広がる先住民族の闘いと深まる先住権思想⑩
 移民政策の転換と多文化主義
               堀込 純一


  Ⅲ 「無主地」観念否定の画期的な「マボ判決」

(1)先住民アボリジニの生活

 オーストラリア大陸の北海岸部のアーネムランドにある古い遺跡は、年代測定によって約5万年前のものと言われている。大陸全体に広がった先住民アボリジニは、最終氷河期の寒冷化が底に達した時期に、「東南アジア方面からチモール海、アラフラ海(共に大陸北海岸部と東チモールの間)に浮かぶ島々を経由して、現在のトーレス海峡(大陸とパプアニューギニアが最も近接した所)を渡ってオーストラリアまで移住してきた人々」(『概説オーストラリア史』有斐閣選書 1988年 P.298)と考えられている。
 アボリジニの経済は、「物々交換によって生活の糧を手に入れることもあったが、基本的には動植物など自然の恵みに依存していた。自ら耕作すること、あるいは飼育することがなかったため、食料はまさに自らの特定の領土の自然の恵みにすべてを依存していた。彼らは、でたらめにあちこちを放浪していたのではなく、先祖の時代より決められた土地すなわちカントリーと呼ばれる特定の領域を、季節の変化にともない、食料を求めて極めて正確なサイクルに従って移動していた」(同前 P.302)のである。
 したがって、彼らの宗教は、自然の恵みを与えてくれる土地と深く結びついたものとなる。その宗教生活の中心は、ドリーミングの思想と言われる。「ドリーミングとは、神々がこの地を創造し数々の生命を生み出し、人間世界の秩序を確立した天地創造の時代の出来事をさす。神々は肉体的世界では死んだりその姿を変えたりするが、精神的世界では永遠に滅びることなく、その姿を聖地、動植物、自然現象などの形にとどめている。ドリーミングは神話の時代にとどまらず現在も続いており、神話の創造物は姿を変え相補いながら循環しているのである。したがって人間の生死やアイデンティティもその一部に含まれと考えられており、彼らの生活観や存在そのものを支配している。」(『ブリタニカ国際大百科事典』第3巻 P.362)のである。このように、アボリジニと土地との結びつきは、すぐれて重要かつ不可欠なものである。
 しかし、近年、上記の通説を批判する研究が発表されている。すなわち、ブルース・バスコウ著『ダーク・エミュー アボリジナル・オーストラリアの「真実」』(明石書店 2022年)である。同書によると、重要な批判点は、①ビクトリア州のホピキンス川の貝塚の古さである。「貝塚はとても古くて、岩になってしまっている。ついに調査がおこなわれたとき、貝塚は8万年前のものだとわかったが、それはアフリカ単一起源説(*人類発生に関する)がいうところの人類がアフリカを出発しはじめたときから1万年前である。」(同前 P.60)というのである。②白人がオーストラリアに入植する以前に、同地は農耕経済(根菜類や穀物など)が広がっていたというのである。著者はこれを、白人探検家たちの記録を再検討する中で論証した。
 バスコウの説をめぐっては、マスコミのみならず、専門学者、先住民の間でも大論争が展開されているようであるが、その結果は非常に関心が引き付けられるものである。
 
