フランス革命における統治体制の教訓            

                 ───継承・発展させるべき人民主権の原理とその意義
                         

                                                                
                               堀込 純一
        目次

  はじめに
  (1)フランス革命の諸局面と民衆運動の位置
       第一局面(1789年5月〜10月)−封建制の廃止
       第二局面(1789年10月〜1792年8月)−立憲君主制から共和制へ
       第三局面(1792年8月〜1794年7月)−山岳派独裁と民衆弾圧
       第四局面(1794年7月〜1799年11月)−総裁政府体制とナポレオン・ クーデター
  (2)国民主権と人民主権の対立・闘争
       人権内容の変遷
       代表制か直接制(代理制)か
        <国民か人民か>
        <命令的委任の禁止か否か>
        <議員の選出と法制定の方法>
        <三権分立か否か>
        <司法の独立と陪審制>
  (3)ロベスピエールの憲法思想
       生存権を中心とする人権思想
       セクションの重視
       議員譴責に消極的
  (4)セクションを基礎とする人民の主権行使
       革命期の地方行政機関と自治活動の制約
        <3月蜂起と山岳派の革命政府化>
        <蜂起委員会の指導下、ジロンド派追放>
       山岳派・エベール派による代表制原理の強制
  (5)ヴァルレの憲法思想と人民主権
  (6)バブーフの共産主義と人民主権


     

 はじめに

  自自連立政権の発足で、国会は憲法制度調査委員会の設置の動きなど憲法改悪策動がつよまっている。一方、住民投票運動は勢いを増し、労働法制改悪反対運動も粘り強くたたかわれている。
  本稿は、これらの動向を踏まえつつ、改めてブルジョア憲法の主権原理を分析・検討するために、1789年革命と憲法原理を教訓とする。それは国民主権と人民主権の違い、人権概念の生成・発展などの点で、必ずやロシア革命いらいの「社会主義」諸国の統治体制の総括にも役立つことになるであろう。

 

 (1)フランス革命の諸局面と民衆運動の位置

  フランス革命は、アリストクラート(「貴族」)、ブルジョア、都市民衆、農民の4者の複合革命といわれ、結局は、ブルジョアジーが支配権を確立した。この革命は、先行するイギリスやアメリカの革命とは異なり、旧体制(アンシャン・レジーム)の徹底した破壊と変革が、一大特質となっている。その主因は民衆運動の爆発と展開にある。
  1789年から10年にわたって展開された革命の原因は、経済危機と政治危機の結合であり、そこに変革を推進する諸集団が形成・登場したことにある。
  経済危機は、1789年から91年にかけて顕著である。農業危機と工業危機が連鎖し、都市と農村では中小規模の一揆・暴動が頻発し、89年に全国的爆発となる。
  絶対主義国家は身分制秩序が基本であるが、そこには由緒ある血統による貴族制的な、旧来からの原理と、経済力の上昇による官職の購入で示される新興ブルジョアジーの「功績と才能」という新たな原理が併存し、後者が伸長する。
  新興ブルジョアジーは、経済力を拡大し、土地を購入し、貴族的生活スタイルをとり、社会的地位の上昇(官職の獲得)を望むが、すべての者が望みどおりの地位を得られるわけではない。地位上昇の閉塞状況は、聖職者、知識人、医者、弁護士などの職業にもいえる。
  特権層の無能と腐敗、新興階級の地位上昇の閉塞状況などにより、絶対主義国家の統合力は低下し、それは18世紀の中頃から目立ってくる。そこに新たに財政問題が浮上する。  打ち続く戦争で国家の財政は完全に破産し、王権はこれを打開するためにさまざまに画策するが、「名士会」、高等法院との対立をへて、全国三部会の召集となる。
  1614年いらい、開かれていなかった全国三部会が久しぶりに開かれたということは、王権の凋落を如実に示すものである。
  フランス革命の直接的契機は、この三部会をめぐる攻防からスタートする。(以下、10年間の革命の時期区分は、柴田三千雄著『フランス革命』<岩波書店>による)

  第一局面(1789年5月−10月)─封建制の廃止

  1789年5月5日、全国から1200人近い、三つの身分の代表がヴェルサイユに集結する。
  だが、第三身分代表(約600名。大部分は官職保持者のブルジョアと法律家。商工業出身者は約100名。手工業者や農民の代表はゼロ)たちは、「第三身分」という名称は隷属的だとして、その使用を拒否した。そして、特権的な二つの身分と分離した議員資格審査を拒否し、1か月以上抵抗する。さらに6月17日には、みずから「国民議会」と称し、王権に挑戦する。
  王権による弾圧に屈せず「国民議会」が抵抗するのをみて、6月24日に聖職者身分代表(約300人)の大多数が、25日には、貴族身分代表(約300人)の内の50人ぐらいが、それぞれ「国民議会」に合流する。国王も仕方なく、この事態を容認する。こうして、一体化した「国民議会」は、7月9日に「憲法制定国民議会」として発足した。
  しかし、ルイ16世の反動的策動(軍隊のヴェルサイユ集結命令など)が、止んだわけではない。財務総監ネッケル罷免のニュースが伝えられると、パリの民衆は7月12日の夕方から蜂起し、14日には廃兵院を襲撃して約3万の小銃を奪い、さらに武器弾薬を求め、バスティーユ監獄を襲い占領した。この間、パリの選挙人たち(ブルジョア)は、民兵隊(国民衛兵)を組織し、パリ市政を制圧した。パリ民衆の決起は、食糧危機と王権の策動に対する自衛行動であったが、結果的には、議会の危機を救った。
  パリの決起に続いて、全人口の約85%を占める農民の革命が全国的に展開された。7月下旬、農民は武装し、領主館を襲い、古文書や土地台帳を焼却し、さらに役人やブルジョア地主をも攻撃対象とした。
  全国的な民衆反乱を前に、議会は8月4日、封建制廃止の決議をし、11月には法令化した。これは領主権(ただし、領主制地代の廃止は有償制)・教会10分の1税の廃止、租税負担の平等化、官職売買の廃止、公職の全市民への開放、地域特権の廃止などである。  8月26日には、歴史的な「人間および市民の権利の宣言」が採択された。(ただ、この人間、市民は成年男子のみをさしている。女性は全く排除されている。)

  第二局面(1789年10月−1792年8月)─立憲君主制から共和制へ

  1789年9月、国王はまたまた議会を軍事的に威嚇した。だが今回もまたパリ民衆が介入(10月5〜6日の「ヴェルサイユ行進」)し、この策動を粉砕した。この結果、国王も議会もパリに移され、民衆の監視下におかれた。
  89年11月には、教会財産が国有化され、これを担保にアッシニアという名の債券が発行された。1790年7月には「聖職者市民法」が制定され、聖職者の特権は廃止され、聖職者は公務員となった。
  行政制度も、1789年12月に再編され、特権をもつ旧来の州や地域が廃止され、全国は均質的な83の県に分割され、この下にさらに郡・小郡・市町村へと下位区分された。裁判システムも再編され、地域レベルの治安判事、郡レベルの民事裁判所、県レベルの刑事裁判所、そして、唯一の控訴院という体系となった。県レベルの裁判所では陪審制が新たに導入された。
  90〜91年にかけては、土地の耕作・経営の自由、インド会社の貿易特権の廃止、国内関税の撤廃、消費税の廃止、統一的な度量衡制度の創設など、経済活動の自由が制度化された。1791年3月には、宣誓ギルドが廃止され、同年6月には「ル・シャプリエ法」により、あらゆる種類の同業組合が禁止された。
  これらを集大成したのが、1791年9月3日に可決された、フランス初の憲法である。これにより、政治体制は立憲君主制となり、立法権は一院制の議会、行政権は国王に属するなど三権分立の原則が採用された。だが、行政府の長たる国王は、立法権にたいして停止的拒否権(2会期4年間のみ、議会の可決した法案を拒否する権利)を有するだけで立法権が行政権に優位した。
  議会に代表者をもたない民衆は、独自の組織と運動を形成する。早くも1789年秋には、ジャコバン・クラブが設立され、その後地方クラブとのネット・ワークを形成する。これに比し、大衆的なのが民衆協会であった。その代表的なものがダントンやマラーを擁したコルドリエ・クラブで、これは選挙権をもたない受動市民や女性も会員となれた。
  農村では、残存する領主権の廃止要求、租税・小作料の支払い拒否などの闘いが、引き続き展開された。
  情勢が緊迫化する中で、1791年6月20〜21日にかけて、国王一家の逃亡(ヴァレンヌ事件)が露顕し、逮捕された。これは大きな動揺を各階層に与え、外国と結託した反革命の疑念を引き起こした。
  国王廃位と共和制を求める請願書が、民衆諸団体から提出された。1791年7月17日には、約5万人による国王廃位の請願大会が行われた。だが、これは国民衛兵によって流血のうちに鎮圧される(シャン・ド・マルスの虐殺)。
  ヴァレンヌ事件以後、すでに亡命貴族が集結していたドイツのコブレンツなどに新たに数千人の旧軍将校が加わり、反革命が準備されていた。周辺諸国も、始めのうちはフランスの国力低下の思惑で静観していたが、1791年8月頃から反革命で結束しはじめた。  1792年4月20日、議会は圧倒的多数で(反対7名のみ)、オーストリアに対する宣戦布告を決定した。
  1792年の春頃から、国王廃位や自治などを求め、パリの地区(セクション。パリ市は48の地区に分割)の政治化、活性化が強まり、ついに7月15日には、議会は後追い承認でセクションの常設化を布告した。
  1792年8月10日未明、パリ市庁舎で各セクションの代表による「蜂起コミューン」が組織された。各セクションの民主化された国民衛兵は、マルセイユやブルターニュの連盟兵とともにテュイルリ宮を襲撃し、占領した(8月10日革命)。この事態にあたり、議会は、普通選挙制による国民公会の召集と王権の停止を宣言し、国王をタンブル塔に監禁した。                                                                     

