広がる先住民族の闘いと深まる先住権思想⑥

 同化政策と自治政策でジグザグ
                   堀込 純一

(10)先住民「文明化」の名の下で同化政策

 1890年代初めまでに、侵略者に対する先住民の抵抗が完全に押さえつけられると、次に連邦政府は同化政策を採り、それを具体的に実施するようになる。
 これまでは、曲がりなりにも先住民の各集団を主権のあるネーション(民族集団)として対処し、連邦政府は土地の譲渡などで「条約」という法的措置によって処置してきた。ところが、「十九世紀後半になると、アメリカ連邦議会は、インディアンは『合衆国の保護のもとに』あるとし、主権はもはやない、との解釈により条約を結ぶ必要はない、と決議した。つまり、インディアンをなるべく早く『文明化』して、その独自の文化や生活様式をやめさせ『アメリカ人』にしてしまおうという同化政策……」(『ブリタニカ国際大百科事典』第1巻 P.386)の実施である。
 従来、先住民が住まわせられていた「指定居留地」は、伝統的な生活ができる場所であったはずだが、その建前すら破棄され、居留地は強制的に白人の生活・生産様式と同様にさせる同化政策の収容地になったのである。
 1887年2月、同化政策を推進するドーズ法(「一般土地割当て法」、あるいは「単独土地所有法」などの訳語がある)が制定された。この法は、インディアン保留地(Indian resevation)の土地を解体・分割して、家長には一六〇エーカー(*約64・7万平方メートル)、一八歳以上の独身者には八十エーカーというように、インディアン個人に付与することを定めているが、これはまさに部族の土地共同保有を基盤とするインディアンの伝統的慣習・文化を破壊し、インディアンの「文明化」、自営農民化を推進することを目的とした法律であった。
 だが、この法律は先住民の土地に対する観念と生活・生産様式を手前勝手に否定するものであるばかりでなく、また。先住民社会が母系社会であることを無視し、父系制度(家長を男性とした)を強制するものであった。
 そして、ドーズ法の規定によると、「大統領は自己の裁量で保留地をインディアンに割り当てることができ、その所有権は合州国政府が二五年間信託を受けるというものであった。また、割当地を受けることによって、インディアンは完全な市民権を与えられることになっていた。……インディアンたちに与えた後もなおも残った土地は〔*インディアン以外へ〕売りに出されることになっていた。」(『アメリカ・インディアン史』P.187~188)のである。
 だが1891年の同法の改定では、先住民が割当てられた土地を耕作していない場合、その土地を没収して白人に開放することになった。この結果、保護されるべき「土地は白人の土地投機業者、牧場主、鉄道会社などとの詐欺同然の取引によってまもなく食い荒らされていく。一八八七年から一九三四年までの五十年たらずのあいだに、インディアンの保有地一億三八〇〇エーカー(*約55・8万平方キロ)のうち八六〇〇万エーカーが白人のものになってしまった。」(世界歴史大系『アメリカ史』2 P.12)のである。じつに62・3%の土地が50年弱で、先住民の手から奪われたのである。ここに、ドーズ法の第二の狙いがあったのである。しかも、残された土地は、大部分が砂漠や半砂漠であった。資本主義の弱肉強食は、あくまでも先住民を喰らいつくすのであった。
 さらに、19世紀後半には、ドーズ法以外にも先住民の長髪や儀礼的な踊りさえ禁止する法律が、つぎつぎと制定される。そして、キリスト教団体の経営する全寮制学校に対する政府の援助政策が実施される。そこでは民族語が禁止され、先住民の言語・文化の継承を破壊することになったのである。
 だが、同化政策は、第一次世界大戦を経て、明らかに動揺し始めた。先住民の若者は連邦軍隊に入って(もちろん徴兵に反対した先住民もいた)、人種を超えた平等や種々の人権に目覚め始めた。一般の白人にも同化政策の「有効性」に疑問の目を向ける者も出始めたようである。そして、ウィルソン大統領の「民族自決」論に直ちに対応する先住民出身のエリートも存在した。たとえば、アメリカ・インディアン協会の設立に関わり、医師でもあるC・A・イーストマンである。(《補論 第一次世界大戦と民族自決論》を参照)
 彼も当時の愛国心を強調しつつ、1919年に次のように述べている。「アイルランド問題や他の解決困難な諸問題が平和会談で取り上げられる中、我々はここアメリカにおいても人種問題があることを思い起こすだろう。我が国が国内の『少数民族』に対して公平であり得ないのに、どうして国外の少数民族を擁護できよう。現代のギリシャ人と同様、北米インディアンは、『我々も自由を要求する』と呼びかける。これは、別の政府や領土を要求しているわけではなく、認め難いはずがない。我々が請うのは全面的な市民権である。……」(内田綾子著『アメリカ先住民の現代史』名古屋大出版会 2008年 P.33)と。
