広がる先住民族の闘いと深まる先住権思想⑯
  
  先住権抜きのアイヌ文化振興法
                           堀込 純一


(ⅴ)中曽根のアナクロ発言で収拾に大わらわ
 
 1985年版の『外交青書』は、「我が国のように一億余の人口を擁する国で、人種、言語、文化がかくも同質であり、宗教、風習が政治問題化することがかくも少なく、かつ、中流階級意識がかくも広くゆきわたっているということは世界に稀なことである。この単一民族国家と称される我が国の特質は、戦後四〇年、その復興と成長の過程において、総じて大きなプラスとして働いた」(『我が外交の近況』1985年 P.9)と述べている。
 外務省は、先住民の闘いが新たな地平を切り開きつつある世界の情勢も知ることなく、相も変わらずに「単一民族国家」論にふけっていた。
 しかし、現職の首相が恥ずかしげもなく同じ趣旨を発言した時には、さすがに国際的なスキャンダルに発展した。 
 1986年9月、中曽根康弘首相が、静岡県内で行なわれた自民党の全国研修会で、「アメリカには、黒人とかプエルトリコとかメキシカンとかそういうのが相当おって、平均的に見たら知識水準が日本よりまだ非常に低い」と発言した。
 だが、この発言がアメリカのメディアで取り上げられ、米国内で批判が噴き出した。これが伝えられると、中曽根は「アメリカは複合民族国家なので、教育などで手の届かないところもある。日本は単一民族国家だから、手が届きやすい」と釈明した。しかし、これは恥の上塗りでしかなかった。失言を釈明するために、さらに失言を重ねたからである。
 さらに中曽根は、一連の発言の中で、「私は日本におきましては、日本の国籍を持っているかたがたで、いわゆる差別を受けている少数民族はないだろうと思います。国連にもそのように報告していることは正しいと思っています。」と付言している。いかにも天皇制主義者らしい独りよがりの発言であり、事実を歪曲した認識である。
 だが、この発言は、帝国主義の植民地問題を取り上げ、世界の先住民の権利を正当にも拡大しようとする国際的な傾向に全くの無知の姿をさらけ出したものでしかなかった。さすがに外務省は、官邸とともに事態収拾に大わらわとならざるを得なかった。
 
