広がる先住民族の闘いと深まる先住権思想⑬

 アイヌ民族への歴史的不正を糺す
                  堀込 純一



    Ⅴ アイヌ民族の先住権獲得を

  (1) アイヌ民族の支配・同化を推進する近代日本

 北米では、移民の増大を背景に戦争や略奪などを通して、版図が拡大し、国境線が確定した。だが、アイヌ民族が生活する蝦夷地(現・北海道)、千島、サハリン(樺太)においては、幕末期からロシア・日本の両「帝国」の間で激しい領有権争いが展開された。そして、幕府はエゾ地を支配し、国境を維持・強化するために、安政の開港以降、和人の移民と開拓を推し進めた。日本近代化の過程で、先住民であるアイヌ民族は、さらに抑圧され、民族として衰退させられた。(幕末期については、拙稿『徳川幕府の北方政策』を参照。労働者共産党のホームページに掲載)

(ⅰ)エゾ地に対する
   近代的所有制の
   押し付け


 1869(明治2)年5月に、箱舘戦争で榎本軍が降伏し、戊辰戦争が終る。同年7月には、太政官直属の機関として、「開拓使」が設置され(「使」とは、「朝廷から派遣せられて地方の事務をとる者」を指す。)、8月15日には、蝦夷地は北海道と改称される。
 開拓使は、1871(明治4)年から、中央政府同様にお雇い外国人を雇用し、欧米の工業や農業の知識・技術を導入し、殖産興業を推進する。
 明治政府は、北海道を原則的に国有地とみなし、それを移住民に払い下げることによって、開拓を推進しようとした。政府は1872(明治5)年9月に、「北海道土地売貸規則」(全九條 『開拓使事業報告附録 布令類聚』上篇 P.258~260。以下、「土地売貸規則」に略)を制定し、基本的に売下げによって未開地を渡し、地券を与えて私有地とした。
 ただし、一部では「貸し下げ」(第八條「採鉱漁撈等(など)都(すべ)テ殖産與工ノ見込(みこみ)アリテ出願スル者」が対象)や、「付与」(第九條―諸工業を興し功業を為した者が対象)もあった。
 「土地売貸規則」の全体的眼目は、第一條「原野山林等一切ノ土地官属及び従前拝借ノ分(ぶん)目下(もっか)私有タラシム地ヲ除(のぞく)ノ外(ほか)都(すべ)テ売下(うりさげ)地券ヲ渡(わたし)永ク私有地ニ申付(もうしつけ)ル事」にある。近代的ブルジョア的な私的所有制を確立することである。
 第二條で、「売下ノ地一人十万坪(*約33・3町歩)を以(もって)限(かぎり)トシ下手(げしゅ *開墾を始めて)後十ヶ年除租タルヘシ」とし、第三條では、売下げの地価を上等(千坪一円五十銭)、中等(同じく一円)、下等(同じく五十銭)に分別し、地代は即納すべきであるが、罹災窮乏の者などは3年から5年の年賦とするとした。
 さらに同じ9月、「地所規則」(全十九條 同前P.260~262)が制定される。この規則の構成は、第八條から第十三條が「土地売貸規則」の「第一條ヨリ第六條迄ニ同シ」であり、第十六條から第十八條も「売貸規則」の「第七條ヨリ第九條迄ニ同シ」である。
 「地所規則」は、全体的に見ると、永住者と寄留人(本籍地以外に一定の居所をもつ者)を区別しつつも、共に開墾地などの私有を認めている。
 なお、第七條では、「山林川沢従来土人(*アイヌを指す)等漁撈伐木仕来(しきたり)シ地ト雖も更ニ区分相立て持主或ハ村請ニ改メ是又地券ヲ渡し爾後(じご)十五年間除租地代ハ上條(*第六條の「地代上納ニ及ばざる事」)スヘシ尤も深山幽谷人跡隔絶ノ地ハ姑(しばら)ク此限(このかぎり)ニ非サル事」にした。アイヌの生活・生業において死活にかかわる極めて重要な土地(占有的な猟場や漁場〔イウォール〕)をも含め、利用可能な土地すべてを所有区分するのであった。
 明治政府は1877(明治10)年12月に、さらに「北海道地券発行条例」(『開拓使事業報告附録 布令類聚』上篇 P.277~288)を制定する。これにより土地を宅地・耕地・海産干場・牧場・山林の五種に分け、それらの境界・面積・地位・等級を決めて地券を発行し、地租を課することにした。
 和人などに払い下げる土地は、一人10万坪までと従来と同じであるが、同条例の第十六條で、「旧土人住居ノ地所ハ其(その)種類ヲ問ス当分総(すべ)テ官有地第三種1)ニ編入スヘシ。但(ただし)地方ノ景況ト旧土人ノ情態ニ因リ成規ノ処分ヲ為ス事アルヘシ」とあるように、アイヌの居住地は、有無を言わせず官有地にしたのであった。その上で、正式な処置は、北海道の情勢やアイヌの「情態」(内面的な在り様)によるとした。これはアイヌの国家への従順さを官が推し量るということで、極めて恣意的なものであり、身勝手なものである。
 明治政府は、この時期、自営農民的な小土地所有制の移植・創設を目指そうとしていたのである。
 
