現代帝国主義とその没落の素描
                     

                                                                      深山和彦

 21世紀初頭の現代の帝国主義は、レーニンがその帝国主義論に対象化した百年前のそれとは大きく変貌している。今日マルクス主義の理論戦線は、ソ連の崩壊を契機にようやくレーニンの「呪縛」から解放され、帝国主義の変貌した現実をそれなりに在りのままに把握できる精神状態を取り戻してきているようである。レーニンも墓場の影で喜んでいることだろう。
 とはいえ、中核派の「30年代への螺旋的回帰」論を極端な一例とするレーニン帝国主義論の当てはめによる時代認識が、程度の差はあれまだ左翼を毒し続けているのも現実である。われわれは、この方面の理論的立ち遅れを、速やかに克服していかねばならない。
 私は、現代の帝国主義については、以下のように特徴付けることができると考える。
 第一は、帝国主義諸国の上に立つ超大国が誕生し、帝国主義諸国の国際反革命同盟体制が形成されていること。旧植民地の新興独立諸国が国際反革命同盟体制に組み込まれたこと。第二は、超大国を主柱とする国際反革命同盟体制の下で、帝国主義国の金融独占資本が、かつて共に世界を分割して争った他の帝国主義国の本国市場を含む旧勢力圏に、大規模に浸透し、グローバルな搾取体系をつくりあげていること。第三は、帝国主義諸国の金融独占資本が、相互に、本国市場を含む旧来の勢力圏の枠を超えて大規模に浸透し合い、それぞれのグローバルに発達した搾取体系を基礎に国際寡占体制を発達させていること、第四は、金融のグローバリゼーションが実現し、貨幣資本の投機的自己増殖運動(マネーゲーム)が実体経済に比べて圧倒的に肥大化したこと、第五は、社会主義革命の物質的その他の諸条件が全面的な成熟段階に入っていること、である。

(1) 超大国の誕生と国際反革命同盟体制

 現在の帝国主義の諸特徴が全面的に揃うのは、20世紀も末になってである。しかし、その政治的上部構造の基本骨格は、既に半世紀も前の第二次世界大戦直後の時期に姿を現している。超大国の誕生と国際反革命同盟体制の形成である。
 超大国と国際反革命同盟体制は、レーニンが帝国主義論で対象とした時代の結語である「帝国主義世界大戦」の中から誕生した。
 具体的には第二次帝国主義世界大戦を媒介に、それまで帝国主義列強の一つに過ぎなかった米国が、他の帝国主義諸国をも一定統制・支配する帝国主義超大国へと転化する。その過程でこの超大国が、自己を主柱とする帝国主義諸国の国際反革命同盟体制を形成し、英国に代表される「植民地支配」、日・独・伊に代表される「ブロック化」など世界の地理的な分割と再分割の時代に終止符を打ち、世界的規模で貿易と資本移動の自由を保障する体制を確立したのである。
 私は、国際反革命同盟体制をイメージしてもらう際によく徳川幕藩体制を引き合いに出すことにしている。前者は、基本的にブルジョア国民国家を構成単位とする世界的規模の支配構造であり、後者は封建大名を構成単位とする日本の江戸時代の支配構造だという違いはある。しかし、超大国を主柱とする国家連合構造という点で、かつまたその下で次の新しい時代の物質的その他の諸条件が成熟するという点で類似しているのである。これまでの共産主義者は、帝国主義諸国間の国際関係について、市場再分割競争から戦争へと至る20世紀初頭の必然性の図式に縛られ、一時的な同盟関係を超えた体制などありえないとしてきた。また、社会主義革命の可能性について、帝国主義相互の戦争がもたらす危機と結び付けて思考するパターンに深く囚われてきた。われわれはこのような固定観念を克服し、アメリカ幕藩体制を打倒する「幕末」の激動に備えなければならないのである。

                        @ 超大国の誕生 
    
 第二次大戦後米国は、英・仏・伊・独・日などの帝国主義諸国をも一定統制・支配する超大国の地位を占めるようになった。それは、次の四点において特徴づけることができる。
 第一点は、核兵器の独占である。
 核兵器の独占を維持せんとする米帝の意志は、すさまじい。米帝は、核拡散防止条約の受け入れを諸国に迫る。米帝の監督外で核開発を企てる国に対しては、経済制裁を課し、施設の爆撃を計画し、多大な援助と引き換えに開発の断念を引き出そうともする。こうしたことは、核独占が超大国の地位と固く結びついていることから生じているのである。
 超大国の地位は、まずもって他の帝国主義諸国との関係としてある。それゆえ核独占の維持も、主眼はそこに置かれている。「親藩・譜代」の仲である英・仏が小規模の核を保有することは容認しても、「外様」の日・独・伊の保有は、米帝にとって受け入れられないことなのである。
 第二点は、日・独をはじめとした他の帝国主義諸国への米軍の駐留である。
 第二次世界大戦で米軍は、敗戦国の日独に進駐し、そのまま半世紀以上経つ今日まで居座りつづけてきた。帝国主義国が他の帝国主義国に長期にわたって軍隊を駐留しつづけるということは、第一次世界大戦後の戦間期においてもなかったことである。
 世界の領土的分割の時代から、世界的規模で貿易と資本移動の自由を保障し金融独占資本の多国籍展開に道を開く時代への移行は、一つの巨大な帝国主義国が他の帝国主義諸国を一定統制・支配する必要を生み出した。その役回りを引き受ける歴史的位置に米帝が在ったということであり、米軍の日独をはじめとした他の帝国主義諸国への長期駐留は、その一つの帰結に他ならない。
 米帝は、第二次世界大戦後ただちにグローバルな覇権を確立した訳ではなかった。ソ連が、核兵器で重武装し、官僚制国家資本主義を経済制度とする独自のブロックを形成して、米国に盾突いたのだった。だがこのソ連との冷戦は、米帝が日独などの帝国主義諸国に米軍を駐留つづけ、帝国主義諸国の支配階級に米帝の支配的地位を受け入れさせる上での、条件となった。
 1990年代初頭のソ連の崩壊によって、米帝の世界覇権(アメリカによる世界平和)が「反ソ・反共」の背後から前面化して現れ、駐留米軍がそれをもろに象徴する時代を迎えるのである。
 第三点は、ドルの基軸通貨化である。
 米帝は、第二次世界大戦直後の1948年、西側世界の工業生産力の55.8%、西側世界の金準備総量の70%を、保有していた。米帝は、この経済力をテコに、ドルを金と兌換可能な通貨にし、他の諸国通貨の対ドル交換性を確保することで、ドルの基軸通貨としての地位を確立した。
 その後米帝は、70年代の初頭に至って、金準備の大幅な減少の中で金・ドル交換停止に踏み切り、ドルと他国通貨の交換レートについても、それまでの固定相場制から変動相場制へと移行させた。これによってドルの基軸通貨としての地位は揺るがなかった。
 金(銀)によって裏打ちされない「章標貨幣」が世界市場で流通することは、それまでにはなかったことである。なぜなら章標貨幣の流通は、国家の強制的保障を条件とするからであり、世界分割の時代を含むそれ以前の国家(例えば大英帝国)にとって、世界市場は強制的保障の埒外にあったからである。
 しかし70年代初頭当時、米帝はすでに他の帝国主義諸国をも一定統制・支配する超大国の地位に在り、国際反革命同盟体制の主柱として西側世界における世界秩序の守護者になっていた。それゆえ、米帝は、世界市場におけるドルの基軸通貨としての定着を基礎にして、ドルの章標貨幣化に踏み切ることができたのである。
 第四点は、ファシズムとブロック化の政治、および、旧植民地支配を解体し、国際反革命同盟体制を形成したことである。
 米帝は、第二次世界大戦の引き金の役割を果たした日独帝国主義のファシズムとブロック化の政治を解体し、ブルジョア民主主義政治と市場開放・自由競争経済とを原則とする帝国主義諸国の国際反革命同盟体制を形成した。米帝は、英・(仏)帝国主義が仕切ってきた植民地時代の終焉・植民地の独立を支持し、新興独立諸国を国際反革命同盟体制に組み込んでいった。米帝は、ソ連との冷戦、反帝民族解放運動の抑圧を主導する中で、この体制を打ち固めた。こうして米帝は、金融独占資本の多国籍展開を保障する国際反革命同盟体制を形成したのである。
 米帝は、国際反革命同盟体制の主柱となることで、自己の世界覇権を確実なものにした。
 
