幕藩権力の土地政策
                  堀込 純一

        目  次
はじめに  P.2
Ⅰ 戦時動員体制から平時の民政重視へ  P.3
 (1)大名改易の急減  P.4
 (2)島原の乱―凶作下での苛政  P.6
  (ⅰ)幕府のキリシタン弾圧と海禁政策  P.6
  (ⅱ)収奪強化で逃亡や身売りの続出  P.8
   《補論 五人組について》  P.11
  (ⅲ)島原・天草地方の苛政に対し農民反乱  P.14
 (3)寛永の大飢饉  P.15
  (ⅰ)飢饉に直面した幕府の対応  P.17
  (ⅱ)飢饉の最中での百姓たちの抵抗  P.18
  (ⅲ)あふれる飢人と人返し  P.23
  (ⅳ)次々と繰り出される幕府の法令  P.26
Ⅱ 田畑永代売買禁止を明確化  P.31
 (1)田畑永代売買禁止を発令  P.31
 (2)田畑永代売買禁止令の狙い  P.37
(3)諸大名の土地売買禁止令  P.38
Ⅲ 検地の厳正化による小農保護  P.41
  《補論 戦国大名の検地と近世の検地》  P.47
Ⅳ 分地制限令  P.51
 (1)質入れ地の所持権が不明化  P.51
 (2)分家続出で分地制限令  P.52
Ⅴ 近世土地政策の転換へ踏み込む綱吉治政 P.55
 (1)従来の土地政策を遵守する前半期  P.55
  (ⅰ)あくまでも質流れを認めず  P.55
  (ⅱ)厳正化・緻密化する検地条目  P.57
 (2)土地政策の転換を進める後半期  P.65
  (ⅰ)幕府財政の危機が転換を促す一因  P.66
  (ⅱ)質流れの現状を追認し土地政策を転換  P.67
  (ⅲ)小作権の高まり  P.74
  (ⅳ)広まる質流れの容認  P.75
   《補論 江戸時代の紛争解決》  P.76
  (ⅴ)実質的に狭まる土地請返し請求権  P.77
    請返し請求期限の制限/請返し請求権者の制限
Ⅵ 流地禁止令とその撤回  P.82
 (1)流地禁止令の発布  P.82
  《補論 町人的所持権の売買》  P.84
 (2)農民の地主への激しい攻撃  P.87
   村山地方の「質地騒動」/頸城地方の「質地騒動」
 (3)短命に終わった流地禁止令  P.90
 (4)再燃する「質地騒動」  P.92
 (5)流地禁止令撤回後の細部の処理規定  P.93
Ⅶ 小作問題の処理規定と田畑永代売買禁止令の緩和  P.96
 (1)小作料などの処理規定  P.96
 (2)永代売買禁止令の形骸化  P.99
終わりに  P.100



はじめに

 日本の封建制の特異性を国際比較でみると、ただちに思い浮かぶのは次の二点である。
 一つは、中国で生まれた律令制に強く影響された東アジアの国々で、日本のみが封建制を生みだしたということである。結論的に言うと、日本が中央集権制国家を維持できなかった最大の理由は、整備された官僚機構を生産・再生産できなかったからである。
 もう一つは、西欧で封建制が生み出された事情と、日本のそれとは大きく異なる点である。ローマ帝国がゲルマン諸民族の侵入で滅ぼされた後、西欧では自然発生的に封建制が誕生した。そこでは、受け継ぐことができたローマ帝国の国制には領域国家の国制がなかったからである。都市国家の伝統を継承したローマ帝国は、いうなれば都市による農村支配をベースとしており、中国のように皇帝支配下の官僚機構による領域国家の統一・支配の制度がなかったのである。(東ローマ帝国は、集権化、専制化の道に進む)
 これに対し、日本では古代律令制国家が形骸化する中で、荘園制の発展と、公領と荘園制の融合した荘園公領制で古代国家は延命した。この荘園公領制の下で、日本の封建制は複雑な過程を通して、形成・発展するのである。 
 10~13世紀頃の荘園では、一般的に本家(院・皇族・摂関家・大寺社など)―領家(中流以下の貴族や一般寺社)―荘官(荘園を管理する預所・下司・公文など)―名主(○○名と称された徴税単位の責任者)という重層的な土地所有によって構成されていた。つまり、一つの土地に複数の収奪者が群がり、しかもそれは本家職―領家職――諸荘官職―名主職などの重層的な官職位階で序列化された職(しき)の体系と結合していた。
 荘官と名主は、経済的には同一の階層に属していたが、委任された徴税権の範囲や荘園管理能力などの大小で区別された。そして、荘官や名主の中から主に在地領主が形成され、そこから武士階級が輩出していった。
 荘園公領制は、各地に勢力を延ばした武家勢力(私的主従制を基本とした)によって、次第に浸食されていった。それは、関東御領(荘園)と関東御分国(知行国)を拠点とした鎌倉政権の勢力拡大や、その後の室町時代の長い過程を通して、荘園制を駆逐し、封建制を盤石なものとした。天皇家・摂関家・大寺社などの荘園は、鎌倉時代末期から南北朝期に、つぎつぎと減少し、やがて膝下の所領を残すだけとなった。だがそれも、室町時代には変質・衰退していった。
 中世後期には、自力救済の世界が広がり、地侍や有力百姓たちによる惣村、有力商人たちによる「自治都市」が拡大する。これに対し、戦国大名が力をつけて、地侍層を糾合し、やがて互いで覇権闘争を繰り広げ、「天下一統」に乗り出す。
 近世封建制の登場は、「下剋上」の基盤を解体する目的で兵農分離制を全国に普及させ、士農の間の身分を厳格にした新たな身分的所有制を作りだした。
 それは支配身分の上級領有権と被支配身分の下級所持権に大別される。だが、支配身分の上級領有権の内部でも、領主的領有権と家士的領有権に分れ、被支配身分の下級所持権の内部でも百姓的所持権、町人的所持権の区別があり、さらにそれらと別に「人外」と差別された部落民の所持権が存在した。
 身分で秩序化された近世所有制は、中世の荘園制的所有制と比較し、はるかに簡素化されたが、しかし、それでもなお重層的な階層性を払しょくできていない。江戸幕府は、近世の所有と本百姓体制を維持・再生産するために、試行錯誤しながらその土地政策を展開してきた。しかし、それは時代の経過とともに矛盾を深め、地主制を容認せざるを得なくなる。地主・小作関係の広がりは、近世封建制の矛盾が生み出したものであり、新たな時代を模索せざるを得なくしたのである。以下は、幕藩権力とりわけ幕府の土地政策を中心に、その変遷を追究するものである。

Ⅰ 戦時動員体制から平時の民政重視へ

 1600(慶長5)年9月、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、徳川幕府樹立への大きな足がかりを得た。その後、1614(慶長19)年10月の大坂冬の陣、翌1615(慶長20)年5月の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川幕府の権力掌握は確実なものとなる。しかし、徳川幕府の基盤が盤石なものになり、幕藩権力が戦時動員体制から平時の民政重視へと切り替わるには、将軍三代の期間が必要であった。

(1)大名改易の急減
 徳川幕府の諸大名に対する支配確立には、第一に大名に対する軍役、第二に大名取潰し、第三に大名領地の転封などがあった。
 第一の軍役制度は、大坂の陣いらい大きな戦争(支配階級間の)はなくなり、軍役の負担基準も多少は減少している。
 辻達也著『日本の歴史』13 江戸開府(中央公論社 1974年)によると、「元和(*1615~1624年)・寛永(*1624~1644年)・慶安(*1648~1652年)とそれぞれ規則の記しかたが多少違っているので完全に比較することはできないが、元和と寛永とを比べてみると、寛永のほうが武器の負担が多少減っている。例えば一万石についてみると、鉄砲二十・弓十・旗三は同じであるが、元和の槍五十が寛永には三十、また騎馬の武士十四人が十人に減っている。/寛永と慶安では、武器は同じであるが、総人数では慶安のほうが多少減っている。寛永で総人数が示されているのは二千石以下であるが、二千石につき寛永では四十三人となっているのに対し、慶安は三十八人と定められている。このように元和から寛永・慶安へと、少しずつは軽減されている。」(P320~321)のであった。
 大ざっぱにいうと、関ヶ原や大坂冬の陣では、100石に付き3人であったのが、大坂夏の陣以降では、100石に付き2人ほどになったのである。1)
 第三の転封では、「元和(*1615~1624年)の終わりごろにはだいたい外様大名と親藩・譜代大名の配置は固まった。幕府直轄領は関東を主とし、あとは各地方に分散した。江戸幕府は京都・大坂・奈良・伏見・大津・伊勢山田・長崎・堺など政治・経済・交通の要地、あるいは佐渡・石見・伊豆などの主要鉱山を直轄領とし、畿内・東海・関東を親藩・譜代で固め、外様大名をその外側におき、しかもその間には譜代を配し、大名の配置ははなはだ巧妙であったといわれる。それは関ヶ原の戦いから元和の末まで二十年以上を要してなしとげたことであった。/これからあと、外様大名はほとんど定着する。譜代大名も、そのなかばはあまり動かなくなる。動くのは老中その他の役職の任免にともなう譜代大名の移動で、その移動の地域もほぼ限定されてくる。その間をぬって、大名の取りつぶしがあったりするたびに、幕府直轄領が徐々に増加した。幕府成立ごろには二百数十万石であった直轄領は、約一世紀後の元禄ごろには四百万石に達する」(辻達也著『日本の歴史』13江戸開府 P.326~327)のであった。(下線は筆者による。以下、同じ。)
 幕府は大大名の配置替えのたびに、家康の子どもたちや譜代大名を政治上重要な地に配置した。すなわち、関ヶ原戦後には江戸と京都の間の地域を一門や譜代で固め、大坂の陣の後には畿内から播磨へかけて譜代大名を進出させた。さらに1619(元和5)年には中国地方へ、1622(元和8)年には奥羽地方へと、外様大名の真っただ中に譜代大名を進出させ、幕府の支配・監視体制を強化したのであった。
 他方、第二の諸大名の取潰しも積極的に推進している。大名が取り潰される原因には、①戦争で敵対した場合、②大名に後継ぎがいない場合、③幕府のとがめを受けた場合―である。 
 辻前掲書によると、①の場合、関ヶ原後には、91家(約600万石)が潰され、大阪の役後には豊臣家65万石が没収され、大坂に内応したとして古田織部正重然(しげなり)が切腹させられ、1万石が没収されている。
 ②の場合、家康・秀忠・家光の三代の間に、57家400万石が後継ぎがいないということで潰されている。主なものみると、親藩・譜代では、1603(慶長8)年の武田信吉(家康の第5子)、1607(慶長12)年の松平忠吉(家康の第4子)、1611(慶長16)年の平岩親吉、1626(寛永3)年の本多忠刻(ただとき *千姫の夫)などである。外様では、1602(慶長7)年の小早川秀秋、1609(慶長14)年の中村忠一(ただかず *伯耆米子17万5千石)、1620(元和6)年の田中忠政(筑後柳河32万5千石)、1627(寛永4)年の蒲生忠郷(会津60万石)、1633(寛永10)年の堀尾忠晴(出雲松江24万石)、1634(寛永11)年の蒲生忠知(ただとも *伊予松山24万石)、1637(寛永14)年の京極忠高(出雲松江26万4千石)などである。
 ③の場合は、幕府のとがめを受けた場合で、具体的な理由をみると、「御家騒動」が多い。それは大名家の内紛を利用して幕府が処分するが、そこでは必ずしも公正な基準に基づかない場合もしばしばみられた。
 幕府が樹立して以来の約半世紀の間に、所領の処分を受けた大名は62家、没収高は600万石を超すといわれる。家中の内紛をキッカケとして廃絶された主な大名家は、1610(慶長15)年の堀忠俊(越後福島45万石)、1618(元和4)年の村上義明(越後村上9万石)・関一正(伯耆黒板5万石)、1622(元和8)年の最上義俊(出羽山形57万石)、1640(寛永17)年の池田輝澄(播磨山崎6万8千石)・生駒高俊(讃岐高松17万石)、1643(寛永20)年の加藤明成(会津42万石)、1648(慶安元)年の古田重恒(石見浜田5万5千石)などである。
 しかし、大名家を取り潰すだけが大名支配の上等政策とは言い切れない。家光が死んだ1651(慶安4)年4月から間もなくして「慶安事件」(由比正雪や丸橋忠弥らの陰謀事件)が同年7月に起こされる。幕府はその善後策を練る中で、"浪人が不穏な計画を企むのは、浪人の生活が苦しいからである。今後は浪人を減らすようにしよう。そのためには大名を無暗に潰してはならない"とした。そして、幕府は50歳以下17歳以上の大名が実子なく死んだ場合、「末期養子(まつごようし)」を認めることした。末期養子とは、本人が息をひきとる際に遺言(ゆいごん)としたという形で、死後、家の者から幕府に願い出る養子である。これにより、後継ぎがなくて断絶となる大名家は急激に減ったと言われる。

注1)石高制は、近世社会の重要な支柱の一つである。それは、諸大名の奉公(軍役・手伝い普請などの)と農民からの年貢収奪の基準となる。前者では、石高知行制によって、諸大名に与える知行地の大きさを石高で表わした。諸大名はその「御恩」の見返りとして奉公を行なうわけだが、その基準も石高(軍役の場合は、与えられた石高に応じて軍士を提供する)となる。後者の場合も、言うまでもなく、年貢の納入高は領主から与えられた村高によって定められた。この高を村役人の采配で、村構成員である名請人の各家々に割り当てて納入させ、それらを領主に納めた(村請制)。

(2)島原の乱―凶作下での苛政
 1637(寛永14)年10月、島原の乱が勃発する。これは幕府のキリスト教弾圧の厳しさと凶作・不作の下での領主の苛政が最大の原因である。原城に立て籠る農民など3万7千人を鎮圧するために、幕府は10万の大軍を動員して攻撃した。この規模は支配階級間の戦争にひけをとらないものであるが、それは明確に被支配階級を弾圧するための支配階級の戦争であった。

(ⅰ)幕府のキリシタン弾圧と海禁政策
 キリスト教禁止問題は、海外貿易とからむ問題である。家康は、当初、貿易のためには多少のキリスト教布教もやむを得ないとしたが、1612(慶長17)年、貿易と宗教との分離を明確に宣言する1)。これ以降、幕府の海禁政策(従来、「鎖国」政策といわれたもの)がつぎつぎと打ち出されて行く。
 第二代将軍秀忠の時代になると、禁教のための貿易制限が始められる。1616(元和2)年8月、幕府は、キリスト教国の商船は長崎と平戸に限って寄港することを認めることした。
 その後、幕府はキリシタンへの弾圧を強める。1619(元和5)年8月、京都四条河原でキリシタンを公開処刑する。1622(元和8)年7月には、ズニガ、フロレンスの両宣教師と平山常陳ら(宣教師を世話した)を長崎で火刑にする。翌8月には、キリシタン55名を長崎で処刑する(いわゆる「大殉教」)。1623(元和9)年10月には、江戸の芝でキリシタンを処刑する。以降、幕府や諸藩で、改宗をこばむキリシタンの処刑がしばしば行なわれる。
 この間の1621(元和7)年に、幕府は、日本人の渡航、武器諭出、海賊行為を禁止する。1623(元和9)年9月には、イギリス人が平戸の商館を閉鎖して日本を退去した。この年、幕府はポルトガル船の来航は認めるが、ポルトガル人の在住、日本人のマニラ渡航、日本船のポルトガル人航海士の雇い入れを禁じるなど、日本人と旧教国人との接触を大きく制限した。
 第三代将軍家光の時代になっても、これまでの態度は変わらず、むしろ貿易制限やキリシタン弾圧は強化された。1624(寛永元)年3月、幕府は、前年薩摩に来航したフィリピン諸島長官(ポルトガル)の使節デ・アヤラに、復交拒絶の回答を行なう。1626(寛永3)年には、平野藤次郎・末次平蔵の朱印船(幕府の許可証がある者は海外に出て貿易することができた)が、台湾で生糸を買い占め、オランダ人と紛争を起こしている。1628(寛永5)年4月、イスパニア艦隊が、メナム(シャム―今日のタイ)河口で朱印船を捕獲したため、幕府はポルトガル貿易を停止した2)。同年6月には、末次船(長崎代官末次平蔵の朱印船)船長浜田弥兵衛が台湾で、オランダの東インド会社の台湾長官ヌイツと紛争を起こす。双方から5人ずつ人質を交換して、弥兵衛船はオランダ人人質を乗せて長崎に帰国した。これに対して、幕府はこれらを抑留する(この事件により、オランダ貿易は1633年まで中断する)。
 1631(寛永8)年6月、幕府は海外貿易の渡航船に朱印状のほかに奉書を交付することを定める(これを奉書船制度という)。1633(寛永10)年2月、幕府は、奉書船以外の海外渡航を禁止する。また、在外5年以上の日本人の帰国を禁止し、貿易制限やキリシタン取締りの法令を出している。1634(寛永11)年5月、幕府は長崎町人に出島を築かせ、これは1636(寛永13)年に完成する。1635(寛永12)年5月、幕府は、外国船の入港・貿易を長崎に限定し、日本人の海外渡航・帰国の禁止を命じる。
 1639(寛永16)年7月、幕府はポルトガル船の日本渡航そのものを禁止する。これにより、西欧船の日本渡航はオランダだけとなった。
 島原の乱に蜂起した農民たちは、多くは九州の島原藩主松倉氏と、唐津藩主寺沢氏の領有する地方のものたちである。かつて豊臣政権時代には、島原は有馬晴信、天草は小西行長と、共にキリシタン大名が領有していた土地であり、キリシタン信仰が根強いところである、それが故に、島原では改宗しない信者を雲仙岳の火口に投げ込んだり、天草では信者に熱湯をかけたり火あぶりの刑に処したりする迫害が強められた。これらのキリシタン弾圧に対して、農民たちが強い憤りを抱くのは当然のことであった。

注1)家康がキリスト教禁圧の態度を明確にしたものとして、岡本大八事件がある。これは、1610(慶長10)年1月、家康側近の重臣・本多正純の与力でキリシタンの岡本が、キリシタン大名有馬晴信から、多額の金品を詐取したというものである。岡本は1612(慶長12)に下獄するが、晴信の陰謀事件(長崎奉行長谷川藤弘謀殺の企て)を訴えて対決する。結局、この裁判の結果は晴信が改易となり、甲州への配流後に死を命ぜられることとなる。他方の岡本は、駿府の安倍河原で火刑に処せられた。家康は、この事件を契機に、キリスト教弾圧の姿勢を明確にし、駿府家臣団のキリシタン検索を行ない、直臣と侍女10数名を摘発・追放したのであった。もともと豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の際の捕虜として捕らえられた朝鮮女性が、秀吉の正妻・北政所、徳川将軍の大奥、大名・吉川家広などの侍女として仕えていた。その中に少なからずのキリシタン女性が存在していたのである。
2)ポルトガル商人のアジア貿易とイエズス会宣教師との関係については、拙稿『朝鮮侵略の歴史に学ぶ』中の《補論 ポルトガル商人の奴隷貿易とキリスト教の布教》を参照

 (ⅱ)収奪強化で逃亡や身売りの続出
 ところで寛永10年代(1633~1642年)になって、天候不順などで不作・凶作は全国的な問題となった。凶作の下での領主の苛政問題は、全国各地で起こっている。
 その中のいくつかを拾ってみると、以下の通りとなる。
 1633(寛永10)年2月、阿波海部郡徳島領で、百姓たちが重課のために逃亡する事件が起こっている。藩主松平(蜂須賀)阿波守忠英の家来の知行所での事件である。青木虹二編『編年百姓一揆史料集成』(以下、『編年一揆』と略)第一巻(三一書房)によると、「海部郡の内、豊後守知行の百姓共(ども)応ぜざる所ニ、処務応ぜざる身ニ役義(役儀)等申し付く故(ゆえ)、年々事(こと)積(つも)り餓死に及ぶ由(よし)ニて、数ヶ条の目安(めやす *訴状)指上(さしあ)げ候、其外(そのほか)近郷の者迄(までに)豊後守の申し付け候様、無理非道の迷惑申し様の目安の面(めん)一、二ニ御座(ござ)候」(P.163)と、百姓たちは餓死者が出ていると訴えている。
 しかし、このような豊後守の対応は、今に始まったことではない。百姓たちは、「其上(そのうえ)先年もか様(かよう)の義(儀)ニ付き、百姓共申す分に及び候、度々(たびたび)斯(かく)の如くの仕合(しあい *始末)是非に及ばず候、剰(あまつさ)え去る秋の比(ころ)豊後守百姓分八、九十に及び逐電(ちくでん *逃亡)せしめ候(そうろう)処(ところ)ニ、松平土佐守殿(*土佐の山内家)家来衆取扱(とりあつかい)ニて帰参仕る由に御座候」(同前 P.164)と、昨年秋には隣領に逃散(ちょうさん)までしているのである。
 しかし、このように知行主の苛政で百姓が逃亡する事態は、決して珍しくはなかったようである。先の引用にすぐ続けて、徳島藩主は、「勿論(もちろん)豊後守ニ限らず、五人、十人百姓等失走の例は珍しからず候へとも、無理非道の族(やから)ニて猛勢(もうせい 
 *猛威)斯の如くの段、他国の聞へ前代未聞の次第、偏(ひとへ)ニ阿波守(*藩主)恥辱と存じ候事、」(同前 P.164)と、百姓逃亡は「恥辱」と述べている。
 出羽国村山郡の旗本領(領主酒井忠重)白岩郷でも百姓たちが、一揆を起こしている。「寛永一〇(*1633)年一〇月、白岩郷八千石(現・寒河江市域は白岩・留場・田代・幸生・宮内の五村、ほかは現・西川町に属する十二村)の惣百姓は、領主酒井忠重の過酷な収奪と悪政を二三条よりなる目安状をもって江戸幕府に越訴(おっそ)した。幕府は越訴に及んだ首謀者を死罪にしたが、同一五年三月忠重を改易、知行地を没収し幕府領とした。しかし同年六月、『白岩の百姓共、此節(このせつ)困窮ニ迫リ、徒党を結び候由(よし)江戸表へ相達(あいたっし)』(家世実紀)という事態が起こり、幕府は代官小林重郎左衛門に鎮圧を命じた。重郎左衛門は山形城主保科正之(*後に会津藩主となる)に援助を求め、正之は謀計をもって一揆首謀者三六名を山形城下へ呼寄せ、六月二八日一網打尽にし、山形城下長町(ながまち)広川原で磔(はりつけ)の刑に処した(家世実紀)。」(日本歴史地名大系『山形県の地名』P.420)のであった。
 百姓たちが訴えた「出羽国村山郡白岩郷八千石百姓恐れ乍ら捧げ奉る御目安の事」によれば、旗本の苛政は次のようなものとして訴えられている。
 すなわち、苛酷な年貢がたびたび催促されるなかで、「女房、子供ハ申スニ及バズ、皆身
ヲ売リ払ヒテ相済(あいすま)シ申し候事」、(青木虹二編『編年一揆』第一巻 P.166)という。「女房・子供」はもちろん自分自身をも身売りして年貢を納めさせられたというのである。
 また、農民が作る綿花・麻・漆などを領主が安く「押シ買ヒ」(強引に買上げること、押し売りの対語)して、逆に農民たちに売りつけるときには高く売りつける非道も行っている。また、農民たちが飢餓を防ごうと野山を開田し耕作すると、新畑検地と称して、さらに収奪を強め、「餓死スル者(もの)日々(ひび)益(ますます)多キヲ加ヘ候......」(同前 P.167)という有り様である。
 この結果、「戌年(*元和8年〔1622年〕)酒井長門守様(*酒井忠重)御入部以来、今日マテ人数四千百五十余人、其(その)身ヲ売リ或(あるい)ハ餓死致シ候......」(同前 P.167)と、1622年から1633年にかけて、4150余人が身売りをしたり、あるいは餓死したというのである。すさまじいまでの苛政である。
 1634(寛永11)年12月6日、常陸国久慈郡の水戸藩領大里村の惣百姓が、「日枯れ」(日照不足)の理由をもって地頭(給人)に検見(けみ *年貢を取る前に役人を派遣し、米の作柄を検査し、納入額を決めること)を要求したが、地頭がこれを拒否したため検見を郡奉行に願い出ている。
 地頭が検見を拒否したので、「日枯(ひがれ)の御引方〔*日枯れになった分を年貢から割り引くこと〕御座(ござ)無く御割付(おわりつけ)下され候。此(かく)の如きニ御座候ハハ、百姓つつき(続き)申す事(こと)相成(あいな)り申さず候」(同前 P.175)と、願い出る。
 百姓たちにとって、「申(さる)の年(*1624年と思われる)の日枯?(より)も、当年ハかれ(枯れ)まし(増し)申し候所ニ、一円(いちえん)御引き下されず候ハ、百姓つつき(続き)申す事罷り成り申さず候......」(同前 P.175)との言い分は正当なことである。(この闘いは詳しくは、長野ひろ子著「水戸藩前期の年貢と農民闘争」―『歴史評論』326号を参照)
 1635(寛永12)年には、羽前(*ほぼ現・山形県に相当)飽海(あくみ)郡の庄内藩領の丸子村・福升村の百姓37人が羽後(*現・秋田県と山形県の一部)矢島へ逃散(ちょうさん)した。この百姓たちは、藩命により菅原次右衛門の子・新十郎によって、残らず連れ戻されている。
 1636(寛永13)年3月2日、美濃国大垣藩は、走り(逃散)に対して、以下のような法度(はっと *掟)を定めた。

一(第一条)御百姓(おひゃくしょう)壱人(一人)成る共(とも)走り(*逃散)候はは、五人組?(ならびに)十村組として尋ね遣(つかわ)し召し返す(めシかえス)〔*連れ戻す〕べく候、若し罷り帰らず候はは、その縁者、親類その村中(むらじゅう)?(ならびに)十村組へかかり、何方(いずかた)まで成るとも尋ねさせ申すべき事、
一(第二条)走り候(そうろう)百姓の田畑召上げられ、隣郷のものに成るとも又(また)は誰に成るとも下さらるべく候、?(ならびに)走り候百姓その村へ永代召し返されまじく候事、
一(第三条)走り候ものに一夜成るとも宿かし(貸し)候はは、御領分の事は勿論(もちろん)の儀、御蔵入り御給人(*幕府給人)御知行たりといふとも仰せ届けられ、急度(きっと)御せんさく仰せ付けらるべき事、
一(第四条)走り候百姓当国の内は猶以(なおもって)の儀、他国に罷り在り候とも、聞き付け次第、訴人に致し候はは、御褒美(ごほうび)として金銀下され?(ならびに)その者の家財下さらるべく候事、
一(第五条)走り候百姓の家屋敷へ御領分の者成るとも、又(また)他領から成るとも、その村中?(ならびに)十村組として才覚(さいかく)致し、能(よく)御百姓早々(そうそうに)入れ置き、跡々(あとあと)田畑荒(あれ)候はぬ様に精を入れ申し付くるべく候事、

  寛永十三年丙子三月二日       大垣藩郡奉行 (*5名の署名があるが略)
    何郡の内何村庄屋、惣百姓中        (青木虹二編『編年一揆』第一巻 P.180)
  
 第一条は、五人組や十村組として連れ戻すべきとしている。そして、若し当人が戻らないと言うのなら、親類・縁者はもちろん村中あるいは十村組にかかわりながら、どこまでも探すべきとしている。(《補論 五人組について》を参照)
 第二条では、逃亡百姓の田畑は藩に召上げられ 、代わりに隣郷の者あるいはいずれの者であろうともその者に与えられる(年貢・諸役の上納と引き換えに)としている。なお、逃亡した百姓は、永遠にかつての村には召し返されない。
 第三条では、逃亡百姓に一夜であろうとも宿を貸した場合には、領内の者であるときはもちろんのこと、幕府給人であろうとも、必ず吟味するとしている。
 第四条では、逃亡百姓が当国にいた場合は当然のことであるが、他国にいたとしても、藩に訴えれば褒美の金銀が与えられる。しかもその上さらに、逃亡百姓の家財も与えられるとしている。
 第五条では、逃亡百姓の家・屋敷には、領内のものであろうとも、他領のものであろうとも、その村中や十村組が工夫して、素早く「御百姓」として入れ置き、その田畑が荒れ果てぬようにすべきとしている。領主の肝心の狙いは、ここにこそ表れている。逃亡百姓の代りを、どこの者でもかまわないから早く組み込み、年貢や諸役を果たす「御百姓」として仕立て上げるべきとして、しかもこの責任を村中や十村組に負わせている。 
 1637(寛永14)年3月21日、加賀藩も領内百姓の逃散を明確に禁じた(青木虹二編『編年一揆』第一巻 P.183)。それは、十村役人に達した以下の命令で明らかである。
  
急度(きっと)申し遣(つかわ)し候、御分国中、諸百姓走り申さざる様に堅くしまり(締り)仕るべく候、若し逃散(ちょうさん *逃亡)申し候百姓これ有るに於ては、その跡の田畠(でんぱた)最前仰せ出だされ候御法度の如く、組中として耕作致し、年貢諸役滞(とどこお)り無き様に申し付くべく候、無沙汰(ぶさた)に於ては十村(とむら)肝煎(きもいり)並びに当村肝煎、越訴(おっそ)為(な)すべく候事、
一(第一条)御国の百姓等、金山?(ならびに)日用取り・奉公人に至るまで、他国へ罷り越し候者これ有るに付(つい)ては、御法度の如くその年切りに召し返すべく候、然(しかる)は近年他国へ相越(あいこ)しこれ有る者共、組中の在々所に相改め残らず書き記し指し出すべく候、若し他国に年までかさね(重ね)これ有るに付ては、十村肝煎、当村肝煎ともに曲事を為すべく事、
一(第二条)諸百姓ども申し分(*言うべき事柄)遂(と)げらるべき為(ため)の御穿鑿(ごせんさく *調査・吟味)、越中御目安奉行として、伊藤内膳、浅加左京仰せ付けらる候条、十村肝煎、手前にて相究めざる儀(ぎ)これ有るは、御目安場罷り出で断(だん)に及ぶべき事、
 右の条々仰せ出でらる所、件(くだん)の如し、
  寛永十四年壬(みずのえ)三月廿一日        山城守判
                           安房守判
   中郡十村肝煎中
  
 加賀藩の場合は、先の大垣藩の場合(代りの百姓を見つけて入れ置く)とは異なり、逃亡百姓がかつて所持していた田畑は、組中が耕作し、年貢・諸役の上納を怠ることのないようにと命令している。
 そして、第一条では、百姓から金山鉱夫・日用取り(日雇い)・奉公人に至るまで、他国へ出た者はその年限りで戻すべきとしている(このことは一年の他国への出稼ぎが許されていることを意味する)。また、近年他国に出て稼ぐ者は、その名を組中の在所在所で調べ、残りなく書き出して藩へ提出すべきとしている。
 第二条では、百姓たちの言い分を十村肝煎が吟味するべきであるが、それが出来ない場合は、目安場に出てそこで結論を得るべきとしている。
 
 《補論 五人組について》
 五人組の「起源」は、1597(慶長2)年3月7日付けの、豊臣秀吉が出した以下の「御掟」と言われる。(しかし、戦国大名島津氏が家臣統制の手段として用いた例もあった)

          御掟
一、 辻切・すり・盗賊の儀について、諸奉公人・侍は五人組、下人は十人組に連判(*同じ書面に連名して印を押すこと)を続き、右、悪逆仕(つかまつ)るべからず旨(むね)、一、侍五人、下々(しもじも)十人より内の者は、有り次第(しだい)組たるべき事、
一、 右の組にきらわれ(嫌われ)候者の事、小指を切り、追放すべき事、
一、 右の組中悪逆仕る者、組中より申し上げ候はば、かの悪党成敗(せいばい *処罰)を加え、組中は異儀(いぎ)有るべからざる事、
一、 組の外より申し上げ候はば、悪党一人につき
候て金子二枚づつ、かの悪党の主人より訴人に褒美(ほうび)としてこれを遣(つか)わすべし、
一、 今度、御掟に書き立てられ候侍・下人、自今以後他の家中へ出すべからず、但(ただ)し本主人同心の上は、各別たるべき事、
一、 咎人(とがにん *罪人)成敗の事、夜中その外(ほか)猥(みだ)りに誅殺(ちゅうさつ *殺)すべからず、その所の奉行へ相理(あいことわ)り申しつくべし、時に至りすまい了簡(りょうけん *思案)に及ばざる族(やから)〔*許すことができない者〕は、即刻、相届くべき事、
 右条々、堅く仰せ出ださる所(ところ)件(くだん)のごとし、
       慶長二(年)三月七日
                        長束大蔵大輔
                        増田右衛門尉
                        石田治部少輔
                        宮部法印(継潤)
                        徳善院(前田玄以)
         (煎本増夫著『五人組と近世村落』雄山閣 から重引 P.13)
 
 1594(文禄3)年、秀吉は伏見城を築城し、ここを首都とした。諸大名も競って屋敷をつくり、大名たちは妻子とともに伏見に常住していた。しかし、当時、伏見城下は治安が悪く、その対処策として諸奉公人(小人・小者・若党・足軽・中間など)や侍(秀吉の直臣や諸大名の家臣)は五人組に、下人(身分の低い「賤しい」者とされた町人など)は十人組に組織された。
 組は「下級武士」や人民を組織し、治安対策に用いられたが、「組は戦国時代以前からある血縁的関係の同族を単位とするのでなく、できるだけ親族同士を排除して、他家を組み合わせて編成された。そして乙名(おとな)百姓など土豪的農民の分家や、隷属的な農民が一軒前の百姓として、他の一族の家と十人組に編成されたのである。/十人組は支配の組織であるが、血縁的な社会が基本であった村を、地縁的に結ばれる平百姓(本百姓)の村に変化せしめた。これが江戸時代の村として発展する。」(煎本増夫著『五人組と近世村落』雄山閣 2000年 P.32~33)と言われる。
 徳川幕府の時代になると、首都は江戸に移るが、家康は伏見城を番城とした。また、京都では、1601(慶長6)年に板倉勝重が京都所司代に就任し、1603(慶長8)年に二条城が作られ、豊臣家を監視する拠点とした。そして、京都の町人を組織するために十人組を組織した。「板倉氏新式目」によると、「十人組の事、隣家談合せしめ以って連判付け、内(うち)一人法度(はっと *掟)に背くといえども、相残る人数、事に依りその科(とが *罪)掛(か)くべきとの条、内々(うちうち)、従者見及(みおよ)び候者、常々異見を加ふべし、糾明(きゅうめい *悪い点を追及して明らかにすること)の上、科の軽重次第、法度を行なうべき事」(煎本前掲書のP.18から重引)とされている。
 煎本氏によると、「(一)人民支配の組織としての五人組の存在は、あとで述べるように元和(*1615~1624年)以降であるが、それに先行して、慶長期において各地に十人組が存在している。(二)十人組は外様大名領に多く、そのほか紀伊徳川家・尾張・徳川家の徳川親族大名領に設置されている。(三)十人組は、五人組が一般的に成立した寛永期(*1624~1644年)以降、江戸時代中期にかけて組織されている大名領がみられる。これは幕府が五人組を強制せず、大名の人民統治に介入していないことを示す。」(同前 P.21)のであった。
 五人組は、徳川親族領・譜代大名・外様大名領を問わず、寛永期に数多く設置される。では、五人組の役割は何であったのであろうか?
 五人組が諸国に広まった時期が寛永期であったことから明らかなように、五人組の当初の役割は、牢人とキリスト教徒の取締りである。すなわち、村の治安維持の一翼を担うことであった。したがって、五人組の一員がキリスト教徒であったり、犯罪者であったりする場合は密告が義務であり、この義務を怠ると五人組全体が連帯責任を負わなければならなかった。また、盗賊が入りこむときは五人組が協力してこれを取り押さえなければならない。さらに、五人組は治安維持の観点から、組員が外泊したり、あるいは他所の者が宿泊したりする場合は、組頭に報告し相互に通告することを要した。
 次いで、五人組は幕府あるいは藩の法令(道徳的なものも含む)を周知徹底する機能をもった。各村々には、代官あるいは地頭(給人)から村民が日常遵守すべき法令の大要を記した五人組帳が配布され、村人に連判させて遵守を約束させた。ま、た名主(庄屋)は毎年、1回から数回巡村して、村人に五人組帳の本分を読み聞かせた。(町方には、五人組帳の制度はなかった)
 次に、幕府が五人組の組織化を命じた目的の一つとしては、百姓の抵抗闘争の一つとしての逃散を防ぎ、また奢侈(しゃし)を戒めて年貢を完納させることにあった。幕府が"五人組のものは互いに親子の思(おもい)をなして一戸不幸あれば他の四戸これを救い、田植時などにはその時期を誤らざるようお互に注意すべきことなど"を令したのも、その本心は、年貢を滞納させないようにするためであった。
 さらに五人組の重要な仕事としては、種々の連帯保証を行なうことがあった。さきに述べた①年貢の完納を村全体で行なうとともに五人組でも協力する(五人組の一人が逃亡した場合、代って他の4人が年貢を納めることもあった)こと、②耕作地の質入れや売買をなす場合、証文に連印して保証すること、③婚姻・養子縁組・相続・廃嫡の際に、互いに立ち合いし、組員が幼い時には後見を行なうこと、④訴訟や請願をなすときには、他の組員の同意をえること―などである。今日でも残る連帯保証は、江戸時代の五人組の一般化という歴史的前提があるのである。

