徳川幕府の北方政策

           ―蝦夷地の内国化とアイヌへの同化政策

                        堀込 純一

        目 次

はじめに  P.4

第1章

A 中世から近世初頭までの蝦夷地  P.4

(1)蠣崎政権の確立とアイヌ統括  P.4

(2)蝦夷政権から和人政権へ  P.8

B 松前藩とアイヌとの関係  P.11

(1)城下交易の廃止と商場知行制の成立  P.12

(2)反松前・反和人の気運とシャクシャインの戦い  P.15

(3)商場知行制の下での場所請負制の普及  P.18

第2章

A ロシアの東方進出  P.20

B 田沼時代の幕府の北方政策  P.22

C 松平定信政権の北方政策  P.25

(1)クナシリ・メナシのアイヌの戦い  P.25

(2)異国船取扱令と蝦夷地政策の変化  P.27

(3)ロシア特派使節ラクスマンの通商要求への対応  P.28

 《補論 「寛永鎖国令」の実際と「鎖国」イメージの歪み》  P.30

(4)海岸防備の指令と「北国郡代」構想  P.45

D 蝦夷地直轄に踏み切る松平信明政権  P.46

(1)西欧列強の領土・市場の獲得競争  P.46

 (ⅰ)ロシア人のウルップ植民の失敗  P.46

 (ⅱ)イギリス士官ブロートンの室蘭来航  P.47

(2)二つの寛政九年令  P.48

(3)東蝦夷地の一部を仮上知  P.48

第3章

A 幕府と松前藩の蝦夷地の位置づけ  P.52

(1)松前藩は自藩領と主張  P.52

(2)松前藩以外で多い異域扱い  P.53

(3)18世紀末頃から内国扱い  P.54

B 内国化へ進む第一次幕府直轄  P.57

(1)蝦夷地統治の基本方針  P.57

(2)キリスト教禁止と仏寺の創建  P.57

(3)外国との交易統制と通航制約  P.58

 (ⅰ)エトロフアイヌに対する交易・通航禁止  P.58

 (ⅱ)山丹交易から排除されるソウヤ・カラフトアイヌ  P.59

(4)環境破壊と乱獲で繰り返す凶漁  P.60

 (ⅰ)エトロフでの和式の漁業開発  P.60

 (ⅱ)鰊漁の西海岸北上  P.62

C 民族性を無視した同化政策と過酷な収奪  P.64

(1)直捌制の失敗と場所請負制の復活  P.65

(2)「下され物」で服属化  P.67

(3)和風化による同化政策  P.67

D ロシアとの衝突で蝦夷地を全面直轄  P.71

(1)フヴォストフのカラフト・エトロフ襲撃  P.71

(2)蝦夷地の全面直轄化に踏み切る幕府  P.73

(3)日本とロシアの報復合戦  P.75

E 松前藩の復領時代(1821~55年)  P.76

(1)松前藩の贈賄と幕閣の収賄  P.76

(2)松前藩復領の背景  P.77

(3)復領後の場所請負制の新たな発展  P.78

(4)アイヌの自立を求めた抵抗  P.79

(5)和人漁師の請負人に対する闘い  P.81

F 欧米列強の通商・「開国」圧力  P.85

(1)ますます増える外国船の出没と英米露の圧力  P.85

 (ⅰ)露米会社の最盛期は1800~1820年  P.85

 (ⅱ)独立後の米は太平洋へ進出  P.86

 (ⅲ)オランダを押しのけ東アジアへ進出する英  P.89

(2)南京条約による朝貢体制の形骸化と不平等体制  P.91

第4章

A 日露国境交渉と第二次幕府直轄  P.91

(1)米露との二正面作戦の下での対露交渉  P.92

 (ⅰ)クリミヤ戦争最中にプチャーチン長崎来航  P.92

 (ⅱ)最大のネックは国境問題  P.93

  《補論 日露和親条約》    .97

(2)阿部正弘政権による第二次幕領時代の開始  P.98

 (ⅰ)再度の直轄化の動き  P.98

 (ⅱ)箱館奉行所の役職構成  P.100

 (ⅲ)諸藩の警衛分担地と分領  P.101

 (ⅳ)カラフトの境界交渉  P.103

B 北辺維持のため開拓に重点を置く  P.108

(1)蝦夷地経営の主眼は開拓  P.108

 (ⅰ)北蝦夷地(カラフト)の開発  P.110

 (ⅱ)農業の奨励  P.112

(2)箱館産物会所と元仕入仕法  P.115

(3)交通網の拡大強化(道路・駅逓)  P.119

C 和人の出稼ぎと幕府の移住奨励  P.122

(1)山林伐採事業に下北農民の集団出稼ぎ  P.122

 《補論 本州北端部のアイヌ》  P.125

(2)天明の大飢饉と地逃げ  P.126

 《補論 前代未聞の天明の大飢饉》  P.133

(3)天保の大飢饉―蝦夷地出稼ぎの恒常化  P.136

 《補論 不作が持続的につづいた天保の大飢饉》  P.138

(4)生活苦から出稼ぎへ  P.139

(5)西洋の植民地主義に習い移住・植民を推進  P.142

(6)蝦夷地の「門戸開放」と和人の急増  P.144

(7)和人の出稼ぎ・移住で人口急増  P.145

D アイヌの生活根底からの改変と同化政策  P.147

(1)アイヌ民族の衣食住  P.147

 《補論 双系性社会としてのアイヌ社会》  P.151

(2)場所請負制で強制コタン出現  P.153

 《補論 運上家の漁業経営とアイヌの労働》  P.167

(3)アイヌ人口の急減  P.169

(4)第二次幕領期の同化政策  P.171

おわりに  P.177

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 はじめに

 

 蝦夷地は、江戸時代においても18世紀末ころまでは、幕府などでは日本領ではないという認識が強かった。しかし、松前藩は自藩領としての認識が早くからあった。豊臣政権の時代には、すでに松前藩が特権的に交易(和人とアイヌの間の)を取り仕切る権限を秀吉から保証されたと意識している。松前藩によるアイヌと蝦夷地の囲い込みは、江戸時代になるとさらに一段と深まる。1630年代には、家臣にも「場所」知行として支給する「商場知行制」が確立する。私的所有意識がほとんどないアイヌの生活様式・生産様式に乗じて、松前藩は蝦夷地に侵入し、自藩領としての実績を積み重ねるのであった。

 江戸幕府は、松前藩の蝦夷地浸食を前提に、18世紀末ころから、蝦夷地を内国扱いとするようになる。それは、ロシアの南下をまえにして、北方の境界を堅固にする意志の表れであった。ロシアの南下政策が激しくなるに従い、幕府はこれに対抗するには松前藩では覚束ないして、1799年についに東蝦夷地を直轄とする。さらに1807年には、蝦夷地すべてを直轄とした。北方世界でのロシアと日本との間での領土分割が進み、まさに武力衝突が進行する真最中である。

 幕府は、蝦夷地の直轄化を推進するなかで、アイヌに対する同化政策を強力に進める。これは、和風化ともいわれた。一目で蝦夷が日本領であることをロシアなどに示すために、アイヌの髪型・服装などの姿かたち、名前、戸籍登録などの和風化の推進である。アイヌに対する同化政策は、先住民の人権を問答無用に踏みにじって、明治維新以降もひきつづき行なわれる。幕末のアイヌに対する同化政策と蝦夷地開拓は、まさに日本近代のアジア侵略における植民地政策の嚆矢(こうし *物事のはじめ)である。

 

第1章

 

A 中世から近世初頭までの蝦夷地

(1)蠣崎政権の確立とアイヌ統括

 14世紀初頭の蝦夷の反乱鎮圧に、鎌倉幕府の命をうけて参加した武士が見た当時の蝦夷の様子は、『諏訪大明神絵詞』(1356年に室町幕府の奉行人諏訪円忠が制作させた縁起絵巻物)の中で次のように描かれている。

 

当社ノ威神力ハ末代也ト云ヘトモ掲焉(けつえん *著しく)ナル事多キ中ニ、元亨(げんこう)正中(しょうちゅう)〔*1321~1326年〕ノ頃ヨリ嘉暦(かりゃく *1326~1329年)年中ニ至ルマテ東夷蜂(起)シテ奥州騒乱スル事アリキ、蝦夷(エソ)カ千嶋ト云ヘルハ我国ノ東北ニ当テ大海ノ中央ニアリ、日ノモト・唐子・渡党此(この)三類各(おのおの)三十三ノ嶋ニ群居セリト、一嶋ハ渡党ニ混ス、其内(そのうち)ニ宇曾利鶴子□(別カ)〔ウソリケシベツ〕、(万)堂宇満伊犬〔マトウマイイン〕と云(フ)小嶋トモアリ、此種類ハ多ク奥州津軽外ノ浜ニ往来交易ス、夷(エヒス)一把(ハ)ト云ハ六千人也、相聚(あいあつま)ル時ハ百千把ニ及ヘリ、日ノ本・唐子ノ二類は其地(そのち)外国ニ連(つらなり)テ、形体夜叉(やしゃ)ノ如ク変化無窮ナリ、人倫禽獣魚肉等ヲ食トシテ、五穀ノ農耕ヲ知ス(しらズ)、九沢(訳カ)を重ヌトモ語話ヲ通シ堅シ、渡党ハ和国ノ人ニ相類セリ、但(ただ)鬢髪(びんぱつ *耳ぎわの髪)多シテ、遍身(へんしん *体中)ニ毛ヲ生セリ、言語俚野(りや *ひなびた)也ト云トモ大半ハ相通ス、此中(このなか)ニ公超(?)霧ヲナス術ヲ伝ヘ、公遠(?)隠形ノ道ヲ得タル類モアリ、戦場ニ望ム時ハ丈夫(じょうぶ *一人前の男)ハ甲冑・弓矢ヲ帯(おぶ)シテ前陣ニ進ミ、婦人ハ後塵ニ随ヒテ木ヲ削(けずり)テ幣帛(へいはく *神祭用具の一つで、紙あるいは布を切り、細長い木にはさんでたらした物)ノ如クニシテ天ニ向テ誦呪(しょうじゅ *ふしをつけて呪いを発すること)ノ躰(てい *体の俗字)アリ、男女共ニ山壑(やまたに)を経過スト云トモ乗馬ヲ用ス、其身(そのみ)ノ軽キ事飛鳥走獣ニ同シ、彼等カ用(もちい)ル箭(や)ハ遺骨ヲ鏃(やじり)トシテ毒薬ヲヌリ、纔(わずか)ニ皮膚ニ触レハ其ノ人斃(へいせ)スト云事(いうこと)ナシ。(以下、下線はすべて引用者)

当時、蝦夷地(今の北海道に限定することは誤りであろう。図表1〔海保嶺夫著『エゾの歴史』講談社選書メチエ 1996 P.78〕が示すように、東北地方の北端部も含まれていたと考えられる)は、日ノ本、唐子、渡党に三分されていたというのである。このう

図表1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ち、渡党ではアイヌ人和人の混住、相互の文化影響が進んでいたと推測できる。この地には、漁を求めた和人、源頼朝の奥州平泉氏の征服時の逃亡者、鎌倉時代に流刑された者などにより、和人が住み着いたと思われる。

15世紀、今の北海道の道南には、館主(たてぬし)といわれる小豪族が割拠し、小さな河川の河口に館を築き、ここを拠点としてアイヌと和人との交易を支配した。しかし、安東氏の被官であるこれら小豪族とアイヌとの交易などをめぐる矛盾・対立はしばしば起きていたようである。

蝦夷管領家1)の安東政季(当時、政季が蝦夷管領安藤氏の当主であるかは不明)は、1456年、「夷賊の襲来を護らしめ」るために、三守護を置いた。三守護とは、上之国の守護(花沢館)、松前の守護(大館)、下之国の守護(茂別館)である。政季自身は、一族で秋田城介を名乗る安東尭季の召集で、本拠を道南から秋田小鹿島(男鹿島)に遷している。

同年、志濃里(しのり *函館市)の鍛冶屋村で、アイヌのオツカイ(若者)が鍛冶屋にマキリ(小刀)を打たせたが、その価で口論となり、鍛冶屋がオツカイを殺してしまった。これが発端となり、日ごろの鬱憤があったと思われるが、アイヌの人々が一斉に蜂起する(いわゆるコシャマインの蜂起は1457年)。蜂起軍は、渡島半島南部の志濃里、箱館、中野、脇本、穏内(おんない)、覃部(およべ)、松前、禰保田(ねぼた)、原口、比石(ひいし)の館を次々と攻め落とし、残るは茂別館と花沢館だけとなった(図表2〔『北海道の歴史』山川出版社 2000年 P.60〕を参照)。

図表2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、蜂起軍は、最後は上之国(かみのくに)の守護・武田信広2)の軍勢に敗れ、コシャマイン父子を始めとして多くのウタリが斬殺されたといわれる。しかし、「コシャマインの戦い以後も両者の軍事的対立は継起的に1550年頃までつづいており、広義に解釈すれば、ここまでをコシャマインの戦いというべきであろう。」3)とされる。

信広は上之国の守護・蠣崎季繁の養子となり家督を継ぎ、さらに力をつけ、1514年に、拠点を大舘(松前)に移す。渡党は、もともと安東氏の被官であるこの蠣崎(かきざき)氏によって16世紀中ごろまでには統一される。

それだけではない。1550年、蠣崎季広(すえひろ)は、東西の「夷(えぞ)大将」チコモタイン、ハシタインと「夷狄の商舶往還の法度(はっと)」を締結する。その内容は、松前氏(蠣崎氏は1599〔慶長4〕年に正式に松前氏に改称している)の家譜『新羅之記録(しんらのきろく)』によると、次のようなものであるといわれる。

 

勢田内(せたない)の波志多犬(ハシタイン)を召寄せ上之国天河(あまのかわ)の郡内に居(す)へ置きて西夷の伊(いん)と為し、亦(ま)た志利内(しりうち)の知蒋介多犬(チコモタイン)を以て東夷の伊と為し、夷狄の商舶往還の法度を定む。故に諸国より来れる商賈(しょうこ *商人)をして年俸を出さしめ、其内(そのうち)を配分して両酋長に賚ふ(たまフ *与える)、之(これ)を夷役と謂(い)ふ。而(しか)る後(のち)西より来る狄の商舶は必ず天河の沖にて帆を下げ休んで一礼を為して往還し、東より来る夷の商舶は必ず志利内の沖にて帆を下げ休んで一礼を為して往還する事

 

ここでは、蠣崎氏がアイヌと和人との間の交易を(具体的には明確ではないが)結びつけ、管理する権限をもっていることが明らかにされている。その要には、日本からの商人から「年俸」を取って、それを配分して「両酋長」に与える「夷役(えぞやく)」を蠣崎氏が差配していることがある。

これは極めて重要なことであり、大きな体制的変換を示している。すなわち、「1457年のコシャマインの戦い後100年近く、蠣崎氏と東西蝦夷の間で戦いが続いていたが、1550年の『夷狄の商舶往還の法度』により、それもようやく収束の方向に向かった……。その切り札となったのが『夷役』であった。蠣崎氏は1514年以来『年俸』の『過半を檜山』すなわち安東氏に上納してきたが、今回それをやめて、東西の『夷大将』に『夷役』として配分したのである。これは、このころ蠣崎氏が、主筋の安東氏よりも東西『蝦夷大将』との連携をめざしていたことを意味している。1550年の『夷狄の商舶往還の法度』を境に安東氏の日の本支配4)は弱体化し、かわって蠣崎氏が東西の『夷大将』と強調しつつ天河―志利内以南の松前地域を確保し、ここを本拠地に台頭していった。」5)のである6)

 

1)江戸時代に塙(はなわ)保己一(ほきいち)がまとめた『武家名目抄』には、「蝦夷管領(かんれい) 又(また)蝦夷代官と称す/……北条義時武家の執権たりし時に(*鎌倉時代)、安藤氏を津軽の夷地に居(お)らしめて、奥羽及(および)渡島(としま)の蝦夷に備へ、夷人を管領(*すべてを取り締まること)せられしより、其(その)子孫相伝えて蝦夷鎮衛の代官うけ給(たま)はれり」とある。近年の研究では、奥羽地方の北条氏の荘園(得宗〔とくそう〕領)支配のあり方から、地頭である北条氏のもとに地頭代として安東氏が組み込まれ、北条氏が「蝦夷管領」、安東氏がその「蝦夷代官」として組織されたという。

  2)松前藩の祖といわれる武田信広は、上之国守護職・蠣崎季繁の養子となって蠣崎信広となり、安東政季の女(むすめ)と結婚している。武田信広の出自は、若狭の守護・武田氏の一族とか、陸奥国・南部氏(その祖は甲斐源氏)とか、諸説ある。

3)海保嶺夫著『エゾの歴史』講談社選書メチエ 1996年 P.167

  4)鎌倉幕府は、エゾ地を押さえる役目の蝦夷管領に、歴代、津軽安藤氏を任じていた。鎌倉幕府滅亡後も、同様の役目は、「日の本将軍」と自称した安東氏に引き継がれた。安藤氏と安東氏の血のつながりは不明であるが、安東氏が、安藤氏の政治的後継者であることは確かである。

 5)紙屋敦之著「琉球・アイヌと近世国家」―岩波講座『日本通史』第11巻近世1 1993年 P.181

6)安東氏は、他にも「東海将軍」とも称していた。朝鮮では「日本海」を「東海」と称しているからである。安藤氏の本拠は、十三湊(とさみなと)であるが、奥州平泉の藤原氏の交易拠点でもあった。十三湊は、平安末期から室町期にかけて、西日本のみならず、大陸との交易での一大拠点である。近年の発掘調査でも大陸の陶磁器が多数、出土しているといわれる。海保嶺夫氏によると、「岩木川河口の十三湊を拠点とする安藤氏や米代川下流をそれとする安東氏の活動(交易活動)は大陸各地にまでおよび、文明14年(1482)には『夷千島王』の名で朝鮮国に使節を派遣している(『李朝実録』)」といわれる。安東氏の被官であった蠣崎氏が、安東氏の活動様式で大きな比重を占めたと推測される交易活動から多大な影響を受けたのは間違いないであろう。アイヌ自身もまた、カラフトから大陸にかけて進出し、元朝との戦争を行ない、後の山丹貿易も盛んであった。

 

(2)蝦夷政権から和人政権へ

交易上アイヌをも統括し、力をつけた蠣崎氏は、17世紀の末、豊臣秀吉に臣従し、安東氏から自立する。

1590(天正18)年3月、秀吉は「奥州・日の本まで」征服するために、京都を出発し、同年7月には、東北地方から「蝦夷島」にかけての諸大名に出仕をもとめる朱印状を発する。これに応えて、蠣崎慶広は、安東実季とともに同年12月に上洛し、秀吉に拝謁し、蝦夷地の様子を報告する(小田原を攻め北条氏を滅ぼした秀吉は、8月に宇都宮で奥州・出羽の置目をして、9月の初めに帰洛している)。

1591(天正19)年9月、秀吉は朝鮮侵略を命じ、翌年3月には、自らも肥前名護屋に向かう。蠣崎慶広は、1593(文禄2)年1月、名護屋に赴き、再び秀吉に拝謁する。これに、秀吉は大いに喜ぶ。というのは、①当時既に日本軍は、朝鮮民衆の抵抗、李舜臣などにより制海権の喪失、明国からの援軍などにより、朝鮮現地で苦戦を強いられていたこと、②当時、蝦夷地は大陸と陸続きでオランカイ(韃靼 だったん)を間にして朝鮮に通ずるという地理関係にある(*当時はそのように誤解されていた)ことからして、蠣崎勢力が北側から朝鮮に脅威を与えられると考えたこと―などの事情があったからである。

海保前掲書によると、この時秀吉は、喜びのあまり、慶広に「欲しいものはないか」と尋ねた。これに対して、慶広は松前藩の史料『新羅之記録』で次のように願い出たといわれる。

 

諸国より松前に来る人、志摩守(*蠣崎慶広)に断り申さず狄の嶋中(*蝦夷地全体)自由に往還し、商買せしむる者有るに於ては、斬罪に行ふ可(べ)き事、志摩守の下知に相背(あいそむ)き夷人に理不尽の儀申懸る者有らば斬罪に行ふ可き事、諸法度に相背く者有るに於ては斬罪に行ふ可き事。右の通り御判を賜らんと欲するの旨言上す。

 

慶広は、「狄の嶋」での独占的交易権、アイヌ民族と接触する和人に対する統制権の確保などを願い出ている。これに対して、秀吉が実際に出した朱印状は、次のようなものである。

 

太閤朱印状写

松前に於いて、諸方より来る船頭・商人等、夷人に対し、地下人(じげにん *身分の低い一般の民)と同じく、非分(ひぶん *道理に合わないこと)申し懸かるべからず。並びに船役の事、前々より有り来る如く之(これ)を取るべし。自然この旨、相そむく族(やから)之(これ)あるは、急度(きっと)言上すべし。速やかに御誅罰加えらるべきものなり。

 文禄二正月五日  朱印

 

秀吉は、蠣崎の願い出とは異なり、「夷人に対して、地下人と同じく、非分の義申し懸かる」ときという一般論をもって誅罰を加えるという程度であり、船役は従来通りに蠣崎氏の既得権の保証を行なっている。だが、蠣崎氏が狙ったほどには独占権を明文化しているわけではない。

しかし、同年12月、松前盛広(慶広の世子)に出された朱印状では、「商買船之事、最前モ仰せ出されし如く、夷へ直ちに相付けるべからず候(そうろう)。松前に於いて商売遂げるべき候」と、商買船が蠣崎氏を通さず、商売することを禁じ、松前で商売するように制限している。

こうして蠣崎家(藩意識は17世紀頃にはまだ一般化していない)は、蝦夷地の一政権という存在から秀吉統一政権に従属する一地方政権へと変化したのである。

そして、「蠣崎慶広が『エゾ』政権を『和人』統一政権=『日本』に組み入れることにより、『和人』政権の領域は北上・拡大した。とはいえ、秀吉の朱印状が明確にしているように、『狄の千嶋』権力のよって立つ基盤は土地生産力ではなく、あくまでも流通と交易=経済活動であった。/アイヌ民族全体から見れば、交易は松前のみで行うよう限定され、自由な経済活動は否定されはじめた。しかしながら、朱印状はあくまでも蠣崎氏に対し発給されたものであり、アイヌ民族に発給したものでない。したがって、その実効性は疑わしい。」1)とされるのである。

豊臣政権が短命に終わり、1601(慶長8)年末、松前慶広は徳川家康の征夷大将軍就任を祝う名目で上洛する。そして、慶広は、次のような黒印状を下賜される。

 

   定

一、   諸国より松前へ出入の者共、志摩守相断(あいことわら)ず、而(しこうして)夷仁と直(じか)に商買仕(つかまつり)候儀、曲事(くせごと)を為(な)すべき事

 一、志摩守に断(ことわり)なくして渡海せしめ、売買仕(つかまり)候者、急度(き

   っと)言上(ごんじょう)致(いた)すべき事

   附、夷(えびす *アイヌを指す)の儀は、何方ヘ往行候共、夷次第(しだい)

   致べき事

一、夷に対し非分(非文)申懸は、堅(かたく)停止の事

右条々若(もし)違背する輩は、厳科に処すべき者也、仍(よって)如件(くだんのご 

とし)

慶長九年正月廿七日  黒印

             松前志摩守とのへ          (『松前家文書』)

 

この文言は、歴代の将軍が松前家当主(藩主)に下賜する朱印状のモデルとなるものである。

この文言により、幕府は「松前志摩守慶広に蝦夷交易の制三章を授らる」(『徳川実紀』)といわれる。制三章とは、①諸国より松前の地へ出入り者、志摩守に相断らずして夷仁(えぞじん)と直接に商売することは曲事(くせごと *不正な事柄、違法な事)たるべし、②志摩守に断りなくし渡海させて夷人と商売する者は、速やかに府に言上いたすべし(ただし、夷人はいずかたへ往行するも勝手次第にいたすべし)、③夷人に対して非分(*道理に合わないこと)をかけることは厳に停止(ちょうじ)すること―である。これらに違反する場合は、厳科(厳刑)に処すべきものとしている。

だが、秀吉の朱印状も、家康の黒印状もあくまでも松前家に対する命令であり、アイヌ民族そのものに命令するものではない。しかし、現実的に、アイヌ民族が自由な交易をできたのは17世紀前半までであり、その後は蝦夷地に封じ込められていく。それは、ひとへに松前家(松前藩)の強制行動の積み重ねであり、幕府はそれを追認していったのである。

 天明期(1781~1789年)の頃のものと推定される『蝦夷国私記』でも、次のように記されている。

 

松前志摩守わ(は)七百余年保(たもち)て本国南部之内蠣崎(かきざき)と言所(いうところ)の野武士也(なり)。……其後(そのご)御当家(*徳川家を指す)へ天下治(おさま)り降参せられて蝦夷大王となり、段々(だんだん)船の多く入り込み人家も年々に相増(あいふえ)候(そうろう)事也(ことなり)。……諸年貢不納(おさめず)、武家にて漁を致(いた)し、又(また)わ商ひを致して暮(くら)しけるか、段々と繁昌(はんじょう)し、他国より出店抔(など)いたし日増(ひまし)に賑(にぎわ)ひ夫(それ)に准(じゅん *準)し城下のやうに相成(あいなり)、家老用人始(はじめ)問屋を止め蝦夷地へ交易を始め、夫(それ)より漸(ようや)く武家の形に成(なり)たる国なり。

 

ここでは、年貢も納められず、漁業に頼っていたが、それから商業に依拠し(特にアイヌとの交易で)、ようやく武家の体裁を取れるようになったというのである。

 

1)海保前掲書、P.171

 

B 松前藩とアイヌとの関係

 

江戸時代の対外関係は、中国との正式な国家間関係が成立しなかったため、日本はその華夷秩序からはじき出され、結局、「四つの口」を通して行なわれた。その四つとは、長崎出島における中国商人・オランダ商人との関係、対馬藩を通した朝鮮との関係、薩摩藩を通した琉球との関係、松前藩を通したアイヌとの関係である。

この中で、徳川幕府は、蝦夷地と琉球王国を体制外の地として位置づけ、最北端の権力松前藩と最南端の権力薩摩藩を介在させた関係を構築した。

前近代の国家間関係では、しばしば国家と国家との間の国境が直接接することなく、その間に未だ国家を持たない民族・土地が存在する場合がある。アイヌ民族と蝦夷地も、このようなケースの一例である。

日本―松前藩と接するアイヌ民族は、いわゆる蝦夷地(現・北海道)だけでなく、クリル諸島(千島列島)やサハリン(カラフト)などにも広く生活拠点をもっていた。このアイヌ民族の住む地域を、ロシアと日本が互いに自国内に取り込もうと激しい闘い(戦闘も含めて)が展開される。

近代日本のアジア侵略を準備する侵略思想の形成は、この争奪が一つの大きな契機となっている。

 

 (1)城下交易の廃止と商場知行制の成立

松前家(藩)は、江戸時代の幕藩制国家において、実に特異な大名である。他の大名が幕府から石高や所領範囲を明示されたのに対してそれがなく、参勤交代も通常、2年に一回の所を5~6年に一回でよい、とされたからである。

それは、松前家の成立基盤が、初めから農耕による土地生産力ではなく、あくまでも流通と交易に依存していたからである。主要には、アイヌとの交易権を独占することにより藩を成り立たせていたのである。(朝鮮との交易に依存する対馬藩も、この点で似ている面がある)

 先述の家康黒印状により、松前家に保障された対蝦夷地(アイヌ)交易の権益は、日本方面からの商船と蝦夷地方面からのアイヌの商船を、原則として松前「城下」に限定して迎え、これらの交易を松前家が検断する体制をとって実現された。これを「城下交易体制」という。

 この様子を、1618(元和4)年に松前を訪れたイエズス会宣教師アンジェリスが、マカオの同僚に送った報告文(チースリク編・岡本良知訳『北方探検記』吉川弘文館 1962年 P.56)で、次のように描いている。「東はメナシ地方(北海道東部)、西はテツシオ(天塩)地方までのアイヌの船が、毎年メナシからだけでも百艘以上、乾製の鮭や鰊(にしん)、ラッコ皮や絹織物を携え松前へ至るとされる。このうちラッコ皮は千島列島中北部方面との、絹織物(「中国品のようなドンキ」)はサハリン・アムールランド方面との、それぞれ交易ルートの存在を示唆している。一方、本州方面からも毎年三百艘程(ほど)の船が米や酒を積載して至る」(谷本晃久著「近世の蝦夷」―岩波講座『日本歴史』第13巻近世4 2015年 P.7879)と。

 旧館主層を含む松前家臣団の松前「城下」への集住と、同所での対アイヌ交易一元化は、兵農分離の松前的形態といえるであろう。

 しかし、「城下交易体制」は、寛永期(1624~44年)頃を境に、次第に「商場(あきないば)」と呼ばれる蝦夷地各地の交易拠点で交易を行なう形態へ移行する。

 1633(寛永10)年、三代将軍家光の時代から、キリスト教禁止・海禁政策がいっそう厳しくなり、松前藩は蝦夷地と和人地(松前地)との境1)の関所を厳しくし、両者の通行を制限した。

 1669年頃の松前家の直轄地は、現・渡島半島の一部(ほぼ西は乙部、東は石崎の線の以南)で、蝦夷地全体からすれば狭い範囲ではあるが、本州と蝦夷地の通行を扼する地位を占めている。(「蝦夷」とは、華夷思想に基づく差別表現であるが、それを示す歴史表現として以下も使用する)

その上で松前氏は、蝦夷地の海岸部に、アイヌ民族各集団と交易する「商場」を設け、これを知行(ちぎょう *武士に支給された土地や俸禄)として家臣に分配した(もちろん、松前家自身が保持する商場もある)。

そして、城下交易を廃止し、商場知行制(あきないばちぎょうせい)を成立させた。なお、商場とは、取引地点を指す。これは、他の藩にはみられない、松前家(藩)の独特な制度である。しかし、これが松前家と家臣の関係であり、封建的主従制に基づく点に変わりはない。

この「商場知行制」について、「松前蝦夷記」(享保2〔1717〕年)―『松前町史』史料編第一巻に所収―は、次のように述べている。

 

蝦夷地の内六十一ケ所家中給分代に渡シ置(おき)場所これ有り候へ共(そうらへども)、夷仁(*アイヌを指す)より収納これ無く、従(したがって)銘々(めいめい)夷仁に向(むかい)申し候品を船積にて差越(さしこし)、雑物替(*物々交換での交易)いたし申し候而(て)其(その)利金(りがね)取申(とりもう)す斗(ばかり)のよし、併(あわせて)近年出物(でもの *売り物)蝦夷地不漁ゆへ(故)に少(すこし)ク舟数を遣(つかわ)し候へ而(て)も損毛(そんもう)斗(ばかり)出来申す故、家中(かちゅう)申し合わせ少々宛(あて)寄合船(*協同の船)ニ而(にて)差遣(さしつかわ)し申し候。尤(もっと)も商人舟に運上(*税)取(とり)、其場所相渡し申すもこれ有り候、これに依って近年家中困窮のよし……

 

 これによると、「商場知行制」では、もちろんアイヌの「朝貢」はある訳ではなく、物々交換により商業利益をえる形である。しかし、近年は不漁がつづいて困窮し、知行主たちは協同で船を出したり、あるいは商人に委任して運上を取る者もいるというのである。

松前家(藩)も「商場」持ちの家臣も、商場経営は当初、直営であり、毎年、「商場」に交易船を派遣し、物々交換などでアイヌから得た特産品(干し鮭、干しニシン、煎海鼠〔イリコ〕、昆布、熊の毛皮など)を、松前城下の湊に限定して、日本諸国からの商船に販売した。諸国商船・商人とアイヌ民族との直接の交易は禁止され、松前城下湊から蝦夷地に渡り、アイヌと交易できるのは松前家の船だけとした。この結果、アイヌにとっては、自由な交易は制限され、さらに商場には和人の漁民やタカ猟師、砂金の採掘者などが入りこみ、アイヌの生業を圧迫するようになったのである。(しかし、不漁がつづく中で、商人に委任した場所請負制の兆しがみられる)

日本と蝦夷地の間の交易品について、「蝦夷の産物は、寛文(*1661~1673年)ごろの記録では干鮭(からさけ)・熊皮・鹿皮・鶴・鯨・魚油・鰊(にしん)・串貝(くしがい)・あざらし・ラッコ皮・昆布などであり、知行主が蝦夷(*アイヌを指す)にあたえるものは、米・酒・麹(こうじ)・塩・たばこ・鉄類・衣料・漆器類・装身具である。」(榎本守恵・君尹彦著『北海道の歴史』山川出版社 1969年 P.67)と言われる。

だが、寛文年間の頃には、アイヌとの交易に加え、商場内での漁業経営が始められ、さらに商場経営を商人に請け負わせる傾向が出て来る。そして享保・元文年間(1716~1741)の頃には、藩主、上級家臣の商場の圧倒的部分が、商人の請負となり、場所請負制が成立する。場所請負制の成立は、18世紀に入り、蝦夷地の漁業が不振となり場所持ち家臣の財政が悪化したこと、日本各地で蝦夷地の海産物が食料や肥料として需要が高まったことなどが背景にある。

図表3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

場所の経営を請け負う商人は場所請負人、請負金は運上金と呼ばれた。請負人は場所に支配人・通詞・番人などとして和人を派遣し、場所経営の拠点として、事務所・宿舎・倉庫を兼ねた運上屋(うんじょうや)を建て、ここを運上所と称した。また、場所請負人は、アイヌに和人の漁法を教え、使役し、海産物の漁獲量を増やし、利益を増大させた。

初期の場所請負人は、江差・松前に出店を構え、移出入にも従事し、多くは近江商人だったと言われる。

場所請負制は、享保期(1716~36年)にはかなり普及する。宝暦・天明(1751~1790)年間の頃になると、遅くに開設された藩主・松前氏のクナシリ場所も含め、ことごとくが商人の請け負うところとなり、蝦夷地全体が商業資本のもとに置かれるようになった。なお、18世紀半ば頃には、松前船と諸国商船との取引は、江差・福山(松前)・箱館の三港となる。松前家は三港に入港する商船(北前船)に移出税を課して、財源の一部ともした。

漁業経営をともなう場所請負制の普及は、アイヌ民族の多くを交易相手の地位から漁場の下層労働者へと転落させ、場所請負人の酷使と収奪を一段と強め、アイヌ民族と松前藩・商業資本との間の矛盾をいっそう先鋭なものとした。

 

1)海保嶺夫氏によると、和人地の成立・拡大は、①1551(天文20)年における「原和人地」の成立、②1633(寛永10)年における「和人地東在(ひがしのざい)の成立〔津軽海峡方面への拡大〕、③1643(寛永20)年における「和人西在(にしのざい)」の成立〔日本海方面への拡大〕、④1800(寛政12)年における「箱館」六ケ場所の村並化〔内浦湾岸方面への拡大〕と発展している(田港朝昭・海保嶺夫「幕藩制下の琉球と蝦夷地」〔岩波講座『日本歴史』11近世3に所収〕などを参照)。和人地の範囲は、②の頃までにはほぼ西は乙部、東は石崎辺までに拡大されている。1799(寛政11)年、蝦夷地の第一次幕府直轄化を契機に、④の頃には、小安から野田追に至る箱館六ケ場所を村並にすることで、東部の境は一挙に内浦湾沿岸部の山越内まで拡大される。以降幕末ま

で、和人地の境は事実上、西は熊石村、東は山越内が維持される。(地名については、図表3〔榎森進著「和人地におけるアイヌの存在形態と支配のあり方について」―『蝦夷地・北海道―歴史と生活』に所収 P.260〕を参照)

 

(2)反松前・反和人の気運とシャクシャインの戦い

17世紀蝦夷地のアイヌ社会には、いくつもの政治勢力が形成されており、各勢力間で対立・抗争あるいは連合・協調がなされていた。この中で、和人から見て、「惣大将」、「惣頭」とみられるような大勢力者は、図表4(『アイヌ民族の歴史』山川出版社 2015年 P.81)のように示される。

図表4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シュムクルのオニビシは、シブチャリ川(静内川)上流域、ヒポク(新冠)、サル(沙流)、イフツ(勇払)に勢力を張る首長で、松前藩が東蝦夷地アイヌを統率する「下国(しものくに)狄共(えぞども)押(おさえ)」に任じていた。

メナシクルのシャクシャインは、シブチャリ(静内)以東のウラカワ(浦河)、クスリ(釧路)、アツケシ(厚岸)あたりまで「頭分」がいて、それら全体を率いる「惣頭」であり、彼の手回りだけでも200人余の配下がいたといわれる。

その外、石狩アイヌ、余市アイヌなど、自律性の高いアイヌ勢力がいる。

これらのアイヌの中で、17世紀半ば以降、激しい抗争を展開したのが、メナシクル(カモクタイン、シャクシャインなど)とシュムクル(オニビシ、ハロウなど)である。それは、狩猟場や漁撈場の境相論に端を発したものであるが、松前藩の仲介により、1655年、一時停戦が成立した。

しかし、1667年にオニビシ側のアイヌが、翌年にはオニビシ兄弟が、シャクシャイン方に殺され、対立は激化する。親松前派であるオニビシ側は、松前藩に武器援助を要請するが、「仲間出入り」には介入しないと藩に断られる。しかし、その使者が帰路に疱瘡(ほうそう)にかかり死亡してしまい、これは松前藩の「毒飼」だという噂がアイヌの間に広がる。

毒殺の風聞が立つ訳には、当時、アイヌ社会に反松前・反和人の気運が広がっていたからである。

アイヌの不満と不安をとらえて、シャクシャインは“毒殺される前に和人を襲撃しよう”という呼びかける。これに応えて、各地のアイヌは一斉に蜂起し、西はマシケ(増毛)から東はシラヌカ(白糠)までの広範囲で、交易商船の船頭・水主・鷹匠あるいは金堀の和人三百数十人以上が殺害される。

シャクシャイン蜂起の原因について、弘前藩の調査報告書である『津軽一統志』は、1670(寛文10)年6月、シリフカのアイヌの長の言として、次のように述べている。

 

六月三十にしりかふの大将かんにしこるのまないの澗(たに *山と山との間の水路)へ参(まいり)申(もうし)候は、去年拙者共(せっしゃども)人殺(ひとごろし)申候は、前々志摩守(*松前氏)様御代には、米二斗入りの大俵にて干鮭(からさけ)五束(*100本)宛(あて)御取替(とりかえ)成され候。近年蔵人(くろうど *財政掛り)仕置(しおき)に罷成(まかりなり)米七、八升入りにて、干鮭五束宛取替成され候へども、狄共(てきども *アイヌたち)の儀(ぎ)御座(ござ)候得(へ)は、是非に及ばず其(その)通(とおり)に差上(さしあげ)申候。餘(あま)り迷惑に存(ぞんじ)、近年は度々(たびたび)御訴訟申上(もうしあげ)候得共、年寄(としより)たる蝦夷共我侭(わがまま)申候間、毒酒にて年寄狄の分(ぶん)御たやし(絶やし)、若狄(わかてき *若いアイヌ)計(ばかり)に成さるべく御相談にて、はしはし(*あちこち)にて右の酒にて相果(あいはて)候(そうろう)由(よし)承及(うけたまわりおよび)、しりかふの狄共(ども)気遣(きづかひ)に存(ぞんじ)〔*心配になり〕、御酒も申受(もうしうけ)ず〔*いただかず〕、迚(とて)もケ様(かよう)に御たくみ成され候て、末に御たやし成らるべくと存(ぞんじ)候処、下の国にて、毒の酒にてあまた相果(あいはて)候由承(うけたまはり)、就(ついては)夫(それ)しゃくしゃいんも商船殺(ころし)申候(もうしそうろう)由(よし)承(うけたまはり)、上の国にても迚ものがれぬ(逃れぬ)事と存、しゃも船殺申候。御慈悲さへ御座候はば、何にしに〔*どうして〕此方(このほう)より左様(さよう)の儀仕(つかまつ)るべく候や、此段(このだん)高岡の殿様(?)へ御披露(ひろう)下されたく由申候。

右のかんにしこる申候は、近年は蝦夷あち(アジ)商に松前より御越(おこし)候て、拙者共取(とり)候(そうろう)川にて網おろし、鮭すきと(*すっかり)御取(おとり)、上方へ商(あきない)に御越成られ候に付(つき)、左様に成され候ては、蝦夷共取申(とりもうす)鮭(さけ)御座なく候て、餲死(*餓死)申候間、拙者共に取(とら)せ御買(おかい)下されたき由、色々御訴訟申上(もうしあげ)候得共(そうらえども)、松前の知行所にて候間、取申に我侭(わがまま)申(もうす)とし御打(おうち)たたき、其上(そのうえ)にても少(すこし)も拙者共取申候鮭やすく(安く)御買(おかい)成され候得(そうらえ)は(ば)、何共(なんとも)迷惑仕(つかまつり)候。ケ様の事に付て蝦夷共一揆を発申(はっしもうし)候。此段上(かみ)に仰せられ下されたき由(よし)申候事。

 

 「干鮭五束=米一俵(二斗入り)」という交換基準は長く守られていたが、この頃になって米一俵を7~8升に減ずるという米の値上げを一方的に行なっている。アワビの引渡しが一束でも不足すると、子どもを質に取るなどと脅す。和人の大網による鮭漁に抗議すると、乱暴に打ちたたかれたなど、さまざまな不満が知られていた」(『アイヌ民族の歴史』P.86)のである。

松前藩はこの蜂起を鎮圧するために藩兵を派遣し、弾圧する。そのうえで、和睦をかたらって騙(だま)し、シャクシャインら約50人を謀殺して、近世最大のアイヌの戦いを抑え込んだ。

シャクシャインの戦いを鎮圧した松前藩は、各地のアイヌから賠償金や賠償財(宝)を取り立て、藩への忠誠や和人の安全保証などを誓う七ヵ条の『起請文』を提出させた。それととともに、アイヌから徹底的に武器の没収をおこなった。アイヌ抑圧により『商場知行制』は全島に拡がり、アイヌは商場に封じこめられてゆく。1)

 こうして、「寛文九年(一六六九)のシャクシャインの戦いの結果、おそらくは蝦夷地での多くの他国人を含む和人の活発な生産活動を知った幕府の強い指導の下に、鮭船、鱒(ます)船、鷹待、砂金堀の派遣や刀剣の交易を禁止し、一商場に派遣できる交易船を夏船一艘に限定した。また、藩主へのお目見え(ウイマム)2)を再開し、乙名層(*アイヌの有力者層)に城下での一定の交易を許したことや商船に上乗役(*藩の交易監視役)を同乗させたことなども同時に実施したと考えられる。」(小林真人著「成立期場所請負制の制度的考察」―北海道出版企画センター『場所請負制とアイヌ』1998年に所収 P.47)と言われる。「一商場に夏船一艘」の原則が確立されたのである。

 

1)「起請文」の一条に、「殿様(*松前氏)向後(こうご)仰せ出だされ候(そうろう)通りニ、商売船江(え)我儘(わがまま)申し懸けず、互いに首尾能(よく)商(あきない)仕るべく候、余処(よそ)の国の荷物買取(かいとり)申す間敷(まじく)候、我国ニ而(にて)調(ととのえ)申す荷物も他国持参(じさん)仕(つかまつり)商売致し間敷(まじく)候、人の国ニ而取り申し候皮・干鮭(からざけ)、我国持参仕(つかまつり)売買致すは、銘々仕付(しつけ *慣わし)候通り致(いた)すべき事」(谷本晃久著「近世の蝦夷」からの重引)とある。下線部が示すように、松前氏への絶対服従(「我儘申し懸けず」)が起請されている。そして、「余処の国」(他のアイヌ集団)の物を買い取ったり、自己のアイヌ集団の物を「他国」へ持って行って商売はしない―と誓っている。

  2)ウイマムはもともとは、アイヌが毛皮や海産物をもって、隣邦の領主に献上し、その代わりに酒や衣類などをもらって帰るという交易の原初形態を示したものであった。だが、18世紀以降のウイマムは、松前藩あるいは松前(箱館)奉行が、アイヌ首長に謁見(えっけん *上位の者に御目にかかること)を課す服属儀礼(「御目見得〔おめみえ〕」)を指すものへ明確に変化している。これに対し、オムシャはご無沙汰の挨拶をともなうアイヌ交易の交歓の儀礼であったが、後には、交易や漁労の終了時に、その慰労のための行事に変わり、さらには場所内のアイヌを統治するための年中行事となった。そこでは詰め合いの役人が掟書を読み聞かせ、役アイヌの任免を行ない、孝子・善行者を褒賞し、年寄・病者に施しを与えるなどした。

 

(3)商場知行制の下での場所請負制の普及

商場知行制の下で、当初商場へは、知行主自ら、あるいはその家臣が直接出向いて交易に当たっていた。だが、それに伴うリスクを回避し確実な収益を得るために、次第にその権益を運上金(*商・工・運送業者に課した税金)上納と引き換えに商人に請け負わせるようになっていく。

その背景には、18世紀に入り、蝦夷地の漁業が不振となり「場所」持ち家臣の財政が悪化したこと、日本各地で蝦夷地の海産物が食品として需要が高まったこと、日本農業における商品作物の増大に伴い鰯(いわし)・鰊(にしん)などが肥料として求められたこと

などがある。蝦夷地は、日本全体の分業体制の重要な一環として、組み込まれていくのであった。

『アイヌ民族の歴史』によると、「元文年代(一七三六~四二)には、このような場所請負の形になっている例が拡大していて、藩主直領の場所など数カ所を除いて、その他はすべて請負場所になっていた(「蝦夷商賈聞書」)。/一八世紀後半には、藩主直領も請負場所になっている。」(P.94)のであった。場所請負制の盛んな「天明年間(*1781~89年)には、東蝦夷地場所三八、西蝦夷地〔場所〕四〇、計七八場所あった。」(『北海道の歴史』山川出版社 1969年 P.68)と言われる。図表5は、同書(P.68)による。

「場所請負人は、当初商場で交易を行っていたが、次第に運上金を回収し更なる収益を挙げるべく、商場に集うアイヌ集団の領域を面として捉え、大網を導入しアイヌを雇用し

図表5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ての漁業経営を行うようになる。商場交易から場所経営への転換」(谷本晃久著「近世の蝦夷」 P.86)である。小林真人氏はこれを後期場所請負制と定義している。請負商人(初期は多くが近江商人)は、単に商場でアイヌとの交易を一手に引き受けるだけでなく、利益を増大させるために次第に漁業経営をも行ない、大量の漁獲を得る和人の漁法をもってアイヌを酷使したのである。

場所請負制の普及の下でも、もちろんアイヌの「自分稼(じぶんかせぎ *自営業)」は存続したが、多くのアイヌを交易主体から漁場の雇用者へと転落させた。場所請負人の酷使と収奪は一段と強まり、アイヌ民族と松前藩・商業資本との間の矛盾をいっそう先鋭なものとさせた。

しかし、当時の他藩と同様に、松前藩の財政危機は、場所請負制度の矛盾をさらに激化させた。同藩では、第12代の松前資広が1765年に死去し、跡を長男の道広が継いだ。道広は京都花山院家から正室を迎え入れるなど豪奢な生活で、浪費が目立ち、藩財政は危機に陥った。これに加えて、家老蠣崎(かきざき)佐士一派の悪政で、財政危機に拍車をかけた。

蠣崎一派は、当時、材木商・飛騨屋久兵衛が独占していたエゾ松の伐木事業に目を付け、飛騨屋の元使用人・南部屋嘉右衛門や江戸の材木商新宮屋久右衛門と結託し、飛騨屋の権利を剥奪(はくだつ)しようとした。「この過程でかえって藩財政の悪化を招き、借金にかかわる公訴事件が頻発し、それを内済(*表沙汰にしないで内々で処理すること)に持ち込むために借金の引当(*抵当)としてエトモ、アッケシ、キイタップ、クナシリ、ソウヤ、イシカリ秋味など藩主直轄場所を引き渡さなければならなかった。」(小林前掲論文 P.98)のである。

この際に(1773~74年)、飛騨屋久兵衛はキイタップ・クナシリ場所などを請け負うこととなる。しかし、このあたりのアイヌはまだ自律性が高く、強勢であった。クナシリへ向けた飛騨屋の商船は、1774~75年と連続して交易を拒否された。交易条件が合わなかったと推測される。1778~79年には、ロシア人の応接で出費が重なり、1785~86年には、幕府の調査と「お試し交易」(幕府の試験的な直接交易)によって、経営が中止された。

順調に進まない場所請負の中で、「飛騨屋は1788年(天明八)にはメナシ(現在の根室支庁管内標津〔しべつ〕町付近)やクナシリ島で、大網によって鱒(ます)を捕獲し、この鱒から〆粕(しめかす)を生産するようになった。〆粕は本州の商品作物の肥料となるものであって、豊富な鱒によってそれまでの交易以上の利益を上げることが可能であった。現地アイヌを労働力として使役させるために、暴力や虐待などによって強制徴収した」(川上淳著「日露関係のなかのアイヌ」―日本の時代史19『蝦夷島と北方世界』吉川弘文館 二〇〇三年 に所収 P.268)のである。

このような飛騨屋の悪逆非道な経営に対して、1789年、クナシリ・メナシのアイヌたちが一斉に決起し、飛騨屋の支配人・通詞・番人ら71人(松前藩士・上乗役1人を含む)を殺害した。世に言うクナシリ・メナシの戦いである(詳しくは後述)。

戦いはアイヌ実力者の調停という形で終息したが、主だった決起者は「処刑」される。クナシリ・メナシの戦いの後、アイヌ支配はさらに強化され、松前藩はソウヤ・アツケシなど各所に侍・足軽などを配置した蝦夷地勤番体制をとった。この勤番体制の下で、場所請負人や場所の経営拠点である運上屋あるいは会所は、アイヌ統治・蝦夷地支配の末端機構に位置付けられ、場所請負制は後期段階に移行する。(小林前掲論文 P.44

 

第2章                    

 

A ロシアの東方進出

 

1613年、ミハイル=ロマノフ(在位1613~45年)によって、ロマノフ朝が創設される。ロシア帝国は、遅くともピョートル1世〔大帝〕(在位1682~1725年)の時代までには名実ともに成立すると言える。

ロシアは中国と同じように、近隣諸国・諸地域の土地を併合し版図を拡大してきた(中国の明確な版図拡大政策は、遅くとも漢王朝ですでにみられる)。アメリカも、一方でフランスなどから領土を買収し、他方でネイティブ・アメリカンの土地をだまし取ったり、メキシコとの戦争をとおして、領土を拡大した。

17世紀は、ロシア帝国の支配領域とロシア人の生活圏が大きく広がった。「東ヨーロッパ平原では、西方領土の回復と左岸ウクライナの獲得、南部防衛線の前進と黒土地帯の農地化、ヴォルガ・ドン流域でのカザークと異民族にたいする支配の強化とロシア人の入植がみられたが、北アジアではロシア人のシベリア進出がとくにめざましく、『ユーラシア帝国』としてのロシアの基礎がおかれた。」(世界歴史大系『ロシア史』1山川出版社 1995年 P.388)と言われる。

ロシア人は、1632年にヤクツークを建設し、これを拠点にアムール川流域やオホーツク沿岸・カムチャツカに進出した。1639年にはオホーツク海に達し、1648~49年にはユーラシア大陸北東端のチュクチ(チュコト)半島を回航した。しかし、アムール川への進出は、清国との衝突に至り、1689年のネルチンスク条約によって停滞する。

ロシア人のシベリア征服のスピードが速いのは、当初、南部の森林ステップではなく、北のタイガ(山地の針葉樹林帯)を進んだことに関係がある。南部のコースは近隣国家などとの摩擦が激しくなるからである。ロシア人をシベリア征服に駆り立てた直接的動機は、シベリアが「高価な毛皮獣」の宝庫であったからである。モスクワ公国も、毛皮を国庫の専売品としてきわめて重視していた(一説では、16世紀末の国家歳入の三分の一が毛皮収入と言われる)。

ロシア人は、17世紀末、カムチャツカに到達し、「原住民のカムチャダル人部落をつぎつぎと征服し、かれらに毛皮税を課して、一七〇四年には半島の南端に達した。しかし、カムチャダル人はしばしば反乱をおこし、また半島北部のコリヤク人は半島南部とシベリア本土との交通をさまたげた。」(『日本の名著 25』中央公論社 1972年 P.514)といわれる。しかし、ロシアはオホーツク海北岸のオホーツク港からカムチャッカ南部とを結ぶ航路を開拓し、原住民の抵抗を抑えた。

その後、ロシアは東方進出をさらに推し進め、ベーリング海、アラスカ、クリル諸島(千島列島)の探検を開始する。1732年、勅令により、ベーリングの北太平洋探検隊が編成されるが、その一翼として、海軍中佐スパンベルグが指揮をとる日本探検隊が組織された。

1738年6月、スパンベルグは3隻の帆船を率いてオホーツク港を出発し、カムチャッカに寄り、のちクリル諸島(千島列島)に沿って南下し、8月、ウルップ島沖に到達する。だが、嵐や濃霧に悩まされ、食糧も欠乏したため、一旦カムチャッカに帰港する。越冬中、新たに1隻の帆船を建造し、翌1739年5月、4隻で再び南下する。途中、1隻がスパンベルグの本隊を離れるが、本隊は6月16日、北緯39度(*今日の陸前高田市近辺)の地点で初めて日本列島を望見し、さらに南下して6日後には、北緯37度30分の地点に投錨し、日本漁船と交流し、この地が日本である事を確認した(仙台領牡鹿郡田代浜)。

本隊を離れた1隻は、ワルトン大尉に率いられてそれ以上に進み、房州長狭郡の沖合に停泊し、8人乗りボートで上陸して淡水・食糧の補給を得ている。これが、ロシア船の日本本土への最初の渡来といわれる。

その後、ロシア人たちは、北クリル(北千島)で毛皮徴税を試みるが、それに対して先住民は抵抗してより南方の島々に移島していく。「1760年代後半、カムチャッカ政庁は、移島者の捜索隊を断続的に組織し、エトロフ島まで到った。この部隊は懲罰的にアイヌに接し、部隊のあとを追ってきたロシア人狩猟業者もウルップ島などで毛皮猟独占や毛皮徴税を図り、アイヌ長老らを殺害した。」(日本近世の歴史5 横山伊徳著『開国前夜の世界』吉川廣弘文館 2013年 P.32)のであった。1771(明和8)年のいわゆる「ウルップ島事件」である。

 ロシア人たちがウルップ島のアイヌのラッコ猟場に侵入し、アイヌの長老を殺したので、エトロフ島・ラショア島(クリル諸島の一つ)のアイヌたちは怒り、ウッルプ島に滞在中のロシア人を襲撃し、双方に多数の死傷者を出した(後に和解)。

 この年・1771(明和8)年には、流刑地カムチャッカから脱走したポーランド軍兵士(革命家)ベニョフスキーが船を奪い、ヨーロッパへ向かう途中日本に立ち寄る、という事件も起こっている。彼はその時、オランダ商館長に6通の手紙を送る。その内の1通には、「『ルス国』(*ロシア国のこと)が、『かむしかってか』(*カムチャッカのこと)周辺の『クルリイス』に武器庫を設けている、来年には『かみしかってか』の船が集結し松前近辺に接近するであろう」(岩崎奈緒子著「『三国通覧図説』―衝撃の『蝦夷国全図』」―『歴史と地理』231 2010年)と警告している。しかし、これは現実のものとはならなかった。

 ロシア側は「ウルップ島事件」を「教訓」にして、「一七七二年、イルクーツク知事らはやり方を代え、松前島まで渡航し、日本人と接遇の上、交易するための調査を決定した。七四年、ヤクーツク商人がこの事業を引き受けて、カムチャッカから千島への遠征隊を派遣した。漂流民から日本語を習ったロシア士族アンティピンは、七五年、遠征隊を指揮してペトロパブロフスクから島づたいに南下した。」(同前)のである。

1778(安永7)年露暦6月には、ロシア船が、千島アイヌの案内で根室半島のノッカマップに来航して、贈り物と書簡を送って、松前藩士に交渉を試みる。翌1779(安永8)年8月にも、ロシア船が再びアッケシ(厚岸)に来航し通商を求めるが、松前藩はこれを拒否している。松前藩は、「異国交易の場所は長崎港一ヵ所限りであり、其(その)外は国法にて制禁となっており、どれほどのことがあっても〔当地での〕交易は不可能なことであり、以後は渡来しないように……」(『通航一覧』魯西亜国部)と申し渡して、贈り物と書簡を返却したのである。しかし、松前藩は「交易は国法の禁ずるところであるが、エトロフ島の蝦夷となら許すと回答し、このことを幕府には秘しておくことにした。密貿易なら黙認するということだったからである。しかし、松前藩では、すでに樺太で満州人との間に山丹交易を行なっていた。」(『紀田順一郎著作集』第1巻 三一書房 2000年 P.186)と言われる。山丹交易は、以前からアイヌが山丹(沿海州)ルートで行なってきた交易である。

 

 B 田沼時代の幕府の北方政策 

 

ロシア人のクリル諸島南下と日本への通商要求は、幕府や一部の知識人の間に強い危機感を抱かせた。

仙台藩医・工藤平助は蘭学者の助けをかりてロシア事情を調査・研究し、1783(天明3)年、『赤蝦夷風説考』(赤蝦夷とは、ロシア人のこと)を著し、カムチャッカが中国を上回る大国であるロシアの一部であることをつきとめ、そのロシアが南下政策を進める中で、蝦夷地の無防備を訴えた。そして彼は、幕府が蝦夷地を直轄し、蝦夷地の開発(金山開発や諸産物の増産など)を行ない、ロシアと交易するならば日本の利益となることを説いた。「交易を行なう目的はさまざまであるが、根本の主旨は、国防が第一であり、第二には抜荷(*密貿易)の禁制」にあるとした。『赤蝦夷風説考』は、老中・田沼意次(おきつぐ *在任1769~1786年)に提出された。

1785(天明5)年には、林子平が軍事地理書『三国通覧図説』を成稿し、翌年に刊行する。これは、日本の隣境にある朝鮮、琉球、蝦夷、それに無人島(小笠原諸島)の地図、さらに日本とそれらの地域との里程を示す総図、合わせて5つの地図を載せ、国防の観点からそれぞれの地域の地理や風俗を解説したものである。(ちなみに、ここでは釣魚諸島〔日本名・尖閣諸島〕は、明確に中国領となっている)

中でも最も詳細に論じたのが蝦夷地である。佐藤昌介氏によると、「彼は同書の中で、ロシアの東方経略を説き、その勢力がカムチャッカから千島に及んでいることを指摘して、蝦夷地侵略の危険を警告する。それとともに、その対策を論ずるにあたり、蝦夷地をもって外地とみなす当時の通念を否定して、これを本土の延長線上にとらえる。そして、蝦夷地を領する松前氏が収奪のために、蝦夷人に対して愚民化政策をとることに反対して、蝦夷人に教化政策を及ぼし、彼らを文明化して、蝦夷地を本土並みに開発することにより、ロシアの侵略政策に対抗しうると主張している」(『国史大辞典』吉川弘文館)のである。

子平の主張には、内国化政策の意図が明確に述べられており、蝦夷地の開発(工藤平助と同じ)とアイヌに対する同化政策をもってロシアの侵略に対抗する、というのである。ロシアの侵略に対して、日本の侵略(内国化)で対抗しようというのである。子平は、翌1786年には『海国兵談』全16巻を脱稿し、洋式軍艦を建造し海軍を振興し、また江戸湾防備を強調した。

ロシアの膨張主義の高まり、南下政策推進の下で、幕府は、蝦夷地を体制外の地としておく従来の政策の転換を迫られることとなる。

1785~86(天明5~6)年、田沼意次は、幕府としては初めての蝦夷地調査隊を派遣した。その目的は、「蝦夷地辺境」における抜荷(ぬけに *密貿易)の実地調査である。そのために、勘定奉行配下の五人の普請役を責任者とする調査隊を蝦夷の奥地に派遣することとした。

だが当時、松前藩の情報でも、東はキイタップ(霧多布)以遠、北はソウヤ(宗谷)以遠の様子は全く知られていなかったので、千島及びカラフト奥地の調査に重点を置くことにした。調査隊は、1785年2月に江戸を出発し、折から天明の大飢饉に苦しんでいた南部・津軽の領内を通り、3月半ばに松前に到着した。

調査隊は、二手に分かれ、西蝦夷・カラフト方面は普請役の庵原(いばら)弥六をはじめ10人ほどに、松前藩からも数人が加わった。東蝦夷・千島方面は、普請役の山口鉄太郎・青山俊蔵など20人ほど(この中に最上徳内も参加している)に、やはり松前藩からの数人が加わった。その他に、総括・予備班として、普請役の佐藤玄六郎・皆川沖右衛門など10人近くが、松前に留まった。

西蝦夷地班は、カラフトに渡りその南部を調査したが、松前藩士も経験しない寒地で越冬した。だが、翌春になって生鮮食料の不足による壊血病のため、庵原ら数人が死亡した。

東蝦夷地班は、アッケシ―ノサップ―シベツを廻り、クナシリ島まで到達した。

この調査報告では、蝦夷地での交易は長崎表の交易に差し障りがあるという理由で、ロシアとの交易には否定的であった。だが、蝦夷地が全く無意味な土地ではなく、蝦夷地問題担当者の関心は、蝦夷地そのものの開発に向けられた。そして、報告では蝦夷地の実情について3点が述べられた。①ロシアの進出が蝦夷地に迫っている。②場所請負制の実態として、運上金(請負金)が高く、請負商人は利益を出そうとアイヌに負担を押し付けている。③幕府役人がアイヌに接したのは初めてであるが、松前藩が言うのとは異なり、「至って正直成るもの」と評価する。そして、アイヌ独自の風俗が残されてきたのは、商人経営を有利にするための術策である、としている。

結局、田沼はこの報告を受け、石高にして600万石ほどの大開発計画を構想した(当時の全幕府領の石高は約400万石)。だが、これはあまりにも破天荒なもので、しかも当時の技術水準では不可能であった。結局、この構想は手賀沼・印旛沼の干拓計画の中止同様、田沼の失脚とともに立ち消えとなる。

だが、田沼時代(1758~86年)の末期、蝦夷地の生活にも大きく関係する交易関係政策が進められている。

天明5(1785)年、幕府は大坂銅座詰の長崎会所役人に大坂俵物会所(俵物商人による俵物の廻着集荷所)の接収を命じ、長崎会所による独占的な俵物集荷を開始した。全国各地に集荷人を任命し、アイヌ漁師から安く仕入れた俵物を長崎会所役人が集荷人から即金で買い上げる体制である。

俵物とは、煎海鼠(イリコ)・干し鮑(アワビ)・フカヒレの三品を指し、中国で非常に需要が高かった。その他にも、昆布やスルメなどの海産物の輸出が盛んに行なわれていた。 

織豊時代、日本は世界でも有数の金銀産出国であった。したがって、徳川時代の長崎貿易は中国などアジア各地からの物産を輸入し、代わりに金銀を輸出する貿易であった。しかし、17世紀後半になると、金銀の産出は急速に衰え、代わりに銅の産出が増大した。しかし、銅も18世紀に入ると衰え始め、今度は銅に代わって、俵物などの輸出で物品の購入や銀の輸入が図られた(銅不足は、国内の商品流通の発展に基づき、銅貨需要の増大に応じた貨幣政策にもある)。  

                      

C 松平定信政権の北方政策

 

 寛政の改革を推進した松平定信を中心とする政権は、第11代将軍家斉の実父・一橋治済(はるさだ)と御三家を後ろ盾とし、藩政改革に熱心であった譜代の小大名を要職に抜擢したうえで成り立っていた。なかでも定信が最も信頼したのは、本多忠籌(ただかず *陸奥泉の譜代大名、老中格)と松平信明(*三河吉田の譜代大名、老中)である。

 定信が老中首座に着いたのは1787年6月であったが、「幕府による直轄・開発を推進しようとした田沼政権の蝦夷地政策を直ちに撤回し、松平定信は『北風や日本の火よけ蝦夷が島』という蝦夷地火除地(ひよけち)論に立って、蝦夷地の松前委任・非開発政策へと転換させた。当時、蝦夷地問題に関わった老中や勘定奉行らはいずれも直轄・開発を唱えていたというから、かなり強引な政策転換だった。」(藤田覚著「19世紀前半の日本」―岩波講座『日本通史』第15巻 近世5 1995年 P.13)と言われる。

 しかし、定信が最も信頼した本多忠籌もまた、直轄・開発を唱える傾向に属しており、閣老内は不一致であった。

 

 (1)クナシリ・メナシのアイヌの戦い

1789(寛政元)年5月、松前藩と請負商人の長年の収奪と抑圧、さらには船頭や傭人など和人の差別に堪えかねたアイヌの反乱が勃発した。クナシリ・メナシの蜂起である。

クナシリ島では、運上屋(「場所」経営の中心施設)の所在地であるトマリや、チフルカルベツ、フルカマフなどで22人、キイタップ場所内のメナシ地方(クナシリの対岸の現・北海道根室地方)ではシベツ、チウルイ、ウエンベツなどで71人の和人が殺された。殺された者は、松前藩の上乗役(うわのりやく *請負人の商船に同乗し、荷物改めなど場所請負人を監視する役)の足軽一人を除いて、他はすべて請負人飛騨屋久兵衛によって現地の運上屋や番屋に派遣された支配人・通詞・番人といった傭人と、飛騨屋手船大通丸の船頭・水主(かこ)たちであった。

この戦いで、アイヌの側もクナシリで41人、メナシで89人が殺されている。

事件は、クナシリの乙名(オッテナ *隷属民ウタレを抱えるアイヌの実力者)であるアイヌのサンキチが、5月12日ないし13日の頃に病気になり、松前藩の役人竹田勘平が薬(一説には酒)を与えたところ即死したので、アイヌ人たちに毒殺の噂が広がった。そこでサンキチの息子ホニシアイヌとサンキチの弟マメキリが中心になって、クナシリでの蜂起がまず起こる。ついで、ホニシアイヌは対岸のメナシに渡り(サンキチの影響力はメナシ地方にもあった)、メナシのアイヌたちを巻き込んで5月13日の夜から14日の朝にかけて和人を襲撃した。

アイヌ蜂起の報を受け、松前藩はすぐさま鎮圧隊をキイマップ場所内のノッカマフ(ノッカマップ)に派遣し、アッケシ(厚岸)の乙名イコトイ、ノッカマフの乙名ションコ、クナシリの乙名ツキノエ(ツキノイ)といった「道東」の実力者アイヌを味方につけ、蜂起者たちを説得させ帰順させる。

