広がる先住民族の闘いと深まる先住権思想⑭

 アイヌ民族を劣等視し農業を強制
                           堀込 純一


     (4)アイヌ民族を劣等視し、就農強制のための保護政策

  (ⅰ)「北海道旧土人保護法」の制定

 1893(明治26)年11月、第五回帝国議会へ埼玉県選出の加藤政之助議員(立憲改進党)が、また、1895(明治28)年2月に、第八回帝国議会へ三重県選出の鈴木充美議員(自由党)他五名が「北海道土人保護法」を提案する。しかし、前者は本会議で否決され、後者は会期終了で廃案となった。
 これらの提案には、いずれもアイヌを「文明化」することにより救済するという強者の立場からの論理だけでなく、北海道議会の開設を前にして、自派の勢力の拡大という党利党略もあった(加藤の場合は、埼玉県の有志で設立した北海道拓殖組合による瀬棚郡利別原野の開墾事業に関係していた)。
 これらに刺激され、道庁もまた1894(明治27)年頃から、勅令案としての「北海道旧土人保護規則」全七条の制定を検討し、内務省に上申した。だが、これも実現しなかった。
 こうして、政府もなんらかの対応をせざるを得なくなり、1899(明治32)年3月に、「北海道旧土人保護法」(全13条)が制定された。
 その内容は、①北海道の(旧土人)で農業に従事する者、または従事しようとする者には、一戸当たり一万五千坪(約5町歩)以内の土地を無償下付する(第一条)、相続以外での土地譲渡禁止など(第二条)、15年以上開墾されない土地は没収(第三条)、貧困者には農具・種子を支給(第四条)、②疾病にかかり自費で治療し得ない者には薬代を支給(第五条)、疾病・障がい・老齢・幼少のために自活し得ない者には一定の援助(第六条)、③貧困者の子弟で就学する者へは授業料を支給(第七条)し、アイヌ集住地には新たにアイヌのための小学校を国庫負担で設ける(第九条)、④アイヌ共有財産は北海道庁長官が指定・管理・処分する(第十条)、第四条から第七条に必要な費用はアイヌ共有財産の収益を以てする(ただし、不足の場合は国庫から支出)―などである。

  (ⅱ)三度にわたり「給与地」めぐる「近文事件」

 アイヌは日本によって土地を総体として略奪され、その後一部を恩着せがましく政府から「給与」されたが、その土地もまた少なからずのものが和人によって奪い取られた。権力にだまし取られたり、権力と結託した政商に安く奪われたりした。そして農業での自活ができなくなり出稼ぎで生計を立てる中で遂には窮乏化で土地売却をせざるを得なくなるなど、さまざまなケースがあったが、最も有名なのは、上川郡鷹栖(たかす)村の「近文(ちかぶみ)給与地事件」である。同事件は、第三次に至るまでつづいた。