(2)イギリス領植民地の形成

 18世紀は、ヨーロッパのいくつかの探検隊が、オーストラリア大陸や周辺の海洋を調査している。その中で、1770年8月、J・クックが大陸東部のイギリス領宣言を行なう(大陸全体の領有宣言は1829年)。1788年1月には、アーサー・フィリップの率いる11隻の第一次船団(総員1473名。その内、囚人が778名)が到着し、ポート・ジャクソン湾のシドニー・コープで入植を開始した。この地は、1809年以降、ニュー・サウス・ウェールズ(以下、NSWと略)植民地として軌道に乗った。その後、パン・ディ―メンズ(のちタスマニア)、クィーンズランド、ウェスタン・オーストラリア、ビクトリア、サウス・オーストラリアの各植民地が作られた。
 その後も、内陸部の探検が続けられ、先住民アボリジニを追い出しながら、広大な農牧地が開発された。
 植民地では当初は、エマンシピスト(満期出獄した元流刑囚)とエクスクルージョニスト(排他主義者)の対立が目立ったが、1840年代に入ると、元流刑囚とカレンシー・ラッド(イギリス本国生まれをスターリングと呼んだのに対応して、植民地生まれを指した)の数が自由移民をうわ回ると、スクオッター(大牧場主)対小農場主や毛刈り職人の移動労働者との対立に置き換わった。
 1821~25年は、T・ブリスベンがNSW植民地の総督の時代であるが、オーストラリアは「流刑植民地から英領自治植民地」へ転換する時期であった。「この頃までには陪審員による裁判、植民地人による立法、行政機関などの設置要求――本国よりも植民地側の自主的な政治形態の獲得を望む声は、エマンシピスト・グループを中心に叫ばれはじめていたが、本国議会を通過した植民地の仕法改善に関する『一八二三年NSW法』によって、ようやく総督を補佐するかたちで任命制の初期植民地評議会(五~七人)が誕生した。しかしながら、総督には法案の発議権が残され、議員の任命権も総督にあり、通常は本国当局の同意を必要としたから、議員のすべては役人で占められた。ただし、首席判事には、英国違法に照らし合わせて違憲立法審査権を委ねた。」(『概説オーストラリア史』P.37)のであった。
 NSW植民地評議会は、このように限定的なものであったが、その後、他の4植民地も設立とほとんど同時に(1825~59年)に、評議会が設けられた。
 NSW植民地では、1820~30年代にかけて、牧羊業が大いに発展し、経済の基幹産業となる。それとともに羊毛輸出が、1830年代半ばには輸出のトップであった漁業を抜き去り、輸出全体の三分の一を占めるほどになった。(さらに1850年代にまでには、輸出産品の半分を超えるまでに成長した。)
 これにより、スクオッター(大牧場主)などは、土地規制を無視し、植民地内の国有地解放要求が高まる。「見かねた本国植民地省は一八三一年、R・バーク新総督が着任する直前、従来の土地の無償提供をやめ、王領土(クラウンランド)を一エーカー当たり最低五シリングで競売にかけて売り出す英断を下したのである。同時にオーストラリア農業会社を設立、土地の分譲促進の機関とした。」(同前 P.39)のであった。
 しかし、新たな政策により、土地は富裕層に集中し、土地を求めた移住者による西方進出とスクオッターの急増となった。
 各植民地の評議会は、このスクオッターに牛耳られて行くのであるが、各植民地間の関税、中国人移民問題など、相互に調整すべき問題を討議するために、1863年以来、各植民地の首相が集まって会議がもたれ、それがやがて1901年に形成される連邦国家(内政の自治権をもったが外交権は無い)の確立、対英独立へ向う実務母体となる。
 連邦制国家が確立する前年の1900年、連邦憲法が制定される。連邦憲法の規定によると、連邦と6つの州の関係は、上下関係ではなくむしろ並列関係である。このことは、総督の存在に示されている。すなわち、オーストラリアの元首はイギリス王(兼任)でもあるが、王の名代である総督は、連邦のみならず6つの州にもそれぞれ置かれている。また、各州は独自の憲法・二院制の議会(クインズランド州のみは一院制)、議員内閣制の政府をもっている。
 さらに、「連邦憲法は、連邦政府の権限を、国防、外交、通貨など限定的に列挙している一方で、州政府の行政権限は幅広く認めており、しかもこの規定内容は、一九〇一年の連邦結成以来ほとんど変わっていない。」(久保信保・宮崎正壽共著『オーストラリアの政治と行政』ぎょうせい 1990年 P.209)のである。