マメキリら戦いに決起した300人余が説得され、ノッカマフに出頭してきた。だが、藩はアイヌ伝統の「ツグナイ」をも認めず、マメキリら中心人物37人を冷酷にも処刑してしまった。(「ツグナイ」とは、もめごとが起きた場合、アイヌ社会では基本的に「チャランケ〔談判〕」を通して、間違いを犯した側が太刀・銀具などの「宝」を指し出して謝罪すること)

事件の報を受けると、定信は普請役青島俊蔵らを俵物御用として派遣(表向きは俵物調査であるが、実際は松前藩とアイヌの戦いの調査)し、6月20日過ぎには、南部藩・津軽藩に松前藩の要請次第で蝦夷地鎮圧に出動すること命じた。この際、定信は、青島らに事態に介入しないで、松前藩の動向などをありのままに報告するように命じている。

幕府がもっとも恐れていたのは、アイヌの戦いにロシアが関わっていないかどうか、ということである。だが、後にロシア人が関わっていないことが判明する。

松前藩と飛騨屋が幕府に訴えたことからわかることは、当初、両者の論争点はアイヌ蜂起の原因であった。サンキチが死んだ原因を松前藩側は、飛騨屋の手代左兵衛が渡した毒入り米酒と主張したのに対して、飛騨屋側は藩の目付役勘平の渡した毒入りの酒・薬と主張した。だが、争論はやがて「原因」論から、飛騨屋の「アイヌ収奪・搾取」論に移行する。藩側は飛騨屋のアイヌに対する「不正交易」などを強調し、責任を飛騨屋に押し付ける。これに対して、飛騨屋は「不正交易」を全面否定する。そして、勘兵の与えた酒というのは風説に過ぎないとして、新たにアイヌが飛騨屋の「仕入物」(仕入れた物)に対して抱いた「欲心」である、とアイヌを一方的に責めることとなる。

幕府の裁定は、きわめて政治的であった。「クナシリ島交易懸りの久兵衛(*飛騨屋)手先のもの共(者ドモ)は残らず横死いたし、右騒動に及び候(そうろう)蝦夷人(*アイヌの蔑称)共も志摩守(*松前藩主)方にて仕置(しおき *処罰)申し付け候(そうろう)上は、手先の者共(ものども)正不正の儀は今更(いまさら)沙汰に及ばず……」(寛政元年七月久世丹後守・根岸肥前守「飛州湯之島村久兵衛、蝦夷地交易方の一件吟味仕候趣申上候書付」―北海道編『新北海道史』第7巻所収「蝦夷地一件」二七)と、飛騨屋の不正交易の正否についての判断は棚上げにする。

そして、幕府は、松前藩が飛騨屋の場所請負を停止したことを藩の政策転換と位置づけ、藩政には介入しないという態度をとった。幕府の裁定は、蝦夷地の松前委任・非開発政策に沿ったものであった。

結局、アイヌ民族に対する差別政策は、抜本的に改革はされなかった。また、飛騨屋が訴えた内容は全く聞き入れられず、そのうえ松前藩への貸金1万6000両余りが、踏み倒されることとなった。

 

(2)異国船取扱令と蝦夷地政策の変化

青山俊蔵が蝦夷地調査から戻り、1789年11月に復命書を出した後の、12月6日、定信は突如、青山俊蔵が俵物調査を逸脱し、松前藩と直接接触して復命したと問題にする。そして、翌年正月、青山は揚屋(あがりや *下級武士の未決囚を収容した牢屋)入りが決定する。8月には、判決が下り、青山は遠島、松前藩家老松前左膳・下国舎人、近習高橋又右衛門は30日押し込め、最上徳内は無罪となる。青山は間もなく牢死する。

1790(寛政2)年12月、幕府は再び最上徳内らに蝦夷地御用を命じ、エトロフ・ウルップなどの調査のために派遣している。

この頃、幕府には、西南地方を外国船がひんぱんに出没する報告が届いている。1791年3月、アメリカの船レディ・ワシントン号が、マカオから紀州串本大島に来航し、同年7月にはイギリスの船アルゴノートが、マカオから博多・小倉に来航する。

そこで、1791年9月1日、幕府は異国船取扱令(寛政三年令)を発布する。同令は、次のように述べている。「……以来異国船見掛(みかか)り候(そうろ)はば、早々手當(てあて *捕縛)人数等差配(さしくば)り、まづ見へかかり事かましく(*ぎょうぎょうしく)これ無き様ニ致し、筆談役或(あるい)は見分の者等出(だ)し、様子(ようす)相試(あいためし)申すべき候(そうろう)、若(もし)拒(こばみ)候(そうろう)趣(おもむき)ニ候はば、船をも人をも打砕(うちくだ)き、貪着(とんちゃく)無き筋〔*配慮すべき相手ではない〕ニ候間、彼船(かのふね)え乗移(のりうつ)り、迅速ニ相働(あいはたらき)、切捨(きりすて)等にもいたし候は、召捕(めしとり)候儀も尤(もっと)も相成るべき候、勿論(もちろん)大筒・火矢など用(もち)い候も勝手次第の事ニ候、筆談等も相調(あいととの)ひ、又は見分等をも拒まざる趣ニ候はば、成丈(なるたけ)穏(おだやか)ニ取計(とりはから)ひ……」(『御觸書天保集成』下 岩波書店 1940年 P.851852)と。

従来の異国船取締法令は、来航する密売唐船を念頭に置き、発見すれば日本船が沖合に出て船上で売買しないようにし、異国船の船員の上陸を認めず、飢えない程度の食料・水・薪は与えることなどを主旨としている。これと比較すれば、国際情勢の変化を踏まえて、強硬な政策も打ち出してきているのである。

ところで、クナシリ・メナシのアイヌ蜂起の直後から、蝦夷地建議の主担である本多忠籌(老中格)は、ロシア人の動向探索、アイヌ交易の正常化1)、松前の蝦夷地統治の検分などのために、幕府からの役人派遣を唱えたが、御三家など反対論が多く実施されなかった。

 1792(寛政4)年2月、忠籌は、再度、水戸・尾張両侯に幕府による奉行派遣を提案したようである。しかし、両侯ともこの提案に対して消極的であった。このため、忠籌は蝦夷地建議の主担を松平定信に譲ることとなった。こうして、定信は蝦夷地対策の全権を握るようになった。

定信は、「蝦夷地は山丹(さんたん *沿海州)・満州・オロシャの国々に接し、ことに大切の所成る……」(自伝「宇下人言〔うげのひとこと〕」―『日本人の自伝―別館』平凡社 1982年 に所収 P.315)と国境・国防意識に立ち、同年7月、勘定奉行・寺社奉行・町奉行に対して、新しい蝦夷地防備に関する諮問を行なった。定信は、従来の蝦夷地非開発論(蝦夷地は不毛の方がロシアも触手を伸ばさないという政策)が現実には甘いと考え直すようになるとともに、他方、忠籌などの開発論も「辺隙(*国境での争い)を開き、後に患いを残す」として、第三の道を模索するようになったのである。

 だが、それを議論し結論を得る前に、ロシア船が来航する事態となる。

 

1)蝦夷地問題担当の本多忠籌(ただかず)は、アイヌ蜂起の直接の原因を和人商人の不公正交易と見なし、「御救(おすくい)交易」という政策を提起した。それは、「御普請役・御小人(おこびと)目付などの類、或は米・たばこ(タバコ)なんど船につみてかの地へ参り、鮭なんどとかうる(換える)なり、事々正しくして松前の交易不正をただし、専ら御仁政(*幕府の)を下さるの御主法なり」(藤田覚著『松平定信』中公新書 1993年 P.195)と言われる。「御救交易」とは、幕府がアイヌと直接に交易し、その交易を「公正」に行ない、また、アイヌの老人・子どもや貧窮者に施米(せまい)をするなど、アイヌに対する「撫育」を意図するものである。この寛政3(1791)年には、最上徳内らの普請役一行が東蝦夷地厚岸場所で「御救交易」を実施し、ウルップ島まで踏査し、さらに翌4年には西蝦夷地にむかい、宗谷・石狩場所で「御救交易」を試み、カラフト島クシュンナイ・トーブツまで見分している。

 

(3)ロシア特派使節ラクスマンの通商要求への対応

 1792(寛政4)年9月、イルクーツク総督特派使節ラクスマン(第一回遣日使節)が、伊勢の大黒屋光太夫ほか二名の漂流民を護送してネモロ(根室)に来航し、通商を求める。ロシア使節の固い意志をみてとった松前藩は、前回(1779年)のように軽くあしらうことができず幕府に通報する。

松平定信ら幕閣は額を集めてさまざま論議し、結局、次のような態度を決定した。すなわち、①国書・献上物は受け取らないこと、②江戸への来航をゆるさないこと(江戸湾の防備がなされていないことが明白となるから)、③漂流民を受け取り、礼を厚くしてその労をねぎらうこと、④江戸以外では引き渡さないと主張したら漂流民は受け取らないこと、⑤通商の願意があるなら長崎に廻航させること、⑥この交渉のために宣諭使(せんゆし)として目付を現地に派遣し、露使を説得することなど―であった。

幕府は、ラクスマンとの交渉役に目付石川忠房と西丸目付村上義礼(よしあや)を派遣し、両名は1793(寛政5)年3月2日、松前に到着した。ラクスマンとの交渉は3回行なわれたが、両名は指図通り第一回目の会談で、ラクスマンに「異国人に被諭(さとさる)御国法書」を渡した。その「御国法書」では、寛政3(1791)年の異国船取扱令などを踏まえ、次のように述べられている。

 

兼(か)ねて通信なき(*外交関係のない)異国の船、日本の地に来る時は、或いは召し捕らえ、又は海上にて打ち払う事、いにしえより国法にして、今もその掟にたがう(違う)ことなし、たとえわが国より漂流したる人を送り来るというとも、長崎の外(ほか)の湊にしては上陸のことをゆる(許)さず、また異国の船漂流し来るは、兼ねて通信ある国のものにても、長崎の湊より、紅毛船をしてその本国におくりかえさしむ。されどもわが国法にさまたげあるは、猶(なお)とどめてかえ(帰)さず、また国初より通信なき国よりして漂流し来るは、船を打ちくだき、人を永くとどめてかえ(帰)さず、(中略)

長崎湊に来るとも、一船一紙の信牌(しんぱい)なくしては通ることかた(難)かるべし、また通信通商の事、定め置きたる外、猥(みだ)りにゆるしがたき事なれども、猶も望むことあらば、長崎にいたりて、其の所の沙汰にまかすべし、(藤田覚著『松平定信』 P.186

 

 「国法書」は、引用部分の前半で、古来よりの「国法」と称して(いわゆる「鎖国祖法観」と言われるもの)、通信のない国に対する厳格な態度を表わすとともに、後半の下線部で含みのある所を見せて、大国ロシアを不必要に刺激しないようにしている。

ラクスマンはネモロ(根室)から松前に廻航し、漂流民を引き渡し、目付石川忠房は漂流民護送を謝し、長崎入港の信牌(しんぱい *信任のしるし)を与える。ラクスマンは、このときには、長崎に廻航しないで1793(寛政5)年6月に帰国した。

ロシアは、その後12年たった1804(文化元)年9月、遣日全権大使レザノフを長崎に遣わし、ラクスマン派遣時の約束に従がって信牌をもって通商を求めた。今回も陸奥の津太夫ら漂流民を伴なっていた。

1805(文化2)年3月、幕府はレザノフに回答(「教諭書」)し、「(ロシアが)望み乞う所の通信商のことは重大なことであり、ここで議論すべからざるもの也」と、交渉を拒否することを宣言する。しかも、そこには、1793(寛政5)年にラクスマンに渡された「御国法書」では明記されていなかった通信通商のある国名を、「唐山(*中国)、朝鮮、琉球、紅毛(*オランダ)の往来することは、互市(ごし *外国との取引)の利を必とするにあらず、来ることの久しき素(もと)よりその謂(いわ)れあるをもってなり」と、明記している。そして、「わが国歴世(れきせい *歴代)封疆(ふうきょう *国境)を守るの常法なり、いかでかその国一介(いっかい *わずか)の故をもって、朝廷(*ここは幕府を指す)歴世の法を変ずべけんや」と、ロシアの通商要求を拒否した。(『通航一覧』魯西亜国部十)

半年あまり軟禁同様の状態で、忍耐強く幕府の回答をまったレザノフは、意外にも拒否の回答にあって失望と憤懣の気持ちを胸にして、3月20日に長崎を去った。

このように、「ラクスマンへの回答、ついで蝦夷地の措置、さらにレザノフへの回答をとおして、鎖国祖法観は成立し定着していった。その起点となったのは、まさに定信のいう『国法』であった。/だがそのような『国法』は存在したのだろうか。いわゆる寛永鎖国令は、日本人の海外渡航の禁止のほか、ポルトガル船の来航を禁じているだけである。特定の国の排除であり、関係を持つ国の特定ではなかった。朝尾直弘氏『日本の歴史17 鎖国』(小学館)がいうように、この措置により日本が鎖国したとは、それらの法を出した当の幕府老中たちすら考えなかったであろう。だが、それは以来約百五十年ほどのあいだ、中国、朝鮮、琉球、オランダとの関係だけが続いた、というのが歴史の現実である。」(藤田覚著『松平定信 P.188189』)といわれるのである。(「寛永鎖国令」の実際については、《補論 「寛永鎖国令」の実際と「鎖国」イメージの歪み》を参照)

定信が先鞭をつけた「鎖国祖法観」は、幕末の攘夷的な「鎖国観」を形成する基礎の一つとなる。定信の「鎖国祖法観」は、彼の「大政委任論」(『プロレタリア』紙2016年

4月1日号の拙稿『幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源』を参照)とともに、後世、幕府が自縄自縛する重大なイデオロギーとなるのである。

 すなわち、家康・家光の海禁政策やキリスト教禁止を不変の原則である「祖宗の制度」に祭り上げ、対外関係を朝鮮・琉球(「通信のある国」)、オランダ・中国(「通商のある国」)に限定する―柔軟性の欠如した硬直した外交に自ら追いやったのである。

 

《補論 「寛永鎖国令」の実際と「鎖国」イメージの歪み》

 旧来、江戸時代の対外関係を鎖国とみてきた見地に対する批判的見解が、ここ数十年、次々と発表されている。今や、専門歴史学者で鎖国と頑強に主張する人はほとんどいないようである。いわゆる「寛永鎖国令」(1633~1639年)の中身を検討するまえに、そこに至る主な経過をみてみる。

〈主な経過〉

 徳川家康は、関ヶ原の戦いで勝利した1600(慶長5)年に、キリスト教の日本布教について、イエズス会のみならずすべての修道会に開放した。また、この年には、オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、プロテスタント国のオランダ・イギリスが日本に進出する。

 家康は、W・アダムズなどから世界情勢を吸収し新しい知識を得て、秀吉の朝鮮侵略とは異なり「和親通交」の方針をもって、ヨーロッパと東アジア諸国に対した。そして、朱印船制度によって、東南アジア地域との相互交通を推進した。

 岩生成一氏によると、「はじめ幕府が朱印制度を確立すると、多少とも資本をもち、幕府の重臣や特別の近臣と縁故を有するものは、いずれもその縁故をたどり、紹介・斡旋(あっせん)のもとに朱印状の下付をうけて商船を海外に派遣した。そこでその初期、慶長年代にあらたに朱印状をうけて船を派遣したものは、大名・幕吏・武人から在留外人にいたるまで七十五名の多きにのぼり、その派船の延数(のべすう)だけでも百六十九隻に達した。そのうち大名は島津・松浦(まつら)・加藤・亀井など十氏で、中国筋の亀井のほかはいずれも西国大名であった。」(同著『鎖国』中央公論社 1966年 P.303)といわれる。

 幕府は、ポルトガルの長崎貿易に対しては、京都・堺・長崎(後には江戸・大坂も)の商人を主体とする糸割符制度で生糸貿易の統制をはかった。イスパニアに対しては、江戸近辺への来航を促し、通商を求めた。オランダ・イギリスに対しては、軍需品貿易を通じ、関係を深めた。

 しかし、家康はキリスト教に対する「邪教」観を一貫して保持しており、1612(慶長17)年、ついに直轄都市における教会破却(はきゃく)、宣教師の追放、布教禁止を令し、信仰それ自体の禁制に踏み切った。

 同年3月には、本多正純の家臣・岡本大八(キリシタン)を火刑に処する。肥前日野江城主・有馬晴信(キリシタン)と大八が、貿易上のトラブルを起こし、処分されたのである。晴信も甲斐国都留郡に流され、5月に切腹させられた。

 莫大な利益をもたらす貿易のためには、多少のキリスト教布教もやむを得ないという態度を家康がすてたのは、1612年8月である。貿易は歓迎するが、キリスト教禁止を明確にし、貿易と宗教を分離したのである(この禁令の公布対象が幕府直轄領か、関東地域か、それとも全国か―諸説がある)。豊臣政権はキリスト教の布教を規制したが、信仰そのものは禁止しなかった。だが、徳川政権は、信仰そのものを禁止するにいたったのである。(秀吉の「伴天連追放令」については、拙稿『朝鮮侵略の歴史に学ぶ』P.114118を参照)

 翌1613(慶長18)年12月になると、家康の側近である崇伝(すうでん)が起草する排切支丹文が出され、将軍秀忠によって全国に布告された。そこには、伴天連追放の理由を、「夫(それ)日本は元(もと)是(これ)神国なり、……爰(ここに)吉利支丹(キリシタン)の徒党適(たまたま)日本に来たり、啻(ただに *そればかりでなく)商船を渡して資財を通(かよ)わせるに非(あら)ず、叨(みだりに)邪法を弘(ひろ)め正宗を惑わし、以て域中の政(まつりごと)を改める〔こと〕を欲す。是(これ)大過の萌(きざ)しなり。制せざるべからずや。」(『徳川禁令考』前集第五 P.80)と断定している。

 1614(慶長19)年1月に、各地の宣教師や高山右近・内藤如安など有力信徒148名が長崎に集められ、秋にはマカオやマニラに追放された。

 同年10月には「大坂冬の陣」が起こるが、その直前の9月、家康は西国大名に大船召上げ令を下す。これは、表面的には、軍事目的であるが、しかし、遠洋航海に耐えうる大船の保有を禁止されたことにより、必然的に朱印船派遣も不可能になったのである。

 二代将軍・秀忠の代になると、キリシタン禁制を百姓レベルまで徹底するようにし、禁教のために貿易制限も行なわれるようになる。1616(元和2)年8月8日、秀忠は5人の老中に命じ、キリシタン禁令に加えて、次のようなヨーロッパ商人の貿易地制限令を発布させた。

 

きつく申し渡すが、伴天連や信徒の儀はこれまでかたく御停止(ごちょうじ)の旨、先年より仰せだされておるが、今後はいよいよその旨を帯(おぶ)して、下々(しもじも)百姓にいたるまで、かの宗門がなくなるように念を入れて禁圧せよ。さて黒船(*ポルトガル船を指す)やイギリス船の儀も右とおなじ宗門であるから、御領内にてけっして商売しないようにいたせ。この旨は上意(じょうい)によって定められたものである。以上

 

 幕府は、唐船以外の外国船は長崎と平戸の2港に限って寄港を認めることとし、「領内で(外国船と)商売をしないように」と、命じている。だが、唐船の場合は、禁令にかかわりなく、どこに着岸しても船主の望みしだいに売買いたしてよい旨が出された。

 1619(元和5)年8月、京都七条河原で、一般のキリスト教信徒ばかり52名が火刑に処せられる。同年12月には、かつて長崎代官を勤めた村山当安が、三男・秋安とともに江戸で斬首される。

 1620(元和6)年8月、オランダ船3艘とイギリス船2艘からなる船隊が、堺の平山常陳の船を連行してきた。しかし、この船は将軍の朱印状をもった朱印船であった。

 当時、オランダ・イギリスの船隊は、ジャワ島を根拠地にして、東南アジアの海上を乗廻しスペイン・ポルトガルの船を襲撃し、次第に制海権を手に入れようとしていた。その活動の中で、平山常陳の船が朱印船にもかかわらず、ヨーロッパ人数名が乗船しており、内2名(後に、ドミニコ会とアウグスチン会の宣教師とわかる)が日本への渡航を禁じられていた聖職者であることがわかったのである。オランダ・イギリスは共同して、幕府に上申書をあげ、①自分たちがスペイン国王の日本侵略の野望を阻止するために戦っていること、②宣教師の来航を止めようとするなら、ルソンやマカオへの渡航朱印状を与えないようにするほかはない―と警告した。スペイン・ポルトガルの侵略と布教の一体性を訴えたのである。その狙いは、日本と東南アジアとの中継貿易を自らが担うことを幕府に認めさせるためである。2年後、2人の宣教師と平山常陳(教名はジョーチン)は長崎に送られ火刑に処せられ、他の乗組員12名も斬首となった。

 1622(元和8)年8月、いわゆる「元和大殉教」が行なわれる。長崎西坂の丘に二列の穴が掘られ、真ん中に25本の磔(はりつけ)柱が建てられた。柱には、ドミニコ会の宣教師(スペイン人5人と日本人1人)と日本人伝道師3人、フランシスコ会宣教師(スペイン人2人と日本人2人)、イエズス会の宣教師(イタリア人1人と日本人7人)、そしてこれら宣教師に宿を貸した日本人3人と朝鮮人1人―計25人がかけられ、生きながらにして火に焼かれたのである。穴の前では、信徒やその妻子たち30名が首を斬られた。その中には、中国人と朝鮮人1名ずつ、朝鮮人信徒の妻が1人、7歳以下の子ども6人が含まれていた。世に言う元和の「大殉教」である。

 1623(元和9)年には、ポルトガル船の来航は認めるが、ポルトガル人の日本在住・日本人のマニラ渡航・日本船のポルトガル人航海士の雇傭を禁止し、日本人とカソリックを信仰する国の者との接触を大きく制限した。明らかに前年の「大殉教」の関連がみられる。(スペインは、東南アジアの中継貿易の拠点をマニラにしてルソン総督を置いた。スペインは1580年にポルトガルを併合し、1640年まで継続した。)

 1623(元和9)年7月、秀忠は将軍職を家光に譲るが、その3か月後の10月、幕府は、宣教師アンジェリスや元幕臣原主水(もんど)ら50名のキリシタンを江戸芝で処刑する。この頃から、幕府・諸藩で改宗を拒むキリシタンをしばしば処刑するようになる。

 1623年11月、イギリスが平戸の商館を閉鎖する。イギリスは東南アジアでのオランダとの競争に敗れ、莫大な売掛金を残したまま、日本から撤退していったのである。イギリスの同館が開かれたのが1613(慶長18)年8月なので、日本での貿易活動はわずか10年間のことであった。

 この時期、幕府はヨーロッパとの貿易制限をさらに強化したようである。平戸のオランダ商館長ナイエンローデの報告によると、以下の通りである。

 

一、ポルトガル人は旧住者も新米者も、日本の新年までに日本王国から立ち去るべき一般

 的追放令と、さらにこれにつけくわえて、かれらの妻と娘とは居残れるが、その息子は

 父親にともなわるべき由で、このような皇帝(*将軍のこと)の無慈悲な法令によって、

 悲惨にも夫婦と親子とはたがいに別れ別れに住まねばならなくなった。

一、日本人はマニラに渡航してはいけない。なおキリスト教徒である日本人もシナ人もす

 べて登録されて、死刑の厳罰をもってその出国を禁止された。

一、日本船はけっしてポルトガル人航海士をやとってはならない。

一、ポルトガル人の日本に再来することは禁じないが、これまで宿泊した家に泊まること

 を禁ずる。ただしキリスト教徒でない日本市民の家に泊まって取引きすることのみを許

 す。(岩生前掲書 P.314。同氏によると、この法令は日本には残っていないが、ヨーロッパ人の記録ではしばしば記されているとのこと)

 

 1624(寛永元)年3月、マニラからルソン総督の使節デ=アラヤが来日し、通交と貿易回復を要求したのに対し、幕府は復交を拒否し、スペインと断行する。

 1626(寛永3)年、この年、末次平蔵(朱印船経営者で長崎代官でもある)・平野藤次郎(朱印船経営者)の朱印船が、生糸貿易をめぐり、オランダとの間で台湾で紛争となる。

 1628(寛永5)年4月、シャム(現、タイ)のアユタヤ港外で朱印船がスペイン艦隊に捕われ、朱印状を奪われたうえに焼沈させられた。権威を傷つけられた幕府は、マカオから来たポルトガル船を長崎に抑留し、1630(寛永7)年までマカオ~長崎間の貿易が途絶した。朱印船貿易で最も親密な関係を持っていたシャム(タイ)では、この頃ソンタム王の死後の王位継承をめぐって紛争が続き、1630(寛永7)年、日本人町は焼き払われ、朱印船交易も後退していった。ベトナムでも、この頃、南北間の対立と争乱がおき、朱印船が双方に武器を輸出したため、幕府に対して抗議が来ている。

 このような混乱の中で、オランダ東インド会社は着々と勢力を拡大する(1624〔寛永元〕年に台湾に基地を築く)。しかし、台湾は朱印船の渡航地であり、かつ対中国貿易の中継地でもあった。このため、オランダが台湾で取引する朱印船に課税しようとしたのに対し、日本側は既得権を主張してこれを認めず、激しい対立となる。1628(寛永5)年7月、末次平蔵の船長浜田弥兵衛が台湾でオランダと紛争となる。この結果、1628~1632(寛永9)年までの間、幕府とオランダとの間の貿易が断絶した。

 1626~1629(寛永3~6)年には、長崎奉行は水野守信が勤めた。この頃には、キリスト教弾圧は直接市民に及んだ。それまでは潜入する宣教師を摘発することが主であったが、弾圧がさらに強化され、長崎市民にまで及んだのである。「『ころび』(転宗)が強制され、転ばない者には徹底した弾圧が加えられた。有名な雲仙岳での責め苦は、島原城主松倉重政の発案と協力で、この時に実施された。一方転んだ者には『切支丹仏』(踏み絵)を足で踏ませ、転び帳に判をつかせて許した。奉行が竹中重義(一六三〇~三三年)になると弾圧はいっそう徹底し、それ以後転んだ者には一日二回の墓参と、往来の途中に旦那寺で説教を聞くことが義務づけられた。こうして、『殉教』した者を除いて長崎の人口のほとんどが転宗し、キリスト教界の最大の拠点は壊滅した」(荒野泰典著「海禁・華夷秩序体制の形成」―日本の対外関係5『地球的世界の成立』吉川弘文館 2013年 に所収P.136137)のである。(ちなみに1626年に長崎のキリシタン人口は約4万人。市民のほとんどがキリシタンだったといわれる)

 1630(寛永7)年には、キリシタン弾圧に最も熱心な島原城主・松倉重政が、キリシタンの根拠地であるルソンを攻略する計画をたて、幕府もまたこれを許可した。しかし、その年の暮れに重政が死んだため、実行されなかった。幕府もまた、1637(寛永14)年に、自らルソン遠征を企てたようであるが、その年、島原の乱が勃発したため中止となった。

 1631(寛永8)年、奉書船制度が始まり、糸割符制度(詳しくは後述)が拡大する。家康は西国の大名や商人など南方へ貿易船を送る者に対して、渡航許可の朱印状を与えたが、この朱印状を持つ船が朱印船である。奉書船制度とは、これ以前朱印船を派遣した者が、重ねて渡航しようとする場合、そのつど老中の奉書(将軍の命を奉じて老中が発した文書)を長崎奉行あてに出す制度である。

 朝尾直弘著『日本の歴史17 鎖国』によると、「寛永鎖国令」は、①1633(寛永10)年2月28日―17か条、②1634(寛永11)年5月28日―17か条、③1635(寛永12)年5月28日―17か条、④1636(寛永13)年5月19日―19か条、⑤1639(寛永16)年7月5日―3か条の――諸法令からなるという。

 そして、朝尾氏は5つの令の特質を次のようにまとめている。すなわち、「寛永一〇年(一六三三)二月、新任の長崎奉行今村・曾我の両人は、四人の老中から一七か条の指示を受けとった。いわゆる寛永鎖国令のはじまりである。/以後、寛永一六年まで五回にわたって、しだいにきびしく定められていった。/最後のは総仕上げにあたるもので、三か条とはいえ、じつは一か条といってよいのであるが、前の四つは共通した性格をもち、一〇年と一一年は同文である。内容はいずれも大別して三つの部分からなっている。すなわち、(1)日本人海外往来の禁止、(2)キリシタン、ことに伴天連(ばてれん *キリスト教について、の宣教師のこと)の取締り、(3)外国船貿易に関する規定である。」(同著 P.224)と。

 従来、「寛永鎖国令」と称された5つの令の内、寛永10~13年の4つの令は、共通した内容をもつが、それを具体的にみるために、寛永十年令(年寄連署下知状)をみると。以下のような内容となっている。

     覚

一(第一条)、異国江(え)奉書船の外(ほか)、舟〔を〕遣わし候儀、堅く停止の事、

一(第二条)、奉書船の外ニ、日本人〔を〕異国遣わし間敷(まじく)候、若(も)し忍び

 (*秘密に)候而(て)乗りまいり(参り)候もの之(これ)有るに於いてハ、其(そ

 の)ものハ死罪、其船幷(ならびに)船主ともに留置し、言上(届け出)仕(つかまつる)

 べきの事、

一(第三条)、異国渡り住宅これ在るの日本人来たり(*帰って来る)候ハハ(はば)、死

 罪申し付けるべく候、但し、是非に及ばず仕合(しあわせ *巡り合せ)に非ざるこれ

 有り[*是非ない事情があって]、異国逗留(とうりゅう)し、五年より内罷(まか)

 り帰り候ものハ穿鑿(せんさく *根掘り葉掘り知ろうとすること)を遂げ、〔そのまま〕

 日本とまり申すべきつきては、御免[*留まる者は許す]、併(しかし)異国又(ま

 た)立ち帰るべくおゐては、死罪申し付けるべく候の事、

一(第四条)、伴天連(バテレン)の宗旨これ有る所ハ、従がって両人(*両奉行)申し

 遣わす(*取調べいたす)べきの事、

一(第五条)、伴天連訴人(*密告者)〔へ〕ほうひ(褒美)の事、 

        上の訴人(*上級クラスを訴えた者)には銀百枚、それより下ハ、其(そ

        の)忠にしたかひ(従がい)相計る[*その等級に応じて適当にはから

        う]べきの事、

一(第六条)、異国船申し分(*言い分)これ有り而(て)、江戸言上の間、番船の事、前々

 の如く大村方(*大村藩)へ申し越す(*申し付け)べきの事、

一(第七条)、伴天連宗旨弘(ひろ)め候(そうろう)南蛮人、その外(ほか)悪名のもの

 (者)これ有る時ハ、前々の如く大村方の籠(*牢)入れ置くべきの事、

一(第八条)、伴天連の儀、船中の改(あらため)迄(まで)、入念に申し付くべき事、

一(第九条)、諸品(*諸商品)一所(*一カ所)買い取り申す(*買い占めること)儀、

 停止の事、

一(第十条)、奉公人長崎に於いて異国船の荷物、唐人前より直に買い取り候儀、停止の

 事、

一(第十一条)、異国船〔の〕荷物の書立(*目録)、江戸注進候而(て)返事無きの以前に

 も、前々の如く商売申し付く[*さし許す]べき事、

一(第十二条)、異国船つみ(積み)来たり候(そうろう)白糸、直段(値段)を立て候

 而(て)、残らず五ケ所(*京都・大坂・堺・長崎・江戸の商人)へ割符仕(つかまつる)

 べきの事、

一(第十三条)、糸の外(ほか)〔の〕諸色(*諸商品)の儀、糸の直段(ねだん)極め(決

 定)候而(て)のうえ、相対(あいたい *当事者の差し向かい)次第(しだい)商売仕

 べきの事、

附、荷物(*商品)代銀(だいきん)直段立て候(*決まった)而(て)の上、廿(二 

十)切(*限り)に為すべき[*20日間かぎりで取引きすべき]の事、

一(第十四条)、異国船もとり(戻り *帰帆)候事、九月廿日切たるへき事、

但し、遅く来たり候船ハ、着き候而(て)五十日切たるへき事、

一(第十五条)、異国船〔の〕売残しの荷物(*商品)、預り置き候儀も又(また)預り候

 事も[*預けることも預かることも]、停止の事、

一(第十六条)、五ケ所の商人〔の〕長崎来着候儀、七月廿日切たるへし、それより遅く

 参り候(そうろう)者ハ、割符をはつし(はずし)申すべき事、

一(第十七条)、薩摩・平戸、其外(そのほか)いつれ(いずれ)の浦に着き候船も、〔売

 買は〕長崎の糸の直段の如くたるへし、長崎にて直段が立ち候ハぬ以前、商売停止の事、

 右條々、この旨(むね)守らるべきもの也。仍(よ)って執達如件(くだんのごとし)、

   寛永十年酉二月廿八日             伊賀(*内藤忠重)

                          信濃(*永井尚政)

                          讃岐(*酒井忠勝)

                          大炊(*土井利勝)

 曾我又左衛門殿

 今村伝四郎殿    (『徳川禁令考』前集第六 P.375376

 

 全17か条のうち、第1~3条では、日本人の海外渡航と海外からの帰国禁止、第4~8条では、キリスト教の取締り、第9~16条では、長崎での貿易における禁止事項や注意事項―を規定している。

 これを寛永12年令(やはり17か条)と比較すると、次のようになる。

 まず第一は、第一条・第二条にある「奉書船」が無くなることである。今までは許されていた「奉書船」貿易も禁止となったのである。

 第二に、第三条の「但し」以下が削除されていることである。

 第三に、第十条の「奉公人」が「武士の面々」に置き換えられていることである。大名や幕吏など武士の外国交易を禁止し、「兵商分離」政策をとったのである。

 第四に、第十三条で、本文に続いて(「附」の前)、「但し、唐船は小船の事ニ候間、見計(みはからい)申し付くべき事、」が付け加えられたことである。

 唐船は頃を見計らって、カレウタ船(*ポルトガルの小型商船)よりは少しのちに出帆するよう申しつけているのである。

 第五に、第十七条は、「平戸え着(つき)候(そうろう)船も長崎の糸の直段(ねだん)の如くたるべく」とあり、寛永10年令にはあった「薩摩」が削除されたことである。

前年の同種文書と比較すると、中国船の薩摩での貿易が無くなり、長崎と平戸に集中させられたのであった。

 寛永13年令は、寛永12年令の17か条に、次の3か条を付加・増加して19か条から成り立つものである。

一、伴天連の訴人は、其(その)品(*クラス)寄り、或(あるい)ハ三百枚、或ハ貮百

 (二百)枚たるへし、其外(そのほか)ハ此(これ)以前の如く相計らい申すべき事、

一、南蛮人子孫残らず置き、堅く申し付くべき事、若し令に違背し、残置の族これ有るニ 

 おゐてハ、其(その)者ハ死罪、一類の者ハ科(とが)の軽重より申し付くべき事、

一、南蛮人長崎ニ而(て)持ち候(そうろう)子幷(ならびに)右の子供の内(うち)養子ニ仕 

 (つかまつる)族の父母等、悉(ことごと)く死罪を為(な)すと雖(いえど)も、身

 命を助南蛮人遣わされ候間、自然彼(かの)者共(ものども)の内、重(かさねて)

 日本江来る歟(か)、又(また)は文通これ有るおゐてハ、本人は勿論(もちろん)死罪、

 親類以下迄(まで)科の軽重に随って申し付くべき事、

 

 キリスト教禁圧はさらに厳しくなり、南蛮人の子孫・養子にとった者などに対して死罪などの処分を下すとしている。

 次に島原・天草一揆を鎮圧した後の寛永16年令は、四つの文書、すなわち①ポルトガル船への申し渡すべき条々、②諸大名へ領分沿岸警備を命じた覚(おぼえ)、③中国船に伝える覚、④オランダ船に伝える覚(『御触書寛保集成』P.628630)―を指す。

 これらは、太田備中守に「御用の覚書」として下された。

       (一)

      條々

一、日本国が成された御制禁のきりしたん宗門の儀、其(その)趣(おもむき)存じなが

 ら、彼の法を弘(ひろ)むるの者(もの)今より密々に差し渡すの事、

一、宗門の族(ぞく)徒党を結び、邪義(じゃぎ)を企(くわだ)つ則ち御誅罰の事、

一、伴天連同宗旨の者かくれ(隠れ)居る所、彼の国よりつつけの物送りあたふる(与ふ

 る)事、

右、玆(これ)より、自今(じこん)以後(いご)、かれかた(*ガレウタ船)渡海の儀これを停止され畢(おわんぬ)、此(この)上(うえ)若(も)し差し渡しにをひて(於いて)ハ、其船を破却し、幷(ならびに)乗り来る者悉く斬罪に処すべきの旨(むね)仰せ出ださる所、仍って執達(しったつ *上の意を下に伝達する)件(くだん *前の箇条書を指す)の如し、

寛永十六年七月五日              対馬守 在判

                       豊後守 在判

                       伊豆守 在判

                       加賀守 在判

                       讃岐守 在判

                       大炊頭 在判

                       掃部頭 在判

右、かれかた(*ポルトガル船)御仕置きの奉書

       (二)

      條々

一、きりしたんの宗門御制禁を為すと雖(いえど)も、今以て彼の国より密々伴天連を差

 し渡しニ付(つい)て、今度かれかた船着岸の儀(ぎ)御停止の事、

二、      領内浦々ニ常々慥(たし)か成る者を付け置き、不審これ有るの船来るにをひて(於

 いて)ハ、入念にこれを相改め、自然異国船着岸の時は、先年より御定めの如く、早船

 中の人数を改め、陸地え上(のぼ)らせずして、早速(さっそく)長崎え送り遣わすべ

 きの事、

一、自然不審なる者(もの)船にの(乗せ)来たり、又(また)ハ密々其船中の者を陸へ

 上(あがらせる)の輩(やから)あらハ、これを申し出だすべし、訴人の高下(こうげ

*身分の高い者低い者)に随って、急度(きっと)御褒美これを下さらるべし、若し

 以て属詫(*罪を悔いることを委託すること)たのミ(頼み)候にをひてハ、其約束の

 一倍下さるべき事、

右條々、仰せ出ださる所なり、仍って執達件の如し、

寛永十六年七月五日             対馬守 在判

                      豊後守 在判

                      伊豆守 在判

右、諸大名え仰せ出だされ浦々御仕置きの奉書

          (三)

          覚 

きりしたん宗門の儀かたく御制禁の上、彌(いよいよ)其(その)旨(むね)守り、伴天連宗旨の者乗せ来るべからず、若し違背(いはい)致し候は、其船中悉く曲事(くせごと *違法)を為すべし、自然かくしのせ(隠し乗せ)来るにをひて(於いて)ハ、同船の者たりといふとも、これを申上げるべし、急度御褒美下さるべきのもの也、

 是(これ)ハ唐舟ニ乗り来たる族え相伝える覚書

          (四)

          覚

きりしたん宗門の儀堅く御制禁の上、彼の法を弘むる者(もの)乗り来るべからず、若し違背致し候は、其船中悉く曲事を為すべし、自然かくし(かくし)載せ来るにをひては、同船の者たりといふとも、これを申し上げるべし、急度御褒美下さるべきのもの也、

 是(これ)ハ阿蘭陀人(オランダ人)え相伝えの覚書

右四通、備中守持参の覚書の写し也、

 

〈日本人の海外往来禁止―日本型の海禁政策〉

 1633(寛永10)年2月に、老中から長崎奉行に下知状が下されるが、それによると、奉書船以外は海外渡航禁止、密出国者は死刑、海外在住日本人の帰国禁止(ただし、やむを得ない事情で外国に留まり、5年以内に帰った者は、今後日本に在住するならば処刑免除)となった。

 それには、次のような経緯(いきさつ)がある。キリスト教禁令の強化が進むとともに、宣教師の日本潜入が困難となる。「このためイエズス会士は、ポルトガルのガレオット船によるマカオ・長崎ルートに変えて、朱印船を利用するために、ベトナムやタイ・カンボジアに渡り、変装して日本町や日本人集落にもぐりこみ、商人や船乗りとして日本潜入を企てた。こうして朱印船そのもが、宣教師の日本潜入ルートとなり、幕府は、東南アジア全体をキリスト教に冒された地域、そして朱印船を宣教師潜入のルートと見なしはじめる。さらに、スペインとの断交によって、例えば、シャム(タイ)のアユタヤで長崎頭人(後の町年寄)高木作衛門の朱印船がスペイン艦隊に撃沈される(一六二八年)など、この海域は将軍の権威が犯される危険水域となった。それに対応して幕府は、朱印状に替えて老中の奉書によってこの海域に出航させることになる(奉書船制度、一六三一~三五年)。」(荒野泰典著「海禁・華夷秩序体制の形成」 P.135)のであった。

 ところが、1635(寛永12)年5月の令では、奉書船もまた廃止し、一切の日本船の海外渡航を禁じ、また海外在住日本人の帰国についても、かつての例外規定を削り、もし帰国した場合はすべて死刑とした。幕府は、キリスト教の浸透を怖れるあまり、強力な海禁政策をとり、極めて退嬰的な華夷秩序体制の形成に走ったのである。

 

〈キリシタンの取締り〉

 この面では、1633(寛永10)年から1635(寛永12)年の間で、ほとんど変わっておらず、それ以前から実行してきたものをまとめて成文化したものとなっている。それは、次の5点である。

(1)伴天連の宗旨がある場所は、長崎奉行両人が取調べよ。

(2)伴天連の密告者に褒美(ほうび)を与える。階級の上の者を訴えた場合銀100枚、

  以下、等級によって額を決める。

(3)異国船が入港し、取扱いなどに関して江戸へ指示を仰いだ場合、その間の警備の番

  船は、前からのように大村藩に申し付ける。

(4)伴天連の宗旨を弘(ひろ)める南蛮人(*ポルトガル人)や、そのほか名のある者

  を見つけたら、前からのように大村の牢屋に入れること。

(5)伴天連に関しては、船中の改めを念を入れて行え。(朝尾直弘著『日本歴史17 鎖 

   国』P.226

 密告者への褒賞銀は、1636(寛永13)年の令では引き上げられ、ケースによって300枚・200枚のランクをつけるようになっている。

 キリシタンへの取締りは、1637~1638(寛永14~15)年の島原・天草一揆鎮圧後の、寛永16年令になると、①日本国でキリシタン宗門が禁制されていることを知りながら、布教のため密航する者がある。②キリシタン宗門の者が徒党をくみ、邪儀をくわだてたので誅罰した(*島原・天草一揆のこと)。③伴天連およびその宗旨の者が隠れているところへ、本国から送り物を届けることがある―の3点をあげ(『御触書寛保集成』P.628629)、この理由でポルトガルの船「ガレウタ(かれかた)」(商船にも軍船にもなる)の来航を禁止した。

 同日、幕府は全国の諸大名(領内に浦々をもつ)に命令し、領内の港に番所を置き、外国船着岸の際には検査に当らせ、乗船者を上陸させず、早速長崎に送るように命じた。また、外国船からの上陸者を密告した者への褒賞金を2倍に引き上げている。(『御触書寛保集成』P.629

 幕府が海禁政策を強め、貿易統制を強めた主な原因は、キリスト教の取締りにあった。それは、信長や秀吉が一向一揆に手こずり、秀吉などはキリスト教の浸透の脅威を一向宗のそれになぞらえた。この点では、家康も似ている。だがさらに深堀りすると、キリスト教に対する徳川政権の執拗な弾圧は、「武威の国」を強調する反面、独自の支配イデオロギー確立に失敗したことと相即することである。(徳川政権が天皇制とは別の支配イデオロギーを確立しようとしたことは、『プロレタリア』紙2016年4月1日号の拙稿『幕藩体制と天皇制ナショナリズムの起源』を参照)

 

〈貿易制限・統制と「兵商分離」〉

 寛永10年令の17か条のうち、貿易に関する条項は、前述したように第十条~第十七条である。

 これらをみると、長崎における白糸の取引(値段)がすべての外国船貿易の基準となっていることが、明確に示されている。

 糸割符制度は、「輸入生糸をパンカダ(*一括購入の価格)によって特定の国内商人――当初、京都・堺・長崎の三ケ所、のち江戸・大坂を加えて五ケ所の商人――に独占的に購入させ、国内市場への転売によって生じる差額利益を、一定の比率でかれらに配分したもの」(朝尾直弘著『日本の歴史17 鎖国』P.238)と言われる。

 ポルトガル人やスペイン人は当時、東アジアにおける貿易に際して、舶載した商品を相手側の代表にまとめて買い取らせる方式を慣習としていた。その際の一括購入の価格をパンカダといい、ついでその取引方法をも示すようになった。マニラやマカオでは、市民や商人の代表がパンカダの当事者であったが、日本においてはこれと異なり、統一政権を率いる権力者(徳川政権では将軍)が「代表」となっていた。たとえ商人が「代表」に加わっていたとしても、それは商人連合の代表ではなく、あくまでも将軍の命令に従って商行為に携わっているだけなのである。つまり、将軍の「恩寵」によって行なわれたもので、一種の「朝貢」貿易なのである。

 日本・オランダ貿易の中断(1628~1632〔寛永5~9〕年)後、貿易は再開されたが、日本型華夷秩序のもとで、オランダの位置づけは大きく変わった。「貿易再開後は、オランダ東インド会社の台湾占拠が容認(日本人の台湾渡航が禁止)される一方で、日本におけるオランダの位置づけが『通信』から『通商』(中国における互市に同じ)へと大きく変化した……。オランダとの関係もこの時までは国家主権者同士の『通信』関係にもとづいて展開された。しかし貿易再開後は、オランダ人は『商人』同然とされ、『歴代の御被官』(家康以来の忠実な僕〔しもべ〕)として徳川将軍に『奉公』する見返りに貿易を許されるという関係に置き換えられた。それ以前には各種の交渉のための機会だった商館長の江戸参府も、その恩恵を将軍に感謝するための場ととらえなおされ、交渉は歎願の形でしか許されず、参府にあたっては将軍とその家族から幕閣にいたるまで多くの贈り物が必要だった。」(荒野泰典著「海禁・華夷秩序体制の形成」 P.132133)のである。

 オランダが「通信」から「通商」の関係に落とされたことは、明確である。オランダ商館長の江戸参府は、往復ともに旅費は自弁である。しかし、「通信」関係にある朝鮮通信使の場合、諸経費はすべて日本側の負担なのである。

 島原・天草一揆(1637~1638〔寛永14~15〕年)を鎮圧した後の、1641(寛永18)年、幕府は、オランダ商館を平戸から長崎出島に移すとともに、オランダ人が島外に出歩くこと、日本人を使用人に雇うこと、キリスト教の儀式をおこなうことなどを禁止した(辻達也著 日本の歴史13『江戸開府』中公文庫 1974年 P.415)。  

 長崎出島は、もともとはポルトガル人を収容するためにつくられたものであった。幕府は、1634(寛永11)年、長崎町の内から富裕な者25名を選んで、出島を造らせた。完成すると1636(寛政13)年、市内のあちこちに居住していたポルトガル人を集め、ここに住まわせた。25名は、ポルトガル人から宿賃をとって貿易取引を行なった。

 しかし、ポルトガル船の来航が禁止されると、オランダ人が出島に閉じ込められることとなったのである。出島に通ずる唯一の橋のたもとには高札がかけられ、次のような禁制が記された。

 

一、傾城(けいせい *遊女のこと)のほか女のはいること。

一、高野聖(*寄付を募るため、高野山から各地に出る僧)のほか出家、山伏のはいるこ

と。

一、諸勧進(*寺社・仏像建立のために寄付を募ること)の者、乞食のはいること。

一、橋の下を船で通ること。

一、許可なくオランダ人が島から出ること。

二、 

 東南アジアや中国との交易が統制された長崎貿易の特質は、対外関係の面にとどまらない。その一つは、シナ海貿易から武士を排除する兵商分離政策が進展したことである。

 朱印船には、当初、西国大名がかなり参加していたが、1612(慶長17)年以降、ほとんど姿を消したと言われる。それでも、「慶長一七年以降に三人の大名が朱印船を派遣したことになっている。厳密にいえば、幕府の朱印状ではなく、長崎奉行竹中采女正(うねめのしょう)重次(重義)の渡航許可状である。大名は松浦隆信・松倉重政と竹中本人で、寛永七~九(一六三〇~三二)に集中している。」(朝尾直弘著『鎖国』P.216)と言われる。

 しかし、1631(寛永8)年のはじめ、長崎の町人から江戸に対して、竹中の不正を告発する訴状が上げられ、1633(寛永10)年2月、竹中重次は長崎奉行を免職となり、翌年江戸で切腹を命ぜられた。

 そして、奉書船制度(1631年)の確立によって、先述のように海外渡航にはその都度(つど)老中の奉書が長崎奉行あてに出されることになり、海外渡航は幕閣の統制下に置かれたのである。(家康時代には、家康の個々の側近を通して朱印状を交付されるルートが定着していた)

 もう一つは、西国大名などから対外的な直接貿易の機会をとりあげた幕府は、輸入品の流通システムを自らの支配下に置いたことである。

 「一六〇四年に京・長崎・堺の商人でスタートした糸割符制度は、一六三一年に江戸・大坂を加えて五ヵ所になり、さらに翌年には分国糸として博多・久留米・柳川・小倉・佐賀などの都市(城下町)の商人たちにも配分されることになった。こうして、中国産生糸を中心とする輸入品が、年貢米・各藩の特産品などとともに流通して、全国の都市と商人の成長を促し、三都(京・江戸・大坂)・各城下町・在郷町をつなぐ全国的な流通システム(幕藩制的流通機構)を構築していく」(荒野泰典著「海禁・華夷秩序体制の形成」P.141142)ことになるのである。(なお、糸割符制度は、1655〔明暦元〕年に、長崎ではいったん廃止された。だが、廃止により白糸などの輸入を急増させ、日本の銀流出量も止まらず、糸割符制度は幕府統制が厳しい形で1685〔貞享2〕年に復活する)

 兵商分離政策により、幕藩制国家の支配・統制の下で全国的な流通機構が成長していく。これが江戸時代の流通システムの基本であった。

 

〈「鎖国令」なるものの実際〉

 第三代将軍家光の親政になって、長崎奉行竹中重次(大名)は不正が多いと解任され、1634(寛永11)年に切腹となる。その後、長崎奉行は旗本2人が就任することとなり(将軍権力の強化)、ポルトガル船の来航に合わせて長崎に着任し、取引終了後に江戸に帰るという体制となった。新任の長崎奉行が着任する際に、新たな長崎支配の方針として示されたのが、冒頭に提示した17か条からなる年寄(老中)5人連署の下知状である。

 従来、この下知状は、幕府の「鎖国令」の第一弾(1633年)と見なされ、以後1636(寛永13)年まで段階的に強化され、さらに島原・天草一揆(1637~1638年)を経て、ポルトガル船の来航禁止(1639年)、平戸オランダ商館の長崎出島への移転(1641年)をもって、「鎖国」が完成した―と見なされてきた。(岩生成一著「鎖国」―『日本の歴史14』中央公論社 1966年など)

 しかし、山本博文氏によると、(1)従来、「鎖国令」とされてきた1633(寛永10)~1636(寛永13)年までの下知状は、長崎奉行への業務命令であり、全国を対象とした「鎖国令」でない。つまり、「鎖国令」なるものは存在しない(実際、これらの下知状には「鎖国」という言葉は一つもない)。(2)1639(寛永16)年のポルトガル船の来航禁止をふくむ「条々」は、全国大名まで通達されたが、(1)との質的違いは島原・天草一揆の影響によるものである。(3)以降、諸大名へ沿岸警備体制を強めることが命令された―(同著『寛永時代』吉川弘文館 1989年、同著『鎖国と海禁の時代』校倉書房 1995年)というのである。

 さらに、荒野泰典氏は、下知状の日本人の海外渡航について、次のように指摘している。「……この規定(*「日本人」の「海外」渡航禁止)は伝統的に『日本人の海外渡航の禁止』と解釈され、漠然とすべての日本人のすべての海外渡航が禁止されたと考えられてきた。下知状の原文は『日本人異国え遣(つかわす)間敷(まじく)候』で、これが『鎖国』のもっとも有力な根拠とされ、この点については山本(*博文氏)も変わらないように見えるし、かつての私も例外ではなかった。その解釈は、他の「三口」(薩摩・対馬・松前)と『海外』(琉球・朝鮮・蝦夷地)との往来が、近世を通じて日常的に行なわれていた史実と矛盾するのだが、その矛盾すら明確に意識されてこなかった。しかし上述の『下知状』の歴史的性格から見て、この場合の『異国』は長崎奉行の職掌範囲(長崎口)に直接関わる国々や地域、すなわち東シナ海と東南アジア地域だった。……この地域に通う朱印船(奉書船)は宣教師の潜入ルートとなり、また、国際紛争の火種ともなってきた。それらの危険性をあらかじめ回避するために、この海域への奉書船(日本人)の渡航と、この海域に定住する日本人の帰国を禁止したのだった。」(同著「海禁・華夷秩序体制の形成」―日本の対外関係5『地球的世界の成立』に所収 P.139140 下線は、荒野氏)と。

 「鎖国」なるものは、当時の幕閣の方針を固定化・全面化し、松平定信以降の硬直した観念的な「鎖国祖法観」を合理化する考え方である。それは、徳川時代初期の史実とは、決して相容れないものである。

 

〈実態にそぐわない「鎖国」概念〉

 「鎖国」概念については、近世史の多くの研究者が実態にそぐわないことを認めているようである。

 田中健夫氏は、早くから「鎖国」概念が近世日本の対外関係を把握するためには不十分かつ不適当なものであること、「鎖国」の本来の内容である日本人の海外渡航禁止やキリシタンの禁止、外舶貿易の制限・統制などは、明・李氏朝鮮の「海禁」と同じであること、近世日本の対外関係のありようは東アジアの国際関係の伝統や慣習に根ざしていること―などを同著『対外関係と文化交流』(思文閣 1982年)で主張している。

 荒野泰典氏は、この主張に賛同し、東アジアにおける近世日本の位置づけを理解するための概念装置として、「鎖国」に代えて海禁と華夷秩序のセットを用いることを提起している(同著『近世日本と東アジア』東大出版会 1988年)。そして、次のようにも述べている。「……問題は、ことさらに『鎖国』概念に固執してきた日本近世史の研究状況にある、といってよかろう。それは『鎖国』がなによりも近世封建制の特質と理解されてきたことによる。研究史のうえからみれば、『鎖国』がなによりも日本の中世史・近代史から近世史を『自立』させる指標の一つであるとともに、ヨーロッパやアジアの諸国と近世日本を区別する民族的特質の指標の一つであった。とりわけ、この民族的特質の問題が『鎖国』を『海禁』一般に解消させることに抵抗を感じさせてきたと考えられる。しかし、今や、あらためて東アジアの中での日本国家および民族の形成と、民族間の連帯や共感を妨げてきた歴史的諸条件を、実態に則して具体的に問題にすべき時にきている。近世日本の対外関係や民族的特質の問題も、その中で再構成されるであろう。」(同著「一八世紀の東アジアと日本」―『講座日本歴史』6近世2 東大出版会 1985年 P.2)と。

 山口啓二氏もまた、「鎖国」概念とその実態との乖離(かいり)を問題にしている。『鎖国という言葉が、われわれにどんなに多くの誤解を与えたか。鎖国というと、地球的世界から遠ざかってしまって、日本がまったく孤立する形で独自の世界をつくった、というふうに理解されがちでした。しかしそれはまったくの誤解です。そうではなく、当時の地球的世界の一翼に、日本の幕藩体制、公議の体制があり、幕藩体制というものをその一部に置いたのが、当時の地球的世界であったということです。中国もそのような体制であり、朝鮮も、琉球・安南も同じです。東アジアだけでなく、ヨーロッパ、その他の地域でも、世界に対する対応のさまざまな仕方をそれぞれの民族社会がとっていたのであって、それらすべてを複合したもの全体が、当時の地球的世界であった。いわゆる鎖国体制をとった日本も含めて、地球上の人類はこのようにして一つの世界をつくっていた、というのが当時の地球的世界のあり方です。」(同著『鎖国と開国』岩波書店 1993年 P.41)と。

 確かに、徳川時代、ほとんどの庶民にとって、外国事情は知らされていなかった。しかし、それは徳川幕府の「依らしむべし、知らしむべからず」という情報統制政策によるものであり、いわゆる「鎖国」という対外政策によるものではなかった。実際は、長崎口は勿論のこと、対馬口や琉球口などから、支配層は外国事情を入手していたのである。

 「鎖国」概念は、単に史実と異なるだけでなく、徳川時代に厳然と存在し続けた日本型華夷秩序・華夷思想を歴史の闇に深く隠蔽する点で、重大な問題をはらんでいる。

 江戸時代、支配層において、華夷思想・華夷秩序は一貫して保持されていたのである。だからこそ、秀吉の朝鮮侵略は根本的に総括され、反省されなかったのである。

 また、吉田松陰や坂本龍馬など幕末の志士たちが、尊王攘夷をかかげて「海外雄飛」・海外侵略を平気で主張出来たのである(拙稿『本多利明の侵略思想』〔労働者共産党 http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129 論文コーナー〈歴史に学ぶ〉に所収〕を参照)。

 徳川時代の対外政策を「鎖国」でくくると、その当時の日本型華夷思想・華夷秩序を歴史の闇に葬り、当時の侵略思想を隠ぺいすることとなる。それはそれでまた、何故に日本近代の始めから侵略政策を推し進めたか―その歴史的背景を見失わせるものである。  

 

(4)海岸防備の指令と「北国郡代」構想

 だが、ロシアと日本の間の問題は、単に通商問題に限定されるものではなかった。蝦夷地をはさんで、国境が不確定なのであった。定信は、ラクスマンへの対応を前述のように進めるかたわら、海岸防備を諸大名に指示した。

1792年11月、幕府は諸大名に海岸防備の態勢(船数・人数・兵器など)と異国船渡来の際の隣接領主との申し合わせの報告を求め、12月には、海防を厳重にするように指示を出している。さらに翌1793年には、〝海防は「永久之備(そなえ)である」と諸大名に通達し、海防態勢に大名動員を行なっている。

また、定信は1792年12月14日に、蝦夷地取締り強化の基本方針として、「蝦夷地御取締建議」を行なった。これは、松前藩委任論を維持しつつ、幕府が補完する機構・「北国郡代」を置くという構想である。

この構想の骨子は、次のとおりである。

①大意(たいい)蝦夷地をハ松前へ御任せ備(そなえ)厳重の儀を厚く申し談じ候(そうろう)事(こと)

②三五年(3~5年)ニ一度つつ御普請役・御小人目付・御徒目付・支配勘定の類、御救交易を以て〔アイヌの〕失費を助ケ

③唐蛮制の船を御手船ニ四五艘も仰付け(おおせつ)置かれ……時々蝦夷地クナシリラッコ島の辺へ御抱え水主(かこ)小役人乗組(のりく)み不時見分仰付けられ

④〔*蝦夷地渡海の拠点である〕青森三馬屋(みんまや *三厩)の辺南部津軽の領知三四千石つつ村かへ(替え)仰付けられ、右の地へ郡代一人差置(さしお)かれ、尤(もっと)も船主郷かた小役人等をも土着勤番交代ニて仰付けらる事、此(この)ものハ松前へ乗来るべき船々を改(あらため)候事等を司(つかさどり)幷(ならび)ニ長崎へ年々遣(つかわ)すべき俵物を集メ遣し候事を職とす

⑤南部・津軽両家ハ長崎ニての黒田・鍋島の如く仰付けられ然(しか)るべし

⑥松前家が将来、蝦夷地対策を迷惑とした仮定の場合(略)

 すなわち、この「北国郡代」構想は、盛岡・弘前両藩から三〇〇〇石~四〇〇〇石ずつ領地を収公し、青森もしくは三馬屋に郡代を置き、ロシアなどに備(そな)えるとともに、この郡代で松前へ来る船を改め、長崎向けの俵物(たわらもの)の集荷・回漕を担当させるというものである。当時銅とならぶ長崎輸出品であった俵物・昆布の確実な掌握をもねらっていたのである。また、盛岡・弘前両藩には、長崎における黒田(福岡藩)・鍋島(佐賀藩)のように、北国郡代への勤番を義務づけるものとなっている。

 しかし、この「北国郡代」構想は、定信の失脚で頓挫する。だがこれは、蝦夷地内国化寸前に至っている。

                       

D 蝦夷地直轄化に踏み切る松平信明政権

 

 1793(寛政5)年7月23日、松平定信が依願辞任の形で、老中と将軍補佐を解任される。幕閣内での政策的対立と相互不信が強まり、一橋治済(はるさだ *将軍家斉の実父)や御三家の支持を失い、さらに世論もまた不評となり、解任されたのである。代わりに、老中首座となったのは、松平信明である。信明政権は、寛政の改革の基調を引き継いだ、と言われる。

 

(1)西欧列強の領土・市場の獲得競争

 当時ヨーロッパでは、1789年のフランス大革命の影響が周辺国へ波及することを恐れて、イギリスを中心に対仏包囲網が形成される。第一回対仏同盟は、イギリスの首相・小ピットの提唱で、1793年3月から始まり1797年まで続く。これには、イギリス・プロシア・オーストリア・ロシア・スペイン・オランダなどが参加する。(第二回は1799~1802年、第三回は1805年、第四回は1813~14年)

 ヨーロッパの戦いは、環北太平洋世界(中国、日本、蝦夷島、千島列島、カムチャッカ、アリューシャン列島、アラスカ、アメリカ北西岸、カリフォルニアなど)での領土獲得競争へと波及する。とともに、貪欲な資本の市場拡大競争が激化する。岸甫一著「『蝦夷地』認識深化の世界史的必然性」(田中彰編『幕末維新の社会と思想』吉川弘文館 1999年 に所収)によると、「ロシア領アメリカ並びにアメリカ北西岸の毛皮と中国茶の取引が、環北太平洋世界を形成する主導力である」(P.314)と言われる。

 

(ⅰ)ロシア人のウルップ植民の失敗

1794年露暦2月、イルクーツク総督は、日露通商関係樹立のための派遣団を組織することをエカテリーナ2世に提案した。それは、ラクスマン帰国報告書の中で、幕府からの信牌が「長崎一港にかぎってロシア人がいかなる制約もなく交易におもむくことを許して」いるとされているのを捉えたものである。

この派遣団には、ロシヤやシベリアの商人たちも参加させる予定であったが、それは、ゆくゆくは国家公認の独占会社設立をもくろんだものであったからである。

他方、毛皮商人のシェリホフ(1804年に長崎に来るレザノフの義父)やイルクーツクの商人たちは、1794年露暦11月、イルクーツク総督に、造船所の整備、領事の設置などを行なって、日本・中国・東インド・フィリピンなどとの交易をすすめることを請願した。だが、これらはすべて、ヨーロッパの戦乱を理由に却下された。

しかし、シェリホフは計画を放棄しなかった。そこで、「……ウルップ島に植民させるためオホーツクに流罪四家族を用意した。ズヴェズチェトフの指揮の下、植民入植者と二〇人ほどの猟師がウルップ島に、男女あわせて六〇名(内女三名)が送られた。/アラスカの責任者バラロフにシェリホフは、今度の植民の狙いについて、①ウルップ島で千島アイヌに農業を定着させること、②同島で日本との通商会社(クリル会社)を開くこと、と語っている。」(横山伊徳著『開国前夜の世界』吉川弘文館 2013年 P.9697)と言われる。

シェリホフは、民間人なので国家的狙いは露骨に示してはいないが、千島アイヌを味方につけ、日本との交易で利益を上げようと狙っていることは明白である。しかし、シェリホフの寛容策は長続きしないで、入植者に対しても千島アイヌに対しても、専制的に振る舞うようになる。入植者の多くが帰国し、ほどなくシェリホフ自身が没したので、ウルップ入植計画は失敗する。

 

(ⅱ)イギリス士官ブロートンの室蘭来航

1796年8月、イギリス海軍測量士官ブロートンが測量艦を率いて、室蘭に現れる。

 ブロートンによる北太平洋の測量は、ヌートカ紛争を直接の契機としている。ヌートカ(今のバンクーバーの西側にバンクーバー島がある。この島の西岸で北緯50度弱あたりに近接してヌートカ島がある)に根拠地を設けたいイギリスは、フランス大革命によってフランスの支持を失ったスペイン(1494年の教皇による植民地分界線を根拠に南アメリカ大陸の南端のホーン岬からアラスカまでの領有を主張)に圧力をかけ、数次にわたるヌートカ協定を経て同地における地歩を固め、ジョン・バンクーバーによる北米太平洋岸の巡航を実行した。「ブロートンの測量も、スペイン北進への軍事的対抗として計画された(1795年)。彼は測量艦プロヴィンス号を指揮して、当初太平洋メキシコ沿岸でバンクーバーと合流して、南北アメリカ大陸の太平洋岸測量を完成させるはずであった。しかし、バンクーバーは北太平洋岸の精密な測量結果を携えて、一足早く帰国してしまう。そこでブロートンは……訓令に従って北緯三〇度の揚子江から五二度のサハリンまでの北太平洋で唯一遺(のこ)された空白地帯の測量を決意した。彼は一七九六年夏に太平洋を渡り、室蘭に至ると測深やクロノメーターによる観測を実行し、その後、南千島を含む日本の太平洋岸を測量しながら南下してマカオに到った。」(横山前掲書 P.89)のである。

翌1797年、ブロートンはマカオから日本に再び向かったが、プロヴィンス号が宮古島沖で座礁し沈没する。宮古島の人々に助けられたブロートンは、態勢を建て直し小型のスクーナー船でマカオから那覇を経て、測量を繰り返しながら日本の太平洋岸を北上し、同年8月に室蘭に到着する。その後、ブロートンは松前沖で測量をし、日本海に入り、タタール海峡=間宮海峡を北進しアムール川河口に至る。そこが浅瀬で航行できないことを確認して、今度は反転して沿海州を南下し、朝鮮半島東部から朝鮮海峡を経て東シナ海、そしてマカオに帰還した。

ヨーロッパでの戦い・対立が世界規模での抗争に拡大し、サハリン・日本・朝鮮・琉球などとその周辺の海図が作製されたのであった。

 

(2)二つの寛政九年令

 1797(寛政9)年、信明政権は二つの異国船取扱令を出す。閏7月令と12月令である。

 閏7月令は、前年から蝦夷地・日本・琉球などの周辺海を測量するブロートンの活動を踏まえたものであることは、明白である。その内容は、「異国船見掛(みかけ)候節(そうろうせつ)の儀(ぎ)取計方(とりはからいかた)、寛政三年亥年(いのとし)相触(あいふれ)候趣(そうろうおもむき)、彌(いよいよ)無油断(ゆだんなく)申付(もうしつけ)有之(これあり)の様(よう)致されるべく候、」(『御觸書天保集成』下 岩波書店 1940年 P.855)というものである。寛政3年令の徹底を命じる内容である。