〈陸軍省・道庁長官・大倉の結託〉

 今日の旭川市を中心とする上川(かみかわ)地方の中心部に、明治中期の1890(明治23)年、旭川村(後に町→市に昇格)が開村し、翌1891年には、400戸の屯田兵が入植するなど和人の移住者が急増した。
 当時、アイヌは石狩川に合流する村内の河川沿いに三集団に分かれて散在していた。1891年、上川盆地の南部にある近文原野が一般に「開放」されたが、道庁はアイヌに対して、村の北西部、石狩川北側にある近文原野に集団移住するように強制した。
 その際、道庁は150万坪(500町歩)をアイヌへの「給与予定地」として確保し、1894(明治27)年、このうち約33%(49万4400坪)を36戸のアイヌに割り渡している(1戸当たり22000坪~7500坪)。ただし、この土地は「北海道地券発行条例」第一六条で「官有地」に編入されており、アイヌに所有権はなく、あるのはただ利用権のみであった(しかも、割り渡さなかった残りの100万坪の土地は、道庁が勝手に処分している)。だが、アイヌは元来、漁撈・狩猟を主なる生業としており、集住はせず、割譲地の開墾も進むわけではなかった。
 1899(明治32)年4月、「北海道旧土人保護法」が施行され、当然、全道のアイヌに割り渡された土地にも同法が適用されるはずであった。だが実際は、近文のアイヌには適用されず、「旧土人保護地」は「給与予定地」のままであった。
 旭川は開村時から、道央の中核都市としての将来が約束されており、前年の1898(明治31)年7月には、空知太(そらちぶと *現・滝川)―旭川間に上川鉄道が開通している。そして、1899年、4年前に札幌で新設された第七師団が、近文アイヌ地の東側の隣接地に移転することが決まり、道庁はアイヌ地も将来、第七師団の用地になる可能性が高いと判断し、アイヌへの「給与」を停止させてしまったからである。(1902年には、第七師団の衛戍地とアイヌへの「給与予定地」を含む近文は旭川町に編入された)
 こうして、景気が押し上げられた旭川には、毎年数千人もの移住者が押し寄せた。こうなると土地漁りの大小利権屋が、金儲けのためにうごめき出すのは今も昔も変わりはない。その大物利権屋の最たる者が政商・大倉喜八郎(後の大倉財閥の創始者)である。大倉組(土木会社)は、第七師団の兵舎・官舎などの工事を一手に請け負っていた(総工費329万円)のである。
 大倉は当時の北海道長官・園田安賢(やすたか)や陸軍省(当時の陸軍大臣は桂太郎)と結託し、アイヌを手塩(てしお)にそっくり移住させ、彼等の近文の「給与地」を獲得しようと画策した。これが第一次事件である。
 大倉は、アイヌ代表を旅館に招いて、酒食でもって篭絡するとともに、明らかに偽物の嘆願書を作成して、土地の略奪を謀る。「大倉はアイヌ集落(*コタン)の近くに住む商人がアイヌ住民全員の印鑑を預かっていることを聞きだしている。その商人を使って文字の読めない老人らをだまし、アイヌ全員が天塩移住を望んでいるかのような嘆願書をでっちあげ、一九〇〇年(明治三三年)一月、道庁に申請した。結託していたから当然か、翌二月には大倉組への払い下げがあっさりと決まり、アイヌに移転が通告された。」(小笠原信之著『アイヌ近現代史読本』〔増補改訂版〕緑風出版 2019年 P.125)という。
 これには、アイヌ民衆と鷹栖・旭川村民が猛烈に怒り、大きな社会問題となった。アイヌたちは、憲政党(2年前に、大隈重信の進歩党と板垣退助の自由党が合併して結成)の後援を得て、「旧土人留住同盟会」を作り、大倉の手先となった利権屋たちを質(ただ)し、「旧土人留住請願書」を作り、道庁に提出した。しかし、これもまた道庁はあっさりと却下している。
 そこでアイヌたちは「旧土人留住期成会」を結成し、札幌や小樽方面で演説会を開いて世論に訴えるとともに、道庁相手ではラチがあかない―とみて浜益のアイヌで後援者の天川恵三郎らを東京に派遣させ、関係省庁に不当性を訴え、演説会や新聞紙上で支持を訴えるなど、広範な運動を展開した。また他方で、天川らが知己を得る人物も含め中央政界の政治家(大隈、板垣、西郷従道、衆院議長片岡健吉など)の支持を懇請した。この結果、天塩への移転命令と大倉への土地払い下げ処分は、両方とも取り消された。
 