(3)連邦形成を必要とした共通課題

 1850年代からの連邦形成運動において、すべての植民地に共通した重要課題は、次の三つの問題であった。①保護関税、②白豪主義、③国防―である。
 第一に、保護関税に関わって、最初に関税を採用したのはNSW(ニューサウスウェールズ)である。もともと税収が限られていた植民地政府にとって、関税は安定した収入源のため、瞬く間に他のすべての植民地でも導入された。ただ、NSW(羊毛産業が強い)では全体として租税収入が相対的に多く、関税率はほとんどが10%(カーペット生地や陶磁器などは15%)程度である。これに対して、ビクトリア(工業化を積極的に進めた)は15~45%の関税率で、歳入に占める関税収入の比率は高かった。
 しかし、「商品流通が盛んになるに従って、関税制度の煩雑さと非効率性が批判の的になり、オーストラリア全体で統一制度の採用が求められるようになった。」(竹田いさみ著『物語 オーストラリアの歴史』中公新書 2000年P.84)のであった。連邦が結成された時(1901年)、NSW州とビクトリア州の間でまだ関税の税率をめぐって争いがあった。しかし、「二〇世紀になると、保護関税と産業育成の問題は国策のごとき扱いをうけるようになり、オーストラリア製造業と関税保護は切っても切れない問題となって、オーストラリアの人びとのエートスの一部となっていったのである。二〇世紀の工業化は、保護と助成の歴史でもあった」(『概説オーストラリア史』P.71)のである。
 第二の白豪主義については、本シリーズのテーマに深くかかわるので、次節において検討する。
 第三は、ヨーロッパの諸帝国主義による南太平洋諸島の領有権争いが、オーストラリアの身近で展開される中での国防問題である。イギリス政府は、1865年に、「植民地海軍防衛法」を制定し、オーストラリアの諸植民地が自主防衛をすすめるようにと促し、1870年には、オーストラリア駐留軍を撤退さていた。
 ドイツ、フランス、ロシアなどの南太平洋への侵出は、当然のこととしてイギリス―オーストラリア植民地との緊張関係を現実のものとする。
 膨張するロシアは、南下政策の一環として、オスマントルコ領内のギリシャ正教徒を保護する目的で、イスラム教徒が支配するトルコに戦争を仕掛けた。クリミア戦争(1853~56年)である。イギリス、フランスは、トルコを支援しロシアと戦ったので、イギリス帝国の一員であるオーストラリアの諸植民地も、ロシアと対立することとなる。このとき、NSW植民地総督ウィリアム・デニソンは、シドニー湾に「デニソン要塞」を建設する(1854年)。軍事大国をめざすロシアの南下政策は、露土戦争(1877~78年)や、ロシアの東アジア進出をもくろむシベリア鉄道の完成(1891~1916年)などと続く。幕末期、ロシアは日本との間でも、樺太(サハリン)や千島列島をめぐる領有権争いを展開する。
 フランスは、1840年代から南太平洋に進出し、1853年にニューカレドニアを、1864年にロイヤルティ諸島を領有した。1880~90年代には、仏領ポリネシアを植民地化した。
 ドイツは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてイギリスとの間で、建艦競争を展開し、イギリス帝国の仮想敵国となった。国家統一が遅れたドイツは1871年に帝国を成立させ、ビスマルクの下で遅ればせながら植民地獲得に乗り出す。ドイツは、1884年にアフリカ分割に関するベルリン会議を開催したころから、南太平洋への進出を決断する。ドイツは、1884年から99年の間に、ニューギニア、ビスマルク諸島、ナウル、西サモア、マリアナ、カロリン、マーシャル諸島を領有化する。とりわけ、1884年にニューギニア北東部とビスマルク諸島がドイツ領になると、植民地オーストラリアの危機感は、いっそう現実のものとなった。
 
