広がる先住民族の闘いと深まる先住権思想⑦

 猛然と突き動かす「レッド・パワー」
                           堀込 純一


     (13)連邦管理終結政策に反対するNCAI

 第二次世界大戦中に、インディアン局の予算は削減され、連邦政府の先住民に対する施策は滞ってゆく。戦後の連邦管理終結政策は、既に一部で検討されていたのである。1943年の上院報告書310号は、部族の信託地としての地位を廃止して、保留地の法的管轄権を各州に移管するように促している。
 このような動きの中で、1944年12月、全国アメリカ・インディアン議会(National Congress of American Indians, 以下、NCAIと略記)が結成される。同議会は50部族を代表する27州からの代表者が参加し、十カ条綱領を決定した。そこでは、NCAIの活動として、「1、NCAIは、アラスカ先住民を含む北米先住民の福祉を促して権利を擁護し、より良き価値観を育むよう取り組む。」「5、インディアン請求委員会設立のための法制定にむけて議会に働きかける。」「8、連邦議会が先住民に関わる法律を制定する際、先住民代表と協議するように働きかける。」などが強調されている。(内田綾子著『アメリカ先住民の現代史』P.45~46)
 NCAIは、1953年に決議108号と公法280号によって連邦管理終結政策が制定された際に、アリゾナ州フェニックスでのNCAI集会で52部族が全会一致で反対決議を採択した。当事者である部族の同意なしに、集結政策を強制してはならないということである。元のインディアン局長のコリアは、先住民の権利が侵害されてはならないと、警告した。また、先住民の権利を擁護する白人団体であるAAIA(Association on American Indian Affairs,アメリカ・インディアン問題協会)も連邦政府が法的な責任を放棄することを批判した。
 NCAIが重視したのは、「インディアン請求委員会」の設立であった。実は、1855年に設立された請求裁判所で部族ごとの訴訟を試みてきたが、南北戦争で南軍側についた部族もあり、訴訟が禁じられ、1881年に再開された。先住民全体が合州国市民としての法的地位を得た1924年以降は、請求もまた増加した。しかし、その解決には時間と労力がおそろしくかかり、1881年から1946年までの間の219件の訴訟のうち、賠償が認められたのはわずか35件に過ぎず、賠償金総額は約7700万ドルでしかなかったのである。(同前 P.47)
 1945年にNCAIの法律部は、「インディアン請求委員会」設立法案を作成し、オクラホマ州選出の下院議員のW・G・スティグラーを通じて下院に提出された。法案は、オクラホマ州知事や女性団体などの支持を得て、一部修正のうえ可決・成立した。
 制定された「同委員会は合衆国議会の独立・準司法部として三二年間、実質的に裁判所として機能し、連邦政府に対する先住民の土地・賠償請求に判決を下していった。持ち込まれた訴えの大部分は土地問題であり、残りは合衆国政府による部族基金の不当処理についてであった。賠償を受けるには、部族の存在と土地権原を証明する必要があり、この賠償請求を通じて多くの部族が法的手段の知識と部族アイデンティティを強化していった側面がある。部族の土地権が証明されると、賠償金額が計算されたが、そこでは基本的に地価の利子分が含まれず、それまで政府が部族に対して支払った金額を差し引いた額で決定された。一九七八年に廃止されるまでに全請求額の約五八パーセントに賠償が認められ、三四二件の請求に対して八億ドル以上の補償金が裁決された。これが部族に多大な経済的恩恵をもたらしたのは確かである。未解決の六八件の訴えは請求裁判所に委託された。」(内田綾子著『アメリカ先住民の現代史』P.48)のであった。
 しかし、長期的視点でみると、請求員会は先住民の期待を満足させるものではなかったようである。「先住民の土地請求は高額な報酬を期待する弁護士によって、賠償請求にすり替えられてしまった。先住民政策の転換期にあった連邦政府もまた、先住民の土地請求を賠償というかたちで解決することで、部族主権、部族自治の基礎となる土地権原を先住民から奪った。」(『アメリカ先住民を知るための62章』明石書店 2016年 P.80)からである。
 確かに、ブラックヒルズの返還を求めたスー族、補償金での解決を拒否しあくまでも土地返還を求めたピットリバー族もいたが、かなわなかった。かろうじて、ハバスバイ族の土地返還請求が、請求委員会では補償金支払いとなったが、議会特別法を経て部族に連邦政府信託地が託されたケースがあった。大部分が土地返還ではなく、賠償金支払となったが、メイン州のペノスコット族とパッサマクオディ族や、カロライナ州のカトーバ族は、獲得した資金をもって土地を購入し部族共有地としたケースもあった。(同前 P.79)
 結果としてみると、「インディアン請求委員会は、皮肉にも1950年代から本格化した連邦管理終結策の一翼を担ったと考えられる。……インディアン請求委員会は、先住民の土地請求を賠償請求にすり替えることで、国家の先住民に対する歴史的責務の解消を果たすためのシステムとして機能した」(同前 P.80~81)と見られるのである。
 連邦政府は、1967年、先住民の経済的自立を促すために、オムニバス法案(またはインディアン資源開発法案;Indian Resources Development Bill)を提案し、保留地の資源開発を図った。これには、先住民の多くが反対し、廃案となった。資源開発による経済的自立は、すべての保留地に可能な方策ではなく、また、自然開発の名による自然破壊そのものに納得がいかなかったからである。
 この運動では、連邦政府の考えが、自然との共生を常態とする先住民の考え(バッファロー絶滅の経験)と真っ向から対立するもので、自然観・世界観の相違を露呈させた。この運動を通して、少なからずの先住民にとっては、「部族主権」、自決概念を強める政治的思想的な大きな一歩となったのは確実である。