(ⅵ)世界の先住民と
 交流しつつ、アイヌ先住権を訴求

 
 1986年11月、北海道ウタリ協会は、「国連人権センター」(在スイス・ジュネーブ。後に国連人権高等弁務官事務所)へ、“日本にはアイヌ民族が存在する”“その実態調査を国連に依頼する”という内容を「通報」した。
 1987年8月、アイヌ民族の代表が初めて代表団を国連WGIP(先住民作業部会)に送り、次の点を声明とした。アイヌ民族が日本の植民地支配を受け、現在も受けていることを前提に、①アイヌ民族は先住民族としての自決権を保持している、②民族として固有の文化的、宗教的、社会的権利をもつ、③「北海道旧土人保護法」に代わる新しい法律の制定を要求する―と。
 ここで、北海道ウタリ協会理事長・野村義一氏は、中曽根発言に抗議するとともに、アイヌ新法制定運動を国際社会に報告した。WGIPの主要な任務は、「先住民権利宣言」の起草作業であるが、この年以降、ウタリ協会はアイヌ民族の代表団を毎年ジュネーヴに送り、この仕事に貢献した。
 ウタリ協会はまたILO(国際労働機関)総会にも代表を送り、1989年6月のILO第76回総会では、「独立国における先住民族及び種族民に関する条約」(169号条約)の採択に積極的に参加した。
 1990年、国連総会は、1993年を「世界の先住民のための国際年」(「国際先住民年」)とすることを決定した。国際先住民年は、人権、開発、教育、保健衛生などの諸分野で先住民族が直面する諸問題に関し、国際協力を強化するために設定された。国連総会は、国連諸機関、専門諸機関、非政府諸機関が互いにこのために協力・貢献するように呼びかけた。
 1991年5月、北海道ウタリ協会は、国連人権小委員会の下のWGIPのダイス議長を日本に招き、東京や札幌でシンポジウムを開き、先住民族問題を宣伝した。翌92年3月には、北海道ウタリ協会は、「アイヌ新法の早期制定」をかかげて東京でデモ行進を行ない、次いで国会に請願を行なった。
 1993年は、いよいよ「国際先住民年」の年であり、各地でさまざまな集会や催しが開かれた。同年1月30日には帯広市で「第五回アイヌ民族祭」が開催され、ロシア連邦サハリン州のニヴフ民族や台湾の先住民族も参加した。同年8月19~22日には、平取町二風谷(にぶたに)で、「二風谷フォーラム93」が開かれ、アメリカ、カナダ、スウェーデン、フィリピン、南アフリカ共和国など13カ国、27の先住民族、のべ4000人余が参加し、アイヌ民族との交流が行なわれた。同年8月22日には、北海道ウタリ協会は室蘭市で、「アイヌ新法早期制定総決起集会」を行なうとともに、23日には、札幌市で、「国際先住民年・アイヌ新法早期制定総決起集会」を開催した。
 ついで同年9月17~23日には、マヤ系キチュ民族(グアテマラの先住民族)の人権活動家リゴルベタ・メンチュウ・トゥム女史(ノーベル平和賞受賞者)が「国際先住民年親善大使」として来日し、北海道各地でアイヌ民族と交流した。また、9月19日には、北海道ウタリ協会が明治学院大学で「アイヌ民族の新法制定を考える集い」を開催し、メンチュウ氏を招いて、ディスカッションを行なった。(榎森進著『アイヌ民族の歴史』草風館 2007年 P582~583)
 
(ⅶ)民族の存続をかけ二風谷ダム訴訟を闘い抜く
  
 二風谷ダム建設に反対する「たった二人の反乱」は、1988年8月から始まっている。二人とはアイヌの貝澤正氏(後に耕一氏が受け継ぐ)、萱野茂氏である。政府は1969年の第二次全国総合開発計画で、苫小牧東部大規模工業基地(以下、苫東と略)の開発を決定した。翌年に苫東基本計画が策定され、ここで使用される工業用水の供給先として沙流(サル)川に4つのダム(後に2つになり、その1つが二風谷ダム)が設定された。
 同時に、北海道開発局は「沙流川総合開発事業計画」を作り、そのための調査を始める。1886年12月には建設大臣はこの事業を認定し、その後北海道収用委員会は、関係の土地の買収を進める。多くの地権者(183名中アイヌは60名)は、農協などに借金があり、収用委員会の買収に応じざるを得なかった。しかし、前述の2人は、“なんら補償金の問題ではない”、アイヌ民族の存続の問題であるとして、ダム建設反対に立ち上がった。
 1989年の時点で、すでに苫東基地は壊滅的状況で、工業用水を使用する企業の進出は無かった。それにもかかわらず開発局は、さまざまな理屈をつけて「多目的ダム」として建設すると言い張った。だが、あくまでも2人は反対し、約10年後に判決がでるまで頑強に闘い抜く。
 