(ⅱ)アイヌへの本格的
   な同化政策

   
 先住民族としてのアイヌ民族は、すでに幕藩制時代から隷属状態に置かれ、人口は著しく減少し、民族として衰退させられていた。「一八二二(*文政5)年には二万四三三九人と記録されているが、一八五四(嘉永7)年には一万八八〇五人とされている。これは不完全な統計であるが、実際東海岸の厚岸・キリタップ地方ではアイヌ人が酷使や和人が持ち込んだ伝染病により全滅状態となり、場所請負人の榊富右衛門は箱館・青森・八戸地方から和人の漁民を募集し、移住させている。アイヌ労働力の減少のあとに、和人の開拓民的移住が行なわれている」(田村貞雄著「内国植民地としての北海道」―岩波講座『近代日本と植民地』1植民地帝国日本 1992年 P.95)のである。(アイヌ人口の急減については、榎森進著『アイヌの歴史』を参照)
 明治政府は、「開拓使」の設置にともない、アイヌに対する同化政策を本格化する。1871(明治4)年には、10月8日付けの開拓使の布達で、アイヌへの勧農を基本に次のような政策を命じている。
一 開墾致し候土人(*アイヌのこと)ヘハ居家・農具等下され候ニ付き是迄(これまで)ノ如ク死亡ノ者これ有り候とも居家ヲ自焼シ他ニ転住等ノ儀(ぎ)堅く相禁ずべき事
一 自今(じこん)出生ノ女子入墨等堅く禁ずべき事
一 自今男子ハ耳環(みみわ)ヲ著け候儀堅く相禁シ女子ハ暫ク御用捨(御容赦)相成り候事
一 言語ハ勿論(もちろん)文字モ相学び候様心懸(こころがける)べき事
  (『開拓使事業報告附録 布令類聚』上篇 P.448)
  
 政府は就農を強制する代わりに、アイヌの従来からの生業(漁撈・狩猟)を制約し、極めて困難なものにさせた。アイヌ民族にとって漁撈・狩猟は、生活の根幹にかかわる労働・生産である。その「狩猟行為は、『鳥獣猟規則』(一八七六年)、『胆振日高両州方面鹿猟仮規則』(一八七五年)、『北海道鹿猟規則』(一八七六年)などの制定で徐々に規制されていた。一八七五年の『鹿猟仮規則』では、アイヌが『アマツポ(*トリカブトを使った毒矢)ト唱ル機械』による『矢猟』に免許・鑑札制が導入され、狩猟期間は一〇月から翌年四月までとなった。一八七六年九月二四日には『毒矢を以て獣類ヲ射殺スル風習』があるが、このような行為は『獣類生息妨害尠(すく)なからず』として、禁止の布達がアイヌ民族に示された」(P.149~150)のであった。
 肉食中心のアイヌ民族にとって、狩猟・漁撈は死活にかかわる問題であり、穀物中心の和人とは根本的に異なるものである。だが、あくまでも農業中心を押しつける官は、漁撈までも禁止とする。
 開拓使は、1875(明治8)年8月、「道内の他地方ではすでに禁止されているテス(*魚をとるヤナ)網を根室支庁管内でも使用禁止とすることを通達」(『アイヌ民族の歴史』山川出版社 2015年 P.149)した。1879(明治12)年には、日高地方のサケ漁が禁止となった。1883(明治16)年には、札幌県十勝地方の河川でのサケ漁も禁止となった。このために、生活の糧が奪われ、餓死者が出るほどであったと言われる。
 開拓使は、さらに教育を通しての同化政策にも着手する。その先鞭として、札幌・小樽・高島・余市など和人の移住が早かった地域のアイヌ首長層の子弟に目をつけ、1872~74年に、東京の開拓使仮学校に「留学」させた。人数は男26人、女9人で、年齢は13歳から38歳までの幅があった。「仮学校では、読書、習字、農業、植芸、牧畜などを学んだ。しかし、留学自体に無理な勧誘があったようで、それに生活環境の急変も加わり、逃亡する者や病気になる者が続出した。結局、三年後までには全員が北海道に戻ってしまい、計画はつぶれてしまった。ただし、生徒の中には後に官吏に登用されたものが数人いた。」(小笠原信之著増補改訂版『アイヌ近現代史読本』山川出版社 2019年 P.132~133)といわれる。(この仮学校は1875(明治8)年に札幌に移転し、後の札幌農学校―北海道帝国大学の前身となった)
 
