江戸後期の侵略思想―蘭学者・本多利明の場合                       

   覆い隠されてきた本多利明の侵略思想

                           堀込 純一
         
        目 次
 はじめに
Ⅰ 四大急務を提唱
Ⅱ 本多利明の思想背景
 (1)天明の大飢饉に衝撃
 (2)西洋思想の全面崇拝
 (3)非科学的な皇統主義への傾斜
Ⅲ 他国の国力を「抜き取る」外国交易
 (1)「渡海・運送・交易」を重視する理由
 (2)略奪貿易の基は植民地主義
  《補論 スペインと中南米植民地との交易関係》
 (3)再検討が必要な本多利明の思想
Ⅳ 蝦夷地開業に込められた利明の野望
 (1) 属島開業の狙いは国力増強と国境維持のみか
 (2) カムチャッカに遷都し、英と並ぶ大国目指す
  《補論 蝦夷地・竹島開拓と幕末の志士》
 おわりに

  はじめに

 本多利明の生没年は、1743(寛保3)年に生まれ、1820(文政3)年、78歳で没したと言われる。だが、彼の経歴については、不明な点が多い。出身地は、越後蒲原郡(越後村上とも言われる)で、祖先は加賀藩士と言われるが、確証がない。
 利明は若い頃から数学を好み、18歳の頃、江戸に出て、今井兼庭に関孝和流算学を、また千葉歳胤(としたね)に天文暦学を学んだ。後、漢訳書の西洋暦算を経て、蘭学系にすすみ、航海天文学を研究した。
 利明は1766(明和3)年、24歳の時に、江戸音羽一丁目で算学・天文の私塾を開いている。門弟には、最上徳内や阪部広胖(ひろおき)などがいる。
 利明は決して蘭語が堪能ではなかったが、もっとも親交のあった蘭学者の山村才介(地理学の発展に貢献した)や司馬江漢(銅版画家で地動説の普及に貢献した)などから、西洋事情を学んだと推定される。広い意味で、蘭学者の内に入る。
 利明の著作を見ると、科学技術系が主で、ついで、蝦夷・ロシア関係と経済論説が同じくらいと言われる。
 従来、本多利明を研究する専門家のほとんどは、彼を平和主義者としてとらえているようである。しかし、果たしてそうであろうか。本稿はこの点について、私見を述べるものである。

    Ⅰ 四大急務を提唱

 利明は、封建制のほころびが露呈し始めた当時の経済政治情勢の下で、日本国家を富ますために、以下のような治道の「四大急務」を提起している。第一が焔硝(えんしょう)、第二が諸金、第三が船舶、第四が属島の開業(開発)である。
 第一の焔硝とは、硝石すなわち硝酸カリウムのことである。これは、火薬の原料であり、漢方医学でも用いられたと言われる。
 利明は、この焔硝について、自然科学者らしく次のように述べている。「焔硝と云(いう)は、土地に焔硝を生ず、海中に潮汐(ちょうせき *海水だが、ここでは塩)を生ず、天下万国皆(みな)然(しか)り。太陽の温(ぬくも)り、火の変性也。」(日本思想大系44『本多利明 海保青陵』―「経世秘策」岩波書店 P.14)と。
 利明は、太陽の温気が地中に入って焔硝となり、海中に入って塩となり、さらにこれが海底に土着し累積すると硫黄となると考えている。これが数千年を経ると噴出し大陸や島となり、また硫黄山となる。この硫黄山に太陽の陽気がうつると火山となり、火山が噴火すると温泉が湧き、さまざまな鉱物が発生すると考えた。これらが燃焼すると再び炎火となって、太陽に戻る、というのである。
 今日から見ると、硝酸カリウムも、塩(塩化ナトリウム)も、硫黄も、全然別の元素から構成されていることが明らかであるが、利明は上述のように太陽エネルギーの変性をとらえていた。
 このような自然観に立って、利明は焔硝(えんしょう)への対処や効用を次のように述べている。すなわち、「土地の焔硝を取らずに置(おか)ば、天雷堕落(*雷が落下すること)して火災となり、或(あるい)は乾燥なる時に、天火を招き、火災となり、或は人の過失出来(しゅつらい)すれば、忽(たちまち)大火となる。……斯(かく)の如く災害の出来するものなれば、是(これ)を掘採(ほりとり)て火災の憂(うれい)を資(たすく)るは、勿論国務(*国の政務)なるなり。」(同前 P.15)と。
 そして、すぐ続けて、「これのみに非(あら)ず、多く採りて多く所持すれば、武備の要害・武国の名に協(かな)ひ、盛衰勝劣も固(もと)より焔硝蘊積(うんせき *蓄積)の多少に因(よ)れり。扨(さて)又(また)治平に国家の大用に立て、其(その)益(えき)莫大(ばくだい)なり。」(同前)と述べる。
 利明は、ここで焔硝の掘り取りの基本として、(イ)防災、(ロ)軍備の備(そなえ)を挙げる。その上で、河道開削、道路工事、渡海での難所工事などによる運送・交通の発展や、湖沼干拓・新田開発につながるとして、「都(すべ)て開業(*開発のこと)の大業は、焔硝を用いずしてなし難(がた)し。」(同前 P.16)と、(ハ)開業に役立つことを挙げている。
 「第一、焔硝」の主題は、確かに(ハ)開業に役立つ点であるが、注意すべきは、(ロ)軍備の備である。日本は豊臣政権の朝鮮侵略の時に、「武威の国」(中国や朝鮮を「長袖国」とし、その貴族的軟弱さを批判したもの)を高唱して以来、対外的に「武威の国」を自負した。利明は、その裏付けとして、焔硝を重視した。
 第二の諸金とは、金銀銅鉄鉛山を指している。
 鉱物の「本途直段」(ほんとねだん *藩による買い上げ価格)には批判があるが、利明は、「此(この)本途直段の制度なく、自然相場(*市場価格)に依(より)て相対売(あいたいうり *買い手と売り手が直接に交渉し売買すること)勝手次第とあらば、諸国の金銀銅山を我勝(われがち)に堀採て異国へ渡し、国に骨なしとなるべきを、本途直段の制度あつて国の力を保ち、あやまち(過ち)の高名〔*し損ないがかえって良い結果を生み出すこと〕ともいふ(言ふ)べし。」(同前 P.17)と擁護する。
 この理由について、利明は、「其(その)趣意を云(いえ)ば、異国より持渡(もちわた)る産物は、都(すべ)て永久不朽に止(とどまり)て国に益あるはなし。日本より渡す所の金銀銅は、永久不朽の長貨(*貴重で便利な貨幣)なれば、実に国の骨なり。其長貨を年限もなく渡すと云ふは、余り如何(いか)が敷(わしき)こと也。」(同前)と述べる。
 これは明白に、重商主義の初期形態としての重金主義の思想を表わしている。「国の骨」というのは、「……金銀の国土に産するを人骸にたとふれば(*譬えれば)骨の如し。其(その)余の産物は血・肉・皮・毛の如しといへり。血・肉・皮・毛は傷(そこなわ)れ損(へ)るとも、又(また)生ずるものなり。骨の如きは一たび折損し、人骸を脱出すれば、二たび生ずるの理なし。金銀は国土の骨なり。是(これ)を抜採(ぬきと)る後に二たび生ずるの理なし。」(本多利明著『経済放言』―瀧本誠一編『日本経済大典』第20巻 明治文献 1968年 P.185)という意味合いで、彼の重金思想を表現している。
 また、利明は極度の西洋思想の崇拝者のため、一面的に木屋作り(木造家屋)を否定し、西洋の石屋作りを推奨した(木屋作り→石屋作りという文明論をもっている)関係で、「木柱の分は石柱を用ひ、屋根は銅板を用ひ、永久不朽の家作(いえづくり)の住居(すまい)とならば、庶人迄も金銀銅は国の骨たる良智も開け……」(日本思想大系44―「経世秘策」P.17)と、金銀銅の重要性を指摘している。
 第三の船舶は、「天下の産物を官の船舶を用(もちい)て渡海・運送・交易して、天下に有無を通じ、万民の饑寒(きかん *飢え凍えること)を救ふを云(いう)なり。」(同前 P.18)である。
 利明の重商主義がヨーロッパのそれと異なる最大の点は、商業にかかわる事業が基本的に官営を想定していることである。「渡海・運送・交易は国君の天職なれば、商民に任(まか)すべきに非らず。」(同前)と言って、官営にすることにより、諸物価の乱高下を防ぎ、万民(とりわけ大都会の)の生活必需品を提供することができる、とした。
 また、利明は日本全国を一つの国家として、異国との交易を重視する。利明の重商主義は、折原裕氏によると、海保青陵のそれが「一藩重商主義論」であるのに対して、「一国重商主義論」であるとされる(「江戸期における重商主義論の成立」―『敬愛大学研究論集』第43号 1993年 に所収)。
 第四の属島の開業は、「日本附(つき)之島々を開きて良国となすべき」(同前 P.44)を言う。利明は、この項については、「此(この)段(だん)憚(はばか)る事の多ければ、爰(ここ)に省(はぶ)きぬ。」(同前 P.21)と言って、『経世秘策』上巻には載せず、「補遺」として別に記述した。
 そこで「補遺」を見ると、先ず、「日本附之島々」とは、日本に附属する島々を指すが、ここでは主に蝦夷地を指している。「開業」とは、その島々の位置・面積を測量し、その自然の産物や先住民の人数を調べ、その島を開発したならば、どの程度の豊かさをもたらすかを調べて、その上で開発に取り掛かるものとする。
 なお、「第三船舶」と「第四属島の開業」についての詳しい論評は、後述とする。

