広がる先住民族の闘いと深まる先住権思想⑮

 アイヌ民族復権への質的転換
                        堀込 純一


     (5)アイヌ民族の戦後の闘いと国際交流

(ⅰ)アイヌへの「給与地」を取り上げる戦後農地改革
   
 敗戦も間もない1946年2月、全道のアイヌ約2000人が日高の静内町に結集し、「北海道アイヌ協会」を設立した。それは、戦前の同名の協会(1930年に道庁社会課の主導で組織された)の流れを汲むものではあるが、今回は行政指導とは関係のない社団法人として作られ、以前は加わっていなかった旭川アイヌ(近文アイヌなど)も参加している。
 協会は、アイヌ教育の充実、福利厚生施設の共同化、農事改良・漁業の開発などを事業目的とした。当面の大きな運動目標としては、①「給与地」への農地改革の適用除外、②新冠(にいかっぷ)御料牧場と日高種馬牧場の返還―をかかげた。
 戦後農地改革は、寄生地主制と高率小作料から多くの小作農民を解放し、自作農を創設することで革新的であった。政府は1946(昭和21)年2月から改革に着手したが、GHQから「不徹底な改革」と批判され、同年10月、第二次改革として自作農創設特別措置法と第二次農地調整法を成立させた。これにより不在地主の貸付け農地(小作地)は全てを、在村地主の小作地は1町歩(北海道は4町歩)を超える分を、それぞれ政府が強制的に買上げ、小作人に優先的に売り渡すこととした。また、小作料はすべて金納として、全収穫の25%以内にすることが決定された。
 1947年5月、アイヌ協会は札幌で大会を開き、アイヌ「給与地」に対する「農地改革法」の適用を除外することを道農地委員会に要求することを決議した。また、協会代表は2回にわたり上京して、厚生省や農林省に適用除外を陳情している。そして、衆議院には請願書を、マッカーサー総司令官には嘆願書を提出している。(しかし、結局、この問題はGHQの拒絶で挫折する)
 ここには、アイヌ民族が追いやられた、以下のような事情があった。
(1)「北海道旧土人保護法」により、1933(昭和8)年までに3070戸へ面積8475町8反余を「給与」したが、その内、農耕不適地や山岳・沼沢が計3475町8反余あるため、実際の農地は5000町歩余で、平均1戸当たり1町5反余でしかなかった(その規模のバラツキは、5町歩から1反未満)。北海道で専業農家として経営を維持するには、一般的に農地5町歩が必要なのだが、それにはるかに及ばないものであり、生活は極めて困難であった。そこで、一時、土地を他に貸して生活費を補ったり、借金のために不利な条件で和人に賃貸したりした。そして、当人は出稼ぎにより、かろうじて糊口をしのいだ。
(2)こうしたアイヌの窮状を救うため、道庁は1924(大正13)年に各市町村に互助組合を設立し、土地を賃貸する場合には組合経由で行ない、「地主」のアイヌがいつでも自作できる事として土地を保護し、アイヌが安心して他の仕事を出来るようにした。
(3)道庁の働きかけ(内部対立があって、北海道農地部はアイヌ保護に反対であった)により、こうした「不在地主」の土地は1948(昭和23)年3月まで買収(政府による強制買上げ)の対象外とする了解を得て、他の仕事をしているアイヌを帰省させて自作させるようにしていた。それが急に47年6月から買収計画に入れられてしまった。この対象面積は約2000町歩で、アイヌに「給与」された農地の40%にも上る。和人地主のように、土地を買い集め、小作料だけで生活できるように土地を貸している寄生地主制ではなく、アイヌの場合は逆の立場にある。すなわち、借りている和人(小作人)が「豊かな生活」をしているのに、貸しているアイヌが貧しい現状にある。「農地改革法」では、このような貧しいアイヌが「豊かな和人」の土地を取り戻せなくなるという矛盾が生じ、これが実施されれば、アイヌはいっそう窮地に立つ。
(4)「北海道旧土人保護法」は「農地改革法」に対して特別法であり、前者が優先されるべきである。
(5)「北海道旧土人保護法」が存在する限り、アイヌは要保護民である。
(北海道ウタリ協会『アイヌ史』資料編3 P.859~931)
       
