(かいまい)に対しては、十組内部からも反発が起こった。文化8年の盆前になって、買米代金が続かなくなった茂十郎ら十組幹部は、例のごとく強引に仲間から出金させようとした。しかし、雪踏(せった)問屋行事の伊勢屋佐兵衛がきっぱりと拒否し、それには木綿問屋や呉服問屋もあとに続いた。
 米価は文化8~9(1811~12)年と豊作になり、生産者農民にとっては喜ばしいことではあったが、米価がまたまた下落し、米価騰貴をねらって大儲けしようとした茂十郎ら十組仲間の企みは完全にはずれてしまった。「大坂買米の損金十三万両に江戸の買米損金二万両を加えると十五万両にのぼり、これに三橋修復費と、文化七年の朝鮮使節来日のさいに無償で提供した菱垣廻船十二艘分の出費を加えると、実に27万両の赤字になった。三橋会所の入金高の約七〇%は十組仲間の出金で占められていたから、この赤字による江戸の問屋商人のうけた損害はたいへんなものであった。」(同前 P.142)といわれる。
 だが、茂十郎らの十組仲間からの資金調達は、厳しく推進されたと思われる。「(三橋)会所の積立金も文化七年ころには七万両に達し、菱垣廻船も同年までに新造・修理の分も合わせて四十七艘が確保され、従来のものを加えると七十余艘となった。冥加金上納をきっかけに、十組仲間はすっきりした業種別問屋仲間に再編成される方向が明らかになったが、その到達点が文化十年(*1813年)の菱垣廻船積問屋仲間の結成である。幕府はこのとき十組仲間六十五組、一二七一軒にたいし株数一九九五株と定め、以後の新規加入を禁止し、廃業者がでたときはその株式を仲間で預かり、組内に適当なものをみたててそれに譲ることを条件として株式を交付した。」(北島正元著『日本の歴史』18 P.138)のであった。
これに対し、十組問屋仲間(菱垣廻船積問屋仲間)は、毎年、1万200両の冥加金を上納して応えた。茂十郎たちの狙いは明らかである。江戸市中に叢生してきた中小問屋を業種別に系列化し、生産地とつながる流通機構をきわめて特権的で、閉鎖的な組織とすることであった。以降、株仲間の問屋を通さない商品売買に対しては、「抜荷」「越荷」として摘発がなされ、仲間外の者との売買をしないよう強制が強められ、権力を背景とした流通独占が主張された。
 しかし、これには生産者農民や在方の無株商人、江戸の中小問屋・小売り商などが、広範に反発し、抵抗した。
 そればかりでなく、三橋会所は問屋仲間の利益を追求する組織ですらなくなり、幕府の米価調節のための機関に変質し、問屋仲間たちはただ出金を強制されるばかりで、三橋会所幹部への不満がますます蓄積された。
 しかし、幕府は問屋商人たちの実情にはお構いなく、財政窮乏化を前にして、御用金上納を命じている。1806(文化3)年に次いで1809(文化6)年にも、前回の御用金賦課からもれた幕領農村から15・8万両余を上納させた。さらに1813(文化10)年には三度(みたび)江戸・大坂・堺の町人および大坂もよりの幕領村々に約82・5万両の御用金を命じた。三回分の御用金を合計すると、総額約140・9万両にのぼったと言われる。文化10年の御用金は、米価値上げのために、諸大名の買米を4割に制限し、そのため収入の減った大名にはこの御用金のなかから拝借金を許可する方策をとった。
 しかし、この140・9万両の御用金は、すべてが米価調節のために使われたわけではない。そのうちの38・4万両余は、公金貸付けに流用された。貸付金の窓口はいろいろあったようであるが、代官所貸し付けについては、関東筋代官と、郡代役所である馬喰町町(ばくろちょう)御用屋敷の二本立ての取扱いであったのが、1817(文化14)年には後者に一本化され、そこが公金貸付けの中枢機関となった。
 茂十郎は、公金貸付けを請負って、さらに権勢を強化した。だが、御用金の流用がもっとも多いのは馬喰町御用屋敷であり、それに次いでは江戸町年寄の樽与左衛門であった。彼は文化5年と文化11年の二回にわたって約7万両を預かり、自宅にある町年寄役所で、町人や百姓への貸付けを行なってきた。しかし、公私の区別もない不正な貸付で与左衛門は窮地に陥り、1814(文化11)年12月、ついに自死するに至った。
 先述した大坂買米などで27万両の赤字をだした三橋会所は、ついに文化9年ごろには、実質的に運営が停止となった。茂十郎はその赤字を埋めるために、1813(文化10)年に、幕府に出願し、江戸で最初の米穀取引所を開設し、合せて幕府の狙う米価引き上げを図るとした。茂十郎は、またしても山師的な計画をもって一打逆転を狙ったのである。
 こうして、冥加金を年に1000両上納することを条件に、米問屋街の伊勢町に三橋会所の経営する米立会(こめたちあい)会所が設立された。会所は、仲買人120人によって、60日を期限として延売買(のべばいばい *先物取引)をはじめた。しかし、この会所は表向きは正米(現物米)取引をうたっていたが、実際は投機取引が主であった。茂十郎はここでも失敗し、米立会会所の経営は会所の米仲買商にゆだねられた。
 茂十郎は、三橋会所の赤字も処理できず、その上、会所への出金の返済を強く催促されたが、居直り的に強気に応じた。すなわち、菱垣廻船積問屋仲間の株立てをお上から許されたのは、自分が冥加金を集めたお蔭であるとして、問屋仲間の再建を5年間据え置きとした。そして、不満をもつ問屋仲間に対しては、町奉行の強権を借りて抑えつけた。さらに1814(文化11)年になると、三橋会所の強化を主眼として、会所の古借金は仲間が年賦で立て替え払いするなどの十三ヵ条の定め書きを強引に仲間に承諾させた。
 これに乗じて、茂十郎は伊勢町の米会所をふたたび十組仲間の経営に取り戻そうとしたが、これには三井四店が頑強に反対し、大いにもめた。しかし、北町奉行は和解を拒んだという理由で、三井側を過料三貫文に処した。こうして、問屋仲間の内部対立は、権力をも巻き込んで、菱垣廻船積問屋仲間が発足した文化10年から表面化した。
 文化11年の樽与左衛門の公金使い込みによる自死で、使い込んだ公金約27万両は同役の奈良屋・喜多村と三橋会所頭取・茂十郎の弁償責任となった。そして、1819(文政2)年閏2月、茂十郎を支持してきたきた北町奉行・永田正直が病死し、茂十郎の運命はついに決した。
 同年6月25日、北町奉行所は、三橋会所と伊勢町米会所の廃止を通告した。これまでの茂十郎関連の借金は、十組仲間が引き受けさせられた。しかし、北町奉行・永田らの責任は証拠が隠蔽されたためか、不問とされた。
 茂十郎の失脚は、もちろんその横暴を擁護してきた北町奉行・永田の死にもよるが、時代的背景には、摂河泉など百姓たちの「国訴」運動や、農村の商品生産の一層の発展、農民から分化する在郷商人の活躍を指摘できる。文政期(1818~30年)初頭の新たな幕閣の物価政策にも、この時代状況は影響している。
 1816(文化13)年10月、勝手掛老中・牧野忠精(ただきよ)が病気で辞職し、翌年9月には、時の老中首座・松平忠明が病死する。同年(1817年)5月には、老中・青山忠裕(ただやす)、若年寄・堀田正敦(まさあつ)がすでに免ぜられていたので、「寛政の遺老」たち、松平定信政権に関与した人物たちが姿を消す。
 そして、将軍家斉の近習から出世した水野忠成(ただあきら)が、御用人兼老中に成り上がり、政権の中心となった(忠成と大久保忠真が老中となったのは、1818〔文政元〕年8月)。忠成の物価政策は、これまでの経済政策(すなわち物価調節には問屋仲間や会所を通じての市場統制に依存したり、あるいは御用金・冥加金政策に頼る)よりも貨幣増発策のほうが有効であり、即効性があると安易な方策をとった(これは田沼政権の貨幣政策を受け継いだものである)。このため寛政の改革で一時持ち直した幕府財政は、将軍家斉の浪費と忠成の改鋳政策によって、ふたたび危機をもたらしたのであった。
 忠成政権は、茂十郎が失脚した翌月の1819(文政2)年7月、「米価安に諸色高」に対処するために、以下のように物価引下げ令を布令する。

            大目付え
近年米直段(値段)下直(したね)ニ候処(ところ)、諸色(*さまざまな物品)は高値ニ付き、諸人難儀に及び候、酒・酢・醤油・味噌の類(たぐい)米穀を以て造出し候(そうろう)品は勿論(もちろん)の儀、其餘(そのよの)諸色とも米穀を元として〔*米価を基準として〕売り出すべき道理に候処、米の直段は下直ニ候得共(そうらへども)、諸色の直段ハ追々(おいおい)引き上げ、不埒(ふらち *ふとどき)の事に候、以後米穀の直段ニ准し、成るべくだけ諸色の直段引き下げ申すべく候、尤(もっとも)直段ハ引き下げ候ても、品柄(しながら *品質)を劣らせ候ては、詮無(せんな)き事に候間、諸事正路(*正道)ニ売買致すべき旨(むね)、仕入元(しいれもと)を始め、問屋・仲買等それぞれ商売方の者共え申し付くべく候、右(みぎ)の通り申し付く候(そうろう)上ニも、猶(なお)直段引き下げず候ハハ、その筋々遂僉(*一同評議すること)の儀、急度(きっと)曲事(くせごと)を申し付くべく候、この趣(おもむき)国々所々えも相触(あいふ)れ候間、諸色仕入元直段引き下げ申さず、或(あるいは)買〆(買占め)等致し候者これ有り候ハハ、その手寄(てよせ *関係ある)の商人共より訴え出(いず)べく候、若し打ち捨て置き候ハハ、是又(これまた)曲事を為すべく候、
 七月

右の通り相触れ候間、私領(*大名領・旗本領)の内(うち)国産物これ有る面々は、元直段引き下げ方の儀、その領主、地頭より精々(せいぜい)吟味を遂げ、申し付けらるべく候、若しこの上(うえ)元直段引き下げず、又(また)ハ不正の儀もこれ有る趣(おもむき)相聞え候ハハ、領主、地頭の越度(おちど)たるへく候間、厚く申し付けらるべく候、
 右の通り、相触れらるべく候、
                 (『御触書天保集成』六一二九号 P.665)

 ここではことさら新しい政策を打ち出している訳ではないが、「米価安に諸色高」を是正すべく、処罰をちらつかせて、権力的に物価値下げを命令している。そして、諸色の仕入れ元値段を引き下げなかったり、あるいは買占めをおこなう者がいたら、縁があって関係する商人はお上に訴えるべきであり、それを放置する者にも処罰を下すとしている。また、幕領のみならず私領にもこの法令を布告させ、国産品がある所では元値段を引き下げるべきとした。
 この法令が出されるや、大坂では早速、つぎのような対策を実施している。すなわち、「諸商人を町奉行所に呼び出して諸品の引下げを命じ、それを承諾したものには、その店頭に何ほど値下げしたと記した張紙をかかげさせ、さらに十一月には日用品八十三種を選び、各町内で商人一人ごとに引下げ額を書いて、町年寄から三郷惣会所に届けさせた。木綿も大阪は仕入地であるからといって、江戸の二割にたいして二割五分の引下げを申し渡された。この引下げには金相場の暴落が有力な理由としてあげられている。」(北島正元著『日本の歴史』18 P.149)と言われる。 
 水野忠成政権の物価政策の転換は、文化期に設立された玉子会所・長芋会所や三橋会所などを廃止させた。しかし、会所や仲間は全面的に廃止されたわけではなかった。1824(文政7)年には、水戸産のコンニャクを扱うことを理由に、株札交付を出願した蒟蒻(こんにゃく)問屋25軒に認可を下している。幕府は、株仲間のもつ市場統制機能に対して、依然として信頼していたが、しかし、以前と比べてその信頼は大分低下したことは否めない。
 幕府は、燈油政策のための「明和の仕法」に種々のほころびが明らかになって来たので、1827(文政10)年、幕吏・楢原謙十郎らを大坂に派遣し、油市場の内情を調査し、事態の打開を図った。この調査によると、これまでの政策からする問題点は、第一に、江戸への油供給が最大の目的なのに、「......江戸表への(*大坂からの)積廻しの方をみてみると、大坂の油市場での総取扱数量六二〇五七石のうち、製法油を含めても、全体の四〇%強にすぎない。しかるに、京・大坂市中および東海道、ならびに西日本、裏日本(*日本海側のこと)の各地に販売せらる油量は三三五六八石あり、全体の五四%を占めている」(津田秀夫著『新版 封建経済政策の展開と市場構造』P.133)のである。江戸の需要を満たすことを第一とした「明和の仕法」の方針は、実現していないのである。
 第二は、油の生産過程や流通過程がきわめて複雑化し、とりわけ流通過程での商人の中間搾取が甚だしく、これにより油値段の高騰を招く大きな原因となっていることである。
 大坂に対し、灘目の水車での油絞りは、生産性が高く、しかも大坂より安く、また、樽廻船での江戸輸送は、迅速であり、しかも割安であった。大坂の特権化にともなう油値段の高止まりからの打開は、灘目や兵庫の引立てで十分可能と楢原の眼には写ったのである。
 1832(天保3)年11月14日、幕府は従来の燈油政策を根本から建て直す法令を公布する。それは、「大坂、堺、兵庫両種物問屋ども油絞り草売買方、大坂油問屋油請け払い、且(かつ)大坂、堺?(ならびに)摂津、河内、和泉、播磨在町水車(すいしゃ)人力(じんりき)絞油屋ども絞り草買口絞油売り捌き方の儀、この度(たび)主法改革申し付け候條、向後(こうご)左の通り相心得(あいこころう)べく候、」といって20條をかかげた。(『御触書天保集成』六一三七号 P.669~675)
 第一條では、「大坂両種物問屋の外(ほか)、この度(たび)堺、兵庫両所に於て、新規ニ両種物(*菜種と綿実)問屋取り立て、絞り草引請(ひきうけ)申し付け候、尤(もっとも)国々より売り捌き候菜種・綿実の義(儀)は、大坂、堺、兵庫の内(うち)いつれにても荷主ども勝手次第(かつてしだい)差し送り候筈(はず)ニ付き、右(みぎ)三ヶ所の両種物問屋どもニ限り買い請くべく候、......」と、大坂種物問屋がこれまで行なってきた集荷機能を、新しく堺・兵庫の絞油問屋にも担わせることとした。しかし、大坂、堺、兵庫の「三ヶ所両種物問屋どもより仕入(しいれ)、前銀等差し出し候儀は相対次第取計い、右(みぎ)ニ事寄(ことよせ)利附きの銀子(ぎんす)貸し渡し候儀は致しまじく候」と、三ヶ所の問屋が生産地を前貸しで支配するのを禁止している。また同時に、「大坂両種物問屋ども出店、兵庫灘目綿実買請所(かいうけじょ)は、この度引き払い申し付け候」と、大坂問屋による兵庫従属化のための体制を解放するとしている。
 第二條は、「播磨国水車人力絞油株、この度新規に差し免し候」と、播磨での絞油業の発展の事実を改めて認め、これを幕府の直接統制下におこうとしている。
 第三條は、「大坂、堺?(ならびに)摂津、河内、和泉、播磨水車人力絞油屋ども、五畿内、播磨国の外(ほか)、国々え仕入(しいれ)注文申し遣わし、買い請け候儀致しまじく候、」と、上記の絞油業者が五畿内と播磨国以外の国々に対して種物取扱い業者を通さずに、直接仕入れ注文をすることを禁じている。これは明らかに、大坂、堺、兵庫の両種物問屋の買い入れ先を保護するためである。
 第四條は、「大阪、堺、兵庫両種物問屋ども、菜種・綿実買口(かひぐち)の儀は、北陸道、山陰道、南海道、西海道筋国々より売り出し分、買い請けべく候」と、三ヶ所の両種物問屋の買い入れ先を決めさせた。(その際、こまごまとした条件があるが、これは割愛)
 第五條は、「この度大坂内本町・橋詰町ニ油寄セ所(あぶらよせどころ)取り建て、且(かつ)同所出油屋・京口油問屋・江戸口油問屋ども一同(いちどう)油問屋と名目(*名前)を改め、右(みぎ)寄セ所え日々出張(でば)り居り、国々よりの出油(であぶら)同所え引き受け、荷主ども立ち合わさせ、油改め方代銀仕切り等区々の儀これ無く、正路ニ売買いたし候様申し付け候」と、新たに大坂の油寄所を設立して、大坂の油の流通機構を単純化することとした。これにより、従来からの大坂京橋五丁目の寄合所は、引き払うとした。
 第六條は、「大阪、堺?(ならびに)摂津、河内、和泉、播磨人力絞り油屋ども菜種・綿実買口の儀、大坂、堺、兵庫三ケ所両種物問屋より買い請け、その外(ほか)五畿内・播磨国ニても直買(じきがひ)致すべく候、」とした。大坂・堺・兵庫の三ヶ所両種物問屋から原料を入手するのが基本ではあるが、それとともに五畿内・播磨国にても直接買込むことも容認している。
 第七條は、「摂津、河内、和泉、播磨水車絞り油屋ども絞り草買口の儀、大坂、堺、兵庫両種物問屋よりは、菜種・綿実ども買い請くべく候」とする。しかし、「右の外(ほか)菜種は稼ぎ人ども住国一国限り買い請け、綿実は五畿内、播磨国ニても勝手次第直買(じきがひ)致すべく候」と、菜種の場合と綿実の場合とでは、購入先の部分的違いを明確にした。  
 なお、「且(かつ)摂津国灘目の内(うち)水車新田(*現・神戸市灘区)の儀は、水車稼ぎ第一の村方ニ付き、これまで大坂問屋どもより菜種一万五千石宛て買い請け来り候処、向後(*こんご)右(みぎ)買い請けは相止(あいや)メ、大坂、堺、兵庫両種物問屋?(ならびに)住国摂津国ニて買い請け候外(ほか)、山城、大和、河内、和泉、播磨五ヶ国ニても、菜種五千石を限り直買致すべく候」としている。これは、灘目の絞油業者に対する大坂市場の拘束力を排除することが明確である。
 第八條は、「堺?(ならびに)摂津、河内、和泉水車人力絞り油屋ども油売り捌き方の儀、向後は大坂油寄セ所え差し出し、油問屋どもえ売り渡すべく候」とする。これは、第五條の改定に伴うものである。
 しかし、「尤(もっとも)大坂表(おもて)菜種綿実絞油屋ども絞油の義(儀)は、右(みぎ)寄セ所え差し出し候ては、二重の運賃相掛(あいかか)り候趣(おもむき)ニ付き、これまでの通り、絞り油屋ども居宅ニおゐて(於て)油問屋どもえ売り渡すべく候」と、二重手間になるので、従来通りとした。また、「且(かつ)摂津国の内(うち)灘目住吉村、水車新田両村請負(うけおひ)?(ならびに)兵庫より西宮までの間にて絞り候(そうろう)油の分は、大坂えは売り出さず、江戸一方(ひとかた *普通に)直積(じきつみ)廻し申し付け候條、樽船(*樽廻船の船)を以て積み送るべく候」と、灘目や兵庫~西宮の油の江戸への直の積み廻しを公認した。
 これにすぐ続けて、さらに、「尤この度(たび)江戸霊岸嶋え油寄セ所取り立て候條、同所ニおいて油問屋?(ならびに)問屋並仕入方(とんやなみしいれかた)の者え売り渡すべく候、且(かつ)播磨国はこの度新規ニ油絞り株差し免(ゆる)し、右(みぎ)一国の絞り油江戸一方直廻し申し付け候條、大坂えは売り出さず、惣(すべ)て灘目油直積廻しニ准し、樽船を以て霊岸嶋寄セ所え向ケ差し送り、油問屋?問屋並仕入方の者え売り渡すべく候、」とした。江戸でも霊岸嶋に寄セ所を取立てる事、播磨一国の絞り油も灘目と同様に樽廻船をもって江戸霊岸嶋へ直積廻しすべきとした。
 第九條では、「燈油白絞梅花油等、これまで大坂油仲買ども製し来り候処、右(みぎ)製方(せいほう)以来は(*今後は)同所油問屋どもえ申し付け候條、その旨(むね)相心得(あいこころえ)候、」とした。従来は大坂油仲買が油を調合し製法したのをやめさせ、今後は大坂の油問屋に行なわせることにした。
 また、「......国々に於ても江戸、大坂出油ニ障らざる様、白絞り油・梅花油等の類(たぐひ)勝手次第製方いたし、国用相弁(あいわきま)えべく候、」と、各国での国内かぎりの生産・流通を承認している。
 第十條では、大坂油問屋の油買入れ方(買口の儀)を示し、「摂津国の内(うち)灘目を除き、大坂、堺、摂津、河内、和泉水車人力絞り油屋ども売り出し候分」と、「北陸道、山陰道、南海道、西海道筋ニて、山陰道の内(うち)丹波国、山陽道の内播磨国を除き、その余の国々日用燈油相廻し候分」とを買い請けするようにいいつけ、大坂への供給国を明示した。
 それとともに、山城・大和・近江・丹波の4カ国は、「京都町奉行より油絞り申し付け、同所市中え相廻させ候ニ付け、右(みぎ)残油売り捌き分(ぶん)買い請くべく候」と、この4カ国を京都油市場への供給国とした。これにより、従来の、京都への大坂からの供給をやめることとした。ただし、近江だけは、京都への供給の残り分を江戸・大坂へ販売することを許した。
 大坂油問屋の油売り出し方(売口の儀)は、「江戸、大坂ニ限り売り捌き候儀と相心得べく候」とした。もっとも、大坂へは「油仲買の者え売り渡し」、江戸へは霊岸嶋に差し送り、「油問屋?(ならびに)問屋並仕入方の者え売り渡すべき」とした。
 また、「大阪仲買ども油売買方の義は、燈油色油とも同所(*大坂)問屋どもより買い受け、大坂三郷?(ならびに)同所(*大坂三郷)続き在領と唱え候村々えも売り渡すべく候、尤(もっとも)在領の内(うち)村内隣村等え絞り株これ有る分は、右(みぎ)絞り株の者どもも小売り致すべく候」としている。
 ここでは、大坂油問屋、また大坂仲買の売買範囲や取引先の限定を明らかにしたのである。
 第十一條では、摂津、河内、和泉、播磨国の油、「これまで大坂より買い請け来り候処、向後は右(みぎ)国々絞り油屋ども、江戸、大坂え差し出し候油ニ障(さわ)らざる様、精を出し絞り増し候分を以て、一国限り日用の油小売りを差し免し、?(ならびに)領主用油も製させ候條、その旨(むね)相心得、稼ぎ方相励むべく候」と、国内での小売りを承認した。しかも、「......小売り直段(値段)の儀も、江戸、大坂等の相場ニ拘らず、元附(もとづけ)の見合を以て〔*基準相場を参考にして〕、下直(下値)ニ売り出すべく候」としている。もとより改正の大目的が油値段の引下げにあるのであり、大坂や江戸の市場相場より、地方の価格が下値になることは大歓迎なのである。
 したがって、「若し不相当の売り捌き方いたし候類(たぐひ)、江戸、大坂出油不進(ふしん *売り出さないこと)の儀これ有るに於ては、油小売り差し留むべく候條、その旨(むね)相心得、他所売り隠し売り等不埒(ふらち)の儀これ無き様、絞り油屋その外(ほか)ども一同申合せ、堅く相守るべく候、万一申合せを相用いず、不埒の売買いたし候者これ有り候ハハ、大坂町奉行所え訴え出るべく候」としている。
 そして、この4カ国では、絞り油屋の株を定めている以外、無株の絞油業者に対してはその稼業をやめさせたのであった。
 第十二條では、「大阪、堺?(ならびに)摂津、河内、泉絞り油屋?(ならびに)油荷次所(あぶらにつぎどころ)、大坂両種物問屋・仲買・樽職の者等、惣て油商売ニ携(たずさわ)り候者ども、これまで公儀え納め来り候冥加(みょうが)運上銀の義(儀)、向後(こうご *今後)免除仰せ付けられ候」と、冥加・運上銀が免除となった。
 第十三條では、「北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道筋国々ニて作り候菜種綿実ども、大坂え相廻し売り捌き、同所ニて絞り候油を国々え買い請け、国用相弁し〔*国内消費に役立たせる〕候ては、二重の費(ついえ)相掛り候上、田畑の養ひニ用ひ候油絞り粕も自由ならす、彼是(かれこれ)不弁利(不便利)の趣(おもむき)相聞え候ニ付き、向後右(みぎ)国々日用の油絞り方?(ならびに)絞り草売り捌き方等の儀、左(ひだり)の通り相心得(あいこころう)べく候」と、加工原料の菜種・綿実は大坂に売り、絞り油は自分たちでできないで大坂から買うことの不便さを左のように改めるとしている。ただし、丹波国と播磨国は除く。
 第十四條では、大坂、堺、兵庫三ヶ所の両種物問屋に限り、諸国から勝手に売り渡しうることを強調し、さらに、「......蔵種と唱え、私領物成(ものなり *米年貢)の内(うち)これまで大坂蔵屋敷え差し送り候菜種も、右三ヶ所の内え勝手次第相廻し、その所の両種物問屋、その所の絞り油屋どもえ売り払ふべく候」と、これまで幕藩制的市場にとらわれて来た諸藩の菜種も、三ヶ所へ自由に売り払うことができるようになった。
 第十五條では、「大坂諸荷物問屋ども、これまで油絞り草買い請け来り候処、右買い請けの儀は勿論(もちろん)、外商売取引物代わりとして絞り草引き請け候儀も、以来(*今より後)差し留め申し付け候、尤(もっとも)堺、兵庫諸荷物問屋どもも同様申し付け候條、国々荷主どもその旨(むね)存ずべく候」と、大坂諸荷物問屋の特権を今後、禁止すると命令した。当然、堺の諸荷物問屋も同然である。したがって、諸国の荷主どもはこの点をよく心得るべきとした。と同時に、「絞り草売買融通のため、大坂、堺、兵庫両種物問屋どもより仕入(しいれ)、前銀等差し出し候儀は相対次第(あいたいしだい)取計い、右(みぎ)ニ事寄(ことよせ)、利附きの銀子貸借の儀は堅く致すまじく候」といって、売買の融通のため、三ヶ所の問屋が前貸しするのは、当事者間の交渉で自由にすべきとしたが、ただし、利付きの銀子貸借は禁止した。これは、三ヶ所の種物問屋が生産地を支配することを排除するためである。
 第十六条では、北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道筋の「国々日用燈油製し方差し免(ゆる)し候條、向後は手作り手絞りの唱えを止メ、本田畑空地園中等の差別なく、いつれ(何れ)え作り候絞り草ニても相用(あいもち)ひ、領主用?(ならびに)民家日用の油(あぶら)御料(*幕府領)私領とも壹(一)ケ年入用高目当て(*注意して見守る点)を付け置き、大坂、堺、兵庫え相廻すべき絞り草障らざる様、水車人力ニ限らずその所の便利ニ随(したが)ひ、絞り方いたし、?(ならびに)白絞り油梅花油等の類(たぐい)も勝手次第製方いたし、国用相弁ずべく候」と、大坂・堺・兵庫への種物集荷に支障がないかぎり、自由に絞油し、製法油を造ることを認めている。
 第十七條では、「この度大坂内本町・橋詰町ニ油寄セ所(あぶらよセどころ)取り建て、出油屋・江戸口・京口油問屋と唱え候者ども、一同油問屋と名目(*名前)を改め、右(みぎ)寄セ所油売買申し付け候條、国用残り油これ有り候ハハ、右(みぎ)寄セ所え向ケ相廻し、油問屋どもえ売り渡すべく候」とした。今度、内本町・橋詰町に大坂の油寄セ所を設立した(それぞれの名前も油問屋と改め)ので、国用の残り油があれば、大坂油寄セ所に送り、油問屋へ売り渡すべきとした。
 第十八条では、これまでは諸国が大坂から購入した油は、大坂仲買から売り渡されたが、「この度国々日用の油絞り方差し免(ゆる)され候上は、大坂より買い請け候ニ及びまじく候」とした。だがそれでも、「若し燈油不足いたし候か、色油の類(たぐひ)製方出来難き国もこれ有り候ハハ、向後は大坂油問屋どもえ注文申し遣わし、買い請くべく候」と、万一、不足したり、生産が困難だったりした場合に限り、大坂油問屋から購入すべきとした。
 第十九條では、「菜種綿実の外(ほか)油ニ絞り候草木の実、これまで大坂え廻し来り候品(しな)は、以来(*今後)大坂、堺、兵庫両種物問屋え売り渡すべく候」とした。ただし、胡麻栢(かしわ)の類は食用にもなるので、両種物問屋に限らず他の取扱い業者に売り渡すのも勝手次第とした。尤も国用に余る場合は、これまた大坂油問屋に売り渡すべきとした。
 このように絞り草の売買を手広にし(従来は販売先が制限されていた)、国用の油絞も許可した上は、いよいよ絞り草の栽培に精を出し、増産に勤め、大坂、堺、兵庫へ売り渡すべきとした。実に、「近年大坂表出油減じ、直段(値段)高直(高値)に付き、引下ケ方のため、同所?(ならびに)摂津、河内、和泉絞り油問屋、大坂油問屋、同所両種物問屋、その外(ほか)油商売ニ携わり候者ども、これまで公儀え納め来り候冥加運上銀等、都(すべ)てこの度免除仰せ付けられ、取締り筋厳重に申し渡し候條、これ等の儀得と(とくト)相心得、一分の利益ニ相拘らず、国々一同の融通ニ基キ、絞り草その年々(としどし)出来方(できかた)ニ随ひ、相当の直段を以て売り捌き、油直段故(ゆえ)無く引上げ候儀これ無く、交易滞らざる様取り計るべく候」と、大坂の集荷能力の減少を嘆じ、油値段の高騰を心配している。そして、油値段が理由なく値上ることもなく、交易が滞ることのないようにと、核心点を披瀝(ひれき)している。
 第二十條では、「東海道、東山道筋国々ニて絞り候油は、江戸霊岸嶋油寄セ所え相廻し、売買せしめるべく候」と、江戸油市場の場合でも、商品流通機構の中心は油寄せ所であることを明示する。その際、「東海道の内(うち)伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、東山道の内(うち)近江、美濃、飛騨、信濃、陸奥、出羽より相廻り候分は、油問屋?(ならびに)問屋並仕入方の者え売り渡すべく候、東海道の内(うち)相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、東山道の内(うち)上野、下野より相廻り候分は、地廻り油問屋え売り渡すべく候......」と決めている。
 これまでの「明和の仕法」の問題点を克服するために、天保三年の大改正が行なわれ、その眼目は灘目・兵庫の伸張を容認し、これと大坂市場を競合させ、大坂の特権を剥奪し、高止まりの油値段を下げることであり、江戸市場を中心とする狙い(霊岸嶋油寄セ所)から江戸地廻り経済の強化・発展を促すこととしたのである。幕府は当初、霊岸嶋油寄せ所への一元化を狙っていたが、江戸地回り経済圏の未成熟から、従来の十組問屋内油問屋と地廻り油問屋の二本立てで、当面、間に合わせたのである。
 この法令の要点は、①大坂のライバルである灘目、兵庫を引き立て、ほぼ同格で競争させ、最終的には油価格を値下げさせること、②大坂の油関係の業者のお上への冥加銀上納を免除し、特権的優遇を無くすこと、③江戸の油市場を霊岸嶋油寄セ所を中心に育成し、そのために地廻り経済圏の発展を促すこと、④諸国の油絞り業と小売りへの制約を以前よりはるかに少なくし、商売を手広にしたこと―である。
 天保期(1830~44年)は、「内憂外患」が一段と高まった時期である。対外面ではアヘン戦争により、日本への西洋列強の侵略の危機が現実的となった。内憂は、江戸時代の三大飢饉の一つである天保大飢饉と、百姓一揆の頻発と大塩平八郎の乱に示される。
 天候不順は1830(天保元)年から始まっていたが、大飢饉は1833~39(天保4~10)年と長引いた。とりわけ、1836(天保7)年からは大凶作となった。もっとも被害が大きかったのは、出羽(現在の山形県と秋田県)であり、中でも山形の最上領と南部の津軽であった。餓死者は、奥羽地方だけでも約10万といわれる。全国的にみると、「天保の飢饉の時は、二九三、七七五人の人口が減少した。これから見ても、流行病死をふくむ餓死者の数は、全国では二〇万ないし三〇万人に達した」(中島陽一郎著『飢饉日本史』雄山閣 1996年 P.118)と推定されている。
 米価は、すでに1828(文政11)年の九州大雨で肥後米が石当たり銀85匁に騰貴したが、天保にはいっても飢饉の影響で奔騰をつづけ、1833(天保4)年8月には、肥後米が石当たり100匁を越えた。天保飢饉最悪の年・1836(天保7)年に入ると飢饉による被害は頂点に達し、米価も9月肥後米162匁5分、広島米143匁5分、筑前米130匁にはねあがった。
 幕府は、1835(天保6)年11月に、江戸・大坂への米穀廻送の制を定め、翌年諸国へ巡見使を遣わし、各地の被害などを掌握しようとした。1837(天保8)年3月には、江戸への出入り口、品川・板橋・千住・内藤新宿に御救い小屋を設けて、不充分ながら飢餓民救済の施策をとらざるを得なくなっている。この春、全国各地では、餓死者が多数続出しだしたからである。
 飢饉のため、大坂市中でも「物乞い」の人々があふれ、餓死者も続出した。市中の打ちこわしも、一段と激しくなった。
 天保7年9月、大坂町奉行の八部定謙は勘定奉行に昇進し、代わりに跡部良弼(あとべよしすけ *水野忠邦の実弟)が大坂町奉行に就任した。幕府はこの年7月、米価高騰に就き、江戸への廻米に力を入れており、大坂での対策が手薄になっていた。
 翌1837(天保8)年2月の大塩平八郎の乱は、こうした状況の下で勃発した。1830年まで大坂町奉行所与力を務めていた大塩は、大坂の惨状にいたたまれず、幾度かにわたり大坂東町奉行所に対し救急策を上申し、豪商豪農にたいしては義援金の拠出を進めたりした。どれも受け入れなかった大塩は、門下の与力・同心(大塩は陽明学の儒者として知られ塾を開いていた)と計り、事前に「摂河泉播村々庄屋年寄百姓并(ならびに)小前百姓へ」と呼びかけた檄文を近在の村々の神社に貼り付け、挙兵を準備する。参加した庶民には、市中の下層民や被差別部落民、近郷の貧民もいた。
 反乱は、豪商たちの住む船場など大坂の市街地五分の一を焼き払ったが、戦闘は数時間で、幕府軍によって鎮圧された(大塩はしばらく潜伏後、自決)が、その政治的影響力は大きかった。
 同年3月10日、備後尾道町尾崎の百姓たち130人ばかりが、浄土寺山に屯集し、火を焚き、ほら貝を吹きたて、気勢をあげた。4月には、備後御調郡三原町で800人余が蜂起し、大塩平八門弟と称したのぼりをたてて示威行動した。5月には、摂津国幕領大坂の7カ所で、大坂を焦土にせんとの張り紙が出された。6月には、越後柏崎で国学者・生田万(よろず)が、門弟と村役人を率いて、桑名藩越後領6万石を支配する柏崎陣屋を襲撃する。7月には、摂津能勢(のせ)で、山田大助らが徳政要求などを掲げて一揆を起こした。これには、最盛期で9カ村2000人余が参加した。山田ら首謀者3人は捕り手の砲撃で倒されたが、他に処分は遠島3人、中追放5人、軽追放1人、所払い1人、押込1人、手鎖5人、関係村々33カ村が過料銭を取られると広範囲にわたった。遠く江戸でもこの4月の8日八ツ時を合図に、護持院ケ原に集まり、「本所浅草下谷筋の面々上野広小路を相始め一番ニ籾蔵べんごより打破り、それより手分けして......蔵前所々蔵々一時ニ打破り......」(『編年一揆』第十四巻 P.430)との張り紙が江戸市中に張られた。
 大塩の反乱は、小規模ではあったが世間に与えた影響はつよく、芝居や講談などにも取り入れられた。中には、「天より下され候村々小前ものに至るまで......」という有名な檄文は、近在の農民たちによって密かに転写され、手習いの手本にされたと言われる。(当時の百姓一揆では、前年の天保7年の甲州郡内一揆〔8月〕、三河加茂一揆〔9月〕、が有名)
 「天保の改革」の立役者となる水野忠邦は、1812(文化9)年8月、19歳で肥前唐津の藩主となり、藩政改革の実績を積みながら、老中を目指して賄賂やあらゆるツテを使う。そして、早くも1814(文化11)年には、奏者番(大名が将軍に面会する際の取り次ぎや、殿中での礼式をつかさどる役)を拝命する。その後、1833(天保3)年には老中となり、1837(天保8)年3月に勝手掛(幕府の農財政を総括する重職)を兼任する。さらに1839(天保10)年12月には老中首座となり、幕閣の最高責任者に登り詰める。
 幕府体制が危機にのめり込む情勢の下で、忠邦も定信の「寛政の改革」にならって、封建体制を根本から建て直すことを志向した。しかし、自ら出世し権限を強めたが、将軍職を家慶に譲った(1837年4月)家斉が西の丸に大御所として君臨している間は、改革に着手はできなかった。いわゆる「天保の改革」が宣言されたのは、家斉が死んだ(1841〔天保12〕年閏1月)のちの5月である。
 天保の改革は、幕府体制の社会的経済的な基礎である農村の再建にまず力を入れる。その方策として、①綱紀粛正、②倹約・風俗統制、③農民副業の統制、④江戸など都市の流民を帰村させる「人返し」などである。商業政策として、重要な柱は物価対策である。大飢饉で暴騰した米価は、平年作・豊作になれば落ち着いてきたが、しかし米以外の諸商品は文政期ころから再び高値になり、天保期に入って一層その傾向は強まった。享保期いらいの「米価安に諸色高」という物価問題は、あいかわらず幕閣を苦しめたのである。
 従来、幕閣は流通政策・物価政策に関しては株仲間を掌握することで対処してきたが、それでは一向に解決しなかった。むしろ、独占的で排他的な株仲間の不正・内紛・物価混乱などの負の面が次々と露呈してきた。
 幕閣の一部も、株仲間を通して物価問題(「米価安に諸色高」)を解決することが不可能であることを、ようやく理解するようになり始めた。
 1841(天保12)年12月13日、水野忠邦政権は次のように、「株仲間解散令」(株札ならびに問屋・仲間・組合の停止)をついに発令する。