   Ⅱ 本多利明の思想背景

(1)天明の大飢饉に衝撃

 利明が四大急務を提起することになった社会的思想的背景は、一体、どこにあるのであろうか。
 第一は、利明が天明の大飢饉(1782~1789年)を実際に見分し、その悲惨さを強烈に感じ取ったことにある。
 利明は、三回諸国を巡視したというが、第一回が天明7(1787)年の奥州旅行、第二回が寛政6(1794)年頃の備後旅行である。しかし、第三回目は確証がない。
 『経世秘策」でも『西域物語』でも、利明は飢饉の悲惨な様子を叙述しているが、前者では次のように描いている。
 「天明癸卯(*天明3〔1783〕年)以来、餓死百姓の田畠亡処(*耕作が行なわれず、荒廃した田畠)となりたること夥(おびただし)く、関東より奥羽迄(まで)、爰(ここ)は昔の何村、かしこは昔の何郡の内なりなど、是(これ)を無村無地高(*耕作民が一人もいなくなり、収穫が全くないこと)と云(いう)、就中(なかんずく)奥州計(ばか)りにも亡処高(ぼうしょだか)凡(およそ)五郡に盈(みち)たり。癸卯(みずのとう)以後三ヶ年、凶歳饑饉(ききん)にて、奥州一ヶ国の餓死人凡(およそ)二百万人余、固(もと)より不足なる農民なるに、此(かくの)如くの大造(たいぞう)なる餓死人ゆへ、夥しき亡処出来(しゅつらい)せり。それに矢張(やは)り今に間引子(まびきご *生児を殺すこと)の悪俗止まざれば農民減少し、終(つい)に断絶の勢ひあり。爰に厚く介抱、撫育せざれば、此(この)悪俗止めがたし。……」(日本思想大系44 P.27)と。
 江戸時代の三大飢饉の一つである天明の大飢饉(他は享保と天保)は、エゾ地・奥羽・関東・四国・九州などで、天明2~7(1782~1787)年の6年間も続いた。この間の1783年には、浅間山の大噴火もあり、村々が火砕流に飲み込まれた。厳しい飢饉と役人の不正、商人の買占め・売惜しみなどのため、他の地も含めて、全国で百姓一揆や打ちこわしが激しく展開された。
 200万人が餓死したという利明の記述は、過大である(当時の奥羽地方の全人口が200数十万人)が、「幕府の人口調査によれば、天明六年(一七八六年)調査の人口数が安永九年(一七八〇年)の調査にくらべて、九十二万四千百三十四人も減少し(た)」(中島陽一郎著『飢饉日本史』雄山閣 1996年 P.94)と言われる。(天明の大飢饉について、詳しくは拙稿「幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源」④―『プロレタリア紙』2015年4月1日号を参照)
 農民の零落とは対照的に、社会の上に商人が立っている、と利明は言う。「去る程に天下の通用金銀はみな商賈(しょうこ *商人)の手に渡り、豪富の名は商賈にのみありて、永禄(*俸禄を永代与えられていること)の長者たる武家は皆貧窮なり。故に商賈の勢ひ追々(おいおい)盛(さかん)にして四民(*士農工商)の上に出たり。/愚(*自分の謙称)、爰(ここ)に当時商賈の収納(*収入)を探索するに、日本国を十六分にして、其(その)十五は商賈の収納、其一は武家の収納とせり。……」(日本思想大系44 P.33)と。
 商品経済の発展にともない、封建制度が根底から矛盾をさらけ出し、動揺を深めていることを感じ取る利明は、商人が武家よりも上位に立っているとして、「四民の上に出たり」と表現する。そして、日本国の収入を16分とすれば、その15が商人のものであり、武家は16分の1に過ぎない、というのである。だがこれは、明らかに行き過ぎた誤った評価である。
 直接生産者の農民を収奪しているのは武家であり、商人は武家に「寄生」して恩恵をあずかっているのである。利明は、明らかに武家の農民収奪に対する評価が甘すぎる。確かに、大商人に対する借財で首の廻らない大名家も少なからず出来したが、権力を持つ大名は多くが100年年賦などで実質的に踏み倒しているのである。大商人の方でも、余りの放漫財政の大名家には貸出しを止めるようになっているのが実態である。(大名貸については、森泰博著「鴻池善右衛門家の大名貸」―宮本又次郎編『上方の研究』第三巻に所収 を参照)
 農民を搾り取ることに長けた大名も、藩財政を健全に運営できないで、大商人に財政運営を「委託」あるいは相談するような藩が出来しているのは、事実である。しかし、経済面だけで階級関係を見るのは、誤りである。日本の商人活動は、あくまでも権力者たる武士階級の統制の枠内にあったのである。この点で、都市自治を基盤とした多くの西欧の商人とは決定的に異なるのである。
 中央集権的な身分制社会の再生を、徳川将軍家を筆頭とする武家によって成し遂げようと考えている利明は、商人を厳しく批判するが、武家に対する評価はどうしても甘くなり、歪んだものになってしまうのである。

(2)西洋思想の全面崇拝
 第二の思想的背景は、ヨーロッパ思想の全面的崇拝である。
 利明は、若い頃より励んできた算学、天文暦学、航海天文学などを踏まえて、西洋の自然科学を全面的に評価する。 
 利明は、日本・中国と西域(西洋)とを比較しながら「有(あり)の儘(まま)に記した」著作・『西域物語』を1798(寛政10)年に著わすが、その中で、次のように中国批判を行なう。すなわち、
 「其(その)聖人の法はいかにも結構なる善道なれ共、……其〔心〕根(ね)より書籍を多く読(よま)ざれば、博覧(はくらん)の名を取難(とりがた)し。一図(いちず)に〔*ひたすらに〕に凝塊(こりかたま)り〔*一つのことに熱中して他を顧みない〕、〔時〕勢にも移り合(あい)難き事も弁(わきまえ)なく、片情(かたじょう)張りて〔*片意地になって〕即詩即文〔*即興的に詩文を作ること〕抔々(などなど)手柄の様に覚(おぼえ)、衆人を見下(みくだ)し、高慢(こうまん)胸外へ溢(あふ)れ、衆人に忌嫌(いみきらわ)る也。浅墓(あさはか)なる次第ならずや。」(日本思想大系44―『西域物語』 P.89)と。
 これに対して、西域については次のように讃美する。すぐ続けて、
 「おもふに学問の道は左(さ)には有(ある)まじ。学問の本旨とする処(ところ)は、衆人に背(そむ)からず、頑愚をも能(よく)容(い)れ、国家に益ある道を勉(つと)め守る外(ほか)に有まじく、其(その)最初は何より学(まなん)で其道に入(はいら)んとならば究理学(きゅうりがく *天文・地理を中心とする西欧の自然科学)より入らんも近かるべし。窮理学と有、何といふとなれば、彼(かの)天地の学をいへり。是(これ)に闇(くら)くては何一ツ分(わか)るはなく、其天地の学は何を以て入らんとならば、其最初は数理(*物体の在り方、関係を数量で表わす学)、推歩(すいほ *天体の運行を観測する暦学)、測量(*地図を作成する技術)の法より入んも近かるべし。是等(これら)を能(よく)透脱(とうだつ *理解すること)の後、西域の学に入(はいる)べし。西域の書籍も多しといへども、其内天文、地理、渡海の書(*航海の指針となる書)を先(さき)とせんか、語路(ごろ)不分明之所(ところ)有(あり)といへ共、数学は異体にても、一より十に至るの数は日本と相等し。因(より)て数を以て推(おし)て知(しる)事多し。……」(同前 P.90)と、西洋の学問の優秀性を讃美する。
 そして、具体的には、①地球球体説(中国の説では、天は円形で、地は方形)、②明朝・清朝時代にヨーロッパの天文学理論によって、新たな暦法を採用、③地動説(中国・日本は天動説)などでの優秀性を挙げる。また、④文字はアルファベットで簡易、かつ普及している(中国は文字数多く・不便で、普及範囲が狭い)、⑤建物が石屋作りで、耐久性に富んでいる(日本は木屋作りで火事や地震などに弱い)、⑥重要な官職の人材登用は一般庶民から選挙(日本は門閥・出自)―などの諸点での西洋の合理性を挙げている。
 また、日本は長く中国文化を受容してきたが、地政学的見地からみて西洋をモデルにしてその文化を学ぶべきと、利明は次のように主張する。
 「……支那(*オランダ語の「シーナ」の漢字表記を「支那」と差別的に表わした)は欧羅巴(ヨーロッパ)、亜夫利加(アフリカ)にも地続(じつづき)の山国にて、南面一方に海洋を帯び、国中へ渡海、運送不便利の国なり。人力牛馬の力を以(もって)運送しては、大都会の大人数は養ひがたきものなれば、海国を離れて大都会は決まりてなきことなり。因(よっ)て周廻に海国を包巻(ほうけん)せし日本に比すれば、大(おおい)に悪国(あしきくに)なり。其(その)証(あかし)、国務に闕(けつ *欠点)あり洩(ろう *漏れ)ありて、亀鑑(きかん *手本、模範)とするに足らず。」(日本思想大系44―『経世秘策』 P.31~32)と。
 山国の中国とは異なり、日本は海国なので、中国は「亀鑑」にはできないと、キッパリと言うのである。その反面、「日本は海国なれば、……万国に船舶を遣(や)りて、国用の要用たる産物、及び金銀銅を抜き取て日本へ入れ、国力を厚くすべき……」(同前 P.32)であり、だからこそ、「渡海・運送・交易」は最も重要な国務である、というのである。
 統治については、次のように西洋をベタほめしている。
 「欧羅巴諸国の治道を探索するに、武を用(もちい)て治(おさむ)る事をせず、只(ただ)徳を用て治るのみ也。威権を以て治(おさ)むれば、心底より従ふに非(あら)ず。爰(ここ)に西洋より地中海を望む地に、意太利亜(イタリア)と云(いう)国あり。都を羅瑪(ローマ)と云。此所(ここ)の帝は欧羅巴の惣帝(そうてい)也(なり)しが?(こう *きさき)なし。今に至る然(しか)り。欧羅巴諸国の内より高徳(*徳が高い人)を選挙して帝位を継(つが)しむ。堯の舜を有?(ゆうしん *伝説上の古い国)の野より挙(あげ)られたるに等し。フルキイシング-ハン-カヲニグ(*この選挙制度の蘭語)と云て、王を撰(えらぶ)と云(いう)言葉也。王子たりといへ共、帝業の位に不相当の人物は、帝位を継しめず。帝業と云て勉守(べんしゅ)の箇条ありて、此(この)箇条を勉め守るを以(もって)、永久、国家の乱(みだる)るはなしと云(いえ)る説あれ共、事長ければ先(まずは)措(お)く。」(日本思想大系44―『西域物語』P.98~99)と。
 しかし、これは明らかに利明の間違った理解である。利明は、ここで神聖ローマ皇帝とローマ法皇(教皇)を混同している。
 利明は、『西域物語』の結論を「大尾の結句」と題して、次のように締めくくっている。
 「西洋人の大業を興(おこ)せし手段を見るに、我(わが)骨肉を削(けずり)て渠(かれ *彼。三人称代名詞)に与(あたえ)んとするの策なれば、衆(しゅう)是(これ)を助けてならしむ。支那人の大業を興したるを見るに、最初より渠が骨肉を削てとらんとする故(ゆえ)、渠(かれ)も又(また)酬(むくゆ)るに是(これ)を以てするゆへ、存亡の境に係(かかわ)る也。是(これ)戦争の因(より)て起る所以(ゆえん)なり。……」(同前 P.163)と。
 利明は、ここでも西洋を極端に理想化して見ているために、西洋=善、中国=悪という機械的図式に則った一面的な理解となっているのである。中国が華夷思想によって天下に君臨しているだけでなく、西洋もまた侵略主義の面をもっていることを、全く把握していないのである。