 (ⅲ)島原・天草地方の苛政に対し農民反乱
 島原・天草地方は、キリスト教の強い土地柄であり、幕藩権力の同教弾圧には農民たちの抵抗が強かった。その上、同地方も1634(寛永11)年から連年の不作・凶作にもかかわらず年貢収奪はゆるめられず、餓死する者も続出した。たまりかねて、ついに大規模な農民蜂起となったのである。
 島原藩主の松倉家は、外様大名ではあるが関ヶ原の役以降の新興大名であり、将軍家への奉仕を熱心に行ない、「江戸城構築の軍役が課せられたときには、四万三千石ながら十万石の軍役を勤めようと申し出た。その結果、六万石に加増されて、軍役は十万石を課せられることになった。/天草は......表高四万二千石であるが、のちに幕領になって半減されたことからわかるように、実際の生産高とはひどくかけはなれたものであった。しかし幕府の軍役は当然表高にかかってくる。寺沢(*天草を含む唐津藩主)・松倉(*島原藩主)両氏が苛酷な年貢収奪をせねばならなかった原因はここにあった。」(辻達也著『日本の歴史』13江戸開府 P.393~394)のである。
 一揆勢は天草四郎時貞を擁して決起したが、中心は大矢谷松右衛門・千束善右衛門・大江源右衛門・山善右衛門・森宗意の土豪である。『徳川実紀』第三編によると、彼らはいずれも「往昔(おうせき)小西摂津守行長が家士にて。朝鮮の軍に戦功あり。行長(ゆきなが)元来天主教(*キリスト教)を信じければ。此(この)ものどももその教(おしえ)を尊崇せる事年久しといふ。」(P.72)とされる。この土豪の下に、30数名の庄屋が幹部をなし、3万7千の百姓を指揮したといわれる。中心メンバーなどの名前は、多くが島原や天草の地名を苗字としており、兵農分離政策から武士身分から脱落した土豪出身物であることは明らかである。
 1637(寛永14)年10月21日に、肥前国高来郡島原藩領の安徳村・南有馬村など一円に反乱が勃発する。するとこれは直ちに天草にも伝わり、10月29日、肥後国天草郡唐津藩領の大矢野島や上島などの百姓たちが島原百姓に呼応し、拝借米を郡代に訴える。しかし、これが拒否され蜂起した百姓たちは、下島の富岡城(当時、唐津藩の城代・三宅藤兵衛が守っていた)を襲う。
 当時、近隣の藩主たちは、島原城・富岡城が一揆勢の攻撃に苦戦していたことはよく知っていた。だが、当時の武家諸法度では、いかなる事態があろうとも江戸からの指令が無い限り自己の領分を防衛することとされていたので、手出しができなかった。幕府が事態の報告を受けたのは11月8日であり、派遣された板倉重昌が小倉に着いたのが11月27日である。
 これでようやく近隣の藩兵も一揆鎮圧に出動できるようになったが、しかし、幕府・諸藩連合軍は烏合の衆であり、何回かの攻撃でも統制がとれず、一揆側の反撃に敗れ去っている。幕府は当初、たかが百姓の一揆と軽く見ていたが、鎮圧がことごとく失敗するのを見過ごせず、老中松平信綱を派遣し、指揮をとらせることした。これは板倉重昌にとっては大きな恥辱であり、板倉は1638(寛永15)年正月元日、総攻撃を命ずる。しかし、諸藩はこれに従がわず、板倉はわずかな手勢で無理な攻撃をしたため、戦死する。
 結局、総勢3万7000の一揆勢が、12万余の幕府・諸藩連合軍についに敗北するに至るのは、一揆側の食糧が続かなかったことによる。島原の原城に籠城した一揆勢は、2月28日に壊滅させられる。
 その後の4月12日、島原藩主・松倉重治は領地を没収され、美作(みまさか)に配流される。唐津藩主・寺沢堅高(かたたか)も天草地方の4万石を没収される。松倉は7月19日に、配所において斬刑の刑に処せられた。大名が斬刑の刑に処せられるのは稀有なことであり、松倉の苛政・虐政に関して、他の大名への警告でもあった。寺沢も先の減封に思いをいたし、やがて自殺するに至った。

(3)寛永の大飢饉
 島原の乱の主因が、キリスト教の弾圧や領主の年貢収奪の苛酷さであることは確かである。しかし、この事態を誰の目にも明らかにしたのは、1634(寛永11)年ごろから始まった不作・凶作である。寛永の大飢饉は地方により、また時期により異なり、もちろん全国一様ではない(断続的に続いた)。しかし、この寛永の大飢饉は、江戸時代の三大飢饉(享保の飢饉・天明の飢饉・天保の飢饉)に準ずる大飢饉であり、江戸時代前半ではもっとも厳しい被害をもたらした飢饉であった。
 島原の乱で原城が落とされた1638(寛永15)年2月から約半年後の8月頃から九州一帯で牛の疫病が流行した。この年の間に、「九州の牛はほぼ全滅状態となった。九州の死牛は二・三万頭にとどまらなかったという。牛は農耕に欠かせない重要な働き手であり、またその糞尿は肥料となるものであったから、牛の壊滅が農業生産に与える打撃は甚大であった。/この牛疫は寛永一七年(*1640年)までには中国地方から近畿地方にも蔓延し、西国全域で夥(おびただ)しい数の牛が死んでいった。」(杣田善雄著 日本近世の歴史2『将軍権力の確立』吉川弘文館 2012年 P.154)と言われる。
 被害は西国だけではなかった(以下、杣田前掲書による)。1640(寛永17)年6月には、蝦夷地の駒ヶ岳が噴火し、その降灰は松前を暗闇と化し、津軽では大凶作にして多数の餓死者を出した。同年9月には、秋田で大風が吹き荒れ、稲はなぎ倒されて大被害となった。
 翌1641(寛永18)年になると、畿内・中国・四国地方で旱魃(かんばつ)があったが、9月になると、備後(現・広島県の一部)では逆に大雨に襲われ、大洪水となっている。豊後(現・大分県)の臼杵(うすき)でも、6月の旱魃が8月には大洪水に一転している。
 東北の会津では、6月に大雨と雹(ひょう)がふり、秋田では、8月霜が降り、不作ないしは凶作となった。津軽でも前年につづき凶作となり、餓死者が出ている。
 秋になると、全国的に不作である事が明確になってきた。「山形藩での年貢の収納量は、一六三八(*寛永15)年に七万八七一五石あったものが、一六三九年には四万二六〇六石と激減し、一六四〇年には四万九二三石、一六四一年には三万六四九六石に、一六四二(*寛永19)年には三万一二七九石となっている。伊勢・伊賀では凶作とされ、その隣国も同様といわれた。また肥後で虫害があった。」(藤井譲治著『日本の歴史』⑫江戸開幕 集英社 P.282)と言われる。
 だが、寛永の大飢饉はさらに続き、1642(寛永19)年の2月から5月にかけて絶頂に達した。『徳川実紀』第三編の寛永19年2月~3月の項には、「すべてこの月(*2月)より五月に至るまで。天下大に飢饉し餓?(がひょう *飢え死にした者)道路に相望む。また一衣覆(おほ)ふこともなし得ず。古席(ふるむしろ *古蓆)をまとひて倒れふすもの巷(ちまた)にみちたり。よりて町奉行をして各(おのおの)その郷里をただし。領主。代官に命じ飢者をたすけてその故郷にかへさしめ。その外は市中に仮屋を設け。旦暮(たんぼ *朝夕)粥(かゆ)をつくりて飢者に施行(せぎょう *憐れんで物などを施すこと)せられしとぞ。」(P.258)と、述べている。
 大飢饉の様相は江戸にまで公然と顕れ、市中は餓死者や食べ物を求める民衆で満ちあふれたという。さすがに幕府も救い小屋を設けて、施行をせざるを得なかった。施行(せぎょう)とは、功徳(くどく)を積むために、僧や貧者などに物を施すことである。
 地方でも、飢饉は進行する。「三月から五月にかけて津軽でおびただしい死人が出たほか、広島藩・備後三次(みよし)藩でも餓死人が出、四月には米沢・庄内・秋田・津軽に限らず、関東・信濃・西国も飢饉といわれるようになった。こうしたなか、伊賀では食物とするくず・わらびを掘るために耕作を放棄する百姓が現れるなどしたが、そうした状況は越後村上藩でもみられた。」(藤井譲治著『日本の歴史』⑫江戸開幕 P.283)といわれる。
 また、具体的な餓死者数として、「信濃国の木曽谷の飢民一万五八〇二人、餓死四五人、松本領安曇郡小谷(おたり)村では餓死一四七人、売(うり *身売り)人数九二人、走(はしり *逃亡)百姓三八戸、斃死(へいし)牛馬は馬八二疋(ひき)、牛八三匹(ひき)にのぼるという状況がみられる(長倉保『寛永の飢饉と幕府の対応』)。また肥後国(熊本県)の熊本・細川氏領では多数の飢死者が出た由である。」(煎本増夫著『五人組と近世村落』雄山閣 2018年 P.57)といわれる。

 (ⅰ)飢饉に直面した幕府の対応
 家光は、1642(寛永19)年2月、この年の諸国巡見使派遣について(前年7月に決定していた)、飢饉を理由に中止した。そして4月30日から5月2日にかけ、参勤交代で在府中(江戸詰め)の外様大名45人に帰国を許した。その折、家光はこれら大名に対して、キリシタンの改めに念を入れるように命じるとともに、飢饉の混乱状況を念頭に困窮する百姓への「撫民」を行なうことなどを指示している。すなわち、「去年米穀損耗(そんもう)せしにより。国々の農民艱困(かんこん *苦しみ)するよし聞(きこ)ゆれば。分限に応じて賑救(しんきゅう *にぎわし救うこと)をはからふべし。」(『徳川実紀』第三編 P.269)と、命じている。
 5月2日には、知行地を有する旗本に対しては、交替で領地(知行地)におもむき飢饉対策を講じるように、老中を通して指示している。
 5月9日には、譜代大名に対しても、交替で帰国し、領内経営にあたるように命じた。 
 武家諸法度寛永令での参勤交代条項は、実際には外様大名が対象となっており、譜代大名は在府が原則であった。だが飢饉対策が緊急事項となるに及んで、譜代大名にも帰国が命じられるようになり、以降、譜代大名も参勤交代制に組み込まれるようになる。
 また、家光は5月8日に、老中(土井利勝・酒井忠勝〔以上は大老〕・青山幸成・阿部忠秋・阿部重次・松平乘寿〔以上は老中〕・松平信綱〔老中並〕)および永井尚政(山城国淀城主)、永井長清(同勝竜寺城主)、松平正綱(元勘定頭)、秋元泰朝(やすとも *甲斐国谷村城主〕、朝倉在重(ありしげ *江戸町奉行)、神尾(かんお)元勝(同)、宮城和甫(まさよし *目付)の7名を召し出し、諸国の飢餓に対処すべき事を評議し、言上(ごんじょう)するようにと命じた。その際、「去年田穀みのらず。今年春夏に及び農民疲憊(ひはい *疲れること)せし聞えあり。此(この)秋又(また)不熟せば。明年は餓死するも多かるべし。......」(『徳川実紀』第三編 P.270~271)と、危機感を募らせている。
 また同日、飢饉の実情を調査するために、全国に巡見使を派遣した。その顔ぶれを見ると、畿内・西国は所司代板倉重宗・前の老中永井尚政で、関東は松平正綱・秋元泰朝・伊丹康勝・島田利正(としまさ)である。通常、諸国巡見使には、旗本の中級クラスの役である使番(つかいばん)が任命されるが、今回は違った。今回はいずれも、将軍の側近の大物たちであった。これは、家光や老中などがいかに事態の深刻さをとらえていたかを推測させるものである。
 さらに5月13日には、老中と上記7名に加えて、久貝正俊(大坂町奉行)と島田利正(元江戸町奉行)を召し、ともに対策を練るように命じている。
 5月14日には諸有司を集めて、老中を通して、将軍の命を次のように伝えている。「去秋不熟により各国農民艱困のきこえあり。官長はさらにもいはず。所属の輩も采邑(さいゆう *知行所)におもむき(赴き)。賑恤(しんじゅつ *被災者・困窮者を救うために物や金を与えること)のこと計らはしむべし。もし又(また)この事を伝聞して。農民等今秋の賦税を愁訴(しゅうそ *苦しみなどを嘆いて訴えること)し渋滞せんとするものあらば曲事(くせごと)たるべし。」(同前 P.272)と。
 賑恤を命じてはいるが、家光の最大の関心は年貢にある。よって賑恤を聞いて、農民たちが年貢の納入を滞らせることを心配し、これを用心せよ! と命じている。
 同じ14日、幕府は、諸国に立てるべき高札(こうさつ)の内容を、次のように決定した。「諸国在々所々田畠(たはた)あれざる(荒れざる)やうに精を入れ耕作すべし、もし立毛(たちげ *収穫前の米や麦)損亡これなきのところ、申し掠(かす)め、年貢難渋せしむ族(やから)これあらば、曲事(くせごと *悪事)たるべきものなり」(藤井譲治著『日本の歴史』⑫ P.285からの重引)と。
 幕府の最大の関心事は、飢饉を利用して百姓たちが言い繕って年貢減免を要求することであった。だから、高札を全国に立てて、これをけん制しているのであった。
 5月17日には、松平正綱を通して、次のようにも命じている。「去年の荒耗(こうもう)により農民等労倦(ろうけん *疲れ倦〔う〕む)し。夫食(ふじき *食糧)たらざるゆへ(故)。僻遠(へきえん *文化の中心からはるかに遠いこと)の地は飢餓に及び。ことしの農業なりがたきよし(由)なれば。もし地頭(*給人)みづからの生計足らず。賑恤もなしがたきには。官より米かし(貸し)たまはるべし。されどわたくし(私)の奢侈(しゃし *必要程度をこえた贅沢〔ぜいたく〕)。ある(或)は婚娶(こんしゅ *婚姻)。あるは屋舎のいとなみ(営み)。又(また)は采邑の税額減じ。家計窮迫(きゅうはく *貧困が甚だしくなること)するをもて。貸米こふ(請ふ)ことあるべからず。たとひ所持の調度(ちょうど *日常使う道具類)売払(うりはらひ)ても。民を救ひ農を勤むべし。もしやむ(止む)ことを得ざる子細(しさい)もあらば。其旨(そのむね)を記して速(すみやか)に申出(もうしいず)べしとなり。」(同前 P.273)と、命じている。
 この年は、幕府の飢饉対策が、上記のようにやっと開始されたが、江戸では米価の高騰が必然的に惹起された。その抑制策が検討されていた5月、「幕府の蔵(くら)奉行の不正が摘発され、六月にかけて吟味がなされ、城米(じょうまい)奉行・浅草蔵奉行・勘定(かんじょう)方・代官・小揚(こあげ *江戸に廻ってきた米を小舟から蔵に移し納める仕事を行なう者)・町人ら六〇人あまりのものが切腹・斬罪・追放など厳しい処分を受けた。」(藤井譲治著『日本の歴史』⑫ P.283~284)のであった。

 (ⅱ)飢饉の最中での百姓たちの抵抗
 島原の乱が鎮圧されたかといって、百姓たちのさまざまな闘いが無くなったわけではない。さすがに困難な時期に有って、大規模な百姓一揆はほとんど見られないが、他国への走り(逃散)や訴えなどの抵抗が行なわれた。
 1638(寛永15)年12月14日、信濃国佐久郡の松平忠憲領で、平原村(現・小諸市)の百姓たちが年貢の減免を奉行所に訴えて出ている。訴えの内容は、「一、当作毛(さくもう *稲穂の実り)相違申し候処ニ、就中(なかんづく)平原村の義(儀)は、近郷ニ相替(あいかわ)り、畑四拾五町と御座候内、拾六町ならて麦まき申し候所御座無く候、相残(あいのこ)り弐拾町ハ秋作計(ばかり)ニて御座候、当年ハ弥々(いよいよ)作毛相異申し候所ニ、少(すこし)も御引き(*年貢の割引)下されず候、迷惑仕(つかまつ)り候御事(おんこと)」(青木虹二編『編年一揆』第一巻 P.194~195)である。
 当年はいよいよ不作であることを報告したにもかかわらず、少しも年貢の減額をしてくれない。全く迷惑なことであり、減免して欲しいとの要求である。
 1639(寛永16)年2月、越後国蒲原郡の新発田藩領の割野村の百姓たちが、領主の親族が新田を開発することに反対して、奉行へ上訴した。
 新発田藩主・溝口伊豆守の「御舎兄主膳様の御代官江上兵助殿と申す仁(じん *人)理(ことわ)リなしに新田を立ち申さるニ付(つい)て、我等共?(より)理(ことは)リを申し上げ候ハ......」(同前 P.196)と言って、結論的には、百姓たちは「迷惑」として、以下でその理由を述べている。
 理由の第一は、「茅野山(*入会地と思われる)ニ新田を御立ち成され候さへ迷惑ニ存じ候処ニ、又(また)去々年の秋(あき)割野分(*茅野山の内の)ニ新田を御立ち成され候事、我まま(我が儘)なる御さいばん(*御裁定)、弥々(いよいよ)割野村野やち御座無く〔*茅野山の割野村分の谷地〈沢の湿地〉が無くなり〕、薪(たきぎ)かや(*屋根をふく材料となる)につまり(詰まり)致し迷惑候......」(同前 P.196)と言うように、百姓の生活に不可欠な薪やカヤを採る場所が無くなったからである。
 理由の第二は、隣りの横越村の妨害である。寛永15年(1638年)春に新田のための苗代(なわしろ)を踏み荒らし、また割野村の本田の苗代まで踏み荒らした。割野村ではあちこちから苗を集めて田植をようやく済ましたのに、5月15日、横越村の大勢がやって来て、またまた植田を踏み荒した。8月18日にも、青稲を残らずなぎ倒し、棄てられた。1年間に3回も稲作りを妨害され、百姓たちの食糧も詰まる事態に至ったたことは、大変な迷惑である。
 割野村の百姓たちは、これらの原因が領主の兄の無計画な新田作りにあるとして、これに反対する抗議運動に起ちあがったのである。領主側は、村の実情を調査することもなく、無暗に新田開発を行ない、年貢の増加を図ったのであるが、農業・農民の基礎的事情もわきまえない、浅はかな行為なのであった。
 1640(寛永17)年7月、和泉国南・日根両郡の岸和田藩領の沼村など108カ村の百姓たちが、石高が旧来より増える(したがって、年貢が増える)のをやめて欲しいと強訴した。百姓たちは、岡部氏が摂津国高槻から岸和田城へ新たに入る機会を利用して、増高を取り消すよう計画した。岡部氏は、群衆を慰撫し諭そうとしたが、「衆耳ヲ籍(か)サズ」で、とても受け入れる様子でもないので、とりあえず迂回(うかい)して入城する。 
そして、群衆の中の主だった者をとらえ、強訴の罪に処した。
 ところで、沼村の庄屋・川崎久左衛門は、自ら城に赴き(と思われる)、身を挺して農民の窮状を次のように訴えた。「元来(がんらい)南・日根両郡ノ石高ハ五万石ナリシモ、松平康暎検地シテ一万石ヲ増ス、而(しこう)シテ一万石ノ増高ハ到底(とうてい)農夫ノ負担ニ堪(た)エザル所ナレバ、?(ここ)ニ岡部氏ノ入城ヲ期トシ、平常ノ不平ハ遂ニ爆発シテ天狗状(発起者ノ署名ナキ廻状)トナリ新城主ヲ擁シテ一万石減額強訴ノ挙ニ出デタルナリ。」(同前 P.203)というのである。
 これに対して、岡部氏は理解して、「総石高ヨリ三千石ヲ減額シテ之(これ)ヲ百八ケ村ニ割リ、以テ民意ノ一端ニ副(そ)イシモ、而(しかれど)モ法ハ天下ノ法ニシテ之ヲ免スベキニアラズ」(同前)となった。そして、川崎久左衛門は強訴の罪で斬首された。
 この年は(月不詳)は、武蔵国比企(ひき)郡の旗本領(岡部太郎作)の野田村など7カ村の百姓たちが、年貢増課、人足・馬の重課に反対して訴えた。
 もめごとの具体的な内容はよく分からないのであるが、翌年2月に出された評定所の裁定書から推定すると、次のようなものであったと判断できるようである。すなわち、
一、領地からかなり多くの人足や馬を徴発した。
二、一俵の升目を多くした。(*従来は1俵は3斗8升入り)
三、前年は不作であったにもかかわらず、多額(例年通りか)の年貢米を割当てた。
四、以前から不作の度(たび)に米を農民に貸付け、利息を付けて返させていた。
五、田畑の年貢の外に附加税を特別多く取っていた。
六、草刈場である秣場(まぐさば)の税金を高くした。
           (青木虹二編『編年一揆』第一巻 P.204)

 百姓たちは7カ村で相談し、11月に納めるはずの年貢米も納めずに領主(旗本)と交渉した。しかし、解決しなかったので、百姓たちは評定所へ持ち込み訴えたのである。百姓たちの要求は全部ではないが、かなりの部分が通ったようである。
 1641(寛永18)年2月28日、羽前国飽海郡の庄内藩領の大宮・田丸子郷の百姓7人が逃散した。藩の代官はさっそく下野沢村の菅原重治右衛門らに尋ね出し、引き戻すべきと命じた。
 捜索活動の結果と思われるが、「菅原家文書」によると、次のような顛末となった。「一 巳ノ年(*寛永18年)弐月廿八日の晩、大宮田村、向宮田村、丸子村三ヶ村?(より)御百姓九間(9軒)欠落(かけおち *逃げ去ること)仕(つかまつ)り候、夫(それ)ニ就いて奉行所へ御書付(おかきつけ)を以て御代官横山五左衛門殿三月二日ニ下野沢村へ遣(つかわ)され候、拙者(*菅原治右衛門)ニ罷(まか)り下し欠落の者共(ものども)召し帰し申す様こと御意(*お上の思し召し)ニ御座候間、御意ニ随(したがひ)て同三日ニ油利へ罷り下り、則(すなわち)仙北ニて御百姓衆たつね(尋ね)出(い)で、同月の八日ニ人数五〇人余男女共(とも)召し登(のぼ)らせ申し候へハ右の御百姓ニ成し置かれ候事、」(青木虹二編『編年一揆』第一編 P.206)と。
 代官の命令で、2月28日に逃散した百姓を尋ねだそうと、菅原らは仙北(*現:大曲市の近く)まで出かけた。ところが当初の数よりもはるかに多い50人余を探し出すことができた。この百姓たちがすべて今回逃散したのか、それとも以前から逃亡していた者もいるのかは分からないが、かなりの百姓たちが苛政から逃れて、他領に生きていたことは確かである。飽海郡はたしかに現・山形県の北部で現・秋田県と隣接するが、仙北ははるか遠く現・秋田県大曲市近辺であり、百姓たちの逃亡劇がいかに悲惨なものであっただろうかと、推測させる。
 1642(寛永19)年6月2日、陸前国宮城郡仙台藩領の岩切・余目村の百姓たちが生活に困窮し直訴したことをもって、頭取の3人が死刑に処せられた。「義山公治家記録」によると、「去ル四月五日公(*義山公)御通リノ時、右(みぎ)二邑ノ百姓二十七人目安状(めやすじょう)ヲ以テ直訴ス、其(その)村ノ肝煎(きもいり)?(ならび)ニ百姓七人相談ヲ以テ私曲ヲ構ヘ、その身共(とも)二十七人ノ百姓困窮セシムルノ由(よし)ヲ訴フ、因テ糾明(きゅうめい)ノ処ニ無実ノ訴(うったえ)ナリ、徒党ヲ企テ公儀(*仙台藩主を指す)ヲ軽スルノ罪亦(また)軽(かる)カラス、清左衛門、主計、作兵衛、その張本(ちょうほん)タルニ就(つい)テナリ、右ノ者共父母、妻子、下人ハ本(もと)ノ如ク百姓ニ立置(たちお)カル、」(同前 P.208)とされた。
 直訴した百姓たちの主だった者3人が斬刑にされた理由は、二つある。一つ目は、百姓たちが「困窮させられた」ということが事実でないということ―である。しかし、これは俄かには信じられない。虚構をもって、果して直訴するであろうか。手順を踏まない直訴(これを越訴〔おっそ〕という)は掟破りであり、処刑されるのは明らかであり、虚構のために命をかけるなど理解できないからである。
 二つ目は、「徒党ヲ企テ公儀ヲ軽スルノ罪」による者である。たしかに、「徒党を組む」ことは、当時、処罰の対象である。しかし、それほどまでに百姓たちが追い詰められていたことには、いささかも思いが至っていない。儒教の「仁政」という観点からは、君主失格である。
 しかし、藩は死罪に処せられた3人の遺族と下人(主人の家に仕える隷属者)に対しては、もとのように御百姓として遇している。だがこれは、決して「仁政」ではなく、年貢の納入源を維持するためでしかない。
 ところで、ここで注目すべき点は、当時の公私観が如実に現れていることである。「公儀ヲ軽スル罪」に対して、百姓たちの行動は「私曲ヲ構ヘ」と表現されている。行動の内容・意味などをそのものとして吟味することなく、百姓たちの行動が「私」であり、お上はそれだけで「公」となっている。つまり、お上の政治に逆らうか従うかが基準となった価値観であり、お上の政治や行動の是非、あるいは正義か否か―などを問わずに、お上であるというそれだけで「公」となっている。それ故に、他方の百姓たちの行動は「私曲」と断罪されてしまうのである。こうした公私観は中国伝来の東アジア的公私観の一種であるが、いずれにしても専制君主の支配には都合のよい公私観である。ちなみに、上下関係を一つの基準とする東アジア的公私観は、今日の日本から完全に払しょくされているわけではない。
 1642(寛永19)年8月1日、肥後国宇土郡の熊本藩領の戸口浦村の百姓30人が逃亡を企てた。奉行の書き留めでは、「一 宇土郡戸口浦村の百姓三拾人走り(*逃亡)申すべきと仕(つかまつ)り候を、訴人(そにん)出で知り申し候、則(すなわち)沖津作大夫、蒲田次左衛門書付(かきつけ)を上げ申し候、此(この)書付を能(よく)見(み)申し候て、か様(かよう)ニ三拾人と立ちのき(立退き)申すべきと存じ候ハ、つねつね小庄屋、惣庄屋、代官、郡奉行なと(など)のあたりさまも悪敷(あしく)ニ付きて、立ちのき候ハんと仕(つかまつる)ものと思召さる候間、庄屋共の手前をもせんさく(穿鑿)の奉行を付け吟味仕り、せんさくの様子奉行共(ども)直(じか)ニ申し上げべく候旨(むね)、其(その)様子ニしたがい仰せ出でらるべく候旨、......」(青木虹二編『編年一揆』第一巻 P.208)となっている。
 百姓30人の逃亡が、密告によって露顕した。これに対して、庄屋・代官・郡奉行の対応も悪かったのではないか―と述べているが、熊本藩自身の政策にさかのぼって、吟味しようというものではない。藩中枢よりも下位の者に責任を押しつけているに過ぎない。
 寛永19年(1642年)は、寛永の大飢饉ではピークをなす年であり、『編年百姓一揆史料集成』は、各地の逃亡例を数多くあげている。
 今までの書き出し例以外には、9月30日には、米沢藩領の中津川の東大滝村・西大滝村・河原角・荒俣の4カ村の百姓が逃亡した。ほかにも何月かは不詳だが、「コノ年」の事例として、会津藩領の伊南地方の百姓が越後高田藩領へ逃亡、同藩黒谷組の百姓が凶作で越後へ欠落、同藩の岩代河沼などの百姓が年貢重課で逃亡、信濃上田藩の別所村大湯の百姓が凶作による飢饉で19軒が逃亡―となっている。
 この内、岩代河沼などの百姓の逃亡例を見ると、以下のようになっている。「寛永十九年、会津大守加藤明成の領地に至り、地下(じげ)〔*への〕仁愛なく無地の弁高を加増し、高を重ね免を上げ、百姓悉(ことごと)く窮(きゅうし)て禿(つぶれ *農地を荒廃させること)、田宅を捨て、妻子をつれて隣国〔*へ〕離散す、走りに出でる事(こと)昼夜に限らず、大水の流れる如く、之(これ)に依って若松より郡代、代官その外(ほか)役人大勢(おおぜい)出足、関所を押え候へ共(そうらへども)、不用、他国行なり、先ず猪苗代、磐瀬、安積(あさか)の者共は白川(白河)、二本松、福島、仙台へ走り、凡そ三百人余、北方三郷の者共は米沢、仙台(へ)走り、凡そ四百人余、河沼郡金山谷の者四百余人越後行き、南郷より下郷、上郷の者は白川、宇都宮へ三百余人走り、伊南、伊北の者三百余人越後へ走り、都(すべ)て二千人余出走、その騒動はこれ科(とが)ならず、唯(ただ)家老、奉行、郡代の悪行故(ゆえ)也、これに依り、近国太守より注進あり、」(青木虹二編『編年一揆』第一巻 P.212)と。
 加藤家(加藤嘉明の子孫)は、この後、お家断絶となり、その後釜(あとがま)には保科正之(将軍秀忠の異母弟)が入部する。だからか、2000人ほどの百姓の走りについて、その責任を加藤家の家老・奉行・郡代の悪行にあると珍しく責任の所在を「明確」にしている。
 しかし、その逃亡域は大規模なものとなっている。現・福島県の至る所にとどまらず、遠くは越後や北関東にまで伸びているのであった。
 1643(寛永20)年4月18日、羽前置賜郡の米沢藩領の伊佐沢村の百姓たちが、夫役の減免を要求して、耕作を放棄したので、その内の4人が逮捕された。
 同年5月28日、岩代耶麻郡の会津藩領の出戸村の百姓が物成(ものなり *田年貢)が増課され、これでは百姓潰(つぶ)れになってしまうと危機感を強めた。そして潰れないようにして欲しいと歎願した。
 同年9月4日には、羽前置賜郡の米沢藩領の17カ村が、小屋普請のための人足夫役を申し付けられ従がったが、中山村の百姓だけが拒否して「罷り出でず」となった。
 同年11月、讃岐山田郡高松藩領の小村の田之助が、大旱のために年貢を納められない村民に代って代納したことに対して藩吏が斬首の刑に処した。田之助の家は田高200石を有する農家であり、私財をもって困窮する百姓のために行なった行為が死刑の理由になったのである。
 同年12月12日、山城綴喜(つづき)郡鹿苑寺領の柏野村の百姓たちは、「......年々〔*年貢を〕未進、当秋別(べっし)て不納」(青木虹二編『編年一揆』第一巻 P.216)と、役人に訴えた。
 年不詳である(寛永年間ではある)が、多くの百姓たちの逃亡例が他にもあるが、この中で、幕府の危機感は並み大抵のものではなかった。これは、前々節で述べた。

 (ⅲ)あふれる飢人と人返し
 幕府は、経済の基礎である農業生産の担い手である百姓の欠落(かけおち)については、極度に警戒していた。1609(慶長14)年の法度(はっと)には、三か条のうちの一条として、「百姓以下、他国へ欠落致すにおいては、曲事(くせごと *法に違うこと)たるべし、但し、地頭・代官非分の儀〔*道理にはずれたこと〕これあるにおいては、上使ならびに番頭、その国の年寄中へ相届けるべき事」(煎本増夫著『五人組と近世村落』雄山閣 2009年 P.35 から重引)と、禁令を出している。幕府が指令し、村々の百姓に不祥事の連帯責任を負わせる組織、すなわち五人組を組織させ、次々と全国に成立するのは寛永期(1624~44年)といわれる。
 幕府は、寛永14(1637)年10月26日に、関東・甲斐・信濃に知行を持つ大名・旗本に対し、盗賊など「悪党」に対処するために、五人組の役割を示す法令を出す。法令は6カ条にわたるが、その中には、「一 不審成る者に宿かすべからず、自然知らずして貸し、あやしき事有(あ)らば、たとえ親類縁者たりというとも、そのところの庄屋・五人組まで有り様に申し届くべき事」(第二条)、「一 在々所々(ざいざいしょしょ)盗賊の者ならびに悪党これ有らば、急度(きっと)申し出るべく候、たとえ同類たりというとも〔*仲間であっても〕、その咎(とが)をゆるし御褒美これを下さるべし、もし隠し置き他所より訴人これ有らば、せんさく(詮索)の上、その五人組はもちろん、庄屋曲事に行なうべき事、......」(同前 P.40)と、厳しい処分をも含めて命令している。
 治安維持を名分とした五人組への命令は、次第に百姓たちの抵抗闘争、就中、「走り」への抑止と、連れ戻し(人返し)を担うようにと命ずることとなる。それは、重い年貢や度重なる夫役など領主のあまりの苛政により、逃散(ちょうさん)や強訴など百姓たちの抵抗闘争が全国各地で続発したためである。その事例は、美濃国大垣の戸田氏が1636(寛永13)年に出した法度に見られる。すなわち、「御百姓一人成るとも走(はしり *逃亡)候はば、五人組ならび十村組として尋ね遣わし召し返すべく候、もし罷り帰らず候はば、その縁者、親類その村中ならび十村組へかかり、何方(いずかた)まで成るとも尋ねさせ申すべく候」(同前 P.42)と。
 幕府が五人組を推奨しているのに対し、尾張藩・紀伊藩・水戸藩の御三家などは、慶長期(1596~1615年)以来の十人組に、同様の役割を担わせている。御三家の十人組は、「【紀伊徳川家・寛永十四年(一六三七)・請書】/当毛(*今年の収穫)取り上げ上納仕(つかまつ)り申すべく候、もし百姓の内、走り申すべくと存じ百姓御座候はば、前かどに(*前もって)申し上ぐべく候、/もし百姓走り申し候はば、十人組の内へ急度、御法度に仰せ付けられるべく候事、....../【尾張徳川家・寛永十八年(一六四一)・徒党禁令】/欠落(逃亡)は庄屋・組頭・十人組に責任をおわせてたずね(尋ね)させ、みつからねば?舎(牢獄)・過料、当人と宿主は牢舎または死罪とする。庄屋・組頭・十人組の届出がおくれたときは牢舎、」(煎本増夫著『五人組と近世村落』P28~29)となっている。
 水戸藩も何故、十人組が続いたかは不明であるが、「水戸領の町村で行なわれた十人組制度は、原則として近隣の家一〇戸を組合せて一組とし、他領の五人組制度と同様、各組に組頭をおいて、相互扶助・連帯責任・相互監察などを行なわせた制度であり、民衆支配の末端組織であった。」(『水戸市史』中巻〔一〕P.127)のである。
 しかし、五人組や十人組をもってしても、百姓の村離脱の波を押しとどめることはできなかった。内続く凶作、飢饉で明日どころか今日の食い物さえあてにできなかったからである。
 1642(寛永19)年の末頃から、全国各地で飢えた人々があふれ出し、路傍には飢えた人びとの死体が多く見られるようになった。「加賀藩の記録には、『江戸より京洛に至る、北国筋の海道は、人馬の餓死路地に間もなく臥(ふせ)たり』とあり、また将軍のお膝元(ひざもと)の江戸でも、一六四三年のはじめには飢人が数百人も日本橋に集まり、毎日数人ずつの死人が出ている。しかし、江戸の状況は、他の地域と比べまだよかった。/京都の状況は、江戸に比べ凄(すさ)まじく、時の左大臣であった九条道房は、その様子を二月四日(*1643年)の日記に次のように記している。/『洛中・洛外乞食人充満、これ去年夏ごろよりかくのごときなり、古老六、七十年来かくのごときの飢饉見及ばずと云々、去年、去々年農(のう)豊かならざる故なり......餓死に及ぶもの甚だ多く、人道を忘れ、あるいは赤子を軒下に捨て、あるいは七、八歳の幼童を路辺に放つ、その数多くは人これを養わず、自然餓死し、犬これを喰(くら)う、門戸に寄る乞食者千万人、これに施しえず、上(かみ *天皇)聖徳を施せず、叶うべからず』/所司代板倉重宗は、京都の飢人の数を二〇〇〇人と江戸に報じている。また、江戸にいた大徳寺の僧沢庵(たくあん)も、細川光尚に宛てた書状のなかで、『丹後・但馬等の国の事も、年々乞食の多事候、道路ニ死人目もあてられぬ由』と述べている。」(藤井譲治著『日本の歴史』⑫ P.288~289)とのことである。
 全国各地での凶作は、大消費都市である江戸の米不足と米価の高騰をまねく。幕府は、1643(寛永20)年2月5日、諸大名に対し"江戸で家臣に与えている扶持米を自らの領地から廻漕するべし"と命じ、江戸での買い米を禁止した。
 そして、2月7日、日本橋に流れ着いた飢えた人びと800人の出身地を調べ上げ、それぞれの大名に引き渡した。人返しである。同日の改めでは、尾張の者60人、水戸の者16人、佐倉の者(上総)36人など約300人が大名に引き渡されたのであった。水戸藩では、農民が離村することを防止するために、すでに元和5(1619)年に人身売買禁止令が出されている。いったん村から流出した者に対しては、領内に連れ戻す「人返し」が行なわれた。「これらの政策は寛永期に入ると、ますます励行された。寛永二十年三月、他領から『人返し』に関する交渉があった場合、水戸藩として取るべき処置を決定しているので、同様に、水戸藩自体も他領から『人返し』をする場合もあったのであろう。この「人返し」は領内の村落間でも行なわれた。」(『水戸市史』中巻〔一〕P.128)といわれる。
 時の大老酒井忠勝の領地は若狭小浜藩であるが、そこでも1642(寛永19)年のはじめから年貢未進が顕在化し始める。これに加え、近江国高島郡の所領では、春先に大雪となり、百姓たちが飢え死にした。忠勝は、同年2月30日付けで、国許の年寄衆に、「金銀米銭たくわえ(蓄え)申し候も、か様の時のためニて候、余かたの事は何ともあれ、我々知行所などにて万一一人なるともかつえ(飢え)ころし(殺し)申し候は、沙汰の限り〔*もってのほかである〕たることに候」と叱咤し、「百姓などうえ(飢え)死に候は、我らに恥(はじ)」と述べて、領民を飢え死にさせないよう万全の仕置を命じている。(藤井譲治前掲書 P.294)
 百姓を飢え死にさせてはならない! という意識は、他の多くの大名や代官にも共通している。「備後福山藩の水野勝重は一六四三年正月、国許の家臣に『百姓かつゑ(飢え)死に候はぬやうに』仕置するように命じ、また同年三月、近江の幕府領の支配にあたっていた小堀政一は、支配を担当した家臣に『余国にすぐれ江州(近江)は百姓つまり候由申し候』『在々残らずその方廻り候て餓死これなき様に念を入れ申すべく候』と指示している。さらに同じ月、幕府代官の松原弥右衛門が、美濃の代官所で高持(本百姓)・無高(土地のない百姓)に限らず六歳以上の百姓が飢えに及んだときは『死に申さず候ように』銭を貸すことを村役人に命じている。このように、百姓を飢死させないようにとの考えは、いずれの領主にも共通したものであり、その背景には、翌年以降の耕作のための労働力をいかに確保・維持するか、という領主の思惑があった。」(藤井譲治前掲書 P.294~295)と言われる。
 幕府が、江戸に集まった飢人を「人返し」したのも、飢えの問題をそれぞれの大名の責任として、幕府の手を煩わさせないためだけではない。南北朝期の領主同士の「人返し」協定の伝統に則り、労働力確保・維持を領主階級の共通利害として対処した面も含まれているのである。(この人返し法は、鎌倉時代の御成敗式目42条の但し書き―年貢皆済さえすれば、「去留は宜しく民意に任すべし」の規定を踏まえて、領主階級の利害を現わしたものである)