     (14)議会主義を超えるAIM

 1960年代は、キング牧師らの黒人差別に反対する公民権運動が盛んとなる。また、ベトナム反戦運動や学生運動も発展する。こうした情勢の下で、先住民の「レッドパワー」も台頭する。それは、NCAIの運動のように先住民問題に閉じこもるのでなく、黒人解放運動やベトナム反戦とも結びつきながら、指導者たちのみではなく一般の先住民の直接行動主義の運動である。
 話は遡るが、1961年6月13日から20日まで、全国の90部族から約460人の先住民が集まって、アメリカ・インディアン・シカゴ会議が開かれた。この会議の1か月後、先住民の大学生10名を中心に、全国インディアン青年評議会(National Indian Youth Council, 以下、NIYCと略記)が設立された。彼らのNIYC結成理念は、1961年のアメリカ・インディアン・シカゴ会議での声明に表れていると言われる。「この声明は先住民が本来有する自治権を宣言し、先住民は『アイデンティティと存続を支えようとする他の小国やエスニック集団と同様、残された土地がほんのわずかでも、保持するつもりである。』と宣言した。さらに、『たとえ善意に満ちていてもパターナリズム(*家父長主義)』を拒絶し、『自らが知り、重んじ、愛する宇宙観』という土地に根ざした伝統的価値観を拠り所とした。」(内田綾子著『アメリカ先住民の現代史』P.76)のである。
 NIYCに引き続き、さらに運動を急進化させたのが、アメリカン・インディアン・ムーブメント(American Indians Movement, 以下、AIMと略記)である。AIMは、1968年にオジブワ族のD・バンクスとG・ミッチェルが都市の貧困居住区に暮らす先住民の生活を改善するためにミネアポリスで設立された。その後、オグララ・スー族のR・ミーンズなども加わるようになる。
 NIYCの指導部が主に高学歴者によって占められたのに比して、AIMは指導部やメンバーの多くは一般の先住民である。AIMは、当初、先住民に対する警官の暴力への抗議、住居・医療・雇用などにおける人種差別の撤廃、条約によって定められた連邦の信託関係の遵守などを活動の目標として掲げていた。しかし、少数派の社会運動が公民権を強調すればするほど、絶えず国家に包摂され、統合される傾向をみるにつけ、先住民としての固有の立場、権利を強調するようになる。AIMは、次第に都市における人種差別の問題から、連邦と諸部族との関係における連邦政策への批判を強め、先住民の「条約上の権利」や「自決の在り方」を彫琢(ちょうたく)するようになる。
 
 (ⅰ)アルカトラズ島占拠

 アメリカとカナダの往来の自由を先住民に保障した1795年の条約を両国政府が遵守していないことに抗議して、1968年、セントローレンス川を渡るカナダ・アメリカ国際橋を、カナダ在住のモホーク族の青年たちが封鎖した。以降、1970年代末に至るまで、AIM(アメリカン・インディアン・ムーブメント)の実力行動が展開される。
 1969年11月20日、80人の若い「アメリカ・インディアン」がサンフランシスコ湾に浮かぶ、わずか5万平方メートルのアルカトラズ島を占拠する。以後、1971年6月11日までの18か月間、5600人以上の先住民がこの無尽島を占拠する。
 アルカトラズ島占拠の直接のきっかけは、同年10月、先住民に職業斡旋などをしていたサンフランシスコのインディアン・センターが火災で焼失し、先住民の活動家たちが同島に新たにインディアン・センターを作るに思い至ったことである。というのは、連邦政府の先住民都市移住政策は散々なものであり、1952年から67年の間に、20万人の先住民が都市に移り住んだが、多くは定職に就けなかったのである。そこでサンフランシスコに暮らす先住民の不満が爆発し、かつてのスー族のように、アルカトラズ島を再び占拠することになった。
 11月20日未明、20以上の部族の出身者89人の先住民グループ、全部族インディアン(Indian of All Tribes, IAT)が島に上陸した。彼らは、島を統治する議会を作り、料理、洗濯、育児、警備などの役割分担をして、生活を維持した。それから数カ月に渡って、先住民の団結と権利を主張するために、数千人の先住民がIATに参加していったといわれる。この占拠行動には、政治家、映画スター、ロックバンドや多くの一般のアメリカ人が支持し、種々のカンパが寄せられた。
 だが、占拠から1年半後の1971年6月1日に、管理人宿舎、灯台、診療所が火事で焼け落ち、活動家の多くが島を離れた。そして、6月11日、連邦保安官が島の手入れを行ない、残った14人を退去させ、占拠行動は終結した。
 