(3)非科学的な皇統主義への傾倒
 第三の思想的背景は、中国評価の低下と相即的に、自国意識(愛国主義)と皇統主義が強まっていることである。
 18世紀後半、蘭学は医学や天文学を中心に盛んになってくる。杉田玄白(1733~1817年)や前野良沢(1723~1803年)などによって、『解体新書』の翻訳が始まったのは1771年3月であり、それが刊行されたのは1774年8月である。
 杉田玄白は蘭学を学ぶ中で、地球球体説を知り、「それ地なるものは一大球なり、万国これに配居(はいきょ)す。居るところは皆(みな)中(ちゅう)なり。何(いず)れの国か中土(*中国、中原)となさん。支那もまた東海一隅の小国なり。」(『狂医の言』1775年―日本思想大系64『洋学』上 に所収 P.230)と、「中華(華夷)思想」を批判し、中国の地位を相対化する。
 渡辺浩氏によると、「……蘭学は国学と同時期に、別方向即ち西洋の目を通して世界を眺め直すことによって、中国を相対化していったのである。そして、蘭学者は、『中華』『中国』に代えてこの『支那』の語を、オランダ語China(シーナ)の訳語として常用するようになる。『支那』の語が、正(まさ)しく『皇国』と同時期に通用を拡げ始めた」(『東アジアの王権と思想』東大出版会 1997年 P.170)のである。(近現代に入り、台湾の植民地化、満州国建設などを通し、「支那」表現の差別性は一段と強化された)
 蘭学系経世家・本多利明は、上述のように西洋崇拝が極端に強いのであるが、他面、強烈な愛国主義者でもある。
 『経世秘策』の冒頭は、次のような言葉で始まっている。
 「我も固(もと)より臣なれば、人も亦(また)臣なれば、同物又(また)同体の論なれば〔*人も我も同じ臣・同じものだから、当然至極のこと〕、論なし。論なければ止(や)みがたく〔*当然のことだから、おさえ止めることはできなくて〕、日本に生を禀たる(うけタル *生まれつき)者、誰か国家(*藩ではなく、日本国)の為(ため)を思ひ計(はか)らざらん。国家の為に悪(あし)きを悦(よろこ)び、善(よろし)きを憎(にくま)んや。然(しか)れば善事は倶(とも)に扶(たす)け悦び、悪事は倶に避け憎むべきは、固より日本に生を禀たる身の持前(もちまえ *その身に元来そなわる性質)也。」(日本思想大系44 P.12)
 利明の「四大急務」は、彼の愛国主義者としての止むに止まれぬ熱情から発せられているのである。その愛国主義の中心軸をなすのが、皇統主義である。すなわち、
 「……抑(そもそも)我邦(わがくに) 神武帝一統の業を興(おこ)し給(たま)ひ、山沢(さんたく)通じ万民を救ひ給(たま)ひしより、漸(ようや)く人道(*人の行なうべき道)行はれ、日本国中に国の守(まもり)を置き、政事(まつりごと)悉(ことごと)く天子より出で、 皇統連続し、今の世までも、臣下として 帝位を奪ひしこともなく、たとへ暴虐の臣(しん)出来(いできた)ることありても、王子の内(*朝廷)へ反逆を勧(すす)め、天子を居替(すえか)へ、己(おのれ)は権威を恣(ほしいまま)にし栄耀(えいよう *栄えかがやく)を極(きわめ)んと欲(ほっす)るのみにして、 帝位を簒逆(さんぎゃく *臣が君の位を奪うこと)せしことなく、是(これ)異国と我邦別あって、神国の風儀とも仰ぎ貴(とうと)むべき所なり。」(日本思想大系44―『経世秘策』 P.23)と。
 これは、本居宣長と全く同じだと言ってもよい皇統主義である。だが、友人である司馬江漢(1738~1818年)とは、大きく異なっている。江漢は、その著『春波楼筆記』(全二 P.60)で、「吾国、神代の事は、伝記なし。神代以前は、何れの異国の人住居したるや」と突き放すように言って、科学的精神の姿勢を歴史学でも堅持している。
 あれほど、西洋の科学的精神を讃美した利明ではあるが、愛国主義の分野では簡単に非科学的なものに転落しているのである。
 そして、先の皇統主義讃美の言にすぐつづけて、歴史の評価を次のように下す。
 「然れども 皇統にも明暗の二つは禀得(うけえ)給(たま)ふにや、或(あるい)は賢臣を用(もちい)て世(よ)静かに、或は佞臣(ねいしん *うわべは従順でも心の底では悪だくみをもつ臣)を寵(ちょう)して天下騒がしく、色々あれども、神武の仁徳廃(すた)れずして其(その)験(しるし)あきらけく、扨(さて)又(また)明暗より世々盛衰昇降あり。」(同前)と。
 この上に立って、歴史上の臣の評価を以下のように行なう。藤原道長・平清盛・源頼朝・北条高時・足利尊氏などは、批判的に評価される。これに対して、楠正成・豊臣秀吉・徳川家康などは、好意的に評価される。
 たとえば、楠正成は、「古今未曾有の俊傑にて、人の臣たる者、亀鑑として仰ぎ貴ぶべきは、正成のみなり。」(同前 P.24)と最大級に評価される。
 豊臣秀吉は、「明智を誅伐して、天下悉(ことごと)く帰服し、日本国中平均(へいきん *平定統一すること)せしが、是(これ)より三韓を退治し、入唐(にっとう)して大唐の国王とならんと、已(すで)に朝鮮攻(ぜめ)ありしが、慶長三年八月十八日、六十三歳にて薨去(こうきょ)せり。……」(同前 P.25)と評価される。だが、利明は、「三韓を退治し、……大唐の国王とならんと……」と言って、朝鮮侵略をなんら批判することもなく、むしろ評価する対象としているのである。
 徳川将軍家については、「神君(*家康のこと)は智仁勇、文武兼備の大将にて、慶長八年征夷大将軍の宣旨を蒙(こうむ)り給ひ」、「神君はや御齢(おんよわい)七旬(*七十歳)に超へ給ふ故に、急に秀頼を亡(ほろぼ)し、仁政を施(ほどこ)し万民を救ひ給ふ。三百年来の兵革(へいかく *戦争)一時に止んで、日本国中鼓腹(こふく *腹つづみを打つこと)して万歳を唱ふ。斯(かか)る世に生れて太平を楽(たのし)むは、皆 神君の御仁徳なり。仰ぎ貴び奉(たてまつ)るべし。 神君、御威徳を以(もって)、強きを押へ弱きを救ひ給ひ、三百年来止むときなき干戈忽(たちまち)に鎮りて、弓は袋、鎗は鞘(さや)に納(おさま)る。」(同前)と、極めて丁寧に称賛している。
 これは、弾圧を恐れた(林子平の例もある)方便ともいえないであろう。何故ならば、利明は、「四大急務」を中心となって推進するのは将軍家と想定しており、来るべき中央集権的国家の君主もまた徳川将軍を想定していたからである。
 皇統主義の讃美は、必然の事として、中国など外国批判をともなう。「日本は、支那より見れば大(おおい)に誉(ほま)れにて、神武以来皇孫を失はず、他国の為に侵(おか)されず、か程(ほど)目出度(めでたき)日本の風俗成(なる)を、兎角(とかく)に支那の風俗を規鑑(*亀鑑)とする浅墓(あさはか)成(なる)次第也。」(日本思想大系44―『西域物語』 P.149)と。
 利明の外国批判は、国学者の国粋主義とは異なるが、中国批判を通して、西洋崇拝に導いているのである。従がって、利明は、「国風」批判や儒・仏・神の三道批判も行なっている。
 「人の為に成(なる)べき事は、秘密などとて免許印可の巻(*特別の認許を与えた人にのみ伝える秘伝書)に載(のせ)、一子相伝抔(など)とて秘する国風は、浅はかなる次第ならずや。其(その)悪癖(あくへき)数年相伝し、固(もと)より乏敷道(とぼしきみち)を皆(みな)失ひたり。既に其証(そのあかし)、神・儒・仏の三道ありて世に行(おこなわ)るといへ(云へ)共、国家に益を興す程の英雄も出来ざるは、三道信用する験(しるし)も無きに似たり。」(同前 P.97)と。
 西洋崇拝が、三道批判と連結することは、理解できることである。しかし、利明が西洋崇拝と万世一系の皇統主義を共存させることは、理解しにくいものである。やはり、利明の科学的精神は、自然科学の分野では発揮されたかもしれないが、社会科学の分野では弱かったのではないかと、推量せざるを得ない。