 (ⅳ)次々と繰り出される幕府の法令
 1642(寛永19)年5月27日、幕府は諸代官ヘ、次のような「覚」を通達している。

            〈覚〉
一(第一条)此(これ)以前仰せ付けられ候(そうろう)諸法度(しょはっと *さまざまな掟・決まり)の儀(ぎ)、彌(いよいよ)相背(あいそむ)かざる様ニ堅く申し付くべきの事、
一(第二条)当年より、在々(ざいざい)ニて酒造り申すまじく候、但し、通りの町は格別、併(しかしながら)通りの者(もの)酒売(さけうり)候て、在々百姓ニ売り申すまじく候、若(も)し売り申すニおゐてハ、酒道具残らず取り申すべき事、
一(第三条)当年は饂鈍(うどん)・切蕎麥(きりそば)・切素?(きりそうめん)・饅頭(まんじゅう)小売り仕(つかまつ)りまじき事、
一(第四条)当年ハ豆腐仕(つかまつる)まじき事、
一(第五条)当年田畑耕作の儀、念を入れ仕り付く候様ニ、面々御代官の内(うち)一村切ニ〔*一村ごとに〕堅く申し付くべく候事、
一(第六条)当年ハ大切の年ニ候、彌(いよいよ)百姓むさと遣(やり)候わぬ様ニ〔*百姓を無造作に使わないように〕申し付け候、叶わざる御用の儀これ有るに於てハ、手形(*証文)を出し、早々(そうそう)埒(らち)明ケ〔*早く物事がはかどること〕、百姓迷惑致さざる様ニ、物毎(ものごと)申し付くべく候事、
一(第七条)在々百姓食物の事、雑穀を用(もち)ひ、米多くたへ(多く食べ)候わぬ様ニ申し付けらるべく候事、
一(第八条)跡々(あとあと)申し触れ候通り、御年貢納め候御米、江戸城米ニ納め候時分(じぶん)、能々(よくよく)穿鑿(せんさく *根掘り葉掘り調べること)致し、米入用多く掛(かか)り候わぬ様ニ、名主組頭ニ堅く申し付けるべし、才料(裁量)不作法成(な)る儀(ぎ)仕り、小百姓迷惑致し候事これ有るにおゐてハ、穿鑿の上、名主組頭曲事(くせごと *けしからぬ事と)申し付け候、僉議(せんぎ *一同評議する)せざるニおゐてハ、御代官衆越度(おちど)を為(な)すべき事、
一(第九条)御年貢米、跡々より申し触れが如(ごと)く候、粗糠(糟糠?)砕きこれ無き様ニ、能々(よくよく)念を入れ申し付けらるべき候事、
一(第十条)跡々も申し渡し候通り、郷中ニて諸入用の儀、小百姓帳を作り、品を書き付け、名主組頭判を仕り、帳面ニ手代(*代官の下の下級役人)押切(おしきり)致し渡し置き申し候、以来小百姓非分(ひぶん *道理にはずれたこと)仕り、出入(でいり *もめごと)もこれ有るニおゐてハ、穿鑿の上、曲事申し付くべき事、
一(第十一条)諸勧進(しょかんじん *さまざまな名目で寄付を募ること)?(ならびに)肴(さかな)売り、在々堅く入れ申すまじき事、
右の趣(おもむき)、面々御法度の所、此外(このほか)ニも存じよらず候儀は〔*思いもつかないことは〕、世間くつろきのために候間、申し付くべく候、
      五月       (『徳川禁令考』前集5・二七八二号 P153~154)

 第二条~第四条は、一もなく二もなく、米生産の増大を狙うものであり、また、その米の「ぜいたく品」への加工を禁じているものである。第五条~第六条は、農民の農作業を奨励するとともに、役人がその農作業に障りになるようなことを戒めている。第七条は、百姓が雑穀を食べ、米を多く食べないように命じている。第八条は、年貢を納める際に、費用が多くかからぬように、名主・組頭に堅く申し付け、小百姓の迷惑になるようなことは村役人(名主・組頭など)の責任であり、このことに力を入れないのは代官の落ち度でもあるとした。第九条は、年貢米について、よくよく注意して不良品がないように念を入れるべきとした。第十条は、郷中の諸経費については、小百姓が帳面を作って記入し、これを名主・組頭が点検し、さらに手代も監査する様にし、それでも小百姓の不正があるならば調査して処置すべきとした。しかし、その後の事態は、小百姓が村入用を主体的に記帳するようなことはなく、むしろ村役人たちが排他的に運用し、それが原因で村方騒動が幕末まで繰り返された。第十一条は、郷中に入って諸勧進をすすめたり、肴売りをすることもさせないとした。
 同年(寛永19年)6月になると、幕府は諸大名に次のような通達を出している。

一(第一条)当年は諸国人民(じんみん)草臥(くたびれ)候あいだ、百姓など少々用捨(ようしゃ *手心を加えること)せしむべし、もし当作毛(*今年のみのり)損亡においては、来年飢饉たるべく候条、倹約の儀兼日(けんじつ *日ごろ)仰せ付けらるといえども、諸侍もいよいよその旨(むね)を存じ、万事(ばんじ)相慎(あいつつし)み、これを減少すべし、町人・百姓以下の食物までもその覚悟を致し、飢(うえ)に及ばざる候様相(あい)はからい、勿論(もちろん)、百姓などは、常々(つねづね)みだりに米(こめ)給(たま)わざる様申し付くべく事、
一(第二条)百姓年貢の儀、損亡無きところ申し掠(かす)め未進(みしん)すべからざる〔*凶作でない所にもかかわらず、ウソをついて年貢を納めない〕事、
一(第三条)五穀の類(たぐい)費(ついえ)に成らざる〔*無駄遣いにならない〕様に申し付くべき事、
一(第四条)来年よりは、本田畑にたばこ(煙草)作りすべからざる事、
            (煎本増夫著『五人組と近世村落』より重引 P.57~58)

 つねづね唱えてきた倹約が第一条で強調されているが、ここでの注目点は、「当年は諸国人民草臥候間、百姓など少々用捨せしむべし」と冒頭で述べていることである。さすがに凶作や不作がつづいてきたので、人民の「草臥(くたびれ)」を認め、「少々用捨」すべきとしているのである。しかしなお、第二条では、百姓への不信は払拭できず、ウソをついて未進するべきでない―としている。だから、大名たちもそのことに警戒すべきと言っているのである。そして、「五穀の類」をむだにしないこと(第三条)、煙草を本田畑で作って、米などの生産を阻害すべきでないと警告している。 
 なお、この通達は、杣田善雄著日本近世の歴史2『将軍権力の確立』(吉川弘文館 2012年)によると、大名領を含め全国を対象としたもので、幕府が大名領内の民政に直接介入したものと言われるている(P169)。実際、仙台藩などでは、これを「天下の御仕置(おしおき)」として領内に触れている―とのことである。1)
 1642(寛永19)年7月25日、幕府は畿内・近国の幕領や私領(大名領や旗本領など)に対して、生活全般の倹約を事細かに命じ、また、村内の年貢割付(わりつけ)について小百姓を立ち合わせること、田方での綿作・田畑での菜種作を禁止するなど20カ条からなる法令を出している。近世全般で強調された倹約を中心とし、それに上方の地域性を反映した法令となっているという。(杣田善雄著『将軍権力の確立』 P.169)
 次いで7月29日には、関東の幕領・私領を対象に3カ条の法令が出された。「そこでは、独身の百姓やあるいは煩(わずら)い、また人手間(ひとてま)がなく耕作に支障をきたしている者に対しては、村として互いに助け合うこと、さらに今年に限ってではあるが、用水に余裕のある村は不足する村に水を分けてやるようにと令した。この法令は、百姓経営の労働力や用水配分の具体的内容にまで立ち入って幕府が関心を持ちはじめ、小百姓の窮状に配慮して村内の相互扶助を命じ、村請制の強化を打ち出したものとして重要な意義を有している。」(杣田善雄著『将軍権力の確立』 P.169~170)と言われる。
 幕府は1642(寛永19)年閏9月14日、すでにこの年の凶作が全国的に明らかになる中で、翌年も飢饉は避けがたいと判断し、以下のような法令を全国の大名や幕領代官に布達した。

    〈覚〉
一(第一条)去年当年作毛悪しき処(ところ)これ有りて、百姓草臥(くたびれ)候と相聞え候、此上(このうえ)疲れざる様(よう)入念に仕置(しおき *統治すること)申し付くべきの事、
一(第二条)当夏中(とうなつぢゅう)仰せ出でられ候、百姓ニ対し非儀(ひぎ)これ仕るべからず、若し又(また)作毛損亡これ無き所これを申し掠(かす)め、年貢等難渋せしむる土民あるは、急度(きっと)曲事(くせごと *不正)行わるべきの事、
一(第三条)酒の儀、江戸京大坂奈良堺、その外(ほか)名酒の分、又(また)ハ諸国ヨリ往還の道筋、所々(しょしょ)城地市の立ち候所、人居る多き所の町ヘハ、去年の半分当年はこれ作るべし、?(ならびに)新規の酒屋勿論(もちろん)停止になすべし、在々所々商売の酒一切これ造るべからず、自然(しぜん)此(この)趣(おもむき)相背(あいそむ)く輩(やから)これ有るは、其所(そのところ)の御代官給人方(*知行主)油断なすべきの事、
一(第四条)雑穀(ざっこく)の費(ついえ)を為す間、諸国在々所々ニ至る迄(まで)、当年は?飩(うどん)・切麥(きりむぎ)・素麺(そうめん)・饅頭(まんじゅう)・南蛮菓子・蕎麥切(そばきり)等(など)商売無用の事、
附(つけたり)、名物の麥素麺ハ累年(るいねん *例年)の程(ほど)作るべきの事、
一(第五条)所々作り候雑穀、その外(ほか)食物ニ成り候類(たぐい)、年貢の方え土民代替(しろかえ)出で候は各別(かくべつ)、当座自由の為(ため)ニ、末(すえ)の考えもこれ無くこれを遣(や)り、費(ついえ)成す事(こと)多くこれ有る候間、面々御代官所給人方、銘々ニ申し聞かすべき候の事、
一(第六条)江戸廻り御鷹場ニハかかし(案山子)を仕らず、その外の所かかしを致し、年内より麥(むぎ)を蒔(ま)くと申すべきの事、
一(第七条)御鹿狩りの場所の外(ほか)、在々所々ニて鹿猪等おわせ(追わせ)申すべし、勿論(もちろん)跡々より取り来る所はその通りになすべしの事、
 以上
右、各(おのおの)相談の上(うえ)斯(か)くの如く候、組中?(ならびに)領内え申し付くべきもの也、
  寛永十九年閏九月十四日
右の通り、各(おのおの)相談の上、御代官所給人方相触(あいふ)れ候間、その意(い)得らるべく候(そうろう)以上、
  寛永十九年閏九月十四日
                           曾根源左衛門
                           宮城越前守
                           朝倉石見守
                           神尾備前守
                           秋元但馬守
                           井上筑後守
                           松平右衛門大夫
              (『徳川禁令考』前集5・二七八五号 P.155~156)
  
 冒頭の第一条で、幕府は昨年につづき今年の凶作は避けがたいと判断し、飢饉への極度の恐れから、「百姓草臥候」として今以上の疲弊をもたらさないように配慮すべきとしている。しかし、第二条では、相変らず虚偽の報告で年貢未進を図るかもしれないと、依然として百姓への警戒心を緩めていない。米を「無駄遣い」する酒つくりに対しては、名産地や街道筋の宿場を除いて、一切禁止している(第三条)。雑穀は無駄使いしないように、うどん・ソバ・饅頭・南蛮菓子などの商売無用とした(第四条)。将来のことも考えないで、当座の自由で自分らの食用として、雑穀類を年貢に回さないことを用心せよ! と代官所や給人たちに注意している(第五条)。将軍や大名が行なう鹿狩りの場所以外の荒れ地は、鹿・猪などを追い払い、年内にムギを蒔くべきと促している(第六条、第七条)。
 また、この閏9月14日付けの法令を諸大名に伝えるに際して、「幕府は大名領内の作柄を報告するように求めている。凶作の実態把握のための調査としては、すでに五月二三日に美濃・遠江・伊勢・駿河・上総・下総・伊豆・武蔵・信濃の九カ国の代官が招集され、幕領の作況が問い質(ただ)されていたが、今回はこれを諸大名領にまで及ぼすとともに、今年と前年との比較をも報告するよう求めた。幕府が『日本の米つもり』、全国的規模での米穀量の掌握をはかったものである。」(杣田善雄著『将軍権力の確立』P.170)とされる。
 幕府は、すさまじい飢饉が全国をおおう下で、直轄領の代官はもちろんのこと、諸大名への統制・指導を格段と強めたのである。「この寛永末年の大飢饉は、幕府が諸大名に対して際限なき課役を要求する戦時型の政治形態を改めて、平時の民政や勧農を重視する行政中心の政治への政策転換をもたらす機縁となった(佐々木潤之助『幕藩権力の基礎構造』御茶の水書房 一九六四年)。」(『日本の近世』3支配のしくみ 藤井譲治編 中央公論社 1991年)と言われる。そして、さらには「百姓成立(なりたち)」を前提とした平時体制が確立されてゆくのであった。

注1)藤井譲治氏によると、江戸幕府の法度(成文法)の性格には、次のような諸段階(1611~1630年代)があるとされる。第一段階は、将軍・幕府と大名との関係を規定する法度がなかった段階(1600年関ヶ原の戦いから1611年大名誓詞の時期)。第二段階は、将軍・幕府と大名の関係を規定する法度が定められた段階(1611年~1615年武家諸法度で確定する)。「この段階では、法度によって将軍と大名との関係が規定されたが、幕府の政策は法度をとおして大名領内にはなお入り込めなかった。」(『日本の近世』3支配のしくみ P.29)時期である。第三段階は、法度としての老中奉書(将軍の意を受けて出されるもの)の機能した時期(1615年~1635年頃)。「この段階では、幕府の政策は、法度としての老中奉書によって大名に命じられ、大名がそれへの請書(*承諾書)を幕府に上げることで、大名領内へも貫徹していった。しかし、大名領内の民衆を直接にとらえきれてはいない。」(同前 P.30)のである。第四段階は、無名の法度(*宛先が示されない法度。老中奉書と共に1630年代には成立していたが、老中奉書から解放され、評定所や老中の役宅で各大名の江戸留守居役に一通ずつ渡されるようになるのは1650年代である)が成立し機能し、そこでは幕府の政策が一方的にかつ直接に大名領内に伝達された。「そこでの大名の役割は、幕府の政策を伝え実現を助ける一行政機構にすぎなかった。しかし、その伝達と貫徹が大名の領内支配機構を前提にせざるをえず、幕府独自の機構をもちえなかったところに、将軍と大名とでなった幕藩制の政治機構の特質が示されている。」(同前 P.30)と言われる。ここにこそ日本の近世封建制の独特な性質が表現されている。東アジア文明圏の一角を占める日本は、中国や朝鮮などとは異なり、整備された大規模な官僚制の形成と再生産が出来ず、古代国家の変質とともに、封建制へと踏み出した。それよりも大分以前に、西欧では、ゲルマン民族の大移動に抗せず古代ローマ帝国の解体となる中で、封建制社会へ踏み出した。だが、「封建制」という点では、共通性をもちながらも日本と西欧の封建制は、根本的に異質なものである。その主な一つは、領域国家の統治経験の有無である。西欧は、奴隷制段階でも、封建制段階でも、都市社会が基本であり、農村は近くの都市に従属していた。このため、中国で典型的にみられる大規模に整備された官僚機構は存在していない。整備された官僚機構と常備軍を保持するのは、ようやく近世である(いわゆる「絶対主義」の時期である)。これに対し、中国の影響で律令制を導入した日本は、律令制の変質で封建制に移行したあとも、領域国家の統治構造が継続された。日本の封建制は、私的主従制と領域国家の統治構造が融合された体制なのであった。律令制は明治維新に至るまで、公式には廃棄されなかった。

Ⅱ 田畑永代売買禁止を明確化

 (1)田畑永代売買禁止を発令
 1643(寛永20)年もまた飢饉の深刻さが増大する中で、幕府は、百姓経営がつぶれては自らの権力の基礎が崩れると懸念し、「本百姓体制」1)の再生産と村請制の維持のために同年3月10日、次の7カ条の法令を幕領代官に発した。

〈覚〉
一(第一条)毎年春夏面々(*それぞれ)代官所え相越(あいこし *赴き)、堤(つつみ)川除(かわよけ)等の御普請念を入れ見分(検分)せしめ、これを申し付くべし、?(ならび)に麦作〔の〕善悪も見届(みとどけ)すべき事、
一(第二条)秋中も在々所々(ざいざいしょしょ)これを見廻り、田畑の様子委細(いさい *詳しく)見分致し、有体(ありてい *ありのままに)納所(なっしょ *年貢納入のこと)を申し付く事、
一(第三条)身上(しんじょう *経済状態)能(よ)き百姓は田畑を買取り、彌(いよいよ)よろしく成り、進退(しんたい *身の処置)成らざる者ハ田畑沽却(こきゃく *売却)し、猶々(なおなお *ますます)身上成るへ(べ)からざるの間、向後(こうご *今後)田畑永代の売買停止を為(な)すべき事、(*ゴシックは引用者による。以下、同じ。)
一(第四条)身上の成らざる百姓は、諸代官精を入れ万事(ばんじ)指引致し〔*万事世話をし〕、その上にもつつきかたき者(*困難な者)にハ、見合(みあい *適宜〔てきぎ〕)食物の類これを借し(貸し)、進退持たて候様に〔*暮らし向きが立つように〕念を入れるべき事、
一(第五条)前廉(まえかど *前もって)名主、百姓に法度(はっと *決まり、法令)の趣(おもむき)能々(よくよく)申し聞かせ置き、相背(あいそむ)かざる様に申し付くべき事、
一(第六条)少々(しょうしょう)違背これ有る者にハ、その身に応し、日数(にっすう)相定め、過怠(かたい *罰)として堤川除又(また)ハ竹木を植え置き、その外(ほか)所々(しょしょ)為(ため)になるへき御普請これを申し付くべし、科(とが *罪)おもき(重き)者ハ、奉行所えこれを訴え、あるいは死罪あるいは籠舎(ろうしゃ)、指図に任せ申し付くべき事、
一(第七条)在々所々〔へ〕目付(めつけ *監視役)を遣さるべき候間、仕置(しおき  
 *統治)等(とう)悪しき御代官ハ越度(おちど *過ち)と為(な)べきの條、手代(てだい *代官の下の下級役人)等に至るまで、前廉念を入れ申し付くべき事、
右(みぎ)條々、今度(こんど)仰せ出だされ候間、その意を得、油断無き様、御代官衆中え急度(きっと)相触れらるべきもの也、
     寛永廿(二十)年未(ひつじ)三月十日
 (石井良助編「御当家令條」二七八号―『近世法制史料叢書』第二 創文社 1959年 P.154)
            
 これらの条文を見ると、第一条~第四条では、いわゆる勧農にあたる分野を役人に奨励したものである。第五条~第七条は、百姓支配・村統治にかかわる分野であり、これらを遂行することを役人に求め、「仕置(しおき)」の悪い代官へは処分を行なうと警告している。
 幕府は、代官が勧農、農業生産の検分、法令順守などを積極的に行ない、「本百姓体制」の再生産を図ったのであるが、その一環として、第三条に示される「田畑永代売買の禁止」を法令化することにより、農民層の分解を防止することに努めた。
 さらに翌11日(寛永20年3月)にも、代官に宛てて以下のように、より詳細な17カ条からなる「土民仕置條々」を通達した。

一(第一条)庄屋、惣百姓共(ども)、自今(じこん)以後、その身応ぜざる家作(かさく
 *家を建てること)仕るへからす、但し、町家の儀は、地頭(*給人)、代官の指図を受け作るべき事、
一(第二条)百姓の衣類、これ以前より御法度の如く、庄屋は妻子共に絹紬布もめん(木綿)、脇百姓(*小百姓)ハ布もめん(木綿)計(ばかり)これを着るべし、この外(ほか)はゑり(襟)帯(おび)等にもいたす(致ス)まじき事、
一(第三条)庄屋、惣百姓共に、衣類(いるい)むらさき紅梅(こうばい)に染(そめ)まじく候、この外(ほか)は何色に成るとも、形なしに染(そめ)、着るべき事、
一(第四条)百姓の食物、常々雑穀(ざっこく)を用ふべし、八木(*米)ハみたり(猥)に食わざる様申し聞かせすべき事、
一(第五条)在々所々ニて、饂飩(うどん)切・麥(そば)・索麺(そうめん)・蕎麥切(そばきり)・まんちう(饅頭)・豆腐以下、五穀の費(ついえ)に成り候間、商売無用の事、
一(第六条)在々所々ニて酒一切(いっさい)これを造るべからず、?(ならびに)他所より買入れ、商売仕るまじき事、
一(第七条)市町え出で、むさと(*軽率に)酒のむへからさる事、
一(第八条)耕作田畑共ニ手入(てい)れよくいたし(致シ)、草をも油断無くこれを取り、念を入るべし、若し不念(ふねん)に致し、不届(ふとど)き成る百姓これ有るに於ては、穿鑿(せんさく)の上、曲事(くせごと *不正)申し付くべき事、
一(第九条)独身の百姓煩(わずらい)紛(まぎれ)なく(無く)、耕作成(な)りかね(兼)候時ハ、五人組ハ申すに及ばず、その一村として相互ニ助け合い、田畑仕付(しつけ)、年貢(ねんぐ)収納(しゅうのう)せしめ候様に仕るべき事、
一(第十条)五穀の費(ついえ)に成り候間、たはこ(煙草)の儀、当年より本田畑新田畑共に、一切作るまじき事、
一(第十一条)名主、惣百姓男女共に、乗り物停止の事、
一(第十二条)他所より相越(あいこ)し、田地をも作らず、慥(たしか)ならさるもの〔*信用できない者〕郷中に置き申すまじく候、若し隠し置き候ハハ、咎(とが *罪)の軽重を糺(ただ)し、抱え置き候者(そうろうもの)曲事を申し付くべき事、
一(第十三条)田畑永代の売買仕るまじき事、
一(第十四条)百姓年貢その外(ほか)万(よろず)訴訟として所をあけ、欠落(かけおち *逃亡)仕るもの(者)の宿を致すまじく候、若し相背(あいそむく)に於ては、穿鑿の上、曲事(くせごと *法的処置)を行なうべき事、
一(第十五条)地頭(*旗本などの給人)、代官仕置(しおき)悪(あ)しく候て、百姓堪忍(かんにん *我慢すること)成り難しと存じ候ハハ、年貢皆済(かいさい *すべて納めること)致し、その上(うえ)は所を立退(たちのき)、近郷に成り共(とも)居住仕るべし、未進(みしん *未だ納め終っていないこと)これ無く候ハハ、地頭、代官搆(かまひ *処罰のために準備すること)有るまじき事、
一(第十六条)仏事(ぶつじ)祭礼等に至るまで、その身に似合わざる結搆(結構 *用意、したく)仕るまじき事、
一(第十七条)江戸惣御搆(そうおんがまひ)の内(うち)、木草?(ならびに)俵物等(など)馬につけ、中に乘り申すまじき事、
右(みぎ)條々、在々所々堅く相触れ、向後(こうご)急度(きっと)この旨(むね)守り候様、常々念を入れ、相改めらるべきもの也、
    寛永廿年三月十一日       
          (同前 二七九号 P.154~155)
 
 この法令は、これまでの幕府の飢饉対策を集約し、しかも以後の幕府の農政に関する基本方向を示す総括的なものとなっている。
 これらの条文を見ると、第一条~第七条、第十一条、第十六条では、全般的な倹約を命じつつ非常時での生活規制を行なっている。①庄屋・惣百姓ともに、分不相応な家作の禁止、②衣類について、庄屋と脇百姓(小百姓)の身分に応じて着用禁止を定めた。③衣類を紫・紅梅に染めることを禁止した。④百姓は雑穀を常食とし、米はみだりに食べることを禁止した。⑤五穀の費え(ムダ)となるウドン・ソバ・豆腐などの在方(農村)での商売を禁止とする。⑥同じく在方での酒つくりと販売を禁止した。⑦市町へ出て分別なく酒を飲むことを禁止した。さらに、⑪百姓男女の乗り物使用を禁止した。⑯仏事・祭礼などでの身分不相応の仕度(したく)を禁止した。倹約励行は、衣食住全般から仏事・祭礼などにまで及び、人民の生活の隅々までが官によって規制・指定されている。
 さらに、第八条~第十条では、飢饉の進行が明白となる中での焦燥感か、素人の幕府中枢が農業経営の細かな点にまで指示を出すありさまである。もはや勧農のレベルを越えて、農業経営への官のあからさまな介入となっている。すなわち、⑧田畑の手入れをよくし、草取りにも念を入れるようと命じている。まさに手取り足取りである。⑨独り身の百姓が病気などになって耕作できないような場合には、五人組はいうまでもなく、村中が相互に助け合い年貢を納めさせようと、村請制の貫徹を命じている。⑩五穀の費えとなるので、タバコは今年から本田畑・新田畑とも一切作付けを禁止する。
 第十二条、第十三条では、「本百姓体制」の維持と再生産の核心を押えている。すなわち、⑫では、怠け者は郷中に置くことなく、もし隠し置くようなことがあったら、罪の軽重に応じた処罰を命じている。⑬では、「本百姓」体制の根幹が崩れないように、「田畑の永代売買(うりかい)」を禁止している。
 また、第十四条、第十五条、第十七条では、農民支配あるいは治安の観点から、代官への厳格な指示も行っている。⑭年貢の問題で訴訟を起こし、欠落した百姓を隠し置かないようにし、もし違法な場合は調査し法的処置を行なうべきとする。⑮地頭(旗本)や代官の仕置が悪く、百姓の忍耐の度を超えた時は、年貢を皆済したうえでならば百姓が他郷へ移住することを許可するとした(これは鎌倉幕府法でも明らかである)。こうして年貢をめぐる紛争で、地頭や代官の恣意(しい)的な収奪にも規制をかけた。⑰は、将軍のお膝元である江戸総構え(江戸城を囲む外郭)の内へは、外観の観点や治安の観点から、荷物を積んだ馬を乗り入れさせないとした。
 この2つの法令で、体制の進路をも規制する重要な土地政策が、明示された。すなわ、ち、田畑永代売買禁止令である。同令は、3月10日法令の第三条(ゴシック部分)と3月11日法令の第十三条(ゴシック部分)との総称であると、後世、評価されている。後者は単純にして簡潔であるが、前者では、「身上よき百姓は田畑を買取り、いよいよ宜しく成り、進退成らざる者ハ田沽却(売却)し、猶々(なおなお)身上成らざる」が故にと根拠を述べて、「田畑売買停止」をなすべきとした。
 しかし、研究者の間では、一般的に、これに加えて、以下の「田畑永代売御仕置」(寛永20年3月)の罰則をも含めて「田畑永代売買禁止令」と称されるようである。

一(第一条)売主(うりぬし)牢舎の上(うえ)追放、本人死(し)候時ハ子(こ)同罪、
一(第二条)買主(かいぬし)過怠牢(かたいろう)、本人死候時ハ子同罪、
 但し、買い候田畑ハ売主の御代官、又(また)ハ地頭えこれを取上げ、
一(第三条)證人(しょうにん)過怠牢、本人死候時ハ子に搆(かまひ)なし、
一(第四条)質ニ取り候者、作り取りにして、質ニ置き候ものより年貢相勤(あいつと)め候得ハ(そうらへば)、永代売り同前の御仕置、但し、頼納(たのみをさめ)買ひといふ、
右の通り、田畑永代売買停止の旨(むね)、仰せ出だされ候、
              (『徳川禁令考』前集5・二七八七号 P.157~158)

 ここでは、田畑永代売買禁止令に違反する場合、処罰は当の売主や買主のみならず、その両者が死亡した場合、それぞれの子も同罪となると、世代を超えて厳しく罰せられた。そのうえ、さらに証人もまた過怠となった(しかし、その子には処罰は及ばない)。2)
 第四条では、「頼納(たのみをさめ)」という言葉が出てくるが、これは『地方判例録』上3)によると、「田畑質入れの節、通例の質金より金高余計(よけい)借受け、其(その)代り田畑ハ金主(*質取りした買主のこと)手作り〔*自ら農業経営し利益を得ること〕致し、年貢諸役ハ地主(*売主のこと)相勤む、之(これ)を頼納(たのみをさめ)と云て金主ハ作り取りに致すことゆえ、貞享四卯年(*1687年。第5代将軍綱吉の時代)より停止(ちょうじ)に成る、......」(P.219)ということである。
 「頼納」は、買主が質入れ地を自ら耕作し、利益を得るが故に、売主にあらかじめ通常より高い質金となるのである。確かに年貢諸役は売主から納めることになるが、幕府としては、名請人(売主)と耕作者(買主)が一致せず、秩序を混乱させるもととなるので停止させたのである。しかも、質入れとはいえ、これが繰り返されると、事実上、「永代売買」と変わりはないからである。

注1)「本百姓」とは、近世、領主権力の基礎を担う百姓として掌握された者を指す。本百姓は、近世初期には、年貢とともに夫役(ぶやく)を負担した役負(やくおい)百姓を指した。だが、1660~1670年代(寛文・延宝期)ころを境に、高請地(たかうけち)を所持する高持(たかもち)百姓を指すようになる。その理由は、次のことにある。すなわち、近世初頭には、戦争・築城・灌漑(かんがい)工事などが多く、領主の百姓掌握については年貢負担者であるとともに、上記の夫役を担う百姓が重視されたからである。ところが1660~1670年代に実施された寛文・延宝検地を経て、労働地代としての夫役は米納あるいは貨幣納へと形態を変えるようになる。したがって、領主の百姓掌握は、石高所持の有無(年貢負担の有無)を基準とするようになり、高を所持する高持(たかもち)百姓が権力の基礎としてとらえられるようになる。
 この変化の背景には、次の事情があった。近世初頭においては、高請農民として領主に掌握されていたが、役負百姓の庇護下にあった隷属的な小農が存在していた。それが17世紀前半の新田開拓やその後の商品経済の農村への浸透などにより、(本百姓の次三男とともに)隷属的な小農の分家が多くみられたこと、夫役が近世初頭と比べ減少し雇傭労働によって済ますことが出来るようになったこと―などで、夫役も米納や貨幣納で代替できるようになった。このため、役負農民をわざわざ設定しなくとも、土地を所持する農民の掌握で領主権力は維持できるのであった。17世紀の農業生産力の発展と隷農自身の闘いは、自立的な小農を続出させ、豪農の隷属下にあった小農を減少させた。彼らは17世紀末ごろには村構成員となり、年貢の納入のみならず、村入用(村運営の費用)も納入し、村の運営に参加した。こうして、かつては隷農であった高持百姓は「本百姓」となった。だが他方、村には正式な構成員ではないが、奉公人・日用取りや農間作業の稼ぎや、小作で生活を維持する農民もおり、彼らは無高(むだか)と呼ばれた。
 2)江戸時代の刑罰の基本は、大別すると、死刑と追放刑である。追放刑は6段階あり、重追放(おもきついほう)、中追放(なかのついほう)、軽追放(かるきついほう)、江戸十里四方追放、江戸払(えどばらい)、所払(ところばらい)である。各刑は、それぞれ御構場所(おかまいばしょ)、すなわち立入り禁止地域を定めている。重追放は、武蔵・相模・上野・下野・安房・上総・下総・常陸・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・甲斐・駿河を、中追放は、武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・下野・日光道中・甲斐・駿河を、軽追放は、江戸10里四方・京・大坂・東海道筋・日光・日光道中を、住居の国や犯行の国とともに、あわせて御構場所とした。ただし、百姓・町人の場合は、重追放、中追放、軽追放のいずれも、江戸10里四方および住居の国、犯行の国のみからの追放とした。ただ、付加刑としての闕所(けっしょ *財産没収)の範囲は異なっていた。江戸10里四方追放は、日本橋から四方5里の内を、江戸所払は、品川・板橋・千住・四谷大木戸の内、および本所・深川を構いとした(在方の者は居村とともに)。所払は、在方の者の場合は居村お構い、江戸の者の場合は居町お構いとする。刑期は無期であるが、立入り禁止地域に入った場合は刑を一等重くしてさらに追放した。過料は、今日でいう罰金刑である。「??(しか)り」ハ、今日の「説諭」に相当する。この時代には、今日のような自由刑(拘禁して自由を剥奪する刑罰)は、ごく例外的なものでしかなかった。たとえば、永牢・過怠牢・預置(あずけおき)である。
3)『地方判例録』の著者・大石猪十郎久敬は、1725(享保10)年9月20日に、久留米の古賀貞房の第5子として生まれる。1732年に大石貞治紹久の養子となり、後に城島村(福岡県三潴〔みずま〕郡城島町)の大庄屋となる。1754(宝暦4)年の百姓一揆で、幕府を恐れる藩の意向で、他の大庄屋4人とともに一揆の責任をとらされる。久敬は刑死を免れたが、隣接する柳川藩領に逃れ、九州を経て、大坂へいたる。さらに京都へ出て公卿の青侍となる。その後、さらに近江・信濃・甲州を流浪して江戸に出て、旗本の手代などを勤めた。だが、ある時、高崎藩主が農政に明るい者を探していると耳にし、1783(天明3)年に同藩に召し抱えられた。のち1788(天明8)年に郡奉行に昇進した。久敬は1791(寛政3)年正月に、藩主から農政に関する書を書上げるよう命ぜられ、1794(寛政6)年8月には、全11巻のうち6巻分を書き終えている。
 江戸時代には、『民間省要』『地方落穂集』『田園類説』『地方大概集』など総称して、「地方(じかた)書」が数多く書かれ、勘定所役人、代官所役人、名主などにとって実務の参考書として利用された。その中で『地方凡例録』は、最も優れた地方書と言われる。

 (3)田畑永代売買禁止令の狙い
 ところで、寛永20年3月の田畑永代売買の禁止は、一体、なにを目的に布告されたのであろうか。
 『地方凡例録』は、次のように言っている。「田畑を永代に売渡してハ百姓家督(かとく
 *父の跡を相続すること、またはその相続した財産のこと)に離れ、有徳(うとく)なる百姓ハ益々(ますます)田地多く成り、小百姓ハ次第に潰(つぶ)れ、後(のち)ハ一村の田地も一両人にて所持し、又(また)は他村の物と成るに付き、寛永二十未(ひつじ)年以来、永代売買(えいたいうりかい)厳しく制禁に成る、若し密かに田畑を永代に売渡すものありて露顕するときハ、売主牢舎の上(うえ)所払(ところばら)ひ、本人果(はて)たるときハ子同罪、買主ハ田畑を取上げ過料(かりょう)なり、本人死するときハ子同罪、証人は過料、本人死すれば子ハ構(かまい)成し、名主ハ役儀取放す定法(じょうほう)なり、又(また)質物(しちもつ)証文に年季(ねんき *「契約」して定めた期間)なく、或(あるい)ハ子々孫々まで名田(めいでん)致すべく、又は受返(うけかえ)す〔*借金を払って取り戻すこと〕べき文言(もんごん)のなき質地、又(また)譲り渡すべき由緒(ゆいしょ)もなき者へ田畑を譲り渡して礼金を取たる分ハ、何れも永代売りに准じて所置(処置)することなり、」(『地方判例録』上 大石慎三郎校訂 東京堂出版 1995年 P.216~217)と解説している。
 『地方凡例録』は、ここでは、田畑永代売買禁止の狙いをまず述べて、その後に、違反した場合の処罰の有り様を押えている。また、前者では、①「百姓家督に離れ」と本百姓体制崩壊の恐れ、②ついで、幕藩権力の農民支配の崩壊の恐れを述べて、田畑永代売買禁止の理由としている。
 時代は約1世紀後の宝暦年間(1751~1763年)に書かれた『地方落穂集』でも、「......其(その)訳は金銀多分持(もち)たる諸浪人、又(また)町人百姓に限らず、金銀等にまかせ買取(かいとり)候はば、一村一郡をも買取るべし。然(しか)る時は其(その)者の権勢を強くして上を恐れず、一揆を起すべし。国郡騒動の種と成(なる)べき事を御考察あり、其上(そのうえ)不如意(ふにょい *金銭のないこと)百姓は代々所持(しょじ)の田畑に離れ、退転(*衰えること)すべきを御不便に思召(おぼしめし)、堅く是(これ)を御停止あるといへり......」(『地方落穂集』)と、目的を述べている。
 ここでも、『地方凡例録』のように、本百姓体制崩壊の恐れと領主の農民支配の崩壊の恐れの2つをあげている。
 本百姓体制を維持する観点からすると、弱肉強食によって農民層分解がおこり、弱者がやがて本百姓から脱落することを懸念したのである。逆に言えば、もしこれを放置するならば、太閤検地、兵農分離、村請制1)など総じて近世においてもたらされた封建制の再編(新たな農民支配)を逆行させるものである。すなわち、幕藩権力による農民支配を崩壊させ、ふたたび中世の下剋上の悪夢を現出させる恐れが出てくるのであった。
 それ故に、『地方落穂集』は、浪人であれ、町人であれ、百姓であれ、金持ちが自由に土地を永代買いできれば、「然る時は其者の権勢を強くして上を恐れず、一揆(*国人一揆)を起こすべし。国郡騒動の種と成べき」と、やや大げさに述べているのである。
 