 しかし、12月令になると、トーンが変わる。その内容は以下のものである。

 

異国船の漂着の節の取計(とりはからい)、寛政三年委細相達(あいたっし)置候(おきそうろう)趣(おもむき)勿論(もちろん)ニ候得共(そうらえども)、若(もし)心得違(こころえちがい)候て、此方(このほう)より〔*こちら側から〕事を好(このんで)、手荒(てあら)成(なる)働(はたらき)仕出し候ては〔*軍事行動をしかけるのは〕不宜(よろしからず)候、先方より重々(じゅうじゅう)不法の次第(しだい)相決(あいきめ)、不得止事(やむをえざることの)節は格別之儀、先(まず)は可成丈(なるべく)計策を以(もって)成(なる)とも〔異国船は〕繋留(げいりゅうし)、〔幕府へ〕注進(ちゅうしん)可有之(これあるべく)候、」(同前 P.856

 

 この12月令は、明らかに閏7月令とは異なる。情勢が一段と切迫する中で、軽率にも偶発的な軍事衝突に至るのを事前に防止するように、慎重な対応に変化したのである。

 

(3)東蝦夷地の一部を仮上知

 幕府は、ロシアやイギリスなどの環北太平洋への進出に危機感を抱き、1798(寛政10)年に、総勢180人余にのぼる大調査隊を蝦夷地に送る。

 これは老中戸田采女正氏教(うじのり)の策案で、目付渡辺久蔵、使番大河内善兵衛、勘定吟味役三橋藤右衛門などが任命され(近藤重蔵や最上徳内も参加している)、総監督は江戸在役の勘定奉行石川忠房であった。

 調査隊派遣の主旨は、国境守備は幕府が当たるべきだが、松前藩の反発も考慮してこの策が可能か否かを見分する、というものである。

 調査隊は、4月に出発し5月に松前に到着する。11月に帰府した渡辺久蔵らの復命報告を受けた幕府は、同年12月から翌年1月にかけて、老中戸田氏教・若年寄立花種周(たねちか)を責任者として、松平忠明(書院番頭)、石川忠房(勘定奉行)、羽太正養〔はぶとまさやす〕(目付)、大河内政寿〔まさこと〕(使番)、三橋成方〔なりみち〕(勘定吟味役)の5人を蝦夷地取締御用掛に任命し、蝦夷地対処策を本格的に練ることになる。

 こうして1799(寛政11)年1月、幕府は、松前藩から東蝦夷地のうち、ウラカワ(浦河)からシレトコ(知床)にいたる地域および島嶼を、向こう7年間試験的に幕府の直轄地とし、代わりに松前藩には毎年の収納分に当たる取替金を与えることにした。その経営は、松平忠明ら5人にあたらせ、老中全員が交代でその指揮に当たることとした。箱館は、幕府の東蝦夷地経営の根拠地として位置付けられた。(東西蝦夷地ならびに松前地の区分は、図表6を参照)

図表6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、蝦夷地を内国化して日本領とし、ロシアとの間の国境を明確にするための第一歩であった。幕府直轄領化に関しては、近藤重蔵の調査報告にも言及がある。近藤は蝦夷地を幕府直轄とし、幕府の徳政によりアイヌの風俗を日本風俗に改めるべきであると報告した。

1799年2月、松平忠明ら蝦夷地取締御用の5人は、蝦夷地の経営と防備について協議し、69カ条にわたる蝦夷地統治策を上申した。それを要約すると、次のようになる。

①蝦夷地は広大であり、四方は海であるから堅城・砦などを造って警備することは困難である。それゆえ蝦夷地の防備のためには、アイヌたちを手厚く撫育し、善政を布くことにより、外国から誘いがあってもこれに靡(なび)かないようにするほか方法がない。(*アイヌたちを利用して、蝦夷地を防備する)

②幕府の直轄地におけるアイヌとの交易は町人に委任するが、場所ごとに役人を置いて、品物の質や桝(升)目に不正がないように監督させる。(*アイヌ交易における不正1)の防止)

③アイヌの風俗を次第に日本風に導く。(*アイヌに対する同化政策)

④エトロフ島は、ロシア人の居住するウルップ島の隣島であるから、この島を警備の第一の眼目とする。(*防備上の最重要地)

 この69カ条の施策が適切か否かを調査するために、同年3月、松平忠明らは幕命で蝦夷地巡視に出発する。また、10月には、幕府は、南部・津軽両藩に箱館守備を命じる。

この年、幕府はエトロフ全島の人別(戸籍)調査を行ない、『恵登呂府村々人別帳』を作成する。これによると、恵登呂府には24の村があり、1118人の名前が記されている。戸籍をつくることは、国家による人民支配の原則であるが、同時に、エトロフの漁業開発を目的とした労働力把握のためでもあった。それにしても、戸籍作成は、幕府が蝦夷地を日本国内に抱え込む姿勢を明確にした一つの証左である。

幕府は1800(寛政12)年4月にふたたび近藤重蔵をエトロフに派遣し、和風化政策を推進する。それは、改名だけでなく、ひげを剃り、月代(さかやき)にし、日本人風の服装に改め、日本語を使用する事などであり、これら和風化は「シヤム振(ぶり)」(シヤムとはアイヌ語で隣人、すなわち和人を指す)といわれた。幕府は、「シヤム振」になる事に対して、酒・たばこ・古着などの褒美を与え、さらに和風化政策を推進した。

近藤の和風化政策はロシアの行なうロシア化政策(アイヌの風俗を外見上ロシア人と同じようにする)を真似たものであるが、アイヌを和風化することによって、ロシア人の南下を防ごうとするものである。

しかし、表面的な「仁政」(撫育政策や下され物など)も一皮向けば正反対であり、アイヌに対する過酷な収奪や虐待がなくなったわけではない。これは、日本側もロシア側も同罪である。

幕閣は、蝦夷地直轄化の施策の基本政策を、ロシアなどの西欧列強に対し直接軍事力強化に重点を置くことよりも、アイヌを和風化政策で服従させるとともに、蝦夷地の開発による防備実現に比重を置いたものとした。

だがこれに対し、将軍家斉などから横やりが入る。1799(寛政11)年11月、将軍の下知として、老中松平信明に対して、「蝦夷地御開国(*ここは開発の意)と申す名目(*言い方)は相除(あいのぞき)候方と〔*避けけた方がよい〕思召(おぼしめし)候。」ので、「一向(いっこう)帳面、書付(かきつけ)〔の〕類(たぐい)え開国と申す二字を認め申さざる様ニ仕るべく……」と命令が下った(羽太正養著『休明光記付録』巻之三―『新撰 北海道史』第5巻 に所収。P.633)。信明や戸田氏教の政策への明白な異論である。

しかも、戸田と共に蝦夷地対策の責任者である立花種周は、家斉の実父である治済の一橋家の家老と結託するようになり、この動きに対し、戸田は蝦夷地取締御用掛とは一線を画すようになる。こうして、松平信明の孤立化が進むようになる。

蝦夷地直轄化による開発を禁じられた蝦夷地取締御用掛は、これに対し、1800(寛政12)年10月、今度は松前藩の軍事的防衛体制が不備であることを口実に、西蝦夷地を含めた蝦夷地一円上知(*幕府に収公すること)を提起する。これは、将軍家斉の意向を踏まえて、開発重視を抑え蝦夷地警備に重点を移したものである。

戸田氏教は、蝦夷地取締御用掛の「一円上知」提案を受け、三奉行に検討させた。しかし、御用掛の提案に同調する者は少なかった。その理由は、朝鮮・琉球との関係を踏まえて、西国の大名たちへの影響(上知されるではないかという恐れ)が大きいと考えられたからである。

「一円上知」を巡る議論は長くつづき、結局、1802(享和2)年2月、評議により東蝦夷地の永久上知のみが合意され、西蝦夷地は松前藩委任を続けるか否かの両論併記の結論となった。これは、蝦夷地直轄・開発派と松前藩委託・非開発派の妥協点と思われる。

これを受け、将軍家斉は、「其儀(そのぎ *開発というのは)心得よろしからず。……只(ただ)衰(おとろえ)申さぬ様ニとの思召(おぼしめし)ニ御座候間、蝦夷人(*アイヌ人)とても又(また)有来(ありきた)り通(とおり)〔*従来のとおり〕是迄(これまでの)ままにて、ただ難儀致(いた)さぬ様ニ取計(とりはからい)遣(つかは)し申すべく候。余り世話(せわ)致(いた)し過(す)ぎ候ては却(かえっ)てよからぬ筋との御沙汰ニ御座候。」(『休明光記付録』巻之七 P.841)と、開発政策を批判し、東蝦夷地のみの上知を命じた。

 この時(1802年2月)、松平忠明以下の蝦夷地取締御用掛は御役御免となり、代わって東蝦夷地を管轄する蝦夷地奉行制がとられ、その奉行に戸川安論、羽太正養が任じられた。同年5月には、蝦夷地奉行を箱館奉行)に改称し、同年7月には、東蝦夷地経営の「成功」により、松前章広からその地を永久に上知させた。

 幕府中枢の分裂状況は、かなり深刻であったようである。1803(享和3)年の末、松平信明は病気を理由に辞意を表明し、許可された。家斉との対立により、信明政権は崩壊するのであった。

 

1)『江差町史』第五巻通説一は、不正交換の事例を次のように述べている。「……交易品を粗悪にし、加えて秤量(ひょうりょう *はかりで重さをはかること)を偽(いつわ)るという不正手段をとるのである。古い商場知行時代は交易用の米は、一俵二斗入(いり)とされていたが、秤量を偽り商人場所請負時代になると、一俵が七~八升と減量され、交換割合は二斗入六俵で干鮭(からざけ)五束(一束二十本)が定法であるが、八升入六俵でも干鮭五束とし、又(また)和人地では鰊(にしん)一束が二〇〇疋であるのに、蝦夷との交換では一束を二百四十疋(蝦夷人に対する数え方は、〔始め〕〔一〕〔二〕……〔十〕〔終り〕と十を十二にしたと伝えられている)としたといわれ、米八升入一俵につき、鰊六束と交換した。即ち持ち込む交換品は質を粗悪にし、量目を減じ、手に入れるものは逆に量目を多くするという方法が、次第にとられていった。」(P.428)と。

 2)1807年の蝦夷地一円の幕府直轄化により、箱館奉行は松前に移され松前奉行となる。松前奉行の石高は、2000石・役料1500石であり、地位は長崎奉行の次席とされた。松前奉行は幕領の地方支配を担う郡代・代官ではなく、遠国奉行として長崎奉行をモデルとしている。確かに松前奉行は長崎奉行と異なり外国貿易を管掌しないが、遠国奉行の専管としての国境防備を担った。箱館(松前)奉行支配の役人には、吟味役・調役(ととのえやく)・調役並・調役下役などがあった。それらの内から、蝦夷地各場所へ調役・同心・御雇医師が詰合(つめあい *同じ所に出勤している人)として赴任し、各場所の会所・運上屋の支配人以下の和人やアイヌに権勢をふるった。

 

第3章

 

A 幕府と松前藩の蝦夷地の位置づけ

 

(1)松前藩は自藩領と主張

蝦夷地が日本の内にあるか外にあるかは、論者により、時代により、さまざまである。

 もっとも関係の深い松前藩は、1789年のクナシリ・メナシのアイヌ蜂起によって、さらに一段と蝦夷地の仕置きが問われることとなる。松前藩の事件の吟味取調書は、幕府の直轄直前の同藩の考え方をよく表している。その主張点は、「蝦夷地一件」(『新北海道』第七巻史料一 P.482483)によると次のようになる。

①先述した家康発給の「黒印状」をはじめ、代々の朱印状は「松前蝦夷地一円に領之(これをりょう)」したものと解している。しかし、黒印状は「一円領地」とは、書かれていない。

②「蝦夷地は勿論、松前表在方にも田畑の耕地は之(これ)なく石高と申(もうす)は御座無く、……家中(かちゅう)初(はじめ)松前地のもの食料幷(ならびに)蝦夷地交易の米穀共(とも)、他国(*他藩)より積入(つみいれ)、志摩守(*松前藩主)収納は、〔*蝦夷地を対象とした〕交易運上金幷(ならびに)交易のものより取立候役金のみにて、家来のもの共(ども)も、高下に随(したが)ひ、夫々(それぞれ)蝦夷地交易運上場所宛行(あてがい)」である。ここでは、松前藩の封建制の特殊性を述べながら、藩・藩士の収入が蝦夷地に依存していることを明らかにしている。

③「蝦夷地の儀は、松前東北西の方(かた)地続(じつづき)にて、東は北安(小安)、西は熊石と唱(となえ)候(そうろう)所を国地(*松前地)と蝦夷地の境に極(きわめ)、守(まもり)所には番所を建置(たておき)、右弐ヶ所の外(ほか)に定り候筋道は之(これ)無く」となっている。ここは、①と矛盾する記述となっている。

蝦夷地は「全(すべて)志摩守領分と心得、政事(せいじ)申付(もうしつけ)」ており、「日本人差遣(さしつかわし)置(おき)、交易介抱(かいほう *後見となって指導すること)為致(いたさせ)候場所々にて」行ない、と商場知行制をのべている。そして、場所の開発は、「慶広代より以後、追々(おいおい)に相開(あいひら)候儀にて、西蝦夷地ソウヤ(*宗谷)と申所は貞享(*1684~1688年)年中、東蝦夷地にて、アッケシ(*厚岸)と申(もうす)場所は寛永(1624~1644年)年中、キイタツフ(*霧多布)は元禄(1688~1704年)年中、クナシリ(*国後)島は宝暦(1751~1764年)年中迄(まで)追々に相開(あいひらき)」となったという。蝦夷地はすべて松前藩の領地という観念を前提に、場所開拓で実際の統治範囲が広がったというのである。

 ⑤「……カラフト・ヱトロフ・ウルツフ等は勿論(もちろん)の儀、都(すべ)て蝦夷人罷在(まかりあり)候(そうろう)土地は、縦令(たとい)交易不致(いたさず)候とも志摩守領分と相心得(あいこころえ)罷在(まかりあり)候。」と広言している。

 これは、属人主義をもとに支配の範囲を拡大する典型的な侵略思想である。

 

(2)松前藩以外で多い異域扱い

だが、松前藩以外では、蝦夷地は国外であるという認識が多い。

有名な寺島良安編『和漢三才図絵』(1713年刊)は、異国人物の一つのタイプとして「蝦夷」をあげ(巻一三)、地理的分野としても、「蝦夷島」は明らかに日本とは異なり、震旦(*中国)・朝鮮国・琉球国などと同列の位置に置かれている。

含弘堂偶斎著「百草露」(『日本随筆大成』 新版第三期一一巻 吉川弘文館 1977年 に所収)は、「蝦夷は陸奥国に続きたる所にて、日本の内なれども、大(おおい)に遠き故王化の至らざる地なる故、外国の如くなれり。」と言われている。ここでは、実質的には、「外国」扱いである。

朝鮮との交流に熱心であった対馬藩の儒者・雨森芳洲(1668~1755年)は、その著『隣交始末物語』の中で日本の対外関係について次のように述べている。

 

大凡(おおよそ)日本の内にて外国に接する国(*藩レベルを指す)、西方ニ而(にて)は薩州(薩摩)・長崎(肥前)・対州(対馬)、東方ニ而は松前也。琉球ハ薩州の属国(羈縻〔きび〕のくに)、蝦夷は辺僻(へんへき *片田舎)の小醜(しょうしゅう *小人のともがら)、長崎へ来れる唐人ハ商賈の輩のみなれば、何(いず)れもふかく(深く)恐るるるに足らざる)の地ニ非(あら)ズや。(雨森芳洲全書三『芳洲〈外交関係資料・書簡〉集』関西大学出版部 1982年 P.270

 

 ここでは、松前藩が外国に接する「国」なので、蝦夷地が外国(正確には、アイヌは国家をまだ形成していなかったので「異域」)であることははっきりしている。

 1789年閏6月、クナシリ・メナシのアイヌ蜂起の報を受けた幕閣の南部藩への出兵準備の指示でも、「蝦夷人(*アイヌのこと)何故(なにゆえに)候哉(そうろうや)、聊(いささか)騒動に及び候旨(むね)相聞(あいき)き候、早速松前より家来差遣(さしつかわ)し取鎮(とりしず)め候旨(むね)相届(あいとど)け候間、最早(もはや)相鎮め候事に之(これ)有るべく候、然(しか)し乍(なが)ら何(いづ)れにも外国の儀、万一取り鎮め候人数不足(ふそく)の儀も候(そうろ)はば、其方(そのほう)へ人数の儀申遣(もうしつかわ)し候様、松前志摩守へ相達し候間、申越(もうしこ)し次第(しだい)人数早々(はやばや)差出(さしだ)し、志摩守と相談し、蝦夷取鎮め候様致されるべく候」(『日本財政経済史料』巻十 P.34)としている。

 ここでも、クナシリ・メナシのアイヌ蜂起を「外国」の事件としている。

 時の老中・松平定信(1758~1829年)もまた、ラクスマン根室来航に際して、ラクスマンが「ネムロ(根室)に御下知をまつといふ(いう)は、日本地にあらざれば追ひ払ふべき事もなき(無き)をしり(知り)、ネムロにまち(待ち)ても下知なくば、江戸へのり(乗り)来るべしといふは、是亦(これまた)彼の方(かノかた)直(ちょく *真っすぐなこと)なり……」(渋沢栄一著『楽翁公伝』岩波書店 1938年 P.299300)と述べている。

 林子平(1738~1793年)は、松平定信によって、私人が勝手に政治外交問題を論じてはならぬと1792年に「在所蟄居(ちっきょ)・板木製本の没収」の刑を科された。その子平の著わした『三国通覧図説』もまた、「夫(それ)此(この)三国(*朝鮮・琉球・蝦夷を指す)ハ壌(じょう *大地)ヲ本邦ニ接シテ実ニ隣境ノ国なり。」と、明確に蝦夷を日本に接する「隣の国」と認識している。

 

(3)18世紀末頃から内国扱い

 確かに蝦夷地は、18世紀末ころまで、日本からみて「異域」とみる考え方は残っていたようである。だが、「……18世紀を通じて松前藩による場所請負制が蝦夷地(北海道)全域に展開して、蝦夷地を松前藩の所領とみる意識は、田沼期の幕吏による蝦夷地情報も与(あずか)り、藩内外を問わずひろまっていく。」(菊池勇夫著『アイヌ民族と日本人』朝日新聞社 1994年 P.235)のであった。

 蘭学系経世家の本多利明(1743~1820年)は、蝦夷地開発に極めて積極的であるが、その弟子に最上徳内(1755~1836年)がいる。彼は、幕府が1785(天明5)年初めて蝦夷地調査隊を派遣した時、これに参加している。徳内は以降も、しばしば現地調査に参加している。

 徳内は、1790(寛政2)年に、『蝦夷国風俗人情之沙汰』(『日本庶民生活史料集成』第四巻 三一書房 1969年 に所収)を著わしているが、その中で、「蝦夷諸嶋は大日本国の属嶋にして、則(すなわち)日本の国内なるは勿論也」(P.466467)という見解を繰り返し述べている。

 そして、その論拠を次のように主張している。「……往古は此(この)カムサスカ(*カムチャッカのこと)より干鮭(ほしさけ)を日本へ運送、交易したるが、今はモスコビヤ(*モスクワ)へ囘す(まわス *回す)と見へて干鮭払底(ふってい *品切れ)也。此二、三十年以前までは奥、羽、越、佐、能、加(*奥州・出羽・越後・佐渡・能登・加賀)等の国へ夥(おびただし)く囘りたりしが、近年になりては一向に見へず。皆ヲロシヤへ囘すならん。斯(かく)の如く日本へ交易し、日本の助(たすけ)を得て立(たち)たる東蝦夷及びカムサスカなれば、日本の属嶋なり。」(同前 P.468)と。

 これはまた、余りにも得手勝手な〈へ理屈〉である。これでは、日本の交易相手はすべて、“日本によって存立できた”と認定されれば、日本の領土になる、ということである。これは、華夷思想に基づく朝貢貿易が、皇帝に貢物を捧げる意をもっていることを表わしているのである。 

 徳内の師である本多利明は、蝦夷地を日本国内であることを当然視し、彼の著作『西域物語』(1798年成稿)で、次のように言っている。

 

日本の東奥蝦夷、カムサスカ(*カムチャッカのこと)と云(いう)大国あり。赤道以北五十一度より七十余度に至る大国也。此(この)カムサスカとヱゲレス(*イギリスのこと)と気候相等(あいひと)し〔*実際は緯度が近いというだけ〕。日本の人は、松前の奥は寒国にて、五穀を生ぜず、住居も出来(でき)ざる所(ところ)也(なり)抔(など)云(いう)人は余程の儒(ものしり *儒者を皮肉って、このようなフリガナを付けている)なり。甚だしきに至りては蝦夷は外国にて、人物抔も違い、眼、額上(ひたいのうえ)に只(ただ)一つあり。……(日本思想大系44 『本多利明 海保青陵』岩波書店 1970年 に所収 P.132

斯(かく)モスコヒヤ(*モスクワのこと)に親染(したしみ)たる土人(*アイヌのこと)の風情(ふぜい)を立直(たてなお)さん事(こと)難(かた)からんかなれ共(ども)、日本に属したる島々(*東蝦夷二十余島を指す)成(なる)事は、先祖代々言伝(いいつた)へも有(あり)て神殿(かもへどの *アイヌが和人を敬称した呼称)とて尊敬するの風俗は今に絶(たゆ)る事なく、……(同前 P.137

 因(より)て蝦夷の島は日本国の属島なれば、……(同前 P.148

 

 18世紀末になると、本多利明をはじめ、ほとんどの論者が蝦夷地を日本国内と認識するようになる。

 1798年3月、幕府は目付渡辺久蔵ら180名余を蝦夷地調査に派遣する。この調査では、支配勘定・近藤守重(重蔵)の率いる別働隊が、アッケシなどのアイヌも雇い、千島に向かう。

 エトロフ島に渡った近藤は、ロシア人の建てた標柱を倒して、新たに「大日本恵土府(だいにほんえとろふ)」の標柱を建て、日本領としての印を明らかにする。この標柱には、近藤重蔵・最上徳内・従者下野源助(水戸学者・木村謙次のこと)の名前のほかに12名の名も書き込まれたが、うち6名はアイヌであった。しかし、その名前は、重蔵が命名した日本名であった(改名)。

 標柱を建てるという「このような領土宣言は、(最上)徳内が天明六年(*1786年)ウルップ島上陸の際すでに痛感したが、当時の徳内の領土観からは、カムチャツカの南域に立てるべきで、ウルップ島上に立てることは日本の後退を意味することであり、従って今は標柱を立てる必要が無いと思っていた。寛政三年(*1791年)のエトロフ島上陸のときもその考えであって、つまり境界線の立柱は慎重にすべきである。それよりもわが領土内に侵入しているロシア人を追払って、その広大な在来領土を保全することの方が先願であった。」(島谷良吉著『最上徳内』吉川弘文館 1977年 P.121)と言われる。 

 だが、今回は上司の近藤重蔵(今回の徳内選抜は重蔵の要請らしい)の願いもあって妥協したようである。

 1800(寛政12)年10月、「蝦夷地の一円上知」の方針が提起され、幕閣内で議論がされる。そのさ中の1801(享和元)年、支配勘定格・富山元十郎、中間目付・深山宇平太らが、ウルップ島調査に派遣される。彼らは、同年6月にエトロフ島に渡り、ついでウルップ島に渡り、ヲカイワタラの岡に「天長地久大日本属島」の標柱を建てている。これは、天地が永遠である(長久)ように、ウルップ島も永久に日本に属する、という意味である。

 近藤重蔵、最上徳内、富山元十郎たちは、「無主の地」(先住民が住んでいても近代的国家が存在していないと無主の地とされた)に標柱を建てて、日本国家の領有権を主張したのである。

近藤重蔵や富山元十郎らが、日本国家の領有を宣言する標柱を建てたのは、単にロシア人の真似をしたのか、あるいは蘭書などから学んだのかは不明であるが、当時の西欧諸国家が奉じていた無主「先占の法理」を実践したものである。

先占とは、誰の所有にも属さない物すなわち無主物を所有する意思をもって、それを占有するこという(詳しくは、理論誌『プロレタリア』11号掲載の拙稿『先占の法理は、植民地主義・膨張主義正当化のためのも』を参照)。

この「先占の法理」が、「無主の地」を獲得し得る唯一の権原となったのは、1790年のヌートカ海峡の紛争を解決する条約がイギリスとスペインの間で締結されたことによる。これにより、「先占の法理」は単なる「発見優先の原則」だけでは、成り立たないこととなったのである。

「国際法の父」と称されたグロチウスの「先占の法理」を発展させたヴァッテル(1714~1767年)は、「先占の法理」の内容を次のように規定した。「第一、先占の主体は国家である。先占は国家の名において、その委任を受けた者によってなされる必要がある。/第二に、先占の客体は無主の土地である。しかし人が住んでいても、遊牧民の土地は先占しうる。/第三に、先占の精神的要件として、国家の領有意思が十分に表明されなければならない。/第四に、先占の実体的要件として、現実の占有が行われねばならない。現実の占有とは、土地の使用・定住・植民の如き行為を指す。」(太禱堂鼎著『領土帰属の国際法』東信堂 1998年 P.40)と言われる。

近藤重蔵や富山元十郎らが標柱を建てたという行為は、ヴァッテル理論でいうと上述の「第三」に当たる。 

                       

B 内国化へ進む第一次幕府直轄

 

(1)蝦夷地統治の基本方針

 松平信明政権は1803(享和3)年12月に崩壊するが、その10カ月前の2月、箱館奉行に対して、将軍家斉から黒印状が、老中からは下知状が下された1)

 幕府の蝦夷地統治の基本法ともいうべき黒印状の内容は、以下のものである。

 ①アイヌ民族対策―「蝦夷地の儀万端入念、衰弊(すいへい *衰えやぶれること)せざるようこれを沙汰し、蝦夷人に対し非分(ひぶん *道理にあたらぬこと)の取り計らいこれあるべからざること」

 ②海禁政策―「異国境島々の儀厳重取り計らい、日本人は申すに及ばず、蝦夷人といえども異国へ渡海せしむる儀、堅くこれを停止(ちょうじ)すべし、自然異国の船着岸せしむるにおいては、その所に留め置き、早々注進すべきこと」

 ③キリスト教禁制―「耶蘇宗門(*キリスト教)いよいよ禁制たるの間これを守り、油断なく穿鑿(せんさく *捜し求めること)を遂ぐ(とグ *成しとげる)べきこと」

 老中からの下知(げち)状は、ⓐ箱館における法度(はっと)遵守(じゅんしゅ)、ⓑ蝦夷人撫育(ぶいく)、Ⓒ箱館の者の公事(くじ *租税・課役の総称)訴訟、ⓓ産物取捌(とりさばき)方、ⓔ異国船着岸への対応―の5ヶ条である。

 

1)菊池勇夫著「海防と北方問題」(岩波講座『日本通史』第14巻 1995年 に所収) P.239240 

 

 (2)キリスト教禁止と仏寺の創建

 黒印状の③宗教統制は、幕府の従来の方針を蝦夷地にも拡大したものであるが、同時に、ロシア勢力によるキリスト教化への現実的対処策でもある。すでに行われた近藤重蔵や最上徳内の千島調査では、エトロフのアイヌの中にキリスト教の浸透が見え始めており、十字架が発見されている。南下してきたロシア人から教化されたのである。

 幕府が推奨しうる宗教は仏教であるが、元禄期(1692年)以来、新しく寺を創建することは禁止されていた。箱館奉行は寺社奉行と相談し、国境の蝦夷地に特別に新寺創建を許されるように図った。

 これは、幕府によって例外的に認められた。何故ならば、幕府には、明確な国家目的があったからである。すなわち、「老中牧野忠精から箱館奉行へ、寺院の建立によって東蝦夷のアイヌの人々の葬祭の風習を変えないこと(但し「自然と本邦の風俗ニ移来〔うつりきたる〕」者はよい)。彼地(かのち)『宗門之(の)所置』のためには寺院を建立すべきの二点を申し渡した。ついで寺院の目的について、『御役人を初(はじめ)都而(すべて)此方(このほう)より参り居(おり)候(そうろう)者共(ものども)死亡之節(せつ)之ため、二ツニは往々邪宗門等之糺(ただ)し之為』を『第一之主意』として申し渡した。」(田中秀和著『幕末維新期における宗教と地域社会』清文堂出版 1997年 P.294295)のである。

 1804(文化元)年4月に、幕府から三官寺に対して発給されたと推定される「掟」でも、次のように定められている。

    掟

(6)天下泰平国家安全の勤行(ごんぎょう)怠慢あるべからざる事、

二、蝦夷をして本邦の姿に帰化せしむること、

二、毎々(つねづね)ニより死亡の民をして未来とくたつ(得脱 *煩悩を絶って悟りを

 得ること)せしむる事、

一、隣邦の外夷(がいい)渡来したるとも国のあさけり(嘲り)なからしむる事、

 宗教においても、アイヌを和風化させること、また、ロシア人などが来訪の際の応接でも、国家的な恥をかかないようにすべきとしている。

 

 箱館奉行所の計画では、東蝦夷地全体に五ヶ寺を作る予定であったが、1804(文化元)年に、とりあえず有珠(うす)の善光寺(*浄土宗)・様似(さまに)の等澍院(とうじゅいん *天台宗)・厚岸(あつけし *臨済宗)の国泰寺の三ヶ寺を、官費を以て建立した。住職は、幕府が任命した。

 これは、「蝦夷三官寺」といわれるが、その宗派に注目すべきである。戦国期から織豊期にかけて、武家権力によって平定された一向宗、日蓮宗がまず排除され、徳川将軍家にゆかりのある寛永寺(天台宗)・増上寺(浄土宗)・金地院(臨済宗)の末寺が選ばれた。

 三官寺は、いずれも檀家がないので、幕府は各寺に一か年当り、米100俵・金48両・扶持方12人扶持を支給した。

 なお幕府は、仏寺だけでなく、神社も各地に祀ってアイヌの信仰を促した。松前藩時代にも、蝦夷地の運上屋付近には、内地の様々な神が祭られていたが、幕府は東蝦夷地を直轄すると、会所には必ず八幡社をまつることにした。

 

 (3)外国との交易統制と通航制約

 黒印状の②海禁政策は、具体的には、千島方面とソウヤ(宗谷)やカラフト方面での交易統制や通航の禁止である。

 

 (ⅰ)エトロフアイヌに対する交易・通航禁止

 従来、道東のアイヌやクナシリアイヌは、自ら捕獲した物を以て、北千島などの先住民と交易しただけでなく、和製品をも以て中継貿易も行なっていた。これが、1803年、幕府によって、エトロフアイヌのウルップ渡航が禁止された。これが後に、ロシアと日本の間での国境に連なっていくことになる。

 幕府のウルップ島対策は、1800(寛政12)年冬、エトロフ掛の近藤重蔵・山田鯉兵衛が江戸に戻り、復命書をあげるのを待って行なわれた。松平忠明ら蝦夷地取締御用掛の内部の意見は食い違った。主には、①ウルップ島に幕府役人を派遣して説得し、〔ロシア人が〕帰国しなければ箱館周辺に永く禁錮し、南部・津軽両藩の勤番で警護すべきこと、②同じく帰国勧告を拒んだ時は、一人も残さず殺害すべきこと、③できるだけ穏便に対処すべきで、アイヌとロシア人の交易を厳重に禁止すれば、ロシア人は米・酒・タバコなどが入手できなくなり、おのずと離島することになる―の3つの意見である。

 重蔵の意見は③であったが、老中の指示は、「手荒な処置は差し控え、普請役などの者を派遣して交易制禁の旨をロシア人に伝え、しばらく様子をみて立ち退かないようであれば、最後には捕まえて軟禁状態もやむをえない」(菊池勇夫著『エトロフ島』吉川弘文館 1999年 P.103)というものであった。

 これに基づいて、翌1801(享和元)年6月、支配勘定格富山元十郎・中間目付深山宇平太はウルップ島に向かう。当時、同島にはロシア人は17人滞在していたが、ロシア人代表は米・酒に不自由しており、ラッコ皮と交換して欲しいと申し出た。これに対して、富山らは任務に従い、“交易は国禁である”と言って拒否する。この交渉のときに、富山らは「天長地久大日本属島」の標柱を建てている。

 1802(享和2)年は、幕府によるウルップ島の見回りはなかった。しかし、「設置されたばかりの蝦夷地奉行(箱館奉行)の戸川安論(やすとき)・羽太正養はロシア人が交易不自由となればウルップ島を自然と立ち去るであろうから、ラッコ猟のためのアイヌのウルップ渡海を差し止めたらどうかという新たな提案を行っている。これが幕閣の了承するところとなり、享和三年よりまずは二~三年のつもりで渡海を禁止している。」(同前 P.104)という。

 ウルップは、別名ラッコ島と言われるほどラッコが多く生息していたが、この渡航禁止で、エトロフアイヌはラッコ猟を自主的に行なうことができなくなった。

 

  (ⅱ)山丹交易から排除されるソウヤ・カラフトアイヌ

 アイヌの自由な交易や狩猟が禁止され、和人の指導する漁業経営でアイヌが酷使されることは、ソウヤ、カラフト方面でも行なわれている。

 ロシアのアムール川(黒竜江)への進出は、清国との衝突となり、1689年のネルチンスク条約によってはばまれた。以降、清国はアムール川本支流域における朝貢貿易を整備し、寧古塔(ニンクタ *松花江に合流するフルカ江の流域)や三姓(イチョホット *フルカ江が松花江に合流する地点からやや下った所)に副都を設け、流域の諸民族を「辺民」として毛皮などを貢納させた。この「辺民」にはカラフトのニヴフ(ギリヤーク)やアイヌ(カラフト南半部に住む)も含まれていた。「辺民」は、直接三姓などに赴いたり、清朝役人が派遣されてくる出張所に行き、毛皮などを納め、代わりに龍枹(りゅうほう *蝦夷錦)や青玉(せいぎょく *大理石や花崗岩などの中にある鉱石である鋼玉石)などを賞与された。日本では、これは山丹交易と呼ばれた。

 カラフトアイヌは、山丹交易から得た蝦夷錦・青玉・真羽をソウヤにもたらし、松前からも18世紀後半から、交易や漁業のために幾度か船を出したと言われている。そして、「寛政二年(一七九〇)には松前藩が高橋壮四郎(清左衛門)を場所請負人村山伝兵衛の船でカラフトに派遣し、地理の調査とともに漁場の開設を命じたのである。高橋はこのとき西岸北緯四八度のクシュンナイまで調査し、また村山はシラヌシ(*カラフトの南端)に交易所を、トンナイ、クシュンナイには番屋を設置した。これが日本の施設がカラフトにできた最初であった(『村山家文書』)。」(秋月俊幸著『千島列島をめぐる日本とロシア』北海道大学出版会 2014年 P.109)と言われる。

 しかし、山丹交易によって、山丹人からのソウヤ・カラフトアイヌの負債がかさみ、借金のかたにアイヌが山丹人に連れ去られ下人(げにん *一種の隷属民)として使役されるなどの事件が生じていた。西蝦夷地が幕府直轄となると、「1809(文化6)年、幕吏松田伝十郎が負債の解決に乗り出し、アイヌが自力で弁済できない借財は幕府が肩代わりすることとした。……これを契機に山丹交易は白主(*シラヌシ)会所扱いの官営交易となり、アイヌ民族が山丹交易から排除されてしまった」(菊池前掲論文 P.244)のである。

 アイヌの負債を清算することで恩を売り、アイヌを山丹交易から原則的に排除する。そして、サハリン西南端のシラヌシにウリチ(今のニコライエフスクナアムーレの西南方に住む民族)を主体とする山丹人を迎え、幕府が直接に交易する体制を作った。カラフト・アイヌの中継交易(山丹交易)からの排除である。

 

(4)環境破壊と乱獲で繰り返す凶漁

 (ⅰ)エトロフ・クナシリなどでの和式の漁業開発

 幕府は、エトロフアイヌの交易・通航禁止とともに、国策により、新たにエトロフ島開発を推進する(ウルップ島までは手が回らないので、ときどき見回りをして同島は「空島」のままにしておく)。

 すでにエトロフ掛(かかり)として現地に赴任していた近藤重蔵らは、1799(寛政11)年、高田屋嘉兵衛にエトロフ航路を開かせ、下北半島などからの出稼ぎ漁民を投入して漁場を開拓していた。

 淡路島の都志本(つしほん)村生まれの高田屋嘉兵衛は、兵庫に出て海運業に携わり、一五〇〇石積(つみ)の大船辰悦丸を建造して船持ち船頭となった。そして、松前・蝦夷地と上方を結ぶ日本海海運に狙いを定め、1798(寛政10)年に、箱館に出店を開いた。やがて、箱館在勤の幕府役人の紹介で蝦夷地取締御用掛の三橋成方と懇意となり、三橋の命で、幕府の運送方を引き受けることになっていたのである。

 エトロフでの漁業開始は、1800(寛政12)年、ヲイト、シャナ、ルベツ、ナイボの4カ所(図表7〔菊池勇夫著『エトロフ島』吉川弘文館 1999年 P.9〕を参照)の会所または番屋を小屋掛けして始まった。エトロフ島の産物は、ラッコ・鷲羽・エブリコ(サルノコシカケ科のキノコ)・皮類が知られていたが、鮭・鱒(ます)・鱈(たら)・赤魚(あかうお)・鯨・アザラシ・トドなどの資源が豊富で、特に鮭・鱒はネモロ・クナシリ両場所に倍増するほどである、というのがアイヌたちの話であった。 

 〈図表7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道東・南千島の鮭・鱒漁は、すでに1780年代頃より、盛んになっていた。豊富な資源を大量に確保するために、エトロフでも和式の漁法が持ち込まれた。「鮭・鱒の漁事手配は通詞(つうじ)勤方(つとめかた)となった寅吉(*下北半島の正津川出身の出稼ぎ漁民)をはじめ、雇われ番人たちの仕事であった。すでにクナシリ場所などでの漁業経験を持つ者たちであったと思われるが、寛政一二(*1800)年の漁業開始の年からエトロフ島に越年して、アイヌの人たちに鮭・鱒の網漁を指導した。」(菊池前掲書 P.108)と言われる。

 確かに、エトロフ場所での漁業経営は発展した。「エトロフ島では寛政一二年(一八〇〇)に高田屋嘉兵衛によって一挙に一七カ所の漁場が開かれたが、享和三年(*1803年)における全島の漁獲高は一万八〇〇〇石に達し、この島の責任者であった山田鯉兵衛の報告によれば、その収支は入用金一万二一五一両に対し産物売払い代金は二万二四一七両で、一万両余の収益になっていた(『休明光記附録』巻四)。彼はまたこの島で生産された鮭・赤魚の〆粕(しめかす *魚の油をしぼった後のカスのこと)は田の肥料として使用された場合には一反につき一石二斗ずつの増収になるので、それだけでも田地五万二五〇〇石の開発に匹敵すると述べている。エトロフ島の漁獲物の売払い代金はその後も年々増加し、文化二年(一八〇五)には六万両に達した」(秋月俊幸著『千島列島をめぐる日本とロシア』北海道大学出版会 2014年 P.191192)と言われる。

 クナシリ島もまた漁場が拡大され、「従前は東海岸に一カ所、西海岸に六カ所だけであったが、直捌(じきさば)き(*直営)後の享和三年(一八〇三)には新規場所八カ所が増設され、従来南東部に限られていた漁場は全島に拡大された(「東蝦夷各場所様子大概書」)」(同前 P.191)という。(シコタン島にも避難所を兼ねて漁場が開かれ、一時は25戸122人の漁民が移住させられたが、まもなく空島となり、単なる出稼ぎ場所になった)

 しかし、その結果は、アイヌには無残なものであった。「一八〇〇年(寛政十二)のエトロフ島には二四の村に一一一八人のアイヌが住んでいた(『近藤重蔵蝦夷地関係史料』二)。ところが一八一一年(文化八)では一三の村に八四九人(『東蝦夷地エトロフ島大概書』)となっており、人口が四分の三に、村は半数になっている。これはラッコ猟主体の海獣猟から鮭(さけ)鱒(ます)漁中心の漁業へと生業形態が大きく変容させられ、会所・番屋に労働力編成された姿であった」(川上淳著「日露関係のなかのアイヌ」―日本の時代史19『蝦夷島と北方世界』吉川弘文館 2003年 に所収 P.283)のである。

 しかも1840年代以降になると不漁が続き、エトロフの漁獲高は5000~6000石へと半減する。漁獲高の減少は、ネモロやクナシリでも同様であった。

 

 (ⅱ)鰊漁の西海岸北上

 鰊(にしん)漁は当初、自家用の数の子・身欠き鰊の確保のためにすぎなかったが、18世紀に入ると、肥料資源として着目され、商品生産のための漁業となった。鰊は「田畠の養ひ」として、1780年代には北国だけでなく、畿内、西国にかけて使用されるようになる。

 この点について、平秩東作著『東遊記』(1784〔天明4〕年)は、次のように述べている。

 

鯡(にしん)は他国で鰊(かど)と唱(とな)ふ魚なり。此所(このところ *江差)にてはニシンとよび鯡の文字を用(もち)ゆ。子は数の子と称して国々のこらず行渡(ゆきわた)る。外(ほか)に白子(しらこ *オスの腹にある、白い塊状になった精液)といふものあり。田畠の養(やしな)ひ〔*田畑の肥料〕になる。此(この)鯡むかしは北国のみにて用ひけるよし、今は北国はいふ(言う)に及ばず、若狭、近江より五畿内(*山城・大和・河内・和泉・摂津)、西国筋は残らず田畠の養(やしなひ)となる。干鰯(ほしか)よりは理方(わりかた *比較的)よしといふ。関東いまだ此(この)益ある事をしらず。一疋(いっぴき)の魚を背より立(たち)はなし(放し)て、背の方を身欠きと唱へて下賤(げせん)のもの食物となる。上方(かみがた)の煮売店専ら是(これ)を用ゆ。腹の方は首尾へかけほしあげ(干し上げ)、田地のこやし(肥やし)とす。……(『日本庶民生活史料集成』第」4巻 三一書房 1969年 P.428

 

 鰊は「春告(はるつげ)魚」とも言い、蝦夷地の春は鰊漁で始まった。漁が始まると武家も医師も町人も総出で働き、春先の2~3カ月の鰊(にしん)漁で、松前の漁師は一年間暮せた、と言われる。

 しかし、鰊漁がいつも順調であるわけではない。福山(松前)地方では1776~77(安永5~6)年頃から、江差地方では、1782~83(天明2~3)年頃から不漁になり始める。それから福山地方では45年、江差地方では25年ほども凶漁が続く。

 困った漁民たちは、蝦夷地の西海岸を次々に北上し、新たな漁場を追い求める。いわゆる「追鰊(おいにしん)」である。

 松前藩も、松前地(いわゆる和人地)の漁民(*この漁民を前浜漁民という)が凶漁で生活が困窮することは、藩財政にも影響するので、前浜のみでの漁業から蝦夷地への出漁を許可するようになる。「即ち元禄四年(一六九一)熊石村への和人追鰊が許可され、続いて享保四年(一七一九)熊石以北の蝦夷地への追鰊が許可され、享保七年(1722)に節喜内(せきない *関内)より先の追鰊改方(あらためかた)が制定されて、蝦夷地鰊漁が本格化されていく。」(『江差町史』通説一 第五巻 P.421)のであった。

 そして、「……天明の凶漁を画期として、積丹半島を超えてオタルナイ(小樽市)、イシカリ辺の場所での鰊取りが許可された(『関川家文書』)。蝦夷地では漁業権を持つ場所請負人も鰊漁を展開させつつあったので、当然競合した。その解決策として追鰊の出漁者は請負人に漁獲高の二割を上納して鰊漁の権利を認められたので、二八取(にはちどり)とも呼ばれることになる。一方、場所請負人の鰊漁はやがてカラフト(北蝦夷地 *カラフト島は1809年に北蝦夷地に改称)へと北上していく。」(菊池勇夫「蝦夷島の開発と環境」―日本の時代史19『蝦夷島と北方社会』に所収 P.248249)こととなる。

 二八取漁業者は、網の建て場について、領主に対しては漁業権を持たない者ではあるが、漁業権を有する場所請負人との契約によって漁業権の委譲を受け、また漁具・労働力・その他鰊漁業に必要な一切の物件を自分で賄(まかな)う自営漁業者である。場所請負人は、二八取を場所に入れることにより、その漁獲の二割を収入にできるので、場所の間接経営になるのである。

 近海の鰊は、沖合の上層を回遊し、成熟後に終年産卵できる多回産卵性魚といわれる。春鰊と呼ばれるものは、毎年春、旧暦の3~4月(新暦で4~5月頃)ころに沿岸に回遊し、群れをなして海岸に近づき、日没から夜明けにかけて浅瀬の海藻に卵を産み付ける。この時の群来(ぐんらい)を見て、漁師は投網し収穫する。

 「追鰊」(追鯡〔おいにしん〕)という慣習は、鰊の群来(くき)が見られる浜のどこへでも当該以外の漁民でも出かけて行って漁をしてよいことになっている。つまり、漁村の前浜は、その場合、入会(いりあい)であり、その漁村固有の鰊漁業権は想定していないのである。

 18世紀、イシカリは鮭の出産地として有名であった。しかし19世紀に入ると、さすがにイシカリ川の鮭漁も不漁となっていく。1805(文化2)年頃には、その漁獲高は5000~6000石程度で、最盛期の半分ほどに減少している。

 この原因について、菊池勇夫氏は次のように言っている。「網を使用した産卵前の大量乱獲が響いているだろうが、一七五〇年代半ばにはじまる蝦夷檜(エゾマツ)の伐り出し・川流しによる河川の環境悪化も考慮すべきかもしれない。アイヌ自身の網漁も、1817

年(文化十四)に疱瘡(ほうそう)が流行(はや)り、二一三七人のうち九二六人が罹病(りびょう)、八三三人が死亡し多くの働き手を失った……。疱瘡は江戸時代後期のアイヌ人口の減少を引き起こした直接の原因であった……。」(菊池勇夫著「蝦夷島の開発と環境」―日本の時代史19 P.246)と。

 山林の非計画的な伐採が、凶漁の原因になったことは、大いに考えられることである。また、西蝦夷地では、幕府直轄となっても直捌制は行なわれず、従来からの場所請負人制が盛んで、鮭の大量乱獲で不漁が続く。

 それに漁場に集められたアイヌたちの間で、疱瘡による死亡で人口が大幅に減少する。イシカリでは4割近くの激減である。

 幕府による蝦夷地の内国化(エトロフ・ウルップ間での実質的な国境設定)により、アイヌ民族は分断され、和式の漁業の普及などで、現地アイヌの生業(なりわい)と生活は大きく変容させられていったのである。

 黒印状①アイヌ民族対策は、老中下知状のⓑ、ⓓと内容上、密接な関係となっており、多方面にわたるので項を改めて、検討することとする。

 

C民族性を無視した同化政策と過酷な収奪

 

 幕府は、1799年1月に東蝦夷地を仮上知するが、その時に、松平忠明ら蝦夷地取締御用掛への書付は、次のように述べている。

 

蝦夷地上知の要旨は、「蝦夷人教育の儀を始(はじめ)、風俗を替(かえ)候儀、並(ならびに)交易の趣法までも存寄(ぞんじより *意見)に任せ、一体開国(かいこく *開発のこと)の御趣意を含み、服従致(いたし)候儀第一に心得(こころえ)らるべく候。右御用の儀は、深き御趣意にて仰出(おおせい)だされ候儀に有之(これあり)、御国境の事にも候得(そうらえ)ば、其(その)心得を以(もって)銘々(めいめい)粉骨を尽(つく)し、今度の御趣意に違(たが)わざる様(よう)進退差引(さしひき)精勤致さるべく候。……」(羽太正養が記した『休明光記』―『新撰 北海道史』第五巻史料一 に所収 P.323

 

 外患の時期、小身の松前藩では場所請負制の「流弊」によって、アイヌ民族がロシアに通ずるようになっている。そこで、「仁徳」にあふれた「介抱」を施し、アイヌが「外国へ親しむ念慮を断切」しなければならない、とうのである。これこそが、アイヌを「服従致候儀第一に心得らるべく候」の意味合いである。

 アイヌ民族対策は、大雑把には(A)直捌制、(B)下され物、(C)和風化政策に分けることができる。

 

(1)直捌制の失敗と場所請負制の復活

 幕府は、東蝦夷地の幕領化にともない、場所請負制を廃止し、直捌(じきさばき)制へ転換した。これは、アイヌの困窮が「商人資本」の私欲に起因しているという認識から、場所請負制を止めて、幕府自らがアイヌとの交易を行なうというものである。

 幕府によって、担当役人たちは、「場所受取兼蝦夷交易、道路開削、青森・大畑・石巻および酒田仕入物取扱、〔官船〕政徳丸の上乗、択捉島掛ならびに江戸掛などに配分」(『新北海道史』第2巻通説一 P.529)され、蝦夷現地では場所を受取り、アイヌに直捌の趣旨を伝え、通詞、番人らは従来の者を採用し、幕吏が直接監督して、交易を営んだ。また、「江戸霊岩島に会所を設けて官吏がこれに詰め、蝦夷地から運送された産物を処分し、その地に送るべき仕入物を取り扱うとともに、〔蝦夷地では〕江戸掛の役人の御用取扱所とし、箱館に数名の用達を置き、ついで全国各要港に用達(ようたし)、用聞(ようきき)を置いて取引きの円滑を図り、多くの船舶を購入もしくは新造して官船とし、数多の雇船(やとひぶね)とともに貨物を運搬させ、さらに陸上の交通を便利にするため、東蝦夷地の諸所に山道を開削し、旅舎を建て、駅逓の制を定め、馬や牛を購入して各場所に配布した。……」(同前 P.530)のである。

 だが、武家の商法の限界というか、「商人資本」を排除するといいながら、結局、場所経営の拠点である運上屋を単に会所と改称しただけで、旧来のシステムに依存した経営を行なった。したがって、運上屋で働いていた支配人・通詞・番人たちは継続して雇われた。 

 しかも、アイヌの有力者たちは、乙名(惣乙名・並乙名)、小使(惣小使・並小使)、土産取(みやげとり)などの役名を授けられた(役アイヌ)が、アイヌコタンは内地のような村請機能(「自治機能」)はもたらされず、会所を通してしか幕府役人と接触できなかった。だから、会所の支配人らはアイヌ交易や漁場経営を行なうだけでなく、幕府役人の命を受けて、アイヌコタンに指図する「公的存在」ともなったのである。

 直捌制については、経費がかかるとして勘定役人から当初から異論が出ていた。「蝦夷地産物払立代元払差引凡取調」(1799~1805年)によれば、七年間に15万2871両の黒字が東蝦夷地の直捌(じきさばき)で計上され、年平均で約2万1800両の利益をあげていた。だが、これは当初、年額5万両ずつ御金蔵から下されていた「蝦夷地御入用」や諸役人の手当てを含まないものであって、蝦夷地関係全体の収支でみると、年平均3万7000両もの損失になっているのである。1)

 この結果、1807(文化4)年に西蝦夷地が直轄化された際、同地には直捌制は採用されなかった。また、1808(文化5)年にそれまで直捌であったカラフト・宗谷・斜里の3場所が請負制となり、1810(文化7)年にはエトロフ場所も高田屋嘉兵衛の請負となった。こうして1812(文化9)年、クナシリも含めて東蝦夷地の諸場所もすべて直捌制は廃止となった。場所請負制の復活である。「同一〇(*1813)年以後松前・箱館居住の者は誰でも請負に入札が可能となった。その結果東蝦夷地の一九場所に対する運上金の落札総額は一万七〇〇〇両に達し、それは寛政一一年(一七九九)の運上金と比べると約六倍となっていた。そのことは競争入札によって運上金が釣り上げられたほかに、幕府の直捌きの時期に漁獲量が著しく増大していたためであった。」(秋月俊幸著『千島列島をめぐる日本とロシア』P.192)という。

 しかし、「大量生産」でアイヌの生活が改善されるわけではなく、かえって厳しい雇用労働と生活に追いやられたのである。19世紀に入ると、鰊(にしん)や鮭を中心とした漁業経営がいっそう活発になり、アイヌは運上屋(幕領期は会所)や番屋の周辺に集住させられ、過酷な労働に従事させられた。集住させられたアイヌは、過酷な労働に加えて、疱瘡(ほうそう)などの流行により、その人口を急減させた。

 1804(文化元)年の東蝦夷地1万2753人、西蝦夷地1万1014人(内、カラフト2100人)―計2万3767人が、1854(安政元)年には東蝦夷地1万0410人、旧西蝦夷地7023人(1809年に北蝦夷地と改称されたカラフトは、この内、2639人)―計1万7433人となり、約四分の一もの人口が減少したのであった。とりわけ、西蝦夷地の減少がはなはだしかった(菊池勇夫著「蝦夷島と北方世界」―日本の時代史19『蝦夷島と北方世界』吉川弘文館 2003年 P76)。アイヌは「商人資本」のあくなき利潤追求の犠牲となっていったのである。

 また、1821(文政4)年12月、蝦夷地が松前藩に復領となっても、商場知行制は復活せず、蔵前知行制(*土地ではなく扶持米を支給する制度)へと移行していく。以降、藩あるいは箱館(松前・蝦夷)奉行所は場所請負制度による運上金収益システムを存続させたため、1876(明治9)年の漁場持(ぎょばもち)制度廃止まで、請負人による蝦夷地経営は維持されていくのであった。

 

1) 田端宏著「幕府の蝦夷地経営(寛政~文政期)の諸問題」(『北からの日本史』三省堂 1988年 に所収)P.285286

 

(2)「下され物」による服属化

 幕府はまた、アイヌを撫育・介抱するという「仁恵」の名によって、しきりに「下され物」を行なった。

 「下され物というのは、儀礼や年中行事のたびたびの機会を通して、アイヌの乙名・小使(こづかい)・土産取などといった役柄・地位に応じて支給された米・酒・煙草・ハレ着・マキリ(小刀)などのことであるが、介抱・撫育とは狭義にはこの下され物をさした。とくに交易の挨拶礼に起源があるといわれるオムシャ(お互いに撫で合うの意、のちに恩謝の宛字)が重視された。会所に武器を飾っての威儀空間が演出され、役蝦夷の任免、アイヌ一同への法度(はっと)読み聞かせ、定例の下され物、盃事、酒飯のもてなしと続き、いわば服属の更新儀礼という性格を本質としていた。」1)と言われる。

 オムシャは、もともとアイヌ社会で、無沙汰の挨拶礼として行なわれていたのだが、和人との力関係の変化に応じて次第に服属を示す儀礼に変わっていった。幕府も、この社会慣行を利用するのだが、この際に「下され物」を与え、アイヌの歓心を買ったのである。

 児島恭子著『アイヌ民族史の研究』(吉川弘文館 2003年)の第十章「同化政策の儒教思想」には、十九世紀初頭ころに書かれた「蝦夷人孝子褒賞記」が全文掲載されているが、そこには東蝦夷地クナシリ嶋の夷人ベロと東蝦夷地ウエンヘツの夷人アベバナの孝行話が述べられている。その孝行に対して、幕府役人は褒賞し、ベロには綿袍(*綿入れ)綿帯(*綿のおび)を一ツずつ与え、アベバナには生活上の便宜を与えている。

 そして、ベロの項の最後のカ所で、「是(これ)に由(よっ)て之(これ)を観れば、国家よく仁義の道を以(もっ)て漸漸(ようよう)に暁道(*明らかに照らす)せば、夷人朴質(ぼくしつ *飾りなくまめやか)の性、必ず其(その)悪を去り、必ず其の善にうつり、数年を出ずして蝦夷の地ことごとく仁政に服し、ことごとく忠孝を尊(とうと)ばん事、それ猶(なお)置郵(ちゆう *宿駅)して命を伝うるよりも速(すみや)かならん」と、同書の主旨が述べられている。アベバナの項でもまた同じである。

 結局、「下され物」とは、アイヌを服属させるための褒賞物なのであった。

 

1)菊池勇夫著「海防と北方問題」―岩波講座『日本通史』第14巻 に所収 P.242

 

(3)和風化による同化政策

 アイヌの和風化政策は、幕府直轄時代になって本格化したものである。それ以前の松前家の時代にも、全く無かったわけではないが、あまり積極的に行なわれたものではない。むしろ、華夷思想に基づき差別するために、アイヌの風俗をそのままにして「未開」の民族として印象付けていたのである。

 松前藩を厳しく批判する最上徳内は、「都(すべ)て日本風俗に化し染まぬ様にとするは、松前家の掟也」(『蝦夷国風俗人情之沙汰』P.460)とまで言っていた。その意味では、松前藩時代は、異化政策的な面をもっていたと思われる。

 それが、幕領時代になると、大きく転換する。それには訳がある。幕府の同化政策よって、アイヌ民族の風体が一見して和風であれば、アイヌが日本に属することが明らかであるからである。それにより、ロシアなどの進出・侵略を防止するというのである。

 そこで、1799(寛政11)年2月10日付で、若年寄立花出雲守が蝦夷地取締御用掛たちに渡した書付では、「今度蝦夷地御用の御趣意は、彼(かの)嶋未開の地ニ之(これ)有り、夷人共(ども)衣食住の三つも相整(あいととの)わず、人倫の道も弁(わきま)へざる儀、不便の次第ニ付(つき)、此度(このたび)御役人遣(つか)わされ、御徳化及(および)教育をたれ、漸々(ようよう)日本の風俗に帰し厚く服従致(いた)し、萬々一外国より懐(なつ)け〔*なれ親しむ〕候事など之(これ)有る候とも、心底動かざる様存じ込ませ候儀、御趣意の第一ニ候……」(『休明光記附録』巻之一〔『新撰北海道史』第五巻史料一 P.548〕)と、命ずる。

 蝦夷地はとてつもなく広大であり、ロシアの南下に対し軍事施設をつくって防備する訳にはいかない。そこで先住民であるアイヌ民族の心を掴(つか)むのが第一であり、そのため、アイヌの「日本の風俗に帰し厚く服従」させることが「今度蝦夷地御用」の「御趣意の第一」なのである。エトロフ島は北方の国境であり、勢い幕府の同化政策はエトロフで強化されざるを得なくなるのである。

 エトロフ島掛の近藤重蔵らが会所予定地のヲイトに到着したのは、1800(寛政12)年閏4月24日である。到着後すぐに、出迎えのアイヌたちを招き、有りあわせの濁り酒でさしあたりの「会所開き」を行なった。

 5月4日には、エトロフアイヌすべてと、参加したアツケシアイヌ・ネモロアイヌを対象として、エトロフアイヌの乙名に津軽酒一樽、すべてのアイヌに濁酒10樽を「エトロフ開設」の祝いとして下された。また、会所であるヲイトの乙名と、番屋を置くシヤナ・ルベツ・ナイボの乙名には、多葉粉(タバコ)3把ずつが与えられた。

 この祝の場では、以下の基本方針が伝えられた。(以下の出典は「エトロフ会所日記」―『大日本近世史料』近藤重蔵蝦夷地関係史料一P.340341

 ①ヲイトを会所と定め、シヤナ・ルベツ・ナイボに番屋を設置すること。但し、所々のアイヌが上記「四ケ所え集り相稼(あいかせぎ)候義、去年申渡置(もうしわたしおき)候通り相心得(あいこころう)べき事」としている。「四ケ所へ集り相稼」とは、一緒に漁業に勤めるようにということである。 

 ②以来毎年、役人が派遣され、通詞・番人が越年すること。

 ③この度の開発は、「……夷人共を不便に思召(おぼしめし)候格別の儀を以(もって)御救(おすくい)のため新開仰付(おおせつけ)られ候條、」と恩着せがましく述べて、子々孫々まで感謝せよ、と言いたてている。

 ④アイヌに対し、「親を大節(大切)ニいたし、夫婦兄弟むつましく(睦まじく)、荷物稼方(かせぎかた)出精(*精を出して仕事をする)いたし、往々衣食住等相整(あいととのえ)候様心がける事、」を促している。儒教道徳をもって、仕事に精を出せ、といっているのである。

 ⑤「……償事(つぐないこと *謝罪をもたらすこと)口論等一切相止(あいやめ)、一統和合いたし候」ようにすべきとしている。

 ⑥「追々(おいおい)シヤム振り見習(みならい)、シヤム言(*日本語)遣(つか)ひ覚へ申すべき事、」と、和風化を促している。

 ⑦和人地のように銭貨を通用させるので、追々金銭を貸し付け、その使い方も教える、としている。

 ⑧盗みに対する処罰を厳しく行なう。

 ⑨島内の人口を増やすため、アイヌたち(アイヌ有力者の隷属民であるウタレも含め)に無妻の者がないように世話をする。但し、アイヌ乙名には「妾」を持つ者もいるが、今後は「妾」を増やさないようにすべき、としている。

 ⑩「エトロフ夷人はクナシリ・子モロ(ネモロ)・アツケシ等他場所え出(いで)候義(儀)無用たるべし、」と、エトロフアイヌの移動の自由を禁止した。

 ⑪「旧冬以来(いらい)材木幷(ならびに)薪(たきぎ)伐出(きりだ)し骨折り太儀(大儀)ニ候」とし、追々手当をつかわす、としている。

 エトロフ開発に関しては、幕府の「仁政」であると、③で恩着せがましく言い渡し、④で儒教道徳を説教して仕事に励めとし、島内人口を増やすために⑨で結婚の世話をするなどと方針を掲げている。そして、国境の島であることを意識し、⑥でアイヌたちの和風化を促し、⑩でエトロフアイヌの移動の自由を禁止した。

 和風化は、⑥で「シヤム振り」、「シヤム言」の習得として、奨励されている。「シヤム振り」とは、和風の身なりに変えることである。

 重蔵の「エトロフ会所日記」では、5月2日に、ヲイト、ヘカチ、子プトモンカが「シヤム振り」になることが請願され、これに対し、鬚附油・元結・手拭・古着などさまざまな品を与え、市助、四方作、猪之助の和名も与えている。なお、四方作と猪之助には、会所の「飯焼」(飯炊き)に任命している。

 5月18日付け同「日記」では、「会所飯焼ヘカチモシンルシ、数度シヤム振りニ成度旨(なりたきむね)願(ねがい)ニ付(つき)」、これを許可し、「與茂作(*四方作のこと)同様古着(ふるぎ)其外(そのほか)手当〔を〕遣(つかわ)ス、新助と改名」している。

 海保嶺夫著「アイヌ人名の日本語化―「創氏改名」事始め―」(『史観』100冊 1979年 に所収)によると、東蝦夷地の役アイヌの日本語名の割合を場所ごとに集計すると、次のようになっている。山越内10・0%、勇払・幌泉・十勝・クスリ(釧路)が各々0%、クナシリ90・0%、エトロフ100%である。(勇払が1808年、エトロフが1811年で、残りは1809年)

 東蝦夷地の各場所の内で、役アイヌに限ってみると、クナシリとエトロフが圧倒的に和名となっている。幕府役人がいかに国境(くにざかい)の場所を重視しているかが、よく理解できる。

 では、最も重視したエトロフ島24カ村全体の男女別の和名への「改俗」率は、どのようなものであっただろうか。海保洋子著『近代北方史―アイヌ民族と女性と』(三一書房 1992年)を見ると、男44%に対し、女27%である(P.193)。そして、海保洋子氏は、「『改俗』者の内訳をみると、次のようなことが判明する。すなわち、『改俗』者のうち、男性は『乙名』、『土産取』といった『役蝦夷』層、それに家主が多いのに対し、女性はせいぜい『役蝦夷』の妻たち、『番所附』の女性(番所の下働きをしている女性)、七歳以下の子供の三つに限定される。……『改俗』は『役蝦夷』層を中心に、しかも男性を中心になされたことがわかる。」(P.194)と分析している。

 幕府の同化政策に対して、女性を中心にかなり激しい抵抗があったと推測できるが、残念なことには、史料的には男性アイヌの声しか残っていないようである。ホロイズミ(幌泉)場所のアイヌは、「病死するは是(これ)天命なれば哀(あわれ)むといへども除くべきやうもなし。今月代(さかやき)を剃り、先祖より受(うけ)たる姿を失ひ、衆人に交(まじわ)りを結ぶ事も能(あた)はず、天の罪遁(のが)るる所なし。此上(このうえ)蝦夷ども交(まじわり)をも許さず、其(その)身も自ら逼(せま)りて悪逆のことも萌(きざ)すべし」(最上徳内『蝦夷草紙後編』―大友喜作編『北門叢書』第三冊 に所収)と言って、松前かあるいは山奥に逃れようとする者さえいた、といわれる。まさに「逃散」である。

 直轄当初から、幕閣は無理押しの和風化は逆効果と考えていたが、現地では功名心もあって強制的となりがちである。だが、アイヌ民族の激しい抵抗を受けて、1802(享和2)年の東蝦夷地の永久上知をキッカケにして、次のように述べて同化政策を中止せざるを得なかった。

 

蝦夷地の儀、御取締第一の眼目ニ而(にて)、先頃御沙汰の趣(おもむき)も之(これ)有り候間、開国(*開発のこと)の趣意など申(もうす)儀、或は蝦夷人共衣服其外(そのほか)風俗を替えさせ候類の事は、尤(もっと)も容易ならざる筋に候(そうろう)処(ところ)、是迄(これまで)場所々(*場所場所)請持(うけもち)取扱(とりあつかい)候ものとも、自己の功(こう)を急ぎ候(そうろう)志(こころざし)も之(これ)有るやに候。蝦夷人ども風俗を替え候儀等、願(ねがい)の事トハ申しながら、此方(このほう)よりおのづから願(ねがい)候様(そうろうよう)仕向(しむけ)候(そうろう)趣(おもむき)なども候(そうろう)而ハ(ては)、以てのほか宜(よろ)しからず候。之(これ)により、以来の儀は、左の通り相心得(あいこころえ)、取扱申すべく候。(『休明光記』巻之九)

 