  Ⅲ 他国の国力を「抜き取る」外国交易

 利明は、「渡海・運送・交易は国君の天職なれば、商民に任すべきに非(あら)ず。」(日本思想大系44―『経世秘策』 P.18)と言って、「渡海・運送・交易」を重視する。(「国君の天職なれば」という発想は、明らかに中国思想の影響)重視する理由について、利明はさまざまな角度から書きあげている。

(1)「渡海・運送・交易」を重視する理由
 まず第一の理由に挙げられるのは、諸物価を安定させ、農民など万民の生活を保障することである。
 利明は、先の引用にすぐ続けて、次のように述べている。
 「若(もし)誤(あやまり)て商民にのみ任(まか)するに於ては、奸計(かんけい  
 *悪だくみ)貪欲(どんよく)を恣(ほしいまま)にするゆへ、国中の諸色(しょしき *諸々の生産物)の直段(ねだん)平均(*公正)することなく、莫大に(*非常に)相場不同(ふどう)、高下(こうげ *上がり下がり)あつて農民立(たち)がたく(難く)、是(これ)を救ふは官の船舶を以(もって)、渡海・運送・交易すれば、自然と諸色の直段平均して、農民救ひを蒙(こうむ)るなり。」(同前)と。
 第二の理由としては、官営の「渡海・運送・交易」がないと、飢饉の際に、大量の食料補給などが出来ず、農民の餓死や田畠の荒廃などを通じ、国家が衰微するからである。
 利明は、「……凶歳(きょうさい)饑饉に当れば、万民に先立ち農民多く餓死して、田畑の亡処出来し、国産減少し、天下の国用(こくよう *国家財政の支出)となり、国家の衰微到る。」(同前)と言って、国家破滅の極限情況を防止するために必要と主張しているのである。
 第三の理由は、自国の力だけでは国家は豊饒とならず、国力を厚くするために外国交易が必要だ、というのである。
 この点に関して、利明は次のように言う。「日本は海国なれば、渡海・運送・交易は、固(もと)より国君の天職最大一(さいだいいち)の国務なれば、万国へ船舶を遣(や)りて、国用の要用たる産物、及び金銀銅を抜き取(とり)て日本へ入れ、国力を厚くすべきは海国具足〔ぐそく *必然的につきまとうこと〕の仕方なり。自国の力を以(もって)治る計(ばか)りにては、国力次第に弱(よわま)り、其(その)弱り皆(みな)農民に当り、農民連年耗減(もうげん *衰え減少する)するは自然の勢ひなり。」(同前 P.32)と。
 ここに示される利明の交易観には、多くの問題が孕(はら)まれている(後述)。
 第四の理由は、利明独特な人口増加論により、その人口を養うべき生活資料が不足するので、外国交易が必要とする。
 利明の計算によれば、夫婦が33年間に17人の子をもうけ、その間に第一子が9人の孫をもうけ、第二子が8人の孫をもうけ、第三子が7人の孫をもうけ……の連鎖が続くので、人口は33年間に19・75倍となる。したがって、「三拾三年の内に日本を拾九倍七分五厘押広(おしひろ)めざれば、産業不足するの道理也。」(日本思想大系44―『西域物語』 P.147)となる。
 このように、「自国の力を以(もって)、自国の養育をせんとすれば常に不足(たらず)、強(しい)てせんとすれば国民疲れて、廃業の国民出来して大業を破るに至る。爰(ここ)を以〔て〕他国の力を容(い)れずしては、何一ツ成就する事なし。」(同前)となり、外国交易が不可欠な重大事業となるのである。
 しかし、33年間に19・75倍も人口が増加するなどとはあり得ないことである。当時の医療・栄養状況、自然災害などをみれば、利明の人口増加論は極めて現実離れしたものである。
 以上、利明の「渡海・運送・交易」の必要性にかかわる理由を羅列したが、最大の問題は、その交易論・市場論である。以下、この点を検討してみることとする。

(2)略奪貿易の基は植民地主義
 利明は、交易に関連して、「……天下の産物を官の船舶を用(もちい)て渡海・運送・交易して、天下に有無を通じ、万民の饑寒(きかん)を救ふ…」(日本思想大系44―『経世秘策』 P.18)と言い、「交易は売買なり」(同前 P.34)とも言う。
 また、「……官船を用て運送交易し、天下に有無を通じ、万民の飢寒を救助するの制度を建立せしめば、次第に積功(*功を積む)に随へ、万国の国産を抜取(ぬきとる)ことに長じ、次第に多く入る故に万民の増殖に行支(ゆきささえ *行き詰まり)なく、末遂(すえとげ)て増殖すれば終(つい)に大国となり、大豊饒、大剛国となり……」(P.85)とも言う。
 『新修 漢和大字典』(博友社)によると、「交易」とは、「物と物とをとりかえること」である。「交」は「互いにやりとりする」ことで、「易」は「かわる」ことである。「交易」の文例には、『史記』に、「有無を交易するの道理」というものがある。
 以上から、利明が慣用句として使う「天下に有無を通じ」とは、互いの過剰と不足を交換しあうことである。したがって、ここでは暴力などを背景とした不等価交換は前提とされていない。
 しかしながら、利明は、外国交易に関して、「万国の力を抜取る」と、しばしば表現する。
 たとえば、『経世秘策』では、「万国へ船舶を遣(や)りて、国用の要用たる産物、及び金銀銅を抜き取(とり)て日本へ入れ、国力を厚くすべきは海国具足の(ぐそくノ *必然的につきまとっている)仕方(しかた *やり方)なり。」(日本思想大系44 P.32)と言い、『西域物語』では、「……万国の力を抜取て我国へ入れざれば……」(同前 P.160)とかと使用している。
 それが、1801年に書かれた『交易論』では、さらに頻繁に使用している。『交易論』は、その冒頭で、「此(この)書は、交易を用(もちい)て、他国の金銀銅を絞取(しぼりとり)、我国へ取込(とりこみ)て、国家を永久に末広(すえひろ)く、富と貴(き)とを並び遂(とげ)させん仕方の筋道を、明白に説述(ときのべ)たる書なり。」(同前 P.166)と紹介している。この書は、外国から「金銀銅」(貴金属貨幣そのものだけでなく、交易差額の結果としてのそれも含め)を絞り取る(抜き取る)方法を述べたものである、というのである。
 具体的な使用例を見てみると、イギリス、フランス、スペイン、オランダなどヨーロッパの国々の名をあげ、「此(この)国々は悉皆(しっかい *すべて、全く)外国交易を以(もって)、他国の国力を抜取(ぬきとり)て、自国へ取込(とりこむ)故に、大富(たいふう)大剛(たいごう)の国々なり。」(同前 P.168)という。
 これは、「有無を交易する道理」とは、矛盾するものである。「有無を交易する」ならば、ヨーロッパの国々だけが一方的に「大富大剛」になることはあり得ないからである。
 利明は、『経世秘策』で、ヨーロッパ諸国の先進的な発明・発見で、武装が進み、長器(*貴重で便利な機器)が生み出されたこと挙げながら、ヨーロッパに富が集中する経過を次のように述べる。すなわち、「天文・暦数・算法を国王の所業となし、天地の義理に透脱(とうだつ *理解すること)して庶民に教導せり。依(よっ)て庶人に又(また)豪傑出来、各(おのおの)所業丹精(たんせい *真心を込めて行なうこと)の大功にて、天下万国未発の興行〔*前人の未だ行なったことのない功業〕数々あるなり。故に天下万国の国産・宝貨、皆(みな)欧羅巴(ヨーロッパ)に群集せりと云(いえ)り。如何(いか)なる所より天下万国の国産・宝貨、群集するとなれば、万国へ船舶を出し、我国(*自国)の珍産・良器、種々機巧(きこう *巧妙な仕掛けのある機器)の物を持渡り、其(その)国々の金銀銅、其外(そのほか)長器・良産と交易して我国(*自国)へ入るるゆへ(故)に、次第に豊饒(ほうじょう)をなせり。」(同前 P.30)と。
 そして、これに続け、「豊饒なるが故に剛強なり。国強きが故に外国より侵(おか)し掠(かす)むることなし。彼(かの)国よりは万国の内、侵し掠むること其数(そのかず)を知らず。ヒスパニア(スペイン)より南北亜墨利加(アメリカ)の大国の内、最良なる国々数多(あまた)取(とり)て都を遷(うつ)し、政事(まつりごと)を布(し)く。其外ホルトガル(ポルトガル)、イギリス、フランス、各亜墨利加に領国あり。又東洋の諸島は皆、欧羅巴に属し随ふ。ジャガタラ(ジャカルタ)、スマタラ(スマトラ)、ボルネヲ(ボルネオ)、呂宋(ルソン)等、皆欧羅巴の領国なり。……如此(かくのごとく)の真秘の大業、皆(みな)意の如く成就して、天下に無敵の国は欧羅巴なり。」(同前 P.30~31)と、ヨーロッパの植民地主義を讃美する。
 欧羅巴諸国に富が集中した深奥の秘密は、「有無通ずる交易」ではなく、実は植民地主義にあったのである。
 利明は、外国交易と植民地主義との関係を明らかにしていないが、当時の大方の思想傾向に沿って、植民地主義そのものを批判していない。利明は、当時のヨーロッパ諸国の繁栄の陰に隠れた、ラテンアメリカやアジアなどの零落(ヨーロッパの収奪による)を決定的に見落としているのである。
 たとえ、スペインなどヨーロッパ諸国とラテンアメリカの間で、「有無通じる交易」が行なわれたとしても、それは見掛け上のものでしかない。ラテンアメリカの現地では先住民は植民地主義者によって、すでに激しく収奪されているのであり、その前提の上で、ヨーロッパ諸国と現地の植民地主義者との間で、交易(等価交換)がなされているに過ぎないからである。(《補論》 スペインと中南米植民地の交易関係 を参照)
 また、利明の市場システム論は、需給調整を一面的に交易(流通)に求めているが、実際は、生産向上で物資不足を補うという生産の役割を欠落させている。この点が、利明の重商主義理論の欠陥の一つともなり、余計に国内外の交易の強調の背景となっている。