(4)白豪主義と中国人移民規制法

 オーストラリアは、従来から白豪主義の国として知られてきた。白豪とは、「白人のためのオーストラリア」であり、白人を構成員とするイギリス系社会を建設するという意味である。確かに、白人主体の人種差別的な政策は、オーストラリアに特有なものでなく、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、南アフリカなどで、歴史上とられてきた。しかし、人種差別を法制化した白豪政策が、国家建設にとって最も重要な国策と強調した国こそが、オーストラリアであった。白豪政策を根拠づける法律が、1901年に制定された移住制限法である。これは、永住と定住を目的に入国する行為を制限する法律である。まさに白豪主義の核心は、中国人など「有色人種」(この言葉は差別語とされ、「非白人」に置き換えられた)への差別、排外思想である。
 オーストラリアにおける中国人など非白人への差別・排外にも、それ固有の歴史がある。「移住制限法は一九〇一年に突然生れたものではない。〔*オーストラリアの〕植民地はそれぞれ独自の判断で、一九世紀後半に中国人排斥や有色人種排斥法を制定しており、移住制限法はこれらの植民地法を一本化し、より洗練されたものにまとめあげたものに過ぎない。」(竹田いさみ著『物語 オーストラリアの歴史』 P.40)といわれる。
 非白人の流入は、植民地時代の初めからあったようであるが、イギリス政府は1840年にニューサウスウェールズ(NSW)への流刑を廃止する。1853年にはタスマニアへの流刑も廃止された。この頃から、「自由な移民」の時代となっていった。だが、NSWやビクトリアで金鉱が発見された1851年頃からの移民増大が、画期をなす。中国人は、ゴールドラッシュの時期に金鉱掘りとして、中国南部から大量に流入してきた。そして、当初より白人とのトラブルが発生している。
 こうして、「一八五五年には、早くもビクトリア植民地で中国人入国に対して、一人当たり一〇ポンド(二〇ドル)の人頭税に類するものを課税して、移住制限をした。これは東南部の他の植民地にもすぐに波及した。しかし、ゴールドラッシュが東南部から東北部に移っていくにつれて、クイーンズランド植民地でも紛争が起こり、一八七七年には『中国人移民制限法』が制定された。その結果、労働組合や政治家の間でも有色人問題が植民地レベルの問題として取り上げられるようになり、一八九六年にはNSW植民地において『有色人種制限および取締法』が制定された。これは、一九〇一年の連邦『移住制限法』の原形となった。」(『概説オーストラリア史』P.72~73)のである。
 ゴールドラッシュ後、残った中国人は野菜作りや家具職人など他の職種に参入し、その多くが都市に住むようになった。1860年代になると、クイーンズランド植民地の砂糖キビプランテーションの労働力として、南太平洋諸島人が導入された。「クイーンズランドの東海岸の開拓は、サトウキビ栽培の展開によって進められる。農地の開墾とサトウキビ栽培には、安価で大量の労働力が必要であり、白人労働者の賃金の高いオーストラリアでは、その調達が困難であった。資本家たちは、メラネシアの島々に労働力を求め、カナカと呼ばれる年季契約労働者を導入し、この問題に対処した。しかし、メラネシア人の労働条件は悪く、その調達方法も誘拐(blackbirding)に等しいと非難され、カナカ労働は、労働組合や人道主義者による攻撃の的になった。」(『オーストラリアの歴史』有斐閣アルマ P.104)のであった。
 1870年代になると、オーストラリア北部で真珠貝採りダイバーとして日本人が導入された。しかし、南太平洋諸島人や日本人は、中国人の場合と異なり、「一般オーストラリア人の目に触れなかったし、スト破りのための低賃金労働者としても利用されず、紛争に巻き込まれることはなかった。」(『概説オーストラリア史』P.73)ようである。
 1880年代、オーストラリアには約4万人の中国人と約220万人の白人が存在していた。「当時シドニーやブリスベンでは、ごろつきどもが中国人を襲撃したり、中国人が経営する商店を打ち壊したりした。1880年メルボルンでは、労働組合員たちが反中国人同盟を結成し、中国人が低賃金で働き、労働組合に加入しないため、自分たちの職が奪われていると主張した。」(『オーストラリアの歴史』有斐閣アルマ P.111~112)のであった。1886年の第4回植民地間労働組合会議でも、①白人労働者とアジア人労働者との競争は、全く公正ではないこと、②中国人を有する地域社会が不道徳な傾向にあること―を理由に、「中国人ならびにクーリー移民の全面的禁止を速やかに行う時期にきている」(同前 P.112~113)と主張した。
 中国人に対する反感が拡大するとともに、19世紀後半、極東において軍事大国化しつつある日本への警戒も加わり、非白人に対する移住制限が強まるようになる。大不況期(19世紀末期)になると、南太平洋諸島人と白人の間では職の奪い合いとなり、1901年制定の連邦政府の「太平洋諸島労働者法」によって彼らは強制送還となった。
 オーストラリア経済の発展にともなう労働力不足が、ヨーロッパ人、インド人、中国人、南太平洋諸島人、日本人などの労働者によって補われた。しかし、ここではあくまでもアングロサクソン系を中心としたヨーロッパ人は移民の対象であったが、前記のような非白人は移民ではなく契約労働者としての移住であった。従って、彼らは永住できるわけがなく、契約が終わると帰国せざるを得なかった。
 非ヨーロッパ人に対する排除は、思想的には、低賃金や劣等人種によるイギリス文化の汚染といった「黄禍論」や人種的優越性論がベースとなっていた。
 前述のように、1901年に連邦が形成されると、植民地時代の各地の移住制限の法律が統一され、アジア人や南太平洋人の移住制限や国外退去が整備された。しかし、だからといって、非白人労働者が皆無となったわけではない。連邦形成以前に土地を購入していたり、結婚して市民権を得たりしたり、さらに経済的に寄与すると考えられた人々には、たとえ非白人であっても定住が許可されていたからである。
 1901年の「連邦移住制限法」は、表面的には、特殊な病気、特定の政治信念、経済的な活動能力の不足などを基準として移住制限行なった。だが、さらに恣意的で差別的な移住制限は、「ヨーロッパ言語の書き取りテスト」である。
 入国審査は、きわめて単純明快で、白人は無審査で入国できたが、「有色人種」は入国を拒否されるというものである。しかし、「有色人種であるとの理由から拒否するとあまりに露骨なので、教育程度の有無を入国資格の条件にした。その正体は、語学の書き取りテスト(ディクテーション)であった。アジア人などの有色人種はこのテストを受け、そしてほぼ全員が不合格になるというシステムである。/書き取りテストは英語ではなく、ヨーロッパ語に指定されており、五〇語の設問が用意されていた。たとえばフランス語が堪能なアジア人が受験すればドイツ語で試験を受け、フランス語とドイツ語が得意であれば、イタリア語やスペイン語の試験問題を提出するというふうであった。」書き取りテストの言語は、ヨーロッパ大陸の少数言語を含めて数種類が用意され、高学歴のアジア系労働者でさえ、必ず不合格にできるシステムを構築していた。」(『物語 オーストラリアの歴史』P.44~45)のであった。
 しかし、明示的な非ヨーロッパ系移民に対する制限は、1920年に一応廃止された。それでも現実には、イギリス系・アイルランド系移民の優先、非ヨーロッパ系移民の実際上の制限は、依然として残っていた。従って、1958年の移民法改正までは、「連邦移住制限法」は機能し、「書き取りテスト」は存続されていたのである。 (つづく)