......菱垣廻船(ひがきかいせん)積問屋どもより、是(これ)まで年々壱万弐百両宛(ずつ)冥加金(みょうがきん)到来(とうらい)候所、問屋ども不正の趣(おもむき)相聞え候ニ付き、以来(いらい *今より後)上納ニ及ばず候。尤(もっとも)向後(こうご)右(みぎ)仲間株札(かぶふだ)は勿論(もちろん)、この外(ほか)とても都(すべ)て問屋仲間?(ならびに)組合抔(など)と唱え候儀は相成らず候。右ニ付いては是まで右(みぎ)船ニ積み来り候諸品は勿論、都(すべ)て何国より出(いで)候品(しな)にても素人直(じき)売買勝手次第〔*素人が自由売買〕たるべく候......
  (『撰要永久録』―北島正元著『水野忠邦』吉川弘文館 P.365~366 より重引)
  
 この法令は、もともとすべての株仲間を対象としたものであった。だが、その文面が明瞭さを欠いていたこともあるが、諸問屋側では、既得権を守ろうとして、"株仲間解散令は江戸の十組問屋だけを対象とした"と解釈して抵抗した。
 そこで幕府は、「翌十三年(*1842年)二月二十七日、京都所司代と大坂城代にあてて、旧冬公布した仲間解散令は、十組だけのことではなく、すべての問屋を対象にしたものであり、また江戸に限らず全国にわたるものであるむねを改めて通達し、両地の町奉行はもとより、伏見奉行・奈良奉行その他支配向々(むきむき)へ洩れなく連絡するように命じている。さらに翌三月二日、忠邦から直接町奉行に手交された書付(かいつけ)によると、今後は組合・仲間はもちろん問屋と唱えることも厳禁する。米商は米屋、炭商は炭家、油商は油屋というように名乗ること、また仲買にだけでなく、一般素人(しろうと)にも卸すようにすること、さらに商品の買置(かいお)きはさしつかえないが、他国へ前金をやって買溜(かいだ)めさせ、積送りを見合わせて囲買(かこいが)いをし、値上がりを待って売る者は厳罰にする、と令達している。」(北島正元著『水野忠邦』P.369~370)のであった。
 こうして、株仲間は都市部だけでなく、農村部の在方仲間にたいしても解散令が発せられた。
 しかし、株仲間解散令は、忠邦らの思惑通りには諸物価の引下げをもたらさなかった。
「株仲間の一斉解散というドラスティックな改革がかえって市場の混乱を招き、入荷量の減少をきたしてしまったらしい。そこで幕府は、今度は物価公定など直接的強制手段に訴えることにした。価格の店頭表示を義務づけ、公定価格が守られているか否かを監視するという手段である。この他、寛政の改革の時にも問題になり結局果されなかった地代(じだい)・店賃(たなちん)の強制引下げ、大坂商品入荷量の減少の一因となっている諸藩の専売制の禁止などの措置も講じられた......。そしてこれらの諸施策の結果、物価はようやく鎮静に向かった......」(水林彪著『封建制の再編と日本的社会の確立』P.433)と、言われる。
 しかし、商人の抵抗(たとえば品質を落とすなど)や、諸藩の反対で、忠邦政権の物価政策は必ずしも全国的に成功したとはいえない。それは、なによりも権力的な押付けであり、民衆もふくめた公的世論の納得の下で、需給関係が改革されたものではなかったからである。このことは、水野忠邦が失脚するなり、ふたたび物価問題が悪化することで明白である。
 物価問題は天保の改革でも解決されず、1851(嘉永4)年3月、幕府は問屋仲間再興令を出した。だがこれは、「天保の改革」での解散前の形で株仲間をそのまま復活させるものではなく、冥加金の上納は廃止され、株札の下付や株数の固定はしないとされた。幕府は旧問屋層だけでなく、中小問屋も株仲間に吸収することを図ったのである。
 しかし、「安政の開港」によって貿易にともなう商品流通は広がり(諸列強は幕藩権力による貿易統制を拒否した)、幕藩権力による市場・流通統制はますます困難となった。1868(慶応4)年5月30日、新政府は「商法大意」を発し、株仲間の人数増減は自由であること、冥加金、上納金は徴収しないこと―を示し、株仲間は実質的に否定されていった。

注1)江戸の行政組織は、町奉行―町年寄―名主―月行事で成り立っていた。町奉行だけが、武家が就任する官職であった。町年寄以下は、町人の「自治機関」である。町年寄には、奈良屋・樽家・喜多村の三家があり、町役人の筆頭として江戸の町全般の業務にあたっていた。名主は、一つないしは数町の行政を担当する町役人で、月(がち)行事は一つの町に一人置かれた町役人で、家守(やもり)層〔*裏店〈うらだな〉を所持する不在地主から任された管理人。落語に出てくる大家さん。〕から選ばれた。町年寄―名主―月行事の町役人は、奉行の監督の下で、法令の伝達、紛争の処理、家屋敷売買(都市の土地は永代売買が許されていた)に伴う公証事務(今日の登記所が果たしている役割)、上下水道の管理、ゴミ処理、消防など多様な任務を担った。彼らは、町角にある自身番屋(じしんばんや)につめて職務に当った。また、町境には木戸(きど)と番屋が設けられ、番屋にはこの木戸を管理する番人が住み込んでいた。

Ⅵ 自由で公正な売買を求める闘い

 (ⅰ)金肥値上げ反対の闘いが先行

 幕府の市場統制と株仲間の市場独占化に対しては、摂河泉の生産者農民が強く反発し、それは村々に広く深く拡がった。農民にとって、独占強化により菜種は買いたたかれ、逆に油の小売りは高く買わされるというダブルの打撃に、怒りが広がるのは当然のことであった。
 商品経済がもっとも発達した近世の摂河泉での、自由で公正な売買を求める農民たちの訴願運動では、油問屋や綿問屋などの横暴を糾弾する「国訴」運動が有名である。だが、実はそれに先行して、畿内の農業生産性を高めた大きな要因である金肥をあつかう干鰯屋など、肥料関係の商人たちとの闘いが行なわれている。
 肥料の流通は、菜種や綿の場合とは、大いに事情が異なっていた。まず肥料は、干鰯・干粕・醤油粕・下屎(しもごえ)などと多岐にわたり、それぞれが別の流通ルートをもっていた。しかも、大坂の干鰯屋問屋は、株仲間の独占権を確立しようとしたが、それは実現していない。
 しかし、現実には諸肥料の価格は、「干鰯は諸国の肥シ第一ニて、外の油粕諸事肥シ類は干鰯直段(値段)ニ引合せ〔*照合して〕売買仕(つかまつ)り候」(「正徳三年大坂干鰯屋共口上書」)と言われるように、大坂の干鰯価格が基準となって他の肥料の値段が高下した。したがって、大坂の干鰯屋の価格政策が攻撃の対象になりやすかった。
 1624(寛永元)年に大坂に発生したといわれる干鰯(ほしか)商人は、1653(承応2)年には、問屋2名、仲買55名となり、戎講(えびすこう)なる組合を結成している(『大阪市史』〈大正2年=1913年〉第一巻 P.407)。それは、50年後の1703(元禄16)年にはさらに増加し、仲買(戎講)は新天満町組104名、新靭町組53名と、合せて157名となっている(同前 P.547)。さらに1704(宝永元)年には、新天満町組80名、新靭町組118名、計198名にも増えている。
 ところが、1710(宝永7)年、問屋・仲買の間での代金授受にからんで内紛がおこり、仲間のうち40名が分離して「問屋」と称し、残る140名の仲買(戎講)とは別に「神明講」を結成している。この分裂により、「......激烈なる競争起り、干鰯価格の騰貴需用者の迷惑を来(きた)せるのみか、当業者も亦(また)利益を見ざるに至りしかば、町奉行は正徳三年(*1713年)惣年寄に内命を下して和解に従事せしめ、惣年寄は更に問屋仲買の住居せる九町(*油掛町・信濃町など)年寄に命じて調停を試ましたり。」(『大阪市史』第一巻 P748~749)という。しかし、調停はなかなか進捗しないで、「其間(そのかん)干鰯価格は愈(いよいよ)騰貴し、......油粕其他の諸肥料も皆(みな)之に伴って騰貴せり。」(同前 P.749)となる。和解はどうにか正徳4(1714)年11月に成り、両組織の合同となる。
 しかし、その後の享保末年には、仲間57名が関東の干鰯問屋と結んで関東干鰯の一手引き受けを画策し、50余名の仲買を新規に開業させ、再び干鰯業者を分裂させる事件が起こっている。「是(これ)より干鰯価格年を追ふて騰貴し、元文五年(*1740年)官(かん)令して干鰯油粕の買占を禁ぜしと雖も、毫(ごう)も効無く、寛保三年(*1743年)摂津島上島下両郡八十四ヶ村の農民より、肥料高値にして困難なる趣を町奉行所に訴え」(『大阪市史』第一巻 P.749~750)出る事態となる。
 干鰯業者団体の分裂が繰り返されたが、それでも1786(天明6)年には、大坂の干鰯問屋約50軒、仲買約300軒と増大している(同前 P.1071)。
 増大する干鰯問屋・仲買の動きは、その分、生産者農民に強い影響をもたらした。それは、干鰯屋の分裂騒ぎを契機に、前述したように干鰯の値段が高騰したからである。金肥の高騰の原因はこれだけでなく、漁場の全国的な不漁があったり、地方での干鰯屋の出現によって大坂への廻着量の減少などもあったりした。
 しかし、摂津などの百姓たちにとっては、原因はともあれ干鰯の高騰が農業経営を直撃することは間違いない。このため、元文期(1736~41年)から宝暦期(1751~64年)にかけて、農民たちの価格の公正を求める闘いが繰り返し展開された。
 これに対し、「幕府は......同年(*寛保3〔1743〕年)九月、大坂の干鰯屋に対し『古組新組の別なく打ち混ぜ売買致し随分(ずいぶん)干鰯下直(下値)ニ相成る様ニ致すべき旨』を申し渡し、さらに十月には、とくに外商売の者〔*地域外の商人〕が干鰯を買い占めることを禁ずる命令をだした。」(八木哲浩著『近世の商品流通』 P.255)のであった。しかし、肥料の基準ともなる干鰯の高騰は、他の粕類や下屎の高騰も招き、また、西摂などの買い占め問題なども引き起こしている。
 享保末年に分裂した干鰯屋仲間は、1743(寛保3)年に和解し、干鰯の値段も落ち着き、農民たちの価格闘争もひとまず鎮静化した。だが、18世紀後半になると、今度は大坂干鰯屋仲間の株立ての動きが起こり、これに対する百姓の闘いが展開される。
 1750(寛延3)年、大坂の問屋一組、仲買二組(新天満町組、新靭町組)の三組は、共同の申合せを行ない、仲間加入の規約や取引上の取締りなどを厳しくしている(『大阪市史』第一巻 P.1070)。そして、仲間数が漸増している状況を踏まえて、規律を強めるだけでなく、干鰯屋仲間の株立てを図ろうという動きも出て来た。
 しかし、1761(宝暦11)年、天満屋利兵衛、米屋甚右衛門が干鰯屋株(干鰯塩魚生魚問屋組合)を出願したが、この時は多くの仲間が反対した。その理由は、株仲間が結成されれば、"組入り料や世話料を納めなければならず、また、月々の売上高を仲間に知られることとなる"というものであった。同時に、この出願には百姓たちも反対の訴願を行なった。"せっかく仲間の和解が成立し、肥料代が下落したのに、株仲間取締り支配人が出現しては、干鰯がまた高値になってしまう"というのである。結局、この時の株出願は、却下された。
 明和年間(1764~72年)になると、太八というものが干鰯屋株の出願を行なう。このときも多くの干鰯屋仲間が反対した。
 その後も、株立ての動きは繰り返され、1794(天明6)年には、江戸表で干鰯屋問屋仲買会所の設立願いが出された。今度は、仲間外商人の直買い・買占めが激しく、干鰯値段をつり上げている状況を改善し、大坂への干鰯廻着量の減少を食い止めるため―というのが、設立理由であった。しかも今回は、大坂三郷の干鰯問屋約50軒、同じく仲買約300軒、摂河在々仲買約300軒に印札を付与し、印札料を徴して冥加金に充て、その残金でもって会所の運営費にあてる―という構想である。今回は、大坂だけでなく、摂河在々の干鰯仲買の株立てまで出願され、規模が大きくなっている。
 このため、幕府の方も、摂河の村々に支障はないかと尋ねている。村々は、会所ができて独占権が強まると、肥料の購買先が手狭になるとか、購入先が遠くなり運送費がかさむ―などの理由をもって、多くが反対している。この出願も、結局、成功していない。

 (ⅱ)持続的で大規模になる農民たちの国訴運動

 宝暦期から天明期(1751~89年)はまた、西摂での「外商売の者」たちの買い占めが激しく、農民たちはこれに伴う肥料代高騰との闘いが迫られていた。天明期は、とくに大坂への肥料廻着量の減少と酒造制限令による干粕の生産減がかさなり、肥料代が高騰した。このため1788(天明8)年から1794(寛政6)年にかけて一連の闘争がはげしく盛り上がった。
 1788(天明8)年7月27日には、摂津国7郡、河内国5郡の計836カ村が、①肥類(こやしるい)は諸国より廻着したままで売り出すように、②肥類荷物引き受け人に対し、百姓が直に相対で買い取りたいこと、③油粕・醤油粕を作る元より、百姓が直買いをしたいこと、④先年の通り、油粕・干粕は米1石値段の5歩から5歩5厘、醤油粕は同じく3歩ぐらいで売り、⑤交ぜ物、買占めや、他国売りを差し止めて欲しい―などを訴願した。その規模が摂河全域の836カ村にまで広がったのは、菜種・綿関係での闘いに先んじてはじめてのことであった。要求内容においても強さを増して、とくに大坂や在郷町の「外商売の者」の買占め行為と干鰯屋仲間の不正が激しく攻撃された。
 肥料値下げの訴願は、1789(寛政元)年、1790(寛政2)年と続くが、1794(寛政6)年には、とりわけ激しく大坂奉行所への訴願が集中した。とくに、4月21日には摂津・河内の20郡650カ村が肥料値下げを、5月23日には摂津・河内の23郡694カ村が問屋の買占めなど不実を吟味するように、訴願している。
 その後、摂河泉の百姓たちの、幕府の統制や株仲間の独占に反対し、自由で公正な売買を求める闘いは、とくに菜種関係を中心に広範に展開されるようになる。以下、列挙すると次のようになる。(八木哲浩著『近世の商品流通』P.167~172。なお、【】内は、訴願に対する幕府の対応)
*寛政9(1797)年10月27日―摂津国武庫・川辺・豊島郡の村々が、「菜種の干鰯屋渡し・引当て借銀の許可ならびに油下直(したね)願い、油直(じき)小売り願い」を行なう。〔「引当て借銀」とは、ここでは将来の干鰯代に充てる分として菜種を渡すこと〕
*寛政9(1797)年10月27日―摂津国武庫・川辺・豊島の村々が、「大阪綿問屋と談合の結果か、他国商人が近頃在々へ来なくなり、綿売り先(さき)手狭(てぜま)難渋につき、先規の通り手広(てびろ)に売買仕りたき」と願い出る。
*寛政9年11月―摂津国豊島郡41カ村が、「在々絞り油屋が少なきため、菜種売り子を雇い、絞り油屋へ売りさばきたき願い」を行なう。
*寛政10(1798)年1月27日―摂津国川辺郡29カ村が、前項と同じことを出願する。
*寛政10年2月13日―摂津国武庫・川辺・豊島34カ村が、「在々絞り油屋が少なきため、村々組合にて日雇(ひやとい)売り子を雇い、絞り油屋へ売りさばきたい願い、あわせて菜種の干鰯屋売り・引当て借銀の許可願い」を行なう。
*寛政10年6月―摂津国八部(やたべ)郡31カ村が、「先年の通り、もより商人へ両種物(*菜種・綿実)を勝手に売払いたいとの願い」を行なう。
*文化2(1805)年7月5日―摂津国莵原郡18カ村が、「菜種を肥料・飯米・金銀の仕送り方へ渡すことを許可して欲しい」と出願した。【御趣意に叶わず願い下げ〔願い下げとは、訴願を受理しないこと〕】
*文化2年7月5日―摂津国莵原・武庫郡村々が、「菜種仕入れ銀の姿にて銀子(ぎんす)調達仕りたきこと、小前百姓の端菜種(*わずかな菜種)を村役人でまとめ絞り油屋のほか商人へも手渡し銀子調達したきこと」を願い上げた。【願い下げ】
*文化2年8月7日―摂津国莵原郡18カ村・武庫郡56カ村が、「絞り油屋が新規に設けた目代(代理)手先仲買を廃し、申合せ立値段(基準値段)を止めるよう命じて欲しいとの願い」を行なった。【御聞済なし】
*文化2年8月25日―摂津国川辺・豊島郡83カ村が、「菜種・綿実は諸商人へ勝手次第売り払いたく、油はもよりの在々絞り油屋・小売店にて直小売り仕るよう」に願い出た。【容易ならざる儀につき願い下げ】
*同日―河内国丹北・八上・丹南郡の秋元但馬守領44カ村が、「油小売り・種物引当て禁止が難渋につき、種物手広の売買を仰せ付けられたき」と出願した。
*同日―摂津国丹北・丹南・錦部郡狭山領24カ村が、「両種物の手広売買を仰せ付けられたき」と出願した。
*文化2年8月27日―摂津・河内国568カ村が、「8月25日の願い(川辺・豊島郡83カ村)を取り下げるも、絞り油屋が増長して百姓が困窮しないよう、願いの趣旨をくみ取って欲しい」と願い出た。【容易ならざるにつき御取り用いなりがたき旨が仰せ聞かされ、日延願い〔*出願を延期すること〕となる】
*文化2年閏8月5日―摂津国莵原郡18カ村・武庫郡56カ村が、「絞り油屋が新規に目代をもって不正道の買い方をしないように」と、訴願した。【御糺しの上、願書留り申すにつき、日延べを願い帰村】
*文化2年閏8月17日―摂津・河内・和泉の村々が、「種物の手広売払い・油の直小売りの儀、さらに勘考されたき」と訴願する。
*文化2年閏8月19日―摂津国莵原・武庫郡74カ村が、「絞り油屋の仲間目代による新規の買い集め方の停止」を訴願する。【10月に油方年行事の取り放ち〔追放〕を仰せ渡す】
*文化2年閏8月24日―摂津国八部・莵原・西成・島下・住吉郡の村々が、「油屋不筋の売買なきよう、種物の手広な売払い」を訴願する。
*文化4(1807)年―摂津・河内国の村々が、「江戸の弥兵衛より願い出た摂河在々での実綿競り市売りの願いを許可されたき」と願い出る。【文化7年4月弥兵衛の実綿市立てを許可】
*文化12(1815)年10月2日―「河内八上・丹北・丹南郡秋元氏領ノ百姓、実綿繰屋株設置ニ反対シ訴願ス、ソノ後、同月二十三日丹南領ノ百姓ト共同シテ訴願ス、マタコノ頃和泉一橋領他・摂津住吉社領他ノ百姓モ訴願ス」(『編年一揆』第九巻 P.538)となる。
 和泉国堺では、文化9(1812)年に実綿繰屋株が新規に出来て、「堺東廻り三カ村」(北庄村、中筋村、舳松村)と湊村は、この差止めを訴願した。だが、これに難儀するのは堺の農民だけではない。河内などの百姓たちも大いに迷惑し、大坂町奉行に次のように訴願した。
 
 恐れながら口上
               秋元左衛門佐殿領分
                河州八上郡拾弐ヶ村年番惣代
                       野尻村庄屋
                          甚五右衛門(印)
                同州丹北郡拾六ヶ村年番村
                       小川村庄屋
                          与次兵衛(印)
                同州丹南郡拾壱ヶ村年番惣代
                       西村庄屋
                          与三右衛門(印)
一 泉州堺表ニて近年実綿繰屋株新規ニ出来、無株のもの(者)実綿売買相成り申さず手狭(てぜま)ニ相成り□(候ヵ?)、然ル処(ところ)、当村々の義は作綿(つくりわた)多分(*多く)堺表へ差出し、売り払い罷り在り候処、右(みぎ)繰屋株出来(でき)、百姓作綿売捌(うりさばき)手狭ニ相成り、難儀(なんぎ)仕り候ニ付き、売捌方手広(てびろ)ニ成られ下されたく、明後二日堺奉行所へ願い上げたく候間、何卒(なにとぞ)御添翰(ごてんかん *添え文)下されたく願い上げ奉り候、□□(*虫食い)御聞き済み成り下され候ハハ有り難く存じ奉り候、以上、
                           右
  文化十二亥年                    甚五右衛門(印)
     九月廿九日                  与次兵衛(印)
                            与三右衛門(印)
  御奉行様

 要は堺奉行所への訴願について、大坂町奉行所の添え文(百姓たちの後援となる)を下さる様に願い出たのである。その訴願の内容が、堺奉行所の実綿繰屋の株設置を差し止めて欲しい―というものである。株立てが、生産者農民の作綿売買を手狭にして、広く自由な売買の妨げになっているからである。
*文政3(1820)年2月―村々(所在地は不明)が、「干鰯廻着のまま売買仕り、焼酎粕の買い占めを差し止め、干鰯・干粕は風袋(ふうたい *品物の容器・上包み)込みでなく正味にて売るよう、油粕に交ぜ物せざるよう」に願い出る。
*文政6(1823)年5月13日―摂津・河内国の786カ村が、「大坂三所実綿問屋株を取り放ち(*免許取り消し)、売りさばき方手広になるように仰せ付けられたき」と、三所実綿問屋の免許取り消しを明確に要求し、百姓の綿売買の自由を願い上げている。【株の取り放ちを願い出るべき道理無しとして却下】
*文政6年5月25日―摂津・河内国の786カ村が、「実綿(みわた)売り捌き方手狭(てぜま)ニて難渋仕り候ニ付き手広(てびろ)ニ相成り候様に歎きお願ひ」と、大坂町奉行所に訴状を提出した。そこでは、5月13日の訴状の「三所実綿問屋株の免許取り消し」要求部分を削除したが、あくまでも百姓の綿売買の自由を要求した。
*文政6年5月―百姓の菜種売買の自由を求め、「農民の実綿売りさばきを妨げざるよう、三所実綿問屋に仰せ付けられたき」との訴願は、ついに摂津・河内国の1007カ村にまで拡大する。
*文政6年6月6日―摂津・河内国の114カ村が、前項の村々と同様の願いを行なう。
*文政6(1823)年6月13日―摂津・河内国1102カ村(他の説では1107カ村)が、「油の直売り、種物の質入れ、干鰯屋渡しの許可」を訴願する。【御定法に背く旨(むね)仰せ聞かされ、願い下げ】
*文政6年6月18日―摂津・河内国1179カ村(他の説では1107カ村)が、「油の直小売り、種物の質入れ、干鰯屋渡しの許可願い、直小売り不許可の時は数カ村組合で手作り種を絞りたき願い」を行なう。【前項と同じように、願い下げ】
*同日―和泉国一橋領の村々が、「領内油稼人お糺しの上、手広正路の売買ができるようにされたき」と訴願する。
*文政6年7月6日―ついに「幕府は綿に関しては農民側の言い分を認め、生産者農民からの直売(じきうり)や直船積は『勝手次第』という触(ふれ)を出すことになった。三所綿問屋の独占強化によってその下買人のようになっていた在方商人や他国商人の直買(じきがい)・直船積の自由も回復され、農民の手広売買は実現することになった」(新修『大阪市史』第四巻 P.325)のである。百姓たちの粘り強い闘いが、ついに綿に関しては成果をあげたのである。
*文政7(1824)年4月13日―摂津・河内・和泉国1460カ村(他の説では1307カ村)が、「種物値段引き立つよう、油は時々の相場にて直小売りを許されたき願い」を行なう。【受理――大坂三郷油懸りの者に返答書提出を仰せ渡し――結果、油直小売りの儀、願い下げ】
*文政10(1827)年6月27日―河内国石川郡の村々が、「在々絞り油屋申合せ、種物値段を踏み下げることなく、自然の相場をもって手広に売買するよう仰せつけられたき」と願い出る。
*文政10年閏6月18日―摂津国莵原郡23カ村・武庫郡40カ村が、「菜種一手(いって)買い入れを行なう新規油屋名代(株立て仲買)を差し止め、油屋と農民とで直売買できるようにされたい」と訴願する。  
 この地の百姓たちは、去る文化2(1804)年に、「水車五輌請負人上坂兵五郎・五拾六輌請負人井上伊左衛門目代と唱え印鑑を以て、新規菜種仲買(なかがい)取拵(とりこしら)え一手ニ買取り、水車油稼ぎのもの共(者共)え配分の企て仕り、百姓売捌き手狭(てぜま)ニ付き難渋」したので訴訟したところ、「早速右(みぎ)請負人共(ども)御召し成り下され、御糺(おただし)の上、目代と唱え候株立て仲買共(ども)御差留メ仰せ付けられ」たのであった。ところが去る6月、「右(みぎ)相手(*国訴する相手)のうち二宮辰屋弥助と申すもの(者)、兎原郡住吉村吉田吉右衛門名代(みょうだい)印鑑を以て一手ニ菜種買入れのもの共取り極メ候間、向後(こうご)作り菜種印鑑所持の外(ほか)一切売附(うりつけ)相成らずの旨(むね)、御冥加銀ニ事寄(ことよせ *かこつけること)手狭(てぜま)ニ取極メ(取り決め)、村々庄屋共え相答え来り候え共〔*株立て仲買の買い占めを庄屋たちに同調をい求めたが〕、御触れ渡しこれ無き新規の儀ニて、先年(*文化2年のこと)目代ヲこの度(たび)名代と号替(ごうがえ)候までニて、同じ趣意の義ゆえ、百性(百姓)共(ども)強(しい)て取敢え申さず、前々通り水車五輌油稼ぎ人あるいは人力稼ぎ株の油屋へ直売(じきうり)ニ仕(る)」こととした。すると、彼らは「武庫郡村々よりは西宮浜まで津出し仕り候道筋所々え、右(みぎ)名代と唱え出張仕り、菜種付ケ候牛馬差留め、荷持ニ竹刺ヲ入れ、百姓名前并(ならびに)売附先等(とう)相糺し候義ニ御座候」と、手前勝手な妨害行為にまで至っている。
 百姓たちは、こうした大坂の油問屋の独占行為を批判しながら、「文化値二丑年八月仰せ付けられ下され候通リ、菜種の儀は油稼ぎよりは直買い、百姓よりは直売り手広に相成り、無益の費(ついえ)これ無き様仰せ付けられ下さり候......」と訴えたのである。(引用は、『西宮市史』第四巻 P.845~846)
*文政10年10月―河内国茨田(まんだ)郡の人力油稼人が、「絞り油直小売り許可を願い、この願い不許可の時は在方の絞り油屋の大坂廻着種物を買えるよう、また摂河泉の種物は在方絞り油屋のみが買い取るようにされたきことなど」を訴願する。
 