                      A 国際反革命同盟体制

 第二次世界大戦は、金融独占資本が、世界の分割を特徴とする国際的枠組みの下では、最早やっていけなくなったことを明らかにした。第二次世界大戦は、米帝を超大国に押し上げると共に、米帝を主柱とする国際反革命同盟体制の形成を導いた。国際反革命同盟体制は、ブルジョア民主主義政治と市場開放・自由競争経済とをもって金融資本の多国籍展開を保障する国際体制に他ならない。
 国際反革命同盟体制のこの政治性格は、この体制が日・独・伊帝国主義のファシズムとブロック化を打ち砕く帝国主義世界大戦を通して誕生し、世界の領土的分割・旧植民地主義の時代を代表する英帝との主導権争いにおける米帝の勝利をもって確立された、という歴史的経緯によって定まったものである。
 しかし第二次世界大戦後間もなく米帝が、ソ連社会帝国主義―東側ブロックとの対抗関係(「冷戦」)に入った為、新たな国際体制の形成は西側世界に止まった。とはいえソ社帝との「冷戦」は半面で、米帝が西側世界において新たな国際体制を形成していく上で有利な条件として作用し続けた。ソ連が崩壊した90年代初頭になってはじめて、この体制は真にグローバルな体制となる。
 国際反革命同盟体制は、超大国(米帝)を主柱とする帝国主義諸国の世界支配体制であり、旧植民地の新興独立諸国をも従属的に組み込んだ搾取階級の国家の国際連合体制である。それは単独の機構ではなく、歴史過程の複雑性に規定され、重層的に形作られてきている。
 国連安全保障理事会、IMF(国際通貨基金)、世界銀行、GATT(関税と貿易に関する一般協定)―WTO,NATO(北大西洋条約機構)、日米安保体制、サミット(先進国首脳会議)、等々である。

(国際軍事機構)
 国際反革命同盟体制は、NATO,日米安保体制などの形で全世界に張り巡らされた軍事機構により支えられている。その基本性格は、世界の憲兵としてグローバルに展開する米軍の活動の支援であり、各地域で米軍の指揮の下に参戦する帝国主義諸国の連合軍事体制に他ならない。
 この軍事機構によって防衛・拡張するものは、かつてのような自国の植民地勢力圏ではない。それは、世界支配秩序であり、金融独占資本が多国籍展開する上で必要な諸条件であり、そして自国金融独占資本のグローバルな搾取体系と権益である。
 これらの軍事機構は、冷戦期においては、槍の役割を担う米軍に対し、盾の役割を補完してきた。しかしソ連崩壊・冷戦終結以降、NATOがユーゴへの軍事介入を突破口に域外派兵へと踏み切り、日米安保体制も日本の周辺事態法制定を介して日米共同の軍事介入体制へ再編されてきている。
 実際の軍事行動は、米軍単独、国連軍、PKF(国連平和維持軍)、多国籍軍、NATO軍など多様であり、米帝の政治目的の貫徹に都合の良い形態が選択されてきた。

(IMF、世界銀行)
 IMFは、ドルの支配的地位を前提とした国際的な通貨協力であり、為替取引きの自由の制限・特定国間の差別的通貨取り決め・為替の切下げ競争などを防止して貿易の拡大を促し、また国際収支の不均衡を是正するために基金資金(短期ドル融資)を加盟国に利用させる制度である。世銀の目的は、加盟国の「復興」と「開発」のために、長期ドル資金を貸し出すこと、民間の対外投資を保証し促進することである。IMFと世銀は、米帝の世界戦略の一環として創設され、その強力なリーダーシップの下に運営されてきた。
 第二次世界大戦直後の時期の米帝の戦略は、ソ連の封じ込め・共産主義革命の防止と欧日の復興とによって米金融独占資本の多国籍展開に向け環境整備を図ること、同時に英・仏植民地帝国を解体してアジア・アフリカ・ラテンアメリカにおける石油等資源に対する支配を強化することであった。創設当初のIMFと世銀は、西欧諸国の復興と通商関係の回復を促すことで、こうした米帝戦略の一側面に貢献した。
 60年代末、米帝にとって大きな転機が訪れる。欧日の復興と自国経済力の相対的な低下、ベトナムを先頭とする反帝民族主義の高揚と国有化経済の第三世界における広がりの中で、自己の支配的地位を政治的・経済的に将来にわたって確保しつづけるための巻き返し戦略が求められたのである。米帝の新たな戦略は、第三世界における反帝民族主義の高波と国有化経済の広がりを解体する為、復興した欧・日の経済力を大規模に動員・利用すること、自国金融独占資本の産業構造の高度化を欧・日金融独占資本の(米国への工場移転を不可欠の環とする)多国籍展開と一体的に推進して国際分業を発達させ、国際分業において先端産業と農業・資源の両端を握り締めることで経済的な支配的地位を再構築することであった。この戦略は、70年代初頭の「石油ショック」を契機に世界的規模で過剰生産・過剰資本が顕在化した中で発動されていく。そしてIMFと世銀は、第三世界対策の領域で、米帝の新たな戦略に大きく寄与したのだった。
 すなわちIMFと世銀は、70年代に入ると、第三世界諸国に対する融資を拡大し、帝国主義諸国金融独占資本の過剰資本や米銀に預けられたオイルマネーの第三世界諸国に対する大規模な貸し付けを先導して、それら諸国を累積債務危機に陥れる。80年代には、この累積債務危機を取り上げて政治問題化し、IMFの「構造調整」をそれら諸国に受け入れさせていった。「構造調整」とは、第三世界諸国に対して市場開放・市場経済化・賃金引下げ・資源の乱掘乱伐・輸出拡大等々の政策を迫り、こうして「多国籍企業」に搾取の自由を保障する・利子の支払い義務を履行する国家へこれら諸国を自己改造せしめることだった。
(GATTからWTOへ)
GATT(関税と貿易に関する一般協定)は、第二次世界大戦直後、世界貿易を律する制度として設けられた。その目的は、保護主義の台頭により世界市場が狭隘化し寸断されることを防止すること、関税率を引き下げ、原則として貿易の数量制限をなくすことであった。それは、自由競争によって、多国籍企業の発展と各国の弱小資本の没落を促す制度であった。
 WTO(世界貿易機関)は、1995年に発足した。目的は同じであるが、次の点で異なる。すなわち、GATTは単なる協定に過ぎなかったが、WTOは、強力な国際管理機関として創設されたこと、GATTは物の貿易ルールだったが、WTOにはそれだけでなくにサービスと知的所有権に関するルールが加わえられた。
 