〈札幌商人との闘い〉

 だが、これですべてが解決したわけではない。「給与予定地は依然、給付されないままで、その管理を天川らアイヌの代表がしていた。ところが、天川は上京中の活動資金が足りず、独断で大金を札幌の商人から借りていた。この借金のカタにと、商人が暴力団まがいの小作人を給与予定地にどんどん送り込み、占拠し始めた」(同前 P.125)のである。第二次事件の始まりである。
 1905(明治38)年7月の『小樽新聞』によると、「給与予定地」の状況を、「所有地百五十二万町五反歩の内、現在自作二十一町一反二畝歩を除くの外は、皆な或者の為めに、十年若(も)しくは十二カ年の小作契約を締結せられたり。其の小作料は殆(ほとん)ど或者の為に横領せられたり。」という。この「或者」とは、天川が借金していた「札幌の商人」のことである。小作地は本来ならばアイヌに「給与」されるべきであり、小作料は、本来ならばアイヌに還元されるべきものである。それが、道庁が無責任にも管理もしないで、結局、「札幌の商人」によって収奪されているのであった。
 「札幌の商人」が送り込んだ小作人たちの占拠騒動は、アイヌとの間での激しい闘いとなり、ついには実力闘争にまで発展した。
 旭川町は、警察に両派の取締りを求めるとともに、世論の高まりもあって自らも介入するようになる。だがそれは、極めて反動的なもので、うまい汁を吸う「札幌の商人」に対抗して、姑息にも「給与地」を町へ払下げさせようと道庁に働きかけるものであった。
 1905年10月、旭川町会は「近文旧土人予定地処分案」を可決し、翌1906(明治39)年1月、道庁に「給与予定地」の貸下げを要求する。同年6月、道庁はこれに応えて「近文給与地関係北海道指令」を出す。それは、アイヌへの「給与予定地」46万299坪(1534.3町歩)を、旭川町へ許可の年より30年間、貸し付けるなどの内容である。
 何のことはない、本来は道庁がやるべき事を、そっくり旭川町に押し付け、町は町で、この事業で金儲けすることになるのである。アイヌへの「無償給付」されるはずの一戸当たり5町歩の土地が、その5分の1の1町歩に減らされ、残りは和人農民へ「貸付」(賃貸料の収入はアイヌの保護費にあてられるとされたが、すべてではなかった)されたからである。
 その4年後の1910年6月の『北海タイムス』によるとアイヌの生活は極めて困窮したものであった。「(*アイヌの)四十四戸が町内から給与された一町歩の土地を、全部耕作して居るものは三十二戸、此(この)土人の主食物は土地の産物であるが、給与された土地の大部分を転貸しして、山川の漁猟に従事して居るものが十一戸ある。此等(これら)の家族は多く出面取(でめんとり *畑仕事の出稼ぎ)を主業として其日(そのひ)の生活を送って居るが、生活の実情は頗(すこぶ)る窮態に陥って居る。……和人に転貸して居るものが六戸あるが、小作料の回収は概して成績が悪い。それは兎に角(とニかく)土人を誤魔化(ごまか)す傾向があるからである。能(よ)く耕作するものでも、生産物を以て食料を維持するは漸く四月頃迄(まで)である。其他(そのた)は師団の残飯や山野に生える土当帰(注・ととき=ツリガネニンジンの別称、か)、或は蕗(ふき)の類を採取常食とする。……」のであった。
 1922(大正11)年4月、国有財産法が施行されたのを機に、「旧土人保護地」は国有未開地に組み替えられた。これに伴い、道庁は同年10月、旭川市(同年8月、市制移行)に再貸与され、貸与期限は1932(昭和7)年と定められた。
 これに伴い、旭川市は「保護地」を都市計画区域に組み込み、アイヌを移転させ、そこを宅地開発する構想をもって、道庁と交渉し始めた。また、「保護地」内の和人小作人は貸付期間の終了をにらみ、借地人組合を結成して、借地の縁故特売(払い下げ)を道庁に求めた。
 この事態に危機感を抱いた近文アイヌは、「保護地」の自主管理、そして民族の解放を求めて決起し、さらに被差別部落解放や労農運動との連携を強めた。1926(大正15)年には、水平社にならい差別からの解放を目指して「解平社」(かいへいしゃ)を組織した。1931(昭和6)年8月には、ジョン・バチェラー(英国聖公会の司祭)の主催で、札幌において全道アイヌ青年大会が開催され、全道から70余名が参加し、近文アイヌも出席した。大会では、アイヌ差別の撤廃、「北海道旧土人保護法」の改正、アイヌ学校の廃止(和人とは異なった差別教育と批判された)などが決議され、道庁へ陳情書が提出された。1)
 
