広がる先住民族の闘いと深まる先住権思想⑪
 土地権法と先住民権原法の確立
                         堀込 純一
 


  (5)白豪主義からなし崩しに同化政策へ

(ⅰ)移住制限政策の変質
   
 オーストラリアの国是である白豪主義が露骨な人種差別政策から、なし崩し的に同化政策に変質していったことについては、大きくいって二つの事情があった。一つは、第二次世界大戦後、非白人系の移民が増え、アングロサクソン系を中軸とした白豪社会の建設が物理的に困難になったこと、二つには、白豪主義に即した「ヨーロッパ国家」像から「アジア・太平洋国家」像への転換をもたらした国際環境の変化があったこと―である。
  一つ目に関しては、以下の変化が進行したのである。確かに第二次世界大戦後も、オーストラリアでは白豪主義による人種差別が継続した。そして、従来の「隔離・保護」政策から、1950年代から先住民を福祉の対象として同化を進める同化政策が主流になる。
 だが、移民の大量導入計画が、白豪主義政策にも大きく影響を与えるようになる。当初、見積もっていた英やアイルランドからの移民が不足し、連邦政府は、ヨーロッパからの難民受け入れを決定した。だが、国民の多くの人々が非英語系のヨーロッパ難民の受け入れに強く不安を抱いた。これに対しては、当時の移民大臣が、“同化可能な移民に限り、その人数も一人の難民に対して一〇人の移民をイギリスから入れる”といって、彼らを安心させた。
 現実には、1950年代の後半になると、英やアイルランドからの移民だけでは、人口増加の目標は達成できないのが明らかになる。この結果、イタリアやギリシアなどの南ヨーロッパ系の移民と、東ヨーロッパのソ連圏からの難民を含めた移住者が増えることになった。しかし、これらの人々も1960年代になると減少傾向となる。この頃になると、ヨーロッパも復興するようになり、オーストラリアへ移住する魅力が薄れたためである。
 そこで連邦政府は、1960年代になると中近東の国々、たとえばレバノンやトルコなどからの移民や難民を受け入れるようにした。
 しかし、非英語系ヨーロッパ移民・難民の文化や言語を認めず、すべての移民に英語の使用と、イギリス的オーストラリア文化への同化を強要する政策には次第に不満が高じるようになる。高じる不満から1960年代後半からは、さまざまな生活上のトラブルもあって、出身国へ帰る移住者も増え始めるようになる。
 1960年代、労働力不足を補うために、アジアからの移民も教育、専門・技術、熟練などの点において高い資格をもったものに限って認められた。さらに、アジア系移民に対しても、1956年以降、市民権が与えられるようになっていたが、しかし、その在住条件がヨーロッパ系とは差別されていた(アジア系は15年の在住条件が必要であったが、ヨーロッパ系は5年)が、この差別も1966年には解消された。白豪主義にもとづく移住制限政策は、このようにしてなし崩し的に解消されるようになっていった。
 こうして、「オーストラリア政府関係者の間にも従来からの同化主義への反省が強まった。オーストラリア政府は、60年代半ばには不満を抑えるために同化主義を廃止したものの、多文化主義をすぐには採用しなかった。そのかわり、アメリカ流のメルティング・ポット政策(*諸民族の融合策)を念頭に置いて『統合政策』を採り入れ、移民とオーストラリアの伝統文化との融合による単一文化の生成を求めることにした。」(同前 P.214)のであった。
 その後も、紆余曲折があったが、本格的に多文化主義へと移行しはじめるのは、1980年代からである。