 わづか3年にして、幕府は同化政策を転換せざるを得なかったのである。

 蝦夷地取締御用掛から蝦夷奉行体制へ代わって間もない1802(享和2)年3月、老中戸田采女正と蝦夷奉行が協議して取り決めた当面の経営方針(修正)は、次のようなもであった。①農耕は和人が居住地周辺で行なう程度とし、アイヌに進めることは禁止。②和人の漁業はアイヌの妨げにならぬ程度とする。③アイヌを日本風俗に導くことは中止、「世話」も彼等の生業が衰えぬ程度までにとどめる。④普請、造船などは新規に行なわず、「仕入れ」の諸物資もなるべく取り締まる。⑤すべて「利得」に響くことは行わない。

 

Dロシアとの衝突で蝦夷地を全面直轄

 

(1)フヴォストフのカラフト・エトロフ襲撃

 イルクーツクの大商人シェリホフは、アリューシャン列島や北アメリカ北西岸で活動したが、彼の作った北東アメリカ会社はその死後の1799年に、ロシアの特権的な国策会社「露米会社」に発展する。

 シェリホフの娘婿ニコライ・レザノフは元老院第一局(行政監査)の監事をしていたが、1798年、パーヴェル1世に働きかけてシベリア諸商会の合同による独占会社の認可を得た。この会社が翌年改組され、商人の他に皇帝・皇族・貴族・地主らが株を持つ巨大な国策会社「露米会社」となる。

 露米会社は、アリューシャン・アラスカ・アメリカ北西岸・クリール諸島の範囲にわたる領土の占有と、新領土の発見・占領・交易と狩猟の独占、武力の保持などの幅広い特権を持つものであった。それは、まさにオランダやイギリスの東インド会社と同じような性格をもったものであり、会社の体裁をとりながらロシアの領土と権益の拡大を狙う国家目的を追求する尖兵であった。1)

先述したように1804(文化元)年9月、ロシアの第二回遣日使節ニコライ・レザノフが、漂流民を護送しつつ、通商交渉のために長崎に来航した。だが、幕府は、翌年3月、レザノフの通商要求を拒否し、長崎奉行に漂流民を受け取らせ、以後漂流民の送還はオランダ人を仲介とすることを伝える。半年間、軟禁同様の待遇で返事をまったレザノフであったが、幕府の拒絶にあい、傷心のうちに長崎を去る。

1805年露暦5月、レザノフはカムチャッカに戻り、皇帝宛ての報告書で“英米に先んじて千島・サハリン(カラフト)に入植し、同地を拠点に日本との交易を実現する必要性”を強調した。

同年露暦6月、レザノフは露米会社船で、北米のロシア植民地を視察するために、カムチャッカのペトロパブロフスク港を出発する。これには、露米会社に再雇用された海軍士官のフヴォストフとダヴィドフも参加した。レザノフは、ロシア領アメリカやカリフォルニアを廻り、ラッコの多さを確認し、ロシア領アメリカから毛皮をキャフタ(バイカル湖近くの都市)へもたらすには、千島・サハリンの拠点が不可欠であることを確信した。また、頑迷な幕府の方針を揺るがせ交易を強制させるには、ソウヤやカラフトのアニワ湾の豊かな漁場や海運に打撃を与える必要があると考えた。

レザノフは、日本遠征のために2隻をあて、その指揮官に露米会社雇いのフヴォストフとダヴィドフを任命した。

「1805年7月レザーノフが二人の士官に与えた命令の内容は、①サハリン島のアニワ湾の日本植民地を襲撃し、その地の施設を破壊して物資を奪うこと、②アイヌたちは親切に取り扱い、メダルを与えてロシア臣民とすること、③日本船を発見したらこれを捕獲し、捕虜たちをアメリカ植民地へ移すこと」(秋月俊幸著『千島列島をめぐる日本とロシア』 北海道大学出版会 2014年 P.159)などであった。カラフト攻撃は、日本との通商関係を樹立するための脅しであった。

しかし、オホーツクに先着したレザノフは、兵力の不足と自艦の破損に直面し、対日遠征に参加すべくオホーツクに到着するはずのフヴォストフに宛て『以前に命令したことは全て保留』と補足命令を出したのであった。レザノフは、北方の日本植民地攻撃について、未だロシア皇帝の勅許を得ていなかったのである。

だが、フヴォストフはレザノフの実質的な中止命令を単なる延期とみなして、実行に踏み切る。1806(文化3)年9月11日、軍艦でカラフト島に来航し、クシュンコタンの松前藩会所を襲い、越年の番人4人を捕虜とし、運上屋・倉庫など11棟を焼き払い、米600俵・酒その他の雑貨や器物を捕獲した。そして、アイヌの長老たちにロシア帰属の証となるメダルと証明書を与え、また、弁天社の鳥居にロシア領土を宣言する銅板を打ち付けた。

だが当時、冬も近いということで現地には松前藩士は不在で、襲撃事件は翌年4月に松前に知らされることとなった。

ダヴィデと合流したフヴォストフは、1807(文化4)年4月23日、エトロフ島西岸のナイボに上陸し番屋を襲撃し、番人ら5人を捕らえた。米や塩なども奪い、番屋や倉庫を焼き払った。アイヌも6人捕らえられたが、彼らは釈放された。

その後、フヴォストフらはエトロフ島の本拠地シャナに向かった。そこには幕府役人、南部藩兵、津軽藩兵ら約230人が常駐していたが、大砲や鉄砲をもったロシア人20数名が上陸してくると、ほとんど戦わずして敗走した。ここでもまた、フヴォストフらは莫大な食料・武器・財貨を捕獲し、残りは建物とともに焼き払った。

エトロフ攻撃を終えたフヴォストフらは、次いでウルップ島のロシア人植民地跡を調査し、再びカラフト島のアニワ湾に向かい、オフィトマリやルータカの施設を焼き払う。さらに西蝦夷地の礼文島や利尻島の沖合で、日本の商船2隻と松前藩・幕府御用船の4隻を捕らえて焼却した。逃亡した幕府船の乗組員を追って、利尻島には上陸(5月)もしている。(オホーツクに戻ったフヴォストフとダヴィドフは、遠征の噂を聞きつけた同地当局に報告を求められたがこれを拒否し、よって逮捕される)

 

1)露米会社は、英米との衝突を踏まえ、1821年の第二次特許状の第二条で、その活動領域を次のように定めた。アメリカ北西岸は北緯51度以北、クリール諸島ではウルップ島の南端までである。それは事実上の領土宣言に等しいものであった。これに対し、英米は直ちに抗議し、交渉の結果、1824年の露英条約によってロシア領土は北緯54度49分以北に制限された。それは今日、アメリカ領アラスカとカナダとの国境になっている。

 

(2)蝦夷地の全面直轄化に踏み切る幕府

これら諸事件の最中の1807年3月、幕府はついに松前・西蝦夷地を直轄する命令を発した。これで、東西蝦夷地はともに幕府の直轄となった。代わりに松前藩主・松前章広は、7月、陸奥国伊達郡、上野国甘楽郡・群馬郡、常陸国信夫郡・鹿島郡に移封され、9000石の表高と定められた(実高は1万8600石余)。

蝦夷地を全面的に幕府の直轄にするということは、単に個別大名を転封させ幕府が直接統治することに止まらない。いままで「異域」であった蝦夷地を、日本に内国化させることを意味した。大きな転換である。

だが、幕府は西蝦夷地直轄を発令した3月の時点では、前年秋のロシアのカラフト攻撃を未だ聞き及んではいなかった。冬季は、カラフトと松前との間の連絡は中絶していたからである。1806年9月の事件が松前に伝えられたのは、1807年4月3日である。次いで同年4月のエトロフ襲撃事件の第一報が箱館に届いたのは、同年5月18日のことである。

情報量の少なさ、伝達の遅さが著しい当時は、ロシアの襲撃事件は、日本中を震撼させたという。丁度この頃、ボストンのアメリカ船が広東での交易を終え、カムチャッカに向かう途中、津軽海峡を通過した。「この船のお蔭で津軽海峡の交通が途絶したので、本州では蝦夷島の周辺を数百隻のロシア船が包囲したという噂が広まり、蝦夷地はロシアに占領されて奉行羽太正養も捕虜となったとのデマも飛び交い、江戸では鎧・兜などの古い具足が飛ぶように売れたという。幕末のペリー来航のときの騒ぎはすでにこのときにも見られた……」(同前 P.164165)のである。

 

〈蝦夷地の勤番〉

蝦夷地の防備を担った軍事力は、長崎警護や江戸湾防備と同様に、幕府の命ずる諸大名への軍役賦課が基本となっている。松前藩のような小藩では、とても大国ロシアの軍事攻勢には対抗できないからである。

盛岡藩・弘前藩は、すでにクナシリ・メナシの戦いの際に出兵待機の命を受けていた。ラクスマン来航の際には、警護の兵を出し、ブロートン事件の際には、隔年交代で箱館勤番を命じられていた。

さらに、東蝦夷地の仮上知に伴ない、1799(寛政11)年11月、「幕府は両藩に対し、蝦夷地のうちサワラ(砂原)およびクスリ(釧路)辺に設置予定の勤番所に、重役の者二~三人ずつ、足軽一〇〇〇人(一藩五〇〇人)ほどを御用地年限中派遣するよう達している。翌一八〇〇年より東蝦夷地へ勤番が派遣されたが、両藩とも箱館を本小屋とし、盛岡藩はウラカワ(浦河)以東を持場とし、ネモロ・クナシリ・エトロフに勤番所を建設、弘前藩はサワラ以東を持場とし、サワラ・エトロフに勤番所を建設した。幕府が国策として『開国』(*開発のこと)したエトロフだけは両藩の勤番地とし重点がおかれていた。勤番規定人数は当初一藩五〇〇人とされていたが、のち二五〇人に半減され」(菊地勇夫著「海防と北方問題」―岩波講座『日本通史』第14巻近代4 1995年 P.245)ている。

1802(享和2)年7月、東蝦夷地は永上知となる。これにより、両藩は1804(文化元)年に永久勤番を義務付けられた。

さらに幕府は、1807(文化4)年2月、西蝦夷地も上知する。同年4~5月、箱館奉行羽太正養は、カラフト・エトロフ事件の報を受けると直ちに幕府に報告する。6月、幕府は、津軽・盛岡両藩に増兵を、秋田・庄内藩にも派兵を命じ、総勢3000人の兵力が箱館に集結した。それとともに、若年寄堀田正敦、大目付中川忠英、目付遠山景晋らを蝦夷地に派遣し、10月には、奉行所は箱館から松前に移され、奉行は4人に倍増され、松前奉行と改称された。

1808(文化5)年1月、盛岡・津軽両藩の各250人を残し、新たに仙台藩兵2000人が、箱館、クナシリ、エトロフを守り、会津藩士1600人が福山(松前)、ソウヤ、利尻、カラフトに展開し、北辺守備に配置された。

しかし、1809年になると、再び盛岡藩と津軽藩のみが蝦夷地を警備することとなる。「……盛岡藩は東蝦夷地を担当し、箱館・ネモロ・クナシリ・エトロフに六五〇人(うち越年二五〇人)、弘前藩は西蝦夷地を担当し、松前・江差・リイシリ(利尻)、ソウヤ・カラフトに四五〇人(うち越年二五〇人、ただしその後リイシリは廃止、ソウヤ・カラフトは冬期マシケ引上げとなる)の規定人員をそれぞれ派遣することに改められた。」(同前 P.245)のである。

盛岡・弘前両藩の常駐に、緊急時には秋田・庄内・仙台・会津・富山などの東北を中心とする有力大名が補完する体制をとったのである。

 だが、盛岡・津軽両藩の実際に動員された「兵士」は、下級武士だけでなく、少なからずの農民なども動員された。菊池勇夫氏によると、「両藩ははじめ重役二~三名、足軽五〇〇ずつとされたが、のち二五〇名ずつに軽減、さらに文化露寇事件(*1806~07年のロシアの襲撃事件)後には盛岡藩六五〇人・弘前藩四五〇人の定式勤番とされた。両藩は警備地域を分担し、蝦夷地の要所に勤番所を設け駐屯した。……弘前藩では五〇〇名の陣容のうち、本来の足軽が一〇人あたり三~四人に過ぎず、残りは郷夫や職人を身分的には足軽に取り立てた者たちであった。盛岡藩の場合も同様で、領内高一〇〇〇石につき一・五人の割合で村に課し、器量よき者を選び雇ったもので、同じく苗字帯刀の足軽として、鉄砲足軽とともに派遣された。当初は防備というより、小屋作り・道作りといった普請要員としての性格が強かったのである。また、これらの派遣足軽は『腫(はれ)病』とか『紫斑病』といわれたビタミンCの欠乏による壊血病に罹(かか)り、つぎつぎ死ぬなど民衆の犠牲のうえに北方防備が成り立っていた」(同著『アイヌ民族と日本人』朝日選書 一九九四年 P.242243)というのである。蝦夷地内国化にともなう北辺防備なるもの(侵略維持)も、多くの農民に犠牲を押し付けるものであった。

幕府は、フヴォストフらが釈放した日本人捕虜にもたせた書簡で、彼等の目的が通商にあることが分かると、1807(文化4)年12月、ロシア船打払い令を出す。それは、「向後何れの浦方にてもおろしあ(*ロシア)船と見請(みうけ)候はば厳重に打払い、近付(ちかづき)候においては召捕り又は打捨て候事」(『御觸書天保集成』下 岩波書店 1941年 P.858)というものである。

 

(3)日本とロシアの報復合戦

フヴォストフらによるカラフト・エトロフ襲撃事件の直前、1807年夏、ロシア政府は太平洋北部の地理的探検と測量を目的として、武装艦「ディアナ号」を送り出した。ロシアにとって、世界周航船の派遣は二回目であった。艦長はゴロヴーニンで、副艦長がリコルドであった。

ゴロヴーニンらは、測量を続ける中で、1811(文化8)年5月(露暦7月)クナシリの泊に着き、勝手に測深(深さや、海底の地質などを調べること)を始める。この時、南部藩の守備兵が攻撃をしかける。だが、ロシア側は応戦の意思はなく、ただ薪水と食料を求めて、会所で松前奉行支配調役・奈佐政辰と面会する。しかし、奈佐は自分の一存では決められないので、松前の返事を受けとるために30~40日間、この地に留まるように要求した。だが、ゴロヴーニンはこれに随わず退去しようとしたため、ゴロヴーニン以下8名が6月に逮捕され、松前へ移送される。

ゴロヴーニンらの釈放を追求する副艦長リコルドは、1812(文化9)年8月、高田屋嘉兵衛をクナシリ海上で捕らえる。ロシアと日本の報復合戦は、エスカレートするのであった。

そして、1813(文化10)年5月、リコルドは、クナシリに来り、高田屋嘉兵衛を介してゴロヴーニン釈放交渉を開始する。

ゴロヴーニン事件が解決したキッカケは、ロシア側がフヴォストフらの襲撃事件がロシア政府の関知しない私的なものであるとして陳謝したからである(事前に日本側の根回しが行われた)。

同年9月17、ディアナ号が箱館に入港する。「高田屋嘉兵衛は、松前奉行所役人の代理人としてディアナ号を訪問し、リコルドから、『フヴォストフは日本で乱暴したときに、露米会社の社員で同社の商船の船長を勤めていた。同人が日本人の村落を襲い乱妨したのは、一己の了簡であって、ロシア政府の知らぬ所である。フヴォストフはオホーツクに帰還すると、私の前任者によって処罰された』(『通航一覧』魯西亜国部四十一)というオホーツク港長官の書簡を受領した。リコルドが同長官と文面をよく摺り合わせた結果であろう。日本側がロシア側に求めた明弁書を満たすものであった。」(横山伊徳著『開国前夜の世界』吉川弘文館 2013年 P.194)と言われる。

ただちに幕府は、幽囚2年にわたるゴロヴーニンらをリコルドに引き渡す。(しかし、幕閣はロシアとの通商は行わないという態度は堅持した)

幕府としては、ロシア側の釈明を得たということもあるが、それに加え、日本側としては北辺警備のための諸藩の経費がかさみ、大きな負担となっている事情がある。実際、1813(文化10)年12月、幕府は、南部利敬に蝦夷地警衛費を貸与せざるをえなくなる。そして、北辺でのロシアとの緊張が弱まるとともに、1814(文化11)年、この年、幕府は、箱館・松前以外の全蝦夷地守備兵を撤収する。

さらに、1821(文政4)年12月、幕府は、以前から松前藩から強い要望のあった東西蝦夷地の「返還」を行ない、南部・津軽両藩兵も撤収させる。第一次幕領時代(1799~1821年)の終了である。  

 

E松前藩の復領時代(1821~55年)

 

 (1)松前藩の贈賄と幕閣の収賄

 1806(文化3)年、老中に復職した松平信明の第二次政権は、不安定な政局運営を余儀なくされた。それは、将軍家斉(在位1787年4月~1837年4月)の側用人から出世した若年寄水野忠成(ただあきら *沼津藩主)が、脇坂安董らと党派を形成し、蠢動したからである。

 1818(文政元)年、松平信明の死去により、水野忠成政権が発足する。政権を握った忠成には、田沼意次の次男意正(おきまさ)や林忠英(ただふさ)などの仲間がいた。

 忠成政権を支えたのは、いうまでもなく将軍家斉の絶大な信任である。この家斉は、徳川将軍の中でも最長の50年間在位したが、巨大な大奥をつくるなど稀にみる浪費家でもあった。これに阿諛(あゆ *おべっかを使う)追従する忠成は、「水の(*水野)出てもとの田沼となりにける」とか、「そろそろと柳(*柳沢)に移る水の影」とか、風刺されるように、側用人政治の復活あるいは賄賂政治の復活と、世人から批判された人物である。

 この忠成政権に対して、松前藩は猛烈な贈賄を行ない、蝦夷地の復領を果たした、と言われる。

 従来、松前藩は表高一万石格の大名待遇であったが、実収入は石高に換算すると5~6万石であった。それが、蝦夷地の幕府直轄により、松前藩は陸奥梁川(現・福島)などに移封されたが、その高は9000石ほどであり、著しい減収となり、1808(文化5)年には、藩士・足軽の過半数にあたる170人余を召し放ち(主従関係の解除)せざるを得なかった。

 このため、松前藩はその後も、幕閣の有力者に対し、さかんに復領運動を展開していた。それが忠成政権発足後三年の1821(文政4)年、忠成の決定により、全蝦夷地の復領が実現したのである。

 松前藩は、復領で松前に戻る旅費にも江戸の商人から借金しなければならない程、藩財政は窮迫していた。それにもかかわらず、1831(天保2)年には、幕府へ1万両の献金をして、復領に感謝している。その後も、しきりに献金を行なっている。

 この献金は藩財政の状況からして、かなり無理な行為であり、そのしわ寄せの大部分は請負商人を媒介としてアイヌの人々や和人の小漁民に向かったのである。  

 それだけでなく、松前藩は復領にさいして、以前のような「商場知行制」を復活させていない。松前藩は、幕領期の松前奉行が結局は、エトロフ・カラフトを含む蝦夷地のすべての領域を場所請負制で管理したのと同じように、松前藩主が全領域を請負制の下に置き、運上金などすべての収入を藩主の下に収め、そこから藩士個々に給与を支給する知行制にしたのである。いわゆる「蔵米知行制」である。

 藩主は、復領が決まるとただちに、栖原屋、伊達屋という大請負人に請負場所の継続を伝え、同時に2万両の借用を申し付けている。請負に勤める大商人に依存した蝦夷地支配は、明々白々であり、以前よりもさらに強まったのである。

 幕府は、蝦夷地の松前藩復領にさいして、これまでの幕府直轄時代の蝦夷地経営の方針を守ることを厳重に指示した。とくに、アイヌ民族に対する「撫育」や異国船への警戒には十分な注意を払うように命じた。このため、「……松前藩はカラフト島・エトロフ島・クナシリ島および東蝦夷地などには台場や遠見番所、烽火台などを設け、一二カ所の要所には勤番所をおいて一年交代で数十人の勤番の藩士たちを派遣していた。しかしそれは形式的なものにすぎず、勤番の過半は在住足軽で、それは漁場の漁夫たちに足軽の名を与えたものであった。勤番地ごとの人数についてみれば、エトロフ島がもっとも多く、ついでクナシリ島、根室などロシアに近い地域に重点が置かれていた(『松前町史』通説編)。」(秋月俊幸著『千島列島をめぐる日本とロシア』 P.195)のである。

 

 (2)松前藩復領の背景

 松前藩の復領は、単に同藩の贈賄攻勢が実ったためだけとは言えない。当時の政治情勢が大きく変わったことや財政的困難性などが明らかになったからである。

 まず第一に、ゴロヴーニン事件の解決(1813年)以降、ウルップ島にはロシア人の姿もなく、日露間の国境争いに小康状態が生まれたのである。

 第二に、フヴォストフ事件後の1809(文化6年)年、南部・津軽両藩を除く、東北諸藩の北辺警備は解除されたが、南部・津軽両藩の負担は依然として、大きなものであった。「文化六年以後は南部藩が東蝦夷地およびクナシリ島、エトロフ島を、また津軽藩が西蝦夷地およびカラフト島(*北蝦夷地)を警備し、その半数は蝦夷地で越冬したが、設備の不備や食料の偏(かたよ)り、寒気のために死亡者が少なくなく、さらに諸藩の財政や領民の負担は重大な影響を受けていた。」(同前 P.193194)のである。

 北方警備のための財政負担が大きく、その上、藩士など越冬者の死亡が繰り返されたのである。

 このような状況の下、松前奉行服部貞勝は、蝦夷地警備体制の変更に関する伺いを幕閣に申し立てた。それは、第一案として、エトロフ・クナシリ・カラフトの警備は中止して、東はネモロ(根室)、西はソウヤ(宗谷)を境とする。第二案は、南部・津軽両藩の兵を撤収させて、替わりに秋田・富山両藩に出兵させる。第三案は、松前・箱館は南部・津軽両藩に、東蝦夷地ネモロからエトロフまでは秋田藩に、西蝦夷地エサシ(江差)からカラフトまでは富山藩にそれぞれ守備させる―というものである。

 結局、幕府は第一案を採用したが、広大な蝦夷地をわずかな兵ではとても警備できるものではない、と愚痴るだけであった。そして、松前藩への蝦夷地支配を委任するのであった。

 

 (3)復領後の場所請負制の新たな発展

 復領後の松前藩は、以前と異なり、和人地(松前地)と蝦夷地を問わず、全域を藩主の直轄地とし、第一次幕領期の場所請負制を踏襲して、蝦夷地内の各場所経営をすべて場所請負人に請け負わせた。そして、「商場知行制」から「蔵前給与制」へと変えたのである。全域を直轄地とした藩主は、家臣に知行地を与えず(封建せず)、全域を藩の経営地(ただし、場所請負人に請け負わせた)として、その利益から家臣に給与を与える制度に転換したのである。

 この結果、各場所は、藩主―場所請負人という一元的関係となり、場所請負人は従来からの場所内での漁業経営やアイヌとの交易だけでなく、松前藩の行政の一部をも代行することとなり、場所請負制は新たな発展をみる。このことは、アイヌの立場からみると、場所請負人の抑圧と収奪がさらに厳しくなったことを意味する。すなわち、各場所で、藩庁―場所請負人―場所支配人―役付きアイヌという指揮・命令系統の下で、アイヌ支配と収奪が一段と強化されたのである。

 例えば、第一次幕領期に定着したアイヌ民族に対する政治的な支配儀礼としての藩主へのウイマム(「御目見得」)の強制化と定例化、オムシャの年中行事化によって、アイヌにたいする道徳教育(掟書の読み聞かせ)の強化である。これらは、場所請負人の各場所内での権限の強化を背景に、支配人などがアイヌに対して実際の手配を行っているのである。

 また、場所請負人は、各場所内での経営権・行政権を掌握することにより、事実上、場所内の唯一の支配者となり、アイヌに対する苛烈な支配と収奪を行なうのであった。

 榎森進氏によると、「場所請負制の成立と発展により、アイヌ民族の多くは、和人の交易相手から漁場の労働者へと転化させられていったが、この期になると、アイヌ民族の多くが道路開発・荷物継走(けいそう)の人夫、駅伝のための馬子、渡船場の渡し守、渡海場の水夫、早船・早馬・早夫の人夫道案内、、さらに会所・運上家・番屋の雑役等、公私両面のありとあらゆる労働に駆り出されることとなった。ところが、こうした労働に対して支払われた対価は、例えば漁場稼ぎの場合、年間の給代は、場所によって異なるが、大略銭五貫文~一五貫文(但し、その基準は米一升=銭五六文)で、それを当時の平均的な両替相場銭六貫五〇〇文=金一両で換算すると、最高でも僅(わず)かに金二両一分に過ぎず、当時の出稼ぎ和人(番方・稼方)の年間平均給与七~八両と比較すると、最高でも出稼和人の四分の一程度にしかならなかったのである。また、これを日給に換算すると、大略四五文、玄米にして七合五勺であった。これに対して、アイヌが和人側から購入する日本産製品の価格(東蝦夷トカチ場所の場合)は、清酒一升=二〇〇文(約四日分の給代)、煙草(タバコ)一把=九〇文(二日文)、マキリ(小刀)一丁=七〇文(一日半分)、煙管(きせる)一本=九〇文(二日分)、鍋一つ=一五〇文(三・五日分)、縫針(ぬいばり)一本=三文(一日の給代で僅かに一五本)、古着一枚=二貫五〇〇文(五五・五日分)であった」(同著『アイヌ民族の歴史』草風館 2007年 P.363364)と言われる。(金一両=一貫文、一貫=銭1000文〔実際は960文〕)

 アイヌは出稼ぎ和人の四分の一という給与でしかない。まさに目を見張るような法外な収奪である。しかし、これは形式上の計算である。実際には、アイヌ労働者の漁場稼ぎの給分などと、日常の物品の購入の出入勘定は、帳簿の上で差し引き計算され、年一回漁期の終わりに清算されるのであり、帳簿上のゴマカシなどもしばしばあったのである。(過酷な労働条件については、後述)

 

(4)アイヌの自立を求めた抵抗

 松前藩復領後、五年を経た1826(文政9)年、松前の町年寄の現況報告は、次のようなものであった。すなわち、「何事も幕領時代の仕来(しきた)り通りに行なわれており、問題はない。場所請負人もヨイチ(*余市)とアツケシ(*厚岸)が替わっただけで、すべて従前通りの経営が行なわれている。異国船は冲を通る捕鯨船くらいのもので、奥地(*クナシリ・エトロフ方面のこと)の方での異国関係も何事もなく『静謐(せいひつ)』である。(桜庭為四郎文書「御内申上書」北海道立図書館蔵)」(『アイヌ民族の歴史』山川出版社 2015年 P.120)と。

 だが、現場は町年寄たちが思っているほど、「牧歌」的なものではなかった。きわめて限られた史料ではあるが、アイヌの抵抗闘争も垣間見ることができる。それを余市アイヌの事例でみてみる。

 場所請負人の過酷なアイヌ使役や疫病などによって、全般的にアイヌ人口は減少するが、中・近場所(厚田から久遠にかけての場所)では、とりわけアイヌの生活崩壊が著しい。「上・下余市場所を一場所と見做(みな)すと一九場所あった中・近場所のなかで、余市場所にはアイヌが文政五(*1822)年、石狩場所の一一五八人に次いで多い五六四人住んでいた。一場所平均一二一人しか住んでいなかった近場所に比べるとかなり多く、この順位は幕末でも変わらない。」(田島佳也著「場所請負制後期のアイヌの漁業とその特質」―田中健夫編『前近代の日本と東アジア』吉川弘文館 一九九五年 に所収 P.275)と言われる。

 余市場所の請負人は、1825(文政8)年に、柏屋藤野喜兵衛から竹屋林長左衛門に変わった。余市アイヌは、「軽物(*海獣の毛皮など)はもちろん、『諸産物一品成共(なるとも)舟方其外(そのほか)へ交易』することや運上家に無断で『他場所へ参(まい)』ることは一切厳禁され、基本的にはつねに請負人(*竹屋のこと)の監視のもとでアイヌは生活を強いられていた。」(同前 P.276)のである。

 余市アイヌは、竹屋に使われ、余市場所で鰊(にしん)漁(他に昆布・鱈〔たら〕・鮃〔かすべ〕・鮑〔あわび〕・海鼠〔なまこ〕なども漁獲されたが、ほとんどは鰊漁)に従事した だけでなく、西蝦夷地の古宇(ふるう)・増毛(ましけ)・忍路(おしょろ)の各場所へ追漁(出稼漁)にも出ている。鮑漁や秋味(鮭)漁などである。

 この余市アイヌが働く余市場所で、1830(天保元)年に、「……鮭漁の繁忙期に五〇人の働き手がタカシマ場所(*現・小樽市)へ逃散してしまう事件が起きた……。アイヌ側が述べるには、近頃は従前と違って漁場の仕事がふえて自分の漁の準備もできないあり様になってきたので、やむなく逃散したとのことであった。ヨイチ(*余市)場所請負人となった竹屋は、『仐(十の上部は人ではなく又=またじゅう *柏屋の屋号)振合の願(ねがい)之(の)儀は承知無御座(ござな)く候』(前請負人の仐印柏屋との比較で、要求があっても承知することはない)と明言しており、それで『毎度……引払い』、『毎度之儀……悪だくみ』といわれていて、逃散事件などが繰り返されていたのであった(蝦夷人共イキシユ口書留)。/ヨイチには鮭漁の『網持夷人』が何人もいた。場所請負人から食物や入用品を借りて、『自分商売』(自営の漁業)を行なっていた。雇われて働くだけではない。漁業者としての生業を持つアイヌの人々がいたのである。……『イキシユ』は、『憤慨して立ち去る』の意味で使うアイヌ語である。ヨイチの逃散事件はこの表現で記録されている。」(『アイヌ民族の歴史』P.120121)のである。

 ここでは、一面では生業を持つ(兼業)アイヌたちが請負人の言うがままではなく、自分たちの生業を考慮しない請負人にたいして、逃散でもって応えたのである。

 また、余市アイヌは、自分たちの生活の向上を願って、「密貿易」も行なっている。「余市では直接交易は禁じられていた(*石狩アイヌは請負人の了解の下で、商船との直接交易が行なわれていた)が、アイヌも密交易を行った。天保一四(*1843)年、その事実が露見してアイヌが詫びとアシンぺ(償い)をするに至った事件が起きた。事件は追鰊漁者に取入って出稼ぎしたり、漁獲鰊類や鮑を密貿易して見つかり、本人や母、および役アイヌなどが運上屋にアシンぺとしてイカヨフ(矢筒)・エムシ(刀)・銀覆輪(*へりが銀で飾られた器具)・鍔(つば)・イムシポ(小さい刀)などを取られ、落着した」(田島前掲論文 P.290)とされる。ここでは、「密貿易」とされるが、それは和人が一方的に決めた掟であり、アイヌは厳しい生活の中で、少しでも利益をあげようと、自由な交易を行なっただけに過ぎないのである。

 

(5)和人漁師の請負人に対する闘い

 場所請負人と小前漁民(出稼ぎ和人漁師)との矛盾・対立は、すでに寛政期(1789~1800年)ころから顕在化している。

 「元来、松前領前浜に於ける鰊漁業は、鰊の群来(くき)を見て投網(とあみ)する鰊網漁より許されなかった。それは松前国人保護を考えてのことで、大きな資金を要する大網漁業を排除して、小前漁民でも独立した漁家として平等に収穫ができるための施策であり、少数の大漁業家の企業独占を防ぐにあった。然(しか)るに場所漁業が盛んになると、場所請負人はより大きな漁獲を求めて、寛政の頃から雑魚(ざこ)引網と称して大網を使用するものが多くなり、合わせて網漁具の改良を進めて、天保年間の笊網(ざるあみ)の発明に始まり、行成網(ゆきなりあみ)・角網(かくあみ)と、急速な網漁業の進歩は、鰊漁業をより大企業化の方向へ進めていった。このような場所鰊漁業の成果は、それと対照的に前浜漁業の不振と期を一にしたため、前浜小前漁民は、前浜不振の原因を場所において大網使用によるものとして、この前浜漁業と場所漁業の対立は、度々一揆を誘発している。」(『江差町史』通説一 第五巻 P.536)のであった。

 追鰊(おいにしん)が進められるにつれ、二八取と称せられる和人出稼ぎ者は、ますます増加する。二八取漁業者は、領主に対しては漁業権を持たない者であるが、場所請負人と場所の使用権・漁獲権を契約し、鰊漁業に従事する。だが、二八取漁業者はその前に、「先ず着業資金を準備し(自己資本及び仕込金〔しこみきん〕)、漁具(網・漁船・納屋用早切〔さきり *細長い丸太材〕・板等の建築資材・綱・縄・金引苧〔かなびきお〕・その他)食料(米・味噌・塩・醤油・酒・野菜・漬物・その他)を仕込(しこ)み、続いて漁夫を雇傭(こよう)する(漁夫給料は現金である)。こうして一切の出漁準備を整え、沖の口役所から蝦夷地追鰊の免判を受け、中遣船(なかやりぶね *漁場へ漁具・食料・漁夫を運ぶ船。のちに漁獲物も運搬が許された)を仕立て現地に向かって船出するのである。……場所請負人と二八取の関係は普通の場合、一年限りのものでなく永い間続いているもので、一漁場に数年継続して出稼ぎする。二八取は一種の漁業経営者であり、番屋・船澗・袋澗・その他付属施設が絶対不可欠のもので、二八取にとって初年度の出漁の場合は、漁場施設に相当な資金と日数・労力を要するのである。次年度からは一応修理程度で着業できる。」(同前 P.430)といわれる。

 だが、二八取漁家が仕込みを受ける場合、担保物件には干場(かんば)は無く、家屋敷・漁具・漁船ときには家族などである。というのは、蝦夷地場所には個人所有権はなく、藩直轄地であり、場所請負人が使用権を得ているからである。二八取は、場所請負人がもつ使用権を請負人から一部また借りしているだけであり、担保物件にもならなかった。

 仕込制度でもっとも重要なことは、次のことである。「仕込による鰊漁業は、漁期を終えた五月頃、その収穫鰊荷物を仕込親方(*金主のこと)に渡し依託販売し、売上金を持って仕込金を清算するのであるが、清算結果はほとんど赤字になることが多い。というのも鰊漁には豊・不漁の波があまりにも多く、しかもその間の仕込金は三割という高利であり、仕込物品は又(また)三割高という高値であることは、一朝不漁年の場合、その欠損を償うということが容易ならざることであり致命的なことであった。清算結果が赤字となった場合、……清算赤字分と新規仕込金を合せ、書入物件(*担保物件)を入れて借用証文を書き替える。しかしこうした書替えを繰返し、結局累積赤字が増加していくが、それでも仕込は続けられるのが例であった。」(同前 P.458459)のである。

 何故ならば、場所請負人などの金主は、仕込制度のうま味から十分に利益を確保できるからである。その証拠には、借金が累積し、それを一段落させるために、累積赤字の整理として年単位の返還とする年賦証文に切り替え、それが30年の年賦償還という証文が見られること―これで明らかである。

 こうなると、いまや金主と二八取との関係は、単なる金銭の貸借関係では済まなくなり、完全に封建的な主従関係に変質するのであった。主従関係のもとで、従者が主人に反抗することは、きわめて困難なことであるが、それでも零細な二八取などの、松前藩と場所請負人に対する闘いは、敢然と行われているのである。

 

 〈江差漁民騒動〉

 松前藩の18世紀後半は、しばしば強訴や一揆がおきているが、寛政2~3(1790~1791)年の江差漁民騒動は、従来と比較し大規模となり、藩自身の存続にもかかわる政治問題に発展した。

 それに遡(さかのぼ)り、江差西在郷の前浜一帯は、1784(天明4)年以来、20カ年に及ぶ鰊凶漁となるのだが、「前浜漁民はその打解策(*長期に及ぶ凶漁の打開)として、糧(かて)を求めて続々(ぞくぞく)西蝦夷地場所への追鰊(出稼)する者が急増したが、前浜漁業には来る年も、来る年も鰊の群来(くき)はなく、加えてセタナイから歌棄(をたすつ)までの近場所も凶漁で、追い打ちを食う有様で、僅(わず)かに藩の扶助米(札米〔ふだまい〕・施米〔せまい〕)で雨露を凌(しの)ぐ程度であったが、それも天明三(一七八三)から同七年(一七八七)にわたる、全国的に及ぶ『天明の大飢饉』で入米が不足し、米価が暴騰し一升百文の高値をよび、扶助米も思うにまかせず、藩は食糧確保のために、遂に、鮭塩引、干物の津止め(*藩外移出の禁止)を断行したが、それでも餓死者が続出し、笹の実、蕨(わらび)の根を始め、昆布、若目(わかめ)の海藻類まで、食用になるものは手当り次第食べて飢(うえ)を凌ぐ有様であったという」(同前 P.539)のである。

 天明の大飢饉は決して松前地も例外ではなく、餓死者が続出したのである。前浜漁民たちは、凶漁が続くのは、場所請負人たちがその資金力にまかせ、雑魚漁と称して大網を持ち込んで、大量に漁獲するのが原因とした。よそ者である請負人たちが、ただ目先の金儲けのために、大網をもって魚道をさえぎり、前浜に鰊が回遊する前に捕獲するのを、前浜の零細漁師たちは許せなかったのである。

 遂に前浜漁民たちは、生活権をかけて決起するのであった。「……寛政元年(一七八九)頃から、前浜漁民の間に大網使用の禁止を訴え、併(あわ)せて物成(ものなり *本年貢のこと)の免除を嘆願しようとする気運がもり上がったが、早くもこの形勢が藩庁の察知するところとなった。藩にとってはこの夏、国後(くなしり)に蝦夷の乱(*クナシリ・メナシの戦い)があった上に、更に人民の暴動が起っては藩の面目を損うことを憂い、藩吏を派遣して説諭(せつゆ)し、明二年(一七九〇)から大網の使用と、油絞(あぶらしぼり)を禁止する旨(むね)を達し、前浜漁民の説得に成功した。然るに翌二年になっても依然鰊漁は不漁で、漁民は漸(ようや)く扶助米によって生活を支える有様であった。一方場所では大網使用禁止が打ち出されたにもかかわらず、請負人は半ば公然と大網の使用を続けていた。加えて秋の鮭漁もまた凶漁で、住民の生活は更に悪化するばかりであった。事ここに至り、寛政二年暮(くれ)十二月、西在(にしのざい)熊石村より石崎村に至る住民二千数百人徒党を結集し、『大網の使用禁止と租税免除』の請願をかけて城下福山に向い、六日江良町村に到着した者千八百余人、清部村に至ったもの五百人に達した。」(同前 P.540)という事態に発展した。

 藩庁は、家臣を派遣して説諭させ、城下入口の各所を武装兵で固めた。また神社には「怨敵退散(おんてきたいさん)」の祈祷をさせ、寺院僧侶には一揆勢の説得に努めさせた。

 一揆勢は、前年の経験もあり、藩吏の言動は全く信用せず、願書を僧侶に出して、取次を依頼した。この結果、藩庁は「願意聴許」(願いのことを聞き入れること)を出さざるを得なかった。こうして、一揆勢は解散した。

 だが、藩庁の弾圧がなくなった訳ではなかった。「かくて騒動を鎮定した藩は翌寛政三年(一七九一)正月、松前平角・青山団右衛門等を江差に出役(でやく)させ、この度(たび)の指導者と目されるもの十七名を捕え、福山に送って糾問(きゅうもん)し、入牢(にゅうろう)或は町預(まちあづけ)に処して、この事件の一切を落着させた。」(同前 P.541)といわれる。しかし、請負人たちが、その後、大網を使用しなくなることはなく、依然として使用を続けるのであった。藩財政を請負人たちに大きく依存する松前藩もこれを黙認するのであった。

 

〈安政の網切騒動〉

 松前藩の復領が決まって間もなくの頃は、福山の鰊漁が回復した時期である。もともと鰊漁には大網使用は禁止されていたが、請負人の中には利益をあげるために、雑魚(ざこ)漁(*いろいろな種類の小魚を捕るため網目が細かい)の名目で大網を使うものが、奥蝦夷から次第に近場所にも出現するようになる。

 そこで藩は、1843(天保14)年に、再度禁止令を出す。しかし、西蝦夷地の場所請負人たちは、刺網(さしあみ *水中に網を張りたてて置き、魚類が網目に引っかかって逃げられないように仕掛ける漁網)を使用できない場所や、追鰊業者が少ない所という条件の下で、しかも鰊取浜中(はまじゅう *二八取り漁民のこと)の異議がなければ、大網を使いたいと藩に嘆願し、許可を得る。これを利用して、鰊漁にも大網がつぎつぎと使用され、中には二八取り漁師でも大網を使う者が現れるようになる。

 ところが、江差地方の鰊漁はまた減少したので、この原因は大網使用による大量漁獲と漁苗の破壊にあるとして、零細な鰊漁民たちは大網使用の厳禁を嘆願した。これに応えて、松前藩は1854(安政元)年、またまた請負人一同へ鰊漁期における大網の使用厳禁を申し渡した。しかし、この禁令は少しも守られなかったと言われる。

 「翌安政二年春、乙部から熊石にいたる八ヵ村の漁民約500名は、乙部村山一印(いちじるし)某の指揮のもとに二隊にわかれ、六〇艘の漁船にのって、突如、西蝦夷地に侵入した。一隊は岩内、一隊は古宇の漁場をおそい、斧・山刀・マキリなどをふるって建網(たてあみ *魚群の通路に網を張り、魚を捕える網)1)をつぎつぎに切断した。不意をつかれた漁場のものはあわてて逃げ去ったが、逃げ場を失って傷を負ったものも少なくない。一揆は、ついで積丹(しゃこたん)・美国(びくに)を襲撃し、さらに古平(ふるびら)に向かったが、ここでは来合わせた藩吏の謀略にかかって指導者ら五人がとらえられ、他は逃走した。なお、別の一隊は高島をおそったが、ここはいちはやく網をかくして難をまぬがれた。これを世に“網切騒動”という。」(榎本守恵・君伊彦著『北海道の歴史』山川出版社 1969年 P.100101)のである。

 「請負人始メ漁業手広ニ致(いたし)候二八取共」の横暴に対して、零細な和人漁民も怒りを爆発させ、実力行使に至ったのである。だがこの後も、請負人たちは鰊漁の減少の原因を異国船の操業にあるとはぐらかし、あくまでも大網使用の必要性を強硬に主張した。松前藩は調停的な態度をとりながら、結局は、鰊漁においても大網使用を許すようになる。江戸時代後期から幕末にかけて、和人の本土から蝦夷地への出稼ぎや移住が急増し、漁業継続をめぐって、場所請負人などとの対決が強まったのである。  

 

1)刺網漁と建網漁では、漁獲規模が大きく異なる。刺網の投網の単位は、一放(ひとのべ)とか一放(ひとはなし)または一切(ひときり)と呼ばれる。規準としては、巾(はば)1尋(ひろ)半(*7~8尺くらい)・長さ4尋(*17~20尺くらい)一枚を一抱(ひとかかえ)といい、その5抱を繋ぎ合わせて一放とする。「刺網は通常漁夫一名で一〇放(のべ)を扱うことができるので、刺網漁は小船をもつ漁民の家族労働に適した漁法であった。一方天保末年(*1840年前後の頃)より西蝦夷地で使用され始めた建網は、一統を扱うのに一五~二〇人の漁夫と七、八隻の小船が必要であるが、漁獲量は刺網四〇〇放に相当するとみられる。このような生産力の格差が、乙部・熊石間の刺網漁民による西蝦夷地古平場所までの建網切断という網切騒動(安政二年・一八五五)を引き起こした」(長谷川伸三著「幕末期西蝦夷地における場所経営の特質」―地方史研究協議会編『蝦夷地・北海道―歴史と生活』雄山閣出版 1981年 P.86)と言われる。建網漁は、あらかじめ沿岸に回遊する鰊の魚道を予知して、漁網を敷設して収穫する定置漁法である。鰊の回遊魚道は経験から予知されるとしても、必ずしも同じ所が回遊路となるものでもない。大仕掛けの定置漁法であるだけに、大きな賭けともなる。したがって、一獲千金の投機事業の性格を持ちうるものである。

                    

F欧米列強の通商・「開国」圧力

 

 (1)ますます増える外国船の出没と英米露の圧力

 1813(文化10)年に、ひとまずゴロヴーニン事件が解決した後、日本とロシアとの間での北辺の領土分割をめぐる攻防は、小康状態となる。しかし逆に、19世紀前半、他の欧米諸国の艦船や民間船の日本近海への出没が、次第に増加するようになる。その中で、ロシアないし北方関連の事例のいくつかを挙げると、以下の通りである。

*1831(天保7)年には、アッケシ(厚岸)のウライヤコタン沖に、オーストラリア

 船が現われ、上陸して戦闘に及ぶ。

*1836(天保7)年7月、ロシア船が、エトロフ島に漂流民を護送する。

*1846(弘化3)年5月、アメリカ捕鯨船員7名、エトロフ島に漂着する。

*1852(嘉永5)年6月、ロシア軍艦が下田に来航し、漂流民を置いて去る。

 このような状況の下で、1853(嘉永6)年6月3日に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、国交を求める米大統領の国書を提出する。ペリーは国書の回答を明年に延期することを認め、6月12日に去る。

 そのわずか1ケ月あまり後の7月18日、ロシア使節・極東艦隊司令長官プチャーチンが、軍艦4隻を率い長崎に来航し、国交交渉を始める。これまでの経緯と経験から、長崎に直行したのである。

 プチャーチンは、同年12月5日にも長崎に来航し、国境・通商に関し幕吏と協議する。だが、1854(安政元)年10月、クリミヤ戦争が勃発し、その影響は東アジアにも影響する。プチャーチンは、イギリス東インド艦隊による拿捕(だほ)の危険を回避しながら、対日交渉を行なわざるを得なくなったのである。

 以下、日本に対する通商・「開国」圧力がますます強まる世界情勢の下で、大国であるロシア・イギリス・アメリカに絞って、その国々の事情や背景をさぐってみる。

 

 (ⅰ)露米会社の最盛期は1800~1820年

 ロシアは、シベリア南下の志向が清によって阻まれる(1689年に、ネルチンスク条約で露清間の国境画定)と、毛皮海獣獲得を目指して、針路を北東方向に採る。アリューシャン列島・アラスカ・クリール諸島・サハリンなどで獲得した毛皮は、東部シベリアの拠点イルクーツクまで輸送されなくてはならず、また逆に現地の毛皮業者・生産者たちへの食糧補給を確保しなければならない。この延びきった輸送路の弱点を補うため、また中国南部の交易地へのコースを確保するためには、どうしても途中に食糧補給地・商品交換地が必要だった。これが、ロシアの日本への通商・「開国」要求の最大の理由であった。

 だが、日本との通商に失敗した露米会社は、補給拠点をつくることが出来ず、その後アメリカ船による補給に依存しつつ活動を行なった。

 アラスカから南下の機会を狙う帝政ロシアのアレクサンドル1世(在位1801~1825年)は、1821年に布告を発し、北米太平洋岸における北緯51度までの領有権を主張する。しかし、アメリカ合衆国は、ロシアの北米での南下政策に反発し、モンロー大統領は1823年12月の連邦議会にあてた教書で、モンロー宣言1)を明らかにした。

 露米会社の活動は、1800~1820年にかけて最盛期を迎えていたが、「……やがてラッコなどの捕獲量の減少や、現地での経営で海軍士官が主体となるなど、経営のあり方にも問題があり、衰退していくことになり、一八六七年のロシアによるアメリカへのアラスカ売却によって活動の場を失ことになる。」(木村直樹著「露米会社とイギリス東インド会社」―日本の対外関係6『近代的世界の成熟』吉川弘文館 2010年 に所収 P.160161)のであった。

 ロシアの東方での活動は、1847年にムラヴィヨフが東シベリア総督に任命された頃から、ふたたび活発化する。アムール河口やサハリン(カラフト)方面の調査・探検がすすめられ、欧米人にとって最後の「未知の土地」といわれたサハリンが、半島ではなく島であることが1849年頃には確認される(間宮林蔵はそれ以前の1809年に間宮海峡=タタール海峡を発見している)。

 ロシアは、清が対外的にはアロー号事件で英仏との戦争(1856~60年)に敗れ、国内的には太平天国の乱(1851~64年)に脅かされている状況に乗じて、アムール河方面への南下政策を推し進める。そして、1858年の愛琿条約で、ネルチンスク条約以来の国境(外興安嶺)は大きく南に下げられ、アムール河(黒龍江)が国境とされた。1860年の北京条約では、愛琿条約で中国・ロシアの共同管理地とされたウスリー江以東の土地がロシア領となり、沿海州と称された。1861年に、ロシアはウラジオストックに不凍港を建設するが、「ウラジオストック」はロシア語で「東方を支配せよ」という意味である。

 

1)モンロー宣言の主な眼目は、①ヨーロッパ諸国が南北アメリカ大陸に植民地を設けることは認められない(ロシアの南下阻止を狙った意)、②ヨーロッパとアメリカ合衆国の相互不干渉―である。神川彦松氏によると、「モンロー主義とは、非アメリカの諸国が両米大陸に於いて領土的・政治的権力を維持・増大するを防遏して、両米大陸の領土的・政治的保全を全くし、依って以て両米大陸に対する合衆国の政治的、進んでは経済的覇権を確立せんとする合衆国の対外国策上の根本方針である。」(「モンロー主義の考察」―『国際法外交雑誌』第38巻第7号に所収)とされる。

 

 (ⅱ)独立後の米は太平洋へ進出

 アメリカ合衆国は、1775年以降の対英独立戦争によって1)、それまでの西インド貿易から締め出される。そこで、締め出された東海岸の商人たちは、新たに中国貿易の開拓に進出する。当初、彼らはアメリカ西海岸のインディアン(ネイティブ・アメリカン)との交易で、衣類や金物で毛皮と交換し、その毛皮を広東で売却して、中国の茶や陶器を買い入れていた。19世紀に入ると、アメリカ資本主義の発展は目覚ましく、北部においては近代的な工場での生産が急速に増大した。とくに紡績業は著しく伸張し、綿製品の生産は増大し、それを清国市場に売り込もうとする商人たちの勢いは一段と高まった。

 18世紀末から19世紀の初めにかけ、対英戦争中のオランダに雇い入れられた2)アメリカ商船は、長崎に連年入港するようになり、日本への航海は手慣れたものになってきた。

 また、アメリカ合衆国はマッコウクジラの鯨油を求めて太平洋に進出し、日本近海にも捕鯨船がしばしば登場している。鯨油は、ランプ用灯油、ロウソクや石鹸の材料となり、石油が商品化される以前は、欧米民衆の生活に密着した必需品であった。対英独立戦争の前までは北大西洋がアメリカ捕鯨漁の主な漁場であったが、これもまた締め出され、太平洋(南からやがて北へ)に進出していったのである。アメリカ捕鯨業にとって、漂流民の保護と捕鯨業必需品(食料や石炭など)の補給を日本に求めたのである。

 アメリカ合衆国の太平洋進出の背景には、フロンティア活動とともに進んだ領土拡大で、東部と西海岸を連結させ大陸国家に変貌させた膨張主義もある。

 植民者の圧迫と抑圧にさらされ続けてきたアメリカ先住民のインディアンは、アメリカの2回にわたる対英戦争で、いずれもイギリスと提携する。第一回目(1775~83年)では、勝利したアメリカが対英講和で手に入れた広大な西方地域から、アメリカ・インディアンは締め出される。第二回目(1812~14年)では、インディアンはイギリスに

図表8

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

利用された(インディアンの住む地帯を米英の緩衝地帯にしようとした)あげくに裏切られ、アメリカ合衆国の圧迫・排除はさらに強まり、1830年には、インディアンをミシシッピ川以西へ追いやるインディアン強制移住法も成立している(図表8〔世界歴史大系『アメリカ史』1山川出版社 1994年 P.315〕を参照)。アメリカ植民者によるフロ 

ンティア開拓は、常に先住民インディアンの土地収奪が伴ない、インディアンの組織的な激しい抵抗闘争は、1870~80年代まで継続される。

この間の1803年には、フランス領ルイジアナが購入され、アメリカ合衆国の領土は2倍となる。1819年には、スペイン領フロリダも購入される。

 1836年、アメリカの植民者たちはテキサスを支配しメキシコから独立させて、1845年には、アメリカに併合させた。西北部のオレゴン(北緯42度から54度40分)は、1818年の英米間の条約で、英米の共同領有地になっていたが、アメリカは力を背景にイギリスからもぎ取り併合し、1846年6月、今日のカナダとの国境線まで領土を拡大した。(図表9〔世界歴史大系『アメリカ史』1 P.358〕を参照)

 〈図表9

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アメリカは、領土拡大の野心を露骨に示し、1846~48年にかけてのメキシコとの戦争に勝利し、1848年2月の平和条約(グアダルーペ・イダルゴ条約)で、カリフォルニア・ニューメキシコを割譲させた。同時に、リオグラデ川以北をテキサス領と定めた。 

 奇しくもこのアメリカとメキシコとの戦争を終結させた平和条約が調印される直前の1月、カリフォルニアのサクラメント渓谷で金鉱が偶然にも発見され、空前のゴールド・ラッシュが現出する。カリフォルニアの人口は、一挙に10万人に膨れ上がり、太平洋岸にオレゴンに代わる新たな中心都市をつくりだした。

 ところでアメリカは、1842年にイギリスと清国との間に南京条約が結ばれると、これに便乗し、1844(弘化元)年、清国との間に望厦(ぼうか)条約を締結して、清国市場の新たな開拓に成功している。すると、資本家たちはさらに隣国の日本を開国させるために交渉すべきという声を高めた。

 そこで、アメリカ政府は、1845(弘化2)年に、米清通商条約批准交換のため公使エヴェレットを派遣するにあたり、日本とも通商条約を締結する全権を与えた。このエヴェレットを護送する任務を任されたのが、東インド艦隊司令官のビッドルである。しかし、エヴェレットは病気にかかり、途中本国に帰り、代わりにビッドルが日本が開国するかどうかを打診するために訪日することとなった。

 1846年7月(弘化3年閏5月)、ビッドル提督率いるアメリカ軍艦2隻が、浦賀沖に現われる。浦賀奉行などはこの事態に驚いたが、老中(老中首席は阿部正弘)は、“新たな外国との通信通商は国禁であり、外交の件は長崎で取り扱う”ことを指令した。ビッドル提督は、その任務が日本の態度を打診することにあったため、この時は間もなく退去した。  

 この件は、ペリー艦隊が1853(嘉永6)年6月、軍艦4隻を率いて浦賀沖に現われることに先立つ7年前のことである

 アメリカ国内では、メキシコとの戦争のさ中の1847年、議会が政府の補助によって三つの郵船路(ニューヨーク~リヴァプール、ニューヨーク~パナマ、パナマ~サンフランシスコ・オレゴン)を開設し、そのために蒸気船4隻の建造を決定した。この計画を推進したのは、議会の海軍関係者とニューヨークの有力資本家たちだが、その中心に議会海軍委員会の委員長キングがいた。彼は、1848年に、さらにカリフォルニアと上海を結ぶ北太平洋横断航路の開設を提唱した。それは、パナマからサンフランシスコを経て、アリューシャン列島・千島列島・日本列島を通って上海に至るもので、従来のニューヨーク~喜望峰~インド洋~上海の航路や、ロンドン~広東航路を大幅に短縮させるものであった。

 ニューフロンティア活動が大陸の西海岸に到達すると、アメリカの太平洋を挟んだ中国・日本などとの対アジア貿易の要求は、ますます増強する傾向をみせるのである。

 

1)アメリカの対英独立戦争は、1775年4月に始まり、1782年4月から講和交渉が始まり、1783年9月に講和条約が調印された。戦争が始まって間もない1776年7月4日には、アメリカ独立宣言が採択されている。「第二の独立戦争(1812年6月~1814年12月)」といわれる米英戦争が勃発する要因は複雑であるが、最大の要因は、(ナポレオン戦争の余波で)アメリカ船員がイギリス海軍に強制徴用されて戦線に行かされること、中立国アメリカの貿易にイギリスが干渉することである。

  2)1789年のフランス革命後、オランダではフランスと手を結んだパトリオット派が権力を握り、イギリスと交戦状態となる。だが、オランダ=アジア交易の拠点であるケープ、インド各地、セイロンの商館などが次々とイギリスの支配下に陥り、アジアとの往復航路では多くのオランダ商船が失われてしまう。そこで、オランダは中立国のアメリカの船を雇って、日本との貿易をかろうじて継続した。

 

  (ⅲ)オランダを押しのけ東アジアに進出する英

 17世紀のオランダは、「黄金の時代」といわれる。そのオランダの繁栄を支えたのは、1602年に設立されたオランダ東インド会社である。同社は、1609年に徳川家康からの朱印状を得て、1611年に平戸に商館を設置し、1641年に長崎の出島に商館を移転する。徳川時代の海禁政策によって、日本がヨーロッパと通商していたのは、唯一、オランダだけであった。

 オランダの海上覇権は、18世紀になると衰えはじめ、オランダ東インド会社のアジアでの活動の資金源となっていた日本から輸出した金銀が銅に代わり、また対日貿易も縮小していった。かつての力が衰えはじめたオランダではあるが、1755年にジャワ島の大部分を支配し、陸地への関心を強め、1830年には「強制栽培制度」1)を開始する。

 だが、それより前の1789年のフランス革命は、オランダにも大きな影響をもたらし、1795年にはフランス革命軍によってオランダ本国が占領され、占領軍の後押しで同年にバタヴィア共和国が樹立される。この政府には、自由貿易を主張する者が多く、1799年、更新を迎えていたオランダ東インド会社の貿易独占の許可状はおりず、同社は解散に追い込まれる。

 さらに、オランダに親フランス政権が樹立したため、オランダ東インド会社のアジア各地の商館は、フランスの敵であるイギリスの脅威にさらされることとなる。実際、1811~16年には、ジャワは一時、イギリスに占領される。

 イギリスは、東インド会社(1600年に設立)を先頭にして、インド支配をめぐり18世紀半ばまでにフランスに勝ち抜き、その後も着実にインド支配を拡大する。19世紀前半にはビルマや、ペナン・マラッカ・シンガポールの「海峡植民地」の支配に進み、東南アジアの植民地化でオランダと激しく戦った。この間の1824年には、イギリス・オランダ協定が結ばれ、イギリスはマラッカ海峡以北を勢力圏とし、オランダのインドネシア勢力圏を確認することとなった。(しかし、イギリスは1888年に、現在の北ボルネオ・ブルネイ・サラワクを支配する)

 イギリスは、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、世界に先駆けて産業革命を成し遂げ、機械制大工場制度を確立し、綿布などの大量生産と安価な販売を全世界で行なう。この産業資本家たちの強い要求によって、イギリス東インド会社の特権的な独占は崩され、1813年に対インド貿易独占権の廃止、1833年の対中国貿易独占権の廃止とつづき、1858年には同社そのものが解散するに至る。 

 こうした趨勢の中で、イギリスはインド支配に続いて、東アジア支配の要である中国(東アジアの華夷秩序の頂点に立つ)に対し、植民地化の攻撃をかける。具体的には1840~42年のアヘン戦争、1856~60年のアロー号戦争(第二次アヘン戦争)をしかけ、中国の朝貢貿易体制を大きく動揺させ、中国の従属化を推進したのである。

 

1)オランダ政府が、ジャワの米作地の5分の1にサトウキビ・コーヒー・藍などの指定作物を栽培させ、安価で買い上げた。

 

 (2)南京条約による朝貢体制の形骸化と不平等体制

 イギリス東インド会社は、①イギリスの工業製品の販路開拓、②銀を対価としないで中国茶輸入の確保、③植民地インド政府の財源の確立―などの課題を果たすために、アヘン貿易独占権を獲得した。そして、アヘン輸入を禁止する(1796年)中国に対して、イギリス東インド会社は、私貿易商人を通じて密輸出した。

 1839年3月、欽差大臣(特命全権大臣)林則徐が広州に赴任し、6月、イギリス商人より没収したアヘン2万291箱を廃棄する。これを直接の契機として、同年10月、イギリス議会は中国への出兵を正式に決定し、アヘン戦争が勃発する。イギリスの有利な状況で戦争と講和交渉が繰り返され、アヘン戦争は1842年8月29日に南京条約が締結され終結する。

 南京条約全13条の主な内容は、①従来の広東に加えて上海・寧波・福州・厦門の計5港を開港し、そこでの領事駐在。②香港島の割譲。③イギリス商人が引き渡したアヘンの賠償金600万ドルの支払い。④公行制度1)の廃止と行商(こうしょう)の債務300万ドルの支払い。⑤イギリスの戦費1200万ドルの支払い。⑥イギリス軍に協力した漢奸として逮捕されている清朝臣民の釈放。⑦両国官憲の対等な交渉―などを規定した。

 イギリスは、ナポレオン戦争中の1802年、1808年の二度、マカオ占領を狙うが失敗している。南京条約によって、中国における侵略拠点をようやく確保し、1819年に獲得した東アジアの拠点シンガポールから次の目標である中国拠点へ歩を進めたのである。

 翌1843年7月に「五港通商章程」を、同年10月に虎門塞(こもんさい)条約を締結し、5%の関税や最恵国約款などが規定され、新たな通商関係に入ったのである。

 だが、イギリスの砲艦外交によってもたらされた南京条約は、5港における領事裁判権や片務的な最恵国待遇に象徴されるように、中国のみならず東アジア全体での不平等条約体制の基礎が築かれたのであった。これは同時に、中国を中心とする朝貢・冊封体制を形骸化し、その崩壊への大きな一歩となったのである。  

 

1)朝貢貿易では、国家間の貿易に付随して民間貿易も行なわれる。この民間貿易の中国側主体が、広東十三行である。公行(コホン)とは、外国貿易を行なう商人の同業組合のことである。国家は彼らに貿易の独占権を与え、その代わりに関税の徴収や国への寄付、外国商人との交渉を行なわせた。1757年の貿易制限令は、貿易港を広州1港に制限していた。

 

第4章

 

A日露国境交渉と第二次幕府直轄

 

()米露との二正面作戦の下での対露交渉

 

 (ⅰ)クリミヤ戦争最中にプチャーチン長崎来航

 ペリーが浦賀に初めて来航した時からわずか1ヶ月余り後の、1853年7月18日、ロシア使節極東艦隊司令長官プチャーチンが長崎に来航し、軍艦4隻を率いて国交交渉を始めた―このことは、前述した。「それはアメリカ艦隊の日本遠征の情報により促進されたもので、ロシアはそれに便乗して長年の対日通商の懸案の実現を図ったもの」(秋月俊幸著『千島列島をめぐる日本とロシア』P.205)と言われる。

 プチャーチンが提出したロシアの国書(1853年8月19日に長崎奉行へ提出)は、使節派遣の目的を次のように明らかにしている。

 国書は、使節を日本に送る目的に「両国の和睦安穏を固定せるの策を献ぜしめん」ことに2策あるとし、そのために「其(その)一は、両帝国の境界を定るにあり、……其第二件は、……日本国の内(うち)何れの湊なりとも、貴国と約定して、魯西亜臣民の往来を許し、我国の産物を以て貴国の有餘(ゆうよ *余った産物)と交易せしめんことを請うにあり」(『大日本古文書』―「幕末外国関係文書」第2巻―49 P.147148)としている。

 だが、1853(嘉永6)年10月、クリミヤ戦争が勃発(1856年3月に終わる)し、その影響は東アジアにも波及し、プチャーチンの交渉はイギリス東インド艦隊による拿捕(だほ)の危険を伴なう極めて困難な状況下であった。

 しかも、ロシア政府は1853年4月11日付けで、「サハリン島占領命令」を発し、同年9月はじめ、カラフトのコシュンコタンに部隊を上陸させ占拠していた。プチャーチンはこの事件を知らされておらず、「長崎で三カ月余も日本全権を待つ(*江戸から長崎に赴く日本全権を)うちに、サハリン西岸とタタール海峡(*間宮海峡)の状況視察のために派遣した蒸気艦『ヴォストーク号』の報告によって、〔ロシア〕政府のサハリン島占領命令と九月二一日(日本暦九月一日)のロシア兵のクシュンコタン(のちの大泊、現在のコルサコフ)占拠の事実を知った。」(秋月前掲書 P.206)のである。

 1853(嘉永6)年9月12日、ロシア兵のクシュンコタン占拠の報告を受けとった松前藩は、同月17,18日に、一番手、二番手の軍勢をカラフト島に発進させる。だが、晩秋の渡海が困難なため、兵はソウヤとマシケで越冬し、翌春4月にクシュンコタンとハツコトマリに陣屋を建てて、ロシアのムラヴィヨフ堡塁と対峙した。だがこの時は、クリミヤ戦争の真っ最中であり、プチャーチンは英仏艦隊の攻撃を怖れて、ムラヴィヨフ堡塁からの撤退を提案し、日露の開戦には至らなかった。

 プチャーチンは、1854(安政元)年12月5日にも、長崎に再び来航し、国境・通商問題に関し幕吏と本格的に協議に入るが、彼としては、ロシア政府のカラフト全島領有という基本方針を背景にして、対日交渉に入ったのである。

 幕府は、ロシアの国書に対する返書について、9月頃に草案を作り、各級高官の評議を経て、ようやく12月18日に魯西亜応接掛を通してプチャーチンへ送った。返書の要点は、①国境問題については、将軍の代替わりなど国事多端の折り急速には返答できない、②通商問題については、祖法の法令(海禁政策)を改めることが難しい(「鎖国祖法観」)―というものであった。

 具体的な交渉は、1853年12月20日から精力的に始まる。主な交渉者は、日本側が魯西亜応接掛の筒井肥前守政憲・川路左衛門尉聖謨(としあきら)で、ロシア側はプチャーチンである。

 

(ⅱ)最大のネックは国境問題

 12月20日の交渉は、「国境及び和親交易」が中心である。

 前段で、①「全権大使」の任務・権能の範囲などでの捉え方、②国境・通商に関して解決の時間限度を3~5年の幅(日本側)で考えるか、あるいは出来るだけ早く解決するか(ロシア側)などの違いが論議された。

 後段では、国境問題で具体的な論議がなされた。千島方面については、互いに古来から自国領と主張したが、現実的にはエトロフ島とウルップ島の間を境にして、北をロシアが、南を日本が支配している点で、類似した認識のようであった。

 もっとも激しかったのは、カラフトの領有に関するものであった。ロシア側はカラフトの南部は日本のものであるが、中部・北部はロシア領と主張した。これに対して、日本側は、封建制により当該領主に調べさせないと判断できず、それには3~5年を要すると答えた(『大日本古文書』―「幕末外国関係文書」第3巻―137 P.392394)。日本の交渉態度は、アメリカに対しての時も同じであるが、のらりくらりとして「時間延ばし」を行ない、相手に諦めさせようというものである。