(ⅲ)都市計画などで
   アイヌ強制移住

   
 官は、アイヌの生活を完全に無視して、小樽、釧路、旭川などの街が作られた際には、その地に居住していたアイヌを強制的に移住させた。
 たとえば小樽の場合、「明治三年(一八七〇)頃の作とされる小樽の古地図(小樽市総合博物館所蔵)には、現在の南小樽駅周辺に『土人地』と記入された土地がいくつかあり、この地域にアイヌ民族が暮らしていたことを裏付ける。」(『北海道史事典』P.268)ものであった。しかし、『小樽市史』によると、「明治一三(*1880)年には小樽郡長の上申により、小樽の市街地に住んでいたアイヌを高島郡に『移転』」させたと記している。統計を見ると、明治一五年以降、小樽郡のアイヌ人口は零になっており、『移転』の結果によるものと推測できる。」(『北海道史事典』 P.268)のであった。
 同様なことは、余市、網走、釧路などでも見ることができるのである。(河野常吉『北海道殖民状況報文』)
 また、皇室財産の形成に際して、アイヌを旧制移住させている。1877(明治10)年の「北海道地券発行条例」によって国有地とされたアイヌの土地から広大な御料地(ごりょうち)が形成され、皇室財産とされた。これは天皇制支配の経済的基盤の一つであり、1890(明治23)年の帝国議会開設に向けて急ピッチですすめられた。1890年には全国各地で約365万ヘクタール(四国全面積の2倍弱)に達し、その半分以上の200万ヘクタール(北海道面積の2割強)を北海道が占めた。代表的なものとしては、上川の神楽村(約1万ヘクタール)、日高の新冠(にいかっぷ)御料牧場などがある。
 新冠御料牧場は、日高支庁新冠・門別・静内(しずない)の三町にまたがり、総面積は約3万8000町歩(約3・8万ヘクタール)にわたる広大なものである。この牧場が1888(明治21)年に宮内庁の所管となり、「御料牧場」になるに伴い、新冠川流域に散在していたコタン住民(牧場から土地を貸与されていた小作人の約400名)は牧場内の姉去(あねさる)地区(現・新冠町大富)に集住させられ、そのうえ、この地の開墾が進んだ1916(大正5)年には、さらに50キロも離れた沙流郡山間の未開地・上貫別(かみぬきべつ *現・平取町旭)に移住させられたのである。
 
(ⅳ)同化政策の中
   での差別呼称

   
 1878(明治11)年に「十一月四日達(たっし)」二十二号が発せられるが、それには「旧蝦夷人ノ儀ハ戸籍上其他(そのた)取扱向(とりあつかいむき)一般ノ平民同一タル勿論(もちろん)ニ候得共(そうらえども)、諸取調者等(など)区別相立(あいたて)候節ノ称呼一定致さず候ヨリ、古民或(あるい)ハ土人、旧土人等区々ノ名称を附シ不都合に候条、自今区別候時ハ旧土人ト相称(あいとなう)べく……」と記されている。
 アイヌも和人の平民と同一であるが、場合によっては「古民」あるいは「土民、旧土民」と称し不都合なので、これからは「旧土人」と称呼すべきとした。しかし、別にアイヌと称すればよいのであって、わざわざ「旧土民」という必要はないのである。ここには、先住民族としてのアイヌ民族を同化し、ゆくゆくはその存在自身を無くしてゆくという国家の意図が明白に読み取れるのである。
 また、「旧土人」の称呼は、和人のあらゆる面での差別を助長する一つの要因ともなった。
 