(ⅱ)国家像の転換

 白豪主義の下でのオーストラリアの目指す国家像は、イギリス帝国主義に追随する下で、アジア・太平洋からの移民を拒絶し、アングロサクソンを中心とする白人国家の建設(「ヨーロッパ国家」像)であった。
 しかし、それは宗主国イギリスの「七つの海」を支配する力の限界の下で、次第に動揺し始める。
 イギリスは1931年のウェストミンスター憲章で、英連邦の自治領に外交権を譲る旨を明らかにしたが、カナダや南アフリカがいち早く批准したにもかかわらず、オーストラリア、ニュージーランドは批准を先延ばしにした。オーストラリアは独立することにメリットを見いだせず、ようやく批准したのは太平洋戦争が始まった翌年の1942年である。
 日豪の覇権争奪が現実のものとなるのは、主要には日本帝国主義が第一次世界大戦を通しての東アジア・太平洋での覇権拡大を推進することによってである。
 日本は、1915年1月、対華21カ条を突きつけ、ますます中国侵略を鮮明にし、1918年8月には、シベリア出兵を宣言し、ロシア革命への介入を明らかにする。そして、第一次世界大戦の講和条約(1919年6月)では、旧ドイツが山東省において有していたすべての権利・権原などを日本のために放棄すると明記された(しかし、これは中国の強烈な抗議と抵抗にあい、未解決のまま残された)。同時に、旧ドイツ領南洋諸島は国際連盟の委任統治でで、日本とオーストラリアの委任統治地域となる。赤道以北のマリアナ諸島・マーシャル諸島・カロリン諸島は日本、赤道以南のビスマルク諸島はオーストラリアの委任統治となった。
 さらに第二次世界大戦では、シンガポールの陥落によるイギリス軍の後退、日本軍機のダーウィン・ブルームの爆撃やシドニー湾への特殊潜航艇の侵入などで、日本の脅威があらわとなり、日豪間の直接対決が招来される。
 第二次世界大戦後も、宗主国イギリスの政治的経済的な衰退は止まらず、政治的軍事的にオーストラリアはますますアメリカとの協調、対米依存となっていった。その象徴は冷戦体制の下での、1951年のアンザス条約(ANZUS アメリカ・オーストラリア・ニュージーランドの安保条約)の締結、1954年のSEATO(東南アジア条約機構 反共組織)加盟である。
 経済的には、1957年の日豪通商協定の調印、1964年の日豪間の関税・貿易自由化などで、日本との貿易上の相互補完が強まり、また日本の資本投資の受け入れも拡大する。1960年代、1970年代には、アメリカの経済的支えとともに日豪間の経済的結合が強まる。
 そして、台頭する東南アジア諸国との共存も強化される。1967年、参加国の経済協力と反共組織として発足したASEAN(東南アジア諸国連合)は、ベトナム戦争の終結(1975年)とともに、一層、地域経済協力機構としての性格を強めた。1980年代前半になると、アジアの新興経済地域(NIEs)とりわけ香港・台湾・韓国・シンガポールの経済発展はすさまじく早く、1980年代後半になるとタイ・マレーシア・インドネシアの工業化も進展する。
 日本や東南アジアとの経済的結合の進展とともに、オーストラリアの「ヨーロッパ国家」像は、必然的に「アジア・太平洋国家」像への転換を強めざるを得なくする。
 