 だが、彼はこの年のアメリカン・インディアン年次集会で、次のようにも主張している。すなわち、「合衆国は我々にすべてを負っているあまり、何も与えることができないのだ。アメリカは我々と条約を結んだが、それを実行せずに、濫用してきた。これらの条約は協定、契約であり、変更はできない。条約は最も重要なかたちの協定である。……インディアンは市民権を獲得する力を持っている。我々は条約上の権利(treaty rights)を主張しなければならない。我々は憲法上の権利を主張し、インディアン局に恥ずべき虚勢をやめさせ、完全に廃止すべきだ。……インディアンは条約による権利を保ったまま市民になれる。」(同前 P.35)と。
 ここでは、市民権だけの主張は、アメリカ国家への統合へとなるが、条約上の権利を主張することにより、自らの歴史的独立性を堅持できるのであった。
 1922年から23年12月にかけて、プエブロ族から土地を剥奪し、同部族を解体しようとする動きがあったが、議員の動きや世論の高まりがあって中止された。1924年には、プエブロ族に土地を保障する法律も制定された。そして、この年、先住民(「アメリカインディアン」)すべてに市民権が与えられた。これまでは、同人口の三分の二にしか市民権が与えられていなかったのである。市民権は完全に与えられるようになったが、しかし、現実には差別や貧困など厳しい境遇が変わらなかったのは、黒人と同じであった。
 この頃、内務長官ハーバート・ワークによって、百人委員会が開催された。同委員会の改革勧告には目覚ましいものはなかったが、それでも「インディアン行政」がかかえる課題への世論の関心を呼び覚ました。内務長官はまた、民間会社の「政策研究所」に調査と具体的施策案の提出を依頼した。法律、教育、保健衛生など諸分野の専門家が、ルイス・メリアム博士の指導で、合州国全土のインディアン地区に入って調査を始めた。1928年に刊行された「メリアム報告書」は、「まず、医療および学校制度の改善と長期計画部局の創設を優先させていた。同報告書はまた、インディアン対策局の職員の資質向上と、今後の土地割り当てに関する提案に対しては厳密な審査を行うように勧告していた。単独所有制(*ドーズ法のこと)を否定するものではなかったが、『土地の個人所有制度のもたらす絶対的な効果を過信し、しかも土地利用に関するインディアンの教育は十分なされていなかった』と述べた」(『アメリカ・インディアン史』P.203)のであった。
 そして、1929年、内務長官と総務局長が連名で議会に建議書を提出した。この建議書は、次のことを求めていた。①先住民各部族の自治を再建すること。②これまでの絶対主義的な先住民政策を緩和すること。③先住民の経済状態改善のために、憲法に定められた権利を先住民に適用すること。④条約破棄によって先住民がこうむった損害についての先住民の要求を、公平かつ早急に処理すること。(清水知久著 増補『米国先住民の歴史』明石書店 1992年 P.121)
 1929年10月、大恐慌が発生し、労働者、黒人層などの人民の生活を破壊した。先住民(「アメリカインディアン」)もその例に漏れなかった。だが、1933年に、「インディアンの土地の売買の停止、寄宿学校の三分の一削減、教育の機会の増大などの措置がとられた。」(同前 P.123)のである。
 そして、「一九三四年一月には、インディアン権利擁護協会、婦人協会総連合、アメリカ・インディアン保護協会、全国アメリカ・インディアン評議会、アメリカ市民自由同盟インディアン委員会、それに全国インディアン問題協会の代表者たちがワシントンで会議を開いた。コリア―(*ローズヴェルト大統領がインディアン対策局長に選任した)の激励を受けた代表者たちは、単独所有政策を拒否し、『共同所有と共同管理』の強力な推進を要求する決議を採択した。」(『アメリカ・インディアン史』 P.206)のであった。ドーズ法が、先住民を救済するものでないことが、広く世間に知られるようになったのである。
 1933~45年にわたりインディアン対策局長を務めたジョン・コリア―は、最初の年次報告書で、彼の政策の概略を次のように述べている。「割当地制度は廃棄する。また、すでに割り当てられた土地は部族のために役立つよう整理統合する。協同歩調をとるインディアンのグループに対しては、経済的な援助を与え、また土地の利用法について最新の知識を教授する。全寮制学校の廃止をさらに推し進め、通学学校を利用して、子供と同様に大人も対象とすることで、社会の福利に資する手段とする。さらに多くのインディアンをインディアン対策局に配属し、インディアン社会内の自治を一層促進する。従って当然、インディアン対策局への権限の集中をやめ、地方の官吏たちには彼らが処理すべき諸問題に関しては、従来より大きな権限を与える。」(同前 P.206~207)と。
 