  (2)国境線の画定とアイヌ強制移住

 1875(明治8)年5月7日に、日本とロシアの間で「千島・樺太交換条約」が調印され、同年8月の条約附録で、アイヌは三年以内に国籍を選択することを迫られた。
 幕末期、ロシアと日本の間の領土分割は戦闘行為まで起こすほど激しかった。それでも、千島方面は、1855年の「日露通好条約」で、ウルップ(得撫)とエトロフ(択捉)の間が国境線となった。他方、樺太方面では、なかなか交渉がまとまらず、1867年の「カラフト島仮規則」で、カラフトの南部(北緯50度以南)は、「日露雑居」となっていた。それが「千島・樺太交換条約」の成立により、千島列島のウルップ島以北の北千島が日本領となり、その代わり、南樺太(サハリン南部)はロシア領となった。
 「千島・樺太交換条約」の締結時、南樺太に住んでいた人は、和人が永住者と出稼ぎ者を合わせて557人、ロシア人が計1110人(士官兵卒789人とその家族82人、農民110人、罪人とその家族115人など)で、ロシア人は日本人の約2倍である。これらに対し、先住民(最も多いアイヌの他にウィルタ、ニブヒらも含め)は、計2372人で過半数を占めていた(小笠原信之著『アイヌ近現代史読本』緑風出版 2001年 P.62)。
 だが日本政府は、あわただしく条約附録が調印された8月からわずか3週間後の9月9日、アイヌを宗谷に移住させた。このため、移ったのは、わずかにアニワ湾一帯の樺太アイヌ108戸・841人のみであった。中には、一家が離散したケースもあった。
 樺太アイヌは、故郷が眺望できる宗谷での漁業に従事することを望んだが、政府はこれを許さず、だまし討ちで翌年の1876年6月、宗谷から小樽へ無理やり移してしまう。その際、輸送した玄武丸の大砲威嚇(空砲)と武装警官20人の脅迫をもって、強制連行したのであった。
 連行されたアイヌたちは慣れた漁業を望んだが、官はあくまでも農業に従事させようとした。そこで海辺ではなく、石狩川を遡上して約39キロも内陸部にある対雁(ついしかり *現・江別市)に連行した。だが、アイヌを急速に農業民に仕立て上げることにそもそも無理があり、それに加えて1879(明治12)年、1886(明治19)年、1887(明治20)年に次々とコレラや天然痘が襲いかかり、400人近くが死亡する事態に立ち至った。1906(明治39)年、南樺太が日本領となった(1905年の日露戦争でのロシア敗北により)ため、北海道に残っていた樺太アイヌ200人以上が故郷へ戻った。(しかし、第二次大戦で日本が敗北し、樺太アイヌのほぼ全員が再び北海道へ移住させられた)
 千島列島では、条約締結後の1877(明治10)年9月、ロシア側が軍艦を派遣して千島列島のアリュート71人、千島アイヌ12人の計83人をカムチャッカに移住させた。しかし、移住2年目までにアリュートの三分の一以上、千島アイヌの半分が病死した。1882(明治15)年に、アリュートはコマンドル諸島に再移住し、千島アイヌは日本領となったシュムシュ(占守)島に戻ってきた。
 日本政府は、1884(明治17)年7月、シュムシュ島に残留していた千島アイヌ97人を、当時、無人島になっていたシコタン(色丹)島に強制移住させた。
 ここには、国家によって分断され、生活の地まで勝手に左右された先住民の悲惨な姿が明確に見てとれる。「……樺太アイヌと千島アイヌの近・現代史を見ると、とりわけ樺太アイヌの場合は宗谷海峡を三度も集団的に往復するなど、日本とロシアによる同化政策に翻弄された歴史であり、日ロ両国間の外交と政治の最大の犠牲者であった」(『アイヌ民族の歴史』山川出版社 P.160)といえる。
 これを踏まえると、先住民であるアイヌ民族の復権を願う者は、「北方領土の返還」とか「全千島の返還」などと称して、日本・ロシアの国境線争いに加わるのでなく、アイヌ民族の自治権・土地との正当なかかわり方、伝統的な文化や狩猟・漁撈の権利などを拡大し、とりわけ北海道・千島・サハリンの先住民どうしが交流をとおして「民族を再生」することを支援することが肝心である。