   《補論》スペインと中南米植民地の交易関係
 1492年、コロンブスはバハマ諸島のサンサルバドル島に到達する。
 スペイン人たちは、カリブ海の島々を次々と征服し、1502年にコロンブスに代わり新総督に就任したオバンドは、スペイン国王の承認を得てエンコミエンダ制を合法化(1503年)した。エンコミエンダとは、国王が一定の先住民を征服者たちに「預ける」という意味である。それは、預けた先住民をキリスト教徒に教導する代わりに、先住民からの貢納や先住民を労働力として自由に使う特権を征服者(コンキスタドール)に与えるものである。
 コロンブスにつづく征服者たちは、貴金属や香辛料を追い求めた。コルテスは、1519年にアステカ帝国(今のメキシコ市を中心)の征服に着手し、1521年には完了している。ピサロは、1524年にペルー遠征航海をはじめ、1532年にインカ王アタワルバを捕らえ、翌年処刑している。インカ王権の消滅である。
 これらの征服は、スペイン国王と個々の征服者たちとの間に交わされた征服植民の請負契約(カピトゥラシオン)で行なわれた。「コロンブスの航海ひとつを例外として、国王は征服のために一銭の金も出さず、ひとりの兵隊も動かさなかった。あらゆる征服遠征は、企画立案から、資金調達、物資購入、仲間の募集にいたるまで、いっさいを民間人である征服者たちが自腹を切って行う」(中央公論社 世界の歴史18 高橋均・網野撤哉著『ラテンアメリカ文明の興亡』1997年 P.29)のである。
 1494年のトルデシリャス条約により、教皇子午線の西側の征服地はスペイン国王の領有となることが保障されており、征服者たちの獲得した財宝の五分の一がスペイン王室のものとされた。
 スペイン国王は、征服領土の統治のために、1524年に本国にインディアス顧問会議を設置した。その後、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)とペルーに副王が任命され,インディアス(キリスト教徒によってアメリカ大陸を「新大陸」とされ、またこのように呼ばれた)各地に司法機関として聴訴院(アウディエンシア)が置かれ、都市には市参事会(カビルド)が設けられた。
 征服者たちの侵略に対して、インディオたちの抵抗闘争は繰り返し展開された。
 征服者たちのインディオ虐殺、苛酷な鉱山での強制労働、天然痘などの疫病蔓延、インディオ支配の方法をめぐってエンコメンデロ(エンコミエンダ制の特権を与えられた者)の本国への反乱に巻き込まれることなどによって、インディオの人口は極端に減少する。
 征服直前(16世紀初期)のメキシコ主要部(ユカタン・チアパス・北部辺境を除く)の先住民人口は、「……少なくとも1000万あったのが、一六三〇年ころには75万人に減った。」(高橋・網野前掲書 P.42)と言われる。インカの場合も、「スペイン人征服以前、1000万人くらいあったと算定されるインディオ人口は、一五七〇年代には130万人に、そして一六三〇年代には60万人へと激減した」(同前 P.131)とされる。
 他方、スペイン王カルロス1世(在位1516~56年)は、その後、神聖ローマ皇帝カール5世(1519~56年)となり、帝国統治のために巨大な財政支出を必要とした。皇帝選挙での費用、帝権を認めようとしないフランス王との戦い・キリスト教世界を脅かすイスラーム教徒との戦い・帝国内プロテスタントとの戦いなどでの費用、国内反乱者の鎮圧費などである。
 後継のフェリーぺ2世(在位1556~98年)は、カルロス1世から広大な領土を継承したが、同時に、膨大な借金も受け継いだ。フェリーぺ2世も、フェリーぺ3世(在位1598~1621年)も、破産宣告(バンカロータ *国庫支払い停止宣言)を何回も繰り返した。
 財政改革は、必然的に植民地の収奪などによる税収増加に向かった。「フェリペ二世の時代、インディアスからの歳入は王室歳入の約四分の一を占めた。その三分の一がメキシコからの送金で、残る三分の二がペルーからであり、ペルーでの歳入の九割がポトシ銀山に対する五分の一税(*地下資源の所有者はスペイン王室にあり、鉱山の開発を民間に委ね、精錬された銀の五分の一を課税)収入であった」(青木康征著『南米ポトシ銀山』中公新書 2000年 P.71)のである。
 スペインと植民地の間の「インディアス交易には春と秋の二回、輸送船団が組織された。インディアスからはタバコ、コチニール(*染料)などの特産物がもたらされたが、なかでも重要なのは貴金属であった。当初は金がほとんどであったが、一五四〇年代にペルーのポトシ銀山の発見などがあり、銀の比重が高まった。しかも、五〇年代には水銀アマルガム法による精錬技術が導入されて、莫大な銀が産出されることになった。鉱山労働力を確保するためにミタ(賦役)制が利用された。」(立石博高著「スペイン帝国の時代」―『スペイン・ポルトガル史』山川出版社 2000年 P.154)のである。
 ミタ制とは、1549年にエンコミエンダ所領から自由に労働力を使うこと(賦役)が禁じられ、地方官吏であるコレヒドールが特定の共同体から選抜したインディオの労働力を割当てる制度である。だが、これもインディオに多大の犠牲を押し付けるもので逃亡者が後を絶たなかった。しかし、そうすると共同体の構成員の数が減り、共同体が上納する税の負担が一人当たりでみると増える訳であった。ミタ制の改革あるいは廃止の論議は延々と続けられたが、植民地の精錬業者の反対に会い、財政危機を抱える王室は銀山の収入に頼っていたため、いつも失敗に終わった(詳しくは青木前掲書を参照)
 セビーリャを独占港として、スペインとインディアスとの交易は、ポトシ銀山などの繁栄を背景に発展した。「セビーリャとインディアスを航行した船舶の総トン数は、一五五〇年代から九〇年代にかけて三倍以上となった。しかし新大陸における自給化が進行してスペインからの農産物需要は減り、手工業製品の需要に応えるためにはヨーロッパ諸国の商品を再輸出しなければならなかった。一五七一年にトマス・デ・メルカードは、『外国人が商業を行ない、富は王国から消えている』と告発したが、セビーリャはインディアス向け外国商品の中継港となっていた。……」(立石論文 P.159)のである。
 利明が単純に思うように、単に外国交易をすれば富が蓄積するわけではない。交易相手が必要とする商品を、輸出国の国内製造業・農業などが用意できるか否かが肝要なのである。しかも、その製造業・農業などの生産性が他国より勝っていないかぎり、交易競争には勝ち抜けないのである。
 この点で、スペインはヨーロッパの他の諸国にヒケをとったのである。「……ヨーロッパ諸国と比べてスペイン経済の立ち遅れは明らかだった。一六八六年に、カディス(*セビーリャの南々西方向の港市)からスペイン領アメリカへ輸出された商品の40%はフランス製品が占め、スペインのものはわずかに5%であった。」(同前 P.182)に過ぎない―と言われる。

(3)再検討が必要な本多利明の思想

 従来、本多利明の専門研究者は、利明の平和主義を強調し、その侵略思想を軽視ないし無視してきた。だが、利明の西洋崇拝が、その植民地主義にまで及んでいることを直視するならば、従来の評価を再検討する必要があるであろう。
 利明は、『経世秘策』や『西域物語』を発刊した1798年の三年後の1801年、『交易論』を著わしている。
 そこでは、もっと直截に述べている。ヨーロッパ諸国を称賛し、「交易を用て合戦に換(かえ)る国」とし、交易が侵略の一形態となっていることを示している。
 また、当時のイギリスが、船舶を出して交易をする国々98カ所をあげ、「すべて欧羅巴は、万国交易を国務最大一とせし制度なり。たとへ戦争をふる(歴る *通る)といふ(言ふ)とも、国家の為に益を謀るは、君道(*一国の統治者としての道)の本意なれば、至極(しごく)其(その)道理なり。」(日本思想大系44―P.175)という。国家主義者らしく、国益のためには戦争すらするのであるから、「万国交易を国務最大一」とするのは当然なことである、というのである。
 そして、『交易論』を次のように述べて、締めくくっている。
 「戦争を歴(ふ)るといふとも、国の益を謀(はか)るは、君道の深秘なり。国家守護の本業(*本来の業務)なり。此(この)道理爰(ここ)にある故に、外国交易を以(もって)、国家守護の本業とすれば、交易の道は則(すなわち)合戦の道に協(かない)、外国を攻取(せめとり)て、所領とするに当るなり。是(こ)れ欧羅巴諸国の取用(とりもちい)る所なり。吁(ああ)亦(また)窮理学に縁(より)て立(たて)たる国風より得る所なり。」(同前 P.182~183)と。
 西洋科学の精神を貫く結果として、国家交易を国家守護の本業とすれば、外国の地を攻め植民地とする海外侵略と同じことである、というのである。


   Ⅳ 蝦夷地開業に込められた利明の野望

 利明が「四大急務」の一つとして挙げた「属島の開業」でいう属島は、蝦夷地・千島列島・カムチャッカ・サカリイン(カラフト)・アリューシャン列島・伊豆諸島・小笠原諸島・鳥島などが対象となっている。