 (2)金融独占資本の多国籍展開

 私は、現代の帝国主義を語るのに、超大国の誕生と国際反革命同盟体制の形成から出発した。なぜならそれが、それ以前の資本の運動(その帰結としての帝国主義世界大戦)から生まれ出たものであり、かつまた、現代帝国主義の経済的諸特徴が現れる上での不可欠の条件となるものだからに他ならない。
 超大国の誕生と国際反革命同盟体制の形成という条件下で、金融独占資本は、多国籍展開する時代に入る。金融独占資本は、かつて共に世界を分割して争った他の帝国主義国の本国市場を含む旧勢力圏にさえも、大規模に浸透し、グローバルな搾取体系をつくりあげていくのである。
 ここは、いわゆる「多国籍企業論」として論じられてきた領域になる。しかし従来の「多国籍企業論」の多くは、超大国の誕生と国際反革命同盟体制の形成とに保障された「多国籍企業」という視点が欠如しているか希薄であるため、経済的諸特徴を論じるに当たっても不鮮明さを免れていない。
 「多国籍企業論」においてまず重要なことは、第二次世界大戦における戦勝国・敗戦国のいずれの帝国主義国の金融独占資本もが、かつて共に世界を分割して争った相手国の本国市場を含む旧勢力圏にさえも浸透し、グローバルな搾取体系を作り上げたことである。「多国籍企業」の「定義」を論じる際によく持ち出される資本輸出の対象国数や在外生産比率の大きさなどは、確かに「多国籍企業」の特徴を反映するものではあるが、帝国主義列強が世界を分割した時代の資本の運動法則(レーニン帝国主義論)の枠内で資本輸出の発達レベルの問題として語ることもでき、「多国籍企業」を特徴づける指標としては極めて不充分なものと言わねばならない。
 「多国籍企業論」において上記のことと合わせて重要なことは、旧勢力圏を超えた金融独占資本の浸透が、「大規模」に実現されたということである。「多国籍企業」を論ずる際、個別企業の特徴という領域に囚われる態度は、大きな誤りである。グローバル企業は、帝国主義列強が植民地を領有し世界を分割していた時代にも、部分的には存在した。しかしそのグローバルな搾取体系は、当時は世界市場再分割戦争によって結局寸断されざるをえず、全面的に発達することはなかった。だが今や、帝国主義国の金融独占資本は、部分でなく全体として多国籍展開する時代になっているのである。
 金融独占資本の多国籍展開は、三つの時期に区分することが出来る。
 第一期は、金融独占資本の多国籍展開が、まず米系金融独占資本の多国籍展開として始まった60年代である。
 米系金融独占資本は、欧州と日本が戦災からの復興過程にあった50年代末頃までは、主として「南」の地域に向かう。
 当時この地域では、世界大戦において新参の帝国主義である日独伊が敗退しただけでなく、英仏という広大な植民地を支配しつづけてきた古参の帝国主義も疲弊し、その間隙を突いて民族独立運動が燃え広がり、次々と独立を闘いとっていた。そうした中で米帝は、旧植民地主義の没落と植民地の独立を促し、それをテコに、植民地時代に締め出しを食らってきたこの地域への浸透、自己の権益の拡大を実現していったのである。とりわけ中東において、英帝の影響力を後退させ、優勢な石油権益を確保したことは、米本国、ベネズエラ、インドネシアの石油権益と合わせて、米系石油メジャーのグローバルな規模での石油資源支配の確立をもたらしたのだった。
 アメリカ金融独占資本は、60年代に入ると、復興した西欧帝国主義の本国市場へと大挙浸透していく。それは、金融独占資本が旧勢力圏を超えて大規模に浸透する時代(「多国籍企業の時代」)の本格的な幕開けだった。
 そこにおいておさえておくべきことの一つは、西欧帝国主義の本国市場へのアメリカ金融独占資本の浸透が、「アメリカによる植民地支配」というセンセーショナルな反発が巻き起こるほど衝撃的に大規模だったこと、しかも自動車産業に代表される当時の西欧におけるリーディング産業に重点的に浸透したことである。二つは、西欧の諸国家が、このアメリカ金融独占資本の大規模な浸透を阻止する力量を、最早持ち合わせていなかったことである。三つは、この時期に、西欧諸国の金融独占資本が、アメリカ金融独占資本との競争を通して資本の集積・集中と資本輸出とを加速し、次ぎの時期に始まる多国籍展開(米国市場への浸透)への土台を築いたことである。
 第二期は、西欧の金融独占資本が米国市場へ大挙浸透し多国籍展開した70年代、および、日本の金融独占資本が米国(および西欧市場)に浸透した80年代である。
 すなわちこの時期の特徴は、米金融独占資本だけが多国籍展開した段階から、全ての帝国主義諸国の金融独占資本が、かつての勢力圏を超え、お互いの本国市場についても相互浸透する段階に到達した(それゆえ後に述べるが、旧勢力圏内の分業を基軸としてきた段階から国際分業が本格的に発達し産業構造が一段と高度化ていく段階に移行)したことである。その意味ではこの時期を通して、国際反革命同盟体制がその土台を完成させたのである。80年代末・90年代初頭という時に至って、ソ連社会帝国主義(官僚制国家資本主義)が崩壊し東側ブロックが解体して、世界分割の時代が最終的に終わり、国際反革命同盟体制が真にグローバルな体制になったのも、決して偶然ではないだろう。
 なお、金融独占資本が多国籍展開する契機は、かつての資本輸出のそれに比べて多様化している。資源のため、安価な労働力のため、販売市場のため等々という従来資本輸出の契機として重視されてきた要素は、依然生きている。それらに加えて、生産と販売に国際的ネットワークの威力を利用するため、現地の需要の特殊性に応ずる必要が高まってきているため、貿易収支の不均衡(黒字)が引き起こす相手国(相対的強国の場合が多い)からの政治的批判に対処し相手国市場への参入を確保するため、変動相場制下で自国の貨幣価値が高騰し自国からの輸出では採算に合わなくなったため、などの要素が重要になってきていると言えるだろう。
 日本の金融独占資本は、1945年の敗戦で旧植民地の権益を完全に失ったためか、西欧の金融独占資本と比べても復興後長期に、資本輸出の主な矛先を南の諸国における権益(特に資源)の獲得へと向けた。日本の金融独占資本の米国への大規模な進出は、70年代に米国が電気・鉄鋼・自動車などの領域で連続的に展開した貿易不均衡批判・輸入課徴金の賦課・輸出自主規制の強要に追い詰められて、ようやく80年代に本格化する。そして、85年の「プラザ合意」をテコに米帝主導で円高誘導が開始されるとともに、日本の金融独占資本は資本輸出を急増させ、多国籍企業の時代に入るのである。
 第三期は、ソ連社会帝国主義のブロックが崩壊し、米帝を主柱とする国際反革命同盟体制によって世界市場の統合性が確保され、各国市場の開放と国際化が促進(強制)される中、多国籍企業間の大競争が国際寡占体制を形成を導く90年代以降の時期である。
 超大国(米帝)と国際反革命同盟体制とが促進(強制)する各国市場の開放と国際化、および、その下での金融独占資本の多国籍展開は、全世界の労働者を、単に置かれている境遇の同一性からだけでなく、日常的な経済活動における協働性を介しても結び付けた。特に重要なことは、労働者の国境を超えた相互浸透が常態化・拡大していること、とりわけ労働人口の大量的な賃金労働者化と人口激増の過程を終えた帝国主義諸国へ、農民の大量的な賃金労働者化と人口爆発の過程に在る「南」諸国から、労働者が大規模に移住していることである。
 たしかに資本とその国家は、自己の地位を維持する見地から、労働者の国際的自由移動には金や物のそれに比して大きな制約を加え、グローバルで重層的な差別・抑圧と共生・統合の支配構造を創り出してきている。しかしそれは、大局的に見れば、歴史の大勢への哀れな抵抗でしかない。労働者の国際的に団結した運動がかつてない規模と力強さをもって歴史の舞台に登場する日は、そう遠いことではないだろう。