 (ⅱ)「反故にされた条約」への抗議の旅

 1972年10月(大統領選の直前)、キング牧師らの黒人の公民権を求めた大行進(1963年)にならい、先住民がシアトルから首都ワシントンに向けてのキャラバンを行なった。これは、「反故にされた条約への抗議(トレール・オブ・ブロークン・トリティズ)」と称せられ、AIMやNIYCなど各団体の1000人以上の先住民が参加した。
 彼らは、ワシントンで、「連邦政府に対して政策変更を要求する二〇カ条の宣言書を政府役人と交渉するつもりであった。二〇カ条には、憲法上の条約締結権の回復、条約委員会の設立、連邦議会との合同会議の必要性、条約維持と違反を検討するための委員会設立などが含まれていた。」(内田綾子著『アメリカ先住民の現代史』P.90)といわれる。
 だが、インディアン局は先住民との交渉をあくまでも拒否し、これに対する若者たちの怒りはついに爆発し、インディアン局本部を占拠した。6日間、活動家たちは本部内にとどまり、部族主権と占拠の無罪を要求した。インディアン局長のブルースは運動に同情的であったが、政府は「条約締結権の回復」などを受け入れるわけはなかった。ようやく、政府側が“占拠を無罪とし、帰宅の援助を申し出る”と、この線で活動家たちは同意した。
 だが、この運動も先住民の主張を訴えることには、成功した。また、AIMは、都市の先住民を中心とした公民権のみでなく、保留地に根ざした「条約上の権利」をも主張する団体へ変わっていった。これには、キャラバンの途次に、各地の保留地の人々との交流を通して各部族の伝統や儀式などを学習したことが大きな貢献をなした、と見られている。
 
 (ⅲ)第二のウンデッドニー事件

 1973年2月27日、ミーンズやバンクスなどAIM(アメリカインディアン運動)の活動家が武装して、ウンデッドニーの丘の上にある教会に立て籠もる。71日間に及ぶ占拠事件は、先住民改革派の青年たちと連邦警察との間で銃撃戦となり、警察側に3人の死者が出て、同年4月、活動家たちは一定の条件をもって占拠を中止した。
 その条件とは、ニクソン大統領が、“先住民側の武装解除を前提に、パインリッジ保留地の部族政府の腐敗を調査し、1868年のスー族とのララミー砦条約を検討するために連邦政府の代表を派遣すること”を約束したことである。ウンデッドニーの地は、かつて1890年にスー族のゴーストダンス信者たちが虐殺された場所である。したがって、この占拠事件は第二のウンデッドニー事件と呼ばれた。
 事件が起こった大本は、パインリッジ保留地の腐敗政治である。1934年の再組織法の下で、同保留地の新部族政府が作られたが、議長のリチャード・ウィルソンが独裁的な部族政治を行ない、連邦インディアン局と癒着しながら汚職や賄賂、身内びいきが横行していたのである。しかもウィルソンは、暴力と金を用いて保留地内の反対派を封じ込めてきた。そこで、貧困と抑圧の下で不満を募らせてきた伝統派を中心とする住民たちは、保留地改革のためにAIMに支援を要請したのである。
 占拠の間、1934年に採択された部族憲法に抗議するために住民投票の実施を請願する署名が集められ、パインリッジ保留地の監督官に提出された。保留地の伝統派と住民は、部族憲法の下の部族政府は、合州国のカイライであり、真の自治を行なっていないと批判し、その責を部族憲法に求めたのである。たしかに、再組織法の下で作られた部族憲法は、連邦政府がひな形を提起し、それをモデルに作られたものであって、部族主権と自治の観点から見て、そこに再組織法の弱点の一つがあったのである。
 占拠中止後の「同年5月に先住民伝統派と連邦政府代表が会談を行った。スー族側は一八七一年以前のように部族主権の回復を主張したが、連邦政府は国内従属国としての地位を変更することは不可能であり、一九三四年の再組織法に反する」(内田綾子著『アメリカ先住民の現代史』P.92)と述べ、意見は物別れとなった。しかし、1871年以前の「部族主権」は、世襲制の族長の下での「部族主権」という限界がある。また、AIMでは、この年の8月に、バンクスがAIM執行部長に選ばれ、腐敗した部族政治をもたらした再組織法を無効にし、インディアン局を廃止する運動に着手すると宣言した。だが、ウィルソンの独裁政治と腐敗政治を許してきた保留地内の住民の政治的限界の克服を追求するものには、なり切れなかったようである。その後、事件にかかわったAIMの活動家は裁判を経て無罪となったが、FBIの監視と抑圧が強まり、その活動は徐々に後退していったようである。
 