注1)近世封建制を成りたたせる支柱は、兵農分離、参勤交代、村請制などである。太閤検地以来の近世の検地は、旧土豪の権限を抑制し、彼らの隷属化にあった百姓たちを名請人として、年貢納入の責任者にすることにより、後の村の構成員への道を切り開いた。したがって、兵農分離で城主のもとへ赴き、専業的な武士と成らなかった旧土豪は、帰農せざるをえなくなり、彼等もムラ構成員の一人になったのである。この兵農分離は、中世以来の下剋上の根源を断ち切ったのである。検地帳には、田・畑・屋敷一筆ごとに百姓の名が記された。この百姓が名請人である。それを分かりやすくするため、伊豆国玉川郷の1590(天正18)年の検地での具体例をあげると、「塚田 上弐反小十壱歩毛有田そば・まめ 越後分藤五郎作」(佐々木潤之助著『日本の歴史』15 大名と百姓 中公文庫 P.60)となる。「塚田」が字名(あざめい)、「上弐反小十壱歩」が上田の面積(「毛有田」は収穫地を示す)、「そば・まめ」は栽培される品種である。その下の「越後分藤五郎作」が名請人である。名請人は一筆一人が原則であるが、時にはこの例の様に二人書かれて場合も少なくない。この場合のほとんどは分付様式と呼ばれるものである。「越後」が分付主であり、「藤五郎」が分付百姓であり、実際の耕作者である。検地で名請人として記帳されることは、耕作権・所持権を認められることであり、土地との関係を領主から公式に認められることである。同時に年貢納入者になることでもあり、また、土地に縛りつけられることでもある。

 (4)諸大名の土地売買禁止令
 幕藩制国家においては、諸藩は幕府法にしたがう義務があった。徳川家康は1611(慶長16)年、上洛の際(この時、家康は豊臣秀頼に臣従の礼をとらせた)、在京中の西国の諸大名に三ヶ条の法令を示して、それを遵守する旨の誓詞(せいし)を提出させた。その三ヶ条のうち、第一条は、源頼朝以来、代々の公方(くぼう *将軍のこと)が定めてきた法式を尊び、江戸の将軍の発する法度(はっと)を遵守すべきことを求めている(第二条は、法度に背いた者、あるいは上意を違えた者を各々の国に隠してはならないこと、第三条は、各々抱え置く家来の者が、もし謀叛人・殺害人であることが発覚したならば、互いにその者を召し抱ええないこと―である)。翌年には家康は、東国の諸大名からも同様の誓詞をとっている。
 1635(寛永12)年、家光は寛永の武家諸法度を定め、その最後の条では「万事(ばんじ)江戸の法度の如く、国々所々、これを遵行(じゅんこう *従い行なうこと)すべき事」を命じている。
 しかし、日本近世は封建制であって完璧な中央集権制国家ではないので、近代国家のようにすべての法律が全国一律に施行された訳ではない。近世の土地立法もまた、同様であった。
 土地売買禁止令では、なかには幕府よりも一早く公布した藩も存在している。
 たとえば、加賀藩である。同藩では1615(元和元)年12月2日、田畠・男女売買および百姓出稼ぎなどに関する規定・7ヶ条の高札を出している(『加賀藩史料』二巻 P.362~363)。そこでは、3条目に、「自今以後、御公領分(*加賀藩直轄地)・給人地によらず、田畠売買堅く御停止の事」として、加賀藩領全域の田畠売買を禁止している。
 さらに、1631(寛永8)年3月13日には、「農政に関する法規五十八條」を定めているが、その二十四條目で、「一、田畠売買仕り候儀彌(いよいよ)御停止候。若し給人並びに下代等の證文を取って、代米を渡し申し定め候とも、法度(はっと)に相背(あいそむ)き候條、毎年貢米の儀は、作人より納所申し付けらるべく候。田地買取り候代物(しろもの)の義は、買主損(そん)するべき事。」(同前 P.634)と定められている。下線部分が示すように、明らかに「田畠売買」は禁止されているのである。
 阿波徳島藩では、1632(寛永9)年12月23日、土地売買についての「覚」を出して(『阿波藩民政史料』上)、永代売買を禁止し、田畑売買はすべて5年以内の年季売として、流しにすることを禁止している。
 しかし、永代売買禁止は建前として尊重しながら、現実には実施がむずかしく、現状に妥協的な態度をとる藩もあった。
 御三家の一つ尾張藩では、幕府の法令が出て間もなくの、1647(正保4)年百姓が自己の所持地を他領の者に売ったという事件がもちあがった。これに対し、藩執政の結論として、"領内で売買をした場合は勿論定めに従い処罰するが、他領の者に売った場合は先方の同意をえられるかどうか分からないので、そのままにして置く"というものであった。このように尾州藩では、「"田畑永代売買禁止令"は尾州藩内では遵守し、その違反者を処分するが、事が他領におよぶときは禁令を適用しない」(体系日本史叢書7『土地制度史』Ⅱ P.84)というのである。
 だが、水戸藩は最初からこの禁令を実施しなかった。水戸藩は、幕府の田畑永代売買禁止令がでた約2週間ほど後の1643(寛永20)年3月24日、「御郡奉行衆へ万(よろず)仰せ出だされ候覚」で、「一、郷中ニて田畑を売り申す百姓これ有るに於てハ、改帳に作り壱年切りに指し上げ申すべき事」として、田畑売買を認めている。(同前 P.84)
 伊勢の津藩では、幕府同様に「田畑永代売買」が、原則として禁止される。しかし、現実には柔軟に施行し、認める場合もあった。それは、『宗国史』(下)の農戸雑令で次のように述べていることで明らかである。

          郷中に仰せ出だされ三ケ條の事
一 .........
一 .........
一 我等は当分の国主、田畑は公儀(*幕府)の物ニ候、然ルニ公田を当分の借り物の為(ため)ニ或(あるい)はこれを売り、或は質物ニ入れ候儀曲事(くせごと)なる儀ニ候、然るとも貧窮の百姓ハ拠無(よんどころな)き子細(しさい)もこれ有るべく候間、是非無く〔*やむを得なく〕候、奉行代官え断り無く私(わたくし)として買い取り質物ニ取り、その上高利を倍ニし百姓を取り倒し候は公儀を軽(かろ)しめ国民の魔害(*あやしい害物)たり、盗賊?(より)甚だしき大罪の者ニ候得共(そうらへども)、下々(しもじも)ニは貪欲ニふけりその理を弁(わきま)えざる事もこれ有り候間、一旦(いったん)はその罪科を免し候、吟味の上その品に依り申し付くべく候、若し難渋せしむる者(もの)候ハハ急度(きっと)曲事(*処罰)に申し付くべき事
                     (『宗国史』下 P.123)

 津藩でも、田畑の永代売りや質入れは原則禁止とした。しかし、貧窮した百姓が行なった場合、よんどころもない事情があるだろうからと言って、ヤムナシと容認する。ただし、藩の奉行・代官に断わりなしに勝手に田畑を買取ったり、質にとったりする者は『公儀軽しめ国民の魔害たり、盗賊より甚だしき大罪の者に候』と断定する。そして、年貢や諸役を納めるために止むを得ず田畑を得る場合は許可するから奉行・代官に断わるように、として事実上の田畑売買を許している。
 和泉の岸和田藩の場合は、「藩は享保一五年(一七三〇)と文化一二年(一八一五)において、『田地永代売の義、兼(かね)て御停止の事ニ候、弥(いよいよ)堅く相守り申すべき事』を下達していた(文化一二年「諸用留」け......)。しかし、永代売買証文は多数見られ、少なくとも、実態としては永代売買が行われていた」(萬代悠著『近世畿内の豪農経営と藩政』P.90)ようである。
 肥前国松浦藩では、(天保11)年8月、「被仰渡御請印帳」で、「一 田畑永代売買の儀は、兼々(かねがね)御法度(ごはっと)に付き急度(きっと)相守り候致すべく候」(『禁制地方経済史料』第八巻 P.465)と布達している。「兼々御法度に付き」と述べているように、この禁令は以前から度々布達されていたと思われる。度々布達されているということは、実態では、守られていないと推測されるのである。
 このように実際には、原則的には幕府の禁止令を尊重するが、年貢・諸役の徴収することが優先され、売買禁止を実施不可能とする藩が数多く見られたようである。

Ⅲ 検地の厳正化による小農保護
 
 太閤検地は、年貢高の基準を全国統一にし、石高制の基礎を築いたものであり、全国統一政権にふさわしい政策であった(《補論 戦国大名の検地と近世の検地》を参照)。しかし、実情は、指出(さしだし)検地〔*農民側の自己申告〕によるものが多く、実際に土地を丈量して年貢高を出したものは稀である。しかも実際に丈量した場合でも、年貢高は機械的に決められたのではなく、従来の慣行を十分に考慮したものであった。
 徳川幕府の慶長検地でも、実際に丈量する場合は増えたとしても、年貢高の判定は極めて政治的な判断が加味されたものであった。それは、島原の乱の一因ともなっていたことで明らかである。
 たとえば、「肥前唐津の寺沢広高は、関ヶ原の戦いの功によって、肥後天草四万二千石を加増された。しかし寛永十四~十五年(一六三七~三八)の島原・天草の乱の責任を問われて寺沢氏がつぶされた。そうして同十八年から天草が幕府の直轄領となると、やがて幕府は改めて検地をおこなって、万治二年(一六五九)に石高を従来の半分の二万一千石にしてしまっている。/ところが年貢についてみると、四万二千石の高(*表高)であったときには、年貢率が二割五分から三割ほどであったから、年貢額はほぼ一万石から一万二千石。これに対し二万一千石に減石の後は五割五分から六割ほどの率で課したから、年貢額は一万一千石から一万二千石。石高は減ったが年貢は逆に増加したばあいもあったのである。(もっとも、二割五分から三割という率は幕領になってからのもので、寺沢氏時代の率は明らかでない。おそらくこれよりかなり高かったのであろう。)」(辻達也著『日本の歴史』13江戸開府 中央公論社 1974年 P.322~323)と言われる。
 ここでも明らかの様に、肥後天草の表高は関ヶ原後には4万2000石であったが、1659年には2万1000石に減額となっている。まさに4万2000石の表高が、いかに恣意的なものであったかを示している。
 表高を恣意的に増額して、軍役を多く執行させようとしても、それは実態として無理があるので苛政を押しつける結果にしかならない。幕府は、時代も変わったが、天草が幕領になってからは、出来得る限り実態に即したものにし、年貢をできるだけ多く確保しようというのだろう、天草の表高を半額に減らしている。
 年貢収奪体制を再生産するには、実態に即したシステムが不可欠であり、そのためにはまず土地の検査が正確でなければならないのである。
 この点に関して、『地方判例録』は次のように述べている。「検地は土地の経界(けいかい)を改め正すの総名(そうみょう)にして、田畑に竿(さお)縄(なわ)を入れて反別(たんべつ)を改め、土地の位(*地位)を糺(ただ)し、石盛(こくもり)を附け、石高(こくだか)を定(さだめ)る法にして、国の盛衰(せいすい)民の安危(あんき)にも係ることなれば、その理を弁(わきま)えその事に堪(たへ)たる人にあらずんバ必ず任(まか)せ難(がた)し、先(ま)づ郷村の高を極(きわめ)ることを第一に考ふべし、田畑薄地(はくち *生産性が低い)にして石盛高きときは、縦(たと)へ租税を省くといへども、民衰えて武家も又(また)軍役足らず、石高土地相応なるときは、物成(ものなり *年貢)減ぜずして百姓も渡世足りぬ、?(ここ)に於て地制の整(ととの)ひたる地方(じかた)を領する家(*大名家など)ハ、軍役能(よ)く勤(つとま)りて礼儀欠ることなく、民は農業を快(こころよ)く励ミて、又(また)能く法令を守る、是(これ)文武兼備国家安全の本(もと)成るべし、故に仁政は経界より始(はじま)ると云(いへ)り、地方を司(つかさ)どる者、この道理を弁(べん)じ検地いたし、必ず正直(せいちょく)にすべし、只(ただ)地塁(ちるい)石高の加るを功とし、或(あるい)は租税を厚く賦(ふ)し、物成の増を忠と心得るときは、必ず政道の煩(はん)と成(なる)べし、......」(上、P.65~66)と。
 検地は「国の盛衰民の安危」に係るきわめて重要な問題であると先ずおさえ、「郷村の高」を極め、「地制を整ひたる地方を領する」ことが肝要であるとする。であればこそ、「仁政は経界より始る」という(このことは、中国戦国時代から言い慣らされている)。地方を司る者はこのことを弁え、検地すべきとする。ただ、"石高(表高)を多くし、租税を厚くし、年貢を増やせば忠義となるなどの心得"は、政道を間違える本となる―と言うのである。
 また、「勿論(もちろん)検地ハ天下の大法、地方の根元(こんげん)にて、一旦(いったん)縄を入れバ、往々(ゆくゆく)その縄を以て年貢諸役をつとめ、実に民の豊窮(ほうきゅう)すべて検地に依ることにて、至て大切なることなり、故に検地強けれバ、百姓末に至り退転(たいてん *逃亡)し、地所(じしょ)も自ら空地に成るゆへ(故)、地頭(じとう *領主)にても高(たか)計(ばか)りありて、年貢ハ納まらざるやうに成行(なりゆ)き、又(また)弱き縄にてハ無益に百姓に徳田(とくだ)を取らせ〔*百姓に利益を取らせ〕、地頭にて謂(いは)れなく損失あるに付き、検地の仕方(しかた)ハ悉(ことごと)く念を入れ、上下の為を第一に心得、奉行役人正路(せいろ)に致すべきことゆへ、古今ともに検地役人ハ正直潔白にて、地方(じかた)巧者を随分(ずいぶん)えらむ(選む)といへども、其内(そのうち)にも若(も)し不吟味にて、狼戻(ろうれい *狼のように心がねじれて道理にもとること)の検地奉行役人等ありて、民の難儀(なんぎ)をもいとわず、百姓を苦しめ、始終上下の為めの善悪をも顧(かえり)ミず、聊(いささ)かたりとも、畝歩(せぶ)を多く打出(うちだ)し、自分の功(てがら)に致す無慈悲の役人の手先に掛(かか)りたる村方ハ、縄もつまり高も増し、末々(すえずえ)村方困窮の基(もとい)となり、果(はて)ハ地頭の損失と成(なる)ことなり、......」(同前 P.73~74)と、上下(領主と百姓)の利益をよくよく考えて、検地しなければならないとした。
 幕府は、寛永の大飢饉を受けて、1643(寛永20)年の土地永代売買禁止令の発令につづき、1649(慶安2)年2月、全27ヶ条の検地条令を公布した。その全文は、以下の通りである。

    〈検地掟〉
一(第一条)検地の儀、百姓の身上(しんじょう)定め、生死の根本ニ候間、高下これ無き様に〔*検地に不公平が無いように〕、成程(なるほど)入念を、吟味これ有るべき事、
一(第二条)郷中ニこれ有る寺社、御朱印の御座候所〔*幕府が無税を保証した所〕ハ格別(かくべつ)、扨又(さてまた)御朱印これ無き分も、先規(せんき)?(より)寺社縄除き収納の仕来(しきたり)候所紛れ無きに於ては、名主・惣百姓方?証文を取り、跡々のことく〔*従来のように〕引き申さるべき事、
一(第三条)申すに及ばざる儀ニ候へとも、間違(まちがひ)、帳の違(*帳へのつけ間違い)、?(ならびに)落地(*検査見落としの地)これ無き様ニ念入れらるべき事、
一(第四条)他領の儀は申すに及ばず、隣郷の境目(さかいめ)、以来迄〔*今よりのちのちまで〕出入(でいり *もめ事)これ無き様ニ念入れらるべき事、
一(第五条)今度縄打(なわうち *縄をもって検地すること)申さるる候組(くみ)の下々(しもじも)に至るまで、万(よろず)不作法これ無き様ニ念入れらるべきを、勿論(もちろん)喧嘩(けんか)口論、少(すこし)の儀なる共、出入(でいり)これ無き様ニ下々へ堅く申し付くべき事、
一(第六条)他領と入り組み分ヶ(ぶんが)郷〔*飛地のこと〕これ有る村は、その給人々え前廉〔*事前に調べ〕相談せらるる尤(もっとも)ニ候事、
一(第七条)今度御縄打、郷村により以前の高不足□成る所もこれ有るべく、又(また)出で候〔*以前の高より多く出た〕所もこれ有るべく候、明鏡に〔*曇りなく明らかにする鑑のように〕縄打(なわうち)仕られ候上は、出で候共(とも)不足ニ候共(とも)、その通りに為(な)すべき事、
一(第八条)間竿(けんざお)ハ、田舎間六尺壱分の事、
但し、弐間竿壱丈弐尺弐分、
一(第九条)今度御縄打の儀、一入り(*一層)慎み、万(よろず)入念にせれらるべくを候、申すまで無く候へとも、つよく(強く)もよハく(弱く)もなく、正路(*正しい方法)に打ち申さるべき事、
一(第十条)検地の村々、上ノ郷、中ノ郷、下ノ郷見わけ、分米(ぶんまい *高のこと)等の詮議(せんぎ *評議して物事を明らかにすること)肝要の事、
一(第十一条)田畑上中下肝露(ママ)ニて候、分別に及ばざる所は、近所の御縄打の者と立会(たちあい)、談合(だんごう *話し合い)を致し、上中下野土(ママ)無き様ニ〔*地位をつけられないことの無い様にか?〕致すべく候事、
一(第十二条)郷中先高(*以前からの高か?)の内ニても、隣郷え入り、郷境能(しか)と存じ候所ハ、近郷の縄打衆と談合致し究(きわ)め申すべき事、付(つけたり)、井堀・つつミ(堤)にいたしたきと申す場候ハハ、見分(けんぶん *検分)の上、詮議致し申しつくらるべし、
一(第十三条)反数多く打ち候ても、麁相(そそう *不注意で誤りを犯すこと)ニ候ハハ、無益の事に候、
但し、油断致し稼ぎ申さず候て、脇?(より)聞え候歟(か)、申すに及ばず、以来(*今よりのち)聞へ候共、越度(おちど *過ち)と為(な)すべき事、
一(第十四条)付荒・当不作ハ手紙ニ付き、宿え帰り、詮議の上、種代程(ほど)これ有る所ハ、付荒致すべく候、壱斗共(とも)、弐斗共(とも)取るべき所ハ、吟味の上、下ニも付け申さるべき事、
一(第十五条)親跡(親戚)の田地の儀、子供分け持ち候ハハ、銘々(めいめい)ニその所に名を書付け、帳ニ付け申さるべき事、
一(第十六条)壱組の内ニて手分けを致し打ち〔*検地をすること〕候事、仕るまじく候、但し、遠キ所ニ壱弐反も田畠これ有るは、組頭相談の上ハ格別に為すべき事、道セはく(狭く)打ち詰め申しまじき事、
一(第十七条)郷移りの儀、帳奉行?(より)指図(さしず)次第移り申さるべき事、
一(第十八条)郷中ニて写し候帳、帳奉行の者とも談合を究め、其(その)余に致し右(ママ)書判仕り、名主・百姓に渡し申さるべき事、
一(第十九条)案内いたし候名主・百姓屋敷少(すこし)宛て引き〔*実際の面積より減額する〕候分、屋敷帳(ママ)の者の名の所ニ反歩あらハし、外に何程(なにほど)引きと書付け申さるべく候、付(つけたり)、高五畝(ごせ)、又(また)壱畝までの内、高下これ有り、
一(第二十条)勘定場内帳(ママ)書き場え他の者入れ申すまじき事、
一(第二十一条)御縄先打ちの手?(より)打ち、境に念ヲ入れ、塚をつき、紛れざる様に分米(*高)を立て置き申すべき事、
一(第二十二条)郷移り伝馬の儀ハ、馬数を書き、その所へ手形を出し置き申すべき事、
一(第二十三条)小歩(しょうほ *面積を大半小の小割りにした場合、小歩は三分の一)の儀、分限に応じて遣わし申すべく候、入らざる所へ人夫費やさざる様ニ仕らるべき事、
一(第二十四条)御扶持(おんふち)方の儀、帳奉行主人ハ一日に壱升宛ての事、但し、下々ハ一日壱人ニ五合宛て、
一(第二十五条)御縄打ち一組四人ハ、一日ニ壱人ニ壱升宛ての事、
一(第二十六条)四人の外(ほか)、竿取りこれ有らば、竿取りの分、一日ニ壱人ニ壱升宛ての事、
右の分、堅く相守らるべき事、
   (「条令拾遺」四六号)【『土地制度史』ⅡのP.56~58から重引。但し、全部で26カ条であった。1条足りない】)

 この「検地掟」の内容は、まず第一に、検地をするにあたっての政治姿勢が冒頭の第一条をはじめ第七条・第九条などに明らかにされている。
 第一条は、検地は「百姓の身上定め、生死の根本」であるから、不公平がないように入念を行なうべきと宣言している。したがって、第九条で検地にあたって、縄打ちは、「つよくもよハくもなく、正路に打つ」べきとする。すなわち、長さを測るための縄打ちを強くしたり(田畑などの面積が実際より小さくなる)、弱くしたり(田畑などの面積が実際より大きくなる)しないで、公明正大に正確に行なうべきとする。恣意的な政治意図をもった測量では、永続的な年貢収奪を保証しないからである。こうした姿勢からは、当然なこととして、測量の結果が従来の高と比較して、少なかった場合も多くなった場合もあるだろうが、「明鏡に縄打ち仕られ候上は、出候とも不足ニ候とも、その通りに為すべき」(第七条)としている。だから、無理矢理に反数(村の高を決める際に重要)が多くなるように検地することは、かえって「無益の事」となるので止めるべき(第十三条)とした。
 第二は、このような政治姿勢に立脚して、間違いのないように測量を入念に行ない(第三条)、また、喧嘩口論や些細なことでもめないようにすべき(第五条)と、正確・丁寧な測量を求めている。そして、間竿(けんざお)は、具体的には6尺1分のものを使用するとしている。
 第三に、政治的に注意すべき留意点は、村請制を強化する観点から次のように配慮している。第十条では、検地対象の村の位(上中下)をよく見わけて、分米(高)を詮議すべきこと、第十一条では、田畑の上中下を見極めるのが肝要であり、分別し難い時は近所の縄打ち衆と相談すべきこと―とした。
 また、村請制の観点から、隣りの村との境目には、とりわけ注意して入念に検地すべきとした。たとえば、第四条では、「他領の儀は申すに及ばず、隣郷との境目」を正確にし、紛争が起こらないように入念にすべきこと、第六条では、「他領と入り組み分けの郷」の場合、それらの給人(領主)とあらかじめ相談しておくことが大事であること、第十二条では、当該の村の高が隣郷に飛地になっている場合は、近郷の縄打ち衆とよく相談すべきこと、特に、井堀・堤にしたい場所については調査の上、よく詮議すべきこと―とした。
 第四に、名主など当該村の主だった者との関係を重視し、年貢確保を確かにするように配慮している。第十八条では、検地帳(水帳)の写しを、帳奉行とよく相談した上で、当該の名主などに渡して置き、年貢取立ての際の目安としたと思われる。第十九条では、検地の際に案内した名主や百姓の屋敷地は実際より少なめにして、検地への協力を慰労し、かつまた今後の年貢取立てに奮起するようにしている。
 第五に、第二十四・二十五・二十六条では、検地を現場で実際におこなった役人やその下役の者たちへの手当を具体的に規定している。
 他にもいくつかの細やかな規定があるが、中でも重要なものは第十五条である。分家の続出(次・三男の独立、あるいは譜代の下人の不十分であるが「自立」の動き)が進行していた当時、第十五条はその動きを公認とし、奨励するものであった。これは明らかに小農を保護する政策である。しかし、幕府は、草分け百姓の系譜をもつ手作り大経営(複合家族)の大農を否定し、抑圧しているわけではない。
 慶安の「検地掟」は、明確に村請制をより強固なものにしようとするもので、その一環として「小農保護」の姿勢があらわれているのであった。
 幕府は、寛永・慶安(1648~1652年)の検地にひきつづき、寛文年間(1661~1673年)には関東地方において、延宝年間(1673~1681)には畿内幕府領において、検地を実施している。
 寛文の関東総検地では、慶安検地条例に準拠して行なわれ、小農が広範に登録された。とともに、それまでの検地では徹底性を欠いた村切り(村境を明確にして、内外の飛地を無くすようにすること)を推し進め、従来、永高制1)をとっていた村々をも明確に石高制に切り替えるようにしている。(北島正元著『江戸幕府の権力構造』第四章第一節を参照)
 次いで、1677(延宝5)年の夏から1679(延宝9)年の秋にかけて、延宝検地が行なわれた。これは、山城・大和・摂津・河内・和泉・近江・丹波・播磨の8カ国と、讃岐の小豆島・直島、奥州森山の幕領で実施された。これらの地域では、太閤検地を古検といい、延宝検地を新検といった。この時に決められた石高は、元禄期以降の貢租賦課の基準となった。
 延宝検地は、延宝5(1677)年3月に発布された29ヶ条からなる検地条目にそって行なわれた。その主な諸点は、以下の通りである。

第一、六尺一分を一間とし、三〇〇坪を一反とした。......
第二、田畑の位(くらい)付けは、上・中・下のほか見計らいで上々・下々を設け、五段階とした。
第三、商品作物生産の進展に対応して、漆(うるし)・桑・楮(こうぞ)・茶園は別に年貢を申しつけるようにした。
第四、永荒地や川欠地・山崩地であっても、再開墾が可能なところは、早く田畑にするようにさせ、また池・沼などで一、二年中に新開できるところは、百姓と相対(あいたい)のうえ検地をして高入れをすることとした。
                 (北島正元編『土地制度史』Ⅱ P.58~59)

 延宝検地は、1670(寛文10)年ころから延宝初年にかけて、洪水や天候不順などで不作がつづき、1675(延宝3)にはついに全国的な飢饉に発展してしまったことがある。このため、幕府財政は悪化し、年貢提供を担う百姓が広く困窮した。よって、名請人の多くを占める小農を保護しつつ、年貢の安定的確保を狙ったものである。
 また、幕府は検地の公正さを期すために、従来のように幕府代官をもって検地の担当者とするのでなく、これ以降、近隣の大名に命じて実施させている。

注1)戦国大名の段階では、近世の石高制とは異なり、貫高制が採られていた。それは、雑多な現物からなる年貢の量を、比較可能な数値として貫に置き換え、それを家臣が負担すべき軍役量として算出するためであった。しかし、東国と西国では銭貨の流通状況が大きく異なっており、西国では、「永楽銭は全体の一〇~三〇%ほどしか用いられなかったのに対し、東海地域をおおよその境界として、それより東の地域では永楽銭が広く用いられていたのである。これは、東国では戦国大名の領国経営の中で永楽銭が他の銭貨に超越し、単なる通貨としての役割を超えて、戦国大名の所領内における諸賦課などを示す基準として永楽銭が用いられるようになったことによっている。」(佐藤和彦編『租税』(桜井昭男氏執筆)P.122~123)のである。このため、永楽銭を基準とした東国の戦国大名の権力編成のあり方を永高制といった。

《補論 戦国大名の検地と近世の検地》
 土地の調査は古代律令制社会においても、もちろん存在していた。しかし、「検地」という用語が広く使われるようになるのは、戦国大名らによってである。
 律令制が崩壊すると、支配的な所有体系は荘園制的な所有関係が基本となる。10世紀から13世紀の荘園では、一般的に、一つの土地に本家―領家―荘官―名主という重層的な職(しき)の体系(所有関係)がつくられ、幾重にも重なって中間収奪者が喰らいついていたのである。
 本家は別に本所とも言うが、皇族・大貴族・大寺社を指す。領家(りょうげ)は、中級貴族・一般寺社などを指す。荘官は、「預所(あずかりどころ)」、「下司(げし)」、「公文(くもん)」などさまざまな名称を持つが、荘園管理や徴税権などを委任された者である。
 律令制の崩壊に伴い、税は従来、人を基準にして課せられていたのが、人ではなく土地を基準にして課せられるようになる。こうして、荘郷の耕地は、農民の保有地を基礎に名(みょう)に編成され、課税の単位とされた。そして、名(みょう)内の有力農民の一人が名主(みょうしゅ)に補任された。その名主の役目は、名の年貢や公事(くじ *仏神事の手伝いや夫役)をとりまとめて納付することであり、徴税請負人である。その代わりに名主は、名内の耕地から年貢・公事以外に加地子(かじし *剰余労働部分の一部)をも徴収する権限を荘園領主から与えられた。
 鎌倉幕府や室町幕府などの武家政権は、既存の荘園体制を一気に打倒したのではなく、その体制に寄生しながら徐々に権益を奪い取り、公家との二重権力状況をじょじょに克服していった。その主な節目は、以下の通りである。1185(文治元)年11月、守護・地頭の設置と兵粮米の徴収権限を獲得する。1192(建久3)年7月、源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を創設する。鎌倉中期以降、土地の領有権をめぐり荘園領主・国衙(こくが *国司の役所)と地頭との間で紛争が増大するが、武家政権は地頭請(税の収納を義務付ける代わりに地頭に所領支配を譲る)や下地中分(したじちゅうぶん *所領を折半して半分を地頭の私領として認める)をもって裁定する。鎌倉末期から南北朝期に入ると、皇族・摂関家・諸家官人・大寺社などの荘園や知行国(ちぎょうこく)1)はどんどん減少し、彼らはお膝元の所領を残すだけとなる。しかし、戦時用に年貢の半分を武士に与える半済(はんぜい)などにより、それらもさらに弱体化し、荘園制度は変質・解体される。
 この間、農民たちの荘園領主に対する抵抗闘争は粘り強く展開され、年貢は固定化される傾向となる。また、農業生産力の発展により、生産性は向上し、加地子部分は拡大する。加地子〔かじし〕とは、剰余労働部分の内の年貢・公事を超える部分を指すが、「一三世紀頃までは、加地子は本年貢と同率もしくはそれ以下であったが、鎌倉末期から南北朝期を境にこの比率は逆転した。中世後期には、年貢は固定化される傾向を有する反面、加地子は生産力の増大にともなう在地余剰として地主層のもとに保留されていった。」(佐藤和彦編『租税』東京堂出版 1997年 P.48)と言われる。
 農民の中には、特定耕地を所持し(耕作権を持ち)手作りする農民、自ら耕作しながら、名(みょう)の年貢・公事を収納し荘園領主に納める名主(みょうしゅ)がいるが、名主の手元から一筆ごとの耕地の加地子収取権が分離して、それを寄進や売買で集めた加地子名主職が発生する。加地子名主職は、全く農業経営には関与しないが、剰余労働の一部を収奪する金融活動によってその権限を獲得した者である。土地を所持し直接耕作する農民は作職をもち、その上には加地子名主職を戴き、加地子を負担する。
 剰余労働部分の獲得をめぐる争論が激しくなり、加地子名主職の売買は14世紀末から15世紀前半にかけて盛んとなる。また、作職の売買は、15世紀後半から集中的に表れるようになる。作職が売買されるということは、「地主―小作関係」の成立を意味する。すなわち、一方では作職の集積の上に立って、土地を借耕させている階級と、他方では作職を売払い、借耕し収奪される階級の間の、収奪―被収奪の関係の成立である。
 複雑で幾重にもかさなった所有関係を単純化し、中間収奪者をなくし(あるいは少なくする)、戦国大名の収奪分を最大限にするのが彼らの検地であった。
 その具体例を武田信玄の検地の結果を、1563(永禄6)年前後の恵林寺領御検地日記などにみると、以下のようになる。すなわち、検地の結果、「農民たちは、?同心衆・?軍役衆・?惣百姓という差別をもって掌握され、つぎのような記載形式で登録された。
?同心衆(一二名)
一、 拾弐貫六百文   本御恩  網野弥四郎(吉田左近輔殿同心)
  五貫五百五十文  踏出   同人御重恩
    合拾八貫百五十文  此外屋敷仁間
?軍役衆(二三名)
一、 八百文      本成方  河井善三郎
  壱貫八百弐十五文 ふみ出御免
?惣百姓(一四五名)
  本七百五十文
一、 弐貫三百九十文       網野新九郎
   此内九百五十六文引
  残而可納分 壱貫四百三十四文  (体系日本史叢書5『土地制度史』Ⅰ―第八章戦国期の土地制度〔藤木久志執筆〕P.495)
  
 ?同心衆というのは、大名権力の下に寄親寄子(よりおやよりこ *土豪・地侍らを家臣団に組み込み、彼らを大名の主だった家臣に預ける制度)に編制されたもっとも末端の家臣である。この「本御恩」は、?の「本成方」、?の「本」に対応するもので、荘園制下の「本年貢」部分である。すなわち、それを「本御恩」として本領安堵(「本年貢」の免除)とすることによって主従関係を更新したのである。「踏出(ふみだし)」というのは、検地によって増えた(検地増分)部分で、それも年貢を免除されたものである。これらの「御恩」に対し、?は軍役などを果たし、主従契約を全うするのであった。
 ?軍役衆は、もともと「本成方」(荘園制下の本年貢)の年貢負担者であり、この点、検地以前は、惣百姓と同じであった。しかし、検地以後は、?とは違い特定の寄親寄子関係に組み込まれていないが、あらたな軍役衆に組み込まれた者である。彼らは、荘園制下の本年貢は負担しつつも、新たな「ふみだし」分は?並みに年貢を全免され、軍役衆に組み込まれた。
 ?惣百姓は、「......一律に検地総高から"四納所"引つまり四割控除をうけながら、なお全体としては検地前より六割もの年貢加重を義務づけられ、"惣百姓"=年貢負担者として確定された」(藤木前掲論文 P.496)者たちである。この?と?との差別は、他の雑公事系の貢租でも貫徹している。
 武田検地により、武田氏は本年貢の二倍近い踏出=検地増分を打出し、これをもとに百姓の一部を撰びだし、踏出し部分の年貢付加を全免し、その代わり新たな軍役衆に組織した。そして、残る百姓には、本年貢・公事にわたる賦課の加重を強制したのである。
 藤木氏によると、「ことに検地の強行される以前、大名の軍役・知行体系は荘園体制下の本年貢高を割き取ることによって成立するという、畿内近国の大名権力と同じような荘園体制への濃厚な寄生的性質をおびていたのであり、戦国大名権力の本質は荘園体制のワクを超えるものでなかったのであった。しかし検地強行をつうじて、本年貢の二倍にもたっする踏出分を打出し、それを物質的基礎=軍役体系の基盤とする同心衆・軍役衆編成を創出することによって、なお本年貢体系を否定解体せしめなかったとはいえ、その大名権力の体質がかなりその寄生的性格を克服し強化されたことは確実であろう。」(同前 P.497)と評価されている。
 戦国大名の早い例としては、1506(永正3)年、北条早雲が相模国で行なったのものが有名であるが、以後、今川・朝倉・毛利・武田・上杉・島津などの大名家が続いた。
 織田信長も、近江・伊勢・山城・大和・丹波・播磨・丹後・信濃などで、1568(永禄11)年から1582(天正10)年まで連年のように実施している。信長の検地は、本年貢高を分米(石高)で示すものが多く、また、指出(さしだし *農民の自己申告)がほとんどであると言われる。
 秀吉は、1580(天正8)年に、信長の指令で播磨国の検地を奉行として行っている。以後、秀吉は死亡する1598(慶長3)年まで連続的に行なうが、太閤検地と称される秀吉の検地が整備されるのは、朝鮮侵略の最中である1594(文禄3)年の「就伊勢国御検地相定条々」とされる。
 秀吉は検地の統一基準として、①360歩1段(反)の旧法を改め、1間を6尺3寸とし、300歩1段の制をとって、町・段・畝・歩などの定量単位を採用した。②地目(ちもく)は、田・畑(畠)・屋敷と分類し、地位(ちぐらい)は上・中・下の3段階とし、別に下々地を設けた。③10合1升の京枡(きょうます)による石盛(こくもり)の法をもって、土地の石高を査定し、旧来の貫高制での土地表記を石高制に改める―などを定めた。
 石盛とは、年貢賦課の基準として、地目、地位に応じて定めた年貢賦課量であり、それは抽象的なものであった。たとえば、太閤検地では、時と場所により違いはあるが、ほぼ、以下の通りとした。すなわち、一反あたりの石盛は、上田は1石5斗、中田は1石3斗、下田は1石1斗、上畠は1石2斗、中畠は1石、下畠は8斗で、田畠とも下々は見計らい(実見して適切に決める)とした。この例は、1589(天正17)年10月、美濃国検地条目で明文化され、1594(文禄3)年に統一的基準ととして固められた。なお、この時、屋敷地は1石2斗と上畠並みとした。
 これまでの太閤検地と石高制に関する通説として、その石高を生産高(収穫高)とし、太閤検地・作合(さくあい *中間収奪)否定政策・小農自立政策によって、小農経営を基盤として全剰余労働部分を収奪する封建制的な領主・農民関係が成立した(中には「封建革命」をもたらしたとの評価もあった)などと誤った評価がされた。
 しかし、水林彪氏によると、「〔*豊臣政権時代の〕石高はけっして全生産力の基準値ではなかった......石高は、年貢高と村入用を中心とする年貢免除高の計で、そこには農民の衣食住にあてられる再生産費用はまったく含まれていないからである。」(同著日本通史Ⅱ『封建制の再編と日本的社会の確立』山川出版社 1987年 P.128。詳しくは同著を参照)と言われる。
 また、池田裕子氏は、「〔*豊臣政権の〕石高は年貢高か生産高かといえば、生産高ではなく、年貢高であり、現実の年貢高決定方式からみれば年貢賦課基準高であると結論づけることができる。」(同著「検地と石高制」―『日本史講座』第5巻近世の形成 東大出版会 2004年 P.116)とか、「......太閤検地後にも剰余・加地子に相当する作徳・作合が広く存在しており、また地主小作関係が展開してゆくことを考えると、斗代(*石盛)を上回る生産量があったことはあきらかである。」(同前 P.116)としている。
徳川幕府の検地としては、初期の慶長検地、1649(慶安2)年の「検地掟二十六ケ条」が制定された前後の寛永・慶安検地、関東地域や畿内幕領の総検地として行なわれた寛文・延宝検地、1690(元禄3)年の「検地条目」を基準とした元禄検地、1726(享保11)年の「新田検地条目」(大規模な町人請負新田の造成に対応した)などがある。
 徳川幕府の初期は、大久保長安・彦坂元正・伊奈忠次らを奉行とした検地で、慶長検地と称される。北島正元著『江戸幕府の権力構造』(岩波書店 1964年)によると、「徳川氏の慶長検地が地方によっては後世まで『慶長の苛法』と伝えられたのは、それだけ関ヶ原戦後、統一政権に上昇した徳川氏の権力構造の集中・強化を証明している」(P.493)と評価されている。
 慶長検地の特徴は、①検地竿(さお)は曲尺(まがりがね)6尺、②1反は300歩、③枡は京枡を使用、④地目は田・畑・屋敷(以上は高成)、山林・原野、⑤地位(じぐらい)は上・中・下の3段で、時に下々をつくった、⑥石盛は上田・中田・下田おのおの2斗下り〔*それぞれ順に上から2斗の差がある〕、上畑・中畑は3斗下り、下畑は4斗下り、⑦屋敷地は上畑並み―である。
 基本的に、太閤検地の方式を引き継いでいるが、最大の違いは、検地の間竿(けんざお)が太閤検地の6尺3寸から徳川検地の6尺に短縮したことである。だが、徳川検地では6尺1分の間竿を用いたという誤解が多いようである。だが、検地には"二間竿を用いるので、竿を土地に突立てたりする為に、その両端の損傷を考えて両端に一分づつの砂摺りを加えたもので、一間を六尺一分にするために加えた一分ではない"のである。現に、六尺竿や三十間縄には一分を加えていないのである。
 『地方凡例録』もまた、「慶長・元和の頃よりの検見(けみ *毎年、米の出来具合を試験的に測り、その年の年貢を決める方法)ハ六尺壱分の竿を用ひ、壱反三百歩の積りなり、之(これ)に依て古検ハ六尺三寸四方を壱歩とし、新検ハ六尺四方を壱歩とするに由り、文禄中までを古検(こけん)と云ひ慶長・元和以後を新検と云ふ」(上 P.71~72)と述べている。すなわち、6尺四方を1歩、つまり間竿は1間6尺であったというのである。