 訴願は、時には数百の村々の連名となったが、文政6年5月にはついに摂河1000カ村を越え(これは両国全村数の約四分の三)、また、同じ頃から摂河だけでなく和泉国の村々も共同行動をするようになる。だが幕府は、摂河の村々の粘り強い訴願が行なわれる中で、文政6年7月の綿関係での「直売り・直船積は勝手次第」以外は、ほとんど百姓たちの願いを受け入れないどころか訴願を受理することすら行なっていない。
 とくに、菜種関係の市場統制は厳しかった。「幕府は文政五年(一八二二)七月、これまで寛政三年の法令により、大坂へ積送りを禁止していた安芸・周防など十三カ国分の菜種は、以後、兵庫廻着をやめて大坂へ廻すように命じ、兵庫菜種問屋と西宮灘目油江戸直廻(じきまわし)問屋を休業させた。また、諸国にたいしては、手作り・手絞りにことよせて他から菜種を買い受けて油を絞ることを禁じ、自家用以外の油は勝手に売り払わず、大坂出油屋へ廻送せよと令している。これは種物・油市場としての大坂の地位を確認したもので、菜種作農民に対する示威でもあった。」(北島正元著『日本歴史』18幕藩制の苦悶 中公文庫 P.241~242)と言われる。
 これに対する百姓たちの返答が、翌文政6(1823)年6月の摂河1107カ村(1179カ村)の訴願であり、文政7(1824)年4月の摂河泉1307カ村(1460カ村)の「国訴」である。菜種の自由売買は受け付けられなかったが、摂河泉の訴願運動はさらに展開される。
*天保6(1835)年5月21日―摂津・河内国村々(952カ村か?)が、「肥料類、高値にて難渋」と訴える。【高騰の状況を詳細に申し上げるよう仰せ付け】
*天保6年5月28日―摂津・河内国の952カ村が、「干鰯・油粕・真粉粕の値段を書上げて、憐憫のほどを願い上げ」した。【干鰯商人の印形も取ったうえ、差し出すよう仰せ付け】
*天保6年5月晦日―摂津・河内国952カ村が、「肥料類下値にするよう在郷へ触れ下されたき」と願い出る。
*天保6年6月―出願の村名は不明だが、「肥料類下値にして、不正の売買せざるよう触れられたき」と願い出る。【願いの通り聞き済み、買い占め囲い持ち・交ぜ物せず下値正路の商い仕るよう摂河両国へ触れ渡す】
*天保9(1838)年3月―河内国16郡の惣代が、「絞り油屋より願い出の郡々に取締り下役を置く事を認めないのはもちろん、在方の油稼人を差し止められたき」と願い出る。
*同年同月―前項と同じ惣代が、「取締役を置き種物売買が手狭(てぜま)になることなく、自然の相場をもって手広に売買するよう仰せ付けられたき」と願い出る。
 百姓たちの国訴運動は、自らの経営―生活に直結するが故に、菜種や干鰯などの手広な取引、自由で公正な取引を求めて、いつまでも続くのであった。

Ⅶ 下層人民の「人並み」を求める多面的な闘い

 ここで注意しなければならないことは、摂河泉の百姓たちの闘いが、決して合法闘争としての「国訴」などに終始していた訳ではないことである。以下、青木虹二編『編年百姓一揆史料集成』(三一書房 1979~97年 以後、『編年一揆』と略)などを参考に、文化元年から天保6年(1804年~1835年)ころの摂河泉の百姓の主な闘い(合法・非合法の闘い)を次のように整理してみた。
 それは、摂河泉にだけ特有なものではないが、(イ)幕藩権力に対する闘い、(ロ)村役人(しばしば地主を兼ねる)層との闘い、(ハ)小作人・小前百姓としての闘い、(ニ)身分格差を解消するための闘い―に整理できる。

 (ⅰ)権力・村役人との闘いと格差是正を求める闘い

 (イ)「幕藩権力に対する闘い」を列挙すると、
*1807(文化4)年9月21日―摂津国幕領(現・豊中市)の百姓たちが「年貢取立てが苛酷」のため「代官所へ乱入」して抗議する。この様子を、鈴木領原田村に住む代官・野口郡太らが上役に内密に報告した。「......近頃摂河の内、あミ嶋大長寺裏わざと切り処?(より)、又候(またぞろ)水入(みずいり)候ニ付きて、百姓大騒動いたし、先月廿一日ころ、篠山様(*過酷な年貢取り立てをした代官)御代官所の玄院(玄関)御屋敷へ、土足ニて摂河の百姓乱入仕り、東西御奉行所?与力衆差し出され、百姓なため(宥め)御引セ成られ、願いの筋ならハ、願書を以て、穏やかニ訴え出で候様ニとの御教諭ニて......引き退キ申し候、......」(『豊中市史』史料編三 P.230)といわれる。年貢取り立てが過酷の上、さらに川の大決壊を予防するためか一部を切り開き、そのためその地域が水浸しとなったので、百姓たちは大騒ぎになって、代官所に殴り込んだのである。
*同年11月24日―和泉国大鳥郡伯太(はかた)領の豊田村など上神谷5カ村が強訴する。要求内容は明確ではない。だが、「この一件の原因はわからないが、豊田村の年貢をみると、文化三年から史料のある文政四年までほとんど連年当損引があり、事件のあった文化四年も、稲作分六四・〇六一二石、木綿作分六七・七九六三石が当損引として高から控除されている。このことから推察すると、年貢減免の要求ではなかった(か)と思われる。」「(『堺市史』続編第一巻P.931)とのことである。
*1811(文化8)年11月―摂津国川辺郡旗本領の金楽寺村(現・尼崎市)など8カ村の百姓たちが、大庄屋彦平が「御陣屋御役人中へ取入(とりいり)押領仕り」、村々難渋したので江戸表に越訴(おっそ)して闘う。
*1815(文化12)年8月―河内国交野(かたの)郡旗本領藤坂村・津田村(現・枚方市)などの百姓たちが、領主の新たな御用金催促に対して、直訴して抵抗した。ここでは前々から御用金催促は繰り返されており、百姓たちは時には土地を質入れまでして、止もう得ず応じてきた。しかし、領主の余りの経済的政治的無能さに驚き怒り、今回は「御倹約仕方帳控」(ここには「上方御倹約仕法書」・「御江戸表御倹約書」として、家中の家来各自の倹約の目度〔めど〕が提示されている)まで用意して抵抗した(『枚方市史』第8巻 P.188~194)。この闘いでは、領主のあまりの無能さと、これに対する百姓たちの経済的政治的見識の高さを露顕させた。
*1821(文政4)年―この年、和泉国大鳥郡武蔵関宿領の納花村(のうけむら 現・和泉市)などで、木綿の凶作に遇い、減免のための検分願いが出された。しかし関宿藩の久世家は関東表でも旱損となり財政が窮乏していると言って拒絶した(これには郡惣代と大庄屋が了承した)。このため、納花村から「異躰の廻状」が廻され、「郷中彼是(かれこれ)混雑に及び、終ニハ騒動相成り候」(和田良昭文書)となった。
*1828(文政11)年―摂津国瓦林組の百姓たちは、お上の夫役命令に対し、抵抗している。「二月一〇日、摂州上瓦林村でも、長崎奉行通行時の人足を徴発されたが、難渋を理由にことわっている。また同年六月一九日、武庫川破損普請の人足を徴発したいという領主側の意向にたいしても、瓦林組大庄屋は時分柄故、難渋とことわり、請負をすすめている。さらに同年一〇月一六日、長崎奉行の御城下(*尼崎藩)通行時の人足二〇〇人を命じられたときには、途中で逃亡するものさえ多く出している(以上二例、岡本家文書)」(布川清司著『近世日本の民衆倫理思想』P.135)のであった。
*1828(文政11)年12月5日―和泉国大鳥郡田安領の草部村・舟尾村(現・堺市)など10カ村の極貧の小前百姓らが、米価騰貴から家原寺に集まり相談していたが、そのうち段々たくさんの人数が集まり、「村々え押歩」き〔*デモンストレーション〕した模様である。これが大騒動に発展するのを恐れて、村役人の手の者が役所へ注進に及び、役所は残らず召捕り入牢させたのであった。(『堺市史』続編第一巻 P.1086)
*同年12月―和泉国大鳥郡旗本領陶器(とうき)荘村々(現・堺市)の百姓たちは、この年の減免が過少であったために一揆に及ばんとした。この地方の大地主で大庄屋である児山与三兵衛が、村々の人別に応じて厄除米50石を施したので、一揆には至らなかったようである。(『堺市史』続編第一巻 P.1086)

 (ロ)「村役人(しばしば地主を兼ねる)層との闘い」では、小前百姓(あるいは一般百姓)と村役人との間のトラブル(村方騒動)が、摂河泉でも他の地方の村々と同じように頻発した。よって、個別にいちいち取上げないが(詳しくは青木虹二編『編年百姓一揆史料集成』三一書房 を参照)、摂和泉の場合も、この時期、トラブルの原因は、主に会計の不正、跡目の庄屋を誰にするかでの出入、個別庄屋への不信などである。だが、時には先の庄屋の「非違」により、年貢不納の出入りになる場合もあった。
 
 (ハ)「小作人・小前百姓としての闘い」は発展する地主・小作関係の下での、小作料などを巡る闘争である。
*1805(文化2)年―この年、摂津国武庫郡旗本領守部村(現・尼崎市)で、「下作(したさく)出入(でいり *紛争)起キル」とされる。これについて詳細は不明であるが、一方的に小作地を取上げられた可能性がある。いずれにしても、小作権をめぐるトラブルと思われる。(『尼崎市史』編集資料目録集2 P.21)
*1809(文化6)年―この年、河内国古市郡幕領太田村(現・羽曳野市)の百姓(小作人)が「小作料の引下(ひきさげ)ヲ要求シ、容(い)レラル」こととなった。これは、「小作層が『追免(おいめん *追加の減免)出し申さず候ハてハ、御年貢勘定一統いたしかた(い)〔致し難い〕』と、下免要求をかかげて地主に迫ったものであった。地主層は、遂に領主よりの救米を上廻る、下作免米を出しているが、このような強力な小作騒動は、当時摂河村々でおこっていたらしい。更池村(さらいけむら 現・松原市)村規約がのべるように、『村内下作の者、地主え対し、多分の味進(未進)を致し、又は不作年ニは村定(むらさだめ)の外(ほか)不相応(ふそうおう)の用捨(*容赦)を貪り』ついには『相対不行届(ふゆきとどき)の時は小作の田地毛上(けあげ *稲のみのり)共(とも)一統申合せ差し戻し候ハ、全地主共(とも)難渋を見込み候致し方』と地主層の憤懣は強い」(脇田修著「幕政改革の社会的基盤」―『藩政改革の研究』お茶の水書房 1955年 に所収 P.259)と言われている。
*1813(文化10)年―この年、摂津国西成郡井高野新田(現・大阪市)の小作人たちが、「小作料引下ヲ要求」し、「騒動」となった。これ以前、1802(享和2)年、水害で破損した土手の修理を命ぜられた小作人たちが、ただ働きを拒否して"一日銀一匁三分"の要求を行なっている。また、召集にもかかわらず一向に人数が集まらず、なかには自分の身代わりに子どもを差し出す小作人も多かったといわれる。
 文化10年の闘争もやはり、小作料の減免から始まった。「小作人たちは、自己の労働力の価値をたのんで『免合(めんあい)不出来ハ〔*減免ができない場合は〕地面差し戻し宜し」と、小作地の返上を切札とし、一方、地主側は、『地面取上(とりあげ)』をもってそれに応じた。しかし地主側では、小作人が払底しているときとて、実際に地面を戻されたのでは、自己の経営が終焉してしまう。そこでかれらは、この解決を領主権力に依頼した。とその途端(とたん)、小作人側の盛り上がりは急激に萎縮(いしゅく)し、小作騒動は失敗に終ったのである。このことから、当時、領主権力が百姓にたいして、まだ大きな力をもっていたこと、そのゆえに地主側と領主権力とが提携しえたことがわかる」(布川清司著『近世日本の民衆倫理思想』P.119)といわれる。
*1820(文政3)年―19世紀に入り、和泉国の大鳥郡などでは、地主に対する小作人・貧農層の闘争が目立つようになる。大鳥郡の「赤畑村(*現・堺市)に近い百舌鳥(もず)の夕雲開(せきうんびらき *開発新田地)では、享和二(一八〇二)年一二月、小作人たちが、滞納の小作料の銀三九八匁九厘を出さず、米で代納しようとし、地主の制止もきかず、地主の門前に米を放置してかえり、出入りもできない状況で、地主も難渋したという事件が発生している(高林誠一文書)。文政三(一八二〇)年一〇月には、大鳥村において、小作人一同の『御請連印状』がつくられているが、それには、近来小作人のうちに風儀のよろしくないことが多く、田地からの年貢米を地主に納入せず勝手に都合のよい条件で売却してしまい、『極月(*12月のこと)ニ至』って地主から催促をうけるにおよび、他所から『悪米等買入』れて地主に渡したり、小作料を滞納する者が多く地主の催促に応じないなどと、おなじような小作人の身勝手な行動を記している(土居通和文書)。」(『堺市史』続編 第一巻 P.1085~1086)といわれる。ここでは、「近来小作人のうちに風儀のよろしくないことが多い」とか、「小作人の身勝手な行動」とかいうが、それは地主側の一方的な主張である。小作料を巡る対立が、商品経済の発達した畿内らしく、米価との関係で進行していることを示している。小作人たちは地主の収奪に対抗し、米価の高低に応じて、銀納か現物納かを選択しているのである。
*1823(文政6)年9月―摂津国武庫郡尼崎領高洲東新地(現・豊中市)の小作人たちは、「文政六未年(ひつじのとし)四月中旬?(より)、秋ニ至るまで大旱魃(だいかんばつ)ニて、作物一統ニ大損シ、百姓難渋ニ付き、地主衆中え願い出」た。それは、「......差当(さしあた)リ御年貢の所(ところ)一向出来(でき)申さず、格別の御憐憫(おれんびん)を以て、当御年貢の所(ところ)皆無(かいむ)同様ニ、仰せ付けられ下され候様願い上げ候」(『豊中市史』史料編三 P.244)というものである。
 大旱魃を前にして、領主は雨乞いをしたり、百姓へ夫喰米(ふじきまい *食糧用の米)を下付したりした。しかし、それでは、小作人たちの困窮に対処し切れるものではなかった。この時に当り、地主たちは小狡(こずる)く立ち回り、小作人たちの要求をダシにつかって、領主には大旱魃で小作人たちが難渋しているとして、「......これに依り下作人(*小作人のこと)より右(みぎ)難渋の趣(おもむき)申し、当宛米(あてまい)年貢皆無同様に致し呉(くれ)候様願い出(いで)候、この儀(ぎ)志の至り存じ候ニ付き、恐れ多く存じ候得共(そうらえども)、御上様御憐憫ヲ以て、当上納の所、恐れながら格別の御容捨(ごようしゃ)成り下し為(な)され候処(そうろうところ)願い上げ候」(同前 P.245)と、御願いしている。
 当時、一般的には、年貢と小作料は合計して地主に納められていた(これを宛米といった)。そこで地主たちは、小作料の減免だけでは自分たちの取り分が無くなるので、年貢の皆無を願い上げた。結果として、小作料の減免は実現したが、年貢がどうなったかは不明。
*1823(文政6)年―この年、和泉国大鳥郡清水領赤畑村(現・堺市)の小作人たちは、夕雲開(せきうんびらき *現・堺市)での稲作の容認と小作料の減免を要求し、成功した。
 中村哲著『明治維新の基礎構造』によると、「この事件における小作人の動きはきわめて巧妙であり、組織的であった。小作人が一致して惣代をえらび、まずすでにあまり稲作禁止に熱意をもたなくなっていたと思われる地主の承諾をえて村役人の禁止の有力な理由を除いた上で、村役人(その実態は自村の地主)に要求を出し、村役人が夕雲開が定免であるために小作人が夕雲開の耕作に力を注ぎ、本田をおろそかにするという理由を出すと、その理由をたてに今度は地主に夕雲開小作料の本田並減免を要求してかちとり、その上で村役人に夕雲開の稲作をみとめさせたのである。小作農民は夕雲開の稲作を公認されたのみでなく、夕雲開の小作料減免をもみとめさせた。これはもとの検見制への復帰を意味するのではなく、従来の小作料より低い水準できめられた定免小作料からさらに本村並の減免を行なうものであり、小作料の実質的減額であった。」(P.370~371)といわれる。
*1825(文政8)年9月20日―摂津国豊島郡旗本領原田村(現・豊中市)の小作人たちは、「綿凶作カラ村役人ニ減免ヲ要求シ、愛宕社ニ屯集」(青木虹二編『編年一揆』第十一巻 P.141)した。
 この年、この地方は夏中、大風雨で「稲綿共(とも)吹き倒し、不怪(不快 *気持ちの悪い)凶作ニ御座候、就中(なかんづく)綿作ハ今に玉開キ申さず、悉く開かざる内(うち)、腐り申し候て、皆無(かいむ)ニ御座候、」(同前)という状況となる。そこで「当月(*9月)廿日の夜?(より)、村中小前百姓内の愛宕(あたご)社地(しゃち)まで寄せ集り、かがり火ヲ焼キ候て、二昼夜寄り合い、夜中(よなか)村役人宅へ願い出候ニ付き、村役人?大ニ呵り(せまリ *しかりつけ)、願ハ引かさせ申し候」(同前)となる。9月29日の夜にも、小前百姓たちが村役人宅に詰め掛けるなどしたが、結果は不明である。
*1825(文政8)年12月24日―摂津国豊島郡武蔵岡部領(岡部藩の飛地)桜塚村(現・豊中市)の小作百姓たちが、「当酉年綿作凶作に付き、下作請米(うけまい)御年貢の義、御容捨(御容赦)」を願い出た。しかし、「御役人」の高圧的な態度に押されたのか、小作人たちは詫び状を提出したとの古文書が残っている。だが、この古文書からは、①この闘いが岡部藩領の百姓だけでなく、「入組(いりくみ)の下作(*小作)の者共(ものども)、一同寄り合い申合せ仕り候上、......下作の者共(ものども)同心(どうしん)仕り候......」(『豊中市史』史料編三 P.263)と、同調者が入作している他領の小作人にまで広がっていたこと、②この詫び状そのものが、七兵衛以下46名の連印でなされており、小作人たちの結束を強める一階梯となっていること―などが明らかである。
*1829(文政12)年9月~10月―この年、摂津国川辺郡幕領の下佐曽利村(現・宝塚市)の小前の貧農たちが、「年寄ノ設置等ヲ要求」(青木虹二編『編年一揆』第十一巻 P.561)して、対立した。
 下佐曽利村内での村落指導層と小前層との対立は、文化8(1811)年に明白となっている。その時の対立点は、庄屋四郎兵衛と百姓治兵衛ら18人との争論である。18人の側は組頭3人、小前15人であったが、彼らは翌文化9年3月11日、庄屋などを相手取って訴訟を起こしている。内容は正確にはわからないが、3月25日に、訴人側が一方的に心得違いを詫びる形で和談が成立している。その和談一札で、争論の内容が明らかになる。「すなわち、①訴人側は村方諸勘定の割付方法に疑念をいだいていたが、この点の疑念は晴れたので、もはや庄屋方のこれまでの処置に申し分はない。②百姓個人個人の持山に生えている木の間伐や肥草(こえくさ)・下草・落葉を取ることを希望していたが、その要求は取り下げる。③山が田畑の日陰になり耕作物に支障があるといったが、それは心得違いであった。④山手銀(*山年貢)の割付けについては従来どおり村方に適正に割りかけてよい。⑤庄屋を訴えたのは心得違いであった。⑥免状や年貢皆済目録を小前のものにみせないと訴えたが、いつも読み聞かされており、訴えたのは心得違いであった。内容は以上のようなものであるから、一方的に訴人の側がわびて和談が成立したものといえる。」(『宝塚市史』第二巻 P.536)とされた。
 しかし、この和談には何やら腑に落ちないものが感じられる。案の定、1829(文政12)年10月に、ふたたび村落指導層と小前貧農層との間に争論が持ち上がる。今回は、小前35人が10月19日に、年寄市兵衛宅に集まって、庄屋に対する次の要求をまとめている。「①村方の山の管理や困窮している小前たちの世話万端をしてくれる年寄ひとりを新たに置きたい。その年寄のために庄屋給二石のうち五斗をさいてもらいたい。②松茸山のために山持ちのものから従来年々銀三二匁五分をだしてもらっていたが、今後は三四〇匁だしてもらいたい(従来個人持ち山の山年貢も個人がださず村中の家別割りで上納していたことに対する反発であろう)」(同前 P.537)―の2点である。
 庄屋側は、①については応諾した。しかし、②については、山持と相談して75匁までは出そうと応じた。だが、小前層はこれに納得せず、もし小前たちの要求に応じないならば、山を自分たちで自由にすると拒否した。この点については、結局、文政13年にお上の裁許が下って和談が成立した。それによると、今までの家割りから今後は持ち山の反別に応じて山手米を割当てることになった。(同前 P.537)
 文化8年に庄屋を訴える側は18人であったが、それが文政12年に庄屋を訴えた者は35人であるから、村内の小前層の政治力は格段に伸張したのである。その中には、少なからずの小作人が混じっていたことは疑いないことである。