 一連のアイヌの懸命な活動に対し、北海道農地部は全面的に否定する態度であった。そして、1948(昭和23)年2月、農林省農政局長から北海道知事あてに、「一般農地と同様に取り扱え」との冷淡な通達が下され、再生アイヌ協会の努力を水泡に帰させた。
 この結果、1951年の統計によれば、この年までに買収されたアイヌへの「給与地」は、農地が約1970町歩、牧野が約516町歩にのぼり、買収対象となった者は1608名、面積にして34%となっている(『アイヌ民族の歴史』山川出版社 P.227)。
 このような理不尽な措置が行政の名で公然と行われたのであり、多くの和人もまたこれを黙認したのである。だが、アイヌと和人の小作人の要求を両方とも満たすような解決法はあったのであり、それは今でも可能である。
 農地改革の実施と前後して、「北海道旧土人保護法」も改定され、1946(昭和21)年9月に第三次改定がなされている。その主な内容は、第四条(職業一般への助成)、第五条(疾病者らの救療など)、第六条(死亡者の埋葬料給与など)の削除である。第四~六条の対象者には、今後、生活保護法などの一般の社会制度を適用するとされたのである。
 1947年3月には第四次改定が行なわれ、第二条ノ二「質権抵当権地上権又ハ永小作権ヲ設定スルコトヲ得ズ」が削除され、「給与地」の免税条項(第二条)も廃止された。これらの結果、「給与地」の譲渡制限と共有財産管理の条文を残し、他は全廃されることとなった。「北海道旧土人保護法」は、ますます形骸化されたものとなった。(第五次改定は、1968〔昭和43〕年6月)
 新冠牧場の返還運動には、アイヌ協会だけでなく、地元の新冠村、牧場の幹部職員、小作農家も立ち上がった。1946年8月には、静内・新冠両町村民大会が開催され、これにはアイヌ協会も参加している。運動の結果として、新冠御料牧場は一部(約4000町歩)が農林省に移管され「新冠種畜牧場」となり、解放された約1万8000町歩には、和人50戸、アイヌ22戸が入植できるようになった。アイヌたちにとっては、ささやかではあるが成果であった。
 