   (6)先住民アボリジニの粘り強い闘い

 国是である白豪主義に直結する「移民政策」の変質や、目指すべき国家像の転換の下で、先住民アボリジニの粘り強い闘いが着実に前進する。
 1957年に、「エルコウ島の記念碑」が建立された。これは、北東アーネムランド(北部準州)に住むヨロング族の各クランが、成人儀礼に際して若者に示されたそれぞれの聖物(ランガ)を持ち寄って作られたものである。それは、ヨロング社会の再統合するためのものであるとともに、「強烈な力をもち死の危険をはらむゆえに成人男性以外は直接に見ることのできなかった神聖なランガを公開することと引替えに、自らの宗教をはじめ教育や雇用といった社会問題を、自らの手で解決する権利を求めたもの」(藤川隆男編『オーストラリアの歴史』有斐閣 2004年  P.28)であった。
 同じ頃、フランスの鉱山会社ペシュネが鉱山開発のために北東アーネムランドで調査を始める。これに危機感を抱いたヨロング族は、その対象地と自らとの深い結びつきを証明するために、1962~63年に巨大な樹皮画を制作し、創世期の精霊とヨロングの祖先との強い結びつきを主張したのであった。
 それにもかかわらず、1963年2月、メンジーズ首相(自由党)は、鉱山会社にリース(借地とする)することを表明する。これに対して、ヨロング族リーダー17人が、連名で連邦議会会員に請願書を提出する。それには、「鉱山開発の対象地に500人の人々が生活し、そこはヨロングの狩猟採集の場であり、祖先から継承してきた彼らの所有地であることが記されていた。」(同前 P.29~30)のであった。この請願書は、1963年8月末に下院に送付され、同年10月には、連邦政府の特別委員会が、「鉱山開発にともなう補償の支払い、対象地における聖地の保護、土地にかかわるアボリジナルの道徳的な諸権利の認知を内容とする」(同前 P.30)勧告を下す。しかし、それにもかかわらず、勧告書は肝心の鉱山開発そのものの中止はうたっていなかった。
 1966~67年には、北部準州(ノーザンテリトリー)西部の、世界最大のウェイブヒル牧場で、グリンジ系アボリジニを中心とする「牧童」たちが、劣悪な労働条件に業を煮やしストライキを行なう。その要求は、白人労働者との同一賃金の支払い、故地への帰還要求などであり、彼らは仕事をボイコットし、自分たちの本来の領地であるダグラグの地に戻って、土地を占拠した。
 1968年には、アーネムランドで、約2万haの土地が先住民の居留地から切り離され、84年間にわたり鉱山リースとなる契約が連邦政府と鉱山会社ナバルコとの間に交わされる事態となり、ゴーヴ半島訴訟がはじまる。これは、ヨロング系アボリジニの13氏族が、ボーキサイト採掘により聖地が破壊されるとして、鉱山開発の差止めを求めて提訴したのである。1971年の判決は“共同的な土地所有はオーストラリア法においては承認されない”として請求棄却となった。だが、この闘いはその後の運動で、土地権利法の制定が重視される重要な転回点となった。
 1970年―ビクトリア州で、「アボリジニ土地法」が成立し、アボリジニ居留地の一部が共有地として先住民共同体の運営管理に委ねられるようになる。
 1972年1月、連邦首都キャンベラの国会議事堂(現・旧議事堂)前の芝生広場に先住民の活動家たちが「アボリジニ大使館」を設営し、マスコミをして「先住民土地権」のスローガンを全世界にむけて発信させた(第一次「テント大使館」事件)。
 1972年、西オーストラリア州で、居留地の管理権を先住民組織(土地信託法人)に移行する行政措置がとられる。
 1972年12月、総選挙で労働党のウィットラム政権が誕生する。新首相は、北部準州のアボリジニへの土地供与方策について諮問する「先住民土地権特別調査委員会」を設置する。同委員会は2年間の調査を経て、1974年に、アボリジニの伝統的な領土への権利を回復させる必要があるなどと、「ウッドワード報告書」を作成する。この答申にもとづき1975年10月、「北部準州アボリジニ土地法案」が連邦議会に上呈される。ところが翌11月、オーストラリア憲政史上最大の事件と言われる、連邦総督によるウィットラム首相の解任と連邦議会の解散という突発事態が生じる。これにより、土地法案はいったん廃案となる。そして、総選挙を経て、政権は自由党のフレイザー政権に交替する。ただ、世論の広範な圧力も有り、同政権も1976年6月、土地法案は「北部準州アボリジニ土地権利法」案として、改めて議会にかけられる。その内容は、ほぼ前労働党案に沿ったものであり、同年暮れに可決成立する(1976年連邦法191号)。
 この「土地権利法」は、アボリジナルの伝統的土地所有者を次のように規定している。すなわち、「ある地域の出自集団に属し、その地域の特定の土地について精神的な帰属意識をもち、アボリジナルの伝統にしたがってその土地の全域を遊動する資格をもつ」者である。ここでいう「アボリジナルの伝統」については、「アボリジナルの集団がもつ伝承、儀礼、習慣、信仰をいい、それらの根幹が特定の土地あるいは事物、親族関係との関連において機能していること」としている(同前 P.34)。
 この1976年の連邦法(ただし、適用範囲は北部準州のみ)こそが、先住民土地権問題への本格的施策の始まりである。その理由は、対象となる土地の範囲が州政府レベルの対応に較べて格段に広がった(同州は政府所有地)こと、土地の管理・所有にとどまらない幅広い権利が認められたこと―などにある。また、「北部準州では、この土地権利法により、従来のアボリジニ居留区はすべて先住民共同体の所有する土地となった。また、地域別の先住民土地評議会が設立され、土地・資源・環境をめぐる様々な問題をアボリジニの立場にたって協議調整する機関として、今日にいたるまで重要な役割を果たしている。さらに未利用の国有地に対する先住民族からの返還請求権を認め、請求と審査の手続き、土地権認定の原則(アボリジニの文化伝統にもとづいてその土地と最も強い紐帯をもつ集団――多くの場合、特定の父系氏族を核とする集団――による共同所有かつ譲渡不可の永代保有)が樹立された。この請求手続き(ランド・クレイム)を通じて、今日までに北部準州の総面積の実に四九%までもが先住民領(アボリナル・ランド)として認定されることになった。ウェイブヒル事件……のグリンジの人々もあらためて請求をおこし、一九八三年にはダグラグ周辺の土地の永代共同保有権を取得した。」(細川弘明著「先住権のゆくえ―マボ論争からウィック論争へ」―『多文化主義・多言語主義の現在』人文書院 1997年 P.186~187)のであった。