 (ニ)「身分格差を解消するための闘い」は、さまざまな分野にわたっているが、長年の差別や格差に忍従してきた人々が、「平等と自由」を求めたものである。このような闘いが次々と露呈してきたのは、下層の人民の経済的政治的な向上が背景にあることは、明らかである。この時期での主なものを年代的に挙げると、以下の通りである。
 ?享和~文化期(1801~17年)―摂津国武庫郡今北村(現・尼崎市)の枝村として、芋村がある。芋村は今北村から分村を願った。その理由は、「一つには今北村が芋村の者を『今北村手下の百生(百姓)の様』に心得、すべて芋村に相談なしにわがままに取り計らうという点である。たとえば免(租率)の決定があっても、またいろいろな触(ふれ)がきても芋村へはしらせてくれないとか、勝手に免割りや武庫川堤の普請の人足割りがなされるというふうに、芋村が村のなかで正員として正当に扱われないことへの不満から、分村の出入りを起こしたわけである。さらに分村しようとする理由としては、今北村は大村で村人の意見もまとまりにくく、諸費用が多くかかるので、小村である芋村は今北村に属していては困窮が増すばかりであるという点もあった。芋村に負担がしわよせされることをきらって、免状その他諸帳面をすべて分離しようとしたのである。しかしけっきょくこの分村は実現しなかった。」(『尼崎市史』第二巻 P.672)といわれる。
 ?、1806(文化3)年11月―摂津国武庫郡尼崎藩領段上(だんのうえ)新田(現・西宮市)の百姓が「分村ヲ願イ」出た。段上村新田は、百姓家が14軒(すべて開発百姓)で、うち8軒は同村出身であり、残る6軒(分村を願い出た側)は同じ領内の山田村出身である。「我々とも六人ヲ新田百姓ト立テ、前々より年領配罷り来り候ても御役儀ハ相勤めさせず候、然ル処(ところ)御役儀相勤めず候義は苦しからず候へども、百姓の義ニ候ヘハ大高持ニ相成り申し候て御役など相成らざる家ト御坐(ござ)候てハ、世間えもこの噂これ在り候ては我々子孫家名相続の縁談取り組み等の妨(さまたげ)ニ相成り申し候、最早(もはや)以前妨(さまたげ)の殊(事)これ在り、これに依りこの度(たび)新田分六軒の内ニ六軒だけの年寄〔*の設置を〕御願い申し上げたき由(よし)村方え申し候へども、本田方不承知ニ申され候」(『西宮市史』第五巻 P.938~940)という事情があったので、分村を願い出たというのである。
 ?、1812(文化9)年11月2日―?と同じ村で、本田と新田で出入りがあった。この結果は??
 ?、1813(文化10)年3月―摂津国莵原郡尼崎藩領の小路村(現・神戸市東灘区)で、夫役(ぶやく)加入をめぐって出入が起こった。
 ?、1817(文化14)年11月―摂津国能勢郡高槻藩領の宿野村(現・豊能郡能勢町)で、火災が起こり、その後、家を建て直したが、その際、「板破風定紋付き」の普請をした。これを巡り、身分秩序を乱すものとして、村中で出入りとなった。
 ?、1818(文化15)年3月―摂津国豊島(てしま)郡幕府領の岡町村の町方と原田郷の七カ村の住民との間に、原田神社の再建補修をめぐって出入があった。
 岡町(現・豊中市)は、原田神社境内の開発に伴い発展し、借地町人の数も増加した。しかし、岡町の実権を握るのは、原田神社を氏神とする原田郷七カ村であった。「七ヵ村の氏神原田神社の経営費は、その大部分を岡町町人の宛米(あてまい)から引き出しながら、町人方を七ヵ村の支配に従わせているとして、岡町は独立の声をあげ、郷方は来歴をたてにとって従属化を強要した。それにつれて郷方の惣代としての岡町年寄役の性格も、自然に変質して、町人の利益を代弁する側にたったので、〔*岡町年寄役を〕幕末には置かせない時期があった。」(『豊中市史』二巻 P.177)といわれる。何かにつけて、両者の対立抗争は引き起こされたが、町方の勢力は郷方に押さえ付けられつつも、次第に伸長していった。
 境内の山林伐採をめぐる出入りは、すでに寛政2(1790)年に起こっている。通常、「町方から上納される宛米は、毎年十二月七ヵ村宮年番二人が岡町年寄宅にきて取り集め、その代銀で神社の諸入用(*諸経費)や社人の給料にあてていた。しかるに寛政二年(一七九〇)神社修理の費用につき、当時困窮にあった七ヵ村は、岡町町人にはからないで境内の山林を伐採し、それでまかなおうとした。」(同前 P.178)のであった。これには岡町町人32人が、境内の山林・竹木の支配権は町方にあると抗議して、大坂町奉行に出訴した。「町奉行は、町方の訴えは歴史的な根拠が乏しく、その支配権は七ヵ村側にあるとして、却下した。それと同時に、七ヵ村側にたいしても、同町はもと七ヵ村から移住した『同輩の百姓』であって隷属といった筋合(すじあい)はない。ただ境内に長年住居しているのであるから、社用で山林を伐採するような場合、決して町方が反対をしないだろうから、了解を得てやるべきであった。以後こうした配慮をして伐採するようにとさとした(諭した)。」(同前 P.178)という。以後、この裁許は長く守られてきた。
 ところが、文化15年3月、原田神社再建補修に付き、対立が再燃した。またもや郷方は、岡町との相談もなく、境内の生木を伐採し、社殿普請をした―と町方から訴えられたのである。郷方からは、月行事轟木屋長左衛門が病死したこともあり、双方の行き違いが生じたとし、今後も「寛政の裁許」を遵守し、生木伐採・社殿普請のときは岡町年寄に相談する―との弁明があり、和解となった。
 両者の和解はなったが、神社修理については、事前に届出た設計とは異なるとして、奉行所から郷方宮年番や大工にお咎め(「急度呵置(きっとしかりおく)」)があった。また、両者の諍いは、その後も続いた。
 ?、1818(文政元)年―摂津国武庫郡尼崎藩領の広田村(現・西宮市)は、西摂一帯の村々と同様に、身分の別をやかましく唱える村であったという。「文政元年(一八一八)五月、広田村の行司百姓は六軒新田(*枝村か?)の百姓から、広田村の掛けてくる年貢割付(わりつけ)が多すぎるとして訴えられ、それがすまぬうちに、その年の九月、こんどは足元の自村百姓から、六軒新田一件について、『行司持ども度々(たびたび)参会いたし候得共(そうらへども)、惣分沙汰これ無く候、尤も是(これ)まで何事も拾弐軒(*行司持のこと)のもの共(ども)参会いたし取究(とりきわめ)、惣分ヘハ申し聞け候のみニ御座候』と、行司持の専横ぶりが批判された」(布川清司著『近世日本の民衆倫理思想』P.110)のであった。
 また、「この時の訴状によれば『広田村では村方行司と唱える一二軒があって、彼等は一二軒以外の者を村役人に付けさせない。又(また)村方立会(たちあひ)で行うべき諸勘定も一二軒以外の者には関与させず、勘定帳面も一切見せない。又(また)村方の夫役(ぶやく)勤めは、本役人ならば二〇石・三〇石の者も小高の本役人と全く同じ割で勤めさせ、自分達に都合のよい様にしている。又(また)庄屋・年寄が夫役を勤めぬのはよいとして、一二軒の者が月番と称して夫役を勤めない。そればかりか茶代などと称して米を割取り(*一般百姓から)、村方衰微の基となっている。だからかかる月番を廃止し、勘定にも一二軒以外の村方より一・二人立会に出す様にしたい』と述べ、藩に対して取?(とりあつかい)を願い出て」(今井林太郎・八木哲浩著『封建社会の農村構造』P.109)いる。
 広田村行司持と六軒新田との出入は、「翌二年(*1819年)の一〇月、(1)諸掛り銀・諸日役銀は、どれほど多く必要な年でも、それより一五〇目(もんめ)はかならずへらすこと、(2)広田村の勘定免割時には、新田方にも立ち会わせること、(3)広田村の割附(わりつけ)同様、米を二斗七升五合引くことの三点を条件として解決した。」(『近世日本の民衆倫理思想』P.110)のであった。
 広田村行司持と惣分百姓との出入は、1820(文政3)年6月になって、解決する。それによると、「(1)年貢の免割(めんわり)、諸勘定には、村中のものが立ち合うこと、(2)月番の廃止、(3)村役人の交代時にも惣百姓が立ち合うこと、(4)行司米取の廃止、(5)従来通り宗門帳に行司持の肩書をつけることの五点が申し合わされた。このうち
(1)から(4)までは、惣百姓側の要求項目であり、(5)のみが行司持側の要求であった。したがってほとんど惣百姓側の勝利といえた。しかもその性格は、行司持百姓の面目をたてた実質的な勝利であった。行司持百姓は、『行司米取り申す?(*「事」の古字)自今(じこん)相止(あいやめ)申す事、此の儀ハ古来?(より)取り来り候へ共、身分え取り申す哉(や)ニ御座候ハ先達て□(*虫食い)通シ候通り相止(あいやめ)申すべく候』といっているが、行司持百姓にとって身分をたてにとることが悪いと自覚されているところに時代の移り変わりをまざまざとみることができる。」(同前 P.110~111)と言われるのであった。
 ?、1819(文政2)年8月4日―摂津国莵原郡尼崎藩領の芦屋村(現・芦屋市)で、「他村カラノ居付(いつき)百姓百九人、宮講ノ七十二戸ノ村役独占ニ反対シ訴訟」を行なった。
 訴えた109軒の言い分では、当村の仕来りで、庄屋・年寄・百姓代の三役人は「往古?(より)百姓一統入札を以て三役人相定め」来った。ところが近来、庄屋九平が退役となり、その後年寄が庄屋を兼帯し、年寄2人、百姓代1人の計3人について3年間の任期で選挙を、「先例の如く東西并(ならびに)山手、茶屋、浜方とも五ヶ所の百姓一躰(いったい)及び参会ニ、銘々(めいめい)人柄実躰帰服、三人ヲ見立て入札仕るべく存じ居り申す処(ところ)、右三役の内(うち)伝九良?惣分入札相成り難く、当村の義は高持ニ拘らず、宮講七拾弐軒ニ役屋取極(とりきま)りこれ有る由」のクレームがついた。
 これに対し、109軒側は、「......芦屋一村ニ限り、譬(たとえ)水?(みずのみ)百姓たりとも宮講百姓ニ候迚(とても)、自儘(じまま)ニ役儀相勤め候筋これ無き筈(はず)と存じ候得ハ(そうらえば)、既に以て七拾弐軒の内(うち)当節身上(しんじょう *身代、財産)払底(ふってい)に及び、地借り、借屋ニて、その上御年貢未進及び遅滞候者(もの)儘(まま)これ有り、殊ニ先ず以て庄屋不心得ニ付き、拾貫目余の屓銀(?銀〈ききん〉)を引き〔*年貢額が不足して臨時に徴収した銀か?〕、当時困窮の百姓一統?(より)并方(*?)仕り有り候難渋の義中ニ、七拾弐軒へ役儀任セ難く、兎角(とかく)身上并(ならびに)人柄ヲ見立て、一統の入札これ無く候ねは(そうらねば)相頼み難く」と、72軒側の村役独占を批判する。ここでは、72軒側の村役人では、年貢の上納も不確かなどと役所の痛いところをつきながら、72軒側の横暴を止めるようにとお上にお願いしている。
 これに対する72軒側の反論は、①村が一時離散した時も、我ら先祖が戻って村を立て直したとか、枝郷4カ所の開発を行なったとか、ただただ72軒の「草分け百姓」の誇りを強調して村役人独占の根拠とし、②今回の訴えは、109軒側の主だった者が村役人になりたくて仕組んだものだ―と強調するだけである。これでは、72軒側が村役人を独り占めする理屈にはなり難いものである。(『編年一揆』第十巻 P.219~220を参照)
 ?、1826(文政9)年7月27日―摂津国島上郡高槻藩領の「西天川村(*現・高槻市)ノ百姓、西教寺住職ヲ不信任」した。この百姓たちは、被差別の皮多村の者たちである。
 ?、1828(文政11)年6月21日―和泉国泉(和泉)郡一橋卿領の「南王子村ノ者、尾井村等ノ百姓ノ信太明神ヲ仁和寺御祈祷所ニナスコトニヨリ、南王子村ノ諸権利剥奪ニ反対シテ訴願」がある。その後、7月28日には、明神相撲に関して出入となる(詳しくは後述)。(岩波新書『ある被差別部落の歴史―和泉南王子村』1979年)(『近世部落史の研究』下)
 ?、1828(文政11)年―この年、摂津国武庫郡尼崎藩領の「蔵人村(*現・宝塚市)ノ百姓、新ニ宮座ヲ作リ古イ宮座ト争ウ」こととなる。同村では、「一四人を成員とする古い宮座衆に対抗して、三九人のものが御当講なる新宮座をつくり、古い宮座と争いを起こしている。そしてけっきょく天保元年(一八三〇)、尼崎藩郷廻り奉行の取?(とりあつかい *仲裁)によって、新宮座は旧宮座とまったく対等の権利を祭祀面でもつようになっている」(『尼崎市史』第二巻 P.671)のである。しかし、一つの宮座になるのでなく、新旧宮座になる点では、なんらかの先輩意識が残ったことを示すものである。
 ?、1829(文政12)年2月―河内国交野郡相模小田原藩領の茄子作村(現・枚方市)で、宮座をめぐって出入が起こり、七座(桜井座・小山座・塚座・端野座・北田座・奥野座・門井孫兵衛座)から門井孫兵衛座が破座となる(『枚方市史』第八巻 P.694、699)。茄子作村の「宮座の儀は往古弐拾四株七座ト極め(決め)、嘉吉年中(1441~44年)ニ南都(*奈良の都)?(より)氏神勧請(かんじょう *神仏の分霊をまねき迎えること)申し尊敬奉り、例年神事の節、村内五穀成就(じょうじゅ)のため御神酒(おみき)御供(おそなえ)奉献候のみニ御座候故(ゆえ)、座外ニ相拘るべき筋(すじ)御坐無く候」(同前 P.700)との態度を座員はとっている。ところが、「この度(たび)孫兵衛座并(ならび)ニ座外の者ども不筋の企て(*その中身は不明)候」(同前 P.694)により、門井孫兵衛座は破座になったのである。
 ?、1829(文政12)年3月2日―河内国交野郡旗本領の「田口村枝郷出屋敷ノ百姓、水論入用等ノ勘定吟味カラ出入シ、枝郷ヨリノ役人、株分ヲ要求スル出入ヘト発展」した。
 トラブルの発端は、隣村の甲斐田村との水争いがきっかけである。この水論で村の入用(支出、費用)が余計にかかり、庄屋与兵衛の指図で、田口村(たのくちむら *現・枚方市)を構成する西丁・東丁・出屋鋪(出屋敷)丁はそれぞれ出銀したが、そのほかにも借用銀があり、田口村の村役人たちは不安になり、文政12年正月4日に相談し、村の会計を調査することとなった。しかし、庄屋与兵衛は去冬既に亡くなっており、新たに庄屋仮役(後に正式に庄屋となる)となった息子の与兵衛でも、会計内容は分からなかった。先代の与兵衛の会計はずさんで、雑用張(個々のメモ帳のように思われる)27冊は見ることは出来たが、本会計帳は無く会計全体の収支がわからないのであった。村役人たちは水争いの相手である甲斐田村まで水論にかかった費用まで調べているが全貌はようとしてわからなかった。
 だが、会計上の不正は、「村方騒動」の大半の原因となっており、田口村のトラブルでも最大の問題である。しかし、田口村の会計内容の詳細は、いつも「調査中」とのことで、結局、解明できなかったようである。意図したか否かはわからないが、詰まる所「死人に口なし」で終わったのではないかと思われる。しかし、無くなった庄屋与兵衛一人の責任に帰することはできない。その時の年寄(紛争中も年寄を務めていた)などの共同責任があり、それは消し去ることはできない。
 不明朗な会計状況が明らかになると、かねてから本郷(西丁・東丁)に差別され軽視されてきたと感じる出屋敷丁(*出屋敷とは、江戸時代、新開地に移住して集落を作ったものたちの集まり)の村人たちは、「元来田口村の儀は、一村出屋鋪丁・東丁・西丁と相別れ候処、先年正徳(1711~16年)・宝暦(1751~64年)の比(ころ)ニは、出屋鋪ニて相勤め罷り在り〔*惣代の役目を〕候処、その後中絶仕り、当時百姓惣代等もこれ無き〔*出屋敷丁からの〕に付き、村方万端(ばんたん)諸勘定向き等聢と(しかト)仕り候ものの儀はこれ無く、且つ又(先)程承り処、一統心済(こころずみ *納得して安心すること)仕らず歎(なげ)かわしく存じ、且つは近年村方雑用多く、緒懸り(*諸経費)等も多分ニ相懸ケ候得共(そうらえども)、先程申し上げ候通り、出屋鋪(*出屋敷)ニは勘定向き等も相知〔者〕茂(も)御座無く、銘々不案(不安)心に存じ、出屋敷?(より)儀(茂)、先例の通り百姓惣代壱人罷り出で、立ち合い勘定したく致仕(?)すべきニ付き、この段正月十九日に年寄金兵衛方まで願い出候......」(『枚方市史』第八巻 P.109)となる。
 出屋敷側から何度も何度も御願いするが、本郷側は受け付けず、2月27日に出訴に及ぶべきかと村役人へ掛け合う(出訴には村役人の署名・押印が不可欠)と、ようやく28日、本郷側は「出訴に及ばれ候儀は勝手ニ致すべき旨(むね)申され、尤も前以て出屋敷丁ニては、百姓惣代壱人加へ下され候事ならは、壱人たケの雑用は出屋敷?(より)致すべし......」(同前 P.110)という態度である。
 ここでついに出屋敷側は、3月2日、「出屋敷一統ニ株別れ仰せ付けられ下さり候様願い上げ奉り候」(同前)となる。(この「株別れ」と「分村」がどのように違うか―これはよく分からない。しかし、「分村」までにはならなくとも、なんらかの経済的政治的「自治」を意味するようである)
 この「株別」の訴訟について、御役所の尋問に答え、出屋敷側は、①本郷側が出屋敷への惣代廻りに関して、歩行給米を増し(巡回費として村入用費を上げること)、②そのための証文を要求されたこと、③出屋敷から一人、惣代が選出されるのには前例があるのにもかかわらず、本郷側は新規の事と言い張るなどと、本郷側を批判した。そしてまた、出屋敷側は、領主の痛いところをついて、「尤も右ニ株分お願い申し上げ候趣意(しゅい)、既ニ御太切(御大切)の御上米、これまで年々夜計(よるばかり)致され、右ニ付きてハ悪米またハ欠米等ままこれ有り、その上昨年来は御上米買入れ等致され、旁(かたはら)これらを以て〔*年貢状に関して〕軽々しき取り計らい方、御上様(*田口村の領主)え対して恐れ入り奉(る)」(同前 P.111)と、本郷側を批判するのである。
 お上に上訴することは、出屋敷側が会計問題を含め、従来からの数々の不満や怒りを蓄積してきたからである。その中でも主な者の一つは、出屋敷の者への差別である。「本郷百姓ども存念にニて、弥(いよいよ)以て私ども儀、下賤筋違いの家柄ニ相心得(あいこころえ)申す成り候儀、無上に相響き、年々損失もちろんのみ〔*ならず〕、縁辺(*縁談)取り組みの差構えニ相成り、誠ニ以て口惜しき次第と成り果て候得共、......」(同前 P.112~113)と、新開地移住者への差別に怒りと無情を吐露している。
 もう一つは、水支配の問題である。「文化十四(*1817)年丑年までの本郷・出屋敷とも田面用水の儀は、当分(等分)に水湛え置き候処、当時旱魃(かんばつ)の程(躰)は、本郷田面へ養い水多分ニ取入れ、私ども川上ながら在由(自由)ニ用水取入れ候儀出来がたく相成り、然るとも第一御太切(御大切)の御田地故(ゆえ)見捨て難く、是非なく銘々(めいめい)持地持地え小角ヲ囲い〆(しめ)、昼夜替え水等仕り候得共(そうらえども)、年柄ニより照り続き相成り候得ば、追々旱損(かんぞん)出来、忽ち〔*年貢の〕御皆済差支(さしつかえ)ニ相成り、誠ニ骨折り心労仕り候ても甲斐無き仕合に相成り、甚だ以てその段(だん)歎かわしく、兼(かね)て右等の始末より出屋敷一同片念(?)ニ相成り、このまま本郷両丁の支配受け候ては、出屋敷御田地の処々、行く行くに及び(ママ)難渋ニ落ち入り候儀(そうろうぎ)必定の儀ニ存じ奉り候」(同前 P.111~112)と覚悟したのである。
 係争点をめぐる論争が激しく展開されている折りの6月13日、「本郷の者ども凡そ六拾人余、善右衛門始め利右衛門居(*二人とも出屋敷の惣代)宅え押し入り、品々利不尽(理不尽)の儀共仕り、夫(それ)のみならず、久兵衛と申す者手込め(*暴力をふるって危害を加えること)ニいたし、相済まざる儀ニて、夫々(それぞれ)御召出し御吟味の上、糾明を仰せ付けられ(*村へ)候......」(同前 P.113)となる。本郷側は、「趣意相立ち難く、酒興の上、心得違いの段(だん)御詫(おわび)申し上げ」るとした。糾明が大庄屋衆の取り扱いだったためか、一応、詫びを入れたが、その本音はわからない。大体、600人もの者が酒興で係争相手を打ちこわしにするなどとは言い訳にすぎない。
 8月には、出屋敷側の惣代善右衛門の父が亡くなり、本郷側の親類その外が不参し、村役人が糺したところ、9人が病気、8人が他行(他の用事)、残る5人が農作業であったことが判明する。こんな理由で葬式にも出なかったのであろう(病気であっても代理人が参加できる)か、調べに当った庄屋をはじめ村役人たちも、善右衛門に対し、御詫びする以外になかった。
 本郷側は係争点での論議でも誠実でない。さまざまな点で言い訳・ゴマカシを積み重ね、肝心の会計問題では、「死人に口なし」でウヤムヤにしてしまっている。
 このトラブルがどのような結論に至って決着したか、よく分からない。恐らく「妥協」に終わったと思われる。

 村内の矛盾により、トラブルは広範囲にわたった。村役人を追及する「村方騒動」は、江戸時代を通じて実に数えきれないほど各所で展開された。その中で、下層部分の台頭により、対等・平等を求めて、「身分差別・身分格差」の是正の闘いも、実に多岐にわたって行なわれた。
 ところで多岐にわたる「身分差別・身分格差」の中で、?、?、?、?、?、?、?、?は、日本ではごくありふれた事象であり、新参者あるいはその系譜をもつ集団は、旧来からの共同体構成員からは、リスペクトされず(敬意をはらわれず)、一人前として見なされず軽視された。
 それは、一般的に言われる"三代経なければ一人前でない"という表現が、よく表している。すなわち、新たに共同体に加わった新参者は、三世代住みつかないと、その集団の一人前の構成員としては承認されないのである。であるが故に、新参者やその系譜をもつ集団は、村の役員になれないどころか、合議体としての村集会にも参加することができない。この結果、さまざまな面で不利益をこうむるのである。したがって、?、?、?、?、?、?、?、?などの紛争が起こるのである。
 何故に、このようなことになるのであろうか? 不明な点もあるが、一因として日本の共同体の属性があることは疑い得ない。日本の共同体は、歴史的に集団主義が強く、新来者がもつ特性を無視ないしは軽視し、一方的に、本村の仕来り・習慣・作法を頭から100%正しいと過信し、それから導かれる振る舞いや考え方を新参者が身に着けるまで(これが肌に染みつくのに3世代かかるというのである)、集団の一人前の構成員として受け入れないのである。(日本的集団主義は今もって無くなってはいない。)
 そのために、現在からみると、極めてささいなこと、私的なことまで、共同体が「身分不相応」としてクレームをつけるのである。?は、その一例である。
 逆の側からいうと、?のような涙ぐましい要求となる。これはおそらく、経済的な上昇によって、夫役(ぶやく *公共の労働に人民を強制的に従事させること)を担う集団構成員になること、一人前として認められることを要求したと思われる。
 このような態度は、今までとは違い、新たな経済的な負担をしょい込むものであり、経済至上主義的人間からは、とても理解できないであろう。だが、要求する側の立場にたつと、夫役を担うことができないことは、集団の構成員として、一人前の構成員として認められず、政治的経済的決定に参加できないことを意味する。経済的な事柄とともに、政治的な事柄(一人前として認められること)は、独立した人間としては当然なことであり、重要なことである。
 であるが故に、?のように一部の者のみが特権をもつことに対して、強烈な批判がなされる。日本近世の「村方騒動」のほとんどは、これが原因である。村請制の近世では、一般的には庄屋(名主)などの村役人はその職に応じて給与が支払われているにもかかわらず、その立場(年貢割り振りや村財政の執行など)を利用して私腹を肥やす事例が頻発している。しかし、これを監視するために、寛文・延宝期(1661~81年)ごろから百姓代(庄屋―年寄―百姓代を村方三役という)が設けられた。しかし、これは機能せず問題は解決されず、「村方騒動」は無くならなかった。だからこそ、近世後期に小前層の政治的力が強まってくると、とりわけ幕末には、全国的に「村方騒動」がさらに強まるのであった。
 日本中世に惣郷・惣村が畿内を中心に形成されるが、同時に、宮座も形成された。宮座は、惣郷や惣村の人々の精神的支柱である神社の祭祀集団である。「宮座には階層的秩序が存在した。草分百姓=有力農民=本家からなる上層、その分家や非血縁小百姓から構成される中層、そして比較的新しくムラに定着した新参者からなる下層、というようなヒエラルヒーの存在である。上層は一般に乙名(おとな)・年寄(としより)などと呼ばれ、......複合大家族=家内奴隷制経営体を有している階層、中層は若衆などと呼ばれ、本家=乙名層から分出してくる単婚小家族経営を多く含む階層である......。これらの階層は、全体の宮座組織の内部にそれぞれの座組織を有することが多かった。摂津国真上村(*現・高槻市)の宮座は、乙名層の大座、若衆の新座、新参者のコカラ座の三座構成である。そして全体の宮座は、乙名層の座の指導で運営される。小曾根・安満・成合(*現・高槻市)の場合、乙名層は八つの旧家で構成され、八社人と呼ばれていたが、この八社人が全体の宮座組織の運営にあたっていた。具体的には、八社人の中で年齢順に一老から八老までの老次が決められ、一老となった社人がその年一年間の神事祭礼を主宰し、一老を無時務めおえると隠居役となって、それまでの二老が一老、三老が二老というように老次が一つずつ上り、欠員となった八老が八社人の座を構成する家の中から新しく選任されるという運営である。/右の事例からうかがわれるように、宮座は階層的であると同時に、閉鎖的な組織体であった。乙名層の座は、この場合、八つという決まった数の家によって構成される ことがしきたりになっており、宮座は一定数の株組織として存在しているからである。右の事例について、いまひとつ注目されるのは宮座には家格制と年齢階梯制の二つの階層制が同時に存在していたことである。この二つの階層制は、大局的には、年齢階層制から家格制へという順序で継起的に展開してきたもの」(水林彪著『封建制の再編と日本的社会の確立』P.31)である。
 日本的集団主義の一つの特徴は、極度に序列主義が強く、これは海外では見られないものである。もちろん、欧米でもたとえばアメリカでも、大統領が事故に遭遇しその職務の遂行が不可能になった場合、臨時に誰が後継者になるか、その順位が定められている。しかし、日本の序列主義は、村内の日頃の寄合ですら席順が定められているように、日常生活のすみずみに現れるというように、日常茶飯事なことである。
 ところで近世になると、村請制にもとづいて村切りが進むと、惣郷の神社から村の神社へと転換する地域が増加してくる。また、戦国期から近世はじめは全国的に新田開発がめざましく、複合大家族が崩れ分家が続出する。そこでは古株と新株、旧来の構成員と新参者との間の矛盾が露呈し、不平等が明らかとなる。近世後期にはトラブルが続出し、小前層の政治的進出により、問題解決の要求が続出するのであった。?、?などは、その具体例である。
 また、この時期、幕藩権力の被差別部落民への統制や差別が強化されるが、これをはねかえす被差別部落民の闘いも大きく前進する。この闘いは、?、?にみられる。この問題は、多くの身分格差問題とは質的に異なるものであるため、項を改めて検討する。

 (ⅱ)苛烈な差別と果敢に闘う部落民

 ?は、摂津国の高槻藩領西天川村(現・高槻市)の被差別部落民が、西教寺住職との対立から生じた闘いである。西天川村の被差別部落民は、西天川村の枝村の住民であり、本村の住民よりも家数が多い皮多村である。1767(明和4)年段階では、本村11戸に対して、皮多村22戸、1843(天保14)年段階では、本村20戸、皮多村27戸である。しかも、西天川村の庄屋である本村の弥左衛門は大地主であり、1791(寛政3)年の史料によると、弥左衛門家宛米(年貢米プラス小作料)90石のうち、皮多村からのものは26石に及んである。(?の項は、村崎信夫著「皮多村村方騒動の構造と展開」―『近世部落史の研究』下 P.74~79に拠るところである)
 村崎氏の論文によると、「文化一二年(一八一五)行なわれた皮多村宗門取締強化に乗じてわがままな行動をとるようになった西教寺住職と西天川皮多村民との対立は、文政に入って村民の側の公然たる抵抗となって顕在化しはじめる。すなわち、九右衛門、八左衛門らを中心に、宗印拒否、月銭、西教寺不帰依の闘いがおこり、文政九年(一八二六)まで続けられる。」のであった。日頃の差別に対する怒りが、爆発したのである。
 宗門改めは、江戸時代にあって、単に旦那寺を表わす(キリシタンなど非合法の信徒でないことを証明する)だけでなく、今日でいう戸籍を確認するに相当し、旅に出るさいの通行手形を発したり、婚家先を証明をする上などで不可欠なものである。
 従がって、旦那寺を不信任し、月々の「お布施」を不納とし、宗門所属を認めない―ことは、重要な生活上の支障となり、ひいては藩の統治すら拒否することに通ずるのである。
 結局、この闘いは皮多村村民の「恐れながら口上」で言うように、「宗寿?(より)和談致され候はば私共望む所に御座候」(村崎信夫論文P.75)という形で、文政9年7月に終息する。しかし、それでも村民のうち、8人程はあくまで闘うと主張して譲らず、翌年には処罰され「村預かり」にされる者まで出したようである。(闘いは1832~33〔天保3~4〕の村方騒動へと続く。さらに天保9年には、本村組頭彦平のリードに皮多村民が支持し、庄屋弥左衛門は会計不正で更迭される。)
 ?は、被差別部落の歴史を検討する上では、比較的、史料に恵まれた南王子村の闘いである。
 南王子村のある和泉国は、律令制下では大鳥郡・和泉郡・日根郡の3郡からなり、鎌倉時代には和泉郡から南郡が分立し、4郡となる(和泉郡は泉郡という表記が多くなる)。和泉郡は、信太(しのだ)・上泉(かみついずみ)・下泉(しもついずみ)・軽部(かるべ)・坂本・池田・山直(やまたえ)・八木(やぎ)・掃守(かにもり)・木島(きのしま)の10郷からなる(山直郷以下が南郡となる)。信太郷は、上代(うえだい)・舞(まい)・尾井(おのい)・太(たい)・中(なか)・上(かみ)・冨秋(とみあき)・王子などの村々で構成された。
 南王子村がいつから形成されたかは不明であるが、村の伝承によると、和泉三の宮といわれた式内社(延喜式の神名帳に記されている格式の高い神社)である聖(ひじり)神社(信太大明神とも呼ばれ、正一位である)が、霊亀年間(715~716年)、今の地に鎮座されたときに先祖がお供してきて、御本殿とその神宮寺である万松院(真言宗)との間に居住した。その後、境内の「どうけが原」という所に移るが、人口が増え、「信太郷王子村の地で、のちに古屋敷(ふるやしき)と称する所に、三反八畝二八歩の除地(じょち *無年貢地)を拝領し、そこへ再移転することになったという。 
この伝承をそのまま信ずるわけにもいかぬが、南王子と(信太)大明神社との間に、往古から深い関係があったことは疑いのないところであろう。それは毎年、この社において二月一〇日に革祭(かわまつり)の神事があり、弓射が催されるさいに、この村から牛皮の的を奉献し、矢使いをする恒例があり、七月二八日に神前で角力(すまふ)が奉納されるときにも、土俵・土段を築く作業に奉仕し、八月一五日の祭礼には、御輿(みこし)渡御(とぎょ)の道筋を修復・清掃するなど、神社に対する労役がのちのちまで、恒例として守り続けられていたことによっても認めることができる。」(盛田嘉徳・岡本良一・森杉郎著『ある被差別部落の歴史―和泉国南王子村―』岩波新書 979年 P.2)からである。(「古屋敷」は、1679〔延宝7〕年の王子村検地帳に、「穢多屋敷[三十五間三尺 三十二間五尺五寸]三反八畝二十八歩 壱囲〔ひとかこい〕」とある記載に相当するものと思われる)
 王子村の南に位置する南王子村は、初め王子村と称していたが、1686(貞享3)年に、隣村の王子村と共に武蔵岩槻藩領となった時、南王子村と改称した。同一の藩領に同じ名前の村が存在するのは、紛らわしいからである。
 ところで、南王子村は以前から王子村から不当な差別と迫害をうけることが、しばしばであった。そのため、1698(元禄11)年に、今まで住みついていた「古屋敷」から150メートル西南の地、これまで南王子村の村民が耕作を続けていた上泉郷の土地(高146石余)へ全員で移住した。
 ところが、「王子村をはじめ富秋村・中村・尾井村・太村・上村・上代村の信太郷七ヵ村では、南王子村が穢村(けがれむら)であるということのほか、信太郷を出て上泉郷へ移ったことで、南王子村を聖明神の氏子とは認めず、明神社に奉仕する人足としか考えていなかった。そのため南王子村の人たちは、せっかく神役を奉仕しながら、祭の当日には、けがれているからと御輿(みこし)に近よることさえ許されなかった」(『ある被差別部落の歴史』P.195)といわれる。
 集団移住したところの新しい屋敷地は、除地(無年貢地)ではないので、耕作地のみならず住居地もまた、年貢を上納しなけれればならなかった。だが、それでも全員移住したのは、よほどの理由があったと思われる。
 この移転の真相も不明であるが、推測される一つの理由に、王子村との水争いがある。中世・近世で、村と村との流血の争いともなるのは、主に山論(入会地の利用権争い)か水論(用水権をめぐる争い)である。
 それは、生活に直接かかわる重大問題なので、両者間の命のやり取りとなるのである。そもそも惣村・惣郷が畿内などで中世から形成される過程は、武装して惣村・惣郷を守りながら作られたのであり、初めから戦闘集団の側面をもっていたのである。
 王子村と南王子村との水争いもまた、古くから存在していたのは確かである。「信太山の谷筋には方々に大小の溜池(ためいけ)が数多くあったが、南王子村が樋元(ひもと)支配権を持って、自由に取水できたのは、長さ九〇間(約一六二メートル)・横六〇間(約一〇八メートル)の惣ノ池(ソウのイケ)一つであった。それにひきかえ王子村は一三もの溜池を持っていたので、用水に不自由するようなことはまずなかった。しかもその惣ノ池はそのすぐ下にある今池(惣ノ池の八分の一くらいの大きさで、王子村が樋元支配権をもつ)という小さな池とともに、南王子村と王子村とがその水を七分・三分の割合で共同使用する立会池であった。そのため取水に当っては、つねづね王子村から『賤敷者(いやしきもの)』と差別されていた南王子村は、いつも王子村の我儘(わがまま)な振舞に不利を忍ばねばならなかった。/さらに惣ノ池の上には五つの王子村支配の溜池があったのであるが、これらの池の水は惣ノ池へ抜き下げてからでなければ、王子村の田地へ引き入れることができなかった。だから王子村としては、五つの溜池の水を自由に使うために、惣ノ池の水をできるだけ早い時期に空にさせておきたかったのである。しかし惣ノ池の樋元支配権は南王子村が持っているので、それが思い通りにならない。そんなことから、王子村ではどうにかして、南王子村から惣ノ池の樋元支配権を奪い取ろうと考えていた。しかし用水権には古くからの由緒があったうえ、両村はおなじ幕府領でも、支配代官が違ったりしたので、王子村としてもほとんど手の施しようがなかった。」(『ある被差別部落の歴史』P.57~58)のである。
 1686(貞享3)年に、両村とも武蔵岩槻藩領(松平伊賀守)となったのは先述したが、この折り、王子村は好機ととらえ、"同じ領内となったのだから、惣ノ池にこれまでのように、七分・三分の分水木(ぶんすいぼく *分水する装置)を設けて置く必要ない"と、分水木を取り払ってしまった。
 さらに、1697(元禄10)年3月、両村は幕府領となり、同じ代官の預所となる。この時も、王子村の庄屋左次兵衛は、代官所の手代に手を廻し、南王子村の検地帳をはじめ諸々の帳面を王子村に手渡すように画策した。これは明らかに、独立村である南王子村の庄屋役を取上げ、南王子村を王子村の分村にすることによって、惣ノ池の樋元支配権を奪い取る陰謀である。南王子村はこの策動を阻止しようと、さまざまな努力をした。しかし、代官所の手代に賄賂がわたっていたのか、南王子村の訴願は退けられてしまった。それどころか、代官所は理不尽にも南王子村の庄屋・年寄、それに主だった百姓2人に、「不届き」の廉(かど)で「手鎖(てぐさり)」の処分を下している。
 しかし、同年7月、両村をふくむ泉国28カ村が老中小笠原佐渡守長重の領地となったため、庄屋たちは手鎖を外されることとなった。それでも左次兵衛は策謀を諦(あきら)めていなかった。新しい藩役人の初の領内巡視のさいに、南王子村のことを「王子村の内(うち)穢多村」と、あたかも南王子村が王子村の分村かのような書上げを役人に提出した。しかし、この策謀は見事に見破られ、左次兵衛はひどく叱責を受け、庄屋役も取上げられてしまった。
 こうして、南王子村は王子村の執拗な差別と圧迫を回避するために、翌1698(元禄11)年3月に上泉郷の本田畑の一部を屋敷地にして、全村上げて移住したのであった。今までの屋敷地は年貢の無い除地であったが、惣ノ池の樋元支配権を守るためには、「背に腹は代えられない」のであった。
 だが、王子村の策動は以後もつづく。1729(享保14)年には、またもや惣ノ池の樋元立会権を主張し、今度は、惣ノ池・今池の分水を"今後は対象の水掛り反別に応じて、南王子村六分、王子村四分"にして欲しいと訴願した。これに対し、代官所は、惣ノ池の樋元支配権は認めなかったが、分水の改定は認める裁定を下した。南王子村は今までも用水不足に悩まされてきたところに、さらに不利な分水裁定となった。だが、樋元支配権の維持をせめてものこととし、泣く泣くこの裁定に応じざるを得なかった。その後も、さまざまな王子村の策動は続いたようであるが、南王子村の百姓たちは懸命な抵抗をもってはねのけて来た。
 このような前史のうえに、1828(文政11)年、上村・王子村・中村・尾井村や万松院などの陰謀により、「この上は(*聖神社を)御室(みむろ)御所(ごしょ)御祈願所(ごきがんしょ)ニして、山の角々(すみずみ)、本社前、鳥居前まで制札ヲ立候て、穢不浄の輩(やから)一切立ち入らず、向後(こうご)南王子村は鳥井(鳥居)前(まえ)往来も堅ク差し止め候様申し立て、猶又(なおまた)南王子村山は勿論(もちろん)、中央寺出作(でづくり)御田地も残らず取り上げ、且(かつ)王子村、太村、尾井村入組み御田地の分、山内(さんない)これ有るだけ立入り候儀叶はざる儀ニ付き、左候得は(左そうらへば)自ら右(みぎ)出作の御田地売払ふ様ニ相成り、然(しかる)は安直(安値)ニてこの方へ買い取り候様仕り、自然(じねん)南王子村難渋致し候様評定決着致し候由(よし)ニ御座候、」(「信太明神御室御祈願所ニ相成り候折節一件」―青木虹二編『編年一揆』第十一巻 P.458~459)と、計画したのである。
 これは一大事と決起した南王子村の百姓たちは結束して、あちこちに手を尽した。その一つとして、川口役所にも頭を下げて、善処を歎願している。役所の方も、神役などその他も含めて"従前通り"と慰撫した。
 しかし、やがて聖神社は御室御所(仁和寺)の祈願所となる。6月下旬には、御室の役人の聖神社への参詣も行なわれた。しかし、南王子村を排除するという隣村などの策謀は実現しなかった。
 そこで、信太郷7カ村はわずか1か月後の7月28日、聖神社の恒例の角力(すもう)神事で、南王子村に嫌がらせをして排除しようとした。南王子村は、例年通り、自分たちの俵で土俵を拵えて、神事が始まるを待った。ところが、正午ごろになっても、信太郷の村役人や頭百姓は誰一人も現れなかった。南王子村の方は、あちこち情報を集めたところ、悪い噂がたっており、それは"南王子村の者が角力場で郷方の者に喧嘩をしかける"というものであった。そこで、南王子村の年寄が王子村庄屋のもとへ行き、"そんなことは有り得ない"と釈明に行ったりした。
 そうこうしているうちに午後4時ごろになって、郷方の村役人が南王子村の年寄を呼びつけ、"南王子村の者は今年に限って、どうして従来のしきたりを破って、自分たちの俵で土俵をつくったのか"となじった。だが、土俵作りは、南王子村が7~8年前から作っており、今年に限ったことではないのである。そう申し述べたところ、郷方は"今からでもよいから、郷方の俵をつかって土俵を作り直せ"と、無理難題を押しつけた。この言い分は、完全に郷方の「言いがかり」であった。双方であれこれ談じ合ってるうちに、段々暗くなり、とうとう当日の角力神事は、できなくなってしまった。
 そしてその夜、南王子村の年寄ら数人は、明神社の社家や郷方の村役人たちが集まっている席に呼び出され、"今日は南王子村の者の妨害で角力神事ができなくなってしまった。不届き至極であるから、郷方へ謝り状を差し出せ"と、要求された。しかし、南王子村はこのようなことは身に覚えがないので、きっぱりと拒否した。
 争いは、たちまちのうちに訴訟沙汰に発展してしまった。郷方は、堺奉行所へ、"南王子村の者たちが、大勢の無宿者と一緒になって、方々にたむろして狼藉をしたので角力神事が出来なくなってしまった。このままに放置しておくと、郷方へどのような無法を仕掛けてくるかわからないので、厳しく詮議してほしい"との訴えである。そこでは、郷方の言いがかりについては、全く触れられていない。
 この紛争は、結論的に言うと、聖神社・万松院や王子村・富秋村・大村などの陰謀が完全に粉砕されて集結した。その要因は、次の点にある。
 まず第一は、南王子村の正当な反論と、各方面への懸命な工作である。主な論点は、①角力が中止になった件、②草山の利用に関する件―である。①については、前述したので繰り返さない。
 ②については、七ヵ村側の言い分は、「明神(みょうじん *聖神社のこと)境内(けいだい)続き〔の〕草山へ猥(みだり)ニ入り込み、下草刈り取り、剰(あまつさ)え悪口仕り口論仕掛(しか)ケ候」というものである。
 これに対して、南王子村は以下のように反論している。すなわち、「右は野山の内(うち)村々へ引分ケ請地(うけち)ニ仕り候残りの分(ぶん)、都(すべ)て草山と相唱へ、右場所往古?(より)郷村一統刈り次第ニ御座候処(ところ)、天明年中(*1781~89年)郷村申合(もうしあわせ)これ有り、その振合(ふりあい *つりあい)は、取計ひ当時定日の外(ほか)、猥りニ私ども村方?入り込み刈り取り候儀(ぎ)毛頭(もうとう)御座(ござ)無く候、却(かえっ)て郷村の方々(かたがた)定日の外、猥ニ刈り取り申され候儀も見請(みうけ)候得共(そうらへども)、私ども儀は平村(*普通のむら)とは違ひ候儀ニ付き、事々しく見咎(みとが)メ候儀も仕兼(しかね)、斟酌(しんしゃく *あれこれ考慮して手加減すること)仕(つかまつ)り罷り有り候、猶(なお)私村方請地山(うけじやま)の松木、当六月王子村?余程(よほど)伐り取り、同村あざな川池普請ニ相用ひ候儀相違御座無く候得共、手元(てもと)押しかね〔*相手を追及しがたい〕候儀ニ付き、詮方(せんかた)無く差控(さしひかえ)罷り有り候、尤も右(みぎ)山内小物成(こものなり *本年貢以外の、山海の収穫物へ課税されたもの)一件ニ付き、諸入用銀郷村打割(うちわり)、当村掛(かか)り銀なども郷村へ相渡し、夫々(それぞれ)別紙請取書(うけとりしょ)所持(しょじ)仕り居り候得は、端々(はしばし)まで立会(たちあひ)場所〔*入会地〕ニ相違御座無く候段......」(『編年一揆』第十一巻 P.470)と。
 草山が入会地であることは、天明年間の申合せがあること、山の小物成についても南王子村分はキチンと郷中へ相渡し、その領収書も保存してあることなどを論拠として、南王子村の正当な権利を主張している。それどころか、他の郷村は協定を破って刈り取りしていること、王子村が勝手に南王子村所持山の松木を伐採しているなどの不法も、南王子村が差別されている村なので「見咎め」していないと忍従の様を述べ、王子村などの非法を追及している。
 第二は、南王子村への七ケ村の策謀が、他の組の百姓たちからも批判されたことである。
  同じ泉郡一橋領の内、府中組・下条組・山方組・大鳥組は、ここ7年ぐらいは「村々一統静謐(せいひつ)相治り」の状況なのに、「然(しか)ル処(ところ)、信太組の儀は、御改正御取締仰せ付けられ候節(せつ)迚(とて)も、色々悪説を申し、善悪も分からず承知せざるのみ申立て、引続キ申年(*1824〔文政7〕年)非常手当・郡中積立金仕法、増(ますます)稼ぎ、且(かつ)は五ヶ年倹約立て等の御願い申し上げ候砌(みぎり)も、品々(しなじな)謂れなき不筋(*筋の通らない)差支(さしつかえ)申し立て、郡中不和合ニ御座候処、御取締役人(*組々の上に立って、指導する役人〔百姓〕)中も度々(たびたび)信太組へ罷(まか)り越し、厚く骨折(ほねおり)呉(くれ)られ〔*やかましいほどに骨折り〕、漸(ようや)く郡中一躰(一体)ニ准シ候様ニ御座候て、百姓弁利(べんり *取計い治める)の筋ニても兎角(とかく)信太組百姓差障(さしさわり)を申し立て、四組百姓と存意(ぞんい *思うところ)齟齬(そご *くいちがい)仕(つかまつ)り候儀歎ヶ敷(なげかしく)存じ奉り候」(8月20日付け「恐れ乍ら書付けを以て願い上げ奉り候」―『編年一揆』第十一巻 P.471)と、川口役所に申し出ている。
 四組村役人たちは、「端迷惑(はためいわく)」との思いもあっただろうが、単にそれだけではない。すでに、8月4日付けの川口役所への「恐れ乍ら口上」で、「この度(たび)の一条(*角力神事の中止の件)、都(すべ)て郷村取計い方一切合点行き申さざる候得共、取り敢えず近頃(ちかごろ)見聞(けんぶん)仕り候趣、恐れながらこの段(だん)一応(いちおう)申し上げ置き候」と、「泉州小田村市郎左衛門・府中村久右衛門」の連名で、届けている。しかも、同日、他の書面では、太村太兵衛・尾井村嘉右衛門・冨秋村楠平・中村速太古に対し、「この度の一条何々の訳ニて右躰(みぎのてい)成行(なりゆき)候と申す所、一応御聞セ置き下され候様仕りたく、御報(おしらせ)下さるべく候」と、同じく二人の連名で通知している。
 市郎左衛門・久右衛門の態度は、「この度一条」について、単純に疑問だから質問しているレベルではない。内々の調査をもって事情が解ったからこそ、4名への詰問になっているのである。川口役所への書面では、もっと厳しく「一切合点行き申さざる」と述べている。ただ、お上が裁定するべき問題なので、南王子村に敵対する郷村の側に責任があることを強く示唆する形となっているのである。
 第三は、王子村や富秋村などの策謀が、川口代官所からもこっぴどく叱責され、処罰されたことである。
 川口役所は、8月8日・9日と連続で、紛争当事者双方を白洲に呼び出し、吟味している。そこで代官は、「右は双方とも同領ニて居りながら、何故(なにゆえ)堺御奉行所へ願出(ねがひで)候哉(や)お尋ねニ御座候処、郷分一同答(こたえ)候ハ、全く左様(さよう)の儀これ無きの段(だん)申し上げ奉り候処、御代官様甚タ(はなはだ)御利腹(ご立腹)ニて、左様の儀これ無きと申す哉(や)、その方ども?(より)堺へ両三度まで差し出し候書付(かきつけ)下書(したがき)、この方へ茶市(*茶碗屋市兵衛のこと。堺奉行所の御用達か?)?持参致させ、この通りニ御座候、右ニても一向(いっこう)存じ申さざる哉(や)仰せ渡され候処、又候(またぞろ)庄屋ども相答候ハ、書付(かきつけ)相認メ当御役所(*川口役所)へ願ひ上げ候積りニは御座候とも、何分如何(いか)様の道理ニて、川口へ御届ケ(おとどけ)申し上げ奉り候ては、如何(いかが)ニ御座候哉、茶市方へ内段(内談)ニ参り候と相答候処、御上様?仰せらる候ハ、当御役所(*川口役所)へ願事(ねがひごと)筋の儀、これまで何事も堺へ内談致し候上(うえ)罷り出で候哉(や)、右は全(すべ)てその方ども偽(いつわり)を申す哉(や)、内談ニ書付相認メ調印致し、その上御奉行様へ書き記しこれ有り、是(これ)ニても但(ただ)内談と申す哉(や)、甚タ御利腹(御立腹)仰せられ候得は(そうらへば)、七ヶ村一同返答でき難く候得は、社家(*聖神社)、社僧(*万松院)ども返答致すべき旨(むね)、段々押て仰せられ候得共、一言の返答致さず、何分大イニ心得違(こころへちがひ)仕り......」(『編年一揆』第十一巻 P.469)という、体たらくである。
 川口代官所は、七ヵ村が一橋領知を管轄する自分たちに直接申し出ないで、まず堺奉行所へ訴願したことが最大の問題であると叱責したのであった。川口代官所にすれば、メンツ丸つぶれなのである。これだけでも、訴訟の結論は決まってしまうのであった。
 結局、万松院・社家と、尾井村・太村・冨秋村・中村・上村・王子村・上代村の庄屋などは、白洲で詫び言を申し上げ、赦免を願い出たのであった。(『和泉市史』第二巻 を参照)