  第三局面(1792年8月−1794年7月)─山岳派独裁と民衆弾圧

  8月10日事件から国民公会が開会される9月21日の間は、民衆の力を背景とするパリ・コミューンと立法議会の二重権力状況が続き、前者の圧力で「反革命容疑者」の逮捕を市町村に許可するなどの急進的政策が次々と法令化された。
  この頃、ロンウィ陥落(8月26日)、ヴェルダン陥落(9月2日)で、パリはパニックに陥り、「9月の虐殺」が生じた。民衆はパリの9つの監獄を襲い、囚人の約半分(1100〜1400人)を即決裁判によって処刑した(このうち政治犯は約4分の1)。パリの監獄を空っぽにした民衆は、大挙して前線に向かった。士気高いフランス軍は、ヴァルミの戦いでプロイセン軍を退却させ、以後戦局は好転する。                     
  1792年9月21日、新憲法制定の任務をもつ国民公会が開かれた。議員たちはすべて8月10日革命の支持者だった。公会内では、ジロンド派が右派、モンターニュ派(山岳派)が左派であった。だが、両派いずれにも属さぬ平原派が過半数を占めた。
  共和制の正式宣言(92年9月22日)、ルイ16世の処刑(93年1月21日)の後、政治の焦点は革命戦争の遂行、反革命との闘い、食糧など生活危機の解決にあった。
  ヴァルミの戦勝後、フランス軍は国境をこえ、ベルギー、ライン左岸に進出し、93年2月1日には、イギリス・オランダにも宣戦が布告された。周辺国は1793年の春から夏にかけ、第一次対仏大同盟を形成し、これに対抗した。93年3月、フランス軍はベルギーで敗北し、戦局は再び悪化へと向かった。
  国内では、物価の高騰、アッシニア紙幣の下落(93年1月には額面の51%)で、2月24日〜26日に、アンラジェ(和訳では「過激派」とされているが、元々は「激高した人々」の意)に指導されたパリ民衆の食糧暴動がおこり、生活必需品の包括的価格統制や買い占め人の死刑が要求された。
  1793年3月24日の徴兵制決定には、徴兵忌避の騒擾が各地で発生した。とくにフランス西部のヴァンデでは、農民と織布工などの反乱が続き、農民らの要求を理解できない国民公会は、彼らを王党軍の側に追いやった。
  革命の危機に対し、山岳派は戦時政策を次々と提案し、平原派の支持のもとに法令化した。それは、革命裁判所の設置、反革命監視のための監視委員会の設置、県や軍への議員派遣制、権力集中のための公安委員会設置、穀物とパンにかんする最高価格法の導入などである。
  ジロンド派は、戦時政策とくに最高価格法に、経済自由主義の観点から強硬に反対し、民衆の不評をかった。ジロンド派は、さらにマラー、エベール、ヴァルレらを逮捕し、民衆との対立は頂点に達した。
  1793年5月末、セクション代表からなる蜂起委員会が組織され、5月31日に約2〜3万人、6月2日には約8万人の民衆が国民公会を包囲し、ついに29名のジロンド派議員を逮捕させた。この結果、国民公会の山岳派の支配権は強化され、6月24日には新たな憲法が採択された。だが、この憲法の施行は、革命時のため延期された。
  内外危機の激化の下で、山岳派主導の国民公会は、6月から戦時政策の強化と革命政府の樹立へと向かう。主なものは、領主権の無条件廃止、国民総動員令発令、食糧徴発や反革命容疑者逮捕のための革命軍創設、総最高価格法制定、食糧委員会創設などである。そして、10月10日には、革命政府樹立を正式に宣言する。
  だが、この時期、革命政府はアンラジェのヴァルレ、ジャック・ルーなどの逮捕、「革命的共和主義女性協会」の閉鎖など民衆運動を弾圧する。
  1793年秋から内外危機の緩和を背景に、恐怖政治や経済統制の強化を主張するエベール派と、それらを緩和しようとするダントン派との抗争が激化する。これをみて、ロベスピエール派は、94年3月にエベール派指導者を、4月にダントン派指導者を逮捕し、ほどなく処刑する。さらに、4〜5月にかけ、パリ市内の民衆協会、地区結社を次々と解散し、活動家を「反革命」として逮捕する。
  だが、反対派一掃の次は、山岳派独裁の崩壊である。公安委員会と治安委員会の権限をめぐる対立、地方派遣議員の召還(地方での極端な恐怖政治が告発される)などで、反ロベスピエール派策動が強まるのである。
  1794年7月7日(テルミドール9日)、ロベスピエール、サン・ジュストらは逮捕され、翌日処刑される。この時、パリ民衆の抗議の声は聞かれなかった。

  第四局面(1794年7月−1799年11月)─総裁政府体制とナポレオン・クーデター

  テルミドール派は、公安委員会の権限縮小、革命政府の解体などで恐怖政治を終結させた。だがそれは同時に、恐怖政治責任者の逮捕・処刑であり、各地では白色テロが吹き荒れ、旧ジャコバン派活動家が虐殺された。
  また、94年12月には、総最高価格法が廃止され、物価高騰と食糧危機で多くの民衆が餓死した。
  1795年4月1〜2日、5月20〜23日の二度にわたり、パリ民衆は「パンと93年憲法」をもとめ、蜂起した。だがいずれも失敗する。
  1795年8月、「共和暦3年の憲法」が新たに制定され、5年任期の5人の総裁の集団指導体制がなる。総裁政府体制は、各選挙で議会の安定的基盤をもつことができず、左右両翼の脅威にさらされ、右寄り、左寄りのジグザクを繰り返した。しかも、軍部に依拠したクーデターや憲法違反(選挙結果の審査で、当選無効者をつくり、議会構成を操作)などでようやく維持されていた。
  だが、1799年11月9〜10日、ナポレオンのクーデター(ブリュメール18〜19日)で、ついにその最後の時をむかえる。

  (2)国民主権と人民主権の対立・闘争

  革命期のめまぐるしい階級攻防によって、この時期、 1789年人権宣言と1791年憲法、 1793年のジロンド憲法案の流産と、同年6月の1793年憲法(山岳派憲法)、 「テルミドール反動」後の1795年の憲法、が決定された。
  これらを分析する前に、ここで革命期政治の思想的前提条件を踏まえておく必要があろう。
  前提条件の第一は、商品経済の発展を背景にした、西ヨーロッパの市民的公共性の世界の拡大である。それは、「18世紀のイギリスで発展したコーヒーハウス、フランスのサロン、ドイツの読書クラブのごとき『公共の諸制度』や、これと密接に連関する公論の機関としてのジャーナリズム(「文芸的公共」)に媒介されて、公衆に関わりをもつ私生活圏の経験内容が『政治的公共』へと入り込んでゆく」(成瀬治著『近代市民社会の成立』 東大出版会)といわれる。
  こうなると、今まで国王の権威とか神聖性(王権神授説)に根拠づけられていた政治の正当性は、じょじょに市民的公共性の世界の公共意見(世論)に移って行く。革命前夜の王権と貴族(高等法院)の争いも、それぞれ正当性の根拠をこの公共意見に求めていく。  今や政治は、かつてのような神の加護とか、むきだしの暴力だけでは安定性も正当性ももちえず、世論の獲得が、きわめて重要な要素となってきたのである。
  前提条件の第二は、法の優位、法による統治である。
  社会的に結合する諸個人の生活の安定性は、単純化していえば、神に服従するか、特定の人間に服従するか、それとも法に服従するかによる。(実際には、これらの要素が複雑にミックスしているが)
  だが、政治における公共意見の位置が重きをなすと、公共意見を集約した形での法の優位−法による統治にならざるをえない。今や、法は神の啓示でもなく、権力者の一方的命令でもなく、公衆がたたかわした討論の結果としての法にある。この法が社会結合のルールとなる。(西ヨーロッパ封建制の双務契約的性格は、他のアジアやロシアなどにみられない特有のものであった。そこでは契約違反のときは、理由によっては、封主からのみでなく、封臣からも契約解除がなされた。双方がまもるべきルールであった。こうした伝統が、法による支配、権利の尊重という政治的風土を形成してきた)
  こうして、新たな統治体制においては、法による統治−立法活動−その機関が、第一義的な意味をもつ。このことは、革命期のわずか10年の間に3つの憲法がつくられたことにも明らかである。