    (7)「マボ判決」から「ウィック判決」へ

 1983年から1996年までは、労働党政権が続いた(ホーク首相とキーティング首相)。この間の1992年6月、社会に大きな衝撃をもたらした連邦最高裁の「マボ判決」が下される。これはトレス海峡東端の小さな島の所有権を先住民(ミリアム人)とクインズランド州政府が争った一〇年におよぶ訴訟の確定判決であり、ミリアムの長老エディーこと、コイキ・マボ氏(原告代表、判決前に病没)の名にちなんで「マボ判決」と呼ばれる。裁判は結論的に言えば、原告の先住民の勝訴である。
 「マボ判決」の結論となる多数意見(メイソン最高裁主席判事、ブレナン、ディーン、ツゥイ―、ゴードン、マクヒュウー判事 6対1)は、「1 マレー諸島の土地は、一九六二年のクインズランド州の土地法の第五節に明記されている意味での州有地ではない。」「2 ダウア島とワイア島、またオーストラリア伝道会に貸与された土地及び行政管理地として先住民土地権と両立しがたい部分を別とし、メリアム族はマレー諸島の土地を所有・居住・利用・享受する権利を有する」「3(略)」というのである。(同前 P.289)
 ブレナン判事はさらに踏み込み、「オーストラリア先住民の土地喪失は国王が統治権を取得した時点での所有権の移転によるものではなく、入植が拡大し土地が入植者に譲与されるに伴ない再々にわたり先住民族を祖先伝来の土地から追放する絶対権の行使によるものであった。……」(同前 P.290)と断定した。
 「マボ判決」が画期的なのは、「……実定法としての土地法や土地権利法を根拠にしたものではなく、歴史を二〇〇年以上遡って、英国による豪州統治の法的根拠そのものを見直すところにまで踏み込んだからである。英国が豪州大陸および周辺の島々の領有を宣言する前提となったのは、この大陸が『無主の地』(terra nullius テラ・ヌリウス)であったという国際法上の考え方である。それは必ずしも『無人島』という意味ではなく、住民(すなわち先住民)は存在するけれど彼らが有効な土地所有制度をもたない―――したがって国際法上は(西欧人の法概念からすれば、ということであるが)無人島と同等に評価される、という意味なのである。マボ判決はまずオーストラリアが当時『テラ・ヌリウス』だったという主張(法的虚構)を否定する。先住民族集団は固有の宗教観念(聖地神話)と生業様式(狩猟採集漁撈)による土地利用を通じて特定の領土と緊密なつながりを古くから確立しており、それは当時の英国(および現在の豪州)の慣習法(コモン・ロー)の体系において認定しうる有効な土地所有制度であった、ということが確認される。」(『多文化主義・多言語主義の現在』P.188~189)のであった。つまり、端的に言えば、植民地主義の根拠を全面的に否定したのである。
 1992年の「マボ判決」は、オーストラリア社会を震撼させ、ついでハチの巣をつついたかのような躰をもたらした。しかし、労働党政権(キーティング首相)はこの「マボ判決」を受けて先住権原の法制化に取り組む。連邦議会での与野党の激烈な議論と政治的駆け引きの結果、1993年12月、「先住権原法」(1993年連邦法第110号)が成立する。(先住権原とは、種々の先住権〔例えば、土地・水などの資源利用や祭祀活動を行なう権利など〕が派生する根拠をいう)