(3) 国際寡占体制の発達

 自由競争は独占を導く。国際反革命同盟体制下のグローバル市場においても、これは真理である。金融独占資本・多国籍企業間の大競争は、国際寡占体制を発達させずにはおかない。国際寡占体制は、20世紀の最後の10年間に姿を現し始めた。それは、これまでの寡占・独占とは次ぎの点において質的に異なるものである。
 第一に、米帝を主柱とする国際反革命同盟体制によって世界市場の統合性が確保され、各国市場の開放と国際化が促進(強制)される中、諸国の富豪達が金融によってこの国かの国の実体経済の成果を掠め取っていく国境を超えた競演の単一の世界が形成されていることである。
 かつてのように金融資本が自己を特定の産業資本に固く結合し、排他的な企業集団を形成・強化し、国家との癒着を深め、国家による世界の領土的分割に深く依存した時代ではなくなった。富豪達の国境を超えた投機ゲームの世界が発達し、経済活動全体に対する支配的な規定力を獲得しつつある。それと共に伝統的な産業資本・企業集団・国家との関係はいずれも相対化されてきている。この相対化は、世界の富豪達が資産の増殖を競うゲームセンター的賭博場を最上階にもつ国際寡占体制が形成されてきていることの別の側面なのである。
 第二に、世界(各国)市場において、一つのグローバル企業が制覇しているか、国籍の異なる少数のグローバル企業が競合している状況に到達していることである。
 20世紀前半を典型とする世界分割の時代には、基本的には分割した勢力圏の枠内で、同じ国籍の独占的大企業同士が寡占体制を形成していた。しかし今日ではそうした独占的大企業も、国際的な大競争の渦中に叩き込まれ、少なからぬ部分が巨大外国資本の傘下に取り込まれつつある。今日の各国における寡占体制は、各産業領域において、国籍の異なる多国籍企業同士によって形成されるようになってきている。
 またかつて帝国主義国の金融独占資本は、先端産業から資源・エネルギー産業まで基本的に全ての産業を傘下に収め、他の帝国主義国の金融独占資本と市場再分割戦を展開した。しかし今日では、米国の金融独占資本といえども、全ての産業で「武装」している訳ではない。各帝国主義国の金融独占資本は、発達する国際分業において、ますますその一定産業領域に主導的な支配力を保持するに過ぎなくなっている。市場支配力は、国際的な寡占体制によってのみ確保されるのである。
 また、情報・通信産業でのように、「世界標準」が極めて重要な要素になってきている中で、「世界標準」となった製品をもつある国の企業が、世界(各国)市場において完全な独占的地位を築くという事態も生じている。
 こうして、多国籍企業の国境・国籍を超えた寡占体制が発達しているのである。 
 第三に、金融独占資本の多国籍展開と国際寡占体制が、地域経済圏の発達を副次的に組み込んだ形で、発達していることである。
 EUやNAFTAに典型的な今日の地域経済圏は、超大国と国際反革命同盟体制の下で金融独占資本が多国籍展開し国際寡占体制を発達させていく時代状況のなかで、金融独占資本が国際的な主導権争いを有利に展開する為に形成してきているものである。したがってそこでの地域経済圏の形成は、世界分割の時代へと歴史を後戻りさせる動きにはなりえはない。地域経済圏の形成は、金融独占資本の多国籍展開を促進してきたし、その発達は、世界の金融独占資本にとって金融的略奪の対象の価値が増大することでもある。とはいえ地域的経済圏の形成は、金融独占資本の世界市場再分割競争的側面の端的な表現であり、ブロック化・世界市場の破壊へと向かう政治潮流の基盤ともなるものである。
 金融独占資本の多国籍展開と国際寡占体制の発達は、地域経済圏の発達との関係では、相互促進的であると共に矛盾拡大的でもある。それは、超大国と国際反革命同盟体制を機能不全へと導く大きな要因の一つである。
 