 (11)自治と自決へ向けた再組織法

 1936年6月、ローズヴェルト大統領はニューディール政策の一環としての、「インディアン再組織法」(ホイーラー・ハワード法)に署名し、新たな政策を法的に承認した。新法によって、「従来の土地割当政策を終結し、生活向上の方策として全国の先住民保留地に自治政府の設立を促した。再組織法を採択した部族は、内務長官の監督下で部族憲法を制定した上で自治政府を設立し、連邦や州・地方政府と交渉する権利を得た。また、個人の割当地を部族の共同所有として管理・運用し、部族弁護士を任命して土地喪失を防ぐことが可能となった。さらに、自治政府運営資金として一年に二五万ドル、部族の経済開発のために回転資金一千万ドル、先住民の職業訓練教育ローンとして一年に二五万ドルが準備された。インディアン局の職には先住民を優先的に雇用することも約束された。」(内田綾子著『アメリカ先住民の現代史』 P.41)のであった。
 こうして、奪われた土地の買い戻しや先住民の手による企業の設立と経営のための助成金制度も確立した。また、全寮制学校の代わりに保留地内の学校の建設や、19世紀に禁止された民族宗教の復活なども行なわれた。
 これは従来の同化政策に比べ、先住民自身の政治的自由や自治・自決の方向に舵を切る大きな転換であった。実際、この法の実践により、先住民の所有・管理する土地の面積は約1・5万平方キロも増え、保有する牛などの畜類も倍増したといえる。医療部門の改善も進められ、1930年以後の先住民(「アメリカインディアン」)の死亡率は順調に低下している。「アメリカインディアン」に貸し付けられた補助金や救済金は1200万ドルであったが、そのうち焦げ付きとなったのは、わずか3600ドルにすぎなかったと言われる。
 「インディアン再組織法」は、諸部族に同法を強要するものでなく、彼らが望むのであれば、「ドーズ法」の諸規定を利用してもかまわないという柔軟な姿勢を示していた。当時、連邦政府から認知されていた民族団体(部族〔トライブ〕と、その下位集団であるバンド)は263あったが、ナヴァホ族など72団体は新法受け入れを拒否したようである。その理由は、「『ドーズ法』の弊害は是正されたとはいえ、『再組織法』はしょせん白人マジョリティ社会の保護政策の一環であることに変わりはなく、インディアンの主権や自決を認めるものではない」(『ブリタニカ国際大百科事典』第1巻 P.387)というものである。
 