Ⅳ 分地制限令

 (1)質入れ地の所持権が不明化
 17世紀半ばから後半にかけて、質入れ地の所持権が行方不明となるような事件が急速に増加するようになる。
 それは、さまざまな理由がある。たとえば、質入れしたままで本銭返しもしない(借金を返済しない)状態が長年放置されると、質取り人の側でも自分で耕地を押えているので、いつの間にか所持権が自己にあるかのように思てしまうのである。また、質取り人がその土地を再度(さいど)質に出したり、あるいは質入れ・質取り人の死亡などによって、代替わりが行なわれたりすると、事態はいっそう混乱する。さらに、17世紀半ばころになると、農民の剰余生産部分が次第にふくらむようになり、単純な質入れ・質取りのみならず、その上になおまた成立した剰余生産部分の収奪をねらった質取り(中間収奪の確保)も増えてくる。
 こうした状況に対処し、百姓の所持権を明確にし、年貢の正確な確保を行なうために、幕府は1666(寛文6)年11月11日、次のような法令(全二十八カ条)を出す。

一(第九条)田畑永代に売買致すべからず、屋敷?(ならびに)田畑(でんぱた)質物に預ケ(あずけ)申す儀これ有るは、名主、五人組手形(*証文)に加判(かはん)仕り、双方より証文取替し、持ち申すべく候、預け申す筈(はず)の屋敷田畑、名主、五人組加判の事(こと)異儀申すにおゐてハ〔*加判することを拒んだ場合は〕、訴え来るべし、勿論(もちろん)届け申さず、預け候ハハ、その者〔*質入れした当人〕ハ申すに及ばず、名主、五人組曲事(くせごと)をなすべし〔*処罰すべきである〕、又(また)預かり申さず筈の
田地(でんち)預け申したる由(よし)申す族(やから)これ有るは、名主、五人組おさへ置き、申し来たるべき事、
         (「御当家令条」二八五号―『近世法制史料叢書』第二 P.162)

 この法令は、まず最初に「田畑永代売は禁止されている」と再確認している。そのうえで、質入れ・質取りという庶民相互間の行為から生ずる紛争を防止するために、証文を2通ずつ作り、双方にもたせ、しかもこの証文が間違いないものであることを保証するために、名主・五人組に連帯責任を負わせるという制度である。これにより、「本百姓体制」の形骸化を阻止しようというものである。
 逆に言うと、この法令を出さざるえないほどに、質入れが頻繁になされ、紛争がしばしば起こっていることを示している。

(2)分家続出で分地制限令
 戦国時代末期から近世初頭にかけて、日本の農業は急激に耕地面積を増大させ、外延的発展をもたらした。一定地域を一円支配する巨大領主が戦国の争乱の中から生み出されたが、彼らは飛躍的に発展した用水・土木技術を使って、従来は荒れるにまかせた大河川を制禦し、その周辺の平野部を耕地化した。日本の農業は、この頃から、これまでの谷戸(やと *谷合い)を利用した水田から広大な平野部を水田とした農業に移行した。そのため、耕作地は急拡大し、農民は多ければ多いほどよかったのである。それ故に、領内はおろか他国からも百姓を集め、耕作させた大名もいたのであった。
 こうした時代状況の下で、大農の手作り経営1)に奉仕していた譜代下人や傍系親族(次男・三男など)も田畑屋敷を分与ないしは貸与され分家するようになってゆく。また、傍系親族や譜代下人は、自ら自立を望み、訴訟も含めさまざまな闘いにより、不十分ながら(現実に支配・従属関係は残っていたとしても)自らのイエを次第に持つことができるようになった。このことは、ムラの中で一人前と認められる「百姓」に成りうるのであり、そのメルクマールはイエという経営体を持つことであった。
 しかし、耕地開発を背景とした小農の増加傾向は、寛文期(1661~1672年)には一段落し、耕地の増加は見られなくなる。そこで幕府は、1673(寛文13)年6月(従来の通説では)、分地制限令を出して、本百姓体制を支えるイエの維持策を採ったのである。
 田畑永代売買禁止令とともに、分地制限令は幕藩制社会において基本的な土地立法といわれる。その内容は、以下の通りである。

一、 名主百姓名田畑持ち候大積(おおつもり *概算)、名主弐拾石(*20石)以上、百姓拾石(*10石)以上、夫(それ)より内(うち *以内)持ち候ものは、石高猥(みだり)に分(わけ)申すまじき旨(むね)仰せ渡され畏(おそ)れ奉り候、若(も)し相背(あいそむ)き候はば何様(いかよう)の曲事(くせごと *罰)にも仰せ付けらるべき事、

 この文意は明瞭であり、名主は20石以上、一般百姓は10石以上持っている場合以外は、田畑を分けてはいけない―というものである。
 この典拠は、1886(明治19)年に編纂した『日本財政経済史料』の「伍簿案」であって、日付は1673(寛文13)年6月である。
 しかし、江戸時代で最も信頼できる法令集である『御触書』の中の『御触書寛保集成』(岩波書店)では、分地制限令の初出は、1713(正徳3)年4月となっている。それは、代官宛てのものと百姓宛てのものがある。代官宛てでは、「......或(あるい)は古来の定法に違(たが)ひて、持高(もちだか)10石以下の百姓、其(その)心に任せて田畑を配分し、是(これ)によりて其村に相応(そうおう)せさる人別屋別の数を増し......」(『御触書寛保集成』一三一四号 P.689)となっている。百姓宛てのものは、「諸国御料所御仕置(おしおき)の次第、前々よりの御條目御定書(おさだめがき)等これ有り候処(そうろうところ)、近年に及ひ在々の法度(はっと *掟)ゆるミ(緩み)、......或は持高拾石以下の百姓、その心に任せて田畑を配分し、すへて此等(これら)の類、古来の定法に背き候事共(ことども)これ有る由(よし)相聞え候......」(『御触書寛保集成』一三三七号 P.707)となっている。
 これで明らかのように、この正徳の法令以前に分地制限令は出されているはずである。しかし、正徳の法令がいう「古来の定法」が果して、寛文13年6月の法令かどうかは不明である。大石慎三郎氏はさまざまな検討の結果、分地制限令の初出は1673(寛文13)年6月の法令であろうとし、「万一"分地制限令"の初出が、寛文十三年よりさかのぼるということが、将来あったとしても、それが寛文十三年を大きくこえるということは考えられない」(北島正元著『土地制度史』Ⅱ―大石慎三郎執筆「第一編 近世」P.87)としている。 
 分地制限令が発令された狙いは、分家が繰り返され、小農の持ち高がますます細分化するのを阻止し、小農経営を保護し、ひいては村請制を維持することである。
 先述するように寛文期には新田開発は一段落し、土地生産力の外延的な発展は頭打ちとなり、分家する余裕はなくなってきた2)。しかし、自立を求める隷農などの要求も強く、現実にはこの後も分地は進み、小規模な高持ち農民は増えて行ったようである。小規模農家が増え、年貢確保が危ぶまれるのを防ぐために、幕府は小農経営が成り立つ水準の目安を立てて、分地制限令を出したのである。
 なお、分地制限令は、1721(享保6)年7月の法令でさらに厳しくなっている。その法令は、以下のように規定されている。

    田畑配分之定
高拾石        地面壹町(一町)
右の定めよりすくなく(少なく)分け候儀(ぎ)停止たり、尤(もっとも)分け方ニ限らず、残り高も此(この)定めよりすくなく残(のこす)へからす、然(しか)ル上ハ高貮拾(*20石)地面二町よりすくなき(少なき)田地持(もち)ハ、小共(子供)を始め諸親類の内(うち)え田地配分罷り成らざる候間、養介人(*面倒をみなければならい者。厄介人)これ有る者ハ、在所ニて耕作の働(はたらき)ニて渡世致させ、或(あるい)は相応の奉公人ニ指し出すべき事、
  丑七月               (『御触書寛保集成』一三一七号 P.695)
  
 ここでは名主・平百姓の区別なく、高でいうと20石、地面でいうと2町歩以上もち、分家に分地しても残りが高で10石、地面で1町歩以上保持していなければならないのである。

注1)兵農分離を根本から再検討した吉田ゆり子氏は、従来、草分け百姓など旧土豪・地侍の系譜をひく大農の手作り経営という概念をも再検討した。そこでは、「これまで土地と結びついた地主と考え、太閤検地や近世前期の検地帳名請地の集計から大高持ちに見えていた地侍・土豪層も、得分(加地子〔かじし〕)収取者であった。そのために、検地を受けるたびに直接耕作者により旧来の得分収取地を失う危機に直面していたのである。その結果、彼らは逆に近世に入ってから、名主役を放棄する、商いに経営基盤を移す、あるいは武家奉公に出るなど、村との関係を断ち切る方向に向かうことにもなるのである。つまり、近世初期における地侍・土豪層の土地との関係は弱く、従来の研究が前提としていた家父長制的大経営や名田地主経営概念は再検討されるべきであろう。」(吉田ゆり子著「兵農分離と身分」―『日本史講座』第5巻近世の形成 東京大学出版会 204年 P.163)と、提起されている。
 2)分家の増大は、経営条件の限界に規定される。「分家し自立性を強めるようになった小農民は、「『百姓』身分としての同質性に基づいて相互に連帯し、......村の共同体秩序を形成したのであるが、同時に『百姓』身分と村内での生産諸条件、すなわち土地所持と山野・水の用益権などを一体化し、株として固定化する傾向を示すようになる。村という限定された空間内部においては、おのずから生産諸条件も限界をもつ。そうしたもとにおいて家を維持していくための方途として、百姓株化によって生産諸条件の確保をはかったのである。かかる段階の村社会においては、百姓株をもつことによって一軒前の家として認められ、それを有しない水?(みずのみ)は、公儀に対する年貢・諸役と村役を負担しないかわりに、村内の諸権利からも排除され、村政参加権も認められないのが一般的であった。」(新体系日本史2『法社会史』―Ⅲ近世4章村と町〔大藤修氏執筆〕P.305~306)といわれる。
 近世社会において、隷属的身分から一軒前に成長することが、身分一般の解放とはならず、あらたな身分差別を作りだす巧妙な仕掛けとなっている。百姓株の固定化は、身分一般のかいほうにとっては大きな壁となったのである。

Ⅴ 近世土地政策の転換へ踏み込む綱吉治政

 第五代将軍綱吉の治世は、1680(延宝8)年7月から1709(宝永6)年1月までの、足掛け30年の長きにわたっているが、それは大きくいって前半期と後半期に分けられる。
 前半期は一言でいうと、徳川初期の体制を維持しようという姿勢であるが、後半期はこれと180度異なり、現状に合わせ、現状に対応した政治姿勢に転換しているのである。 
 前半期は大老堀田正俊が権勢をふるった時代で、1688~1694(元禄元~6)年ころを移行期として後半期に移る。後半期は、柳沢吉保が側用人として権力をふるい、勘定方を担当した荻原重秀とコンビを組んだ時代である。
 
 (1)従来の土地政策を遵守する前半期
  (ⅰ)あくまでも質流れを認めず
 綱吉前期政権は、1687(貞享4)年4月、次の〈覚〉を出して、田畑永代売買禁止の原則を強調しながら、あくまでも質入れ地の年貢諸役の担い手を明確化している。

       〈覚〉
一(第一条)質地取り候者(*質地地主)、年貢これを出さず、質地に遣(つかわ)し置き無田地の者(*質入れ主)より、年貢役等勤め候者これ在る由(よし)相聞(あいきこ)え、不届(ふとどき)の至りに候、堅く停止の事、
一(第二条)田畑永代売買、此(これ)以前(いぜん)仰せ出でされの通り、彌(いよいよ)以て制禁(せいきん)の事、右の趣(おもむき)、堅く相守るべし、若(も)し違背(いはい)せしむるに於ては、罪科を行なうべきもの也(なり)、
   四月             (『御触書寛保集成』二六〇二号 P.1214)

 この〈覚〉は、第二条で、田畑永代売買禁止令を固く守るべきとし、違背した場合には「罪科を行なう」、すなわち処罰を加えるとしている。
 そして、第一条で、質地の年貢役等について、"質取り人がこれを勤めず、質入れ人が務めている"との情報があるが、これは「不届の至りに候、堅く停止の事」と、明確な態度をとっている。
 また、幕府は、土地の質入れに対して、同年11月、「御勘定組頭?御代官心得(こころう)べき御書付」(全二十二条)の第十六条目で次のように規定している。

一(第十六条)田畑永代売の儀、彌(いよいよ)停止たるへし、田畑質ニ入れ候者、身代(しんだい *財産)つぶし(潰し)候ハハ、年季の内ハ質ニ取り候者に作らせ、年季明ケ候ハハこれを取上げるべし、年季をかきらす(限らず)質ニ入れ置き候ハハ、早速取上げるべし、且又(かつまた)田畑質ニ入れ候事、御代官の手代方まで相伺(あいうかがふ)べきの事           (『徳川禁令考』前集4 二一一二号 P.130)

 この条項は、(イ)田畑永代売買の禁止をふたたび強調していること、(ロ)田畑を質に入れている百姓が身代を潰してしまった場合は、質年季の内は質取りしている百姓にその田畑を耕作させ、質年季が明けたら領主が取上げること、(ハ)質入れ地の年季が期限を切っていない場合(無年季)は、早速にその質入れ田畑を領主が取上げること、(ニ)田畑を質に入れる時は、代官所の手代に伺いを出すべきこと―を明確にしている。
 (イ)は田畑永代売買禁止令を再確認して強調しており、(ニ)はそのために、質入れ時に代官所に伺いを出すべきと、法的手続きを強化している。だが、問題は次の点にある。すなわち、質入れ百姓が身代も潰さず健在な場合は、あくまでも質入れ地の所持権は質入れ百姓にあり何らの問題もないが、質入れ百姓が潰れた場合である。この時は、土地の所持権者が居なくなるので、質入れ地の所持権が質取り側に移る可能性が出てくる。だが、それでは従来からの田畑永代売買禁止の趣旨に抵触することとなる。このことを避けるために、(ロ)と(ハ)が打ちだされているのである。つまり、(ロ)では、質入れ百姓が潰れた場合は、年季内は質取りしている百姓の側に耕作させ、年季が明けたら領有権(上級所有権)をもつ領主が取上げる―としている。(ハ)では、質入れ地の期限が切ってない場合、質入れ百姓が潰れたならば、早速その質入れ地を領主が取上げることとした。
 だが、問題は、ここではあくまでも質入れ地が質流れになることに対しては、対処策が考えられておらず、質流れはないことが前提になっている―ことである。
 なお、幕府は1694(元禄7)年正月に出された法令では、質入れ年限の規定として、永年売や無年季を禁止し、質入れは10カ年に限定した。(『御触書寛保集成』二六〇二号・二六〇三号 P.1214)
 このことは、幕府中枢の想定と異なり、永年売や無年季の質入れが横行していたことを意味する。ここでも、依然として、幕府中枢は質流れ地への対処策を空白としているのである。

 (ⅱ)厳正化・緻密化する検地条目
 他方、幕府はこの頃、検地の条目の緻密化も行なっている。たとえば、1684(貞享元)年に、上州の沼田領で検地が行なわれているが、それは1681(天和元)年11月に、沼田城主真田信利が改易され、その遺領3万石が幕府領に編入されたことに伴うものである。この結果、今までの石高が恣意的に高くなっており、苛政が百姓の生活を困窮させていたことが明らかになる。一例をあげれば、上州月夜野村の1678(延宝6)年の石高が1411石余であったのが、検地の結果は740石余と半分近くに減っているのであった。(児玉幸多著「磔茂座衛門の背景」―『歴史評論』55号)
 1692(元禄5)年8月、飛騨を支配していた金森氏が出羽上山に転封となり、そのあとは幕府領となる。幕府は、この土地を美濃大垣藩主の戸田氏定に命じて、1694(元禄7)年に検地させている。その時に制定された検地条目が、以下の27ヶ条からなる元禄の検地条目である。

      〈検地条目〉
一(第一条)今度飛騨国村々〔に〕検地入り候ニ付き、検地惣奉行?(ならびに)下役人竿取り等まで堅く誓詞(せいし *誓いの言葉)仕るべし、田畑位付(くらいづけ)正路に縄目(なわめ)延縮(えんしゅく *伸び縮み)無き様ニ随分念を入れ、且又(かつまた)百姓の費(ついえ *検地の際に百姓に負わされる経費)これ無く、作毛(さくもう)踏み荒らさざる様ニ申し付くべき事、
【*厳正な検地を行なわせようと、検地に関わる役人などに、次の点で誓詞を出させている。それは、①田畑の位付けを正しくし、また検地の際、縄目を延縮させないこと、②百姓に経済的負担させないこと、作物を踏み荒さないこと―である。】
一(第二条)検地案内の者の儀、其(その)村の名主・年寄・百姓、又(また)ハ小百姓の中ニても、吟味の上、五、七人も之(これに)申し付け、少(すこし)の所ニても、地面(じめん)引き落としまじき旨(むね)、?(ならびに)縄手の者召し仕る等まで、若(も)し非儀(ひぎ *道理にはずれたこと)これ有らハ、早速(さっそく)惣奉行え訴ふべきの旨、案内の者〔の〕誓詞、前書きに書入れさすべき事、
【*検地案内に村の名主・年寄・百姓、また小百姓5~7を指名すること、少量の地面も検地省きをしないこと、並びに調査で不正があった場合は総奉行に訴えでるべきと命じた。】
一(第三条)間竿(けんざお)の儀、六尺一間の積(つも)り二間竿たるへし、但し、一間ニ一分宛て加え来り候条、長さ一丈二尺二分竿を以て打つべし、勿論(もちろん)一反歩ハ三百坪たるへき事、
【*実測する間竿は1間(いっけん)=6尺の2間竿を用いるべきとする。ただし、竿が磨り減ることを考慮して、1間当り1分を加え、長さ1丈2尺2分の竿でもって測るべきとした。1反歩はもちろん300坪。(1丈=10尺)】
一(第四条)今度検地の儀、半間(はんげん)までにて尺寸打及(うちおよぶ)へからす、然(しか)ると雖(いへど)も田畑竪(たて)横(よこ)広狭(こうきょう)に随(したが)ひ、或(あるい)は平均間等ニ致し候所ハ、尺までハ用ひ歩詰(ぶづめ)1)の勘定にこれを入れ、竪横の間数水帳(*検地帳)ニ書付け候ニハ、半間までこれを記し、野帳(のちょう *検地の現場で測量した数字などを記したメモ帳)ニハ見積りの間積りの儀断り書き致し、案内の者?地主、右の旨(むね)申し渡すべき事、
附(つけたり)、歩詰の儀、四厘(よんりん)余まではこれを捨て、五厘より一分ニ入るべき〔*四捨五入にすべき〕事、
【*今度の検地では半間(3尺)まででそれ以上は細かくは測らないとする。ただし、場合によっては尺まで測り歩詰めにすべきとする。】
一(第五条)検地に入るべき村〔へ〕縄手の者(もの)相越(あいこ)し、古検の町歩耕地に限り寄立(よせだち)帳面ニこれを記し、案内の者召連れ、地所村境(むらざかい)大通(おおどおり)見分(けんぶん)を遂(と)げ、縄初め致し候(そうろう)心得(こころえ)に成り候様ニ仕るべき事、【*縄で実測する者が対象の村に入った際には、まず以前検地された耕地に限って寄立帳面に古検であることを記し、案内の者を連れて村境・大通りを検分した上で、初めて縄初めをするように心がけるべきとした。】
一(第六条)田畑位付けの儀、大方(おおかた)上中下三段ニ候、此度(このたび)吟味の上、地面取りわけ能(よき)所ハ、上々田又(また)は所より藺田(りんでん *藺は水辺に生ずる草の名で、その茎は敷物を織るのに用いる)麻田等一段立ちの石盛(こくもり)ハ、上より一斗高にも相極め、悪地これ有る所ハ、下(げ)の田或(あるい)ハ山田砂田谷田、段々ニこれを立て相考(あいかんが)え、下ニ一斗或は二斗三斗も石盛を下ヶ(下げ)相極むへし、畑の儀上々畑麻畑茶畑下々畑山畑焼畑その外(ほか)ニも、所ニより見計(みはから)ひ、段々これを立て、石盛(こくもり)地面ニ応し了簡(りょうけん *思案)有るべし、屋敷ハ古来より上畑並(なみ)ニ候間、石盛上畑と同じになすべき事、石盛大方(おおかた)段々の間(あいだ)二ツ下リニ候得共(そうらへども)、土地により二つ下りにも限りまじく候間、地面相応ニ詮議有るべし、但し、位付(くらいづけ)の儀、その村の案内申し付け候百姓ニ誓詞(せいし)致させ候以後(いご)、田畑共ニ古検の位ニ構(かまは)ず、一、二の位付け所ニより、一より十五、六までも段々付け立てさせ、帳面にこれを取り、検地役人の見分と引き合わせ、吟味を遂げ、上中下の位(くらい)相極めべき事、
 附(つけたり)、百姓居屋敷(いやしき *居住する屋敷)囲いの儀、四方ニて一間通りこれを除くべし、その外ハ竹木有無(うむ)に構はず、竿入るべし、但し、間口五、六間までの小屋敷、又ハ軒並みの隣屋敷境(さかい)垣(かき)一重(ひとえ)の所ハ、四方一通り除くに及ばず、見計い(*適切に定めて)その屋敷の相応に除くべし、且又(かつまた)古検の外、新屋敷或ハ地所悪しき候共(とも)、居屋敷ハその所の上畑並みに為(な)すべし、若し新規ニ屋敷願ひ候ものこれ有らハ、吟味の上、右の心得を以て、屋敷打ち渡すべく候、勿論畑ニ致し置かず、早速屋敷ニ仕立(したて)候様ニ手形申し付くべき事、
【*従来、位付けは上中下の3段であったが、今度の吟味では地面のよい所は上々田を設け、藺田・麻田などの1段だけの石盛(位ごとの反当り標準作柄量で租税賦課の基準とされた)は1段高いものも決め、悪地の所は下田なども設定し、さらに石盛を2斗も3斗も下げるべきとした。畑は従来のランク以外も設定し、地面に応じて石盛もすべきとした。屋敷地は従来通りに上畑並みとする。】
一(第七条)畑方検地の儀、畑の廻り漆(うるし)桑(くわ)楮(こうぞ)茶の木これ有りて、高(たか)ニ入り来り候ハ、その分(ぶん)見計い次第、畑歩これを除くべし、若し古来より、右の品(しな)高ニ入り畑歩引かざる所これ有らハ、委細(いさい)書付け相伺(あいうかが)ひ、勿論(もちろん)漆桑楮茶の木、新規ニ高ニ入るに然(しか)るべき所ハ、吟味の上申し付くべし、但し、畑一面ニ右の植物これ有らハ、位付け前条の通りに為すべし、若し右の品ニ高(たか)入らざる候ハハ、水帳ニ断り書き致し置くべき事、
【*畑検地では、畑の廻りの漆・桑・楮・茶がある所は今まで高に入っている場合は、その分、畑の高から除くべきとした。】
一(第八条)田畑石盛位付(くらいづけ)の儀、隣村地続き近郷の様子(ようす)相考え、甲乙これ無き様〔*優劣の無い様に公平に〕念を入るべし、山方野方の村々差別有るべき間、その心得(こころえ)尤(もっともに)候、旱損(かんぞん)水損場用水掛り日請け等まで相考え、先の石盛にも構はず、地面の相応?(ならびに)五ヶ年の取箇(とりか *年貢)平均を以て、取箇ニ不相応ニこれ無き様ニ、石盛(こくもり)位付(くらいづけ)の儀、能々(よくよく)念を入れ吟味の趣(おもむき)、委細書付け、下知(げち *命令)を得て相極むべき事、
【*田畠の位付け・石盛は、陸続きの隣村のものと差別の無いように公平に行なうべきとした。もっとも山方・野方の村々では、その条件の違いを考慮して差異を設けるべきである。】
一(第九条)検地の時、間数(けんすう)野帳(のちょう)ニ記し候跡(あと)、その場所に於て間違(まちがひ)竿の延縮これ有る哉(や)、念を入れ時々置き竿いたし、又(また)ハくた(管)縄を以て相改むべし、勿論(もちろん)相定め竿取りの者の外、一切相交わるべからずの事、
附(つけたり)、毎日検地を致し候野帳の儀、役人押し切り印形(いんぎょう)加え、百姓ニ借シ渡し、若し竿違い書き誤り、又ハ位付(くらいづけ)ニも相違これ有る歟(か)、百姓ニ相尋ね、訴訟の旨(むね)これ有らハ、帳面ニ付紙(つけがみ)致し、申出で候様ニ仕り、詮議の上、百姓申す旨(むね)尤もニ候ハハ、これを直すべし、勿論(もちろん)立ち難き儀申し出まじき旨(むね)、堅く申し渡し置くべし、田畑あざ名(字名)付け、是(これ)又(また)相違無き様ニ、明細ニ水帳(*検地帳)ニ記し置くべき事、
【*検地において、実測を野帳に書き留めたあとも、測り間違いが無いようにやり直すなど、念には念を入れて測るべきとした。もちろん、実際に竿を取る者は、他の人間と交わらないようにすべきとした。補足として、毎日検査を野帳に記した後、これを百姓に貸し渡し、もし書き間違いがあればこれを直し、もちろん、見解の相違がある場合は、このことを明確に百姓に伝えるべきとした。】
一(第十条)寺社領入り組みの村検地の儀、地境(ちざかい)分明の所ハ、寺社領え一切竿入れ入るべからず、若し境目(さかいめ)不分明ニ付き、竿入れ候ハで叶(かな)はざる所ニハ、検地ニて吟味致し、寺社領の分(ぶん)出歩(*高が成立)これ有る候共、その通りニて差し置くべき事、
附(つけたり)、御料(*幕府領)の内ニて小物成(こものなり)2)場これ有りて、他領入り会い候共、反歩等不分明の所ハ、検地致し、水帳(*検地帳)ニ書き載せすべき事、
【*寺社領と入り組んだ村の検地では、境目が明らかな所の場合は、寺社領へ一切竿を入れて実測するべきではない。明らかでない場合は、検地した上で吟味し、たとえ寺社領の高が既に成立していても、実測通りにするべきである。】
一(第十一条)御朱印地の外、寺社領又ハ前々より除き来リ候場所、或ハ堂営免田畑関守(せきもり *関所の番人)等の給田畑等の儀、古水帳の末外書に記しこれ有り、又ハ慥成(たしかなる)證文これ有らハ、委細(いさい)覚書(おぼえがき)ニこれを記し、御勘定所え下知(げち)を得るべし、?(ならびに)百姓居屋敷、或ハ立山竹木林除け来たり候分これ有らハ、是又(これまた)右同断の事、
【*御朱印地・寺社領、または前々より検地を除外してきた場所、あるいは堂営免田畑・関守などの給田などは、古い検地帳に記しがあったり、または確かな証文がある場合は、すべてこの事を覚書に記し、勘定所の下知を得るべきとした。また、百姓が住む屋敷や、立山・竹木林で検地を除外してきた所も同断である。】
一(第十二条)御料私領寺社領〔の〕田畑入り組みの所ハ、双方の百姓立ち合い検地致し然(しか)るべき所ハ、その旨(むね)相通シ、立ち合いの上検地致すべし、惣(すべ)て入り組みの場所ハ、境目(さかいめ)ニ榜示(ぼうじ *立札をして掲げ示すこと)を立てさせ、申し分(*クレーム)これ無き様仕(つかまつ)るべき事、
附、隣村と入り組み境目不正の所これ有らハ、双方の百姓詮議(せんぎ)を遂げ、地境これを糺(ただ)し、申し分これ無きの旨(むね)手形(*証文)これを取るべし、若し落着(らくちゃく)仕りがたき所これ有り候ハ、検地仕り廻り候以後、絵図(えず)覚書(おぼえがき)を以て相伺(あいうかが)ひ、水帳(*検地帳)極めるべき事、
【*幕府領・私領・寺社領の田畑が入り組んでいる所では、双方の百姓が立ち合って検地をするべき所であり、それを互いに確認し立ち合ったうえで検地をするべきである。すべて入り組んだ場所は境目に榜示を立てて紛争がないようにすべきである。なお、境目不正のところがあれば、双方の百姓がよく相談し不正を正し、紛れが無い旨の証文をかわすべきである。もし、解決しない場合は、検地を終えたあと、絵図と覚書を以て互いにお上の指図を求め、検地帳を極めるべきである。】
一(第十三条)永荒場(ながあれば)川欠(かわかけ *堤などが崩れ田畑が潰されること)山崩等これ有る所ハ、見分(けんぶん *実際に立ちあって調査し見届けること)の上、立ち返し(*復旧)すべき場所ハ、田畑ニ成る様ニ相応の位付(くらいづけ)致し、高ニ結び〔*高を生じさせ〕、詮議の上、先の地主又(また)ハ外(ほか)の者ニ成る共申し付くべし、立ち返しまじき分ハ、能々(よくよく)吟味の上、水帳の末外書ニ町歩記し置くべき事、
附(つけたり)、惣て見取場(みとりば *空地を少しずつ開発し作物を取るようにしたが未だ高に入っていない分)の分、検地入れ高に入るべし、若し高ニ入り難き場所これ有らハ、吟味の上、水帳の末高外ニ町歩これを記し、見取場と書付け置くべき事、
【*永荒場や災害にあった所などは、調査の上、復旧すべき場所は田畑に成るように相応の位付けをし、高をつけ、評議の上、先の所持者または外の者でも申し付けるべきである。復旧が難しい分は、よくよく吟味して検地帳の末にでも町歩を記しておくべきである。なお、すべて見取場の分は、検地入れ高にいれるべきである。もし、高に入れ難き場所があれば吟味の上、検地帳の末の欄外に町歩を記して見取場と書付けて置くべきである。】
一(第十四条)御年貢米詰め置き候蔵屋敷(くらやしき)の儀、前々より高ニ入り候所ハ勿論(もちろん)、高外(たかがい)ニ致し置き候分ハ高ニ入れ、藏これ有り候内ハ御年貢これ除くべき事、
【*年貢米を詰め置く蔵屋敷については、前々より高に入っている所はもちろん、高外にしてきた分は高に入れ、藏がある内は年貢を除くべきである。】
一(第十五条)野手(のて)山手(やまて)の場?山林これ有る所(ところ)検地致し、水帳(*検地帳)の末ニ委細ニこれを記すべし、然ると雖(いえど)も或ハ大山険阻(けんそ)場広山ニて、境目不分明の所ハ、検地に及ぶべからず、若し地境一円(いちえん)知り難く、検地入り然るべき所ハ格別の事、
附(つけたり)、野手山手の場(ば)町歩このたび打ち出しこれ有る歟(か)、又ハ野山銭(*入山料)等増(ま)し申し付け然るべき所ハ、地所(じしょ)相考え、御代官え相談の上、増年貢申し付くべき事、
【*野原・山手ならびに山林のある所は検地を致し、検地帳の末に詳しく記すべきである。それでも険阻で広い大山で境目が不分明な所は検地しなくともよい。もし地境がまったく分からず、検地すべき所は特別である。なお、このたび野原山手を検地し高を出すか、又は野山銭を増すべき所は、代官に相談の上、年貢増徴を申し付けるべきである。】
一(第十六条)百姓林3)の儀、年貢申し付け然るべき儀ニ候間、少分の所を為すと雖も、かろき(*軽い)年貢申し付くべき事、
【*ほとんどが無年貢であった百姓林は、年貢を申し付けるべきなので、わずかな所でも軽い年貢を申し付けるべきである。】
一(第十七条)田畑の中ニ大石大木、その外作毛(さくもう *作物作り)仕付け成り難き分ハ、能々(よくよく)吟味の上、その分(ぶん)検地除(けんちよけ)すべき事、
【*田畑の中に大石・大木があって作物を作れない分は、よくよく調査した上で、その分を検地から除くべきである。】
一(第十八条)池沼野原等これ有りて新開(しんかい *新たに開発した土地)成るべき分ハ、吟味を遂げ、百姓相対(あいたい)の上、縄請(なわうけ *検地のための測量を願うこと)を致させ、村高ニこれを入るべし、新開ニ成り難き分ハ、水帳の末ニ外書ニ町歩書付け置くべく候事、
附(つけたり)、堂営?散在する野の稲干場土取場、或(あるいは)廟所古塚死馬捨場(しばすてば)等、高(たか)ニ成り難き分ハ、反歩これを改め、是又(これまた)水帳の末ニ外書ニ記し置くべし、堂営敷地(しきち)計りこれを除(よ)け、廻リの地ハ高に入る〔に〕然るべき分ハ、見計らい高ニ結ぶべし、古検地帳の内ニ記し置き候堤(つつみ)?用水の井(いど)筋等ニ成り候場所ハ、検地帳以前の通り書き付け置くべし、右の類、古検地帳ニこれ無き分、新検地帳ニ書き載せ置くべき事、
【*池沼・野原など新開発地となるべき分は、よく吟味し百姓が互いに相談して、縄請を申し出でさせ村高に入れるべきである。新開に成り難き分は、検地帳の末の欄外に書付けて置くべきである。なお、堂舎・稲干場・土取場・廟所・古塚・死馬捨場など、高に成り難い分は、反歩を改め、検地帳の末の欄外に記しておくべきである。堂舎の敷地は除いて廻りの地は高に入れるべきである。古検地帳に記してある堤ならびに用水の井戸になった場所は、検地帳以前の通りに書きつけて置くべきである。これについて、古検地帳に記されてない分は、新検地帳に書き載せておくべきである。】
一(第十九条)片山(*辺鄙な山)ニこれ有る田畑地面(じめん)悪しく、以来(いらい)段々欠け荒すべき場所たりといふとも、反歩(たんぽ)有るの通り検地致すべき事、
【*辺鄙な山にある田畑が地味が悪く、だんだん荒場になる場所でも、以前の反歩のある通り検地すべきである。】
一(第二十条)惣(すべ)て田畑廻りニ堀田(ほりた)4)これ有るハ、詮議を遂げ、本歩の内え入歩いたし、水帳ニ記すべき事、
【*田畑の周りの堀田は、評議して、もともとの田畑に入れ、検地帳に記すべきである。】
一(第二十一条)田畑の中え道(みち)付け替えたき旨(むね)、百姓願ひ候所これ有るハ、見分(けんぶん)吟味の上、障(さはり)これ無くハ、申し付くべき事、【*田畑の中え道を付け替えたいと百姓が願い出てきた場合は、吟味の上、支障が無ければ許可すべきである。】
一(第二十二条)家抱地(けほうち)水帳ニ名(な)記し候儀、地主え詮議遂げ、誰の家抱(けほう)と肩書ニこれを記すべし、次ニ小作百姓の名、水帳ニ若し記し候儀これ有らハ、是又(これまた)地主詮議の上、手形これを取り、分附(ぶんづけ)5)の肩書ニ致し置くべき事、【*家抱の地を検地帳に名を記すことについては、地主(その土地の所持者)と相談し、誰(地主)の家抱5)と肩書に記すべきである。次に小作百姓の名を、若し検地帳に記すことがある場合には、これもまた地主に相談し証文をとって、分附の肩書にするべきである。】
一(第二十三条)検地の役人村移りの儀、惣奉行〔の〕差図を得て、次の村え参(まい)るべし、勘定仕る節、役人の外(ほか)その場え出入(でいり)一切停止するべき事、
【*検地の役人は、惣奉行の指図で次の村へ移り検地すべきである。その際、滞在に関わって経費を勘定する節、役人の外は一切出入するべきでない。】
一(第二十四条)新検地水帳の肩書ニ古検(こけん)記すに及ばず候、別紙帳面ニ新古反別増減の訳(わけ)?(ならびに)引方(ひきかた *高を引くこと)起き返り〔*高を本に戻すこと〕新田畑改め出等、惣寄(そうよせ)計(ばかり)記し差し出すべき事、
【*新検地帳に古検を記さなくてよい。別紙に新古反別の増減の訳、ならびに高の引き方や元に戻すなど新田畑改めなど、総計だけを記し差し出すべきである。】
一(第二十五条)田を畑ニ致し置き、田年貢出シ来り、此度(このたび)畑ニ縄請(なわうけ)たき旨(むね)願ひ候ハハ、吟味を遂(と)げ、手形これを取り、畑ニ申し付くべし、?新堀新堤新道等致シ然るべき場これ有りて、此度(このたび)敷地除けたき旨願ひ候ハハ、能々(よくよく)吟味を遂げ、御代官え相談の上、右の通り申し付け然るべく候ハハ、下知(げち)を得るべき事、
【*田を畑に致したきと願い出た場合(年貢量が変わる)、よく吟味して証文を取り、畑に申し付けるべきである。ならびに、新堀・新堤・新道などにして敷地からは除きたいと願いが出た場合、よくよく吟味をして代官に相談し、申し付けが出たならば、下知に従がうべきである。】
一(第二十六条)検地仕り廻り候以後(いご)、縄手の者下々(しもじも)等まで、百姓に対し非儀(ひぎ)成る事いたし候者もこれ有り哉(や)、惣奉行の者、その村々百姓え能々(よくよく)詮議致すべき事、
【*検地を終えたあと、縄手の者が土地の百姓に対して悪口を言ってそしることはないか、この点について惣奉行は関係の村々の百姓によくよく聞いて取り調べるべきである。】
一(第二十七条)水帳相極め候ハハ、検地奉行下役(したやく)竿取り案内の者まで、奧書(おくがき)判形(はんぎょう)〔*最後に検地帳の由来を書入れ、印形を加えること〕致し、御代官え相達し、村々名主方え右の水帳これを渡し置き、本書の通り帳(ちょう)を写すことを認め、御代官えも相渡すべく候事、【*検地帳が決まった場合、関係の役人などは、奥書・判形し、代官に告げて名主に検地帳を渡して書き写すことを許可し、また代官にも検地帳を渡すべきである。】
右の条々、その意を得(え)、存じ寄りの儀これ有るに於てハ、下知を得るべく候以上、
  戌四月          (体系日本史叢書7『土地制度史』Ⅱ P.61~65 から重引)
  