  人権内容の変遷

  革命期の憲法(案)に共通するのは、いずれも(A)人権宣言部分と、(B)統治機構とその活動などに関する憲法本文部分がセットになっていることである。
  1789年の時のみ、(A)部分が分離されて討議・採択され、(B)部分が先送りされた。しかし、1791年には両者はワンセットになった。
  何故、このような構造になったかというと、自然法思想や社会契約説の影響があり、(B)部分の任務・目的は、(A)の人権を保障するためにこそあるというのが、大方の考え方であったからである。               
  1791年憲法[(B)部分]は、憲法制定国民議会が可決したうえで、9月14日に国王が裁可して成立した。したがって、後の他の憲法とは異なり人民投票には付されていない。この憲法の人権は、「自由、所有権、安全および圧制への抵抗」[(A)の第2条。以下同じ。憲法本文の場合は(B)の第○○条とする]であるが、旧体制への批判との連関で「自由」「所有権[(A)の第17条]」がとりわけ強調されている。
  1793年のジロンド案は、人権宣言のみが4月26日に採択されたが、民衆の力を背景とした山岳派の猛烈な攻撃によってついに憲法本文は流産した。
  ジロンド案の人権は、「自由、平等、所有権、社会的保障および圧制への抵抗」[(A)の第1条]である。
  1792年の8月10日革命で王制を廃止し共和制を樹立した民衆は、その後、国民公会の憲法制定作業にも、強度の平等をかかげて強く働きかけた。それは例えば、「『平等元年、自由の第4年』の1793年の新しい憲法原理が追求された国民公会の公募に応じた300に及ぶ諸草案の一般傾向をみても、いずれも、『人民主権』を標榜し、直接的な意志決定手続きを導入していたことがわかる」(辻村みよ子著「近代憲法の伝統とフランス革命」−『思想』1993年3月号所収)といわれる。このような状況下で、ジロンド案では新たに平等と社会的保障が人権に加わった。
  山岳派は、ジロンド案を流産させ、1793年6月24日に新たな山岳派憲法を可決した。その人権は、「平等、自由、安全、所有権」[(A)の第2条]であり、「圧制に対する抵抗は、それ以外の人権の帰結である」[(A)の第33条]とした。93年憲法は、ジロンド案よりもさらに平等が強調され、人権のトップにかかげられた。
  93年憲法は、7月から8月にかけて人民投票に付され、700万の有権者のうち、190万人が投票し、賛成171万5000、反対1万5000(他は条件付賛成)で採択された。投票率は悪かったが、圧倒的多数の賛成であった。
  テルミドール派による山岳派独裁の崩壊(94年7月)直後は、未だ93年憲法を改定する気はなかった。むしろ、この憲法の実施を準備していた。だが1795年6月、「93年憲法は人民に直接的権力を与えすぎており、コミューンやジャコバンの蘇生を可能にするものである」(チボードー発言)として、新たな憲法制定の方針をとった。憲法論議は6月23日から8月22日である。
  この憲法の人権は、「自由、平等、安全、所有権」[(A)の第2条]である。ここでは、圧制への抵抗−蜂起権は否定された。また、権利部分(全22条)のみならず、義務部分(全9条)が、つけ加えられたのが特徴的であった。
この憲法への一般の関心はうすく、投票者は100万にも満たず、賛成91万6000、反対4万でしかなかった。

  代表制か直接制(代理制)か

  これら4つの憲法(案)を主権原理の観点からみると、大方の専門学者の意見は、91年憲法と95年憲法が国民主権、93年憲法が人民主権という見方で一致している。しかし、93年のジロンド案については、評価がわかれている。だが、国家の最高権力が、君主主権か、国民主権か、人民主権かは、基本的に主権の主体(主権の帰属)と主権の行使主体が誰によってになわれているかで、判断されるものであろう。[なお、4つの憲法(案)は、共通して主権の性格を「単一、不可分で消滅することがなくかつ譲渡することができない」としている。ただし、95年憲法のみは、この文言が明記されてはいないが、中央集権主義がさらに強化された同憲法の性格からして、主権の性格に変化はないと解釈しうる]
  だが、いずれの憲法も人権宣言部分は抽象的なもので、国民主権か、人民主権かの判断は、憲法本文の具体的規定を含めて、なされるべきであろう。

  <国民か、人民か>
  国民主権と人民主権とのちがいは、まず第1に、主権者が、国民か人民かの相違にある。  たしかに、この時代、国民と人民は、同じような意味で使われていたようである。だが、坂上孝著『近代的統治の誕生』によると、『もともと<生まれ>を意味していた国民という言葉は、16世紀ごろから、一定の地域に住み、共通の習俗をもつ人間の集団の意味で用いられるようになる。1694年版のアカデミーの辞典は、国民を「同じ法のもとで暮らし、同じ言語を用いる、同じ国家、同じ地方の全住民」と定義している。『百科全書』の「国民」の項目も、諸国民にはそれぞれ固有の性格があるというモンテスキューの「国民の一般的性格」論をふまえながら、国民を「一定の境界によって区切られた広がりをもつ土地に住み、共通の政体にしたがう大量の人民を表わすために用いられる語」と定義している』といわれる。こうして、国民は(近代)国家と不可分なものになり、英語のネイションも仏語のナシオンも、ともに国民と国家、両方の意味をもっている。日本語は別々の言葉であるが、しかし、しばしば国民国家という使われ方をしており、同じような傾向がみとめられる。だが、人民の場合は、国家と不可分な関係もなく、強い関連性もない。  しかし、国民主権と人民主権を同一視する論者からみると、 投票権は、両方とも定められた有権者がもつという点で実質的に同じであり、 両方とも、その主権の性格は、“部分集団に帰属せず、全国民、あるいは全人民にのみ帰属する”という点で同じだ、という反論があるかもしれない。
  だが、国民主権の場合は、立法者が「全国民の代表者」という点で、人民主権の場合と根本的に異なるのである。

  <命令的委任の禁止か否か>
  立法府議員が、全国民の「代表者」である点こそ、国民主権の場合の本質的特徴である。これが違いの第2である。
  例えば、91年憲法の場合、「県で選任された代表者は、一特定県の代表者ではなく、国民全体の代表者である。したがって、いかなる命令的委任状も彼らには与えられない。」[(A)の第3編第3節第7条]とし、95年憲法の場合、「立法府の各構成員は、彼を選任した県の代表者ではなく、国民全体の代表者である。したがって、各県は、彼にいかなる(命令的)委任も行いえない。」としている。
  この命令的委任の禁止は、ジロンド案では明記されていない。しかし、91年憲法、95年憲法と同様に、議員のリコール権を選挙区に与えていない点からすると、代表制原理に基づくことは、言うまでもない。なお、93年憲法の場合もリコール権を明記しているわけではないが、「主権者人民は、法律を議決する。」[(B)の第10条]として、不十分ながらも人民主権となっている。
  制限・間接選挙制か、普通・直接選挙制かのちがいは、国民主権の枠内の問題でもある。国民主権と人民主権の本質的違いは、代表制原理か、それとも直接制原理(あるいは、これに基づく代理制原理)かにある。ルソーやマルクスがブルジョア議会制度を批判して、それは数年に一度、代表者を選ぶ権利を人民がもつが、その時以外は代表者によって人民が踏みにじられるものだ−というのも、代表制原理を批判したものにほかならない。

  <議員の選出と法制定の方法>
  両者の違いの第3は、主権行使の主体と統治機関との具体的関係である。
  まず一つめは、第一次集会(原基的集会とも言う)、選挙人会の性格と選挙権・被選挙権の問題である。(第一次集会とは、決議・選挙をする単位であり、選挙人会とは、各県ごとに、第一次集会から選ばれた中間段階の選挙権者の集まりである)
  91年憲法は、市民を能動的市民と受動的市民に区別・差別した。能動的市民の資格は、 25歳以上のフランス人、 3労働日の価値に等しい直接税を支払う者、 家内奉公人(召使い)でないこと、 国民防衛隊に登録する者、 公民宣誓をした者−である。したがって、受動的市民−女性、貧困者、植民地の人民などは、第一次集会に参加する資格がない。また、選挙人会に選出される者の資格には、第一次集会参加者より、さらに厳しい財産あるいは収入の制限がある。
  ジロンド案と93年憲法は、ともに有権者の財産(納税)制限はない。ジロンド案では選挙人会もない。ただし、ジロンド案には、第一次集会での選挙が候補者名簿作成のための予備選挙(推薦投票)と本選挙(確定投票)があり、選挙手続きは、複雑、煩瑣で、時間に余裕のあるブルジョアのみに有利である。
  93年憲法には、選挙人会があるが、しかし、立法府議員は、直接、第一次集会で選出された。(選挙人会の存在は、人民主権の直接選挙制の原則に反する)
  95年憲法は、有権者資格に再び納税制限を課した(ただし、戦争参加者・経験者は納税要件がない)。また、選挙人会(その参加資格者の納税要件は、91年憲法より厳しい)は、立法府議員をも選出した。さらに反動的なことには、選挙人会の横の連絡が禁止され、諸々の請願の受付も、この請願の立法府への提出も禁止された。
  二つめは、人民と立法府の関係である。
  91年憲法の立法府(国民議会)は、常設の一院制であり、2年ごとに新たに選挙される。議会は、王によって解散されない。立法議員は、第一次集会−選挙人会の段階をおって、選挙人会によって選出される。(間接選挙制)
  憲法の改正は、国民議会の発議(3年連続会期にわたる改革権の行使)により、新たに別の代表者を選び(選出方法は立法府議員と同じ)、それによって構成される改正集会でおこなわれる。
  人民と立法府の関係は、完全に間接選挙制−代表制である。人民の意志は、支配階級にとって都合のよいように歪曲されるか、あるいは無視される。
  ジロンド案の立法府は、一院制で毎年改選される。同案は、第7編第2節第1条で「立法府のみに、立法権力の完全円満なる行使の権が帰属する」と明記している。そして、同第3、4条で、立法府に由来する法令は、法律とデクレに二分され、前者は「その一般性、およびその無期限の持続性」に、後者は「その局地的、あるいはその特殊な適用」に特徴と違いがあるとしている。しかし、「宣戦布告、条約批准、および外国に関係する一切の事項」などの重要事項についても、デクレの範疇としている。
  だが、ジロンド案には、他方で、第一次集会が立法府に対してある事項の審議を要求すること(発議権)、また、国民代表の行為に対する監察権を有するなどの民主的諸措置もある。
  ジロンド案は、憲法の改正については、各県ごとに2名選出される議員によって構成される国民公会を規定している。有権者は、国民公会の召集を催告する権利があり、ある県の諸第一次集会で過半数の投票者が国民公会召集を要求する時は、全国の諸第一次集会の意見を聴取し、投票者の過半数が必要と認めたときは、国民公会を召集しなければならない。ジロンド案は、直接選挙制ではあるが、国民主権を脱しきれていない。
  93年憲法の立法府は、常設の一院制であり、議員は毎年改選される。法令制定については、デクレの場合は、立法府で制定する。しかし、法律については以下の手順をおう。まず、議会で可決された法律案は、全市町村に送付される。そして、「法律案送付後40日以内に、過半数の県において、正規に形成された県内の第一次集会の10分の1が異議を申したてない場合は、法律は承認され、法律となる」[(B)の第59条]としている。しかし、「異議が成立した場合には、立法府は、すべての第一次集会を召集する」[(B)の第60条]としている。消極的ではあれ、人民が直接かかわっているのである。
  憲法の改正については、ある県内の第一次集会の10分の1が要求した場合、国民公会(立法議会と同様に選出された議員で構成される)の召集の可否を問うため、全共和国のすべての第一次集会を召集しなければならない[(B)の第115条]としている。
  95年憲法の立法府は、常設の元老院と五百人会議の二院で構成され、両院ともに、毎年その3分の1が改選される。「法律の提案権は、専ら五百人会議に帰属」[(B)の第76条D]、五百人会議で採択された提案は「決議」と称され、この「決議を承認するか否認するかの権は、専ら元老院に帰属」[(B)の第86条]する。     
  憲法改正の発議権は元老院にあり、その採択権は五百人会議にある。この手続きが、9年の期間内に、3年の間隔を置いて3つの時期になされた時に、憲法改正集会が召集される[(B)の第338条]。この集会の議員は、立法議員と同様の方法で各県2名ずつ選出される。同集会が採択した案は、直ちに諸第一次集会に送付し、承認または否認の採決に付される[(B)の第34条]。
  95年憲法は、制限・間接選挙制で、代表制原理の国民主権である。