 12月22日の交渉も、「国境及び和親交易」問題が中心である。

 この日、川路は国境問題について、「カラフトを半分ニ引分(ひきわけ)、貴国より差置(さしおか)れ候(そうろう)軍卒守兵(*この年8月末にクシュンコタンを占拠した部隊のこと)は、境界相分(あいわかり)次第引払わせるべくとの儀に於(おい)ては、一昨日申し聞き候通(とおり)ニこれ有るべし、エトロフの儀ハ、其(その)砌(みぎり)申し述る通ニて、存寄(ぞんじより *意見)もこれ有りまじく候、」(同上、P.399)と述べた。これに対し、プチャーチンの反応はあいまいなものであった。

 だがこの日、プチャーチンは、カラフト境界にかかわって、まず概略の取決めがなされないと、コシュンコタンのロシア部隊の進退も明らかにできない。したがって、当地で「荒増(あらまし)の取極(とりきめ)ハ致置(いたしおき)」、細かい点については、来春2~3月頃に、現地で当該大名や幕府の役人も立ち会って調査したいと提案した。

 これに対し、川路はカラフトを半分に分割して領有するのなら応じてもよいかのような気配をみせた。

 通商問題では、プチャーチンは2港開港で松前(あるいは箱館)と江戸に近い港を想定し、後者が不都合ならば、大坂でもよいと表明した。また、通商許可に数年もかかるのは有り得ないと主張し、もっと早くできるはずだ、とした。

 これに対し、川路は「我国地境の続きたるハ、貴国のみ」と言い、他の欧米と異なり「只(ただ)貴国ニ限り、手厚の御取扱(とりあつかい)もこれ有り候」(同上 P.409)と、ロシアへの「好意」を示した。

 その後、交渉論議は、通商そのものの評価に移る。プチャーチンは、ロシア国書への幕府の返書では外国との通商を懸念しているが、「西洋諸州ニてハ、通商を以て其国(そのくに)を富(とま)し候事はこれ有り候得共(そうらえども)、通商を以て国を害し候儀ハ承け及ばざり候」(同上 P.410)と、説得する。

 これに対し、川路は「我国は西洋諸国と違ひ、自国の者外邦(*外国)に到り候儀これ無く、坐して外邦の船の到るを待つ故、異国通商ハ国の痛(いたみ)に相成(あいなり)、益には相成申さず、」(同上)と、日本にとっては通商は益にはならないと述べている。この箇所はいま一つ理解しにくい点もあるが、要するに、日本は輸出しないで輸入するのみだから、通商が利益にならないとの趣旨とおもわれる。しかし、それは幕府自身の海禁政策が原因となっているのであり、通商そのもが一般的に害になるわけではない。

 プチャーチンはさらに説得し、「通商利益の儀ニ付(つい)ては、色々の談話これ有り、商売交易の道ハ、其国の直(あたい)安(やすき)の物を他邦に遣(つかわ)し、他邦の直安の物を持帰(もちかえり)、自国にて貴(たか)く売る事ニて、其利益少なからず」(同上)と述べている。

 これは、国家ではなく、民間商人の立場からの通商利益を述べたものであろう。だが、川路らは当時、朝貢システムの慣習から国家統制を離れた民間商人同士の自由貿易とそこから得る利益などは、とても理解できなかったと思われる。論議は、どうもすれ違いになっているようである。

 交渉は12月24日にも行なわれ、この日も「国境及び和親交易」が中心であった。

 この日の談判は、プチャーチンの猛烈な演説で、日本側はほぼ全面的に押しまくられたといってよいであろう。外国との関係を200年も絶って、太平の夢をむさぼっている間に、武備もゆるみ、諸外国に立ち遅れているではないか、西洋風の軍備を備えなくては独立も叶わない時世になっているのではないか、そのためには交易が必要ではないか―というのである。

 このプチャーチンの言は、川路らにとって急所をつかれた、ものすごく痛い点であったと思われる。日本の武士階級は秀吉の朝鮮侵略の頃から、「武威の国」を自慢していたのであり、その自慢の点が厳しく批判されたのである。これでは、彼らが考える「日本の誇り」が何一つなく完膚なきまでに吹き飛ばされてしまうのである。

 12月26日の交渉は、一昨日の交渉でプチャーチンが一方的に押しまくった勢いに乗じて、さらに露骨な脅しをかけるが、これにはさすがの日本側も怒りを露(あら)わにする。

 プチャーチンは、この日、「双方立会(たちあい)の上、巨細(こさい *大きい事と小さい事)ニ場所の取調をも致し候上、右の御役人(*現地調査をした幕府役人)御帰りニて、委細の始末(しまつ)御申上(もうしあげ)これ有り、其上(そのうえ)ニて御評議も出来(でき)申すべとし存(ぞん)じ候、」(同上 P.461)と、やや妥協的な姿勢をみせる。これまでは、双方が現地で落合い調査するのは、細かい点を詰めるためであったのが、ここでは「巨細に場所の取調をも致し」となっているのである。

 このうえで、プチャーチンは「貴国の三月四月頃迄(ころまで)ニ、御役人御出役これ無く候ハバ、我国より彼国(*カラフトのこと)へ人民を植付(うえつけ)申すべし、迚(とて)も際限も無く相待(あいまち)候儀は致し難く候間(そうろうあいだ)、何(いず)れニも御役人差遣(さしつかわ)され、早々(そうそう)御定(さだめ)これ有るべく候、」(同上)と、植民地主義をむき出しにして、恫喝をかけるものであった。

 これに対し、川路はただちに応じる。見分(調査)の役人が「境界を取極る事ハ相成り難く」と断言し、さらに「扨々(さてさて)無理(むり)成(なる)事を申され候、一体彼(か)のアニワ港ハ、我国所領なるは分明(ぶんめい)なる處(ところ)、我国へ一応の断りもなく、勝手に人を差渡(さしわた)し置(おき)候のミならず、右体(みぎのてい *ロシアが植民するということ)無理なる事(こと)申掛(もうしかけ)候段(そうろうだん)相済(あいすまさ)ざる事ニ候、右心得(こころえ)ニては、迚も事ハ整い難くこれ有るべくニ付(つき)、談判(だんぱん)も無益ニ候、」(同上)と言い放つ。

 まさに、あわや談判決裂かの事態に至る。ここは、プチャーチンが、自分が言いたいことはただ交渉を速やかにしたいだけであり、「此(この)段(だん)御勘弁これ有りたく候、」と述べて、事無きに至る。

 交渉は、国境問題でも、交易問題でも、同様のやり取りが繰り返されているが、12月28日の交渉で、ようやく事態に、わずかな動きが出てきた。それは、幕府役人を現地に派遣することに係るものである。

 この日、筒井肥前守は、「何と歟(か)使節の顔を立遣(たてつかわし)たく候間、江戸表へ申上候て、地境(ちざかい)取調の為(ため)、来春ハ其筋の役人を遣(つかわ)し申すべく候間、右役人小人数にて罷越(まかりこす)共(とも)、貴国の人(ひと)穏順(おんじゅん)の取扱(とりあつかい)致し、失礼の儀(ぎ)無き様に致すべしとの書付(かきつけ)差出(さしだし)候一條、早々決着致したく候、」(同上 P.496)と申し出る。

 この件はすでに一日前にロシア側に知らされていたので、この日ただちに書付は日本側に渡された。

 さらに、この12月晦日(みそか)には、事態は大きく進展する。ロシア使節プチャーチンから日本側露西亜応接掛へ「条約項目」が手渡されたのである。条約項目に係る書簡は、冒頭で次のように述べている。(正文は漢文であるが、以下は和訳)

 

大魯西亜国の 大君主と、

大日本国の 大君主と、両国の好(よしみ)を通し、万世の後迄(のちまで)も限(かぎり)なく、惣躰(そうたい *すべて)実意を以て、御懇意を取結び、睦敷(むつまじく)して、何の心置(こころおき *遠慮)もなく、熟談約束をなし、双方国境を聢(しか)と相定(あいさだめ)、且又(かつまた)後来通信(*信〔まこと〕を通ずる)和好の規定を相定(あいさだめ)申したく、……(『大日本古文書』―「幕末外国関係文書』第3巻―185 P.532

 以下には条約の項目内容として、「修好」、「国境査定」、「大坂・箱館の開港」、「難破船の救助」、「居留民の住居」、「信仰の自由」、「貿易章程」、「アヘンなど制禁の物の交易厳禁」、「領事官の派遣」、「犯罪人の処罰」、「利益均霑(きんてん)」、「批准」が述べられている。

 各項目の中身は、未だ練り上げられたものではないが、項目自身は後の1854年12月21日、下田で調印された日露和親条約と同じである。(《補論》日露和親條約 を参照)

 だが、条約交渉は簡単には進まず、1854(安政7)年1月8日、ロシア艦隊は一時的に長崎を退去した。

 そこに、ペリー艦隊が予定よりは早く来航する。7隻からなるアメリカ艦隊は、1月11日に伊豆沖に現われ、ついで江戸湾に進み、1月16日には浦賀沖を通過して金沢錨地に集結した。浦賀奉行は、艦隊の浦賀沖での碇泊を交渉したが、ペリーは承諾せず、さらに羽田沖まで進み、江戸市街を遠望した。あわてた幕閣は、神奈川のはずれの横浜で交渉を行なうと譲歩した。

 日米交渉は、比較的スムーズに進展し、2月10日から横浜交渉が始まり、数回の正式交渉ののち、3月3日に、日米和親条約が締結・調印された。

 これとは異なり、日露交渉はなかなか進展しないでいた。アメリカとは違って国境交渉という困難な面があったためだが、他面、クリミヤ戦争の影響もあった。英仏はトルコを援助し、1854年3月、ついにロシアに宣戦布告した。プチャーチンは、英仏の極東艦隊の鋭鋒を避けながら行動し、また対日交渉も行なわなければならなかった。

 プチャーチンは、同年9月に大坂湾に出現し、京阪地方を騒がせたが、翌10月には下田に入港した。ここで、長崎交渉が継続され、1854年12月21日、幕府との間で、ようやく日露和親条約が調印されるのであった。

 その内容の基本点は、下田・箱館・長崎を開港するが、両国固有の問題として国境問題がある。同条約の第二条は、千島方面の境界をエトロフ・ウルップ両島の間と定め、「カラフト島ニ至りては、日本国と魯西亜の間ニおいて、界を分たず、是迄(これまで)仕来(しきたり)の通(とおり)たるべし」とした。

 しかし、「ここでいう『仕来』については日露両国の解釈に大きな隔(へだ)たりがあり、ロシア側では国境画定の据え置きの意味が強く、ロシア人の日本人居住地以外への進出を妨げるものではなかった。これに対して日本側にはアイヌの居住地は古来から日本の領土とみなす特異な領土観があったので、その地方への新たな進出を『仕来』に反するものとは考えなかった。それゆえ、やがて双方の主張が重複する部分において日露両国人の雑居が生じるのは必至であった。」(秋月俊幸著『千島列島をめぐる日本とロシア』P.208)のである。こうして、クリミア戦争終結後の日露間の主要な係争は、「サハリン問題となるのであった。

 

《補論 日露和親條約》

 日露和親条約は、全9条であるが、内容は以下の通りである(『大日本古文書』―「幕末外国関係文書」第8巻―193 P.410413)。

前文(略)

第一條 今より後、両国末永ク真実懇(ねんご)ろにして、各(おのおの)其(その)所

 領において、互いに保護し、人命は勿論(もちろん)什物(じゅうぶつ *日用の道具)

 においても損害なかるべし、

第二條 今より後、日本国と魯西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし、

 エトロフ全島は、日本に属し、ウルップ全島、夫(それ)より北の方クリル諸島は、魯

 西亜ニ属す、カラフト島ニ至りては、日本国と魯西亜国の間ニおいて、界を分(わか) たず、是迄(これまで)仕来(しきたり)の通(とおり)たるべし、

第三條 日本政府、魯西亜船の為(ため)に箱館・下田・長崎の三港を開く、今より後、

 魯西亜船難破の修理を加へ、薪水食料闕乏(けつぼう)の品を給し、石炭ある地に於て

 は、又これを渡し、金銀銭を以て報ひ、若(もし)金銀乏敷(とぼしき)時ハ、品物に

 て償ふべし、魯西亜の船難破にあらざれば、此(この)港の外(ほか)決て日本〔の〕

 他港に至る事なし、尤(もっとも)難破船につき諸費あらば、右三港にて是(これ)を

 償ふべし、

第四條 難船漂民ハ両国互に扶助を加へ、漂民はゆるしたる港に送るべし、尤滞在中是(こ

 れ)を待(まつ)こと緩優(かんゆう *ゆったりした様)なりといへども、国の正法

 を守るべし、

第五條 魯西亜船下田・箱館へ渡来の時、金銀品物を以て入用の品物を弁ずる事をゆるす、

第六條 若(もし)止むことを得ざる事ある時は、魯西亜政府より、箱館・下田の内一港

 に官吏を差置べし、

第七條 若(もし)評定を待べき事あらば、日本政府これを熟考し取計(とりはら)ふべ

 し、

三、 魯西亜人の日本国にある、日本人の魯西亜国にある、是(これ)を待事(まつこ

 と)緩優にして、禁錮することなし、然(しか)れども若(もし)法を犯すものあらば、

 是を取押へ処置するに、各(おのおの)其(その)本国の法度(はっと)を以てすべし、

二、 両国近隣の故を以て、日本にて向後(こうご)他国え免(ゆる)す処(ところ)

 の諸件は、同時に魯西亜人にも差免(さしゆる)すべし、

 

 第二条のカラフトのことについては、先述したように両国の間で理解が異なり、ロシア側は「界を分たず」を、未だ国境画定がなされていない、とした。だが、日本側はこれまでの仕来りとおりとして、南部を日本領と理解した。

 第八条は、いわゆる「領事裁判権」にかかわるもので、第九条は、いわゆる「最恵国待遇」である。   

 

 (2)阿部正弘政権による第二次幕領時代の開始

19世紀半ば頃は、第一次直轄が行なわれた寛政期とは異なり、外国船の来航といっても、ロシアのみならず、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリアなどの諸外国にわたった。このため、蝦夷地の防衛は、以前に増して強められるようになる。

 1854(安政元)年6月、幕府は、箱館附近(4~5里)を直轄とし、箱館奉行所を設置する。

1855(安政2)年2月22日には、松前氏の居城附近を除き、全蝦夷地をふたたび上知(幕府に収公)させる。第二次直轄である。同年3月27日には、蝦夷地の警備を仙台・秋田・津軽・南部・松前の各藩に命じた。これらは、前年、欧米諸国との間で和親条約を結び、箱館などを開港したことや、ロシアとの関係が緊張してきたためである。

1859(安政6)年11月には、さらに蝦夷地警備を強化するために、蝦夷地を仙台・秋田・津軽(弘前)・南部(盛岡)・会津・庄内の東北諸藩にも分領した。これは、幕閣の主導権が阿部正弘の死去(1857〔安政4〕年6月)によって堀田正睦(まさよし *老中在任は安政2年10月~5年6月)へと移り、さらに井伊直弼政権が確立して蝦夷地支配の方針が変化したことに伴うものである。

 

(ⅰ)再度の直轄化の動き

1854(安政元)年3月、日米和親条約(神奈川条約)が調印された結果、下田とともに箱館が開港となった。だがその第5か条では、「一、合衆国の漂民共他の者共、当分(とうぶん)下田・箱館逗留中、長崎に於て、唐(から)和蘭陀(オランダ)人同様(どうよう)閉籠(へいろう *閉じ込めること)窮屈(きゅうくつ)の取扱いこれなく、下田港内の小島周り凡(およそ)七里の内は、勝手に徘徊(はいかい)致し、箱館港の儀は、追って取極め候事」と、箱館での「徘徊」範囲は決まっていなかった。しかし、それも同年5月に、5里以内と定められた(日米通商条約の締結以後は、10里以内)。

ペリーの艦隊は、条約調印の直後、箱館に調査のために来航した(1854年4~5月)。通報を受けた松前藩は、箱館警備のために派兵するとともに、次のような「心得書」を箱館の住民に布達した。すなわち、「艦隊の見物の禁止、海に面した戸障子の目張り、酒をかくすこと、仏事などの禁止、婦人・子どもは山手のほうへ疎開させること、アメリカ人が日用品をもとめてきたときとるべき処置など、こまごまと注意している。」(『北海道の歴史』山川出版社 P.102)のである。当時の記録によると、「荷物を車につんで、近くの村へ疎開する人びとでおおさわぎ(大騒ぎ)だった」(同前)と記されてもいる。

幕府は箱館港開港に伴い、外国人の「徘徊」範囲も決まったので、同年6月26日、松前藩に命じて、箱館ならびにその付近5~6里の土地を返上させた。そして、同月末には箱館奉行を置き、奉行には勘定吟味役の竹内保徳が任命された。7月には、さらに1名増員され、堀織部利煕(としひろ)が任命された(辞令は蝦夷地巡回中に受取った)。

堀は8月、竹内は9月に箱館に到着し、ともに相談して、10月13日に、箱館の官衙および市中の管轄を松前藩から受け取った。その後、堀は新築の福山城(松前)を見分して江戸に戻ったが、竹内は箱館に留まって事務をとった。

その直前の1854(安政元)年9月、松前および蝦夷地を視察した堀と村垣範正は、蝦夷地処分に関する意見書を上申した。その内容は、次の通りである。「まず松前蝦夷地の概況を述べ、福山城下は防御の設備が相応に整っているが、その他の広大な地はすこぶる手薄である。蝦夷地の形況をみると、北方二、三分の地は陽気が薄く、野菜ができるだけであるが、その他の七、八分は諸穀、諸菜に適し、山には良材および種々の鉱物があり、ことに周海の漁利は莫大なものがあるにもかかわらず、松前氏は依然としてこれを請負人に任せ、ただ運上金、仕向金(しむけきん)を徴収しているだけであり、請負人はまたそれを支配人などに任せて省みず、支配人らは蝦夷を使役することすこぶる苛酷をきわめ、不法のことが多いため、蝦夷はまた昔のように幕府の直轄となることを希望している有様である。最近特に盛んに蝦夷地に出没するようになった外国人が、もし恵みを施して蝦夷を誘惑するようなことがあれば、蝦夷は喜んで帰服するであろう。しかも松前藩は力が足りないから、いくら厳重に申し渡しても、蝦夷地の警衛、撫育などはとうてい行き届くはずがない。そうかといってこれを他の諸藩に分割処置させることはのちのちの弊害を残す憂いがある。ゆえにさしあたっての処置を熟考すれば、以前のようにふたたび幕府の手で直轄し、旗本、御家人ならびに二、三男厄介(やっかい *家督の世話になっている者)その他陪臣(ばいしん *家来の家来)、浪人などを移し、屯田農兵の遺制にならい、新田の開墾、産物の取開き(*開発)に力につくしたならば、その成功は必ずしも困難ではなかろう。その経費は周海の漁利をもって足り、しかもおそらくは将来の大富源となるであろう。なお再考すると、泰平の世が二百年もつづき、ようやく軟弱に流れた士風にとって、蝦夷地はこのうえもない身心の鍛錬場で、士卒は風霜艱苦(ふうそうかんく *世渡りの辛苦)を経歴し、航海、射撃にも練達することができよう。よって北蝦夷地、択捉(エトロフ)、国後(クナシリ)をはじめ島々ならびに東西蝦夷地一円、西は乙部、東は知内村までを上地(じょうち *上知)するように……」(北海道編『新北海道』第二巻通説一 1970年 P.717718)と。

まず蝦夷地の産業に関しては、北方の2~3割は除き、「諸穀、諸菜に適し」と正当に評価し、良材・鉱物なかでも漁業からの利益を最大限に見込んでいる。次に、松前藩の処置―警備、アイヌに対する撫育、とりわけ場所請負制については、極めて批判的である。そして、蝦夷地を諸藩に分割・分領することは、のちのち問題を残すとして、幕府の直轄を提言し、武士・浪人などによる屯田兵制を推奨している。(ここで、堀らは面白いことに封建制・郡県制の「一得一失」を論じている〔『大日本古文書』―「幕末外国関係文書」第7巻―247〕)

 

 (ⅱ)箱館奉行所の役職構成

奉行は最初二人制で、江戸と箱館とで交互に在勤した。だが、1856(安政3)年7月に、さらに一人増やし、村垣範正を任命した。三人制では、一人を江戸に、一人を箱館に在勤させ、もう一人は蝦夷地を巡回させた。1858(安政5)年10月には、さらに一人増やし、四人制とし、目付津田半三郎正路を任じた。のちには時によって、3人あるいは2人になった。

箱館奉行支配の属吏は、組頭―組頭勤方―調役―調役並―調役下役元締―調役下役―同心組頭―同心―足軽の順序でほかに通訳・在住・雇・雇医師などがいた。第一次幕領期と異なるのは、①吟味役の名を組頭に改めたこと、②1859(安政6)年4月に、調役下役を定役に改めたこと―である。

組頭は組頭勤方とあわせて三~四名置かれ、箱館奉行を補佐した。調役(ととのえやく)および調役並はたいてい十数名置かれ、箱館・江戸および蝦夷地の要所に在勤した。定役(調役下役)は数十名、同心も数十名置かれ、各地に在勤した。在住は次第に増え百名余となる。彼らは蝦夷地各地や箱館付近に在住し、開墾やその他のことに従いながら、奉行所の公務も兼ねた。雇は、開拓事業その他の必要によって特に雇い入れた者である。雇医師は十数名で、箱館および蝦夷地に在勤した。

奉行は、蝦夷地の各要所に役所を置き、調役下役に同心や足軽を添えて在勤させた。さらに主要地には、調役を在勤させ、先の要所の役所を統括させた。組頭は、各場所を巡回して、その政務をみた。1856(安政3)年当時の各地の調役と調役下役の配置は、以下の通りである。

*調役の在勤地        *調役下役の在勤地

(各下の諸場所を受け持つ)

 室蘭             山越内 フレナイ 室蘭 白老 勇払

 様似             沙流 静内 様似 幌泉 十勝

 厚岸             釧路 厚岸 根室(但し調役下役元締)

 国後             国後 二人

 択捉             択捉 三人

 寿都             久遠 瀬田内 島小牧 寿都 岩内

 石狩             古平 余市 小樽内 石狩

 留萌             浜益 増毛 苫前 天塩

 宗谷             宗谷(但し調役下役元締) 斜里

 久春古丹 二名        久春古丹 四名

 

(ⅲ)諸藩の警衛分担地と分領

1855(安政2)年4月14日、幕府は仙台・秋田・南部・津軽・松前の五藩に次のような命令を下した。「土地を分かって本道(*蝦夷地)を経営させ、警衛地は遠路で場広の土地であるから、すみやかに見分の者をつかわし、駆引き、応援の便を考え、虚飾に流れず、実備を旨とし、無用の費を省き、永続の方法を立てることが必要である。ついては勤番人数、武器、備船ならびに国許(くにもと)に備え置くべき人数、武具、備船などは詳しく調べて申し出よ、勤番交代などは陸路によると費用が多くかかり、したがって宿駅が疲弊するから、なるべく備船で渡航するのが便利と思われるが、それらの意見も申し出よ」(『新北海道史』第二巻 通説一 P.783)と。

この年、各藩はそれぞれ人を派遣して、持場を調査した。同年11月、秋田藩は上書して、本藩の持場は海岸500余里もあって、警衛を完全にしようとすれば約20カ所に陣屋を設け、約3000人の守備兵を配置しなくてはならない、そのような事はわが藩の力ではとても出来ない、ことに警衛地は極寒多湿の地で、守備は極めて困難なので警衛を免除され、非常の際に兵を出したい―と嘆願した。だが、幕府はそれを許さず、他藩と同じように警衛させることとした。

五藩の警衛地および陣屋の所在地は、次の通りである。(以下警衛地・分領地は、「新北海道史」第二巻 通説一に拠る)

*南部(盛岡)藩―箱館表の出岬の警衛を主とし、恵山岬から東蝦夷地幌別まで海岸一帯を持場とし、東蝦夷地全部の応援を兼ねる。箱館谷地頭(やちがしら)の北方に元陣屋を建て、室蘭字ペケレオタに出張陣屋を置き、なお砂原に分屯所を置いた。

*仙台藩―東蝦夷地白老から知床岬までの一帯の地ならびに島々を持場とする。元陣屋を白老に、出張陣屋を根室および択捉の振別に置いた。

*松前藩―箱館七飯(ななえ)浜から木古内(きこない)村に至るまでを警衛し、元陣屋を有川村字穴平(あなたいら)に建てた。

*津軽(弘前)藩―箱館千代岱から恵山岬までの地、ならびに江差(えさし)在乙部村から西蝦夷地神威岬に至る地を持場とし、西蝦夷地全部の応援を兼ねる。元陣屋を千代岱に、出張陣屋を寿都(すっつ)に置いた。

*秋田藩―西蝦夷地神威岬から知床岬に至る全地ならびに北蝦夷地(カラフトなど)その他島々を持場とする。元陣屋をマシケ(増毛)に、出張陣屋をソウヤ(宗谷)、北蝦夷地の白主およびクシュンコタン(久春古丹)に置いた。北蝦夷地には守備兵を3~8月まで置き、冬は増毛に引き揚げ、宗谷には夏季守備兵を置いて主として北蝦夷地の応援に備えた。

 しかし、1859(安政6)年11月、幕府は蝦夷地の“開発守備は最も大切な事”であるからと、蝦夷地の内を分割し、6藩に分領した。この結果、6藩の領地と警衛地は、次のようになった。

*仙台藩―〔領地〕白老・十勝・厚岸より根室西別境まで。国後島・択捉島(但し紗那を除く)。〔警衛地〕釧路・勇払より幌泉まで。エトロフ島のうち紗那。

*会津藩―〔領地〕根室西別から北海岸網走境まで。網走境から紋別境まで。〔警衛地〕網走。

*秋田藩―〔領地〕増毛・宗谷から紋別境まで(但しサンナイを除く)。利尻島・礼文島。〔警衛地〕サンナイ。

*庄内藩―〔領地〕浜益・留萌(るもい)から天塩(てしお)まで。天売島・焼尻島。〔警衛地〕歌棄から厚田まで。

*南部藩―〔領地〕絵鞆・幌別・礼文華(れぶんげ *虻田の西部)。〔警衛地〕室蘭・山越内。

*津軽藩―〔領地〕寿都から瀬田内境まで。〔警衛地〕乙部村から瀬田内まで。(図表10〔『北海道の歴史』山川出版社 1969年 P.108〕を参照)

 〈図表10

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蝦夷地の内を、仙台・秋田・南部・津軽と会津・庄内の6藩にも分領させると、以前と異なり、警衛地に移動が生じた。会津藩は東蝦夷地の根室場所西別から西蝦夷地斜里を経て紋別までを担当し(藩の領地はもとより、その間の幕府直轄地をも警衛した)、庄内藩は西蝦夷地歌棄から天塩に至る一帯(秋田藩領増毛を除く)を担当した。そのため、仙台・津軽・秋田の3藩の警衛地は縮小した。

 1860(万延元)年2月、秋田藩は北蝦夷地の経営に耐えきれなくなり、上書して、“北蝦夷地は航海が不便で守備が困難であるから、八丈島のように専ら漁場を開き、勤番の兵は撤去するほうが得策である”旨を主張した。だが、その意見は箱館奉行の竹内保徳・堀利煕に反論される。すなわち、“北蝦夷地はロシア人の南下の恐れがあるので、警衛に一層力を入れる必要がある。従って、守備兵撤兵どころか、さらに奥地の真縫、久春内両地にも新たに守備兵を置かなくてはならない”というのである。

 同年9月、幕府は仙台・秋田・会津・庄内の4藩に北蝦夷地の警衛を命じ、1861(文久元)年には、仙台・庄内の2藩、1862(文久2)年には会津・秋田の2藩が警衛することにし、2藩ずつ隔年交代でその任にあたることになった。さらに幕府は、初年以外は冬期も滞在して警衛せよと命じた。しかし、これには仙台・秋田・庄内の3藩が相談のうえ、冬期の警衛が困難であるので、10年間猶予して欲しいと願ったので、幕府もいたしかたなく当分の間これを許した。しかし、1862(文久2)年閏8月、会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職を命じられたので、会津藩が北蝦夷地警衛の任を免じられた。よって、以降幕末まで、仙台・庄内・秋田藩が交代して2藩ずつで当ることとなった。 

 前述のように、蝦夷地は1859(安政6)年に東北諸藩にも分領されることとなり、翌年にその地を引き渡された。この結果、箱館奉行所の支配地は、次のような町村および場所となった。

*箱館およびその近在諸村ならびに西部乙部村より熊石村に至る地。

*東蝦夷地―山越内・フレナイ(虻田場所の東部)・有珠(うす)・室蘭(絵鞆〔えとも〕

 は除く)・勇払・沙流・新冠(にいかっぷ)・静内・三石・浦河・幌泉・釧路・紗那(択

 捉島の内)・根室付き島々(根室本地は除く)

*西蝦夷地―久遠・奥尻・太櫓・瀬田内・歌棄(をたすつ)・磯谷・岩内・古宇(ふるう)・

 積丹(しゃこたん)・美国・古平・余市・忍路(おしょろ)・高島・小樽内・石狩・厚田・

 サンナイ(宗谷場所の内)・網走・北蝦夷地(すなわち樺太)

 東北6藩に分領されたとはいえ、蝦夷地の主要場所はたいていは幕府の手中に残ったのである。

 だが、1864(元治元)年に、松前崇広(たかひろ)が幕府老中格に任じられると、乙部村から熊石村に至る8か村は松前藩に下賜された。また、1867(慶応3)年、秋田藩の願い出により秋田藩の支配を免じたので、その支配下にあった増毛(ましけ)・宗谷・利尻・礼文島は箱館奉行の直支配に戻った。

 

(ⅳ)カラフトの境界交渉

 1854(安政元)年12月、下田で締結された日露和親条約では、「カラフト島に至りては、日本国と露西亜との間に於て界を分たず、是迄(これまで)仕来(しきたり)の通(とおり)たるべし」と定めた。この「仕来」の解釈が日露双方で異なることは、先述した。

 この年に、幕府の官吏が北蝦夷を巡見した折には、ロシアはカラフト島の北部オッチシで石炭を採掘していたが、その後、退去した。しかし、再び来島し、1856(安政3)年幕吏が巡視した際には、すでに砲台を築き、2門の大砲を備えていた。しかし、その位置は北緯50度以北であり、スメレンク(すなわちギリヤーク人)の居住地だったので、幕吏は抗議すべき筋合いではないとした。

 1857(安政4)年6月、ロシア汽船が南方ナヨロ(名寄 *久春内の南3里余)に来航して、土地を概測し、食糧・器具などを陸揚げし、17名を残して去った。残ったロシア人は天幕を4つ張り、山から木材を伐採し仮小屋を作った。この地は、アイヌの居住範囲だったため、6月19日、幕吏が尋問したところ、彼等のリーダーは王命によって渡来したと答えた。彼らは幕吏の「説諭」もきかず、材木の揚場や木挽き場を設け、さらに久春内に赴き、その地を概測して十字架を建てた。また河をさかのぼり反対の東海岸のマアヌイ(真縫)に出てその地を確認し、帰途、山中に十字標を建て、6月30日にナヨロに戻った。

 この時、前とは違う幕吏が来て、そこに在留することは和親条約に違(たが)うと言って、早々に退去すべきと要求した。これに対し、ロシア人のリーダーは、先年当地を視察したところ日本人は居住していなかった、「無主」の地に土地を見立て居小屋を建てることは英米仏諸国の風習である―とし、自分はただ王命に従うだけだと答えた。

 その後、ロシア人たちはクシュンナイ(久春内)の地勢の方がナヨロより勝っているとして、木材を筏(いかだ)に組んでクシュンナイに廻し、河畔の高地に家屋2棟を立ててナヨロから移転した。彼らは8月2日には、北に向かって退去した。

 翌1858(安政5)年6月、ふたたびロシア人が来航し、22人を上陸させた。彼らは、鶏・豚・猫・犬を連れ、ストーブも持参した。そして、しきりに伐木して、昨年建てた家屋を修理し、また新たに9棟も新築した。ただ、食糧が欠乏し、日本側に貸与を乞うこともあったようである。彼らは越冬の翌年2月、山を越えて東海岸のマアヌイに出て、ここに半永久的な柵営を構築し、人数を分けて居住させた。西海岸のクシュンナイと東海岸のマアヌイとの間は、わずか8里にすぎず、カラフト島で最も狭い地峡である(後掲の図表10を参照)。以後、ロシア人は年々渡来者を増やし、文久年間(1861~1863年)には、両地の人員は100余名に達し、要塞を構築するに至ったと言われる。ロシア側は、最低でもクシュンナイとマアヌイを結ぶ線を国境とする意図をもっていたと思われる。

 カラフト島におけるロシア人の勢力範囲の拡大に日本側は危機感を抱き、ロシアとの国境交渉を求めた。1858(安政5)年7月、ロシア使節プチャーチンが横浜に来航し、外国奉行岩瀬忠震(ただなり)・水野忠徳・堀利煕と交渉し、日露通商条約を締結し、税則を定めた。

 この時、堀はロシア人がみだりにナヨロ・クシュンナイに移住したことは日露和親条約に違反する行為であると難詰(なんきつ)し、両国の境界を画定することを提案した。しかし、プチャーチンは、北蝦夷地に関することを議する使命を帯びていないと、言葉巧みに逃げられてしまった。

 1859(安政6)年5月、東部シベリア総督ムラヴィヨフの乗ったロシア軍艦が箱館港に入港した。この際、箱館奉行は早速国境交渉を持ちかけたが、ムラヴィヨフは自分と対等の権限ある大官でなければ交渉に応じないと断わり、江戸に向かった。

 ムラヴィヨフは、7月9日に軍艦7隻を率いて、品川沖に現われた。彼は、前年にプチャーチンが締結した日露通商条約の批准を交換するとともに、北蝦夷地の境界を画定する使命をもって訪日したのであった。

 幕府高官は、ムラヴィヨフと国境問題を議した。だが、ムラヴィヨフは、前年の1858年に清国とアイグン(愛琿)条約を締結し、①アムール川(黒龍江)以北をロシア領とする、②ウスリー川以東(沿海州)を共同管理とする―ことに成功し、その勢いに乗って、日本側に対し威嚇的な態度をとる。そして、アムール川がロシア領となった以上、それと同じ意義であるサガレン(*黒龍の満州語読み。カラフト北部を指す)は、当然その中に含まれると主張する。よって、カラフト島を境界未定のままに放置しては、他国に狙われるからと言って、次の三か条を提示した。

一、サガレンと蝦夷地との間の海を境に取極むる心得(こころえ)なり。

二、アニワ、サガレンに漁業を営めるものは、いつ迄(まで)差置(さしお)くも差支(さしつかえ)えなし。

三、日本人貴賤の差別なく、アニワは固(もと)より、黒龍江、満州境まで自由に住居するも差支えなし。

日本人がカラフトで漁業をしようとも、カラフト・黒龍江・満州境で住居をもとうとも、それらは自由だが、国境は宗谷海峡に定める―というものである。

幕吏はこれに対し、アイヌが住居する地方は日本の領土であると反論し、真向から対立する。日本側は、箱館奉行・評定所・外国掛(かかり)などすべてが、絶対に譲歩すべきでない、とした。

ムラヴィヨフは幕府の強硬な態度を前にして、8月9日、錨を抜いて日本を去った。幕府は、カラフトの警備を強化し、これまでの秋田藩だけでなく、仙台・会津・庄内にも命じた。箱館奉行も、組頭をクシュンコタンに越年させるなど、カラフト警備にさらに力を注いだのである。

当時、東アジアにおいては、ロシアと英仏などとの覇権争いが激しくなる。ロシアは前述のように清国を打ち負かし、1858(安政5)年5月、愛琿条約を結んでアムール以北を獲得し、ウスリー江以東の沿海州を共同管理とした。さらに、英仏連合軍が北京侵入直後の1860年11月、ロシアは清国から沿海州を割譲させた(北京条約)。英勢力の北上とロシアの南下政策の激突である。

この一端として、ロシアはイギリスが対馬に海軍根拠地を建設することを警戒し、1861(文久元)年2月、ロシア艦ポサドニック号によって対馬芋崎を占拠するという暴挙を行なった。この公然たる侵略行為に対して、幕府はなすべもなく、結局イギリス海軍が直接、対馬に赴き強硬に抗議した結果、8月にロシア海軍は退去したのである。

カラフトでは、1862(文久2)年9月、クシュンナイ・マアヌイに拠って機会をうかがっていたロシア人が、さらに南下してナエフツ(内淵 *東海岸でマアヌイの南約10里)を占拠するにいたる。マアヌイにいたロシア人たちは、幕吏から船一隻を借り、これに諸器具や食糧を積んでナエフツに行き、伐木して家屋を建てたのである。幕吏が赴いて、日本の漁場を妨害するものとして詰問したが、彼等は山中で獣猟をするために、クシュンナイのリーダーの命令で小屋を作ったのだと抗弁したのであった。

1861(文久元)年、幕府は開市開港(江戸・大坂・兵庫・新潟)の延期を交渉し、かつまた通商条約締約国の君主に謁して懇親を厚くするなどの任務をもって使節団を欧州諸国に派遣した。正使は竹内下野守保徳、副使は松平石見守康直、目付・京極能登守などであり、使節団は12月22日に横浜を出発した。(この使節団には、福地源一郎〔桜痴〕や福沢諭吉なども通詞として参加していた)

この使節団に対し、幕府はロシアと交渉し北蝦夷地の境界を決定する任務も与えていた。具体的には、①北緯50度をもってカラフトの国境と定めるべきこと、②但し、現在居住しているロシア人は少しの間、これを許すべきこと、③もし交渉が不調の時は、文書もしくは領事を通じて交渉すべき余地を残してくること―などである。①についてはのち、やや修正し、次のようなものとなった。

    覚

北蝦夷地境界の儀、五十度を以て取極(とりきめ)候様相達置(あいたっしおき)候得(そうらえ)共(ども)、右にては談判相整(あいととのえ)難(かたき)模様に候はば、西岸はホロコタン、東岸はタライカ、シンノシレトコを以て境界取極候積(つもりに)心得(こころえ)らるべき事。

 

 北緯50度を杓子定規に提起するのでは角がたつので、ホロコタン(ほぼ北緯50度)やタライカ(ほぼ北緯49度)などを挙げて、交渉の余地を与えたのである。

 使節団は英仏蘭普(プロシア)を巡回し、1862(文久2)年7月14日にペテルブルグに着いた。開港延期問題を片づけたのち、北蝦夷地の境界につて交渉した。日本側は、北緯50度以南はアイヌの居住する地で、従来、官吏を派遣して撫育・保護し、かつ蝦夷地警備の手配も行なってきたこと、世界の諸国の地図も50度をもって色を変えて記録しているのは一般に承認されている証左であること、さらに境界を定めなければ紛争が起こるおそれがあること―などを主張した。

 これに応じたのは、当時、世界で一流の外交家と知られていた外務大臣のゴルチャコフと、アジア局長(外務次官)のイグナチョフである。ロシア側は、次のように主張した。“カラフト島は、地理上満州に属し、日本人はかつてクシュンナイ以北に居住したことはない。色分けの地図は諸国で随意に作るものであるから証拠とするに足りない。ことに地勢によらずいたずらに経緯度を以て境界を画定する時はかえって紛争の基となるから、下田条約の通りに据え置くのが策を得たものと思う。もし強いて境界を定めようとすれば、海峡によるほかなかろう。”と。

 この交渉は、結局、日本側の北緯50度と、ロシア側のソウヤ海峡という双方の主張で物別れとなるが、わずかに“実地検分のうえで境界を定めよう”と協約した。

 1863(文久3)年7月2日、箱館在留のロシア領事ゴスケウィッチから幕府の外国奉行へ、北蝦夷地の境界を議定すべき委員に関する通知が届いた。これによると、ロシア皇帝はソウヤ(宗谷)海峡をもって国境を画定する全権をカザケウィッチに与え、ニコライエフスクに派遣するから、日本側も全権を送られたい―というものである。

 これは、カラフト現地を検分し境界を定めるという前年の協約とは異なるものであった。しかし、幕府は当時、内憂外患でついに全権を送らず、会談は実現しなかった。

 だが、カラフト現地ではロシア人の策動がつづき、箱館奉行は早く境界を定めないと面倒なことになると、しばしば申請した。そこで幕府は、1865(慶応元)年冬にいたり、箱館奉行小出大和守、目付織田市蔵に命じて、例年の蝦夷巡回のつもりで、明年ニコライエフスクに赴き境界決定の「下掛け合い」をせよ、と指令した。ここでは、「境界は北緯五十度をもってすることが困難ならばホロケシをもってすべく、なおやむを得ない場合は久春内(クシュンナイ)川を境としてもよい旨」(『新北海道』第二巻通説一 P.780)を述べている。

  1866(慶応2)年8月18日、幕府は小出大和守秀実を正使に、目付石川駿河守謙三郎を副使に任じ、露都に赴いて境界交渉を行なうことを命じた。

 交渉は同年12月末から翌年2月7日までに、ロシア外国事務参政アジア局長スツレモーフと9回も談判を重ねた。この中で日本側は、ついにクシュンナイ・マアヌイの線をもって境界とすることを提議した。しかし、ロシア側はカラフト島はアムール川(黒龍江)警備の要衝だから、必ず確保しなければならない、カラフト島内に境界を設けても日本はこれを完全に防御できないであろうから、むしろ全島をロシア領としその代償としてウルップ付近の諸島を譲渡することが両国の利益となるであろう―と説いた(同前 P.780781)。結局、両使の主張は折り合わず、次のような「雑居規則」の決定がなされて終わった。

       規則書

(1)柯太(カラフト)島に於て両国人民は睦敷(むつまじく)誠意に交(まじわ)るべ

し、万一争論あるか、又(また)は不和の事あらば、裁断は其処(そのところ)の双

方の司人(*役人)共に任(まか)すべし。若(も)し其(その)司人に決し難(が

た)き事件は、双方近傍(きんぼう)の奉行にて裁断すべし。

(2)両国の所領たる上は、魯西亜(ろしあ)人日本人とも全島往来(おうらい)勝手(か

って)たるべし、且(かつ)未(いまだ)建物並(ならび)に園庭なき処(ところ)

か総(すべ)て産業の為(ため)に用(もち)ひざる場所えは、移住建物等勝手たる

べし。

(3)島中の土民は、其(その)身に属せる正当の理、並に附属所持の品もの(品物)共、

全く其(その)者の自由たるべし。又(また)土民は其者の承諾の上、魯西亜人、日

本人共にこれを雇ふ事を得(う)べし、若し日本人又は魯西亜人より土民金銀或(あ

るい)は品物にて是迄(これまで)既に借受(かりう)けしか、又は現に借をなす事

あらば、其もの望(のぞみ)の上、前以(まえもって)定めたる期限の間、職業或は

任役を以てこれを償ふことを許すべし。

(4)前文魯西亜政府にて述(のべ)たる存意[柯太と得撫(ウルップ)島附近の島々と交換する

事、柯太に於ける日本の漁業は従来の通(とおり)たるべき事]を、日本政府にて若(もし)向

後(こうご)同意し、其段告知する時は、右に付(つい)ての談判議定は、互(たが

い)に近傍の奉行え命ずべし。

(5)前に掲(かかげ)たる規則は、柯太島上双方長官承知の時より施行すべし。但し調

印後六箇月より遅延すべからず。且(かつ)此(この)規則中に挙げざる瑣末(さま

つ)の事に至りては、都(すべ)て双方の長官是迄(これまで)の通り取扱(とりあ

つか)ふべし。

右証(あかし)として双方全権委任のもの、此(この)仮規則に姓名を記し調印せり。此に双方の訳官名判を記したる英文を副(そえ)たり。

日本慶応三年丁卯二月二十五日(魯暦千八百六十七年三月十八日)

 

 この結果、日露間の国境問題の解決は、1875(明治8)年5月の千島樺太交換条約の調印まで引き延ばされたのであった。 

 

B北辺維持のため開拓に重点を置く

 

(1)蝦夷地経営の主眼は開拓

 1855(安政2)年2月22日、幕府は蝦夷地一円の上知を松前藩に命じ、その支配を箱館奉行にゆだねる。そして、同月24日には、次のような「覚」を箱館奉行に下す。

 

御警衛向(むき)は勿論(もちろん)御収納並(ならび)蝦夷人撫育等の儀(ぎ)諸 

事御委任成り下され候〔の〕旨の御書取(かきとり)

         覚

今般東西蝦夷地島々共(とも)一円上知仰せ出だされ、右場所(ばしょ)都(すべ)て其(その)方共へ御預(おあずけ)仰せ付けられ候に付き、御警衛は勿論、御収納並蝦夷人撫育方の儀、諸事御委任これ有り候条、其意を得られ、篤(とく)と勘弁(かんべん *よく考えて)の上、追々(おいおい)申し聞からるべく候事。

右の通り相達(あいたっ)し候へ共、場所引渡し等相済(あいす)み候までは、只今(ただいま)までの通り心得(こころえ)らるべく候事。

 

 箱館奉行に一任されたのは、「諸事」(すべて)であるが、中でも、「警衛」「収納」「蝦夷人撫育」が名指しされている。

 同年3月27日の老中指令でも、「都て向後(こうご)御処置の次第、土地開墾、蝦夷撫育を始め、北地の御警衛相整(あいととのえ)候儀(ぎ)容易ならざる御大業の事に候間、精々(せいぜい)相励(あいはげ)む」べき旨が記されている。

 安政3(1856)年10月晦日付けの、老中から箱館奉行への達書でも、次のように開拓が特に重視されていることが分かる。

 

    箱館奉行え御達

蝦夷地開拓の儀は容易ならざる大業に候得共(そうらえども)、方今の時勢、片時も捨置き難き場合に付き、何(いず)れにも早々開拓届き候様致度(いたしたく)、……何へも都(すべ)て御任せ相成り候間、猶(なお)追々蝦夷地土着の者相増(あいま)し候様取計るべく候。右の者は海岸枢要の地へ相纏(あいまと)め、可也(かなり)の人数に相成り候はば、其(その)次(つぎ)三十里目又(また)は四十里目位と歟(か)捨置き難き場所場所、追々同様に開き立て、右土着の内より人物相選(あいえら)び、小普請(こぶしん *建築物の、小規模な修理・改築)世話取扱い候様の者(もの)申渡し、夫々(それぞれ)世話致(いた)させ、尤(もっと)も支配組頭は在住致さず、奉行手分け(*奉行の補佐)の心得を以て、旬季等に拘(かかわ)らず、時々廻村致し、夷民(*アイヌのこと)其他(その他)の訴えを聴き、土着の内宜(よろ)しからざる者は、猶(なお)辺土へ移住致(いた)させ、農業等出精(しゅっせい *精を出して物事を行なうこと)の者、並びに孝養又は奇特の類は、相応に相賞(あいしょう)し候様にも取計い、且(かつ)次第に開墾成功に趣き(赴き)候はば、元関東郡代附(つき)御代官の振合(ふりあい *釣り合い)を以て、才幹これ有り、地方向(むき)相応に心得候者相撰(あいえら)び、何(いずれ)も支配御代官仰せ付けられ候歟、又は矢張(やはり)是迄(これまで)の振合にて、支配調役、同並等人数相増(あいま)し、最寄り分けを以て、支配所割渡(わりわたし)し、其(その)趣は外(ほかの)御代官の振合を以て、村々様子大概帳、年々御勘定所へ差出し候様、右の者共支配世話の厚薄(こうはく)により、支配の地を増減、場所替(ばしょがえ)等致し候様取計い候ては如何(いかが)これ有るべき哉(や)。且(かつ)又(また)織部正(*堀利煕)、淡路守(*村垣範正)廻浦(かいほ *浦々を巡回すること)の上、申し聞き候通(とおり)〔*両人の調査では、請負人の評判は悪い〕、蝦夷地請負(うけおい)の者は相止(あいや)め、手捌(てさばき *幕府直営)に取計り、運送船は勿論、鯨漁船等打ち立て、漁事専らに致し、右収納を以て、開墾入用の方へ振り向け、其外(そのほか)金、銀、銅、鉄開堀(ひらきほり)、石炭稼ぎ等十分に世話致し、庶人に至り候ては、強(あなが)ち人物のみにも拘らず、一職を心得候者は、勝手次第引き移させ嫁娶(かしゅ *嫁入りと嫁取りと)の期を外(はず)されざる候様規則(きそく)相立て、追々人民繁殖致し候様、厚く取計らるべく、其余(そのよ)の儀は、当時三人両役在勤の事に付き、夫々(それぞれ)実地見聞の次第に寄り、申し合い、御為筋十分に取計い候様致さるべく候、荒漠の蝦夷地御預かり、開墾に及び候は、実に大業に候得共(そうらえども)、各(おのおの)誠忠報国の志願も殊更(ことさら)相顕(あいあらわ)れ申すべき事柄(ことがら)に付き、申す迄もこれ無く候得共、格別に勉強候様これ有りたく候事。

 

 この老中指令では、「蝦夷地開拓の儀は容易ならざる大業」と言いつつ、植民・定住の者を増やし、「場所」を次ぎ次ぎと開き、また農業を奨励し、なによりも開拓を目指した。このためにも、支配組頭は廻村し、アイヌなどの訴えをよく聞き、和人の移住と結婚を援助し、植民者を増やすように命じている。そして、開発競争を煽(あお)るために、開拓・開墾を成功させた役人には出世、あるいは仕事ぶりに応じて支配担当地域を増減させるなども考えている。また、この時期は、場所請負制を止(や)め(堀や村垣の調査に基づく)、幕府直営を考えているようである。直営により、漁業・輸送業務の成功と、その収入増大を開墾や鉱山開発などに当てるとしている。

 

 (ⅰ)北蝦夷地(カラフト)の開発

 しかし、その後の動きをみると、結局、場所請負制はなくならなかった。東西蝦夷地と同様に、北蝦夷地も従来の請負人(伊達林右衛門、栖原六右衛門)はそのままにし、箱館奉行所は役人をクシュンコタン(久春古丹)・シラヌシ(白主)・西トンナイ(西富内)の要地に配置して、開拓や治安のことに当らせ、アイヌを撫育させた。また、秋田藩をしてクシュンコタンを本営・シラヌシを支営として、藩兵を以て警衛させた。

 当時、伊達・栖原の場所は、カラフト島の南海岸(アニワ湾)および西海岸ノタサンまで(図表11〔『新北海道史』第二巻通説一 P.763〕を参照)までで、漁舎は30余カ所、一か年の漁獲高(鰊・鱒など)は1万5000石と言われている。

 領土拡大とその防衛のためにも、場所の拡大を奨励していた箱館奉行は、その工作もあってか、松川弁之助(越後国井栗村の大庄屋)が1856(安政3)年に北蝦夷地開発の出願してきたのを許可した。松川は、もともと蝦夷地開発の志向があり、1855年7月に、蝦夷地御用取扱を命ぜられており、箱館の弁天台場・五稜郭の築造、箱館付近の開墾、道路の修復、溝渠の開削などで既に成績を上げていた。

幕府は、松川の計画によって、カラフト島(北緯50度以南)の東海岸全部および西海岸ノタサン以北の地を直捌(じきさばき)として、松川に差配人を命じ、自費をもって漁場の開発・産物の取引を行なわせることとした。箱館奉行は、1858(安政5)年には、松川を差配人元締に、松川の親戚である鳥井権之助・佐藤広右衛門や水原村の佐藤忠蔵を差配人に任じた。また、沙流・勇払の請負人である山田屋文右衛門、釧路請負人の米屋喜代作も出願したので、北蝦夷地の差配人並とした。

1859(安政6)年、以下のように受持ち場所を定めて経営させた。

 〈受持ち場所〉            〈根拠地〉      〈担当者〉 

*シレトコ岬よりシマオコタンまで     ヲチョボカ      松川弁之助

*アンナスシナイよりノッサンまで     イヌヌシナイ     米屋喜代作

*ショウンナイよりロレイまで       ロレイ        松川弁之助

*サツサツよりシルトロ川まで       シュウシュウシナイ  山田文右衛門

*シルトロよりチカヘルウシナイまで    シララオロ      佐藤広右衛門

*ノボリホよりウエンコタンまで      マクンコタン     米屋喜代作

              (『新北海道史』第二巻通説一 P.764

図表11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、これらの直捌は成功しなかったようで、松川は1862(文久2)年、すべての事業を官に返上し、郷里に引き揚げた。箱館奉行は、1864(元治元)年から直捌を止め、従来からカラフトの場所を請け負っていた伊達林右衛門、栖原六右衛門に新開漁場を請け負わせた。

 また、箱館奉行所は、ロシア人が1856(安政3)年いらい西海岸にそって南下するのに対抗するため、1858(安政5)年、石狩役所に命じ、クシュンナイの開発を担当させた。翌年、調役並・城六郎は、下僚および漁夫を率いて、クシュンナイに渡航し、官舎・倉庫などを建て、漁場を開き経営した。しかし、これも1864年まで6カ年の損失金が計1万7500余両に達した。しかし、ロシアとの対抗上、止めることもできず漁業を継続した。

 箱館奉行は、1861(文久元)年、シツカ地方(図表11を参照)の魚資源が豊富なのに目をつけ、役人・番人、アイヌなど数十人を派遣し、漁業を試みた。ここは豊漁で網を引き揚げるのにも苦労した(網が重いため)と言われる。1863(文久3)年からは、安房国の勝山藩がこの地の漁業を出願し、経営を行なった。経営状態は、必ずしも良好とは言えないが、他の新開漁場がいずれも大きな損失を出していたのに対し、それなりの漁獲があったため、どうにか経営を維持した。

 越前国大野藩は、領地が山間部で、石高4万石だが実収がその3割にすぎず、財政は困窮を極めていた。1855(安政2)年、幕府が蝦夷地開拓の担い手を求めていることを耳にし、これに応じた。同藩は、初め、箱館に大野屋という商店を開き、東蝦夷地での経営を狙ったが、それが無理とさとり北蝦夷地の開発に転換する。1858(安政5)年3月、ライチシカよりホロコタンに至る数十里の地を幕府より割り渡されたので、ウショロに元会所を建て、西洋形帆船を用意し、藩士や漁夫を派遣し、数カ所に漁場を開いた。

 ところが、1858(安政5)年に藩地に地震が起こり、同年江戸の藩邸も類焼するなどの不幸が重なり、さらに1860(万延元)年には、ロシア人と紛争が起こり、“国家の大事を引き起こす恐れがある”として、ついに返地を出願する事態にいたった。しかし、幕府はこれを許さず、1861(文久元)年4月には金3000両をも貸付けて、その経営を援助した。そこで大野藩も「奮闘」し、どうにか明治維新まで事業を継続した。

 

()農業の奨励

 第一次幕領時代は、蝦夷地開拓の意向をもっていたが準備も整わず、またアイヌの撫育を重視したため、開拓はあまり行なわれなかった。ただ、武蔵国八王子の千人同心頭の原半左衛門が、部下の同心子弟や厄介(やっかい *家長の世話になっている者)約100人を率いて蝦夷地に移住したいと願い出た。半左衛門は、警備と農耕とを兼ねた屯田策を主張した。幕府は、これを直ちに許可する。

 1800(寛政12)年3月、原半左衛門・新助兄弟に率いられた千人同心1)の子弟は、蝦夷地に移住した。集団は100人を二分し、半左衛門が50人を率いて白糠(しらぬか)場所に入り、庶路(しょろ)・音別(おんべつ)の間に住みつき、新助に率いられた部分は勇払(ゆうふつ)場所に入った。ただ勇払のほうは、土地が農耕に適さなかったため、警備の本部と交易関係者を残して、大部分は鵡川(むかわ)方面に移住した。第一陣に続いて、30人余りが移住し、これも等分して白糠と勇払に配置された。

 しかし、この集団は3年後の1803(享和3)年には、85名に減ってしまった。それは、病気帰郷と死亡のためである。結局、1804(文化元)年、半左衛門は箱館奉行支配調役を命ぜられ、部下の者たちは地役雇(やとい)として、蝦夷地各場所に勤務することとなった。

 第二次幕領時代になると、幕府は、1856(安政3)年2月の布達で、士分で移住を希望する者には、蝦夷地在住を仰せ付け、陪臣・浪人・百姓・町人で移住して農業その他の産業に従事しようとする者には望みにまかせ、その際手当を与えるとした。そして、成績が良い者には、士分は身分を取り立て、庶民は地所・住宅を与え、そのうえ賞賜手当を支給するとした。

 産業開発といっても業態により様子は異なり、漁業の場合は、利益が多かったので特別の保護をしなくとも漁民の増加は年とともに進み盛んとなった。だがこれに反し、農業の場合は、利益が少なく、幕府は手厚い保護と奨励をしなければならなかった。牧畜・植樹・採鉱その他では、民業として急速に発展しうる条件が無かったため、多くは幕府が創始・経営し、民業を誘導発展する方針をとった。

 1855(安政2)年、庵原菡斎(いばらかんさい *第一次幕領時代に松前奉行に仕えていた)は、「自らの希望で箱館在(ざい *郊外)銭亀沢(ぜにかめざわ)村字(あざ)亀尾に入地して開墾に従事し、すこぶるよい成績をあげたので、箱館奉行はこれを賞し、その事業を官営に移し、その地を御手作場(おてさくば)といった。また越後の松川弁之助(*先述の場所請負人)は、故郷の戸口が多く他国に出稼ぎする者が少なくないので、これを本道(*蝦夷地のこと)に移住させたならば、経費も少なくて開墾をなしうるという見込みから開拓事業を願い出たので、同(*安政)三年弁之助に命じ、数戸を箱館在赤川村字石川沢(後の亀田郡亀田町〔現・函館市〕の内)に移住させて御手作場を設け、ついでその地方に入場を希望する者を収容した。同四年には弁之助に命じて岩内場所幌似(ほろに)、発足(はつたり)の二か所に御手作場を設け、のち在住(*家族と一緒に農事に勤め、また警衛にも役割を果たす者をいう)常見栄太郎がこれを管理した。同五年奉行所雇吏新井小一郎は関東、越後の農民百戸を募集し、これを山越内場所長万部付近栗木岱ほか三か所に移して御手作場を開いた。」(『新北海道史』第二巻通説一 P.804)と言われる。

 箱館奉行はまた、二宮尊徳の力を借り、その門弟・新妻助惣・佐々木長左衛門・大友新六を奉行所雇(やとい)とし、「箱館在鶴野(今の七飯〔ななえ〕町の内)に農民数十戸を募(つのり)移して御手作場を開き、ついでまた木古内(きこない)村にもこれを設けた.彼らはいずれも相馬藩士で、尊徳の仕法をもってこれを指導した。安政五年五月、三人から提出された計画によると三十年間に順次農民六百人を移住させ、田六百町歩(1町歩は約1ヘクタール)、畑三百町歩を開墾する予定であったことが知られる。しかし、当時農民の募集は容易でなく、募移したものすら退去する有様(ありさま)であったので、開拓事業は予定どうりにはすすまず、好成績をあげることはできなかった。/安政六年石狩在勤調役並荒井金助も官費をもって石狩原野に篠路(しのろ)村を開いた。その他在住の士などが独力又(また)は組合で諸国から農民を募集し、開墾を企てる者があったが、そのうち官がこれに資金を融通し、御手作場と称したものも少なくなかった。文久二年(*1862年)の調査によれば、御手作場は箱館付近に十一か所、その農民三百余人、長万部付近に四か所、その農民三百四十余人、その他岩内原野、石狩原野などに若干名が入れられた。最後に開かれた御手作場は石狩原野の元村(開拓使となってから札幌村と改められた)で、これまた二宮尊徳の門弟である在住大友亀太郎が、慶応二年、および三年に農民数十戸を募移して開いた」(同前 P.804805)ものであった。

 幕府以外の諸藩では、相馬藩や松前藩などが、農業開発を奨励した。相馬藩では、佐々木長左衛門の計画に基づいて、1863(文久3)年、箱館在軍川(今の七飯町の内)や石川郷(今の函館市亀田町の内)の地を請い、1864(元治元)年から開拓に着手した。移住者を津軽・秋田・南部などから募集し、軍川に53戸、石川郷に45戸を移した。

 松前藩もまた開墾を奨励し、厚沢部川沿岸の鯎(うぐい)川・小黒部(おぐろべ)・館村や、天ノ川沿岸の北村などで田畑を開いた。

 蝦夷地に分領地を得た東北諸藩の中では、庄内藩がもっとも開墾に熱心で、領内の農民を移住させ、旅費・家屋・器具・種子などを支給し、開墾を促し、浜益場所に柏木原ほか7か所、留萌場所に賢別(まさりべつ)ほか1か所を開いた。

 民間で規模の大きいのは、東西本願寺の開墾がある。西本願寺は、現・北海道での布教が許されておらず、かつて天保の凶荒(1834~1838年頃)の際、庶民救済のための蝦夷地移住の計画を進めたが、中心的推進者の病没で挫折したことがあった。西本願寺は、1858(安政5)に濁川(後の上磯郡上磯町)に55万坪(約183・3町)の土地を請い、翌年から但馬・越前・加賀・能登から移住者を募り、農民374名を送りこんだ。だが、農業開発は困難を極め、次第に離散し、幕末にはわずか13戸70余名に減少してしまった。

 これに対抗し、東本願寺は1859(安政6)年に、亀田町(今の函館市)字(あざ)桔梗野の地・百万坪(約333・3町)を請い、翌年から北国門徒、なかでも能登の農民数十戸を募集し移住させた。この場合は、比較的農業開発は西本願寺よりは「順調」であった。

 第二次幕領時代、箱館近辺だけでなく、他の蝦夷地でも定住者が増加するに従い、運上屋周辺での蔬菜(野菜類の総称)栽培が増加し、中には穀菽(こくしゅく *穀物や豆類)を作る所もでてきている。

 蝦夷地のアイヌ社会には、漁労や狩猟とともに、農耕の伝統があったといわれる。「近世初期にも『田作』(農耕)のことが記録されている(『津軽一統誌』巻第一〇)。〔松浦〕武四郎の見分のうちにも農耕の盛んな地域のことがいくつかあげられているが、漁業労働の雇(やとい)に働かされる中では農耕は衰退していったと見られていた。しかし、沙流川流域のように、目立って農耕の盛んな状況も紹介されている。『畑の柵も山々の細道も有(あり)て夷地(*蝦夷地のこと。差別表現)の心地(ここち)せず』という本州の農村地帯のような風景、『年々雑穀三十余俵』もとる家もあるという地域には、九間(一六mほど)四方もある大きな家に『太刀百振、鎗五すじ』も飾って暮らす『乙名』がいて、この首長の下に維持されているアイヌ社会の実態が見られたのである。/一八七二(明治五)年、沙流郡各村に『アイヌ』耕作地が三〇六町歩余りもあったとする資料もある(『北海道殖民状況報文 日高国』)。この頃、沙流郡のアイヌ人口は三五五戸、一五一九人であったという(『平取町百年史』)。稗(ひえ)を上畑三反耕せば一戸五人を支えるに十分(『平取外八箇村史』一九一七年)という生産性であれば、一八七二年頃の沙流郡では畑作ですべての戸口が保たれる計算になる。」(P.127128)と言われる。

 漁業への分業特化を推進した場所請負制、またそれ促した幕府の分業政策で、アイヌ自身の農耕は全般的に衰退したと思われるが、沙流郡などのように一部では、依然として農耕生産が継続されたのである。

 

1)江戸時代、武蔵国多摩郡八王子に住む在郷の武士の集団をいう。1590年、徳川家康が関東に入部した時、代官頭・大久保長安の下で、武田の遺臣(長安もその一人)を中核に構成された。その任務は、甲斐国境の警備と治安維持であり、西部方面で江戸警備にあたった。

 

(2)箱館産物会所と元仕入仕法

 幕末の幕政改革の一つに、産物会所構想がある。この産物会所計画は、本庄栄次郎著『増補 幕末の新政策』によると、1855(安政2)年、1856(安政3)年、1859(安政6)年、1860(万延元)年、1862(文久2)年、1865(慶応)年にそれぞれ提起され、評定所・勘定奉行・外国奉行・外国掛大目付目付・町奉行・寺社奉行などが、意見を提出している。これらは、議論倒れとなり、実施に移されたのは1862年(文久2)の計画のみであり、しかもそれも産物会所としての機能を発揮せずに終わっている。

 ちなみに、1855(安政2)年11月4日、老中・阿部伊勢守正弘が、評定所一座、大目付、勘定奉行、目付、勘定吟味役に渡した評議書は、次のように述べている。

 近年、地震津波などの天災が続き、また外国船の入港もあり、このままでは「国家の衰弱相増(あいま)し御国勢復古致すべき様もこれ無く」、幕府も諸大名も散財し疲弊するだけであるとする。そして、

……方今の急務は富国強兵の外(ほか)これ有る間敷(まじく)、然る処(ところ)尋常の御処置にては迚(とて)も相届くべく様これ無く、当節の場合実に容易ならざる時勢に付き、何(いず)れにも非常の御処置これ有りたく、【就(つい)ては諸国より出候(いでそうろう)産物類、御料(*天領のこと)は御代官、私領(大名領・旗本領など)は領主地頭より江戸表江(え)直に運送致させ、都合宜(よき)場所相撰(あいえらび)、諸国産物会所と申す名目にいたし、四、五ケ所も御取建てこれ有り、右運送の諸品物(しなもの)其(その)處(ところ)におゐて直に売捌(うりさば)かせ、尤(もっと)も御代官は手附(てつけ)手代(てだい)、諸家(*大名)よりは家来(けらい)差出(さしだ)し町人共え直に売捌き、諸家旗本(はたもと)御家人(ごけにん)の向きも産物相求(あいもとめ)たき望(のぞみ)のものは、小買い等も勝手次第売渡させ、公儀(*幕府)えは産物売上高に応じ冥加(みょうが *税の一種)上納金差出させ、諸雑費の御入用に相充(あいあ)て候はば御益にも相成り、且(かつ)諸家にても出産の品(しな)直売(じきう)りに相成り候はば、大坂商人共を始め津々浦々え利分相掛(あいかかり)候儀相省(あいはぶ)き利益少なからざる儀にこれ有るべく候。】右様(みぎのように)相成り候得ば大坂商人共は申すに及ばず、江戸表(えどおもて)巨商共も根本より売り崩され候に付き、〆売(しめうり)〆買(しめかい)〔*買占め売り惜しみ〕等一切出来(でき)申さず……然(しか)し乍(なが)ら餘(あま)り商人共騒敷(さわがしき)事にも至り申すべく候はば、先ずは試(ためし)のため年限を定め仰せ出で候はば子細もこれ有る間敷(まじき)や、一体是迄(これまで)大坂の巨商は勿論(もちろん)江戸の大戸(*大店)にて自在(じざい)に天下の財宝を握り、諸大名始め過半金主に相頼り大利を貪(むさぼ)られ、却(かえっ)て彼等の為(ため)に公務を相勤め候様成り行き候は国産の利潤を奪(うばは)れ賓主(ひんしゅ *お客と主人)所(ところ)を換(かえ)候より、全武家衰弱に至り候儀にこれ有り、今般は根本より立直され候はば武家の威権(いけん)商人に奪はれ候(そうろう)儀(ぎ)これ無く、商人共も身分を顧(かえり)み、四民各(おのおの)其(その)分(ぶん *身分)に安(やすん)じ候はば質素倹約の御教令も是(これ)より行はれ申すべく、非常の時には非常の御処置これ無く候ては御国家御更張(こうちょう *今まで緩んでいる事を改めおこす)の期これ有る間敷(まじく)候間、厚く勘弁(かんべん *考えて事を定めること)評議いたし早々申し聞けるべく候事