 (12)一転して逆流となる連邦管理終結法

 だが、第2次世界大戦後、情勢は変わり、アメリカでの保守化は一般的なものにとどまらず、マッカーシー旋風など極端な反共姿勢が高まり、共和党によってインディアンに関する連邦管理を終結させる政策が打ち出される。
 1953年8月1日、アメリカの下院は一般に「終結」(ターミネーションtermination)政策と呼ばれる決議を採択した(第八三議会第一会期下院共同決議第一〇八号)。「終結」とは、先住民(「アメリカインディアン」)に対する連邦政府の管理・統制・援助を廃止し、先住民はアメリカ合州国の他の市民と同じ法律の下で同じ権利と責任をもつ、被後見人としての地位から解放される―ということらしい。これは一見すると、もっともなことを言っているように見える。しかし、内実は全く異なる生活・労働条件の地に、先住民を無防備にも放り出すということであり、ひいては民族としての経済的のみならず文化的な存続をも解体するような措置であり、全くもって無責任なことである。まさに歴史的に先住民を衰滅化してきた所業を白紙にする、歴史的な歪曲でもある。
 このことは、「終結」政策の結果が証明している。連邦政府は、「終結」政策の一環として、1950年代に、「指定居住地から都市への転住」(リロケーション)を行なった。「一九五二年から五七年までの五年間に、一万七〇〇〇人がこの転住計画で都市へ移った。指定居住地は一般に貧しく、とくに若い人には働き口が乏しかった。指定居住地という強制収容所、檻から出たいという気持は自然でもあった。インディアン総務局の報告では、一万七〇〇〇人中の一万二〇〇〇人が自立した生活を営んでいる、雇用、衣食住その他の点で、よいくらしをしているとされたが、都市の生活は差別がきびしく、とくに雇用では黒人以上の差別に直面するのがふつうだった。」(清水知久著『米国先住民の歴史』 P.134~135)といわれる。
 他の統計は、都市に出たインディアンのより過酷な状況を示している。「……差別の中で、大都会のスラムに沈みこみ、生活保護をうけるか、町で酔っぱらうかというくらしがつづいた。個々ばらばらにされて、根なし草として生きていかねばならなかった。他の者は居住地に帰った。一九六五年の統計によると、都市に移されたインディアンの四〇%が居住地に戻った」(同前 P.135~136)といわれる。
 また、保留地自身の破壊・荒廃もあったようである。ウィスコンシン州に住むメノミニー族の場合である。この部族に対する「終結」政策は、1954年に始まり、1961年にいったん終了した。「『終結』開始前は、メノミニーは部族の経営する製材所や病院などをもっていた。製材所は経営状態もよく、雇用を保障し、銀行預金もあった。しかし、『終結』以後、地位の上ではメノミニーはウィスコンシン州民となったが、病院は州の規準に合わないという理由で閉鎖された。部族所有の銀行預人に分配されて消えてしまった。製材所は株式会社になり、経営は破綻して雇用の保障は不可能になった。こうしてメノミニーは部族としての安定した生活を失い、貧窮の状態におちいった。『終結』によって土地に税金がかかった。だが、納められないために、土地は次つぎと競売にかけられていった。」(同前 P.136~137)のである。オレゴン州のクラマス族もほぼ同様な運命をたどったといわれる。
 そして、「終結」政策は、世間からも評判が悪くなり、1960年の大統領選の候補者がともに否定的態度をとるようなってくる。1960年代半ばには、「終結」政策に代わって民族自決政策が政府の達成目標となってくる。その背景には、先住民自らが、民族自決を要求する運動を組織し出したからである。(つづく)