    (15)「保留された権利に関する原則」で生活権確保

 闘いは、日常の生活や生産にかかわる分野までに広がる。
 1974年、全国的な注目を集めたのは、漁業権をめぐって下された、連邦地裁判事のジョージ・ボールトの判決である。「彼の結論では、ワシントン州にいる諸部族は一八五五年および一八五六年に締結された条約の当事者であったから、州法の下で捕獲可能なサケとニジマスの約半分に対して権利があった。ボールト判事の判決は、一九〇五年という早い時期に最高裁判所によって宣言された『保留された権利に関する原則』に基づいていた。裁判所がそれを“ウィナンズ”と言い回したように、『条約とは、インディアンに対して諸権利を承認することではなく、彼らの側が諸権利を承認することである。すなわち、〔合州国に対して〕承認されていない諸権利は〔*インディアン側に〕保留されているということである。』」(へーガン著『アメリカ・インディアン史』P.240)とされた。
 ここで言う「保留された権利に関する原則」とは、部族が条約によって明文で放棄しない限り、部族は残余のすべての権利を有するという原則である(同前 P.262)。この原則もまた、先住権思想の重要な柱の一つである。
 ボールトの判決は、抗議の嵐を呼び、ワシントン州は当初これに従わなかった。しかし、やがて最高裁がボールト判決を概ね肯定すると、従うようになった。ウィスコンシン州のチワベ6部族のマカジキに対する漁業権の問題でも、「インディアン」以外の漁師・観光業者らの脅迫も含めた反対運動に直面した。しかし、先住民の断固たる態度を前にして、1991年、連邦判事は捕獲できる数量に制限を設けた上で、保留地外でのチワベの漁獲権を認め、双方に受諾させた。
 「保留された権利に関する原則」は、水利権の問題でも決定的な役割を果たすことになる。1908年の「ウィンターズ対合州国」裁判で、「保留地に隣接するか、保留地内を流れる河川は州ではなく、部族に帰属する」(同前 P.262~263)と裁定した。しかし、判決内容は実践されず、先住民以外の者が部族の水利を略奪してきた。この水利権問題も1970年代になると変化し始める。1989年のワイオミング州での訴訟では、「幾世代にもわたって灌漑用水をウィンド・リバーに頼ってきたインディアン以外の農民に給水量を減量させることになっても、インディアンの必要性がみたされるべきだ」(同前 P.242)とされた。こうした傾向は、合州国のみならず、世界の先住民の闘いにおいても、常態化されつつある。
 1972年6月に制定された通称「インディアン教育法」では、①児童教育を従来のような同化教育ではなく、先住民自身による地方教育への積極的参加を促す、②教育内容をインディアンの伝統文化の教育やバイリンガル教育の奨励―などが取り組まれるようになる。1975年1月に制定された「インディアン自決・教育援助法」では、教育問題だけでなく、先住民が政治・経済・医療など広範な領域で計画立案に参加することが可能となった。1978年の「教育改正法」では、先住民自身による学校管理を行ない、民族自決を強化し、1988年の「部族管理学校法」では、部族によって創設された学校に対する補助金支出を規定している。
 宗教に対しては、従来、伝統収去の禁止、キリスト教への改宗による「文明化」という形で同化策が行なわれてきた。しかし、1960年代から先住民の自決・自治政策へと大きな転換がなされるとともに、禁止政策も変化するようになる。1978年8月には、連邦議会は両院合同決議として、「アメリカ・インディアン信教自由法」を制定する。それは、先住民の伝統宗教について、“彼らの文化、伝承および伝統の一部として必要であり、インディアンの価値体系の基礎を形成し、インディアンの生活にとってかけがいのないもの”と認めている。そして、聖地・遺跡の活用、聖物の使用・所有、伝統的宗教の信仰などの自由権を保障すると規定している。 (つづく)

注1)1890年12月29日、サウスダコタ州のパインリッジ保留地の近くのウンデッドニーで、ダコタ族(スー族)支族ミニコンジューが米第7騎兵隊によって300人近く虐殺された事件。