広がる先住民族の闘いと深まる先住権思想⑧

 英仏系の対立・妥協から連邦制へ
                              堀込 純一


     Ⅱ カナダ連邦の形成と多文化主義の発展

 フレンチ・アンド・インディアン戦争(1754~63年)の講和(パリ条約)によって、フランスは北米植民地(ヌーヴェル・フランス)のほとんどを失った。この時、ヌーヴェル・フランスはケベック植民地と改称される。そして、約5万人のフランス系カナダ人が、イギリス国籍となる。

(1)英仏系カナダ人の対立と妥協

 パリ条約から8カ月後の1763年10月ジョージ3世の「国王宣言」が、布告された(本シリーズ②を参照)。それは、アメリカ先住民の「アンティアックの乱」に直面し、先住民との軋轢を回避した形での新たな北米支配構想であった。他方、「国王宣言」は、フランス系に対しては厳しい態度をとった。それは、ケベックのイギリス化を目的として、カトリック教徒を排除した代議制度の導入であった。しかし、当時、住民の95%を占めていたフランス系を無視した制度は、いかなるものでも非現実的であった。
 総督マレーが罷免され、後任にはガイ・カールトンが任命されたが、彼は前任者以上に、フランス系住人からの支持と忠誠を確保する必要性を確信した。
 このカールトンの進言を容れて、1774年6月に、イギリス帝国議会で可決されたのが「ケベック法」である。「同法は、フランス系に旧来の領主制の存続を保証しただけでなく、カトリック教会の十分の一税徴収権を認め、イギリス刑法を適用する一方でフランス民法を存続させ、任命制の立法評議会に多くのカトリック教徒を任命する。」(木村和男編著『カナダ史』山川出版社 1999年 P.116)ものであった。
 アメリカ独立戦争(1775~83年)は、その副産物として、大規模な亡命者集団を生み出した。すなわち、あくまでもイギリスを支持するロイヤリスト(王党派)部隊の除隊者、解放された黒人、先住民(アメリカ・インディアン)の一部である。彼らは、ノヴァスコシアとケベックに向かった。
 これに対し、イギリス政府はロイヤリストを英領北アメリカに輸送するため多額の資金を提供し、再入植のための援助などを与えた。しかし、これらは極めて不平等であったといわれる。土地の許与は、ロイヤリスト部隊の一般兵卒よりも将校たちに手厚かった。黒人が受け取った土地は白人よりも小さく、ノヴァスコシアに輸送された三〇〇〇人の解放黒人のうち、多少とも土地を与えられたのは三分の一だけで、その多くは農耕には不向きな遠隔地の小さな土地だった。幻滅した黒人たち1100人以上は、1792年に西アフリカのシエラ・レオネへ再移した。(『カナダの歴史』刀水書房 1997年 P.42)
 先住民もまた、同じであった。「一〇〇〇人以上のイロコワ(*イロクォイのこと)戦士がイギリスのために戦い、……相当数の革命軍を釘づけにした。しかし、インディアンの権利はパリ条約ではまったく言及されず、イギリスはアメリカに五大湖の南側の先住民の土地支配権を委譲してしまい、先住民はこの委譲を決して感謝しはしなかった。イギリスのために戦ったイロコワや他の先住民の多くも難民となり、故郷の土地を捨てた。……英領北アメリカでの彼らの地位は、もはやイギリスの同盟者ではなく臣下におとしめられてしまった。」(同前 P.42)のである。
 沿海植民地とは別に、陸路でケベック植民地の西側(現在のオンタリオ州)へ、約1万人のロイヤリストが移住している。この内陸部へのイギリス系のまとまった移民は初めてである。彼らは、フランス系との共存を嫌い、ノヴァスコシアと同様に、本国政府へ独自の植民地創設を要求した。フランス系もまた、「ロイヤリストの干渉」を恐れた。
 1791年12月、イギリス帝国議会は、「カナダ法(立憲法)」を制定する。この法は、ケベック植民地をセントローレンス川上流域のアッパー・カナダ植民地と下流域のローワー・カナダ植民地に分割し、それぞれの植民地に議会設置をふくむイギリスの植民地統治体制を整えるものである。
 「両植民地には代議制の立法議会が認められ、一定の財産を満たす先住民以外の成人男子に選挙権が与えられた。各植民地では本国政府が任命する総督(ロアー・カナダの総督がイギリス領北アメリカ総督を兼任し、他の北アメリカ植民地では副総督と称する)が、『上院』に相当する立法評議会メンバーを選任し、やはり総督の選任による行政評議会が彼の個人的な『内閣』として機能することになった。つまり、総督が君主的、評議会が貴族的、議会が民主的な要素を代表し、三者が相互にバランスをとることで、『健全な統治』が期待された」(木村和男編『カナダ史』山川出版社 P.125 ゴチックは、引用者による。)のである。なお、この法で初めてカナダの称が使われた。
 当時の議会制は、当然のこととして、内実は帝国の植民地支配が根幹にあり、総督は議会立法に対して拒否権があり、また、立法評議会も行政評議会もそのメンバーを選任したのは総督である。しかも総督は、公有地(パブリック・ランド)の七分の一を占めていた聖職者保留地(実際にはイギリス国教会向け)も支配していた。
 アメリカ独立戦争後、しばらくは英米の間は静かであったが、フランス革命戦争で1793年に英仏間の戦争がはじまると、北アメリカ情勢も大きく動揺するようになる。1812年から始まった、第二次英米戦争である。この戦争では英米いずれも決定的勝利を挙げぬまに膠着状態となり、1814年12月のガン条約で終結となる。英米は、1817年と1818年の協定で、五大湖での英米軍の武装が解除され、アメリカ・カナダ間の国境線は北緯49度の線でウッズ湖からロッキー山脈に至るまで延長され、ロッキー山脈以西のオレゴン領地は、向こう10年間、英米両国の共有とされた。ただ全体的にみるとイギリス側が善戦したとはいえ、北アメリカの軍事バランスはアメリカ側に決定的に傾いていった。