(4) 投機経済の肥大化
   
 今日の投機経済の肥大化は、70年代初頭の金・ドル交換停止―変動為替相場制への移行と世界同時不況とに端を発するものである。
 時の米国政府による金・ドル交換停止―変動為替相場制への移行は、為替の変動に伴って自動的に資産価値が増大したり目減りする時代に入ったことを意味した。それは、資本にとって、為替の変動に伴う損失を回避する対策が不断に要請されるということであるが、同時に、濡れ手に粟の投機機会が提供されることでもあった。金融工学を使ってこれらの損失回避対策や投機機会を商品化し売り込む「ヘッジファンド」が(米国に)簇生した。もちろんこの事態を最も積極的に利用できる立場にあったのは、多国籍展開した金融独占資本(当時はほとんど米国系)に他ならない。
 石油ショックを契機に勃発した世界同時不況は、全般的な過剰生産を明るみに引き出し、膨大な貨幣資本を遊休化した。この膨大な遊休貨幣資本が、投機の世界に投げ込まれた。投機経済は肥大化の道に足を踏み入れたのだった。
 投機経済は、肥大化し、実体経済の規模をはるかに凌駕するようになる。
 金融は一時代前、銀行が企業集団の中で支配的地位を占め、株式会社制度が発達し一般化するなど、その社会的地位を飛躍的に高めた。とはいえそれは、軽工業(消費手段生産部門の機械制大工業化)の時代から重化学工業(生産手段生産部門の機械制大工業化)の時代への移行に伴い、設備投資に個人資本ではとてもまかなえない莫大な資金が求められるようになった為であり、産業の発達に応える展開であった。したがって「銀行資本と産業資本の融合」が当時の金融の在り方の一つの特徴であった。
 しかし今日の金融は、主として産業の発達が求める資金需要に応える形で展開しているのではなく、反対に、全般的な過剰生産とそれに続く産業の成熟段階への移行(後述)とによって、再生産過程からの遊離した貨幣資本が投機機会を求めて駆け巡る側面を前面化する形で展開しているのである。実体経済は、ますます成果を掠め取る一つの対象でしかなくなる。金融は、実体経済から自己を相対化し、富豪達が資産の増殖を競う賭博ゲームへと転変する。富豪達は、賭博ゲームへのアクセスの道を万人に開き、投機熱を煽り、投機市場に投げ込まれる無数の小さな資産を掠め取り、実体経済の拡大をはるかに上回る速度で自己の資産を増殖している。
 今日、貨幣資本の投機的運動が資本主義経済の支配的要素となりつつ実体経済からますます乖離していることは、世界貨幣の章標貨幣化(電子マネーの場合、貨幣としての実体が完全に消失し数字に純化)と合わせて、貨幣進化の最高段階を示すものであると言ってよいだろう。そしてそれは同時に、貨幣の運動が社会との対立を深め、社会を腐敗させ、ついには社会によって廃絶されて電子化された経済計算ネットワークだけを残す時代の到来を予感させるものである。
 
(5) 社会主義革命の物質的その他の諸条件の成熟

 70年代初頭の世界同時不況は、社会主義革命の物質的その他の諸条件の成熟という視点から見て、時代を画する転回点であった。
 29年恐慌を契機に勃興した自動車産業を軸とする耐久消費財産業、この産業をリード産業としてきた産業全体が、70年代初頭に過剰生産に陥った。国家のケインズ主義的財政支出は、それまでは、耐久消費財産業における資本蓄積を支え、経済全体の景気の浮揚に有効であったが、以降その有効性が失われていく。
 ただし誤解の無いように付言しておけば、「不況」は世界同時だったが、産業構造の転換期に入った時機が世界同時だった訳ではない。上記のことが完全に当てはまるのは、米国においてである。日本の場合は、世界同時不況を乗り切る際に、耐久消費財(自動車)産業が成熟(−衰退)産業化する過程に入った米国への集中豪雨的輸出と「日本列島改造計画」的なケインズ主義的大規模財政出動とによって自国の耐久消費財(自動車)産業をさらに発展させた。だがその為に、米国のブルジョアジーからの厳しい批判に晒される。日本の資本は、こうした特殊な経緯を辿って世界の流れに引き込まれていく。すなわち、80年代に経済の国際化を急進展させ、90年代に耐久消費財(自動車)産業が整理・再編の波に洗われる。こうして20世紀の最後の30年間の間に、耐久消費財(自動車)産業はリード産業の地位を退いたのだった。
 新しいリード産業の地位は、情報・通信産業が占めつつある。この産業は、米帝を推進軸に全世界に押し広げられた新自由主義政策とその下で全面化した帝国主義諸国金融独占資本の多国籍展開とに導かれ、国際分業の発達とともに勃興し、20世紀の最後の10年間にリード産業の地位をまず米国において確立した。21世紀の初頭には、帝国主義諸国を中心とするグローバル経済のリード産業になろうとしている。
 今日の情報・通信産業の勃興は、イギリスの産業革命に端を発し数十年の間隔で継起的に資本主義社会に活力を吹き込んできた諸「新産業」の勃興と同列には扱えない。それは、以下のような一連の世界史的地殻変動の一つであり、それらの冒頭に語るべき出来事として位置しているのである。
 第一は、これまでの「新産業」の勃興が、人間の筋肉労働を代替する装置である「機械」の発達だったのに対して、今日のそれは、人間の頭脳・神経労働を代替する装置であるコンピューター・ネットワークの発達だということである。労働手段は、コンピューター・ネットワークの発達によって、人間労働を(精神労働も筋肉労働も)トータルに代替する成熟段階に入ったのである。
 これは、人々に生産と生活の仕方の根本的転換を迫るものであった。
 機械は、労働を分割・無内容化するとともに、労働から精神的機能を分離し、分割・無内容化した現場労働を指揮・統制する官僚機構(および研究・開発部門)を肥大化させ、精神労働と筋肉労働の対立を拡大した(1917年10月革命後のロシアもこの現実から自由ではなかった)。今日発達しつつあるコンピューター・ネットワークは、生産・生活現場の人々を直接・双方向に結び付け、官僚機構を不要化し、分業(とりわけ精神労働と筋肉労働)への隷属の克服を人々に要求するものである。
 また労働手段の成熟(=産業の成熟)は、社会(人々)が生存の為の労働から自己を解放しうるほどに(労働を社会的義務から人々の第一の欲求に転化しうるほどに)物的生産力が高度に発達したことを意味しているのである。
 第二は、機械が発達途上の時代には、社会の支配的目的(欲求)が労働手段の革新と拡大再生産を推進軸とする物的豊かさの達成にあったが、機械制大工業が発達し切った(生活手段生産部門・生産手段生産部門に続いて耐久消費財生産部門も成熟した)段階に至ることによって、物的生産力の更なる拡大よりも人間の自由な発展(そのために不可欠な自然環境の保護と改善)を実現する方向に社会(人々)の目的(欲求)がシフトし始めたことである。この新たに産出され始めた欲求は、コンピューター・ネットワークの発達と労働手段の成熟(=産業成熟)を促し、また逆に、労働手段の成熟は新たな欲求を拡大再生産するのである。
 第三は、産業革命に始まる機械制大工業の時代には、労働手段の革新と拡大再生産への突進が社会の支配的目的(欲求)となり、それが使い捨て労働力の有り余る実存を要求し、既存の人口部分の不断の膨大なプロレタリア化だけでなく総人口の爆発的増大をも導いた訳だが、各人(経済的意味では労働力)の自由な発展が社会(人々)の目的(欲求)となる時代においては、人口爆発は終焉する、そのような時代への世界史的移行が始まったということである。
 第四は、機械制大工業の発展した時代には、資本主義が拡大再生産され(資本主義以前の非資本主義的経済諸制度が侵食され)、それとともに市場も拡大したが、コンピューター・ネットワークが発達し・労働手段が成熟段階に入り・物的生産力が高度化する時代、人間の自由な発展が社会(人々)の目的(欲求)となる時代、人口爆発の時代が終焉する時代には、一方で、経済的諸要素(労働力・労働手段・労働対象・労働生産物)を生産・生活現場の人々が直接・双方向に配分調整することが物質的には可能になり、他方で、贈与経済が「情報」「福祉」「環境」という最先端領域から拡大し、市場経済を侵食していく。今日の市場経済全盛の内に、その没落の芽が内包され成長し始めているのである。
 振り返れば、資本主義の下で機械制大工業が発展した時代は、資本の専制支配が打ち固められ、それが拡大再生産された時代であった。
 たしかに資本主義の下での機械制大工業の発展は、無産階級の数と結束と反抗の増大を伴った。二大階級の対立・闘争の拡大は、プロレタリア階級独裁の樹立へと至り、共産主義の時代を開くと考えられた。しかし、ロシアをはじめ複数の国での革命の経験はプロレタリア国家の樹立と生産手段の国有化にまでは到達したが、官僚制国家資本主義の社会へ変質していくものとなった。20世紀におけるロシア革命に代表されるプロレタリア国家の樹立は、輝かしい成果であったが、貴重な教訓を残しながら、最終的には新しい社会の物質的その他の諸条件の未成熟という限界に突き当たり、はじき返されたのだった。
 今日われわれは、高次の社会の諸条件が成熟していく時代の中に在る。だがそのことは、ブルジョア階級がすすんで歴史の舞台から退くことを意味しない。ブルジョア階級は、高次の社会の諸条件を自己の諸制度の内に抱え込むことによって、社会を存続の危機に陥れつつある。
 地球環境破壊による人類絶滅。大失業時代への突入による大量的な生活破綻・肉体的摩滅。管理と監視の飛躍的強化による精神破壊。家族・学校など既存の労働力再生産システムの崩壊による次世代の成長環境危機。国際寡占体制の確立と投機経済の膨張による社会の腐敗。「南」から「北」への人口の大移動による国家・国籍を基礎にした国際・国内支配秩序の解体。社会はいま、あらゆる方面で進行する存続の危機の中に在る。
 したがって、資本主義を廃絶するための今日の運動は、社会を存続の危機から救い出し新たな社会関係を構築していく活動と固く結びついた形で発展することになるだろう。
 ここで触れた新たな社会の物質的その他の諸条件の成熟、それらと資本主義との葛藤、新たな基盤の上で展開されるプロレタリアートの階級闘争については、次ぎの機会に詳論する。ここでは、超大国の誕生と国際反革命同盟体制の形成、その下での金融独占資本の多国籍展開・国際寡占体制の確立・投機経済の肥大化につづいて、現代帝国主義論の結語として、高次の社会の物質的その他の諸条件の成熟が確認されればよい。
 