 村内の家々の間で、また本村と新村の間でのさまざまな関係で生ずる身分格差に対する闘いや抵抗は、格差や序列主義を当たり前とする当時の既成秩序への異議申し立てである。とりわけ、最も侮蔑され差別された被差別部落民の闘いは、極めて困難な状況下でも果敢に推進された。そして、この闘いに同調するか否か、支持するか否かは、他の百姓や町人たちの意識具合を測るバロメーターにもなったであろう。

Ⅷ 幕藩権力の統制も共同体規制も弛緩

 (ⅰ)幕府領・大名領・旗本領の錯綜

 五畿内は、山城(*京都)、大和(*奈良)、摂津、河内、和泉からなる。このうち摂河泉における大名領は、1800年頃から以降では、岸和田藩の5・3万石を最大として、あとはいずれも1~3万台の小藩である。
 1615(慶長20)年5月、大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと、摂津国の所領関係は大きく変化する。摂津一国高御改帳(芥川〔島上〕・大田〔島下〕・豊島・能勢・東成〔住吉郡の村々を含む〕・西成の6郡)によると、「幕府直轄領は西成郡を除き各郡にあって四万六千石余、大坂藩主松平忠明領は東成・西成二郡で五万二千四一二石余、高台院領(*秀吉の妻・北政所領)は東成郡で一万六千九二六石余、高槻城主内藤信正領は芥川(あくたがわ)・大田両郡で三万九千九〇九石余と集中しており、ほかに大名として麻田藩青木一重があるが、当地域での知行高は三千一〇〇石である。旗本知行地は竹中・大島・船越・北見・蒔田・長谷川氏らの分があり、幕府直轄領・他地域の大名領と錯綜して複雑な領有関係を示している。また山城に近い芥川郡では公家烏丸・日野・水無瀬諸家の知行や山城妙心寺・龍安寺・石清水八幡宮などの寺社領があり、東成郡に今宮戎(いまみやえびす *現浪速区)、四天王寺・住吉社、妙国寺(現堺市)の領地があった。しかし、元和五年(一六一九)松平忠明の移封、寛永元年(一六二四)高台院死去によって、両者の所領は消滅した。その後は東成・西成・住吉各郡は幕直轄領がもっとも多く、そのほか大坂城代領などがあった。島上・島下二郡では高槻藩領が多く、ほかに山城淀藩領など、豊島(てしま)郡では麻田藩領のほか上野(こうづけ)飯野・三河(みかわ)半原藩領があった。」(日本歴史地名大系『大阪府の地名』P.63~64)と言われる。
 摂津国では、江戸時代初期に廃藩となったものが二、三あり、これらは幕府直轄領となった。現・大阪府域の摂津での大名領は、後期には、表高3・6万石の高槻藩、1万石余の麻田藩の2藩のみである。麻田藩は、現・豊中市蛍池中町に陣屋を置き、美濃出身の青木氏が明治維新まで藩主を継いだ外様大名である。
 河内国では、丹南郡の丹南村に陣屋を置き、その周辺で約1万石を領有した丹南藩は、譜代小藩である。河内国錦部(にしこり)郡西代(にしだい)村に陣屋を置いた西代藩は、本多康将(やすまさ)が領地7万石の内、1万石を実子・忠常に分地して成立した。領地は近江国にもあったが、錦部郡では寺本村・鬼住村・清水村(以上、現・河内長野市)など13カ村3500石ほどを領した。1732(享保17)年には、伊勢国神戸(かんべ)に転封となり、西代藩自身は廃藩となり、錦部郡の領地も神戸藩領となった。
 狭山藩は、丹南郡狭山村(現・大阪狭山市)に陣屋を置いた外様小藩である。同藩は河内国と近江国にあわせて約1万石を領有した外様小藩である。藩主は後北条氏の流れをくみ、小田原合戦のおり、和平斡旋につとめた伊豆韮山城主氏規の子孫である。
 武蔵比企郡松山で3500石を領知した渡辺吉綱は、1661(寛文元)年に、河内・和泉で1万石を加増されて大名となり、元禄12(1699)年には和泉国大鳥郡大庭村(現・堺市)へ、享保12(1727)年には同国泉郡伯太村(はかたむら *現・和泉市)に陣屋を移す。
 結局、河内での大名領は、享保期以降、丹南藩、狭山藩のみとなった。
 和泉国では、岸和田藩がもっとも大きく、5・3万石の譜代中藩である。城主は小出氏―松平(松井)氏―岡部氏と変わり、岡部氏で明治維新を迎えた。先述の渡辺氏は、享保12年に泉郡伯太村に陣屋を移し、伯太藩となる。
 全体的にみると、摂河泉の地域には、大藩がなく岸和田藩5・3万石がもっとも大きく、ついで大きい藩は高槻藩の3・6万石である。やはり最大の領主は幕府であった。
 享保期以降での大きな変化としては、三卿の所領が置かれたことである。「田安家は延享三年(一七四六)摂津・和泉ほか計六ヵ国で一〇万石の所領を受け、翌四年に大鳥郡約三〇ヵ村一万三千石余がその支配下に入った。一橋家も同四年和泉国など六ヵ国一〇万石を与えられ、和泉では大鳥・泉両郡で五四ヵ村約一万八四〇〇石がその支配下に入った。清水家も一〇万石で宝暦一二(一七六二)に設定され、その所領に泉州二五ヵ村を含んでいたが、寛政七年(一七九五)嗣子なく収公された。のち文政六年(一八二三)に将軍徳川家斉により復活され、大鳥郡・泉郡で三三ヵ村、約一万四千石余を領有し、安政二年(一八五五)の上知まで続いた。」(歴史地名大系『大阪府の地名』P.1217)といわれる。
 ただ、三卿の最大の設置目的は、将軍候補者を提供することにあり、三卿の住居は江戸城内にある。したがって、三卿は御三家と異なり、藩ではないのである。
 摂河泉の領地は、じつに細分され入り組んでいる。そのさまは、まるで「碁石を打ちまぜ候よう」(摂津国豊島郡の「原田村明細帳」)と説明されている。それは、既述のようにわずかの小藩を置いただけで、「その他の地は、幕府直轄地(代官地)のほか、多くの大名・旗本に分封し、また宮家・堂上家・社寺の所領としたが、それも数か村をあわせて一区域としたのはむしろ例外で、たいていは一~二か村一領とし、また一村が代官地と藩領、または旗本領・社寺領・藩領などと、二分・三分された例も少なくなかった。」(『大阪の歴史と風土』株式会社毎日放送 P.154~155)のである。
 その細分・入組みは、さらに激しく、なかには「一村が相給・三給・四給」となっている所(一つの村の年貢が2領主・3領主・4領主に分割されて上納された所)も少なくなかったのである。
 そのようになった理由については、「幕府は〔*大坂の陣いご〕積極的に大坂の復興・整備につとめたが、それにつづく周辺の町や村もまた、政治的・経済的に大坂を支える重要な地であったから、その所領配置には周到な配慮を示し、大藩を置かず、錯雑した入組支配をさせた。」(P.154)という説もある。とともに、摂河泉がそもそも豊かな地であったからこそ、その豊かな地を大藩が領知するならば、幕府にとって大いなる脅威になること、さらに五畿内がつい最近まで敵の支配地であったことなども理由の一端であったのであろう。しかし、幕府当局者たちは、この細分・入組が、百姓たちにとって、大きな「地の利」をもたらしたことには、気づかなかったと思われる。
 畿内では、農業構造の変化や商品農業・加工業の発展と共に、共同体規制や藩権力の規制が、次第に効果を持たなくなってきた。
 1643(寛永20)年の田畑永代売買禁止令は、幕府領にたいして発せられたものであるが、これが全国を対象とした法令となったのは1687(貞享4)年であった(藤井譲治著「法度の支配」―『日本の近世3 支配のしくみ』中央公論社 1991年 P.36~39)。もちろん田畑永代売買禁止令は、藩によっては幕府令以前に出されていたことは前述した。
 岸和田藩の場合は、1730(享保15)年と1815(文化12)年に、「田地永代売の義、兼て(かねて)御停止の事ニ候、弥(いよいよ)堅く相守り申すべき事」と、禁止を命令している。
 しかし、萬代氏によると、「『要家文書』であれ『福原家文書』であれ永代売買証文は多数見られる。少なくとも、実態としては永代売買が行われていた。」(同著『近世畿内の豪農経営と藩政』P.90)のであった。岸和田藩も建前と実態は、かなりかい離していたようである。商品売買と農村工業・製造業などが発達した環境の下では、当然なことであったと思われる。
 このことは、国産品に対する統制についても、当てはまる。岸和田藩領では、綿花生産や綿布・油などの商品生産が広く展開し、一部では甘藷(かんしょ)の作付と砂糖製造も行なわれた。だが、同藩では幕末まで、国産品に対する厳しい統制は行われなかったようである。
 萬代氏によると、「綿布については、岸和田藩は宝永三年(一七〇六)に綿布の規格検査、領内外仲買への札公布とその所持、運上の賦課を命じたが、他領仲買への販売を認めていた(岡田光代著『和泉における綿業と堺商人』大阪府立大学経済学部 1993年 P.38)。諸商品についても、文化一三年(一八一六)には、不正売買を禁止し、他領商人に印札所持を義務づけ、領内外商人から運上を上納させた(三浦忍著「近世泉州岸和田地方の商業活動」―『社会経済の史的展開―地域史的アプローチ―』松籟者 1986年 P.49~53)。......油については、島崎未央の研究に詳しい。島崎によると、寛政二年(一七九〇)において岸和田藩は、綿実(わたみ)の買集人(かいあつめにん)には印札と荷印札の携帯を義務づける形で綿実流通に統制を加え、領内綿実を領内水車に供給する体制を整えた。......」(萬代前掲書 P.114)という。つまり、商品流通を統制はしたが、民間の流通自身は認めていた。当時、諸藩では厳しい統制とりわけ藩の専売制度を採用して、農民一揆に直面した所領が少なくなかったことと比較すれば、厳格な統制とはとても言えない。
 このような態度について、岡田光代氏は、岸和田藩が幕末まで専売や国産奨励に類する政策を選択しなかった理由について、この「大坂周辺にあっては、藩領がある程度の閉鎖性を有した一つの経済圏として存立することは困難」(岡田光代著「幕末期岸和田藩の経済政策」―『畿内譜代大名岸和田藩の総合的研究』 2006年 P.47)であったからとしている。

(ⅱ)共同体規制の弛緩

*中世末の戦国期に畿内とその周辺に見られた惣村では、「地下請」制をとっていた(佐藤和彦編『租税』東京堂出版 1997年 P.110)。それは、端的にいうと、領主への年貢上納を惣村が請け負うということである。この「地下請」を受け継いだものが、「村請」制といえる。すなわち、中世の「惣村自治」「都市自治」は、近世統一権力によって完全に解体したわけではなかったのである。
 近世初頭、統一権力は、権力の指名によって「村役人」を成立させようとしたが、広範な農民の抵抗によって間接支配で妥協せざるを得なかった。つまり、村人たちが選出した人物を権力が受け入れて、「村役人」に据えたのである。
 この経過について、水本邦彦氏は、元和―寛永初年に展開された大和国五百井村の闘いなどを分析し、次のように述べている。「この騒動は、年寄クラス(*村内の有力農の層)の百姓が中心となって、年貢の割掛けを巡って庄屋と争いを起こし、結果的には彼らが庄屋と同等以上の権限を獲得したものであるが、注目すべきは、その獲得の仕方であって、庄屋の専断による年貢割付けから集団的なそれへという形を取っている。つまり庄屋個人請からいわば集団請へといった形で定式化できるものである。領主の収奪に加えて庄屋の恣意が増幅されて農民に懸るという収奪方式が拒否され、一定の集団を媒介とした納入制度が成立する。......年貢村請が狭隘な近世村落社会の枠組であるとしても、その村請自体がこうした闘争の結果としてもたらされたものであることは確認される必要があろう。初期『村方騒動』は、領主の直線的農民把握方式を拒絶し、言うなれば領主の在地不掌握(つまり村を媒介にしてしか在地の生産を把握できない)という結果をもたらし、同じことであるが、年貢収取問題の多くを村の内部問題として扱うという構造をもたらしたのである。」(同著『近世の村社会と国家』東大出版会 1987年 P.22~23)と。
 この結果、農民支配の基本は「村請制」となった。この点は、中国専制国家が強固な官僚制の下で、個別人民支配を行ない、税賦を直接徴収したのとは全く異なる。これにより、日本独特の共同体規制が生まれ、領主の農民支配の末端を村が請け負うこととなった。
 村請制の特質は、年貢・諸役の収取に表れている。すなわち、領主は年貢・諸役を村単位に賦課し、村の責任で上納させた。年貢は検地によって確定された村高を基準に決定され、村として納めるべき総額を「年貢割付状や「免定」などと呼ばれる文書で村に通知された。「これを受けて、村では原理的には百姓の持高に応じて〔*検地帳に定められた百姓の所持高〕年貢高を分配し、一人の一人の百姓の年貢高を決定した。しかし、現実には村内での割付は村の裁量に任されており、領主は村として割り付けた年貢の総額が完納されればよかった。」(佐藤和彦編『租税』P.109〔吉田ゆり子氏執筆〕)のである。
 村人各自の年貢高は、「村の裁量」によっており、ここに村の封建的「自治」が示されている。それは実際には、村役人の裁量で配分されたのであって、しばしば庄屋(名主)などの不正が糾弾され、「村方騒動」の原因となった。
 また、「年貢以外の側面としても、村は支配の単位となった。例えば、領主法を遵守させるための下請け団体として村が利用されたことである。また、軽い犯罪や民事訴訟に関しては、できるだけ公の裁判に持ち込まず村役人の裁量に委ねる内済主義がとられた。さらに、人の移動を村に管理させた。すなわち、毎年宗門人別改めを行い人別帳に村人を登録し、人の生死を把握することはもちろん、奉公や結婚、養子、転居などで他村へ移動する場合も、村役人の人別送状を必要とした。また、村単位に検地を行い、その後の土地移動を村で管理させた。そのために、土地の質入れ・売買には村役人の奥印を必要とし、村として年貢賦課の基本台帳である高帳を作成させた。そして、何よりも百姓数の維持は村の責任とされ、百姓経営が安定するように相互扶助が求められ、また潰れ百姓の跡式も村として継承することが義務付けられたのである。」(同前 P.109~110)といわれる。
 封建領主にとって、村請制の根本は村を媒介として、年貢・諸役を収取することである。そのためには、村としては農業生産上での村落規制が厳しく布かれた。その規制が厳格に行なわれたものに、入会地と水利施設の運営がある。米生産を基本とする近世社会において、入会地は肥料の源であり、水利施設の管理は稲作などに不可欠である。入会地や灌漑用水をめぐる他村との争いは、村人全員の生活の糧が真っ向かかっているので、それこそ血の雨が降る事態ともなる。そのために、①入会地と②灌漑用水の問題は、とりわけ村落規制が厳しかった。この点は、日本の村落規制の特徴をよく示している。
 ところが、摂河泉など畿内の場合は、この点で他の地域と大きく異なっていた。市場経済が発達した環境の下で、とりわけ共同体の規制が緩やかなのであった。それは、共同体規制の要因である①の入会地の共同利用が、一部を除き、不用となったためである。畿内の農業生産性が高かった理由の最大の要因は、早くからの金肥の導入であった。これにより、入会地の草木を使った肥料作りは必要なくなる。また、続出する新田開発の村々では、金肥利用によって、芦原の入会地を残す必要もなくなる。
 ②の水管理もまた、共同体全体でなく、小グループなり個人なりの小単位での井戸利用が沢山あり、水管理の面からの共同体規制(縛り)も無いか、極めて緩やかであった。
 たとえば、1704年の大和川の付替え工事の後も、大和川と石川との合流点に樋を設置し、下流の村々への配水施設を作るだけでなく、「とりわけ古川床その他に開発された新田では、多くの井戸を掘って旱魃(かんばつ)に備えた。例えば幅四間の用水井路(長瀬川のこと)をさし挟んで両側に開発された菱屋西新田(*現・??)では、井戸数は一〇一を数えている。」(『大阪の歴史と風土』株式会社毎日放送 1973年 P.467)のである。
 全般的に大坂周辺には、「......個人持の堀井戸が普及し、それが灌漑に利用されている。......事実平野郷(現・大阪市平野区)だけで、天保八年(*1837年)に野井戸一六二五も存在し、溜池は一〇もある事情が雄弁にもの語っている。この点では、河州丹南郡の岡村(*現・??)でもかわりない。宝暦八年(*1758)に淵は八一ヵ所、野井戸は二二七ヵ所である。明和二年(*1765)に淵は同数だが、野井戸は二八五に増加している。......」(津田秀夫著「地主制形成期における小作騒動」―『明治維新と地主制』岩波書店 1956年 P.161)といわれる。
 また、大阪平野は古代の荘園も多かったが、「......低地の農村では、集落と耕地を頻発する河川の氾濫洪水と内水滞留から守るため四周に囲堤を巡らし、用水路・排水路を築造せねばならなかった。農地灌漑用の溜池も各地で作られたが、和泉地方はとくにその数がおびただしい。」(『大阪の地名』P.26)といわれる。
 大坂周辺の村々では、近世中期になると、全般的に共同体規制は縮小され、市場経済の発展はこの傾向をさらに促進したのであった。それはまた、年貢徴収を根本とする幕藩権力の側の統制もなかなか徹底しないもととなったのである。
 村役人が幕藩権力の要求に沿って、さまざまな面で百姓たちを規制した。そして、しばしば村掟まで作って御上の意向に従わせた。その一例をあげると、次の請書である。
 天保15(1844)年5月、河内国丹北郡更池村(現・松原市)の百姓たちは、次のような請書(承諾書)を庄屋・年寄に提出している。

    一札の事
一(第一条)御趣意の趣(おもむき)急度相守り、農業出情(精)仕るべく候事
一(第二条)御他領出作(でづくり)の義ハ、向後急度相止(あいや)メ申すべく候、若し村方田地不足の節は、村役人衆中え相断(あいことわ)り、差図(さしず)の上、出作仕るべく候
一(第三条)布稼ぎ・糸仕事の儀は、両度の秋修理上(あが)り候まで相止メ申すべく候、機村(はたむら)方え御取上げ、封印御付(おつけ)成られ、御免(ごめん)これ有り候まで布稼ぎ仕りまじく候
 但し、両度の秋、布稼ぎ差し留め中ニ娘ども他村へ差し遣し、布稼ぎ致させ候義、決て致すまじく候
一(第四条)農稼ぎの儀は、村方高持(たかもち)一同日雇ひ相済み候まで、他所へ罷り出で申すまじく、村方一同相済み上、村役人衆中え相断り、差図の上、罷り出で申すべく候
一(第五条)田草賃取りの儀は、村方高持一同相済み候まで、他所へ罷り出で申すまじく候、村方一同相済み候上、村役人中え相断り、差図の上、罷り出で申すべく候
右の御ヶ条急度相守り申すべく候、若し相背(あいそむ)く者(もの)御座候ハハ、御役所様え御訴え成され候共、一言申し分御座無く候、後日の為(ため)に一札、依て件の如し
 天保十五辰年五月
        太右衛門(印) (以下、13名略)
    更池村
      庄屋・年寄中
 
  自村第一主義で、出作りも、布稼ぎも、農業の日雇も、田草賃取も、すべて村中の作業が終わってからではなく他所へ、仕事に出ないことを誓い合って、村役人に請書を提出している。たとえ、他村・他所の方が給銀が良くても、自村での人手不足が出ないように集団的縛りをかけているのである。

Ⅸ普通地主小作関係の広がり

(ⅰ)土地金融と土地集積の分離

 土地売買や土地金融との関係で、地主の土地集積をみると、近世においては2つのタイプに区分できるようである。古島敏雄氏は、「土地集積の基軸が、寛文延宝期(*1661~81年)にいたるまで永代売であり、やがて年期売・質流という段階を元禄・享保期にかけて経過し、以後また永代売を基軸とするにいたる大阪周辺と、幕末期にいたるまで、年期売・質流が主流となる関東・東北との漠然たる対比」(古島敏雄編著『地主制史研究』岩波書店 1985年 P.12)があるようだとする。
 その10年後、中村哲氏は和泉国の赤畑村や梅村などの分析から近世における土地金融の変遷を図表9にまとめた(同著『明治維新の基礎構造』 P.331)。同書によると、土地金融形態の時代的変化はかなり明瞭であり、①近世初頭(慶長・寛永期)、②一七世紀末~一八世紀前期(元禄・享保期)、③一八世紀中・後期、④一九世紀前期(化政・天保期)に区分できる。(この項は、中村哲著『明治維新の基礎構造』未来社 1968年 のP.328~354に依る)
 
① 慶長・寛永期
 まず①の時期では、古文書はわずか6通だが、そのすべてが永代売である。興味深いことは、この時期の最古の慶長12(1607)年の文書が次のように示していることである。すなわち、

     売り申し候作の事
あさな(字名)ハ本くわいの下畝町ハ三ツ
合壱反大者斗代ハ壱石四斗也
右の作ハやうやうあるによつて、米参石ニゑいたひ(永代)うれ(売れ)渡し申し候、もし天下一同乃(の)御とくせひ(徳政)ゆき申し候共(とも)、此(この)作ハ少し(すこし)もいらん(違乱)有(ある)間敷(まじく)候、仍て件(くだん)の如し
  慶長拾弐(十二)丁未年       遣(つかわす)ハ二郎左衛門(書判)
      十二月廿六日        うれ主久介(書判)
おは祢
  惣右衛門殿参

 「作」とは売買の対象を指す。永代売りの場所は「本くわいの下」であり、合わせて1反大である。「大」は240歩、「半」は180歩、「小」は120歩を表す(1反=360歩)。斗代は石盛(こくもり)のことである。田畠は上・中・下・屋敷地と区分され、それぞれの地種に斗代(石盛)を設定し石高を算出する。この斗代(石盛)は、米を栽培すると仮定した場合、一反当りどれだけの米がとれるかという法定収穫高を示す(実際にはコメの取れない畠や屋敷地も米の収穫高に換算する)。ここでは、1反大(600歩)に対し、斗代が1石4斗になっている。
 この文書で特徴的なのは、?中世の「作職」の系譜を引く表現としての「作」が使われていること、?代価の支払いが米(3石)で行なわれていること、?「徳政文言」(天下一同の徳政になっても、この永代売りの土地は徳政の対象にはしないという保証の文言)が残っていることである。
 中村氏によると、?は1638(寛永15)年からは、「畑」「田地」「田畑」などの表現に代わり、?は1629(寛永6)年からは銀による支払いに代わり、?の「徳政文言」は延宝期(1673~81年)には、完全に無くなる。
 
② 元禄・享保期
 次の②、元禄・享保期は、土地金融で年季売がもっとも盛況な時期である。
 中世では、土地の売買は、永代売・年季売・本銭返の三形態で行なわれた。永代売は、近代の売買に近似したものである。年季売(年期売とも年紀売とも称す)は、一定年数の間、所領を売渡し、期間経過後はとうぜん売主の手に戻る仕組みである。買主はその期間、買い取った所領を運用し、買入れ代金以上の利益を目指す。ここでは、実質的に土地からの収益(作毛)の売買となるから年毛売とも言われる。本銭返は、一定期間中あるいは期間後、代金を払って買い戻すことができる条件がついた売買である。銭ではなく物をもって買い戻す場合は、本物返と呼ばれる。その形態から、年季売よりも本銭返の方が、一般的に売却代金は多額と推定できる。
 江戸時代になると、大石久敬著『地方凡例録』によると、年季売と本銭返はほとんど同一のものとなり、関西では本物返、関東では年季売と称されたと言われる。したがって、図表9では、年季売で代表されている。田畑永代売買禁止令が寛永20(1643)年に発令され、その後、年季売形式の下に質入れが行なわれるようになり、両者がほとんど同一なものになっていったと考えられている。