  <三権の分立か否か>
  三つめは、人民と行政府との関係である。
  91年憲法は、立憲君主制の関係から三権分立とならざるをえなかった。これと対照的なのが93年憲法(山岳派憲法)であった。同憲法は、三権分立制をとらず、人民(有権者)−立法府−行政府という序列的・系列的統治システムをとった。
  この理由は、ルソーいらいのイギリス的政治制度への批判もあるが、権力の腐敗が政府の専横にあるとして、人民の「一般意志」(ルソー)に直結する議会に最高の権限を与え、行政は議会に従属するとした。そして、議会、行政、司法の分立は、権力の分立ではなく、権限の分割とした。
  したがって、93年憲法では、立法議員は、第一次集会での直接選挙で選出されるが、一般行政を指揮・監督する「執行評議会」は、各県の選挙人会が選んだ候補者の中から立法府が任命する24名によって構成される(間接選挙)。「執行評議会」は、構成員以外から一般行政の長官や外交使節などを任命する。
  93年憲法の最大の欠陥は、立法議員や公務につく受任者に対する、人民の日常的コントロールが極めて不十分だということである。この原因は第一に、立法議員にたいしては、山岳派流の代表制原理にある。93年憲法の事実上の起草者であるエロー・ド・セシェルは、次のようにいっている。
  「‥‥議員は、二重の性格を帯びている。人民の裁可に付されなければならない法律(の制定)においては受任者であり、デクレ(の制定)においてのみ代表であるにすぎない。したがって、フランスの政体は、人民がみずからなしえないすべての事柄においてのみ代表制であるにすぎない」と。
  こうして93年憲法は、(B)の第29条で「各議員は、国民全体に属する」として、選挙区のリコール権を認めず、色ごく代表制を残存させているのである。
  第二の原因は、大陪審制の削除・否定である。セシェルは、公職者に対する人民の政治監視や責任追及のために大陪審制を構想した。だが、これは国民公会で否決された。
  ジロンド案と95年憲法は、基本的に三権分立である。
  ジロンド案は、93年憲法と同じように「執行権力」という語を使わず、形式的には三権分立をとらないようにみえる。しかし、内容的にはそうではない。
  すなわち、「共和国の執行会議は、7人の大臣‥‥によって構成される」[(B)の第5編第1節第1条]として、各省の最高行政官である大臣が執行機関のメンバーとなり、執行・行政の両機能が統一された。そして、「すぺての公務は会議において処理される」[同第16条]という「執行会議」が執行機関の機能を果たし、同時に「各大臣は、会議の決定にしたがってその省において行動し、もっとも適当と判断する細部の全執行手段を取る」[同第17条]としている。(なお、「執行会議は、立法府の決定したすべての法およびデクレを執行し、また執行させる任務を負う」[(B)の第5編第1節第4条]ものである)
  また、「執行会議」の構成員は第一次集会で選出(立法議員の時と同じように)されるが、「すべての公務のあいだには非両立性が存在する」[(B)の第3編第3節第25条]という規定によって、同構成員は議員の中から選ぶことができない。
  95年憲法は、再び執行機能と行政機能を分割した。執行権力をもつ総裁府(5人で構成)は、年齢40歳以上で、もと議員か大臣経験者の中から、立法府が選任した。
  総裁府は、大臣、外交官などを自由に任免し、また、91年憲法同様に“法に合致するところの、法の執行のための布告”−命令制定権を復活させ、執行権を強化している。
  人民主権の見地からみた場合、三権分立が良いか悪いかは一概にはいえない。しかし、第一次集会の強化・発展を前提に、一般的には三権分立の方がベターであろう。だが、反革命に対する独裁期には、政府の独走をチェックする意味では93年憲法のタイプの方が、むしろ良いであろう。

  <司法府の独立と陪審制>                                          
  四つめは、人民と司法制度との関係である。
  司法制度の全面改革について、立憲議会は1790年3月24日に決議した。この改革の要点は、 判事をいかに選任すべきか、 裁判機構の段階制をいかに構成するか、である。
   については、旧体制下での司法官職の売官制への批判が強く、同年8月16〜24日の法律で「司法官職の売官制は永久にこれを廃止する。判事は無料で裁判をなすべく又国家から俸給を受くべきものとする」、「判事は裁判を受ける権利ある者がこれを選挙する」(野田良之著『フランス法概論』上巻の2より重引。有斐閣)とした。
   については、まず民事裁判所と刑事裁判所を分離した。そして、民事裁判所の最下級審を構成するものとして治安判事があり、この上級に地方裁判所がある。後者の判決に不服の場合は控訴できるが、別個の控訴裁判所があるわけではなく、当事者の合意あるいは選択で、周辺の7つの地方裁判所の中から指定し、これを管轄の裁判所とした。
  刑事裁判所については、91年2月7日の法律で定められ、陪審制が認められ、イギリスの制度を模範とした。まず予審が治安判事に委任される。予審が終わると陪審指導官とよばれる裁判官の手にうつる。裁判官(これは地方裁判所判事が交替であたる)は、8名の陪審員からなる起訴陪審にはかり、起訴の可否を決定する。起訴が決まると、事件は刑事裁判所にうつり、審理陪審となる。この審理陪審の答申に基づいて判決がなされる。
  なお、風俗壊乱や公安に関する重要でない犯罪については、軽罪裁判所が設けられた。これは治安判事と補佐判事で裁かれ、控訴となった場合は地方裁判所が審理し、これが最終審となる。
  旧体制下では多くの特別裁判所があったが商事裁判所(かつては商人間の選挙で判事が選ばれたが、選挙権を有権者に拡大した)を除き他はすべて廃止された。新たに設けられた特別裁判所では、破毀(はき)裁判所が重要である。これは旧体制下で国王にあった破毀の権を制度化したものであり、いままで述べた裁判所の上級裁判所ではない。したがって、これは立法府に属した。破毀裁判所は「‥‥形式の違反せる凡ての訴訟手続き及び法律の明文に対する違背を含む凡ての判決を取消す」(同上)のが任務で、事件の本案審理ではない。
  これも特別裁判所である国民高等法院は、国務大臣や官吏の弾劾裁判所である。
  1791年憲法は、権力分立の原則から司法権にも独立の地位を与え、基本的に今まで述べたような制度をとった。ジロンド案も同様で、裁判官の公選制、審理の公開制などを原則とした。同案の規定はさらに詳細で、陪審制も民事・国家反逆罪など重要犯罪にも拡大した。
  1793年憲法は、前述したように三権分立制をとらないので、司法権の独立は明記されず、裁判官の選出も直接選挙は治安判事のみで、他はすべて間接選挙である。
  1795年憲法は、従来の地方裁判所が廃止され、県の刑事裁判所とパラレルに県民事裁判所が設置されるなど部分的改定を除き、基本的にジロンド案と同じである。
  革命の現実過程は、反革命に対する独裁期に革命裁判所を設置させた。その制度内容は、時期により変遷するが、最大の問題点は、審理手続きの極端な簡素化、反革命規定の抽象性(恣意的拡大の危険)などにあり、総括し教訓とする必要があろう。