(6) レーニン帝国主義論を超えて

                        @ レーニン帝国主義論の総括

 レーニン帝国主義論は、19世紀末・20世紀初頭の資本主義世界の政治的・経済的上部構造を解明したものである。
 当時、経済的土台においては、18世紀半ばから19世紀半ばにかけての消費手段生産部門の機械制大工業化の時代から、生産手段生産部門の機械制大工業化の時代に重心が移行していた。この移行は、マルクスが資本論で解明した機械制大工業の時代の資本による労働編成のあり方を、基本のところで変えるものではなく、それを全面化し徹底化するものであった。
 時代を画する変化は、この移行を基底にして、「生産の集積と独占」「銀行とその新しい役割」「金融資本と金融寡頭制」「資本輸出」「資本家団体のあいだでの世界の分割」「列強の間での世界の分割」(レーニン帝国主義論の1章から6章までの目次を引用)というように政治的・経済的上部構造で展開していく。そしてここから生じる、植民地からの利潤のおこぼれによる労働者上層の買収(労働貴族の育成)、排外主義による国民統合、侵略と戦争・反動と暴力などに対する批判的態度が、帝国主義諸国の労働者階級にとって時代的な政治問題となったのである。
 レーニン帝国主義論は、当時の時代を基本的に正しく捉えていたと言ってよいだろう。しかしそこには、あらゆる理論につきまとう歴史的限界も刻印されていた。
 それは、当時の資本主義的帝国主義を「資本主義の最高の発展段階」「死滅しつつある資本主義」とした点である。
 プロレタリアートの階級闘争を国家権力の奪取まで導くという実践的立場からすれば、その主張は必要なことであった。権力を奪取して、やっていけるかどうかに関わる問題だからである。またたしかに、資本論が理論的に対象化した時代と比較して、資本主義は段階を画する発展を遂げ、社会主義革命の条件が一段と成熟してはいた。
 しかし、「一つの社会構成は、それが十分包容しうる生産諸力がすべて発展しきるまでは、決して没落しうるものではなく、新しい、さらに高度の生産関係は、その物質的存在条件が古い社会の体内で孵化されおわるまでは、決して古いものにとって代わることはない」(「経済学批判 序言」マルクス、マルクス・エンゲルス8巻選集 大月書店 4巻P41)とする見地に立って21世紀初頭の今日から捉え返すとき、レーニン帝国主義論に対象化された時代は、「資本主義の最高の発展段階」「死滅しつつある資本主義」と論断できるレベルになかったと言わざるを得ないだろう。それは、次の二つの点において確認しておく必要がある。
 一つは、レーニン帝国主義論において「資本主義の最高の発展段階」の指標として掲げられた「独占」「金融寡頭制」「資本輸出」が、同じく指標として掲げられた「世界分割」による勢力圏(帝国主義本国―植民地)の枠に基本的に限度づけられたものだということである。したがってこの時代の資本主義の発展圧力は、勢力圏という枠組の拡張、世界再分割のための帝国主義戦争へと不可避に帰結した。
 レーニンは、この20世紀初頭の時代のこの現実から目をそらし、「国際帝国主義的」あるいは「超帝国主義的」同盟による世界平和という幻想を煽ったカウツキーを厳しく批判した。カウツキーは、帝国主義諸列強の「『国際帝国主義的』あるいは『超帝国主義的』同盟」とその下での「国際的に統合された金融資本による世界の共同搾取」の可能性を論じたのである。それは、帝国主義戦争へと至る「現存する諸矛盾の根底から人々の注意をそらせようとする、もっとも反動的な目的に役立つもの」であった。
 レーニンは、その帝国主義論の中で「もし純経済的見地を『純粋の』抽象と解するならば、言いうるすべてのことは、結局、発展は独占に向かってすすんでおり、したがって一個の世界独占にむかって、一個の世界的トラストにむかってすすんでいる、という命題に帰着するであろう。この命題は争う余地がない」と語っている。ただ彼は、その命題は、20世紀初頭の現実、世界の領土的分割という現実に限度づけられた独占資本主義の発展の時代においては、「死んだ抽象」以外の何物でもないとしたのである。
 だがそれから一世紀を経た21世紀初頭の今日、かつての「死んだ抽象」は「生きた具体」に転化している。この転化は、帝国主義世界大戦の中から他の帝国主義諸国をも一定統制・支配する超大国が誕生し、植民地支配が転覆されて世界の領土的分割の時代に終止符が打たれ、国際反革命同盟体制が形成されたことを条件に生じた。超大国と国際反革命同盟体制の下で、金融独占資本がグローバルな規模で発展する時代に入ったということである。生産の社会化と取得の私的性格の矛盾が最高度に展開しきる時代が、今ここに到来したのである。
 二つは、レーニン帝国主義論が扱わなかった、扱えなかった領域の問題である。
 帝国主義諸国の金融独占資本の多国籍展開(相互浸透)は、以下のような経済的下部構造の地殻変動へと連動した。すなわち、国際分業を発達と情報・通信産業の勃興、労働手段の成熟と物的生産力の高度の実現、更なる物的豊かさを求めることから人間の自由な発展(その条件としての自然環境の保護と改善)の実現を求める方向への社会(人々)の目的 (欲求)の変化、人口爆発の収束などである。これらは、社会主義革命の物質的その他の諸条件の根底からの成熟が始まったことを示している。
 レーニンの時代には、これらについて、またこれらと資本主義との葛藤について、語れるはずもなかった。そのようなことが語れるようになるには、一世紀の歴史の変遷が必要だった。
 もっとも、レーニン帝国主義論は、生産の社会化と取得の私的性格の矛盾の展開(しかも「世界分割」の時代に限度付けられていた)からのみ、「資本主義の最高の発展段階」「死滅しつつある資本主義」と論断しており、経済的下部構造の領域に関しては資本論に依拠し、資本論を前提にしていた。したがって、経済的下部構造の根底からの変動を理論的に把握する作業は、レーニン帝国主義論に止まらず、資本論をも総括することを含むことになる。それは別の機会に譲りたい。
 