 この検地条目の特徴は、総体的にみると緻密であり、具体的である。①なかでも検地の際の具体的な実施方法が際立っているものが、第3~12条である。②百姓への配慮が強く打ちだされ、検地への抵抗・反発が起こらないように気をつかっている。これは、第1・2条、第23・24条などに見られる。なかでも、第8条、第12条などでは、隣村あるいは他領の百姓との関係を考慮し、農民負担が不公平とならないように配慮している。③幕府の年貢増徴策が露骨に見えていることである。これは、第13~16条、第18~20条によく現れている。検地の狙いは、当然のこととして③にあるが、そのためにも②のように百姓への配慮が強く出されているのである。

注1)さまざまの形をなす土地の面積を測る場合、三角、四角などなどにいくつもの切れ端にして測り、それらをまとめて何間に何間と坪詰めにして反別に改めるのが歩詰(ぶづめ)という。
 2)田・畑・屋敷地に課せられた年貢を本途物成(ほんとものなり)というのに対して、山野・河川・浜方からの収穫物、茶・綿などの特産物、酒・紺屋などの営業税など本途物成以外の雑税を小物成という。
3)『地方凡例録』によると、寺社境内や家居屋敷に木を植えて繁茂したものを言い、山・川原・野手・原地(はらち)に木を植え繁茂したものを林と言う。林には、料所林・地頭林・井根林・百姓林がある。料所林や地頭(領主)林では、百姓たちが下草を刈る役があったが、後に下草銭(銭納)になったようである。井根林は、稀に在るものだが、「諸役郷廻り等の節、枝葉は薪に用ひ真木(しんぎ)ハ堰川除(せきかわよけ)の普請入用等に伐り渡すことなり」(『地方凡例録』上 P.126)と言われる。したがって、共有林の一種と思われる。百姓林はほとんど百姓たちの共有林であり、無年貢である。しかし、稀には林銭を納めた所もあった。また、百姓林といっても持主が自由に良材を伐りて遣うことはできず、お上に願い出て、指図の上で伐ることになっている。
4)「堀田敷引」について、『地方凡例録』は、「是(これ)は稀(まれ)にあることにて、水田湿地の類にて田場一面に稲作を仕付けれバ、水腐して作毛生立ざる所ハ島田(しまた *島田と云ハ畑地少き村々にて田方の内を堀上げ飛飛〔とびとび〕に畑にいたし、その間々(あいだあいだ)ハ田方になし、これを島畑と云なり)の類に田の内を堀上げ畔(くろ)を立て、堀上げたる高ミに稲作を仕付(しつ)け、堀たる跡は水溜(みずたまり)に成りて仕付け成りがたし......」(同書下 P.13)という。このような田を堀田という。
 5)1590(天正18)年、徳川家康が関東に移され、伊豆を支配するに際して、伊奈忠次が三島代官となり、検地を行なった。同年10月の伊豆国玉川の検地帳には、同郷の全耕地は19町8反余であるが、その年は9町6反余(約48・5%)が不作地であった。そこで不作地は、測量した上で「同所 上壱反大廿二歩 当不作 十郎左衛門尉分」と記された。だが、毛有地(けありち *作物が実っている地)は、次のような形式で記された。すなわち、「塚田 上弐反小十壱歩毛有田(けありた)そは・まめ 越後分藤五郎作」と。これは、塚田(つかだ)という字(あざ)の所に上田2反小11歩(2反3畝21歩)の土地があり、そこにはソバと豆が植えられているが、その耕地は越後という人物が所持権をもち、藤五郎が耕作していた―というのである。このような記載形式を分附形式と呼ばれ、越後を分附主、藤五郎を分附百姓といわれる。『地方凡例録』によると、「分附(ぶんつけ)と云ふは、祖父・親の代、田畑を二男三男孫などへ譲り、それ以後(いご)検地を入たる時、総領式の名を肩書に誰分(たれぶん)として当主の名誰と記す、是(これ)を分附と云、二男三男へ譲り渡し、分家百姓壱軒になれば分附にはあらず本百姓なり、これを新屋と云処(いふところ)もあり、又(また)二三男を親召連れ分家したるを隠居と云、本家を表(をもて)と唱へ営々表隠居と云所もあり、何(いず)れも本家・末家(ばっけ)にて百姓なり、分附は本百姓にはあらず、......」(同著下 P.110~111)といわれる。
 分かりにくい点もあるが、分家しても検地帳に分附主○○の下に耕作者として分附百姓が記載されてある限り、これは未だ本百姓ではない。しかし、分附主が書かれず分家のみの記載となると、本百姓である。
 家抱(けほう)とは、先の『地方凡例録』から引用した部分にすぐ続くで説かれている。すなわち、「又(また)家抱(けほう)と云は下人(げにん)へ田畑を譲り、分附同然肩書に誰分誰と記すを云、分附・家抱とも内附(うちつき)たるに依て、年貢諸役も総領式へ渡し本家より一緒に勤む、永小作(えいこさく)と云も大概(たいがい)右に准ず、家抱は百姓の譜代の下人にして、門屋(もんや)と云処もあり庭子(にはこ)と云処もあり、......」といわれる。分附とか家抱とかは、未だ総領としての本家に従属しており、年貢諸役も総領(本家)を通して納めていたのである。

(2)土地政策の転換を進める後半期
 第5代将軍綱吉の治世は、将軍権力の専制化が強まった時代である。綱吉時代の初期の治政を中心に担ったのは、大老堀田正俊であるが、彼は第4代将軍家綱に男子の後継ぎがないのに際して、家綱の弟である綱吉(上野館林藩の藩主)を擁立した人物である。
 正俊とともに綱吉の治世を中心的に担った寵臣に、牧野成貞がいる。将軍綱吉は側近・寵臣層を最高実務担当者として専制的将軍政治を推進するために、役高・官位などの面で老中に準ずる側用人職を創設する。牧野成貞は、一介の館林藩家臣から大名に昇進するとともに、1681(天和元)年に、この側用人職に就任している。(綱吉時代の後半期には、柳沢吉保が側用人になっている)
 綱吉は、寵臣層中心の専制的将軍政治を推進するために、他方では、譜代大名や旗本層に対する改易・減封を次々と推し進める。改易・減封は、徳川幕府の初期に準じて、きわめて多く進められた。

 (ⅰ)幕府財政の危機が転換を促す一因
 また、綱吉の時代は、幕府の財政危機が顕在化した時期でもある。徳川政権の圧倒的優位をもたらした条件の一つに、金銀生産の増大(16世紀後半から17世紀前半にかけて、日本の銀生産は世界でも有数の水準であった)があった。しかし、17世紀の中葉になって金銀生産は急激に衰退し、綱吉時代は財政危機がもはや隠しようもなくなってきたのである。それに、自然災害からの復旧、財政を無視した寺院建立政策などは、幕府の財政危機に一層拍車をかけた。
 財政危機が明確化するのに対して、幕府はさまざまな行財政改革を行なう。①金銀の海外流出を抑制するために、貿易の決済手段を銅に切り替え、銅の流出可能量に見合うレベルに貿易高を制限し、1697(元禄10)年に長崎会所を設立する。(当時は輸入に対する支払を物ではなく金属貨幣に求めた。銅の産出が衰えてくる中で、17世紀の末頃から海産物の俵物などの物品が輸入代価となるようになる)
 また、②1695年の金銀貨幣の改鋳策である。幕府は、金属貨幣の改鋳(金や銀などの含有量を減らす)によって差益金(出目〔でめ〕)を出し、当面の糊塗策に走ったのである。これを中心的に担ったのが、荻原重秀である。だが、これでは、貨幣の質は劣化し、貨幣価値は落ち、経済はかえって混乱した。
 これらの政策とともに、綱吉政権は、年貢の皆納を実現しようと幕府領の現地統治を担う代官層を大幅に入れ替えた。綱吉は腹心の堀田正俊を農政専管の老中に任じ、勘定吟味役を設置し、中間収奪を廃絶する農政を推し進めた。この中で、綱吉治政の約30年間で34人の代官が死刑ないしは免職となっている。幕府領の代官が約40~50名ぐらいの中で、34人とは異常な規模である(水林彪著日本通史Ⅱ『封建制の再編と日本的社会の確立』山川出版社 1987年 P.329)。綱吉は、幕藩制初期の代官がかつての土着土豪出身者から取立てられていたのに対して、彼らを放逐して将軍や幕府中枢に従順な実務的官僚としての代官に切り替え、幕府財政の好転を図ったのである。
 また、幕府は旗本に対する給与を蔵前制から知行制に切り替えている。児玉幸多氏によると、幕府は「......十年(元禄10年〔1697年〕)には、原高五百石以上の蔵米取り(*給与を知行所ではなく、幕府の蔵米から支給される)は、すべて知行地を与えることにした。諸藩では家臣の知行地を廃して蔵米制にするのが一般的な傾向で、元禄ごろには大部分の藩では知行制がなくなっていたので、幕府の政策は時代と逆行した感じである。しかし、これもまったく財政的な理由によるもののようで、農民の統制、年貢米の収納などの手間や経費を旗本に転嫁したものである。これによって、蔵米五百俵を与えられていたものは五百石の知行所を与えられ、三百石の知行所と三百俵の蔵米を与えられていたものは、合せて六百石の知行所を与えられることになった。/小給のものが、江戸を遠く離れた地で、何ヵ村かに分割された知行所を管理することはひじょうな負担で、いきおい農民に対する課税が重くなり、やがては、明年・明後年の年貢米を先納させることが一般的な傾向となるのであった。このときに知行所に直されたものは五百余人、米高は三十万俵以上に達しているが、それらの旗本の知行所は多くは関東地方で与えたから、幕政上の役職についていない大名を遠隔地に移したので、かれらも損失を受けることになった。」(児玉幸多著『日本の歴史』16元禄時代 中公文庫 1974年 P.391~392)と言われる。

 (ⅱ)質流れの現状を追認し土地政策を転換
 従来、さまざまな役が村落の各家に課されていた(役家の設定)が、しかし、これまでの労役から生産物や貨幣形態での代納への変更が次第に進む。背景には、畑地での商品作物の生産など貨幣経済が、農村部にも次第に浸透しつつある状況があった。こうなると、諸役の負担基準が各家一律であることは、格差を強め、公平性全般が疑われるようになる。そこで幕府は、各家一律の負担からイエ経営体の持ち高に負担基準を変更する。1689(元禄2)年に定められた御蔵前入用(高掛〔たかがかり〕役)1)も、こうした流れの中で発せられたものである。
 また、幕府は元禄8~11年(1695~1698年)にわたり、上州伊勢崎藩主・酒井忠挙、同じく小幡藩主・織田信久、同じく高崎藩主・安藤重博に命じて、関東総検地を施行している。これは、先述した「元禄の地方直し」(旗本・御家人の給与を蔵米でなく知行地で与えることに切り替える)の準備作業の意味ももっていた。
 しかし、現状は質入れ・質取りなどに依って、農民の土地所持権は混乱し錯雑化していた。この問題を解決しなくては、検地もまた実施すら難しい情勢となっていた。
 1695(元禄8)年、幕府は、質地に関する12ヶ条の法令を出す。これは、質流れが止まない現状を幕府が追認するものであり、従来の土地政策の基本を転換を示すものであった。
 この法令が出されたのは、1694年春から翌年冬にかけて行なわれた飛騨総検地当時、飛騨代官を兼任していた関東郡代・伊奈半十郎が幕府中枢に伺ったことへの、回答の意味あいをもったものである。以下にかかげる12ヶ条は、伊奈の「伺」に対し、一つ一つ「付紙」で解答を指示した形式をとっている。

       〈覚〉
一(第一条)田畑屋敷質物(しちもつ)に入れ、年季を限り、年季明き請返し(*取戻し)候筈(そうろうはず)に相定(あいさだ)め、請返さず候はば先にて〔*質取りした側で〕手作り(*自分で耕作すること)致し候共(そうろうとも)、又(また)は外(ほか)へ質に入れ候共構(かま)ひこれ無き証文 御付紙(*附箋〔ふせん〕のこと)
【此(この)田畑、屋敷(やしき)年季質物に入れ置き、年季明き候節請返さず候は、先にて手作り致し候共、又は他へ質物に入れ候共(そうろうとも)構ひこれ無き旨(むね)書き載せ手形の事、質地流し候証文障(さわ)りこれ無く、年季明き請返さず候はば構ひ無く、双方(そうほう)相対(あいたい *当事者だけで事を行なうこと)を以て相定め置き候上(そうろううえ)は、只今(ただいま)に至り請返すべき旨(むね)申す段(だん)立ち難く候条、手形文言の通り質に取り候者の次第に申し付くべき事】 (【】内は幕閣の回答。以下、同じ。)
一(第二条)年季明きに請返さず候はば田地渡し候間(そうろうあいだ)、脇(*他の第三者)へ何程(なにほど)の質物に入れ候共構いこれ無き由(よし)の証文、且又(かつまた)年季明き請返し候儀(そうろうぎ)罷(まか)り成らず、田地渡し候間、永構(えいこう)これ無き由文言にて、別の証文入れ候儀これ有候 御付紙
【田地質物に入れ置き、年季明き候節請返さず候はば、田地流れ候旨(むね)書き載せ候手形、?(ならびに)年季明き請返し候事罷り成らず、田地流れ候条永構これ無くの旨文言にて別紙証文これ有る分、両様共に相対(あいたい)の上は只今(ただいま)請返すべき謂(いはれ)これ無き条、右(みぎ)両様共に沙汰に及ばざる事】
一(第三条)先の証文の本金高より多く外へ質に入れ候共、その金子(きんす)を以て先より請返すべき由(よし)の証文 御付紙
【田畑質に入れ先にて、最前の金高より多く再質に入れ候はば、其金高を以て先々(さきざき)より請返すべき由(よし)書加(かきくは)へ、手形の事(こと)相対を以て相定め候上は、手形文言の通り再質の金高を以て、請返しなすべき旨(むね)申し付けらるべく候】
一(第四条)年季明き請返さず候はば流れ候間(そうろうあいだ)、重(かさね)て検地入れ候はば先々〔の〕名に付け候由の証文 御付紙
【質田地年季明き請返さず候はば流れ候間、検地の節先々名を水帳(*検地帳)に付け申すべき旨(むね)書き入れ手形の事、前条年季明き候て請返さず候はば流れ候旨(むね)書き載せ候手形と同前の条、其意(そのい)を得らるべき事】
一(第五条)年季明きに本金にて請返すべし、その節(せつ)請返し申さず、年季明き已後(いご)請け候はば、本金に利足(利息)を加へ請返すべき由の証文、?年季明き候已後請返し候はば、質物に入れ候年より本金に利足を加へ請返すべき由の証文、且又(かつまた)年季明き候以後(いご)請返さず候はば田地流れ候間、先にて何様に致し候共構(かまひ)これ無きの由(よし)、流れ置き重て請け候はば、本金に利足を加へ請返すべき由(よし)証文 御付紙
【この質物田地手形三品共に相対を以て相定め候上は、手形の通りにて、田地相返(あいかえ)し候様に申し付けらるべきの事】
一(第六条)田畑屋敷年季これ無き質物に相渡し、金子は有り合わせ次第(しだい)請返すべき由の証文 御付紙
【田畑屋敷年季定めこれ無きの質物に入れ、金子有り合わせ次第請返すべき由の証文手形の事、何年過ぐ共(とも)請返すべき旨訴え出(いで)候はば、手形の通り年数(ねんすう)構(かまひ)無く請返す様に申し付けらるべく候、若し時代久しく候歟(か)、又(また)は不分明の事これ有り候はば、其節に至り相伺(あいうかが)はらるべき事】
一(第七条)田畑屋敷書入(かきいれ)金子借り置き、滞り候はば右(みぎ)書入(かきいれ)2)の田畑相渡すべきの文言(もんごん)にて、田地は持主(もちぬし)作り候て作徳(さくとく *年貢米を納めた残り)出で候儀これ有候 御付紙
【田畑書入(かきいれ)金子借り置き、滞り候はば田畑屋敷相渡すべき旨(むね)文言手形にて、田地は持主の名(な)所(ところ)に相極め、金子は通例の預り金の通り相心得(あいこころえ)申さるるべき事】
一(第八条)田畑屋敷質物に入れ候を、此度(このたび)本金相済(あいすま)し請返すべき由(よし)これ申す、相手は田畑屋敷を取り候に紛(まぎ)れこれ無く候得者(そうらへば)、本証文紛失致し候由、右(みぎ)質物に入れ年数、?金高共に不分明(ふぶんめい)成るもこれ有り候 御付紙
【田畑屋敷質物に入れ置き候手形、先にて紛失せしめ争論に及び候はば、双方詮議(せんぎ)の趣(おもむき)、書付けを以て相伺はらるべく候】
一(第九条)質物田地証文にその所の田地不相応(ふそうおう)に金高高直(高値)なる証文これ有り候、質に入れ候者(もの)は倍金の由(よし)申し、相手の者は証文の金高紛れこれ無き由(よし)申し、その所のもの(者)に相尋ね候得ども、所(ところ)直段(値段)よりは高直(高値)の由(よし)申し、外(ほか)に倍金証拠これ無く候 御付紙
【倍金にて田畑質物入れ置き候由(よし)これを申し、外へ吟味(ぎんみ)遂(と)げ候処(そうろうところ)、その所の田地不相応に金高多く相見(あいみ)え候得共(そうらへども)証拠これ無き由(よし)、倍金証拠これ無く候はば、手形金高の通り申し付けらるべく候事】
一(第十条)仮令(たとえ)ば田地十両の質物に取り、年季明き本地主(*本からの地主)請返さず候に付き、外へ或(あるい)は二十両三十両に質物に相渡し、年久しく相過(あいすごし)候を、此度(このたび)本地主先の証文の金子にて請返すべく由(よし)これを申し、最前(さいぜん)質に取り候者は金子相違に付き難儀(なんぎ)に候者もこれ有り候 御付紙
【田地質に取り置き、年季明けに請返さず候に付き、最前の金高より多く他へ再質に入れ置き候処、この処(ところ)先の地主最前の金高にて請返すべく旨(むね)訴え候事、最前の証文他へ質に入れ候共(そうろうとも)構(かまひ)無き旨(むね)不書載(*書き載せしていないこと)に於ては、再質に取り候者(もの)無念に候間証文過分(かぶん *高すぎる値段)候共、定めの通りこれを請返し、先の地主へ最初の手形金高にて請返しなすべし、最初証文に請返さず候はば、他へ質に入れ候共(そうろうとも)構(かまひ)これ無き旨(むね)書き加へ、年季明き年数久しく候はば前条の通りなすべし、申し付け難き事もこれ有り候はば、其時(そのとき)に至り相伺(うかが)はらるべき事
一(第十一条)田地屋敷質物に入り、年季明き本金にて請返すべきの証文相定(あいさだ)め候迄(そうろうまで)にて、何の訳もこれ無き証文これ有り候、御付紙
【田畑屋敷質に入れ置き、年季明き請返すべき旨(むね)文言にて何の定めもこれ無し、願い出(で)次第請返しなすべき事、然る共(とも)年季明き年久しく候はば、その時に至り相伺はらるべき事】
一(第十二条)田地譲渡証文にて年季もこれ無き田地、譲渡、或は礼金、或は税金としての金子これを請取り、子々孫々迄(まで)構(かまひ)これ無きの由(よし)文言にて由緒これ有る者も、右の通り譲り証文致し遣はし候もこれ有り 御付紙
【田地譲渡証文にて、礼金税金として金子これを請取り、子々孫々迄構これ無き旨(むね)証文手形の事譲渡の由(よし)に候得共、金子取りの旨(むね)永代売(えいたいうり)と相聞(あいきこ)え候条、田地取上け双方永代売作法の通り申し付くべき事、勿論(もちろん)由緒これ無きもこれ有るも同前をなすべき事】
右の通り伺ひ奉り候  以上
  元禄八年亥六月             伊奈半十郎
                     (『土地制度史』Ⅱ P.105~108 から重引)

 この法令は、質地の取扱いに関するものであり、ポイントは、①質入れ田畑の流れ地に関する規定、②逆に質入れ地の請返しに関する規定の二つである。幕府はこの法令で、従来の態度を大きく変更し、質流れを認める傾向が開始されたのである。
 この法令12ヶ条の内容をグループ分けすると、(A)質流れを認める場合、(B)質流れを認めず、質入れ人の請返し請求権を認めている場合、(C)以上の2つの場合と異なり、とりわけ個々の証文文言を基準とし(証文文言の有無を含め)、これによって処置する場合である。
 (A)の態度が明確に示されたのが、第一条、第二条、第四条である。
 第一条では、田畑屋敷を質入れするに際して、"年季が限ってあり、年季明けには請返しすることになっており、万一請返ししない場合は質取り主が手作りしようと、また第三者に質入れしようとお構いない(自由である)"と、双方が相対(あいたい)で決め、証文にそのような文言(もんごん)が示されているのならば、質流れを認めてもよい―という態度をとった。
 第二条では、年季が明けた時に請返さない時に、"田地を渡す(質流れ)ので自由に取扱ってもよい"と、双方が相対で決め、証文にそのような文言があった場合は、質入れ人の請返し請求は認められない―という態度を明確にした。
 第四条は、"年季明けに請返ししない時は質流れとなり、その後、検地があっても質取り人の名で検地をうけ、その名請地としてもよい"との文言が証文に入っている場合、質入れ人の請返し請求は認められない―という態度をとった。
 以上、質流れを幕府が認めた条文では、共通して証文に、年季が限られた質物の質流れの場合の処置として、質取り人の「勝手次第」(あるいは、質取り人が後の検地で名請人になっても良いとの定め)との証文文言がなされていることを条件として、幕府は質流れによる耕地の所持権の移動を公認としたのである。従来は、事実上、質流れとなった場合は、給人(領主)がその土地を没収したのであったが、ここでは質取り人が所持権を持つこととなったのである。
 しかし、(B)の第六条と第十一条では、幕府は質流れを認めず、質入れ人の請返し請求権を認めている。だが、具体的な処置にかんしては、個々の物件の置かれた条件によって判断しなければならないので、結論を保留し、ケースバイケースで判断するとした。
 第六条は、田畑屋敷を年季定めが無く質入れし、請返しの条件として「金子有り合わせ次第」請返すと証文に示されている場合、基本的には請け返すべきとした。ただし、「若し時代久しく候歟(か)、又は不分明の事これ有り候はば、その節(せつ)に相伺はらるべき事」として、その個々の事例をみなければ、判断できないとした。幕府としては、田畑永代売買禁止の原則が完全には放棄されていないので、一概には決められないとしたのであろう。
 同様なケースは、第十一条の場合にもみられた。同条は、ただ"田地屋敷を質物に入れ、年季明けに本金にて請け返す"との文言のみが証文に示され、他の条件がない場合は、基本的には請け返すべきとした。しかし、"年季明けしてから年久しく候はば、その時に相伺はらるべき"と、事例に即して具体的にみなければ判断できないとした。
 (C)の事例は、第三条、第五条、第九条、第十条である。
 第三条は、質取り主が"質入れ人に質地の代償として貸してやった金高よりも高い金額で、その田畑を第三者に再質(又質)に入れた場合"の処置であるが、証文に「先の証文の本金高より多く外(ほか)へ質に入れ候共、その金子を以て先より請返しすべき」の文言があった場合は、請返し請求を認めるとした。そして、その場合「相対を以て定め候」ことなので、質取り人が再質した時の金高を支払う必要があるとしている。
 第五条は、年季明けに本金を支払い請返すべきなのに、その時に請返さなかった、年季明け以後に請返しする場合、次の3つの証文のケースを取上げ、いずれも「相対を以て相定め候上は、手形(*証文)の通りにて、田地相返し候様に申し付けらるるべき」とした。
 3つの証文のケースとは、①「本金に利足(利息)を加へ請返すべき由の証文」、②「質物に入れ候年より本金に利足を加へ請返すべきの証文」、③「年季明き候以後請返さず田地流れ候間、先(*質取り人)にて何様に致し候共構(かまひ)これ無きの由、流れ置き重て請け候はば、本金に利足を加へ請返すべき由〔の〕証文」―である。
 いずれの場合も請返しが認められるが、「本金に利足を加へ」て請返すべきとするが、違いは利息の加え方である。①の場合は定かではないが、②との関係からみると、利息は年季明け以後の利息と見られる。②は、明確に質入れ以後の利息からである。③は、質流れとなった時、質取り人がどのように処置しようと自由であると定め、その上質入れが積み重なったものを請返す場合は、そのすべて期間の利息を加えると証文で定めている。
 第九条は、質入れ証文に、当該の質入れ地がその地方の通常の値段よりも高い値段が書かれていても、たとえ高い値段でも「倍金(ばいきん)証拠これ無く候はば」、証文通りの金高とするべきである―という態度を幕府はとった。 【この条項は、請返し請求権とは、直接には関係ない】
 第十条は、たとえば、ある田地が10両で質物となり、年季明けに元の地主が請返さず、したがって、質取り人が他の第三者に20両30両で又質(再度の質入れ)し、その上年月が久しくたってから元々の地主が最初の証文通りの金子(10両)で請返ししたいと申し出でた場合、質取り人は差額を自弁して、当該の土地を取り戻し元々の地主(質入れ人)に返さなければならないかとの伊奈の伺いに対して、幕府は次のように回答した。すなわち、"証文に、〈他へ質に入れ候共、構(かまひ)無き旨〉が書き込まれていない場合は、最初の証文通りの金額で元々の地主に請返ししなければならない。最初の証文に、〈請返しが無い時は他へ再質しても構わない旨〉が書き込まれている場合は、この限りではない"としている。ただし、年季明けして以後久しく年数がたっている場合は、お上へ伺いをたてるべきとした。
 以上の(A)(B)(C)の諸グループとは、趣を異なるものとして、第七条、第八条、第十二条がある。
 第七条は、質入れして金子借り置きながら、"返済が滞るならば、その田畑屋敷は質取り人に渡すべき"との証文文言が書入れてありながら、田地の所持者(質入れ人)がその土地を耕作し作徳を得るような場合は、いかに対処すべかとの伺いに対して、幕府は次のように答えた。すなわち、「田地は持主名所(などころ)に相極め、金子は通例の預り金の通りに相心得」べきとした。田地の所持は持主のもの(名前と住所)とし、金子は通常の預り金として、対処すべきとした。ここでは、他の条項とは異なり、証文文言がありながらその文言に反して、持主(質入れ人)の所持権を認定している。その理由は分明ではないが、質入れ人が現実にはその土地で耕作し、作徳しているからと思われる。
 第八条は、田畑屋敷を質入れし、今回、本金を済まし請返しを要求したところ、相手の質取り人は確かに質取りはしたが、証文を紛失して、この質物の年数・金高ともに不分明な場合は、いかが対処すべきかと伺いをたてた。それに対する幕府の回答は次の通りである。すなわち、「双方詮議の趣(おもむき *趣旨)、書付(かきつけ)を以て」お上に伺いをたてるべきとした。証文紛失という事態に対して、双方の話し合いでの解決を優先している。このような場合こそ、証文作成時の立会人である名主や五人組の証言が重要になってくるのである。
 最後の第十二条は、これまでのケースとは異なり、「永代売(えいたいうり)」と認定している。それは、田地譲渡証文で、"田地を譲渡して、或いは礼金、或いは税金として金子を請け取り、子々孫々まで構ひこれ無く"の文言があるものは、「永代売と相聞え候条、田地取上げ双方永代売〔の〕作法通り」に処置するとしている。いくら譲渡証文で上述のような文言があったとしても、それは「譲渡」といっても所詮は「永代売」であって、田畑永代売買禁止の観点から認められない―としているのである。
 第十二条は、(B)の諸条などとともに、当時の幕府中枢は従来からの「田畑永代売買禁止」の原則を維持しているとの姿勢を垣間見せてはいる。しかし、この法令全体を見る限り、頻繁な質地(質流れ)の現状をもはや否定しきれず、現実政治としては質流れの個々のケースに対応することが眼目となっているのであった。以降、幕府は土地政策における、建前と現実の間を揺れ動く事態が多くなり、その根本的解決を迫られることになっていくのであった。
 ともあれ、この12ヶ条の法令は、従来、田畑永代売買禁止の原則から、田畑の質入れは認めるが、その結果としての質流れは認めていなかった姿勢(年季を切らずに仕入したり、年季を切っていても請返しできない場合は、証文の書き替えを行なったり、あるいは領主が没収してきた)から、ある特定の条件を備えている場合は質流れを認め、質入れ人の質地請返しの請求権を認めないようにする姿勢に明確に転換したのである。
 その特定の条件とは、"年季明けとなっても請返しができない時は、質入れ地を渡す(すなわち、質流れとする)"という「流地(りゅうち)文言」が証文に書き込まれていることである。これは、「双方相対を以て定め置き候」という語句が使われ(相対での質入れ契約)、その趨勢が強まっている社会状況を幕府も認めざるを得なくなっていることを示す。そして、幕府の政治姿勢の転換は、田畑永代売買への流れを事実上「公認」する大きな第一歩であった。

注1)高掛物とは、村や農民個人(イエ)が有する石高に応じて賦課される付加税の総称である。高掛三役とは、幕府領(のちの御三卿〔田安家・清水家・一橋家〕領にも)に課せられた付加税であり、御蔵前入用・御伝馬宿入用・六尺給米の三種類をいう。
 御蔵前入用は、1689(元禄2)年より賦課されたもので、浅草にある幕府米蔵の諸経費に充てられた。村高100石につき、永250文(関東)、銀15匁(上方)と定められた。御伝馬宿入用は、5街道の本陣・問屋への給米や宿駅の費用に使われるもので、1707(宝永4)年に定められたのが最初。これは、村高100石につき、米6升が賦課された。六尺給米は、六尺と呼ばれた江戸城内の台所その他で働く「雑役夫」の給与として1721(享保6)年より賦課された。これは、村高100石につき、米2斗ずつが賦課された。高掛三役は、御蔵前入用以外は、米納であったが、他の二者も実際には石代金納される場合が多かったといわれる。なお、幕府領(御料)が旗本領などの私領に変った場合、御伝馬宿入用と六尺給米は夫米(ぶまい)と名を変え、御蔵前入用は糠藁代(ぬかわらだい)と名を変え、徴収されつづけた。
2)書入(かきいれ)とは、担保物件を金主(債権者)に引き渡さず、単に証文にその物を書き入れるだけで借金した場合に成立する貸借関係である。「名主の加印も必要でなく、債権者のためには何らの物権的効果を生じない。すなわち、債務者が債務を弁済しない場合、債権者には、普通の借金以上に特別の保護は与えられなかったのである。しかし、二重書入は処罰されたから、ある程度の担保的意味はあったであろう。」(体系日本史叢書4 石井良助編『法制史』P.225)と言われる。

 (ⅲ)小作権の高まり
 質流れが幕府によって容認されるようになると、年貢納入者を保護する観点から、幕府は小作権の保障もまた迫られることとなる。
 1689(元禄11)年12月、幕府は、小作地が20年に及んだときには、ついに「永小作」とすることを決定した。その法令は、次のように規定している。

         〈覚〉
一(第一条)小作田地出入(でいり)大概(たいがい)貮拾年ニ及ぶは〔*小作する田地が大体20年に及んだ時は〕、永小作に為(な)すべし、?(ならびに)質地田畑預り金(あずかリきん)売掛金(うりかけきん)等廿年(*20年)過ぎ候ハハ裁許に及ばず、併(しか)し證文の品(しな)に依るべき事、
一(第二条)永代に召し抱え候下々男女?(ならびに)永年季奉公、前々より御制禁を為(な)すと雖(いえど)も、延宝三卯年(*1675年)諸国洪水不作ニ付き免許(*許可すること)の上ハ、卯年召し抱え候は、人売買?(ならびに)年季背(そむ)くに成るまじき事、
一(第三条)奉公人の年季、前々より拾年を限り候処、向後(こうご)ハ年季の限りこれ無く、譜代召仕り候とも相対(あいたい)次第たるへく候間、その旨(むね)存ずべく候、
  十二月              (『御触書寛保集成』二六〇三号 P.1214)
  
 小作には、直小作・別小作・永小作・名田小作・家守小作・入小作などがある1)。『地方凡例録』によると、この中で「永小作(えいこさく)と云(いふ)ハ質地の小作にてはなく、自分所持の田畑を年季(ねんき *契約して定めた期間)も取極ず(取り決めず)小作致するを云(いふ)、永小作は地主にて謂(いわ)れなく地面を取上げ、外(ほか)の者へ作らする儀ハ成りがたし、若し小作米(こさくまい)滞りし節、地主より訴へ出れば小作米ハ吟味の上、定法(じょうほう)通り済方(すみかた)を申し付け、小作は前々の通り致することなり、然れども年貢滞り不埒(ふらち)の事あるか、又は何ぞ格別の子細あれバ地面を取上げ地主へ相渡す、小作定め米証文(まいしょうもん)等ハ別に替ることなく、尤(もっと)も永小作の田地を小作の方にて質に入れ、又は別人へ小作に渡すことは禁制なり、当時ハ永小作と云こと少く拾年より長年季(ながねんき)ハ致さざることなり、」(同書上巻 P.215~216)と言っている。
 永小作は、「地主にて謂れなく地面を取上げ、外の者へ作らする儀ハなりがたし」と、保障されている。余程のことがない限りは、小作権は保障されたのである。それは、20年以上、小作を続けた場合に永小作が成立したようである。さらに、後世享保期に新田開発がふたたび奨励されて、町人請負新田が開発されて、その開発に動員され小作地を手に入れた場合の永小作は、元禄期の永小作よりもはるかに強い権利をもつようになる。
 なお、この〈覚〉第一条が言うように、当時はすでに、質地田畑・預金・売懸金などは20年を過ぎると、「裁許に及ばず」(裁許とは、君主が臣下の申し出を聞き届ける事)となっている。すなわち、「時効」が成立すると見なされたのである。このような時代状況の中で、永小作の権利が成立しているのである。
 また、第二条、第三条で言うように、幕府は以前より譜代下人や永年奉公を禁制にしてきたが、「延宝の飢饉」にあって、これらを許可するようになった。したがって、「人売買」も許され、長年季奉公も10年限定の条件が無くなり、譜代に召し使うことも「相対次第」すなわち当人同士の交渉次第となった。

注1)直小作(じきこさく)とは、田畑を質に入れた本人が直に小作することをいい、別小作(べつこさく)は、質取り人(金主)が質入れ人より外の者に小作させることである。名田小作(めいでんこさく)とは、田畑を多く所持する百姓が手作り(家族や譜代の下人などで経営すること)には労働力の限界から手に余り、他の小百姓に数年作らせ小作料を取る場合である。家守小作(やもりこさく)とは、所持する田畑が多く地主が管理できない場合、小作の世話人をたて、小作地の内いくらかを家守の給田とし、年貢諸役は地主が行なう。入小作(いりこさく)とは、他村の百姓をもって小作させることである。