  (3)北海道庁の設立と北海道型の地主制形成

 1881(明治14)年7月、開拓使長官黒田清隆は、「開拓使10年計画」の終了にともない、官有物払下げを申請する。これは2日後に決定されるが、自由民権運動など世論によって「国有財産の私物化」と激しい非難にあい、10月に払下げ認可は取り消され、1882(明治15)年2月8日に開拓使も廃止される。
 開拓使廃止後の1882年2月、北海道は札幌・函館・根室の三県に分割され、翌年には、さらに開拓使以来の官営事業を総括する農商務省北海道事業管理局が設置される。いわゆる「三県一局体制」が成立する。しかし、この体制は組織系統が滑らかとならず(政令二途に出ず)、1886(明治19)年1月には廃止される。そこで新たに設立されたのが、北海道庁である。北海道庁長官は、内務大臣の指揮下にある府県知事と異なり、かつての開拓使長官に準じる大きな権限をもった。
 この北海道庁長官・岩村通俊は、施政方針演説書で、「内地同一ノ制度ニ模倣スルヲ止メ、殖民地適当ノ政治ヲ敷カシムルニ在リ」「自今移住ハ、貧民ヲ植エズシテ富民ヲ植エン。是ヲ極限スレバ、長官は人民ノ移住ヲ求メズシテ、資本ノ移住ヲ是レ求メント欲ス」と明らかにしている。
 1886(明治19)年6月、これまでの「地所規則」に代わって、「北海道土地払下規則」が制定される。同法は、一人当たりの払下げ面積を、「地所規則」と同じように10万坪に制限する点では変わりはない。しかし、新たに「盛大ノ事業ニシテ此(この)制限外ノ土地ヲ要シ其(その)目的確実ナリト認ムルモノアルトキハ特ニ其(その)払下ヲ為(な)スコトアルヘシ」(第二条)という例外規定を設けた。(北海道庁『拓殖法規』1910年)
 この結果、10万坪を越える土地処分が急増した。「これで払い下げを受けた土地は、発布の八六年(明治一九年)から九六年(同二九年)までの一〇年間半で四二万六〇〇〇町歩余に上った。七二年の『北海道土地売貸規則』による売り下げ、貸し下げ等が三万七〇〇〇町歩余だったから、その一〇倍以上に膨れ上がった」(小笠原信之著 増補改訂版『アイヌ近現代史読本』緑風出版 2019 P.98~99)わけである。
 大規模払下げの典型は、当時、内大臣であった公爵三条実美などの華族組合農場へ、石狩国雨竜(うりゅう)郡の原野1億5000万坪の貸下げである。しかも三条らは、農場予定地の道路や排水溝の設置、農場の設計と管理者の派遣を北海道庁に要求している。これに対し、北海道庁長官は、小屋の建設や貨物の運搬などに樺戸(かばと)集治監の囚人50名を貸し、積極的に支援した(この華族農場は三条の急死で挫折するが、後に蜂須賀農場として再建された)。
 このような大土地処分の傾向にさらに輪をかけたのが1897(明治30)年の「北海道国有未開地処分法」である。同法は、開墾、牧畜、植樹などを目的とする土地を「無償ニテ貸付シ全部成功ノ後(のち)無償ニテ付与」(第三条)するとした。それとともに、一人当たりの貸付面積も、開墾の場合は150万坪以内、牧畜の場合は250万坪以内、植樹の場合は200万坪以内とし、しかも会社・組合が出願した場合には、その2倍の面積までが認められた(『拓殖法規』)。
 これにより、大規模な面積の土地処分が激増し、華族・政商・政治家などを地主とする大土地所有が実現していった。こうして1920年代までに道内の膨大な国有未開地の処分がなされ、北海道型の地主制が形成されたのであった。 (つづく)
 
注1)官有地第一種は皇宮地・神地、同第二種は皇族賜邸・官用地、同第三種は山岳・丘陵・林藪・原野・沼地・道路など、同第四種は寺院・学校など―である。