(2)責任政府の確立などを要求

 19世紀中期頃からカナダへの移民は、洪水的に増大する。「一八一五~六五年の間に百万をはるかに越える人々が、英領北アメリカの港をめざして大西洋をわたった。少数の非イギリス系――とくにドイツ人――もいたとはいえ、圧倒的多数はイギリス諸島からの移民だった。」(『カナダの歴史』刀水書房 P.60)といわれる。
 このような時代状況下で、もちろん個別植民地の事情もあったが、多くの植民地では英仏系の対立を背景にした政治制度の改革が中心問題となった。
 改革派は、①上院(立法評議会)も選挙制にすること(その延長には総督も官吏も将来的には選挙制にするべき)、②総督の諮問機関である行政評議会(内閣に相当)は、選挙制の下院(立法議会)に責任を負うべき「責任政府」すること―を強調した。
 1834年2月、ローワー・カナダ議会が、植民地政府の寡頭政治を非難する「92カ条の決議」を採択する。1837年1月、ノヴァスコシア議会で、ジョセフ・ハウ(ジャーナリストでロイヤリストの末裔)が、寡頭政治を批判し「責任政府」を求める「12カ条の決議」を提出する。
 そして、1837年11月、ローワー・カナダとアッパー・カナダで立て続けに反乱が勃発する。前者は、11月6日、モントリオールでルイ・ジョセフ・パピノーを指導者にして、フランス系愛国者党が起こしたものである。後者は、同月25日、ウィリアム・ライアン・マッケンジー(スコットランド系の移民でジャーナリスト)が臨時政府樹立を宣言し、12月5日にトロントで反乱する。両者は直接的な関係はなく、いずれの蜂起も短期で鎮圧された。2つの蜂起の指導者は、アメリカ合州国へ逃亡する。
 大規模な内乱とはならなかったとはいえ、本国には大きな衝撃をあたえ、イギリス政府はヘッド総督を罷免し、ダラム伯爵を英領北アメリカ全体の総督に任命し、反乱の原因と善後策を調査するように命令した。ダラムは1838年5月から約5か月間植民地で調査し、翌年2月、『英領北アメリカ情勢に関する報告書』(通称『ダラム報告』)をイギリス議会に提出した。
 この報告で、ダラムは英領北アメリカ植民地全体の実情を報告するとともに、反乱の原因をイギリス系とフランス系の民族間抗争と、現地の寡頭政治にあるとした。そして、この結果を踏まえて、①アッパー・カナダ(現・オンタリオ州にほぼ相当)とローワー・カナダ(現・ケベック州にほぼ相当)の2植民地の合同、②合同後は、「責任政府」(政府が議会に責任を負うこと)の付与、③政治形態の変革などを除くすべての権限の植民地政府への移譲を骨子とする勧告を行なった(詳しくは『史料が語るカナダ』有斐閣 P.40~41を参照)。ここでの最大の狙いは、合同することによってフランス系を少数派に落とし込み、同化させることである。
 1841年2月、「カナダ連合法」が発効し、アッパー・カナダとローワー・カナダが統合されて、連合カナダ植民地が成立する(首府はキングストン)。1848年2月、ノヴァスコシアは英領植民地では最初の「責任政府」が認められた。その一カ月後に「連合カナダ」も同じように「責任政府」が認められる。同年中には、ニュープランズウィックでも、また1851年に、プリンスエドワード島でも「責任政府」が認められる。連合カナダは、1840年代、獲得した自治権により、フランス民法を集成して法典を作成したり、教会と政治を分離させたり、フランス語を公用語としたりした。また、公立学校制度の制定、上院を選挙制に改定するなどした。