(1)属島開業の狙いは国力増強と国境維持のみか
 この「属島の開業」について、利明は『経世秘策』補遺で、二つの目的を明らかにしている。
 一つは、国力の増強である。「日本附(つき)之(の)島々を開き、良国となさば、六十余州(*各藩のこと)のごときの国々数多(あまた)出来(でき)、日本の要害となるのみにあらず、諸金山も開け、諸穀菓も出来、其外(そのほか)諸産物も出来、潤沢に入り来(きたり)て、大(おおい)に日本の国力を増殖すべし。」(日本思想大系44 P.44)というのである。
 もう一つは、国境をしっかりと把握することである。当時、ロシアとの係争が明らかになりつつある北方の状況について、利明は次のように述べている。
 「……扨(さて)又(また)此(この)唐太島(カラフトとう)の西北の地は山丹国(*沿海州)なり、此山丹国の西北の地は満州国なり。此満州国は古(いにしえ)の韃靼(だったん *古のモンゴル地方の一種族)の地なり。此地の西方の地続(じつづき)〔が〕、則(すなわち)欧羅巴(ヨーロッパ)の地なり。/爰(ここ)を以(もって)欧羅巴は遠国なれども地続なれば、唐太島は大切の国界なり。……/日本に取ては此地(このち)程(ほど)大切の国界はなし。……」(同前 P.48~49)と。(*当時は、まだカラフト〔サハリン〕が島であることは分かっていない)
 同様のことは、『西域物語』の中でも、松前に関する論述で述べている。「松前は赤道以北四十度(*北緯40度)にして、支那の都、順天府(*清朝の都・北京)と気候相(あい)等し。故に百穀百果の出産も相等し。周廻凡(およそ)一千里弱、開業成就の上は当時の(*今日の)日本の国産程は出来すべし。夫(それ)が日本へ入来(いりきたる)に於ては、只今(ただいま)の時勢を倍増すべし。国家に豊饒(ほうじょう)を副(そえ)る大成(おおいなる)助(たすけ)にて、捨置(すておく)べきに非(あら)ず。捨置ば異国へ帰し(*所属が決まる)、捨置ざれば日本へ帰し、左(さ)すれば終(つい)には開業独(ひとりでに)成就して国家を保持する本意に協(かな)ひ〔*一致する〕、日本と異国境界も自然と立(たち)て、国家鎮護の天職〔*幕府・将軍家の〕に叶(かな)ふ也。」(日本思想大系44 P.132)と。
 蝦夷地開発に成功したならば、これまでの日本の生産力と同程度となり、日本全体でみれば倍増するというのである。そして、国力がつくことにより、国家保持につながり、異国との境界も自然と明確となる、というのである。
 しかし、利明はここで大きな誤りを犯している。利明は緯度さえ同じならば、気候も生産力も同じはずだと単純に考えているが、緯度が同じでも周辺の暖流・寒流の有無で気候は大きく異なる。また、地力の違いでも、生産性は大きく変わる。利明の立論は、基礎的なところで、大きな問題を孕んでいたのである。
 その上で、しかし利明が「属島の開業」に込めた狙いは、果して、国力増強と国境維持の二つに止まるものであろうか。
 利明は、『経世秘策』で次のように本音を漏らしている。「……国家大(おおい)に豊饒(ほうじょう)剛健となれば、武国の名に叶(かな)ひ、隣国迄(まで)も威服して、日本の属島とならん。」(日本思想大系44 P.22)と。
 西洋崇拝者である利明にとって、当時のヨーロッパの大国が軒並みに、属国を多くもっている(植民地主義)ことをみれば、なんら悪びれることなく、領土拡張の侵略主義を肯定することができるのである。
 利明は、当時のヨーロッパの大国として、都爾格(トルコ)、魯西亜(ロシア)、意太里亜(イタリヤ)、波羅泥亜(ホロシヤ=ポーランド)、入爾馬泥亜(ゼルマニヤ=ドイツ)、仏良察(フランス)、伊察巴尼亜(イスパニヤ=スペイン)、諳厄利亜(アンゲリア *イギリス)、和蘭陀(オランダ)を挙げる。そして、「右九ヶ国は欧羅巴洲中の隆(さかん)の国々也。何(いず)れも外国(とつくに)〔に〕属国多くありて、大豊饒にして剛国也。」(同前 P.93)と、大国が植民地を保持することを当然視している。
 さらに、「万国へ大舶(*舶とは海を渡る大船のこと)を通ずる故、属国多し。」(同前 P.100)といって、「渡海・運送・交易」と属国の多さ(植民地主義)を結びつけている。だが、その両者には直接的に結合する必然性はなく、植民地主義は侵略なくしてはあり得ない。
 西洋崇拝者としての利明の観点からすると、西洋流の植民地主義は、なんら批判の対象とはならず、むしろ日本が大国化するうえでのお手本であり、モデルであったのである。

(2)カムチャッカに遷都し、英と並ぶ大国目指す
 利明は、しきりに日本が世界一の最良国になる野望を臆面もなく披瀝する。その事例を二、三みると、以下のようになっている。
 (A)「右四大急務の趣意、三慮策(*火災・米穀の売切れ・夜盗に対する処置策)の趣意、末世柔弱を、豊饒剛強に立戻(たちもど)し、古(いにし)へ武国の高名たる大日本国を再興し、追々(おいおい)開業(*開発)、大成就して、東蝦夷の内に都府(*都会)を建(たて)、中央に江戸の都、南都は今の大坂の城と定め、三ヶ所に巡周あつて、御政務あるに於ては、世界最大一(さいだいいち)の大豊饒・大剛強の邦国とならんことは慥(たしか)なり。」(日本思想大系44 P.42)
 (B)「〔日本は〕前文の如く運送不便利の国柄なれば、蝦夷の土人(*アイヌを差別した蔑称した)を思ふ儘(まま)撫育(ぶいく)も成兼(なりかね)たる内、取戻すべき時節也。穏便に謀(はか)らば、古来の如く日本の蝦夷島と成(なる)べし〔*利明は、古来の蝦夷地は日本に属していた、と考えている〕。此(この)制度(*「渡海・運送:交易」)建立あらば、前に云(いう)如く東洋に大日本島、西洋にヱケレス島と、天下の大世界に二箇の大富国、大剛国とならんことは慥(たしか)也。」(同前 P.138)
 蝦夷地の開発や「渡海・運送・交易」によって、当時の大国・イギリスとも肩を並べるほどの大国になりうると豪語しているのである。
 このような豪語の根拠については、利明は次のように述べている。
 (C)「日本の天下第一の最良国と成(なる)べき所謂(いわれ *理由、由緒)を論ずれば、神武以来凡(およそ)二千五百歳の内、漸々(ようよう *ようやく)諸道も具足せしに乗じ、カムサスカ(*カムチャッカのこと)の土地に本都を遷(うつ)し〔赤道以北五十一度也。ヱケレス(*イギリス)の都ロントンと同じ、故に気候も相等し〕、西唐太島に大城郭を建立し〔赤道以北四十六、七度也。フランスの都ハリス(*パリ)と同じ、故に気候も相同じ〕、山丹、満州と交易して有無を通じ、殊(こと)に大人参(だいにんじん *薬用として貴重な朝鮮人参)は建州江寧府(*カラフト〔当時は大陸と地続きと考えられていた〕の西で、康熙帝の古都)の産物なれば、隣国故(ゆえ)何程(なにほど)にても下直(げじき *安値)に得て国用に達し、交易に金銀を用ひず、品物どしの遣取〔*物々交換〕なれば、多寡は入用(いりよう)に任(まか)すべし。下(しも)庶民は救(すくい)を蒙(こうむ)りたる心地し、上(かみ)の大利とならん。前後の大益と成(なり)、諺(ことわざ)の如く両手に美物を得たる也。」(日本思想大系44―『西域物語』 P.133~134)
 (D)「爰(ここ)を以(もって)、カムサスカは大良国に成(なる)べき道理也、彼(かの)土地、赤道以北五十一度より七十余度の間に所在すれば、ヱケレス島と相等し。然(しから)ば寒暑も相等く、人智も相等しければ、則(すなわち)ヱケレス同様の大良国に有(ある)べきなれど、是(これ)は教示・制度に因(より)て智愚と分れ、智は愚を使(つかう)の天則(*天地自然の法則)に係(かかわ)り主国と成(なり)、〔愚は智の〕属島属国となり、君臣の道(みち)立(たつ)なり。是(これ)天下の達道(たつどう *人類一般を通じて行なわれるべき道)也。カムサスカのヱケレス島に勝(まさり)たるは、東方はアメリカに至り、島々いまだ人道未開の土地多し。」(同前 P.141~142)(*「智は愚を使うの天則」「〔愚は智の〕属島属国となり、君臣の道立つ」という考え方は、まさに弱肉強食主義である)
 (E)「然(しかる)に日本は和蘭陀(オランダ)より遥(はるか)の大良国とならん。其(その)証(あかし)左の如し。
 日本国の国号をカムサスカの土地に移し、古日本と国号を改革し、仮館(かりのやか
 た)をすへ、貴賤の内より大器英才ありて、徳と能と兼備の人物を選挙し郡県に任じ、
 彼地に住居を構え、開業に丹誠をなさしむるにおゐては、年を経て良国と成(なり)、
 追々(おいおい)繁栄を添(そえ)、終に世界第一の大良国とならん次第の事。
 只今の時勢人情にては容易に領解(了解)しがたらんなれども、日本の為に成(なる)
 べき土地は蝦夷諸島の外(ほか)なし。」(同前 P.160)
 利明は、日本がイギリスとも肩を並べるほどの大国になりうる最大の理由・根拠として、カムチャッカへの本都を遷(うつ)すことを挙げている。そして、カムチャッカを本都とすることにより、(C)で山丹や満州との交易で繁栄するとしている。(D)では、イギリスに優(まさ)る可能性として、カムチャッカの東方(アメリカに至る)に、「人道未開」の島々が多いことも挙げている。そして、(E)では、オランダよりはるかに「大良国」なりうる根拠として、カムチャッカを始めとした「蝦夷諸島」の開拓を通して繁栄することを強調し、最後に「日本の為になるべき土地は蝦夷諸島の外なし」と、念を入れている(蝦夷諸島には、当然、奥蝦夷たるカムチャッカも含まれている)。(《補論 蝦夷地・竹島開拓と幕末の志士》を参照)
 さらに、利明は『西域物語』の終末部分で、カムチャッカを本都とした「古日本」の東西南北の状況をまとめて整理し、日本に属すべき領域を確認する。すなわち、
 「左様の土地(*周りがヨーロッパ強国にはさまれたオランダのこと)より見れば、カムサスカの土地は至(いたっ)ての良国也。後の北の方は地続きなれども、夜国氷海(*北氷洋)にも続き、人倫絶(たえ)たる土地なれば、手入れなしの(*人工を加えなくても自然の)要害堅固なり。東方は東洋にて夥敷(おびただしき)島々也。幸太夫(*大黒屋光太夫のこと)が漂着せしアミシイツカ(*アリューシャン列島の内の一つの小島)も此中(このうち)也。東はノールトアメリカに至る。西方は内海を一万町斗(ばか)り隔(へだ)て、ヲホツカ(オホーツク)より段々と南方へ地続、満州・山丹・唐太・サカリイン島〔*当時はカラフトは大陸とつながり、これとは異なる島としてサカリインが存在すると考えられていた〕あり。南方は正面の前に向(むかい)て、東蝦夷の内二十二島1)、松前島、日本国、琉球国、其外(そのほか)周廻の小島共、皆(みな)是(これ)古日本カムサスカに属し従ふべき自然具足の島々共也。」(同前 P.162)と。
 しかし、利明のカムチャッカ本都論2)は、大きな問題(「障害」)が隠されている。当時、すでにカムチャッカがロシアの支配下に入っているのは、利明も承知しているはずである。それなのに、ロシア支配下の土地(カムチャッカ)に本都を遷すとするならば、そこでは当然にもロシアとの争奪戦・侵略戦争となることは必然である。しかし、不思議なことに利明は、この点には全く触れていないのである。
 ただ、カムチャッカ本都論が必然的にロシアとの争奪戦に導くことだけは、明白である。利明は、この点は十分自覚している。であるが故に、ロシアとの戦いでの戦略・戦術を披露することは控えている(その能力があったかどうかは不明であるが)が、アイヌなど先住民の囲い込み・抱き込み競争における日本側の立ち遅れについては、次のように警鐘を強く鳴らしている。
 「大総にいへば〔*大まかに言えば〕、日本は居掛り(*居坐っている)にて、モスコビヤは旅先の勢ひ〔*旅路を急ぐような勢い〕あり、万事不手都合がち〔*日本の側は、万事につけ遅れがち〕なれば、其(その)居掛りの日本カムサスカの主となり〔*安居している日本の領土であるべきカムチャッカを、ロシアの側が領主となって〕、東南西の三夷狄〔*東の北アメリカ、南の千島、西の沿海州の未開人〕、みな教示・制度〔*ロシアの宗教や諸制度〕の甘味に蟻(あり)の集る如くならん事は、只今迄二千五百歳の内〔*神武帝の建国から今日まで〕、切磋琢磨の功を元入(もといれ)とするゆへ〔*ロシアの丹誠の功業を元金としたため〕也。」(同前 P.142~143)と。
 だからこそ、日本は「開業」とともに、アイヌなど先住民の撫育(可愛がって育てる)政策を精力的に推進しなければならないとしている。しかし、それはアイヌなど先住民の独自の生活様式や文化を完全に「下等」なものとみる差別的観点からする同化政策でしかない。  