 この法律は、「先住権原の認定基準と請求手続き、競合するさまざまな利権(鉱山操業、探鉱活動、農牧業、観光業、建設業など)との調停のための基本枠組を定めたものである。同法九四年一月一日に施行され、先住民族の団体や個人からの先住権請求(先住権原確認請求)の処理機関として『国立先住権原審判所』(National Native Title Tribunal)が設立された。」(同前 P.192)のであった。こうして、各地の先住民族から数多くの請求が審判所に持ち込まれることとなる。
 だが同時に、先住権原の抹消確認を求める申請も、州政府、地方自治体、鉱山会社などから殺到する。というのは、「マボ判決」は西洋法に制約を加えるという優点をもつが、逆に劣点ももつ。すなわち、先住民が絶滅したり、伝統宗教・儀式ならびに伝統的生業を放棄したり、また行政処分(例えばダム建設など)がなされた場合は、先住権原は消滅するとされたからである。1)
 これらのことは、先住民問題の論点が、「土地権」から「先住権」に移行したことを示す。そこでの論点は、一つは「先住権」が具体的にはさまざまで、先住権とは何か―の争論となる。もう一つは、大陸面積の4割以上を占める牧場借地(国有地・州有地を企業や個人が牧畜業のために有償で使用している土地)に対して、先住権原の存在を認めるか否かの争論となる。
 そこに1996年12月、「ウィック判決」が下される。この判決もまた、「マボ判決」に劣らぬ衝撃をオーストラリア社会にもたらした。96年3月の総選挙で保守政権(自由党と国民党の連立)が13年ぶりに返り咲き、これにより先住民政策が反動化していたため、なおさら衝撃的であった。
 「ウィック判決」が下される経緯は、以下の通りである。クインズランド州北部、ヨーク岬半島南西部のアボリジニ集団ウィックおよびターヨラは、彼らの伝統的な領土(テリトリー)に対する先住権原確認請求を1993年6月に提訴した。これは、問題の土地が牧場借地として登記済みであったため、連邦裁(下級審)は先住権原が消滅したと判断し、アボリジニの敗訴となった。これは、先住権原法が1994年1月に施行される以前の裁判であった。
 だが、先住民たちは下級審の判決を承服せず上告し、1996年12月に上級審(最高裁)の判決が下される。これは、「牧場借地の認可は必ずしも先住権原を抹消しない(すなわち、牧場主の権利とアボリジニの先住権とは併存しうる――ただし両者が物理的に競合する場合には牧場主の権利が優先される)というもの」(前記の細川論文 P.194)であった。
 同判決の後、社会の対立は深まり、保守政権(自由党と国民党の連立)は、アボリジニの先住権請求上の既得権(特に「交渉権」)を制限したり、審査認定基準を厳しくしたり、また水域を先住権の対象から外し、日没条項(請求締切り期限)を導入するなど、10項目の反動的な対策案を議会に提案した。
 そして、1998年には、先住権原修正法が成立し、先住権原の認定条件が厳しくなった。だが、2001年には、クローカー島判決で、海域に関しても先住権原が認められ、2006年には、ニューンガー判決で、パースの都市圏でも先住権原の存在が認定されている。先住権原をめぐる攻防は続けられているのである。 (つづく)

注1)マボ判決は、無主地先占の法理を否定したが、英国王の主権獲得は否定しなかった。そのため、先住民の権原―権利とコモンローとの矛盾を調整するために、ブルジョア的な私権が設定されていない土地に対してのみ先住権を保障した。詳しくは、吉川和弘著「先住権の保障―アボリジニとアイヌ民族」(『東海法学』第14号に所収 1995年)を参照。