  (3)ロベスピエールの憲法思想

  生存権を中心とする人権思想

  山岳派の中心人物であるロベスピエールは、1793年4月21日、彼の人権宣言草案をジャコバン・クラブに提出し採択され、4月24日には国民公会に提出した。また、憲法草案の一部も5月10日に、国民公会に提出された。
  ロベスピエールの憲法思想の特徴の第一は、生存権を中心とする人権思想にある。
  彼は「人の主要な権利とは、自己の生存の維持に備える権利と、自由である。[(A)の第2条]といい、「社会は、その全構成員に対して、労働を確保することにより、あるいは、労働しえない者に生活の手段を保障することによって、その生存に備える義務をもつ。」[(A)の第10条]、「生活必需品に欠乏する人々に対する必要不可欠の扶助は、余剰をもつ者の負債である。この負債を支払う方法は、法律で定める。」[(A)の第11条]とする。また、同12条では、貧困者の租税負担の免除と、それ以外の者の累進課税をうたっている。生存権を最も重要な人権とすることは、画期的である。
  確かに、1789年12月、パリのサン・テチエンヌ地区からの、無産階級の保護の方策を検討する委員会の設置を求める請願書に基づき、翌90年1月、議会は「物乞い根絶委員会」を設立した。そして、同委員会は「すべての人間は生存に対する権利をもつ」ことを貧民救済の基本原則として活動した(詳細は坂上孝著『近代的統治の誕生』参照)。  91年憲法、ジロンド案、93年憲法のいずれにも、公的扶助あるいは社会扶助の規定は存在する。だがそれらは抽象的なものであったり、恩恵的なものであった。
  これに対し、ロベスピエールの生存権は、恩恵でなく、明確な権利であり、いわば社会の全構成員に扶助請求権を認めるものといえよう。
  生存権を主要な人権とする考え方は、当然にもブルジョア的な所有権にも影響を与える。ロベスピエールは4月24日の国民公会の演説で、「人間の第一の財産であり、自然からひき出される諸権利のなかで最も神聖なものである自由を定義するに当たって、あなた方は、正当にも、自由が他人の権利を限界としてもつことを述べた。それならば、なぜ、こ・原則を社会制度としての所有に適用しなかったのか。‥‥あなた方は、所有権の行使に最大の自由を保障するために条文を増やしたが、その法的性格を定義するために一言も述べなかった。その結果、あなた方の宣言は、人々のためにではなく、金持ち、買占者、投機者、専制者のために作られたようにみえる」(辻村みよ子著『フランス革命の憲法原理』より重引。以下同じ。日本評論社)といっている。
  こうして、彼の人権宣言草案は、「所有(権)とは、各市民が、法律によって保障された財産の部分を享受し、処分する権利である。」[(A)の第6条]、「所有権は、他のすべての権利と同様に、他人の権利を尊重する義務によって制限される。」[同第7条]、「この原則を害するすべての取引は、本質的に不正かつ不道徳である。」[同第9条]と、所有権を制限する。すなわち、いまや所有権は、絶対不可侵の自然権ではなく、社会的に制約された権利・法的に保障された枠内でしか認められない権利とされた。

  セクションの重視
  第二の特徴は、ルソーに深く傾倒した彼の人民主権原理である。
  ロベスピエールは、法治国家の原則をあきらかにしつつ、「人民は主権者である。したがって、政府は人民の所産であり、人民の財産である。公務員は人民の受任者である。人民は、好むままにその政府を変え、受任者を解任することができる」と、人民主権の原理を述べる。
  そして、「いかなる人民の部分も、人民全体の権力を行使しえない。しかし、人民の一部が表明する要望は、一般意志の形成に協力すべき人民の一部の要望として尊重されなければならない。集合した主権者の各部分(セクション)は、完全な自由をもってその意志を表明する権利を享受しなければならない。各セクションは、すべての設定された権威から本質的に独立し、警察と議決の権限をもつ。」[(A)の第20条]、「共和国の人口と面積によって、フランス人民を主権行使のためにセクションに区分することが強いられる。しかし、人民の権利は、単一の議会で全体的に審議する場合と同様に現実的であり、神聖である。その結果、主権者の各セクションは、いかなる既存の権威の影響力にも命令にも従属しない。そして、人民の一部の者の自由、あるいは安全、あるいは尊厳を侵害する受任者は、人民全体に対する裏切りとして有罪とされる。」[(A)の第7条]と、人民主権原理を具体化し、主権者が帰属する基礎単位としてのセクションの重要性を強調する。
  さらに、ロペスピエールは、「圧制に対する抵抗は、他の人権の帰結である。」[(A)の第27条]と、抵抗権−蜂起権をはっきりと位置付ける。具体的には、「政府が人民の諸権利を侵害するとき、蜂起は、人民及び人民の各部分にとって最も神聖な権利であり、最も不可欠な義務である。」[(A)の第29条]、「社会保障が、市民に対して欠けるとき、各市民は、みずからそのすべての権利を守るための自然権を回復する。」[(A)の第30条]、「いずれの場合も、圧制に対する抵抗を合法的な形式に従わせることは、専制の巧緻である。」[(A)の第31条]などである。

  議員譴責に消極的
  第三の特徴は、主権者たる人民と統治機関との具体的関係である。
  ロベスピエールは、革命以降も王制尊重であり、91年憲法(立憲君主制)も歓迎し、賛成した。王制廃止を公然と表明したのは、92年の8月10日革命の、やっと2週間前であった。しかし、制限選挙制については1789年10月頃から一貫して批判していた。  だが、民衆は8月10日革命の「当時は、普通選挙に続く要求として、選挙人会の介在による間接選挙制を廃止するか、あるいはこの不備を補うために、選出された議員を再度信任に付すことが要求されていた。」(辻村 )といわれる。
  ロベスピエールは、選挙制について細かな規定をしていないが、93年6月15日の国民公会での発言にみられるように、受任者としての立法者と行政官との差異を根拠として、後者には間接選挙制を93年憲法同様に採用する構想であった。
  立法については、5月10日の演説で「一般意志と公権力は同じ起源をもつ。‥‥公権力が一般意志に仕えているときには国家は自由で平和であるが、逆のときは、国家は抑圧的で動揺している。公権力は、次の2つの場合に、一般意志と矛盾する。それは、法律が一般意志でないとき、あるいは、行政官が法律を侵害するために一般意志を利用するときである」と、一般意志(ルソー)と法形成の一致を強調した。
  さらに、6月16日の国民公会では、次のように述べている。
  「受任者の真の性格はその職務の本質によって決定される。さらに、意志は代表されえないのであるから、代表の語は、人民のいかなる受任者にも充てることはできないと考える。立法府の議員は、人民が第一の権力を委ねた受任者である。しかし、真の意味では、彼らは代表であるということはできない。立法府は、法律とデクレを制定する。法律は、人民が正式に承認したときのみ法律の資格をもつ。それ以前は法律案にすぎない。そして、そのとき、法律は人民の意志の表明となる。デクレは、人民の批准に付される以前は、人民がそれに承認を与えるとみなされるが故に執行されるにすぎない。そして人民が異議を述べないとき、沈黙は承認と考えられる。」
  これは、93年憲法のときより、はるかに厳格なものとなっている。93年の憲法では、法律は人民の事後の黙示的承認で成立し、デクレは、完全に立法議員に委ねられていた。しかし、ロベスピエールの場合には、法律は明示的な承認が、デクレは黙示的追認(異議の発動がありうる)が構想されている。
  人民の議員の統制については、“主権者が受任者の任免権をもつ”ことを前述した。したがって、「人民は、その受任者の活動のすべてについて知る権利をもつ。受任者はその取扱いについて、忠実に人民に報告し、尊敬をもって人民の審判に従わなければならない」[(A)の第34条]、「すべての公務員は人民に対して責任を負う」[(A)の第14条]としている。
  だが、ロベスピエールは、内外の反革命の危機の下で93年憲法の審議・採決で妥協したといわれる。憲法を人民投票に付すこと自身が反革命に対し人民を結束させることになるからである。だが、この政治的妥協を除いたとしても、彼の思想が後述するサン・キュロットのそれと異なることは明白である。
  それは、 所有の制限を唱えながらも、ついに「土地均分法」には賛成しなかったこと、 「民主主義とは、主権者人民がみずから作成した法律に導かれ、みずから行いえることはすべて自分で行い、みずから行いえないことのすべてを代議員によって行うような状態である」(93年12月25日の演説)と、代表制原理を払拭できなかったこと、 エロー・ド・セシェルの大陪審制の構想に反対し、議員譴責制の成立にも消極的だったことなどに明らかである。

  (4)セクションを基礎とする人民の主権行使

  マルクスとエンゲルスは、『1850年3月、共産主義者同盟への中央委員会の挨拶』の中で、次のように言っている。「1793年のフランスと同様、現在ドイツではできるだけきびしい中央集権化こそ、真に革命的な政党の課題である」と。
  だが、エンゲルスは、同書の1885年版のための註で、この点を以下のように訂正している。「‥‥今ではブリュメール18日までの全革命を通して、県、郡、市町村の行政官庁がすべて被支配階級自身によって選ばれた役所から成っていて、これが一般的な国法の内部で完全に自由であったことは、周知の事実である。アメリカのそれにも似たこの局地的地方的な自治はまさに革命の最も強力な梃子であり、‥‥」と、革命における地方自治の重要性を認めている。