注1)千島列島(クリール諸島)のこと。ただし、当時はカムチャッカ半島と北海道を結ぶ列島とは考えておらず、団子状に寄り集まっていると想定されている。
 2)幕末の志士である伊地知正治(薩摩藩)も、カムチャッカ本都論を唱えている。

  《補論 蝦夷地・竹島開拓と幕末の志士》
「蝦夷地開拓」は、幕府だけでなく幕末の水戸藩でも熱心に追求され、徳川斉昭は幕府に何回か開拓を願い出ている。それは、ロシアの南下政策に対抗して、日本領としての蝦夷地を確かにすることを名分に、水戸藩の経済力拡大のためでもあった。その水戸藩の会沢正志斎は、『新論』を著わし、幕末の尊王攘夷運動を鼓舞した。
 『新論』は正式に出版される前に、志士の間ではいくつも写本にされ、人気があった。尾藤英正氏によると、「本書(『新論』を指す―引用者)の原文は漢文であるが、これを読み下し文にして幕末期に刊行された本が、『雄飛論』と題されたことが示すように、国力を充実させた上で、海外に進出し、『海外の諸蕃をして来りて徳輝を観せしめ』、『四海万民を塗炭に拯(すく)』う(長計編)という。海外雄飛の壮大な構想こそが、本書の究極の目標とされており、本書が幕末の志士の間に多数の読者を得たのは、そのためでもあった。」(同著「尊王攘夷思想」―『岩波講座 日本歴史』13 近世5 1977年 P.81)と言われる。ことは左様なほど、当時、志士の間では「開拓」「海外雄飛(海外侵略)」が常識的なことであった。
 侵略思想を鼓吹した吉田松陰もまた、その急先鋒であった。松陰はその著「幽囚録」(1854年)で、昂然と侵略計画を次のように述べる。「……善(よ)く国を保つものは徒(ただ)に其の有る所を失ふことなきのみならず、又(また)其の無き所を増すこと(*侵略して領土を増やすこと)あり。今急に武備を修め、艦(かん)略(ほ)ぼ具(そな)はり?(砲)略ぼ足らば、則ち宜(よろ)しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・?都加(オホーツク)を奪い、琉球に諭(さと)し、朝覲(ちょうきん *天子に拝謁すること)会同すること内(うち)諸侯と比(ひと)しからしめ、朝鮮を責(せ)めて質を納(い)れ貢(みつぎ)を奉(たてまつ)る〔*人質を入れ、貢物を差上げる〕こと古の盛時の如くならしめ〔*松陰は『日本書紀』のいう神功皇后「三韓征伐」の虚構を信じていた〕、北は満州の地を割(さ)き、南は台湾・呂宋(ルソン *フィリピンのこと)の諸島を収め、漸(ぜん)に進取の勢を示すべし。……」(山口県教育会編纂『吉田松陰全集』第2巻 1973年 P.54~55)と。
 その松陰は、1858(安政5)年2月19日付けの桂小五郎(在江戸)あての書簡で、竹島(今日の鬱陵島を指す)開拓について次のように述べている。
 ……茲(ここ)に一名利奇男子〔*名誉と利益を求める一人の変わった男子〕長府人(長
 州藩支藩である長府藩の者)興繕昌蔵(*長府藩の藩医で竹島開拓論者)と申すものあ
 り。竹島開墾の策あり。此段(このだん)幕許を得、蝦夷同様に相成(あいなり)候は
 ば、異時明末(みんまつ)の鄭成功の功も成るべくかと思はれ候。此(この)深意は扨
 置(さておき)、幕吏変通(*自由自在に変化し事態に適応していくこと)の議、興利の
 説(せつ)今日の急に候へば、竹島開墾位(くらい)は難事に非(あら)ざるべし。是
 一(これいつに)御勘定の主張にて行なはれ申すべくと黙算仕(つかまつり)候。委細
 玄瑞(*久坂玄瑞)存知の事に付(つき)御運籌(ごうんちゅう *謀をめぐらすこと)
 下さるるべく候。天下無事ならば幕府の一利、事あらば遠略の下手(げしゅ *手につ
 けること)は吾藩よりは朝鮮・満州に臨むに若(し)くは〔*匹敵するものは〕なし。
 朝鮮・満州に臨(のぞま)んとならば竹島は第一の足溜り(*根拠地)なり。……
 松陰はここで、朝鮮・満州を侵略するには、竹島が最大の根拠地となる―というのである。
 松陰は、同年6月28日付けの久坂玄瑞(在江戸)あての書簡でも、次のように言及している。
 ……竹島、英夷(*イギリスのこと)の有(ゆう)と為(な)ること甚だ信じ難(がた)
 く候。興繕、近日も福原(*福原清介。明倫館で松陰に兵術を学ぶ。竹島開拓論者)ま
 で申し来たり候。北国船(*北前船)毎々(まいまい)往返(おうへん)其(その)前
 後を通船致し候へ共(ども)何たる事もこれ無き様子、又(また)英夷既に拠(よ)る
 〔*根拠とする〕とも苦しからず、矢張(やはり)開墾を名とし交易をなし、因(よっ)
 て外夷の風説を聞くこと尤(もっと)も妙(*巧みである)。英夷既に拠れば別して(*
 とりわけ)差し捨てがたく候。左なく候てはいつ何時(なんどき)長門(ながと)など
 へ来襲も測るべからざる也(なり)。寸板も海に下すあたはざるの陋〔*海外渡航禁止の
 陋習〕を破るには是等(これら)にしく妙策はこれ無く候。黒竜(黒龍)・蝦夷は本藩よ
 りは迂遠(うえん)、夫(それ)よりは竹島・朝鮮・北京辺の事こそ本藩の急に相見(あ
 いみえ)候。
 この頃、江戸に在る久坂など門下生が、ロシアの南下政策を憂慮して、蝦夷や黒龍江方面へ探索に赴こうとする計画をたてていたようである。これに対して、松陰はむしろ長州藩に近い「竹島・朝鮮・北京」などへの進取こそ急務と、主張したのである。
 松陰の依頼を受けた桂小五郎は、種々の苦心のうえ、まず長州藩の重役・長井雅樂を説得し、江戸の長州藩邸も竹島開発が有利な事業であると認めた。さらに桂は、村田蔵六(大村益次郎)とともに幕府に働きかけ、時の老中・久世大和守に願書も提出した。だが、幕府は、藩主からの正式出願でなければ取り上げることができないとして、これを却下した。
 江戸藩邸から連絡を受けた国元も、藩庁で竹島問題を協議した。その結果、竹島は昔から所属が疑問の島であるが、いまその開拓を幕府に出願しても許可される見込みもなく、そのうえ遠隔の地である竹島に投資しても経営上の採算があわないとして、藩主の決済で開拓出願を中止すると決定した。
 歴史的に見ると、竹島(今日の鬱陵島)については、朝鮮領であることを江戸幕府は認めている。松島(今日の竹島〔朝鮮名は独島〕)については、種々の議論はあるが、少なくとも日本領としては、江戸幕府は認めていない(松島は、竹島に渡海する途中にあり〔経由地〕、資源も無く経済的価値はほとんど無い。したがって、竹島と無関係に松島を日本領とする日本政府の主張はへ理屈である)。その経過は、次のようなものである。
 鳥取藩は、竹島渡海免許を大谷家・村川家に授けていたが、1693(元禄6)年3月、大谷船が竹島に行ったとき朝鮮人がおり、そのうち2名を連行した。鳥取藩では、朝鮮人の竹島渡海を禁止して欲しいと幕府に要請し、幕府はそのことを対馬藩に命じて、朝鮮王朝に申し入れさせた。こうして、釜山の倭館で日朝間の外交交渉が始まる。しかし、朝鮮側は、竹島は「朝鮮の鬱陵島」であるとして対立し、外交交渉は足かけ3年にわたった。
 竹島の領有をめぐっては、対馬藩内部でも両論があったが、藩主宗義真は幕府に対して日本領を主張した。これを受けて老中阿部豊後守は、折衷案として、日本人も朝鮮人も竹島渡海を認める―という案を示した(1695年12月11日)。しかし、対馬藩はこれに反対し、朝鮮人の渡海禁止を基本として交渉を行なうとした。
 ところが、12月24日、阿部豊後守は、鳥取藩に質問する。同藩は翌日に回答し、「竹島は因幡・伯耆に所属する島ではありません」と回答する。また、松島も鳥取藩領でない、
と回答した。(内藤正中・金柄烈共著『史的検証 竹島・独島』岩波書店 2007年 P.37、41~43)。幕府は、あわせて松江藩にも問い合わせた。すると、「出雲隠岐の者は竹島渡海に関係がないことを二六日の回答書で確認した」(同前、P.43)のであった。
 幕府は、1696(元禄9)年1月28日、竹島渡海禁止を達した。この元禄竹島渡海禁令の文面は、次のようなものである。
  先年、松平新太郎(*池田光政のこと)が因幡・伯耆を領知していたときに幕府に伺
 いを立て、伯耆国米子の町人村川市兵衛・大屋(*大谷)甚吉が竹島(*鬱陵島のこと)
 に渡海をし、その後現在に至るまでも漁をしてきたが、これからは竹島へ渡海すること
 は禁止するとの将軍(*徳川綱吉)の仰せであるから、そのように心得なさい。
                         土屋相模守  政直
                         戸田山城守  忠昌
                         阿部豊後守  正武 
                         大久保加賀守 忠朝
松平伯耆守殿(*鳥取藩主・池田綱清)
             〔池内敏著『竹島』中公新書2016年 P.70~71〕
 幕府は、竹島について、「因幡、伯耆に所属する島ではない」「渡海し、漁をしたまでのことであって、朝鮮の島を日本に取ろうというわけではない」「島には日本人は住んでもいない」「元々取っていた島ではないので、返すという筋でもない」という訳で、日本人の竹島への渡海を禁止する―という形の決定にしたのである。
 渡海禁止のことは、鳥取藩から大谷・村川両家に、同年8月1日に達せられ、両家は同日付で請書を提出した。 
 幕府が竹島への渡海を禁止したことが、対馬藩から朝鮮側に通告されたのは、さらに遅れて1696(元禄9)年10月16日のことであった。
 竹島についての元禄渡海禁令は、関係者に通告されただけであったが、天保7(1836)年の天保竹島一件では、幕府の全国法令(触書)として各地に周知徹底された。
 この年、石見国浜田の今津屋八右衛門による竹島(鬱陵島)渡海が発覚し、同年6月、江戸へ送致され、幕府評定所で審理が進められた。この結果、次のような触書が出された。