 だが、1840年代は、北西部で毛皮取引を独占的におこなっていたハドソン湾会社の経営を、脅かす動きがアメリカ側から強まる。レッドリヴァー植民地がアメリカ毛皮商人と直接交易を始めたり、オレゴン領地の米英共同統治に終止符がうたれたりする。1850年代になると、太平洋岸のブリティッシュ・コロンビアのフレーザー河畔で金が発見され、アメリカから採金者が大挙押し寄せ、アメリカ合州国からの圧力がさらに強まる。また、1850年代の英領北アメリカの鉄道ブームを担ったグランドトランク鉄道は、アメリカの鉄道や水路を担う会社との競争に敗れ、1861年までに1300万ドルの負債を抱え込む。社会資本の弱い当地でグランドトランク鉄道は政府の資金援助が多く(このため政治家との癒着が常態化)、同鉄道の経営危機は連合カナダの財政危機の主因となる。
 アメリカ合州国との対立は、政治面でも顕著となる。1865年からのアメリカ南北戦争に際し、イギリスは実際には南部側に好意的な「中立宣言」を発し、北部側はイギリスのみならず英領北アメリカ植民地への敵意を高めた。このため、合州国内部では、「カナダ併合論」が声高となった。
 1850年代後半になると、英領北アメリカ植民地全域を統一して、連邦にしようとする構想が真剣に検討されるようになる。「連合カナダ」では、英仏系(東西カナダ)の対立に加えて、諸政党の離合集散が繰り返されて、「政局はきわめて不安定で、一八四一~六七年の間に一八もの内閣が成立・崩壊を繰り返す……」(『カナダの歴史』刀水書房 P.92)始末であった。「連合カナダ」の政治的な行き詰まりは、明白である。
 1864年6月、ついに「大連立内閣」が成立する事態となった。改革派のジョージ・ブラウン(イギリス系)が、保守派であり、かつ長年の政敵であるジョン・アレクサンダー・マクドナルド(イギリス系)とジョルジュ・エティエンヌ・カルティエ(フランス系)に連立を働きかけ、①北アメリカの植民地全体での連邦結成、②議会選挙での人口比例代表制の導入、③西部ルバーツランドのカナダ編入と大陸横断鉄道の建設―を共通の目標とした連立内閣の実現である。ブラウンが人口比例代表制と西部への農地拡大、マクドナルドとカルティエがグランドトランク鉄道とモントリオール商業の救済に力点の違いはあったが、三者はいずれもアメリカ合州国の膨張と圧力から、英領北アメリカの植民地の維持・独立で共通していた。
 これには、フランス系に大きな影響力をもつカトリック聖職者団も連邦結成支持に回り、従来、連邦結成に消極的であったイギリス本国もアメリカ合州国との対立関係から積極的となった。唯一、フランス系急進派であるルージュだけが取り残される形となった。(しかし、このことはフランス系ナショナリストの連邦結成への嫌悪感を今日に至るまで持続させた)
 他方、ノヴァスコシア、ニューブランズウィック、プリンスエドワードの三植民地は、連合カナダとはほとんど経済的・人的交流もなく、独自に「沿海同盟」の計画を進めていた。だが、北アメリカ植民地全体の連邦結成を目指していた大連立内閣は、1864年9月、三植民地のシャーロットタウン会議に強引に参加し、連邦結成を説得する。翌10月には、ニューファンドランドも含んだ五植民地の代表が参加したケベック会議が開かれ、ここで連邦結成の大綱となる「ケベック決議」が採択される。
 72カ条の決議中、もっとも重要なのは、連邦政府と州政府との間の権限分担を規定する連邦体制の枠組みである。イギリスへの同化を拒否するフランス系カナダ人はもとより、旧来の自治権に固執する沿岸植民地は、イギリス系や連合カナダの中央集権制に反発した。それゆえ「マクドナルドは妥協として、形式的にはアメリカ的な連邦制度を採用しつつも、実質的には財政、軍事、鉄道、金融などを含む、『平和、秩序、よき統治のための立法』権をオタワの連邦議会に集中し、各州議会には教育、民法、公有地管理など、おもにローカルな事項の立法権のみを認め、しかも連邦政府には、州議会が可決した法律への拒否権をも与える、高度の中央集権体制を創出しようとした。」(木村和男編著『カナダ史』 P.174)と言われる。そこでは、南北戦争にまで発展した合衆国の連邦制は、州権があまりにも強いことに要因があったとみられていた。