(ⅷ)先住権が欠落するアイヌ文化振興法
 

 社団法人北海道ウタリ協会は、1984年に、「北海道旧土人保護法」を廃止し、新たに「アイヌ民族に関する法律」を制定することを要求した。それがさらに発展し、1988年8月、北海道知事・北海道議会・北海道ウタリ協会の三者が、アイヌ新法の制定を国に要請するようになる。
 自民党政権はこれに極めて消極的であったが、1994年6月に自社さ政権が成立すると、ようやく新法の制定に取り組み始め、1995(平成7)年3月、村山政権は内閣官房長官(元旭川市長・五十嵐広三)の私的諮問機関として、「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」を設置した。そして、1997年5月8日、ようやく「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(一般には「アイヌ文化振興法」と称される)が衆議院で可決、成立した。
 同法は、全一三カ条の本則と六カ条の附則からなり、「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する国民に対する知識の普及及び啓発を図るための施策を推進することにより、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与することを目的」(第一条)とするものである。
 第七条では、同法でうたう施策を実施するための受け皿団体となる「指定法人」が設けられ、これにより、同年6月、「財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構」が設置された。また、附則で「北海道旧土人保護法」、「旭川市旧土人保護地処分法」が廃止され、「北海道旧土人保護法」第一〇条で規定していた、北海道知事の管轄下にある「北海道旧土人共有財産」の共有者への返還に関する規定などを記している。
 アイヌ民族がかねてから要望していた新法案は、アイヌ民族の議席を一定数、国会や市町村議会に設けること、アイヌ文化と言語を継承すること、伝統的な漁業や森林資源の利用管理権を確保すること、アイヌの経済的自立化のための基金を創設すること―など包括的な事項を求めていた。
 しかし、「アイヌ文化振興法」の内容は、肝心のアイヌ民族の先住権が欠落し、文化的な享有権が中心となっている。また、アイヌの経済生活を保障する施策には触れていなかった。アイヌ民族が求めていた内容とは、大きく異なるものであった。
 この直前の1997年3月、札幌地裁が、「二風谷ダム訴訟」判決で予想外の「事情判決」を下し、ダム建設は違法であるが、完成しているとの既成事実を前に取り消さないとした(「事情判決」とは理解しにくいものであるが、一例としてあげると、議員定数の判決でよくみられるもので、「違法ではあるが選挙は無効でない」―という類のもの)。しかし、同法はアイヌ民族を先住民族と認定し、その先住権を認めるものであった。それは、先住民族問題の核心点をついたものである。「アイヌ文化振興法」は、この二風谷訴訟判決をも、一顧だにしていなかったのである。
 
  (6)アイヌ共有財産に関する訴えを門前払い

 政府・司法などは、内外の民主的諸勢力に責め立てられ、形式的にはアイヌ民族の存在を認めるようになった。だが、内実としては先住民族問題の核心点である先住権を否定することによって、「先住民としてのアイヌ民族」の存在を否定し続けている。
 そのやり口には、さまざまな方法があるが、主なものの一つは、ブルジョア法の形式論理によって、先住民族の要求をはねつけることである。もう一つは、部分的には、先住民族の文化を維持・発展するといいながら、実際には、先住権や民族自治権など核心点の多くを拒否し、従前の態度を継続させる方法である。
 