図表9  土地金融形態の時代的変化(1607~1904年)  〔単位件数〕
  年次     永代売     年季売         質入   合計
 (元号)        A   B  C  D  計  (書入)     
① 1607~1638年  6   6
② 1652~1687年  4  10 4 2 1 17 21
③ 1688~1735年  12 7 3 22 22
④ 1736~1747年 1  3 1 4 2 7
⑤ 1748~1800年 14   1 1 1 3 47 64
⑥ 1801~1843年 29   1 1 4 6 15 50
⑦ 1844~1867年 43   3 1 2 16 22 47 112
⑧ 1868~1881年 48 4 4 3 55
⑨ 1882~1904年 47 2 2 49
  合計 194   29 14 5 32 80 113 386
出所)中村哲著『明治維新の基礎構造』P.331
注)(1)史料は証文類で、赤畑村の高林家39、赤畑村の田中家145、堺の豪商・筒井家50、梅村の堀川家82、村の奥印帳によるものでは、赤畑村24、梅村46の計386件である。(2)年紀売のAは年限が規定されてないもの、BCDは年限が規定されている。うち、Bは年紀が過ぎても元金が返済できない場合の規定がないもの、Cは年季内に元金を返済したとき受け戻すという規定があるもの、Dは年季が過ぎると質流れとする規定があるもの。(3)①は慶長12~寛永15年、②は承応1~貞享4年、③は元禄1~享保20年、④は元文1~延享4年、⑤は寛延1~寛政12年、⑥は享和1~天保14年、⑦は弘化1~慶応3年、⑧は明治1~明治14年、⑨は明治15~明治37年―である。

 図表9には、この時期の土地金融の22件すべてが年紀売となっている。この時期(元禄・享保期)の早い頃の証文を示すと次の通りである。

     本物返ニ売渡し申す田の事
あさ名(字名)身々つぶし
一 壱反     斗代八斗四升なり
代銀合せ七百目なり 売渡し申す所ハ当辰の年御年貢方ニ指(さし)つまり、本物返シに売渡し申す所、明白実正なり、右の田地ニおいてハ、新義新法成る事(こと)出来(でき)候共、少も違乱有(ある)間敷(まじく)候、右の田地ハ何時(いつ)成るとも本銀相立て候ハハ、此方(このほう)御かへし(返し)給ふべく候、自然(しぜん)六ケ敷(むずかしき)義(ぎ)猶(なお)これ在らハ、右加判の者(もの)罷(まか)り出で申すべきの分に候、後日の為(ため)仍て証文件(くだん)の如し
                   赤畑村売主
                     市郎右衛門(印)
 延宝四(*1676)年       同村口入
    辰極月廿四日           彦右衛門(印)
                   同村庄屋
                     宇兵衛(印)
 万代新家
   甚左衛門殿参(まいる)

 これは、下線部によって、本銭返の証文であることが明瞭である。売買の物件は、字名「身々つぶし」で、一反である。この斗代(石盛)は反当り8斗4升である。売買は、代銀700匁で成立している。ここでは、かつての「徳政文言」ではなく、「新義新法成る事出来候共、少も違乱有間敷候」と誓っている。幕府令では1666(寛文7)年から質入れの際には、名主や五人組の加判が不可欠とされ、この証文でも庄屋の加判がなされている。
 年季売にもさまざまなタイプがあり、図表のAは年限を規定しないもので、B、C、Dは年限が規定されたものである。その内で、Bは年季を過ぎても元金を返済できない場合、なんらの規定がないもの、CはBと同様だが、年季内に元金を返済したときは受け戻すという規定があるもの(裏返すと、年季を過れば受け戻しができないことが暗示されている)、Dは年季が過ぎたとき、「若し切り過ごし候ハハ、其の方(*買主)御支配ニ成らるべく候」などの文言が示すように質流れを規定したもの―である。
 中村氏によると、「この時期の年季売にはAがもっとも多く、Bと合わせれば大部分を占め、Dはきわめて少ない。年季を限った場合にも、実際には期限をすぎても直ちに質流れするものではなく一、二年を経過したうえでいくらかの増銀を買主が払って質流れする場合が多い。増銀は受け戻し権の買取りを意味するのであろう。なお、一八世紀中期以降はD形態が年季売の中心となり、A、B、C形態はほとんどなくなる。」(『明治維新の基礎構造』P.333)と言われる。   
 買主が期間経過後ただちに質流れしないで、また一、二年の経過後に質流れする場合でも増銀を売主にさらに支払うことは、現代人の眼からするときわめて不合理のように見えるであろう。しかし、このように念には念を入れる処置をとることは、逆に、当時でも受け戻し権の強さ(徳政感覚)を物語るものである。そのうえで、時代は質流れが次第に強くなって行くのであった。
 そして、次には質地小作が広く展開するようになる。それを示す史料は、次の通りである。

   本物返し売渡し申す田地の事
字ハとうかい田
一新検九畝弐拾七歩 斗代壱石弐斗八升七合
 一古検九畝弐拾五歩 斗代ハ壱石弐斗五升六合 赤畠村帳
 右の田地亥の年御年貢ニ詰り、銀子(ぎんす)三百四拾匁ニ売渡し申す所(ところ)実正なり、但し本銀返進仕(つかまつ)り候者、何時成る共(とも)田地御戻シ下さるべく候、この田地ニ付(つき)余方ニかまひ(構ひ)ハこれ無く候、若し何角(なにか)と申す者これ有り候ハハ、判形の者罷(まか)り出で、急度(きつと)埒明ケ(らちあけ *決まりをつけて)、田地其の方へ相渡し申すべく候、後日の為(ため)仍て件の如し
 天和三(*1683)年亥十二月十七日       売主寺(*「寺」は字名)
                            五郎右衛門(印)
証人
                            与右衛門(印)
 高田村
   八郎右衛門殿参
一とうかい田壱石六斗      下作仕り候        五郎右衛門

 赤畑村寺の五郎右衛門が高田村の八郎右衛門へ本物返で売却した「とうかい田」は、新検(*慶長検地以降の検地を新検という)で9畝27歩(斗代は1石2斗8升7合)である。五郎右衛門は、これを340匁でもって、本物返で売却した。次いで、五郎右衛門は本物返で質に入れた田を下作(小作)することを契約している。この際の宛米(あてまい *年貢プラス地主取り分)は1石6斗であり、斗代1石2斗8升7合より3斗1升3合も上回っているが、これが八郎右衛門の地主としての取り分となる。
 17世紀後半以降、元禄・享保期を中心として、「土地金融の広範な展開がみられ、小農民の多くが没落し、地主間の土地売買すらかなり一般化して地主的土地所有が急速に形成される。......、土地金融は占有質としての年季売(=質入)であり、地主的土地所有は土地抵当の高利貸と未分化に結合しており、土地所有として確立せず、またたえず受け戻しの可能性がある不安定さをもっていた。」(中村哲前掲書 P.337)のであった。
 「占有質としての年季売(=質入)」とは、土地が質取人(買主)の側で占有された形態での質入れと同様の年季売ということである。中世の土地売買は三形態で行なわれたことは前述したが、それは戦国時代にも引き継がれた。「もっとも、本物返と年季売とは区別された場合もあるが、混同された場合も少なくなく、しかも両者は担保の目的でなされることが少なくなかった。/江戸時代でも、土地の売買は永代売買と本物返(年季売)との二種に分かれる。本物返と年季売は混同され、しかも両者とも債権担保の目的でなされることが少なくなかった。」(石井良助編『法制史』山川出版社 1964年 P.223)と言われるように、債権担保の目的で本物返と年季売が行なわれたのであった。
 しかし、盛んな土地金融にもかかわらず、この段階では土地集積による利益確保(地主制)と土地抵当の高利貸事業とは未だ分離されておらず、「地主的土地所有」は未確立であった。しかも、年季売(本物返)は絶えず受け戻しの可能性があり、地主制にとっては不安定要素の要因でもあった。畿内でのこの時期の地主小作関係はこのような内容なものであった。
 
③ 18世紀中・後期
 次にまた、18世紀の中期を画期として、永代売と質入れが急激に増加して、土地金融の中心となる。このことは、図表9に明瞭に表れている。この時期の永代売の史料は次のような文面となっている。

   売渡シ申す田地の事
字(あざ)石津ノ溝南かハ(側)
一下田壱畝六歩 分米壱斗五升六合
 此の代銀八拾三匁壱歩五り
右の田地当巳(*巳年)御年貢ニ指詰(さしつま)り申すニ付(つき)、売渡シ代銀慥(たしか)ニ受取、御年貢上納申す所(ところ)実正なり、則ち名前帳切(ちょうぎり)成され、永々其元(そこもと)御勝手ニ支配成されるべく候、後ニ至り少(すこし)も申分(もうしぶん)御座無く候、この田地ニ付いて余方毛頭(もうとう)かまひ(構ヒ)御座無く候、若し何角(なにか)と違乱妨げ申す者御座候ハハ、印形(いんぎょう)の者共(ものども)何方(いずかた)までも罷り出で、急度(きつと)埒明(らちあけ)、其元江別少も御損難掛ケ申す間敷(かけもうすまじく)候、後日の為(ため)売渡シ証文仍て件の如し
                 売主赤畑村
                   半右衛門(印)
                    証人同村
 寛延弐(*1749)年巳十二月   太郎左衛門(印)
                    同村年寄
                   喜右衛門(印)
   赤畑村安左衛門殿

 ここでは、下田1畝6歩を代銀83匁余で永代売している。分米とは、上田・中田・下田などの等級に応じたそれぞれの畝歩にかかる年貢高をいう。ここでこの下田を永代売したその理由は年貢上納のためである。ひいては、「帳切」、つまり検地帳などの名請人の変更を行ない、当の下田は安左衛門殿が自由に支配してください、と述べている、この契約に第三者が言いがかりをつけることはありません。若し妨害があったならば、印形した証人や村役人がきっと処理して下され、買主には少しも面倒・損害をおかけしません。よって、後々の為に売渡し証文をこのようにしたためました―としている。この形式は、文言の多少の変化を除き、以降、ほとんど変わらない。この永代売の証文と同じころ、次のような質入れの証文も盛んにあらわれる。

   午ノ九月切ニ指入れ申す田地の事
一下田三畝弐歩  高三斗九升九合
右の質物代銀六拾匁、只今(ただいま)慥(たしか)ニ請取(うけとり)、当巳(*巳年)の御年貢ニ上納仕り候処(そうろうところ)実正明白なり、然上(しかるうえ)ハ来ル午ノ九月中ニ本銀一同ニ相立て候ハハ、田地相違無く御戻し給(たま)ふべく候、若し切り過ぎ候ハハ、永々其元(そこもと)御心任せニ御支配成さるべく候、午ノ暮(くれ)?(より)帳切(ちょうぎり)致し田地相渡シ、その節一言(ひとこと)も申すまじく候、この田地ニ付き余方ニ何のかまい(構い)御座無く候、若し何角(なにか)と妨げ申す者御座候ハハ、判形の者罷り出で急度(きっと)埒明(らちあけ)、少も御損難懸ケ(かけ)申すまじく候、後日の為(ため)質物証文件の如し
                           質主赤畑村
   元文弐(*1737)年                 儀左衛門(印)
           巳十二月十三日         赤畑村庄屋
                               安左衛門(印)
    甚左衛門殿
  右の銀子ニ壱ケ月壱歩半ノ利足(利息)加え申すべき定(さだめ)

 この質地証文では、質入期間が過ぎ、質流れになった段階で、質取人の甚左衛門は「帳切」(検地帳などの名請人の名義変更)をして、この土地を自由に支配できるようになった。ただ、質入れ期間中は、質入人の儀左衛門が年貢・諸役を上納し、名請人も儀左衛門となっている。また、年季売とは違い、月壱歩半の利息が加わり、しかも質入期間は翌年の9月までであり、きわめて短いものとなっている。これらの傾向は、その後の証文をみると、なお一層明瞭になってゆく。

        質物田地の?(事)
字四畝町田宛米弐石四斗
一中田壱反五畝六歩 分米弐石壱斗弐升八合
字者門田宛米弐石五斗
一中田壱反歩    分米壱石四斗
〆(しめ)
右の田地我等(われら)所持ニ候処、銀子入用の義これ有り、来る巳十一月限ニ質物ニ差入(さしいれ)、銀子四百七拾目(もんめ)借用申す処(ところ)実正なり、然る上ハ年季中地所相渡し、御年貢諸役貴殿方ニ御勤(おつとめ)成らるる筈(はず)ニ候得共(そうらへども)、相対(あいたい)の上この方に於て直小作(じきこさく)致し、御年貢諸役我等方(われらのほう)?(より)相勤め、作徳(さくとく *小作料)として壱ケ年ニ銀六拾壱匁壱歩、来る十一月限りニ相違無く相渡し申すべく候、勿論(もちろん)限月ニ至り、作徳銀差遣(さしつかは)し候義并(ならびに)元銀(元金)返済等相滞( あいとどこお)り候ハハ、右田地一言(ひとこと)の申し分無く、名前切替(きりかえ)相渡し申すべく候、尤(もっと)も右田地ニ付き何方(いずかた)?(より)も差構(さしかまえ)へ〔*異議を計画する〕これ無く候、後日の為(ため)質物証文仍て件の如し
                      泉州大鳥郡高田村庄屋
  寛政八(*1796)年辰十二月       質置主  喜作(印)
                          証人同村年寄
                             新左衛門(印)
   同国同郡赤畑村
      清左衛門殿

 ここでは、相対(あいたい)の上で直小作の契約となっている。しかし、質入れ期間中は名請人を変更しないで、年貢諸役を質入人が負担するとなっている。だが、これは「頼納」であり、明らかにかつては幕府の禁止とする行為である(貞享4〔1687〕年より禁止)。
 また、「直小作といい作徳といっているが、銀六一匁一歩は元金にたいし年利一割三分の利子であり、宛米が記されているにもかかわらずそれとは関係がない。質取主はその土地の収益と無関係に貸付金にたいする一定の利子を取得するのみであり、貸付の目的は小作料などの土地収益ではなく一定の利子である。......以上のような点からみれば、この時期にあらわれる『質入』は年季売と性質を異にし[t1][t2]、近世において公認され一般に行なわれた占有質としての質入〔*担保物件を質取主が占有し、その土地の収穫から利益を得る〕ではなく、土地金融としてよりすすんだ」非占有の担保形態であり、一八七三(明治六)年一月の太政官布告による『地所質入書入規則』に規定された書入(かきいれ)に相当するものである」(中村前掲書 P.340)と言われる。この意味では、ここでの直小作は、元禄・享保期の年季売の質地小作とは全く異なる性格となっているのである。
 18世紀後半は、享保期の年貢増徴策が一時的なものに終わり、貢租収取率が低下し、領主財政がいよいよ厳しくなる時期である。この中で、百姓たちの広汎な抵抗により、支配階級のみが剰余生産物を独り占めにする時代が終焉し、在野においても剰余生産物を部分的に蓄積しうる時代に入ったのである。(《補論 貢租収取率の低下と年貢徴集法の転換》を参照)
 だが、注意しなければならないのは、この時期、土地価格は経営コスト(金肥価格や小作料など)や収益率などによって左右されるだけでなく、諸領主間の年貢収取率の違いによっても、大きく左右されていることである。
 たとえば、河内国渋川郡亀井村(現・八尾市)の庄屋など村役人たちが、宝暦7(1757)年7月に、代官所に提出した「宝暦七丑七月定免願ひの節(せつ)差上ケ候書付の扣(ひかえ) 井上河内守様御領分の時」と題した口上書である。そこでは、次のように指摘されている。

      恐れながら口上書
一、当村御取箇(*年貢)前々?(より)御取付けニて御高免難渋仕り候訳(わけ)、当村惣高千弐百石余御水帳(*検地帳)一冊ニ御座候処、中古七百石仙石因幡守様御知行(おちぎょう)分ケ郷ニ相成り候、然ル処(ところ)仙石様御取箇三ツ五分(*35%)ニて御座候、御領分御取箇とハ壱ツ七分弐厘七毛の違ひ御座候、これに依て入組の村方ニて御領分御田地所持(しょじ)の百姓ハ殊(こと)の外(ほか)難儀に仕り候、御田地売買等御領分御田地ハ格別下直(したね *下値)、仙石様御田地の三分の一直段(値段)も仕らず、漸く一反歩七、八拾匁?(より)百弐、三十匁ならてハ仕らず、野末(のずえ *野原)田地ハ一向(いっこう)買入れもこれ無く、仙石様ハ日々ニ繁昌仕り候、それ故(ゆえ)当時差詰り(*窮状に陥る)ても質物ニ取り候者もこれ無く、売り払ひ申すべき様も御座無く至極(しごく)難儀に仕り候御事
二、(以下、略)

 亀井村は惣高1200石余で、井上領であったが、その後、仙石氏との相給となった。ところが、仙石氏の年貢は35%であり、井上領とは17.27%もの開きがある。つまり、井上領の年貢率は52.27%の高率である。このため、相給となった村の百姓はことのほか難儀となった。というのは、所持地を売り払おうとしても、井上領の土地は格別に安値で、仙石領の土地の3分の1にもならなかったからである。このため、野原(耕作放棄地あるいは未開発地)に至っては買入れそのものが無いのである。これでは困った時に質入れしようにも質取りする者もおらず、ましてや売り払いなど出来ようも無いのである。
 当時は、当然のことであるが、土地市場が未成熟であり、土地価格の相場要因としては年貢率が未だ大きかったのである。

④ 化政・天保期
 この時期になると、土地価格は大幅に上昇する。それは、17世紀後期から農業生産力全般が向上し、とりわけ、棉作などの商業的農業の発展により、畿内農村での商品経済が目に見えて顕著となり、一部の大規模農家などに剰余生産部分の一部が留保され、これらを背景に農地価格も上昇したからである。
 すなわち、「反当(当り)水田価格は、永代売の場合、近世初期(慶長・寛永期)にはわずか米二石にしかすぎなかったが、18世紀中・末期には五・三四石となり、二倍半以上に上昇している。しかも前者は古検面積、後者は新検面積であり、赤畑村では古検面積は新検面積の一・二三倍であるから、実質は約三倍と考えてよい。ともに永代売ではあっても、両者の間には質的ともいえる差があると考えられる。さらに一九世紀にはいると反当価格は銀一貫目に達し、一八世紀中・末期より三倍、米換算で二・三倍に上昇している。年季売の場合もほぼ同様の変化を示しており、永代売のない一七世紀後半―一八世紀初期において、一八世紀後期の価格が成立している。」(中村哲著『明治維新の基礎構造』P.343)のであった。
 丹羽邦男著『形成期の明治地主制』は、河内国若江郡の新家村(布施市→現・東大阪市)の今西家、下小坂村(布施市→現・東大阪市)のY家、市場村(現・東大阪市)のⅠ家などの地主経営を研究し、次のように述べている。すなわち、「われわれは、天保期以降すでに流地→土地取得のための土地金融つまり金融と土地集中が未分離な形態は姿を消しているのを見る。土地金融と地主的土地集中とは、一は一般農民・地主金貸業者・領主と貸付の対象を拡げつつ貨幣増殖の追求、他は、採算にもとづく有利な土地=小作地取得というそれぞれ独自の活動を展開していっている。天保以降彼らの主要な地主的伸張は、金融活動によって得られた大量の取得貨幣による村外地主(金貸業者)の小作地の一括購入によって果たされ、またこうして得られた小作地は、しばしば確実な担保物件として金融活動に必要な資金借入れを助けている。このように、金融活動と地主的土地集中とは相互に密接な関係を保ちながら、それぞれ独自なものとして自らの活動を純化していっている。」(P.25)と。
 そして、丹羽氏はこのような分離は、一般耕作農民の次のような懸命な活動に対応していると推定する。すなわち、「......地主経営考察にもとづく推論となるが、これら『質入』〔*一般農民の借金としての〕は、地所質入書入規則以降、質入とは明確に区分される書入=非占有担保金融としての性格を、すでに事実上もっていたのであろう。すなわち、自己所持地を質入した耕作農民は、金主にたいし、ただちに、質地直小作として田は米立(こめだて)米納・畑は米立銀納の小作料を払う関係に入ったり、担保とした土地から離れ他人にその耕作をゆだねる関係(質地別小作)に入るのではなく、借入金で生活・経営資金の赤字を補填(ほてん)しつつ、金主には商品作物販売代金のなかから金利を支払い、担保に入れた土地の上で、なおも必死に棉作経営の再建・維持につとめてゆくのであろう。ここでの『質入』が多くのばあい、とにかくも借金を返し土地を受戻している事実のなかに、このような書入(かきいれ)形態での金融とそれを必要とする農民の小商品経営の存在を推定させる。このような農民経営の存在を前提としてはじめて、先にのべたような、流地をそれ自体の目的としないような土地金融―貨幣増殖活動がなりたつと考えられる。」(同前 P.26)というのである。
 丹羽氏によると、事実、近代に入っても、「年間土地質書入総件数のなかで質入の占める件数比率が、......当時(*1889年)なお一〇%以上に達している県が十もあるなかで、大阪は〇・一%という全国最小の比率を示している。ここにも大阪で最も早期に書入形態での土地金融が成長したとする根拠がある。」(P.26~27)というのである。

《補論 年貢徴集法の転換と貢租収取率の低下》
 江戸幕府の財政は、ようやく寛文期(1661~73年)ころから窮迫の体を示し始め、この頃から倹約令がしばしば発せられるようになる。だが、第五代将軍綱吉の時代(1680~1708年)にはとりわけ無駄な建築や下賜品の増大などで浪費がかさみ、財政は急速に悪化してゆくようになる。
 第六代将軍家宣(在位1709~13年)は、新井白石などを重用し、前代の貨幣悪鋳(勘定奉行・荻原重秀)政策の是正、勘定吟味役の設置、優良代官の登用、不正な代官・大庄屋等の整理と綱紀粛正など「正徳の治」を行なう。しかし、幕府財政の困窮は解決していない。
 このような時期に、御三家の一つ・紀州藩から吉宗が第八代将軍(在位1716~45年)に就いた。しかし、将軍になりたての吉宗にとって直ちに改革を始めることはできなかった。従来からの幕閣政治に阻まれたからである。
 図表10は、阿部真琴・酒井一著「封建制の動揺」(岩波講座『日本歴史』12 近世〔4〕に所収 1963年 P.4)から転載したものである。これは、資料「誠斎雑記」1)(『日本財政経済史料』第1巻)から作成された。図表10によると、18世紀の前半から貢租率は、3割台となっている。しかし、これ以前のものは明らかではない。

図表10  幕府領の貢租(10カ年ごとの平均)  (万石)   
    年 代          石 高  取米高  貢租率
1716~1725(享保 1~享保10)  412.0 139.6  33.9
1726~1735(享保11~享保20)  447.4 147.7 33.0
1736~1745(元文 1~延享 2)  459.7 158.0 34.4
1746~1755(延享 3~宝暦 5)  442.9 166.7 37.6
1756~1765(宝暦 6~明和 2)  442.5 164.7 37.2
1766~1775(明和 3~安永 4)  438.1 151.8 34.7
1776~1785(安永 5~天明 5)  436.2 146.4 33.6
1786~1795(天明 6~寛政 7)  439.3 141.3 32.2
1796~1805(寛政 8~文化 2)  449.0 153.7 34.2
1806~1815(文化 3~文化12)  445.3 149.6 33.6
1816~1825(文化13~文政 8)  432.8 146.3 33.8
1826~1835(文政 9~天保 6)  420.5 138.0 32.8
1836~1841(天保 7~天保12)  419.2 132.7 31.7
注)①石高・取米高の数は、四捨五入。②天保7~12年のみは6カ年平均

 だが、江戸時代初期には過酷な収奪によって、全国各地で逃散が頻発していたことから、これ以上の貢租率であったことは容易に推定できる。そして、部分的には明らかな場所・時期もある。すなわち、「河内小若江村(現・東大阪市)では、寛永―延宝期(*1624~81年)に租率六〇%前後、取米三〇〇石前後......備中倉敷村(現・倉敷市)では一六四二(寛永十九)年の租率六三%......」(阿部・酒井著「封建制の動揺」P.8)というのは、その一例である。
 ところで、徳川時代の貢租は、一般的には年貢と諸役に大別される2)。石高制では、米納年貢制が前提となるが、関東畑永法、上方三分の一銀納法3)、甲州大小切などのように一部を貨幣納にすることもみられる。江戸時代中期以降には、石代納(田畑の租税を金・銀・銭で代納すること)・金納の占める割合が高まるようになる。
 徳川幕府が行った徴租法は、時期や地域によりさまざまであるが、おおよそ検見取法と定免法に大別される。
 検見取法(けみどりほう)とは、簡単に言うと、その年の作物の作柄について実際に収量検査(坪刈り)して年貢量を決定する方法である。他方、定免法とは、年々の豊凶にかかわらず、三年あるいは五年、十年といった一定の期間、年貢を固定して賦課する方法で、その定免の年季が明けると、新な年貢率を新たな年季を設定して定免を継続した。
 徳川幕府は、その初期には、相対立毛検見取法、定納高制(中村吉治著『近世初期農政史研究』P.11~13、朝尾直弘著「豊臣政権の基盤」―『歴史学研究』292号)を採ってきたが、寛永飢饉を契機として、畝引検見取法を幕領に施行した。
 畝引(せびき)検見法とは、根取(ねどり)検見ともいわれるが、次のようなものである。まず近世初期の検地によって田地が上・中・下・下々の位が決められたが、その位ごとの根取米(一反あたりの取米)から一坪当たりの籾(もみ)量が算出される。「例えば上田の石盛4)を一石五斗、中田のを一石三斗、下田のを一石とし、租率を五公五民とすれば、上・中・下田一反当りの取米は、それぞれ七斗五升、六斗五升、五斗となる(これを根取米という)。五合摺(籾一升が米五合に当る)とすれば、上・中・下田一坪当りの籾量(これを当り合〔あたリごう〕という)は、根取米を四倍して一反当りの籾量になおし、これを三〇〇で割って算出する、すなわち当り合は上田=一升、中田=八合六勺六才六、下田=六合六勺六才六」(森杉夫著「近世における徴租法の転換」―『史林』48巻1号 P.3)となる。
 ここで、「根取米を四倍」するというのは、四倍は、五公五民の年貢率ならば元の生産量は倍であり、脱穀米はモミ(籾)の半分になるから、籾量で言えばこれも倍となる。すなわち、2×2=4を掛けなければならないのである。上田の根取米は7斗5升であるから、その4倍は3石(30斗)となる。この3石を1坪(=1歩)当りの籾量になおすには、1反=10畝=300歩であるから3石÷300歩(坪)=1升となる(1石=10斗=100升)。中田の根取米は6斗5升であるから、同様にして8合6勺6才6となる。下田の根取米は5斗であるから、同様にして6合6勺6才6となる。(1歩=1坪=3.3㎡)
 次に代官ないしは手代などが実際にそれぞれの田地ごとに坪刈りをして、稲の稔り具合を検査する。そしてその量が当り合より多い場合は、そのままその年の年貢率とする。少ない場合は、その不足分を損耗分として反別から差し引き、残った反別に対して年貢を賦課する―という方法である。
 たとえば、反取り法を採用していた関東では、「上田ならば上田の石盛(*土地1反当りの法定収穫高)を一石五斗とした場合、五公五民の年貢率であればその根取米は七斗五升となり、一坪あたりの当合は一升となる。これに坪刈りによる作柄が九合であった場合は一割の減収ということで全上田反別の一割を差し引き、残りの九割の反別に対して年貢を賦課することになる。以下これをすべての位等ごとに行って総年貢量が算出される」(佐藤和彦編『租税』東京堂出版 執筆・桜井昭男氏 P.120)のである。これに対して、上方では石高に年貢率(免)を乗じて、年貢量を算出するので、厘取り法という。
 したがって、反取り法は土地の位等に応じて、それぞれの面積に年貢率を乗じて、年貢を賦課するに対して、厘取り法は石高に年貢率を乗じて、年貢を賦課する。このように、「畝引検見取法は、元来田方稲作に対する徴租法で、一般に関東方では反取畝引検見取法が、上方筋では厘取畝引検見取法が行なわれたが、両者に本質的な相違はない。いずれも近世初頭の検地によって田畑を上・中・下に位づけした、それぞれの位の石盛に基づいて年貢を決定する方法」(森杉夫著「近世における徴租法の転換」P.3)である。
 しかし、この方法は現実に生産力が発展すると、現実を反映しなくなってしまう。すなわち、「......寛文・延宝期(1661~81年)にいたって、綿作生産力の発展にともなう、現実の生産力と位・石盛との乖離が顕著となり、幕府が許容してきた当り合をこえる部分(百姓にとっては剰余労働部分)が増大した。かくて幕府の年貢収納量は、位・石盛の枠に規制されて相対的に減少し、百姓には余剰が保証されるようになった。」(同前 P.37)のである。
 このため、幕府はこの乖離を是正するために、綿作が増大する畿内では、延宝期に広く検地が展開されるようになる。しかし、この程度の弥縫策では問題は解決しなかったようである。すなわち、元禄・享保期(1688~1736年)を画期として、畿内での綿作はさらに著しく増大したからである。また、租率の大幅引き上げは、百姓たちの広範の抵抗を受けたため、容易には租率引き上げも思うようにはならなかったのである。そのことは、「一体検見取ノ村カタ如何程(いかほど)ノ豊年ノ年タリトモ、俄(にわか)ニ一年ニ五、七分(*5~7割)モ上ル儀ハカツテ(嘗て *決して)致さざる事」と、『地方凡例録』も記すほど難しいことであった。
 そこで幕府は、徴租法そのものの根本から改正する方向を取らざるを得なくなる。それはいくつもの試行錯誤を繰り返した結果と思われる。この点は、専門研究者でも不明の様である。おそらく試行錯誤の結果として、有力な策は①有毛検見法と、②定免法になったようである。
 ①の有毛検見法は、「上・中・下といった位等をやめ、一升毛何歩・九合毛何歩といったように、田方一筆ごとの実際の作柄を調査した帳簿(内見帳〔ないみちょう〕)を作成し、さらに代官や手代たちが数カ所の坪刈りを行い、これによって田方全体の収穫量を計算し、ここから年貢量を決めるというものである。このように有毛検見法による年貢量の算定は、畝引検見法のように石盛や位等といったものとは関係なく行われるため、実際の生産力を十分に反映する徴租法であった」(佐藤和彦編『租税』―桜井昭男氏執筆 P.120~121)といわれる。
 この有毛検見法は、「享保七年(*1722年)頃から定免がとられなかった地域で実施された」(佐藤和彦編『租税』P.138)といわれる。
 しかし、有毛(ありげ)検見法は、豊かな百姓が代官・下級役人へ提供する賄賂などの不正や、坪刈りの費用、検見による収穫時期の遅れなどのいくつもの問題点を含んだものであった。
 ②の定免法は、前述したように、一定期間年貢量を固定して賦課し、その年季が明けると新たな年季を設定し定免を継続するもので、その際に幕府は年貢率の増額を迫ることができたのである。定免法は、藩領によっては17世紀から取り入れていた所もあったが、幕府では享保3(1718)年に施行のための準備作業に入り、享保7(1722)年ごろから施行された。しかし、施行対象は全国の幕領ではない。あくまでも生産力の高い地域であったと思われる。
 定免法も、いくつかのタイプがあるようで、森氏によると、享保改革期(18世紀前半)の定免法は根取法に基づく定免法であり、有毛検見法に基づく定免法は明和期(1764~72年)以降であるといわれる。
 地方支配のベテランであり、「地方(じかた)の聖(ひじり)」とも称された辻六郎左衛門守参(もりみつ)は、元禄12(1699)年に美濃郡代となり、享保3(1718)年に勘定吟味役となる。その辻が享保2年頃、下問された際の上書で、定免法について次のように述べている。
 