 老中阿部の構想は、①内憂外患の今日では、「急務は富国強兵」(明治維新以降は、常に唱えられるようになる)とし、②「非常の時は非常の措置」が必要であり、それが産別会所構想である。③その内容は、【】内の部分に示される。④この構想が実施されれば、大坂・江戸などの大商人の収奪を封じることが出来、「武家の威権が商人に奪われる」こともなく、「国家更張」のよい機会だ―というのである。

 肝心の産別会所の内容は、(1)諸国(日本全国)の産物を天領・私領の別なく江戸に集中させること、(2)それら産物は、江戸の4~5カ所に建てた「産物会所」に集めること、(3)そして、そこで武士も含めたすべての者に直売りすること、(4)産物売上高に応じ、幕府へ「冥加上納金」を納め、これを「諸雑費」に充てること(後の議論では、海軍強化の資金に当てる意見がある)―となっている。

 阿部の構想の核心は、大坂・江戸などの大商人の中間収奪をなくすことである。だが、生産と流通の関係、流通の構造改革(産別会所は江戸だけでは間に合わず、何らかの全国分配構想が必要となる)など具体的なことには触れられていない。

 本庄氏によると、産物会所計画をめぐる議論では、総体的に「その動機に於ては、或者(あるもの)は商権を武家に回収することを第一の目的とし、或者は物価下落を第一目的とせるが如く見ゆるも、……その方策の上に於ては彼是(かれこれ)同一であり、商賈(しょうこ *あきんど)の利権を幕府の手に収むる点に最も重大なる意義を有するものであろう。」(本庄著『増補 幕末の新政策』P.331)と言われる。

 他方、幕府は、幕末の議論の以前にすでに、蝦夷地の直轄にともない、蝦夷地産物の取扱いのために、幕府直営の機関として箱館産物会所を設けている。1799(寛政11)年、東蝦夷地を直轄した時は、蝦夷地産物の集荷・販売機関として箱館と江戸に会所(かいしょ)を設け、全国の要地に御用取扱(ごようとりあつかい)商人を置いた。

 1812(文化9)年、場所請負制の復活により会所は廃止されたが、1855(安政2)年、幕府は蝦夷地の第二次直轄を行なうと、1857(安政4)年、蝦夷地産物の流通統制と、流通過程での課税による収益(蝦夷地開拓の費用に当てる)を目的として、箱館産物会所を設けた。箱館・江戸・大坂・兵庫に会所を設け、また他の要地にも用達(ようたし)商人を置いて、蝦夷地産物の検査・取締りを行ない、売買価格の100分の2を口銭(こうせん *売上利益への課税)として、上納させた。

 蝦夷地の問題については、さまざまな意見対立があったが、最大の問題は、第一には、蝦夷地上知にかかわる件(従来通り、松前藩が統治すべきか、幕府が上知すべきか)、第二は、場所請負制の廃止か、存続か―の件である。

 蝦夷地上知の件では、老中阿部正弘は、1855(安政2)年2月、箱館奉行堀利煕・村垣正範らの意見をいれて、松前城下を除く全領一円の上知を指示し、それを箱館奉行預りとした。

 松前藩はこれを不満とし、同年4月、仙台藩を仲介として老中・松平乗全へ嘆願書がだされ、旧領安堵の工作がなされた。しかしこれは、1855(安政2)年8月に、松平乗全・松平忠優の二人の老中が役を退くことで、頓挫する。また、蝦夷地上知派の内部でも意見対立はあった。勘定奉行などは原則的に上知に賛成だが、財政的な理由から慎重にすべきと主張し、箱館奉行・竹内保徳のように一挙に上知することは困難なので漸進的に行なうべきという意見であった。

 場所請負制の件では、堀・村垣らは、当初、同制度の廃止に傾いていたが、「ところが、奉行所設置に伴う物資調達・為替取組などに御用達(ごようたし)商人が不可欠であり、それには、江戸に本拠地を持ち、また新興の有力場所請負人でもある栖原(すはら)六右衛門や伊達林右衛門をあてざるをえなかった。また、蝦夷地上知が場所請負制度の廃止に連なることを恐れた請負人の動揺が、反上知運動に結びつくことを危惧せざるをえなかった。このような状況から、箱館奉行は、安政二年七月、場所請負制度を従来通り存続するという結論を出し、老中に上申するにいたった。一方、阿部は、開拓費用の幕府財政圧迫が、幕府の蝦夷地政策批判を煽(あお)ることを恐れてか、これら費用を蝦夷地内で捻出(ねんしゅつ)する独立採算制に努力すべきことを箱館奉行に指示した。これを受けた箱館奉行は、場所請負人などからの運上金をもって資金源にあてたいという要望書を老中に提出し、場所請負人との妥協を前提にしつつ、蝦夷地経営に乗り出す決意を固めてゆく。」(守屋嘉美著「幕府の蝦夷地政策と箱館産物会所」―石井孝編『幕末維新期の研究』吉川弘文館 一九七八年 P.112113)のであった。

 しかし、これには勘定奉行が反対する。彼らは、「司農府(*勘定奉行を指す。元々は前漢の官庁名)ニ而(にて)ハ兼而(かねて)御直捌の事を主張致し候」(『大日本古文書』―「幕末外国関係文書」第15巻―306 P.796)との態度であり、場所請負制度を廃止し、蝦夷地を幕府直営とするべきとしていた。

 この両者の対立を解決するのは、はなはだ困難だったようで、老中は1856(安政3)年11月、幕府直轄支配という点で箱館奉行の意見を採用し、場所請負制度については、勘定奉行の意見を尊重して、これを廃止するという態度を採った。(同前―「幕末外国関係文書」の第15巻―95 P.224~)

 これを受けて、箱館奉行たちは、「その(*箱館奉行)存続という彼等の主張を貫徹するため、従来の権益を保持せんとする場所請負商人との密接な連繋(れんけい)のもとに、蝦夷地開拓費用捻出のための新たな方法として、箱館産物会所の設置構想を提案するにいたるのである。この構想は、勘定奉行などが危惧する開拓費用の幕府財政圧迫、あるいはその打開策として彼等が主張する場所請負制度の廃止と幕府の直営化を抑え、かつそれを止揚するための有効な手段として考えられたらしく、……老中の認めるところとなり、具体化されてゆくのである。それと同時に、場所請負制度についても、〔安政〕四年八月に、正式にこれを存続させるという老中の決定が行われ、ここに箱館奉行の意見が全面的に認められることになった」(守屋前掲論文 P.114)のである。

 しかし、1858(安政5)年に、井伊直弼政権が成立すると、蝦夷地政策は阿部・堀田時代とは異なり、保守的かつ消極的となる。1859(安政6)年9月に、蝦夷地が東北6藩に分領されるのも、その一つの現われである(もちろん幕府直轄地も残るが……)。

 だが、箱館奉行所は、1860(万延元)年以降、生産・流通の全過程を支配するために、「元仕入仕法(もとしいれしほう)」と称して、会所の運営費を三都(江戸・京都・大坂)の有力商人に出資させて、場所請負人らへ資金を前貸しをするとともに、堺・敦賀・下関・新潟、松前などにも会所・用達を置いて蝦夷地産物の取締りに当った。

 しかし、幕府権力の弱体化や、三都の経済的地位の相対的低下もあって、会所を通さない蝦夷地産物が増えた。また、もともと大坂や兵庫の問屋などは、箱館産物会所構想に消極的であり、幕末(文久・慶応期〔1861~1868〕)の政情不安の下で、なお一層、消極的となった。こうして、1868年、産物会所は廻漕会社と合併し、明治維新となった。

 なお、箱館産物会所にかかわって注目すべき点は、箱館奉行は従来の居貿易(外国船の入港を待って外国と行なう貿易)に甘んじないで、1859(安政6)年2月、堀織部正ほか三名が連署して、出貿易(居貿易の反対語)を上申する。それは、外国におもむき物産を取引しその利益をもって船の維持費に充てて、兼て外国の事情を知るとともに、日本人の航海訓練をさせよという計画である。

 この上申に対して、すぐには返事はなかったが、結局は認められたようで、1861(文久元)年4~8月、箱館奉行は同支配調役・水野正太郎、諸術調所教授・武田斐三郎(あやさぶろう)ら一行30余名を亀田丸に乗組ませ、幕末初めての黒龍江への出貿易を行なっている。

 さらに、幕府が同年9月に行なった千歳丸の上海出貿易(これには、長州の高杉晋作、薩摩の五代友厚なども参加)に続いて、箱館奉行は、翌年(文久2年)10月に、奉行所付属の健順丸をもって、英領香港およびオランダ領バタビアの出貿易を試みる。しかし、この度は理由はよく分からないが、幕府によって押しとどめられた。

 しかし、幕府は1863(文久3)年10月、健順丸を長崎に派遣し、風の様子によっては上海に行くのも許すとした。1864(元治元)年2月9日、健順丸は兵庫を出発し、21日に上海に到着し、英領事を通して、中国役人に面会し、オランダ領事の斡旋により、貿易を行なった。市中見物も含め、1カ月半滞在し、4月15日に長崎に戻っている。貿易は、蝦夷地のイリコ、干し鮑など海産物を売り、相手の砂糖・綿・水銀などを買い入れた。貿易の利益は、1286両余にのぼったと言われる(本庄栄治郎著『増補 幕末の新政策』P.471)。

 

(3)交通網の拡大強化(道路・駅逓)

 道路の開削は、従来から、蝦夷地の警備あるいは産業開発上の急務であった。東蝦夷地は第一次幕領時代から所どころ開削され、海岸沿いに人馬が通交できるようになったが、その他はほとんどが交通不便であった(道路が開削される前は、船便がほとんどであった)。

 箱館奉行・堀利煕は道路開削の計画をたて、1855(安政2)年4月、幕府に意見書を提出した。

 「その大要は、箱館から鷲木、長万部(おしゃまんべ)を経て、有珠山、虻田山の中間をすぎ、勇払から千歳川、石狩川の船路を相交じえ、天塩川の水源に従って、北海枝幸(えさし)、網走へ大道を切り開き、これを本街道とし、従来の東西海岸道路はこれを脇海道とし、所々(ところどころ)に支道を開いて本街道と連絡し、四、五里ごとに宿駅を設け、野馬を備えて旅行の便に当てるのが理想であるが、しかしこれらの開削は一時に成功させることが困難であるから、口蝦夷地から漸次(ぜんじ)奥蝦夷地に及ぼすよう、まず長万部から黒松内を経て寿都(すっつ)、磯谷に新道を開き、磯谷から北、増毛まで所々に山道を開削し、宗谷、斜里に達するようにすることが急務である。また熊石から島小牧までは海岸が非常に切り立っているから、渓谷などに沿った平坦な道を求め、やむを得ないところは桟道(さんどう *山の崖の中腹に、棚のように設けられた道)、懸橋(かけはし)を渡しても、馬が通うようにしなければならぬ」(『新北海道史』第二巻通説一 P.791792)というものである。(このように、蝦夷本島の中部を貫く幹線道路の開削の必要性は、かつて近藤重蔵も唱えていたと言われる)

 箱館から長万部を経て西海岸に出て、宗谷、斜里に至る道は、当時、最も必要とするものであったが、箱館奉行所は台場や役宅などの建築で経費が限られ、従がって、道路開削はほとんどが場所請負人に開削させるか、彼等に寄付をさせて行なわれた。「こうして黒松内山道、雷電嶺、岩内、余市間は安政三(*1856)年にできあがり、小樽、銭函間、濃昼(ごきびる)山道、雄冬(おふい)山道は同五年に竣工し、なお石狩、対雁間、銭函、千歳間も同年に開削された。」(同前 P.792)のであった。

 以下、『新北海道史』第二巻通説一に拠って、主な工事を挙げてみる。

*黒松内山道――長万部と磯谷の間約10里をつなぐ山道である。箱館の福次・千代田村の名主・才太郎が長万部―黒松内の間約6里の開削を出願し、元手を勇払場所の請負人・山田文右衛門の支配人金兵衛に頼んで成功した。黒松内―歌棄(ヲタスツ)間の約4里は、歌棄場所の請負人・桝屋栄五郎の父・定右衛門が出願し、私費で開削した。

*雷電嶺――この山は磯谷~岩内間にある峻嶺で、大概は海路を使わざる得ない難所である。磯谷場所の請負人・桝屋栄五郎、岩内(いわない)場所の請負人・仙北屋仁左衛門が出願し、栄五郎は両場所の境のアフシタ以西1里余を、仁左衛門は以東2里を開削し、四季ともに人馬が往来できるようになった。

*岩内~余市間――この山道は、かつて1809(文化6)年に開削されたが、その後荒廃した。岩内場所の請負人・仙北屋仁左衛門、古宇場所の請負人・福島新右衛門、余市場所の請負人・竹屋長左衛門、忍路(おしょろ)場所の請負人・住吉屋徳兵衛などが私費で分担開削した。翌1857(安政4)年には、長左衛門、古平場所などの請負人・恵比須屋半兵衛、美国(ビクニ)と積丹(しゃこたん)の場所請負人・岩田屋金蔵は、各々の持場内に道路を開削し、余市から積丹の日司(ひつか)に至る支道を通した。

*余市~小樽間――この道路は、高島場所の請負人・住吉屋徳兵衛と出稼ぎ人(本州から出稼ぎに来た和人)などが私費で、開削した。

*小樽~銭函間――この間は、絶壁が海に迫り、ことにカムイコタンの難所がある。ここは小樽内場所の請負人・恵比須屋(岡田)半兵衛が出願して、私費で開削し、難所を切り開いた。

*濃昼山道――ここも山岳が海に迫る難所で、舟で通るほかはなかった。ここは厚田場所の請負人・浜屋与三右衛門が自費で開削した。

*雄冬山道――雄冬岬は、モッタ岬・神威(カムイ)岬とならんで西蝦夷地の三険岬と言われ、従来、海岸伝いに櫂でこぐ掻送船さえ転覆することが少なくなかった大難所である。ここは、浜益・増毛場所の請負人・伊達林右衛門が私費を投じて開削した。その里程は9里余、道幅2~3間の、非常な難路であった。

*銭函~千歳間――石狩低地帯は、従来から東西の海岸を連結するための重要路線であって舟で往来していた。しかし、労費が多くかかり、また冬は河水が凍結して航行不能となるので、奉行所の工作もあり、石狩場所の請負人・阿部屋伝次郎、小樽内場所の請負人・恵比須屋半兵衛、勇払場所の請負人・山田屋文右衛門が、銭函から発寒、札幌を経て千歳にいたる道路を開削した。

*熊石~島小牧間――ここは、太田山・狩場山の嶮山が海岸近くに相連なり、山が直ちに海に入り、船路さえ困難とする幌越岬およびモッタ岬がある難所である。しかもこの地は、漁業による収益が乏しい所であり、請負人に頼って開削はできなかった。だが、江差の商人・鈴鹿甚右衛門および長坂庄兵衛の二人が相計って出願し、私費で開削を行なった。太田山道・狩場山道・鶉越(または大野越)の3道を開削して通じた。

 〈図表12

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 以上にみられるように、ほとんどの場合、場所請負人が直接・間接に関係して東西蝦夷地をつなぐ道路が開削された。これは、各場所請負人の事業にも関わることだからである。慈善家でなく、金もうけを第一とする彼らは、金もうけに繋(つな)がるからこそ投資したのである。しかし、いくら事業に関わるからと言って、元手がなければ、彼等とても私費を投じなかったであろう。このことは、いかに彼らが暴利をむさぼっていたかを物語るものである。

 次の図表12(守屋嘉美著「幕府の蝦夷地政策と在地の動向」―幕末維新論集⑨『蝦夷地と琉球』吉川弘文館 2001年 P.9)は、安政初年(1854年)の東西蝦夷地場所請負人の一覧表である。この年の運上金の総計は、1万9657両である。

 注目すべきは、その〈運上金〉の欄である。この中で1000両以上の運上金を納める請負人は、7人(計29人中)もいる。1000両未満~100両以上は、16人で、100両未満は6人である。

 道路開削に私費を投じた場所請負人は伊達林右衛門(運上金1817両、他に北蝦夷地で栖原元右衛門と共営で同1565両)、阿部屋伝次郎(同1500両)、山田屋文右衛門(同1400両)、恵比須屋半兵衛(同965両)、仙北屋仁左衛門(同565両)、竹屋長左衛門(同560両)、住吉屋徳兵衛(同447両)、浜屋与三右衛門(同385両)、桝屋栄五郎(同380両)、岩田屋金蔵(同295両)、福島屋新右衛門(同197両)という面々で、皆、請負人の中でもハイクラスの者たちである。

 ところが、天明6(1786)年の運上金の規模と比較すると、安政初年の運上金(税の一種)は巨額なものである。

 『北海道の歴史』(1969年版)に掲載された一覧表(白山友正著「松前蝦夷地場所請負制度の研究」に基づく)でみると、東西蝦夷地の場所請負人の1786年の運上金の規模は、以下のようである。

 まず東西蝦夷地の場所請負人の運上金総額は、5510両で、その内訳は東が1578両、西が3932両である。

 さらに、運上金の規模を階層化すると、東で100両以上の運上金を納めたのは、わずか3人(多い順で、飛騨屋久兵衛370両、笹屋治兵衛185両、白鳥屋新十郎130両)で、25人中の22人が100両未満である。

 西で100両以上納めたのは、15人(上位3人は、阿部屋伝吉610両、恵比須屋久次郎500両、浜屋久七445両)で、100両未満は22人中7人である。

 東西複数の場所を持ち、最も多くの運上金を納めたのは、阿部屋伝吉705両で、次いで多いのが飛騨屋久兵衛の620両である。それでも、安政初年、1000両以上の運上金を納めた場所請負人が7人いたのと比較すると、雲泥の差である。

 こうした事情があったからこそ、暴利をむさぼる請負人たちが、私費を投じて道路開削を行なった背景が理解できるのである。そうした暴利の源泉は、言うまでもなくアイヌたちからの収奪と自然からの収奪である。

 

C和人の出稼ぎと幕府の植民奨励

 

(1)山林伐採事業に下北農民の集団出稼ぎ

 和人が移住・植民する前史には、現・北海道と本州北端のアイヌ同士の交流・交易、北奥地方の和人の蝦夷地との交易、大飢饉による「地逃げ」、生活苦からする出稼ぎなどがある。(《補論 本州北端部のアイヌ》を参照)

 和人の出稼ぎの起源については、よくわからないのが実状のようである。しかし、いくつかの手掛かりはある。

 1669(寛文9)年のシャクシャインの戦いで、和人の犠牲者は、360余人に上っている。「……日高地方を中心に展開されたアイヌの大蜂起のおりには、蝦夷地内に金堀(かなぼり)、鷹師(*鷹の羽が和人の武将・貴人などに珍重された)が入りこんでいて、これらを含めて東蝦夷地二二二人、西蝦夷地一四三人の犠牲者があり、東蝦夷地ではシラヌカ(白糠)以西の各場所で犠牲者を出している。毎年交易のために東西蝦夷地へ向かう商船のあったことは当然であるが、商船のほかに鮭船、鱒船のあったことが知られる。松前近傍の河川沿い(「めな川とら〔とと〕川」)で四万石のエゾ・トド松を杣取(そまどり *材木取り)している、という。アイヌに殺害された三六〇人余のうち松前の者は百人余ということであるから、残りは鷹匠、『松前へ参り候商人』ということになり、毎年入りこむ三、四百の一部ということになる(『松前一統志』一六六頁)。」(佐藤宥紹著「下北農漁民の蝦夷地出稼ぎについて」―『北海道の研究』3 近世編Ⅰ に所収 P.264)といわれる。

 場所請負制がいまだ普及・一般化する前であり、場所での和人の漁業経営がほとんど行われていない段階とみられる(砂金採集や鷹狩はシャクシャインの戦いの後には衰微している)。

 しかし、場所請負制は、17世紀後半から普及し始め、遅くとも享保年間(1716~1736)には一般化する。

 金座の相当に有力な役人である板倉源次郎は、蝦夷地の金山調査の際の見聞を基に『北海随筆』(1739〔元文4〕年)を書いた。

 そこでは、江差の鯡漁の活況を伝えると共に、蝦夷地の山の材木について、次のように記している。「石山にてあらざる山々は材木有(あり)。上の国とて十里に及ぶ大山檜山なり。二十年以前、ともづれにて火を出し〔*木と木がすれあって起きる自然発火〕七日七夜焼けるゆへ(故)、山半分は焼尽(やきつく)したり。其後(そのご)は留め山に相成(あいなり)今に伐出(かりだ)さず。檜(ひのき *建築材としては最高級)は惣(すべ)て少きもののよし(由)。〔松前地だけでなく〕蝦夷地えかけてもまれ(稀)なり。蝦夷松とて一種有り。樅(もみ)に類す。此(この)木は所々にあり。是又(これまた)他国にはなき材なり。江戸飛騨屋九兵衛と云(いふ)材木商人蝦夷地一面材木山を請合て江戸、大坂へ廻し檜の代(かわり)となせり。江戸にて献上台、障子(しょうじ)、曲げ物(まゲもの *薄い板を曲げて作った容器)等に用(もち)ゆるところ、木目(きめ)こまやかにして筋通り、檜よりは美なり。五葉松(ごようまつ)有(あり)。蝦夷松よりは品(ひん)おと(劣)れり。雑木にはトトロツブ(*トドマツのアイヌ名)、ヲンコと云(いふ)木有(あり)。樅の類なり。セン、桂、栃、朴(ほう)の木、黄檗(おうばく *みかん科の落葉高木―きはだ)等多し。竹はなし。……」(『日本庶民生活史料集成』第四巻 P.405)と。

  エゾマツが檜代わりに使われ、江戸や大坂で重宝していることが書かれている。

 蝦夷地と下北半島の交流を記したものに「蝦夷国私記」があり、それはおそらく飛騨屋久兵衛の関係者の記録とみられている。そこには、「南部大畑(*南部藩領)辺の近在の杣(そま)斗(ばかり)夷地(蝦夷地)へ参る杣(*きこり)持子(もちこ *木材運搬人)共(ども)前金(まえきん)相渡し候。夫(それ)より来る幾日の日和待(ひよりまち *出航に適した風を待つ)と村方へ觸(ふれ)を廻し何百人にても寄せ集め順風を待つ。是(これ)を日和待といふ。夫より白米人数により多く船に積込み、江山の内尾申別といふ所(ところえ)船を付(つ)け、一人前一斗五升宛(あて)銘々(めいめい)に持たせ、夫より所の伝御へ頼み夷人五~七人雇ひ道々草を踏分(ふみわけ)参る也」(前掲佐藤論文からの重引)と記述されている。

 これは1747(延享5)年の記録であり、下北半島における初の出稼ぎ記録とみられている。下北の桧山は、当時、ほとんど伐り尽くされ、南部藩の財政ひっ迫を緩和させるために、蝦夷地の桧山が狙われたのである。

 また、鳴海健太郎氏によると、「享保年間(一七一六~三五)下北商人として蝦夷地へ渡海した者に、熊野屋こと南忠右衛門が挙げられる(元来、紀州尾鷲村の出で屋号はマルキチ)。寛延三年(一七五〇)大畑から松前藩に願い出て、江差のトド川山から松木七万石を金子(きんす)一千四百両でもって伐採事業をおこしているのだから驚異である。熊野屋の企業的活動は、『蝦夷地一件』『岩内神社縁起』『松前随行録』『西蝦夷地分見図』に明記されている特別の説明は要しない。/また寛政十二年(一八〇〇)上ノ国目名山・戸渡川山を山内湊の仙台屋重兵衛が、享和元年(一八〇一)大畑湊の田村屋重次が上ノ国の山林伐採事業に従事していることは、北海道山林史上で注意しなければならない。」(同著「蝦夷地・北海道と下北半島の交流史攷」―『蝦夷地・北海道―歴史と生活』雄山閣 1981年 に所収 P.153)といわれる。

 蝦夷地の山林伐採事業が行われ、江戸や上方の活発な需要に応えていたのである。この事業には、当然のことに南部の杣が駆り出されていた。

 なお、『北海随筆』は1737(元文2)年頃の松前藩財政における歳入項目とその金額を、次のように記している。 

(2)古金 千貮百両程 シリベツ山材木運上

(2)同  千七百両程 鯡(にしん)運上

(4)同  千貮百両程 商船運上

一、同  千七百両程 蝦夷地秋運上

(2)同   三百両程 同  夏運上

一、同    百両程 昆布運上

一、同  千四百両程 他国人役金

 ほかには、畑年貢や入船商物の運上等あるが、些細なものであるので、板倉は金額を除外している。歳入総計約7600両のうち、材木運上は1200両程であり、全体の約15・8%でしかない。また、松前藩は檜奉行をおいて木材業を管理して、元禄期(1688~1703年)には年間2000両以上の運上金を得ていたが、1730年代になると、1200両ほどの減収になっていたのである。いまや、場所請負人の漁業経営への財政依存がますます重くなっていったのである。

 だが、松前藩は18世紀半ば過ぎのころになると、出費がかさむ事態が続出する。1765(明和2)年には城内角櫓(すみやぐら)・表門の普請、1767(明和4)年には城下の大火(400戸余の焼失)、1771(明和8)年には藩主・道広と花山院家姫君との婚礼、1772(明和9)年には江戸藩邸の焼失である。また、1765年と1766年には、参勤交代のために多額の出費がかさなっている。

 財政の窮迫によって、藩はまたまた大商人への借財で急場をしのぐこととなる。しかし、それは傷口をさらに広げる結果になってしまっている。すなわち、松前藩は、「……とくに、蝦夷地の『檜山(ひやま)』の請負――エゾマツ伐出しの独占的な請負を続けていた飛騨屋久兵衛からの借財が大きくなっていたが、藩は、さらに運上金額を引きあげようとして飛騨屋から『檜山』を取りあげて、より高額を上納するという新宮屋久左衛門の請負に変更した。それに伴って飛騨屋からの借財を返済しなければならないこととなったが、返済は不能で、エトモ、アッケシ、キイタッフ、クナシリの四場所を二〇年間、飛騨屋にわたすことになってしまった(安永二年〔*1773年〕)。これとは別の飛騨屋からの新しい借財の返済にあてるためソウヤ場所も一五年間、飛騨屋にわたすことになっていたので、藩主直領の大場所がすべて飛騨屋のものとなってしまい、これらの場所から藩への運上金上納はゼロ(すべて返済にまわされる)となった」(『北海道の歴史』山川出版社 2000年 P.110111)のである。

 こうして、山林伐採事業を手広く行っていた飛騨屋久兵衛も18世紀後半には、大きく漁業経営に転換する。

 

《補論 本州北端部のアイヌ》

 16世紀には、本州北端部(後に弘前藩・盛岡藩の藩領の一部となる地域)には、かなりの勢力としてアイヌ民族が存在していたようである。

 「一七世紀中頃、弘前藩の藩主直領では百姓から取り立てる『諸役』のうち、『狄米』を規定していた。貢納米のうちから『狄』(*アイヌを差別した表現)の首長に給与するものであったと考えられ、このような制度を通して弘前藩の政治秩序のうちに『狄』を位置づけることが進んだのである。そして、この頃には弘前藩の家臣団への新しい知行地の宛行(あてがい)が外浜(そとがはま 津軽半島北部)でも行なわれるようになって、『狄』は知行地のうちに取り込まれるようになるのであった(浪川健治『近世日本と北方社会』)。/盛岡藩では下北半島の各村から取り立てる『蝦夷稗(ひえ)』という制度があって、易国間や脇野沢の『蝦夷』の首長に稗を給与することが、一八世紀後半期まで続けられていたと伝えられている(『原始漫筆風土年表』)。/弘前藩、盛岡藩の藩領支配が拡張・安定化してくる中では、この地域のアイヌ社会はしだいに狭められてくる。」(『アイヌ民族の歴史』山川出版社 2015年 P.107108)と言われる。

 1670(寛文10)年のシャクシャインの戦いの折りには、もちろん幕府の命令もあったが、弘前藩は積極的に出兵している。アイヌ勢と直接戦うことはなかったが、松前まで700余人を派遣・駐屯させている。弘前藩は、その翌年には東西蝦夷地に密偵船を派遣して、調査させている。

 盛岡藩も野辺地(のへじ)などに人員を配置し、出兵の準備をし、田名部(たなぶ)には輸送船も配備した。

 「一八世紀になると、『狄』村の地域に関係する害獣問題――『熊荒』、『狼荒』――の記録が目立ってくる。子どもが狼に食い殺された、鉄砲組では退治できず、矢毒を使う『狄』の派遣となった、畑を荒らす熊を『狄共』の矢毒で打ち取った、などである(『青森県史 資料編』)。『狄』の狩猟技術が貴重な存在となっていることが分かるが、これは『狄』の狩猟圏が畑作稲作農民の生活の場に変わってきていること、その生活を安定させるために『狄』の伝統的な狩猟技術が利用される状況になっているということであった。/漁業の分野でも、『狄』の活動は狭められてきていた。弘前藩は、一七世紀中頃、河川の鮭猟は銀役を納める『川主(かわぬし)』の権利とする制度を定めるようになった(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館)。一七世紀末頃からは、『狄』だけの鮫(さめ)漁場とされていた海域に、和人の鮫漁船が入ってきて、『狄』だけの鮫漁場はわずか三〇〇~四〇〇mほどの狭いところにされてしまった(『青森県史 資料編』)。/山林における弘前藩の管理も厳重になって、『留山(とめやま)』(藩の指示する伐木以外は禁止)が多く設定される。一八世紀初め頃には、三馬屋(みんまや)~宇鉄(うてつ)の山林で盗伐が多いということで、和人百姓、『狄』とも人別証文をつくり、鉞(まさかり)や柾挽(まさひき)鋸(のこぎり)の所持を禁止するという処置まで取られた(同前)。/こうして『狄』の人々は、一八世紀までには粟、稗、芋(いも)などの畑作農業、鰊(にしん)漁、鮫漁などの漁業、船を使っての運送業などを生業とするようになってきた。一戸平均二反五畝ほどの『狄畑』がある村も見られるようになって(浪川、前掲書)、北奥羽の和人百姓と変わらないような生活ぶりとなってきた」(『アイヌ民族の歴史』P.110111)と言われる。

 弘前藩は、宝暦年代(1751~1763年)に、アイヌに対して「人間取り立て」政策(和人百姓と同等に扱う)を行なう。そのため「髭(ひげ)を剃る」「髪を結う」「お歯黒(はぐろ)をつける」などの、和風化政策を強制する。寺院の信徒にして、人別帳にも載せたりした。だが、これに抵抗して山林に逃げ込むアイヌもいたという。

 1806(文化3)年には、改めて「蝦夷共」すべてを「正民」にする政策が行なわれ、「諸役共(とも)平民同様」に扱うとしたのであった。同化政策である。

 

(2)天明の大飢饉と地逃げ

 享保・天保飢饉とともに近世の三大飢饉と言われる天明の大飢饉(これらに寛永の飢饉を加えて四大飢饉という説もある)は、天明2年から同7年(1782~87年)にかけて、全国を揺るがした大災害であり、日本史上、最大級の大量死を招いた飢饉であった。

 そして、津軽藩や南部藩(その支藩である八戸藩)にとっては、元禄・天明・天保のそれが三大飢饉であり、なかでも天明3~4(1783~84)年がもっとも強烈な被害のあった飢饉の年である。

 その被害は、『新編 弘前市史』通史編2(近世1)によると、次の通りである。すなわち、「水田単作地方の津軽弘前藩は、周知のとおり最も飢饉の被害が大きい藩の一つであった。藩の公式記録の『国日記』によると、天明三年九月から翌四年六月にかけての餓死者は八万一七〇二人、うち在方(*田舎)の被害が際立っていて、七万人近くを数える。弘前に置かれた施行(せぎょう)小屋で力尽きて命を落とす者も少なくなかった。当時の藩の農村人口が約二〇万~二五万人と推定されるので、人口のほぼ三分の一が失われたことになる。他の北奥諸藩も同様で、史料によって違いはあるが、盛岡藩は約四万余、仙台藩は一四万~一五万、八戸藩(*盛岡藩の支藩)約三万人の餓死者を出しており、東北全体からいうと三〇万を越える死者が出たとみられる……。津軽弘前藩の人的被害は人口比からすると、領民の半分が亡くなった八戸藩に次ぐといってよい。」(P.403)と言われる。

 弘前藩を例にとって、さらに被害の規模をみると、天明3(1783)年9月から翌年6月まででも、死者8万1702人、斃馬1万7211頭、荒田1万3997町歩余、荒畑6931町歩余を数えたと言われる(『青森県史』二 P.440)。

 1784(天明4)年10月、津軽藩の関係者が書いたと推定される『天明癸卯(みずのとう)年所々書留』では、その最後の部分で次のように被害の規模が記されている。「凡(およそ)天明三卯(う)年十月より翌辰(たつ)〔年〕八月迄(まで)、餓死老若男女惣高拾萬貮千餘(*10万2000余)人ト相聞(あいきこえ)候、在々(ざいざい)死絶明家(*死に絶えて空き家)三萬五千餘(*3万5000余)、外(ほか)ニ三萬餘人(*3万余人)時疫(じえき *チフスなどの疫病)ニテ相果(あいはて)候、他国行(たこくゆき)八萬餘人(8万余人)。」(『日本庶民生活史料集成』第七巻 三一書房 1969年 P.284)と。

 

 〈無能力な藩主の下から「地逃げ」〉

 1783(天明3)年の秋作が大きな打撃を受け、食料が極度に欠乏し、翌4年にかけて餓死・疫死の屍(しかばね)が各地に累々とさらされた。東北地方の太平洋岸に犠牲者を多く出した天明の大飢饉では、前述のように東北地方だけでも死者数は30万は越えていたと見られている。 

 その原因は、ヤマセ(東風冷雨)による大凶作に加えて、1782(天明2)年の産米が翌年の端境期(はざかいき)までに上方や江戸などに移出された(「飢餓移出」)という人災が重なったことにある。問題は、凶作下でも江戸や大坂に廻米(かいまい *諸国生産地から大坂や江戸の市場に送られてきた米)を強行せざるを得ない、幕藩体制下の流通システムにある。 

 兵農分離の幕藩体制は、農民以外は都市(城下など)に集住した。都市に集住した武士・町人の消費対象で最大のものである米は、大坂市場や江戸市場などで売買された。皮肉なことに、その米は流通量が少ないほど高値で売れたのである。そのため、例年の廻米だけでなく、残りの米までも藩が決めた公定価格で強制的に買い上げ、市場へ売出されたのである。

 それは、幕府が課す軍役(他国での公共工事が多い)を遂行するための経費ねん出もあるが、経常的には、藩主一族の奢侈な生活や、それを守る藩士の生活を最優先するためである(その証拠に、天明の大飢饉で、大量の餓死者が出たにもかかわらず、弘前藩では藩士が餓死したという話は聞かない。おそらく他の藩でも藩士の餓死はあったとしても極めて稀な例と思われる)。

 そもそも諸大名の借財はすでに巨額なものにふくれ上がっており、弘前藩の場合、「宝暦四年(一七五四)段階で上方から二四万五〇〇〇両、江戸から四万二四〇〇両、国もとから六、七万両、合計三五~三六万両もあった(天保十一年〔*1840年〕には119万両の巨額に達している)」(森安彦著「飢饉と一揆」―『江戸時代の飢饉』雄山閣出版 1982年 P.54)のであり、大商人への返済のためにも廻米を止められなかったのである。

 このようなことは、大坂や江戸への廻米制度が確立してから初めて起った大規模な飢饉である元禄飢饉からみられる構図であり、宝暦・天明・天保と時代がさがっても繰り返されたことである。

 具体的には、買米制度をも利用して行なわれた廻米は、以下の通りである。

「宝暦五年(一七五五)の凶作の際は、前年がたまたま豊作で余剰米があったのも幸いし、飢饉の被害を食い止めることができたが、天明三年(一七八三)の場合は前年も半作といわれる不作の状態で、数少ない余剰米も藩によって根こそぎ買い上げられていた。『藤田権左衛門家記』によれば、天明二年には江戸・大坂へ各二〇万俵余、加賀へ三万俵余、これに小納戸米(こなんどまい *藩主の私的会計に含まれる米)を加えて都合(つごう)五〇万俵余が廻米されている。翌天明三年春には藩士に支給する米や農民に小売する米までを買い上げたうえで、同二年と同様江戸・大坂へ各二〇万俵を廻米している」(『新編 弘前市史』通史編2〔近世1〕 P.405)のであった。

 だが、天明三年は正月からヤマセが吹き、異常低温や日照不足がつづいたうえに、7月には信州の浅間山が噴火する。その影響は、東北地方にも広がった。7月からようやく出穂(しゅっすい)し出したが、その後も大風雨や霜が降り、ヤマセも吹荒れ、8月半ばには大凶作が決定的となった。

 弘前藩の重臣たちは、迫りくる大危機に対する危機感が弱く、怒った民衆は7月になると、青森や鰺ヶ沢(あじがさわ)で廻米の停止を求めて闘いに決起し、弘前郊外では木造新田(きづくりしんでん)などで貯米(たくわえまい)の返却を求めて藩庁に詰め寄った。

 しかし、藩庁は有効な対策を打ち出せず、廻米も停止できず、空前絶後の大量の死者を積み重ねたのである。(民衆の闘いや藩庁の対策などについては、《補論 前代未聞の天明の大飢饉》を参照)

 為政者が無能な場合、当時の民衆は闘いに決起する以外には、餓死するか、他国へ「地逃げ」(逃散)するか―他に方法がない。

 『天明癸卯年所々書留』には、「他国行」(地逃げ)8万人の様子が、三か所ほどでまとまって記されている。

①「〔天明三年〕八月上旬(じょうじゅん)金木新田ノ者(もの)秋田ヘ知ルヘ(知る辺 *知り合い)これ有り参り候所、向方(むこうかた)七分餘の作合(さくあい *作柄)ニテ五、七人各(おのおの)身ノ有り付く〔*頼る所を得る〕モ出来(でき)候由(よし)、風聞次第ニ広マリ、夫(それ)ヨリ高無小者(たかなしこもの *所持地のない小作人、あるいは雇い)ハ言(いふ)ニ及ばず、大躰(だいたい *おおよその)百姓モ田畑、家屋敷(いえやしき)ヲ打捨(うちすて)、親兄弟妻子引連(ひきつれ)、銘々着替(きがえ)ヲ背負(せおい)、或(ある)ハ老人子共(こども)ヲ馬ニ乗セ、一日ニ五拾人三拾人、後ニハ貮百三百ト毎(つねに)日日(ひび)秋田ヘ行ク者(もの)引(ひき)モ切ラス、凡(およそ)八月ヨリ十一月末迄(まで)他国ヘ行者(ゆくもの)壹萬(一万)餘人、初(はじめ)ハ三御関所(*3つの関所。野内番所・碇ヶ関番所・大間越番所)御差留(さしとめ)仰せ付けられ候得共(そうらえども)、日々五百人三百人ノ儀御政道ニモ及びがたく、後ハ御搆(おかまい)ナク人馬共ニ勝手ニ罷出(まかりいで)候、右ノ内十ヶ一ハ途中ニテ倒死(たおれじに)致(いたし)候由、数日喰わざる上ノ旅路何トシテ行届(ゆきとどく)ヘキ、亦(また)十ヶ一ハ途中ヨリ立戻(たちもど)リシモ有(あり)、其外(そのほか)他国ナラサル者ハ根山ヘ上リ、九月末迄命を繋(つなぎ)シ者モ亦多シ、……」(P.276

②「主ハ家来ヲ追出(おいだ)シ、親ハ子ヲ捨(すて)、子ハ親ヲ捨、夫ハ妻ト引別(ひきわか)レ、或(ある)ハ他国他領ヘ趣(*赴く)モアリ、妻子手ヲ引(ひき)道ノ傍(かたわら)ニサマヨフ有様(ありさま)、寔(まこと)ニ往古ニモ末代ニモ有(ある)マシキ事ナリ都(すべ)て往来ノ前後ニ倒レ死ス者(もの)数ヲ知らず、初(はじめ)ハ其(その)所々ニテ穴ヲ堀(ほり)死骸ヲ埋(うめ)ケレトモ、後ハ共ニ疲レテ誰(だれ)搆(かま)フ者モナク、其儘(そのまま)ニサシ置ケハ、只(ただ)犬鳥ノ餌食(えじき)ト成(なり)ヌ、目覚(めざま)シキ〔*以外であきれるほどの〕有様ナリ。」(P.279

③「……凡(およそ)打続(うちつづく)三年ノ不作、家財道具ハ当夏中迄ニ売代(うりしろ *物を売って金にすること)ナシ、三文ノ物モこれ無く立所(たちどころ)ニ餓死ニ及び候事故(ことゆえ)、同月(*天明四年八月)二十五日各(おのおの)申し合わせ亦々(またまた)秋田ヘ罷越(まかりこし)候、出来島ヨリ七十餘人浜中辺ヨリモ打集(うちあつま)リ男女百餘人他国ヘ趣(赴く)有様哀レ成(なる)事共(ことども)ニ候、金木新田ヨリモ田畑致さざる者ハ追々(おいおい)秋田ヘ罷越候、秋田ハ上米一升八文ノ由ニテ、イカ様(如何様)ノ小者モ渡世(とせい)相成(あいなり)候由ニ候。」(P.282

 天明の大飢饉で、津軽領などの人々は、ヤマセの影響の少ない秋田方面に脱出し、生きながらえようとした。その数は、万単位で最終的には8万人以上となるのであった。

 儒医であり随筆家である橘南谿(たちばななんけい)は、1784(天明4)年秋に京を出て江戸に下り、それから陸奥信越を廻り、1786(天明6)年夏に京に戻った。その旅の様子を書き留めたのが「東遊記」である。

 その中で、天明の大飢饉で津軽の人たちが秋田領に逃げ込み、鶴岡の人々が救援した下りの冒頭で、次のように記している。

 

天明卯年(*1783年)の凶作に、奥州津軽南部最も(もっとモ)饑饉(ききん)して、足腰の立(たつ)る者は四方に走りて食物を求む。羽州(うしゅう *出羽)秋田、隣国の事なれば饑人(うえびと)の来(きた)る事(こと)数萬人、秋田の地も亦(また)凶年の事なれば救(すく)ひ足(た)ることあたはず。其(その)饑人溢(あふ)れて又(また)鶴岡に来る。路頭(ろとう *道端)饑人にて押(おし)あひしと也。食を得ざる者はたちまち其(その)地にて餓死(がし)するに依(よっ)て、鶴岡の人も各(おのおの)身上(しんじょう *財産)の限り力を盡(つく)して救ひし事也。……(『日本庶民生活史料集成』第二十巻 P.66

 

 天明3年の大飢饉では、奥州の津軽と南部が最もひどい状況であることを示している。そして、国内で食を得られなくなった人々が隣国の秋田に逃げ込むが、しかし秋田も凶作であり、さらに鶴岡に逃げ延びたことが記されている。

 菅江真澄(すがえますみ)1)は、1785(天明5)年8月、出羽の山本郡八森から津軽領に入り、鰺ヶ沢(あいじがさわ)―五所川原―弘前―青森に至ったが、占いの結果、松前に渡らず引き返し、大館―鹿角郡境に至る。この時の旅の様子を記した日記が、「楚堵賀浜風(そとがはまかぜ)」(8月3~25日)である。

 そこには、天明の大飢饉後、一年という事もあって、民衆の生々しい証言が記載されている。その中には、飢饉などのために極度の食料不足となり、ついには人間の肉までも食せざる得ないむごたらしい状況とともに、藩の無能に見切りをつけて他国へ「地逃げ」をする様子が記されている。

 真澄は、8月18日、占いにより、青森で松前へ渡ることを思いとどまるが、その翌日、「有多宇末井(うとうまい)の梯(かけはし)」(現・青森市浅虫の西南海岸)を見物しようと浜路を歩く。すると、「鍋かま(釜)おひ(負ヒ)、あらゆるうつは(器)をたずづさへ(携ヘ)、をさなき(幼キ)子をかかへて、男女みちも(路モ)さりあへず(避リ敢ヘズ

 *どうしても避けられない)来(きた)るは、じにげ(地逃ゲ)すとて、うへ人(飢ヘ人)とならんことをおそれて(恐レテ)、ことくに(異国)に行けるとなん。此(この)もの(者)らのいふ(言フ)をきけば、過(すご)しけかち(飢渇)には、松前に渡りて人にたすけ(助ケ)られたり。こたび(此度)はいずこ(何処)の情(なさけ)にあひてか命い(生)きん、なりはひ(生業)よきかた(良キ方)尋(たずね)いかばやといふ(言フ)に、こは、浜路めぐり出なば、かて(糧)尽(つき)て、われはうへ(飢へ)人とならん。いざ、もと(元)のすじ(筋)にかへり(帰リ)行(ゆき)てんと浜田、荒川をへて、大豆坂(まめさか)といふ処(ところ)に来けり。……」(同前 P.287288)となる。

 路ゆく人々は、「過しけかち(飢渇)には、松前に渡りて人にたすけられたり。こたびはいずこの情にあひてか命いきん(生きん)、なりはひよきかた尋ねかばや〔*尋ねたらよかろうか〕」と語ったという。

 「過しけかち」とは、天明3~4(1783~1784)年の飢饉を指すと思われる。人々は、食を求めて他国へ逃亡する(地逃げ)。なにしろ、「天明二年産米が根こそぎといってよいほど他領出しされたところに、わずか一年の大凶作によって人口の三分の一にも及ぶような餓死者を出していた」(菊池勇夫著『飢饉から読む近世社会』校倉書房 2003年 P.13)のである。

 「地逃げ」は、その多くがヤマセの影響の少ない秋田方面に向かった。だが、中には松前に逃げた人々も少なくなかった。

 このことは、平秩東作著『東遊記』でも、次のように示されている。

 

蝦夷人(*アイヌを蔑視した言葉)は愛憐(あいれん)の心(こころ)深きものなりといふ(言ふ)。しり(知り)たるもの(者)蝦夷をやとひ(雇ひ)、荷を負せて山を通りしに、磯端(いそはた)に船壹艘(いっそう)波にもまれ危(あやう)く見ゆる人あり。此(この)蝦夷はるかにみて(見て)、やがて荷をすて、険阻を走(はしり)下(くだ)りて綱をなげ、とかくして扶(たす)けたり。人の難儀を助けるには其身の労をいとわず(厭ワズ)、昨今年の飢饉に蝦夷地近き所の民家飢(うえ)に及(およぶ)所へは、蝦夷来(きた)りて鹿を捕(とらえ)て養ひつかわしけり。子などありて育てかねたるをば、とかくしてはごく(極)みくれたるもありといふ。常は蝦夷をいといて(厭イテ)追拂(おいはらう)様にせしもの、其(その)力によりてたす(助)かりたる者多し。誠に殊勝の事なり。/今年の春は他国より松前に渡りたる者、饑死に及ぶ者多かりしに、セタナイといへる地に、岩の間より、土あらず、何共(なんとも)しれぬ青きもの湧き出たり。とりて喰へば、餅(もち)など食様(くうよう)にて、饑をたすかりたる者多し。又(また)笹のみ(実)一萬石ほどな(成)りて、大いに土地のたすけとなれり。……(『日本庶民生活史料集成』第4巻 P.427

 

 普段はアイヌを軽蔑し差別している和人が、今は飢饉でアイヌに助けられている。この状況をみた平秩東作は、「誠に殊勝な事」というが、従前のアイヌ差別については、何ら触れていない。 

 ところで封建制社会の下では、「地逃げ」「逃散」は違法であり、封建領主間では「人返し」が原則となっている。他領主の領民が逃れてきた場合、元の領主に「人返し」するのが鎌倉時代からの封建領主間の「協定」となっているのである。

 したがって、人民の「地逃げ」「他国行」は、命がけの行動であるだけでなく、領主に対する強烈な批判でもあったのである。このことを、天明3年7月の「青森騒動」に関連して、「藤田家家記」(『編年百姓一揆史料集成』第五巻)では、次のように記している。

 

一 百姓他散の事、

 当春ゟ(より)以ての外(ほか)〔の〕順ならざる季ニて、七月ニ入り候処(ところ)最早(もはや)凶歳の形相(ぎょうそう)顕(あらわ)ルといへ共(ども)如何(いかん)ト相疑(あいうたが)ひ、八月に入り候ても出穂(いずほ)も聢(しか)とこれ無く候得共、若し此上(このうえ)残暑これ有り候ハハ、又(また)如何(いかん)と少シハ頼思(たのも)シ所、八月十四日、十五日両夜の霜ニて残らず青立(あおだち *実が熟さないで青い色のままの稲)と成(なり)、古今無類の大凶作ト成り、別して後潟組幷(ならびに)下在新田ニ至り候ては一粒もみのり(稔り)これ無く、皆無(かいむ)青立ト成、三新田高無し(たかなシ *所持地なしの)小百姓共(ども)立処(たちどころ)ニ餓死ニ及(およぶ)といへ共、貯米(たくわえまい)も御渡しこれ無く、御救いの御沙汰もこれ無き故(ゆえ)、何(いず)れも憤怒して親兄弟、妻子を召連(めしつれ)他国へ罷出(まかりいで)候事(そうろうこと)夥敷(おびただしく)、右の者共へ何国へ行(ゆく)と問(とは)ハ、主人のこれ有る国へと悪言し、老少(*老人と子ども)歩行(ほこう)の叶わざるヲハ捨(すて)、妻子、兄弟散り散りニ相成(あいなり)、聢(しかと)テ関人御算所無躰(むたい)ニ出(いで)候故、御算所(*関所の事)開キ他散(*他国へ逃散)勝手次第ニ一先ツ(ひとまず)仰せ付けられ候得(そうらえ)共(ども)、既に三万人程(ほど)ニも及ひ、止むを得ない事の他散故(ゆえ)又(また)御算所〆(閉〔し〕め)仰せ付けられ他散差留(さしとめ)候得共、三御算所ゟ(より)止むを得ざる事(こと)追々逃散(にげち)りしと也、別て(*特に)金木新田ゟ多く他散せし也、今年諸国一統の飢饉故、御関所外に出候(いでそうろう)迄ニて皆(みな)餓死せしと也、(P.495

 

 津軽藩は、「御救い米」どころか、飢饉時に備えた「貯米(たくわえまい)」も他に流用して飢えた農民に戻すことも出来ない体(てい)たらくである。従って、この領主には見切りをつけて、百姓たちは他国へ「地逃げ」するのであった。 

 この「地逃げ」する者に、どの国へ行くのかと問うと、「主人のこれ有る国へ行く」と答えたという。つまり、この惨状を引き起こし、食うものもない、この国には藩主は居ない(居るのは無能力な藩主だけ)、だから統治能力のある藩主の居る他国へ行く―という決定的な皮肉(批判)である。

 

1)真澄(1754~1829年)は江戸時代後期の人で、若い時、和歌・国学・漢学・本草学・画技を学ぶ。1783(天明3)年、遊歴の旅に出立し、信濃・越後・出羽・陸奥・蝦夷地などを28年間遍歴した。その後、津軽藩や秋田藩に勤めた。

 

《補論 前代未聞の天明の大飢饉》

 

 天明の大飢饉は、1783(天明3)年の凶作を中心に、1787(天明7)年まで、波状的に全国を襲った冷害・洪水・浅間山噴火などの天災と、幕藩体制の矛盾や支配層の腐敗など人災と重なり、大規模な餓死者と疫病死をもたらした災害である。

 自然変異は1781(天明元)年頃から兆しをみせ、天明2年には、瀬戸内・九州・近畿の綿作地帯にも凶作として現われた。凶作とそれに伴なう物価騰貴は、近畿・中国・四国・中部などで百姓一揆・打ちこわしを発生させた。天明3年には、一揆や打ちこわしは、東北・中国地方などで激しくなる。この年7月には浅間山が噴火し、附近の村々は溶岩流で埋め尽くされ、上州・信州に甚大な被害をもたらした。噴火の影響は、江戸や東北地方にまで拡がった。天明4年は、小康を得たものの、前年の凶作と疫病が猛威を振るった。天明5~6年の冷害・洪水は、翌天明7年の飢饉となり、為政者の無策に怒った民衆の一揆や打ちこわしを全国的に激発させた。天明の大飢饉は、奥羽・関東の惨状が最も甚だしく、残された飢饉記録の多さと飢餓の深刻さで、奥羽地方が群を抜いている。

 天明の大飢饉の惨状が現われる直前、1783(天明3)年7月、弘前藩では、青森(藩最大の湊町)や鰺ヶ沢などの湊町や城下町・弘前で、打ちこわしや「騒動」が相次いだ。

 青森は、廻米の積み出し拠点港であるため、藩の廻米強行によって藩内の消費米が無くなる危険性を、町人たちがもっとも察知しうる町である。7月になると、町人たちは廻米船の出航差し止めと廻米の町内への払下げを、たびたび訴願した。だが、町奉行は取り次ごうともしなかった。

 これより以前、天明2年、藩は領内の米を安く買い上げ、廻米を強行した。前年に町人の米隠匿があったため、取り立ては厳重であった。そして、「天明二年暮れに、藩は払底(ふってい)気味の飯米(はんまい)の流通・価格管理を強化すべく、青森に二軒の米売り場を開設して、町内の小売米は同所から仕入れることと定めた。また、各町へ『通手形』(米留番所を通過できる手形)を発行して、移入できる総量を一カ月当たり二〇〇〇表に規制した。藩は翌三年(*1783年)一月に、一匁(いちもんめ)につき米一升四合(一俵当たり二八匁強)の公定価格を定めていたが、御用商人の米の買い占めと天候不順による凶作の予兆もあいまって、米価高騰に歯止めがかからず、買受所により自由な商売も妨げられ、流通も閉塞し、飯米購入に頼る青森町人、ことに多数を占める日雇い層の生活を直撃した。」(『新編 弘前市史』通史編2〔近世1〕 P.418)のであった。

 「青森騒動」の際の願書によると、同年7月18日には、一匁につき米八合(一俵当たり五〇匁)にまで上昇し、青森町人の飯米の確保も困難になってきた。その日から翌19日にかけては、二軒の米売り場にも米がなくなり、町内の店の小売も停止に追い込まれた。「町方で調査したところ、正月から七月まで、青森米留番所が許可する月二〇〇〇俵、計一万四〇〇〇俵という総量のうち、実際には四~五〇〇〇俵しか飯米として販売されていないことがわかり、米売場を詰問したところ、手形通り一万俵余の米が青森に搬入されていることが判明したという。この差の原因を一部商人の買い占めとみた町方の不満が爆発し、ついに飢渇(きかつ)に及ぶとして、打ちこわしが起こった」(同前)のである。

 1783(天明3)年7月19日夜、町内の人々に打ちこわし参加を求めて、40~50人で一単位となって総勢200人ぐらいが、町中を練り歩いた。不参加の者には打ちこわしの威嚇もあった。翌20日、呼びかけどおり3000~4000の町人が毘沙門堂(青森市長島)の境内などに参加した。当時の青森の人口が7000~8000人と推定されるので、約半分の者が参加したことになる。ほぼほとんどの家から参加したのである。

 一揆勢の一部は、名主会所・万屋武兵衛方へおしかけ、来年春までの公定値段(一匁につき米一升四合)での販売、廻米の停止、米留番所の廃止などを「惣町中一決」として訴えた。他の一隊は、湊番所で「廻米を強行するなら廻船を破壊し、米俵は海に捨てる」と威嚇し、上方代金と引き替えに、廻米を町方に売却せよ、などの要求を行なった。

 その後、寺町の商人・嶋屋長兵衛が米を隠匿しようという行為が発覚し、家から鍋釜まであらゆるものが破砕された。一揆勢は、有力商人や両替商など10余軒を打ちこわした。

さらに一揆勢は、豪商が保有している米の量を調べる「米改め・蔵改め」を行ない、「商人一〇四軒が蓄積していた米穀五二〇〇俵、大豆約六〇〇〇俵の存在を明らかにし、町奉行ができなかった備蓄米の調査を自らの手で強制的に行った」(同前 P.420)と言われる。世にいう「青森騒動」である。

 町人たちの訴願の内容は、翌21日にまとめられ、「惣町中」の名で町奉行に提出された。それによると、「史料によってやや異同はみられるものの、(一)来年三月まで公定価格での米の販売、(二)廻米の停止と来秋までの藩による蔵米の備蓄、(三)米留番所の廃止と惣町による米穀流通の管理、違反者の摘発、(四)町年寄を二人制とし、元職の佐藤伝蔵の復帰、(五)役人の賄料(まかないりょう)の町方負担の停止、(六)名主会所の廃止による町方の出費の軽減、(七)目明しの廃止による町方の出費の軽減、(八)家屋敷売買税(一〇分の一)の廃止」(同前 P.421)である。

  これに対し、町奉行は「町人を慰撫するために極貧の者に三五〇俵の補助米を差し出しし、また青森町一九六〇軒の家々に対し、一軒当たり一斗ずつの扶持米も手当された」(P.422)が、藩は廻米の停止は認めず、あくまでも廻米のために出帆を強行した。これにより、天明の大飢饉の被害は一層拡大したのであった。

 「青森騒動」の影響は強く、同じような闘いは鰺ヶ沢、野辺地、深浦、十三などでも展開された。ただ、鰺ヶ沢や十三のように、打ちこわしにはならなかった所もあった(鰺ヶ沢では廻米の一時停止があった)。

 農村部でも、闘いは展開された。7月27日、木造新田(現西津軽郡木造村・森田村・車力村一帯)を中心とする三新田(木造・金木・俵元)の者たちが、大勢(2000~4000人)で弘前に押し掛け、強訴に及んだ。その要求のひとつが、「貯米」の返還であった。「貯米」というのは、「十一ケ年以前ヨリ凶作等ノ用意ノ為、田形一反歩ヨリ米壱升宛(あて)惣百姓溜米(ためまい)致候(いたしそうろう)」(「天明癸卯年所々騒動留書」)ものであった。だが、その「貯米」は、藩がすでに江戸藩邸の経費などに流用してしまっており、三分の一程度の在庫しかなかったといわれる。したがって、大部分は、現実に、農民たちに還元しようにも還元できなかったのである。まさに、領主としての約束も、責務をも放棄した無責任の極みであった。

 民衆の闘いに促されたのかどうかは分からないが、藩庁は、同年9月10日、評定所に在方の有力者約60名と、弘前や鰺ヶ沢などの御用達商人・名主など約85人を呼び集め、以下のような基本対策を明らかにしている。「当面、藩要用の米のうちから小売米として一万五〇〇俵と大豆八〇〇俵を放出すること、江戸・上方廻米の中止、十月までの御救山(おすくいやま)の設定、来三月までの馬の他領払いの許可、他領からの米穀の買い付けなどの措置が取られることになった」(前掲『弘前市史』 P.407)と言われる。

 だが、他領からの米穀買い付けは、やがて冬を迎えるため海上輸送は覚束なかった。また、陸送による運搬も積雪のため、大量輸送は困難であった。結局、上方や加賀から米が入って来たのは、翌春の2月以降であった。

 「御救山」とは藩の管理している山のことであり、これを開放して、麓の百姓に自由に入山させ、伐採した薪などを販売させ、現金収入の手段を与えようとしたものである(牛馬の他領移出の許可も同じ趣旨)。これは、ワラビなど山野草を採取でき、実際的な対策となった。しかし、藩士や町方の者も殺到し、このため藩は本来の救済対象である農民保護のために、歯止めをかけなければならなかった。全体的に見ると、飢饉対策は余りにも遅すぎたのであった。

 結局、1783(天明3)年の弘前藩の農村の実態は、「九月十六日の郡奉行の作柄の調査では、飯詰・金木・俵元(たわらもと)新田・広須(ひろす)・木造(きづくり)新田・油川・後潟(うしろがた)の各組、すなわちいわゆる新田地方と外浜(そとがはま)は皆無作(かいむさく *収穫ゼロ)、ほかの組の田方はほぼ一〇分の一、よくても三分の一(大光寺組・猿賀組)の出来(でき)という大凶作となった。米だけでなく『五果五菜』までも不作だったが、なぜか、りんごはおびただしくみのった」(同前 P.407)と言われる。

 本文で示した「地逃げ」、「流民」、「他散」、「他国行」など様々に表現される「逃散」は、この天明3(1783)年の8月下旬ころから発生している。碇ケ関所からは3万の飢民が通過し、逃散差し止めという藩庁の指示も無力で、関所役人も通過を黙認せざるを得なくなっている。大間越の関所からも数千人が逃亡している。

 藩庁は、施行(せぎょう)小屋を設置して、飢民を収容したが、飢民だけでなく困窮した城下町民も殺到し、運営・維持自身が困難になっている。

 餓死者のピークは、1784(天明4)年1~3月と言われる。飢えは町方、在方を問わず進行し、なかには後潟(うしろがた)村・郷沢村・目屋の沢・白沢村(東津軽郡や西目屋の各村)などのように、村人が死に絶えて「潰村(つぶれむら)」になった村も少なくはなかった。また、餓死だけでなく疫病で死ぬ者も多かった。厳寒期を越えた天明4年2月以降の死者は疫病死が中心だったとみられている。飢えで衰弱して抵抗力がなくなったところに疫病にかかり、死に至ったのである。

 死者の多さとその惨状は、紀行文や記録にも残されている。

 菅江真澄の日記「楚堵賀浜風」によると、真澄は天明5(1785)年8月10日、床前(西津軽郡森田村)に入った時、「雪のむら消え残りたるやうに、草むらに人のしら骨(白骨)あまた乱れ(みだレ)散り(ちリ)、あるは山高くつかね(*まとめて重ねる)たり。

かうべ(首)など、まれびたる穴ごとに、薄(ススキ)、女郎花(オミナエシ)の生出(うまれいで)たるさま、見るここち(心地)もなく、あなめ(穴目)あなめ(穴目)とひとりごち(独リ言)たるを、しり(*後ろの方)なる人の聞(きき)て、見たまへや、こは(此は)みな(皆)、うへ(飢ヘ)死たるもの(者)のかばね(屍)也(なり)。過(すご)つる卯のとし(*天明三年)の冬より辰(*天明四年)の春までは、雪の中にたふれ(倒れ)死たるも、いまだ息かよふも数しらず、いやかさなり(重ナリ)ふして(臥シテ)路(みち)をふたぎ、行(ゆき)かふもの(者)は、ふみこえ(踏ミ越エ)ふみこえて通(かよ)ひしかど、あやまち(過チ)ては夜みち夕ぐれに死むくろ(骸)の骨をふみ(踏ミ)折(おり)、くちただれたる(朽チ爛レタル)腹などに足ふみ入(いり)たり。きたなき(穢キ)にほひ(臭ヒ)、おもひ(思ヒ)やりたまへや。このうえたすからん(助カラン)とて、いき(生キ)馬をとらへ、くびに綱をつけてうつばり(*梁〔はり〕)に曳(ひき)あげ、わきざし(脇差)、或(あるいは)小刀をはら(腹)にさし(刺シ)、さきころし(割キ殺シ)、血のしたたるをとりて、なにくれの(*どれそれの)草の根をにて(煮テ)くらひ(喰ラヒ)たり。あら馬ころす(殺ス)ことを、のちのち(後々)は、馬の耳にたぎり湯をつぎいれてころし、又(また)頭より縄もてくくり(括リ)、いきつき(息付キ)あへず、すなはち死うせ(失セ)侍り(はべリ)き。其(その)骨どもは、たき木(焚キ木)にまぜ(混ゼ)たきてけぶり(煙)をたて、野にかける鶏犬をとりくらひかかるくひもの(食ヒ物)もつきて(尽キテ)侍れば、あ(吾)がうめる(生める)子、はらからつかれしに〔*飢えに至って〕、亦(また)、ゑやみ(疫病)に死行(しにゆき)侍らんとするともがら(輩)あまた(数多)あるを、いまだ、きのをたえさなる〔*死んでもいないのに?〕をわきざし(脇差)をたて、又(また)はむね(胸)のあたりをくひやぶり(喰ヒ破リ)て、うへ(飢ヘ)をしのぎぬ。……」(『菅江真澄全集』第一巻―「楚堵賀浜風〔そとがはまかぜ〕」 未来社 1971年 P.274)という。

 大飢饉の極限状態での人間の生きんとする無惨で赤裸々な有様を、真澄は当事者から直接、教わる。似たような証言は、8月23日の項でも記されている。

 

(3)天保の大飢饉―蝦夷地出稼ぎの恒常化 

 天保の大飢饉は、1833(天保4)年から7年余も続いたが、その前兆である「気候不順」は、すでに1830(天保元)から始まっていた。1833(天保4)には、東北地方の風水害、とくに陸奥(青森県と岩手県の一部)の寒冷、出羽(秋田・山形県)の大洪水をもたらし、関東は大風雨から凶作となる。「おおよそ天保の飢饉の主要な“諸原因”は、イナゴの害と、長雨、日照り、地震および幕末危機を背景とする食糧政策の貧困が拍車をかけた典型的な複合飢饉であり、これら諸原因の相乗作用は、ついに全国的な大飢饉となって、天保六年(一八三五年)と翌天保七年(一八三六年)に庶民を飢餓に陥しいれた。」(中島陽一郎著『飢饉日本史』雄山閣出版 1996年 P.99)のである。

 天保4(1833)年からの7年余もつづいた天保大飢饉の際には、地逃げに関して、『松前天保凶荒録』(『新北海道史』第二巻 通説一 P.637)に次のような記録がある。

 