  革命期の地方行政機関と自治活動の制約

  革命期の地方行政機関は、1789年12月22日のデクレで設立された。これによりフランスの全土は、行政・選挙単位として、まず83県(のち若干ふえる)に分割され、各県は3〜9郡に分けられた。郡の下にいくつかのコミューン(市町村自治体)があるのだが、コミューンの設置は、県や郡の設置よりも数日早く同年12月14日のデクレで定められた。パリ・コミューンも他のコミューンの構成と本質的には同じだが、特例として別に考案され、1790年5月21日に、パリ都市法が可決された。
  同法によると、パリは48の地区(セクション)にわかれ、各区から3名ずつ代表が選出され(計144名)、コミューン総評議会を構成する。このうち48名が行政官として市長とともに常務執行機関を構成する。残り96名は名士といわれる。なおこの他に、一種の目付役として、国王を代理する官吏として、総代(1名)、補佐(2名)が、能動的市民から選出される。これは法律の適用を監視する役目で、検察機能ももつ。
  セクションの内部には、能動的市民の選出による民事委員会があり、これがセクション唯一の常設執行機関である。民事委員会は、コミューンと常時連絡をとり、コミューンの下部機関としての役割を果たしている。
  立憲議会は、6月27日に市組織法を可決した。「その特徴的部分を概観するに、市自治体を構成する総評議員は、出身区からの拘束や召還を受けないものとされ、60地区にかわった新たな行政区画たる48区は、旧地区の大多数の期待に反して集会の常時開催を廃止されたうえ、選挙のための会合以外の同一議題による48区の一斉会合には‥‥条件が課せられた。」(岡本明著「フランス革命期のパリ=コミューン総史(一)」−『富山大学文理学部文学科紀要』3号)。その条件とは、 各区ごと50名以上の能動的市民の要請で開かれた総会で、 最低100名以上の能動的市民の参加を得たことが議事録に明記されたうえ、 各区別で多数決による決議の結果、最低8区の共同意志として要請されること、である。このとき市当局は、一斉会合を拒めないが、しかし、この会合には執行部メンバーあるいは名士が出席できる。
  このようないくつもの障害をもったセクションでは、自治活動はきわめて制約されたものとならざるを得ない。だがサン・キュロットは闘いの中でこれを克服していく。
  8月10日革命から国民公会が開催される9月21日までの間は、パリ・コミューンと議会の二重権力状況が続いたが、10月中旬から各種の選挙がおこなわれた。市長選挙は、当選者が次々と辞退し、3回目(10月28〜29日)にやっと決まり、シャボン(ジロンド派だが、のちエベール派にちかくなる)となった。総代はエベール派のショーメットとなった(12月8日選挙)。エベール自身は、11月の総評議員の選挙で当選したが、12月の補佐選挙で当選し、補佐となった。
  アンラジェ(激高した人々)のジャック・ルーは、グラヴィリエ=セクションから総評議員に、ヴァルレは、ドロワ・ド・ロム=セクションの選挙人となっている。
  1789年革命において民衆が決起した背景には、食糧不足や物価騰貴があった。それは、都市民衆だけでなく、土地をもたない日雇い農民にとっても深刻であった。(農民の多くは穀物購入者)
  パリ民衆は、1789年7月12日の夕方から翌朝にかけて「入市税門を襲撃・放火してパン価格を下げようとし、武器商店を略奪して自衛のために武装する動きを示した」(『フランス史』2 山川出版社)。
  91年秋から92年春にかけて、食糧危機が再燃する。93年にはいると、戦争の拡大とともに物価高騰がさらに深刻な問題となる。原因は、アッシニア紙幣の下落、徴発による生活必需品の不足、戦争により西インド諸島からの輸入の途絶などである。
  1793年2月25日、反乱が勃発する。レ・アール=セクションから始まった闘いは、パリ中心部全体にひろがる。女性たちは、食料店に殺到し、石鹸、砂糖、ローソクなどが、定められた値段で売られるよう要求し、略奪を行った。議会への請願は、ジャック・ルーの指導で“食料品の買占め人に対する死罪の宣告、為替取引や本来の価値以上の価値をもった貨幣をつくりだすことによって、アッシニア紙幣の信用を失わせた者たちに対する死罪の宣告”を要求した。
  この人民の闘いに対し、ジロンド派はもとより山岳派も否定的だった。ロベスピエールは「私は人民に罪があるとは言わない。しかし、人民が起ち上がる時には、とるに足らない商品を手に入れようとするよりも、彼らにふさわしい目的というものを持つべきではないだろうか」と、2月25日の夜、ジャコバン・クラブで、民衆感覚のない演説をした。マラーも、国民公会で、価格統制に反対の態度をはっきりと表明した。
  だが、3月から5月にかけて、山岳派の態度が変わってくる。

  <3月蜂起と山岳派の革命政府化>
  山岳派の態度変更は、単にジロンド派との対立が激化してきたためサン・キュロット運動を利用しようというだけではない。次にみる「3月蜂起」に示されるように、サン・キュロットの一部に脱山岳派、脱ジャコバン派の動きが生じてきたからである。
  「3月蜂起」とは何か。
  3月9日の未明、午前2時、ジャコバン・クラブの会場で「祖国防衛者の監視委員会」と名のる連盟兵の集会がもたれ、パリのすべてのセクションに“蜂起行動を展開すべく合流せよ”と、檄がとばされた。同じ日の午後、50名ほどの武装部隊がコンドルセの『パリ通信』とゴルザスの『83県通信』の両印刷所を襲い、印刷機を破壊し、新聞を破棄した。その夜、コルドリエ・クラブでは、さきの連盟兵の檄をうけて“警砲を市中に鳴らすこと、市門を閉ざすこと、国民公会に席をしめる容疑者に復讐の鉄槌を下すこと”が提案された。そこでヴァルレは、「今日この危機にのぞんで穏健主義は時宜をえず、共和国の蘇生のためにも最も神聖な義務である蜂起にたつべき」とアジっている。(岡本明著「三月蜂起とアンラージェ」−『史林』56巻3号)
  蜂起の背景は、食糧危機と北部戦線の敗北という軍事危機にあるが、国民公会の指導能力の弱さにいらだち、サン・キュロットは蜂起する。
  「3月蜂起」の中心的活動家は、アンラジェのヴァルレである。「蜂起」は結局、成功しなかったが、彼はその後も「フィアン修道院で、群衆にむかい、『3月9日または10日におこるはずであった蜂起は実現しなかったが、それは延期されただけである』と称し、ジャコバンの無関心を批判する演説を行っている」(岡本前掲書)といわれる。
  山岳派などは、「3月蜂起」をはじめとするサン・キュロットの要求と運動を無視しえず、以降、次のような施策を採択している。
  それは、 ヴァンデの暴動や北部戦線のデュムリエ将軍の謀反など反革命に対処するものとして、再び特別刑事裁判所(革命裁判所)を設置(3月10日のデクレ)、 92年8月10日革命いらい大都市を中心に自然発生的につくられた、反革命摘発のための委員会を追認する形で、監視委員会の設置(3月21日デクレ。この時は外国人が対象。のちに革命委員会といわれる)、 各大都市に貧しい者の中から市民軍をつくり、それらの市民を国の費用で武装し俸給を出す4月5日のデクレ(実際には実施されなかった)、 無力な国防委員会(行政府としての臨時行政会議と、国民公会およびその諸委員会との連絡機関)では、軍事危機には対処できないと公安委員会設置法を可決(4月6日)、 5月1日、約8000の民衆がパンの価格統制を要求して国民公会を包囲したのを受けて、穀物とパンの最高価格法導入を可決(5月4日)、 富裕者を対象とした10億フランの強制公債の決定(5月20日)などである。
  この時期、事態は流動的であり、国民公会ではジロンド派と山岳派が対立し、アンラジェらは国民公会全体に批判的であった。パリ・コミューン執行部や政府の一部に影響力をもつエベール派は、山岳派に妥協する方針で、アンラジェらの価格統制や独裁強化に反対であった。だが、エベール派は、7〜9月を境に、公然たる反山岳派キャンペーンに転じる。
  <蜂起委員会の指導下、ジロンド派追放>
  ジロンド派は、1792年の夏頃から、国民公会議員の安全を保障する武装力の配置をめぐって、山岳派やサン・キュロットと対立してきた。そして、国民公会内の治安委員会(反革命容疑者を逮捕し、治安を維持することが任務。92年10月2日に設置が布告)の多数獲得をめぐる対立は激しく、93年1月からは、山岳派がほとんどを占めていた。  これに対しジロンド派は、5月18日、12人委員会の設置を提案し可決させた。「この『12人委員会』は、内相、外相、保安委員会、公安委員会などから、国会議員を脅かす陰謀について、すべての情報を受けとるもので治安関係の最高機関として、一切の反ジロンダン運動を抑圧するものであった」(前川貞次郎著「第二章 フランス革命における独裁機構」 −猪木正道編『独裁の研究』)。そして、この12人委員会の設置が、5月31日、6月2日の蜂起−ジロンド派議員の失脚を誘発した直接原因の一つであるといわれる。
  12人委員会は、「自治区をコミューンぐるみ統率・監視する機関であり、最近一か月の総会議事録の提出要求や被疑者逮捕の指令、さる3月27日にジロンド派も同意して創設した諸区革命委員会への命令権を行使したのである。これはいうまでもなくジロンド派議員召還運動への対処処置であった。これは議会とコミューンとの関係史においても画期的な段階を画す。12人委員会は、穏健派3区からの協力をあおいで区衛兵隊を国民公会の警護に召集するなど、コミューン内敵対勢力と結合したため、いっそう深刻な事態を招くこととなった。」(岡本明著「フランス革命期のパリ=コミューン総史(二)」 『富山大学人文学部紀要』4号)のである。
  12人委員会設置の前後、5月16、19日、市警察局のマリノ(ビュット・デ・ムーラン=セクション出身の総評議員)、ミッシェル(レユニオン=セクション出身の総評議員)らは、諸区革命委員会の代表をあつめ、ジロンド派議員の逮捕を討議していた。(既に4月15日には、パリの35のセクションが、22名のジロンド派議員の国民公会からの排除を要求している)
  だが、12人委員会の行動が機先を制した。5月24日、食料品店の略奪を組織したとしてエベールが、反議会的蜂起を説いたとしてヴァルレが、マリノ、ミッシェルとともに逮捕された。
  5月27日、マラーなどの働きかけでいったんは廃止された12人委員会だが、翌日にはわずかな差でまた再建された。そして、30日には、総会議事録の提出をめぐり抵抗するセクションへの統制処置がおこなわれ、対立は極点に達した。
  セクションの代表からなる蜂起委員会(参加した33区代表委員中、穏健派6区以外は無制限の権限が付与されていた。3月27日の挫折したヴァルレらの諸県連絡委員会設立運動では、任命された委員には制限つき権限しかなかった)によって蜂起が組織され、5月31日、約2〜3万人の民衆が国民公会を包囲し、31名のジロンド派議員の逮捕などを要求した。だがこの日は、国民公会が抵抗し、12人委員会の廃止だけが実現した。しかし、サン・キュロットは、6月2日に再び約8万人の民衆を動員し、アンリオ(エベール派)指揮下の国民衛兵の武力を背景に、ジロンド派議員29名の逮捕決議を国民公会から獲得する。
  この5月31日〜6月2日蜂起の過程で、ヴァルレは、パリ・コミューンの全役職者の罷免も追及したが、これは失敗した。
  6〜7月と、石鹸暴動や生活危機の解決を求める国会請願がつづく。8月中旬には、市当局の食糧行政への批判が強まる。