             覚
一(第一条)(略)【*定免の村が4割ほどの不作の際、田方は減免のために検見取りにするとしても、畑方は二毛作ないしは三毛作もあるので、破免(定免を破棄して作柄に応じて年貢率を決めること)にする必要はない。ただ、小百姓は能(よ)き田は所持せず悪田を持つ者が多いので、地方支配の肝要は小百姓が相続できるようにすること】
一(第二条)定免に成り候村方は、実事の吟味にては、先(まず)は沢山にはこれ無き事に候、定免に成りにくき村方を〔*定免法を〕申し付け候得ば(そうらえば)、年を重ね候上には小百姓段々(だんだん)困窮に及び、潰(つぶ)れ候者も出来候故、公儀の御冥加〔*幕府の小百姓加護〕に宜しからざる事にも御座有るべく候間、定免の儀は御代官随分(ずいぶん)念入り候て、定免に致して苦しからざる村方ばかり撰出し、三、五ヶ年ほど宛て(*割合で)定免に致し候て、その上(うえ)又(また)二、三ヶ年ほど宛て検見取に仕り候て、様子(ようす)見合い(*対応すること)候上(うえ)又(また)定免に致し候様に仕り然るべきやと存じ候、一向に何方(いずかた)までも定免には中々(なかなか)成り難き儀にて候、旱損場は莫大の損毛先ずはこれ無く候、水入場は年々とかく大分か小分か損毛格別これ有る事に候ゆへ(故)、一切定めには難儀に候、強(しい)て、定免に致し候へば、甚だ難儀に及び候小百姓多く御座候
【*辻は、定免法が適用される村は、実際にはまずそんなに多くは無いだろうとしている。定免に成りにくい村(すなわち生産力があまり発展していない村)に定免を適用したならば、年を重ねるにつれ小百姓は困窮し潰れも出てくる。したがって、定免の適用には、それが適うであろう村々だけを撰び出し、3~5年ほど試し、その上また2~3年ほど検見取法に戻し、様子を見てから定免にすべきかと思う。一律に定免にはすべきでは無い。水害の多い土地は損毛は格別なので、定めるのは難しい。無理して定免にすれば難儀は小百姓に及ぶであろう。】
一(第三条)(前略)【定免は大百姓は田地多く持ち、地味の良い田も悪い田も取り交ぜて持っているので悦(よろこ)ぶが、小高持ちは、多くは悪田を持っているので、定免は迷惑に思っている。でも村中の高持百姓が定免で年貢上納を請け負えば是非に及ばず、小百姓も請けざるを得ない。仍て甚だ不作の時は、小百姓年貢納めるべき手段が無く、大百姓ども申し合わせして援助して年貢上納はできても、小百姓の生活費までは面倒出来ない。こうした事情を代官は知らない。】右に付き定免の儀、総体一様には中々成り難き筋に御座候、この段地方巧者にて村方の様子も能(よ)く存じ、地方へ隨分厚く心得を用ひ、民間の事苦労に仕り、実に能くはまり勤め候御代官に、心底残らず存じ寄りの趣(おもむき)申し上げ候様にお尋ね成られ候て、様子委細に申し上げ候様、その上にて定免成り候村方能くゑらびしらに立ち候て、定免に仕り候儀(ぎ)然るべきと存じ奉り候、その上にも前條の通り田方の不作多き時は、検見取に仕る様に致させ候ては、平に行渡り候儀にては御座有るまじく候
(以下、略)                   (「辻六郎衛門上書」―『日本経済大典』)

 定免法の施行について、辻は極めて慎重かつ丁寧な準備をもって、実施可能な村々から行なうべきとした。
 この意見が採用されたのか、「当初、その施行は強制的・画一的ではなかった。享保三年(一七一八)九月、勘定奉行水野忠順(ただくに)・水野信房・伊勢貞敕(さだのり)・大久保忠位(ただたか)、同吟味役辻六郎左衛門・杉岡能連らから代官宛てに、定免制に切り替える村を書き出すよう命ずる触(ふれ)が出された。この触では、検地が正しく行われて田畑の等級・石盛が実態に即し、水利条件に恵まれて収量が安定し、豊凶による年貢収納量の変動が少ない村において、定免制を実施すると条件づけられ、『百姓納得(なっとく)ニてこれ無き分ハ、書き出され候儀不用(ふよう)』であった。定免の年季中、旱損・水損・風損などにより損毛が生じた年次の破免の規定は、同七年七月の触が初めてであり、一国ないしは一郡に及ぶような大損毛で、一村の農民が残らず願い出た場合、検見取にするとされた。」(新修『大阪市史』第三巻 P.787~788)という。
 しかし、この破免規定は現実的ではなかったようである。その後相次いで緩和され、享和12(1727)年一村限りでも50%以上の損毛、翌13年同じく40%以上となる。さらに享保19(1734)年になると、破免条項の条件はさらに緩やかになり、①三割以上の損毛の場合、②定免年季がたとえば五年の時に、3~4年も三割近い損毛となった場合、③現実の生産力に比して年貢率がかなり高い村の場合は、年季中でも再検討するという基準が設定され、これは幕末まで継続された。
 このような相次ぐ訂正は、定免法の採用が検見取によって補正されない限り、経済力・政治力を高める百姓たちの合意を得られないことを意味している。したがって、「幕府ははじめは定免期間を短くし、年期(*年季)が変わるごとに定免は百姓のためになる徴租法だから免率(*年貢率)の引上げに応ずるようにと、執拗に農民を説得し、それに応じようとしない場合、有毛検見にしてかえって年貢量がふえても知らないぞと、脅迫めいたおどしをかけて引上げをせまりさえしている。また綿作などによって畑作部分の増加が目立った畿内西国筋に対しては、三分の一銀納法を利用して年貢のせり上げをはかっている。」(『国史大辞典』大石慎三郎氏執筆)のであった。
 現実に、百姓たちの一揆・打ちこわしなどの強烈な異議申し立てが各地に起こっていた。なかでも、1732(享保17)年、山陽・南海・西海・畿内で蝗害(イナゴの災害)のために大飢饉が起り、多数の餓死者(『徳川実紀』の記録では96万9900人)が出た。さらに飢饉で米価が高騰し、このため、享保17~18(1732~33)年、江戸・大坂をはじめとした全国各地で強訴・打ちこわしが頻発した。
 それでも、幕府の強権的な年貢収取は強行された。では、幕府による現実の年貢収取の時代的傾向は、どのようなものであっただろうか。
 古島敏雄氏は、その著「幕府財政収入の動向と農民収奪」(日本経済史大系4『近世』下 東大出版会 1963年)で、「誠斎雑記」などを資料として、享保元年から天保12年の幕府の財政収入の統計表を作成している。これに基づく古島氏の分析・評価は以下のようになっている。享保以降を二つに分ける大きな画期として、宝暦期の終りと明和初年との間、すなわち1765年前後を定めた。そして、「この画期の前は享保改革につづく年貢増徴の努力が効果を上げえた時期であり、以後は寛政改革につづく時期のある程度の成功はありながら、年貢増徴の困難が増大し、大凶作へ向って年貢量が激減する傾向が強くなっている」(『日本経済史大系』4 近世 下 P.18)というのである。
 さらに古島氏は小区分し、五期に分けている。第一期―1716(享保元)年より1736(元文)年、第二期―1737(元文2)年より1764(明和元)年、第三期―1765(明和2)年より1786(天明6)年、第四期―1787(天明7)年より1819(文政2)年、第五期―1820(文政3)年より天保末年――である。
 古島氏は各時期の特徴を次のように簡単にまとめている。第一期は、将軍吉宗の治世の前三分の二を占め、「幕府経費の節減と定免制の採用」の時期、第二期は、「有毛検見・定免制による高度収奪」の時期、第三期は、「飢饉・農民の抵抗と年貢収奪の減退」の時期、第四期は、「年貢収奪の逡巡と年貢外収奪」の時期、第五期は、「破局的財政状態と貨幣の悪鋳」の時期―である。
 第一期は、「......『御取箇辻書付』によれば、一七一六年から二〇年にいたる間は取米高一四〇万石を上下し、二一年には一三〇万五千石、二二年は一四一万石をこえるが、二三年にはふたたび一三〇万三千石台と、天明・天保の凶作時四年間を除く最低となっている......」(同前 P.20)が、「......一七二五年以後顕著に増大し、二七年、二八年には一六〇万石こえ、以後一四〇万石を上下するところまで下降してこの期を終わっている」(P.22)のである。
 なかでも商品作物で農業生産力を向上させる畿内などへの課税はきびしく、享保20(1735)年には、田方にタバコ・木綿・藍(あい)・野菜を作付けすると、百姓勝手作りとして、田方の上毛並みに取り扱われた。元文3(1738)年には、畑地は破免(災害がひどい場合、決められた免率から減税すること)の対象から除外され、破免対象は田地のみとなった。そして、畿内・中国筋は畑・田とも綿作しているので、木綿検見と称して、田地も畑地と同様に除外された。(『国史大辞典』執筆は佐藤常雄氏)
 第二期は、1737年より始まるが、「前半は一年ごとに一〇万石前後の幅で変動する変動のいちじるしさで代表される年度で、一七三七から四八(元文二から寛延一)年にいたる期間である。......この年々の年貢賦課量の変動は検見取を主体とする年貢賦課法であることを示し、全体としての年貢賦課量の多さは有毛検見法によることの多いことを示すとみてよい。」(古島敏雄著「幕府財政収入の動向と農民収奪の画期」P.27)と、古島氏は推定している。
 これに対し、第二期後半の「一七四九(寛延二)年以後は、一七五七(宝暦七)年に谷があるとはいえ、全体として高位年貢賦課量が安定していることを特色とする。一年度だけの年貢賦課量は一七四四(延享元)年が最高であるが、五ヵ年平均では一七五一~五五(宝暦元~五)年期が最高で一六七万八千余石であり、以下一七四六~五〇(延享三~寛延三)年期、一七五六~六〇(宝暦六~一〇)年期、一七六一~六五(宝暦一一~明和二)年期の順であり、最高収奪年である一七四四年を含む五年期はこれらについで第五位となっている。長期的観察では農民負担は宝暦初年に最も高いので、一七四四年からただちに低下したとはいえない」(同前 P.27)のである。
 神尾若狭守春央(はるひで)は、1736(元文元)年3月に勘定吟味役に抜擢され、翌年6月には早くも勘定奉行に昇進した。悪名高い神尾は、その後1753〔宝暦3〕年5月に没するまで17年間に渡って辣腕を振るったのである。それは第二期の大部分に相当する。
 古島敏雄氏によると、「かれ(*神尾春央)の勘定奉行就任の年より幕府直轄領の年貢賦課率、量は飛躍的に増大している。御取箇(*年貢のこと)は前年(*1736年)の二九・二%から三六・六%に、賦課量は前年の一三三万四千余石から一六七万余石に増大している。......以後一七四八(寛延元)年に至るまで年々の賦課率・量は激しい変動をみせつつ、一七四四(延享元)年の最高一八〇万一千余石、最低一七四二(寛保二)年の一四一万九千余石の間を変動している。」(同前 P.23)という。1744年の180・1万石は、江戸時代後期の最高額であり、これ以後実現していない。
 この年、神尾春央の一行は西日本を巡見し、畿内から瀬戸内地方の増徴を督励している。享保元年以降、幕末までの間の最高額180・1万石余の収取に対して、百姓たちの不満は強烈であり、摂河泉の村々は大訴訟を起こしている。翌年の延享2年、約2万人が京都に上り、両町奉行・所司代・公卿に出訴し、これがかなわぬ場合は、摂津国東成郡の17カ村の庄屋が江戸へ出訴するとした。
 事件後、幕府は堂上方出訴をとがめて、庄屋・年寄の役儀をとりあげ、過料の処分に付した。他方、「事件の原因は代官青木次郎九郎の手代どもの不届(ふとどき)にあり(*堂上方への出訴を示唆した)、神尾春央の廻村にはかかわりはないとして、手代1名死罪、2名遠島・改易、11名所払、代官には百日閉門の処分を行なった。」(阿部真琴・酒井一著「封建制の動揺」―岩波講座『日本歴史』近世4 P.6)のであった。
 本多利明はその著『西域物語』下で、「神尾氏曰く、胡麻の油と百姓は、絞れば絞る程(ほど)出る物也と云(いえ)り。不忠不貞云うべきなし。日本へ漫(みだ)る程の罪人共(とも)云べし。此の如きの奸曲(かんきょく *わるだくみ)成る邪事(まがごと)は消失(きえうせ)がたきものにて、渠(かれ)が時の尹(いん *中国古代の官名)たる享保度の御取箇辻(*享保改革時の徴集年貢総量のこと。辻とは集のこと)を以て、当時の規鑑(きかん *手本)となるは歎(嘆)かわしきに非(あら)ずや。......」(日本思想大系44『本多利明・海保青陵』岩波書店 P.145)と、痛烈に批判している。
 延享2(1745)年10月、神尾をバックから支えた勝手掛(*財政と農政を担当)老中・松平乗邑(在位1722~45年)は免職となる。その理由は定かではない(この年9月に吉宗は将軍職を子息の家重に譲るが、その際、乗邑には1万石を加増している)。乗邑の免職にともない、勘定奉行・神尾の職務も制限される。神尾に対しては致命的な処分とはいえないまでも、翌1746年、従来、神尾の専管であった金銀銅山掛(かかり)、長崎掛、村鑑(むらかがみ)、佐倉小金牧、新田方掛、検地奉行などが、勝手方の共同取り扱いに変更されたのであった。(『日本史大辞典』)
 この神尾春央も、1753(宝暦3)年5月に死没し、乗邑=春央体制は、無くなる。しかし、幕府の収奪政策は、その後の宝暦期を経て、田沼意次時代まで、享保改革の増徴路線を歩んでいる。
 1752(宝暦2)年は先の1744(延享元)年につぐ増徴の高まりをみせ、170万4千余石の年貢収納を得ているが、この両年次とも一時的なものに終わっており、それぞれ翌年からは減収している。
 1752年のピークを最後に、年貢収納は下降傾向をたどるが、これを見て、幕閣中枢は勘定奉行・勘定吟味役に対し、1755(宝暦5)年2月、次のような督励を行なっている。

                             御勘定奉行
                             同吟味役
御勝手向き御先代(*将軍吉宗)御定式も相立て候処、何となく相ゆるみ(相緩み)、一両年は別て御入用相増し、御取箇(おんとりか *年貢)ハ相減じ候、畢竟(ひっきょう)御勘定奉行ども取計(とりはからい)ゆるく(緩く)、吟味行届(ゆきとどき)申さざる故、諸役所も相ゆるみ候故の儀と〔*将軍が〕思召され候、これに依り御勘定所取計らひ、御代官勤め方等万事の儀、神尾若狭守(*神尾春央)相勤め候節の通り心得(こころえ)申すべく候、年来(ねんらい)有徳院(*将軍吉宗のこと)様お世話あそばされ候儀ども相破り、甚だ如何成(いかなる)事ニ思召し候、向後(こうご)急度(きっと)心懸ケ(こころがケ)、出精致し、相勤むべく候、この段(だん)申し聞かすべき旨(むね)仰せい出され候、
  二月                      (『御触書宝暦集成』八三四号 P.276)

 この一両年、経費が増し、年貢収入が減じてきているのは、詰まる所、勘定奉行の指導が緩く、吟味役が行届かず、関係役所が緩怠していることに原因がある。仕事向きは神尾若狭守の勤めた通りに行ない、精を出して勤めるべきと、仰せられた―というのである。翌3月にも、同様の督励がなされ、4月には、各部署の向こう3年間の経費の上限額を指定し、その範囲内で御用を為すべきと命じている。
 そして、翌宝暦6年3月にも財政収支を厳しくするように、次のように繰り返し命じている。

                            御勘定奉行
                            同 吟味役
御勝手向き近年相ゆるみ、御取箇減じ、甚だ如何(いかん)至極(しごく)ニ付き、去る春仰せ出でこれ有り、その節万事神尾若狭守相勤め候節の通り心得、年来(ねんらい)有徳院(*将軍吉宗のこと)様お世話あそばされ候儀ども、相破り申さず候様(そうろうよう)急度仰せい出され候処、右の御趣意ニ相違致し、我意(がい)を立て、不相当の新法もこれ有り、又(また)は存寄(ぞんじより *意見)これ有り候ても、聢と(しかト *確かに)相談も致さず、陰ニて御用向き雑談に及び候段、甚だ不届(ふとどき)の次第に思召され候得共(そうらえども)、是(これ)までの儀は、先ず御沙汰に及ばず候、向後(こうご)申し合わせ、諸事若狭守勤め候趣(おもむき)ニ立ち戻り候様、取計(とりはからい)申すべき旨(むね)仰せい出され候、これ等の趣、急度相守らるべく候以上、
   三月            (『御触書宝暦集成』八四一号 P.279)


 昨年、有徳院様が命じたことに相違し、わがままを通し、不相当な新法も作り、さらに意見があっても、きちんと相談するでもなく陰で雑談にしているなど、甚だ不届きなことである。これまでのことは不問に付すが、今後は仲間内でよく相談し、諸事神尾若狭守の勤めぶりに立ち戻って、仕事を為すべきとしている。ここでもまた、神尾の時の仕事ぶりに立ち戻るべきと、繰り返されている。
 しかし、代官をはじめ勘定方下僚層には、不満と反発があったようである。その不満が抵抗に発展したのは、代官層の支配下の百姓たちの広範な支持を得ていたからである。「宝暦期には、天和・享保期につぐ大幅な代官の代替がみられたが、そのさいの処罰理由は前代のような代官の年貢滞納や横領ではなく、百姓帰服・支配地平穏という点に集約されるようになっている。享保期以降の農民闘争の高まりが、年貢増徴をたえず阻止する役割を果たし、代官にとっても支配地の鎮撫が年貢徴集の任務のほかに新しい課題として加わってきている」(阿部真琴・酒井一著「封建制の動揺」―岩波講座『日本歴史』近世4 1963年 P.6~7)のであった。
 しかし、1766~75年は前の10年間よりも平均で13万石も減少している。以降、取米は幕末まで全般的に減少傾向に陥る。神尾たちの時代のような年貢量確保は、もはや百姓たちの果敢な一揆などで実現できなくなってきたのが実情であった。
 ただ注意しなければならないのは、18世紀後半になると、畿内など貨幣経済がすすんだ地域では、三分の一銀納などで年貢米が貨幣で代替されてくることである。姑息な幕府は百姓の代銀納の願い出を利用して、その代銀納の値段を値上げして許可しているのである。

補注1) 『誠斎雑記』は、勘定組頭の向山源太夫誠斎が幕府の命を受けて編纂したものである。享保元年から天保12年の間の幕府年貢収入を「年貢総額辻(つじ)書付」と題して記し、あわせて年貢総額を米数量で示し、石高に対する年貢賦課率(御取箇数)も計算している。なお、「辻」とは寄せ集めたものを意味し、言う卯なれば「〇〇全集」の「集」に当たる。「取箇(とりか)」とは、年貢の別称。
 2) 年貢は、検地帳に名請(なうけ *検地された土地の所持者を明記すること)された田畑・屋敷地に賦課された税である。当時の呼称では、「本土物成(ほんどものなり)」、「取箇」、「本年貢」などと称された。これへの付加税には欠米(かけまい)、口米(くちまい)、込米(こみまい)などがある。諸役は、山野・海・河川などでの収穫物への小物成(こものなり)、高掛物(たかがかりもの)、夫役(ぶやく)など種類の多い雑税である。
 3) 関東筋では、主に田方では米納であったが、畑方は金納(貨幣納)であった。これに対して、上方筋・西国では、村高の三分の一が畑方と決め、その分を銀納とした。これが三分の一銀納である。
 4)近世の検地では、太閤検地が有名である。その太閤検地では、指出検地(*従来からの領主が調査した田地面積・収穫量・作人などを百姓側から提出させて検地としたもの)の場合もあるが、原則として土地を竿入れして丈量し、地味によって田畠とも上・中・下・下々・屋敷地と区別し、それぞれの地種に斗代(石盛)を設けて石高を算出した。斗代(石盛)は、米を栽培すると仮定した場合、土地一反当たりどれだけの米が取れるかという法定収穫高で、実際には米の取れない畠や屋敷地も米の収穫高で換算した。斗代の決定に当たっては、生産条件や裏作なども考慮して総合的に判断された。斗代は総合的な判断で政治的に決定されたものである。この斗代によって規定された石高もまた、政治的な産出物であることは論をまたない。この石高が家来の軍役や年貢の基準となる。しかし、高はその土地の変化(土地生産力が向上した場合とか、逆に荒地化ないしは劣悪化する場合とか)によって、年数が経つと、実際の生産力とは乖離するものである。

 (ⅱ)農民層分解にともなう無高と下層農民の増大
(堺近郊農村の地主の悲鳴)
 天明元(1781)年7月、和泉国大鳥郡幕領の舳松(へのまつ)村・中筋村・北庄村などの庄屋・年寄(地主でもある)たちは、堺奉行所へ定免の引下げを願い出る。そこには、堺周辺の農村の歴史的経過と地主経営の厳しさが込められていた。
 堺の町は、大坂夏の陣(1615)年で焦土と化した。だが、戦後の「元和の町割り」で、地続きの北庄村・舳松村・中筋村の3カ村と湊村(元々は舳松村の枝村)のそれぞれの土地の一部(総計63町歩余)が堺に編入された。そして、堺の北・東・南の三方に濠をめぐらし、農村部と市街地との境界とし、湊村を除く3カ村の百姓たちは市街地に移住させられ、農人町(18町)が成立した。3カ村の村域は耕地のみとなった。1)
 宝永元(1704)年に、大和川の付替えという大工事が行なわれた。大阪城方向へ北流していた大和川は、堺方面へ向きを変えられた。このため、新大和川の河口は、土砂で埋まり、海辺には洲が出現し、そこで次々と新田開発が始まった。その広さは、115町9反余となった。
 その後、安永6(1777)年の頃になると、「一体当村方(*上記の3カ村)の儀ハ村居これ無き出屋敷と唱え、百姓百三十人ほど村々地内に住居いたし、その余ハ堺町内農人町ニ住居いたし候もの共ニて、村高八千三十八石四斗これ有り候内、六百石余は出屋敷住居の百姓所持いたし、五千四百余は堺農人町に住居したし候もの所持いたし、二千二百石余ハ堺町人の所持いたし(候)」ものとなっている。(以上は青木虹二編『編年百姓一揆史料集成』第五巻 三一書房 P.395~397による。以下の引用も同じ。)
 願書によると、先の村役人たちが定免の引下げを願い出た理由の主なものは、以下の通りである。
 第一は、現在の村々の石盛(こくもり *土地の種類や等級に応じて決められた法定収穫高で年貢の規準となる。斗代とも称す)は、堺が繁盛していた頃に決められたもので、現在からみると高く設定されたものであること。
 第二は、堺農人町の者はもともと百姓であったが、戸籍も堺となり、生活も堺の風俗に染められたので、町奉公ばかりに出て、農業が振るわないこと。
 第三は、田畑一円に麦・菜種を作り、麦の合間に大豆をしつけているが、その分は年々の年貢・諸役の額に引き合わず、地主たちが足りない分を弁納している始末であること。
 第四は、大和川河口部に新田が出来て、そこでは農具・肥料・食料などが支給され、堺廻りの村々から小作人が移ってしまい、それらの村々は荒廃してしまったこと。
 第二の理由は、願書によると、「右(みぎ)農人町のもの共(者共)は全て百姓ニ御座候処、堺人別(*堺の戸籍)ニ相残り候故(そうろうゆえ)連々人気(*気風)代り、堺町人の風俗ニ相成り、百姓の所業(しょぎょう)一向これ無く、男女とも町奉公に出候(でそうろう)もの多分これ有り、......」と、非難している。堺の風俗に染まってしまい、百姓仕事を嫌い、男女とも町奉公に出るばかりである―というのである。そこでは、農業の給与よりも、町奉公のそれの方が高いので、農業を避けている状況が垣間見ることができる。
 さらに、第四の理由では、「......新田開発出来仕(つかまつ)り候ニ付き、農人町小作人の内(うち)勝手宜しからざる旨(むね)ニて小作地地主へ相返し、右(みぎ)新田の小作いたし、又(また)は無高(むだか)百姓、小高持(こだかもち)百姓等町方奉公相稼ぎ候ニ付き、自然と作人(さくじん)数少(かずすくな)ニ相成り、地主共の儀も堺町連々不繁昌ニ随ひこの節別て(*とりわけ)困窮仕り候故、小作人これ無く候迚(とても)作男等抱え入れ手作り仕るべき助力も御座無く、......」と、作人の不足で地主経営の困窮を訴えている。その惨状ぶりは、地主たちの悲鳴とも思われるほどである。

(岸和田藩の奉公人規制)
 働き手が、村域・領地域を越え、農業・非農業の区別を越え移動することは、封建支配・封建秩序にとって誠にふさわしくないことである。このため、幕藩権力やその下請けとしての村々は、さまざまな規制を設けた。
 岸和田藩は、1794(寛政6)年の「五月三日郷庄ニて庄屋壱人ツツ御召出し、書付を以て仰せ渡され候」とした。(以下、書付史料は、萬代悠著『近世畿内の豪農経営と藩政』塙書房 2019年 P.290~292 から重引)
 書付に示された藩の新たな法令は、(1)村内各家に「身分相応」の「高」の所持義務化、(2)特定の者以外の他領奉公の禁止、(3)織機の所有台数の制限、(4)倹約令―である。(この史料は、萬代悠著『近世畿内の豪農経営と藩政』塙書房 2019年 P290~292に掲載されている)
 働き手の他領奉公までに及び、肝心の領内農業がおろそかになり、「浮高」(無主の耕作放棄地)まで出現している状況である。そこで、藩はついに、(2)の他領奉公の禁止と、(1)の高所持の義務化に及んだのである。また、兼業農家が多い領内の事情を考えながら、(3)の政策を発している。
 しかし、他領の地主や非農業部門の経営者との雇用をめぐる厳しい競争は無くならなかったと思われる。激しい競争にさらされた豪農の要源太夫は、1824(文政7)年10月、他領での岸和田藩農民の雇用禁止令と、堕胎禁止令を地方奉行に願い出ている。それによると、「......近年ハ町々へ出稼(でかせぎ)又(また)は奉公ニ参り、大作の方へ奉公人気らい(嫌い)甚(はなは)だ当惑仕(つかまつ)り候」(萬代悠前掲書 P.3)と訴えている。すなわち、近場の町々へ農民が出稼ぎや奉公に出て、土地所有の大きな地主のところへの奉公を嫌って来ない―というのである。奉公人が地主を嫌い、町々へ奉公あるいは出稼ぎにでるということは地主のところより町々の方が給与あるいは労働条件が良いからである。このことは小作人についても同様に言えることである。
 土地を多く所持してもそこで働く人間がいなければ土地を遊ばせるということになる。そこで源太夫は給与・労働条件の改善ではなく、藩に泣きついて他領での雇用労働禁止令と堕胎禁止令の発令を歎願したのである。政治の力で豪農経営を維持しようとしたのである。しかし、経済分野の競争を政治の力で有利にしようというのは、一時的な方策ならばともかく、中・長期的には失敗するのは目にみえているものである。
 現実に、小作人たちは非農業部門への労働移動だけでなく、近隣の村々への通勤小作を選択するほどであったという。
 これに対し、「村側は他村出作(でづくり)・小作の禁止・制限を取り決め、場合によっては賃稼ぎを制限した......。領主側も、地主・村役人側の要求を受け止めながら他村出作・小作の禁止・制限令を発令し、ときには諸商売制限令を発令した......。しかし、これらの効果は薄い傾向にあった。」(萬代悠著『近世畿内の豪農経営と藩政』 P.108)と言われる。
 実際、小作人たちの他領での小作の動きは止まなかったようである。
 津田秀夫氏によると、平野郷町2)の1675(延宝7)年の検地高は5621石余であるが、同町の入出作は、次のようになっている(1705〔宝永2〕年の「明細帳」による)。他所へより同町への入作は計441.82石であるが、同町から他所への出作は計3211・0004石で、差引き2769.1804石も出作の方が圧倒している。出作する他所は、摂津と河内である。平野郷町より他所の方が小作料の面で有利だったからと思われる。(津田秀夫著『近世民衆運動の研究』P.231~232を参照)
 和泉国の忠岡村でも、制限令にもかかわらず他領小作が続出している。「和泉国泉郡忠岡村(現・大阪府忠岡町)においては、他領小作の制限を禁止する約定が『毎度』結ばれてきたが、その効果もなく他領小作が続出したという。これらに対し寛政二年(一七九〇)には、またしても代官所が他領小作禁止令を発令するに至っていた。ところが、忠岡村の場合、それでも他領小作する者が続出し、寛政四年(一七九二)には他領小作を選択した者の一部が代官所から処罰を受けた......」(萬代前掲書 P.108)と言われる。
 働き手が農業・非農業を問わず、領地の自他を問わず、それらを越えて就業するようになると、当然のこととして、領主やその意を受けた村役人などの規制がかかる。この点について、「早く元文四(一七三九)年一一月、土屋領上泉組村々(*現・堺市)では他領への出奉公を禁止しており、田安領知でも宝暦三(一七五三)年に、領知方奉公人が満たされれば、これまでどおり他領へ出ることを許していた。」(『堺市史』続編第一巻 P.939)といわれる。
 摂津国西成郡北中島の村々(現・大阪市西成区)は、奉公人の給銀や雇傭方法について、次のような協定を明和6(1769)年に結んでいる。

        北中嶋郷申合せの事
一 近年男女奉公人給銀并(ならびに)畑作多キ村々、百目(*百日間のことか?)の日雇その外(ほか)日雇賃まん時の賃銀前々(まえまえ)とハ格別高直(高値)ニ相成り候ニ付き、困窮負手(*負債を持つ者)の百姓抱えかね雇ひかね、自然と耕作麁末(粗末)ニ相成り、大切成ル御年貢取り立ての差支(さしつかえ)ニ相成り、村役人共(ども)難義(難儀)ニ付き、左ニ相定メ候事
一 男女奉公人給銀これまで壱ヶ年切りニ究め来り候義、村々ニて不同これ有り候得共(そうらえども)、右(みぎ)村格の銀高?(より)弐割下ケを以て相極メ候筈(そうろうはず)、互ニ相談相決め候事
一 年季奉公人の義、右同断これまでの格?(より)引下ケ相抱え申すべき事(こと)右の通り北中嶋高持(たかもち *土地を所持する農民)百姓困窮相重なり不相続(*百姓を続けられないこと)ニ付き、互ニ相談の上(うえ)相定メ申す処(ところ)実正なり、然ル上ハ何方(いずかた)ニ奉公仕り、并(ならびに)主人の名ハ何と申す義聞き糺(ただ)し、自然(しぜん)このたびの申合せの内ニ候ハハ(はば)右(みぎ)先主へ申し届ケ、先主ニ申し分これ無く候ハハ抱え申すべく候、若又(もしまた)先主に弐割下ケを申すニ付き他村へ罷り越し候哉(そうろうや)、その外(ほか)指支(さしつかえ)御座候ハハ相抱え申すまじく候、その為に連判仕り候処(そうろうところ)件(くだん)の如し
  明和六年
   丑十一月                     北中嶋村々
              (新修『大阪市史』資料編第十一巻 P.321)

 ここでは、村内の規制では限界があると見て、いくつかの村々との間で協定し、奉公人の給銀などを規制しようというのである。しかし、よりよい条件を求めて、奉公人たちは自領以外でも奉公先を探したのである。

〈篠山藩の奉公人規制〉
 藩境や村域を越えた働き手の移動は、畿内の近国でもみられた。その一例として、丹波国篠山藩(篠山城は兵庫県多紀郡篠山町)からは、「江戸下り酒」を供給する灘目とその周辺(今日でいうと、西宮市・神戸市・芦屋市など)への冬季の出稼ぎが多かった。『藩史大事典』第5巻近畿編(雄山閣)でも、「藩領は農業とくに稲作以外にみるべき産業がなく、単作であるので、冬期一〇〇日間は酒造地池田、伊丹、灘五郷に出稼ぎに出る者が多かった。」(P.415)と記されている。
 篠山藩は、他領への出稼ぎについて、古くは万治3(1660)年に、前もって届け出るようにとの御触れを発している。それが、宝永年間(1704~11年)になると、他国奉公が一切禁止されるようになる。(丹波篠山藩の奉公人対策については、以下、岡光夫著『封建村落の研究』有斐閣 1963年に依る)