南部、津軽、秋田等にては、松前へさへ行(ゆ)けば餓死を免(まぬが)るるとて、船舶の下り来(きた)るものある毎(ごと)に、便船(びんせん)を乞(こ)ふもの多く、之(これ)を謝絶すれば、帆影(ほかげ)を追ひて海に投じ、溺死するものあるに至る。因て舟子も止むを得ず之を乗船せしむるも、公然(こうぜん)箱館港に上陸せしむるを得ざるにより、密(ひそか)に山背泊(やませどまり)或(あるい)は寒川(さむかわ)等に上陸せしめ、而(しこう)して船手は毫(ごう)も之(これ)を知らざるの状をなして入港す。故に市民は飢民の何(いず)れより来るを知らず、各(おのおの)吃驚(きっきょう *びっくりすること)するのみなりしが、追々(おいおい)食を乞(こ)ふもの増殖し、遂に門内に入りて倒るるに至りければ、市民の志あるものは、一日幾升(いくしょう)と限り、粥(かゆ)を製し之(これ)を与へたり。

 尻岸内村 此際(このさい)に当って、南部地方より続々渡航せし者あり、漁業を営み

 て、今尚(いまなほ)残留するもの数多(あまた)あり。

 茂辺地(もへじ)村 天保四、五年頃より、南部、津軽の人民、隣村当別へ渡航し、其

 (その)何地(いずれのち)に行くや知らずと雖(いえど)も、当村を通行するもの幾

 百人なるを知らず、是(これ)皆(みな)該(がい)地方の飢民にして、松前の天富を

 伝聞(つたえきき)、生命を保たんが為(た)めに来るものなりと云ふ。

 江差(えさし) 天保七申年(*1836年)の凶荒は、巳年(*1833年)より一

 層にして、人民打続きの窮乏(きゅうぼう)故(ゆえ)、市街及(および)各村共(とも)

 疲弊を究(きわ)めたるに際し、内地より飢民続々(ぞくぞく)当地へ渡航し、因故(*

 縁故)の有無に関せず、無給にて雇入(やとひい)れられんことを言込(いひこ)むに、

 断(ことわ)るものあり、又(また)糊口(ここう *口すぎ)のみにて、差置(さし

 お)くものあり、又(また)食を与えて行(い)かしむるものあるより、路傍(ろぼう)

 に斃(たお)るるの惨状を視(み)たりと。

 太櫓場所古櫓太(ごろた) 藤谷米蔵は、生国(しょうごく)津軽郡兼館村なるが、饑

 饉(ききん)に付(つき)天保八年三月古櫓太へ小船にて渡る。当時同地の人家三戸の

 み、急に蘆(あし)を刈り、小柴(*細い小さな薪)を伐(か)り、小屋掛け(*仮の

 小屋を作ること)をなし、昆布、若布(わかめ)、鮑(あわび)等、食物とさへ見れば、

 目に当るものを採(と)り、又(また)は蕨(わらび)の根、葛(くず)の根を掘り、

 粉(こな)に製し、煮焼(にやき)して日々食料に充(あ)て助(たすか)り候。

 

 松浦武四郎もその著『蝦夷年代記』で、「癸巳(天保四年) 奥羽饑饉死人多し。松前蝦夷へ迯行(にげゆき)助命する者多し」(吉田武三編『松浦武四郎紀行集』下 1977年 P.643)といっている。

 

 

1)最も飢饉が大きかった東北地方を例にすると、以下のようである。「天保七年(*1836)の牡鹿郡(*仙台藩)の被害は陸方一八ケ村において五万九千人の死亡で、ほかに当座腰掛借家の死亡二万六千人、空家四七二戸にのぼり、その死亡者中の三千人が餓死、三千人が流行疫病・痢死による死亡であったという(『近世日本の人口構造』)。津軽藩では、四年から十年にいたる七ケ年間で津軽一郡のみで死者三万五、六〇〇人余、他への流離人四万七千人余、死馬失馬一万九、八〇〇匹、廃田九四八四町にのぼった。また天保八年の飢饉では、同藩で餓死人四万五千人、秋田方面への流離人一万人におよんだ。/いっぽうその秋田藩では、天保初期の飢饉で一万七千石の損毛を出し、八年のみで死者およんだ……(『日本凶荒史考』)」(上杉允彦著「天保の飢饉と幕藩体制の崩壊」―『江戸時代の飢饉』P.107)と言われる。

  2)天保の大飢饉では、食糧の市場への供給の激減に加え、飢餓民の都市への流入で、米をはじめ諸物価の暴騰がつづいた。「江戸では天保四年(*1833年)に米一石が銀一二二・二匁とそれまでの平均六〇~七〇匁をはるかにこえ、七年(*1836年)には一九九・八匁、八年には二三一・三匁になった。醤油も天保八年に一〇〇匁をこえ、酒も九年に二〇〇匁をこえ、塩も数倍になった(北島正元編『政治史』〔二〕)。また大坂ではそれまで七〇匁ていどであった肥後米が、天保四年八月に一〇五匁、十月に一〇一匁、同年末に一三六匁、五年には一三六匁、七年初に一〇四匁とやや下ったものの、九月には一六二匁となり、八年末には一六八匁にいたった(『大阪市史』)。」(上杉允彦論文 P.109)といわれる。

 江戸の従来の米価の平均を、仮に一石=銀65匁とすると、天保4年がその1・9倍、天保7年がその3・1倍、天保8年がその3・6倍という暴騰ぶりである。大坂も天保4年末が従来の肥後米平均の1・9倍、天保8年末にその2・4倍という暴騰ぶりである。   

 大坂で、元大坂町奉行与力・大塩平八郎の反乱が起こったのは、天保8(1837)年2月であった。大塩の乱は短期間に鎮圧されるが、その影響は摂津能勢郡の農民一揆や越後の生田万(国学者)の乱などに及んだ。

 

《補論 不作が持続的につづいた天保の大飢饉》

 

 天保の大飢饉は、1832(天保3)年から1839(天保10)年まで続いたが、その特徴は、時期的な長期性であり、被害も持続的につづいた。

 気候不順は1830(天保元)から既に見え始めていた。1829(文政12)年は、大豊作であったが、しかし、天保元~2年は、東北地方を中心に不作がつづいた。

 1833(天保4)年は、春から異常な天候がつづき、夏は寒く、秋には奥州で大洪水が、関東で大風雨があり、秋から冬にかけても寒冷がつづいた。この年の収穫は、東海道筋の67%が最も良く、奥州の平均は35%ぐらいで、最上・仙台・越後などのように収穫が皆無の所もあった。このため米価が値上がりし、各地で騒擾がおこり、また、行き倒れや捨て子があった。

 1834(天保5)年は、やや持ち直したが、前年秋の不作から米価も前年につづいて高値のままであった。

 1835(天保6)年は、春より天候不順で、夏・秋とも寒かった。そのうえ東北ではイナゴの害が強く、加えて旱魃や地震によって、津軽地方の四分作(収穫4割)をはじめとして、東北・関東を中心に大不作となった。

 1836(天保7)年は、前年の冬が暖冬であって、春には冷気がつづき、夏でも暑気がなく、畿内でも朝夕は綿入れを着るほどであった。しかも、稲の出穗期に大雨があり、9月下旬には東北を中心に大霜が降り、稲穂は粃(しいな *皮ばかりで実がない籾〔もみ〕)となり、田畑の種々の作物も実らなかった。このため、山陽・南海地方の55%を最上に、山陰・関東は32%前後で、奥州は良い所で28%ほど、悪い所は皆無となった。全国平均は、24%ほどであった。しかも前年の幕府の天保通宝の発行や鉄銭の増鋳の影響が拡がり、物価は異常な暴騰となった。こうして、飢饉はこの年がピークとなり、死者は東北地方だけでも数十万人となった1)。田畑は荒れ果て、江戸や大坂も諸物価の値上がりで大変だったが、農村からの流入者が止まず、行き倒れがつづいた。

 1837(天保8)年は、やや上作で、全国平均が六分と言われたが、東北では2月の大風、夏場の大雨、それに秋の虫害となる。5月以降、西国を中心に疫病の大流行もあった。米価を始めとして、諸物価の高値がつづいた。2)

 1838(天保9)年は、東北で前年と同じような天候がつづき、西国でも夏から秋に冷気となり、不作となった。物価は依然として、下がらなかった。

 1839(天保10)年は、春は異常な暑さであったが、夏から冷気が強くなり、東北地方は虫害もあって、天保7年につづく大不作となった。飢餓は、一段と拡大した。

 長年つづいた天保の飢饉ではあったが、天保11年の平年作で納まりかけたが、その後も、天保12年に関東・九州、天保13~14年の東北と、余波は天保の末年(1843年)までつづいた。

 

(4)生活苦から出稼ぎへ

 18世紀に入ると、幕府は中国への輸出品として、「長崎俵物(たわらもの)」(煎海鼠〔いりこ〕・干し鮑〔ほしあわび〕・鱶鰭〔ふかひれ〕)や、昆布〔こんぶ〕などの海産物の生産を奨励する。これは、当時、貴金属貨幣のもととなる金銀山の採掘がすでに減少し、銅山に頼るようになるが、これも足りなくなり、輸入総体を抑制するとともに、輸入品の見返りとなる輸出用商品の生産増加が求められていたからである。

 北奥地方は、蝦夷地とならび、これらの海産物の宝庫であった。「津軽地方の俵物生産の特徴は、煎海鼠が主体で干鮑が少なく、鱶鰭はまったくなかった。一方の南部地方のそれは、干鮑が主で煎海鼠がそれにつぎ、鱶鰭は少量であった。品質の面では全国的にみていずれも良質であった。/このように本県(*青森県)の漁業は盛んであったが(*南部は鰯〔いわし〕漁、津軽は鰊〔にしん〕漁が盛んであった)、漁船も小さく漁法も未熟であったため、浜の景気は漁の豊凶に左右されることが多かった。北奥の漁村では、漁民が仕込み問屋に隷属する形態がふつうであり、生活に困窮した漁民は仕込み親方から漁具の資材、米・味噌などの食料や衣料雑貨など生活に必要なあらゆる物資の支給をうけた。漁獲物のすべては親方に供出し、親方はすでに貸し出した物資の分を差し引いて金を渡すことになっていた。この仕込み制度を漁民は『メシクイ』とよんだが、借金の残ることが多かった。そのため北奥の漁村からは松前蝦夷地へ鰊漁に出稼ぎに行くものも多く、彼らの多くが北海道の鰊漁場の開拓に従事してきた」(『青森県の歴史』山川出版社 2000年 P.215216)と言われる。

 蝦夷地での場所請負制は、遅くとも享保期(1716~36年)までには普及しているが、それとともに和人の出稼ぎは増えているようである。

 東蝦夷地では、クナシリ・エトロフ航路を高田屋嘉兵衛が開拓(1799〔寛政11〕年)し、その地の場所経営(漁業経営)や海産物の運輸で労働力が必要となる。現に、1789(寛政元)年のメナシ・クナシリの戦い(これは東蝦夷地のことであるが)で犠牲となった和人は、飛騨屋久兵衛に雇われた和人が多かったのである。

 だが、福山(松山)地方の鰊漁は1776~77年から45年間、江差地方では1782~83年から25年間も不漁がつづき、場所請負人の経営する鰊漁は西蝦夷地の積丹地方を越えて、次々と北上する「追鰊」となった。「田畠の養ひ」としての鰊は、1780年代には、北国だけでなく若狭・近江より五畿内、西国筋にかけて使用されるようになった。商品経済に乗った鰊漁は、ますます「追鰊」となり、北奥地方の和人はこの漁にも雇われ、多くの漁民が出稼ぎに出たのであった。

 松浦武四郎著『近世蝦夷人物誌』(『日本庶民生活史料集成』第4巻に所収)では、和人の出稼ぎに関して、次のように触れられている。

西蝦夷地ビクニ(美国)は、「漁業の利は一年千金を以て数ふべき程の宜しき地」であるが、ここでもアイヌはだんだん人口が減少し、「其(その)場所は、追々と松前、江差の辺(あた)りより多く和人等の出稼(でかせぎ)といへる者入り来(きた)り……」(P.760)と、松前藩領からの和人の出稼ぎが増えていることを伝えている。おそらくこれは、「追鰊」とともに増加していると思われる。

東蝦夷地のアブタ(虻田)のヱカシハシュイというアイヌが、蝦夷地の第二次直轄の際、幕府が和風化を奨励しているのを聞き、市助と改名し、髪も改め、手習いも始めた。わずか1年ほどして、和語の日常語もしゃべるようになる。ところが、常に日本図や江戸図をみていたが、こんなに繁華な処(ところ)があるかと、疑惑をもつ。その理由を問うと、「笑(えみ)て曰(いわ)く、江戸の人の云(いは)る事は惣(すべ)て嘘談が多し、昔しより江戸の錦畫(*錦絵)云(いへ)るものに江戸の女は此(かく)の如き美しきものと見せられしに、此度(このたび)江戸衆と申(もうす)詰合(*場所場所に詰める箱館奉行所の役人のこと)の御家内様達(ごかないさまたち)御下りに成りそれを見たるが、少しも南部、津軽よりして鯡取(にしんとり)や昆布とりに下(くだ)り来(きた)りし女と異なることなし。是(これ)にて江戸の図も何も惣て嘘(うそ)といへること明(あきら)かなるべしと答し……」(同前 P.787)という。ここでは、和人の出稼ぎが「南部、津軽」からの者であることを述べている。

西蝦夷地のルルモッペ(留萌)について、「此(この)處(ところ)漁業、春は鯡(にしん)、夏は海鼠(なまこ)、蚫(あわび)、秋は鮭、鱒(ます)其(その)餘(あまり)さまざまの魚多きが故に、追々(おいおい)二八取(にはちどり)と通称せる出稼(でかせぎ)の者(もの)多く入来(いりきた)り、近比(ちかごろ)頗(すこぶ)る繁華の地と相成(あいなり)候……」(同前 P.793)と述べている。「二八取」は、あきらかに和人の出稼ぎを指している。

東蝦夷地ネモロ(根室)領は広大な場所だが、アイヌ人口がだんだん減少し、「中々(なかなか)漁業行届(ゆきとど)くべき様なきが故に、多くの和人を入れて其(その)漁業の手伝いを致させあるに、其(その)日雇(ひやとひ)の稼人(かせぎにん)は多く秋田、南部、津軽等より数百里をへだて来る事(こと)故、毎年に国元へ帰ることもなし得ざるまま、風(ふう)と不自由よりして土人(*アイヌを指す)の女の子(メのコ)を奪ひ、又が密婦姦淫もままこれ有り候……」(同前 P.795)と述べている。広大なネモロ領でもアイヌ人口が減少し、労働力が足りず、秋田・南部・津軽などから出稼ぎを雇っていることがわかる。

 場所請負制の下で、請負人の漁業経営では多くの労働力が必要であり、他方、天明・天保の大飢饉や生活苦などで「地逃げ」が行われ、両者が結びついて和人の出稼ぎはますます増えていく。津軽・南部などからの出稼ぎは、天保期(1830~1844年)からは恒常的なものとなる。

 『松前町史』通説編 第一巻下によると、生活に行き詰った北奥などの和人が松前地に渡り、さらに「追鰊」で北上する様子を、以下のように述べている。

 すなわち、「天保の凶荒で生活に窮した人々が――奥羽からの難民が少なくなかったと思われる――、福山はじめ和人地の市在から、さらに親族・知人を頼って西蝦夷地の島小牧・寿都(すっつ)・歌棄(をたすつ)・磯谷・岩内・古宇(ふるう)など、いわゆる口蝦夷地(*和人地〔松前地〕に近い蝦夷地)の諸場所へ出稼人(でかせぎにん)として続々と押し寄せた。この出稼人が運上家へ食糧の借受(かりうけ)を申出(もうしで)たため、場所請負人側は、餓死者を出すと場所の不評判ともなりかねないので、その要求に応じた。岩内場所の請負人佐藤仁左衛門も、『福山辺在々より妻子引連(ひきつ)れ、手振り(*手ぶら)罷越(まかりこ)せし者へも、依頼によりて米噌(*米と味噌)・塩・網船等まで、一切貸与せり』(『佐藤仁左衛門履歴』)とその救済に努めた、という。尤(もっと)も、これに続く天保後期の鰊(にしん)凶漁が、奥地出稼(でかせぎ)をいっそう促したことではある。」(P.627628)と、和人出稼ぎがさらにさらに北上することを語っている。

 この動きに松前藩も、財政確保のために便乗している。「従来は、城下・箱館辺の漁民が江差市在の前浜で鰊漁を行う場合、西在の久遠(くどう)・太櫓場所までは和人地前浜と同様の扱いで、二八役を徴収していなかった。天保後半期(天保七~十四年〔*1836~43年〕の間)に他の蝦夷地同様、出稼漁民からも二八役を徴収することにした結果、出稼漁民の生産意欲を減退させることになった」(同前 P.628)といわれる。

 当時の様子を記した記録類では、天保の末年には、再び鰊漁は不漁に陥り、それが14~15年間も続いたことが述べられている。その間、人民はどのように生活したのであろうか。「天保凶漁の記憶からはじまる江良町村の木村菊次郎(天保十二〔一八四一〕年生れ)は、幼少の頃の鰊漁の記憶がない。鱈(たら)・そい等の雑魚(ざこ)を獲(と)って福山で売った。また各戸一人以上は蝦夷地の鰊場所へ出稼に行った。雇賃は三両二分とすし樽であった。番船に三〇~四〇人から七〇~八〇人が乗って上り下りの往来をした。原口村の或(あ)る古老は、『安政ノ頃(*1854~59年頃)ハ鰊漁ナキヲ福山盛(さかん)ナル故、釣魚(タラ・ホッケ・ソイ・カレイ等)ヲ生(なま)ノ侭(まま)馬ニテ福山ニ出セリ。馬ハ大抵(たいてい)二頭ヨリ四、五頭持(もち)ヲリ。又(また)、馬ナキ者等ニテ小樽・忍路(おしょろ)等ノ鰊漁場ヘ赴(おもむ)キシモアリ。明治元年ヨリ鰊群集アリ』と述べて」(同前 P.629)いる。

 馬持ち漁師などは、地元で漁した収穫物を福山(松前藩の城下町)で販売して生活できたが、「馬ナキ者等」は、遠く小樽を越えた北の場所へ出稼ぎに出ざるを得なかったのである。

 だが、先述したように、松前復領期(1821~1855年)の末期には、二八取(和人の出稼ぎ漁師)は、場所請負人らの大網使用を批判して、「網切騒動」に決起している。このことは、和人の出稼ぎが陸続としてつづき、次第にその力を増大させていることを意味する。また当時、二八取の内部で階層分解を生じ、裕福な層とそうでない層を形成させており、「網切騒動」に決起したのは主に後者の方であった。

 

(5)西洋の植民地主義に習い移住・植民を推進

 幕府は第二次幕領期になると、ロシアとの対抗上、内国化した蝦夷地を守り、さらにアイヌ居住地を版図に組み入れるべく、本格的に蝦夷地の開拓と植民政策に力を入れるようになる。

 松前氏の居城付近を除く、全蝦夷地を上知して、約10か月後の1855(安政2)年12月、箱館奉行は箱館町年寄の西村次兵衛と桜庭嘉右衛門に蝦夷地上知の趣意について、次のように申し渡した。

     申 渡

此(この)度(たび)蝦夷地惣躰(そうたい)御料所(*幕府直轄領)ニ仰せ付けられ候は、深き御主意これ有る儀ニ而(にて)、就中(なかんづく)近年外国船度々(たびたび)渡来し、蝦夷地の内(うち)所々〔へ〕上陸等致(いた)し、様子(ようす)相探(あいさぐ)り、……是迄(これまで)の儘(まま)に致し置き候而ハ(ては)、如何様(いかよう)の目論見(もくろみ)ニ而、不慮の儀(ぎ)到来致(いた)すべきも計りがたく、一體(いったい)外国の事情ハ、其(その)国に定(さだま)りたる主(あるじ)これ無き候ニ付き、田畑その外(ほか)開発等ニ心を用ひず、地を空しく致し置き候へハ、其地へ人民を移し候事ニ而、既に『エトロフ』より北の島には、魯西亜の役人を遣(つかわ)し、風俗を改め、年貢をも取建(とりた)て候儀ニこれ有り、聊(いささか)も油断相成(あいな)りがたく候間、是迄の姿ニ而ハ(にては)差し置きがたき場所ニ付き、人別(*人口)戸口(*戸数)相増(あいま)し、蝦夷人共(*アイヌ)仕来(しきたり *ならわし)追々(おいおい)相改(あいあらた)め、諸事内地(ないち)同様(どうよう)御開き相成らざる内ハ、御不安の事ニ付き、莫大(ばくだい)の御入用をも厭(いとわ)せらず、厚く御世話これ有り、諸家(*諸大名)御固め(*警衛)まで仰せ付けられ、御守護遊ばされ候條、其(その)方共(*町年寄を指す)も、右の趣(おもむき)厚く相心得(あいこころえ)、漁業の暇(ひま)これ有る節(せつ)ハ、畑作しつけ方〔*農業のやり方〕、又(また)は物産製法等(など)相励み、御国恩に報じ奉(たてまつる)べきは勿論(もちろん)事ニ付き、如何様(いかよう)不時(ふじ *思いがけない時)に薄地(うすじ *収益が上がらない)候ニ候共、鳥獣巣穴を成し、人民住居相成り候處(ところ)ハ、食物出来(でき)道理致さざるハこれ無し……」(『大日本古文書』―「幕末外国関係文書」の第13巻―103 P.213214

 

 箱館奉行は、ここで「一體外国の事情ハ、……」の下線部で明白であるように、西洋列強

の植民地主義を手本として、日本も蝦夷地において、これを行なうと宣言しているのである。「其国に定りたる主これ無き候ニ付き、田畑その外開発等ニ心を用ひず、地を空しく致し置き候ヘハ、其地へ人民を移し候」というのは、明らかに「先占の法理」をもって植民地主義を正当化したものである。これは日本近代の膨張主義・植民地主義が、西洋諸国をまねて、すでに幕末から意識的に行なわれていることを示す明らかな証左である。

 「申渡」は、以後の省略部分でも、「追々諸国(*諸藩)の者(もの)御引移しこれ有りて」、「永年人民を相増さざる中(うち)ニハ」、「追々引き移る者(もの)相増し」と、開拓のための和人の移住・植民を繰り返し、述べている。

 

(6)蝦夷地の「門戸開放」と和人の急増

 蝦夷地の開拓、そのための和人の移住・植民を促すために、幕府も従来の蝦夷地「隔離」体制を転換せざるを得なくなる。

 かつては、松前領外の和人が蝦夷地に赴くには、二重の関門があった。一つは、本州の和人が松前城下(後には江差・箱館へも)に入る際であり、もう一つは、松前和人地と東西蝦夷地の境の関所である。

 前者では、「沖の口の番所」で人物改めが行なわれ、身元引受人がいない者は即刻退去させられた。後者では、シャクシャインの戦い(1669年)までは、それほど厳重ではなかったが、その頃、西蝦夷地にもっとも近い熊石、東蝦夷地にもっとも近い亀田で関所が設けられた―と推定される。この関所では、理由なく蝦夷地へ赴く者は、追い返された(板倉源次郎著『北海随筆』)。天明期(1781~1789年)になると、松前へ行こうとするアイヌも、また和人も「城下町奉行衆の切手」がないと、通ることが出来なくなった。

 そして、二つの関門では、税(関料)が徴収された。幕末の頃には、前者は旅人役(沖の口入役ともいう)が男1200文・女600文、後者は場所出稼(でかせぎ)役が男600文・女300文であった。また、和人地か蝦夷地に次の年まで留まる者には、越年役(おつねんやく)として、男600文・女300文を徴収された。(海保嶺夫著『エゾの歴史』P.220

 蝦夷地「隔離」体制のための閂(かんぬき)が、徐々に開き始めるのは、幕府の第二次直轄(1855年2月)以降である。海保嶺夫前掲書によると、以下のような経過をたどって「隔離体制」は転換していく。

*1856(安政3)年7月1日、箱館奉行は、「支配組頭等ニ諭(さと)シ蝦夷地移住者ヲシテ永住セシメンコトニ留意セシメ」(『維新史料要綱』巻二)と、移住者の永住化方針を打ち出した。

*1857(安政4)年3月15日、箱館奉行は東在(ひがしのざい *木古内より東の和人地。和人地の境界は時代により多少の変化がある)に対し、蝦夷地通行の便利のため、蝦夷地での「休息茶店」や「旅籠(はたご)取建」が許可された。それとともに、「旅宿人懸(かかり)候ものは、箱館幷(ならびに)同所附(つき)村ニ限リ沖ノ口改(あらため)ニ及ばず、宿品書付(かきつけ)村役人奥印(押印)いたし、ヤムクシナイ江差〔へ〕出(いで)、砂原・鷲木より渡海の者共モロラン(*室蘭)江差〔へ〕出(いずるは)、いつれも役銭は差出(さしだし)ニ及ばず。」(『御触書写』)となる。また、場所場所で、「見世(みせ *商店)取立住居致(いたし)候ニおゐてハ別而(別して)御開拓御趣意ニ茂(にも)相叶(あいかなう)」ので「十分ニ願立(ねがいたて)」るようにと奨励した(『御触書写』)。

 和人が箱館及び同付近へ赴こうとする限り、沖の口での改めを免除した。江差やモロラン方面に向かうものは、役銭上納が免除された。また、場所場所(蝦夷地)での商店建設が奨励された。

*1857(安政4)年6月21日、次の請書に示されるように、箱館奉行は旅人役を廃止した。「今般(こんぱん)箱館并(ならび)に夷蝦(*ママ)地へ稼方(かせぎかた)として諸国より立入(たちいり)候旅人役銭は、向後(こうご)御差免(さしまぬがれ)相成(あいなり)候。尤(もっと)も改方(あらためがた)の儀は是迄(これまで)の通り相心得(あいこころう)べき旨(むね)仰渡(おおせわた)され承知畏(おそ)れ奉(たてまつり)候。仍(よっ)て御請(おんうけ)証文差上(さしあげ)申し候処(ところ)件(くだん)の如し。」(『箱館問屋儀定帳』)と。

*1861(文久元)年6月、和人地と蝦夷地の境界での改めも、次のように廃止された。「東蝦夷地ヤムクシナイニおゐて、前々より出入(でいり)の旅人相改(あいあらため)候処、今般右(みぎ)改(あらため)の儀停廃致し候間、勝手次第通行候様夫々(それぞれ)申渡(もうしわた)され、尤も紛敷(まぎらわしき)者(もの)入込(はいりこむ)ため、是迄の通り沖の口切手并(ならびに)市在添翰(てんかん *添え状)これ無き者ハ、其(その)場所場所ニおゐて相改(あいあらため)差置(さしお)かざる様(よう)致すべく候、此段(このだん)心得(こころえ)させ申し達し候。/右の趣(おもむき)箱館表(おもて)より申し来たり候間、此段(このだん)相触(あいふれ)候ものなり。/町役所/酉六月(『御触書扣(ひかえ)帳』)

 こうして、和人地と蝦夷地との境界も「勝手次第」の往来自由となったのである。ただし、「沖の口切手并市在添翰無き者ハ、其場所場所ニおゐて相改」するようにした。これは場所請負人の裁量次第を意味する。

 幕府の蝦夷地開拓や和人移住者の奨励で、和人の出稼ぎはこれまでもなく急増した。海保嶺夫氏によると、「安政元年(一八五四)、『出稼家』が島小牧(しまこまき)、寿都(すっつ)、歌棄(うたすつ)、石狩(イシカリ)の各場所に合計三一五軒あったと言われている(『蝦夷大鑑』)。歌棄場所での安政二年(一八五五)当時の一世帯あたりの平均人員は五人……なので、それを根拠にすると一五七五人の出稼人(実質は定住者に近い存在であったと思われるが)がいたことになる。安政二年の一五七五人が、安政五年には四六八二人となった。わずか四年のあいだに出稼人は三倍に急増していることになる。記録が不備であったとしても、第二次エゾ地幕領化(安政二年)以降、エゾ地への出稼和人が激増していることはたしか」(海保嶺夫著『エゾの歴史』P.226)なのである。

 

(7)和人の出稼ぎ・移住で人口急増

 蝦夷地の人口は、和人の出稼ぎで増加する。蝦夷地での和人居住は、「開国」(1854年)後から公認となる。

 第二次幕領時代になると、農業・漁業を始めとする諸産業の開発で移住者はさらに増加する。「〔*幕府は、〕場所請負人や諸藩へも移民の導入、永住者の増加策をとらせ、農業開拓につとめるよう指示しており、蝦夷地への出入(でいり)規制もといて往来を促進し、定住を奨励した。この第二次幕領期に蝦夷地に定住する和人人口は急増する。とくに西蝦夷地の鰊(にしん)漁の盛んな地域での増加がめだち、ヲタルナイ(永住三二四戸、一四一二人。出稼ぎ二二六戸、八九六人―慶応4年〔*1868年〕)のように、寺院もでき、商店も多くならび『遊女町』まであるという都市化の様相を示すところもあらわれるのである。/和人人口の増大した地域では場所請負制を廃し、『村並(むらなみ)』の扱いを行った。村役人をおいて自治の要素も含めて箱館奉行所の直接統治が行われるのである。イシカリ(安政五〈一八五八〉年)、ヲシャマンベ・ヤマコシナイ(元治元〈一八六四〉年)、ヲタルナイ(慶応元〈*一八六五〉年)が『村並』化されたところである。」(『北海道の歴史』山川出版社 2000年 P.156157)と言われる。

 これらの趨勢から、現・北海道地域に当る所の人口は、『新北海道史』第二巻通説一によると、次のようになる。「戸口については正確な調査はないが、嘉永六(*1853)年本道町村における和人の総数は約六万三千人であったものが、安政の末(*1859年)には八万以上となり、ことにその増加は箱館およびその付近の村落ならびに西蝦夷地に多かった。松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図安政人別によれば、箱館地方が三万余人、福山(*松前)地方が三万余人、江差地方が二万余人、熊石地方(乙部より熊石に至る幕領八か村)が六千三百余人、合計八万六千三百余人で、これに蝦夷一万五千七百余人(樺太を除く)を合算すると、全道の総人口は実に十万以上に達していた。これ以外に、越年およぶ事実上土着民に等しい他領の出稼人(でかせぎにん)も少なからずいたことと思われる。このように和人の人口は年とともに増加し、当時代(*第二次幕領期)の末には少なく見積もっても十万以上に達し、これに蝦夷を加えると本道の人口は十二万を下らなかった。これを当時代の初めに比べるとやがて倍化する勢いで、当時としては括目(かつもく *目を見張ること)に価(あたい)する事実であった。」(P.809810)というのである。

 これによると、幕末の1859年の頃には、既に蝦夷地に於ける和人は、アイヌ人口の約5倍であり、アイヌモシリを蹂躙(じゅうりん)されたアイヌたちは、和人の支配に翻弄(ほんろう)されるのであった。

 〈和人人口〉

 年           人口数     前期との間隔   増加数

1707(宝永4)年  1万5848人

1788(天明8)年  2万5064人   81年間    9216人

1798(寛政10)年 2万8711人   10年間    3647人 

1807(文化4)年  3万1353人    9年間    2642人

1822(文政5)年  3万8686人   15年間    7333人

1839(天保10)年 4万1353人   17年間    2667人 

1853(嘉永6)年  6万3834人   14年間   22481人

1859(安政6)年  8万6353人    6年間   22519人

 上記の数字は、〈宝永4年〉が、『福山秘府』に、〈文政5年〉が、伊達家文書「東西蝦夷地人別并収納金商除金調子和」(北大北方資料室所蔵)によるが、他はすべて『松前町史』通説編第一巻下によるものである。しかし、人口数は史料によって異なるので、大雑把な傾向を把握するものであることを了承していただきたい。

 まず年代的特徴をおさえると、第一次幕領時代が1802~21年、松前藩復領期が1821~55年、第二次幕領時代が1855~68年である。最も急激に和人地人口が増えているのは、嘉永期以降の幕末である。それに次いで増加しているのが、第一次幕領時代である。松前藩復領時代も増加しているが、第一次幕領期よりなだらかな増え方と思われる。

 和人の松前地・蝦夷地への出稼ぎは、天保期より恒常化するが、1800年代中期から急激に和人人口が増加する要因は、やはり第二次幕領期における幕府の植民政策の強化にあると言えるであろう。

                     

Dアイヌの生活根底からの改変と同化政策

 

(1)アイヌ民族の衣食住

 板倉源次郎が1739(元文4)年に書いた『北海随筆』は、当時のアイヌの衣食住を描いた中で、「衣はヲヒヤウ(*楡〔にれ〕のこと。アイヌ名はアツニ)と云(いう)木の皮を以てメノコシ手織にし、是(これ)をアツシと云(いふ)。メノコシとは女の方言なり(*メノコが女)。また獣の皮をも着し、あるにまかせたる体(てい)なるは寒暑あへておそれざる故なり。」(『日本庶民生活史料集成』第四巻 三一書房 1969年 に所収 P.409)と述べている。

 アツシは、防寒性と耐水性にすぐれていると言われる。アツシ織は、女性の仕事である。男が主にする冬期の熊猟は、数は少ないが貴重な熊皮をもたらし、これは衣料にも利用された。

 串原正峯によって1792(寛政4)年に書かれた『夷諺俗話』(『日本庶民生活史料集成』第四巻に所収)によると、「着物はアツシにて拵(こしらえ)たるモテル1)といふもの、是は底のなき袋の如くなる物を臍(へそ)より下へ着し、其上(そのうえ)へアツシのチミブを着するなり。チミブといふは着物といふ事にて手羽アツシの事なり。メノコの着するアツシのチミブは無地多し。縫模様のあるも中には着したるもあり。男夷の着する手羽アツシには紺木綿を色々の形に切抜て是(これ)を縫付(ぬいつけ)るなり。……帯はしめず。草履(ぞうり)もはかず。……」(同前 P.500)という。

 アツシの優れた実用性は、その慣習・文化を下北半島にももたらしている。『青森県の歴史』(山川出版社 2000年)によると、「アツシはオヒョウニレなどの樹皮を繊維として織りあげたアイヌ伝統の衣服であり、その着用が北海道だけでなく、下北でも農漁民の間で広くみられた。アツシにみられるアイヌ文様は、その土地によって特徴が認められ、下北に残るアツシはカラフトアイヌ的な文様と類似しているという。これらアツシが北海道から持ち込まれたのは、留萌(るもい *北海道留萌市)以北の漁場が開発された天明年間(一七八一~八九)から明治中期頃」(P.228)といわれる。

 アイヌの食生活は、もちろん所により異なるが、基本は漁業と狩猟による産物が主である。漁業は、川での漁がもっとも安全で安定的な生産となる。漁猟を中心とするも、これに山に入って採取した野草も、漁猟の産物とともに食した。あるいは、保存食ともなった。アイヌの食生活で山野草は決して軽視できず、実に豊富な種類の山野草を食している。 

 串原右仲正峯が記した旅行記・『夷諺俗話』には、次のように書き記されている。

 

蝦夷食糧の事は常々おもに魚類を食し、是(これ)も漁に出(いで)、さし網又(また)はアチウカニ(和名ヤス)、柄の長さ四間(*1間は1・8メートル)計(ばかり)、是(これ)をもって海魚を突(つく)なり。海底深き所は足(た)し柄をなして、海底へおろし突なり。右(みぎ)獲(とり)たる所の魚を海水を以て煮て食す。貯置(たくわえおき)には干魚(ほしざかな)となして圍ひ置きなり。秋より冬は海上荒(あれ)て漁猟なりがたき故、夏中(なつじゅう)飯糧(はんりょう)になし草を取て貯置(たくわえおく)なり。取たる時(とき)直(じき)にも食す。これも汐水にて煮て食するなり。右〔の〕草飯糧に貯(たくわ)ゆるには、能(よく)干(ほし)て臼(うす)にて搗(つき)はたきて、糟(かす)をは(ば)かためて餅(もち)となし、粉をば水干して葛(くず)のことく(ごとく)製し貯置(たくわえおく)なり。食するには是を丸め、魚油にて煮て食す。又は湯煮にしても喰ふ事なり。飯糧に用(もちい)る草左の如し。

ドレツフ(和名ひめ百合) キトウ(和名アイハマキ) プイドマ アンラコル(和 

名松前にて黒百合) ヘポロ(*むく毛のある粟) モシカルベ(*つりがね人参)

以上根(ね)を用ゆ。

ハル(和名松前にてシャクといふ) ヲモシコ(和名マタタビ) キトウ

以上葉を用ゆ。

右の品おもに用ゆ、其外(そのほか)、

…………

右の草何(いず)れも手入れもせず、作ると云事(いふこと)なく、野山に自然と出来る草にて、都合五十三種、各々食する草なり。

 

 アイヌの住居は、川べりが多い。板倉源次郎著『北海随筆』によると、大河の川べりにアイヌの住居をもって生活している様子がうかがえる。

 すなわち、「ハボロのならびにイシカリ川と云(いう)大河有(あり)。川口広さ十町(*約1091メートル)ばかり、壹里(一里)程(ほど)川上より段々に水ゆるく川幅次第に広く、三十町、四十町又(また)六十におよぶ所もあり。常に水多くして増減の時なし。此(この)川源知る者なし。先年イワナイと云處(いふところ)の蝦夷人小船に乗りて泝り(さかのぼリ *遡り)、十二日のぼりけれども其(その)源知れざるといへり。川つら(*川のほとり)に蝦夷住居して松前商人も行處(ゆくところ *交易のために出かけた所)となり、又奥蝦夷ユウベツと云處(いふところ)、川は此イシカリを倍せし大河なり。川辺蝦夷村多し。蝦夷地にて夷人の多きは此ユウベツを第一とするよし。ベツとは大河の事、ナイとは小川の夷言なり。」(『日本庶民生活史料集成』第四巻 P.406

 板倉の見分でもアイヌコタンが川べりに多く存在したことがわかる。そこへは松前商人が交易のために出入りしている。なお今日では、石狩川の長さは268Kmに対して、湧別川は22Kmとされている。

 最上徳内が書いた『蝦夷風俗人情之沙汰』(1790年の著作)では、アイヌ・コタンについて、「蝦夷地(えぞち)都(すべ)て一村といふとも、家宅僅(わずか)に五、六軒、七、八戸、又(また)適(たま)十軒位(くらい)ある處(ところ)を大村なりとして稀(まれ)にある也。」(『日本庶民生活史料集成』第四巻 P.444)とされている。コタンは、多くても10軒ぐらいで構成されており、しかもその多くが親戚である。

 しかし、狩猟・漁猟などの採集生活を基本とするアイヌは、農耕民とは異なり、住居を固定的なものとしていない。この点について、徳内の前掲書は次のように述べている。

 

蝦夷土地の風俗にて、大身小身に限らず旅かせぎ(稼ぎ)旅商ひにも家内眷属(けんぞく *一族)残らず召連(めしつれ)、家財も携(たずさえ)、諸所を巡り漁猟獣猟し、何場所にても産物の多き所に住居して、生涯住處(じゅうきょ)を定めず。是(これ)、蝦夷土地の風俗也。又、妾どもには家宅を造り渡し置き、外(ほか)に衣食の手当(てあて)をすることなく閣(おく *止める)とも、独り我身仕舞(しまい *処置)して餘力(余力)を得、ヲヒヤウといふ樹の皮を採り、アツシといふ太布の如き物を織(おり)、衣服と為(な)し夫に贈(おくる)なり。是(これ)、蝦夷の婦人の習はせなり。又、大身の乙名(おとな *首長)などはウタレとて古代相伝の家来大勢あり。主人旅かせぎに出る時は、此(この)ウタレも家内残らず旅先に滞留し、かせぎして生涯を営栄するは、蝦夷土地の風俗也。一處不住にして数十百里の海浜に住居す。家宅はみな小屋造りにて、猟産の沢山(たくさん)ある處(ところ)へ移り、又小屋を造りて前の如し。是(これ)、耕作の道なく耕地の欲を知らず、只(ただ)猟産を業とするゆえなり。(同前 P.459

 

  漁猟・狩猟を主とするアイヌは、獲物の多い所をたえず求めて移動する(もちろん、決められたテリトリーは存在する)ので、「一處不住」となるというのである。しかも、移動は一族全員をつれての移動であり、大身の乙名は、「家来」・「従僕」などと記されるウタレの家族も引き連れている。ウタレは、その従属度はさまざまであるが、「隷従民」である(18世紀末頃までは、アイヌ社会にも階級分化の兆しがあった)。

 なお、アイヌ語で、妻はマチと言われるが、ポンマチは一般に「妾」と訳される。しかし、ポンマチは、和人の「妾」とは大いに異なることを留意しなければならない。先に引用文でも、「又、妾ども(*差別的口吻がある)には家宅を造り渡し置き、外に衣食の手当をすることなく閣」と書かれている。女性は、和人の「妾」とは異なり、全面的に乙名に隷属するのではない、ということである。むしろ、乙名の側は、複数の婚姻関係を通じて、その女性のバックにいる親族を自らの生産基盤にも組み込む狙いをもっているのである。(《補論 双系制社会としてのアイヌ社会》を参照)

 アイヌは、たしかに漁業・狩猟を基本としていたが、農耕を全くしていなかったわけではない。地方によっては、かなりの畑作がなされている。

 松浦武四郎が書いた『近世蝦夷人物誌』(『日本庶民生活史料集成』第四巻に所収)によると、次のような場所では、盛んに畑作が行なわれていたことがわかる。

 

……山越内(やまこしない *内浦湾に面した渡島半島の海岸部。長万部の南方)よりしてシヤマニ(様似 *襟裳岬の近く)場所までは其(その)村々畑地多く所持し、粟(あわ)、稗(ひえ)、烟草(タバコ)、呱吧芋(じゃりいも)、白管菜、胡瓜(きゅうり)、南瓜(かぼちゃ)、麻、苧(からむし *茎の皮の繊維で織布する)、蕪(かぶ)、菜、大根、てなし小角豆、隠元(いんげん)豆、白瓜(しろうり)等(など)有りしが、其(その)作ることを是(これ)までは運上家といへるものにて秘(ひ)し置(おき)ありけるまま、なき事の様に思ひたるなり。其(その)ホロイズミよりトカチ、クスリ(*釧路)、シヤリ(*斜里)、アバシリ、モンベツ、トコロ(*常呂)等も以前は畑多くありて作りし由なるが、追々(おいおい)威権(いけん)運上家に帰して、山住(やまずみ)の者等(ものら)一々(いちいち)雇(やとひ)といふに下る様になりてより、其(その)畑荒廃して今誰も昔(むか)しよりして作らざる事の様に思ひ居(お)るもおかしき事なり。(P.784785

 

 山越内から様似にかけて、昔は野菜類を多く作ってきたが、運上家が漁業経営をして「権威」をもつようになると、山住みのアイヌまで浜に下ろして雇(やとい)としたので、畑が荒廃して、昔から作っていなかったかのようになってしまった―というのである。

 『アイヌ民族の歴史』(山川出版社 2015年)でも、次のように農耕が盛んな地方の事を書き記している。

 「蝦夷地のアイヌ社会には農耕の伝統があった。近世初期にも『田作』(農耕)のことが記録されている(『津軽一統志』巻第一〇)。〔松浦〕武四郎の見分のうちにも農耕の盛んな地域のことがいくつかあげられているが、漁業労働の雇(やとい)に働かされる中では農耕は衰退していったと見られていた。しかし、沙流川流域のように、目立って農耕の盛んな状況も紹介されている。『畑の柵も山々の細道も有(あり)て夷地の心地せず』という本州の農村地帯のような風景、『年々雑穀三十余俵』もとる家もあるという地域には、九間(一六mほど)四方もある大きな家に『太刀百振、槍五すじ』も飾って暮らす『乙名』がいて、この首長の下に維持されているアイヌ社会の実態が見られたのである。/一八七二(明治五)年、沙流郡各村に『アイヌ』耕作地が三〇六町歩余りもあったとする資料もある(『北海道殖民状況報文 日高国』)。この頃、沙流郡のアイヌ人口は三五五戸、一五一九人であったという(『平取町百年史』)。稗(ひえ)を上畑三反耕せば一戸五人を支えるに十分(『平取外八箇村史』一九一七年)という生産性であれば、一八七二年頃の沙流郡では畑作ですべての戸口が保たれた計算になる。」(P.127128)とされる。

 アイヌ人口が近世から近代に入っても減少しつづける中で、平取のアイヌは農耕によって(もちろん漁猟も続けたであろうが)、民族を保持しつづけたのである。

 

1)『日本庶民生活史料集成』第四巻の注によると、モテルとは、「ワンピースの様な下着で、胸部までおおっている。襟の打合せには紐がついていて、縛るようになっているのもある。頭からかぶって着る。臍(へそ)より下へ着すといふは誤り。」(P.519)となっている。

 

《補論 双系性社会としてのアイヌ社会》

 17世紀から18世紀中頃のアイヌ社会は、基本的に血縁原理(地縁原理ではない)であるが、しかも特徴的なのは双系制社会である。

 児島恭子氏によると、「アイヌ文化は、女性と男性、女性的要素と男性的要素が対置されている面が大きい。両者が相互補完的に社会で機能している。親族は女性の系統と男性の系統が認識され、社会構造の基本となっている。それをフチイキ(女の祖先の系列)、エカシイキ(男の祖先の系列)という。小河川の流域に居住する親族集団が地域社会を構成していたが、女性はその集団のなかで男性と同等に自己の系統を存在させていた。つまり、女性が他地域に婚出することが少なかったのである。」(「アイヌ女性の生活」―日本の時代史19『蝦夷島と北方社会』吉川弘文館 2003年 に所収 P.170)と言われる。

  一人前のアイヌ女性の身だしなみには、口のまわりや手に入墨をすること、髪を短く切ること、モウル(前出のモテルのこと)という筒型の肌衣をつけること、ポンクと呼ぶ腰紐をつけることなどがある。

 フチイキを象徴的に示すのが、ポンク(他にウ、イシマなど様々な名称がある)である。ポンクは、数本の紐(ひも)状のもので、腰部分で直接に肌に巻く。紐の一部では布きれのようなものが垂れ下がっている。紐の本数や形状はさまざまである。

 ポンクツは、祖母や母(両者ともいない場合はオバ)からもらうもので、女から女に伝えられた。

 瀬川清子氏は、ウプソル(ウプショルクツ〔=ウ〕の略称)の意義は、①これなしには火も飯も炊かれぬ。祭や葬式の食物が調製できない。②ウプソルの慎しみを怠れば、夫の身に危険が起こる。万事に調子が悪く、神頼みも聞かれず、狩の獲物も与えられず、子どもの育ちも悪くなる。③ウプソルは可婚期に及んで付け始め、縁結びの機能がよく言われるが、それに一般に「見てはならない」というタブーが伴なって、婚姻との関係が密接である。しかし、「男女の節操を超越したもので、むしろ、神と女性の間の神約のようなものが感じられる」―とまとめられている(『アイヌの婚姻』未来社 1972年 P.2324)。

 出産・育児は、フチイキの女性たちが協力し合う。これにより、フチイキへの帰属意識は再生産される。

 女性のポンクに対応するものが、男性のイトパである。イトパは、男系を示す祖印(そいん *刻印)である。たとえば、男が山野で獣を追って弓を射た場合、あるいは仕かけ弓(アマッポ)をかけた場合、仕留めた矢の所有者を明確にするために、矢に標(しるし)を付けるが、それがイトパである。また、カムイノミ(神拝み)の際、神を祀るイナウ(*神に祈る時に捧げる幣〔ぬさ〕のようなもの)や奉酒箸(ほうしゅばし)1) によく刻印されている。婿に行っても生家のイトパを使う。従って、婿入りした男性の男系が分かる。(幣とは、神に祈る時に捧げ、また祓いに使う、紙・麻などを使って垂らしたもの)

 アイヌ社会では、コタンの行事の表面(おもてめん)を担うのは男であり、女性は調理などの面をになうなどの役割分担がある。

 アイヌの一般的な家では、男の子は7~8歳になると神窓(入り口から見ると真正面の奥の側)に近い方に休ませ、女の子は、神窓から見て囲炉裏(家のほぼ中央にある)の左手のオハリキソに休ませるという。親は囲炉裏の右手のオシソに休む。17~18歳の娘時代になると、そのままオハリキソに休ませる地方もあるが、オハリキソの後にさしかけのトウンプ(室)を作って、娘の室にする地方が多いようである(トウンプには窓はあるが炉はない)。

 結婚は、比較的に自由であり、女性が選ぶ権利があったと思われる。トウンプが若い男女の出会いの場となり、その中から娘は気に入った男を選び取る。当人同士が同意すると、通常、オジ・オバに頼んで仲人をしてもらい、親の許しを得る。女の子には母が、男の子には父が、嫁にやるにも婿にやるにも親としての権利を持つ。

 なかには、子どもが小さい時に、親同士が結婚相手として決める(許嫁〔いいなずけ〕)場合もあるが、その時でも女性は相手が気に入らなければ、結婚に同意しない。

 婚姻には、次のような規制がある。「生母と同じウの女(シネウ〔*同じ腹から生まれた同じ系統の者〕の女)を妻にしてはいけない。/これはすなわち、父が兄弟であるイトコは結婚できるが、母が姉妹であるイトコは結婚できない、父と母が兄妹(姉弟)であるイトコは結婚できるということである。もちろん同母の兄弟姉妹、母方のオジ、オバとの結婚も不可である。」(児島恭子著「伝統的アイヌ社会における女性の役割」―日本家族史論集13 大日方純夫編『民族・戦争と家族』吉川弘文館 2003年 P.104)というものである。

 しかし、通婚圏が狭い同じ集落内あるいは近隣の集落の範囲とすれば、この結婚規制を堅持すると相手はいなくなってしまうであろう。児島氏によると、「そこで、同じ母から生まれた系統でも、三代か四代たてば、結婚してかまわないという考えもある。/もう一つ重要なことは、アイヌホシピレ(人間を帰す)ということである。これは他村へ嫁出した娘があれば、嫁入先は、数代後の娘を元の村へ帰さなければならないということである。」(同前 P.104)として、これで双系性社会が維持できるというのである。

 若い男女が結婚すると、親とは同居しないで、近くにポンチセ(簡素な小さい家)を作り、そこで生活する。子どもが大きくなったりすると、また新たにポロチセ(本格的な大きな家)を作るようになる。アイヌ社会では、親夫婦と子ども夫婦が同居せず、夫婦とその子らが同居する単婚家族が基本である。

 これに対して、和人の家族制度(日本のイエ原理は、江戸時代になると農民層にまで普及する)では、長男(夫婦)が親と同居し、最後まで世話をする。家名・家産は、その長男が相続する。だが、西国では長子が先に分家し、親と同居して世話をするのは末子が多いといわれる。いずれにしろ、単婚家族であるか否かが、アイヌ社会と和人社会との基本的相違点である。

 新婚者がポンチセを妻方にもつか、夫方にもつかは、決まりが無い。「少なくとも結婚の初期を妻の家、あるいは妻の親の近くに、ポンチセを建ててすごす者が多かったらしく、ポロチセをつくる頃になってから夫方に行く者もあり、そのまま妻方に留まる者も少なくなかったといい、妻方居住が七割だった。/あるいは五割だったというのが、古老たちの共通の印象である。」(瀬川清子前掲書 P.128129)と言われる。

 男女の間では、基本的に分業が存在したと思われる。男は、外での漁猟・狩猟など荒仕事を行なうのに対して、「女性は簡単な狩猟(ウサギなど小動物)や、植物採集、魚や貝の漁などを行なった。家庭内の仕事は女の役目である。衣料の製作、炊事、火の管理、掃除などである。水汲みも女性や子どもが行なう。」(児島恭子著「伝統的アイヌ社会における女性の役割」 P.100)と言われる。

 男とは異なり、住居との関係が深い女は、年取って亡くなった場合、家財道具とともに本人が住んだ家(ないしは簡単に新たに作った家)を焼き払う(所によっては、老父の死去の際も家を焼く)。死後の世界で安楽に過ごせるようにするためである。

 

1)神と人との間を仲立ちする道具。お椀になみなみと酌まれた酒にこの箸の先端をひたして火の神に捧げる。奉酒箸を「ひげべら」(酒を飲むときに長い口髭をへら〔箸〕で持ち上げて飲む)という説があるが、これは俗説である。

 

 (2)場所請負制で強制コタン出現

 アイヌの生活パターンは、場所請負制が発展すると、大きく変化する。「場所請負制が発展する以前のアイヌ民族本来の生産・生活のあり方は、基本的には、鮭が多く遡上(そじょう)する河川流域や海岸部に存在する各コタンを拠点にして、これらの各コタンを取り巻く自然地理的環境を有効に活用しながら河川での鮭漁や山野での狩猟と採集および海での漁業・海獣狩猟に従事し、こうした生産活動を基盤として自家消費を賄うと共に、和人や周辺諸民族との交易を活発に行うことによって彼等の生産・生活の再生産活動を行っていた…」(榎森進著『アイヌ民族の歴史』草風館 2007年 P.368)のであった。

 だが、商品経済に引き込まれ、販売のための生産・労働に転換すると、生活様式もそれに応じて変化する。そこに金儲けを目当てとした場所請負人が登場し、単なる交易だけでなく、場所での漁業経営を拡大すると、それに見合った労働力の組織化が必要となる。その対象として、先ず現地周辺のアイヌを考え、アイヌたちを場所の運上屋(後には会所と改称)や番屋周辺に強制的あるいは半強制的に移住させ、場所請負人の必要性に適合させたのである。強制コタンの出現である。(しかし、交易のみの番屋周辺や内陸部では、後々も「伝統的」なコタンは根強く残る)

 場所請負人に組織化されたアイヌは、かつてのような自然サイクルに沿った生活・生産(狩猟・漁猟)はできず、場所請負人の配下の支配人や番人などに監視され、それに指示された生活サイクルとなる。しかも、運上屋(会所)の周辺に集団的に住まざるをえず、疫病によって集団死となる場合もある。

 たとえば、松浦武四郎の1857(安政4)年の調査報告(『丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌』)は、広大な石狩川流域全体が一手に請負されているイシカリ場所について、次のように述べている―と、『アイヌ民族の歴史』(山川出版社 2015年)はまとめている。

 「一手請負になっているので、請負人の運上家は誰にも遠慮することなく勝手なことができると見ており、「誣訶(ふか)」(*あざむき責める)のはなはだしい様子を述べている。昼夜なく使役し、病人や老人は山へ追い、働けるものは男女、幼児でも川下の「雇蔵(やといくら)」に集め、牛馬よりひどい扱いをしている。みめよき女性は妾として取り上げ、逆らえば打叩(うちたた)き、死んでしまうものもいる。他郷へ逃亡するものもいるし、イシカリ場所のアイヌ人口は激減している。下流域のトクヒラ、ハッチャブなど五カ所で1810(文化七)年には一一七〇人であったが、1857(安政四)年には二二七人(*19・4%への減)になっていた。しかも、それは帳面上のことであって、死者の名前もあげている数字である。実際は一九一人だけ(*この場合は16・3%への減となる)で、それも上流域から連れてこられたものが大部分である。武四郎は人別帳を筆写し、実人口と比べた記録を残しており(『松浦武四郎選集』三~六)、具体的なアイヌ人口が知られるのである。」(P.124)と。

 松浦武四郎は、1860(安政7)年正月に完成した『近世蝦夷人物誌』でも、繰り返し、場所請負人―支配人―番人などがアイヌを過酷に使役するのを批判的に取り上げている。その事例を、以下に引用することとする。

 

〈過酷な漁業労働にアイヌを酷使〉

 まず第一は、昼夜の区別もなく、四季の区別もなく、過酷な労働に使役し、しかも長年にわたって里帰りも許さない、つまりまとまった休暇も与えないむごい扱いである。

 【昼夜の区別なく酷使】する事例は、次のように示されている。

*シマコマキ(島小牧)場所―アイヌ人口の減少に対して、請負人・山崎屋某の支配人・市三郎は、わずかではあるが、曲がりなりにも、結婚相手をモロランやホロベツから連れてきた。だが、「然るにまた其(その)請負人もいつか他の人になりしや聊(いささ)か夫等(それら)の情実(*アイヌ人口の減少のこと)を辨(わきまえ)ずして、晝る(昼)夜る(夜)の差別もなく責め遣(つか)はるる〔*急き立てて使(遣)う〕が故に、家に残し置く子供やまた老人等は如何(いかん)のも難渋(なんじゅう)し侍(はべ)り……」(P.736

*アツケシ(厚岸)場所―1822(文政5)年、蝦夷地が松前藩の復領となった時、アツケシの人口は人家164軒・人口804人もあった。だが、「其(それ)より奸商の手に落(おち)しや、其(その)土人(*アイヌを指す)の進退晝夜(昼夜)の差別なく責遣(せめつか)ふの證(あかし)には、辰どし(*1856〔安政3〕年)に聞侍(ききはべ)れば、漸々(ようよう *おいおい)四十八軒、人別二百六人ありしと云(いふ)。」(P.748)とされる。

*西蝦夷地のビクニ(美国)―ここもアイヌの人口が減少しつつあるが、漁業の利益があがる場所で、松前や江差あたりから和人が多く出稼ぎに来ていた。だが、「其地(そのち)の夷人(*アイヌのこと)等のことは少しも介抱といえるものの事なと(など)もなく、漁業厚き場所なりせば、晝る夜るの別(わか)ちもなく責め遣ひ、辛き目を見する故に、懐孕(かいよう *懐妊)なるものは其(その)稼(かせぎ *仕事)に堪兼(たえかね)て堕胎(だたい *流産)〔を〕なし、其(それ)を病の種としては床(とこ)に臥(ふ)しけるや、一匕(ひとさじ)の薬も與(あた)へず、一椀(ひとわん)の饗(もてなし)もなく、三更(さんこう *午前零時から二時までの真夜中)の頃まで漁の業(わざ)に役(えき)し、朝は五更(*午前四時から六時の間)の頃と言(いふ)や起され、くさぐさ(*いろいろ)のことに遣(つか)はるるが故に其(その)契(ちぎり)をもなす暇(ひま)なきが故に、如何(いか)でか厚(あつくし)むべきの訳もなく、病に罹(かか)るや其(それ)を世話致すものもなく、依ていつとなく病にだに就(つ)かば死せざるものなし。人口其(それ)故に月にまし減じ、……」(P.760)というのである。

 たしかに、第一次産業一般では、とりわけ収穫期などは「猫の手も借りたい」程に忙しくなる。だが、それにしても限度というものがある。限度もわきまえない酷使は、過労死を招くものだったのである。さらにアイヌ酷使は、繁忙期に限ったものではなかったのである。

 【四季の区別なく使役】する事例は、北蝦夷地(カラフト)のシラヌシ(白主)のさらに奥のヲタサンに住む老人ヲノワンクの場合である。彼は、トンクルという弦楽器をよくする。その老人の言では、「……此(この)浦辺(うらべ)に住(すめ)る蝦夷人等も往昔(むかし)はかかる楽の器もて慰(なぐさ)みしものなりけるが、今は是(これ)を楽しみ慰(なぐさむ)る暇(ひま)もなく唯(ただ)運上家といへるもの出來しより四季ともに役(*使役)せらるる斗(ばかり)にて、生涯を辛(つら)くわたること此(この)器の今絶えしをもて證(あかし)となし、今一度(いまいちど)江戸といへる国より下り給(たま)ひしニシパ(*貴人のことだが、ここは武家を指す)達へ知らせ呉(くれ)られよ……」(P.741)と、武四郎に哀願する。

 請負人は、利益を上げるために、安い給与で、長時間労働を強いて、中には【5~6年も里帰りさせない運上家】もある。西蝦夷地テシオ(天塩)場所のニウフ―ここに住むエカシテカニは、「頗(すこぶ)る山猟を好(このみ)て、朝夕弓箭(きゅうせん *弓と矢)を帯びては此方(こちら)彼方(あちら)と駈廻(かけまわ)り熊鹿のみを猟獲、此如(かくのごとく)まで数人の子供を快く育てたりしが、四年前より目を愁ひて(*患〔わずら〕ひて)両眼少しも見ることを得ず、依ては唯(ただ)毎日爐(いろり)の傍(そば)に座して居り候(そうろう)斗(ばかり)にて何一つなすと云(いふ)事もなく、いと哀れなる次第」になる。こうなると、子どもたちの稼ぎに依存せざるを得なくなる。「其(その)惣領の悴(せがれ)〔*30歳ぐらい〕は是(これ)また漁も猟も当所にて誰れしらざる(知ラザル)ものなき上手(じょうず)なりと聞(きき)しが、是を五、六年前より運上家へ下(さ)げ置(おき)て一度も山へは上(のぼら)せず、唯(ただ)漁事または昆布取りにのみ遣(つか)ひありと。其(その)次なるクヨンテといへる娘は廿二、三歳にて、アツシを織(おり)また衣もの縫(ぬふ)こと等いと手際(てぎわ)に致し候もののよしなるが、是をヲニサツヘの土人クーアツと云えるものへ支配人より指図にて娶(めと)はせ、運上家元へ夫婦ながらに下げ、是も五、六年も山へは帰さざる由。また第三番なる娘シホレ当年十八、九歳なるには、同じ場所なるアエトモと云(いへ)る土人の悴ウエリカといえるに娶はせ、是も浜にて遣(つか)ひ故郷へは少しも帰さず……」(P.757

 長男と長女は運上家で働かされ、5~6年も実家には帰れないでいる。次女に至っては全く故郷に帰れない。まさに、「監獄労働」にも匹敵するような拘束である。また、支配人は娘たちの結婚を指図して、夫婦をともに運上屋の働き手として、確保している。

 運上家の厳しい過酷な労働は、【犬馬の如く酷使】し、その結果、アイヌの【寿命短かく】なるのであった。

 西蝦夷地クドウ(久遠)―請負人の石橋屋松兵衛は、「松前城下にても誰一人商売の取引する者もなく、非道強欲の事斗(ことばかり)致し、衆指の指〔*多くの人が指さす者〕にもれ(漏れ)ざる者なるが故に、住することもなり難(かた)く、依(より)て其(その)請負地のクトウへ引越(ひっこ)し自ら支配人となり、〔その〕非道強欲〔は〕西場所幷(ならび)に東中にても誰しらぬものなく、土人を遣(つか)ふこと犬馬の如く、十七、八歳より五十歳位(くらい)までの者は一年の給代漸々(ぜんぜん)八合盤といへるもて八升宛(あて)入れしを四俵、五俵位宛に遣(つか)ひ、一日の飯米と云(いう)は僅(わずか)一合八勺斗(ばかり)の椀(わん)に玄米一杯を與(あた)へ、其(それ)も運上家に残り飯のある時は其(その)飯を粥(かゆ)にのばし、是(これ)を一日に三椀宛(あて)遣(つかわ)して責遣(せめつか)ふまま、幼なき者やまた老たるものは何も喰することもなり難く、一枚の古着といへども何の手立てあるや、唯(ただ)他所より出稼(でかせぎ)といへるものの来(きた)り、漁業等の者等(ものら)が其(その)飢寒を憐(あわ)れみて時々古きものの一枚をも遣(つかわ)し候にて漸々凌(しの)ぎ居りしが、左(さ)有る故五拾余歳まで生きる者なく、皆三十歳より四十歳前後にて病を受(うけ)て死し、ますます人口減ぜしかば、其(それ)を怒りて十七、八年前(*1841~42年頃)江差といへる處(ところ)の役所迄(まで)其(その)困窮を訴へ出しが、さして、私領中(*松前復領期)の事なりしかば取上(とりあげ)もなく、世話も致さず捨置(すておき)ありしに依て、土人等もなしがたく過(すご)しに、其(その)松兵衛なる者死して其(その)養子瀬左衛門の代となり、然(しか)る處(ところ)其(その)遣(つか)ひ方松兵衛に一倍して、昼夜の差別なく愈々(いよいよ)非道増長致し来るに、去々年公料成る(*幕府の第二次直轄)哉(や)土人等も大(おおい)に悦(よろこ)び、何卒(なにとぞ)先年の如く御直捌(じきさばき)にも相成(あいなる)様のことならば一同に立行(たちゆく)なりと思ひ、其内(そのうち)箱館より詰合(つめあい *場所詰めの役人)といへるものの来る等と聞(きき)て天にも昇る心地して悦びしが、去(さる)辰とし(*1856年)の春(はる)詰合といへるものクトウへ着(つく)に成(なり)しかば、段々其(その)困窮を訴しに、其(その)詰合(つめあい)一切何の世話もなく、唯(ただ)瀬左衛門の申處(もうすところ)のみを正直となして打捨(うちすて)置(おか)れしに、……」(P.758759)である。

 その後、箱館奉行支配調役・向山源太郎の巡回の際に、アイヌ13人すべてが処罰覚悟で直訴する。向山は、“箱館に帰って改善する、この上も悪いことがあれば詰合の小沢に訴えろ”といって、手拭・針などを置いて帰った。しかし、この向山もほどなくして死して、アイヌたちは絶望する。そして、「……此(この)世に生きのびる甲斐もなし、何たる因果にて請負人の為(ため)にかくの如く遣(つか)はれ候こと残念なり、此(かく)の如くなることにては中々蝦夷地に人胤(*アイヌ民族の血筋をひく子孫)はます(増す)まじと笑ひしとかや。」(P.759)と言ったという。

 アイヌ民族の人口減少は、天然痘、チフスなどの流行病が主な原因といわれるが、その前提には、劣悪な労働条件のもとでの過酷な労働がある。漁獲の最盛期には、真夜中に至るまで働かされ、ろくに満足な休暇もないのである。それに、この事例でもわかるように、極めて劣悪な給与条件、すなわち粗末な食事の下で重労働を強(し)いられていたのである。過酷な重労働なのに、一日わずか一合八勺とは驚きである。

 瀬川清子著『食生活の歴史』(日本の食文化大系1〔東京書房社 1985年〕に所収)によると、中世の一日2回の食事が、江戸時代になると3回となる。しかし、この一世紀、農村の機械化が進む直前の農村では、その正規の3回の食事の間に、軽い食物をとっている地方もみられたという。そして、「……ひんぱんな食事は結局胃の腑(ふ)に入る食物の総量如何(いかん)ということになる。どこでも純米ばかり食っているわけではないが、田植え・麦こなし・稲刈・麦蒔(むぎまき)の頃の男子の食量は一日八合、冬の間六合と概算している村がある。男子は一日八合が普通であるが、夏秋の忙しい季節は九合乃至(ないし)一升は入用であるという地方もある。労働のはげしい季節には一人七、八合入用であるが、外働きをしない冬の季節には四合でよい、食量と労働量は比例する、というのが普通である。」(P.174)と言われる。

 「労働のはげしい季節は一人七、八合(*一日)入用」という場合、その食事は「純米ばかり」ではない、と思われるが、その内容は定かではない。その意味で正確な比較は困難であるが、それでも過酷な労働を強いられたアイヌの一日の食事量1・8合は、これと比較するとその0・26~0・23である。これは、アイヌの給与が出稼ぎ和人の約四分の一という条件におおよそ符合するのである。