(ⅳ)広まる質流れの容認
 1695(元禄8)年の質地取扱に関する12ヶ条が発令された社会状況は、幕府領のみならず、藩領にもみられたことである。
 1700(元禄13)年1月、出羽山形藩の藩主・松平忠雅が備後福山に移封となり、そのあとには幕府の重臣である福島城主・堀田正虎が移ってきた。それからしばらくした1702(元禄15)年、堀田氏領内の大庄屋たちは連署して、次のような願書を提出した。その骨子は以下の通りである。(東村山郡教育会篇『東村山郡史』巻2 P.94~96)
 ①田畑永代売買は禁止されているが、その趣旨を忠実に守っていたのでは、実情にそわない点が多くて不便なので、百姓が入れ替わる時は流質地を認めて欲しい。
 ②質入れ地が質流れになった後、それを請返すことは、たとえ過金(過大な金額)をだしても、一度流れ地を手にした方としては、その土地にそれまで思いを入れた労働を注ぎ込んできたのであるから、請返しを要求されるのは大変困ったことである。だから何時までも質地の請返し請求権を残しておく事は不合理なことになってしまうのである。
 ③田畑の移動や流通は、田畑永代売買禁止礼で禁止されているので、いろいろ実情にそわないことが多く、この間に混乱が生じている。このような混乱を避けるために、田畑名寄帳三冊を作っておき、一冊は御役所、一冊は大庄屋、残りの一冊は庄屋の所に置き、耕地の一切の移動をそれに記しておき、たとえ証文がどのようになっていても、耕地関係のことはこの名寄帳に依ることとした。
 領内農民の上層は、質流れの現実を認めた土地政策をとるべきだと、請願したのである。この請願は、同藩によって受け入れられ、事実上、質流れによる耕地の集積が公認されたのである。
 支配階級のこのような動きは、質流れ地の公認のみならず、当時の売買契約一般にも波及している。1702(元禄15)年閏8月、幕府は元禄の相対済し令を発布している。
 相対済し令とは、一般的には、「金銭の債権債務訴訟についての裁判をいっさいとりやめ、争いをすべて当事者間の相対(あいたい)の話合いで解決させようとする臨時的な単行法令で、一六六一(寛文一)年を嚆矢(こうし *物事の始め)として、幕末にいたるまで断続的に一〇度にわたって発布された」(水林彪著 日本通史Ⅱ『封建制の再編と日本的社会の確立』P.296)といわれる。
 元禄の相対済し令もまたこの一環であるが、大石慎三郎氏によると、「この法令は金公事(かねくじ)のある部分を"相対済し"にしたことにより、幕府公権力が、庶民相互の営利行為である貸金および売掛金の保護に、正式にのりだしたという側面に歴史的意義がある。なおこのとき"相対済し"の対象になるものについても(イ)"神社仏閣修復金銀"、(ロ)"出家の出世金と座頭の官金など"、(ハ)"公儀引負金銀"、(ニ)"当座雇・日用賃と職人手間賃"、(ホ)"家質金銀"、(ヘ)"田畑質金銀"の六種類が除外されている。つまりこの六ツについては、元禄十五年以前のものも、幕府は"相対済し"とせず、幕府の責任において紛争を解決するとしている」(同著「第一編 近世」―『土地制度史』Ⅱ 山川出版社 P.129~130)のである。(《補論 江戸時代の紛争解決》を参照)
 幕府は、頻発する質流れの現状をまえに、元禄の相対済し令においても、田畑の質入れ問題に関しては、徳政にすることはもはや出来なかったのである。

《補論 江戸時代の紛争解決》
 幕藩制国家が紛争解決にあたった事件は、大きくいって三つのタイプがあった。すなわち、「①論所(ろんしょ *田畠・入会地〔いりあいち〕・特権的営業区域・水利など、物権の帰属を争う事件)、②公事(くじ *小作料・借金など債権債務関係の争い)、③家・村など団体の内部秩序についての事件(家督・跡式・養子・村の座次・役負担・しきたりなどについての争い)がそれである。公事はさらに、本公事と金(かね)公事に分れた。金公事は有利子・無担保の、物権変動にかかわることのない金銭債権債務事件、本公事は金公事以外の物権変動をもたらす債権債務事件である。/金公事とそれ以外の事件(論所・本公事・団体の内部秩序についての争い)とでは訴訟手続きが異なっていた。この時代には一般に当事者間の話合いによる紛争解決(内済〔ないさい〕)が奨励されたのであるが、金公事には特にこれが要請されていたこと、金公事(かねくじ)以外の内済は原告・被告双方の内済申立て手続きを必要としたが、金公事の場合は原告の申立てのみでよかったこと、金公事には被告に債務の分割弁済を許容する切金(きりがね)の制度が存在したこと、一定額以下の少量の金銭債権には訴権が認められなかったこと、などである。総じて、幕藩制国家は、論所・本公事・団体訴訟に比して金公事を軽く扱い、これに簡略な仕方で対処しようとしている。」(水林彪著『封建制の再編と日本的社会の確立』P.295~296)といわれる。
 江戸時代、金公事以外が重視され、金公事は軽視された理由は、前者が土地所有や社会的団体など封建的支配に直接かかわる事件であるが、後者の金公事は二次的な重要性をもつ事件であったからである(後者は資本制社会では極めて重要な意義をもつ事件であるが)。
 この点にかかわり、石井良助氏は次のように述べている。江戸時代、「......金公事の債権の保護が薄かったのは、物的担保を取らないで金を貸したのは、相手方を信用したからであり、相手が弁済しないのは自分の目違いであるから、幕府にその尻拭いをさせるのは不当であるという思想に基づく。もっとも無利子の場合に本公事となるのは、金儲けのために貸したのではなく、無利子で借りたのに、返さないのは借りた方が悪いという考え方による。この根底には、金銀貸借はもともと実意をもってする相対の契約であって、当事者間で決済すべき性質のものであるという思想があり、その上に、金公事の出訴の数が多いということも考慮の中に入っていたであろう。」(同著 体系日本史叢書4『法制史』山川出版社 P.231)と。

 (ⅴ)実質的に狭まる土地請返し請求権
 第五代将軍綱吉が死去すると、1709(宝永6)年5月、養子にしてあった兄の子・綱豊(改名して家宣)が第六代将軍となる。家宣時代も側用人政治はつづけられており、それは間部詮房と儒学者の新井白石によって主に担われた。しかし、家宣は早くも1712(正徳2)年10月に死去し、その子の家継がわずか4歳にして第七代将軍となる。幼少の将軍では、間部と白石を保護することはできず、側用人政治は保つことはできなくなった。この間、老中職を担う資格を持つ譜代大名たちの不満もたまっていたのである。
 家宣・家継の時代、幕府の農政においては目ぼしい政策は打ちだされていない。前例踏襲であった。
 家継は1716(正徳6)年4月、わずか8歳で夭折(ようせつ)し、ここに家光の血筋は断絶する。大奥もからんだ権力闘争によって、新将軍は紀州から迎えられ、同年5月、間部詮房・新井白石ら家宣の寵臣たちは罷免される。

〈請返し請求期限の制限〉
 倹約と尚武を強調する吉宗新将軍ではあったが、当初、譜代大名などの意見を無視できず、ただすべての政治を"天和以前(*綱吉の時代)に戻す"と宣言するばかりであった。そして、農政の基本は、元禄8(1695)年の"質地取扱に関する十二ヶ条の覚"の延長上にあった。
 1718(享保3)年8月11日、幕府は次のような〈覚〉を発令する。

       〈覚〉
一(第一条)質田畑屋敷?(ならび)に山林等、拾ケ年より五ケ年の年季に候は、年季明ケ五ケ年の内(うち)訴え出(で)候分は裁許(さいきょ *許可)致すべし、弐ケ年三ケ年年季に候は、年季明ケ三ケ年の内(うち)訴え出候分は裁許致すべし、勿論(もちろん)右(みぎ)年数過ぎ候はは取上げ申すまじき候事、且又(かつまた)證文(証文)に年季の限りこれ無く、金子(きんす)有り合わせ次第(しだい)請返(うけかえ)すべき旨(むね)これ有る質地は、其(その)證文の年号より拾ケ年の内(うち)訴え出(で)候は裁許致すべし、拾ケ年過ぎ候はば取上げ申すまじき事
一(第二条)質地の年季は弥(いよいよ)拾ヶ年を限り、其(その)余の長年季取上げまじき事
 附(つけたり)、質地證文に名主加判(かはん *判を押し記すこと)これ無き分は取上 
 げ申すまじく候、置主(おきぬし *質入れ人)名主にて候ば相名主(あいなぬし)、組
 頭、年寄加判これ無く候は、是又(これまた)取上げ申すまじき事
右は質田地年季明き候て請返したき旨(むね)、?(ならびに)年季の限りこれ無く、金子有り合わせ次第(しだい)請返すべき由(よし)の證文を以て訴えで候はば、只今(ただいま)迄(まで)年数を極(きわ)めざる候故(そうろうゆえ)、裁許まちまちに付き、享保三戌(いぬ)八月十一日、評定所一座評議の上、書面の通り相定め候、以上
   戌八月
          大岡越前守 
   酒井修理太夫
   水野讃岐守 
                        牧野因幡守                      
                        水野伯耆守  
                         松平対馬守 
              伊勢伊勢守  
土伊伊予守
           大久保下野守 
 坪内能登守 
   大岡彌太郎  
中山出雲守
            辻六郎左衛門
             (『日本財政経済史料』第三巻 P.1085~1086)

 この法令は、元禄8年の"質地取扱に関する十二ヶ条の覚"を踏まえ、質流れを認めず、質入れ人の請返し権を認めるが、ただそれを制限する期限を設定し、請返し請求権を狭める傾向をもったものである。それは、この法令の最後に、これまでは年季明けの質田地の請返しを願い、しかも証文に年季の期限が無く「金子有り次第請返すべき」と明記されていた場合の出訴について、「只今まで年数を極めざるに候故、裁許まちまち」であったので、この新しい法令を出したという表現で明らかである。
 そこで、新たに、質入れ地の請返し請求の有効条件として、①質入れ地の年季が10~5年までの間になっているものは、年季明け5年以内に訴え出た場合、②同じく質入れ年季が2~3年のものは、年季明けより3年以内に訴え出た場合、また、③年季が決められておらず「金子有り次第請返す」という証文の文言(もんごん)がある場合は、その証文の年号より10年以内に訴え出た場合―とした。
 元禄8年の法令では、その第六条で、「金子有り次第請返す」という文言があれば、何時でも借金さえ返せば、質入れ地は取り戻せた。しかし、新たな法令は、質入れ年月より10年以内でなければ、請返し請求権は無くなると変わったのである。これは明らかに質取り人に有利に変化したもので、質入れ人側の従来からの権利はまた一歩、制限されたのである。

〈請返し請求権者の制限〉 
 幕府は、三年も経たずして、1721(享保6)年2月、また農政の根幹にかかわる法令〈村々へ申し渡され候書付〉を発布する。

一(第一条)村々大小の百姓、前々の通り五人組を極め置き、組合(*五人組のこと)外れ候者これ無き様に致し、諸事(しょじ)御法度(ごはっと)の儀(ぎ)堅く相守るべし、若(も)し人柄悪しく家業相勤めざる放埓(ほうらつ)の者これ有らば、隠し無く名主・組頭申し合わせ訴え出(いず)べき事
一(第二条)惣(すべ)て百姓何事によらず大勢相催し〔*大勢で誘い合い〕、神水を呑み誓約を致し、一味同心(いちみどうしん)徒党(ととう)がましき義(ぎ)堅く制禁の事
一(第三条)百姓持高(もちだか)にては拾石以下、反畝にては壹(一)町歩以下の田畑は、子供?(ならびに)兄弟へと割分(*分割)申すまじき事
一(第四条)田畑屋敷山林等譲(ゆず)り候儀、存生(*生前)のうち遺状(遺言状)に記し置き、名主・組頭のうち立合(たちあい)し加判致し置き、後日(ごじつ)出入(*紛争)これ無き様(よう)仕るべく候、一分の心〔*自分一人だけの〕次第認め置き候遺状は、死後に至り立ち難く候事
一(第五条)村中百姓有り来たり〔*もともとあった〕家作(かさく *家を作ること、またその家)の外、猥(みだ)りに家作仕るまじく候、よんどころ無く子細これ有らば、御代官の差図(さしず)たるべく事
一(第六条)永荒地のうち起き返し〔*長らく荒れ地であったのを新たに開墾した〕田畑有らば、隠し無く早速書き付けを以て申し出ベく候、惣て新開の田畑、或(あるい)は切添(きりぞえ *既存の田畑の周りを開墾すること)、或は永荒場等の立ち返り、又は高外の見取場〔*一見して思いがけないほどの広さの場所〕に成るべく地所これ有りて、若し唯今(ただいま)まで年貢納めず作り来たり候地所これ有らば隠し無く申し出べく候、萬一(まんいち)外(ほか)より相知り候はば、隠し置き候地主は云(いう)に及ばず、名主・組頭等まで越度(をちど)たるべき事
一(第七条)新規を企て神仏を拵(こしら)え、怪しき義を申し触らし、物取(ものとり)のため人集(ひとあつめ)仕るまじき候、たとへ物取にてこれ無き候共、只今まで有り来らざる事を拵え、神仏の類(たぐい)村送りに致し人寄せ仕るまじき事
一(第八条)田畑屋敷山林等に至るまで、永代の売買一切停止の事
但し、年季限りの売買にても、村並みの直段(ねだん *値段)より倍金にて売買仕(つかまつ)るべからざる事
一(第九条)頼納(たのみをさめ)と申し名付け、田畑屋敷山林等(など)その直段より倍金を以て質に入れ、亦(また)は年季売買の積(つも)りに致し質に取り年季に売り、金主(*質取り人)は年貢役〔を〕相勤めざるに於ては、右(みぎ)質に入れ亦(また)は売り候地主(*質入れ人)より、年貢役等相勤め候儀堅く停止の事
一(第十条)質に入れ候田畑屋敷山林等、拾ケ年より拾五ケ年までの年季に相極め置き分は、年季明け五ケ年の内にても訴出(うったえいず)すべし、亦(また)弐、三年の年季にて年季明け三ケ年の内に訴出候も沙汰に及ぶべく候、右の年数より過ぎ候はば取上げまじく候、證文に年季の限りこれ無く、金子有り合わせ次第請返(うけかえ)すべき由(よし)の質地は、その年号(*その年から)拾ケ年の内に訴出(うったえで)候はば沙汰に及ぶべく候、
但し、自今以後は質地の年季拾ヶ年に相限るべき事
附(つけた)り、質地の證文に名主加判取り置くべく候、置主(おきぬし)名主〔*置主が名主の場合〕は組頭・年寄加判(かはん)仕るべく候、右(みぎ)加判これ無き質地は取上げまじき事
一(第十一条)質地の儀(ぎ)再質(*又質)入れ候節、金高を増質(ますしち)に取りまじく候、惣(そうじ)て質地はその所並(ところなみ)の直段(値段)より、倍金(ばいきん)の手形(*証文)にて貸借(たいしゃく)仕るまじき事
一(第十二条)田畑屋敷山林等売買と申さず、譲(ゆずる)と名付け、金銭を取り候て譲り渡し候儀、永代売買と同罪たるべき事
一(第十三条)質地請返しの願ひ、地主(*質入れ人のこと)死後に至り地主の子か孫にてこれ無く、外(ほか)の親類より申し出候はば受返しさせ申すまじき事
但し、地主の子孫たり共、親存生(そんしょう *生きている)の内(うち)分家致し、別株に相成(あいな)り居り候か、又(また)は養子に遣(つか)はし、他家相続の子孫(しそん)願出(ねがひで)候共、本家跡式(あとしき *家督を相続すること)相立(あいた)てこれ有り、縦(たとへ)縁は遠く相成り候共(とも)、他家の子孫へ受返し(請返し)させ候は相成らず候事
一(第十四条)毎年年貢割付け免定(*割引き)出で候はば、村中大小百姓出作(でづくり *自村外の村で作毛すること)の者まで披見(ひけん *開いて見ること)仕るとして、年貢割合(わりあい)随分念を入れ相違無き様に仕るべく候、右(みぎ)免状本書相違無き様これを写し、名主・組頭立ち会い、郷蔵(ごうぐら)戸前に張り置き申すべく候事
一(第十五条)惣て田畑野方林(はやし)藪(やぶ)等を開き候て、新規屋敷に仕り候義(そうろうぎ)停止の事
 但し、村中にこれ有り候古道を相止め、私として新道を附(つ)け候義(ぎ)仕りまじ
 く候、新田畑その外前々より家これ無き場所へ家作致し、又は出茶屋等作るべからず候、
 若し子細これ有るか、新家作の義(ぎ)願ひ出候はば、御代官差図請ふべき事
一(第十六条)父兄又は親方分の者より譲り受け候か、或は質地流れ、田畑屋敷山林等、又(また)は町端の町屋敷買い受け候はば、早速その所の名主・五人組へ相断(あいことわ)り、当然(とうぜん)持主の名前に書替え申し候、若し名前書替え置かず出入に成り候はば、その地所(じしょ)公儀へ取るべく候事
一(第十七条)水帳(*検地帳)名寄帳の反歩附(つけ)より、歩広(ほひろ)田畑屋敷山林等を前々より持ち来り候て右本歩(*水帳・名寄帳のこと)より増しの余分を村分け候か、質に入れ亦(また)は年季売りに致し候義一切仕りまじき事―〔*余歩(よぶ *基礎控除面積)や縄延び(*非課税面積)を村分けにして質入れや年季売りにするな! ということ〕
一(第十八条)意趣(いしゅ *うらみ)遺恨(いこん *いつまでも残るうらみ)これ有り候て、人の門へ張り札亦(また)は落し文(おとシぶみ *落書)致し、惣て人を罪に落すべき工(たくみ)なる偽(いつわり)を構へ候義仕りまじき事
一(第十九条)前々より村中入会(いりあい)に致し来たり候山林秣場(まぐさば)等は、相対(あいたい *当事者だけで事を行なうこと)を以て分ケ切(わケぎり *分割)持ちに割り合い申すまじき事
一(第二十条)小作田地の義、貮拾ケ年を過ぎ作り来たり候はば、永小作と為(な)すべき事
右の通り、村々百姓水?等に至るまで、少も違背無く急度(きっと)相守るべきもの也
                (『日本財政経済史料』第二巻 P.957~960)

 これらの条項の内、第八条・第九条・第十一条・第十二条は、1643(寛永20)年3月の田畑永代売買禁止令とそれに伴う諸規定の繰り返しである。また、第十条は前掲した1718(享保3)年8月の質地に関する規定の繰り返しである。ただ、第十条の「但し」としての「自今以後は質地の年季拾ヶ年に相限るべき事」は、1694(元禄7)年正月の規定の再確認である。
 しかし、これらの条項の内で新たに規定されたものとして、第十三条がある。従来の幕府法では、質入れ地の請返しを請求する主体について、質入れ人が死後の場合の規定は全く無かった。なんとなく子・孫・親類縁者の範囲とされていた程度であったと思われるが、今回の規定で明確となった。すなわち、死亡した質入れ人の子か孫に限定されたのである。親類縁者の請求権は、否定されたのである。ただし、死亡した質入れ人の子孫であっても、質入れ人が生存していた時期に分家した者とか、または他家に養子に出た者は、除外された。イエの系譜を厳格にして、家督争いを封じたのである。
 以上により、幕府は、請返し請求権者の範囲を限定して、さらにまた質流れの現状に適合していったのである。もはや田畑永代売買禁止の原則は、崩壊寸前の状態となったのである。

Ⅵ 流地禁止令とその撤回

 ところが、これまでの質地を公認する傾向を否定する逆流が突如として、出現する。1722(享保7)年4月の流地禁止令である。

(1) 流地禁止令の発布
 突如、発令された流地禁止令とは、以下のようなものである。

惣て百姓、質田地年季明ヶ(ねんきあけ)已後(いご)、金子(きんす)済方(すみかた)相滞(あいとどこお)り候儀、訴出(うったへで)候得(そうらへ)は、只今(ただいま)までハ金高ニより、五、六十日、七、八十日の日切(ひぎれ *日限)申し付け候て、一度の日切ニ相済みざり候得は、流地に申し付け、日延(ひのべ)ニは申し付けざる候、是(これ)ハ江戸町方ニて質(しち)ニ入る屋敷の取扱(とりあつかい)の格(かく)ニ相准(あいじゅん)シ、日延ニ致させず候、然(しか)る共(とも)地方の儀、此(かくの)如く申し付け候得は、分限(ぶんげん *財力)宜(よろし)キものハ質流れの田地(でんち)大分(だいぶ)取集め、又(また)は田地連々(れんれん *連なって絶えぬ様)町人等の手ニ入り候様ニ成り候、田地永代売(でんちえいたいうり)御制禁(ごせいきん)ニて候処、おのつから(自ずから)百姓田地に離れ候事ハ、永代売(えいたいうり)同然の儀ニ候條、自今(じこん *今から)ハ質田地一切流地ニ成らざる候様、只今まで質入れニ致し置き候分(そうろうぶん)、又は当然(とうぜん)訴出(うったへで)候て出入(でいり *訴訟)ニ成り候分ともに、質年季明け候は、手形(てがた *証文)仕直させ〔*書き替えさせ〕、小作年貢〔料〕ニても前方(*前々から)極め置き候分ハ、壱割半(*貸金の15%)の利積りの外(ほか)は金子損失ニいたし〔*15%を限度とし、それ以上は損金に致し〕、只今まで質地の小作年貢〔料〕滞りこれ有らは、壱割半の利金積り(*金利計算)を以て元金の内え加え入れ、其後(そのご)ハ無利の済崩し〔*無利息の済崩し〕の積り(計算で)、金高壱割半宛て年々返済の定めニ手形申し付け〔*証文を書き替えさせ〕、元金切り〔*元金が終わり〕次第(しだい)、幾年過ぎ候ても地主え相返シ候様ニ致すべく候、いまた(未だ)年季懸りこれ有る分(ぶん)共に〔*年季が明けていない分でも〕訴出候は、是又(これまた)向後(こうご *今後)右の通り利分壱割半の積りニこれを改め、手形仕直(しなお)させ申すべく候
一、 質地の裁判の格法(かくほう *きまり)、前条の通り此度(このたび)改め候ニ付き、五ヶ年以前酉年(とりどし *享保2年)以来限りの訴出(うったへで)候分は、只今まで裁許を以て流地ニ成り来り候分ニても、当然元金残らず差し出シ、田地請戻(うけもどし *請返し)シ度(したく)と願出(ねがいで)候ものニは請戻(うけもどし)させ申すべく候、但し流地持ち候者の方ニて、田地配分いたし置き、又(また)は年季売地等ニも致し置き候分ハ、其儘(そのまま)ニいたし請戻させ申しまじく候、流地取り候ものの手前に田地これ有る分(ぶん)計(ばかり)、右の通り請戻(うけもどし)させ候様ニ申し付くべく候事
一、 自今は質田地を以て金子借り候事、その所(ところ)の田地直段(値段)ニ弐割引きの積りを以て、手形(*証文)ニ名主、庄屋、組頭等加判(かはん)仕るべく候、質地地主ニ直ニ(ただちに)小作いたさせ候といふとも、向後(こうご)ハ小作の年貢壱割半の利積りを以て、小作入れあげ相極めべく候、是(これ)より高利ニ致すべからず候、壱割半より利安ニ借シ借り(貸し借り)致し候儀ハ相対(あいたい)次第たるへき事
右の趣(おもむき)、堅く相守るべく候、若し違背(いはい)の輩(やから)あらハ(有らば)、曲事(くせごと *違法)を為すべく者なり
    享保六丑年十二月    (『御触書寛保集成』二六〇四号 P.1214~1215)

 この流地禁止令が発令された理由は、もちろん質流れが頻発し、「本百姓体制」・「村請制度」が形骸化し、ひいては近世封建制の基盤が溶解するのではという危機意識であろう。そして、質流れの頻発化について、「是(これ)ハ江戸町方ニて質ニ入る屋敷の取扱(とりあつかい)の格(かく *きまり)に相准シ、日延(ひのべ *証文を書き替え、質入れ状態を継続させること)ニ致させず候」からであると原因を述べている。つまり、江戸町方での屋敷地を質入れして借金をした場合の取扱いを、条件の異なる村方の田畑屋敷の質入れにも准じて適用したからとするのである。(《補論 町人的所持権の売買》を参照)
 こうなると、百姓の質流れ地は裕福な者に多量に集まり、また、大量の資金をもつ町人の手元に集積することになる。元来、田畑永代売買禁止なのであるから、質流れ地を公認することは名請人である本百姓から田地が離れることとなり、田地永代売買と同然になることなので、禁止令の趣旨にもとることである。
 よって、今後の方針は以下のようにする。
 ①今、質入れしている田畑、また訴えがでて「出入」となっている請戻し請求期限内のものは、年季が明けたら手形(証文)を書き直させ、延長させる。また、小作料についても、今まで取り決めているものは、もし小作料が貸金の15%以上になるものは15%を限度とし、それ以上は質取り人の損金とする。今まで質地の小作料を滞納している場合は、その滞納年数を15%の金利として計算し、それを元金に加え、その後は無利息とする。そして、それらの金高の15%ずつを年々返済するという手形に書き直させ、元金返済が終わり次第、たとえ何年経過していても質入れ田畑を請返しできるようにする。
 ②また、年季が明けていない場合でも、今後は①のような決まりに従って、15%の金利にして手形を書き直させる。
 ③以上のように質地の決まりを改めたので、享保2年以来からの訴え出たものは、たとえ今、流地になっていても、元金を残らず返却し請戻しを願い出て入る場合は、請戻しを許可する。ただし、質取り人が田地を配分(子孫や親類縁者に分配)したり、年季売りにしている場合は、請け戻させないとした。
 ④これからは、田地を質入れし金を借りる場合、その地方の値段の20%引きとすること、また質取り人がその質地を質入れ人に直小作(じきこさく)させる時でも、小作料は15%の利積りとし、それ以上の高利にすることを禁止した。ただし、15%以下にする場合は、当事者間の相対次第(当事者間の交渉による合意による)とした。
 以上のように流地禁止令は、元禄8年6月に出された"質地取扱に関する十二ヶ条の覚"以来の、流地に関する諸規定をご破算とし、寛永20年の田畑永代売買禁止令がだされた段階の質地の取扱い(流地を認めず、年季が明けた時は証文を書き直す)に立ち返ったのである。
 だが、これには各地の農民たち、とりわけ上層農たちの激しい反対活動が展開される。

《補論 町人的所持権の売買》
 近世の土地所有は、兵農分離・兵商分離・商農分離、都市集住(武士、商工業者)などを通して、身分・職掌・居住地がセットとなって、近世の初め(豊臣政権と初期徳川政権)に成立されている。その支配諸身分の構造は、将軍―諸大名―家士の位階制的な重畳制をもった土地領有権である。したがって、大名も家士もその身分を失うと領有権を失う。また、商人など裕福な者がいくら資産を蓄積しても支配身分の土地領有権は獲得できない。被支配身分の土地所持権は、百姓的土地所持権と町人的土地所持権、それらと別の差別された部落民の土地所持権に大別される。被差別部落民は農村では村のはずれ、町方では町のはずれと居住地が基本的に指定され、百姓的所持権や町人的所持権に準じている。被支配身分の所持権は、最上級権である将軍の領有権や諸大名などの領有権に規定されている。近世の封建的土地所有権もまた、荘園制的土地所有権よりはるかに簡素化されているとはいえ、やはり重畳的な所有権となっているのである。
 城下町での土地所有は、その身分制によって基本的に規制されている。それを示す法令は、やや時期が遅れるが、以下の1726(享保11)年8月の法令に典型的である。

     〈覚〉
一(第一条)惣(すべ)て百姓地抱屋敷(かかえやしき)?(ならびに)町竝屋敷(まちなみやしき)町屋敷所持の面々(めんめん)譲渡の儀、百姓地ハ百姓え、町屋敷は町人え譲渡候儀ニて、筋違者(すじたがふもの)え譲渡候儀は成らざる事候、譲渡候節、誰方(いずかた)え遣(つかわ)し候段、屋敷改(やしきあらため *寛文8〔1668〕年に設置された役所)え相談を遂(と)げ、屋敷改差図(さしず)次第(しだい)遣し候様ニ致すべく候、
一(第二条)武士より武士え遣し候儀、又は百姓地を町人え、町屋敷を百姓え遣し候儀成らざる事ニ候、去りながら格別の由緒もこれ有り候ハハ、屋敷改え相届(あいとど)け、差図次第ニ致すべく候、
右の趣(おもむき)、近年猥(みだ)りに成る様ニ相聞え候、向後相違これ無き様ニ心得べき旨(むね)、向々(むきむき)達せらるべく候、
     八月           (『御触書寛保集成』二二一一号 P.1067)

 兵農分離・兵商分離などの下で、身分規制の強い近世においては、百姓的所持権は農村地域に限られ、町人的所持権は城下町のしかも町人が集まった地域に限られた(第一条)。したがって、第二条が言うように、武士から武士へ、百姓地を町人へ、町屋敷を百姓へ譲渡することはできないことであった。武士から武士への譲渡が禁止されたのは、上級所有権としての幕府や諸大名など支配身分の領有権を乱すからである。百姓地と町屋敷はそれぞれの身分制を侵害することを避けるために同じ身分の外に譲渡されることが禁止された。
 しかし、町屋敷が町人に売買されること(町人的所持権の売買)は、自由であった。(近世初期の豊臣政権・徳川幕府初期の町人的所持権にかかわる政策は、後藤正人著『土地所有と身分』法律文化社 1995年 P.73~87 を参照)
 幕府は、1651(慶安4)年2月の法令では、「一、家売買の儀、その町々名主、五人組加判ニて売買仕るべく候、家守(やもり)留守居(るすい)吟味致し、手形(*証文)取り申すべく候、縦令(たとひ)借金ニても、沽券(こけん *「沽」は売るの意で、売り渡し証文のこと)仕り候上(うえ)公事(くじ *訴訟)出(い)で候共、跡々のことく(如く)御さはき(裁き)仰せ付けらるべき事、......」(『御触書寛保集成』二二一五号 
 P.1069)とされている。
 これによると、町屋敷地の売買には、必ず町の名主・五人組の加判がある証文が必要となる。その際には、家守(地主の土地を管理し、公用・町用を勤めた差配人)留守居(主人の留守中、その家を守る者)はよく吟味し、手形(証文)を取るべきとした。
 1656(明暦2)年3月の法令でも、次のようにしている。

一(第一条)町中にて家屋敷買ひ候者、名主、五人組所え銘々ニ参(まい)り候は、五人組能々(よくよく)見届ケ(みとどけ)相改め、慥(たしか)に存知(ぞんぢ *よく知っていること)候上、名主、五人組の加判を以て、沽券状取り、家屋敷売買仕るべき事、
一(第二条)名主、五人組ニ候とて、その五人組穿鑿(せんさく)も仕らず、家屋敷買取り、以後ニ出入(でいり)罷(まか)り成るに於てハ、さはき(裁き)申し付けまじき事、この趣ハ、町中にて、作り五人組のにせ(偽)手形を致し、家の売買候故(そうろうゆえ)、かくの如く相触(あいふ)れ候間、向後(こうご)能々(よくよく)僉議(せんぎ *衆議)仕り、買ひ候者自身参り、名主、五人組改め、手形取り申すべきもの也、
     三月          (『御触書寛保集成』二二一六号 P.1070)

 ここでも、町中の家屋敷を売買するうえでの、名主・五人組のよくよくの調査・吟味と、証文への加判を重要視している(第一条)。そのうえで、第二条では、偽手形が出回るようになっている事情を踏まえ、なお一層の衆議と名主・五人組の調査・吟味を命じている。
 以降の幕府の土地政策の変遷を、後藤正人著『土地所有と身分』で大雑把にみると、①寛文・享保期(1661~1736年)には、幕領・私領(大名領・旗本領など)の百姓地や寺社の領地を武士や町人が借地することが禁じられた。
 「屋敷改(やしきあらため)」という役所が、1668(寛文8)年に設置され、その活動が強められているのは、兵農分離制がようやく形骸化を始めたことを意味する。元禄期(1688~1704年)には、町場へ武士が「抱屋敷」をもち始めたことへの対処であり、享保期(1716~1736年)には、百姓地に「抱屋敷」を新規に建てることを禁じ、「抱屋敷」の囲いが問題とされている。
 「抱屋敷」とは、1801(享和元)年6月の「屋敷改へ問合(といあわせ)」によると、「一 抱地(かかえち)と申し候ハ、圍家作(かこみかさく)ハ相成り申さざる候場所、野田のまま所持仕り候を抱地と唱へ申し候、/一 抱屋敷(かかえやしき)と申し候ハ、圍家作(*家の周りが囲われていること)等相済み候場所を抱屋敷と唱へ申し候、但し、抱屋敷の御内ニても圍取り計らい、家中何十坪相済み候抱屋敷もこれ有り、又(また)何千坪の内(うち)狭く圍み、何百坪相済み候抱屋敷もこれ有り候、」(『徳川禁令考』前集第三―1565号 P.244)と言われる。また、『地方判例録』は、「抱屋敷(かかえやしき)」に関し、「......外に抱田地(かかへでんぢ)・抱屋敷などの名目ありて、これはその村の百姓にてハあらずして外(ほか)よりその村の田地屋敷を所持するを云(いふ)、」(同著上 P.206)とされる。(家作とは、家を作る事、またその家を指す。「抱屋敷」とは、とくに貸すために作ったものと思われる)
 ②寛延・享和期(1748~1804年)には、土地法が大きく変化した。寛延期には、武士が百姓所持の畑地を譲り受けて「抱屋敷」とすることが禁じられた。だが、武士相互での「抱屋敷」譲渡は認められるようになった。宝暦期(1751~1764年)には、武士が従来田畑であった「抱屋敷」に屋敷を構えることが禁じられた。
 ③幕末期(1830~1868年)には、幕府の土地法が解体期を迎える。まず、天保期(1830~1844年)の法令をみると、百姓地内に百姓名義を持つ武士・寺社・町人の「抱屋敷」が無視できないほどに拡大してきている。弘化期(1844~1848年)には、武士の町屋敷を町人へ移転する法形式が確立している。慶応期(1865~1868年)には、それまで都市における土地管理を担当してきた「屋敷改」が廃止され、普請方に属する作事奉行が担うこととなった。普請・土木工事・上水の管理などを扱ってきた普請方が、都市の土地移転にかかわる行政を担えるはずがなかった。

(2)農民の地主への激しい攻撃
 流地禁止令は1722(享保7)年4月に発布されたが、従来と180度異なる突然の法令であったため、幕府領・私領(大名領や旗本領など)を問わず多くの「質地騒動」をひき起こした。中でも、越後の頸城(くびき)郡下の幕府領、出羽の村山郡長瀞(ながとろ)村などでは、激しい闘いが展開された。

〈村山地方の「質地騒動」〉
 山形盆地を中心部に持つ出羽国村山郡下においては、元禄期から享保期(1688~1736年)にかけて、質地関係が急速にすすんだ。「村山郡下の幕府漆山陣屋支配の長瀞(ながとろ)村においても質地関係が甚だ多く同(*「享保」のこと)六年(*1721年)質地田畑証文は三百二十通、これに伴う貸附(貸付)総金額三千九百八十両、この債権者四十六人、債務者三百余人にも及ぶ有様(ありさま)であった。」(大石慎三郎著『封建的土地所有の解体過程』御茶の水書房 1958年 P.164)という。
 このような時期に、ちょうど流地禁止令が発布されたのであった。
出羽の村山郡地方の村役人には、幕領代官から流地禁止令が伝達されていたが、長瀞村では村役人たちが混乱を恐れて、陣屋手代、金貸しなどとの相談の上、この法令を百姓たちに伝達しないでいた。しかし、1723(享保8)年正月には、長瀞村の新兵衛、喜右衛門(ともに質入れ人)が、流地禁止令が発令されていることを知り、隣村の下郷飯田村からその写しをもらい、知人と検討した。この結果、この法令は"徳政のお触れ"であって、質入れ地および質流れ地でも、今後、金子を出さずに取り返すことが出来ると解釈し、2月11日から行動を開始した。名主宅に押しかけた際には、「名主がこの法令を農民に読み聞かせなかったのは不届至極(ふとどきしごく)であるとせめたて、その罰だというのでまず質地を取返し、借金はそのあとで一割ずつ済崩しに返済することとしたうえ、小作料金は一割五分と制限されているにかかわらず、それ以上だまし取っていたとして、その超過分の返済を要求した。」(『土地制度史』Ⅱ―大石慎三郎著「第一編 近世」P.124)と言われる。百姓たちは、11~16日までの間には、村内の金貸し人より質地証文の全部を取上げた。その総計は、手形数で380通に上ったと言われる。さらに、百姓たちは「もし万一問題になった時に不利にならないようにというので、金主たちから質地証文を返したのは金主・借方相対のうえだという一札をとった。」(同前 P.125)のであった。
 だが、名主たちは質置き人の百姓たちの要求を拒否し、いろいろなだめて説得した。だが成功せず、代官所に助けを求めた。しかし、代官所も大勢の百姓の決起を取り鎮めることができないで、双方からの主張を書面にして幕府の指示を仰いだ。
 幕府は双方の者(質入れ人10名、質取り人8名)を江戸に召喚して裁判をしようとしたが、逮捕を恐れた百姓側のうち5人ほどが江戸に登らず、現地で闘いを続けた。そこで、「幕府は隣藩山形の堀田山城守へ『今度羽州長瀞百姓十人の者共(ものども)、御勘定奉行差紙(さしがみ *幕府の召喚状)難渋致し候に付き、早々取締め、差登(さしのぼ)せ申すべく候。若し手向(てむか)ひ等仕り候ものこれ有らば、弓鉄砲太刀の鞘(さや)を外(はず)し、村中残さず撫切(なでぎり)仕るべし』と云うきびしい命令を発した。この命を受けた山形藩は総数八百余人の人数をくり出して長瀞村に向った。......また、新庄藩も同じ命を受けて出兵した。これらの大軍にかかっては勿論(もちろん)ひとたまりもなく前記五名(*召喚状に従わず現地に残った者)は捕らえられて江戸送りになった。」(大石慎三郎著『封建的土地所有の解体過程』P.168~169)のであった。
 江戸での裁判は、一方的なものであった。「評定所での取調べは、『相対(あいたい)にて金主(*質取り人)共(ども)?(より)貰(もら)い申し候段実正ニ候哉〔*金主から証文を貰い戻したというがそれは本当に正当なものなのか〕、但し相対ならむ金子(きんす)出し候て、質田地受戻し候へは、誠の相対なり』として、金を出した請戻しであるか否かをのみ追求、地主百姓(*質置き人)は質田地取返し後元金を一割半宛(あて)済崩すという心算(つもり)であったから、奉行はこれを『只取(ただと)り』であると断じて金借り人七人を入牢せしめた」(古島敏雄編『日本地主制史研究』岩波書店 1958年 P.90)のであった。
 これにより、「質地騒動」は終息となり、村役人・金主側(質取り人)に対しては何のとがめもなく、百姓側は磔(はりつけ)2名、獄門4名、死罪2名、遠島9名、田畑取上げのうえで牢舎5名、牢舎1名、過料91名、合計114名のものが処罰されたのであった。
 古島敏雄氏は、この「騒動」について、「......幕府側の意向が中途で変更していることに気づくのである。騒動の決済が江戸に持ちこまれて評定所裁断となったときそれは最もよく現れているものといえる。この時に至り、幕府は、もはや、質出(しちだし)百姓の擁護は放棄し、事実上の質流(しちながれ)を認めざるをえなかったのである。」(同前 P.91)と、評価している。