一、例年村方より、池田筋その外(ほか)え罷り越し候百日奉公の儀、今年より無用に仕るべく旨(むね)仰せ出され候間、支配方へ右の通り御申し付けこれ有るべく候、惣て他所奉公人の儀(ぎ)弥(いよいよ)以て停止候間、急度(きっと)御申し付けこれ有り候 已上(以上)
  宝永七(*1710)年八月十七日         志知孫助
             (岡前掲書 P.152 から重引)

 灘目などの酒造業の発展は、毎年の農閑期の百日間を冬場の酒作りの働き手をますます必要とし、丹波からも誘引したのである。「百日奉公」とは、丹波などから冬季の出稼ぎが行なわれた酒造業の慣行である。宝暦初年(1751年)ころには既に、篠山藩の支配地では、「先年?(より)百日稼ぎとて他所稼ぎのもの多く、一統(*高持百姓)差支(さしつかえ)、高持百姓〔*にとって〕奉公人これ無く、難渋仕り御田地(おでんち)疏略(そりゃく)ニ罷り成り候様相成り候」(岡前掲書 P.152)と言うほどになる。つまり、「百日稼ぎ」(10月から翌年2月ころまでの農閑期)ではなく、早くも八月ころから出稼ぎに出るものも増えてくる。しかも、一説では、奉公先は3割が領内で、残りの7割が他領であったと言われる。そのため、地元の農家で働く男女奉公人は不足し、それどころか武家奉公人すら不足する事態となっているのであった。
 だが、このような事態が、給与・労働条件の違いから他所稼ぎが増えていることを藩は軽視してきた。そして、宝暦12(1762)年、「......〔*領内の〕奉公人を増加せるための策として、他所稼ぎや百日稼ぎは従来の框内(かまちない *枠内)で許すが、夏期は差留(さしと)め在方で農業の下作(したさく)や他の所業もなく、奉公もせずにいる者も罰するというのである。その他、休日を半季に七日までとし、洗濯休みを五日として、日雇の男女の寝泊りは届出(とどけで)を要すると規定している。この達書と同時に『町方・在方奉公人給金定』を出し給金の高騰を防止せんと試みている。」(同前 P.154~155)のであった。
 農民たちは生活を維持するために、他領にまで出稼ぎをするのは、領内の給金では足りないからであって、これを無視して給金を上男・中男・下男・小丁稚・上女・中女・下女・伝母のクラス別に、また日雇も同様にクラス別に統制給金を定めて、百姓たちに守らせようとした。
 明和4(1767)年には規制はさらに強化され、「同年2月には女奉公人を悉く呼戻し、百日奉公も杜氏(とじ *酒造り職人)と杜氏脇を除いて呼戻して、奉公人の人別改(あらため)」(同前 P.155)を強行している。だが、それでも帰国した奉公人たちは藩の江戸詰め奉公人に一人も応募しなかった(安い給金なので)ので、藩は奉公人に税を課し、これを納めない者は他所奉公に出ることを禁止した。
 これには、さすがの百姓たちも怒りが募り、300~400人ほどが集り、不満と抗議の意を示した。そして、この集会の主催者たちは、手鎖や「押し込み」(蟄居)の処罰を受けるのであった。
 だが、藩の単純な抑圧策に対し、「在方の事情に精通している地方奉行が次の如く反論して漸く従来通りとなった。/百日奉公人急度(きっと)差留(さしとめ)候ては、夥しき人数彼是(かれこれ)難渋を申し出べし、その上(うえ)御領分え取り込み候銀子(ぎんす)これ無く、御年貢も自然と差支(さしつかえ)の筋もこれ有るべし、旁(かたわら)左様ニては地方の難儀....../すなわちこの頃では百日奉公が、この地域の農民にとって必要欠くべからざるものとなっていることを、地方奉行などは認識するようになっている。」(同前 P.156)のである。
 他所稼ぎ、百日稼ぎは、今や百姓経営・生活の不可欠なものとなっているだけではなく、藩財政の必要不可欠な一環をもなしているのである。
 しかし、藩の基本方針は、寛政・享和期(1789~1804年)になっても変わらず、男女奉公人の他所稼ぎは無用であり、当地で奉公すべきとした。百日奉公についても「百日株」を与えて、新規の奉公を禁止し、「平の者」は45日間、杜氏は100日間とし、村を出るときは村役人に届け出ることを厳しく達している。
 だが、この法度は守られず、「抜奉公」が続き、藩は寛政8(1786)年、15カ村55人が手錠、6カ村の五人組全員が押し込め、11カ村の村役人が戸締(蟄居)や御叱りを受けている。
 藩の統制は続けられたが、ようやく享和2(1802)年に成って一部が緩められるようになった。すなわち、新規の百日稼ぎが許され、その期間は秋の彼岸から春3月の内の百日間とされた。そして、杜氏に限って、この期間以外の夏作業30日間も許された。
 しかし、百姓たちの抜奉公はなくならなかった。しかも、藩内の奉公人不足も続き、篠山藩は文政7(1824)年夏、農繁期に限って、他領の日雇を一部雇傭することを許すようになった。だが、藩の統制給金は他領に比べ低すぎ、百姓たちの苦情は引き続いたのである。
 近世畿内においては、産業の枠組みを越えて「労働市場」が形成されつつあった。すなわち、「近世畿内においては、都市化とともに、町場であれ農村部であれ、製造業やサービス業などの非農業部門が広く展開し、農閑余業としての賃稼ぎの機会が多かったことがよく知られている(中村哲著『明治維新の基礎構造』未来社 1968年、津田秀夫著『近世民衆運動の研究』三省堂 1979年、谷山正道著『近世民衆運動の展開』高科書店 1994年、常松隆嗣著『近世の豪農と地域社会』和泉書院 2014年等)。都市化の進展と農村工業の発展により、労働市場が統合された局地内においては、農業部門から非農業部門への労働移動が生じる条件が整っていた。実際、一八世紀後半以降の近世畿内、とくに非農業部門成長地域においては、農業部門から非農業部門への労働移動と農業労働力不足が問題となっていた」(萬代悠著『近世畿内の豪農経営と藩政』P.39)というのである。

 〈複雑な各地域の農民層分解〉
 摂河泉でも、農民層分化を時系列的に示す史料はなかなか見いだせないのが実情のようである。図表??は、摂津国西成郡十八条村(現・大阪市淀川区)のもので、新修『大阪市史』第四巻(P.602~603)の図表をもとに作成したものである。
 十八条村は、大きな村とはいえず、村高は慶長15(1610)年の片桐且元の検地では、307石余である。「享保五年(一七二〇)の村明細帳(藤井家文書)では三〇七石余のほかに五石余の新田高を記す。元禄四年(一六九一)の差出帳(同文書)によれば家数七一・人数三七五、牛一五。畑では綿作が主で、瓜・茄子(なす)・菜大根・大豆・小豆・角小豆なども作った。前掲享保五年の村明細帳によると田は二〇町余で、うち一八町余が両作、残り二町余は片作(*一毛作のこと)。畑は一一町余、別に一町歩余の新田を記す。享保二〇年の村明細帳(同文書)によれば村の用水は神崎川から竜骨車でかき揚げ、悪水は蒲田村から中島大水道へ落としていた。年貢米は神崎川を利用し船で大坂と京都に運んだ。」(『大阪府の地名』P.593)といわれる。
 図表11に見られるように、十八条村は1692(元禄5)年には71戸(高持43戸プラス無高28戸)であったが、その後の50数年で55戸(延享2年)に減少し、以降、慶応元(1865)年まで、54~58戸の間を推移した。18世紀半ば以降は、戸数の変動は少なかったといえる。
 同様に、無高は18世紀以降、20%台を維持し(寛政3年が最も多く17戸、29.3%)である。高持の戸数は元禄5年以降、一貫して40戸台である。しかし、その階層構成は大きく変化している。
 文政4年から70石以上が出現し、20~70石の階層が壊滅する。さらに15~20石層は、元禄5年、文政4年の時以外には、存在しなくなる。これに対し、5石未満層は、元禄5年から引き続いて、20戸台、高持の内部で5~6割を占め続けている。5石未満と無高を合わせると、元禄5年の全戸数の78.9%を除くと、以降、67.2~76.4%の間を推移している。


*図表11  摂津国西成郡十八条村の階層分化(現・大阪市淀川区)
 年     ~70石 ~20石 ~10石  ~5石   5石未満 高持計  無高
1692(元禄5)年   ―    3(7.0)   4( 9.3)   8(18.6)  28(65.1)  43(100.0)  28
1745(延享2)年   ―    1(2.3)   5(11.6)   12(27.9)  25(58.2)  43(100.0)  12
1791(寛政3)年   ―    2(4.9)   4( 9.8)   8(19.5)  27(65.8)  41(100.0)  17
1800(寛政12)年  ―    2(4.8)   4( 9.5)   7(16.7)  29(69.0)  42(100.0)  13
1821(文政4)年  1(2.3)    ―    3( 7.0)   12(27.9)  27(62.8)  43(100.0)  11
1830(天保元)年  1(2.4)    ―    6(14.3)   11(26.2)  24(57.1)  42(100.0)  14
1856(安政3)年  1(2.2)    ―    5(11.1)   13(28.9)  26(57.8)  45(100.0)  13
1865(慶応元)年  1(2.2)    ―    6(13.3)   10(22.2)  28(62.2)  45(100.0)  12
出所)新修『大阪市史』第四巻のP.602~603から抜粋し作成
 
 十八条村の農民層分化は、遅くとも18世紀半ばには始まり、文政4年からは70石以上が1戸出現するのに対し、天保元年からは15~70石層が無くなり、5石未満と無高は相変わらず6~7割台で常態化する特徴を持っている。それは、両極分解の一つの典型であろう。


図表12  摂河泉各地の階層構成
      摂津・河内米作地帯   河内綿作地帯   和泉国綿作地帯 (単位:戸)
~100石     3( 0.2%)    4( 0.5%)    4( 0.2%)  
~50石     18( 1.9)     17( 2.1)    12( 0.8)   
~30石     28( 2.9)     38( 4.8)    32( 2.2)   
~20石     62( 6.4)     46( 5.8)    40( 2.8)   
~10石    168( 17.3)     97( 12.3)   184( 12.8)   
~ 5石    185( 19.1)    135( 17.1)   275( 19.1)   
5石未満    507( 52.2)    454( 57.4)  892( 62.0)       
高持合計    971(100.0)    791(100.0)  1439(100.0)       
無高      〔298〕    〔493〕   〔1161〕        
出所)『大阪府史』第七巻 P.248
注1)摂津・河内米作地帯は、摂津国豊島郡桜塚・服部・曽根・利倉・穂積・下今在家・勝部・
垂水・山之上・洲到止・島江、摂津国島上郡高浜、摂津国島下郡耳原・太田・下新田、河内国
交野郡田宮・招堤・野、河内国茨田郡間門二番・中振・金田の21カ村。
河内綿作地帯は、若江郡小若江・新家・下小坂・近江堂・長田・御厨(奥方)、渋川郡荒川(本
郷・横沼・三の瀬・長堂)・岸田堂、志紀郡太田、丹南郡北野田・小平尾・岩室・池尻・今熊・
岡、丹北郡松原新堂・若林の17カ村。
和泉綿作地帯は、大鳥郡大鳥・上石津・下石津・草部・市場・市・赤畑・釜室・泉郡宇多大津・
忠岡・南郡三田・中・積川・摩湯・稲葉・包近・日根郡波有手・自然田・樫井の19カ村。
2)時期は天保~明治年間のうち、最も幕末に近い年次。

 図表12は、幕末期、摂河泉の農民層分化を『大阪府史』第七巻から転載したものであるが、同書はその特徴をまとめて、次のように述べている。「多様で複雑な階層分化の到達点である幕末期、地帯別にある程度巨視的に観察すると、表21(*図表12のこと)のとおりである。無高数は、すべての村について知ることができないので、判明する村だけの集計であるが、これによると、北摂・北河内の米・菜種作地帯では、中農層の比率が大きく、分解度が相対的に低い。河内綿作地帯では、二〇石以上の層が厚く、分解度が高い。和泉綿作地帯も高度な分解を示しているが、......二〇石以上層の比率が極度に小さくて、五石以下層と無高層が圧倒的に優位にあり、下層への分解が顕著に進んでいる。」(P.249)と。
 なかでも特徴的なのは、無高層と五石以下層の合計が河内や和泉で、極めて多いことである。全戸数に対して、無高層と五石以下層を合わせると、河内・茨田郡中振村で59.9%(慶応2年)、河内・若江郡小若江村で82.3%(天保12年)、河内・志紀郡太田村で80.9%(元治1年)、和泉・泉郡忠岡村で84.4%(慶応3年)を占めている。さらに無高層だけでみると、中振村39.4%、小若江村74.7%、太田村60.6%、忠岡村46.8%となる(『大阪府史』第七巻 P.247)。このように無高層や零細農が村に滞留できたのは、農業以外の職業に就くことが可能であったからに他ならない。
 摂河泉で普通地主・小作関係が広がった最大の要因は、商品経済の発達を基盤に、働き手が有利な給金や労働条件を求めて、農業の内外へ、また領域を越えて自領他領へ移動し、既述のように局地的な「労働市場」が形成されたからである。
 その際に、もう一つ、摂河泉での人口動向に留意することが肝要である。
 近世畿内の人口は、その経済規模から言えばそれほど過剰人口ではなかったと言われる。「最近の斎藤修の研究によると、室町時代から人口が増加したという畿内の農村部は、一七世紀には静止人口となっていた可能性が示されている(斎藤修著『比較経済発展論―歴史的アプローチ』岩波書店 2008 P.18)。一八世紀以降については、日本の農村家族の出生力は西欧と比較して高くなかったこと、畿内の場合、遅くとも一八世紀以降に人口が減少し、人口密度も低下したことが明らかにされている(斎藤修・高島正憲著「人口と都市化、移動と就業」―『岩波講座日本経済の歴史』第二巻 2017年 P.62~93)。したがって近世畿内は、その経済規模に比して、もともと農家世帯内に過剰人口がそれほどいなかった可能性が高い。そのなかで近世畿内の特定地域においては、概(おおむ)ね一七世紀末から農村工業化が進んだ(八木哲浩著『近世の商品流通』塙書房 1962年 P.86~163)。しかも農業部門の高い労働生産性は、短期的な遊休労働を生み出したので、農業規模の拡大が制限的であった場合、その比較的安価な労働が非農業部門の成長を促したと思われる。やがて非農業部門の成長が一定以上に達すると、遊休労働だけでは労働力が不足し、非農業部門は農業部門から労働を引き抜くことになる。局地内において非農業部門への労働供給が進み、遊休労働が枯渇すると、その局地内で労働市場が統合され、労働希少化が生じる。」(萬代悠著『近世畿内の豪農経営と藩政』P.40)というのである。
 一般的に近世日本の農村部では、周りに非農業部門の労働需要がほとんどなく、自作地・小作地をもたない農民は農村内に滞留し、日雇いや駄賃稼ぎで生活費を稼ぐというかつかつの状態であった。したがって、小作料の減額を要求できず、全般的に「買い手市場」で、地主側が有利であった。(もっと条件が悪いと、大都市部への冬季の長期出稼ぎとなる)
 それが畿内では、農村部の過剰人口が比較的高くなく、また近くに成長する非農業部門が存在し、労働需要が高かった。故に、地主は非農業部門の経営者と労働者確保で競争となり、局地内での「労働市場」が形成されたのである。

注1)近世初期、堺町の近郊農村は政治的・経済的に堺町と密接な関係にあり、農村部は堺奉行により「堺付き村」とされ、その支配下にあった。慶安(1648~52)ころ、堺奉行の支配下の村々は数多くあったが、北庄(きたしょう)・中筋(なかすじ)・舳松(へのまつ)・湊の各村は、堺東廻り四カ村と呼ばれた(湊村は舳松村の枝村)。この内、湊村を除く3村の村民は、堺町東端に町割りされた農人(のうにん)町に移され、村域は耕地のみとなった。この3カ村をとくに「堺廻り三カ村」という。北庄村―中筋村―舳松村は内陸部の台地上の耕地であるが、堺町の北部東側にあり、北から南へと続いている。1701(元禄14)年の「諸色覚書」(鹿嶋家文書)によると、北庄村の堺町(農人町)住まいの家数は213・耕地への出屋敷家数47(うち、瓦師5・鋳物師2・百姓6・水?34)で、人数は155人(うち、男97・女58)で、借家数は84で人数は231(うち、男121・女110)である。牛は16頭である。中筋村は、同じく、堺町(農人町)住まいの家数は181(うち、庄屋6・年寄2・百姓173)、耕地への出屋敷家数247(うち、高持33・水?29・借家195)で、人数は742人(うち、男392・女350)である。牛は16頭・馬は4頭である。舳松村は、同じく、堺町(農人町)住まいの家数は185、耕地への出屋敷家数92(うち、高持百姓16・水?百姓3・借家73)で、人数は245人である。(以上は、日本歴史地名大系『大阪府の地名』からの重引である。なお、中筋村の耕地への出屋敷数の合計が一致しない)
 2)河内国の経済の中心は住吉郡であり、近世の平野郷町(現・大阪市平野区と、東住吉区の一部)はこの住吉郡に属した。平野郷町は、中世後期から町場が形成され、規模は小さいとはいえ環濠都市であり、堺とならんで自治都市であった。秀吉の大坂城・城下町の建設に伴い平野庄の商人は大坂、天王寺に移住させられ、環濠も埋められた。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの後、平野庄(元禄13年に大坂町奉行所より平野郷町と改められた)の高は4805石余、年貢率7割と定められた。また、高台院領となったとき、夫役米は200石(銀納)・諸役免除が認められた。平野郷町は、本郷の7町(野堂町・流町・市町・背戸口町・西脇町・泥堂町・馬場町)と散郷の4村(新在家・今林・今在家・中野)から成り立っている。人口は、1706(宝永3)年、1732(享保17)年には、1万人を超えていたが、その後は減少し、1836(天保7)年には7500人余となっている。平野郷町では実に多くの職業があって分業も発達したが、実綿問屋や繰綿屋など綿関係の商買は盛んであった。しかし、18世紀ころから次第に繰綿問屋は弱体化し始める。平野郷町は天保期(1830~44年)ごろから衰退化してゆくが、その原因は大和川の付替えと綿作が畿内の独占栽培で無くなったことが挙げられている。

(ⅲ)地主・小作関係の拡大
 山崎隆三氏の研究によると、「普通地主小作関係の成立は、質流れ後に質地地主小作関係から普通地主小作関係に転化していく経路が基本線であった。すなわち、質入地の質流れが公式に認証された場合、質入地の所有権は質取主(地主)に移転したので、それ以降の地主小作関係は、地主の所有地を小作人が借り受けるという普通地主小作関係に転化することになる。この基本線は、一八世紀中期以降、農業生産性の向上と副業の発展による『余剰』の一般的成立が見られて、はじめて安定化した」(山崎隆三著『近代日本経済史の基本問題』ミネルヴァ書房 1989年 P.135~144)と、要約できる。しかし、「とくに一八世紀半ば以降の畿内においては、①高い農業生産性の実現と維持、②商品生産の発展、③金融活動の活発化、④それらに基づく貨幣の蓄積、⑤定免制(*年貢率を一定年限の間、固定すること)への移行と年貢率の相対的低下などを背景として、質地地主小作関係からの転化だけでなく、永代売買による普通地主小作関係も広く展開した......」(萬代悠著『近世畿内の豪農経営と藩政』塙書房 2019年 P.80)と言われる。
 近世畿内で永代売買で土地集中が行なわれるケースが少なくなかったことは、すでに古島敏雄著『近世日本農業の展開』(東大出版会 1963年)、丹羽邦男著『形成期の明治地主制』(塙書房 1964年)、竹安繁治著『近世封建制の土地構造―近世土地制度の研究 第一部―』(御茶の水書房 1966年 P.)などの研究でも指摘されている。地主への土地集中の他方には、没落した小百姓や多くの零細小百姓の形成がみられた。
 しかし、農民層分解が進展し、普通地主・小作関係が広がることが直ちにブルジョア的な発展をもたらすわけではない。津田秀夫氏も言うように、「農民層の分解の進展からブルジョア的な経済的発展をにないうる階層は決して地主層ではなく、中位以下の自作農、および、自小作農、ならびに、小作上層を中核とした、生産者中農層であるといってよい」(同著『近世民衆運動の研究』P.243)とみられるからである。それは、普通地主とても主要に既存の地主・小作関係に依存し、小作人経営に寄生し、その収奪を専らとしているからに他ならない。
 また、大坂周辺での地主・小作関係は、他にはみられない次の特徴がる。新修『大坂市史』第四巻によると、「......そこでは、一人の地主が村内外の下層農民を中心とした多数の小作人と、ごく小規模な地主・小作関係を取り結んでいる状況がみられるのである。大坂周辺の地主・小作関係では、こうした散りがかり的関係と並ぶ特徴点として、地主と小作人との隷属関係の弱さ、言いかえれば小作人側の相対的な自立性の高さがしばしば指摘される......。『小作の義ハ、元々地主相対(あいたい)の義ニは候得共(そうらへども)、兎角(とかく)相互ニ実意薄く』(土橋家文書「覚」)という事態は、小作人の側からすれば、以上のような特定な地主からの強制を受けにくい散りがかり的関係が、その一因を成していると考えられるからである。」(P.612~613)とされている。 
 執筆者は、大坂周辺の地主・小作関係の特徴として、①「散りがかり的関係」と、②小作人側の「相対的な自立性の高さ」をあげている。そして、②もまた、①が「その一因をなしている」としている。この指摘には同意できるが、肝心な階級闘争の視点、すなわち、摂河泉の百姓たちの営々とした闘いの積重ねが軽視されている。それは、「国訴」運動のみならず、身分差別や階層格差との闘いである

〈寄生地主に転化するいくつかの事例〉
 摂津国住吉郡遠里小野村(おりおのむら *現・大阪市住吉区)の中野家は、天保期以降、寄生地主に転化している。同家は、「天保十(*1839)年に村内で八一石余の石高を所持していたが、同年には三町余の自作地経営が行われている。この経営は、その規模からみて、他人労働を雇用する富農経営であったとみてよいであろう。ところが、土地集積が一層顕著となる天保期以降、この自作地経営は縮小し、逆に小作地経営の比重が高まってくる。例えば、嘉永四年(一八五一)には村内所持石高九五石余、反別にして一三町余のうち、自作地は一町三反余にすぎず、残りの一一町八反余、比率にして九〇%が小作地になっている。幕末期に明らかに地主化の道を歩んでいることがわかる(酒井一「地主形成期における農村工業の問題」)。」(新修『大阪市史』第四巻 P.612)のである。

 摂津国武庫郡上瓦林村(現・西宮市)は、摂津平野の西端、武庫川の西沿いにあり、大坂三郷とは五里(約19.5キロ)の近距離である。上瓦林村は、貞享期(12684~88年)前後に、一時、表作の稲作に対する裏作として木棉が盛んに栽培されたが、湿田が多いために後に振るわなくなった。このため、棉作に代わり菜種作に転換した。
 上瓦林村の場合も、江戸時代初期、治水・灌漑技術による耕地の増加や、農業技術の発達などにより、生産力が飛躍的に上昇する。「即ち近世初頭一反で約三斗七升しか農民の手に残らなかったものが、享保(*1716~36年)には七斗三升餘を残すこととなり、手取(てどり)は二倍近くに増加している」(今井林太郎・八木哲浩共著『封建社会の農村構造』有斐閣 1955年 P.49)状況になった。
 上瓦林村では、近世初頭から享保期ころまで、持高15石以上の百姓が10数人はいた。ところが、享保の大飢饉によって階層分解が激しく進行し、以降、一桁(ひとけた)台に減少する。大飢饉の後、百姓たちの懸命な立て直しで、村勢はやや盛り返す。人口は、享保15(1730)年393人から宝暦5(1755)年292人まで減少していたのが、安永9(1780)年には323人へと増加した。戸数は、同じく75戸→66戸→71戸である。
 盛り返した経済的要因は、①菜種栽培と、②副業―にある。副業は、菜種・大豆・綿・麦などの仲買、米・醤油・草履(ぞうり)などの小売り、河堤・樋の普請請負、古道具屋、紺屋などである。(上瓦林村も含む西摂の商業的農業の発展は、主に菜種作と綿作による)
 こうして、上瓦林村では、「菜種栽培と農業外余業の展開は享保~宝暦の間における如き急速な分解(*農民層分解)を阻止し、中農層の分化の進行速度を文政(*1818~30年)に至るまでかなり緩和するに役だったということが出来る。しかし貧農層は貨幣経済の本格的浸透によってむしろ分解を早められたというべきであろう。」(同前 P.98)と見られている。そして、この没落した貧農層こそが、日雇・奉公人・小作人の供給源となるのである。
 上瓦林村の岡本家は、村内で唯一ずば抜けた最大の高持である。1611年から1775(安永4)年までは、35石~42石(55石の享保17年を除く)のレベルであったが、1788(天明8)年に急激に67石台となって、以降、天保14年までの間、60石~92石の水準を維持するのであった。
 だが、「......ここ上瓦林村に於いても経済発展=商品経済の展開に伴い、享保を変化の時点として多くの手作経営が消滅して行ったのを見得るのであって、地主手作経営の一般的コースを歩んだものも少なくなかった。即ち享保~宝暦(*1716~64年)頃を境とする年傭(ねんやとい)労力の減少の著しさは、主として米価に比して労賃その他の経営費が急激に高騰したことに基づくものであり、この村の多くの手作経営も、この困難な事情を克服し得ず解体していった」(今井・八木共著『封建社会の農村構造』P.152)のである。
 高持百姓の手作経営が享保の頃から次第に崩壊し始め、手作経営から小作人経営(小作への依存)へ移行する最大の原因は、手作経営での働き手の中心が長年季奉公人から短期奉公人に移り、地主にとって雇傭労働費の高騰で経営を圧迫したことにある。その高騰の原因は、一般的には非農業分野の給金高騰・人手不足などである。
 しかし、図表13が明らかにするように、「岡本家の場合は、低廉な長年季奉公人の獲得が困難となった後も高賃銀の一年奉公人を雇傭して、依然として手作経営を継続し、殊に天明(*1781~89年)以後は手作経営の規模を拡大している事実を見得る」(同前 P.153)のであった。享保12年から文化(1727~1807)4年の間、岡本家は63~70%台の高水準で、手作り経営を維持しているのである。
 
図表13  岡本家の手作地比率           
1727~1747(享保12~延享4)年  63.3%
1748~1767(寛延1~明和4)年   70.2%
1768~1787(明和5~天明7)年   63.3%
1788~1807(天明8~文化4)年   67.5%
出所)今井林太郎・八木哲浩共著『封建社会の農村構造』P.172

 人手不足・給金高騰という条件のもとで、岡本家は何故に高い水準の手作経営を維持できたのであろうか。
 その理由は、端的に言って、菜種栽培で大きく余剰を残すことができたからである。すなわち、「岡本家の経営は宝暦(*1751~64年)頃迄は収支略略(りゃくりゃく)均衡を保ち、それを反映して持高(もちだか)もそれ程大きな増加を見せていない。然るに明和・安永(*1764~81年)以後になると、菜種栽培の著しい展開......を反映して、急激な余剰を残し得る経営となっており、それが持高の上でも天明以後の著しい増加となって現れている。」(同前 P.153~154)のであった。
 その辺の事情は、『兵庫県の地名』でも、次のように述べられている。すなわち、「一九世紀に入ると、他地方にも商業的農業・加工業が広がるが、先進地西摂は終始全国的商品流通において優位性を保ち続けたといってよい。このような地域だけに綿・菜種・米の三商品作物を作ることによって、農業一本で(加工業や商業・金融に携わるといったこともなく)収益をあげ、他地方ではみられない『富農経営』が出現したことも注目される。」(P.75)のである。
 ところが、岡本家の手作経営は、文政年間(1818~30年)に、急激に衰退し、小作委託が圧倒的に増加する。寄生地主型の農業経営への転換である。
 転換の理由は、簡単にいうと、経営条件の大きな変化である。主に二つある。一つは、農民層分解の進展である。この頃、「?両大の支払等に窮し、町の干鰯商等に田地を質入れするものが増加し、その結果身代限(しんだいかぎり *破産)する者が多くなっていた。......この様な広汎な新しい階層分化が文政~天保(*
1824~44年)の間にみられるのであるが、この為(ため)小作関係に入込む階層が、柄在家(からざいけ *年貢負担はあるが、諸役の負担はない百姓で、正式成員とみられない)等の以前からの無高層のほかに、急激に拡大するに至った。このことが岡本家をして急速に小作経営に移行することを可能にした」(今井・八木共著『封建社会の農村構造』P.172)のである。
 もう一つは、経営力の比較による小作依存である。岡本家の日記によると、まだ天保2~3年の頃までは小前百姓よりも岡本家の手作経営の収穫の方が多かった。ところが、「その後天保九年(*1838年)・同一三年(*1842年)・弘化元年(*1844年)・同三年(*1846年)・嘉永元年(*1848年)の日記には、手作りの反当(たんあたり)収量と他の百姓との比較が見えるが、その記載の何(いず)れもが手作の収穫高よりも『小前の者』のそれの方が高かったこと示している。」(同前 P.173)のであった。
 ここにこそ寄生地主制の本質が見える。地主側の経営能力の劣悪化により、小前百姓の経営能力の方が勝っているのである。そこで地主が経営改善に傾注するのではなく、幕藩権力を背景に、大量の土地所持の威力を発揮させ、その土地貸与先の小作人からの収奪で利益にいそしむという堕落化である。

終りに代えて―普通地主・小作関係をもたらした諸条件

 近世日本の全国各地の多くで質地地主・小作がみられるのに対して、畿内においては普通地主・小作関係が広くみられるようになった。そのような事態となった諸条件とは、一体、何なのか?
 その第一の条件は、歴史的に経済力を蓄積してきた畿内が、もっとも商品経済を発展させてきたからである。大坂は、摂津・河内・和泉での商業的農業(商品作物の増産)・農村加工業の発展(社会的の分業の発展)を背景に、大阪は幕藩制的全国市場の中心となる。これにより、各種の市場が発達し、江戸時代中期には、土地金融による貨幣増殖と土地集積による利益増収の分離、すなわち高利貸と寄生地主が分離にいたるほどの商品経済が発展したことにある。
 その第二は、局地的な「労働市場」が次第に形成してきたことにある。幕藩権力や村落共同体の度重なる抑圧・規制にもかかわらず、人手不足・手余り地問題を背景に、百姓など働き手は給金・労働条件のよい職業・地域(幕領・藩領や村域を越えて)を求めて、移動した。このため、封建的な社会秩序は形骸化し、次第に局地的な「労働市場」を形成してきた。
 その第三は、畿内では、幕府領・藩領・旗本領などが入組み、小領主が多く、また、幕藩権力の下請け機関としての村請制も比較的に緩やかあったことにある。共同体規制が比較的に緩やかとなったのは、金肥の早くからの利用で入会地の必要性が減じたことや、新田開発によって、山間部を除いて、入会地(山野林の減少)が減少したこと、また、個人や小グループが利用する溜池などの多さで、水利大系の維持のための身分的な村落秩序が厳格でなかったことなどにある。
 その第四は、百姓経営に不可欠な金肥の購入、あるいは生産物の菜種・綿の販売などで、幕府の株仲間を利用した商品売買・流通の統制に反対し、自由で公正な取引を広範な訴願運動を展開したことにある。なかでも、綿関連では株仲間の独占支配を打ち破り、農民や在方小商人の連合が勝利した。
 これらのいくつもの条件が複合して、畿内では田と違って普通地主・小作関係が広がったと思われる。だが、普通地主・小作関係が広がったとしても、それが直ちにブルジョア経済を準備するものでもない。寄生地主は、普通小作であれ、質地小作であれ、小作人の経営の上に寄生し、その利益を収奪して存続するものであり、ブルジョア経済をけん引する起業家精神を一般的に持たないからである。彼らは小作人に寄生し、収奪する手立てについては悪知恵を発揮するが、企業経営そのもの発展には努力しないからである。(未完)

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