(ⅱ)沈滞から再生へ

 しかし、アイヌ解放運動にとっては、戦後農地改革による「給与地」取り上げに反対する闘いの挫折は大きかったようである。その後、アイヌ解放運動には、厳しい苦難の道が待ち受けていた。アイヌ協会の「機関誌『北の光』が創刊されたのは一九四八年であるが、機関誌は創刊号のみの発刊にとどまり、以後、一九五〇年代を通して、アイヌ協会の団体としての活動は確認できなくなる。」(『アイヌ民族の歴史』P.229)のであった。
 以下、主な活動事項や関連事項などを列挙する。
*1961年4月、「北海道アイヌ協会」は、「北海道ウタリ協会」とその名称を変更する。その背景には、戦後社会にあっても依然として、アイヌに対する差別が強く存在したからである。
*1968年、北海道では「風説百年輝く未来」をキャッチフレーズに、「北海道開拓百年」を顕彰する祝典と記念事業が行なわれた。北海道開拓記念館(後に北海道博物館と改称)や、札幌近郊に森林公園、道内各地にスポーツ・青少年研修施設などの建設ラッシュがつづく。9月2日に実施された式典には、天皇皇后、内閣総理大臣、国会議員、地方公共団体議員など4000人、一般参列者2万4000人、ほかに公開演技に出場した青少年など、計5万人が参加する国家的な式典が執り行なわれた。しかし、アイヌからの参加はわずか5名であり、それは「文化人等」の肩書であり、もちろん先住民族アイヌの代表ではなかった。それは、近代北海道開拓の裏面が、先住民族アイヌへの抑圧・支配であり、アイヌの犠牲の上に築かれたものであることをよく示したものであった。
*しかし、この頃からアイヌ解放運動は、質的な転換を進めるようになる。それは、ベトナム反戦運動や学生など若者の既成秩序への批判が、日本のみならず世界各地で澎湃と湧き上がるのと連動したものであった。アイヌ解放運動の質的転換の核心点は、戦前以来の「日本人の一員としてのアイヌ」という同化主義を払しょくし、アイヌ民族の誇りと自立を復活させる新たな解放運動の確立である。アイヌの若者たちはラディカルな政治運動のみならず、文芸活動やコタンの調査などの広範な社会運動を拡大させた。(リチャード・シドル著『アイヌ通史』岩波書店 2021年 P.2162~27 を参照)
*1969年9月、シャクシャイン没後300年にあたり、静内町でシャクシャイン顕彰会が設立された。これもまた、歴史の見直しを通じて、アイヌ民族の誇りと自立を復権させる広範な活動の一つである。
*形骸化してしまった「北海道旧土人保護法」は、1964年、1968年に行政管理庁が廃止を道庁に勧告している。当時、道庁は「時期尚早」と反対し、北海道ウタリ協会も「即時廃止は、政府に民族対策を要求していく根拠を失わせる」として反対していた。しかし、70年6月になると、五十嵐広三旭川市長の提案で、全道市長会が廃止を可決し、ウタリ協会も総会(6月)で、廃止を決議している。
*1977~78年にかけて、アイヌ民族の活動家は、中国、アメリカ、カナダなどの先住民との交流活動を行なう。世界の活動家の先進的な闘いの教訓を学びながら、彼らは、国内での闘いを推進する。
*1981年11月、北海道民族問題研究会の海馬沢博代表は、北海道大学にアイヌ遺骨に関して、公開質問状を突き付けた。
*この時期においても、日本政府の“先住民族としてのアイヌの存在”を否定する従来からの見解は、変わることはなかった。「1981年10月に(*国連の)規約人権委員会で審議された日本政府の第1回報告書は、アイヌ民族を含めて『少数民族は我が国に存在しない』と明言し、出席した富川明憲日本政府代表はその理由を『明治維新以来のコミュニケーション・システムの急速な進歩のため』アイヌ人は消滅し、彼らを先祖にもった『ウタリ人』がいるだけだという『珍説』を展開した。」(『ウォッチ!規約人権委員会』日本評論社 1999年 P.86)と言われる。子孫が存在し、民族としての属性が維持されている限り、もちろんのこと先住民族としてのアイヌ民族は存在しているのである。コチコチの同化主義者である日本政府代表は、観念の上で、アイヌ民族を完全に抹殺し続けているのである。

(ⅲ)「北海道旧土人保護法」の撤廃と新法制定を要求
  
 1984年5月、北海道ウタリ協会は、「アイヌ民族に関する法律(案)」を決議し、「北海道旧土人保護法」の撤廃を求めた。
 「アイヌ民族に関する法律(案)」は、前文、制定理由、および6項目要求(基本的人権・参政権など)で構成されている。
 まず前文で「日本国に固有の文化を持ったアイヌ民族が存在することを認め、日本国憲法のもとに民族の誇りが尊重され、民族の権利が保障されること」を求めている。制定理由では、「明治維新によって近代的統一国家への第一歩を踏み出した日本政府は、先住民であるアイヌとの間になんの交渉もなくアイヌ・モシリ全土を持主なき土地(*無主地)として、一方的に領土に組み入れ」「アイヌ民族は、まさに存在そのものを脅かされるにいたった」こと、また「アイヌは、給与地(*一八九九年[明治三二年]制定の『北海道旧土人保護法』で下付された『給与地』のこと。……)にしばられて居住の自由、農業以外の職業を選択する自由をせばめられ、また、教育においては、民族固有の言語をうばわれ、差別と偏見を基調とした〔同化〕政策によって、民族の尊厳をふみにじられた」ことなどの差別の実態を記したうえで、「アイヌの民族的権利の回復を前提にした人種差別の一掃、民族教育と文化の振興、経済的自立化対策など、抜本的かつ総合的な制度を確立すること」が緊急の課題になっているとして、「屈辱的なアイヌ民族差別法である北海道旧土人保護法」を廃止し、新たなアイヌ民族に関する法律を制定することを要求した。
 6項目要求では、①基本的人権―民族差別を撤廃して、民族としての権利の保障、②参政権―アイヌは一般的な参政権を憲法に保障されているが、これとは別に民族代表を政治参加させる権利の保障、③教育・文化―アイヌ民族の子どもへの教育振興・民族教育およびアイヌ語を含むアイヌ文化の振興・研究、④農業漁業商工業など―アイヌの就業者に対する適正経営規模の確立、⑤民族自立化基金―アイヌの高齢者への年金の支給等、特別なニーズを含めアイヌ民族政策全般に対応する自主財源の確保、⑥審議機関―中央・地方にアイヌ民族政策に責任をもつ機関の設置―が掲げられた。(北海道ウタリ協会機関誌『先駆者の集い』第三六号)。