  山岳派・エベール派による代表制原理の強制

  5月31日〜6月2日蜂起は、92年の8月10日革命とは異なり、諸セクションによるパリ・コミューンの革命はできなかった。
  これに加え、山岳派やエベール派の策動で、代表制原理が強まる。6月10日、国民公会は、“2週間以内に資格審査の完了をみないセクションは、以後、選挙権と市自治体役員任免への協力権を剥奪する”というデクレを可決する。これは、前年からの総評議員の選出で、他区による資格審査を通過しない(セクションで勝利しても、他区の資格審査が必要)ため、未だ議員確定ができていないセクションがあったためである。他区による資格審査制度の不備(審査基準に、被選出者の思想まで入っている)を改善せずに、山岳派は高圧的態度をとった。
  このデクレとともに、「6月26日、ショーメットの論告により、総評議員の解任は総評議会の決議のみによる旨定めたことは、コミューン当局つまり一体者としての市当局と総評議会の自律化を意味するものであった」(岡本前掲書)。これはセクションの人民主権にもとづく主権行使を形骸化するものである。
  ところで、5月31日〜6月2日蜂起ののち地方に逃げかえったジロンド派議員は、山岳派とパリにたいする反乱を組織した。この動きは、とくにマルセイユ、リヨン、ボルドー、トゥーロンなどで強かった。内外の危機に加え、パリでも物価の高騰がつづき、アッシニア紙幣の価値は下落し(8月22日には額面の22%へ)、民衆騒擾が続いた。
  山岳派は、こうした動きに対し、7月17日、農民を引きつけるために領主権の無償廃棄、7月27日、買占め禁止法、8月23日、国民総動員令などを国民公会で決定した。  だが、サン・キュロットは、それでも収まらなかった。9月4、5日、武装したセクションの国民衛兵などが国民公会を包囲し、革命軍の創設、反革命容疑者の逮捕、革命委員会の粛清、総最高価格法などを要求した。これは革命政府の樹立への画期をなした。
  山岳派は、国民公会で9月9日、食糧徴発や反革命容疑者の逮捕。処罰などを任務とする革命軍の創設、9月17日、反革命容疑者の逮捕を定めたデクレ、9月29日、各地域の1790年の生活必需品の価格と賃金を基準として、それよりそれぞれ3分の1と2分の1の高い値に最高値を設定する総最高価格法を可決し、サン・キュロットの要求に応えた。
  と同時に、他方でサン・キュロットの急進派を弾圧した。9月には、ヴァルレ、ジャック・ルーを逮捕し、10月には、革命的共和主義女性協会を閉鎖に追い込んだ。
  それのみならず、セクション制度を形骸化し、統制した。9月9日のデクレは、セクション総会に出席する貧困市民に40スーの手当を支給するとともに(これは支給される者とされない者の間の対立で混乱の因となった)、セクション総会の常設制を廃止し、週2回の開催に制限した。サン・キュロットは、これに抵抗し地区結社を結成する。彼らの闘いはテルミドール反動後も続くが、9月の闘いを最後にアンラジェが政治の表舞台から引き下がるとともに、革命におけるセクション単位の運動も終焉する。                                                    

  (5)ヴァルレの憲法思想と人民主権

  フランスの「資本主義的生産関係は18世紀中期以降急速に発展し、特に北部先進地帯では農民層の分解はかなり進展していた」(小出高志著「ジャコバンとサン=キュロット」−『史苑』第32巻1号)といわれる。しかし、イギリスで進行していたような産業革命は未だおこっておらず、それはナポレオン時代以降である。
  したがって、サン・キュロットは近代工場プロレタリアで構成されていたわけでなく(それはごく一部でしかない)、第三身分の上層から最下層までの雑多な集団であった。「彼らは大別して 年金生活者・財産生活者(そのほとんどが旧手工業者、旧小商店主)、 中産ブルジョワジー(企業主)、 プチ・ブルジョワジー(手工業者、小商店主)、 最も人民的階層(プロレタリア、犯罪者その他の下層民)、 知識人・自由職業者、に分類できる。しかし重要なことは、そのなかで最も有力な部分をしめていたのは手工業者、小商人であったということである」(同上)。
  サン・キュロットは、革命期の政治活動を主にセクションあるいは民衆協会を基盤としておこなった。特に1792年から93年にかけては、セクション活動が非常に大きな役割をはたし、後世に貴重な教訓を残した。
  アンラジェのヴァルレは、93年の春、憲法草案の公募にこたえ、『社会状態における人権の厳粛な宣言』を書いたが、それには、その前後に「前文」と「歴史的沿革についての覚え書き」がついていた。その「覚え書き」で、ヴァルレはつぎのようにいっている。  「4年前から、公共の場所で、人民のグループのなかで、サン・キュロットたちの間で、私の好きなぼろをまとった屋根裏部屋の貧乏人たちが、率直に、遠慮なく、上品な紳士や弁士、模索する学者よりも、よりしっかりと、より大胆に議論するのを私は聞いた。そして彼らが、すぐれた学問から学ぶことや、私と同様にいくつかのグループに参加することを欲しているのを、私は理解した」と。「ヴァルレにとっては、サン・キュロットは『私の教師、私の主人』と呼ぶのにふさわしい存在であり、さらに、ルソーが理論上の教師であった」(辻村みよ子著『フランス革命の憲法原理』 日本評論社)のである。ヴァルレの思想は、サン・キュロットとともに生活し、サン・キュロットとともに闘うなかで、形成されたのである。
  ヴァルレの憲法思想の特徴は、まず第一に、自由と平等を原理とした人権思想である。  だが彼の自由は、「他人を害しないすべての行為をなし得る権利である」という1789年宣言いらいの個人的自由と違い、「ヴァルレのそれは、社会的に自由を規定する傾向にあり、むしろ秩序と社会的調和を維持・管理するための原理として捕らえられていた」(同上)といわれる。
  そして、平等も社会的原理として実質的に保障することが強調されていた。その内容は、「 市民は、出生、財産もしくは身分上の差別なく、各々の能力に応じて、または、各々が抱かせる尊敬と信頼の度合いに応じて、あらゆる公職に就くことができる。 社会の必要によって要請される租税の分担は、それが納税義務の能力に応じて累進的であるかぎりにおいてのみ、平等である。 わずかな賃金で生活する個人は、生活の糧となる労働生産物の上に課税されることができない。 地位に関するすべての差別的な標章は、職務執行の際にしか用いられない。 社会的報奨は、なされた奉仕の価値に従って段階をつけられ、つねに専ら、徳行と個人的な功労に対して認められ、かつ、つねに共同の利用に向けられる。」(『社会的状態における人権の厳粛な宣言』の第6条)、のである。
  この平等観からはとうぜんにも、生存権と享受の平等から所有権の制限を導いたサン・キュロットと同様に、所有の制限は必然的である。すなわち、「財産の享有とは、占有する権利である。‥‥」(同第16条)、「土地占有権は、社会においては限界をもっている。その範囲は、商業、農業がいかなる被害もうけないものでなければならない。いかなる国家においても貧乏人が多数を構成している。そして、彼らの自由、安全、身体の保全は、すべてに先行する財物であるから、彼らの最も自然な意志、最も不変の権利とは、富を獲得する野心を抑え、正義にかなう方法で富の巨大な不均衡を打破することによって、金持ちの圧制から身を守ることにある。」(同第17条)、「窃盗、投機、独占、買占めによって、公共財産の犠牲の上に蓄えられた財産は、社会が確かな事実によって公財私消の証拠を得たときは、即座に国有財産となる。」(同第20条)などとなる。
  だが、ヴァルレの場合も、サン・キュロットと同様に、歴史的限界として、私的所有の枠はこえられなかった。たとえばそれは、第18条第4項での、世襲財産と相続財産・贈与の承認、第19条での「所有権は不可侵の権利である‥‥」などにみられる。
  しかし、ヴァルレの思想で最も光彩を放つのは、なんといっても人民主権論である。これが第二の特徴である。
  ヴァルレは、第7条で「社会の組織は、社会状態における人権の維持を唯一の目的とする。」と、フランス革命に一般的にみられる人権−そのための統治機構観を述べたのにすぐ続けて、「これらの権利とは、主権の行使、思想の自由、個人の自由・安全・保全・財産の享有、および圧制に対する抵抗を意味する。」と、「主権の行使」をトップにかかげる。
  そして、第8条−「主権の行使は、すべての諸国民に帰属する。全権力は、本来的に、諸国民のうちにのみ存在する。それは、単一、不可分、不可譲で時効消滅しえず、委任状によって委任されることができるが、決して代表されることはない。‥‥」、第9条−「委任者の正式な委任によらずに公務を執行する者は、人民の主権を侵害する纂奪者である。」と、代表制原理を批判する。
  さらに、第10条では、「諸国民の主権の行使は、互いに等しく異なる8つの部分にわけられる。それは、社会状態における人がもつ次の権利である。
  1  直接にすべての公的機関を選出する権利
  2  社会の利益を討議する権利
  3  法律を提案することを委任された委任者に、個別的には願望と意向を、全体的には   意志を提示し、かくして、みずから法律の制定に参加する権利
  4  自己の委任者の利益を裏切る議員を召還し、処罰する権利
  5  公の租税の必要性を確認する権利。すなわち、自由に公の租税を承認し、その使途   を見守り、その税額、基準、徴収、期間を決定する権利
  6  すべての公務員、行政官、官吏、国民の公金の管理者に、その事務についての報告   を要求する権利
  7  受任者が、それらに法律としての効力を与え、かつ執行可能にするために提起した   法律案を検討し、否認もしくは裁可する権利
  8  任意に社会契約を再検討し、改造し、修正し、変更する、国家のなかの全体として   の市民の権利」
と全体的に規定している。
  ヴァルレは、この人権宣言を書く前(92年12月9日)に、『特別の命令的委任に関する草案』という著作を発表している。この中で彼は、代議士に対して、「あなた方は、もはやわれわれの代表ではない。われわれの委任者であり、われわれの機関にすぎない。」と宣言し、「代理権限なく委任なければ代議士なし」という命令的委任案を展開している。それは第一次集会における選出と諸権限の委任−受任者への積極的な請願・要求と監督−人民による受任者の解雇ないしは信任という関係構造をもっている。このような民主的で人民的な主権論は、今日にいたるも、どのような国でも実践されたことはないであろう。  この人民の主権行使にあたっては、「思想の自由、行動の自由、個人の自由・安全・保全・財産の享有、および圧制に対する抵抗」の権利が不可欠である。
  思想の自由については、第11条で、信仰の自由も含めて述べ、さらに「思想の自由は、また、思想の自由な伝達とすべての意見にたいする寛容をも確証する。思考すること、それは、人の最も貴重な権利である。したがって、人は、その能力を、いかなる場合にも、禁止され、停止され、または制限されることなく、自由に書き、話し、出版することができなければならない。」とする。
  行動の自由については、第12条で、「行動の自由とは、すべての個人に属する、自由に往来し、集合し、創設された機関の統治や活動を批判し、監督し、要するに、社会と同胞に対していかなる損害ももたらさないことをすべて行うことのできる自由のことである。‥‥」とする。
  個人の自由については、第13条で、「個人の自由とは、すべての個人がもっている、投票し、選挙し、討議し、そして、各人に帰属する主権の部分を集会で行使する、争いえない権利のことである。‥‥」とする。
  個人の安全については、第14条で、罪形法定主義、刑罰の不遡及、無罪推定原則、正当防衛権、恣意的・不正な命令に服さない権利をあげている。
  ヴァルレの人民主権論の画期性は、人民諸個人の活動における政治上・経済上の裏付け、保障がないかぎり、現実性をもちえない、という点にある。ヴァルレは、政治面では比較的しっかりした制度的保障を構想した。だが経済面では、所有の制限という「小ブル的平等主義」の枠をこえられなかった。しかし、それはあくまでも歴史的限界なのであった。
  (6)バブーフの共産主義と人民主権
       