(ⅰ)形式論理で訴えを棄却
 
 ブルジョア法の形式論理で、アイヌたちの要求をはねつけるやり口は、アイヌたちの「共有財産」の返還問題で典型的に示された。
 1997(平成9)年5月に制定された「アイヌ文化振興法」は、その附則第二条によって、「北海道旧土人保護法」、「旭川市旧土人保護地処分法」を廃止した。また、同法附則第三条は、かつて「北海道旧土人保護法」に基づき北海道長官(知事)が管理してきた「旧土人共有財産」をアイヌたちに返還することを規定していた。
 北海道知事が「平成九年九月に公告した返還される共有財産は、知事指定分一八件、指定外八件、総額一四六万八三三八円とされた。」(『北海道史事典』P.474)のであった。
 しかし、この「共有財産」の管理はかねてから疑惑を招いており、「北海道旧土人保護法」が成立する前は民間の和人が管理しており、そのずさんな管理は帝国議会で追及されていた代物である。それらの疑惑が解明されないままに北海道長官(戦後は北海道知事)が管理し、管理の内容が定期的にアイヌたちに報告されてきたわけではない。
 そのような代物を公告されたからと言って、俄に信じるわけにいかないのは当然である。①帳簿類など証拠書類とともに示すか、②それができないならば、その理由とともに謝罪をして、代替措置としての補償をするべきである(アイヌ・モシリの総体を略奪したこと、アイヌを劣等視し官が代わりに「共有財産」を管理したこと自身とともに謝罪すべきである)。
 だが、道知事はそれらさえしないで、あたかも悪事から一刻も早く逃れようとするかのように、「該当者は(公告の日から)一年以内に北海道知事に返還請求をしないと権利が無くなる」と、一方的な公告を出して機械的な処理を図ったのである。
 これに対して、アイヌ有志は札幌地裁に提訴した。アイヌたちが怒り、手前勝手な公告を批判し、訴訟に起ち上がることは当然のことである。
 原告側の主な主張は、①アイヌ民族の共有財産を管理する北海道知事(長官)は、最善を尽くして管理運用する義務を負うのであって、歴史的にみて管理はずさんであり、財産権を侵している(憲法第二九条一項に違反)こと、②(アイヌとの対等な協議もなしに)一方的な返還手続きを行なうことは、法的な適正手続きに反すること、③先住民族の権利を尊重する国際的潮流と憲法の人権保障に反すること―である。
 だが、被告の北海道知事(長官)は、ただただブルジョア法の形式論理で対抗し、過酷なアイヌ支配の歴史と、打ち続く差別と貧困の現状をなんら反省し謝罪することもなく、先住民族としてのアイヌの立場を一方的に否定し、切り捨てるだけであった。
 すなわち、原告には「訴えの利益」がない―と主張して、自己保身を図るだけであった。この論理は、「この後、一審を通じて一貫して被告側主張の柱となった理屈である。次のような内容だ。/――訴えが成立するには、行政権力の行使で生じた法的効果を無効として取り消すと、原告の法的利益が回復される関係があることが、前提である。その関係がないときには、訴えの利益を欠いて不適当な訴えとなる。本件では、原告らの返還請求通りの返還決定を行なったものであり、原告の権利または法律上の利益を侵害するものではなく、なんらの不利益を与えるものではない。その処分の無効確認または取り消しによって回復されるべき法律上の利益は存しない。したがって、これらの訴えは、『訴えの利益』がなく、すべて不適法であり、却下されるべきである。」(小笠原信之著『アイヌ近現代史読本』P.260)という論理である。
 「訴えの利益」はない―という主張は、ブルジョア法の「個人の権利」を大前提にした主張であり、アイヌの立場からする先住民アイヌの「集団的権利」は一顧だにされていない。すなわち、被告側は支配者の論理を被抑圧民族である先住民のアイヌに一方的に押し付けるだけであった。そこでは、依然として植民地主義者・帝国主義者の論理・法理・思想が継続されているのであった。
 