〈頸城地方の「質地騒動」〉
 享保年間(1716~1736年)に入って、越後頸城地方でも米価は急落し、1717~1723(享保2~8)年にかけては、半値以下になったと言われる1)。「米価安の諸色高」は、多くの百姓の生活を極度に困窮させた。これを背景に、「頸城地方では、百姓の土地が高田・今町(ともに現・上越市)などの高利貸商人の手にわたるものが多くなった。」(県史15『新潟県の歴史』山川出版社 1998年 P.176)のである。
 流地禁止の「御触れ」が越後頸城郡の幕府領百姓に正式に触れ出されたのは、1722(享保7)年10月頃であった。流質地が取り戻せるとの情報を知り、「下鶴町・米岡村・角川村・新屋敷村(*以上、現・上越市)などの各村落の質置人(*質入れ人)が集まって、座頭円歌(えんか)・医者佑益から法令を読んでもらった。この両名は難解な条文を読み誤って、質置人たちに有利なようにこの法令を解説した。裕福なものや町人の手に田畑がはいり、百姓が耕地から離れるのを、お上(かみ)が気の毒に思って、お慈悲をもって元金なしくずしをおおせつけた(仰せ付けた)ものだという」(県史シリーズ15 井上鋭夫著『新潟県の歴史』山川出版社 1970年 P.193)のである。
 これに喜んだ村々の質入れ人の百姓たちは、「......会合し、質地条例を読みあい、村ごとに質入人が連判して、質地の六〇%は質入人に返してもらい、そのうえで元利を年賦払いにして欲しい、と稲村代官所に訴えた。代官美濃部勘右衛門は、これらの土地は流質してから年限が久しいものであるとして訴えを却下した。農民の不満は高まり、質入人による騒動が勃発した。鶴町・野村(*ともに現・上越市)などの金主(*質取り人のこと)がおそわれ、米が強奪された。」(一九九八年版『新潟県の歴史』P.177)のであった。
 享保7年10月の質置人(質入れ人)たちの歎願書は、"質地に出した田地全く自分たちの所持地ではないが、是非、御慈悲を以て右の田地を自分たちで耕作出来るようにしていただければ、田働きを以て借金元利(しゃっきんがんり)御定めの通り返済できるので、
一同田地ニ取り付き仕りたく願い上げ奉り候"と述べている。
 嘆願書から読み取れることは、①質置人は質地関係によって保有権(所持権)および耕作権を失っている(質地は質取人が手作りしている)。②そのため土地喪失の百姓は働く手段を失って困窮しており、借金を返すあてがない。③そこでまず質地を質置人に耕作させてもらいたい。④質地の耕作権を取り戻したうえで、元利金を年賦で済ます(保有権の買い戻し)ことにしてもらいたい。―の4点である。具体的な要求は、③と④である。
 代官側は押えきれない情勢を江戸表に報告し、百書側も代表吉岡村(現・上越市)市兵衛を江戸表に送り、出訴させた。また、百姓たちは各村ごとに地元の代官所にうったえるなど、流地取戻し要求は粘り強くつづけられた。
 しかし、代官所では質置人たちを集めて説得につとめるとともに、事件の首謀者を捕らえて投獄などし、結局のところ入牢者全員を一三〇日目に釈放して事件は、1723(享保8)年3月にはひとまず収束した。
 その後、稲村・川浦・高野・福田などの代官が集まり、対策を協議したがなんら解決策を見出すことが出来なかった。その後も、金主側(質取人側)も質入れ人側もそれぞれ江戸に代表を送り、出訴を繰り返した。
 だが、1723(享保8)年4月には、闘いは再燃した。山間地の菖蒲村(大島村―現・上越市)の百姓らは地主に断りなく勝手に流質地に鍬を入れて農作業を行ない、逮捕に向かった代官所役人を追い返す事態になっていった。「質地騒動」は、頸城郡の広い範囲に波及した。
 その最中に、江戸から幕府の回答がもたらされた。「その要点は、質地用益は質取人側の権利である。元金積増(つみまし)返金による質地請返(うけかえし)は『年久しき質地』には適用されない、現在及び今後の質地については質流(しちながれ)は認めない、季明時(きあけじ *質地期間が明けた時)に元金返済ができなければ、一五%ずつ七年後に返済を完了する方法で請返してもよいというもの」(中山清著『近世大地主制の成立と展開』吉川弘文館 1999年 P.78)である。
 これを受けて不利な立場に置かれた質置き人(質入れ人)側は、「質流とならないことを根拠とし、『預ヶ置(あずけおき)候(そうろう)質地証文仕直(しなお)シ呉(くれ)候様』質取主側に迫り、拒否されると代官所へ訴え、続いてその要求を手作地主ではなかったであろう『高田金主』に集中した。また、質年季中の質地は定められた期限内に元金を返済すれば請返せることを前提として、質置人側は古くからの質地も取戻(とりもどし)の対象とした。『我等(われら)日切(ひぎれ *日限付き)の金子御請証文の通り右(みぎ)日限の頃(ころ)右金子の内(うち)壱弐両も差し上げ相残り候義ハ速々(はやばや)日延(ひのべ)ニ致し後ニハ自ら田地我等方え取戻し申すべき』状況を、事実として創り出そうとしたものとみられる。」(同前 P.78)ようである。
 質置き人側は、①質流れを認めないという幕府方針をテコにして、質取り人側に「証文書き直し」(そうすれば、質流れとならない)を要求し、②また、定められた期限内なら元金返済すれば請返しできるという幕府方針をテコとして、古くからの質地も取戻しの対象として、しかも、借金の一部返済で質地取戻しに入るとした。
 このようにして、越後から幕府評定所へ次々と訴えが繰り返される中で、羽前(現・山形県)の漆山や長瀞(ながとろ)の両代官所が支配する幕府領でも、上述のように「質地騒動」が展開されていた。しかし、各地の混乱の中で、幕府は突如として、流地禁止令を撤回する。

 注1)「米価安の諸色高」という物価問題は享保期からみられる。米価安は1723(享保8)年ころから顕著となり、1731(享保16)年には、最高時の4分の1の安値に落ち込んでいる。諸色高というのは、米価以外の諸物価が高騰したことを指す。これについては、拙稿「幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源」②(『プロレタリア』紙2015年2月1日号を参照)

 (3)短命に終わった流地禁止令
 幕府は1723(享保8)年8月28日、ついに流地禁止令を解除した。禁止令が発布されて以来、わずか1年4か月という短期間で禁止令は撤回されたのである。その法令は、次のようなものである。

一(第一条)去々丑(*1721年)冬中(ふゆじゅう)相触(あいふれ)質地の類、流地に成らず裁判これ有り候処(そうろうところ)、右の通りにても質地請返シ候事も成り兼(なリかね)、却て迷惑致し候者これ有り、金銀の借し借り(貸し借り)も手支え(*差しさわり)候由(そうろうよし)相聞え候ニ付き、当卯(*1723年)九月より丑年以前の通り取捌(とりさば)きこれ有る筈(はず)ニ候事
一(第二条)金銀返弁(*返済)致さず、質地をも相渡さず、出入(*もめごと)に及び候時ハ、訴出(うったえだ)すべき儀勿論(もちろん)に候得共(そうらへども)、年久しき儀は取上げこれ無く候間、享保元申年(*1716年)以前の出入(でいり)ハ訴出まじき事
一(第三条)丑年以来(いらい)当(とう)卯八月中まで、奉行所又(また)は私領にても、質地年賦に請戻(うけもど)し候裁判申し付け、証文改め置き候分ハ、彌(いよいよ)その通りに相心得(あいこころえ)べく候、然(しか)るとも、此上(このうえ)相対(あいたい *当事者間の交渉)を以て質流しに致し候とも、勝手次第(かつてしだい)の事
右、この旨(むね)を相守るべきものなり
  享保八卯年八月
質地出入(でいり)裁判の儀、今度相改(あいあらたま)り、別紙の通り御代官所え相触れ候間、私領方ニても右の趣(おもむき)、相心得らるべく候、以上
   八月          (『御触書寛保集成』二六〇六号 P.1215~1216)

 流地禁止令は、極めて短期間で撤回された。幕府担当者は、その理由を第一条で示した。すなわち、「......質地請返シ候事も成り兼、却(かえっ)て迷惑致し候者これ有り、金銀の借し借り(*貸し借り)も手支え候由......」と言っている。つまり、流地禁止令で質入れ地を年季明けで証文の書き替えを行なっても、耕地が請返すことができる訳ではなく、却って金融の融通の妨げになってしまうから―というのである。
 第二条、第三条では、撤回後の方針を述べている。第二条では、借金も返さず、質入れ地も渡さないとなれば、もちろん出訴にもなるは当然であるが、ただ古いことは裁判のしようがないので、1716(享保元)年以前のものは訴え出ないようにしなさい―とした。これは、享保元年以前のものを訴え出ても幕府は受理しない―という方針である。第三条は、幕府領であれ私領であれ、流地禁止令に基づいて、質地を年賦で請戻すように裁判を申し付け、証文も書き替えたものは、それを今後もその通りとするが、しかし、相対で質流れとすることになっても、それは「勝手次第だ」とした。
 結局、流地禁止令を撤回することにより、質入れ・質流れによる耕地移動を認めるという以前の状態に戻ることになった。
 この撤回の3年9か月前、すなわち1719(享保4)年11月、幕府は"享保の相対済し令"を出している。相対済し令は以前にも何回か発令しているが、元禄15年の相対済し令では、"これから後の金銭のもめごとは、幕府が受理して裁許するが、今より以前の金公事はこれを受理し裁許しないので、当事者で相対で解決するように!"としている。だが、享保4年の相対済し令では、これと異なり、"今までのものも、今後のものも金公事は受理しない"とした。つまり、当事者間で解決しなさい―ということである。
 ほぼ同じ頃に発令された法令が片方は撤回された(流地禁止令)が、他方は撤回されずに存続した(相対済し令)。その理由は、流地禁止令に対しては、各地で農民の激しい反対があったということが、一つの理由と言えるだろう。初めて御三家から迎えた将軍の基礎を固めたいという考えもあったであろう。
 しかし、もっと生臭い理由も考えられる。それは、流地禁止令発布の最高責任者が、老中井上河内守正岑であったということである。井上は、阿部正喬・土屋政直・久世重之・戸田忠真とともに、吉宗を第八代将軍に擁立した中心人物である。吉宗は、江戸城中のしきたりや政治手法がよく分からない初期において、井上らの老中に大分遠慮をしており、初めの数年は改革らしい改革は行っていない。阿部以下の老中が享保2~5年の間に次々と辞任あるいは死亡する事態となる。井上も享保7年5月に死亡している。
 吉宗は、あたかも井上の死を待ち望んでいたかのように、その死後、矢次早やに改革の諸政策を打ち出して行く。流地禁止令はその最中の享保8年8月に、撤回されたのであった。まさに、吉宗の本音は流地禁止令に反対であったのであり、相対済し令の存続もその考えに即応したものであった。すなわち、民間の経済的紛争を当事者間で相対で処理して行くという方針である。

(4) 再燃する「質地騒動」
 越後頸城地方の質入れしている百姓たちは、どうしても納得できなかった。しかも、村々には希望的観測もふくめた誤った情報も流れた。「村々に『年季の長いものは借金棒引きでも、年季の短いものは少々の返金で田地は取り戻せる』との偽(にせ)の情報が出回るなどで、ふたたび質入人のさわぎは高まった。享保九年(*1724年)三月、頸城地方一五〇ヶ村の質入人二〇〇〇余が高野代官所につめかけ、質入地の耕作を強く主張したがうけいれられず、ついに実力行使による質地奪還を決意した。吉岡村市兵衛らは岡之町(おかのまち)村(*刈羽郡高柳町―現・柏崎市)の神社境内に農民を集め、実力で質地を奪回し田打ちをはじめた。各村々でも五〇人、七〇人と集団で質地を奪った。」(1998年版『新潟県の歴史』P.178)と言われる。
 だが、代官所役人および金主たちは全くなすところを知らず、ともども隣接私領である高田藩領に逃げ込み、代官所役人たちは江戸に救援を乞い、金主たちはことを幕府に訴えて出たのであった。1)
 「質地騒動」が頸城郡一円に広がり、幕府領は無政府状態に陥った。隣の高田藩は、この動きが自領に波及するのを警戒し、幕府に対し、これ以上ことが悪化するようであれば、自領のためにも放置できないので、自藩の力で処置したいと願い出た。
 幕府は、1724(享保9)年閏4月、越後の幕府領を、高田藩(松平越中守10・7万石)、会津藩(松平肥後守7万石)、長岡藩(牧野駿河守6・4万石)、館林藩(松平右近将監4・7万石)、新発田藩(溝口信濃守4・3万石)へと分散して預け地とした。そして、それらの諸藩に「質地騒動」の鎮圧を命じたのであった。
 同年5月に入っても、百姓たちは実力で奪い返した質地を耕作し、田植えなどをする状況がつづいていた。だが、上記の諸藩は、一揆に対して強硬的に弾圧し、同年6月までに、関係者全員を逮捕した。高田藩などは、質置人(質入れ人)の言い分を聞き届けるから出頭するようにと百姓たちを騙(だま)し主要人物を捕らえるなど、卑劣な手口をも使ったのであった。
 「質地騒動」の関係者は、1725(享保10)年3月に判決が下り、磔5名、獄門晒し者10名、死罪10名、遠島20名、所払い19名、過料多数となった。赦免された者はごくわずかであった。また、判決が下りた時にはすでに被処分者の半分以上が牢死していた。処罰された百姓のほとんどが4石以下の零細農であった。

注)1)1724(享保9)年3月の質取人側の訴状には、質置人が徒党して質地田地を取り戻してしまったことを述べて、続いて、「只今(ただいま)開作の時節〔*農作業が開始される時期〕田畑取返され候てハ召し抱え候下人指し置き申す事罷り成らず候段、御私領の町人へ米金借用の儀一切(いっさい)なりがたく、質取人百姓退転(たいてん *衰えること)仕り候外(ほか)御座無く候ニ付き、是非(ぜひ)江戸表へ罷り登り御訴訟申し上げ候間、急ニ御詮議下され候」、「御慈悲に田地質取人ニ開作仕り候様仰付(おおせつけ)下され置き候ハバ有り難く存じ奉り候」と述べられている。質地田地の耕作をどちら側が確保するかは、頸城闘争の一大争点であった。下線部に示されるように、質取人の側は質田地を取り上げられては、実際の耕作をする下人をも抱えることが出来ない―と、幕府に懇願しているのである。

(5) 流地禁止令撤回後の細部の処理規定
 幕府の流地禁止令の撤回により、質地にかかわるもめごとは1721(享保6)年以前のルールに立ち返ることとなった。しかし、それは単純に旧に復することではなかった。
 これについて、1723(享保8)年9月2日、評定所一座(寺社奉行、町奉行、勘定奉行によって構成される)は、つぎのような決定を行なった。

質地出入(*質地にかかわる紛争)丑年(*享保6年)以前(*流地禁止令以前)の通り御取捌(おとりさばき)御座候ニ付き、左(さ)の通り伺い奉り候【*評定所留役(書記官)が記録する評定所決定については、流地禁止令以前の判例を述べる留役の伺いに対し、評定所一座が決議した日付において、評定所一座が回答する形式となっている】
一、 申年(享保元年〔1716年〕)以前の質地元金?(ならびに)小作金相滞り訴出(うったえいで)候節は、尤(もっとも)金高ニ応じ日切(ひぎり)證文(しょうもん)仰せ付けられ〔*代官が延滞金額に応じて、再度、返済金額を設定し〕、其の日限(ひぎり)ニ相済まず候時は、直ちニ流地仰せ付けらるべしと存じ奉り候
 「覚(質地田地の儀ニ付き伺い奉り候書付(かきつけ)」―享保8(1723)年8月、評定所留役

 この伺いに対して、小作料債務不履行の処理については、以下のように決定した。

一、 直小作(じきこさく *田畑質入れ主が、質入れした田畑をそのまま小作すること)滞り(*小作料が滞り)候ハハ金高ニ応じ日切(ひぎり)長短申付け〔*日限を決めて決済を申付け〕、相済まず候ハハ、年季の内ニても質地ハ取上げ、金主へ相渡すべく候
一、 別小作(べつこさく *質入れ主以外に小作させること)滞り(*小作料が滞り)は是又(これまた)金高ニ応じ日切長短申付け、相済まず候ハハ、地面(*小作地)ハ金主へ相返へさせ、(そのうえ)小作滞りは身代限り(*破産)を申し付くべく候
一、 質地ニてこれなき名田小作(みょうでんこさく *百姓が自分の持地=名田を小作にだすこと、またはそのような土地を小作すること)滞り(*小作料が滞り)は是又(これまた)右に准シ日切申付け、相済まず候節は、地所ハ地主へ相返し、小作人は身代限り申し付くべく候1)
「覚(質地の儀書面の通り相心得らるべく候)」―享保8(1723)年9月2日、評定所一座決定

 質入れ債務不履行については、以下のように決定した。

丑年(*享保6〔1721〕年)以前の通り年季明け候質地日切(ひぎり)を以って申付け、済まず候ハハ譲り地、流地の文言(もんごん)有無(うむ *有る無し)に構わず、譲り候とも、流し候とも、勝手次第申し付く筈(はず)に候事、但し、有合(ありあわせ *質入れ契約期間内において返済次第請返しの契約)も右に准し候
「覚」―享保8(1723)年9月2日―評定所一座決定
          (「享保撰要類集」四ノ下 公事裁許の部三十八)                

 以上のように流地禁止令の撤回にともない、評定所では具体的な処理がまとめられた。だが、質地の取扱いが主要な問題であるにもかかわらず、この処理規定では小作(料)問題が少なからず大きく取り上げられている。これ以降も、小作(料)問題はますますとりあげられるようになる。
 1724(享保9)年3月2日の評定所一座決定は別小作の小作料不履行について、次のように新たな決定をした。

別小作人小作滞りこれ有る由(よし)訴出で候時、日切(ひぎり)済方(すみかた)申し付け候得共(そうらへども)、日切ニも相済まず候得(そうらへ)ば、小作人身代限り(*破産)ニ申し付け、其の者(もの)所持の田畑まで相渡させ候処(そうろうところ)、自今ハ家財ハ残らず相渡し、田畑小作滞り金の多少に応し年数を限り金主方へ相渡させ、年数過ぎ候ハハ小作人へ相返し候様申し付くべく候、但し、小作人所持の田畑質物(しつもつ)ニ入置き候分(そうろうぶん)ハ田畑持ち申さざる者同前(どうぜん)ニ家財斗(ばかり)相渡させ申すべく候、尤も田畑残らず所持〔致さず〕候ものハ勿論(もちろん)家財斗(ばかり)相渡させ申すべく候
「覚(質地小作裁断の儀ニ付き申合せ書付け)」―享保9年3月2日、評定所一座決定
   (「享保撰要類集」四ノ下 公事裁許の部三十八」)

 別小作の小作料不履行に対して、小作人の家財差押えに加えて、代官の強制執行により所持地を小作契約債権者の占有に移し、債権者がその土地から上げた収益によって債務が弁済されるようにし、その後、土地を債務者に返還することした。(この返還は、小作料債務にのみ特に適用されたが、1740〔元文5〕年に廃止され、他の金銭貸借契約の場合と同様に、身代限りの時点で所持権を債権者に移転するとした。〔『徳川禁令考 』後集二 P.149〕)
 もちろん、幕府は小作料のみならず、質地契約そのものに対しても規制を加えた。1723(享保8)年9月2日の決定では、契約書に質地文言が記載されているにもかかわらず、頼納契約することも違法とした。頼納(たのみをさめ)とは、「通例の質金より金高余計に借受(かりうけ)、其の代り田畑は金主(きんしゅ)手作(てづくり)致し、年貢諸役ハ地主(*質置き人)相勤む」(『地方凡例録』上巻 P.219)ことである。この頼納はすでに、1643(寛永20)年3月、「田畑永代売買禁止令」が出された同月、「田畑永代売御仕置」(全4ヵ条)も出され、その第四条に、「質に取り候者、作り取りにして、質に置き候ものより年貢相勤め候得ハ、永代売(えいたいうり)同前の御仕置」と規定されている(ちなみに、永代売の御仕置としては、第一条―売主は牢舎の上〔うえ〕追放、本人死に候時ハ子同罪、第二条―買主過怠牢、本人死に候時は子同罪、第三條―証人過怠牢、本人死に候時は子に構いなし)。
 1737(元文2)年の、代官が関東村々に発した触書(ふれがき)では、契約書に「流地文言」がない場合には返済期限後10年を、"返済次第請返す"とする文言がある場合には質入れより10年を請返し請求訴訟受理の期限とし、以後、債権者への所持権移転が確定するとされた(『徳川禁令考』後集第二 P.158)。
 1738(元文3)年の評定所決定は、直小作債務者の質入れ債務と小作料債務の両方が履行されなかった場合、質入れ債務は流地とし、延滞の小作料に対する債権は放棄させることを定めた(『徳川禁令考』後集第二 P.161)。
 1739(元文4)年の評定所決定は、質地契約と直小作契約がそれぞれ別個に証文が作成されている場合も、質地証文に直小作が言及されている場合でも、同じように保護されるとした(『徳川禁令考』後集第二 P.162)。
 1741(寛保元)年の評定所決定では、名田小作の契約で20年以上継続した場合、小作人が年貢諸役を負担するとともに、無期限に耕作を延長できる永小作(えいこさく)となることを、従前通りと確認している(『徳川禁令考』後集第二 P.150)。
 1782(天明2)年、評定所は、質地出入取捌方(とりさばきかた)公事方吟味役の坂孫三郎の問合せに対して、諸役負担のみを債権者に移す(年貢は債務者が上納する)半頼納は質地証文から借金証文に書き換えさせ、金公事として取り扱うことを決定した。(『徳川禁令考』後集第二 P.168~169)
 幕府は田畑永代売買禁止の建前を掲げつつ、実際は質地小作を容認し、地主小作関係の拡大を実質的に容認しているのである。


注1)金高大小と日切決済の日限の関係は、以下のようになっている。
◎5両(5石)以下――30日
◎5~10両(5~10石)――60日
◎10~50両(10~50石)――100日
◎50~100両(50~100石)――250日

Ⅶ 小作問題の処理規定と田畑永代売買禁止令の緩和

 (1)小作料などの処理規定
 1742(寛保2)年4月、幕府は、かねてから懸案であった「公事方御定書」1)を制定した。その中に、質地および小作に関する規定("質地小作取捌〔とりさばき〕の事")があるが、その内容は以下のものである。

一(第一条)【元文二年極】年季明け拾ヶ年過ぎ候質地   流地
但し、流地の文言これ無きの証文ハ、年季明ヶ拾ヶ年の内(うち)訴出(うったへいで)候ハハ、済方(すみかた)申し付くべし、
一(第二条)【前々よりの例】年季内の質地   年季明け請戻し候様ニ申し付くべし、
一(第三条)【元文二年極】年季限りこれ無く、金子(きんす)有合(ありあわせ)次第(しだい)証文請戻すべき証文   質入れの年より拾ヶ年過ぎ候ハハ、流地、
一(第四条)【元文二年極】拾ヶ年以上年季質地   取上げ無し
一(第五条)【寛保三年極】質地名所?(ならびに)位(くらい)反別(たんべつ)これ無く、或(あるい)は名主加印これ無き不埒(ふらち)証文   年季の差別なく取上げ無し、名主過料、尤(もっと)も名主質入れの儀(ぎ)存(ぞん)ぜず、証文ニ加印致さざるに於てハ、咎(とが)に及ばず、
但し、右(みぎ)金主地主承け届け(うケとどケ)、相対の上(うえ)地主を定め、水帳(*検地帳)相改むべき旨(むね)、名主へ申し渡すべし、尤も名主質地相名主これ無き村方ハ〔*名主が質入れし、同僚の相名主がいない村は〕、組頭加印これ有るに於てハ、定法の通り済方申し付くべし、
一(第六条)【寛保元年】年季明け請け戻さざ候ハハ、流地に致すべきの由(よし)証文、年季明け候期日より二ヶ月過ぎ訴出候ハハ、流地
但し、年季明け請け戻さざ候ハハ、永ク支配、又(また)ハ子々孫々まで構(かまひ)これ無き旨、且又(かつまた)証文を以て支配致すべし、或は名田などに致すべきの文言、流地の証文ニ准じ申し付く事、
一(第七条)【前々よりの例】質地元金済方申し付け候上(うえ)、返金滞り候ハハ、地面金主え渡し流地
但し、直小作(じきこさく)滞りハハ、棄捐(きえん *すてること)を為すべき事、
一(第八条)【前々よりの例】質地証文の文言宜(よろ)しく、小作証文不埒(ふらち *道理にはずれ不届きなこと)ニ候ハハ、   質地定法の通り裁許、小作滞り分申し付けず、  
一(第九条)【前々よりの例】又質(またしち *質地になっている土地をさらに第三者に質入れすること)元地主加判これ有る証文   元地主え済方定法通り申し付くべし、
【寛保元年極】但し、又質の節(せつ)増金借り請け候ハハ、其(その)分(ぶん)ハ又質置き候ものニ済方申し付くべき事、
一(第十条)【寛保元年極】御朱印地寺社領屋敷共(とも)譲渡質ニ入れ候寺社、   江戸拾里四方追放
但し、譲り請け、質ニ取り候もの、地面相返さす、重キ過料申し付くべき事、
一(第十一条)【寛保元年極】小作滞   質地日限の通り申し付け、其(その)上相滞り候ハハ、身躰(しんたい)限り(*破産)申し付くべし、
【追加 延享二年極】但し、作徳(さくとく)の儀、米金共ニ、金主小作人極めの通り済方申し付くべき事、
一(第十二条)【寛保元年極】小作証文これ無く候共、別小作相違無く、本証文定法の通り候ハハ、   質地元金裁許申し付け、小作滞ハ申し付けず、尤も地面小作人より地主え引渡を為すべし、
【前々よりの例】但し、直小作ニて証文これ無き分ハ、書入れニ准じ、本証文宜しく候共、質地の法ニハ裁許申し付けず、
一(第十三条)【前々よりの例】小作証文これ無く候共(そうろうとも)、質地証文小作の儀(ぎ)書き加えこれ有り候ハハ、   質地金小作金共(とも)申し付くべし、
一(第十四条)【前々よりの例】家守小作滞り、請条(うけじょう)の通り相違無きにおいてハ、   当人請人(うけにん)共ニ済方(すみかた)申し付け、滞り候得ハ(そうらへば)、両人共ニ身躰限り申し付くべし、
一(第十五条)【延享元年極】質地の年貢(ねんぐ)計(ばかり)金主より差し出し、諸役(しょやく)ハ地主(*質入れ人)相勤め候証文、   年季の内ニ候ハハ、定法の通り証文仕直(しなお)させ、質置主(*質入れ人) ??り、質取り主 過料、加判の名主 過料、
但し、年季明キ候ハハ、地面請戻し為(な)すべし、年季明け二ヶ月過ぎ候ハハ、定法の通り流地申し付け、両様ニ本文通り咎(とが)申し付くべき事、
一(第十六条)【延享元年極】質入れの地面を半分(はんぶん)直小作いたし、質地の高(たか)残らず年貢諸役共(とも)、地主(*質入れ人)より相納め候証文   右(みぎ *前条のこと)同断
但し、右(*前条)同断
一(第十七条)【前々よりの例】弐拾年以上の名田小作ハ、永小作ニ申し付くべし、
一(第十八条)【追加 寛保四年極】質地元金年季の内(うち)内済いたし、年季明け残金有の旨(むね)出入候におゐてハ、   内済の金子ハ、地主え相返し、流地、
一(第十九条)【追加 前々よりの例】質に取置き候地面(じめん)直小作滞りの儀、金主訴え出で候におゐてハ、   小作滞りばかり済方(すみかた)申し付くべし、
但し、日限の通り相済まず候ハハ、地面取上げ相渡すべし、
一(第二十条)【追加 前々よりの例】質地元金?(ならびに)直小作滞り日限済方申し付け候節ハ、小作滞りの金高ニ構い無く、元金日限の通り申し付くべき事、
                    (『徳川禁令考』別巻 P.72~75 )

 江戸時代、田畑の質入れには各種あったが、石井良助氏によると、「公事方御定書」が制定された頃は、定められた年限が過ぎたら請戻すべき旨を約したものが普通であり、この種の質地証文を「通例質地証文」と称していたと言われる。これは、第一条・第二条・第四条に関連している。「公事方御定書」には、1737(元文2)年の制により、年季の年数に関係なく、年季明け後10年内に請戻すべきであり、10年を過ぎるときは請戻しの訴えを受理しないことにした。すなわち、流地である(第三条)。年季明けに請戻さないで、かつ証文にその場合流地になると文言があれば、年季明けから2カ月過ぎに出訴しても流地とした(第六条)。のちになると、年季が明けても請戻さなければ流地にする旨の文言の質が普通になったと言われる。
 田畑の質入れには、厳格な規定があり、一定の事項を記載した質入れ証文の作成が必要とされたが、とりわけ重視されたのは名主の加判である。これに関連するのは、第五条、第九条である。名主の加判は、質地が質置主(質入れ主)の所持する田畑であること、他に質入れしていないこと、質契約が適法であること―などを保証する意味をもっていた。
 しかし、「公事方御定書」でも、質地に関連して、小作問題が大きな比重を占め、第七条、第八条、第十一条、第十二条、第十三条、第十四条、第十六条、第十七条に述べられている。

注1)幕府の裁判は、慶長(1596~1615)年以来、随時発布された単行法令や判決令などを基礎として行って来た。将軍吉宗は、すでに享保年間のころから準備してきたが、1742(寛保2)年に、老中・寺社奉行・町奉行・勘定奉行を編集掛として、「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」を制定した。それは、上下2巻に分れ、上巻には81の先行法令(触書・書付け・高札など)が載せられ、下巻にはいわゆる「御定書百箇条」(実際は103ヵ条)の名で有名な刑事・訴訟を中心に、若干、民事規定もふくんだ法典である。この下巻は、三奉行のほかは見れないもので秘密法典であるとされた。しかし、これは建前であり、一部には知られていた。

 (2)永代売買禁止令の形骸化
 土地の質流れや小作地からの小作料収取が公認となり、かつ権力から保証されるようになると、寛永20(1643)年に発令された田畑永代売買禁止令は、ますます形骸化したものとなる。
 そこで、田畑永代売買に関する罰則改訂案が、1744(延享元)年5月に、幕府中枢から将軍に提案される。
 それは、「右(みぎ)永代売ハ、前々より御停止ニ候、是(これ)ハ容易〔に〕田畑売払(うりはらわ)せ申さざる様ニとの御事(おんこと)と相見(あいみえ)候、百姓差詰(さしつま)り候得者(そうらへば)、田畑質地ニ差し入れ、流地ニいたし申す事ニ候、元来(がんらい)所持の田畑ニ放(はな)れ申したきものハこれ無く候得共(そうらへども)、年貢等不納に致し、無拠(よんどころなき *やむを得ない)儀ニて御停止(*禁止)を忘却致したる事ニ候、」(『徳川禁令考』後集第二 P.127)という理由からであった。
 つまり、田畑永代売買禁止令があるにもかかわらず、百姓たちが田畑を質入れし、流地にするのは、「年貢等不納に致し、無拠儀ニテ」するのであって、自分から好んでするのでない―とみる。だから、それを厳重に罰するのは酷であるという「温情主義」を口実に、以下のような罰則改訂案が将軍に提案される。
【寛永20年の処罰規定を(A)、改訂案を(B)とする】
 ①田畑売主は「牢舎のうえ追放、本人が死んだときは子同罪」(A)であったが、「過料」(B)へ。
 ②買主は「過怠牢、本人が死んだときには子同罪。但し買取った田畑は取上げ」(A)であったのが、「買取った田畑は取上げ」(B)へ。
 ③証人は「過怠牢、本人が死んだときは子は構(かまひ)なし」(A)であったのが、「過料」(B)へ。
 ④質に取った者がその土地で作り取りにして、質に置いた者が年貢諸役を勤める場合(=頼納)は永代売と同然であった(A)のを、「質置主は過料、質に取ったものは地面取上げのうえ過料、加判の名主は役儀取上げ、証人は??り」(B)へ。
 しかし、いくら大幅に改訂したとしても、質流れで耕地の移動を認め、小作料の保護をしている以上、"永代売買"を処分することと矛盾する。そこで、同年6月、大岡越前守(寺社奉行)、島長門守(町奉行)、水野対馬守(勘定奉行)の三奉行は、連名で、以下のように将軍に伺い出た。

田畑永代売りの儀は、寛永二十未(ひつじ)年(*1643年)仰せ出でされ候ニ付き、只今(ただいま)まで右の通り御仕置(おしおき)仕来り候得共(そうらへども)、御下知の通り田畑ニ離れ申したきものはこれ無く〔*理由もなく手放したいと思う者はいないので〕、無拠く(よんどころなク)売買をも仕来り候〔*止むを得ず田畑を質入する〕儀と存じ奉り候、その上、質地ニ入れ候程(ほど)のものは、請戻し候●手当てもこれ無く〔*借金を支払って、質入れ地を取り戻す力もなく〕、流地ニ罷(まか)り成り候類(たぐい)、数多これ有り候得者(そうらへば)、名目替え候までニて〔*名目が違うだけで〕、すなわち永代売りニ罷り成り候間、この度(たび)右(みぎ)御仕置は相止(あいや)め候ても然るべき哉(や)ニ存じ奉り候に付き、伺い奉り候、
  子(ね *延享元〔1744〕年)六月
                    (『徳川禁令考』後集第二 P.129)

 これに対して、将軍吉宗は次のようにいって、申請を却下した。 

この儀は、売買御免に成り候てハ、身上ならざるの百姓〔*必ずしも止むを得ない百姓でなくても〕、当分(とうぶん)徳様ニ目を付け〔*一時の利得に目がくらみ〕、猥(みだり)ニ田畑売り放ち候様ニ相成るべき哉(や)、その上この度の御定めニ成り候得者、売主咎(とが)メも軽ク成り、且又(かつまた)是非(ぜひ)差詰り候得者、今までの通り質地ニ差し入れ候得者(そうらへば)、差支(さしつかえ)もこれ無く候間、先ず今までの通りニ差し置くべき事、
                    (『徳川禁令考』後集第二 P.129)

 結局、罰則は軽くなったが、"田畑永代売買禁止令"は残ったのである。しかし、これにより、矛盾は解決されないままで、建前と本音は大きくかい離したままであった。すなわち、建前上、田畑永代売買禁止は続いたが、その代わりに質入れ(質売り)の形での「売買」が全国で盛んとなったのである。

終わりに

 日本史上においては、土地の売買は絶えず、国家権力によって禁止、あるいは強い規制の下にあった。
 古代律令制の下では、基本的に禁止であった。中世封建制の下では、鎌倉時代にあっては御家人の開発した領地(私領)は売買が許されていたが、将軍から与えられた御恩の地は禁止され、保護・統制の対象とされた(のちには、私領も禁止された)。室町時代には、在地徳政・私徳政の嵐が吹きまくったが、武士・大寺社・上級貴族の所領は公権力によって保護された。中世の「売買」観念は、①永代売り、②年紀売り(年期売り、年季売り)、③本銭返し(または本物返し)の三形態が主なものであって、この内、①のみが近代人の観念する売買に近似したものであった。
 近世封建制の下では、本文で見たような経過を辿って、建前は「田畑永代売買禁止」だが、実態は容認であった。さすがに近世での土地売買では、中世の②と③の観念はしだいに弱まってくる。だが、それでも幕末・維新初期の「世直し一揆」の激しさに見られるように、権力移行期はかつての徳政観念が蘇り、土地取戻しの動きが闘いの大きな源泉の一つとなっている。
 日本の近代以前の土地売買の観念は、徳政観念とともに、国家権力のさまざまな形での規制や禁制によって制約されてきた。日本的な徳政観念は日本特有なものであろうが、国家権力による制約は、歴史的に日本が東アジア文明圏に属してきた伝統と慣習によるものである。
 近代のような売買観念が唯一無二で、歴史貫通的なものと思い込むのは、歴史認識を誤るものである。(以上)