(ⅳ)戦後のアイヌの生活実態
   
 アイヌ民族の人々が、現実にはどのような生活をしているのか―それが北海道庁によって「ウタリ生活実態調査」として戦後初めて行われたのは、1972(1972)年である。戦後憲法が制定されてだいぶ後のことであり、世にいう「高度成長」の時代が終わりかけの頃である。以後、第二回(1979年)、第三回(1986年)、第四回(1993〔平成5〕年)と調査は行われる。
 1972年から1993年の調査の間に、道内居住のアイヌの人口は、4558世帯→7328世帯、1万人8298人→2万3830人と増え、居住市町村は39→75へと拡大している。ただ支庁別にみると、居住地は、日高9299人(39%)、胆振7330人(30・8%)、石狩2176人(9・1%)、釧路1765人(7・4%)と、日高・胆振支庁に偏っている(両支庁内だけで合わせて約7割)。
 産業別の就業者は、1993年調査で見ると、第一次産業34・6%、第二次産業32・4%、第三次産業32%であり、ほぼ等分の割合である。業種別でみると、建設業22・3%、漁業22・2%、サービス業13・1%、製造業9・7%、農業9・4%が上位を占めている。しかし、中小企業や農業の経営規模は、多くが零細なものである。
 第四回調査でみても、生活状況は「三分の一近くの人がとても苦しいと答えており、生活保護を受けている人も四四三世帯・九二五人(人口一〇〇〇人中保護を受けている人の割合=保護率は、三八・八)いた。世帯・人数・保護率ともに調査ごとに減少してきているが、アイヌの人たちが住む市町村の平均保護率は一六・四であり、それと比べると二・三倍の格差が依然としてある。こうした格差は、高校・大学進学率にも影響している。高校進学率はアイヌ居住市町村の平均九六・三%に対してアイヌ世帯は八七・四%、大学進学率も二七・五%に対して一一・八%と、かなり差がついている。」(小笠原信之著『アイヌ近現代史読本』P.235)のであった。
 こうした状況の下で、差別は依然として無くなっていない。「最近六、七年間に自分が何らかの差別を受けたことがある人は七・三%、他の人が受けたのを知っている人は一〇・一%いた。差別を受けた場面は、学校四二%が圧倒的に多く、次いで結婚のことで二三・二%、職場で一七・九%、交際のことで一〇・七%、就職のとき九・八%などとなっている。」(同前 P.236)のであった。
 アイヌの人々を対象とした生活実態調査には、北海道庁が行なったもののほかに東京都が行なったものがある(1975年、1989年)。これには、宇梶静江さんらが1974年に結成した東京ウタリ会(後の関東ウタリ会)のメンバーが再三にわたって、都庁や都議会へ懸命に働きかけた努力の結果であった。
 生活苦から大都市に移住するのは一般的であるが(特に高度成長期)、アイヌの人たちにはそれに差別問題がからんでいた。『東京都在住ウタリ実態調査報告書』(1989年)によっても、「上京の動機は二つに分けられ、一つは北海道での生活苦から抜けだしたいからであり、もう一つは物心がついてから続いている北海道でのアイヌ差別から逃れたいからで、両者は深く結びついている。……」(P.9)と述べられている。
 しかし、東京に出たからといって、差別が無くなったわけではない。調査結果では、「過去にアイヌとしての差別を受けたかどうかを尋ねた結果では、回答者517人の8割以上が差別されたと答えている。/さらに複数回答で差別の内容と場所について尋ねた結果をみると、429人が1人当たり2・2の件数を挙げ、そのうち19・2%は東京での差別であった。東京在住期間の短さを勘案すると、東京での差別は北海道での差別と比べて一概に少ないとはいえない。」(同前 P.9)のである。
 なお、調査対象のアイヌは、518世帯・863人で、有効回収数は407世帯・514人だった。これと前回調査の実績もふまえると、都内に住むアイヌ総数は約2700人と推定されている。(つづく)