 「連邦結成論争」は、1865年2月から、連合カナダ会議などで開始された。論争は激しく展開されたようであるが、1866年12月には連合カナダ、ノヴァスコシア、ニューブランズウィックの三植民地代表が訪英し、本国政府との最終折衝となる「ロンドン会議」が開催された。同会議は翌年2月までに、「ケベック決議」に形式的な修正を加えて、最終的に143カ条からなる「イギリス領北アメリカ法」(BNA法と略)がまとめ上げられた。
 BNA法は、その後も長くカナダ連邦の基本法として機能している。ただ、アメリカ合州国憲法(1787年)と比較した場合、次のような違いが特徴となっている。①合州国憲法がアメリカ人の手によって制定されたのに対して、BNA法はイギリス議会によった制定された形となっている。②連邦―州間の統治権限の配分が対照的である。合州国の場合は、連邦の権限が憲法上列挙された事項に限定されている(「州権中心型」)に対して、BNA法の場合は、一般的統治権を連邦に配する「連邦権中心型」となっている(『史料が語るカナダ』のP.59~61を参照)。③BNA法には、合州国憲法の重要な構成要素である「基本的人権の保障に関する規定」が欠如している。まさに植民地法の限界である。
 当時、人口構成はイギリス系が約6割、フランス系が約3割で、他の民族集団や先住民は合わせても約8%で無視された。従って、新生カナダの憲法的規範となったイギリス領北アメリカ法(BNA法)は、建国の2民族(英仏系)の間での「契約」のような性格となっている。
 1867年7月1日、連邦結成(コンフェデレーション)によって、「カナダ自治領(ドミニオン・オブ・カナダ)」が成立する。それは、オンタリオ州(かつての西カナダ)、ケベック州(かつての東カナダ)、ノヴァスコシア州、ニューブランズウィック州からなっている。しかし、カナダ自治領は、まだ主権国家の成立、あるいはイギリス本国からの独立を意味したものではない。いまだ、アメリカ合州国による併合の危機は完全には取り除かれておらず、本国の保護が必要だったのである。1)
 それでもカナダ自治領の政府は、西への膨張による大陸横断国家建設の野望は盛んなものであった。1868年からカナダ政府は、ロンドンでハドソン湾会社との領土委譲交渉に入る。カナダ自治領の西方は、五大湖からロッキー山脈に至るまで同社の領有地(当初のカナダ自治領の8倍近い面積)であったからである。(現・カナダの太平洋岸は、1849年にヴァンクーバー王領植民地が建設され、1857年にフレーザー河畔で金鉱が発見されると、翌年にブリテッシュ・コロンビア植民地が建設されている)
 1868年7月、イギリス議会でルパーツランド法が成立し、比較的「安値」でハドソン湾会社領有のルパーツランドが購入された。そして、カナダ連邦政府が鉄道助成や農業用地として自由に処分できる「連邦保有地」となった。ルパーツランド法によって連邦の性格は、大きく変化した。カナダは複数の州の対等な統合体から、州と準州の双方をもつ「帝国」に転換した。議会ではなくカナダ総督に対して責任をもつ行政評議会が統治する準州は、事実上の国内植民地にほかならなかったからである。(ダグラス・フランシス、木村和男編著『カナダの地域と民族』P.9)〔同地は、1869年12月を期して、ノースウェスト準州として連邦に編入された〕
 