〈「給与地」すべての返還を要求〉

 貸与期限の1932(昭和7)年が近付くと、再び保護地の扱いをめぐって、新たな闘いが開始される。近文では、アイヌの側から「保護地」処分案が示される。第三次事件の始まりである。
 近文アイヌの青年・荒井源次郎は、1932年1月、「給与地」全地を返還させる運動を起こし、旭川市議・前野与三吉に応援を求めた。同年2月には、前野らはアイヌに「保護地」の所有権を与える議案を提出した。同年4月には、荒井は松井国三郎、天川恵三郎とともに上京し、内務省、大蔵省や清浦圭吾など政治家にも工作を行なった。同年5月には、全道アイヌとの連携を期して、近文で「全道旧土人代表者会議」が開かれ、近文の「旧土人保護地」の「無制限奪還」と、「旧土人保護法」の「徹底的改廃」を決議し、さらに強力な運動を展開することを決めた。また、4月から11月にかけて、荒井らが四度にわたり上京し、陳情活動を行なった。荒井は旭川地方裁判所書記の職を辞めて、活動に挺身した。6月には、砂沢市太郎や妻子とともに上京し、アイヌ細工の実演販売をしながら活動を続けたが、半年余りで長男が急死して帰郷せざるを得なかった。荒井は逆境にもめげず、11月には単身で上京し、大蔵省、内務省、道庁東京事務所、マスコミなどを訪問し、工作を重ねた。だが、相手が不在であったり、門前払いをくらわされたりした場合も少なくなかった。
 しかし、苦しく困難な中でも粘り強い活動の結果か、1934(昭和9)年3月、帝国議会で旭川だけを対象とした「旭川市旧土人保護地処分法」(全3条)が制定された。その内容は、「それまでアイヌに貸し付けていた一町歩を個人の所有地とし、残り約八〇町歩(給与予定地はそれまでの間に、小学校・師範学校〔現北海道教育大学旭川校〕・鉄道・工場などの用地に割り与えられて減少していた)は近文住民の共有財産としたが、和人に賃貸されたまま道庁長官の管理下に置かれた。」(『アイヌ民族の歴史』山川出版社 2015年 P.213)というものである。
 従って、和人の小作人たちは変わらずに既得権を行使できたが、アイヌに「給付」された土地も、「北海道旧土人保護法」と同様にアイヌに所有権がなく、譲渡(相続を除く)や抵当権など諸物権の設定もできなかった。
 