                  A 第二次世界大戦後の帝国主義論を巡る理論的誤謬
 
 ここでいう理論的誤謬の時期は、基本的に第二次世界大戦が終結した1945年から世界同時不況がおこった70年代初頭のまでの時期である。しかし、その後の現実世界の展開の中で理論的建て直しの作業が部分的に蓄積されつつも、全体的にはソ連が崩壊した90年代初頭まで理論的誤謬は生きつづけたのだった。
 第二次世界大戦後の帝国主義・独占資本主義に関する議論は、おおむね「超大国と国際反革命同盟体制」、「国家独占資本主義」論、「反帝民族解放・民主主義革命から社会主義革命への連続的発展」の理論を巡って展開されたが、当時の段階ではそれ自身において決着がつくことはなかった。決着がつかなかったのは、現代帝国主義の発展の過渡性に制約され、レーニン帝国主義論をベースにした現実把握に無理(一面性の誤り)があるにもかかわらず、現代帝国主義論の内に無理を止揚できなかったことの帰結であった。
 「超大国と国際反革命同盟体制」に関する議論では、レーニン帝国主義論をベースにした現実把握の無理(一面性)が次のような形態をとって現れた。
 レーニン帝国主義論では、国際関係は、帝国主義国と帝国主義国、および、帝国主義国と植民地の関係で構成されている。前者の関係は、不可避に帝国主義戦争へと至り、同盟は一時的なものとされ、後者の関係は支配従属関係である。
 レーニン帝国主義論をベースにすると、国際反革命同盟体制における超大国と他の帝国主義国との関係は、超大国による一定の統制・支配の要素を認めると、帝国主義国と植民地の関係に近いものとして扱われ、帝国主義国と帝国主義国の関係として確認すると、一定の支配・統制はありえないこととして認識の外に排除される。このことは、超大国以外の帝国主義諸国の革命運動において、反米民族解放・民主主義革命路線と自国帝国主義打倒・社会主義革命路線という政治路線上の分裂(あるいは両路線を折衷したバリエーション)を生んだ。
 レーニン帝国主義論をベースにすると、帝国主義国と旧植民地独立国との関係は、帝国主義国と植民地の関係に置き換えられて扱われる。このことは、旧植民地独立国の国家が、国際反革命同盟体制に従属的に組み込まれつつ、当該国の搾取階級の独自的利害を反映して行動していることを無視する態度として現れた。この国家は、あくまで帝国主義の傀儡であった。
 「国家独占資本主義」論は、レーニン帝国主義論が理論的に対象化した19世紀末・20世紀初頭の独占資本主義に対して、ケインズ主義政策によって特徴づけられる20世紀半ばの独占資本主義を「国家独占資本主義」と称し、新たな発展段階と捉える主張であった。
 時代の新しい要素は、次の点にあった。
 変化の起動力は、経済的下部構造における自動車産業を軸とする耐久消費財産業の勃興であり、それと関連した労働力再生産費の大幅な上昇であった。
 生産手段生産部門の機械制大工業化を基礎に耐久消費財産業がリード産業として発展するようになると、資本は、構想と実行の分離・労働の分割と無内容化という機械の発達に伴う傾向を堪え難いまでに極限化させ、同時に、労働者を懐柔して生産を維持すると共に耐久消費財市場を形成・確保する必要から賃金水準を引き上げる、フォーディズムと呼ばれる新たな労働編成を確立した。大量生産だけでなく、大量消費、大量廃棄が前面に出るようになる。そうした経済的下部構造の変動を支えるために、政治的上部構造において、ケインズ主義的国家財政支出(高速道路建設などの公共事業、揺り篭から墓場までの福祉)が飛躍的に膨張した。国家の役割が増大し、その影響が社会生活の隅々にまで及んだ。
 こうした国家の社会的役割の増大に幻惑され、国政議会の多数を占めて国家を掌握すれば、金融独占資本の支配を覆していくことができるかのように論ずる傾向も現れたのだった。
 「国家独占資本主義」論は、こうした国家の社会的役割の増大という事態を捉え、国家と金融独占資本の癒着を強調し、生産の社会化と取得の私的性格の矛盾が一段と展開したものとして独占資本主義段階から国家独占資本主義段階への移行を主張したものである。しかし、国家の社会的役割の増大や国家と金融独占資本の癒着は、独占資本主義段階においても言えることであり、段階を画する指標として耐えうるものではなかった。それに「国家独占資本主議」論は、生産の社会化と取得の私的性格の矛盾の展開レベルとしては、生産の社会化が本国と勢力圏の枠に制約されたレーニン帝国主義論が対象化した時代と同じレベルを前提にしており、それが次なるグローバル化したレベルを語ったものでない以上、新段階を主張し得るはずもなかったのである。
 また、「国家独占資本主義」時代の経済的下部構造では、依然、機械制大工業が発達途上にあり、労働手段の発達は、構想と実行の分離・労働の分割と無内容化という分業への人間の隷属(資本の専制支配)を強化する方向に依然強く作用していた。社会の大勢も、大量生産・大量消費・大量廃棄のサイクルに取り込まれて物的欲求を肥大化していき、資本(労働手段)の拡大再生産を後押しした。労働者階級の抵抗も、その枠内に包摂された。この段階ではまだ、生産諸力と生産関係が全面的・本質的な葛藤過程には入っていない。
 しかし、「国家独占資本主義」論が、真の意味で「資本主義の最高の発展段階」「死滅しつつある資本主義」を目の当たりにする21世紀初頭の時代への過渡期を反映していたことは疑いない。