(3)二度にわたるメティスの反乱

 だが、この過程は現地のメティスなどの先住民の意向を、全く無視して行なわれたものであった。今日のウィニペグ市周辺の旧レッドリヴァー植民地に住む約1・5万人のメティスたちは、全くカヤの外に置かれ無視されたため、1869年10月11日、レッドリヴァーに蜂起する。
 メティスたちは、翌11月に、フォート・ゲリー(現・ウィニペグ)で臨時政府を樹立し、レッドリヴァー出身のルイ・リエルを指導者に推挙した。臨時政府の目的は、カナダとの軍事対決ではなく、先住民の権利に十分配慮し、また、他の州と対等な形でレッドリヴァーを連邦に参加させる事であったと言われる。英仏系の住民代表(1870年1月の住民集会で選抜)との交渉を通して、「連邦政府は、将来の入植者にたいする先住民への保護措置……をとり、英語・フランス語の両方を公用語とし、カトリック系分離学校での教育を認めるなどの点で譲歩した。」(木村和男編著『カナダ史』P.185)のであった。
 同年7月には、マニトバ法が制定され、レッドリヴァーマニトバ州として5番目の州として連邦に加入した。しかし、マクドナルド首相は譲歩を最小限にするために、同州は極めて小さく限定され(切手ほどの小ささと比喩された)、ルパーツランドの残り部分はノースウェスト準州として編入された。
 そして、連邦政府は、対合州国を意識してイギリスが介入してくれることに固執し、英加混成軍をフォート・ゲリーの鎮圧のために派遣した。リエルはその直前に、合州国へ逃亡した。(第一次リエルの反乱)
 レッドリヴァーの蜂起後、英仏系のメティスは、140万エーカーの土地と一定の保護措置を獲得したが、白人入植者が増大し、さらに西のノースウェスト準州(後のサスカチュワン州とアルバータ州)方面へと移住して狩猟中心の生活を維持しようとした。しかしそこでも新移住者が到来し、バファローが急速に減少する。メティスは自分たちが入植した土地の所有権を認めるようオタワ政府に幾度も請願書を提出した。だが、最初の請願から一〇年後になっても政府は請願に応えようとせず、メティスたちはやむなく武力行使を準備し始める。
 1884年5月、メティスの代表がアメリカのモンタナ州で学校教師をしていたルイ・リエルを尋ね、再び抵抗運動の指導者として決起するように説得する。翌1885年3月、リエルを首班に臨時政府がバトーシェ(現・サスカチュワン州)で創設された。闘いにはクリ―族も参加して、政府の鎮圧軍を敗退させたこともあった。
 しかし、戦いの構造は、15年前と大きく変化していた。カトリックの聖職者たちはリエルを異端として拒絶し、イギリス系のメティスも反乱直前に政府に懐柔されて離脱していた。「インディアン」の大多数も政府との条約(先住民を同化することを目的に「居留地」に囲い込んだ)を尊重して、参加しなかった。
 政府軍は5月9日、圧倒的な数でバトーシェに進軍し、4日間の戦闘で300人の反乱軍を制圧した。リエルは投降し、11月16日に処刑された(第二次リエルの反乱)。(つづく)

注1)現在のカナダは10州と3準州に区分される。北極海に面する3準州は、ハドソン湾から太平洋へ向って、ヌナヴット準州、ノースウェスト準州、ユーコン準州である。2006年現在の各州別の人口数をみると、多い順にオンタリオ1216万人、ケベック754・6万人、ブリティッシュ・コロンビア411・3万人、アルバータ329万人、マニトバ114・8万人、以下は100万人未満で、3準州に至っては約3~4万人程度である。