  ヴァルレをふくむサン・キュロットの限界をのりこえ、あらたな地平をきりひらくのは、バブーフであった。彼は15歳のとき生家をはなれ自活し、1784年(24歳)に、ピカルディ地方のロワの土地台帳管理人(領主や地主の所領管理)になった。このときの経験が彼の思想の基盤となる。(かれはロベスピエールやヴァルレと異なり、正規の教育をうけていない)
  1789年革命直後、パリに行ったが10月には戻り、ピカルディ一帯の農民運動を組織する。そして、92年9月には、貧農の支持をえてソム県の行政官に選出された。次いで11月には、モンディディエ地区の行政官に任命されたが、ここで行政上のミスを政敵につかれ、93年パリに逃れる。
  ピカルディ時代、バブーフはすでに突出した思想の萌芽を示している。「今日、より不幸な人たちが農地の配分によってその境遇が改善されると感じないわけにはいかない。度を超したすべての困窮、すべての貧困は、不断にかつ正当に行われるこの配分によってはっきりと軽減されることになるであろう。」(クーペ宛の91年8月20日付けの手紙)と、農地の配分をはっきり主張している。同年9月10日付けのクーペ宛の手紙では、「(均分された)農地は譲渡可能であってはならない。‥‥死んだ時には、社会の中の近親者ではなく、社会そのものを相続人とすべきである。」と、農地均分とはいえ、それは実質上、占有権となっている。
  また、社会的平等を実現する「憲法は、以下のような内容を含む国民的資源でなければならない。つまり、人民に精神の糧と肉体の糧が同時に保障され、かつ精神生活と完全な物質生活についての規定が、たんに明確であるだけでなく、うまく組み合わされた組織と巧みに管理された全労働により無限に増殖される全資源を共有することによって直接に裏付けられていることである。」(8月20日付けの手紙。杉原泰雄著『人民主権の史的展開』から重引)と、精神的・肉体的保障、とくに経済的裏付けを強調している。
  1793年にパリに逃れたバブーフは、エベール派のショーメットなどと接触していたが、活動内容はわからない。94年1月、バブーフは前述した事件で拘留され、7月18日、テルミドール9日(ロベスピエール派の逮捕)の9日前に釈放される。
  バブーフは、テルミドール反動下でテルミドール右派に幻想をもっていた。それは、ロベスピエールらの山岳派独裁によって、サン・キュロットの運動も組織も徹底的に破壊されたからである。したがって、山岳派独裁の否定面のみ目につき、反革命に対する独裁の意義が理解できなかったからである。
  バブーフは、1794年12月18日以降、テルミドール派にたいする幻想を完全に払拭する。テルミドール派によって、革命政府とその政策が全面的に否定され、経済自由主義が復活し、民衆の餓死が放置されたからである。
  民衆のジェルミナールの蜂起(95年4月1〜2日)も、プレリアルの蜂起(同年5月20〜23日)も、鎮圧された。2つの蜂起の挫折は、バブーフにこれまでのサン・キュロット型の蜂起・運動の反省をせまる。
  バブーフは、アラス刑務所(95年2月7日に、蜂起の扇動を理由に、逮捕・投獄される)からの手紙で、農業・土地のみならず、商工業の私有財産制を批判している(95年7月28日付け)。9月4日付けの手紙では、総裁政府体制を全面的に転覆する革命の必要性を説き、11月6日付けの新聞『護民官』34号では、平民共和派の結集を訴え、ロベスピエール体制の評価も転換しはじめる。(バブーフは95年10月18日に、恩赦で釈放)
  そして、『護民官』35号(95年11月30日付け)に、『平民の宣言』を発表している。そこでは、「土地は、誰のものでもなく、万人のものである。」「より高度の知性や、頭脳のより以上の使用と緊張を要する仕事についている者により多くの報酬をすべきだとする主張は、不合理かつ不正である。その仕事は、いささかも胃の容量を拡張するものではない。」「獲得された知識は、万人の所有物であるから、それは万人の間に平等に配分されなければならない。」「それ(共同の幸福)に至る唯一の方法は、共同の管理を設けることである。つまり、私的所有を廃止して、各人をその通暁している才能や労働に専念させ、生産された現物を共同倉庫に保管するように義務づけ、簡単な配布管理──すべての個人とすべての物を記録し、この後者をもっとも良心的な平等性をもって配分させかつ各市民の家に保管させるという、生活必需品の管理──を樹立することである。」(同上)と、私的所有の廃止と平等を明確に主張している。
  世に「バブーフの陰謀」としてしられるバブーフ派の活動は、サン・キュロット主義のバブーフらと、ロベスピエール主義のブオナロッティらの二系統の合体、「融合」でおこなわれた。1796年3月に革命指導部としての公安秘密総裁府が結成され、わずかな活動期間ののち、内部の裏切りで同年5月7〜10日に指導的メンバーのほとんどが逮捕され終わった。
  バブーフ派の思想的特徴は、私的所有の廃止とともに、革命直後の反革命に対する独裁期の革命政府と、その後の安定期の統治機構を区別したところにある。(ここでは紙幅の関係で革命政府の時期については割愛する)
  杉原前掲書によると、バブーフらの公安秘密総裁府は、実質的な平等社会では、その目的からして当然にも、人民主権を採用するとした。それはまた、立法・執行に精通する一つの階層が形成されると、人民を隷属させるので、人民主権が必要だ、としている。
  杉原前掲書によると、公安秘密総裁府は、新たな社会での統治機構を次のように規定している。
  まず、共和国を会合可能な広さの「区」に分割し、各区に、全市民からなる「主権会議」(第一次集会にあたる)をもうける。またこの会議によって選出される「長老会議」をおく。
  次に「中央立法者院」は、直接人民によって選出される代議士で構成される。「中央立法者院」は、法律の提案、および法律の執行を確保しかつ政府を指揮・監督するためのデクレの制定という任務をもつ。                   
  次に「国民意志擁護者院」は、人民の直接選挙によって、「長老会議」のメンバーから選ばれる。「国民意志擁護者院」の主な任務は、「主権会議」の決定を集計して主権者意志を表明すること、「中央立法者院」がデクレの制定権を乱用して立法権を侵害することがないように監視することである。
  法律の制定は、「中央立法者院」の発案か、各「主権会議」の発案かによって、分かれる。前者の場合は、決定された法律案と提案理由書を各「主権会議」におくる。「主権会議」の採決の結果は、「国民意志擁護者院」に送られ、同院が集計結果とともに、人民意志を表明する。後者の場合は、提案が人民の多数によって支持された場合には、「国民意志擁護者院」はその結果を「中央立法者院」に伝え、「中央立法者院」がそれを法案として整備し、人民の承認に付する。
  すべての公務者に対する人民の監視に関しては、まず立法議員について、その負うべき責任内容は、罷免だけでなく、刑罰も含まれている。また、「審査院」を創設して、定期的に執行官の行為を審査するとしている。さらに、全執行官は、その任務を離れるにあたっても審査を受け、その任務の遂行が承認されなければ、新しい執行官職に任命されることがない、としている。
            *                          *                        *
  フランス革命における理論と実践が提起した「人民主権」は、さまざまな理由があって、結局、コミンテルン系共産主義運動には継承されなかった。このことも一因として、ソ連などでは社会主義建設とともに国家が「死滅」に向かうということにならず、「国有化万能」論ともあいまって、逆に官僚主義の宿弊化、国家の肥大化をまねいたのである。
                                                          

                                                             (おわり)
                                                                          (執筆  1999年2〜9月)