 こうした劣悪な食事条件の下で過酷な、労働を強いられるのであるから、病に倒れるのは当然であり、死亡者が増えるのは必然である。

 非人間的で過酷な労働とタコ部屋生活に対して、アイヌたちはただ唯々諾々(いいだくだく)として、付き従っているだけではなかった。多い事例は、運上家に雇われるのを嫌って、山に逃げ入り、和人との交渉を断つということであった。それが、次の事例である。

 【支配人・番人の酸苛なるを嫌い、山に逃げる】石狩場所の上川のチクベツ(忠別 *旭川市附近)に、イカンフリ一家(7人)が住んでいた。その長男イキツカは、「……七、八歳の時より山岳を駈廻(かけめぐ)り、石狩岳、チクベツ岳等を常の住居とし、如何成(いかなる)強熊猛獏(*強い熊と猛々しい獏〔ばく〕)に逢(あう)とも、見さへする時は取獲(とりえ)ずと云事(いふこと)なし。又(また)豪熊等を手馴(てなづ)けて山岳跋渉(ばっしょう *方々を歩き廻ること)の時は召連(めしつれ)等(など)し、聊(いささ)か浜へ出て並々の生業なすことを忌嫌(いみきらい)て、十五、六歳の時(とき)下(くだ)せしや直ちに唯タシロ(山刀)といへるもの一梃(いっちょう)に火打道具を以て山へ入り、三年許(ばか)りも過(すぐ)る迄(まで)何処(どこ)に行(ゆき)しや誰しる者もなし。最早(もはや)黄泉(よみ)の鬼とも成(なり)しやと思ふ頃に出来(いできた)りしが、其(その)タシロも薄く磨(すり)へらし、鹿の皮と木の皮とてもとぢ(閉ぢ)合せて是(これ)を着し帰りしまま、同郷の者等(ものら)何故に是迄(これまで)帰り来らざりしやと尋(たずね)しかば、答ふるに、親や兄弟伯父叔父等が逃(にげ)番人や支配人の責(せめ)を受(うけ)る事を見るに忍び得ざりしかば逃去(にげさ)りたり、山にだに居(お)りなば、唯(ただ)熊や鹿を友として有(あり)しかば決(けっし)て番人、支配人の不法を見るの患(うれい)なし、……」(P.767)という。

 その後、イキツカは、番人や支配人などに「すかしなだめ」られて、運上家に行くこととなったが、「又(また)不日(ふじつ *そのうちに)にして彼(かの)番人や支配人の所業は一日も見も聞(きき)も致し難しと、山刀一梃を携(たずさえ)て癸丑(みずのとうし)のとし(*1853年)又(また)山に入(はいり)しが、早(はや)六年成(なる)に未だ帰らざりし……」(P.767)といわれる。

 中には、【運上家の雇となるのを嫌い自死】する事例もある。

 石狩の川上のヘベツ―ここに住むヨシンは、「常に山猟を好み、石狩岳よりチクベツ、ヘベツ、ヒビ、トカチ、ユウバリの岳にまでを住家として、積雪の懸岸(*きりたった岸)を駆(か)る事は豪熊にも増(まさ)り、峯巒(ほうらん *みね)をわたり此方彼方と廻る事は鳥も如(ごとし)さるべき猟人にて、常に力業(ちからわざ)を好(このみ)、其(その)業(わざ)募りて時としては土人等をも剽(おびやか)し、又は上川元なる番人等の申付(もうしつけ)をも聞(きか)ずして、我はこの上川の惣大将なりと自ら號(ごう)してありけるに、其(その)辺(あた)りの土人等実に手あましけるまま、其(その)由を運上家にて聞(きき)、左(さ)もあらば定めて上にても難渋すべし、浜へ下げて雇(やとひ)に遣(つか)ふべしとて、番人(当時の重兵衛の親)といへるものを冬十一月初つ比(ころ)遣(つかわ)して浜へ下り候よし申聞(もうしきか)せしば、自ら其(その)雇に下るを深くも忌嫌(いみきら)ひて、常に携(たずさえ)る處(ところ)の矢毒をひそかに食して即座に死せしとかや。」(P.783784

 武四郎の文面には、「浜へ下げて雇(やとひ)に遣(つか)ふべし」が常套句のように使われている。これは、アイヌの山での労働・生産(狩猟)を全面否定するのが、運上家の場所経営であることを示しているのである。だから、「山に上る」に対して、「浜に下る」となるのである。

 だが、アイヌの抵抗は、「逃散」だけではない、権威あるリーダーのもとで、強力な団結がある場合は、支配人や番人によるアイヌの組織化を阻み、運上家のアイヌへの抑圧と収奪をはねかえすことができたのである。

 【請負人の強制労働を阻むアイヌ首長】北蝦夷のシララヲロ―ここに住むノテカリマは、カラフトの南海岸のシレトコ(岬)より、その奥オロッコ・タライカまでのアイヌ1000余人に権威をもち、その一令でアイヌたちは行動した。そのため、支配人や通詞たちも彼を説得できず、アイヌたちを運上家に動員できていない。したがって、「西海岸にても番人、支配人等に辛き目(つらキめ)見せられし土人等は、此者(このもの *ノテカリマのこと)をさして迯来(にげきた)り居(お)るもの多く有(あり)しに、其等(それら)を世話致しかくまい(匿い)置(おく)に、追(おい)かけ来る番人等も此者の家に居ると聞くよりは、一言の詞(ことば)もなく空しく帰る。依て大(おおい)に其(その)一事を支配人も憂(うれ)ひ、厳しくも土人等を苛責(かせき *責めさいなむ)もなさざりし由なるが、今度また〔武四郎らが〕渡海し彼地(かのち)へ廻り行(ゆき)て見るや、此(この)爺(じい *ノテカリマのこと)七、八年前に黄泉(よみ *あの世)の鬼となりし由。左(さ)あるや、其(その)東海岸にて、土人等足腰の立丈(たつだけ)は皆(みな)クシュンコタンえ引揚(ひきあげ *動員し)責遣(せめつか)ひ候様になり、少々美面なる女の子(めノこ)供(ども)は、人妻また娘の差別なく番人等の妾とし、其(それ)に附(つい)ては三十歳四十歳なるとも孤独(*男の独身)のものも多くあり、種々介抱(かいほう *お上が世話をする)の振合(ふりあい *バランス)も異なりありしが、其等(それら)のこと一々(いちいち)土人等に聞き試(こころみ)るに、其(それ)ぞノテカリマなるもの在世の節は、番人等不法に苛責せば、彼シララヲロへ迯行(にげゆき)居(お)り候間、無理に捕えに来ることもなし得ざりしが、今は何處(どこ)へ迯行(にげゆく)とも追来(おいきた)りて捕え帰る様になり、また東海岸の土人等も皆引上(ひきあげ)遣(つか)ふ様になり、如何斗(いかばかり)か存在の時よりは其(その)振り合い(*釣り合い)異(こと)にしてあるなり。実に其一人の義勇、東海岸一千人はおろか東西合(あわせ)て二千余人の如何斗りが為(ため)となりし事やらん。……」(P.755)のであった。

 

 〈和人のアイヌ家族への痛苦な仕打ち〉

 場所請負制は、アイヌたちを過酷な労働に追いやって、想像も出来ない程の給与・労働条件のもとで、厳しい抑圧と収奪を行っただけではない。その家族へも無惨な仕打ちをかけたのである。

 その第一は、山に取り残された年寄りたちや病者たちを飢餓状況に追いこんだのである。以下は、そのいくつかの事例である。

*西蝦夷地の石狩の川筋のイシヤン(深川市)という深山―ここに当年78~79歳のヤエコヱレという婆がいた。「左りの眼、一方は山へ入りて薪(たきぎ)樵(き)りける時に大なる枝の朽(くち)て落来(おちきた)り是(これ)に刺(ささ)りて盲(めしひ)したりとかや。腰も二重に屈(かが)まりて一歩といへども杖に助けられで行くことなりがたきよし」(P.737)となる。この年寄には、2人の娘がいるが、姉も妹もすでに結婚している(妹には5人の息子がいる)。だが、「此(この)ペラトルカ(*姉)といへるへ番人寅松といへる者恋したひ、さまざまの無理不法などを申懸(もうしかけ)て夫(おっと)シロサンを遠き漁場へ遣(つかわ)し、妻ペラトルカは己(おの)れが行(ゆく)べき漁場へ連行(つれゆ)き、終(つひ)に是(これ)をして夫妻の中を隔(へだ)てしかば、其(その)ペラトルカも詮方(せんかた)なく寅松に随(したが)ひ侍(はべ)り有(あり)けるが、シロサンも今は如何(いかん)ともなし難(かた)しと其(その)念をぞ絶ちたりしが、それよりも最早(もはや)五年とかになるよしなるに、其(その)妾を一度も故郷へ帰し遣(つかわ)さす(ず)といかや。又(また)其(その)妹なるシトルンカ夫婦のものも浜に下げて雇(やとひ)といへる事なさしめ置き、是も数十年間の間(あいだ)故郷へも帰さず、一度として老(としより)の見舞に遣(や)りもせず、況(いわん)や五人の子供等も、今は何(いず)れも年長して漁業の稼(かせぎ)、また木材等も出来(でき)侍るが、是(これ)をだにも祖母の郷(ふるさと)へ一度と支配人へ願ひ出(だし)候をいたく罵(ののし)り、稼業の出来ざる老婆等山に在(あ)るとも何ぞその見舞に行くことの何も有るべし、山に居(お)らば山にて自ら気儘(きまま)に一生を送りて死(くたばり)仕舞(しま)えかしと叱(しか)り訇(ののし)りければ、せんすべなく是等(これら)も心なく打過(うちすご)しけるが故に、其(その)婆も如何斗(いかんばかり)に恋しく思ひ候得(そうらえ)ともいたし方なく、家は腐朽し、年は愈々(いよいよ)老(おい)、身は衰え、今は一尾の魚とる事をもなり難(がた)く成り、又(また)アツシといへる蝦夷人の着るべき織物等を紡績することも眼(まなこ)疎(うと)くなりて致し兼(かね)候まま、彼方(あちら)此方(こちら)より一尾、二尾の魚を受け、往来の蝦夷人等が一撮(ひとつまみ)づつの煙草(たばこ)、一椀づつの米等を恵み投ずるに、漸々(ようよう)に活命し居(い)たりし……」(P.737738)という状態である。

  だが、このイシヤンもアイヌたちが浜に下げられ、今は2軒しか残らず、「其(その)二軒も一軒は七十余歳の婆一人、一軒は六十五、六歳の婆と十歳斗(ばかり)の娘の子のみにて暮(くら)しけるまま、其等(それら)といへども其日(そのひ)其日の暮しに困り居りけるまま、日々の恵みも自然と疎くなり、今は一日の存命も其(その)里に居(い)てはなり難くや思ひ初(そめ)けん、今年(安政四年)四月、初つ比(ころ)とやら家を捨て、唯一人(ただひとり *ヤエユヱレのこと)鍋一枚と鉞(まさかり)一梃を携(たずさ)へひそかに山に入りて、象貝母(ウハユリ *アイヌ名でドレップ。根を掘ってデンプンを製す)といへるものやまた延胡索(トマ *塊根をとって食料にする)といへるもの等を堀(ほり)、またはニヲ(*茎を生で食べる)、シャク(アイヌ名でイチャリボ。茎の皮をむいて生または油につけて食べる)等(など)云(いえ)るものの茎等を取りて生命を繋(つな)ぎ、それ等(ら)の枯果(かれはて)る時は己れらも共に死せんと思ひ窮(きわ)め、深山へ分け入り、彼(か)のウリウといへる方へ越(こし)て、此処(ここ)に大なる木の根もと朽て穴のありけるが聊(いささ)か膝を容(い)るるに宜(よろ)しくなり居(おり)たりし由にて、是を住家として」(P.738)生活をつづける。

 その後、番人に梅毒を移され病重くなったヤエレシカレという女性、それにヤエコヱレ婆と似た境遇のシルヱ婆の3人で生活するようになる。これに同情する武四郎や箱館奉行所のわずかの恵みがなされるが、これで問題が解決するわけではない。いずれ3人は、餓死するか病死するかのどちらかであろう。

*テシオ(天塩)川筋のシベツ(士別市)の字(あざ)ウツ―ここに72歳のヱヘトレンという婆がいた。「此(この)老婆はトシュイシュフといえる今年四十余歳の悴(せがれ)あるが、是(これ)を運上家元へ下げ彼(か)のテシオの渡し守を致(いた)させありけるが故、少しも故郷へ返し遣(つかわ)さず、依て如何(いかん)とも致し難く、二重に折れし腰にて日々山に入り草の根を堀(ほり)、また草の茎等を折来(おりきた)りて是を食し、家も今は腐朽せしまま其(その)辺(あた)りより笹等折り来りて是(これ)を屋根等へさし、其(それ)にて雨雪を凌(しの)ぎ漸々(ようよう)生(いき)のび、今年は悴(せがれ)も浜より帰り来るや、春にもなりなば便りあらんと、唯(ただ)悴(せがれ)の運上家にて返さず捕(とら)へ留置(とめおく)ことのみ朝な夕なに怒りて、今は川流(かわながれ)に身を投ぜんも安(やす)けれども、今一目(いまひとめ)倅に逢(あひ)て支配人や番人〔へ〕の怨(うらみ)を演(おこなひ)置度(おきたく)計(ばか)りと、うつつにも囈語(うわごと)にも是(これ)を言(いひ)居(おき)たりし……」(P.747)という。

 この婆の近くに住むチュヒリカという女性が、この婆に深く同情し、その倅になり代わって世話をする。彼女は、これまで結婚もしないで両親の世話をしていたのだが、その両親も既に亡くなり、一人でウツで生活していたのである。

 このウツより少々、上の方にユツコヒウカという所があり、そこにアチウテレという者(44歳)がいた。「此(この)アチウテレといへるもの五、六年前より足を病で腐れ爛(ただ)れ、今は腰の廻りまでも膿汁(うみじる)滴(したた)り、少しも稼業はおろか薪取(たきぎとり)水汲(みずくみ)までも人手を借りざれば出來(でき)ざりしが、其(その)妻を運上家より漁事の多忙(いそが)しき由(よし)申(もうし)て下げ日々に召遣(めしつか)ひ、その上(うえ)番人等に強(しい)て婬(いん *心を乱し惑わすこと)せられ、不法に其(その)番人の為(ため)に圍(かこ)はれ、今年にて四ケ年程(ほど)も山へ帰さざりしとぞ。依て愈々(いよいよ)此(この)病の重くなるに随って唯(ただ)饑(うゑ)る計りなりけるを、またチュヒリカいたわりて、其(その)浜に下り居りたる妻の心等を推察し、是(これ)をも家へ引取り、川のものとなく山のものとなく日々に取来(とりきた)りては煮焼(にやき)し、老婆と此(この)病者に分ち、今に養ひ居(お)るよし。」(P.747)といわれる。

 請負人たちは、ただ目先の利益にのみ専念し、アイヌ労働者の給与・労働条件はおろか、その家族とりわけ年寄・病者のことなど全く考慮もしないで、家族の解体を推し進めたのである。これでは、アイヌ民族総体が衰退するのは、必然の事である。

 

 〈未婚・既婚を問わず、アイヌ女性を強奪・陵辱〉

 その第二は、支配人・番人など和人は、既婚・未婚にかかわらず、不法にアイヌ女性を強奪・陵辱し、各地でアイヌ家族を崩壊させたことである。この事例は、あまりにもたくさんあるのですべてを紹介できないが、典型的なもののいくつかを以下にかかげる。

*東蝦夷地のシラヌカ(白糠)場所―シラヌカ場所は、第一次幕府直轄まではクスリ(釧路)場所とは別であったが、「……請負の一手となりしより何時となく同場所の如く相成(あいなり)候て、今は差別もなし。然(しか)は有れども、其(その)仕風(しふう *経営のやり方)クスリとは大に異にして、クスリ場所にては当時四十一人の番人三十六人までの土人の女の子を奸奪して妾となし、其(その)夫たるものはセンホウシ又はアツケシ場所等へ雇(やとひ)といへるもの等に遣(つかは)し置(おく)ことなるが、白糠にては左様(さよう)の事もなく、若(も)し一人にても左様の事あらば四十二軒、人口三百余人の者一度(いちど)に言合(いひあ)はせ、其(その)番人を折檻(せっかん *肉体を苦しめてこらすこと)致し候こと彼(かの)場所の風なるなり。依て其(その)治(おさま)り方至極(しごく)宜(よろ)しく、何事にて惣乙名、小使等の一命令に背(そむ)くもの(者)なし。」(P.786)である。

 クスリ場所の番人41人中36人が、アイヌ女性を妾にしている。それは番人の87・8%であり、驚くべき数字である。クスリ場所の番人たちのアイヌ女性への悪行は、当時、かなりの「評判」であったようで、武四郎は他の箇所でも次のように述べている。

 「……此(この)クスリ場所なるや、和人四十余人づつ毎(つね)に入り来(きた)り居(おり)て、何(いず)れも土人の妻妾等を強奪し、少女も破瓜の比(ころ)〔*16歳ごろ〕とも云(いふ)や奸婬し、其(その)振舞(ふるまい)東西に並びなき悪弊(あくへい)にして、少しも見目(みめ)うつくしき妻を持つや必ず和人等に強奪せられざるは無きが故に、〔アイヌのゲドウは〕其(それ)を計りてシワツリキンといえる躄(いざり *両足とも立たない障がい者のこと)の女の子を妻となしわりなく〔*親しく〕暮しけるよしなりけり。其故(それゆえ)由(よし)を聞(きく)に、我等如(ごと)きもの無質の妻を持てるや必ず和人に強奪せらるるは目の前の事なり、よってかくのごとき躄をもちしなり、かくの如きものだに持置(もちおき)なば当所の如き悪弊甚(はなはだ)しき處(ところ)にても奸婬密婦はせまじと答えし……」(P.800)というのである。

*西蝦夷地の石狩の川筋のイシヤン(深川市)―これは先述した梅毒に冒されたアイヌ女性のことである。イシヤンの附近の上カバタ(樺戸郡樺戸川)という所に、イリモというアイヌがいた。この「妻にヤエレシカレと云(いふ)もの当年二十九歳なるが、両三年前迄(まで)は美面よろしくして頗(すこぶ)る艶色(つやいろ)有りしとかや。依てある番人(ばんにん)其(その)者に無理なる恋を云ひ懸(か)けて、是(これ)をかなへずは夫イリモを辛(つら)き目(め)見せんと責叱(せめしか)りしまま、終(つい)に其(その)言に落(おち)て密(ひそか)に承知を致(いた)したりければ、纔(わずか)に一度か二度のことなるべしと思ひしに、左(さ)候(そうろう)哉(や)夫イリモをヲタルナイ(*小樽)といへる場所へ遣はして情(なさけ)なくも其(その)中を隔(へだ)て、己(おの)か(が)自由となし置(おき)しが、其(その)番人は数年黴毒(ばいどく)を患(わずら)ひて居(お)りし由。其(その)黴毒にめの子(*アイヌ女性)は染伝(*伝染)して聊(いささ)か病(やまひ)るを、番人は其(それ)よりして中(仲)うとく(疎ク)なりて通(かよ)ひもせず、一椀の米をも與(あた)へず、一服の薬をも遣(つか)はさず、終に見離し候まま、誰一人も其日(そのひ)其日の喰(めし)を與ふるものなくして唯一人雇くら(雇蔵)といへるに其儘(そのまま)伏(ふ)さし置(おき)ありしが、一匕(ひとさじ)の飯も一口の菜も無(なか)りせば、今さら餓死するも心なくや思ひけん、此方(こちら)彼方(あちら)より生魚をもらひ来(きた)りて是(これ)を喰(くら)ひし居(おり)けるか、いよいよ日まし月ましに病重くなり、鼻落ち前部爛(ただ)れ、今は身体も余程(よほど)腐(くさ)れしかば、自身も人目(ひとめ)を恥(はじ)らひ山へ入らんと雇くらを立出(たちい)で……」(P.738)と放浪の旅に出る。

 その後、アイヌたちの親切で世話を受け、最後は先述のように婆2人とともに生活する。*石狩場所のトクヒラ(石狩川下流の池)―ここに運上家に雇われたエカシへシとイへシランの夫婦がいた。「夫婦中(仲)睦(むつ)まし(じ)く暮し居(おり)たりしが、其(その)妻至極(しごく)心(こころ)直(なお *真っすぐで曲がらないこと)にして能(よ)く漁業等も出精(せいをだ)しけるまま、是(これ)にやほだ(絆)されけん番人は深く之(これ)に恋着(れんちゃく *恋い慕うこと)し、非道の恋を申懸(もうしか)け、其(それ)にても聞入(ききい)れざるが故に夫(おっと)エカシへシを遠き漁場へ遣(つかは)し、其(そ)の留守(るす)に強淫(ごういん)致したるに、其(それ)が馴染(なじみ)と成(なり)て五、六度計(ばかり)も通ひ、今は其(その)噂(うわ)さ浜にて人知り、めの子イエシランは誰が密通致し居(おり)と云(いひ)はやせし由。然(しか)るに此(この)めの子イヘシランの子を宿し居(おり)たるに、此(この)番人若(もし)其(その)子は我が子と云(いひ)なされば恥辱(ちじょく)と思ひ、水臘樹(えぼた)と蕃椒(*唐辛子)を煎(せん)じて是に呑(のま)せし〔*堕胎させようということ〕が、不日して其(その)妻(つま)病に着(つき)て死したりとか。然る處(ところ)へ夫(おっと)帰り来り其(その)始末を聞取(ききとり)て、今はかかる場所に生延(いきのび)て何の甲斐もなしと死を極(きわ)めし振合なりしかば、其(その)親類の者等若(も)し刃(は)ものにても手近に置(おか)なば過(あやま)つ事もあらんと、聊(いささ)かの刃ものまでも取上(とりあげ)置(おき)しかば、風(ふう)と夜る雇小屋(やとひこや)を迯出(にげだ)しトウフツといへる處まで上り、此處(ここ)の川口なる大なる樹に縄を打懸(うちかけ)てかひがひしくも縊(くび)れ死したりとぞ。憐れなる次第なりける。……」(P.751

*西蝦夷地シャリ(斜里)―ここもまた、アイヌ人口が減少しているが、「……当所の土人は行年(ぎょうねん *この世に生存した年)十六、七歳にもなるや男女の差別もなくクナシリ又はリイシリ等へ遣(つかは)して稼(かせ)がせ、女の子供は番人、稼人(かせぎにん)等の妾となし、其(その)夫ある時は其(その)夫を他の漁所へ遣して婬し、…」(P.768)という。

其(その)女の子等が浅ましき振(ふり)を見て心に随(したがは)さ(ざ)る時は、縄かけ打ちたたき、又(また)数々(かずかず *多く)柱に括(くく)り付(つけ)等して食をも與(あた)へず、実に赤本に畫(えが)きある山椒大夫の山塞の悪業をなす。依て随ふなり。若(も)し悪瘡にても伝染する時は、彼(かの)雇蔵(やとひくら)に入れ捨置(すてお)き、若し妊孕(にんよう *妊娠)するや蕃椒(とうがらし)水臘樹等を煎じ呑(のま)せて是(これ)を堕胎(だたい)させ候まま、腹中損じて再び懐妊(かいにん)する事なく、依て此(この)島へ遣(や)らるるや彼等言(いひ)伝ふるには、アヲタコタン(地獄)に行(いき)しと同じことなり、病気にてもあらば三、五年、六年にても返され来(きた)り候へども、無病にては稼(かせぎ)だせば年三十歳迄(まで)も四十歳迄も彼地(かのち)に遣(つか)ひ、女は番人の妾となされて、生涯嫁(とつが)せず、婚せずして病に着(つく)迄は役(えき)せられ、二度と親の顔見ることも叶(かな)はず、親も子の貌(かお)をみること叶ず、唯(ただ)病人何人との届書(とどけがき)の一人(ひとり)にかける斗(ばかり)なるか、……」(P.769)なのであった。

*石狩の上川―ヲテコマは妻と娘の3人で暮らしていた。当時より17~18年前、「其(その)妻のいまだ三十歳の時、浜へ雇に下り居りしかば、妻を番人より強奪せられ、其儀(そのぎ)を番人に懸合(かけあい *談判)し處(ところ)、右の番人我非(わがひ)を是に言(いひ)なして〔*自分の非を是と言い張り〕支配人へヲテコマを種々と悪口なし辛き目(つらキめ)見せし儘(まま)、其(その)妻怒りて番人の方を迯出(にげだ)し、家へ帰るや又(また)引(ひか)れ来(きたり)等して、兎角(とかく)其(その)間(あいだ)宜(よろ)しからざりしが、其(その)番人思(おもふ)には、此(この)ヲテコマだに打殺(うちころ)しなば妻も家へ帰る念は絶(た)へけんと其(その)奸姦(かんかん *悪だくみ)を廻(めぐ)らしけるを、其(その)妻いかにも不審(ふしん)に心附(こころづ)き、一々(いちいち)ヲテコマへ告知(つげし)らし、此處(ここ)に居りなば主(ぬし)の身(み)危(あぶな)かるべし、左候(さそうろう)ても共に逃帰(にげかえ)る事も難(かた)かるべし、我は跡(あと *後)より追行(おいゆく)候間(そうろうあいだ)主は先へ何處(どこ)辺(あた)りへ逃行(にげゆき)給(たま)へと密(ひそか)に言(いひ)かはし、ヲテコマを先へ逃し遣(や)り、跡より逃行かんとせし處(ところ)、其(その)番人にふと見咎(みとがめ)られて終(つい)に逃去る事を得ずあるに、さては夫ヲテコマへ言訳(いいわけ)立難(たちがた)しと数度逃出せしを、此(この)番人大(おおい)に怒り、此度(このたび)は此(この)妻を太き縄もて戒(いまし)め打叩(うちたたき)などして其(その)身体(からだ)も余程(よほど)疵(きず)を受(うけ)させられしが、ふと此(この)疵が病の根となりて病床に就(つ)きて死したりとかや。其(その)節(せつ)娘チキランケは其(その)傍(かたわら)に有(あり)て看病致しけるが、種々の怨言(うらみごと)を残して、我死なば此(この)番人、支配人を取殺(とりころ)さんと言(いふ)まま石狩川の露とぞ消失(きえうしない)けるが、此(この)怨魂の怖(おそ)ろしきには番人も支配人も三年を待たずして死したりとかや。」(P.773

 ヲテコマは、遠くウス、アブタの方まで逃げたが、その支配人の追手によって故郷ウエンベツへ連れ帰される。「其(その)娘チキランケは浜に置(おき)て雇をさせ、其比(そのころ)此處(ここ)の支配人を勤(つとめ)る者(もの)自ら妾となして其(その)年も山へ帰しもせでや置(おき)しが、ヲテコマ其の仕打(しうち)を大に怒りて、我六十余歳となりてかく身も衰へ漁猟も出来(でき)〔ざる〕候時と成(なり)しが、一人の娘をも浜へ下げ家へ帰し得ざる事、いかにも恨(うらみ)に堪兼(たへかね)、かかる場所内に居(い)て又(また)此上(このうえ)いかなる目に逢(あひ)もしれじとて又(また)故郷を立退(たちの)き、テシオ(*天塩)の川筋なるナヨロといへる所へ行き、彼の地にて小屋を作り、是(これ)にて年月を送り居る……」(P.774)こととなる。

 しかし、その後、「今は其(その)支配人チキランケのとしがさ成(なり)しに飽きて、又(また)イヌリシャムといへる女の子と、カリンといへると、コレイハンといへる若き女の子と三人を持てあり」などを風の便りに聞いたヲテコマは、「益(ますます)其(その)所望の悪しき事を悪(にく)み、最早(もはや)かかる處(ところ)に生活して甲斐なしとウエンツの川へ身を投て死せんとせしを、一人の養子等が見当たり、漸々の事にて止め、先(まず)しばしと慰(なぐさめ)置(おき)し……」(P.774)となる。

  妻と娘、親子二代にわたり支配人や番人に強奪され、妻はそれがもとで死に、娘は年をとったからと棄てられる―ヲテコマの怒りは、言葉にはとても尽くせないものがある。被抑圧民族の怒りが、何年経過しようとも消し去ることができないのは、まさにこの怨念にある。

*東蝦夷地のアブタ(虻田)場所―ここにショモキレという名のアイヌがいた。妻の名は分からないが、「此(この)妻に或(ある)番人が恋初(そめ)て幾度となく口説(くど)きたれ共、此(この)女の子少しもうけ(受け)かは(変)ざりしかば、其(その)ショモキレを西場所アツタといへる所へ鯡(にしん)漁の頃とかや出稼(でかせぎ)に遣(つかは)し置(おき)て、其(その)跡にて彼(かの)家へ忍び入り、強(しい)て媱(婬)しけるとかや。左(さ)れば此(この)妻は夫の留守の間にかく和人に辱(はずか)しめを受けし事を憂(うれ)ひ、終(つい)に病の床に臥(ふ)して身(み)はかなくなり〔*死んでしまった〕が、其事(そのこと)を妻ひそかにはらから(同胞)に言(いひ)きかせ置(おき)しかば、彼(か)の夫ショモキレなるものも漁業仕事終り帰り来(きた)り、妻の死せし事ただならずと怒りて、其(その)後(の)ちは運上家てふよりくさぐさの事申聞(もうしきか)し候とも〔*いろいろ説得したが〕用ひずして、何か心根ありげに二月、三月をも過(すご)しや。其(その)間に誰(だれ)云(い)ふとなく其(その)妻の死したる一条アブタ場所はいふも更(さら)なり、其(その)近(ちかき)場所の蝦夷人等も皆(みな)聞き伝へ、一揆となんいへるさわ(騒)がしき事共(ことども)なさんと言合(いひあわ)せし時、其(その)番人や支配人も漸(ようやく)と其(その)ころに成(なり)て心付(こころづ)き、若し騒動にても起りなば松前に聞(きこ)へよろしからずと、酋長カムイサムを呼び、其方(そのほう)ひそかによく取斗(とりはか)らひ、ショモキレには又(また)後妻をもたせて彼(かの)心を慰めなば宜(よろ)しかるべしと頼みけるが故に、誰(だ)れかれ(彼)よと女の子(めノこ)供(ども)を探し求(もとめ)れども、程(ほど)よきものもなかりしば、是(これ)よりフツチウといへる最早(もはや)四十余の女の子の少し病(やまい)ありて常にさしたる稼(かせぎ)も出来(でき)難(がた)きを貰(もら)ふに、否や彼者(かのもの)に、此(この)ショモキレかく近き辺(あた)りの夷人等をそそのかし騒がしき事ども出せし等と其の事遺恨(いこん)に取て様々悪く仕向(しむ)け難儀(なんぎ)をかけしが、此(この)ショモキレは頗(すこぶ)る豪勇のしれもの(*暴れ者)なりしかば、少しも其(その)仕向けのあしき事ともせで(*しないで)驚かず、其(その)フツチウは其頃(そのころ)懐妊になり身重きに、いたく漁事に役し、其(その)業少し手ゆるき(緩き)時は大なる木もて鞭打(むちう)ちなどして責遣(せめつかい)しかば、如何にも身重く其(その)業に堪えかねて、ウスといへる處(ところ)へ行く道の傍(そば)に大なる木のありけるに縄打ちかけ、己(おの)が心くるしき事を娘のいまだ十歳にも満(みた)ざるに言聞(いひき)かせてくびれ(縊れ)死しけるとかや。……」(P.780)となる。

 ここでは、ショモキレの最初の妻が和人の「辱しめ」を受けてついに病で死ぬと、番人の蛮行に対して、アブタはおろか近くの場所も一緒になって、アイヌの一揆にもなろうかとの情勢となった。支配人などはこれに気付いて、アイヌの首長を使って抑え込んだが、アイヌが団結し、場所の支配人や番人に抗議しようというのは数少ない例のようである。これについては、ショモキレがそそのかしたという悪口もあったが、彼はそれを問題ともしなかった。しかし、ショモキレの後妻もまた番人かと思われるが、責め遣われ、鞭打たれ、ついには自死にいたる。ショモキレの支配人や番人への怒りはいつまでも消えなかったであろう。

*東蝦夷地サル(沙流)場所―この場所は、「サルフツ、アツヘツ、フクモミ、ケリマフ、カハリ等といへる川あり。依て此(この)川筋村居多きが故に、人家凡(およそ)三百余軒、人口千三百余人になりたり。故に此(こ)の地(ち)請負の者、当所人数をアツケシ(厚岸)、石狩、アツタ(厚田)、ヲタルナイ(小樽内)等へ遣(つかは)し出稼(でかせぎ)をぞ致(いた)させ召使(めしつか)ひけるに、其(その)使ひ方、実に彼地(かのち)へ行(ゆき)候や、一年にて戻り候事やらんまた二年三年も置(おか)るややらんも斗(はか)り難(がた)く、家に残し置(お)かる妻等に其(その)留守を伺(うかが)ひ番人、稼方(かせぎかた)等のもの行(ゆき)、強婬致し、行行(ゆくゆく)は妾等になし、左候(さそうろう)時は其(その)夫を三年、五年となく出稼場所に置(おい)て故郷へは帰し遣(つかは)さず、また女の子(めノこ)ども行(ゆき)候時は、理非の辨(わかち)もなき稼方、番人等の為(ため)に強婬せられ、または□□□等なさるる事これ有り、それが為に産(うま)れ附(つ)かざる不具〔*障がい者をさす。当時の社会一般では当たり前のように差別語が使用されている〕となり、また船方、漁師等の為に病毒を伝染して終(つい)に療養とも得ざるはかなくなるもの多きが故に、実に出稼と口に言はば六親(ろくしん *父・母・兄・弟・妻・子の称。他の説もある)眷属(けんぞく *一族)泣悲(なきかな)しみて生涯の別れの様に覚え、彼地へ行哉(ゆくや)昼夜の差別なく饑(うえ)はらにて追役せらるるが故に、帰り来(こ)らざるまでは実に家にあるものは出稼の者を案じ、出稼の者は家に残し置(おく)夫妻または親子を案(あんじ)て居(おり)ける事なりけるに、其事(そのこと)は三歳の児(こ)たりとも恐れざるは無(なし)に、……」(P.785786)という状態である。

 運上家―支配人―番人などの和人の非道強欲なアイヌの使役、アイヌ女性の強奪・陵辱などは、アイヌ人口を日常的にかつ確実に減少させていったのである。

 

《補論 運上家の漁業経営とアイヌの労働》

 場所請負制の下での場所請負人の漁業経営は、各場所に置かれた運上家が中心となる。「運上家は場所の支配と経営を管掌する事務所と、支配人以下、番人とよばれる常雇い等が寝泊りする宿舎を兼ねた大きな建物であり、周囲に作業場と多数の板蔵・収納庫等を備えている。番屋は運上家から離れた場所内の数カ所に配置され、運上家の機能を分掌し、直営漁場の運営を担当している。通行家は公的輸送(役人の送迎と公用荷物・書状の継送り)を担当する機関」(長谷川伸三著「幕末西蝦夷地における場所経営の特質」―北海道・東北史研究会編『場所請負制とアイヌ』1998年 に所収 P.70)である。

 運上家の労働力構成をみると、次のようになる。運上家の常雇いは、支配人、通辞(通訳)、番家守(番屋の管理人)、番人稼ぎ方である。季節的に一定期間雇いれる者としては、漁師や大工などがおり、彼らは雇い人とか手間取といわれる。彼らは特別な技術を持ち、毎年、ほぼ同じ人が雇われていたようである。手間取(てまとり)は、出来高払いの給与を受けていた。

 運上家は、これらの番人や雇い人の他に、常時、多くの労働力を必要とした。特に、鰊漁・鮭漁やその加工の最盛期、弁財船(蝦夷地では北前船をこう呼ぶ)の入航時、家屋や蔵などの普請時などである。この際の労働力として、二八取漁民やアイヌが雇われた。二八取漁民は、「手伝(てつだい)」と呼ばれ、場所内の浜単位で十数名または数十名の規模で動員される。「この二八取漁民は、一方では二八役を運上家に徴収され、その他の公的賦課も運上家を通じて納入する義務を負っているだけに、この『手伝』労働は自由な労働力の売買というよりも、なかば夫役(ぶやく)的性格をもつものと考えられる。運上家の立場からすれば、二八取漁民の定住は、直接経営の労働力確保のためにも大いに役立った」(同前、P.71)と言われる。

 請負人に組織されたアイヌは、運上家の近所に集住させられており、日常生活は運上家の監督下に営まれていた。このアイヌの労働は、次のようななっている。

 「慶応二年の場合……、まず正月は運上家の年始廻りの付添(つきそい)や雪切(除雪)に従事し、ついで山仕事(薪取〔たきぎとり〕や木皮はぎ)と漁具製造に従事している。二月鰊漁が始まると鰊(にしん)つぶし・鰊さき・身欠(みがき)ぬき等の加工作業に追いまくられて五月に至る。この間にも四月までは山仕事(木皮はぎ・筋木取等〔*漁具の材料となる〕)や小船での材木積取が行なわれている。五~七月の夏期には、鮑(あわび)突きや昆布取のような漁業の他、小船による石・土の廻送、同じく材木・薪の積取、山仕事(柴刈・ふき取等)が行なわれている。八~十月の秋期には、鮭漁の手伝いや鮭の加工・収納、土の運搬(背負)、薪割、山仕事(茅刈、薪取)等が行なわれている。十一、十二月の冬期には、男子は薪割・薪積と山に入っての薪取・薪出に従事している。女子は運上家周辺の雑用や役人宅への届け物の運搬に従事している。要するにアイヌの労働は、年間を通じて比較的単純な作業で、運上家の経営からみれば補助的な仕事に向けられている。しかし、アイヌ人に与えられた休暇は、新年・オムシャ(年二回)・祭礼等の他、正月と十二月に各七、八日にすぎず、とくに春期の鰊漁の三カ月余りは、鰊の加工作業に追いまくられている。一方、小船による薪・材木の積取や薪取・木皮はぎ等の山仕事は、アイヌ人だけで仕事場に泊りがけで出向き、和人の番人は一、二が付添うかときたま見廻りに行くだけで、アイヌ人たちはかなり自主的に作業を進めていたようである。」(同前、P.74)とされる。

 だが、たとえ7~8日の休暇が与えられたとしても、遠くへ出稼ぎに遣わされていたアイヌにとっては、実家に帰って年寄をいたわることさえも出来なかったのである。

 

(3)アイヌ人口の急減

 アイヌの人口が急速に減少する最大の原因は、天然痘など流行病にある―とよくいわれる。

 幕府役人として、1792(寛政4)年、宗谷まで赴いた串原正峯が翌年2月までに記した『夷諺俗話』によると、天然痘が蝦夷地を初めて襲ったのは、1779(安永8)年と言われる。

 「是(これ)は、蝦夷地には疱瘡(ほうそう *天然痘のこと)の病はなかちし所、今年寛政四子(ね)より十四年以前亥年(*1779年をさす)秋、始(はじめ)てマシケ(*増毛)といふ所迠(ところまで)夷人残り少なに煩(わずら)ひ、病死せしもの多かりしよし。その内(うち)西蝦夷地イシカリの先ルルモッペ(*留萌)といふ所は、前後に挟(はさ)まりて一在所(*一つの田舎)煩はざりし由。其節(そのせつ)支配人は長三郎当時は宗谷を相勤(あいつとめ)居(お)るなり。右(みぎ)長三郎ルルモッペに在(あり)しが、其(その)所の乙名コタンピルといふアイノ(アイノとは蝦夷人と云〔いふ〕事)長三郎に相談しけるは、いつ(づ)れ当村へも疱瘡入るへ(べ)し、これに依て当村の夷(えぞ *アイヌを指す)男女残らす(ず)山奥へ逃行(にげいかす)べしといふ故、長三郎答けるは、山へ引籠(ひきこも)るとも飯糧(はんりょう)等も此方(こちら)より手当(てあて)いたし介抱なる事なれは(ば)、先(まず)差扣(さしひか)へて然(しか)るべし。猶(なお)工夫をめく(ぐ)らし、又々(またまた)乙名を呼(よび)て申(もうし)けるは、世俗の諺(ことわざ)に網の目にも風防(ふせ)ぐと云(いふ)事あれば、境へ網を張りて疱瘡を入(いら)さ(ざ)る様にすべしといへば、尤(もっと)もなるいひ分なりといふ故に鯡(にしん)網を残らず出し、前後の場所境にこれを張(はり)、仕切(しき)り、大文字に無用のもの入(いる)へ(べ)からす(ず)といふ高札を建(たて)、番人を付置(つけおき)たり。夷共『イナヲ』(イナヲとは神を祭〔まつる〕木の削〔けずり〕かけ)を削り、境目へこれを立(たて)、右の如くいたし置きたるに、不思義(不思議)なるかな、其節ルルモッペの場所斗(ばか)り疱瘡を煩(わずらひ)たるもの壹人(一人)もなかりしといふ。……右(*疱瘡のこと)始(はじめ)て蝦夷地流行せしも、松前より百二十里トママイ(*苫前)迠(まで)の事なり。右同所より先は未(いまだ)煩たる者壹人もなし。尤(もっとも)治療を知らす(ず)、介抱等等閑(なおざり)なる故、子年(ねどし)流行の節(せつ)多く死失(うしなひ)せし由。歎(なげ)かわしき事なり。……」(『日本庶民生活史料集成』第四巻 P.490491

 だが、松浦武四郎著『近世蝦夷人物誌』では、その実態を示す記述は少ない。そのまとまった唯一の記述は、次のものである。

 「酋長ムニトク」の項の冒頭で、「西〔蝦夷地〕場所スツツなる脇乙名役ムネトク(通称ムニトク)といへるは当年四十七歳にして、妻はウエントソと云て是(これ)また四十四歳なるが、二人の間に娘姉妹ありて家内睦まじく暮せしに、此(この)春なるか天然痘(ほうそう)流行して、妻も之(これ)に関係(かかわ)りて死し、姉娘なるものも死し、其余(そのよ)当場所の土人等人家十九軒あり、人別六十人ありしが其(その)内(うち)四十一人死して(*68・3%が死亡)、今は家漸々(ようよう)四軒ならでなくなり、其の災害たる中に此(この)者(*ムニトクを指す)また此(この)病に罹(かか)るや、皆の者は山へ逃行(にげゆき)、またはシマコマキ(島小牧)の方には此(この)病(やまい)流行せざるや等云(いひ)て皆(みな)逃去る時から、実に是(これ)天命なるべしと唯一残り運上家の養(やしなひ)を受け居りしとかや。然るに此頃(このころ)鎮台村垣大君(*箱館奉行・村垣範正のこと)此(この)地にて越年あらせられし時なりしとかや。此(この)病に罹る土人のかくの如く助命なりがたきことをしろしめて深く是(これ)を憂ひ給(たま)ひしと聞(きく)。……大君にも此(この)病を煩(わずら)ふものは助命なきをますますいたわり給ひ、遥(はる)けくも大江戸より医者ども多く取(とり)よせられ、近来西洋より行はれ来(きた)る種痘の術を施(ほどこ)させ給ふ……」(P.745746)のであった。

 だが、アイヌ人口の急速な減少は、和人との接触による天然痘など流行病によるものだけではない。これまでいくつもの事例をみてきたように場所請負制の下での過酷な労働と和人によるアイヌ女性の強奪・陵辱と性奴隷化である。これにより、多くのアイヌ女性は妊娠したとしても、堕胎を強制された。これでは、アイヌ人口が減るわけである。

 アイヌは人口の減少、和人の出稼ぎ・移住などもあって、アイヌ労働力はおそろしい程に減少している。その極端の一例をあげると、高島場所である。

 長谷川伸三著「幕末西蝦夷地における場所経営の特質」によると、高島場所(小樽に近い)の場合をみると、1822(文政5)年―41戸・189人、1834(天保5)年―28戸・130人、1849(嘉永2)年―19戸・83人、1861(文久元)年―16戸・56人、1866(慶応2)年―11戸・44人と減少の一途をたどっている。

 長谷川論文によると、高島場所での慶応2(1866)年時のアイヌの戸数の内訳は、惣乙名1戸、惣小使1戸、脇小使1戸、土産取(みやげとり)4戸、「平土人」4戸となっており、役名のないアイヌの方が役アイヌよりも少ないという状況にまで陥っているのである。

 次の図表13は、榎森進著『アイヌの歴史』(P.369)に掲載されたものを引用したものである。これによると、アイヌ人口は1807(文化4)年を100・0とすると、1822(文政5)年が89・7、1854(安政元)年が67・8で、三分の一近くも減少している。

 同書のP.371には、各場所ごとのアイヌ人口の減少を明らかにした統計表が別にある(割愛した)が、それによると、1822(文政5)年と1854(安政元)年を比較すると、全体でマイナス25・5%であるが、その内実は東蝦夷地マイナス12・7%、西蝦夷地マイナス42・4%で、圧倒的に西蝦夷地の方が減少しているのである。その理由は、和人の出稼ぎが後者の方が多いため和人との接触が多く、疫病に斃れるアイヌが多かったこと、場所請負制によって後者の方が漁業一辺倒に相対的に傾き、アイヌがその犠牲になったことなどが推定される。

 〈図表13

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(4)第二次幕領期の同化政策

 蝦夷地の第二次幕府直轄が、1855(安政2)年2月に始まった。この月、江戸表から「蝦夷地取扱(とりあつかい)見込(みこみ)大綱」(「幕末外国関係文書」第9巻―150 P.321~)が来る。そこには、上知地所の引渡し時期、道路改修及び宿駅設置、拓殖奨励、漁場処分などとともに、アイヌに対する政策も述べられている。

 「蝦夷人風俗改良」については、「一、蝦夷人共夷服異言を相改(あいあらため)、ヱトロフ、クナシリ両嶋之(の)如く、追々(おいおい)御国地風俗ニ押移(おしうつ)らせ候様相諭(あいさとし)申すべき事」と、日本風俗に同化させようとの態度(和風化)である。

 「蝦夷人撫育」については、「一、蝦夷人共は、支配向扱(しはいむきあつかい)ニいたし、請負人江(え)貸遣(かしつかわ)し、賃銭役人方え請取(うけとり)、蝦夷人撫育方(かた)行届(ゆきとどき)候様仕法(しほう)相立(あいたて)申したく候事」としている。アイヌは全般的に奉行所が支配し、アイヌを請負人に貸してはやるが、その給与は役人が受け取りアイヌに渡すというように、不正のないようにする―というのである。

 場所を本来ならば「直捌(じきさばき)」としたいのだが、実務上、それができないので、請負人のこれまでのアイヌに対する虐待や不正な扱いを防止するために、給与を役人経由で渡そうというものである。これが堀や村垣らのギリギリの妥協策点であろう。しかし、これは、松浦武四郎の著作などでも明らかなように、単なる体裁であり、実際には場所請負人の不正はなんら改まっていない。

 同年7月、箱館奉行は、老中・阿部正弘へ次のような「アイヌ諭書案」を示し、伺(うかが)いを立てた。

 

   夷人諭書案

一 此度(このたび)、先年の通り、東西島々とも、

 公辺(*幕府)御直支配仰せ出でられ候ニ付(つ)いては、土地の者共(ものども)御 

 撫育方其外(そのほか)、都(すべ)て御役人より厚く御世話これ有り候間、有難(あり

 がた)く相心得(あいこころえ)申すべく候、尤(もっと)も漁業其外働方(はたらき

 かた)の儀は、是迄(これまで)の通り支配人番人の差図(さしず)を請(うけ)、精出

 (せいだ)し申すべき事、【*支配一般は奉行所が、各場所は従来通り請負人の支配】

一 蝦夷人共(ども)、銘々(めいめい)住居致し候場所限り縁組(えんぐみ)致し候仕来

 (しきたり)ニ候處(そうろうところ)、年頃不相当の者もこれ有り宜(よろ)しからず

 候間、以来外(ほかの)場所よりも勝手次第縁組致し、男女とも独身の者これ無き様、

 役蝦夷共(*役付きのアイヌたち)厚く世話致し、土地繁昌(はんじょう)ニ及び候様

 致すべく候事、【*外場所との縁組許可】

一 蝦夷人蓑笠(みのがさ)草鞋(わらじ)等用(もち)ひず候故、自ら病をも請け候

 間、以来運上家番屋より相求(あいもと)め、勝手次第相用(あいもちひ)候様致(い

 た)すべく候事、【*蓑笠草鞋の着用許可】

一 家作り等は、湿気を受けざるため、床(ゆか)を張り候儀苦しからず、其外(そのほ

 か)田畑等も精々(せいぜい)心懸(こころが)け、食物貯(たくわ)え候様致すべし、

 農具種物等は、願(ねがい)次第(しだい)相渡(あいわた)し申すべく、其外(その

 ほか)髪を結(ゆ)ひ、月代(さかやき)1)を剃り、湯ニ入り候類(たぐひ)、都(すべ)

 て御国地(*日本のこと)の風俗学び度(たき)ものハ、勝手次第御許しこれ有り候間、

 漸々(ようよう)心懸け申すべき事、【*床張りの家作り、田畑作業、髪結い・月代・入

 湯など日本風俗の許可】

一 御国の言葉をならひ候儀(そうろうぎ)勝手次第たるべし、幼年の者にも習はせ候様

 致すべく候事、【*和語の使用許可】

一 死人有るときハ、其(その)家を焼拂(やきはらひ)、他に移る風習ごとハ、場所不繁

 昌の基(もと)ニ付き、以来その仕来(しきた)りを改め、永住いたし候様心がけ申す

 べき事、【*一所に永住させる】

一 男女共(とも)髪を切り、耳かきを掛(か)け〔*耳環をかけ〕、女子ハ口の廻り手首

 等に入墨(いれずみ)をいたし候儀、強(しひ)て好ミ申さざる者ハ相止め申すべく候、

 此後(このご)出生の男女共、右の趣(おもむき)心得(こころえ)、都(すべ)て御国

 の風俗に習ひ、成人いたさせ候はば、往々(おうおう *おりおりの)仕合(しあはせ)

 相成(あいなる)べき事、【*髪を切り、耳輪をつけ、入墨をすることを禁止】

 右の條々(じょうじょう)役蝦夷共に能々(よくよく)会得(えとく)致させ、末々の

 もの迄(まで)洩(も)らさざる様申し諭(さと)すべき事、

 右の諭文(さとしぶみ)の外ニも、改革致すべき事件は役々(やくやく)相心得(あいこころえ)居り、前文伺書(*略)の趣ニ基(もとづ)き、其(その)時々教導致させ候様仕えるべく候、これに依て此段(このだん)伺い奉り候、以上 (『大日本古文書』―「幕末外国関係文書」第12巻―62 P.127129

 

 箱館奉行は、アイヌの風俗改良(和風化)について並々ならぬ決意をもち、「夷習夷俗を改め、蝦夷人漸々(ようよう)ニ内地の衣服言語を用ひ、外国人民と紛(まぎ)れざる様御所置(しょち)これ有るべきの儀(ぎ)当今の御急務と存じ奉り候」(同前、P.120)と、老中に伺いたてている。

 アイヌの和風化・同化政策は、そのことにより、アイヌを日本人と異なることにしないようにして(一見してアイヌ=日本人の容姿にして)、ロシアなど外国が蝦夷地に侵入しないようにする―これこそが最大の狙いである。まさに、同化政策の遂行は、「当今の御急務」である所以(ゆえん)なのである。

 この伺いに対して、老中は肯定し、その実施を指令する。すなわち、「都(すべ)て伺いの通り相心得らるべく候、尤も蝦夷人共風俗の儀、御国の髪容(かみかたち)ニ御成り居り候得(そうらえ)ば、魯西亜(ロシア)其外(そのほか)の争端(そうたん *争いの糸口)を防ぎ候一助とも相成り候間、右の廉(かど *箇条)は別して厚く世話いたし、速やかニ行届き候様取計(とりはか)らるべき事」(同前、P.129)と。

 和風化は、当時、「帰俗」と言われた。「帰俗」はもともと僧侶が俗人に戻ることを指した(「還俗」と同じ)が、幕府が蝦夷地で使った「帰俗」は、アイヌが日本に帰服してその風俗を改めて「日本人化」することを指した。

 具体的には、近藤重蔵らが第一次幕領時代にエトロフで、先駆的に行なっている。しかし、中途半端に終わっている。では、今回はどうか。

 松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』は、和人よりもアイヌの人々の利益を計ってきたオシャマンベの首長トンクルと和風化に関係し、次のように述べている。「当五月箱館御役所へ山越内よりアブタ、ウス、モロラン、ホロベツ、シラヲイ、ユウフツ、サル、ニイカップと八ケ所公料初めて(*第二次幕府直轄後、初めて)の御目見(おめみえ)に上(のぼ)せられるによっては、何故(なぜ)此者(このもの)を和風に出立(いでたた)せて我が功業を彼に誇らんと好むものありて、髪様を改め、名を徳衛門と號(ごう)せられしと聞(きき)しかば、我(*武四郎)も不思議に思ひ、彼者(かのもの)こそ中々左様に帰化するものにはなしと思ひ居(おり)たりしがと申居(もうしお)り、其(その)近き辺(あた)りまで来るや、山越内場所の乙名徳衛門も御目見より帰り来(きた)りて十日も過ごさずして怪しき病気に死したり……」(P.788)という。トルクルは、断食して抗議の自死をはかったのである。

 トンクルは、結局、和人の医者に騙(だま)されたのである。その医者は、「此度(このたび)酋長は帰化して髪様を改めずしては御目見に出る事なり難(かた)し」と言ったが、トンクルは「我は御目見には行(いか)ずともよろし、アイノの風を改めることは何ともいたし難し」と言う。そこで医者は翌日トンクルをオシャマンベ会所の玄関先に呼び出し、「左右より番人等大勢手とり足とりおさへ、鬚(ひげ *あごひげ)を剃り落し、髪をば結(ゆん)で、以来は和人風に成し徳衛門と改(あらため)候様申(もうし)」わたされる。しかし、翌日、他の首長たちは皆アイヌ風の出で立ちであり、箱館の御目見えも和風にしないでも出来ることを知る。

 この話では、和風化の推進者は、箱館奉行所の役人ではなかった。しかし、奉行所の和風化推進は激しかったようである。役人の間でも、「和風に出立せて我が功業を彼に誇らん」という競争は激烈であったといわれる。

 だが、アイヌの抵抗は激しかったようである。伝統的な習慣に対する、強制的な和風化に怒りを持たざるをえなかったのである。「東部クスリ場所第三等の乙名ムンケケは当年五十四歳、妻はイタンキシュイと云て其中(そのなか)に一人の悴(せがれ)あり。髪様を改めされ、富太郎と名號(なづけ)られたりけるが、ムンケケ、此度(このたび)クスリ場所の詰合(*場所詰めの役人)頻(しき)りと土人を捕へ、または米、煙草等を與(あた)えて髪様を改めんことをせられ、又(また)其(それ)にても承引(しょういん *承諾)せざるときは是(これ)を捕へて鬚剃り髪様を改め今日は誰と誰、明日は誰を召捕(めしと)りて月代(さかやき)剃らん等沙汰(さた)し候(そう)らはれしより、妻を置(おき)て迯去(にげさ)るものあり、子を捨て山に入るもあり、目も当(あて)られさ(ざ)る次第にしてあるが、其(その)迯(にげ)るを追懸(おいかけ)て行(ゆき)ては捕へ来(きた)りて、鬚(ひげ)おしそり(剃り)髪結(かみゆひ)等して、凡(およそ)五、六十人も、今日も明日もとせられし處(ところ)、今は五、六百人も住むべきクスリの会所に居残る者もなくなりしば、白糠のかたへは同心某、番人某とおし行(ゆき)、今日は何人を召連(めしつれ)帰りて剃りたり、センホウシの方へは足軽某、番人某(それ)がし行(ゆき)何人を捕へ、山手の方へは番人某、浜手の大将は支配人某等、出丸(でまる)搦手(からめて *裏門)それぞれに番人をさし置き、是を固めさせて、未だ髪様さへ改めざる者だに見ば、老少の差別なく召連(めしつれ)来り剃りける……」(P.803)という混乱状態となる。「他場所の便りを聞くに、アツケシも早(はや)大半に剃られ、ネモロは大概に召捕(めしとり)剃られし等少しも心の休まる暇(ひま)も無(なか)り……」(同前)といわれる。

 箱館奉行の和風化推進は、配下役人の激しい競争を引き起こし、クスリ会所では居残るアイヌも無くなるほど大規模に逃亡が起こっているというのである。これでは、仕事が各所で滞るのは当然のことである。逃亡したのは、男だけでなく、女も、年寄なども、逃げ回った。  

 この事態に、クスリ場所の乙名ムンケケは、文字通り決死の覚悟で、詰め合いの役人に抗議する。これには、役人もたじろぐ。「……ムンケケの義志に依て、千三百二十六人の人別の内(うち)四百八十三人迄(まで)髪様を改めさせられ、名は和人名と改めさせられしが届けにもなりてありしに、〔*武四郎らが〕今年の春クスリへ行(ゆき)て見たりしかば、纔(わずか)十三人ならで髪を結(ゆひ)しもの無く、皆(みな)元(もと)の断髪になりてありしもおかしくぞ覚えける。」(同前)と、武四郎は感想を述べるのであった。

 松浦武四郎は、箱館奉行の雇の身であり、奉行―幕府への忠誠心は強く、またロシア・イギリス・アメリカなどに対する対抗心から皇国意識も強くもつ人物である。しかし、武四郎は、強制的な和風化に根本から批判的であり、その著作『近世蝦夷人物誌』の最後は、和風化政策を巡ってのアイヌと役人との争論で飾っている。

 そのアイヌとは「義経伝説」にのっとって、その子孫と称する家系を誇り、今はサル場所の惣乙名を勤めるハツラ(ハフラ)である。「去る辰の年公料に成て(*第二次幕府直轄)、場所詰めの役人下り来りて、此度(このたび)の御所置(しょち)なるが故に髪様を改め候由(そうろうよし)当場所中の者は仰(おおせ)わたされ有しや、官よりの仰とて支配人、番人等(*彼らは官の下請けとなっている)も厳しく、一寸先は闇の夜の沙汰にてすすめしかば、此(この)ハツラなるもの少しも受かはず、詰合某の前に出て申上(もうしあげ)けるは、今年御公料に成りいまだ公料の有難きと云(いふ)はものかは、如何(いか)か(が)なり行き候や知れ申(もう)さざるに、風俗を改め候様仰せ付けられ之(これ)有り候得共(そうらえども)、風俗と申(もうし)候ものは中々(なかなか)容易に改むべきものならず、若(も)し公料になり六、七年も過ぎて公料に成り、是(これ)此度の御所置につきて有難きと申様なる事これ有(あら)はば、当所はおろか蝦夷地残らずを廻りて、何れの場所も皆(みな)髪様を改めて御覧(ごらん)に入れ奉(たてまつ)らん」(P.809810)と、言う。

 これには、詰合の役人も大いに驚き、次の日にハツラを呼び出し、「扨(さて)此の年比(としごろ)蝦夷の島根四方の海にアメリカ、イギリス、ヲロシヤ等いへるあなおそろし(怖ろし)の国々より大なる軍艦もて来(きた)り、あだなさんと慾(ほっ)するが故に、何にせよ我国流に髪を改めずんばよろしからず、左(さ)もなき時は我等も箱館の奉行といへるよりふかく禁(とど)めを受(うけ)る」(P.810)と、申し聞かせる。

 その時、ハツラは大いに怒って、次のように答える。「扨(さて)そのオロシア、イギリス、アメリカ等いへる国より多くの軍艦を持ち来りあだ(仇)なすが為(ため)に髪様を改めよとは実に聞えぬ仰(おおせ)ごとかな、よし頭は如何(いか)なる様をなしたりとも、心だに我が国の為と思ひて彼等が如何なる矢玉をもこととせず防ぎ戦(たたかは)なば、いかて(で)百戦百勝ともなるまじけれども、負(まけ)るといへることもあるまじ、よし頭は改め候ても、公の御所置柄(がら)をうらむ(恨む)様の事にて彼等の船が来りなば、先(まず)妻子にても引纏(ひきまと)めて山野にも隠れ候心得ならば、運上家は唯(ただ)一発の砲火にた(足)らず、また頭を改めたりとも斯(か)く無理非道わけもなく髪様まで改め候国の民となり居(おる)ことはいや(嫌)よと思ひなば、彼等に降参し、彼等の水先もなすものもあるまじとも云はれまじ、左(さ)ありなば先(まず)いや(嫌)といへる髪を改め給(たま)ふよりは、よく土人等立行(たちゆき)候様に御世話ありなば、其方(そのほう)がよろしかるべし。また我等の髪結(かみゆひ)を日本風にと仰せらるるこそあないぶかし(訝し)、我等元よりして日本の国民と思ひ居(お)るを、今になりてより急に日本風になれとは実におかしくぞ覚えけるなり、左ありなば、今迠(いままで)は日本の国民になき事なれば、さして異国人等に服従なすとも敢(あえ)て国禁等と云ひ給ふこともあるまじ、此(この)むかし江戸の御領となりし時も(*第一次幕府直轄時)赤狄(*ロシアのこと)てふ〔*という〕舟来りて多くの宝もの、米、酒、着物等を與(あた)えて撫(なづ)けたれども、其時(そのとき)もやはり此(この)頭にて有りしが、一人として赤狄に服従するものなかりしなり。それ元よりして我等は日本の国民と思ひ居るが故のことなり、又(また)其時の御役人達も皆日本の国民と少しも異なるなきことと思(おもひ)しなり、其(それ)に又(また)此度(このたび)我等に髪様を改めさせずんば函館よりの沙汰よろしからずとの仰(おおせ)は実におかしくぞ覚ゆるなり、左ありせば、我等の頭を改めさせ、それを其許(そこもと)様達は勲功として出世または纔(わずか)の御手当にても貰(もら)ひ給(たま)はんとの心組(こころぐみ)なるか、あないやしき(卑しき)さむしき(寂しい)心ばせなり……」(同前)と反論する。

 これには、詰め役人も閉口して、免除の願いを函館に願い出、ここでは許されることとなる。

 このハツラの主張には、武四郎の脚色がおそらくは加味されていると思われる。というのは、従来、国家をもたないアイヌが、ここに述べたような明確な国家意識を持っていたとは思えないからである。しかし、和風化政策に賛成でないという気持ちは、アイヌたちの本音として、偽らざるものであった―と思われる。

 確かに、アイヌでも「進んで」和風化に応じ、髪形を変え、和風の名前に改めたものもいた。それは、とりわけ役付アイヌに多くみられた。だが、多くのアイヌたちの不満と不服従は、否定できないものであった。

 そこで箱館奉行は、一年もたたない1856(安政3)年12月、配下役人に次のような布令を出した。

                     東西場所詰調役(ととのえやく)え

東西地に於(おい)て土人風俗相改(あいあらた)め候儀、一同厚く丹精いたし、教導に及び候故、追々帰化致し、一段の事に候得共(そうらえども)、従来の仕来(しきたり)相改め候儀、一朝一夕には行届き難く候。強(しひ)て申し勧(すす)め候得ば、止むを得ず、形のみ相改め、内心不服のもの等これ有り候ては、却(かえっ)て御趣意にも相背(あいそむ)き候間、自然彼方(かなた)より相望み、御国風俗をしたひ(慕い)候様仕向(しむけ)、且(かつ)寒地の儀、髪鬚(かみひげ)を剃り候にも及ばず、惣髪(そうはつ)に致し、散髪(さんぱつ)結上(ゆひあげ)させ、衣服、言語等追々(おいおい)相改めさせ候ても然(しか)るべく、篤(とく)と土人情実勘弁(かんべん *よく考えること)の上、取計(とりはから)い致させべく候。

右の趣(おもむき)下役元〆(元締め)以下えも、寄々(よりより *折々)申渡さるべき事。

 

 アイヌの抵抗により、一部を除き、今回も和風化政策は実現しえていない。それは明治維新後の、苛烈な同化政策によってようやく実現されていくのであった。

 

1)月代(さかやき)とは、男子が額から頭の中央部にかけて、髪を剃り落すこと。またはその部分を指す。応仁の乱以後、武士が常に兜(かぶと)をかぶったので、のぼせるを防ぐために起こった風習という。江戸時代には、広く庶民にまで広がった。

 

 おわりに

 

 近代の初期は、「先占の法理」をもって西洋の大国が他国を併合したり、国家をもたない先住民の地を支配・併合する動きが一段と強まる。地球支配をめぐる植民地主義の猛烈な競争である。

 遠く古代から版図拡大を推し進めてきた中国は、清朝時代に最大の版図をもったが、西洋列強の植民地化の攻撃を受け、この頃にはむしろ逆に守勢にまわり、半植民地にころげおちる状況につきすすんでいた。

 同じように西洋列強から植民地化ないしは従属化の攻撃をうけた日本は、当時、政治権力を握っていた徳川幕府が、蝦夷地とアイヌの支配をめぐってロシアとの攻防を展開した。その際に、幕府の蝦夷地の警備・経営のための思想は、古くから影響をうけた華夷思想とともに、西洋の植民地思想であり、「先占の法理」であった。

 明治維新で確立した天皇制国家は、維新の過程でも侵略の触手をアジアとりわけ朝鮮に伸ばしていたが、日本近代の侵略思想はすでに幕末に形成されていたのである。

 それは、幕末、蝦夷地で実践化された徳川幕府の華夷思想と西洋の植民地主義をミックスした侵略思想に基づくものである。1945年までつづく日本帝国主義の植民地主義は、世界に稀にみる極悪非道なものであったが、それは東洋と西洋の誤った思想の混合したものであったからである。そのことは、徳川幕府や松前藩のアイヌに対する酷(むご)い仕打ちの中に既に示されている。

 しかし、支配階級は、戦後もアイヌ民族への同化政策など一顧だにせず、まったく反省もしないで、単一民族論をふりかざしていた。それが、日本内外の批判によって、ようやくアイヌ民族を日本民族と異なる民族として、不十分ながら認めた法律「アイヌ文化振興法」(正式名は「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」)が成立したのは、1997年5月14日である(施行は同年7月1日)。その第一条は、「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する国民に対する知識の普及及び啓発を図るための施策を推進することにより、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重さる社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与することを目的」とする、としている。だが、そこでは、和人のアイヌ民族に対する歴史的な残虐非道な仕打ちや、現代における差別については全く触れていない。

 アイヌ民族に対する反省を単に歴史問題に止めるのではなく、先住民として「特別自治州」を獲得する権利を承認し、アイヌ民族の民族自決権を名のあるものにするのが、今日の日本人民の責務であろう。             (了)