 このたび松平周防守(*浜田藩主)領であった石見国浜田松原浦の無宿八右衛門が竹島へ渡海した一件について吟味を行ったところ、右の八右衛門そのほか関係する者たちそれぞれに対して厳しい処分を行った(*八右衛門は死罪)。右の島は、むかし伯州米子の者たちが渡海をし、魚漁などを行ってきたところではあったが、元禄のときに朝鮮へ御渡しになり、それ以来、日本人の渡海を停止するよう将軍から命じられた場所である。それがどこであれ異国へ渡海することは重々御制禁であって、これから以後、右の島についても同様に心得て、渡海を行ってはならない。もちろん日本国内各地を出た廻船などが海上で異国船と出合わないよう航路の取り方には心を用いるべき点については先年も御触を出したとおりであって、なおさら厳守し、今後はなるべくならば遠い沖合の航行は避けて廻船を行うようにすべきである。
 右の趣旨について、幕領は代官から、大名領は各大名から海沿いの村・町ともに洩れなく触れ知らせるべきである。その際、触書の趣旨を板札に書き記して高札場に掛けておきなさい。
 酉(*天保8〔1837〕年)二月    〔池内敏著『竹島』P.104~105〕

 松陰らは、竹島(鬱陵島)が日本領でなく、朝鮮領であることを百も承知で、竹島開拓と竹島支配を公然と主張しているのである。
 このことは、幕末の志士では決して珍しいことではない。例えば、かの坂本龍馬もまた、蝦夷地開拓や竹島開拓を主張している。1867(慶応3)年3月6日付けの印藤聿(のぼる)宛ての手紙には次のように書かれている。(印藤は、長府藩士)

 ……例の竹島(*今日の鬱陵島)行きのことは以前からお耳に入れましたとおり、三吉大夫(*長府藩家老の三吉周亮のこと。長府藩報国隊総督、藩船満珠艦の艦長)にもお伝え申し上げた所、随分とご賛同下されました。いずれ近日中に再び長府から下関に出てきて『藩として渡航を決定すべし』とのことでした。その後はお目にかかっておりませんので、お返事を待っている所です。けれども最近の(*長府藩の)世情を見ると、目前の問題でなければ相談することはできない状況のため竹島開拓計画には随わない方向でしょううか。そうであればその計画は実行できないでしょう。残念な結果になるのでしょうね。
 私は以前、蝦夷地へわたることを考えていた頃(*文久年間)から、新しい国を開きたいとの考えをつのらせ、一生の大計画と考えてきました。そういうわけで、この竹島行きのことは私一人ででも実行しようかと思っております。そのうち伊藤助太夫様は長府藩とは別に私の志を憐れんでくれました。なおかつ私の積年の思いもあるために、計画倒れにならないよう密かに志を奮いたたせております。然らば、先ごろ長崎において大洲藩の蒸気船(*のちのイロハ丸)を三月十五日から四月一日までの間に借りが決まりそうです。近頃その期限も来るでしょう。……宮川禎一現代語訳『坂本龍馬からの手紙』教育評論社 2012年)
 幕末の志士の「雄飛論」とは、このように他国の領土であろうとなんであろうと、日本の領土を拡大することであり、侵略か否かには頓着はしていないのである。
 なお、近代に入っても、明治政府は竹島(鬱陵島)・松島(独島)は「朝鮮領」あるいは「日本領ではない」ことを明らかにしている。1869(明治2)年12月から1870(明治3)年4月にかけて、朝鮮国に出張した外務省官員・佐田白茅らが釜山で調査した報告書『朝鮮国交際始末内探書』には、「竹島松島朝鮮付属ニ相成候始末」と題する項目がある。1870(明治3)年4月のことである。 
 明治政府は、1877(明治10)年3月29日付けの太政官指令で、「竹島外一島の義、本邦関係これ無き義と相心得べき」と明確にしている。ここでいう「竹島外一島」が、竹島(鬱陵島)と松島(竹島〔朝鮮名独島〕)であることは、疑いえない。
 「竹島」問題の歴史的経過については、詳しくは池内敏著『竹島』(中公新書)、内藤正中・金柄烈著『史的検証 竹島・独島』(岩波書店)を参照。


  おわりに

 国学や皇統主義を受けいれた儒学と比較すると、蘭学は科学的で、排外主義とは無縁である―と考えられがちである。しかし、蘭学者といっても千差万別である。
 確かに、自然科学分野だけではなく、社会科学分野でも科学的態度を持った蘭学者もいる。たとえば、司馬江漢のように、「人間の起りは天地より湧き出でたる虫なり。往古は土を穿(うが)ちて穴居(けっきょ)す。而(しこう)して後、己の為(ため)に争闘を起し相戦(あいたたか)ふ」(『春波楼(しゅんぱろう)筆記』)と進化論的主張を行ない、記紀にいう「神代」を国学者のように信じないで、天皇も民衆もともに天照大御神の子孫であるなどとは思ってもいなかった。従がってまた、「上、天子、将軍より下(しも)、士農工商、非人乞食に至るまで、皆以て人間なり」(同前)と、人間平等論を展開している。
 このように西洋文明の長所をうけ継ぐ蘭学者もいれば、他方、本多利明のように西洋文明がもたらす侵略思想を鼓吹する蘭学者もいたのである。
 両者の分岐の因は、やはり皇統主義に対する態度にある。神道や国学を受けいれた儒学者と同じように、皇統主義を受けいれた蘭学者は、世界に冠たる天皇制をかかげて海外雄飛すなわち海外侵略を鼓吹するのであった。(了)