    (ⅲ)アイヌへの教育差別

 1873(明治6)年頃、小樽の量徳小学校へアイヌの児童が入学していると言われる。その数は1人とも4人ともいわれる。その内の1人が天川恵三郎である。だがこれは、和人主体の小学校にアイヌ児童が入ったものである。
 アイヌだけを対象とした学校は、1877(明治10)年に開設された対雁(ついしかり)教育所が嚆矢(こうし)である。児童数はわずか30人余りで、教師は一人で医師が兼務していた。生徒も、生活が苦しい中で、半ば食料などの扶助を目当てに通学しており、扶助が打ち切られると欠席となった。開設9年後、児童数はゼロとなった。
 1880(明治13)年には、平取(びらとり)、有珠(うす)、虻田(あぶた)に、それぞれ一校ずつアイヌ学校が作られている。
 三県一局時代の1883(明治16)年、1884(明治17)年には、三県の合同申請で中央政府から「旧土人教育基本金」として計3000円が下付された。しかし、官営主義をとる札幌県、私立主義をとる函館県、折中案をとる根室県と意見が割れ、結局、基本金は三県のアイヌ人口に応じて按分された。その後、なんらの具体策ももたないで、この基本金は共有財産に繰り入れられた。
 当時のアイヌ児童は、アイヌ学校があればそこに通ったが、無い場合は一般の小学校で和人の児童と同じ教育を受けていた。しかし、アイヌ児童の就学率は低く、1889(明治19)年段階で、アイヌ学齢児童2726人のうち、わずか351人(9・2%)でしかなかった。
 英国聖公会の司祭・ジョン・バチェラーは、1890(明治23)年6月に、胆振の幌別にアイヌ児童用の「愛隣学校」を、1892(明治25)年11月に、函館にアイヌ学校を開設している。外国人宣教師が着々とキリスト教伝道を軸として、教育の実績を上げているのに対して、日本の官によるアイヌ教育(皇民化教育)は必ずしも、順調に進展しているわけではなかった。官僚たちは、少なからずの危機感を抱いていたはずである。
 こんな折に、「北海道旧土人保護法」が制定され(1899年)、同法にもとづきアイヌ学校が設置され始まる。アイヌ学校の建設は、当初の4年間は予定通り12校が作られた。だが、日露戦争による財政難で建設ペースが落ち、予定の21校がそろったのは1911(明治44)年であった。
 だが、児童数の減少や、差別教育への批判、和人との合同教育を望む声などが高まり、アイヌ学校は逆に整理の方向に向かう。1917(大正6)年から1922(大正22)年までに9校が廃止となり、胆振管内2、浦河管内6、河西管内2、釧路管内1、釧路市内1の計12校へと半減近くとなった。そして、1937(昭和12)年の「北海道旧土人保護法」の改正2)に伴い、アイヌ学校は全面的に廃止となった。
 この間のアイヌ学校の教育内容については、現場の教師からも厳しい批判があった。アイヌ児童への教育はとりわけ「忠君愛国」の皇民化教育が重視され、アイヌ語は禁止され、アイヌの文化・歴史・生活などアイヌ民族に誇りを持たせるものは一切なかった。
 アイヌ学校の全廃にともない、アイヌと和人との混合教育が始まる。だが、問題点が解消したわけではなかった。和人児童による「軽侮圧迫」は強く、少数派のアイヌ児童は激しい差別にさらされ、ますます「萎縮」してしまうのであった。当時の政府のみならず和人の大人も一般的に、アイヌをやがて「滅びゆく民族」として、劣等視していたため、その態度は和人の子どもに反映されたのは当然であった。(つづく)

注1)1931年8月の「全道アイヌ青年大会」は、道庁社会課や道庁嘱託のバチェラーらによって企画され、アイヌの修養(禁酒や勤労の勧め)や生活改善を狙いとしていた。ところが、青年たちの要求は道庁の狙いを超えて、「北海道旧土人保護法」の改正やアイヌ差別の廃止の方向に向かっていった。折からの世界恐慌で、アイヌの生活はとりわけ厳しかったためである。1935(昭和10)年の道庁の調査では、調査対象のアイヌ戸数3713戸の内、「公私の援助を受くるもの」196戸、「辛うじて糊口を凌ぐもの」806戸で、調査対象全体の26・9%が「極貧者」となっている。アイヌたちの中には、給与されたわずかな土地では生活が難しく、これを和人などに賃貸しし、当人は出稼ぎでかろうじて生活費をまかなう場合が多かった。これは、小作人からの収奪で裕福な生活をする当時の「不在地主」と異なるのは言うまでもない。
 2)「北海道旧土人保護法」の改定作業は、アイヌ民族の不満や改正要求が高まる下で進められ、戦前から戦後にかけて計5回行われた。第一次改定は、1919(大正8)年3月で、この時は部分的なものである。それは、第五条の国からの医療援助に関して、その対象者を「疾病」者だけでなく、「傷痍」者に広げ、第六条の福祉対象者を「疾病」などに加え、「傷痍・疾病」にした。戦前における大きな改定は、1937(昭和12)年3月の第二次改定である。その主な改定点は、①第二条の占有権制限条項の適用除外例を追加し、下付から15年を経て没収されなかった給与地は、道庁長官の許可を受ければ譲渡と物権の設定ができるようになった、②第四条の「農具及び種子」を「生業に要する器具」と変えて、農業だけへの助成から職業一般へ拡大した、③第七条の「授業料」を「学資」と変えて、育英制度に切り換えた、④第七条に「不良住宅改善資金」と「保護施設」への補助を追加した。⑤第九条の「旧土人小学校」設置条項を廃止した―というものである。