《補論 第一次世界大戦と民族自決論》

 18~19世紀のヨーロッパは、諸列強の領土拡大競争で、実に多くの民族が支配され、従属した。たとえば、ポーランド民族はロシア・プロイセン・オーストリア三国による1772年の第一次分割、1793年の第二次分割を経て、1795年には完全に分割し尽され国家の消滅となる。
 時に第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)が、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)の一角のオーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻の暗殺で勃発する。当時、バルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と称され、同年8月にオーストリアがセルビアに宣戦布告することによって、たちまち世界大戦に発展した。三国同盟側(イタリアは当初、中立の立場をとったが、やがて秘密条約で北部国境の拡大を条件として、連合国側で参戦した)に加担して参戦したのは、オスマン帝国、ブルガリアなどである。これに対するのは三国協商(イギリス・フランス・ロシア)を中心とする連合国である。これに加担して参戦したのは、ル-マニア、セルビア、ギリシャ、ポルトガル、日本、中国などであった。中立国であったアメリカは、1917年4月に、連合国側で参戦するようになる。
 帝国主義諸国の中で、最も劣弱であったロシアは2月革命で帝国が打倒されたが、臨時政府はなおも帝国主義戦争を継続し、10月革命によって倒される。革命ロシアは帝国主義戦争の即時停止を求めて、講和交渉を提起する。
 レーニンは従前からの民衆の要求を踏まえ、1917年11月8日、「平和についての布告」で、全ての交戦諸国の人民と政府に、公正な民主主義的講和について、直ちに交渉を始めるよう提起する。そして、「無併合(すなわち、他国の土地を略奪することのない、他民族を強制的に合併することのない)、無賠償の即時の講和」(『レーニン全集』第26巻 P.249 ゴチックは引用者)を訴えた。
 これに対し、アメリカのウィルソンは、1918年1月8日、議会で「十四カ条」を発表する。それは講和の基本条件として、①秘密外交の廃止、②公海の自由、③関税障壁の除去、④軍備縮小、⑤民族自決の原則に基づく植民地問題の公正な解決などを提示し、具体的条件として、⑥ロシア領土からの完全撤兵と自国の政体についてのロシア国民の決定の尊重、⑦ベルギー(中立国であるが、ドイツに侵略された)の領土回復、⑧アルザス・ロレーヌ地方のフランス回復、⑨イタリア北部国境の修正、?オーストリア・ハンガリーの民族自治、⑪バルカン諸国の回復、⑫オスマントルコ支配下の民族の自治、⑬ポーランドの独立と海洋への出口保障、⑭国際平和機構の設立(後に国際連盟)をあげた。
 ウィルソンは、⑤では「民族自決」との言葉は使わなかったが、この原則にたったヨーロッパの再建を主張した。翌年2月には、さらに領土問題の解決は、国家間の利害調整ではなく、関係する人民の利益に基づかなければならないと強調した。7月にも世界平和をみだす「あらゆる専断的権力の破壊」ないしは「最小限その実質的無力化」を主張した。これにより、講和交渉の相手として、ドイツ帝国の政府を適任としなかった。連合国側の講和問題での思想的ヘゲモニーが、ウィルソンにあったことは明らかである。
 しかし、現実には各国の政治的利害の錯綜によって、ヴェルサイユ条約においては、ウィルソンの精神は全面的には実現されなかった。そして、民族分布を無視した東欧諸国の国境線の設定などで、新たな民族矛盾が生み出された。また、勝者による帝国主義的利害が専らとされて、アジア・アフリカの植民地解放は無視された。
 だが、レーニンは民族自決の適用対象を、アジア・アフリカの植民地にも広げた。レーニンは当時、『帝国主義論』を執筆しており、植民地への民族自決を適用することは当然のことであった。このことは、ウィルソンのブルジョア的な民族自決論に対する優位性を示していた。しかし、レーニン段階では、併合や移民などによる多民族国家(独立国家)の「先住民族」への適用にまでは達していなかった。