 国際的なケインズ主義的財政出動の典型であるマーシャルプランは、西欧の復興を支え、アメリカ金融独占資本の多国籍展開に道を開いた。ケインズ主義政策に支えられた・耐久消費財産業の発達を推進軸とする・大量生産・大量消費・大量廃棄経済の爛熟は、地球環境破壊をもたらす程のレベルに至る中で、更なる物的豊かさの追求から人間の自由な発展の実現(その条件である自然環境の保護と改善を含む)への人々の欲求の変動をもたらした。耐久消費財産業の発達は、それと連動したサービス産業の発達と共に、女性の社会的進出を促し、そのことも労働力再生産(広く言えば人間の発展)領域の問題を社会問題の前面に押し出す要因となった。そして、各人の自由な発展の実現にとって必要不可欠な物質的条件である情報・通信ネットワークの発達も、国家(米国)の大規模な研究開発(軍事・宇宙)の中で、この時期に準備されたのである。
 「反帝民族解放・民主主義革命から社会主義革命への連続的発展」の理論は、時代が社会主義世界革命の過渡期にあり、そのような時代においては社会主義革命の物質的その他の諸条件が成熟していない諸国においても、プロレタリアートによる国家権力の掌握をテコにすれば社会主義的変革は可能だとする理論であり、「社会主義陣営」の援助があれば、社会主義革命の諸条件が極めて未熟な旧植民地諸国においても社会主義的変革の道が開かれるとする理論である。
 この理論は、植民地諸国における政治的独立と反帝民族主義の高揚とを背景とした国有経済化の高波に押し上げられた理論であった。しかしそれは、経済的発展を求めれば市場経済化の道を歩まざるを得ないという現実と不断に衝突した。
 この理論は、70年代初頭以降の現実の中で、次第に破産が明らかになっていくのである。
 すなわち第三世界のほとんどの諸国は、「社会主義」を標榜する諸国を含めて、経済発展を求めて市場経済化の道を歩み、帝国主義諸国に発するグローバル資本主義の発展・爛熟の過程にリンクしていく。またグローバル資本主義の発達・爛熟過程に抗し、それからの離脱と鎖国的共産主義の道を目指したいくつかの諸国は、官僚制国家資本主義(あるいは古い共同体社会への後退)、貧困、専制政治、という道に一段と深くはまり込み、悲惨な結果を介してグローバル資本主義の発展・爛熟過程にリンクしていくことになる。
 とはいえ「反帝民族解放・民主主義革命から社会主義革命への連続的発展」の理論の意義は、決して小さくない。それは何よりも、プロレタリア権力を維持して社会主義革命を目指す目的意識的な活動を励ましたこと、および、そこにおいて多くの貴重な経験を残したことである。
 尚、ソ連社会帝国主義・官僚ブルジョアジーは、自己の権益を守る立場から、この時期の理論的誤謬を促進している。
 彼らは、「超大国と国際反革命同盟体制」問題では、米国を孤立させて自己の安泰を確保する見地から、米国以外の西側帝国主義諸国においては反米民族主義の煽動を支持した。彼らは、「ケインズ主義」問題では、レーニン帝国主義論を支配のイデオロギーとして聖化しつづける見地から、「国家独占資本主義」を新たな発展段階とする態度に反対した。
 彼らは、「反帝民族解放・民主主義革命から社会主義革命への連続的発展」の問題では、「国有化」経済の世界的拡大が自己(官僚ブルジョアジー)の地位の正当性を高め、自己の勢力圏を拡張することと固く結びついていたことから、この理論を擁護していた。
  
B 現代帝国主義に対する革命的批判へ

 ソ連の崩壊によって、超大国と国際反革命同盟体制として形成されてきた西側の国際体制が世界支配体制となった。そしてその下で金融独占資本が、真にグロ−バルな投機と搾取の体系を発達させ、共産主義世界革命の物質的その他の諸条件が成熟しつつある。この現実が、戦後の理論的誤謬の克服を条件づけている。
 第二次世界大戦後の帝国主義諸国の国際体制を、反ソ反共のための一時的な同盟関係に過ぎないとしてきた見解は、ソ連崩壊後にあっても西側の国際体制が維持・拡張されたことによって、その事実の前に破綻した。
 超大国と他の帝国主義諸国の関係を帝国主義と植民地の関係になぞらえる見解は、超大国の他の帝国主義諸国に対する一定の統制・支配という要素を組み込んだ国際反革命同盟体制が、帝国主義諸国の金融独占資本の多国籍展開と国際寡占体制の形成という資本独占のこれ以上ない高度の発展の政治的条件であることが明らかになることによって、その事実の前に破綻した。
 「国家独占資本主義」を新たな発展段階とする説は、依然「独占資本主義」段階だとする説もろとも、「グローバル資本主義」の時代となることによって、その現実の前に色褪せた。
 反帝民族解放・民主主義革命から社会主義革命への連続的発展(資本の世界システムからの離脱と鎖国的共産主義の道)という見解は、その道を突き進んだポルポト派などの破産によって、また旧植民地独立諸国の国有化経済がおしなべて市場開放・市場経済化へと転換し多国籍企業の発達にリンクしたことによって、旧植民地独立諸国の国家がおしなべて国際反革命同盟体制に従属的に組み込まれることによって、そうした現実の前にすっかり生命力を失った。
 われわれに問われているのは、超大国と国際反革命同盟体制に対する正しい構えの確立である。すなわち、「藩」の独立(反米・反グローバリズム)という路線と「藩」の革命(社会主義革命)という路線を、「幕藩体制」を打倒する革命(わが国においては日帝打倒・米帝一掃・社会主義革命)の路線に『止揚』することである。     
                               (以上)