(ⅱ)国際法主体となったアイヌ民族
 
 札幌地裁の判決は、2002年3月にあった。それは、原告側の全面的な敗訴であった。しかし、2002年8月、第二審が札幌高裁で始まる。
 二審では専門家の意見陳述も行なわれたが、先住民族問題の観点から見て注視すべきは、札幌学院大学法学部の松本祥志教授の「アイヌ民族共有財産と先住権」である。
 その内容を大まかに紹介すると、次の三点が優れている。第一点は、アイヌ民族が先住民族であり、日本国家とは異なる国際法主体であることを、二風谷ダム訴訟の札幌地裁判決に続き、「アイヌ文化振興法」の国会採決の際の附帯決議(アイヌの人々の「先住性」は歴史的事実であるという趣旨)でも、日本国が明らかにした―という主張である。
 松本教授は、その根拠を、次のように示している。「……この附帯決議を国際法からみれば、日本国の国家機関が、アイヌ民族を先住民族として正式に再確認したものである。国際法においては、国内法体系における法的効力の有無または優劣に関わりなく、国家機関が表明した意思が、その国家の正式な意思とされるのであるから、国会決議という形式であっても、二風谷ダム事件札幌地裁判決に続き、日本国がアイヌ民族として正式に承認していることを再確認した行為であると解せざるをえない。」(「アイヌ民族共有財産裁判の記録」編集委員会編『百年のチャランケ』緑風出版 2009年 P.478)と。
 ここでいう国際法主体とは、「国際的な権利または義務を有し、かつそれを国際請求によって主張する能力をもつもの」である。そして、「国際請求を提起する権能とは、請求の立証、提出および解決のために国際法によって認められている慣習的な手段に訴える能力のことである。これらの手段には、抗議の表明、調査の要請、交渉および仲裁裁判または国際司法裁判所への付託要請がある……」(同前 P.479)とされる。これが、第二の点である。
 従来は「国際法主体」は国家だけであったが、第二次世界大戦後、ナチスのユダヤ人虐殺政策の反省から個人の人権を守る国際人権法を確立し、植民地からの独立を推進する人民を国際法主体とした。また、戦後の自由貿易の飛躍的発展は個人の国際的役割を拡大し、国際NGOの活躍などで、今日、人民や個人もまた国際法主体となり得るようになった―といわれる。
 かつては、個人や集団が国外の当事者とのトラブルもすべて自己が所属する国家の外交活動で処置してきた。だが今日では、国家以外の国際法主体が登場することにより、国家が内外において、一元的な主体として振舞うことができなくなってきたのである。このことは、当初のブルジョア的な近代国民国家論の変容を示し、未だ諸問題を抱えるとしても、マルクス主義理論の「国家死滅論」にとっては、好ましい傾向と思われる。
 アイヌ民族が、未だ不徹底とは言え、先住民族の先住性を認められたということは、日本国家の思惑とは違い、アイヌ民族を国際法主体とした。ということは、日本国とアイヌ民族とは対等の関係にあることを意味する。
 共有財産の返還請求資格を審査するために設置された審査委員会は5名で構成されたが、被告側は5名の内アイヌ民族関係者が2名いたことをもって、アイヌ民族の利益を考慮した証左として誇示したが、これはむしろ「アイヌ民族と道庁の関係」が対等でないことを示したものに過ぎない。厳しい表現をすれば、アリバイ証明のために2名を参加させたと酷評できるのである。それほどに国際法主体間の問題は、厳格な対等性が要求されるのである。松本氏によると、「ILO先住権条約を根源とする先住権に関する一般国際法が求める参加や協議は、先住民族関係者を審査委員会の構成員に何人か含めるかによって達成されるのではなく、いわばパートナーとして対等平等な立場で話し合うことを意味している。」(同前 P.487)のである。
 このことは第三の点と密接な関係をもつ。すなわち、第三の点は、国際法主体間において、国際的な義務の履行から逃れるために、国内法を援用されることが認められない―ということである。
 すなわち、「国際法にもとづく国際的権利を行使して国際請求を行っている個人や人民など他の国際法主体に対しては、いかなる国家機関も、……国内法制度の援用によって国際義務の履行を免れることはできない。国際法主体間においては、国際的な権利または義務の解釈ないし適用に関しては、国際法が適用される。その関係において、国内法が適用されうるのは、国際的な権利または義務と抵触しない限りにおいてであり、または訴訟当事者がそれに同意した時だけである。」(同前 P.489)とされる。
 そして松本氏は、結論的には「アイヌ民族が、先住権という国際的権利を行使して共有財産の処分手続きのやり直しを要求しているときに、『訴えの利益』に関する国内法制度のような、アイヌ民族とは異なる国際法主体である日本国の『内規』(=国内法制度)を一方的に押しつけることは、国際法上許されない。アイヌ民族が適用に同意した国内法制度ないし規則以外は、適用することが許されない。アイヌ民族との協議を回避して国際法上適正な解決をえることはできない。」(同前 P.217)とした。
 しかし、第二審の判決(2004年5月)は、「控訴棄却」であった。担当判事は、アイヌ民族の先住権を無視して、ブルジョア法の形式論理に追随したのであった。原告団は、同年8月、最高裁に上告するが、2006年3月、最高裁もこの上告を棄却した。
 日本の司法界は、完全に先住民族の権利を認める世界的な傾向から取り残されていたのである。そして、単に取り残されているだけでなく、アイヌ民族の先住民族としての日本社会の変革に通ずる先進的な闘いの阻害物となっているのである。(つづく)